日本キリスト教団 東久留米教会

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2015-09-29 1:42:46(火)
「信仰によって義とされる」 2015年9月27日(日) 聖霊降臨節第19主日礼拝説教
朗読聖書:創世記3章1~10節、ローマの信徒への手紙3章21~31節。
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマの信徒への手紙3章24節)。

 本日の箇所は、ローマの信徒への手紙の中心の一つです。イエス・キリストによる福音が、非常に明瞭に語られているからです。「イエス・キリストを信じる信仰によってのみ義とされる信仰義認」を強調する、私たちプロテスタント教会にとって特に重要な御言葉です。この手紙を書いた使徒パウロは、本日の直前の20節で、「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と述べています。これはパウロにとっては、一大発見です。律法とは、十戒に代表される神様の戒めです。復活されたイエス様に出会う前のパウロは、自分が神様の律法を完璧に守っていると、自信をもっていました。律法を完全に守って、完全に正しい者として神の前に立つことができると自信を持ち、疑いもしなかったでしょう。それがひっくり返されたのです。「律法によっては、罪の自覚しか生じない。」律法は聖なるもの、よいものです。しかし、十戒の一つ一つの戒めを深く学べば学ぶほど、私たちはその一つをさえ、完全に守ることができないことを知る結果になります。では、人はどのようにして救われることができるのでしょうか。その答えが、本日の箇所にあります。

 (21節)「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」パウロもほかの多くのユダヤ人たちも、律法を実行することによって神の前に義と認められようと努力して来ました。しかし、神様が、私たちが救われるために別の道を用意して下さったのです。それは(22節)「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」 「神の義」というローマの信徒への手紙で最も重要な言葉が、久しぶりに出て来ました。「神の義」が最初に出て来たのは、この手紙の1章17節においてです。(1章16~17節)「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

 「神の義」の「義」とは何でしょうか。新共同訳聖書の巻末の24ページの解説をお開き下さい。「神の属性(性格)、また人間に対するかかわりの特徴を表す概念。『神が義である』とは、神がその聖である本性や自分の立てた約束に誠実であり、誤謬を犯したり、法を破ったりすることはありえないという意味。」 そして「神の義」については、こう書かれています。「新約聖書では、神が人間にお求めになるふさわしい生き方、神の裁きの基準を意味することが多い。特にパウロ書簡では、『人間を救う神の働き』、その結果である『神と人間との正しい関係』を意味するが、キリストによる贖いと必然的に関連し、人間が義とされるとは、神の前で正しい者とされることであり、『救われる』とほとんど同義である。」 「神の義」は、イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しと救いを指します。神様は、律法の実行によらない、このような全く別の救いの道を備えて下さいました。それは22節にあるように、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」であり、「そこには何の差別も」ないのです。ユダヤ人も異邦人も、女も男も、子どもも大人も、この「神の義」によって差別なく救われる道が開かれたのです。

 そもそもなぜ人が救われる必要があるのでしょうか。それは私たちが皆、神様の前に罪人であり、罪のために神様と私たちの間が断絶しているからです。命の源である神様との間が断絶しているために、私たち人間に死があるのです。罪が死の原因です。(23節)「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」とあります。このことをもっと具体的に語るのが、本日の旧約聖書・創世記3章1節以下です。人類の始祖、最初の夫婦エバとアダムの堕落を語る有名な箇所です。人間が罪に落ちた様子を語る重要場面です。エバは、蛇に象徴される悪魔の誘惑に負けて、神様のたった1つの戒めを破ってしまったのです。

 3章1節から。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』女は蛇に答えた。『私たちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』」エバ(ここではまだ「女」と書かれており、エバという名が付くのは20節においてです)は神様の言葉を不正確に語っています。神様は、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木(園の中央には、命の木と善悪の知識の木の2本の木があった)からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われたのです。この言葉を直接聞いたのはアダムです。アダムがいい加減に聞き、エバに不正確に伝えたのかもしれません。アダムは正確に伝えたがエバがいい加減に聞き、不正確に記憶したのかもしれません。いずれにしても人間の甘さがあります。そこを悪魔につけ込まれたと言えます。エバは悪魔の甘い誘惑に耳を傾けてしまいます。イエス様が悪魔に、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言われたように、エバも悪魔を退ければよかったのですが、しませんでした。

 悪魔を退けないエバの曖昧な態度を見て、悪魔が攻勢に出ます。(4~5節)「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』」(6節)「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」神様の戒めを破った瞬間、二人は神様から与えられていた輝きを失い、神の栄光を受けられなくなってしまいました。人間は、神に似せて作られました。それを神の似姿と言います。しかしその神の似姿がかなり損なわれてしまったのです。二人は神様が怖くなりました。神様が園の中を歩く音が聞こえてきました。するとアダムとエバは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れるようになってしまいました。主なる神様がアダムを呼ばれました。「どこにいるのか。」アダムは答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」神は言われます。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」そう言われて、アダムもエバも言い訳と責任転嫁をする人になってしまいました。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

 神様は19節でアダムに言われます。「お前は顔に汗を流してパンを得る/ 土に返るときまで。/ お前がそこから取られた土に。/ 塵にすぎないお前は塵に返る。」ここで、人類に死が入り込んだのではないでしょうか。神様はアダムをエデンの園から追い出されます。当然エバも一緒に追い出されたのでしょう。楽園追放、失楽園です。人間が神様の戒めを破る罪を犯したために、楽園を追放され、それまで死がなかったのに、死ぬようになりました。人間は失われた者、死なねばならない者となったのです。この時以来、イエス様以外の全ての人間は、罪を持つ者として生まれて来るようになりました。

 聖書学者でいらっしゃる大貫隆先生が、創世記3章と深く関連する、真に印象的な体験を書いておられます(大貫隆著『聖書の読み方』岩波新書、2010年、14~16ページ)。小学校低学年時代の大貫先生は、チャンバラごっこのために一本の刀を作られました。それで仲間の前で、隣家のおじさんが大事に育てていたダリヤの花を切ってしまわれたのです。事の大きさに気づき、家に走って帰り、布団の詰まった押し入れの奥に隠れました。やがて買い物から帰って事情を聞かれたであろうお母様が、「タカシ、タカシ、お前はどこにいるの」と探す声が聞こえてきたそうです。ある大学で聖書の入門の講義をしておられるときに、突然、この時の記憶が甦ったと書いておられます。私は、まさに聖霊のお働きと感じます。大貫先生は「アダムとは、あの時押し入れの奥の暗がりに隠れていた自分のことではないのか」、「その時、はじめて創世記三章が私にとって単なる神話ではなくなった」と書いておられます。聖書が本当に分かるということは、このようなことだと思います。私たち一人一人にも、形は違えど、大貫先生と似た体験があるのではないでしょうか。アダムとエバは、人間の原型であり、私たち一人一人だと思うのです。

 ローマの信徒への手紙に戻り、23節。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが~。」この罪を「原罪」と呼びます。原罪という言葉そのものは聖書にありません。人間が生まれつきもっている罪のことです。ダビデ王の悔い改めの詩編として有名な詩編51編7節に、「わたしは咎のうちに産み落とされ/ 母がわたしを身ごもったときも/ わたしは罪のうちにあったのです」とあります。この咎・罪は原罪を指すと言えます。残念ながら私たちには、この原罪がつきまとっています。箴言20章9節に、「わたしの心を潔白にしたと、誰が言えようか。/ 罪から清めた、と誰が言えようか」とあります。その通りです。私たちの心の中を厳しくチェックすれば、清くない思いがいろいろあります。そうでない方はイエス様だけです。残念ながらこの地上では、私たちの心の中の罪がゼロになることはありません。

 しかし24節に大きな転換があり、大いなる救いがもたらされます。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」「キリスト・イエスによる贖いの業。」もちろんイエス様の十字架の犠牲の死です。イエス様が、「この私」の罪を全て背負って十字架で死んで下さった、そして三日目に復活された。このことを信じる人には、全ての罪の赦しが与えられ、永遠の命が与えられ、神の子の身分が与えられます。これ以上の恵みはないのです。

 (25節)「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」 血は命そのものです。神の子イエス様が十字架で血潮を流すことなしに、私たち人間の罪が赦されることはありませんでした。これは確かに強烈なことです。日本人の普通の発想にはないことでしょう。神の子が十字架で血を流すことは、どうしても必要なことでした。イエス様は、私たちの罪を償うための供え物、いけにえとなって下さいました。旧約の時代には、イスラエルの民の罪を神様に赦していただくために、祭司が毎日いけにえの動物を屠って献げていたようです。屠れば当然、血が流れます。血は命です。動物に代わりに死んでもらうことで、イスラエルの民の罪を赦していただいたのでしょう。特に年に一度、贖罪日という日がありました。その日は大祭司が、神殿の最も聖なる空間・至聖所に入ったそうです。自分自身と民の罪のための、いけにえの血を携えてです。レビ記16章11節以下に詳しく書かれています。かなり凄まじい様子です。「アロン(初代の大祭司)は自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物を屠る。~次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく。次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥(至聖所)に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と前方に振りまく。」

 動物を献げることは、新約聖書の時代の今は廃止されています。それは、既に最後決定的な献げ物が献げられたからです。尊い神の子イエス・キリストが、いけにえとなって十字架にかかって下さったからです。「それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」イエス様の十字架の時まで、父なる神様は、人間たちの罪を決定的に裁くことを、お控えになられました。神様はひたすら忍耐して来られたのです。しかし今、ほかの人間たちの代わりに、イエス様を十字架でお裁きになることで、神様は御自分の義(正義)を世界に明らかに示されたのです。(26節)「このように神は忍耐して来られたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

 クリスチャン作家の三浦綾子さんが、こんな意味のことを書いておられました。「旧約聖書を読んで、神を裁きの神だと言う人がいるが、私はむしろ忍耐の神だと感じる。」まさにその通りです。確かに旧約聖書では神様がイスラエルの民の罪を裁く場面があります。しかし神様はそれでも裁きを控えめになさっていると思います。神様がイスラエルの民と世界の全ての人々の罪を、全部裁かれたのであれば、イエス様の時代になる前に、この世界は滅びていたでしょう。そうならずに済んだのは、神様が裁きを控えて、忍耐して来られたからです。「イエスを信じる者を義となさるためです」とあります。今こそ、世界の全ての一人一人が、イエス様を救い主と信じて、永遠の命を受けるように招かれている時です。ぜひこの招きにお応えしたいのです。使徒言行録17章30節に、パウロの似た発言が記されています。「さて、神はこのような無知な時代(真の神を知らない時代)を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」イエス様の十字架と復活までは、神は人間の罪を決定的には裁かず忍耐し、大目に見て来られた。「神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

 「時」という言葉は、原語のギリシア語でカイロスです。時には2種類あるのではないでしょうか。1つ目は日常的に流れて行く時です。もう1つは、「特に意味の深い時」です。たとえば人が生れる時、入学の時、卒業の時、就職の時、結婚の時。洗礼を受ける時、選挙の時、交渉の時、などの特に重要な時です。カイロスはそのような「特に意味の深い時」です。「今この時(カイロス)に義を示された」とあります。イエス様の十字架と復活の時。それは決定的に重要な時です。宇宙の歴史で、最も重要な時です。あの時以来、私たちは皆、イスラエル人も日本人も中国人も韓国人も、すべての人が招かれています。イエス・キリストを救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて永遠の命を受けるようにと、招かれています。神様によってです。私たちは、この招きを素直に受け入れたいのです。
 
 (27節の前半)「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。」以前のパウロは、自分は律法を100%守っている正しい人間だと、大いに自信をもっていました。パウロはユダヤ人のファリサイ派に属していました。パウロ以外のファリサイ派の人々も、同じように自信を持っていました。しかしそのような自信は、取り除かれたのです。イエス様以外のどの人間にも罪があることが、示されました。 (27節後半~28節)「どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」ここには、信仰義認の真理、イエス様を救い主と信じる信仰によってのみ神の前に正しい者と認められることが示されています。(29~30節)「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者(ユダヤ人)を信仰のゆえに義とし、割礼のない者(異邦人、日本人を含む)をも信仰によって義としてくださるのです。」そこには何の差別もないのです。すばらしい恵みです。

 最後の31節は、さらに先のことを語ります。「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」 「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」のであれば、律法はもはや消え去ると考える人も出そうです。しかしパウロは、信仰は決して、律法を無にするものではないと主張します。「信仰によって律法を無にするのではなく、確立するのだ」と。ユダヤ人の律法主義は間違いですが、その対極ある間違い、無律法主義という間違いもあるのです。このことは、イエス様がマタイによる福音書5章17節でおっしゃったことと一致します。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」律法を確立する、完成するとは、神様を愛し、隣人を愛して生きるということです。ローマの信徒への手紙13章8節以下にこうあります。「人を愛する人は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」 イエス様もマタイ22章36節以下で言われます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者(つまり旧約聖書)は、この二つの掟に基づいている。」信仰に始まり、愛に至るのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-09-23 2:06:48(水)
「ルツの落ち穂拾い ルツ記②」 2015年9月20日(日) 聖霊降臨節第18主日礼拝説教
朗読聖書:ルツ記2章1~23節、コリントの信徒への手紙(二)1章3~7節。
「心に触れる言葉をかけていただいて本当に慰められました」(ルツ記2章13節)。
 
 1章で、イスラエル人であるナオミという女性が、飢饉で夫と二人の息子と隣りのモアブの国に移住しましたが、約10年暮らすうちに夫と二人の息子に先立たれる苦難を経験し、飢饉が終わったイスラエルのベツレヘムに帰ったのです。二人の息子の妻たちはナオミを非常に慕っていたので、ナオミと一緒に行くと言いました。一人はナオミに諭されてモアブに残りましたが、もう一人のルツはナオミを決して見捨てない、ナオミと人生を共にすると決意していたので、ナオミと共にベツレヘムに来たのです。ルツにとってイスラエルは外国です。但し、ヘブライ語を話すことはできたのでしょう。ナオミは夫と二人の息子を失いました。このままでは乞食に身を落とすかもしれません。しかし、若いルツが一緒にいます。このルツこそ、神様からナオミへの大きな恵みです。ナオミは決して、神様から見捨てられていないのです。

 (1節)「ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズと言った。」この話の重要人物ボアズが初めて登場します。ある解説書によると、ボアズという名は、「彼には力が」という意味と理解できるが、原意は不明とあり、左近淑先生はボアズという名は、「力持ち」という意味と書いておられます。頼りになる成熟した大人の男性という印象です。因みに、ナオミは「快い、愉しみ」の意味、ルツは「潤し」の意味だということです。ベツレヘムという地名は、「パンの家」の意味です。今日の2章を読むと、確かに大麦と小麦の畑があったことが分かります。ナオミとルツはこのベツレヘム(もしくはその近く)で暮らし、ルツの曾孫ダビデ王は、このベツレヘム出身になります。ルツの時から千年以上後に、真の救い主イエス様がこのベツレヘムで、ダビデ王の子孫としてお生まれになります。ルツもイエス様の先祖になります(厳密にはイエス様の父ヨセフの先祖)。ルツもナオミもボアズも、神様の全世界を救おうとなさる大きなご計画の中で、役割を持っているのです。私たち一人一人にも、神様の大きなご計画の中で、担うべき役割と責任を与えられているのですから感謝です。

 (2節)「モアブの女ルツがナオミに、『畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます』と言うと、ナオミは、『わたしの娘よ、行っておいで』と言った。」「モアブの女ルツ」とあり、ルツがモアブ人・異邦人であることがやや強調されています。ナオミは50才くらいでしょう。この時代では早老後だったと思われます。労働することは体にきつかったでしょう。もしルツがいなければ、故郷ベツレヘムに帰ったとしても現実には乞食に近い生活になり、長生きできないでしょう。「落ち穂拾い」というと、私たちはミレーという画家の有名な絵を思い出します。女性3人が、刈り入れが終わった麦畑で、身をかがめて地面に僅かに残った穂を拾っている絵です。そこには貧しい暮らしがあります。

 落ち穂については、旧約聖書レビ記19章9~10節に、次のように記されています。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」これは神様の愛と憐れみによる律法です。落ち穂は、神様の愛と憐れみのシンボルです。畑に落ち穂が残されているお陰で、貧し人・寄留の外国人・寡婦が食べ物を得て生きることができるのですね。ナオミは寡婦、ルツは寄留者です。

 そして申命記24章19節以下には、落ち穂のことではありませんが、このように記されています。「畑で穀物を刈りいれるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」畑の持ち主は、収穫物を摘み尽くし、刈り尽くしてはならない。貧しい人々のために、残しておかなければならないのです。神様の愛による規定です。現代の言葉で言えば、ささやかなセーフィーネットです。畑の持ち主といえども、作物を独占してはならないのです。貧しい人のことを、いつも配慮するように、神様が命じておられるのです。ルツとナオミも、この神様の恩恵を受けます。

 ルツ記に戻り3節。「ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」エリメレクはナオミの夫で、ルツの舅です。そこは親戚筋の人の畑だったのです。「たまたま」とありますが、神様の導きの手が働いていることは明らかです。「たまたま、偶然」と思ってしまうことの中に、神様の御手の働きを発見することが信仰と思うのです。 (4節)「ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、『主があなたたちと共におられますように』と言うと、彼らも、『主があなたを祝福してくださいますように』と言った。」畑はベツレヘムから少し離れた近隣にあったのかもしれません。ルツ記では人と人との会話が重要で、会話によってストーリーが展開します。ルツ記では、主な登場人物が相手を深く思いやる言葉を語ることが多いのです。私たちも真似するとよいですね。ボアズと農夫たちの会話を読むと、両者がよい関係にあることが感じられます。ボアズが農夫たちに祝福の挨拶をしています。「主があなたたちと共におられますように。」農夫たちもボアズに、「主があなたを祝福してくださいますように」と、心のこもった挨拶を返しています。ボアズは農夫思いの、思いやりのあるよい主人・経営者だったに違いありません。ブラック企業の経営者とは正反対です。

 ボアズは監督をしていた召し使いの一人から、畑にいる若い女性が、ナオミと一緒にモアブからやって来た娘であることを知ります。ルツのことはベツレヘムの人々の間で評判になっていたようで、ボアズも聞いて好感を抱いていたのです。11節で、ボアズがこう言っていることから分かります。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。」この感心な娘が、自分の畑で落ち穂を拾っている。ボアズは思いやりの心から、こう言います。(8節)「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。」

 ナオミと自分のために一生懸命落ち穂を拾って一息入れていたルツは、ボアズの親切な言葉に、驚いて感激します。ルツは異邦人で、肩身の狭い思いを抱いていたからです。ルツもナオミもはっきり言えば落ちぶれており、身なりもかなりみすぼらしかったのではないかと思います。人によっては「あっちへ行け」というかもしれません。そんなルツに親切にするボアズの思いやりの深さは、本物です。(10節)「ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。『よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。ご厚意を示してくださるのは、なぜですか。』」 (11~12節)「ボアズは答えた。『主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生れ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。』」

 ボアズはルツに、神様の祝福を祈っています。ボアズはイスラエルの神を鳥(めんどり?)にたとえています。鳥が雛を羽の下にかばうように、神様が困難の中にある人をご自分の陰に隠して保護して下さるという言い方は、詩編によく出てきます。詩編91編4節には、「神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる」という、恵み深い御言葉があります。旧約聖書は、しばしば異邦人を偶像崇拝者として警戒しますが、それが旧約聖書の全てではありません。むしろ旧約聖書の中で神様は、イスラエルに寄留している異邦人に親切にするようにと語られます。外国で少数者として暮らすことは心細いことです。神様はここで異邦人ルツへの配慮を、ボアズを通して示されます。

 ルツは、感謝を込めて言いました。(13節)「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」 「心に触れる言葉」は、「心に沁み入るように語る言葉」ということと、読んだことがあります。「あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたし」というルツの言葉は、謙虚です。イエス様の母マリアが神を讃えた「マリアの賛歌」を思い出させます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」ガリラヤの無名と言ってよ少女マリアに目を留めて下さる神様は、イスラエルに来たばかりのよそ者とも言うべきルツにも目を留めて下さいました。もちろんナオミにも目を留めていて下さいます。いと小さき者に目を留めて下さる神様が、私たち一人一人にも目を留めていて下さいますから、感謝です。

 ルツは、「本当に慰められました」とも言います。そこで本日の新約聖書・コリントの信徒への手紙(二)1章3節以下を見ます。ここには「慰め」という言葉が9回も出て来ます。イエス・キリストを一生懸命宣べ伝えた使徒パウロは、多くの迫害の苦難を受けました。その分、神様から多くの慰めをも受けたのです。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生の説教集を拝見しましたら、この個所について、「何とすばらしい言葉かと思いました」という意味のことをおっしゃっていました。確かに、心打たれる文章、それこそ慰めを受ける文章です。

 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」 私たちの歩みは、時としてイエス・キリストと共に十字架を背負う歩みです。しかしその分、祈りの中でイエス様と身近になり親しくなる歩みで、イエス様・父なる神様から愛と慰めを受ける歩みです。
 
 イエス様は、ヨハネによる福音書14章で不安の中にある弟子たちに、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」と言われました。弁護者、真理の霊は、聖霊なる神様です。弁護者は原語のギリシア語でパラクレートスです。パラクレートスとは、「傍らにいる者」の意味です。さらに言うと、「傍らにいて弁護してくれる者」の意味でもあるようです。そこで弁護者と訳されています。別の翻訳ではパラクレートスを「慰め主」と訳しています。傍らで弁護してくれる者は、確かに真の慰めを与えてくれる存在ですから、聖霊なる神は確かに、弁護者・慰め主です。もちろんイエス様も慰め主です。イエス・キリスト、聖霊と祈りの中で交わることで、私たちは苦難の中にも慰めを与えられます。ルツには、ボアズを通して神の慰めが与えられました。私たちも聖霊に満たされて、イエス・キリストに似た慰め深い者になることができれば、幸いです。

 ルツ記に戻ります。ボアズは、ルツが老いつつあるナオミの見捨てない真実に感動し、ルツに深く心を配り並々ならぬ親切を行います。(14~17節)「食事のとき、ボアズはルツに声をかけた。『こちらに来て、パンを少し食べなさい。一切れずつ酢に浸して。』ルツが刈り入れをする農夫たちのそばに腰を下ろすと、ボアズは炒り麦をつかんで与えた。ルツは食べ、飽き足りて残すほどであった。ルツが腰を上げ、再び落ち穂を拾い始めようとすると、ボアズは若者に命じた。『麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。それだけでなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならぬ。』ルツはこうして日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めた。集めた穂を打って取れた大麦は一エファほどにもなった。」1エファは約23リットルです。

 その量に驚いたのはナオミです。(18~19節)「それを背負って町に帰ると、しゅうとめは嫁が拾い集めてきたものに目をみはった。ルツは飽き足りて残した食べ物も差し出した。しゅうとめがルツに、『今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように』と言うと、ルツは、誰のところで働いたかをしゅうとめに報告した。『今日働かせてくださった方は名をボアズと言っておられました。』」 ナオミはボアズへの祝福を語ります。(20節)「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」このナオミの言葉は慰めに満ちています。ナオミは夫と二人の息子に先立たれているのですから、夫と息子たちを「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主」なる神様に、委ねていたのでしょう。

 「慈しみ」はヘブライ語でヘセドという重要語です。ヘセドは旧約に252回も登場するそうです。ヘセドは、神様のご性質を表す重要語です。ヘセドは日本語では「慈しみ」、「憐れみ」、「真実」、「誠実」、「敬虔」などと訳されます。ホセア書では「愛」と訳されています。英語ではしばしば mercy と訳されるようです。ヘセドは人間に用いられることもあります。ヘセドはルツ記の重要語でもあります。3章10節でボアズがルツに、「今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています」と語りますが、この真心がヘセドです。真心と訳してもよいのです。ヘセドは神様の真心、愛です。ギリシア語のアガペー(愛)に近いかもしれません。

 ナオミはさらに重要なことを言います。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」「責任のある人」はヘブライ語で「ゴーエール」で、直訳すると「贖い手」です。ここに「贖う」という聖書の重要語が出て来るのです。贖うとは買い戻すという意味です。レビ記25章23~25節に、土地についてのイスラエルの慣習が記されています。土地は神様のものであるということが大前提です。「土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたし(神)のものである。あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。あなたたちの所有地においてはどこでも、土地を買い戻す権利を認めねばならない。もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。」ボアズが買い戻す義務を負う親戚の一人だったのですね。

 レビ記とルツ記から分かるように、旧約聖書では「贖い」は土地を買い戻すという実に具体的なことです。親戚が土地を代わりに買い戻すことで、貧しい人の家が絶えないようにする社会のシステムです、さらに50年毎来るヨベルの年には、先祖伝来の土地が無条件で返還されるとレビ記25章にあります。神様の命令によるセーフティーネットです。これがないと、貧富の格差が大きくなるばかりです(このネットが常に完全に機能していたかどうかは、よく分からないようです。ルツ記を読む限りでは、ある程度は機能していたようです)。ボアズがナオミとルツの、一種の救い主になります。

 新約聖書では、イエス・キリストが私たちの身代わりに十字架にかかって、私たちのすべての罪に対する父なる神様の裁きを引き受けて下さり、私たちを救って下さったことを、「贖い」と呼びます。「贖い」は、最終的には「救い」とほとんど同じです。コリントの信徒への手紙(一)6章19~20節にこうあります。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」イエス様の命という最も高価な代価によって買い取られ、贖われ、罪赦されて救われた。イエス様こそ、もちろんボアズをはるかに超える真の救い主です。

 ルツ記2章の最後。「ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終わる(6月前後)まで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく、落ち穂を拾った。」ルツがボアズの畑に、気づかずに行ったことに、神様の隠れた導きがありました。神様ご自身がこのルツ記に直接登場する場面はありませんし、神様の直接のご発言も全くないのです。しかし目に見えない神様が、落ちぶれたナオミとルツ(異邦人!)を見捨てることなく、確かに守っておられることが分かります。深い慰めです。この神様が、私たちをもその御翼の陰に入れて、守っていて下さるのです。私たちもイエス様と宣べ伝えつつ、生活に困っている方や、寄留の外国人に親切にすることが、神様に喜んでいただける道だと思うのです。アーメン(「真実に、確かに」)。


2015-09-16 12:22:07(水)
「床を担いで歩きなさい」 2015年9月13日(日) 聖霊降臨節第17主日礼拝説教
朗読聖書:申命記5章1~22節、ヨハネ福音書5章1~18節。
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(ヨハネ福音書5章8節)。
 
 (1~2節)「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには、羊の門の傍らに、ヘブライ語で『べトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。」「羊の門」は、ここから神殿で献げる羊などのいけにえの動物を運び込んだので、「羊の門」という名前がついたようです。その傍らに「べトザタ」と呼ばれる池がありました。べトザタは、「憐れみの家」という意味です。口語訳聖書では、「ベテスダ」と書かれていました。東久留米の近くの大泉に、「ベテスダ奉仕女母の家」があるそうですね。この池は実際に発掘され、その存在が確認されています。池は2つあったそうです。その2つの池を囲んだ柱廊があり、それは長さ100メートル、幅70メートルの大きな建物だったそうです。

 (3節)「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」すぐ近くの神殿は、非常に立派な建物でしたが、そのすぐ近くにあるべトザタの池には、神殿の偉い人、一般の人から見捨てられた人が大勢横たわっていたのです。ひどいことですが、このようなことは、どの国にもあるのかもしれません。日本にもあると思います。東京にもホームレスの人々は少なくないのですね。このような現実を、私たちも見て見ぬ振りをしていると言われれば、反論は難しいところです。

 次に十字架のようなしるしがありますが、新約聖書のある写本にはここに文があることを示します。次の文です。「彼らは水が動くのを待っていた。それは主の使い(天使)がときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」池の傍の回廊に横たわっていた人々は、天使が来るのを今か今かと待ち構えていたと思われます。「真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされた。」競争です。早い者勝ちです。比較的若く、体力があって、素早く動くことができる者が癒やされていったに違いありません。しかしそれ以外は皆、「また今回も人に先を越された」と肩を落とすしかなかったのでしょう。癒やされて喜ぶ人と、癒やされないでがっかりする人の明暗が分かれる、その意味で残酷な場になっていたのです。弱肉強食、世の現実の縮図が、ここにありました。

 (5節)「さて、そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた。」38年は長いです。今から38年前は1977年です。私は11才。それから今2015年まで病気で苦しみ、あまり動けなかったことになります。主の天使が下って来ても、いつも他人に先を越されていたのです。(申命記2章14節に、出エジプトしたイスラエルの民が、「カデシュ・バルネアを出発してからゼレド川を渡るまで、38年かかった」と書いてあることから、38年病気だった男性をイスラエルの民の象徴ではないかとする解釈もあります。今回はこの解釈には踏み込みません。)(6節)「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」病気の人に「良くなりたいか」は冷たい問いとも言えます。良くなりたいのは当然です。しかし38年間も病気が治らないでいると、老化現象もあったでしょうし、「今さら治るはずがない」と気力を失い、諦めきっていたのではないでしょうか。「もうどうでもよい」という捨て鉢な気持ちになっていた可能性もあります。果たして病人はこう答えます。(7節)「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」病気で無理もないのかもしれませんが、「わたしを池の中に入れてくれる人がいない」と、人のせいにしています。主体性、独立心が感じられず、生きる意欲を失っています。

 イエス様はそんな彼を励まし、発破をかけて下さいます。(8節)「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』」イエス様は言葉で励まされただけではなく、愛の力、神の力が彼に与えられたのです。(9節)「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。」驚くべき奇跡が起こったのです。べトザタは現実には、「憐れみの家」よりも、希望を失った人々の苦悩の場となっていました。ところが希望の主であるイエス・キリストは、「憐れみの家」の名にふさわしい憐れみの業を行って下さったのです。

 その日は、安息日でした。旧約聖書の民イスラエル人にとって、神様を礼拝する土曜日が安息日です。安息日は礼拝に専念する日、いかなる仕事もしてはいいけない日でした。しかし安息日は、神様から安息と憐れみをいただく日ですから、安息日にべトザタで病を癒やすことは、最もふさわしい業であったのです。教会こそべトザタ、「憐れみの家」でありたいものです。

 しかしユダヤ人たちは、あくまでも安息日はいかなる仕事もしてはいけない日と、固く信じていました。そこで癒やされた男を批判します。(10節)「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」ユダヤ人たちがそのように主張する根拠はもちろんモーセの十戒です。十戒は、出エジプト記20章と申命記5章に記されています。本日は申命記5章の十戒を朗読していただきました。第四の戒めが安息日の戒めです。(12~15節)「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである。」

 安息日を礼拝の日として聖別しなさい(聖なる日としてほかの日から分かちなさい)と書かれています。いかなる仕事もしてはならない、と明記されています。この決まりに基づいてでしょうが、エレミヤ書17章21~22節に次のように書かれています。「主はこう言われる。あなたたちは、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。エルサレムのどの門からも持ち込んではならない。また、安息日に、荷をあなたたちの家から持ち出してはならない。」「荷を運ばないように」と書いてあるのです。ネヘミヤ記13章にも似たことが書いてあります。ユダヤ人はこのような御言葉に基づいて、「今日は安息日だ。だから床の担ぐことは、律法で許されていない」と主張したのでしょう。ですが、エレミヤ書17章の、「安息日に荷を運ばないようにしなさい」は、「荷物を運び込んだり、運び出したりして、商売をしてはならない」という意味なのではないかと思います。ネヘミヤ記13章も、そのような意味と受け取れます。ですから、この男性が床を担いで歩いたことは(商売をするのではないので)、安息日の決まりに違反していないと解釈できると私は考えるのですが、いかがでしょうか。

 確かに十戒には、安息日に「いかなる仕事もしてはならない」と明記されています。しかし申命記5章の安息日の規定には、民が安息日に仕事をしないことによって、「あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」と書かれています。家の主人が仕事を休むことによって、使用人も労働から解放されて休むことができる。安息日は礼拝の日であると共に、普段働いている人が労働から解放される日でもあるのです。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。」安息日は、エジプトから解放されて安息を与えられたことを思い出して、感謝する日でもあるのです。そう考えるとイエス様が、38年間病気に束縛されて苦しんでいた男性を、病気から解放することは、安息日に全くふさわしいことです。もちろんイエス様は、この安息日もエルサレムの会堂か神殿で、礼拝をなさったことと思います。その前か後に男性を癒やされたのでしょう。

 安息日をヘブライ語でシャーバートと言いますが、これは「安息」や「中断」を意味する言葉だそうです。人間の業、特に罪を中断する日。そして神様を礼拝し、神様の御心である愛と正義を行う日。それが安息日です。イスラエルの民の安息日は土曜日ですが、私たちキリスト教会の礼拝の日は、イエス様が復活なさった祝福の日である日曜日です。昔のキリスト教会では、礼拝を行った後に、貧しい人々に奉仕するために出かけたと聞きます。神様を愛し、隣人を愛する日が日曜なのですね。もちろん聖なる日でもあります。キリスト教会の一つである救世軍では、日曜礼拝を聖別会と呼んでいるようです。聖別という言葉が生きているのですね。日曜日は聖別された礼拝の日。そして神様を愛し、隣人を愛する日です。この生き方を日曜日に初めて毎日行えると、もっとよいのです。平日は長い礼拝はできなくても、短くとも聖書を読み、祈りつつ奉仕的に生きることができれば、すばらしいですね。ある修道院のモットーは、「祈り、働け」だと聞きました。言い換えると、「神を礼拝し、人に奉仕せよ」ということではないでしょうか。イエス様がまさにそのように生きられました。安息日に礼拝をし、男性を苦しみから解放されたのです。

 しかしそのイエス様を、ユダヤ人たちは十戒・律法を破る者と見なして、憎みました。12節で彼らは癒やされた男性に尋ねます。「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と。しかし男性は、それがだれであるか知りませんでした。イエスというお名前を知りませんでしたし、その方が尊い神の子だということも知りませんでした。イエス様は既に立ち去っておられたからです。イエス様は、群衆にヒーローとして祭り上げられることを嫌って、立ち去られました。イエス様が男性を癒やされたのは、男性への深い憐れみと愛のゆえであって、御自分が拍手喝さいを受けるためではありません。

 (14節)「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。『あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。』」 「あなたは良くなったのだ」とは、病気が癒やされたことと共に、(はっきり書かれていませんが)神様の前にこの人の罪が赦されたということと思います。この人の病気が彼の何かの罪への罰だったというのではありません。しかし全ての人は、聖なる神様の前では罪人ですから、この男性にも罪があります。イエス様がこの男性の罪を赦して下さった、その結果、神様の祝福と愛が彼に流れ込み、病気も癒やされたのだと考えます。ほかの3つの福音書にそのような例があります。これほど大きな恵みを受けた彼は、それまでの自分の罪を悔い改めて、神様の愛に感謝する方向に転換して、神様に助けられて新しく生き始める必要があります。罪をゼロにすることはできませんが、それでもこれまでの罪からできるだけ縁を切って、清い生き方を目指すことが必要です。罪に浸った生活を続けて、恵みの神を侮るようではいけません。ですからイエス様は彼に、「もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と愛の警告をなさったのです。

 (15~17節)「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』」 男性は余計なことをしました。自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせたのです。告げ口をする結果になりました。それでユダヤ人たちがイエス様を迫害するようになりました。イエス様は言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 父なる神様は天地創造をなさった後に休まれましたが、ずっと休み続けておられるのではありません。父なる神様は地球、太陽、地球、月、星などの天体を、法則に従って動かしておられます。毎日愛を込めて新しい命を産み出しておられます。ですからイエス様も、愛をもって毎日働かれます。安息日には礼拝をなさり、病人をいやす愛の働きを喜んでなさいます。ある修道院のモットーは「祈り、働け」だと申しました。私たちも礼拝し、少しでも隣人愛の働きができるならば幸いです。

 (18節)「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからである。」 「わたしの父」と呼んだことは、イエス様が「神の子である」と宣言したことと同じです。ユダヤ人たちはそれを、神への大きな冒瀆だと感じたのです。彼らはイエス様を強く憎むようになりました。しかしイエス様は本当に「神の子」ですので、全く冒瀆ではないのです。

 イエス様の励ましの言葉に戻ります。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」先月天に召されたBさんの、「東久留米教会50周年記念誌」の文章を思い出しました。2006年に心臓の不調で病院に運ばれて、2ヶ月ほど入院されたときのことです。「その内心臓は落ち着きましたので、リハビリが始まりました。『三歩歩けた』と喜び、『明日は五歩歩けるようにしよう』と自分にむちを打ちながら、自分で治そうと努力しないとなかなか歩けるようになりません。」

 東久留米教会初代牧師で今、ホームに入居しておられるC先生のことも思います。先生は2009年秋にご不調を覚えられ、ご自分で救急車を呼んで入院されました。私も病院に行きましたが、最初はかなりお具合がよろしくなかったように思います。しかしだんだん持ち直されたのです。近くの牧師ご夫妻も、先生に一生懸命に尽くして下さり、本当に感謝でした。東久留米教会の方々もお見舞いされ、2つの教会(そして多くの知人の方々)が先生のご回復を祈り続けました。そして次第に回復してゆかれたのです。先生の生まれつきのお丈夫さもあったと思います。しかし色々な方のお祈りと協力によって、神様の癒しの愛の力が注がれ、回復してゆかれたと、今改めて感謝の思いに満たされます。新約聖書のヤコブの手紙5章14~16節に次のように書かれています。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」

 先生は、2010年1月下旬に退院され、リハビリテーション病院に移られました。そこでリハビリをなさいました。4月下旬に退院され、ご自宅に戻られ、一人暮らしを再開されたのです。次第に足腰も強くなり、生活がまずまず軌道に乗られたようです。5ヶ月を経てご自宅に戻られたことは、やはり神様が「起きて、床を担いで歩く力」を与えて下さったからだと信じるものです。そして一昨年の8月まで一人暮らしをなさり、いろいろな方のご親切があり、今はホームで比較的お元気にお暮らしでいらっしゃることを、感謝致します。

 イエス様は十字架にかかって、私たち全員の罪をすべて背負いきって下さいました。自分の罪のために真の希望を持たずにいた私たちに、永遠の命の希望を与えて下さったのです。そして私たちにも声をかけて下さいます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」罪の赦しを感謝し、永遠の命の希望を抱いて起き上がり、神と人を愛して歩きなさい、ということです。イエス様に励まされ、ご一緒に真の希望を抱いて、前進したいものです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-09-08 15:03:50(火)
「キリストの言葉の力」 2015年9月6日(日) 聖霊降臨節第16主日礼拝説教
朗読聖書:列王記・5章1~14節、ヨハネ福音書4章43~54節。
「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(ヨハネ福音書4章50節)。

 ヨハネによる福音書4章1~42節は、「イエスとサマリアの女」の小見出しでまとめられる有名な部分です。本日の箇所は、その次になります。(43~44節)「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」イエス様はサマリアを出発して、育たれたガリラヤに帰られたのです。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ。」これは当時の一般的な慣用句でもあったかもしれません。イエス様はそれがご自分にも当てはまるとはっきり認識しておられました。ガリラヤの大人たちは、イエス様を赤ん坊の時から知っているので、イエス様を敬う気持ちにはなかなかなれなかったのです。ですがイエス様は神の子ですから、私たちはそのような人間的な思いを超えて、イエス様を重んじることが必要です。

 (45節)「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」イエス様はエルサレムで、しるし・奇跡をなさったようです。それでエルサレムにいた多くの人々が、イエス様の名を信じたと、ヨハネ福音書2章に書かれています。ガリラヤから来た人々も、エルサレムにいたのでしょう。そしてイエス様がなさったしるし・奇跡を見たのです。彼らはそれでガリラヤに帰って来られたイエス様を歓迎しました。それはイエス様がガリラヤでもしるし・奇跡を行って下さると期待したからです。彼らがイエス様に求めたものはご利益です。目に見えるご利益を与えてくれそうだから、イエス様を歓迎したのです。しかしそのような歓迎は、イエス様が自分たちに都合のよいご利益を与えて下さらなければ、手の平を返すようにイエス様から遠ざかってゆく結果になるでしょう。ガリラヤの人々の歓迎は、そのくらいの浅い歓迎だったと思うのです。一時的にもてはやして、熱気が過ぎればイエス様のもとを去る、そのくらいの歓迎です。私たちの罪を赦すために十字架にかかって下さり、復活して下さる神の子として、イエス様を真の意味で重んじる歓迎ではありませんでした。

 ある方が、「キリスト教はご利益宗教ではない」と言われました。試練を受けていた方がそう言われたので、私は感銘を受けました。イエス・キリストは、私たちにとって都合のよいことばかり実現して下さる方とは限りません。その意味でキリスト教は、ご利益宗教ではありません。私たちの祈りは、そのままの形で聞き届けられることもありますが、イエス様がイエス様の御心に沿う形に変えて聞き届けて下さることも少なくないと思うのです。そしてイエス・キリストは、私たちが最も必要としていること=「罪の赦し」を与えて下さいます。そして永遠の命を与えて下さいます。永遠の命は最高の恵みですから、その意味ではイエス様は最高のご利益を与えて下さるとも言えます。ですが、この地上で私たちに都合のよいことばかり実現して下さるのではありません。それでもイエス様のなさることはすべて最善だ、そう信じてイエス様を信じて従ってゆく、それが私どもの信仰ではないでしょうか。ガリラヤの人々は、表面的にイエス様を歓迎しましたが、イエス様への深い信仰には至っていなかったのでした。イエス様はそれを見抜いておられました。

 (46節)「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられたところである。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。」カファルナウムにはイエス様の住まいがありました。王とはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスと思われます。この王は洗礼者ヨハネを殺害する王です。その王の役人が登場します。王の役人ですから、地域でそれなりに権力を持つ人であったと思われます。しかしその人が、イエス様に非常にへりくだって、わざわざカファルナウムからイエス様がおられたカナまでやって来たのです。地図で見ると、カファルナウムとカナの間は直線距離で25キロメートルほどです。(47節)「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て、息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」役人は必死でした。役人はエルサレムでイエス様がしるし・奇跡をなさったこと、そしてこのカナの地で、水をぶどう酒に変えて下さったことを知っていたに違いありません。「イエス様に頼るほかに方法がない」という切羽詰まった気持ちで、カファルナウムからカナまでやって来たのです。

 しかしイエス様は48節で厳しいことをおっしゃいます。「イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた。」イエス様はこの役人の謙遜さを認めながらも、この役人の信仰が本物になるように導こうとして、こう言われたのではないかと思います。イエス様は、ヨハネによる福音書の20章で、イエス様の復活を信じなかった弟子トマスに言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」本当に純粋な信仰は、目で見なくても、イエス様の言葉・神様の言葉を信じる信仰です。イエス様の約束・神様の約束を信じる信仰です。神の子イエス様も、父なる神様も、約束を100%守る方です。ですからイエス様の言葉・神様の言葉は必ず実現します。イエス様の言葉・神様の言葉には力があり、永遠に滅びることがないのです。ペトロの手紙(一)1章25節に、「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」と書かれていますね。この世界はいずれ滅びて神の国が来ますが、イエス様の言葉・神様の言葉は永遠に滅びないのです。このイエス様の言葉・神様の言葉にどこまでも信頼するのが、私たちの信仰です。イエス様は、役人をこのような真の信仰に導こうとしておられると思うのです。

 (49節)「役人は、『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った。」当然の願いです。今こうしている間にも、息子の病状が悪化しているのではないかと、この役人は気が気ではありませんでした。この役人が心を低くし、真実を尽くして必死に頼んでいる姿が、イエス様の心を深く打ったに違いありません。イエス様は役人に、愛を込めて力強い約束の言葉を与えて下さいました。(50節)「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」この役人は、一つの決断をしたのです。「イエス様の言葉を信じよう、イエス様の言葉に信頼しよう」と決断したのです。見上げた決断だと思います。この役人は、私たちにとって信仰上の模範だと思います。私たちもイエス様の言葉に間違いはない、イエス様の御言葉は必ず実現すると信じて参りたいのです。

 「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」この「生きる」という言葉は、元のギリシア語で、「ザオー」という言葉です。ヨハネによる福音書のキーワードの一つである「永遠の命」の「命」の仲間の言葉です。この場合の「生きる」とは、ただ生物的に生存しているという以上のことです。もちろん生物的に生存していることも大切なことです。しかし、私たちが神様に愛を込めて造っていただいた人間である以上、生きるとは神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛することであるはずです。「生きる」とはこのようなことです。イエス様が与えて下さる「永遠の命」もまさにこのような命です。「永遠の命」とは、千年も万年も生存し続けることではありません。「永遠の命」は、私たちの罪・エゴに満ちた今の命とは質の異なる命です。イエス様と同じ命、神様と隣人を愛し、敵をも愛する命です。イエス・キリストを救い主と信じた人には、もうその「永遠の命」が与えられています。私はイエス様が役人に、「あなたの息子は生きる」と約束された時、ただ生物的に生存すると言われたのではなく、イエス様の命に似て、神様と自分と隣人を愛する真の命に「あなたの息子は生きる」と約束されたのだと思っています。

 私は最近、黒澤明監督の『生きる』という1952年の映画のDVDを見ました。名作と聞きます。白黒の古い映画でやや分かりにくい部分もありますが、メッセージはよく分かります。志村喬という俳優が演じる、ある市役所の30年間無欠勤の、意欲と情熱をすっかり失った、口下手でいかにもうだつが上がらない初老の市民課長・渡辺という男性が主人公です。彼は自分が病気に侵され、余命が長くないことを知ります。無断欠勤してこれまでしなかった放蕩に身を委ねてみますが、喜びも生き甲斐も感じることができません。それまでは、いわゆる役所仕事に徹して、子供たちが遊べる公園を作ってほしいという主婦の人たちの陳情などを、「自分の管轄ではない」と市役所内等でたらい回しにして来ました。しかし今、限られた人生を本当に「生きたい」、「何かをしたい」という意欲が湧き上がるのです。

 しかし何をすればよいのか分かりません。新しい職場に移って何かを始めるには時間がない。ですが「はっ」と気付きます。「いや、遅くない。わずかでもやればできる。ただやる気になれば。わしにも何かできる。」そう思った時、たまたま周囲で知らぬ女性の誕生会が行われており、「ハッピーバースデイ」の大合唱が沸き起こります。これは渡辺さんが本当の意味で生きる情熱を取り戻して、新しく生まれ変わったことを象徴する名場面だと私は思いました。彼はあまりパワーがないのに、市役所に復帰して生き返ったように仕事に取り組みます。子供たちの小さな公園を作ってほしいという主婦の人たちの陳情を思い出し、不器用ながら実現に邁進するのです。「こういうことは市民課が主体にならないとまとまらない。土木課だけの問題ではない。公園課も下水課も動いてもらわんと。これから現地調査に行く。今日中に報告書を作る。」驚いた部下が「課長、それは少々無理では…」と言いますが、「いや、やる気になれば」と現地調査に出て行きます。「見送った方が無難だ」と言う助役に、考え直すように頼んで、不器用ながら粘って進めます。

 5ヶ月後に彼が亡くなり、お通夜が行われ、部下たちが酒を飲んでいるところへ、公園を作ってもらった主婦の人たちがやって来て、心からの涙を流して帰って行きます。できあがった公園で雪の夜に渡辺さんは、一人ブランコを漕ぎながら、意外に楽しそうに、小さな声で歌を歌いながら亡くなったようです。その後、その公園で多くの子供たちが楽しそうに遊ぶ昼間の様子が映し出されて、映画は終わります。それまで情熱もなく死んでいたような渡辺さんが、最後に本当に生きること、生き甲斐に目覚め、人々のために生きたというストーリーです。「本当に生きるとはどのようかことか」と問いかけられる映画です。イエス様が「あなたの息子は生きる」とおっしゃった「生きる」も、ただ生物的に生存するという以上のこと、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛して生きる、ということだと思うのです。

 岩手県気仙地方の「ケセン語」(その地方の言葉)に聖書を翻訳した山浦玄嗣さんというクリスチャンのお医者さんがおられます。山浦さんは聖書の「永遠の命」(ゾーエー・アイオーニオス)を大胆にこう訳されました。「いつでも、活き活きと明るく力強く喜びに溢れてぴちぴちと生きること。」「いつでも、活き活きと明るく力強く喜びに溢れてぴちぴちと生きること。」役人の息子もこの命を与えられたと思うのです。

 (51~53節)「ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、『きのうの午後一時に熱が下がりました』と言った。それは、イエスが『あなたの息子は生きる』と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼も家族もこぞって信じた。」イエス様は約束を果たして下さいました。イエス様は神の子の愛の力を発揮され、役人の息子の高熱を下げ、瀕死の状態から救い出して下さったのです。「あなたの息子は生きる」とおっしゃったその時に、息子は癒やされたのだと思います。これは確かにイエス様の愛の奇跡です。私たちは息子が癒やされた奇跡に注目するのですが、ある人はこの場面の奇跡はそれだけではないと言います。父親がイエス様の言葉・イエス様の約束を信じる決断をしたこと、これこそもっと大きな奇跡だというのです。その通りだと思います。教会でも同じです。一人の方がイエス・キリストを救い主と信じる決断をなさる。これは大きな奇跡です。コリントの信徒への手紙(一)12章3節に、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と書かれています。私たちの家族や友人が、イエス様を救い主と信じ告白する日が、神様によって与えられるように、心を新たにして祈って参りたいのです。

 本日のヨハネによる福音書は、プロテスタント教会の歴史の中で、よく宗教改革記念日の礼拝で読まれて来た箇所であるそうです。今日は宗教改革記念日礼拝ではありません。宗教改革は、1517年10月31日にマルティン・ルターが、ドイツのヴィッテンベルグ城教会の門に95ヶ条の提題を張り出したことが発端と言われています。今年は2015年ですから、再来年2017年が宗教改革500周年で、今から記念行事の準備が始められているようです。宗教改革の意義の一つは、民衆が自分で聖書を読む道を開いたことです。当時のヨーロッパの教会では、聖書はラテン語に訳され、基本的には聖職者しか手に取って読むことができなかったそうです。ルターは聖書をドイツ語に翻訳しました。その時代にグーテンベルグが印刷機を作ったことは偶然ではなく、神様が全てを導いておられたとしか思えません。ルターのお陰で、ドイツの民衆がドイツ語で聖書・神の言葉を読むことができるようになりました。

 宗教改革の原理の一つは、「聖書(神の言葉)にのみ権威を認める」ということです。聖書(神の言葉)をどこまでも重んじ、聖書(神の言葉)にどこまでも信頼し、聖書(神の言葉)によってのみ生かされてゆく。これが宗教改革の精神、プロテスタント教会の精神です。今日のヨハネによる福音書は、役人が厳しい現実の中で、イエス・キリストの言葉(イエス・キリストは三位一体の神)に絶対的に信頼したこと、イエス・キリストの言葉がその通り実現したこと、を告げています。ですから宗教改革記念日礼拝にふさわしいのです。私たちも改めて、イエス様の言葉・神の言葉に全面的な信頼を置く信仰に生きて参りたいのです。
 
 本日の旧約聖書は、列王記・下5章1節以下です。紀元前9世紀の出来事です。異邦人(イスラエル人でない人)・アラム王の軍司令官ナアマンの重い皮膚病が癒やされた出来事です。ナアマンは癒しを求めてイスラエルに来たのです。神様の預言者エリシャが、使いをやってナアマンにこう言わせました。(10節)「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」これは神様がエリシャを通して語られた言葉と思います。ナアマンはすぐにはその通りにしませんでした。そこがあの役人と少し違います。暫く文句を言った後、家来たちに諭されて、神様がエリシャを通して語られた言葉に従います。11~13節は足踏みしてしまう様子です。「ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。『彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部のうえで手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。』彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。『わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったに違いありません。あの預言者は、「身を洗え、そうすれば清くなる」と言っただけではありませんか。』」そうたしなめられてナアマンは、神様がエリシャを通して語られた御言葉に従いました。すると神様がナアマンを癒やして下さったのです。あの役人の息子を癒やして下さったように、です。(14節)「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。」こうして異邦人ナアマンは、真の神を信じる人になったのです。

 「あなたの息子は生きる」と約束されたイエス様は、私たちにも真の命を与えて下さいました。私たちの罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活され、イエス様を救い主と信じ告白する者に、永遠の命を与えて下さいました。神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する、この真の命に生かされて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-09-01 14:00:47(火)
「神様の真実と人間の罪」 2015年8月30日(日) 聖霊降臨節第15主日礼拝説教
朗読聖書:詩編14編1~7節、ローマの信徒への手紙3章4節。
「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」(ローマの信徒への手紙3章4節)。
 
 本日の直前の2章28~29節に、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊(聖霊)によって心に施された割礼こそ割礼なのです」とあります。真のユダヤ人とは真に神様に従う民であり。いわゆるユダヤ民族だからと言って、真のユダヤ人であるとは限らない、ということです。ではいわゆるユダヤ民族に属していることには、何の意味もないのでしょうか。そうではありません。(1~2節)「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」確かにイスラエルの民・ユダヤ人は神様に愛され、他の民族に先がけて神の意志を示す十戒を教えられました。彼らには多くの預言者たちも与えられ、預言者たちが、ユダヤ人に神様からの言葉・メッセージを語り続けたのです。非常に尊い神の言葉を、他の民族に先駆けて与えられた。これは何と言ってもユダヤ人の大きな光栄です。これは決して否定できません。

 (3~4節前半)「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」ユダヤ人の中には、神様との間に交わした十戒による契約を守らない不誠実な人たちがいました。しかし神様は、ユダヤ人たちとの間の十戒による契約を、常に守って来られました。神様は常に100%誠実で、契約・約束を100%守られるのです。十戒による契約を真ん中に置いて、契約を守らないユダヤ人の不誠実と、契約を守られる神様の誠実のコントラストが、浮かび上がってしまいます。ユダヤ人の不誠実のせいで、神の誠実が無に帰することはない。むしろ神の誠実がいよいよ光り輝く。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」ユダヤ人をはじめとする全ての人間は偽り者である。契約を100%は守らない。しばしば契約・約束を破る。しかし神様はその反対に、契約を100%お守りになり、約束を100%お守りになる真実な方なのです。ここで言う「誠実」、「真実」とは、契約・約束を常に100%守る、ということと思います。

 (4節後半)「『あなた(神様)は、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。」これは「悔い改めの詩編」として知られる詩編51編の6節後半の引用です。新共同訳聖書の詩編51編では、次のようになっています。「あなた(神様)の言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。」 神様は決して偽りをおっしゃらない真実な方であり、神様がおっしゃることは常に正しい、ということです。

 人間がこの事実に前に降参してへりくだればよいのですが、人間は罪深くて、次のような屁理屈をこねることがあると、この手紙を書いたパウロは言います。(5節)「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何というべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。」 「ユダヤ人たち人間の契約を守らない不誠実と比較されることで、神様の100%契約を守られるその誠実が、いよいよ光輝くのであれば、人間の不誠実も神様のすばらしさを引き立てるお役に立っていることになるではないか。それならば、人間が契約を守らない不誠実の罪を、神様がお裁きになることは間違いではないか。」パウロはこのような考えは、とんでもない悪・屁理屈であって、断固否定されねばならない、と語調を強めます。(6節)「決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。」「決してそうではない」を、口語訳聖書は「断じてそうではない」、新改訳聖書は「絶対にそんなことはありません」と訳して、人間の屁理屈を正当化することを強く拒絶しています。このような屁理屈が正当化されるのであれば、神様がこの世界を正しくお裁きになることができなくなります。そのようなことはあり得ません。神様が、いずれ必ず、この世界を正しくお裁きになります。
 
 7節にも、私たち罪人がこのように言いかねない、恐るべき間違った屁理屈・居直り・開き直りが記されています。「またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。」 この人間の考えは、完全に間違っているのです。罪は罪として、常に否定されることが必要です。罪は罪、悪は悪であり、罪と悪そのものが正当化されることは、絶対にないのです。神様は私たち罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪を憎んでおられる方です。
 
 このような屁理屈は、8節の「もうそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』」という恐るべき間違いに発展する恐れがあります。「人間がどんどん罪を犯せば、罪を犯さない神様のすばらしさがさらに輝くのだから、どんどん罪を犯そうではないか」という恐るべき間違いに、です。このような間違いは当然、全面的に否定される必要があります。何とパウロたちがこのような間違いを主張していると悪意を込めて中傷・非難する人々がいました。もちろんパウロたちは、このような間違いを主張してはいません。パウロは8節で、「わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です」と書いて、この間違った考えをきっぱり否定しています。

 「わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう」という悪しき開き直り、「善が生じるために悪をしよう」という悪しき屁理屈は、イエス・キリストの福音を誤解するところから生まれるのかもしれません。確かに福音は大きな恵みです。私がしばしば引用するローマの信徒への手紙5章16節には、福音のすばらしさが次のように記されています。「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される~」と。それはその通りです。しかしこれを誤解すると、「それならイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けた後も、どんどん罪を犯してよい、それでも無罪になるはずだ」という間違った考えに陥る恐れがあります。このような間違いに陥ることがあるとすれば、それは、私たちに無罪の判決が下るのは、身代わりに十字架で血を流して死んで下さった神の子がおられるからだという事実を軽く見ている場合です。父なる神様ご自身も、最愛の独り子イエス・キリストを十字架につける辛い悲しみに耐えて下さいました。この事実をしっかり受けとめるならば、「今後はできるだけ罪を犯さないように気をつけよう。罪をゼロにはできないが、しかし自分のこれまでの罪を深く悔い改めて、イエス様に従おう。私のために十字架で死んで下さったイエス様の愛を思えば、今後もどんどん罪を犯すなどというイエス様を悲しませる生き方は、もはやできない。聖霊に助けていただいて、少しずつでも神様と隣人を愛する生き方に進もう」と思うはずなのです。

 宗教改革者マルティン・ルター以来、プロテスタント教会は信仰義認を強調してきました。信仰義認とは、私たち罪人が、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、神様の前に正しい者と認められ、天国に入ることを約束されるという教えです。確かに信仰義認は聖書の正しい教えです。しかし気をつけるべきは、信仰義認は、「信じた後、イエス様に従わないでよいという教えではない」ということです。信じた後は、聖霊に助けられて、少しずつでも、喜んでイエス様に従う生き方に変えられます。プロテスタント教会が信仰義認を安易に考えて、「信じた後も、どんどん罪を犯しても問題ない」と誤解すると、堕落する恐れがあります。そうなるともはや「地の塩」でなくなってしまいます。

 そうならないようにと警告を発したのが、ナチスに抵抗したドイツの牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーです。ボンヘッファーは、私たちがイエス様の十字架の死の尊さを重く受けとめない「信仰義認」(それは本当の信仰義認ではありません)は、「安価な恵み」(安っぽい恵み)になってしまうと警告し、「安価な恵みは、われわれの教会にとって許すべからざる宿敵である」と書きました(森平太訳『ボンヘッファー選集Ⅲ キリストに従う』新教出版社、1996年、13ページ)。「安価な恵みは、悔改め抜きの赦しの宣教であり(~)、罪の告白抜きの聖餐であり、(~)服従のない恵みであり、十字架のない恵み(~)である」(同書、15ページ)。イエス・キリストによる罪の赦しと永遠の命の福音は、「安価な恵み」ではなく、「高価な恵み」です。なぜ高価な恵みかと言うと、最高に尊い神の子が十字架で命を捨てて下さるという驚天動地の(天地がひっくり返るような)出来事による恵みであるからです。信仰義認は「安価な恵み」ではなく、「高価な恵み」であることを忘れないように注意したいのです。

 9節に進みます。「では、どうなのか。わたしたち(ユダヤ人)には優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」「わたしたち」は、パウロも含めたユダヤ人です。9節は一見、1節と矛盾します。1節には、「ユダヤ人の優れた点はある。彼らが神の言葉をゆだねられたことだ」と書かれていました。ところが9節では、「ユダヤ人の優れた点は全くない」と書かれています。9節は、「ユダヤ人の中身に優れた点は全くない」と言っているのでしょう。ユダヤ人は、神の言葉をゆだねられる光栄を受けたが、その神の言葉を守らず、破ったのだから、ユダヤ人の中身には優れた点は全くない、と言っているのです。しかしそれはユダヤ人だけではなく、私たち異邦人も、聖なる十戒を守りきれておらず、神様の律法に、毎日違反し続けているのが現実です。異邦人に罪は、この手紙の1章18節以下、「人類の罪」の小見出しのところに詳しく書かれていました。そしてユダヤ人の罪は、2章1~5節に、「ユダヤ人も同じことをしている」という言い方で、示されています。ですからパウロは9節の後半で、「既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人(異邦人の代表)も皆、罪の下にあるのです」と、私たちの現実を語っています。

 次の10~18節は、「正しい人は一人もいない、イエス様以外の全ての人が罪を犯している」という事実を、旧約聖書の複数の箇所を引用して語っています。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い(罪の道に迷い込んでいる)、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」 10~12節は、本日の旧約聖書・詩編14編の1~3節の引用です。少し表現が違いますが、詩編14編1~3節には、このように書かれています。「神を知らぬ者は心に言う。『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う人はいない。ひとりもいない。」この言い方で、聖なる神様からご覧になれば、すべての人が罪を犯している罪人(つみびと)であり、神様による救いを必要としていることを強調しています。

 ローマの信徒への手紙3章18節には、人間の罪についての総括が書かれています。「彼らの目には神への畏れがない。」人間たちには神を畏れ敬う気持ちがない。神の意志を無視して生きる傲慢・不遜がある、というのです。箴言1章7節に、「主を畏れることは知恵の初め」という大切な御言葉がありますね。つまり真の神様を畏れ敬うことこそ、人間の生き方の基本だというのです。しかし「彼らの目には神への畏れがない。」ここに人間の罪の根本があります。

 そして19節の前半。「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。」律法の代表は十戒です。律法は、まずユダヤ人たちに与えられました。「律法の下にいる人々」とはユダヤ人を指します。しかしイエス様以外のどのユダヤ人も、律法を完全に守ることができないのです。神の民ユダヤ人でさえ、律法を完全に守ることに失敗しました。まして歴史の中で律法によって鍛えられていない私たち異邦人も、律法を完全に守ることができません。19節の後半に、「それはすべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。」ユダヤ人も異邦人も、神様の前に誇ることができません。律法を完全に行うことができないからです。ユダヤ人も異邦人も神様の前で偉そうなことを言うことはできず、全世界が神の裁きの下に立つことになります。

 20節「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。」律法を行うことで神の前に正しい者と認められるためには、すべての律法を常に100%守ることを一生続ける必要があります。少しでもできないと罪人です。99点でも罪人です。ですから、律法を実行することで、神の前に義とされる人は、(イエス様を除けば)全く一人もいないのです。イエス様を救い主と信じる前のパウロは、自分は律法を常に100%守っていると、強い(過剰な)自信を持っていました。確かに形の上では守っていました。しかし心の中でも100%守ってはいなかったことに気づかされたのだと思います。自分が罪人であることを発見したのです。彼は、罪人が律法を100%実行することは、不可能であることに気づきました。どなたかに救っていただかなければならないことに気づいたのです。その救って下さる方こそ、神の子イエス・キリストです。イエス様は私たちの身代わりに十字架で死んで下さり、私たちが毎日律法に違反して生きている、その全ての罪に対する父なる神様の裁きを、全部引き受けて下さったのです。そして三日目に復活されました。このイエス様の前にへりくだり、イエス様を救い主と信じ告白するすべての人の罪は赦され、その人は永遠の命を確実に受けるのです。

 20節の後半に、「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と書かれています。これはパウロの発見です。神様に教えられて発見することができたのです。パウロの人生観、信仰についての考えをひっくり返す大きな発見、パウロにとって驚天動地の発見です。それまでパウロは、自分は律法を100%守り行って、自力で神の前に正しい者と認められていると確信していました。真面目なユダヤ人の多くがパウロと同じように考えていたのです。ところが復活のイエス様に出会ったパウロは、律法は、わたしたちの心の隅々までの完璧な正しさ・清さを求めるものであると悟りました。そこでパウロは、律法(十戒の一つ一つの戒め)を学べば学ぶほど、自分がいかに律法を守ることができないかを痛感させられる結果になることを悟ったのです。それまでのパウロは、律法を守って、いわば律法をステップにして、自力で神の前に正しい者と認められるのだと確信していました。それが全く間違っていたことを悟ったのです。律法を深く学べば学ぶほど、自分がいかに律法を破っているか、自分の罪を強く自覚することができるようになったのです。まさにパウロにとっては、「目から鱗が落ちる」発見だったに違いありません。

 律法によって自分の罪の自覚が生じることは、よいことです。自分に救いが必要であること、救い主がどうしても必要であることが分かることです。私たちにはいろいろな必要・ニーズがありますが、「神様に罪を赦していただくこと」こそ、私たちの最大の必要・ニーズなのです。聖書を読まないと、私たちは自分のこの本当の必要・ニーズが分からないのです。私たちのこの真の必要・罪の赦しを与えて下さる救い主こそ、イエス・キリストです。パウロはガラテヤの信徒への手紙3章24節で、「律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです」と書いています。律法は、私たちに罪の自覚を与え、そして真の救い主イエス・キリストのもとに導く養育係の役割を持っているのです。私たちの全ての罪を背負って十字架で死んで下さったイエス様こそ、私たちの唯一の真の救い主です。

 罪を赦していただくことこそ、私たちの真の必要である事実に、私たちはなかなか気づかないのです。ですからイエス様は、主の祈りで、「我らの罪をも赦したまえ」と祈るように教えられました。私たちにとって「罪の赦し」を受けることが、最も必要だと知っておられるからです。私たちよりもイエス様の方が、私たちが真に必要としていることを、よく知っておられるのです。律法は私たちに罪の自覚を与え、神の前に義とされることに関して私たちを行き詰まらせます。ここできちんと行き詰まって、救い主イエス様のもとに行くことが大切です。そうすれば私たちは罪の赦しを受け、神の前に義とされる道が大きく開かれます。自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主と信じ告白し、全ての罪の赦しを受けて、父なる神様の懐に飛び込んでゆきたいのです。父なる神様はそれを待っていて下さいます。アーメン(「真実に、確かに」)。