日本キリスト教団 東久留米教会

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2019-02-08 19:27:16(金)
「私たちに必要な祈り」 2019年2月3日(日) 降誕節第6主日礼拝 説教要旨
聖書: 列王記・上17章1~16節、マタイ福音書6章11~15節

 「主の祈り」の後半の3つの祈りが出ています。3つとも私たちに必要な祈りです。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」神様は憐れみ深い方で、私たちに食事が必要なことをよく知っておられます。エジプトを脱出した壮年男子だけで60万人のイスラエルの民を、マナという食物で40年間も養われました。イエス様の時代には、男だけで五千人の群衆を五つのパンと二匹の魚で養い、満腹にして下さいました。本日の列王記を見ると、神様は預言者エリヤにからすを送り、からすがパンと肉を運びました。神様はエリヤと知り合いになったサレプタという場所の女性とその子どもに奇跡によって食物を与え、飢え死にしないように養って下さいました。

 聖書の神様だけが真の神様です。この神は、これまで地上のすべての人々に食物を与えて下さいました。私たちは食物を店で買うことが多いので、食物を与えて下さるのは神様であることを実感しにくくなっています。ですが使徒言行録14章15節以下に、こうあります。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」

 神の民イスラエルがこれを信じず、食物などはバアル(偶像=偽物の神)から来ると誤解していた悲しい時期がありました。イスラエルの民は言いました。「愛人(バアル)たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ」(ホセア書2:7)。神様が嘆いて言われます。「彼女(イスラエルの民)は知らないのだ。穀物、新しい酒、オリーブ油を与え、バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのはわたしだということを」(同2:10)。

 私は農業を営む日本のクリスチャンの集会に出席したことがあります。その方々のモットーは「三愛」、つまり「神を愛し、人を愛し、土を愛する」ことだと学びました。私もほんの少しでも作物を育てようと思い、昨年プランターにミニトマトとブロッコリーを植えました。少しのミニトマトと小さなブロッコリーができて、ちょっぴり収穫の喜びを味わいました。現代の世界では、食物の配分が公平に行われていないので、食物が余る地域と飢える地域があります。これは神様の責任ではなく、私たち人間の罪です。日本では多くの食物が廃棄されています。事態を少しでも改善するためにフードバンクが設立され、活動を開始しています。その働きが日本と世界で拡大することを願います。

 神様は人間だけでなく、鳥や動物、植物をも養っておられます。「海も大きく豊かで、その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。~あなたがお与えになるものを彼らは集め、御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる」(詩編104:25~28)。私は家で飼っている鳥にえさを与えますが、その時の私の手は、神様の御手の代理をしているのですね。鳥のえさを忘れないように気をつけます。「神に従う人は家畜の求めるものすら知っている」(箴言12:10)とあります。

 次の祈り。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分の負い目のある人を赦しましたように。」この前提は、主イエス・キリストが十字架にかかって、私たち皆の全部の罪を背負って、赦しをもたらして下さった事実です。イエス様の十字架の愛に感謝して、私たちも私たちに罪を犯した人を赦す。だから私たちがイエス様を救い主と信じた後にも、日々犯してしまう罪を赦して下さい、ということでしょう。14節には、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とあります。この御言葉の最もよい解説は、マタイ福音書18:21以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」です。

 アメリカの東部にアーミッシュと呼ばれるクリスチャンの共同体があります。近代文明をあまり取り入れない生活をしている方々と聞きます。2006年10月2日に、その共同体で学校襲撃の痛ましい事件が起こりました。一人の男が女生徒5名を銃殺し、5名に重傷を負わせたのです(以下、クレイビル、ノルト、ザーカー共著『アーミッシュの赦し』亜紀書房、2008年による)。犯人もアーミッシュで、自殺したようです。その後のこの共同体の人々の行動は世界を驚かせました。アーミッシュの人々は犯人の家族に、「あなたたちには何も悪い感情はもっていません」と伝えたのです。ある人は、犯人の父親を抱擁し、「私たちはあなたを赦します」と言ったそうです。アーミッシュの人々にとってそれは自然なことでした。彼らには「赦しの信仰」が根付いていたのです。アーミッシュの人々にとって、「主の祈り」こそ「祈りの中の祈り」で、朝夕の祈りの時間に「主の祈り」を祈り、食前と食後に黙祷で「主の祈り」を祈るそうです。「主の祈り」の中心は「赦し」と語るアーミッシュもおられます。「人を赦さないなら、自分も神から赦されない」と信じておられるのです。確かにイエス様が本日の14節で、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とおっしゃっています。

 人を赦すことは難しいですね。しかし自分がイエス様の十字架のお陰で、多くの罪を赦していただいていることを思えば、人さまを赦さないことがよいとは思えません。人を裁く資格をもつのは神様のみ、神の子イエス・キリストのみです。このことを深く思い、困難ながらも赦しの道を歩ませていただきたいのです。まず自分の罪を悔い改めながら。アーメン(「真実に」)。


2019-01-27 20:22:44()
「なんと深い神の知恵」 降誕節第4主日礼拝 説教要旨
聖書:ヨブ記35章7節、ローマの信徒への手紙11章33~36節

 4ヶ月ぶりにローマの信徒への手紙を読む礼拝です。この手紙の著者(正確には口述筆記の語り手)・イエス様の使徒パウロの深い悲しみは、愛する同胞であるイスラエル人(ユダヤ人)たちが、救い主イエス・キリストをなかなか信じてくれず、なかなか救いに入ってくれないことでした。一体イスラエル人たちの多くは救われないのか、神様は何を考えておられるのか。パウロは問い続けました。神様の深いお考えが少しずつ示されたのです。そこでパウロは「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と感嘆し、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と喜びの讃美に導かれたのです。

 イスラエル人が救い主イエス様を拒否することで、イエス様がイスラエル人以外の人々(異邦人)に宣べ伝えられ、異邦人がイエス様を救い主と信じて救われてゆく。それを見てイスラエル人たちがねたみを起こし、「うらやましいな。私もあの異邦人のように救われたい」という気持ちを起こし、不信仰・不従順を捨てて、自分の罪を悔い改めてイエス様を信じて救いに入る。神様はそれをめざしておられるのです。10:23に「彼ら(イスラエル人)も、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう」とあります。神はイスラエル人がイエス様への不信仰を捨てて救われることをめざして働いておられるのです。そのためにイスラエル人のねたみ心という実に卑近な気持ちをさえ用いて、イスラエル人を救いに導こうと働いておられるのです。

 それにしても、本日の直前の32節は非常に分かりにくい御言葉です。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」不従順は罪ですから、完全に悪しきものです。「不従順の状態に閉じ込めた」とは、神様が人々(イスラエル人も異邦人も)に自分たちの不従順の罪を自覚させ、不従順のまま突き進めば死と滅びに至るほかないことに気づかせ、イエス様を救い主と信じて救われ、神の憐みを受けるに至る。あの放蕩息子がこの道をたどって救いを得ました。旧約聖書に登場する悪の都二ネベの人々も、王から庶民まで(さらに家畜まで!)罪を捨てて悔い改め、ひたすらへりくだったため神は裁きを撤回し、彼らは神の憐みを受けました。

 この手紙の著者パウロ自身もそうです。サウロと名乗っていた頃、彼はイエス様を信じるクリスチャンたちを迫害する急先鋒でした。気づかすに、神に逆らう不従順の道、滅びへの道をばく進していました。復活のイエス様がサウロに現われ、サウロを憐れんで諭して下さいました。サウロは自分の罪に気づき、悔い改めて洗礼を受け、永遠の命を受けます。そして人生かけてイエス様を宣べ伝える伝道者に生まれ変わったのでした。神の憐れみの深さを思います。何と、クリスチャンに対する最大の迫害者だったといえるパウロでさえ救われたのです。最も救われ難い人だったといえるパウロをさえ救ったのが神の憐れみです。であれば、私たちは希望をもって伝道することができると思うのです。神様は頑固に見えるあの人もこの人も救いたいと切望しておられる、と。

 パウロは感嘆します。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」これをやや大胆に言い換えると、「ああ、神の愛と憐れみのなんと深いことか」となるのではないでしょうか。それは神に敵対していたパウロをさえ憐れんで諭し、悔い改めと永遠の命に導くほどに深い愛と憐れみです。そのあまりに深い愛と憐れみは、イエス様の十字架上の祈りによってはっきり示されます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 私たちが洗礼を受けたときのことを思い起こせば、神の愛と憐れみとご配慮が多くあったことに気づきます。いろいろなクリスチャンとの出会いを与えられ、教会との出会いを与えられ、罪の赦しの洗礼を恵みを受けました。創世記22章に「主の山に、備えあり」とある通り、神様があらかじめ私たち一人一人のために、物質的にも霊的にも多くの備えをなさっておられました。それに気づくごとに、私たちは「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか!」との感嘆に導かれます。

 神様は私たちのために毎月第一日曜日に、聖餐式という恵みを備えて下さっています。イエス様が本当に私の罪を背負って、十字架で釘打たれて下さった現実を味わう時です。洗礼の恵みを深く想起する恵みの時です。聖餐式は単なる儀式ではないのです。イエス様の十字架の犠牲愛を感じて、涙がにじむ時、それが聖餐式です。聖餐の恵みをますます深く味わう感性(霊性)を磨きたいものです。

 私は今月中旬に、鎌倉にあるイエズス会の日本殉教者修道院で一泊二日の会に参加しました。その庭にイエス様の十字架の道行きのコースがありました。その道をたどりながら、イエス様の十字架を黙想する信仰のよき修練です。要所に札が立っていて、「(イエス様が)ここで衣服をはぎとられる」、「ここで倒れる」、「ここで鞭打たれる」、「ゴルゴタの丘で十字架にかけられる」、「ここ(墓)に葬られる」などと書いてあります。最後は「よみがえる」だったと記憶しています。悲しみの道ですが、希望で終わるのです。以前、島根県の津和野(明治のキリシタンの殉教の地)に行ったときも、それがあり、深く心に残りました。エルサレムのヴィア・ドロローサ(悲しみの道)にもあるそうです。清瀬の聖公会の教会では礼拝堂の中にありました。祈りつつその道をたどることで、イエス様の十字架の愛が心にしみわたります。

 父なる神様は、全ての人が十字架と復活のイエス様の前に頭を垂れて、罪の赦しと永遠の命を受けることを切望して働いておられます。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ福音書18:12~14)。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(同20:14)。神は、どんな一人が滅びることも望まず、その一人が悔い改めて救われることを目指して、招いておられます。パウロは、神様のこの深い心に目が開かれ、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」との讃美に導かれました。私たちも神様の深い憐れみを深く悟り、「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と、もっと心から讃美できる者へと前進させていただきたいのです。アーメン(「真実に」)。

2019-01-10 17:42:04(木)
「隠れたことを見ておられる神様」 2019年1月6日(日) 降誕節第2主日(公現日)礼拝 説教要旨
聖書: 詩編112編1~10節、マタイ福音書6章1~4節

 今日の聖句は、山上の説教の一部です。当時のイスラエルの信仰生活では、「施し」、「祈り」、「断食」が重要とされていました。イエス様が言われます。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」

 イエス様は、人からの報いを求めない「無償の愛」を行いなさいと言っておられると思います。私たちには難しいですね。私たち人間は、つい人からの報いを求めてしまいます。完全に純粋な無償の愛を与えることができる方は、イエス様お一人でしょう。私たちの愛は完全に純粋な無償の愛にはなかなかなりませんが、それでも私たちが精一杯心を込めた愛を、神様は喜んで下さいます。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」(ヘブライ人への手紙6:10)。しかし私たちが、自分を宣伝する目的で、いわゆる善行を行うとき、それは偽善になってしまい、人からがほめられるかもしれませんが、神からはほめられないとイエス様は教えて下さいます。

 偽善とは、「心の中で悪いことを考えているのに、行いにおいては正しい人を演じてふるまう」ことです。ここに嘘・偽りがあります。イエス様はこの偽りを見逃されません。私の心の中に偽善が全くないとは言えません。私の心の中に(悲しいことですが)偽善は存在すると思います。自分の偽善をゼロにしようとしても、なかなかゼロになりません。偽善が全くない方は、イエス様お一人ではないでしょうか。

 私が中学3年生だった時の卒業式に、私が住んでいた地域の議員さんが祝電を送って来られました。その方の名前が読み上げられた時、期せずして笑いが起こりました。主に保護者だったと思います。私にもその笑いの意味がすぐ分かりました。その議員さんが自己宣伝をなさったと思ったのです。私も直感的にそう思いました。「偽善だ」と感じたのです。偽善は罪です。ただし残念ながら私にも偽善の罪が全くないとは言えません。でもやはり偽善は罪です。最近、社会でも教会でも偽善という言葉を聞かないと感じます。以前の日本人は偽善に敏感だったのに、今はそうでなくなったのでしょうか。もしそうであれば、よくない傾向です。偽善に敏感な心を、日本人全体が回復する必要を感じます。

 「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」30年ほど前は、クリスチャンは「清く正しく生きる人」という通念が世間にあったと思います。そして当時、クリスチャンに対する批判で多かったのが「偽善者」というものだったように思います。私は子どもの頃、時々カトリック教会に行っていました。カトリック教会は慈善活動・チャリティー活動に力を入れていたように思います。もちろんそれには大いに良い面があります。ただ、もし仮に、昔の慈善にやや問題があったとすれば、「恵まれている人が、恵まれない人を助けてあげる」という雰囲気があったことではないかと思います。「恵まれない子どもたちに愛の手を!」というキャッチフレーズがあったように思います。今の言葉を使えば「上から目線」、助ける側が優位に立ち、助けられる側は下に見られる傾向があったかもしれません。それが「鼻につく」と感じる人もいたでしょう。やや独善的な雰囲気があったと言っては言い過ぎでしょうか。今は反省がなされ、ヘルプする人とヘルプされる人が対等に、「共に生きる」ことが大切と言われるようになりました。よい変化と思います。最近、次の言葉を見かけました。「私たちは、助けることによって、相手から助けられている。」よい言葉と感じます。

 イエス様は言われます。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」私が以前行ったことのある教会には、「右の手献金」という献金がありました。教会の中に生活に困窮する人が出ることがあります。そのような状況になった方が、そこからお金を借りる(あるいは受け取る)ことができるのです。借りた(受けた)方の名前は公表されず、ただ牧師と役員の一部が知るようでした。

 イエス様はここで、「自分が善行をしたことを、自分にも知らせるな」と言われます。私たちは自分のいわゆる善行を他人に宣伝したいだけでなく、自分にも宣伝して自己満足したい気持ちを持っています。自分に宣伝することも偽善です。神様に祈って聖霊を受けて、何とか私たちの心の中に巣くう偽善から自由にされたいものです。イエス様はルカ福音書17:10で、こう言われます。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」この姿勢で生かされたいのです。

 マタイ福音書25章に、「最後の審判」の場面があります。真の王であるイエス様が言われます。「わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いたいたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」するとほめられた正しい人たちは、「いつ、それをしたでしょうか」と答えます。彼らは当然のことをしただけと思い、本当にすっかり忘れていたのです。こうなることが理想です。イエス様に無償の愛で愛されて、自分たちも次第に無償の愛に生きる者に、聖霊によって変えられていったのでしょう。

 使徒言行録10章に、コルネリウスというすばらしい人が登場します。イスラエル人でなく、ローマ人の百人隊長です。「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」天使が来て彼に言います。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。」私たちもこう言っていただけたら、最高です。

 私が尊敬するある牧師の本に、次の意味のことが書いてあった記憶があります。「天国に行ったら、この世で重んじられていた人がそうでもなく、この世で軽視されたり無視されていた人が、神様に『よい僕(しもべ)だ、よくやった』と非常におほめにあずかっているということが起こっているのではないか。」この世の地位などが天国では逆転している可能性は十分にあります。神様は人を、一切分け隔てなさらない方です(使徒言行録10:34)。これは極めて重要なことと信じます。

 私たちの願いはただ一つ。「神様に喜ばれる生き方を日々したい」ということです。今日の自分の生き方は、神様に喜んでいただける生き方だったか。この点を日々、自分にチェックしつつ、私たちの罪を背負って十字架で死なれ復活されたイエス様と共に、歩みたいのです。アーメン(「真実に」)。

2019-01-03 18:47:21(木)
「救い主へのあこがれ」 降誕節第1主日礼拝 説教要旨
聖書:イザヤ書40章1~11節、ルカ福音書2章22~40節

 イエス様が誕生しておそらく40数日後、両親であるマリアとヨセフは、その子を神様に献げるため、エルサレムの神殿に行きました。旧約聖書に次のような決まりがあるからです。「すべての初子を聖別してわたし(神)にささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである」(出エジプト記13:2)。「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れる(もちろん今はそうではありません)。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。~(献げ物については)産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする」(レビ記12:2~8)。マリアとヨセフは、「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるため」にエルサレムに行ったとあるので、貧しかったことが分かります。

 そのとき神殿にシメオンという男性(おそらく老人)が聖霊に導かれて神殿に入って来ました。神殿には多くの人がいたでしょうが、この場面に注目した人はあまりいなかったように思います。私たちも、目立たない神の業を気づかずに素通りすることがないように、神の業に敏感でありたいのです。シメオンは信仰が厚くイスラエルが慰められるのを待ち望み、神様が約束なさったメシア(救い主)に出会うことをあこがれ、待ち焦がれていました。旧約聖書に登場するヨブも、彼と同じように救い主にあこがれ、救い主を待ち焦がれたのです。「わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る」(ヨブ記19:25~26)。

 シメオンはこの赤ちゃんこそ待ち焦がれた救い主と直感します。彼は幼子を腕に抱き、神をたたえます。その目には涙が光っていたでしょう。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕(しもべ)を安らかに(平和に)去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」ヨハネの黙示録14:13に似ています。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。霊(聖霊)も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。』」キリスト者の死は、永遠の命への入り口です。「罪が支払う報酬は死です」とローマの信徒への手紙6:23にあり、その通りですが、イエス様が私たちの全ての罪と罪の結果の死を十字架で引き受けて死なれ、三日目に復活されました。このお蔭で死が死に、死が無力化されました。従って、イエス様を信じる者にとって死は永遠の命への入り口です。

 シメオンは、この家族(聖家族)を祝福しました。高齢の方々の重要な務めの一つは、若い世代に神の祝福を祈ることではないでしょうか。ヘブライ人への手紙11:21にこうあります。「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。」
 
 「最上のわざ」という有名な詩を連想します。これは日本で長く奉仕されたホイヴェルス神父が故郷のドイツでご友人からもらった詩だそうです(ヘルマン・ホイヴェルス著『人生の秋に』春秋社、2012年、75~77ページ)。
「この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

 若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。/ 老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしてゆくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承認するのだ。

 神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

 すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。『来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ』と。」

 昨年亡くなった俳優の樹木希林さんが2012年の映画『ツナグ』で朗読なさり、反響があったそうです。クリスチャンでない日本人の心にも響いたのでしょう。私はこの詩を読んで、東久留米教会員として天に召された児玉さんとおっしゃる女性を思い出します。私が赴任した1996年には既に清瀬市のベトレヘムホームに入っておられました。独身で看護師、婦長として人のために尽くされました。ホームでいつも穏やかに迎えて下さいました。ご親族や教会のために祈っておられたと思います。「児玉さんは、とってもお世話をし易い方ですよ」と担当の男性が語って下さいました。

 シメオンのマリアへの言葉は単純な祝福ではありません。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせるためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。」イエス様の十字架を予告する言葉です。十字架はつらいことですが、父なる神様はその後に復活の勝利を与えて下さいます。シメオンの厳しい言葉は、イエス様の言葉と呼応します。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイ福音書10:34)。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(ルカ福音書12:51)。びっくりする言葉です。イエス様は基本的には平和をもたらすために来られました。ですが、イエス様を受け入れる人と、イエス様を受け入れない人が出てしまう。その現実をも見ておられます。どうか私たちが皆、へりくだってイエス様を信じることができるように、ご一緒に祈りたいのです。アーメン(「真実に」)。



2018-12-30 3:27:47()
「飼い葉桶のキリスト」 クリスマス礼拝 説教要旨
聖書:イザヤ書1章3節、ルカ福音書2章1~21節

 クリスマスおめでとうございます。本日のルカによる福音書は、イエス・キリストの誕生の場面です。著者ルカは、ローマ皇帝・この世の権力者アウグストゥスと、馬小屋に生まれた無力な赤ちゃんイエス・キリストを対比させています。アウグストゥスは有名なジュリアス・シーザー(カエサル)の養子です。自分に義理の兄弟アント二ウスとその妻クレオパトラ(その前はシーザーの妻だった)夫婦の連合軍と戦って勝利し、元老院から初代皇帝に任命されました。でもこのアウグストゥスが世界の真の救い主ではなく、イエス様こそが世界の全ての人々の真の救い主だと、聖書は教えてくれます。

 そのアウグストゥスから、全領土の住民に登録をせよとの勅令が出て、人々は皆、登録するために自分の町に旅立ちました。大変な権力です。人々は皇帝の権力によって翻弄されます。マリアとヨセフは翻弄される側でした。マリアとヨセフは、ナザレからベツレへムへ向かいますが、地図で測ると直線距離で110キロもあります。彼らがベツレへムにいるうちに、マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからです。このことは、神の子イエス様が必ずしも地上で歓迎されなかったことを示します。イエス様はこの福音書の9章で言われます。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子(ご自分)には枕するところもない。」イエス様は十字架で殺されるのです(もちろん三日目に復活され、今も天で生きて働いておられます)。イエス様は馬小屋で生まれたと言われていますが、それは実際には洞窟だったのではないかと言う人もいます。

 その地方で羊飼いたち(無名)が野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。貧しいがたくましい羊飼いだったと思います。野宿は厳しいですね。私は誘われて、池袋でホームレスの方々にお弁当を配る働きに参加したことがあります。午前1時から5時くらいまでは駅が閉まるので、ホームレスの方々も外に出なければなりません。東京でも雨の時、台風の時、雪の時があり、野外での寝泊まりは厳しいと感じます。その働きをしている方が北海道で働いて来られたとおっしゃったので、北海道にホームレスの方々はおられますかと尋ねたところ、その方は北海道にはホームレスの方はいないと返答されました(インターネットで調べると、実際には多くはなくても、おられるようです)。北海道で冬にホームレス生活をなせば、凍死する恐れがあります。それはともかく、この羊飼いたちはきつい労働に明け暮れていましたが、世間からは軽視されていたと思われます。しかし神様は、世の中で重んじられない、いと小さき人(と言っては失礼ですが)を愛して下さる方です。

 一瞬、天が開き、主の天使が近づき、主の栄光がサーチライトのように周りを照らしたので、彼らは非常に恐れました。天使が言います。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」イエス様が何時にお生まれになったのか正確には分かりません。しかしこの箇所からでしょう、イエス様は夜お生まれになったと信じられるようになり、今でもカトリック教会は深夜0時からクリスマスミサを献げます。「あなたがたのために」救い主が生まれました。「あなたがた」とは、人生が順調でない私たち、悩み苦しみ、悲しんでいる私たち、もしかするといじめを受けている私たちです。その私たちのためにこそ、イエス様は誕生されました。

 天使が続けます。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中で寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」この乳飲み子は、父母に仕える少年時代を送り、長じると人の病を癒し、弟子たちの足を洗い、遂には私たち一人一人の罪とその結果である死を全て身代わりに引き受けて下さり、ゴルゴタの丘で十字架に架かって死なれます。十字架こそ真の救い主のしるし、証拠です(三日目に復活の勝利を受けられます)。

 天使に天の大軍(天使の大軍)が加わり、神を賛美します。「いと高きところには栄光、神にあれ。父には平和、御心に適う人にあれ。」ここでは羊飼いたちこそ「御心に適う人」です。私たちイエス様を愛し、イエス様に従おうとする者も「御心に適う人」です。私たちにとって大切なことは、「小さな者であり続ける」ことだと思います。イエス様の使徒パウロが書いたコリントの信徒への手紙(一)1章にこうあります。「兄弟たち、あなたがたが召されたとき(イエス様を信じる者になったとき)のことを思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」

 今日のルカ福音書には、「飼い葉桶」という言葉が3回出て来ます。イザヤ書1章3節にも「飼い葉桶」の言葉があります。この節は、神様の嘆きの言葉です。「牛は飼い主を知り ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず わたしの民は見分けない。」ここでの飼い葉桶は、飼い主・養い主を示します。牛やろばでさえも養い主を知っているのに、肝腎の神の民イスラエルが養い主である神に立ち帰らないというのです。この箇所とルカ福音書2章の飼い葉桶を直接結び付けるには無理があると思います。ですが飼い葉桶が、私たちの真の飼い主を暗示すると考えることは、間違いではないと思うのです。

 私がチャプレンとして奉仕させていただいている保育園では、先日クリスマス会で、ぺイジェント(イエス様の聖誕劇)を行いました。子どもたちが大きくなってクリスマスを過ごすたびに、「そう言えば保育園でクリスマスの劇を行って、自分は天使になった、羊飼いになった、羊になった」と懐かしく思い出してくれることを願います。さらにそこにとどまらず、保育園の礼拝で繰り返し聞いた神様、イエス様に懐かしさを感じ、そこに立ち帰ってくれることを祈っているのです。

 私たちも飼い葉桶と聞いて、懐かしい真の養い主・神様に立ち帰りましょう。初期の教会の指導者となったアウグスティヌス(アウグストゥスではない)は、「神よ、あなたは私たちの心をあなたに向けてお造りになったので、私たちはあなたに立ち帰るまで真の平安を得ません」と祈ったそうです。これは彼の深い実感でしょう。彼は若い時は放蕩息子で、マ二教という宗教にはまり、女性関係にも大いに問題があり、熱心なクリスチャンの母親モニカを嘆かせていました。しかし母モニカの涙の祈りによって、遂に回心しクリスチャンになり、教会の立派な指導者にさえなりました。真の神様に立ち帰って、深い真の平安を得たのです。私たちも、飼い葉桶という語を見るとき、真の養い主を思い出し、真の神様とその独り子イエス・キリストに、喜んで立ち帰りましょう。神様が喜んで下さいます。アーメン(「真実に」)。