日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2023-05-27 19:13:12(土)
説教「世界伝道へ導く聖霊」2023年5月28日(日)ペンテコステ(聖霊降臨日)公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~6,頌栄29、主の祈り,交読詩編95、使徒信条、讃美歌21・343、聖書 ヨエル書3:1~5(旧約p.1425)、使徒言行録2:1~22(新約p.214)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌342、献金、頌栄83(1節)、祝祷。

(ヨエル書3:1~5) その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

(使徒言行録2:1~22) 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。

(説教) 本日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝です。皆様、ペンテコステ、おめでとうございます。説教題は「世界伝道へ導く聖霊」です。新約聖書は、使徒言行録2章1~22節です。

 十字架の死から復活されたイエス様は、40日間にわたって弟子たち(使徒たち)と共に過ごされたのです。そして弟子たちの見ている前で、復活の体をもって天に上げられました。これをイエス・キリストの昇天と呼びます。今年のキリスト昇天日は、今日から10日前の5月18日(木)でした。エフェソの信徒への手紙4章は、イエス様が「もろもろの天よりも更に高く昇られた」と書いています。つまり最高に高い天に昇られたので、イエス様こそ「王の王、主の主」だ、真の神様だと言いたいのでしょう。

 毎年確認することですが、私たちはこのイエス様の昇天によって、3つの大きな恵みを与えられました。1つ目は、まだ天(天国)に入っていない私たちが、天と明確につながったことです。聖書は教会を「キリストの体」と呼びます。イエス様が頭(あたま、かしら)、私たちクリスチャン一人一人は、手・足・背中、お腹、胸など体の各部です。頭であるイエス様が既に天国に入られたのです。ということは、私たち体の各部も、天国に明確につながったのです。私たちもいずれはそこに入れていただけるという大きな安心が与えられました。

 2つ目は、イエス様が天に行かれて、そこで私たちのために、父なる神様に執り成しを行って下さることです。もちろん最大の執り成しは、イエス様の十字架の死です。十字架で、私たちの罪を全て身代わりに背負いきって下さったのです。これが最大のとりなしです。十字架の贖い(十字架による罪の赦し)は完璧なので、それ以上の執り成しは必要ないとも思えますが、イエス様が私たちが全ての罪を赦さて神の子となった今も、私たちが日毎に犯してしまう罪のために、天で執り成しを行っていて下さいます。ヘブライ人への手紙7章25節に、こうある通りです。「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」実にありがたいことです。

 3つ目が、イエス様が天から聖霊を注いで下さることです。それが本日の使徒言行録2章で起こった出来事です。聖霊は、神様の清き霊です。目に見えませんが、確実に存在しておられ、人格(神格)をお持ちです。その方のうちに聖霊が住んでおられるなら、その人は神の子とされており、救われており、天国が約束されています。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた日、聖霊が鳩のように見える姿でイエス様に降りました。同じように私たちも、自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主と信じ告白して洗礼を受けるとき、私たちにも神の清き霊である聖霊が注がれるのです。

 本日の使徒言行録2章1節「五旬祭(50日祭、聖書のギリシア語でペンテコステ=第50の意)が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」家では120名ほどの人々が一つになって祈っていました。イエス様が聖霊を送ると約束しておられたので、共に祈りながら待っていたのです。イエス様の母マリア、イエス様の兄弟たちもいました。もともと五旬祭は旧約聖書で七週祭と呼ばれた小麦の刈り入れの祭りです。過越祭から七週目・50日目に祝われました。もともとは刈り入れの祭でしたが、イエス様より前の時代に新しい要素が加わり、七週祭はモーセがシナイ山で十戒を授けられたことをも記念する祭になりました。その祭の日に聖霊が降りました。出エジプト記で十戒が与えられる直前の場面を見ると、「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである」とあります。」本日の聖霊が降った場面と似ていますね。シナイ山では神ご自身が降り、ペンテコステの場面では神ご自身の霊である聖霊が降っていますから、似た現象が起こるのでしょう。

 聖霊が降る場面では、激しい風が吹いてくるような音が聞こえました。霊はギリシア語でプネウマという言葉で、風や息の意味ももちます。聖霊は、神様ご自身の息吹とも言えます。もちろん人格(神格)をお持ちです。3節「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」驚くべき奇跡です。色々な言語で、神様の御業が語られました。神様ご自身が、世界伝道を開始されたと言えます。赤い舌が現れた。赤は神様の愛、情熱、熱情を表します。イエス様はマルコ福音書13章で、「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」と言われました。神様ご自身が、それを始めようと行動を開始されました。

 5節「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、誰もかれも自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』」この出来事は紀元30年頃に起こりましたが、この頃ユダヤ人は、イスラエルの中だけでなく、広く地中海世界全域に住んでいました。そのような外国生まれのユダヤ人が、過越祭の時期等には多くイスラエルの首都に来たようです。彼らは生まれた土地の言語とヘブライ語の両方を話すことができました。エルサレムは国際都市でした。

 様々な言語で、「神の偉大な業」を語っていたのは、ガリラヤの人々でした。ガリラヤは、イエス様がお育ちになった所です。福音書にはローマの百人隊長が登場しますので、ローマ兵たちもいたでしょう。その意味では国際的な町でもあったのでしょうが、基本的には中央のエルサレムから見れば周辺、割と軽んじられていたと思います。彼らは人々が「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲って言うほど、喜びに満ちあふれていました。聖霊に酔っていたのです。彼らの多くはおそらく、世間的には上の地位にいるわけではなく、経済的にも貧しい無名の人々だったのではないかと思います。ルカによる福音書10章と響き合うと思うのです。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのこと(神様の真理かと思います)を知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」ペンテコステに聖霊を受けた人々も、よい意味で幼子のように素直で単純な人々だったと思うのです。

 ペトロは、嘲る人々に向かって説教を行います。「ユダヤの方々、またエルサレムに住む全ての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けて下さい。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなた方が考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」そう言って、私たちの本日の旧約聖書であるヨエル書3章を引用します。17節「神は言われる。終わりの時に、私の霊(聖霊)をすべての人に注ぐ。」旧約聖書の時代は、聖霊は特別なリーダー級の人々に注がれることが多かったと言えます。王、祭司、預言者などです。ですが今や神様は、普通の人々、世の中で低くされている人々に、聖なる宝というべき聖霊を注いで下さるのです。「すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。私の僕(男性)やはしため(女性)にも、そのときには私の霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」そしてイスラエル人だけでなく、私たちイスラエル人でない異邦人(外国人)にも聖霊が注がれるのです。これは最高の恵みです。

 では、どうすれば聖霊をいただくことができるのか。ペトロはこの日の長い説教の後半でそれを語ります。次のページ(216ページ)の下段の36節以下「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシア(救い主)となさったのです。」心を刺された人々が「私たちは、どうしたらよいのですか」と問うとペトロは、「悔い改めなさい。」神様の前に自分の罪を悔い改めることが第一に必要です。悔い改めるとは、神様の前に自分の罪を謝ることですが、それだけでなく方向転換することです。これまで自分中心に生きてきた生き方を止めて、神様に従う方向に方向転換することです。

 そしてペトロは説教します。「めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物(神様からのプレゼント)として聖霊を受けます。この約束は、あなた方にも、あなた方の子どもにも、遠くにいるすべての人にも(イスラエル人から見て異邦人の私たち日本人にも、どの国の人にも)与えられているものなのです。邪悪なこの時代から救われなさい。」私たちの時代も、邪悪でないとは言い切れません。私たち自身は善良に生きているつもりですが、戦争があり、様々な犯罪が発生し、悪魔の誘惑もいろいろあります。その意味では私たちの時代にも罪があり、邪悪さはあります。この悪のある時代から救われ、私たち自身の罪を赦していただくことが必要です。従って、悔い改めて、イエス様を救い主と信じ告白して、洗礼を受けることが必要です。そのようにへり下る人に、神様が清き霊である聖霊をプレゼントして下さいます。これは最も尊い最高のプレゼントです。その人の中に聖霊が住んでおられれば、その人は神の子とされているのであり、天国と永遠の命を約束された人なのです。ペトロの説教を素直に受け入れた人々は、続々と洗礼を受け、その日だけで何と約3000人が罪を赦され、神の子とされ、永遠の命の約束に入りました。まさに神様の輝かしい勝利です。

 聖霊は目に見えません。長さ、高さ、重さを測定することもできません。しかし確かに生きて存在しておられます。イエス様は、聖霊の働きについてこうおっしゃっています。ヨハネ福音書14章26節「弁護者、すなわち、父(なる神様)が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせて下さる。」私たちが時々、ふっと聖書の言葉を思い出すことがあると思います。それは聖霊が思い起こさせて下さるのだと思っています。あるいは、ある人のことをふと思い出す。聖霊が思い出させて下さっている場合があると思っています(全部がそうではないかもしれないので、吟味が必要)。すると私は「しばらくコンタクトをとっていなかったな」と思い、メールを送ってみたり、はがきを出すこともあります。

 昔の私は、思い出しても「たまたま思い出しただけだ」と思い、記憶にとどめようとも思いませんでした。しかしある時から「待てよ、これは神様が(聖霊なる神様が)私の心の中にささやいて、思い出させて下さった貴重なメッセージかもしれない」と思い、忘れないで大事にするようになりました。そうできていないこともありますが、思い出すことを「これは聖霊のささやきかもしれない」と大切に受けとめるようにしているつもりです。聖霊なる神様が、他の方を通してささやかれることもあります。全部がそうでないとしても、でも「待てよ、あの方のあの言葉は、聖霊なる神様の語りかけかもしれない」と受けとめることが大切な場合があります。聖霊の御声は、大声ではないことが多いと思います。ささやきですね。私たちが気をつけていないと、聞き逃してします。聖霊は、私たちの心に直接ささやかれることもあるし、他の方の唇から語って下さることもあります。

 列王記上19章で、預言者エリヤが神様の御声を聴いた場面が、思い起こされます。本日の聖霊が降った場面と対照的、矛盾するようですが、こう書かれています。「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」これが神の御声だったようです。

 私は何回か、池袋駅周辺で行われているホームレスと呼ばれる人々に、短い聖書メッセージとお弁当をお渡しする活動に参加したことがあります。受け取る人が全員ホームレスとは言い切れず、生活保護で生活しておられる方もあるようです。短い聖書メッセージを語り、お弁当をお渡しするのです。現実には聖書メッセージよりもお弁当を受け取りたいのが本音の人も少なくないと思われます。それでも必ず聖書メッセージを聞いてからお弁当を受け取るので、伝道活動になっていると感じます。渡す側もクリスチャンでホームレスの場合もあるようです。複数の教会や宣教団体の方々が行っています。少なくとも5年以上続いています。始めた方は、外国の宣教師だったと聞きます。今も奉仕者の国籍が様々、多様です。ペンテコステ的と思うのです。本日の使徒言行録で聖霊を注がれたのは、皆イスラエル人と思います。若者、年配者、女性、男性、社会的地位の低い方。

 使徒言行録10章になると更に進んで異邦人(外国人)にも聖霊が注がれます。イスラエル人にとっては大きな驚きでした。ペトロはこう言います。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」神様は、イスラエルから始まって世界中の人々にイエス・キリストの十字架と復活による福音が宣べ伝えられることをお望みです。私たちは私たちの接する人々という伝道の持ち場を与えられています。東久留米教会を出発して、日本やアメリカで伝道されている方々とご家族に、イエス・キリストの祝福をお祈り致します。

 池袋のその奉仕に参加した方々は、私の見る限りでも、日本人、アメリカ人、シンガポール人、カナダ人、韓国人、ドイツ人、オーストラリア人、中国系オーストラリア人、ロシア人もおられました。キリスト教の新聞に出ることもない無名の働きです。2つくらいの教会が中心になっていて、そこから献金等が来るようです。色々な国の方が参加している様子を見ると、ペンテコステ的、イエス・キリストによって結び合わされていると感じます。太平洋戦争で日本の敵だった国の人が多い。しかし十字架の贖いによって共に伝道のための働きが成り立っている。小さな奇跡と感じています。私たちに大きなことはできませんが、私たちの身近な人々への伝道も世界伝道の一環です。その思いで、倦まずたゆまず、自分の責任範囲の方々にキリストをお示しして参りましょう。アーメン。


2023-05-20 23:16:39(土)
説教「必ず救ってくださる神様」2023年5月21日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第60回)
順序:招詞 エフェソ1:4~6,頌栄24、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・475、聖書 ダニエル書3:1~30(旧約p.1383)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌536、献金、頌栄27、祝祷。

(ダニエル書3:1~30) ネブカドネツァル王は一つの金の像を造った。高さは六十アンマ、幅は六アンマで、これをバビロン州のドラという平野に建てた。ネブカドネツァル王は人を遣わして、総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官、その他諸州の高官たちを集め、自分の建てた像の除幕式に参列させることにした。総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官、その他諸州の高官たちはその王の建てた像の除幕式に集まり、像の前に立ち並んだ。伝令は力を込めて叫んだ。「諸国、諸族、諸言語の人々よ、あなたたちに告げる。角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器による音楽が聞こえたなら、ネブカドネツァル王の建てられた金の像の前にひれ伏して拝め。ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。」それで、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴の音楽が聞こえてくると、諸国、諸族、諸言語の人々は皆ひれ伏し、ネブカドネツァル王の建てた金の像を拝んだ。
 さてこのとき、何人かのカルデア人がユダヤ人を中傷しようと進み出て、ネブカドネツァル王にこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。御命令によりますと、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえたなら、だれでも金の像にひれ伏して拝め、ということでした。そうしなければ、燃え盛る炉に投げ込まれるはずです。バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々は御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません。」
 これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。
 シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」こうして王は、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴをバビロン州で高い位につけた。

(説教) 本日は、復活節第7主日、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第60回)です。説教題は「必ず救ってくださる神様」です。聖書は、旧約聖書のダニエル書3章1~30節です。

 私たちは今、真の神様を礼拝しています。本日のダニエル書3章は、真の礼拝に生きるとはどのようなことかを教えている、と言ってよいと思います。旧約聖書も新約聖書も真の神様のみを礼拝し、真の神様以外のものを礼拝することを偶像礼拝(偶像崇拝)と呼んで、それを大きな罪と見なして、明確に退けています。それは旧約聖書の出エジプト記20章に記されています。モーセの十戒と呼ばれる戒めの第一と第二の戒めです。その前提として、まず真の神様が与えて下さった恵みが語られます。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」この恵みは神様の民として選ばれたイスラエルの民に与えられました。私たちは日本人ですが、この真の神様から命をプレゼントされているので、やはりこの真の神様に感謝し、この神様のみを礼拝する必要があります。真の神様の愛と恵みに感謝して、モーセの十戒の第一と第二の戒めを守る必要があります。「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない。私は主、あなたの神。私は熱情の神である。」私たちは今、この宇宙の造り主、私たちの命の造り主であるこの真の神様を礼拝するために、礼拝堂に集まっています。

 本日の旧約聖書のダニエル書に登場するユダヤ人・イスラエル人の三人の男性も、真の神様を礼拝することを貫く信仰者です。三人はネブカドネツァルという王が支配するバビロン帝国に連れて来られていました。時代は紀元前6世紀です。このネブカドネツァル王は、高さ60アンマ(約27メートル)もの巨大な金の像を造らせました。全ての人にこの像を拝み、礼拝することを命じたのです。この巨大な金の像は自分の分身でしょう。ネブカドネツァル王を真の神様として礼拝せよというのです。権力者、独裁者の行いそうなことです。

 4~6節「伝令は力を込めて叫んだ。『諸国、諸族、諸言語の人々よ、あなたたちに告げる。角笛、横笛、六弦琴、竪琴、十三弦琴、風琴などあらゆる楽器による音楽が聞こえたなら、ネブカドネツァル王の建てられた金の像の前にひれ伏して拝め。ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。』」それで多くの人々がその金の像を拝んだのです。ところがユダヤ人を快く思わないカルデア人(バビロン人)がユダヤ人を中傷しようとして、ネブカドネツァル王にこう言います。「バビロン州には、その行政をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人がおりますが、この人々はご命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうともしません。」

 この三人のユダヤ人の男性は、このダニエル書の人間の主人公ダニエルの仲間、友人たちです。これを聞いた王は怒りに燃えて三人を引き出し、「金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちを私の手から救い出す神があろうか。」シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人の返答が、真にすばらしい信仰告白になっています。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。私たちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも(そうでなくとも!)ご承知ください。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決して致しません。」偶像礼拝は決して行わないと言いきっています。自分たちが燃え盛る炉に投げ込まれても、全能の神が必ず救って下さる。しかしたとえそうでなくても、自分たちは真の神様を愛しているので、偶像礼拝は決して行わないと決意を述べています。

 イエス・キリストも新約聖書の中で、まず神様に従うことを第一にするように教えておられます。マタイによる福音書6章33節、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(食べ物・飲み物・着るもの・生活に必要なもの)はみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。」まず神様を礼拝し、神様に従うことを第一にしなさい。そうすれば神様が全てを責任をもって支えて下さる。愛である神様に信頼しなさい、と言われます。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人も、真の神様にとことん信頼するという信仰を告白しているのです。信仰とは、真の神様への信頼と言い換えることもできます。

 ネブカドネツァル王は、血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じました。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛り上げられ、衣服をつけたまま、燃え盛る炉に投げ込まれました。炉は激しく燃え、三人を引いて行った男たちをさえ焼き殺しました。ふつうなら三人は当然焼け死にます。しかしここでは神の奇跡が起こったのです。王がそれを見て、驚きの声をあげます。25節「私には四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」王は深く驚き、真の神様の力の偉大さに感嘆し、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい」と述べます。彼らは何の害も受けておらず、彼らからは、火のにおいすら出ていませんでした。

 王はすっかり考えを変えて、言います。28節以下「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうとしなかったので、この僕(しもべ)たちを、神は御使い(天使)を送って救われた。私は命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」こうして三人は、バビロンで高い位についたのです。

 こうして神様の全能の力が証明されました。神様は、私たちをどんな危機からも救い出すことがおできになります。イエス様の十字架の時は、イエス様を十字架から直接救い出す奇跡は起こりませんでした。父なる神様は、イエス様を十字架から直接救い出すことができましたが、あえて救われませんでした。イエス様の使命が、私たち罪人(つみびと)の全部の罪を背負って死に、私たちがゆるされる道を開くことだったからです。イエス様は、ルカ福音書によると、「父よ、私の霊を御手に委ねます」と言われて、息を引き取られました。父なる神様を全面的に信頼して、ご自分の全てを父なる神様に委ねたのです。必ず最善をなして下さると信頼しきって、父なる神様に委ねたのです。父なる神様は、その信頼に応えて下さいました。イエス様は一旦死者の国に降られましたが、三日目に墓を破る復活という、最もよき報いを与えられたのです。これは「よく苦難の十字架の道を歩み通してくれた」という父なる神様の(卑近な言い方ですが)ご褒美だと思うのです。十字架を避けることは許されなかったが、死を乗り越えた復活という完全な勝利を与えられました。神様は、ご自分に従う者に、100%必ずよき報いを与えて下さいます。

 本日のダニエル書は、偶像礼拝を拒んで、真の神様への礼拝を貫いた三人の信仰を神様がよしとして、三人を愛をもって地上で救って下さった出来事です。いろいろな偶像があります。お金も偶像になりやすいと思います。お金は大切ですが、神様にしてはいけないことは確かです。お金があるといろいろなことができますが、お金で命を造ることはできないことを思う時、やはりお金を神様にして崇めてはいけないと分かります。イエス様が、マタイ福音書6章24節で、「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」とおっしゃったのは、お金を偶像にしやすいので、その誘惑に負けず、ただ真の神様のみを礼拝することを求められたのだと思います。すべての良きものは、ただ聖書の神様から来るからです。

 偶像礼拝。昭和初期の日本では、神社参拝を拒否するクリスチャンが、社会で白い目に見られることがありました。1932~33年(昭和7~8年)に上智大学の学生が神社参拝を拒否して、世間を騒がせたそうです。クリスチャンホームの子で、東京府立第四中学の生徒が靖国神社参拝を拒否したことで3年間に渡って教師と対立し、退学を求められたこともあったそうです。太平洋戦争が終わるまで、キリスト者はよく「キリストと天皇陛下では、どちらの方が上か」と質問されたそうです。大変な時代だったと思います。以前東久留米教会でご一緒に礼拝しておられた西森さんという男性は、シベリアから生還された方でしたが、兵隊だった時に上官からこの質問をされた時に、西森さんが「イエス・キリストです」と答えたところ、上官が真っ赤になって怒ったと話されました。それを聞いたのは今から20年ほど前です。私はそれを伺って、「西森さん、勇気があるなあ」と感嘆しました。いつも
にこやかな西森さん(今は天国です)が、厳しい時代に、そのような勇敢な信仰告白をなさったことに感銘を受けました。戦争が終わるまでの大日本帝国憲法の第三条は「天皇は神聖にして侵すべからず」、天皇が神だったのですから、その時代をクリスチャンとして生きることは、大変なことだったと感じます。

 日本政府は、朝鮮半島や台湾にも神社をあちこちに建てました。戦争が終わるまで朝鮮半島と台湾は日本の領土でしたから、日本語教育を行い、名前も日本風に改めることを求め、神社を参拝させることで、心もコントロールしようとしたのですね。皇民化政策と呼ばれます。天皇を神とする体制に組み込もうとしたのです、神社参拝については、特に朝鮮半島では強い反発が起こりました。日本人にとって神社は慣れた光景ですが、朝鮮半島の人々から見れば明らかに外国の宗教ですから、反発が起こるのは当然です。特にクリスチャンにとっては、神社参拝などとんでもない、明らかな偶像礼拝ではないか。金の像を拝むことをシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人も拒んだではないか。神社参拝を拒否したクリスチャンたちが捕らえられ、殉教する人々も出ました。ある資料によると神社参拝拒否で200教会が閉鎖、2000人が投獄、50人が殉教、20人が獄中で太平洋戦争終結を迎えました。
 
 その中で知られているのが、朱基徹(チュ・キチョル)牧師という方です。「基督に徹する」というお名前です。1944年4月に47才で殉教しておられます。1940年2月に、一時釈放された時の教会の礼拝説教で、こう語られたそうです。「できません。神社に礼を捧げることはできません。この身は幼い時から、主イエスにあって育ち、主イエスに献身することを十回、百回と誓いました。」朱牧師の、純粋そのものの信仰に圧倒されます。私は神学校有志の研修旅行で、1993年に台湾に行きましたが、東部の花蓮だったと思いますが、ある教会に行った時に、その教会の牧師がこのように語られました。「この場所には、かつては日本の神社が建っていました。しかし今は、キリスト教会が建ち、真の神様の宮になりました」と喜んで語っておられました。私はその時、台湾にも神社が建てられていたと初めて知りました。かなり多く建てられたのです。植民地化を進めるために宗教をも利用したのです。

 ダニエル書3章で、燃え盛る炉に投げ込まれた三人と共に、そこに神の子のような姿の者がいたと書かれています。王が御使いと言っていますから、天使でしょう。この三人が最も過酷な試練を受け、死に直面していたときにも、神様の守りがあったのです。教会の伝統で、この箇所はイースターの前日の土曜日の礼拝で読まれて来たそうです。それはイエス様の十字架の死の金曜日の翌日の礼拝です。十字架で死なれたイエス様が、陰府の国(死者の国)に降りておられたことを思う礼拝です。ここに出て来る「神の子のような姿の者」をイエス・キリストと断定することは行き過ぎかもしれませんが、イエス様を少し連想させる言葉ではあります。イエス様は死者の国に行って下さった、そして今、厳しい試練を受けている方々とも必ず共にいて下さり、愛と慰めと助けを与えて下さる。教会は、燃え盛る炉に投げ込まれた三人と共に、神の子のような姿の者がおられた箇所を読みながら、そのような励ましを受けて来たのです。神様に従う人に、神様は必ず救いを与え、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、永遠の命、復活の命を与えて下さる。ダニエル書は、苦難の中にある信仰者に、真の神様の真の励ましを与える、すばらしい書物なのです。アーメン。

2023-05-14 1:09:07()
説教「イエス様の声を聞き分ける私たち」 2023年5月14日(日・母の日)復活節第6主日公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~6,頌栄28、主の祈り,交読詩編94、使徒信条、讃美歌21・474、聖書 詩編82:1~8(旧約p.920)、ヨハネ福音書10:22~42(新約p.187)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌459、献金、頌栄27、祝祷。

(詩編82:1~8) 神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。
「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。

(ヨハネ福音書10:22~42) そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。


(説教) 本日は、復活節第6主日(母の日)の礼拝です。説教題は「イエス様の声を聞き分ける私たち」です。新約聖書はヨハネ福音書10章22~42節です。

 前回のヨハネ福音書で、イエス・キリストは、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と宣言されました。私たちは皆、この良い羊飼いイエス・キリストを自分の救い主と信じ、イエス様に従って生きることが、最もよい生き方になると信じます。しかしイエス様の周りにはそれを拒否する人々が多かったと書かれています。本日個所の小見出しは、「ユダヤ人、イエスを拒絶する」です。

 最初の22節「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。」神殿奉献記念祭は、口語訳聖書では「宮きよめの祭り」となっています。これはユダヤ人の間で「ハヌカ」と呼ばれる祭りで、ユダヤ人にとって非常に重要な祭りだったようです。この祭りの起源は、旧約聖書と新約聖書の中間の時代に起こった諸事件です。ヘレニズム時代とも呼ばれ、イスラエルにもギリシア文化が非常に流入した時期です。アレクサンダー大王が登場し、マケドニアからインドまでを征服し、ギリシア文化がその征服地を染めて行きました。ギリシア人の宗教・神々もイスラエルに勢いよく入った来たようです。つまり聖書が最も嫌う偶像の神々、偽物の神々が浸透してきたのです。

 そこにアンティオコス四世・エピファネスという悪名高き王が権力を握ります。真の神様が顕現される(神様がご自身を現す)日をエピファニーと呼ぶことがありますが、エピファネスという名前はこのエピファニーから来るようです。つまりエピファネスという名前は、「自分は神(と言っても偶像)の顕現、現れだ」と主張する傲慢きわまりない名前です。イスラエルの真の神の神殿を甚だしく汚し、ギリシアの神ゼウスの像を入れたそうです。偶像礼拝の強制です。ご存じのように、偶像礼拝はモーセの十戒の第一と第二の戒めで、明確に退けられています。「あなたには私をおいてほかに神があってはならない。」「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない。私は主、あなたの神。私は熱情の神である。」

 旧約聖書の信仰を迫害し、弾圧したのです。マカバイ記(一)という書物には、こう書かれています。この王の命令は、「他国人の習慣に従い、聖所(神殿)での焼き尽くす献げ物、いけにえ、ぶどう酒の献げ物を中止し、安息日や祝祭日を犯し、異教の祭壇、神域、像を造り、豚や不浄な動物をいけにえとして献げ、息子たちは無割礼のままにしておき、あらゆる不浄で身を汚し、自らを忌むべきものとすること、要するに律法を忘れ、掟をすべて変えてしまうということであった。そして王のこの命令に従わない者は、死刑に処せられることになった。」この王の命令を拒否したユダヤ人たちが荒れ野の地方に行くと、エピファネス王の軍隊が攻撃を仕掛けます。安息日に攻撃を仕掛けたのです。ユダヤ人たちは「安息日に仕事をしてはならない」との戒めに従って抵抗しなかったので、1000人殺されたと書かれています。

 その後、ユダヤ人たちの抵抗が始まります。安息日だからと抵抗しないと全滅してしまうので、安息日であっても抵抗はしようと方針を変えます。その後出て来たリーダーがユダ・マカバイという男性です。マカバイ記という書名は彼の名前からとられています。ユダ・マカバイをリーダーとしてユダヤ人たちは戦い続け、とうとう神殿を取り返します。そして神殿の清めを行ったのです。汚されてしまった焼き尽くす献げ物の祭壇を引き倒しました。そして祭司たちは、律法に従って、自然のままの石を持って来て、以前のものに倣って新しい祭壇を築きました。こうして、聖所および神殿の内部を修復し、中庭を清め、聖なる祭具を新しくし、燭台、香壇、供えのパンの机を神殿に運び入れ、香壇には香をたき、燭台には火をともして神殿内部を照らしました。また机には供えのパンを置き、垂れ幕を垂らしました。

 ユダヤ歴キスレウの月の25日に彼らは朝早く起き、焼き尽くす献げ物のための新しい祭壇の上に律法に従っていけにえを供え、侵略者が祭壇を汚したのと同じ日、同じ時に、歌と琴、竪琴とシンバルに合わせて、その日に祭壇を新たに奉献しました。紀元前164年のキスレウの月(12月?)25日に、汚されていたエルサレムの神殿を全面的に清めたのです。ユダヤ人にとっては信仰の回復、アイデンティティーの回復の大きな喜びの時でした。それ以来、イスラエルの民が「宮きよめの祭り、神殿奉献記念祭」を行うようになり、おそらく今も行われていると思います。このような苦難を時代を経験したユダヤ人たちは、ユダ・マカバイのように外国の支配を打ち破ってくれる軍事的英雄としてのメシア(救い主)を待ち望んでいたらしいのです。イエス様の時代のイスラエルも、ローマ帝国という強大な外国に支配されていたからです。

 ヨハネ福音書に戻り23~24節「イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。『いつまで、私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。』」目の見えない人の目を開けるなど、普通の人にはできない働きをしている。このイエスという方が、神様が約束しておられるメシアではないかという声、いやユダ・マカバイのようには戦いに立ち上がらないようだからメシアではないなど、ユダヤ人たちの間で意見が分かれていたのでしょう。

 25節「イエスは答えられた。『私は言ったが、あなたたちは信じない。私が父の名によって行う業が、私について証しをしている。』」38年間病気だった男性を癒して歩けるようにしたり、生まれつき目の見えなかった男性の目を開けたりした愛の業が、イエス様がメシア(救い主)であることを証明しています。素直な目で見れば、それが分かるのです。26節「しかし、あなたたちは信じない。私の羊ではないからである。」イエス様は8章44節でユダヤ人たちに、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている」と真に手厳しいことをおっしゃっています。彼らが悪魔の子たちになっているというのです。イエス様を憎む人々には、そのように言うしかないのでしょう。イエス様としては、彼らも謙遜になって、イエス様の羊になってほしいと願っておられると思います。

 27~28節「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪うことはできない。」ここから本日の説教題を「イエス様の声を聞き分ける私たち」と致しました。悪魔の誘いを見抜いてこれを退け、イエス様の声を聞き分けて、イエス様の声に聞き従う私たちでありたいものです。「彼ら(イエス様の羊たち)は決して滅びず、誰も彼らを私(イエス様)の手から奪うことはできない。」実にありがたいことです。29節「私の父が私に下さったものは、すべてのものより偉大であり、誰も父の手から奪うことはできない。」「私の父が私に下さったもの」とは、私たちイエス様の羊たちを指すようです。それだけイエス様を信じる羊たちが、父なる神様とイエス様にとって、大切な存在であることが語られているようです。

 30節のイエス様の言葉「私と父とは一つである」に、ユダヤ人たちが猛反発しました。神を父と呼んだことは、ご自分が神の子だと宣言したことです。そしてご自分が「父と一つだ」と言われたことは、ご自分が神に等しい者と宣言したことです。厳格なユダヤ教徒には全く受け入れられない言葉だったのです。全世界をお造りになった神様は絶対者、私たち人間はその神に造られた存在。そこには絶対的な隔てがある。それなのにイエス様という男が、自分を神の子だとか、神に等しい者と宣言するとは、神への甚だしい冒瀆だ。石打ちで死刑にするのが正しいことだ。そこでユダヤ人たちは、イエス様を石で打ち殺そうと石を取り上げます。しかしイエス様は、本当に神の子なので、「私と父とは一つである」は完全に正しい発言なのです。イエス様は言われます。「私は、父が与えて下さった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちの答え「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。」この言い方は、ユダヤ人たちもイエス様の愛の業そのもののすばらしさは認めていると読めますね。でも打ち殺すのは、「神を冒瀆したからだ。あなたは人間なのに、自分を神としているからだ。」

 イエス様は、旧約聖書の詩編82編を根拠に反論されます。イエス様は、旧約聖書を大切にしておられます。34~36節「あなたたちの律法に、『私は言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはあり得ない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされた私が、『私は神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。」これはイエス様の発言ですから、私たちは正しい発言と受け入れる必要があります。「なるほど、詩編82編6節から、このような真理を学ぶことができるのか!」と目を開かれる必要があります。私たちは聖書の御言葉の意味を正しく理解するために、自分の知性も必要ですが、祈って神様に教えていただく必要があるのですね。

 詩編82編6節を新共同訳で読むと、イエス様の論理がよく分からないので、新改訳と一番新しい聖書協会共同訳で読むのがよいと思います。新改訳はこうです。「わたし(この詩編の作者)は言った。『おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。』」「お前たち」は、神の民のメンバーです。神の民のメンバーである人間がここでは「神々、神の子」と呼ばれています。旧約聖書にこのような実例があると、イエス様はおっしゃっているのです。神の民の人間が「神々、神の子」と呼ばれていて、この御言葉がちゃんと聖書として認められており、冒瀆とは見なされていない。旧約聖書に既にこのような実例があるのだから、本当に神の子である私(イエス様)が「私は神の子だ」と宣言することは完全に正しいことであり、神への冒瀆でも何でもないと、イエス様はユダヤ人たちの誤りを正します。私たちもこのイエス様の主張こそ真理と認める必要があります。結論は、イエス様こそ真の神の子、真の良い羊飼いであり、私たちはイエス様の声を聞き分けて、イエス様に喜んで従って行こう、ということです。

 ナチス政権時代は、ドイツの暗黒時代と言えるでしょう。かのヒットラーは1933年から1945年4月まで総統(トップ)だったようです。ナチスは悪魔の政権だったと言えます。神の民ユダヤ人を大勢殺しました。よく600万人と言われます。ユダヤ人を憎み、旧約聖書を憎みました。キリスト教会にも圧力を加え、ドイツ的なキリスト教にする必要があると教会を圧迫しました。ドイツ的なキリスト教にするとは、イスラエル的な要素を取り除き、旧約聖書を取り除き、旧約聖書のほとんどがそれによって書かれているヘブライ語の学びを禁じようとしたらしいです。旧約聖書を取り除いて新約聖書だけにすれば、それはもはやキリスト教ではなくなります。そもそもイエス様が、人間としてはイスラエル人、ユダヤ人です。悪魔のナチス、ヒットラーに引きずられた暗黒時代が1933~1945年の敗戦までのドイツでした。

 抵抗運動もありました。ナチスの声に聴き従わず、イエス様の声を聞き分けて、イエス様に従った人々です。ドイツに「ベーテル(神の家の意)」という福祉の町があるそうです。ナチスはユダヤ人絶滅計画と障がい者安楽死計画を実行に移しました。命の造り主である神様に反逆する計画です。神様に反逆するナチスは、もちろん滅びました。しかし一時的に力を持ったのです。ベーテルの責任者フリッツ・フォン・ボーテルシュヴインク牧師は、安楽死を説くナチスの医者に反論します。「国家に有用かどうかで、人の存在価値を決めることはできません。安楽死は、神の掟に反します。他の人々のためという間違った大義名分で、障がいある人々を犠牲にするのは大きな間違いです。」残念ながら何人かは殺されたそうですが、ベーテルは「ヒットラーから障がいある人々を守った村」として有名になりました。

 2020年に天に召されたデーケン神父は、日本で死生学を広めた方、ユーモアたっぷりのドイツ人でしたが、子どもの頃、一家で秘密に反ナチス運動を行ったそうです(デーケン著『よく生き、よく笑い、よき死と出会う』新潮社、2010年)。デーケン先生のお父様はもちろんクリスチャンで、「同じ人間同士が、人種差別するのは愚かなことだ」が口癖でした。ナチスの考えは、神様に反することばかりでした。戦争を行う、障がい者を安楽死させる。少しでもナチスに批判的な教会の聖職者は理由もなく逮捕され、ひそかに強制収容所に送られ、その数2600人以上とされるそうです。安楽死法という悪法を礼拝説教で厳しく批判した神父の説教原稿を手に入れたデーケン先生のお父さんの下で、小学校5年生くらいだったデーケン先生が、その原稿を毎日何十通もタイプしました。コピー機がない時代です。それを戦争でロシア戦線にいるドイツ軍兵士の元に匿名で大量に送ったそうです。「我が国の政府はこんなひどいことを行っている。最前線で戦うあなたたちにも、せひ知ってほしい。」これが意外に効果があったそうです。この手紙を読んだ兵士が、政府に批判的になって戦う意欲を失うことを心配したナチスが、安楽死計画を一時ストップしたそうです。デーケン先生たちは喜んだのですが、同時に非常に危険なことを行っていることにも気づいていました。自分たちが行っていると知れたら、お父さんはたちまち逮捕される。幸い、悟られなかったようです。

 その後、デーケン少年は校長先生からこう言われます。「君は成績優秀だから、ナチスの指導者養成学校に推薦した。」最高の教育を受けられる光栄で魅力的なことでした。デーケン少年は必死に考えます。家族で秘密で、命がけの反ナチス運動をしているのに、自分がナチスのエリート養成学校に行くことは、あり得ない。イエス様が喜ばれる道ではない。校長先生の申し出を断りました。校長先生は激しく怒ったけれども、敷かれたレールに乗るよりも、自分の信仰と良心に従って道を選ぶ勇気がありました。良い羊飼いイエス様の御声を懸命に聞き分ければ、ナチスに賛同する道には進めない。プーチンについて行くことももちろんできません。私たち日々、イエス様に喜ばれる道を選びとる人生を歩みたいのです。アーメン。

2023-05-07 1:28:16()
説教「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」 2023年5月7日(日)復活節第5主日公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~6,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編93,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・120、聖書 エゼキエル書34:1~10(旧約p.1352)、ヨハネ福音書10:1~21(新約p.186)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌98、献金、頌栄92、祝祷。

(エゼキエル書34:1~10) 主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。

(ヨハネ福音書10:1~21) 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊はらの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。

(説教) 本日は、復活節第5主日の礼拝です。説教題は「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」です。新約聖書はヨハネ福音書10章1~21節です。

 イエス様が3~5節で言われます。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」羊飼いと羊は、信頼関係で結ばれています。もちろんイエス・キリストこそ、最も良い羊飼いです。そのイエス様は8~10節で言われます。「私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。私は門である。私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。」それは真の羊飼いではなく、強欲な狼です。社会で問題になる宗教団体の教祖が、盗人・狼だと言えます。羊飼いのふりをした貪欲な狼です。しかし悪魔の誘惑に負けてそのようになることは、誰にでもあり得ることです。そう考えて自分を常に戒めなければならないと信じる者です。

 10節の後半と11節「私(イエス様)が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」悪い羊飼いは、羊から多くを奪います。色々な理由をつけて正当化して、羊から多くを奪います。自分が相手に仕えるのでなく、自分が色々もっともらしい理由をつけて、相手から奪うのです。しかし真の良い羊飼いイエス・キリストは、その反対・逆をなさいます。惜しみなく愛を与えるのです。しかもご自分の尊い命をプレゼントして下さいます。

 「私は良い羊飼いである。」ここに「私は○〇である」という、ヨハネ福音書でイエス様がよく用いられる言い方が出て来ます。元のギリシア語で「エゴー・エイミー」です。英語にすると「アイ・アム」となります。何度も申し上げている通り、この言い方は旧約聖書出エジプト記3章14節の、神様の自己紹介の御言葉と直接かかわります。出エジプト記3章14節は、こうです。「神はモーセに、『私はある。私はあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「私はある」という方が私をあなたたちに遣わされたのだと。』」イエス様がご自分の本質を紹介しておっしゃる「エゴー・エイミー」は「私は〇〇だ」の意味であり、「私はあるという者だ」の意味でもあります。つまりイエス様は「エゴー・エイミー」の言い方をなさることで、「私は出エジプト記でモーセに自己紹介した神自身である」と宣言しておられます。イエス・キリストは天地創造をなさった神御自身であり、その神が人間になられた方です。イエス・キリストは100%神であり、同時に100%人間である方です。決して50%神・50%人間なのではありません。イエス・キリストは100%神であり、同時に100%人間でもある方なのです。

 「私は良い羊飼いである。」この宣言は、まさにイエス様の本質をずばり語っています。しかもこの言い方の中に「エゴー・エイミー」が含まれているので、「私は神である」の宣言も含まれているのです。「私は〇〇である。」「エゴー・エイミー」を含むこの宣言を、イエス様はこのヨハネ福音書で多くなさいます。ヨハネ福音書の大きな特徴です。「私が命のパンである。」「私は世の光である。」「私は復活であり、命である。」「私は道であり、真理であり、命である。」「私はまことのぶどうの木。」これらはみなイエス様の本質です。このようにヨハネ福音書は、イエス様の本日を短いフレーズでずばり語り、同時にイエス様が天地創造なさった神であることを明確に宣言する福音書なのです。

 「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」私が1998年12月に按手礼を受けて牧師として任職されたとき、私の神学校時代の同級生も共に按手礼を受けたのですが、その彼のお母様が私にもお祝いの色紙をプレゼントして下さいました。その色紙に書いてあった御言葉がこれです。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」そのような牧師になりなさいという励ましの色紙ですね。今もちゃんと保存しており、時々見つめてこの御言葉を実行できているか、自分に問いかけます。今から5年ほど前にあるキリスト教の福祉施設に行く機会がありましたが、そこで作っている座布団のような物を買いました。それにも「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」の聖句が大きく記されています。それをこの会堂の2階の牧師室に置いて使っています。

 12~13節「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」真の羊飼いは、羊の一匹一匹を愛しているので、狼と戦っても羊を助け出すのですね。狼と戦って自分が死ぬこともあるはずです。旧約聖書に登場するダビデも、もとは羊飼いです。少年ダビデは、巨人ゴリアテと戦う時、サウル王にこう言いました。「僕(しもべ)は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。私は獅子も熊も倒して来たのですから」と続きます。良い羊飼いの生き方です、100匹の羊がいて、一匹いなくなったとしても、その一匹を探しに出かけて行く。これが良い羊飼いの生き方です。雇い人はそうではありません。雇われただけなので、一匹一匹の羊への愛情と責任感があまりありません。一通りの義務だけ果たし、それ以上に危険を冒してまで羊を愛して守ろうとはしません。良い羊飼いは、それでは足りません。自分を危険にさらしても、一匹の羊を猛獣から取り戻そうと戦うのです。

 今コロナが少し落ち着き始めているように思い、ほっとしています。3年前にコロナがヨーロッパでも猛威を振るった時期、こんなことを聞きました。カトリックの聖職者たちは、コロナで命を落とそうとしている人々の病室に行って聖餐式を行ったり、カトリックの臨終のときの「終油の秘跡」を授けに行ったと。「終油の秘跡」は新約聖書のヤコブの手紙5章14節を根拠に行われているクリスチャンの臨終前の式と思います。「あなた方の中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。」このように祈ってもらって神様の癒しを受けなさいという意味ですが、カトリックでは「終油(終わりの油)の秘跡」として、臨終前に神父から受ける祈りの式になっているようです。神父にとってはその秘跡を授けることが使命なので、コロナで重症の信者の方の病室で行ったそうです。日本ではそのような場合、病院が面会させてくれなかったと思いますが、ヨーロッパでは神父は面会できたようです。そこでコロナで重症の方のベッドの横に行って「終油の秘跡」を授けた神父の方々がそこでコロナに感染し、命を落とした方々がおられるそうです。命がけで「終油の秘跡」を授けた神父方は、まさに良い羊飼いとして、羊のために命を捨てたのです。

 「捨てる」という言い方は、自分の命を粗末にしている印象を与える恐れはありますね。「捨てる」という訳が間違いではないでしょうが、良い羊飼いが自分の命を献げたということと信じます。1954年に青函連絡船・洞爺丸が台風の中で函館から出航してしまい、多くの犠牲者が出た痛ましい事故のことはよく知られています。その時、カナダ人のストーン宣教師とアメリカ人のリーパー宣教師が、日本人の乗客に救命胴衣を譲ってご自分たちは亡くなった出来事もよく知られています。但し69年前のことなので、最近は知らない人も増えていると思います。ある本に書いてありましたが、ストーン宣教師は日ごろから節制し、ご自分の健康を大切にしておられたそうです。それは最も重要な時にご自分の命を最もよく用いるためだったと分かったと、ある人が言ったそうです。日頃から健康を大切にして節制しておられたのは、神様からいただいたご自分の命を大切にすることももちろあったでしょうが、最も大切な時に、ご自分の命を最もよく用いるためだったに違いないと、その人はストーン宣教師が洞爺丸の事故の時にご自分の救命具を他の方に譲ったことを知った時に、思ったそうです。命を捨てると言っても、ドブに捨てるように捨てるということではなく、最も大切なことのために献げるという意味だと信じます。使命という言葉は、ご存じの通り「命を使う」と書きます。自分の使命は何か、自分は何のためにこの大切な命を用いるか、各々でよく祈り考えたいと思います。

 ヨハネに戻り14~15節「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。」「知っている」とは、単に知識として頭で知っているだけではありません。全身全霊で知っている、人格的な交わりがある、深く心にかけている、愛しているということです。ここでイエス様は、「私は羊のために命を捨てる」と重ねて言われます。もちろん十字架のことを指しています。愛のゆえに、羊である私たち全員の全ての罪の責任を身代わりに背負って、自ら十字架にかかって死ぬとおしゃっています。

 16節「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」まだ真の救い主イエス・キリストの元に立ち帰っていないで、はぐれて行き先を失っている羊もいる。その羊たち(人々)にも伝道して、神の民に入って安心してもらう必要があります。そのようになる時、ペトロの手紙(一)2章25節の御言葉が実現します。「あなた方は羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者(羊飼い)であり、監督者である方の所へ戻って来たのです。」

 ヨハネ福音書に戻り、17~18節のイエス様の御言葉「私は命を、再び受けるために捨てる。それゆえ、父は私を愛して下さる。誰も私から命を奪い取ることはできない。私は自分でそれを捨てる。私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、私が父から受けた掟である。」イエス様は良い羊飼いとして、羊たちを深く愛し、羊たちのために命を捨てますが、命を再び受ける(復活する)こともここで予告しておられます。この良い羊飼いイエス様を思う時、私たちはヨハネ福音書15章のイエス様の御言葉を思い出すことができます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」12年前の東日本大震災の津波の時に、この方はクリスチャンではないかもしれませんが、まず中国人の実習生たちを連れて高台に避難し、ご自分が責任を感じる他の生徒たち(実習生?)をも高台に導くために津波で危険は方面にもう一回向かい、高台に帰って来なかった方(日本人)のことを新聞で読みました。私が名前も知らないこの方も、良い羊飼いだったと思うのです。

 本日の旧約聖書エゼキエル書34章1~10節は、イスラエルの民のリーダーたちが悪い羊飼いであり、羊飼い失格であることを告発しています。これは反面教師の姿です。こうなってはならないという警告です。2節の途中から「主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たち(羊飼いたち)は。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。(~)まことに、私の群れは略奪にさらされ、私の群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、私の牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。見よ、私は牧者たちに立ち向かう。私は群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。」神様が牧者たちを解任すると宣言なさるのです。

 当時であっても現代であっても、良い羊飼いはこの反対を行う人でしょう。「弱い者を強め、病める者を癒し、傷ついた者を包み、追われた者を連れ戻し、失われた者を探し求め、力ずくで過酷に支配しない。」支配するなどとんでもないことで、支配の逆の仕える姿勢のみ必要です。今の日本では、カルト宗教が改めて問題になっています。カルトの問題は教祖が権力を振るい、信者の人々がいつのまにか奴隷のように多額の金額を献金する組織になっていることです。教祖は悪魔の誘惑に負けて権力者になっています。

 イエス様は、その逆を行うように説かれました。マルコ福音書10章42節以下。「あなた方も知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうではない。あなた方の間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子(イエス様)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」まさに名言と思います。ここでのポイントは支配と権力です。支配と権力は悪魔から来ます。支配と権力の誘惑に打ち勝ち、小さな支配者にも小さな小さな権力者にもならないことが大切です。キリスト教会では、そのようなことは起こらないと安心しきることはできません。悪魔は誘惑して来るのですから。「教会がカルト化しないように注意しよう」と呼びかける本も出版されています。牧師や神父が奉仕者なのに、いつの間にか支配者・権力者になる時、教会もカルト化する恐れはあります。クリスチャンも牧師も神父も、まだ罪人(つみびと)ですから。そう考えて、いつもお互いに注意していることが必要です。

 イースターの三日前の木曜日を洗足木曜日と呼びますね。イエス様が弟子たちの足を洗ったことを記念する日です。カトリックのローマ教皇は、毎年この日に人々の足を洗うそうです。年によって刑務所を訪問して受刑者の足を洗ったり、イスラム教徒の足を洗った年もあったそうです。形式的な行動に過ぎないと批判することもできますが、それでも私は「偉いな」と思います。今年もフランシスコ教皇が人々の足を洗う写真を見ました。教皇の顔のすぐ近くに人の足が写っています。足は臭いだろうなと写真を見て思いました。それでもその足のすぐ近くに顔と鼻を近づけて、足を洗っているようでした。

 神父や牧師が、ひたすらイエス様の真似をしていれば、教会がカルト化することは避けられるでしょう。偉くなってしまったら要注意です。イエス様は「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」この御言葉を毎日忘れず、歩みを続けたいのです。アーメン。

2023-05-01 21:12:27(月)
伝道メッセージ 石田真一郎(市内の保育園の「おたより」4月号に掲載した文章)
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(新約聖書・ヨハネ福音書8章7節)。

 私は昨年、映画『われ弱ければ―矢嶋楫子(かじこ)伝』(主演・常盤貴子)を見ました。クリスチャン作家・三浦綾子さんの原作です。矢嶋楫子さん(1833~1925年)は、女性の地位が低かった日本で、女性リーダーとして活躍した方です。男尊女卑の熊本に生まれ、結婚相手は酒乱で、刀を出して暴れる人でした。子どもが生まれますが、暴力に耐えかねて離婚。東京で小学校教師になります。ところが妻子ある男性との間に女の子を産みます。キリスト教で姦通の罪ですが、まだクリスチャンではありませんでした。それなのにキリスト教女子学校の教師になりました。

 教会の礼拝で説教を聴き、自分の罪を自覚します。ヨハネ福音書8章の「姦通の女」の箇所によってです。1世紀のイスラエルで、姦通の罪を犯した女性を、石打ちで死刑にしようとする人々に、イエス様が言われます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」皆去りました。イエス様は女性に言われます。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」これは、「私が十字架で死んで、あなたの姦通の罪への神の裁きを身代わりに受けるから、引き換えにあなたの罪をゆるす」ということです。イエス様の十字架は、ちょうど今頃の季節(3~4月)です。矢嶋さんは、自分こそこの女性と同じだと気づきます。姦通の罪を深く悔い改めて洗礼を受け、クリスチャンとして新たに生き始め、女子学院という著名なキリスト教学校の院長になります。

 矢嶋先生は勇敢にも、校則をなくします。女子の学校は男女関係の乱れ防止に神経を尖らせており反対されましたが、ひるみません。放任ではなく、矢嶋先生は確固としたメッセージを生徒に伝えたのです。「あなたたちには聖書があります。聖書をしっかり読んで、校則がなくても自分で善悪の正しい判断を、責任をもってしなさい。」生徒が学校の信頼を裏切るは¥¥ずがないと信頼したのです。生徒も信頼に応えたのでしょう。矢嶋先生の教育方針は1世紀進んでいたと教え子が言いました。今も女子学院には校則がないそうです。矢嶋さんはキリスト教婦人矯風会の会頭になり、日本の悪しき公娼制度撤廃、婦人救済のために目覚ましく働き、世界平和に尽力し、イエス様に仕える後半生を生きました。このような女性リーダーがおられたことを覚えていたいと思います。アーメン(真実に)。