日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2017-12-07 15:14:14(木)
「敵を愛しなさい」 伝道メッセージ
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(イエス・キリストの言葉。 新約聖書・マタイによる福音書5章44節)。

 8月は、日本にとって平和への祈りを新たにする大切な月です。私の両親は太平洋戦争の頃、子どもでした。私は親から、空襲を受け防空壕に逃げた話などを聞きながら育ちました。その頃の子どもたちは、「鬼畜米英」、「米英撃滅」と教えられていたそうです。ところがイエス・キリストは、「敵を愛しなさい」と正反対の教えを説かれます。イエス様の多くのよき言葉の中でも、最高の言葉と思います。難しいことですが、これを全員が実践すれば、身の周りも世界も、たちまち平和になります。

 こんな実話を読みました。戦前の神戸や横浜でキリストを伝えたコヴェル宣教師というアメリカ人がおられました。戦争中は夫妻でフィリピンのルソン島におられ、無実なのにスパイ容疑をかけられ日本軍に殺害されたのです。日本人として本当に辛い出来事です。お二人は最後まで、心を合わせて祈っていたそうです。アメリカのユタ州にいた20才ほどのお嬢さんは、それを聞いて、怒りと悲しみでいっぱいになりました。でも両親は最後にどう祈ったのか、考えました。イエス様は十字架につけられたとき、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」と、敵をゆるす祈りをされました。両親も最後にそう祈ったに違いない。彼女は、憎しみを返すのでなく、両親の志を継いで日本人に奉仕しようと思い立ちます。何と彼女の住む町に、日本兵が収容されている捕虜病院があり、彼女は懸命に奉仕します。「何か不自由があったら、私に言って下さい。私は何でもかなえたいと思っています。」戦争が終わり、捕虜たちが日本に送還されるまでほぼ毎日、半年続いたそうです。彼女が奉仕した捕虜たちは、直接ご両親の命を奪った人たちではありませんが、でも彼女は憎しみを超えて、本当に敵を愛したのだと思います。何と立派な人かと感嘆します(中田整一編・解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社文庫、2010年より)。

 私は、平和憲法は神様から日本へのプレゼントと信じています。日本は、敵の撃滅をめざす国から、平和を愛する国に生まれ変わりました。
この道を迷わず進みたいと、切に祈ります。(アーメン(「真実に」)。

2017-12-07 15:09:42(木)
「少年よ、大志を抱け、とは?」 伝道メッセージ
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」
(旧約聖書・伝道の書3章11節(口語訳))

 私は今年の5月初旬に、札幌に行く恵みを与えられました。冬は雪で大変でしょうが、5月の札幌は東京より肌寒いものの、空がどこまでも青く、美しい季節でした。人々の心も、東京よりオープンでした。

 有名な時計台の近くに、明治に建てられた北海道庁旧本庁舎があります。すてきな赤れんがの建物です。この辺りに明治時代に、札幌農学校がありました(今の北大)。ここでクラーク博士という教頭が8ヶ月間教え、第1期生たちをクリスチャンになるように導きました。内村鑑三は2期生で、札幌で直接クラーク博士の教えを受けることはできませんでした。クラーク博士が馬に乗って、惜しまれながら去る大きな絵が、赤れんが庁舎の2階にあります。東久留米市学園町に住まれた田中忠雄画伯の作品でしたので、特に親しみを覚えました。

 この時、クラーク博士が語った英語も記されています。「少年よ、大志を抱け」と訳されて有名になった「Boys, be ambitious(ボーイズ ビー アンビシャス)」と、続きです。立身出世の勧めと誤解した人もありますが、私が訳すとこうです。「少年たちよ、志をもて。お金のためでも、自己中心的な出世のためでもなく、束の間の名誉のためでもない。人として当然なすべき全てを果たすために、志をもて。」 私は、「世のため、人のために尽くしなさい」というメッセージだと受けとめます。

 神様が札幌にクラーク博士を送られたことは、まさに「時にかなって美しい」ことでした。同じ旧約聖書の「伝道の書」12章1節に、「あなたの若い日に、あなたの造り主(神)を覚えよ」という美しい言葉があります。クラーク博士は、日本の若者たちに造り主を知らせました。その神様を人格的に知るために、ぜひ教会においで下さい。聖書をお読み下さい。アーメン(「真実に」)。

2017-12-07 15:04:25(木)
「小さなことに、大きな愛をこめて」 伝道メッセージ
「(イエスは)たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手拭ぬぐいでふき始められた」(新約聖書・ヨハネによる福音書13章5節)。

 神の子イエス・キリストの誕生を祝う日がクリスマスです。イエス様が誕生されたのは、私たち全人類の全部の罪を、身代りに脊負って十字架で死に、三日目に復活なさるためでした。十字架に架かる前日の木曜日には、弟子たちの汚い足を、洗われました。罪とは、私たち皆がもつ自己中心の思い、「自分さえよければよい」という思い、エゴイズムです。「自分の仲間や家族さえよければよい」、「自分の国さえよければよい」という考えも罪です。イエス様は、私たちの心の中の汚い罪をも洗って下さる方です。

 渡辺和子さんというカトリック教会の修道女が、2017年末に89歳で天国に帰られました(1936年の「二・二六事件」で、お父様の命を奪われた経験をおもちです)。私はこの方は日本の宝と思うので、真に残念です。渡辺さんの読みやすいベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬社、2012年、952円+税)は、東久留米の書店でも「お薦めの本」として、レジに置かれていました。心に残る言葉が記されています。「私たちには偉大なことはできません。しかし、小さなことに大きな愛をこめることはできるのです」(マザー・テレサの言葉)。「苦しいから、もうちょっと生きてみよう」という言葉も大切です。

 続編の『面倒だから、しよう』(幻冬社、2013年、952円+税)には、「神は決して、あなたの力に余る試練を与えない。試練には、それに耐える力と、逃れる道を備えてくださる」(新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)10章13節)とあります。「この世に“雑用”という名の用はない。用を雑にした時に生まれる」という、ドキッとさせられる言葉もあります。「単調な仕事でも愛を込めて行うことが大切。でないと私たちはロボットになってしまう」という貴重な教えです。今、人口知能がもてはやされますが、人口知能に人格はありません。知性が最高でも、心がなければ無意味です。

 2冊を読み返し、渡辺さんの教えを少しでも実践する2017年を送りたいと、祈ります。皆様も、ぜひお読み下さい。アーメン(「真実に」)。

2017-12-07 14:57:54(木)
「神の愛」 伝道メッセージ
「信仰と、希望と、愛。この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」
(新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)13章13節)

 キリスト教の結婚式でよく読まれる言葉です。この少し前には、こうあります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」 この愛は原語(ギリシア語)で「アガペー」です。与える愛、敵をも愛する愛、神の愛、神の子イエス・キリストの愛です。私たちは、なかなかこのような愛に生きることができません。でも、めざしましょう。

 神の愛を語る、こんなたとえ話があります(深井智朗著『伝道』日本キリスト教団出版局より)。
「ある所に、跳ね橋の管理をしている父親と独り息子がいました。毎日定刻に父親は橋を渡る人や車を止め、跳ね橋を吊り上げるスイッチを押します。橋が上がり、船が無事通過します。ある日の定刻、父親が見ると、何と息子が橋のタンクに転落しています。船が迫っており、息子を助けに行けば船が橋に激突して大惨事になります。かといってスイッチを押すと、息子がはさまれて死にます。父親は断腸の思いで決断し、スイッチを押しました。船は何事もなかったかのように通過し、船上から人々が父親に笑顔で手を振ります。」 息子が犠牲になりました。この父親が父なる神様、息子が神の子イエス様、船上の人々が私たちです。

 イエス様が十字架に架かられたのは、私たち全員の罪(過ち)の責任を身代わりに背負われたからです。(この場合の罪は、私たちのわがままな心と行い全部です。)最愛の独り子イエス様を、私たちの身代わりに十字架につける父なる神様の愛の決断のお陰で、私たちの罪がゆるされました。それがなければ、私たちの罪がゆるされることはありません。神の愛です。

 神の愛に感謝する日曜礼拝に、ぜひおいで下さい。アーメン(「真実に」)。

2017-12-07 2:51:23(木)
「真理を悟らせる聖霊」 待降節(アドヴェント)第1主日礼拝 説教要旨
聖書・詩編51編12~14節、ヨハネによる福音書16章1~15節 

 本日は、待降節(アドヴェント)第1主日礼拝です。教会の暦はこの日から始まります。アドヴェントというラテン語は、「来る」、「到来する」の意味です。今月の後半にクリスマスを迎えますが、クリスマスは神の子イエス・キリストの誕生を祝う日です。一度地上に来られたイエス様は、世の終わりに必ずもう一度、天から来られます。アドヴェントはこの信仰の新たにし、強める季節です。

 本日の場面は、イエス様の十字架のすぐ前です。イエス様は次の次の18章で捕らえられます。イエス様は、一旦去られることを弟子たちに告げたので、弟子たちの心に満たされました。しかし、イエス様は言われます。「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者はあなたがたのところに送る。」弁護者とは聖霊のこと、聖霊は「真理の霊」です。弁護者は、元の言葉であるギリシア語でパラクレートスです。これは「傍らに呼ばれた者」の意味と聞きました。それは裁判の時の弁護人のことを指すそうです。それで弁護者と訳されました。口語訳聖書では「助け主」と訳されています。聖霊が弁護者ですが、イエス様も弁護者です(ヨハネの手紙<一>2:1)。私たち皆が受ける「最後の審判」の裁き主はイエス様です。しかし弁護者もイエス様です。私たち皆の全ての罪を身代わりに背負って十字架で死なれたイエス様が弁護者です。そしてイエス様は、ご自分を救い主と信じる者に、無罪の宣告を与えて下さいます。

 弁護者、助け主は慰め主と呼ばれることもあります。聖霊は、慰め主であられます。コリントの信徒への手紙(二)1章3節以下には、父なる神様が与えて下さる慰めが記されています。聖霊は父なる神の霊ですから、聖霊が与えて下さる慰めも同じと思います。「慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」

 イエス様は言われます。「その方(弁護者)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」それが真理の霊である聖霊のお働きです。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」まず罪についてとは、まさにイスラエルの信仰の指導者たちがイエス様を救い主と信じないことが罪なのです。義についてとは、十字架で死んで復活され天の父のもとに行かれるイエス様こそ、父なる神様によって義と承認(肯定)された方だということです、裁きについてとは、イエス様を十字架に追いやって裁き殺す悪魔こそが裁かれるということです。

 イエス様は言われます。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」ある方が語られましたが、その方が高校生になったとき、初めて大人の礼拝に出席したが、牧師の説教の内容が全く分からなかったそうです。ところが、しばらく出席しているうちに、ある時から急に分かるようになっていったというのです。これぞ聖霊のお働きです。聖書の御言葉(みことば)の意味を、分からせて下さるのです。

 わたしの手元に、20年前に読んだ『天国への凱旋門 死刑囚からの手紙』という本があります(田島惠三著、教文館、1997年)。新保満さんという60数年前の青年の、小学校時代のSという同級生が殺人の罪を犯し、死刑判決を受けます。新保さんは、死刑を覆すことはできないが、Sに何とか救い主イエス・キリストを信じてもらって、神の前での罪の赦しと永遠の命の希望を受けてほしいと念じました。新保さんは、Sにイエス様を信じる信仰をもってもらおうと願い、毎日のようにはがきを書き送り、150通に達しました。しかしその時点までのSは、新保さんには手紙で表向きよい顔をし、金を無心しますが、信仰には全く関心を示しませんでした。しかしある時から新保さんのはがきを読むようになり、急速に熱心に聖書を読み始め、熱心に求道し罪を深く悔い改め、ついに洗礼を受けたのです。Sのこの急速な変わりようは、新保さんや仲間の方々の祈りによって、Sに聖霊が注がれた結果だと信じます。聖霊なる神様が、Sに真理を悟らせて下さったのです。Sは永遠の命の希望を抱いて死刑を受け、罪を償って天国に凱旋しました。

 新保さんとSの交流は1年4ヶ月で終わりましたが、やはり死刑囚のUさん(殺人の罪を深く悔い改めて、熱心なクリスチャンになっておられた)の仲間の死刑囚たちと新保さんと友人のクリスチャンたちとの交流は、その後5年間も続いたそうです。それは新保さんと友人のクリスチャンたちが、それぞれ出席している教会の日曜礼拝の牧師の説教を筆記して、福岡の拘置所のUさんに送る形で続きました。Uさんは、それをも用いて、仲間の死刑囚たちに永遠の命の希望を得てもらうために、熱心に伝道なさったそうです。死刑囚のクリスチャンたちの会は、カルバリ会と名付けられたそうです。カルバリとは、イエス様が十字架につけられたゴルゴタの丘のラテン語名です。カルバリもゴルゴタも「されこうべ」の意味です。カルバリ会と名付けた理由は、ただイエス様の十字架の贖いの恩寵にすがる会だからです。クリスチャン青年たちと、福岡の拘置所内の死刑囚クリスチャンたちとの、御言葉(みことば)と祈りと手紙を中心とする交流は、まさに使徒信条が告白する「聖徒の交わり」にほかならないと、著者の田島氏は考えておられます(171ページ)。新保さんと友人たち、そしてUさんの熱心な祈りによって、死刑囚の方たちに聖霊が豊かに注がれ、御言葉(みことば)の真理を悟らせて下さったに違いありません。

 私たちもよく祈って聖書を読み、その深い真理を聖霊の助けによって悟ることができますようにと、心よりお祈り致します。そしてますます熱くイエス・キリストを愛することができますように。アーメン(「真実に」)。