日本キリスト教団 東久留米教会

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2016-02-16 20:21:29(火)
「御名があがめられますように」主の祈り② 2016年2月14日(日) 受難節第1主日礼拝説教
朗読聖書:ヨブ記1章20~21節、ルカによる福音書11章1~13節。
「父よ、御名があがめられますように」(ルカによる福音書11章2節)。

 古代教会の聖職者テルトゥリアヌスという人は、「主の祈りは、福音全体の要約だ」と述べたそうです。私たちが礼拝で祈る「主の祈り」の原型は、マタイ福音書6章とルカ福音書11章に記されています。私たちが祈る「主の祈り」と、マタイ福音書の祈りの言葉と、ルカ福音書の祈りの言葉は少し違います。マタイの祈りの言葉とルカの祈りの言葉の間にも、相互に違いがあります。

 私たちが祈る「主の祈り」には、6つの祈りが含まれています。前半の3つの祈りは、神様に関する祈りです。「天にまします我らの父よ/ 願わくは、御名をあがめさせたまえ/ 御国を来らせたまえ/ 御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」最初に神様に関する祈りが3つあります。続いて、私たち人間に関する祈りが3つあるのです。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ/ 我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ/ 我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。」この順序が大切と思います。 

 この順序は、モーセの十戒を思わせます。十戒の最初の4つの戒めは、神様に対する姿勢を教える戒めです。①「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」 ②「あなたは、いかなる像も造ってはならない。」 ③「主の名をみだりに唱えてはならない。」 ④「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」 そして後半の6つの戒めは、隣人に対する姿勢を教える戒めです。⑤「あなたの父母を敬え。」 ⑥「殺してはならない。」 ⑦「姦淫してはならない。」 ⑧「盗んではならない。」 ⑨「隣人に関して偽証してはならない。」 ⑩「隣人の家を欲してはならない。」このように、モーセの十戒も、前半の4つの戒めは神様に対する姿勢を教える戒め、後半の6つの戒めは、人間に対する姿勢を教える戒めです。

 「主の祈り」の最初の祈りは、「御名をあがめさせたまえ」です。マタイ福音書とルカ福音書では、「御名があがめられますように」です。「御名をあがめる」とは、神様を礼拝することです。「あがめる」と訳されている言葉の直接の意味は、「聖とする」です。「聖別する」という意味だと記す本もあります。ですから、「御名があがめられますように」を直訳すると、「あなたのお名前が聖とされますように」、「あなたのお名前が聖別されますように」です。いえ、もっと正確には、「聖とされますように、あなたのお名前が」、「聖別されますように、あなたのお名前が」です。英語の「主の祈り」もこの順序ですね。「聖別する」とは、聖なるものとして別扱いにすることです。

 私たちは、旧約聖書に神様のお名前が記されていることを知っています。名は体を表します、人格・本質を表します。神様は出エジプト記3章14節で、ご自分の名を明らかにされました。神様はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」とご自分の人格(神格)・本質を開示されました。名前には尊厳があります。神様の尊厳は、この天地すべてをお造りになった方としての至高の尊厳です。聖書は冒頭で宣言します。「初めに神は天地を創造された。」この全宇宙を創造なさった神様の至高の尊厳を、誰も奪うことは許されません。

 神様はイザヤ書で力強く宣言されます。「天地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。自分の手で天を広げ、その万象を指揮するもの」(45:12)。「わたしが主、ほかにはいない」(45:18)。「わたしをおいて神はない」(45:5)。「わたしの栄光が汚されてよいであろうか(もちろん、あってはなりません)、わたしはそれをほかの者には与えない。」そして神の民イスラエルについて、こう言われます。教会にも当てはまる言葉です。「彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。」

 この神様が、私たち全ての人間を創造されました。創世記1章26、27節に書かれている通りです。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」そして神様は彼ら(男と女)を祝福して下さいました。人間の創造は、「創造の冠」です。神の天地創造のクライマックスということです。神様はお一人なのに、「私にかたどり、私に似せて」ではなく、「我々にかたどり、我々に似せて」とあるのは不思議です。これについていくつかの説があります。私が先日、ある会合で学んだところでは、これは「神の自己内対話」、「神の熟慮」を意味するということでした。人間の創造は非常に重要なことなので、神様がご自分自身とよく相談され、熟慮された上で、神に似せて創造なさったことを、「我々」という複数形で表現していると思われます。人間の創造は、「創造の冠」です。神様は、ご自分との契約に生きるパートナーとして、男と女を創造なさいました。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と創世記は、喜びをもって記しています。

 以上から明らかなように、人間にはほかの動植物とは違う尊厳があります。それは神様に似せて造られた尊厳です。その人間をお造りになった神様の尊厳が、人間よりかなり上であることは明らかです。喜びをもって全宇宙をお造りになり、さらに大きな喜びをもって私たち人間を創造なさった神様の尊厳を、私たちは深く思い、「御名をあがめさせたまえ」と祈り、賛美致します。神の尊厳を、神の栄光と言いかえることもできます。神に造られたものはすべて、神の尊厳・栄光を賛美するために生きています。特に神に似せて造られる特別の光栄を受けた私たち人間にとって、神の尊厳と栄光を賛美し、神の栄光を現すことこそが、生きる目的です。

 「御名があがめられますように。」御名をあがめることは、イコール礼拝です。今のこの礼拝も、神の聖なる御名をあがめる場と時です。私たちは「モーセの十戒」の第三の戒めに、次のように書かれていることを知っています。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」「主の名をみだりに唱える」ことは、「御名をあがめる」ことの正反対で、罪です。聖書の神様のお名前は、ヘブライ語のアルファベットでYHWHです。聖四文字と言います。読み方はヤハヴェ、もしくはヤハウェと言われます。旧約聖書を朗読する時、敬虔なユダヤ人は、YHWHのところに来ると、「主の名をみだりに唱えてはならない」の戒めを強く意識し、聖なる神のお名前を口にすることはあまりに畏れ多いと考え、お名前を発音せず、「アドナイ(主・主人の意)」という言葉に読み変えたそうです。その習慣が長く続いたので、遂にはYHWHの正確な発音が分からなくなったとさえ言われます。それほどに十戒を重んじたのです。

 『ハイデルベルク信仰問答』は(問99の答で)、この第三の戒めが私たちに求めることは、次のことだと、述べています。「わたしたちが、呪いや偽りの誓いによってのみならず、不必要な誓約によっても、神の御名を乱用することなく、黙認や傍観によっても、そのような恐るべき罪に関与しない、ということ。要するに、わたしたちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いない、ということです。それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、わたしたちのすべての言葉と行いとによって讃えられるためです(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、2002年、93ページ)。

 この神様がセラフィム(天使のような存在)によってあがめられ、賛美される有名な場面が、イザヤ書6章にあります。(3~4節)「彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。』この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。」期限前736年頃のエルサレム神殿での出来事です。「聖なる」は、原語のヘブライ語で「カードーシュ(聖。隔絶)」という言葉です。直接の意味は「隔絶する」だそうです。「罪から隔絶した、元来神にのみ帰せられる属性」(旧約聖書翻訳委員会『旧約聖書Ⅶ イザヤ書(関根清三訳)』岩波書店、2002年、28ページ)とのことです。「罪から隔絶」していれば、当然「聖なる」方です。「主の栄光」の「栄光」は、ヘブライ語で「カーボード」で、これは「重い」という意味だそうです。神の存在の重み、重要さを意味し、神の輝かしい尊厳を示す言葉(同)とのことです。「聖」も「栄光」も、その中に尊厳が含まれていると思えてなりません。

 セラフィムたちは「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」なる神をあがめ、賛美したのですが、この神を一瞬見てしまったイザヤは、隔絶した聖なる神と違って、自分が罪にまみれた者であることを深く示されてしまったのです。イザヤは叫びます。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」イザヤは、自分と自分が属するイスラエルの民の、(特に)唇の汚れを自覚しました。神の御名をあがめると言いながら、同時に罪深い言葉を語ってしまう自分たちの唇の罪を深く悟ったのです。

 宗教改革者マルティン・ルターは、「御名があがめられますように」の祈りについて、こう語ったそうです。「わたくしは、聖書全体の中で、この祈りほど強く我々の生を揺すぶ(…)る教えを知らない」(『大村勇説教集 輝く明けの明星』日本キリスト教団阿佐ヶ谷教会、1991年、310ページ)。ルターはこの祈りを本気で祈ったので、自分の罪を痛切に感じたのです。「御名があがめられますように」と祈る自分は、本当に神の御名をあがめる生き方をしているだろうか。私たちが神様の御心に背く時、罪を犯す時、私たちは神の御名を汚しています。ルターは「御名があがめられますように」と祈りながら、生活では思いと言葉と行いによってしばしば罪を犯し、御名を汚している自分に気づき、悔い改めたのだと思います。

 「御名があがめられますように」と祈るならば、「御名をあがめる」生き方を日々心がけないと、祈りと生き方・生活が不一致になり、矛盾する恐れがあります。「御名があがめられますように」の祈りを、口先で祈るだけではいけないのですね。この祈りを、本当に襟を正して、祈ることが必要だと気づかせられます。「御名があがめられますように」の祈りに力強く引っ張られて、「御名をあがめる」生き方に導かれたいものです。この祈りに引っ張られ、聖霊なる神に助けていただき、御名をあがめる生き方、喜んで神様と隣人を愛する生き方へと、前進したいですね。

 ヤコブの手紙3章8~9節に、耳に痛い御言葉があります。「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」神様に、私たちの舌と唇を清めて下さいと、祈らずにはいられません。

 ルカ福音書11章に戻ります。「父よ、御名があがめられますように。」聖なる神様は、新約聖書においてイエス様の父、そして私たちの父という御名を示して下さいました。この父は、私たちの祈りを待っていて下さり、祈り求める人に良い物、特に聖霊を与えて下さる恵み深き父であると、イエス様は教えて下さいます。それが5節以下です。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるに違いない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

 これは、私たちの祈りを励ます言葉です。祈りに関する名著と呼ばれる『祈りの精神』(齋藤剛毅訳、ヨルダン社、1986年)という本の中で、著者のフォーサイスという牧師は、「最悪の罪は祈らないことである」(13ページ)と述べています。もちろん、自分勝手な祈りを神様が聴き入れて下さるとは思えませんが、しかし私たちは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる」とのイエス様の言葉に励まされて、神様を深く信頼して、大胆に祈ってゆきたいのです。

 そしてイエス様は、私たちが求めるべき最も良い物は、清き神の霊・聖霊だと、教えて下さいます。聖霊こそ神様ご自身であり、神様が与えて下さる最高の良きものです。父なる神様は、私たちの祈りを待っていて下さり、祈りに応えて最もよき物を与えて下さる恵み深い父です。聖なる方であると同時に恵み深い父です。(11~13節)「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。(いないのが普通です)。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」 私たちの罪を赦すために、最愛の独り子イエス様を十字架におつけになり、聖霊を与えて下さる神様の御名を、感謝をもってあがめたいのです。

 15年以上前、ある著名な牧師が天に召されました。私は葬儀に出席できませんでしたが、後で葬儀の礼拝で読まれた聖書がヨブ記2章21節だったと聞きました。真に大変な試練を受けたヨブが言います。
「わたしは裸で母の胎を出た。/ 裸でそこに帰ろう。
 主は与え、主は奪う。/ 主の御名はほめたたえられよ。」
ヨブは大変な試練の中で、神の御名をあがめています。驚くべき深い信仰です。その先生は、教会や神学校で長く奉仕され、いわゆる実績を残されました。葬儀の礼拝でご自分の名があがめられないように、特に注意を払われたのではないかと、私は受けとめました。神様の御名だけが、あがめられるのでなければいけません。神にのみ栄光がお返しされるのでなければいけません。人の名があがめられては、礼拝になりません。そこでヨブ記を選ばれたのではないかと思うのです。それがその先生の信仰だったのでしょう。後に続く者たちに、「これが私たちの信仰の姿勢だ」と教えて下さったプレゼントと受けとめます。

 カルヴァンという宗教改革者がいました。カルヴァンのひたすらな願いは、「すべて神の栄光のために」です。私は音楽のことは素人ですが、バッハという著名な音楽家は、このように語っていたそうです。「音楽の目的は第一に神に栄光を帰し、そして隣人に喜びを与えることだ」と。

 「御名があがめられますように!」、「御名をあがめさせたまえ!」 三位一体の神様の御名のみがあがめられる礼拝を献げ、神の御名をあがめる祈りと奉仕の人生を、最後まで全うしたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-02-09 17:07:34(火)
「永遠の命の言葉」 2016年2月7日(日) 降誕節第7主日礼拝説教
朗読聖書:アモス書8章11~12節、ヨハネによる福音書6章60~71節。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(ヨハネによる福音書6章68節)。

 6章全体のテーマが、「命のパン・イエス・キリスト」と言えます。おさらい致しますと、イエス様は今日の前の箇所で、こう言われました。「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。~わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」そして、私たちが聖餐を連想することを言われました。「はっきり言っておく。人の子(イエス様ご自身)の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 真に神秘的なことですが、聖餐のパンとぶどう汁は、イエス様の聖なる体、イエス様の聖なる血潮です。あの小さなパンとわずかなぶどう汁に、イエス様の愛の命、聖なる命、永遠の命が詰まっています。私たちはあのパンとぶどう汁に支えられて生きるのです。自分勝手な命に生きるのではなく、イエス様の愛の命、父なる神様と隣人を愛する命に生きます。私たちは祈る時に、生きておられる神に触れます。祈りながら聖餐のパンとぶどう汁を受ける時に、私たちはイエス様の命を受け、清められます。祈りながらパンとぶどう汁をいただくごとに、清められます。

 そこで本日の箇所です。イエス様が深い真理を語られましたが、多くの弟子たちは理解できませんでした。十二弟子以外にも多くの弟子たちがいたのです。しかしいい加減な弟子たちには、イエス様の深い真理の言葉が理解できなかったのです。(60節)「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」イエス様のお言葉は確かに大胆で、ほかにこんなことを言う人はいません。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」ほかの人がこんなことを言えば、気が変になっていると言われます。しかしイエス様は神の子であり、真理を語っておられます。

 弟子たちの多くが「実にひどい話だ」と言ったのには、確かに理由がありました。彼らはユダヤ人です。旧約聖書を重視する人々です。神様が旧約聖書の創世記9章でこうおっしゃっています。「肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」神様はレビ記17章でもこうおっしゃっています。「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。」旧約聖書では、生き物の血を飲むことは厳禁されています。それもあって、イエス様が「わたしの血はまことの飲み物」とおっしゃったことに強い抵抗を覚えたのでしょう。

 血は命です。血があるので私たちは生きています。皆様の多くの献血をなさったことがおありと思います。献血の血が、他の方の命を救うこともあるはずです。あるクリスチャンの献血手帳を見せていただいたことがあります。実に多くの献血記録に驚きました。その方の信仰がそこに現れていると感銘を受けました。血は人を生かします。神の子であるイエス様は、「わたしの血はまことの飲み物」とおっしゃいました。イエス様の十字架の血潮が、私たち罪人(つみびと)を生かします。洗礼を受けて感謝して、聖餐のぶどう汁をいただく私たちです。そこにイエス様の聖なる愛と命が満ち満ちています。

 (61~62節)「イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。『あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子(イエス様ご自身)がもといた所(父なる神様がおられる天)に上るのを見るならば……。』」 「もっとつまずくに違いない」、とおっしゃりたいのでしょう。(63~64節)「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は“霊”であり、命である。」この命は永遠の命です。“霊”は聖霊、神様の清き霊、イエス様の清き霊です。永遠の命は、私たちが生まれつきもっている命とは違います。私たちの生まれつきの命には、自己中心の罪がこびりついています。神様を愛し、隣人を愛することができません。敵を愛することができません。残念ながらそれは永遠の命ではありません。永遠の命は、私たちが生まれつき持っている命とは、質が完全に異なる命です。イエス様の命です。そこには罪が全くありません。自己中心の罪が全くありません。神様と隣人を喜んで愛し、敵をさえ愛することができる命、これが永遠の命です。この命を与えて下さるのは“霊”=聖霊です。

 「肉は何の役にも立たない。」ここで霊と肉が対比されています。肉とは私たちの肉体ではなく、私たちの生まれつきの罪ある命です。聖霊は清い方ですが、肉(私たちの生まれつきの命)には罪がこびりついており、肉は清くありません。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」イエス様が語られた言葉は、神の真理だということです。私たち自己中心的な人間に、すぐに分かる言葉ではありません。私たちが祈りながら、聖霊に導かれて聞く・読む時に、だんだん目が開かれて分かって来る神の真理の言葉です。そしてイエス様は言われます。(64節のはじめ)「しかし、あなたがたの内には信じない者たちもいる。」私たちが、神様によって(聖霊によって)教えられなければ、イエス様を神の子、救い主と信じることはできません。神様が、私たちに信仰を与えて下さったので、私たちはイエス様を神の子、救い主と信じることができました。まだ信じておられない方々が信じるようになるために、私たちができることは祈りです。その方々に聖霊が注がれて、イエス様を神の子・唯一の救い主と信じることができるように、私たちは執り成しの祈りに励む必要があります。伝道には祈りが不可欠です。

 (64節の途中から65節)「イエスは最初から、信じない者たちがだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。『こういうわけで、わたしはあなたがたに、「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることができない」と言ったのだ。』」弟子たちの中で誰が信じないか。イエス様は全てご存じです。イエス様は、全ての人の心の奥底をよく知っておられます。私たち自身が気づいていない心の最も深い部分のことも、イエス様は全て知っておられます。十二弟子の一人・イスカリオテのユダがイエス様を裏切ることも、イエス様は完全に見抜いておられます。

 (66~67節)「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。」多くの弟子たちとは、イエス様がパン五つと魚二匹で約五千人の男たちを満腹にして下さったのを見て、ついて来た男たちではないかと思います。彼らの目当ては物質的な恵みだけで、永遠の命ではなかったので、離れ去ってしまいました。もちろん私たちが食べるパンやお金もある程度必要です。神様はその必要をも満たして下さいます。しかし、イエス様が与えて下さる一番大切な恵みは、永遠の命です。地上の死の後も続く、全く新しい命です。

 イエス様は6章27節で、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と言われたのです。人々に永遠の命のパン・イエス様を伝えなさい、と言われたのです。ですが、イエス様が永遠の命のパンを重視しておられるのを知って、多くの弟子たちが失望し、離れ去って行きました。イエス様は非常に残念な気持ちで、彼らを見送ったのだと思います。そして残った十二人に、真剣に問われました。「あなたがたも離れて行きたいか。」これは私たちにも問われていることです。「あなたがたも離れて行きたいか。」私たちは答えたい。「いいえ、わたしたちは離れません。」そう答えても、イエス様を三度否定してしまったペトロのように、罪を犯すことがあるかもしれません。それでも悔い改めてイエス様の元に戻り、一生イエス様につき従いたいのです。

 イエス様の真剣な問いに、シモン・ペトロが十二人を代表して答えます。(68~69節)「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。』」イエス様は永遠の命のパンであり、私たちを永遠の命に導く言葉を語っておられます。そして、生きた神の言葉としてこの地上に生まれて下さった方が、イエス・キリストです。ですからこのヨハネによる福音書は、冒頭で、イエス・キリストが神の言葉を文字通り体現する方であると宣言します。「初めに言(イエス・キリストを指す)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」イエス様の存在そのもの、イエス様が語られることと行われること全てが、神様からの言葉、神様からのメッセージ、神様のご意志の実現です。

 もちろん聖書全体が、私たちを真の命に生かすための神様の言葉です。まず思い起こすべきは、申命記8章3節です。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」イエス様は、「荒れ野の誘惑」の時、この御言葉を用いて悪魔を撃退されました。そして本日の旧約聖書は、アモス書8章11~12節です。私はこれを非常に印象深い言葉と思っています。
「見よ、その日が来ればと/ 主なる神は言われる。/わたしは大地に飢えを送る。
 それはパンに飢えることでもなく/ 水に渇くことでもなく
 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
 人々は海から海へと巡り/ 北から東へとよろめき歩いて
 主の言葉を探し求めるが/ 見いだすことはできない。」
もちろんパン、食べ物がない飢饉も実に深刻です。しかしもっと深刻な飢饉は、神の言葉を聞くことができない飢饉だというのです。神様の最も厳しい審判は、神の言葉を取り上げてしまうことです。聖書を取り上げてしまうことと言っても同じです。神の言葉、聖書はそれほど大切なものです。神の言葉がないと、私たちの命の造り主がどのような方であるか分からず、救い主イエス・キリストのことも分からず、私たちがどのように生きることを神様が喜んで下さるのかも、分からなくなります。礼拝の説教もできなくなります。魂の糧を失って、私たちの魂は滅びに向かい、私たち存在そのものも滅びに瀕します。

 詩編119編は一番長い詩編ですが、その105節に次の御言葉があります。よくカードなどに記されています。
「あなた(神様)の御言葉は、わたしの道の光/ わたしの歩みを照らす光。」
神様の言葉は、わたしたちの生きる道を指し示す貴重な光です。

 そしてエゼキエル書3章1節以下には、神様が預言者エゼキエルに、目の前の巻物を食べよ、とおっしゃる場面があります。巻物は神の言葉、聖書と言えます。神の言葉を食べて、そして神の言葉をイスラエルの民に語れというのです。エゼキエルは言いました。「わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」似た場面が、新約聖書のヨハネの黙示録にもあります。天使が、神様からメッセージを受けたヨハネという人に、巻物を食べるように言います。ヨハネは食べました。それは「口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった」と書かれています。神の言葉は甘くて苦い。優しい神の言葉と、厳しい神の言葉の、2種類があるからではないかと、私は考えます。両方とも神の愛から出る言葉です。このように神の言葉を食べるまでに、神の言葉を愛し味わい尽くしなさい、ということです。食べることは、体にかかわり、実に具体的です。今のエゼキエル書や黙示録を読んで、聖餐式に通じるものを感じます。聖餐式は、イエス・キリストの体を示すパンと、血潮を示すぶどう汁を、食べて飲みます。キリストの愛と救いを、心だけでなく肉体で味わう。キリストの愛が五臓六腑に沁み込む。そして私たちは、心だけでなく体もイエス様のものとされ、祈りながら体でもイエス様に従ってゆきます。そして父なる神様は、私たちの死後に、将来必ず復活を体を与えて下さいます。イエス・キリストによる救いは、体にまで及ぶことが分かるのです。

 宝である神の言葉を拒否して、燃やしてしまった愚かな王が、エレミヤ書に登場します。ユダの王ヨヤキムです。実に罪深い場面です(エレミヤ書36章22節~)。
「王は宮殿の冬の家にいた。時は九月(私たちの暦の十一~十二月)で暖炉の火は王の前で赤々と燃えていた。ユディが三、四欄読む終わるごとに、王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった。
 このすべての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂こうともしなかった。また、エルナタン、デラヤ、ゲマルヤの三人が巻物を燃やさないように懇願したが、王はこれに耳を貸さなかった。」
しかし、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ書40章8節)のです。
燃やされた巻物に記された神の言葉は、エレミヤの口述に従って書記ネリヤの子バルクによって筆記され、復活したのです。

 ヨハネによる福音書に戻ります。イエス様の問いかけに、シモン・ペトロはよい返答をしました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」しかしイエス様はご懸念を、ご心痛を語られました。(70~71節)「『あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」イエス様はユダのことを頭に置いてこう言われたのですが、「わたしはユダのことを言っている」とはおっしゃらなかったので、ほかの弟子たちには誰のことか分かりませんでした。ユダだけが、「自分のことだ」と感じたはずです。しかし何食わぬ顔をしていました。「その中の一人は悪魔だ。」これは、「わたしを離れてはならない。裏切ってはならない。悪魔に従わないで、わたしに従いなさい」という、ユダに対するイエス様の呼びかけです。イエス様はユダのことを思い、深い悲しみに満ちた心で、一生懸命呼びかけられたのです。この呼びかけ・訴えに従っていれば、ユダもあんなに大きな罪を犯さないで済んだのです。イエス様は、ユダに悔い改めるチャンスを与えておられます。

 イエス様こそ、永遠の命の言葉を持つ方だと、私たちは知っています。生涯このイエス様から離れることなく、イエス様に従って参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-02-03 0:45:28(水)
「なおも望みを抱いて、信じた」 2016年1月31日(日) 降誕節第6主日礼拝説教
朗読聖書:創世記18章9~15節、ローマの信徒への手紙4章13~25節。
「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ」(ローマ書章4章18節)。

 この手紙を書いたイエス様の弟子・使徒パウロは、最初の13節で、信仰の重要さを強調します。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」本日の箇所全体が、「信仰の大切さ」をテーマとしています。律法と信仰を対比して、信仰が大事だと強調しています。律法は神様の聖なる意志を示す大切ものですが、今日の箇所では信仰の重要さが特に強調されるため、律法は脇役の位置に置かれています。

 (16節)「従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。」神様は創世記12章で、イスラエルの偉大な先祖アブラハムに約束されたのです。「あなたを祝福し、あなたの名を高める/ 祝福の源となるように。/ ~地上の氏族はすべて/ あなたによって祝福に入る。」アブラハムという名前は、「諸国民の父」の意味のようです。神様はアブラハムに、「わたしはあなたを繁栄させ、諸国民の父とする」(創世記17章6節)と約束されました。新約聖書ヤコブの手紙では、アブラハムは「神の友」とさえ呼ばれています。アブラハムは神様に深く愛されていた、旧約聖書の重要な登場人物です。

 パウロは「信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となる」と書いていますが、この「世界」とは神様の祝福のことです。祝福は、罪の赦し、永遠の命、天国、神の国です。(16節の続きと17節の初め)「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者(ユダヤ人)だけでなく、彼の信仰に従う者(アブラハムの信仰に従うユダヤ人以外の者、異邦人。私たち日本人も異邦人)も、確実に約束(祝福)にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。『わたし(神様)はあなたを多くの民の父と定めた』と(創世記に)書いてあるとおりです。」

 次にパウロは、アブラハムの信仰がどのような信仰だったかを語ります。(17節の途中から)「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」これは実に深い信仰と言わなければなりません。アブラハムは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を」信じたのです。死の力に打ち勝つ神、不可能を可能にする神、絶望を希望に変える力を持つ神を信じたのです。18節は、実に驚くべき言葉です。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」信仰を持つことは、真の希望を持つことです。信じるということは、真の希望を持つことです。アブラハムの信仰は、生半可な信仰ではありませんでした。アブラハムは、「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じた」のです。

 希望が見えているときに信じることは、それほど難しくありません。希望が見えないときにこそ、私たちの信仰の真価が問われます。真の深い信仰は、「希望が全く見えない時にこそ信じる信仰」ではないでしょうか。「アブラハムは希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ」ました。本日の説教題は、この御言葉からとりました。これはローマの信徒への手紙8章24、25節と響き合います。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むです。」「目に見えないものを望む」希望を、ある説教者は「希望に反する希望」と呼びました(大木英夫『ローマ人への手紙 現代へのメッセージ』教文館、1998年、111ページ)。普通の希望とは、全く質の異なる真の希望ということです。神様は私たちに普通の希望を超える、もっと深い真の希望を与えて下さる方です。その神を信じることこそ、信仰です。「忍耐して待ち望む」とは、「忍耐して祈り続ける」ということです。

 神様は、子どもがいないアブラハムに約束して言われました。天の無数の星をお見せになりながらです。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラハムが85歳の時より少し前のことと思われます。常識的には不可能、科学的にはまず不可能。しかし神様には不可能なことは何一つない。私たちもこのことを信じます。19~21節でもパウロは、アブラハムの非常に深い信仰を、最大限たたえています。「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと確信していたのです。」

 私たちはしかし、アブラハムが最初からこれほど深い信仰の持ち主ではなかったことを、創世記によって知っています。アブラハムも、時間をかけて、だんだんとこのように驚くほど深い信仰の人になっていったと思うのです。創世記を読むと、「あれ? これが信仰の父アブラハムなのか?」と思うような場面もあります。本日の旧約聖書は創世記18章9節以下ですが、まずその前の17章15節以下をご覧下さい。「神はアブラハムに言われた。『あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。』アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』」アブラハムもサラも、だんだんと真の信仰、称賛されるにふさわしい信仰に進んだのですが、初めからそうではなかったのです。私たちの信仰も、今はまだ不十分かもしれませんが、神様が私たちの信仰をも鍛えて下さり、本物の揺るがぬ信仰へと成長させて下さる希望があるということだと、思うのです。

 本日の旧約聖書である創世記18章9節以下は、神様の約束をばかにして信じないサラの罪深い姿を、赤裸々に伝えています。アブラハムとサラを三人の男たちが訪問しますが、その二人は天使、もうお一方は何と神様ご自身だったのです。一人がアブラハムに言います。実はこの方が神様だったのです。私たちも、気づかないで神様に出会っているかもしれないのです。「『わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。』サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。」

 サラの心の中を見抜かれた神様が、即座にアブラハムにおっしゃいます。「『なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻って来る。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。』」(15節)「サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。『わたしは笑いませんでした。』主は言われた。『いや、あなたは確かに笑った。』」神様の前には、どんなごまかしも通用しません。神様は言われました。「主に不可能なことがあろうか。」もちろん、神様に不可能なことは何一つありません。神様には、どんなことも可能です。神様は、全宇宙をお造りになりました。死なれた(決して仮死状態だったのではなく、本当に死なれた)イエス様を、復活させて下さいました。この神様こそ、私たちの真の希望の源です。私たちが皆負けるほかない死を乗り越える確かな力を、神様は持っておられます。この方に祈ることができることが、私たちにとって力ある慰めです。

 神様は約束を守って下さいました。サラは身ごもり、年老いたアブラハムの間に約1年後に男の子を産んだのです。神様は、アブラハムが神様の約束を信じないで笑ったときに、生まれる男の子にイサクという名前をつけるように、あらかじめ指示しておられました。イサクとは、「彼は笑う」という意味です。その時点でこれを聞くと、皮肉な感じを受けます。ですがイサクという名前は、最終的には神様が約束を守ってアブラハムとサラ夫婦によき笑い(祝福)を与えて下さったことを象徴する、よき名前です。イサクが生まれたとき、アブラハムはちょうど百歳でした。サラは言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」そしてイサクも苦労するのですが、イサクにはエサウとヤコブの双子の兄弟が生まれ、ヤコブからイスラエル民族が増え広がり、アブラハム・イサク・ヤコブの子孫として、イエス様が誕生されます(正確には、アブラハム・イサク・ヤコブの子孫であるヨセフの妻マリアから、処女降誕でイエス様が誕生されます)。イエス様を救い主と信じる人は、永遠の命という祝福を受けます。こうしてアブラハムに与えられた祝福がイスラエル人たちへ、そしてイエス様を通して全世界の人々に広がり、アブラハムはまさに名前の通り、「諸国民の父」となります。

 アブラハムがひそかに笑って、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」と言ったとき、神様は断固として、「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む」と宣言されました。人間の常識では不可能なことです。しかし神様は、断固として「いや、神に不可能なことは何もない」と教えて下さるのです。その神様の断固とした宣言に励まされて、アブラハムもサラも信じるようになったと思うのです。神様の断固とした励ましと、笑ったサラへの叱責によって、アブラハムとサラは信じるように変えられたのです。「神の約束と力を疑うとは何事か」と、神様はおっしゃりたかったのでしょう。信仰の弱かったアブラハムとサラに対して、神様が信仰を創造して与えて下さったと言えます。パウロは書いています。ローマ4章17節、神は「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」であられると。信仰のなかった私たちに、神様が信仰を造って、創造してプレゼントして下さいました。今信じておられない方々も、神様が信仰を創造して(造って)与えて下されば、信仰者になられます。神様に不可能はありません。この手紙を書いたパウロは、神様を信じていましたが、神の子イエス・キリストを全く信じていませんでした。ところが神様が奇跡を起こされ、パウロにイエス様を信じる信仰を与えて下さったのです。まだ信仰に生きておられない方々を思い、私たちはあきらめないで祈り続けることが必要です。ますます祈りを深め、強めて参りたいのです。

 アブラハムの信仰は、約束の子イサクの誕生によって、強くされました。アブラハムとサラは25年間、祈りながら待ち続け、遂に神様の約束の実現を見たのです。そしてアブラハムの信仰が、さらに鍛えられ、強められる時が来ます。創世記22章で、神様はそのイサクを焼き尽くす献げ物として献げるように、求められます。アブラハムの心境がどのようであったか、書かれていないので分かりません。常識的に考えると、非常に悩んだのではないかと思われます。しかしアブラハムは、次の朝早く、二人の若者と息子イサクを連れて、神の命じられた所に向けて出発するのです。そして神様の求めに従ってイサクをほふって(殺して)献げる寸前まで行きます。すんでのところで神様の天使がストップをかけて、イサクはほふられずに済みます。しかしアブラハムは、それがなければ本当にイサクをほふっていたでしょう。そうなれば、アブラハムが「多くの民の父」となる道は、常識的には消滅します。

 アブラハムはきっと、イサクを献げても、神様が何らかの形で将来を開いて下さる、約束を実現して下さると信頼したのだと思います。イサクがほふられた後に復活して約束が実現するのか、具体的には分からないけれども、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」を、アブラハムは改めて信じたのでしょう。この時の信仰によっても、神様はアブラハムを義と認めて下さったに違いありません。

 このように、アブラハムは信仰によって、神様の前に義と認められました。そして私たちにも、信仰によって神の前に義と認められるチャンスが与えられています。(ローマの信徒への手紙4章23~25節)「しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方(父なる神様)を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」イエス様は、神様の約束によって誕生された救い主です。約束の子イサクは、約束の救い主イエス様を指し示す存在です。イエス様は、私たちの全ての罪を担いきって十字架で死んで下さいました。そして三日目に復活されました。父なる神様が、「死者に命を与える」力を持っておられることは、イエス様の復活によって証明されました。私たちは、決断をもってイエス様を救い主と信じ、告白しましょう。イエス様だけが死んで復活され、今も生きておられ、二度と死なないお方です。イエス・キリストを救い主と信じる時、私たちは確かに永遠の命の希望を受けます。

 クリスチャンも、地上の命を終える時が来ます。それは親しい人々の深い悲しみです。しかしそこには永遠の命の希望があります。天国で再会できる確かな望みがあります。悲しみの中にも、確かな希望があります。すべての方々がイエス様を救い主と信じて、永遠の命の希望のある人生に入って下さるように、私たちは祈りを深めつつ、イエス様をお伝えすることに励みたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-01-26 19:17:55(火)
「神は心によって見られる」ダビデ王① 2016年1月24日(日) 降誕節第5主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記・上16章1~23節、使徒言行録1章21~26節。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記・上16章7節)。
 
 時代は紀元前1000年頃です。イエス様より1000年前です。最初の小見出しは、「ダビデ、油を注がれる」です。イスラエルでは、神様の重要な務めに就く人は、聖なる油を注がれ、聖別されて任職されました。重要な務めの代表は、王・祭司・預言者です。聖別するとは、「聖なるもの」として分かつことです。信仰の世界で大切なことです。私たちは日曜日を聖別して、聖なる日・礼拝の日として守ります。聖なる油は、聖霊のシンボルです。出エジプト記30章に「聖別の油」の作り方が記されています。「上質の香料を取りなさい。すなわち、ミルラ(没薬)の樹脂500シェケル(5.7kg)、シナモンをその半量の250シェケル(2.85kg)、匂い菖蒲250シェケル(同)、桂皮を聖所のシェケルで500シェケル(5.7kg)、オリーブ油1ヒン(3.8ℓ)とである。あなたはこれらを材料にして聖なる聖別の油を作る。」

 それを臨在の幕屋(神様がおられる幕屋)、十戒を刻んだ2つの石を納める掟の箱、焼き尽くす献げ物を献げる祭壇、すべての祭具に注いで聖別し、神聖なものとするのです。そしてモーセの兄アロンとその子らにこの油を注いで、彼らを聖別し、祭司として神様に奉仕することができるように清めるのです。本日のサムエル記(上)16章で預言者サムエルが少年ダビデに油を注ぎますが、それもこのような聖別の油だったに違いありません。私たちはイエス・キリストを救い主と信じていますが、キリストとはギリシア語で「油を注がれた者」の意味です。キリストは、旧約聖書のヘブライ語ではメシアです。メシアも同じく「油を注がれた者」の意味です。旧約聖書では油を注がれて聖別される人は、基本的に王・祭司・預言者です。その意味で旧約聖書の王・祭司・預言者はミニメシアです。イエス様は、究極の王・究極の祭司・究極の預言者、神の子であり、究極のメシア、真のメシア(救い主)です。

 1節にサムエルという預言者が登場します。サムエルは、神様が彼の母ハンナの敬虔な祈りに応えて授けて下さった子で、神様に献げられ、少年の頃から祭司エリのもとで神様に仕える生活に入りました。そして「主よ、お話しください。僕は聞いております」という名言を語りました。サムエルという名は「その名は神」の意味で、サムエルは人々に非常に信頼される人に成長しました。(1節)「主はサムエルに言われた。『いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。』」 サウルはイスラエルの最初の王です。サウルは王となったとき、美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった、と書かれています。サウルは、民の誰よりも肩から上の分だけ背が高い男でした。

 しかし、神様はサウルを王の位から退けられます。それはサウルが神様の指示に忠実に聴き従わない時が(少なくとも)2回あったからです。一回目は、サウルとイスラエルの軍隊がペリシテ人との戦いの中で苦境に陥ったとき、サムエルがなかなか来なかったので、サムエルが献げるべき焼き尽くす献げ物を、サウルが献げたことです。(サムエルがなかなか来なかったからとは言え)それが、神様の戒めへの違反と見なされました。サウルが祭司でなかったからかもしれません。二回目は、神様が、神様に逆らったアマレクという民族と、その家畜を完全に滅ぼし尽くすようにサウルにお命じになったのに、サウルと兵士が家畜のうち上等のものを惜しんで滅ぼし尽くさなかったことです。これはサウルと兵士が、戦利品を得ようと欲を出して、神様の命令に忠実に従わなかった罪と見なされました。私の感覚では、「やや分かりにくいな」と感じてしまうのですが、この2つの罪により、神様はサウルを王の位から退けられ、サムエルは死ぬ日までサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いたのです。

 神様はサムエルに命じられます。「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」 ベツレヘム! 私たちに実に馴染み深い地名です。約1000年後にこのベツレヘムに、エッサイの息子ダビデの子孫としてイエス・キリストがお生まれになることを、私たちは知っています。正確にはダビデの子孫ヨセフの妻マリアから、処女降誕によってイエス様が、このベツレヘムで誕生なさいます。ベツレヘムは、「パンの家」の意味です。サムエルはためらいます。(2節)「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」神様が退けたとおっしゃっても、現実にはまだサウルは王の位に就いています。

 しかし、神様は構わずおっしゃいます。(2節後半~3節)「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときにわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」そこでサムエルはためらいと恐れを振りきって、神様に従います。(4~5節)「サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。『おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。』『平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。』」

 サムエルはイスラエルの精神的な指導者でしたから、そのような高名な指導者が突然小さな町ベツレヘムにやって来たので、町の長老たちは驚き、一体どんな目的で来られたのか、不安を覚えました。サムエルは彼らを安心させるために、「平和のことのために来ました。主にいけにえをささげに来ました(礼拝のために来ました)」と告げます。エッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招きます。そして、神様がお選びになる者に聖別の油を注いで、王として任職するために、神様が誰をお選びになるか、目を凝らします。神様にいけにえを献げることは、礼拝行為です。エッサイと七人の息子たちは、身を清めて来ました。これは改まった礼拝の時です。祈りの中で、神に導かれて次の王が選ばれます。

 (6~7節)「彼ら(エッサイの息子たち)がやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。』」エリアブは容姿がよく、背が高くて立派に見えたのです。サムエルともあろう立派な預言者でさえも、つい容姿にばかり注目し、神様にたしなめられました。容姿がよく、背が高いことが悪いのではありません。12節によるとダビデも、血色が良く、目は美しく、姿が立派だったのです。紅顔の美少年だったのでしょう。しかしそれよりもっと重要なのは心だ、ということではないでしょうか。神様はダビデの心の中も、わたしたちの心の中も、全てご存じです。神様には何も隠すことができません。ダビデの心には、真の神様への純粋な信仰が満ちていました。でもダビデの心の中にも罪はあるのです。後年のダビデが犯した最大の罪は、他人の妻バト・シェバを奪ったことです。この罪にはどんな言い訳もできません。しかし同時にダビデには、罪と気づけばすぐに悔い改める純真さもありました。神様は、ダビデのそのような心を見て下さったのではないかと思います。

 エッサイの息子が七人、次々と登場します。(8~10節)「エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。『この者をも主はお選びにならない。』エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。『この者をも主はお選びにならない。』エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。『主はこれらの者をお選びにならない。』」 神様の選びは、サムエルの最初の思い、エッサイの考えを全く超えていました。(11節)「サムエルはエッサイに尋ねた。『あなたの息子はこれだけですか。』『末の子が残っていますが、今、羊の番をしています』とエッサイが答えると、サムエルは言った。『人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。』」ダビデはエッサイの8番目、末の息子、羊飼いの労働をしていました。8番目の末っ子ですから、軽く見られていたと思われます。神様がまさかこの子をお選びになるとは、エッサイは予想もできなかったでしょう。しかし神様は末っ子ダビデを、イスラエルの王としてお選びになったのです。ダビデという名前は「愛される者」の意味だそうです。私は始めて知りました。ダビデは神様に愛されていたのです。もちろん私たち一人一人も、神様に愛されています。神様に愛され、神様に招かれて、礼拝に来ています。

 (12~13節)「エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。』サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。」ダビデは血色良く、目が美しく、姿も立派でしたが、一番重要なのはダビデの純真な心、特に罪を悔い改める心であったと思うのです。サムエルはダビデに聖別の油を注ぎ、ダビデは聖別され、次の王として任職されました。その日以来、主の霊(聖霊)が激しくダビデに降るようになったのです。ダビデのペンテコステ(聖霊降臨)です。

 人々が身を清めて集まった礼拝・祈りの場で、ダビデが次の王として選び出されました。本日の新約聖書・使徒言行録1章21節以下も、神様の働き人が選び出される場面です。ユダが死んだことで一名の欠員が生じていたイエス様の十二弟子・十二使徒を補充する選びです。ダビデが選ばれた場面と違う点もありますが、本質的に似た場面と思います。人々が神様に祈ってくじを引くことで、一人の使徒が選ばれます。(23~26節)「そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフ(イエス様の父ヨセフとは別人)と、マティアの二人を立てて、次のように祈った。『すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。』二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。」神への祈り、礼拝の中でマティアが選ばれました。

 ダビデは8番息子、末の子でした。聖書の神様は、あえていと小さき者をお選びになる神様です。サウルも王として失敗したとは言え、一度は選ばれました。そのときサウルは言ったのです。「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンでも最小の一族の者です。」サウルよりさかのぼると、イスラエルを士師というリーダーが治めていた時代、神様はギデオンという若者に、イスラエルを圧迫していたミディアン人からイスラエルを救い出すように、と言われました。ギデオンはためらいます。「どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」しかし神様は、そのギデオンを選ばれたのです。

 ダビデの属するイスラエルの民自体が、いと小さき民です。神様は、申命記7章6節以下で、イスラエルの民に言われます。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」いと小さきイスラエルの民を愛する神様は、イスラエルの王として、エッサイの8番目の息子ダビデ(「愛される者」)を、罪を悔い改める心をもつダビデをお選びになりました。この神様が、私たちをも選んで、神様を愛する礼拝へ招いて下さっています。

 聖別の油を注がれたダビデに、主の霊(聖霊)が降りました。主の霊は、主イエス・キリストの霊でもあります。イエス様が地上にお生まれになるのはこの1000年後ですが、神の子キリスト・子なる神キリストは、父なる神様と一体の状態で、天におられたのです。ダビデに、キリストの霊が注がれました。ダビデの内に生けるキリストが住まわれたのです。そしてダビデを導きます。ダビデが罪を犯したときは、悔い改めに導くでしょう。キリストの霊は、愛と清さと平安の霊です。キリストが、ダビデと共におられます。キリストの霊に導かれて、ダビデは竪琴を演奏し、神から来る悪霊にさいなまれるサウルの心を慰めます。

 末っ子ダビデが王に選ばれたエピソードを読んで、私はルカによる福音書1章の、「マリアの讃歌」を思い起こします。イエス様を身ごもり、親類のエリサベトに会ったマリアは、聖霊を受けて、神様を賛美しました。
「わたしの魂は主をあがめ、/ わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも/ 目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も/ わたしを幸いな者と言うでしょう。
 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。/ その御名は尊く、
 その憐れみは代々に限りなく、/ 主を畏れる者に及びます。
 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、/ 身分の高い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、/ 富める者を空腹のまま追い返されます。」

ダビデもきっと、「身分の低い、この主の僕にも、目を留めてくださったからです」と賛美する気持ちになったと思うのです。

 ダビデは8番目の末っ子、マリアもいと小さき女性、そしてイエス様も、ベツレヘムの貧しい馬小屋でお生まれになりました。ダビデとイエス様には共通点があります。ダビデは羊飼いとして労働していました。イエス様は、「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃいました。ダビデは羊のために働く羊飼いであり、イエス様は人間に仕えて十字架にかかって下さる、良き羊飼いです。ダビデは軽く見られていましたし、イエス様もガリラヤのカファルナウムの人々に、「これはヨセフの息子のイエスではないか。大工ヨセフの倅のイエスではないか」と、低く見られており、最後に十字架の低きにまで降られました(三日目によみがえられました)。ダビデの名は、「愛される者」であり、イエス様も洗礼を受けられた時、父なる神様が「これはわたしの愛する子」と声に出して言われました。ダビデは真の聖別の油・神の霊を注がれました。その意味でダビデも小さなメシア(油を注がれた者)です。ダビデは、将来誕生する真のメシア・イエス様を指し示す存在です。

 私たちも、いと小さき者です。ずっといと小さき者であり続けたいのです。わたしたちは、いと小さき者ですが、イエス様を救い主と信じて、聖霊を受けました。その意味で私たちもミニメシアです。今週もいつも祈りながら、身の周りで、イエス様が喜んで下さる小さな愛の業を、喜んで行いたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-01-19 20:07:32(火)
「天におられるわたしたちの父よ」主の祈り① 2016年1月17日(日) 降誕節第4主日礼拝説教
朗読聖書:列王記・上18章25~29節、マタイ福音書6章5~15節。
「天におられるわたしたちの父よ、」(マタイ福音書6章54節)。
 
 「主の祈り」(の原型)は、マタイによる福音書6章とルカによる福音書11章に記されています。よく見ると、2つの福音書の「主の祈り」には違いがありますし、2つの福音書の「主の祈り」と、私たちが実際に祈っている「主の祈り」も少し違います。その違いについても、折々に触れる予定です。2世紀から3世紀に生きたテルトゥリアヌスという聖職者は、「主の祈り」は「福音全体の要約」だと述べたそうです。福音全体が凝縮されているのが「主の祈り」です。

 本日のマタイによる福音書6章5節以下は、「山上の説教」(5~7章)の中に含まれています。イエス様は今日の箇所で、弟子たちに「祈り」を教えておられます。(5節)「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」「偽善者」は、もとのギリシア語で「俳優」という意味の言葉です。俳優は立派な仕事ですが、俳優は演じるのですね。私たちも演じてしまうことがあります。心の中では悪いことを考えているのに、人前で立派な善い人であるように見せかけます。人前で自分が立派な善い人であるとアピールしたいのです。そうでないと社会生活が成り立たないので、やむを得ない部分もありますが、しかし私たちは自分の悪い本心を隠して、立派なことを言ったり行ったりして、善い人を演じてしまうことがあるのではないでしょうか。私も、「本当に自分は偽善者だ」とうなだれるしかありません。偽善の罪を全く犯したことのない人は、イエス様以外ではおられないのではないかと思うのです。私が人前でする祈りも、偽善になっていないか、常に自分の心をチェックすることが欠かせません。

 「はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」「はっきり言っておく」は原文で、「アーメン、私はあなたたちに言う」です。アーメンは「真実に」の意味ですね。「真実に、私はあなたたちに言う」と言われたのです。「彼らは既に報いを受けている。」彼らは人前で、本心からでない形ばかり立派な祈りをして自己満足し、人々にもほめそやされた。だから神様からのご褒美はもう受けられない、ということです。ではどう祈ればよいか。(6節)「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」私たちは人前、公の場で祈ることもあるのですが、その前に、人の見ていないところで神様と一対一で祈りに集中すること非常に大切だと、イエス様は教えて下さいました。以前は「密室の祈り」という言葉をよく聞いたものです。「密室の祈り」は、自分の部屋に入って戸を閉め、そこで神様に親しく祈ることです。必ずしも部屋の中でなくても、電車の中で心の中で祈ることもできます。「密室の祈り」、個人での祈りを積み重ねていないと、公の場での祈りも真実味のない祈りになってしまう恐れがあります。私たちは個人で祈っているときも、雑念に悩まされます。祈りは雑念との戦いでもあります。何とか雑念に負けないで、雑念に打ち勝って、個人の「密室の祈り」を確立したいものです。「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」神様は、私たちは人知れずすることや、人知れず祈る祈りを、すべて見ておられます。人に自己アピールするためではなく、ただ神様に献げる純粋な思いで、祈ってゆきたいものです。神様の前に、陰日向のない人になりたいものです。

 (7節~8節前半)「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。」イエス様の時代にこのような異邦人がいたのでしょうね。心をこめるよりも、機械的に言葉数を多くすれば、彼らの神(偶像)が聞き届けてくれると考えて祈ったのです。このような祈りの例としては、本日の旧約聖書・列王記上18章の、バアル(偶像)の預言者たちの祈りを挙げることができます(旧約564ページ)。預言者エリヤの時代のイスラエルの北方の山・カルメル山が舞台です。紀元前9世紀です。真の神の預言者エリヤと、偽物の神(偶像、正体は悪魔)バアルの預言者450人が対決する、有名な場面です。バアルの預言者たちはバアルに祈り、エリヤは真の神様に祈り、どちらが真の神なのか、はっきりさせようという対決です。

 バアルの預言者たちは、数えきれないほど何回もバアルに呼びかけます。(26節)「彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から昼までバアルの名を呼び、『バアルよ、我々に答えてください』と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った。」しかしバアルは神でないので、答えが全くないのです。(28~29節)「彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった。」くどくどと、言葉数を限りなく多くして祈りましたが、何の反応もなかったのです。これに対して、預言者エリヤは真の神様に、信頼をこめて短く祈ります。(36~37節)「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民(イスラエルの民)は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」すると、たちどころに主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くしたのです。エリヤを愛しておられる真の神様が、打てば響くように、エリヤの祈りに答えられました。

 マタイに戻り、8節より。イエス様は、「彼ら(異邦人)のまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だからこう祈りなさい」とおっしゃって、「主の祈り」の元になる祈りを教えて下さったのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」この御言葉は、私たちを明日への思い煩いから解放します。私は、ペトロの手紙(一)4章7節を思い出します。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」「お任せしなさい」は、ほかの訳では「委ねなさい」になっています。元の言葉は「投げる」の意味です。思い煩いを、神様に向かって投げつけてよいという意味だと、読んだことがあります。自分にできることを行い、あとは神様にお任せする、思い煩いを(少々大胆ですが)神様に投げつけてしまう。「神が、あなたがたのことを心にかけていて下さるからです。」神様は、私たちに無関心な方ではないのです。私たちのことを心にかけていて下さる。大切に思っていて下さる。そこを疑わないで安心して、信頼してこう祈りなさい。そう教えて下さったのです。

 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」創世記24章に、アブラハムの僕が、アブラハムの息子イサクの妻となる女性を探し求めて、アブラハムの故郷に行く場面があります。僕は女たちが水くみに来る夕方に井戸に行き、こう祈ります。「この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。」彼が祈り終わらないうちに、リべカという娘が水がめを肩に載せてやって来ました。彼が「水がめの水を少し飲ませてください」と頼むと、娘は「どうぞ、お飲みください。~らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と答え、しかも彼女がアブラハムの一族の娘であることが分かったのです。彼はひざまずいて主を伏し拝み、『主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました』」と祈ったのです。まさに神様は、この僕が願う前から、彼の願い求めていることをよくご存じで、リべカに出会わせて下さいました。同じ神様が、私たち一人一人をも、心にかけていて下さいます。ですから、思い煩わないで安心して、信頼してこう祈りなさい。イエス様はそうおっしゃって、「主の祈り」(の原型)を教えて下さったのです。

 マタイに戻り9節。「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/ 御名が崇められますように。』」神様を(比喩的に)「父」と呼ぶケースは、旧約聖書には少ないのですが、少しあります。モーセの次の言葉が申命記1章31節にあります。「また荒れ野でも、あなたたち(イスラエルの民)がこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。」

 エレミヤ書3章19節には、神様の独白が記されています。「わたしは思っていた。『子らの中でも、お前(イスラエルの民)には何をしようか。 /お前に望ましい土地 /あらゆる国の中で/ 最も麗しい地を継がせよう』と。/ そして、思った。『わが父と、お前はわたしを呼んでいる。/ わたしから離れることはあるまい』と。」

 マラキ書1章6節では、神様がイスラエルの祭司たちに、次のような苦言を呈しておられます。「子は父を、僕は主人を敬うものだ。/ しかし、わたしが父であるなら/ わたしに対する尊敬はどこにあるのか。」 このように、旧約聖書にも少しは、神様を父と見なす御言葉があります。

 しかし何と言っても新約聖書の時代に入って、イエス様が登場なさった時から、神様はイエス様の父なる神様であられることが、明確に示されるようになります。神様がイエス様の父であられることは、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったときに、はっきり示されます。イエス様が洗礼をお受けになったとき、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の声が聞こえました。この声により、イエス様が神の子であり、神様がイエス様の父であられることが、明らかにされました。

 ヨハネによる福音書17章などをよく読むと、イエス様が神様に「父よ」と呼びかけておられることが多いことに、改めて気づきます。「父よ、時が来ました。」「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。」「聖なる父よ~。」「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」「正しい父よ~。」 イエス様は、本当に神様を父として慕いぬいておられるのだな、と感じます。そしてマルコによる福音書を見ると、十字架の前夜にこう祈られます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯(十字架)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 そしてイエス様は、イエス様の父がわたしたちの父でもあられることを、「あなたのがたの父」、「あなたの父」という言い方によって、教えて下さいます。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい。」「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」 私たちは、イエス様の父を「わたしたちの父」、「わたしの父」と呼ぶことを許されています。正確に言うと、私たちは聖霊(神の清き霊、イエス様の霊)によって、「父よ」と呼びかけるのです。イエス様の弟子・使徒パウロも(ローマの信徒への手紙8章で)書いていますね。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と叫ぶのです。」「アッバ」は、イエス様が話されたアラム語(ヘブライ語の兄弟語)で、「お父さん」、いえ「パパ」の意味だそうです。「アッバ、父よ」と祈られたイエス様が、父なる神様といかに親しいかが分かります。私たちも「アッバ、父よ」、「天におられるわたしたちのアッバ」と、親しく呼びかけることが許されています。父なる神様は聖なる方であり、罪を憎む方ですから、私たちが罪を犯し続けて神様を侮ることがあってはなりません。しかし神様は同時に愛の方であり、私たちが「父よ」と呼びかけて、神様に祈ることを、喜んで下さいます。

 『ハイデルベルク信仰問答』には、「主の祈り」の冒頭の呼びかけについて、問いと答えの形で、次のように教えています。
問120 なぜキリストはわたしたちに、神に対して「われらの父よ」と呼びかけるようにお命じになったのですか。
答    この方は、わたしたちの祈りのまさに冒頭において、わたしたちの祈りの土台となるべき、神に対する子どものような畏れと信頼とを、わたしたちに思い起こさせようとなさったのです(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、2002年、109ページ)。

私たちが神様を父と呼ぶとき、畏怖の念と信頼の心の両方をもつことが大切、ということと思います。

 この父は、慈しみに満ちた父です。この父は、種を蒔かず、刈り入れもしない空の鳥を養って下さいます。働きもせず、紡ぎもしない野の花をも美しく装って下さいます。もちろん、私たちが全然働かず怠けてよいという意味ではなく、思い煩わないでこの父の愛に信頼して祈りなさいということでしょう。女子パウロ会という修道会が作っておられる絵葉書がありますが、花の絵が描いてあって、「こんな小さな花にさえ 心をかける父がいる」と書いてありました。いと小さき野の花でさえ、愛して下さる父です。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(マタイ福音書7:30)と、イエス様は言って下さいます。この父は、罪を心から悔い改めて帰って来た放蕩息子を憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻して下さる父です。

 そしてイエス様は、マタイによる福音書7章11節で、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と、言って下さいます。ルカによる福音書には、「良い物」は聖霊だと書かれています。父が与えて下さる最も良い物は聖霊なのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」最も必要なものは聖霊、罪を悔い改める心、神の国、もちろん地上のパン、罪の赦し、永遠の命です。

 わたしたちが「父よ」と呼ぶことができるということは、私たちが神の子とされているということです。私たちは罪人であり、生まれながらの神の子ではありません。ですが、真の神の子イエス様の十字架の死のお陰で、すべての罪の赦しを与えられ、イエス様を救い主と信じて、神の子とされました。「父よ」と呼ぶことが許されていること自体が奇跡、深い恵み、福音です。

 東京のある教会を創設なさった牧師のエピソードと聞いていますが、実の父親が早く亡くなったのです。実の父親は、明治時代の政治家でした。暗殺されたのです。実の父親が早く亡くなったので寂しさを覚えておられたのですが、「天に神様という本当の父がおられるよ」と教えられ、深い喜びを覚えられたようです。とても立派な牧師になられました。「天の父がおられる」ということだけで、大きな福音なのですね。お祈りを始めるとき私はよく、「天におられる主イエス・キリストの父なる神様」と呼びかけますが、「父よ」でもよいし、「天のお父様」でも、全く構わないのです。ルカによる福音書11章の「主の祈り」(の原型)では、呼びかけは「父よ、」です。

 アメリカのある牧師たちは、「キリスト者とは、主の祈りを祈ることを身に着けた人びとです」、「この祈りを自分の第二の本性になるまで刻みつける」ことが必要だと言っています(W.H.ウィリモン、S.ハワーワス著・平野克己訳『主の祈り 今を生きるあなたに』日本キリスト教団出版局、2003年、29ページ)。「天にまします我らの父よ」、「我らの」ですから、(一人で祈ることもよいですが)兄弟姉妹と(気の合う人とも、気の合わない人とも)心を一つにして祈る、和解の祈りが「主の祈り」だと分かります。宗教改革者マルティン・ルターは、「主の祈りは、教会史上最大の殉教者だ」と言ったそうです。ルターの時代に多くの人が「主の祈り」を心をこめず、その意味を深く考えず、おざなりに祈っていたので、ルターは嘆いてそう言ったのでしょう。私たちはそうならず、「主の祈り」を魂を込めて、本当に祈る者になりたいと祈ります。古代の聖職者テルトゥリアヌスは、「主の祈りは、福音全体の要約である」と言いました。私たちの魂にとって、最も益になる祈りが、主の祈りに違いありません。この祈りを、本当に身に着けて参りたいと祈ります。アーメン(「真実に、確かに」)。