日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2018-02-22 18:05:57(木)
「すべての人を一つにしてください」 2018年2月11日(日) 降誕節第7主日礼拝説教要旨
聖書:箴言8章23~31節、ヨハネ福音書17章20~26節

 ヨハネ福音書17章の小見出しは、「イエスの祈り」です。イエス様が裏切られ、捕らえられる直前の祈りです。本日の20~26節でイエス様は、直弟子たちではなく、その後の時代のクリスチャンたち(私たち)のために、執り成しの祈りをなさっています。イエス様に直接会わないで、イエス様を神の子と信じる人々のためにです。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」

 私たちが信じる神様は、父・子・聖霊なる三位一体の神様です。この神様は愛によって一体の神様です。イエス様は、教会もまた一体であることを望んでおられます。教会はキリストの体です。イエス・キリストが頭(かしら)で、私たちは体の一部です。教会が一つであるとはどのようなことか、コリントの信徒への手紙(一)12章12節以下に記されています。

 「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊(聖霊)によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体げ目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は。御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」

 「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。~神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」すばらしい御言葉です。

 「見える教会」と「見えない教会」という言い方があります。「見える教会」は現実の教会です。現実の教会は、残念ながら多くの教派に分かれています。カトリック教会、プロテスタント教会(この中にも様々な教派があります)、聖公会、ギリシア正教会、無教会などです。しかし神様の目には、「見える教会」を超えた「見えない教会」が見えていると思われます。「見えない教会」は現実の様々な教派を横断した「一つの教会」であるはずです。現実の「見える教会」は完全ではなく、色々な欠点を持っています。そこで「見えない教会」が「見える教会」よりも大切だという考えも生まれます。しかし「見える教会」も大切なのです。私たちは現実の教会で信仰生活を営みます。そこで実際に神様を共に礼拝し、具体的な隣人を愛する訓練を受けます。気の合う人も、気の合わない人も、同じイエス・キリストによって罪赦された兄弟姉妹です。気の合う人とも、気の合わない人とも、共に礼拝することが大切です。現実の教会生活を行わないと、私たちの信仰は観念的になってしまいます。

 礼拝について思う時、私はマタイによる福音書5章23節以下の、イエス様の御言葉を思います。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」和解した心で礼拝をしないと、本当に神様に喜ばれる礼拝にならないと思うのです。これは私たち罪人(つみびと)にとって、簡単でないこともあります。しかし、イエス様の御言葉に従うように心がけたいのです。

 「すべての人を一つにしてください。」イエス様の願いは、全ての教会が一つになること、そして世界の全ての人々がイエス様を救い主と信じて、一つにされることだと思うのです。東日本大震災の際に、様々な教派の人々が東北でボランティアを行われました。大きな被害を目の前にすると、教派が違うなどと言ってはおられません。一つにされます。私も日本キリスト教団西東京教区の東北ボランティアで仙台に行きました。クリスチャン青年、クリスチャンでない青年がボランティアとして働いていました。青年でない人々もおられました。感動したのは、日本にいる台湾の青年、シンガポールの青年が働いていたことです。彼らから見れば外国人である日本人のために働いて下さっていることに、感動しました。その後も、台湾基督長老教会が多くの青年と献金を送って、東北の被災地を助けて下さいました。

 東日本大震災後に、東久留米教会が存在する地域で、教会防災ネットワークNHK(新座・東久留米・清瀬)が立ち上がりました。東京での災害発生に備えて、教派を超えて協力するためのネットワークです。イエス様はこのことを通しても、教会を一つにしようとして下さっているのではないかと思うのです。

 教会は、真理と愛によって一致する共同体です。信仰と愛によって一致する共同体、信仰告白と愛によって一致する共同体とも言えます。私たちの教会では毎週の礼拝で、共に使徒信条を告白し、毎月第一日曜日には共に日本基督教団信仰告白を告白致します。日本基督教団信仰告白は、世界中のすべてのクリスチャンに賛同していただける内容の信仰告白だと、私は確信しています。

 「すべての人を一つにしてください。」世の中には多くの不一致と分裂があります。
これを乗り越えるには、私たちが皆、和解をめざすことが必要です。「世界は教会になりたがっている」という言葉を述べた先生がおられます。現実の教会は不完全ですから、「世界は神の国になりたがっている」と述べる方がもっとよいかもしれません。神の国は、真理と愛で完全に一つとなった国ですから。私たちは、すべての人がイエス様を救い主と信じて和解し、一つの民となって神の国に入ることができるために、祈り、働きたいのです。アーメン(「真実に」)。

2018-02-09 18:14:09(金)
「罪を赦す神の愛」 2018年1月28日(日) 「はじめて聞く人にもわかる聖書の話」礼拝 説教要旨
聖書:マタイによる福音書18章21~35節

 本日の箇所の小見出しは、「仲間を赦さない家来のたとえ」です。イエス様の一番弟子ペトロが、イエス様に尋ねます。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」日本には、「仏の顔も三度」という言葉があります。ペトロはそれを上回る七回まで赦す気持ちがあったのでしょう。ペトロは、イエス様にほめていただけると思ったかもしれません。ところが、イエス様は言われます。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」ペトロも私たちも驚きます。イエス様は十字架にかかられた時、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」これは、七の七十倍まで赦したことになると思うのです。それはイエス様の「敵を愛しなさい」との御言葉と、同じことだと思うのです。

 私たちは、生涯で何回罪を犯すのでしょうか。神様がご存じです。仮に一日に一回、神様の前に罪を犯す(たとえば、人の悪口を言ったり、心の中で人を憎むなどの罪を犯す)とすれば、一年で365回罪を犯すことになります。十年で3650回です。私は今、51才ですから、1万8000回以上罪を犯したことになります。七の七十倍、つまり490回を、はるかにはるかに超えるのです。自分が少なくとも1万8000回以上、神様に罪を赦していただいたことになります。それなら、人を490回以上赦すことは、当たり前ということになります。これが今回の私の発見です! 490回赦せということは、ほとんど無限に赦せということです。私たち自身も、神様に無限に罪を赦されて、今生かされているからです。 

 この後でイエス様は、「仲間を赦さない家来のたとえ」を語られます。ある王が貸した金の決済をしようとしました。1万タラントン借金している家来が王に返済できなかったので、王は憐れに思い、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。何と帳消しです! ちなみに借金は罪を表します。ところがこの家来は、自分に100デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言い、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼む仲間を赦さず、借金を返すまでと牢に入れたのです。これを聞いた王は、「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と怒り、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡しました。イエス様は述べます。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 1万タラントンは、6000万デナリオンです。1デナリオンは一日分の賃金です。仮に1デナリオンを5000円とすると、1万タラントンは、3000億円です。3000億円の借金は、つまり私たちのマイナス無限大の罪を表します。私たちが生まれつき持っている罪、原罪を表します。イエス様が十字架にかかって死んで下さり、私たちの3000億円の借金で表される全ての罪を、身代わりに背負いきって下さいました。イエス様の犠牲のお陰で、私たち一人一人の3000億円の借金(罪)は帳消しにされたのです。イエス様の十字架の犠牲の死と引き換えに、帳消しにされたのです。父なる神様は、私たちの罪を、七の七十倍よりはるかにはるかに多く、赦して下さったのです。

 それなのに私たちが他の人の罪を赦さないとすれば、私たちは、自分に100デナリオン借金している仲間を赦さなかったあの家来と同じになります。100デナリオンは50万円です。3000億円の、60万分の1です。

 2016年1月28日の朝日新聞夕刊に、「特赦願った200通 比大統領の決断」という記事が掲載されました。当時、天皇ご夫妻がフィリピ。ンを訪問しておられました。太平洋戦争後間もない頃、フィリピンの当時のエルピディオ・キリノ大統領に、日本人のBC級戦犯の釈放を嘆願する200通以上の手紙を送り続けた島根県出身の加納莞蕾(かんらい)という画家がおられたそうです。キリノ氏は、マニラ市街戦で妻子4人を亡くし、日本軍に殺された2才の娘を自ら埋葬なさったそうです。フィリピンで行われたBC級戦犯裁判では、151名が裁かれ、137名が有罪、その半数以上が死刑判決を受け、17名が執行されたそうです。その後、キリノ氏は、100名以上の戦犯全員の特赦を決断し、実行なさったそうです。そのような事実があったのかと私は驚き、感銘を受けました。キリノ氏はカトリック信徒だったようです。「七の七十倍まで赦しなさい」というイエス様の御言葉を知っておられたに違いありません。それにしても家族を日本人に殺されたキリノ氏が、日本人戦犯100名以上を特赦なさるとは、驚くべき決断です。イエス様の「敵を愛しなさい」との御言葉の実行になると思います。フィリピンと日本の将来の関係がよい関係になるために、あえて決断なさったのではないでしょうか。日本人として、よく知っておくべき事実、忘れてはならない事実と信じます。アーメン(「真実に」)。

2018-01-25 20:56:37(木)
「地の塩として生きる」 伝道メッセージ
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味を付けられよう」
(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章13節)。

 塩は腐敗を防ぎます。神様は、私たちが「地の塩」として世の中の腐敗を防ぐ役割を果たすことを願っておられます。他方で、塩はスイカなどの甘みを引き立たせます。清さと優しさを併せ持つ人になりたいですね。

 私は最近、『地の塩 山室軍平』という映画を見ました。救世軍というキリスト教の一派があります。山室軍平は日本救世軍の初期のリーダーです。救世軍のメンバーは普通の兵と違い、イエス・キリストの愛を実践する兵です。昔から年末の「社会鍋」(炊き出し)で有名です。お隣りの清瀬市に救世軍清瀬病院があり、礼拝堂、高齢者ホーム、ケアハウス、ホスピスがあります。イエス様の愛の心で、患者さんや高齢の方に接して下さいます。

 明治の日本に、公娼制度という悪しき制度がありました。救世軍はその廃止のために立ち上がりました。各地の遊郭に出かけ、「娼妓をやめる決心をした女性たちを助ける」と書いたちらしを配ったのです。遊郭の経営者がやくざを雇って、暴力でつぶそうとします。それに暴力で対抗せず、殴られても蹴られても、ちらしを女性たちに配ったのです。正義の戦いがあるとすれば、これこそそうだと感銘を受けました。神の愛の戦いです。イエス様の愛の精神で、日本を清める「地の塩」として奉仕なさったのです。

 池袋でホームレスの方たちにお弁当などを配るキリスト教の人々と知り合いました。大々的にではなく、約30人に配るのですが、毎週一回行っておられ、聖書の話もなさいます。アメリカ人、シンガポール人、オーストラリア人、日本人です。日本人相手の奉仕です。偉い方たちだと思いました。この方々も「地の塩」です。あるホームレスの男性は、長年、建築現場で働いて来たそうです。「属した会社は下請けの下請け。働けなくなれば、クビになるだけ。自分たちは使い捨て」と言われました。私たちの生活は、このような人々に支えられているのか、と思いました。イエス様は、この方たちの味方に違いないと思うのです。アーメン(「真実に」)。

2018-01-25 20:52:51(木)
「心で信じ、口で告白して救われる」 2018年1月21日(日) 降誕節第4主日礼拝説教要旨
聖書:列王記・上18章20~21節、同36~39節、ローマの信徒への手紙10章5~15節

 礼拝で久しぶりにローマの信徒への手紙を読みます。イエス様の復活後に弟子・使徒となったパウロは、旧約聖書の申命記30:14を引用して、「信仰による義」についてこう述べます。「『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」ポイントは「近くにある」のようです。「信仰によって義とされる道」は身近にあることだ、と言って私たちを励ますのです。

 9節「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」 「公に言い表す」を他の日本語訳聖書は「告白する」と訳しています。告白することは公のことです。神様と人の前で声に出して告白することが大切です。信仰は個人的な事柄であると同時に、公の事柄です。私たちの礼拝も、「公の礼拝」です(日本キリスト教団信仰告白でも、そのように告白しています)。公の礼拝であるということは、どの国・民族の人にも、女性にも男性にも、赤ちゃんにも人生の大ベテランも、皆が招かれている礼拝ということです。

 本日のテーマは「信仰告白」です。「イエスは主である。」これは最も簡潔にして重要な信仰告白の言葉です。クリスマスによく歌われるヘンデルという音楽家の作品『メサイア』の最後の「ハレルヤコーラス」に、イエス様を「キング オヴ キングス、ロード オヴ ローズ」と讃える歌詞があります。「王の王、主の主」の意味です。ヨハネの黙示録19:16からとった歌詞でしょう。世の中に王も皇帝も独裁者も何人もいました。イエス・キリストはその全てより上の「王の王、主の主」、全宇宙の王であり主です。

 東久留米教会に以前、Nさんという男性がおられました。Nさんはアジア・太平洋戦争の時、軍隊におられたようです。上官に「天皇陛下とイエス・キリストでは、どちらが上か」と問われたそうです。「イエス・キリストです」と答えたところ、上官が真っ赤になって怒ったそうです。敵からではなく、味方から撃たれるのではないかと感じたとも語られたように、私は記憶しています。「天皇陛下よりイエス・キリストが上。」これはNさんの勇敢な信仰告白です(内村鑑三の不敬事件を思い出しました)。平和な時に信仰告白を行うことは、比較的容易かもしれません。しかしイエス様以外の者が主と崇められている嵐の時に深刻告白を行うことは、時に命懸けのことになります。

 「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して(告白して)救われる。」東久留米教会では去る12月24日(日)のクリスマス礼拝で、洗礼式を執り行いましたが、その時、日本キリスト教団の洗礼式の式文により、牧師が次のように「勧告」を読み上げました。「主イエス・キリストは、その御名によってバプテスマ(洗礼)を受ける者の罪をゆるし、神の国ととこしえの命とを与えることを約束なさいました。あなたはこの約束を信じてバプテスマを受けるのであります。使徒パウロが『人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである』と教えているように、あなたも神と会衆との前で信仰告白と誓約とをなすべきであります。」

 11~13節「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人(ユダヤ人以外の人、異邦人の代表。日本人も異邦人)の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」イエス・キリストを救い主と心で信じ、口で告白する者は、だれでも天国に入ることができるのです。もちろん信じて告白する以上、自分のこれまでの罪を悔い改めることは必要です。

 本日の旧約聖書は、列王記・上18章です。重要な場面です。真の神の預言者エリヤが、バアル(偽の神、偶像、悪魔)の預言者(偽預言者)450人と、カルメル山で対決する場面です。神の民イスラエルは、エジプトから脱出させて下さった神様の愛に応えるために、モーセの十戒を守って生きる民です。ところがその第一の戒めを破る人の多い民となってしまったのです。第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。文語訳聖書では、「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず」です。原語のヘブライ語では、「わが顔」という言葉が入っています。私たちは神様の御顔の慈しみの視線を、いつも受けている者なのです。真の愛の神様を礼拝することから離れ、裏切って、魅力的に見える偶像を礼拝するようになった民に、真の神様の預言者エリヤが、鋭く問いかけます。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかったのです。まだ優柔不断なのです。

 まずバアルの450人の預言者たち(偽預言者たち)が、朝から真昼までバアルに祈ります。しかし何の答えもありません。その後も狂ったように祈り、叫び続けますが、何の応答もありません。これに対してエリヤが、「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕(しもべ)であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えて下さい。~」と祈ると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くしたのです。「これを見たすべての民はひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です』と言ったのです。神の力を見たイスラエルの民が、文句なくひれ伏して、真底からの信仰告白を行ったのです。私たちも同じ告白を献げます。「主こそ神です。主こそ神です。」

 太平洋戦争中、日本政府は日本の教会に、「まず宮城(皇居)の方角に遥拝してから、日曜礼拝を行うように」と指示を出したそうです。それに従った教会もあったそうです。戦後生まれの私に偉そうな批判をする資格はありませんが、それはやはり、モーセの十戒の第一の戒めに反する偶像崇拝の罪です。私たちが同じ失敗・過ちを繰り返してはなりません。当時ドイツでナチスに抵抗した牧師ボンへッファーが、「最近、日本の教会は偶像崇拝を始めた」と書いていると聞きました。当時、天皇は現人神(あらひとがみ)とされました。そのような時代が二度と来ないようにする責任が、私たちキリスト者にあります。私は1993年3月に台湾に生きましたが、花蓮という土地の教会を訪問したとき、牧師の方が、「ここは昔、日本人が建てた神社(偶像の宮)でしたが、今は教会(真の神の宮)になりました」と、嬉しそうに語って下さいました。真の神様を礼拝することは、真の神様を愛することです。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)の聖句を思い出します。

 私たちは毎週の礼拝で使徒信条を告白し、毎月少なくとも一回、日本キリスト教団信仰告白を告白致します。これからも一言一言を、真心を込め、魂を込め、愛を込めて告白し、信仰告白を真の神様にお献げしたいのです。アーメン(「真実に」)。


2018-01-18 17:21:47(木)
「勇気を出しなさい」 2018年1月14日(日) 降誕節第3主日礼拝説教要旨 
聖書:出エジプト記14章10~18節、ヨハネ福音書16章25~33節

 イエス様の十字架が目前に迫っています。イエス様は弟子たちに言われます。わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」たとえを用いて語って来たとは、ストレートに語らず、やや暗示的に語って来たということでしょう。しかし、十字架が目前です。暗示的に語るゆとりはありません。ストレートに語る時です。

 「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」「神のもとから出て来た」のことですが、「のもと」訳語は削ってもよいように思います。「神から出て来た」と訳してよいように思います。イエス・キリストは三位一体の神です。神から直接来られたのです。

 イエス様は言われます。「~あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」実に励まされる御言葉です。説教題「勇気を出しなさい」を、ここからとりました。これは厳密には、十字架と復活後を、見越して語られた御言葉とも言えます。死んで(仮死状態からの蘇生ではなく、イエス様は本当に死なれたのです)復活されたイエス様は、悪魔と罪と死に完全に勝利されました。イエス様は勝利者です。この世のあらゆる苦難、試練、誘惑に打ち勝たれました。このイエス様につながっていれば、私たちも苦難、試練、誘惑、罪、死に打ち勝つことができます。復活されたイエス様は、地震をも津波をも原発事故をも乗り越える力をお持ちです(私たちは、地震・津波・原発事故に打ち勝つ力を持ちませんが)。イエス様は、既にこの世のあらゆるマイナスの力に勝っておられます。ヨハネの手紙(一)2章8節にも似た御言葉、「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」という御言葉があります。

 復活されたイエス・キリストは、聖霊として、使徒パウロを励まして言われました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(使徒言行録23:11)。パウロは人生の後半で伝道に献身しましたが、その伝道は苦難の連続でした。しかしイエス・キリストに守られて、パウロは伝道の使命を果たしたのです。

 神様は、その民を励まして下さる方です。本日の旧約聖書は、出エジプト記14章です。モーセに率いられて意気揚々とエジプト脱出を開始したイスラエルの民ですが、すぐにファラオ(エジプト王)の軍隊が追跡して来ます。民はパニックに陥り、主に向って叫びます。モーセが答えます。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」これは劇的な場面です。神様はエジプトの大軍を破って、栄光を現されたのです。同じ神様が、イエス・キリストを復活させなさることで、さらに栄光を現して下さったのです。

 私たちも、この地上を生きる限り、悩みや苦労は絶えません。しかし、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と断言なさるイエス様が共におられます。このイエス様に支えられて、私たちも様々な悩み・苦労を1つずつ乗り越えてゆきます。

 多くのクリスチャンたちが、イエス・キリストに信仰の勇気を与えられ、信仰に行きました。島根県の津和野は、明治初期に長崎から送られたキリシタンたちが信仰を捨てるように求められ、拷問を受けた所です。私は1989年の3月頃に行きました。氷の張った池に浸けられたり、三尺牢という身動きのとれない牢に入れられたりしました。高木仙右衛門という人が、辛い拷問にも関わらず、遂に信仰を守り抜きました。仙右衛門がしたことは、ただ熱心に祈ることだったそうです。祈って拷問に耐える力を与えられました。私が津和野で読んだ説明には、夜に婦人が現れて仙右衛門を励ましたと書いてあった記憶があります。仙右衛門はキリシタン(カトリック)なので、その婦人はイエス様の母マリアだと、その説明は述べていたのだと思います。ともかく、仙右衛門に神様が耐える力を与えて下さったということだと受けとめます。

 上智大学で長く教えられたドイツ人のデーケン神父という方がおられます。私も一度、阿佐ヶ谷教会で講演を伺ったことがあります。そのデーケン先生の著書(『よく生き よく笑い よき死と出会う』新潮社、2010年)に、先生が小学生の頃、ナチの指導者養成学校に学校から推薦されそうになったことが記されています。デーケン先生は、校長先生の推薦の申し出を断られました。ナチの独裁体制に賛成できなかったからです。小学生なりに、勇気をもってイエス様に従う道を選びとったのだと思います。

 ほかのあるドイツ人の神父様は、反ナチの働きをしておられたと聞きました。神父になる前かもしれません。ナチに賛成のふりをして入りこみ、情報を得て、反ナチ側に伝えるという働きだったようです。実に危険な任務です。知られればただでは済まない、殺される可能性もあったと思うのです。勇気をもって、イエス様のために悪と闘ったのだと思います。

 そしてマーティン・ルーサー・キング牧師を思います。キング牧師は仲間たちと、黒人差別をなくすために非暴力で活動したことで知られます。しかし暴力や迫害を受けました。1956年1月27日に、次のような印象深い祈りを献げたそうです(梶原寿『マーティン=L=キング』清水書院、1993年、91~92ページより)。「私は祈りに祈った。私は言った。主よ私はここで正しいことをしようとしています。私たちが掲げている主張は正しいと考えています。しかし主よ、私は告白しなければなりません。私は今弱いのです。くじけそうです。勇気を失いつつあります。だが私はこんな姿を人々に見せたくありません。~その瞬間、私は内なる声を聞いたように思った。マーティン・ルーサーよ、義のために立て、公義のために立て、真理のために立て。見よ、私はあなたとともにいる。世の終わりまでともにいる。私は~罪の大波が私の魂を征服すべく突進してくるのを感じた。しかし私は同時に、闘い続けよ、と優しく語りかける主イエスの声を聞いた。彼は私に、決して一人にはしないと約束した。決して決して一人にはしないと。」

 イエス様は、今も私たちに言われます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」このイエス様の励ましに勇気を与えられ、日々祈りながら、イエス様を宣べ伝えて参りましょう。アーメン(「真実に」)。