日本キリスト教団 東久留米教会

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2016-08-03 2:25:12(水)
「キリストに従う新しい生き方」 2016年7月31日(日) 聖霊降臨節第12主日礼拝説教 
朗読聖書:詩編1編1~6節、ローマの信徒への手紙7章1~6節。
「その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」(ローマ7章6節)。

 第1節を読みます。「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。」ここで、手紙の著者パウロが言いたいことは、イエス・キリストを信じる人は、既に律法から解放されており、律法の支配の下にはないということです。イエス・キリストが地上に誕生して下さり、私たちの罪を背負って十字架で死なれ、復活なさるまで、私たちは皆、律法の支配下にいました。律法の代表はモーセの十戒です。十戒は、何が正しいことかを示す神様の基準です。その十戒を一つ一つよく学べば、私たちは自分が十戒のどの一つの戒めをさえ、完全には守ることができていないことを痛感します。律法を守ることができていない自分が、神様から見れば罪人(つみびと)であることを悟ります。その意味で律法は重荷です。律法は、私たちに自分が罪人(つみびと)であることを教えます。救い主イエス・キリストが来て、私たちのために十字架で死んで下さらなければ、私たちは律法の支配下にあって、自分の罪のゆえに救いの希望のない人生を送るしかなかったのです。

 しかしイエス様がこの地上に誕生され、私たちの身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。ここいる私たち一人一人を含む地球上の全人類の、全部の罪を背負いきってくださったのです。とてつもなく大量の罪です。律法は神様の正義の基準であり、律法違反の罪が全て裁かれることを求めます。イエス・キリストが、全人類の律法違反の罪の責任を、すべて背負い切って裁かれて下さいました。それで律法が要求する正義の裁きが、全て成し遂げられたのです。律法が要求する正義が100%満たされました。イエス様のお陰で、私たちは律法の支配下から解放されました。私たちが、律法からの解放を自分のものにするためには、イエス様を救い主と信じ告白することが必要です。イエス様を救い主と信じ告白する人は、既に律法の支配から解放され、すべての罪を赦され、永遠の命をいただき、神の子とされています。

 パウロは本日の7章1~4節で、このことを「結婚の比喩」を用いて語っています。この比喩は、私たちにはあまり分かりやすくないと感じます。ここで前提となっているのは、聖書の結婚についての考えです。(2節)「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。」パウロがここで言いたいのは、「私たちが既に律法の縛りから解放されている」ということです。(3節)「従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。」ここでパウロが言いたいことも、「私たちが律法の縛りから解放されている、自由にされている」ということです。

 (4節前半)「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。」パウロはここで、キリストを新しい夫、律法を以前の死別した夫にたとえています。パウロが言おうとすることは、「今私たちは、洗礼によって新しい夫キリストと一つになっており、律法という死別した夫の縛りから解放され自由にされている」ということです。言い換えると、「律法の支配から解放されて、キリストの愛の支配下に移されている」ということです。「キリストの愛の支配下に移されている!」 今既に、です。 (4節後半)「それは、あなたがたが、他の方(律法以外の他の方)、つまり、死者の中から復活させられた方(イエス様)のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」 「神に対して実を結ぶ生き方をすることが大切だ」、というのです。それは「神様を愛し、隣人を愛する」生き方に違いありません。

 本日の旧約聖書は、詩編1編です。そこには、どのような人が「実を結ぶ人」か、描かれています。
「いかに幸いなことか/ 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 
 罪ある者の道にとどまらず/ 傲慢な者と共に座らず
 主の教えを愛し/ その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び/ 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」

 「実を結ぶ人」の代表は、イエス・キリストです。イエス様は、ヨハネ福音書15章でおっしゃいます。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」ちょうど20年前、1996年の東久留米教会の標語聖句です。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」私たちは自分が一番大切で自己中心ですから、神様を愛し、隣人を愛することが十分にはできません。自分が損しない道ばかり選びたくなります。自力では、神の前に実を結ぶ生き方が、なかなかできません。しかしイエス様が言って下さいます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

 私たちはイエス・キリストというぶどうの木に、しっかりとつながっていればよいのですね。イエス様というぶどうの木から、愛という栄養分が流れ出て来て、ぶどうの枝である私たち一人一人に与えられます。その愛は、愛の霊である聖霊とも言えます。それによって実を結ぶことができるのです。自力ではなく、イエス様の愛をいただいて、聖霊をいただいて実を結ぶことができます。これぞ福音・グッドニュースです。イエス様の愛を受けるために大切なのは、祈りだと思います。私たちは、祈りにおいて神様と交わります。そのとき神様から、そして神の子イエス・キリストから愛の霊である聖霊を受けます。それによって私たちは慰められ、励まされます。祈りこそ、私たちが信仰と愛に生きる源です。苦しい時に、イエス・キリストのお名前によって祈ることができることは、非常にありがたいことです。

 私たちが結ばせていただく実は、どのような実なのか。それはガラテヤの信徒への手紙5章22、23節に書かれています。この御言葉を暗唱しておられる方もおられると思います。
「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」この9つの実を結ばせていただけます。ますます祈って、イエス様から聖霊を愛をいただき、実を結ばせていただきたいと、心より祈ります。

 ローマの信徒への手紙に戻り5節。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。」イエス様によって救われる以前は、そうだったのです。神様の聖なる律法(戒め)を読むと、却って、それに逆らいたい欲情が湧き上がり、律法に逆らって罪を犯し、罪の奴隷となり、死と滅びに至る生き方をし、死に至る実を結んでいた。以前はそうでしたが、イエス様の十字架で罪赦された今は違います。(6節)「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」 霊は聖霊・イエス様の霊ですから、「霊に従う新しい生き方」とは、「イエス様に従う新しい生き方」です。それはイエス様と同じように、父なる神様と隣人を進んで喜んで愛する、新しい生き方です。イエス様と全く同じには、なかなかなれませんが、それでもイエス様を見上げて、喜んで従って行こうと志すのです。

 先週の7月26日(火)の午前2時過ぎに、神奈川県の相模原市で、障がいを持つ方々の施設が襲撃され、19名もの方々が刃物で殺害され、26名が怪我を負う恐るべき事件が起こりました。完全に悪魔の働きです。5節に「死に至る実を結んでいました」と書かれていますが、あの容疑者が犯人とすれば、彼が完全に悪魔の奴隷、悪魔の僕(しもべ)となって行動してしまったのです。報道によると容疑者は、「障がい者は生きていても仕方がない。生きている価値がない」という考え方に支配されているようです。まさしくナチス・ドイツ、ヒトラーの考え方そっくりです。ヒトラーはアーリア民族(ドイツ人)が一番優秀だと考えており、優秀な遺伝子だけを残すことが人類のためになるという、真に身勝手な考えを抱いていました。愛国心が極端に進むと、こうなってしまうのですね。自分の国と民族が一番大事だという考えは、ほかの人・国・民族を排除する動きなり、今の世界で復活しつつあるようですから、注意が必要と思います。ナチス、ヒトラーはこのような考えでユダヤ人の絶滅計画を推し進め、ドイツ国内の障碍者を無用な存在と考え、安楽死させる計画を秘密のうちに推進しました。まさに悪魔の計画の推進です。

 皆様よくご存じの通り、創世記1章には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と書かれています。動物の命も大切ですが、人の命はもっともっと大切です。神様にかたどって、神様に似せて造られているので、人の命には特別な尊厳があります。障がいのあるなしにかかわらず、どの人の命にも神様に似せて造られた尊厳があります。重度の障がいがあるからその命に価値がないとか少ないという考えは、命を造られた神様に反逆する考え、悪魔の考えです。完全に間違った考えとして、否定されることが必要です。ナチスの考えは、優生思想と呼ばれます。優れた命と劣った命があり、優れた命だけが生き残る価値があるという考え方です。神様に反する悪魔の考え方です。ですからナチスとヒトラーは滅んだのです。神が滅ぼしたのです。モーセの十戒の第六の戒めにも、「殺してはならない」とあります。人を殺すことは、神様に逆らう罪です。
 
 ドイツに福祉の町として知られるベーテルという町があるそうです。ベーテルの名前は、旧約聖書のベテルという地名からとられており、「神の家」の意味です。創設メンバーの一人がフリートリッヒ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師だということです。最初はてんかんの患者さんの小さな施設から出発したようです。1872年(明治5年)のことです。その後、彼が召天すると、末の息子のフリッツ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師がベーテルの責任者として、あとを継ぎ、障がいのある人とない人が共に暮らす村として、成長していったようです。ナチスの時代になり、大きな試練の時が来ました。1939年にニュールンベルグ法という法律ができました。その法律には、「不治の病をもてる者は、安楽死が与えられる」という条項があったそうです。それを実施する通達が、公式に1941年に出されたそうです。それを「T4作戦」と呼ぶそうです。しかしある本によると、その通達の前に既に7万人の障がい者が秘密のうちに殺されていたと言います(橋本孝『福祉の町ベーテル』五月書房、2006年、146ページ)。ベーテルにも「T4作戦」による申告書が届きました。そこにはベーテルに住んでいる人々の健康の診断の結果と労働能力を書き込むことになっていました。書き込まれた用紙をナチスの担当者が見て、赤でプラスのしるしをつけると死を意味し、青でマイナスのしるしをつけると生き残ることができることを意味したそうです。フリッツ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師は迷わず、その申告書に何も書き込まないように皆に指示したそうです。彼はナチスに手紙を送り、担当者と話をして、「患者を殺害することは許されないし、障がいある人たちに生きる価値がある」と訴えました。すると仲間のブラウネ牧師が逮捕されました。フリッツ牧師は、様々な事情が作用して逮捕されませんでした。

 1941年2月、ベルリンから医師視察団がベーテルにやって来ました。一行は建物に押し入り、患者の書類を奪い、死に値すると判断した患者を記録したそうです。フリッツ牧師は青ざめ、震えました。ナチスの医者は、安楽死の必要を説きました。「不治の病をもったまま生きることは本人たちにも不幸せなのです。安楽死によって、彼らは幸せになるのです。」フリッツ牧師は、静かに言葉で戦いました。「この世の中には、生きるに値しない人とか、社会に不適応な人はおりません。神は決してそのような人間をお創りにはなりませんでした。国家にとって有用か、国家の目的に合うかの問題は人間個性の尺度にはそぐわないのです。人間というものは生存目的に適うようにだけ生きているわけでもありません。安楽死は神の掟に反します。それにキリスト教徒にとってこのような安楽死は非難されるべきです。なぜなら、イエス・キリストは一番惨めな人のために十字架にかかり、復活なさいました。国民を助けるために、何千という人々を犠牲にしてはなりません。それは大きな間違いです。他の健常な人たちを助けるという大義名分で、非人道的なことをすることは何人にも許されません」(前掲書、153~154ページ)。

 その後、ベーテルも連合軍の空襲を受けました。そして、他の牧師や神父なども反対の声を上げるようになり、1941年の暮れには安楽死の執行は取りやめになっていったそうです。1941年12月は日本が真珠湾攻撃を行った時ですが、ドイツ軍も次第に快進撃できなくなり、敗北に転じて行ったことで、障がい者の安楽死も実行できなくなっていったのでしょうか。しかしベーテルの障がい者の全員が守られたのではなく、残念ながら何人かは殺されたようです。それでもその後、ベーテルは「ヒトラーから障がい者を守った村」として知られるようになりました。まさにフリッツ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師とその仲間の人々は、神様の僕、イエス・キリストの真の弟子です。ローマの信徒への手紙7章の御言葉を借りるならば、「神に対して実を結ぶ」人、「霊(聖霊)(イエス・キリスト)に従う新しい生き方で(神様に)仕える人」です。

 「障がいがある人は生きる価値がない」という間違った考え方は、人種差別や外国人差別にもつながる罪深くて危険な考えと思います。このような悪魔の考え方が日本と世界に蔓延しないように、切に祈ります。

 三浦綾子さんの『光あるうちに』(新潮文庫、2013年)に大切な言葉があります。「物品は廃物となっても、人間は決して廃品とはならないのだ」(20ページ)。「神は人間を廃品とはし給わない。『人間は生きている限り、いかなる人間であっても使命が与えられている』という誰かの言葉がある。~口がきけなくとも、目が見えなくても、~重症身体障がい者でも、神にとって、廃物的存在の人間は一人もいないのだ。みんな何らかの尊い使命を与えられているのだ」(22~23ページ)。 私たちがイエス様の心に近づいて、イエス様に従って行くことができるように、お祈りして参りましょう。アーメン(「真実に」)。

2016-07-27 16:52:49(水)
「聖なる生活の実を結ぶ」 2016年7月24日(日) 聖霊降臨節第11主日礼拝説教 
朗読聖書:レビ記19章1~18節、ローマの信徒への手紙6章15~23。
「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます」(ローマ書6章22節)。

 最初の15節「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではありません。」パウロは、断言します。「わたしたちは、もはや律法の下にはいない。恵みの下にいるのだ」と。恵みとは、イエス・キリストが私たち全人類の全ての罪を、本当に背負って、十字架で死んで下さった恵みです。そしてイエス・キリストは三日目に復活されて、人類最大の敵・死に打ち勝つ永遠の命への道を、切り開いて下さいました。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、告白する人は、必ず全ての罪の赦しと、永遠の命をいただくのです。これが恵みです。これがどんなに大きな恵みであるか、この手紙の5章16節が力強く語っています。「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」これは究極の恵みの御言葉と思います。イエス様の十字架によって赦されない罪はないと言えるのではないでしょうか。

 イエス・キリストを救い主と信じたならば、洗礼を受ける方がよいのです。この手紙の6章前半に書いてある通り、洗礼を受けることは、「イエス・キリストと共に十字架につけられて死に、イエス・キリストと共に新しい命に甦ること」です。イエス様と一体となることです。罪多い古い自分がイエス様と一緒に十字架につけられて死んだのですから、その後は、前のように罪を犯し続けて平気、というわけにはゆきません。イエス様は全く罪を犯されません。そのイエス様と一体となったのですから、私たちもどんどん罪を犯し続けるというわけにはゆきません。生き方が少しずつ変わるはずです。祈って聖霊を受けるのですから、罪を嫌い、罪を憎む生き方に変えられてゆくはずです。ですからパウロは、本日のすぐ前の13節でこう述べます。「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」それは、聖霊に助けられて、少しずつ聖なる生き方を目指す歩みになります。聖なる生き方は自力ではできないので、祈って聖霊に助けていただいて、そのように生き始めます。

 そして本日の15節です。「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。」私たちはイエス様のお陰で、全ての罪を赦していただきました。そして神の子とされました。それが「恵みの下にいる」ということ、罪の支配から救われたということです。では、だからと言って今後も、以前と同じように罪を犯し続けてよいかというと、「決してそうではない」とパウロは強く否定します。口語訳聖書では「断じてそうではない」という決然とした言葉です。そしてパウロは、私たちを懇々と諭します。(16節)「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」ここに奴隷という言葉が出て来ました。パウロの時代は、奴隷がいました。もちろん現代では奴隷の存在は全く認められません。奴隷は、自由を持たない人です。私たちは社会的な意味で奴隷ではありません。しかし私たちも、自分の欲望の奴隷になることは、あり得ることです。

 小学校5年生の時に、国語の教科書に、「テレビの奴隷になるな」という意味のことが書いてありました。小学校5年生の私には、その意味が分かりませんでした。その後、だいぶたってから分かるようになりましたが、もちろんテレビばかり見過ぎて時間を無駄に過ごすな、テレビに支配されるな、ということです。イエス様は、ヨハネによる福音書8章34節で、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と喝破されました。本当のことをおっしゃいました。私たちは生まれつきの状態ではわがままで、自分の欲望通りに生きようとするかもしれません。しかしそれでは、欲望の奴隷です。しかしそれに気づかないことがあります。欲望のままに、勝手気ままに生きることを自由と思い込んでしまうのです。本当は反対で、自分の欲望とわがままな心に負けずに打ち勝つことが本当の自由です。欲望とわがままな心を、罪と言い換えることができます。自分の罪に負けないで、罪に打ち勝つことが、本当の自由です。

 「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」罪に支配され、罪の指示に従い、罪を犯し続ける生き方は、死と滅びに至ってしまいます。私たちイエス様に救われた者は、その生き方から立ち直らせていただき、罪に従う古い生き方と決別し、神様の清き霊である聖霊に助けていただいて、新しい生き方に踏み出します。それが「神に従順に仕える奴隷となって義に至る」生き方です。奴隷という言葉は、聖書ではしばしば僕(しもべ)と訳されます。「神に従順に仕える奴隷」という言い方には少々抵抗があるかもしれません。それは「神に従順に仕える僕(しもべ)」ということです。私たちは、「神に従順に仕える僕(しもべ)」として生きてゆきます。何にも仕えない生き方はないのですね。罪(と罪の誘惑をもたらす悪魔)に仕えるか、真の神様に仕えるか、2つに1つしかないのです。どちらにも仕えないことが自由のように錯覚しやすいのですが、真の神様に仕える生き方にのみ、本当の自由があります。神に仕えないで生きることは、自由のようで、実は罪と悪魔に仕えている恐れがあります。

 (17~18節)「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」「かつての生き方は悪かったが、今の生き方はよくなった」と、「キリストを信じる前のかつて」と「キリストを信じた後の今」が、はっきりとコントラストにされ、対比されています。「かつては罪の奴隷だったが、今は義に仕える者・神の奴隷(僕)に変わった」と。この手紙は、パウロがローマのクリスチャンたちに書き送った手紙ですから、パウロはローマのクリスチャンたちが、罪に従う古い生き方から、神様に従う新しい生き方に転じたことを喜んでいるのですね。パウロは、「全ての時代の全てのクリスチャンがこのようになるのですよ」と、私たちにもメッセージを送っているのですね。

 19節も、基本的に同じことを述べています。「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法(罪)の奴隷として、不法(罪)の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」ここでも、「かつて」と「今」を明確に対比して、分かりやすく述べようとしています。祈って聖霊に助けていただいて、自分の心と体の全体を義の奴隷として神様に献げ、聖なる生活を送るようにと、勧めています。私たちは洗礼を受けた後も、自分の罪をゼロにすることはできないので罪人(つみびと)であり続けます。しかし清い方向を目指して生きるように心がけるのです。

 本日の旧約聖書は、レビ記19章1節以下です。2節にこのように書かれています。神様が指導者モーセにおっしゃった言葉です。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」そして、具体的な聖なる生き方が書かれていくのです。このレビ記全体のメッセージをまとめると、今の2節に集約されると思うのです。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」私たちは天国に入れていただく時に、自分の罪に完全に死に、罪を全て脱ぎ捨てるので、その時に完全に聖なる者となります。それまでは完全に聖なる者になれないのですが、それでも日々、自分のわがままや罪を殺す心がけは必要です。聖なる生き方は、自己中心を捨て、神様と隣人を愛する生き方だと気づきます。モーセの十戒を守る生き方とも言えます。たとえば3、4節には、このように書かれています。「父と母とを敬いなさい。わたしの安息日を守りなさい。わたしはあなたたちの神、主である。偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。」

 9~11節は隣人愛の実行を求める御言葉です。「穀物を収穫するときは、畑を隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後も落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。~わたしは主である。」 13~14節も、隣人愛の実行を求める御言葉ですね。「あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえない者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」そして18節は、イエス様も引用なさる有名で大事な御言葉です。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」 イエス様が、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい」と言われたときに引用なさったのが、この18節ですね。

 ローマの信徒への手紙に戻り、20節。「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。」その時は、義の奴隷でなく、神の僕でなく、神様から離れて勝手気ままに、罪を罪とも思わず、罪を犯しながら生きていた、ということです。(21節)「では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが、今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。」
その頃は、罪深い実を結んでいました。以前はそれを誇りにさえしていたかもしれませんが、今ではそれを非常に恥ずかしいと感じています。以前のまま罪を犯し続けて恥じない生き方を続けていれば、死と滅びに行き着いたに違いありません。

 (22節)「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」今は、イエス様の十字架のお陰で罪を赦され、罪の必然的な結果である死から解放され、神の僕になり、聖霊に助けられて、罪を避けて神様と隣人を愛する生き方に、徐々に歩み始めた。この生き方の行き着く先は永遠の命であり、天国である。そうパウロが断言します。イエス様は、同じことを別の表現で言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ福音書16章24~25節)。罪を犯し続ける生き方は滅びに至るが、イエス様に従い、神の僕として自分の罪を悔い改めながら生きる人は、永遠の命と天国に至る、ということです。

 23節の前半。「罪が支払う報酬は死です。」罪という主人が与えてくれる報酬は死と滅びでしかありません。そのような主人に従ってはなりません。人を罪へ誘惑するのは悪魔です。悪魔という主人が与えてくれる報酬も死と滅びです。罪と悪魔という主人に従い、その奴隷となってはならないのです。23節の後半。「しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」イエス様に従い、父なる神様に従順に従う奴隷・僕になるならば、父なる神様は私たちに永遠の命という最高の賜物を与えて下さいます。私たちは神の奴隷・僕として最後まで生きてゆきたいのです。

 今日の個所には、奴隷という言葉が多く出ています。奴隷の反対は自由です。「本当の自由とは何か」がテーマとも言えます。私たちはここで、宗教改革者マルティン・ルターが書いた短い本『キリスト者の自由』を思い出すことがふさわしいでしょう。ルターは、キリスト者(クリスチャン)とは、次のような人だと教えてくれます。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
 キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」
(ルター著・石原謙訳『新訳 キリスト者の自由 聖書への序言』岩波文庫、1993年、13ページ)。まずイエス様が、このような方です。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主だ」とは、「キリスト者が罪にも負けず、悪魔の誘惑にも負けない自由な君主だ」ということです。自力ではこうなれないので、イエス様と聖霊に助けられてこうなります。「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕だ」とは、キリスト者は、イエス様と同じように、喜んですべての人の下に降りて奉仕する者だ」ということです。イエス様と聖霊に助けられて敵をさえ愛する。それが真の自由です。気の合わない人にも、気の合う人にも、全ての人に喜んで奉仕することこそ愛であり、真の自由です。

 確かにイエス様は、奴隷・僕の姿勢をとって、弟子たちの足を喜んで洗う愛を行われました。イエス様は、マルコ福音書10章で言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(奴隷)になりなさい。人の子(ご自身)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」パウロは、このイエス様の生き方をフィリピの信徒への手紙2章6節以下で、次のように称えました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(奴隷)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

 私たちのために、進んで十字架にかかって下さったイエス様の愛の生き方こそ、真に自由な生き方です。この真の自由に生きて、永遠の命に至るように、私たちも神様から招かれています。自分の罪を悔い改めて、ご一緒にイエス様を見上げてこの招きに従って参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。
2016-07-20 20:32:30(水)
「敵を愛するダビデ」 2016年7月17日(日) 聖霊降臨節第10主日礼拝説教 
朗読聖書:サムエル記・上24章1~23節、ローマの信徒への手紙12章9~21節。
「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない」(サムエル記・上24章7節)。
 
 イスラエルの次の王となるように、神様によって定められているダビデが、試練に遭っています。ダビデは、少年時代にペリシテ人の巨人ゴリアトを倒しました。小石一つと石投げ紐によって、倒したのです。その後、サウル王によって戦士の長に任命され、たびたび出陣して勝利を収めました。女性たちが、楽を奏して歌い交わしました。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」この時以来、サウルがダビデをねたみの目で見るようになり、ダビデの命を本当に狙うようになりました。サウルはねたみのあまり、精神を病んでゆきます。神様はダビデに聖霊を注いで下さり、ダビデと共にいて下さいます。そしてサウルの息子ヨナタンを、親友として与えて下さいます。しかしダビデは、神様から来る試練の時間、決して短くない試練の時間を忍耐しなければなりません。

 新約聖書のヤコブの手紙1章の御言葉を思い起こします。(2~4節)「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」(12節)「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」イエス様も、公の活動を開始なさる前、荒れ野で40日間の誘惑・試練の期間を耐え忍ばれました。ダビデも似た道を通るのです。神様に従う訓練を受けるのです。

 サウルに追われる身となったダビデは、逃亡と放浪の日々に入ります。神様がよしとされるまで、その日々が続きます。ダビデのもとには、「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者が集まり」、ダビデは400人ほどの者の頭領になったと、22章に書かれています。ギャングのボスになったようにも見えますが、困っている者、社会から追い出されている者の仲間になったのです。イエス様に少し似ています。イエス様も、当時の社会で除けものにされていた売春婦や徴税人(税金集めの仕事をする人)の友となりました。イエス様は、「人の子(ご自身)には枕する所もない」と言われましたが、それはダビデも同じです。権力者に命を狙われ、荒れ野を逃げ回る逆境の毎日です。今日の個所の直前で、サウル王はその兵と共にダビデとその兵の命を狙って追跡し、ダビデを追い詰める手前に来たのです。ダビデの大ピンチです。その時、使者がサウルのもとに来て、「急いでお帰り下さい。ぺリシテ人が国に侵入しました」と告げます。サウルはダビデを追うことをやめ、ぺリシテ人から国を守るために出陣してゆきました。これはダビデを守る神様の介入でした。ダビデは絶体絶命の危機、死の一歩手前で、神様に助けられたのです。

 そして本日の個所に入ります。ここには「エン・ゲディにおけるダビデとサウル」の小見出しがつけられています。(1~4節)「ダビデはそこから上って、エン・ゲディの要害にとどまった。ぺリシテ人を追い払って帰還したサウルに、『ダビデはエン・ゲディの荒れ野にいる』と伝える者があった。サウルはイスラエルの全軍からえりすぐった三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って、『山羊の岩』の付近に向かった。途中、羊の囲い場の辺りにさしかかると、そこに洞窟があったので、サウルは用を足すために入ったが、その奥にはダビデとその兵たちが座っていた。」サウルは気づかずに、ダビデとその兵が潜んでいる洞窟に足を踏み入れて、用を足したのです。サウルは一人の兵も中に連れず、完全に無防備の状態です。サウルは気づかずに、絶体絶命のピンチに置かれたのです。逆にダビデにとっては、千載一遇の好機、チャンス到来とも言えます。「飛んで火に入る夏の虫」とはこのことです。しかし、本当にそうなのでしょうか。

 ダビデの兵は嬉しさをかみ殺して、ダビデに進言します。普通に考えれば、この機を逃す手はありません。(5節)「『主があなたに、「わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思い通りにするがよい」と約束されたのは、この時のことです。』」一気にサウルを殺す千載一遇のチャンスです。ダビデも一瞬そう思ったでしょうが、ためらいも感じた模様です。「ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。」サウルを殺そうと思えば殺すことができたのですが、ダビデはサウルを殺さず、上着の端をひそかに切り取るにとどめました。兵はダビデに向かって、「主(神様)があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思い通りにするがよい』と約束された」と言いましたが、神様は本当にダビデにそう言われたでしょうか。ここまでのサムエル記を読む限り、神様がそのようにおっしゃったことは(私が読む限り)ないと思います。兵は、根拠のないことを言ったと思うのです。「神様はこう約束なさった」と彼は言いました。しかしその事実はありません。ダビデは彼の言葉を鵜呑みにしてはいけません。本当に神様がそうおっしゃったかどうか、確かめることが必要です。神様がそうおっしゃっていないのに、ダビデがそれこそ「思い通りに」してサウルを殺せば、ダビデはただの殺人犯です。十戒の第六の戒め、「殺してはならない」に違反する大きな罪を犯すことになります。

 ダビデがこの兵の言葉を鵜呑みにしてサウルを殺すことをしなかったことは、幸いでした。ここに悪魔は登場しないように見えますが、悪魔が働いていました。悪魔が兵の言葉によって、ダビデを誘惑したのです。悪魔は、神様がそうおっしゃっていないのに「神がこう約束なさった」と兵に言わせて、ダビデがサウルを殺す罪を犯すように誘惑したのです。「自分の手で復讐すればよいではないか」と。ダビデは一瞬その誘惑に乗りかけましたが、「神様はそのような約束をなさっていない」と気づいたのではないでしょうか。復讐は人間がなすべきことではない。復讐する資格をお持ちの方は、ただ神お一人だと知っていました。そして何とかぎりぎり悪魔の誘惑を退けたのです。

 しかしダビデは、上着の端を切り取ったことも、なすべきことではなかったと気づいて後悔します。上着の端を切り取ったことも、神様の御心に反する罪だと感じたのです。実際そうでしょう。(6~8節)「しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に言った。『わたしの主君であり、主が油を注がれた方(神様が聖別の油を注いで、王としてお立てになった方)に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。』ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。」ダビデは神様が、自分をサウルの次のイスラエルの王として決めておられることを知っています。しかし、ダビデが王として立つのは、神様が定められた時のことです。その時を決定なさるのは神様です。ダビデは「時が満ちる」まで待つ必要があります。ダビデが「今こそその時」と勝手に決めることは許されません。ダビデは、どこまでも神様に従わなければなりません。ダビデは誘惑に何とか打ち勝ちました。サウルを殺すことは神様に逆らう罪、サウルの上着の端を切り取ったことも神様に逆らう罪だったと悟り、罪を悔い改めたと思います。ダビデの中には、聖霊なる神様が住んでおられます。聖霊なる神様が、ダビデの心にささやきかけられたのではないでしょうか。「サウルを殺してはならない。悪魔の誘惑に乗ってはならない。」ダビデは、かろうじて聖霊の声かけに従い、サウルを殺す罪を犯すことから守られたのです。

 何も気づいていないサウルが洞窟を出ると、ダビデも洞窟から出て、サウルの背後から、「わが主君、王よ」と声をかけました。サウルはさぞかし驚いたでしょう。ダビデは顔を地に伏せ、礼をしてから王に諄々と語りかけます。(10~13節)「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せという者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはできない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした。それにもかかわらず、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。」

 ダビデは、サウルに対する自分の潔白を訴えます。ダビデの訴えは、正しいですね。ダビデの命を狙うサウルが間違っているのです。「主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。」「報復」という言葉を聞くと、私たちはびっくりし、野蛮な感じを受け、抵抗を感じるのではないでしょうか。聖書には「復讐」という言葉も出て来ますが、ほぼ同じ意味と思います。旧約聖書にはしばしば「報復」「復讐」という言葉が堂々と出て来ます。詩編を交読するときにも出て来るので、礼拝の中で違和感を持つ方も少なくないと思うのです。私もそうだったのですが、よく読んで考えてみると、聖書に出て来る「報復」「復讐」は、「正しい裁き」の意味だと思うのです。聖書では、罪と悪に対する正しい審判が行われることを「報復」「復讐」と呼んでいます。私たち日本人が考える「報復」「復讐」は、個人的な恨みに基づく仕返し、かたき討ちです。でも人間の怒りは100%正しくはないので、そのような「報復」「復讐」には罪がこびりついているでしょう。ですから私たちが「報復」「復讐」の言葉に抵抗を感じるのです。

 しかし聖書の「報復」「復讐」は、神様が悪に対して行う正しい裁き、公正な裁きです。神様には偏見も不公平も誤審もありません。ダビデがサウルに、「わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しません」と語りました。「神様がサウルの悪を正しく裁いて、神の正義を実行して下さいますように。わたしには誤りも偏見もある可能性があるので、わたしには100%正しい裁きを行うことができません、ですからわたしは手を下しません」ということです。

 サウルは、ダビデの語りかけを聞いて、心を打たれ、ダビデの正しさを認めます。(17~22節)「サウルは言った。『わが子ダビデよ、これはお前の声か。』サウルは声をあげて泣き、ダビデに言った。『お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前に手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今日のお前にふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される。主によってわたしに誓ってくれ。わたしの後に来るわたしの子孫を断つことなく、わたしの名を父の家から消し去ることがない、と。』」 ダビデはサウルに誓いました。

 ダビデが王となるイスラエル国は、「神の国」の雛型です。ですから武力よりも、神の聖霊に導かれ、祈りと愛と正義によって建てられることが必要です。ダビデは自力で(人の肉の思いで)国を建てようと早まるのではなく、神の導きに従い、忍耐と祈りを大切にする必要があります。ボンへッファーは書いています。「ダビデは王国のために非武装の者であり、迫害される者、悩める者であり続ける。」ダビデは、「悲哀の人・イエス様」に似ることが必要です。ダビデは今、逆境にありますが、逆境こそ真の祝福かもしれません。逆境にある時、人は思い上がりの罪を犯しにくいからです。

 本日の新約聖書は、ローマの信徒への手紙12章9節以下です。12節は、今年度の東久留米教会の標語聖句です。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」ダビデはまさに苦難を耐え忍んでいます。祈りもしていたはずです。14節に、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」とあります。ダビデはサウルを呪いませんでした。自分を迫害するサウルの命を大切に守りました。17節に、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」とあります。ダビデはサウルにこの通りに行いました。19節に、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」とあります。まさにダビデは、自分でサウルに復讐せず、神の怒り(正しい裁き)に委ねました。ダビデは、21節にある通り、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ち」ました。ダビデは新約聖書を読んだことがありませんが、聖霊がダビデをこのように導いたのでしょう。私たちはこのダビデの姿をしっかり胸に刻み、今後の信仰生活に生かしましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-07-14 2:55:27(木)
「わたしたちの負い目をゆるしてください」主の祈り⑥ 2016年7月10日(日) 聖霊降臨節第9主日礼拝説教
朗読聖書:詩編49編8~16節、マタイ福音書18章21~35節。
「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ福音書18章22節)。

 本日は、「主の祈り」の第五番目の祈りを学びます。それは、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」の祈りです。「主の祈り」の原型は、マタイ福音書6章とルカ福音書11章に記されています。この祈りはマタイ福音書6章11節では、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」です。ルカ福音書11章4節では、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから」です。福音書では罪をしばしば「負い目」と呼んでいることが分かります。負い目とは借金、負債です。実に具体的ですね。罪が借金にたとえられています。

 「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。」つまり、「私たちに罪を犯す者を私たちは赦します。だから私たちの罪をも赦して下さい」と祈っています。この祈りには、大前提があると言うべきです。私たち一人一人が、多くの罪を、ただイエス・キリストの犠牲の十字架の死のゆえに、赦していただいている事実です。この偉大な事実を前提にして、だから「私たちに罪を犯す者を、私たちは赦します」と祈るのです。

 本日はそのことを確認するために、「主の祈り」の原型を記したマタイ福音書6章やルカ福音書11章ではなく、マタイ福音書18章21節以下の、「仲間を赦さない家来のたとえ」の箇所を選びました。(21節)「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」この御言葉は、何回読んでもやはり驚きです。七回赦すのも大変でしょう。それなのに七の七十倍までも赦しなさい、とは! これは490回赦せばよい、ということではないでしょう。491回目は赦さなくてよい、ということではないでしょう。無限に赦しなさいということです。イエス様がなぜ、こうおっしゃるのか。以下のたとえが教えてくれます。
 
 (23~24節)「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、1万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。」聖書巻末の資料によると、1タラントンは6千デナリオンです。1デナリオンは一日分の賃金です。一日の賃金を仮に5千円として計算すると、1タラントンは3千万円、1万タラントンは3千億円の大金になります。個人では一生かけても、到底稼ぐことができない金額です。3千億円の借金、ほとんど無限大の借金、無限大のマイナスを背負った男が、王の前に連れて来られました。(25~26節)「しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。」私たちがこの家来だったとしたら、同じように必死に懇願するしかないでしょう。実際、これが神様の前での私たち一人一人の、偽らざる姿です。 
 
 主君は、実に驚くべき行動に出ます。(27節)「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」何と、驚くべき寛大さです。たとえて言えば7の70倍以上、490回をはるかに超えて赦して下さったということだと思うのです。「憐れに思った」という言葉は、もとの言葉(ギリシア語)で、スプランク二ゾマイという動詞で、この中に「内蔵、はらわた」の意味の名詞(スプランクノン)が含まれています。主君が「憐れに思った」ということは、主君が「はらわたがきりきりと痛む」ほどに彼の辛い立場を思いやって下さり、彼の苦しみを自分の苦しみとして共に苦しんで下さったということです。佐藤研という先生の訳では「その僕の主人は、腸(はらわた)がちぎれる思いがし、彼を赦してやり」となっています。

 私は先日、沖縄に行きましたが、沖縄に似た言葉があるそうです。「ちむぐりさ」という言葉です。漢字で「肝苦りさ」と書くそうです。直訳すると「肝が苦しい、肝が痛い」で、そこから「胸が痛い、可哀想」、「共に感じる、共に分け合う」の意味になったそうです。このように共に深く苦しんで下さる方は父なる神であり、神の子イエス・キリストです。この主君は父なる神であり、神の子イエス様です。この神様の痛切な思いを、「憐れに思った」という日本語では表現しきれないようです。残念ながら現代日本語に、スプランク二ゾマイの深みを十分に言い表す言葉がないようです。しかし沖縄の言葉にはかなり近い「ちむぐりさ」があるのですね。「ちむぐりさ」、「肝が苦しい、肝が痛い、胸が痛い、共に感じる。」覚えておきたい言葉です。

 主君が、これほど深い思いをもって3千億円もの莫大な借金を帳消しにして下さったのに、この家来は真に恩知らずな行動に出ました。これは私の姿かもしれないと、反省させられます。(28節)「ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。」百デナリオンは百日分の賃金ですので、仮に一日分を5千円とすると50万円です。50万円も大金ですが、1万タラントンと比べると、何とわずか60万分の1です。 (29~30節)「仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。」誰が見てもこの家来の行動は矛盾に満ちており、間違っています。

 (32~33節)「そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 私たちはこの家来と同じで、たとえて言えば3千億円もの無限大の負債・負い目・罪を、ただイエス・キリストの十字架のお陰で赦していただいた一人一人です。無限大の負債があったということは、神様から離れ、神様から見て失われた者だったということです。エデンの園で、エバとアダムは、神様の戒めを破って罪を犯し、エデンの園から追放されました。失われた者となってしまったのです。それ以来、人はみな、失われた者、罪人(つみびと)として生まれて来るようになりました。

 生まれつきの罪を原罪と呼ぶことができます。原罪という言葉は、聖書にありませんが、「生まれつきの罪」という考え方は聖書にあります。この原罪プラス私たちが犯して来た1つ1つの罪の合計が、「1万タラントン」「3000億円」の借金にたとえられていると思うのです。イエス・キリストは、私たちの1万タラントンの借金・罪をすべて背負って、十字架で死んで下さいました。イエス・キリストの十字架の死は、私たち一人一人の罪が赦されるためには、どうしても必要なものです。イエス様が十字架で死んで下さらなければ、私たちの罪が、父なる神様によって赦されることはありませんでしたし、私たちが神様の子たちとされることもなかったのです。クリスチャンは皆、神様の娘、息子たちです。

 本日の旧約聖書は、詩編49編8節以下です。(8~9節)「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。」「贖う」とは「買い戻す」ということです。私たちが逆立ちしても、兄弟(隣人・ほかの人)の罪をすべて贖いきる・償いきることはできません。「魂を贖う値は高く、とこしえに払い終えることはない。」その値は、あえて言えば1万タラントン、3千億円、私たちの力で支払うことが不可能な値です。無限に尊い神の子イエス様の命をもってして初めて、人の罪を贖うことができるのです。16節に、救いの御言葉が記されています。「しかし、神はわたしの魂を贖い/ 陰府の手から取り上げてくださる。」神様が、独り子イエス様の十字架の死によって、私たち全員の罪を贖い、陰府の手(死の手)から救い、永遠の命をプレゼントして下さいます。罪というものが、どれほど大きな問題なのか、私たち罪人(つみびと)には、完全には分からないのです。私たちの罪は、私たちを滅びに導きます。その人間の罪の深刻さを、本当に分かっておられるのは、神様と神の子イエス様だけです。この神様が、私たちを罪による破滅から救おうと必死になって下さった、最愛の独り子イエス様を、この危険な世界に赤ちゃんとして誕生させ、私たちの罪をすべてを贖わせるために、あの辛い十字架におかけになりました。そしてイエス様は、三日目に復活なさいました。

 私たちの罪の赦しのために、神様は、洗礼という恵みを用意して下さいました。洗礼式の時に読む日本キリスト教団の式文には、おおよそ次のように書かれていると記憶しています。「私たち人間は、罪の中に生まれた者ですから、そのままでは、神の御心にかなうことができません。思いと言葉と行いによって神に背いている者であります。神は、その私たちの罪を赦すために、洗礼(バプテスマ)の聖礼典を制定されました。『だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない』(ヨハネ福音書3章5節)と記されている通りであります。」

 「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく」と、私たちは祈りました。「私たちに罪を犯す者を、私たちは赦す」と祈りました。イエス様の十字架によって、私たちの無限大の罪を帳消しにして赦していただいたのですから、私たちが人を赦さないということはあり得ないことになります。あの「仲間を赦さない家来」にならないように気をつけなさい、これが神様から私たちへのメッセージではないでしょうか。

 人の罪を赦すことは、簡単ではなく、実にしんどいことです。神様も非常にしんどい思いをして、私たちの罪を赦して下さったに違いありません。イエス様の十字架を見れば、父なる神様がどんなにしんどい思いをなさったか、私たちにも伝わります。

 2~3年前に東久留米市内の成美教育文化会館で、鈴木さんという女性の講演を伺いました。日本基督教団の議長として1960年代に「戦争責任告白」を出した鈴木正久牧師の娘さんです。韓国に行かれた時に、朱基徹牧師のお孫さんの女性に会われたそうです。朱基徹牧師は、日本が朝鮮半島を植民地にしていた戦時中、あくまでも神社参拝(偶像崇拝)を拒否して日本官憲の拷問を受け、殉教した著名な牧師です。その朱牧師のご家族ならば、日本人に強い怒りを感じて当然です。しかしその朱牧師の孫の女性が、鈴木さんに、「私はあなたを赦します」と言って下さったそうです。それは「日本人を赦します」という意味でもあるでしょう。今では、「韓国の妹」のように親しくしておられるそうです。  

 2006年に、アメリカのアーミッシュと呼ばれる共同体で、学校で乱射殺人事件が起こりました。女生徒5名が亡くなり、5名が重傷を負う悲劇でした。アーミッシュの人々は、現代文明を受け入れない生活をし、非常にキリスト教的な共同体を作っておられます。アーミッシュの人々が、現場で死んだ犯人(アーミッシュでない)の家族を訪問し、赦しと慰めの言葉をかけたそうです。被害者の家族も似た姿勢をとったと言います。アメリカ中の人々を驚嘆させた「赦し」でした(クレイビル、ノルト、ウィーバー・ザーカー著、青木玲訳『アーミッシュの赦し なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか』亜紀書房、2008年)。アーミッシュの人々は、「主の祈り」を非常に重視しているそうです。しかも、「赦し」、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」を非常に重視しているそうです。アーミッシュの人々は、「赦さなければ、神に赦されない」と信じておられるということです。それはマタイ福音書6章14~15節で、イエス様が「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とおっしゃり、本日のマタイ福音書18章35節でもイエス様が、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と言っておられるからです。イエス様を愛して、イエス様にひたすら従おうとしておられるのではないでしょうか。

 イエス様は言われます。「7回どころか、7の70倍までも赦しなさい。」「千里の道も一歩から」と言います。私どもも自分の罪を悔い改め、人様の罪を一つ一つ赦させていただく、信仰の歩みをさせていただきたく思います。イエス様に助けていただいて。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-07-08 3:05:58(金)
「罪なき者がまず、石を投げよ」 2016年7月3日(日) 聖霊降臨節第8主日礼拝説教
朗読聖書:申命記5章6~22節、ヨハネ福音書7章53節~8章11節。
「イエスは身を起こして言われた。あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ福音書8章7節)。

 有名な場面です。場所はエルサレムの神殿、目立つ所です。(1節)「イエスはオリーブ山へ行かれた。」そこで夜を過ごされるためです。(2節)「朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。」座ってじっくりと、神様のことを人々に語り始められたのです。(3~4節)「そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』」 イエス様に反感を抱く律法学者たちやファリサイ派の人々が、イエス様をやりこめようとして、やって来たのです。

 まだ朝です。先ほどまで姦通をしていた女性が、捕らえられて来ました。言わば現行犯ですから、言い逃れることはできません。しかし相手の男性はどこに行ったのだろうかと思います。男性も姦通をしたのですから、捕まるべきですが、律法学者たち・ファリサイ派の人々は自分たちと同じ男性に甘く、男性を捕まえなかったのではないでしょうか。当時のイスラエルは、かなり男性中心(男尊女卑)の社会で、男性に都合よく、女性に厳しくできている社会だったようです。

 神様からご覧になって、姦通が罪であることははっきりしています。神様の正しさの基準を示すモーセの十戒は、出エジプト記20章と申命記5章に記されています。本日は申命記5章により、十戒を朗読していただきました。その7つめの戒めに、「姦淫してはならない」と明確に記されています。姦淫・姦通は、配偶者同士でない人々の間の性関係です。今の日本では姦淫・姦通という言葉は、ほとんど死語です。今の言葉で一番近い言葉は不倫でしょう。姦通・姦淫・不倫は罪です。しかも聖書では、死刑に値する罪です。レビ記20章10節には、このようにあります。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。」「男と女も共に」ですから、やはり男性も捕らえられるべきだったのです。申命記22章22節には、次のように書いてあります。「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。」

 これが本日の場面の前提です。(4~6節)「『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。」イスラエル社会で権威を持っていたのは、「モーセ」と「律法」です。神様の御言葉を取り次いだモーセがほとんど絶対であり、神の戒めである律法が絶対でした。しかし、ヨハネによる福音書1章17節は、こう宣言します。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と。イエス様は、生きておられる神の独り子であり、モーセと律法を上回る方、愛によって律法を完成なさる方です。

 律法学者たちとファリサイ派の人々は、イエス様の立場を失わせるために、悪意を込めて、このような告発を行っています。イエス様が、「この女に石を投げるな、赦してやりなさい」とおっしゃれば、モーセと律法に従わない悪者として、追い落とすことができます。「この女に石を投げて死刑にしなさい」とおっしゃれば、愛を説く方としてのイエス様を支持する民衆が失望し、民衆が離れて行くでしょう。どちらにしても、イエス様の立場を悪くすることができます。罠を仕掛けています。まさに悪魔の知恵、陰謀です。イエス様は、彼らの悪意と罠をたちどころに見抜かれました。

 (6節後半)「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」イエス様が低くかがみ込んだ姿勢に、やがて十字架に向かわれるのと同じへりくだりを感じ取る人がいます。確かにそうなのだと思います。私は、イエス様の十字架を予告する旧約聖書・イザヤ書53章7節「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった」という御言葉を思い出します。7、8年前から日本語に定着した(と私が感じている言葉に)「上から目線」がありますが、かがみ込んでおられるイエス様は、この女性に対して上から目線ではありません。そしてイエス様は、女性を直視してはおられません。公衆の面前で好奇の視線にさらされ、姦通の罪を犯した罪人(つみびと)として告発され、恥かしさの極みにある女性への思いやりです。

 そしてイエス様は、律法学者たち・ファリサイ派の人々に対して「御顔を背けておられる」と言えます。イエス様は、神の子であり、三位一体の神ご自身ですから、神様が御顔を背けておられます。ほとんど神になったようなつもりで、この女性の罪を告発してやまない人々の姿を、見るに堪えないと感じておられたのではないでしょうか。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」イエス様は指で地面に何を書いておられたのか、はっきり書かれていないので、分かりません。ですがイエス様が何を書いておられたのか、昔から多くの人が祈りつつ、考えて来たようです。ある人は、「その場にいたすべての人々のすべての罪を書き記しておられたのではないか」と考えたそうです。でもイエス様が、そんなことをなさるだろうか、という気も致します。私は7節の御言葉を書いておられたと考えることも許されるのではないか、と考えています。「罪を犯したことのない者がまず、この女に石を投げなさい。」

 律法学者たちとファリサイ派の人々は、遂にイエス様をやりこめることができるとの期待に満ちて、「あなたの答えを聞かせてほしい」と詰め寄りました。(7節)「しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまず、この女に石を投げなさい。』」完全に彼らの意表をつく答えです。人々は、「石で打ち殺すか、打ち殺さないか」、答えはこの2つのどちらかしかないと決め込んでいました。イエス様は全く別の、驚嘆すべき見事な答えをなさいました。しかも全く逃げていません。まさに神様の知恵です。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまず、この女に石を投げなさい。」文語訳聖書では、「なんぢらの中(うち)、罪なき者まづ石を投げうて」という表現です。「なんぢらの中、罪なき者まず石を投げうて。」引き締まった名言です。

 聴いた律法学者たち・ファリサイ派の人々は、一言でずばり急所をつかれたと、驚嘆したことでしょう。ある人は、この一言について、「うーんすばらしい。普通じゃ言えない言葉だ」(吉成稔著『あるハンセン病者の告白 見える』キリスト新聞社、1993年、74ページ)との感想を述べています。この言葉を「黄金の言葉」と表現する人もいるそうです。イエス様はこの一言の効果をよく分かっておられたでしょう。しかし得意になられることもなく、再び身をかがめて地面に書き続けられました。あくまで柔和で、へりくだっておられます。

 (9節)「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」人々は、イエス様の一言で、眠っていた良心を呼び覚まされたのです。自分の罪にまず気付いたのは年長者でした。人は年を重ねる中で、自分の中にある罪に気づくようになる場合が多いのでしょう。この場面は、「さすがユダヤ(イスラエル)」とも言える場面と思うのです。人々は十戒をよく知っていました。子供の頃から十戒を何回も学びながら、自分たちがこれを完璧には守れないことに薄々気づいていたのではないでしょうか。それで誰も女に先頭切って石を投げることができなかったのです。これがユダヤ以外の場であったら、イエス様に「罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい」と言われた後、誰かが「自分には罪がない」と思って、先頭切って石を投げたかもしれません。そうならなかったのは、やはりユダヤ(イスラエル)では、神様の戒めを人々がよく知っていたからでしょう。

 この場面に登場する律法学者たちやファリサイ派の人々の中に、姦通の罪を現実に犯した人はいなかったとしても、心の中で犯したと自覚した人はいたと思います。何人かはイエス様の「山上の説教」の御言葉「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ福音書5:28、文語訳「すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうちに姦淫したるなり」)を聞き及んでいたのではないでしょうか。イエス様がこの場面で教えて下さることは、私たち人間が皆、罪人(つみびと)であること、人間を誤りなく完全に正しく裁くことがおできになるのは神様と、その独り子イエス様だけである、ということではないでしょうか。(もちろん、愛をもって人を注意することは必要です。)

 「私もあなたを罪に定めなさい。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない。」 イエス様のメッセージ(福音)は、「あなたはひどい罪を犯した。私があなたの身代わりに十字架で死ぬ。私は、あなたに罪を悔い改めて、立ち直るチャンス、やり直すチャンスを与える。しっかりこの姦淫の大きな罪を悔い改めて、二度と罪を犯さない決意をして、新しく出発しなさい。」事実上の洗礼。

 矢嶋楫子(やじま・かじこ)という女性は、「自分こそ、この姦淫の女だ」という自覚を持って生きたクリスチャンと思う。1833年~1925年。現・熊本県上益城郡益城町 生まれ(今年2016年4月の熊本地震の被害を受けられた町)。向学心の強い女性。女子学院の院長。(熊本は、熊本バンドというプロテスタントの初期の拠点の1つ)。25歳のときに林七郎に嫁いだ。彼には二度の離婚歴(酒乱のため)があり、既に3人の子あり。彼は酒を飲むと人が変わり、刀を抜いて妻と子供たちを脅した。彼女も3人の子を産んだ。10年忍耐。ある日、彼が小柄を抜いて、彼女が抱く赤子に投げつけ、彼女がかばった瞬間、彼女の二の腕に刺さった。夫に離縁を宣言。極めて異例(男尊女卑の時代)。40歳で、子どもたちを残して兄のいる東京へ。兄の家には書生たちがいた。小学校の教師になる勉強。妻子ある書生の一人との間に子を宿す。

 クリスチャン作家・三浦綾子さんが、『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』(小学館、1989年)という見事な伝記小説を書いている。ぜひお読み下さい。中盤に矢嶋楫子が教会で、「姦淫の女」の場面による説教を聴く場面がある。以下引用「教会を出た楫子は、不思議な喜びに満たされていた。牧師の説く姦淫の女の話が、まさに自分のためになされたような気がしてならなかった。『われも汝を罰せじ、行け、ふたたび罪を犯すな。』楫子はキリストが自分の行く道を示してくれたような気がした。それはキリストに従って行く道であった」(同書、119ページ)。それから二ヶ月経たないで、楫子は洗礼を受けました、48歳頃。その後、女子学院院長、婦人矯風会会頭として婦人の保護救済に力を尽くし、キリストに従う道を40年以上、生き抜いた。女子学院では、校則を取り払い、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」(同書、245ページ)と毅然として教えた。アーメン(「真実に、確かに」)。