日本キリスト教団 東久留米教会

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2017-03-09 21:07:15(木)
「ろばの子に乗るイエス様」 2017年3月5日(日) 受難節(レント)第1主日礼拝説教 
朗読聖書:ゼカリヤ書9章9~10節、ヨハネ福音書12章12~19節「『見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って』」(ヨハネ福音書12章15節)。

 イエス様が、愛する友ラザロを生き返らせなさいました。それによってイエス様は一躍、ときの人、ヒーローになりました。エルサレムの都はユダヤ人最大の祭・過越祭の前で、人口が大きく膨らんでおり、人々がイエス様に期待する熱気でむんむんしていたようです。大勢の群衆は、イエス様がエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出ました。これは王を出迎える礼儀です。伝統的には「しゅろの枝」と訳されています。これはイエス様が十字架に架かられる5日前の日曜日の出来事です。教会暦ではこの日曜日を「パームサンデー(しゅろの主日)」と呼びます。パームはしゅろのことです。教会の歴史では、この箇所を「しゅろの主日」とアドヴェント(待降節)第1主日に読んできたそうです。この出来事を記念して、今も巡礼にエルサレムに来たクリスチャンは、「しゅろの主日」にしゅろ(なつめやし)の枝を持って、行進しているそうです。今も「ホサナ、ホサナ」の歌声がオリーブ山にこだまするそうです。

 大群衆は、熱狂して叫びました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に。」人々は、イエス様こそ待ち望んで来たイスラエルのメシア・救い主、王だと信じました。ダビデ王のような力強い王が、遂に現れたと思ったのでしょう。群衆が叫んだ言葉は、詩編118編25、26節から来ています。「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。」ホサナは、「どうぞ救って下さい」の意味で、「救いを」の部分がホサナにあたるようです。ホサナは、ヘブライ語化したアラム語とのことです。ホサナは慣用語化し、「万歳」の意味に近かったようです。

 群衆は、深く考えずに、「ホサナ、ホサナ」と歓呼したのでしょう。しかし、「ホサナ」には、「どうぞ救って下さい」という深い意味があるのです。群衆は、自分たちの思いをはるかに超えて深い言葉を叫んでいるのです。神様がそのようにさせて下さったのです。イエス様は真の救い主です。真の救い主をお迎えするのに、「どうぞ救って下さい」は、最もふさわしい言葉です。群衆は自覚していませんでしたが、神様が実に深い歓迎の御言葉を与えて、この場面を導いておられるのです。

 私たちが最も必要としている救いは、「罪の赦し」です。罪が赦されない限り、私たちは天国に入ることができないからです。イエス様は、十字架にかかって、この最も大切な救いをもたらして下さいます。父なる神様から御覧になると、私たちが最も必要としている救いが「罪の赦し」であることがよくお分かりになるはずです。ところが、私たち人間は、罪の赦しという最も必要な救いを、あまり切実に求めないのではないでしょうか。イエス様は、私たちの一つ一つの罪をすべて背負って、十字架で死なれました。ある人が書いていました。「私たちは、自分の罪の重さを知らない」と。その通りでしょう。私たちは、自分の一生の罪がどんなに重いか、きっと分かっていません。イエス様がご存じです。私たちの一つ一つの罪の全てを背負われたイエス様が、私たち一人一人の罪の重さを肉体で知っておられます。私たちの一つ一つの罪が、十字架上のイエス様を苦しめました。でも、私たちはどうしても自分の罪の赦しをいただきたいのです。ですから、深い思いもってイエス様に叫びます。「ホサナ。どうぞ私たちを救って下さい。真の救いを与えて下さい。私の罪を背負って十字架で死ぬために来られたあなたに心から感謝し、イエス様の御名をほめたたえます。ホサナ。」

 群衆に「ホサナ、ホサナ」の歓呼で迎えられたイエス様は、あえてろばの子を見つけて、お乗りになりました。こうして、本日の旧約聖書のゼカリヤ書9章の預言が成就されたのです。
「娘シオンよ、大いに踊れ。/ 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来る。/ 彼は神に従い、勝利を与えられた者
 高ぶることなく、ろばに乗って来る/ 雌ろばの子であるろばに乗って。
 わたし(神様)はエフライムから戦車を/ エルサレムから軍馬を絶つ。
 戦いの弓は絶たれ/ 諸国の民に平和が告げられる。
 彼の支配は海から海へ/ 大河から地の果てに及ぶ。」

 ろばは家畜、平和のシンボルです。この御言葉を読むと、「ちいろば牧師」と呼ばれた榎本保郎先生を思い出します。お会いしたことはありません。私が21才のとき、『ちいろば』というご著書をクリスチャンの友人が私に紹介してくれ、わたしは随分感銘を受けました。三浦綾子さんによる伝記小説『ちいろば先生物語』もとてもすばらしい書物です。榎本牧師は、「自分はちいろばだ、イエス様をお乗せして、どこへでも行くちいろばだ」との心意気に生きられました。首都に入る王は、ふつうは威風堂々と軍馬に乗ります。軍馬は武力のシンボルです。ところがイエス様は、あえて平和のシンボルであるろばに乗られました。イエス様が物理的な武力をお用いになることは考えられません。イエス様は(御言葉の剣を用いられますが)、物理的にはいつも丸腰です。イエス様の武器は、神の言葉と祈りと愛です。貧しい馬小屋に生まれ、人々の病を癒やされ、ろばに乗って首都エルサレムに入り、弟子たちの汚ない足を洗い、遂には私たちの一つ一つの罪を背負って、十字架で死なれました。イエス様は言われます。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる。」「敵を愛しなさい。」

 イエス様が平和の動物であるろばに乗られたことを思う時、イザヤ書2章4節の御言葉も、同じ平和メッセージの御言葉として思い出されます。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし/ 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず/ もはや戦うことを学ばない。」
 マタイ福音書の「エルサレム入城」の場面には、イエス様がお乗りになるろばのことが、こう書かれています。「荷を負うろばの子、子ろば」と。ろばは荷物を負う家畜です。イエス様も十字架という重荷、私たちの一つ一つの罪という重荷を担われました。

 エルサレムに入られたイエス様が、まずなさったことは何でしょうか。それは神殿を清めることでした。平和の主イエス様が、神殿を清める時には、非常に激しい果敢な行動に出られたのです。その落差に驚きます。イエス様は剣を用いられませんでしたが、鞭を振るわれ、売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されました。イエス様は、平和の主ですが、「事なかれ主義者」ではないのです。神殿から人々の罪を取り除くことに熱心でした。そして純粋な真の神礼拝を確立されたのです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」 イエス様は、「荒れ野の誘惑」の時に、悪魔に宣言されました。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」また、次の重要な御言葉も思い出されます。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」エルサレムの人々の礼拝の姿勢が、これらの御言葉どおりでなかったのでしょう。私たちの礼拝の姿勢はどうか、と襟を正されます。

 もうすぐ頌栄81番2節を讃美致します。「ダビデの子に ホサナ ホサナ、み名によりて 来たる主に 祝福あれ、栄えあれ。いとも高き神に ホサナ。」イエス様を迎えた群衆が、イエス様が十字架にかかって下さる救い主であることを考えずに「ホサナ、ホサナ」と熱狂しましたが、私たちはそうではありません。私たち一人一人のために十字架で苦しんで下さる、本当の意味で有り難い救い主であるイエス様を、「ホサナ、ホサナ」と讃美しながら、心をこめて、心の王座にお迎え致しましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2017-03-02 3:03:50(木)
「万事を益となさる神様」 2017年2月26日(日) 降誕節第10主日礼拝説教
朗読聖書:創世記45章1~8節、ローマの信徒への手紙8章26~30節。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマの信徒への手紙8章28節)。

 この手紙を書いたパウロ(口述筆記。筆記者はテルティオ)は、26節で、「同様に“霊”(聖霊)も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と書きます。イエス様は、どう祈るべきかを知らない私たちに「主の祈り」を教えて下さいました。そして私たちは、先輩クリスチャンからも祈り方を教わります。東久留米教会の教会員で今は天国におられるKさんも、お若い頃、先輩クリスチャンに祈り方を教えられたそうです。「讃美、感謝、罪の悔い改め、願い」と習ったと伺ったと記憶しています。「最初は美辞麗句を並べているように感じるが、何年も祈り続けるうちに本当に自分の祈りになっていく」とおっしゃいました。その通りだと思います。

 そしてパウロは、聖霊が私たちの祈りを、(父なる神様に)執り成して下さると教えてくれます。イエス様は、聖霊を「弁護者」(ヨハネ福音書14章16節)と呼ばれます。口語訳聖書では、「助け主」と訳されています。聖霊は、弁護者・助け主なので、私たちの祈りをうめきをもって助け、執り成して下さるのですね。感謝です。もちろん、私たち罪人(つみびと)のための最大の執り成しは、イエス・キリストの十字架の死によってなされました。イエス様は、十字架で執り成しの祈りをされました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」イエス様の十字架の死という執り成しのお陰で、私たちの全ての罪が解決されたのです。

 イエス様は、十字架にかかられる前から、弟子のために執り成しの祈りをなさいました。ペトロにこう言われました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」そして十字架にかかられる直前に、オリーブ山で、うめきのような必死の祈りをなさいました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」イエス様が、十二弟子や私たちのために十字架にかかるために、これほど必死のうめきの祈りを献げておられる時、弟子たちは(悲しみの果てとは言え)眠りこけていました。弟子としての自覚が足りないと言えますが、私たちも同じかもしれません。私たちも、イエス様が私たちの罪のために十字架で死んで下さったことをあまり深く思わず、イエス様の弟子との自覚が足りないこともあるかもしれないのです。

 イエス様は、今も天で父なる神様の右に座して私たちのために、執り成しを行っていて下さいます。イエス様は父なる神様に等しい方・神であられます。イエス様がおられる神の右の座は、天の天、最も高い天です。「もろもろの天よりも更に高く昇られた」(エフェソの信徒への手紙4章10節)とある通りです。イエス様は、そこで、私たちが永遠の命をいただいている今も、日々少しずつ犯してしまう罪のために執り成しをしていて下さいます。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマの信徒への手紙8章34節)。「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブライ人への手紙7章25節)。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」(ヨハネの手紙(一)2章1節)。弁護者は、執り成す方です。

 そのイエス様と聖霊に支えられて、私たちも「執り成しの祈り」を致します。自分だけのために祈るクリスチャンはいません。P.T.フォーサイスという牧師は、祈りに関する名著と呼ばれる『祈りの精神』という著書の中で、「とりなしの祈りの霊的価値は絶大である」(齋藤剛毅訳、ヨルダン社、1986年、111ページ)と述べています。私もこの言葉を読むたびに、「そうなんだ!」と意を強くし、非常に励まされます。ヒットラーに抵抗したボンへッファーも、彼の名著『共に生きる生活』で、「キリスト者の交わりは、その成員相互のとりなしの祈りによって生きるのであって、それがなければ、その交わりはこわれてしまう」(森野善右衛門訳、新教出版社、1991年、82ページ)。

 (28節)「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」それは、神様の善い御計画が前進し、私たちの人格がキリストに似た者となるために、万事が益となるように共に働くということだと思うのです。ヘブライ人への手紙12章10~11節の御言葉が思い出されます。「霊の父(神)はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で、わたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」パウロは、自分にとっては死さえも益となると言っています。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。~一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと切望しており、この方がはるかに望ましい」(フィリピの信徒への手紙1章21~23節)。

 本日の旧約聖書は、創世記45章1~8節です。ここに登場するヨセフは、イスラエルの先祖ヤコブの息子の一人です。ヨセフが生意気だったせいもありますが、ヨセフは兄たちに憎まれ、エジプトに売られる結果になります。しかもエジプトで誠実に働いたにもかかわらず、濡れ衣を着せられて長年監獄に入れられます。苦難の連続の人生です。しかし時が来て、ヨセフは何と一気にエジプトの総理大臣に任命されます。そこに飢饉で食べ物に困った兄たちがカナンの地からやって来て、二度目に時についにヨセフが名乗り出るのです。ヨセフは、実に深い信仰の言葉をのべます。「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。~神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」兄たちが行ったことは、明らかに罪・悪であり、弁解の余地はありません。しかし神は悪を善に変えて下さったのです。万事を益として下さったのです。ハレルヤです。私たちは意味も目的もない運命に支配されているのではありません。神様の摂理のもとにいるのです。

 私は先週、今話題の映画『サイレンス 沈黙』を見て来ました。いろいろな感想をもちましたが、踏み絵を踏んでしまう司祭ロドリゴが、まだ信仰に強く生き切ろうとしていた段階で述べた、次の言葉を、心に強くとめました。「迫害が行われ、殉教者が出ることが、教会の成長の基となる」という意味の言葉です。近世の日本でも、見せしめに死刑にされても信仰を捨てないキリシタンの姿を見て、逆に人々は勇気づけられ、逆に信者が増えるのです。殉教者の血が、多くの実りの基となるのです。迫害さえも益となるということだと思うのです。

 殉教者の血の話を致しましたが、まずイエス様が、私たちのために血を流して下さいました。イエス様の聖なる血には、私たち皆の罪を清める力があります。日本人は「血は水よりも濃い」と言い、血のつながりを重んじます。教会は、イエス様の十字架の血によって一つとされた家族・血族です。この家族は、ふつうの血のつながりも民族も国も超えて一つとなる家族です。ふつうの家族・親族よりの血のつながりよりも、イエス様の血によるつながりが強いとさえ思うのです。神様が父、イエス様が長男、私たちは父なる神様の子たちであり、イエス様の妹たち、弟たちです。

 神様の摂理と守りの下にいて、神様の血族とされた私たちであることを感謝し、信仰と勇気を抱いて、イエス・キリストを宣べ伝えて参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2017-02-23 19:22:36(木)
「顔で笑い、心で泣くダビデ」 2017年2月19日(日) 降誕節第9主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記・下18章6~18節、19章1~9節a、ローマの信徒への手紙9章1~3節。「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」(サムエル記・下19章1節)。

 ダビデ王が、生涯最大の危機を迎えています。息子アブサロムによる反逆です。ダビデは一旦、首都エルサレムを開け渡し、アブサロムがエルサレムに入城します。ダビデがエルサレムを開け渡したのは、エルサレムで決戦してエルサレムの多くの住民を戦乱に巻き込まないためと思います。ダビデの民への思いやりでしょう。ダビデが受けたこの苦しみは、ダビデが部下ウリヤを戦死に追いやり、ウリヤの妻バト・シェバを奪った罪に対する、神様の審判です。預言者ナタンが、ダビデに告げました。「ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。』」

 このような背景があり、ある程度時間がたった時、アブサロムの反逆が起こりました。神様はダビデにこのような試練を与えられましたが、この試練によってダビデを打ち倒そうとはなさいませんでした。ダビデとアブサロムのうち、神様はなおダビデと共におられました。アブサロムが父に反逆することは、「父母を敬え」というモーセの十戒の第五の戒めに逆らう罪なのです。アブサロム軍とダビデ軍は、エフライムの森で戦闘を行います。結果、アブサロム軍は大敗北を喫し、二万人が戦死します。アブサロムはらばに乗っていましたが、らばが樫の大木のからまりあった枝の下を通ったので、頭がその木にひっかかり、天地の間に宙づりになってしまい、乗っていたらばは走り去ってしまいます。ダビデの部下で軍人のヨアブがアブサロムの心臓を突き刺し、ヨアブの武器を持つ従卒十人がとどめを刺し、アブサロムは戦死します。

 ダビデの部下が喜び勇んで、ダビデに勝利の知らせをもたらします。ところがダビデは、アブサロムの死を察すると、激しく嘆き悲しんだのです。「ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った。『わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ、わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。』」これを見た兵士たちにとって、その日の勝利は喪に変わり、兵士たちは戦場を脱走したことを恥じる兵士が忍びこむようにして、こっそり町に入った、とあります。ヨアブがダビデを厳しく諭します。「王は今日、王のお命、王子、王女たちの命、王妃、側女たちの命を救ったあなたの家臣全員の顔を恥にさらされました。あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるのですか。~この日、アブサロムが生きていて、我々全員が死んでいたら、あなたの目に正しいと映ったのでしょう。とにかく立って外に出、家臣の心に語りかけてください。主に誓って言いますが、出て来られなければ、今夜あなたと共に過ごす者は一人もいないでしょう。それはあなたにとって、若いときから今に至るまでに受けたどのような災いにもまして、大きな災いとなるでしょう。」

 ヨアブに叱られて、ダビデは家臣たちの前に出て、ねぎらいの言葉を述べたようです。ダビデは顔で勝利を喜び、心の中で息子の死を悲しんで泣いたのでしょう。このことから説教題を、「顔で笑い、心で泣くダビデ」と致しました。公の立場を持つ人は、このように心が引き裂かれることがあります。私人として悲しくとも、公人として喜ばなければならないこともあります。以前、NHKの大河ドラマで、西南戦争に勝利した大久保利通が次のように語る場面がありました。「幾多の兵士の労をねぎらい、功をたたえ、大久保その勝利を心より喜ぶ、と伝えてくれ。」顔は沈痛なのです。彼にとって故郷鹿児島を倒し、盟友・西郷隆盛を殺した戦争だったからです。しかし政府の首脳として、彼は勝利を喜び、兵士たちをねぎらわなければなりませんでした。ダビデもそのような辛さを味わいました。

 ダビデは、「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」とも言いました。愚かな父の見苦しい姿でもありますが、ダビデの本心です。自分が息子の代わりに死ねばよかったというのです。私たちは他人のためになかなか死ねない者ですが、自分の子どものためならば死ぬことができるという人は、少なくないでしょう。「わたしが身代わりに死ねばよかった。」これは父なる神様の心に少し似ていると思うのです。ルカによる福音書15章の「放蕩息子の父」の心に似ています。放蕩息子の父親が、父なる神様を示すことは明らかです。あの父親は、息子のためなら死んでもよいと思っていたでしょう。アブサロムも放蕩息子、親不幸な息子です。ルカ福音書の放蕩息子は自分の罪を悔い改め、アブサロムは悔い改めなかったという大きな違いがありますが、放蕩息子の父親とダビデの心、「わが子のためであれば、死んでもよい」は似ている面があると思うのです。

 本日の新約聖書は、ローマの信徒への手紙9章1~3節です。これを書いた使徒パウロは、罪を悔い改めない自分の仲間のイスラエル人たちのことで心を痛めています。パウロは悔い改めない彼らを、しかし深く愛していました。何とかして悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じて、永遠の命に入ってほしいと切望していたのです。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」これは、仲間の身代わりに死んでもよいという、パウロの深い愛だと思うのです。モーセも、仲間のイスラエルの民のために死んでもよいと言っています。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば…。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」(出エジプト記32章31~32節)。

 イエス・キリストは語るだけでなく、本当に私たちの身代わりに十字架で死んで下さり、私たちへの深い愛を示されました。そして三日目に復活されました。イエス様は十字架より前に、こう語られました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章11説)。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15章13節)。その通り、本当に私たちの全ての罪を背負って、私たちの身代わりに十字架で死んで下さいました。ダビデの、「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」の言葉には肉親エゴが感じられますが、しかし一面においては父親としての真実な愛でもあります。

 私は先週、渋谷で『かけはし』という映画を見て参りました。2001年1月に、JR新大久保駅で、線路に転落した男性を助けようとして関根さんという男性と、李さんという韓国人の当時26歳の青年が、線路に降りたけれども、残念ながら3人とも亡くなった事故がありました。当時すぐに報道され、日本中に感動を与えました。私も感激しました。あの出来事のその後を追ったドキュメンタリーです。関根さんは、立派なカメラマンです。李さんは韓国と日本のかけはしになる夢を持っておられました。李さんのご両親は立派な方々です。日本中から多くの義援金が集まったそうです。そのお金を元に、基金が作られ、日本とアジアを結ぶ仕事をしたいと願う若者の奨学金にあてられているそうです。ある台湾の青年は、その奨学金で音楽の教師になり、東京の女子のミッションスクールで生徒たちが歌う讃美歌のピアノ伴奏をしている様子が映されました。奨学金の事務局の女性が、「李さんが生きていたら40代だけれども、生きていてもできないほどの大きな仕事をしている」と語られ、聖書の御言葉を引用されました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ福音書12章24節)。日本人のために、命を投げ出して下さった方です。あの出来事が、あのままで終わっていない。その後に、神様が実を結ばせて下さっていると感じます。

 ダビデの「アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」の言葉には、肉親エゴも含まれています。しかし真実な愛の部分もあると思うのです。その真実な愛の部分を、私たちも聖霊を注がれて少しずつでも実践したいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2017-02-16 16:38:12(木)
「愛の香り」 2017年2月12日(日) 降誕節第8主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書61章1~4節、ヨハネによる福音書12章1~11節。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。」(ヨハネ福音書11章3節)。

 イエス様は、愛する友ラザロを復活させる偉大な奇跡を行われました。場所はベタニヤです。ベタニアは、「神により頼む貧しい人の家」の意味だそうです。ラザロは、「神は助ける」の意味だそうです。イエス様は、過越祭の6日前の土曜日に再びベタニアに行かれました。イエス様は、翌週の金曜日に十字架にお架かりになります。ベタニアはもちろんラザロとその二人の姉妹マルタとマリアがいます。(2節)イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。」

 その時、マリアが非常に思い切った行動に出ます。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(326g)持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその(両)足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」ナルドとは植物名で、和名は甘松(かんしょう)です。良い強い香りを放つのでしょう。雅歌1章12節に、こうあります。「王様を宴の座にいざなうほど、わたしのナルドは香りました。」『聖書の植物事典』(八坂書房、2014年、115~116ページ)に、次のようにあります。「インドでは、今でも髪の毛の香料として用いられ、あらゆる点から考えて、聖書の中でナルドと呼ばれている貴重な香油は、もともと、遠くはなれたインドからもたらされた、と信じるに足る十分な理由があります。~最上質のナルドの香油は、雪花石膏製の箱に入れて封印して輸入され、この状態のまま保存しておいて、ごく特別な場合以外には、封を切りませんでした。一家の主人が高名な客を迎える時は、客に花の冠をかぶせ、その上、雪花石膏の箱の封を切り、ナルドの香油を塗ったものでした。~ヘブライ人やローマ人は、この植物からとれる香油を、死者の埋葬に用いました。」

 本日の場面によく似た出来事がマタイ福音書26章とマルコ福音書14章にありますが、そこではイエス様の頭に香油が注がれたと書いてあります。ヨハネ福音書12章ではマリアは、ナルドの香油をイエス様の両足に塗りました。家中に香油の良い香りが満ち、人々はうっとりした気持ちになったと思うのです。そして女性にとって最も大切な髪の毛で、イエス様の両足を拭いました。これは愛する兄弟ラザロを復活させて下さったイエス様に対する、マリアの精一杯・全身全霊の愛の表現です。マリアの感謝と献身の愛です。大変異例の思いきった行いでしたが、イエス様は喜んで受けて下さいました。6日後に十字架に架かる決心をしておられるイエス様の心を、マリアの愛が慰めたに違いないのです。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書61章1節以下です。(1節)「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。」香油は聖霊のシンボルです。香油は聖なる喜びの油であり、聖霊は聖なる喜びの霊です。イエス様はメシアです。メシアはヘブライ語で「油を注がれた者」の意です。メシアのギリシア語がキリストで、同じく「油を注がれた者」の意です。マリアがイエス様の両足に香油を塗ったことで、マリアが気づかぬうちに神様に奉仕して、イエス様がメシアであることを証明する行為を行ったのです。旧約聖書の時代に、神様にお仕えする重要な職務は祭司・王・預言者で、彼らは聖なる油(聖霊のシンボル)を注がれて職務に就きました。たとえばダビデ王も油を注がれています。彼らは小メシアであったと言えます。しかし真のメシア・イエス様は、ひとりで祭司・王・預言者の全ての務めを完全に行われます。イエス様は十字架にかかって私たち罪人(つみびと)を父なる神様の前にとりなして下さった真の祭司であり、全世界の真の王であり、神様の御言葉を完全に語る真の預言者です。そして香油は、当時の人々によって埋葬に用いられたそうです。「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」(ヨハネ福音書19章40節)。イエス様もマリアについて言われます。「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」香油は十字架の死を暗示したのです。メシア・イエス様は、わたしの罪を背負って十字架で死んで下さるメシアであることが暗示されたのです。

 東久留米教会ではこの数年、クリスチャンの音楽家が結成している音楽伝道団体「ユーオーディアアンサンブル」の方々をお招きして、クリスマスコンサートを行っています。「ユーオーディア」は、ギリシア語で「良い香り」、「極上の香り」の意味と聞きます。本日のヨハネ福音書12章には出て来ませんが、エフェソの信徒への手紙5章2節に出て来ます。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」「香りのよい」が「ユーオーディア」という言葉です。ユーオーディアアンサンブルの方々は、祈りをこめた演奏が神様への「香りの良い供え物」となることを祈って、演奏活動をなさっているに違いありません。日本のクリスチャンの家庭に女の子が生まれると、「かおり」さんと名付けることは、よくあると思います。私どもの教会員にも、このよきお名前の方がおられます。コリント人への第二の手紙(口語訳、2章15節)には、「キリストのかおり」という麗しい御言葉もあります。私どもも、自分の罪を悔い改め、神様に清めていただいて、少しでもキリストのかおりを放つ者とさせていただきたいものです。

 そして、十字架に架かられたイエス様こそ、「最も香りのよい供え物」でいらっしゃいます。私たちは毎月、日本キリスト教団の信仰告白で次のように申します。「主は、わたしたち罪人(つみびと)のために人となり、十字架に架かり、ひとたび己を全き供え物として神に献げ、我らの贖いとなりたまえり。」十字架に架かられたイエス様こそ、父なる神様にとって「最も香りのよい供え物」です。

 私たちの全ての罪を背負って十字架で死なれたイエス様の愛に感謝して、私どももイエス様に自分自身を献げます。マリアがその模範を行ってくれました。それはイエス様への無償の愛、見返りを全く求めない愛、献身の愛、献げ尽くす愛です。キリストの(精神的な)花嫁という印象です。マリアは、花嫁としての愛をイエス様に献げ尽くしています。聖書では、教会はキリストの花嫁にたとえられています。このマリアの生き方は、教会の模範です。

 このマリアの無私の愛に、けちがつきました。イスカリオテのユダが言います。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」ヨハネ福音書は、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」と記しています。イエス様は、マリアを弁護して下さいました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 1デナリオンは一日分の賃金ですから、300デナリオンは最大で300万円と思います。ユダはその後、イエス様を銀貨30枚で売ったのです。あえて言えば30万円かもしれません。マリアとユダは、完全に対照的です。マリアの愛は計算を度外視した無償の愛です。ユダは、全てに損得計算づくです。自分が少しでも損したくないのです。ずるをしたいのです。イエス様を愛していないので、結果として貧しい人をも愛していません。ユダにはマリアがまぶしいに違いありません。私たちの心にも、ユダの要素があります。それと戦う必要があります。

 旧約聖書では、神様が夫、神の民イスラエルが妻です。新約聖書では、父なる神様・神の子イエス・キリストが花婿、教会が花嫁です。マリアこそキリストの花嫁である教会のシンボル存在です。カトリックのシスター(修道女)方は独身で、キリストと結婚している(精神的に)と聞いたことがあります。そしてキリストを愛し、祈りと人々への奉仕に励んでおられます。マザー・テレサは、毎朝のミサでキリストの体のパン(キリストの愛)を受けて、貧しい方々への奉仕に赴いたと聞きます。私たちもキリストの花嫁です(クリスチャンは、女性も男性も)。イエス様の十字架の愛に感謝してイエス様を一途に愛し、隣人を愛させていただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2017-02-08 20:00:07(水)
「神の子たちを集めるために」 2017年2月5日(日) 降誕節第7主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書53章1~12節、ヨハネによる福音書11章45~57節。「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つの集めるためにも死ぬ、と言ったのである」(ヨハネ福音書11章52節)。

 イエス様は、偉大な愛の業をなさいました。愛する友ラザロを復活させなさった(生き返らせなさった)のです。それを目撃した多くのユダヤ人は、イエス様を神の子と信じました。しかし中には、イエス様に好意的でないユダヤ人もいて、ファリサイ派の人々のもとに行ってイエス様のなさったことを告げました。自分たちの仲間ラザロが生き返ったのですから、素直に喜べばよいのに、告げ口したのです。スパイがいたのです。

 (47~48節)「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そしてローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』」この時代のイスラエルの人々は、メシア(救い主)を待ち望んでいました。それは政治的・軍事的メシアで、ローマ帝国と戦ってイスラエルの独立を勝ち取るメシアでした。イエス様が、しるし(奇跡)を行われたので、イエス様の人気はいやが上にも高まりました。人々が熱狂し、イエス様を祭り上げてローマ帝国との戦いを始める恐れがあると、最高法院の人々は恐れたのです。そうなればローマ軍に勝つ確率は低いでしょう。逆にローマ軍に攻め込まれて、首都エルサレムの神殿も国民も滅ぼされてしまう。これが彼らの危惧でした。

 (49~50節)「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』」大祭司は信仰の責任者ですが、悪い意味での政治家です。カイアファは、イエス様を殺すほうが得策だと言ったのです。イエス様に犠牲になってもらって、国の安泰を計ろうというのです。本当は、国民のことを考えてはいません。自分たちの支配体制を守りたいのです。保身だけが狙いです。そのためにイエス様を殺すことに、少しも後ろめたさを感じていない身勝手な人です。

 ある人は、未熟な人と成熟した人につき、次のように言います。未熟な人は、他人の苦しみ(犠牲)の上に自分の幸せを築く。成熟した人は、他人の苦しみを進んで担う。カイアファは、真に未熟な人です。最も成熟した方はイエス・キリストです。イエス様は進んで、私たちのすべての罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死んで下さいました。イエス様に従う者キリスト教会も、私たちクリスチャン個人も、他者の苦難を進んで担う者であり続けたいのです。カイアファは自己中心的な人、罪深い者、未熟な人です。私たちはそのようになりたくありません。

 (51~52節)「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、『イエスが国民のために死ぬ』と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」イエス様を信じる人は皆、神の子です。神の子たちは世界中に散らばっています。イスラエルにもおり、アフリカにもおり、北朝鮮にも、韓国にも、日本にもおります。クリスチャンは神の国の民ですから、政治的な国境・人種・性別による差別を超えて存在します。神の子たちは、世界の全教会におります。プロテスタント諸教会(ルター派、改革派、メソジスト、救世軍その他)にもカトリック教会にも、ギリシア正教会にも、無教会派にもおります。教会には「見える教会」と「見えない教会(霊的な教会)」があると言われます。どちらも大事です。「見える教会」は、具体的に存在する各教会です。「見えない教会(霊的な教会)」は、地上の教派を超えて、神様の目に見えている教会と言えるでしょう。それは国境を超え、時間を超えた(過去・現在・将来にまたがる)教会と言えます。

 「(イエス様は)散らされている神の子たちを一つの集めるためにも死ぬ」、これがイエス様の十字架の死の意義の一つなのです。「イエス様が、私の罪をすべて背負って十字架で死んで下さった」と信じる人々が、世界中から現れるのです。その神の子たちが、今この礼拝堂にも集められています。すべての教会の礼拝の場に集められています。私たち、最初から知り合いでなかった者たちが、イエス様の父なる神様を礼拝するために、この場に集められています。これこそ主の御業、奇跡でなくて何でしょう。

 「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司だったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。」カイアファは自分のたちの利益だけ考えて発言したのです。ところが実は神様がカイアファをコントロール下に置いておられ、カイアファが気づかないままで最も深い真理を語らせなさったのです。イエス様がユダヤ人たちの罪を背負って十字架で死ぬ、全世界の人たちの罪を背負って十字架で死ぬ、という最も深い真理をです。だからと言って私たちは、「私たちが悪を語ったり行ったりしても、神様が善に変えて下さるから、どんどん悪を語り、行おう」と考えてはなりません。神様に逆らって悪を行えば、相応の報いを受けます。カイアファは自分たちと国を守るためにイエス様を殺す決心をしました。しかし神の子イエス様を殺すという重大な罪を犯したために、イスラエルはこの約40年後に、ローマ軍によって滅ぼされました。自分たちと国を守るためにイエス様を殺したことは大きな罪で、逆にイスラエルの国の滅亡を招いたのです。

 カイアファは預言した、と書かれています。新約聖書のペトロの手紙(二)1章20~21節にこうあります。「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」私は『クォ・ヴァディス』という映画のDVDを見たことがあります。ペトロが登場します。ペトロはイエス様が十字架につかれる前に、三度イエス様を否定しました。その罪を泣いて悔い改め、イエス様に赦され、使徒として再出発しました。しかしこの映画では約30年後、クリスチャンへの迫害が吹き荒れるローマの都から、一人の少年を連れて脱出しようとします。ペトロが「このような時こそ、主(イエス様)の導きがほしいのだが」と言うと、少年の様子が変わります。そしてその時だけ、イエス様の言葉を語るのです。「私はもう一度十字架にかかるために、ローマに行く。」ペトロは気づきます。自分がまたもイエス様を裏切ろうとしていることに。ペトロは悔い改め、ローマに引き返し、仲間のクリスチャンたちを励まし、遂に逆さ十字架について殉教します。こうしてイエス様に従う生涯を全うし、神様の栄光を現したのです。このことは聖書には書かれていませんが、伝説に基づいて小説が書かれ、映画化されたようです。少年が語った言葉こそ、まさに預言だったと思うのです。

 本日の旧約聖書は、イエス様の十字架を預言したイザヤ書53章です。ここを普通に読んでも、何が書かれているのか分かりません。自分勝手に解釈しても、分からないでしょう。これはまさに「人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったもの」です。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」まさにこれは、イエス様の十字架の死の預言です。あるクリスチャンが教会に通い始めた頃、教会のベテランの信徒の方にこのイザヤ書53章について、「ここはとっても大切なところなのよ」と、噛んで含めるように教えられたと、書いておられました。

 カイアファは、「一人の人間が民の代わりに死に」と述べました。イエス様は、私たちの全ての罪を背負って、私たちの身代わりに十字架にかかって下さった方です。ある先生のお説教で、チャンピオンという言葉の定義を教えられました。私はそれまでチャンピオンは「勝利者、優勝者」と思っていました。その意味もあるが、それは第一の意味ではないというのです。第一の意味は、「(誰かの)代わりに戦う人」だというのです。であれば、イエス様こそ私たちのチャンピオン、真のチャンピオンです。イエス様は、私たちに代わって悪魔と戦い、すべての誘惑に打ち勝ち、勝利なさった方だからです。十字架という最大の苦難の中でも、決して悪魔の誘惑に負けて、父なる神様に罪を犯しませんでした。父なる神様に、一言も不平を言いませんでした。そして十字架の死の三日目に、墓を破って復活されました。このイエス様こそ、私たちの真のチャンピオンです。この方が、世の終わりまで私たちと共にいて下さいます。イエス様に励まされ、未熟な人ではなくできるだけ成熟した人として、イエス様に従って参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。