日本キリスト教団 東久留米教会

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2022-11-12 23:45:23(土)
「更にまさった故郷、天の故郷」 2022年11月13(日)召天者記念日礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書6:27~29,頌栄24、「主の祈り」,交読詩編16,使徒信条、讃美歌21・514、聖書 創世記22:9~12(旧約p.31)、ヘブライ人への手紙11:13~22(新約p.415)、祈祷、説教、讃美歌21・532、献金、頌栄27、祝祷。 

(創世記22:9~12)  神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

(ヘブライ人への手紙11:13~22) この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

(説教) 本日は、聖徒の日(召天者記念日)礼拝、降誕前第6主日の礼拝です。本日の説教題は「更にまさった故郷、天の故郷」です。新約聖書は、ヘブライ人への手紙11章13~22節です。11章全体の小見出しが「信仰」です。信仰とはどのようなことかを示し、実際に信仰に生きた旧約聖書の多くの人々が信仰に生きた実例を多く語り、今信仰に生きている私たち、信仰に生きようとしている私たちを励ます内容です。

 今日の最初の13節。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。」「この人たち」とは、旧約聖書に登場するアベル、エノク、ノア、アブラハムと妻サラです。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたもの(天国)を手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」信仰とは、天国と永遠の命をいただく真の希望と言い換えることができます。彼らは信仰という真の希望を抱いて、この地上の人生を歩んだけれども、この地上では神様が約束されたもの(天国)を完全な形で受けることはできなかった。地上の人生は、苦労の多い人生だった。しかし彼らは、地上の人生の後で、神様が約束された希望(天国、永遠の命)を間違いなく受けることを知っていたので、それをはるかに望み見て、地上でも喜びの声を上げていたのだ、と語られています。その意味で私たちの信仰は、先取りの信仰です。現実は苦しいことが多いけれども、最後の最後には天国という永遠の祝福が約束され、用意されていることを信じる信仰だからです。希望を先取りしています。この11章の1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確認し、見えない事実を確認することです」と書いてある通りです。

 「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」もちろん、地上が仮住まいとは言っても、地上の人生を責任をもって生きることは非常に大切です。しかし、地上の人生が最終ゴールでなく、天国・神の国が最終ゴールであることは事実です。そのためには、真の神様に従い、真の神の子イエス・キリストに従って生きることが重要になります。地上の人生には、様々な浮き沈みがあるでしょうが、あくまでも目指す所は、天の国と信じます。旧約聖書の代表的な信仰者の一人アブラハムも、そのように生きました。アブラハムの生き方を特徴づけたのは、祭壇と天幕です。アブラハムは行く先々で祭壇を築きました。真の神様を礼拝し、礼拝を非常に大切にしました。アブラハムは遊牧民的に生きました。一か所に定住するより、移動しながらのテント生活だったようです。テント生活は、仮住まいの生活です。礼拝と天幕(テント)の生活。これが信仰者アブラハムの生き方です。私たちも同じです。日曜ごとに教会堂に集まって(あるいは今はオンラインで)真の神様を礼拝します。そして地上にどこまでもしがみつくのでない意識で、生活します。テントでなく建てた家に住んでいたとしても、それも実は一種のテントでの仮住まいです。礼拝と天幕(テント)。私たちもアブラハムと同じで、この2つを生活に土台にして生きて行きます。天国を目指して。

 14節「このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」人は皆、無意識の内に、真の故郷を捜し求めているのではないでしょうか。私たちの命を造って下さった真の神様が、私たち皆の真の故郷です。昔、アゥグスティヌスという有名なクリスチャンが言った言葉が思い出されます。「神様は私たちの心を神様に向かって造られたので、私たちは神様の元に帰らないと、真の平安を得ることができない。」実に味わい深い言葉です。

 そして、その真の神様が用意しておられる天国が、私たちの帰るべき真の故郷です。すべての人がそれを知って、真の神様と神の子イエス様を信じ、あらかじめ真の故郷を明確に知って準備しておくことが必要です。イエス・キリストは十字架に架かる前に弟子たちに、ヨハネ福音書14章でこう語られました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる。」そしてイエス様は、さらに言われたのです。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父(父なる神様)の元に行くことができない。」これは重大なメッセージです。「イエス・キリストを通らなければ、誰も父なる神様の元(天国・真の故郷)に行くことができない。」そこでぜひ今、時のある間に、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、信じることが、ぜひ必要です。ぜひそうしてほしいと、父なる神様と神の子イエス様が、今この時も私たちに呼びかけ、私たちを招いておられます。この招きにぜひ応えましょう。私たちプロテスタント教会では、人生を終えて天国に行くことを「召天」(天に召される)と言いますが、カトリック教会で「帰天」と言いますね。「召天」もよいですが、「帰天」もなかなかよい言葉です。天国という真の故郷に帰ったということですね。帰天、天国に帰った。

 15節「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。」アブラハム(最初の名前はアブラム)の故郷は、カルデアのウルという所です。今のイラクと思います。アブラムの父テラは、アブラムたちを連れてウルを出発し、ハランという所に来て、テラは死にました。神様がアブラハムに呼びかけます。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」75才のアブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、全財産を携え、ハランで加わった人々と共に、カナン地方(イスラエル)に向かって出発し、カナン地方に入ったのです。アブラムは、「私が示す地に行きなさい」という神様の御言葉に聴き従った、服従したのです。信仰とは、神様のご意志に聴き従うことでもあります。イエス様を救い主と信じたけれども、聴き従うことは一切しない、というわけにはゆきません。日常の小さなことから、神様に聴き従いたいものです。

 神様が私たちに願われることは、私たちが神様を愛して礼拝し、神様に愛されている自分を正しく愛し(決して、エゴイズムをよしとするのでなく)、隣人を愛することです。アブラムは、神様を愛していたので、神様の御言葉し服従し、約束の地カナンをめざして出発し、カナンに到着しました。生まれ故郷のウルに帰ることは一度もありませんでした。そしてアブラムの信仰の旅は、続きます。それはカナンに着いて終わりではなく、神の国・天国をめざす人生という旅です。私たちも古い自分から、新しく出発します。古い罪深い自分から出発して洗礼を受け、神様を礼拝し神様に祈り、神様に聴き従う新しい生き方へと出発します。罪を犯して罪とも思わなかった古い自分とできるだけ決別し、イエス様に支えられて天国をめざす人生に入って行きますし、多くの皆さんは既に入っておられます。罪を罪とも思わなかった悪しき古い生き方に逆戻りしないで、礼拝しながら清き天国をめざします。

 15~16節「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」故郷というものは懐かしいものですが、アブラムは、地上の故郷よりもっとすばらしく、もっと懐かしい天の故郷を熱望していました。「だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都(天国)を準備されていたからです。」神様は私たちのために、都(天国)を準備しておられるのです。

 17~19節「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子(独り息子のイサク)を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなた(アブラハム)の子孫と呼ばれる』と(神様から)言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」

 これは旧約聖書・創世記22章の有名な場面です。本日はその中心部分を朗読していただきました。神様がアブラハムの信仰を試された場面です。神様はアブラハムの子孫にカナンの地を与える、アブラハムの子孫を通して地上の全ての氏族に祝福を及ぼすと約束しておられました。その約束を担う子イサクは、25年後にようやく誕生し、アブラハムとサラの夫婦は、安心して喜んだのです。ところがそのイサクを献げなさいとの、神様の不可思議な命令が下ります。独り子イサクを「焼き尽くす献げ物として献げなさい。」屠って、殺して献げなさいというのです。イサクが死ねば、イサクを通して全氏族を祝福する神の約束が不可能になってしまいます。それに25年間待って、やっと生まれた約束の子を失うことは、アブラハムとサラ夫婦にとって耐えがたいことです。しかしアブラハムは従います。「きっと神様がイサクを復活させて下さるから大丈夫た」という余裕しゃくしゃくの平安な気持ちだったとは、私は考えにくいと思います。どんな気持ちだったのか。やはり必死の気持ちだったと思います。どうなるのか具体的には分からないが、きっと神様が何とかして下さるに違いないと自分に言い聞かせて、神様に従ったのだと思います。創世記22章9節以下。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私(神様)に献げることを惜しまなかった。』」アブラハムが神を畏れる・畏れ敬う者であることが今分かった。これは最高の褒め言葉です。アブラハムは、神様のテストに合格したのです。

 このかなり辛い信仰上の試練を通されて、アブラハムの信仰はますま純粋になり、練り清められ、アブラハムは神様への信頼をますます深めたと思います。これはイエス様の十字架の死と復活に少し似ている、イエス様の十字架と復活の前触れのような体験です。ヘブライ人への手紙は書きます。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。~アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」新約聖書は、このアブラハムの信仰に、神様が死者を復活させることができると信じる復活信仰(あるいはその芽生え)が含まれていると教えてくれます。「そうだったのか!」と目を開かされ、新鮮な驚き覚えます。イサクの場合は、死ぬ寸前で死なずにアブラハムに返されましたが、イエス様の場合はもっと厳しい経験です。十字架で私たち全員の全部の罪を背負って、完全に死なれ死者の国に降られ、三日目に父なる神様によって復活させられたのです(復活の体を伴って)。父なる神様は、ご自分に従う者たちを清めて鍛え、ご自分の神聖さにあずからせるために鍛錬を与えることがありますが、最後の最後には必ず復活、永遠の命、天国という最高の祝福をもって報いて下さいます。それでこのヘブライ人への手紙は、次の12章で、結論的に私たちに勧めます。「私たちもまた、このようにおびただしい証人の群れ(アブラハム、イサクたち信仰者の群れ、礼拝後にお写真をご紹介する東久留米教会の歩みの中で天に召された方々をも含む)に囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」

 私の神学校時代の同級生のK牧師(男性。私より8才年上)が、驚いたことにこの8月21日に天に召されました。友人の牧師が知らせてくれたのですが、大宮方面の教会の牧師で、葬儀は家族と教会員のみでしたが、前日に親しい関係者のための地上でのお別れ(天国で再会する時までの一時的なお別れ)の時が用意され、私も行ってお祈りして参りました。3年間闘病していたとは知らなかったのです。その牧師の愛唱聖句がプリントされ、渡されました。フィリピの信徒への手紙3章12~14節です。イエス様の弟子・使徒パウロの言葉です。「私は、既にそれ(天国)を得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のもの(天国)に全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」実はK牧師は、5年ほど前の夏に、東久留米教会の礼拝に出席して下さいました。以前は、ご夫婦で伊豆高原教会の牧師でした。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生がご隠退後は伊東市に家を建ててお住まいでしたから、浅野先生ともお知り合いでした。浅野先生がその後、伊豆高言十字の園というキリスト教のホームに入られ、私が訪問した時(8年ほど前)、ホームの受付にいると、外から私に手を振って下さるご夫婦がおられ、「え? 一体どなただろう」と思って見ると、近所の教会のK牧師ご夫妻でした。そのようなことを想い出します。「K先生、早すぎるよ」と申したい気持ちです。

 そのフィリピの信徒への手紙の同じ3章の少し先には、こう書かれています。「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。」私たちが死んでも、復活の体を与えて下さる約束です。パウロは、一度天国に入る、特別な恵みを経験したようです。コリントの信徒への手紙(二)12章でこう書いています。「私はキリストに結ばれていた一人の人を知っていますが(パウロ自身)が、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。~彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表し得ない言葉を耳にしたのです。~あの啓示されたことがあまりにもすばらしいからです。」楽園(天国)は「あまりにもすばらしい」所だったと言っています。キリストを信じて亡くなった方は、今そこにおられます。地上に残された者は寂しいですが、天に行かれた方々については何の心配も要りません。私たちもいずれそこに入れていただきます。急いで行く必要はありません。地上で神様がよしとされる時まで、伝道の責任を果たさせていただき、時が満ちたら、天に入れていただきましょう。アーメン(真実に)。

2022-11-05 22:48:12(土)
「恐れることはない」 2022年11/6(日)東久留米教会創立61周年礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書6:頌栄28、「主の祈り」,交読詩編74,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・390、聖書 出エジプト記14:10~18(旧約p.116)、ヨハネ福音書6:16~21(新約p.174)、祈祷、説教、讃美歌21・462、献金、頌栄27、祝祷。 

(出エジプト記14:10~18)  ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」

(ヨハネ福音書6:16~21) 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。

(説教) 本日は、降誕前第7主日の礼拝です。本日の説教題は「恐れることはない」です。聖書は、ヨハネによる福音書6章16~21節です。小見出しは「恐れることはない」です。6章はとても長い章で、6章の全体のテーマは、「イエス・キリストこそ永遠の命のパン」ということです。本日16~21節には、そのことは直接出て来ません。イエス様が何と湖の上を歩かれたこと、そして湖の上で漕ぐことに苦労していた弟子たちが乗った舟が、イエス様の守りによって目指す地に着いた出来事が記されています。

 最初の16節「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。」湖はもちろんガリラヤ湖(別名ティべリアス湖)です。新約聖書の元の言葉ギリシア語で、湖は海と訳すこともできます。海の中には多くの生き物が生きていますが、聖書では海はしばしば、混沌とした所(混乱していて無秩序な所)、レビヤタンと呼ばれる怪物の住む所、悪魔が支配する所、死が支配する所です。確かに現実の海にも、そのような面があります。11年前の東日本大震災で、私たち日本人は津波の恐ろしさを、強烈に示されました。弟子たちが湖畔に下りて行ったとは、弟子たちがそのような場所に行ったということです。

 17節「そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。」マタイ福音書4章によると、カファルナウムはイエス様が住んでおられた町です。弟子たちはきっと、イエス様がカファルナウムに行かれたと思って、カファルナウムを目指したのだと思います。舟はご存じの通り、聖書ではしばしば教会の象徴、シンボルです。その代表は、ノアの箱舟でしょう。池袋には、ノアの箱舟を模したと思われる会堂を持つ教会があります。弟子たちが乗ったこの舟も、教会を象徴しています。「既に暗くなっていた。」それだけで私たちは十分不安になります。私たちは電気のある生活をしていますが、イエス様の時代にはもちろん電灯はありません。電灯が全くつかない真っ暗の状態に置かれれば、私たちはやはり不安になると思います。月明かりや星の光に多少の安らぎを得ることはあるでしょうが。時は夕方から夜に差し掛かっています。聖書では夜もまた、悪魔の暗躍する時を象徴すると言えます。「イエスはまだ彼らのところには、来ておられなかった。」私たちにとって、これは困ります。イエス様に早く来ていただく必要があります。18節「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。」マタイ福音書14章は「逆風」と書いています。強い逆風だとすると、これは舟の上の人々にとって大きな困難、大きな試練です。

 19節「25ないし30スタディオン(約4.6~5.6km)ばかり漕ぎ出したところ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。」暗くて誰だか分からないのですから、黒く見える人影が近づくのを見て、弟子たちの心は動揺し、不安と恐れでいっぱいになったでしょう。私たちも驚きます。湖水の上を歩くなど、普通の人間にできるわけがありません。イエス様はやはり神であり、神の子なのです。自然界全体をお造りになり、ガリラヤ湖も造ったお方なので、ガリラヤ湖の上を歩くこともおできになります。湖は海と言ってもよく、混沌(混乱)、悪魔、死の力のシンボルです。その上を歩くイエス様は、悪魔の誘惑と死の力に完全に勝利した復活のイエス様だと言ってよいですね。

 20~21節「イエスは言われた。『私だ。恐れることはない。』そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」「私だ」という言葉が大切です。元のギリシア語で「エゴ―・エイミー」です。これまでに礼拝で何回も聞いたと思い出される方々もおられると思います。エゴーというとエゴイズム(自己中心)という言葉を連想する方もあるでしょう。でもエゴーはギリシア語で単純に「私」の意味です。「エゴ―・エイミー」は英語にすると単純に「アイ アム」です。「私は存在する」とか「私は〇〇だ」の意味です。この「エゴー・エイミー」が重要なのは、旧約聖書の出エジプト記3章14節と深く関連するからです。そこには、聖書の神様の自己紹介が記されています。「神はモーセに、『私はある。私はあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「私はある」という方が、私をあなたたちに遣わされたのだと。』」神様がご自分のことを「私はある」という者だ、と自己紹介しておられます。旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、それをギリシア語に訳した旧約聖書があり、それにはこの「私はある」が「エゴー・エイミー」と訳されています。つまりイエス様の発言「私だ」と、出エジプト記での神様の自己紹介「私はあるという者だ」は、両方とも「エゴー・エイミー」で全く同じです。「私だ」とおっしゃったイエス様は、モーセに自己紹介なさった神様ご自身です。もう少し正確には、父・子・聖霊なる三位一体の同じ神様なのですね。イエス様が神様ご自身であり、神の子なので、ガリラヤ湖の上を自由自在に歩き回ることがおできになります。

 この「エゴー・エイミー」の言葉を、イエス様はヨハネ福音書で何回も使っておられます。「私は〇〇だ」という言い方は全部そうです。たとえばこのヨハネ福音書6章35節でイエス様が「私が命のパンである」と宣言しておられますが、これは元の文では「エゴー・エイミー」の直後に「命のパン」とおっしゃっていて「私が命のパンである」の意味です。8章12節の「私は世の光である」も、「エゴー・エイミー 世の光」です。他にもいろいろあります。「私は良い羊飼いである。」「私は復活であり、命である。」「私はまことのぶどうの木」である。これらの宣言は皆、イエス様の本質を言い表しています。そしてそれぞれの中に「エゴー・エイミー」の言葉が含まれているので、「私は神だ」という宣言をも含んでいるのです。神様はこのヨハネ福音書を読んでこれらの宣言を聞く私たち皆に、「だから真の神、真の神の子イエス・キリストを自分の救い主と信じて、永遠の命を受けなさい」と、愛を込めて、今日も力強く呼びかけておられるのです。21節「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」イエス・キリストの力が、逆風の力、悪魔の力、死の力に勝利し、舟を(つまり教会を)目指す地(それは最終的には神の国、天国)に到達させて下さったのです。困難な時には、祈ってイエス・キリストの助けを求め、イエス・キリストに信頼しなさい、ということと信じます。

 本日の旧約聖書・出エジプト記14章は、少し似た場面です。有名で劇的な場面です。神様に選ばれた民イスラエルが、エジプトでの奴隷状態から脱出する場面です。エジプトの国が神様に裁かれたため、エジプト王ファラオは、イスラエルの民にエジプトから出て行くように命じました。そうしないとエジプト人が皆、死んでしまうと思ったのです。壮年男子だけで約60万人のイスラエルの民が、エジプト脱出へ向かいます。ところがファラオは、暫くすると考えを一変させます。「しまった、イスラエルの民を労役から解放して去らせるのではなかった。」エジプト軍が、イスラエルの民を追いかけます。14章10節から。「ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後から襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。『我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。』」13節以下、「モーセは民に答えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。』」 「恐れてはならない。落ち着いて、主なる神様に信頼しなさい」と語られたのだと、私は受けとめます。「神様に信頼しなさい」だと。

 神様はさらにモーセに言われます。16節以下「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、私はエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、私はファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。私がファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、私が主であることを知るようになる。」この通りになり、神様の偉大な愛の力によって海の水は分かれ、イスラエルの民は乾いた所を進んで、エジプトを脱出することができたのです。後を追って来たエジプト軍に上に、水は流れ返り、エジプト軍は全滅しました。こうして神様の偉大さが明らかにされ、神の栄光が現わされ、エジプト人は(イスラエル人も!)、「私が主であることを知るように」なりました。この神様が、全宇宙をお造りになった真の主であることを、皆が知るに至ったのです。ヨハネ福音書で、イエス様が荒れる湖で、弟子たちの乗る舟を目的地に到達させたことも同じで、これによりイエス様が真の神、自然界全体の主どであることが示され、神の子イエス様の栄光と、父なる神様の栄光が現わされました。

 皆様も人生の中で、神様に様々に助けられて来た経験をお持ちと思います。私が思い出すのは、この会堂を建築した時のことです。前の会堂を取り壊したのが2010年10月頃で、この会堂が完成したのが2011年7月頃だったと記憶しています。ヴォーリズ建築事務所に設計等を依頼しました。取り壊す前に、土地を測量し直したところ、ごく一部ですが、教会名義になっていない部分があることが分かり、その部分を買い取ろうということになりました。ところが相手は安く売ってはくれないと分かり、どうすればよいか等で、教会内でもいろいろな意見が出て、暫く建築計画の進展が止まりました。ヴォ―リズ社は教会建築の経験が豊富で、「どこの教会の建築でも、いろいろな困難が発生する。何年もかかった例もある。しかし完成に到達しなかった経験は一度もない」と言って励まして下さいましたが、しかし私たちの会堂建築の困難は、解決しなければ建築は進みません。半年くらい止まったように記憶していますが、最終的には皆様の大いなるご協力と、神様の助けによって、課題を正攻法で解決し、その後も小さな問題は生じましたが、解決しながら進み、その後は割に順調に進みました。しかし敷地の問題の解決には、私の記憶では半年くらいを要し、「建築完成という向こう岸、目指す地に、本当に到達できるのだろうか?」と、不安を感じた時期があったことは確かです。しかし、皆様の大いなるご協力と、神様の助けによって、献堂式という向こう岸、目指す地にたどり着くことができました。どの教会でも経験なさることと思いますが、この会堂が完成するまでにも、ドラマがありました。

 古い会堂を取り壊す前には、礼拝堂の会衆の皆様が座る長椅子・ベンチを、遠くの教会に差し上げました。それを先方の教会が大きなトラックで受け取りに来られたのですが、普段であれば、そんな大きなトラックがこの狭い道に入ることはできません。ところが、今の私から見て左側のお宅が、前の方が引っ越されて、今の方が入る前に、前の家を解体して更地になっていました。そこも利用させていただいてトラックに入っていただき、無事10個くらいのベンチをトラックに積み込んで、先方の教会に運んでいただくことができました。左のお宅の場所が更地でなかったら、できませんでした。ちょうどその時に更地だったのは、神様の愛の奇跡であって、神様の応援だと、その時、深く実感した次第です。神様を信頼してよいのだと。

 旧約聖書・歴代誌下20章の出来事をご紹介します。日頃から、真の神様を真心こめて礼拝し、真の神様に従うように心がけていれば、ピンチの時に必ず助けて下さいます。ヨシャファトという王が南ユダ王国を治めていた時、モアブ人・アンモン人・メウ二ム人の一部が、大軍で攻めて来ました。この大ピンチにヨシャファト王は恐れ、真の主なる神様を求めることを決意し、ユダの全ての人々に断食を呼びかけ、神様に助けを求めて祈るように要請しました。ヨシャファト王は、主の神殿でイスラエルの民の中で、こう祈りました。「私たちの先祖の神、主よ。あなたは天います神、異邦人の国を全て支配しておられる方ではありませんか。御手には力と勢いがあり、あなたに立ち向かうことのできる者はいません。~もし私たちが裁きとして剣、疫病、飢饉などの災いに襲われたなら、この神殿にこそ御名がとどめられているのですから、この神殿の前で御前に立ち、苦悩の中からあなたに助けを求めて叫びます。あなたはそれに耳を傾け、救って下さい。~私たちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、ただあなたを仰ぐことしかできません。」その時、神様に仕えるレビ人のヤハジエルという人に神の霊(聖霊)が降り、彼はこう語ります。「主はあなたたちにこう言われる。『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。~あなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。ユダとエルサレムの人々よ、恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる。』」

 ヨシャファト王も人々に言います。「あなたたちの神、主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる。」ヨシャファトは民と協議し、主に向かって歌を歌い、主の聖なる輝きをたたえる者たち(聖歌隊)を任命し、彼らに軍の先頭を進ませ、言わせました。「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」彼らが喜びと讃美の歌を歌い始めると、主は攻めて来た敵に伏兵を向けられたので、敵は敗れました。そして敵は同士討ちをして自滅しました。神様が戦って下さったので、イスラエルは勝ち、大ピンチを脱しました。神様に信頼していたからです。但し、イスラエルの民が神様に従っていなくて、逆らっているときには、負けるようです。

 イエス様の弟子たちは、真っ暗な湖の上で恐れでいっぱいでした。イエス様は十字架の上で、もっと深い絶対の孤独と絶望を経験されたと思います。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。最も深い闇の経験をなさった方なので、試練の中にいる私たちを慰め、助けることがおできになります。イエス様の使徒パウロは、ローマに行く前に、地中海で遭難しそうになりました。パウロを含め、276人が乗っていた船が暴風雨に巻き込まれ、何日も太陽も星も見えませんでした。パウロは囚人なのに、人々を励まします。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。私が仕え、礼拝している神からの天使が昨夜私のそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せて下さったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に告げられたことは、必ずその通りになります。私たちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」その通りになりました。

 以前、東久留米教会に西森さんという、シベリア抑留から帰って来た方がおられました。今は天国です。西森さんがおっしゃったのですが、「私がシベリアから日本に帰って来た時に思ったことは、神様が私に『あなたにはまだ使命がある』とおっしゃっているのだと理解した」と、言われました。私たち使命がある限り、神様はこの地上でピンチを乗り越えさせて生かして下さいます。パウロもそうでした。その後も、死という海を無事渡り切って、神の国、天国という向こう岸に必ず到着させて下さいます。この神様の約束に信頼して、ご一緒に地上で精一杯、使命を果たさせていただきましょう。アーメン(真実に)。

2022-10-29 20:32:06(土)
「神様の恵みを無駄にしない」 2022年10/30(日)初めて聞く方に分かる礼拝(第54回)
順序:招詞 使徒言行録4:29、頌栄85(2回)、「主の祈り」,交読詩編なし,使徒信条、讃美歌21・467、聖書 ヨハネ福音書6:1~15(新約p.174)、祈祷、説教、讃美歌21・377、献金、頌栄92、祝祷。 

(ヨハネ福音書6:1~15)
 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第54回)、教会のカレンダーでは降誕前第8主日です。本日の説教題は「神様の恵みを無駄にしない」です。聖書は、ヨハネによる福音書6章1節~15節です。小見出しは「五千人に食べ物を与える」です。

 最初の第1節と2節を見ます。「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティべリアス湖の向こう岸に渡られた。「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」しるしは、イエス様がなさった奇跡で、病人たちを癒して下さった奇跡もしるし、そして今日の場面で五千人の男たちをパン五つと魚二匹で満腹にして下さった奇跡も、しるしです。何のしるしかと言うと、イエス様が神の子であることを証明するしるしです。奇跡、しるしの1つ1つにイエス様の愛がこもっているので大事ですが、もっと大事なことは、私たちがイエス様のしるし1つ1つを見て、「ああ、このイエス様こそ真の神の子」と信じることです。私たちがイエス様を神の子と信じるために、このヨハネ福音書は書かれたのです。このヨハネ福音書の終わりの方、20章の最後に「本書の目的」の小見出しがあり、こう書かれています。「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシア(救い主)であると信じるためであり、また信じてイエスの名により命(永遠の命)を受けるためである。」今日の「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」を行っているのも、この説教を聞いて下さる全ての方が、イエス・キリストをご自分の救い主と信じてクリスチャンになっていただくためなのです。

 3節「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。」山は高い所ですから天に近い所、旧約聖書以来、神様に近い場所です。山に登られたイエス様のお姿に、私たちは神の子の権威を感じるのではないでしょうか。モーセはシナイ山に登って、十戒を授けられました。イエス様はマタイ福音書5~7節で、いわゆる「山上の説教」を語られました。場所はガリラヤです。イエス様が、このヨハネ福音書6章で登られた山は、もしかすると同じ山かもしれません。

 4節「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。」過越祭は、かつて神の民イスラエルが、神様の愛によってエジプトから脱出した恵みを記念し感謝する祭り、ユダヤ人にとって重要な祭りです。このヨハネ福音書で、過越祭という言葉は3回出て来ます。1回目は2章13節「ユダヤ人の過越祭が近づいたので~。」2回目が今日の6章。3回目が18章28節、イエス様の十字架の十字架の日の明け方です。過越祭は年に一回春にあり、ヨハネ福音書では3回の過越祭の時期が描かれている。そこでヨハネ福音書では、イエス様は「丸2年間+しばらくの期間」、伝道なさったことになります。そしてヨハネ福音書では、過越祭が重要な意味を持っています。旧約聖書でイスラエルの民がエジプトを脱出する直前、小羊を屠って(殺して)その血を家の入り口と二本の柱と鴨居に塗ったイスラエルの家の上を、神様の正しい裁きが通り過ぎましたが、小羊の血を塗らなかったエジプト人の家には、神様の正しい裁きが下りました。つまり小羊がイスラエルの民の罪を身代わりに背負って死んだことになります。これが出エジプト記のエピソードですが、ヨハネ福音書はイエス・キリストこそ、「真の身代わりの小羊」だというメッセージを私たちに訴えています。過越祭の時期が3回も描かれるのですが、過越祭となればイスラエル人は、イスラエルの罪を身代わりに背負って屠られた小羊を連想するので、ヨハネ福音書は、イエス・キリストこそ、私たち(イスラエル人だけでなく外国人を含む)全て人の全部の罪の責任を身代わりに背負って十字架で死なれた真の過越の小羊だと訴えています。

 5~7節「イエスは目を上げ、大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしておられるか知っておられたのである。フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた。」当時の一日分の賃金が1デナリオンだそうです。仮にそれを5000円とすれば、二百デナリオンは100万円です。イトーヨーカ堂でロールパン6個が入った袋を約100円で売っています。100万円だと6万個のロールパンを買うことができる計算です。10節には、男たち5000人がいたと書かれています。女性、子ども含めると1万5000人から2万人いたでしょう。仮に2万人いたとすると一人にロールパン3つ渡せます。それは二百デナリオンあればのことで、それがないのですから、パン3つはおろか、パン1つも渡せない現実だったはずです。

 8~9節「弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』」ふつうパンは小麦で作ったそうです。少年が持っていたのは大麦で、大麦で作るパンは、特に貧しい人々が食べたそうです。小麦のパンを手に入れることができない特に貧しい人々が大麦のパンを食べたそうです。この少年も非常に貧しかったことになります。大麦のパン五つと魚二匹しか持っていなかったでしょう。しかしイエス様がこの少年を愛して彼に目を留め、感謝の祈りを唱えて、この大麦のパン五つと魚二匹を祝福して下さいました。すると驚くべきことが起こり、男だけで5000人、もしかすると全体では2万人にまで及ぶかもしれない群衆が満腹したのです。

 10~11節「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」この少年は、自分が持てる全てだったと思われるパン五つと魚二匹を、イエス様と群衆に献げ物として献げました。イエス様は少年の献げ物を喜んで下さいました。ルカによる福音書21章に貧しいやもめが、客観的にはわずかと言える献金を神様にした場面がありますが、イエス様はその時言われたのと同じ思いを、この少年にも抱かれたと思うのです。イエス様はやもめにこう言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、誰よりも沢山入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

 イエス・キリストは私たちの小さな力、私たちのささやかな献げ物や賜物を祝福して、イエス様の聖なるご計画を進めるために用いて下さいます。旧約聖書の箴言10章22節の御言葉を思い出します。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」「人間を豊かにするのは、主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」神様の祝福、神様の愛が群衆を満腹にしました。とは言っても、大ごちそうを食べたわけではなく、基本的に質素な食事と思います。

 神様は旧約聖書でも、同じような恵みを与えておられます。エジプトを脱出したイスラエルの民に、神様は日曜日から金曜日までの六日間、毎朝マナという食物を一日分ずつ与え続けて下さいました。土曜日は安息日で、マナを探して取りに行くことも禁じられていたので、神様は予め前日の金曜日に二日分のパンを与えて下さいました。それでも人々は不満を言いました。民数記11章に記されています。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、ねぎや玉ねぎやにんにくが忘れられない。今では、私たちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで何もない。」神様は聖なる怒りを発揮され、「肉を与えよう、吐き気を催すほどに」と言われます。リーダーのモーセが「私の率いる民は男だけで60万人います」と言い、この大人数に肉を沢山与えるためには、一体どうすればよいのしょうか、「無理ではありませんか」というニュアンスのことを言います。すると神様は「主の手が短いというのか」と言われます。「神様には不可能はない」と言われたのです。神様が風を起こし、海の方からうずらが大量に運ばれて来ました。民は大喜びでかぶりついたのですが、神様に打たれて死ぬ人々が出ました。そこは「貪欲の墓」と呼ばれたと書いてあります。彼らの場合は不平不満を言ったので不幸な結果になりましたが、イエス様の目の前の群衆は本当に弱っていたので、イエス様が憐れんで五つのパンと二匹の魚を増やして、愛をもって養って下さいました。神様の深い憐れみです。神様の手は短くなく、力強いのです。

 再び旧約聖書を見ると、このような事例があります。列王記下4章の預言者(神様のメッセージを語る人)エリシャのエピソードです。エリシャの仲間の一人が亡くなり、妻と子どもたちが残され、生活不可能の危機に陥りました。債権者が来て、二人の子どもを奴隷にしようとしていました。彼女がエリシャに助けを求めに来て、言います。「油の壺一つのほか、はしための家には何もありません。」エリシャは、「近所の人々皆から器を借りて来なさい。戸を閉めて子どもたちと一緒に閉じこもり、その器の全てに油を注ぎなさい。いっぱいになったものは脇に置くのです。」子どもたちが器を持って来ると、彼女はそれに油を注ぎました。器がどれもいっぱいになると、彼女は「もっと器を持っておいで」と言いましたが、「器はもうない」と子どもは答えました。油は止まりました。彼女がエリシャのもとに行って報告するとエリシャは、「その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子どもたちはその残りで生活していくことができる」と言いました。神様は困り果てて追い詰められていた女性と子どもたちを、こうして養い、救って下さったのです。神様は、真に憐れみ深い方なのです。

 イエス様は、少年が献げたパンを取り、感謝の祈りを唱えて、人々に分け与えられました。この「感謝の祈りを唱える」は、原文のギリシア語で「ユーカリステオー」という言葉(動詞)です。「ユーカリステオー」の中に「カリス」という言葉が含まれていますが、「カリス」は「恵み」の意味です。そして聖餐式(今日はありませんが)を英語で「ユーカリスト」と呼ぶことがあります。「ユーカリスト」、「感謝の祭儀」の意味だと思います。今日のイエス様による養いは、聖餐式そのものではありませんが、聖餐式を連想させる恵みの養いであることは確かです。今日の6章は長い章で、大群衆のお腹を満腹させて下さった憐れみから始まりますが、最終的には、明らかに聖餐式を思わせるイエス様の御言葉が終わりの方に出て来ます。実際私は、聖餐式の時にその個所を読んでいます。6章54節以下です。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる(聖餐式にあずかる人は、イエス様と一体になる)。生きておられる父が私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。これ(イエス様の体)は天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなもの(マナ)とは違う。このパン(イエス様の体)を食べる者は永遠に生きる。」

 このヨハネ福音書6章の最終メッセージはこのことです。今日の個所はその準備段階と言えます。しかし私たち肉体を持って生きている人間にとって、お腹を満たすパンも大切です。ですからイエス様は、群衆を深く憐れんで、お腹を満たして下さいました。12~13節「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。」もともとあった五つのパンより、集めたパン屑の方が多いと思えますから、これは確かにイエス様の愛の奇跡で、常識の物理法則を超えています。これほどの奇跡はイエス様でないと起こせませんが、私たちの日常生活でも「塵も積もれば山になる」ことは知っています。それに神様の祝福が加われば、こんな奇跡が起こるのですね。
 
 「少しも無駄にならないように。」食べ物は、特に神様の恵みです。感謝して、冷蔵庫の食べ物を極力無駄にしないように、私も気をつけているつもりです。地球の資源は、全て神様の恵みですね。感謝して食べたり用いさせていただき、くれぐれも欲望の任せて乱獲しないようにしたいものです。乱獲は貪欲の罪であり、神の尊い恵みを浪費する罪です。そうならないように、やはり食べ物はできるだけ捨てず、大切にする必要がありますね(食中毒の危険を冒すべきではありませんが)。最近はフードバンクがあり、食べ物を極力無駄にしない運動が始まっていることは、よいことと思います。

 14~15節「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」人々は、イエス様に王様になってもらえば、一生食べ物不足で苦労しないで済むと思ったのです。ところがイエス様には、この世の政治的な権力者の王になるつもりは全然なく、人々の願いを拒否して退かれました。人々の願いに、悪魔の誘惑を感じ取ったのです。マタイ福音書などを見ると、イエス様は伝道生活に入る前に、悪魔の誘惑を受けられました。悪魔の3つめの誘惑は、「私(悪魔)を拝むなら、これを(世の全ての国々の繁栄)みんな与えよう」です。悪魔を拝めば「世界中を思うままに支配させてあげる、あなたは栄耀栄華を極めることができる」と言ったのです。ところがイエス様は断固として、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」宣言し、悪魔と一切妥協せず、悪魔の言葉を100%退けたのです。それより前の1つめの誘惑に対してもイエス様は、旧約聖書の申命記を引用して「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と断固言われ、自分のために石をパンに変えて、飢えをしのぐことを拒否されました。ですが弱った群衆のためには、五つのパンと二匹の魚を用いて愛の奇跡を起こされました。それでもやはり「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」が重要です。神の言葉というパンが大事です。

 今日のヨハネ福音書より先の27節でイエス様は、追いかけて来た群衆に、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子(イエス様)があなた方に与える食べ物である」とおっしゃり、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と宣言されました。神様の御言葉のパンを宣べ伝えなさい、父なる神様がお遣わしになったイエス・キリストを救い主と信じて、永遠の命を受けなさい。お腹を満たすパンも必要だが、神の言葉のパンを食べ、イエス様による永遠の命を受けることが、最終的にもっと大切だ、と言われたのです。このメッセージを私たち皆が、心から受け入れて、イエス様に従って歩みましょう。アーメン(真実に)。

2022-10-22 19:19:25(土)
伝道メッセージ 10月分 石田真一郎(市内の保育園の「おたより」に石田が掲載した文章)
「神の業(わざ)が、この人に現れるためである」(イエス・キリスト。新約聖書・ヨハネによる福音書9章3節)。

 JR高田馬場駅近くに、点字図書館があります。私は3年前に一度行きました。創設者は本間一夫さんというクリスチャンです(本間一夫『点字あればこそ 出会いと感謝と』善本社より)。1915年に北海道に生まれた本間さんは、5才の時、高熱で失明されます。13才で盲学校に入り点字を習い、初めて自分で自由に読み書きできる、たとえようもない喜びを経験されます。ロンドンには蔵書17万冊の大点字図書館があると聞き、日本にも作ろうと決心します。

 将来は視覚障がい者の幸せのために働こうとの使命感に燃え、キリスト教主義の関西学院大学に学び、洗礼を受け、1940年に東京の雑司ヶ谷の借家に点字書700冊で日本点字図書館を開設。結婚後、空襲のため茨城県や郷里の北海道に疎開、1948年に焼け跡の高田馬場に15坪の木造の点字図書館を建てます。敗戦の日本を励ましに来たヘレン・ケラーに会って握手、大きな感動でした。運営は苦労の連続でした。全国の視覚障がい者から喜ばれているのに、インフレで職員の給与も払えず、行き詰まりの状態。でも神様はこの事業の意義を必ず認めて、道を開いて下さると信じて祈り、耐えます。事業は継承者によって、今も続いています。

 イエス様の時代、障がいは、罪に対する神の罰と考えられていました。イエス様はそれを否定され、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業(わざ)がこの人に現れるためである」(上記)と言われ、希望を与えて下さいました。本間さんはこの御言葉と、恩師の「正しい願いは実現する」の言葉に励まされました。本間さんは書き
ます。「失明は、確かに大きな不幸です。しかし、私の場合は(~)失明したればこそ、この特殊な事業に巡り合い、あとから来る後輩のために役立ちたいと、点字図書館ひとすじの道を歩みました。大きな幸せであり、感謝すべきことなのです。」「視覚障がいそのものはなくなりません。問題は日々生きていく視覚障がい者一人一人の幸せ感です。キリスト信
仰を持つか否かは決定的な分岐点となります。私はキリストとの出会いを感謝し、ゆるぎない信仰を持つことは、最高の幸せであると固く信じておるものです。私にとっては『失明もまた恩寵(神様の恵み)』なのです。」すごい人だと、ただ尊敬します。本間さんは天国に行かれましたが、皆さんもぜひ一度、点字図書館に行ってみて下さい(見学は一週間ほど前に要予約)。アーメン(真実に)。

2022-10-15 20:28:39(土)
「聖霊の結ぶ実は愛」 2022年10月16日聖霊降臨節第20主日礼拝説教
順序:招詞 使徒言行録4:29、頌栄28、「主の祈り」,交読詩編72,使徒信条、讃美歌21・16、聖書 出エジプト記20:1~17(旧約p.126)、ガラテヤの信徒への手紙5:16~26(新約p.349)、祈祷、説教、讃美歌21・342、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(出エジプト記20:1~17)神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

(ガラテヤの信徒への手紙5:16~26) わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行うい者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第20主日です。本日の説教題は「聖霊の結ぶ実は愛」です。新約聖書はガラテヤの信徒への手紙5章16節~26節です。小見出しは「霊の実と肉の業」です。イエス様の弟子・使徒パウロが書いたこのガラテヤの信徒への手紙を礼拝で読みながら、これは福音信仰の中心を記した、やはり重要な手紙だと再認識させられています。私たちの信仰、そしてキリスト者の自由とは何かを分からせてくれる手紙です。宗教改革者マルティン・ルターがとても重視した手紙だと聞いているのですが、それも「なるほどもっともだ」と思わせられます。

 パウロがこれまで懸命に語って来たことは、イエス・キリストが十字架に架かって死んで下さった恵みのお陰で、私たちの全部の罪が贖われ、解決され、赦されたという事実です。そしてイエス様は三日目に復活されました。もちろんこの罪の赦しの恵みを私たちが受け取るためには、へりくだってイエス・キリストを自分の救い主と信じて告白することが必要です。そして洗礼を受けることがとても推奨されます。これをまとめると「恵みのみ、信仰のみ」になります。私たちが罪の赦しと永遠の命を受けるのは、イエス様の十字架の犠牲の死と復活の恵みだけによる。それを自分のものにするにはイエス様を救い主と信じる信仰が必要なので、イエス様を救い主と信じる。これをまとめると「恵みのみ、信仰のみ」です。言い換えると、私たちが良い行いをすることで救われるのではない、ということです。これをプロテスタント教会が大切にする言葉で言うと「信仰義認」(信仰によってのみ、神の前に正しい者と認められる)になります。「信仰義認」の反対は「行為義認」つまり良い行いを積み重ねることで神様の前に正しい者と認められようとすることです。しかし私たちは罪人(つみびと)なので、どんな良い行いにも罪が紛れ込んでおり、良い行いを積み重ねることとで、神様の前に正しい者と認められることができません。従って「行為義認」は成り立たないのです。しかし感謝なことに、神様は、神の子イエス様の十字架の犠牲の死と復活によって、私たちが天国に入る道を開いて下さいました。それがイエス様を救い主と信じ告白することで救われる「信仰義認」の恵みなのです。私たちはイエス様を救い主と信じ告白する信仰によってのみ、罪と死の奴隷だった状態から解放され、自由にされ天国を約束された者となりました。

 そこまでを確認して、今日の個所に入ります。ここに書いてあるのは、イエス様を信じ、洗礼を受け、救いを与えられた後の、これからの生き方についてです。救われた後の生き方も、もちろん非常に大切なのですね。最初の16節「私が言いたいのは、こういうことです。霊(聖霊)の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉(自己中心、わがままの罪)の欲望を満足させるようなことはありません。」
イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神の清き霊である聖霊を注がれます。クリスチャン一人一人の内に、聖霊なる神様が生きて住んでおられます。ですからクリスチャン一人一人は、神に属ずる者になったのです。そしてイエス・キリストの体である教会の一員になりました。教会はキリストの体であり、イエス・キリストが頭、クリスチャン一人一人はその体の手や足、お腹、背中などです。大切なことは、不要な人が一人もいないということです。体のどの部分も皆、必要なのです。いずれにしても、クリスチャン一人一人は、その中に聖霊なる神様が住んでおられる極めて大切な一人一人です。

 私たちは洗礼を受けた時に、古い罪深い自分が死んだのです。古い罪深い自分がイエス様と共に十字架につけられて死にました。そしてイエス様と共に、新しい自分に復活したのです。そして聖霊を注がれました。神の子として新しく生まれたのです。洗礼は、第二の誕生日です。ですが現実には残念ながらまだ罪が残っているので、残っている罪(自己中心、わがままに生きたい自分)と戦うことが必要です。自力では勝ちきれません。そこで祈って聖霊の助けを受けることが必要です。日々聖書を読んで、神の言葉に導かれることが必要です。礼拝に出席して、神の言葉と聖霊によって清められることが必要です。聖餐式でイエス・キリストの聖なる体であるパンを食べ、イエス・キリストの聖なる血潮であるぶどう液を飲んで、心身の内側から清められることが必要です。そうすることで、「霊(聖霊)に従って歩む」ことが可能になると信じます。「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」少し罪を犯しても悔い改め、大きな罪を犯し続ける生き方にはなりません。天国を目指す生き方を続けることができます。私たちは洗礼を受けた時に、古い罪深い自分に死にました。今残っている罪は、私たちが死んで天国に入る時に、今残っている罪は全部死に絶えます。そして全く罪のない完全に新しく清い自分いなって、天国に誕生します。もちろん地上で十二分に長生きしてから天国にお入り下さい。その時に、私たちの残っている罪が完全に死んで、私たちは完全に新しく清くなって天国に誕生します。私たちの地上の死は、洗礼の完成であり、天国に新しく清く誕生する第三の誕生日です。

 今日の箇所では、「霊と肉」が対比されています。霊とは、聖霊に導かれて、神様を愛し、自分を正しく愛し(決してわがままをよしとすることでない)、隣人を愛して生きることです。イエス様のように生き始めることです。イエス様の霊である聖霊に助けられて、敵までも愛する生き方になってゆきます。肉とは、自分の悪い欲望そのままに、自己中心に罪を犯しながら生きることです。霊と肉は、正反対です。ですから17節には、こう書かれています。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立し合っているので、あなた方は、自分のしたいと思うことができないのです。」自分のしたいと思うことができないとは、心では清く生きたいと願いながらも、自分の中の罪に負けて、自己中心に生きてしまうことです。自分内部の分裂です。誰でも多かれ少なかれ、このような中にいると思います。自己中心に生きたい強烈な本能に打ち勝って、清く生きるためには、強い意志だけでは負けることもあるので、お祈りして神の清き霊である聖霊の助けを受けることが必要です。祈って聖霊に助けられて、私たちは1つ1つの誘惑に打ち勝ってゆくのです。負けることもあるでしょう。誘惑に負けて罪を犯した時は、悔い改めて、聖霊に助けられて、もう一回イエス様に従い直す決心をして立ち上がることが必要です。18節が私たちを励まします。「しかし、霊(聖霊)に導かれているなら、あなた方は、律法の下にはいません。」聖霊の導き、聖書の言葉の導きに従って、天国に向かう生き方を、生涯行ってゆきたいのです。

 19節は、聖霊に導かれる生き方の正反対(最近の言葉を使えば真逆)の生き方のリストです。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝(真の神でないものを礼拝すること)、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」「その他このたぐい」を除けば15の罪(悪)がリストアップされています。罪と悪のリストです。わいせつは、原語のギリシア語でポルネイアです。ポルノという言葉の語源です。ポルノももちろん罪です。「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、全ての罪を赦されて神の子とされた私たちの、心の中にもこのような罪は残っています。心の中に残ってはいても、この通りに行動しないように心の中の罪と戦う必要がありますし、聖霊によって心を少しずつ清めていただいて、心の中からこのような罪が減ってゆくように、日々祈る必要があります。

 22節が本日の中心聖句と言えます。「これに対して、霊(聖霊)の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」これを愛唱聖句として暗記しておられる方もいらっしゃるでしょう。ここには、聖霊の結ぶ実が9つ挙げられています。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の9つです。愛は原語でアガペーです。アガペーは神様の完璧な愛、イエス様の聖なる愛、敵までも愛する愛ですね。聖霊の結ぶ実が9つ挙げられていますが、この代表が愛(アガペー)で、あとの8つはこの愛(アガペー)に含まれると受けとめる人もおります。私たちの自力でこのようなすばらしい実を結ぶことはできません。私たちが聖霊を求めて祈って、聖霊によって少しずつ清められることで、少しずつ一生かけて、このようなすばらしい実を結ばせていただくと思います。ヨハネ福音書15章のイエス様お御言葉も、思い起されます。「私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」祈り、聖書を読むこと、礼拝によってイエス・キリスト、そしてイエス様の霊である聖霊につながっていないと、私たちはあの9つの実を結ぶことができません。自力では無理なので、ひたすら祈ってイエス様につながり、聖霊を受け続ける必要があります。聖霊は目に見えませんし、聖霊を受けても多くの場合は、何か体に感じることは少ないです。でも祈り続けていて、イエス様に従うように心がけていれば、特に聖霊を受けた感じがなくても、聖霊を受けていると信じて基本的に大丈夫です。

 24節「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉(自己中心の罪)を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」私たちが洗礼を受けた時に、古い罪深い自分が、イエス様と共に十字架につけられて死んだのですね。ですからパウロは、この手紙の2章20節で力強く述べます」「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」文語訳聖書では「我生くるに非ず。キリスト、わが内にありて生くるなり」です。

 25~26節「私たちは、霊(聖霊)の導きに従って生きているなら、霊(聖霊)の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのは、やめましょう。」聖霊の導きに従って前進しましょう、と勧められています。聖霊は、イエス様の清き霊ですから、聖霊は私たちを、「神様を愛し、隣人を愛する生き方」へと導くはずです。イエス様はこうおっしゃたのですから。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ福音書22章37~39節)。イエス様は、こうも言われました。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。これこそ律法と預言者(旧約聖書の教え)である。」聖霊の導きに従って前進するとは、特に変わったことをするのではなく、この御言葉に従って生きることと信じます。

 神様を愛し、隣人を愛する。これをもう少し具体的に知るために、改めてクローズアップされるのがモーセの十戒です。十戒には、神様を愛し、隣人を愛する生き方がもう少し具体的に記されているからです。私たちは新約聖書の福音の時代に生きているので、十戒を福音的にとらえ直す必要はありますが、聖霊に助けられて十戒が教える方向に生きることが大切と信じます。十戒の前半の四つの戒めは「神様を愛する生き方」を教え、後半の六つの戒めは「隣人を愛する生き方」を教えます。

 簡単に確認します。十戒の大前提は、神の民イスラエルを、エジプトでの奴隷状態から解放して下さった神様の愛です。この神様の大きな愛に応答する生き方が十戒に従う生き方になります。第一の戒め(旧約と新約の鉄則)「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」これは文語訳が一番原文のヘブライ語に忠実と思います。「汝、わが顔の前に、我のほか何者をも神をすべからず。」「わが顔(神の顔)」という言葉が原文にあるのですね。顔という言葉を「~の前に」と訳すことができるので、文語訳以外はそちらを採用して訳しています。「わが顔の前に」との訳を読むと、私たちが神様の目、神様の視線をいつも意識して生きることになります。そうすれば、悪いことはできません。神様は私たちの行動も心の中も、全部見ておられるからです。第二の戒めは4、5節です。「あなたはいかなる像も作ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるもの形も作ってはならない。あなたはそれらの向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。私は主、あなたの神、私は熱情の神である。」第三の戒めは7節「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」神様の聖なるお名前を敬いなさいということですが、福音的に受け取ると、「主の祈り」の最初の祈りと同じことと思ってよいです。「御名(神の名)を崇めさせたまえ」です。第四の戒めは8節以下「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」旧約時代の安息日は土曜日で、土曜日に神様を礼拝しましたが、キリスト教会は、イエス様が復活された日曜日に礼拝するように変えました。ここまでが、神様を愛する生き方。

 後半の六つの戒めが、「隣人を愛する生き方」を教えます。第五の戒めは12節「あなたの父母を敬え。」産みの親と育ての親が別の方である場合もあります。いろいろな事情で、父母を敬うことが難しい場合もあるかもしれません。親が子を虐待することもありますから。どうしても無理な場合は、神様も分かって下さるかもしれませんが、親から虐待を受けた等の場合を除いては、父母を敬うことが神様の御心と思います。 第六の戒めは「殺してはならない。」これにより、基本的に戦争は不可能になります。第七の戒めは14節、「姦淫してはならない。」配偶者以外との性関係の禁止です。第八の戒めは15節、「盗んではならない。」第九の戒めは16節、「隣人に関して偽証してはならない。」根拠のない悪口も罪です。第十の戒めは17節、「隣人の家を欲してはならない。」むさぼり、貪欲の禁止です。以上は禁止が多く、やや消極的な感じがあるかもしれません。しかし自力によってではなく、聖霊に助けられてこれらを行うように心がけ、さらにイエス様のように隣人を、喜んで積極的に愛する方向に進みたいものです。これはイエス様の十字架の愛に、私たちが応答する生き方です。

 何と言っても素晴らしいのは、私たち罪人(つみびと)の身代わりに十字架に架かって下さったイエス様の十字架の愛です。私は先週の火曜日に久しぶりに、入間メモリアルパークにある東久留米教会の墓地を見て参りました。地上の納骨部分の正面に十字架の形がデザインされているのを、改めて感謝をもって見つめて参りました。今年7月に天に召された、私ども夫婦に洗礼を授けて下さった牧師は、しばしばご自分の恩師のことを説教で語られました。比較的若く天に召されたその恩師である牧師の方は、受難節には首から釘をひもでぶら下げて生活し、祈り、伝道されたいたそうです。首から十字架を下げている人は少なくありませんが、その牧師は、イエス様の十字架を思う受難節には、首から釘をひもでぶら下げて生活し、祈り、伝道されていたと。イエス様の十字架の愛を心に刻み、観念ではなく実感しようという信仰の現れ、イエス様への感謝を愛の現れですね。十字架に架かって、私たちを罪と死の奴隷状態から解放して下さったイエス・キリストの愛に感謝し、喜んで応答する生き方へ、押し出されて進んで参りましょう。アーメン(真実に)。