日本キリスト教団 東久留米教会

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2017-08-24 18:05:56(木)
「神の子と呼ばれる私たち」 2017年8月20日(日) 聖霊降臨節第12主日礼拝説教
聖書:ホセア書2章23~25節、ローマの信徒への手紙9章19~29節

 私たち人間は皆、神様の前に罪人(つみびと)です。罪人(つみびと)の罪が赦されて天国に入れていただくためには、救い主イエス・キリストを信じることが必要です。イエス・キリストが、私たち全員の罪をすべて背負って、十字架で死んで下さったからです。このローマの信徒への手紙を書いたのは、イエス様の弟子・使徒パウロです。パウロには深い悲しみがありました。旧約聖書以来の神の民イスラエル人(ユダヤ人。パウロの同胞)の一部しか、イエス様を信じないという悲しみです。パウロの仲間のイスラエル人の救いを、心から願っていました。ところがイスラエル人の多くが、なかなかイエス様を救い主と信じないのです。

 なぜイエス様を信じる人と、信じない人がいるのか。パウロには、差し当たりの結論がありました。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなになさる」(9章18節)ということです。こう言われると、私たち人間は反論したくなります。「神様が信じる人と信じない人を決めておられるのなら、人間にはどうしようもないではないか。」パウロはこのような反論が出ることを予想して、言います。「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と。」しかしパウロは決然として、このような反論をすることは許されないと、断言します。神は決定権を持っておられるのです。神はこの世界の主だからです。パウロは言います。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。」その通りです。神には権限がおありです。

 でも、ここで終わると、人間にとって救いがありません。22節は分かりにくいですが、重要な御言葉と思います。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」怒りの器とは、神の聖なる怒りを受けて滅びる者たちで、基本的にはイスラエル人でない人(異邦人)を指すようです。神は、「寛大な心で耐え忍ばれた」とあります。神は聖なる怒りを鎮め、忍耐して下さっています。昔から、旧約聖書の神を「裁きの神」、新約聖書の神を「愛の神」と区別する人がいましたが、それは間違いです。旧約聖書の神と新約聖書の神は、全く同じ神です。旧約聖書の神を「裁きの神」とする考えに対して、クリスチャン作家の三浦綾子さんが、むしろ忍耐の神ではないか、と書いておられました。確かに旧約でも、神様が忍耐して裁かれないケースがあります。神様の忍耐によって、もしかすると怒りの器が憐れみの器とされてゆくこともあるのではないでしょうか。愛は、現実には忍耐とも言えます。

 パウロは、旧約聖書のホセア書を引用して述べます。「わたし(神)は、自分の民でない者(いわば怒りの器)をわたしの民(いわば憐れみの器)と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」パウロが建てた教会には、異邦人クリスチャンたちもいました(パウロは、同胞のイスラエル人でクリスチャンになる人が少ないことを悲しんでいますが、中にはクリスチャンになるイスラエル人もいました)。異邦人クリスチャンの存在に、パウロは神の憐れみを見出します。怒りの器が憐れみの器とされたのです。私たち日本人クリスチャンも、怒りの器が憐れみの器とされた実例だと思うのです。私たちは、神の子らと呼ばれる大きな恵みをいただいています。そこで本日の説教題を、「神の子と呼ばれる私たち」としました。その私たちの使命は伝道であり、平和を実現することではないでしょうか。イエス様は、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5章9節)と語られます。

 それにしても、ホセア書は強烈な書です。神様は預言者ホセアに、不貞を働いた妻を赦し、受け入れて愛するように求めます。預言者は時に、非常につらい務めです。ホセアのこの行動は、神様の現実を指し示す行動です。旧約聖書では神様は夫、神の民イスラエルは妻です。この妻が真の神を裏切り、ほかの神々(もちろん本当は神ではない)に走り、姦淫・不倫を行います。神は時にそのイスラエルに、忍耐に末、裁きをなさいますが、また赦し、受け入れ愛します。考えてみると、赦すということは大変なことです。自分を裏切り、傷つける者を赦すのですから、つらい痛みを伴います。赦しとは、赦しがたき者を赦すのですから、実につらく痛いことです。ホセアはその痛みに耐えました。神様も痛みに耐えて、赦されるのです。

 私たちは本来、神の怒りを受けるべき怒りの器でした。私たちの罪が赦されるためには、父なる神様の最愛の独り子イエス様が、十字架で身代りに死ぬほかありませんでした。父なる神様は、独り子イエス・キリストを十字架で死なせる非常な痛みとつらさを忍耐して下さいました。愛は忍耐と言えます。神の尊い忍耐によって、私どもは怒りの器から憐れみの器とされました。この神の深い愛に感謝して、私どもは自分の罪を悔い改める必要があります。

 最後にもう1つ。21節に、神の権限が書かれていました。それは、「憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」権限です。罪人(つみびと)を裁くことができる権限とも言えます。マタイ福音書20章に「ぶどう園の労働者のたとえ」があります。主人(神を表す)が言います。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか(これは神の権限を意味します)。それとも、わたしの気前の良さをねたむのか。」ここでは、神の権限が、裁きの権限から赦しの権限へ移行しているように思えます。聖書から神の聖なる裁きの要素が消えることはないでしょう。しかしご自分が独り子を十字架につけるつらさを忍耐してでも、何とかして全員を救いたい。これが神様の切なる願いではないでしょうか。裁きの要素が完全に消えることはないでしょうが、憐れみが裁きを上回ってゆく、そのような神様の心の内を感じることができるのではないでしょうか。この神様の憐れみに対して、感謝と悔い改めによって応答したいのです。アーメン(「真実に」)。

2017-08-03 21:10:33(木)
「神の憐れみ」 2017年7月30日(日) 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨
聖書:創世記18章9~15節、ローマの信徒への手紙9章6~18節

 9章1~5節で、イエス様の弟子・使徒パウロは深い悲しみを述べました。自分も属する旧約聖書以来の神の民イスラエル人で、真の救い主イエス・キリストを信じない人々がいる現実を、深く悲しみました。確かにイスラエルの民(ユダヤ人)は旧約聖書以来、神様に選ばれた民です。21世紀の今もそうです。しかし、です。パウロは書きます。(6節途中から8節)「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子孫ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。』すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。」大切なのはイスラエル人という血筋ではなく、神の約束・神の意志です。

 パウロはイサクの双子の子どもたちに関しても、次のように言います。「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリべカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方(神)によって進められるためでした。」神の選びが語られています。神の選びは愛の選びです。神様は強く大きい者ではなく、敢えて、弱く小さい者を愛して選ばれます。そもそもイスラエルも、「他のどの民よりも貧弱」(申命記7章7節)なので、神の民として選ばれたのです。私たちも強く大きいからではなく、弱く小さいから神様に選ばれ、この礼拝堂でご一緒に礼拝しています。

 パウロは、旧約聖書のマラキ書1章2~3節を引用して述べます。「『わたし(神)はヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」神様が片方を愛して選び、もう片方を憎んで捨てた、というのです。このように言われると、私たちは非常に困惑します。確かに、神には主権がおありです。17節「聖書にはファラオについて、『わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである』と書いてあります。」神様が、モーセの時代にファラオをかたくなにしたのは、神の栄光を現す目的のためでした。モーセに率いられてエジプトを脱出しようとするイスラエルの民を、ファラオは最強の軍隊で追いかけ、脱出を阻止しようとしました。常識的には、イスラエルの民が最強のエジプト軍に勝てるはずがありません。しかし、神の偉大な力がエジプト軍を破り、神の栄光が現されたのです。神様が主権を行使され、ファラオを憎んだと言えましょう。

 「わたし(神)はヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」ヤコブはイスラエルの民を象徴し、エサウは異邦人(イスラエルの民でない者)を象徴すると言えます。日本人も異邦人ですから、神に憎まれているのでしょうか。いえ、新約聖書の時代である今、イスラエル人も異邦人も(日本人も、どの民族も)、イエス・キリストを救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて、永遠の命に入るように招かれています。神の憐れみはイスラエル人をも異邦人をも対象としています。「わたし(神)はヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」神の救いの計画の第一段階ではそうでした。しかしこの区別は永久不変ではないのです。一番大切なのは、イスラエル人であるという血筋ではないのです。パウロが既にこの手紙の2章28~29節で書いています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、(…)内面がユダヤ人である者こそユダヤ人」だと。

 イスラエルの民は確かに神の民ですが、油断して特権意識で思い上がってはいけないのでした(それは、私たちも同じです)。洗礼者ヨハネもイスラエルの民に警告しました。「『我々の父(先祖)はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たち(子孫たち。神の民)を造り出すことがおできになる」(マタイ福音書3章9節)。

 イエス様も言われます。「二ネべの人たちは裁きの時(最後の審判の時)、今の時代(イエス様の時代)の者たちと一緒に立ち上がり、彼ら(イエス様の時代のイスラエル人)を罪に定めるであろう。二ネべの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである」(マタイ福音書12章41節)。ここで逆転が語られています。二ネべは残酷な国アッシリアの首都であり、悪の都とさえ言えました。ところが全く意外なことに、悪に満ち、最も神の救いから遠いと思われた二ネべの人々が皆、ヨナが語る神様のメッセージを聞いて素直に、徹底的に罪を悔い改めたのです。神様はこれをご覧になって、何と裁きを撤回されました。神は人を分け隔てなさいません。

 イエス様はまた言われます。「南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。」このシェバ(地名)の女王は、異邦人ですが、神がソロモン王に与えた深い知恵を聴くために、遠くからエルサレムまで来たのでした。神の知恵を求めるその情熱と謙遜を、イエス様はほめられたのです。ここでも逆転が語られています。そうです、逆転が起こり得るのです。大事なことは、私たちは神様の御言葉を謙遜に聴き、自分の罪を悔い改め、神様の御言葉に従うことです。イエス様の御言葉が思い出されます。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(マタイ福音書19章30節)。魂に刻むべき御言葉です。私たちは皆、神様からご覧になれば罪人(つみびと)です。イエス様が私たちの全ての罪を十字架で背負って下さったお陰で、救われます。自力では救われません。神様の憐れみがなければ、救われなかった私たちです。イスラエル人だから偉いのではないし、日本人だから偉いこともないのです。神は、人を分け隔てなさいません。

 多くの日本人は、まだイエス・キリストを信じていません。私たちはある意味で、神様に先に選ばれて、信仰を与えられて、神様を礼拝しています。でも私たちも思い上がってはなりません。私に洗礼を授けて下さった牧師が言われた言葉を思い出します。「私たちは先に選ばれた。」それは、後から選ばれる方々もおられるということです。先に信仰を与えられた私たちが、神の前に誇ることはできません。神は、まだイエス様を信じておられない方々に、信仰を与えることがおできになります。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」のです。私どもは自分が信仰を与えられた大きな恵みを深く深く感謝し、皆で共に天国に入れていただくことを切に願って、イエス・キリストを宣べ伝えさせていただきましょう。アーメン(「真実に」)。

2017-07-28 18:59:58(金)
「敵を愛しなさい」 2017年7月23日(日) 「はじめて聞く人にもわかる聖書の話」(第4回)
聖書:マタイによる福音書5章38~48節

 もうすぐ8月です。8月は日本にとって、平和への祈りを特に強める大切な月です。私は毎年この時期に、イエス様の「敵を愛しなさい」の御言葉を思います。これはイエス様の多くのよき言葉の中でも、最高の言葉と思います。約20年前にも礼拝説教題を「敵を愛しなさい」として、看板を外に掲げたことがあります。通りかかった男性が、「敵を愛しなさい、か。いいね」と独り言を言って通って行かれたのを、教会の中で聞きました。

 38~39節でイエス様は言われます。「あなたがたも聞いているとおり、『目にな目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」「目には目を、歯には歯を」は同害報復と呼ばれます。古代の野蛮な掟にも見えますが、そうとばかりは言えないようです。相手に同じ害を与えることまでは許されていますが、それ以上の害を与えることを禁ずる掟でもあるのです。何倍にもしてお返しすることを禁じています。
 
 しかしイエス様は、同害報復のレベルにとどまってはいけない、それを乗り越えなさいと言われます。「悪人に手向かってはならない。」暴力に対して暴力で立ち向かうなということです。そうしないと暴力の連鎖が止まらなくなります。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」これは弱者の論理ではありません。真の意味で強い人にしかできないことです。忍耐力と愛の力に富む、真の大人にしかできないことです。これは悪に負けることではありません。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。~悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマの信徒への手紙12章17~21節)ということです。神様が最後に必ず悪を裁かれます。それに委ねるのです。ある本には、次のように書いてあります。「神さまはわしらに教えてくだすった。片方のほおをたたかれたら、もう片方のほおをだせってな。いくらでもたたかせるがええ。そのうち、相手の良心がとがめてくるもんじゃ」(イワンという男性の父親の言葉。トルストイ原作 柳川茂文『火は早めに消さないと』いのちのことば社フォレストブックス、2007年より)。戦国時代にヨーロッパから日本に来た宣教師が、路上で説教していた時に、ある日本人に唾をかけられたが、それを拭いて落ち着いて説教を続けたのを見て、見ていた日本人が感銘を受け、洗礼を受けたという話を読んだことがあります。

 43節「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」ユダヤ人にとって隣人は基本的にユダヤ人で、敵はイスラエルを辛い目に遭わせる外国だったようです。戦前戦中の日本も同じだったのではないでしょうか。国内を愛国心で結束させ、「鬼畜米英、米英撃滅」を合言葉にしたのです。しかし、イエス様はそれを乗り越えることを求め、「敵を愛しなさい」と言われます。私は、神様が日本に平和憲法をプレゼントして下さり、他国に愛する国になる道を開いて下さったと信じています。

 先日、劉暁波さんという中国の民主化を目指して活動された方が、大変残念なことに亡くなりました。1989年の天安門事件の頃も活動しておられました。2010年にノーベル平和賞を受賞されましたが、出国許可が出ず、授賞式には出席できなかったと記憶しています。私たちから見ると、ご自分の国から迫害されていると見える劉さんはしかし、「私には敵はいない。憎しみもない。私を監視し、逮捕し、尋問して来た警察、起訴した検察官、判決を下した裁判官は、全く私の敵ではない」と言っておられたそうです。劉さんがクリスチャンだと聞いたことはありませんが、イエス様の「敵を愛しなさい」の精神に似た精神を持つ方だったのではないかと思うのです。

 「敵を愛しなさい」と言われたイエス様は、十字架にかけられるとき、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか、知らないのです」と祈られました。次の実話を読みました(以下は、中田整一編『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社文庫、2010年、393~398ページより)。戦前の神戸や横浜でキリストを伝えたコヴェル宣教師というアメリカ人がおられました。戦争中は夫妻でフィリピンのルソン島におられ、無実なのにスパイ容疑をかけられ日本軍に殺害されたのです。日本人として本当に辛い出来事です。お二人は最後まで、心を合わせて祈っていたそうです。アメリカのユタ州にいた20才ほどのお嬢さんは、それを聞いて、怒りと悲しみでいっぱいになりました。でも両親は最後にどう祈ったのかと考え、イエス様と同じように「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ったと、彼女は思ったのではないかと私は感じます。彼女は、憎しみを返すのでなく、両親の志を継いで日本人に奉仕しようと思い立ちます。何と彼女の住む町に、日本兵が収容されている捕虜病院があり、彼女は懸命に奉仕します。「何か不自由があったら、私に言って下さい。私は何でもかなえたいと思っています。」戦争が終わり、捕虜たちが日本に送還されるまでほぼ毎日、半年続いたそうです。彼女が奉仕した捕虜たちは、直接ご両親の命を奪った人たちではありませんが、でも彼女は憎しみを超えて、本当に敵を愛したのだと思います。何と立派な人かと感嘆します。

 私たちも、イエス様を救い主と信じて自分の罪を悔い改めるまでは、神様に逆らう神様の敵でした。イエス様は、敵である私たちの罪を全部背負って、十字架で死んで下さいました。その十字架の愛に感謝して、私たちも少しずつでも神様と人を愛して生きたいのです。アーメン(「真実に」)。

2017-07-21 17:58:44(金)
「神は生きておられる ダビデ王の信仰」 2017年7月16日(日) 聖霊降臨節第7主日礼拝説教
聖書:列王記上1章22~40節、フィリピの信徒への手紙1章20節

 ダビデ王は晩年を迎えています。ほぼ70歳です。最後にもう一つ試練が起こりました。息子アド二ヤの反逆です。アド二ヤはエルサレムの前の首都ヘブロンで生まれた6人の息子の四番目です。(長男はアムノン、次男はキルアブ、三男はアブサロム、四男がアド二ヤ、五男シェファトヤ、六男イトレアムです)。アムノンは死に、アブサロムは父ダビデに反逆の末、戦死しました。キルアブのことは分かりませんが、早く亡くなったかもしれません。アド二ヤは、今は自分が一番年上と考え、父ダビデから王座を奪おうとしたのです。実際にダビデの次の王になったソロモンはアド二ヤとは母親が違い、ソロモンの方が弟です。

 アド二ヤは思い上がり、「わたしが王になる」と言い、仲間を集めました。「彼は父から、『なぜこのようなことをしたのか』ととがめられたことが、一度もなかった」と書かれています。甘やかされて育ったので、父に反逆する息子になってしまったのでしょう。

 ダビデは妻バト・シェバに以前、「あなたの子ソロモンがわたしの跡を継いで王となり、わたしの王座につく」と誓いました。しかしソロモンが次の王になると公式に語ったことはありませんでした。今こそ、それが必要です。預言者ナタンも来て、「わが主君、王は、だれが御自分の跡を継いで王座につくのか、僕たちにお知らせになっていません」と述べ、ダビデに決断を促します。ナタンはかつて、ダビデがバト・シェバと姦淫を行ったときに、ダビデを厳しく叱責した預言者です。あの時ダビデは、ナタンの叱責を受け入れ、罪を悔い改めました。自分の耳に痛いことをストレートに語った預言者を退けず、身近に置き続けたダビデは立派です。

 ダビデはバト・シェバを呼び、彼女が王の前に立つと誓います。「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。あなたの子ソロモンがわたしの跡を継いで王となり、わたしに代わって王座につく、とイスラエルの神、主にかけてあなたに立てた誓いをわたしは今日実行する。」「主は生きておられる」の言葉は、誓いをするときの慣用句とも言えますが、ダビデは本気でこう語ったに違いありません。「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。」

 ダビデは神様に多くの助けを受けて来ました。少年時代に巨人ゴリアトと戦って、石投げ紐と石一つで勝ちましたが、もちろん神様の助けによって勝ったのです。ペリシテ人との戦いに勝利すると、サウル王のねたみを受け、命を狙われ、放浪生活の時期が続きます。王になってからも、息子アブサロムの反逆によりエルサレムから都落ちする苦しみを経験しました。そしてアブサロムと戦争をし、勝ったものの息子アブサロムが戦死し、父親として非常に辛い思いをしました。ダビデは多くの苦しみを経験しましたが、いつも神様が救って下さる人生を生きました。ですから万感の思いを込めて告白することができたのです。「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。」私たちも同じです。ダビデほどかどうかは分かりませんが、どなたも苦しみに耐えながら生きて来られたのではないでしょうか。しかし、今この礼拝の場に集められています。「わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる」と告白することができると思うのです。ダビデは祭司ツァドクがダビデの命令に従い、天幕から油(聖なる油)の入った角を持って出て、ソロモンに油を注ぎました。こうしてソロモンが王として任職されたのです。ダビデは寝床の上でひれ伏し、祝いを述べる家臣たちに、「イスラエルの神、主はたたえられますように。主は今日わたしの王座につく者を与えてくださり、わたしはそれをこの目で見ている」と言いました。

 「主はたたえられますように!」「主の御心が成りますように!」 これがダビデの願いです。年老いて成熟し、ダビデの願いはこの一点に絞られるようになったと思うのです。本日の新約聖書は、フィリピの信徒への手紙1章20節です。イエス様の弟子・使徒パウロが述べます。「…これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」パウロの人生の目標も、「キリストのみがあがめられること、神のみがあがめられること」でした。私たちクリスチャンの生きる目的も、「キリストのみがたたえられること」、「神のみがたたえられること」です。

 ダビデは、人生の最後の奉仕として、新王ソロモンを戒めます。列王記上2章2節以下です。「あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、よい成果を上げることができる。」そして「まことをもって、心を尽くし、魂を尽くして」神に従う道を歩むように求めました。ダビデの遺言です。重要なメッセージです。王が神様に忠実に従うならば、民は幸いになります。

 先日、前A教会牧師のN先生が87歳で天に召されました。以前、東久留米教会におられたBさん(今は天国におられます)のC教会の青年会時代のご友人です。N先生は『信徒の友』誌の最初の方のページの「みことばにきく」の執筆に使命感をもっておられたと聞きました。最新号である8月号に、N先生の最後となった「みことばにきく」の文章が掲載されています。私たちへの遺言です。その中でN先生は、ご自分が体験なさった戦争が悪魔的破壊力をもっていたこと、罪深い自己中心的な人間が力に頼り、戦力を増強することで戦争が起こり、多くの犠牲者を生むことを述べ、私たちが平和の実現のために祈り続けるよう訴えておられます(詳しくは、日本キリスト教団出版局『信徒の友』2017年8月号、13ページをお読み下さい)。人が最後に語るメッセージが、非常に重要であることは言うまでもありません。ダビデの戒めに耳を傾け、信仰の先輩方のメッセージを心に刻んで参りたいのです。アーメン(「真実に」)。

2017-07-13 10:35:11(木)
「目覚ましのにわとり」 2017年7月9日(日) 聖霊降臨節第6主日礼拝説教
聖書:詩編130編1~8節、ヨハネ福音書13章36~38節

 最後の晩餐の夜の出来事です。シモン・ペトロがイエス様に尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエス様は答えられます。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。ペトロは食い下がります。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」ペトロは本気でこう言いました。しかし結果はみじめでした。イエス様は、あらかじめ何もかも見通しておられて、こう言われます。「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」その通りになってしまったのです。イエス様は、ペトロのこのような弱さをご存じの上で、ペトロを弟子に任命されたのです。ペトロは大きな挫折を致しますが、イエス様がペトロを立ち直りへと、導いて下さいます。

 東久留米教会の今の会堂を建築する前に、いくつかの教会に見学に行きました。ある教会では、外に十字架と共に鶏のマークがついていました。牧師の方が鶏のマークをぜひつけたいと願われ、そのようになさったそうです。西武池袋線の沿線のある教会を訪問したときも、そこに鶏のマークがついていました。鶏のメッセージは、「目を覚ましていなさい」です。「信仰において目を覚ましていなさい」です。鶏のマークを見るたびに、私たちは自分に問いかけます。「わたしはイエス様を裏切っていないだろうか?」と問いかけます。

 本日の礼拝では、転入会式を執り行うことができ、大変感謝しています。私たちは皆、この教会で洗礼を受けたか、他の教会から転入会して、東久留米教会の教会員となりました。洗礼式でも転入会式でも、誓約がありました。神様と会衆の前での誓約です。形だけのことではありません。数年たてば忘れてよいというものではありません。ずっと忘れないで、覚えていることが大切です。誓約したことを忘れて破っていないか、私たちは定期的に自分をチェックすることが必要です。

 ペトロは大きな挫折・失敗をします。鶏が鳴く前に、三度もイエス様を否定していまったのです。マルコ福音書では、鶏が二度鳴く前に、三度イエス様を否定したと書いてあります。一度否定したところで、鶏が鳴きます。ペトロはここで自分の裏切りに気づけばよかったのですが、気づきません。さらに二度否定すると鶏が二度目に鳴きます。ペトロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエス様が言われた言葉を思い出し、泣きだすのです。それは自分の情けなさを嘆く涙、自分の罪深さを深く悔いる涙です。

 本日の旧約聖書は、詩編130編です。悔い改めの詩編の1つです。
「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。/主よ、この声を聞き取って下さい。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」これこそ、イエス様を裏切る深い罪を犯したペトロの心に、非常に近い祈りの言葉ではないでしょうか。
「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/ 主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり/ 人はあなたを畏れ敬うのです。」

 今年は、マルティン・ルターが宗教改革を開始した1517年からちょうど500年の記念の年ですので、様々な記念行事が計画されています。ルターの第一の主張は、次の点と思います。「イエス・キリストが私たちに『悔い改めよ』と言われたとき、イエス様は私たちの全生涯が悔い改めであることを求められたのである。」宗教改革は、「罪を悔い改める」という信仰の原点に立ち帰る運動と思います。これは世の終わりまで続きます。私たちは毎日自分の罪を悔い改め、教会も伝道を行いつつ、世の終わりまで自らの罪を悔い改め続けます。ペトロが悔い改めたように、そして詩編130編の作者が悔い改めたように、私たちも自分の罪を悔い改め続けます。「深い底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」 真実な悔い改めをすることは、簡単とは言えません。私たちは、「この程度の罪なら、犯しても悔い改めればゆるしてもらえるだろう」と安易な気持ちになることもあるかもしれません。それでは本当の悔い改めではありません。自分の罪深さを思わざるを得ません。

 復活されたイエス様は、ペトロの裏切りの罪を赦し、「わたしの羊を飼いなさい」と、教会の羊飼いとして生きる使命を再度与えて下さいます。ペトロを信頼して下さるのです。信頼されることは、嬉しいことです。イエス様は言われます。「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」「両手を伸ばす」とは、十字架について殉教することを指すようです。ペトロは約30年後にローマで、逆さ十字架について殉教したと言われます。イエス様に従って使命に忠実に生きて、神の栄光を現したのです。

 ペトロの殉教の様子は聖書に書かれていませんが、伝説に基づいて書かれたのかと思われる『クォ ヴァディス(いずこに行き給う)』という小説が有名です。映画にもなりました。大体次の内容です。実はペトロは、迫害下のローマから脱出しかけます。イエス様をもう一度裏切る罪を犯しかけるのです。ペトロは向こうから来るイエス様に出会い、「クォ ヴァディス、ドミネ(主よ、いずこに行き給う)」と問います。するとイエス様は、「なんぢ我が民を棄つる時我ローマに往きて再び十字架に懸けられん」(『クォ ヴァディス ネロの時代の物語 下 シェンキェヴィチ作(河野与一訳)、岩波文庫、1976年、296ページ』)。ペトロは驚いて自分が30年前と同じ罪を犯しつつあることに気づき、ローマに引き返し、逆さ十字架で殉教するのです。

 ペトロは本日のヨハネ福音書13章36節で既に、「主よ、どこへいかれるのですか」と問うています。イエス様は「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と答えられました。ペトロのこの最初の問いが、ペトロが30年後にローマ郊外でイエス様に問う「主よ、いずこに行き給うや」の伏線となったと言えます。そしてペトロは、イエス様が「(あなたは)後からついて来ることになる」と預言された通り、ローマで殉教したのです。

 そのペトロが晩年に書いたと思われる新約聖書のペトロの手紙(一)5章8~9節に、こう書かれています。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」ペトロはかつて、悪魔に大敗北を喫しました。その時に悔い改めに立ち、油断なく目を覚まして悪魔を警戒し、悪魔に抵抗せよと、強く勧告します。

 私たちも目を覚ましていましょう。私たちの国の政府が、国をどこに進ませようとしているか、しっかり目を覚まして見張っていなければなりません。かつてのように天皇を神とする国になることが、決してあってはなりません。そこまでにならない場合でも、しっかりと信仰の目を覚まして生涯、礼拝・聖書・祈りにとどまり続ける者でありましょう。アーメン(「真実に」)。