
2026-01-10 22:51:47(土)
「キリストの再臨に備えて生きる」 2026年1月11日(日)降誕節3第主日
(ルカによる福音書12:35~48)
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
(説教)本日は、降誕節第3主日礼拝。説教題は「キリストの再臨に備えて生きる」です。小見出しとしては「目を覚ましている僕」です。
最初の35節から、イエス様のお言葉「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしなさい。」これはイエス・キリストが地上にもう一度おいでになって、神の国が完成され、世界の歴史が終わるときのことを述べています。腰に帯を締めるとは、長い上着は労働や徒歩に適さないので、服の下の方を上に引き上げ、帯で締めることで、主人に従う用意が準備万端整っていることを表します。ともし火をともしているということは、主人の帰りが夜になりそうだということを暗示しています。
主人が戸をたたくと語られますが、この言葉は、ヨハネの黙示録3章20節の、イエス様の御言葉を思い出させます。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。」これは、東久留米教会の初代牧師・浅野悦昭先生の愛唱聖句の一つと聞いています。浅野先生のお話によると、その戸口は、私たちの心の戸口ですが、特徴は内側にしかドアノブがついていないそうです。イエス様は、外から「開けてほしい」とノックしておられるが、外にはノブがないので、イエス様が開けることはできない。私たちの側にのみ、ノブがある。開けてイエス様を迎え入れるかどうかは、私たち次第だ。イエス様は私たちを聖なる愛で愛しておられるので、私たちがドアを開けることを、切に願っておられる。しかし強制すると愛ではなくなるので、イエス様は強制はなさらない。イエス様は、辛抱強く私たちの心のドアを、外からノックし続けておられる。その通りだと思います。
但し、本日の個所はやや違うメッセージで、イエス様がもう一度天から地上に来られる再臨の時に、すぐに戸を開けようと待っている人のようにしなさい、と私たちに呼びかけられています。その時に、最後の審判が行われるのですね。37節「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」
再臨なさるときイエス様は、よい僕たちを褒め、イエス様ご自身が帯を締めて、僕たちを食事の席に着かれ、もてなして給仕して下さるというのです。本当に恐れ多い恵みです。この御言葉は、私たちに聖餐式を連想させるのではないでしょうか。聖餐式で私たちは、聖なるパンと聖なるぶどう液を食べ飲みします。聖餐式は、直接には人間の牧師が司式させていただきますが、真の司式者は復活されたイエス・キリストです。私たちのために十字架で命を献げて、私たちに最大の愛の奉仕をして下さったイエス様が、目には見えなくても、聖餐式の真の司式者です。洗礼式の真の司式者でもあります。聖餐式の真の司式者として私たちを給仕して下さっているイエス様が、再臨なさった時も、よき僕たちをねぎらって、愛を込めて給仕して下さいます。
38節「主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。」イエス様は、ご自分を泥棒にたとえておられますね。40節「あなた方も用意していなさい。人の子(イエス様)は思いがけない時に来るからである。」イエス・キリストがいつおいでになるか、私たちには誰にも分からないのです。今日かもしれないし、数千年先かもしれません。予知不可能です。私たちは油断したり、気を緩めることなく、イエス様が今日再臨されても、遠い将来再臨されるにしても。いつ再臨されてよいように、礼拝しながらお待ちすることが大切と思います。本日の前半でイエス様は、「目を覚ましていなさい」と二回繰り返しておられます。
先週の月曜日に私は、東京神学大学の「教職セミナー」に一日のみ参加致しました。東京神学大学の卒業生以外の牧師方も参加できる会です。開会礼拝では、学長先生が説教されました。聖書は、コロサイの信徒への手紙4章2節以下です。イエス・キリストの使徒パウロが書いた手紙です。「目を覚まして感謝をこめ、ひたすら祈りなさい。同時に、私たちのためにも祈って下さい。神が御言葉のために門を開いて下さり、私たちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、私は牢につながれています。私がしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈って下さい。時をよく用い、外部の人に対して賢く振舞いなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」
ここでも「目を覚まして」と、語られました。「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」そこで学長が語られたことは、やはり祈りの大切さだったと思います。「目を覚まして」とは、「この世の中に埋没しないで」ということと思います。「ありのままの自分の現実を見つめれば、小さく罪深い自分こそが、自分のありのままの姿と分かる。自分の小ささを見れば、神の恵みなしに生きられないことが分かる。祈りなしには、やっていけないことが分かる。こうして、どうしても祈るように押し出される。祈らないで、やっていける。自分の力でやっていける。そう思う時、私たちは祈らなくなる。神より自分の力に頼ろうとする。しかし、よく見れば、自分のありのままの姿は小さく、罪深い者だと分かる。従って、どうしても祈るようになる。」大体このようなお話をされ、セミナー全体のテーマも、「祈り」だったので、私ももっと聖書の中の祈りを読み、ますます信仰の目を覚まして、祈る者になる必要があると励まされて帰って来ました。パウロは、「私は牢にいるが、私が伝道できるように祈って下さい」と言っています。パウロほどの信仰者が、他のクリスチャンに「私のために祈って下さい」と頼むのですから、私たちはなおさら、「私のために祈って下さい」と頼み合う必要がありますね。パウロは、「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい」とも述べています。私たちも今日も与えられている貴重な時を賢く用いて、イエス・キリストを宣べ伝えましょう。外部の人に対して賢く振舞うとは何を意味するのか、答えは一つではないと思いますが、まだキリストを信じていない人々に、キリストを伝えることももちろん、有力な答えだと思います。パウロは「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」とも勧めていて、私も気をつけようと思います。
私の聖書の本日の個所のページに、私の書き込みがあり、マルティン・ルターの言葉として、こう書いてあります。「教会の祈りが、世界の滅びを防ぐ。」私がどこかで読んだルターの言葉でしょう。「教会が(私たちクリスチャン)が信仰の目を覚まして、執り成しの祈りを続けることが、世界の滅びを防ぐ。」そうだと思います。プーチンも習近平もトランプも、「自分の国ファースト」で、世界の平和を本当に目指していると思えません。私たちの祈りで、少しでも世界を平和と愛の方向にもっていく。それくらいの使命感をもって一人一人が祈っていってよいと思います。今の世界のリーダーたちは、核兵器廃絶に後ろ向きです。キリスト教と直接関係ないかもしれませんが、世界の終末時計というものがあって、人類滅亡まであと89秒と、これまでで最短になっています。キリストの再臨以外の核戦争、温暖化等によって人類が自分を滅ぼさないように、世界が少しでもよくなるように、熱心に祈りたいものです。「教会の祈りが、世界の滅びを防ぐ。」励まされる言葉です。
本日のルカの後半も見ます。そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。」
ペトロが率先してイエス様に質問していますが、やはりペトロは十二弟子のリーダー格なのですね。イエス様のお答えは、教会の責任者に向けられた答えと思います。神父、牧師、宣教師、役員、教会学校のリーダーの方々が対象でしょう。ここにで忠実で賢い管理人と、その反対で、不忠実で悪い管理人が登場しています。もちろん私たちは、イエス様がいつ再臨しても「忠実で賢い、良い管理人」と言っていただけるように、励みたいのです。私が神学生時代の1993年夏に、静岡草深教会という教会に40日間弱、夏期伝道実習に参りました。主任牧師の辻宣道先生の教えの一つは、「小さなことに忠実であれ」でした。今日の御言葉を読み、思い出しました。「小さなことに忠実でありたい」と思いつつ、100点にはできていないとの反省、悔い改めさせられます。
48節後半「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。」神様から多くの恵みや賜物を預けられた人は、恵みに感謝して多く応答することが求められ、多くの奉仕をよく行った人には、恵みとして更に多くの働きが求められ、期待されるということでしょう。単にがんばれというわけではなく、神様が必ず助けて下さる保証があります。ですが、どうしても重荷の場合もあるので、その時は断ってもよいのだと思います。奉仕は本来、感謝して喜んで行わせていただくことが原則と思います。ガラテヤの信徒への手紙6章2節に、「互いに重荷を担いなさい」と書かれています。
イエス様の再臨について、テサロニケの信徒への手紙(一)5章4節以下に、励まされる御言葉が書かれています(読む)。18世紀のドイツの著名な牧師ブルームハルトは、イエス様の再臨に備えて馬車を用意していたと言う。私たちには馬車は用意できないが、大事なのは心構え。私たちは、再臨の前に地上の人生を終えてイエス様に会って、最後の審判を受けるか、再臨まで生き残って再臨のイエス様に出会うか、どちらかです。全ての人に最後の審判があります。しかしイエス様を救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて洗礼を受ければ、最後の審判で無罪の判決を受けます。私たちは全ての方がイエス様を救い主と信じ告白して、洗礼を受け、救われるように切望します。聖書全巻の締めくくり。イエス様が言われます。「然り、私はすぐに来る。」キリストの花嫁である教会の応答が響きます。「アーメン。主イエスよ、来て下さい。」コリントの信徒への手紙(一)16章でパウロが言います。「マラナタ」(主よ、来て下さい)。こう祈りながら、信仰生活と日常生活を両方とも、責任をもって営んで参りたいと思います。アーメン。
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
(説教)本日は、降誕節第3主日礼拝。説教題は「キリストの再臨に備えて生きる」です。小見出しとしては「目を覚ましている僕」です。
最初の35節から、イエス様のお言葉「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしなさい。」これはイエス・キリストが地上にもう一度おいでになって、神の国が完成され、世界の歴史が終わるときのことを述べています。腰に帯を締めるとは、長い上着は労働や徒歩に適さないので、服の下の方を上に引き上げ、帯で締めることで、主人に従う用意が準備万端整っていることを表します。ともし火をともしているということは、主人の帰りが夜になりそうだということを暗示しています。
主人が戸をたたくと語られますが、この言葉は、ヨハネの黙示録3章20節の、イエス様の御言葉を思い出させます。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。」これは、東久留米教会の初代牧師・浅野悦昭先生の愛唱聖句の一つと聞いています。浅野先生のお話によると、その戸口は、私たちの心の戸口ですが、特徴は内側にしかドアノブがついていないそうです。イエス様は、外から「開けてほしい」とノックしておられるが、外にはノブがないので、イエス様が開けることはできない。私たちの側にのみ、ノブがある。開けてイエス様を迎え入れるかどうかは、私たち次第だ。イエス様は私たちを聖なる愛で愛しておられるので、私たちがドアを開けることを、切に願っておられる。しかし強制すると愛ではなくなるので、イエス様は強制はなさらない。イエス様は、辛抱強く私たちの心のドアを、外からノックし続けておられる。その通りだと思います。
但し、本日の個所はやや違うメッセージで、イエス様がもう一度天から地上に来られる再臨の時に、すぐに戸を開けようと待っている人のようにしなさい、と私たちに呼びかけられています。その時に、最後の審判が行われるのですね。37節「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」
再臨なさるときイエス様は、よい僕たちを褒め、イエス様ご自身が帯を締めて、僕たちを食事の席に着かれ、もてなして給仕して下さるというのです。本当に恐れ多い恵みです。この御言葉は、私たちに聖餐式を連想させるのではないでしょうか。聖餐式で私たちは、聖なるパンと聖なるぶどう液を食べ飲みします。聖餐式は、直接には人間の牧師が司式させていただきますが、真の司式者は復活されたイエス・キリストです。私たちのために十字架で命を献げて、私たちに最大の愛の奉仕をして下さったイエス様が、目には見えなくても、聖餐式の真の司式者です。洗礼式の真の司式者でもあります。聖餐式の真の司式者として私たちを給仕して下さっているイエス様が、再臨なさった時も、よき僕たちをねぎらって、愛を込めて給仕して下さいます。
38節「主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。」イエス様は、ご自分を泥棒にたとえておられますね。40節「あなた方も用意していなさい。人の子(イエス様)は思いがけない時に来るからである。」イエス・キリストがいつおいでになるか、私たちには誰にも分からないのです。今日かもしれないし、数千年先かもしれません。予知不可能です。私たちは油断したり、気を緩めることなく、イエス様が今日再臨されても、遠い将来再臨されるにしても。いつ再臨されてよいように、礼拝しながらお待ちすることが大切と思います。本日の前半でイエス様は、「目を覚ましていなさい」と二回繰り返しておられます。
先週の月曜日に私は、東京神学大学の「教職セミナー」に一日のみ参加致しました。東京神学大学の卒業生以外の牧師方も参加できる会です。開会礼拝では、学長先生が説教されました。聖書は、コロサイの信徒への手紙4章2節以下です。イエス・キリストの使徒パウロが書いた手紙です。「目を覚まして感謝をこめ、ひたすら祈りなさい。同時に、私たちのためにも祈って下さい。神が御言葉のために門を開いて下さり、私たちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、私は牢につながれています。私がしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈って下さい。時をよく用い、外部の人に対して賢く振舞いなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」
ここでも「目を覚まして」と、語られました。「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」そこで学長が語られたことは、やはり祈りの大切さだったと思います。「目を覚まして」とは、「この世の中に埋没しないで」ということと思います。「ありのままの自分の現実を見つめれば、小さく罪深い自分こそが、自分のありのままの姿と分かる。自分の小ささを見れば、神の恵みなしに生きられないことが分かる。祈りなしには、やっていけないことが分かる。こうして、どうしても祈るように押し出される。祈らないで、やっていける。自分の力でやっていける。そう思う時、私たちは祈らなくなる。神より自分の力に頼ろうとする。しかし、よく見れば、自分のありのままの姿は小さく、罪深い者だと分かる。従って、どうしても祈るようになる。」大体このようなお話をされ、セミナー全体のテーマも、「祈り」だったので、私ももっと聖書の中の祈りを読み、ますます信仰の目を覚まして、祈る者になる必要があると励まされて帰って来ました。パウロは、「私は牢にいるが、私が伝道できるように祈って下さい」と言っています。パウロほどの信仰者が、他のクリスチャンに「私のために祈って下さい」と頼むのですから、私たちはなおさら、「私のために祈って下さい」と頼み合う必要がありますね。パウロは、「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい」とも述べています。私たちも今日も与えられている貴重な時を賢く用いて、イエス・キリストを宣べ伝えましょう。外部の人に対して賢く振舞うとは何を意味するのか、答えは一つではないと思いますが、まだキリストを信じていない人々に、キリストを伝えることももちろん、有力な答えだと思います。パウロは「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」とも勧めていて、私も気をつけようと思います。
私の聖書の本日の個所のページに、私の書き込みがあり、マルティン・ルターの言葉として、こう書いてあります。「教会の祈りが、世界の滅びを防ぐ。」私がどこかで読んだルターの言葉でしょう。「教会が(私たちクリスチャン)が信仰の目を覚まして、執り成しの祈りを続けることが、世界の滅びを防ぐ。」そうだと思います。プーチンも習近平もトランプも、「自分の国ファースト」で、世界の平和を本当に目指していると思えません。私たちの祈りで、少しでも世界を平和と愛の方向にもっていく。それくらいの使命感をもって一人一人が祈っていってよいと思います。今の世界のリーダーたちは、核兵器廃絶に後ろ向きです。キリスト教と直接関係ないかもしれませんが、世界の終末時計というものがあって、人類滅亡まであと89秒と、これまでで最短になっています。キリストの再臨以外の核戦争、温暖化等によって人類が自分を滅ぼさないように、世界が少しでもよくなるように、熱心に祈りたいものです。「教会の祈りが、世界の滅びを防ぐ。」励まされる言葉です。
本日のルカの後半も見ます。そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。」
ペトロが率先してイエス様に質問していますが、やはりペトロは十二弟子のリーダー格なのですね。イエス様のお答えは、教会の責任者に向けられた答えと思います。神父、牧師、宣教師、役員、教会学校のリーダーの方々が対象でしょう。ここにで忠実で賢い管理人と、その反対で、不忠実で悪い管理人が登場しています。もちろん私たちは、イエス様がいつ再臨しても「忠実で賢い、良い管理人」と言っていただけるように、励みたいのです。私が神学生時代の1993年夏に、静岡草深教会という教会に40日間弱、夏期伝道実習に参りました。主任牧師の辻宣道先生の教えの一つは、「小さなことに忠実であれ」でした。今日の御言葉を読み、思い出しました。「小さなことに忠実でありたい」と思いつつ、100点にはできていないとの反省、悔い改めさせられます。
48節後半「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。」神様から多くの恵みや賜物を預けられた人は、恵みに感謝して多く応答することが求められ、多くの奉仕をよく行った人には、恵みとして更に多くの働きが求められ、期待されるということでしょう。単にがんばれというわけではなく、神様が必ず助けて下さる保証があります。ですが、どうしても重荷の場合もあるので、その時は断ってもよいのだと思います。奉仕は本来、感謝して喜んで行わせていただくことが原則と思います。ガラテヤの信徒への手紙6章2節に、「互いに重荷を担いなさい」と書かれています。
イエス様の再臨について、テサロニケの信徒への手紙(一)5章4節以下に、励まされる御言葉が書かれています(読む)。18世紀のドイツの著名な牧師ブルームハルトは、イエス様の再臨に備えて馬車を用意していたと言う。私たちには馬車は用意できないが、大事なのは心構え。私たちは、再臨の前に地上の人生を終えてイエス様に会って、最後の審判を受けるか、再臨まで生き残って再臨のイエス様に出会うか、どちらかです。全ての人に最後の審判があります。しかしイエス様を救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて洗礼を受ければ、最後の審判で無罪の判決を受けます。私たちは全ての方がイエス様を救い主と信じ告白して、洗礼を受け、救われるように切望します。聖書全巻の締めくくり。イエス様が言われます。「然り、私はすぐに来る。」キリストの花嫁である教会の応答が響きます。「アーメン。主イエスよ、来て下さい。」コリントの信徒への手紙(一)16章でパウロが言います。「マラナタ」(主よ、来て下さい)。こう祈りながら、信仰生活と日常生活を両方とも、責任をもって営んで参りたいと思います。アーメン。
2026-01-03 18:58:44(土)
「十二才のイエス様の信仰」 2026年1月4日(日)降誕節2第主日公同礼拝
(ルカによる福音書2:41~52)
さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
(説教)
本日は、降誕節第2主日礼拝。説教題は「十二才のイエス様の信仰」です。小見出しとしては「神殿での少年イエス」です。
新約聖書の中で、イエス様の少年時代の出来事が記されているのは、この一か所のみです。最初の41節から。「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。」旧約聖書の出エジプト記23章14節以下にこうあります。「あなたは年に三度、私(神様)のために祭りを行わねばならない。~年に三度、男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない。」この三度の祭りとは、過越祭(除酵祭を含む)・七週祭(ペンテコステ)、仮庵祭です。しかしイエス様の時代、多くのユダヤ人(イスラエル人)は都エルサレムから遠くに住んでいたので、毎年三回もエルサレムに行くことは無理でした。それでこの三つのどれかに、毎年参加していたようです。女性はこれらの祭りに参加することはできたが、義務ではなかったそうです。当時のイスラエルは、やはり非常に男性中心の社会だったのです。
イエス様が十二才になったときも、両親マリアとヨセフは、旧約聖書の教えに従って過越祭に合わせて、エルサレムに上りました。ユダヤ人は十二才で成人するそうです。十二才で「律法の子」と呼ばれるようになり、大人になったのだから律法(その代表は十戒)を守りなさいと教えられていたそうです。エルサレムに上る時、多くの場合、村ごとに人々が一体となって進んだそうです。その時、詩編121編等を歌いながら歩いたそうです。詩編121編は「都に上る歌」ですから。ナザレからエルサレムまで直線距離で約100キロ。当時の旅は一日6時間15キロ歩いたそうなので片道一週間だったと思います。
43~45節「祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。」エルサレムへの生き帰りは、男女別のグループに分かれて歩いたそうです。マリアはイエス様がヨセフと一緒にいると思い、ヨセフはイエス様がマリアと一緒にいると思って安心していたと思われます。ところがそうでなかったので、真っ青になりました。
46節「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。」両親は三日間わが子イエス様の姿を見失っていましたが、三日後に発見しました。これはイエス様の十字架の死と、三日目の復活を暗示しているように思えます。12才のイエス様は、エルサレムの壮麗な神殿の境内で、大人の律法学者たちの話を聴き、質問をしておられました。どんな質問をなさったのか、聞いてみたいですね。イエス様は大人の律法学者以上に、旧約聖書を深く本質的に理解していたのでしょうから、モーセの十戒等について本質を衝く、鋭い質問をしておられたのではないかと思います。聞いていた大人たちは、イエス様の賢い受け答えに驚いていました。「神童のようだ」と感じて驚いていたのだと思います。それをようやくマリアとヨセフが見つけます。「まさか神殿にいたとは」と思ったでしょう。
48~49節「両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」前にも申しましたが、この「当たり前」という言葉は、元のギリシア語で「デイ」という短い言葉です。必然、神の必然を意味します。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」私がこの神殿いるのは必然的、当たり前のことだ、と言っています。神様を「自分の父」と呼んでいますから、ご自分はその子、神の子だと宣言しています。実に大胆な宣言ですが、イエス様にとっては当たり前です。「私はヨセフお父さんの子、マリアお母さんの子である前に、神の子ですよ」と言っているのです。「こんな当たり前のことを、お父さん、お母さんは知らなかったのですか。知っておられなかったとは驚きです。当然分かっておられると思っていました」と言っておられるように見えます。
イエス様が父なる神様の聖霊が満ちる神殿におられることは、旧約聖書で言えばサムエル記・上3章で、少年サムエル(生涯を通して神の忠実な僕)がシロという場所にあった「主の家、神の家」(神殿の前身のような神がおられる場所)で神に仕えていたのと同じように、全く自然で当たり前のことでした。サムエルは、イエス様の時代より約1000年前の人です。これは有名な場面です。神様が来てそこに立たれ、サムエルを四度呼ばれました。少年サムエルは答えます。「どうぞお話ください。僕(しもべ)は聞いております。」同じように12才のイエス様も神殿で、「どうぞお話下さい。僕は聞いております」の姿勢で、父なる神様の御心を懸命に聴き取ろうとしておられたと思うのです。
50節「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。」マリアもヨセフも、イエス様がマリアの処女妊娠で生まれたことを知っています。そしてイエス様が生まれたとき、羊飼いたちが来て、彼らが天使のメッセージ「あなた方は布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである」を聞いた、と言ったことも経験しています。この子は神様の特別の子で、普通の子ではないことも知っていました。しかしそれから12年間があまり変わったこともなく過ぎて、12年前のことを忘れかけていたかもしれません。しかし今回の出来事で、マリアとヨセフの心には、12年前の不思議な出来事が思い出され、「この子は、普通の子ではない」との思いが甦ったのではないでしょうか。
51節「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった。」少年イエス様は、モーセの十戒の第五の戒めにある通り「あなたの父母を敬え」の教えを実行して、暮されたのだと思います。「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」ある英語の訳を見ると、マリアはこれらのことを treasured したと訳されています。Treasure は宝ですから、今回の出来事を心の中で宝物のように大切に温めて思い巡らしたという意味になりますね。これはとても素敵な訳です。52節「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」
先程の「デイ」(必然)という言葉を考えるなら、この言葉は他の箇所にも出てきます。そしてイエス様が神殿におられることも必然ですし、さらには私たちの罪の責任を全て背負うために十字架に架かることが「デイ」、つまりイエス様にとって必然だということが、次第に明らかになります。イエス様は、マリアさんがお腹を痛めて産んだわが子ですが、同時にマリアの子であってそれだけではない、神の子であることが優先される。そのような使命を持った子なのです。マリアはこの後も、イエス様の活動をなかなか十分に理解できません。しかしイエス様の十字架の足元に立ち、イエス様の復活後には、すべてをはっきり理解したものと思います。イエス様は母マリアを愛しておられますが、親子の情よりも、父なる神様に従うことを優先する生き方をなさいます。母マリアも、愛するわが子を、父なる神様に献げる、信頼して委ねる生き方へと導かれました。そのマリアの信仰は、イエス様の十字架の死と言う耐え難い苦難を通りましたが、三日目のイエス様の復活によって報われました。たとえようもない大きな苦難を通りましたが、マリアの生涯が父なる神様に裏切られる生涯とはならず、父なる神様に報われる生涯となりました。イエス様の復活によってです。私たちもほっとしますね。
マリアに似た経験をした人として、旧約聖書のアブラハムがいます。創世記22章に、アブラハムが、神様の約束によって生まれた息子イサクを神様に献げる場面があります。神がアブラハムに言われます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物として献げなさい。」アブラハムはイサクを連れて、翌朝出発します。神に命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に乗せます。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を持ち、息子を屠ろうとします。刃物で刺して神に献げようとしたのです。すると天から主の御使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけ、彼が「はい」と答えると御使いが言います。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。」アブラハムはこうして、すんでのところでイサクを屠らないで済みました。しかしアブラハムはそこまでしたのですから、事実上、イサクを神に献げたのと同じです。同じように、マリアもわが子イエス様を父なる神様に献げたのです。アブラハムよりもっと献げました。イサクは死ななかったけれども、イエス様は十字架で本当に死なれたからです。アブラハムの信仰以上に、 マリアさんの信仰は深く、マリアさんはアブラハム以上に、神様に従ったと思うのです。マリアさんは、イエス様の十字架上での死という想像もできない試練を受けましたが、幸い父なる神様は、イエス様を三日目に復活させて下さいました。
父なる神様にとっても、独り子イエス様の十字架の死は、耐えがたく辛いことであったと思います。父なる神様もその悲痛に耐えて下さいました。私たちの罪を赦し、私たちに永遠の命を与えるためです。私たちはイエス様の十字架上の死という犠牲のお陰で、全ての罪を赦され、永遠の命をいただきました。大きな感謝です。そこで私たちもマリアさんを信仰の模範と見て、父なる神様に従ってゆきます。共に礼拝を献げながら、各々の仕方で、父なる神様に従う人生を歩みきって参りましょう。アーメン。
さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
(説教)
本日は、降誕節第2主日礼拝。説教題は「十二才のイエス様の信仰」です。小見出しとしては「神殿での少年イエス」です。
新約聖書の中で、イエス様の少年時代の出来事が記されているのは、この一か所のみです。最初の41節から。「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。」旧約聖書の出エジプト記23章14節以下にこうあります。「あなたは年に三度、私(神様)のために祭りを行わねばならない。~年に三度、男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない。」この三度の祭りとは、過越祭(除酵祭を含む)・七週祭(ペンテコステ)、仮庵祭です。しかしイエス様の時代、多くのユダヤ人(イスラエル人)は都エルサレムから遠くに住んでいたので、毎年三回もエルサレムに行くことは無理でした。それでこの三つのどれかに、毎年参加していたようです。女性はこれらの祭りに参加することはできたが、義務ではなかったそうです。当時のイスラエルは、やはり非常に男性中心の社会だったのです。
イエス様が十二才になったときも、両親マリアとヨセフは、旧約聖書の教えに従って過越祭に合わせて、エルサレムに上りました。ユダヤ人は十二才で成人するそうです。十二才で「律法の子」と呼ばれるようになり、大人になったのだから律法(その代表は十戒)を守りなさいと教えられていたそうです。エルサレムに上る時、多くの場合、村ごとに人々が一体となって進んだそうです。その時、詩編121編等を歌いながら歩いたそうです。詩編121編は「都に上る歌」ですから。ナザレからエルサレムまで直線距離で約100キロ。当時の旅は一日6時間15キロ歩いたそうなので片道一週間だったと思います。
43~45節「祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。」エルサレムへの生き帰りは、男女別のグループに分かれて歩いたそうです。マリアはイエス様がヨセフと一緒にいると思い、ヨセフはイエス様がマリアと一緒にいると思って安心していたと思われます。ところがそうでなかったので、真っ青になりました。
46節「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。」両親は三日間わが子イエス様の姿を見失っていましたが、三日後に発見しました。これはイエス様の十字架の死と、三日目の復活を暗示しているように思えます。12才のイエス様は、エルサレムの壮麗な神殿の境内で、大人の律法学者たちの話を聴き、質問をしておられました。どんな質問をなさったのか、聞いてみたいですね。イエス様は大人の律法学者以上に、旧約聖書を深く本質的に理解していたのでしょうから、モーセの十戒等について本質を衝く、鋭い質問をしておられたのではないかと思います。聞いていた大人たちは、イエス様の賢い受け答えに驚いていました。「神童のようだ」と感じて驚いていたのだと思います。それをようやくマリアとヨセフが見つけます。「まさか神殿にいたとは」と思ったでしょう。
48~49節「両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」前にも申しましたが、この「当たり前」という言葉は、元のギリシア語で「デイ」という短い言葉です。必然、神の必然を意味します。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」私がこの神殿いるのは必然的、当たり前のことだ、と言っています。神様を「自分の父」と呼んでいますから、ご自分はその子、神の子だと宣言しています。実に大胆な宣言ですが、イエス様にとっては当たり前です。「私はヨセフお父さんの子、マリアお母さんの子である前に、神の子ですよ」と言っているのです。「こんな当たり前のことを、お父さん、お母さんは知らなかったのですか。知っておられなかったとは驚きです。当然分かっておられると思っていました」と言っておられるように見えます。
イエス様が父なる神様の聖霊が満ちる神殿におられることは、旧約聖書で言えばサムエル記・上3章で、少年サムエル(生涯を通して神の忠実な僕)がシロという場所にあった「主の家、神の家」(神殿の前身のような神がおられる場所)で神に仕えていたのと同じように、全く自然で当たり前のことでした。サムエルは、イエス様の時代より約1000年前の人です。これは有名な場面です。神様が来てそこに立たれ、サムエルを四度呼ばれました。少年サムエルは答えます。「どうぞお話ください。僕(しもべ)は聞いております。」同じように12才のイエス様も神殿で、「どうぞお話下さい。僕は聞いております」の姿勢で、父なる神様の御心を懸命に聴き取ろうとしておられたと思うのです。
50節「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。」マリアもヨセフも、イエス様がマリアの処女妊娠で生まれたことを知っています。そしてイエス様が生まれたとき、羊飼いたちが来て、彼らが天使のメッセージ「あなた方は布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである」を聞いた、と言ったことも経験しています。この子は神様の特別の子で、普通の子ではないことも知っていました。しかしそれから12年間があまり変わったこともなく過ぎて、12年前のことを忘れかけていたかもしれません。しかし今回の出来事で、マリアとヨセフの心には、12年前の不思議な出来事が思い出され、「この子は、普通の子ではない」との思いが甦ったのではないでしょうか。
51節「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった。」少年イエス様は、モーセの十戒の第五の戒めにある通り「あなたの父母を敬え」の教えを実行して、暮されたのだと思います。「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」ある英語の訳を見ると、マリアはこれらのことを treasured したと訳されています。Treasure は宝ですから、今回の出来事を心の中で宝物のように大切に温めて思い巡らしたという意味になりますね。これはとても素敵な訳です。52節「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」
先程の「デイ」(必然)という言葉を考えるなら、この言葉は他の箇所にも出てきます。そしてイエス様が神殿におられることも必然ですし、さらには私たちの罪の責任を全て背負うために十字架に架かることが「デイ」、つまりイエス様にとって必然だということが、次第に明らかになります。イエス様は、マリアさんがお腹を痛めて産んだわが子ですが、同時にマリアの子であってそれだけではない、神の子であることが優先される。そのような使命を持った子なのです。マリアはこの後も、イエス様の活動をなかなか十分に理解できません。しかしイエス様の十字架の足元に立ち、イエス様の復活後には、すべてをはっきり理解したものと思います。イエス様は母マリアを愛しておられますが、親子の情よりも、父なる神様に従うことを優先する生き方をなさいます。母マリアも、愛するわが子を、父なる神様に献げる、信頼して委ねる生き方へと導かれました。そのマリアの信仰は、イエス様の十字架の死と言う耐え難い苦難を通りましたが、三日目のイエス様の復活によって報われました。たとえようもない大きな苦難を通りましたが、マリアの生涯が父なる神様に裏切られる生涯とはならず、父なる神様に報われる生涯となりました。イエス様の復活によってです。私たちもほっとしますね。
マリアに似た経験をした人として、旧約聖書のアブラハムがいます。創世記22章に、アブラハムが、神様の約束によって生まれた息子イサクを神様に献げる場面があります。神がアブラハムに言われます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物として献げなさい。」アブラハムはイサクを連れて、翌朝出発します。神に命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に乗せます。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を持ち、息子を屠ろうとします。刃物で刺して神に献げようとしたのです。すると天から主の御使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけ、彼が「はい」と答えると御使いが言います。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。」アブラハムはこうして、すんでのところでイサクを屠らないで済みました。しかしアブラハムはそこまでしたのですから、事実上、イサクを神に献げたのと同じです。同じように、マリアもわが子イエス様を父なる神様に献げたのです。アブラハムよりもっと献げました。イサクは死ななかったけれども、イエス様は十字架で本当に死なれたからです。アブラハムの信仰以上に、 マリアさんの信仰は深く、マリアさんはアブラハム以上に、神様に従ったと思うのです。マリアさんは、イエス様の十字架上での死という想像もできない試練を受けましたが、幸い父なる神様は、イエス様を三日目に復活させて下さいました。
父なる神様にとっても、独り子イエス様の十字架の死は、耐えがたく辛いことであったと思います。父なる神様もその悲痛に耐えて下さいました。私たちの罪を赦し、私たちに永遠の命を与えるためです。私たちはイエス様の十字架上の死という犠牲のお陰で、全ての罪を赦され、永遠の命をいただきました。大きな感謝です。そこで私たちもマリアさんを信仰の模範と見て、父なる神様に従ってゆきます。共に礼拝を献げながら、各々の仕方で、父なる神様に従う人生を歩みきって参りましょう。アーメン。
2026-01-01 18:36:32(木)
「神に栄光、地に平和」 2026年1月1日(木)元日礼拝説教
(ルカによる福音書2:1~21)
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
(説教) クリスマス、真におめでとうございます。説教題は「地に平和、神の喜ぶ人々に」です。小見出しは「イエスの誕生」、「羊飼いと天使」です。
1節から。「その頃、皇帝アゥグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これはキリニウスがシリア州(ローマ帝国の)の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録をするために各々自分の町へ旅立った。」人々は皆、先祖の出身地に行って、新しく登録をし直したのでしょうね。それにしてもローマ皇帝アゥグストゥスの権力は絶大です。彼の在位期間は紀元前30年から紀元14年まで。イエス様の十字架の前に在位を終えています。彼の命令一つで、ローマ帝国の全住民が動くのですから、考えられないほど強い力です。私も最近、父の召天に伴い、父の本籍地が東京都文京区なので、その謄本を取得するなどしています。戸籍にしても住民票にしても、政府や役所が国民を管理するためにあることは否定できません。ヨセフもマリアも、アゥグストゥスの支配下に置かれています。
4節「ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので(ダビデ王の子孫だったので)、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」旧約聖書のサムエル記上15章で、サムエルという神の人がベツレヘムに行って、イスラエルの王となるべき少年を見出します。ダビデです。神がサムエルに言われます。「立って、彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。油は聖なる油で、聖霊のシンボルです。このようにベツレヘムはダビデ王の出身の村だということがポイントです。
皇帝アゥグストゥスの命令で、ヨセフとマリアがそのベツレヘムに行き、救い主イエス様がベツレヘムで誕生することになります。アゥグストゥスも気づかないうちに真の神様の支配下にあり、アゥグストゥスの命令によってヨセフとマリアがベツレヘムに行き、イエス様がベツレヘムで誕生するという神の御心が成ったのです。神様が皇帝をも、実はコントロールしているのです。6節「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」ヨセフ、マリア、イエス様を聖家族と呼びます。彼らには泊まる場所がありませんでした。このことはイエス・キリストの生涯を象徴しています。イエス様はこのルカによる福音書9章で言われます。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子(ご自分)には枕する所もない。」居場所がないというのです。そして十字架につけられ、人々によって、この世から排除されました。
次の小見出しは「羊飼いと天使」です。8節「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」解説書によると、「パレスティナの羊飼いは、過越祭の頃から、雨期に入る11月ないし12月ころまでは、昼夜の別なく屋外で生活した」とのことです。過越祭は、現代の暦で3~4月です。そして11月から12月は雨期に入る季節だったのですね。イエス様の誕生はイエス様の誕生が何月だったのか、聖書に記載がないので分かりませんが、雨期ではないようですから3月から12月の間のどこかだったのでしょう。因みにクリスマスを12月25日に設定したのはローマ時代だったようです。12月25日は当時の冬至です。一日の中で夜の時間帯が一番長くなり、そこから日照時間が次第に長くなる日、太陽がある意味復活してくる日です。この自然界の現象と、「義の太陽」イエス・キリストの誕生を結び付けたのです。太陽が甦ってくる冬至の日をクリスマスにした。希望の光イエス様の誕生日という意味とぴったりフィットすると思われたからでしょう。
9節「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
主の栄光、それはまばゆいばかりの天国の清らかな光と思います。あまりにも清い光で、自分たちの罪まで照らされるように感じて、非常に恐れたのではないかと思います。天使が登場します。天使は聖書で重要な個所に登場し、場面を転換したり、神様に従う人々を支えます。天使は告げます。どんな声だったのでしょう。重々しい声だったのでしょうか。青年のような声か、年配者のような声か。天使には聖別がない気がしますが、女性的な声か、男性的な声か。想像するしかありません。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」民全体とは、直接にはイスラエルの民全体を指すと思えますが、新約聖書が世界伝道を語っていることを思えば、世界の全ての民を指すと読み取ることも十分可能です。
「民全体に告げられる大きな喜びを告げる。」先週申した通り、元のギリシア語を見ると「告げる」という言葉自体が「よき知らせ(福音)を知らせる」の意味で、「大きな喜びを告げる」を丁寧に訳すと、「あなた方に福音を告げ知らせる、大きな喜びを」となります。「今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」救い主という言葉は、元のギリシア語で「ソーテール」です。当時、ローマ帝国の詩人や民衆は、皇帝アゥグストゥスを「ソーテール(救い主)」と呼んだそうです。政治的な平和をもたらしたからです。彼がもたらした政治的な平和を「パックス・ローマ―ナ」(ローマの平和)と呼ぶそうです。しかしルカによる福音書は、アゥグストゥスではなくこの赤ちゃんイエス様を「ソーテール(救い主)」と呼ぶのです。この対比は鮮やかです。果たして真の「ソーテール(救い主)」は皇帝アゥグストゥスか、赤ちゃんイエス様か。もちろんイエス様なのです。
「この方こそ、主メシアである。あなた方は布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。」メシアは救い主を意味しますが、メシアはヘブライ語であり、直接の意味は「油を注がれた者」です。先ほどの場面で、少年ダビデも油を注がれました。油は聖霊のシンボルです。旧約聖書の時代に、「王・祭司・預言者」という神様の3つの務めに着く人は、「聖なる油」を注がれたと聞きます。その意味で彼らも小さなメシア(救い主)です。真のメシアは、イエス・キリストです。お一人で「王・祭司・預言者」の3つの務めを完璧に行う方なので、イエス・キリストこそ真のメシアです。
本日の旧約聖書・イザヤ書45章1節にも、あるメシアが登場します。「主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。私は彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。」ここではペルシアの王キュロスが「油を注がれた人」と書かれています。この個所のヘブライ語はメシア(メーシアッハ)です。このペルシア王キュロスは、もちろんイスラエル人でない異邦人ですが、神様に用いられました。イスラエルを捕囚にしたバビロン帝国を倒したのです。イザヤ書45章1節は、キュロス王を確かにメシアと呼んでいるのです。興味深いことです。七十人訳というギリシア語訳の旧約聖書を見ると、キュロスをはっきり「キリスト」と書いています。イエス・キリストと同じキリストという言葉です。キュロス王も確かに、神に用いられた政治的王としてのメシア・キリストだったのです。そのような政治的メシアもいますが、本日のルカによる福音書は、「真のメシア(救い主)はイエス様だ」と主張しています。その通りです。
「この方こそ主メシアである。あなた方は布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。」この無力な赤ちゃんこそ、真の救いのしるしである。この赤ちゃんは、神を愛し、隣人を愛して生き、ついには十字架にかかります。本当に無力になります。しかし十字架で、私たち全員の全部の罪の責任を身代わりに引き受けきって下さる。そして三日目に復活して下さる。そしてこのイエス様を救い主と信じる人に、全ての罪の赦しと永遠の命・復活の命を与えて下さる。その真の救い主が与えられました。
13節「すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。』」天使の大軍が讃美したのでしょうか。さぞ美しいハーモニーだったと想像致します。本日の礼拝後の愛餐会でも、聖歌隊の讃美が献げられます。聖霊が豊かに注がれる讃美になると信じて、賛美して下さる方々に祝福をお祈り致します。「地には平和、御心に適う人にあれ。」暫く前に申しました通り、「地には平和、神の喜ぶ人々にあれ」と訳すこともできます。「神の喜ぶ人々」とは、ここではヨセフ、マリア、イエス様、無名の羊飼いたちでしょう。イエス様の誕生を喜ぶ私ども一人一人も、「神の喜ぶ人々」に含まれていると信じます。
私は実は、2年ほど前から原則毎週火曜日の夜7時から80分間ほど、東久留米教会市役所で、外国人に日本語をお教えするボランティアをさせていただいています。伝道するには、まず知り合いを増やすことが必要と考えたことが1つあります。来られる外国の方々の国籍はさまざまですが、クリスチャンアカデミー関係者もおられ、やはり外国人の方々にはクリスチャンが割とおられますね。西洋人とは限りません。インドネシアの牧師さん、ナイジェリアのクリスチャンもおられます。最近来られたご夫婦の若い宣教師がおられます。夫はトリ二ティートドバゴ出身、妻はカナダ出身。先週火曜夜に、この日本語クラスの「忘年会」が市役所で行われ、出し物で歌を歌う人、ピアノを弾く人、劇を演じるグループがありました。その宣教師ご夫妻は、夫がピアノ、妻がヴァイオリンで合奏されました。讃美歌21では265番です。「天(あめ)なる神には、み栄えあれ。地に住む人には、平和あれと。」美し音色でした。今の14節が歌詞です。ピアノとヴァイオリンの合奏なので、歌詞はありません。司会者が「イエス・キリストをたたえる歌」と紹介していたように聞こえましたが、紹介が聴く人々に理解されたかどうかは分かりません。聴いていた方々の多くはクリスマスの讃美歌とはよく分からないで聞いていたと思います。それでも私は、あの市役所の一階のホールで、クリスマスの讃美歌が堂々と美しく演奏されたのを目撃し、「これも神様の御業」だと感動して聴いていました。知り合いの日本人のクリスチャンの方も、動画を撮っておられました。私はそのご夫婦がその讃美歌を演奏なさると前の週のリハーサルで分かっていたので、当日は讃美歌21の265番の楽譜をお示しして、「日本の教会でも歌っているよ」と伝えると「おお」と喜んで下さいました。「地に平和。」そのような2026年となるように祈ります。 アーメン。
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
(説教) クリスマス、真におめでとうございます。説教題は「地に平和、神の喜ぶ人々に」です。小見出しは「イエスの誕生」、「羊飼いと天使」です。
1節から。「その頃、皇帝アゥグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これはキリニウスがシリア州(ローマ帝国の)の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録をするために各々自分の町へ旅立った。」人々は皆、先祖の出身地に行って、新しく登録をし直したのでしょうね。それにしてもローマ皇帝アゥグストゥスの権力は絶大です。彼の在位期間は紀元前30年から紀元14年まで。イエス様の十字架の前に在位を終えています。彼の命令一つで、ローマ帝国の全住民が動くのですから、考えられないほど強い力です。私も最近、父の召天に伴い、父の本籍地が東京都文京区なので、その謄本を取得するなどしています。戸籍にしても住民票にしても、政府や役所が国民を管理するためにあることは否定できません。ヨセフもマリアも、アゥグストゥスの支配下に置かれています。
4節「ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので(ダビデ王の子孫だったので)、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」旧約聖書のサムエル記上15章で、サムエルという神の人がベツレヘムに行って、イスラエルの王となるべき少年を見出します。ダビデです。神がサムエルに言われます。「立って、彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。油は聖なる油で、聖霊のシンボルです。このようにベツレヘムはダビデ王の出身の村だということがポイントです。
皇帝アゥグストゥスの命令で、ヨセフとマリアがそのベツレヘムに行き、救い主イエス様がベツレヘムで誕生することになります。アゥグストゥスも気づかないうちに真の神様の支配下にあり、アゥグストゥスの命令によってヨセフとマリアがベツレヘムに行き、イエス様がベツレヘムで誕生するという神の御心が成ったのです。神様が皇帝をも、実はコントロールしているのです。6節「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」ヨセフ、マリア、イエス様を聖家族と呼びます。彼らには泊まる場所がありませんでした。このことはイエス・キリストの生涯を象徴しています。イエス様はこのルカによる福音書9章で言われます。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子(ご自分)には枕する所もない。」居場所がないというのです。そして十字架につけられ、人々によって、この世から排除されました。
次の小見出しは「羊飼いと天使」です。8節「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」解説書によると、「パレスティナの羊飼いは、過越祭の頃から、雨期に入る11月ないし12月ころまでは、昼夜の別なく屋外で生活した」とのことです。過越祭は、現代の暦で3~4月です。そして11月から12月は雨期に入る季節だったのですね。イエス様の誕生はイエス様の誕生が何月だったのか、聖書に記載がないので分かりませんが、雨期ではないようですから3月から12月の間のどこかだったのでしょう。因みにクリスマスを12月25日に設定したのはローマ時代だったようです。12月25日は当時の冬至です。一日の中で夜の時間帯が一番長くなり、そこから日照時間が次第に長くなる日、太陽がある意味復活してくる日です。この自然界の現象と、「義の太陽」イエス・キリストの誕生を結び付けたのです。太陽が甦ってくる冬至の日をクリスマスにした。希望の光イエス様の誕生日という意味とぴったりフィットすると思われたからでしょう。
9節「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
主の栄光、それはまばゆいばかりの天国の清らかな光と思います。あまりにも清い光で、自分たちの罪まで照らされるように感じて、非常に恐れたのではないかと思います。天使が登場します。天使は聖書で重要な個所に登場し、場面を転換したり、神様に従う人々を支えます。天使は告げます。どんな声だったのでしょう。重々しい声だったのでしょうか。青年のような声か、年配者のような声か。天使には聖別がない気がしますが、女性的な声か、男性的な声か。想像するしかありません。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」民全体とは、直接にはイスラエルの民全体を指すと思えますが、新約聖書が世界伝道を語っていることを思えば、世界の全ての民を指すと読み取ることも十分可能です。
「民全体に告げられる大きな喜びを告げる。」先週申した通り、元のギリシア語を見ると「告げる」という言葉自体が「よき知らせ(福音)を知らせる」の意味で、「大きな喜びを告げる」を丁寧に訳すと、「あなた方に福音を告げ知らせる、大きな喜びを」となります。「今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」救い主という言葉は、元のギリシア語で「ソーテール」です。当時、ローマ帝国の詩人や民衆は、皇帝アゥグストゥスを「ソーテール(救い主)」と呼んだそうです。政治的な平和をもたらしたからです。彼がもたらした政治的な平和を「パックス・ローマ―ナ」(ローマの平和)と呼ぶそうです。しかしルカによる福音書は、アゥグストゥスではなくこの赤ちゃんイエス様を「ソーテール(救い主)」と呼ぶのです。この対比は鮮やかです。果たして真の「ソーテール(救い主)」は皇帝アゥグストゥスか、赤ちゃんイエス様か。もちろんイエス様なのです。
「この方こそ、主メシアである。あなた方は布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。」メシアは救い主を意味しますが、メシアはヘブライ語であり、直接の意味は「油を注がれた者」です。先ほどの場面で、少年ダビデも油を注がれました。油は聖霊のシンボルです。旧約聖書の時代に、「王・祭司・預言者」という神様の3つの務めに着く人は、「聖なる油」を注がれたと聞きます。その意味で彼らも小さなメシア(救い主)です。真のメシアは、イエス・キリストです。お一人で「王・祭司・預言者」の3つの務めを完璧に行う方なので、イエス・キリストこそ真のメシアです。
本日の旧約聖書・イザヤ書45章1節にも、あるメシアが登場します。「主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。私は彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。」ここではペルシアの王キュロスが「油を注がれた人」と書かれています。この個所のヘブライ語はメシア(メーシアッハ)です。このペルシア王キュロスは、もちろんイスラエル人でない異邦人ですが、神様に用いられました。イスラエルを捕囚にしたバビロン帝国を倒したのです。イザヤ書45章1節は、キュロス王を確かにメシアと呼んでいるのです。興味深いことです。七十人訳というギリシア語訳の旧約聖書を見ると、キュロスをはっきり「キリスト」と書いています。イエス・キリストと同じキリストという言葉です。キュロス王も確かに、神に用いられた政治的王としてのメシア・キリストだったのです。そのような政治的メシアもいますが、本日のルカによる福音書は、「真のメシア(救い主)はイエス様だ」と主張しています。その通りです。
「この方こそ主メシアである。あなた方は布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。」この無力な赤ちゃんこそ、真の救いのしるしである。この赤ちゃんは、神を愛し、隣人を愛して生き、ついには十字架にかかります。本当に無力になります。しかし十字架で、私たち全員の全部の罪の責任を身代わりに引き受けきって下さる。そして三日目に復活して下さる。そしてこのイエス様を救い主と信じる人に、全ての罪の赦しと永遠の命・復活の命を与えて下さる。その真の救い主が与えられました。
13節「すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。』」天使の大軍が讃美したのでしょうか。さぞ美しいハーモニーだったと想像致します。本日の礼拝後の愛餐会でも、聖歌隊の讃美が献げられます。聖霊が豊かに注がれる讃美になると信じて、賛美して下さる方々に祝福をお祈り致します。「地には平和、御心に適う人にあれ。」暫く前に申しました通り、「地には平和、神の喜ぶ人々にあれ」と訳すこともできます。「神の喜ぶ人々」とは、ここではヨセフ、マリア、イエス様、無名の羊飼いたちでしょう。イエス様の誕生を喜ぶ私ども一人一人も、「神の喜ぶ人々」に含まれていると信じます。
私は実は、2年ほど前から原則毎週火曜日の夜7時から80分間ほど、東久留米教会市役所で、外国人に日本語をお教えするボランティアをさせていただいています。伝道するには、まず知り合いを増やすことが必要と考えたことが1つあります。来られる外国の方々の国籍はさまざまですが、クリスチャンアカデミー関係者もおられ、やはり外国人の方々にはクリスチャンが割とおられますね。西洋人とは限りません。インドネシアの牧師さん、ナイジェリアのクリスチャンもおられます。最近来られたご夫婦の若い宣教師がおられます。夫はトリ二ティートドバゴ出身、妻はカナダ出身。先週火曜夜に、この日本語クラスの「忘年会」が市役所で行われ、出し物で歌を歌う人、ピアノを弾く人、劇を演じるグループがありました。その宣教師ご夫妻は、夫がピアノ、妻がヴァイオリンで合奏されました。讃美歌21では265番です。「天(あめ)なる神には、み栄えあれ。地に住む人には、平和あれと。」美し音色でした。今の14節が歌詞です。ピアノとヴァイオリンの合奏なので、歌詞はありません。司会者が「イエス・キリストをたたえる歌」と紹介していたように聞こえましたが、紹介が聴く人々に理解されたかどうかは分かりません。聴いていた方々の多くはクリスマスの讃美歌とはよく分からないで聞いていたと思います。それでも私は、あの市役所の一階のホールで、クリスマスの讃美歌が堂々と美しく演奏されたのを目撃し、「これも神様の御業」だと感動して聴いていました。知り合いの日本人のクリスチャンの方も、動画を撮っておられました。私はそのご夫婦がその讃美歌を演奏なさると前の週のリハーサルで分かっていたので、当日は讃美歌21の265番の楽譜をお示しして、「日本の教会でも歌っているよ」と伝えると「おお」と喜んで下さいました。「地に平和。」そのような2026年となるように祈ります。 アーメン。
2025-12-14 0:53:00()
「あなたは神から恵みをいただいた」 2025年12月14日(日)礼拝
(ルカによる福音書1:26~38)
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第3主日礼拝。説教題は「あなたは神から恵みをいただいた」です。小見出しとしては「イエスの誕生が予告される」です。
最初の26節「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」カトリックの解説書によると、ナザレという名前は「花」の意味だそうです。エルサレムの北140キロの位置にあります。小さな村で無名とさえ言える(名はあるが)村で、旧約聖書には一度も出てきません。発掘によって、イエス様の時代と思われる村の遺跡が発見されているそうです。ポイントはナザレが当時、軽んじられた村だったということです。ヨハネ福音書1章45、46節のフィリポとナタナエルという人の対話「私たちはモーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言った。「まさかあんな目立たない、あるかないか分からないナザレから、そんな有力者が出るなど、あるわけがない」という反応です。それほど軽視されていたナザレの、15才くらいの無名の少女マリアに、父なる神様が目を留めて祝福された。これは私たち人間の常識をはるかに超え、人間の常識からすると完全に意外で思いがけない出来事、意表を衝く出来事です。
28節「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアは、この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」天使が来ることは、神様による重要な場面転換、介入の時です。「おめでとう」は直訳で「喜びなさい」です。30節「すると天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父(先祖)ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家(神の民イスラエル)を治め、その支配は終わることがない。』」
天使は「恐れることはない」と言いますが、マリアが結婚前に妊娠するというお告げです。ご存じのように当時のイスラエルでは、結婚前に妊娠すれば姦通の罪を犯したと見なされ、死刑です。恐れるのが当たり前です。しかしマリアは姦通の罪を犯すのではありません。神の清き霊である聖霊によって、妊娠するのです。神様がよき理解者・いいなずけヨセフにより、また神様ご自身の力によって、責任をもってマリアを守られます。ですのでマリアは恐れなくてよいのです。
34節「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。』マリアは言った。『私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』」これはヘブライ的な表現で、神様の御心への全き(完全な)服従を表しています。マリアは、父なる神様を信頼しきって、その導きに全生涯を委ねる決断をしたのです。神様が全てを最善にして下さると信頼しきったのです。あえて言えば、ローマの信徒への手紙8章28節の御言葉と同じ信仰に立ったと言えるのではないでしょうか。「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」この御言葉と同じ信仰に立ったと思うのです。マリアは、神様を純粋に愛していました。だからイエス様の母として選ばれたのです。
このルカによる福音書は、いと小さき者に対する神様の深い慈しみを強調する福音書と思います。たとえば次の2章では、天使によってイエス様の誕生の喜びが、貧しく無名の羊飼いたちに告げられています。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」「大きな喜び」、それは無力な赤ん坊イエス様の誕生です。聖書の価値観は、普通の価値観と違いますね。普通は大きく強いことが喜びではないでしょうか。しかし聖書、特にルカによる福音書は、「無力な赤ん坊イエス様」の誕生が、「最も大きな喜び」です。イエス様が、私たちの罪を赦すために十字架にかかって下さる真の救い主だからです。「大きな喜びを告げる。」この「告げる」という言葉は「福音(よき知らせ)を告げる」の意味の言葉です。この「告げる」ひと言だけで、「福音(よき知らせ)を告げる」の意味なのです。ですから「大きな喜びを告げる」を丁寧に訳すと、「福音(よき知らせ)を告げる、大きな喜びの」となります。喜びが強調されています。これは世間の喜びと異なる、聖なる喜びですね。
本日の個所に戻り、35節の天使の言葉「聖霊があなた(マリア)に降り、いと高き方(神様)の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」先ほどの解説書によると、出エジプト記40章34、35節を参照するとよいとのことです。「雲(聖霊のシンボル)は臨在の幕屋(礼拝するテント)を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」この個所に似て、神の霊である聖霊が、新しい幕屋に等しいマリアを覆うというのです。男性の介在なく、マリアはただ聖霊によって身ごもります。命を造ることができるのは、神だけです。
イエス・キリストの誕生は、旧約聖書のイザヤ書7章14節においても預言されています。神の御言葉を預かる預言者イザヤが、ユダの王アハズに告げます。「それゆえ、私の主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」この御言葉は、神の子の誕生の預言として、マタイ福音書1章で明確に引用されています。インマヌエルとは、皆様ご存じの通り「神は我々と共におられる」です。ルカによる福音書とマタイによる福音書が、マリアは男性との関係ないままに聖霊によって身ごもったと述べていることは明らかです。但し、イザヤ書7章14節の「身よ、おとめが身ごもって、男の子を産み」の「おとめ」という言葉はヘブライ語で「アルマー」です。純粋に言葉の意味として「アルマー」は「若い女性」(必ずしも処女でない)の意味だとする人と、「処女」の意味だとする人がいて、決着がつけにくいようです。口語訳聖書と新共同訳聖書は「おとめ」と訳しています。ヘブライ語アルマーは「若い女性」の意味との解釈したのでしょう。新改訳聖書は「処女」と踏み込んで訳しています。キリスト教会の信仰からすると、「処女」と訳してくれた方が、はっきりして嬉しいですね。私が見た範囲ではニュー・キングジェイムズ版は「virgin」処女と訳しています。今から二千年以上前の七十人訳聖書というギリシャ語新約聖書では既に「処女」と訳しています。
少しややこしい話をしましたが、イザヤ書7章14節「身よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」の原語のヘブライ語のアラマーを「おとめ」と訳しても「処女」と訳しても間違いではありません。ですがもちろんマリアは聖霊よって妊娠したのですから、男性との交渉がなかったことは明らかです。そしてイザヤ書7章14節が、イエス様の誕生を予告する重要な聖句であることを、私も改めて強く認識致しました。使徒信条にはこうあります。「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ。」使徒信条の日本語訳は「処女」と書いて「おとめ」と読ませています。神様の清き聖霊がマリアを包み、聖霊なる神様が新しい人間の命を創造し、神の子であり人の子であるイエス様を誕生させました。
イエス様の時代のイスラエルでは、子どもを産めないことは恥と見なされました。もちろん今は、全くそのようなことはありません。創世記18章を見ると、神様と思われる方が99歳のアブラハムに言います。「私は来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう。」このとき妻サラは89歳だったはずです。しかし神様と思われる方が言われた通り、翌年サラはイサクを産んだのです。この奇跡は、神に不可能がないことを示す奇跡です。高齢で妊娠のあり得ない年齢の出産の奇跡は、男性が一切介在しないマリアの処女妊娠の奇跡の準備とも言えるでしょう。
サラは男の子が生まれると言われたとき、ひそかに笑いました。「そんなことがあるわけがない」と思ったからです。これは不信仰の笑いです。神様を馬鹿にする笑いです。すると神様と思しき方がすぐ言われます。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子どもが生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、私はここに戻って来る。そのころ、サラには必ず男の子が産まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消します。「私は笑いませんでした。」神様が言われます。「いや、あなたは確かに笑った。」笑ったとき、サラは不信仰でした。しかしマリアは、サラよりも信仰深い女性だったのです。マリアは天使に「あなたは身ごもって男の子を産む」と言われたとき、戸惑いはしました。「どうしてそのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」と疑問を告げました。でもサラのように笑うことはありませんでした。神様をばかにするような不信仰の心は、マリアにはありませんでした。サラよりも純粋で深い信仰の持ち主だったことが分かります。だからイエス様の母として選ばれたのです。
フィリピの信徒への手紙1章29節。コロサイの信徒への手紙1章24節。マリアの苦しみは、わが子が十字架につけられることを見届けることになる苦しみ。神様は、マリアの信仰ならこの大きな試練に耐えらるとマリアを見込まれたのだと思います。神の国の完成のための産みの苦しみ。父なる神様も独り子イエス様を十字架につける痛みを味わった。もちろん神様は、マリアが試練に耐えることができるように、神様を支えておられたに違いありません。クリスチャンの歩みは、神様と苦労を共にし、神と共に喜ぶ生き方。神と共に歩みましょう。アーメン。
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第3主日礼拝。説教題は「あなたは神から恵みをいただいた」です。小見出しとしては「イエスの誕生が予告される」です。
最初の26節「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」カトリックの解説書によると、ナザレという名前は「花」の意味だそうです。エルサレムの北140キロの位置にあります。小さな村で無名とさえ言える(名はあるが)村で、旧約聖書には一度も出てきません。発掘によって、イエス様の時代と思われる村の遺跡が発見されているそうです。ポイントはナザレが当時、軽んじられた村だったということです。ヨハネ福音書1章45、46節のフィリポとナタナエルという人の対話「私たちはモーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言った。「まさかあんな目立たない、あるかないか分からないナザレから、そんな有力者が出るなど、あるわけがない」という反応です。それほど軽視されていたナザレの、15才くらいの無名の少女マリアに、父なる神様が目を留めて祝福された。これは私たち人間の常識をはるかに超え、人間の常識からすると完全に意外で思いがけない出来事、意表を衝く出来事です。
28節「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアは、この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」天使が来ることは、神様による重要な場面転換、介入の時です。「おめでとう」は直訳で「喜びなさい」です。30節「すると天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父(先祖)ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家(神の民イスラエル)を治め、その支配は終わることがない。』」
天使は「恐れることはない」と言いますが、マリアが結婚前に妊娠するというお告げです。ご存じのように当時のイスラエルでは、結婚前に妊娠すれば姦通の罪を犯したと見なされ、死刑です。恐れるのが当たり前です。しかしマリアは姦通の罪を犯すのではありません。神の清き霊である聖霊によって、妊娠するのです。神様がよき理解者・いいなずけヨセフにより、また神様ご自身の力によって、責任をもってマリアを守られます。ですのでマリアは恐れなくてよいのです。
34節「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。』マリアは言った。『私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』」これはヘブライ的な表現で、神様の御心への全き(完全な)服従を表しています。マリアは、父なる神様を信頼しきって、その導きに全生涯を委ねる決断をしたのです。神様が全てを最善にして下さると信頼しきったのです。あえて言えば、ローマの信徒への手紙8章28節の御言葉と同じ信仰に立ったと言えるのではないでしょうか。「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」この御言葉と同じ信仰に立ったと思うのです。マリアは、神様を純粋に愛していました。だからイエス様の母として選ばれたのです。
このルカによる福音書は、いと小さき者に対する神様の深い慈しみを強調する福音書と思います。たとえば次の2章では、天使によってイエス様の誕生の喜びが、貧しく無名の羊飼いたちに告げられています。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」「大きな喜び」、それは無力な赤ん坊イエス様の誕生です。聖書の価値観は、普通の価値観と違いますね。普通は大きく強いことが喜びではないでしょうか。しかし聖書、特にルカによる福音書は、「無力な赤ん坊イエス様」の誕生が、「最も大きな喜び」です。イエス様が、私たちの罪を赦すために十字架にかかって下さる真の救い主だからです。「大きな喜びを告げる。」この「告げる」という言葉は「福音(よき知らせ)を告げる」の意味の言葉です。この「告げる」ひと言だけで、「福音(よき知らせ)を告げる」の意味なのです。ですから「大きな喜びを告げる」を丁寧に訳すと、「福音(よき知らせ)を告げる、大きな喜びの」となります。喜びが強調されています。これは世間の喜びと異なる、聖なる喜びですね。
本日の個所に戻り、35節の天使の言葉「聖霊があなた(マリア)に降り、いと高き方(神様)の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」先ほどの解説書によると、出エジプト記40章34、35節を参照するとよいとのことです。「雲(聖霊のシンボル)は臨在の幕屋(礼拝するテント)を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」この個所に似て、神の霊である聖霊が、新しい幕屋に等しいマリアを覆うというのです。男性の介在なく、マリアはただ聖霊によって身ごもります。命を造ることができるのは、神だけです。
イエス・キリストの誕生は、旧約聖書のイザヤ書7章14節においても預言されています。神の御言葉を預かる預言者イザヤが、ユダの王アハズに告げます。「それゆえ、私の主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」この御言葉は、神の子の誕生の預言として、マタイ福音書1章で明確に引用されています。インマヌエルとは、皆様ご存じの通り「神は我々と共におられる」です。ルカによる福音書とマタイによる福音書が、マリアは男性との関係ないままに聖霊によって身ごもったと述べていることは明らかです。但し、イザヤ書7章14節の「身よ、おとめが身ごもって、男の子を産み」の「おとめ」という言葉はヘブライ語で「アルマー」です。純粋に言葉の意味として「アルマー」は「若い女性」(必ずしも処女でない)の意味だとする人と、「処女」の意味だとする人がいて、決着がつけにくいようです。口語訳聖書と新共同訳聖書は「おとめ」と訳しています。ヘブライ語アルマーは「若い女性」の意味との解釈したのでしょう。新改訳聖書は「処女」と踏み込んで訳しています。キリスト教会の信仰からすると、「処女」と訳してくれた方が、はっきりして嬉しいですね。私が見た範囲ではニュー・キングジェイムズ版は「virgin」処女と訳しています。今から二千年以上前の七十人訳聖書というギリシャ語新約聖書では既に「処女」と訳しています。
少しややこしい話をしましたが、イザヤ書7章14節「身よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」の原語のヘブライ語のアラマーを「おとめ」と訳しても「処女」と訳しても間違いではありません。ですがもちろんマリアは聖霊よって妊娠したのですから、男性との交渉がなかったことは明らかです。そしてイザヤ書7章14節が、イエス様の誕生を予告する重要な聖句であることを、私も改めて強く認識致しました。使徒信条にはこうあります。「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ。」使徒信条の日本語訳は「処女」と書いて「おとめ」と読ませています。神様の清き聖霊がマリアを包み、聖霊なる神様が新しい人間の命を創造し、神の子であり人の子であるイエス様を誕生させました。
イエス様の時代のイスラエルでは、子どもを産めないことは恥と見なされました。もちろん今は、全くそのようなことはありません。創世記18章を見ると、神様と思われる方が99歳のアブラハムに言います。「私は来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう。」このとき妻サラは89歳だったはずです。しかし神様と思われる方が言われた通り、翌年サラはイサクを産んだのです。この奇跡は、神に不可能がないことを示す奇跡です。高齢で妊娠のあり得ない年齢の出産の奇跡は、男性が一切介在しないマリアの処女妊娠の奇跡の準備とも言えるでしょう。
サラは男の子が生まれると言われたとき、ひそかに笑いました。「そんなことがあるわけがない」と思ったからです。これは不信仰の笑いです。神様を馬鹿にする笑いです。すると神様と思しき方がすぐ言われます。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子どもが生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、私はここに戻って来る。そのころ、サラには必ず男の子が産まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消します。「私は笑いませんでした。」神様が言われます。「いや、あなたは確かに笑った。」笑ったとき、サラは不信仰でした。しかしマリアは、サラよりも信仰深い女性だったのです。マリアは天使に「あなたは身ごもって男の子を産む」と言われたとき、戸惑いはしました。「どうしてそのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」と疑問を告げました。でもサラのように笑うことはありませんでした。神様をばかにするような不信仰の心は、マリアにはありませんでした。サラよりも純粋で深い信仰の持ち主だったことが分かります。だからイエス様の母として選ばれたのです。
フィリピの信徒への手紙1章29節。コロサイの信徒への手紙1章24節。マリアの苦しみは、わが子が十字架につけられることを見届けることになる苦しみ。神様は、マリアの信仰ならこの大きな試練に耐えらるとマリアを見込まれたのだと思います。神の国の完成のための産みの苦しみ。父なる神様も独り子イエス様を十字架につける痛みを味わった。もちろん神様は、マリアが試練に耐えることができるように、神様を支えておられたに違いありません。クリスチャンの歩みは、神様と苦労を共にし、神と共に喜ぶ生き方。神と共に歩みましょう。アーメン。
2025-12-06 23:30:38(土)
「小さな群れへの祝福」 2025年12月7日(日)アドヴェント第2主日 石田真一郎
(ルカによる福音書12:22~34)
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第2主日礼拝の礼拝です。説教題は「小さな者への祝福」です。小見出しとしては「思い悩むな」です。
最初の22節「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。』」命という言葉は、もとのギリシア語でプシュケーという言葉です。魂と訳されることもあります。もちろんポイントは、「思い悩むな」です。思い悩まないために大事なことは、神への祈りの打ち込むことと思います。神様を信頼しきれなから不安になり、思い悩むのですから、思い悩み(思い煩い)から解放されるためには、神様への祈りに打ち込むことが、最も重要と思います。思い悩むとは、いろいろなことが心配になり、心が千々に乱れることと思います。全然心配しないことがよいとも言いきれませんが、イエス様は不必要な心配をしないように教えておられると思います。
「命のことで何を食べようかと、思い悩むな。」もちろん健康のために、何を食べて何を食べないかを見極めることは必要です。ひと頃は、健康のために一日30品目食べるのがよいと言われ、実践している方もあると思います。野菜を多く摂ることが健康によいことも確かと思います。お酒を飲み過ぎないことも大切です。このように食生活に気をつけることは大切です。衣食同源という言葉もあるくらいですから。できることを行えば、あとは神様に信頼して委ねるのがよいのでしょう。それがなかなかできないのが私たちであることも事実ですが、そこでこそ祈りに打ち込んで、神様の助けをいただいて、私たちにつきまとう思い煩いを、神様に追い払っていただきましょう。「思い悩む」の原語のギリシア語のニュアンスは、「心が分裂させられる。注意が引き裂かれる。一つのことに集中できず不安によって心が散らされる」であるそうです。このルカ福音書10章に「マルタとマリア」の小見出しの個所がありますが、ちょうどマルタがこの状態でしたので、イエス様にこうたしなめられました。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」思い悩んでいる状態は、心が乱れている状態です。「何を着ようかと思い悩むな。」服には社会性もあるので、服装に気を配ることは必要でしょう。しかし高価な着物を買って、どのように体を着飾ろうかと思い悩む必要はないと、イエス様はおっしゃっているのではないかと思います。
前にも申しましたが、新約聖書のペトロの手紙(一)5章7節に、こうあります。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなた方のことを心にかけていて下さるからです。」任せるは委ねると訳すこともできますが、「任せる」の原語のギリシア語は「投げる」の意味だそうで、「思い煩いを全て神様に投げつけなさい」と訳すこともできると聞きました。神様に私たちの思い悩み、思い煩いを、何となく神様に委ねるのではなく、神様に投げつけなさい、思い切って神様に投げつけなさいの意味だと聞きました。遠慮しないで、私たちの思い悩みを、神様に思いきり投げつけてよいのです。野球のピッチャーになったつもりで、私たちの思い煩いを、時速160キロで投げつけましょう。すばらしいキャッチャーである神様が、しっかりと受けとめて下さいます。
イエス様は、父なる神様に信頼しなさいと呼びかけます。24節以下「烏のことを考えて見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養って下さる。」これは、怠慢でよいという意味ではありません。人間は労働する必要があります。パウロは、テサロニケの信徒への手紙(二)3章で書いています。「聞くところによると、あなた方の中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、私は主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように。落ち着いて仕事をしなさい。」ですから働かなくてよいという意味ではありません。今日の一日も、明日の一日も、神様に信頼しなさいというのです。
そして私たちを励まして下さいます。「あなた方は鳥よりもどれほど価値があることか。あなた方のうち誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さなことさえできないのに、なぜ、ほかのことまで思い悩むのか。」寿命という言葉を、身長と訳す聖書もあります。文語訳がそうです。「汝らのうちたれか思い煩いて、身の丈一尺を加え得んや。」寿命と訳された言葉には、身長の意味もあるようです。多くの訳が寿命と訳していますが、たとえばニューキングジェイムズ訳は身長と訳しています。寿命を延ばすことも、若くない人が身長を伸ばすことも、難しい。イエス様はそれらを「こんなごく小さなこと」と言われます。人間には「ごく小さなこと」ではないのですが、神様から見れば「ごく小さなこと」なのでしょう。
ここに烏が登場します。マタイ6章では「空の鳥」です。旧約聖書のレビ記11章13節には鳥類のうちで汚らわしく、食べてはならないものに、「烏の類」が含まれています。だとすれば、神様は汚らわしい烏をさえ養って下さる。まして汚らわしい烏よりはるかに価値がある私たち人間の一人一人を養って下さらないはずがないというメッセージになります。詩編147編8節にも神様は「獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば、食べ物をお与えになる。」
イエス様は、父なる神様の愛に信頼するようにと言われます。27節「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなた方にはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。」神様は、栄光に満ちたソロモン王よりも、野の小さな花に恵みを注ぎ愛を注ぎ、豊かに顧みて下さっているというのです。私たちは小さな花をよくよく見て、そのことに気づく必要があるのですね。神の恵みの一つ一つを、じっくり数えてみる必要があるのです。小さな野の花にさえ配慮を注ぎ、愛をもって装って下さる神は、鳥よりも花よりもずっと価値のある私たち人間の一人一人に、食物を与えて養って下さらないはずがない。信頼しなさい、というのです。花は思い煩うことなく、懸命に咲くことに専念しているのです。一本の花から学びなさいと言われるのです。
あの星野富弘さんが、本日のルカ福音書とほとんど同じ内容のマタイ福音書6章を、大好きな聖句として挙げておられます。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなた方の天の父はこれを養っていて下さるのです。あなた方は鳥よりも、もっと優れたものではありませんか。」
29節以下「あなた方も、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それらはみな、世の異邦人(真の神を知らない人々)が切に求めているものだ。あなた方の父は、これらのものがあなた方に必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」マタイ福音書6章では、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」まず神様に従うことを第一にしなさい、礼拝を第一にしなさい。そうすれば衣食は、神様が責任をもって下さる。最近、ある教会の週報を拝見しました。今年度の教会目標が、「神の国と神の義を求める教会」と書かれていました。いわゆる地方の教会です。礼拝出席人数5名と書かれていました。人数は少ない。しかし志は高いと強い感銘を受け、尊敬する気持ちになりました。「神の国と神の義を求める教会。」もちろん全ての教会がそうである必要がありますし、東久留米教会ももちろんそうでありたいのです。32節に私たちは、大いに励まされます。「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を下さる。地上で小さな教会であったとしても、父なる神様は、喜んで神の国、天国を私たちにプレゼントして下さるので、大変感謝です。
「あなた方の父は喜んで神の国を下さる」は、口語訳では「御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」です。ここで思い出すのは、クリスマスの場面です。あの名もなき貧しい羊飼いたちが聞いた天使の讃美です。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」「あなた方の父は喜んで神の国を下さる」の「喜んで」と、天使の賛美の「御心に適う」は、元のギリシア語で非常に似た言葉です。全く同じではないのですが、よく似た近しい言葉です。つまり、神の国と神の義を求める小さな群れは、御心に適う群れで、神様は喜んでその小さな群れ、そしてあの羊飼いたちにも、神の国と平和を与えて下さるのです。
神の国と神の義を求めるには、どうすればよいか。次に具体的に書かれています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなた方の心のあるところに、あなた方の心もあるのだ。」簡単ではない求めです。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。」貧しい人々にでしょう。売り払うとは、全部売ることでしょうから、なかなかできません。現実には、できる範囲で行うことになると思います。
今日のポイントの1つが「思い煩うな」であるとすれば、フィリピの信徒への手紙4章5節以下にも、よく通じ合う御言葉があります。「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」私は以前、口語訳で暗唱していました。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなた方の求めるものを、神に申し上げるがよい。そうすれば人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」
私の父は、去る11月24日(月)に、95歳で天に召されましたが、今年のあの大変な猛暑だった夏には私は、「この夏を乗り切れるだろうか」と心配していました。特に8月下旬に、台湾ユースミッションという企画に参加して広島市と長崎市に行くことになっていましたので、「神様、この期間に父を召さないで下さい」とかなり必死な思いで祈っておりました。全然思い煩っていなかったと言ってしまうと、嘘になります。思い煩っていたのですが、一生懸命お祈りもしていました。神様が憐れんで下さったということでしょう。その期間に父が召されることはなく、その後三か月の日々を与えて下さったと思うのです。
本日の旧約聖書は、士師記7章1節以下です。この個所を長々語るつもりはありませんが、ポイントは人数が多いことがよいとは限らないということでしょう。神様が、ミディアン人と戦おうとするイスラエルの人々のリーダー・ギデオンに、意外に思えることを言われます。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から2万2千人が去り1万人が残ります。神は言われます。「民はまだ多すぎる。」そして300人が選び出されます。私たちから見れば300人も多いですが、神が共におられれば、少人数でも恐るるに足りない。感謝と喜びをもって神と共に進みましょう。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第2主日礼拝の礼拝です。説教題は「小さな者への祝福」です。小見出しとしては「思い悩むな」です。
最初の22節「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。』」命という言葉は、もとのギリシア語でプシュケーという言葉です。魂と訳されることもあります。もちろんポイントは、「思い悩むな」です。思い悩まないために大事なことは、神への祈りの打ち込むことと思います。神様を信頼しきれなから不安になり、思い悩むのですから、思い悩み(思い煩い)から解放されるためには、神様への祈りに打ち込むことが、最も重要と思います。思い悩むとは、いろいろなことが心配になり、心が千々に乱れることと思います。全然心配しないことがよいとも言いきれませんが、イエス様は不必要な心配をしないように教えておられると思います。
「命のことで何を食べようかと、思い悩むな。」もちろん健康のために、何を食べて何を食べないかを見極めることは必要です。ひと頃は、健康のために一日30品目食べるのがよいと言われ、実践している方もあると思います。野菜を多く摂ることが健康によいことも確かと思います。お酒を飲み過ぎないことも大切です。このように食生活に気をつけることは大切です。衣食同源という言葉もあるくらいですから。できることを行えば、あとは神様に信頼して委ねるのがよいのでしょう。それがなかなかできないのが私たちであることも事実ですが、そこでこそ祈りに打ち込んで、神様の助けをいただいて、私たちにつきまとう思い煩いを、神様に追い払っていただきましょう。「思い悩む」の原語のギリシア語のニュアンスは、「心が分裂させられる。注意が引き裂かれる。一つのことに集中できず不安によって心が散らされる」であるそうです。このルカ福音書10章に「マルタとマリア」の小見出しの個所がありますが、ちょうどマルタがこの状態でしたので、イエス様にこうたしなめられました。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」思い悩んでいる状態は、心が乱れている状態です。「何を着ようかと思い悩むな。」服には社会性もあるので、服装に気を配ることは必要でしょう。しかし高価な着物を買って、どのように体を着飾ろうかと思い悩む必要はないと、イエス様はおっしゃっているのではないかと思います。
前にも申しましたが、新約聖書のペトロの手紙(一)5章7節に、こうあります。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなた方のことを心にかけていて下さるからです。」任せるは委ねると訳すこともできますが、「任せる」の原語のギリシア語は「投げる」の意味だそうで、「思い煩いを全て神様に投げつけなさい」と訳すこともできると聞きました。神様に私たちの思い悩み、思い煩いを、何となく神様に委ねるのではなく、神様に投げつけなさい、思い切って神様に投げつけなさいの意味だと聞きました。遠慮しないで、私たちの思い悩みを、神様に思いきり投げつけてよいのです。野球のピッチャーになったつもりで、私たちの思い煩いを、時速160キロで投げつけましょう。すばらしいキャッチャーである神様が、しっかりと受けとめて下さいます。
イエス様は、父なる神様に信頼しなさいと呼びかけます。24節以下「烏のことを考えて見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養って下さる。」これは、怠慢でよいという意味ではありません。人間は労働する必要があります。パウロは、テサロニケの信徒への手紙(二)3章で書いています。「聞くところによると、あなた方の中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、私は主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように。落ち着いて仕事をしなさい。」ですから働かなくてよいという意味ではありません。今日の一日も、明日の一日も、神様に信頼しなさいというのです。
そして私たちを励まして下さいます。「あなた方は鳥よりもどれほど価値があることか。あなた方のうち誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さなことさえできないのに、なぜ、ほかのことまで思い悩むのか。」寿命という言葉を、身長と訳す聖書もあります。文語訳がそうです。「汝らのうちたれか思い煩いて、身の丈一尺を加え得んや。」寿命と訳された言葉には、身長の意味もあるようです。多くの訳が寿命と訳していますが、たとえばニューキングジェイムズ訳は身長と訳しています。寿命を延ばすことも、若くない人が身長を伸ばすことも、難しい。イエス様はそれらを「こんなごく小さなこと」と言われます。人間には「ごく小さなこと」ではないのですが、神様から見れば「ごく小さなこと」なのでしょう。
ここに烏が登場します。マタイ6章では「空の鳥」です。旧約聖書のレビ記11章13節には鳥類のうちで汚らわしく、食べてはならないものに、「烏の類」が含まれています。だとすれば、神様は汚らわしい烏をさえ養って下さる。まして汚らわしい烏よりはるかに価値がある私たち人間の一人一人を養って下さらないはずがないというメッセージになります。詩編147編8節にも神様は「獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば、食べ物をお与えになる。」
イエス様は、父なる神様の愛に信頼するようにと言われます。27節「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなた方にはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。」神様は、栄光に満ちたソロモン王よりも、野の小さな花に恵みを注ぎ愛を注ぎ、豊かに顧みて下さっているというのです。私たちは小さな花をよくよく見て、そのことに気づく必要があるのですね。神の恵みの一つ一つを、じっくり数えてみる必要があるのです。小さな野の花にさえ配慮を注ぎ、愛をもって装って下さる神は、鳥よりも花よりもずっと価値のある私たち人間の一人一人に、食物を与えて養って下さらないはずがない。信頼しなさい、というのです。花は思い煩うことなく、懸命に咲くことに専念しているのです。一本の花から学びなさいと言われるのです。
あの星野富弘さんが、本日のルカ福音書とほとんど同じ内容のマタイ福音書6章を、大好きな聖句として挙げておられます。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなた方の天の父はこれを養っていて下さるのです。あなた方は鳥よりも、もっと優れたものではありませんか。」
29節以下「あなた方も、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それらはみな、世の異邦人(真の神を知らない人々)が切に求めているものだ。あなた方の父は、これらのものがあなた方に必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」マタイ福音書6章では、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」まず神様に従うことを第一にしなさい、礼拝を第一にしなさい。そうすれば衣食は、神様が責任をもって下さる。最近、ある教会の週報を拝見しました。今年度の教会目標が、「神の国と神の義を求める教会」と書かれていました。いわゆる地方の教会です。礼拝出席人数5名と書かれていました。人数は少ない。しかし志は高いと強い感銘を受け、尊敬する気持ちになりました。「神の国と神の義を求める教会。」もちろん全ての教会がそうである必要がありますし、東久留米教会ももちろんそうでありたいのです。32節に私たちは、大いに励まされます。「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を下さる。地上で小さな教会であったとしても、父なる神様は、喜んで神の国、天国を私たちにプレゼントして下さるので、大変感謝です。
「あなた方の父は喜んで神の国を下さる」は、口語訳では「御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」です。ここで思い出すのは、クリスマスの場面です。あの名もなき貧しい羊飼いたちが聞いた天使の讃美です。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」「あなた方の父は喜んで神の国を下さる」の「喜んで」と、天使の賛美の「御心に適う」は、元のギリシア語で非常に似た言葉です。全く同じではないのですが、よく似た近しい言葉です。つまり、神の国と神の義を求める小さな群れは、御心に適う群れで、神様は喜んでその小さな群れ、そしてあの羊飼いたちにも、神の国と平和を与えて下さるのです。
神の国と神の義を求めるには、どうすればよいか。次に具体的に書かれています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなた方の心のあるところに、あなた方の心もあるのだ。」簡単ではない求めです。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。」貧しい人々にでしょう。売り払うとは、全部売ることでしょうから、なかなかできません。現実には、できる範囲で行うことになると思います。
今日のポイントの1つが「思い煩うな」であるとすれば、フィリピの信徒への手紙4章5節以下にも、よく通じ合う御言葉があります。「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」私は以前、口語訳で暗唱していました。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなた方の求めるものを、神に申し上げるがよい。そうすれば人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」
私の父は、去る11月24日(月)に、95歳で天に召されましたが、今年のあの大変な猛暑だった夏には私は、「この夏を乗り切れるだろうか」と心配していました。特に8月下旬に、台湾ユースミッションという企画に参加して広島市と長崎市に行くことになっていましたので、「神様、この期間に父を召さないで下さい」とかなり必死な思いで祈っておりました。全然思い煩っていなかったと言ってしまうと、嘘になります。思い煩っていたのですが、一生懸命お祈りもしていました。神様が憐れんで下さったということでしょう。その期間に父が召されることはなく、その後三か月の日々を与えて下さったと思うのです。
本日の旧約聖書は、士師記7章1節以下です。この個所を長々語るつもりはありませんが、ポイントは人数が多いことがよいとは限らないということでしょう。神様が、ミディアン人と戦おうとするイスラエルの人々のリーダー・ギデオンに、意外に思えることを言われます。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から2万2千人が去り1万人が残ります。神は言われます。「民はまだ多すぎる。」そして300人が選び出されます。私たちから見れば300人も多いですが、神が共におられれば、少人数でも恐るるに足りない。感謝と喜びをもって神と共に進みましょう。