
2014-07-14 12:58:37(月)
「目を覚まして祈りなさい」 2014年7月6日(日) 聖霊降臨節第5主日礼拝説教
朗読聖書:アモス書8章9~14節、ルカ福音書21章29~38節
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(ルカ福音書21章33節)
イエス・キリストが世の終わり・神の国の完成の時のことを語っておられます。
イエス様は、今日の箇所の直前でこう言われました。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子(イエス様)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」戦争、地震、飢饉、疫病、自然災害などが、まず起こることは決まっている。それは神の国の完成までに起こる「産みの苦しみ」ではないかと思われます。これらは確かに神の国の完成の前触れですが、これらのことが全て発生したのちに、時が満ちてはじめて神の国が完成します。その時、イエス・キリストがもう一度地上においでになります。それはキリストに従う人にとって待ち望んだ最終的な解放の時、救いの時、希望の時です。
「あなたがたの解放の時が近い」と書いてあります。時が近いだけではありません。イエス様は今、私たちのすぐ近くにおられます。聖霊としてこの場におられ、クリスチャン一人一人の中に住んでおられます。ですから私たちは、主イエス・キリストをすぐに呼び求めることができます。フィリピの信徒への手紙4章5節以下に、次のように書かれています。「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ感謝を込めて祈りと願いとをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」今もすぐ近くにおられるイエス様に支えられて、私どもは信仰生活を続けています。
29~33節でイエス様はおっしゃいます。「それからイエスはたとえを話された。いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 5月の下旬ごろは、あじさいはたくさんの小さなつぼみの集合体でした。私はそれを見て、もうすぐあじさいの季節だなと感じました。6月になるとあじさいがあちこちで満開になりました。このようにして私たちは、「空や地の模様を見分ける」(ルカによる福音書12:56)のです。イエス様はルカによる福音書12:56で私たちに「今の時を見分ける」ことを求めておられます。「時のしるしを見分ける」ことを求めておられるのです。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」この世界はいつか滅びます。ですがイエス様の御言葉は永遠に滅びません。聖書の御言葉も永遠に滅びません。聖書の御言葉は、永遠に生きる神様の御言葉だからです。イエス・キリストを救い主と信じ、神様の御言葉に従って生きる時、私たちも永遠の命に至ります。神様の御言葉は、私たちの宝です。
本日の旧約聖書はアモス書8章9~14節です。11~12節に注目します。
「見よ、その日(神様の審判の日)が来ればと/ 主なる神は言われる。
わたしは大地に飢えを送る。/ それはパンに飢えることでもなく
水に渇くことでもなく/ 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
人々は海から海へと巡り/ 北から東へとよろめき歩いて
主の言葉を探し求めるが/ 見いだすことはできない。」
パンと水がなくなることはもちろん大変です。しかし人間にとってそれと同じに、いえそれ以上に死に滅びにつながることは神様の御言葉がなくなることです。神様の最も厳しい裁きは、この世から神様の御言葉を取り上げることです。聖書を取り上げることです。この世から聖書がなくなることはぞっとする恐ろしいことです。私たちは神様の言葉を聞くことができなくなります。唯一の救い主イエス・キリストを知ることもできなくなります。どうすれば永遠の命を受けることができるかという一番重要なことが分からなくなります。私たちが手元に聖書を置いて自由に読むことができることは大変な幸福です。聖書がなくなれば、私たちの魂は飢えて死にます。永遠の命に至る道が不明になるからです。詩編119編105節の御言葉を思い出します。
「あなた(神様)の御言葉は、わたしの道の光/
わたしの歩みを照らす灯。」 この灯がなくなれば、私たちの希望は失われます。
神様が私たちから神の言葉・聖書をお取り上げになるとすれば、それは最大の裁きです。わたしたちは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)ことを知っています。パンも水も大切ですが、神様の御言葉は私たちに、神様の御心に適う生き方を教えて下さる「命の言葉」です。
「人々は海から海へと巡り/ 北から東へとよろめき歩いて
主の言葉を探し求めるが/ 見いだすことはできない。」
私たちが神様の御言葉を軽んじ、それが続けば、神様がこのような厳しい裁きをお下しになるかもしれないのです。そうならないために、私たちは神様の御言葉・聖書をどこまでも尊重し、御言葉に聴き従う者でありたいのです。
ルカによる福音書に戻ります。イエス様は言われます。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」万一、神様が人間から神様の御言葉・イエス様の御言葉をお取り上げになるとしても、イエス様の御言葉そのものは決して滅びません。
私は一昨年、三重県の教会の井ノ川牧師の説教を伺う機会がありました(第38回日本基督教団総会 第三日の朝の礼拝。以下、同総会議事録47~48ページより)。井ノ川先生は、アメリカのカンバーランド長老教会の女性宣教師ジェシー・ライカー先生のことから話し始められました。1913年に33才で伊勢神宮のある町に来られ、幼稚園を創立し、幼稚園・教会一筋で奉仕されたそうです。しかし太平洋戦争勃発と同時に、敵国人ということでアメリカに強制送還されました。敗戦後にライカー宣教師から幼稚園と教会に一通の手紙が届きました。そこには、「戦争をくぐり抜けて伊勢神宮の前にある教会と幼稚園が生き残ったと聞いてとても驚いています。」 そこにペトロの手紙(一)1:24~25の御言葉が書かれていたそうです。
「人は皆、草のようで、/ その華やかさはすべて草の花のようだ。
草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
このライカー宣教師の志を受け継いだ婦人がおられたそうです。この婦人は太平洋戦争中に洗礼を受けられ、戦争中キリスト者としてキリスト教の幼稚園を続け、日曜日に教会で礼拝を守り続けられたそうです。井ノ川先生は説教でこう言われます。「これはまさに厳しい戦いではなかったでしょうか。男性や壮年たちは戦地に駆り出されて行く。残ったのは年老いた者と女性たちのわずかの一握りの群れです。町の人々の眼光が鋭く注がれている。礼拝の中では密かに特高警察が監視をしている。しかしそのような小さな群れを支え続けたのも、この御言葉でありました。『しかし主の御言葉はとこしえに立つ。』」イエス・キリストへの信仰が周りで嫌われる時代の中にあっても、日曜日の礼拝でイエス様を、真の神様を讃美し続ける。イエス・キリストにひたすら従い続ける。そのようにイエス様に忠実な人々がいらして、今の教会もあります。次の世代に信仰を受け渡すことが私どもの使命です。そのためにも時がよくても悪くても、礼拝を第一とする後姿を、見せてゆきたいのです。
ルカによる福音書に戻り、進みます。(34~36節)「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日(世の終わり・神の国の完成の日)が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子(イエス様)の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
放縦は乱れた生活です。深酒ももちろんよくありません。深酒すると頭がぼんやりして、正しい判断ができなくなります。神様に従う精神が狂ってしまいます。イエス様がいつ来られてもよいように、いつも準備していることが必要です。いつも油断しないでイエス様に従い、意識して神様に祈りたいのです。
先ほどイエス様が、「今の時を見分ける」ことを求めておられると申し上げました。今の時がどんな時なのか、目を覚ましている必要があります。真の神様を礼拝する自由が損なわれる時代がもう来ないように、目を覚まして祈り続ける必要があります。日本国憲法を変えてゆけば、そうなってしまう恐れはあります。今は保証されている信教の自由が、今後も守られるかどうか心配です。自民党が2012年4月27日に発表した「憲法改正草案」の前文を読んでみました。最初にこうあります。「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」「国民主権」は明記されていますが、天皇を地位をもっと高くしようとしている印象を受けます。まさか以前のように天皇を神にすることはないと思いますが、心配になります。今の天皇ご夫妻はよい方たちですが、政治家が天皇制を利用しようとしているのではないかと心配です。私たちが愛する日本が、イエス様が願われる方向と違う方向に行かないように、いつも目を覚まして祈り続ける必要があります。
「いつも目を覚まして祈りなさい。」イエス様がこう語られたのは火曜日と思われます。その二日後の木曜日の夜中、イエス様はオリーブ山で激しい祈りをなさいます。マタイとマルコによる福音書では、場所はゲツセマネと書かれています。この祈りの直後に、ユダの裏切りが実行され、イエス様は捕らえられるのです。イエス様はオリーブ山で弟子たちに言われます。「誘惑に陥らないように祈りなさい。」祈ることは、神様を意識することです。私たちは意識して祈ることを心掛けないと、心が知らず知らずのうちに神様から離れる恐れがあります。すると悪魔の誘惑に引きずられてしまい、「はっ」と気付いたときには誘惑に負けて罪を犯していることになりかねません。悪魔の誘惑に打ち勝つために、意識して祈ることが必要です。イエス様は、真夜中に目を覚まして一生懸命に祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」しかし弟子たちは、悲しみの果てに眠り込んでしまいました。
この祈りの前にイエス様は、「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言うペトロに言われたのです。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」ペトロがパニック状態になって自分を見失い、自己愛の本能のままにふるまってしまうことを知っておられたのです。イエス様はペトロ以上にペトロの深い部分を見抜いておられました。そのことを知った上でペトロを愛しておられました。ペトロがその大失敗の後に立ち直ることように祈っておられました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」このイエス様の祈りに支えられてペトロは立ち直りましたし、私たちの信仰もイエス様の祈りと教会の兄弟姉妹の祈りに支えられていると思うのです。祈りの大切さを思います。全然祈らないと、私たちの信仰は消えていく恐れがあります。ある人は「祈らないことは罪である」とさえおっしゃいました。確かにそうなのだと思います。
ペトロは、一度大きくつまづきました。イエス様を三度裏切ってしまうのです。三度目の裏切りの言葉を言い終わらないうちに、突然、鶏が鳴きます。イエス様が振り向いてペトロを見つめられます。それは責める眼差しではなく、ペトロを慈しむ眼差しだったのではないでしょうか。ペトロははっとして、イエス様の言葉を思い出します。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」そして自分の情けなさに耐えられず、外に出て激しく泣いたのです。自分の罪を知り、心の底から悔い改める涙です。胸を打つ場面です。「自分もイエス様を知らないと言わなかったか、そのような態度をとってことがないか」と、悔い改めを迫られる場面です。
この新会堂を建築する前に、建築委員会でいくつかの教会を見学致しました。目白町教会を見学したとき、会堂の外に十字架と共に鶏(シンボル)が掲げられていました。そこの牧師の方の強い意向で、そうなさったと聞きました。ヨーロッパの教会にはよく塔に鶏がつけられているそうです。鶏は朝だれよりも早く目を覚まし、その鳴く声で人は眠りから目覚めます。教会の鶏は私たちにメッセージを語ります。「いつも目を覚まして祈りなさい。」教会に来るたびに鶏を見て、「いつも目を覚まして祈りなさい」というイエス様の御言葉を思い出すのです。東久留米教会の新会堂に鶏をつけませんでしたが、私たちは「いつも目を覚まして祈りなさい」というイエス様の御言葉を心に刻んでいたいのです。
イエス様を三度裏切り、良心の痛みに耐えかねて激しく泣いたペトロは、晩年、迫害の中にあるクリスチャンたちを励ます手紙を書きました。それがペトロの手紙(一)と(二)ですが、(一)の5章8節以下をご覧下さい。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。」
ペトロはかつて悪魔に負けました。その失敗を踏まえて、迫害に負けないで信仰に生きるようクリスチャンたちを励ましています。立ち直ったペトロ自身は、イエス様に従う信仰を貫いてローマで殉教しました。わたしたちもイエス様に従ってゆくのです。アーメン(「真実に、確かに」。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(ルカ福音書21章33節)
イエス・キリストが世の終わり・神の国の完成の時のことを語っておられます。
イエス様は、今日の箇所の直前でこう言われました。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子(イエス様)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」戦争、地震、飢饉、疫病、自然災害などが、まず起こることは決まっている。それは神の国の完成までに起こる「産みの苦しみ」ではないかと思われます。これらは確かに神の国の完成の前触れですが、これらのことが全て発生したのちに、時が満ちてはじめて神の国が完成します。その時、イエス・キリストがもう一度地上においでになります。それはキリストに従う人にとって待ち望んだ最終的な解放の時、救いの時、希望の時です。
「あなたがたの解放の時が近い」と書いてあります。時が近いだけではありません。イエス様は今、私たちのすぐ近くにおられます。聖霊としてこの場におられ、クリスチャン一人一人の中に住んでおられます。ですから私たちは、主イエス・キリストをすぐに呼び求めることができます。フィリピの信徒への手紙4章5節以下に、次のように書かれています。「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ感謝を込めて祈りと願いとをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」今もすぐ近くにおられるイエス様に支えられて、私どもは信仰生活を続けています。
29~33節でイエス様はおっしゃいます。「それからイエスはたとえを話された。いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 5月の下旬ごろは、あじさいはたくさんの小さなつぼみの集合体でした。私はそれを見て、もうすぐあじさいの季節だなと感じました。6月になるとあじさいがあちこちで満開になりました。このようにして私たちは、「空や地の模様を見分ける」(ルカによる福音書12:56)のです。イエス様はルカによる福音書12:56で私たちに「今の時を見分ける」ことを求めておられます。「時のしるしを見分ける」ことを求めておられるのです。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」この世界はいつか滅びます。ですがイエス様の御言葉は永遠に滅びません。聖書の御言葉も永遠に滅びません。聖書の御言葉は、永遠に生きる神様の御言葉だからです。イエス・キリストを救い主と信じ、神様の御言葉に従って生きる時、私たちも永遠の命に至ります。神様の御言葉は、私たちの宝です。
本日の旧約聖書はアモス書8章9~14節です。11~12節に注目します。
「見よ、その日(神様の審判の日)が来ればと/ 主なる神は言われる。
わたしは大地に飢えを送る。/ それはパンに飢えることでもなく
水に渇くことでもなく/ 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
人々は海から海へと巡り/ 北から東へとよろめき歩いて
主の言葉を探し求めるが/ 見いだすことはできない。」
パンと水がなくなることはもちろん大変です。しかし人間にとってそれと同じに、いえそれ以上に死に滅びにつながることは神様の御言葉がなくなることです。神様の最も厳しい裁きは、この世から神様の御言葉を取り上げることです。聖書を取り上げることです。この世から聖書がなくなることはぞっとする恐ろしいことです。私たちは神様の言葉を聞くことができなくなります。唯一の救い主イエス・キリストを知ることもできなくなります。どうすれば永遠の命を受けることができるかという一番重要なことが分からなくなります。私たちが手元に聖書を置いて自由に読むことができることは大変な幸福です。聖書がなくなれば、私たちの魂は飢えて死にます。永遠の命に至る道が不明になるからです。詩編119編105節の御言葉を思い出します。
「あなた(神様)の御言葉は、わたしの道の光/
わたしの歩みを照らす灯。」 この灯がなくなれば、私たちの希望は失われます。
神様が私たちから神の言葉・聖書をお取り上げになるとすれば、それは最大の裁きです。わたしたちは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)ことを知っています。パンも水も大切ですが、神様の御言葉は私たちに、神様の御心に適う生き方を教えて下さる「命の言葉」です。
「人々は海から海へと巡り/ 北から東へとよろめき歩いて
主の言葉を探し求めるが/ 見いだすことはできない。」
私たちが神様の御言葉を軽んじ、それが続けば、神様がこのような厳しい裁きをお下しになるかもしれないのです。そうならないために、私たちは神様の御言葉・聖書をどこまでも尊重し、御言葉に聴き従う者でありたいのです。
ルカによる福音書に戻ります。イエス様は言われます。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」万一、神様が人間から神様の御言葉・イエス様の御言葉をお取り上げになるとしても、イエス様の御言葉そのものは決して滅びません。
私は一昨年、三重県の教会の井ノ川牧師の説教を伺う機会がありました(第38回日本基督教団総会 第三日の朝の礼拝。以下、同総会議事録47~48ページより)。井ノ川先生は、アメリカのカンバーランド長老教会の女性宣教師ジェシー・ライカー先生のことから話し始められました。1913年に33才で伊勢神宮のある町に来られ、幼稚園を創立し、幼稚園・教会一筋で奉仕されたそうです。しかし太平洋戦争勃発と同時に、敵国人ということでアメリカに強制送還されました。敗戦後にライカー宣教師から幼稚園と教会に一通の手紙が届きました。そこには、「戦争をくぐり抜けて伊勢神宮の前にある教会と幼稚園が生き残ったと聞いてとても驚いています。」 そこにペトロの手紙(一)1:24~25の御言葉が書かれていたそうです。
「人は皆、草のようで、/ その華やかさはすべて草の花のようだ。
草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」
このライカー宣教師の志を受け継いだ婦人がおられたそうです。この婦人は太平洋戦争中に洗礼を受けられ、戦争中キリスト者としてキリスト教の幼稚園を続け、日曜日に教会で礼拝を守り続けられたそうです。井ノ川先生は説教でこう言われます。「これはまさに厳しい戦いではなかったでしょうか。男性や壮年たちは戦地に駆り出されて行く。残ったのは年老いた者と女性たちのわずかの一握りの群れです。町の人々の眼光が鋭く注がれている。礼拝の中では密かに特高警察が監視をしている。しかしそのような小さな群れを支え続けたのも、この御言葉でありました。『しかし主の御言葉はとこしえに立つ。』」イエス・キリストへの信仰が周りで嫌われる時代の中にあっても、日曜日の礼拝でイエス様を、真の神様を讃美し続ける。イエス・キリストにひたすら従い続ける。そのようにイエス様に忠実な人々がいらして、今の教会もあります。次の世代に信仰を受け渡すことが私どもの使命です。そのためにも時がよくても悪くても、礼拝を第一とする後姿を、見せてゆきたいのです。
ルカによる福音書に戻り、進みます。(34~36節)「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日(世の終わり・神の国の完成の日)が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子(イエス様)の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
放縦は乱れた生活です。深酒ももちろんよくありません。深酒すると頭がぼんやりして、正しい判断ができなくなります。神様に従う精神が狂ってしまいます。イエス様がいつ来られてもよいように、いつも準備していることが必要です。いつも油断しないでイエス様に従い、意識して神様に祈りたいのです。
先ほどイエス様が、「今の時を見分ける」ことを求めておられると申し上げました。今の時がどんな時なのか、目を覚ましている必要があります。真の神様を礼拝する自由が損なわれる時代がもう来ないように、目を覚まして祈り続ける必要があります。日本国憲法を変えてゆけば、そうなってしまう恐れはあります。今は保証されている信教の自由が、今後も守られるかどうか心配です。自民党が2012年4月27日に発表した「憲法改正草案」の前文を読んでみました。最初にこうあります。「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」「国民主権」は明記されていますが、天皇を地位をもっと高くしようとしている印象を受けます。まさか以前のように天皇を神にすることはないと思いますが、心配になります。今の天皇ご夫妻はよい方たちですが、政治家が天皇制を利用しようとしているのではないかと心配です。私たちが愛する日本が、イエス様が願われる方向と違う方向に行かないように、いつも目を覚まして祈り続ける必要があります。
「いつも目を覚まして祈りなさい。」イエス様がこう語られたのは火曜日と思われます。その二日後の木曜日の夜中、イエス様はオリーブ山で激しい祈りをなさいます。マタイとマルコによる福音書では、場所はゲツセマネと書かれています。この祈りの直後に、ユダの裏切りが実行され、イエス様は捕らえられるのです。イエス様はオリーブ山で弟子たちに言われます。「誘惑に陥らないように祈りなさい。」祈ることは、神様を意識することです。私たちは意識して祈ることを心掛けないと、心が知らず知らずのうちに神様から離れる恐れがあります。すると悪魔の誘惑に引きずられてしまい、「はっ」と気付いたときには誘惑に負けて罪を犯していることになりかねません。悪魔の誘惑に打ち勝つために、意識して祈ることが必要です。イエス様は、真夜中に目を覚まして一生懸命に祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」しかし弟子たちは、悲しみの果てに眠り込んでしまいました。
この祈りの前にイエス様は、「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言うペトロに言われたのです。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」ペトロがパニック状態になって自分を見失い、自己愛の本能のままにふるまってしまうことを知っておられたのです。イエス様はペトロ以上にペトロの深い部分を見抜いておられました。そのことを知った上でペトロを愛しておられました。ペトロがその大失敗の後に立ち直ることように祈っておられました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」このイエス様の祈りに支えられてペトロは立ち直りましたし、私たちの信仰もイエス様の祈りと教会の兄弟姉妹の祈りに支えられていると思うのです。祈りの大切さを思います。全然祈らないと、私たちの信仰は消えていく恐れがあります。ある人は「祈らないことは罪である」とさえおっしゃいました。確かにそうなのだと思います。
ペトロは、一度大きくつまづきました。イエス様を三度裏切ってしまうのです。三度目の裏切りの言葉を言い終わらないうちに、突然、鶏が鳴きます。イエス様が振り向いてペトロを見つめられます。それは責める眼差しではなく、ペトロを慈しむ眼差しだったのではないでしょうか。ペトロははっとして、イエス様の言葉を思い出します。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」そして自分の情けなさに耐えられず、外に出て激しく泣いたのです。自分の罪を知り、心の底から悔い改める涙です。胸を打つ場面です。「自分もイエス様を知らないと言わなかったか、そのような態度をとってことがないか」と、悔い改めを迫られる場面です。
この新会堂を建築する前に、建築委員会でいくつかの教会を見学致しました。目白町教会を見学したとき、会堂の外に十字架と共に鶏(シンボル)が掲げられていました。そこの牧師の方の強い意向で、そうなさったと聞きました。ヨーロッパの教会にはよく塔に鶏がつけられているそうです。鶏は朝だれよりも早く目を覚まし、その鳴く声で人は眠りから目覚めます。教会の鶏は私たちにメッセージを語ります。「いつも目を覚まして祈りなさい。」教会に来るたびに鶏を見て、「いつも目を覚まして祈りなさい」というイエス様の御言葉を思い出すのです。東久留米教会の新会堂に鶏をつけませんでしたが、私たちは「いつも目を覚まして祈りなさい」というイエス様の御言葉を心に刻んでいたいのです。
イエス様を三度裏切り、良心の痛みに耐えかねて激しく泣いたペトロは、晩年、迫害の中にあるクリスチャンたちを励ます手紙を書きました。それがペトロの手紙(一)と(二)ですが、(一)の5章8節以下をご覧下さい。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。」
ペトロはかつて悪魔に負けました。その失敗を踏まえて、迫害に負けないで信仰に生きるようクリスチャンたちを励ましています。立ち直ったペトロ自身は、イエス様に従う信仰を貫いてローマで殉教しました。わたしたちもイエス様に従ってゆくのです。アーメン(「真実に、確かに」。
2014-06-30 13:15:00(月)
「いかなる像も造ってはならない 十戒②」 2014年6月29日(日) 聖霊降臨節第4主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記20章1~17節、コリント(一)10章14~22節
「あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト記20章4節)
本日はモーセの十戒の第二の戒めを学びます。出エジプト記20章に十戒が記されていますが、この文章をどのように10に分けるのかについて、プロテスタント教会の中でも2つの考えがあるそうです。プロテスタント教会にもいろいろありますが、本日は大きく2つに分けてみます。宗教改革の最初に登場したルター派と、少し遅れて登場した改革派(カルヴァン派)の2つです。東久留米教会は、広い意味での改革派だと思いますので、今回の十戒の学びでは改革派の分け方で話を進めます。
ルター派と改革派で違うのは、十戒の文章のどこまでを第一の戒めとし、どこからどこまでを第二の戒めと見るかという点です。ルター派では、出エジプト記20章3節から6節までを第一の戒めとするそうです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」が第一の戒めです。これに対して改革派では、3節の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」が第一の戒めです。そして4~6節「あなたはいかなる像も造ってはならない。(以下略)」を第二の戒めとします。
それではルター派では十戒にならないで九戒になってしまうのかと言うとそうではありません。改革派が第十の戒めと考える17節を二つに分けます。改革派では、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」を第十の戒めと考えますが、ルター派では前半の「隣人の家を欲してはならない」を第九の戒めとし、後半の、「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」を第十の戒めとします。
今回の学びでは改革派の分け方を採用致します。ですから第二の戒めは、「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」 この地上・空(天)・海の中のものは全て神様に造られたもの・被造物です。お造りになった神様と造られたものは、全く異なる存在です。被造物は神ではありません。栄光に満ちた神様を、被造物の形・像に造って、これを神として拝んではならないのです。それは栄光の神様を被造物のレベルに引き落とす罪深いこと、神様の至高の尊厳を冒涜することです。
人間は、見えるものがあると安心します。そこで神様をも目に見える像に刻みたくなるのです。ですがそれは、神様を自分に都合のよい存在にすることではないでしょうか。神様を、人間の都合通りに動いてくれる人形にしてしまうことではないでしょうか。人間が主人となり、神様を僕にしてしまうことです。それでは本末転倒です。神様が主であって、私たち人間は神様に従順に従う存在です。父なる神様は霊であって、体を持っておられません。目に見えない方です。目に見えない方を見える像に刻むことはそもそも不可能で、見えない方のままとして礼拝することが必要です。では神様は、どのようにしてご自分を私たちに現して下さるのでしょうか。それは聖書の御言葉によってです。神様は聖書の御言葉によって、ご自分がどのような方であるか、ご自分がどのような意志を持っておられるかを私たちに示して下さいます。ですから聖書をよく読むことが大切になります。
宗教改革が行われた16世紀、当時のカトリック教会の礼拝堂にはいろいろな像があったのかもしれません。いろいろな聖人の像があって、もしかすると神様のほうが目立たなくなっていたかもしれませんね。宗教改革者は聖書の御言葉の重要さを強調し、自分たちの礼拝堂から像を取り除いたのだと思います。宗教改革第一世代のルターは、それでもカトリック的なものを少し残したとも言われます。ルター派の礼拝堂には装飾的な要素が残っていたと聞いた記憶があります。
宗教改革をさらに徹底して進めたのは、少し遅れて登場したカルヴァンです。カルヴァン系の教会を改革派と呼びます。改革派の教会は、礼拝堂から装飾を除き、聖書のみを強調する簡素な(悪く言えば殺風景な)礼拝堂を実現したそうです。ひたすら聖書を説く説教を重視しました。聖書一本で勝負する教会を作ったのです。改革派という名は、「聖書の御言葉によって絶えず改革される教会」という意味です。プロテスタント教会だから絶対正しいとは言えません。プロテスタント教会の信徒や牧師も間違いを犯すことはあります。そこでいつも聖書を読み、聖書によって誤りを正し、神様に喜ばれる教会を作ろうと心掛けたのです。
私たちは、見える像を刻まなくても、頭の中で「神様は、このような方ではないかな」と自分の考えで神様を造ることがあります。それを完全にやめることはできませんが、しかし場合によっては自分勝手な神様のイメージを造り上げることがあり得ます。ですからやはり聖書を読んで、神様がどのような方か、聖書から学ぶことが必要です。申命記4章15節にこんな御言葉があります。モーセがイスラエルの民に語る御言葉です。「主がホレブ(シナイ山)で火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。」神様がシナイ山で十戒の言葉を語られた日、民は神様の何の形も見なかったのです。神様には形がなく、ただ神様の御言葉だけが語られました。神様に形はないのですから、像に刻むことは不可能です。神様は今の時代、聖書の御言葉によって私たちに語りかけて下さいます。神様の御心を尋ね求めて、祈りながら聖書を読むことはよいことです。私たちは聖書を通して、あるいは聖書に基づく説教を通して、目に見えない神様の御言葉を聞き続けてゆくのです。
イスラエルの民の栄誉は、神様によってエジプトから救い出され、聖なる十戒をいただいたことです。ところがイスラエルの民は、すぐに大きな罪を犯してしまうのです。民はモーセがシナイ山に登って神様から尊い十戒をいただいている時に、神様とモーセを信頼せず、金の子牛の像を造ってしまうのです。早速第二の戒めを破ってしまったのです。その場面は出エジプト記32章に出ています。有名な堕落の場面です。
「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロン(モーセの兄)のもとに集まって来て、『さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか、分からないからです』と言うと、アロンは彼らに言った。『あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。』民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を作った。すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、『明日、主の祭りを行う』と宣言した。彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。」
モーセの兄アロンが、人々の金の耳輪によって若い雄牛の鋳像を作ったのです。雄牛は繁殖力のシンボルです。人々は、偶像・偽物の神・繁栄の神を作って礼拝したのです。真の神様の真の祝福よりも、露骨に繁栄と欲望の充足を求めたのです。そして性的にも堕落しました。あさましい姿です。人間は一つ間違えるとこのように堕落してしまうので、私どもも心したいと思います。この場面で悪魔は表面に登場しませんが、悪魔が働いています。悪魔が民とアロンを誘惑し、民もアロンも誘惑に負けてしまったのです。民がアロンに、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください」と要求したときに、アロンは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と神様はおっしゃる」と言うべきでした。イエス様が荒れ野で悪魔から誘惑をお受けになったときに、そうおっしゃって悪魔を撃退されたようにです。しかしアロンは真の神様の戒めに従わず、イスラエルの民の不当な要求に負けてしまったのです。
「あなたはいかなる像も造ってはならない。」私たちは礼拝堂に刻んだ像を置いて、それを礼拝することはないでしょう。しかし偶像とは何でしょうか。それは私たちが本音の部分で一番頼りにしているものです。私たちが本音の部分で一番頼りにしているものは、もしかするとお金かもしれないのです。その場合は、お金を偶像として崇めていることになります。生活にある程度のお金は必要ですが、お金を神様としないように注意する必要があります。ルターは言ったそうです。「今あなたが、あなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである」(近藤勝彦『十戒、その今日的意味を学ぶ』日本伝道出版株式会社、1997年、29ページ)。
私たちはいつも偶像崇拝の誘惑にさらされていますから、自分の信仰が弱まったと感じたなら、神様に意識的に祈ることが大切だと思うのです。そして「私に必要なものはすべて真の神様からのみ来る」と真の神様に100%信頼し、意識的に真の信仰に立ち帰ることが必要です。私たちは、自分を真の神様から引き離そうとする悪魔と戦い、誘惑に負けそうになる自分と戦います。聖霊の助けを祈り求めることが不可欠です。真の神様への信仰がふらついたとき、聖書を読み、神様に助けを祈り求めたいのです。特別に休む理由がないのに「礼拝に休もうか」、と心が弱くなることもあります。そのような時こそ、意を決して礼拝に出席したいものです。真の神様を思い祈っていないと、私たちの信仰は薄まり、弱まってしまいます。
神様は5節で、「わたしは熱情の神である」と宣言されます。口語訳聖書では、「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」と訳されています。「ねたむ神」が直訳なのでしょう。普通、「ねたみ」、「嫉妬」は悪いことと考えます。ですから神様が「わたしは、ねたむ神である」と宣言なさると私たちは戸惑い、驚きます。この神様の愛がおとなしい愛ではなく、非常に熱情的で激しい愛であることを「ねたむ」という言葉で表現したのです。聖書はしばしば、神様を花婿(夫)にたとえ、神の民を花嫁(妻)にたとえます。イスラエルの民もキリスト教会(私たち)も神様の花嫁であり、神様に非常に深く激しく愛されているのです。その花嫁である私たちが偶像・ほかの神々(偽物の神々)を礼拝すれば、それは霊的な姦淫・不倫の罪になります。私たちが万一偶像礼拝をするならば、神様の熱情的な愛を裏切ることになり、神様は深く傷つかれ悲しまれ、聖なるお怒りに満たされます。神様は、私たちが花嫁の愛で神様を熱心に愛することを求めておられるのです。
旧約のイスラエルの民は、十戒を受けるか受けないかの段階で、早くも金の子牛の像を造り、神様を裏切りました。約40年後に約束の地・カナンに入りますが、そこでも真の神様を礼拝することを忘れ、豊かな農業収穫を約束するバアルという偶像・偽物の神を拝みます。経済という偶像、自分の欲望を満たしてくれる偶像を拝んだのです。偶像の正体は悪魔です。エレミヤ書2章2節に、神様の悲しみと嘆きの言葉が記されています。
「わたしはあなた(イスラエルの民)の若いときの真心/ 花嫁のときの愛/
種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。」
イスラエルの民が荒れ野でいつも従順だったわけではないのですが、エジプトから解放されて神様に感謝し、神様が語られたことをすべて行うと約束したイスラエルの民の、「最初の純粋な新妻としての愛を思い起こす」と、神様が嘆いておられるのです。胸打たれる言葉です。
ヨハネの黙示録2章3~4節にも似た御言葉があります。復活されたイエス様が、小アジア(今のトルコ)のエフェソという都市にあるキリスト教会に対して、こうお語りになります。
「あなたはよく忍耐して、わたし(イエス様)の名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」
エフェソ教会の人々と私たちを愛して、十字架で死んで下さったイエス様への初めの愛から、エフェソ教会の人々が離れてしまった。これは花婿イエス様が、花嫁である教会をもう一度招く言葉です。「初めのころの花嫁の愛に立ち帰ってほしい」と。私たちが礼拝に出席するのは、愛して下さるイエス様と父なる神様への愛を表すことなのです。イエス様と父なる神様は、私たちの礼拝出席を非常に喜んで下さいます(もちろん、やむを得えない事情で礼拝に出席できない方々がおられることを、私どもは了解しています)。 私たちが信仰告白をし洗礼を受けたとき、イエス様と父なる神様は深く喜んで下さいました。私たち自身も洗礼を受けたとき、非常に感激しました。ですが残念ながら、私たちは少しずつイエス様から離れてしまうことがあります。その時には、洗礼を受けた初心に立ち帰ることが必要ではないでしょうか。初心に立ち帰ることを、イエス様も父なる神様も深く喜んで下さいます。
私たちが大きくイエス様から離れていない場合でも、神様は東久留米教会において毎年15回も聖餐の時を用意して下さり、私たちがイエス様の十字架の愛に感謝して「初めの愛」、初心に帰るチャンスを備えていて下さいます。聖餐式に出ることができない場合でも、私たちは祈るたび、礼拝に出席するたびに、イエス様への最初の愛に立ち帰るのです。
本日の新約聖書は、コリントの信徒への手紙(一)10章14~22節です。使徒パウロが、ギリシアの都市コリントの教会に出した手紙です。コリントの中央にギリシア神話の男神アポロの神殿、南の山にギリシア神話の女神アフロディーテの神殿がありました。共に偶像の宮です。アフロディーテは生殖・豊穣の女神だそうです。清い女神でないのです。コリントには神殿娼婦が千人もいたそうで、風紀が非常に乱れていました。コリント教会のクリスチャンまでもが、道徳的に乱れていた可能性がある偶像の神殿の宗教儀式に参加していたようです。そのようなコリント教会の人々にパウロは悲しみを込めて警告しています。14節「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」
神殿娼婦が千人もいるというコリントの神殿は性的に乱れており、悪魔・悪霊の巣窟です。悪魔・悪霊がそこを支配しているのは明白です。そこの儀式に参加すれば間違いなく悪魔・悪霊の悪影響を受けます。清い真の神様の救いに与り、清い真の神様を礼拝するクリスチャンが、汚れた悪霊に満ちた儀式(礼拝)に参加することは避けなければなりません。パウロはこのようにコリント教会の未熟なクリスチャンたちを警告しています。
16節「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」これは聖餐のことです。コリント教会のクリスチャンたちも私たちも、聖なる礼拝の場でイエス・キリストの聖なる血潮を飲み、イエス・キリストの聖なる体をいただきます。聖餐は聖なる食事、聖なる礼拝の頂点とも言えます。イエス様の私たちへの愛の結晶である聖なるぶどう汁と聖なるパンをいただく私たちが、アポロやアフロディーテという道徳的に乱れた偶像の神殿の汚れた儀式(礼拝)に参加することは、悪霊の仲間になること、花婿イエス様を裏切ること、霊的な姦淫・不倫だとパウロは警告するのです。
17節「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」教会はイエス・キリストの体です。そして一人一人がイエス様の花嫁です。そしてパウロは18節でこう述べます。「肉によるイスラエルの人々(旧約のイスラエルの民)のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。」やや分かりにくいのですが、要するにコリント教会のクリスチャンに、偶像の神殿の汚れた祭壇(偶像礼拝の中心部分)での汚れた礼拝行為にかかわるなということです。
19節「わたしは何を言おうとしているのでしょうか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。」偶像そのものは木か石かで造った物体でしかないとも言えます。偶像は人を救う力を持っていません。しかし偶像が礼拝される場には、悪魔の影響力が存在するとパウロは警告します。それが20節です。「いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げているという点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。」 21節「主の杯(イエス様の聖餐の杯)と悪霊の杯(偶像礼拝での宗教的飲食)の両方を飲むことはできないし、主の食卓(聖餐)と悪霊の食卓(偶像礼拝での宗教的食事)の両方に着くことはできません。」それは花婿イエス様を深く傷つける霊的な不倫なのです。
そこでパウロは22節で強く述べます。「それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。」 第二の戒めにおいて、神様の「熱情、ねたみ」のことが言われていました。「あなたはいかなる像も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。」コリント教会の人々が霊的な不倫である偶像礼拝を行っていれば、それは花婿イエス様と父なる神様と聖霊を深く傷つけ、第二の戒めを破る罪となり、真の神様の深い悲しみと聖なる怒りを招く、だから偶像礼拝をしてはならないとパウロが強く訴えるのです。私たちもこのパウロの真実の訴えを十分に心に刻んで、三位一体の神様のみを礼拝する純粋な信仰の歩みを続け、全うしたいのです。
私が今年の3月に出席した日本基督教団主催の東日本大震災国際会議(仙台市・東北学院大学にて)の会議後に発表された宣言文では、福島の原発事故を「七つの罪」の結果であると告白しています。「傲慢、貪欲、偶像崇拝、隠ぺい、怠惰、無責任、責任転嫁」の「七つの罪」です。第三に偶像崇拝が挙げられていますが、この点について、次のように詳しく述べられています。「貪欲に陥ったわたしたちは、生ける真の神に依り頼むのでなく、経済的利益や富を至上の価値としてあがめ、それに仕える『偶像崇拝』の罪に陥りました。『貪欲は偶像礼拝にほかならない』(コロサイの信徒への手紙3章5節)のです。原子力発電所や核燃料サイクル基地は、まさにこの偶像崇拝の神殿というべきものであり、これらの施設は科学技術への、根拠のない安易な信頼という非科学的思考に基づく『安全神話』によって維持されてきました。」
私たちは貪欲という偶像礼拝に陥りやすいのです。「あなたはいかなる像も造ってはならない。」真の神様は目に見えませんが、確かに生きて働いておられます。真の神様に祈ることと聖書を読むこと、そして礼拝を重んじて、偶像礼拝の誘惑に打ち勝つ歩みを続け、全うさせていただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」。
「あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト記20章4節)
本日はモーセの十戒の第二の戒めを学びます。出エジプト記20章に十戒が記されていますが、この文章をどのように10に分けるのかについて、プロテスタント教会の中でも2つの考えがあるそうです。プロテスタント教会にもいろいろありますが、本日は大きく2つに分けてみます。宗教改革の最初に登場したルター派と、少し遅れて登場した改革派(カルヴァン派)の2つです。東久留米教会は、広い意味での改革派だと思いますので、今回の十戒の学びでは改革派の分け方で話を進めます。
ルター派と改革派で違うのは、十戒の文章のどこまでを第一の戒めとし、どこからどこまでを第二の戒めと見るかという点です。ルター派では、出エジプト記20章3節から6節までを第一の戒めとするそうです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」が第一の戒めです。これに対して改革派では、3節の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」が第一の戒めです。そして4~6節「あなたはいかなる像も造ってはならない。(以下略)」を第二の戒めとします。
それではルター派では十戒にならないで九戒になってしまうのかと言うとそうではありません。改革派が第十の戒めと考える17節を二つに分けます。改革派では、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」を第十の戒めと考えますが、ルター派では前半の「隣人の家を欲してはならない」を第九の戒めとし、後半の、「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」を第十の戒めとします。
今回の学びでは改革派の分け方を採用致します。ですから第二の戒めは、「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」 この地上・空(天)・海の中のものは全て神様に造られたもの・被造物です。お造りになった神様と造られたものは、全く異なる存在です。被造物は神ではありません。栄光に満ちた神様を、被造物の形・像に造って、これを神として拝んではならないのです。それは栄光の神様を被造物のレベルに引き落とす罪深いこと、神様の至高の尊厳を冒涜することです。
人間は、見えるものがあると安心します。そこで神様をも目に見える像に刻みたくなるのです。ですがそれは、神様を自分に都合のよい存在にすることではないでしょうか。神様を、人間の都合通りに動いてくれる人形にしてしまうことではないでしょうか。人間が主人となり、神様を僕にしてしまうことです。それでは本末転倒です。神様が主であって、私たち人間は神様に従順に従う存在です。父なる神様は霊であって、体を持っておられません。目に見えない方です。目に見えない方を見える像に刻むことはそもそも不可能で、見えない方のままとして礼拝することが必要です。では神様は、どのようにしてご自分を私たちに現して下さるのでしょうか。それは聖書の御言葉によってです。神様は聖書の御言葉によって、ご自分がどのような方であるか、ご自分がどのような意志を持っておられるかを私たちに示して下さいます。ですから聖書をよく読むことが大切になります。
宗教改革が行われた16世紀、当時のカトリック教会の礼拝堂にはいろいろな像があったのかもしれません。いろいろな聖人の像があって、もしかすると神様のほうが目立たなくなっていたかもしれませんね。宗教改革者は聖書の御言葉の重要さを強調し、自分たちの礼拝堂から像を取り除いたのだと思います。宗教改革第一世代のルターは、それでもカトリック的なものを少し残したとも言われます。ルター派の礼拝堂には装飾的な要素が残っていたと聞いた記憶があります。
宗教改革をさらに徹底して進めたのは、少し遅れて登場したカルヴァンです。カルヴァン系の教会を改革派と呼びます。改革派の教会は、礼拝堂から装飾を除き、聖書のみを強調する簡素な(悪く言えば殺風景な)礼拝堂を実現したそうです。ひたすら聖書を説く説教を重視しました。聖書一本で勝負する教会を作ったのです。改革派という名は、「聖書の御言葉によって絶えず改革される教会」という意味です。プロテスタント教会だから絶対正しいとは言えません。プロテスタント教会の信徒や牧師も間違いを犯すことはあります。そこでいつも聖書を読み、聖書によって誤りを正し、神様に喜ばれる教会を作ろうと心掛けたのです。
私たちは、見える像を刻まなくても、頭の中で「神様は、このような方ではないかな」と自分の考えで神様を造ることがあります。それを完全にやめることはできませんが、しかし場合によっては自分勝手な神様のイメージを造り上げることがあり得ます。ですからやはり聖書を読んで、神様がどのような方か、聖書から学ぶことが必要です。申命記4章15節にこんな御言葉があります。モーセがイスラエルの民に語る御言葉です。「主がホレブ(シナイ山)で火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。」神様がシナイ山で十戒の言葉を語られた日、民は神様の何の形も見なかったのです。神様には形がなく、ただ神様の御言葉だけが語られました。神様に形はないのですから、像に刻むことは不可能です。神様は今の時代、聖書の御言葉によって私たちに語りかけて下さいます。神様の御心を尋ね求めて、祈りながら聖書を読むことはよいことです。私たちは聖書を通して、あるいは聖書に基づく説教を通して、目に見えない神様の御言葉を聞き続けてゆくのです。
イスラエルの民の栄誉は、神様によってエジプトから救い出され、聖なる十戒をいただいたことです。ところがイスラエルの民は、すぐに大きな罪を犯してしまうのです。民はモーセがシナイ山に登って神様から尊い十戒をいただいている時に、神様とモーセを信頼せず、金の子牛の像を造ってしまうのです。早速第二の戒めを破ってしまったのです。その場面は出エジプト記32章に出ています。有名な堕落の場面です。
「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロン(モーセの兄)のもとに集まって来て、『さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか、分からないからです』と言うと、アロンは彼らに言った。『あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。』民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を作った。すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、『明日、主の祭りを行う』と宣言した。彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。」
モーセの兄アロンが、人々の金の耳輪によって若い雄牛の鋳像を作ったのです。雄牛は繁殖力のシンボルです。人々は、偶像・偽物の神・繁栄の神を作って礼拝したのです。真の神様の真の祝福よりも、露骨に繁栄と欲望の充足を求めたのです。そして性的にも堕落しました。あさましい姿です。人間は一つ間違えるとこのように堕落してしまうので、私どもも心したいと思います。この場面で悪魔は表面に登場しませんが、悪魔が働いています。悪魔が民とアロンを誘惑し、民もアロンも誘惑に負けてしまったのです。民がアロンに、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください」と要求したときに、アロンは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と神様はおっしゃる」と言うべきでした。イエス様が荒れ野で悪魔から誘惑をお受けになったときに、そうおっしゃって悪魔を撃退されたようにです。しかしアロンは真の神様の戒めに従わず、イスラエルの民の不当な要求に負けてしまったのです。
「あなたはいかなる像も造ってはならない。」私たちは礼拝堂に刻んだ像を置いて、それを礼拝することはないでしょう。しかし偶像とは何でしょうか。それは私たちが本音の部分で一番頼りにしているものです。私たちが本音の部分で一番頼りにしているものは、もしかするとお金かもしれないのです。その場合は、お金を偶像として崇めていることになります。生活にある程度のお金は必要ですが、お金を神様としないように注意する必要があります。ルターは言ったそうです。「今あなたが、あなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである」(近藤勝彦『十戒、その今日的意味を学ぶ』日本伝道出版株式会社、1997年、29ページ)。
私たちはいつも偶像崇拝の誘惑にさらされていますから、自分の信仰が弱まったと感じたなら、神様に意識的に祈ることが大切だと思うのです。そして「私に必要なものはすべて真の神様からのみ来る」と真の神様に100%信頼し、意識的に真の信仰に立ち帰ることが必要です。私たちは、自分を真の神様から引き離そうとする悪魔と戦い、誘惑に負けそうになる自分と戦います。聖霊の助けを祈り求めることが不可欠です。真の神様への信仰がふらついたとき、聖書を読み、神様に助けを祈り求めたいのです。特別に休む理由がないのに「礼拝に休もうか」、と心が弱くなることもあります。そのような時こそ、意を決して礼拝に出席したいものです。真の神様を思い祈っていないと、私たちの信仰は薄まり、弱まってしまいます。
神様は5節で、「わたしは熱情の神である」と宣言されます。口語訳聖書では、「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」と訳されています。「ねたむ神」が直訳なのでしょう。普通、「ねたみ」、「嫉妬」は悪いことと考えます。ですから神様が「わたしは、ねたむ神である」と宣言なさると私たちは戸惑い、驚きます。この神様の愛がおとなしい愛ではなく、非常に熱情的で激しい愛であることを「ねたむ」という言葉で表現したのです。聖書はしばしば、神様を花婿(夫)にたとえ、神の民を花嫁(妻)にたとえます。イスラエルの民もキリスト教会(私たち)も神様の花嫁であり、神様に非常に深く激しく愛されているのです。その花嫁である私たちが偶像・ほかの神々(偽物の神々)を礼拝すれば、それは霊的な姦淫・不倫の罪になります。私たちが万一偶像礼拝をするならば、神様の熱情的な愛を裏切ることになり、神様は深く傷つかれ悲しまれ、聖なるお怒りに満たされます。神様は、私たちが花嫁の愛で神様を熱心に愛することを求めておられるのです。
旧約のイスラエルの民は、十戒を受けるか受けないかの段階で、早くも金の子牛の像を造り、神様を裏切りました。約40年後に約束の地・カナンに入りますが、そこでも真の神様を礼拝することを忘れ、豊かな農業収穫を約束するバアルという偶像・偽物の神を拝みます。経済という偶像、自分の欲望を満たしてくれる偶像を拝んだのです。偶像の正体は悪魔です。エレミヤ書2章2節に、神様の悲しみと嘆きの言葉が記されています。
「わたしはあなた(イスラエルの民)の若いときの真心/ 花嫁のときの愛/
種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。」
イスラエルの民が荒れ野でいつも従順だったわけではないのですが、エジプトから解放されて神様に感謝し、神様が語られたことをすべて行うと約束したイスラエルの民の、「最初の純粋な新妻としての愛を思い起こす」と、神様が嘆いておられるのです。胸打たれる言葉です。
ヨハネの黙示録2章3~4節にも似た御言葉があります。復活されたイエス様が、小アジア(今のトルコ)のエフェソという都市にあるキリスト教会に対して、こうお語りになります。
「あなたはよく忍耐して、わたし(イエス様)の名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」
エフェソ教会の人々と私たちを愛して、十字架で死んで下さったイエス様への初めの愛から、エフェソ教会の人々が離れてしまった。これは花婿イエス様が、花嫁である教会をもう一度招く言葉です。「初めのころの花嫁の愛に立ち帰ってほしい」と。私たちが礼拝に出席するのは、愛して下さるイエス様と父なる神様への愛を表すことなのです。イエス様と父なる神様は、私たちの礼拝出席を非常に喜んで下さいます(もちろん、やむを得えない事情で礼拝に出席できない方々がおられることを、私どもは了解しています)。 私たちが信仰告白をし洗礼を受けたとき、イエス様と父なる神様は深く喜んで下さいました。私たち自身も洗礼を受けたとき、非常に感激しました。ですが残念ながら、私たちは少しずつイエス様から離れてしまうことがあります。その時には、洗礼を受けた初心に立ち帰ることが必要ではないでしょうか。初心に立ち帰ることを、イエス様も父なる神様も深く喜んで下さいます。
私たちが大きくイエス様から離れていない場合でも、神様は東久留米教会において毎年15回も聖餐の時を用意して下さり、私たちがイエス様の十字架の愛に感謝して「初めの愛」、初心に帰るチャンスを備えていて下さいます。聖餐式に出ることができない場合でも、私たちは祈るたび、礼拝に出席するたびに、イエス様への最初の愛に立ち帰るのです。
本日の新約聖書は、コリントの信徒への手紙(一)10章14~22節です。使徒パウロが、ギリシアの都市コリントの教会に出した手紙です。コリントの中央にギリシア神話の男神アポロの神殿、南の山にギリシア神話の女神アフロディーテの神殿がありました。共に偶像の宮です。アフロディーテは生殖・豊穣の女神だそうです。清い女神でないのです。コリントには神殿娼婦が千人もいたそうで、風紀が非常に乱れていました。コリント教会のクリスチャンまでもが、道徳的に乱れていた可能性がある偶像の神殿の宗教儀式に参加していたようです。そのようなコリント教会の人々にパウロは悲しみを込めて警告しています。14節「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」
神殿娼婦が千人もいるというコリントの神殿は性的に乱れており、悪魔・悪霊の巣窟です。悪魔・悪霊がそこを支配しているのは明白です。そこの儀式に参加すれば間違いなく悪魔・悪霊の悪影響を受けます。清い真の神様の救いに与り、清い真の神様を礼拝するクリスチャンが、汚れた悪霊に満ちた儀式(礼拝)に参加することは避けなければなりません。パウロはこのようにコリント教会の未熟なクリスチャンたちを警告しています。
16節「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」これは聖餐のことです。コリント教会のクリスチャンたちも私たちも、聖なる礼拝の場でイエス・キリストの聖なる血潮を飲み、イエス・キリストの聖なる体をいただきます。聖餐は聖なる食事、聖なる礼拝の頂点とも言えます。イエス様の私たちへの愛の結晶である聖なるぶどう汁と聖なるパンをいただく私たちが、アポロやアフロディーテという道徳的に乱れた偶像の神殿の汚れた儀式(礼拝)に参加することは、悪霊の仲間になること、花婿イエス様を裏切ること、霊的な姦淫・不倫だとパウロは警告するのです。
17節「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」教会はイエス・キリストの体です。そして一人一人がイエス様の花嫁です。そしてパウロは18節でこう述べます。「肉によるイスラエルの人々(旧約のイスラエルの民)のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。」やや分かりにくいのですが、要するにコリント教会のクリスチャンに、偶像の神殿の汚れた祭壇(偶像礼拝の中心部分)での汚れた礼拝行為にかかわるなということです。
19節「わたしは何を言おうとしているのでしょうか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。」偶像そのものは木か石かで造った物体でしかないとも言えます。偶像は人を救う力を持っていません。しかし偶像が礼拝される場には、悪魔の影響力が存在するとパウロは警告します。それが20節です。「いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げているという点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。」 21節「主の杯(イエス様の聖餐の杯)と悪霊の杯(偶像礼拝での宗教的飲食)の両方を飲むことはできないし、主の食卓(聖餐)と悪霊の食卓(偶像礼拝での宗教的食事)の両方に着くことはできません。」それは花婿イエス様を深く傷つける霊的な不倫なのです。
そこでパウロは22節で強く述べます。「それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。」 第二の戒めにおいて、神様の「熱情、ねたみ」のことが言われていました。「あなたはいかなる像も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。」コリント教会の人々が霊的な不倫である偶像礼拝を行っていれば、それは花婿イエス様と父なる神様と聖霊を深く傷つけ、第二の戒めを破る罪となり、真の神様の深い悲しみと聖なる怒りを招く、だから偶像礼拝をしてはならないとパウロが強く訴えるのです。私たちもこのパウロの真実の訴えを十分に心に刻んで、三位一体の神様のみを礼拝する純粋な信仰の歩みを続け、全うしたいのです。
私が今年の3月に出席した日本基督教団主催の東日本大震災国際会議(仙台市・東北学院大学にて)の会議後に発表された宣言文では、福島の原発事故を「七つの罪」の結果であると告白しています。「傲慢、貪欲、偶像崇拝、隠ぺい、怠惰、無責任、責任転嫁」の「七つの罪」です。第三に偶像崇拝が挙げられていますが、この点について、次のように詳しく述べられています。「貪欲に陥ったわたしたちは、生ける真の神に依り頼むのでなく、経済的利益や富を至上の価値としてあがめ、それに仕える『偶像崇拝』の罪に陥りました。『貪欲は偶像礼拝にほかならない』(コロサイの信徒への手紙3章5節)のです。原子力発電所や核燃料サイクル基地は、まさにこの偶像崇拝の神殿というべきものであり、これらの施設は科学技術への、根拠のない安易な信頼という非科学的思考に基づく『安全神話』によって維持されてきました。」
私たちは貪欲という偶像礼拝に陥りやすいのです。「あなたはいかなる像も造ってはならない。」真の神様は目に見えませんが、確かに生きて働いておられます。真の神様に祈ることと聖書を読むこと、そして礼拝を重んじて、偶像礼拝の誘惑に打ち勝つ歩みを続け、全うさせていただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」。
2014-06-22 18:09:41()
「ほかに神があってはならない 十戒①」 2014年6月22日(日) 聖霊降臨節第3主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記20章1~17節、マタイによる福音書4章1~11節
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20章3節)
出エジプト記20章には、モーセの十戒が記されています。これから出エジプト記を読む礼拝で、十戒を1つ1つとりあげて学ぶ予定です。1~2節に十戒の前文とも呼ぶべき文がございます。「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。』」まずここに神様の大きな愛が語られています。神様はイスラエルの民を愛し選び、エジプトでの奴隷生活から救い出して下さいました。これは何と言っても、イスラエル民族の原点です。イスラエルの民はいつもこの原点に立ち帰り、神様の偉大な愛に感謝することが必要なのです。この愛に応えるためにどのように生きることがよいのか? それを神様が教えて下さったのがモーセの十戒です。前半の4つの戒めは、この神様を愛する生き方を教えます。そして後半の6つの戒めは、隣人を愛する生き方を教えています。新約聖書の中でイエス・キリストは、「神様を愛し、隣人を愛する」ことが最も重要だとお教えになりました。この十戒を守って生きることは、イエス様の教えを実行することになります。
3節に「第一の戒め」が書かれています。本日はここに集中します。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」 この神様が天地創造をなさった真の神様です。この神様がイエス・キリストの父なる神様です。ほかに神様はおられません。世の中にいろいろな宗教があり、「神」と呼ばれるものが多くありますが、聖書の神様が真の神様です。ほかに神はないのです。この点は、ユダヤ教徒にとってもクリスチャンにとっても同じです。違うのはユダヤ教徒は、イエス・キリストを救い主と信ぜず、神とも信じないけれども、私たちクリスチャンはイエス・キリストを救い主と信じ、イエス・キリストを人の子であると同時に神の子であり、父・子・聖霊なる三位一体の神であると信じる点です。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」私たちが日曜日ごとに礼拝を献げるのは、この唯一の神様への愛を表明するためです。
この第一の戒めを読むとき、私が思い出すのは申命記6章4~5節です。イスラエルの民が非常に大切にして来た御言葉です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これこそ、第一の戒めを見事に言い換えた御言葉です。
第一の戒めを文語訳聖書で読むと、こうなっています。もとの言葉・ヘブライ語に非常に忠実な訳です。「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず。」神様は単に「わたし」とは言われず、「わたしの顔の前で」とおっしゃっているのです。信仰生活、十戒を守る生活は、いつも生ける「神様の御顔の前で」生きる生活です。私たちの生活のすべてを見ておられ、私たちの心の中をもすべて見抜いておられる、生きておられる神様の御顔・視線を常に意識する生活です。宗教改革者ジャン・カルヴァンが「神の前で」生きる信仰を愛し強調したそうです。カルヴァンは「神の前で」をラテン語で語ることを好んだそうです。「コーラム・デオ」という言葉です。「コーラム」が「前で」、「デオ」が「神」です。「コーラム・デオ」がカルヴァンの口癖だったそうです。生きている神様の目の前で私たちは生きている。このことを常に自覚し、他人にもそれを求めたのです。真の神様をひたすら畏れ敬って生きるのです。「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず。」この第一の戒めをいつも意識して生きるのです。
なぜかと言うと、この神様が全世界を創造され、私たち一人一人に命を与えられたからです。私たちに必要なものは全部この神様から来ます。収穫感謝日によく歌う讃美歌21・386番の歌詞に、「良いものみな 神から来る。その深い愛をほめたたえよう」とあります。この神様からのみ、すべての恵みが来るのです。私たちは間違えてはならないのです。ほかの「神々」と呼ばれるものから恵みがくることはないのです。この神様にのみ祈るのです。ほかの「神々」と呼ばれるものが祈りに応えることはないのです(と言うと、他宗教の方からお叱りを受けるでしょうが、しかし確かにそうなのです)。
プロテスタント教会で愛用されている『ハイデルベルク信仰問答』という信仰問答があります。1563年に出版されています。その「問94」は次の問です。
「第一戒で、主は何を求めておられますか」(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、2002年、90ページ)。この問いへの答えは次の通りです。
「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人(カトリックへの対抗)や他の被造物(太陽、月、星など)への呼びかけ(祈り・礼拝)を避けて逃れるべきこと。唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです」(同書、90ページ)。
よい言葉です。「この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。」すべての恵みは、この神様からのみ来ることを強く信頼するのです。
「この方だけを礼拝する」と言うと、堅苦しい窮屈な世界に閉じ込められるという思いを持つことがあると思うのです。ですが、この神様が世界を創造され、今もこの世界を支えておられ、やがてこの神様の国が完成するのですから、この神様に喜んでいただけるように生きることが最も意味があり、価値あることです。世の中にいろいろな楽しみがあり、それはサッカーやディズ二ーランドであったりして、確かに一時的に楽しみを与えてくれますが、残念ながらそれらは永遠の命・永遠の喜びを与えてはくれません。いつかは消え去ってしまうものです。真の神様は、私たちに真の愛と平安と永遠の命を与えて下さいます。ですから私どもは、この神様を礼拝することを真の喜びとし、第一の戒めを守ることを喜びとするのです。古代教会の信仰の指導者となったアウグスティヌスも神様に向かって告白しています。「あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじない」(アウグスティヌス著・服部英次郎訳『告白・上』岩波書店、2012年、5ページ)。情欲、名誉欲などこの世の欲望を必死に追いかけて来た彼でしたが、真の平安が真の神のもとにしかないことを発見したのです。
本日の新約聖書は、マタイによる福音書4章1節以下です。イエス様の「荒れ野の誘惑」の場面です。悪魔が神の子イエス様を、父なる神様から引き離そうと誘惑します。その3つ目の誘惑を見ましょう。(8~11節)「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたし拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。するとイエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」悪魔はイエス様を強力に誘惑しました。「わたしを拝むなら、世のすべての繁栄する国々を与えよう。権力を与えよう。権力者になれ」と。しかしイエス様ははっきり「退け、サタン」と命じられ、悪魔を撃退されました。権力者になるのではなく、真の神様だけを拝み、真の神様だけに地道に奉仕する道こそ、真の祝福の道だと知っておられるのです。イエス様は、マタイによる福音書6章24節では、こう言っておられます。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽ろんずるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
私たちが感じることは、私たちの国においてこの信仰を貫くことは簡単でない場合があることです。日本のキリスト教会の歴史で有名な出来事の1つは、内村鑑三先生の不敬事件です。1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の新年の授業開始にあたり「教育勅語奉読式」が行われました。嘱託教員であった内村先生は、教育勅語の前に三番目に出て、千人以上の教員と生徒の前で奉拝することになりました。31歳の内村先生は謹厳に教育勅語の前に出ましたが、「信仰に基づく良心が彼を内側から束縛し、ためらいながら、瞬間的に決断して~礼拝的低頭をせず、チョット頭をさげたのである。~ためらいながら、礼拝を拒否して、チョット頭を下げたのである」(小沢三郎『内村鑑三不敬事件』。富岡幸一郎『内村鑑三』五月書房、2001年、39ページより孫引き)。ささいな出来事とも言えますが、深く頭を下げなかったことへの非難が学校内の教員や生徒から起こり、マスコミに取り上げられ全国に広まったそうです。内村先生は最初の妻と離婚して再婚した後でしたが、内村先生この出来事で強い批判を受けて肺炎になり、結婚したばかりの妻は、内村先生の看病と事件の心労で病気になり、4月に亡くなります。ご存じの通り、その2年前に発布された大日本帝国憲法では、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定しています。どう考えても第一の戒め「あなたにはわたしをおいてほかに神があってはならない」と矛盾します。ですから明治・大正、そして昭和20年の敗戦までのクリスチャンは非常に苦労されたと思います。
そして太平洋戦争の頃の朝鮮半島の教会を苦しめたのが神社参拝問題です。日本政府は「神社は宗教ではない」とでまかせを言って日本や韓国のクリスチャンに神社参拝を求めました。残念ながら日本の教会の指導者が朝鮮に行って「神社は宗教ではない」と言って参拝するように説得したそうです。その時、朱基徹(チュ・キチョル)牧師という方がはっきり反対して「神社参拝は、モーセの十戒の第一の戒めに反する」と語りました。「基徹」というお名前は「キリストに徹する」という漢字です。そのような状況で、神社参拝をしたクリスチャンも出ましたが、偶像崇拝であることを悟り神社参拝を拒否して殉教するクリスチャンも出ました。朱基徹牧師も殉教なさったのです。
朱牧師は獄に入れられますが、7ヶ月ぶりに釈放されて、1939年2月に教会の日曜礼拝で「私の五つの祈り」という説教をなさいました(以下、朱光朝著・野寺恵美訳『岐路に立って 父・朱基徹が残したもの』いのちのことば社、2012年、127~137ページより)。純粋な信仰に圧倒される、ものすごい祈りです。
第一の祈りは「死の力に勝たせてください」です。「主を捨ててたとえ百年、千年生きたとしても、その人生に何の意味があるでしょうか。この命を惜しんで主を辱めるようなことがありませんように。この身が粉々になろうとも、主の戒めを守ることができますように。~わが愛する教会のみなさん、キリスト者は生きてもキリスト者らしく生き、死んでもキリスト者らしく死なねばなりません。~私は私の主以外の神々の前にひざまずいて生きることはできません。汚れて生きるより、むしろ死んでまた死んで主に対して貞節を守ろうと思います。」神社参拝はできないということです。
第二の祈りは、「長い苦しみに打ち勝たせてください」です。「愛する教会の皆さん。『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます』(ローマ八・一八)。今受ける苦しみは長くとも七十年ですが、将来受ける栄光は、千年、一万年、永遠なのです。」
第三の祈りは、「年老いた母と妻子と教会の兄弟姉妹を主にお委ねします」です。「人は、自分の身に受ける苦しみは耐えることができますが、親や妻子を思うと鉄のような心も変わってしまう場合が多々あります。~人間の複雑に絡み合っている情の糸よ、私を縛りつけるな。~親や妻子をイエスより愛する者は、イエスにふさわしい者ではありません。」
第四の祈りは、「義のために生き、義のために死なせてください」です。「キリストの花嫁は、他の神々に貞節を与えることができません。私は若い時からイエスにあって育ち、イエスに献身すると何十回、何百回と誓いました。」
第五の祈りは、「私の魂を主の御手にお委ねします」です。「主、イエスよ。わが魂を主にお委ねします。十字架を握って倒れるとき、わが魂をお受けください。獄中でも、死刑場でも、わが命が切れるとき、わが魂をお受けください。」朱牧師はその後、捕らえられ、あくまでも神社参拝を拒んで第一の戒めを守り抜き48歳で獄中で亡くなります。ひどい拷問の末に亡くなったのですから殺されたのと同じです。
第一の戒めを完全に守ることは簡単ではありません。私たちは十戒の一つの戒めさえ、完全に守ることができない罪人です。宗教改革者カルヴァンは、礼拝のはじめの方で十戒を唱えることを求めたそうです。そして一つの戒めを唱えるごとに、皆で「キリエ・エレイソン」とギリシア語で歌うことを求めたそうです。「キリエ・エレイソン」は、「主よ、憐れみたまえ」という意味です。一つの戒めを唱えるごとに、その一つをさえ完全に守ることができない自分の罪を自覚します。ですからどうしても「キリエ・エレイソン」、「主よ、憐れみたまえ」という祈りに導かれるのです。十戒を100%守って生きられた方は、ただイエス様お一人です。イエス様は、十戒を守ろうと必死に努力しても、完全に守ることができない私どもの全ての十戒(律法)違反の罪の責任を背負い、十字架で死んで下さいました。そして復活されました。イエス様を救い主と信じる人は、十戒を守れなくとも、すべての罪の赦しと永遠の命をいただくことができます。
ちなみに、律法(その代表が十戒)には3つの役割があることを、宗教改革以来、プロテスタント教会は信じて来ました。これを「律法の三用法(役割)」と呼びます。
第一は「市民的用法(役割)」です。これは、私たちが十戒を行うことによって、社会で善と正義と愛が行われ、秩序が保たれ、社会が清く保たれるということです。実際、私たちを含め世界中の人が十戒を実行すれば、犯罪も戦争もない、非常によい社会になります。 第二は、「教育的用法(役割)」です。これは先ほど述べたことと同じで、一つ一つの戒めをよく学ぶことで自分がそれを一つも守りきれていないことを自覚し、私たちが罪人(つみびと)であるとの自覚を与え、自分の努力では救われないことを悟らせ、真の救い主イエス・キリストを求めるように導くことです。 第三は、「倫理的用法(役割)」です。これはイエス・キリストを救い主と信じて、すべての罪の赦しと永遠の命を受けた人が、聖霊に助けられて十戒を守ってイエス様に従い、愛の業に励み、清い生活をすることです。このようにプロテスタント教会では、律法(十戒)にこのような3つの役割があると信じて来たのです。
私が神学生であった1993年3月に、学校のアジア伝道論という授業の一環で、10名ほどで約10日間、台湾の教会や神学校(計約30)を訪問したことがあります。花蓮という場所だったと記憶しているのですが、教会の牧師の方が、「この場所には太平洋戦争の頃、日本の神社が建っていました。今は神社はなく、キリスト教会が建っています。偶像の宮だった所が、真の神様の宮になりました」と嬉しそうに語られました。
最後に、列王記下5章を見ます。アラム人ナアマンは、真の神様によって重い皮膚病を癒される奇跡を体験しました。そこで「僕(しもべ)は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません」と決心します。真の神様だけを礼拝すると言ったのです。ですがナアマンには立場上、そのようにできない場合があるのでした。そこで苦しかったでしょうが、預言者エリシャにこう述べます。「わたしの主君がリモン(偶像)の神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」エリシャは「安心して行きなさい」と言います。
もちろん偶像崇拝は罪ですし、第一の戒めを守ることは信仰の基本中の基本です。ですが、日本のクリスチャンも心ならずもナアマンに似た立場に置かれることがあります。唯一の神様への信仰を強く心に持ちながら、心ならずもナアマンのように行動せざるを得ない場合があるでしょう。聖書にこのエピソードが記されているのは、神様の憐れみと感じます。ですが、このエピソードをいつも言い訳に用いて、自分の信仰をなくすことも避けるべきです。私どもの信仰はあくまでも「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず」という第一の戒めを守る信仰です。どうか神様が、私たちが生涯この信仰を貫くことができるように、助けて下さいますように。アーメン(「真実に、確かに」)。
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20章3節)
出エジプト記20章には、モーセの十戒が記されています。これから出エジプト記を読む礼拝で、十戒を1つ1つとりあげて学ぶ予定です。1~2節に十戒の前文とも呼ぶべき文がございます。「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。』」まずここに神様の大きな愛が語られています。神様はイスラエルの民を愛し選び、エジプトでの奴隷生活から救い出して下さいました。これは何と言っても、イスラエル民族の原点です。イスラエルの民はいつもこの原点に立ち帰り、神様の偉大な愛に感謝することが必要なのです。この愛に応えるためにどのように生きることがよいのか? それを神様が教えて下さったのがモーセの十戒です。前半の4つの戒めは、この神様を愛する生き方を教えます。そして後半の6つの戒めは、隣人を愛する生き方を教えています。新約聖書の中でイエス・キリストは、「神様を愛し、隣人を愛する」ことが最も重要だとお教えになりました。この十戒を守って生きることは、イエス様の教えを実行することになります。
3節に「第一の戒め」が書かれています。本日はここに集中します。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」 この神様が天地創造をなさった真の神様です。この神様がイエス・キリストの父なる神様です。ほかに神様はおられません。世の中にいろいろな宗教があり、「神」と呼ばれるものが多くありますが、聖書の神様が真の神様です。ほかに神はないのです。この点は、ユダヤ教徒にとってもクリスチャンにとっても同じです。違うのはユダヤ教徒は、イエス・キリストを救い主と信ぜず、神とも信じないけれども、私たちクリスチャンはイエス・キリストを救い主と信じ、イエス・キリストを人の子であると同時に神の子であり、父・子・聖霊なる三位一体の神であると信じる点です。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」私たちが日曜日ごとに礼拝を献げるのは、この唯一の神様への愛を表明するためです。
この第一の戒めを読むとき、私が思い出すのは申命記6章4~5節です。イスラエルの民が非常に大切にして来た御言葉です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これこそ、第一の戒めを見事に言い換えた御言葉です。
第一の戒めを文語訳聖書で読むと、こうなっています。もとの言葉・ヘブライ語に非常に忠実な訳です。「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず。」神様は単に「わたし」とは言われず、「わたしの顔の前で」とおっしゃっているのです。信仰生活、十戒を守る生活は、いつも生ける「神様の御顔の前で」生きる生活です。私たちの生活のすべてを見ておられ、私たちの心の中をもすべて見抜いておられる、生きておられる神様の御顔・視線を常に意識する生活です。宗教改革者ジャン・カルヴァンが「神の前で」生きる信仰を愛し強調したそうです。カルヴァンは「神の前で」をラテン語で語ることを好んだそうです。「コーラム・デオ」という言葉です。「コーラム」が「前で」、「デオ」が「神」です。「コーラム・デオ」がカルヴァンの口癖だったそうです。生きている神様の目の前で私たちは生きている。このことを常に自覚し、他人にもそれを求めたのです。真の神様をひたすら畏れ敬って生きるのです。「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず。」この第一の戒めをいつも意識して生きるのです。
なぜかと言うと、この神様が全世界を創造され、私たち一人一人に命を与えられたからです。私たちに必要なものは全部この神様から来ます。収穫感謝日によく歌う讃美歌21・386番の歌詞に、「良いものみな 神から来る。その深い愛をほめたたえよう」とあります。この神様からのみ、すべての恵みが来るのです。私たちは間違えてはならないのです。ほかの「神々」と呼ばれるものから恵みがくることはないのです。この神様にのみ祈るのです。ほかの「神々」と呼ばれるものが祈りに応えることはないのです(と言うと、他宗教の方からお叱りを受けるでしょうが、しかし確かにそうなのです)。
プロテスタント教会で愛用されている『ハイデルベルク信仰問答』という信仰問答があります。1563年に出版されています。その「問94」は次の問です。
「第一戒で、主は何を求めておられますか」(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、2002年、90ページ)。この問いへの答えは次の通りです。
「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人(カトリックへの対抗)や他の被造物(太陽、月、星など)への呼びかけ(祈り・礼拝)を避けて逃れるべきこと。唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです」(同書、90ページ)。
よい言葉です。「この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。」すべての恵みは、この神様からのみ来ることを強く信頼するのです。
「この方だけを礼拝する」と言うと、堅苦しい窮屈な世界に閉じ込められるという思いを持つことがあると思うのです。ですが、この神様が世界を創造され、今もこの世界を支えておられ、やがてこの神様の国が完成するのですから、この神様に喜んでいただけるように生きることが最も意味があり、価値あることです。世の中にいろいろな楽しみがあり、それはサッカーやディズ二ーランドであったりして、確かに一時的に楽しみを与えてくれますが、残念ながらそれらは永遠の命・永遠の喜びを与えてはくれません。いつかは消え去ってしまうものです。真の神様は、私たちに真の愛と平安と永遠の命を与えて下さいます。ですから私どもは、この神様を礼拝することを真の喜びとし、第一の戒めを守ることを喜びとするのです。古代教会の信仰の指導者となったアウグスティヌスも神様に向かって告白しています。「あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじない」(アウグスティヌス著・服部英次郎訳『告白・上』岩波書店、2012年、5ページ)。情欲、名誉欲などこの世の欲望を必死に追いかけて来た彼でしたが、真の平安が真の神のもとにしかないことを発見したのです。
本日の新約聖書は、マタイによる福音書4章1節以下です。イエス様の「荒れ野の誘惑」の場面です。悪魔が神の子イエス様を、父なる神様から引き離そうと誘惑します。その3つ目の誘惑を見ましょう。(8~11節)「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたし拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。するとイエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」悪魔はイエス様を強力に誘惑しました。「わたしを拝むなら、世のすべての繁栄する国々を与えよう。権力を与えよう。権力者になれ」と。しかしイエス様ははっきり「退け、サタン」と命じられ、悪魔を撃退されました。権力者になるのではなく、真の神様だけを拝み、真の神様だけに地道に奉仕する道こそ、真の祝福の道だと知っておられるのです。イエス様は、マタイによる福音書6章24節では、こう言っておられます。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽ろんずるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
私たちが感じることは、私たちの国においてこの信仰を貫くことは簡単でない場合があることです。日本のキリスト教会の歴史で有名な出来事の1つは、内村鑑三先生の不敬事件です。1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の新年の授業開始にあたり「教育勅語奉読式」が行われました。嘱託教員であった内村先生は、教育勅語の前に三番目に出て、千人以上の教員と生徒の前で奉拝することになりました。31歳の内村先生は謹厳に教育勅語の前に出ましたが、「信仰に基づく良心が彼を内側から束縛し、ためらいながら、瞬間的に決断して~礼拝的低頭をせず、チョット頭をさげたのである。~ためらいながら、礼拝を拒否して、チョット頭を下げたのである」(小沢三郎『内村鑑三不敬事件』。富岡幸一郎『内村鑑三』五月書房、2001年、39ページより孫引き)。ささいな出来事とも言えますが、深く頭を下げなかったことへの非難が学校内の教員や生徒から起こり、マスコミに取り上げられ全国に広まったそうです。内村先生は最初の妻と離婚して再婚した後でしたが、内村先生この出来事で強い批判を受けて肺炎になり、結婚したばかりの妻は、内村先生の看病と事件の心労で病気になり、4月に亡くなります。ご存じの通り、その2年前に発布された大日本帝国憲法では、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定しています。どう考えても第一の戒め「あなたにはわたしをおいてほかに神があってはならない」と矛盾します。ですから明治・大正、そして昭和20年の敗戦までのクリスチャンは非常に苦労されたと思います。
そして太平洋戦争の頃の朝鮮半島の教会を苦しめたのが神社参拝問題です。日本政府は「神社は宗教ではない」とでまかせを言って日本や韓国のクリスチャンに神社参拝を求めました。残念ながら日本の教会の指導者が朝鮮に行って「神社は宗教ではない」と言って参拝するように説得したそうです。その時、朱基徹(チュ・キチョル)牧師という方がはっきり反対して「神社参拝は、モーセの十戒の第一の戒めに反する」と語りました。「基徹」というお名前は「キリストに徹する」という漢字です。そのような状況で、神社参拝をしたクリスチャンも出ましたが、偶像崇拝であることを悟り神社参拝を拒否して殉教するクリスチャンも出ました。朱基徹牧師も殉教なさったのです。
朱牧師は獄に入れられますが、7ヶ月ぶりに釈放されて、1939年2月に教会の日曜礼拝で「私の五つの祈り」という説教をなさいました(以下、朱光朝著・野寺恵美訳『岐路に立って 父・朱基徹が残したもの』いのちのことば社、2012年、127~137ページより)。純粋な信仰に圧倒される、ものすごい祈りです。
第一の祈りは「死の力に勝たせてください」です。「主を捨ててたとえ百年、千年生きたとしても、その人生に何の意味があるでしょうか。この命を惜しんで主を辱めるようなことがありませんように。この身が粉々になろうとも、主の戒めを守ることができますように。~わが愛する教会のみなさん、キリスト者は生きてもキリスト者らしく生き、死んでもキリスト者らしく死なねばなりません。~私は私の主以外の神々の前にひざまずいて生きることはできません。汚れて生きるより、むしろ死んでまた死んで主に対して貞節を守ろうと思います。」神社参拝はできないということです。
第二の祈りは、「長い苦しみに打ち勝たせてください」です。「愛する教会の皆さん。『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます』(ローマ八・一八)。今受ける苦しみは長くとも七十年ですが、将来受ける栄光は、千年、一万年、永遠なのです。」
第三の祈りは、「年老いた母と妻子と教会の兄弟姉妹を主にお委ねします」です。「人は、自分の身に受ける苦しみは耐えることができますが、親や妻子を思うと鉄のような心も変わってしまう場合が多々あります。~人間の複雑に絡み合っている情の糸よ、私を縛りつけるな。~親や妻子をイエスより愛する者は、イエスにふさわしい者ではありません。」
第四の祈りは、「義のために生き、義のために死なせてください」です。「キリストの花嫁は、他の神々に貞節を与えることができません。私は若い時からイエスにあって育ち、イエスに献身すると何十回、何百回と誓いました。」
第五の祈りは、「私の魂を主の御手にお委ねします」です。「主、イエスよ。わが魂を主にお委ねします。十字架を握って倒れるとき、わが魂をお受けください。獄中でも、死刑場でも、わが命が切れるとき、わが魂をお受けください。」朱牧師はその後、捕らえられ、あくまでも神社参拝を拒んで第一の戒めを守り抜き48歳で獄中で亡くなります。ひどい拷問の末に亡くなったのですから殺されたのと同じです。
第一の戒めを完全に守ることは簡単ではありません。私たちは十戒の一つの戒めさえ、完全に守ることができない罪人です。宗教改革者カルヴァンは、礼拝のはじめの方で十戒を唱えることを求めたそうです。そして一つの戒めを唱えるごとに、皆で「キリエ・エレイソン」とギリシア語で歌うことを求めたそうです。「キリエ・エレイソン」は、「主よ、憐れみたまえ」という意味です。一つの戒めを唱えるごとに、その一つをさえ完全に守ることができない自分の罪を自覚します。ですからどうしても「キリエ・エレイソン」、「主よ、憐れみたまえ」という祈りに導かれるのです。十戒を100%守って生きられた方は、ただイエス様お一人です。イエス様は、十戒を守ろうと必死に努力しても、完全に守ることができない私どもの全ての十戒(律法)違反の罪の責任を背負い、十字架で死んで下さいました。そして復活されました。イエス様を救い主と信じる人は、十戒を守れなくとも、すべての罪の赦しと永遠の命をいただくことができます。
ちなみに、律法(その代表が十戒)には3つの役割があることを、宗教改革以来、プロテスタント教会は信じて来ました。これを「律法の三用法(役割)」と呼びます。
第一は「市民的用法(役割)」です。これは、私たちが十戒を行うことによって、社会で善と正義と愛が行われ、秩序が保たれ、社会が清く保たれるということです。実際、私たちを含め世界中の人が十戒を実行すれば、犯罪も戦争もない、非常によい社会になります。 第二は、「教育的用法(役割)」です。これは先ほど述べたことと同じで、一つ一つの戒めをよく学ぶことで自分がそれを一つも守りきれていないことを自覚し、私たちが罪人(つみびと)であるとの自覚を与え、自分の努力では救われないことを悟らせ、真の救い主イエス・キリストを求めるように導くことです。 第三は、「倫理的用法(役割)」です。これはイエス・キリストを救い主と信じて、すべての罪の赦しと永遠の命を受けた人が、聖霊に助けられて十戒を守ってイエス様に従い、愛の業に励み、清い生活をすることです。このようにプロテスタント教会では、律法(十戒)にこのような3つの役割があると信じて来たのです。
私が神学生であった1993年3月に、学校のアジア伝道論という授業の一環で、10名ほどで約10日間、台湾の教会や神学校(計約30)を訪問したことがあります。花蓮という場所だったと記憶しているのですが、教会の牧師の方が、「この場所には太平洋戦争の頃、日本の神社が建っていました。今は神社はなく、キリスト教会が建っています。偶像の宮だった所が、真の神様の宮になりました」と嬉しそうに語られました。
最後に、列王記下5章を見ます。アラム人ナアマンは、真の神様によって重い皮膚病を癒される奇跡を体験しました。そこで「僕(しもべ)は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません」と決心します。真の神様だけを礼拝すると言ったのです。ですがナアマンには立場上、そのようにできない場合があるのでした。そこで苦しかったでしょうが、預言者エリシャにこう述べます。「わたしの主君がリモン(偶像)の神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」エリシャは「安心して行きなさい」と言います。
もちろん偶像崇拝は罪ですし、第一の戒めを守ることは信仰の基本中の基本です。ですが、日本のクリスチャンも心ならずもナアマンに似た立場に置かれることがあります。唯一の神様への信仰を強く心に持ちながら、心ならずもナアマンのように行動せざるを得ない場合があるでしょう。聖書にこのエピソードが記されているのは、神様の憐れみと感じます。ですが、このエピソードをいつも言い訳に用いて、自分の信仰をなくすことも避けるべきです。私どもの信仰はあくまでも「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず」という第一の戒めを守る信仰です。どうか神様が、私たちが生涯この信仰を貫くことができるように、助けて下さいますように。アーメン(「真実に、確かに」)。
2014-06-17 1:49:54(火)
「神の愛が注がれる」 2014年6月15日(日) 聖霊降臨節第2主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書53章1~12節、ローマの信徒への手紙5章1~11節
「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5章5節)
この手紙を書いたのは、使徒パウロです。本日の5章の直前・4章25節に重要なことが書かれています。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」これぞ福音、神様が私たちに与えて下さった恵みです。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされる(父なる神様の前に正しいと認められる)ために復活させられたのです。」私たちがこのことを信じるならば、全ての罪の赦しを受け、永遠の命をいただくのです。「良い行いを積むことによってではなく、信仰によってのみ義とされる。」これを信仰義認と呼びます。「信仰によって義と認められる」と書きます。これこそ聖書の福音・よき知らせです。
この大きな恵みを、ローマの信徒への手紙5章1~2節が、次のように語ります。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」 「信仰によって」という言葉が2回繰り返されています。「信仰によって義とされた」、「今の恵みに信仰によって導き入れられ」とあります。そして「神との間に平和を得て」いると言っています。私たちの罪のために断絶していた神様と私たちの間に和解と平和がもたらされました。ひとえにイエス様の十字架の犠牲の死と復活のお陰です。この和解と平和は、私たちがイエス様を救い主と信じるときに、初めて私たちのものになります。そしてパウロは、自分が「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と述べます。「神の栄光にあずかる」とは、天国入れられる、神の子イエス様に似た者とされる、復活の体という栄光の体を与えられる、などを指します。私たちにもこの希望が与えられています。
そしてパウロは非常に深いことを述べます。希望を誇りとするだけではなく、苦難をも誇りとするというのです。なかなか言えない言葉です。私たちの自然な気持ちとしては、苦難はできるだけ避けたいと思うものです。パウロの人生の後半はひたすらイエス・キリストを宣べ伝えることに献げられましたが、それは苦難の連続でした。もちろんイエス様こそ最大の苦難を経験なさった方です。何の罪もない神の子が十字架につけられ、肉体の苦しみはもちろんですが、一体として歩んで来た父なる神様から初めて引き裂かれて死ぬ苦難は、私たちには伺い知れない深い苦難です。
イエス様に従ったパウロも多くの苦難を経験しました。その経験を踏まえて告白するのです。3~4節「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」苦難が忍耐を生むことは分かります。忍耐は練達を生む。新改訳聖書では、練達を「練られた品性」と訳しています。人格が練られるということでしょう。苦難に耐えることで人格が練られ、清められ深められ、イエス様に似て来るということでしょう。イエス様はもともと100%清い方ですが、十字架の苦難によってさらに忍耐力を強められ、練られたのではないでしょうか。パウロも多くの苦難を通して、人格が練り清められ、イエス様に非常に近づいたと思うのです。これと似たことを多くのクリスチャンが経験しています。
そして練達が希望を生むとパウロは説きます。イエス様も十字架の苦難と死を通って、復活に到達されました。復活こそ究極の希望です。イエス様が通られた道に似た道を私どもも通ります。イエス様が最大の苦難を味わって下さいましたので、父なる神様は私どもにはイエス様より小さな試練を与えられるでしょう。パウロはかなり大きな苦難を通りました。私たちは、イエス様やパウロほどの苦難には耐えられないかもしれません。神様は私たちに、イエス様やパウロよりは小さな十字架・試練をお与えになります。それを背負ってイエス様に従うように私たちを招かれます。そして天国・復活の命に至るように招いておられます。目に見えませんが、復活のイエス様が私たちの十字架・試練を共に背負って下さいます。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」多くの苦難を通ったパウロだからこそ語ることのできる深い真理です。
5節はパウロの力強い言葉です。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」神様が与えて下さる永遠の命の希望は、私たちを欺くことがない確かな希望です。この希望をイエス・キリストと言い換えることもできます。「イエス・キリストは私たちを欺くことがありません。」イエス様は私どもを決して欺いたり、騙したり、裏切ることはありません。100%信頼できるお方です。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」聖霊は、神様の清い霊・愛の霊です。聖霊が注がれるとき、私たちの心は神様の清い愛と慰めを受けます。
先週はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝でしたが、使徒言行録2章の聖霊降臨の場面を読むと、聖霊を受けた人々は恍惚の状態にあったことが分かります。ある人たちが「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざけるほどの喜びに満たされていました。もちろんぶどう酒に酔っていたのではなく、聖霊なる神様の愛に満たされていたのです。私たちも先週の礼拝では、病を経て2年ぶり以上で礼拝においでになった方をお迎えして、感謝のペンテコステ礼拝を献げることができました。多くの方々の祈りと聖霊なる神様のお働きによって、神様の愛と憐れみを味わうよきペンテコステ礼拝となりました。そして今日の礼拝もどの日の礼拝も、聖書の御言葉と聖霊による愛と慰めを受ける、幸いな時です。礼拝こそ最大の恵み、天国につながる希望の時です。
私は1991年にある合否判定で落第して、落ち込んだことがあります。その頃毎日、旧約聖書のイザヤ書を1章ずつ読んでいて、しかし読んでも分からない日々でした。ところがその日はイザヤ書43章でした。それが有名な箇所であることを知ったのは後のことです。1節以下にこう書かれています。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は/ 今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。/ わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず/ 炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神/ イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。
わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。
わたしの目に あなたは価高く、貴く/ わたしはあなたを愛し
あなたの身代わりとして人を与え/ 国々をあなたの魂の代わりとする。
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」
この御言葉は、大変心に響きました。御言葉と共に聖霊が働かれ、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれる」、そして慰めが注がれる経験を致しました。大きな劇的な経験でなくても、このような小さな経験は多くの方が持っておられると思います。
しばらく前の礼拝でお話しした古代教会の信仰の指導者アウグスティヌスは、31才のときに回心してクリスチャンになりましたが、その直前、自分の罪に苦しんでいたようです。すると隣りの家から「取って読め、取って読め」と何度も繰り返す子供の声が聞こえ、彼はそれを「聖書を取って読め」という神様の命令と受けとめ、素直に聖書を開いたところ、ローマの信徒への手紙13章13~14節が目に入りました。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」「この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れて、疑惑の闇はすっかり消え失せた」とアウグストゥスが自分で書いています(アウグスティヌス著、服部英次郎訳『告白』(上)、岩波書店、2012年、281ページ)。聖書の御言葉と共に聖霊が働かれ、神様の愛の光がアウグスティヌスの心に注がれたとしか思えません。
ある牧師は少年時代に、太平洋戦争中のキリスト教会弾圧で、プロテスタントのホーリネス教会の牧師であるお父様が、もちろん何も悪いことをしていないのに連行され、1945年に青森の刑務所で亡くなる非常に辛い経験をなさいました。「私は神を呪いました」とはっきり書いておられます(辻宣道『教会生活の四季』日本基督教団出版局、1991年、15ページ)。絶望的な日々を逃れようと、中学をやめ、あえて陸軍通信兵学校という、「使い捨てる下士官製造」(同書、180ページ)の学校に入り、敗戦を迎えました。生き甲斐がなく、神も何も信じられない、魂の抜けたような数ヶ月を送られたようです。ところがクリスマスが近いある日、何気なくつけたラジオからクリスマスキャロルが流れて来たそうです。
「私にとっては肝をつぶさんばかりの驚きでした。ラジオといえば~軍艦マーチと共に聞こえてくる『大本営発表』でした。この憎むべき機械が、あの美しいクリスマスのメロディーを聞かせているのです。寒いので昼間から布団を敷いて寝ていた私は、ガバッとはねおきました。聞き捨てならぬものを聞いた人間のようにしっかり耳をすまして聞きました。~子どものころから聞いてきたあの優しく包みこむような歌です。~大きなぼた雪が際限もなく降ってきます。そのときです。なんとしたことでしょう。私の目に涙があふれました。とめてもとめても涙がでてきました」(同書、180~181ページ)。このとき、クリスマスの讃美歌を通して聖霊が働かれ、神様の愛がこの先生の心に注がれたのだと思います。このあとすぐ神様を信じるようにはならなかったそうですが、このことも1つのきっかけとなって伝道者になられます。 私たち一人一人には、多くの場合、劇的な体験はありません。それでも洗礼を受けたとき、あるいは知り合いや教会の方から、ちょっとした親切を受けたときなどに、神様の愛を感じたささやかな経験は、どなたにもあるのではないでしょうか。
ローマの信徒への手紙5章に戻り、6~8節。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神わたしたちに対する愛を示されました。」私たちがイエス様を信じる前に、私たちが神様に従わないで反抗していたときに、イエス様は私たちのために死んで下さったのです。
「イエス様がこの私のために十字架で死んで下さった!」このことをいつも思っていたいのです。受難節の頃の礼拝でお話し致しましたが、私に洗礼を授けて下さった牧師に洗礼をお授けになった牧師は、比較的若くして天に召されたそうですが、受難節には首から釘をぶら下げて生活しておられたそうです。やや極端に思われるかもしれませんが、信仰の修練のひとつの方法でしょう。イエス様が自分のために十字架で死んで下さったことを忘れないその先生の方法なのです。私たち一人一人が自分なりの仕方でイエス様の十字架を心に刻めばよいのです。イエス様の十字架を予告するイザヤ書53章を定期的に読むのもよい方法です。聖餐式は、イエス様の十字架の愛と復活を心と体に強く刻む時ですから、聖餐式のある日曜日は特に心して礼拝に出席することもよい方法です(ご事情により無理な方もおられると思います)。
私は先日、2004年に公開された映画「パッション」のDVDを買って見ました。ご覧になった方が少なくないと思いますが、ゲツセマネの祈りからイエス様の十字架の死を強烈に描いた映画です。復活も描かれています。見ていて非常に痛い痛い映画です。話題になった10年前に私も勇気を出して映画館で見ましたが、もう一生見ないくらいのつもりでした。ですがもう一度見ようという気持ちになり、DVDを買って、覚悟を決めて見ました。受難節に見るとよいかなと思います。イエス様が私たちのために苦難に耐えて下さったことを心に刻むためには、見る意味があると感じます。これは私なりの方法です。映画の冒頭に本日の旧約聖書であるイザヤ書53章5節が文字で出ます。
「彼(イエス・キリスト)が刺し貫かれたのは/ わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは/ わたしたちの咎のためであった
彼の受けた懲らしめによって/ わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
十字架を担いでゴルゴタの丘に向う途上で、イエス様は倒れてしまわれます。そこに母マリアが駆け寄る場面が(聖書にはありませんが)この映画にはあります。イエス様は母マリアに、「お母さん、私は全てのものを新しくします」とおっしゃいます。「十字架での死と復活によって、世界中に罪のゆるしをもたらします」という意味だろうと思います。イエス様が十字架の上で息を引き取られると、天の上から一滴の涙が落ちてきます。恐らく最愛の独り子を十字架におつけになった父なる神様の涙でしょう。この場面も聖書にはないので映画の脚色ですが、父なる神様も天で非常に辛い思いに耐えておられたことを表現しているのでしょう。
私は昨日、お隣の西東京市の日本長老教会・西武柳沢キリスト教会で行われた講演会に行って参りました。講師は、92歳の日本基督教会の隠退牧師の方です。18歳で洗礼をお受けになり、その後、衛生兵として中国山西省孟県(うけん)に出征されました。講演の題は「私が中国で戦った『聖戦』の実態 ―戦後日本の責任を覚えて―」です。衛生兵の任務は兵士の衛生管理であり、兵士を性病にかからせないことだったそうです。若い日の先生に与えられた仕事の1つが、毎月、従軍慰安婦の中国人女性の性病検査をすることだったと話されました。先生ご自身が従軍慰安婦にされた女性と関係を持つことはなかったのですが、関係を持つ兵士に「するな」とは言えなかったと言われました。「自分は戦争犯罪人だと思う」という意味のことを言われました。もちろん戦争犯罪人としてつかまったわけではないのですが、罪の自覚がおありになるということです。イエス様は、私の罪のために、そして先生の罪のためにも十字架で死んで下さったのです。
「本当はこのような経験を人前で話すことは辛いのだが、なぜ話すかというと、日本がまた戦争への道を歩み始めているからだ。今は(戦後ではなく)戦前だと思う」という意味のことを語られました。ドイツのクリスチャン大統領だったヴァイツゼッカー氏の「過去に目を閉ざす者は、現在にも目を閉ざす者となる」という有名な言葉をも引用されました。先生が属しておられた部隊が、ある時、中国のある部落を襲撃したそうです(先生は手を下しておられません)。襲撃の情報が事前に伝わり、ほとんどの人が逃げたあとでしたが、逃げ遅れた婦人が七名ほどおられ、その方々を捕らえて慰安婦にしたとのことです。部隊長の指示で約一週間後に解放したそうですが、私も日本人として本当に申し訳なく思います。
私たちの国は、この過去の大罪を深く悔い改め、次の世代にしっかりと伝え、忘れないようにしないと、将来似たことをしないとも限りません。このようなひどい罪がもし赦されるとすれば、それはイエス様が十字架で、人間の罪と悪に対する父なる神様の聖なる怒りを、集中砲火を浴びるように受けて下さったからとしか言いようがありません。イザヤ書53章8節
「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。」
ローマの信徒への手紙5章に戻ります。(8~10節)「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」 全く罪がない清い神の子イエス様が、十字架で尊い血潮を流して下さらなければ、私たちが罪の赦しと永遠の命をいただくことはありませんでした。世の終わり・神の国の完成の時、神様は悪魔と罪と死を完全に滅ぼされます。その時、罪を悔い改め、イエス様を信じる者たちは完全に救われるのです。イエス様による救いを日本人に宣べ伝えることは、簡単ではないこともありますが、しかし聖霊を注がれて、愛と勇気を与えられて、祈りを込めてこのことに取り組んで参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5章5節)
この手紙を書いたのは、使徒パウロです。本日の5章の直前・4章25節に重要なことが書かれています。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」これぞ福音、神様が私たちに与えて下さった恵みです。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされる(父なる神様の前に正しいと認められる)ために復活させられたのです。」私たちがこのことを信じるならば、全ての罪の赦しを受け、永遠の命をいただくのです。「良い行いを積むことによってではなく、信仰によってのみ義とされる。」これを信仰義認と呼びます。「信仰によって義と認められる」と書きます。これこそ聖書の福音・よき知らせです。
この大きな恵みを、ローマの信徒への手紙5章1~2節が、次のように語ります。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」 「信仰によって」という言葉が2回繰り返されています。「信仰によって義とされた」、「今の恵みに信仰によって導き入れられ」とあります。そして「神との間に平和を得て」いると言っています。私たちの罪のために断絶していた神様と私たちの間に和解と平和がもたらされました。ひとえにイエス様の十字架の犠牲の死と復活のお陰です。この和解と平和は、私たちがイエス様を救い主と信じるときに、初めて私たちのものになります。そしてパウロは、自分が「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と述べます。「神の栄光にあずかる」とは、天国入れられる、神の子イエス様に似た者とされる、復活の体という栄光の体を与えられる、などを指します。私たちにもこの希望が与えられています。
そしてパウロは非常に深いことを述べます。希望を誇りとするだけではなく、苦難をも誇りとするというのです。なかなか言えない言葉です。私たちの自然な気持ちとしては、苦難はできるだけ避けたいと思うものです。パウロの人生の後半はひたすらイエス・キリストを宣べ伝えることに献げられましたが、それは苦難の連続でした。もちろんイエス様こそ最大の苦難を経験なさった方です。何の罪もない神の子が十字架につけられ、肉体の苦しみはもちろんですが、一体として歩んで来た父なる神様から初めて引き裂かれて死ぬ苦難は、私たちには伺い知れない深い苦難です。
イエス様に従ったパウロも多くの苦難を経験しました。その経験を踏まえて告白するのです。3~4節「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」苦難が忍耐を生むことは分かります。忍耐は練達を生む。新改訳聖書では、練達を「練られた品性」と訳しています。人格が練られるということでしょう。苦難に耐えることで人格が練られ、清められ深められ、イエス様に似て来るということでしょう。イエス様はもともと100%清い方ですが、十字架の苦難によってさらに忍耐力を強められ、練られたのではないでしょうか。パウロも多くの苦難を通して、人格が練り清められ、イエス様に非常に近づいたと思うのです。これと似たことを多くのクリスチャンが経験しています。
そして練達が希望を生むとパウロは説きます。イエス様も十字架の苦難と死を通って、復活に到達されました。復活こそ究極の希望です。イエス様が通られた道に似た道を私どもも通ります。イエス様が最大の苦難を味わって下さいましたので、父なる神様は私どもにはイエス様より小さな試練を与えられるでしょう。パウロはかなり大きな苦難を通りました。私たちは、イエス様やパウロほどの苦難には耐えられないかもしれません。神様は私たちに、イエス様やパウロよりは小さな十字架・試練をお与えになります。それを背負ってイエス様に従うように私たちを招かれます。そして天国・復活の命に至るように招いておられます。目に見えませんが、復活のイエス様が私たちの十字架・試練を共に背負って下さいます。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」多くの苦難を通ったパウロだからこそ語ることのできる深い真理です。
5節はパウロの力強い言葉です。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」神様が与えて下さる永遠の命の希望は、私たちを欺くことがない確かな希望です。この希望をイエス・キリストと言い換えることもできます。「イエス・キリストは私たちを欺くことがありません。」イエス様は私どもを決して欺いたり、騙したり、裏切ることはありません。100%信頼できるお方です。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」聖霊は、神様の清い霊・愛の霊です。聖霊が注がれるとき、私たちの心は神様の清い愛と慰めを受けます。
先週はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝でしたが、使徒言行録2章の聖霊降臨の場面を読むと、聖霊を受けた人々は恍惚の状態にあったことが分かります。ある人たちが「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざけるほどの喜びに満たされていました。もちろんぶどう酒に酔っていたのではなく、聖霊なる神様の愛に満たされていたのです。私たちも先週の礼拝では、病を経て2年ぶり以上で礼拝においでになった方をお迎えして、感謝のペンテコステ礼拝を献げることができました。多くの方々の祈りと聖霊なる神様のお働きによって、神様の愛と憐れみを味わうよきペンテコステ礼拝となりました。そして今日の礼拝もどの日の礼拝も、聖書の御言葉と聖霊による愛と慰めを受ける、幸いな時です。礼拝こそ最大の恵み、天国につながる希望の時です。
私は1991年にある合否判定で落第して、落ち込んだことがあります。その頃毎日、旧約聖書のイザヤ書を1章ずつ読んでいて、しかし読んでも分からない日々でした。ところがその日はイザヤ書43章でした。それが有名な箇所であることを知ったのは後のことです。1節以下にこう書かれています。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は/ 今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。/ わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず/ 炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神/ イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。
わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。
わたしの目に あなたは価高く、貴く/ わたしはあなたを愛し
あなたの身代わりとして人を与え/ 国々をあなたの魂の代わりとする。
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」
この御言葉は、大変心に響きました。御言葉と共に聖霊が働かれ、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれる」、そして慰めが注がれる経験を致しました。大きな劇的な経験でなくても、このような小さな経験は多くの方が持っておられると思います。
しばらく前の礼拝でお話しした古代教会の信仰の指導者アウグスティヌスは、31才のときに回心してクリスチャンになりましたが、その直前、自分の罪に苦しんでいたようです。すると隣りの家から「取って読め、取って読め」と何度も繰り返す子供の声が聞こえ、彼はそれを「聖書を取って読め」という神様の命令と受けとめ、素直に聖書を開いたところ、ローマの信徒への手紙13章13~14節が目に入りました。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」「この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れて、疑惑の闇はすっかり消え失せた」とアウグストゥスが自分で書いています(アウグスティヌス著、服部英次郎訳『告白』(上)、岩波書店、2012年、281ページ)。聖書の御言葉と共に聖霊が働かれ、神様の愛の光がアウグスティヌスの心に注がれたとしか思えません。
ある牧師は少年時代に、太平洋戦争中のキリスト教会弾圧で、プロテスタントのホーリネス教会の牧師であるお父様が、もちろん何も悪いことをしていないのに連行され、1945年に青森の刑務所で亡くなる非常に辛い経験をなさいました。「私は神を呪いました」とはっきり書いておられます(辻宣道『教会生活の四季』日本基督教団出版局、1991年、15ページ)。絶望的な日々を逃れようと、中学をやめ、あえて陸軍通信兵学校という、「使い捨てる下士官製造」(同書、180ページ)の学校に入り、敗戦を迎えました。生き甲斐がなく、神も何も信じられない、魂の抜けたような数ヶ月を送られたようです。ところがクリスマスが近いある日、何気なくつけたラジオからクリスマスキャロルが流れて来たそうです。
「私にとっては肝をつぶさんばかりの驚きでした。ラジオといえば~軍艦マーチと共に聞こえてくる『大本営発表』でした。この憎むべき機械が、あの美しいクリスマスのメロディーを聞かせているのです。寒いので昼間から布団を敷いて寝ていた私は、ガバッとはねおきました。聞き捨てならぬものを聞いた人間のようにしっかり耳をすまして聞きました。~子どものころから聞いてきたあの優しく包みこむような歌です。~大きなぼた雪が際限もなく降ってきます。そのときです。なんとしたことでしょう。私の目に涙があふれました。とめてもとめても涙がでてきました」(同書、180~181ページ)。このとき、クリスマスの讃美歌を通して聖霊が働かれ、神様の愛がこの先生の心に注がれたのだと思います。このあとすぐ神様を信じるようにはならなかったそうですが、このことも1つのきっかけとなって伝道者になられます。 私たち一人一人には、多くの場合、劇的な体験はありません。それでも洗礼を受けたとき、あるいは知り合いや教会の方から、ちょっとした親切を受けたときなどに、神様の愛を感じたささやかな経験は、どなたにもあるのではないでしょうか。
ローマの信徒への手紙5章に戻り、6~8節。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神わたしたちに対する愛を示されました。」私たちがイエス様を信じる前に、私たちが神様に従わないで反抗していたときに、イエス様は私たちのために死んで下さったのです。
「イエス様がこの私のために十字架で死んで下さった!」このことをいつも思っていたいのです。受難節の頃の礼拝でお話し致しましたが、私に洗礼を授けて下さった牧師に洗礼をお授けになった牧師は、比較的若くして天に召されたそうですが、受難節には首から釘をぶら下げて生活しておられたそうです。やや極端に思われるかもしれませんが、信仰の修練のひとつの方法でしょう。イエス様が自分のために十字架で死んで下さったことを忘れないその先生の方法なのです。私たち一人一人が自分なりの仕方でイエス様の十字架を心に刻めばよいのです。イエス様の十字架を予告するイザヤ書53章を定期的に読むのもよい方法です。聖餐式は、イエス様の十字架の愛と復活を心と体に強く刻む時ですから、聖餐式のある日曜日は特に心して礼拝に出席することもよい方法です(ご事情により無理な方もおられると思います)。
私は先日、2004年に公開された映画「パッション」のDVDを買って見ました。ご覧になった方が少なくないと思いますが、ゲツセマネの祈りからイエス様の十字架の死を強烈に描いた映画です。復活も描かれています。見ていて非常に痛い痛い映画です。話題になった10年前に私も勇気を出して映画館で見ましたが、もう一生見ないくらいのつもりでした。ですがもう一度見ようという気持ちになり、DVDを買って、覚悟を決めて見ました。受難節に見るとよいかなと思います。イエス様が私たちのために苦難に耐えて下さったことを心に刻むためには、見る意味があると感じます。これは私なりの方法です。映画の冒頭に本日の旧約聖書であるイザヤ書53章5節が文字で出ます。
「彼(イエス・キリスト)が刺し貫かれたのは/ わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは/ わたしたちの咎のためであった
彼の受けた懲らしめによって/ わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
十字架を担いでゴルゴタの丘に向う途上で、イエス様は倒れてしまわれます。そこに母マリアが駆け寄る場面が(聖書にはありませんが)この映画にはあります。イエス様は母マリアに、「お母さん、私は全てのものを新しくします」とおっしゃいます。「十字架での死と復活によって、世界中に罪のゆるしをもたらします」という意味だろうと思います。イエス様が十字架の上で息を引き取られると、天の上から一滴の涙が落ちてきます。恐らく最愛の独り子を十字架におつけになった父なる神様の涙でしょう。この場面も聖書にはないので映画の脚色ですが、父なる神様も天で非常に辛い思いに耐えておられたことを表現しているのでしょう。
私は昨日、お隣の西東京市の日本長老教会・西武柳沢キリスト教会で行われた講演会に行って参りました。講師は、92歳の日本基督教会の隠退牧師の方です。18歳で洗礼をお受けになり、その後、衛生兵として中国山西省孟県(うけん)に出征されました。講演の題は「私が中国で戦った『聖戦』の実態 ―戦後日本の責任を覚えて―」です。衛生兵の任務は兵士の衛生管理であり、兵士を性病にかからせないことだったそうです。若い日の先生に与えられた仕事の1つが、毎月、従軍慰安婦の中国人女性の性病検査をすることだったと話されました。先生ご自身が従軍慰安婦にされた女性と関係を持つことはなかったのですが、関係を持つ兵士に「するな」とは言えなかったと言われました。「自分は戦争犯罪人だと思う」という意味のことを言われました。もちろん戦争犯罪人としてつかまったわけではないのですが、罪の自覚がおありになるということです。イエス様は、私の罪のために、そして先生の罪のためにも十字架で死んで下さったのです。
「本当はこのような経験を人前で話すことは辛いのだが、なぜ話すかというと、日本がまた戦争への道を歩み始めているからだ。今は(戦後ではなく)戦前だと思う」という意味のことを語られました。ドイツのクリスチャン大統領だったヴァイツゼッカー氏の「過去に目を閉ざす者は、現在にも目を閉ざす者となる」という有名な言葉をも引用されました。先生が属しておられた部隊が、ある時、中国のある部落を襲撃したそうです(先生は手を下しておられません)。襲撃の情報が事前に伝わり、ほとんどの人が逃げたあとでしたが、逃げ遅れた婦人が七名ほどおられ、その方々を捕らえて慰安婦にしたとのことです。部隊長の指示で約一週間後に解放したそうですが、私も日本人として本当に申し訳なく思います。
私たちの国は、この過去の大罪を深く悔い改め、次の世代にしっかりと伝え、忘れないようにしないと、将来似たことをしないとも限りません。このようなひどい罪がもし赦されるとすれば、それはイエス様が十字架で、人間の罪と悪に対する父なる神様の聖なる怒りを、集中砲火を浴びるように受けて下さったからとしか言いようがありません。イザヤ書53章8節
「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。」
ローマの信徒への手紙5章に戻ります。(8~10節)「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」 全く罪がない清い神の子イエス様が、十字架で尊い血潮を流して下さらなければ、私たちが罪の赦しと永遠の命をいただくことはありませんでした。世の終わり・神の国の完成の時、神様は悪魔と罪と死を完全に滅ぼされます。その時、罪を悔い改め、イエス様を信じる者たちは完全に救われるのです。イエス様による救いを日本人に宣べ伝えることは、簡単ではないこともありますが、しかし聖霊を注がれて、愛と勇気を与えられて、祈りを込めてこのことに取り組んで参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
2014-06-09 21:02:54(月)
「炎のような聖霊」 2014年6月8日(日) ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教
朗読聖書:創世記11章1~9節、使徒言行録2章1~21節
「すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」(使徒言行録2章4節)
イエス・キリストは、私たち皆の罪をすべて背負って十字架で死んで下さり、三日目に復活されました。復活後40日目に、イエス様は天に昇られました。これをキリストの昇天と呼びます(召天ではない)。イエス様が天に昇られたことは、私たちに3つの益をもたらしました。
第一の益は、天で父なる神様の右の座に着かれたイエス様が、今も私たちのために執り成しをして下さっていることです。もちろん最大の執り成しは十字架の上でなされました。イエス様の十字架の死のお陰で、私どもが過去に犯した罪も、心ならずも今後犯してしまう罪もすべて赦されたのです(もちろんだからと言って罪を犯してよいわけではなく、反対に私たちは聖霊に助けていただいてできるだけ清い生き方を目ざすのです)。ですからイエス様の十字架による罪の赦しが不完全なのではありません。ですがそれにダメを押すように、イエス様は天で今も、私たちが日々心ならずも犯してしまう罪のために、父なる神様に執り成しをして下さっています。ローマの信徒への手紙8章34節に次のように書かれています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」ヘブライ人への手紙7章25節には、こう書かれています。「この方(イエス様)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」イエス様が天で今も執り成して下さっている。これがイエス様の昇天による第一の益です。
第二の益は、教会の頭(かしら)であるイエス様が天に昇られたので、教会の枝である私たちが天とつながったことです。教会はイエス・キリストの体であり、教会の頭(かしら)がイエス様です。イエス様が天におられるので、私たち一人一人も今既に天にしっかりとつながっている現実に置かれています。イエス様の隣りで十字架に架けられていた犯罪人の一人が言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)。イエス様は彼の気持ちをしっかりと受けとめ、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と約束して下さいました。この犯罪人は息絶えると直ちに天国に入れられたに違いありません。私たちも同じです。イエス様を救い主と告白し、イエス様に従うなら、死後直ちに天国に入れられます。
イエス様が天に昇られたので、私たちと天がつながったと言いましたが、同じことを別の言い方で言うと、イエス様が天に昇られたのは、天に私たちの居場所を用意するためだったのです。イエス様は、ヨハネによる福音書14章1節以下で言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもと(天国)に迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」イエス様は、既にわたしたちのために天国に居場所を用意しておられるのです。ですから安心です。
イエス様の昇天による第三の益は、イエス様が天から聖霊を注いで下さることです。イエス様は十字架におかかりになる前に、弟子たちに約束して下さいました。ヨハネによる福音書14章16節以下です。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」そして復活されたイエス様は、天に昇られる日に弟子たちに改めて約束されました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」この約束を受けて、弟子たちはエルサレムで泊っていた家の上の部屋に上がり、イエス様の母マリア、イエス様の兄弟たち、婦人たちと一緒に、心を合わせて熱心に祈り始めたのです。そしてイエス様を裏切って死んだユダのために一名の欠員が生じていた十二弟子(使徒)の補充を祈りによるくじ引きによって行い、態勢を整えます。そして心を合わせて祈り続けた10日後に、イエス様が約束の聖霊を注いで下さったのです。心を合わせて祈ることの大切さを思わされます。そして礼拝と共に祈祷会が重要であることを知るのです。
そして私たちは、天におられるイエス様を慕い見上げつつ、聖霊に助けられて「上にあるもの」を求めるのです。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(コロサイの信徒への手紙3章1~2節)。
使徒言行録2章1~3節。「五旬祭(ギリシア語でペンテーコステー)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」神の愛に赤く燃える聖霊が力強く天から注がれました。まさに奇跡です。東久留米教会の上にも、聖霊が改めて力強く注がれるように、切に祈ります。「ほかの国々の言葉で話しだした。」これを多言語奇跡と呼ぶそうです。彼らが本来話すことのできなかった外国語で話しだしたのです。彼らが語ったのは、「神の偉大な業」(11節)です。「神の偉大な業」とはイエス様の復活ではないでしょうか。イエス様が死から甦ったこと! これは最大の奇跡です。イエス様の復活をいろいろな言語で証言したのではないでしょうか。
エルサレムには、地中海沿岸などの多くの地域から帰って来ていたユダヤ人たちがいました。彼らは外国生まれなので、それぞれが生まれた地域の言葉で、使徒たちが語っているのを聞いてあっけにとられてしまいます。(7~11節)「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに。彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』」
イエス様の使徒たちは神様の偉大な力をたたえ、讃美、礼拝しているのです。これは将来起こることを先取りする場面です。世界の様々な民族が真の神様を共に礼拝する。言葉が違っても、同じ神様を礼拝することで一つになる。これが世界のめざす方向です。それまでばらばらだった諸民族が、同じ神様を礼拝することで和解し、一つになる。神の国の完成の時に起こることを先取りする場面です。
この場面の前提となるのが、バベルの塔の場面です。創世記11章1節「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」多くの言語はなく、意志疎通は容易でした。ところがその人たちは、一致団結して神様に逆らい始めたのです。(2~3節)「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。」技術が発達し始めていました。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用います。そこに都市を作ろうとしたのでしょう。一極集中が便利でよいと考えたのです。今の人の発想と同じです。(4節)「彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った。」「我々の力でできないことはない。神に等しい者になろうではないか。」技術の粋を尽くして天まで届くタワーのある町を建てようと計画しました。人間の野心、欲望、傲慢、人間中心主義です。もしかすると原子力発電所は、現代の「バベルの塔」ではないでしょうか。神様を無視して、すべてを人間の思い通りにしようとすることは思い上がりです。私たちの生き方の中心は、神様への礼拝です。人間中心ではなく、神様中心であることが必要です。そうでないと、神様を無視して一致団結した人間の集団は暴走する恐れがあります。
神様は人間の傲慢な計画にストップをかけられました。(5~9節)「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』 主が彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」 彼らの都市造りは挫折しました。都市はいろいろな機能が集中していて住むのに便利です。しかし同時に犯罪や悪も集中しやすいのです。日本中、世界中が都市化することが果たして真の幸せか考える必要があります。リニアモーターカーまで本当に必要か、疑問を持つ人もあるでしょう。神様は、人間が団結して神様に逆らうことができないように、言語をばらばらになさいました。
しかし人間が永久にばらばらでよいのではありません。神様は、人間が真の神様への礼拝によって一つになることを望んでおられます。バベルの塔の事件により、神様は人間を裁かれ、人間同士もばらばらになりました。この状態に和解をもたらすのは、イエス・キリストの十字架です。イエス様の十字架の死は、父なる神様と私たち罪人(つみびと)に和解をもたらすための犠牲でした。同時に、人と人との間に和解をもたらすための犠牲でした。人と人の間にも争いが起こります。お互いがイエス様の十字架によって罪赦された者として和解する。そのためにもイエス様は十字架で死んで下さいました。
新約聖書エフェソの信徒への手紙2章14節以下を読んでみましょう。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」 「双方」とは、旧約聖書以来の神の民ユダヤ人と私たちユダヤ人以外(異邦人)です。もっと狭く解釈すれば、私たちの身近な隣人です。気の合う隣人も、やや気の合わない隣人をも含め、すべての身近な人々です。私が洗礼を受けた教会の青年会のリーダーに、韓国に留学して来られたAさんという方がおられました。Aさんは日本が朝鮮半島を植民地にしていた時代のことを研究しておられ、日本と韓国の交流・和解のために努力しておられました。Aさんがご自分の信仰と使命について語って下さったとき、今のエフェソの信徒への手紙を朗読されました。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し~。」Aさんにとって、「二つのもの」とは韓国と日本です。イエス様の十字架の死は、韓国と日本の間の敵意という隔ての壁を取り壊すためでもあったと信じておられるのです。私も全く同感です。
ペンテコステの朝、使徒たち・イエス様の母マリア・婦人たち・イエス様の兄弟たちは聖霊に満たされ、様々な言語で神様の偉大な業を語りました。これは世界の様々な言語の民が和解して、真の神様を共に礼拝する、神の国完成の時の礼拝の先取りです。敵だった者がキリストの愛で愛し合うようになるのです。日本・韓国・中国・北朝鮮の間も早くそうなるように祈ります。私たちはこのことの実現への途上を歩んでいます。違う国の人々も、いえもっと身近なレベルで、気の合う人も気の合わない人も、和解の心をもって一緒に真の神様を礼拝する。そのような礼拝を、この東久留米教会の内部からまず実現し、次には地域の教会と合同礼拝を行えるようになるとよいですね。
現実には、一致は必ずしも簡単ではありません。私たちは一人一人、別の個性を持っているからです。色々な違いを乗り越えて共に礼拝する共同体を作る努力が尊いのだと思います。もちろん私たちは、「真理と愛によって一致する」ことを目ざすことが必要です。真理と愛によらないのであれば、本当の一致ではないからです。真理がないのも愛がないのも困ります。
以前読んだ「あなたに感謝致します」という祈りを思い出します。アメリカのハロルド・C・ドスター牧師という方の祈りです(阿久戸光晴『新しき生』聖学院ゼネラル・サーヴィス、1995年、105~106ページに記載されています)。そこにこのような一節があります。
「食い違いのために、あなた(神様)に感謝致します。
それは、私たちが憩う自己満足にくぎを刺してくれるからです。
まことにそうです。それは、時には不一致と争いになりますが、
しかし、神よ、食い違いなくして私たちは和合の祝福を知ることはないのです。」
現実の私たちは、様々な食い違いを持ちながらも乗り越えて、和解の心をもって真の神様を礼拝致します。ペンテコステの朝、弟子たちは神様の偉大な業を語りました。言語はばらばらでした。私たちの場合も、むしろ食い違いのある者同士が、それを承知で、同じ信仰告白(使徒信条)を唱えて同じ神様を礼拝することによってこそ、真にペンテコステ的な礼拝になると思うのです。食い違いを個性と考えれば、食い違う人が多くいることは、礼拝と教会の豊かさになります。
ドスター牧師は次のようにも祈られます(前掲書)。
「疑いのために、あなたに感謝します。
それは、尋ね求める探求へと導くからです。
まことにそうです。それは、時には皮肉と不信を育みますが、
しかし、神よ、疑いなくして私たちは真理の祝福を知ることはないのです。」
疑いも、真理を探究する第一歩とするならば意義深くなります。
今日の使徒言行録2章17~18節で、ペトロは旧約聖書のヨエル書を引用して、神様の聖霊が注がれる祝福を語ります。
「神は言われる。/ 終わりの時に、/ わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/ 若者は幻を見、老人は夢を見る。
わたしの僕やはしためにも、/ そのときには、わたしの霊を注ぐ。」
旧約の時代、神の聖霊は特別な人にのみ注がれると考えられること多かったようです。モーセやダビデなどです。ですが今や神の聖霊は、イエス様を信じるすべての人に注がれるのです。若い息子や娘にも、老人にも、僕(奴隷)やはしため(女奴隷)にも。一切の差別がなくなるのです。年齢も性別も、社会での上下も関係なく、イエス様を信じるすべての人に神様の聖霊が注がれる祝福の時が来る。ペンテコステにそれが起こり、今も起こりつつあり、神の国の完成の時にそれが完全に実現します。キリストがもう一度おいでになるときまで、私たちはイエス・キリストを宣べ伝え、礼拝を重んじて、神様と隣人にお仕えしたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
「すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」(使徒言行録2章4節)
イエス・キリストは、私たち皆の罪をすべて背負って十字架で死んで下さり、三日目に復活されました。復活後40日目に、イエス様は天に昇られました。これをキリストの昇天と呼びます(召天ではない)。イエス様が天に昇られたことは、私たちに3つの益をもたらしました。
第一の益は、天で父なる神様の右の座に着かれたイエス様が、今も私たちのために執り成しをして下さっていることです。もちろん最大の執り成しは十字架の上でなされました。イエス様の十字架の死のお陰で、私どもが過去に犯した罪も、心ならずも今後犯してしまう罪もすべて赦されたのです(もちろんだからと言って罪を犯してよいわけではなく、反対に私たちは聖霊に助けていただいてできるだけ清い生き方を目ざすのです)。ですからイエス様の十字架による罪の赦しが不完全なのではありません。ですがそれにダメを押すように、イエス様は天で今も、私たちが日々心ならずも犯してしまう罪のために、父なる神様に執り成しをして下さっています。ローマの信徒への手紙8章34節に次のように書かれています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」ヘブライ人への手紙7章25節には、こう書かれています。「この方(イエス様)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」イエス様が天で今も執り成して下さっている。これがイエス様の昇天による第一の益です。
第二の益は、教会の頭(かしら)であるイエス様が天に昇られたので、教会の枝である私たちが天とつながったことです。教会はイエス・キリストの体であり、教会の頭(かしら)がイエス様です。イエス様が天におられるので、私たち一人一人も今既に天にしっかりとつながっている現実に置かれています。イエス様の隣りで十字架に架けられていた犯罪人の一人が言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)。イエス様は彼の気持ちをしっかりと受けとめ、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と約束して下さいました。この犯罪人は息絶えると直ちに天国に入れられたに違いありません。私たちも同じです。イエス様を救い主と告白し、イエス様に従うなら、死後直ちに天国に入れられます。
イエス様が天に昇られたので、私たちと天がつながったと言いましたが、同じことを別の言い方で言うと、イエス様が天に昇られたのは、天に私たちの居場所を用意するためだったのです。イエス様は、ヨハネによる福音書14章1節以下で言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもと(天国)に迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」イエス様は、既にわたしたちのために天国に居場所を用意しておられるのです。ですから安心です。
イエス様の昇天による第三の益は、イエス様が天から聖霊を注いで下さることです。イエス様は十字架におかかりになる前に、弟子たちに約束して下さいました。ヨハネによる福音書14章16節以下です。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」そして復活されたイエス様は、天に昇られる日に弟子たちに改めて約束されました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」この約束を受けて、弟子たちはエルサレムで泊っていた家の上の部屋に上がり、イエス様の母マリア、イエス様の兄弟たち、婦人たちと一緒に、心を合わせて熱心に祈り始めたのです。そしてイエス様を裏切って死んだユダのために一名の欠員が生じていた十二弟子(使徒)の補充を祈りによるくじ引きによって行い、態勢を整えます。そして心を合わせて祈り続けた10日後に、イエス様が約束の聖霊を注いで下さったのです。心を合わせて祈ることの大切さを思わされます。そして礼拝と共に祈祷会が重要であることを知るのです。
そして私たちは、天におられるイエス様を慕い見上げつつ、聖霊に助けられて「上にあるもの」を求めるのです。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(コロサイの信徒への手紙3章1~2節)。
使徒言行録2章1~3節。「五旬祭(ギリシア語でペンテーコステー)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」神の愛に赤く燃える聖霊が力強く天から注がれました。まさに奇跡です。東久留米教会の上にも、聖霊が改めて力強く注がれるように、切に祈ります。「ほかの国々の言葉で話しだした。」これを多言語奇跡と呼ぶそうです。彼らが本来話すことのできなかった外国語で話しだしたのです。彼らが語ったのは、「神の偉大な業」(11節)です。「神の偉大な業」とはイエス様の復活ではないでしょうか。イエス様が死から甦ったこと! これは最大の奇跡です。イエス様の復活をいろいろな言語で証言したのではないでしょうか。
エルサレムには、地中海沿岸などの多くの地域から帰って来ていたユダヤ人たちがいました。彼らは外国生まれなので、それぞれが生まれた地域の言葉で、使徒たちが語っているのを聞いてあっけにとられてしまいます。(7~11節)「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに。彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』」
イエス様の使徒たちは神様の偉大な力をたたえ、讃美、礼拝しているのです。これは将来起こることを先取りする場面です。世界の様々な民族が真の神様を共に礼拝する。言葉が違っても、同じ神様を礼拝することで一つになる。これが世界のめざす方向です。それまでばらばらだった諸民族が、同じ神様を礼拝することで和解し、一つになる。神の国の完成の時に起こることを先取りする場面です。
この場面の前提となるのが、バベルの塔の場面です。創世記11章1節「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」多くの言語はなく、意志疎通は容易でした。ところがその人たちは、一致団結して神様に逆らい始めたのです。(2~3節)「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。」技術が発達し始めていました。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用います。そこに都市を作ろうとしたのでしょう。一極集中が便利でよいと考えたのです。今の人の発想と同じです。(4節)「彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った。」「我々の力でできないことはない。神に等しい者になろうではないか。」技術の粋を尽くして天まで届くタワーのある町を建てようと計画しました。人間の野心、欲望、傲慢、人間中心主義です。もしかすると原子力発電所は、現代の「バベルの塔」ではないでしょうか。神様を無視して、すべてを人間の思い通りにしようとすることは思い上がりです。私たちの生き方の中心は、神様への礼拝です。人間中心ではなく、神様中心であることが必要です。そうでないと、神様を無視して一致団結した人間の集団は暴走する恐れがあります。
神様は人間の傲慢な計画にストップをかけられました。(5~9節)「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』 主が彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」 彼らの都市造りは挫折しました。都市はいろいろな機能が集中していて住むのに便利です。しかし同時に犯罪や悪も集中しやすいのです。日本中、世界中が都市化することが果たして真の幸せか考える必要があります。リニアモーターカーまで本当に必要か、疑問を持つ人もあるでしょう。神様は、人間が団結して神様に逆らうことができないように、言語をばらばらになさいました。
しかし人間が永久にばらばらでよいのではありません。神様は、人間が真の神様への礼拝によって一つになることを望んでおられます。バベルの塔の事件により、神様は人間を裁かれ、人間同士もばらばらになりました。この状態に和解をもたらすのは、イエス・キリストの十字架です。イエス様の十字架の死は、父なる神様と私たち罪人(つみびと)に和解をもたらすための犠牲でした。同時に、人と人との間に和解をもたらすための犠牲でした。人と人の間にも争いが起こります。お互いがイエス様の十字架によって罪赦された者として和解する。そのためにもイエス様は十字架で死んで下さいました。
新約聖書エフェソの信徒への手紙2章14節以下を読んでみましょう。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」 「双方」とは、旧約聖書以来の神の民ユダヤ人と私たちユダヤ人以外(異邦人)です。もっと狭く解釈すれば、私たちの身近な隣人です。気の合う隣人も、やや気の合わない隣人をも含め、すべての身近な人々です。私が洗礼を受けた教会の青年会のリーダーに、韓国に留学して来られたAさんという方がおられました。Aさんは日本が朝鮮半島を植民地にしていた時代のことを研究しておられ、日本と韓国の交流・和解のために努力しておられました。Aさんがご自分の信仰と使命について語って下さったとき、今のエフェソの信徒への手紙を朗読されました。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し~。」Aさんにとって、「二つのもの」とは韓国と日本です。イエス様の十字架の死は、韓国と日本の間の敵意という隔ての壁を取り壊すためでもあったと信じておられるのです。私も全く同感です。
ペンテコステの朝、使徒たち・イエス様の母マリア・婦人たち・イエス様の兄弟たちは聖霊に満たされ、様々な言語で神様の偉大な業を語りました。これは世界の様々な言語の民が和解して、真の神様を共に礼拝する、神の国完成の時の礼拝の先取りです。敵だった者がキリストの愛で愛し合うようになるのです。日本・韓国・中国・北朝鮮の間も早くそうなるように祈ります。私たちはこのことの実現への途上を歩んでいます。違う国の人々も、いえもっと身近なレベルで、気の合う人も気の合わない人も、和解の心をもって一緒に真の神様を礼拝する。そのような礼拝を、この東久留米教会の内部からまず実現し、次には地域の教会と合同礼拝を行えるようになるとよいですね。
現実には、一致は必ずしも簡単ではありません。私たちは一人一人、別の個性を持っているからです。色々な違いを乗り越えて共に礼拝する共同体を作る努力が尊いのだと思います。もちろん私たちは、「真理と愛によって一致する」ことを目ざすことが必要です。真理と愛によらないのであれば、本当の一致ではないからです。真理がないのも愛がないのも困ります。
以前読んだ「あなたに感謝致します」という祈りを思い出します。アメリカのハロルド・C・ドスター牧師という方の祈りです(阿久戸光晴『新しき生』聖学院ゼネラル・サーヴィス、1995年、105~106ページに記載されています)。そこにこのような一節があります。
「食い違いのために、あなた(神様)に感謝致します。
それは、私たちが憩う自己満足にくぎを刺してくれるからです。
まことにそうです。それは、時には不一致と争いになりますが、
しかし、神よ、食い違いなくして私たちは和合の祝福を知ることはないのです。」
現実の私たちは、様々な食い違いを持ちながらも乗り越えて、和解の心をもって真の神様を礼拝致します。ペンテコステの朝、弟子たちは神様の偉大な業を語りました。言語はばらばらでした。私たちの場合も、むしろ食い違いのある者同士が、それを承知で、同じ信仰告白(使徒信条)を唱えて同じ神様を礼拝することによってこそ、真にペンテコステ的な礼拝になると思うのです。食い違いを個性と考えれば、食い違う人が多くいることは、礼拝と教会の豊かさになります。
ドスター牧師は次のようにも祈られます(前掲書)。
「疑いのために、あなたに感謝します。
それは、尋ね求める探求へと導くからです。
まことにそうです。それは、時には皮肉と不信を育みますが、
しかし、神よ、疑いなくして私たちは真理の祝福を知ることはないのです。」
疑いも、真理を探究する第一歩とするならば意義深くなります。
今日の使徒言行録2章17~18節で、ペトロは旧約聖書のヨエル書を引用して、神様の聖霊が注がれる祝福を語ります。
「神は言われる。/ 終わりの時に、/ わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/ 若者は幻を見、老人は夢を見る。
わたしの僕やはしためにも、/ そのときには、わたしの霊を注ぐ。」
旧約の時代、神の聖霊は特別な人にのみ注がれると考えられること多かったようです。モーセやダビデなどです。ですが今や神の聖霊は、イエス様を信じるすべての人に注がれるのです。若い息子や娘にも、老人にも、僕(奴隷)やはしため(女奴隷)にも。一切の差別がなくなるのです。年齢も性別も、社会での上下も関係なく、イエス様を信じるすべての人に神様の聖霊が注がれる祝福の時が来る。ペンテコステにそれが起こり、今も起こりつつあり、神の国の完成の時にそれが完全に実現します。キリストがもう一度おいでになるときまで、私たちはイエス・キリストを宣べ伝え、礼拝を重んじて、神様と隣人にお仕えしたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。