日本キリスト教団 東久留米教会

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2018-04-13 19:18:18(金)
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」 2018年4月8日(日) 復活節第2主日礼拝説教要旨 
聖書:創世記2章7節、ヨハネ福音書20章19~31節

 イエス・キリストは、私たち皆の罪を全て背負って、聖金曜日に十字架で死なれました。そして三日目の日曜日のまだ暗い早朝に復活なさり、まずマグダラ(地名)のマリアにご自分を現されたのです。彼女は弟子たちのところに行き、「わたしは主を見ました」と喜びの報告をしたのです。しかし弟子たちは、まだ恐れに支配されていました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」自分たちも十字架につけて殺されるかもしれないと恐怖を感じ、閉じこもっていたのです。

 「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」言うまでもなく、両手には十字架の釘の穴があいています。わき腹には十字架の上で槍に刺された穴があいています。復活の体は死の前の体と違う新しい栄光の体ですが、前とのつながりもあります。2つの釘穴と1つの槍の穴があいています。この3つの穴(傷)を思う時、イザヤ書53章3節の「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」の御言葉が実現したと感じます。「あなたがたに平和があるように」は、イエス様のゆるしの宣言です。ふつうの人なら弟子たちに、「なぜ十字架の時に私を見捨てて逃げたのか」と恨み事を言うのではないでしょうか。しかしイエス様は、ヨハネを除く弟子たちがイエス様を見捨てて逃げた罪も、すべて十字架で背負って下さいました。弟子たちをゆるしているのです。「わたしはあなた方を完全にゆるしているよ。あなた方に平和があるように」と言われたのです。弟子たちはほっとしたでしょう。そして喜んだのです。この喜びは、ふつうの喜びと違います。神様が与えて下さる天からの喜び、聖なる喜びと思います。

 こんな実話を聞きました。ある教会の若くて苦学している男性クリスチャンが、他人の高級車に自分の自転車をぶつけてしまったのです。10万円の修理費が請求され、さらにドアの交換代100万円が請求されたそうです。彼は牧師に相談に行きました。牧師は先方に話し合いに行き、苦学している若者であることを伝えたところ、先方はドアの交換代の請求を取り下げてくれました。免除してもらった男性は、心の重荷の大半がなくなり、心の底からほっとして深く喜んだのです。牧師は、「罪をゆるしてもらうことは、こんなにも嬉しいことなんだ」と実感したそうです。弟子たちも、自分たちがイエス様を見捨てて逃げた罪をイエス様に完全にゆるしていただいて、真底ほっとし、心震える深い喜びに満たされたのです。

 そしてイエス様は、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。これはヨハネ福音書のペンテコステ(聖霊降臨)と呼ばれる場面です。本日の旧約聖書・創世記2章7節に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。恐れて閉じこもっていた弟子たちは生ける屍の状態でしたが、神様(イエス様)の愛の霊である聖霊を吹きかけられて、神様の愛に満たされて生き生きと奉仕する者に変えられました。イエス様は弟子たちに言われます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」これは神様が教会に委ねられた権威を述べた言葉です。教会は、何と父・子・聖霊なる三位一体の神様のお名前によって、人に洗礼を施すのです。その方がご自分の罪を悔い改めて洗礼を受ければ、神様がその方の全ての罪を赦して下さり、その方は本当に天国に入れていただけるのです。教会には、このような権威が委ねられています。もちろん教会は、この権威を、どこまでも神様の御心に従って行使しなければいけません。

 「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」ディディモは「双子」の意味です。トマスは信じない人でしたが、信じる人になりました。ディディモという言葉は、トマスのこの二重性を表すのかもしれません。トマスは最初、イエス様の復活を信じませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張りました。トマスの信じない心を溶かすためだけに、八日後にイエス様が再度来られたのです。八日後は、きっと八日目のことで、日曜日ではないかと考えられているようです。「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われました。そしてトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」皆さん、私たちがその場にいたらどう感じるでしょうか。今、想像しましょう。トマスは驚き、恐れ入ったと思います。そして信仰告白をしました。「わたしの主、わたしの神よ。」ヨハネ福音書の大切なメッセージの1つは、「イエス様は神である」ということです。1章1節に、「言(イエス・キリストを指す)は神であった」とあります。

 イエス様が言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」見ないで信じることが信仰です。見れば、もはやあえて信じる必要がないからです。ただ、私はある意味でトマスに感謝します。トマスが疑ったからこそ、イエス様が再度来て下さり、十字架の傷を帯びた復活の栄光の体を見せて下さったかです。聖書にこの場面があるお陰で、イエス様の復活を信じることができたクリスチャンは、昔から多いのではないかと思うのです。ともあれ、私たちは肉眼で見ていないけれども、イエス様が復活なさって、今も天で生きておられることを信じます。ペトロの手紙(一)1章8~9節にこうあります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」イエス様を見なくても信じ、愛して参りましょう。イエス様は、決して私たちの信仰を裏切らない方です。アーメン(「真実に」)。

2018-04-12 17:54:59(木)
「私たちの名を呼ぶ復活のキリスト」 2018年4月1日(日) イースター(キリスト復活日)礼拝説教要旨 
聖書:イザヤ書43章1~5節、ヨハネ福音書20章1~18節

 イースターおめでとうございます。私たち全ての人間の代表として十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストの尊き御名を讃美致します。

 イエス様は金曜日に十字架に架けられました。その金曜日を受苦日、聖金曜日と呼びます(英語ではグッド・フライデーとも言います。十字架は辛い出来事ですが、私たち罪人(つみびと)の救いをもたらしたのでグッド・フライデーと呼ぶのでしょう)。土曜日は深い悲しみのうちに過ぎました。1節「週の初めの日(日曜日)、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラ(地名)のマリアは墓に行った。」彼女は、イエス様に七つの悪霊を追い出していただき、救われた女性です(ルカ福音書8章2節)。文語訳では、「一週(ひとまわり)のはじめの日、朝まだき暗きうちにマグダラのマリア墓に来りて」です。「朝まだき」とは、「未だ朝になりきらない時」、「夜が明けきらぬ早朝」です。美しい日本語です。1954年版の讃美歌にも「朝まだき」の歌詞のある歌があります。

 マグダラのマリアは、イエス様への深い愛から、暗いうちに墓に駆けつけました。何と墓をふさいでいた大きな石が既にとりのけてあったのです。マリアが着く前に神様がとりのけられたのです。困惑したマリアは、シモン・ペトロと、イエス様が愛しておられたもう一人の弟子(ヨハネとされます)のところへ走って行き、「主(イエス様)が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません」と告げました。ペトロとヨハネは走って墓に向かいます。先に着いたヨハネは墓に入りませんでしたが、ペトロは入ります。ペトロは行動が先行するタイプです。ペトロは「亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」イエス様が復活されて亜麻布を脱がれ、少し歩いて頭の覆いを取られ、丸めて置いて墓の外に出て行かれたように感じます。もしかするとそれはマリアが墓に来る1時間ほど前、ことによると30分もたっていなかったかもしれません。聖書はイエス様が復活なさる様子を描写しません。それは神秘として、人間に隠されています。私たちは空の墓の様子を見て、イエス様が復活なさったことを悟ることが大切です。見ないで悟り、信じることが信仰です。この後、ペトロとヨハネは家に帰りました。

 ところがマリアは帰らないのです。11節に「マリアは墓の外に立って泣いていた」とありますが、文語訳は「しかしマリアは」と記しています。ペトロとヨハネと違って、マリアは帰らないのです。イエス様への深い思慕がそうさせました。女性の方が愛情深く、ひたむきです。天使たちがマリアに、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問います。次には復活のイエス様ご自身が「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と問いかけます。墓の中を見ていたマリアは振り向いて見ましたが、イエス様だと分かりませんでした。涙で見えなかったのかもしれません。

 イエス様が遂に呼びかけられます。「マリア。」彼女は振り向いて「ラボニ(先生)!」と言います。心が通じ合った驚きと感激の一瞬です。人格と人格のコミュニケーションがまさに復活しました。復活のイエス様は、私たち一人一人の名前をも、愛を込めて呼んで下さいます。ヨハネ福音書10章3節以下に、こうあります。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエス様こそ、良い羊飼いです。本日の旧約聖書・イザヤ書43章でも神様がこう言われます。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」

 ヨハネ福音書20章に戻ります。イエス様にすがりつこうとするマリアを、イエス様がたしなめます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとに上っていないのだから。」この場面は多くの画家が「われに触れるな」という題で絵にしています。もしマリアに問題があったとすれば、「わたしの主が取り去られました」、「わたしが、あの方を引き取ります」と言っているように、イエス様を自分の所有のように思い、自分が守るように思っていることでしょう。しかしイエス様を、マリアのコントロール下に置くことは許されません。イエス様は復活され、これから天の父なる神様のもとに昇られます。そうでないと天から約束の聖霊を注ぐことができなくなります。マリアの人間的な願いが、神様のご計画を妨げることは許されません。イエス様は同じイエス様ですが、今は十字架でマリアを含むすべての人たちの罪を背負って死に、死を打ち破って復活され、永遠の命の希望をもたらして下さった方です。マリアのなすべきことは、イエス様にすがりついて引き取ることではなく、イエス様の十字架と復活による罪の赦しと永遠の命の福音を宣べ伝えることです。私はこの点を、最近ある牧師の方の説教を読んで、大いに教えられました。

 コリントの信徒への手紙(二)5章16節のパウロの言葉を連想します。「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」マグダラのマリアも、十字架と復活の前はイエス様を肉に従って(人間的な愛情に従って)知っていた(慕っていた)かもしれませんが、これからはそうであってはいけないのです。イエス様を引き取るのではなく、イエス様の十字架と復活による福音を宣べ伝える新しい使命に生きるのです。パウロは、「神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べます。マグダラのマリアも同じです。イエス様の使者としての使命に生きるのです。私たちも同じ使命を果たしてゆくのです。アーメン(「真実に」)。


2018-04-12 12:43:44(木)
「キリストの復活に支えられ、生きる」 伝道メッセージ(石田真一郎)
「わたし(イエス・キリスト)は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(新約聖書・ヨハネによる福音書11章25節)。
 
 イースターは、私たち皆のすべての罪と過ちの責任をとって、身代わりに十字架で死なれたイエス・キリストの復活を祝う日です。罪とは、自分されよければよいと思う自己中心の心と行いです。私は子どもの頃、「相手の身になって考えなさい」と教えられました。イースターの日、子どもたちが卵探しの遊びをします。卵は、生まれるひよこによって殻を破られます。卵は、死の殻・墓を破って復活されたイエス様の命のシンボルです。

 昨年105才で天に召されたクリスチャン医師・日野原重明さんは、58才の時、一種の「死と復活」の経験をされました(以下、日野原さんの『生きていくあなたへ』幻冬舎、などより)。1970年に日本赤軍が起こした「よど号(飛行機)ハイジャック事件」で人質の一人にされたのです。山村新治郎さんという36才の運輸政務次官が身代わりに人質になることで、日野原さんら人質は4日間で解放されました。山村さんは身代わりになったのですから、少しイエス様に似ています(山村さんも後に解放)。日野原さんは生きて地面を踏んだ感激を生涯忘れませんでした。ご夫人と抱き合って喜び、「私はこの事件で一度死んだ。これからの命は、神様に特別に与えられた命。自分のためでなく、人のために捧げよう」とご夫婦で決意されました。一種の復活です。生き方を変えたのです。それまでもクリスチャン医師として、人に尽くして来られました。しかし、「有名な医者になりたい」名誉心、野心もあったようです。それをも捨てる決心をなさいました。それ以来、自分以外の人に仕える生き方を貫かれました。弟子たちの足を洗われたイエス様のように。私も22年前に一度、日野原さんの講演を伺ったことを思い出します。

 イエス様の十字架の犠牲の愛に支えられて、私たちも「自分さえよければよい」という考えを捨てて、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する生き方に進みたいのです。アーメン(「真実に」)。

2018-03-15 18:11:27(木)
「いかに美しいことか!」 2018年2月25日(日) 受難節(レント)第2主日礼拝説教要旨
聖書:イザヤ書52章7~12節、ローマの信徒への手紙10章13~17節

 イエス・キリストの弟子・使徒パウロは、真理の言葉を記します。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」「『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」自分の罪を悔い改めて、イエス様が救い主だと心で信じ、口で公に言い表す(告白する)人は、ユダヤ人でもギリシア人でも、日本人でも、韓国人でも、北朝鮮人でも、アメリカ人でも、どの民族の人も天国に入れていただけるのです。

 そのためには、救い主イエス・キリストを宣べ伝える伝道者、宣教師がどうしても必要です。東久留米教会より牧野宣教師が、アメリカの日本人留学生伝道に赴いておられることを感謝致します。パウロは書きます。「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか』と(旧約聖書・イザヤ書52章に)書いてあるとおりです。」文語訳聖書では、「『ああ美(うるは)しきかな、善き事を告ぐる者の足よ』と録(しる)されたる如し」となっています。イザヤ書52章7節に、こうあります。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和(シャローム)を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオン(エルサレム)に向かって呼ばわる。」

 初代教会に多くの伝道者がいましたが、その代表の一人はパウロです。パウロはイエス・キリストをイスラエルの外で宣べ伝えるために、後半生をすべて献げました。その伝道は楽なものではなく、困難の連続でした。コリントの信徒への手紙(二)11章で、こう書いています。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」その伝道の足は、見た目には美しいどころか、泥だらけ、傷だらけだったことも多いと思うのです。しかし、神様からご覧になったとき、大切なのは見た目の美しさではありません。父なる神様を愛し、神の子イエス様を愛して労苦する足と全身は、最も美しいはずです。神様からご覧になって、美しいに違いないのです。

 私たちが宣べ伝える十字架のイエス様のお姿を、イザヤ書53章はこう記します。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」文語訳ではこうです。「我らが見るべき美(うる)わしき姿なく、うつくしき貌(かたち)はなく、我らがしたうべき見栄えなし。彼はあなどられて人にすてられ、悲しみの人にして悩みを知れり。~まことに彼は我らの悩みを負い、我らの悲しみを担えり。」十字架につけられたイエス様のお姿は、常識的には少しも美しくありません。それどころか目をそむけたくなるお姿です。ですが、父なる神様に最も忠実にお仕えしておられるそのお姿は、真の意味で最も尊く、美しいのです。私たちは見た目に幻惑されるかもしれませんが、神様に地道に奉仕している手足は、神様からご覧になって、最も尊く美しいと信じます。

 介護は尊いお仕事です。介護のために働いておられる方々の手足を、神様は美しいとおっしゃって下さるに違いありません。介護以外でも、神様の手足となって奉仕する方々を、神様は美しいと感じて下さると信じます。昨年12月に東久留米教会は、恒例のクリスマスコンサートを行いました。心を込めて演奏して下さったご夫婦は、お二人とも愛する配偶者を先に天に送り、神様に導かれて再婚され、共に祈りつつ演奏して神様の平安を届けようと奉仕しておられる方々でした。人の痛みに共感してイエス様にお仕えしておられるお二人の生き方を、とても美しいと感じたのです。私たちが、イエス様に従う真の意味で美しい生き方をすることができますようにと祈ります。アーメン(「真実に」)。

2018-03-09 0:47:19(金)
「剣をさやに納めなさい」 2018年3月4日(日) 受難節(レント)第3主日礼拝説教要旨
聖書:歴代誌・上22章6~10節、ヨハネ福音書18章1~14節

 イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架で死なれたことを特に感謝する受難節を過ごしています。私に洗礼を授けて下さった牧師の方に洗礼をお授けになった牧師は、受難節(あるいは受難週かもしれませんが)の時期に、首から釘を下げて生活しておられたと伺いました。イエス様の十字架の犠牲の愛を片時も忘れない心掛けだと思います。私たちは首から釘を下げて生活しないかもしれませんが、その心構えを学ぶことは大いに必要です。

 本日の場面はイエス様が捕らえられる場面です。「イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。」キドロンの谷は、文語訳聖書でケデロンの小川と訳されています。園はゲツセマネの園でしょう。「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。」ユダがその場所を知っていることを、イエス様は十分ご承知でした。その上で、あえてその場所に姿を現されたのです。ヨハネ福音書のイエス様は、自分から進んで、雄々しく勇敢に十字架に向かわれるのです。

 「ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。一隊の兵士はローマの兵士です。イエス様を捕らえに来た人々の中にローマ兵がいたことを記すのはヨハネ福音書のみです。一隊の人数は諸説あるようですが、ある本によると少なくみても200人とのことです。実に物々しく大がかりです。イエス様に力があることを知っていたので、それを恐れたのでしょう。過越祭の時期で、満月に近い状態だったはずです。しかし雲がかかることもあるでしょう。松明やともし火を手にしていました。イエス様が隠れることを想定したのでしょう。しかしイエス様は、逃げ隠れなさいません。堂々と出て行かれます。

 「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた。彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『わたしである』と言われた。~イエスが『わたしである』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。」ある人は、ここにイエス様の気迫を見ると書いておられます。しかし、それだけではありません。「わたしである」は重要な言葉です。原語のギリシア語で「エゴー・エイミー」です。英語に直訳すると「アイ アム」です。「エゴー・エイミー」は、旧約聖書の出エジプト記3章14節と深いつながりがあります。それは神様がモーセに自己紹介なさる箇所です。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ」たのです。イエス様が「わたしである」と言われた時、「あなた方が捜しているナザレのイエスは、わたしである」と言われたと同時に、ご自分がモーセに出現なさった神ご自身だと宣言なさったのです。キリストは、天地創造をなさった神ご自身であり、その神が人となられた方です。神であると同時に人であられます。罪ある人間は本来、聖なる神々しい神に近づくことができません。それで人々は後ずさりして、地に倒れたのです。

 「エゴー・エイミー」は、ヨハネ福音書に多く出てきます。イエス様が「わたしは世の光である」と言われた御言葉に、「エゴー・エイミー」の語が含まれています。次の御言葉においても、そうです。「わたしは良い羊飼いである。」「わたしは道であり、真理であり、命である。」「わたしは復活であり、命である。」「わたしはまことのぶどうの木。」

 イエス様の一番弟子シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした、とあります。イエス様はペトロをたしなめて言われました。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」杯は、苦い杯で、苦難を表します。イエス様は十字架い向かって進む覚悟を表明しておられるのです。

 マタイ福音書では、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」いつも思い出したいよき御言葉です。しかし旧約聖書には、戦争の場面が少なくないのです。私は、しばしばこのことに抵抗を感じてきました。そんな私にとって、本日の旧約聖書である歴代誌・上22章6節以下は、慰めです。旧約聖書においても神様は、最終的には平和を願っておられると感じることのできる御言葉だからです。神様がダビデにこう言われたのです。「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない。」安らぎの人であるソロモン(ダビデの子)が神殿を築くことになります。「剣をさやに納めなさい。」私たちの真の敵は、人間ではなく悪魔です。

 捕らえられたイエス様は、その年の大祭司カイアファのしゅうとであるアンナスのところへ連れて行かれました。イエス様は十字架にかかる使命を果たすために自分から進んで捕らえられたのであり、そうでなければ誰もイエス様を捕らえることはできません。アンナスは自分勝手な男で、少し前にユダヤ人たちに、「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」と助言したのでした。アンナスに、神様に従う信仰はなかったと思います。自分と仲間うちの都合が最優先なのです。私たちはその逆に、自分たちの都合は後回しにして、イエス様に従いたいのです。アーメン(真実に)。