日本キリスト教団 東久留米教会

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2014-06-22 18:09:41()
「ほかに神があってはならない 十戒①」 2014年6月22日(日) 聖霊降臨節第3主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記20章1~17節、マタイによる福音書4章1~11節
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20章3節)

 出エジプト記20章には、モーセの十戒が記されています。これから出エジプト記を読む礼拝で、十戒を1つ1つとりあげて学ぶ予定です。1~2節に十戒の前文とも呼ぶべき文がございます。「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。』」まずここに神様の大きな愛が語られています。神様はイスラエルの民を愛し選び、エジプトでの奴隷生活から救い出して下さいました。これは何と言っても、イスラエル民族の原点です。イスラエルの民はいつもこの原点に立ち帰り、神様の偉大な愛に感謝することが必要なのです。この愛に応えるためにどのように生きることがよいのか? それを神様が教えて下さったのがモーセの十戒です。前半の4つの戒めは、この神様を愛する生き方を教えます。そして後半の6つの戒めは、隣人を愛する生き方を教えています。新約聖書の中でイエス・キリストは、「神様を愛し、隣人を愛する」ことが最も重要だとお教えになりました。この十戒を守って生きることは、イエス様の教えを実行することになります。

 3節に「第一の戒め」が書かれています。本日はここに集中します。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」 この神様が天地創造をなさった真の神様です。この神様がイエス・キリストの父なる神様です。ほかに神様はおられません。世の中にいろいろな宗教があり、「神」と呼ばれるものが多くありますが、聖書の神様が真の神様です。ほかに神はないのです。この点は、ユダヤ教徒にとってもクリスチャンにとっても同じです。違うのはユダヤ教徒は、イエス・キリストを救い主と信ぜず、神とも信じないけれども、私たちクリスチャンはイエス・キリストを救い主と信じ、イエス・キリストを人の子であると同時に神の子であり、父・子・聖霊なる三位一体の神であると信じる点です。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」私たちが日曜日ごとに礼拝を献げるのは、この唯一の神様への愛を表明するためです。

 この第一の戒めを読むとき、私が思い出すのは申命記6章4~5節です。イスラエルの民が非常に大切にして来た御言葉です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これこそ、第一の戒めを見事に言い換えた御言葉です。
 
 第一の戒めを文語訳聖書で読むと、こうなっています。もとの言葉・ヘブライ語に非常に忠実な訳です。「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず。」神様は単に「わたし」とは言われず、「わたしの顔の前で」とおっしゃっているのです。信仰生活、十戒を守る生活は、いつも生ける「神様の御顔の前で」生きる生活です。私たちの生活のすべてを見ておられ、私たちの心の中をもすべて見抜いておられる、生きておられる神様の御顔・視線を常に意識する生活です。宗教改革者ジャン・カルヴァンが「神の前で」生きる信仰を愛し強調したそうです。カルヴァンは「神の前で」をラテン語で語ることを好んだそうです。「コーラム・デオ」という言葉です。「コーラム」が「前で」、「デオ」が「神」です。「コーラム・デオ」がカルヴァンの口癖だったそうです。生きている神様の目の前で私たちは生きている。このことを常に自覚し、他人にもそれを求めたのです。真の神様をひたすら畏れ敬って生きるのです。「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず。」この第一の戒めをいつも意識して生きるのです。

 なぜかと言うと、この神様が全世界を創造され、私たち一人一人に命を与えられたからです。私たちに必要なものは全部この神様から来ます。収穫感謝日によく歌う讃美歌21・386番の歌詞に、「良いものみな 神から来る。その深い愛をほめたたえよう」とあります。この神様からのみ、すべての恵みが来るのです。私たちは間違えてはならないのです。ほかの「神々」と呼ばれるものから恵みがくることはないのです。この神様にのみ祈るのです。ほかの「神々」と呼ばれるものが祈りに応えることはないのです(と言うと、他宗教の方からお叱りを受けるでしょうが、しかし確かにそうなのです)。

 プロテスタント教会で愛用されている『ハイデルベルク信仰問答』という信仰問答があります。1563年に出版されています。その「問94」は次の問です。

「第一戒で、主は何を求めておられますか」(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、2002年、90ページ)。この問いへの答えは次の通りです。
「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人(カトリックへの対抗)や他の被造物(太陽、月、星など)への呼びかけ(祈り・礼拝)を避けて逃れるべきこと。唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです」(同書、90ページ)。

 よい言葉です。「この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。」すべての恵みは、この神様からのみ来ることを強く信頼するのです。

 「この方だけを礼拝する」と言うと、堅苦しい窮屈な世界に閉じ込められるという思いを持つことがあると思うのです。ですが、この神様が世界を創造され、今もこの世界を支えておられ、やがてこの神様の国が完成するのですから、この神様に喜んでいただけるように生きることが最も意味があり、価値あることです。世の中にいろいろな楽しみがあり、それはサッカーやディズ二ーランドであったりして、確かに一時的に楽しみを与えてくれますが、残念ながらそれらは永遠の命・永遠の喜びを与えてはくれません。いつかは消え去ってしまうものです。真の神様は、私たちに真の愛と平安と永遠の命を与えて下さいます。ですから私どもは、この神様を礼拝することを真の喜びとし、第一の戒めを守ることを喜びとするのです。古代教会の信仰の指導者となったアウグスティヌスも神様に向かって告白しています。「あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじない」(アウグスティヌス著・服部英次郎訳『告白・上』岩波書店、2012年、5ページ)。情欲、名誉欲などこの世の欲望を必死に追いかけて来た彼でしたが、真の平安が真の神のもとにしかないことを発見したのです。

 本日の新約聖書は、マタイによる福音書4章1節以下です。イエス様の「荒れ野の誘惑」の場面です。悪魔が神の子イエス様を、父なる神様から引き離そうと誘惑します。その3つ目の誘惑を見ましょう。(8~11節)「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたし拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。するとイエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」悪魔はイエス様を強力に誘惑しました。「わたしを拝むなら、世のすべての繁栄する国々を与えよう。権力を与えよう。権力者になれ」と。しかしイエス様ははっきり「退け、サタン」と命じられ、悪魔を撃退されました。権力者になるのではなく、真の神様だけを拝み、真の神様だけに地道に奉仕する道こそ、真の祝福の道だと知っておられるのです。イエス様は、マタイによる福音書6章24節では、こう言っておられます。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽ろんずるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 私たちが感じることは、私たちの国においてこの信仰を貫くことは簡単でない場合があることです。日本のキリスト教会の歴史で有名な出来事の1つは、内村鑑三先生の不敬事件です。1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の新年の授業開始にあたり「教育勅語奉読式」が行われました。嘱託教員であった内村先生は、教育勅語の前に三番目に出て、千人以上の教員と生徒の前で奉拝することになりました。31歳の内村先生は謹厳に教育勅語の前に出ましたが、「信仰に基づく良心が彼を内側から束縛し、ためらいながら、瞬間的に決断して~礼拝的低頭をせず、チョット頭をさげたのである。~ためらいながら、礼拝を拒否して、チョット頭を下げたのである」(小沢三郎『内村鑑三不敬事件』。富岡幸一郎『内村鑑三』五月書房、2001年、39ページより孫引き)。ささいな出来事とも言えますが、深く頭を下げなかったことへの非難が学校内の教員や生徒から起こり、マスコミに取り上げられ全国に広まったそうです。内村先生は最初の妻と離婚して再婚した後でしたが、内村先生この出来事で強い批判を受けて肺炎になり、結婚したばかりの妻は、内村先生の看病と事件の心労で病気になり、4月に亡くなります。ご存じの通り、その2年前に発布された大日本帝国憲法では、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定しています。どう考えても第一の戒め「あなたにはわたしをおいてほかに神があってはならない」と矛盾します。ですから明治・大正、そして昭和20年の敗戦までのクリスチャンは非常に苦労されたと思います。

 そして太平洋戦争の頃の朝鮮半島の教会を苦しめたのが神社参拝問題です。日本政府は「神社は宗教ではない」とでまかせを言って日本や韓国のクリスチャンに神社参拝を求めました。残念ながら日本の教会の指導者が朝鮮に行って「神社は宗教ではない」と言って参拝するように説得したそうです。その時、朱基徹(チュ・キチョル)牧師という方がはっきり反対して「神社参拝は、モーセの十戒の第一の戒めに反する」と語りました。「基徹」というお名前は「キリストに徹する」という漢字です。そのような状況で、神社参拝をしたクリスチャンも出ましたが、偶像崇拝であることを悟り神社参拝を拒否して殉教するクリスチャンも出ました。朱基徹牧師も殉教なさったのです。

 朱牧師は獄に入れられますが、7ヶ月ぶりに釈放されて、1939年2月に教会の日曜礼拝で「私の五つの祈り」という説教をなさいました(以下、朱光朝著・野寺恵美訳『岐路に立って 父・朱基徹が残したもの』いのちのことば社、2012年、127~137ページより)。純粋な信仰に圧倒される、ものすごい祈りです。

 第一の祈りは「死の力に勝たせてください」です。「主を捨ててたとえ百年、千年生きたとしても、その人生に何の意味があるでしょうか。この命を惜しんで主を辱めるようなことがありませんように。この身が粉々になろうとも、主の戒めを守ることができますように。~わが愛する教会のみなさん、キリスト者は生きてもキリスト者らしく生き、死んでもキリスト者らしく死なねばなりません。~私は私の主以外の神々の前にひざまずいて生きることはできません。汚れて生きるより、むしろ死んでまた死んで主に対して貞節を守ろうと思います。」神社参拝はできないということです。

 第二の祈りは、「長い苦しみに打ち勝たせてください」です。「愛する教会の皆さん。『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます』(ローマ八・一八)。今受ける苦しみは長くとも七十年ですが、将来受ける栄光は、千年、一万年、永遠なのです。」

 第三の祈りは、「年老いた母と妻子と教会の兄弟姉妹を主にお委ねします」です。「人は、自分の身に受ける苦しみは耐えることができますが、親や妻子を思うと鉄のような心も変わってしまう場合が多々あります。~人間の複雑に絡み合っている情の糸よ、私を縛りつけるな。~親や妻子をイエスより愛する者は、イエスにふさわしい者ではありません。」

 第四の祈りは、「義のために生き、義のために死なせてください」です。「キリストの花嫁は、他の神々に貞節を与えることができません。私は若い時からイエスにあって育ち、イエスに献身すると何十回、何百回と誓いました。」

 第五の祈りは、「私の魂を主の御手にお委ねします」です。「主、イエスよ。わが魂を主にお委ねします。十字架を握って倒れるとき、わが魂をお受けください。獄中でも、死刑場でも、わが命が切れるとき、わが魂をお受けください。」朱牧師はその後、捕らえられ、あくまでも神社参拝を拒んで第一の戒めを守り抜き48歳で獄中で亡くなります。ひどい拷問の末に亡くなったのですから殺されたのと同じです。

 第一の戒めを完全に守ることは簡単ではありません。私たちは十戒の一つの戒めさえ、完全に守ることができない罪人です。宗教改革者カルヴァンは、礼拝のはじめの方で十戒を唱えることを求めたそうです。そして一つの戒めを唱えるごとに、皆で「キリエ・エレイソン」とギリシア語で歌うことを求めたそうです。「キリエ・エレイソン」は、「主よ、憐れみたまえ」という意味です。一つの戒めを唱えるごとに、その一つをさえ完全に守ることができない自分の罪を自覚します。ですからどうしても「キリエ・エレイソン」、「主よ、憐れみたまえ」という祈りに導かれるのです。十戒を100%守って生きられた方は、ただイエス様お一人です。イエス様は、十戒を守ろうと必死に努力しても、完全に守ることができない私どもの全ての十戒(律法)違反の罪の責任を背負い、十字架で死んで下さいました。そして復活されました。イエス様を救い主と信じる人は、十戒を守れなくとも、すべての罪の赦しと永遠の命をいただくことができます。

 ちなみに、律法(その代表が十戒)には3つの役割があることを、宗教改革以来、プロテスタント教会は信じて来ました。これを「律法の三用法(役割)」と呼びます。

 第一は「市民的用法(役割)」です。これは、私たちが十戒を行うことによって、社会で善と正義と愛が行われ、秩序が保たれ、社会が清く保たれるということです。実際、私たちを含め世界中の人が十戒を実行すれば、犯罪も戦争もない、非常によい社会になります。 第二は、「教育的用法(役割)」です。これは先ほど述べたことと同じで、一つ一つの戒めをよく学ぶことで自分がそれを一つも守りきれていないことを自覚し、私たちが罪人(つみびと)であるとの自覚を与え、自分の努力では救われないことを悟らせ、真の救い主イエス・キリストを求めるように導くことです。 第三は、「倫理的用法(役割)」です。これはイエス・キリストを救い主と信じて、すべての罪の赦しと永遠の命を受けた人が、聖霊に助けられて十戒を守ってイエス様に従い、愛の業に励み、清い生活をすることです。このようにプロテスタント教会では、律法(十戒)にこのような3つの役割があると信じて来たのです。

 私が神学生であった1993年3月に、学校のアジア伝道論という授業の一環で、10名ほどで約10日間、台湾の教会や神学校(計約30)を訪問したことがあります。花蓮という場所だったと記憶しているのですが、教会の牧師の方が、「この場所には太平洋戦争の頃、日本の神社が建っていました。今は神社はなく、キリスト教会が建っています。偶像の宮だった所が、真の神様の宮になりました」と嬉しそうに語られました。
 
 最後に、列王記下5章を見ます。アラム人ナアマンは、真の神様によって重い皮膚病を癒される奇跡を体験しました。そこで「僕(しもべ)は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません」と決心します。真の神様だけを礼拝すると言ったのです。ですがナアマンには立場上、そのようにできない場合があるのでした。そこで苦しかったでしょうが、預言者エリシャにこう述べます。「わたしの主君がリモン(偶像)の神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」エリシャは「安心して行きなさい」と言います。

 もちろん偶像崇拝は罪ですし、第一の戒めを守ることは信仰の基本中の基本です。ですが、日本のクリスチャンも心ならずもナアマンに似た立場に置かれることがあります。唯一の神様への信仰を強く心に持ちながら、心ならずもナアマンのように行動せざるを得ない場合があるでしょう。聖書にこのエピソードが記されているのは、神様の憐れみと感じます。ですが、このエピソードをいつも言い訳に用いて、自分の信仰をなくすことも避けるべきです。私どもの信仰はあくまでも「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず」という第一の戒めを守る信仰です。どうか神様が、私たちが生涯この信仰を貫くことができるように、助けて下さいますように。アーメン(「真実に、確かに」)。


2014-06-17 1:49:54(火)
「神の愛が注がれる」 2014年6月15日(日) 聖霊降臨節第2主日礼拝説教 
朗読聖書:イザヤ書53章1~12節、ローマの信徒への手紙5章1~11節
「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5章5節)

 この手紙を書いたのは、使徒パウロです。本日の5章の直前・4章25節に重要なことが書かれています。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」これぞ福音、神様が私たちに与えて下さった恵みです。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされる(父なる神様の前に正しいと認められる)ために復活させられたのです。」私たちがこのことを信じるならば、全ての罪の赦しを受け、永遠の命をいただくのです。「良い行いを積むことによってではなく、信仰によってのみ義とされる。」これを信仰義認と呼びます。「信仰によって義と認められる」と書きます。これこそ聖書の福音・よき知らせです。

 この大きな恵みを、ローマの信徒への手紙5章1~2節が、次のように語ります。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」 「信仰によって」という言葉が2回繰り返されています。「信仰によって義とされた」、「今の恵みに信仰によって導き入れられ」とあります。そして「神との間に平和を得て」いると言っています。私たちの罪のために断絶していた神様と私たちの間に和解と平和がもたらされました。ひとえにイエス様の十字架の犠牲の死と復活のお陰です。この和解と平和は、私たちがイエス様を救い主と信じるときに、初めて私たちのものになります。そしてパウロは、自分が「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と述べます。「神の栄光にあずかる」とは、天国入れられる、神の子イエス様に似た者とされる、復活の体という栄光の体を与えられる、などを指します。私たちにもこの希望が与えられています。

 そしてパウロは非常に深いことを述べます。希望を誇りとするだけではなく、苦難をも誇りとするというのです。なかなか言えない言葉です。私たちの自然な気持ちとしては、苦難はできるだけ避けたいと思うものです。パウロの人生の後半はひたすらイエス・キリストを宣べ伝えることに献げられましたが、それは苦難の連続でした。もちろんイエス様こそ最大の苦難を経験なさった方です。何の罪もない神の子が十字架につけられ、肉体の苦しみはもちろんですが、一体として歩んで来た父なる神様から初めて引き裂かれて死ぬ苦難は、私たちには伺い知れない深い苦難です。

 イエス様に従ったパウロも多くの苦難を経験しました。その経験を踏まえて告白するのです。3~4節「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」苦難が忍耐を生むことは分かります。忍耐は練達を生む。新改訳聖書では、練達を「練られた品性」と訳しています。人格が練られるということでしょう。苦難に耐えることで人格が練られ、清められ深められ、イエス様に似て来るということでしょう。イエス様はもともと100%清い方ですが、十字架の苦難によってさらに忍耐力を強められ、練られたのではないでしょうか。パウロも多くの苦難を通して、人格が練り清められ、イエス様に非常に近づいたと思うのです。これと似たことを多くのクリスチャンが経験しています。

 そして練達が希望を生むとパウロは説きます。イエス様も十字架の苦難と死を通って、復活に到達されました。復活こそ究極の希望です。イエス様が通られた道に似た道を私どもも通ります。イエス様が最大の苦難を味わって下さいましたので、父なる神様は私どもにはイエス様より小さな試練を与えられるでしょう。パウロはかなり大きな苦難を通りました。私たちは、イエス様やパウロほどの苦難には耐えられないかもしれません。神様は私たちに、イエス様やパウロよりは小さな十字架・試練をお与えになります。それを背負ってイエス様に従うように私たちを招かれます。そして天国・復活の命に至るように招いておられます。目に見えませんが、復活のイエス様が私たちの十字架・試練を共に背負って下さいます。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」多くの苦難を通ったパウロだからこそ語ることのできる深い真理です。

 5節はパウロの力強い言葉です。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」神様が与えて下さる永遠の命の希望は、私たちを欺くことがない確かな希望です。この希望をイエス・キリストと言い換えることもできます。「イエス・キリストは私たちを欺くことがありません。」イエス様は私どもを決して欺いたり、騙したり、裏切ることはありません。100%信頼できるお方です。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」聖霊は、神様の清い霊・愛の霊です。聖霊が注がれるとき、私たちの心は神様の清い愛と慰めを受けます。

 先週はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝でしたが、使徒言行録2章の聖霊降臨の場面を読むと、聖霊を受けた人々は恍惚の状態にあったことが分かります。ある人たちが「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざけるほどの喜びに満たされていました。もちろんぶどう酒に酔っていたのではなく、聖霊なる神様の愛に満たされていたのです。私たちも先週の礼拝では、病を経て2年ぶり以上で礼拝においでになった方をお迎えして、感謝のペンテコステ礼拝を献げることができました。多くの方々の祈りと聖霊なる神様のお働きによって、神様の愛と憐れみを味わうよきペンテコステ礼拝となりました。そして今日の礼拝もどの日の礼拝も、聖書の御言葉と聖霊による愛と慰めを受ける、幸いな時です。礼拝こそ最大の恵み、天国につながる希望の時です。

 私は1991年にある合否判定で落第して、落ち込んだことがあります。その頃毎日、旧約聖書のイザヤ書を1章ずつ読んでいて、しかし読んでも分からない日々でした。ところがその日はイザヤ書43章でした。それが有名な箇所であることを知ったのは後のことです。1節以下にこう書かれています。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は 
 イスラエルよ、あなたを造られた主は/ 今、こう言われる。
 恐れるな、わたしはあなたを贖う。
 あなたはわたしのもの。/ わたしはあなたの名を呼ぶ。
 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
 大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
 火の中を歩いても、焼かれず/ 炎はあなたに燃えつかない。
 わたしは主、あなたの神/ イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。
 わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。
 わたしの目に あなたは価高く、貴く/ わたしはあなたを愛し 
 あなたの身代わりとして人を与え/ 国々をあなたの魂の代わりとする。
 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」

この御言葉は、大変心に響きました。御言葉と共に聖霊が働かれ、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれる」、そして慰めが注がれる経験を致しました。大きな劇的な経験でなくても、このような小さな経験は多くの方が持っておられると思います。

 しばらく前の礼拝でお話しした古代教会の信仰の指導者アウグスティヌスは、31才のときに回心してクリスチャンになりましたが、その直前、自分の罪に苦しんでいたようです。すると隣りの家から「取って読め、取って読め」と何度も繰り返す子供の声が聞こえ、彼はそれを「聖書を取って読め」という神様の命令と受けとめ、素直に聖書を開いたところ、ローマの信徒への手紙13章13~14節が目に入りました。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」「この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れて、疑惑の闇はすっかり消え失せた」とアウグストゥスが自分で書いています(アウグスティヌス著、服部英次郎訳『告白』(上)、岩波書店、2012年、281ページ)。聖書の御言葉と共に聖霊が働かれ、神様の愛の光がアウグスティヌスの心に注がれたとしか思えません。

 ある牧師は少年時代に、太平洋戦争中のキリスト教会弾圧で、プロテスタントのホーリネス教会の牧師であるお父様が、もちろん何も悪いことをしていないのに連行され、1945年に青森の刑務所で亡くなる非常に辛い経験をなさいました。「私は神を呪いました」とはっきり書いておられます(辻宣道『教会生活の四季』日本基督教団出版局、1991年、15ページ)。絶望的な日々を逃れようと、中学をやめ、あえて陸軍通信兵学校という、「使い捨てる下士官製造」(同書、180ページ)の学校に入り、敗戦を迎えました。生き甲斐がなく、神も何も信じられない、魂の抜けたような数ヶ月を送られたようです。ところがクリスマスが近いある日、何気なくつけたラジオからクリスマスキャロルが流れて来たそうです。

 「私にとっては肝をつぶさんばかりの驚きでした。ラジオといえば~軍艦マーチと共に聞こえてくる『大本営発表』でした。この憎むべき機械が、あの美しいクリスマスのメロディーを聞かせているのです。寒いので昼間から布団を敷いて寝ていた私は、ガバッとはねおきました。聞き捨てならぬものを聞いた人間のようにしっかり耳をすまして聞きました。~子どものころから聞いてきたあの優しく包みこむような歌です。~大きなぼた雪が際限もなく降ってきます。そのときです。なんとしたことでしょう。私の目に涙があふれました。とめてもとめても涙がでてきました」(同書、180~181ページ)。このとき、クリスマスの讃美歌を通して聖霊が働かれ、神様の愛がこの先生の心に注がれたのだと思います。このあとすぐ神様を信じるようにはならなかったそうですが、このことも1つのきっかけとなって伝道者になられます。 私たち一人一人には、多くの場合、劇的な体験はありません。それでも洗礼を受けたとき、あるいは知り合いや教会の方から、ちょっとした親切を受けたときなどに、神様の愛を感じたささやかな経験は、どなたにもあるのではないでしょうか。

 ローマの信徒への手紙5章に戻り、6~8節。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神わたしたちに対する愛を示されました。」私たちがイエス様を信じる前に、私たちが神様に従わないで反抗していたときに、イエス様は私たちのために死んで下さったのです。

 「イエス様がこの私のために十字架で死んで下さった!」このことをいつも思っていたいのです。受難節の頃の礼拝でお話し致しましたが、私に洗礼を授けて下さった牧師に洗礼をお授けになった牧師は、比較的若くして天に召されたそうですが、受難節には首から釘をぶら下げて生活しておられたそうです。やや極端に思われるかもしれませんが、信仰の修練のひとつの方法でしょう。イエス様が自分のために十字架で死んで下さったことを忘れないその先生の方法なのです。私たち一人一人が自分なりの仕方でイエス様の十字架を心に刻めばよいのです。イエス様の十字架を予告するイザヤ書53章を定期的に読むのもよい方法です。聖餐式は、イエス様の十字架の愛と復活を心と体に強く刻む時ですから、聖餐式のある日曜日は特に心して礼拝に出席することもよい方法です(ご事情により無理な方もおられると思います)。

 私は先日、2004年に公開された映画「パッション」のDVDを買って見ました。ご覧になった方が少なくないと思いますが、ゲツセマネの祈りからイエス様の十字架の死を強烈に描いた映画です。復活も描かれています。見ていて非常に痛い痛い映画です。話題になった10年前に私も勇気を出して映画館で見ましたが、もう一生見ないくらいのつもりでした。ですがもう一度見ようという気持ちになり、DVDを買って、覚悟を決めて見ました。受難節に見るとよいかなと思います。イエス様が私たちのために苦難に耐えて下さったことを心に刻むためには、見る意味があると感じます。これは私なりの方法です。映画の冒頭に本日の旧約聖書であるイザヤ書53章5節が文字で出ます。
「彼(イエス・キリスト)が刺し貫かれたのは/ わたしたちの背きのためであり 
 彼が打ち砕かれたのは/ わたしたちの咎のためであった 
 彼の受けた懲らしめによって/ わたしたちに平和が与えられ 
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

 十字架を担いでゴルゴタの丘に向う途上で、イエス様は倒れてしまわれます。そこに母マリアが駆け寄る場面が(聖書にはありませんが)この映画にはあります。イエス様は母マリアに、「お母さん、私は全てのものを新しくします」とおっしゃいます。「十字架での死と復活によって、世界中に罪のゆるしをもたらします」という意味だろうと思います。イエス様が十字架の上で息を引き取られると、天の上から一滴の涙が落ちてきます。恐らく最愛の独り子を十字架におつけになった父なる神様の涙でしょう。この場面も聖書にはないので映画の脚色ですが、父なる神様も天で非常に辛い思いに耐えておられたことを表現しているのでしょう。

 私は昨日、お隣の西東京市の日本長老教会・西武柳沢キリスト教会で行われた講演会に行って参りました。講師は、92歳の日本基督教会の隠退牧師の方です。18歳で洗礼をお受けになり、その後、衛生兵として中国山西省孟県(うけん)に出征されました。講演の題は「私が中国で戦った『聖戦』の実態 ―戦後日本の責任を覚えて―」です。衛生兵の任務は兵士の衛生管理であり、兵士を性病にかからせないことだったそうです。若い日の先生に与えられた仕事の1つが、毎月、従軍慰安婦の中国人女性の性病検査をすることだったと話されました。先生ご自身が従軍慰安婦にされた女性と関係を持つことはなかったのですが、関係を持つ兵士に「するな」とは言えなかったと言われました。「自分は戦争犯罪人だと思う」という意味のことを言われました。もちろん戦争犯罪人としてつかまったわけではないのですが、罪の自覚がおありになるということです。イエス様は、私の罪のために、そして先生の罪のためにも十字架で死んで下さったのです。

 「本当はこのような経験を人前で話すことは辛いのだが、なぜ話すかというと、日本がまた戦争への道を歩み始めているからだ。今は(戦後ではなく)戦前だと思う」という意味のことを語られました。ドイツのクリスチャン大統領だったヴァイツゼッカー氏の「過去に目を閉ざす者は、現在にも目を閉ざす者となる」という有名な言葉をも引用されました。先生が属しておられた部隊が、ある時、中国のある部落を襲撃したそうです(先生は手を下しておられません)。襲撃の情報が事前に伝わり、ほとんどの人が逃げたあとでしたが、逃げ遅れた婦人が七名ほどおられ、その方々を捕らえて慰安婦にしたとのことです。部隊長の指示で約一週間後に解放したそうですが、私も日本人として本当に申し訳なく思います。

 私たちの国は、この過去の大罪を深く悔い改め、次の世代にしっかりと伝え、忘れないようにしないと、将来似たことをしないとも限りません。このようなひどい罪がもし赦されるとすれば、それはイエス様が十字架で、人間の罪と悪に対する父なる神様の聖なる怒りを、集中砲火を浴びるように受けて下さったからとしか言いようがありません。イザヤ書53章8節
「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。
 わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
 命ある者の地から断たれたことを。」

 ローマの信徒への手紙5章に戻ります。(8~10節)「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」 全く罪がない清い神の子イエス様が、十字架で尊い血潮を流して下さらなければ、私たちが罪の赦しと永遠の命をいただくことはありませんでした。世の終わり・神の国の完成の時、神様は悪魔と罪と死を完全に滅ぼされます。その時、罪を悔い改め、イエス様を信じる者たちは完全に救われるのです。イエス様による救いを日本人に宣べ伝えることは、簡単ではないこともありますが、しかし聖霊を注がれて、愛と勇気を与えられて、祈りを込めてこのことに取り組んで参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-06-09 21:02:54(月)
「炎のような聖霊」 2014年6月8日(日) ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教
朗読聖書:創世記11章1~9節、使徒言行録2章1~21節
「すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」(使徒言行録2章4節)

 イエス・キリストは、私たち皆の罪をすべて背負って十字架で死んで下さり、三日目に復活されました。復活後40日目に、イエス様は天に昇られました。これをキリストの昇天と呼びます(召天ではない)。イエス様が天に昇られたことは、私たちに3つの益をもたらしました。

 第一の益は、天で父なる神様の右の座に着かれたイエス様が、今も私たちのために執り成しをして下さっていることです。もちろん最大の執り成しは十字架の上でなされました。イエス様の十字架の死のお陰で、私どもが過去に犯した罪も、心ならずも今後犯してしまう罪もすべて赦されたのです(もちろんだからと言って罪を犯してよいわけではなく、反対に私たちは聖霊に助けていただいてできるだけ清い生き方を目ざすのです)。ですからイエス様の十字架による罪の赦しが不完全なのではありません。ですがそれにダメを押すように、イエス様は天で今も、私たちが日々心ならずも犯してしまう罪のために、父なる神様に執り成しをして下さっています。ローマの信徒への手紙8章34節に次のように書かれています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」ヘブライ人への手紙7章25節には、こう書かれています。「この方(イエス様)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」イエス様が天で今も執り成して下さっている。これがイエス様の昇天による第一の益です。

 第二の益は、教会の頭(かしら)であるイエス様が天に昇られたので、教会の枝である私たちが天とつながったことです。教会はイエス・キリストの体であり、教会の頭(かしら)がイエス様です。イエス様が天におられるので、私たち一人一人も今既に天にしっかりとつながっている現実に置かれています。イエス様の隣りで十字架に架けられていた犯罪人の一人が言いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)。イエス様は彼の気持ちをしっかりと受けとめ、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と約束して下さいました。この犯罪人は息絶えると直ちに天国に入れられたに違いありません。私たちも同じです。イエス様を救い主と告白し、イエス様に従うなら、死後直ちに天国に入れられます。

 イエス様が天に昇られたので、私たちと天がつながったと言いましたが、同じことを別の言い方で言うと、イエス様が天に昇られたのは、天に私たちの居場所を用意するためだったのです。イエス様は、ヨハネによる福音書14章1節以下で言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもと(天国)に迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」イエス様は、既にわたしたちのために天国に居場所を用意しておられるのです。ですから安心です。

 イエス様の昇天による第三の益は、イエス様が天から聖霊を注いで下さることです。イエス様は十字架におかかりになる前に、弟子たちに約束して下さいました。ヨハネによる福音書14章16節以下です。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」そして復活されたイエス様は、天に昇られる日に弟子たちに改めて約束されました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」この約束を受けて、弟子たちはエルサレムで泊っていた家の上の部屋に上がり、イエス様の母マリア、イエス様の兄弟たち、婦人たちと一緒に、心を合わせて熱心に祈り始めたのです。そしてイエス様を裏切って死んだユダのために一名の欠員が生じていた十二弟子(使徒)の補充を祈りによるくじ引きによって行い、態勢を整えます。そして心を合わせて祈り続けた10日後に、イエス様が約束の聖霊を注いで下さったのです。心を合わせて祈ることの大切さを思わされます。そして礼拝と共に祈祷会が重要であることを知るのです。 

 そして私たちは、天におられるイエス様を慕い見上げつつ、聖霊に助けられて「上にあるもの」を求めるのです。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(コロサイの信徒への手紙3章1~2節)。

 使徒言行録2章1~3節。「五旬祭(ギリシア語でペンテーコステー)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」神の愛に赤く燃える聖霊が力強く天から注がれました。まさに奇跡です。東久留米教会の上にも、聖霊が改めて力強く注がれるように、切に祈ります。「ほかの国々の言葉で話しだした。」これを多言語奇跡と呼ぶそうです。彼らが本来話すことのできなかった外国語で話しだしたのです。彼らが語ったのは、「神の偉大な業」(11節)です。「神の偉大な業」とはイエス様の復活ではないでしょうか。イエス様が死から甦ったこと! これは最大の奇跡です。イエス様の復活をいろいろな言語で証言したのではないでしょうか。

 エルサレムには、地中海沿岸などの多くの地域から帰って来ていたユダヤ人たちがいました。彼らは外国生まれなので、それぞれが生まれた地域の言葉で、使徒たちが語っているのを聞いてあっけにとられてしまいます。(7~11節)「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに。彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』」

 イエス様の使徒たちは神様の偉大な力をたたえ、讃美、礼拝しているのです。これは将来起こることを先取りする場面です。世界の様々な民族が真の神様を共に礼拝する。言葉が違っても、同じ神様を礼拝することで一つになる。これが世界のめざす方向です。それまでばらばらだった諸民族が、同じ神様を礼拝することで和解し、一つになる。神の国の完成の時に起こることを先取りする場面です。

 この場面の前提となるのが、バベルの塔の場面です。創世記11章1節「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」多くの言語はなく、意志疎通は容易でした。ところがその人たちは、一致団結して神様に逆らい始めたのです。(2~3節)「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。」技術が発達し始めていました。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用います。そこに都市を作ろうとしたのでしょう。一極集中が便利でよいと考えたのです。今の人の発想と同じです。(4節)「彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った。」「我々の力でできないことはない。神に等しい者になろうではないか。」技術の粋を尽くして天まで届くタワーのある町を建てようと計画しました。人間の野心、欲望、傲慢、人間中心主義です。もしかすると原子力発電所は、現代の「バベルの塔」ではないでしょうか。神様を無視して、すべてを人間の思い通りにしようとすることは思い上がりです。私たちの生き方の中心は、神様への礼拝です。人間中心ではなく、神様中心であることが必要です。そうでないと、神様を無視して一致団結した人間の集団は暴走する恐れがあります。

 神様は人間の傲慢な計画にストップをかけられました。(5~9節)「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』 主が彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」 彼らの都市造りは挫折しました。都市はいろいろな機能が集中していて住むのに便利です。しかし同時に犯罪や悪も集中しやすいのです。日本中、世界中が都市化することが果たして真の幸せか考える必要があります。リニアモーターカーまで本当に必要か、疑問を持つ人もあるでしょう。神様は、人間が団結して神様に逆らうことができないように、言語をばらばらになさいました。

 しかし人間が永久にばらばらでよいのではありません。神様は、人間が真の神様への礼拝によって一つになることを望んでおられます。バベルの塔の事件により、神様は人間を裁かれ、人間同士もばらばらになりました。この状態に和解をもたらすのは、イエス・キリストの十字架です。イエス様の十字架の死は、父なる神様と私たち罪人(つみびと)に和解をもたらすための犠牲でした。同時に、人と人との間に和解をもたらすための犠牲でした。人と人の間にも争いが起こります。お互いがイエス様の十字架によって罪赦された者として和解する。そのためにもイエス様は十字架で死んで下さいました。

 新約聖書エフェソの信徒への手紙2章14節以下を読んでみましょう。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」 「双方」とは、旧約聖書以来の神の民ユダヤ人と私たちユダヤ人以外(異邦人)です。もっと狭く解釈すれば、私たちの身近な隣人です。気の合う隣人も、やや気の合わない隣人をも含め、すべての身近な人々です。私が洗礼を受けた教会の青年会のリーダーに、韓国に留学して来られたAさんという方がおられました。Aさんは日本が朝鮮半島を植民地にしていた時代のことを研究しておられ、日本と韓国の交流・和解のために努力しておられました。Aさんがご自分の信仰と使命について語って下さったとき、今のエフェソの信徒への手紙を朗読されました。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し~。」Aさんにとって、「二つのもの」とは韓国と日本です。イエス様の十字架の死は、韓国と日本の間の敵意という隔ての壁を取り壊すためでもあったと信じておられるのです。私も全く同感です。

 ペンテコステの朝、使徒たち・イエス様の母マリア・婦人たち・イエス様の兄弟たちは聖霊に満たされ、様々な言語で神様の偉大な業を語りました。これは世界の様々な言語の民が和解して、真の神様を共に礼拝する、神の国完成の時の礼拝の先取りです。敵だった者がキリストの愛で愛し合うようになるのです。日本・韓国・中国・北朝鮮の間も早くそうなるように祈ります。私たちはこのことの実現への途上を歩んでいます。違う国の人々も、いえもっと身近なレベルで、気の合う人も気の合わない人も、和解の心をもって一緒に真の神様を礼拝する。そのような礼拝を、この東久留米教会の内部からまず実現し、次には地域の教会と合同礼拝を行えるようになるとよいですね。

 現実には、一致は必ずしも簡単ではありません。私たちは一人一人、別の個性を持っているからです。色々な違いを乗り越えて共に礼拝する共同体を作る努力が尊いのだと思います。もちろん私たちは、「真理と愛によって一致する」ことを目ざすことが必要です。真理と愛によらないのであれば、本当の一致ではないからです。真理がないのも愛がないのも困ります。

 以前読んだ「あなたに感謝致します」という祈りを思い出します。アメリカのハロルド・C・ドスター牧師という方の祈りです(阿久戸光晴『新しき生』聖学院ゼネラル・サーヴィス、1995年、105~106ページに記載されています)。そこにこのような一節があります。
 「食い違いのために、あなた(神様)に感謝致します。
   それは、私たちが憩う自己満足にくぎを刺してくれるからです。
   まことにそうです。それは、時には不一致と争いになりますが、
    しかし、神よ、食い違いなくして私たちは和合の祝福を知ることはないのです。」 

 現実の私たちは、様々な食い違いを持ちながらも乗り越えて、和解の心をもって真の神様を礼拝致します。ペンテコステの朝、弟子たちは神様の偉大な業を語りました。言語はばらばらでした。私たちの場合も、むしろ食い違いのある者同士が、それを承知で、同じ信仰告白(使徒信条)を唱えて同じ神様を礼拝することによってこそ、真にペンテコステ的な礼拝になると思うのです。食い違いを個性と考えれば、食い違う人が多くいることは、礼拝と教会の豊かさになります。

 ドスター牧師は次のようにも祈られます(前掲書)。
 「疑いのために、あなたに感謝します。
   それは、尋ね求める探求へと導くからです。
   まことにそうです。それは、時には皮肉と不信を育みますが、
     しかし、神よ、疑いなくして私たちは真理の祝福を知ることはないのです。」
 
疑いも、真理を探究する第一歩とするならば意義深くなります。

 今日の使徒言行録2章17~18節で、ペトロは旧約聖書のヨエル書を引用して、神様の聖霊が注がれる祝福を語ります。
「神は言われる。/ 終わりの時に、/ わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/ 若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、/ そのときには、わたしの霊を注ぐ。」

 旧約の時代、神の聖霊は特別な人にのみ注がれると考えられること多かったようです。モーセやダビデなどです。ですが今や神の聖霊は、イエス様を信じるすべての人に注がれるのです。若い息子や娘にも、老人にも、僕(奴隷)やはしため(女奴隷)にも。一切の差別がなくなるのです。年齢も性別も、社会での上下も関係なく、イエス様を信じるすべての人に神様の聖霊が注がれる祝福の時が来る。ペンテコステにそれが起こり、今も起こりつつあり、神の国の完成の時にそれが完全に実現します。キリストがもう一度おいでになるときまで、私たちはイエス・キリストを宣べ伝え、礼拝を重んじて、神様と隣人にお仕えしたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-06-03 17:00:44(火)
6月の聖書メッセージ 「白洋舎のキリスト教スピリット」
 「(イエスは)たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」(新約聖書・ヨハネによる福音書13章5節)

 白洋舎というクリーニング会社があります。創立者の五十嵐健治さんはクリスチャンです(以下の記述は、仁井田義政牧師のサイト『聖書に触れた人々No.6 白洋舎の創立者 五十嵐健治』と三浦綾子氏による五十嵐氏の伝記小説『夕あり朝あり』<新潮文庫>に多くを教えられました。心より感謝申し上げます)。

 意気盛んな青年になり朝鮮半島に行き、北海道に行きます。そこでだまされてタコ部屋という監視付きの強制労働所に入ってしまいますが、脱走して70キロ先の小樽に来ます。そこでクリスチャンの中島佐一郎氏に会い、イエス・キリストを知り、洗礼を受けます。聖書冒頭の言葉「始めに、神は天地を創造された」に、深い感動を覚えたそうです。それからは、朝起きると神様に、「今日一日を導いて下さい」と祈り、判断に困ると神様に、「このことをなすべきでしょうか、なさないべきでしょうか」と祈って相談するようになり、神様と共に歩む毎日になりました。

 東京で現在の三越に勤務し、後に独立して1906年に白洋舎を起ち上げます。クリーニングはすばらしい仕事ですが、当時は軽く見られていたそうです。しかし、「人さまの汚れた服をきれいにする、クリスチャンにふさわしい仕事」と考えられたそうです。弟子たちの汚れた足を洗われたイエス・キリストに従うお気持ちだったのでしょう。日曜日の礼拝に出席する生活を貫き、キリスト信仰第一の姿勢で仕事され、日本で初めてドライクリーニングを開発・実用化されたそうです。

 大きな試練もありました。ある従業員が別のクリーニング店を起ち上げ、白洋舎の従業員を雇い入れ、白洋舎のお得意客をも引っ張ったのです。白洋舎は大きなダメージを受けました。五十嵐さんも心が怒りでいっぱいになったそうです。しかし礼拝で祈ると、十字架につけられても敵をゆるしたイエス様の姿が思い浮かびました。新約聖書の言葉も思い出されたでしょう。「敵を愛しなさい」(マタイ福音書5:44)、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」(ローマの信徒への手紙12:44)、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(同12:17)。これらの言葉を思いめぐらし、心を静めてゆかれたのでしょう。

 一方、反逆した人々は内輪もめし、火災などトラブルを起こし、解散に終わったそうです。悪いことをすると、結局、神様に懲らしめられるのです。ですから私たちも悪を行って神様に逆らうことなく、五十嵐さんのようにイエス様に喜ばれる正しい道、神様と人々を愛する道を選び取って、真の意味で平安な生き方をしたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-06-02 16:09:32(月)
「解放の時が近い」 2014年6月1日(日) 復活節第7主日礼拝説教  
朗読聖書:ダニエル書7章1~14節、ルカによる福音書21章20~28節
「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭をも上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカによる福音書21章28節)

 わたしたちが、世の終わりに向かってどのように生きるべきか。イエス様は本日の箇所でこのことを教えて下さいます。イエス様は今日の前半で、まずエルサレムの滅亡を予告されます。そして後半で、エルサレム滅亡より後の時代に、イエス様がもう一度おいでになって神の国を完成なさる希望の時のことを述べられます。最初の20節「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。」イエス様がこれを語っておられるのは、紀元30年頃です。この預言は的中してしまいました。ユダヤの人々は、独立を目指してローマ帝国に対する反乱を起こします。それは紀元66年に始まり、70年8月の神殿炎上、70年9月のエルサレム破壊によって終わりました。これを第一次ユダヤ戦争と呼びます。

 イエス様の目には約40年後のこの光景が見えていました。ですからおっしゃいます。(21~22節)「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都(エルサレム)の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。」
ローマ軍が迫って来たとき、エルサレムにはクリスチャンたちもいました。彼らは「町の外にある家に集まり、この暗黒の時から家族や国が救われるようにと祈っていた」(ミリアム・ファインバーグ・ヴァモシュ著・中川健一訳『イエス時代の日常生活』ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、18ページ)彼らはイエス様の言葉をよく覚えていたようです。「都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。」同じイスラエル人たちを見捨てるようで辛かったかもしれませんが、彼らはエルサレム陥落に先立ってヨルダン川の東、デカポリスの町の一つペラなどに避難したそうです(同)。そこでイエス様を信じる新しい共同体を作っていったそうです。エルサレムと共に滅びる道を避けたのです。

 「書かれていることがことごとく実現する報復の日」とは、旧約聖書で予告されている神様の審判が実現する日ということです。その旧約聖書はホセア書9章7節などであろうとされています。そこにはこう書かれています。
「裁きの日が来た。/ 決済の日が来た。/ イスラエルよ、知れ。
 お前の不義が甚だしく、敵意が激しい~。」
「イスラエルの民の不義が甚だしく、神様への敵意と反抗が激しいために、神様の審判の日が来た」という意味です。同じことがイエス様の時代にも起こったのです。
イエス様はこの三日後に十字架につけられて殺されます。イスラエルは、神の子を殺すという非常に大きな罪を犯すのです。これほど大きな罪を犯して、無事に済むはずがありません。イエス様はこの民が父なる神様に逆らい、自ら滅びを招いていることを悟り、深く悲しんでおられるのです。
 
 (23節)「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。」妊娠中の女性や赤ちゃんを抱く女性は、どうしても早く逃げることができません。この日はそれほど厳しい日になるというのです。(24節)「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。」第一次ユダヤ戦争を体験して生き延びたヨセフスという人が書いた記録によると、イスラエルの住民110万人が殺害され、9万7000人が捕虜となったということです。恐るべき敗戦です。(24節後半)「異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」

 第一次ユダヤ戦争の後、2世紀前半に第二次ユダヤ戦争が起こり、これもイスラエルの敗北に終わります。イスラエル人は皆、ガリラヤあるいはさらに遠くまで追放されたそうです。エルサレムという名前もローマ人によって、「アエリア・キャピリナ」という別の名前に変えられてしまったそうです。イスラエルには偶像の神殿が次々と建てられたそうです。イスラエルの痕跡を抹殺するためです。ですがその神殿も2世紀後には壊されたそうです。「異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」異邦人に踏み荒らされる時代は、イスラエルの屈辱の時代、試練の時代です。しかし「完了するまで」とありますから、それは永久ではないのです。試練の時は永久ではなく、神様がお決めになった時に終わりを告げるのです。ここまでが、イエス様が深い悲しみを込めて語るエルサレムの滅亡の預言です。

 エルサレムの滅亡はイスラエルの民にとって、世の終わりと感じられる大きな試練ですが、それがそのまま世の終わりではないのです。次にイエス様は、世の終わりについて語られます。「人の子が来る」という小見出しのところです。(25節)「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。」天変地異、自然災害のことでしょうか。「海がどよめき荒れ狂う」と聞くと、どうしても3年少し前の東日本大震災の時の大津波を思います。(26節)「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」地球も天体の一つです。あの大地震の日、東久留米の土地も波打つのを私も体験しました。原発事故のニュースを聞きながら生きた心地がしませんでした。世の終わりとは思いませんでしたが、それに近い気持ちを抱きました。(27節)「そのとき、人の子(イエス・キリスト)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」これはイエス・キリストがもう一度おいでになるときの様子です。雲は旧約聖書以来、神様がそこにおられるしるしです。

 本日の旧約聖書は、ダニエル書7章1~14節です。前半に4つの獣が出て参ります。獅子はバビロン帝国、熊はメディア帝国、豹はペルシャ帝国、第四の獣(巨大な鉄の歯を持っている)はマケドニア帝国の象徴と言われます。第四の獣に十本の角があり、さらにもう一本の小さな角が生えて来ますが、これはシリア帝国の王アンティオコス4世と言われます。これらの帝国や王が非常に横暴に振る舞い、権力をほしいままにしたのです。多くの人々を踏みにじる悪を行いました。しかし悪が永久に勝つのではありません。愛と正義の神様の国が必ず来るのです。神の国の完成こそ、私たちの真の希望です。神様が悪魔と悪を滅ぼす最後の審判の様子が記されています。9節の途中から10節。
「なお(ダニエルが)見ていると、
 王座が据えられ/ 『日の老いたる者』(神様)がそこに座した。
 その衣は雪のように白く/ その白髪は清らかな羊の毛のようであった。
 その王座は燃える炎/ その車輪は燃える火 
 その前から火の川が流れ出ていた。
 幾千人が御前に仕え(礼拝するという意味でしょう)/ 幾万人が御前に立った。
 裁き主は席に着き 巻物が繰り広げられた。」

そして13~14節には、「人の子」と呼ばれるメシア・救い主が登場します。
イエス・キリストこそ「人の子」であることが、新約聖書に至ってはっきりします。
イエス様が雲に乗って地上にもう一度おいでになり、次に父なる神様の御前に服従され、神の国の王になられるのです。
「夜の幻をなお(ダニエルが)見ていると、
 見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り
 『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み/ 権威、威光、王権を受けた。
  諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/ 彼の支配はとこしえに続き 
  その統治は滅びることがない。」

 ルカによる福音書に戻り28節「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」天体が揺り動かされ、私たちがこの世界に何が起こるのかとおびえ、気を失うような時があるが、それは神の国の完成のための産みの苦しみだということではないでしょうか。神の国が必ず来るのです。イエス様は、ヨハネによる福音書16章33節でおっしゃいます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 最後の勝利者は、地震でも津波でも悪魔でも死でもなく、イエス・キリストなのです。そのイエス様が今は目に見えなくとも聖霊として共におられ、必ず見える姿でもう一度おいでになります。それが解放の時、私たちの最終的な救いの時、神の国の完成の時です。その時は、確実に近づいているのです。だから困難の中にあっても、いつも目を覚まして聖霊に促されて祈り続けなさいというのです。

 キリスト者は困難の中でも、神様に祈ることができます。皆様も関西の地震、東日本の地震・津波、原発事故の時に、祈られたでしょう。私も祈りました。様々な危機に際して私たちは、神様の助けを求めて祈ります。神様は祈りに応えて、様々な危機を乗り越えさせて下さいました。

 少々古い話ですが、私が生まれる4年前の1962年10月にキューバ危機という事件がありました。アメリカと旧ソ連が核戦争に突入するかとさえ危ぶまれた危機です。世界の人々の心を凍りつかせた事件と聞きます。当時のローマ教皇ヨハネ23世(今でも敬愛されている教皇)がソ連とアメリカの和解のために動いたそうです。その前にもちろん祈ったでしょう。全世界の人々も祈ったはずです。ヨハネ23世はアメリカのケネディ大統領にメッセージを送ったそうです。「聞えないか、全世界の人びとの恐怖の声が……」(犬養道子『和解への人―教皇ヨハネ二十三世小伝―』岩波書店、1990年、73ページ)。そしてソ連の最高指導者フルシチョフにも「友人の書簡」を送ったそうです。「世界を救う力をあなたは持っておられる」(同)。自制を求めるこの書簡はフルシチョフの心にインパクトを与えたそうです。後に彼は、「あのときの、ヨハネ二十三世の和への努力こそ、歴史に長くとどめられるべきものである」(同書、74ページ)と述べたそうです。

 「自然災害などの危機が襲っても、絶望してはならない」、これがイエス様のメッセージではないでしょうか。イエス様は既に復活され、悪魔と死に勝利しておられます。そのイエス様が必ずもう一度来られるのですから、私どもは様々な危機の中にあっても、時が良くても悪くても、絶望しないでますます祈りを熱くし、イエス・キリストを宣べ伝え、イエス様に喜ばれる小さな愛の業を行うのです。それは必ず神の国につながり、無駄に終わることがないのです。宗教改革者マルティン・ルターの有名な言葉が思い出されます。「たとえ明日世界が終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える。」実に励まされる言葉です。「たとえ明日世界が終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える。」世界が終わっても、次に来るのは神の国です。私たちが行う小さな愛の業は、神の国で必ず生きるのです。ですからいつも希望を失わないのです。ルターはこうも言ったそうです。「悲しむ理由よりもっと多く、喜ぶ理由が私たちにはある。なぜなら神に望みをおいているのだから。」これもすばらしい言葉です。「悲しむ理由よりもっと多く、喜ぶ理由が私たちにはある。なぜなら神に望みをおいているのだから。」

 「あなたがたの解放の時が近い」という御言葉から連想するのは、ローマの信徒への手紙13章11節以下です。使徒パウロが似たことを書いています。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」 神の国は確実に近づいているのです。だから酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみという罪深いことを捨て、救い主イエス・キリストを信じなさいというのです。

 この箇所から連想するのは、古代教会の霊的な指導者の一人となったアウグスティヌス
(354~430年)です。若い頃のアウグスティヌスはまさに放蕩息子でした。彼はある女性と同棲するようになり、18歳で父親になります。息子が13歳のときにこの女性と別れますが、アウグスティヌスの心は情欲と野心でいっぱいでした。お金持ちの女性と結婚することになりますが2年間待たなければなりませんでした。それに耐えられず、何と別の女性と関係を持ちます。あきれた話です。ですがアウグスティヌスの魂の奥底には、真理を求めて飢え渇く心もあったと思われるのです。但しそれでも彼の生き方は情欲に染まっていました。イエス様はヨハネによる福音書8章34節で、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」とおっしゃっていますが、アウグスティヌスはまさに罪の奴隷状態にありました。当時そのような人は多かったらしいのですが、だからと言ってそのような生き方が神様の前に正当化されるわけはありません。彼には、聖書よりもマニ教という宗教にのめり込んだ時期もありました。

 アウグスティヌスの母モニカは非常に熱心なクリスチャンで、息子の生き方を見て非常に心を痛め、息子が罪を悔い改めて救われるように、涙を流しながら長年熱心に祈っていたことで有名です。息子が長年悔い改めないので、母モニカは何回も「もうだめか」と絶望しかけましたが、あきらめずに涙を流しながら祈り続けました。行き詰まったときに、司教アンブロシウスに「涙の子は滅びることはない」(宮谷宣史『アウグスティヌス』清水書院、2013年、120ページ)と言われた言葉に希望を与えられ、支えられました。これは、「涙を流して祈り続けてくれる家族や友がいる人の魂は、必ず救いに導かれる」ということでしょう。心を打つ励ましです。

 そして遂にモニカの長年の祈りが実を結ぶ時が来たのです。アウグスティヌス31歳のときです。彼は自分の罪に気づき、自分の罪に悩むようになっていました。そして涙が激しく流れ出て来たのです。それは自分の罪を悔いる涙であり、悔い改めの涙に近かったと思われます。そして祈りました。「主よ、いつまでなのか。あなたはいつまで怒っているのか。わたしたちの犯した古い不義のことを思い出さないで下さい」(アウグスティヌス著・服部英次郎訳『告白(上)』岩波文庫、2012年、280ページ)。アウグスティヌス自身が書いています。「わたしの心はひどく苦しい悔恨のうちに泣いていた。すると、どうであろう、隣りの家から、男の子か女の子かは知らないが、子供の声が聞こえた。そして歌うように、『取って読め、取って読め』と何度も繰り返していた。~それでわたしは溢れ出る涙を抑えて立ち上り、わたしが聖書を開いて最初に目にとまった章を読めという神の命令に他ならないと解釈した。わたしはアントニウスについてこういうことを聞いていたのである。かれはたまたま来合わせた教会の福音書朗読で、そのとき読まれていた言葉を自分に対する訓戒と考えた。『行ってあなたの持ちものを売り払い、貧しい人々に施せ。そうすればあなたは天に宝を得るであろう。それから来てわたしに従いなさい』。それでかれはこのような神の御声に従って、ただちにあなたのもとに立ち帰ったというアントニウスの話を聞いていた。~わたしはそれ(聖書)を手に取ってみて、最初に目に触れた章をだまって読んだ。『宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと嫉みを捨てても、主イエス・キリストを着るがよい。肉の欲望を充たすことに心を向けてはならない。』~この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れて、疑惑の闇はすっかり消え失せたからである」(同書、280~281ページ)。 (アントニウス:251年頃エジプト生まれ、356年没。砂漠での修道士生活の創始者とされる人)。

 彼に神様の聖霊が注がれたのでしょう。「たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れて、疑惑の闇はすっかり消え失せた」とは、聖霊が注がれたからとしか思えません。アウグスティヌスはイエス・キリストの十字架のお陰で、自分の罪がすっかり赦されたことを悟ったに違いありません。そして彼は宴楽と泥酔、好色と淫乱の生活を捨て、主イエス・キリストを救い主と信じる新しい生き方に入ったのです。これが有名なアウグスティヌスの回心です。場所はイタリアのミラノの庭園です。その後のアウグスティヌスは、教会の霊的指導者として成長してゆきます。彼の信仰は後世に多くの感化を及ぼしたとのことです。彼は著書『告白』の冒頭に近い部分に、「あなた(神様)は、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじない~」(同書、5ページ)というよく引用される言葉を記しています。 

 イエス・キリストは、私たち全員の罪をすべて背負って十字架で死なれ、三日目に復活されたのです。私たちの罪は約2000年前に、イエス様によって既に解決されています。あとは私たちが、この恵みの現実を受け入れ、自分の罪を悔い改めることだけが残されています。今改めてイエス・キリストを救い主として信じましょう。すると私たちは永遠の命を受けます。これこそ究極の希望です。しかも父なる神様は、イエス様をもう一度地上に送って下さり、神の国の完成して下さいます。このような究極に希望を与えられていることを感謝し、厳しい現実の中にあっても祈り賛美しながら、ご一緒に神の国を目指して歩み続けたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。