日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2017-12-22 18:25:37(金)
「その子をイエスと名付けなさい」 2017年12月17日(日) 礼拝説教要旨
聖書:イザヤ書7章12~17節、マタイによる福音書1章18~25節

 次週にクリスマス礼拝を控えています。本日の聖書は、イエス様の誕生の箇所です。(18節)「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」マリアは15才前後と思われます。当時のイスラエルでは、婚約は結婚と同等の法的な重みをもっており、婚約した者同士は夫婦と見なされました。但し、まだ一緒に住むことは許されていませんでした。長い時は、1年くらいの婚約期間(夫婦と見なされるが、まだ一緒に住むことができない期間)があったそうです。マリアとヨセフがその期間を過ごしている時に、マリアの妊娠が分かったのです。常識で考えると、マリアがヨセフを裏切って姦淫を行った、不倫を行ったことになります。神様の掟では姦淫・不倫は死刑に当たる大きな罪です。

 申命記22章23節に、こうあります。「ある男と婚約している処女の女がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さなければならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から愛を取り除かなければならない。」

 ヨセフは悩み、途方に暮れました。夜も悩みながらの眠りです。(19節)「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」新改訳聖書は、次のようになっています。「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」ヨセフはマリアが姦淫の罪を犯したと思っていたので、もはや結婚はできないと考えました。ヨセフは正しい人、つまり神様の律法(戒め)を忠実に守る人だからです。しかしマリアのことを公にし、マリアが石打ちの刑で死ぬことには耐えられませんでした。正しい人ヨセフには優しい心があり、正しさに徹することができませんでした。しかしここにヨセフの人間味を感じますね。「ひそかに離縁する。」これが、ヨセフが精一杯考えて出した結論です。

 ここに神様が介入して下さいます。ヨセフに天使を送られたのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」マリアが姦淫の罪を犯してヨセフを裏切ったのではないことを、天使が知らせてくれました。ヨセフは大きな安堵に包まれたと思うのです。私たちも途方に暮れることがあります。そんな時、聖書の次の御言葉が励ましになります。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(コリントの信徒への手紙(二)4章8~9節)。

 私たちは、一生懸命考えても解決策が見つからず、ため息をつくことがあります。私たちは身の周りばかりを見て、視野が狭くなっているかもしれません。しかし上を見上げれば空は広い、天の窓があります。神の窓です。私たちには、祈りという大切な逃げ道があります。祈ることで、神様が上から聖霊を注いで下さいます。天の窓という開かれた窓があります。神様はヨセフにも、天から手を差し伸べて下さいました。「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」マリアは姦淫をするような人ではないのです。神様はこうしてヨセフを安堵させて下さいました。

 新潟青陵大学大学院の碓井真史先生は以前、日本キリスト教団出版局発行の『心の友』に、この時のヨセフの行動から、次の学びを与えられるとお書きになりました。難しい問題に直面したとき、正しい態度をとる必要があるが、決め手は人を大切にし生かすことができるか、愛に基づくものであるか、であると。ヨセフのようにマリアの幸せを願って行動することが大切だ、と。

 私は17年ほど前に、杉原千畝氏のご夫人・幸子氏の講演を伺ったことがあります。杉原千畝氏は、多くのユダヤ人の命を救うビザを発行したことで、苦労なさりつつも後年知られるようになった方です。外務省の指示に背く決断でしたから、苦悩の末の決断だったのです。ヨセフの苦悩に通じるように思います。杉原氏は決断し、多くのユダヤ人に日本通過ビザを発行しました。ご夫人は後年、アメリカでその時救われた方たちに再会されました。その場には、救われた方のお孫さんもいました。大統領候補にもなったデュカキス氏の夫人が、「あなたのご主人のビザがなかったら、こんな天使のような子の生命は神から授けられなかったのですよ」と言われたそうです(杉原幸子著『六千人の命のビザ』大正出版、2000年、201~202ページ)。

 こんな話を読んだことがあります。1979年頃のことではないかと思うのですが、ベトナムなどからボートピープルと呼ばれる難民が、舟で日本に来たことがあります。日本のあるカトリック教会で、一時的にかもしれませんが、その方たちに教会に住んでいただく決断をした神父がおられたそうです。後日、子どもたちが生まれたようです。ある人が言いました。「あの時の神父の決断がなかったら、この子どもたちは生まれていなかった。」1つの愛の決断が将来を開くことを学びます。

 ヨセフの決断(マリアを告発しない決断)は、マリアを守り、イエス様を守りました。ヨセフがマリアを告発していたら、(理論上は)マリアもお腹のイエス様も死んだ可能性があります。もちろんイエス様を救い主として誕生させることが父なる神様の強いご意志ですから、マリアと赤ちゃんイエス様が死ぬことはないのですが、しかし理屈の上ではもしヨセフがマリアを告発していたら、マリアは死刑になり、お腹のイエス様も死んだはずです。しかしヨセフが律法を超えた愛の決断をしたことで、マリアもイエス様も救われました。もしマリアとイエス様が死んでいたら、イエス様の十字架と復活による私たちの救いもなかったことになります。ヨセフの苦悩の末の愛の決断があったからこそ、私たちもイエス様によって救われることができたとも言えます。1つの愛の決断が、未来を大きく開くことを教えられます。

 さて、安堵したヨセフに、神様が指示を与えられます。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」イエスという名前は、「主は救い」の意味です。神の民イスラエルを、罪から解き放つ。そしてイスラエルから見れば異邦人である民すべて(日本人を含む)をも罪から解き放つ。そのような神様の強い意志を決意を感じます。そのために最愛の独り子イエス様を、地上に送られました。イエス様の使命は、十字架にかかってすべての人の罪を身代りに背負うことです。十字架にかかって死に、三日目に復活される目的のために、地上に生まれて下さったのです。

 (22~23節)「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」この預言者の言葉は、旧約聖書のイザヤ書7章に記されています。この預言者の言葉は、紀元前8世紀に赤ん坊が生まれ、インマヌエルと命名されたことで、一旦成就したと思われます。しかしこの言葉の究極の成就は、イエス様に誕生によってなされたのです。イエス・キリストこそ、私たちの真の救い主、インマヌエルの主でいらっしゃいます。

 旧約聖書のエステル記9章に、プリム祭というユダヤ人の祭りのことが記されています。ユダヤ人を絶滅させる悪の謀略があったのですが、その謀略がとん挫し、逆にユダヤ人がその敵に復讐して大勢を殺す結果になったことを記念し、喜ぶ祭りのようです。この日は宴会と祝祭の日であり、「贈り物を交換し、貧しい人に施しをする」日です。まるでクリスマスのようです。神の民イスラエルを滅亡させる悪の謀略が挫折したことは喜ばしいことですが、ユダヤ人の徹底的な復讐ぶりには、違和感を覚えます。旧約聖書は確かに神の御言葉ですが、限界があります。この旧約聖書の限界は、イエス様の十字架の死と復活によって乗り越えられます。イエス様は敵を愛しなさいとおっしゃり、十字架上で敵をゆるすお祈りをなさいました。この真の救い主イエス様の誕生を祝う日がクリスマスです。クリスマス礼拝までの一週間を、祈りと感謝をもって、過ごして参りたいのです。アーメン(「真実に」)。


2017-12-14 18:17:00(木)
「小さい者にしたことは、キリストにしたこと」 2017年12月10日(日) 礼拝説教要旨 
聖書:箴言14章31節、マタイによる福音書25章31~46節

 今私たちは、アドヴェント(待降節)を過ごしています。アドヴェントは、ラテン語で「到来」、「来る」の意です。2000年前にベツレヘムの馬小屋に誕生されて、十字架の死と復活を経て天に昇られたイエス・キリストは、世の終わり(神の国の完成の時)にもう一度来られると約束しておられます。アドヴェントはこの信仰を新たにする季節です。ミケランジェロがバチカンのシスティーナ礼拝堂に大きな「最後の審判」の絵を描いていますが、それは本日のマタイ福音書に基づく絵です。イエス様は言われます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」私は、「○○羊右氏」というお名前を拝見したことがあります。この「羊を右に」の聖句が基になったお名前と思います。きっと親御さんが、「右側に置かれて祝福される羊」になるようにとの祈りをこめて、お付けになったお名前と思います。

 (34~36節)「そこで、王(イエス様)は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』」すると、正しい人たちは戸惑い、「主よ、いつわたしたちはそのことを行いましたか」という意味のことを問います。すると王は答えます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイ福音書10章42節には、似た御言葉があります。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 イエス様は、「わたしが飢えていたときに食べさせ」と言われます。ヨハネ福音書の十字架の場面でイエス様は、「渇く(我渇く)」と言われました。これは、イエス様の十字架上での肉体の渇きと同時に、父なる神様の御心(十字架にかかること)に飢え渇いておられる気持を表すようです。インドのコルカタにあるマザー・テレサの「神の愛の宣教会」の礼拝堂の十字架の近くに、「渇く(我渇く)」の御言葉が記してあるそうです。マザー・テレサはこの御言葉を非常に深く心に留めていたそうです。「我渇く。」マザー・テレサは、貧しくて飢え渇く多くの人たちに出会いました。その方々に会うたびに、「この人々の中で、イエス様が渇いておられる」と強く感じ、それに促されて奉仕活動をなさったのではないでしょうか。

 セブンスデイ・アドヴェンティストの教団の東京衛生病院では、患者さんをイエス様と思って接して下さるそうです。手術前にはお祈りして下さると聞きます。東久留米市の隣りの清瀬市にある救世軍清瀬病院でも同じだろうと思います。私は先日、清瀬市の別の病院に行きましたが、ある方(クリスチャンではなさそうでした)が語っておられるのが聞こえました。その方は、いくつかの病気を乗り越えて来られたそうですが、「もし将来私が治らないと言われることがあれば、救世軍清瀬病院のホスピスに入れてもらうつもり。あそこはミッションだから、本当に親切で、いいよ。」クリスチャンでない方からも、よい評判を受けておられる病院なのだなと、よく分かりました。私は先日、『山室軍平』という映画を見ました。山室軍平は、日本の救世軍の初期のリーダーです。心を打たれたのは廃娼運動の場面です。遊廓から女性たちを救うために、娼婦をやめることができることを伝えるちらしを配ります。遊廓側はやくざを雇い、廃娼運動をつぶそうと暴力を使います。しかし殴られても蹴られても、血が流れても屈せず、ちらしを配ります。もちろん暴力で抵抗しません。正義の闘いがあるならば、これぞ正義の闘い、神の闘い、愛の闘いと感じました。救世軍兵士は、この世の兵士ではなく、キリストの愛の兵士です。

 私たちの教会の婦人会で約40年間、フィリピンの子どもさんたちにささやかな支援を続けて参りましたが、この働きも、子どもたちを応援することを通してイエス様にお仕えするわざだと思い、感謝の気持ちになります。戦国時代に小西行長というキリシタン大名がいました。高山右近ほど純粋に信仰を貫くことができなかったと聞くこともありますが、生まれ故郷の堺や、領地であった肥後・宇土(うと)に日本初のハンセン氏病患者の施療院や孤児の施設を造ったそうです。残念ながら関ヶ原の戦いで敗れ、処刑されましたが。

 イエス様は、「牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われます。ヘブライ人への手紙13章2~3節に、こうあります。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」 

 これらの御言葉で「牢に捕らわれている人」は、第一には無実の罪で牢に捕らわれている人々ではないかと思います。ですが、本当に悪を行って牢に捕らわれている人々をも含むのではないかと思います。教誨師として奉仕しておられる日本基督教団長野教会牧師・横井先生が、次のように書いておられます(『ひとやの友 第43号 2017年11月』日本基督教団教誨師会発行より)。「現在、長野刑務所においては10名前後の収容者の方々と共に讃美歌を歌い、聖書の御言葉を味わい、主の祈りをもって、会を閉じる『聖書研究会』を行っている。~出席者は聖書の言葉に真剣に耳を傾けている。特にその真剣さが感じられるのは、ルカによる福音書15章の三つのたとえ話を読んでいる時である。『徴税人や罪人たちが皆、話を聞こうとイエスのところに集まって来た』(15章1節)。~そして『見失った羊を捜し回る羊飼い』の譬え話について語り、『このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある』(7節)に至る。~この御言葉は、刑務所に収容されている人たちの心に響いていた。この学びの後の『質問』の時間で『洗礼を受けるにはどうしたらよいのか』という発言が出て驚いた。」エゼキエル書18章32節を思い出します。「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」スイスにカール・バルトという著名な神学者がおられましたが、バルトは人生の終わりに近い頃には、刑務所で説教することが多かったと聞きます。キリストの救いを最も必要とする人たちが刑務所にいるからでしょう。

 イエス様は言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」高田三郎さんというカトリック信者の音楽家の方がおられました。高田さんが作詞・作曲なさった「ちいさなひとびとの」という印象的な歌があります(CD『高田三郎の典礼聖歌Ⅰ 東京荒川少年少女合唱団のうたうこころのうた』FONTEC INC.より)。
「ちいさなひとびとの/ ひとりひとりを見守ろう
 ひとりひとりの中に キリストはいる
 まずしい人が 飢えている/ まずしい人が 渇いている
 くにを出た人に 家がなく/ 寒い冬に 着物がない
 ちいさなひとびとの/ ひとりひとりを見守ろう
 ひとりひとりの中に キリストはいる
 病気の人が 苦しみ/ 牢獄の人は さげすまれ
 みなし子たちは さびしく/ 捨てられた人に 友がない
 ちいさなひとびとの/ ひとりひとりを見守ろう
 ひとりひとりの中に キリストはいる キリストはいる」

 もちろん私たちは、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、救われます。しかし、イエス様に愛され、イエス様の十字架の死のお陰で罪を赦された人は、深い感謝を抱きます。イエス様の十字架の愛に応答して、神様と隣人を愛する生き方へ(少しずつでも)必ず踏み出さないではおれないのです。どうか私どもが、身の周りの一人一人の中におられるイエス様を発見し、一人一人に小さな愛を注ぐことで、イエス様を愛することができますように。アーメン(「真実に」)。





2017-12-07 15:22:49(木)
「クリスマス・キャロル」のメッセージ  伝道メッセージ
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である」(新約聖書・ルカ福音書2:11)
 
 クリスマスは、父なる神様が最愛の独り子イエス・キリストを地上に誕生させて下さった記念日です。イエス様こそ、私たちへの最大のプレゼントです。クリスマスは、「与える季節」です(一年中をそう生きると、最高)。

 クリスマスに読みたい名作の1つにディケンズ作『クリスマス・キャロル』(新潮文庫など)があります。舞台は19世紀のロンドンのようです。スクルージという老人がいました。大変けち・欲張りで、クリスマスにも貧しい人々に寄付することを拒否します。一人の幽霊(私は幽霊はいないと信じますが、これは物語なので幽霊が登場します)が現れて、スクルージに彼の子どもの頃のクリスマスを見せます。子どものスクルージがさびしそうに本を読んでいます。彼はそれを見て、最近、貧しい子どもを追い払った自分を悔います。彼の青年時代に、雇ってくれた主人の家の当時のクリスマスも見ます。優しい主人で、使用人たちに、皆で踊るクリスマスをプレゼントしたのです。スクルージがお金だけを愛する男になったために離れて行った、昔の婚約者にも会います。

 第二の幽霊が現れて、今、スクルージのもとで働いているボブの家庭のクリスマスを見せます。奥さんと子どもたちがおり、足が不自由な末息子のティムもいます。貧しい大家族が、今日だけは精一杯のごちそうです。何と一家は、少ない給料しかくれないスクルージに祝福を祈るのです! 第三の幽霊が来て、スクルージに未来のクリスマスを見せます。ある男が死に、誰もそれを悲しまない、むしろ喜んでいます。その男はスクルージらしいのです。彼はこれまでの過ちを悟り、生き方を変える決心をします。彼は困っている人に寄付することに喜びを見出し、晴れ晴れとしてボブに、「君の給料を上げることにした。クリスマスおめでとう」と言うのです。生き方を変えるのに遅すぎることはないのです。イエス様は、「受けるよりは与えるほうが幸いである」と言われました。スクルージはそうなりました。私たちもそうなりたいですね。アーメン(「真実に」)。


2017-12-07 15:20:12(木)
映画『母 小林多喜二の母の物語』を見て  伝道メッセージ
「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか、知らないのです。」(イエス・キリスト。新約聖書・ルカによる福音書23章34節)。

私は最近、山田火砂子監督の映画『母―小林多喜二の母の物語』を、東久留米駅近くの成美教育文化会館で見ました。原作は、クリスチャン作家・三浦綾子さんの小説『母』(角川文庫)です。

 小林多喜二(1903~1933)は共産主義者・作家で、クリスチャンではありません。築地警察で拷問の末、殺されたとされます。貧しい人々の味方をしたのに殺される悲劇の人生でした。三浦綾子さんはそこに、貧しい人々を愛して生きたのに、十字架につけられたイエス・キリストとの共通性を見られます(イエス様は、死の三日目に復活されましたが)。そして、愛する息子の不条理の死の悲しみに耐えた多喜二の母セキさんと、イエス様の母マリアを重ねておられます。

 多喜二の姉チマ(セキさんの娘)はキリスト教会に通っていたようです。チマに導かれて、セキさんも教会に行ったようです。セキさんはその教会の近藤治義牧師を深く信頼し、自分の葬儀を教会で行ってほしいと頼んだそうです。その通りになりました(洗礼は受けなかったようです)。三浦綾子さんは、小説『母』でセキさんに次のように語らせています。
 
「(イエスさまは)両手両足に五寸釘を打ちこまれて、どんなに痛かったべな。…だども、たまげたことにイエスさまは、誰をも呪わんかったのね。『神さま、この人たちをゆるしてあげて下さい。この人たちは、何をしているか、わからんのですから』と言って、槍で胸を突かれて、亡くなられたのね。…わだしはね、多喜二が警察から戻って来た日の姿が、本当に何とも言えん思いで思い出された。…神さまは、自分のたった一人の子供でさえ、十字架にかけられた。神さまだって、どんなに辛かったべな。だけど、人間を救う道は、こうした道しか神さまにはなかったのね」(三浦綾子『母』角川文庫、2017年、207~208ページ)。

 イエス様の十字架上の言葉は、私たちの胸を打ちます。皆様も教会においでになり、愛の主イエス様を深く知って下さい。アーメン(「真実に」)。

2017-12-07 15:16:57(木)
『トムじいやの小屋』を読んで  伝道メッセージ
「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか、知らないのです。」(イエス・キリスト。新約聖書・ルカによる福音書23章34節)。

 小学生のときに読んで感動した『トムじいやの小屋』(高杉一郎訳、学研を、この8月に読みました。大人こそ読むべき、心を打つ名作です。作者のストウ夫人は、19世紀のアメリカの牧師の娘です。白人の主人の都合で売られる黒人奴隷のつらさが描かれます。夫婦や親子が引き裂かれます。

 黒人奴隷のトムは、熱心なクリスチャンで、主人のために一生懸命働きます。弱い者の味方でもあります。トムは最後に、非常に残酷な主人に売られ、激しい虐待を受けます。しかしトムは敵を愛し、暴力で反撃しません。トムは、聖書のイエス様の十字架の場面を読んでくれるように、仲間に頼みます。イエス様が祈られます。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか、知らないのです。」

 主人の手下になってトムに激しい暴力をふるった二人の黒人に、無抵抗のトムが言います。「ゆるしてやるよ。」二人は深く後悔して、声をあげて泣きます。トムは天に召されます。トムを買い戻しに来た、最初の主人の息子がそれを見届けて、トムの墓の前で祈ります。「神様、今日という日からぼくは、この国の奴隷制度をなくすために全力を尽くします。」

 この作品は、アメリカで奴隷制度をなくす世論を作る大きな力となったそうです。まさに「ペンは剣よりも強し」(聖書の言葉ではありませんが)です。人々の正義感を、奮い立たせたのです。日本も、国籍などによる差別のない国をめざしたいものです。

 そのためにも、ぜひ神の子イエス・キリストを知って下さい。イエス様は、私たち全員の罪を身代わりに背負って、十字架で死なれ、三日目に復活されました。イエス様をご自分の救い主と信じる人は、すべての罪のゆるしと永遠の命を受けます。ぜひ皆様もイエス様を救い主と信じて、永遠の命をお受け下さい。詳しく知りたい方は、東久留米教会においで下さい。