日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2017-07-13 10:35:11(木)
「目覚ましのにわとり」 2017年7月9日(日) 聖霊降臨節第6主日礼拝説教
聖書:詩編130編1~8節、ヨハネ福音書13章36~38節

 最後の晩餐の夜の出来事です。シモン・ペトロがイエス様に尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエス様は答えられます。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。ペトロは食い下がります。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」ペトロは本気でこう言いました。しかし結果はみじめでした。イエス様は、あらかじめ何もかも見通しておられて、こう言われます。「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」その通りになってしまったのです。イエス様は、ペトロのこのような弱さをご存じの上で、ペトロを弟子に任命されたのです。ペトロは大きな挫折を致しますが、イエス様がペトロを立ち直りへと、導いて下さいます。

 東久留米教会の今の会堂を建築する前に、いくつかの教会に見学に行きました。ある教会では、外に十字架と共に鶏のマークがついていました。牧師の方が鶏のマークをぜひつけたいと願われ、そのようになさったそうです。西武池袋線の沿線のある教会を訪問したときも、そこに鶏のマークがついていました。鶏のメッセージは、「目を覚ましていなさい」です。「信仰において目を覚ましていなさい」です。鶏のマークを見るたびに、私たちは自分に問いかけます。「わたしはイエス様を裏切っていないだろうか?」と問いかけます。

 本日の礼拝では、転入会式を執り行うことができ、大変感謝しています。私たちは皆、この教会で洗礼を受けたか、他の教会から転入会して、東久留米教会の教会員となりました。洗礼式でも転入会式でも、誓約がありました。神様と会衆の前での誓約です。形だけのことではありません。数年たてば忘れてよいというものではありません。ずっと忘れないで、覚えていることが大切です。誓約したことを忘れて破っていないか、私たちは定期的に自分をチェックすることが必要です。

 ペトロは大きな挫折・失敗をします。鶏が鳴く前に、三度もイエス様を否定していまったのです。マルコ福音書では、鶏が二度鳴く前に、三度イエス様を否定したと書いてあります。一度否定したところで、鶏が鳴きます。ペトロはここで自分の裏切りに気づけばよかったのですが、気づきません。さらに二度否定すると鶏が二度目に鳴きます。ペトロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエス様が言われた言葉を思い出し、泣きだすのです。それは自分の情けなさを嘆く涙、自分の罪深さを深く悔いる涙です。

 本日の旧約聖書は、詩編130編です。悔い改めの詩編の1つです。
「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。/主よ、この声を聞き取って下さい。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」これこそ、イエス様を裏切る深い罪を犯したペトロの心に、非常に近い祈りの言葉ではないでしょうか。
「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/ 主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり/ 人はあなたを畏れ敬うのです。」

 今年は、マルティン・ルターが宗教改革を開始した1517年からちょうど500年の記念の年ですので、様々な記念行事が計画されています。ルターの第一の主張は、次の点と思います。「イエス・キリストが私たちに『悔い改めよ』と言われたとき、イエス様は私たちの全生涯が悔い改めであることを求められたのである。」宗教改革は、「罪を悔い改める」という信仰の原点に立ち帰る運動と思います。これは世の終わりまで続きます。私たちは毎日自分の罪を悔い改め、教会も伝道を行いつつ、世の終わりまで自らの罪を悔い改め続けます。ペトロが悔い改めたように、そして詩編130編の作者が悔い改めたように、私たちも自分の罪を悔い改め続けます。「深い底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」 真実な悔い改めをすることは、簡単とは言えません。私たちは、「この程度の罪なら、犯しても悔い改めればゆるしてもらえるだろう」と安易な気持ちになることもあるかもしれません。それでは本当の悔い改めではありません。自分の罪深さを思わざるを得ません。

 復活されたイエス様は、ペトロの裏切りの罪を赦し、「わたしの羊を飼いなさい」と、教会の羊飼いとして生きる使命を再度与えて下さいます。ペトロを信頼して下さるのです。信頼されることは、嬉しいことです。イエス様は言われます。「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」「両手を伸ばす」とは、十字架について殉教することを指すようです。ペトロは約30年後にローマで、逆さ十字架について殉教したと言われます。イエス様に従って使命に忠実に生きて、神の栄光を現したのです。

 ペトロの殉教の様子は聖書に書かれていませんが、伝説に基づいて書かれたのかと思われる『クォ ヴァディス(いずこに行き給う)』という小説が有名です。映画にもなりました。大体次の内容です。実はペトロは、迫害下のローマから脱出しかけます。イエス様をもう一度裏切る罪を犯しかけるのです。ペトロは向こうから来るイエス様に出会い、「クォ ヴァディス、ドミネ(主よ、いずこに行き給う)」と問います。するとイエス様は、「なんぢ我が民を棄つる時我ローマに往きて再び十字架に懸けられん」(『クォ ヴァディス ネロの時代の物語 下 シェンキェヴィチ作(河野与一訳)、岩波文庫、1976年、296ページ』)。ペトロは驚いて自分が30年前と同じ罪を犯しつつあることに気づき、ローマに引き返し、逆さ十字架で殉教するのです。

 ペトロは本日のヨハネ福音書13章36節で既に、「主よ、どこへいかれるのですか」と問うています。イエス様は「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と答えられました。ペトロのこの最初の問いが、ペトロが30年後にローマ郊外でイエス様に問う「主よ、いずこに行き給うや」の伏線となったと言えます。そしてペトロは、イエス様が「(あなたは)後からついて来ることになる」と預言された通り、ローマで殉教したのです。

 そのペトロが晩年に書いたと思われる新約聖書のペトロの手紙(一)5章8~9節に、こう書かれています。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」ペトロはかつて、悪魔に大敗北を喫しました。その時に悔い改めに立ち、油断なく目を覚まして悪魔を警戒し、悪魔に抵抗せよと、強く勧告します。

 私たちも目を覚ましていましょう。私たちの国の政府が、国をどこに進ませようとしているか、しっかり目を覚まして見張っていなければなりません。かつてのように天皇を神とする国になることが、決してあってはなりません。そこまでにならない場合でも、しっかりと信仰の目を覚まして生涯、礼拝・聖書・祈りにとどまり続ける者でありましょう。アーメン(「真実に」)。

2017-06-28 20:06:21(水)
「あなたも永遠の命に生きる」 2017年6月25日(日) 第3回「はじめて聞く人にもわかる聖書の話」礼拝
聖書:ヨハネによる福音書11章17~44節

 イエス様がラザロを復活させる、教会では有名な場面です。ラザロという名前は、「神は助ける」の意味です。私たちの地上の人生は、真に残念ながら死で終わります。中世の修道院では、「メメント・モリ(汝、死すべき者であることを覚えよ)」と挨拶したそうです。しかし、死を完全に乗り越えた方がお一人だけおられます。イエス・キリストです。イエス様は、十字架で確かに死なれました。仮死状態から蘇生したのではありません。イエス様は完全に死なれ、死者の国にさえ降られ、三日目に墓を打ち破って復活されました。それは二度と死なない命です。イエス様は復活の体をもっておられます。復活後、40日間地上で歩まれ、天(神の国)に上げられました。そこで今も生きておられます。このイエス様を自分の救い主と信じる人も、イエス様と同じ復活の命・永遠の命を受けます。イエス・キリストは私たちに真の希望を与えて下さいます。それは死を乗り越える永遠の命という最高の希望です。

 このラザロが、ここまでどんな人生を歩んだのか、書かれていないので分かりません。分かっているのは、イエス様がラザロを愛しておられたこと、ラザロが病気になり、死んだことです。私たちも同じです。イエス様が私たちを愛しておられます。そしていずれ何らかの病気になり、死ぬことも同じです。しかし私たちにも希望があります。イエス様によって復活させていただく希望です。

 この箇所でのラザロは全く無力です。ラザロは一言も語っていませんし、何の活動もしていません。完全に受け身で、イエス様の愛を受けているだけです。しかしそれによって、非常に雄弁にイエス様の愛を証ししています。イエス様がラザロを復活させることによって、神の栄光が現されています。神の偉大な力が発揮され、神のすばらしさが現されています。ラザロは大いに神様のお役に立っているのです。

 昨年、相模原市の施設で、重度の障がいを負う方々が多く殺害される、あってはならない事件が起きてしまいました。容疑者は、障がい者は生きる価値がないという完全に間違った考えに支配されていたようです。障がいを負う方々は、神様から尊い命を与えられています。一人一人がイエス様に愛されているラザロです。命を与えて下さる神様の愛を証しする、貴重なラザロたちです。神様が与えて下さった一人の命は、地球よりも重いのです。宇宙よりも重いのです。

 イエス様は言われます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」私たちの人生の目標は、神の栄光を現させていただくことです。自己実現ではなく、神の栄光を現させていたくだことが、私たちの生きる目的です。教会は礼拝を何よりも大切にします。礼拝は、神様の栄光を讃美する場です。神の栄光が現される時です。教会ではいろいろな奉仕も必要ですが、一番大切なことは礼拝です。体がだんだん力を失っても、礼拝で神様に祈り、神様を讃美することはできることが多いと思います。それが神の栄光になります。私たちは礼拝することで、神の栄光をたたえるという、私たちが造られた目的を果たしているのです。礼拝こそ、神様の栄光です(もちろん、日常生活でも神様に従うように心がけます)。クリスチャン作家の三浦綾子さんは、礼拝を大切になさった方でした。人生の前半に、長い病床生活をなさいましたが、「癒やして下さい」という祈りよりも、(神様の御業のために)「用いて下さい」という祈りをよくなさったそうです。さすが、と感じます。

 イエス様は、ラザロの姉妹マルタに言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。」当時のユダヤ人の多くは死者の復活を信じていましたが、それは遠い将来、世の終わりに起こることと考えていたでしょう。ところがイエス様は、生きておられるイエス様ご自身が、「復活であり、命である」と宣言されます。イエス様は時空を超える方です。マルタにこう言われた同じイエス様が、今、聖霊として、私たちと共におられるのです。

 マルタの姉妹マリアが、イエス様のもとに来ます。そしてイエス様の足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言い、泣きます。イエス様は心に憤りを覚え、興奮して「どこに葬ったのか」と言われ、涙を流されます。イエス様は、私たち一人一人の死に際して、涙を流して下さいます。イエス様の涙は、イエス様の愛を証明しています。イエス様の憤りは、人間を屈服させる死に対する憤り、死を司る悪魔に対する憤りです。

 イエス様は涙を流されるだけでなく、ラザロを生き返らせて下さいます。イエス様の愛のなせるわざです。イエス様は「その石(墓の前の石)を取りのけなさい」と命じられると、マルタが「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」とためらいます。イエス様は、それを叱りつけるように、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われます。神様にできないことはないのです。イエス様は父なる神様に、祈られます。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」群衆だけでなく、私たちがこの箇所を読んで、イエス様を神の子と信じるために、イエス様はラザロを生き返らせなさいます。

 イエス様は、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれます。すると、驚くべきことに死んでいたラザロが、両手両足を布で巻かれたまま出て来たのです。ヘブライ人への手紙2章14~15節に、こうあります。イエス様は「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさる」と。イエス様は、ご自分の十字架の死と復活によって、ラザロだけでなく私たちをも、死の恐怖の奴隷状態から解放して下さったのです! 本日の題は、「あなたも永遠の命に生きる」です。自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主と信じ告白する人は皆、永遠の命を受けます。あなたもぜひ、イエス様による永遠の命をお受け下さい。そうなることを、神様が切望しておられます。アーメン(「真実に」)。

2017-06-21 18:33:14(水)
「神殿建築への第一歩」 2017年6月18日(日) 聖霊降臨節第3主日礼拝説教
聖書:サムエル記・下24章1~25節、コリント(一)6章19~20節

 本日は、久しぶりに旧約聖書からダビデ王の生涯から学ぶ礼拝です。ダビデの人生も終わりに向かいます。サムエル記・下24章は、分かりにくい箇所です。(1節)「主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。主は、『イスラエルとユダの人口を数えよ』とダビデを誘(さそ)われた。」 

 神様がダビデを誘惑したのではありません。新約聖書のヤコブの手紙1章13節に、次のように明記されているからです。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」神様はダビデを試されたのでしょう。申命記8章2節にこうあります。「主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。」神様は、ダビデが神様に従うことを第一とする純粋な信仰に生きているかどうかを、試そうとされたと思うのです。この試し(試験)にダビデが合格するには、ダビデが民の人口を数えることを断わればよかったのです。しかしダビデは断わらず、試験に落第してしまいます。

 ダビデは、ヨアブに数えさせます。剣を取りうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万であった。」人口を数えることは、神様から見て悪でした。歴代誌・上27章23~24節にこうあります。「ダビデは二十歳以下の者を人口に加えなかったが、それは主がイスラエルを空の星のように数多くすると約束されたからである。ツェルヤの子ヨアブはその数を数え始めたが、数えきることはできず、数え始めたために御怒りがイスラエルの臨み~。」イスラエルの人口、兵士の数は神様のみがよく知っておられます。神様に信頼することが必要です。兵士の数を数えることは、神様に依り頼まず、目に見える兵の数に依り頼む不信仰の罪、偶像崇拝の罪ということでしょう。

 今年は「宗教改革500周年」ですが、マルティン・ルターは『大教理問答』で2つの偶像崇拝について語っているそうです(以下、日本キリスト教団全国教会婦人会連合『教会婦人』2016年10月号の神代真砂実先生の巻頭言「信仰義認と偶像礼拝より」。「一つは、私たちが富や権力や地位や能力といったものを頼りにすることです。」もう一つは「彼によれば、『私たちがこれまで営んできたものの中でいちばん悪い偶像礼拝』であって、つまり『自分自身の業の中に助けや慰めや救いを求め』ること、自分の業に頼ることです。」厳しいことです。軍事力に頼ることも偶像崇拝でしょう。人間の王にとって兵の数を数えることは防衛政策の策定のために必要と考えるのが人間の常識と思いますが、神様はダビデが兵の人数を数えたことを罪と見なされます。

 詩編33編16~17節に、こうあります。  
「王の勝利は兵の数によらず/ 勇士を救うのも力の強さではない。
 馬は勝利をもたらずものとはならず/ 兵の数によって救われるのでもない。」
そして詩編127編1節も参考になります。
「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。
 主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。」
 
 人口調査の結果を知ってから、ダビデは数えたことが重い罪だったと気づきます。ダビデは神様に申し上げます。「わたしが重い罪を犯しました。主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。」神様は預言者ガドを通して、ダビデに三つの選択肢の中から一つの罰を選べと言われます。七年間の飢饉が国を襲うこと、ダビデが三ヶ月間敵に追われて逃げること、三日間の疫病が国に起こること、の三つです。ダビデがどれを選んだとは明記されていませんが、神様は二つ目を実行されたので、ダビデはそれを選んだのでしょう。ダビデの罪がこの災いの(少なくとも主な)原因ですから、三つ目を選ぶべきと思いますが、なぜ二つ目を選んだかは、納得いきません。何と民七万人が死ぬ大災害になりました。

 ガドが来てダビデに告げます。「エブス人アラウナの麦打ち場に上り、そこに主のための祭壇を築きなさい。」ダビデはアラウナの麦打ち場に行き、「お前の麦打ち場を譲ってもらいたい。主のために祭壇を築き、民から疫病を除きたい。」アラウナは、焼き尽くす献げ物にする牛も、薪にする打穀機もなにもかも王に提供すると申し出ますが、ダビデは「いや、わたしは代価を払って、あなたから買い取らなければならない。無償で得た焼き尽くす献げ物をわたしの神、主にささげることはできない」と言い、麦打ち場と牛を銀50シェケルで買い取り、そこに主のための祭壇を築きます。ダビデはそこで、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を献げ、神様が受け入れて下さいました。神様の聖なる怒りがおさまったのです。そして神様が祈りに応えられ、イスラエルに下った疫病がやみました。

 父なる神様の、私たち人間の罪への聖なる怒りが本当におさまるためには、牛の焼き尽くす献げ物などでは不十分です。私たち人間のすべての罪が赦されるためには、神の子イエス・キリストが、いけにえとして献げられる必要がありました。イエス様はゴルゴタの丘で十字架にかかって、御自分をいけにえとして献げて下さったのです。父なる神様ご自身が、最愛の独り子イエス様を十字架にかけるという真に尊い代価・犠牲を支払って下さいました。このことを、本日の新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)6章20節が、こう記します。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」

 本日のサムエル記・下の出来事は、歴代誌・上21章にも記されています。そこでダビデは最後に述べています。「神なる主の祭壇はここにこそあるべきだ。イスラエルのために焼き尽くす献げ物をささげる祭壇は、ここにこそあるべきだ。」そこにダビデの子ソロモンが、神殿を建築することになります。そこはモリヤ山とも呼ばれていました。創世記22章で、アブラハムが独り子イサクを神様に献げ、すんでのところでイサクの命が助かった山です。そこに神殿が築かれます。そこで本日の説教題を、「神殿建築への第一歩」と致しました。この場所で人々の罪の贖いのために、いけにえの動物が献げられるのです。

 しかし、私たち罪人(つみびと)のための真のいけにえは、ゴルゴタの丘で十字架にかかられたイエス様です。その意味で、ゴルゴタの丘こそ、真の神殿になったとも言えます。イエス様が十字架で死なれたことで、イスラエルの神殿は役割を終えました。使徒パウロは書きます。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」イエス様の十字架の死のお陰で、私たちの罪は完全に赦されました。神様に精一杯お仕えすることで、そのことへの感謝をあらわして参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2017-06-15 16:11:06(木)
「弟子たちの足を洗うイエス様」 2017年6月11日(日) 聖霊降臨節第2主日礼拝説教
聖書:詩編41編6~10節、ヨハネ福音書13章1~20節

 これは有名な場面です。東久留米教会では、イースターの3日前の洗足木曜日の祈祷会で必ず読みます。ですがこの場面を歌う『讃美歌21』は少なく、私が確認した限りでは487番と543番の2曲です。カトリック教会では洗足木曜日に、司祭が信徒の方々の足を洗うそうです。南米出身者として初めてカトリック教会の教皇になったフランシスコ教皇は、就任したころ少年院で洗足式を行い、少女2人を含む12人の受刑者の足を洗われたそうです。教皇が洗足式で女性の足を洗ったのは初めてだそうです。私は先月、札幌北光教会に行く機会を与えられました。テレビ塔の直下の大きな教会です。一階の受付付近に、イエス様が弟子たちの足を洗う大きめの絵が掲げられていました。東久留米市学園町に住んでおられた田中忠雄画伯の作品です。それなので、とても親しみを覚えました。

 1節「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」 口語訳聖書では「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」、文語訳聖書では「世にあるこの者を愛して、きわみまでこれを愛したまへり」です。質においても時間の長さにおいても、とことん愛されたということです。

 3節に「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」とあります。イエス様は、父なる神様から一切の権威を委ねられた代理者、神に等しい方、ということです。直訳すると「神から来て、神に帰ろうとしている」となるようです。神の子イエス様は、父なる神様と一体です。 4節「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」手ぬぐいやたらいは、私たち日本人に身近な言葉で、親しみやすい場面と思います。当時、足を洗うことは奴隷の仕事だったそうです。異邦人の奴隷の仕事だったと言う人もいます。

 これは「最後の晩餐」の場面です。ルカ福音書22章によると、弟子たちはこの時、「自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか」、という議論をしていました。イエス様はたしなめて言われました。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、若者のようになり、上に立つ人は、仕えるようになりなさい。」イエス様は、マルコ福音書10章43節以下でもこう言われます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」イエス様はそれを身をもって示すために、弟子たちの足(もちろん両足)を洗われたと言えます。

 ペトロは、イエス様が自分の汚れた両足を洗って下さるのに驚いて、遠慮しようとしました。足を洗うことは、イエス様が次の日に十字架にかかって、ペトロの罪も私たちの罪もすべて、身代わりに背負って死んで下さることを示す象徴的な行為です。ペトロは洗足の数時間後に、鶏が鳴く前に、イエス様を三度知らないと言って、消極的にですがイエス様を裏切る罪を犯します。そのような自分の罪深い正体を、ペトロはまだ知りません。イエス様は、ペトロが知らないペトロの正体を、あらかじめ知っていて下さり、あらかじめペトロの足を洗って、ペトロの罪を清めて下さるのです。 

 ですからイエス様はペトロに言われます。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」文語訳では、「我もし汝を洗はずば、汝われとかかはりなし。」イエス様による洗足は、洗礼そのものではありません。しかし、洗礼と関係があると言う人もいます。洗足の本質は罪を洗い清めることですから、洗礼と関係することはあり得ることです。イエス様はペトロに、イエス様による洗足を断るなとおっしゃいます。素直に両足を洗っていただくことが、イエス様に喜ばれる道です。私たち皆に、洗礼という神様からの恵みが差し出されています。全ての方が、洗礼の恵みを素直にお受け下さることが、イエス様の喜んで下さることと信じます。

 イエス様は言われます。「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イスカリオテのユダのことです。イエス様はユダの両足をも洗われました。「ユダの足を洗うイエス様」という説教題を見たことがあります。イエス様はどのような思いでユダの足を洗われ、ユダはどのような思いでそれをお受けしたのでしょうか。イエス様はユダを名指しなさいません。イエス様はユダを深く愛しておられますから、ユダが悔い改めて、イエス様を売る罪を犯すことを思いとどまる最後のチャンスを与えておられるのでしょう。

 イエス様は言われます。「師であり、主であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」「しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。」これは、本日の旧約聖書・詩編41編10節の引用です。口語訳では、「しかし、わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってその踵を上げた」です。ユダが物理的にイエス様を蹴飛ばすことはありませんでしたが、この「踵を上げる」という表現をそのまま思うなら、イエス様に洗っていただいたその足でイエス様を蹴り上げるとも思え、その罪の深さが際立ちます。イエス様の地上の人生は、飼い葉桶で生まれ、ろばに乗ってエルサレムに入り、弟子たちの足を洗い、そして茨の冠を被らされて十字架に架けられる、まさに底辺から底辺に向かう奉仕の人生です。

 少し前にもお話しましたが、日本キリスト教団の東北教区被災者支援センター・エマオに、イエス様が弟子たちの足を洗う、最近の作品と思えるあまり大きくない絵が貼ってありました。エマオの方針も、地震と津波で被災された方々の足を洗わせていただくということです。仙台市の海岸沿いの方々に、言葉で伝道しようとしても、そう簡単にはゆきません。あくまでも被災された方々の足を洗わせていただく、この姿勢を大切にしておられました。私たちの泥足を洗って下さるイエス様に、ただ感謝です。アーメン(「真実に、確かに」)。

2017-06-09 15:44:45(金)
「聖なる霊に満たされて」 2017年6月4日(日) ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教
聖書:雅歌1章1~4節、使徒言行録2章1~21節

 イエス・キリストが天から約束の聖霊を注いで下さった10日前に、イエス様は天に昇られました。これをキリストの昇天と呼びます。イエス様はもちろん生きておられ、復活の体で天に昇られました。キリストの昇天は、私たちに3つの恵みをもたらしました。1つ目は、イエス様が私たちのために天に「場所を用意」(ヨハネ福音書14:2)してくださることです。イエス様は、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」(同)と言われました。教会はキリストの体であり、私たちはその部分、イエス様は頭です。頭が天に行かれたので、私たち体も天としっかりつながっています。2つ目は、天で私たちのためにとりなしをしていて下さることです。十字架によるとりなしは完璧でした。完璧でしたが、さらに念を入れるかのように私たちが日々犯してしまう罪のために、今も父なる神様にとりなしをしていて下さいます。3つ目は、聖霊を注いで下さることです。それがペンテコステの日に実現しました。

 「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」驚くべき出来事です。炎は赤です。この赤は、神様の熱愛を表すのでしょう。一同は、聖霊によって舌を清められ、「神の偉大な業を語」(11節)りました。ヤコブの手紙3:8~9にこうあります。「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」本当にそうです。私たちも聖霊によって舌を清めていただきたいのです。そして神を賛美し、神の御心に適う言葉だけを語る舌に造りかえていただきたいのです。

 一同は、聖なる霊に満たされ、神様の聖なる愛に満たされ、天国の聖なる喜びに酔いしれていました。それを見てクールな人々は、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ったほどです。しかし彼らはぶどう酒に酔っていたのではなく、神の愛に酔いしれていたのです。 本日の旧約聖書は、雅歌1章1~4節です。 雅歌は英語で「ソング オヴ ソングス」、つまり「最高の歌」です。雅歌は基本的には男女の恋愛を語りますが、信仰の歴史の中で「神と神の民イスラエルの愛」、「キリストと教会の愛」を歌っていると読まれることも多かったようです。確かに旧約聖書では神とイスラエルが夫と妻、新約聖書ではキリストと教会が夫と妻の結婚関係にたとえられています。2節に「ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く」、4節に「ぶどう酒にもまさるあなたの愛をたたえます」とあります。「あなたの愛」は「神の愛」と言えます。美味なぶどう酒は、神の愛のシンボルです。ペンテコステの朝、聖霊に満たされた人々は、ぶどう酒よりはるかに大きな祝福である神の愛に酔いしれていたのです。私たちは聖餐式で、ぶどう汁を受けます。あのぶどう汁によって、神の愛を味わいます。天国でもっと豊かに注がれる神の愛の前味です。

 日本でもこの聖霊降臨に似た出来事がありました。日本の最初のプロテスタント教会は、横浜海岸教会と言われます(以下は、日本キリスト教会横浜海岸教会発行の「教会のご案内」による)。1872年(明治5年)にジェームズ・バラ宣教師や日本の青年が出席して、初週祈祷会という会が連日行われ、熱心は祈りが献げられ、ペンテコステ的状況が起こったようです。この初週祈祷会のときに、バラ宣教師が篠崎桂之助たちに与えた聖句は、イザヤ書32章15節だったそうです。「ついに、我々の上に 霊が高い天から注がれる。 荒れ野は園となり 園は森と見なされる。」3月10日に、バラ宣教師によって篠崎桂之助以下9名が洗礼を受けました。この日が横浜海岸教会の創立記念日になっているそうです。横浜海岸教会と名乗ったのは1875年とのことです。

 使徒言行録2章では、ペトロが力強く説教します。「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」箴言29章18節には、次の御言葉があります。「幻がなければ民は堕落する。」幻、夢は、神の国の幻と夢でしょう。神の国という目標(幻=ヴィジョン、夢)を目指して、祈りつつ進むことが必要です。このような夢を抱いた人として有名な一人は、残念ながら暗殺されたキング牧師です。その演説は感動的です。「私には夢がある。~私は、私の四人の小さな子どもたちがいつの日か、皮膚の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住むようになるであろう、という夢を持っている」(梶原寿『マーティン=L=キング』清水書院、1993年、164ページ)。

 教会の婦人会で昨年度、三鷹市の中近東文化センター、東京神学大学、そして国際基督教大学の湯浅八郎(初代学長)記念館を見学しました。湯浅氏の愛した言葉が、「幻なければ民ほろぶ」と、「若者に幻を」だったそうです。「彼は人類平和と愛の共同体としての世界の形成に奉仕するというヴィジョンを持つ若者を育てたいという情熱に燃えていた」(武田清子『湯浅八郎と二十世紀』教文館、2005年、133ページ)。国際基督教大学には多くの国から来た教師・学生がおり、その教会堂では、今日もいろいろな国の人が、同じ神様を賛美・礼拝していることと思います。まさにペンテコステ的出来事です。 私たちは、この東久留米市にあって同じ神様を礼拝し、この近隣において主イエス・キリストを懸命に宣べ伝えて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。