日本キリスト教団 東久留米教会

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2016-06-02 2:10:57(木)
「希望、苦難、祈り」 2016年5月29日(日) 聖霊降臨節第3主日礼拝説教
朗読聖書:エレミヤ書29章10~14節、ローマ書12章9~21節。
「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」ローマ書12章12節)。    
 
 この手紙を書いたのは、イエス様の十字架の死と復活の後に、イエス様の弟子となったパウロです。パウロは、イエス・キリストの十字架の死という尊い犠牲によって罪を赦された私たち、そしてイエス様の復活によって永遠の命の希望を与えられた私たちに、次のような姿勢で生きるように勧めます。(9~10節)「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」私は、先週の礼拝で読んだサムエル記(上)のヨナタンこそ、このように生きた人だと感じます。ヨナタンは、イスラエルの初代の王サウルの息子です。神様を愛し、次の王となるダビデを愛しました。サウルが嫉妬のあまりダビデを殺そうとしますが、ヨナタンはそのような父の悪に反対しました。ヨナタンはサウル王の息子ですから、自分が次の王になりたいという野心を抱いても不思議はないのに、神様がダビデを次の王と決めておられると悟り、深い兄弟愛(血を分けた兄弟ではありませんが)をもってダビデを愛しました。兄弟愛は、原語のギリシア語で「フィラデルフィア」です。アメリカにフィラデルフィアという町がありますが、兄弟愛の意味です。すばらしい名の町ですね。ヨナタンは、ダビデを尊敬して、自分より優れた者と思ったに違いありません。ヨナタンは、聖霊に満ちた人だったと思うのです。(11節)「怠らずに励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」聖書を読むこと、祈りを怠らず、聖霊によって心を燃やされて、主なる神様を礼拝し、神様にお仕えしなさい、と強く勧めています。

 東久留米教会の今年度の標語聖句の12節。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」希望は天国・永遠の命の希望でしょう。キリスト者には天国・永遠の命という、真の希望・究極の希望が与えられています。それはこの地上でお金持ちになるとか、有名になるという希望とは違います。この地上で報われないかもしれないが、にもかかわらず、確実に天国・永遠の命が約束されている喜びです。

 「苦難を耐え忍び」と続きます。苦難という言葉を聞くと、ローマの信徒への手紙5章3節以下の印象深い御言葉を連想します。「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。」つまり、苦難は忍耐と練達(新改訳聖書は、「練られた品性」と訳しています)を通って、必ず希望に至るというのです。苦難は、苦難で終わらない。神様が必ず真の希望に導いて下さる。この希望も天国・永遠の命の希望でしょう。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 イエス・キリストを信じる人には、聖霊が注がれています。聖霊は、神様の愛の霊です。聖霊を受けている人は、永遠の命を受けています。聖霊こそ、真の希望です。聖霊はイエス・キリストの霊でもありますから、イエス・キリストこそ真の希望であり、三位一体の神様こそが、私たちの真の希望です。神様だけが永遠の希望で、神様以外には真の希望、永遠の希望はありません。この地上での希望も確かに必要ですが、この地上での希望は永遠に続く希望ではなく、いつかは消える希望です。それに対して、神様が与えて下さる永遠の命は、地上の人生が終わって後も続く希望です。

 忍耐という言葉によって、ヤコブの手紙5章7節以下を思います。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りの待つのです。~兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」旧約聖書のヨブ記を読むと分かる通り、ヨブは試練と苦難を受けて忍耐した人の代表格です。ヨブははじめ、豊かな祝福に満たされていました。その後に、大きな試練・苦難を受けます。しかしヨブの人生は試練と苦難で終わらず、神様は、最後の最後にヨブを以前にも増して祝福して下さいました。

 ヨブ以上の試練・苦難を受けた方は、主イエス・キリストです。一つも悪いことをしていないのに、鞭打ちを受け、十字架につけられるという、恐るべき不条理に満ちた苦難を味あわれました。イエス様は十字架で死なれ、地上ではよき報いを受けなかったのです。父なる神様は十字架の時、一時的に確かにイエス様を見捨てられました。しかし三日目に復活を与えて下さったのです。イエス様の十字架での絶望は、三日目の復活によって報われました。苦難が苦難で終わらず、復活という希望に導かれたのです。(医学者・野口英世は若い日に洗礼を受けていますが、彼の好きだった言葉は「忍耐」で、書にも何回も書いているそうです。)

 そしてパウロは、「たゆまず祈りなさい」と勧めます。ある人(P.T.フォーサイス)は「最悪の罪は、祈らないことである」と言います。祈れないときもあります。それでも、気を取り直して祈り始めます。きっと、これからもその連続だろうと思います。祈りこそ希望です。しかし、祈りが実現するまでには時間がかかることが多いです。「主の祈り」は、今日のパンを求める祈りであると同時に、神の国の完成を求める祈りです。その意味で「主の祈り」は、世の終わり・神の国の完成の時に実現する壮大な祈りです。と同時に、やはり今日のパンを与えて下さいと、目の前の必要を求める祈りでもあります。祈りは、永遠の命の与え主である神様と交流する安らぎの時です。私たちは、祈りによって、毎日の気ぜわしさから解放され神様と交流し、自分を見つめ直すことができます。

 本日の旧約聖書は、エレミヤ書29章10~14節です。これは紀元前6世紀に、預言者エレミヤが、バビロンに捕囚として連れ去られた苦難の中にあるイスラエルの民に書き送った手紙の一部です。神様がエレミヤを通して、イスラエルの民に与えられた慰めと希望の言葉です。神様が、捕囚は長く続くが、永久に続くのではない、必ず捕囚が終わる時が来るという慰めと望みを語っておられます。しかしそれまでは焦ってエルサレムに帰ろうとせず、腰を落ち着けてバビロンで暮らし、住む町の平安(シャローム)のために、神様に祈りなさい、とエレミヤは告げました。私たちも、自分たちが住む東久留米市、西東京市、新座市、そして日本とアジアと世界のために平安を祈ります。自分たちの住む地域と世界に平安があってこそ、私たちの平安もあるからです。

 (10節)「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地(エルサレム)に連れ戻す。」神様は七十年とおっしゃいましたが、結果的にはバビロン捕囚は50年弱で終わりました。この短縮は、神様の憐れみと思います。11節は「希望」という言葉が出て来る、有名な言葉です。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和(シャローム)の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」バビロン捕囚は、イスラエルの民が十戒を破り続けた罪に対する、神様の審判です。しかしその審判も、イスラエルの民を罪の悔い改めに導き、真の神様に立ち帰らせるための審判だと思うのです。罪を悔い改めて、真の神様に立ち帰り、神様の御心に沿って歩み始めるならば、平和と将来と希望が復活するはずです。 

 12~14節は、神様とイスラエルの民の関係が回復し、神様が民を故郷に帰還させて下さる、希望の約束です。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」

 ここでローマの信徒への手紙12章に戻り、13節を見ます。「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。」ホスピタリティーという英語がありますが、「もてなしの心」のことです。クリスチャンの愛の精神を表す言葉です。ホスピタリティーと関連する言葉に、ホスピタル(病院)、ホスピスなどがあります。みな、人をもてなす所です。この精神の源が13節だと思うのです。「聖なる者たち」とは、直接には初代教会のクリスチャンたちでしょう。初代教会のクリスチャンたちの多くは、貧しかったようです。それで貧しい彼らを助け、旅人を心をこめてもてなしなさいと、パウロは勧めます。今回の熊本・大分の地震で、熊本市にある日本キリスト教団のある教会では、近隣の住民が一時会堂に避難し、多い時で12名が夜を明かした、と『信徒の友』6月号に書かれています。熊本YMCA(キリスト教青年会)が支援の一つの拠点になっているようです。被災した方々のほとんどはクリスチャンではないでしょうが、隣人の「貧しさ(または困窮)を自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」の御言葉を実践している方々が、今、熊本に少なからずおられることを知ります。

 宝物のようなすばらしい言葉が続きます。(14節)「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」なかなか難しいですね。しかしイエス様が十字架で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたことを思い、14節をも何とか実行したいものです。(15節)「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」イエス様は、まさにこのようになさいます。私たち、自己中心的な罪人(つみびと)にとって難しいことですが、聖霊なる神様に助けていただいて、このように生きるように心がけたいのです。(16節)「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分自身を賢い者とうぬぼれてはなりません。」 「本当にその通りだ」と思いつつ、なかなかこのようにできていない自分に気づきます。本日のローマの信徒への手紙12章9~21節を、毎日読まないと、ダメな自分になると感じます!

 (19~21節)「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」「燃える炭火を彼の頭に積む」とは、敵を恥じ入らせることを意味するようです。悪に対して親切を返すことで、敵が悪を行った自分を恥じ入るようにさせるのがベストだということです。白洋舎というクリーニング店を創立した五十嵐健治さんというクリスチャンがおられました。ある社員が別のクリーニング店を起こし、白洋舎にいくつかの形で打撃を与えようとしたそうです。白洋舎はダメージを受けました。社長の五十嵐さんは、怒りと憎しみで心がいっぱいになりましたが、礼拝で祈っていると、十字架につけられたイエス・キリストの姿が思い出され、「自分で復讐するな」という19節の御言葉が思い浮かんだようです(仁井田義政牧師著『人物による婦人聖研 聖書に触れた人々No.6 白洋舎の創立者 五十嵐健治』より教えていただきました。深く感謝申し上げます)。五十嵐さんは復讐しませんでした。反乱した人たちは仲間割れするなどして、結局失敗したそうです。後に五十嵐さんに謝罪したそうです。

 パウロは、19~20節で、旧約聖書の箴言25章21~22節を引用しています。
「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」パウロは最後の一文を引用していませんが、箴言にはこの一文があります! 復讐しないで敵を愛することは、私たちにとって少々悔しいことかもしれません。しかしそれを行えば、「主があなたに報いられる。」きっと神様が私たちの気持ちを分かって下さり、ささやかな恵みを与えて下さるのではないかと想像します! 正直に言って、私は、「そして主があなたに報いられる」の一文が嬉しいのです。

 今年度の標語聖句は、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」です。コリントの信徒への手紙(二)4章8~9節には、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」とあります、「途方に暮れても失望せず」を文語訳聖書は、「為ん方つくれども希望(のぞみ)を失はず」と訳しており、神を信ずる者に真の希望があることを語ります。希望の主イエス・キリストが共におられることに感謝して、祈りながら共に歩みたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。


2016-05-25 20:48:05(水)
「ダビデとヨナタンの真の友情」ダビデ王④ 2016年5月22日(日) 聖霊降臨節第2主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記・上20章16~42節、マルコ福音書12章28~34節。
「ヨナタンは、ダビデを自分自身のように愛していたので~」(サムエル記・上20章17節)。
  
 サムエル記(上)18章の最初には、「ヨナタンの魂はダビデの魂と結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」とあり、本日の20章17節にも、「ヨナタンは、ダビデを自分自身のように愛していた~」とあります。原文は旧約聖書ですから、ヘブライ語です。ヘブライ語の旧約聖書をギリシア語に翻訳した「七十人訳聖書」という聖書があります。そこではこの「愛した」は、アガペーという言葉の動詞形です。ご存じの通り、新約聖書ではアガペーは愛、真実の愛です。その同じアガペーの動詞の形がここで使われています。「ヨナタンは、ダビデを自分自身のように(アガペーの愛で)愛していた」のです。

 旧約聖書のレビ記には、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。
そしてイエス様は、本日の新約聖書・マルコ福音書12章29節以下で、次の有名な言葉を語られました。「第一の掟はこれである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」。「主を愛しなさい」と「隣人を愛しなさい」の2つの「愛しなさい」もアガペーの動詞の形です。ヨナタンは、もちろん主なる神様をも愛していたでしょうから、(ヨナタンはイエス様より約1000年前の人ではありますが)イエス様のおっしゃる神への愛と隣人への愛を実践した人と言えます。ヨナタンは、聖霊を受けていたのでしょう。

 しかもヨナタンはイスラエルの初代の王サウルの息子です。次の王になりたいと考えたとしても、不思議ではありません。しかしヨナタンは、神様がダビデを次の王として決めておられることを、よく知っていました。考えようによっては、ヨナタンにとってダビデはライバルであり、敵です。しかしヨナタンは、そのダビデを深く愛したのです。イエス様は「敵を愛しなさい」という有名な言葉を語られましたが、ヨナタンはダビデを深く愛することで、ライバルを愛し、敵を愛したとさえ言えるのではないでしょうか。ヨナタンは後に、父サウルと共に、ペリシテ人との戦いの中で戦死します。それを知った時、ダビデは次のように歌って、ヨナタンを悼みました。「ヨナタンはイスラエルの高い丘で刺し殺された。あなたを思ってわたしは悲しむ。兄弟ヨナタンよ、まことの喜び。女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を。」ここの2つの「愛」も「七十人訳聖書」では、アガペーをもとにした言葉です。

 ヨナタンはサウル王の息子ですが、神様がダビデを次の王に決めておられることを、よく知っており、それを受け入れていました。サムエル記・上20章15節で、ダビデに次のように懇願しています。「主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家から断たないでほしい」と。当時しばしばあったことは、新しい王が自分の家の支配を確立するために、前の王の一族を皆殺しにするということです。それでヨナタンは、ダビデにあらかじめ頼んだのです。ダビデが王となった時に、ヨナタンの家の者たちを殺さないでほしいと頼んだのです。ダビデはそれを受け入れたと思いますが、今のダビデはサウルに本当に命を狙われています。サウルから命を守ることで精一杯なので、王になることを考えるゆとりはありません。そのような中で、ヨナタンはダビデと契約を結びました。16節にこうあります。「ヨナタンはダビデの家と契約を結び、こう言った。『主がダビデの敵に報復してくださるように。』」

 二人は契約によって、固く結ばれたのです。二人は、完全に信頼し合っています。相手が裏切ることは絶対にないと、深く信頼し合っています。この新共同訳聖書の巻末の用語解説の「契約」の項を見ると、「古代オリエントにおいては、二つの民族、もしくは、二人の人間の間を最も固く結び付け、円満な関係を持たせるものが契約であると考えられていた」と、あります。「契約を結び」の「結び」はヘブライ語では、「切った」という表現です。契約を結ぶということは、お互いがこの契約を命を賭けて守るということです。

 創世記15章に、神様がアブラム(後のアブラハム)と契約を結ぶ場面があります。神様はアブラムにこう指示されます。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置きました。そして、神様がそれらの切り裂かれた動物の間を通られました。この場合は神様だけが切り裂かれた動物の間を通られましたが、昔のイスラエルの契約では、契約を交わす両者が切り裂かれた動物の間を通る習慣だったそうです。それには強い意味があり、もし契約を守らなかった場合は、自分がこの動物たちと同じように切り裂かれても構わないことを、確認し合ったのだそうです。契約を守らなかったら切り裂かれて死んでも構わないという覚悟と真剣さで、契約を結んだのですね。ヨナタンとダビデもそうだったと思うのです。

 ダビデは、サウルに本当に命を狙われていると恐怖しており、サウルに近づかないように気をつけています。ヨナタンが、父サウルの本心を確かめることにします。その結果を、ダビデに次の方法で知らせると、ヨナタンは約束します。ヨナタンはダビデを愛しており、ダビデに忠実を尽くします。ヨナタンはダビデに言います。(18~20節)「明日は新月祭だ、あなたの席が空いていれば、あなたの不在が問いただされる。明後日に、あなたは先の事件の日に身を隠した場所に下り、エゼルの石の傍らにいなさい。わたしは、その辺りに向けて、的を射るように、矢を三本放とう。」つまりヨナタンが弓矢の練習をするふりをして、従者への言葉次第で、サウルに殺される危険がないか、逆に危険があるかを、知らせる手筈にしたのです。これはダビデがヨナタンを深く信頼しているから、取ることのできる方法です。

 (21~24節)ヨナタンの言葉「それから、『矢を見つけて来い』と言って従者をやるが、そのとき従者に、『矢はお前の手前にある、持って来い』と声をかけたら、出て来なさい。主は生きておられる(生ける主にかけて誓う、の意味)。あなたは無事だ。何事もない。だがもし、その従者に、『矢はあなたのもっと先だ』と言ったら、逃げなければならない。主があなたを去らせるのだ。わたしとあなたが取り決めたこの事については、主がとこしえにわたしとあなたの間におられる(主が二人の間の証人だ、ということでしょう)。」ダビデは野に身を隠した。」 サウルによる危険が本当にあることが判明したら、逃げなければなりません。ヨナタンは、「主があなたを去らせるのだ」と言いました。ダビデは、王になる前に苦難を味あわなければならないのです。これは神様の鍛錬です。イエス・キリストも受難を味あわれました。ダビデも、神様から試練・苦難を与えられて、神に従順な者へと変えられてゆきます。神様がダビデを苦難に追いやります。ダビデがよき王になるために必要な、成長過程です。苦難と共に、見えない神様の守りも与えられます。

 新約聖書のヘブライ人への手紙12章を、連想致します。まず5、6節(これは旧約聖書の箴言を引用した言葉です)。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」 ダビデという名前は「愛される者」の意味だそうです。ダビデは、神様に愛されていたからこそ、神様から鍛錬されたのでしょう。神の時が来るまで、ダビデは鍛錬を受けます。苦難の時が満ちる時が来ます。それまで鍛錬を受けます。ヘブライ人への手紙12章10、11節にはこうあります。「霊の父(神様)はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」

 そしてヘブライ人への手紙5章8節をも思い出します。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」ダビデにも同じ道が与えられます。イエス・キリストは、ダビデの子孫として誕生されます(正確には、ダビデの子孫ヨセフの妻マリアの処女妊娠によって誕生)。ダビデは、世界の真の王イエス・キリストを指し示す、イスラエルの不完全な王です。イエス様がもちろんはるかに偉大な神の子ですが、ダビデにも少しイエス様と共通する要素があります。その1つが、神から鍛錬のための苦難を与えられたことです。もう一つは、両者共に聖霊(神の清き霊)を受けていることです。聖霊は、キリストの霊でもあります。

 さて、サウル王の心の内を確かめる新月祭の時がやって来ます。(24節の後半から29節)「新月祭が来た。王は食卓に臨み、壁に沿ったいつもの自分の席に着いた。ヨナタンはサウル王の向かいにおり、アブネルは王の隣に席を取ったが、ダビデの場所は空席のままであった。その日サウルは、そのことに全く触れなかった。ダビデに何事かあって身が汚れているのだろう、きっと清めが済んでいないのだ、と考えたからである。だが翌日、新月の二日目にも、ダビデの場所が空席だったので、サウルは息子ヨナタンに言った。『なぜ、エッサイの息子は昨日も今日も食事に来ないのか。』ヨナタンはサウルに答えた。『ベツレヘムへ帰らせてほしい、という頼みでした。彼はわたしに、「町でわたしたちの一族がいけにえをささげるので、兄に呼びつけられています。御厚意で、出て行かせてくだされば、兄に会えます」と言っていました。それでダビデは王の食事にあずかっておりません。』」

 サウルは、ダビデに好意的なヨナタンに強い怒りを発し、ダビデへの敵意を丸出しにします。(30~31節)「サウルはヨナタンに激怒して言った。『心の曲がった不実な女の息子よ。お前がエッサイの子をひいきにして自分を辱め、自分の母親の恥をさらしているのを、このわたしが知らないとでも思っているのか。エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ。すぐに人をやってダビデを捕らえて来させよ。彼は死なねばならない。」サウルは、ダビデへのねたみ・嫉妬で、精神が病み、そこから抜け出せなくなっています。ほとんど悪魔に支配されているサウルに対し、息子ヨナタンは神に従う者です。(32~34節)「ヨナタンは、父サウルに言い返した。『なぜ、彼は死なねばならないのですか。何をしたのですか。』サウルはヨナタンを討とうとして槍を投げつけた。父がダビデを殺そうと決心していることを知ったヨナタンは、怒って食事の席を立った。父がダビデをののしったので、ダビデのために心を痛め、新月の二日目は食事を取らなかった。」これでサウルのダビデへの殺意は、明白になりました。ヨナタンは、約束に従って、それをダビデに伝えます。

 (35~40節)「翌朝、取り決めた時刻に、ヨナタンは年若い従者を連れて野に出た。『矢を射るから走って行って見つけ出して来い』と言いつけると、従者は駆け出した。ヨナタンは彼を越えるように矢を射た(狙った通りの距離の所に矢が落ちるように射ることができるとは、ヨナタンは弓矢を十分に練習していたのですね)。ヨナタンの射た矢の辺りに少年が近づくと、ヨナタンは後ろから呼ばわった。『矢はお前のもっと先ではないか。』ヨナタンは従者の後ろから、『早くしろ、急げ、立ち止まるな』と声をかけた。従者は矢を拾い上げ、主人のところに戻って来た。従者は何も知らなかったが、ダビデとヨナタンはその意味を知っていた。ヨナタンは武器を従者に渡すと、『町に持って帰ってくれ』と言った。」

 従者が去ったところで、隠れていたダビデが姿を現します。(41~42節)「従者が帰って行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした(サウルの息子であるにもかかわらず、ダビデを愛してくれるヨナタンへの感謝の意を、表しました)。彼らは互いに口づけし、共に泣いた。ヨナタンは言った。『安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。』」二人は抱き合って泣いたのでしょう。別れる時が来たからです。これは今生の別れではありませんが、当分会えないことは事実です。万感の思いを込めて、共に泣きました。二人は、サムエル記(上)23章で再会しますが、それが今生の別れになります。その後ヨナタンは、父サウルとほとんど一緒に戦死します。

 新約聖書の使徒言行録20章に、イエス・キリストの使徒パウロが、小アジア(今のトルコ)のエフェソの教会の長老たちに別れを告げる場面を思い出しました。少し似ています。「パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。」昔は今ほど人生が長くありませんから、出会いも別れも真剣だったと思うのです。

 ヨナタンはダビデとの別れに当たり、二人の間の契約の内容を確かめるために言いました。「わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから」と。「神様を証人に立てて、二人の間で固く契約を交わしたのだから」と。ダビデも深くうなずいたに違いありません。その契約・誓いの内容は、「神様がダビデを王としてお立てになり、ダビデの敵(サウルの家)をことごとく地の面から断たれるときにも、ダビデが慈しみ(原語・ヘセド)をヨナタンの家からとこしえに断たない」という内容です。ダビデは、これからサウルの魔手を逃れて逃げるので、王になる時のことなど考える余裕がない現実でしたが、「王になることができたら、ヨナタンとの契約・誓いを必ず守る」と決心したと思うのです。

 実際、ダビデは契約・誓いを果たします。ヨナタンには、メフィボシェトという名の、両足の萎えた息子がいました。サウルとヨナタンが、ぺリシテ人との戦いで戦死したとの知らせが届いた時、メフィボシェトは5歳でしたが、乳母が抱いて逃げようとした時に慌てて落としたので、両足が不自由になりました。ダビデはイスラエルの王となって支配を確立した時、言いました。「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい」(サムエル記・下9章1節)。「忠実」も原語はヘセドです。昨年、礼拝でルツ記を読んだ時、ヘセドという言葉を、ルツ記の重要な言葉としてご紹介致しました。ヘセドは、「真実」、「誠実」、「敬虔」などと訳されます。詩編などにもよく出て来ます。その意味で旧約聖書全体で重要な言葉の一つです。ダビデもここで「忠実を尽くしたい、ヘセドを尽くしたい」と語っています。

 ダビデはメフィボシェトが生き残っていることを知り、メフィボシェトを呼んで言います。「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。祖父サウルの地所はすべて返す。あなたはいつもわたしの食卓で食事をするように。」メフィボシェトは感謝します。ダビデは、サウルの従者であったツィバという者を呼んで、メフィボシェトの生計を立てるように指示します。「サウルとその家の所有であったものはすべてお前の主人(サウルとヨナタンでしょうか)の子息(メフィボシェト)に与えることにした。お前は、息子たち、召し使いたちと共に、その土地を耕して収穫をあげ、お前の主人の子息のために生計を立てよ。お前の主人の子息メフィボシェトは、いつもわたしの食卓で食事をすることになる。」ダビデは、ヨナタンとの約束を守ったのです。その後、ダビデが自分の息子アブサロムに反乱を起こされた時、ツィバの中傷によってダビデがメフィボシェトに悪い感情を抱きますが、アブサロムの反乱が失敗に終わった後、中傷による誤解が解け、ダビデとメフィボシェトの関係も回復しました。とにかくダビデは、ヨナタンとの約束を忠実に守りました。

 ヨナタンも、真に忠実な人です。ヨナタンは、父サウルからダビデを守りました。そしてヨナタンは、父サウルにも忠実を尽くします。ヨナタンはサウルがダビデを殺害することには断固反対でした。しかしサウルの息子として、サウルと共にペリシテ人と戦い、サウルと共に戦死します。彼は、身の周りの一人一人に対する自分の責任を、忠実に果たす人生を歩みました。神様に喜ばれた人と思います。

 ダビデとヨナタンの忠実のことを読みながら、私は神様のことを思います。新約聖書は何箇所かで告げます。「神は真実な方」だと(コリントの信徒への手紙(二)1章18節)。神様が真実な方だということは、神様が約束を100%守られる方だと、私は受けとめます。ダビデの誠実・忠実・真実も、神様の真実を映し出すものだと思います。ダビデも、私たちも時々、誠実・真実でない時があります。しかし父なる神様と神の子イエス・キリストは、常に100%真実であられます。この神様の真実に支えられて、私どもも、約束を大切に守る生き方をさせていただきたいのです。それでは、ご一緒にお祈り致しましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-05-18 3:15:31(水)
「教会の誕生」 2016年5月15日(日) ペンテコステ礼拝説教
朗読聖書:ヨエル書3章1~5節、使徒言行録2章1~22節。
「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2章4節)。

 イエス・キリストが、私たちの全ての罪を背負って十字架で死んで下さったことは、本当です。イエス様は三日目に復活なさいました。そして40日間に渡って弟子たちや人々に現れ、弟子たちと食事さえなさいました。そして復活から40日目に、エルサレム郊外のオリーブ山辺りから天に昇られました。これをキリストの昇天と呼びます。今年のキリスト昇天記念日は、今から10日前の5月5日(木)でした。イエス・キリストは昇天され、父なる神様の「右の座」にお着きになりました。右の座は、神の主権の座です。イエス様が神の右の座に着かれたことは、父なる神に等しい方、神のいわば右腕・全権を委任された方として、神の力と主権を代行なさることを意味します。イエス様は今、天で、父なる神様の右の座におられます。そして、この世の終わりの時に必ずもう一度この地上においでになり、その時、神の国が完成されます。

 毎年この時期に確認していますが、イエス様が天に昇られたことは、私たちに3つの大きな恵みをもたらしました。1つ目はこうです。聖書は、教会はイエス・キリストの体であると教え、イエス様が教会の頭(かしら)であると告げます。私たち一人一人は、キリストの体の一部(かしらではなく、手足・目鼻など)です。頭(かしら)であるイエス様が天におられるのですから、イエス様の体の一部である私たち一人一人も、今既に天とつながった状態にあります。地上の人生をもし今日終えれば、今日天に入れられます。イエス様は、ヨハネ福音書14章1節以下で、こう言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」イエス様が天に昇られ、わたしたちのために既に場所を用意して下さっています。これが1つ目の恵みです。

 2つ目の恵みは、天で生きておられるイエス様が、今も私たちの罪のために、父なる神に執り成しをして下さっていることです。もちろん、最大の執り成しはイエス様の十字架の死によって完成されています。イエス様は私たちが生涯で犯す全部の罪を、十字架の上で解決して下さいました。十字架によって全ての罪の赦しが、神の前に完了しています。ですから私たちは基本的には安心してよいのです。ですが、私たちが洗礼を受けた後も日々、少しずつ犯してしまう罪のために、イエス様はダメ押しのように、今も天でとりなしをしていて下さいます。ローマの信徒への手紙8章34節に、次のようにあります。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるイエス・キリストが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」 ヘブライ人への手紙7章25節にも、次のように書かれています。「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」

 3つ目の恵みは、聖霊を送って下さることです。イエス様は、ヨハネ福音書14章16節以下で言われます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」そして復活後のイエス様が、使徒言行録1章8節で、弟子たちに約束されました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 弱い私たちであっても、神の清き愛の霊・聖霊を受けることで、周囲の方々にイエス・キリストを指し示す証人として立たせていただける、ということです。

 以上の3つが、イエス様の昇天により私たちに与えられる恵みです。イエス様が天に私たちの居場所を用意して下さること、イエス様が天で私たちが犯す罪のために執り成しをして下さること、イエス様が聖霊を注いで下さることの3つです。ですから、イエス様の昇天は私たちにとって大きな恵みです。

 その聖霊を注いで下さる出来事が、本日の使徒言行録2章で起こりました。(1~2節)「五旬祭(ギリシア語でペンテコステ=第50の意味)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」激しい風のような音が聞こえたのです。聖霊が激しく降ったことがよく分かります。イエス様が、約30年前に洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時も、イエス様に聖霊が降りました。マルコ福音書1章10節は、その場面をこう記します。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」「天が裂けて霊(聖霊)が降った」とあります。イエス様の弟子たちや母マリアと婦人たち、イエス様の兄弟たちの上でも、天が裂けて聖霊が力強く降って来たのです。激しい風が吹いて来るような大きな音が家中に響き渡ったのです。

 (4節)「すると。一同は聖霊に満たされ、“霊”(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」イエス様が昇天されて10日後の出来事です。イエス様の弟子たち、母マリアと婦人たち、イエス様の兄弟たちは、泊まっていた家で、心を合わせて熱心にお祈りしていました。心を一つにして祈ることがどんなに大事かを示されます。心を一つにして祈っていた集団に、約束の聖霊が降されました。そして何と驚くべきことに、彼らは聖霊に導かれて、ほかの国々の言葉で、神様の偉大な業を語り始めたのです。これはイエス・キリストの恵みが、世界中のあらゆる言語の人々に、その人々の言語で宣べ伝えられることを、神様が強く願っておられることを示す奇跡です。
 
 (5~6節)「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。当時のユダヤ人は既に地中海沿岸の多くの地域に広がって住んでいました。その中には、エルサレムに帰ろうと思って帰って来た人々もいたでしょうし、祭りなどの際にエルサレムに来る人々もいたでしょう。そのような人々が集まって来ました。そして各人が生まれた外国の言葉で、イエス様の弟子たち・母親や兄弟たち・婦人たちが、神の偉大な業を述べているのを聞いて、非常な驚きにとらえられました。私たちがその場にいたとしても、大変驚いたでしょう。

 (7節)「人々は驚き怪しんで言った。話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。」首都エルサレムの人たちではなく、地方のガリラヤの人たち、特に教育を受けてもいない人たちではないか。神の力の偉大さが際立っています。(8~11節)「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」ここに多くの地名が記されていますが、これを見ると、当時のエルサレムが国際色豊かな町だったことが伺えます。

 人々は、目の前で起こっている出来事の意味が分からず、戸惑い、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言いました。この人々は、この出来事の意味を知りたいと漠然と思ったのでしょうから、良い方です。しかし中には、この出来事の意味を分かりたいと全く思わない人々もいました。この人々は、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」としか思わず、嘲って馬鹿にするだけでした。

 そこでペトロが立ち上がり、この出来事の意味を明らかにする説教を行います。ペトロは、この出来事の意義を、聖霊の助けによって悟ったのです。神の出来事の意味、聖書の意味を正しく深く悟らせて下さる方は聖霊なる神様です。ペトロはよく祈っており、そして聖霊を受けたので、この出来事の意味を正しく伝える説教をすることができました。私どもも毎日祈り、聖霊を受け続けることで、聖書を正しく分かるようにされます。イエス様は、十字架の前に、ヨハネ福音書16章13節で言われました。「その方、すなわち、真理の霊(聖霊)が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」ペトロは聖霊に導かれて、真理を説教しています。

 (14~16節)「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。』」ペトロはこう言って、本日の旧約聖書であるヨエル書3章を引用して、語ります。今起こっている出来事が、ヨエル書の預言の実現・成就であることを語るのです。

 (17~21節)「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊(聖霊)をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」

 「終わりの時」という言葉があります。イエス・キリストがこの世に誕生されたことで、実は世は既に終わりの時代に入っています。救いの切り札イエス様が誕生され、私たち皆の全ての罪を背負って十字架で死なれ、復活なさるという、私たち罪人(つみびと)の救いのための最も重要なことが、既になされたからです。現実に世の終わりがまだ来ていないのは、父なる神様が、一人も滅びないで、全ての人がイエス・キリストを救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて救われ、永遠の命を受けることを望んで、忍耐して待っておられるからです。しかし世の終わり・神の国の完成の時が必ず来ます。

 ペトロの説教の結論は、使徒言行録2章38節以下にあります。「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにするすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。』」 (41~42節)「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」ここに初代教会が誕生したと言うべきです。人々はペトロたち使徒たち(教会の指導者)を通して神の教えを受け、互いに交流して助け合いました。そしてパンを裂きました。これは聖餐式のスタートです。「祈ることに熱心であった。」神様に祈り、礼拝をしたということでしょう。まさにキリストの教会が産声を上げたのです。

 日本でプロテスタント教会が誕生した明治の初めにも、似た出来事がありました。日本最初のプロテスタント教会は、横浜海岸教会と言われます。当初は横浜公会という名前でした。何年か前にプロテスタント伝道開始150年の記念集会が行われた時、東久留米教会からも何名かの方々が集会に出席され、横浜海岸教会をも見学なさったと思います。横浜海岸教会の設立は明治5年(1872年)3月10日です。これは明治政府がキリスト教禁止を解いた明治6年2月のほぼ1年前です。設立前からジェームス・バラ宣教師がバラ塾という塾を開いて、日本の若者たちを教えていました。バラ塾の若者たちが、旧暦明治5年1月(1872年2月)に初週祈祷会(新年最初の週の祈祷会)を開きました。

 若者たちの中に、後に明治のプロテスタント教会の指導者となった植村正久がいました。当時をこう回想しています。「ジェームス・バラ氏、使徒行伝ペンテコステの章を講解して、聖霊、火の舌の如く各人の上に止まり云々と熱心に説話せられたり。余は其の何の事なるやを解さざれど、心のうちに宗教上の感覚をうけにしこと少小にあらず。~当時を回想すれば邦訳の聖書なく、教会なく、讃美歌なく、祈り会なく、日本人にては伝道に従事する人なく、封建の夢未だ覚めやらず」(植村正久「日本基督教会と云へる名称及び其の由来」(1891)『植村全集第五巻』婦人之友社、1933年、180ページ)。 

 「会する者凡て三十名、今まで祈祷の声を発することなかりし甲祈り、乙之に次ぎ、或るひは泣き、或るひは叫びて祈りする者、互ひに前後に争ふが如くにてありき。バラ氏はかねて伝へ聞きたるリバイバルの事をうらやみ、親しく其の時節に遇ふ事もがなと希望せしことなきに非ざりしが、面に一大リバイバルを見たる心地せりと云ふ。蓋し未だバプテスマを受けし事なく、公然祈りをなせしことなく、其の間際までは如何なる宗教思想を抱きつつあるやを知らざりし数名の少年が、俄然自ら希望して斯る有様に立ち至りしものなるを以て、其の驚愕一方ならず~」(植村正久「日本最首のプロテスタント教会」(1892)『植村全集第五巻』婦人之友社、1933年、193ページ)。

 この初週祈祷会が、聖霊に満たされ、終わる予定の日を超えて続けられ、洗礼を受ける者たちが現れ、ほぼ2ヶ月後に横浜公会が設立されるに至りました。これが後の横浜海岸教会です。日本のプロテスタント伝道の最初に起こったペンテコステ、忘れてはならない原点です。

 阿佐ヶ谷教会でも、かつて同じような出来事があったそうです。阿佐ヶ谷教会が編集なさった『大村勇説教集 輝く明けの明星』(1991年)の440ページに、次のように記されています。「戦前の忘れ得ない思い出の一つを記そう。それは、1940(昭和15)年8月の山中湖修養会である。教勢が下降気味の教会にとって起死回生の途は、福音的信仰の背骨を作ることにある、との判断から『信仰の確立』を標語として、大学生を中核に、旧制中学生以上一般信徒に到る約40名の参加者が大出山麓の寺田別荘で4泊5日、使徒信条研究を中心にして進められた。4日目の朝『身体のよみがえり』の条項で討論が白熱した。昼食の時にも討議が持ち越されたが、何か異様な雰囲気が漂った。午後、近くに住んでいた矢内原忠雄氏が来訪され、針葉樹林を案内して下さった。道々では信徒の青年たちは、求道中の人たちにピッタリついて信仰のすすめを盛んにしていた。そして夜の湖畔の祈祷会となった時、中学生たちの勇敢な信仰告白で火が点じられ、まさにペンテコステを想わせる聖霊体験が一同を支配した。これは決して一時の幻想ではなかった。その結ぶ実として、その秋から教会の青年層を中心に教会は生き生きと動き出して戦前の黄金時代を現出した。当時の阿佐ヶ谷教会の半数以上は詰襟の学生(共励会)であったことを附記しておこう。」

 各々の教会で、大なり小なりこのような出来事があって、今日があると思うのです。東久留米教会の祈祷会は木曜日に変わった。火曜日に来ることができなかった方も、ぜひご出席下さい。礼拝と祈祷会で、東久留米教会の伝道のために、ご一緒に一生懸命にお祈りして参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-05-11 1:22:21(水)
「神の御心が行われますように、地の上にも」主の祈り④ 2016年5月8日(日) 復活節第7主日礼拝説教
朗読聖書:箴言19章21節、マタイによる福音書6章5~15節。
「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイによる福音書6章10節)。
 
 「主の祈り」は、「天にまします我らの父よ」の呼びかけに始まり、その後に6つの祈りがあります。前半の3つの祈りは「神様に関する祈り」、後半の3つの祈りは「私たち人間に関する祈り」です。本日は、前半の3つの「神様に関する祈り」の最後の祈りをとりあげます。「御心(みこころ)の天に成る如く、地にもなさせたまえ。」マタイ福音書6章10節では、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」です。私たちが礼拝で祈る「主の祈り」の原型は、マタイ福音書6章とルカ福音書11章に書かれていますが、ルカ福音書11章には何と、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」の祈りがありません。なぜないのか、その理由は分かりません。しかしマタイ福音書6章10節にはあるので、本日はこの祈りを学びます。

 「御心」とは何でしょうか。「御心」を直訳すると、「あなたの意志」です。父なる神様のご意志が「御心」です。本日の旧約聖書は、箴言19章21節です。「人の心には多くの計らいがある。/主の御旨のみが実現する。」私たちの心の中には、「ああしたい、これを行いたい」という色々な願いや希望があるでしょう。自分の願いや希望で、心がいっぱいになることもあるでしょう。それらの願いや希望を神様がよしとして、かなえて下さることもあります。それでも最も大切なことは。私の願いや私たちの希望が実現することよりも、神様のご意志が実現することであることを、思い起こしたいのです。新約聖書のヤコブの手紙3章13節以下にも、次の御言葉があります。「『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」 「主の御心であれば、あのことやこのことをしよう」とは、確かに神様に造られた人間の分際にふさわしい言葉だなと、思います。私たちは、神様にお願いごとの祈りをするときも、「御心ならば、このようにして下さい」と祈るのですから。

 「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」イエス・キリストは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者(つまり旧約聖書)は、この二つの掟に基づいている」と言われ、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とおっしゃいました。私は、この通りにできていない自分を恥じるばかりです。イエス様がこうおっしゃっているのですから、父なる神様を愛し、人々を愛しているのであれば、(完全にではなくとも)ある程度御心にかなっている、少なくとも御心から大きく外れてはいないと考えたいと思います。より具体的に御心を示す言葉として、神様は私たちにモーセの十戒を与えて下さいました。イエス様を救い主と信じ、神様に祈って聖霊を受け、十戒を行うように心がけていれば、(完全にではなくとも)御心にかなう方向に向かっていると、私は考えます。
 
 しかし、さらに重要なことがあります。ヨハネ福音書6章に、弟子たちがイエス様に、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と質問する場面があります。イエス様は答えられます。「神がお遣わしになった者(イエス・キリスト)を信じること、それが神の業である。」この「神の業」を「神の御心」と言い換えてよいでしょう。「神がお遣わしになった者(イエス・キリスト)を信じること、それが神の御心である。」なぜならイエス・キリストは、父なる神様が満を持して地上に誕生させなさった真の救い主だからです。イエス・キリストは、文字通り全人類の全ての罪を身代わりに背負って、十字架で死んで下さり、三日目に復活された神の子です。父なる神様が地上に送って下さった救いの切り札イエス様を、私たち一人一人の救い主として心から受け入れることこそ、最も御心に叶うことです。

 そしてイエス様こそ、父なる神様の御心に最も従順に(完全に従順に)従いきられた方です。「御心」の語を聞く時、私たちはイエス様の十字架の直前の、あの「ゲツセマネの祈り」を強く思い起こします。イエス様は十二弟子の中から、特にペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を呼んで言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」そして少し進んで行って、うつ伏せになり、祈ってこう言われたと、マタイ福音書は記します。「父よ、できることなら、この杯(十字架)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから弟子たちのところへ戻ってご覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われました。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」そして二度目に向こうに行って祈られました。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯(十字架)が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」ルカ福音書は、この祈りの時、イエス様の汗が血の滴るように地面に落ちたと記しています。ご自分の心との激烈な戦いの祈りを経て、ご自分に打ち勝ち、イエス様は十字架へと進んで行かれました。

 もちろんイエス様は、この時初めて、父なる神様の御心に従われたのではありません。イエス様の全生涯が、父なる神様の御心に従う生涯でした。御心を行うことが、イエス様の喜びだったのです。イエス様は、ヨハネ福音書6章で弟子たちに言っておられます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」この場合の「わたしの食べ物」とは、イエス様にとってどうしても必要な喜びを指しています。「わたしにとって、最も必要は喜びは、わたしをお遣わしになった父なる神様の御心を行い、その業(御心)を成し遂げることである」とおっしゃったのです。こうおっしゃって、サマリア人の女性に恵みの言葉を語られ、38年間も病気で苦しんでいた男性を癒して立ち上がらせなさいました。そして十字架で亡くなられる本当に直前に、「成し遂げられた」とおっしゃったと、ヨハネ福音書は語ります。これは「父なる神様の御心が成し遂げられた」ということです。イエス様が十字架で死なれることで、「イエス様が全人類の全ての罪を身代わりに担いきる御心が、成し遂げられた。完了した。」「救いの業が達成された。」イエス様は、この喜びと満足感を覚えながら、死なれたのです。

 これは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と叫ばれたことを伝えるマタイ福音書・マルコ福音書の記述とだいぶ違うように思えるでしょうが、どちらもイエス様の本当のお姿です。人間としてのイエス様は、ゲツセマネで苦しい祈りを祈りきられ、十字架で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。神の子としてのイエス様は、「御心が成し遂げられた」という深い満足感を抱いて死なれました。どちらもイエス・キリストの真のお姿です。私たちも似た経験をすると思うのです。神様の御心に従おうとするときに、「ちょっとしんどいな」と思うと同時に、でも御心に従うことに深い満足感も覚えている。ということがあると思います。イエス様の場合は十字架ですから、想像を絶して辛かったと同時に、非常に深い満足感をも抱かれた、と思うのです。

 父なる神様が、私たち罪人(つみびと)を、悪魔と罪と死から救うための切り札として十字架におつけになったイエス・キリストを、自分の救い主として心から受け入れること、これこそ御心に叶うことです。一人の方が、イエス様を救い主と心から信じ、罪を悔い改めて洗礼をお受けになるとき、「御心が天におけるように地の上にも」行われたことになり、神様が深く喜んで下さいます。

 『ハイデルベルク信仰問答』は、この祈りのことを次のように教えます(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、2002年、112~113ページ)。
問124 「第三の願いは何ですか。」
答「『みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ』です。すなわち、わたしたちやすべての人々が、自分自身の思いを捨て去り、唯一正しいあなたの御心に、何一つ言い逆らうことなく、聞き従えるようにしてください、そして、一人一人が自分の務めと召命とを、天の御使いのように喜んで忠実に果たせるようにしてください、ということです。」

 宗教改革者ジャン・カルヴァンが書いた『ジュネーブ教会信仰問答』には、次のようにあります(外山八郎訳『ジュネーブ教会信仰問答』新教出版社、1997年、101ページ)。
問271 「どうして、みこころが行なわれますように、と祈るのですか。」
答 「すべての被造物が神に従順になるようにしたがえられ、かくすべてが、神のよろこばれる通りに行なわれるようにということであります。」

 カルヴァンは次のようにも言います。「すべての反逆が打ち倒され、あらゆる意志を神が、みこころにのみしたがわせられるようにと願うのであります。」「われわれの中に(神が?)新しい魂、新しい心をつくって、あたかもわれわれ自身からは何ごとも欲せず、われわれをして心から神に同意させるために、聖霊がわれわれの中にあって欲するようにということであります」(同書、102ページ)。 

問274 「何ゆえ、天になるごとく地にも、とつけ加えるのですか。」
答 「天の被造物、すなわち神のみ使たちは、何の不満もなく静かに神に従うことをひたすら努めますので、同様なことが地上でも行なわれるように、われわれは願うのであります。それはすべての人々が喜んで服従するようになることを願うのであります」(同書、102ページ)。

 私が洗礼を受けた教会の青年会でいくつか年上だった方に、Bさんという男性がおられます。ご兄弟の一人のお名前が「みむね」さんだと伺いました。ご両親の祈りが込められている名前ですね。神様の「みむね」によって授かった子、この子によって神様のみむねが成就・実現しますように、という祈りではないかと思います。

 私たちの願う生き方は、神様の御心に適う生き方です。それはイエス様に従う生き方、神の御言葉に従う生き方です。「御心」という言葉が出て来る箇所の1つに、マタイ福音書7章21節以下があります。イエス様の厳しい御言葉です。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行なう者だけが入るのである。かの日(世の終わりの日)には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行なったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」 

 プロテスタント教会は、信仰義認を強調します。信仰義認は、「信仰によってのみ、神の前に義と認められる」とする信仰です。信仰義認は真理です。上記のイエス様の御言葉は、信仰義認と矛盾するものではありません。信仰によって義と認められた者は、神様に感謝するので、神様の愛に応答して、善い行い(愛の行い)を始めます。全くそうしない者が「離れ去れ」と言われてしまっています。ヤコブの手紙が思い出されます。2章17節「行ないが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」 2章20~22節「行ないの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行ないによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行ないと共に働き、信仰が行ないによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」

 神様はこの地上で確かに働いておられますが、同時に神に逆らう悪魔も働いているので、神に従う人が迫害を受けたり、苦難を受けることもあります。しかし悪魔は最後に必ず滅びるのです。神の御心に適う善いことを行なっているのに、苦難を受ける人々を励ます御言葉があります。ペトロの手紙(一)2章18節以下です。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行なって苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」 

 聖書は、私たちを神様の御心に適う生き方、イエス様に従う生き方へと招いています。それは永遠の命、永遠の祝福、天国に至る生き方です。私たちは残念ながら罪人(つみびと)で、神様の御心を行なう力を持っていません。私たちのなすことには、善いことにも自己中心の罪がこびりついています。しかし落胆することはありません。聖霊なる神様が助けて下さいます。祈って聖霊を受けて、そして一歩ずつ御心に適う歩み、御言葉を喜んで実行する歩みを始めます。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りながらです。

 今どうすることが、神様の御心に適うことか、神様は私に何をお望みか。それを知るためには、心を静めて神様に聴く姿勢が大切でしょう。子どもだったサムエルは、神様に言いました。「どうぞお話しください。僕は聴いております。」私たちも、心を静めて、神様に伺う姿勢をとります。そうすると、直接神様の肉声が聞こえなくても、「こうすることが、神様の喜ばれること、神様のお望みではないか」と、少しずつ感じとれるように思います。皆様にも、そのような経験がおありでしょう。心を静めて、神様の小さい御声を集中して聴き取るように努めましょう。この私を通しても、少しでもイエス様の御心が、この地上に具体的に成ることを祈りながら、生きてゆきます。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-05-09 1:22:21(月)
「自分の栄光でなく、神の栄光を求める」 2016年5月1日(日) 復活節第6主日礼拝説教
朗読聖書:レビ記23章33~44節、ヨハネによる福音書7章1~24節。
「自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」(ヨハネによる福音書7章18節)。

 イエス・キリストがこの地上に来られたのは、父なる神様の御心・ご意志を地上で実行なさるためです。イエス・キリストは、父なる神様と一体の方です。「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われました(ヨハネ福音書14:9)。イエス・キリストは、父・子・聖霊なる三位一体の神ご自身が、人間となった方です。イエス様がなさったことは全て正しいのですが、地上の人間たちの考えと一致にしない部分もありました。そこでイエス様の行動が、地上で様々な波紋・摩擦を引き起こしました。人々は、イエス様を殺そうとさえしたのです。
 
 (1~2節)「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。」ユダヤ人の三つの大きな祭りがありました。過越祭(除酵祭)、七週祭、仮庵祭です。仮庵祭は秋の収穫が済んだときに七日間もしくは八日間行われる、喜ばしい収穫感謝の祭りでもありました。それはユダヤ暦(太陰暦、月の満ち欠けによる暦)の第七の月(ティシュリの月)、私たちの暦の9~10月に行われました。この仮庵祭について、レビ記23章に次のように書かれています。「第七の月の十五日から主のために七日間の仮庵祭が始まる。~あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。それは、わたし(神様)がイスラエルの人々をエジプトから導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るためである。」これは、エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野を旅している間、不便な天幕で生活したことを思い起こす祭りです。仮庵祭は、首都エルサレムで行われる大きな祭りです。多くの人々が喜んで集ったのです。私は過越祭が最も大きな祭りと思っていましたが、過越祭と同じくらい大きな(一説にはそれより大きな)祭りだったそうです。エルサレムは熱気に満ちたことでしょう。

 イエス様の兄弟たち(弟たち。もしかすると従兄弟あたりまで含む)がイエス様に言いました。(3~4節)「『ここ(ガリラヤ)を去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。』兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」兄弟たちは、イエス様がガリラヤでなさった奇跡を知っています。カナの町で行われた婚礼で、水をぶどう酒をお変えになったこと、ガリラヤ湖の近くで、パン五つと魚二匹で五千人の男たちを満腹させなさったことを知っていました。そこでイエス様を促したのです。地方のガリラヤにいないで、首都エルサレムに行って弟子たち(狭い意味での弟子たちというより、イエス様に着いて行きたい取り巻きのような人たち)にも、奇跡を見せてやりなさい。自分を宣伝しなさい。自分をアピールしなさい。そうすれば人気が高まり、時流に乗るヒーロー・英雄になる。そうなれば、弟たちも鼻が高いと思ったのかもしれません。しかしこれは悪魔の誘惑です。イエス様は人気者・ヒーロー・英雄になろうとは、全く願っておられません。イエス様の願いはただ一つ、父なる神様の御心を成し遂げることだけです。イエス様は、全く無私の方(私心がない方)です。ガリラヤ湖の近くで、男たちを満腹させなさった後に、人々がやって来てイエス様を王様にするために連れて行こうとしたときも、イエス様はそれを拒否して、独りで山に退かれたのです。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」とは、「兄弟たちも、イエス様を理解していなかった」ということでしょう。

 この時代のイスラエルの人々が抱いていた、メシア(救い主)についての通俗的な考えがありました。イエス様より千年前に活躍したダビデ王のような強い政治的・軍事的リーダー、ローマ帝国と武力で戦う愛国的リーダー、イスラエルの独立を回復してくれる英雄です。イエス様の弟たちも、兄貴がそのようなメシアであることを期待していた可能性があります。イエス様のお考えとは、大きなずれがありました。イエス様はそのようなメシアではなく、へりくだって弟子たち(その中に裏切るイスカリオテのユダも含まれています!)の汚れた足を洗って下さるメシア、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」とおっしゃるメシア、そして私たち皆の罪を担って、十字架にくぎ付けになって下さるメシアです。

 (6節)「そこでイエスは言われた。『わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。』」「イエス様の時」とは、イエス様が最も重要な使命を果たされる時です。十字架に架かられ、復活なさる時です。その時をお決めになるのは、イエス様ではなく、父なる神様です。父なる神様がお定めになった時に、イエス様は十字架に架かられ、復活されます。まだその時ではないのです。従ってイエス様は、弟たちの促し・けしかけに乗ってエルサレムに行って、自己宣伝、自己アピールをなさることはしません。マタイによる福音書12章では、イエス様について、次のように言われていますね。「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。」イエス様が、自分の利益のために、自己宣伝・自己アピールをなさる方ではないことを意味します。「あなたがたの時はいつも備えられている。」これは神様の御心に従うのでなく、自分の利益に敏感な人々が、自分の利益のために時を、チャンスを利用しようと待ち構えていることを指すと思います。

 (8~9節)「『あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。』こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。」とどまることが大切なことがあります。ひたすら前進すべき時もあるでしょうが、「とどまる」ことが必要なこともあります。イエス様がエルサレムに行かれるのは、人間の勝手な思惑にけしかけられてではなく、あくまでも父なる神様のご意志に従って行くのでなければなりません。イエス様は、人々の勝手なけしかけに乗る方ではないのです。しかし、イエス様が父なる神様の御心によってエルサレムに行く神の時は、意外にもすぐにやって来ました。旧約聖書のコへレトの言葉(以前の「伝道の書」)に、次の御言葉がありますね。「何事にも時があり/ 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」「神のなされる事は、みなその時にかなって美しい」(口語訳)。

 (10節)「しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。」人にけしかけられてではなく、父なる神様のご意志によって上られたのです。決して自己宣伝のためではないのです。「皆さん、私こそ救い主(メシア)です。私が行う奇跡を見て下さい。私と一緒にローマ帝国と戦って栄光の独立を勝ち取りましょう!」とアピールなさるのではないのです。むしろ、人目につかないように、隠れるようにして上ってゆかれました。それでもイエス様のことは、エルサレムの人々の関心を引いていました。もしかするとイエスという男こそ、自分たちが待ち望んで来た英雄メシア(救い主)かもしれないと、感じていたのです。(11~13節)「祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、『あの男はどこにいるのか』と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もあれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」人々はイエス様に関心を抱いていたが、指導者たちがイエス様を憎んでいることを知っていたので、イエス様の仲間だと思われるのを恐れて、イエス様のことを表だって語りませんでした。ひそひそ話で語り合ったのです。

 一週間続く仮庵祭が、半ばに達した頃です。(14節)「祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。」「わたしの時はまだ来ていない」、「わたしはこの祭りには上って行かない」と明言され、人目を避けて隠れるようにエルサレムに上られたイエス様が、ここでは神殿の境内という最も人目につく所で、公然と説教を開始されました。これまでの言動と矛盾するように見えます。確かに、十字架の時はまだ来ていません。しかし、イエス様はご自分がどのような存在なのか、事実(本当のこと)を知らせるために公然と語り始められたのです。自己宣伝を始められたのではありません。ユダヤ人たちは、驚いて言いました。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書(旧約聖書)をこんなによく知っているのだろう。」大学に行ったのでもなく、有名な先生の下で弟子として修業したわけでもない、30歳くらいの青年です。首都エルサレムで生まれ育ったのでなく、地方であるガリラヤ育ちです。祭司長でも律法学者でもなく、何の社会的肩書きもありません。聖書は、直接それを書いたのは多くの人間ですが、聖霊なる神様の導きによって書かれました。聖書の真の著者は、聖霊なる神様です。イエス様は、父・子・聖霊なる三位一体の神様ご自身、つまり聖書の真の著者です。従って、聖書の内容を完璧にご存じです。

 (16~17節)「イエスは答えて言われた。『わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方(父なる神)の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。』イエス様はご自分の説教が、自分勝手な教えではないと言明されます。自分勝手な教えで人々を惑わしているのではない。そうではなくて、イエス様の説教は、父なる神様のご意志を誤りなく伝える説教です。神様の真理を教える説教ですから、聴く人々はそれを素直に受け入れることがふさわしいのです。私たちも、イエス様の説教を聞けば、それが少しも間違った教えではなく、100%父なる神様のご意志と一致する正しい教えであると分かるはずです。ですからイエス様の説教を、素直に受け入れたいのです。

 (18節)「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」自分勝手に語り、人々を自分に引きつけようとした自称メシア(自称救い主)は、大勢出現しました。イスラエルでもイエス様の活動の約100年後に、バル・コクバと名乗る男が現れました。バル・コクバは、「星の子」という意味です。人々は、彼こそメシアだと信じて彼を祭り上げ、ローマ帝国への反乱を起こしたのです。彼が真のメシアであれば、勝てるはずでした。ところが敗れ、イスラエルはさらに破滅に向かったのです。バル・コクバはメシアでなかったのです。彼に惑わされて従った人々は、破滅の結果に終わりました。ドイツは、ヒトラーという偶像に惑わされ、敗北しました。日本でも約20年前にオウム真理教の事件がありました。自称メシアが、人々を破滅に導きました。自称メシアは、悪魔に導かれており、野心を持ち権力を求め、自分の栄光を求めます。しかしイエス様は、正反対です。イエス様は奉仕に徹して歩まれます。父なる神様の栄光のためだけに、働かれます。イエス様には私心が全くなく、野心も全くありません。イエス様には一つの不義もなく、一つの罪もありません。私たちが、偏見なくイエス様を見つめれば、イエス様こそ完全に信頼できる救い主であることが、分かります。私たちにとって大切なことは、人と物事を偏見なく見つめ、偏見なく判断することではないでしょうか(簡単ではありませんが)。

 イエス様は、ユダヤ人たちの罪を指摘なさいます。ユダヤ人たちが、イエス様を殺そうとしていたからです。因みに、ヨハネ福音書に登場するユダヤ人たちは、イエス様に敵対する悪の勢力のシンボルと言えます。私たちが、今生きているユダヤ人を皆、悪人と決めつけないように注意する必要があります。(19節)「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」確かにユダヤ人が、イエス様を殺そうとしていました。それはこの福音書の5章で、38年間病気で苦しんでいた男の人を、安息日に完全にいやされたからです。確かにモーセの十戒によって、安息日は労働してはならない日でした。ユダヤ人たちは、イエス様が神聖な十戒を破ったと思ったのです。しかしイエス様にとっては、病人を癒す隣人愛の行いは、安息日違反ではなく、むしろ礼拝の日である安息日に最もふさわしい行いです。

 そしてイエス様は言われました。「わたしの父(神様)は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と。この発言も、ユダヤ人たちの非常な怒りと殺意を呼びました。イエス様が、神様を親しく「わたしの父」とお呼びになって、ご自分を「神と等しい者」となさったからです。これは神への著しい冒涜だとユダヤ人たちは考えました。それでますます、イエス様を殺そうと狙うようになりました。しかしイエス様は神の子なので、神様を父とお呼びになることは、全く問題のない当然のことです。

 モーセの十戒には「殺してはならない」と明記されています。ですからユダヤ人たちがイエス様を殺そうとすることは、確かな罪であることを、イエス様は指摘されました。群衆はイエス様に、「あなたは悪霊にとりつかれている、だれがあなたを殺そうというのか」と言います。イエス様が悪霊に取りつかれているとは、神の子イエス様への甚だしい冒瀆です。相当に目が曇っています。しかし私たちも目が曇ることは大いにあり得ることですので、自分を戒めます。

 イエス様は、ご自分がなさった安息日の癒しが、安息日違反でなく、神様の栄光を現わす善い行動であることを立証なさいます。(21~22節)「わたしが一つの業(安息日の癒し)を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。 ―もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが― だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。」割礼は、ユダヤ人の男の子が生まれた8日目に包皮に傷をつけることです。神の民のしるしとして非常に重要なことでした。傷をつけるので、治療するために医者を呼んだとも言います。安息日に医者は働いてはいけなかったのでしょうが、割礼の後の治療だけは例外として認められていたようです。割礼は、神の救いの業です。(23~24節)「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」神の救いの業である割礼は安息日に許される。それならまして、神の子キリストが全身の救いを安息日に行うことが安息日違反でなく、神に喜ばれる善き業であることは、当たり前ではないか。これがイエス様のおっしゃることです。モーセは偉大な人物ですが、イエス・キリストはモーセ以上の方です。ヨハネによる福音書1章17節に、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と書いてある通り、神の子イエス様は、モーセをはるかにしのぐ方です。イエス様による安息日の癒しは、父なる神様の御心に完全に適うこと、神の栄光となる出来事です。

 私(私たち)は、神の栄光のためと思っていても判断を誤り、過ちを犯すことがあります。私は一昨日、今年90歳になられる牧師の方のお話を伺いました。「私は70年前に日本の兵士になった。父も牧師だったが、『お国のために戦って来い』と私を送り出した。思えば当時の日本の教会も、戦争の悲惨さ、罪深さを理解していなかった。」私たちは、間違った判断をしやすい者です。罪を犯しやすく、神の栄光を汚しやすく、悔い改めなくして生きることができない者です。一つ一つの事柄の判断に際して、焦らず、よく祈って神の導きをいただき、過ちを少なくし、少しでも神の栄光を現わす生き方をさせていただきたいと、祈ります。アーメン(「真実に、確かに」)。