日本キリスト教団 東久留米教会

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2015-11-25 13:57:46(水)
「恵みの回復 ルツ記④」 2015年11月22日(日) 降誕前第5主日礼拝説教
朗読聖書:ルツ記4章1~22節、ルカによる福音書1章46~50節。
「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。」(ルツ記4章14節)。

 ルツ記を4回連続で読む最終回です。おさらいから入ります。故郷イスラエルの飢饉を逃れて、外国モアブに行ったナオミという婦人は、悲劇を経験しました。夫エリメレクと二人の息子マフロンとキルヨンが亡くなったのです。ナオミはマフロンの妻であった若いルツに付き添われて、イスラエルのベツレヘムに帰ります。オミはきっと50歳くらい、ルツは20代の後半くらいではなかったかと想像致します。二人は貧しく、食べ物を得る方法は、ルツが他人の畑に行って落ち穂拾いをするほかありませんでした。落ち穂拾いというとロマンチックにも聞こえますが、乞食に近い状態だったのではないかと思われます。当時のイスラエルは、太平洋戦争が終わるまでの日本に似て男性中心の社会でした。家を継ぐのは原則として男性でした。ナオミは夫エリメレクの家に入った立場でしょうが、夫も二人の息子も亡くなり、まさに家が絶えようとしていました。

 ナオミはどん底に落ちたと言えますが、神様はナオミをお見捨てになったのではありませんでした。ルツが落ち穂拾いに行った畑の持ち主はボアズという男性で、ナオミたちの家の親戚であり、ナオミたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人だったのです。信仰がなければ幸運な偶然と考えるでしょうが、間違いなく神様の導きです。神様は目に見えませんが、確かに生きておられ、私たちに日々小さな幸せを与えて下さっています。その1つ1つに気づくことが信仰とも言えます。しかしナオミは、自分たちの家が存続することだけを考えているのではありません。ナオミは、亡くなった息子の妻ルツ(あえて言えば嫁)が幸せになることを、心から願っていました。ルツがボアズと再婚するとルツが幸せになると考えました。そこでナオミは3章で、ルツにボアズのもとに行くようにかなり大胆なアドヴァイスをしました。もちろんルツとボアズが結婚することで、結果的にナオミの夫エリメレクの家が存続することを期待したでしょうが、自分の願いのためにルツを犠牲にしてもよいとは決して考えていなかったはずです。ルツを不幸にしてはならず、ルツに幸せになってもらうことがとても大切だと考えていたと思います。ルツは、故郷モアブにとどまってもよかったのに、ナオミを見捨てないで、外国イスラエルのベツレヘムに着いて来て、ナオミと一緒に苦労しながら生きる道を選んでいました。互いに相手の幸せのために行動し合っている、麗しい愛の関係があります。

 そしてルツは、姑ナオミの願い・何とか家を絶やしたくないという願いを実現したいとも考えました。そこでボアズのもとに行き、事実上プロポーズをしたのです。ルツは3章9節でボアズに、「どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」と言いましたが、これは事実上のプロポーズの言葉です。ボアズは、姑ナオミの希望の実現を願うルツの真心に感動を覚え、プロポーズを受け入れる方向に気持ちが進みます。もちろんボアズは独身です。ボアズは分別のある大人の男性でしたので、ただ感情に任せて動くのではなく、自分の立場を考えます。自分は確かにナオミの家の親戚で、家を絶やさぬ責任のある一人だが、自分以上にその責任のある人がいる。まずその人の意志を確かめることが先だ。そう判断し、肩掛け六杯分の大麦をナオミへのお土産としてルツに背負わせ、ルツを帰らせます。一つ一つ手順を追って物事が進められていくことで、一つの祝福にたどり着くことが、このルツ記によって示されているのではないでしょうか。

 そして本日の4章です。(1節)「ボアズが町の門のところへ上って行って座ると、折よく、ボアズが話していた当の親戚の人が通り過ぎようとした。『引き返してここにお座りください』と言うと、その人は引き返して座った。」 「町の門」は、裁判や交渉ごとが行われる町の公のスペースです。「折よく」とありますが、ここにも神様のお計らいを見ることができます。(2節)「ボアズは町の長老のうちから十人を選び、ここに座ってくださいと頼んだので、彼らも座った。」長老たちは、町で尊敬と信頼を集めている人たちです。ボアズはその中から特に信頼できる十人を選び、これからボアズと親戚の人が話し合って(交渉して)決めることの証人になってもらうようにしたのです。このように用意周到にしておけば、後から「こうではなかったはずだ」などという認識の違いから来るトラブルの発生を避けられます。

 (3節~4節の途中)「ボアズはその親戚の人に言った。『モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。それでわたしの考えをお耳に入れたいと思ったのです。もしあなたに責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの座にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください。もし責任が果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。それならわたしが考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、わたしはその次の者ですから。』」 ここで「責任を果たす」と訳されている言葉は、原語のヘブライ語で「贖う」です。1節にあった「親戚の人」も直訳では「贖い手」です。4章の1節から8節に、「贖い、贖う、贖い手」の言葉が10回以上も出て来ます。4章前半のキーワードは「贖い」だと言ってもよいのです。

 「贖い」は、聖書独特の言葉と言えます。聖書では非常に重要な言葉です。この新共同訳聖書の巻末の用語解説では、「贖い」の意味を次のように教えてくれます。「旧約では、人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すこと。」イスラエルでは、各家の所有する土地は、「嗣業の土地」と呼ばれます。神様から各家に分け与えられた土地ですから、非常に重要なのですね。レビ記25章23節以下に、「贖い」と「嗣業の土地」について、次のように書かれています。「土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたし(神様)のものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。あなたたちの所有地においてはどこでも、土地を買い戻す権利を認めねばならない。もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。」

 ボアズは親戚の人に、「あなたがナオミの亡くなった夫エリメレクの土地を贖う(買い戻す)意志がありますか、どうですか」と尋ねています。(4節の終わりの方と5節)「『それではわたしがその責任を果たしましょう』と彼が言うと、ボアズは続けた。『あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らねばなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。』」モアブの婦人ルツと結婚して、ナオミの義理の息子なって家を継ぐことも求められている、と言ったのですね。確かに簡単にできる決断ではありません。以前の日本の「婿養子に入る」と、ほぼ同じでしょう。

 (6節)「すると親戚の人(贖い手)は言った。『そこまで責任を負う(贖う)ことは、わたしにはできかねます。それではわたしの嗣業を損なうことになります。親族としてわたしが果たすべき責任(贖い)をあなたが果たしてくださいませんか。そこまで責任を負う(贖う)ことは、わたしにはできかねます。』」 「わたしの嗣業を損なう」が具体的に何を意味するのか分かりませんが、彼にとって何らかのマイナス、面倒を背負い込むことになるからお断りする、ということです。ルツがモアブ人・外国人であることを嫌ったのではないか、と言う人もいます。この親戚が断わったので、ボアズが贖いをすることに、何の障害もなくなりました。このことを証明する手続きが、町の長老たち十人を証人として行われます。(7~8節)「かつてイスラエルでは、親族としての責任(贖い)の履行や譲渡にあたって、一切の手続きを認証するために、当事者が自分の履物を脱いで相手に渡すことになっていた。これが、イスラエルにおける認証の手続きであった。その親戚の人(贖い手)は、『どうぞあなたがその人をお引き取りください』とボアズに言って、履物を脱いだ。」これで手続き完了です。

 ボアズは晴れて宣言します。(9~10節)「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」ボアズは親族として、土地を買い戻す(贖う)責任を果たすことを受け入れたのです。ここでルツとの結婚が決まりました。

 ボアズはルツを愛するようになっていたでしょうから、土地を買い戻すことが苦でなかったでしょうが、責任を果たすことは楽なことばかりではないはずです。何しろ、自分のお金を出して、親族の土地を買うのです。私たちなら喜んでするでしょうか。「迷惑をかけないでくれ」と言って、逃げるかもしれませんね。結婚してルツを扶養することはもちろん、ナオミの扶養も引き受けるのです。「故人の名をその嗣業の土地に再興する」と言っていますから、ボアズの名が嗣業の土地に残るのではなさそうです。楽しいことよりも、面倒なことの方が多い可能性があります。ほかの男性であれば、ルツが外国人であることを嫌うかもしれません(但し、ルツは1章でナオミに、「あなたの神はわたしの神」と言っていますから、偶像崇拝をしない女性であることは間違いありません。その点は安心です)。面倒とも言えることがあるが、それでも親族として土地を買い戻す(贖う)責任を引き受ける。自分の利益よりも責任を優先する。ボアズは見上げた人ですね。若い妻マリアと幼いイエス様を支えた大工ヨセフの姿と通じるものがあるのではないでしょうか。

 後半の小見出し「人々の祝福と神の祝福」に進みます。証人となった人々がこぞって祝福します。(11~12節)「門のところにいたすべての民と長老たちは言った。『そうです、わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。』」晴れてボアズはルツと結婚します。(13節)「ボアズはこうしてルツをめとったので、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。」こうしてナオミと亡夫エリメレクの家が救われたのです。

 贖いは、希望の源なのです。旧約のほかの箇所でもそうです。エレミヤ書32章に、預言者エレミヤが、郷里アナトトの親族の土地を買い取る(贖う)場面があります。ルツ記よりずっと後の時代(おそらく紀元前587年)のことです。エルサレムがバビロン軍の攻撃を受けて陥落する直前のことです。土地を買い取っても(贖っても)国が滅びれば、意味はありません。ところが神様は、国が滅亡する直前のタイミングで、あえてエレミヤに親族の土地を買い取る(贖う)ことを命じられたのです。この命令には、神様のメッセージが込められていました。「この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る」(エレミヤ書32章15節)です。贖いは、希望と救いを意味する出来事なのです。

 ナオミが味わってきた深くて大きな悲しみを知っている女性たちが、わがことのように喜んで、ナオミに言いました。隣人たちが、このように祝福を語る様子は、心を打ちますね。(14~15節)「女たちはナオミに言った。『主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人(贖い手)を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。』」 (16節)「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。」 「抱き上げ」はただ愛情を表現した言葉ではなく、養子にしたという意味だと、解説書に書かれていました(月本昭男・勝村弘也訳『旧約聖書ⅩⅢ ルツ記 雅歌 コーヘレト書 哀歌 エステル記』岩波書店、19ページ)。(17節)「近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。」ナオミとルツが互いを思いやり合い、ボアズが(厄介かもしれない)責任を、文句を言わずに引き受けたお陰でオベドが生まれ、そしてオベドの孫としてイスラエルの最も重要な王・ダビデ王が誕生することになります。そしてダビデ王の子孫としてヨセフが生まれ、ヨセフがイエス様の父となってゆく。それが神様のご計画であることを、私たちは知っています。私たちが各々に託された小さな責任を忠実に果たしていくときに、神様が私たちを希望へと、一歩一歩導いて下さるに違いありません。

 ベツレヘムの女たちは、ナオミに言いました。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。」私はこれを読んで、「マリアの賛歌」に似ていると思ったのです。そこを本日の新約聖書に選びました。ルカによる福音書1章47節以下です。イエス様をみごもったマリアが、神様をたたえる歌です。
「わたしの魂は主をあがめ、/ わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも/ 目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も/ わたしを幸いな者と言うでしょう。
 力ある方が、/ わたしに偉大なことをなさいましたから。
 その御名は尊く、/ その憐れみは代々に限りなく、/ 主を畏れる者に及びます。」
これはマリアの歌ですが、ナオミとルツも同じ気持ちで、同じ神様を賛美したのではないかと思うのです。

 ルツ記全体を読んで、私はローマの信徒への手紙5章3~4節を連想致します。「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」「練達」を新改訳聖書は「練られた品性」と訳しています。ナオミも真に厳しい苦難を忍耐しました。その中でナオミは、練達の人・練られた品性の人になりました。ルツの幸せを願う人でした。そして神様が遂に希望を与えて下さいました。ルツも立派ですね。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく(~)内面がユダヤ人である者こそユダヤ人(~)なのです」(ローマの信徒への手紙2章28~29節)の御言葉が、ルツに当てはまります。

 私はルツ記全体を読んで、エレミヤ書29章11節をも思い出します。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」途中には災いに見えることも起こるでしょう。しかし神様の計画は、最終的に平和(シャローム)の計画であって、将来を希望を与える計画です。ナオミとルツとボアズにも希望が与えられました。もちろんナオミは、神様に祈り続けていたでしょう。イスラエルの飢饉を逃れてモアブに移住したときから数えても、少なくとも10年間祈り続けてきたのです。神様に助けを求めて。時間がかかりましたが、神様は希望を与えて助けて下さいました。神様に祈ることこそ、慰めと希望の源です。私たちも、ナオミと同じように、祈り続ける者でありたいと願います。

 私たちは希望の主イエス・キリストと共に歩んでいます。そのイエス様の励ましの言葉によって、この説教を締めくくります。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-11-17 16:14:03(火)
「天地創造の喜び」 2015年11月15日(日) 収穫感謝日・子どもと大人の合同礼拝説教
朗読聖書:ヨブ記38章4~14節、詩編104編19~29節。
「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/ 神の子らは皆、喜びの声をあげた」(ヨブ記38章4~14節)。

 神様がこの世界をお造りになったことを語る聖書で一番有名なのは、もちろん創世記1章です。しかし天地創造を語る聖書の御言葉は、創世記1章だけではありまヨブ記も、神様の創造の御業を語ります。実は私にとっては、ヨブ記の方が心に迫る、ピンと来るのです。

 神様が力強くヨブにおっしゃいます。「わたしが大地を据えたとき/ お前はどこにいたのか。」「わたしが大地を据えた」と言いきっておられます。「宇宙と地球を造ったのはこの私だ」と、はっきり宣言しておられるのです。「知っていたというなら/ 理解していることを言ってみよ。」世界中の科学者が、この宇宙と地球について、一生懸命調べています。日本も探査機を宇宙に飛ばして、いろいろなデータを集めています。宇宙のことも宇宙のことも、調べ尽くせていないことはたくさんあります。人類はこれからも、全力で知識を蓄えていくでしょうが、それでも神様の偉大な知識と知恵の足元にも及ぶはずがありません。

「誰がその広がりを定めたかを知っているのか。
 誰がその上に測り縄を張ったのか。
 基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」

 ここには、家を建てるときの言葉が出ています。この世界(地球と宇宙)を家にたとえて、神様がこの世界という家をお建てになったことが強調されています。

 「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/ 神の子らは皆、喜びの声をあげた。」 世界の夜明けです。神様に造られた星々がこぞって光輝き、神様を賛美したということでしょう。天地創造の喜びが感じられます。「神の子ら」も星々を指すようです。「海は二つの扉を押し開いてほとばしり/ 母の胎から溢れ出た。」海が造られた様子が、「ほとばしる」という言葉で生き生きと力強く表現されていて、すばらしいと感じます。「二つの扉」とは、ノアの洪水の場面にある「深淵の源」と「天の窓」ではないかと思います。「わたしは密雲をその着物とし、濃霧をその産着としてまとわせた。」 神様が雲と霧をお造りになったことを、文学的に語っています。

 「しかし、わたしはそれ(海)に限界を定め/ 二つの扉にかんぬきを付け/ 『ここまでは来てもよいが越えてはならない。/ 高ぶる波をここでとどめよ』と命じた。」 神様が、荒ぶる波に限界を定めておられることが分かります。神様は、荒ぶる波を抑える力をもっとおられるのです。私たちは4年半前に東北を襲った津波をテレビなどで見ました。津波のエネルギーは、大きなエネルギーです。人の力で止めることができません。それを見せつけられました。ですが神様の力は、もちろん津波をも抑えることができる偉大な力です。

 (14節)「大地は粘土に型を押していくように姿を変え」とあります。これが何を言っているのか、よく分かりませんが、私は(想像が過ぎるかもしれませんが)大陸移動説などを思い出しました。地震によって地形が変わったり、海底火山の噴火によって島ができたりすることは、昔のイスラエルの人も知っていたでしょう。大地は変動しています。地殻の下にあるプレートという部分が動くことによって、地球表面が隆起したり沈んだりするようです。このプレートテクトニクス学説は、1960年代に広く認められるようになったそうで、もちろん今も調査・研究が進められています。「大地は粘土に型を押していくように姿を変え」という御言葉を読んで、私は今のようなことを連想します。
 
 詩編104編をも見ましょう。(24節)「主よ、御業はいかにおびただしいことか。/ あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。/ 地はお造りになったものに満ちている。」 私は先日、西武池袋線・大泉学園駅南口から近い、牧野(富太郎博士)記念庭園に行って来ました。それほど巨大な所ではありません。近いので一度見ておこうと思ったのです。牧野富太郎博士は、1862年に高知県佐川村に誕生され、1957年に亡くなった有名な植物学者です。最後の30年間を大泉で過ごされたそうです(展示を拝見する限りでは、クリスチャンではないように感じました)。94年間の一生を植物の研究に献げ、日本や台湾、朝鮮半島の植物を調べられたそうです。それまで知られていなかった植物を発見し、学名を与えて発表したそうです。その数1500種類以上だそうです。それまで知られていなかったと言っても、神様はそれらの植物をもお造りになって生かして来られたのですから、人間がその存在をほかの種類と見分けて認識していなかっただけです。それでも1500以上ものいわゆる新種を見出したことは、徹底的な調査と観察の賜物です。植物学の偉大な学者です。しかし地球上の植物は30万種類あるそうです。神様の創造の業の偉大さと細かさは、驚嘆すべきものです。「地はお造りになったものに満ちている。」30万種類に比べれば1500種類は、200分の1です。200分の1を発見した牧野博士も本当によくなさいましたが、神様がはるかに偉大であることは明らかです。

 旧約聖書の列王記上5章13節には、ソロモン王の知恵について、「彼が樹木について論じれば、レバノン杉から石垣に生えるヒソプにまで及んだ。彼はまた、獣類、鳥類、爬虫類、魚類についても論じた」と書かれています。その意味で、ソロモン王は科学者でもありました。聖書が自然界について書いていることと、科学の素直な研究結果は、最終的に一致するはずと思います。科学者が自然界を謙虚に調べれば調べるほど、神様の創造の偉大な業を明らかにすることになり、神様の栄光になるのだと思います。

 ヨブ記38章にも海が出て来ましたが、詩編104編25節にも海のことが出ています。 「海の大きく豊かで/ その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。」地球の表面の70%が青々とした海です。宇宙の誕生がいつなのか、図鑑には100億年前、137億年前、170~150億年前という3つの考えが出ていました。科学者の考えでは、太陽系の誕生が約46億年前で、地球の誕生は約46億年ないし45億年前であるそうです。海の誕生は約40億年前と推定されています。最初の生命は海で誕生したと考えられています。もちろん神様が生命をお造りになったのですが、その最初の場は海であったようです。地球の歴史においてカンブリア紀という時期があったそうです。この時期に三葉虫をはじめ多くの無脊椎動物が爆発的に増えたそうです。これを「カンブリア爆発」と呼ぶそうです。中国の雲南省やカナダのロッキー山脈からこの時期の化石が多く発見され、その頃、海の生き物が大繁栄していたことが分かるそうです。この夏、上野の国立科学博物館で「生命大躍進」という特別展が行われていたので、私も行って見て来ました。海の生き物の化石がいくつも展示されていました。今も海には多くの生き物が住んでいますね。25節に、「海も大きく豊かで/ その中を動き回る大小の生き物は数知れない」とある通りです。

 16世紀から17世紀にかけて生きたドイツの天文学者にケプラーという人がいます。そして17世紀から18世紀に生きたイギリスの科学者に、あの万有引力を発見したニュートンがいます。ケプラーやニュートンは、自然界を「第二の聖書」のように考えて、研究に励んだようです(渡辺正雄『科学者とキリスト教 ガリレイから現代まで』講談社、1987年による)。もちろん神様を本当に深く知るためには、聖書を読み祈ることが大切です。彼らがなぜ自然界を「第二の聖書」と考えたかと言うと、宇宙などの自然界を研究すればするほど、神様の天地創造の御業のすばらしさを解明することになると考えたからです。もちろん自然界を深く研究しても、イエス様の十字架の死が私たちの罪を身代わりに背負うための死であったことを、知ることはできません。ですから、自然界が完全な聖書なのではありません。しかし神様の創造の御業のすばらしさを示している点では、確かに自然界は「第二の聖書」と呼び得る一面をもっていると思うのです。

 詩編19編2節に、次のように書かれています。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」ここの天と大空は宇宙と自然界を指すと言えます。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」宇宙と自然界は、神様の創造の御業のすばらしさを示しているということです。ケプラーやニュートンは、神の栄光のために、神に栄光を帰するために、自然界の研究に励んだのです。ただニュートンについての一つの問題は、彼は熱心に聖書を研究していたけれども、神様が三位一体の神様であることを信じていなかったそうです。その意味でニュートンは、正統的なキリスト信仰の人ではありませんでした。この問題がありますが、ニュートンが一生懸命聖書を研究したことは確かで、自然界を研究することで、神様の創造の御業のすばらしさを解明することができると考えた点は、間違っていないと思うのです。

 長崎で原爆の被害を受けられた永井隆博士というドクターは、被爆なさる前に、腎臓や膀胱にできる尿石の研究をなさったそうです。弟子たちと次のような会話をなさったそうです。
弟子「尿石の第四十号のラウエ斑点はきれいですね、先生。」
永井博士「きれいだね。単結晶のかなり大きいのができているんだ。」
弟子「あんな美しい結晶配列を見ると、何か神秘的な感じに打たれます。尿石といったら、何の役にも立たない石です。その石の中にさえ、あんな整然とした結晶配列がある。実に宇宙というものは、隅から隅まで、こまやかな秩序がゆきわたっているものだなあ!」(片山はるひ『永井 隆 原爆の荒野から世界に「平和を」』日本キリスト教団出版局、2015年、52ページ)。

 そしてこう語られたそうです。「科学は真理に恋することさ! それで科学の道を選んだんだ。でも、進めば進むほど、科学では真理に近づくことはできても、真理そのものをつかまえることはできないことを知ったよ。~神は真理だよ。科学の力では、真理をつかまえることはできない。でも、神のみ業を見ることはできるよ。全知全能の神がこの宇宙を司っている。その美しい秩序、正しい法則、そんなものを見せてもらうことができるんだ。それだけでも、たいへんな幸福じゃないか」(同書、53~54ページ)。 

 この宇宙と地球を造られ、私たち一人一人の命を造って下さった神様の愛から出た創造の御業を感謝し、ご一緒に神様のご栄光を賛美しつつ、今週も神様と隣人にお仕えして参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-11-10 19:15:03(火)
「幸せなら、手をたたこう!」 11月の聖書メッセージ 牧師・石田真一郎
「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。」(イエス・キリストの祈り。新約聖書・ルカによる福音書23章34節) 

 12月25日はクリスマスです。神の子イエス・キリストの誕生を祝う日です。イエス様は、私たち全員のすべての過ちと罪を身代わりに背負って、十字架で死なれ、三日目に復活されました。上の祈りは、イエス様が自分を十字架につける人々をゆるした祈りです。イエス様は、私たちの過ちと罪をゆるすために、十字架にかかって下さったのです!

「幸せなら、手をたたこう」という有名な歌があります。私は2003年頃に、作詞者・木村利人(りひと)先生(当時、早稲田大学教授)の講演を伺いました。先生は20代半ばの1959年に、フィリピンで行われたYMCAワークキャンプに日本代表で参加されました。フィリピンは太平洋戦争で日本軍により大きな被害を受け、反日感情が強かったそうです。しかしフィリピンの人々と、野外でトイレ掘りなどの労働をするうちに、互いに心を開くようになりました。フィリピンにはカトリック教会の信者さんが多いようです。英語で旧約聖書・詩編47編1節「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ」を読み、心をこめて共にお祈りしたそうです。武器で戦わず、共に平和なアジアと世界を作ろうと。フィリピンの方が、「私たちはキリストにあって友達なんだ」と、タガログ語で言ってくれたそうです。

 木村先生はフィリピンの人たちのゆるしの愛に感激して、帰国の船の中で詩編47編1節から、「幸せなら、手をたたこう」を作詞されたそうです。スペイン民謡を元にフィリピンの子どもたちが歌っていたメロディーに載せて。早稲田奉仕園(キリスト教団体)、YMCA、大学サークルで歌われ、歌手の坂本九さんがテレビで歌い、日本と世界に広まったそうです。フィリピンの人たちのゆるしへの感謝をこめた、平和を願う歌です(木村利人著『戦争・平和・いのちを考える』キリスト新聞社、2015年、28~35ページ)。日本は戦争でフィリピン、韓国、中国の方に多くの傷を与えてしまいました。残念ですが事実です。その方々に、心より謝りつつ、世界の平和と正義のために祈り、協力したいものです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-11-10 19:09:24(火)
「キリストを指し示す聖書」 2015年11月8日(日) 降誕前第7主日礼拝説教
朗読聖書:申命記18章15~22節、ヨハネによる福音書5章31~47節。
「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネによる福音書5章39節)。

 イエス様は、ヨハネによる福音書5章17節で、神様を「わたしの父」とお呼びになりました。ご自分が「神の子」であると宣言なさったと言えます。それはご自分を神様と等しい者とすることでした。イエス様に敵対したユダヤ人たちは、それを神への冒瀆と考えました。それでイエス様を迫害したのです。しかしイエス様は確かに神の子なので、イエス様は冒瀆をなさったのではないのです。それがイエス様の周りのユダヤ人たちに、理解できませんでした。イエス様は神の子であり、同時人の子であられる方、神であり同時に人である方です。

 本日の箇所で、イエス様はご自分についての証しを語っておられます。ご自分が誰、何者であるかを語っておられます。証しは、言い換えると証言です。証言は当然、真実でなければなりません。真実でなければ証言ではなく、証しではありません。(最初の31節)「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」自分で自分のことを申し述べても弁解と見なされがちで、あまり信用されないのは、当時も今も同じでしょう。(32節)「わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」その方とは、イエス様の父なる神様です。イエス様は、少し後の37節で、「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」と言われ、さらに8章18節で、「わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」と語っておられます。父なる神様ご自身が、イエス様が神の子であることを証しして下さいます。たとえばマタイによる福音書3章の、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになった場面を見ると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神様のお声が天から聞こえてきたと、書かれています。「これはわたしの愛する子」、神の子だと、父なる神様が真実を証しして下さったのです。

 そしてイエス様は、イエス様のお働きの前備えをしたバプテスマのヨハネのことを語られます。(33節)「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。」ヨハネはこう言ったのです。「わたしは、『自分はメシア(救い主)ではないと言い、『自分はあの方(イエス様)の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁(神の民)を迎えるのは花婿(イエス様)だ。花婿の介添え人(ヨハネ)はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方(イエス様)は栄え、わたしは衰えねばならない。』」 ヨハネは自分が主役でないことをよくわきまえていました。イエス様がメシア・救い主であり、自分はイエス様を指し示す引き立て役に徹することを喜んでいました。ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの命令で殺されますが、その出来事はこの福音書には出ていません。今日の箇所は、ヨハネが殺された後の場面のように思われます。

 イエス様は言われます。(35~36節)「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを、証ししている。」イエス様が行っておられる業の一つ一つが、父なる神様のご意志に従った業です。ガリラヤのカナで、水をぶどう酒に変えられた愛の業もそうです。べトザタの池の傍の回廊で、38年間も病気で苦しんで横たわっていた男を、安息日であるにもかかわらず癒やされた愛の業もそうです。そしてイエス様の最大の愛の業は、私たちのすべての罪を身代わりに背負って、十字架にかかり、命をなげうって下さったことです。イエス様は「成し遂げられた」とおっしゃって頭を垂れて息を引き取られたと、このヨハネによる福音書は記します。十字架にかかって私たち全ての人の全ての罪を背負いきり、贖いきる。イエス様は、そのために生まれられたのです。

 イエス様は、やや非難めいた口調でユダヤ人たちにおっしゃいます。(37~38節)「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。」

 そしてイエス様は、39~40節で決定的な事を言われます。「あなたたちは聖書(旧約聖書)の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」イエス様は先の方の46節でこう言われます。「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。」ユダヤ人たちは、自分たちがモーセの弟子だと信じていました。しかしモーセを敬うのであれば、イエス様をも敬うのが筋です。モーセが従った神様は、イエス様の父なる神様だからです。モーセが生きていれば、当然イエス様を救い主と信じて崇めたに違いありません。

 「モーセは、わたしについて書いている。」それは、本日の旧約聖書である申命記18章の中の、15節と18節を指しています。モーセの言葉です。小見出しが「預言者を立てる約束」となっています。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞(イスラエルの民)の中から、わたしのような預言者を立てられる。」それがイエス・キリストです。イエス様は預言者以上の方、神の子ですが、「わたし(モーセ)のような預言者」がイエス・キリストを指していることは、「モーセは、わたしについて書いている」とのイエス様のお言葉や、使徒言行録(3章22節)から確かです。(16~19節)「このことはすべて、あなたがホレブ(シナイ)で、集会の日(十戒が与えられた日)に、『二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火(主は火の中をシナイ山の上に降られた)を見て、死ぬことのないようにしてください』とあなたの神、主に求めたことによる。主はそのときわたしに言われた。『彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。』」イエス様は、「聖書(旧約聖書)はわたしについて証しをするものだ」と言われます。申命記18章の、「モーセのような預言者」もイエス様を指すのです。

 旧約聖書のいろいろな箇所が、直接・間接に救い主イエス・キリストを指し示しています。たとえば創世記21章でイスラエルの先祖アブラハムに、イサクが誕生します。イサクは、神様の約束によって誕生しました。父アブラハムは100歳、母サラは90歳と超高齢でした。普通ならこのような超高齢の夫婦に子供が生まれることはあり得ません。しかし神様は約束を守られ、神様に不可能がないことを示して、この夫婦にイサクを誕生させて下さいました。イエス様も約束の子です。イエス様の場合は、処女マリアからの誕生です。イエス様の場合も、神様が約束を守られ、神様に不可能がないことを証明して、処女マリアから誕生させて下さいました。約束の子イサクの誕生は、はるか将来のイエス様の誕生を暗示し、指し示します。

 そのイサクは、次の創世記22章で神様に献げられることになり、焼き尽くす献げ物に用いる薪を背負って、父アブラハムと共にモリヤの山の一つに登ります。イサクのこの姿は、十字架を背負ってゴルゴタの丘を目指して歩くイエス様のお姿を、暗示します。神様はアブラハムに、一匹の角を取られた雄羊を示して下さり、アブラハムはこの雄羊をイサクの代わりに献げたので、イサクは死なずに済みました。イサクの代わりに死んで献げられた雄羊も、私たちの身代わりに十字架にかかって下さったイエス・キリストを暗示すると言ってよいと思います。

 創世記から飛んで、ヨブ記16章19~20節には、苦しんでいる義人ヨブの祈りが記されています。「このような時にも、見よ/ 高い天には/ わたしを弁護してくださる方がある。/ わたしのために執り成す方、わたしの友、/ 神を仰いでわたしの目は涙を流す。」これはヨブの、救い主を求める祈りではないでしょうか。ヨブだけでなく、私たちは皆、弁護者、私たちのために執り成して下さる救い主を必要としています。この祈りにも応えて、神様は救い主イエス・キリストを、地上に誕生させて下さったと思うのです。 ヨブの切なる願いが、19章26節に記されています。先々週の礼拝でも引用致しました。「わたしは知っている/ わたしを贖う方は生きておられ/ ついには塵の上に立たれるであろう。」 ヨブと私たちを贖って下さる方は、イエス・キリストをおいてほかにおられません。ヨブはイエス・キリストを知りません。しかし贖って下さる方、救い主を待望していたのです。その待望に応えて、神様はイエス様を地上に送って下さいました。「わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」これはイエス様の復活を預言しているように聞こえます。私たちはイエス様を知っています。ヨブが聞いたら、私たちをとても羨んだに違いないのです。私たちは真の救い主を知っているのですから、旧約聖書の時代の人々に比べて、はるかに恵まれています。

 次に詩編をいくつか見ましょう。まず詩編22編は、まさにイエス様の十字架を予告したとしか思えない、驚くべき中身をもちます。冒頭の叫び、「わたしの神よ、わたしの神よ/ なぜわたしをお見捨てになるのか。/ なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/ 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」これはイエス様の十字架上の叫び、「レマ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と全く同じです。8~9節の、「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/ 唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。/ 主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」は、イエス様の十字架の下でののしった人々の姿とそっくりです。極めつけは18~19節です。「骨が数えられる程になったわたしのからだを/ 彼らはさらしものにして眺め/ わたしの着物を分け/ 衣を取ろうとしてくじを引く。」本当にイエス様の十字架の下で、ローマ兵たちが役得となるイエス様の着物を、くじで分け合っていたのです! 詩編22編の通りになったのです。驚くべきことです。

 さらに、有名な詩編23編も、私はイエス様を予告する詩編と信じます。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。/ 主はわたしを青草の原に休ませ/ 憩いの水のほとりに伴い/ 魂を生き返らせてくださる。」 イエス様は、ヨハネ福音書10章で、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃっています。イエス様は「良い羊飼い」ですから、詩編23編の「主(=羊飼い)」も、イエス様のことと考えてよいと考えています。その意味で詩編23編も、「良い羊飼いイエス・キリスト」を指し示す詩編と思っています。

 そして詩編32編6節には、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」という祈りがあり、これはルカによる福音書が告げるイエス様の十字架上での最後の祈りと一致します。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」とほとんど一致します。詩編41編10節には、「わたしの信頼していた仲間/ わたしのパンを食べる仲間が/ 威張ってわたしを足げにします」とあり、これはユダの裏切りを予告する言葉とされています。このように詩編にはイエス様とイエス様に関する出来事を予告する言葉が、あちこちに散りばめられています。

 詩編69編もイエス様の十字架を暗示する重要詩編です。5節に、「理由もなくわたしを憎む者は/ この頭の髪よりも数多く」とあり、イエス様は、ヨハネ福音書15章で十字架にかかる前の夜に、この言葉がご自分の上に実現していると語られました。69編10節には、「あなたの神殿に対する熱情が/ わたしを食い尽くしている」という御言葉があり、これはヨハネ福音書2章で、イエス様がエルサレムの神殿を腐敗から激しく清められたときに、弟子たちがこの御言葉を思い出したと、書かれています。イエス様が父なる神様の神殿を愛するあまり、腐敗に激しく憤られて、神殿から商売を追放なさったことが、イエス様を食い尽くす、イエス様への迫害を招くという意味でしょう。

 69編22節には、「人はわたしに苦いものを食べさせようとし/ 渇くわたしに酢を飲ませようとします。」これはまさにイエス様の十字架の時に実現したことです。イエス様がゴルゴタに着くと、ローマ兵たちが、苦いものを混ぜたぶどう酒(麻酔作用がある)を飲ませようとしましたが、イエス様はなめただけで、飲もうとされませんでした。十字架の苦しみをごまかさないで最後の一瞬まで味わい尽くすご決意の表れです。そしてイエス様が息を引き取られる少し前に、居合わせた人々のうち一人が、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付けてイエス様に飲ませようとしました。この2つの出来事を、詩編69編は予告しているのですね。ですから詩編69編は、イエス様の苦難と十字架を予告する重要詩編です。

 イエス様を暗示する詩編を今全てご紹介するのではありません。ですが詩編118編22~23節は外せません。「家を建てる者の退けた石が/ 隅の親石となった。これは主の御業/ わたしたちの目には驚くべきこと。」これは、新約聖書で5ヶ所に引用されている重要な言葉です。人々が、「このような人はいらない」と言って十字架で殺し、捨てたイエス様を、父なる神様は復活させ、神の教会の尊い土台となさったことを預言しています。「このような人はいらない」と人間たちが捨てた方を、神様がこのようにお立てになったことを知って、私たちは深く自分の罪を悔い改めて、神様の前に心の底からひれ伏さなければならないのではないでしょうか。

 ヨハネによる福音書5章に戻ります。(41~42節)「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」驚くべきことです。ユダヤ人たちは懸命に聖書(旧約聖書)を研究していたのです。当然、神様を深く深く愛しているはずです。ところがいつの間にか、神を愛していない状態に陥っているとイエス様は指摘なさいます。論語読みの論語知らずという言葉があります。聖書読みの聖書知らずということも、起こり得るのです。皆様はそのようなことはないと思いますが、私などにはそのようになる危険があると思い、注意を促されたと感じます。イエス様は、どの掟が最も重要でしょうかと問われて、こうお答えになりました(マタイによる福音書22章37~39節)。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者(聖書全体)は、この二つの掟に基づいている。」聖書をよく読んで学ぶことは重要ですが、もし神様と隣人を愛していないのであれば、聖書を本当に学んだとは言えませんね。私自身も、この落とし穴にはまらないように注意する必票があります。

 ナチスに抵抗して死刑になったボンヘッファーというドイツの牧師が、『共に生きる生活』という本の中で、こう書いています。私は耳が痛いと感じる言葉です。「われわれは、神によって[われわれの仕事を]中断させられる用意がなければならない。神は、われわれに、要求と願いとをもった人々を送り給うことによって、常に繰り返して、日ごとに、われわれの歩みを停止し、われわれの計画を妨げ給う。祭司が、強盗におそわれた人のかたわらを通り過ぎて行ったように、われわれは、一日の重要な事柄に没頭して、たとえば恐らく―聖書に読みふけりつつ―これらの人たちのかたわらを通り過ぎてしまうということもありうるのである」(ボンヘッファー著・森野善右衛門訳『共に生きる生活』新教出版社、1991年、97ページ)。私たちの計画でなく、神様のご計画が実現することが大切ということでしょう。私たちのなすべきことは、神様のご計画が実現するために祈り、奉仕することです。

 私は、多くのユダヤ人を助けた外交官・杉原千畝さんのことを思い出しました。約6000人のユダヤ人のためにビザを発行した杉原さんのことは、よく知られています。私は10数年前に、杉原さんのご夫人の講演を、西東京市にある武蔵野学院大学で聞きました。杉原さんは、夫人と小さな息子二人を連れて、ヨーロッパのバルト三国の一国リトアニアの日本領事館に領事代理で赴任しておられました。1940年7月18日の朝、大勢のユダヤ人が領事館の周りを埋め尽くしていたそうです。人数は日ごとに増えたそうです。ナチスの魔の手を逃れてポーランドから逃げて来たユダヤ人の方々でした。恐怖と苦難の決死の旅だったそうです。そして日本を通過して、アメリカなどに行くビザを求めていたのでした。日本の外務省に電報で問い合わせると、「ノー」の返事。杉原さんもだいぶ悩んで、「振り切って国外へ出てしまえば、それでいい。それだけのことなんだ」とも思ったそうです(杉原幸子著『六千人の命のビザ』大正出版、2000年、31ページ)。しかしその思いを乗り越えて夫人に、「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」(同書、200ページ)。杉原さんはキリスト教のロシア正教の洗礼を受けておられました。神に背くことはできないと考えられたのですね。神への愛を感じます。夫人も賛成され、約30日間、朝から夜までほとんど昼食をとることもなく、ビザの発行に没頭なさったそうです。

 当時既にヨーロッパでは第二次世界大戦が始まっており、緊迫した状況でした。その時実は、領事館を閉鎖しなければならず、閉鎖業務に追われていたのです。閉鎖して出るはずが、人間の予定を中断させられたのです。神様の介入による中断だったのではないでしょうか。約6000人を救う結果になりました。夫人がこう書いておられます。「カウナス(リトアニアの当時の首都)でのあの一カ月は、状況と場所と夫という人間が一点に重なり合った幸運な出来事でした。私たちはこういうことをするために、神に遣わされたのではないかと思ったものです」(同書、45ページ)。日本に帰国できたのは、やっと1947年になってからで、外務省をクビになる結果が待っていました。それで経済的にも苦労されたそうです。

 1940年から28年もたった1968年に、初めて当時ビザを渡したユダヤ人の一人と再会したそうです。1985年に、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人章(ヤド・バシェム賞)」が授与され、この時から有名になったそうです。ビザ発行から45年後ですね。夫人は、ビザを渡したユダヤ人の孫にも会い、「あなたのご主人のビザ発行がなかったら、この子は生まれていない」という意味のことを、アメリカの政治家の夫人に言われたそうです(同書、201ページ)。

 イエス様は、ヨハネによる福音書5章44節でユダヤ人たちに、「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか」とおっしゃいます。杉原さんの決断と行動も、「唯一の神からの誉れを求める」決断と行動だったと思います。神への愛から出た決断と行動だったと思います。それは隣人を愛する行動でもありました。私たちには、歴史に残るような立派なことはできないでしょうが、聖書からイエス様の精神と生き方を学び、日々少しでも実践させていただきたいものです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-11-02 19:30:02(月)
「本当に生きるために」 10月の聖書メッセージ 石田真一郎
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(新約聖書・マタイによる福音書4章4節。)

 パン(食物)がないと生きられませんが、神の言葉(聖書の言葉=心のパン)で生き方を学ぶことが、さらに大切です。旧約聖書の箴言(しんげん)に「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい」という、すばらしい言葉があります(15章17節)。家庭でも世界レベルでも実行したいですね。 神の子イエス・キリストは言われます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタイ福音書22章37~39節)。

 私は、黒澤明監督の映画『生きる』のDVDを見ました(白黒の名作。発売元:東宝株式会社)。往年の個性派名優・志村喬(たかし)が演じる、渡辺さんという市役所の市民課長が主人公です。彼は30年間無欠勤ですが、意欲を失っています。彼が、病気で命が限られていることを悟ります。それまで役所仕事に徹して、子どもたちの小さな公園を作ってほしいという主婦の人たちの陳情をも、「管轄外」とたらい回しにしました。しかし今、本当に「生きたい」という意欲が湧き上がります。でも何をすべきか、悩みます。「はっ」と気づきます。「遅くない。わずかでもやればできる。ただやる気になれば。」その瞬間、知らぬ女性の誕生会が行われていて、「ハッピーバースデイ」の大合唱が起こります。渡辺さんが本当の意味で生きる情熱を取り戻し、新しく生まれたことを示す名シーンです。

 彼は市役所に復帰し、パワーがないのに公園作りに邁進します。「市民課が主体になる。土木課も公園課も下水課も動いてもらわんと。これから現地調査に行く。」粘りに粘って不器用に進めます。できた公園で、雪の夜に一人ブランコを漕ぎ、楽しそうに小さく歌いながら亡くなります。公園を作ってもらった主婦の人たちがお通夜に来て、心からの涙を流します。昼間の公園で、何も知らない多くの子どもたちが、楽しそうに遊ぶ場面で終わります。本当に生きるとは人のために生きること、のメッセージが伝わります。イエス様の心と通じます。アーメン(「真実に、確かに」)。