日本キリスト教団 東久留米教会

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2016-11-03 14:22:11(木)
「神の思いは命と平和」 2016年10月23日(日) 降誕前第9主日礼拝説教
 
朗読聖書:詩編51章12~14節、ローマの信徒への手紙8章1~17節。
「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(ローマの信徒への手紙8章6節)。

 この手紙を書いたイエス・キリストの弟子・使徒パウロは、本日の直前の7章で、有名な嘆きの言葉を記しています。パウロは、自分が自己中心の罪に満ちていることに気づき、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と嘆きの声をあげます。パウロは自分の原罪を嘆いているとも言えるのです。しかしパウロは、そんな自分を罪から救って下さる方があることを知り、感謝の叫びを上げるのです。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」

 そして本日の8章1節で、パウロは喜びをもってこう断言します。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」キリスト(救い主)であるイエス様に結ばれている者は、罪人(つみびと)として裁かれて滅びに至ることはない、確実に天国に入れていただける。今や間違いなくそうだ。イエス・キリストに結ばれている者は、特に洗礼によって結ばれている者は、神様から永遠の救いをいただいている。

 (2節)「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」ここに2つの法則が出て来ます。1つは、「キリスト・イエスによって命(永遠の命)をもたらす霊の法則」、言い換えると「恵みの法則」、これが新約聖書の福音です。これは、パウロ自身のローマの信徒への手紙5章16節の言葉を借りると、次のような法則です。「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される。」イエス様が、世界の全ての人の罪を背負って十字架で死んで下さったお陰で、イエス様を信じる人は、全ての罪の帳消しの恵みを自分のものにすることができる、ということです。これが「霊の法則」、「恵みの法則」です。イエス様の十字架のお陰で、私たちの全ての罪が帳消しにされるという驚嘆すべき恵み、あの有名な讃美歌の題によって語るならば、「アメイジング グレイス」です。私たちはこの偉大な恵みに生かされているのですから、本当に感謝です。

 もう1つの法則は、「罪と死との法則」です。これは旧約聖書の律法の法則です。旧約聖書には、モーセの十戒をはじめとする神様の様々な律法・掟が記されています。私たちがこの律法を守り行うことによって天国に行こうとするのであれば、私たちはすべての律法・掟を常に100%守り行うことが必要です。100点だけが合格で、99点でも落第です。真に厳しい世界です。


 それは、このローマの信徒への手紙5章16節の御言葉を借りるならば、「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されます」ということです。私が一つの罪でも犯せば、私の全体が有罪の宣告を受けるのです。これが旧約聖書の律法の法則です。まさに「罪と死との法則」です。旧約とは、神様とその民との間の古い契約、新約とは、神様とその民(私たち)との間の新しい契約です。古い契約では、私たちは救われることができません。新しい契約によってこそ、私たちが救われることができます。

 (3節)「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉(私たち肉体をもち、罪に汚れた人間のこと)同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」 「肉の弱さのために律法がなしえなかったこと」ですが、「肉」は「霊」の反対語です。「肉」は「自己中心の罪」のことです。その反対の「霊」は、「自己中心でなく、神と人を愛することができること」です。「肉の弱さのために律法がなしえなかった」とは、私たちが罪深くて誘惑に弱く、肉体も弱く、意志も弱いために律法を完全に守ることができず、自力では救われることができないこと、旧約聖書の律法が与えられただけでは私たちが救われることができないこと、です。しかし神様は、私たちに救いの恵みを与えて下さいます。私たち罪人(つみびと)の罪を取り除くために、御子イエス・キリストを「罪深い肉と同じ姿」つまり、罪深い私たち人間と同じ肉体をもつ人間として、この地上に生れさせなさったのです。但し、私たちと決定的に違うことは、イエス様には全然罪がないことです。そうでないと救い主になることは、できません。

 「その肉において罪を罪として処断されたのです。」神様の前に私たち人間の罪が赦されるためには、全く罪のない神の子が肉体をもつ人間となり、肉体を十字架に架けられて、私たちの身代わりに裁かれて死ぬしか道がありません。父なる神様は、最も愛する神の子イエス様を身代わりに裁くことで、私たちの罪を全部裁かれたのです。父なる神様は、断固たる意思をもって、このことを成し遂げられたのです。イエス様は、集中砲火のような裁きの苦難を耐え通されたのです。お陰で、私たちが天国に行く道が切り開かれました。

 私が、聖日礼拝で初めて説教させていただいたのは、神学生であった1993年の夏、夏期伝道実習で派遣された教会においてです。確か2回目の説教で、この8章3節を引用致しました。そこの教会の先生は、私にこのように書いて下さったと記憶しています。「よい説教の条件は、首尾一貫していること、一文が短いこと、高校生に分かること、などだと思います。」その教会では、高校生になると教会学校ではなく大人の礼拝に出席することになっていました。8章3節の「処断された」を私はそのまま話したのですが、先生は「難しい言葉だ」と感じられたのです。高校生に必ず分かるように、分かり易く言い換える工夫が必要だったのでしょう。8章3節の「処断された」には、このような個人的な思い出があります。

 (4節)「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」「律法の要求」とは、罪が全て裁かれることです。律法は私たちに、100%の清さを要求し、清くない部分(つまり罪)が余すところなく完璧に裁かれることを要求します。律法は、真に厳しい検察官のような存在です。この律法の厳しい要求が、完全に満たされたのです。イエス様が全ての人間の全ての罪への裁きを身代わりに受けたことで、律法の要求は100%満たされたのです。律法という検察官は、人間の全部の罪が完璧に裁かれたので、要求が満たされ、今や満足しています。私たちは、「罪と死と律法の法則・支配」から解放されたのです。

 (5節)「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」「肉に従って歩む」とは、「自己中心に歩む、罪の道を歩む」ことで、死と滅びに至ります。「霊に従って歩む」とは、「神様と隣人を愛して歩む、イエス様に従って歩む」ことで、永遠の命に至ります。(6節)「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」「肉の思いは死」とは、肉の思い・自己中心の思いと生き方は死と滅びに至るということです。「霊の思いは命と平和」、本日の説教題はここからとりました。「霊」は「神の霊」である聖霊とも言えます。聖霊は三位一体の神様です。そこで「霊の思いは命と平和」を少し変えて(意味はほとんど同じ)「神の思いは命と平和」という題にしました。私たちも神様に導かれて、「命と平和」を愛する生き方をしたいのです。

 (7節)「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。」「肉の思い」つまり、罪深い思いに従って罪を犯しながら生きる人は、神に敵対している、とパウロは本当のことを語ります。罪を犯すことは、神様に逆らうこと、神様に敵対することです。そのまま進むならば、滅びに至る不幸な生き方です。神様に敵対する生き方が、神様は喜ばれません。私たちは、そのような生き方をやめて、神様に従う方向へ生き方を転換することが必要です。ルカによる福音書15章の、あの放蕩息子と同じようにです。  
 
 (9節)「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」神の霊とは聖霊です。ここでキリストの霊とも呼ばれます。ここに神(父なる神)と聖霊とキリストのことが語られます。三位一体の神様のことが語られています。次週10月30日(日)は、東久留米教会の修養会です。テーマは、「三位一体の神」です。ここで神(父なる神)、聖霊、キリストのことが語られます。三位一体の神のことが語られていると言えます。神の霊・キリストの霊である聖霊が私たちの内に宿っておられるなら、私たちはキリストに属しています。悪魔の支配下ではなく、キリストの愛の支配下におり、死んでも天国に移されることがはっきりしています。私たちの内に聖霊が宿っておられるなら、私たちは今既に永遠の命の確かな希望の内にいます。鍵は、聖霊が宿っておられるかどうかです。聖霊は目に見えませんが、確かに生きて働いておられるキリストの生ける霊です。私たちは、イエス・キリストを自分の救い主と信じて自分の罪を悔い改めるなら、聖霊を受けます。洗礼を受けると、なおよいのです。イエス様を救い主と信じ告白して洗礼を受けると、聖霊を受け、神様から永遠の命をいただきます。

 繰り返しますが、聖霊は神の霊、キリストの霊であり、人格を持つ三位一体の神ご自身です。世界には、世界の全てを創造なさった神様と、神様に造られたもの(被造物)の2つの存在しかありません。中間の存在はありません。世界とその中の全てを造られた神と、神に造られたもの(被造物)だけが、この世界に存在しています。聖霊は神の霊とはっきり書かれています。神に造られたものではありません。聖霊は神に造られたものでない以上、世界をお造りになった神ご自身です。聖霊は、私たちの礼拝の対象です。

 最も恐れ多いことに、キリストを信じる人には、この尊い生ける聖霊が住んでいて下さいます。聖霊が住んで下さっているお陰で、私たちは神の子とされています。完全な神の子はイエス・キリストお一人ですが、私たちイエス様を信じる者たちも、父なる神様に愛され、神様の霊の家族の中で、イエス様の妹や弟とされています。私どもが敬愛する東久留米教会の初代牧師A先生が、先日、天に召されました。A先生は、ご自身と私たちの内に、神の霊である聖霊が住んで下さっていることに、心震える光栄を感じておられました。お説教の中で、そう語られたことを、私ははっきり覚えています。本日の旧約聖書・詩編51編の12節には、「神よ、わたしの内に清い心を創造し/ 新しく確かな霊を授けてください」とあります。神様は、イエス様を救い主と信じる人の内に、「清い心」の源である聖霊・「新しく確かな霊」である聖霊を授けて下さいました。このような最高の宝をいただいていることに感謝し、聖なる神様の御名を限りなく讃美して参りましょう。アーメン(「真実に」)。

2016-10-20 21:56:28(木)
「神様にそむいたダビデ」 2016年10月16日(日) 聖霊降臨節第23主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記・下11章1~27節、マタイ福音書5章27~30節。
「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」(サムエル記・下11章27節)。

 若い頃のダビデは、将来イスラエルの王になることは決まっていましたが、サウル王に命を狙われて逃げ回る日々を過ごし、苦労を重ねました。しかし今やそのサウル王も、ペリシテ人との戦いの中で戦死しました。そしてダビデはエルサレムに移り、全イスラエルの王になりました。そして十戒を刻んだ二枚の石の板を納めた神の箱を、(一回目は失敗しましたが)二回目にエルサレムに運び入れることに成功しました。そして神様は、預言者ナタンを通して恵みの約束を与えて下さいました。ダビデの子孫たちが王の位を受け継いで行き、ダビデの王国が長く続くという約束です。ダビデは絶頂の時を迎えたと言えるのです。そこでダビデは、生涯最大の罪を犯してしまいます。本日のサムエル記(下)11章は、ダビデの生涯最大の汚点、スキャンダルを、少しも隠さないで赤裸々に書いている箇所です。

 (1節)「年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下に置いた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。」これまでのダビデなら、自分で出陣したのです。国のため、民のため、わき目もふらずに、率先して働きました。しかし今や自分は安全な首都エルサレムにとどまっていて、部下に命令だけすれば、部下が戦ってくれる状況になっていました。余裕ができることは多くの場合、よいことです。しかし余裕と暇ができすぎると、気持がだらける恐れもあります。ダビデの場合は、そうなってしまったのです。「小人(しょうじん)閑居(かんきょ)して不善をなす」という言葉があります。「小人は暇でいると、とかくよくないことをする」の意味です。人にとって、ある意味で最高の幸せは、本職に打ち込んでいる時です。ダビデなら、王としての職務に懸命に打ち込むことが本人にとっても、民にとっても最高の幸せです。しかし変に余裕が出来てしまったことが、ダビデにとって罠となりました。ここに悪魔は出て来ないように見えますが、悪魔が暗躍しています。ダビデは、悪魔の誘惑にかかって、大きな罪を犯してしまうのです。ダビデの生涯最大の汚点です。

 (2節)「ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。」目は罪深いものかもしれません。私たちの目はいろいろなものを見て刺激を受け、よくないことを考えるきっかけになることがあります。本日の新約聖書は、マタイによる福音書5章27節以下です。イエス・キリストの「山上の説教」の一部として、よく知られる御言葉です。徹底した御言葉です。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。」その通りで、旧約聖書のモーセの十戒の第六の戒めに「姦淫してはならない」とはっきり書かれています。姦淫とは、結婚以外の男女の性的関係です。今の言葉では不倫が一番近いでしょう。「姦淫の行為だけが悪いのではなく、心の中の姦淫もある。それも神様の基準では確かな罪だ。」そうイエス様は教えて下さいます。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と(十戒で)命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」口語訳聖書では、「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」「心の中の姦淫も、もちろん罪だ」とイエス様は明言されます。ダビデも、ここからスタートしたのではないでしょうか。それが行為にまで発展し、行動での姦淫になってしまい、神様の厳粛な戒めである十戒を、あからさまに破ってしまったのです。

 イエス様は、厳しく言われます。「もし、右の目があなたをつまずかせる(=罪を犯させる)なら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」 本当にその通りに実行した人もいたそうです。諭されて、自分の指を切って暴力団を抜けた少年もいたそうです。旧約聖書にヨブ記という書物があり、そこにヨブという真に清く正しく生きた人が登場します。ヨブは、ほとんどイエス様がおっしゃる通りに生きた人です。ヨブは、ヨブ記31章でこう述べます。「わたしは自分の目と契約を結んでいるのに(約束しているのに、の意味でしょう)/ どうしておとめに目を注いだりしようか。」女性にじっと目を注ぐことはしないと言っているのです。さらにこう言います。「わたしが隣人の妻に心奪われたり、門で待ち伏せしたりしたことは、決してない。もしあるというなら、わたしの妻が他人のために粉をひき、よその男に犯されてもよい。それは恥ずべき行為であり、裁かれるべき罪なのだから。」ヨブはダビデよりずっと立派な人物ですね。

 サムエル記・下に戻ります。ダビデは、この女性に目を留めてしまいました。そこでやめずに、深みにはまってゆきます。(3節)ダビデは使いの者をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムのバト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。」人の妻だと分かったのですから、すぐ忘れるべきです。しかしダビデは次の行動に進んでしまうのです。あさましい欲望です。十戒の最後の戒めには、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」とありますが、ダビデは明らかにこの戒めをも破っています。バト・シェバの夫は、へト人ウリヤと書いてあるので、ウリヤは異邦人(イスラエル人でない人)と思っていましたが、ある人によるとヘト人は彼の先祖ではないかとことです。ウリヤという名前は、「ヤハウエ(神の御名)は光」の意味だそうです。実に信仰深い名前です。ウリヤはヘト人の子孫であるが、もう事実上イスラエル人と呼んでよいようです。ウリヤは「ヤハウエ(神の御名)は光」の名前にふさわしく、真の神様への純粋で忠実な信仰を抱く男です。

 (4~5節)「ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、『子を宿しました』と知らせた。」ダビデにしてみれば、一回限りのことにして隠し、あとはすっかり忘れようと考えたのでしょう。しかしそうは問屋がおろしませんでした。人間の性は、神様からの大きな祝福です。それは結婚の中でのみ許されています。姦淫、不倫は罪です。但し姦淫、不倫で身ごもった場合も、生まれてくる子どもに責任はありません。「子を宿しました」と聞いて、ダビデは青くなり慌てたに違いありません。このままでは自分とバト・シェバが、姦通の罪を犯したことが暴露されてしまうからです。

 ダビデは戦況を心配しているふりをして、ウリヤを戦場から呼び戻します。何とかしてウリヤを夜、家に帰らせたいのです。ダビデの罪を隠ぺいするためです。後ろめたいダビデは、ウリヤに贈り物をします。しかしウリヤは実に見上げた男、忠実な家臣で、家に帰らないのです。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます(誓いをする時の言い方)。わたしには、そのようなことはできません。」ダビデはなお、ウリヤを酔わせるなどして、ウリヤを自宅に帰らせようと試みますが、ウリヤは帰りません。実はウリヤを通して、神様がダビデに抵抗しておられるのです。

 ダビデは、恐るべきことにウリヤ亡き者にする計画を立てます。悪魔の計画です。(14~15節)「翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。書状には、『ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ』と書かれていた。」ダビデは、この書状をこともあろうにウリヤに持たせて運ばせます。命令は実行され、ウリヤは戦死します。ウリヤは本当に気の毒です。忠実を尽くした主君に裏切られ、妻にも裏切られたと言えます。一方的な被害者です。権力者のわがままの犠牲にされました。誰にも納得できない、不条理きわまりない出来事です。私は神様がウリヤをきっと天国に連れて行って下さったと信じたいのです。

 ヨアブはダビデに使者を送り、報告します。「王の僕ヘト人ウリヤも死にました。」ダビデとヨアブだけに分かるメッセージです。ダビデは使者に言います。「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない。剣があればだれかが餌食になる。奮戦して町を滅ぼせ。』そう言って彼を励ませ。」ダビデはこう思ったでしょう。「これで秘密が漏れる恐れはない。」完全犯罪が達成されたはずでした。「ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。」本心かどうか、少々疑わしいですね。「喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。」悪の計画がすべてうまくいったように見えました。しかし、ダビデは神様を計算に入れていなかったのではないでしょうか。神はじっと見ておられました。「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。」神様の御心に適うか、適わないか。これが最も重要なことと痛感させられます。私たちは、神様の御心に適うことを行うように、いつも心がけたいのです。ダビデのしたことは、神様の御心に適いませんでした。神様を舐めると、痛い目に遭います。

 ガラテヤの信徒への手紙6章7節以下に、こうあります。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」

 ダビデも、自分の蒔いた悪の種を刈り取る結果になりました。バト・シェバとの間に生まれた男の子は、生まれて七日目に死にます。この子に責任はないのですが、ダビデ(とバト・シェバ)の身代わりにように、神に打たれて死にます。ダビデは罪を自覚し、悔い改めたはずです。そこでダビデの罪は赦されました。ダビデとバト・シェバの間に次の男の子ソロモンが生まれます。ソロモンは次の王になります。こうしてダビデは基本的には祝福を受け続けますが、悪の報いも受けます。自分の息子の一人アブサロムに反逆され、アブサロムのために一時エルサレムを追われます。そしてアブサロムの軍と戦い、アブサロムは死にます。これはダビデにとって大きな苦しみです。しかしダビデの基本的な祝福は失われず、彼はソロモンが後を継いだことを確認して、人生を終えるのです。

 マタイによる福音書の冒頭のイエス様の系図に、姦淫の罪を犯したダビデとバト・シェバが出ています。ダビデとバト・シェバは、イエス様の父となったヨセフの先祖なのです。ヨセフはこの二人の血を受け継いでいます。そして、イエス様はダビデとバト・シェバの姦淫の罪をも背負って、十字架にかかって下さったと思うのです。私・私どもの罪も、ただイエス様の十字架の犠牲の死のゆえに赦されています。この事実への感謝を改めて心に刻み、イエス様の愛を言葉と行いで証ししつつ、生きて参りたいのです。アーメン(「真実に」)。


2016-10-12 19:53:14(水)
「全世界を手に入れても、むなしい」 2016年10月9日(日) 聖霊降臨節第22主日礼拝説教
朗読聖書:詩編49編6~21節、マタイによる福音書16章21~28節。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ福音書9章3節)。

 この直前の箇所は、イエス・キリストの一番弟子・シモン・ペトロが、正しい信仰告白を行った箇所です。ペトロはイエス様に向かって言ったのです。「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です」と。するとイエス様はお喜びになり、非常に重要なことを語られました。「シモン・バルヨナ(ヨナの息子シモン)、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ(岩の意味)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」これは、ペトロに代表される教会に、イエス・キリストが天国の鍵を授けて下さるという、重大な宣言です。

 バークレーという聖書学者によると、「つなぐ」とは、「あることが禁じられていることを宣言すること」だそうです。「解く」とは、「あることが許されていることを宣言すること」だそうです。つまり教会は、ある人が神様のご意志に背いて罪を犯しているのを見た場合、「それは罪ですよ。行ってはなりません」と「ノー」を宣言する義務があります。そして教会は、ある人が神様のご意志と一致する善いことを行っているのを見た場合は、「それは神様に喜ばれる善いことですよ」と「イエス」を宣言する権威を与えられています。神様のご意志に従って、洗礼式と聖餐式を執り行う権威をも、委ねられています。教会は、天国の鍵、永遠の命への鍵という、最も重要な鍵を委ねられているのです。大きな責任です。この鍵を、祈りと怖れをもって行使することが必要です。

 そして本日の21節です。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」「始められた」とありますから、それまでそのようなことは一切おっしゃらなかったのです。今初めて、ご自分が苦難を受けるメシア(救い主)であられることを、最も愛する弟子たちに、「実はこうなんだよ」と打ち明け始められたのです。弟子たちも、ほかのイスラエル人たちも、メシア(救い主)は、栄光に輝く勝利者だと考えていました。ローマ帝国と軍事的に戦ってイスラエル民族の独立を勝ち取ってくれる英雄だと考えていたはずです。メシアが苦難を受けて殺されるとは、全く考えていなかったはずです。苦難を受け、殺されるのであれば敗北だと、彼らは考えました。メシアが敗北するなど、全くあり得ないと信じきっていたと思います。

 ですから、ペトロはびっくりして、イエス様をわきへお連れしていさめ始める行動に出ました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」ペトロは、善意で言ったのです。ペトロは気づきませんでした、自分がイエス様を誘惑していることを。人間の善意が必ずしも、神様のご意志と一致するとは限りません。ペトロは、知らず知らずのうちにサタンの使い、悪魔の使いになっており、イエス様をソフトな言葉で誘惑していたのです。悪魔がいかにも悪魔の姿形でやって来れば、誰でもすぐに見破るのです。ところが悪魔は、善意で親切な人の恰好でやって来ることが多いのではないでしょうか。ペトロも自分で気づかないうちに、イエス様の道を誤らせ、堕落させようとする悪魔になっていたのです。私たち人間は、神様を知る者として非常に崇高な行いをすることもあれば、悪魔のように堕落してしまうこともあるのです。ですからいつも自分によく気を付けている必要があります。

 イエス様は、目に見えない悪魔がペトロを通して、ご自分を強烈に誘惑していることに即座に気づかれました。すぐに振り向いてペトロを厳しく叱責されたのです。(23節)「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5:29)。イエス様の使命は、私たち全ての人間の全ての罪を背負って十字架にかかることです。イエス様はその使命を、ここで初めて弟子たちに打ち明けられたのです。ところが、つい先ほどイエス様に、「あなたはメシア、生ける神の子です」と模範的な信仰告白をしたペトロが、「イエス様、あなたが苦難を受けて殺されるなんてとんでもないことです」とイエス様を諌めて、叱責されてしまいました。ペトロの信仰告白は言葉の上では正しいものでしたが、イエス様が十字架にかかるメシアであるという最も大切な点を、全く分かっていなかったのです。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。」「邪魔」は、元の言葉で「スカンダロン」です。「つまづき」の意味です。英語のスキャンダルという言葉の元になった言葉です。イエス様は、悪魔の策略を見破ったのです。イエス様が、使命を果たすために、まっすぐに十字架に向かう決意を固めておられるのに、ペトロがその決心をぐらつかせようとしたのです。「イエス様、そんな困難な道に進むことはありませんよ。もっと楽な道を歩みなさい」というペトロの言葉は、実は強烈な誘惑でした。私たちだったら、「それもそうかな」と、ペトロの言葉に乗ってしまったかもしれませんね。しかしイエス様は、悪魔の巧妙な誘惑であることを、即座に見抜かれ、きっぱりと、決然と退けられました。「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 「ちいろば先生」として知られる、1976年に天国に行かれた榎本保郎牧師が、ご夫人にプロポーズされた手紙は、次のような文面だったそうです。「男子が十字架に上がらんとする時、女子は愛する者を十字架に押し上げる。そこにこそ崇高な恋愛があるとぼくは思います。決して十字架から引きずりおろしてはなりません。和子さん、あなたの信仰ならば、それができると思います」(三浦綾子著『ちいろば先生物語』朝日新聞社)。神に従うことを第一とした榎本先生の信仰に、改めて感服します。

 それから弟子たちに言われました。これはもちろん、私たちにも向けられた招きの言葉です。(24~25節)「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」「自分の命を救いたいと思う者」とは、「自分の欲望を満たすことを最優先に、ひたすら自己中心に生きる人」でしょう。その人は多くの罪を犯し、永遠の命に入れなくなります。「わたしのために命を失う者」とは、「イエス様に従って、罪を悔い改めながら清く正しく生きたために、迫害を受けるなどしてこの世では報われずに一生を終える人」です。その人は、この世では無名で報われないとしても、永遠の命と天国という最高の祝福を受けます。私たちも、どちらの生き方をするか、問われています。イエス様は、イエス様に従うようにと、私たちを招いておられます。イエス様に従う道は、必ずしも楽な道ではないでしょうが、しかし確実に永遠の命と天国に至る、真の祝福の道です。

 (26節)「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。日本に1549年にイエス・キリストを初めて伝えたフランシスコ・ザビエルは、この「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」の御言葉に心を強く打たれて、東洋への宣教を決意したと言います。ザビエルに東洋宣教を決意させたもう1つの御言葉は、マルコによる福音書16章15節のイエス様の御言葉、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」です。ザビエルこの2つの御言葉から、自分への神様の呼びかけを聴き取ったのです。本日は神学校日。今も聖書のいろいろな御言葉を通して、神様が伝道者になる人々を召し出しておられます。いわゆる牧師・宣教師になるのでなくても、神様がこれらの御言葉によって、私たちをクリスチャンになるように今招いておられます。この招きにお応えしましょう。神様が喜んで下さいます。「人はたとえ大きな権力と必要以上のお金を手に入れても、永遠の命に入ることができなかったら、何の意味もない。」その通りです。イエス様の弟子・使徒パウロも言っています。「この世の有様は過ぎ去る」(コリントの信徒への手紙(一)7:31)。この世の人生はもちろん大切ですが、一時的です。永遠の命は、時間を超越した命、全く罪のない命、完全な愛の命です。

 本日の旧約聖書は、詩編49編6節以下です。8,9節にこうあります。
「神に対して、人は兄弟をも贖い得ない。/ 神に身代金を払うことはできない。
 魂を贖う値は高く/ とこしえに、払い終えることはない。」
10億円や1兆円を積んでも、神様の前で私たちの罪を赦していただくことはできません。永遠の命を買い取ることもできません。私たちの魂を贖って下さる方は、宇宙広しと言えども、ただイエス・キリストお一人です。イエス様の十字架の死だけが、私たちの罪を赦す力をもっています。罪人(つみびと)である私たちが、自分の兄弟や家族のために十字架にかかったとしても、それによって私たちの兄弟や家族の罪が、神様の前に赦されるものではありません。私たち罪人(つみびと)が死ぬだけでは、全く不十分です。罪が全然ない、完全に清い神の子が十字架に死ぬことで初めて、世界の全ての人間の全ての罪が赦されることができたのです。

 6~7節に、「どうして恐れることがあろうか/ 財宝を頼みとし、富の力を誇る者を」とあり、私はこれを読んで、26人のキリシタンを長崎で死刑にした豊臣秀吉を思いました。その時代に日本で宣教したルイス・フロイス神父は、当時の日本の様子を詳しく記した『日本史』という貴重な書物を残しています。その中でフロイスは、豊臣秀吉を何回も「暴君、暴君」と呼んでいます。横暴な悪い権力者という印象です。秀吉がキリシタンを迫害したからそう書いたと言えますが、やはり権力を握って相当勝手なことを行っていたからでしょう。日本史のヒーローですが、実際にはかなりひどいことをしています。特に悪いことは朝鮮半島を二度も侵略したことです。それで多くの向こうの人と日本の兵士が死にました。権力と財宝を頼みとし、キリシタンや多くの人を殺しました。最後は、「露と落ち露と消へにし我が身かな 難波のことも夢のまた夢」という辞世を残して亡くなりました。天国に入ることができたかどうかは、疑問です。「全世界を手に入れても、自分の命を失った」人の典型かもしれないのです。反対に、殉教したキリシタンたちは、地上の全てを失いましたが、確実に永遠の命を受けました。鮮やかなほどに対照的なのです。
 
 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」ロシアの文豪・トルストイに『人にはどれほどの土地がいるか』という短編があります(岩波文庫『イワンのばか 他八篇』所収)。大人にも子どもにもよく分かる実に印象的な物語で、おとといも保育園の礼拝で話しました。パホームという男性が、少しの土地で満足できなくなっていた時に、耳よりな話を聞きます。朝出発して一日中歩きまわって、日没までに元の地点に戻って来れば、歩いた土地全部が手に入るというのです。その話を持ち込んだのは、実は悪魔でした。彼は欲張って、できるだけ多く歩きます。昼を過ぎると、太陽はどんどん沈み始めます。彼は全力で走って、一旦諦めますが、悪魔(パホームは悪魔と気づいていない)に励まされ、必死に走って何とか日没に間に合ったのです。しかし彼の心臓は止まってしまいました。墓穴が掘られ、彼は葬られます。タイトルは『人にはどれほどの土地いるか』、必要な土地は墓穴の分だけだったという、皮肉な結末です。

 新聞の読書欄だったと思いますが、ある若い女性が、以前読んだ本の中で、印象に残った本として挙げていました。ハッピーエンドでない終わり方が、強く印象に残ったらしいのです。トルストイは、先ほどの詩編49編、その12節からこの物語を考えたのではないでしょうか。「自分の名を付けた地所を持っていても、その土の底だけが彼らのとこしえの家。」そしてマタイ福音書16章26節です。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」この世の富・地位・名誉に、心を惹かれる私たちかもしれません。しかしイエス様に助けていただいて悪魔の誘惑を退け、神様に従うことを第一として、生きて参りたいのです。アーメン(「真実に」)。

2016-10-07 1:08:54(金)
「神のわざが現れるため」 2016年10月2日(日) 聖霊降臨節第21主日礼拝説教
朗読聖書:創世記45章4~8節、ヨハネによる福音書9章1~17節。
「神の業がこの人の上に現れるためである」(ヨハネ福音書9章3節)。

 (1節)「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」生まれつき目が見えないことは、大きな試練です。イエス様の時代は、目の病気が多かったと聞きます。その頃、目の見えない方が生計を立てて独立することは、ほとんどできなかったでしょう。この人も、座って物乞いをしていたのです。この夏、東京の地下鉄のある駅で、視覚障碍を持つ方がホームに転落して亡くなる真に痛ましい事故がありました。私が暫く前に、東久留米近くの武蔵野線の新秋津駅におりました時、視覚障碍の方々を支援する人々が、ちらしを配っていました。西武池袋線の秋津駅と武蔵野線の新秋津駅の間に道路に、点字ブロックを設置することが決まったので、今後その点字ブロックの所を視覚障碍の方々が歩くので、ほかの皆さんはそこをふさがないで歩いてほしい、という要望だったと記憶しています。目の不自由な方が道を歩くことは、確かに危険を伴います。誰でも中途失明する可能性はあるのですから、他人事ではありません。

 (2~3節)「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」 この御言葉は、この時以来、今に至るまで多くのご病人を励まして来た光の言葉です。イエス様の時代のユダヤ人は、「神様に従えば祝福を受け、神様に逆らって罪を犯せば裁きを受ける」と信じていました。この考え方には正しい面もありますが、あまり機械的にこの考え方だけで物事を判断すると、間違えることがあります。罪を犯した結果、病気になることもあります。でもいろいろ罪を犯していても体が病気にならない人もいますし、逆に、特に大きな罪を犯したのではないが体が病気になる人もおられます。この目の不自由な方の場合は、後者だったのです。誰が大きな罪を犯したのでないが目が見えない状態で生まれて来たのです。旧約聖書のヨブが似ています。ヨブも厳密な意味では罪人(つみびと)の一人ですが、当時のほかの誰も真似ができないほど、清く正しく生きていました。そのことを誇って特に傲慢になっていたのでもありません。しかし、実に辛い試練の数々がヨブを襲ったのです。それはヨブが罪を犯した結果ではありません。ヨハネ福音書9章の目が見えない人も同じです。イエス様の弟子たちも、当時の通俗的な考えに染まっていたので、こう質問したのです。「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか。」

 イエス様は、通俗的な浅い考えを打ち破る、深い真理を語られます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」「神の業」を「神の栄光」と言い換えてもよいでしょう。「神の栄光がこの人に現れるためである。」ヨブが数々の試練を受けたのも、この人が生まれつき目が見えないのも、決して天罰ではありません。何か、神様の深いお考え、深い目的があるのです。それが何かは、すぐには分からないこともあると思います。それを神秘と呼ぶこともできます。神秘は、神の秘密と書きます。神の秘密に迫るには、神様に深く祈り続けることこそ、最も必要ではないでしょうか。神様ご自身が、最愛の独り子の十字架の死の悲しみを忍耐なさった方ですから、私どもの心の痛みを十分お分かり下さいます。

 「神の業がこの人に現れるためである。」この盲人の場合、イエス様の愛の奇跡によって目が見えるようになったことが、直接の神の業でした。(4~7節)「『わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。』こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム―「遣わされた者」という意味―の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」彼は肉眼が見えるようになったのです。イエス様の愛の奇跡です(高田馬場に日本基督教団シロアム教会という教会があります。目のご不自由な牧師が設立なさった教会です)。

 そしてこの盲人の場合、もっと深い神のみわざは、彼がイエス様を救い主と信じたことです。彼の心の目が開かれたのです。本日は17節までしか読みませんでしたが、この話の終わりの方で、イエス様が彼に「あなたは人の子を信じるか」とお問いになります。人の子とは、イスラエルで世の終わりに来ると信じられていた存在で、救い主のことと言ってよいと思います。盲人は言います。「主よ、その方はどんな方ですか。その方を信じたいのですが。」するとイエス様は言われます。「あなたと話しているのが、その人だ。」彼は、「主よ、信じます」と言ってひざまずいたのです。この人には、イエス様を救い主、神の子と信じる信仰が与えられました。これこそ、神のもっと大きなみわざです。肉眼が開くこともすばらしいことですが、イエス様を救い主と信じる信仰は、永遠の命という最大の祝福に至るので、もっとすばらしいことです。

 この9章を読むと、東久留米教会員で今は天国におられるAさんを思い出します。Aさんは、今から35年前の1981年に発行された『東久留米教会20周年記念誌』に、このように書いておられます。題は「信仰のすばらしさ」です。「私は生まれながらの盲人である。これは家族にとっても、大変不幸なことである。最初の頃は、0.5ぐらい視力があって、きれいな絵本なども見ることができた。両親は、私の将来を考え、何か早いうちに職業を身につけさせたいと願い、六才の六月六日からお琴を習わせてくれた。~多少視力があったので小学校に一学期だけ通ったが、やはりみんなと共に行動ができないのでやめて、もっぱらお琴の修業に努めた。十二才の時、父の転勤で愛媛県の松山に住むようになった。そこではじめて盲学校に入学して二年間楽しい生活を続けた。そして十四才の春、東京に帰り、今の筑波大附属盲学校に入学した。 

 その頃、盲人の牧師さんが日曜学校を開いて、多勢の盲児が通っていた。私も誘われて教会に通うようになったのが、神様を知ったはじめであった。その後戦争で教会も閉鎖になり、というより牧師さんが交通事故で亡くなり、みんなも疎開などで方々に散らされて行った。終戦後は、教会もなく信仰も薄れてしまった。~私は昭和48年頃、父の死で大きなショックを受けて健康を害し、入院した。退院後、何とか教会に行きたいと思い、電話で調べて目白教会と連絡がとれ、五月頃から教会の方が送り迎えをして下さった。私の家は創価学会に入っていたので、この宗教を選ぶのは相当な勇気がいることであった。49年のイースターに洗礼を受け、長年住み慣れた目白をあとに東久留米に転居した。すぐに東久留米教会に行くことができたが、ここでまた健康を害し5ヶ月間入院生活を送った。病の床にあっても静かに祈った。

 それ以後は心身共に健康になった。聖書の一節に、「イエスが道を通っておられる時一人の盲人を見た。弟子は『先生、この人が盲人なのは親の罪ですか、それとも本人の罪ですか。』するとイエスは、『親の罪でもなく、また本人の罪でもない。ただ神のみわざの現れるためだ』と言われた」と記されている。私がこうして好きなお琴の道を一筋に歩めるのも、みんな神様のみわざの現れであると信じている。肉眼は見えなくとも心眼を見開き、幾度か病に犯されながら、私の心身はすばらしい信仰によって色々な分野に活躍できることは大きな喜びである。~多くの方々の善意も、神様がお与え下さった賜物である。虫しぐれする秋の夜、改めて信仰のすばらしさを胸に秘めて、つたなき筆を置かせていただきます。」

 そう言えば、イエス様の弟子・使徒パウロも一旦、目が見えなくなりました。パウロはファリサイ派中のファリサイ派で、自分には真理がよく見えていると自信を持っていました。そしてクリスチャンを目の敵にして迫害していました。そうすることこそ、神様に喜ばれることと信じていたのです。ところが復活のイエス様に出会った時、パウロは天からの光に照らされて三日間、目が見えなくなります。アナニアというクリスチャンが彼の上に手を置いて祈ると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、彼は元通り見えるようになり、身を起して洗礼を受け、食事をして元気を取り戻します。そしてイエス様こそ神の子であると確信して、伝道を始めます。それまでは、うろこのようなものによって心の目が閉ざされ、イエス様が救い主だと分からなかったのです。しかし今や、肉眼だけでなく、心の目も開き、イエス様こそ救い主であることが見えるようになりました。肉眼が開くよりも、そのことの方が大切だったのです。

 沖縄ご出身の新垣勉さんというテノール歌手の方を思い出します。「オンリーワンの人生」を提唱なさった方として、12、3年前はNHKなどにも出ておられました。新垣勉さんは、沖縄県読谷村に、米兵の父と日本人の母の間に誕生されました。生後間もなく、助産婦が目薬と劇薬を間違えたため、失明されます。ご両親の離婚、父の帰国により祖母の下で成長されますが、14歳のときに祖母を亡くされます。親を恨み、運命を呪っていたのですが、ある牧師との出会いが生き直す希望と勇気を得るきっかけとなったようです。クリスチャンになり、牧師の資格も得たようです。ある時、音楽の専門家に声を褒められるのですね。「君の声は、ラテン系のよい声だ。トレーニングしなさい。」それまで恨んでいた行方不明の父の遺伝子から、受け継いだ声だったのですね。神様が、父親を通してそのようなよき賜物を与えておられたのでした。試練と苦難の人生でしたが、神様からよい声を与えられていました。34歳で武蔵野音楽大学声楽科に入学、そして卒業され、同大学大学院をも修了されました。テノール歌手として出発されました。リサイタルを開くだけでなく、学校、教会、病院、寺などで歌って来られました。

 新垣勉さんのメッセージは「オンリーワンの人生」です。新垣さんが、歌で多くの人を励まして来られたことは確かです。「神のわざがこの人に現れるためである」というイエス様の御言葉が、この方の上にも実現しているのかと思います。逆境は辛いものですが、逆境にある時こそ、人は一生懸命、自分が生きる道を尋ね求め、真剣に生きる面もあるのではないでしょうか。新垣さんは、あるところでこう書いておられます。「人生には時には遠回りが必要です。自分が通ってきた道はすべてプラスになると思うからです。私は太平洋戦争がなければ、この世に生れなかったでしょう。そして、失明することもなく、幼い私を手放した両親たちを長い間、恨むこともなかったと思います。でも、憎しみでは何も変わらないし、何も生まれないことに気付きました。人生にはやり直しがきくのです。一生というもっと長い区切りでものを見て下さい。ゆっくりとした歩みの中から、今まで見落としてきたものに気付くこともあるでしょう。そして、人との出会いを大切にしてほしいと思います。~あなたを必要としている人が必ずいます。他人と比較するのではなく、自分の持っている良さにしっかりと磨きをかけて下さい。そして、あなたにしかない輝きを放つ『オンリーワン』の人生を大切にしてください。」実に心にしみるメッセージです。

 本日の旧約聖書は、創世記45章です。詳しく読む時間はありません。ヨセフという人は、予想もできなかった不条理を味わいました。自分の生意気さにも原因があったとは言え、兄たちに憎まれて、結果的にカナンの地からエジプトに連れてゆかれ、しかも無実の罪で約20年間も監獄に入れられます。「神も仏もあるものか」と言いたくなっても不思議でない年月を過ごしました。ヨセフは最終的にエジプトの総理大臣になります。ヨセフは、兄たちを赦して言うのです。「今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。~神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」 「神のみわざだったのです」とヨセフは、実に深い信仰の言葉を語りました。

 この世の中が、健常者だけの世界になったら、望ましいでしょうか。そうなったら、思いやりのかけらもない世の中になるのではないでしょうか。そのような世の中に、私たちは住みたくないでしょう。使徒パウロは申しました。コリントの信徒への手紙(二)12章9節以下です。「主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

 私どもも、何もかも順調なわけではありません。マイナスと思える状況にあっても、神様がみわざを行って下さり、神の栄光を現して下さるように、私たちを助けて下さるように、祈り続けて参りたいのです。アーメン(「真実に」)。

2016-09-29 14:40:40(木)
「死から救ってくださるキリスト」 2016年9月25日(日) 聖霊降臨節第20主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書6章1~7節、ローマの信徒への手紙7章14~25節。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマの信徒への手紙7章24節)。
 
 本日のローマの信徒への手紙7章後半は、イエス様の弟子・使徒パウロが、自分の罪深さを告白している箇所として、知られています。(最初の14節)「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。」律法の代表はモーセの十戒ですね。霊的とは、神のもの、聖なるものということです。律法・モーセの十戒は聖なるもの、善いものです。「しかし、わたし(パウロ)は肉の人であり、罪に売り渡されています。」肉は霊の反対です。肉は自己中心、罪を持っているということです。律法は聖なるものだけれども、パウロは(そして私たちは皆)自己中心で罪を持っているということです。対照的です。水と油とも言えます。

 (15節)「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」 「自分が望むこと」とは、神様の聖なる律法に従って生きることです。自分の一部は確かに、神様の律法に従って清く生きることを望んでいるのに、自分の中にもう一人の自分がいて、律法に反することを行ってしまう。自分の中に二人の自分がいて、その両者の傾向が完全に矛盾し、分裂していると悩んでいるのです。「わたしは、自分のしていることが分かりません。」このような二重人格性は、多かれ少なかれ私たち皆にあるのではないでしょうか。『ジキル博士とハイド氏』という二重人格者を扱った小説がありますが、自分の心の中に善をなそうという意志と、悪の両方が住んでいて、矛盾と自己分裂に陥っているということは、心の中を正直に調べてみれば、私たち皆に覚えがあることだと思うのです。

 (16節)「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。」自分が悪いことを行っているときに、「これは神様の律法に反する悪いことだ」と心の中で感じながら、それをごまかして行うことがあります。自分の良心をごまかしながら、悪を行うことがあります。心の中でとがめを感じているということは、自分が破っている神の律法は、善いものだと認めていることですね。パウロのように、自分の心の中の矛盾・分裂を直視し続ける人は、良心的な人です。私たちは多くの場合、青年時代には自分の心の矛盾・分裂に気づき悩むけれども、「こんなことでずっと悩んでいたら、生きてゆけない」と考え直し、その後はそんなことは忘れて、社会生活・仕事生活に励むようになります。「そんなことでいつまでも悩む者は青臭くて愚かだ、そんなことは忘れるのが大人だ」と、考えるのではないでしょうか。でもそれは、問題の本当の解決ではありません。ごまかしにすぎないのです。パウロの偉いところは、このことできちんと悩む点です。このことできちんと悩む人は信仰の道に進むでしょうし、このことであまり悩まない人は、信仰に入りにくいのではないでしょうか。

 (17節)「そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」パウロは、「自分の中に罪が住んでいる」と嘆いています。私たちの嘆きでもあります。「私の中に罪が住んでいる。」それが私に罪を犯させる。自分はそれに抵抗しても、ついつい負けて罪を行ってしまう。(18節)「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」神様が喜ばれるように、心から律法を実行しようという意志はあるが、罪に負けて実行できない。形の上で実行できることはあるが、心の底から100%清い気持ちで実行することができない。ここはパウロが、本当に自分の心の中を赤裸々に告白している言葉です。(18~20節)「わたしは、自分の内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」 「もはやわたしではなく」と言っていますが、パウロが責任逃れをしているのではないでしょう。パウロは「わたしの中に罪が厳然として住んでいる」と認めているのです。

 以下も、自分に罪があることをいろいろな表現で告白していると言えます。21節もそうです。「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪がつきまとっているという法則に気づきます。」これが私・私たちの現実です。善をなそうと思っても、いつも悪・罪・自分勝手がまとわりついているのです。いわゆる善いことを行っても、純粋に神様と人を愛してのことは少ないのです。どこかに、「善いこと」をしている自分を誇る思い、自己満足する自己中心の思いが消えません。どんな「善いこと」をしても、そこに罪もこびりついています。パウロは「望まない悪を行っている」と言いましたが、クリスチャンになる前のパウロは、形の上では律法を完全に守って、形の上では清く正しく生きるユダヤのファリサイ派の先頭をきって走る人でした。自分ほど正しい人間は世界にいないくらいの自信をもっていたのです。しかし彼の自信は、復活されたイエス様に出会ったことで、完全に砕かれてしまいました。

 神の子イエス様こそ、本当の意味で正しい方なのです。その正しさは、パウロのように自分の立派さを誇る正しさではありません。ご自分が罪を一切犯さないのはもちろんですが、それだけでなく、相手の罪を自分が背負い、相手の足を洗い、相手に奉仕する愛に生きる正しさでした。そして罪人(つみびと)たちの罪を身代わりに背負い、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、自分を殺す人たちのために神の赦しを祈り求める、そのような正しさでした。パウロは、自分とは比べものにならないほど、本当の意味で正しく愛に生きたイエス様と出会い、自分の正しさがいかに独善的だったかを思い知らされ、イエス様にすっかり降参しました。それまでの自分の独善の傲慢の罪を打ち砕かれ、悔い改めに導かれました。そして洗礼を受けて、クリスチャンに、さらに伝道者になりました。

 「わたしの中に住んでいる罪」、それを原罪と呼ぶことができます。原罪は、私たち人間が生まれつきもっている罪です。原罪という言葉そのものは、聖書の中にありません。しかし私たち人間が皆、生まれつき自己中心の罪を持っていることは、私たちの経験上、明らかです。悔い改めの詩編として有名な詩編51編は、ダビデ王の作と書かれています。詩編51編7節で、ダビデはこのように告白します。
「わたしは咎のうちに産み落とされ/ 母がわたしをみごもったときも/ わたしは罪のうちにあったのです。」 「母が私をみごもった時に、私は既に罪のうちにあった」と認めていますから、この罪を原罪と呼んでよいと思います。原罪を持つ私たちを清める方は、聖霊なる神様です。しかし原罪は、私たちが地上に生きる限り、完全に消えることはありません。私たちが死ぬときに私たちの原罪も完全に死に絶えます。そしてイエス様を信じる人は、天国に移されます。

 パウロは22~23節で、自分の心の中に善と悪の戦いがあることを告白します。「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」「とりこ」は言い換えると奴隷ですね。善をなそうという意志はあるけれども、罪の力に負けて罪の虜、罪の奴隷になってしまっている。以前の自分はそのような惨めな状態にあったと、パウロは実に正直に告白しています。イエス様は、ヨハネによる福音書8章34節で、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」とおっしゃいました。パウロも私たちも、罪の奴隷だったのです。

 24節は、パウロの有名な叫びです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」パウロは、6章22節で、「罪は支払う報酬は死です」と厳粛な真実を述べました。罪を犯すことは、神様から離れ、神様に逆らうことです。私たちに命を与えて下さった神様から離れ、神様に逆らうことは、命から離れることです。命から離れれば、死に至ります。私たちに罪があるために、私たちは死にます。死の真の原因は、病気でも老化でもなく、私たちの罪です。この罪を解決することが、すべての人にとって一番必要なことです。体の病気を治すことも大切ですが、罪を解決することがもっと大切です。罪を解決しないと、永遠の命に入ることができないからです。ところが自分の罪という大問題を、(私もしばしばそうかもしれないのですが)多くの人はあやふやにして、ごまかして、きちんと向き合わないのです。それは罪を解決することは不可能だと、あきらめているからかもしれません。
 
 しかし、解決して下さった救い主がおられるのです。これは本当にありがたいことです。救い主はイエス・キリストです。私たち皆の全部の罪を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活されたイエス様がおられます。このイエス様を自分の救い主と信じ告白する人には、例外なく永遠の命と天国がプレゼントされます。ですから、24節までで自分の罪に悩んでいたパウロが、25節で一転して、感謝と喜びの言葉を語るのです。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と。パウロの自己分裂の深い悩みを、イエス・キリストが完全に解決して下さったのです。

 パウロが絞り出した悩みと絶望の言葉が、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」です。本日の旧約聖書はイザヤ書6章1節以下です。ここでも預言者イザヤが、パウロに似た絶望の叫びを上げています。イザヤは神殿で礼拝しているときに、聖なる神様を垣間見たのです。聖なる神様を垣間見たことで、自分が罪に汚れた者、惨めな者であることはっきり悟ったのです。そして言いました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。」先ほど歌った『讃美歌21』の211番の作詞者はストウ夫人という19世紀のアメリカ人、名作『アンクル・トムの小屋』の作者です。この作品はアメリカの奴隷解放の世論を高めるために大きな力を発揮したと言われます。ストウ夫人は、奴隷制度という自分の国の罪を深く悲しみ、「何と惨めな罪!」と嘆いていたのではないでしょうか。私たち皆に罪があり、どの国にも罪があります。

 「わたしは何と惨めな人間なのでしょう」というパウロの叫びは、とても大切です。自分の罪に気づき、罪を悩むことは、罪の悔い改めにつながるからです。自分の罪を深く悲しみ悩む人こそ、深い悔い改めに至ることができる人です。カトリックのあるシスターが書いておられたと記憶しているのですが、今の日本人はあまり悩まなくなった、それがクリスチャンになる人が減った理由だというのです。もちろん今の日本人にも多くの悩みがあります。健康の悩み、家族の悩み、経済の悩みなどの多くの悩みです。でもパウロのように自分の罪を悲しみ悩む人は、以前より減ったかもしれません。このような悩みは、クリスチャンになるためには、必要で大切な悩みだと思うのです。このような悩みを悩む人こそ、罪から救って下さる救い主を探し求め、真の救い主イエス・キリストにたどり着くことができるからです。イエス様は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ福音書5章32節)と言われます。イエス様は、パウロのように自分の罪に悩む心の病人を救う「魂の医者」です。

 パウロのような悩み、絶望には救いがある、希望があります。この絶望は、「希望ある絶望」です。イエス様という救い主がおられるからです。誰の言葉だったか、「クリスチャンは安心して絶望できる」という意味の言葉を聞いたことがあります。やや能天気な言葉かもしれませんが、本当です。確かにこの地上の現実は厳しく、病への恐れ、加齢への恐れ、死への恐れがあり、災害・テロ・イスラム国の恐怖もあります。しかし救い主イエス様がおられ、イエス様を信じる者には、全ての罪の赦しと天国が約束されています。

 その意味で、クリスチャンが本当に絶望することはありません。絶望しても、最後には必ず永遠の命と天国の希望があります。死と絶望ですべてが終わることはないのです。やや能天気な言い方で恐縮ですが、安心して絶望することができます。パウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と絶望しても、すぐに、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と、感謝と讃美を献げることができるのです。

 その直後にパウロは、「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」と、一見逆戻りしたような言葉を述べます。これは、イエス様に永遠の命を約束された後も、地上に生きる限り残る自分の罪のことを述べているのではないかと思います。自分の罪との戦いは地上に生きる限り続きますが、根本的には永遠の命は約束されており、私たちが死ぬとき、私たちの罪も完全に滅びます。私たちは、パウロのように自分の罪を嘆き、悔い改めながら、パウロと同じ感謝と希望をもって生き、キリスト者の使命を果たして参りたいのです。アーメン(「真実に」)。