日本キリスト教団 東久留米教会

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2014-05-13 1:14:39(火)
「命をかち取りなさい」 2014年5月11日(日) 復活節第4主日礼拝説教
朗読聖書:エレミヤ書1章1~13節、ルカによる福音書21章7~19節
「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカによる福音書21章19節)

 すぐ前の5~6節から読みます。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。』」エルサレムの壮麗な神殿が崩壊する時が来ると予告なさったのです。この世の形あるものは、どんなに大きく壮麗であっても次第に劣化し、いつかは壊れます。2012年2月に東京スカイツリーが完成しました。高さ634mで、塔としては世界一高いとギネスブックに認定されたそうです。人口建造物としては世界一の建物がほかにあるそうです。スカイツリーの完成は日本人にとって嬉しいことですが、その地域で育った王貞治さんが人々をスカイツリーに案内したときに、「この辺りは東京大空襲のときに焼け野原になった所です」とおっしゃったと聞きます。慢心してはいけないと戒めて下さったのです。人間が造ったものは永遠ではないのです。原子力発電所が壊れて非常に困っていることを私たちは知っています。私たち人間の文明は有限であることをわきまえる必要があります。イエス様が話しておられるこの場面は、紀元30年頃です。この後、紀元66年にユダヤ人たちは、ローマ帝国に対して武力で立ち上がり、戦争を始めます。しかし次第に追い詰められたユダヤ人はエルサレムに立て籠って頑強に抵抗しましたが、紀元70年にエルサレムは破壊され、神殿も炎上してしまいました。イエス様はこのことを預言されました。

 この壮大な神殿が壊れる! このことを聞いて弟子たちは怖くなります。(7節)「そこで、彼らはイエスに尋ねた。『先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。』」この神殿が崩壊するのであれば、それは世の終わりに違いないと弟子たちは思ったのです。しかしイエス様は、エルサレム神殿の崩壊が直ちに世の終わりではないと注意を促されます。(8節)「イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。』」 神殿は確かに崩壊するが、それが世の終わりではない。混乱して世の終わりのような雰囲気に飲まれそうになるだろうが、そこでこそしっかりと目を覚ましていなさい。様々な偽のリーダーが現れ、「わたしが救い主だ」と言い、「わたしに着いて来なさい」と言うだろう。しかしあなた方は、偽のリーダーが偽であることをしっかり見抜いて、着いていかないように気をつけなさい。私たちは自分の頭でしっかりと考えて、偽物に騙されないように注意する必要があります。

 エルサレムがローマ軍に包囲されたとき、ユダヤ人クリスチャンたちは、エルサレムや神殿と共に滅びる道を選ばず、エルサレムを脱出して生き延びたそうです。今日より先の21節で、イエス様がこうおっしゃった言葉を思い出して従ったのです。「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都(エルサレム)の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」イエス様をメシアと信じたユダヤ人クリスチャンたちは、賢明にもイエス様の御言葉に従ったのです。

 ユダヤ人は紀元132年にもローマ帝国に対して反乱を起こします。そのときのリーダーはバル・コクバという人です。バル・コクバとは「星々の子」の意味です。星はメシア(救い主)のシンボルで、彼は自分こそメシアであると信じたのでしょう。多くの人々がそれに惑わされ、ローマと戦って死んでゆきました。彼は偽メシアだったのです。ほかにもヒットラーは一種の偽メシアだったでしょうし、日本ではオウム真理教の教祖を多くの当時の若者(私と同世代の人々)が信奉して、人の命を奪い、自分たちも破滅の道に進んでしまいました。間違った指導者に従ってしまうと、恐るべき結果になってしまいます。私たちも慌てふためかず惑わされないで、目を覚ましてよく祈り、神様の御心に適う善い生き方に進みたいのです。

 (9節)「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」「決まっている」は、もとの言葉・ギリシア語で「デイ」という小さい言葉(けれども重要な言葉)です。「デイ」は、必然、神様の必然を表す言葉です。戦争も暴動も必然的に起こる。それらは世の終わりの前徴ではあるのでしょうが、前徴が起こったからと言ってすぐに世の終わりが来るのではない。だからしっかりと目を覚まして落ち着いて、神に従う道に踏みとどまるように、とイエス様はおっしゃいます。(10~11節)「そして更に言われた。『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。』」最近約20数年の間に湾岸戦争、イラク戦争があり、関西・新潟・東日本で地震がありました。鳥インフルエンザは一種の疫病でしょうか。戦争は何としても避けるべきですが、自然災害は残念ながらこれからも起こるでしょう。そして父なる神様がお定めになった時にイエス・キリストがもう一度おいでになり、この世が終わり神の国が完成されます。

 しかしその前に迫害の時代もあるとイエス様はおっしゃいます。(12節)「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。」まずイエス様ご自身が迫害をお受けになったのです。イエス様はローマから派遣された総督ピラトにこう尋問されました。「お前がユダヤ人の王なのか。」イエス様はお答えになります。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」イエス様は、この世の政治的な王ではなく、神の国の王、すべての人の下に降って奉仕して下さる王であるとおっしゃったのです。さらにイエス様はピラトに言われます。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」こうしてイエス様は、この世の権力者ピラトの前で、恐れることなくご自分がどのような方であるかを証しなさいました。

 そのイエス様が弟子たちに予めおっしゃいます。(13~15節)「それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」権力者の前に出されることは恐ろしいことです。ですがイエス様がそのとき、語るべき言葉と知恵を与えて下さる。「だから心配するな」と、イエス様がおっしゃいます。「証し」という言葉が出ていますが、証しをする人を証人と呼びます。証人は新約聖書の言語であるギリシア語で「マルトュス」という言葉です。「マルトュス」は後に殉教者という意味にもなりました。イエス・キリストを指し示す証人が殉教者になることがしばしば起こったからです。

 ここで思い出すのはステファノという人です。ステファノはキリスト教会最初の殉教者です。使徒言行録6章に、ステファノは「信仰と聖霊に満ちている人」と書かれています。ある人たちが立ち上がってステファノと議論したけれども、「ステファノが知恵と霊(聖霊)とによって語るので、歯が立たなかった」と書かれています。イエス様がステファノに天より聖霊を注いで、どんな反対者も対抗も反論もできない言葉と知恵を授けて下さったのです。ステファノは聖霊に満たされて説教をしたのですが、それがイエス様を憎む人々の怒りを買い、ステファノは一斉に石を投げつけられて殉教の死を遂げます。人々が石を投げつけている間、ステファノは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫びました。ステファノはイエス様と同じ心、敵を愛する心になっていたのです。殉教の死を遂げ、直ちに天国に入ったのです。

 約30年後、使徒パウロもユダヤ王アグリッパの前で、復活したイエス・キリストに出会った体験を証ししました。使徒言行録26章です。それまでパウロ(復活のイエス様に出会った頃はサウロまたはサウルと呼ばれていた)は、クリスチャンたちを全力で迫害していたのです。パウロはアグリッパ王にこう語ります。「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへと向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげのついた棒をけると、ひどい目に遭う』と私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。』」そしてパウロはさらにアグリッパ王にイエス・キリストの復活をまっすぐに語り伝えます。「『アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。』」パウロもこうして王の前で立派に証し、信仰の表明をしたのです。パウロも最後はローマで殉教しました。

 ルカによる福音書21章に戻り、16節以下。イエス様の言葉。「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」 「髪の毛一本も決してなくならない」とは、神様の許しがなければ一本もなくなることはないということのようです。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」という御言葉は、ヨハネの黙示録2章10節で、イエス様がスミルナという土地の教会に向かって語られた御言葉とよく似ています。「あなたは、受けようとしいている苦難を決して恐れてはならない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」「十日の間」ということは、苦しみの日々には限りがあるということです。苦しみは永久ではないのです。

 日本にキリスト教が伝わったのは戦国時代の1549年です。豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出し、キリスト教迫害が始まりました。バテレンとは神父です。1597年に長崎の西坂の丘という所で、秀吉の命令によって26人のクリスチャンが十字架に縛りつけられ、槍で刺されて殉教しました。「26聖人の殉教」と呼ばれる出来事です。その場所と推定される所に記念碑が建てられています。私も1983年の秋に高校の修学旅行で行きました。まず1596年暮れに、京都や大阪の信者24名が捕らえられました。年齢は12才から70才近くまでと様々でした。日本人だけでなく、中国人、スペイン人、ポルトガル人、メキシコ人がおり、6名の宣教師がいました。翌1597年1月10日より、24人は大阪から長崎まで900キロを寒い中、歩かされました。残酷なことです。24人を世話するために京都から着いて来た青年2人が自ら加わり、一行は26人になりました。26人の中に12才の朗らかな少年がいて、死刑を行う責任者の寺沢半三郎という人が、この少年に「キリシタンの教えを捨てるならば、助けてもよい」という意味のことを言いました。すると少年は、「そのような条件であるならば、生命を望みません。つかの間の生命と永遠の生命を交換するのは意味のないことです」と答えました(ルイス・フロイス著・結城了悟訳『日本二十六聖人殉教記』、聖母の騎士社、2009年、181ページ)。そして十字架に縛りつけられたとき、「意外な喜びを見せ、『パライソ(天国)、パライソ、イエズス、マリア』と言いながら信者未信者を問わず人々を驚かせた。そのことで彼の心には聖霊の恵みが宿っていることがよく表れていた」(同書、233ページ)とルイス・フロイス神父が記録しています。

 三木パウロという33才の日本人修道士は、牢獄でも道中でも人々に説教したそうですが、十字架の上からも説教しました。「ここにおいでになるすべての人々よ、私の言うことをお聴き下さい。~私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。今、この時を前にして貴方方を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する」(同書、209ページ)。「キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を許すように教えている故、私は国王とこの私の死刑に関わったすべての人々を許す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する」(同書、209~210ページ)。まさにこの26人は「忍耐によって命をかち取」った人々です。26名は、神様に愛され、神様に特に選ばれ、苦難に耐える特別な力を与えられた人々だったと思うのです。

 本日の旧約聖書は、エレミヤ書1章1節以下です。神様はエレミヤに言われます。5節「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/ あなたを知っていた。
   母の胎から生まれる前に/ わたしはあなたを聖別し
   諸国民の預言者として立てた。」
エレミヤは尻込みします。
6節「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。
   わたしは若者にすぎませんから。」
7節「主はわたしに言われた。
  『見よ、わたしはあなたの口に/ わたしの言葉を授ける。』」

 神様がエレミヤに語る言葉を授けて下さいます。神様は12才の少年にも驚くほど深い信仰の言葉を授けて下さいました。「つかの間の生命と永遠の生命を交換するのは意味のないことです。」「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」とおっしゃったイエス様が、この少年を強めて下さったとしか思えません。私たちがピンチのとき、必ずイエス様が共にいて支えて下さいます。

 イエス様は今日のルカによる福音書21章14節では、「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」と言われますが、これは迫害の時のことです。比較的平穏な日々の心構えについて聖書は次のように述べます。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(ペトロの手紙(一)3章15節)。私たちは平時に聖書の御言葉を蓄え、キリスト者に与えられている全ての罪の赦しと永遠の命の希望について、尋ねて来る人にいつでも伝えることができるように準備万端でありたいものです。厳しい局面ではイエス様が必ず助けて下さることを信じ、平時にあっても聖書を読んで祈り、イエス様に従う生き方を怠らない者でありたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-05-07 0:34:30(水)
「イエス様の感激」 2014年5月4日(日) 復活節第3主日礼拝説教 
朗読聖書:創世記4章1~16節、ルカによる福音書21章1~6節
「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
                  (ルカによる福音書21章4節)

 ルカによる福音書は、貧しい人に優しく、お金持ちに厳しい福音書です。今日の場所はエルサレム神殿です。この神殿はヘロデ大王によって紀元前20年頃に拡張工事が開始され、イエス様の時代には「周囲に回廊を巡らした広い境内と、白い大理石の美しい本殿を持つ、立派な建造物」(新共同訳聖書巻末の解説による)でした。142.5m×120mの面積の非常に壮麗な建造物で、外国にまで評判を呼んでいたそうです。5節に、「見事な石と奉納物で飾られていた」と書かれています。今日の主人公は、イエス様を除けば一人の貧しいやもめです。壮麗な神殿と貧しいやもめは明確なコントラストをなしています。

 (1節)「イエスは目を上げて、金持ちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。」イエス様はじっと注意深く見つめておられたのです。賽銭箱が置かれていたのは、神殿の「婦人の庭」と呼ばれるスペースで、このスペースは神殿全体の3分の1を占め、多くの人々が出入りしたそうです。金持ちたちが有り余る中から多くの献金をしていました。そこにある名もなき貧しいやもめが、神様に献金をするためにやって来ました。旧約聖書以来、神様はみなし子、やもめ、寄留の外国人といった弱い立場にある人々の味方です。申命記10章17節に次のように書かれています。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」

 2節に「そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て…」とあります。レプトンは「最小の銅貨で、1デナリオンの128分の1」(聖書巻末の資料による)です。1デナリオンは一日分の賃金ですから仮に5000円とすると、1レプトンは約39円です。分かりやすくするために50円と考えましょう。レプトン銅貨2枚は約100円になります。この100円がこのやもめの全財産だったのです。本当に非常に貧しかったのです。(3~4節)「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」このやもめは本当に見上げた人です。なかなかこの真似はできません。イエス様も非常に感激され、最大級の賛辞を送っておられます。「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」父なる神様も、このやもめの献金を非常に喜ばれたに違いありません。やもめは文字通り精一杯の献げ物をして、神様の愛したのです。申命記6章4節に、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とありますが、このやもめはこの御言葉の通りに、自分の全てを神様に献げて、神様を愛したのです。自分の命を献げたとも言えます。このやもめは私・私どもの信仰上の先生です。

 イエス様には、やもめがレプトン銅貨二枚を献金するのが見えました。ほかの人にも見える状況だったのかは分かりません。ですがやもめは恥じることなく堂々と献げたと思います。献金は神様お一人に見ていただけばよいものだからです。周りの金持ちたちに比べて自分は少ないということは全く考えず、神様のへの精一杯の感謝を、迷わないでまっすぐに献げました。私たちは思います。「このやもめは全財産を献げて、明日の生活をどうしようと心配しなかったのだろうか。」神様がおられなければ、これはただの無謀です。ですがやもめは、生ける真の神様を信じていました。昔、出エジプトして食べ物のない荒れ野を放浪した自分たちの先祖に、日々マナを与えて養って下さった神様がおられる。私に必要なものを与えて下さると信頼していたのです。イエス様はマタイによる福音書6章でこうおっしゃいました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」やもめは、まさにこの信仰に生きていたと思うのです。明日のことはすべて神様にゆだねて、今日なすべきことをしたのです。神様への信頼がなければできないことです。

 聖書ではしばしば、神様に真に忠実なやもめのことが好意的に描かれています。ルカによる福音書の2章では、赤ちゃんイエス様が神殿に献げられる場面に、アンナという女預言者が登場致します。「非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。」 テモテへの手紙(二)5章5節には、こうあります。「身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けます」と。本日登場するやもめもこのような人だったと思うのです。ほかに頼るものがなく、ひたすら「神様、神様」とすがっており、助けられる経験を重ねていたのでしょう。そこで恐れることなく持てる全てを献げたのです。

 それにしても見上げた信仰です。わたしたちはなかなかここまで徹底できません。わたしは、神様の命令で愛する独り子イサクを献げようとしたアブラハムの信仰を思い出します。創世記22章の有名な場面です。神様はアブラハムに命じられました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」アブラハムがどのような気持ちだったか、一言も書かれていないので分かりません。アブラハムは、無茶とも思える神様の命令に黙々と、従順に従うのです。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の上に載せた。そしてアブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」ここでアブラハムは事実上イサクを神様に献げたのです。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」神様を愛したのです。やもめが2枚のレプトン銅貨を自分の手に握りしめようとしなかったのと同じく、アブラハムも独り子イサクを自分の手の中に握りしめようとせずに、神様に全幅の信頼を込めて委ねました。神様が御心を成して下さる。神様が最善を成して下さる。そう信頼しきってイサクと自分を神様に委ねたのです。

 神様はアブラハムの信頼に応えて下さいました。神様はアブラハムの従順な信仰を喜ばれ、すんでのところで天使を送って、「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ」と言わせて下さいました。アブラハムはその直後、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられているのを見つけ、行ってその雄羊を捕まえ、イサクの代わりに焼き尽くす献げ物として献げました。そしてアブラハムはその場所を「ヤーウェ・イルエ」(主は備えてくださる)と名付けました。「そこで、人々は今日でも『主の山に備えあり』(イエラエ)と言っている」と書かれています。多くの信仰者を励まして来た「主の山に備えあり」という御言葉がここに登場致します。「主の山に備えあり」、これは「神様を信頼して決して間違いはない」というすばらしい御言葉です。あのやもめも「主の山に備えあり」の信頼を持って、全財産であるレプトン銅貨二枚を献金したと思うのです。

 私が神学生であった1993年に、夏の伝道実習で静岡草深教会という教会に37日間ほど帯在致しました。主任牧師は、今は天におられる辻宣道先生でしたが、その年の11月に辻先生が朝日新聞の「声」の欄に投書なさいました。ちょうど企業から政治家への献金が問題になっていた時期です。題は「本当の献金は見返りない金。」「献金という言葉を見ると、うんざりする。『献金』がかわいそうだ。献金とは、そもそも浄財であるべきなのに、近ごろの献金は、暗いシミのついたゼネコンの魔手が地に堕ちて汚されている。私たちの団体は献金によって運営される。それは、見返りのまったくない純粋の『献げもの』である。持てるものはそれなりに、持てないものもそれなりに、精一杯献げて、世のため人のためになれかしと念じて出す。それから見ると、この頃の献金はおかしい。だれのためにささげるのだ。自分のためではないか。これは献金ではない。『換金』である。つまりその金は必ず見返りとなって、自分のふところを肥やすのだ。汚い金を献金、献金、というからややこしくなる。きれいな金までうすよごれて見える。清く正しい献金を堂々と闊歩せしめよ。貧者の一灯が持ち寄られ、それを政治改革の力にしなければ嘘だ。その精神がわが国にはない」(『牧師・辻宣道』静岡草深教会、1995年、127~128ページ)。ストレートなメッセージです。「(献金は)見返りのない純粋の『献げ物』。」あのやもめも神様への純粋な感謝から、何の見返りも求めないで持てるすべて、レプトン銅貨二枚を献げたのです。

 やもめのこの生き方は、イエス様の生き方に深く通じます。私たちは2週間前にイースター礼拝を献げたばかりですが、本日の場面はイエス様の十字架の三日前の火曜日です。イエス様の使命は、父なる神様の御心に100%服従して十字架にかかることです。私たち一人一人を愛して、私たちの身代わりに十字架におかかりになったのです。イエス様は、父なる神様を愛し、隣人を愛することが大切だと教えて下さいました。その生き方を自ら実践なさった結果が十字架の犠牲の死です。父なる神様への愛と、私たち一人一人への愛を貫くイエス様の生き方は、必然的に十字架の犠牲の死に至るのです。イエス様自身がこの三日後にご自分のすべてを父なる神様に献げなさいます。ご自身が献げ物となって下さったのです。その覚悟をしておられるイエス様の目に、やもめは同じ志に生きる友に見えたのではないでしょうか。イザヤ書41章8節で、神様はアブラハムのことを「わたしの愛する友」と呼んでおられます。神様はこのやもめのことも「わたしの愛する友」とお呼びになりたいお気持ちだったでしょう。それほど彼女の献金に感激されたと思うのです。

 神様に喜ばれる献げ物。それは神様への真の愛から出た献げ物です。本日の旧約聖書は創世記4章。エバとアダムの息子たち、人類最初の兄弟カインとアベルが登場する場面です。解釈の難しい箇所ですが、1節より5節まで読みます。「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」

 ふつうここを読むと、「なぜ?」と思います。「神様は不公平ではないか? カインが気の毒だ」とさえ思うのではないでしょうか。ですがカインがアベルを殺害したことからも、カインはかなり問題のある人だったことが察せられます。形の上ではカインもアベルも神様に献げ物をしたのです。ですがカインの生きる姿勢と献げ物に対する姿勢(礼拝に対する姿勢)、そしてアベルの生きる姿勢と献げ物に対する姿勢(礼拝に対する姿勢)には、かなりの差があったのではないでしょうか。3節に「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た」と書かれています。もしかすると神様をあまり愛さず、神様にあまり感謝しておらず、仕方なく義務を果たした、ということかもしれません。4節に「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た」とあります。アベルが多くの羊の中から良いものを選んでいることは確かです。神様への愛と感謝をこめて選んだのです。肥えた羊を選び、初子(初物)を選びました。多くの羊の中から、最も良いものを選んで神様に献げました。アベルの生きる姿勢、献げ物に対する姿勢、神様を礼拝する姿勢を、神様は喜んで下さいました。私たちもアベルから大いに学ぶことができます。気の毒にもアベルは、神様に忠実に従ったのに、カインに不当に殺されてしまいました。イエス様に似ています。アベルを人類最初の殉教者と呼ぶ人もいるそうです。アベルは「肥えた初子」を献げ、やもめはレプトン銅貨二枚を献げました。献げたものは違いますが、二人とも神様に全身全霊と愛を込めて献げており、神様を愛して献げる姿勢が神様に喜ばれたのでしょう。

 旧約聖書の最後の書マラキ書を読むと、イスラエルの祭司たちの献げ物に対する不誠実な姿勢について、神様が叱る言葉が書かれています。
「あなたたちが目のつぶれた動物を
 いけにえとしてささげても、悪ではないのか。
 足が傷ついたり、病気である動物をささげても 
 悪ではないのか」(1章8節)。
「あなたたちが盗んできた動物、足の傷ついた動物、病気の動物などを献げ物として携えてきているのに、わたしはあなたたちの手からそれを快く受け入れうるだろうか、と主は言われる。群れの中に傷のない雄の動物を持っており、それをささげると誓いながら、傷のあるものを主にささげる偽り者は呪われよ。わたしは大いなる主で、わたしの名は諸国の間で畏れられている、と万軍の主は言われる」(1章13~14節)

 最後に、コリントの信徒への手紙(二)を読みます。8章1節以下です。これはイエス様の弟子・使徒パウロが、ギリシアの大都市コリントの教会のクリスチャンたちに献金を呼び掛ける言葉です。その献金の目的は、当時貧しかったエルサレムの教会を助けることです。パウロはまず、ほかの教会がエルサレム教会への愛の献金に立ち上がった実例を引いて、コリント教会の人々の愛に訴えます。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会(フィリピの教会などか?)に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」マケドニア州の諸教会は裕福ではなく、極度に貧しかった。あのやもめと似ています。極度に貧しかったのに、キリストの十字架の愛に触発され、聖霊の愛に満たされ、驚くべきことに、困っている人々に惜しまず施す者となったのです。「わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たち(貧しいエルサレム教会の人々)を助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。」

 そして10節の途中から。「あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」 「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」励まされる言葉です。9章7節も励まされる言葉です。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです。」すばらしい御言葉です。「喜んで与える人を神は愛して下さる。」私は反省させられます。あの奉仕、この奉仕を喜んでしていたかどうかを。あのやもめは喜んでレプトン銅貨2枚を献げたと思います。アベルも喜んで献げたと思います。私たちも、この自分自身を、神様と隣人に喜んで献げて参りましょう。

2014-04-28 22:48:52(月)
「すべての造られたものに福音を」2014年4月27日(日)復活節第2主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書11章1~10節、マルコによる福音書16章14節~結び二
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
(マルコによる福音書16章15節)

 マルコによる福音書は、イエス様の空の墓を見て、天使からイエス様の復活を知らされた婦人たちの反応を非常に正直に伝えています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」 婦人たちは、イエス様が甦ったとは少しも予想しないで墓に行きました。天使が告げたことは、婦人たちにとってあまりに衝撃的だったのです。同じ朝、イエス様はマグダラのマリアにご自身の姿を現されました。マグダラのマリアは、以前イエス様に7つの悪霊を追い出していただいた女性です。マリアは、以前イエス様と一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、甦りのイエス様に会ったことを伝えました。しかしこの人々は、イエス様が生きておられること、マリアがそのイエス様に会ったことを聞いても、信じませんでした。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエス様が別の姿で御自分を現されたと書かれています。別の姿とはどんな姿なのか分かりませんが、別の姿であってもイエス様であることははっきり分かる姿だったようです。この二人も行って残りの人たちに知らせましたが、彼らは二人の言うことも信じませんでした。復活は、人間の理性を超えた奇跡です。理性では理解できません。神様の聖霊を注いでいただいて初めて私たちの目が開かれて、信じることができるようになります。

 今日のマルコによる福音書が、イエス様が直接登場して下さいます。(14節)「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」復活されたイエス様を自分の目で見た弟子たちは驚き、そして喜んだでしょう。ヨハネによる福音書は、イエス様の復活をなかなか信じなかったトマスという弟子を紹介しています。トマスは自分の目で直接見て、自分の手で直接触ってみなければ信じない、という人でした。トマスのこの不信仰はよいことではありませんが、イエス様はトマスの前に現れて、トマスが信じることができるようにして下さいました。イエス様はトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはそこまで言って下さるイエス様の愛に感激し、イエス様に向かって「わたしの主、わたしの神よ」と告白しました。完全に疑っていたトマスでさえもイエス様の復活を信じることができたのだから、「私も信じよう」と決断することができた人は多いのではないかと思うのです。今日のマルコによる福音書では、イスカリオテのユダを除く11人の弟子たちは、復活のイエス様に出会い、イエス様の復活を信じたのです。

 イエス様は弟子たちに任務をお与えになります。(15節)「全世界に行って、すての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」 今から5年前の2009年に「プロテスタント日本伝道150周年」の記念集会が行われましたが、その時の主題聖句がこの御言葉だったと聞きました。「すべての造られたもの」を狭く受け取れば「世界のすべての人」になりますし、広く受け取れば「神様がお造りになった世界のすべての生き物と自然界」になります。ここでは狭い受け取り方の方がよいかと思いますが、私たちが忘れるべきでないことは、イエス・キリストの十字架は人間のためだけに起こったことではないということです。それは世界の全ての生き物・自然界のためにも起こったのです。

 新約聖書のコロサイの信徒への手紙1章19~20節に次のように書かれています。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」「地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を」ですから、この宇宙全体です。この自然界全体・宇宙全体が神様から離れていた。それがイエス様の十字架の死によって父なる神様との和解に至ったというのです。創世記3章のエバとアダムが神様に背いた場面を読むと、神様がアダムにこうおっしゃっています。「お前(アダム)のゆえに、土は呪われるものとなった。」アダムの罪のゆえに土は呪われるものとなったのです。この土は自然界全体を指すと思います。創世記5章を読むとノアの父レメクという人が、ノアが生まれたとき、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるだろう」と言って、「その子をノア(慰め)と名付けた」と書かれています。そして新約聖書のローマの信徒への手紙8章には、「被造物(神様に造られたもの)は虚無に服している」、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」とあります。神様に造られたこの世界全体が、人間の罪のために神様から離れ、共にうめき苦しんでいるというのです。この造られた世界全体が神様と和解し、神様のもとに帰るためにもイエス様は十字架にかかられたのです。

 私たちは知っています。自然界は非常に美しいですが、地震・台風・津波などの災害を起こすことをです。生き物の世界の現実も食うか食われるか、生存競争、弱肉強食です。少し前に映像で見たのですが、ヘビとワニが激烈な戦いを繰り広げ、最後は何とヘビがワニを飲み込んでしまったのです。ワニがヘビをではなく、ヘビがワニを飲み込んだのです。実に恐るべきことが自然界にはあるのです。このような宇宙全体が、父なる神様と和解するためにも、イエス様は十字架にかかって下さったのです。イエス様の十字架の死によって、自然界と父なる神様の和解は実現したのですが、救いの完成は神の国の完成のときに起こります。聖書は、神様が新しい天と新しい地をもたらして下さると告げています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」すべての人にイエス様の十字架の愛を宣べ伝え、自然界全体にもイエス様の愛をもって接するということでしょう。環境破壊をしないように注意するということでしょう。自然界に向かって説教することはできないと私は思いかけましたが、自然を愛したアッシジのフランチェスコというクリスチャンは、鳥に向かって説教したと伝えられます。これは伝説かもしれませんが、神様が造られたすべてのものを愛したのです。フランチェスコは次のような讃美の歌を歌ったそうです。「太陽は兄弟、月と星は姉妹、みんななかまです」(戸田三千雄『神さまだいすき』女子パウロ会、1999年、31ページ)。フランチェスコを主人公にした映画に『ブラザーサン・シスタームーン』がありますが、「わたしの兄弟である太陽、姉妹である月」の意味ですね。「すべての造られたものに福音を宣べ伝える」気持ちで、鳥に向かって説教したのではないでしょうか。

 (16節)「信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」前半は大きな恵みの言葉、後半は厳しい裁きの言葉です。強調点は前半にあります。イエス様を救い主として信じ告白し、恵みの洗礼を受けるように全ての人を招く御言葉です。神様はすべての人がイエス・キリスト救い主と信じ告白して洗礼を受けることを望んでおられます。テモテへの手紙(一)2章4節に、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」と書かれています。神様はすべての人をイエス・キリストを信じる信仰へと今も招いておられます。イエス様を信じる人は、永遠の命をいただきます。

 (17節)「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。」確かに、イエス様の弟子たちの活動を記した使徒言行録には、この実例が見られます。使徒言行録19章に、パウロについてこう書かれています。「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。」 神様はパウロの手を通して悪霊を追い出されたのです。私たちも熱心に祈り、イエス様に従うならば、ある程度私たちの身の周りから悪霊を追い払うことができると思うのです。但し、悪霊は一旦追い払っても、またしつこく誘惑を仕掛けて来ますから、誘惑に負けないように心がけ続けたいのです。もしも誘惑に負けた時には、すぐに悔い改めたいのです。

 「新しい言葉と語る」ことについては、使徒言行録2章の聖霊が降る場面(ペンテコステの場面)に、「一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という奇跡が書かれています。私たちがイエス様を信じて洗礼を受けると、聖霊(神様の清い霊)を与えられることは事実です。聖霊を受けていることが永遠の命を受ける保証になります。聖霊を受けた人が皆、「ほかの国々の言葉で話す」わけではありません。このような奇跡体験する人もいますが、そうでない人も多いのです。私にはこのような奇跡的な体験はありません。ですが私たちが聖書を読んで、祈りをこめて聖書の話をする時、それは「新しい言葉」を語っていると思うのです。それは「神の言葉」になるからです。私たちも「新しい言葉」、「神の言葉」を語らせていただくことができるのです。

 (18節)「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」神様は何でもできる方ですから、神様が偉大な力で助けて下されば、このことが私たちに起こることは可能です。ですが、わざと手で蛇をつかんだり、毒を飲んでみるべきではありません。通常は大変な病気になり、死に至ります。わざと試してみるべきではありません。但し、使徒言行録を読むと、使徒パウロはこのようなことを体験しています。パウロが囚人としてローマに向かう途中で船が難破し、パウロや同行のルカたちはやっとの思いでマルタという島に漂着します。雨が降り寒かったので、島の住民がたき火をたいて、パウロ・ルカたち一同をもてなしてくれます。パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みつきました。そして噛んだに違いありません。島の住民たちは、パウロの体がはれ上がるか、急に倒れて死ぬだろうと思って様子をうかがっていましたが、パウロは蝮を火の中に振り落とし何の害も受けなかったのです。島の長官プブリウスがパウロたちを歓迎して手厚くもてなしてくれたのですが、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやしたのです。島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらいました。まさに「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」、ほとんどこの通りのことがパウロの身に実現しています。神様がパウロに特別な聖霊の力を与えられたのです。私たち一人一人にも、神様が賜物(能力)を与えておられます。それは奇跡的な賜物ではないかもしれません。料理の能力であったり、祈る賜物であったり様々ですが、神様からの立派な賜物です。

 (19~20節)「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」 弟子たちがイスラエルから始めて地中海沿岸世界などに出て行ってイエス・キリストを宣べ伝えると、神様の力が働いて様々なしるしが起こりました。しるしは奇跡です。私は4月18日(金・受苦日=十字架の日)に保育園の礼拝でイエス様の十字架の話をしたのですが、その後、園の庭で子どもたちと遊びながら、ある5才くらいの女の子に「今日の礼拝でどんなお話を聞いた?」と尋ねてみました。普段あまり尋ねないのですが、その日は尋ねてみました。まだ保育園児ですから完璧には答えられないのですが、「イエス様が何も悪いことをしていないのに十字架にかかったこと」と答えて、さりげなくこう付け足しました。「私、イエス様を愛しているの。」その子はそれほど強い気持ちで言ったのではないかもしれないのですが、こちらが驚きました。イエス様を見たこともないのに、なぜこんなことを言うことができたのか、「神様が言わせて下さったのだな」と思うほかありません。「教会に通っているの?」と尋ねましたら、「行っていない」と答えます。園にいる間は月曜日から金曜日まで礼拝があるので、弱くてもこのような信仰を持ち続けることができるのかと思いますが、残念ながら卒園するとほとんどの子の生活から礼拝がなくなり、祈りもなくなり、せっかくの信仰が弱くなり消えかかるのかなと思います。しかし一人一人の人生のどこかで神様が再び礼拝や聖書と出会わせて下さることを信じたいものです。

 今日の旧約聖書は、イザヤ書11章1節以下です。小見出しは「平和の王」です。メシア・救い主のおいでを予告する御言葉です。救い主はもちろんイエス様です。1節にエッサイという名前がありますが、ダビデ王の父親です。エッサイの子孫、つまりダビデ王の子孫からメシア・救い主・平和の王が生まれると言っています。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで 
 その根からひとつの若枝(イエス・キリスト)が育ち
 その上に主の霊がとどまる。
 知恵と識別の霊/ 思慮と勇気の霊  
 主を知り、畏れ敬う霊。」
4節にあるように、この方は
「弱い人のために正当な裁きを行い
 この地の貧しい人を公平に弁護する」方です。

 6節以下に、神の国が完成し、新しい天と新しい地がもたらされる時の様子が描かれます。まさに最初のエデンの園、完全な祝福の回復です。ここにはもはや「食うか食われるか」の恐ろしい生存競争の世界は消え去っています。
「狼は小羊と共に宿り/ 豹は子山羊と共に伏す。
 子牛は若獅子と共に育ち/ 小さい子供がそれらを導く。
 牛も熊も共に草をはみ/ その子らは共に伏し 
 獅子(肉食動物が草を食べる!)も牛もひとしく干し草を食らう。
 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
 幼子は蝮の巣に手を入れる(そして害を受けない!)。
 わたし(神様)の聖なる山においては 
 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
 水が海を覆っているように 
 大地は主を知る知識で満たされる。
 その日が来れば/ エッサイの根(イエス・キリスト)は
 すべての民の旗印として立てられ
 国々はそれを求めて集う。
 そのとどまるところは栄光に輝く。」
神の国の完成の時には、イエス・キリストが全ての民の救い主として立てられ、あがめられ、礼拝されるのです。

 先ほど、イエス様の十字架の死は、父なる神様と自然界との和解のためでもあったと申しました。イエス様の犠牲の死によって父なる神様との和解に導かれた自然界を、私たちは破壊しないようにする責任があります。しかし私たちは、二酸化炭素を多く発生させるライフスタイルによって地球温暖化をもたらし、放射能によって地球を汚染してしまいました。3月に日本キリスト教団主催の東日本大震災国際会議が仙台で開催され、私も出席させていただきました。その会議宣言文がようやく完成し、送られて来ました(『教団新報』2014年4月26日号、10ページ)。原発についてはクリスチャンの間でも様々な意見があると思いますが、この宣言文に少し触れます。

 原発事故は7つの具体的な罪の結果であると告白しています。第一は傲慢の罪。「人類が自然界の安定した原子を破壊することによって恐るべきエネルギーに変え、自らの知恵と技術によって安全に管理、制御することができるという自己過信に陥ったことです。ここに傲慢の罪があります。原子力エネルギーは今日の人間にとってまさに「禁断の木の実」でした。」

 第二の罪は貪欲の罪。「原子力を用いることによる繁栄、豊かさへの欲望と、より大きな力への渇望を制御できなかった『貪欲』です。」

 第三の罪は偶像崇拝。「貪欲に陥ったわたしたちは、生ける真の神に依り頼むのでなく、経済的利益や富を至上の価値としてあがめ、それに仕える『偶像崇拝』の罪に陥りました。」
 
 第四の罪は隠ぺいの罪。「これまで原子力発電の危険性は極力隠され、事故やトラブルの情報も隠されてきました。また、平和利用の名のもとに核そのものの危険性、また核兵器との繋がりも隠ぺいされ、安全性やメリットのみが喧伝されてきました。このたびの事故についての情報も隠され、地域住民はもとより、国民全体が不安や疑心暗鬼の中に置かれています。」

 第五の罪は怠惰の罪。「そこには同時に、『不都合な事実』を知ろうとしなかったわたしたち自身の罪があります。~過疎の地域の人々や、繁栄や権力から遠い人々の痛みと犠牲のシステムの上に成り立つものであることを見抜くことなく、それを認め受け入れ、無関心になり、過去の歴史に学ぶこともしなかったことは『怠惰』の罪の故です。」

 第六の罪は無責任の罪。「原子力発電は、放射性廃棄物の処分方法を確立できないままに進められてきました。~事故は未だ終息していないのに、日本国政府は原発を再稼働し、さらに外国に輸出しようとしています。~あまりにも無責任であると言わざるを得ません。」

 第七の罪は責任転嫁の罪。「~これほどの被害にもかかわらず、国も電力会社も地方自治体も、そして、わたしたちも、自らの責任を認めようとせず、他者に責任を転嫁しています。」

 そして「わたしたちは、聖霊の導きのもとに以下のことに努めます」と8つの決意を列挙します。そのうちの4つ目には、「神に造られたすべての被造物に対して責任ある管理に努め、将来の世代の人々への責任を果たします」とあります。聖書は「隣人を自分のように愛しなさい」と語りますが、ここには将来の世代への愛も含まれるはずです。原発のことだけでなく、私たちは二酸化炭素の排出による温暖化、様々な公害によって神様が造られた地球を汚す罪を犯して参りました。この罪を悔い改め、神様が造られた地球環境を破壊しない生き方に転換したいものです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」人々にイエス・キリストの十字架と復活の福音を宣べ伝え、自然界をも大切にする生き方をしてゆきたいのです。

2014-04-22 1:06:58(火)
「弟子たちとペトロへの福音」 2014年4月20日(日) イースター礼拝説教
朗読聖書:ホセア書6章1~6節、マルコによる福音書16章1~8節 
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。」(マルコによる福音書16章7節)

 イエス・キリストは金曜日に十字架にかかられ、死なれました。当時のユダヤでは金曜日の夕方に日付が変わり、安息日である土曜日になります。安息日は礼拝に集中する日であり、誰も働くことができません。また当時遺体は汚れたものと考えられていたので、聖なる安息日に十字架に遺体がかかったままにしておくことは適切でないと考えられました。そこで人々は金曜日のうちにイエス様の遺体を十字架から取り降ろし、遺体を布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておきました。こうしてイエス様を埋葬したのです。使徒信条で、イエス様について「十字架につけられ、死にて葬られ」と毎週告白している通りです。

 (16章1節)「安息日が終わると、マグダラ(地名)のマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。」マグダラのマリアは、イエス様に七つの悪霊を追い出していただいた女性です。次に「ヤコブの母マリア」が登場しますが、ヤコブはイエス様の弟と思われるので、このマリアはイエス様の母マリアでしょう。サロメという女性のことは全く分かりません。この三人の女性はイエス様を深く愛し、非常に慕っておりました。ですから安息日が終わるとすぐに、土曜日の夕方に香料を買ったと思われます。女性たちは愛をこめてイエス様を改めて丁寧に葬ろうと考えておりました。(2節)「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」日曜の早朝4時半か5時でしょう、太陽が出ることを待ちかねていた三人はすぐ墓に駆けつけたのです。ここには男性の弟子は一人も出ていません。女性だけです。イエス様の十字架のとき、男性の弟子ではヨハネ一人がイエス様のもとにいました。ここでは三人の女性たちだけです。女性の弟子たちの忠実さが際立っています。

 この時代のイスラエルは男性中心の社会であり、女性や子どもは成人男性よりもかなり低く扱われていたそうです。ところが新約聖書の価値観、神様の価値観は違います。ここで神様は女性たちに重要な役割を与えておられます。イエス・キリストの復活の証人となる非常に重要な使命、光栄な使命を女性に与えておられるのです。当時のイスラエルでは、男性であってもたとえば羊飼いは非常に低く扱われていたそうです。ところが神様は、ベツレヘムの馬小屋で救い主が誕生したよきニュースを、まず無名の羊飼いたちに知らせて下さったのです。そして今日の場面では、男性ではなくあえて女性たちをイエス様の復活の証人としてお選びになったのです。これは神様が意図的になさったことです。この世に弱肉強食の面があることは事実です。ですが神様は弱肉強食をよしとせず、教会もそれをよしとされません。神様は、この世でいと小さき者にこそ慈しみの目を注いで下さいます。十字架にかかられたイエス様は、いと小さき者・貧しい者の味方です。

 この三人の女性たちには1つの不安がありました。(3節)「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」女性の力では動かせない大きな石でした。(4節)「ところが、目を上げて見ると、石は既わきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」神様の偉大な力が働いて、石はわきへ転がされていたのです。先日4月12日(土)の午後にAさんの納骨式を東久留米教会墓地で執り行いましたが、その式の直前にBさんという方の娘さんから連絡を受けました。Bさんが亡くなったので、葬儀を依頼したいという連絡です。Bさんは東久留米教会の以前の教会員で、今は天おられるCさんのご子息です。葬儀の場所が教会墓地の最寄りの駅から近い駅でしたので、Aさんの納骨式を終えて東久留米に戻る途中で降りて、打ち合わせを行うことができました。そのため月曜日の前夜式・火曜日の告別式と比較的スムーズに行うことができたように思います。すべてが神様の守りの御手の中にあることを実感致しました。神様が大きな石を既に動かしていて下さったことに比べればささやかなことかもしれせんが、神様のご配慮があることを感じました。

 (5節)「墓の中に入ると、白い衣を来た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。」清く輝く純白の衣を来た若者、それは天使です。天使とはどのような存在か、ヘブライ人への手紙1章14節にこう書かれています。「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」と。天使が登場するのは重要な場面です。天使は、神様に従う人々に神様の意志を伝えたり、神様の助けをもたらします。イエス様の復活は非常に重要な出来事ですので、天使が登場します。天使は天から来た聖なる存在であり、天使を見ることは気楽なことではありません。気楽どころか、息もとまらんばかりの圧倒的な体験かもしれないのです。イザヤ書6章を読むと、預言者イザヤは、天の聖なる神様を垣間見てしまったとき、神様の栄光・神様の清さに圧倒され、非常な怖れに打たれました。イザヤは神様と比べた際の自分の非常な罪深さを自覚し、こう叫びます。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」これが神を見る体験です。天使は神様ではないので、神様ほどの清さで人を圧倒することはないかもしれませんが、それでも天から来た存在ですから、その純白の清い輝きによって、見る人に畏怖の念を与えずにはおかないはずです。ですから婦人たちも深い驚きを覚えたのです。私たちも自分で天使を目撃すれば、同じ反応を示すに違いないのです。

 (6節)「若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。』」新約聖書のギリシア語で十字架は、スタウロスという言葉です。「復活なさった」という言葉を直訳すると「起こされた」、「甦らせられた」となります。受け身の形です。「神によって起こされた」、「神によって甦らせられた」ということです。イエス様は自分の力によって甦ったのではないのです。父なる神様によって起こされた、甦らせられたのです。

 イエス様が十字架につけられたことは、決定的に重要なことです。イエス様が十字架で私たちの全ての罪を背負って死んで下さったお陰で、私たちの罪は全て解決されたのです。イエス様の十字架の死がなければ私たちの罪が赦されることはあり得ず、私たちが天国に行く道が開かれることもなかったのです。ですからほとんどの教会では会堂に十字架を掲げています。十字架は死刑道具ですから、美しいものではありません。むしろ見たくないものです。ですが誰もかかりたくない、あのいやな十字架に神の子があえてかかって下さったことの大きな意味を私たちは考える必要があります。神の子が十字架にかかる以外に、私たちの罪が赦される道は一つもないのです。ですからイエス様の復活の後に弟子になったパウロという人は、ひたすら十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えました。そのために迫害されました。なぜ迫害されたのかと言うと、十字架で惨めに死んだ方を救い主と信じることが様々な人々、特にユダヤ人に嫌われたからです。ユダヤ人は神様に選ばれた民ですが、イエス様の時代のユダヤ人はこのことで非常に誇り高くなっており、十字架につけられて惨めに死んだ方を救い主として受け入れることに非常な抵抗を感じており、パウロを迫害したのです。しかしパウロは迫害に負けることなく十字架のイエス・キリストを宣べ伝え、ガラテヤの信徒への手紙6章14節で次のように断言しています。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」イエス様の十字架の死と復活こそ、キリスト教会にとって命そのものです。

 私に洗礼を授けて下さった牧師が、以前説教で語られたことを思い出しました。その先生に洗礼を授けて下さった牧師のことです。受難節(受難週)には、首から釘を下げて生活しておられたというのです。その先生は残念なことに(私の記憶では)40代くらいでご病気で亡くなられたとのことです。首から釘を下げて生活されたことはもちろん、イエス様が自分のために十字架で死んで下さったことを一瞬も忘れないで、常に感謝するためでしょう。私たちは受難節(受難週)でも首から十字架を下げて生活していませんが、スピリット・精神としては、いつもこの先生の信仰の生き方に倣いたいのです。持病がおありでしたので、教会員のお医者さんが善意のアドバイスをなさったそうです。「働き過ぎで、このままでは長生きできません。仕事を減らして下さい。」しかしアドバイスに感謝しつつも、イエス様のために精一杯働かれて40代くらいで天国へ行かれたと伺ったと思います。

 聖書は、イエス様が復活なさった場面そのものを描写してはいません。ヨハネによる福音書20章を読むと、「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」とありますので、私はそこを読むと、復活されたイエス様が頭の覆いを取って、少し移動して、覆いを丸めて置いて、墓を出て行かれたのかなと想像しています。とにかくイエス様が起き上がられた場面は聖書では省かれています。それは神様の大いなる御業の場面ですが、いわば神秘として私たちに隠されています。私たちが見る必要のない場面なのでしょう。「見ないで信じる者は幸い」なのです。神様の非常に重要な御業を人に見せないケースはもう1つあります。神様がアダムのあばら骨からエバをお造りになる場面です。創世記2章21~22節にこうあります。「主なる神様はそこで、人(アダム)を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」エバが造られる場面でアダムは神様によって深い眠りに落とされており、エバが造られる重要な場面を見ることを許されていません。それは一種の神秘として人に隠されていたようです。同じように、イエス様が死から甦る決定的な様子を、私たちは知ることを許されていません。空の墓と天使の言葉によって、信じることを求められています。

 マルコによる福音書に戻り7節。天使の言葉です。「さあ、行って弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」イスカリオテのユダが死んだので、イエス様の弟子は11人になっています。ペトロも弟子ですが、天使は特にペトロの名前を出しました。弟子たちの中でイエス様の十字架の足元にいたのはヨハネだけです。あとの10人は逃げてしまいました。その中でペトロは、捕らえられたイエス様の様子を伺うために、遠く離れて従いました。しかしイエス様を三度否定してしまったので、やはり裏切って逃げたことになります。ペトロは一番弟子ですから、このことはペトロの心に大きな傷となりました。ペトロはイエス様が捕らえられるわずか数時間前に、イエス様にはっきりこう言いました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」すると何もかも見通しておられるイエス様がおっしゃいました。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは「そんなおっしゃりようは心外です」という顔をして、力を込めて言い張ります。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」

 ですが私たちは、予想外のことが起こってパニックになると、何を言ってしまうか、どんな行動をとってしまうか、分かりません。本能が丸出しになってしまうのです。衣食足りているときは礼節をわきまえている人が、食糧や水が欠乏したときに、人を押しのけて自分の分を奪い取るかもしれないのです。ペトロは人々の中に埋没しようとしましたが、見つかってしまいます。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言うと、鶏が鳴きました。次に「この人は、あの人たちの仲間です」と言われ、再び打ち消しました。さらに「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と追い打ちをかけられると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めたのです。するとすぐ、鶏がまた鳴きました。イエス様の予告は実に正確に的中したのです。イエス様はペトロ自身が知るよりもずっと深くペトロを知っておられました。ペトロは鶏の二度目の声で「はっ」と我に返ります。自分がイエス様を三度も見捨てる罪、裏切る罪を犯してしまったことに気づきました。あまりの情けなさにペトロは、いきなり泣き出したのです。深い悔いの涙です。ある人は「ペテロはイエスを裏切り、ペテロはそれを悔いて、はらわたをしぼり出すほどに泣いた」(ウィリアム・バークレー・柳生直行訳『聖書註解シリーズ9 コリント』ヨルダン社、1986年、183ページ)と書いています。

 イエス様が復活されたという知らせは、ペトロとほかの弟子たちにとって直ちによいニュースでないとも言えます。イエス様に合わせる顔がないからです。特に三度裏切ったペトロは、苦しむはずです。しかしイエス様は弟子たちを愛し、弟子たちの裏切りの罪を赦しておられます。ペトロの三度の裏切りも赦しておられます。三度裏切ったペトロの心の深い傷を思いやり、神様は天使に特にペトロの名前を述べるように指示なさったのではないでしょうか。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる。』と」

 次の8節に天使のメッセージを聞いた女性たちの反応が非常に正直に書かれています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」4つの福音書の中で、マルコによる福音書は一番最初に書かれた福音書だと言われます。長さも短く、素朴な印象を受けます。復活は私たちの理性をはるかに超えた出来事です。婦人たちもすぐには信じられなかったのです。神様の働きかけがあって、次第に信じることができるようにされたのでしょう。私たちも同じです。イエス様の復活は、私たちの理解をはるかに超えた出来事、神様の奇跡です。最先端の科学でも永久に説明できないでしょう。礼拝に出席し、クリスチャンと交流し、自分でも聖書を読み祈ることを続けるうちに、神様の聖霊の助けを受けて、信じることができるようになると思うのです。

 本日の旧約聖書は、ホセア書6章1節以下です。2節に「三日目に、立ち上がらせてくださる」という御言葉があり、これがイエス様の三日目の復活を予告する御言葉として、伝統的に引用されます。宗教改革者マルティン・ルターも、この御言葉をイエス様の復活を預言する御言葉と信じたと、注解書で読みました。但し、この新共同訳聖書では6章の1節に「偽りの悔い改め」という小見出しが付けられています。1節から3節にはイスラエルの民の悔い改めが書かれていますが、文脈をよく読むとあまり真剣な悔い改めではなく、形ばかりの悔い改めのように読めます。ペトロの悔い改めのような本気の悔い改めではなく、言葉だけの悔い改め、神様に喜ばれない、いい加減な悔い改めと読めそうです。とすると、伝統的にイエス様の復活を預言する御言葉として引用されてきたとは言っても、本当にそう信じてよいのか、私は疑問を抱いてしまいます。

 むしろイエス様の三日目の復活を予告する旧約の御言葉として有力なのは、ヨナ書です。預言者ヨナは、神様から大国アッシリアの首都ニネベに行って、人々に悔い改めを求めるメッセージを語るよう命じられます。ところがヨナはこれを拒否し、船に乗って全く別の方角に向かいます。すると神様が大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れになり、ヨナがこれは自分のせいだと告白したので、人々はヨナを海へほうり込みます。神様は巨大な魚に命じてヨナを呑み込ませられます。これは神様の一種の保護です。ヨナな三日三晩、魚の腹の中にいたのです。イエス様はこの出来事をマタイによる福音書12章40節で引用し、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子(イエス様ご自身)も三日三晩、大地の中にいることになる。」これは、イエス様が十字架の死によって陰府(死者の国)に降られ、三日目に復活することを、イエス様ご自身が予告した御言葉です。ヨナが三日三晩、魚の腹の中にいたことが、イエス様の十字架の死と三日目の復活を指し示す出来事だと、イエス様ご自身が語っておられるのです。

 説教題を「弟子たちとペトロへの福音」と致しました。イエス様は、本心から悔い改めたペトロを伝道者として用いられます。これは私たちにとって深い慰めです。使徒言行録の中でペトロはイエス・キリストの復活を宣べ伝える者として大いに働いています。イエス様は自分の罪を真底悔い改める人を喜び、その人に聖霊を注いでイエス様の復活を宣べ伝える者として用いて下さいます。イエス・キリストは私たちをも伝道者として用いて下さいます。神の子イエス・キリストを、言葉と行いよって全力で宣べ伝えましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。


2014-04-15 22:30:53(火)
「御心が行われますように」 2014年4月13日(日) 受難節第6主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書52章13節~53章12節、マルコによる福音書14章32~42節 
「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
                   (マルコによる福音書14章36節)

 私たちキリスト教会は今、受難節を過ごしています。受難節はイースターの前の、日曜日を除く40日間です。日曜日を除くのは、日曜日は毎週基本的にイエス様の復活を祝う日の意味があるからです。教会の暦に「灰の水曜日」がありますが、毎年この日から受難節に入ります。灰は悔い改めのシンボルです。西洋や南米にはカーニバルという風習があります。日本語で謝肉祭と訳します。この風習はゲルマン民族の風習にさかのぼるという説もるようですが、キリスト教会ともかかわりがあります。受難節はイエス様の十字架を強く心に刻む期間なので、伝統的に肉や卵をあまり食べないなど禁欲と節制が強調される期間です。その前の7日間ほど大いに飲み食いして楽しんでおこうというのがカーニバル・謝肉祭の起源であるそうです。ですから受難節の精神とは反対のこと、人間の欲望を充足させるための世俗的な祭りと言えるでしょう。今週は受難節の最後の一週間、イエス様の十字架を特に強く強く心に刻む受難週です。木曜日と金曜日に受難週祈祷会を行いますので、ぜひご出席下さい。

 マルコによる福音書14章の最初の32節。「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。」ゲツセマネとは「油搾り器」の意味です。イエス様はここで、まさにご自分の心と体を搾るような祈りを献げられたのです。ルカによる福音書には、「汗が血の滴るように地面に落ちた」と書かれています。それほど真剣に、まさしく全身全霊を込めて祈られました。

 (33~34節)「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』」ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は12弟子の代表です。イエス様は非常に重要な場面では、特にこの三人を伴われます。イエス様は、非常な恐れと悲しみに満たされておられました。これまでにはなかったことです。イエス様は十字架が目前に迫っていることを知っておられました。弟子たちはそのことに全く気付いていませんでした。イエス様は十字架刑の恐ろしさをよく知っておられました。しかしイエス様にとっての恐れは、肉体の痛みだけではないのです。
イエス様は、死の本当の恐ろしさを知る唯一の方です。死の本当の恐ろしさとは、父なる神様から切り離されることです。

 創世記にエバとアダムがエデンの園から追放された記事があります。あの話に示されているように私たちは皆、罪人(つみびと)であり、神様から離れています。ですから神様から離れている状態に悪い意味で慣れてしまっており、平気になり鈍くなってしまっている面があります。ですがエバとアダムは、神様のもと(エデンの園)から追放されたとき、本当に「しまった」と思ったでしょうし、非常な苦痛を感じたでしょう。イエス様は神の子であり、一瞬も父なる神様から離れることなく、常に父なる神様と心を一つにして歩んで来られました。死とは、その父なる神様から完全に切り離されることです。肉体の痛みよりも恐ろしいのはこのことです。イエス様にとって死は、私たちにとって死が恐ろしいより、はるかにずっと恐ろしいはずです。「生木を裂くように」父なる神様と一体のつながりが裂かれる恐ろしさと悲しみです。私たちはイエス様ほど父なる神様と一心同体に生きていないので、死の本当の恐ろしさが分からなくなっているのです。

 イエス様のこの恐れは十字架の上でも続きます。それでイエス様は十字架上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。新約聖書のヘブライ人への手紙5章7節に次の御言葉があり、これはゲツセマネの祈りと十字架上での叫びのことを述べていると思います。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」「聞き入れられた」とは、復活という良き報いを与えられたことでしょう。

 ルカによる福音書に戻りますが、イエス様は34節でペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われました。三人の弟子たちに近くで共に祈っていてほしいと願われたのです。目を覚まして祈り続けていないと、悪魔の誘惑に簡単に負けて罪を犯してしまうのです。 (35~36節)「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」 「アッバ」は、イエス様たちが日常的に話しておられたアラム語(ヘブライ語の兄弟言語)で父親に親しく呼びかける言葉だそうですね。「パパ」とほとんど同じです。イエス様と父なる神様の親しさ、近さがよく分かります。私たちもイエス様と同じに「アッバ、父よ」と祈ることが許されています。ローマの信徒への手紙8章15節にこう書かれています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊(聖霊)を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」真に光栄なことです。

 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」「この杯」は十字架です。イエス様は神の子であると同時に人間です。「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」、「この杯をわたしから取りのけてください」は、人間としてのイエス様の正直な気持ちです。ですがこの直後に決然と「しかし」とおっしゃいます。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られたのです。「わたしの正直な願いはこうですが、しかし最終的にはあなたの御心に従います」とはっきり祈られたのです。見事な言葉です。イエス様の心の中には非常に激しい戦いがありました。厳しい葛藤がありました。しかし、「父なる神様の御心に従う」決意が勝ったのです。イエス様の十字架に向かう覚悟・雄々しい決意が明確になってゆきます。私たちも様々な祈りを祈り、様々な願いを持ちます。ですが最後には「神様、あなたの御心に適うことが行われますように」との祈りで締めくくりたいものです。イエス様の祈りは、私たちの祈りの模範です。

 (37~38節)「それから戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』」一時は、約2時間のことだと聞きました。イエス様の一回目の祈りは約2時間だったことになります。イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に「目を覚ましていなさい」と言われたのですが、深夜のことで弟子たちは睡魔に負け、眠りこけていました。ここはイエス様の人生の最大のヤマ場、正念場です。私たちも仕事の正念場では徹夜することもあるでしょう。ですがイエス様の最大の正念場で、弟子たちは目を覚まして祈り続けることができませんでした。神様に従い続けることができなかったのです。これは残念ながら私たちの姿でもあります。

 悪魔が弟子たちを誘惑して、眠りこけるように仕向けたのです。私たちは毎日徹夜することはできませんが、少なくとも信仰の正念場では目を覚まして神様に祈り続けたいものです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」私たちはいつも神様に従う自覚をもって生きていないと、悪魔の誘惑を誘惑とも気づかずに誘惑に負けてしまいます。神様に従う生き方を貫く強い気持ちを持っていないと、私たちは簡単に安易な道に逸れて、神様に従う道から外れてしまいます。そうならないために毎日聖書を読み、毎日祈り、毎週の礼拝に出席する強い意志を貫くことが必要です。「心は燃えても、肉体は弱い。」残念ながらこれも私たちの現実です。イエス様は弟子たちと私たちの弱さをご存じなのです。「心が燃えていて、肉体も強い」方はイエス様です。

 (39節)「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。」「この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」イエス様の十字架に向かう決意が強められてゆきます。(40節)「再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らはイエスにどう言えばよいのか、分からなかった。」弟子たちは「今度こそ眠らないぞ」と決心したはずですが、またも眠ってしまいました。悪魔はイエス様をも眠らせようとしたと思うのです。イエス様が十字架に向かわないように全力で眠りの霊を送って誘惑したと思うのです。イエス様が私たちすべての人間の罪を背負って十字架で死なれると、この世での悪魔の支配が打ち破られてしまうからです。イエス様は悪魔に負けず、十字架へと敢然と進んで行かれました。そのお陰で私たちの罪は赦されたのです。しかし弟子たちは弱く、悪魔の誘惑に負けて眠らされてしまいました。私たちも弱い者ですが、少なくとも信仰の正念場では目を覚まして、イエス様に従い続けたいのです。

 (41~42節)「イエスは三度目に戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子とは罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。』」 情けないことに弟子たちは三度目も眠りこけてしまったのです。イエス様は悪魔の誘惑に打ち勝たれ、最後まで祈り通されました。そしていよいよ「時が来た」とおっしゃいます。十字架の時です。イエス様は十字架で死なれるために誕生されたのです。イエス様を裏切るイスカリオテのユダと、剣や棒を持った群衆が間もなくやって来ます。イエス様は一切罪を犯していないのに、捕らえられ、裁判をお受けになるのです。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書52章13節以下です。小見出しは「主の僕の苦難と死」となっています。イエス様の十字架の犠牲の死を予告しています。53章2~4節を読みます。
「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/ この人は主の前に育った。
 見るべき面影はなく/ 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/ 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し/ わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 彼が担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 
 彼は苦しんでいるのだ、と。」
事実イエス様は、本日のゲツセマネの祈りでも非常に苦しんでおられます。5節。
「彼が刺し貫かれたのは/ わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは/ わたしたちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって/ わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

 イエス様のゲツセマネでの祈り。それは神様に従う、神様に服従する生き方の模範です。神様に従うことこそ最善と信じる生き方の模範です。それは神様に全面的に信頼して委ねる生き方です。創世記に信仰の父と呼ばれるアブラハムが登場致します。アブラハムもイエス様に近い信仰に生きた人です。アブラハムが75才のとき、神様はアブラハムに子孫を与えると約束されます。しかしなかなか子どもが与えられないのです。でも神様は100%約束を守られる方です。アブラハムが100才のときに妻サラ(90才)との間に待望の息子が誕生します。イサクです。ほっとしたアブラハムに、神様が試練を与えられます。神様から来る試練は決して人をいじめるためのものではなく、人の信仰が純粋になるように信仰を鍛えるためにあるのではないかと思います。神様は創世記22章でアブラハムに命じられました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つの登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」耳を疑う命令です。神様はアブラハムが75才のときに、「あなたの子孫にこの土地(イスラエルの地)を与えると約束されました。イサクを焼き尽くす献げ物として献げればイサクは死ぬのですから、神様の約束も果たされないことになってしまうと普通は考えます。実に理解に苦しむ命令なのです。

 ところが驚くべきことに、信仰の父アブラハムは神様を100%信頼して、命令に従順に従うのです。創世記22章のどこを見ても、アブラハムが神様に「なぜですか、私には理解できません」と疑問を述べたことすら一言も書かれていません。信仰の父アブラハムは、「神様のなさることには、絶対に間違いがない」(三浦綾子『旧約聖書入門』光文社、1988年、109ページ)と100%信頼して、神様の命令に黙々と従ったのです。アブラハムの信仰はイエス様の信仰と非常に近いのです。イエス様は祈られました。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」イエス様は私心を一切捨て切られました。アブラハムも同じです。「神様の御心は絶対に正しい」との信頼によってです。創世記22章9節以下はこう記します。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」まさにイサクは、イエス様のように犠牲になりかかるのです。

 このときは神様がアブラハムの信仰をよしとされて、介入されます。アブラハムの信仰が非常に純粋で、神様に絶対の信頼を献げる信仰であることを見て取られ、神様が天使を通してアブラハムにストップをかけられます。天使は言います。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムが神様に淡々と服従したのか、あるいは清水の舞台から飛び降りる気持ちで服従したのか、アブラハムの心の内ははっきり書かれていないので分かりません。ここではアブラハムとイサクの二人が神様に服従しています。アブラハムはイサクを屠ろうとすることによって積極的に神様に服従し、イサクは自分を屠ろうとする父アブラハムに抵抗しないことによって受け身的に神様に服従しています。イサクは一種の殉教者になりかかったとも言えます。アブラハムはイサクを殺そうとしたというよりは、神様にお返ししようとしたのだと思います。イサクを神様の御手に委ねた、イサクを神様ご自身の御手に直接渡そうとしたのです。神様から与えられたイサクですから、神様にお返しすることは当たり前と考えたのではないでしょうか。この神様への全面的な信頼・服従を神様は喜ばれました。

 先週も申しましたが、私は4月5日(土)に群馬県みどり市にある星野富弘さんの美術館に行きました。星野さんは器械体操の事故による大怪我のため首より下が動かない方ですが、口に筆をくわえて美しい花などの絵と詩の作品を作ることで、神様の栄光を現しておられます。大怪我なさる前は私が思っていたよりずっと元気いっぱいの若者だったことが分かりました。美術館には怪我をなさる前の星野さんの写真が特別展示されていました。1966年に器械体操(つり輪)をなさっている写真がありました。1964年の東京オリンピックの影響があったかもしれません。ロッククライミングなさっている写真、谷川岳で逆立ちしておられる写真。長野県のスキー場でパトロールのアルバイトをなさり、3ヶ月以上、朝から夕方まで一日中滑っておられたそうです。そういう方が首から下が動かなくなったことは大変な試練です。9年間入院生活を送って退院されたそうです。長い時間をかけて、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という思いに心が純化されてゆかれたのかなと感じます。怪我したご自分を受け入れることは大変なことだったに違いないのです。28歳で洗礼を受けておられます。

 このような文章を書いておられます。「大怪我をした時、病院のベッドの上で『人生が二度あれば』と思ったことがあった。しかし、今の人生を精一杯生きられないで、どうして二度目の人生を生きられるだろうかと気付いた。どんな生物でも、生まれる時と場所を選ぶことはできない。もし、生まれ変われたとしても、平和な時代とは限らないのだ。~こんな私をじっと見守り助けてくれる人たちがいる。これは素晴らしいことなんだ」(星野富弘『花の詩画集 種蒔きもせず』偕成社、2010年、29ページ)。

 私は次の作品に心打たれます。
「冬があり夏があり 昼と夜があり 
 晴れた日と雨の日があって ひとつの花が咲くように 
 悲しみも苦しみもあって 私が私になってゆく。」
 (星野富弘『いのちより大切なもの』いのちのことば社、2012年、17ページ)

「痛みを感じるのは生きているから 悩みがあるのは生きているから
 傷つくのは生きているから 私は今かなり生きているぞ」
 (同書、20ページ)

 神様が星野富弘さんという一人の方を、神様の尊い作品として作り上げておられるように感じます。神様は星野さんを特に見込まれて、大きめの十字架をお与えになったようです。お一人お一人に異なる形で十字架(試練)があることと存じます。「御心に適うことが行われますように」と祈ることは時に勇気を必要とします。しかし神様は決して無意味な涙を流させない、涙を涙で終わらせることのない方であることを信じ、この神様に信頼して、「御心に適うことが行われますように」と祈って参りたいと思います。イエス様の十字架の後に復活があったことに希望を与えられて、イエス様に従う歩みを致しましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。