日本キリスト教団 東久留米教会

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2017-09-12 15:28:20(火)
「善悪を判断する心をください ソロモン王の祈り」 2017年9月10日(日) 聖霊降臨節第15主日説教要旨
聖書:列王記・上3章1~15節、マタイ福音書6章25~34節

 ソロモンの父ダビデは、人生を終える前に、イスラエルの次の王となる息子ソロモンを戒めました。「あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる。」モーセの十戒を守って歩みなさい、ということとも言えます。そうすれば大きな過ちを犯すことから守られるでしょう。そしてソロモンは、「主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだ」とあります。

 申命記6章4節に、大切な御言葉があります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」ソロモンはそのように生きました。私たちは、もう1つ大切な御言葉があることを知っています。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)。イエス様は、この2つこそ最も大事だと言われます。そしてソロモンは、主に一千頭の焼き尽くす献げ物をささげました。これはソロモンが、全身全霊で主に仕えようとする現れと思います。

 その夜、神様がギデオンという地で、ソロモンの夢枕に立たれ言われます。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」若くて純真なソロモンは、こう祈ります。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕(しもべ)をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」

 神様は、ソロモンのこの祈りを喜ばれました。この祈りは神様に御心にかなったのです。ヨハネの手紙(一)5章14節に、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」とあります。ソロモンのこの祈りは、御心にかなったのです。神は言われます。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」ソロモンのこの祈りは、まさに私たちの祈りの模範です。

 本日の新約聖書・マタイ福音書6章32~33節に、こうあります。「あなたがたの天の父は、これらのもの(食べ物、飲み物、着る物、つまり生活に必要なもの)がみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」だから思い悩むな、とイエス様は言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」ソロモンはそうしたのです。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」神はこの祈りに応えてソロモンに、訴えを正しく聞き分ける知恵を与えてくださり、加えて富と栄光をも与えて下さったのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とは、私たちにとっては何よりも礼拝を第一として、一週間を始めることと信じます。

 本日の新約聖書の箇所には、「思い悩むな」という小見出しが掲げられています。私たちの心は、すぐに思い悩み、思い煩いに負けそうになります。思い煩いに負けないために必要なものは、生きておられる神様への信頼です。神への祈りです。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」これはイエス様の、私たちへの励ましです。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は野に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」最後の御言葉が、とてもよいですね。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」鳥よりも花よりも価値あるのが私たち人間一人一人です。私たち一人一人を、神様が心にかけていて下さいます。その神様に信頼して、祈るのです。

 先週、群馬県みどり市の星野富弘美術館に行きました。星野さんの比較的最近の作品も展示されていました。星野さんの著書の一つに『種蒔きもせず』があります。それによると、星野さんの大好きな聖句が「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養っていてくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」と、以後の聖句だそうです。星野富弘さんほど、「野の花がどのように育つのか、注意して見」た人は、ほとんどいないと思います。神様がどの草花も実に美しく造っておられる創造のすばらしさに比べれば、ご自分はそれをほんのわずかしか絵で再現でいないという意味のことを、どこかに書いておられました。自由が利かないお体で、しかし神の栄光を現す人生を歩んでおられます。実に不思議な、神のみわざです。

 ソロモンも、すばらしい祈りをし、神の栄光を現す若き日を送りました。残念なことにその後のソロモンは、多くの外国の女性を愛し、七百人の王妃と三百人の側室をもちます。彼女たちが偶像の神を持ちこみ、偶像崇拝の罪に陥ります。ソロモンは迷いに陥り、神様の言うことをきかない晩年を生き、晩節を汚しました。実に残念なことです。ソロモンの罪のため、彼の息子の代にイスラエルの国は、南北に分裂します。神の栄光を汚す晩年になってしまいました。私どもは、ソロモンの晩年に倣うことなく、ソロモンが王になったばかりの時の、純真な信仰に倣って、生きて参りたいのです。アーメン(「真実に」)。

2017-08-30 18:56:12(水)
「愛こそ最高の道」 2017年8月27日(日) 「はじめて聞く人にわかる聖書の話」礼拝(第5回)
聖書:コリントの信徒への手紙(一)12章31節後半~13章13節

 小見出しもテーマも「愛」です。聖書で最も有名な箇所の1つです。キリスト教式で結婚式を行うと、多くの場合、この箇所が読まれます(読まれないときもあるでしょうが)。「愛の賛歌」と呼ばれています。「愛」は原語のギリシア語で、アガペーです。本当の愛、真の愛、無償の愛、神の愛、神の子イエス・キリストの愛、敵をも愛する愛、喜んで与える愛です。私たちは残念ながら罪ある者で、ひたすら自分がかわいく、自己中心です。なかなかこのような愛に生きることができません。しかし、目標ではあります。

 神様の愛は、まず神様が人間を創造なさった場面に、よく現れています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」神様はご自分にかたどって、ご自分に似せて私たち人間を創造なさいました。ここに神様の並々ならぬ愛が示されています。

 このコリントの信徒への手紙(一)の著者は、イエス・キリストの弟子・使徒パウロです。コリントはギリシアの都市で、この手紙はパウロがコリントでイエス・キリストの恵みを宣べ伝えてできた教会の人々に宛てた手紙です。教会と言っても、今のように専用の建物があったのではなく、大きめの家を持つ人の家で礼拝をしていたのでしょう。コリントのクリスチャンの多くは未熟で、内部で争ったりしていました。パウロは心を痛め、「それではいけない。イエス様が私たちを愛して下さるように、互いに愛し合う愛が必要」であることを示すためにこの手紙を書きました。

 パウロは、「最高の道」は愛だと説きます。この愛を、戦国時代に日本に来たカトリック教会の宣教師は「お大切」と訳したと聞きます。愛がどんなに大切か、パウロは説きます。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい。」すばらしい科学的知識を持つ人々が、核兵器を作ったのが現実です。愛がなければ最高の科学的知識も無意味、いえ有害にさえなります。ノーベルという人はダイナマイトを造りました。それで土木工事が順調に進むようになり、よかったと思ったのは束の間、ダイナマイトは戦争に使われるようになりました。ノーベルは深く悲しみました。そしてダイナマイトを作ったことで得た多くのお金を、人類に貢献した人に贈呈してほしいと考え、ノーベル賞ができたそうです。

 「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」パウロの言葉は厳しいですね。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも~愛がなければ、わたしに何の益もない。」私たちの愛は多くの場合、完全に純粋ではないのでしょう。自分を誇りたい思いが、どこかにあるのです。ですからイエス様は、次のように言われました。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。~施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」(マタイ福音書6:1~4)。

 「わが身を死に引き渡す。」決して誇ろうとしてでなく、人を助けて(助けようとして)命を失う方々が、時々おられます。先日も、海の監視員の女性が、人を助けて命を失ったことが新聞に出ていました。東日本大震災の時、まず中国人の女性研修生の方たちを高台に誘導し、その後、他の人(家族?)の様子を身に行った男性が津波で亡くなったと報道されました。この方々に、深い尊敬の念を覚えます。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」私はクリスチャンで、「愛こそ最も大切」という教えを受け入れて来たつもりですが、仏教では「愛」という言葉を、あまりよい意味と見ていないと聞きました。「愛着(執着、しがみつくこと)」、「愛欲」などの言葉があります。確かにこの場合の愛はどろどろしていて、よいものではありません。しかし聖書が説く愛は、このようにどろどろしてはいません。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」この愛のところに、自分の名前を入れて読んでみるとよいと言います。「○○(自分の名前)は忍耐強い。○○は情け深い。○○はねたまない」、だんだん恥かしくなります。できていないのですから。○○に神様、イエス・キリストを入れると、問題なく読めます。「神様(イエス・キリスト)は忍耐強い。神様(イエス・キリスト)は情け深い。」でも、聖霊が注がれる時、私たちも清められ、少しずつイエス様に似た一人一人とされます。聖霊に助けられて、私たちもこのような愛に生きる者に変えられたいのです。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

 2001年1月に、JR新大久保駅で、線路に転落した男性を助けようと、日本人男性・関根さんと韓国人の青年・李さんが飛びおりましたが、3人とも亡くなる痛ましい事故がありました。2名の勇敢な行いに、日本の多くの人が感激しました。今も新大久保駅の改札から入ったつきあたりの壁に、2名の勇気をたたえる記念プレートがあります。李さん、当時26才だったそうです。李さんがクリスチャンかどうかは分かりません。私は今年、この出来事のその後をたどったドキュメンタリー映画を見ました。タイトルは「かけはし」です。事故後、李さんのお父様に日本中から多くの義援金が届いたそうです。お父様は、「息子の夢は韓日のかけはしになることだった」と言われます。そのお金を、日本とアジアを結ぶ仕事をすることを願う若者の奨学金の基金となさいました。その奨学金が勉強して、社会に巣立つ人々が出ているのです。その事務局の女性が言われました。「李さんは、生きていれば40歳と少し。生きていてもできない大きな仕事をしておられます。」そしてイエス様の御言葉を引用されました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ福音書12:24)。関根さんと李さんの行動は、自分を誇ろうとしてでなく、人を助けようとした愛だと感じ、私は深く尊敬致します。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」私どもは自己中心的な者ですが、自分の罪を悔い改め、聖霊に満たされて、このように生きることを目指して、一歩一歩ご一緒に進みたいのです。アーメン(「真実に」)。

2017-08-24 18:05:56(木)
「神の子と呼ばれる私たち」 2017年8月20日(日) 聖霊降臨節第12主日礼拝説教
聖書:ホセア書2章23~25節、ローマの信徒への手紙9章19~29節

 私たち人間は皆、神様の前に罪人(つみびと)です。罪人(つみびと)の罪が赦されて天国に入れていただくためには、救い主イエス・キリストを信じることが必要です。イエス・キリストが、私たち全員の罪をすべて背負って、十字架で死んで下さったからです。このローマの信徒への手紙を書いたのは、イエス様の弟子・使徒パウロです。パウロには深い悲しみがありました。旧約聖書以来の神の民イスラエル人(ユダヤ人。パウロの同胞)の一部しか、イエス様を信じないという悲しみです。パウロの仲間のイスラエル人の救いを、心から願っていました。ところがイスラエル人の多くが、なかなかイエス様を救い主と信じないのです。

 なぜイエス様を信じる人と、信じない人がいるのか。パウロには、差し当たりの結論がありました。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなになさる」(9章18節)ということです。こう言われると、私たち人間は反論したくなります。「神様が信じる人と信じない人を決めておられるのなら、人間にはどうしようもないではないか。」パウロはこのような反論が出ることを予想して、言います。「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と。」しかしパウロは決然として、このような反論をすることは許されないと、断言します。神は決定権を持っておられるのです。神はこの世界の主だからです。パウロは言います。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。」その通りです。神には権限がおありです。

 でも、ここで終わると、人間にとって救いがありません。22節は分かりにくいですが、重要な御言葉と思います。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」怒りの器とは、神の聖なる怒りを受けて滅びる者たちで、基本的にはイスラエル人でない人(異邦人)を指すようです。神は、「寛大な心で耐え忍ばれた」とあります。神は聖なる怒りを鎮め、忍耐して下さっています。昔から、旧約聖書の神を「裁きの神」、新約聖書の神を「愛の神」と区別する人がいましたが、それは間違いです。旧約聖書の神と新約聖書の神は、全く同じ神です。旧約聖書の神を「裁きの神」とする考えに対して、クリスチャン作家の三浦綾子さんが、むしろ忍耐の神ではないか、と書いておられました。確かに旧約でも、神様が忍耐して裁かれないケースがあります。神様の忍耐によって、もしかすると怒りの器が憐れみの器とされてゆくこともあるのではないでしょうか。愛は、現実には忍耐とも言えます。

 パウロは、旧約聖書のホセア書を引用して述べます。「わたし(神)は、自分の民でない者(いわば怒りの器)をわたしの民(いわば憐れみの器)と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」パウロが建てた教会には、異邦人クリスチャンたちもいました(パウロは、同胞のイスラエル人でクリスチャンになる人が少ないことを悲しんでいますが、中にはクリスチャンになるイスラエル人もいました)。異邦人クリスチャンの存在に、パウロは神の憐れみを見出します。怒りの器が憐れみの器とされたのです。私たち日本人クリスチャンも、怒りの器が憐れみの器とされた実例だと思うのです。私たちは、神の子らと呼ばれる大きな恵みをいただいています。そこで本日の説教題を、「神の子と呼ばれる私たち」としました。その私たちの使命は伝道であり、平和を実現することではないでしょうか。イエス様は、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5章9節)と語られます。

 それにしても、ホセア書は強烈な書です。神様は預言者ホセアに、不貞を働いた妻を赦し、受け入れて愛するように求めます。預言者は時に、非常につらい務めです。ホセアのこの行動は、神様の現実を指し示す行動です。旧約聖書では神様は夫、神の民イスラエルは妻です。この妻が真の神を裏切り、ほかの神々(もちろん本当は神ではない)に走り、姦淫・不倫を行います。神は時にそのイスラエルに、忍耐に末、裁きをなさいますが、また赦し、受け入れ愛します。考えてみると、赦すということは大変なことです。自分を裏切り、傷つける者を赦すのですから、つらい痛みを伴います。赦しとは、赦しがたき者を赦すのですから、実につらく痛いことです。ホセアはその痛みに耐えました。神様も痛みに耐えて、赦されるのです。

 私たちは本来、神の怒りを受けるべき怒りの器でした。私たちの罪が赦されるためには、父なる神様の最愛の独り子イエス様が、十字架で身代りに死ぬほかありませんでした。父なる神様は、独り子イエス・キリストを十字架で死なせる非常な痛みとつらさを忍耐して下さいました。愛は忍耐と言えます。神の尊い忍耐によって、私どもは怒りの器から憐れみの器とされました。この神の深い愛に感謝して、私どもは自分の罪を悔い改める必要があります。

 最後にもう1つ。21節に、神の権限が書かれていました。それは、「憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」権限です。罪人(つみびと)を裁くことができる権限とも言えます。マタイ福音書20章に「ぶどう園の労働者のたとえ」があります。主人(神を表す)が言います。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか(これは神の権限を意味します)。それとも、わたしの気前の良さをねたむのか。」ここでは、神の権限が、裁きの権限から赦しの権限へ移行しているように思えます。聖書から神の聖なる裁きの要素が消えることはないでしょう。しかしご自分が独り子を十字架につけるつらさを忍耐してでも、何とかして全員を救いたい。これが神様の切なる願いではないでしょうか。裁きの要素が完全に消えることはないでしょうが、憐れみが裁きを上回ってゆく、そのような神様の心の内を感じることができるのではないでしょうか。この神様の憐れみに対して、感謝と悔い改めによって応答したいのです。アーメン(「真実に」)。

2017-08-03 21:10:33(木)
「神の憐れみ」 2017年7月30日(日) 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨
聖書:創世記18章9~15節、ローマの信徒への手紙9章6~18節

 9章1~5節で、イエス様の弟子・使徒パウロは深い悲しみを述べました。自分も属する旧約聖書以来の神の民イスラエル人で、真の救い主イエス・キリストを信じない人々がいる現実を、深く悲しみました。確かにイスラエルの民(ユダヤ人)は旧約聖書以来、神様に選ばれた民です。21世紀の今もそうです。しかし、です。パウロは書きます。(6節途中から8節)「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子孫ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。』すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。」大切なのはイスラエル人という血筋ではなく、神の約束・神の意志です。

 パウロはイサクの双子の子どもたちに関しても、次のように言います。「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリべカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方(神)によって進められるためでした。」神の選びが語られています。神の選びは愛の選びです。神様は強く大きい者ではなく、敢えて、弱く小さい者を愛して選ばれます。そもそもイスラエルも、「他のどの民よりも貧弱」(申命記7章7節)なので、神の民として選ばれたのです。私たちも強く大きいからではなく、弱く小さいから神様に選ばれ、この礼拝堂でご一緒に礼拝しています。

 パウロは、旧約聖書のマラキ書1章2~3節を引用して述べます。「『わたし(神)はヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」神様が片方を愛して選び、もう片方を憎んで捨てた、というのです。このように言われると、私たちは非常に困惑します。確かに、神には主権がおありです。17節「聖書にはファラオについて、『わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである』と書いてあります。」神様が、モーセの時代にファラオをかたくなにしたのは、神の栄光を現す目的のためでした。モーセに率いられてエジプトを脱出しようとするイスラエルの民を、ファラオは最強の軍隊で追いかけ、脱出を阻止しようとしました。常識的には、イスラエルの民が最強のエジプト軍に勝てるはずがありません。しかし、神の偉大な力がエジプト軍を破り、神の栄光が現されたのです。神様が主権を行使され、ファラオを憎んだと言えましょう。

 「わたし(神)はヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」ヤコブはイスラエルの民を象徴し、エサウは異邦人(イスラエルの民でない者)を象徴すると言えます。日本人も異邦人ですから、神に憎まれているのでしょうか。いえ、新約聖書の時代である今、イスラエル人も異邦人も(日本人も、どの民族も)、イエス・キリストを救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて、永遠の命に入るように招かれています。神の憐れみはイスラエル人をも異邦人をも対象としています。「わたし(神)はヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」神の救いの計画の第一段階ではそうでした。しかしこの区別は永久不変ではないのです。一番大切なのは、イスラエル人であるという血筋ではないのです。パウロが既にこの手紙の2章28~29節で書いています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、(…)内面がユダヤ人である者こそユダヤ人」だと。

 イスラエルの民は確かに神の民ですが、油断して特権意識で思い上がってはいけないのでした(それは、私たちも同じです)。洗礼者ヨハネもイスラエルの民に警告しました。「『我々の父(先祖)はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たち(子孫たち。神の民)を造り出すことがおできになる」(マタイ福音書3章9節)。

 イエス様も言われます。「二ネべの人たちは裁きの時(最後の審判の時)、今の時代(イエス様の時代)の者たちと一緒に立ち上がり、彼ら(イエス様の時代のイスラエル人)を罪に定めるであろう。二ネべの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである」(マタイ福音書12章41節)。ここで逆転が語られています。二ネべは残酷な国アッシリアの首都であり、悪の都とさえ言えました。ところが全く意外なことに、悪に満ち、最も神の救いから遠いと思われた二ネべの人々が皆、ヨナが語る神様のメッセージを聞いて素直に、徹底的に罪を悔い改めたのです。神様はこれをご覧になって、何と裁きを撤回されました。神は人を分け隔てなさいません。

 イエス様はまた言われます。「南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。」このシェバ(地名)の女王は、異邦人ですが、神がソロモン王に与えた深い知恵を聴くために、遠くからエルサレムまで来たのでした。神の知恵を求めるその情熱と謙遜を、イエス様はほめられたのです。ここでも逆転が語られています。そうです、逆転が起こり得るのです。大事なことは、私たちは神様の御言葉を謙遜に聴き、自分の罪を悔い改め、神様の御言葉に従うことです。イエス様の御言葉が思い出されます。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(マタイ福音書19章30節)。魂に刻むべき御言葉です。私たちは皆、神様からご覧になれば罪人(つみびと)です。イエス様が私たちの全ての罪を十字架で背負って下さったお陰で、救われます。自力では救われません。神様の憐れみがなければ、救われなかった私たちです。イスラエル人だから偉いのではないし、日本人だから偉いこともないのです。神は、人を分け隔てなさいません。

 多くの日本人は、まだイエス・キリストを信じていません。私たちはある意味で、神様に先に選ばれて、信仰を与えられて、神様を礼拝しています。でも私たちも思い上がってはなりません。私に洗礼を授けて下さった牧師が言われた言葉を思い出します。「私たちは先に選ばれた。」それは、後から選ばれる方々もおられるということです。先に信仰を与えられた私たちが、神の前に誇ることはできません。神は、まだイエス様を信じておられない方々に、信仰を与えることがおできになります。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」のです。私どもは自分が信仰を与えられた大きな恵みを深く深く感謝し、皆で共に天国に入れていただくことを切に願って、イエス・キリストを宣べ伝えさせていただきましょう。アーメン(「真実に」)。

2017-07-28 18:59:58(金)
「敵を愛しなさい」 2017年7月23日(日) 「はじめて聞く人にもわかる聖書の話」(第4回)
聖書:マタイによる福音書5章38~48節

 もうすぐ8月です。8月は日本にとって、平和への祈りを特に強める大切な月です。私は毎年この時期に、イエス様の「敵を愛しなさい」の御言葉を思います。これはイエス様の多くのよき言葉の中でも、最高の言葉と思います。約20年前にも礼拝説教題を「敵を愛しなさい」として、看板を外に掲げたことがあります。通りかかった男性が、「敵を愛しなさい、か。いいね」と独り言を言って通って行かれたのを、教会の中で聞きました。

 38~39節でイエス様は言われます。「あなたがたも聞いているとおり、『目にな目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」「目には目を、歯には歯を」は同害報復と呼ばれます。古代の野蛮な掟にも見えますが、そうとばかりは言えないようです。相手に同じ害を与えることまでは許されていますが、それ以上の害を与えることを禁ずる掟でもあるのです。何倍にもしてお返しすることを禁じています。
 
 しかしイエス様は、同害報復のレベルにとどまってはいけない、それを乗り越えなさいと言われます。「悪人に手向かってはならない。」暴力に対して暴力で立ち向かうなということです。そうしないと暴力の連鎖が止まらなくなります。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」これは弱者の論理ではありません。真の意味で強い人にしかできないことです。忍耐力と愛の力に富む、真の大人にしかできないことです。これは悪に負けることではありません。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。~悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマの信徒への手紙12章17~21節)ということです。神様が最後に必ず悪を裁かれます。それに委ねるのです。ある本には、次のように書いてあります。「神さまはわしらに教えてくだすった。片方のほおをたたかれたら、もう片方のほおをだせってな。いくらでもたたかせるがええ。そのうち、相手の良心がとがめてくるもんじゃ」(イワンという男性の父親の言葉。トルストイ原作 柳川茂文『火は早めに消さないと』いのちのことば社フォレストブックス、2007年より)。戦国時代にヨーロッパから日本に来た宣教師が、路上で説教していた時に、ある日本人に唾をかけられたが、それを拭いて落ち着いて説教を続けたのを見て、見ていた日本人が感銘を受け、洗礼を受けたという話を読んだことがあります。

 43節「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」ユダヤ人にとって隣人は基本的にユダヤ人で、敵はイスラエルを辛い目に遭わせる外国だったようです。戦前戦中の日本も同じだったのではないでしょうか。国内を愛国心で結束させ、「鬼畜米英、米英撃滅」を合言葉にしたのです。しかし、イエス様はそれを乗り越えることを求め、「敵を愛しなさい」と言われます。私は、神様が日本に平和憲法をプレゼントして下さり、他国に愛する国になる道を開いて下さったと信じています。

 先日、劉暁波さんという中国の民主化を目指して活動された方が、大変残念なことに亡くなりました。1989年の天安門事件の頃も活動しておられました。2010年にノーベル平和賞を受賞されましたが、出国許可が出ず、授賞式には出席できなかったと記憶しています。私たちから見ると、ご自分の国から迫害されていると見える劉さんはしかし、「私には敵はいない。憎しみもない。私を監視し、逮捕し、尋問して来た警察、起訴した検察官、判決を下した裁判官は、全く私の敵ではない」と言っておられたそうです。劉さんがクリスチャンだと聞いたことはありませんが、イエス様の「敵を愛しなさい」の精神に似た精神を持つ方だったのではないかと思うのです。

 「敵を愛しなさい」と言われたイエス様は、十字架にかけられるとき、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか、知らないのです」と祈られました。次の実話を読みました(以下は、中田整一編『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社文庫、2010年、393~398ページより)。戦前の神戸や横浜でキリストを伝えたコヴェル宣教師というアメリカ人がおられました。戦争中は夫妻でフィリピンのルソン島におられ、無実なのにスパイ容疑をかけられ日本軍に殺害されたのです。日本人として本当に辛い出来事です。お二人は最後まで、心を合わせて祈っていたそうです。アメリカのユタ州にいた20才ほどのお嬢さんは、それを聞いて、怒りと悲しみでいっぱいになりました。でも両親は最後にどう祈ったのかと考え、イエス様と同じように「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ったと、彼女は思ったのではないかと私は感じます。彼女は、憎しみを返すのでなく、両親の志を継いで日本人に奉仕しようと思い立ちます。何と彼女の住む町に、日本兵が収容されている捕虜病院があり、彼女は懸命に奉仕します。「何か不自由があったら、私に言って下さい。私は何でもかなえたいと思っています。」戦争が終わり、捕虜たちが日本に送還されるまでほぼ毎日、半年続いたそうです。彼女が奉仕した捕虜たちは、直接ご両親の命を奪った人たちではありませんが、でも彼女は憎しみを超えて、本当に敵を愛したのだと思います。何と立派な人かと感嘆します。

 私たちも、イエス様を救い主と信じて自分の罪を悔い改めるまでは、神様に逆らう神様の敵でした。イエス様は、敵である私たちの罪を全部背負って、十字架で死んで下さいました。その十字架の愛に感謝して、私たちも少しずつでも神様と人を愛して生きたいのです。アーメン(「真実に」)。