日本キリスト教団 東久留米教会

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2014-09-09 15:45:55(火)
「ユダの裏切り」 2014年9月7日(日) 聖霊降臨節第14主日礼拝説教 
朗読聖書:ゼカリヤ書11章4~17節、ルカ福音書22章47~53節。
「イエスは、『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』と言われた」(ルカ福音書22章48節)。
 
 イスカリオテのユダが、なぜイエス・キリストを裏切ったのかは謎です。イスカリオテは地名だそうです。イエス様はオリーブ山での血の汗を流すような激しい祈りを祈り終え、十字架に向かう決意をさらにはっきりさせ、弟子たちに語りかけておられました。(47~48節)「イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』と言われた。」 マタイによる福音書では、ユダは「先生、こんばんは」と言ってイエス様に接吻し、イエス様が、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われたと書かれています。「友よ」と呼んでおられることに、イエス様のユダへの愛を感じます。しかしユダはイエス様に「友よ」と呼びかけられても、裏切りの意志を変えませんでした。ルカによる福音書22章3節には、「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」と書かれています。私は思います、ユダはサタン(悪魔)が自分の中に入ることを拒むこともできたはずだと。しかしユダは、サタンの誘惑を退けず、それを受け入れてしまったのです。

 接吻はもちろん愛情の表現です。非常に親しく、信頼し合っていることのしるしです。ユダは、こともあろうにその接吻を合図にイエス様を、イエス様を憎む人々に引き渡すのです。悪い意味であまりにも大胆で、恐るべき行為です。接吻で裏切ることに多くの人はためらいを覚えるのではないでしょうか。自分をすっかり信じている人を裏切ることだからです。この時、ユダの心は悪魔に支配されていました。ユダはイエス様を接吻で裏切ることによって、、悪魔に自分の魂を売り渡したのです。自分が愛して従ってきた先生イエス様を進んで売り渡す。これはユダ自身を否定する行為です。自分が愛し従ってきた先生を売り渡すという最大の矛盾を行うならば、ユダの心・良心は完全に壊れてしまい、もはや生きようにも生きられなくなるのではないでしょうか。接吻によってイエス様を売り渡した行為は、ユダがこれまでの自分を自分で否定したことであり、自分を壊すことです。ユダはこのとき事実上死んだと言えるのです。ユダはイエス様への愛憎を覚えていたのかもしれません。

 ユダがイエス様を裏切るしばらく前にあったことを、ふりかえってみます。ユダの人となりを少しでも知るためです。ヨハネによる福音書12章1節以下をご覧下さい。イエス様は、親しい姉妹であるマルタとマリアの兄弟であるラザロを死から生き返らせなさいました。その後、イエス様は、ベタニアにある彼らの家を訪問されました。そこに生き返ったラザロがおり、イエス様のために夕食が用意され、マルタが給仕していました。そこにマルタの姉妹マリアが、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(約326g)持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。ナルドは植物の名です。ヘブライ語で「ネールド」、ギリシア語で「ナルドス」だそうです。原産地はインド北部あるいはヒマラヤとのことです。ナルドには和名もあり、「甘松」だそうです。家は香油の香りでいっぱいになりました。皆がよい香りで、うっとりした気分になったことでしょう。マリアは非常に高価な、とっておきの宝と言うべき香油の持てる全部を、イエス様の足に惜しげもなく注ぎました。これはマリアのイエス様への精一杯の感謝と愛のしるしです。愛する兄弟ラザロを生き返らせてくださったイエス様への純粋な感謝と愛を、マリアはこのようにして表したのです。香油のかおりはマリアの純粋な感謝と愛のしるしです。マリアの愛は、六日後に十字架におつきになるイエス様の心を深く慰めました。

 そのときユダが口をはさみます。(4~5節)「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』」1デナリオンは一日分の賃金ですから、仮に5000円とすると150万円です。確かに大金です。マリアは150万円分の純粋なナルドの香油をイエス様の足に惜しげもなく、ほぼいっぺんに注いだのです。ユダはマリアが無駄遣いをしたと責めるのです。「なんともったいないことをするのか。なぜこの香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と。私たちも同じように思うかもしれませんね。「150万円もする香油を、いくらイエス様とは言え、足に全部いっぺんに注いでしまうなんて、なんともったいないことをするのか。もっと有効な生かし方があるではないか。150万円もあれば、多くの貧しい人々を助けることができるではないか。」もしかすると私たちも、「それもそうだ」と思うかもしれないのです。

 ですがユダに同調するわけにはいきませんから、ユダの考え方の何がよくないのか、考えてみる必要があります。ユダは計算する人、理的に考える人です。計算が必要な時もあります。ですが愛は、計算ではないのではないでしょうか。計算は損得を意識することに通じます。私たちはつい頭の中で計算して、自分にとっての損得を考えてしまうのではないでしょうか。ユダは計算が得意な男だったのではないかと思うのです。自分の損になることは避け、得になることを好む男だったのではないかと思うのです。マリアが150万円のナルドの香油をイエス様の足に注いだ行為は、あえて言葉にするなら「無償の愛」の行為です。利害損得を無視した「無償の愛」です。親が、病気の子どもを前にして「自分が代わりたい」と思う心は無償の愛で、損得計算はありません。ユダにはマリアの「無償の愛」が理解できませんでしたし、マリアの「無償の愛」を憎んでさえいたのではないでしょうか。それでマリアを責めたのです。

 ヨハネによる福音書は次の6節で、ユダがマリアを責めた理由を明かしています。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」ユダはイエス様一行の財布を預かっていました。ユダはお金が好きだったかもしれません。しかし、マタイによる福音書6章24節でイエス様がおっしゃるように、私たちが「神と富とに仕えることはできない」のです。ユダは金入れの「中身をごまかしていた」とありますから、そっと横領していた、目立たないように盗んでいた、使い込んでいたのです。悪魔の誘惑に負け続けていたのです。イエス様だけがそれに気づいておられたことでしょう。少しずつ盗み続けることで良心が麻痺し、ついにはイエス様をお金で売り渡す最大の罪を犯してしまったのです。私どもも教会の諸会計の管理には細心の注意を払います。教会のお金は神様のお金ですから、聖なるお金として正確に厳密に、1円も間違えないように管理する必要があります。このようにして悪魔が教会に侵入することを防ぐ必要があります。

 イエス様は、マリアの「無償の愛」を喜んで受け入れて下さいました。イエス様は、貧しい人々をヘルプすることをいけないと言われるのではありません。ふだんはそれは大切なことです。ですが今は特別な時です。イエス様の十字架が六日後に迫っています。そのイエス様に対して、マリアは神様に導かれて、純粋な愛を注いだのです。それはそのときにぴったりの行いでした。そのタイミングにぴったりの行動があるものです。マリアはそれを行ったのです。イエス様がユダをたしなめられました。「この人のするままにさせておきなさい。」イエス様にたしなめられたことで、ユダはイエス様への怒りを抱いたのではないでしょうか。ユダは「無償の愛」の行ったマリアを憎みました。マリアとイエス様の間には通じるものがあります。イエス様も六日後に私たちのために十字架におかかりになるからです。イエス様の十字架の死こそ、最も純粋な「無償の愛」です。ユダはイエス様が「無償の愛」に生き方であることをはっきり悟りました。それでユダはイエス様を憎んだのではないでしょうか。

 イエス様は「受けるよりも与える方が幸いである」とおっしゃったと使徒言行録に書かれています。ユダの生き方は反対だったのではないでしょうか。ユダは金入れから盗んでいたことから分かるように、「与えるよりも得する方が幸いである、利益をあげる方が幸いである」という人でした。イエス様よりも銀貨30枚の方が大事だと思う人だったのです。後で後悔したので、それがユダの全てではなかったかもしれませんが、しかユダにこのような考えがあったことは確かです。ユダは自分をイエス様に献げていなかったのです。銀貨30枚は(出エジプト記21章32節によると)、イスラエルの誰かが所有する牛が他人の奴隷を突いて殺した場合に、奴隷の主人に支払う償い金の額です。神の子イエス様の値段は、銀貨30枚で十分だと取引されたのです。お金・経済が人の命より大切。このような考えは、今の日本にもあるかもしれないので、日本人として悔い改めたいと思います。

 本日の旧約聖書はゼカリヤ書11章4節以下です。分かりにくい箇所です。ゼカリヤという預言者がおり、ゼカリヤが羊の商人たちのために働いたようです。ゼカリヤは、羊の商人たちに対して不信感を抱いているようです。ゼカリヤは12節で、羊の商人たちに言います。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」すると彼らは「銀30シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。」これはゼカリヤの働きに対しては安すぎる報酬です。ゼカリヤは安くいいように使われたのです。ここでゼカリヤは、ヤハウェ(イスラエルの神、世界の神)の代理人のような存在です。この出来事は、イスラエルの民が、彼らをエジプトから脱出させて多くの恵みを与えて来られた神様を非常に軽く扱ったことを象徴する出来事です。「神様への感謝は銀30シェケル、これくらいでいいや、これくらいで十分だ」と神様を軽く扱った、全く失礼無礼な態度です。

 それに対する神様の応答が13節に記されています。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」皮肉な言い方です。神様の悲しみが現れているようにも思えます。人々は事実上、神様の値段・価値を銀30シェケルとしたのです。これまでの神様の忠実な愛と支えの値段を銀30シェケルと見積もったのです。これは神様への侮辱です。この人々の罪は、神様に感謝していないことです。大事なことは、私たちが父なる神様と、私たちのために十字架で死んで下さったイエス・キリストに、精一杯感謝し、父なる神様とイエス様に自分を献げることが大事ではないでしょうか。マリアはイエス様に精一杯の感謝を献げました。ユダはイエス様に自分を献げず、反対にイエス様をお金で売ってしまったのです。

 ルカによる福音書に戻ります。ユダの裏切りは決行されました。雰囲気は一気に騒然となります。(49~50節)「イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、『主よ、剣で切りつけましょうか』と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。」ヨハネによる福音書では、切りかかったのはペトロだと書かれています。熱血漢のペトロらしい行動です。イエス様が止められます。(51節)「そこでイエスは、『やめなさい。もうそれでよい』と言い、その耳に触れていやされた。」イエス様は、このように身に大きな危険がふりかかっているときにも、愛を実行されます。ご自分を捕らえに来た一人である大祭司の手下の耳を癒されたのです。「敵を愛しなさい」と言われたイエス様は、その通りに行動されます。マタイによる福音書ではイエス様はこのとき、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という有名な御言葉を語られました。イエス様は武力で戦うことをなさいません。イエス様の武器は聖書の御言葉と祈りです。マザー・テレサが、かつて戦乱の地パレスチナのガザ地区に行ったとき、マザーの身を心配した誰かに、「武器は持っていますか」と問われて、「私の武器は祈りです」と答えたという話があります。マザー・テレサはもちろん武器を持たなかったでしょう。

 武器を持たないイエス様に対して、捕らえに来た人々は多くの武器を持っていました。(52~53節)「それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。』」イエス様は丸腰です。イエス様はこれから悪と戦われます。イエス様の戦いは暴力を用いない戦い、愛による戦いです。イエス様はほとんど無抵抗で十字架につけられます。全く罪のないイエス様を十字架で殺すことによって、イスラエルの民の罪、そして全世界の罪は頂点に達します。全く罪がない神の子を殺すことは、世界最大の罪、最大の悪です。イエス様はその最大の罪と悪を十字架で一身に背負うことで、この世界を救われるのです。イエス様は十字架で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」この赦しの祈りと愛によって、イエス様は罪と悪に打ち勝つのです。イエス様の戦いは武器による戦いではなく、祈りと愛による戦いです。ユダに復讐することもなく、ユダを恨むこともないのです。

 イエス様は十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、もう一度大声で叫ばれて息を引き取られたのです。一見敗北にしか見えません。イエス様は罪と悪に敗北なさったかに見えます。しかし三日目に逆転が起こります。父なる神様に従い通されたイエス様は、三日目に復活の勝利を与えられたのです。ひたすら父なる神様に従い通されたイエス様の忍耐はついに報われたのです。イエス様はユダの裏切りの悪をも、忍耐によって乗り越えられたのです。私たちが神様に従い、イエス様に従う道は、最後の最後に最後には必ず報われる道です。

 ユダは、イエス様に有罪の判決が下ったことを知って後悔し、自分の罪の証拠である銀貨30枚を、祭司長たちや長老たちに返そうとします。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。」しかし祭司長たちや長老たちは銀貨30枚を受け取らず、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」とユダを突き放します。ユダは銀貨30枚の処置に困り、それらを神殿に投げ込んで立ち去り自害しました。ユダは、自分の罪を神様の前に悔い改めたのではありませんでした。後悔はしましたが、神様の前に悔い改めたのではないのです。後悔と悔い改めは違うのですね。後悔は、ただ「しまった」と思うだけで、神様とのつながりがありません。悔い改めは、神様に自分の罪を謝ることです。ユダが神様の前にぬかずいて自分の罪を真剣に悔い改めていれば、神様から罪の赦しを受ける可能性があったのではないでしょうか。

 コリントの信徒への手紙(二)7章10節の御言葉を思い出します。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」 ペトロは、イエス様を三度否定した罪を深く悔い改めて涙を流しました。ペトロの悔い改めの涙は、神様の御心に適うものであり、ペトロの罪は赦されたのです。しかしユダの悲しみは「世の悲しみ」でした。それは悔い改めでないので、神様から赦しをいただくことにつながりません。神様の赦しをいただくことができれば、先の展望が開かれ希望が生まれますが、悔い改めでない「世の悲しみ」・後悔は、神様からの赦しにつながらないので、将来への希望につながりません。ユダは神様に立ち帰らなかったのです。

 ユダはイエス様を裏切り、神様から離れてしまい、希望を失って命を絶ちました。ユダが最終的に天国に行く可能性はあるのでしょうか。それは聖書にはっきり書かれていないので、分かりません。神様が最終的にお決めになることです。ユダよりももっと呪われた死を死なれた方がおられます。イエス様です。イエス様は十字架の上で、父なる神様から完全に棄てられました。「エリ、エリ、レバ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれるほどに父なる神様から完全に棄てられ、だれよりも呪われた死を死なれたのです。ユダの死よりももっと呪われた死を死なれたのです。ユダよりももっと底辺に降られた方がイエス様です。イエス様はだれよりも低い底辺・最底辺に降られた救い主です。万万一、ユダに希望があるとすればこの点でしょう。だからと言ってユダが最終的に天国に入れていただけると、私が説教することはできません。それは父なる神様がお決め下さることです。

 このあと聖餐式にあずかります。私たちは、ユダほど決定的にイエス様を裏切ったことはないでしょう。ですが比較的小さな形でイエス様を裏切ったことはあるかもしれません。助けを必要とする人の横を通り過ぎることなどによってイエス様を見捨てたこともあるかもしれません。その人の中にイエス様が住んでおられたかもしれないのです。そのような私たちのすべての罪を背負い、十字架で苦しんで下さったイエス様の愛に感謝して、心してパンとぶどう汁をいただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
2014-09-02 1:57:54(火)
「姦淫してはならない 十戒⑦」 2014年8月31日(日) 聖霊降臨節第13主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、マタイ福音書5章27~30節。
「姦淫してはならない」(出エジプト記20章13節)

 私たちは十戒というと、厳しい戒めというイメージを持つのではないかと思います。十戒の一つ一つの戒めを読んでみると、「~ならない」という言い方が多いからです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」「あなたはいかなる像も造ってはならない。」「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」「殺してはならない。」「姦淫してはならない。」「盗んではならない。」「隣人に関して偽証してはならない。」「隣人の家を欲してはならない。」このように「ならない」という言葉が8つの戒めに使われています。これについて、別の訳し方もあることをお伝えしておきます。その場合、十戒の前文「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」を「神様の愛のメッセージ」としてとても重視します。この前文を平たく言えば、「わたしはあなたたちをこれほど愛した。あなたたちが葦の海の手前でエジプト軍に追い詰められていたところを奇跡の力で助けるほどにあなたたちを愛した」というメッセージになります。この前提に立って、第一の戒めを、「これほどわたしに愛されたことを知っているあなたたちが、わたしをおいてほかに神をもつなどということをするはずがない」という意味だと受けとめるのです。この意見にも確かに根拠があると思われます。

 その場合、十戒は、厳しい禁止命令というだけなく、神様からイスラエルの民に送られた愛と信頼の呼びかけであることになります。「こんなにわたしに愛されたあなたたちが、わたしをおいてほかに神を持つはずがない。こんなにわたしに愛されたあなたたちが偶像を造るはずがない。こんなにわたしに愛されたあなたたちが、人を殺すはずがない。姦淫するはずがない。盗むはずがない。偽証するはずがない。隣人の家を欲するはずがない。」魅力的な考えです。確かにこの考えには十分根拠が あると思います。それでは新共同訳の「~ならない」という訳が間違いかというとそうではないと思います。どちらも間違いではなく愛と信頼、そして厳しさの両方のニュアンスがあると思うのです。ある英語の訳(新欽定訳)では ”You shall not~” と訳しています。”You shall not~” には、「あなたはしてはならない」という禁止の意味と、「あなたはしないはずだ、するはずがない」という信頼の意味の両方があると思います。 このことも頭に入れて、さらに十戒を学んで参りましょう。

 本日は第七の戒め「姦淫してはならない」です。姦淫は姦通とも言います。姦淫を狭く定義すると「結婚している夫・妻と、その夫婦以外の異性との性関係」になるでしょう。姦淫を広く定義すると「結婚している夫婦同士以外のすべての性関係」になると思います。今の日本では姦淫も姦通も死語になっている印象を受けます。それは姦淫・姦通が罪だという正しい認識が消えつつある危険な状況だと思うのです。今、姦淫・姦通に一番近い言葉は不倫でしょう。前の憲法のときは日本にも姦通罪があったそうです。「姦淫してはならない」の戒めは、「殺してはならない」の次に置かれています。それほど重要な戒めだということです。「姦淫してはならない。」それは結婚関係が非常に重要であり、神聖だということです。姦淫はその結婚を破壊する罪です。ヘブライ人への手紙12章4節に、「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです」と明記されていることを、心に刻みたいのです。

 創世記2章に最初の人アダムとエバが夫婦となる場面があります。神様がおっしゃいます。「人が独りいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」アダムは既に造られていたので、神様はアダムを深い眠りに落とされ、アダムのあばら骨の一部を抜き取り、そのあばら骨で女を造り上げられました。神様が彼女をアダムのところに連れて来られると、アダムは言いました。
「『ついに、これこそ/ わたしの骨の骨/ わたしの肉の肉 
 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。
 まさに、男(イシュ)から執られたものだから。』」 
「こういうわけで、男は父母と離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二
人とも裸であったが、恥かしがりはしなかった」と書かれています。「二人は一体と
なる。」一夫一婦制こそが神様のご意志であることが示されています。

 日本キリスト教団の結婚式の式文では、結婚する二人は次の誓約をすることになっています。司式者が二人にそれぞれこう問います。
「OOさん、あなたはこの兄弟(姉妹)と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命のかぎり、堅く節操を守ることを約束しますか。」
二人はそれぞれに「約束します」と答えます。つまり、「姦淫をしません、不倫をしません」と神様と会衆の前で約束するのです。この約束はもちろん重要です。

 神様のご意志は一夫一婦だと申しましたが、旧約聖書では必ずしも現実がそうなっていません。アブラム(アブラハム)は、神様の約束があるのになかなか子どもが生まれないため、妻サライ(サラ)の求めにより、サライのエジプト人の女奴隷ハガルによってイシュマエルという男の子をもうけます。その後、アブラハムとサラの間に約束の子イサクが誕生します。するとイシュマエルがイサクをからかったので、サラがアブラハムに「あの女とあの子を追い出してください」と訴えたため、アブラハムは非常に苦しみます。アブラハムがハガルによって子どもをもうけたことが家族関係を複雑にし、このような苦しみを招いたとも言えます。複雑になると悩みが増えます。

 ダビデ王は姦淫の罪を犯しています。ダビデ王の人生最大の汚点です。サムエル記(下)11章を見ます。(1~5節)「年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。 ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、『子を宿しました』と知らせた。」

 慌てたダビデは、隠ぺい工作に走ります。バト・シェバの夫・ヘト人ウリヤを戦場から呼び戻し、戦況等を尋ねます。それは名目で、ダビデの本当の狙いはウリヤに家庭でしばしの時を過ごさせることでした。ところがウリヤは実に立派な部下で、王宮で主君の家臣と共に眠り、家に帰らないのです。それを知ったダビデは焦る心を隠してウリヤに尋ねます。「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」ウリヤはダビデとバト・シェバの姦淫を知らず、妻を完全に信頼しつつ、次のように答えます。「神の箱(十戒の二枚の板が納められている)も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」次にダビデは、ウリヤに酒をふるまったようです。酔わせてウリヤの決心を鈍らせようとしましたが、ウリヤは酔ってもなお、主君の家臣たちと共に眠り、家に帰りませんでした。ウリヤは本当に見上げた部下です。

 ダビデはウリヤを家に帰すことが不可能だと知ると、恐ろしい行動に出ます。ダビデは王という権力者になって、全てが自分の思い通りにゆく日々を過ごし、傲慢になっています。善悪の区別が分からなくなり、自分を見失い理性を失い、心を悪魔にコントロールされています。自分が何をしているのか分からなくなっています。私たちも知らず知らずのうちに自分を見失う時があるのではないでしょうか。自分が正しいことを行っているのかどうか、時々客観的にチェックすることが必要です。ダビデは指揮官ヨマブに宛てて、悪に満ちた命令を書状にしたため、ウリヤに託します。書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていました。ヨアブがダビデを諌めて、「このような命令はお受けできません。ウリヤを失えば大変な損失になりますよ」と言えばよかったのですが、ヨアブはイエスマンなのか、ダビデの指示に従ってしまったのです。ウリヤは真にに気の毒にも、戦死してしまったのです。ダビデの指示によって殺されたのです。ダビデは「姦淫してはならない」と「殺してはならない」の2つの戒めを破ったのです。ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆きました。喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にしました。何番目かの妻なのです。彼女は男の子を産みました。ダビデの計画はすべてうまくいったように見えます。しかしここで、それまで沈黙しておられた神様が介入なさるのです。

 神様が預言者ナタンを派遣され、ダビデを叱責されます。神様はダビデの殺人と姦淫の罪を見逃されませんでした。「なぜ主の言葉(十戒の言葉でしょうか)を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。~見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。」ここまで言われてダビデは、ようやく自分の罪に気づき、告白します。「わたしは主に罪を犯した。」預言者ナタンが告げます。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」ダビデとバト・シェバの間に生まれた男の子が、ダビデの身代わりのように神様に打たれて死ぬのです。神様はこのようにして、殺人と姦淫の罪を犯したダビデを裁かれました。その後、ダビデとバト・シェバの間に二人目の男の子が生まれます。ソロモンと名付けられます。神様はその子を愛して下さいました。この一連の出来事に、神様の峻厳な厳しさと、神様の憐れみを見ます。

 しかしダビデはさらに罪の報いを受けなければなりませんでした。神様は、「見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう」とおっしゃいました。このことは、ダビデの三男アブサロムによるダビデへの反乱という形で現実になります。ダビデたちは首都エルサレムから逃げ出すことになります。そしてダビデの軍とアブサロムの軍が戦います。ダビデ軍が勝ち、アブサロムは戦死します。ダビデは三男を失って非常に悲しみます。この悲劇も元を正せば、ダビデがバト・シェバと姦淫をし、ウリヤを計画的に殺害した罪に対する神様の裁きなのです。姦淫と殺人の罪の報いは、やはりダビデの上に厳しくのしかかったのです。姦淫は結婚相手を裏切る罪、正しい結婚を破壊する罪です。神様は正しい結婚を祝福し喜んで下さいます。

 旧約聖書には一夫一婦制が実行されていない場面がしばしばあります。しかし、神様はダビデの姦淫の罪を裁くことで、創世記2章にある通り一夫一婦制こそが神様のご意志であることを暗示しておられるのではないでしょうか。時代が進んで新約聖書の時代、イエス・キリストの時代に向かうにつれて、一夫一婦制こそが神様のご意志であることがより明確になってゆきます。
 
 旧約聖書最後の書であるマラキ書の2章に、結婚と姦淫に関する御言葉があります。13節を読みます。
「同様に、あなたたちはこんなことをしている。
 泣きながら、叫びながら/ 涙をもって主の祭壇を覆っている。
 もはや、献げ物が見向きもされず
 あなたたちの手から受け入れられないからだ。」 
イスラエルの人々が嘆いています。神様が献げ物を拒否なさっているからです。その原因はイスラエルの人々の罪だったのです。どんな罪が原因だったのか、14~15節に出ています。

「あなたたちはなぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。~あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。」

 これは神様が男性に向けて語られた言葉ですね。次の16節で神様は「わたしは離婚を憎む」と言っておられますが、これは男性が自分勝手な理由をつけて妻を離縁し、ほかの人を妻にすることが多く行われていたからではないかと思います。当時は男性中心社会であり、女性の地位が非常に低く、女性が男性の持ち物のように扱われていたのでしょう(イエス様の時代になっても、そのような現実はありました)。神様は、男性によるこのように身勝手で一方的な離縁をお認めになりません。結婚は、聖なる契約です。「この人を一生愛し、ほかの異性と関係をもたない」と神様の前で約束する聖なる契約です。ところが男性が身勝手な理由をつけて妻を離縁し、結婚の契約を破り、ほかの女性を妻にしてしまう身勝手が多く行われていたのでしょう。この罪に対して神様が憤られ、スラエルの民の献げ物を拒否なさったのです。それは、神様がイスラエルの民の礼拝を拒否されたということです。

 神様の真の御心は、男女が対等の立場で結婚という契約に入ることです。神の民イスラエルにおいてさえ、それはなかなか実現されませんでしたが、旧約の時代からイエス様の時代に進む中で、神様の真の御心が明確になってゆきます。離婚はもちろんできる限り避けるべきですが、残念ながら中にはやむを得ないケースもあると思います。家庭内暴力から逃れる必要がある場合などはやむを得ないと考えます。私が神学生だったとき、あるベテランの牧師が私に言われました。「人間の一番難しい問題は、性の問題だ」と。牧師としての長い生活の中で、離婚などの相談を受けることもあり、共に悩んで共に祈り、答えておられたのでしょう。

 本日の新約聖書は、マタイによる福音書5章27節以下です。ここでイエス様が、「姦淫してはならない」の深い意味を教えて下さいます。(27節)「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。」このようにイエス様はまず、十戒の「姦淫してはならない」をそのまま出されます。しかし姦淫の行為さえ実行しさえなければこの戒めを守ったことになるのではないとおっしゃいます。(28節)「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」男性が女性(異性)を見て、心の中でみだらな思いを抱いたならば、「姦淫してはならない」の戒めを破る罪を犯したことになるのです。新共同訳聖書では、「みだらな思いで他人の妻を見る者」と訳されていますが、口語訳聖書では、「淫らな思いで女を見るもの」となっています。「他人の妻」ではなく「女性全体」と対象が広く訳されています。どちらが間違っているわけではなく、どちらに訳すことも可能なのでしょう。私は「女」と訳する方が、純潔を求めるメッセージが強くなってよいと思います。

 文語訳聖書では、「すべて色情を懐きて女を見るものは、すでに心のうちに姦淫したるなり」と訳されています。文語訳が一番ストレートで分かりやすく、私たち、特に男性に襟を正させる力をもっています。「すべて色情を懐きて女を見るものは、すでに心のうちに姦淫したるなり。」性欲そのものが罪ではないでしょう。正式に結婚した夫婦の間でのみ、性関係は許され祝福されます。それ以外の性的関係はすべて姦淫の罪だと言ってよいのです。純潔の意識が大切です。結婚式が終わるまで性的関係をもつことはできません。恋人であってもできません。これは今の日本で改めて声を大にして言う必要があることです。大人にはもちろん、青少年少女にも、「姦淫してはならない」、「不倫してはならない」、「姦淫は罪である」のメッセージを伝えたいのです。今年のNHK大河ドラマの主人公・黒田官兵衛はキリシタン(クリスチャン)で、生涯側室を持たなかったそうですね。当たり前のことですが、戦国時代の大名では珍しかったようです。黒田官兵衛は生涯一人の妻を愛したので、姦淫の罪を犯さなかったのではないかと思います。

 旧約聖書と新約聖書の中間の時代に書かれた旧約聖書外典と呼ばれる書物群があります。外典は聖書ではありませんが、信仰の養いの書として大切にされて参りました。その中にトビト記という書があります。トビト記に、トビアという男性とサラという女性が結婚する場面があります。トビアがこう祈ります。「あなた(神様)はアダムを造り、また、彼の助け手、支え手として妻エバをお造りになりました。そしてその二人から、人類が生まれて来たのです。~今わたしは、このひとを情欲にかられてではなく、御旨に従ってめとります。どうか、わたしとこのひとを憐れみ、わたしたちが共に年老いていくことができるようにしてください。」二人は「アーメン、アーメン」と言った。私ども夫婦が18年前に結婚したときに、当時属していた教会の女性が、この言葉をカードに書いて渡して下さった思い出があります。

 「姦淫してはならない」がテーマである以上、ヨハネによる福音書8章の「姦淫の女」の場面に触れないわけにはゆきません。イエス様が朝早く、エルサレムの神殿の境内で教え始められると、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通(姦淫)の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエス様に言いました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 確かにレビ記20章10節に、「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」と書いてあります。この御言葉に従えば、この女性は死刑になります。姦通した男も死刑になるはずですが、律法学者・ファリサイ派の人々は男性に甘かったのか、姦淫した男性は見逃したようです。イエス様はかがみ込み、指で地面に何か書き始められます。女性を見ません。それは思いやりかもしれません。何を書いておられたのか、分かりません。しかしこのかがみ込む姿勢に、へりくだって奉仕に生きるイエス様の生き方が示されているとも思えます。十字架につながる姿勢です。追い詰められている人を居丈高に裁かれません。イエス様のお答えは完全に私たちの意表を突くお答えです。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」イエス様は、地面にこの御言葉を書いておられたのかもしれない、と私は思いました。

 律法学者・ファリサイ派の人々には確かに問題がありますが、十戒をはじめ旧約聖書の言葉をよく知っており、自分たちも実は律法を守り切れていないことを、うすうす感じていたはずです。イエス様にその痛い点をはっきり突かれて、悔しさを覚えつつも敗北を認めて引き下がったのです。年長者から始まって、一人また一人と立ち去ったのです。イエス様と女性が残りました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」「主よ、だれも。」するとイエス様は言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 この女性は、十戒に照らせば明らかに有罪です。イエス様は罪を全く犯さない方ですから、イエス様だけはこの女性に石を投げつけて死刑にする権利を持っておられます。しかしイエス様はあえてその権利を行使なさいません。ここを読むと、イエス様は本当に救い主だな、と感じます。イエス様はこの女性の姦淫の罪を、見て見ぬ振りをしたのでないのです。イエス様は、この女性の姦淫という大きな罪をも身代わりに背負って、十字架で死ぬ覚悟を決めておられます。イエス様の十字架の死がなければ、この女性の姦淫の罪も本当には赦されません。イエス様が十字架で身代わりに死んで下さるので、この女性の姦淫の罪も赦されるのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」姦淫の罪を犯したことを、神様の前にはっきり悔い改めなさい。そして二度と姦淫の罪を犯してはならない、と言われたのです。もちろんほかの罪も犯さないように気をつけることが必要です。

 これは、この女性が事実上の洗礼を受けた場面とも言えます。私たちも洗礼を受けたときに、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けたのです。そして清き聖霊を注がれました。これからは聖霊に助けられて、できるだけ罪を避ける生活を始める。何回も失敗するだろうけれども、それでも少しでも清い生き方をするように祈りつつ心がける。その新しい出発が洗礼式でした。イエス様は、私ども一人一人のために十字架で死んで下さいました。その十字架の愛に改めて感謝し、「姦淫してはならない」の戒めをも守り、共にイエス様に従って参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-08-25 17:12:32(月)
「殺してはならない 十戒⑥」 2014年8月24日(日) 聖霊降臨節第12主日礼拝説教 
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、マタイ福音書5章21~26節。
「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)

 「殺してはならない。」人を殺すことが神様に逆らう罪であることを教える御言葉です。私は、平和への祈りを特に強くする8月の礼拝で、「殺してはならない」の戒めを学ぶことができることを感謝しています。動物を殺して食べることが禁じられているわけではありません。人間を殺すことが禁じられています。もちろんだからと言って、必要もないのに動物を殺してよいわけではありません。動物を殺すことも必要最小限にとどめるべきです。

 なぜ人を殺してはいけないか。それは人間が皆、神様に似せて造られた存在だからです。創世記1章26~27節に次のように書いてあります。
「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、
 家畜、地の獣、地に這うものすべてを支配させよう。』
 神は御自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。/ 男と女に創造された。」

 人間が一人一人皆、神様にかたどって造られていることを、「神の似姿に造られている」と言っています。これは人間に尊厳があることを示しています。神様はほかに多くの生き物を造られましたが、それらについて「神にかたどって創造された」とは書かれていません。ほかの生き物の命にも尊厳はあるでしょうが、人間だけが神様に似せて造られたので、人間には特別の尊厳があります。最高の尊厳をお持ちの方は真の神様お一人です。その神様に似せて造られたことは、私たち人間の最高の栄誉です。神様に似せて造られた一人一人なので、人間の命は地球より重いのです。

 だいぶ前に、日本の小学生か中学生が「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問をしたことが話題になったことがあります。この問いに対しては、聖書を根拠に明確に答えることができます。「人は皆、神様に似せて造られた尊い一人一人だから、決して殺してはいけない。聖書のモーセの十戒に、神様のご意志として『殺してはならない』とはっきり書かれているから、殺してはならない。」私たちはこのように答えることができます。

 人間のどこが神様に似ているのでしょうか。姿形ではありません(父なる神様に姿形はありませんから)。人間は(不十分ながら)愛することを知っていること、神様ほどではないが知性を持っていること、意志を持っていること、言葉を持っていることなどが似ています。神様は、この人間に自然界全体を支配する責任と使命を与えられました。この場合の支配とは、勝手に押さえつけることではなく、神様の御心に則して正しく管理するということです。神様は、ご自分がお造りになった自然界・地球を適切に管理する光栄な責任を、私たち人間に与えられたのです。

 詩編8編は、私が好きな詩編の1つです。そこでは作者が、偉大な神様が人間に与えられた栄誉の大きさに驚きながら、次のように歌います。
「月も、星も、あなた(神様)が配置なさったもの。
 そのあなたが御心に留めてくださるとは/ 人間は何ものなのでしょう。
 人の子は何ものなのでしょう。/ あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るもの(!)として人を造り、
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものすべてを治めるように/ その足元に置かれました。
 羊も牛も、野の獣も/ 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」

 何と人間は、「神に僅かに劣るもの」として造られ、神様がお造りになった羊や牛、野の獣、空の鳥、海の魚、海路を渡るもの(鳥たち?)よりも上に置かれたのです。どの一人の方も(女性も男性も、赤ちゃんも大人も、いわゆる障碍があってもなくても)この尊厳を神様から与えられているので、その人間を殺すことがあってはならないのです。にもかかわらず、残念ながら殺人が起こっているのが、この世界の現実です。新聞を開けば、今の日本でも世界でも殺人事件や戦争の記事が多いのです。今こそ「殺してはならない」という神様の御言葉に私たち自身も改めてしっかりと耳を傾け、周りの方々にもお知らせしたいものです。

 創世記は1章で、神様が御自分にかたどって人間を創造されたことを語りました。神様は人間を創造なさったことを深く喜ばれたのです。ですが最初の夫婦アダムとエバは早速3章で神様の戒めに背き、罪を犯します。そのアダムとエバに二人の息子が誕生します。カインとアベルです。二人とも神様に献げ物をしましたが、神様は弟アベルとその献げ物に目を留められましたが、兄カインとその献げ物には目を留められませんでした。カインは激しく怒って顔を伏せ、弟アベルに声をかけ、野原で弟アベルを襲って殺したのです。人類最初の殺人です。最初の兄弟が、兄は殺人の加害者、弟は殺人の被害者になってしまったのです。原因は嫉妬です。カインは嫉妬心から弟アベルを殺害してしまったのです。二代目の人類が、早速「殺してはならない」の戒めを破ったのです。このときはまだ人類に十戒が与得られていませんでしたが、それでもカインが命を愛する神様の御心に背いて、大きな罪を犯したことは間違いありません。

 私たちが旧約聖書を読んで大きな疑問を覚えることの1つは、イスラエルの民が外国人と戦争することではないでしょうか。イスラエルの民は出エジプトし、40年後にカナンの地(イスラエルの地)に入ります。そこで先住民と戦い、相手を殺すのです。十戒に「殺してはならない」と明記されているのに、なぜこのような戦争が行われるのでしょうか。私は大いに疑問に思っていました。イスラエルの民によるカナン征服の戦いは、神の正義の戦いであり、世界史上ただ一度だけの聖戦ではないかと思います。カナンの地に住んでいた先住民は、偶像崇拝をはじめ様々な罪を犯していました。そこで神様が彼らを裁かれたのです。それは神様の正義の戦いでした。イスラエルの民は貧弱な武器しか持っていなかったはずです。それに対して先住民は武力に優っていたはずです。それにもかかわらずイスラエルの民が勝ったのは、神様が戦われたからです。

 ヨシュア記6章に、イスラエルの民がエリコの町を占領した記事が出ています。神様がイスラエルの指導者ヨシュア(モーセの後継者)にこう言われます。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七週し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」 民が神様に言われた通りに行動すると、鬨の声と共にエリコの城壁が崩れ落ちたのです。民は武力によって勝ったのではなく、ただ神様の御力によって勝ったのです。祈りによって勝ったとも言えます。イスラエルの民が神様に従い、先住民が偶像崇拝などの多くの罪を犯して神様に逆らっていたので、神様はイスラエルに味方されました。

 この後イスラエルの民はエリコの町に突入し、神様の命令に従って中の人々を皆殺しにするのです。このことも、「殺してはならない」の御言葉と大いに矛盾するように見えるので驚きますが、これは非常に罪深い民を、神様が裁かれたということでしょう。この時のみ許された特例であって、決してその後の時代の人々が同じことをしてよいわけではありあません。旧約聖書を完成なさる方は、イエス・キリストです。イエス・キリストは、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」、「敵を愛しなさい」とおっしゃり、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃり、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」と、敵を赦す祈りをなさる平和の主です。私たちはこのイエス様に従います。

 ヨシュア記ではイスラエルの民が先住民を滅ぼしますが、イスラエルの民も偶像崇拝などの罪を犯し続けるならば、カナンの地から追放されるのです。その意味で神様は公平です。実際イスラエルの民は、偶像崇拝の罪などを犯し続け、神様が預言者を遣わして悔い改めを求めても応じなかったために、紀元前6世紀にバビロン捕囚の苦難を経験するのです。首都エルサレムはバビロン軍によって踏みにじられ、人々は遠くバビロンへと連行されます。国は一旦滅びるのです。約半世紀後にイスラエルの民は帰還し、国を再建するのです。ヨシュア記では確かにイスラエルの民が先住民を滅ぼすのですが、それは悪を滅ぼしたということなのだと思います。イスラエルの民にとっても私たちにとっても、真の敵は人間ではなく悪魔なのです。人間を殺すことは罪です。私たちは、私たちを罪へと誘惑する悪魔と、祈りと聖書の言葉によって戦うのです。

 私は渡部良三著『歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』(岩波書店、2012年)という小さな本を持っています。著者の渡部さんは、無教会派のクリスチャンです。無教会を始めた方は内村鑑三ですが、内村鑑三は日露戦争の時に非戦論を唱えたことで有名です。無教会にはこの精神が息づいているのでしょう。1944年春、新兵であった22才の渡部さんが属する部隊が中国の河北省に駐屯しました。戦闘の度胸をつけさせるためという理由で、新兵48名に、5名の中国人捕虜を銃剣で突き殺すことが命令されたそうです。どう考えても国際法違反です。渡部さんのお父様も無教会のクリスチャンで、息子である渡部さんを戦地に送り出さざるを得なくなったとき、次のように言われたそうです。「最近内村鑑三先生の聖書の研究を読んでいたら、こう言うことが書かれていました。『事に当り自分が判断に苦しむ事になったなら、自分の心を粉飾するな、一切の虚飾を排して唯只管(ひたすら)に祈れ。神は必ず天からみ声を聞かせてくれる』と。だから心を粉飾することなく祈りに依って神様の御声を聞くべく努めなさい。お前の言葉でよいのだ。」(同書、228ページ)。

 捕虜を突けという無茶な命令を受けた日、渡部さんは必死に祈られたそうです。「神様、道をお示し下さい。力をお与え下さい」(同書、241ページ)。すると神のみ声を聞いたそうです。「汝、キリストを着よ。すべてキリストに依らざるは罪なり。虐殺を拒め、生命を賭けよ!」(同書、241ページ)。教官に、信仰のゆえに殺すことはできないと申し出たそうです。その後、多くのリンチを受けられましたが、聖書の御言葉を心の中で繰り返すことで耐えたそうです。ローマの信徒への手紙5章3~4節です。「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐を練達を、練達は希望を生むということを。」そして幸い、生きて日本に帰ることができました。渡部さんが中国でひそかに作っていた短歌は多いのですが、そのうち2首をご紹介致します。
「祈れども 踏むべき道は唯ひとつ 殺さぬことと心決めたり」(同書、17ページ)。
「殺す勿れ そのみおしえをしかと踏み 御旨に寄らむ惑うことなく」(19ページ)。 
渡部さんは、「殺してはならない」を自分は何とか実行したが、上官や同僚の兵士には「殺してはならない」と説かなかったことを、深い罪と自覚しておられます。

 本日の新約聖書は、マタイによる福音書5章21節~です。小見出しは「腹を立ててはならない」ですから、腹を立てることが殺人の第一歩だというメッセージが込められています。(21節)「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺したものは裁きを受ける』と命じられている。」この「殺すな」は明らかに十戒の「殺してはならない」のことです。イエス様はこの戒めの深い精神を教えて下さいます。ただ殺人をしなければよいのではないのです。(22節)「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」兄弟とは信仰の兄弟のこととも言えますが、人類は皆兄弟姉妹とも言えるので、すべての人を指すと私は考えます。兄弟に腹を立て、「ばか」、「愚か者」と罵ることは殺人と同罪で、そのように一回でも人を罵れば「殺してはならない」に違反したことになり、神様の裁きを受ける罪だというのです。

 そして神様に礼拝を献げるに先立って、仲のよくない人と仲直り・和解しておかなければ、礼拝と言っても偽善であり礼拝にならないと、イエス様は教えて下さいます。(23~24節)「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」人を赦さない心のまま、人と和解しない心のまま、人を憎む心を抱きながら、神様を礼拝することはできないのです。私たちの人を赦さない心、人と和解しない心、人を憎む心こそ殺人の根、殺人の第一歩です。さらにイエス様はマタイによる福音書5章44節で、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という有名な御言葉を語られました。この御言葉を受けとめるなら、戦場で敵を殺すこともできませんし、自分の身近な人を赦さないなどあり得ないことになります。

 16世紀に今のドイツで作られた『ハイデルベルク信仰問答』では、「殺してはならない」について次のような問答が展開されています。
「問106:この戒めは、殺すことについてだけ、語っているのではありませんか。
 答:神が殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、
ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること。またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。」
「問107:しかし、わたしたちが自分の隣人をそのようにして殺さなければ、それで十分なのですか。
 答:いいえ。神はそこにおいて、ねたみ、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、この方がわたしたちに求めておられるのは、わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。」
  (吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、2002年、98~99ページ)

 ねたみの心、人を憎む心、怒り、復讐心は殺人の根っこであり、これらの思いを心に抱くことが「隠れた殺人」であり罪だというのです。「あの人がいなければいい」などと私たちが万一思えば、それが「隠れた殺人」になり、「殺してはならない」に違反する罪を犯したことになります。そして憎みさえしなければ「殺してはならない」を十分実行したことになるのかと言えばそうではなく、すべての人を自分のように愛して忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を行い、敵に対しても善を行う、愛を行う。こうして初めて「殺してはならない」の戒めを実行したことになります。「殺してはならない」とは、「愛しなさい」ということだと分かるのです。イエス様はマタイによる福音書7章で、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とおっしゃいました。黄金律・ゴールデンルールと呼ばれます。このようにして初めて、「殺してはならない」を実行することになるというのです。単に殺人を実行しないだけでは全然足りないのです。旧約聖書にはそこまで書かれていませんが、イエス様が「殺してはならない」の本当の意味はこうなのだと教えて下さったのです。こうなると私たちは、「殺してはならない」の戒めさえ、本当には守ることができていない罪人(つみびと)であることを悟るのです。

 ヨハネの手紙(一)3章15節にこう書かれています。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。」16節にはこうあります。「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」 4章20~21節にはこう書かれています。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。」 この中には私たちにとって耳に痛い御言葉もあったかもしれません。耳に痛くても、心に刻みたい御言葉です。

 「殺してはならない」の戒めを考えると、いろいろなことを考えなくてはならなくなります。戦争、死刑制度、中絶などです。このすべてについて今日語ることはできません。日本人の多くは戦争を憎んでいると思います。これからも世の終わりまでずっとそうでありたいのです。昨年わたしは原爆の絵が展示されている埼玉県東松山市の丸木美術館に行きましたが、そこで買った本に、それらの絵を描いた画家の丸木位里さんの言葉が書かれていました。「私の若い頃には戦争というのがそれほど悪いことと思わない空気があった。~いかなることがあっても、戦争はいけないということだ」(『丸木位里のことば』財団法人原爆の図丸木美術館編、2001年、104ページ)。そのような空気が再び日本に漂わないことを祈ります。日本人は空気に弱いと言います。そこに流れている空気・雰囲気に何となく染まってしまうのです。「何となく」が曲者です。十分気をつけたいと思います。

 私は先々週の8月15日(金)に、埼玉県上尾市にある聖学院大学(初めて行きました)で行われた「平和の祈り8.15」という礼拝形式の集いに出席して参りました。今年から学長になられた姜尚中(カン・サンジュン)先生のお話を伺いました。1950年熊本市生まれの在日韓国人二世のクリスチャンで、政治学者の方です。「8月15日(敗戦の日)は、国民を資源・モノとして扱った国家から国民が解放された日、出エジプト記の日といえるのではないか。しかし東日本大震災後の国の対応を見れば、国民を資源・モノとして扱う現実はまだあるのではないか。今、東アジアでは新たな戦前の空気を感じる(ので十二分に気をつけなければならない)。東京裁判史観を自虐史観と見なす風潮、歴史の隠蔽に危惧を覚える(東京裁判に一部問題があることを認めつつも)」いう意味のお話を、平和への願いを込めてなさいました。戦争中の日本が、国民を資源・モノとして扱っていたのはその通りではないかと感じます。召集令状一枚で男性を戦地に送るというのはその現れです。「殺してはならない」の戒めを無視する国だったと言われても仕方がなかったでしょう。

 自分の国の人を殺してはならないし、他の国の人を殺してもならない。「殺さないで愛する」。今後さらにそのような日本となり、イエス様がもう一度おいでになる世の終わりまで、平和を愛する私どもであり続けたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-08-18 18:14:03(月)
「あなたの父母を敬え 十戒⑤」 2014年8月17日(日) 聖霊降臨節第11主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、マタイ福音書15章1~9節。
「あなたの父母を敬え。」(出エジプト記20章12節)

 本日はモーセの十戒の第五の戒めを学びます。このことについては、出エジプト記21章17節に、「自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる」と書かれています。父母の悪口を言う人は死刑に処せられるというのです。箴言23章22節には、「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。」このように聖書は私たちが父母を敬うことを求めています。日本風に言うと、親孝行です。私たちは父母を通して神様から命を授かりました。そして聖書を信じる世界では、父母から子どもは神様を教えられるのです。父母は子どもの信仰の導き手です。最も大切な神様のことを教えてくれる父母を敬うのです。

 イエス様も十戒に従い、父母を敬って生きられました。ルカによる福音書2章を読むと、イエス様が12歳のときに両親と共に過越祭のためにエルサレムに行き、両親が帰路についたがイエス様は帰路につかず、両親が慌ててイエス様を探したところ、やっと三日後にエルサレムの神殿で発見したという記事があります。12歳のイエス様が既に、ご自分が天の父なる神様の子であることを自覚しておられたことを示す記事ですが、その後イエス様は両親と一緒にガリラヤのナザレに帰られ、「両親に仕えてお暮らしになった」と書かれています。私はこの記事を読むたびに、「イエス様は十戒に書いてある通り、父母を敬って生きられたのだな」と感じます。父ヨセフは大工でしたから、イエス様はヨセフから大工仕事を習って、大工として労働しながら約30歳のときまでをナザレでお暮らしになったに違いありません。

 ヨハネによる福音書19章を読んでもそう思います。イエス様は十字架の上におられる時も、産みの母マリアのことを深く配慮しておられました。イエス様の十字架のそばには、母マリアと母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアという4名の婦人が悲しみを必死にこらえて立っていました。母マリアのそばには「愛する弟子」がいました。ヨハネだとされています。男の弟子ではヨハネだけが十字架の下に着いて来たのです。イエス様は苦しい息の中で母マリアに言われます。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」それからヨハネに言われました。「見なさい。あなたの母です。」イエス様が老後の母マリアを愛する弟子の一人ヨハネに託したのです。ヨハネはこのときからマリアを自分の家に引き取りました。イエス様の父ヨセフはもう亡くなっていたと思われます。イエス様は父を失う悲しみを体験なさったのです。母マリアはその後、エルサレムの初代教会の精神的な支柱になったようですが、伝説ではその後ヨハネと共に小アジアのエフェソに行き、そこで地上の生涯を終えたと言われます。イエス様は十字架の死の直前まで、母マリアの行く末を配慮されたのです。

 十戒は述べます。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」「あなたの父母を敬え」の戒めには、神様の恵みの約束がついているのですね。「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」という約束です。「主が与えられる土地」はイスラエルの民に とってはイスラエルの土地ですが、私たちにとっては日本の土地です。皆様はご両親様を敬い、大切にして来られた方々ばかりと思います。私も自分と妻の両親にもう少し孝行しなければいけないなと反省する今日この頃です。今の日本は高齢化の時代です。私が聞いた話では、教会の牧師として奉仕しつつ親御さんの介護をしている方がおられ、ご両親の介護に専念するために牧師としての奉仕を一旦おやめになる方がおられ、あるキリスト教団体の職員の方も職をやめて故郷に帰ってご両親の介護をなさるということです。もちろん以前からそのような方はおられたでしょうが、最近よくこのような話を聞きます。それが今の日本と日本の教会の現実なのだなと感じます。この傾向は今後さらに進むと思います。私にとっても次第に他人事でなくなると思います。現に今、東久留米教会員で入院なさったり、ホームにおられる方々を支えておられるのは奥様・ご主人、息子・娘さん方ですし、また教会員の方々がご自分のご両親方をお支えになり、「あなたの父母を敬え」を実践しておられるお姿を、私は拝見しております。私が、その皆様の前で「あなたの父母を敬え」という題の説教をさせていただくことは、大変おこがましいことです。浅野先生ご夫妻も、前の会堂の2階に、先生のお母様を受け入れてお世話なさったと伺っております。

 父母を敬うとは、もう少し具体的に言うと、父母の教えに従うということでもあるでしょう。箴言には、「父の諭し」の小見出しが多くあります。残念ながら「母の諭し」の小見出しがないのですが。「父の諭し」には、次のように書かれています。
「施すべき相手に善行を拒むな。/ あなたの手にその力があるなら。
 出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな。/あなたが今持っているなら。~
 理由もなく他人と争うな。/ あなたに悪事を働いていないなら。
 不法を行う者をうらやむな、その道を選ぶな。
 主は曲がった者をいとい まっすぐな人と交わってくださる。
 主に逆らう者の家には主の呪いが/ 主に従う人の住みかには祝福がある。
 主は不遜な者を嘲り/ へりくだる人に恵みを賜る」(3章27~34節)。

 旧約聖書と新約聖書の中間の時代に書かれた旧約聖書外典と呼ばれる書物群があり、それは聖書ではありませんが、信仰者の生き方に指針を与える書として、大切にされて参りました。その旧約聖外典にシラ書という書物があり、その3章1節以下に、私たちに参考になることが書かれています。小見出しは「両親に対する義務」です。
「子どもたちよ、/ 父の戒めに耳を傾け、それを守れ。
 そうすれば、つつがなく暮らせる。
 主は、子に対する権威を父に授け、/子が母の判断に従う義務を定めておられる。
 父を尊べば、お前の罪は償われ、/同じく、母を敬えば、富を蓄える。
 父を尊べば、いつの日か、/子供たちがお前を幸せにしてくれる。
 主は、必ず祈りを聞き入れてくださる。
 父を敬う者は、長寿に恵まれ、/主に従う者は、母を安心させる。
 主を畏れる人は、父を尊び、/僕が主人に仕えるように、両親に仕える。
 言葉と行いをもって、父を尊敬せよ。/ そうすれば、父から祝福を受ける。
 父の祝福は、子供たちの家を堅固なものとし、
 母の呪いは、子供たちの家の土台を覆す。(~)
 父親を敬うこと、これこそ人間の栄誉なのだ。
 母親を侮ること、それは子供にとって恥である。 
 子よ、年老いた父親の面倒を見よ。/生きている間、彼を悲しませてはならない。
 たとえ彼の物覚えが鈍くなっても、/思いやりの気持ちを持て。
 自分が活力にあふれているからといって、/彼を軽蔑してはならない。
 主は、父親に対するお前の心遣いを忘れず
 罪を取り消し、お前を更に高めてくださる。
 お前が苦難に遭うとき、/主は、その心遣いを思い出してくださる。
 お前の罪は、晴れた日の霜のように/解け去るであろう。
 父を見捨てる者は、神を冒瀆する者、同じく
 母を怒らせる者は、主に呪われている者。」
 
 本日の新約聖書は、マタイ福音書15章1節以下です。イエス様がファリサイ派の人々と律法学者たちの偽善を指摘なさる箇所です。(3~6節)「そこで、イエスはお答えになった。『なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、「父母を敬え」と言い、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。「父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は、父を敬わなくてよい。」こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。』」 イエス様の時代に、父母を扶養するための物品について言い逃れの習慣ができていたそうです。「本来、父母を扶養するためのこの物品は、神様への供え物にします」と誓えば、父母の扶養義務を免れることができたそうです。それをファリサイ派も支持していたそうです。神様への礼拝を盾にとって、父母の扶養を逃れる屁理屈です。その物品を本当に神様に献げたのかどうか、私には分かりません。万一献げなかったとすれば、相当悪質です。人間はずるいもので、義務と責任を免れて自分を正当化するために、様々な屁理屈、抜け穴を考え出します。イエス様の時代の人々にもその傾向がありました。

 神様を礼拝するからと言って父母を敬うことを省略することはできませんし、父母を敬うから神様を全然礼拝しないというわけにも参りません。十戒には両方書かれているのですから、両方行うのが本来でしょう。イエス様の時代に行われていた屁理屈は、「父母に扶養のために渡すべき物品は、神様へ供え物にする」と言えば、父母に渡さなくてよいというものでした。この考えを支持したファリサイ派の人々を、イエス様は「偽善者だ」と指摘されたのです。これを読んで私は考え込むのですが、もし「神様を愛し礼拝しているから、隣人を愛さなくてよい」という考え方があるとすれば、それは偽善だということです。私も残念ながら、「自分は偽善者だ」と思います。

 イエス様は、マタイによる福音書22章で言われます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」 両方が揃うことをイエス様は望んでおられます。私たちは罪人(つみびと)ですからこの両立は難しいのですが、神様に助けていただいて、不十分でも両立を目指したいのです。神様が両立を助けて下さいます。

 一方で聖書には、「あなたの父母を敬え」と一見、矛盾するような御言葉もあります。イエス様は、マタイによる福音書10章で、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしより息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」とおっしゃっています。イエス様はマタイによる福音書12章で、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」とおっしゃり、弟子たちの方を指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われます。これは肉親の情よりも、父なる神様から与えられた使命を優先するイエス様の姿勢を示す御言葉です。信仰には確かにこのような面があります。一種の出家を必要とする面が確かにあるのです。イエス様も、約30歳になられてからは、ナザレの家を出て、父なる神様の使命のために生きられました。母マリアや弟妹たちを愛するあまり、十字架への道を放棄することはもちろんなさいません。母マリアや弟妹たちを非常に愛しておられましたが、父なる神様をもっと愛しておられたのです。

 肉親を愛する以上に、父なる神様(イエス様)を愛することが必要な場合があります。有名なアッシジのフランチェスコは、商人である父親と訣別して、イエス様に従う道を選んだと言います。衣服を脱ぎ捨てて父親に返し、裸になって、「私の父は天にいます」と言って、イエス様に従う道を選んだと言います。これはフランチェスコが世俗と決別したこと意味します。確かに、イエス様に従うにはこのような覚悟が必要です。但しそれは父母を愛さないということではなく、父母を愛するけれども、神様(イエス様)を父母よりももっと愛するということでしょう。イエス様も父ヨセフと母マリアを愛し敬われましたが、だからと言って父なる神様に従い、十字架の道に進むことをおやめにはなりませんでした。父なる神様を第一に愛され、その大前提のもとに父母を敬われたのです。

 クリスチャンになることを父母に反対されることは有り得ることです。クリスチャンになることを父母に理解・賛成してもらえるように一生懸命努力してもなかなか賛成されない。賛成されないままに洗礼を受ける場合もあります。でもある人がクリスチャンになることは、本当は御両親にとっても祝福だと思います。クリスチャンになれば十戒に従って生きるようになるので、「父母を敬う」ようになるはずだからです。それまで父母を敬っていなかった人でも、クリスチャンになれば十戒に従って「父母を敬う」ようになるはずなので、人がクリスチャンになることは、実はご両親にとって大きな祝福であるはずです。

 今は天国におられる井上哲雄牧師という方が書かれた本に記されていたことを思い出します。井上先生は若い頃に、イエス・キリストに出会うという驚くべき体験をされ、一生懸命教会に通い、洗礼を受けられました。井上先生は呉服屋の一人息子で、あとを継がなくてはならないお立場でしたが、キリストにわが身を献げて神学校に行きたい気持ちになられました。井上先生は次のように書いておられます。「だが『神学校に行く』といったら父親はカンカンになって怒った。その時に私は『親父が死ねばいい』と思った。死ねば神学校に行けると思っていた。」その時に神様の御声が聞こえたそうです。「お前は神を愛しているといいながら偽善者だ! 偽り者だ! 大恩ある父母を恨んでいるお前は偽善者だ」と迫られ、自分の罪に気づかせられ、悔い改めなくてはならなくなったそうです。「そこで本当に涙を流して悔い改めた。父と母の前に手をついて、『間違っていました。神学校なんてとんでもない、呉服屋のあとを継ぎます』と言った。父も母も喜んでくれ」たそうです。

 「その晩は休んで、あくる朝、父母の態度がおかしい。母が父に変な夢を見たというし、父も『私も変な夢を見た。あれが哲雄が信じているイエス・キリストに違いない』と言った。イエス様は昨晩、父と母の枕べに立たれて、諄々と諭されたのだった。~私が『神学校には行きません』と言うと、『いや、行ってもらわなくてはならなくなった』ということで、神学校への道は開かれた。キリストは生きておられる。主はご自身のご計画を進めるために、不思議なことをなさる。敵のようなものでも、神様が包んで下さるということだ」(以上、井上哲雄『現今の奇跡 イエス・キリストは今も病をいやされる』(暁書房、1987年、17~18ページより)。驚くべき証しです。イエス・キリストが働いて下さり、神様への愛と父母への愛を両立できるように助けて下さったのですね。

 約450年前に、今のドイツで作られた『ハイデルベルグ信仰問答』という信仰問答があります。第五の戒め「あなたの父母を敬え」については、次のような問答が展開されています。
「問104 第五戒で、神は何を望んでおられますか。」
「答 わたしがわたしの父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々に、あらゆる敬意と愛と誠実を示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである、ということです。なぜなら、神は彼らの手を通して、わたしたちを治めようとなさるからです。」
 (吉田隆訳『ハイデルベルグ信仰問答』新教出版社、2002年、97ページ)

 『ハイデルベルグ信仰問答』によると、第五戒が私たちに求めることは、父母を敬うのはもちろんだけれども、それにとどまらず、自分の上に立てられた人々を父母と同じように敬うことです。職場で言えば上司などに敬意と愛と誠実を示し、すべての「よい教えや懲らしめには」従順に服従することです。「よい」教えや懲らしめに従順に服従するのであって、明らかに悪い指示には従えないでしょう。たとえば、「人を殺しなさい」という無茶な指示は断るほかありません。ですが「よい」教えや懲らしめには従うのです。それは神様の御心に適うというのです。但し、今はパワハラ(パワーハラスメント)が認定される社会であり、上司も気をつけなければなりません。父母も、子に敬ってもらえるような生き方をするように気をつけなければなりません。

 『ハイデルベルグ信仰問答』は、私たちの上に立てられた人々の「欠けをさえ忍耐すべきである」と教えます。これは難しいことです。似たことを述べる聖句としては、ペトロの手紙(一)2章18節~が挙げられます。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神はそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」 こうしてイエス・キリストの御足の跡に従うことになるというのです(もちろん心身の病気になるほど苦痛の場合は、話し合って休むなどする必要があります)。「自分の上に立つ人々を敬う。」これは年長の方を敬うということでもあります。神様がレビ記19章32節で、こうおっしゃっています。「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」

 私は昨日、西東京教区の平和集会に出席し、渡辺信夫先生(日本基督教会の大ベテラン牧師)の講演を伺いました。宗教改革者カルヴァンの研究と平和活動で知られる今年92歳の渡辺先生の講演を伺うのは、私にとって21年ぶりでした。今は、従軍慰安婦とされた台湾の方々を支援する裁判の活動をされているとのことです。まさに日本の教会の長老、日本の教会の(霊的な)父親のお一人と言ってよいと思います。約30教会、91名が出席致しました。渡辺先生は学徒出陣され、1945年1月に第44号海防艦という船に乗って鹿児島から沖縄に出航し、米軍の攻撃を受けて撃沈されかけたのですが、幸い船が沈まないで助かったという経験をお持ちです。今の日本の政府を深く憂いておられることは確かです。「私を死なせずに、生きて還らせて務めにつかせる大きい意志が働いたと感じる。(戦後は)平和に仕える、教会のために歩むと決意した。自分のためではなく、主のため、人々のため、教会のために生きる使命感に生きて来た」と話され、最後に次の意味のことを語られました。「戦争を経験しないことが大きな祝福であることを考えてほしい。私たちは神様から生きる命を賜わっている。この賜わっている命をいかに深め、用いることができるかを考えてほしい。」 戦争をしたらそれができなくなるのだ、戦争は非常に愚かな行為であり、決してしてはならないと強調されたのだと、私は解釈致しました。このような信仰の父のような先生に学んで生きて参りたいのです。それも「父母を敬え」のスピリットに合致すると思うのです。

 最後に、エフェソの信徒への手紙6章1節以下をお読み致します。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。」父母を敬うことは、父母を通して命を与えて下さった神様を敬うことであり、神様に喜ばれることなのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-08-11 13:14:40(月)
「わたしの願いではなく、御心のままに」 2014年8月10日(日) 聖霊降臨節第10主日礼拝説教
朗読聖書:創世記22章1~19節、ルカによる福音書22章35~46節。
「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
               (ルカによる福音書22章42節)

 イエス様の十字架が目前に迫っています。あと数時間すると、イエス様は捕らえられるのです。状況は緊迫しています。弟子たちもそれを感じ始めています。(35~36節)「それから、イエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。』彼らが、『いいえ、何もありませんでした』と言うと、イエスは言われた。『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。』」

 イエス様は、神の国の到来を宣べ伝えさせるために72人の人々をイスラエルの町や村に派遣なさったとき、こうおっしゃったのです。「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな(イエス様のおいでによって神の国が来ていることを宣べ伝えることがそれだけ緊急に大切だからです)。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」 「財布も袋も履物も持って行くな。」それは勇気のいることです。私たちですと、持ち物を減らすことは致しますが、財布も袋も履物も持たずに旅に出ることは正直言って難しいと思います。ですが72人は実行したのです。この72人は十二弟子とは別ですが、十二弟子も同じように財布も袋も履物も持たずに、神の国の宣べ伝えるために派遣されたに違いありません。父なる神様が共にいて下さり、必要なものはすべて備えて下さったに違いありません。出エジプトした民が何もない荒れ野を旅したとき、神様がマナという食物を与え続けて下さり、岩から水を出して養って下さったのと同じようにです。十二弟子も何も不足しなかったのです。神様が与えて下さったからです。

 しかし今は状況が緊迫しています。悪魔が猛威を振るうときが来たのです。そこでイエス様は十二人の弟子たちに、心して備えるものを備えるようにと言われます。悪魔と戦う心構えを強化するように言われるのです。「今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」弟子たちは剣を二振り持っていたので、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエス様は「それでよい」とおっしゃいました。 イエス様が「剣を買いなさい」とおっしゃったことは意外です。イエス様はマタイによる福音書26章で、イエス様を守ろうとして大祭司の手下に打ちかかって片方の耳を切り落とした弟子に、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃっているからです。

 8月は平和への祈りを特に強化する月で、礼拝の招詞として選んだイザヤ書2章4節には、国々が「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と書かれています。人々が戦争の道具・剣を農耕の道具・鋤に作り変え、同じく戦いの道具・槍をやはり農業の道具・鎌に作り変えるというのです。これは平和メッセージです。イエス様は基本的に平和の主ですから、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃいます。そのイエス様が「剣を買いなさい」とおっしゃったことは意外です。イエス様は弟子たちに、「剣を振るい、武器を取って戦え」と言われたのではないでしょう。なぜなら、このルカによる福音書でもイエス様が捕らえられる場面で、イエス様と共にいた者の一人が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とすと、イエス様は「やめなさい。もうそれでよい」とおっしゃり、その耳に触れていやされたからです。「剣を買いなさい」とは、あくまでも悪と戦うしっかりとした心構えを持ちなさいというメッセージと思います。

 エフェソの信徒への手紙6章を見ると、キリスト者の真の敵は人間ではなく悪魔であり、キリスト者の武器は神様の御言葉(聖書)と祈りであると書かれています。これは物理的な武器ではなく、霊的な武器です。エフェソの信徒への手紙6章12節以下にこう書かれています。「わたしたちの戦いは、血肉(人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊(悪魔、悪霊)を相手にするものなのです。だから邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊(聖霊)に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」 真理と平和を愛するキリスト者は、剣(物理的な武器)ではなく、神の言葉と祈りによって悪の力と戦うのです。

 ルカによる福音書に戻ります。イエス様は、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」と語られました。イエス様の十字架の死を予告するイザヤ書53章の12節を引用して語られたのです。そこにはこう書かれています。「彼が自らをなげうち死んで/ 罪人の一人に数えられたからだ。」イエス様は、イザヤ書53章がご自分の十字架の死を預言していることを十分に承知しておられました。

 そしてイエス様は生涯の最大の正念場である祈りへと進んで行かれます。(39~40節)「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。」 イエス様はどこででも祈られたでしょうが、このオリーブ山はイエス様にとっていつもの祈りの場だったのです。イエス様は祈るための「いつもの場所」を決めておられたのです。私が神学校を卒業するときに、学長先生が、送り出す卒業生たちに伝道者の心構えを二泊三日の合宿で講義して下さいましたが、「祈りはいつでもどこででもできる。しかし祈りの場所と時間を確保せよ」と、おっしゃいました。祈りはいつでもどこででもできるので、逆におろそかになることもあるのではないでしょうか。そうならないために祈りの場所と時間を決めて祈りを実行することは、よいことです。つい祈りがおろそかになってしまう私たちのために、教会では礼拝と祈祷会を用意しています。礼拝と祈祷会に来て祈ることも、とてもよいことです。

 これは有名な場面です。マタイによる福音書とマルコによる福音書では、場所はゲツセマネになっています。ゲツセマネとは「油搾り」という意味だそうです。イエス様はまさに、ご自分の全身全霊を搾りきる激しい祈りをされました。イエス様は弟子たちと離れて、一人祈りへと進まれます。(41~43節)「そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯(十字架)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。」

 天使は重要な場面に登場します。ここでも十字架に向かう決断をするイエス様を励ます重要な役割を果たしています。祈りに関する名著と呼ばれる『祈りの精神』(斎藤剛毅訳、ヨルダン社、1986年)の中で著書のP.T.フォーサイスという牧師は、「神様と格闘するような祈りこそ、祈りの理想ではないか」という意味のことを述べています(決してわがままな願いを神様に押し付けることがよいという意味ではありません)。 祈りは神様に真剣に願い求める魂の崇高な労働なのです。その意味で祈りは楽ではありません。イエス様のオリーブ山での祈りこそ、祈りの歴史の中で最も崇高な格闘の祈りだったと思うのです。イエス様はまず正直な願いをぶつけ、「父よ、御心なら、この杯(十字架)をわたしから取りのけてください」と祈られました。当然の願いです。しかし「御心なら」とおっしゃっています。私たちも「御心ならば、このようにして下さい」と祈りたいのです。

 イエス様はさらに踏み込んで祈られます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」ここにイエス様の強い覚悟が出ています。「最後はあくまでも父なる神様のご意志に服従します」、という決意の表明です。これこそ祈りの最終目標です。迫力ある祈りです。私たちも先ほど「主の祈り」で、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りました。「神様が喜ばれることが、既に天において行われているように、地でも行われますように」という祈りです。「私たちをそのために用いて下さい」という意味でもあるのです。父なる神様の御心は、イエス様が私たち皆の罪を背負って十字架で死ぬことです。イエス様はご自分を献げ物となさるのです。私たちも、イエス様ほどはできないかちと思いますが、聖霊に助けられて神様の御心を行いながら生きるのです。

 (44節)「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」「苦しみもだえ」とは、「レスリングする、組み打ち・格闘する」ということだそうです(左近淑『だれも奪えぬ自由』教文館、1996年、114ページ)。全身全霊を注ぎ出す祈りをなさったのです。私は、創世記32章でイスラエルの先祖の一人ヤコブが、神様ご自身と格闘した場面を連想します。塚本虎二先生とおっしゃる無教会の伝道者が訳された新約聖書では、「汗が血のしたたりのようにポタポタ地上に落ちた」と訳されているそうです(同書、115ページ)。生々しい訳で、その様子が目に浮かぶようです。「いよいよ切に祈られた」は、ある聖書では、「ますます熱意を込めて」、「ますます真剣に」と訳されているそうです(同書、115ページ)。賀川豊彦牧師は、シャツに血の斑点がついた経験をお持ちだと三浦綾子さんの『新約聖書入門』(光文社文庫、2012年、194ページ)に書かれています。きっと全力で祈られたときの経験なのでしょう。私たちはなかなかそこまで祈ることができない自分の弱さを残念に思います。

 (45節)「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」イエス様がただならぬ様子であることに弟子たちも気づき、弟子たちなりに祈りで応援しようと思ったでしょうが、睡魔に打ち勝つことができませんでした。私たちも睡魔になかなか勝つことができません。イエス様だけは睡魔に打ち勝って、徹夜の祈りを祈りきられたのです。イエス様は非常に意志の強い方です。荒れ野の誘惑の時も、何と40日間も、昼も夜も断食なさったのです。そして十字架の苦難から逃げ出さず、耐え通して下さったのです。私たちのためです。本当に感謝です。

 本日の旧約聖書は創世記22章です。有名な場面であり、大変な場面です。ここに登場するアブラハムもまたイエス様に似て、父なる神様に全力で従った人です。神様は、アブラハムの神様に従う信仰が本物かどうかお試しになります。神様は、ヨブに与えた試練にも似た試練をアブラハムにお与えになります。神様が与える試練は、人間をいじめるためのものではないはずです。自己中心的な私たちを、神様と心を一つにして清く生きる人になるように鍛える目的で、神様は試練をお与えになるのではないでしょうか。アブラハムほどの試練を経験していないわたしが、創世記22章を説教する資格があるとは到底思えませんが、立場上、僭越ながら説教させていただいています。ヘブライ人への手紙12章10節以下の御言葉が思い出されます。「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」アブラハムは純粋な清い信仰に生きるようにと、神様から鍛錬されたのです。

 神様は、私たちが耳を疑うことをアブラハムに命じられます。(2節)「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つの登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 ある日本人の牧師が御自分の息子に「もりや君」という名前をおつけになったことを知っています。私はその「もりや君」としばらく教会生活を共にしました。きっと神様に献げるという意味で、「もりや君」と名付けられたのではないかと思います。

 神様は、神様の約束によってやっと生まれたイサクを、「焼き尽くす献げ物」として献げることをお命じなったのです。焼き尽くすのですから殺して献げるのです。常識的にはあまりにも残酷な命令です。アブラハムが「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」神様を愛しているかどうか、その純粋さが試されたのではないでしょうか。神様から与えられたイサクですから、神様にお返しすることが求められたのではないでしょうか。これはアブラハムだけのことではないのです。すべてのものは神様のものです。私たちの命も神様のものですから、神様が喜んで下さるようにこの命を使い、そして神様にこの命をお返し致します。礼拝に出席することは、自分を神様にお返しすることです。そして平日も、ささやかでも神様の御心を行い、自分を献げて生きたいのです。

 ルターは「アブラハムは真っ青になった」と言っているそうです(左近淑先生の前掲書、19ページ)。私たちの人間の自然の感情からはそうだろうと感じられますが、但し聖書にはアブラハムの気持ちは全く書かれていませんので、アブラハムの本当の心境は分かりません。アブラハムは直ちに神様に従うのです。(3節)「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」

 イサクは何も知らされていません。イサクは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を背負います。この姿は十字架を背負うイエス様を暗示するとも言えます。イサクは、父親と一緒に小羊を焼き尽くす献げ物として、神様に献げに行くと思っていたのでしょう。しかし様子が変であることに気付いたはずです。小羊がいないのですから。イサクは、自分が献げ物になることに気付いたに違いありません。しかし逃げ出しません。父アブラハムと神様を絶対的に信頼し、自分のすべてをゆだねます。イサクも見上げたものです。十字架の上で最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られたイエス様にも似て、イサクは自分の命を父アブラハムと神様にすべて預けます。私たちも地上の人生を終えるときは、信頼を込めて神様に自分のすべてをおゆだねし、お預けするのです。神様は信頼に値する方ですから、大丈夫です。

 アブラハムも神様を絶対的に信頼して、イサクを本気で屠ろうとします。イサクを神様にお返しするのだから、神様がイサクの命を受け取って下さる、だから丈夫だという絶対の信頼がありました(もちろんだからと言って、私たちが自分の子を殺すことが求められているのではありません。誤解なさらないで下さい)。 9~10節で緊迫が頂点に達します。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に乗せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」ここまでで神様は、アブラハムの深い信仰と神様への愛を、よしと認めて下さいました。すんでのところで天使が介入するので、私たちはほっとします。(11~12節)「そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。(名前を2回呼びかけることは、非常に重要な呼びかけであることを意味します。)彼が『はい』と答えると御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしに献げることを惜しまなかった。』 アブラハムが、神様に本当に純粋に従う人であることが証明されたのです。

 神様はアブラハムにイサクをお返しになりました。アブラハムもイサクも本当に鍛えられ、ますます神様への信頼を深める親子となりました。アブラハムは真に厳しい試練を受けましたが、イエス様はもっと厳しい試練をお受けになりました。イサクはすんでのところで助けられましたが、イエス様は十字架から生きて降りることはなかったのです。イエス様は十字架の上で、本当に献げ物となられました。イエス様が、私たちのすべての罪を背負って十字架で死なれることが父なる神様の御心でした。イエス様は御心に服従し切られたのです。十字架の上には、厳しさだけがありました。イエス様はそれに耐えきられました。父なる神様も天で、最愛の独り子を孤立無援の十字架で苦しめ、死に至らせる悲痛に耐えておられました。父なる神様が大きな犠牲を払われ、父の最愛の独り子イエス様が十字架に進んで下さったことにより、私たちの罪が赦されました。

 その十字架に進む決意を、イエス様はオリーブ山での祈りで不動のものとされたのです。人間として十字架を避けたい正直な気持ちに打ち勝って、父なる神様に服従することを選ばれたこの祈り。最も崇高な祈りです。私たちも祈りによって、自分の身勝手な気持ちに打ち勝ち、イエス様に従う歩みに進ませていただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。