日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2016-09-22 9:04:56(木)
「キリストのとこしえの王座」 2016年9月18日(日) 聖霊降臨節第19主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記・下7章1~24節、ルカ福音書1章26~38節。
「この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」(サムエル記・下7章13節)。

 ダビデは、エルサレムで全イスラエルの王となりました。最初にエルサレムに神の箱を運び上げる時は、失敗がありました。十戒を記した石板が納められている神の箱が、最も聖なる箱であることの認識が薄く、聖別した祭司やレビ人に担いで運ばせなかったので、運んだウザという人が、うかつにも神の箱に触れてしまい、聖なる神様に撃たれて死にました。これはダビデにとっても痛手でした。しかし二回目は、最も聖なる神の箱を正しい方法で運び、エルサレムに到着させることに成功しました。ダビデは喜んで、神様の御前で力のかぎり踊りました。そしてへりくだって、妻ミカルに言いました。「このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。」ダビデ王の人生は、前半の頂点に至ったと言えます。

 本日の7章を、ここまでのクライマックスと呼ぶ人もいます。(1節)「王は王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった。」慌しい日々からひと息ついたダビデには、気になることがありました。(2節)「王は預言者ナタンに言った。『見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。』レバノン杉は、立派な杉の木です。ダビデ王は、自分が立派な杉の木で建てた王宮に住んでいるのに、神様の最も聖なる箱を納める家、神の神殿を建てないで、神の箱を天幕を張っただけの質素で粗末な場所に安置していることを、心苦しく思ったのです。預言者ナタンは、ダビデの心を知って、こう答えます。(3節)「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます。」 

 しかし、神様の御心は違いました。結果から言えば、ダビデではなく、その子ソロモンが神殿を建てることが神の御心だったのです。神様は、預言者ナタンに言われました。(5~7節)「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。」それは、ありませんでした。

 神様はさらにナタンに言われます。(8節)「わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。」ダビデは、エッサイという人の8番目の息子、末っ子です。一家で一番軽んじられていたはずです。羊を飼うという、多くの汗をかくきつい労働を引き受けていました。神様はいと小さき者を愛し、いと小さき者によき信仰を与えて下さる方です。ダビデは、牧場の羊の群れの後ろという、最も軽んじられる所にいましたが、そこから神様に選ばれてイスラエルの王とされました。神様は、今も同じことを行うことがおできになります。あるいは、パウロのようにクリスチャンを迫害していた人を、大伝道者となすことさえ、おできになります。

 神様は、いと小さきダビデを愛しておられるのです。ダビデという名前は「愛される者」の意味だそうです。神様はダビデを愛して、恵みの御言葉をお与えになります。(9~11節前半)「あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大なる者に並ぶ名声を与えよう。わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。わたしの民イスラエルの上に士師(カリスマ的指導者)を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。」

 次に神様は、ダビデに全く新しい約束を与えられます。(11節の後半と12節)「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。」神様がダビデ王の家・王国を興して下さる。ダビデ王の家系が、イスラエルの王の家系として続いてゆく。ダビデの子(ソロモン)が家を継ぎ、その王国が揺るぎない王国として建てられる。(13節)「この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」この者・ソロモンが神の御名のために家・神殿を建てる。そして神様は、ソロモンの王国(ダビデの王国)をとこしえに・永遠に堅く据えて下さる。

 ダビデが神殿を建てることができない理由の1つはこうです。神様はダビデにこう言われました(歴代誌・上22:8~)。「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない。見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人である。わたしは周囲のすべての敵からその子を守って、安らぎを与える。それゆえ、その子の名はソロモンと呼ばれる。わたしは、この子が生きている間、イスラエルに平和と静けさを与える。この子がわたしの名のために神殿を築く。この子はわたしの子となり、わたしはその父となる。わたしはその王座を堅く据え、とこしえにイスラエルを支配させる。」旧約聖書では、しばしば戦争が行われるので、抵抗を覚える方がおられると思います。私にも、その面があります。その私に、この御言葉は、「やはり神様は、最終的には血を流すことを嫌い、戦争を嫌い、平和おの愛する神様なのだな」と、ほっとさせてくれる御言葉、納得感を与えてくれる御言葉なのです。

 「ソロモンは安らぎの人だ」と神は言われます。ソロモンという名前は、シャローム(平安)と音が似ていますから、シャロームと深いかかわりがあるのでしょうね。ダビデは(やむを得なかったのでしょうが)、ぺリシテ人たちとの戦争を繰り返し、多くの血を流したので、神殿を建てるにふさわしくないとされたのです。神殿を建てるのは「平和の人」の仕事です。神殿は、今の時代では教会とも言えますが、イエス・キリストの教会も基本的には「平和の教会」です。自分が神殿を建てるのでないと悟ったダビデは、わが子ソロモンの神殿建築のために、多くの準備をしてから死にました。

 さて、神殿も大切ですが、もっと大切なのは、ここでの神様の約束です。「主があなたのために家を興す。」「わたしは彼(ソロモン)の王国の王座をとこしえに堅く据える。」ソロモンが神殿を建てるより先に、神様がダビデとソロモンの王座を堅く据えて下さいます。人間がリーダーではなく、神様が全てのリーダーです。私たち人間は、基本的に神様のリードに従います。私たち人間の計画が第一ではなく、神様のご計画が第一です。箴言19章21節の御言葉を思い出します。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」神のために神殿を建てようとしたダビデの計らいは実現せず、ダビデとソロモンの王国を興してとこしえに堅く建てる主の御旨が実現します。

 神様は続けて言われます。サムエル記・下7章14節。「わたしは彼(ソロモン)の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。」過ちを犯した時に懲らしめるのは、神様がソロモンを愛しておられるからです。「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする」とヨハネの黙示録3章19節にあります。そして神様はダビデとソロモンの王国が、とこしえに・永遠に堅く据えられると約束なさいました。

 しかし人間の王国は、決してとこしえ・永遠ではありません。この約1000年後、ダビデの子孫からイエス・キリストが誕生されます。正確にはダビデの子孫ヨセフの妻マリアが聖霊によって身ごもることで(処女妊娠で)、神の子イエス様が誕生されます。とこしえの王国は、最終的にはキリストの国・神の国のことです。ですから13節の「この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」は、ダビデ・ソロモンの王国を指しながら、究極的には、もっと先に実現するキリストの国・神の国を指します。ですから13節は、イエス・キリストの国の実現を予告する、極めて重要な預言です。14節で、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」とあり、彼は直接にはソロモンですが、究極的には神の子イエス様を指します。「彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。」この場合の彼はソロモンで、イエス様のことは指しません。イエス様が過ちを犯すことは、あり得ないからです。
 
 ダビデは、神様の約束が将来の救い主メシアのことをも指していることを、悟ったようです。祈りの中でこのように言います。(18~19節)「主なる神よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。主なる神よ、御目には、それもまた小さな事にすぎません。また、あなたはこの僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。」「遠い将来」と言っていますから、結果的に約1000年先になるダビデの子孫・救い主メシアの誕生を、ここで悟ったのだと思います。それは、使徒言行録2章のペンテコステの場面で、イエス様の弟子ペトロが、「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました」と説教していることからも、分かります。

 本日の新約聖書は、ルカ福音書1章26節以下、イエス様の母となるマリアに、天使ガブリエルが神様のメッセージを伝える、あまりにも有名な場面です。天使ガブリエルは、ダビデの子孫ヨセフのいいなずけである少女マリアのもとに、神から遣わされたのです。ガブリエルはマリアに言ったのです。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。~マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠に(とこしえに)ヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」「父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め」が、サムエル記(下)7章12、13節「あなたから出る子孫に跡を継がせ、その王座をゆるぎないものとする。~わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」と同じことを述べていることは確かです。ダビデの子孫ヨセフの子となったイエス様こそ、神の永遠の国の真の王なのです。

 今日のテーマの1つは神殿ですが、神殿は今の時代は教会と言えます。神殿も教会も聖霊が満ちる場だからです。イエス様はエルサレムの神殿について、エレミヤ書を引用してこう言われました。「『わたし(神)の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」(マルコ福音書11:17)。そして腐敗していた神殿を清める、思いきった行動に出られました。「宮清め」と呼ばれる出来事です。今も神様は教会を清められます。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」(ペトロの手紙(一)4:17)とあります。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」東久留米教会が2010年から2011年にかけて今の会堂を建築したときのモットーは「ホーリーアンドシンプル」(聖にして簡素)です。これからも「ホーリーアンドシンプル」な教会として歩み続けたいのです。但し、私どもは皆、罪人(つみびと)ですので、完全にホーリーになることは地上でできません。ですから教会は「聖なる人の家」というより「悔い改める罪人(つみびと)の家」です。教会は「祈りの家」です。この会堂でますますよく祈りましょう。祈る所に聖霊が満ち、伝道が進みます。

 今年の6月24日(日本基督教団の創立記念日)に、日本基督教団の若手の牧師方の呼びかけによって、「日本伝道のために祈る会」が富士見町教会で行われました。私は出席することができませんでしたが、送られて来た報告書によると、よい祈り会だったようです。聖霊なる神様の新しい導きを感じます。東久留米教会の前進もやはり祈りから、日本基督教団の刷新も祈りから始ります。その祈り会で説教なさった女性牧師は、ハガイ書1章14、15節の御言葉に気づかれたのです。それはバビロン捕囚からエルサレムに帰還したイスラエルの民が、神殿再建の第一歩を踏み出す場面です。「主が、ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者すべての霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。それは6月24日のことであった。」6月24日は、日本基督教団の創立記念日なのですね。もちろんハガイ書の6月24日はユダヤ暦でしょうし、日本基督教団の創立記念日の6月24日は西暦です。でもこの不思議な一致によって、神様がその祈り会を励まし、祝福して下さったと私は感じるのです。

 日本基督教団の式文を見ると、教会設立式の時に次のように祈ることになっています。この東久留米教会が設立された55年前も、この場所でこのような祈りが献げられたと思うのです。教会の原点の祈りです。「主イエス・キリストの父なる神、ここに主を頭(かしら)とする教会を建て、力と栄光を現して下さいましたことを感謝致します。この教会を山の上に建てられた城のように堅く立たせ、光として世を照らさせ、塩として世を潔めさせて下さい。信徒一同が、主の教会を尊び、これを愛し、相ゆずり、互いに仕えて、御名の栄光を現すようにして下さい。この教会を人の支配するところとなさず、ただ主のみ、とこしえに統べ治めたもうところとして下さい。主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン。」 「この教会を人の支配するところとなさず」の言葉に、よい印象を受けました。
 
 教会はもちろん牧師が支配する所でなく、どの人が支配するところでもありません。みんなでイエス様に従う所です。本日の説教題は、「キリストのとこしえの王座」です。私どももよく祈って、王であるイエス様に喜んで従ってゆく教会でありたいのです。アーメン(「真実に」)。

2016-09-21 19:43:10(水)
「神に似せて造られた私たち」 伝道メッセージ 石田真一郎
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(旧約聖書・創世記1:27)。

 リオデジャネイロ・オリンピックとパラリンピックが終わりました。以前はオリンピック休戦やクリスマス休戦があったそうですが、今はないのでしょうか。オリンピック中も、空爆で負傷した子どもの映像が流れ、皆が心を痛めました。

 7月に相模原市の障がいを持つ方々の施設で、19名もの命が奪われる事件が起こりました。容疑者は、「障がい者は生きていても仕方がない」という危険な考えに染まっています。ナチス(ヒットラー)の考えそっくりです。ナチスはユダヤ人絶滅計画と障がい者安楽死計画を実行しました。命の造り主である神様への反逆です。神に反逆したのでナチスは滅びました。

 聖書に、神様が人間をお造りになる場面があります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。 「神様にかたどって(似せて)造られた」、それが人間の尊厳です。どの動植物の命も大切ですが、人間は特に大切です。神様に似ている点は姿ではなく(神様は目に見えません)、人格があること、(不完全でも)愛することができること、言葉を持つこと、責任感があること等です。障がいがある方は、神様に似せて造られた大切な一人です。その命を奪うことは、神への反逆です。神様の十戒の一つに「殺してはならない」と明記されています。昔、「どうして人を殺してはいけないのか」と質問した小学生がいました。聖書に明確な答えがあります。人が神に似せて造られたから、殺人が神への反逆だからです。

 ドイツに、ベーテル(「神の家」の意)という福祉の町があります。安楽死を説くナチスの医者に、責任者フリッツ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師は反論します。「国家に有用かどうかで、人の存在価値を決めることはできません。安楽死は神の掟に反します。他の人々のためという大義名分で、障がいのある人々を犠牲にするのは大きな間違いです。」何人かは殺されましたが、べーテルは「ヒットラーから障がいある人々を守った町」として知られます。私たちも、この価値観で生きたいのです。アーメン(「真実に」)。

2016-09-21 19:38:15(水)
「沖縄に平和を」 伝道メッセージ 石田真一郎
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」
(新約聖書・マタイによる福音書5:9)。

 6月に沖縄本島に行きました。暑かったですが、エメラルドグリーンの海の美しさは宝物です。美しい自然は、神様からのプレゼントです。6月19日(日)に、教会での礼拝後に、南端の糸満市の摩文仁にある「平和の礎(いしじ)」に行きました。太平洋戦争末期の1945年4~6月に、沖縄は地上戦の舞台となり、子どもを含む多くの住民が犠牲になりました。米軍は猛烈な艦砲射撃を行い、風景が一変しました。戦争は最大の自然破壊です。「平和の礎」は石碑群で、沖縄戦で亡くなった24万人以上のお名前が刻まれています(今も新たに確認された名が刻まれる)。ここは激戦地で、追い詰められた住民が米軍に投降したり、命を絶った海岸が間近です。

 21日(火)には、「ひめゆりの塔」と資料館に行きました。15~19歳の222名の女子学生が18名の教師に引率されて、陸軍病院で負傷兵の看護にあたりました。病院は横穴壕で、砲弾が飛び交う事実上の戦場でした。生徒123名が亡くなりました。「もう一度、弾の飛んで来ない空の下を、大手をふって歩きたいね」と言った生徒がいたそうです。戦争が地獄で、二度と行ってはならないことと痛感します。どちらにも修学旅行の中高生が多く来ていました。18才で選挙権を持つのですから、とてもよいことです。中国語が聞こえたので、台湾か中国からも来ていたようです。これもよいことです。沖縄戦が長引いて犠牲者が増えたのは、米軍の本土上陸を一日でも遅らせる盾としたからです。差別意識がありました。基地問題がある今も同じことがないか、深く反省させられます。

 20年前にハワイの真珠湾に行きました。1941年に日本海軍が空爆したとは信じられない、平和な海に見えました。真珠湾攻撃せずに忍耐すれば、沖縄戦を防ぐことができたと思うのです。戦争は、神様が作られた美しい自然と命を破壊する最大の罪です。私は完全に戦後世代ですが、今の日本で戦争への嫌悪が薄れていないか、心配です。皆様と共に、平和を守る意志を強く持ち続け、平和を祈り続けたいのです。アーメン(「真実に」)。

2016-09-21 19:32:38(水)
「桜の滑走路」 伝道メッセージ 石田真一郎
「神のなされることは、皆そのときにかなって美しい。」
(旧約聖書・伝道の書3章11節<口語訳>)。

 5月半ばに、三鷹市の国際キリスト教大学に行きました。正門から礼拝堂まで、約600メートルの真っ直ぐな通りが伸びています。通称「滑走路」です。桜並木で、春は花見の名所です。この敷地は戦争中、「中島飛行機」という会社の研究所で、軍用機の開発の研究がなされていました。国のためとは言え、人殺しの飛行機を作る研究です。民間の軍事施設です(滑走路という通称はこの会社があった記憶から来ていますが、実際に滑走路だったわけではありません。)戦後、日米で募金が行われ、その場所がキリスト教主義の大学になりました。世界に開かれた「平和の国・日本」を造る一つの拠点にしたいとの祈りがありました。今は多くの留学生がおり、日曜日には礼拝堂で、色々な国の人たちが、大人も子どもも神様を礼拝して、共に讃美歌を歌っています。軍事施設が平和の祈りの場に変わったのです。

 私は、旧約聖書の言葉を思います。
「主(神様)は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2:4)。 

 神様が、剣や槍(戦争の道具)を、鋤や鎌(平和・農耕の道具)に作りかえ、平和をもたらして下さる、というメッセージです。このことが、
国際キリスト教大学の場所で本当に起こったのです。まさに、「神のなされることは、皆そのときにかなって美しい」です。桜のトンネルと呼ばれる、通称「滑走路」の美しい桜並木は、神様の美しい働きのシンボルです。

 4月に、90才の牧師のお話を伺いました。「私は70年前、兵隊に行った。父も牧師だったが、『お国のために戦って来い』と私を送り出した。思えば当時の日本の教会も、戦争の悲惨さ、罪深さを理解していなかった。」同じ過ちを繰り返さない「平和の国・日本」の建設のために、努力したいのです。アーメン(「真実に」)。

2016-09-14 20:16:16(水)
「国と力と栄えとは、神のもの」主の祈り⑧ 2016年9月11日(日) 聖霊降臨節第18主日礼拝説教
朗読聖書:歴代誌・上29章10~16節、コリント(一)15章23~28節。
「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの」(歴代誌上29章11節)。

 私たちが礼拝で祈る「主の祈り」の原型は、マタイ福音書6章とルカ福音書11章に記されています。礼拝で祈る「主の祈り」においては、6つの祈りの次(一番最後)に「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」の言葉があります。
これは、マタイ福音書6章とルカ福音書11章の「主の祈り」の原型には、ありません。これは後に、教会が付け加えた言葉だと言われています。本日の旧約聖書である歴代誌・上29章、その11節から取ったのだろうと言われています。「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。」これをまとめて、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」としたのでしょう。聖書の神こそ、この宇宙のすべてのものの所有者・主権者であることを、力強く語る言葉です。

 「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」を頌栄と呼んでもよいでしょう。週報に記してある礼拝の順序を見ると、初めの方と終わりの方に一回ずつ頌栄があります。頌栄とは、「神への礼拝において、三位一体の神を讃美し、三位一体の神にすべての栄光を帰する言葉や歌」です。私たちは、礼拝の初めの方で三位一体の神を讃え、礼拝の締めくくり近くで、三位一体の神にすべての栄光を帰します。本日の礼拝の初めの方で歌った頌栄27番では、「父・子・聖霊のひとりの主よ、栄えと力はただ主にあれ、とこしえまで。アーメン」と讃美しました。本日の礼拝の終わりの方で歌う頌栄28番では、「み栄えあれや、父と子と聖霊に、はじめも今も、とわにかわらず、み神に アーメン、アーメン」と讃美して、神に栄光を帰します。

 礼拝は、神への讃美に始まり、神への讃美に終わるのですね。「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」も、確かに、神様に栄光を帰する頌栄です。思えば、「主の祈り」は、「天にまします我らの父よ、願はくは、御名をあがめさせたまえ」という神の御名をあがめる讃美の祈りから始まりました。そして締めくくりが、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」です。讃美に始まり讃美に終わっている、頌栄に始まり頌栄に終わっているのです。

 本日の歴代誌・上29章11節以下は、ダビデが聖なる神殿の建築のために、人々と共に金銀、宝石などを神様に献げたときの祈りです。ダビデは、自分が神殿を建築するのでないことを知っていました。それはダビデの子ソロモンの時代に成し遂げられるのです。ダビデはソロモンのために、多くの準備をしました。ダビデのこの祈りは、すばらしいものです。まずダビデは、主なる神様をたたえます。(10~13節)「ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った。『わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。』」

 神をあがめた後、ダビデは自分の小ささを語ります。これはダビデ王の本心です。私たちもダビデと共に、このように告白したいのです。(14~16節)「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません。わたしたちの神、主よ、わたしたちがあなたの聖なる御名のために神殿を築こうと準備したこの大量のものは、すべて御手によるもの、すべてはあなたのものです。」私たちの「献金の祈り」のよき模範になりますね。 「この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません」とは、暗すぎるようですが、永遠の希望がこの地上にはなく、天国にのみあることは事実です。使徒パウロが書いたフィリピの信徒への手紙3章20節の言葉を借りるなら、「わたしたちの本国は天にあ」る、「わたしたちの国籍は天にあ」ります。

 ダビデは告白しました。「まことに天と地にあるすべてのものは、あなたのもの」と。世界のすべてのものは、神のもの。これはクリスチャン以外の人にとっては、衝撃ではないかと思うのです。この世界のご主人が本当におられる。私たちは、自分の人生の主人は自分のように思っているかもしれませんが、自分の主人は自分ではなく、私たちの命をお造りになった神様です。神様は、出エジプト記19章5節で、厳かに宣言されます。「世界はすべてわたしのものである。」私たちはこの方の前にひれ伏し、「まことに国と栄えと力とは、限りなくあなたのものです」と告白し、讃美するほかありません。そして詩編24編1節では、作者のダビデがこのように告白しています。「地とそこに満ちるもの/ 世界とそこに住むものは、主のもの。」私たちは、「アーメン!」と賛同の言葉を、感謝をもって述べます。

 白洋舎というクリーニング店を創立なさった五十嵐健治さんというクリスチャンは、19歳のときに創世記1章1節の、「初めに神は天地を創造された」を読んで、「ああ、この天地をつくられたのが神であったのか。この自分もまた神につくられたのであったのか」と感動し、涙にむせばれたと読んだことがあります(三浦綾子著『光あるうちに』新潮文庫、1987年、117ページ)。神様がこの世界の主であることを、私たちが忘れがちかもしれないのです。神様がこの自然界の主であることが分かれば、自然環境を破壊することが、神様への罪であることも分かります。

 「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。」これは、父なる神様を賛美する言葉です。神の子イエス様は、地上でこの言葉どおりに生きられました。私たち人間は、自分の栄光を求めやすい者です。神の御名よりも、自分の名が高められることを願ってしまうのです。これが私たちの罪、特に男性の陥り易い罪です。「神にのみ栄光あれ」という言葉があります。「主の祈り」の最後で、私たちは「神にのみ栄光あれ」と願っているのだと思います。「主の祈り」の最初の祈りは、「御名をあがめさせたまえ」です。これと、「国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり」は、ほとんど同じとも言えます。「主の祈り」は、神の栄光をたたえるこの2つの祈りと告白にサンドイッチにされています。

 そしてイエス様は、自分の栄光を一切求めず、徹頭徹尾、父なる神様のご栄光のみを求められました。悪魔は、イエス様を激しく誘惑したのです。「父なる神様にただお仕えするだけなんて、つまらないよ。あなたは神の子ではないか。権力をあげるから受け取りなさい。そうすれば楽しい人生を送ることができるよ。世界の国々の一切の権力をあなたにあげるよ。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるのだよ。ただ私を拝みさえすればよいのだ。簡単なことだろう? そうすればあなたは栄光と権力を手にして、権力を思いのままに振るって、楽しい人生を生きることができるよ。」しかしイエス様は、常に「父なる神様にのみ栄光あれ」と願っている方ですから、悪魔の誘惑を完璧に退けられます。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と(旧約聖書に)書いてある」とおっしゃり、「父なる神様にのみ栄光あれ」の生き方を、一瞬もおやめにならないのです。 

 イエス様は、十字架にお架かりになる前日の夕方に、弟子たちの足を洗われました。こうして神の栄光を現わされたのです。そしてイエス様は、十字架に架かられました。父なる神様を愛して、父なる神様に従い切り、私たち罪人を愛して、私たちの全ての罪を身代わりに背負って下さいました。十字架に架かる奉仕の生き方で、父なる神様の栄光を現わされたのです。十字架こそ、イエス様の栄光の王座です。1997年に亡くなったマザー・テレサが今年9月4日に、カトリック教会の聖人に認定されたそうです。私たちプロテスタント教会では、特に立派な信仰者であっても、その人を聖人に認定することは致しません。ですがマザー・テレサが、多くの貧しい方々のために奉仕なさることで、神の栄光を現わす生き方をなさったことは、誰しも認めるところです。私どもも、イエス様の弟子となり、神様と隣人にお仕えする生き方をすることで、神様の栄光(神様の素晴らしさ)を現わさせていただきます。イエス様は、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(ヨハネ福音書15:8)と言われました。

 本日の新約聖書は、コリントの信徒への手紙(一)15章23節以下です。世の終わりに神の国が完成される時のことが記されています。まず死者の復活が起こると言っています。23節の途中から24節。「最初にキリスト(この復活は既に起こりました)、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち(が復活する)、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。」再び来られるキリストが、悪魔的な全ての力を滅ぼし、父である神がこの世界の王となられる。神はもちろん今既にこの世界の王なのですが、その支配ははっきり目に見えません。今は、信仰ある人々だけが、神の栄光を賛美して礼拝しています。でも神の国が来るときには、神が本当にこの世界の王であることが、誰の目にも明らかになります。

 (26~27節)「最後の敵として、死が滅ぼされます。『神は、すべてをその足の下に服従させた』(詩編8:7)からです。」このとき、人類最大の敵・死が滅ぼされます。人類の悲願が成就するのです。最高にすばらしいことです。(28節)「すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」これが神の国の完成です。「国と力と栄えとが、限りなく神のもの」であることが、誰の目に明らかに示される日です。その時が早く来るようにと願って、私たちは「御国を来らせたまえ」と祈り続けています。

 前にもお話しましたが、私もお世話になったある神学校の先生(牧師)が17、8年ほど前に、天に召されました。私は葬儀に出席できませんでしたが、葬儀でヨブ記1章21節が読まれたと聞きました。
「わたしは裸で母の胎を出た。/ 裸でそこに帰ろう。
 主は与え、主は奪う。/ 主の御名はほめたたえられよ。」
その先生は、神様に多くご奉仕され、キリスト教の世界で実績を残されたと言えます。それだけに、葬儀で自分の名がたたえられてしまうのではないかと、心配されたのではないかと、私は想像します。それでこの聖句を、ご自分で選ばれたのではないかと、私は感じたのです。葬儀は礼拝ですから、「私をたたえず、神様だけをたたえなさい」と、その先生が願われたと思うのです。「神にのみ、栄光あれ」です。

 ルカ福音書1章の「マリアの賛歌」も、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」と一致します。マリアが、「わたしの魂は主をあがめ」と言っているからです。「あがめる」は「大きくする」の意味と聞きます。「マリアの賛歌」はラテン語で「マグ二フィカート」です。英語の「マグ二ファイ」に通じるでしょう。それは「大きくする、拡大する」ということです。

 使徒パウロは、こう書いています。「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」イエス・キリストは「王の王、主の主」(ヨハネの黙示録19:16)です。三位一体の神です。キリストがあがめられるようにと願うことと、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」と祈ることは、同じです。私たちの願いもパウロと同じです。私たちの生き方と死に方によって、ただキリストが公然とあがめられ、神の栄光が現されることです。このように生き、死ぬことができるように、神様が私どもをそのように導いて下さるように、祈りましょう。アーメン(「真実に」)。