日本キリスト教団 東久留米教会

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2022-09-18 1:24:49()
「隣人を自分のように愛しなさい」    2022年9月18日(日)礼拝説教
順序:招詞 コヘレトの言葉12:1、頌栄85(2回)、「主の祈り」,交読詩編69:17~37,使徒信条、讃美歌21・515、聖書 レビ記19:17~18(旧約p.192)、ガラテヤの信徒への手紙5:2~15(新約p.349)、祈祷、説教、讃美歌21・505、献金、頌栄92、祝祷。 

(レビ記19:17~18) 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

(ガラテヤの信徒への手紙5:2~15) ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第16主日の礼拝です。本日の説教題は「隣人を自分のように愛しなさい」です。新約聖書は、ガラテヤの信徒への手紙5章2節~15節です。小見出しは「キリスト者の自由」です。月一回ほど礼拝でガラテヤの信徒への手紙を読みたいと願いつつ、なかなかできなかったのですが、今回は前回から2週間で、ガラテヤの信徒への手紙を読むことができました。

 直前の1節で、著者のパウロは、こう述べます。「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」私たちがこれまでに犯した罪、私たちが今後の人生で心ならずも犯してしまう罪。イエス・キリストが私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って十字架で完全に死なれ、三日目に復活されました。このお陰で、私たちの本当に全部の罪が赦されたのです。その完全な赦しを受けるためには、私たちが自分を低くして罪を悔い改め、イエス様こそ救い主と信じて告白するだけでよいのです。何か立派な行いをする必要はありません。日本キリスト教団信仰告白でも、「神は恵みをもて、我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して、義としたもう」と告白している通りです。ただ、信じたしるしとして洗礼を受けることが推奨されます。

 すべての罪を赦されたということは、罪の支配から解放され、自由にされ、神の子されたことです。聖書によれば、私たちが罪を犯した結果が私たちの死なのですから、罪の支配から解放されたことは、死の恐怖から解放された、死から解放されたことです。イエス様が死から復活して、復活の体をもって天で生きておられるように、私たちも将来必ず復活の体をもって天で永遠に生き、永遠に父なる神様を讃美することになります。死から解放されたことを、新約聖書のヘブライ人への手紙2章は、こう書きます。イエス様が「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」二週間前の礼拝でも申し上げましたが、私たちはイエス様の十字架と復活の恵みのお陰で、次の5つから解放され、完全に自由な者とされたと。「律法、罪、死、悪魔、神の怒り」から完全に解放され、自由な者とされ神の子にされたと。これぞ、神の恵みによって与えられた「キリスト者の自由」です。パウロは私たちに語ります。「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と。
 
 そして今日の2節に入ります。「ここで、私パウロはあなた方に断言します。もし割礼を受けるなら、あなた方にとってキリストは何の役にも立たない方になります。」パウロが心配しているのは、ガラテヤ教会の人々が、奴隷の軛(支配、束縛)の下に逆戻りしかかっていることです。ガラテヤ教会に、非常にユダヤ主義的な人々が入り込んで来て、誤った教えを説いたのです。イエス様の十字架と復活の恵みの福音を信じる(信仰義認)だけでは足りない、と。実際は信仰義認だけで完全に足ります。しかしユダヤ主義者たちは、「旧約聖書で大事にされている割礼をも受けなければならない。割礼も受けないと、あなた方ガラテヤ教会の人々は救われない、天国に入ることができない」と。これは間違いです。しかしこれを聞いたガラテヤ教会の人々に動揺が走りました。「罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じる信仰だけでは、天国に入ることができない。割礼も受けようかな」と思い始めたのです。しかし天国に入るために、割礼は全く必要ないのです。イエス様の犠牲の十字架が、私たちを救う完全な力、効力を持っているのです。十字架だけで完全、十字架だけで十二分であり、他の追加は、ほんの少しも必要ないのです。何か割礼等の追加が必要なら、イエス様の十字架は救いのための完全な力ではないことになります。しかし全くそんなことはありません。イエス様の十字架が、私たち全ての人間の全ての罪を100%完全に贖いきった、償いきったのです。パウロも私たちも、ここは決して譲れない点です。

 3節「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」自分が救われるため(天国に入るため)割礼をも受ける人は、「イエス様の十字架に頼るだけでは足りない。律法を実行する自力にも頼る必要がある」と言うに等しい。そういう人は、十字架の恵みを放棄することになる。十字架の恵みを放棄するなら、律法(その代表は十戒)を実行することで自力で天国に入ろうとすることになる。律法主義への逆戻りです。その場合、律法を100%守らないと天国に入れません。99点でも天国に入れません。4節「律法によって義とされようとするなら、あなた方は誰であろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」「いただいた恵みも失う」は厳しい言葉で驚きますが、「イエス様の十字架にのみしっかり結びついて、決して離れるな」ということと信じます。

 5節「私たちは、義とされた者の希望が実現することを、霊(聖霊)により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」これは「信仰によってのみ義とされた者」(私たちは皆そうです)の希望(神の国が完成すること、信仰者たちが復活の体を与えられること)が実現することを待ち望んでいる、ということと思います。6節「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」クリスチャンにとって割礼は、あってもなくても意味のないものです。パウロがここで割礼を受けるなというのは、割礼がほんの少しでも救いの根拠となるという考えを、完全に否定する必要があるからです。大切なのは、イエス様の十字架の贖いの死だけ、が私たちに完全な救いを与えると信じる信仰のみです。あくまで信仰が第一で、信仰の結果として愛の実践が生まれます。イエス様を救い主と信じると聖霊を受けるので、私たちの罪に汚れた自力によってではなく、あくまでも聖霊の助けによって、愛の行いという実を結ばせていただきます。

 パウロは、あくまでも「信仰によってのみ義と認められる」、「信仰義認」が神様から与えられた巨大な恵みなのだと強調しています。あくまでも信仰義認に踏みとどまりなさいと訴えています。7節~10節「あなた方は、よく走っていました(信仰義認に徹していた)。それなのに、いったい誰が邪魔をして真理(信仰義認)に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなた方を召し出しておられる方(神様)からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるものです。あなた方が決して別な考え(律法の実行によって義とされる)を持つことはないと、私は主をよりどころとして、あなた方を信頼しています。あなた方を惑わす者は、誰であろうと、裁きを受けます。」こう書いてパウロは、ガラテヤの教会の人々にも私たちにも、信仰義認の真理から迷い出ないように、「イエス様の十字架の贖いの死の恵みによってのみ私たちが、神の前に義と認められる」真理に踏みとどまるように、全身全霊で訴えるのです。私たちは、このパウロの訴えに聴き従います。

 11節「兄弟たち、この私が、今なお割礼を宣べ伝えているとすれば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまづきもなくなっていたことでしょう。」割礼を宣べ伝えていれば、パウロはユダヤ主義者から大歓迎されたでしょう。しかしパウロは、十字架につけられたイエス・キリストだけを宣べ伝えました。十字架は、ユダヤ人にとって「神の呪い」を意味しました。旧約聖書の申命記21章に、「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」と書かれています。ユダヤ人・イスラエル人は、この「木」を十字架のことと理解したのでしょう。ユダヤ人は「十字架に架けられた死体は、神に呪われたもの」、従って十字架に架けられたナザレのイエスは、神に呪われた者だ、と信じていたはずです。パウロは「十字架のつまづき」と言います。「つまづき」は新約聖書の元の言葉ギリシア語で「スカンダロン」です。スカンダロンは、英語のスキャンダルの語源です。スキャンダルはご存じの通り、不祥事、とても恥ずかしい悪事、非常に強い抵抗感を与える事件等を指します。ユダヤ人、ユダヤ主義者にとって、十字架は「非常に強い抵抗感を覚えるもの」、「激しい嫌悪感を覚えるもの」でした。その十字架に架けられたイエス様こそ救い主と宣べ伝えてやまないパウロは、ユダヤ人から見れば正気を失った者に見えたでしょう。それでユダヤ人はパウロを迫害したのです。

 しかし真理を悟ったパウロは動じません。十字架は呪いではない。私の身代わりに十字架で死んで下さったイエス・キリスト! 十字架はイエス様の絶大な愛のシンボルなのです。誇り高いユダヤ人やユダヤ主義者に、それが分からないのです。大事なことは、誇り・プライドを捨ててへりくだることです。ユダヤ人とユダヤ主義者は誇り・プライドで心と頭がいっぱいになっていて、自分が救いを必要とする罪人(つみびと)であることが分からなくなっています。この誇り・プライドを捨ててへりくだれば、イエス様が私たちの全部の罪を身代わりに背負って、とことんへりくだって十字架に死んで下さった恵みが分かるようになります。私たちが救われて天国に入れていただくために必要なことは、誇り・プライドを捨ててへりくだり、十字架で死なれ三日目に復活なさったイエス様こそ、私の救い主と信じて告白することです。パウロは言います。「あなた方をかき乱す者たち(ユダヤ主義者)
は、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」それほど割礼が好きなら、思い切って去勢してしまいなさい。激しい言葉ですが、割礼が救いのために全く役に立たないこと、宇宙広しと言えども、イエス様の十字架の愛のみが、私たちに全部の罪の赦しと永遠の命を与える恵みの力を持っていると、パウロは真理を語るのです。

 13節「兄弟たち、あなた方は、自由を得させるために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」私たちはイエス様の十字架の身代わりの死によって、罪の奴隷だった状態から解放され、自由の身になりました。このことを絶えず意識し、繰り返しここに立ち帰ることが必要です。そして、この自由の用い方が大切です。この自由を、自己中心的に用いるのではなく、神様と隣人を喜んで愛して、神の栄光(すばらしさ)を現わす方向で用いなさい、とパウロは説きます。聖霊に助けられて、そう生き始めます。ここに「キリスト者の自由」が語られていますが、私たちはもう一度、宗教改革者マルティン・ルターが書いた比較的短い本『キリスト者の自由』の冒頭の2つの言葉を確認しておきましょう。先々週の礼拝でお話したばかりですが、何回でも読んで、自分のもの、自分の信仰にしたいものです。

「キリスト者は、全ての者の上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。」自由で解放されているのです。そして「キリスト者は、すべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する。」前半と逆のことを言っているようですが、理屈では矛盾するこの2つが、一体になっているのがキリスト者・クリスチャンです。全てのものから解放されているゆえに、今度は喜んで進んで、自由意志によって自発的にすべての方にお仕えするのがキリスト者だと言っています。イエス様に目を注ぐと、よく分かります。イエス様こそ、完全に自由な方です。天国で全てのものの上におられる王なのに、私たち罪人(つみびと)を愛するあまり、あえて進んでこの危険な地上に降って来られ、病気に苦しむ人々の病を癒し、弟子たちの汚い足を洗い、遂には私たちの汚い罪を全部身代わりに背負って十字架の死、どん底のどん底の死を遂げられました。このことが父なる神様によしとされ、イエス様は三日目に復活を与えられ、今も天で生きておられます。本当の自由が分からく成る時、私たちはイエス様の生き方を見れば、真に自由な生き方を見ることができます。

 14、15節「律法全体(旧約聖書全体)は、『隣人の自分のように愛しなさい』(本日の旧約聖書・レビ記19章18節)という一句によって全うされます。だが、互いにかみ合い、共食いしているなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」イエス様と同じように、「隣人を自分のように愛しなさい。」これも自力では無理なので、聖霊の力を受けて行い始めるのです。信仰によってのみ、神の前に義と認められる信仰義認は、変わりません。信仰によって義と認められた結果、愛という実りが生まれてきます。信仰が先にあり、神の恵みが先にあります。この順序は大切です。

 本日は、信仰義認の大切さを再確認致しました。「信仰によってのみ」義とされる。それはイエス様の十字架の恵みによってのみ義とされる。人間の善い行いによって義とされるのではないということです。善い行い、愛の行いは信仰の結果、生まれて来ます。私たちの救いは全く自力によらず、100%神の恵みのみによります。「信仰のみ」「恵みのみ」が、特にプロテスタントの合い言葉です(カトリックもそうであるはずです)。ガラテヤの信徒への手紙にはっきり書いてあるのですから。

 先週の第二礼拝で少しお話しましたが、私は今から8日前の9月10日(土)に、高校時代の友人(クリスチャンで22才で召天)のお墓(八王子)に行きました。毎年友人3~4名が集まります。今年は、高校1年生の時の担任の先生(牧師)も来て下さり、墓前でメッセージを語って下さいました。聖書を数か所引用されました。ローマの信徒への手紙3章23節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」エフェソの信徒への手紙2章8、9節「事実、あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」「恵み」「恵みのみ」「信仰のみ」によって彼も、他のクリスチャンも救われている。それを間違えてはいけない、というメッセージでした。彼の名前が「恵(めぐむ)君」なのです。彼の名前が「恵(めぐむ)」だということに、神様の深いお考え、彼への深いご配慮があったのかと、改めてその名前の意味を深く考えさせられました。彼が生まれる前から、神の恵みが注がれていたのではないか。悩みの多い彼の22年間の地上の人生だったけれど、神の恵みによってのみ、信仰によってのみ、彼は救われていたのだ。神の恵みによってのみ、彼は天国に入った。名前の通りに。私たちにとっても実は同じです。ただ神の恵みによってのみ、今私たちはここにいます。「恵みによってのみ」「信仰のよってのみ」救われています。イエス様の十字架の恵みの深さを、もっと実感しながら生きて参りたいのです。

(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、御名を讃美。イエス様の十字架と復活の大きな恵みによって、私たちを真の意味で自由な者として下さり、感謝致します。この自由を、神様と隣人に喜んでお仕えする方向で用いることができますように。コロナ、コロナ以外の病の中にある皆を、あなたが完全に癒して下さい。ウクライナが早く平和になりますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

2022-09-14 21:28:47(水)
伝道メッセージ(9月分) 石田真一郎(市内の保育園の『おたより』に掲載)
「わたし(イエス・キリスト)はあなた方を友と呼ぶ」(新約聖書・ヨハネによる福音書15章15節)。

 レーナ・マリアさんというスウェーデン人の歌手をご存じですか? 「愛のゴスペルシンガー」と呼ばれます。1968年生まれで、両腕欠損、左足が右足の半分の長さで誕生されました。原因不明です。でもクリスチャンの両親がいろいろチャレンジさせてくれ、明るく育ち、1988年のソウル・パラリンピック(水泳)に出場します。「私はハンディキャップに対して腹立たしく感じたり、悩んだことはありません。神様は、きっと何か特別な計画があって、私をこのように造られたのだと思います」(レーナ・マリア・ヨハンソン『マイライフ』いのちのことば社、1993年、39ページ)。障がいある方への福祉に熱心なスウェーデンに生まれたことも、神の恵みです。

 1991年にストックホルム音大を卒業し、テレビ朝日「ニュースステーション」で彼女の生活や讃美歌を歌う姿が放映され、「徹子の部屋」にも出演し、大きな反響を呼びました。翌年、東京の三鷹や大阪など10か所でコンサートを行い、明るい笑顔と澄んだ歌声に、超満員の聴衆は魅了されました。私も1995年頃、結婚前の妻と神宮でのコンサートに行きました。

 彼女が歌う讃美歌で、私が好きなのは「一羽の雀」(新聖歌285番)です。
「① 心くじけて 思い悩み/などて寂しく 空を仰ぐ/主イエスこそ、わがまことの友 (折り返し)一羽の雀に 目を注ぎたもう/主は我さえも 支えたもうなり/声高らかに われは歌わん/一羽の雀さえ 主は守りたもう ②心静めて 御声聞けば/恐れは去りて 委(ゆだ)ぬるを得ん/ただ知らまほし 行く手の道(折り返し)。」You Tubeでお聴き下さい。

 この歌の土台は、イエス様の言葉です。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽(200円ほどか)さえ、神がお忘れになることはない。それどころか、あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなた方は、たくさんの雀よりもはるかにまさっている(ルカによる福音書12章6~7節)」。神様は、最も小さい者を特に愛して恵みを注ぎ、東久留米と日本と世界の子どもたち一人一人を愛して下さいます。

 レーナさんは書きます。「私の讃美を通して、聴いて下さる方々に、私と共にいる神様(イエス様)をはっきり伝え、歌う目的と使命を完全に果たせるようになりたいものです。」その後、人生の様々な苦労を経験されたようです。ご苦労を経て、ますます深みを増した歌声になられたに違いありません。アーメン(真実に)。 

2022-09-11 0:38:07()
「あなたの息子は生きる」      2022年9月11日(日)礼拝説教
順序:招詞 コヘレトの言葉12:1、頌栄29、「主の祈り」,交読詩編69:1~16,使徒信条、讃美歌21・482、聖書 創世記1:1~8(旧約p.1)、ヨハネ福音書4:43~54(新約p.171)、祈祷、説教、讃美歌21・458、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(創世記1:1~8) 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

(ヨハネ福音書4:43~54) 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。


(説教) 本日は、聖霊降臨節第15主日の礼拝です。本日の説教題は「あなたの息子は生きる」です。新約聖書は、ヨハネによる福音書4章43節~54節です。小見出しは「役人の息子をいやす」です。

 この4章でイエス様は、サマリアという土地に行かれました。そこで一人のサマリア人の女性に、ご自分が真の救い主であると告げ、「私(イエス様)を信じなさい」と伝道されました。サマリアでは、多くのサマリア人が、イエス様を救い主と信じたのです。その後イエス様は、サマリアを出発して北に向かい、お育ちになったガリラヤに来られました。44節に「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」と書かれています。旧約聖書以来、神様から派遣された真の預言者は、真の神以外のものを礼拝する偶像礼拝者などに、「罪を悔い改めなさい」とはっきり語るので、人々から嫌われることが珍しくありません。耳ざわりのよいことを語るメッセンジャーは、しばしば偽預言者です。たとえば真の預言者エレミヤは、神様に忠実に語り続けて、人々にとって耳に痛いメッセージを語り続けたために人々に憎まれ、殺されかけています。

 45節「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭り(過越祭)に行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」2章を見ると、イエス様は過越祭の間エルサレムで、しるし(奇跡、複数形)をなさり、それを見て、多くの人々がイエス様を信じました。しかしイエス様は、彼らを信用されなかったとあります。「それは、全ての人のことを知っておられ、人間について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」と書かれています。奇跡を見たから信じたというのは深い信仰、真の信仰とは言えず、自分に都合のよいご利益だけを求める姿勢と言えます。ご利益さえ得ればよくて、真の神様に従っていこうという気持ちが薄いと言えます。イエス様は、そのような人々を信用されませんでした。

 ガリラヤの人たちがイエス様を歓迎したのも、エルサレムでイエス様がなさった複数のしるし(奇跡)を見たからです。それでは真の信仰とは言いきれません。イエス様は、イエス様を歓迎したガリラヤの人々をも信用なさらなかったと言えます。イエス様が彼らに、真の神様に従うように言えば、たちどころにイエス様を迫害する可能性があると思っておられたでしょう。「預言者は(正確にはイエス様は預言者以上の方、神の子ですが)は故郷では敬われない」と本心から思っておられたと思います。私はしばらく前の礼拝説教で、「エルサレムの人々はイエス様に敵対的だが、故郷ガリラヤはイエス様にとって安息の地」という意味のことを申し上げたと思いますが、訂正させて下さい。ガリラヤはイエス様にとって安息の地の面もあるが、同時にガリラヤにもイエス様に反発する人々もいたと。とすれば、イエス様がルカ福音書で「人の子(イエス様)には枕するところもない」と言われた御言葉が真実であったことが、分かります。神の子を受け入れない人間の罪が、多くの場所にあった。それでイエス様は十字架で殺されます。

 但し今日の場面は、そのガリラヤに、よい信仰の人もいたことを物語ります。しるしを見たから信じる表面的な信仰でない人もいたことが示されます。46節「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。」王とは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスかもしれません。その役人の名前は分かりません。僕がいるので、少し社会的地位がある人です。ガリラヤ人かなと思いますが、ローマ人の可能性もあるかもしれませんが、書いていないので分かりません。47節「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやして下さるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」イエス様は水をぶどう酒に変えられたと聞いていたかもしれません。「この方こそ救い主、神の子だ。この方ならいやして下さる」と信じ、必死にすがる思いでイエス様の元に来たに違いありません。

 イエス様は最初厳しいことを言われます。48節「あなた方は、しるしや不思議な業(奇跡)を見なければ、決して信じない。」イエス様は「見て信じる」信仰を信用しておられないのです。しかし役人は必死に訴えます。父親ですから当然です。「主よ、子供が死なないうちにおいで下さい。今すぐ来て息子をいやして下さい。」しかしイエス様は、行くとはおっしゃいません。50節「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」「あなたの息子は生きる。」確信に満ちた力強いイエス様の御言葉です。最新の翻訳である聖書協会共同訳は、「あなたの息子は生きている」と訳しています。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」この信仰が大事なのですね。見て信じるのではなく、見ないで信じる信仰。

 51節以下「ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、『昨日午後一時に熱が下がりました』と言った。それは、イエスが『あなたの息子は生きる』と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。」イエス様が癒して下さったと、この父親は確信しました。彼も家族も(家族と書いてある以上癒された息子も)こぞって信じた。イエス様が救い主であり、神の子であることをです。このヨハネ福音書は、この役人のように、「見ないで信じる信仰」こそ大切と強調しているのですね。

 この福音書の20章で、弟子の一人のトマスが、仲間の使徒たちが「私たちは復活されたイエス様を見た」と口々に言ったのに信じず、「私はあの方の手に釘をの跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と主張し、八日後に復活のイエス様がもう一度来られた時に、ようやく信じました。その時イエス様はトマスに、「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。「見ないのに信じる人」こそ幸いなのです。ここにいる私たちも、復活のイエス様を肉眼で見たことはありませんが、イエス様が復活して生きておられる救い主、神の子であると信じています。この信仰が幸いな信仰です。神様がこれからも、見ないでも聖書に書いてあるから信じる人々を、私たちの身の周りでまた世界中で、次々と起こして下さることを、切に祈ります。新約聖書のペトロの手紙(一)1章8節にこうあります。「あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」私たちは今既に、ある程度この状態に達していると思いますが、私たち皆が、さらに完全にこのようになれるように、神様に祈り求めます。

 信仰とは、基本的に見ないで信じることです。しかし納得いかないものを、無理やり信じ込むことではありません。最も信頼できる神様の御言葉、イエス様の御言葉、聖書の御言葉を信じることが信仰です。神様の御言葉、イエス様の御言葉には力があります。物事を創造する力、愛の力、造り出す力があります。ですからイエス様が「あなたの息子は生きる」と言われた時、息子は癒されたのです。旧約聖書のほとんど冒頭、創世記1章3節に、神様の第一声が記されています。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」神の御言葉には創造する(造り出す)力があります。神が「光あれ」と命じられると光が創造された、できたのです。旧約聖書のほとんどはヘブライ語で書かれていますが、私が教わったことによると、言葉という意味の言葉はヘブライ語で、「ダーバール」です。この「ダーバール」には「出来事」の意味もあるそうです。「言葉は出来事となる、言葉は出来事を引き起こす」ということを意味するのですね。「言葉=出来事」です。神様が「光あれ」と命じられると光が創造される。イエス様が「あなたの息子は生きる」と言われると、役人の息子に癒しの愛の力が働いたのです。

 新約聖書のヘブライ人への手紙11章1節に、おそらく聖書でただ一か所、「信仰の定義」が書かれています。「信仰とは何か」が書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」自分の(時には自分勝手な)願いが何でも必ず実現すると確信することではないと思います。そうではなくて、神様の約束の言葉は必ず実現する、神様の御心に適うことは必ず実現すると確信することと思います。その次にはこうあります。「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」そして昔の旧約聖書の時代の人々は、この信仰に立って神様を信頼し、神様に従って生きたので、神様に喜ばれたと書かれています。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、サムソン、ダビデ、サムエル、そして預言者たちがそうだったと。この名前のリストを見て思うのは、「この人たちは時に不信仰に陥って失敗もしているな。でも失敗しながらも悔い改めて、改めて神様に信頼して従い直したのだな」ということです。私たちも同じで、いつもいつも完璧な信仰には生きていないのですが、罪を犯したとしても悔い改めて、従い直す。悔い改めて従い直すことだけは、忘れないで最後まで信仰の道に生きたいと祈ります。

 神様の御言葉、イエス様の御言葉には創造的な力があると申しました。私たち人間の言葉にも、ある程度力があります。言葉で人を慰め、力づけることもできるし、逆に傷つけることもできます。その意味では恐ろしくもあります。自分の言葉で人を励ましたこともあったでしょうが、不当に傷つけたことも多いと思うと、本当に恥ずかしくなり、反省から反省、悔い改めから悔い改めに生きるほかないと痛感します。エフェソの信徒への手紙4章29節が思い出されます。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。」私たちが悪い言葉を使ったり、悪いことを行って罪を犯すと、私たちの内に住んでおられる聖霊が悲しまれるというのです。「神の聖霊を悲しませてはいけません」の御言葉は、聖霊が単なる力ではなく、人格(神格)を持つ神の霊、イエス様の霊であることを明らかに示します。
 
 私が最初にいただいた聖書は、高校に入学した時に国際ギデオン協会が配布して下さった和英対訳の小型の新約聖書です。本文より前にこんなページがありました。「あなたはその時、ここを読んで下さい。」喜んでいる時、悲しんでいる時、試練の時、「ここを読んで下さい」と聖書の個所が示されていました。その聖書を手にしたのは15才で、洗礼を受けたのは22才ですが、この欄はよく活用しました。聖書をすぐ通読するのは困難ですから、「こういう時はここを読んで下さい」というガイドは、ありがたかったです。

 私が昔、ちょっとした試練を受けた時に、非常に神様の慰めを受けた御言葉は、イザヤ書43章1節以下です。その頃、イザヤ書を毎日1章ずつ読んでいました。読んでも意味が十分には分からない。そんな日々が続いていましたが、43章だけは非常に心に染み渡りました。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今こう言われる。『恐れるな。私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水を中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。私は主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。私はエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。私の目にあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛し、あなたの身代わりに人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、私はあなたと共にいる。』」その時の私は、この御言葉に神様からの深い慰めと励ましを感じました。

 私たちの信仰は、最終的にはまだ完成していない神の国の完成と、私たちが復活の体をいただいて永遠の命に入ることを、希望をもって待ち望む信仰です。この意味で、信仰は希望です。ローマの信徒への手紙8章には、こうあります。「(私たちは)体の贖われることを(復活の体が与えられることを)、心の中でうめきながら待ち望んでいます。私たちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないもの(神の国、復活の体)を望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」忍耐して希望をもって待ち望む。信仰による神の国と永遠の命の希望を抱きながら、私たちに与えられた日々の責任を喜んで果たし、周りの方々に主イエス・キリストを指し示して、一日一日を大切に丁寧に生きて参りたいと願います。

(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、御名を讃美致します。9.11ニューヨーク同時多発テロから21年。テロで大きな傷を受けた方々に、神様の愛と慰めを注いで下さい。イエス様の十字架と復活の大きな恵みによって、私たちを真の意味で自由な者として下さり、感謝申し上げます。この自由を自分勝手に用いるのではなく、神様と隣人に喜んでお仕えする方向で用いることができますように、私どもをお導き下さい。コロナ、コロナ以外の病の中にある私たち皆を、あなたが完全に癒して下さい。ウクライナが早く平和になりますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

2022-09-04 0:35:58()
「真の自由を与えたキリスト」 2022年9月4日(日)礼拝説教
順序:招詞 マタイ福音書5:43~44、頌栄28、「主の祈り」,交読詩編68:20~36,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・120、聖書 イザヤ書54:1(旧約p.1150)、ガラテヤの信徒への手紙4:21~5:1(新約p.348)、祈祷、説教、讃美歌21・566、献金、頌栄27、祝祷。 

(イザヤ書54:1) 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。

(ガラテヤの信徒への手紙4:21~5:1) わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第14主日の礼拝です。本日の説教題は「真の自由を与えたキリスト」です。新約聖書は、ガラテヤの信徒への手紙4章21節~5章1節です。小見出しは「二人の女のたとえ」です。できればガラテヤの信徒への手紙での説教を月1回ほど行いたいのですが、現実には月1回は難しく、前回は7月17日(日)でした。

 今日の最初の21節で、著者パウロ(イエス・キリストの使徒、弟子)は呼びかけます。「私に答えて下さい。律法の下(もと)にいたいと思っている人たち。」ガラテヤの教会には、自分たちがイエス・キリストの恵みの福音の下にいることが、十分分かっていない人々が多かったようです。私たちも時にそうなることがあるかもしれないので、今日の個所を読むことで、私たちが旧約聖書の律法の下にいるのではなく、イエス・キリストの恵みの福音の下にいる現実を、何回でも確認したいと思います。ガラテヤの信徒への手紙3章13節に、こうあります。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。」イエス・キリストが、私たちの全部の罪の責任を全部背負って十字架で死なれ、私たちが受けるべき神様の裁きと死(呪い)を、全部引き受けて下さいました。これによって私たちは、律法の呪いから完全に解放されました。自由の身になったのです。

 解放されたとは、解き放たれて、自由の身にされたということです。神の子になったということです。イエス様を信じて洗礼を受けた人は皆、神の子にされました。すばらしい恵みですね。律法の呪いとは、モーセの十戒に代表される律法のたった1つを守ることに失敗しても、有罪の判決を受けるということです。しかし私たちは、その律法の呪いから完全に解放されています。イエス様が私たちの受けるべき裁き(呪い)を十字架で全部引き受けて下さったので、律法はもはや私たちに呪い(裁きと死)を及ぼす力を失ったのです。私たちは、もはや律法の呪いの下にはおりません。私たちはイエス様の十字架と復活による恵みの福音の下にいます。

 パウロは、このことを分かってもらおうとして、やや独自の論理でガラテヤ教会に、分かってもらおうとします。21節「私に答えて下さい。律法の下にいたいと思っている人たち、あなた方は、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」「あなた方は律法が好きなようだから、律法の書(旧約聖書)に基づいて、あなた方がもはや律法の呪いの下にいないことを証明してあげましょう」というわけです。パウロは、創世記のエピソードを持ち出します。22節「アブラハムには二人の息子(イシュマエルとイサク)があり、一人は女奴隷(ハガル=(言葉は悪いが)側室)から生まれ、もう一人(イサク)は自由な身の女(サラ=正妻)から生まれたと聖書(旧約聖書、律法)に書いてあります。」パウロはここで、女奴隷の子(イシュマエル)と自由な身の女(奴隷でない女)の子(イサク)を対比しています。これはパウロによるたとえを用いた説明です。とても大事な内容です。女奴隷の子(イシュマエル)は「律法の下にいたいと思っている人たち」の象徴であり、自由な身の女(奴隷でない女)の子(イサク)は、イエス様の恵みの福音の下にいる人々(クリスチャンたち)の象徴だというのです。
 
 23節「ところで、女奴隷(ハガル)の子(イシュマエル)は肉によって生まれた。」
神様は、神の民イスラエルの先祖アブラハム(最初の名はアブラム)が75才のときに約束を与えられました。「あなたの子孫にこの土地(カナン、イスラエルの土地)を与える」と。「あなたの子孫」というからには、アブラムとサラ(最初の名前はサライ)夫婦に子供が生まれると約束されたことになります。なのに、アブラムとサライ夫婦になかなか子供が生まれません。アブラムは半ばあきらめたのか、後に神様にこう言います。「あなたは私に子孫を与えて下さいませんでしたから、家の僕(しもべ)が跡を継ぐことになっています。」すると神様がアブラムを励まして、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」つまりアブラムとサラ夫婦に子供が与えられると、再度約束して下さったのです。神様はさらにアブラムを外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と言われました。星のように無数に増えると約束されたのです。アブラムは神様を信じ、神様の約束を信じました。神様はそれを「彼の義」と認められました。まだ全然実現していない神様の約束を信じたアブラムの信仰を「よし」と認めて下さったのです。これを信仰義認と呼びますね。

 ところがその後もなかなか、アブラムとサライの間に子供が生まれないのです。しびれを切らした妻のサライがアブラムに言います。「主は私に子供を授けて下さいません。どうぞ、私の女奴隷の所に入って下さい。私は彼女によって、子供を与ええられるかもしれません。」アブラムは、「それはいけない。神様の約束をあくまでも信じようよ」と言えば立派なのですが、アブラムも不信仰に陥り、サライの言う通りに行動し、女奴隷ハガルと関係を持ちます。ハガルは身ごもり、アブラムは86才にして男の子イシュマエルを得るのです。しかしこれは、神様の御心にあまり適わなかったと思います。その13年後に、人の姿をした神様の使い三人がアブラムの所に来て、その一人(神様ご自身のようです)が「私は来年の今頃、必ずまたここに来ますが、その頃には、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」と言います。サラは密かに笑います。「今更無理だ」と。しかし神様は約束を100%守られます。本当に翌年、アブラハムとサラの間に男の子、約束の子イサクが、遂に誕生しました。アブラハム100才、サラ90才の時です。何と25年間、時に疑いに陥りながらも神様の約束を信じ続けたのです。夫婦は大きな喜びに包まれました。この子がイサク、人間の罪深い非常手段によってではなく、ただ神様の約束によって、神様の恵みによって生まれた子がイサクです。パウロは、クリスチャンもこのイサクと同じだというのです。神様の恵みによって、ただ神の恵みによってのみ神の子とされたのが、イエス様を信じるクリスチャン一人一人です。

 ガラテヤ書に戻り、24節の途中から。「すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方(ハガル)は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルはアラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷をなっているからです。」シナイ山は旧約聖書の出エジプト記で、イスラエルの民のリーダー・モーセが、神様から十戒を授かった山、律法のシンボルの山です。東久留米教会の中にも登った方々がおられますね。「それは今(パウロの時代)のエルサレムに当たる。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たち(多くの住民たち)と共に奴隷になっているから」、とパウロは書きます。パウロの時代のエルサレムは、クリスチャンの本拠地ではなく、いわばユダヤ教の本拠地、律法主義の本拠地だったと言えます。律法の奴隷となっている人々の本拠地であり、イエス様の十字架と復活の福音による自由な愛に生きていない人々の本拠地だとパウロは述べます。

 26節「他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これは私たちの母です。」天のエルサレムは、天国です。私たちは天のエルサレムに属する民、天国の民です。「天のエルサレムは、いわば自由な身の女(アブラハムの正妻サラ)であって、これは私たちの母です。」私たちは、イサクと同じに、神様の恵みの約束の意志によって生まれた神の子です。

 27節、これは本日の旧約聖書イザヤ書54章1節の引用です。「なぜなら、次のように書いてあるからです。『喜べ、子を産まない不妊の女(サラ)よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ(サラよ)。一人取り残された女(サラ)が夫ある女よりも、多くの子を産むから。』」神様の約束を信じて生きる者の幸せが強調されています。神様の恵みを信じて、イエス様を愛して祈り続ける人生に、祝福があるということではないかと思います。それはこの地上で大金持ちになるとか、支配者になるという祝福ではないと思います。もちろん地上でもある程度の祝福はあるのですが、思いに任せないこともあります。私たちの国籍は天にあるのですから、最終的に天国で永遠の命に入る祝福のことと思います。エフェソの信徒への手紙1章18節の御言葉が思い出されます。「(神様が)心の目を開いて下さるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。」これによると、天国は私たちが想像できないほど祝福されたすばらしい所であるようです。地上で多くの苦労があったとしても、天国はそれを補って余りある、それ以上の聖なる喜びに満ちた所のようです。もちろん急いで天国に行く必要はないので、地上でできるだけ長く生きていただきたいと思いますが、イエス様の十字架と復活を信じる人には、この希望が確実に約束されています。「一人取り残された女が、夫ある女よりも多くの子を産む」を比喩的な表現ととれば、地上でつらいことがとても多くても、最後には神様の天国の祝福で報われるの意味にとることもできます。

 ガラテヤ書に戻り、28節以下「ところで、兄弟たち、あなた方は、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者(イシュマエル)が、霊によって生まれた者(イサク)を迫害したように(創世記にその場面あり)、今も同じようなことが行われています。」律法主義者・ユダヤ主義者が、イエス様の恵みに生きるクリスチャンを迫害していたガラテヤ教会の現実を指します。30節「しかし、聖書(旧約聖書、律法)に何と書いてありますか。「女奴隷(ハガル)とその子(イシュマエル)を追い出せ(確かにそう書いてある)。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである。」パウロが言いたいことは、律法主義で生きて行ってはいけない。そうではなく、イエス様の十字架と復活の福音に全面的に頼りなさい。イエス様は、本当に私たちの全部の罪への裁きを背負って、十字架で死んで下さった。イエス様の愛の十字架だけに、私たち罪人(つみびと)を救う力がある。罪人(つみびと)に永遠の命を与える力は、世界広しと言えども、ただイエス様の十字架の身代わりの死と復活の福音だけにある。それだけに頼りなさい。律法(十戒)は確かに神様の聖なる意志を示しているが、私たちは罪人(つみびと)であり、全力で努力しても律法を100%守ることができない。自力で律法を守るならば、100%守らないと天国に行けない。それは誰にもできない。律法主義で人の十倍も努力したパウロにもできなかった。そうではなく、あなたの罪を全部背負って十字架で死なれたイエス様だけに頼りなさい。
 
 31節「要するに兄弟たち、私たちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」今既に。罪を全て赦されて、神の子とされている。律法の実行によってではなく、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、神の子とされている。5章1節「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。」

 イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けた人は、イエス様と共に十字架で死に、イエス様と共に新しい命に復活して、生きているのですね。生きているということは、聖霊に満たされて、父なる神様を愛し礼拝し、自分を正しく愛し、隣人を愛することです。さらにはイエス様と同じように、敵までも愛し始めています。これが真の意味で生きることと信じます。「キリストは私たちを自由の身にして下さった。」自由にされた、解放された。何から解放されたのか。私は以前、聖書に基づいてこう学びました。私たちは「罪と、律法と、悪魔と、死と、神の怒り」から解放された。イエス様の十字架と復活によってです。「罪と、律法と、悪魔と、死と、神の怒り」の支配から解放されたと。解放された私たちの生きる方向は、罪ではなく愛です。聖霊に満たされて、神様を愛して礼拝し、自分を正しく愛し、隣人を愛し、敵までも愛する。イエス様ほどにはできなくても、聖霊に導かれて、この方向に歩み始めています。

 宗教改革者マルティン・ルターの有名な著書は『キリスト者の自由』です。短めの本です。ルターがその冒頭に書いた2つの文が「キリスト者の自由」を見事にまとめています。「キリスト者は、全ての者の上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。」自由で解放されているのです。そして「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。」前半と逆のことを言っているようですが、理屈では矛盾するこの2つが、一体になっているのがキリスト者・クリスチャンです。全てのものから解放されているゆえに、今度は喜んで進んで、自由意志によって自発的にすべての方にお仕えするのがキリスト者だと言っています。これが本当の自由です。今日の説教題を「真の自由を与えたキリスト」としましたが、イエス様は十字架と復活によって、私たちに真の自由を与えて下さいました。一番自由な方はイエス様なのです。神の子として天国の王座にいらしたのに、私たちを愛して、私たちの足を洗い、私たちの罪を背負うために進んで十字架のどん底に降りて来て下さいました。イエス様を見つめる時、私たちはイエス様の真似をすることが、本当の意味で自由な生き方であることを悟ります。

 パウロはこの手紙の6章14節で書きます。「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」私ども夫婦は、先週の日曜日に印象的な十字架を仰ぎました。週報にも書きましたが、礼拝に出席した広島流川教会の礼拝堂の十字架は焦げていました。原爆が落ちた地の教会で、古い会堂は原爆で破壊されました。その焼けた会堂の木材2つを組み合わせて素朴な十字架を作り、それを掲げて青空礼拝で再開したそうです。やがて礼拝堂を再建し、また古くなって建て直したようですが、今もその原爆で焼け焦げた木材で造った素朴な十字架を掲げて礼拝が献げられていました。原爆を忘れないためでしょう。十字架に架けられ復活されたイエス様を思いながら、同時に原爆を忘れないで、イエス様と共に愛と平和の世界を造ってゆきたい。そのような気持ちの表れではないかと思い、焼け焦げた十字架を心に刻んで参りました。

(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、御名を讃美致します。イエス様の十字架と復活の大きな恵みによって、私たちを真の意味で自由な者として下さり、感謝申し上げます。この自由を自分勝手に用いるのではなく、神様と隣人に喜んでお仕えする方向で用いることができますように、私どもをお導き下さい。コロナ、コロナ以外の病の中にある私たち皆を、あなたが癒して下さい。ウクライナが早く平和になりますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

2022-08-21 0:07:05()
「福音の種を蒔く人、刈り入れる人」 2022年8月21日(日)礼拝説教
順序:招詞 マタイ福音書5:43~44、頌栄85(2回)、「主の祈り」,交読詩編68:1~19,使徒信条、讃美歌21・401、聖書 コヘレトの言葉11:1、6(旧約p.1047)、ヨハネ福音書4:31~42(新約p.170)、祈祷、説教、讃美歌21・386、献金、頌栄92、祝祷。 

(コヘレトの言葉11:1、6) あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。~朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。

(ヨハネ福音書4:31~42) その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第12主日の礼拝です。本日の説教題は「福音の種を蒔く人、刈り入れる人」です。聖書は、ヨハネによる福音書4章31節より42節です。「イエスとサマリアの女」の小見出しの箇所の後半です。
 
 一人のサマリア人の女性が、イエス・キリストに出会い、真の礼拝に導かれてゆきます。そして神様からの素晴らしいプレゼントである「永遠の命に至る水」、つまり聖霊を受ける方向に導かれています。そして自分が会っているこのイエスという方こそ、イスラエル人もサマリア人も待ち望んでいるメシア(救い主)かもしれないとの思いに至り、喜んで町に出て行き、「さあ、見に来て下さい。私が行ったことを全て言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言って回りました。サマリアの人々は素直で、町を出てイエス様のもとへ、やって来たのです。

 31節から。「その間に、弟子たちが『ラビ(先生)、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『私にはあなた方の知らない食べ物がある』と言われた。弟子たちが、『誰かが食べ物を持って来たのだろうか』と互いに言った。イエスは言われた。『私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。』」イエス様は、ここで深い真理を語られます。「私の食べ物、つまり私の喜びは、ご飯を食べることだけではない。私にとってご飯を食べるよりも嬉しいことは、父なる神様の御心を実行すること、神様に喜ばれることを行うことだ。父なる神様に与えられた使命を行うことが、私の最大の喜びだ」とおっしゃっています。あのサマリアの女性に伝道して、女性がイエス・キリストを救い主と信じて、永遠の命を受けようとしている。こうなっていることが、私の最大の喜びだ」と、おっしゃっています。

 「成し遂げる」の言葉で、このヨハネ福音書のイエス様の十字架の場面を思い出す方もあると思います。ヨハネ福音書19章で、イエス様は十字架の上で、「成し遂げられた」と言って、頭を垂れて息を引き取られました。父なる神様から与えられた使命を成し遂げることができた。全ての人の全ての罪の責任を身代わりに背負って死ぬ使命を果たすことができた。ここには達成感、充実感、喜びさえ感じられます。「これで、私を信じる者が皆、永遠の命を確実に受けることができるようになった。私の十字架の死によって、父なる神様と罪人(つみびと)たちとの間の和解を達成することができた。よかった。本望だ。あとは三日目に私に与えられる復活を待てばよい。」ヨハネ福音書の十字架の場面には、悲壮感があまり感じられないと私は思いますが、いかがでしょうか。「イエスは、自ら十字架を背負い」ゴルゴタへ向かったと書かれています。「自ら十字架を背負った。」いやいやながらではなく、父なる神様と私たちの間の和解を成し遂げるために、ご自分の意志で進んで十字架を背負ったという書き方です。使命を成し遂げるために、積極的に十字架を担うイエス様の姿が、ヨハネ福音書では強調されています。イエス様は、言われます。「私の食べ物(喜び)とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と。

 少し前にお話しした通り、私と妻に洗礼を授けて下さった牧師が、先月7月1日に天に召されたのです。割に大きな教会の牧師を歴任され、約10年前から茨城県守谷市で開拓伝道を開始され、伝道所を開設されました。その新しい教会のためにまだまだ働くおつもりだったと思いますが、約1年前にご病気が発見され、残念ながら1年間のご闘病で天に召されました。私がご闘病を知ったのは、今年の4月頃で、もちろん癒されるように祈り続けました。奥様から私ども夫婦に最近いただいたお手紙では、最後の数か月の闘病はだいぶきつかったようです。お手紙には「それでも、3月6日(日)~4月17日(イースター)は毎週礼拝に参席でき、イースター礼拝において、教会員御夫妻に与えられた男児に、幼児洗礼を授けることが叶い、大きな喜びでした」と書いてあります。妻が先日、奥様にお目にかかって来ましたが、「ご病気の中にあっても、その洗礼式の時は、力強く万全になさった」とのことで、それは大きな恵みだったと思いますし、「私の食べ物(喜び)は、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われたイエス様のお気持ちにも通じる、聖霊による喜びに満たされた時だったのではないかと、感じています。

 次に、イエス様の語りは、伝道のことに進みます。35節から38節「あなた方は、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言ってるではないか。私は言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も、刈り入れる人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなた方が自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、私はあなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方はその労苦の実りにあずかっている。」

 当時、種蒔きから収穫まで4ヶ月かかるという考えがあったそうです。私たちは言うかもしれません。「伝道の種を蒔いたばかりだ。収穫はまだ先だ。」ところがイエス様は、「目を上げて畑を見るがよい。私たちの身の周り、この世界を、もう一度改めて見てごらん。色づいて刈り入れを待っている。」イエス様から見れば、機は熟している。伝道の畑では、麦が色づいて刈り入れを待っている。現に多くのサマリア人が、この場面でイエス様に会いにやって来て、イエス様を救い主と信じてゆくのです。私たちは、「サマリアではそうだったにしても、今の私たちの周りは違う」と言いたくなるかもしれません。でも「目を上げて」改めて考えてみると、神様の恵みは、与えられているのです。先々週の礼拝には、学校の宿題とはいえ、多くの中高生が出席して、私は驚きました。その日の午後の小学生以下対象の子ども会には。二人と少ないけれども、子どもたちも来ました。今日の午後4時からも、何人来るかは分かりませんが、中高生の会を行います。貴重な伝道の機会であり、イエス様は「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」と、私たちに発破をかけておられるのではないでしょうか。まずは、今日4時からの中高生の会に、皆様、祝福をお祈りして下さい。「こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」伝道には、神様の御言葉の種を蒔くことと。刈り入れるという2つの要素がありますね。この2つは区別されると共に、同時進行の面もあります。私たちは種を蒔いていると同時に、洗礼を受ける方があれば刈り取りもすることになります。

 旧約聖書に「コヘレトの言葉」という書があります。以前は「伝道の書」という題でした。その11章1節に、こうあります。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見出すだろう。」私が洗礼を受けた日に、洗礼を授けて下さった牧師が、教会から私にプレゼントされた口語訳聖書の表紙の次のページに達筆な文字で書いて下さった御言葉です。口語訳では、「あなたのパンを水の上に投げよ。多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」この意味には、いくつかの解釈があるようです。1つの解釈は、「慈善の行い、愛の行いをしなさい。それはすぐに実を結ばないことも多い。しかし多くの日の後、どこかで実を結ぶ」というものです。今日は歌いませんが、前の讃美歌536番の歌詞は、この御言葉をそう解釈した歌詞だそうです。「むくいを望まで(望まないで)人に与えよ。そはかしこき、み旨ならずや。水の上(え)に落ちて、流れし種も、いずこの岸にか、生い立ちものを。」東久留米教会の長年の会員で、今は天国におられる松下静枝さんの愛唱讃美歌でした。松下さんをご存じない方も増えましたね。

 私は洗礼を受けたプレゼントでいただいた聖書になぜこの御言葉を牧師は書いて下さったか、直接尋ねたことはありません。ですがこれは伝道についての御言葉ではないかなと、思って来ました。そのような解釈もあると思います。「イエス・キリストの福音を宣べ伝えなさい。多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」「神の御言葉を宣べ伝えることは、水の上にパンを投げるような一見空しく見える営みだが、多くの日の後、実を結んだことをあなたは知るだろう。」伝道を励ます御言葉と解釈されて来たと思います。3年前にコヘレトの言葉の分かり易い解説書を出された東京神学大学の小友聡先生は、その本の中で、「あなたのパンを水の上に投げよ」は、「積極的な行動への勧め」だと書いておられます。であれば、愛の業、そして伝道の業を積極的に進めることへの促しになります。

 コヘレトの言葉11章6節には、こうあります。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」実に積極的な御言葉で、とことん種を蒔き続けよと言っています。夜も(眠らないで?)種を蒔けは、現実には無理な気がしますが、小友先生はこれについて、「すべてが徒労に終わるかもしれない。もう諦めるしかないという悲観的な結論に至る瀬戸際で、だからこそ最善を尽くし、徹底して生きよと、コヘレトは勧めます。~空しく、先が見えないからこそ、今、最善を尽くす生き方をせよ、とコヘレトは述べています」と書かれ、大変励まされます。小友先生は、マルティン・ルターが言ったとされる「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日、リンゴの木を植える」の言葉につながると言われます。なるほどと思います。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」テモテへの手紙(二)4章2節に通じると感じます。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」

 ヨハネ福音書に戻ります。「あなた方が自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、私はあなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方はその労苦の実りにあずかっている。」苦労して福音の種を蒔く人がいて、別の人が後に刈り入れる。同じようなことを、イエス様の使徒パウロが、コリントの信徒への手紙(一)3章で述べていますね。「私は植え、アポロ(別のクリスチャン)は水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなた方(教会)は神の畑、神の建物なのです。」

 パウロが植えたとは、パウロが種を蒔いたということでしょう。アポロは水を注いだ、つまりケアをしたと言えます。現実の伝道においては、御言葉の種を蒔くだけでなく、相手のための祈りや配慮、ケアが必要になります。相手の性格や考え方も様々なので、相手に合わせた具体的な工夫をする愛の労苦が必要になると思います。イザヤ書28章に「農夫の知恵」という箇所があって、これは実際の農業の際に種の種類によって蒔き方を変える知恵が必要で、神様がその知恵を与えて下さると書かれています。「種を蒔くために、耕す者は一日中耕すだけだろうか。土を起こして、畝を造るだけだろうか。畑の面を平らにしたなら、いのんどとクミンの種は、広く蒔き散らし、小麦は畝に、大麦は印をしたところに、裸麦は畑の端にと、種を蒔くではないか。神はふさわしい仕方を彼に示し、教えられる。」御言葉を宣べ伝える伝道においても、やはり相手に合わせた愛の工夫は必要になるでしょう。

 新約聖書は、御言葉・福音の種を蒔きなさいと進めると共に、愛の種を蒔きなさい、善を行い続けなさいとも、私たちに発破をかけます。ガラテヤの信徒への手紙6章7節以下に、こうあります。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く(自分勝手な悪を行う)者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く(愛の行いをする)者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」

 愛の種を蒔くにしても、福音・御言葉の種を蒔くにしても、すぐに実を結ぶわけではないので、蒔くことは忍耐強い労苦と思います。詩編126編5~6節は、種蒔きの労苦を語り、そして刈り入れ、収穫の喜びの両方を語ります。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰って来る。」このように最後には、このような喜びが約束されています。

 本日のヨハネ福音書は、サマリアの多くの人々がイエス様を救い主と信じて救われた、永遠の命を受けたと述べているようです。イエス様も父なる神様も、深く喜ばれたに違いありません。私たちは日本中が、世界中が早くこうなることを願っています。イエス様は、ルカ福音書10章で、こう言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」「収穫は多い」とおっしゃいます。その御言葉を信じて、私どもは、福音の種蒔きと伝道相手の方のための祈りとケアに、励ませていただきたく思います。アーメン。