日本キリスト教団 東久留米教会

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2015-11-10 19:15:03(火)
「幸せなら、手をたたこう!」 11月の聖書メッセージ 牧師・石田真一郎
「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。」(イエス・キリストの祈り。新約聖書・ルカによる福音書23章34節) 

 12月25日はクリスマスです。神の子イエス・キリストの誕生を祝う日です。イエス様は、私たち全員のすべての過ちと罪を身代わりに背負って、十字架で死なれ、三日目に復活されました。上の祈りは、イエス様が自分を十字架につける人々をゆるした祈りです。イエス様は、私たちの過ちと罪をゆるすために、十字架にかかって下さったのです!

「幸せなら、手をたたこう」という有名な歌があります。私は2003年頃に、作詞者・木村利人(りひと)先生(当時、早稲田大学教授)の講演を伺いました。先生は20代半ばの1959年に、フィリピンで行われたYMCAワークキャンプに日本代表で参加されました。フィリピンは太平洋戦争で日本軍により大きな被害を受け、反日感情が強かったそうです。しかしフィリピンの人々と、野外でトイレ掘りなどの労働をするうちに、互いに心を開くようになりました。フィリピンにはカトリック教会の信者さんが多いようです。英語で旧約聖書・詩編47編1節「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ」を読み、心をこめて共にお祈りしたそうです。武器で戦わず、共に平和なアジアと世界を作ろうと。フィリピンの方が、「私たちはキリストにあって友達なんだ」と、タガログ語で言ってくれたそうです。

 木村先生はフィリピンの人たちのゆるしの愛に感激して、帰国の船の中で詩編47編1節から、「幸せなら、手をたたこう」を作詞されたそうです。スペイン民謡を元にフィリピンの子どもたちが歌っていたメロディーに載せて。早稲田奉仕園(キリスト教団体)、YMCA、大学サークルで歌われ、歌手の坂本九さんがテレビで歌い、日本と世界に広まったそうです。フィリピンの人たちのゆるしへの感謝をこめた、平和を願う歌です(木村利人著『戦争・平和・いのちを考える』キリスト新聞社、2015年、28~35ページ)。日本は戦争でフィリピン、韓国、中国の方に多くの傷を与えてしまいました。残念ですが事実です。その方々に、心より謝りつつ、世界の平和と正義のために祈り、協力したいものです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-11-10 19:09:24(火)
「キリストを指し示す聖書」 2015年11月8日(日) 降誕前第7主日礼拝説教
朗読聖書:申命記18章15~22節、ヨハネによる福音書5章31~47節。
「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネによる福音書5章39節)。

 イエス様は、ヨハネによる福音書5章17節で、神様を「わたしの父」とお呼びになりました。ご自分が「神の子」であると宣言なさったと言えます。それはご自分を神様と等しい者とすることでした。イエス様に敵対したユダヤ人たちは、それを神への冒瀆と考えました。それでイエス様を迫害したのです。しかしイエス様は確かに神の子なので、イエス様は冒瀆をなさったのではないのです。それがイエス様の周りのユダヤ人たちに、理解できませんでした。イエス様は神の子であり、同時人の子であられる方、神であり同時に人である方です。

 本日の箇所で、イエス様はご自分についての証しを語っておられます。ご自分が誰、何者であるかを語っておられます。証しは、言い換えると証言です。証言は当然、真実でなければなりません。真実でなければ証言ではなく、証しではありません。(最初の31節)「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」自分で自分のことを申し述べても弁解と見なされがちで、あまり信用されないのは、当時も今も同じでしょう。(32節)「わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」その方とは、イエス様の父なる神様です。イエス様は、少し後の37節で、「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」と言われ、さらに8章18節で、「わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」と語っておられます。父なる神様ご自身が、イエス様が神の子であることを証しして下さいます。たとえばマタイによる福音書3章の、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった場面を見ると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神様のお声が天から聞こえてきたと、書かれています。「これはわたしの愛する子」、神の子だと、父なる神様が真実を証しして下さったのです。

 そしてイエス様は、イエス様のお働きの前備えをしたバプテスマのヨハネのことを語られます。(33節)「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。」ヨハネはこう言ったのです。「わたしは、『自分はメシア(救い主)ではないと言い、『自分はあの方(イエス様)の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁(神の民)を迎えるのは花婿(イエス様)だ。花婿の介添え人(ヨハネ)はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方(イエス様)は栄え、わたしは衰えねばならない。』」 ヨハネは自分が主役でないことをよくわきまえていました。イエス様がメシア・救い主であり、自分はイエス様を指し示す引き立て役に徹することを喜んでいました。ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの命令で殺されますが、その出来事はこの福音書には出ていません。今日の箇所は、ヨハネが殺された後の場面のように思われます。

 イエス様は言われます。(35~36節)「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを、証ししている。」イエス様が行っておられる業の一つ一つが、父なる神様のご意志に従った業です。ガリラヤのカナで、水をぶどう酒に変えられた愛の業もそうです。べトザタの池の傍の回廊で、38年間も病気で苦しんで横たわっていた男を、安息日であるにもかかわらず癒やされた愛の業もそうです。そしてイエス様の最大の愛の業は、私たちのすべての罪を身代わりに背負って、十字架にかかり、命をなげうって下さったことです。イエス様は「成し遂げられた」とおっしゃって頭を垂れて息を引き取られたと、このヨハネによる福音書は記します。十字架にかかって私たち全ての人の全ての罪を背負いきり、贖いきる。イエス様は、そのために生まれられたのです。

 イエス様は、やや非難めいた口調でユダヤ人たちにおっしゃいます。(37~38節)「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。」

 そしてイエス様は、39~40節で決定的な事を言われます。「あなたたちは聖書(旧約聖書)の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」イエス様は先の方の46節でこう言われます。「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。」ユダヤ人たちは、自分たちがモーセの弟子だと信じていました。しかしモーセを敬うのであれば、イエス様をも敬うのが筋です。モーセが従った神様は、イエス様の父なる神様だからです。モーセが生きていれば、当然イエス様を救い主と信じて崇めたに違いありません。

 「モーセは、わたしについて書いている。」それは、本日の旧約聖書である申命記18章の中の、15節と18節を指しています。モーセの言葉です。小見出しが「預言者を立てる約束」となっています。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞(イスラエルの民)の中から、わたしのような預言者を立てられる。」それがイエス・キリストです。イエス様は預言者以上の方、神の子ですが、「わたし(モーセ)のような預言者」がイエス・キリストを指していることは、「モーセは、わたしについて書いている」とのイエス様のお言葉や、使徒言行録(3章22節)から確かです。(16~19節)「このことはすべて、あなたがホレブ(シナイ)で、集会の日(十戒が与えられた日)に、『二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火(主は火の中をシナイ山の上に降られた)を見て、死ぬことのないようにしてください』とあなたの神、主に求めたことによる。主はそのときわたしに言われた。『彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。』」イエス様は、「聖書(旧約聖書)はわたしについて証しをするものだ」と言われます。申命記18章の、「モーセのような預言者」もイエス様を指すのです。

 旧約聖書のいろいろな箇所が、直接・間接に救い主イエス・キリストを指し示しています。たとえば創世記21章でイスラエルの先祖アブラハムに、イサクが誕生します。イサクは、神様の約束によって誕生しました。父アブラハムは100歳、母サラは90歳と超高齢でした。普通ならこのような超高齢の夫婦に子供が生まれることはあり得ません。しかし神様は約束を守られ、神様に不可能がないことを示して、この夫婦にイサクを誕生させて下さいました。イエス様も約束の子です。イエス様の場合は、処女マリアからの誕生です。イエス様の場合も、神様が約束を守られ、神様に不可能がないことを証明して、処女マリアから誕生させて下さいました。約束の子イサクの誕生は、はるか将来のイエス様の誕生を暗示し、指し示します。

 そのイサクは、次の創世記22章で神様に献げられることになり、焼き尽くす献げ物に用いる薪を背負って、父アブラハムと共にモリヤの山の一つに登ります。イサクのこの姿は、十字架を背負ってゴルゴタの丘を目指して歩くイエス様のお姿を、暗示します。神様はアブラハムに、一匹の角を取られた雄羊を示して下さり、アブラハムはこの雄羊をイサクの代わりに献げたので、イサクは死なずに済みました。イサクの代わりに死んで献げられた雄羊も、私たちの身代わりに十字架にかかって下さったイエス・キリストを暗示すると言ってよいと思います。

 創世記から飛んで、ヨブ記16章19~20節には、苦しんでいる義人ヨブの祈りが記されています。「このような時にも、見よ/ 高い天には/ わたしを弁護してくださる方がある。/ わたしのために執り成す方、わたしの友、/ 神を仰いでわたしの目は涙を流す。」これはヨブの、救い主を求める祈りではないでしょうか。ヨブだけでなく、私たちは皆、弁護者、私たちのために執り成して下さる救い主を必要としています。この祈りにも応えて、神様は救い主イエス・キリストを、地上に誕生させて下さったと思うのです。 ヨブの切なる願いが、19章26節に記されています。先々週の礼拝でも引用致しました。「わたしは知っている/ わたしを贖う方は生きておられ/ ついには塵の上に立たれるであろう。」 ヨブと私たちを贖って下さる方は、イエス・キリストをおいてほかにおられません。ヨブはイエス・キリストを知りません。しかし贖って下さる方、救い主を待望していたのです。その待望に応えて、神様はイエス様を地上に送って下さいました。「わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」これはイエス様の復活を預言しているように聞こえます。私たちはイエス様を知っています。ヨブが聞いたら、私たちをとても羨んだに違いないのです。私たちは真の救い主を知っているのですから、旧約聖書の時代の人々に比べて、はるかに恵まれています。

 次に詩編をいくつか見ましょう。まず詩編22編は、まさにイエス様の十字架を予告したとしか思えない、驚くべき中身をもちます。冒頭の叫び、「わたしの神よ、わたしの神よ/ なぜわたしをお見捨てになるのか。/ なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/ 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」これはイエス様の十字架上の叫び、「レマ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と全く同じです。8~9節の、「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/ 唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。/ 主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」は、イエス様の十字架の下でののしった人々の姿とそっくりです。極めつけは18~19節です。「骨が数えられる程になったわたしのからだを/ 彼らはさらしものにして眺め/ わたしの着物を分け/ 衣を取ろうとしてくじを引く。」本当にイエス様の十字架の下で、ローマ兵たちが役得となるイエス様の着物を、くじで分け合っていたのです! 詩編22編の通りになったのです。驚くべきことです。

 さらに、有名な詩編23編も、私はイエス様を予告する詩編と信じます。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。/ 主はわたしを青草の原に休ませ/ 憩いの水のほとりに伴い/ 魂を生き返らせてくださる。」 イエス様は、ヨハネ福音書10章で、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃっています。イエス様は「良い羊飼い」ですから、詩編23編の「主(=羊飼い)」も、イエス様のことと考えてよいと考えています。その意味で詩編23編も、「良い羊飼いイエス・キリスト」を指し示す詩編と思っています。

 そして詩編32編6節には、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」という祈りがあり、これはルカによる福音書が告げるイエス様の十字架上での最後の祈りと一致します。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」とほとんど一致します。詩編41編10節には、「わたしの信頼していた仲間/ わたしのパンを食べる仲間が/ 威張ってわたしを足げにします」とあり、これはユダの裏切りを予告する言葉とされています。このように詩編にはイエス様とイエス様に関する出来事を予告する言葉が、あちこちに散りばめられています。

 詩編69編もイエス様の十字架を暗示する重要詩編です。5節に、「理由もなくわたしを憎む者は/ この頭の髪よりも数多く」とあり、イエス様は、ヨハネ福音書15章で十字架にかかる前の夜に、この言葉がご自分の上に実現していると語られました。69編10節には、「あなたの神殿に対する熱情が/ わたしを食い尽くしている」という御言葉があり、これはヨハネ福音書2章で、イエス様がエルサレムの神殿を腐敗から激しく清められたときに、弟子たちがこの御言葉を思い出したと、書かれています。イエス様が父なる神様の神殿を愛するあまり、腐敗に激しく憤られて、神殿から商売を追放なさったことが、イエス様を食い尽くす、イエス様への迫害を招くという意味でしょう。

 69編22節には、「人はわたしに苦いものを食べさせようとし/ 渇くわたしに酢を飲ませようとします。」これはまさにイエス様の十字架の時に実現したことです。イエス様がゴルゴタに着くと、ローマ兵たちが、苦いものを混ぜたぶどう酒(麻酔作用がある)を飲ませようとしましたが、イエス様はなめただけで、飲もうとされませんでした。十字架の苦しみをごまかさないで最後の一瞬まで味わい尽くすご決意の表れです。そしてイエス様が息を引き取られる少し前に、居合わせた人々のうち一人が、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付けてイエス様に飲ませようとしました。この2つの出来事を、詩編69編は予告しているのですね。ですから詩編69編は、イエス様の苦難と十字架を予告する重要詩編です。

 イエス様を暗示する詩編を今全てご紹介するのではありません。ですが詩編118編22~23節は外せません。「家を建てる者の退けた石が/ 隅の親石となった。これは主の御業/ わたしたちの目には驚くべきこと。」これは、新約聖書で5ヶ所に引用されている重要な言葉です。人々が、「このような人はいらない」と言って十字架で殺し、捨てたイエス様を、父なる神様は復活させ、神の教会の尊い土台となさったことを預言しています。「このような人はいらない」と人間たちが捨てた方を、神様がこのようにお立てになったことを知って、私たちは深く自分の罪を悔い改めて、神様の前に心の底からひれ伏さなければならないのではないでしょうか。

 ヨハネによる福音書5章に戻ります。(41~42節)「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」驚くべきことです。ユダヤ人たちは懸命に聖書(旧約聖書)を研究していたのです。当然、神様を深く深く愛しているはずです。ところがいつの間にか、神を愛していない状態に陥っているとイエス様は指摘なさいます。論語読みの論語知らずという言葉があります。聖書読みの聖書知らずということも、起こり得るのです。皆様はそのようなことはないと思いますが、私などにはそのようになる危険があると思い、注意を促されたと感じます。イエス様は、どの掟が最も重要でしょうかと問われて、こうお答えになりました(マタイによる福音書22章37~39節)。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者(聖書全体)は、この二つの掟に基づいている。」聖書をよく読んで学ぶことは重要ですが、もし神様と隣人を愛していないのであれば、聖書を本当に学んだとは言えませんね。私自身も、この落とし穴にはまらないように注意する必票があります。

 ナチスに抵抗して死刑になったボンヘッファーというドイツの牧師が、『共に生きる生活』という本の中で、こう書いています。私は耳が痛いと感じる言葉です。「われわれは、神によって[われわれの仕事を]中断させられる用意がなければならない。神は、われわれに、要求と願いとをもった人々を送り給うことによって、常に繰り返して、日ごとに、われわれの歩みを停止し、われわれの計画を妨げ給う。祭司が、強盗におそわれた人のかたわらを通り過ぎて行ったように、われわれは、一日の重要な事柄に没頭して、たとえば恐らく―聖書に読みふけりつつ―これらの人たちのかたわらを通り過ぎてしまうということもありうるのである」(ボンヘッファー著・森野善右衛門訳『共に生きる生活』新教出版社、1991年、97ページ)。私たちの計画でなく、神様のご計画が実現することが大切ということでしょう。私たちのなすべきことは、神様のご計画が実現するために祈り、奉仕することです。

 私は、多くのユダヤ人を助けた外交官・杉原千畝さんのことを思い出しました。約6000人のユダヤ人のためにビザを発行した杉原さんのことは、よく知られています。私は10数年前に、杉原さんのご夫人の講演を、西東京市にある武蔵野学院大学で聞きました。杉原さんは、夫人と小さな息子二人を連れて、ヨーロッパのバルト三国の一国リトアニアの日本領事館に領事代理で赴任しておられました。1940年7月18日の朝、大勢のユダヤ人が領事館の周りを埋め尽くしていたそうです。人数は日ごとに増えたそうです。ナチスの魔の手を逃れてポーランドから逃げて来たユダヤ人の方々でした。恐怖と苦難の決死の旅だったそうです。そして日本を通過して、アメリカなどに行くビザを求めていたのでした。日本の外務省に電報で問い合わせると、「ノー」の返事。杉原さんもだいぶ悩んで、「振り切って国外へ出てしまえば、それでいい。それだけのことなんだ」とも思ったそうです(杉原幸子著『六千人の命のビザ』大正出版、2000年、31ページ)。しかしその思いを乗り越えて夫人に、「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」(同書、200ページ)。杉原さんはキリスト教のロシア正教の洗礼を受けておられました。神に背くことはできないと考えられたのですね。神への愛を感じます。夫人も賛成され、約30日間、朝から夜までほとんど昼食をとることもなく、ビザの発行に没頭なさったそうです。

 当時既にヨーロッパでは第二次世界大戦が始まっており、緊迫した状況でした。その時実は、領事館を閉鎖しなければならず、閉鎖業務に追われていたのです。閉鎖して出るはずが、人間の予定を中断させられたのです。神様の介入による中断だったのではないでしょうか。約6000人を救う結果になりました。夫人がこう書いておられます。「カウナス(リトアニアの当時の首都)でのあの一カ月は、状況と場所と夫という人間が一点に重なり合った幸運な出来事でした。私たちはこういうことをするために、神に遣わされたのではないかと思ったものです」(同書、45ページ)。日本に帰国できたのは、やっと1947年になってからで、外務省をクビになる結果が待っていました。それで経済的にも苦労されたそうです。

 1940年から28年もたった1968年に、初めて当時ビザを渡したユダヤ人の一人と再会したそうです。1985年に、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人章(ヤド・バシェム賞)」が授与され、この時から有名になったそうです。ビザ発行から45年後ですね。夫人は、ビザを渡したユダヤ人の孫にも会い、「あなたのご主人のビザ発行がなかったら、この子は生まれていない」という意味のことを、アメリカの政治家の夫人に言われたそうです(同書、201ページ)。

 イエス様は、ヨハネによる福音書5章44節でユダヤ人たちに、「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか」とおっしゃいます。杉原さんの決断と行動も、「唯一の神からの誉れを求める」決断と行動だったと思います。神への愛から出た決断と行動だったと思います。それは隣人を愛する行動でもありました。私たちには、歴史に残るような立派なことはできないでしょうが、聖書からイエス様の精神と生き方を学び、日々少しでも実践させていただきたいものです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-11-02 19:30:02(月)
「本当に生きるために」 10月の聖書メッセージ 石田真一郎
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(新約聖書・マタイによる福音書4章4節。)

 パン(食物)がないと生きられませんが、神の言葉(聖書の言葉=心のパン)で生き方を学ぶことが、さらに大切です。旧約聖書の箴言(しんげん)に「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい」という、すばらしい言葉があります(15章17節)。家庭でも世界レベルでも実行したいですね。 神の子イエス・キリストは言われます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタイ福音書22章37~39節)。

 私は、黒澤明監督の映画『生きる』のDVDを見ました(白黒の名作。発売元:東宝株式会社)。往年の個性派名優・志村喬(たかし)が演じる、渡辺さんという市役所の市民課長が主人公です。彼は30年間無欠勤ですが、意欲を失っています。彼が、病気で命が限られていることを悟ります。それまで役所仕事に徹して、子どもたちの小さな公園を作ってほしいという主婦の人たちの陳情をも、「管轄外」とたらい回しにしました。しかし今、本当に「生きたい」という意欲が湧き上がります。でも何をすべきか、悩みます。「はっ」と気づきます。「遅くない。わずかでもやればできる。ただやる気になれば。」その瞬間、知らぬ女性の誕生会が行われていて、「ハッピーバースデイ」の大合唱が起こります。渡辺さんが本当の意味で生きる情熱を取り戻し、新しく生まれたことを示す名シーンです。

 彼は市役所に復帰し、パワーがないのに公園作りに邁進します。「市民課が主体になる。土木課も公園課も下水課も動いてもらわんと。これから現地調査に行く。」粘りに粘って不器用に進めます。できた公園で、雪の夜に一人ブランコを漕ぎ、楽しそうに小さく歌いながら亡くなります。公園を作ってもらった主婦の人たちがお通夜に来て、心からの涙を流します。昼間の公園で、何も知らない多くの子どもたちが、楽しそうに遊ぶ場面で終わります。本当に生きるとは人のために生きること、のメッセージが伝わります。イエス様の心と通じます。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-11-02 19:24:37(月)
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」 9月の聖書メッセージ  石田真一郎
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
(イエス・キリストの言葉。新約聖書・マタイによる福音書26章52節) 

 私は、日本とアジアと世界の平和をこそ、求めたいのです。東久留米教会で、8月に93歳の婦人が天に召されました。広島県出身の方で、1945年8月6日に、原爆のきのこ雲を目撃された方です。私はその話を今後も語り伝えてゆきます。

 渡部良三さんという無教会主義のクリスチャンの『歌集 小さな抵抗― 殺戮を拒んだ日本兵』(岩波現代文庫、2012年)という本があります。ぜひお読み下さい。渡部さんは21、2才の頃、中国の河北省に駐屯する部隊に配属され、上官から同僚の兵と共に中国人捕虜を銃剣で刺殺することを命じられます。捕虜虐待で国際法違反です。渡部さんは動揺しましたが、聖書の十戒の「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)という神の言葉に従う決心をし、刺殺命令を独り拒んだのです。そのため軍隊でひどいリンチを受け続けましたが、ひたすら耐えて、敗戦後に帰国できました。

 渡部さんは、ひそかに多くの歌を詠まれました。一首を、ご紹介します。
「殺すなかれ そのみおしえを しかと踏み 御旨に寄らむ 惑うことなく」(前掲書19ページ)。 「『殺してはならない』との神の教えを固く守り、迷うことなく神の意志に従って行こう」の意味です。渡部さんの純真な信仰に感銘を受けます。

 1945年に初年兵として中国の別の場所にいたTさんは、上官の命令を受け、心ならずも中国人捕虜を銃剣で突いたそうです。「善悪も何も、考える余裕がなくなる。体験者にしか分からないが、それが軍隊」と語られます(2014年8月の新聞から)。これが戦争の実態でしょうから、何としても平和を守る必要があります。

 神の子イエス様は、言われました。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(新約聖書・マタイによる福音書5章9節)、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(同5章44節)、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(同26章52節)。私は、今年8月15日(70回目の敗戦記念日)の朝、千鳥ヶ淵戦没者墓苑(千代田区)で行われた「キリスト者平和祈祷会」に参加し、約200名と共に平和を願う祈りを致しました。もちろん核兵器廃絶をも、祈り求めてゆきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。   

2015-11-02 19:09:36(月)
「将来の希望」 2015年11月2日(日) 聖徒の日(召天者記念日)・東久留米教会創立54周年記念日礼拝説教
朗読聖書:エレミヤ書29章10~14節、ローマ書8章18~30節。
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマ書8章18節)。

 私たちの地上の命はいつか終わります。しかし、神様は永遠に生きるお方です。この神様につながるならば、私たちにも死を超えた永遠の命の希望が与えられます。ローマの信徒への手紙を書いた人は、イエス・キリストの弟子の一人パウロです。パウロはイエス様の十二弟子の一人ではありませんが、イエス様の十字架の死と復活の後にイエス様に出会い、弟子となった人です。パウロは、この手紙によって、今も私たちを励ましてくれます。(最初の18節)「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」今ご自分が特に苦しみの中にはない方もあるでしょうが、何らかの苦しみを覚えている方もおられるでしょう。何の苦しみもない人生はありません。パウロは、確信をもって書きます。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない。」神様は、将来私たちに栄光(完全な救い)を与えると約束しておられます。イエス・キリストを救い主と信じる人は、今既に永遠の命を得ていますが、将来、神の国が来る時に、復活の体をも与えて下さるというのが、神様の約束です。復活の体は栄光の体、イエス・キリストの復活の体と同じ体です。今の苦しみが大きいとしても、将来、復活の体を受けるときの祝福は、今の苦しみを完全に忘れさせて下さるほどの、完全な祝福だと書いているのです。パウロは、救い主イエス・キリストをひたすら宣べ伝えたために、私たちであれば耐えられないほどの迫害と苦難を受けました。その中で、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と、信仰と希望をもって断言するのです。

 先のことを日本語で「未来」あるいは「将来」と呼びます。キリスト教信仰の上では、未来よりも将来という言葉を用いる方がよいと聞いたことがあります。未来は、「未だ来らず」と書きます。やや消極的な言葉です。将来は、「まさに来るべし」と書きます。確信と希望を感じさせる言葉です。神様は必ず神の国を完成させて下さるのですから、その時を「未来」と呼ぶより、「将来」と呼ぶ方が、ずっとふさわしいのです。

 (19節)「被造物(神様がお造りになった自然界、この世界のすべてのもの、人も含まれる)は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」「神の子たち」とは、イエス・キリストを救い主と信じて永遠の命を与えられ、神の子となる光栄を与えられた者たちです。その神の子たちが復活の体を与えられるときが、「神の子たちの現れる」ときでしょう。(20節)「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。」「被造物は虚無に服している」とパウロは書きます。なぜ虚無に服しているのか。それは人間が神様に背いて罪を犯したからです。旧約聖書の創世記3章において、最初の人類(人間の原型)エバとアダムは、神様に「決して食べてはいけない」と命じられていた善悪の知識の木の実を、食べてしまいました。こうして神様に罪を犯した結果、エバとアダムは祝福に満ちたエデンの園から追放されてしまいました。虚無に落ち込んだのです。これが私たち人間の姿です。そして神様は、アダムに言われました。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。」アダムの罪のゆえに土は呪われるものとなった、と書いてあります。人の罪のために、人だけでなく自然界も虚無に落ち込んだのです。

 人の虚無とは何でしょうか。死があることだと思うのです。私たちは一度は考えたことがあるのではないでしょうか。「努力して成果を上げ続けたとしても、いずれ自分も死ぬ。ならば努力してもむなしい、意味がないではないか。」もちろん限られた人生を懸命に生きることには大きな意義があります。しかし、その先に死があることも事実です。死こそ最大の虚無です。自然界も虚無に服しているのではないでしょうか。神様がお造りになった最初の世界・エデンの園には完全は祝福と調和があり、動物、獣もいましたが、弱肉強食はなく、完全に平和に暮らしていました。しかし今の自然界はそうではありません。秋は、私たちが自然界の美しさを堪能する季節です。しかしよく見ると自然界は、残酷な世界でもあります。肉食動物が草食動物を襲って食べます。蜘蛛は巣を張って、ほかの虫を捕らえて食べます。食虫植物といって、虫を捕らえて栄養にする植物もあります。地震、津波、火山の噴火があり、人や動物が死にます。太陽にも寿命があるそうですから、地球にも寿命があります。これは虚無だと思うのです。
 
 神がおられなければ、私たちに真の希望はないのです。しかし幸いなことに神様がおられ、私たち被造物を虚無から救って下さるのです。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。」服従させた方とは、神様です。「同時に希望もある」とは、どのような希望でしょうか。(21節)「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」神様の愛の力で将来、被造物全体が栄光に輝く自由をいただく、完全に新しくされるという約束です。聖書の他の箇所の表現を借りれば、神様が新しい天と新しい地をもたらして下さるという約束です。このような希望があります。

 (22節)「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」パウロには、被造物が苦しんでうめいていることが、心の耳に聞こえたのです。被造物全体が、自然界全体が、生きとし生けるもの全体が、滅びへの恐れを感じて、苦しんでうめいているのが聞こえました。たとえば私たち人間が環境を破壊するとき、自然界が悲鳴を上げていることは、大いにあり得ることだと思います。(23節)「被造物だけでなく、『霊』(聖霊)の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」クリスチャンは、イエス・キリストを救い主と信じたときから、聖霊(神様の清き霊)をいただきました。ここでそれを「『霊』の初穂」と呼んでいます。私たちがいただいている聖霊は、私たちが将来、復活の体・完全は救いをいただくことの保証です。「神の子とされること、つまり体の贖われること」と、あります。クリスチャンは、今既に聖霊を受け、神の子とされていますが、完全に神の子とされるのは、イエス様が地上にもう一度おいでになる将来のことです。そのときに体も贖われます。それはイエス様と同じ復活の体をいただくことです。今は人生の様々な苦しみに耐えながら、心の中でうめきながら、それを待ち望んでいるのです。今は完全な救いを受ける途上にあります。

 (24節)「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」私たちの救い・被造物の救いは、まだ完成していません。完成への途上にあります。しかし神の国を完成させ、イエス・キリストを信じる私たち一人一人に復活の体を与えて下さることは、神様の確かな約束です。神様の約束を与えられている私たちは、約束の実現を楽しみに待つ希望をもっています。現実はまだ苦しいかもしれない。しかし将来必ず復活の体をいただくことができる。神様による確かな希望があります。キリスト教は神様の約束の宗教であり、希望の宗教です。

 (24節後半~25節)「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」 私たちは、今はまだ復活の体をいただいていないので、約束の実現を見ていません。「見えるものに対する希望は希望ではありません。」見ているものは、既に得ているものであり、それを待ち望む必要はありません。私たちは、まだ得ていない(見ていない)復活の体を待ち望んでいるので、今の苦しみを忍耐しながら、希望の実現を待つ状態にあります。日曜日ごとに、希望の主である神様を礼拝しながら、待ち望み続けています。「忍耐して待ち望む」と書いてあります。忍耐は忍耐に終わりません。忍耐は待ち望むことにつながり、希望の実現に至ります。神様を信じる人の忍耐は、希望に向かう忍耐、必ず希望に至る忍耐です。ですから忍耐しがいがあります。希望は、逆境の時にこそ必要です。私たちは皆、虚無・死という逆境を体験しなければなりません。その私たちに、神様は永遠の命の希望を与えておられます。感謝です。

 本日の旧約聖書は、エレミヤ書29章10節以下です。これは預言者(神様の言葉を預かって語る人)エレミヤが、バビロンに捕囚として連れ去られた仲間のイスラエルの人々に書いた手紙の一部です。イスラエル人は神様の民ですが、神様に罪を犯し続けたために、バビロンに捕囚として連れ去られてしまいました。バビロン捕囚は、何回にかに分けて起こった出来事です。エレミヤがこの手紙を書いたのは、紀元前594年頃と言われます。エレミヤは安易な救いは語りません。エレミヤは捕囚が70年間続くと述べます。70年間は長いですね。人の一生前後の長さです。太平洋戦争が終わって今年で丸70年です。しかし捕囚は、永久に続くのではありません。70年経てば終わるのです。70年経てば、必ず祖国イスラエルに帰還することができる、神様が帰還させて下さると、エレミヤは希望の言葉を語ります。偽預言者のハナンヤという人がいて、ハナンヤは、人々に耳触りのよいことを語りました。2年後に捕囚は終わると言ったのです。しかしそれは神様の意志に逆らう言葉でした。偽預言者ハナンヤは、死にました。神様に撃たれたようです。私たちなら、ハナンヤを偽預言者と見破ることができたでしょうか。

 真の預言者エレミヤは、安易なことは語りませんでした。捕囚は70年間続くから、覚悟せよと言ったのです。しかし永久ではなく、70年で終わるのです。10~11節は、慰めと希望の言葉です。「主はこう言われる。バビロンに70年の時が満ちたなら、わたし(神様)はあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」 神様は愛の方であると同時に、聖なる正しい方ですから、私たちを清めるために私たちを鍛錬なさり、安易な救いを与えて下さらないこともあります。神様は私たちの真の益を考えて、愛の鞭をふるって私たちを鍛錬なさることがあります。しかし神様は、私たちを最終的に平和に導く計画をもっておられます。バビロン捕囚は長いけれども、必ず終わるのです。エレミヤは70年間続くと言いましたが、結果的に56年ほどで終わったようです。この短縮は、神様の憐れみによると思います。

 エレミヤは12~13節で書きます。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」「そのとき」は、イスラエルの地に連れ帰られるときかもしれませんが、しかしいつでもとも言えます。私たちが、心を低くし、心を尽くして神様に祈り求めるならば、神様は御自分を現して下さいます。聖書によって、あるいは祈りに応えて下さることによって、あるいはほかの信仰者を通して、神様はご自分のことを教えて下さいます。解放の約束の言葉が続きます。「わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め。かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ帰る、と主は言われる。」試練を経て、必ず平和(シャローム)に至る計画、希望の計画です。

 ローマの信徒への手紙8章28節に、こう書かれています。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」この「ご計画」も、「平和の計画」に違いありません。パウロの言葉とエレミヤの言葉が、響き合います。

 先月の礼拝の「招詞」にも、「希望」の言葉がありました。ペトロの手紙(一)3章15節です。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」この希望は、イエス様の十字架の死と復活により、信じる者が全ての罪の赦しと永遠の命を受ける希望です。私たちの信仰の中心です。この希望について、クリスチャンでない方が「どのような希望か、説明してほしい」と質問されたら、いつでも答えることができるように、日頃から祈って準備しておきなさい、ということです。私たちは、いつでも答えられるように、怠りなく準備しておきましょう。

 本日は聖徒の日(召天者記念日)です。当教会にAさん(仮名)という方がおられました。「私が亡くなったら、悲しまないで、私が喜んで天に駆け上がって行ったと思ってほしい」と語っておられました。そうなるという希望の信仰を持っておられたのですね。そしてイザヤ書40章30~31節を読まれた記憶があります。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが/ 主に望みをおく人は新たな力を得/ 鷲のように翼を張って上る。/ 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」 「主に望みをおく人は新たな力を得る。」希望の源である神様にしっかりつながり、復活の体をいただくときに向かって、使命を果たしつつ、共に歩みたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。