日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2017-02-01 22:05:45(水)
「将来の栄光の希望」 2017年1月29日(日) 降誕節第6主日礼拝説教
朗読聖書:エレミヤ書29章4~14節、ローマの信徒への手紙8章18~25節。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマの信徒への手紙8章18節)。

 この手紙の著者パウロは、多くの迫害の苦難を受けました。私たちはパウロほど信仰のために迫害を受けていないと思いますが、それでも18節に励まされます。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない。」イエス様を信じ、イエス様に従おうとする人が将来入れていただく神の国は、それほどすばらしい所なのです。 19~20節「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。」被造物(神様が造られた宇宙とそこに存在する全て)は虚無に服している、とパウロは書きます。被造物も人間と同様(人間も被造物ですが)、神の前に失われたものとなっている、被造物も救いを求めているのです。

 創世記3章で、エバとアダムが神様のただ一つだった戒めに背いて罪に転落したとき、被造物も虚無に転落しました。神はアダムに言われました。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。」自然界は人間にとって恵みであると同時に、人間を苦しめることもある存在となりました。地震、津波などもそうだと思います。そして自然界も、神の国の完成のときには救われるとパウロは書きます。それは、神様が義の宿る新しい天と新しい地を造って下さることで実現します。それは真に栄光に輝くときです。

 22節「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。」被造物は虚無の中で苦しみ、うめいているとパウロは書きます。自然界は美しいですが、弱肉強食、食うか食われるかの厳しくて恐ろしい生存競争の場であることも確かです。肉食動物に食われる草食動物の苦しみと、うめきがあるはずです。カマキリの雄は雌に食べられるそうですね。ここにもうめきがあるに違いありません。自然界も救いを求めています。コロサイの信徒への手紙1章19~20節にこうあります。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子(イエス・キリスト)の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」イエス様の十字架の死は、父なる神様と被造物全体(宇宙・自然界全体)との和解の出来事でもあったのです。自然界全体の救いのためにも、イエス様は十字架で死なれたのです。

 23節「被造物だけでなく、“霊”(聖霊)の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」イエス様を信じる人には、聖霊が与えられています。聖霊を受けていることこそが、私たちが将来、完全に救われることの保証です。聖霊を目で見ることはできませんが、イエス・キリストを救い主と信じる人は、基本的に聖霊をお受けしています。非常に光栄なことです。聖霊を受けている私たちであっても、人生の様々なうめきの中で生きております。口に出すことはあまりなくても、どなたもそうだろうと思います。そして体の贖われること、つまり、神様の約束によって復活の体が与えられる日を、ひたすら待ち望んでいます。

 24節「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」神の国が完成するときに、必ず復活の体をいただくことができるという希望です。 そしてパウロはやや結論的に書きます。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」私たちは忍耐しつつ祈ります。この忍耐は、ただ我慢して終わりというものではありません。必ず神の国の栄光につながる忍耐、希望のある忍耐です。

 今の世界は、戦争やテロでもうめいています。私が洗礼を受けた教会で3才ほど年上だったAさん(男性)が、今、バングラデシュのダッカに赴任しておられます。昨年7月にテロ事件があったダッカです。今回のクリスマス前にAさんからいただいたクリスマスレターにこのように書かれていました。「(ダッカのテロ事件が)世界中に衝撃的に報道され、実行犯に対する憎悪と関与の疑われるテロ組織の撲滅を叫ぶ記事であふれました。もしこれが、憎悪復讐の言葉ではなく、自然災害のときのように、実行犯を含む犠牲者への哀悼、遺族への激励と連帯の言葉だけで埋め尽くされていたら、テロはやがて無くなると思うのは夢想に過ぎないでしょうか。」「実行犯を含む犠牲者への哀悼」の言葉に、胸を打たれます。報復ではテロはなくせないと考えておられるのです。報復ではなく、愛によってテロを克服できないか、というクリスチャンとしての信仰を感じます。神様が平和の国、神の国を一日もはやくもたらして下さるように、祈るばかりです。

 本日の旧約聖書は、エレミヤ書29章4節以下です。イエス・キリストの誕生より600年近くの言葉です。イスラエルの民は長年、神様に罪を犯し続けていたために、イスラエルの民はバビロンに捕囚として連れ去られました。捕囚は70年続いて終わるとエレミヤは、イスラエルの民への手紙に書きました。ある人はこれが気に入りませんでした。「エレミヤは、捕囚は長引くなどと告げる非国民だ」と考えたようです。ところがエレミヤの言葉は真実です。エレミヤは偽りの希望、安易な希望を語らず、真の希望を語ります。偽りの希望を語る偽預言者の方が、人気を得ることもあるのです。エレミヤは、人を恐れず、神様の真のメッセージを語ります。70年の時が満ちると、バビロン捕囚が終わるという真の希望のメッセージです。しかもバビロン捕囚は、結果的には約50年で終わったのです。神様の憐れみです。神様が短縮して下さったと思うのです。

 11節は、しばしば暗唱聖句に選ばれる御言葉です。「わたし(神様)は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。~わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」イスラエルの民は、多くの罪の結果、バビロン捕囚という形の神様の審判を、きちんと受ける必要があります。しかしその先に、希望があるのです。祖国イスラエルに帰還することができる希望です。

 私たち、キリストを信じる者たちにも、確かな希望があります。イエス様の復活の体と同じ復活の体を受け、神の国に入れていただいて、神様を永遠に讃美する者とされるという確かな希望です。今は多くのうめきの中にあります。しかしパウロは保証します。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光の比べると、取るに足りないとわたしは思います」と。

 これより歌う讃美歌は、『讃美歌21』の471番「勝利をのぞみ」です。これはキング牧師と仲間の方々が、黒人差別に非暴力で抵抗する運動の中で、しばしば歌った讃美歌と聞きます。「勝利をのぞみ」と言うと、敵を倒して勝利するという感じを受けますが、英語の題は「ウィー シャル オーバーカム」です。「私たちは乗り超える」ということです。人間の敵をやっつけるのではなく、差別と悪を乗り越えるということです。2節に、「恐れを捨てて、勇んで進もう、闇に満ちた今日も」とあります。闇の中、希望が見えない中で、この歌を共に歌って励まし合ったのです。このような讃美と涙の祈りが積み重ねられて、2009年のオバマ大統領の誕生に至ったと思うのです。

 私たちも、各々のうめきの中にあると思います。しかし、今日の聖書の希望の御言葉に励まされ、イエス・キリストを宣べ伝え、神の国を目指して共に前進致しましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2017-01-26 19:02:25(木)
「神の御心であれば」 2017年1月22日(日) 降誕節第5主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記・下15章1~16節、及び24~32節、ルカによる福音書22章39~46節。「わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所を見せてくださるだろう」(サムエル記・下15章25節)。

 ダビデ王が、人生最大の危機を迎えます。息子アブサロムによる反逆です。これは偶然の出来事はありません。ダビデが、忠実な部下ウリヤの妻バト・シェバと姦淫を行い、ウリヤを計画的に戦場で戦死させた後、神様が預言者ナタンをダビデに差し向けられ、ナタンはダビデに厳しく申し渡しました。「『ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」アブサロムの謀反は、ダビデの罪に対する報い、裁きなのです。

 因みに、ダビデには多くの妻がいました。私のカウントに間違いがなけれが8人です。旧約聖書は、創世記2章24節で、結婚は一夫一婦が正しいことを宣言しています。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」しかしこのことは、旧約聖書ではまだ完全に実施されていません。新約聖書の時代になって、次第に実施されるようになったようです。

 ダビデの息子アブサロムは、ヘブロンで陰謀を固め、一大勢力を築きます。アブサロムは美男子でした。魅力と人気があったのでしょう。ダビデは美男子で、王となる政治力と魅力を持っていたようです。アブサロムも同じ素質を受け継いでいたのでしょう。息子の反逆は、最も痛い出来事です。ダビデは、首都エルサレムで家臣全員に言います。「直ちに逃れよう。~我々が急がなければ、アブサロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう。」エルサレムでアブサロムの軍勢を迎え撃つ道もあるのです。しかしそうすると、エルサレムの多くの人々を犠牲にする恐れがあります。ダビデは民を守ろうと考えたのでしょう。自分が都落ちする道を選びました。

 人が落ち目になると、人々が離れて行くことが多いのではないでしょうか。「まさかの時の友こそ真の友」と言います。ガト人イタイは、真の友の一人でした。ダビデは彼に思いやりある言葉をかけます。「なぜあなたまでもが、我々と行動を共にするのか。戻ってあの王のもとにとどまりなさい。あなたは外国人だ。しかもこの国では亡命者の身分だ。昨日来たばかりのあなたを、今日我々と共に放浪者にすることはできない。~兄弟たちと共に戻りなさい。主があなたに慈しみとまことを示されるように。」イタイは答えます。「生きるも死ぬも、主君、王のおいでになるところが、僕のいるべきところです。」泣かせる台詞です。本心です。ダビデと生死を共にする覚悟だというのです。真実で胸を打つ言葉です。両者の心が通い合っている会話です。ダビデは言います。「よろしい、通って行きなさい。」

 23節に「その地全体が大声をあげて泣く中を、兵士全員が通って行った。王はキドロンの谷を渡り、兵士も全員荒れ野に向かう道を進んだ」とあります。30節に「ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行った。同行した兵士たちも皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上って行った。」ダビデは、ただ辛く悲しくて泣いているのではないと言われます。「頭を覆い、はだしで泣きながら」は、ダビデの悔い改めの姿と思われます。ダビデは、このような厳しい状況に追い込まれた原因は、自分の罪であると痛切に自覚しています。身から出たさびなのです。それで心から泣いて罪を悔い改めているのです。イエス様を三度否定して、イエス様に見つめられて泣いたペトロの涙に、よく似ています。ダビデの悔い改めは偽りではなく、本気です。神様もダビデの真実の悔い改めに、お心を動かされたのではないでしょうか。それもあってダビデの祈りは聞かれ、エルサレムに王として復帰できたのではないかと感じます。

 約千年後、ダビデの子孫ヨセフの子として育たれたイエス様が、捕らえられる直前にほぼ同じ場所を通られます。「イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」(ヨハネ福音書18:1)。イエス様は十字架の直前の必死の祈りを、オリーブ山でなさったと、ルカ福音書は書きます。マタイ福音書・マルコ福音書が、イエス様がゲツセマネという所で祈ったと記す祈りを、ルカ福音書はイエス様がオリーブ山でなさったと書きます。写真で見ると、オリーブ山の麓にゲツセマネがあるように見えます。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

 ダビデも似た祈りを献げます。「王は(祭司)ツァドクに行った。『神の箱は都に戻しなさい。』」神の箱は、十戒の二枚の板が納められているイスラエル人全員の宝です。ダビデは神の箱を私物化してはならないと考えたのでしょう。「わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように。」ダビデはエルサレムで王位に復帰できるように、可能な手を打つのです。しかし最後に全てをお決めになるのは神様。神様のご意志に従います。これがダビデの信仰です。日本風に言うと、「人事を尽くして、天命を待つ」に近い心境です。より正確には、「神様に祈りながら最善を尽くし、最後の決定を神様にお任せする」、これがダビデの信仰です。

 イエス様もオリーブ山で祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」イエス様は、もとより十字架に架かる覚悟はずっと前からできておられましたが、本当に今なのか、まだ先ではないのか、確かめる思いで必死に祈られたのでしょう。その祈りも御心を優先する言葉で閉じられています。私たちも、先ほど「主の祈り」で祈りました。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」神様の御心が、この地で行われますようにと祈ったのです。私たちは自分の願いを素直に祈り求めることが許されています(よほど自分勝手な願いは別ですが)。神様がその祈りを聞き届けて下さることもあります。しかし、最後は「神様の御心が成るように」と私たちは祈ります。「神様の御心が成る」ことが最善だからです。それがダビデの信仰、イエス様の信仰、私たちの信仰です。ダビデのエルサレム復帰の願いは、結果的に聞き届けられました。イエス様の「杯(十字架)を取りのけてください」の祈りは聞かれず、イエス様は御心に従って十字架へ決然と進まれました。このようにダビデの祈りの結果とイエス様の祈りの結果は違ったのですが、「御心に従う」信仰は同一です。そしてイエス様は、ダビデのバト・シェバとの姦淫の罪、ダビデがウリヤを戦場で死に追いやった罪をも背負って、十字架に架かって下さったのです。

 私たちも、日々祈りながら、伝道の務め、日々の様々な責任を果たしましょう。そしていつも最後は、「御心が成りますように」と信頼をもって、祈りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2017-01-26 14:45:06(木)
「小さなことに、大きな愛をこめて」 伝道メッセージ 石田真一郎
「(イエスは)たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手拭ぬぐいでふき始められた」(新約聖書・ヨハネによる福音書13章5節)。

 神の子イエス・キリストの誕生を祝う日がクリスマスです。イエス様が誕生されたのは、私たち全人類の全部の罪を、身代りに脊負って十字架で死に、三日目に復活なさるためでした。十字架に架かる前日の木曜日には、弟子たちの汚い足を、洗われました。罪とは、私たち皆がもつ自己中心の思い、「自分さえよければよい」という思い、エゴイズムです。「自分の仲間や家族さえよければよい」、「自分の国さえよければよい」という考えも罪です。イエス様は、私たちの心の中の汚い罪をも洗って下さる方です。

 渡辺和子さんというカトリック教会の修道女が、昨年末に89歳で天国に帰られました(1936年の「二・二六事件」で、お父様の命を奪われた経験をおもちです)。私はこの方は日本の宝と思うので、真に残念です。渡辺さんの読みやすいベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬社、2012年、952円+税)は、東久留米の書店でも「お薦めの本」として、レジに置かれていました。心に残る言葉が記されています。「私たちには偉大なことはできません。しかし、小さなことに大きな愛をこめることはできるのです」(マザー・テレサの言葉)。「苦しいから、もうちょっと生きてみよう」という言葉も大切です。

続編の『面倒だから、しよう』(幻冬社、2013年、952円+税)には、「神は決して、あなたの力に余る試練を与えない。試練には、それに耐える力と、逃れる道を備えてくださる」(新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)10章13節)とあります。「この世に“雑用”という名の用はない。用を雑にした時に生まれる」という、ドキッとさせられる言葉もあります。「単調な仕事でも愛を込めて行うことが大切。でないと私たちはロボットになってしまう」という貴重な教えです。今、人口知能がもてはやされますが、人口知能に人格はありません。知性が最高でも、心がなければ無意味です。

 2冊を読み返し、渡辺さんの教えを少しでも実践する2017年を送りたいと、祈ります。皆様も、ぜひお読み下さい。アーメン(「真実に」)。

2017-01-26 14:41:24(木)
「受けるより与える方が幸い」 伝道メッセージ 石田真一郎
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である。」(新約聖書・ルカ福音書2章11節)

 イギリスの作家オスカー・ワイルドの『幸福な王子』(新潮文庫、438円+税)は、クリスマスにふさわしい物語です。ある町に幸福な王子の像が立ち、両目は青いサファイアで、刀のつかには赤いルビーが輝き、全身が薄い純金の箔でした。ある冬前の夜、一羽のつばめが暖かいエジプトに行く途中、像の下にとまると大きな水のしずくが落ちて来ます。王子の目からの涙です。王子は生前、宮殿で幸福いっぱいの日々を送りました。しかし死んで像として高い所に置かれ、町の人のつらさが見えるようになります。

 王子はつばめに頼みます。母親と病気の男の子が暮らす貧しい家に、ルビーを運ぶことを。つばめは一晩だけ王子の使いになることにし、実行すると心が暖かくなりました。王子も本当の幸福を味わったでしょう。翌日王子は、つばめにもう一晩共にいて、ひもじくて戯曲を書く力を失っている青年に、自分の片目のサファイアを運ぶように願います。つばめは泣きますが実行します。王子はつばめに頼みます。売り物のマッチをどぶへ落として、親に怒られると泣いている女の子に、もう一つの目のサファイアを運ぶことを。王子が失明するので、つばめはためらいますが実行します。

 つばめはエジプト行きをやめて、王子のそばにいることにし、町の貧しい人々の話をします。王子は、体の金箔を一枚ずつ剥がして運ぶように言い、すっかり灰色の体になります。本当に寒くなり、つばめは王子の唇にキスして息絶えます。王子の鉛の心臓が真っ二つに割れます。町の人々は、美しくなくなった王子の像を引きおろし、鉛の心臓とつばめの死骸を投げ捨てます。神様が天使に、この町で一番尊いものを二つ持って来るように命じられます。それは何でしょうか…!

 クリスマスは、私たちの救い主イエス様の誕生を祝う日です。イエス様は十字架にかかって、私たちに命を与えて下さいました。「受けるよりは与える方が幸いである」と言われます。あの王子の心は、イエス様の心と一致します。「一生を終えて後に残るのは、私たちが集めたものではなく、与えたものである」という言葉もあります(シャンドリーという人の言葉とのこと)。少しでも実践できるとよいですね。アーメン(「真実に」)。

2017-01-26 14:37:18(木)
「広島で」 伝道メッセージ 石田真一郎
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイ福音書5章9節)。

 昨年8月23日(火)に、32年ぶりに広島市の平和記念資料館(原爆資料館)と原爆ドームを見学しました。とても暑い真夏の日でした。

 私の祖父の兄が1945年8月6日に広島で被爆し、亡くなっています。被爆直後は、熱くて苦しんでいる周りの人々を川に運ぶなど、多少救助活動を行い、数日後に亡くなったそうです。私の高校時代の友人のお爺様も被曝され、しばらく後に「桃が食べたい」と語りつつ、亡くなったと聞きます。資料館から川を渡った所にある原爆ドームをじっくり見ました。囲みで保護されていて中には入れませんが、ドームの内外に瓦礫がありました。被爆後の状態をできるだけ残そうとしているのでしょう。このドームの上空で原爆は炸裂したそうです。

 平和記念公園の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。日本が二度と戦争という過ちを引き起こさないことを誓い、どの国も核兵器使用という大きな過ちを絶対に犯さないように日本として誓い、訴えていくという意味と思います。核兵器を憎む気持ちは、日本人が永久に持つ必要があります。私はだいぶ以前にアメリカに行きましたが、アメリカ人の多くは核兵器の恐ろしさをよく分かっていないと、強く感じました。国として被爆体験がないからです。

 でも平和記念資料館では、アメリカ人らしき家族も熱心に見学していました。イスラム教徒らしき方々もおられ、韓国の高校生がグループで来ていました(修学旅行?)。とてもよいことだと感謝しました。5月にアメリカの現職大統領として初めて広島を訪れたオバマ氏が折った折り鶴と平和メッセージ(「核兵器なき世界を追求する勇気を持とう」との趣旨)も展示されていました。平和を愛したローマ法王ヨハネ・パウロ2世も1981年に広島と長崎を訪問して、核兵器廃絶を訴えました。核兵器廃絶の思いを忘れかけている自分に気づき、その理想を取り戻さねば、と思いました。アーメン(「真実に」)。