日本キリスト教団 東久留米教会

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2020-10-25 1:45:47()
「神の愛の切り札キリスト」 2020年10月25日(日)礼拝説教 
礼拝順序: 招詞 ペトロの手紙(二)3:9、頌栄29、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・16、聖書 ルカ福音書20:9~19(新約149ページ)、祈祷、説教「神の愛の切り札キリスト」、祈祷、讃美歌21・377、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ルカ福音書20:9~19) イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

(説教) 「初めて聞く人にわかる聖書の話」礼拝(第34回)においで下さり、感謝申し上げます。神様から本日与えられている聖書は、ルカ福音書20章9節以下、小見出し「ぶどう園と農夫のたとえ」の箇所です。これはイエス・キリストが、あるメッセージを込めて語ったたとえ話です。9節「イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。『ある人(父なる神様)がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して、長い旅に出た。』」ぶどう園は地球、この世界のシンボルと言えます。神様は緑豊か、多くの動植物が暮らすこの地球、世界を作って下さいました。この美しい地球を私たち人間は、戦争などによって破壊しています。このような罪をやめる必要があります。主人である神様は、今は私たち人間にこの世界を管理する全ての責任を任せて、長い旅に出たように見えますが、必ず帰って来られます。そして私たちが神様から委ねられた責任をきちんと果たしたかどうか、確認なさる時が必ず来ます。脅すつもりは全くないのですが、

 私たち一人一人の人生にも総決算の日が来ますし、この世界が終わって神の国が完成する日(人間全員の総決算の日)も来ます。それを知り、それを前提として備えて生きることこそ、賢い生き方だと思うのです。ぶどう園の主人は、ぶどう園を農夫たちに「貸して」旅に出たとあります。私たちの命も健康も、少しの財産や持ち物も、実は自分の所有ではなく、神様にお借りしているものです。主人は私たちではなく、神様です。いずれ命も含めてすべてお返しします。「神様からお預かりした命や才能を、神様に喜んでいただけるように、このように用いました」とよい報告ができるように、日々の生き方を選び取ってゆきたいものです。先週、前の天皇夫人・美智子さんの最近の様子についての報道を読みました。高齢化に伴いお体の不調のところもあり、得意のピアノが弾きにくくなったとありました。それをご本人が「できなくなったことはお返ししていること」と言われたそうで、ある人がそれを「素敵な年の取り方だ」と述べていました。「できなくなったことは、お返ししていること。」どなたにお返ししているかは明瞭に言われなかったようですが、美智子さんは内心ではカトリックの信仰がある方でしょうから、「神様にお返ししている」のが本音だろうと、私は感じました。

 10節「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。」実にひどい話です。僕たちとは神様の僕たち、預言者たち(神様のメッセージを忠実に語る人たち)でしょう。聖書では、まずイスラエルの民が神の民として選ばれ、そこから全世界に神様の救いが広がります。神様に愛され、神様に感謝し喜んで従うことが期待されたイスラエルの民が、しかし神様の意志に従わないという罪深いことが起こりました。神様の預言者エリヤは、権力を持つ王の妻イゼベルに迫害され、命をつけ狙われました。幸い殺されませんでした。預言者イザヤは殉教の死を遂げたという伝説があります。最後の預言者と言える洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主へロデ・アンティパスによって命を奪われました。罪を告発する神の言葉を嫌った人々が、預言者たちを殺そうとしたり、殺したのです。
11節「そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。」袋だたきにした上に、侮辱したのですから、一回目よりエスカレートしています。「さらに三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。」今度ははっきり傷を負わせたのです。

 しかしぶどう園の主人(神様)は、まだ怒りません。実に忍耐強いのです。ほかの主人なら一人目の僕が袋だたきにされて追い返された時点で、復讐していた可能性があります。しかし主人は、三人の大切な僕がほとんど虐待されて追い返されたのに、まだ農夫たちへの信頼を捨てないのです。神様は、こんなにも忍耐強く、かなり手ひどく裏切られても、なお農夫たちを信頼しようとなさるのです。神様は、罪をもつ私たちがなかなか神様のご意志に従わなくても、なおできる限り信頼しようと、実に忍耐強く心がけて下さるのです。実にありがたいことです。私たちは、神様の信頼と期待に、精一杯応答して参りたいのです。

 13節「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。私の愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』」これは普通は避けることです。これまでの3回の僕派遣で、農夫たちが邪悪なことははっきりしています。あんな邪悪な農夫たちの所へ、最愛の息子を送ることは危険きわまりないことです。袋だたきにされ、暴力を振るわれる可能性が高い。殺される恐れもある。誰でもそう思います。にもかかわらず、ぶどう園の主人は最愛の一人息子を、最も危険な農夫たちの元に送るのです。これが父なる神様が、私たちのために行って下さったことですね。最も愛する独り子イエス・キリストを、悪魔が働くこの世界、私たち罪人(つみびと)が住むこの世界に送って下さった、しかも無防備な赤ちゃんとして送って下さった。最悪の危険を冒してです。三人の僕を送ったが、三人ともひどい目に遭わされて帰された。主人(神様)は最後の切り札として最愛の一人息子を送るのです。

 2002年~2003年に中東でイラク戦争があり、その後のイラクは武装勢力が支配してテロの連続でした。そこに日本人の3人の青年たちが行って、人質にされ幸い解放されました。私は今それを責めるつもりはありませんが、あの時、「何であんなに危険と分かっているイラクに行ったのか。安易すぎる」という激しいバッシングが巻き起こりましたね。あんな最悪の危険地帯になぜ行くのか。でも父なる神様も同じことをして下さったと思うのです。「私の愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」私たちは言いたくなります。「神様、それは絶対にやめて下さい。危険すぎます。行けば必ず殺されます。あの農夫たちは、あなたの愛する息子だからと言って尊重することなど一切しない者たち、人を人とも思わない連中です。絶対に行かせないで下さい。」神様にそれが分からないとも思えない。ところが神様は、目の中に入れても痛くない、愛する独り子イエス様を、極めて危険なこの世界に敢えて送って下さった。大きな危険を承知で送って下さった。その神様に私たちは、「あなたは息子さんを送りこむ世界がどんなに危険か分からなかったのですか。あなたは愚かだ」と言うことはしません。わが子を死なせる大きな犠牲と苦痛を耐える覚悟で、イエス様を送って下さった神様の激しい愛に、ただ感謝することしかできません。

 14節「そして、息子をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった。」これはもちろん神の子イエス様が、エルサレム郊外のゴルゴタの丘で十字架に架けられて殺されたことを指します。もちろん三日目に復活されて希望の光が与えられるのですが、それはまだ明瞭には語られません。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。」イエス様が十字架に架けられて殺された約40年後に、エルサレムの都はローマ軍に攻撃され、一旦滅びます。これは神の子イエス様を殺す大きな罪を犯したことに対する、父なる神様の審判だったのです。
 
 さて、イエス様のこのたとえ話を聴いた民衆は、話の内容に心を痛め、「そんなことがあってはなりません」と言いました。でもこのことは実際に起こってしまうのです。17節「イエスは彼らを見つめて言われた。『それでは、こう書いてあるのは、何の意味か(旧約聖書・詩編118:22)。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」この石は、イエス・キリストを指していますね。人々が「こんな石は要らない」と言って捨てた石、それがイエス様。「このような神の子は、私たちに必要ない」と言って、人々はイエス様を十字架につけて殺した。人間は、何と罪深く悪い者なのかと思わざるを得ません。しかし父なる神様によってその石が「隅の親石となっ」て生かされた。つまり死んだイエス様は三日目に復活され、今も天で生きておられ、神様の教会の隅の親石、最も重要な原点となる土台の石となられた。私は昔、ある先生の説教で、「人間が、こんなもの要らないと言って投げ捨てたイエス様を、父なる神様は復活させ、教会の土台として生かされたことを知って、私たちは恐れなければならない」と伺って、本当にその通りだと思い、今も印象に残っていた時折思い出します。今もこの時も思い出しているのです。

 18節「その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」この石、つまりイエス・キリストに出会うことは非常に嬉しいことですが、同時にイエス様に出会うと私たちは、自分が罪人(つみびと)であることに気づきます。それまで自分はかなり正しい人間だと思っていたとしても、それがうぬぼれに過ぎなかったことを思い知らされます。愛と清さに満ち溢れるイエス様と比べて「私は愛も清さも足りない罪人(つみびと)であることを認めます。イエス様に降参します。参りました」と告白することになります。「その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」とは、そのようなことと思います。

 19節「その時、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。」
彼らがそんな悪いことをしようとしたのであれば、彼らは神様に奉仕する務めにありながら実は本心から神様にお仕えしておらず、私利私欲を追いかけていた、羊の皮をかぶった狼だったということかもしれません。彼らはイエス様を憎んだのです。
真の神の子イエス様は、この語間もなくゴルゴタの丘で十字架に架けられます。それはこの時代の宗教指導者たちに憎まれてのことです。しかし父なる神様には、もっと高い目的がありました。イエス様は、世界のすべての時代のすべての人間の大小の、文字通り全部の罪の責任を身代わりに背負って十字架に死んで下さったのです。これが父なる神様が、わが子を殺す巨大な犠牲を払って実行して下さったことです。これは父なる神様が、私たち人間の罪を赦すために送られた最後の切り札です。私たちすべての人間の真の救い主は、イエス・キリストをおいてほかに一人もいないのです。父なる神様は、最後の切り札を使われました。神様はその意味で、手元に次の一手を隠し持っておられません。神様は私たちに手の内をすべて明らかに公開しておられるのです。「私は、一人息子を犠牲に差し出して十字架にかけて死なせた。そうしてまであなた方人間一人一人全員を、極みまで愛し抜いた。あなた方にはぜひ、私の愛に応えて、イエス・キリストを救い主と信じ、救い主と告白してほしい。そして私(神)のプレゼントである永遠の命を受けてほしい。」これが神様の願いです。神様から私たち一人一人皆への招きの言葉です。神様のこの招きに、ぜひ応えていただきたいのです。そうすれば、天で神様が最大限喜んで下さいます。

 この話の初めに戻ってみます。「ある人がぶどう園を造り、これを農夫たちに貸して旅に出た。」この方がぶどう園の主人、そしてこの地球と宇宙の主人は聖書の神様ということです。それは聖書のあちらこちらに書かれています。たとえば出エジプト記19章5~6節「世界はすべて私のものである。あなたたちは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。」ヨブ記41章3節で、神様はこうおっしゃいます。「天の下にあるすべてのものは私のものだ。」詩編50編10~12節「森の生き物は、すべて私のもの。山々に群がる獣も、私のもの。山々の鳥を私はすべて知っている。~世界とそこに満ちているものは、すべて私のものだ。」私たちはそのことを信じて、先ほども「主の祈り」の最後にこう祈りました。「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。」この部分は、旧約聖書の歴代誌・上29章10節以下のダビデ王の祈りからとられたと言われます。「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。」神様はコロナウイルスよりも上におられるので、神様がコロナを無力化して下さるよう祈ります。

 ところが私たちは、「自分の主人は自分」、「地球の主人は人間」と信じているのではないでしょうか。でも自分の主人は実は自分ではなく、私たちの命を造って下さった神様です。神様が私たち皆の主人、私たちの命も自分で自由勝手に扱ってよいものではなく、神様の所有です。その事実に改めて気づくことが必要と思います。今日のルカによる福音書の次の小見出しの箇所を読むと、「神のものは神に返しなさい」というイエス様の御言葉が書かれています。自分の主人が神様であることを無視して、自分の主人は自分と信じ込むところに、私たちの自己中心の罪があります。このぶどう園の僕たちは、主人の畑を貸してもらっているだけなのに、主人が長旅に出かけてなかなか帰って来ないのをいいことに、ぶどう園を自分の所有物のように扱うようになりました。私物化の罪です。ある人が書いていましたが、人生を私物化することが罪だと。聖書の言う罪の本質は、「人生の私物化」だと。そう言われると、私たちはびっくりするかもしれません。自分の人生は自分のもの、それが当たり前ではないかと。でもそうではありません。私たちの命も人生も、実は神様のものなのです。この原点に立ち帰って生き方を祈り考え、決めてゆく必要があります。私たちに神様から預けられている、あるいは神様が貸して下さっている命、ある程度の健康、時間、ある程度の才能・能力、少しばかりの財産、それらは神様のため、人様のために用いるために預けられ、貸していただいていると考えるのが、信仰に生きる私どもの考え方です。もちろん自分と家族のためにも用います。でもそれだけでなく、神様の栄光のため、人様の幸せのために喜んで差し出します。新約聖書のコリントの信徒への手紙(二)9章の御言葉「喜んで与える人を神は愛して下さる」と思い起こします。

 神様の所有である地球をも、私たち人間のエゴイズムによって大分、汚しています。最悪なのは戦争で、戦争は最大の環境破壊です。原子爆弾や枯葉剤等の兵器は多くの人の命を奪い、自然界を破壊し、奇形児誕生のもとになっています。人間の罪です。二酸化炭素を多く排出する生活スタイル、私たちの快適ばかり求める生活スタイルによって、地球温暖化が進んでいることは、もはや疑い得ないと感じます。それによって夏がますます暑くなり、集中豪雨や台風の凶暴化が起こって、私たち人間がしっぺ返しを受けていると実感します。二酸化炭素を多く出す生活を改めようとスウェーデンのグレタさんという少女がアピールしていますが、その声に真剣に耳を傾ける必要がありますね。神様が彼女にその思いを与えて、立ち上がらせたのではないかと、私は見ています。

 また私たちは、地球に生きる主人公は人間だと思い込んでいるかもしれませんが、神様は多くの動物、植物、生物を地球で共に生きる仲間として生かしておられることも意識する必要があります。人間が野生動物たちの領域に進出し過ぎて、彼らの生きる場を奪っているとも言われます。野生動物の中で生きていた時は特に悪さをしなかったウイルスが、人間が進出し過ぎて野生動物に接触した結果ウイルスをもらってしまい、人間には有害でどんどん感染して広がり、今回の事態になっていると警告する人もいます。当たっているかもしれません。東日本大震災の時の原発事故の汚染水を、処理はするにしても海に放出する計画が公表されましたが、本当はしてはいけないことと思います。私たち人間が、地球の資源は全部自分のために利用してよいと考えるエゴイズムに陥り、資源を乱獲し、神様の所有権を侵害する罪を犯し、結果として自分の滅亡を招こうとしている面は多々あります。持続可能な社会にするために努力・工夫し、私たち人間のエゴイズム=罪を減らさないと、人類滅亡を招きます。地球は神のものです。「ある人(神様)がぶどう園(地球とも言える)を作り、これを農夫たち(私たち人間)に貸して長い旅に出た。」いつか必ず神様が帰って来られる。その時まで地球環境を守る責任が私ども人間にあります。それを怠ってきた罪を悔い改める。それが必要であることをも、本日のルカによる福音書20章から示されると思うのです。

(祈り)聖名を讃美致します。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。教会学校の子どもたちの信仰を、神様守っていて下さい。私どもが神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛してこの一週間、また全人生を歩むことができますように、助けて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-10-18 0:09:19()
「真の神にのみ栄光あれ」 2020年10月18日(日)礼拝説教 
礼拝順序: 招詞 ペトロの手紙(二)3:9、頌栄29、「主の祈り」、交読詩編7、使徒信条、讃美歌21・149、聖書 イザヤ書52:13~15(旧約1149ページ)、ローマの信徒への手紙16:17~27(新約298ページ)、祈祷、説教「真の神にのみ栄光あれ」、祈祷、讃美歌21・476、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書52:13~15) 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。

(ローマ書16:17~27) 兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。

 わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。

 神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

(説教) できるだけ月一回ローマの信徒への手紙を礼拝で読もうとして参りました。できない月も少なくなかったのですが、今日が最終回です。16章の前半を先月読みましたが、そこではローマの教会の多くの人々の名前が出て来て、この手紙を書いたパウロ(イエス・キリストの使徒、弟子)がその人々に平安の挨拶を送っていました。今日の締めくくりの箇所では、もう一度信仰的な勧めを書いています。パウロはこの手紙を、彼の晩年に近い紀元後50年代の終わり頃、ギリシアのコリントで書いたと思われます。

 17節「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなた方の学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。」そんな人々がローマの教会の人々の周辺にもいたのでしょうか。悪意をもって教会に問題やトラブルを持ち込む人々を警戒し、遠ざかるようにと勧めています。イエス様も(マタイ福音書10章で)弟子たちを伝道に派遣する時、「私はあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい」と言われました。残念ながら世の中には、人を騙す詐欺師のような人、羊のふりをする狼もいるので、それを見抜けるように賢くありなさい、ということではないでしょうか。教会は、聖書の教えをできる限り正しく理解し、イエス様を中心に、父なる神様を愛して礼拝し、互いにイエス様の愛で愛し合う共同体です。

 18節「こういう人々(不和やつまづきをもたらす人々)は、私たちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。」「自分の腹に仕えている」とは非常に自己中心に生きている、本心を隠しているかもしれないが、本心では自分の利益や権力を大きくするだけを考えている、ということでしょう。同じパウロが書いたフィリピの信徒への手紙3章18節とよく似ています。「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」そんな人々、羊の皮をかぶった狼のような人がローマの教会の周囲にもいたのかもしれません。純朴なクリスチャンはだまされる恐れがある。だから羊のように素直であるだけでは足りず、蛇のように賢くあって騙されないように注意しなさいと言っています。もちろんだからと言って、教会の中の人や周囲の人を全員疑ってかかるのもやりすぎです。でも人を見る目を持つ訓練は必要でしょう。

 19節「あなた方の従順は皆に知られています。だから、私はあなた方のことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」ローマの教会の人々は、イエス・キリストに従順な人々でした。パウロは彼らを愛し、彼らのことを喜んでいました。20節「平和の源である神は間もなく、サタンをあなた方の足の下で打ち砕かれるでしょう。私たちの主イエスの恵みが、あなた方と共にあるように。」この世の中では、サタン(悪魔)が人間を誘惑して、罪を犯させようと働いています。私たちも悪魔の誘惑に負けて日々少しずつ罪を犯しています。イエス様が地上に誕生されたのは、私たちの罪を背負うと同時に、悪魔を滅ぼすためです。旧約聖書の創世記で人類の先祖エバとアダムが悪魔の誘惑に負けて罪に転落した時、神様が蛇(悪魔)にこう言われました。「お前と女(エバ)、お前の子孫と女の子孫(キリストを指す)の間に、私は敵意を置く。彼(キリスト)はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」これはイエス・キリストと悪魔が闘って、イエス・キリストが勝つことを予告する御言葉です。「彼はお前(蛇・悪魔)の頭を砕く」、悪魔は決定的なダメージを受けて滅びます。「お前は彼のかかとを砕く」、キリストもそれなりにダメージを受けるが、悪魔が受けるダメージの方が大きく、悪魔が滅びることを予告しています。

 イエス様の十字架に至るプロセスを見ると、悪魔がイエス様を十字架に追いやったとも言えます。しかしイエス様は、それまでもただの一度も罪を犯されなかったが、十字架につけられても一つも罪を犯しませんでした。十字架という究極の苦難、不条理を経験しても、ただの一度も父なる神様に文句を言う罪をさえ犯しませんでした。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、これは問いかけであって、父なる神様に文句を言う罪を犯したのではありません。悪魔は、神の子イエス様を全力で誘惑し、父なる神様に背く罪を犯させようとがんばりました。イエス様がただの一度でも誘惑に負けて父なる神様に背く罪を犯せば、イエス様をアダムと同じように転落させ、悪魔の支配下に置くことができます。神の子イエス様の使命を失敗に終わらせることができます。でもイエス様は、地上の全生涯でただの一度も悪魔の誘惑に負けず、罪を犯しませんでした。十字架の苦難の中でも同じです。イエス様はそうして悪魔に完全に勝利されました。

 悪魔は敗北し、エバとアダムを堕落させて以来ずっと人類を支配していた支配権を失ったのです。彼はイエス様によって頭を砕かれた、つまり致命的なダメージを受けました。悪魔の滅亡は決定済みですが、今まだ最後の抵抗をしています。そして私たち人間を誘惑しているのですが、イエス様がもう一度来られて神の国が完成される時に、完全に滅ぼされます。聖書の最後の書・ヨハネの黙示録にその場面があります。20章10節、小見出しは「サタンの敗北」、「彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。」 

 ローマ書に戻り21節「私の協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなた方によろしくと言っています。」協力者という言葉は、もとの文を見ると直接には、「共に働く者」「同労者」の意味です。パウロにとって息子のような年齢のテモテは、最も信頼する信仰の同労者でした。テモテは、母親がイスラエル人、父親がギリシア人です。パウロがこのテモテをどんなに信頼していたか、フィリピの信徒への手紙2章を読むと分かります。「テモテのように私と同じ思いを抱いて、親身になってあなた方のことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」テモテは純真な信仰でイエス様を愛し、パウロを慕い、イエス様の教会を愛し、イエス様のために献身的に働いている。ほかの人たちはそうではない、彼らは「自分のことを追い求めている。」これは読んで心に突き刺さる言葉です。自分のことを追い求めることを「自己追求」と言います。自己追求は自己中心とほぼ同じで、自分のことばかり考え、自分のことばかり追い求めていることです。これが進むと、「自分さえよければよい」となってしまいます。これが罪の本質です。私たちは油断するとそうなります。そうならないように、イエス様の愛に支えられてテモテのようなクリスチャンになりたいのです。
  
 「同胞(ユダヤ人)のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなた方によろしくと言っています。」ヤソンは使徒言行録17章に出て来るテサロニケという町にいたヤソンと同一人物かもしれません。そのヤソンは、テサロニケでパウロと仲間のシラスが伝道してユダヤ人たちに迫害された時、パウロとシラスを自分の家にかくまったようです。ソシパトロは、使徒言行録20章に名前があるベレア出身のソパトロと同じ人の可能性が高いと思います。だとするとパウロがコリントからエルサレムに向かう晩年の旅に同行した一人と思われます。パウロはローマの信徒への手紙をコリントで書いているのですから、コリントからエルサレムに向かったと思われるソシパトロが、パウロがローマの信徒への手紙を書いた時はまだコリントにいて、ローマの教会の人々に「よろしく」と挨拶を送るのは自然です。「この手紙を筆記した私テルティオが、キリストに結ばれている者として、あなた方に挨拶致します。」ここで初めて口述筆記した人が名乗り出ています。パウロのほかの手紙は自分の手で書いたようで、口述筆記はローマの信徒への手紙だけとも思われます。なぜそれが必要だったのか。

 パウロは目の病気だったという説があります。ガラテヤの信徒への手紙4章でパウロがこう書いています。「この前私は、体が弱くなったことがきっかけで、あなた方に福音を告げ知らせました。そして、私の身には、あなた方にとって試練ともなるようなことがあった(見栄えが悪い部分があった?)のに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。(~)あなた方のために証言しますが、あなた方は、できることなら、自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです。」復活のイエス様に出会った時に、強烈な光で照らされたので、目が悪くなった可能性もあるのではないか、と言う人もいます。その通りかどうか分かりませんが、少なくとも晩年のパウロは目が悪くて、口述筆記でローマの信徒への手紙を書いた可能性がありそうです。この後パウロはコリントからエルサレムに向かい、そこで逮捕されて、カイサリアで2年間監禁され、地中海での船の漂流・難破の苦難を経て、囚人の立場でローマに着くことになります。
 
 最後の小見出しに進みます。「神への讃美。」この手紙のまとめになります。「神は、私の福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなた方を強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。」「秘められた計画」は元の言葉であるギリシア語で「ミュステーリオン」です。英語のミステリーの語源です。でも訳の分からない謎ではありません。口語訳聖書と新改訳聖書は「奥義」と訳しています。信仰の奥義です。その奥義とは、第一に神の子イエス・キリストの十字架の死と復活です。今日の旧約聖書イザヤ書52章13~15節にこうあります。「見よ、私の僕(しもべ)は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。」神の子が私たち皆の罪を全て背負って十字架で死ぬことは、旧約聖書では一度もストレートに語られていません。その意味で、父なる神様だけがお心の中に秘めておられたご計画です。それによって私たち人間たちを、罪の支配から救い出そうというご計画です。この十字架のことは、旧約聖書のイザヤ書53章や詩編22編に暗示的には書かれていて、今から読めば「これはイエス様の十字架のことだ」と分かりますが、イエス様の十字架より前の人には、読んでもよく分からなかったはずです。父なる神様だけが胸の内に秘めておられた奥義でした。

 神様は、世界の全ての人々が、十字架にかかって復活されたイエス様こそ自分の救い主と信じて、全ての罪の赦しと永遠の命を受けてほしいと願い、全ての人をイエス様の元に招いておられます。この秘められた計画は、不思議な順序で進みます。旧約聖書以来の神の民であるイスラエルの民が、このイエス様を拒否して十字架で殺してしまう。しかしイエス様は三日目に復活なさる。その救い主イエス様を、本来神の民でなかった外国人(イスラエル人以外)が信じて、永遠の命を受けていく。イスラエルから遠く離れた私たち日本人がイエス様を信じるなどは、実に驚くべき奇跡です。外国人がイエス様を信じて永遠の命を受けて行くのを見て、本家本元の神の民イスラエル人が嫉妬(うらやましさ)を感じ、自分たちも永遠の命を受けたいと願い、かたくなな心を捨て、罪を悔い改めて、イエス様を信じて救われてゆく。これが神様の秘められた計画、奥義だとローマの信徒への手紙11章に書いてあります。これは私たちが思いもつかない壮大な計画で、今はまだその途中で、その計画は未だ完成していません。イエス様を信じることにおいてかたくななユダヤ人、そして私たちの愛する日本人が、次々にかたくなな心を捨ててクリスチャンになってゆくことは、人間の常識では難しいとも思えます。

 しかし考えてみると、イエス様を信じることについて最も頑なで頑固で拒否的だったのは、このローマの信徒への手紙を書いたパウロ自身です。ユダヤ人であり、先頭切って気が狂ったようにクリスチャンたちを迫害していたパウロ、先頭切ってイエス様に逆らい、天地がひっくり返っても彼だけは絶対クリスチャンになるはずがないと思われていた人がパウロでした。そのパウロがクリスチャンになり、伝道に生涯を献げる人になった。復活のイエス様が彼に出会って下さったことで、この奇跡は起こりました。パウロがダマスコに迫害のために向かっている旅の途中で、天からの光がパウロ(サウロ)を照らしました。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか。(~)起きて町へ入れ。そうすればあなたのなすべきことが知らされる。」サウロはアナ二アという人から洗礼を受け、クリスチャン・イエス様の弟子となりイエス・キリストをユダヤ人にも異邦人にも、イエス様を全力で宣べ伝える人生へと、180度転換しました。これは神様がなさったことです。

 私たちもこの偉大なことを起こされた神様を讃美するほかありません。本日のローマの信徒への手紙の最後に、「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」一人の人がイエス・キリストを信じて洗礼を受けることは、まさに神様が働いてその方の心を変えて下さる大きな奇跡です。私たちは伝道のためには、ひたすら祈ることこそ大切と確信します。聖霊なる神様に働いていただかないと伝道は進みませんから、私どもはこのために改めて、心を込めて祈ることを始めましょう。最悪の頑固者だったパウロを悔い改めに導いた神様は、どんな人をもクリスチャンに変える愛の力をもっておられます。

 少し戻って25節「神は、私の福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなた方を強めることがおできになります。」福音は、イエス様の犠牲の十字架によって私たちに与えられました。それはローマの信徒への手紙5章16節の御言葉によれば、「いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」驚くべき恵みです。8日前の土曜日に、私が行っている日本キリスト教団事務局の職員の女性(ある教会の伝道師でもある)のご主人が60歳で天に召されたのです。先週火曜日に、すぐ隣の早稲田教会でご葬儀があり、コロナの中にも関わらず多くの参列者がありました。私は三密になるといけないので、隣の建物にある事務局で限定公開のライブ配信を見る形で参列したのですが、その方がご主人を一年間懸命に看護・介護なさったとの挨拶に感銘を受けました。ご主人は召される数日前に洗礼を受けられたとのことです。詳しいプロセスは分かりませんが、洗礼を受けられたのですから、それは神様の恵みの御業と思います。真の神様の御名を讃美致します。

 神様は、全ての人がイエス・キリストのもとに立ち帰って自分の罪を悔い改め、永遠の命を受けることを切に願って、今日も全ての人を一生懸命招いておられます。この神様の招きに応える方々が、東久留米教会と全ての教会において次々起こされるように、心を一つにしてお祈りして参りましょう。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ減りません。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。
有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。教会学校の子どもたちの信仰を、神様ぜひ守っていて下さい。神様の愛の招きに応える方々を、全ての教会と東久留米教会に与えて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-10-11 1:20:14()
「わたしを遣わしてください」   2020年10月11日(日)神学校日礼拝 説教 
礼拝順序: 招詞 ペトロの手紙(二)3:9、頌栄24、「主の祈り」、交読詩編6、使徒信条、讃美歌21・351、聖書 イザヤ書6:1~13(旧約1069ページ)、祈祷、説教「わたしを遣わして下さい」、祈祷、讃美歌21・402、献金、頌栄27、祝祷。 

(イザヤ書6:1~13) ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。

(説教) 本日は、日本キリスト教団のカレンダーで神学校日(伝道献身者奨励日)の礼拝です。それにふさわしいと思われる聖書の箇所を選びました。神様のために大いに奉仕した預言者イザヤが、神様に召し出されて派遣される場面です。小見出しは「イザヤの召命」です。召命とは、プロテスタント・キリスト教会独特の言葉です。「召し出された使命を受ける」の意味と思います。カトリックでは「召し出し」と言うようです。1節「ウジヤ王が死んだ年のことである。」それは紀元前736年頃と推定されます。当時のイスラエルは北と南の2つの王国に分裂していました。ウジヤ王は南のユダ王国の王で、16才の若さで王となり52年間も王位にありました。半世紀以上です。ウジヤは農耕を愛し、首都エルサレムを強化し、防衛力を高めました。旧約聖書の歴代誌・下26章によると、ウジヤは神の驚くべき助けを得て勢力ある者となり、その名声は遠くにまで届きました。しかし思い上がって晩年に失敗もしています。それでもウジヤ王が治めた52年間は、イスラエルにとって安定と繁栄の時代だったと思われます。ウジヤ王が亡くなってその長い時代が終わる。それは民衆にとっては不安だったと思うのです。「ウジヤ王が死んだ年のことである。私(イザヤ)は、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。」ウジヤは力強い王だったにしても、世界の真の王はウジヤではありません。「高く天にある御座に座しておられる方」がおられます。全宇宙をお造りになった神様です。この神様がイスラエルの真の王、日本の真の王、世界の王の王、主の主でいらっしゃいます。

 御座と言うと、日本は天皇が座る所を指すかもしれません。代替わりの式で「高御座(たかみくら)」と呼ばれる天皇の御座が用意されていたように思います。私は、太平洋戦争後の東京裁判が行われた講堂を見学したことがあります。そこは元々、陸軍大学校の講堂だったとのことで、奥の席に「御座」と書いてありました。それは陸軍大学校の卒業式の時に天皇が座る席だったとの説明でした。そこが「御座」と明記されている。やはり太平洋戦争が終わるまで天皇は神様扱いだったのだと実感しました。席が「御座」と書かれているのですから。

 しかし天にある真の御座に座することができるのは真の神様だけです。真の神以外の存在を神として崇め、礼拝することは、聖書では偶像礼拝(偶像崇拝)として厳しく退けられます。イザヤは真の神、最も聖なる神を垣間見てしまったのです。「私は、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」これはイザヤが、エルサレムの神殿で神様を礼拝していた時に、一瞬見えたことと思われます。神の衣の裾が神殿いっぱいに広がっている様子も見てしまった。私たちも今、同じ神様をここで礼拝しています。

 2~3節「上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。』」セラフィムというのは、「人の顔を持っていると思われる天の存在」、天使のような存在と思います。何名いたかは分かりませんが、複数名いたことは確かです。各々が二つの翼をもって顔を覆っていた、それは神様があまりにも聖なる輝きで輝いているので、直接見ることを恐れて顔を覆っていたと思われます。二つをもって足を覆っていたのも同じ、聖なる神に直接接しかねないので足を覆っていたのでしょう。そして残りの二つの翼で飛び交っていました。

 彼らは互いに呼び交わし、唱えます。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う。」「聖なる」は、元の言葉のヘブライ語で、「カードシュ」で、この言葉のそもそもの意味は、「隔絶する」(「隔て」「絶する」)だそうです。神様は本来、私たちと隔絶した方である。神様は全宇宙と私たち人間一人一人の命をお造りになった方である。私たちは神様によって造られた一人一人である。「造った」神様と「造られた私たち」は、そもそも違った存在です。加えて、神様は全く罪のない聖なる方である。しかし私たちは皆、生れつき罪を持つ一人一人である。それに気づくと、神様が私たちから隔絶した方であることは明らかです。もちろんそれだけで終わりではなく、その隔絶した、全く罪のない神様が、私たち罪人(つみびと)を救うために、イエス様という人間になって(正確にはイエス・キリストは神にして同時に人間)下さったというクリスマスの出来事、奇跡が起こったのですが、そもそもの神様は完全に聖なる方なのです。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う。」もう一つヘブライ語で恐縮ですが、栄光という言葉はヘブライ語で「カーボード」で、本来は「重い」の意味です。カーボードは「重み、重要さ」を意味し、そこから「神の輝かしい尊厳」つまり栄光を意味するようになりました。

 このセラフィムたちは、天でこの栄光の神様を賛美し、礼拝しているのです。その礼拝は今この瞬間も天で行われているに違いありません。これとよく似た場面が、新約聖書最後の書・ヨハネの黙示録の4章にあります。457ページ。小見出しは「天上の礼拝」です。ここには「四つの生き物」が出て来ますが、これがセラフィムかもしれません。「玉座と中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔をもち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」私たちも地上で、この神様を讃美礼拝しています。「聖なる、聖なる、聖なるかな」と讃美したのです。まさに礼拝によって、天と地が一つになります。イザヤ書、まさに天におられる神様と神様を讃美する礼拝を垣間見たのです。神殿は煙に満たされました。聖書で、雲や煙は、神様がそこにおられる(隣在)のしるしです。

 イザヤ書に戻ります。4節「この呼び交わす声によって、神殿の入口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。」セラフィムの美しい、おそらく地を揺るがすような讃美で、神殿の敷居が揺れ動きました。5節「私(イザヤ)は言った。『災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、私の目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。』これを平たく言うと、「もうだめだ。私は死ぬ」となります。神様を垣間見て喜ぶのかと思いきや、そうではなく、完全に聖なる神を垣間見てしまって、罪ある自分は耐えられない、もう死んで滅びるばかりだ」と呻いたのです。先週も申しましたが、神様を見るということは、たとえて言えば太陽に照らされるようなものです。太陽に照らされて私たちは初めて自分に影があることに気づきます。同様に、完全に聖なる栄光に輝く父なる神様を見る時、初めて私たちは自分が清くないこと、自分には罪があることにはっきりと気づくのです。太陽を直視すると目をやられてしまうのに似て、神を直視すると神の最も聖なる栄光に照らされて、私たちは決して耐えられないのです。神様を直接見ると死ぬ。これが現実です。ですから私たちが父なる神様に近づくのは、常に救い主イエス・キリストを通してです。直接神を見ると、神様に撃たれて死ぬ恐れが十分あるのです。

 しかし、幸い私たちには救い主イエス・キリストが与えられています。祈りの時も、「イエス・キリストの御名(お名前)によって、イエス・キリストの御名(お名前)を通して」祈ります。イエス様を通してなら、父なる神様に恐れなく近づくことができます。しかし直接はだめです。イザヤは直接、垣間見てしまったのです。そこでこう呻くほかなかったのです。「災いだ。私は滅ぼされる。」「もうだめだ。」イザヤの場合、自分の罪が主に唇にあることにはっきり気づきました。「私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。」何と自分の唇は汚れていることか。ぶつぶつ不平不満を言ったり、罪深い言葉を語ったり、人の悪口を何回も語ったり、偽りを言ったこともあったかもしれない。私も自分を眺めてみて、心の中にも罪があり、唇と舌によっても多くの罪を犯して来たと感じるのです。ルカによる福音書を読むと、洗礼者ヨハネの父親のザカリアが、神様のメッセージを疑う言葉を語ったために、息子ヨハネが生まれるまでの間、神様によって口を利けなくされたことが書かれています。今私がそうならずに口を利くことができるのは、神様が私の罪を忍耐していて下さり、私の唇が罪深いことをご存じでありながら、あえて裁かずにいて下さっていると気づきます。神様の深い御憐れみに、ただ感謝するほかありません。イザヤはこれから神の言葉、神のメッセージを語る預言者になるのですから、唇が清められる必要を痛切に感じたに違いありません。

 すると神様は、イザヤの唇を清めて下さるのです。6~7節「するとセラフィムのひとりが、私のところに飛んで来た。その手には祭壇(神殿の祭壇)から火ばさみで取った炭火があった。彼は私の口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。』」セラフィムが炭火をイザヤの口(唇)に触れさせたので、イザヤは唇に少々火傷を負ったと思うのです。でもその火によってイザヤの唇が少々焼かれ、彼の唇は罪から清められたのです。唇が清められたことで、イザヤが唇で神様の御言葉を宣べ伝える神の預言者としての働きに進む準備が整ったのです。

 この経験は、私たちにとっての洗礼に当たると思います。イザヤの場合はいわば火の洗礼、私たちの場合は水の洗礼です。どの場合も大事なことは聖霊(神の聖なる霊)が働いて下さることです。教会では火が聖霊のシンボルであることもあり、水が聖霊のシンボルであることもあります。イザヤの場合は、真の神様を垣間見て一旦死んだような経験をし、唇を火で清められました。私たちの場合は、洗礼を受けた時にイエス・キリストと共に十字架に付けられて死に、イエス・キリストと共に新しい命に復活したのです。まだ洗礼を受けておられない方は、神様が一番よいタイミングで洗礼の時を与えて下さるように、切にお祈り致します。新約聖書のローマの信徒への手紙6章4節を見ましょう。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命(復活の命、愛の命)に生きるためなのです。」洗礼を受けた時、私たちの古い自分、罪深い自分は、イエス様と共に十字架につけられて死にました。私たちの古い自分は死んだのです。そしてイエス様と共に、新しい命に復活したのです。洗礼の水は、死と復活を表わします。東久留米教会では、頭から水を垂らす方式で洗礼式を執り行います。教会によっては、礼拝堂の中に造った水槽に一度浸かってから出る方式で洗礼式を行います。どちらの方式で行うにしても、大切なことは自分の罪を悔い改めることです。

 罪の赦しを受けたイザヤに、神様の御声が聞こえました。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」我々とは、父なる神様と天使たちかもしれません。罪赦されたイザヤが申し出ます。「私がここにおります。私を遣わして下さい。」今日は神学校日礼拝ですが、この御言葉は、今年も日本キリスト教団の神学校日のポスターに大きく書かれています。16世紀に初めて日本にイエス・キリストを宣べ伝えたフランシスコ・ザビエルも、この御言葉に励まされて東洋伝道、日本伝道に向かったと、私は記憶しています。ザビエルを励ましたもう1つの御言葉は、マタイによる福音書16章の「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」であったと記憶しています。

 神様はイザヤの申し出を受け入れて下さり、イザヤを、イザヤ自身の出身の民イスラエル(南ユダ王国)へと派遣されます。神様は分かりにくいことを言われました。9~10節「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」これは「かたくなの預言」と呼ばれる御言葉です。分かりにくい言葉です。私には完全に理解できているとは思えません。神様はイザヤに、ある意味で現実を語っておられます。「イザヤよ、行け。ユダ王国の人々に神のメッセージを語りなさい。しかし彼らはあなたが語る神のメッセージを聞き入れないよ。」これから伝道に行くイザヤに、神様はこの厳しい現実を率直に語るのです。

 イザヤが聞き返します。「主よ、いつまででしょうか。」「人々はいつまで聞かないのでしょうか。」神様が答えらえます。「町々が崩れ去って、住む者もなく、家々には人影もなく、大地が荒廃して崩れ去るときまで。」これはユダ王国がバビロン帝国に攻められて一旦滅びることを言っています。それは紀元前586年に起こりました。イザヤが神様に派遣された約150年後です。12節「主は人を遠くへ移される。」ユダ王国の民の多くがバビロンに連れて行かれます。高校の世界史でも学ぶバビロン捕囚です。これは神様に背き続けたユダ王国への、神様の審判です。「国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。」しかし神様は、滅ぼし尽くすことはなさいません。神様は憐れみをもって、一部を裁かずに残して下さるのです。ノアの洪水で世界が滅びた時も、神様はノア一家8人を残して下さいました。そこから再生が始まるのです。「なお、そこに十分の一が残るが、それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。」バビロン捕囚は厳しいのですね。「しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。」神は全てを裁かず、1つの切り株、聖なる種子を残して下さる。ここに希望があります。ここから再生が可能になります。この切り株、聖なる種子はイエス・キリストだと解釈されています。イエス様も人間としてはイスラエル人、ユダヤ人です。イエス様は罪が全然ない唯一の人間です。神であり人であるそのイエス様が、ユダ王国の全ての人の罪も、ここにいる私たちの罪も背負って十字架で死なれ、三日目に復活されました。このイエス様が、私たち全人類の希望です。自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じる人は、全ての罪の赦しを受け、神の裁きからも解放されるのです。このイエス様にこそ、私たち世界の全ての人の、再生の希望があるのです。

 このイエス様を救い主と信じて、死を超えた永遠の命を受けるようにと、神様は今日も全ての人を招いておられます。かたくなになって、この愛の招きを拒否することは幸せなことではありません。かたくなに自己中心の道を突き進むことは、結局は行き詰まります。永遠の命にたどり着きません。ユダ王国もイザヤが語る神様のメッセージに聞き従わなかったために、バビロン捕囚という大きな行き詰まりにたどり着いたのです。そうではなく、イエス様を救い主と信じて自分の罪を悔い改め、神様と自分と隣人を愛する道に進むことこそ、本当の意味で充実した人生になります。父なる神様が、私たちの罪を赦すために、最愛の独り子イエス様を身代わりに十字架につけて死なせたことは、考えてみると私たちへの大変な愛です。父なる神様ご自身が非常に辛い思いをしてまで、最愛の独り子イエス様を十字架につけて下さいました。父なる神様が、かたくなな私たちのためにそこまでして下さったことの尊さに、私どもはまだ十分に思いを致していないのではないでしょうか。父なる神様がどんな思いで、イエス様を十字架におかけになったか。その神様の深い愛にもっと思いを致すことが大切と思うのです。それを思わないでいると、礼拝出席もただ義務のように感じられてしまうかもしれません。父なる神様が、どんなにか深い思いをもってイエス様を私どものために十字架にかけて下さったか。このことを深く黙想しながら、歩みたいのです。神様は私ども全員を、神様のメッセンジャーとして用いて下さいます。「私を遣わして下さい」とイザヤは言いました。私どもも今から各々の家庭や職場、地域社会に派遣されます。そこで神のメッセンジャーの意識を持ち、言葉と行いでイエス・キリストを宣べ伝えさせていただけるように、そのために聖霊を豊かに注いで下さいと神様に祈りましょう。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ減りません。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。本日は神学校日礼拝です。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。教会学校の子どもたちの信仰を、神様ぜひ守っていて下さい。私どもに聖霊を豊かに注いで下さり、私どもがイエス・キリストのメッセンジャーとしての自覚をもってこの一週間を、また全人生を歩むことができますように、助けて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-10-04 0:07:17()
「山上で輝くキリスト」   2020年10月4日(日)礼拝説教
 礼拝順序: 招詞 マタイ22:37~39、頌栄85(2回)、「主の祈り」、日本キリスト教団信仰告白、讃美歌21・209、聖書 マラキ書3:20~24(旧約1501ページ)、マタイ福音書17:1~13(新約32ページ)、祈祷、説教「山上で輝くキリスト」、祈祷、讃美歌21・401、献金、頌栄92、祝祷。 

(マラキ書3:20~24) しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。が僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。

(マタイ福音書17:1~13) 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

(説教) 本日の新約聖書は、マタイによる福音書17章1節以下、小見出しは「イエスの姿が変わる」です。この直前でイエス様は、初めて12名の弟子たちに、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていること、ご自分に着いて来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負ってご自分に従うようにと、語られたのです。その六日後のことです。イエス様は、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られました。この山は、フィリポ・カイサリア地方の背後にある雪を被った山・ヘルモン山との説が有力とのことです。ヘルモン山であれば標高2814mと、かなり高いです。3776mの富士山よりは低いですが。もう1つの節は、ガリラヤ湖の南西にあるタボル山との説で、タボル山であれば標高575mで、あまり高くありません。今日の直前の箇所の舞台地がフィリポ・カイサリアですから、ヘルモン山の可能性が高いのではないかと言えます。上の方に雪をたたえたヘルモン山の写真を見ると白くて美しいです。

 高い山の上は空気が清らかに感じられ、清々しい神々しい感じがありますね。それで山登りが大好きな人が出て来るのでしょう。高い山は天に近い、神様に近い所という感じがありますね。一足一足踏みしめて、ここから比較駅近い飯能辺りのそんなに高くない山に登るくらいでも、山の空気のおいしさを味わうことができます。私が登った一番高い山は、高校生の時に登った富士山で、五合目までバスで行ったので本格的な登山とは言えませんが、夜登り始めて、日の出前に頂上に着きました。聖書では確かに、山は神様に出会う場所という意味があります。もちろん神様に祈ることはどこででもできますが、それでもやはり高い山は、神様に出会う所、神の聖なる領域の意味があります。

 2節「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」顔は太陽のようにまばゆく輝き、弟子たちが正視できないほどだったでしょう。服は真っ白に清らかに神々しく輝いていました。これがイエス・キリストが天におられた時の神の子、そして神ご自身としての真のお姿、本来の栄光のお姿です。地上ではこの真のお姿が隠されているのです。イエス様は、十字架で死なれて三日目に復活され、天に昇られましたが、今も天でこのようにまばゆく清らかに神々しく輝いておられます。先ほど朗読された旧約聖書のマラキ書3章20節に、「わが名(父なる神様の御名=名は人格・尊厳・神格そのもの)を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る」とありますが、これはイエス・キリストを指しているとキリスト教会では解釈しています。高い山でイエス様のお顔は、太陽のように輝いたと、本日の箇所にあります。神の子、そして父・子・聖霊なる三位一体の神(子なる神)としての栄光の輝きです。新約聖書のコリントの信徒への手紙(二)4章6節を思い出すことも適切です。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。」

 3節「見ると(直訳では『見よ』)、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」ペトロにもそれが分かりました。ただ、どうしてモーセとエリヤだと分かったのかなとの疑問も感じます。ペトロがこれまでにモーセとエリヤに会ったことはないので、顔ですぐ分かるとは思えません。神様が直感的に分からせて下さったのだと思います。モーセとエリヤは、旧約聖書を代表する偉大な神の人(もちろんイエス様よりは下ですが)の代表としてここに登場しています。旧約聖書の重要人物はほかにもノアやサムエル、ダビデ王、預言者イザヤ、預言者エレミヤなど多くおりますが、モーセとエリヤも、確かに旧約聖書を代表する二人です。この場面は高い山ですが、モーセとエリヤも山に関係深い人物です。モーセは、シナイ山の頂上で、神様から真に尊い十戒を授かりました。エリヤは、カルメル山で、バアルという偽物の神の預言者450人とたった一人で対決し、神様の助けを受けて勝利しました。そのためイゼベルという女性権力者に恨みを買い、命を狙われたエリヤは恐れて逃げ、ホレブ山(=モーセが十戒を授かったシナイ山)に行き、神様に支えを受けます。このようにモーセもエリヤも、旧約聖書の中で山と深く関わる信仰者です。今日のマタイによる福音書でも、モーセとエリヤが高い山でイエス様に出会い、語り合っています。モーセの死に方ははっきりしない。エリヤは死なないで、火の洗車に乗って天に昇って行ったと列王記にあります。エリヤは死を経験していないので、イエス様の所に現れても、不思議ではありません。モーセは死んだのは確かですが、その死に方ははっきり書かれていません。死んだけれども、神様から永遠の命をいただいて、イエス様の所に現れたと思われます。
 
 4節「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、私がここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなた(イエス様)のため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』」ペトロはどう話してよいか分からなくて、こう口走ったようです。これはほとんど天国に片足を踏み入れた体験で、ペトロは夢心地、恍惚としたのです。仮小屋を直訳すると幕屋であると分かりました。幕屋は、旧約聖書でエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野で移動しながら生活してイスラエルの地をめざして移動していた時に住んだテントです。ペトロはモーセやエリヤに出会って興奮してしまい、何を言ってよいか分からなくなり、こんなことを口走ったと思われます。

 5節「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これは私(父なる神様)の愛する子、私の心に適う者、これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」「光輝く雲」、雲は聖書では、神様が本当におられるというしるしであり、神の栄光のしるしです。旧約聖書の出エジプト記で、エジプトを脱出したイスラエルの民は、昼は雲の柱、夜は火の柱によって導かれて進んで行きました。ソロモン王の時代に、十戒を刻んだ二枚の板を入れた非常に重要な「契約の箱」をエルサレム神殿の最も重要な場所「至聖所」に運び入れる時、人々が声と楽器で神様を讃美すると、雲が神殿に満ち、それは神様の栄光が満ちたことであり、その雲のために祭司たちが奉仕を続けることができなくなるほどだったと、旧約聖書の歴代誌・下5章に書かれています。

 雲の中から声が聞こえました。父なる神様の御声です。「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け。」つまりイエス様が神の子だと、父なる神様ご自身が直接保証して下さったのです。「イエスは、私(父なる神)が深く愛する神の子だ。それがイエス・キリストの本質だ。」「これは私の心に適う者だ。」これを直訳すると「私は彼において喜ぶ」となり、平たくすると「私は彼を喜ぶ」ということ思います。「これに聞け。」イエス・キリストは、父なる神によって深く喜ばれている神の子だから、イエス・キリストに言葉を100%信頼しきって、従いなさい、という父なる神様からの直接のメッセージを、ペトロとヤコブとヨハネが直接聞いたのです。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時も、父なる神様の同じ言葉が響き渡ったのです。「これは私の愛する子、私の心に適う者。」今日の箇所で2回目に語られたのですから、イエス様が父なる神様の愛する子であることが、ますます間違いない事実として保証されたのです。

 父なる神様の非常に厳かな声を直に聴いたので、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3名はひれ伏し、非常に恐れました。本当に聖なる方に触れると、私たちは自分が罪ある者であることを明確に悟るので、恐れることになります。イエス様が彼らに近づき、手を触れて言われました。「起きなさい。恐れることはない。」「大丈夫だから顔を上げなさい」ということです。彼らが顔を上げて見ると、イエス様のほかには誰もいませんでした。モーセもエリヤも去ったあとでした。

 9節「一同が山を下りる時、イエスは、『人の子(ご自分)が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた。」もし話してイエス様のことがもっと評判になってしまうと、群衆がやって来てイエス様をユダヤの王様に担ぎ上げようとする恐れがあったようです。イエス様を政治的な王様にしてローマと戦争して、ユダヤ国・イスラエル国の政治的な独立を勝ち取ろうとする熱心党という集団もありました。イエス様の使命は政治的な使命ではないのです。私たち皆の罪を身代わりに背負って十字架で死に、三日目に復活することが使命です。それを邪魔されてはなりません。従って、十字架と復活が起こるまでは話してはならないが、復活後は話してよいのです。

 実際、ペトロはこの時の体験を晩年に自分が書いた手紙に記しました。新約聖書のペトロの手紙(二)1章16節以下です。437ページ上段。ペトロ自身が自分の体験談として書いています。「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これは私の愛する子、私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父なる神から誉れと栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといた時、天から響いて来たこの声を聞いたのです。」そして続けます。「こうして、私たちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。」この場合の預言とは、「イエス様こそ、父なる神様に愛されている真の神の子」ということだと思います。「夜が明け、明けの明星があなた方の心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していて下さい。」「夜が明け、明の明星があなた方の心の中に昇るとき」とは、イエス・キリストが地上にもう一度来られて神の国を完成なさる再臨(再来)の時を指します。明けの明星が再臨の(もう一度来る)キリストを指します。キリストは誰の目にも明らかな形で、もう一度来られます。「明けの明星があなた方の心の中に昇る」とあるのは、キリストの再臨が私たちの心にとって真の希望であることを言っていると思います。「暗い所に輝くともし火」とありますから、「試練の時には、イエス様が神の子であることは、父なる神が保証なさる本当のことだという信仰と希望をもって忍耐してほしい」というメッセージと思います。

 マタイ福音書に戻ります。10節「彼ら(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)はイエスに、『なぜ律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた。」神の国が完成する前に、まず旧約聖書の偉大な預言者の一人エリヤがもう一度来ることは、本日の旧約聖書のマラキ書に明確に予告されていますから、イエス様の時代の律法学者たちも、マラキ書に基づいて正確にそのことを述べていたと分かります。旧約聖書1501ページ下段、マラキ書3章22節から読みます。ここにモーセとエリヤのことが書いてあり、本日のマタイ福音書で現れた偉大な二人と一致しています。「わが僕(神の僕)モーセの教えを思い起こせ。私は彼に、全イスラエルのため、ホレブ(シナイ山のこと)で掟と定めを命じておいた(十戒)。見よ、私は大いなる恐るべき主の日(神の国が完成する日)が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父(イスラエルの人間の父)の心を子に、子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。」エリヤが、イスラエルで仲の悪く争っている父親と息子を、悔い改めと仲直りに導くことを指すようです。父父親と息子が争う罪を見て、神様がイスラエルを厳しく裁かないために、神様が預言者エリヤを事前に遣わして、人々を罪の悔い改めに導くことのようです。

 そしてイエス様は言われます。「確かにエリヤが来て、すべてを元通りにする。」これはエリヤがもう一度来て、イスラエルの民の心と生き方を、罪を悔い改めて神に立ち帰る方向に立て直すということです。「『言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子(イエス様ご自身)も、そのように人々から苦しめられることになる。』その時、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。」マラキ書で予告されている預言者エリヤは既に来た、それは洗礼者ヨハネだ。ガリラヤの領主へロデ・アンティパスによって殺された。そしてイエス様ご自身も、神様に反逆する悪魔と、人間の罪によって大いに苦しめられる、イエス様の歩みは受難の十字架に向かって行くことを暗示されました。しかし9節で「人の子(ご自分)が死者の中から復活するまで」という言い方をしておられますから、十字架の苦難の後に復活の勝利が待っていることを実は、はっきり語っておられるのですね。これは弟子たちを励ますためだと思います。直前の16章の最後でもイエス様は、ご自分が殺されることを弟子たちに語られました。弟子たちは、恐ろしかったと思います。しかしイエス様が死者の中から復活なさることを、今日の9節で明確に語っておられます。復活を明確に語ることで、イエス様が苦しみを受けることを聞いた弟子たちの恐れと恐怖を和らげ、苦難の中でも希望を持つことができるように、心配りしておられると思うのです。

 今日の弟子たちの体験は、限られた時間だけ天国を味わった体験だと思います。先ほどのコリントの信徒への手紙(二)等を書いたイエス様の使徒パウロも、似た経験をしています。その手紙の12章で書いています。「私はキリストに結ばれていた一人の人(実はパウロ自身)を知っていますが、その人は14年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。私はそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表し得ない言葉を耳にしたのです。」ペトロたちの体験と全く同じではありませんが、楽園(天国)に一時滞在した体験と思います。

 私たちも、地上の人生を終えたら、そこに昇らせていただけるのですから、ほっと致します。天国で神様を永遠に讃美・礼拝することになります。でも天国行きを急ぐ必要はありません。実は、私たちに今与えられているこの礼拝こそが、天国体験にほかなりません。毎週日曜日ごとに、(まだここは地上ですから不完全ではありますが)あらかじめ天国を味わうのがこの礼拝体験です。そしてイエス様がもう一度おいでになる時、私たちの体も変えられます。今日の場面、山の上で栄光に輝いたイエス様と同じ栄光の体に変えられます。もちろん私たちが神になることは、あり得ません。しかしイエス様を信じる人は、今既に神の子であり、神の家族の中でイエス様の妹や弟です。最後に、パウロが書いたフィリピの信徒への手紙3章20~21節で、今のことを確認しましょう。「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。」この希望に支えられて、今週も私私たちに与えられている現実の世界で、神様に守られて、責任を果たしつつ誠実に歩みたいのです。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ減りません。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。本日は世界宣教の日・世界聖餐日礼拝です。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。教会学校の子どもたちの信仰を、神様がぜひ守っていて下さい。日本の新しい首相が、神様によく従って歩まれますように、導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-10-01 0:33:30(木)
伝道メッセージ 10月 石田真一郎
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章9節)

 私が牧師として奉仕する東久留米教会にかつて、小林カツ代さんという有名な料理研究家が教会員としておられたそうです。クリスチャンで東久留米市に住んでおられたのです。私が着任した1996年より前に転居されたので、私はお会いしていません。残念ながら2014年に天国に行かれました。

 「暮らしの手帖」という雑誌7月号に、小林カツ代さんのことが特集されたので買いました。題は「キッチンから平和を伝えた人」(以下はその記事によります)。お米も野菜も、神様が造られた恵みです。神は言われました。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」(旧約聖書・創世記1章29節)。小林さんは言われます。「私は料理研究家になってよかった。スーパーでしおれていたホウレンソウが、水で洗うとみるみる生気を取り戻す。野菜だって何だって、命あるものはすべて生きたがっている。それに気付くことができた。」すべての命は、神様が造られた尊い命という信仰がありました。「だから私は、キッチンから戦争に反対していく。」

 小林カツ代さんの戦争反対の強い思いは、お父様の中国での兵隊体験から来ます。お父様は語られました。「『お父ちゃんは気が弱くて一人も殺せなかった。』命令に背いてどれだけ殴られたか、日本軍がどんなに残酷なことをしたか。父は泣きながら話していた。同じ部隊に、ことに残酷な上官がいた。命ごいをする人に銃剣を突き付け、殺すその上官を、父は止められなかった。それは悪夢だった。父は生涯、睡眠薬を手放せなくなった。」「あの上官は、戦後、成功を収め、大金持ちになった。戦友会では、その人を一番いい席に座らせ、昔のことなど誰も口にしなくなった。けれども、父は許せなかった。その人の隣に座って『忘れへんのか。夢に出えへんのか。よくあんな残酷な目に遭わせたな』そう毎年言い続けるのだ、と父は言った。『中国の人に代わって、罰のつもりで言う。自分への罰でもある。』」この話を聞いてショックを受けた小林さんは、お父様の遺志を継いで、二度と戦争をしてはいけないと決心されました。料理研究家となり、神様が造られたすべての命を愛し、「歴史の暗い部分をしっかり見つめ、若い人のためにこそ戦争を絶対起こさないために、元気でパワフルに、しっかり生きていこうと思っています。」

 私たちもその思いを受け継ぎましょう。私は毎週しおんの礼拝で、子どもたちが神様を愛し、自分を正しく愛し、すべての国の人を愛し、平和を愛する人になることを願い、お話しているつもりです。アーメン(「真実に」)。