日本キリスト教団 東久留米教会

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2017-01-12 1:33:18(木)
「キリストは復活であり、命」 2017年1月8日(日) 降誕節第3主日礼拝説教
朗読聖書:ダニエル書12章1~3節、ヨハネによる福音書11章1~27節。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ福音書11章25節)。

 (第1節)「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタ村ベタニヤの出身で、ラザロと言った。」ベタニヤという地名は、「神により頼む貧しい人の家」という意味だそうです。ラザロという名前はエリエゼル、あるいはエルアザルの短縮形で、「神は助ける」という意味だそうです。このヨハネ福音書11章で、まさに神様の偉大な助けがラザロに与えられます。「ある病人がいた」とありますが、私たちも何か小さくても病気を持っていると思います。あるいは罪・自己中心という病気を持っています。私たちに罪があるから、私たちは死ななければなりません。これが聖書の教える真理です。いずれにしても、私たちは体の病気を持ち、罪という魂・霊の病気を持っています。ラザロと同じです。ラザロに神様の大いなる助けが必要であるのと同じで、私たちにも神様の大いなる助けが必要です。私たちが現に今ここで生きているのは、神様が支えて下さっているからです。神様の支えなしに、私たちは1秒も生きることができません。私たちの心臓は、私たちの努力で動いているのではありません。私たちの心臓は、神様の愛の力によって動いています。

 (2節)「このマリアは主(イエス様)に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。」病状は深刻だったに違いありません。姉妹たちは、「イエス様、一刻も早く来て下さい。そして私たちの愛する兄弟ラザロの病気を癒やして下さい」と叫びたい気持ちだったと思うのです。私たちも、神様に必死に祈って訴えたいときはあります。私たちが、小さな声で弱く祈ることもあります。そのような祈りでも、聖霊の執り成しによって、父なる神様の耳と心に届きます。宗教改革者マルティン・ルターは、「私たちが人知れず、片言で『天にいます我らの父よ』と、貧しい祈りをささげるときに、それは聖霊によって、雲をつんざき、天をつんざき、神の御座にとどろき渡る」と言っているそうです(『大村勇説教集 輝く明けの明星』日本基督教団阿佐ヶ谷教会、1991年、260ページ)。ですから私たちは、祈りの手応えを感じないと感じるときも、神様が必ず耳を傾けていて下さると信頼して、いつも神様に祈ってゆきたいのです。

 ここではしかしイエス様は、すぐには動いておられません。(4節)「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』」今から25年くらい前でしょうか、山川千秋さんという男性テレビアナウンサーがおられました。50代くらいで亡くなったのですが、イエス・キリストを救い主と信じ、クリスチャンとなって亡くなりました。その後、山川さんの証しの書と呼ぶべき『死は終わりではない』という本が出版されました。ご家族と関係者が出版されたのかと思います。私も当時、それを読みました。山川さんは、山川さんに伝道なさったドイツ人の宣教師さんから、「死は終わりではない。むしろイエス様と共にいることのできる、恵みの時の始まりです」と教えられ、それを信じて天に召されましたようです。『死は終わりではない』という題が、イエス様の「この病気は死で終わるものではない」からとられているのかどうかは分かりません。しかし似ているので、私は思い出しました。

 イエス様は二日間滞在された上で、言われます。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」イエス様はラザロを友と呼んで下さいました。私たちをも、友と呼んで下さいます。「友のために自分の命を捨てること。これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしは、安息日あなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ福音書15章13~17節)。イエス様に友と呼んでいただけること以上の光栄はありません。

 イエス様はこの後、ラザロを復活させられます。そのことがユダヤの指導者たちの殺意を招きます。そしてイエス様は十字架に架けられます。イエス様はそうなることを見通しておられたはずです。それでもラザロを復活させなさいます。ご自分がこのために十字架で殺されることを承知の上で、イエス様はラザロを復活させられます。ラザロという友を愛して、ラザロのためにご自分の命を捨てて下さったのです。

 イエス様がベタニアに行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていました。これはラザロが仮死状態ではなく完全に死んだこと、蘇生の可能性がゼロであることを示します。イエス様はラザロの姉妹マルタに宣言されます。「あなたの兄弟は復活する。」イエス様の真実がこもった、力強い言葉です。イエス様以外の誰にも言うことができない言葉です。マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。当時のユダヤ人の多くは、死者の復活があると信じていたようです。使徒言行録23章8節に、「(ユダヤ教)のサドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めている」とあります。サドカイ派は死者の復活というものはないと主張していましたが、ファリサイ派は死者の復活ということがあると主張していました。

 ファリサイ派がそう信じた根拠の1つは、本日の旧約聖書・ダニエル書12章の2節と思います。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。」マルタは、特にファリサイ派ではなかったかもしれませんが、「(ラザロ)が終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いましたから、死者の復活ということはあると信じていたことが分かります。但しそれは、遠い将来のことで、それでは今の私にほとんど慰めにならないと言っているように聞こえます。

 それに対してイエス様は、「わたしは(わたしこそ)復活であり、命である。わたしを(神の子と)信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とマルタに問われます。今も生きておられるイエス様こそ復活であり、命(永遠の命)です。これは大きな慰めであり、希望です。そのイエス様が、今も聖霊として私たちと共にいて下さるのですから、本当に感謝です。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ人への手紙13章8節)。

 イエス様はラザロを復活させられます。しかしラザロはその後、もう一度死んだはずです。ラザロの復活は、完全な復活ではありません。イエス様の復活こそ、完全な復活です。もはや二度と死なれないからです。ラザロの復活は不完全な復活で、イエス様の完全な復活の前触れです。イエス様は、イエス様を救い主と信じるわたしたちにも永遠の命と、復活の体を授けて下さいます。それは栄光の体です。

 死者の復活ということがあること、イエス様が最初に死者の中から復活されたことを、使徒パウロがコリントの信徒への手紙(一)15章で、力を尽くして説いています。コリントの人々は、ギリシア人です。ギリシア人は霊魂不滅を信じていたようですが、旧約聖書が説くような復活の信仰がなかったようです。日本人もよく似ています。聖書の教えは、霊魂の不滅ではありません。人間の体も心も霊も魂も罪に汚染されているので、死ぬのです。死者の復活が聖書の教えです。復活の後に、最後の審判があるようです。パウロはコリントのクリスチャンたちに、死者の復活があること、イエス様が確かに死者の中から復活された事実を、懸命に説きます。
「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

 イエス様は、確かに死者の中から復活され、天に昇られ、天におられます。そしていずれ必ず再びこの地上に来られます。このイエス様を救い主、神の子と信じて歩みましょう。イエス様を信じる人生にこそ、すべての罪の赦し、永遠の命と復活の体という真の希望があるのですから(「真実に)。

2017-01-05 14:43:57(木)
「幼子はイエスと名付けられた」 2017年1月1日(日) 降誕節第2主日礼拝
朗読聖書:ヨブ記19章25~26節、ルカによる福音書2章21~40節。
「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(ルカ福音書2章30節)。

 先週のクリスマス礼拝では、イエス様が赤ちゃんとして誕生なさり、羊飼いたちいがイエス様と母マリア、イエス様の父となるヨセフを訪ねた有名な場面を読みました。今日はその後の場面です。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」ユダヤ人の男の子にとって、生まれてから8日目に割礼を受けることは、極めて重要なことでした。割礼は神と間の契約のしるしだからです。そして赤ん坊に割礼を施す日が、名前をつける日でもあったようです。イエス様の誕生が先週12月25日(日)としますと、本日が8日目です。本日がイエス様の割礼と名付けの日と言えます。イエスという名は、「主は救い」の意味です。10ヶ月か1年前に、天使ガブリエルがマリアに告げたのです。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」マリアとヨセフは、この指示に従って、男の子をイエスと名付けたのです。天使の指示を無視したりしませんでした。神様に忠実に従うマリアとヨセフです。

 そしてマリアとヨセフは、旧約聖書の指示に忠実に従います。(22~23節)「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである。」「清めの期間」については、旧約聖書のレビ記12章2~4節に、次のように書かれています。「妊娠して男子を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。」月経や出産による汚れがあるなどと言えば、今の時代は、差別になります。新約聖書の時代である今は、月経も出産も、全く汚れではありません。しかし旧約聖書の時代は、汚れだったのです。マリアとヨセフは、マリアの出産後33日間はベツレヘムにとどまり、その後、エルサレムの神殿に向かったのだと思います。 

 (24節)「また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」このことから、ヨセフとマリアの夫婦が貧しかったことが分かります。レビ記12章8節に、「なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする」と書いてあるからです。

 ここにシメオンという男性が登場します。年齢は書いてありませんが、おそらく老人です。旧約聖書の時代を象徴する人物です。真の救い主を待ち望んで祈り深く生きて来た信仰の人です。本日の旧約聖書はヨブ記19章25~26節ですが、ヨブは大きな苦難の中で、救い主にお目にかかることをひたすら待望した人です。
「わたしは知っている/ わたしを贖う方は生きておられ
 ついには塵の上に立たれるであろう。
 この皮膚が損なわれようとも
 この身をもって/ わたしは神を仰ぎ見るであろう。」

 救い主にお目にかかることを生涯待ち望んで来たシメオンは、神殿の境内で赤ん坊イエス様を見て、この子こそ真の救い主だと直感しました。そして幼子を腕に抱き、神をたたえて言いました。彼の目には涙が光っていたのではないでしょうか。(29~30節)「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」シメオンは、「神様の約束の成就、真の救い主をこの目で見て、この腕で抱く光栄を受けた。私の人生は完結した。もう思い残すことはない」という気持ちだったに違いありません。

 シメオンの言葉と、ヨハネの黙示録14章13節が、よく響き合います。「~わたしは天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と。』“霊”も言う、然り、彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」東久留米教会は少し前に、お一方のご婦人を天国にお送り致しました。そのご婦人は、聖日(日曜日)の午前3時頃に、お眠りになった状態で天国に行かれました。(もちろん、とても悲しい出来事ですが)神様の御守りの中で、天に移されなさったと思えてなりません。

 シメオンは、聖家族(イエス様一家)を祝福し、母親のマリアに言いました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」クリスチャン作家・三浦綾子さんがこの祝福について、「何と重い祝福か」と書いておられます。単純な祝福ではありません。皆が喜んでイエス様を受け入れるのではないのです。イエス様は全く罪のない愛の方なのに、イエス様とそのメッセージを素直に聞かず、イエス様を憎み、十字架につける人々が現れます。この祝福は「十字架を通って、復活に至る」祝福だと思うのです。イエス様は私たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われます。マリアさんも、マリアさんの十字架を背負ったと言えます。「十字架を背負いなさい」と言われると、私たちはたじろぎます。しかし、トマス・ア・ケンピスという人が有名な著書『キリストにならいて』で次のように書いています。「もしあなたが喜んで、十字架を負うならば、十字架はあなたを負い、望みの目的地にあなたを導くであろう」(新教出版社、1989年、95ページ)。

 次にアンナという女預言者が登場します。「非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた~。」厳しい人生行路をたどった人のようです。84歳の時の状況は、ほとんど乞食だったのではないか、という人もいます。テモテへの手紙(一)5章5節に、「身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けます」とありますが、アンナこそこのようなやもめです。神にのみ希望を置いて祈り続けていました。誰にとっても、真の希望は生きておられる神様お一人にあります。年齢を加えるほど、この事実がはっきりして来ると思うのです。若い時も、真の希望は神様だけにあるのですが、体力があるとそれに気づきにくいのです。年齢を加えるに従って、「大事なことは多くはない、いや、一つだけである」というイエス様の御言葉が身にしみて分かって来るのではないでしょうか。

 アンナは、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」のです。人生の大ベテランの方々の使命は、後に続く人々に、真に大切なことを指し示すことではないかと拝察致します。アンナは真の救い主イエス様のことを人々に話しました。私は今50歳ですが、私たちも真の救い主イエス様を、自分より若い世代にお伝えする使命を与えられています。アンナはエルサレムの人々のために、神様の恵みを祈っていたでしょう。人生の大ベテランの方々も、若い五家族のために祈っておられるに違いありません。

 私はシメオンとアンナの姿を読み、ホイヴェルス神父様が紹介なさった「最上のわざ」という有名な祈りを思います(ヘルマン・ホイヴェルス『人生の秋に』春秋社、1969年)。
「この世の最上のわざは何?
 楽しい心で年をとり、
 働きたいけれども休み、
 しゃべりたいけれども黙り、
 失望しそうなときに希望し、
 従順に、平静に、おのれの十字架をになう―。
 若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
 人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
 弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること―。
 老いの重荷は神の賜物。
 古びた心に、これで最後のみがきをかける。
 まことにふるさとに行くために―。
 おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事―。
 こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。
 神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ―。
 手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
 愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために―。
 すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聴くだろう。
 『来よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ』と―。」
この2017年も、共に祈りながら、イエス様と共に歩みたいのです。アーメン(「真実に」)。

2016-12-15 13:56:17(木)
「神があなたの罪を取り除かれる」 2016年12月11日(日) アドヴェント(待降節)第3主日礼拝説教 
朗読聖書:サムエル記・下12章1~25節、ローマの信徒への手紙8章1~4節。
「その主があなたの罪を取り除かれる」(サムエル記・下12章13節)。
 
 この前の11章で、ダビデは生涯最大の罪を犯しました。自分の最も忠実な部下ウリヤの妻バト・シェバを奪ったのです。ウリヤは国のために戦争に行っていました。王であるダビデのために、命を懸けて戦っていました。ダビデはそのウリヤを裏切りバト・シェバと関係を持ち、バト・シェバは妊娠しました。慌てたダビデは、ウリヤを戦場から呼び戻し、報告を聞いた後で、自宅に帰るように促します。ところが最も忠実な部下ウリヤは決して家に帰りません。「(モーセの十戒が納められた最も大切な)神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」ダビデは、悪魔的な計画を考え出します。ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、ウリヤを残して退却し戦死させるように、自分の軍隊の長に命令するのです。そしてウリヤは戦死します。ダビデは、十戒の第六の戒めと第五の戒めを破る、重大な罪を犯しました。第六の戒めは、「姦淫してはならない」です。第五の戒めは、「殺してはならない」です。ウリヤが死んだと聞くと、バト・シェバは夫のために嘆き、喪が明けるとダビデの妻に迎えられます。これでバト・シェバが出産しても、ダビデとバト・シェバの姦淫が露見する恐れはない。ダビデの計画は、ウリヤを犠牲にして、完全に成功したはずでした。しかし人を騙すことができたとしても、神様を騙すことはできません。神様が黙っておられないのです。神様の出番です。

 本日の第1節。「主はナタン(預言者)をダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。『二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い、小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて、彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに、自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振る舞った。』」ナタンは意味深長な話をしたのです。

 しかし、ダビデは気づきません。(5~6節)「ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。『主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の値を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。』」この言葉がブーメランのようにダビデ自身に帰って来ます。ナタンがダビデを一気に叱りつけます。(7~10節)「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』」こう明確に叱責されて、ダビデは電流に打たれたような気持ちになったに違いありません。真にうかつにも、初めて自分の大きな罪に気づいたのです。私たちにも、他の人に指摘されて、初めて気づくことがあると思うのです。

 私は、マタイによる福音書7章1節以下の、イエス様の御言葉を思い出します。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」ダビデはナタンの話を聞いて、「貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振る舞った豊かな男」を非難し、裁きました。しかし同じ裁きの基準を自分に当てはめていませんでした。自分を棚に上げていました。その大きな過ちをナタンに、強く指摘されたのです。イエス様は言われます。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」ダビデは預言者ナタンに指摘されて、自分の目から丸太が取り除かれ、物事がはっきりと正確に見えるようになりました。ダビデの目にあった丸太は、偏見であり自己愛だったと思います。私たちの目にも偏見や自己愛があり、物事を正しく見ることをしばしば妨げている可能性はあります。気をつけたいと思います。

 ダビデは自分の大きな過ちに初めて気づき、心の中が自己嫌悪でいっぱいになったに違いありません。ダビデは愕然としてナタンに告白します。「わたしは主に罪を犯した。」主に対してだけでなく、ウリヤに対しても罪を犯したのです。そのことに触れていないことは不思議です。しかしダビデは、本気で罪を悔い改めたと思います。これだけ大きな罪を犯したのですから、当然と言えば当然ですが。この時のダビデの悔い改めを知るために、有名な詩編51編を見ておくべきでしょう。1~4節を一気に読みます。

「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。
 神よ、わたしを憐れんでください。/ 御慈しみをもって。
 深い御憐れみをもって/ 背きの罪をぬぐってください。
 わたしの咎をことごとく洗い/ 罪から清めてください。
 あなたに背いたことをわたしは知っています。
 わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し
 御目に悪事と見られることをしました。
 あなたの言われることは正しく/ あなたの裁きに誤りはありません。」

 そしてダビデは、9~10節で祈ります。
「ヒソプ(清めの儀式に用いた植物)の枝でわたしの罪を払ってください。
 わたしが清くなるように。
 わたしを洗ってください。/ 雪よりも白くなるように。
 喜び祝う声を聞かせてください。
 あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。 
 わたしの罪に御顔を向けず/ 咎をことごとくぬぐってください。」
この詩編は、「悔い改めの詩編」として知られていますが、臨終の場でこの詩編で祈りながら天に召されて行ったクリスチャンが少なくないと聞いています。ダビデは自分の罪に震えながら、必死で悔い改めたのではないでしょうか。

 サムエル記(下)に戻ります。そのダビデに、ナタンが告げます。13節の途中から。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」自己嫌悪でいっぱいになっていたであろうダビデにとって、実に驚くべき恵みの言葉です。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」
ダビデが、「わたしは主に罪を犯した」と率直に認めてへりくだったからでしょうか、ダビデが本気で悔い改めたからでしょうか、とにかくナタンは、ダビデの罪を告発なさる神様ご自身がダビデの罪を取り除いて下さると宣言するのです。しかし、ただで赦されるのではありません。ダビデは大きな代償を払わせられます。バト・シェバとの間に生まれた、目の中に入れても痛くない男の赤ちゃんが、ダビデの身代わりのように死ぬのです。私はここに神様の罪人(つみびと)への深い愛と、罪に対する厳しい怒りを感じます。「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ書11章22節、口語訳)を連想するのです。

 「わたしは主に罪を犯した。」「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」本日の新約聖書は、ローマの信徒への手紙8章1~4節です。1~2節は、すばらしい恵みと解放の御言葉です。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」そして
3節。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子(イエス・キリスト)を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」「肉」とは、私たち罪を持ち、また肉体を持つ人間のことです。私たちが、モーセの十戒に代表される神様の律法を100%守ることができたなら、私たちは自力で救われ、自力で天国に入ることができます。しかし私たち(肉)は弱く、神様の律法を100%守ることができません。

 そのような弱い私たちを助けるために、神様が自ら行動して下さいました。ダビデの罪を取り除いてダビデを赦して下さった同じ神様が、私たちの罪を取り除くために、神の独り子イエス・キリストを、罪深い肉(人間)と同じ姿でこの世に送って下さいました。ベツレヘムの馬小屋で誕生なさったイエス様です。クリスマスの出来事です。全宇宙をお造りになり、人間をお造りになった神様が、神様であることをやめずに、同時に造られた存在である人間、私たちと同じ肉体を持つ人間、切れば赤い血の出る人間になって下さったのです。「その肉において罪を罪として処断されたのです。」肉体を持つイエス様は、十字架に架けられました。苦難を耐えられました。私たち皆の全部の罪を、私たちの身代わりに背負って十字架の苦難を引き受けられ、死なれました。私たちに代わり、本来私たちが受けるべき父なる神様の裁きを、イエス様が背負いきって下さいました。そのお陰で、1節に明記されている通り、私たちは今や罪に定められることはなくなり、全ての罪を赦されて天国に入れていただけることになったのです。イエス様に、ひたすら感謝するほかありません。

 (4節)「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」律法の要求は、全ての罪が正しく裁かれることです。イエス様が人類の全部の罪への全部の裁きを引き受けて下さったので、律法の要求は完全に満たされたのです。もはや私たちキリストに結ばれた者は神様の裁きから完全に解放されました。ここにこそ私たちの平安、真の平安があります。

 サムエル記(下)に戻ります。ナタンがダビデに言います。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれて来るあなたの子は必ず死ぬ。」生まれたばかりの男の子には何の落ち度もないのですから、男の子は気の毒としか言いようがありませんが、ダビデとバト・シェバの罪を身代わりに背負ったかのように、男の子は死にます。ダビデはわが子が助かるように、必死に神様に願い求め、断食して祈りました。まさに全身全霊で祈りました。しかし、ダビデの犯した罪があまりに大きかったからでしょう、神様はダビデのこの祈りを聞き届けては下さいませんでした。神様は、私たちの祈りを聞き届けて下さることもありますが、そうでない時もあります。ダビデは、神様のなさりようを受け入れました。こうなった原因は自分の罪なのです。ダビデは家臣たちに言いました。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところ(陰府、死者の国)に行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」男の子は、自分の父親と母親の身代わりのように死にました。私たちの罪を身代わりに背負って死なれたイエス様を、暗示しているかもしれません。

 次の24、25節は、神様の慰めとも言えます。「ダビデは妻バト・シェバを慰め。彼女のところに行って床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた。主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名付けた。」そもそもが不倫結婚ですから、ダビデとバト・シェバは離婚すべきだという意見も聞いたことがあります。しかし神様は、喜んでではないかもしれませんが、二人の結婚を認められたように思えます。二人は、最初の男の子が死ぬという厳しい報いを受けました。真に痛い思いをして、神様を侮ってはならないことを学ばせられました。それをけじめとして、神様が憐れみをもって、二人の結婚を認めて下さったように見えます。私はウリヤが気の毒だと思うのですが、死んだウリヤのことは、神様にお委ねするほかありません。ダビデとバト・シェバには、神様の憐れみによってソロモンという男の子が与えられました。ダビデが罪を犯し、バト・シェバが罪を犯し、ソロモンも将来罪を犯します。にもかかわらずこの一家が曲がりなりにも成り立って行くのは、ひとえに神様の憐れみによります。私たちも罪ある者です。罪をなくそうと努力しても、罪を完全になくすことができません。そんな私たちも、イエス様の十字架と父なる神様の憐れみのお陰で、まだ生かされています。この神様の憐れみに感謝し、与えられた日々を、神様が与えて下さった務めを果たすために用い尽くして参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。


2016-12-07 20:23:08(水)
「良い羊飼いキリスト」 2016年12月4日(日) アドヴェント(待降節)第2主日礼拝説教
朗読聖書:詩編23編1~6節、ヨハネ福音書10章1~21節。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章11節)。
 
 イエス・キリストが3~5節で、おっしゃいます。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」この羊飼いは、イエス・キリストです。聖書の舞台地であるイスラエルの人々にとって、羊や羊飼いは身近な存在です。羊飼いは、命を張って羊たちを守ります。イスラエルの人々は、羊飼いの姿を見て、神様はまさにこの羊飼いのような方だと実感していたのでしょう。

 当時の羊飼いの仕事は、いわゆる3Kだったと聞きます。「汚い、きつい、危険」の三拍子が揃っていたのです。今でも生き物相手の仕事は、人間中心ではなく、生き物中心になるので、なかなかきついと思います。東久留米教会の前の会堂の台所に、崖から落ちそうになっている一匹の羊を、羊飼いが必死につかんで落ちないようにしている絵が、かかっていたと記憶しています。モーセも少年時代のダビデも羊飼いでした。ダビデは巨人ゴリアテと戦う前にサウル王にこう言いました。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒して来たのですから、あのペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。」

 ここに羊飼いの生活のハードさが表れています。羊を襲うライオンや熊とも戦わなければならないのです。文明生活に慣れた私たちに務まるかどうか疑問です。父なる神様も、神の子イエス・キリストも悪魔の力と戦って、羊(私たち)一匹一匹を守って下さいます。羊たちは羊飼いを全面的に信頼しています。羊飼いは愛と責任をもって羊たちを安全な方向に導きます。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」と、イエス様がおっしゃっている通りです。この場合の「ほかの者」は、イエス様を批判するファリサイ派の人々です。

 7節以下には、「イエスは良い羊飼い」との小見出しがつけられています。恵み深い御言葉です。イエス様は言われます。(10~11節)「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ヨハネによる福音書でイエス様はよく、「わたしは~である」と宣言なさいます。「わたしは~である」が原語のギリシア語で「エゴー・エイミー」です。英語の「アイ・アム」と同じ意味です。この「エゴー・エイミー」は、出エジプト記3章14節で、神様が自己紹介しておられる御言葉と深く一致します。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしあなたたちに遣わされたのだと。』」イエス様が「わたしは~である」とおっしゃるとき、ご自分が全宇宙を創造なさった神ご自身であり、旧約聖書でモーセをイスラエルの人々に遣わした神ご自身だと宣言しておられるのです。そして同時に、ご自分が良い羊飼いであることを宣言しておられます。

 「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」私が牧師になる按手式を受けたのは、1998年の12月です。18年前になります。その時、一緒に按手を受けた神学校の同級生のお母様が、私に色紙をプレゼントして下さいました。そこにはこの御言葉が書かれていました。本当に良い御言葉を書いて下さいました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」今でも保管しています。見るたびに、自分の責任を痛感させられる色紙です。

 (12~13節)「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。―彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」 「私は羊飼いか、あるいは使命感・責任感のない雇い人にすぎないのか。」この御言葉を読むたびに、自分が問われていると感じます。 そして良い羊飼いイエス様は断言されます。(15節)「わたしは羊のために命を捨てる。」(17~18節)「わたしは命を、再び受けるために捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」イエス様は私たちを愛しておられるので、私たちの罪を背負って、進んで十字架に架かって命を捨てて下さいます。ヨハネによる福音書、自ら進んで十字架を背負う、雄々しいイエス・キリストの姿を描いています。

 本日の旧約聖書は、有名な詩編23編です。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
 主はわたしを青草の原に休ませ/ 憩いの水のほとりに伴い
 魂を生き返らせてくださる。」
この羊飼いは、イエス・キリストだと言うことができます。
「死の陰の谷を行くときも/ わたしは災いを恐れない。
 あなたがわたしと共にいてくださる。」
私たちもいずれ、死の陰の谷を行きますが、良い羊飼いイエス様が共にいて下さいます。イエス様が、私たちを死の陰から救い出し、天国に同伴して下さいます。

 私たち東久留米教会は、10月に初代牧師A先生を、天にお送り致しました。先日、ある方から次のようなお手紙が届きました。これを読み、私は先生が本当に良い羊飼いでいらしてことを深く感じました。「幼少の頃より、遠く銀座まで自転車で、『子どもの友』を買いに走って下さったり、教会で可愛がって下さり、洗礼を授けて下さいました。時が流れて、神様から授かった子ども達と、読んだ絵本の多くが、先生が労して届けて下さった作品で、私の中には先生を通して多くの御言葉が流れ、活きているのだなと思います。」

 良い羊飼いである神様・イエス様のお姿は、ルカによる福音書15章のイエス様のたとえ話にも出て参ります。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失った人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」良い羊飼いイエス様は、私たち羊を愛を込めて担いで下さいます。

 私は、マーガレット・パワーズという女性の作品と言われる、「あしあと」という有名な詩を思い出します。この方は、共に歩んで下さっているはずの神様に、疑問をぶつけます。「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしと共に歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしには分かりません。」 神様が応えて下さいます。「わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 良い羊飼いが、今日もこれからも私たちを背負っていて下さいます。このイエス様に信頼して、ご一緒に進みたく思います。アーメン(「真実に、確かに」)。


2016-11-30 19:07:23(水)
「日々新たにされる私たち」 2016年11月13日(日) 聖徒の日・召天者記念日礼拝説教 
 
朗読聖書:コヘレトの言葉12章1~14節、コリント(二)章4章16~5章41節。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(コリントの信徒への手紙(二)4章16節)。

 この手紙を書いたのは、イエス・キリストの弟子・使徒パウロです。最初の16節「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」これは現実です。「外なる人」とは、私たちの肉体・外見と言えます。それは残念ながら次第に衰えます。最近の60代、70代、80代の方々は、以前に比べてずっと若々しいですし、アンチエイジングもはやっていますが、それでも肉体が少しずつ衰えることは避けられません。パウロも同じでした。それでは年齢を重ねることにプラスはないのかと言うと、パウロは「わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」と語ります。「内なる人」とは心とも言えます。一般的には、年齢と共に人格が成熟するということがあります。信仰に生きる人の場合はそれにとどまらず、聖書を読み、祈りを続けてきたことで、神の聖霊によって、ますます満たされ清められます。特に祈りにおいて、神様とますます深く交わるようになります。聖書を読んでも、若い時には気に留めなかった小さな御言葉が心に留まり、その深い意味をしみじみと味わうようになる、と聞いたことがあります。

 そうは言っても、肉体が弱くなる老化が厳しいことであることは事実です。そのことに不安を覚える私たちに、神様は旧約聖書のイザヤ書46章3~4節で、このように語りかけて下さいます。
「あなたたちは生まれた時から負われ
 胎を出た時から担われて来た。
 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
 白髪になるまで、背負って行こう。
 わたしはあなたたちを造った。
 わたしが担い、背負い、救い出す。」
これは神様の、実にありがたい約束です。

 コリント書に戻り、17節「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」艱難は、この世の苦労と思います。パウロの場合は、迫害を受ける苦労もありました。パウロは、艱難は一時的だと言います。この世のどんな苦労も、永久に続くことはありません。でもその渦中にある人は、苦労がいつまでも続くような絶望的な気持ちになることもあります。しかしパウロは、「この世の苦労は永久に続くことはなく、天国では地上の苦しみを全て忘れてしまうほどのすばらしい栄光を、永遠に味わうことができる」と述べます。私たちより先に天国に行かれた方々は、人の言葉で表現できないすばらしい永遠の祝福と慰めの中におられます。

 (18節)「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」私たちはこの目に見える世界に生きていますから、どうしてもこの世界のことばかり考えます。もちろん自分や家族のこと、地域のこと、世界のことに責任をもつことは大切です。私たちは日々、様々な責任を果たす必要があります。でも、私たちの人生は死をもって終わります。それだけならば、一体何のために苦労して生きているのかという疑問や空しさを覚えるのも当然でしょう。でも聖書は、天国、永遠の命の希望があると告げています。神様は、全ての人に天国・永遠の命に入ってほしいと願って、招いておられます。私たちが天国・永遠の命に入ることを願って、神の子イエス・キリストは、私たちの身代わりに十字架に架かって死なれました。私たちは日々、神様に少しずつ逆らって罪を犯していますが、イエス様はその全ての罪の責任を私たちの身代わりにおとりになって、十字架で死なれました。そして三日目に墓を破って復活されました。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ告白する人は皆、天国・永遠の命に入ります。

 ヨハネの黙示録14章13節に、次の慰めの御言葉があります。「また、わたし(著者ヨハネ)が天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と。』“霊”も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」天国に行けば、そこで父なる神様・イエス・キリストと直接お目にかかり、神様を讃美することになります。先に天国に行った方々とも再会して、共に神様を讃美する最高の祝福と安らぎの状態に入ります。

 5章に入り、1~2節。「わたしたちの地上の住みかである幕屋(この肉体)が滅びても、神によって建物(復活の体)が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものでない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みか(復活の体)を上に着たいと切に願って、この地上の幕屋(今の肉体)にあって苦しみもだえています。」東久留米教会は、先月10月14日(金)に、初代牧師であるA先生を天にお送り致しました。A先生が東久留米教会の牧師でいらしたとき、お説教でよく人生の苦しみについて「生老病死」と語られたそうです。「生老病死」は仏教の言葉かもしれませんが、人生にこの4つの苦しみがあるというのです。確かにその通りです。生きること自体がまず苦しみとも言えます。生きている限り、いろいろな悩みが出て来るのですから。そして「老病死」は、私たちにつきまとっています。今の日本では高齢化に伴い、老の苦しみが多くなっているかもしれません。

 私は、旧約聖書のコヘレトの言葉12章を思い起こします。1節は、教会ではよく知られる御言葉です。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」口語訳聖書では、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」です。青年の集会のテーマになることの多い御言葉です。続きがあります。「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」老いることの厳しさを述べています。「年を重ねることに喜びはない」という年齢にならない若い日に、あなたの造り主である神様を知り、神様に帰りなさい、というメッセージです。神様を信じる人生にこそ、真の希望があるからです。神様を信じない人をも、神様は守っておられます。でも神様を信じて、神様に祈りながら生きるほうがずっと恵みです。神様を信じていても試練はあります。しかしそれでも神様に祈りながら、神様との交わりの中で慰めを受け、励まされて生きることができます。

 2節以降は、具体的に体の衰えを比喩を用いて語っているのですね。
「太陽が闇に変わらないうちに/ 月や星の光がうせないうちに。」
これは視力が落ちて、太陽も月も星もよく見えなくなることを述べています。昔は眼鏡もないので、視力のダウンを眼鏡で補うこともできませんでした。
「その日には、家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。」
手足などが震えるようになり、腰が曲がっていくことを述べています。
「粉ひく女の数は減って行き、失われ/ 窓から眺める女の目はかすむ。」
歯が減り、眼がよく見えなくなることを言っています。
「通りでは門が閉ざされ、粉をひく音はやむ。/ 鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。」耳が聞こえにくくなり、声もだんだん低くなることを指すようです。

 このように年齢を重ねることの厳しさを語り、その前に最初の1節で、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と勧めています。どなたでも今後の人生では、今日が一番若いのですから、今日、神様を信じて、神様に祈り、神様を礼拝する、真の希望のある人生に入りたいのです。

 私たちに命を与えて下さった方は、聖書の神様です。命の与え主である神様につながることで、私たちは真の安息と永遠の命を受けます。アゥグスティヌスという昔のクリスチャンは神様に向かって、「あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまで、安んじない」(アウグスティヌス著・服部英次郎訳『告白(上)』岩波書店、2012年、5ページ)と告白しました。まさにその通りです。私たちはご一緒に、主イエス・キリストを救い主と信じて、厳しい現実の中にありつつも、真の希望のある人生を歩ませていただきましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。