日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2019-03-15 19:01:09(金)
「良いものを与える神」 受難節(レント)第1主日礼拝 説教要旨
聖書:列王記下20章1~11節、マタイ福音書7章7~12節

 本日のマタイ福音書は、「祈りの勧め」と言えます。イエス様が言われます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

 「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。」罪ある人間の父親でさえ、自分の子供を愛し、良い物を与える。「まして」天の父なる神様はなおさらだ、というのです。「まして」、「なおさら」という言葉が新約聖書にしばしば出てきます。「まして」と「なおさら」は、神様の深い愛を強調する重要な言葉だと思います。そしてルカ福音書11:13にはこうあります。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」神が与えて下さる最大の「良い物」は聖霊(神の清き霊、イエス様の霊)なのです。私たちがイエス様を自分の救い主と信じて自分の罪を悔い改め、洗礼を受けると聖霊を受けます。聖霊を内に宿している人は、確実に永遠の命を受けているのです。

 神様は、祈り求める人に良い物を与えて下さる。このことはヤコブの手紙にも書かれています。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」(1:5~6)。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」(1:17)。

 このように神は良い物を与えて下さる良い方です。「だから」とイエス様が言われます。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」神の愛に支えられて、あなた方も人に愛を与えなさい、ということです。この御言葉は、黄金律(ゴールデン・ルール)と呼ばれます。

 私も祈りについて、多くの方から教えられて来ました。神学生であった私たちを教会へ送り出して下さった神学校の学長・松永希久夫先生は「祈りはいつでも、どこでもできる。(しかしだからこそ)祈りの時と場所を確立せよ」と教えられました。東久留米教会員として天国に行かれたKさんは、祈りには「讃美、感謝、罪の悔い改め、願い、他の人のためのとりなし」があると証しされました。私の高校時代の友人のクリスチャンは私に、「祈りに対する神の答えには3つある。イエス、ノー、ウェイト(待て)だ」とアドヴァイスしてくれました。

 私たちは祈りによって苦難に耐える力を、神からいただきます。2010年にチリのコピアポ鉱山で事故が起こり、33名が地下700メートルに閉じ込められ、約70日後に全員救出される出来事がありました(左近豊『信仰生活の手引き 祈り』日本キリスト教団出版局、2016年、94~95ページによる)。あの時は世界中が祈りました。私も祈りました。最初の18日間は地上と連絡がとれなかったそうです。絶望しそうになる苦しみの中で、地下の人々は毎日12時と午後6時に集まって祈り、希望をもち続けたそうです。地上と連絡がとれるようになってから差し入れられたTシャツに詩編95編4節「深い地の底も御手の内にあり」と印字されていたそうです。救出された一人が、こう言ったそうです。「地下にいたのは33人ではなく、34人だった。神が我々と共にいたからだ。」全員救出のニュースを聞いた時は、私も晴れ晴れとした気持ちになり、同じく嬉しそうな表情の、教会のお隣りのご婦人と喜び合いました。33人は、共に祈って耐えたのです。

 先月、高俊明先生という台湾基督長老教会(PCT)の著名な牧師が89歳で天に召されました。台湾が民主化されていなかった時、民主化運動を行ったため、4年以上投獄されました。台湾の苦難の象徴的存在です。高俊明牧師に「サボテンと毛虫」という詩があります。

「わたしは求めた/ 美しい花束を
しかし 神さまは とげだらけのサボテンをくださった
わたしは求めた/ 愛らしい蝴蝶を
しかし 神さまは ゾッとするような毛虫をくださった
わたしは/ なげき 悲しみ 失望した
しかし 多くの日が過ぎ去ったあと/ わたしは目を見張った
サボテンが多くの花を開いて 美しく咲き乱れ
毛虫が愛らしい蝴蝶となって 春風に舞い舞うのを
すばらしい神さまの御計画 」

 「涙の祈り」を献げ続ける時期が続いたけれども、神様が次第に民主化の花を咲かせて下さったことを感謝する詩だと思うのです。私たちには確かに「涙の祈り」を献げることがあります。神様は私たちの「涙の祈り」をしっかりと受けとめていて下さると信じます。詩編56:9に次の印象深い御言葉があります。「あなた(神様)はわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に それが載っているではありませんか。あなたの皮袋にわたしの涙を蓄えてください。」東日本大震災から8年となりました。流された多くの涙を、イエス・キリストがしっかりと受けとめて下さっていると信じます。

 私たちは、感謝の祈りを献げることもあり、自分の苦しみを神様に全力でぶつけることもあります。祈りが聞き届けられることはもちろん大切です。しかし、神様に全力で訴えて祈ることができる、それ自体が幸いとも言えるのではないでしょうか。神様にいつも祈りながら、神様と共に人生を歩みたいのです。アーメン(「真実に」)。

2019-02-15 14:13:46(金)
「共に喜び、共に泣く」 伝道メッセージ(石田真一郎)
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(新約聖書・ローマの信徒への手紙12章15節。) 

 愛するとは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことでしょう。より難しいのは、「喜ぶ人と共に喜ぶ」ことと思います。イエス・キリストは、私たちと共に喜び、共に泣いて下さる方です。私たちもそのように生きるように、イエス様に招かれています。

 私は誘われて、池袋でホームレスの方たちにお弁当を配るクリスチャンのボランティアに参加したことがあります。ささやかに行われていました。毎週、お弁当を作る方には頭が下がります。このボランティアを始めたのはアメリカ人、シンガポール人の宣教師さんたちです。協力して配る人の多くは日本人です。韓国人、オーストラリア人、ブラジル人が加わります。私は思いました。アメリカもシンガポールも、韓国もオーストラリアも、太平洋戦争で日本の敵だった国々です。特に韓国は1910年から1945年まで日本の植民地でしたし、シンガポールも日本が占領しました。日本が多くの迷惑をかけたのです。74年前に敵だった国の人々が今、日本に来て池袋の日本人のホームレスの方たちに奉仕して下さっている。イエス・キリストの愛を行っておられる。小さな奇跡です。

 そのボランティアの日本人男性の一人は、2011年の津波で大切なご家族をお二方、失われたそうです。それなのに、他人のために奉仕なさる。頭が下がります。悲しみをご存じなので、他の人の悲しみがよく分かるのでしょう。「悲しむ人と共に悲しむ」、心優しく立派な方だと、心より尊敬します。

 なぜ人はホームレスになるのか。いろいろな理由があるでしょう。池袋のような都会でも路上生活は厳しそうです。雨、台風、猛暑、寒さ、雪があります。午前1時~午前5時は、駅が閉まるので、外に出なければなりません。この冬、ホームレスの方々に神様の守りが十分にありますように。アーメン(「真実に」)。

2019-02-08 19:27:16(金)
「私たちに必要な祈り」 2019年2月3日(日) 降誕節第6主日礼拝 説教要旨
聖書: 列王記・上17章1~16節、マタイ福音書6章11~15節

 「主の祈り」の後半の3つの祈りが出ています。3つとも私たちに必要な祈りです。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」神様は憐れみ深い方で、私たちに食事が必要なことをよく知っておられます。エジプトを脱出した壮年男子だけで60万人のイスラエルの民を、マナという食物で40年間も養われました。イエス様の時代には、男だけで五千人の群衆を五つのパンと二匹の魚で養い、満腹にして下さいました。本日の列王記を見ると、神様は預言者エリヤにからすを送り、からすがパンと肉を運びました。神様はエリヤと知り合いになったサレプタという場所の女性とその子どもに奇跡によって食物を与え、飢え死にしないように養って下さいました。

 聖書の神様だけが真の神様です。この神は、これまで地上のすべての人々に食物を与えて下さいました。私たちは食物を店で買うことが多いので、食物を与えて下さるのは神様であることを実感しにくくなっています。ですが使徒言行録14章15節以下に、こうあります。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」

 神の民イスラエルがこれを信じず、食物などはバアル(偶像=偽物の神)から来ると誤解していた悲しい時期がありました。イスラエルの民は言いました。「愛人(バアル)たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ」(ホセア書2:7)。神様が嘆いて言われます。「彼女(イスラエルの民)は知らないのだ。穀物、新しい酒、オリーブ油を与え、バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのはわたしだということを」(同2:10)。

 私は農業を営む日本のクリスチャンの集会に出席したことがあります。その方々のモットーは「三愛」、つまり「神を愛し、人を愛し、土を愛する」ことだと学びました。私もほんの少しでも作物を育てようと思い、昨年プランターにミニトマトとブロッコリーを植えました。少しのミニトマトと小さなブロッコリーができて、ちょっぴり収穫の喜びを味わいました。現代の世界では、食物の配分が公平に行われていないので、食物が余る地域と飢える地域があります。これは神様の責任ではなく、私たち人間の罪です。日本では多くの食物が廃棄されています。事態を少しでも改善するためにフードバンクが設立され、活動を開始しています。その働きが日本と世界で拡大することを願います。

 神様は人間だけでなく、鳥や動物、植物をも養っておられます。「海も大きく豊かで、その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。~あなたがお与えになるものを彼らは集め、御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる」(詩編104:25~28)。私は家で飼っている鳥にえさを与えますが、その時の私の手は、神様の御手の代理をしているのですね。鳥のえさを忘れないように気をつけます。「神に従う人は家畜の求めるものすら知っている」(箴言12:10)とあります。

 次の祈り。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分の負い目のある人を赦しましたように。」この前提は、主イエス・キリストが十字架にかかって、私たち皆の全部の罪を背負って、赦しをもたらして下さった事実です。イエス様の十字架の愛に感謝して、私たちも私たちに罪を犯した人を赦す。だから私たちがイエス様を救い主と信じた後にも、日々犯してしまう罪を赦して下さい、ということでしょう。14節には、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とあります。この御言葉の最もよい解説は、マタイ福音書18:21以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」です。

 アメリカの東部にアーミッシュと呼ばれるクリスチャンの共同体があります。近代文明をあまり取り入れない生活をしている方々と聞きます。2006年10月2日に、その共同体で学校襲撃の痛ましい事件が起こりました。一人の男が女生徒5名を銃殺し、5名に重傷を負わせたのです(以下、クレイビル、ノルト、ザーカー共著『アーミッシュの赦し』亜紀書房、2008年による)。犯人もアーミッシュで、自殺したようです。その後のこの共同体の人々の行動は世界を驚かせました。アーミッシュの人々は犯人の家族に、「あなたたちには何も悪い感情はもっていません」と伝えたのです。ある人は、犯人の父親を抱擁し、「私たちはあなたを赦します」と言ったそうです。アーミッシュの人々にとってそれは自然なことでした。彼らには「赦しの信仰」が根付いていたのです。アーミッシュの人々にとって、「主の祈り」こそ「祈りの中の祈り」で、朝夕の祈りの時間に「主の祈り」を祈り、食前と食後に黙祷で「主の祈り」を祈るそうです。「主の祈り」の中心は「赦し」と語るアーミッシュもおられます。「人を赦さないなら、自分も神から赦されない」と信じておられるのです。確かにイエス様が本日の14節で、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とおっしゃっています。

 人を赦すことは難しいですね。しかし自分がイエス様の十字架のお陰で、多くの罪を赦していただいていることを思えば、人さまを赦さないことがよいとは思えません。人を裁く資格をもつのは神様のみ、神の子イエス・キリストのみです。このことを深く思い、困難ながらも赦しの道を歩ませていただきたいのです。まず自分の罪を悔い改めながら。アーメン(「真実に」)。


2019-01-27 20:22:44()
「なんと深い神の知恵」 降誕節第4主日礼拝 説教要旨
聖書:ヨブ記35章7節、ローマの信徒への手紙11章33~36節

 4ヶ月ぶりにローマの信徒への手紙を読む礼拝です。この手紙の著者(正確には口述筆記の語り手)・イエス様の使徒パウロの深い悲しみは、愛する同胞であるイスラエル人(ユダヤ人)たちが、救い主イエス・キリストをなかなか信じてくれず、なかなか救いに入ってくれないことでした。一体イスラエル人たちの多くは救われないのか、神様は何を考えておられるのか。パウロは問い続けました。神様の深いお考えが少しずつ示されたのです。そこでパウロは「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と感嘆し、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と喜びの讃美に導かれたのです。

 イスラエル人が救い主イエス様を拒否することで、イエス様がイスラエル人以外の人々(異邦人)に宣べ伝えられ、異邦人がイエス様を救い主と信じて救われてゆく。それを見てイスラエル人たちがねたみを起こし、「うらやましいな。私もあの異邦人のように救われたい」という気持ちを起こし、不信仰・不従順を捨てて、自分の罪を悔い改めてイエス様を信じて救いに入る。神様はそれをめざしておられるのです。10:23に「彼ら(イスラエル人)も、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう」とあります。神はイスラエル人がイエス様への不信仰を捨てて救われることをめざして働いておられるのです。そのためにイスラエル人のねたみ心という実に卑近な気持ちをさえ用いて、イスラエル人を救いに導こうと働いておられるのです。

 それにしても、本日の直前の32節は非常に分かりにくい御言葉です。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」不従順は罪ですから、完全に悪しきものです。「不従順の状態に閉じ込めた」とは、神様が人々(イスラエル人も異邦人も)に自分たちの不従順の罪を自覚させ、不従順のまま突き進めば死と滅びに至るほかないことに気づかせ、イエス様を救い主と信じて救われ、神の憐みを受けるに至る。あの放蕩息子がこの道をたどって救いを得ました。旧約聖書に登場する悪の都二ネベの人々も、王から庶民まで(さらに家畜まで!)罪を捨てて悔い改め、ひたすらへりくだったため神は裁きを撤回し、彼らは神の憐みを受けました。

 この手紙の著者パウロ自身もそうです。サウロと名乗っていた頃、彼はイエス様を信じるクリスチャンたちを迫害する急先鋒でした。気づかすに、神に逆らう不従順の道、滅びへの道をばく進していました。復活のイエス様がサウロに現われ、サウロを憐れんで諭して下さいました。サウロは自分の罪に気づき、悔い改めて洗礼を受け、永遠の命を受けます。そして人生かけてイエス様を宣べ伝える伝道者に生まれ変わったのでした。神の憐れみの深さを思います。何と、クリスチャンに対する最大の迫害者だったといえるパウロでさえ救われたのです。最も救われ難い人だったといえるパウロをさえ救ったのが神の憐れみです。であれば、私たちは希望をもって伝道することができると思うのです。神様は頑固に見えるあの人もこの人も救いたいと切望しておられる、と。

 パウロは感嘆します。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」これをやや大胆に言い換えると、「ああ、神の愛と憐れみのなんと深いことか」となるのではないでしょうか。それは神に敵対していたパウロをさえ憐れんで諭し、悔い改めと永遠の命に導くほどに深い愛と憐れみです。そのあまりに深い愛と憐れみは、イエス様の十字架上の祈りによってはっきり示されます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 私たちが洗礼を受けたときのことを思い起こせば、神の愛と憐れみとご配慮が多くあったことに気づきます。いろいろなクリスチャンとの出会いを与えられ、教会との出会いを与えられ、罪の赦しの洗礼を恵みを受けました。創世記22章に「主の山に、備えあり」とある通り、神様があらかじめ私たち一人一人のために、物質的にも霊的にも多くの備えをなさっておられました。それに気づくごとに、私たちは「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか!」との感嘆に導かれます。

 神様は私たちのために毎月第一日曜日に、聖餐式という恵みを備えて下さっています。イエス様が本当に私の罪を背負って、十字架で釘打たれて下さった現実を味わう時です。洗礼の恵みを深く想起する恵みの時です。聖餐式は単なる儀式ではないのです。イエス様の十字架の犠牲愛を感じて、涙がにじむ時、それが聖餐式です。聖餐の恵みをますます深く味わう感性(霊性)を磨きたいものです。

 私は今月中旬に、鎌倉にあるイエズス会の日本殉教者修道院で一泊二日の会に参加しました。その庭にイエス様の十字架の道行きのコースがありました。その道をたどりながら、イエス様の十字架を黙想する信仰のよき修練です。要所に札が立っていて、「(イエス様が)ここで衣服をはぎとられる」、「ここで倒れる」、「ここで鞭打たれる」、「ゴルゴタの丘で十字架にかけられる」、「ここ(墓)に葬られる」などと書いてあります。最後は「よみがえる」だったと記憶しています。悲しみの道ですが、希望で終わるのです。以前、島根県の津和野(明治のキリシタンの殉教の地)に行ったときも、それがあり、深く心に残りました。エルサレムのヴィア・ドロローサ(悲しみの道)にもあるそうです。清瀬の聖公会の教会では礼拝堂の中にありました。祈りつつその道をたどることで、イエス様の十字架の愛が心にしみわたります。

 父なる神様は、全ての人が十字架と復活のイエス様の前に頭を垂れて、罪の赦しと永遠の命を受けることを切望して働いておられます。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ福音書18:12~14)。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(同20:14)。神は、どんな一人が滅びることも望まず、その一人が悔い改めて救われることを目指して、招いておられます。パウロは、神様のこの深い心に目が開かれ、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」との讃美に導かれました。私たちも神様の深い憐れみを深く悟り、「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と、もっと心から讃美できる者へと前進させていただきたいのです。アーメン(「真実に」)。

2019-01-10 17:42:04(木)
「隠れたことを見ておられる神様」 2019年1月6日(日) 降誕節第2主日(公現日)礼拝 説教要旨
聖書: 詩編112編1~10節、マタイ福音書6章1~4節

 今日の聖句は、山上の説教の一部です。当時のイスラエルの信仰生活では、「施し」、「祈り」、「断食」が重要とされていました。イエス様が言われます。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」

 イエス様は、人からの報いを求めない「無償の愛」を行いなさいと言っておられると思います。私たちには難しいですね。私たち人間は、つい人からの報いを求めてしまいます。完全に純粋な無償の愛を与えることができる方は、イエス様お一人でしょう。私たちの愛は完全に純粋な無償の愛にはなかなかなりませんが、それでも私たちが精一杯心を込めた愛を、神様は喜んで下さいます。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」(ヘブライ人への手紙6:10)。しかし私たちが、自分を宣伝する目的で、いわゆる善行を行うとき、それは偽善になってしまい、人からがほめられるかもしれませんが、神からはほめられないとイエス様は教えて下さいます。

 偽善とは、「心の中で悪いことを考えているのに、行いにおいては正しい人を演じてふるまう」ことです。ここに嘘・偽りがあります。イエス様はこの偽りを見逃されません。私の心の中に偽善が全くないとは言えません。私の心の中に(悲しいことですが)偽善は存在すると思います。自分の偽善をゼロにしようとしても、なかなかゼロになりません。偽善が全くない方は、イエス様お一人ではないでしょうか。

 私が中学3年生だった時の卒業式に、私が住んでいた地域の議員さんが祝電を送って来られました。その方の名前が読み上げられた時、期せずして笑いが起こりました。主に保護者だったと思います。私にもその笑いの意味がすぐ分かりました。その議員さんが自己宣伝をなさったと思ったのです。私も直感的にそう思いました。「偽善だ」と感じたのです。偽善は罪です。ただし残念ながら私にも偽善の罪が全くないとは言えません。でもやはり偽善は罪です。最近、社会でも教会でも偽善という言葉を聞かないと感じます。以前の日本人は偽善に敏感だったのに、今はそうでなくなったのでしょうか。もしそうであれば、よくない傾向です。偽善に敏感な心を、日本人全体が回復する必要を感じます。

 「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」30年ほど前は、クリスチャンは「清く正しく生きる人」という通念が世間にあったと思います。そして当時、クリスチャンに対する批判で多かったのが「偽善者」というものだったように思います。私は子どもの頃、時々カトリック教会に行っていました。カトリック教会は慈善活動・チャリティー活動に力を入れていたように思います。もちろんそれには大いに良い面があります。ただ、もし仮に、昔の慈善にやや問題があったとすれば、「恵まれている人が、恵まれない人を助けてあげる」という雰囲気があったことではないかと思います。「恵まれない子どもたちに愛の手を!」というキャッチフレーズがあったように思います。今の言葉を使えば「上から目線」、助ける側が優位に立ち、助けられる側は下に見られる傾向があったかもしれません。それが「鼻につく」と感じる人もいたでしょう。やや独善的な雰囲気があったと言っては言い過ぎでしょうか。今は反省がなされ、ヘルプする人とヘルプされる人が対等に、「共に生きる」ことが大切と言われるようになりました。よい変化と思います。最近、次の言葉を見かけました。「私たちは、助けることによって、相手から助けられている。」よい言葉と感じます。

 イエス様は言われます。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」私が以前行ったことのある教会には、「右の手献金」という献金がありました。教会の中に生活に困窮する人が出ることがあります。そのような状況になった方が、そこからお金を借りる(あるいは受け取る)ことができるのです。借りた(受けた)方の名前は公表されず、ただ牧師と役員の一部が知るようでした。

 イエス様はここで、「自分が善行をしたことを、自分にも知らせるな」と言われます。私たちは自分のいわゆる善行を他人に宣伝したいだけでなく、自分にも宣伝して自己満足したい気持ちを持っています。自分に宣伝することも偽善です。神様に祈って聖霊を受けて、何とか私たちの心の中に巣くう偽善から自由にされたいものです。イエス様はルカ福音書17:10で、こう言われます。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」この姿勢で生かされたいのです。

 マタイ福音書25章に、「最後の審判」の場面があります。真の王であるイエス様が言われます。「わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いたいたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」するとほめられた正しい人たちは、「いつ、それをしたでしょうか」と答えます。彼らは当然のことをしただけと思い、本当にすっかり忘れていたのです。こうなることが理想です。イエス様に無償の愛で愛されて、自分たちも次第に無償の愛に生きる者に、聖霊によって変えられていったのでしょう。

 使徒言行録10章に、コルネリウスというすばらしい人が登場します。イスラエル人でなく、ローマ人の百人隊長です。「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」天使が来て彼に言います。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。」私たちもこう言っていただけたら、最高です。

 私が尊敬するある牧師の本に、次の意味のことが書いてあった記憶があります。「天国に行ったら、この世で重んじられていた人がそうでもなく、この世で軽視されたり無視されていた人が、神様に『よい僕(しもべ)だ、よくやった』と非常におほめにあずかっているということが起こっているのではないか。」この世の地位などが天国では逆転している可能性は十分にあります。神様は人を、一切分け隔てなさらない方です(使徒言行録10:34)。これは極めて重要なことと信じます。

 私たちの願いはただ一つ。「神様に喜ばれる生き方を日々したい」ということです。今日の自分の生き方は、神様に喜んでいただける生き方だったか。この点を日々、自分にチェックしつつ、私たちの罪を背負って十字架で死なれ復活されたイエス様と共に、歩みたいのです。アーメン(「真実に」)。