日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2022-01-16 0:46:43()
「洗礼を受けられたイエス様」 2022年1月16日(日)降誕節第4主日説教
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、頌栄29、「主の祈り」、交読詩編56,使徒信条,讃美歌21・267、聖書 イザヤ書42:1~4(旧約1128ページ)、マタイによる福音書3:13~17(新約4ページ)、祈祷、説教「洗礼を受けられたイエス様」、讃美歌21・67、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書42:1~4) 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。

(マタイによる福音書3:13~17) そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

(説教) 本日は、降誕節第4主日の礼拝です。クリスマスの前の礼拝からマタイ福音書1章から読み始めましたが、この流れは本日までと致します。本日はマタイ福音書3章の後半です。イエス様が洗礼をお受けになる場面です。

 13~14節「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼(バプテスマ)を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『私こそ、あなたから洗礼(バプテスマ)を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか。』」洗礼者ヨハネはイエス様を見て、驚きました。「イエス様が来られた! この方は神の子ではないか。最も尊い方だ。」ヨハネはすぐ前の11節でイエス様のことを語ったのです。「私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私は、その方の履物をお脱がせする値打ちもない。」これはヨハネの本心です。ヨハネが謙遜のふりをしてこう言ったのではなく、正真正銘の本心でした。ヨハネは自分も罪人(つみびと)の一人であり、イエス様は全く罪のない完全に清い神の子であることを知っていました。彼はヨハネ福音書3章では、「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない」と国学しています。

 ヨハネはイスラエルのファリサイ派やサドカイ派の人々に向かって、火のように厳しいことを言いました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」これだけ厳しいメッセージを語りましたが、ヨハネは傲慢な人ではありません。ヨハネは聖霊に満たされていて、清く正しく生きるように心がけていましたが、それでも自分も罪人(つみびと)の一人であることを知っていたと思います。それで自分にはイエス様の「履物をお脱がせする値打ちもない」ことをよく知っていました。それでイエス様が洗礼を受けるためにヨハネの前に来られた時、ヨハネは驚いて「私こそ、あなたから洗礼(バプテスマ)を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか」と言いました。「イエス様、これではあべこべです」と言いたかったのです。確かにあべこべです。

 ですがイエス様はお答えになります。15節「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふわさしいことです。」「行う」と訳されたギリシア語原文のは「満たす」の意味の言葉です。神の御心・ご意志を満たすということですね。口語訳聖書では、「すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」となっています。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられることは、父なる神様の御心の成就、父なる神様が喜ばれることだと分かります。

 そこでヨハネは、イエス様の言われる通りにし、イエス様に洗礼をお授けしました。二人で父なる神様の御心に従ったのです。16節「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき(原文は「見よ」)、天がイエスに向かって開いた(マルコ福音書では「天が裂けた」)」。イエスは、神の霊(聖霊)が、鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」鳩は聖霊のシンボルです(平和のシンボルである時もあります)。聖霊のシンボルは鳩だけでなく、火や水が聖霊のシンボルであることもあります。17節「その時(原文「見よ」)、『これは私(父なる神様)の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」父なる神様の声です。イエス様を「私の愛する子」と呼ばれました。イエス様が、父なる神様に深く愛されている子、神の子であることがここで明らかにされました。そしてイエス・キリストは、神様(神の子)があえて人間になって下さった方です。イエス・キリストは神の子であり、同時に私たちと同じ肉体をもつ人間です。人間マリアさんから生まれたからそう言えます。この16、17節の短い2節に、神の子イエス・キリスト、神の清き霊である聖霊、そして(声のみですが)父なる神様が登場しています。まさに父・子・聖霊なる三位一体の神様が登場しておられます。その意味でも重要な箇所です。
 
 父なる神様の声は、「これは私の愛する子、私の心に適う者」ですが、後半の「私の心に適う者」を直訳すると「私はこれを喜ぶ」になります。「私はこれを(イエスを)喜ぶ」とおっしゃっています。父なる神様は、イエス様の存在を喜んでおられ、イエス様がヨハネから洗礼を受けられたことをも、喜んでおられます。父なる神様は、本日の旧約聖書であるイザヤ書42章1節を踏まえて、こうおっしゃったと言われます。42章1節の2行目にこうあります。「私が選び、喜び迎える者を。」このイザヤ書42章1節以下の小見出しは、「主の僕の召命」です。「主の僕」がイエス様を指していることは、明らかでしょう。「見よ、私(父なる神様)の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」「彼は国々の裁きを導き出す。」裁きは正義と言えます。主の僕イエス様は、国々を正義によって治めるということと思います。イエス様は、深い思いやりのある方です。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。」彼は選挙カーのように叫び、呼ばわって、自分を宣伝することをしません。「傷ついた葦(傷ついた人)を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」とは、」弱い者を暴力で倒すことなく、いじめたりせず、いたわって寄り添い、慰め励まして下さることと思います。ありがたい救い主の姿です。

 マタイ福音書に戻りますと、昔から多くの人々が疑問に感じたのは、罪が全くないイエス様は、罪の赦しの洗礼を受ける必要が全くないのに、なぜヨハネから洗礼をお受けになったのか、と言う点です。クリスチャン作家の三浦綾子さんも、このことについて文章を書いておられますが、私など恥ずかしながら、それを読むまでその疑問を思いつきませんでした。確かに言われてみれば、私たち罪人(つみびと)と違って、全く罪のないイエス様が洗礼を受ける必要は全然ありません。それなのになぜ、あえて言えばイエス様の履物をお脱がせする値打ちもない罪人(つみびと)ヨハネから、洗礼をお受けになったのでしょうか。

 これは確かにイエス様のへりくだりです。イエス様は上昇志向の方ではなく、その逆の生き方をなさいます。進んで下へ下へと向かい、奉仕の道、仕える道、僕(しもべ)へとへりくだる生き方の象徴の一つが、ヨハネから洗礼を受けられたことと言えます。イエス様は洗礼を受けることで、私たち罪人(つみびと)の友となって下さいました。私たち罪人(つみびと)と同じ立場に身を置いて下さったのです。罪人(つみびと)の友になって下さいました。イエス様のへりくだりの第一歩は、クリスマスの出来事です。イエス様は天におられ、しかし天におられるままでは私たち罪人(つみびと)を助けることができません。そこで天での栄光を捨てて、罪と死と悪魔の支配するこの世界に無力な赤ちゃんとして生まれて下さいました。私たちと同じ、切れば赤い血が出て痛みを感じる肉体を持つ人間として生まれて下さいました。それも貧しいヨセフとマリアの長男として貧しい馬小屋(家畜小屋)に生まれて下さいました。ただひたすら私たち罪人(つみびと)への愛のゆえです。

 その次に、ご自分は洗礼を必要としないのに、洗礼を必要とする私たち罪人(つみびと)同じ立場に立って友となるために、罪人(つみびと)の一人ヨハネの前に、おそらく頭を垂れて洗礼をお受けになりました。この生き方は更に進み、ヨハネ福音書13章では、イエス様が弟子たちの前にもしかするとひざまずいて、弟子たちの汚れた足を洗って下さいました。弟子たちへの愛のゆえの謙遜の行為です。そして私たち罪人(つみびと)の全ての罪の責任を身代わりに背負って、十字架にかかって下さいました。究極のへりくだりです。イエス様のこの生き方を、新約聖書のフィリピの信徒への手紙2章6節は、こう表現していますね。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」 

 僕(しもべ)という言葉が出て来ましたが、イエス様ご自身もマルコ福音書10章43~45節でこう語っておられます。「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子(イエス様)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」イエス様は、父なる神様のご意志に従って、服従してこの生き方をなさいました。ここで大切なのは、イエス様が父なる神様への愛と私たちへの愛のゆえに、このへりくだりと奉仕の生き方をなさったということです。イエス様は決していやいやながら、無理やりがまんして貧しい馬小屋(家畜小屋)に生まれ、いやなのを我慢して洗礼を受け、弟子たちの足を洗い、いやいやながら十字架に架かられたのでありません。確かに私たちと同じ肉体をもつイエス様にとって、十字架は肉体的にも精神的にも想像を超えた苦しみだったことは間違いありません。でもイエス様は、父なる神様への愛のゆえに、私たち罪人(つみびと)への愛のゆえに、父なる神様のご意志に従い服従して、決断して十字架に進まれました。私たちへの愛のゆえに自発的に十字架に向かわれたとさえ言えます。

 そのイエス様に、父なる神様は三日目の復活という大きな報いを与えられました。イエス様の十字架の愛によって罪の赦しと永遠の命の恵みを受けた私たちもまた、聖霊に助けられて、進んでイエス様に従う生き方へと押し出されます。イエス様に従って、父なる神様と隣人を愛して生きよう。無理やり強制されてではなく、イエス様の十字架の愛に感謝するがゆえに自発的に、自分から進んで、少しずつであったとしても、父なる神様とイエス様と隣人を愛して生きるように励まされます。自発的に。これがキリスト者の自由であり、キリスト者の愛です。父なる神様を愛する生き方は、父なる神様を礼拝する生き方になります。

 さて、イエス様と違い私たちは罪人(つみびと)であり、罪の赦しを受ける必要があるので洗礼を受けます。洗礼にどんな意義があるか、ローマの信徒への手紙6章4節以下で確認したいと思います。新約281ページ上。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」洗礼には本当に水に入る方式もあり、東久留米教会で行うように水を頭に垂らす方式もあります。どちらでも有効です。イエス様はヨルダン川に入られたでしょう。私たち罪人(つみびと)が水に入ることは、そこで私たち罪人(つみびと)の罪が死ぬことを意味します。罪深い古い自分が死んで滅びる。そのためには洗礼を受ける時に(前に)自分の罪を悔い改める必要があります。罪を悔い改めて罪に死ぬことが大切です。水から上がる時には、イエス様と同じ復活の命、永遠の命、愛の命を新しく受けて、新しい命に立ち上がるのです。これはすばらしいことです。

 しかもその時に、神様の清き霊、イエス様の愛の霊である聖霊を受けます。洗礼を受ける時、私たちの罪ある古い自分がイエス様と共に十字架につけられて死に、イエス様の復活の命と同じ復活の命に復活して立ち上がるのです。その後の生きる方向はイエス様と同じ方向を目指し、父なる神様を愛し、自分を正しく愛し(エゴイズムとは別)、隣人を愛する方向に生き始めます。さらにイエス様と同じに敵をさえ愛する方向に進み始めます。確かに自力ではこれは難しい。でも私たちには聖霊が注がれていますから、生ける真の神の霊である聖霊が助けて下さいます。敵をさえ少しずつでも愛そうとする時に、私たちに真の自由が与えられます。生まれつきの私たちは、好き嫌いの感情に負けやすいのです。好きな人には親切に、嫌いな人には親切にできない。これは不自由です。神様は私たちに真の自由を与えて下さいます。自分の好き嫌いの感情に負けないで、誰をも愛する自由です。この自由に生きることができるようになることは奇跡です。聖霊なる神様が私たちもその奇跡を
与えて下さるのですね。

 私たちは洗礼を受け、聖霊の愛を注がれ少しずつ清められても、この地上にいる時は私たちにはまだ自己中心の罪が残っています。日毎に悔い改めることで罪が死んでも、地上ではまだ罪が残っています。私たちが地上の人生を受けて死ぬ時、私たちの罪も完全に死にます。もちろん地上で長生きしてよいのですが、私たちが死ぬ時には、私たち罪が完全に死に絶えます。そして罪が全然ない完全い清い状態になって天国に誕生します。私たちは罪を悔い改めて洗礼を受けた時に自分の罪に死に始め、地上の人生が終わった時に罪が完全に死に絶えます。クリスチャンにとって地上の死は、洗礼の完成ですね。私が洗礼を受けたのは1988年10月23日。あの時洗礼の意味を学んで受けましたが、全て分かっていたのでもありません。その後の信仰生活で少しずつ分からせていただいたのです。洗礼を受けた時、こんな文章を書いています。「子どもの頃、時々カトリックの日曜学校に通っていた。プロテスタントの高校に入り、新約聖書が配布され、初めて聖書に目を通した。高校卒業後に高校時代のクリスチャンの友人と交流する中で、榎本保郎さんという牧師がご自分の半生をふりかえった『ちいろば』という本で、エルサレムに入城されるイエス様をお乗せした小さい「ろばの子」のように、ご自分もイエス様をお乗せして、その指示通りに進んで行かんとする榎本牧師の姿が描かれていました。これを読んでキリスト教の『すごさ』を思い知らされ、遂に捕らえられてしまいました。聖書には『あなたが私(イエス様)を選んだのではない。私があなたを選んだ』と書いてあります。『人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである』とも書いてあります。長い間、心に信じてはきたものの、口で告白(信仰告白)することは避けてきました。しかし今、口で告白して救われたいと思います。」洗礼の恵みへと全ての方が入って下さり、既に洗礼を受けた方々も、洗礼の深い恵みをさらに深く味わいながら、共にイエス様に従って参りたいのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。オミクロン株を静めて。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒し。病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタンに平和。

2022-01-02 0:00:36()
「神様に従う方向転換」 2022年1月2日(日)降誕節第2主日礼拝説教 
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、頌栄28、「主の祈り」、交読詩編54,日本基督教団信仰告白,讃美歌21・248、聖書 イザヤ書40:1~5(旧約1123ページ)、マタイによる福音書3:1~12(新約3ページ)、祈祷、説教「神様に従う方向転換」、讃美歌21・262、聖餐式、献金、頌栄24、祝祷。 

(イザヤ書40:1~5) 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

(マタイによる福音書3:1~12) そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

(説教) 皆様、新年おめでとうございます。本年もご一緒に神様への礼拝を献げ続けて参りたいと思います。教会の暦(カレンダー)では、本日は降誕節第2主日の礼拝です。本日与えられているマタイ福音書3章は、先週の箇所の続きです。赤ちゃんイエス様がへロデ王に命を狙われたので、ヨセフはイエス様の母マリアを連れて、エジプトに避難しました。へロデの死後、イスラエルに戻り、北のガリラヤ地方のナザレという町に住んだのです。

 月日が一気に約30年進み、今日の箇所の場所は紀元30年か少し前のイスラエルです。1節「その頃、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」救い主イエス・キリストの公の働きが始まる前に、洗礼者ヨハネがイスラエルの民に神様からのメッセージを宣べ伝えます。洗礼者ヨハネはこうして、イスラエルの人々の心を耕して、救い主イエス様が働きやすいように道備えをしています。ヨハネは荒れ野に住んでいました。荒れ野は、基本的には岩しかないような場所と思います。命が、緑があまりない場所と思います。生存するに厳しい環境です。洗礼者ヨハネは、あえてそこで非常に質素な暮らしていました。イエス様が荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになったことからも分かるように、荒れ野は悪魔が跋扈する場所でもあります。しかし洗礼者ヨハネは、その荒れ野で、ひたすら真の神様の御声に耳を澄ませて、真の神様の御言葉を聴くことに専心全霊を傾注して、祈り深い日々を重ねていました。

 そして伝道の第一声を発しました。「悔い改めよ、天の国は近づいた。」「悔い改める」は、元のギリシア語で「メタノイア」という言葉です。メタノイアは、方向点検するの意味だと聞いています。それも180度の方向転換です。本日の説教題を「神様に従う方向転換」と致しました。聖書で言う罪とは、色々な悪い行いでもありますが、より根本的には「的外れ」を意味すると聞いています。私たちが、神様という的に向かってまっすぐに生きてゆけばよいのですが、そうしないで神様という的に向かわないで、それぞれが勝手な方向に進む生き方をすることが的外れ、つまり罪です。その的外れの生き方から180度方向転換して、神様に従う方向に向かって生き始めることこそ、「悔い改め」に他なりません。ヨハネは人々に向かって叫びます。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」天の国は天国、言い換えれば神の国、神の愛の正義のご支配です。
 
 さて3節。「これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』」洗礼者ヨハネの出現は、旧約聖書の偉大な預言者の一人イザヤによって予告されていたのですね。次の4節。「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」荒れ野の聖者・洗礼者ヨハネ! 実に質素ないでたちと生活です。いなごは旧約聖書レビ記11章で、食べてよいとされています。ヨハネは旧約聖書の掟に従う生き方をしていたのです。私はいなごを食べたことがありませんが、いなごは日本人も食べて来ました。そこでヨハネに親近感を抱く方もおられるのではないでしょうか。このヨハネのいでたちは、旧約聖書に登場する預言者エリヤのいでたちと同じです。旧約聖書の列王記下1章8節で、預言者エリヤに出会った人々がエリヤの姿について、「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と言っています。預言者エリヤと洗礼者ヨハネは別の人間ですが、でもヨハネにはエリヤの霊が宿っていたのです。旧約聖書最後の書であるマラキ書3章23節に、こうあります。「見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」世の終わりの日、神の国の完成の日の前に、神様が預言者エリヤをイスラエルの地に遣わすという約束です。この約束に従って生まれたのが洗礼者ヨハネです。エリヤとヨハネは別の人間ではありますが、エリヤの霊がヨハネに宿っていました。

 洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝え続けると、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」これほど多くの人々がヨハネの元に来て罪を告白し、ヨハネから洗礼を受ける出来事が起こったことは、驚くべきことです。人間の力ではく、聖霊の力、神様の力が働いたに違いありません。真心から自分の罪を告白することは、神様に喜ばれることです。旧約聖書の箴言28章13節に、こう書かれています。「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」

 罪の告白と悔い改めについて、私が印象深く思い出すのは、ドストエフスキーというロシアの作家が書いた『罪と罰』という長い長い小説の最後の方の場面です。人を殺してずっと隠していた主人公ラスコーリニコフは、無学で貧しい娘ソーニャには打ち明けます。「これから僕はどうしたらいいんだ!」そしてソーニャに言われるのです。「どうすればいいって? お立ちなさい。今すぐ外へ行って、十字路に立ち、ひざまずいて、あなたがけがした大地に接吻しなさい。それから世界中の人々に対して、四方に向かってお辞儀して、大声で『私が殺しました』と言うのです。そしたら神様がまたあなたに命を授けて下さるでしょう。行きますか? 行きますか?」暫く後に彼はそれを実行して捕まるのですが、これは絵に描いたような劇的な罪の告白と悔い改めの場面と思います。「ひざまずいて、あなたがけがした大地に接吻しなさい。それから世界中の人々に対して、四方に向かってお辞儀して、大声で『私が殺しました』と言うのです。そしたら神様がまたあなたに命を授けて下さるでしょう。これを実行したのです。」

 ヨハネは、罪を告白して洗礼を受けた人々の中でも、ファリサイ派やサドカイ派の人々に、火のような厳しいメッセージを語ります。ファリサイ派、サドカイ派はユダヤ教の中のグループと言えますが、ファリサイ派の問題点は思い上がって傲慢なこと、サドカイ派の問題点は世俗的なことではないかと思います。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」彼らの悔い改めが、まだまだ表面的と感じたのかもしれません。「実を結ぶ」とは、神様を愛し、隣人を愛する生き方をするようになることです。これは私たちの頑張りでは十分にできません。私たちは生まれつき自己中心の罪にまみれているからです。私たちが実を結ぶには、神様の生きておられる霊である聖霊の助けが必要です。よく神様にお祈りして、私たちに聖霊を注いでいただくことが必要です。聖霊を注いでいただくと、私たちの自己中心の心が時間をかけて清められ、少しずつ神様を知り、隣人を愛する実を結ぶ生き方に、次第に進ませていただくことができると信じます。ガラテヤの信徒への手紙5章22節に「霊(聖霊)の結ぶ実」とは何かが書かれています。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」これはまさにイエス・キリストの人格そのものです。実を結ぶとは、ほんの少しずつでもイエス様に似た人となることです。もちろん姿形ではなく、人格と生き方のことです。

 9節「『我々の父(先祖)はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」ファリサイ派・サドカイ派の誇りは、自分たちが神の民イスラエルの偉大な先祖アブラハムの血を引いていること、アブラハムの子孫だということでした。それで鼻高々だったと思います。しかしイエス様は、あなた方が信仰の人アブラハムの子孫だからと言って、自動的に天国に入れるわけではない。そんな安易なものではなく、一人一人の神様に従う信仰が大切だとおっしゃったのだと思います。「神はこんな小さな石ころからでも、アブラハムの子たち(真の信仰者)を造り出すことがおできになる。」父なる神様に不可能なことは一つもない。一見神の国から最も遠く離れているように見える異邦人(外国人)や、イスラエルで嫌われている徴税人(税金集めの人)をさえ、神様は祝福して真の信仰者に造りかえることができる。イスラエル人だから自動的に天国に入れると考えて、うかうかして油断していたら失敗するよ、とおっしゃったのです。

 旧約聖書のダニエル書4章14節に、こんな御言葉があります。「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれを誰にでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできる。」「最も卑しい人を立てて、王様にすることも神にはできる。」神様は、最も信仰の道から遠そうに見える人を造りかえて、最もすばらしい信仰者にすることもできる。信仰の父アブラハムの子孫だから自分も自動的に天国に入ることができると安易な気持ちで、高を括っていては、失敗するよ、と洗礼者ヨハネはファリサイ派やサドカイ派に忠告したのです。このメッセージを聞いて、私どももまた思い上がらないで、誠実にイエス様に従う生き方を忘れてはいけないと、気を引き締めるのです。

 10節「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」まさに火のように厳しいヨハネのメッセージです。ヨハネは新約聖書の登場人物ではありますが、旧約聖書の時代の最後の預言者と言ってもよいと思います。預言者は、神様の真実の御言葉を預かって語る「神の人」です。11節「私は悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私はその方の履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなた方に洗礼をお授けになる。」悔い改め。それは神様に従う方向に向き直る方向転換ですが、16世紀の宗教改革者マルティン・ルターは、有名な言葉を書きましたね。「イエス・キリストが(今日の御言葉で悔い改めを求めているのは洗礼者ヨハネですが)私たちに悔い改めなさいと言われた時、それは私たちの全生涯が悔い改めであることを求められたのである」と。私たちは自分の罪を知り、本当は私たちが自分の全ての罪の裁きを受けて十字架に架からねばならないのに、イエス・キリストが私たち罪人(つみびと)を愛して、身代わりに十字架に架かって下さったことを知り、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けます。すると全ての罪の赦しを受け、神の子とされ永遠の命を受けます。

 しかし私たちにはまだ罪が残っており、毎日少しずつ罪を犯してしまいます。その罪の悔い改めは必要です。もちろん洗礼は非常に重要ですが、洗礼を受けたらその後は悔い改めは全く必要ないわけではありません。地上では私たちが神の子になっていても、まだ完全に清くなっておらず罪が残っているので、毎日悔い改めが必要です。それを忘れると、堕落する恐れがあります。それでルターは、「イエス様が私たちにお求めになったことは、私たちの全生涯が悔い改めであることだ」と大事なことを、宗教改革のスタートに時に書いて貼り出して、教えて下さいました。当時の教会が悔い改めを忘れていたのだと思います。私たちは、日々悔い改めることによって、自分を改革し、祈って聖霊を毎日注がれることで、日々新しくされ、次第にイエス・キリストに人格と生き方が似るようにしていただけます。

 ヨハネは告白します。「私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私はその方の履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」その方は、もちろんイエス・キリストです。イエス様は全く罪がない清い神の子であり、父・子・聖霊なる三位一体の神様です。洗礼者ヨハネもかなり清い人ですが、イエス様と比べれば罪があるはずです。そこで「私はその方の履物をお脱がせする値打ちもない」と告白しました。彼の本心です。無理に謙遜のふりをしているのではありません。心からそう思っています。洗礼者ヨハネは、ヨハネ福音書3章では「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない」と言っています。ヨハネは、イエス様がヨハネの罪も含め、私ども全員の全部の罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死んで下さいます。イエス様を憎む人々の罪をも背負って十字架で身代わりに死なれます。そうしてイエス様は、本当に敵を愛したのです。イエス様が敵をさえ愛されることを知っているヨハネは、自分はそこまでできないと思ったのではないでしょうか。それで「私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私はその履物をお脱がせする値打ちもない」と告白したと思います。

 12節。その方は「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」イエス様がそうなさるとヨハネは考えました。確かに、世の終わりには全ての罪が焼き尽くされるでしょう。そうなのですが、救い主イエス様はまず、ご自分が私たちの身代わりに十字架で裁き尽くされて下さる方です。他人の罪を裁くより先に、ご自分が十字架で私どもの罪を全て身代わりに背負って、裁き尽くされて下さる方です。

 ヨハネが授ける洗礼と、教会がイエス様の十字架と復活の出来事を経て授ける洗礼(父・子・聖霊なる三位一体の神様のお名前による洗礼)は違うことも確認したいと思います。ヨハネが授ける洗礼はまだ不完全で、永遠の命を完全には保障する洗礼ではないと思います。しかし教会が授ける洗礼は、感謝なことにイエス様の十字架による全ての罪の赦しと復活による永遠の命を土台としているので、もっと優れた洗礼です。永遠の命を保障する洗礼です。私はよく引用するのですが、ローマの信徒への手紙5章16節を御覧下さい。新約280ページ上、終わりから2行目。「裁きの場合(旧約聖書の場合、洗礼者ヨハネの場合)は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵み(イエス様の十字架と復活の恵み)が働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」私どもは洗礼者ヨハネの時代の先の時代、イエス・キリストの十字架と復活による福音が与えられた時代に生かされています。全ての人が罪を悔い改めて方向転換し、イエス・キリストを救い主と信じ、できれば洗礼を受けて神様の子となるように、心より祈ります。この後、聖餐を受け、神様の子どもとされている恵みを、感謝して味わいたいのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。オミクロン株を静めて。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒し。病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタンに平和。

2021-12-26 2:09:48()
「危機の中の神様の守り」 2021年12月26日(日)降誕節第1主日礼拝説教 
礼拝順序:招詞 コリント(二)8:9、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編53,使徒信条,讃美歌21・259、聖書 エレミヤ書31:15~17(旧約1235ページ)、マタイによる福音書2:13~23(新約2ページ)、祈祷、説教「危機の中の神様の守り」、讃美歌21・265、献金、頌栄92、祝祷。 

(エレミヤ書31:15~17) 主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。

(マタイによる福音書2:13~23) 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

(説教) 先週クリスマス礼拝を献げ、本日は降誕節第1主日の礼拝です。先週のマタイ福音書2章前半は、占星術の学者たちがベツレヘムに来て、赤ちゃんイエス・キリストに黄金、乳香(フランキンセンス)、没薬(ミルラ)という3つの宝を献げた有名な場面でした。本日は続きです。最初の小見出しは「エジプトに避難する」です。占星術の学者たちは自分たちの国へ帰って行きましたが、イエス様には危機が襲います。13節「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこにとどまっていなさい。へロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』

 ヨセフは、神様に非常に忠実に従う人です。眠りの夢の中で天使のこのメッセージを聞くと、すぐに起きて夜のうちに赤ちゃんイエス様とマリアを連れて、エジプトに向けて出発しました。夜眠っていたのに、すぐ起きて神様に従って行動するところが立派です。へロデ(へロデ大王と呼ばれた)が死ぬまでエジプトで過ごしました。当時のエジプトは、いろいろなピンチに陥った人がそこに逃れて過ごす逃れ場、安全地帯、シェルターのような一面があったようです。へロデの魔の手も大国エジプトまでは及びませんでした。父なる神様がエジプトで、イエス様とヨセフ・マリアを守って下さいました。へロデは紀元前4世紀に亡くなっていますので、イエス様一家は1~3年くらいエジプトに滞在した可能性があります。

 15節に「それは、『私(神様)は、エジプトから私の子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」これは、旧約聖書ホセア書11章1節の引用です。そこにはこうあります。「まだ幼かったイスラエルを私(神様)は愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」神の民イスラエルへの、神様の愛の言葉です。直後の2節には、神様の悲しみの言葉が続きます。イスラエルが真の神様を裏切ったのです。「私が彼らを呼び出したのに、彼らは私から去って行き、バアル(偽物の神)に犠牲を献げ、偶像に香をたいた(偶像=偽物の神を礼拝した)。」3~4節は、再び神の民イスラエルへの、神様の愛の言葉です。「エフライム(イスラエル)の腕を支えて、歩くことを教えたのは私だ。しかし、私が彼らを癒したことを、彼らは知らなかった。私は人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛(くびき)を取り去り、身をかがめて食べさせた。」神様が出エジプトを脱出したイスラエルの民を、深い愛情をもって養ったことが記されています。イスラエルの民がエジプトを脱出して40年間、荒れ野をさまよって旅した間、ずっとマナなどの食物によってイスラエルの民を養って下さったのです。しかしイスラエルの民は、その神様の愛に対して感謝をもって応答するよりも、真の神様を捨てて、偽物の神々の方に行くことが多かったのです。

 さて、イエス様も一旦、エジプトに逃げられました。そしてそこから改めてイスラエルの地に戻るのです。それは第二の出エジプトではないでしょうか。旧約のイスラエルの民の第一の出エジプトに対して、イエス様がエジプトからイスラエルに戻ることは第二の出エジプトと言えます。イエス様とヨセフ、マリアは、旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗を繰り返さないのです。イエス様とマリア、ヨセフは偶像礼拝(偽物の神を礼拝する)の罪を決して犯しません。真の神様のみを礼拝し、真の神様にひたすら従い続けるのです。これをある人は「踏み直し」と呼んだそうです。旧約聖書のイスラエルに似て、イエス様も出エジプトなさるのですが、その後の歩みは旧約聖書のイスラエルの民と違うのです。旧約のイスラエルの民は、最も基本のモーセの十戒をちゃんと守らない・守れないのです。罪を犯してしまう。

 しかしイエス様とマリア、ヨセフは違います。この一家、特にイエス様は、神の民イスラエルの代表とも言えます。代表であるイエス様は、旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗を一つも繰り返しません。却って旧約のイスラエルの民の罪と失敗を取り戻し、回復させ、ある人の言い方では「踏み直す」「生き直す」「やり直す」道を歩まれます。真の神様に100%従い通す、従いきるのです。イエス様こそ、イスラエルの民の真の代表者です。真の神様に100%従い、遂には十字架の死に至るまで100%従順に、父なる神様に従いきるのです。旧約のイスラエルの民の罪と失敗の歴史は、イエス様によって歩み直され、生き直され、本来あるべき姿に回復されるのです。イエス様はへロデが死ぬまでエジプトにおられました。「それは『私(神様)は、エジプトから私の子を呼び出した』と、主が預言者(ホセア)を通して言われていたことが実現するためであった」とあります。神様はエジプトからイスラエルの民を脱出させたのですが、このことはイエス様による第二の出エジプトによって完成されたということだと思うのです。

 そしてイエス様は、イスラエルの民の全部の罪を十字架で背負いきって下さいました。そのためにクリスマスに生まれて下さったのです。イエス様は私ども一人一人の全部の罪をも十字架で背負いきって下さり、私どもを神の正しい怒りから解放して下さいました。私どもが将来、心ならずも犯してしまう罪も、イエス様は十字架で既に背負いきって下さいました。ここで特に私どもが過去において犯した様々な罪、様々な失敗を考えてみます。それをイエス様が十字架で背負って下さったことは、それはイエス様が私たちを背負って、私たちの過去を正しく生き直して下さったということだと思います。イエス様が私どもを背負って、私どもの代わりに、正しく生き直して下さったということと同じと思います。これが十字架の身代わりの死の意義と思います。そして私どもの罪を帳消しにして下さったのです。

 次の小見出しは、「へロデ、子供を皆殺しにする」です。16節「さて、へロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」へロデは悪魔の手先になっています。悪魔がイエス様を憎んでいます。イエス様が地上に来られると、イエス様は悪魔のしつこい誘惑にも一度も負けず、完全に勝利なさいます。イエス様は悪魔の働きを滅ぼすために来られたのです。ですから悪魔はイエス様を憎みます。イエス様を何としても殺そうとすぐに攻撃して来たのです。この時はイエス様はエジプトに逃げて助かりますが、悪魔はイエス様をついには十字架に追いやって殺します。しかし父なる神様は悪魔より上手で、イエス様の十字架の死は、私ども全ての罪人(つみびと)の全ての罪の責任を身代わりに背負っての死として用いられたのです。悪魔が勝利したと見えたのは束の間のことで、イエス様は三日目の復活によって人類の敵である死と悪魔に完全に勝利されたのです。

 へロデの命令によって二歳以下の男の子が何人殺されたのかは分かりません。本当に悲惨なことです。出エジプト記1章でも同じ悲劇が起こりかけました。イスラエルの民の増加に脅威を感じたエジプト王が、イスラエル人の男の赤ちゃんを皆殺すように、イスラエル人の助産婦に命じたのです。しかし助産婦たちは神を畏れ敬っていたので、男児殺害の命令に従いませんでした。それで出エジプト記では男児殺害の悲劇が現実にならなかったのですが、イエス様の誕生の時にはそれが実行されてしまいました。悪魔の働きです。私たちは祈って聖霊なる神様の助けを受けて、悪魔の働きには抵抗する必要があります。

 17節「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。」次は旧約聖書エレミヤ書31章15節の引用です。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケル(イスラエルの先祖ヤコブの妻の一人)は子どもたちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子どもたちがもういないから。」創世記35章によると、ラケルはベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られたのです。ですから福音書を書いたマタイがここで言わんとすることは、ベツレヘムでのイスラエル人の二歳以下の男の子たちの殺害を目にして、イスラエルの先祖の女性ラケルが、草葉の影(ベツレヘム近くの彼女の墓の中)で泣いている、ということです。

 20世紀のドイツの牧師ボンヘッファーという人は、この殺された男の赤ちゃんたちを「幼児殉教者」と呼んでいるそうです。悪魔に全く理不尽に殺された殉教者だと。ボンヘッファーは、ナチスのトップ・ヒトラーに抵抗して死刑にされた人です。ヒトラーに率いられたナチスは、数百万人のユダヤ人を収容所のガス室で殺害した大犯罪集団で、まさに悪魔そのものです。ユダヤ人の男の赤ちゃんたちを殺させたへロデに似ている、いえ、へロデよりもっともっと悪質な悪魔的な集団です。ボンヘッファーはそのナチスのヒトラーに抵抗して、死刑にされた牧師です。自分も殺された二歳以下の男の子たちと同じように、悪魔の力で殺されようとしている。その思いでこのマタイ福音書2章を読んだに違いありません。悪魔の暴虐な力が猛威を振るっている。イエス・キリストに従う人々が殺されてしまう。理不尽に命を落とす方は、今もおられます。先日の大阪の雑居ビル内のクリニックの放火事件。25名亡くなったと報道されています。その日にそこで死ななければならない理由のない25名が命を奪われています。多くの涙が流されています。アメリカの竜巻は自然災害で悪魔の仕業と決めるわけにはいかないでしょうが命を失った方々、寒い冬に家を失った方々の辛さを思い、胸が痛みます。コロナで亡くなった方々は(昨日の新聞では)日本で1万8000人以上、世界で538万人以上です。周りの人々や社会からのサポートが必要ですが、この世界では辛いことは完全にはなくなりません。最終的には神の国の完成を待つ必要があり、ヨハネの黙示録21章の神御言葉にすがるほかないように思います。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」
これが神の国のよき姿ですが、神の子イエス様は、地上で私たちの悲しみと嘆きと労苦と涙をも共にするために、生身の体をもつ人間となって馬小屋という貧しく不潔とも言える条件の悪い場所に生まれて下さいました。宿屋に泊まる場所もなく、難民のように排除されてやっとこさ見つけた馬小屋で生まれたとも言えます。その後、一家でエジプトに逃げたのですから、故郷を追われる難民体験を三人で味わったと言えます。イエス様は、家もなく心細い難民の気持ちが分かる方だと思います。

 3つめの小見出しは、「エジプトから帰国する」です。「へロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子どもとその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。』そこでヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に帰って来た。しかし、アルケラオが父へロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」本日のマタイ福音書が繰り返し述べることは、イエス・キリストの誕生とその後のことは、旧約聖書の預言の成就(実現)であり、父なる神様のご意志だということです。イエス様の人生は楽々の人生ではありません。命をねらわれてエジプトに逃げたり、40日40夜断食して悪魔の激しい誘惑を受けたり、遂には十字架に架けられる人生です。しかし父なる神様が「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備え」(コリント(一)10:13)て下さった人生と思います。お金もちでなく、危機や苦難に襲われながらも、父なる神様に守られた地上の歩みだったと思います。
 
 「彼はナザレの人と呼ばれる」というずばりそのものの御言葉は、旧約聖書に見当たりません。ですがいくつかの候補は挙げられています。1つはイザヤ書11章1~2節です。これは明らかにメシア(救い主)預言です。「エッサイ(ダビデ王の父)の株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」この若枝がメシア・救い主・イエス・キリストを指すことは間違いありません。救い主はダビデ王の子孫から生まれると旧約聖書で予告されているからです。この若枝が原語のヘブライ語で「ネーツェール」です。ナザレの音に近いと言えます。そこでマタイ福音書の「彼はナザレの人と呼ばれる」の御言葉は、このイザヤ書11章1節だろうと言われています。もう1つの候補は、旧約聖書の士師記13章5節です。ここにはサムソンという男について「その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられている」とあります。ナジル人とは、神様に身を献げている人です。ここでもナジル人という言葉がナザレと似ていることが根拠になっています。いずれにしてもマタイ福音書には意図があり、イエス・キリストが旧約聖書の予告通りに、父なる神様のご意志によって誕生され、救い主としての使命を果たされたということです。私どもの全ての罪と失敗のマイナスの結果を取り返し取り戻し、帳消しにするために十字架にかかる。そのためにイエス様が生まれて下さった大きな恵みへの感謝を日々深める、信仰の生涯を生ききりましょう。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。オミクロン株を静めて。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒し。病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタンに平和。

2021-12-19 1:38:23()
「世界の真の王イエス様を礼拝する喜び」 2021年12月19日(日)クリスマス礼拝説教
礼拝順序:招詞 コリント(二)8:9、頌栄85、「主の祈り」、交読詩編=23,使徒信条,讃美歌21・258、聖書 ミカ書5:1~4(旧約1454ページ)、マタイによる福音書2:1~12(新約2ページ)、祈祷、説教「世界の真の王イエス様を礼拝する喜び」、讃美歌21・261、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ミカ書5:1~4) エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。アッシリアが我々の国を襲い/我々の城郭を踏みにじろうとしても/我々は彼らに立ち向かい/七人の牧者、八人の君主を立てる。

(マタイによる福音書2:1~12) イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

(説教) クリスマスおめでとうございます。ご一緒にクリスマス礼拝を守ることを許され、心より感謝申し上げます。

 過去2週間の礼拝で読んだマタイ福音書1章は、旧約聖書の流れとイエス・キリストの誕生までの経緯を語っていました。1章の23節にこうありました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられる、という意味である。」父なる神様は、主イエス・キリストにおいて、私たちと永遠に共にいることを決意されました。そこで救い主イエス・キリストを、人間の赤ちゃんとして地上に誕生させて下さったのです。それはイスラエル(ユダヤ)をヘロデ王が支配する時代のことでした。紀元前7年頃と推定されています。本日のマタイ福音書2章は、有名な場面です。

 1~2節「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」占いや占星術は、旧約聖書では真の神様への礼拝から外れる罪として禁止されています。占星術の学者たちは、以前の訳では博士たちでしたし、最も新しい聖書協会共同訳では博士たちに、いわば戻っています。元のギリシア語では、「マゴイ」で英語のマジックという言葉の元になったと聞いています。マジックは魔術と訳せますから、マゴイを魔術師と訳すこともできます。色々な知恵や知識を持っていた人々と思われます。当時の最先端の知識を持っていたでしょうが、しかし世界の真の救い主・真の王である赤ちゃんイエス・キリストの前にへりくだり、このイエス様の前にへりくだり、イエス様を礼拝することこそ、真の知恵だということを、この占星術の学者たちは私たちに、身をもって、行動で示してくれていると思うのです。

 しかも彼らはイスラエル人ではなく、異邦人(外国人)です。異邦人でありしかも旧約聖書で禁じられている占いをしていたとなると、神様の選びから最も遠くにいる人々と言えます。しかし、神様から最も遠く見える罪人(つみびと)が、罪を悔い改めて、へりくだって真の神様に立ち帰ることを、神様は大変喜んで下さいます。私が思い出すのは、旧約聖書の列王記に登場するシェバの女王です。シェバは、今のイエメン辺りと聞いています。イエス様はこのシェバの女王を非常にほめておられます。この女王がソロモン王の知恵(神が与えた知恵)を聞くために、地の果てともいうべきシェバからイスラエルに来たからです。神様に謙遜に従おうとする姿勢がイエス様に喜ばれたのでしょう。それと同じように、イエス・キリストの御前にへりくだるために東方(イラン辺りと言われます)から遠路やって来た異邦人の占星術の学者たちも、神様に非常に喜ばれたに違いありません。

 占星術の学者たちは、当時イスラエルを支配していた(と言ってもローマ帝国の許しの下で)へロデ王のもとに行きます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」「これを聞いて、へロデ王は不安を抱いた。」心がかき乱されたのです。「ユダヤ人の王は自分なのに、取って代わろうとするライバルが現れたのか。赤ん坊でも生かしてはおけない。必ず始末しなければ。」ひそかにそう決心しています。権力者はどこでもそうです。源頼朝は、敵対しつつあった弟の義経の事実上の妻・静御前が男の赤ちゃんを産むと、すぐに鎌倉の由比ガ浜に埋めて殺しています。将来のライバルの芽をすぐに摘んだのです。自分の地位を守るためです。へロデ王は、ヘロデ大王と呼ばれ、エルサレムの神殿を大きく拡張するなど、大きな建築物を複数造らせた人で、力・権力を好んだようです。その彼が、無力な赤ちゃんイエス様の誕生に脅威を覚え、心をかき乱されたのです。「エルサレムの人々も皆、同様であった。」毎年思いますが、これはやや不思議です。権力者でもないエルサレムの普通の市民たちも不安を抱きました。エルサレムの人々は皆、救い主の誕生を心待ちにしていたはずなのに、いざ本当に生まれたと聞くと、喜ぶよりも不安を抱き、心がかき乱されたようです。救い主(メシア、イスラエルと世界の真の王)が生まれたのであれば、当然救い主を、受け入れる必要があります。イエス様に心の真ん中に入っていただく。イエス様を心の王座にお迎えする。イエス様に従って生きるようになる。ライフスタイルをも変える必要もあるでしょう。それに抵抗を覚えたのだと思います。

 それにしても、占星術の学者たちは東方で星を見て、そして最終的にも星に導かれてイエス様と母マリアにお会いしています。星が通常とは違う特殊な動き方をしたものと思われます。そんなことがあり得るのでしょうか。この問いに対しては、神様はこの宇宙、自然界全体をお造りになった方なので、星をご自分目的に合わせて動かすことは、簡単にできるとお答えするほかありません。神様は、イスラエルの民がエジプトを脱出する時、葦の海を真っ二つに割って、現れた陸地の部分をイスラエルの民が渡って脱出することができるようにして下さいました。このように神様は自然界を支配しておられ、自然界をコントロールすることが簡単におできになります。またヨシュア記10章で、モーセの後継者ヨシュアが敵と戦ったとき、ヨシュアが神様をたたえて言っています。「日よ、とどまれ、ギブオンの上に。月よとどまれ、アヤロンの谷に。日はとどまり、月は動きをやめた。民が敵を打ち破るまで。~日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった。」神様は巨大な太陽の動きも自由にコントロールなさることがおできになるので、星を自由に動かすことも簡単におできになります。神様が星を自由に動かして、東方から占星術の学者たちを導いて下さったに違いありません。

 さて、不安を抱いたへロデ王は、4節にある通り民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシア(救い主、キリスト)はどこに生まれることになっているのかと問いただしました。ユダヤの信仰の指導者たちが答えます。正しい答えです。「ユダヤのベツレヘムです。預言者(ミカ)がこう書いています。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者(羊飼い、リーダー)となるからである。」これは本日の旧約聖書ミカ書5章1節です。イエス・キリストの誕生の預言です。聖書の預言は、昔はやったノストラダムスの大予言などのような根拠なきものではなく、真の神様の真の御言葉を、神様に奉仕する人が預かって語った真理の御言葉です。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者(ここは、滅多にないことですがマタイ福音書で『決して一番小さいものではない』と変えられています)。お前の中から、私(神様)のためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」

 そう、イエス・キリストはこの世界が造られる前から生きておられます。イエス・キリストは神様によって造られた方ではなく、父・子・聖霊なる三位一体の神様なのです。東久留米教会では、信仰告白に使徒信条を用いることが多いですが、キリスト教会で古くから大事にされた信仰告白に「二ケア信条」があり、もちろん内容は正しく大切な信仰告白です。『讃美歌21』の147ページに出ていますが、「二ケア信条」では、イエス・キリストについて聖書に基づいて次のように告白しています。「主は神の御子、御ひとり子であって、世々に先立って父から生まれ、光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでなくて生まれ、父と同質であって、すべてのものは主によって造られました。」

 ミカ書の3~4節「彼(イエス・キリスト)は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。」まさにこれは平和の主イエス・キリストのことです。マタイ福音書5章で「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる」と言われたイエス様です。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたイエス様です。私たちの全ての罪の責任を身代わりに背負って十字架にかかり、父なる神様と私たちの間に和解(平和)をもたらして下さったイエス様です。

 クリスマスは、平和の主イエス・キリストの誕生を祝う時ですから、私どもは改めて日本とアジアと世界に平和(シャローム)が来ることを祈り求めることが大切と信じます。今月は、日本の国が真珠湾攻撃を行って太平洋戦争を開始してちょうど80年です。特に12月8日前後の新聞等にはその関連の記事が出ていました。戦争が敗戦に終わり、平和憲法を持つ国として再出発したのですから様々な困難にも関わらず、イエス様がもう一度来られて神の国が完成するまで、ぜひ平和憲法を守る国であり続けてほしいと切に祈ります。最近は「敵基地攻撃」について政府が研究するということが新聞等で報道されていますが、危ういことに感じます。憲法違反にならないのか、十二分に慎重に考えてほしいと願います。私は平和憲法は、神様から日本へのプレゼントと思っています。私は最近、『東久留米の戦争遺跡』という本を市役所で買いました。市内で爆弾が落とされた場所や市内の防空壕の跡のことなどが書かれています。市内の自由学園の中の慰霊碑の写真も出ています。私は自由学園の敷地に入らせていただいたことは何度かありますが、慰霊碑は拝見していませんでした。勤労動員中の空襲等で亡くなった女子学生の方々がおられて建てられた慰霊碑のようです。写真では慰霊碑に「地に平和」と刻まれています。これはルカによる福音書2章のクリスマスの場面、天使が「いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」の御言葉がとられたのだろうと思います。
 
 平和の主イエス様に出会いに、占星術の学者たちが進みます。今は星だけでなく、聖書の御言葉という確かな道しるべを得ました。救い主は首都エルサレムではなく、ベツレヘムに生まれるのです。ミカ書にそう書いてありました。目指すはベツレヘムとはっきりしました。マタイ7節以下。「そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」あの星も再び現れて、学者たちを導きます。そして幼子のいる家の上に止まりました。ここは喜びを強調している御言葉で、「この上なく大きな喜びを喜んだ」と訳することができます。これはこの世の喜びではなく、聖霊によって与えられる聖なる喜びです。

 11節「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して、幼子を拝み。黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」黄金、乳香(非常によい香りがする香)、没薬(鎮痛薬)は皆、王様に献げる(献上する)にふさわしい価値の高い品々です。この献げ物により、イエス・キリストがユダヤ人の真の王、世界の真の王であることが明らかにされます。私どもも今、このイエス様を礼拝しています。その深い喜びと充実感を覚えています。没薬については、やはり一言申し上げるのがよいと思います。没薬は、ヨハネによる福音書19章のイエス様の埋葬の場面に出て来ます。「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を100リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を引き取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」没薬は、遺体の防腐処置にも用いられたそうです。イエス様の十字架の死の際にもニコデモという人が没薬を持って来ました。学者たちがその没薬を赤ちゃんイエス様に献げたということは、本日のクリスマスの場面で既にイエス様の十字架の死が暗示されていると解釈されています。イエス様がこの地上に誕生された目的は、私どもと世界の全ての罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死なれ、三日目に復活することです。

 占星術の学者たちは、「へロデの所へ帰るな」と夢でお告げを受けたので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行きました。イエス様に出会って生き方を変えたということと思います。自己中心に生きて来た生き方を方向転換させて、神様を愛し、隣人を愛する生き方に変わったということと思います。

 さて最近、クリスマスには影もあることを知りました。ヨーロッパなどでは以前からクリスマスに自分で命を絶つ人が少なくないと聞きました。クリスマスにもちろん教会に行く人も少なくないのですが、クリスマスは親しい人や家族で過ごすという流れがあります。そのような親しい人や家族がいない人にとって、とりわけ孤独が深まってしまうのです。この一週間の間にアメリカでは竜巻被害、日本の大坂ではビル内のクリニック放火事件があったばかりです。教会の礼拝に出席して下さることももちろん大事ですが、注意して見れば、私どもの近くに悲しみや孤独の中にいる方もあるかもしれません。そこにささやかなキリストの愛をお届けする。それもまたクリスマスの時期の(いつでもですが)大切な奉仕と言えます。世界にキリストの愛と慰めがが行き渡るクリスマスとなるように、祈りつつ奉仕したいと願います。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。オミクロン株を静めて。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒し。病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタンに平和。

2021-12-11 23:30:23(土)
「共におられるイエス様の誕生」 2021年12月12日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 コリント(二)8:9、頌栄29、「主の祈り」、交読詩編=51,使徒信条,讃美歌21・573、聖書 イザヤ書7:10~17(旧約1070ページ)、マタイによる福音書1:18~25(新約1ページ)、祈祷、説教「神様は必ず約束を守られる」、讃美歌21・241、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書7:10~17) 主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」

(マタイによる福音書1:18~25) イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

(説教) 本日は、アドヴェント(待降節)第3主日の礼拝です。本日の説教題は「共におられるイエス様の誕生」と致しました。

 最初の18節「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」「誕生の次第」と訳された言葉は、もとのギリシア語で「ゲネシス」です。「ゲネシス」は英語の「ジェネシス」の元になった言葉と言えます。英語ではジェネシスは創世記です。先週も似たことを申し上げました。旧約聖書の創世記と、新約聖書の冒頭の今日のマタイ福音書1章は、明らかにセットになっています。創世記は世界の誕生のいきさつ、世界の起源を明らかにし、マタイ福音書は神の子イエス・キリストの誕生のいきさつ、イエス・キリストの存在の起源を明らかにしています。両者はセットです。もう少し言うと、両方において神様の清き霊・聖霊の働きが見られます。創世記1章2節には「神の霊が水の面を動いていた」とあり、マタイ福音書1章18節には、マリアが聖霊によって身ごもったと書かれています。両方において聖霊の働きがあることが分かります。

 さて、本日のマタイ福音書を改めて読みます。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」聖霊は、私たちが信じる神様・父・子・聖霊なる三位一体の神様の、第三の位格(ペルソナ=人格とも訳せますが、神様なので神格と言う方がよい)のお方です。聖霊は神様なので、単なる力やエネルギーではなく、燃える熱いハートの持ち主、喜んだり悲しんだりなさる神の霊です。昔から教会では「造り主なる聖霊」という言い方があり、「造り主なる聖霊よ、来たりませ」という祈りの言葉も存在してきました。この言い方から分かるように、聖霊は人格をお持ちの神様であられ、創造的な力を持っておられます。宇宙を創造するほどの、無限の力をお持ちの神の霊です。その聖霊の愛の力が働いて、マリアが妊娠したのです。

 イエス様の母となるマリアは、ヨセフと婚約していました。ヨセフはダビデ王の子孫の一人です。神様はダビデ王の子孫からメシア(救い主)を誕生させると旧約聖書で約束しておられます。当時婚約は、結婚したと同じ重みをもっていました。二人が一緒に住む前に身ごもることはあり得ないことでした。「身ごもっていることが明らかになった」ということは、お腹が大きくなってきたのでしょう。ヨセフはびっくり仰天したはずです。姦通(不倫)の罪を犯したと解釈するほかなく、ユダヤではその結果は死刑と決まっていました。マリアは姦通の罪を犯したのではなく、聖霊によって、神の特別の恵みによって身ごもったのです。ヨセフはどう考えたらよいのか分かりません。あの清純なマリアが姦通の罪を犯すなどということがあるはずがない。でも現にマリアのお腹が少しずつ大きくなっている。ではやはりマリアは姦通の罪を犯したのだろうか。まさかあのマリアがそんなことをするとは信じられない。しかしお腹が大きくなる現実を見れば、マリアが裏切ったと思わざるを得ない。ヨセフは混乱して悩み苦しみ、遂に決断を下します。19節「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」

「正しい人」は「義の人」と訳すこともできます。ヨセフは正しい人、義の人です。但しファリサイ派・律法学者のように偽善的だったり、思いやりがない人ではなく、正しく潔癖だけれども愛もある人でした。聖霊を受けていただろうと思うのです。新改訳聖書はこの19節を、「夫ヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」マリアとの間に会話があったかもしれませんね。マリアは「私は神様の聖霊によって妊娠したの。本当です」と言ったかもしれません。ヨセフは苦悩します。「どうしたらいいのか。」ヨセフは正しい人なので、マリアが姦通の罪を犯したのなら、マリアとは結婚できないと考えました。しかし離縁すると周りに言えば、マリアの妊娠が知れ渡り、姦通の女として死刑にされてしまう。愛するマリアを死なせたくない。そこでひそかに、目立たないようにマリアを去らせようと考えました。どこか遠くに行って、生まれてくる子どもと一緒に生きていってくれればよいと考えました。マリアは14才くらい、ヨセフは18才くらいだったと思われます。若いヨセフが、懸命に考えてこの結論にたどり着きました。夜眠ろうとしても眠れず、悩みながら考えたのです。これが彼の精一杯のところ、限界でした。

 神様が助けに行動されます。深く悩むヨセフに天使を送られたのです。クリスマスの場面には天使の働きが多く記されています。新約聖書のヘブライ人への手紙1章14節には、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」と書かれています。確かに旧約聖書にも新約聖書にも天使は重要な場面に登場します。「天使たちは、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」とある通り、神様は救いを受け継ぐことになっているヨセフに仕えるために、天使を遣わして下さいました。」天使たちは、神様に従う人々を助ける働きをする存在なのですね(羽が生えているかどうかは分かりませんが)。在日大韓基督教会の牧師に李仁夏先生という方がおられました。今は天国におられます。1996年4月から約2年半、東久留米教会で月一回説教奉仕して下さった尾崎風伍牧師・マリ子牧師ご夫妻とも親しかったそうです。李先生は朝鮮半島生まれで1941年に日本の京都に来られ、戦後日本で牧師となり、調布市の多摩川河川敷の朝鮮人集落で開拓伝道、その後、在日韓国・朝鮮人の多い川崎市の川崎教会で牧師として奉仕されました。初めの頃は経済的に貧しく、二人目のお子さんが生まれる時、お腹の赤ちゃんが大きくてお母さんに危険な出産だったが、よき医師に恵まれ無事出産できました。が、退院の時の請求金額が4万6,000円で、当時の李先生には天文学的な数字でした。月賦の交渉に行くと、何と既に支払済みだと言われます。「誰が」と聞くと、知人の牧師が支払ってくれたと分かりました。

李先生が書いておられます。「ウィリアム・バークレーというイギリスの聖書注解者は、聖書に登場する天使とは、万策尽きた場面に現れる助け手のことだ、と言う。」「天使とは、万策尽きた場面に現れる助け手のことだ。」李先生にとって、出産費用4万6000円は、何回にも分けないと支払えない額でした。それを知人が助けてくれた。知人は人間ですが、神様がその知人を送って万策尽きた状況で助けを与えて下さいました。その知人の方がまさに天使の役割を果たしたことになります。もちろん天使は人間ではなく霊なのですが、神様が人間を通して助けて下さることはありますし、私たち自身がいわば天使のように用いられて。どなたかをサポートすることもあり得ますね。創世記18章に、三人の人がアブラハム(イスラエルの民の先祖)を訪問する場面がありますが、そのうちの一人は何と神様で、あとの二人は天使だったのです。私は今年、高齢になった私の両親のことで、両親のもとによく来て下さった女性のケアマネージャーさんにアドヴァイスや率直な提案をいtだいて大変助けていただきました。クリスチャンのケアマネージャーさんなのですが、あの方は(もちろん人間ですが)神様が私と弟と両親に送って下さった天使のような助け手だと感じています。それはともかく、ヨセフにも神様が助け手として天使を派遣して下さいました。

 ヨセフがマリアを「ひそかに縁を切ろう」と考えていると、神様の天使が夢に現れて言いました。「ダビデの子(子孫)ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」「ヨセフよ、心配する必要はない。マリアは姦通したのではない。マリアはあなたを裏切ってはいない。マリアの胎の子は、聖霊によって宿った。生まれる子をイエスを名付けなさい。」イエスという名前は「主は救い」の意味だと聞いています。珍しい名ではなく、普通にある名前だったそうです。イエスと名付けることが神様の意志であることを天使がヨセフに告げました。「この子は自分の民を罪から救う。」そうです、この子の一番大切な使命は、十字架にかかることです。十字架にかかってイスラエルの民の全ての罪と、異邦人(イスラエル以外の民)の全ての罪の責任を身代わりに背負って十字架で死に、全ての人間たちを罪の支配下から解放するのです。そして三日目に復活して、死という人間の最大にして究極の敵に勝利し、人間たちに永遠の命の希望をもたらすこと。これがイエス様の使命なのです。

 22節「この全てのことが起こったのは、主が預言者を通して「言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
この預言は、本日の旧約聖書イザヤ書7章の14節に記されています。わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」これはアハズ王の時代に預言者イザヤが語った預言(神様から預けられた言葉)です。アハズ王は紀元前8世紀後半の南ユダ王国の王です。あまり高く評価されていない王です。アハズ王の時代に、インマヌエルという名前の男の子が生まれたのでしょう。ですがこの預言は、究極的にはイエス・キリストの誕生によって成就・実現したのです。その名はインマヌエルとは、その方の本質がインマヌエル(神は我々と共におられる)だということです。こんな言葉を読んだことがあります。「神様はイエス・キリストにおいて、永遠に私たちと共にいることを決意された」と。「神様はイエス・キリストにおいて、永遠に私たちと共にいることを決意された。」そして復活されたイエス様は、このマタイ福音書の締めくくりでこう述べられます。「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」
 
 進みます。24節から。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」夢が全部神様からのメッセージというわけではありません。神様からのメッセージである場合もあるということでしょう。私自身は、神様のメッセージを夢で受けた記憶はありませんが、神様からのメッセージを夢で受けた方もおられるしょう。ヨセフのこの場合は、神様が夜ヨセフの夢の中に天使を遣わして、神様のメッセージを語らせなさいました。ヨセフはそれを信仰をもって受け入れ、神の天使が命じた通りに従いました。妻マリアを迎え入れたのです。マリアが姦通の罪を犯したのではなく、聖霊によって身ごもったことを信じました。ヨセフは元気づいたでしょう。あのマリアが僕を裏切るはずがない。その信頼は間違っていなかった。マリアは本当に聖霊によって妊娠したのだ。晴れ晴れした心で、マリアと一緒になりました。そしてマリアをいたわり、男の子が生まれるまでマリアと関係をもたず、天使に言われた通り、男の子をイエスと名付けました。

 この後、ヨセフは真に忠実にマリアと赤ちゃんイエス様を守るために尽くすのです。神様の意志に忠実に従って、責任を果たします。それはヨセフの生涯を通じてずっとそうだったと思うのです。「善かつ忠なる僕」とは、ヨセフのためにあるような言葉です。ヨセフは比較的早く地上の生涯を終えたようです。イエス様の十字架の時は、もう天国に行っていたようです。読んだ本に書いてあって初めて気づいたのですが、ヨセフの言葉は聖書に一言も記されていないのです。マリアの言葉は、ルカ福音書のクリスマス前後の場面に割に多く記されています。ところがヨセフの言葉は一言も記されていない。ヨセフは、神様に忠実に従って責任を果たす決断と行動で信仰を表すタイプだったと言えます。神様に黙々と従い、黙々と責任を果たすヨセフ。神様に喜ばれていたに違いないし、十分私たちの信仰の模範になる人です。プロテスタント教会では聖人を認めませんが、カトリックではヨセフは聖人であるようです。それくらい神様に忠実に従った人だったということでしょう。

 キリスト教会に「召命」という言葉があります。英語では calling、神様に呼ばれることです。カトリックでは「召し出し」と言うようです。ヨセフもマリアも、神様に呼ばれたのですね。ヨセフはダビデ王の子孫の一人ですが、特に有名でもなく、無名の若者だったと思います。マリアも全く無名のナザレ村の少女だったと思います。神様はいと小さき貧しい者をあえて愛して選んで、神様の働きのために呼び出し、召し出して下さいます。旧約聖書に登場するアブラハムやモーセ、あるいは預言者イザヤ、エレミヤなどの人物も、神様に愛され、神様に選ばれ、神様に呼ばれ、召し出されて神様のために奉仕したのです。ヨセフとマリアも、神様の召命を受けました。それは困難を伴う人生でしたが、神様のために自分を献げる、自分のためではなく神様のために奉仕させていただく光栄な人生となりました。自己実現のためではなく、全てを神様の栄光のために献げた信仰の人生です。

 最初の夫婦アダムとエバと比べると、まさに対照的です。エバが悪魔の誘惑に負けて神様に背き、アダムもエバに引きずられて悪魔の誘惑に負けて神様に背きました。夫婦そろって神様に背いたのです。対照的に、エバとアダムの失敗を取り換えるように、ヨセフとマリアは、神様に忠実に従ったのです。神様は天使を用いてヨセフに告げました。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」ヨセフはその通りに行いました。神様はマリアにはもっと前に天使を送られ、天使はマリアにこう告げていました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。~神にできないことは何ひとつない。」マリアは受け入れて答えます。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」神様から天使を通して共通するメッセージを告げられた二人は、信頼し合い協力し合ってイエス様の誕生までを過ごし、その後もイエス様を養い育てる責任を、力を合わせて果たしてゆきます。神様に従って一致して奉仕する二人の姿は、やはりすばらしいですね。神様がイエス様の両親として選ばれたマリアとヨセフの忠実な信仰に倣って、私どもも信仰の歩みを続けたいのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。オミクロン株を静めて。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒し。病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタンに平和。