日本キリスト教団 東久留米教会

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2014-08-25 17:12:32(月)
「殺してはならない 十戒⑥」 2014年8月24日(日) 聖霊降臨節第12主日礼拝説教 
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、マタイ福音書5章21~26節。
「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)

 「殺してはならない。」人を殺すことが神様に逆らう罪であることを教える御言葉です。私は、平和への祈りを特に強くする8月の礼拝で、「殺してはならない」の戒めを学ぶことができることを感謝しています。動物を殺して食べることが禁じられているわけではありません。人間を殺すことが禁じられています。もちろんだからと言って、必要もないのに動物を殺してよいわけではありません。動物を殺すことも必要最小限にとどめるべきです。

 なぜ人を殺してはいけないか。それは人間が皆、神様に似せて造られた存在だからです。創世記1章26~27節に次のように書いてあります。
「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、
 家畜、地の獣、地に這うものすべてを支配させよう。』
 神は御自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。/ 男と女に創造された。」

 人間が一人一人皆、神様にかたどって造られていることを、「神の似姿に造られている」と言っています。これは人間に尊厳があることを示しています。神様はほかに多くの生き物を造られましたが、それらについて「神にかたどって創造された」とは書かれていません。ほかの生き物の命にも尊厳はあるでしょうが、人間だけが神様に似せて造られたので、人間には特別の尊厳があります。最高の尊厳をお持ちの方は真の神様お一人です。その神様に似せて造られたことは、私たち人間の最高の栄誉です。神様に似せて造られた一人一人なので、人間の命は地球より重いのです。

 だいぶ前に、日本の小学生か中学生が「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問をしたことが話題になったことがあります。この問いに対しては、聖書を根拠に明確に答えることができます。「人は皆、神様に似せて造られた尊い一人一人だから、決して殺してはいけない。聖書のモーセの十戒に、神様のご意志として『殺してはならない』とはっきり書かれているから、殺してはならない。」私たちはこのように答えることができます。

 人間のどこが神様に似ているのでしょうか。姿形ではありません(父なる神様に姿形はありませんから)。人間は(不十分ながら)愛することを知っていること、神様ほどではないが知性を持っていること、意志を持っていること、言葉を持っていることなどが似ています。神様は、この人間に自然界全体を支配する責任と使命を与えられました。この場合の支配とは、勝手に押さえつけることではなく、神様の御心に則して正しく管理するということです。神様は、ご自分がお造りになった自然界・地球を適切に管理する光栄な責任を、私たち人間に与えられたのです。

 詩編8編は、私が好きな詩編の1つです。そこでは作者が、偉大な神様が人間に与えられた栄誉の大きさに驚きながら、次のように歌います。
「月も、星も、あなた(神様)が配置なさったもの。
 そのあなたが御心に留めてくださるとは/ 人間は何ものなのでしょう。
 人の子は何ものなのでしょう。/ あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るもの(!)として人を造り、
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものすべてを治めるように/ その足元に置かれました。
 羊も牛も、野の獣も/ 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」

 何と人間は、「神に僅かに劣るもの」として造られ、神様がお造りになった羊や牛、野の獣、空の鳥、海の魚、海路を渡るもの(鳥たち?)よりも上に置かれたのです。どの一人の方も(女性も男性も、赤ちゃんも大人も、いわゆる障碍があってもなくても)この尊厳を神様から与えられているので、その人間を殺すことがあってはならないのです。にもかかわらず、残念ながら殺人が起こっているのが、この世界の現実です。新聞を開けば、今の日本でも世界でも殺人事件や戦争の記事が多いのです。今こそ「殺してはならない」という神様の御言葉に私たち自身も改めてしっかりと耳を傾け、周りの方々にもお知らせしたいものです。

 創世記は1章で、神様が御自分にかたどって人間を創造されたことを語りました。神様は人間を創造なさったことを深く喜ばれたのです。ですが最初の夫婦アダムとエバは早速3章で神様の戒めに背き、罪を犯します。そのアダムとエバに二人の息子が誕生します。カインとアベルです。二人とも神様に献げ物をしましたが、神様は弟アベルとその献げ物に目を留められましたが、兄カインとその献げ物には目を留められませんでした。カインは激しく怒って顔を伏せ、弟アベルに声をかけ、野原で弟アベルを襲って殺したのです。人類最初の殺人です。最初の兄弟が、兄は殺人の加害者、弟は殺人の被害者になってしまったのです。原因は嫉妬です。カインは嫉妬心から弟アベルを殺害してしまったのです。二代目の人類が、早速「殺してはならない」の戒めを破ったのです。このときはまだ人類に十戒が与得られていませんでしたが、それでもカインが命を愛する神様の御心に背いて、大きな罪を犯したことは間違いありません。

 私たちが旧約聖書を読んで大きな疑問を覚えることの1つは、イスラエルの民が外国人と戦争することではないでしょうか。イスラエルの民は出エジプトし、40年後にカナンの地(イスラエルの地)に入ります。そこで先住民と戦い、相手を殺すのです。十戒に「殺してはならない」と明記されているのに、なぜこのような戦争が行われるのでしょうか。私は大いに疑問に思っていました。イスラエルの民によるカナン征服の戦いは、神の正義の戦いであり、世界史上ただ一度だけの聖戦ではないかと思います。カナンの地に住んでいた先住民は、偶像崇拝をはじめ様々な罪を犯していました。そこで神様が彼らを裁かれたのです。それは神様の正義の戦いでした。イスラエルの民は貧弱な武器しか持っていなかったはずです。それに対して先住民は武力に優っていたはずです。それにもかかわらずイスラエルの民が勝ったのは、神様が戦われたからです。

 ヨシュア記6章に、イスラエルの民がエリコの町を占領した記事が出ています。神様がイスラエルの指導者ヨシュア(モーセの後継者)にこう言われます。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七週し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」 民が神様に言われた通りに行動すると、鬨の声と共にエリコの城壁が崩れ落ちたのです。民は武力によって勝ったのではなく、ただ神様の御力によって勝ったのです。祈りによって勝ったとも言えます。イスラエルの民が神様に従い、先住民が偶像崇拝などの多くの罪を犯して神様に逆らっていたので、神様はイスラエルに味方されました。

 この後イスラエルの民はエリコの町に突入し、神様の命令に従って中の人々を皆殺しにするのです。このことも、「殺してはならない」の御言葉と大いに矛盾するように見えるので驚きますが、これは非常に罪深い民を、神様が裁かれたということでしょう。この時のみ許された特例であって、決してその後の時代の人々が同じことをしてよいわけではありあません。旧約聖書を完成なさる方は、イエス・キリストです。イエス・キリストは、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」、「敵を愛しなさい」とおっしゃり、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃり、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」と、敵を赦す祈りをなさる平和の主です。私たちはこのイエス様に従います。

 ヨシュア記ではイスラエルの民が先住民を滅ぼしますが、イスラエルの民も偶像崇拝などの罪を犯し続けるならば、カナンの地から追放されるのです。その意味で神様は公平です。実際イスラエルの民は、偶像崇拝の罪などを犯し続け、神様が預言者を遣わして悔い改めを求めても応じなかったために、紀元前6世紀にバビロン捕囚の苦難を経験するのです。首都エルサレムはバビロン軍によって踏みにじられ、人々は遠くバビロンへと連行されます。国は一旦滅びるのです。約半世紀後にイスラエルの民は帰還し、国を再建するのです。ヨシュア記では確かにイスラエルの民が先住民を滅ぼすのですが、それは悪を滅ぼしたということなのだと思います。イスラエルの民にとっても私たちにとっても、真の敵は人間ではなく悪魔なのです。人間を殺すことは罪です。私たちは、私たちを罪へと誘惑する悪魔と、祈りと聖書の言葉によって戦うのです。

 私は渡部良三著『歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』(岩波書店、2012年)という小さな本を持っています。著者の渡部さんは、無教会派のクリスチャンです。無教会を始めた方は内村鑑三ですが、内村鑑三は日露戦争の時に非戦論を唱えたことで有名です。無教会にはこの精神が息づいているのでしょう。1944年春、新兵であった22才の渡部さんが属する部隊が中国の河北省に駐屯しました。戦闘の度胸をつけさせるためという理由で、新兵48名に、5名の中国人捕虜を銃剣で突き殺すことが命令されたそうです。どう考えても国際法違反です。渡部さんのお父様も無教会のクリスチャンで、息子である渡部さんを戦地に送り出さざるを得なくなったとき、次のように言われたそうです。「最近内村鑑三先生の聖書の研究を読んでいたら、こう言うことが書かれていました。『事に当り自分が判断に苦しむ事になったなら、自分の心を粉飾するな、一切の虚飾を排して唯只管(ひたすら)に祈れ。神は必ず天からみ声を聞かせてくれる』と。だから心を粉飾することなく祈りに依って神様の御声を聞くべく努めなさい。お前の言葉でよいのだ。」(同書、228ページ)。

 捕虜を突けという無茶な命令を受けた日、渡部さんは必死に祈られたそうです。「神様、道をお示し下さい。力をお与え下さい」(同書、241ページ)。すると神のみ声を聞いたそうです。「汝、キリストを着よ。すべてキリストに依らざるは罪なり。虐殺を拒め、生命を賭けよ!」(同書、241ページ)。教官に、信仰のゆえに殺すことはできないと申し出たそうです。その後、多くのリンチを受けられましたが、聖書の御言葉を心の中で繰り返すことで耐えたそうです。ローマの信徒への手紙5章3~4節です。「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐を練達を、練達は希望を生むということを。」そして幸い、生きて日本に帰ることができました。渡部さんが中国でひそかに作っていた短歌は多いのですが、そのうち2首をご紹介致します。
「祈れども 踏むべき道は唯ひとつ 殺さぬことと心決めたり」(同書、17ページ)。
「殺す勿れ そのみおしえをしかと踏み 御旨に寄らむ惑うことなく」(19ページ)。 
渡部さんは、「殺してはならない」を自分は何とか実行したが、上官や同僚の兵士には「殺してはならない」と説かなかったことを、深い罪と自覚しておられます。

 本日の新約聖書は、マタイによる福音書5章21節~です。小見出しは「腹を立ててはならない」ですから、腹を立てることが殺人の第一歩だというメッセージが込められています。(21節)「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺したものは裁きを受ける』と命じられている。」この「殺すな」は明らかに十戒の「殺してはならない」のことです。イエス様はこの戒めの深い精神を教えて下さいます。ただ殺人をしなければよいのではないのです。(22節)「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」兄弟とは信仰の兄弟のこととも言えますが、人類は皆兄弟姉妹とも言えるので、すべての人を指すと私は考えます。兄弟に腹を立て、「ばか」、「愚か者」と罵ることは殺人と同罪で、そのように一回でも人を罵れば「殺してはならない」に違反したことになり、神様の裁きを受ける罪だというのです。

 そして神様に礼拝を献げるに先立って、仲のよくない人と仲直り・和解しておかなければ、礼拝と言っても偽善であり礼拝にならないと、イエス様は教えて下さいます。(23~24節)「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」人を赦さない心のまま、人と和解しない心のまま、人を憎む心を抱きながら、神様を礼拝することはできないのです。私たちの人を赦さない心、人と和解しない心、人を憎む心こそ殺人の根、殺人の第一歩です。さらにイエス様はマタイによる福音書5章44節で、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という有名な御言葉を語られました。この御言葉を受けとめるなら、戦場で敵を殺すこともできませんし、自分の身近な人を赦さないなどあり得ないことになります。

 16世紀に今のドイツで作られた『ハイデルベルク信仰問答』では、「殺してはならない」について次のような問答が展開されています。
「問106:この戒めは、殺すことについてだけ、語っているのではありませんか。
 答:神が殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、
ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること。またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。」
「問107:しかし、わたしたちが自分の隣人をそのようにして殺さなければ、それで十分なのですか。
 答:いいえ。神はそこにおいて、ねたみ、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、この方がわたしたちに求めておられるのは、わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。」
  (吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、2002年、98~99ページ)

 ねたみの心、人を憎む心、怒り、復讐心は殺人の根っこであり、これらの思いを心に抱くことが「隠れた殺人」であり罪だというのです。「あの人がいなければいい」などと私たちが万一思えば、それが「隠れた殺人」になり、「殺してはならない」に違反する罪を犯したことになります。そして憎みさえしなければ「殺してはならない」を十分実行したことになるのかと言えばそうではなく、すべての人を自分のように愛して忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を行い、敵に対しても善を行う、愛を行う。こうして初めて「殺してはならない」の戒めを実行したことになります。「殺してはならない」とは、「愛しなさい」ということだと分かるのです。イエス様はマタイによる福音書7章で、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とおっしゃいました。黄金律・ゴールデンルールと呼ばれます。このようにして初めて、「殺してはならない」を実行することになるというのです。単に殺人を実行しないだけでは全然足りないのです。旧約聖書にはそこまで書かれていませんが、イエス様が「殺してはならない」の本当の意味はこうなのだと教えて下さったのです。こうなると私たちは、「殺してはならない」の戒めさえ、本当には守ることができていない罪人(つみびと)であることを悟るのです。

 ヨハネの手紙(一)3章15節にこう書かれています。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。」16節にはこうあります。「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」 4章20~21節にはこう書かれています。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。」 この中には私たちにとって耳に痛い御言葉もあったかもしれません。耳に痛くても、心に刻みたい御言葉です。

 「殺してはならない」の戒めを考えると、いろいろなことを考えなくてはならなくなります。戦争、死刑制度、中絶などです。このすべてについて今日語ることはできません。日本人の多くは戦争を憎んでいると思います。これからも世の終わりまでずっとそうでありたいのです。昨年わたしは原爆の絵が展示されている埼玉県東松山市の丸木美術館に行きましたが、そこで買った本に、それらの絵を描いた画家の丸木位里さんの言葉が書かれていました。「私の若い頃には戦争というのがそれほど悪いことと思わない空気があった。~いかなることがあっても、戦争はいけないということだ」(『丸木位里のことば』財団法人原爆の図丸木美術館編、2001年、104ページ)。そのような空気が再び日本に漂わないことを祈ります。日本人は空気に弱いと言います。そこに流れている空気・雰囲気に何となく染まってしまうのです。「何となく」が曲者です。十分気をつけたいと思います。

 私は先々週の8月15日(金)に、埼玉県上尾市にある聖学院大学(初めて行きました)で行われた「平和の祈り8.15」という礼拝形式の集いに出席して参りました。今年から学長になられた姜尚中(カン・サンジュン)先生のお話を伺いました。1950年熊本市生まれの在日韓国人二世のクリスチャンで、政治学者の方です。「8月15日(敗戦の日)は、国民を資源・モノとして扱った国家から国民が解放された日、出エジプト記の日といえるのではないか。しかし東日本大震災後の国の対応を見れば、国民を資源・モノとして扱う現実はまだあるのではないか。今、東アジアでは新たな戦前の空気を感じる(ので十二分に気をつけなければならない)。東京裁判史観を自虐史観と見なす風潮、歴史の隠蔽に危惧を覚える(東京裁判に一部問題があることを認めつつも)」いう意味のお話を、平和への願いを込めてなさいました。戦争中の日本が、国民を資源・モノとして扱っていたのはその通りではないかと感じます。召集令状一枚で男性を戦地に送るというのはその現れです。「殺してはならない」の戒めを無視する国だったと言われても仕方がなかったでしょう。

 自分の国の人を殺してはならないし、他の国の人を殺してもならない。「殺さないで愛する」。今後さらにそのような日本となり、イエス様がもう一度おいでになる世の終わりまで、平和を愛する私どもであり続けたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-08-18 18:14:03(月)
「あなたの父母を敬え 十戒⑤」 2014年8月17日(日) 聖霊降臨節第11主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、マタイ福音書15章1~9節。
「あなたの父母を敬え。」(出エジプト記20章12節)

 本日はモーセの十戒の第五の戒めを学びます。このことについては、出エジプト記21章17節に、「自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる」と書かれています。父母の悪口を言う人は死刑に処せられるというのです。箴言23章22節には、「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない。」このように聖書は私たちが父母を敬うことを求めています。日本風に言うと、親孝行です。私たちは父母を通して神様から命を授かりました。そして聖書を信じる世界では、父母から子どもは神様を教えられるのです。父母は子どもの信仰の導き手です。最も大切な神様のことを教えてくれる父母を敬うのです。

 イエス様も十戒に従い、父母を敬って生きられました。ルカによる福音書2章を読むと、イエス様が12歳のときに両親と共に過越祭のためにエルサレムに行き、両親が帰路についたがイエス様は帰路につかず、両親が慌ててイエス様を探したところ、やっと三日後にエルサレムの神殿で発見したという記事があります。12歳のイエス様が既に、ご自分が天の父なる神様の子であることを自覚しておられたことを示す記事ですが、その後イエス様は両親と一緒にガリラヤのナザレに帰られ、「両親に仕えてお暮らしになった」と書かれています。私はこの記事を読むたびに、「イエス様は十戒に書いてある通り、父母を敬って生きられたのだな」と感じます。父ヨセフは大工でしたから、イエス様はヨセフから大工仕事を習って、大工として労働しながら約30歳のときまでをナザレでお暮らしになったに違いありません。

 ヨハネによる福音書19章を読んでもそう思います。イエス様は十字架の上におられる時も、産みの母マリアのことを深く配慮しておられました。イエス様の十字架のそばには、母マリアと母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアという4名の婦人が悲しみを必死にこらえて立っていました。母マリアのそばには「愛する弟子」がいました。ヨハネだとされています。男の弟子ではヨハネだけが十字架の下に着いて来たのです。イエス様は苦しい息の中で母マリアに言われます。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」それからヨハネに言われました。「見なさい。あなたの母です。」イエス様が老後の母マリアを愛する弟子の一人ヨハネに託したのです。ヨハネはこのときからマリアを自分の家に引き取りました。イエス様の父ヨセフはもう亡くなっていたと思われます。イエス様は父を失う悲しみを体験なさったのです。母マリアはその後、エルサレムの初代教会の精神的な支柱になったようですが、伝説ではその後ヨハネと共に小アジアのエフェソに行き、そこで地上の生涯を終えたと言われます。イエス様は十字架の死の直前まで、母マリアの行く末を配慮されたのです。

 十戒は述べます。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」「あなたの父母を敬え」の戒めには、神様の恵みの約束がついているのですね。「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」という約束です。「主が与えられる土地」はイスラエルの民に とってはイスラエルの土地ですが、私たちにとっては日本の土地です。皆様はご両親様を敬い、大切にして来られた方々ばかりと思います。私も自分と妻の両親にもう少し孝行しなければいけないなと反省する今日この頃です。今の日本は高齢化の時代です。私が聞いた話では、教会の牧師として奉仕しつつ親御さんの介護をしている方がおられ、ご両親の介護に専念するために牧師としての奉仕を一旦おやめになる方がおられ、あるキリスト教団体の職員の方も職をやめて故郷に帰ってご両親の介護をなさるということです。もちろん以前からそのような方はおられたでしょうが、最近よくこのような話を聞きます。それが今の日本と日本の教会の現実なのだなと感じます。この傾向は今後さらに進むと思います。私にとっても次第に他人事でなくなると思います。現に今、東久留米教会員で入院なさったり、ホームにおられる方々を支えておられるのは奥様・ご主人、息子・娘さん方ですし、また教会員の方々がご自分のご両親方をお支えになり、「あなたの父母を敬え」を実践しておられるお姿を、私は拝見しております。私が、その皆様の前で「あなたの父母を敬え」という題の説教をさせていただくことは、大変おこがましいことです。浅野先生ご夫妻も、前の会堂の2階に、先生のお母様を受け入れてお世話なさったと伺っております。

 父母を敬うとは、もう少し具体的に言うと、父母の教えに従うということでもあるでしょう。箴言には、「父の諭し」の小見出しが多くあります。残念ながら「母の諭し」の小見出しがないのですが。「父の諭し」には、次のように書かれています。
「施すべき相手に善行を拒むな。/ あなたの手にその力があるなら。
 出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな。/あなたが今持っているなら。~
 理由もなく他人と争うな。/ あなたに悪事を働いていないなら。
 不法を行う者をうらやむな、その道を選ぶな。
 主は曲がった者をいとい まっすぐな人と交わってくださる。
 主に逆らう者の家には主の呪いが/ 主に従う人の住みかには祝福がある。
 主は不遜な者を嘲り/ へりくだる人に恵みを賜る」(3章27~34節)。

 旧約聖書と新約聖書の中間の時代に書かれた旧約聖書外典と呼ばれる書物群があり、それは聖書ではありませんが、信仰者の生き方に指針を与える書として、大切にされて参りました。その旧約聖外典にシラ書という書物があり、その3章1節以下に、私たちに参考になることが書かれています。小見出しは「両親に対する義務」です。
「子どもたちよ、/ 父の戒めに耳を傾け、それを守れ。
 そうすれば、つつがなく暮らせる。
 主は、子に対する権威を父に授け、/子が母の判断に従う義務を定めておられる。
 父を尊べば、お前の罪は償われ、/同じく、母を敬えば、富を蓄える。
 父を尊べば、いつの日か、/子供たちがお前を幸せにしてくれる。
 主は、必ず祈りを聞き入れてくださる。
 父を敬う者は、長寿に恵まれ、/主に従う者は、母を安心させる。
 主を畏れる人は、父を尊び、/僕が主人に仕えるように、両親に仕える。
 言葉と行いをもって、父を尊敬せよ。/ そうすれば、父から祝福を受ける。
 父の祝福は、子供たちの家を堅固なものとし、
 母の呪いは、子供たちの家の土台を覆す。(~)
 父親を敬うこと、これこそ人間の栄誉なのだ。
 母親を侮ること、それは子供にとって恥である。 
 子よ、年老いた父親の面倒を見よ。/生きている間、彼を悲しませてはならない。
 たとえ彼の物覚えが鈍くなっても、/思いやりの気持ちを持て。
 自分が活力にあふれているからといって、/彼を軽蔑してはならない。
 主は、父親に対するお前の心遣いを忘れず
 罪を取り消し、お前を更に高めてくださる。
 お前が苦難に遭うとき、/主は、その心遣いを思い出してくださる。
 お前の罪は、晴れた日の霜のように/解け去るであろう。
 父を見捨てる者は、神を冒瀆する者、同じく
 母を怒らせる者は、主に呪われている者。」
 
 本日の新約聖書は、マタイ福音書15章1節以下です。イエス様がファリサイ派の人々と律法学者たちの偽善を指摘なさる箇所です。(3~6節)「そこで、イエスはお答えになった。『なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、「父母を敬え」と言い、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。「父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は、父を敬わなくてよい。」こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。』」 イエス様の時代に、父母を扶養するための物品について言い逃れの習慣ができていたそうです。「本来、父母を扶養するためのこの物品は、神様への供え物にします」と誓えば、父母の扶養義務を免れることができたそうです。それをファリサイ派も支持していたそうです。神様への礼拝を盾にとって、父母の扶養を逃れる屁理屈です。その物品を本当に神様に献げたのかどうか、私には分かりません。万一献げなかったとすれば、相当悪質です。人間はずるいもので、義務と責任を免れて自分を正当化するために、様々な屁理屈、抜け穴を考え出します。イエス様の時代の人々にもその傾向がありました。

 神様を礼拝するからと言って父母を敬うことを省略することはできませんし、父母を敬うから神様を全然礼拝しないというわけにも参りません。十戒には両方書かれているのですから、両方行うのが本来でしょう。イエス様の時代に行われていた屁理屈は、「父母に扶養のために渡すべき物品は、神様へ供え物にする」と言えば、父母に渡さなくてよいというものでした。この考えを支持したファリサイ派の人々を、イエス様は「偽善者だ」と指摘されたのです。これを読んで私は考え込むのですが、もし「神様を愛し礼拝しているから、隣人を愛さなくてよい」という考え方があるとすれば、それは偽善だということです。私も残念ながら、「自分は偽善者だ」と思います。

 イエス様は、マタイによる福音書22章で言われます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」 両方が揃うことをイエス様は望んでおられます。私たちは罪人(つみびと)ですからこの両立は難しいのですが、神様に助けていただいて、不十分でも両立を目指したいのです。神様が両立を助けて下さいます。

 一方で聖書には、「あなたの父母を敬え」と一見、矛盾するような御言葉もあります。イエス様は、マタイによる福音書10章で、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしより息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」とおっしゃっています。イエス様はマタイによる福音書12章で、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」とおっしゃり、弟子たちの方を指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われます。これは肉親の情よりも、父なる神様から与えられた使命を優先するイエス様の姿勢を示す御言葉です。信仰には確かにこのような面があります。一種の出家を必要とする面が確かにあるのです。イエス様も、約30歳になられてからは、ナザレの家を出て、父なる神様の使命のために生きられました。母マリアや弟妹たちを愛するあまり、十字架への道を放棄することはもちろんなさいません。母マリアや弟妹たちを非常に愛しておられましたが、父なる神様をもっと愛しておられたのです。

 肉親を愛する以上に、父なる神様(イエス様)を愛することが必要な場合があります。有名なアッシジのフランチェスコは、商人である父親と訣別して、イエス様に従う道を選んだと言います。衣服を脱ぎ捨てて父親に返し、裸になって、「私の父は天にいます」と言って、イエス様に従う道を選んだと言います。これはフランチェスコが世俗と決別したこと意味します。確かに、イエス様に従うにはこのような覚悟が必要です。但しそれは父母を愛さないということではなく、父母を愛するけれども、神様(イエス様)を父母よりももっと愛するということでしょう。イエス様も父ヨセフと母マリアを愛し敬われましたが、だからと言って父なる神様に従い、十字架の道に進むことをおやめにはなりませんでした。父なる神様を第一に愛され、その大前提のもとに父母を敬われたのです。

 クリスチャンになることを父母に反対されることは有り得ることです。クリスチャンになることを父母に理解・賛成してもらえるように一生懸命努力してもなかなか賛成されない。賛成されないままに洗礼を受ける場合もあります。でもある人がクリスチャンになることは、本当は御両親にとっても祝福だと思います。クリスチャンになれば十戒に従って生きるようになるので、「父母を敬う」ようになるはずだからです。それまで父母を敬っていなかった人でも、クリスチャンになれば十戒に従って「父母を敬う」ようになるはずなので、人がクリスチャンになることは、実はご両親にとって大きな祝福であるはずです。

 今は天国におられる井上哲雄牧師という方が書かれた本に記されていたことを思い出します。井上先生は若い頃に、イエス・キリストに出会うという驚くべき体験をされ、一生懸命教会に通い、洗礼を受けられました。井上先生は呉服屋の一人息子で、あとを継がなくてはならないお立場でしたが、キリストにわが身を献げて神学校に行きたい気持ちになられました。井上先生は次のように書いておられます。「だが『神学校に行く』といったら父親はカンカンになって怒った。その時に私は『親父が死ねばいい』と思った。死ねば神学校に行けると思っていた。」その時に神様の御声が聞こえたそうです。「お前は神を愛しているといいながら偽善者だ! 偽り者だ! 大恩ある父母を恨んでいるお前は偽善者だ」と迫られ、自分の罪に気づかせられ、悔い改めなくてはならなくなったそうです。「そこで本当に涙を流して悔い改めた。父と母の前に手をついて、『間違っていました。神学校なんてとんでもない、呉服屋のあとを継ぎます』と言った。父も母も喜んでくれ」たそうです。

 「その晩は休んで、あくる朝、父母の態度がおかしい。母が父に変な夢を見たというし、父も『私も変な夢を見た。あれが哲雄が信じているイエス・キリストに違いない』と言った。イエス様は昨晩、父と母の枕べに立たれて、諄々と諭されたのだった。~私が『神学校には行きません』と言うと、『いや、行ってもらわなくてはならなくなった』ということで、神学校への道は開かれた。キリストは生きておられる。主はご自身のご計画を進めるために、不思議なことをなさる。敵のようなものでも、神様が包んで下さるということだ」(以上、井上哲雄『現今の奇跡 イエス・キリストは今も病をいやされる』(暁書房、1987年、17~18ページより)。驚くべき証しです。イエス・キリストが働いて下さり、神様への愛と父母への愛を両立できるように助けて下さったのですね。

 約450年前に、今のドイツで作られた『ハイデルベルグ信仰問答』という信仰問答があります。第五の戒め「あなたの父母を敬え」については、次のような問答が展開されています。
「問104 第五戒で、神は何を望んでおられますか。」
「答 わたしがわたしの父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々に、あらゆる敬意と愛と誠実を示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである、ということです。なぜなら、神は彼らの手を通して、わたしたちを治めようとなさるからです。」
 (吉田隆訳『ハイデルベルグ信仰問答』新教出版社、2002年、97ページ)

 『ハイデルベルグ信仰問答』によると、第五戒が私たちに求めることは、父母を敬うのはもちろんだけれども、それにとどまらず、自分の上に立てられた人々を父母と同じように敬うことです。職場で言えば上司などに敬意と愛と誠実を示し、すべての「よい教えや懲らしめには」従順に服従することです。「よい」教えや懲らしめに従順に服従するのであって、明らかに悪い指示には従えないでしょう。たとえば、「人を殺しなさい」という無茶な指示は断るほかありません。ですが「よい」教えや懲らしめには従うのです。それは神様の御心に適うというのです。但し、今はパワハラ(パワーハラスメント)が認定される社会であり、上司も気をつけなければなりません。父母も、子に敬ってもらえるような生き方をするように気をつけなければなりません。

 『ハイデルベルグ信仰問答』は、私たちの上に立てられた人々の「欠けをさえ忍耐すべきである」と教えます。これは難しいことです。似たことを述べる聖句としては、ペトロの手紙(一)2章18節~が挙げられます。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神はそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」 こうしてイエス・キリストの御足の跡に従うことになるというのです(もちろん心身の病気になるほど苦痛の場合は、話し合って休むなどする必要があります)。「自分の上に立つ人々を敬う。」これは年長の方を敬うということでもあります。神様がレビ記19章32節で、こうおっしゃっています。「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」

 私は昨日、西東京教区の平和集会に出席し、渡辺信夫先生(日本基督教会の大ベテラン牧師)の講演を伺いました。宗教改革者カルヴァンの研究と平和活動で知られる今年92歳の渡辺先生の講演を伺うのは、私にとって21年ぶりでした。今は、従軍慰安婦とされた台湾の方々を支援する裁判の活動をされているとのことです。まさに日本の教会の長老、日本の教会の(霊的な)父親のお一人と言ってよいと思います。約30教会、91名が出席致しました。渡辺先生は学徒出陣され、1945年1月に第44号海防艦という船に乗って鹿児島から沖縄に出航し、米軍の攻撃を受けて撃沈されかけたのですが、幸い船が沈まないで助かったという経験をお持ちです。今の日本の政府を深く憂いておられることは確かです。「私を死なせずに、生きて還らせて務めにつかせる大きい意志が働いたと感じる。(戦後は)平和に仕える、教会のために歩むと決意した。自分のためではなく、主のため、人々のため、教会のために生きる使命感に生きて来た」と話され、最後に次の意味のことを語られました。「戦争を経験しないことが大きな祝福であることを考えてほしい。私たちは神様から生きる命を賜わっている。この賜わっている命をいかに深め、用いることができるかを考えてほしい。」 戦争をしたらそれができなくなるのだ、戦争は非常に愚かな行為であり、決してしてはならないと強調されたのだと、私は解釈致しました。このような信仰の父のような先生に学んで生きて参りたいのです。それも「父母を敬え」のスピリットに合致すると思うのです。

 最後に、エフェソの信徒への手紙6章1節以下をお読み致します。「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。『父と母を敬いなさい。』これは約束を伴う最初の掟です。『そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる』という約束です。」父母を敬うことは、父母を通して命を与えて下さった神様を敬うことであり、神様に喜ばれることなのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-08-11 13:14:40(月)
「わたしの願いではなく、御心のままに」 2014年8月10日(日) 聖霊降臨節第10主日礼拝説教
朗読聖書:創世記22章1~19節、ルカによる福音書22章35~46節。
「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
               (ルカによる福音書22章42節)

 イエス様の十字架が目前に迫っています。あと数時間すると、イエス様は捕らえられるのです。状況は緊迫しています。弟子たちもそれを感じ始めています。(35~36節)「それから、イエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。』彼らが、『いいえ、何もありませんでした』と言うと、イエスは言われた。『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。』」

 イエス様は、神の国の到来を宣べ伝えさせるために72人の人々をイスラエルの町や村に派遣なさったとき、こうおっしゃったのです。「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな(イエス様のおいでによって神の国が来ていることを宣べ伝えることがそれだけ緊急に大切だからです)。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」 「財布も袋も履物も持って行くな。」それは勇気のいることです。私たちですと、持ち物を減らすことは致しますが、財布も袋も履物も持たずに旅に出ることは正直言って難しいと思います。ですが72人は実行したのです。この72人は十二弟子とは別ですが、十二弟子も同じように財布も袋も履物も持たずに、神の国の宣べ伝えるために派遣されたに違いありません。父なる神様が共にいて下さり、必要なものはすべて備えて下さったに違いありません。出エジプトした民が何もない荒れ野を旅したとき、神様がマナという食物を与え続けて下さり、岩から水を出して養って下さったのと同じようにです。十二弟子も何も不足しなかったのです。神様が与えて下さったからです。

 しかし今は状況が緊迫しています。悪魔が猛威を振るうときが来たのです。そこでイエス様は十二人の弟子たちに、心して備えるものを備えるようにと言われます。悪魔と戦う心構えを強化するように言われるのです。「今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」弟子たちは剣を二振り持っていたので、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエス様は「それでよい」とおっしゃいました。 イエス様が「剣を買いなさい」とおっしゃったことは意外です。イエス様はマタイによる福音書26章で、イエス様を守ろうとして大祭司の手下に打ちかかって片方の耳を切り落とした弟子に、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃっているからです。

 8月は平和への祈りを特に強化する月で、礼拝の招詞として選んだイザヤ書2章4節には、国々が「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と書かれています。人々が戦争の道具・剣を農耕の道具・鋤に作り変え、同じく戦いの道具・槍をやはり農業の道具・鎌に作り変えるというのです。これは平和メッセージです。イエス様は基本的に平和の主ですから、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃいます。そのイエス様が「剣を買いなさい」とおっしゃったことは意外です。イエス様は弟子たちに、「剣を振るい、武器を取って戦え」と言われたのではないでしょう。なぜなら、このルカによる福音書でもイエス様が捕らえられる場面で、イエス様と共にいた者の一人が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とすと、イエス様は「やめなさい。もうそれでよい」とおっしゃり、その耳に触れていやされたからです。「剣を買いなさい」とは、あくまでも悪と戦うしっかりとした心構えを持ちなさいというメッセージと思います。

 エフェソの信徒への手紙6章を見ると、キリスト者の真の敵は人間ではなく悪魔であり、キリスト者の武器は神様の御言葉(聖書)と祈りであると書かれています。これは物理的な武器ではなく、霊的な武器です。エフェソの信徒への手紙6章12節以下にこう書かれています。「わたしたちの戦いは、血肉(人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊(悪魔、悪霊)を相手にするものなのです。だから邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊(聖霊)に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」 真理と平和を愛するキリスト者は、剣(物理的な武器)ではなく、神の言葉と祈りによって悪の力と戦うのです。

 ルカによる福音書に戻ります。イエス様は、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」と語られました。イエス様の十字架の死を予告するイザヤ書53章の12節を引用して語られたのです。そこにはこう書かれています。「彼が自らをなげうち死んで/ 罪人の一人に数えられたからだ。」イエス様は、イザヤ書53章がご自分の十字架の死を預言していることを十分に承知しておられました。

 そしてイエス様は生涯の最大の正念場である祈りへと進んで行かれます。(39~40節)「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。」 イエス様はどこででも祈られたでしょうが、このオリーブ山はイエス様にとっていつもの祈りの場だったのです。イエス様は祈るための「いつもの場所」を決めておられたのです。私が神学校を卒業するときに、学長先生が、送り出す卒業生たちに伝道者の心構えを二泊三日の合宿で講義して下さいましたが、「祈りはいつでもどこででもできる。しかし祈りの場所と時間を確保せよ」と、おっしゃいました。祈りはいつでもどこででもできるので、逆におろそかになることもあるのではないでしょうか。そうならないために祈りの場所と時間を決めて祈りを実行することは、よいことです。つい祈りがおろそかになってしまう私たちのために、教会では礼拝と祈祷会を用意しています。礼拝と祈祷会に来て祈ることも、とてもよいことです。

 これは有名な場面です。マタイによる福音書とマルコによる福音書では、場所はゲツセマネになっています。ゲツセマネとは「油搾り」という意味だそうです。イエス様はまさに、ご自分の全身全霊を搾りきる激しい祈りをされました。イエス様は弟子たちと離れて、一人祈りへと進まれます。(41~43節)「そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯(十字架)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。』すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。」

 天使は重要な場面に登場します。ここでも十字架に向かう決断をするイエス様を励ます重要な役割を果たしています。祈りに関する名著と呼ばれる『祈りの精神』(斎藤剛毅訳、ヨルダン社、1986年)の中で著書のP.T.フォーサイスという牧師は、「神様と格闘するような祈りこそ、祈りの理想ではないか」という意味のことを述べています(決してわがままな願いを神様に押し付けることがよいという意味ではありません)。 祈りは神様に真剣に願い求める魂の崇高な労働なのです。その意味で祈りは楽ではありません。イエス様のオリーブ山での祈りこそ、祈りの歴史の中で最も崇高な格闘の祈りだったと思うのです。イエス様はまず正直な願いをぶつけ、「父よ、御心なら、この杯(十字架)をわたしから取りのけてください」と祈られました。当然の願いです。しかし「御心なら」とおっしゃっています。私たちも「御心ならば、このようにして下さい」と祈りたいのです。

 イエス様はさらに踏み込んで祈られます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」ここにイエス様の強い覚悟が出ています。「最後はあくまでも父なる神様のご意志に服従します」、という決意の表明です。これこそ祈りの最終目標です。迫力ある祈りです。私たちも先ほど「主の祈り」で、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りました。「神様が喜ばれることが、既に天において行われているように、地でも行われますように」という祈りです。「私たちをそのために用いて下さい」という意味でもあるのです。父なる神様の御心は、イエス様が私たち皆の罪を背負って十字架で死ぬことです。イエス様はご自分を献げ物となさるのです。私たちも、イエス様ほどはできないかちと思いますが、聖霊に助けられて神様の御心を行いながら生きるのです。

 (44節)「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」「苦しみもだえ」とは、「レスリングする、組み打ち・格闘する」ということだそうです(左近淑『だれも奪えぬ自由』教文館、1996年、114ページ)。全身全霊を注ぎ出す祈りをなさったのです。私は、創世記32章でイスラエルの先祖の一人ヤコブが、神様ご自身と格闘した場面を連想します。塚本虎二先生とおっしゃる無教会の伝道者が訳された新約聖書では、「汗が血のしたたりのようにポタポタ地上に落ちた」と訳されているそうです(同書、115ページ)。生々しい訳で、その様子が目に浮かぶようです。「いよいよ切に祈られた」は、ある聖書では、「ますます熱意を込めて」、「ますます真剣に」と訳されているそうです(同書、115ページ)。賀川豊彦牧師は、シャツに血の斑点がついた経験をお持ちだと三浦綾子さんの『新約聖書入門』(光文社文庫、2012年、194ページ)に書かれています。きっと全力で祈られたときの経験なのでしょう。私たちはなかなかそこまで祈ることができない自分の弱さを残念に思います。

 (45節)「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」イエス様がただならぬ様子であることに弟子たちも気づき、弟子たちなりに祈りで応援しようと思ったでしょうが、睡魔に打ち勝つことができませんでした。私たちも睡魔になかなか勝つことができません。イエス様だけは睡魔に打ち勝って、徹夜の祈りを祈りきられたのです。イエス様は非常に意志の強い方です。荒れ野の誘惑の時も、何と40日間も、昼も夜も断食なさったのです。そして十字架の苦難から逃げ出さず、耐え通して下さったのです。私たちのためです。本当に感謝です。

 本日の旧約聖書は創世記22章です。有名な場面であり、大変な場面です。ここに登場するアブラハムもまたイエス様に似て、父なる神様に全力で従った人です。神様は、アブラハムの神様に従う信仰が本物かどうかお試しになります。神様は、ヨブに与えた試練にも似た試練をアブラハムにお与えになります。神様が与える試練は、人間をいじめるためのものではないはずです。自己中心的な私たちを、神様と心を一つにして清く生きる人になるように鍛える目的で、神様は試練をお与えになるのではないでしょうか。アブラハムほどの試練を経験していないわたしが、創世記22章を説教する資格があるとは到底思えませんが、立場上、僭越ながら説教させていただいています。ヘブライ人への手紙12章10節以下の御言葉が思い出されます。「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」アブラハムは純粋な清い信仰に生きるようにと、神様から鍛錬されたのです。

 神様は、私たちが耳を疑うことをアブラハムに命じられます。(2節)「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つの登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 ある日本人の牧師が御自分の息子に「もりや君」という名前をおつけになったことを知っています。私はその「もりや君」としばらく教会生活を共にしました。きっと神様に献げるという意味で、「もりや君」と名付けられたのではないかと思います。

 神様は、神様の約束によってやっと生まれたイサクを、「焼き尽くす献げ物」として献げることをお命じなったのです。焼き尽くすのですから殺して献げるのです。常識的にはあまりにも残酷な命令です。アブラハムが「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」神様を愛しているかどうか、その純粋さが試されたのではないでしょうか。神様から与えられたイサクですから、神様にお返しすることが求められたのではないでしょうか。これはアブラハムだけのことではないのです。すべてのものは神様のものです。私たちの命も神様のものですから、神様が喜んで下さるようにこの命を使い、そして神様にこの命をお返し致します。礼拝に出席することは、自分を神様にお返しすることです。そして平日も、ささやかでも神様の御心を行い、自分を献げて生きたいのです。

 ルターは「アブラハムは真っ青になった」と言っているそうです(左近淑先生の前掲書、19ページ)。私たちの人間の自然の感情からはそうだろうと感じられますが、但し聖書にはアブラハムの気持ちは全く書かれていませんので、アブラハムの本当の心境は分かりません。アブラハムは直ちに神様に従うのです。(3節)「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」

 イサクは何も知らされていません。イサクは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を背負います。この姿は十字架を背負うイエス様を暗示するとも言えます。イサクは、父親と一緒に小羊を焼き尽くす献げ物として、神様に献げに行くと思っていたのでしょう。しかし様子が変であることに気付いたはずです。小羊がいないのですから。イサクは、自分が献げ物になることに気付いたに違いありません。しかし逃げ出しません。父アブラハムと神様を絶対的に信頼し、自分のすべてをゆだねます。イサクも見上げたものです。十字架の上で最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られたイエス様にも似て、イサクは自分の命を父アブラハムと神様にすべて預けます。私たちも地上の人生を終えるときは、信頼を込めて神様に自分のすべてをおゆだねし、お預けするのです。神様は信頼に値する方ですから、大丈夫です。

 アブラハムも神様を絶対的に信頼して、イサクを本気で屠ろうとします。イサクを神様にお返しするのだから、神様がイサクの命を受け取って下さる、だから丈夫だという絶対の信頼がありました(もちろんだからと言って、私たちが自分の子を殺すことが求められているのではありません。誤解なさらないで下さい)。 9~10節で緊迫が頂点に達します。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に乗せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」ここまでで神様は、アブラハムの深い信仰と神様への愛を、よしと認めて下さいました。すんでのところで天使が介入するので、私たちはほっとします。(11~12節)「そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。(名前を2回呼びかけることは、非常に重要な呼びかけであることを意味します。)彼が『はい』と答えると御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしに献げることを惜しまなかった。』 アブラハムが、神様に本当に純粋に従う人であることが証明されたのです。

 神様はアブラハムにイサクをお返しになりました。アブラハムもイサクも本当に鍛えられ、ますます神様への信頼を深める親子となりました。アブラハムは真に厳しい試練を受けましたが、イエス様はもっと厳しい試練をお受けになりました。イサクはすんでのところで助けられましたが、イエス様は十字架から生きて降りることはなかったのです。イエス様は十字架の上で、本当に献げ物となられました。イエス様が、私たちのすべての罪を背負って十字架で死なれることが父なる神様の御心でした。イエス様は御心に服従し切られたのです。十字架の上には、厳しさだけがありました。イエス様はそれに耐えきられました。父なる神様も天で、最愛の独り子を孤立無援の十字架で苦しめ、死に至らせる悲痛に耐えておられました。父なる神様が大きな犠牲を払われ、父の最愛の独り子イエス様が十字架に進んで下さったことにより、私たちの罪が赦されました。

 その十字架に進む決意を、イエス様はオリーブ山での祈りで不動のものとされたのです。人間として十字架を避けたい正直な気持ちに打ち勝って、父なる神様に服従することを選ばれたこの祈り。最も崇高な祈りです。私たちも祈りによって、自分の身勝手な気持ちに打ち勝ち、イエス様に従う歩みに進ませていただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-08-04 12:19:36(月)
「信仰が無くならないように祈った」 2014年8月3日(日) 平和聖日礼拝説教
朗読聖書:ヨブ記2章1~13節、ルカによる福音書22章24~34。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」(ルカによる福音書22章32節)

 イエス様と弟子たちが、「過越の食事」をなさいました。その席でイエス様は、新しい食事を制定する言葉を述べられました。聖餐の制定の言葉です。イエス様はパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われました。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」 イエス様は全力の思いを込めて、こ餐制定の言葉を述べられました。何しろイエス様はあと数時間もすると捕らえられてしまうのです。十字架は本当に目前です。しかし弟子たちは、それを全く認識していませんでした。ですから次のような情けない議論を始めてしまいます。

 本日の最初の24節。「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」女性はあまりこのような議論をなさらないでしょうが、男性は本能的にこのような議論が好きです。男性にとっては出世が生き甲斐であることもあります。わたしが神学生だったときに、神学校で修養会がありましたが、講師の加藤常昭先生が、「君たちは教会の底辺に立て」と言われたことを思い出します。弟子たちのレベルの低い議論を聞いてイエス様は言われます。25~27節「異邦人(真の神様を知らない人)の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」

 イエス様はマルコによる福音書10章でもほぼ同じことを言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子(イエス様)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 そしてイエス様は自ら弟子たちの汚れた足を洗って下さいました。その出来事はヨハネによる福音書だけに記されています。イエス様が弟子たちの足を洗われたのは十字架にかかる前の晩の木曜日です。今日のルカによる福音書は同じ木曜日の出来事を語っていますが、イエス様が弟子たちの足を洗われたことは書いていません。それでも同じ木曜日の出来事です。教会ではこの木曜日を洗足木曜日と呼び、礼拝などの集会を行います。東久留米教会では毎年祈祷会を行っています。カトリックでは、神父様が信徒の方々の足を洗うとも聞きます。イエス様は弟子たちの汚れた足を洗って、奉仕の生き方を身をもって示して下さいました。そしてその奉仕の人生のクライマックスが十字架の死です。イエス様が世界の王でありながら、私たち罪人(つみびと)を愛して、罪人のために仕えて下さる方です。

 ルカによる福音書22章28~30節。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」イエス様はここで感謝しておられます。情けない議論をする弟子たちではあっても、イエス様が種々の試練に遭われたとき、絶えずイエス様と一緒に踏みとどまってくれた、と。イエス様がこれまでにお受けになった試練とはどのような試練なのか、たとえば安息日の生き方を巡ってファリサイ派の人々に憎まれたことなどを指すのではないかと思います。そのようなとき、弟子たちはイエス様と共に行動したのです。イエス様と困難を共にする人は、イエス様と栄光をも共にします。使徒パウロも、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と述べています。

 イエス様はこの世界の真の王ですが、政治的な王とは違います。威張る王ではなく、むしろ最底辺に立ってすべての人に奉仕して下さる王、神の国の王です。十字架にかかって苦しい死を死なれ復活されたイエス様が、世界の真の王であることが誰の目にも明らかになるときは、イエス様がもう一度おいでになる再臨のときです。その時、神の国が完成し、イエス様と苦難を共にした弟子たちも、イエス様と共に王座に着く光栄を受けます。殉教の死を遂げるまでにイエス様に従ったクリスチャンたちも、全ての涙を拭われて、父なる神様より大いなる報いを受けます。イエス様に従い通す人々は、地上では報われないこともあります。しかし神の国において確実に光栄を受けるのです。そして今、イエス様は最大の試練の時を迎えておられます。

 (31~33節)「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」闇が力を振るう時が来たのです。父なる神様が、悪魔が暴れることを一時的に許可されました。悪魔が猛威を振るうのです。それはいつまでもではありません。神様が悪魔にストップをかけるときが必ず来ます。そのときまで、弟子たちは耐えなければなりません。シモンとはイエス様の一番弟子ペトロです。ペトロをはじめとする十二弟子のイエス様に従う気持ちが本物かどうか、試されるときが来たのです。イエス様ご自身も試されます。父なる神様に従う信仰が本物かどうか試されるのです。もちろんイエス様は従い通されます。しかし弟子たちの信仰はまだ弱いのです。ヨハネだけはイエス様の十字架の下までついて行きますが、あとは皆いなくなってしまいます。ペトロも十字架までついて行くことができないのです。イエス様はペトロ自身もまだ知らない、ペトロの弱さをよく知っておられます。そこでペトロのためにあらかじめ、特に祈っていて下さったのです。ペトロはイエス様の執り成しの祈りのお陰で、辛うじて立ち直ることができるのです。イエス様はそこまで見通しておられます。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペトロと同じように挫折するほかの9人の弟子たち(ユダは残念ながら立ち直ることができません)が、イエス様の弟子としての生き方を再開できるように力づけ、励ますのです。

 そこで、とりなしの祈りについて考えてみましょう。祈りに関する名著とされる『祈りの精神』という本の中で、著者のイギリス人P.T.フォーサイスという人は、「最悪の罪は祈らないことである」(フォーサイス著・斎藤剛毅訳『祈りの精神』ヨルダン社、1986年、13ページ)と述べ、「とりなしの祈りの霊的価値は絶大である」(111ページ)と述べています。共にすばらしい言葉です。イエス様はペトロのためにとりなしの祈りをなさり、今も天におられて、私たちの信仰が無くならないよう、とりなしの祈りを献げていて下さいます。

 旧約聖書・エゼキエル書22章30節に「石垣の破れ口に立つ者」という言葉があります。 神様がこうおっしゃいます。「この地(イスラエルの地)を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことはできなかった。」 その頃、イスラエルの民は、貧しい人々を苦しめ、寄留の外国人を不当に抑圧するなど、悪いことを行って神様に逆らっていました。神様は、このような罪と悪を「破れ」と呼んでおられます。「わたしはわが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。」「石垣の破れ口に立つ者」とは、そこに立ってイスラエルの民のために神様にとりなしの祈りをする人です。「神様、どうかこのイスラエルの民の罪を赦してください」と必死にとりなす人がいないと、神様はこの民の上に厳しい審判をお下しになります。そこでどうしてもとりなしの祈りをする人が必要なのです。ところが、石垣の破れ口に立ってとりなしの祈りをする人を一人も見つけることができなかったと、神様が驚いておられるのです。

 中近東の古代の町は石の城壁で囲まれていました。戦争のときは、城壁の中に立て籠ったのです。しかし攻撃側が城壁に穴を開けます。そこから敵が突入します。守る側はその穴を何としても塞がなければなりません。命がけで穴を塞ぐ人々が必要です。破れ口に立つということは、文字通り相手に直面し、体と命を張る行動です。とりなしの祈りもそれに似ているのです。民の破れ(罪と悪)のところに立って必死で神様に赦しを乞うて祈るのです。そのように祈る人が本当に必要なのです。

 イエス様はペトロのために全力でとりなしの祈りを献げて下さいましたが、聖書にはほかにもとりなしの祈りを献げる信仰者たちが登場します。たとえばアブラハムは、邪悪な町ソドムのためにさえ(甥のロトがソドムに住んでいたからでもありますが)懸命にとりなしの祈りを献げました。アブラハムは破れ口に立った人です。創世記18章を見ましょう。アブラハムは神様に訴えます。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずほございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」すると神様はアブラハムの訴えに耳を傾けて下さり、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」 アブラハムはさらに食い下がります。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」神様はお答えになります。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」

 アブラハムはなお祈ります「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」神様も応じます。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」アブラハムは勇気を出してさらに述べます。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」神様は寛容にお答えになります。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」アブラハムは聖なる神様にここまでお願いしてよいのかという緊張感に押しつぶされそうになりながら、さらに迫ります。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。~主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」神様は忍耐強く、「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。~その十人のためにわたしは滅ぼさない」とお答え下さいます。こうしてアブラハムの必死のとりなしの祈りは終わるのです。しかしソドムには十人の正しい人がいなかったのでしょう、神様は邪悪な町ソドムを滅ぼしてしまわれるのです。ある説教者は、「なぜアブラハムは五人、一人まで迫らなかったのだろうか」と言っています。そこまで迫ったら神様が何とお答えになったか分かりませんが、アブラハムにとってはここまでで限界だったのでしょう。「破れ口」に立って祈ることは、命懸けなのです。

 詩編106編23節には、イスラエルの民のために全力でとりなしの祈りを献げたモーセのことが書かれています。
「主は彼ら(神様に逆らったイスラエルの民)を滅ぼすと言われたが
主に選ばれた人モーセは/ 破れを担って(神様の)御前に立ち
 彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」

 モーセは本当に忍耐強い祈りの人、愛の人です。モーセがシナイ山で神様から尊い十戒を授かっていたとき、イスラエルの民は早速、金の子牛と造るという大きな罪を犯していました。早くも第一と第二の戒めに違反したのです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」「あなたはいかなる像も造ってはならない。」この大きな罪のために、民のうちの3000人が死にました。モーセは神様のもとに行って訴えます。まさに破れ口に立ってとりなしの祈りをするのです。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書(永遠の命の書)から消し去ってください。」モーセは、「イスラエルの民の罪が赦されないのであれば、自分の名前が永遠の命の書から消し去られても構わない、自分の永遠の命と引き換えにしてもよいから、イスラエルの民の罪を赦して下さい」と、破れ口に立って本気で祈ったのです。モーセは完全無欠の人ではありませんが、民数記は、「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」(12:3)と記しています。地上で最も謙遜な方はイエス様ですから、モーセは歴代で2番目くらいかもしれません。

 三浦綾子さんの自伝小説『道ありき』に、婚約前の三浦光世さん(後のご主人)が綾子さんの病床で、「神様、わたしの命を堀田さん(三浦綾子さんの旧姓)に上げてもよろしいですから、どうかなおしてあげてください」と祈られ、三浦綾子さんがその祈りに「激しく感動」なさったと書かれています(『道ありき』新潮文庫、1991年、243ページ)。これも命が懸かった祈りです。

 モーセは兄アロンと姉ミリアムに非難されたことがあります。すると神様がモーセのために怒って下さいました。神様もモーセを深く信頼しておられたのです。神様はミリアムを裁かれ、彼女を重い皮膚病にかからせ、雪のように白くなさいました。驚いたアロンがモーセに懇願します。「わが主よ。どうか、わたしたちが愚かにも犯した罪の罰をわたしたちに負わせないでください。どうか、彼女を、肉が半ば腐って母の胎から出て来た死者のようにしないでください」と。モーセはミリアムを恨まず、彼女のためにとりなしの祈りを献げます。「神よ、どうか彼女をいやしてください」と。神様はモーセの祈りを聞き入れて下さったのです。モーセの寛容さが分かります。モーセこそ
「破れを担って(神様の)御前に立ち
 彼ら(イスラエルの民)を滅ぼそうとする主の怒りをなだめた」人です。

 本日の旧約聖書は、ヨブ記2章です。神様にとってヨブは自慢の信仰者でした。(3節)「主はサタンに言われた。『お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」4~5節でサタンが神様に挑戦します。「サタンは答えた。『皮には皮をと申します。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありえせん。』」 6節で、神様がサタンに、ヨブに試練を与える許可を出されます。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」サタンはヨブを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられたのです。それに対するヨブの信仰は見事なものでした。神様を信じる姿勢がぶれないのです。ヨブはこう述べます。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか。」ただ、その後ヨブも次第に強く自己主張するようになり、神様に叱られ、ヨブは悔い改めます。 ヨブは、神様にもっと強く叱られた友人たちのためにとりなしの祈りを献げます。 ヨブ記42章8節で神様がこう言われます。「わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。…」ヨブも執り成しの祈りをした人なのです。

 もちろん、最大のとりなし手は、私たち全員の罪を背負って十字架で死んで下さったイエス様です。イエス様の十字架を予告するイザヤ書53章の12節にこう書かれています。「多くの人の過を担い、背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」イエス様は十字架の上でこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」とりなしの祈りです。イエス様の十字架の死こそ、最大のとりなしの行為です。この十字架のお陰で、世界の罪が赦され、世界は未だ滅ぼされず、存続することを許されていると思うのです。イエス様の十字架によるとりなしがなければ、この世界は罪のためにもっと早く滅んでいたのではないでしょうか。

 私は、「クリスチャンの祈りがこの世の滅びを防いでいる。この世を支えている」という言葉を読んだことがあります。これは少しおこがましい言葉かもしれません。本当に世の滅びを防いでいるのは、イエス様の十字架のとりなしとイエス様の祈りだからです。ですがクリスチャンも、イエス様のお手伝いをして、自分以外の人々を思ってとりなしの祈りを献げます。そのことによってこの世の罪(破れ)を少しでも繕おうとしていることは事実だと思うのです。ヒットラーに抵抗したボンヘッファーというドイツの牧師は、「キリスト者の交わりは、その成員相互のとりなしの祈りによって生きるのであって、それがなければ、その交わりはこわれてしまうであろう」と書いています(ボンヘッファー著・森野善右衛門訳『共に生きる生活』新教出版社、1991年、82ページ)。教会は、メンバー相互のとりなしのいのりによって生きるのであって、それがなければ崩壊するというのです。私たちもとりなしの祈りをさらに盛んにしたいものです。 

 私は20年ほど前に東京・神田のギリシャ正教の教会・ニコライ堂の土曜日の晩祷に出席したことがあります。日曜日の礼拝に備えて、司祭・助祭・信徒が約1時間、立ったままで共同の礼拝(祈り)を献げるのです。日曜日はさらに長く1時間半ほどの皆立ったままの礼拝があると聞いた記憶があります。疲れた人は座ってもよいのです。土曜日は助祭とおぼしき方が、(私の記憶では)30分くらい祈りの式文によって延々ととりなしの祈りを献げ続けられました。信徒の方々(ロシア人らしき方が多かった)もそれに心を合わせて祈っていました。これだけ気合を入れてとりなしの祈りを長時間献げているのであれば、確かにこの祈りがこの世界を支えているに違いないと思わされたのです。神様はもちろん私たちのとりなしの祈りをも聞き入れて下さいます。ますますとりなしの祈りに励む東久留米教会となりたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。


2014-08-01 20:12:18(金)
8月の聖書メッセージ 「はだしのゲンの平和メッセージ」
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」
        (イエス・キリスト。新約聖書・マタイ福音書5章9節)

 ある市の小中学校において、一昨年12月に亡くなった中沢啓治さんのまんが『はだしのゲン』に閲覧制限がかけられましたが、その後、撤回されるということが昨年ありました。撤回されて本当によかったと思います。

 『はだしのゲン』は、原爆被害を受けた後の広島で、たくましく生きる少年ゲンを主人公にした作品です。戦争反対がメッセージです。中沢さんは書いています。「戦争と原爆のことだけは、忘れてはいけない~。『戦争は人間のもっとも愚かな業』というのがぼくの持論です。戦争はきっと、忘れたころにまたやってきます。~それを阻止する力を結集しなくちゃいけないと思っています。~人類にとって最高の宝は平和です。」(中沢啓治『はだしのゲン わたしの遺書』朝日学生新聞社、2013年、202~203ページ)。

 戦争の苦しい記憶が日本人から薄らぐと、次の戦争に向かって前進してしまう恐れがあります。その意味で、忘れることは罪深いことです。最近の日本の雰囲気は、「戦争絶対反対」ではなく、「場合によっては戦争もやむを得ない」に傾きつつあるのではないでしょうか。このようなあいまいな態度では、ずるずる戦争に引き込まれる恐れがあります。そうではなく、「隣国との戦争は絶対にしない」と日本全体で強く決意し続けることが必要です。

 『はだしのゲン』のテーマの1つは「麦」だそうです。「もう緑は生えない」と言われた原爆投下後の広島に、麦の芽が出たのを見て、ゲンの母親がゲンたちに言います。「おまえたち、いつもとうさんがいうとった麦になるんだよ。ふまれてもふまれても強くまっすぐにのびる麦に…」(前掲書215ページ)。この麦の芽は希望の芽です。私たちも、平和への希望を失わず、「平和を実現する」ために、自分にできることを精一杯行いたいものです。平和の主イエス・キリストに祈りつつ。 アーメン(「真実に、確かに」)。