
2026-06-06 14:27:34(土)
「金持ちと貧しいラザロ」 2026年6月7日(日)聖霊降臨節第3主日礼拝説教 石田真一郎
(ルカによる福音書16章19~31節)
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
(説教)本日は、聖霊降臨節第3主日礼拝です。説教題は、「金持ちと貧しいラザロ」、小見出しは「金持ちとラザロ」です。
この話は、イエス・キリストから私たちへのメッセージですね。最初の19節「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」この少し前を見ると、イエス様が13節でこう言われます。「あなた方は、神と富に仕えることはできない。」それを聞いて14節では、「金に執着する(金を愛する)ファリサイ派の人々が、イエスを嘲笑った」とあります。旧約聖書では財産を神様の祝福と見る傾向がありますから、このファリサイ派の人々は、自分たちが神様に従っているから祝福され、財産もあると思っていたのではないかと思います。確かに誰にとっても、生活に必要なお金は、労働の結果、神様の恵みとして与えられていると思います。ただ、神様に従っている人が祝福されてお金を与えられるという考えを単純化し過ぎると、お金がない人は、神様に従っていないからお金がないのだ、という考えに行き着く恐れがあります。お金があまりない人は、神様に従っていないから祝福が与えられずお金があまりないのか? もちろんそんな断定はできません。そのような単純すぎる考え方が、正しいはずがありません。イエス様も、イエス様の使徒パウロも、大いに祝福されていましたが、経済的には貧しかったはずです。お金を愛するファリサイ派の人々をたしなめるために、イエス様は本日の話をなさったと思えます。もちろんそれだけではなく、聖書を読む私たち全員の襟を正させる、大切なメッセージであると思います。
この金持ちは、いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。彼の人生の目的は快楽でした。彼は神様を忘れ、利己主義者として生きたので、その報いを受けました。この金持ちは、同じルカによる福音書12章に出て来る金持ちそっくりです。彼の畑が豊作で、彼は自分に言います。「どうしよう。作物をしまっておく場所がない。こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。』」しかし神は、「愚かな者よ。今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったい誰のものになるのか」と言われます。神はさらに、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われます。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
本日の場面に戻ると、金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」ラザロという名前は、ヘブライ語ではエルアザルで、そのギリシア語形がラザロです。「神に助けられた者」の意味です。ラザロは、神様に愛されていたのです。金持ちも神様に愛されていたと思います。多くのお金が彼に預けられたのは、神様が彼に期待をかけたからだと思います。「あなたに預けたお金を用いて、貧しい人々を助けてほしい。」その期待をかけて、神様が彼に多くのお金を預けた、信頼して委ねたと思うのです。彼は神様のこの期待と信頼を自覚していなかったとのだと思います。多くのお金を浪費してしまったのです。彼は神様を侮っていたので、その報いを受ける結果になってしまったのです。このルカ福音書15章に出て来る放蕩息子も、財産を無駄遣いしました。彼のよい点は、行き詰まって自分の罪に気づいて悔い改めたことです。この金持ちは、行き詰まらなかったのでしょう。行き詰まらなかったので、自分の罪に気づかず。悔い改めませんでした。行き詰まることも恵みなのですね。彼は、家の前にいた、すぐ身近にいたラザロに何の関心も抱きませんでした。ラザロの境遇を一顧だにせず、ラザロに同情心を抱くことを全然しませんでした。ラザロを同じ人間と思っていなかったのかもしれません。愛の反対は憎しみではなく無関心だと言いますが、彼はラザロに全く無関心で、一度も手を差し伸べませんでした。それが彼の死後の境遇を非常に厳しいものにしました。
22節以下「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府(死者の国)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』」
この二人の運命は、死後に逆転しています。神は人を分け隔てなさらないのです。神は公平に裁かれます。神は人を分け隔てなさらないのです。金持ちは、地上でラザロに何の関心も示さなかったのですが、ラザロの名前は辛うじて知っていたのですね。アブラハムは、神の民イスラエルの偉大な先祖です。アブラハムがラザロと共に天国にいました。陰府(死者の国)にいる金持ちに、それが見えたのです。双方には越えられない大きな淵があるが、お互いに声が届くのですね。金持ちが大声で懇願します。「アブラハムよ、私を憐れんで下さい。」ですが「時既に遅し」なのです。彼の懇願は聞き入れてもらえません。幸い、私たちはまだ間に合います。まだ生き方を変える時が残されています。この話は、私たちが「時既に遅し」にならないための、イエス様からの愛の警告のメッセージであると思います。
新約聖書のガラテヤの信徒への手紙に、次のように書かれています。「思い違いをしてはいけません。神は人から侮られることはありません(あの金持ちは、神様について思い違いをし、神を侮って大失敗したのです)。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉(利己主義)に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り(まさに金持ちは、そうなった)、霊(他者への愛)に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」金持ちは、時にある間に、ラザロに善を行うチャンスがたくさんあったのに、ラザロに一度も善を行わなかったので、報いを受けたのです。幸い、私たちはまだ時を与えられています。まだ間に合うのですから、イエス様が喜ばれる洗礼を受け、喜んで隣人に善を行いたいのです。
私たちキリスト者は、イエス・キリストが私たちの全部の罪を私たちの身代わりに十字架で背負いきって死んで下さったお陰で、全ての罪を赦されています。私たちはイエス様を救い主と信じる信仰によって、義と認められています。罪や悪魔の支配から解放されて自由な者にされています。その自由を、罪を犯すために用いず、神と隣人に進んで喜んで愛を行うために自由を用います。ラザロが目の前にいれば、自由意志で喜んで、ラザロをサポートするために力を惜しみません。
ルカに戻り27節。自分の救いを諦めた金持ちは、自分の5人の兄弟たちのためにアブラハムに懇願します。「『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』」
モーセとは、ユダヤ人がモーセが書いたと信じている旧約聖書の最初の五冊「創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記」でしょう。モーセ五書と呼ばれます。ここでいう預言者とは、旧約聖書の割と多くの書を含みます。これは単に預言書だけではなく、イスラエルの歴史書の一部も含みます。「前の預言者」としてヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記。「後の預言者」としてイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、十二小預言書」。つまり「モーセと預言者」で旧約聖書の多くの部分を指します。金持ちの兄弟たちも聖書(旧約聖書)を知っているはずだ。聖書をじっくり読んで御言葉に聴き従えば、あなたのように苦しい所に行くことは防げる。
たとえば申命記15章7節以下には、こう書いてあるのです。「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きをすべて祝福して下さる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、私はあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」死んだラザロが地上の金持ちの兄弟たちの所に行かなくても、既に知っている旧約聖書を読んで聴き従えば、十分なのです。
あるいは箴言21章13節の御言葉に聴き従えば、十二分なのです。「弱い人の叫びに耳を閉ざす者は、自分が呼び求める時が来ても答えは得られない。」これも本当に重要な真実を教える御言葉ですね。「弱い人の叫びに耳を閉ざす者は、自分が呼び求める時が来ても答えは得られない。」金持ちは、弱いラザロの叫びに耳を閉ざしたので、陰府でアブラハムに訴えても、時既に遅し、聞き上げてもらえないのです。私たちは、今まだ時のある間に、心して、喜んでこの御言葉に聴き従いたいのです。
ルカに戻り、30節。金持ちは言った。「『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」既にある聖書に耳を傾けないなら、死んだラザロが生き返って彼らの所に行っても、彼らは悔い改めないだろう。これは人間のかたくなさ、悪い意味での頑固さです。これを読むと、イエス様が復活してメッセージを語っても、人間のかたくなの罪が邪魔して、なかなか人々は神様の愛の警告を聞き入れない場合がある、と言っているように聞こえます。やはり根本問題は神の御言葉を素直に受け入れない、私たち人間の罪ですね。
私はキリスト教の名がついた高校を卒業しましたが、先月その1年生の時のクラスのクラス会が卒業後42年で初めて行われました。当時の担任で、キリスト教概論の授業を担当された牧師である先生の80才を祝うという趣旨でした。冒頭でその先生が、皆にとって懐かしいキリスト教概論のミニ授業を行って下さいました。集まった元生徒の中でクリスチャンは私とあと1名だけです。先生はルカ福音書12章の「愚かな金持ちの話」を読まれ、「メメント・モリ」という話をされました。伝道ですね。「メメント・モリ」はラテン語で、中世の修道院の合言葉だったそうですね。「汝、死ぬべき者であることを覚えよ」の意味です。その人生をどう生きるのがよいか、80歳の先生が60才を迎える教え子たちに語られました。1つ目の生き方は、「どうせ死ぬのだから」やりたい放題しようという生き方ですが、これが愚かであることは明らかです。イエス・キリストによる永遠の命の生き方を勧めて下さいました。ラザロも死に、金持ちも死んだ。私たちもいずれ。ならばどの生き方を選ぶべきかは、誰にとっても重要な問いです。
私たちは、マタイ福音書25章40節と45節のイエス様の御言葉を思い起こすのがよいと思います。「私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは。私にしてくれたことなのである。」「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。」ラザロの中に、もしかするとイエス様がおられたと考えることもできます。そして私たちが出会う全ての人の中に、「もしかするとイエス様がこの人に内におられる」と思うことが必要です。私たちが「まさかこの人の中にはイエス様はおられないだろう」と思う人の中に、イエス様がおられる可能性は常にあります。金持ちはラザロを軽んじ、無視しましたが、それはイエス様を軽んじ、無視したことだったかもしれないのです。私たちも同じ過ちを犯さないように注意したいものです。
私は、金持ちも神様に愛され、期待されていたと思います。金持ちは、聖書の御言葉を無視したとも言えます。ルカ12章48節「すべて多く与えられた者は、多くを求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。」ヤコブ4章17節「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」かつてアルベルト・シュヴァイツァーという牧師で医師の方は、ヨーロッパ人は金持ち、アフリカ人はラザロと思い、アフリカへ医療伝道に行ったそうですね。最後にコリントの信徒への手紙(二)8章6節以下に耳を傾けたいと思います。「各自不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです。」アーメン。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
(説教)本日は、聖霊降臨節第3主日礼拝です。説教題は、「金持ちと貧しいラザロ」、小見出しは「金持ちとラザロ」です。
この話は、イエス・キリストから私たちへのメッセージですね。最初の19節「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」この少し前を見ると、イエス様が13節でこう言われます。「あなた方は、神と富に仕えることはできない。」それを聞いて14節では、「金に執着する(金を愛する)ファリサイ派の人々が、イエスを嘲笑った」とあります。旧約聖書では財産を神様の祝福と見る傾向がありますから、このファリサイ派の人々は、自分たちが神様に従っているから祝福され、財産もあると思っていたのではないかと思います。確かに誰にとっても、生活に必要なお金は、労働の結果、神様の恵みとして与えられていると思います。ただ、神様に従っている人が祝福されてお金を与えられるという考えを単純化し過ぎると、お金がない人は、神様に従っていないからお金がないのだ、という考えに行き着く恐れがあります。お金があまりない人は、神様に従っていないから祝福が与えられずお金があまりないのか? もちろんそんな断定はできません。そのような単純すぎる考え方が、正しいはずがありません。イエス様も、イエス様の使徒パウロも、大いに祝福されていましたが、経済的には貧しかったはずです。お金を愛するファリサイ派の人々をたしなめるために、イエス様は本日の話をなさったと思えます。もちろんそれだけではなく、聖書を読む私たち全員の襟を正させる、大切なメッセージであると思います。
この金持ちは、いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。彼の人生の目的は快楽でした。彼は神様を忘れ、利己主義者として生きたので、その報いを受けました。この金持ちは、同じルカによる福音書12章に出て来る金持ちそっくりです。彼の畑が豊作で、彼は自分に言います。「どうしよう。作物をしまっておく場所がない。こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。』」しかし神は、「愚かな者よ。今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったい誰のものになるのか」と言われます。神はさらに、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われます。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
本日の場面に戻ると、金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」ラザロという名前は、ヘブライ語ではエルアザルで、そのギリシア語形がラザロです。「神に助けられた者」の意味です。ラザロは、神様に愛されていたのです。金持ちも神様に愛されていたと思います。多くのお金が彼に預けられたのは、神様が彼に期待をかけたからだと思います。「あなたに預けたお金を用いて、貧しい人々を助けてほしい。」その期待をかけて、神様が彼に多くのお金を預けた、信頼して委ねたと思うのです。彼は神様のこの期待と信頼を自覚していなかったとのだと思います。多くのお金を浪費してしまったのです。彼は神様を侮っていたので、その報いを受ける結果になってしまったのです。このルカ福音書15章に出て来る放蕩息子も、財産を無駄遣いしました。彼のよい点は、行き詰まって自分の罪に気づいて悔い改めたことです。この金持ちは、行き詰まらなかったのでしょう。行き詰まらなかったので、自分の罪に気づかず。悔い改めませんでした。行き詰まることも恵みなのですね。彼は、家の前にいた、すぐ身近にいたラザロに何の関心も抱きませんでした。ラザロの境遇を一顧だにせず、ラザロに同情心を抱くことを全然しませんでした。ラザロを同じ人間と思っていなかったのかもしれません。愛の反対は憎しみではなく無関心だと言いますが、彼はラザロに全く無関心で、一度も手を差し伸べませんでした。それが彼の死後の境遇を非常に厳しいものにしました。
22節以下「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府(死者の国)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』」
この二人の運命は、死後に逆転しています。神は人を分け隔てなさらないのです。神は公平に裁かれます。神は人を分け隔てなさらないのです。金持ちは、地上でラザロに何の関心も示さなかったのですが、ラザロの名前は辛うじて知っていたのですね。アブラハムは、神の民イスラエルの偉大な先祖です。アブラハムがラザロと共に天国にいました。陰府(死者の国)にいる金持ちに、それが見えたのです。双方には越えられない大きな淵があるが、お互いに声が届くのですね。金持ちが大声で懇願します。「アブラハムよ、私を憐れんで下さい。」ですが「時既に遅し」なのです。彼の懇願は聞き入れてもらえません。幸い、私たちはまだ間に合います。まだ生き方を変える時が残されています。この話は、私たちが「時既に遅し」にならないための、イエス様からの愛の警告のメッセージであると思います。
新約聖書のガラテヤの信徒への手紙に、次のように書かれています。「思い違いをしてはいけません。神は人から侮られることはありません(あの金持ちは、神様について思い違いをし、神を侮って大失敗したのです)。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉(利己主義)に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り(まさに金持ちは、そうなった)、霊(他者への愛)に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」金持ちは、時にある間に、ラザロに善を行うチャンスがたくさんあったのに、ラザロに一度も善を行わなかったので、報いを受けたのです。幸い、私たちはまだ時を与えられています。まだ間に合うのですから、イエス様が喜ばれる洗礼を受け、喜んで隣人に善を行いたいのです。
私たちキリスト者は、イエス・キリストが私たちの全部の罪を私たちの身代わりに十字架で背負いきって死んで下さったお陰で、全ての罪を赦されています。私たちはイエス様を救い主と信じる信仰によって、義と認められています。罪や悪魔の支配から解放されて自由な者にされています。その自由を、罪を犯すために用いず、神と隣人に進んで喜んで愛を行うために自由を用います。ラザロが目の前にいれば、自由意志で喜んで、ラザロをサポートするために力を惜しみません。
ルカに戻り27節。自分の救いを諦めた金持ちは、自分の5人の兄弟たちのためにアブラハムに懇願します。「『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』」
モーセとは、ユダヤ人がモーセが書いたと信じている旧約聖書の最初の五冊「創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記」でしょう。モーセ五書と呼ばれます。ここでいう預言者とは、旧約聖書の割と多くの書を含みます。これは単に預言書だけではなく、イスラエルの歴史書の一部も含みます。「前の預言者」としてヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記。「後の預言者」としてイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、十二小預言書」。つまり「モーセと預言者」で旧約聖書の多くの部分を指します。金持ちの兄弟たちも聖書(旧約聖書)を知っているはずだ。聖書をじっくり読んで御言葉に聴き従えば、あなたのように苦しい所に行くことは防げる。
たとえば申命記15章7節以下には、こう書いてあるのです。「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きをすべて祝福して下さる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、私はあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」死んだラザロが地上の金持ちの兄弟たちの所に行かなくても、既に知っている旧約聖書を読んで聴き従えば、十分なのです。
あるいは箴言21章13節の御言葉に聴き従えば、十二分なのです。「弱い人の叫びに耳を閉ざす者は、自分が呼び求める時が来ても答えは得られない。」これも本当に重要な真実を教える御言葉ですね。「弱い人の叫びに耳を閉ざす者は、自分が呼び求める時が来ても答えは得られない。」金持ちは、弱いラザロの叫びに耳を閉ざしたので、陰府でアブラハムに訴えても、時既に遅し、聞き上げてもらえないのです。私たちは、今まだ時のある間に、心して、喜んでこの御言葉に聴き従いたいのです。
ルカに戻り、30節。金持ちは言った。「『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」既にある聖書に耳を傾けないなら、死んだラザロが生き返って彼らの所に行っても、彼らは悔い改めないだろう。これは人間のかたくなさ、悪い意味での頑固さです。これを読むと、イエス様が復活してメッセージを語っても、人間のかたくなの罪が邪魔して、なかなか人々は神様の愛の警告を聞き入れない場合がある、と言っているように聞こえます。やはり根本問題は神の御言葉を素直に受け入れない、私たち人間の罪ですね。
私はキリスト教の名がついた高校を卒業しましたが、先月その1年生の時のクラスのクラス会が卒業後42年で初めて行われました。当時の担任で、キリスト教概論の授業を担当された牧師である先生の80才を祝うという趣旨でした。冒頭でその先生が、皆にとって懐かしいキリスト教概論のミニ授業を行って下さいました。集まった元生徒の中でクリスチャンは私とあと1名だけです。先生はルカ福音書12章の「愚かな金持ちの話」を読まれ、「メメント・モリ」という話をされました。伝道ですね。「メメント・モリ」はラテン語で、中世の修道院の合言葉だったそうですね。「汝、死ぬべき者であることを覚えよ」の意味です。その人生をどう生きるのがよいか、80歳の先生が60才を迎える教え子たちに語られました。1つ目の生き方は、「どうせ死ぬのだから」やりたい放題しようという生き方ですが、これが愚かであることは明らかです。イエス・キリストによる永遠の命の生き方を勧めて下さいました。ラザロも死に、金持ちも死んだ。私たちもいずれ。ならばどの生き方を選ぶべきかは、誰にとっても重要な問いです。
私たちは、マタイ福音書25章40節と45節のイエス様の御言葉を思い起こすのがよいと思います。「私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは。私にしてくれたことなのである。」「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。」ラザロの中に、もしかするとイエス様がおられたと考えることもできます。そして私たちが出会う全ての人の中に、「もしかするとイエス様がこの人に内におられる」と思うことが必要です。私たちが「まさかこの人の中にはイエス様はおられないだろう」と思う人の中に、イエス様がおられる可能性は常にあります。金持ちはラザロを軽んじ、無視しましたが、それはイエス様を軽んじ、無視したことだったかもしれないのです。私たちも同じ過ちを犯さないように注意したいものです。
私は、金持ちも神様に愛され、期待されていたと思います。金持ちは、聖書の御言葉を無視したとも言えます。ルカ12章48節「すべて多く与えられた者は、多くを求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。」ヤコブ4章17節「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」かつてアルベルト・シュヴァイツァーという牧師で医師の方は、ヨーロッパ人は金持ち、アフリカ人はラザロと思い、アフリカへ医療伝道に行ったそうですね。最後にコリントの信徒への手紙(二)8章6節以下に耳を傾けたいと思います。「各自不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです。」アーメン。
2026-05-31 10:01:32()
「本音を見られる神様」 2026年5月31日(日)聖霊降臨節第2主日礼拝説教 石田真一郎
(ルカによる福音書16章14~18節)
金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
(説教)本日は、聖霊降臨節第2主日(三位一体主日)礼拝です。説教題は、「本音を見られる神様」、小見出しは「律法と神の国」です。
最初の14節「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスを嘲笑った。」「金に執着する」を直訳すると、何と「金を愛する」です。ファリサイ派の人々は、基本的には真面目すぎるほど真面目な人々でもあるので、ファリサイ派の人々が皆、お金を愛していたとは思いませんが、お金を愛するファリサイ派の人々もいたのでしょう。イエス様はこの直前で「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」と言われました。本日登場しているファリサイ派の人々が、この言葉をばかにして嘲笑いました。「世の中、結局お金だ。お金がなければ、何もすることはできない。」これがこの人々の本音だったのかもしれません。日本の国も、これからは殺傷能力のある武器を輸出するそうです。武器を輸出して、お金を得る。神様が本当に喜んで下さるのか、疑問です。よく神様にお祈りして、神様のお考えを伺い、神様に従う必要があります。
イエス様は、お金と富について、厳しいお考えをお持ちだったと思います。マタイ福音書5章3節では、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」と言われました。ルカ福音書6章20節では、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである。今飢えている人々は幸いである。あなた方は満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなた方は笑うようになる。今富んでいるあなた方は、不幸である。あなた方は、もう慰めを受けている。すべての人にほめられるとき、あなた方は不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ優しい。」私たちも聞いて、改めてびっくりする御言葉ですが、イエス様はこのような厳しい御言葉を語っておられます。
旧約聖書では、お金と富は、神様の祝福として登場することが多いです。創世記24章34節で、アブラハムの僕が言います。「主(神様)が私の主人を大層祝福され、羊や牛の群れ、金銀、男女の奴隷、らくだやろばなどをお与えになったので、主人は裕福になりました。」ソロモン王は、歳入として金666キカルがあり、延金の大盾200を作り、象牙の大きな王座を作り、精錬した金で覆ったと書かれていて、富み栄えていたことが分かります。非常に正しい人ヨブは、七人の息子と三人の娘を持ち、羊7000匹、らくだ3000頭、牛500くびき、雌ろば500頭の財産を持ち、東の国一番の富豪だったと書かれており、大変な試練を受けた後も、神様に以前にも増して祝福され、羊14000匹、らくだ6000頭、牛1000くびき、雌ろば1000頭と、最初の2倍の財産を与えられたとあります。このように、確かに旧約聖書では、お金(財産)、長寿、多くの子孫が神様の見える祝福と見なされていると感じます。
しかし人々が多くの財産のゆえにおごり高ぶるようになると、預言者たちが厳しい言葉を語るようになります。預言者アモスは、次の有名な御言葉を語りました。5章24節です。「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」社会の中で、神様の御心に適う正義を行いなさいと語ります。そして富のゆえに奢る人々に、こう語ります。「お前たちは災いの日を遠ざけようとして、不法による支配を引き寄せている。お前たちは象牙の寝台に横たわり、長いすに寝そべり、羊の群れから小羊を取り、牛舎から子牛を取って宴を開き、竪琴の音に合わせて歌に興じ、ダビデのように楽器を考え出す。大杯でぶどう酒を飲み、最高の香油を身に注ぐ。しかしヨセフ(北イスラエル王国)の破滅に心を痛めることがない。それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き、寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。」そして預言者ミカも、「都の金持ちは不法で満ち、住民は偽りを語る」と述べ、6章8節の有名な御言葉を語ります。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」お金が多く持っていても、持っていなくても、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」の御言葉を実践することが大切なのだと思います。
ルカ福音書に戻ります。15節「そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。』」これを理解するためには、マタイ福音書23章でイエス様が語られたファリサイ派への非難を読むのがよいでしょう。「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」私たち人間は、人の外見や行動で人のことを判断することが多いかもしれませんが、その人の真意を理解していないこともあります。でも神様はその人の内面までご覧になって、その人がどんな人かを判断なさるのだと思います。本日の旧約聖書・サムエル記上16章7節の神様の御言葉で語られていることと、深く通じています。これは神様がサウル王の次のイスラエルの王として少年ダビデを選ばれた時の御言葉ですね。神様がイスラエルの信仰のリーダー・サムエルに言われます。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
16節「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」「律法と預言者」の二つの言葉で、旧約聖書全体をほぼ表しています。つまり旧約聖書の時代は洗礼者ヨハネの時までである。洗礼者ヨハネは新約聖書の登場人物ですが、彼のメッセージは旧約聖書の時代の最後の預言者のメッセージであり、彼は旧約と新約をつなぐ重要人物です。その後、救い主イエス・キリストの働きが始まります。イエス様の言葉と活動、イエス様の存在そのものが福音です。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」救い主イエス様は、単純でない深いメッセージを語りました。たとえばこんなメッセージです。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人(つみびと)の私を憐れんで下さい。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」こんな過激とも言えるメッセージも語りました。マタイ21章「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。」「それ以来(ヨハネが来て以来)、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」律法学者・ファリサイ派よりも、何と人々から売国奴と嫌われた徴税人や、売春婦の方が先に天国に近い。」売春そのものは罪です。もちろん女性を買った男性の罪でもあり、男性の罪の方が大きいとも思います。それはともかく、徴税人も娼婦も、自分たちは罪深くて到底救われないと諦めていた。しかしそのへりくだりをこそよしと認めて下さり、その罪のために身代わりに十字架で死んでくれた救い主が現れたのです。こんな自分でも、あのイエス様にすがれば救われる! それで自分の罪深さを自覚する人々が、争ってイエス様の元に駆けつけ、救われていく。「神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」とは、そのようなことではないかと思います。
17節「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」新しい福音の時代が来たのだが、律法(旧約聖書)が無効になるわけではない。律法は無効になったのではなく、イエス・キリストによって完成されるのです。イエス様の十字架の死と復活が、旧約聖書を完成します。ですから、先ほど引用したアモス書やミカ書の御言葉も、今も有効な神の御言葉です。
18節「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」これはファリサイ派に対する批判と思われます。ファリサイ派の人々が表面上は、モーセの十戒等の律法を万全に守っていると主張していましたが、イエス様から見ると、かなり勝手なことを行うファリサイ派もいた。律法を自分に都合よく解釈して、実際には神の御言葉を守らず、しかもそのような自分たちを正当化していたと思われます。ここには結婚と離婚のことが出て来ますが、ファリサイ派や当時のイスラエルの男性が、自分勝手な理由をつけて、比較的簡単に妻を離縁していたそうです。結婚の軽視です。当時のイスラエルは、男性中心の社会だったようで、男性のわがままがまかり通っていた。そのような男性の結婚軽視は、神の律法に背くことだとイエス様は批判しておられます。神聖な契約である結婚を軽視して、安易に妻を取り替えたいことが本音であるならば、そのようなあなた方の心を、神様は忌み嫌われる。本日の説教題を「本音を見られる神様」としています。私たちの本音にも、罪深い部分が多くあるのではないかと思います。私たちの本音が聖霊によって清められ、本音ができるだけ清くなるように、祈りたいと思います。
この18節を理解するためには、マタイ福音書19章3節以下を読むことが有益です。イエス様はまず、結婚が非常に大切なことであることを語られます。「創造主は初めから人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない。」これが大原則ですが、世の中では、わがままではない、どうしてもやむを得ない事情で別れざるを得ない場合もあると思います。イエス様が言われた大原則に、ファリサイ派の人々がブツブツ言いました。「ではなぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」確かに旧約聖書の申命記(律法の一部)にそう書いてあります。これを聞いてイエス様は、もっと深い神様の本心を語られます。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」特に男性たちが頑固なので、神様が渋々、離縁状を渡しての離縁を受け入れて下さったのだ、と言われます。そしてイエス様は言われます。「言っておくが、不法な結婚でもないのに、妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」これを聞いて、何とイエス様の弟子たちが、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えないほうがましです」と言うのです。イエス様の弟子たちも、ファリサイ派と同じような身勝手な本音をもっていたことが分かります。だとすると、律法を自分の都合のよいように解釈して、実は律法を守らないずる賢さを、ファリサイ派だけでなく、イエス様の弟子たちも持っていたことになります。
いえ、このような罪深さこそ、私にも、もしかすると多くの人にもある原罪かもしれないと思わせられます。自己中心そのものです。離婚だけが問題ではなく、生きて行く全ての局面で、「神様の聖なる律法(ご意志)を、自分の欲望のためにねじ曲げてはならない」、これが本日のイエス様のメッセージです。ついそのようにしたくなる自分の罪深い本音をこそ悔い改め、私たちの本音を清めて下さいと、神様に祈り続ける者でありたいと願います。形式的に信仰生活を送るのではなく、イエス様の深い御心にひたすら従う、真の信仰をめざしたいのです。アーメン。
金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
(説教)本日は、聖霊降臨節第2主日(三位一体主日)礼拝です。説教題は、「本音を見られる神様」、小見出しは「律法と神の国」です。
最初の14節「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスを嘲笑った。」「金に執着する」を直訳すると、何と「金を愛する」です。ファリサイ派の人々は、基本的には真面目すぎるほど真面目な人々でもあるので、ファリサイ派の人々が皆、お金を愛していたとは思いませんが、お金を愛するファリサイ派の人々もいたのでしょう。イエス様はこの直前で「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」と言われました。本日登場しているファリサイ派の人々が、この言葉をばかにして嘲笑いました。「世の中、結局お金だ。お金がなければ、何もすることはできない。」これがこの人々の本音だったのかもしれません。日本の国も、これからは殺傷能力のある武器を輸出するそうです。武器を輸出して、お金を得る。神様が本当に喜んで下さるのか、疑問です。よく神様にお祈りして、神様のお考えを伺い、神様に従う必要があります。
イエス様は、お金と富について、厳しいお考えをお持ちだったと思います。マタイ福音書5章3節では、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」と言われました。ルカ福音書6章20節では、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである。今飢えている人々は幸いである。あなた方は満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなた方は笑うようになる。今富んでいるあなた方は、不幸である。あなた方は、もう慰めを受けている。すべての人にほめられるとき、あなた方は不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ優しい。」私たちも聞いて、改めてびっくりする御言葉ですが、イエス様はこのような厳しい御言葉を語っておられます。
旧約聖書では、お金と富は、神様の祝福として登場することが多いです。創世記24章34節で、アブラハムの僕が言います。「主(神様)が私の主人を大層祝福され、羊や牛の群れ、金銀、男女の奴隷、らくだやろばなどをお与えになったので、主人は裕福になりました。」ソロモン王は、歳入として金666キカルがあり、延金の大盾200を作り、象牙の大きな王座を作り、精錬した金で覆ったと書かれていて、富み栄えていたことが分かります。非常に正しい人ヨブは、七人の息子と三人の娘を持ち、羊7000匹、らくだ3000頭、牛500くびき、雌ろば500頭の財産を持ち、東の国一番の富豪だったと書かれており、大変な試練を受けた後も、神様に以前にも増して祝福され、羊14000匹、らくだ6000頭、牛1000くびき、雌ろば1000頭と、最初の2倍の財産を与えられたとあります。このように、確かに旧約聖書では、お金(財産)、長寿、多くの子孫が神様の見える祝福と見なされていると感じます。
しかし人々が多くの財産のゆえにおごり高ぶるようになると、預言者たちが厳しい言葉を語るようになります。預言者アモスは、次の有名な御言葉を語りました。5章24節です。「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」社会の中で、神様の御心に適う正義を行いなさいと語ります。そして富のゆえに奢る人々に、こう語ります。「お前たちは災いの日を遠ざけようとして、不法による支配を引き寄せている。お前たちは象牙の寝台に横たわり、長いすに寝そべり、羊の群れから小羊を取り、牛舎から子牛を取って宴を開き、竪琴の音に合わせて歌に興じ、ダビデのように楽器を考え出す。大杯でぶどう酒を飲み、最高の香油を身に注ぐ。しかしヨセフ(北イスラエル王国)の破滅に心を痛めることがない。それゆえ、今や彼らは捕囚の列の先頭を行き、寝そべって酒宴を楽しむことはなくなる。」そして預言者ミカも、「都の金持ちは不法で満ち、住民は偽りを語る」と述べ、6章8節の有名な御言葉を語ります。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」お金が多く持っていても、持っていなくても、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」の御言葉を実践することが大切なのだと思います。
ルカ福音書に戻ります。15節「そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。』」これを理解するためには、マタイ福音書23章でイエス様が語られたファリサイ派への非難を読むのがよいでしょう。「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」私たち人間は、人の外見や行動で人のことを判断することが多いかもしれませんが、その人の真意を理解していないこともあります。でも神様はその人の内面までご覧になって、その人がどんな人かを判断なさるのだと思います。本日の旧約聖書・サムエル記上16章7節の神様の御言葉で語られていることと、深く通じています。これは神様がサウル王の次のイスラエルの王として少年ダビデを選ばれた時の御言葉ですね。神様がイスラエルの信仰のリーダー・サムエルに言われます。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
16節「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」「律法と預言者」の二つの言葉で、旧約聖書全体をほぼ表しています。つまり旧約聖書の時代は洗礼者ヨハネの時までである。洗礼者ヨハネは新約聖書の登場人物ですが、彼のメッセージは旧約聖書の時代の最後の預言者のメッセージであり、彼は旧約と新約をつなぐ重要人物です。その後、救い主イエス・キリストの働きが始まります。イエス様の言葉と活動、イエス様の存在そのものが福音です。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」救い主イエス様は、単純でない深いメッセージを語りました。たとえばこんなメッセージです。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人(つみびと)の私を憐れんで下さい。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」こんな過激とも言えるメッセージも語りました。マタイ21章「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。」「それ以来(ヨハネが来て以来)、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」律法学者・ファリサイ派よりも、何と人々から売国奴と嫌われた徴税人や、売春婦の方が先に天国に近い。」売春そのものは罪です。もちろん女性を買った男性の罪でもあり、男性の罪の方が大きいとも思います。それはともかく、徴税人も娼婦も、自分たちは罪深くて到底救われないと諦めていた。しかしそのへりくだりをこそよしと認めて下さり、その罪のために身代わりに十字架で死んでくれた救い主が現れたのです。こんな自分でも、あのイエス様にすがれば救われる! それで自分の罪深さを自覚する人々が、争ってイエス様の元に駆けつけ、救われていく。「神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」とは、そのようなことではないかと思います。
17節「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」新しい福音の時代が来たのだが、律法(旧約聖書)が無効になるわけではない。律法は無効になったのではなく、イエス・キリストによって完成されるのです。イエス様の十字架の死と復活が、旧約聖書を完成します。ですから、先ほど引用したアモス書やミカ書の御言葉も、今も有効な神の御言葉です。
18節「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」これはファリサイ派に対する批判と思われます。ファリサイ派の人々が表面上は、モーセの十戒等の律法を万全に守っていると主張していましたが、イエス様から見ると、かなり勝手なことを行うファリサイ派もいた。律法を自分に都合よく解釈して、実際には神の御言葉を守らず、しかもそのような自分たちを正当化していたと思われます。ここには結婚と離婚のことが出て来ますが、ファリサイ派や当時のイスラエルの男性が、自分勝手な理由をつけて、比較的簡単に妻を離縁していたそうです。結婚の軽視です。当時のイスラエルは、男性中心の社会だったようで、男性のわがままがまかり通っていた。そのような男性の結婚軽視は、神の律法に背くことだとイエス様は批判しておられます。神聖な契約である結婚を軽視して、安易に妻を取り替えたいことが本音であるならば、そのようなあなた方の心を、神様は忌み嫌われる。本日の説教題を「本音を見られる神様」としています。私たちの本音にも、罪深い部分が多くあるのではないかと思います。私たちの本音が聖霊によって清められ、本音ができるだけ清くなるように、祈りたいと思います。
この18節を理解するためには、マタイ福音書19章3節以下を読むことが有益です。イエス様はまず、結婚が非常に大切なことであることを語られます。「創造主は初めから人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない。」これが大原則ですが、世の中では、わがままではない、どうしてもやむを得ない事情で別れざるを得ない場合もあると思います。イエス様が言われた大原則に、ファリサイ派の人々がブツブツ言いました。「ではなぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」確かに旧約聖書の申命記(律法の一部)にそう書いてあります。これを聞いてイエス様は、もっと深い神様の本心を語られます。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」特に男性たちが頑固なので、神様が渋々、離縁状を渡しての離縁を受け入れて下さったのだ、と言われます。そしてイエス様は言われます。「言っておくが、不法な結婚でもないのに、妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」これを聞いて、何とイエス様の弟子たちが、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えないほうがましです」と言うのです。イエス様の弟子たちも、ファリサイ派と同じような身勝手な本音をもっていたことが分かります。だとすると、律法を自分の都合のよいように解釈して、実は律法を守らないずる賢さを、ファリサイ派だけでなく、イエス様の弟子たちも持っていたことになります。
いえ、このような罪深さこそ、私にも、もしかすると多くの人にもある原罪かもしれないと思わせられます。自己中心そのものです。離婚だけが問題ではなく、生きて行く全ての局面で、「神様の聖なる律法(ご意志)を、自分の欲望のためにねじ曲げてはならない」、これが本日のイエス様のメッセージです。ついそのようにしたくなる自分の罪深い本音をこそ悔い改め、私たちの本音を清めて下さいと、神様に祈り続ける者でありたいと願います。形式的に信仰生活を送るのではなく、イエス様の深い御心にひたすら従う、真の信仰をめざしたいのです。アーメン。
2026-05-24 9:48:13()
「若者は幻を見、老人は夢を見る」 2026年5月24日(日)ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教 石田真一郎
(使徒言行録2章1~21節)
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
(説教)本日は、今年のペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝です。説教題は、「若者は幻を見、老人は夢を見る」、小見出しは「聖霊が降る」、「ペトロの説教」です。
皆様の上にペンテコステの恵みをお祈り致します。ペンテコステの10日前、復活のイースターから40日目に、イエス・キリストは復活の体をもって天に昇られました。今も天で生きておられます。先日天に召された山本惠次さんも、天でイエス様に迎え入れられておられます。毎年申すことですが、イエス様の昇天(召天と違う)によって、私たちは3つの恵みを受けています。
1つ目は、イエス・キリストは教会の頭(かしら)で、教会(私たち)はキリストの体ですから、頭は既に天国に入ったわけで、私たちキリストの体も明確に天国とつながりました。これがイエス様の昇天の1つ目の恵みです。2つ目は、イエス様が天で私たちのために、父なる神様に執り成しをしていて下さることです。もちろん、十字架の死が最大の執り成しでした。イエス様は十字架で、私たちの全部の罪の責任を、身代わりに背負いきって下さいました。それだけで私たちが永遠の命を受けるには十二分です。ですがイエス様は、それに加えて今も、天で私たちのために執り成しをしていて下さいます。本当に感謝です。
ローマの信徒への手紙8章34節「誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右(神に一番近い所)に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです。」ヘブライ人への手紙7章25節「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」3つ目の恵みは、私たちに天から聖霊を注いで下さることです。聖霊は、神様の清き霊です。私たちは洗礼を受けたとき、確かに聖霊を注がれました。聖霊はイエス・キリストの霊です。私たちはよく祈って、聖霊をますます豊かに注がれたいものです。聖霊に豊かに満たされることで、私たちはイエス・キリストに人格がますます似た者になるに違いありません。
さて本日の使徒言行録2章1節以下です。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
五旬祭は、旧約聖書では七週祭と書かれており、収穫感謝祭です。レビ記23章によると、最も重要な過越祭の50日後が七週祭です。これをギリシア語でペンテコステと言い、日本語で五旬祭と訳されています。イエス様の十字架が過越祭の時でしたから、そこから50日で七週祭、五旬節、ペンテコステです、その日に聖霊が降るという重要な出来事が起こりました。五旬祭の時はイスラエルの民は、神殿で新穀の献げ物をする義務があり、エルサレムは巡礼する人々でごった返していたようです。イエス様の弟子たちは、家に入り、イエス様の母マリア、イエス様の兄弟たち、婦人たちと熱心に祈る日々を過ごしていました。そこに天から聖霊が降ったのです。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ。」旧約聖書の創世記1章の天地創造の場面を思い出します。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」神の霊は聖霊でしょう。「動いていた」という言葉は、かなり激しい動きを示しています。天地創造の時、聖霊も激しく力強くエネルギッシュに働いて、この宇宙を創造したのです。この宇宙を創造するには、大変なエネルギーが必要です。その時と同じように、聖霊が人々の上に激しく降ったのが、ペンテコステの朝です。
「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」聖霊は目に見えません。風、炎、舌は、聖霊の活発な働きを感覚的に、視覚的に示しています。炎は聖書では、神の出現、清めのシンボルでもあります。「ほかの国々の言葉で話し出した」は、多言語奇跡と呼ばれています。本人たちが勉強したのではない他の国々の言葉で話し出した言葉を、新約聖書では異言と呼んでいます。私は異言を語ったことはありませんが、異言と思われるものを目撃したことはあります。使徒パウロはコリントの信徒への手紙(一)14章で、「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それは誰にも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。(預言とは、聖書の言葉を他人に分かるように語るメッセージ。)異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。~異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています」と述べており、更に最高の道は愛(アガペー)だと言っています。
5節「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」当時ユダヤ人は、既に地中海沿岸の各地域に散っており、信仰深い人々は、大事な祭りのときには、しばしばエルサレムに来ていたのでしょう。ここに登場する地名を見ると、随分多くの土地に住んでいたと分かります。一口にユダヤ人と言っても、色々な言語を語っていたことが分かります。
多くの地域の言葉で神様のメッセージが語られたことは、エルサレムから始まってイエス・キリストの真の救いの福音が、全世界に宣べ伝えられる時が来たことを物語っています。イエス・キリストはマタイ福音書の最後でこう命じられました。大宣教命令と呼ばれるものです。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」
私たちは、異言で外国語を語り、外国語で伝道できないかもしれません。しかし異言でなくても、聖書翻訳の地道な努力によって、聖書は多くの言語に翻訳されてます。これもペンテコステ的な出来事だと思うのです。最近の統計では、「完全な旧新約聖書」795言語、「新約聖書まで翻訳」1,815言語、「一部のみ(福音書・詩編など)を含む」合計4,121言語。多くの言語で、神の偉大な業が語られて驚いた人々もおり、同時に起こっている恵みの事実を全く認識せず、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲る人もいました。聖霊を受けた人々が恍惚状態になっていたからです。
そこでペトロが立って、起こっている出来ごとの深い意味を語り始めます。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」午前九時はもとの言葉では「第三の時刻」です。この時刻は朝の祈りの時間で、それが終わるまでは飲食しない習慣があったそうです。「神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」
「終わりの時に、私(神)の霊を全ての人に注ぐ。」「終わりの時」とは、救い主の到来によって始まる終末の時代を指します。それは救い主イエス・キリストの誕生に始まり、キリストの十字架の死と復活と昇天を経て、キリストが再臨(もう一度来て)神の国を完成する時までです。夜の終わりの前兆として災害等の自然現象が起こると語られます。この終わりの日々は、教会が設立され伝道に励む日々なので、教会の時代とも言えます。キリストの再臨によって教会の時代も終わり、神の国は完成されます。教会の時代の間に、全ての人が伝道を受け入れて、救い主イエス・キリストを信じることが求められています。「主の名を呼び求める者はみな、救われるであろう。」イエス・キリストを信じる者は、皆永遠の命を受けるのです。
熱心に祈っている共同体に聖霊が降りました。聖霊に満たさることは、すばらしいことです。聖霊に満たされると、イエス・キリストの人格に似て来るからです。私たち先日、大変悲しいことに山本惠次さんを天国にお送り致しました。私はこれまではっきり知らなかったのですが、山本さんは満州で生まれ、幼い頃に実のご両親を亡くされたと知りました。大きな試練です。養父母になって下さった方々が、本当に良い方々だったようです。神様の恵みですね。山口市だったようで、戦国時代にザビエルが来た所ですから、ザビエル記念堂があるようです。そこででしょうか、特に養父の方は毎朝そこで熱心にお祈りしたり、太鼓をたたいて教会に子どもたちや大人たちを呼び集めるような方、いつも祈っている熱心で敬虔なクリスチャンだったそうです。すばらしい養父母に巡り会われた、これは神様の大きな恵みと思います。その養父の方のことを聞いて、私もその方のように祈る者になりたいと思いました。山本さんのご葬儀で、聖歌576番を歌いました。山本さんはこれを高らかに歌ってほしいと書き残しておられたそうです。納棺式、告別式。火葬前式で歌いました。1節はこうです。「いずこにある島々にも、いずこに住む人々にも、喜ばしく宣べ伝えよ。聖霊来たれり、聖霊来たれり。あま下りし慰め主。地の果てまでも宣べ伝えよ。聖霊来たれり。」ペンテコステにぴったりの歌です。「いずこにある島々にも、いずこに住む人々にも、喜ばしく宣べ伝えよ。」山本さんに「しっかり伝道して下さい」と励まされたと感じました。
本日の説教題は、「若者は幻を見、老人は夢を見る」。私たちの共通の夢は、東久留米教会にも、どの教会にも受洗者がどんどん与えられ、その一人一人がイエス・キリストに従う人生を全うすることです。(未完)
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
(説教)本日は、今年のペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝です。説教題は、「若者は幻を見、老人は夢を見る」、小見出しは「聖霊が降る」、「ペトロの説教」です。
皆様の上にペンテコステの恵みをお祈り致します。ペンテコステの10日前、復活のイースターから40日目に、イエス・キリストは復活の体をもって天に昇られました。今も天で生きておられます。先日天に召された山本惠次さんも、天でイエス様に迎え入れられておられます。毎年申すことですが、イエス様の昇天(召天と違う)によって、私たちは3つの恵みを受けています。
1つ目は、イエス・キリストは教会の頭(かしら)で、教会(私たち)はキリストの体ですから、頭は既に天国に入ったわけで、私たちキリストの体も明確に天国とつながりました。これがイエス様の昇天の1つ目の恵みです。2つ目は、イエス様が天で私たちのために、父なる神様に執り成しをしていて下さることです。もちろん、十字架の死が最大の執り成しでした。イエス様は十字架で、私たちの全部の罪の責任を、身代わりに背負いきって下さいました。それだけで私たちが永遠の命を受けるには十二分です。ですがイエス様は、それに加えて今も、天で私たちのために執り成しをしていて下さいます。本当に感謝です。
ローマの信徒への手紙8章34節「誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右(神に一番近い所)に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです。」ヘブライ人への手紙7章25節「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」3つ目の恵みは、私たちに天から聖霊を注いで下さることです。聖霊は、神様の清き霊です。私たちは洗礼を受けたとき、確かに聖霊を注がれました。聖霊はイエス・キリストの霊です。私たちはよく祈って、聖霊をますます豊かに注がれたいものです。聖霊に豊かに満たされることで、私たちはイエス・キリストに人格がますます似た者になるに違いありません。
さて本日の使徒言行録2章1節以下です。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
五旬祭は、旧約聖書では七週祭と書かれており、収穫感謝祭です。レビ記23章によると、最も重要な過越祭の50日後が七週祭です。これをギリシア語でペンテコステと言い、日本語で五旬祭と訳されています。イエス様の十字架が過越祭の時でしたから、そこから50日で七週祭、五旬節、ペンテコステです、その日に聖霊が降るという重要な出来事が起こりました。五旬祭の時はイスラエルの民は、神殿で新穀の献げ物をする義務があり、エルサレムは巡礼する人々でごった返していたようです。イエス様の弟子たちは、家に入り、イエス様の母マリア、イエス様の兄弟たち、婦人たちと熱心に祈る日々を過ごしていました。そこに天から聖霊が降ったのです。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ。」旧約聖書の創世記1章の天地創造の場面を思い出します。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」神の霊は聖霊でしょう。「動いていた」という言葉は、かなり激しい動きを示しています。天地創造の時、聖霊も激しく力強くエネルギッシュに働いて、この宇宙を創造したのです。この宇宙を創造するには、大変なエネルギーが必要です。その時と同じように、聖霊が人々の上に激しく降ったのが、ペンテコステの朝です。
「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」聖霊は目に見えません。風、炎、舌は、聖霊の活発な働きを感覚的に、視覚的に示しています。炎は聖書では、神の出現、清めのシンボルでもあります。「ほかの国々の言葉で話し出した」は、多言語奇跡と呼ばれています。本人たちが勉強したのではない他の国々の言葉で話し出した言葉を、新約聖書では異言と呼んでいます。私は異言を語ったことはありませんが、異言と思われるものを目撃したことはあります。使徒パウロはコリントの信徒への手紙(一)14章で、「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それは誰にも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。(預言とは、聖書の言葉を他人に分かるように語るメッセージ。)異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。~異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています」と述べており、更に最高の道は愛(アガペー)だと言っています。
5節「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」当時ユダヤ人は、既に地中海沿岸の各地域に散っており、信仰深い人々は、大事な祭りのときには、しばしばエルサレムに来ていたのでしょう。ここに登場する地名を見ると、随分多くの土地に住んでいたと分かります。一口にユダヤ人と言っても、色々な言語を語っていたことが分かります。
多くの地域の言葉で神様のメッセージが語られたことは、エルサレムから始まってイエス・キリストの真の救いの福音が、全世界に宣べ伝えられる時が来たことを物語っています。イエス・キリストはマタイ福音書の最後でこう命じられました。大宣教命令と呼ばれるものです。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」
私たちは、異言で外国語を語り、外国語で伝道できないかもしれません。しかし異言でなくても、聖書翻訳の地道な努力によって、聖書は多くの言語に翻訳されてます。これもペンテコステ的な出来事だと思うのです。最近の統計では、「完全な旧新約聖書」795言語、「新約聖書まで翻訳」1,815言語、「一部のみ(福音書・詩編など)を含む」合計4,121言語。多くの言語で、神の偉大な業が語られて驚いた人々もおり、同時に起こっている恵みの事実を全く認識せず、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲る人もいました。聖霊を受けた人々が恍惚状態になっていたからです。
そこでペトロが立って、起こっている出来ごとの深い意味を語り始めます。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」午前九時はもとの言葉では「第三の時刻」です。この時刻は朝の祈りの時間で、それが終わるまでは飲食しない習慣があったそうです。「神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」
「終わりの時に、私(神)の霊を全ての人に注ぐ。」「終わりの時」とは、救い主の到来によって始まる終末の時代を指します。それは救い主イエス・キリストの誕生に始まり、キリストの十字架の死と復活と昇天を経て、キリストが再臨(もう一度来て)神の国を完成する時までです。夜の終わりの前兆として災害等の自然現象が起こると語られます。この終わりの日々は、教会が設立され伝道に励む日々なので、教会の時代とも言えます。キリストの再臨によって教会の時代も終わり、神の国は完成されます。教会の時代の間に、全ての人が伝道を受け入れて、救い主イエス・キリストを信じることが求められています。「主の名を呼び求める者はみな、救われるであろう。」イエス・キリストを信じる者は、皆永遠の命を受けるのです。
熱心に祈っている共同体に聖霊が降りました。聖霊に満たさることは、すばらしいことです。聖霊に満たされると、イエス・キリストの人格に似て来るからです。私たち先日、大変悲しいことに山本惠次さんを天国にお送り致しました。私はこれまではっきり知らなかったのですが、山本さんは満州で生まれ、幼い頃に実のご両親を亡くされたと知りました。大きな試練です。養父母になって下さった方々が、本当に良い方々だったようです。神様の恵みですね。山口市だったようで、戦国時代にザビエルが来た所ですから、ザビエル記念堂があるようです。そこででしょうか、特に養父の方は毎朝そこで熱心にお祈りしたり、太鼓をたたいて教会に子どもたちや大人たちを呼び集めるような方、いつも祈っている熱心で敬虔なクリスチャンだったそうです。すばらしい養父母に巡り会われた、これは神様の大きな恵みと思います。その養父の方のことを聞いて、私もその方のように祈る者になりたいと思いました。山本さんのご葬儀で、聖歌576番を歌いました。山本さんはこれを高らかに歌ってほしいと書き残しておられたそうです。納棺式、告別式。火葬前式で歌いました。1節はこうです。「いずこにある島々にも、いずこに住む人々にも、喜ばしく宣べ伝えよ。聖霊来たれり、聖霊来たれり。あま下りし慰め主。地の果てまでも宣べ伝えよ。聖霊来たれり。」ペンテコステにぴったりの歌です。「いずこにある島々にも、いずこに住む人々にも、喜ばしく宣べ伝えよ。」山本さんに「しっかり伝道して下さい」と励まされたと感じました。
本日の説教題は、「若者は幻を見、老人は夢を見る」。私たちの共通の夢は、東久留米教会にも、どの教会にも受洗者がどんどん与えられ、その一人一人がイエス・キリストに従う人生を全うすることです。(未完)
2026-05-16 23:59:57(土)
「現実の中で、光の子として生きる」 2026年5月17日(日)礼拝説教
(ルカによる福音書16章1~13節) 「不正な管理人」のたとえ
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
本日は、復活節第7主日公同礼拝、説教題は「現実の中で、光の子として生きる」、小見出しは「不正な管理人のたとえ」です。今日の個所は、聖書の中でも分かりにくい箇所の代表と言えます。
最初の1節から。「イエスは、弟子たちにも次のように言われた。『ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」』」
ここを読むと、私たちもギクッとするかもしれません。私たちも神様から多くの恵みをいただいている(正確には預かっている)のですが、それを全く無駄遣いしてないと断言できるだろうか。神様に喜ばれるように活用しているだろうか。全然浪費していないと言いきれるだろうか。告げ口されても、その告げ口は100%間違いだと言い切れるだろうか。このようにここを読んで、自分の生き方が神様に喜ばれる生き方かどうか再度チェックし、襟を正す必要を感じる方がよいのではないかと思います。
2節「そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』」教会でも他の団体でも、一年に一回総会を開いて、決算報告がなされます。東久留米教会が属する日本基督教団の西東京教区でも、今年は5月31日(日)と6月1日(月)に定期総会を開いて、決算報告もなされます。聖書によれば、私たちの人生の決算報告も行わなければなりません。全ての人間について神様が「最後の審判」を行われます。誰一人例外はありません。一人一人が、神様の前に立って、自分の人生をどう生きたか、申し述べる時が来ます。私たちは誰でも、それを前提に生きて行く必要があります。その時、神様に良い報告ができるように、神様に質問されてしどろもどろにならないように、毎日の生き方に責任をもつ必要があります。でも私たちは罪人(つみびと)なので、現実には罪を犯しています。神様から罪を指摘されれば、しどろもどろになります。ですから今のうちに、私たちの罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じ告白する必要があります。イエス・キリストは、私たちの全部の罪を身代わりに背負って、十字架で死んで下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、私たちの罪は全て赦されます。平安な心で、最後の審判に臨むことができます。そしてイエス様のお陰で、私たちは無罪判決をいただくことができます。
今日の管理人は、主人の財産を無駄遣いした罪により、会計報告の提出を命じられ、彼は言い逃れが不可能であることをよく知っていました。明らかに身に覚えのある罪なのです。3節「管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』」彼は、ずる賢い男、転んでもただでは起きない男です。悪知恵を繰り出すのです。イエス様は私たちに、「彼を見習って、ずる賢くなれ」と言っておられるわけではありません。旧約聖書でずる賢い男と言えば、イサクの息子ヤコブを思い出します。ヤコブは兄エサウを騙して、祝福を奪い取りました。しかしその結果、兄エサウの恨みを買い、ヤコブは故郷にいられなくなり、母の故郷に当分住むことになりました。イエス様は私たちに、ヤコブのようにずる賢くなれと言っておられるのではないと思います。
管理人は、大胆不敵にも悪事を重ねます。5節以下「そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」
開いた口がふさがりませんね。「主人が激怒した」と書いてあるなら分かりますが、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」と書いてあるので、私たちは訳が分からなくなります。主人は管理人の悪をよしとしたのではありません。管理人の巧妙なやり方に舌を巻いたということです。「こんなに知恵があるなら、よいことのためにその知恵を用いればよいのに」と思ったかもしれません。
但し、次のような解釈もあります。この解釈を採用する人もいれば、採用しない人もいます。当時の中近東の習慣では、証文には、主人に支払わねばならないものと、管理人の手数料(報酬)を合計したものが借りの額(負債額)として書かれることがあったそうです。このたとえ話の場合もそうであったとすると、管理人は自分宛ての手数料(報酬)の分だけ減らして書き換えさせたことになり、主人には何の損害も与えなかったことになります。管理人が第一段階の無駄遣いに加えて、第二段階の悪事を加えたのではないことになります。もしそうなら、主人も二倍の怒りに燃えていないので、やや冷静に「この管理人の抜け目のないやり方をほめた」ことになります。このような解釈もありますが、無理な気もします。
イエス様のおっしゃりたいことは、8節の後半と9節です。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、私は言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなた方は永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」「この世の子ら」とは、真の神様に従わない人々。こう言っては失礼ですが、世間的な知恵を多く持っていて、損得勘定に長けていて、自分が損しないように、得するように上手に立ち回る人。光の子とは、イエス・キリストに従う人々。ヨハネ福音書12章35節以下にはこうあります。「イエスは言われた。『光(イエス・キリスト)はいましばらく、あなた方の間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい』(長嶺トヨ子さんの愛唱聖句)。エフェソ4章8節以下「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主(イエス様)に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。何が主に喜ばれるのかを吟味しなさい。」
この「たとえ話」を1つの解釈だけで読み終わるのは、もったいないと思います。
私たちの信仰生活にいろいろなヒントを与えてくれるのです。もう天に召されましたが、隅谷三喜男というクリスチャンがおられました。隅谷さんは、戦争中、クリスチャン青年の生き方として、植民地の労働者のために共に働きたいと考え、旧満州の製鉄所に勤務し、現地労働者の宿舎管理に当たった。まず彼らの希望を聞いて、宿舎の中に小さな小学校を開設、安全祈願のための道教の廟の建設、給与の改善等を実現、とても喜ばれ、生産性も向上しました。ですが、戦後に反省してみると、ご自分は軍国主義の手先となって奉仕し、現地労働者を上手に働かせたに過ぎなかったのではないかと反省されたそうです。自分としては当時はよいことをしたつもりだったが、あの管理人が主人に借りのある者を呼んで、「私の主人にいくら借りがあるのか」と問い、勝手に借りを少なく書き換えた証文を作ったようなものだったと、後になって思われたのです。
あの管理人、主人に借りのある一人一人には感謝され、喜ばれたでしょう。でもそれは主人に罪を犯すことでした。同じように隅谷さんは、ご自分は現地労働者によいことをしたつもりだったが、そもそも満州を植民地にしたこと自体が日本の罪だったとすれば、大きな悪の前提の中で、自分が少々よいことをしたと思っても、自己満足に過ぎず、神様という真の主人から見れば偽善であり、自分も不正な管理人であったと思われたのです。私たちは普通は、この不正な管理人は、誰か他人だと思うのですが、隅谷さんは自分こそ不正な管理人だったと気づかれたのです。ならば、私たちも「もしかすると自分も不正な管理人かもしれない。少なくとも共通する部分がゼロではない」と考えて、もう一度読み直してみることにも意味があるのではないかと思います。
イエス様は言われます。9節「そこで、私は言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなた方は永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」私たちが持っているお金は、正当・合法的な方法で手に入れたお金と思います。その意味で清いお金です。ですが「金は天下の回りもの」なので、私たちの手元に来るまでに様々なルートをたどってきたに違いありません。そのプロセスで、人間のごまかしや何らかの不正や罪に関与していた可能性は十分あります。神様にはそのすべてが見えています。手もとのお金が、どんな罪に関与したか、神様はご存じです。お金・富は不正にまみれやすいので「不正にまみれた富」と言われているのでしょう。
「不正にまみれた富で友達を作りまなさい。」この富という言葉は、もとのギリシア語でマモーンという言葉です。不正な管理人が賢かったのは、飽くまでもこの地上でうまく立ち回ったということで、神から見れば浅知恵であり、小賢しく見えたと思います。光の子であるクリスチャンは、お金についても真の知恵によって用いる必要があります。「不正にまみれた富で友達を作りなさい。」「お金は不正と結びつきやすく、不正にまみれやすいものだが、それを神様に喜ばれる善い目的のために用いなさい、善用しなさいというメッセージです。お金を貧しい方々のために用いて、その方々の友達になる。そのような生き方をしていれば、神様が友達になって下さるとも言えます。「そうしておけば、金がなくなったとき、あなた方は永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」天国に入れていただける。そのような隣人愛のためのお金の使い方をしなさい、ということです。今日は「不正な管理人」が出てきました。私たちも神様から、ある程度のお金、ある程度の健康、ある程度の才能を預けられています。最も大切な命をを含めて、神様から預けられています。私たちも神から預かった諸々の恵みの管理人なのです。パウロがコリントの信徒への手紙(一)4章1~2節で書いています。「こういうわけですから、人は私たちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」この意味で私たちは「不正な管理人」にならないように注意し、「よい管理人」になるように努力する必要があります。
ルカに戻り10節以下。「ごく小さな事に忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。」「小さな事」はこの地上の富、「大きな事」は真の富、永遠の富、永遠の命にかかわることを指します。「だから、不正にまみれた富(不正にまみれやすいこの世の富)について忠実でなければ、だれがあなた方に本当に価値あるもものを任せるだろうか。」この地上のお金を忠実に扱う人は、永遠の命に係わる真に大切なことも任せられる。教会の会計も、ある意味この世のお金を扱うわけですが、教会会計のお金のことを忠実に扱う人は、永遠の命に関わる真に大切なことを任されるほど信用される。という意味にも受け取ることができるのはないでしょうか。
12節「また、他人のものについて忠実でなければ、誰があなた方のものを与えてくれるだろうか。」10節から12節の文を続けてよむと、「ごく小さなこと」、「不正にまみれた富」、「他人のもの」が同じことを指している、この地上のものを指すと言えます。「ごく小さなこと」、「不正にまみれた富」がなぜ「他人のもの」かと言うと、これらがこの地上のものであり、死によって手放すことになる与かりもの、借り物なので、「自分のもの」でなく「他人のもの」と語られているようです。
本日の個所の結論は13~14節。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」「神とお金に同時に仕えることはできない」ということです。お金は大切で必要ですが、神様にして拝んではならないという戒めです。経済も経営も大切ですが、神様の方がはるかに大切ですし、命の方がお金・経済・経営よりはるかに大切です。そう肝に銘じておかないと、私たち人間は一つ間違えるとお金の亡者になりかねません。命より経営が大切な病院や施設はないと思いたいですが、そのようになるように唆す悪魔はいるので、もちろん自分も含めて油断しないようにしたいと思います。イエス様は決して「清濁併せ飲む」方ではありません。イエス様が悪を憎む方です。私たちが「清濁併せ飲む」ことを求められているということは、決してありません。
曽野綾子さんというカトリック信者の作家がおられますが、曽野さんが1995年に日本財団という団体の会長に就任したそうです。日本財団という団体の初代会長はモーターボート競争・競艇で有名な笹川良一という方でした。つまり日本財団のお金はモーターボート競争という賭けごとで儲けたお金であるようです。それだけではないかもしれませんが、それも確かに含まれていると思われます。笹川良一という方は、評価の難しい方のようですね。太平洋戦争後にA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンという所に入れられたそうですが、起訴されずに釈放されたそうです。ですから有罪になったわけではありません。政界の黒幕とも言われたそうですが、福祉活動家という面もあります。もちろん私は直接会ったこともないので確たることは言えませんが、どことなくいかがわしい感じと一般的には受けとめられていると感じます。その笹川氏が作った日本財団初めての会見で就任の理由を問われた。曽野は「不正にまみれた富で友達をつくりなさい」と、聖書の言葉を引用、記者たちを面食らわせた。「たとえ金の出所や動機が不純であっても、その金をいかに良いことに使えるか、それが大切なんだ、と聖書も言っているんです」。ある方の評価「特に一貫していると感じられたのが「神との契約」という考え方。約束したことをしっかり守り、やり通すという姿勢。会長就任時の挨拶で、仕える者としての謙虚さ、お金と物に対する厳正な気持ち、相手を愛し続ける必要性の三点が述べられていたが、この姿勢が財団運営や事業の取り組みに現れていたのだと感じた。助成先の調査・監査を厳しくしたこと。また、在任期間に情報公開を積極的に進めたのも、契約の概念、お金に対する厳正な気持ちの現れ。曽野前会長が職員に繰り返し語られていた「私たちの働く意味とその現実を、細部まで透明なものにしてください」という言葉は、今も会長・職員ブログなど財団の情報公開の精神に通じている。」
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
本日は、復活節第7主日公同礼拝、説教題は「現実の中で、光の子として生きる」、小見出しは「不正な管理人のたとえ」です。今日の個所は、聖書の中でも分かりにくい箇所の代表と言えます。
最初の1節から。「イエスは、弟子たちにも次のように言われた。『ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」』」
ここを読むと、私たちもギクッとするかもしれません。私たちも神様から多くの恵みをいただいている(正確には預かっている)のですが、それを全く無駄遣いしてないと断言できるだろうか。神様に喜ばれるように活用しているだろうか。全然浪費していないと言いきれるだろうか。告げ口されても、その告げ口は100%間違いだと言い切れるだろうか。このようにここを読んで、自分の生き方が神様に喜ばれる生き方かどうか再度チェックし、襟を正す必要を感じる方がよいのではないかと思います。
2節「そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』」教会でも他の団体でも、一年に一回総会を開いて、決算報告がなされます。東久留米教会が属する日本基督教団の西東京教区でも、今年は5月31日(日)と6月1日(月)に定期総会を開いて、決算報告もなされます。聖書によれば、私たちの人生の決算報告も行わなければなりません。全ての人間について神様が「最後の審判」を行われます。誰一人例外はありません。一人一人が、神様の前に立って、自分の人生をどう生きたか、申し述べる時が来ます。私たちは誰でも、それを前提に生きて行く必要があります。その時、神様に良い報告ができるように、神様に質問されてしどろもどろにならないように、毎日の生き方に責任をもつ必要があります。でも私たちは罪人(つみびと)なので、現実には罪を犯しています。神様から罪を指摘されれば、しどろもどろになります。ですから今のうちに、私たちの罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じ告白する必要があります。イエス・キリストは、私たちの全部の罪を身代わりに背負って、十字架で死んで下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、私たちの罪は全て赦されます。平安な心で、最後の審判に臨むことができます。そしてイエス様のお陰で、私たちは無罪判決をいただくことができます。
今日の管理人は、主人の財産を無駄遣いした罪により、会計報告の提出を命じられ、彼は言い逃れが不可能であることをよく知っていました。明らかに身に覚えのある罪なのです。3節「管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』」彼は、ずる賢い男、転んでもただでは起きない男です。悪知恵を繰り出すのです。イエス様は私たちに、「彼を見習って、ずる賢くなれ」と言っておられるわけではありません。旧約聖書でずる賢い男と言えば、イサクの息子ヤコブを思い出します。ヤコブは兄エサウを騙して、祝福を奪い取りました。しかしその結果、兄エサウの恨みを買い、ヤコブは故郷にいられなくなり、母の故郷に当分住むことになりました。イエス様は私たちに、ヤコブのようにずる賢くなれと言っておられるのではないと思います。
管理人は、大胆不敵にも悪事を重ねます。5節以下「そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」
開いた口がふさがりませんね。「主人が激怒した」と書いてあるなら分かりますが、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」と書いてあるので、私たちは訳が分からなくなります。主人は管理人の悪をよしとしたのではありません。管理人の巧妙なやり方に舌を巻いたということです。「こんなに知恵があるなら、よいことのためにその知恵を用いればよいのに」と思ったかもしれません。
但し、次のような解釈もあります。この解釈を採用する人もいれば、採用しない人もいます。当時の中近東の習慣では、証文には、主人に支払わねばならないものと、管理人の手数料(報酬)を合計したものが借りの額(負債額)として書かれることがあったそうです。このたとえ話の場合もそうであったとすると、管理人は自分宛ての手数料(報酬)の分だけ減らして書き換えさせたことになり、主人には何の損害も与えなかったことになります。管理人が第一段階の無駄遣いに加えて、第二段階の悪事を加えたのではないことになります。もしそうなら、主人も二倍の怒りに燃えていないので、やや冷静に「この管理人の抜け目のないやり方をほめた」ことになります。このような解釈もありますが、無理な気もします。
イエス様のおっしゃりたいことは、8節の後半と9節です。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、私は言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなた方は永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」「この世の子ら」とは、真の神様に従わない人々。こう言っては失礼ですが、世間的な知恵を多く持っていて、損得勘定に長けていて、自分が損しないように、得するように上手に立ち回る人。光の子とは、イエス・キリストに従う人々。ヨハネ福音書12章35節以下にはこうあります。「イエスは言われた。『光(イエス・キリスト)はいましばらく、あなた方の間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい』(長嶺トヨ子さんの愛唱聖句)。エフェソ4章8節以下「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主(イエス様)に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。何が主に喜ばれるのかを吟味しなさい。」
この「たとえ話」を1つの解釈だけで読み終わるのは、もったいないと思います。
私たちの信仰生活にいろいろなヒントを与えてくれるのです。もう天に召されましたが、隅谷三喜男というクリスチャンがおられました。隅谷さんは、戦争中、クリスチャン青年の生き方として、植民地の労働者のために共に働きたいと考え、旧満州の製鉄所に勤務し、現地労働者の宿舎管理に当たった。まず彼らの希望を聞いて、宿舎の中に小さな小学校を開設、安全祈願のための道教の廟の建設、給与の改善等を実現、とても喜ばれ、生産性も向上しました。ですが、戦後に反省してみると、ご自分は軍国主義の手先となって奉仕し、現地労働者を上手に働かせたに過ぎなかったのではないかと反省されたそうです。自分としては当時はよいことをしたつもりだったが、あの管理人が主人に借りのある者を呼んで、「私の主人にいくら借りがあるのか」と問い、勝手に借りを少なく書き換えた証文を作ったようなものだったと、後になって思われたのです。
あの管理人、主人に借りのある一人一人には感謝され、喜ばれたでしょう。でもそれは主人に罪を犯すことでした。同じように隅谷さんは、ご自分は現地労働者によいことをしたつもりだったが、そもそも満州を植民地にしたこと自体が日本の罪だったとすれば、大きな悪の前提の中で、自分が少々よいことをしたと思っても、自己満足に過ぎず、神様という真の主人から見れば偽善であり、自分も不正な管理人であったと思われたのです。私たちは普通は、この不正な管理人は、誰か他人だと思うのですが、隅谷さんは自分こそ不正な管理人だったと気づかれたのです。ならば、私たちも「もしかすると自分も不正な管理人かもしれない。少なくとも共通する部分がゼロではない」と考えて、もう一度読み直してみることにも意味があるのではないかと思います。
イエス様は言われます。9節「そこで、私は言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなた方は永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」私たちが持っているお金は、正当・合法的な方法で手に入れたお金と思います。その意味で清いお金です。ですが「金は天下の回りもの」なので、私たちの手元に来るまでに様々なルートをたどってきたに違いありません。そのプロセスで、人間のごまかしや何らかの不正や罪に関与していた可能性は十分あります。神様にはそのすべてが見えています。手もとのお金が、どんな罪に関与したか、神様はご存じです。お金・富は不正にまみれやすいので「不正にまみれた富」と言われているのでしょう。
「不正にまみれた富で友達を作りまなさい。」この富という言葉は、もとのギリシア語でマモーンという言葉です。不正な管理人が賢かったのは、飽くまでもこの地上でうまく立ち回ったということで、神から見れば浅知恵であり、小賢しく見えたと思います。光の子であるクリスチャンは、お金についても真の知恵によって用いる必要があります。「不正にまみれた富で友達を作りなさい。」「お金は不正と結びつきやすく、不正にまみれやすいものだが、それを神様に喜ばれる善い目的のために用いなさい、善用しなさいというメッセージです。お金を貧しい方々のために用いて、その方々の友達になる。そのような生き方をしていれば、神様が友達になって下さるとも言えます。「そうしておけば、金がなくなったとき、あなた方は永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」天国に入れていただける。そのような隣人愛のためのお金の使い方をしなさい、ということです。今日は「不正な管理人」が出てきました。私たちも神様から、ある程度のお金、ある程度の健康、ある程度の才能を預けられています。最も大切な命をを含めて、神様から預けられています。私たちも神から預かった諸々の恵みの管理人なのです。パウロがコリントの信徒への手紙(一)4章1~2節で書いています。「こういうわけですから、人は私たちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」この意味で私たちは「不正な管理人」にならないように注意し、「よい管理人」になるように努力する必要があります。
ルカに戻り10節以下。「ごく小さな事に忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。」「小さな事」はこの地上の富、「大きな事」は真の富、永遠の富、永遠の命にかかわることを指します。「だから、不正にまみれた富(不正にまみれやすいこの世の富)について忠実でなければ、だれがあなた方に本当に価値あるもものを任せるだろうか。」この地上のお金を忠実に扱う人は、永遠の命に係わる真に大切なことも任せられる。教会の会計も、ある意味この世のお金を扱うわけですが、教会会計のお金のことを忠実に扱う人は、永遠の命に関わる真に大切なことを任されるほど信用される。という意味にも受け取ることができるのはないでしょうか。
12節「また、他人のものについて忠実でなければ、誰があなた方のものを与えてくれるだろうか。」10節から12節の文を続けてよむと、「ごく小さなこと」、「不正にまみれた富」、「他人のもの」が同じことを指している、この地上のものを指すと言えます。「ごく小さなこと」、「不正にまみれた富」がなぜ「他人のもの」かと言うと、これらがこの地上のものであり、死によって手放すことになる与かりもの、借り物なので、「自分のもの」でなく「他人のもの」と語られているようです。
本日の個所の結論は13~14節。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」「神とお金に同時に仕えることはできない」ということです。お金は大切で必要ですが、神様にして拝んではならないという戒めです。経済も経営も大切ですが、神様の方がはるかに大切ですし、命の方がお金・経済・経営よりはるかに大切です。そう肝に銘じておかないと、私たち人間は一つ間違えるとお金の亡者になりかねません。命より経営が大切な病院や施設はないと思いたいですが、そのようになるように唆す悪魔はいるので、もちろん自分も含めて油断しないようにしたいと思います。イエス様は決して「清濁併せ飲む」方ではありません。イエス様が悪を憎む方です。私たちが「清濁併せ飲む」ことを求められているということは、決してありません。
曽野綾子さんというカトリック信者の作家がおられますが、曽野さんが1995年に日本財団という団体の会長に就任したそうです。日本財団という団体の初代会長はモーターボート競争・競艇で有名な笹川良一という方でした。つまり日本財団のお金はモーターボート競争という賭けごとで儲けたお金であるようです。それだけではないかもしれませんが、それも確かに含まれていると思われます。笹川良一という方は、評価の難しい方のようですね。太平洋戦争後にA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンという所に入れられたそうですが、起訴されずに釈放されたそうです。ですから有罪になったわけではありません。政界の黒幕とも言われたそうですが、福祉活動家という面もあります。もちろん私は直接会ったこともないので確たることは言えませんが、どことなくいかがわしい感じと一般的には受けとめられていると感じます。その笹川氏が作った日本財団初めての会見で就任の理由を問われた。曽野は「不正にまみれた富で友達をつくりなさい」と、聖書の言葉を引用、記者たちを面食らわせた。「たとえ金の出所や動機が不純であっても、その金をいかに良いことに使えるか、それが大切なんだ、と聖書も言っているんです」。ある方の評価「特に一貫していると感じられたのが「神との契約」という考え方。約束したことをしっかり守り、やり通すという姿勢。会長就任時の挨拶で、仕える者としての謙虚さ、お金と物に対する厳正な気持ち、相手を愛し続ける必要性の三点が述べられていたが、この姿勢が財団運営や事業の取り組みに現れていたのだと感じた。助成先の調査・監査を厳しくしたこと。また、在任期間に情報公開を積極的に進めたのも、契約の概念、お金に対する厳正な気持ちの現れ。曽野前会長が職員に繰り返し語られていた「私たちの働く意味とその現実を、細部まで透明なものにしてください」という言葉は、今も会長・職員ブログなど財団の情報公開の精神に通じている。」
2026-05-09 22:13:42(土)
「兄息子をなだめる父の愛」 2026年5月10日(日)東久留米教会 礼拝説教
(聖書)ルカによる福音書15章25~32節
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
(説教)
先週はあまりにも有名な「放蕩息子のたとえ」の前半でした。今日は後半です。
最初の25節「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、『これはいったい何事か』と尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が子牛をほふられたのです。
兄はびっくりしたに違いありません。「あの勝手に出て行った、家出したわがまま者の弟。身勝手な奴だ。今更、どの面(つら)を下げて帰って来たのか。あんな奴は弟ではない」という気持ちだったと思うのです。その弟を、お父さんが、こともあろうに、大歓迎しているというのですから、兄は呆れかえり、はらわたが煮えくり返ったと思うのです。
28節「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし兄はかっかしており、父親のなだめの言葉を簡単には受け入れません。29節「しかし、兄は父親に言った。『このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子(実の弟について、愛のない呼び方ではあります)が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた羊を屠っておやりになる。』」兄の心は不平不満で一杯です。確かに兄も父親に愛されたいのですね。愛されているのですが、兄は弟が依怙贔屓されていると感じており、憤懣やるかたない気持ちなのです。そして弟を激しくねたんでいます。嫉妬しています。お父さん、なぜもっと僕を評価してくれないのです(評価されているのですが)。弟と自分を比べています。人と自分を比べることは、不幸の第一歩かもしれません。兄は自分が損をしているとの被害者意識に陥っています。不公平だと思い込んでいるのです。正直に生きる自分が馬鹿を見たと思い込んでいます。マルタとマリアの話のマリアに似ています。自分にも神様の愛は豊かに注がれているのに、それに気づいていないだけかもしれないのです。兄の怒りは危険です。父親がなだめなかったら、兄は弟に怒りをぶつけ、暴力を働いたかもしれません。この兄弟の関係は、創世記に出て来るカインとアベルの関係に似ています。兄カインは嫉妬に狂い、弟アベルを殺してしまったのです。ここでは、父親がそれを止める役割を果たしています。
父親は、答えます。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは、当たり前ではないか。」父親は兄息子をなだめたのです。「なだめた」という言葉は、直訳すると「傍らに招いた」です。私は少々驚いたのですが、元の言葉を調べると「パラカレオー」という言葉で、新約聖書にしばしば出て来る言葉です。多くの場合「慰める」と訳されます。例えばコリントの信徒への手紙(二)1章3節以下に、この言葉が何回も出て来ます。「私たちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かに下さる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」
父が兄息子をこのような慰めで慰めたと訳すことができますが、ここでは「なだめた」の方が適切な訳なのだと思います。強いて言えば、父は兄息子も父親の愛を求めて傷ついていることを察して、父親が兄息子をも十二分に愛していることを懇々と諭したという意味において、兄息子を慰めたことになると言えます。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。」「共にいる、共に生きている」ことこそ、最大の幸せです。「私のものは全部お前のものだ。」父親がけちけちして、兄息子には何も与えなかったなどということはないのです。兄息子は、十二分に愛されています。「だが」と父親は言います。「だが、君の弟は不幸だったのだ。家出して遠くに行って、自由気ままにやりたい放題やった彼をうらやましく思うのか。勝手気ままに無責任に生きた結果、彼は滅びかかり、死にかかったのだ。彼は自由だったのではなく、悪魔の奴隷になっていたのだ。彼は不幸になったのだ。それに気づいて、謝罪して帰って来たのだ。彼は初めて、本当の平安を知ったのだ。彼は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに、見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
これはイエス様が、マタイ福音書18章14節でおっしゃることと一致しますね。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父に御心ではない。」先週のエゼキエル書18章にもありました。「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私(神様)は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ、と主なる神は言われる。」弟息子は、勝手気ままをしていたとき、実は悪魔の奴隷になり、滅亡に向かって突っ走っていたのです。そこには罪深い楽しみはあったでしょうが、真の平安はありませんでした。先週ご紹介したアゥグスティヌスという人の有名な言葉があります。「神よ、あなたは私たち人間を神に向かって造られました。ですので、私たち人間はあなた(神)に立ち帰るまで、真の平安を得ることはできません。」
父親の諭しの言葉には、さすが年長者の深みと風格があるという印象を受けます。
兄の言葉自体は、兄なりの正論です。「お父さん、あなたはあの弟に甘すぎる。彼をもっと厳しく叱ってやるべきだ。」兄は怒りから、彼なりの正論を述べて止みません。
ですが敢えて言えば、彼は自己義認の罪を犯していると言えます。私たちは皆、他人を批判する時、自己義認に陥っています。自己義認とは、自分で自分を正義と認める、自分で自分を正義と主張する、自分を知らず知らずのうちに神(絶対者)に祭り上げる罪が、自己義認の罪です。少し大げさな言葉を使うなら、自己神格化です。ある説教者は本日の聖書の個所での説教に「優等生の罪」という題をつけておられました。「優等生の罪。」兄息子の罪は、優等生の罪だというのです。優等生の罪は、自分はよくできると思い、他の人々を心の中で密かに見下す傲慢の罪ですね。謙遜でないのです。優等生の罪は、自己義認の罪です。
この自己義認の罪に気づかせる聖書の御言葉は、いくつかありますね。ヤコブの手紙1章19節「誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」マタイ福音書7章1節以下。「人を裁くな。あなた方も裁かれないようになるためである。あなた方は、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」ヨハネ福音書8章7節「イエスは身を起こして言われた。『あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』」これを聞くと、誰も罪を犯した女性に石を投げなかったのですね。
私たちも時々、兄のようになるので、ヨハネの手紙(一)4章19節以下の御言葉に耳を傾けることが有益と思います。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛して下さったからです。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見ない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」
旧約聖書にヨブ記があります。非常に正しい人ヨブに、次々と試練がふりかかる記録です。試練に雄々しく耐えるヨブに、私は尊敬の念を覚えます。ヨブの友人たちが来て、初めはヨブに深く同情していますが、次第にヨブを責めるようになります。「あなたが何か罪を犯したから、この試練が降りかかったのではないか。」ヨブはきっぱりと否定します。「私は何も罪を犯していない。私の罪のために、これらの苦難が降りかかったではない。」ヨブは立派な人なのですが、次第に言葉が強くなります。ヨブ記27章2節以下のヨブの主張「私の権利を取り上げる神にかけて、私の魂を苦しめる全能者にかけて私は誓う。~この唇は決して不正を語らず、この舌は決して欺きを言わない、と。断じて、あなたたち(友人たち)を正しいとはしない。死に至るまで、私は潔白を主張する。私は自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。私に敵対する者こそ罪に定められ、私に逆らう者こそ不正とされるべきだ。」
ヨブは本当に愛と正義のすばらしい信仰者だったのです。29章15節以下「私は見えない人の目となり、歩けない人の足となった。貧しい人々の父となり、私にかかわりのない訴訟にも尽力した。不正を行う者の牙を砕き、その歯にかかった人々を奪い返した。」31章16節以下「私が貧しい人々を失望させ、やもめが目を泣きつぶしても顧みず、食べ物を独り占めにし、みなしごを飢えさせたことは、決してない。いや、私は若いころから父となって彼らを育て、母の胎を出たときから、やもめたちを導く者であった。着る物もなく弱り果てている人や、体を覆う物もない貧しい人を、私が見過ごしにしたことは、決してない。」31章32節「見知らぬ人をさえ野宿させたことはない。我が家の扉はいつも旅人に開かれていた。」その通りなのですが、少々言い過ぎになります。31章35節以下「見よ、私はここに署名する。全能者よ、答えて下さい。私と争う者が書いた告訴状を、私はしかと肩に担い、冠のようにして頭に結び付けよう。私の歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう。」この個所は分かりにくいのですが、ヨブが自分の無実と潔白を確信してやまない姿勢が書かれているのでしょう。
この後、エリフという人が登場します。「エリフは怒った。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。」「神よりも自分の方が正しいと主張する」ことは、いくら立派なヨブでも行き過ぎで、自己義認の罪のように思えます。最後に神様が登場なさり、尊厳・威厳をもってヨブに語られます。40章2節以下「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責め立てる者よ、答えるがよい。」「お前に尋ねる。私に答えてみよ。お前は私が定めたことを否定し、自分を無罪とするために、私を有罪とさえするのか。」神様の登場により、誇り高きヨブは神様に降参し、悔い改めます。神様はヨブをお叱りになりましたが、基本的にはヨブの正しさを評価しておられたのです。神はヨブの三人の友人たちのことを怒っておられましたが、三人の友人のためのヨブの祈りを受け入れられます。神様はヨブを元の境遇に戻し、ヨブを以前にも増して祝福され、ヨブへの愛を示されました。ここまで読んで、ほっとします。
自己義認のヨブを赦した神様は、兄息子のことも愛し、兄息子の自己義認の罪をたしなめて諭します。「私の者は全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」神様は、一人が滅びることを何とかして食い止めたいと切望しておられるのですね。この神様の思いが、ヨブ記33章22節以下にも記されているのを発見しました。すばらしい御言葉です。自分の罪のために自業自得で滅びかかっている人が出て来ます。「魂は滅亡に、命はそれを奪う者に近づいてゆく。千人に一人でもこの人のために執り成し、その正しさを示すために遣わされる御使いがあり、彼を憐れんで『この人を免除し、滅亡に落とさないで下さい。代償を見つけて来ました』と言ってくれるなら、彼の肉は新しくされて、若者よりも健やかになるであろう。彼は神に祈って受け入れられ、喜びの叫びの内に御顔を仰ぎ、再び神はこの人を正しいと認められるであろう。彼は人々の前でたたえて歌うであろう。(この人は放蕩息子に似ています。)『私は罪を犯し、正しいことを曲げた。それは私のなすべきことではなかった(悔い改め)。しかし神は私の魂を滅亡から救い出された。私は命を得て光を仰ぐ』と。感銘深い御言葉と思います。「まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。その魂を滅亡から呼び戻し、命の光に輝かせて下さる。」放蕩息子の父親の心・姿そのものと感じます。
さて、父の願いは弟息子と兄息子の和解だと思います。本日の詩編133編1節を思い起こします。これも素晴らしい御言葉です。「見よ、兄弟が共に座っている。何という恵み、何という喜び。」三人で仲良く暮らすことが父の願いでしょう。父なる神様の願いも同じと思います。世界の全ての人々がイエス・キリストを救い主と信じ、自分の罪を悔い改め、父なる神様と和解する。そしてお互いも和解する。確かに争い、対立、分裂があります。正しい分裂さえあるでしょう。でも最後は、全人類がイエス・キリストを救い主と信じて、互いに和解する。神様はそれを目指して働いておられるのではないでしょうか。平和とは、時に戦い、争い、対立、分裂もあるが、最後に和解することではないかと思います。夢でしょうか。安易なことを言うなと叱られるでしょうか。身の周りの小さな争いも和解する。イスラエルとパレスティナも和解する。ロシアとウクライナも和解する。中国と台湾も和解する。私たちの全ての罪を背負って十字架で死んで、復活されたイエス様の十字架を仰ぐとき、真の和解こそ父なる神様の願い、放蕩息子のたとえのメッセージ。そう受け取りたくなるのです。アーメン。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
(説教)
先週はあまりにも有名な「放蕩息子のたとえ」の前半でした。今日は後半です。
最初の25節「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、『これはいったい何事か』と尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が子牛をほふられたのです。
兄はびっくりしたに違いありません。「あの勝手に出て行った、家出したわがまま者の弟。身勝手な奴だ。今更、どの面(つら)を下げて帰って来たのか。あんな奴は弟ではない」という気持ちだったと思うのです。その弟を、お父さんが、こともあろうに、大歓迎しているというのですから、兄は呆れかえり、はらわたが煮えくり返ったと思うのです。
28節「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし兄はかっかしており、父親のなだめの言葉を簡単には受け入れません。29節「しかし、兄は父親に言った。『このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子(実の弟について、愛のない呼び方ではあります)が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた羊を屠っておやりになる。』」兄の心は不平不満で一杯です。確かに兄も父親に愛されたいのですね。愛されているのですが、兄は弟が依怙贔屓されていると感じており、憤懣やるかたない気持ちなのです。そして弟を激しくねたんでいます。嫉妬しています。お父さん、なぜもっと僕を評価してくれないのです(評価されているのですが)。弟と自分を比べています。人と自分を比べることは、不幸の第一歩かもしれません。兄は自分が損をしているとの被害者意識に陥っています。不公平だと思い込んでいるのです。正直に生きる自分が馬鹿を見たと思い込んでいます。マルタとマリアの話のマリアに似ています。自分にも神様の愛は豊かに注がれているのに、それに気づいていないだけかもしれないのです。兄の怒りは危険です。父親がなだめなかったら、兄は弟に怒りをぶつけ、暴力を働いたかもしれません。この兄弟の関係は、創世記に出て来るカインとアベルの関係に似ています。兄カインは嫉妬に狂い、弟アベルを殺してしまったのです。ここでは、父親がそれを止める役割を果たしています。
父親は、答えます。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは、当たり前ではないか。」父親は兄息子をなだめたのです。「なだめた」という言葉は、直訳すると「傍らに招いた」です。私は少々驚いたのですが、元の言葉を調べると「パラカレオー」という言葉で、新約聖書にしばしば出て来る言葉です。多くの場合「慰める」と訳されます。例えばコリントの信徒への手紙(二)1章3節以下に、この言葉が何回も出て来ます。「私たちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かに下さる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」
父が兄息子をこのような慰めで慰めたと訳すことができますが、ここでは「なだめた」の方が適切な訳なのだと思います。強いて言えば、父は兄息子も父親の愛を求めて傷ついていることを察して、父親が兄息子をも十二分に愛していることを懇々と諭したという意味において、兄息子を慰めたことになると言えます。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。」「共にいる、共に生きている」ことこそ、最大の幸せです。「私のものは全部お前のものだ。」父親がけちけちして、兄息子には何も与えなかったなどということはないのです。兄息子は、十二分に愛されています。「だが」と父親は言います。「だが、君の弟は不幸だったのだ。家出して遠くに行って、自由気ままにやりたい放題やった彼をうらやましく思うのか。勝手気ままに無責任に生きた結果、彼は滅びかかり、死にかかったのだ。彼は自由だったのではなく、悪魔の奴隷になっていたのだ。彼は不幸になったのだ。それに気づいて、謝罪して帰って来たのだ。彼は初めて、本当の平安を知ったのだ。彼は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに、見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
これはイエス様が、マタイ福音書18章14節でおっしゃることと一致しますね。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父に御心ではない。」先週のエゼキエル書18章にもありました。「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私(神様)は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ、と主なる神は言われる。」弟息子は、勝手気ままをしていたとき、実は悪魔の奴隷になり、滅亡に向かって突っ走っていたのです。そこには罪深い楽しみはあったでしょうが、真の平安はありませんでした。先週ご紹介したアゥグスティヌスという人の有名な言葉があります。「神よ、あなたは私たち人間を神に向かって造られました。ですので、私たち人間はあなた(神)に立ち帰るまで、真の平安を得ることはできません。」
父親の諭しの言葉には、さすが年長者の深みと風格があるという印象を受けます。
兄の言葉自体は、兄なりの正論です。「お父さん、あなたはあの弟に甘すぎる。彼をもっと厳しく叱ってやるべきだ。」兄は怒りから、彼なりの正論を述べて止みません。
ですが敢えて言えば、彼は自己義認の罪を犯していると言えます。私たちは皆、他人を批判する時、自己義認に陥っています。自己義認とは、自分で自分を正義と認める、自分で自分を正義と主張する、自分を知らず知らずのうちに神(絶対者)に祭り上げる罪が、自己義認の罪です。少し大げさな言葉を使うなら、自己神格化です。ある説教者は本日の聖書の個所での説教に「優等生の罪」という題をつけておられました。「優等生の罪。」兄息子の罪は、優等生の罪だというのです。優等生の罪は、自分はよくできると思い、他の人々を心の中で密かに見下す傲慢の罪ですね。謙遜でないのです。優等生の罪は、自己義認の罪です。
この自己義認の罪に気づかせる聖書の御言葉は、いくつかありますね。ヤコブの手紙1章19節「誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」マタイ福音書7章1節以下。「人を裁くな。あなた方も裁かれないようになるためである。あなた方は、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」ヨハネ福音書8章7節「イエスは身を起こして言われた。『あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』」これを聞くと、誰も罪を犯した女性に石を投げなかったのですね。
私たちも時々、兄のようになるので、ヨハネの手紙(一)4章19節以下の御言葉に耳を傾けることが有益と思います。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛して下さったからです。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見ない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」
旧約聖書にヨブ記があります。非常に正しい人ヨブに、次々と試練がふりかかる記録です。試練に雄々しく耐えるヨブに、私は尊敬の念を覚えます。ヨブの友人たちが来て、初めはヨブに深く同情していますが、次第にヨブを責めるようになります。「あなたが何か罪を犯したから、この試練が降りかかったのではないか。」ヨブはきっぱりと否定します。「私は何も罪を犯していない。私の罪のために、これらの苦難が降りかかったではない。」ヨブは立派な人なのですが、次第に言葉が強くなります。ヨブ記27章2節以下のヨブの主張「私の権利を取り上げる神にかけて、私の魂を苦しめる全能者にかけて私は誓う。~この唇は決して不正を語らず、この舌は決して欺きを言わない、と。断じて、あなたたち(友人たち)を正しいとはしない。死に至るまで、私は潔白を主張する。私は自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。私に敵対する者こそ罪に定められ、私に逆らう者こそ不正とされるべきだ。」
ヨブは本当に愛と正義のすばらしい信仰者だったのです。29章15節以下「私は見えない人の目となり、歩けない人の足となった。貧しい人々の父となり、私にかかわりのない訴訟にも尽力した。不正を行う者の牙を砕き、その歯にかかった人々を奪い返した。」31章16節以下「私が貧しい人々を失望させ、やもめが目を泣きつぶしても顧みず、食べ物を独り占めにし、みなしごを飢えさせたことは、決してない。いや、私は若いころから父となって彼らを育て、母の胎を出たときから、やもめたちを導く者であった。着る物もなく弱り果てている人や、体を覆う物もない貧しい人を、私が見過ごしにしたことは、決してない。」31章32節「見知らぬ人をさえ野宿させたことはない。我が家の扉はいつも旅人に開かれていた。」その通りなのですが、少々言い過ぎになります。31章35節以下「見よ、私はここに署名する。全能者よ、答えて下さい。私と争う者が書いた告訴状を、私はしかと肩に担い、冠のようにして頭に結び付けよう。私の歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう。」この個所は分かりにくいのですが、ヨブが自分の無実と潔白を確信してやまない姿勢が書かれているのでしょう。
この後、エリフという人が登場します。「エリフは怒った。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。」「神よりも自分の方が正しいと主張する」ことは、いくら立派なヨブでも行き過ぎで、自己義認の罪のように思えます。最後に神様が登場なさり、尊厳・威厳をもってヨブに語られます。40章2節以下「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責め立てる者よ、答えるがよい。」「お前に尋ねる。私に答えてみよ。お前は私が定めたことを否定し、自分を無罪とするために、私を有罪とさえするのか。」神様の登場により、誇り高きヨブは神様に降参し、悔い改めます。神様はヨブをお叱りになりましたが、基本的にはヨブの正しさを評価しておられたのです。神はヨブの三人の友人たちのことを怒っておられましたが、三人の友人のためのヨブの祈りを受け入れられます。神様はヨブを元の境遇に戻し、ヨブを以前にも増して祝福され、ヨブへの愛を示されました。ここまで読んで、ほっとします。
自己義認のヨブを赦した神様は、兄息子のことも愛し、兄息子の自己義認の罪をたしなめて諭します。「私の者は全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」神様は、一人が滅びることを何とかして食い止めたいと切望しておられるのですね。この神様の思いが、ヨブ記33章22節以下にも記されているのを発見しました。すばらしい御言葉です。自分の罪のために自業自得で滅びかかっている人が出て来ます。「魂は滅亡に、命はそれを奪う者に近づいてゆく。千人に一人でもこの人のために執り成し、その正しさを示すために遣わされる御使いがあり、彼を憐れんで『この人を免除し、滅亡に落とさないで下さい。代償を見つけて来ました』と言ってくれるなら、彼の肉は新しくされて、若者よりも健やかになるであろう。彼は神に祈って受け入れられ、喜びの叫びの内に御顔を仰ぎ、再び神はこの人を正しいと認められるであろう。彼は人々の前でたたえて歌うであろう。(この人は放蕩息子に似ています。)『私は罪を犯し、正しいことを曲げた。それは私のなすべきことではなかった(悔い改め)。しかし神は私の魂を滅亡から救い出された。私は命を得て光を仰ぐ』と。感銘深い御言葉と思います。「まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。その魂を滅亡から呼び戻し、命の光に輝かせて下さる。」放蕩息子の父親の心・姿そのものと感じます。
さて、父の願いは弟息子と兄息子の和解だと思います。本日の詩編133編1節を思い起こします。これも素晴らしい御言葉です。「見よ、兄弟が共に座っている。何という恵み、何という喜び。」三人で仲良く暮らすことが父の願いでしょう。父なる神様の願いも同じと思います。世界の全ての人々がイエス・キリストを救い主と信じ、自分の罪を悔い改め、父なる神様と和解する。そしてお互いも和解する。確かに争い、対立、分裂があります。正しい分裂さえあるでしょう。でも最後は、全人類がイエス・キリストを救い主と信じて、互いに和解する。神様はそれを目指して働いておられるのではないでしょうか。平和とは、時に戦い、争い、対立、分裂もあるが、最後に和解することではないかと思います。夢でしょうか。安易なことを言うなと叱られるでしょうか。身の周りの小さな争いも和解する。イスラエルとパレスティナも和解する。ロシアとウクライナも和解する。中国と台湾も和解する。私たちの全ての罪を背負って十字架で死んで、復活されたイエス様の十字架を仰ぐとき、真の和解こそ父なる神様の願い、放蕩息子のたとえのメッセージ。そう受け取りたくなるのです。アーメン。