日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2017-05-19 2:36:43(金)
「イエス様を見る人は神を見る」 2017年5月14日(日) 復活節第5主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書6章1~13節、ヨハネ福音書12章36~50節
「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」(ヨハネ福音書12章45節)。

 イエス・キリストは、ご自分が神の子であることを示す、様々なしるし(愛の奇跡)を行って来られました。それによって群衆の中に、イエス様を神の子と信じた人々もいましたが、信じない人々もいました。ヨハネ福音書の記者ヨハネは、それは預言者イザヤの言葉が実現するためであったと言って、イザヤ書を2か所引用します。イザヤが生きた紀元前8世紀にも、イスラエルの民は素直に神様の御言葉を受け入れなかったし、イエス様の時代もそうだったのです。ヨハネが引用した2か所目は、イザヤ書6章10節、「かたくなの預言」と呼ばれる個所です。

 「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。
こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。」

 私たちにも、神様の御言葉を素直に受け入れないかたくなな心はあるのです。数年前に、ある神学校の卒業式に出席したことがあります。学長が卒業生を送り出すメッセージの中で、「皆さんはこれから教会に派遣されて行かれます。教会の中の方々は御言葉を聴いて下さいますが、教会の外の人々は聴いて下さらない現実があります」とおっしゃったと記憶しています。「その覚悟で行きなさい」とおっしゃりたかったものと、私は受け止めました。また、ある神学校の責任者の方が、「困難を極める日本伝道」と書いておられたことも思い出します。イザヤの時代のイスラエルでも、イエス様の時代のイスラエルでも、今の日本でも同じです。

 4節に、「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」とあります。これはイザヤ書6章で預言者イザヤが、天の神の御姿を垣間見た経験のことを言っています。イザヤは生ける真の神を垣間見たのですが、ヨハネはそれがイエス・キリストだったと、驚くべき真理を述べているのです。旧約聖書にはイエス・キリストは直接登場致しません。しかしヨハネ福音書は1章1節、こう宣言します。「初めに言(ロゴス=キリストを指す)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」キリストは天地創造の前から生きておられる神だと宣言しているのです。私たちは、父・子・聖霊なる三位一体の神様を信じています。キリストは子なる神なのです。イザヤが垣間見たのもこの栄光の神様であり、ヨハネが「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」と書いていることは、驚くべきことですが、真実です。イエス様も45節で、「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方(父なる神様)を見るのである」と言われ、ご自分が父なる神様に等しい方であることを述べておられます。

 群衆の中にイエス様を信じない人々がいましたが、「(最高法院の)議員の中にもイエス様を信じる者は多かった」とも書かれています。ですが「会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」と書かれています。「公に言い表す」とは「告白する」ということです。イエス様を神の子と告白して迫害を受けるよりも、世渡り上手に生きる方を選んだのです。人間の弱さです。ローマの信徒への手紙10章10節に、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」とありますから、ただ心の中で信じるだけでなく、信仰を公に言い表す(告白する)ことが大切です。

 イエス様は、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」と言われます。イエス・キリストは「世の光」です。私も神学生時代に教えを受けたある先生は、14歳で陸軍幼年学校に入学された経験をお持ちです(以下、2014年の毎日新聞の記事による)。百倍の難関でした。それは士官候補生のエリート集団で、一日は朝の宮城遙拝と軍人勅諭暗唱で始まったそうです。クリスチャンが真の神様を礼拝し、「主の祈り」を祈るのに似ています。

 玉砕を教えられていた16歳の少年にとって、1945年8月15日の敗戦を受け入れることは困難で、「なぜ生き延びるのか」と苦しまれたそうです。その年の晩秋に帰郷していたとき、幼年学校の軍服を着たまま賀川豊彦牧師の伝道集会をのぞかれたそうです。私たちは先週の婦人会で、世田谷区にある賀川豊彦記念松沢資料館と松沢教会を見学させていただいたのです。前に出るように言われ、賀川牧師は混乱する少年の頭に手を乗せ、祈られたそうです。少年は「暗い帰り道、不思議な温かい気持ちに包まれた」そうです。賀川牧師を通して、神様の愛に触れ、イエス・キリストの光に触れ、心に聖霊を注がれたのでしょう。「世の光」イエス・キリストに触れた経験だったと思うのです。イエス様が、「だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」と言われた通りです。

 「世の光」イエス様が、私たちと共にいて下さいます。この恵みに感謝して、歩んで参ります。アーメン(「真実に」)。

2017-05-11 12:50:59(木)
「世の光キリスト」 2017年5月7日(日) 復活節第4主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書6章1~13節、ヨハネ福音書12章27~36節a
「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(ヨハネ福音書12章36節)。

 マタイ福音書とマルコ福音書には、イエス様の十字架の前の必死の祈り「ゲツセマネの祈り」の場面があります。ルカ福音書ではオリーブ山での祈りになっています。ヨハネ福音書では、本日の箇所がそれに当たります。この箇所は「ヨハネ福音書のゲツセマネ」と呼ばれています。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」イエス様は、神の子であり同時に肉体を持つ人間です。一人の人間としては、十字架に進むことに恐れと不安を覚えるのは当然です。ヘブライ人への手紙5章7~8節に、こうあります。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」

 イエス様は、確かに心騒がれたのです。でもこの気持を乗り越えられます。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」この「しかし」は、大いなる「しかし」です。イエス様は、十字架に向かって決然と進む決意を表明されたのです。ゲツセマネの祈りで「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られたことと、一致します。

 イエス様はさらに、「父よ、御名の栄光を現してください」と祈られました。口語訳聖書は、「父よ、み名があがめられますように」と訳しています。私たちは先ほども「主の祈り」で、「天にまします我らの父よ、御名をあがめさせたまえ」と祈りました。それは、「御国を来らせたまえ、御心の天に成るごとく地にもなさせたまえ」と続きます。イエス様の「御名を栄光を現してください」は、「御心を行ってください」の意味でしょう。「私は十字架に架かることを受け入れます。私の十字架の死によって、あなたの御名の栄光を現してください」ということでしょう。

 すると、天から父なる神様の御声が響いたのです。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」福音書の中で、父なる神様の御声が直接響く箇所は3つだけです。イエス様が洗礼を受けられた場面、イエス様が山上で栄光のお姿に変貌された場面、そしてこの場面です。みな、重要な場面です。「わたしは既に栄光を現した」とは、ガリラヤのカナの結婚式で水がぶどう酒に変えられたこと、ラザロが死から生き返ったことなどを指すでしょう。「再び栄光を現そう」は、イエス様の十字架の死と復活を指すのでしょう。そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言いました。とどろく御声だったのです。出エジプト記19章には、十戒が与えられる直前、「モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた」とあります。

 イエス様は言われます。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。」この世の支配者とは悪魔です。もちろんこの世の真の支配者は神様です。ですが、悪魔は人間の上に支配地からを振るっています。エバとアダムが、悪魔の誘惑に負けて神様の戒めを破ったときから、人間は悪魔の支配下に落ちました。命の与え主である神様の戒めを破り、神様から離れた当然の結果として死ぬべきものになってしまいました。イエス様は、私たち罪人(つみびと)を、悪魔の支配から奪還するために来られました。イエス様は地上の生涯で、十字架の死に至るまで、ただの一度も悪魔の誘惑に負けて罪を犯すことがありませんでした。こうして悪魔に100%勝利され、悪魔は敗北し、悪魔は滅びに定められました。

 イエス様は言われます。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」光はイエス様です。この御言葉に促されて、洗礼を受けられた方が東久留米教会にはおられます。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」まさに光の御言葉です。

 クリスチャン作家の三浦綾子さんに『光あるうちに』(新潮文庫)という著書があります。私はこれを非常にすばらしい伝道のため書物だと感じています。私は昨年、クリスチャンでない友人にこの本を1冊プレゼントしました。こんな返事を送って下さいました。「一気に読み終えました。一言で言うと、非常に分かり易い内容でした。~感心したのは、聖書の登場人物が聖人君子ばかりでなく、隠さず本性を描いている点です。日本の文化、政治は本音よりも建て前が優先で、~幻滅してしまうことがよくあります。そんなしんどい時に自分の考えをどう整理するか、~助けになる一つの手段がキリストの教えになるのかなと思いました」(引用させていただきました。ありがとうございます。石田真一郎)。この書で三浦綾子さんは、「光あるうちに、イエス・キリストを救い主と信じてほしい」との思いを語っておられたと思います。世の真の光であるイエス・キリストを心の中に受け入れて、感謝をもって共に歩みたく思います。アーメン(「真実に、確かに」)。

2017-04-29 22:27:44(土)
「復活のキリストに出会う」 2017年4月23日(日) 復活節第2主日礼拝説教
朗読聖書:ヨナ書2章1~3節、ルカによる福音書24章36~53節「亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(ルカ福音書24章39節)。

 エマオから二人の弟子たちが、復活されたイエス様に出会った報告を抱いて、十一弟子たちのいるエルサレムに戻りました。するとエルサレムにいた弟子たちも、「本当に主は復活して、シモン(ペトロ)に現れた」と言っていました。そしてそこに何とイエス様が来られて、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。「あなたがたにシャロームがあるように」と言われたのでしょう。イエス様は、今も私たちの礼拝の真ん中に立って、「あなたがたに平和(シャローム)があるように」と言って下さいます。

 しかし弟子たちは、すぐには信じられず、恐れおののき亡霊を見ているのだと思いました。イエス様が言われます。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手(両手)と足(両足)を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、手(両手)と足(両足)をお見せになった。さらにイエス様は、「ここに何か食べ物があるか」と言われ、彼らが差し出した焼き魚を取り、彼らの前で食べられた。こうしてご自分が、肉体をもって復活なさったことを証明して下さったのです。イエス様の体は復活の体、栄光の体です。それはどんな壁があっても、それを超えて出現できる体です。しかし幽霊ではないのです。肉も骨もあり、食べ物を食べることもできる体です。私たちイエス様を信じる者も、死後に同じ復活をいただくと約束されています。

 椎名麟三さんというクリスチャンの作家がおられました。この方はこの箇所を読んで、回心を経験されたそうです。それまできっと、「一生懸命生きても、死で終わるのなら、生きる意味はないのではないか」という考えにとりつかれて苦しんでおられたのではないかと思います。そして復活など、バカらしいと思っていました。椎名さんが書いています。「彼(椎名さん)は、弟子やその仲間へ向ってさかんに毛脛を出したり、懸命に両手を差しのべて見せているイエスを思い描いたのである。ひどく滑稽だった。だが、次の瞬間、そのイエスを思いうかべていた頭の禿げかかった男(椎名さん)は、どういうわけか何かドキンとした。それと同時に強いショックを受け、自分の足もとがグラグラ揺れるとともに、彼の信じていたこの世のあらゆる絶対性が、餌をもらったケモノのように急にやさしく見えはじめたのである」(椎名麟三『私の聖書物語』中公文庫、2003年、91~92ページ)。

 イエス様の復活を信じた瞬間のようです。私は聖霊が働かれたと思うのです。エマオでイエス様に出会った二人の弟子たちが「わたしたちの心は燃えていた」と告白しましたが、椎名さんの心も聖霊によって燃えたと思うのです。「この世のあらゆる絶対性」の代表は、死だと思います。しかしイエス様が復活された。死がもはや絶対でないことを信じることができたのだと思います。椎名さんにとって、ルカによる福音書のこの場面が決定的に重要な救いの御言葉になったのです。

 旧約聖書の中で、復活を明確に語る個所は少ないと言えます。新共同訳聖書には、旧約聖書と新約聖書の中間の時代の出来事を伝える「旧約聖書続編つき」の版があります。続編に「マカバイ記 一・ニ」があります。非常に悪い王・アンティオコス・エピファネスがユダヤ教に大迫害を加えた時期があります。マカバイ記ニの7章には、その時、七人兄弟が信仰を貫いて次々に殉教する壮絶な場面があります。七人兄弟の母親はそれを直視しながら励まし、最後に自分も死にます。彼らを支えたのは復活信仰です。兄弟の一人が殉教の死の間際に言います。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」

 七人の母親も言います。「人の出生をつかさどり、あらゆるものに生命を与える世界の造り主は、憐れみをもって、霊と命を再びお前たちに与えてくださる。それは今ここで、お前たちが主の律法のためには、命をも惜しまないからだ。」この頃からイスラエルで、復活信仰がかなりはっきり登場したのではないでしょうか。この後のイエス様の時代、ファリサイ派は復活信仰を抱いていたのです(サドカイ派は復活を信じていませんでしたが)。神様は、神様に忠実に従って死んだ人に、必ず復活をもって報いて下さるという信頼・信仰・確信です。七人兄弟と母親は、神様を完全に信頼して、死にました。イエス様も十字架で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫んで息を引き取られました。父なる神様を完全に信頼して、ご自分のすべてをゆだねられたのです。復活の希望を抱いて死なれたのではないでしょうか。

 七人兄弟と母親は、将来の復活を信じて、死にました。そしてイエス様によって、復活が初めて現実となりました。イエス様の復活の命は、もう二度と死なない命です。死は完全に乗り越えられました。本当にハレルヤです。自分の罪を悔い改めて、イエス様を自分の救い主と信じ、告白する人にも、同じ復活の命が与えられます。私たちは父なる神様に感謝し、その御名をほめたたえずにはおれないのです。ハレルヤ(主をたたえよ)!

2017-04-20 20:42:30(木)
「わたしたちの心は燃えていた」 2017年4月16日(日) イースター(キリスト復活日)礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書26章19節、ルカによる福音書24章13~35節。
「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ福音書24章32節)。

 本日のルカによる福音書は、教会で愛されている箇所です。イエス様が復活された日曜日の出来事です。午後でしょうか。二人の弟子が、イエス様の墓がからだったという婦人たちの証言について、どのように考えればよいか分からず、エマオという村へ向かいながら、話し合っていました。すると、一人の旅人(イエス様ご自身)が近づいて来て、一緒に歩き始められたのです。しかし、二人の目は遮られていて、イエス様だとは分かりませんでした。この場面を描いた有名な絵が、この教会の前の会堂の後方にかけられていました。太陽が西に落ちつつあり、林の中の道の木陰で、イエス様の顔が見にくいように見えます。イエス様が、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と水を向けます。二人は暗い顔をして立ち止まります。期待をかけていたイエス様が死んだことによる絶望と、イエス様の墓がからだったことから来る困惑で、暗い顔をしていたのでしょう。

 二人は、この謎の旅人に、自分たちの疑問をぶつけずにはおれませんでした。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

 イエス様の嘆きと共に、説教が始まります。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」こうおっしゃり、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。二人の弟子たちは、当時の通俗的メシア(救い主)観を抱いていました。ローマ帝国からイスラエルを武力で解放する民族の英雄としてのメシア像です。メシアは勝利者としか考えなかったので、メシアが苦しむ、まして十字架で死ぬことは考えられませんでした。ところが、真のメシアは十字架で苦しんで死んでくださるメシアなのです。メシアは、私たち皆のすべての罪を背負って、十字架で死ぬことが使命だったのです! そして三日目に復活されるのです。

 イエス様は、旧約聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。イエス様ご自身による説教です。私たちもぜひ聞きたかったですね。イエス様がイザヤ書53章を引用されたことは間違いないでしょう。イザヤ書53章は、イエス様の十字架を予告する最も重要な御言葉だからです。同じくイエス様の十字架を予告する詩編22編をも引用なさったでしょう。イエス様の復活の栄光を予告する御言葉としては、詩編16編があります。イエス様は詩編16編をも引用なさったと思うのです。「わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」

 旧約聖書には、復活を語る箇所は少ないと言えます。イエス様が、本日の旧約聖書であるイザヤ書26章19節を引用なさったかどうかは分かりません。しかしここの小見出しは、「復活を求める祈り」です。「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。」

 三人は、エマオである家に共に入ります。夕方です。この旅人は、客であるのに主人のように振る舞います。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」わずか3日前の木曜日の夜、最後の晩餐のあの夜の、イエス様の振る舞いそっくりでした。もしかすると二人の弟子たちは、(はっきり書かれていませんが)イエス様の両手に釘の穴を見た可能性もあるでしょうか。

 二人は言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」口語訳では、「お互の心が内に燃えたではないか。」聖書が分かる体験をし、二人の心が聖霊によって燃やされたのです。(ジョン・ウェスレーの「アルダースゲート(ロンドンの町の名)の回心」も、似た出来事だったと思います。)弟子たちは、イエス様の説教を聴き、イエス様による聖餐にあずかったと言えるかもしれません。私たちの礼拝も、この出来事を再現するものと言えます。どの教会でも、真の説教者はイエス・キリスト、聖餐式(そして洗礼式)の真の執行者はイエス・キリストです。聖霊によって心を燃やされる礼拝になるように、祈って参りたいのです。

 私は、エマオというと、日本キリスト教団・東北教区被災者支援センター・エマオを、どうしても思います。東日本大震災のとき、エマオには全国から(外国からも)多くのボランティアが来ました。ある人は、その時、初めてキリスト教に接し、初めて教会に足を踏み入れました(宿泊さえ、しました)。その後、洗礼を受けた人もいたと聞いています。本当にこのエマオが、復活のキリストとの出会いの場になったのですね。そのセンター・エマオ(2階)に、イエス様とこの二人の弟子たちの絵(現代の絵)がかけられています。そこにこんな説明がありました。「弟子たちは、初めは太陽が沈む西に向かって暗い顔で旅していた。しかしエルサレムにとって返すときは、太陽が昇る東に向かって、希望と勇気に溢れて進んだ。」感銘を受けました。私たちの人生にも、苦難はあります。しかし、死に勝利されたイエス様が共に歩んでおられます。この恵みに支えられ、勇気を抱いて前進させていただきましょう。アーメン(「真実に」)。

2017-04-13 19:24:08(木)
「父よ、彼らをおゆるしください」 2017年4月9日(日) 受難節(レント)第6主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書53章1~12節、ルカによる福音書23章26~49節「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)。

 イエス様の後ろで、十字架を背負わされて運ばせられるキレネ人シモンは、自分の十字架を背負ってイエス・キリストに従う私たち(イエス様の弟子)のシンボル的存在です。イエス様は、嘆き悲しむ婦人たちの方を振り向いて、言われます。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け。」イエス様は、ご自分への同情を求めておられません。むしろエルサレムの人々のことを憂いておられます。エルサレムの人々が、神の子イエス・キリストを殺すという大罪を犯しつつあるからです。その罪のためにエルサレムに父なる神様の聖なる怒りが下り、紀元70年にローマ軍によって滅ぼされてしまいます。イエス様にはこのことが見えていたので、エルサレムの人々のために、心の中で泣いておられます。

 ほかにも、二人の犯罪人が、イエス様の左右で十字架につけられます。全く罪なきイエス様が、極悪非道の罪人の頭であるかのように、犯罪人たちの真ん中で十字架につけられました。これはイザヤ書53章12節の成就です。「彼が自らを投げうち死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」イエス様は、私たち一人一人が受けるべき、私たちの罪に対する父なる神様の聖なる裁きを、一身に引き受けて下さいました。コリントの信徒への手紙(二)5章31節にこうあります。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」イエス様は、いわば「罪の塊」扱いされたのです。父なる神様の、私たち全員の罪に対する聖なる怒りは、集中砲火のように、十字架のイエス・キリストに浴びせられました。ただそのお陰で、私たちの罪はゆるされたのです。

 そしてイエス様は、十字架の上で有名な祈りをなさいました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか、知らないのです。」カトリック教会の教皇でいらしたヨハネ・パウロ2世が、1981年に短銃で狙撃される事件がありました。幸い、命に別条がなく、ヨハネ・パウロ2世はその後、犯人に刑務所で面会し、「私はあなたを赦す」と述べたと聞いたことがあります。このイエス様の祈りに感激して、洗礼を受けクリスチャンになった方は、多いと聞きます。私が洗礼を受けた教会のある男性もそうだと、ご本人が教えて下さいました。その方は私に、この祈りが(新共同訳聖書で)[]に入っている理由をお尋ね下さいました。聖書は写本によって伝えられて来たのであり、[]の部分が欠けている写本があるようです。しかしこの祈りを記している写本もあるのでしょうから、私はイエス様が確かにこの祈りをなさったと信じて疑いません。これは敵を愛する祈り、イエス様がペトロにおっっしゃた通り、人を「七の七十倍まで」赦す祈りです。本日のルカ福音書には、イエス様のいわゆる「十字架上の七つの言葉」のうち、三つの言葉が記されており、この祈りはその一番目です。

 二番目は、イエス様が隣りの犯罪人に言われた、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」の御言葉です。犯罪人は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言い、自分の罪をはっきり認め、イエス様の無実を明確に語りました。彼も、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか、知らないのです」の祈りを聴いて、胸を打たれたのかもしれません。彼は述べます。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という謙虚な願いを語りました。「救って下さい」とも「天国に入れて下さい」とも言いませんでした。しかしイエス様は、彼の心の中にある明確な悔い改めの心を、しっかりと受けとめて下さいました。それで、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という最高の慰めの約束を与えて下さったのです。

 本日のルカ福音書に記された「十字架上の七つの祈り」の三つ目は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」です。ルカ福音書は、イエス様の十字架上での悲痛な叫び「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」を記していません。大胆に省略しています。この叫びを記すマタイ福音書とマルコ福音書は、イエス様がもう一度大声で叫んで息を引き取られた、と書きます。この最後の大声の叫びが、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」だった可能性があります。イエス様は、ここで全く平安であり、父なる神様に全面的に信頼して、ご自分の全てを委ねておられます。罪と悪が勝利することは決してなく、最後の最後には必ず、父なる神様の愛と正義と平和が勝利することを確信しておられます。全く罪のないご自分(イエス様)が、決して死に打ち捨てられたままで終わることはないとの信頼をもって、死に赴かれました。その平安を見て、心を打たれたのが、イエス様の十字架刑を執行する現場責任者であるローマの百人隊長です。イエス様の完全に平安が死を見て、「この方は全く罪なき方だ」と直感したのでしょう。「本当に、この方は正しい人だった」と告白し、神を賛美しました。彼はクリスチャンになったかもしれません。彼も、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか、知らないのです」の祈りを間近で聞いて、心を打たれていたのではないでしょうか。」犯罪人とイエス様の語り合いも、聞いていたでしょう。

 群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行きました。「胸を打つ」は、悲しみと悔い改めを表します。正しい方を十字架で殺してしまった罪に悲しみを覚え、不十分ながらも悔い改めの気持を抱きつつ、帰ったのではないでしょうか。群衆のこの段階での悔い改めは、不十分だったと思います。しかしこの51日後に、ペンテコステ(聖霊降臨)の出来事が起こります。その時、ペトロがエルサレムの人々に説教したのです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。」この日、ペトロの言葉を受け入れて三千人ほどが洗礼を受けました。十字架の出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った群衆の中からも、ペトロの言葉を聞いて、本当に悔い改め、洗礼を受けた人々がいたと考えてよいのではないでしょうか。

 私たちも、イエス様が、私たちの罪を背負って十字架で死なれたことを、知っています。私どもも自分の罪を悲しみ、罪を悔い改めて、イエス様に感謝しながら生きて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。