日本キリスト教団 東久留米教会

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2015-06-03 0:49:04(水)
「大胆に神の御言葉を語る」 2015年5月31日(日) 聖霊降臨節第2主日礼拝説教
朗読聖書:詩編2編1~12節、使徒言行録4章23~36節
「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」
                            (使徒言行録4章29節)。

 先週のペンテコステ礼拝で、私たちは使徒言行録2章の聖霊が降る場面を読みました。その日、何と三千人ほどが洗礼を受けてクリスチャンになったようです。次の3章で、ある出来事が起こります。イエス様の弟子のペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時間に神殿に上りました。そこに生まれながらに足の不自由な男が運ばれて来ました。その人は40歳を過ぎていました。平均寿命が仮に55歳くらいだったとすると、若いとは言えない年齢です。ペトロが彼に言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして右手を取って彼を立ち上がらせました。すると彼はたちまち、足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだし、神様を賛美したのです。驚いた民衆が、ペトロとヨハネの所へ一斉に集まって来ました。ペトロは、イエス・キリストの復活を力強く説教しました。それを見て苛立ったのが、神殿にいた祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々です。サドカイ派は、復活ということはあり得ないと日頃から信じていたので、特に苛立ったのだと思います。彼らはペトロとヨハネを捕らえて翌日まで牢に入れました。

 次の日、エルサレムのそうそうたる偉い人たちが集結して、ペトロとヨハネに圧力をかけます。集まったのは、最高法院の議員、長老、律法学者たち、大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロという大祭司一族です。ペトロとヨハネは聖霊に満たされて恐れず、「イエス・キリスト以外のだれによっても救いは得られない」と述べます。議員や他の者たちは、決してイエス・キリストの名によって話したり、教えてはならないと命令しました。しかしペトロとヨハネは、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と答えました。議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放しました。そして本日の4章23節以下に入るのです。ここの小見出しは、「信者たちの祈り」です。

 (23節)「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。」一時的にせよ牢に入れられ、イエス・キリストの名によって語るなと脅しを受けたと報告したのです。仲間とは何人くらいだったのか。4章4節には、男の数が五千人ほどになったと書かれていますが、まだ彼らが揺るがない仲間だったかどうかは分かりません。最初祈っていたのは120人ほどですから、揺るがない仲間は120名から少し増えたくらいだったかもしれません。エルサレムで力を持つ人々に脅されたのですから、怖いと思った人もいたでしょう。彼らは今こそと神様に助けを求めて祈ったのです。(24節)「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。『主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。』」この神様が、地球と宇宙全体の造り主であることを認めて、共に祈り始めたのです。

 そして、本日の旧約聖書・詩編の第二編を引いて祈ります。25節の前半「あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。」詩編第二編はダビデの作品なのでしょう。しかし真の作者は聖霊なる神様です。ダビデが聖霊に感じて作った詩編が第二編です。これは聖霊なる神様による預言なのです。25節後半と26節「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。」「諸国の民」は、異邦人と同じことです。メシアとは、ヘブライ語で「油を注がれた方」の意味であり、救い主キリストを指します。この場合の油は、人を聖なる者として分かつ時に注ぐ聖なる香油です。この詩編第二編の預言通りになったと、人々は聖霊に導かれて祈ります。

 詩編第二編がどのように実現したのか。(27~28節)「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。」 26節の「地上の王たち」は複数ですが、現実にはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスがイエス様を尋問しました。同じく26節にあった「指導者たち」も複数ですが、現実にはローマから派遣されていた総督ポンティオ・ピラトがイエス様を十字架につける誤った決定を下しました。異邦人は(ピラトも異邦人ですが)、イエス様を十字架につけたローマの兵士たちでしょう。そして神の民であるイスラエルの民も、イエス様を十字架に追いやりました。それは大祭司、祭司長たち、律法学者たち、群衆です。

 「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。」なぜ人間は神の子を十字架につけるような愚かなことを行うのか。ダビデは聖霊に導かれて、このように嘆いたのです。それは人間の罪です。27節に「聖なる僕イエス」とありますが、まさにイエス様は僕として生きて下さいました。イエス様はマルコによる福音書10章43節以下で、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とおっしゃり、十字架の死に至るまで父なる神様に従順に仕える僕として生きて下さいました。イエス様はまさに聖なる僕です。

 人々はこぞって聖なる僕イエス様に逆らい、イエス様を十字架につけて殺したのです。イエス様の十字架の死は、人間のすべての罪が出尽くすような場面です。悪魔が勝利したかのような場面です。しかしもっと高い視点から見るならば、それは父なる神様のご計画の実現です。旧約聖書のイザヤ書53章は「苦難の僕」の姿を描いていますが、「苦難の僕」はもちろん十字架につけられるイエス様です。「彼が担ったのはわたしたちの病/ 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/ わたしたちは思っていた/ 神の手にかかり、打たれたから/ 彼は苦しんでいるのだ、と。/ 彼が刺し貫かれたのは/ わたしたちの背きのためであり/ 彼が打ち砕かれたのは/ わたしたちの咎のためであった。/ 彼の受けた懲らしめによって/ わたしたちに平和が与えられ/ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。~/ わたし(神様)の僕は、多くの人が正しい者とされるために/ 彼らの罪を自ら負った。」多くの人が正しい者と認められるために、聖なる僕イエス様は、十字架にかかられたのです。父なる神様の御心に服従され、十字架を背負いきられたのです。イエス様を十字架に追い込んだヘロデ・アンティパス、ポンティオ・ピラト、ローマ軍の兵士、イスラエルの大祭司、祭司長たち、律法学者たち、群衆。彼らは確かに悪を行ったのですが、しかしもっと高い視点から見れば父なる神様のご支配の下にあったのです。

 神様が全てを支配しておられることを確信して、クリスチャンたちは心を一つにして神様に願い求めます。(29節)「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」エルサレムの権力者たちの脅しに負けないで、今こそ恐れずに、勇気をもって救い主イエス・キリストを宣べ伝えることができるようにして下さい、と祈ったのです。東久留米教会の今年度の標語聖句です。「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」クリスチャンたちがこう祈ったとき、彼らは脅されていたのです。イエス・キリストの名によって語ってはならないと脅迫されていました。怖かったと思うのです。その怖い思いをはねのけるように、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈ったのです。私たちも、十字架にかかって三日目に復活なさったイエス・キリストを、勇気をもって大胆に伝えたいのです。

 勇気をもって大胆に御言葉を語った人に、ナチスに捕らえられたパウル・シュナイダー牧師が挙げられます。キリストに従う人であったシュナイダー牧師は、ブッヘンヴァルトという場所の強制収容所に入れられます。同じ収容所に入れられていたカトリックの聖職者が、次のように記録しているそうです。「平屋造りの牢獄の前には、大きな集合場所があり、朝夕囚人たちが集められ、点呼され、さまざまないやがらせを受けねばならなかったのである。特別な祝日には牢獄のうっとうしい格子窓から、点呼の間の静けさを破って、突然シュナイダー牧師の力強い声が響き渡った。彼は預言者のように、祝日の礼拝を守ったのである。たとえば復活節に、このようなみ言葉を私たちは聞いたのであった。『かく主は語りたもう。われは復活なり、命なり!』この大胆な勇気と意志の力に心の底まで揺り動かされて、囚人の列はたたずんでいた」(辻宣道『教会生活の四季』日本基督教団出版局、1991年、62ページより、レオンハルト・シュタインヴェンダー著『強制収容所のキリスト』<日本基督教団出版局>を孫引き)。シュナイダー牧師はすぐに殴り倒されたそうです。このような暴力を受け続けて、1939年7月14日に42歳で亡くなり、天国に行かれました。彼は拷問に負けない強い意志の持ち主でした。脅しに屈しないで、思い切って大胆に御言葉を語り続けたのです。そして殉教の死を遂げました。この方の勇敢な信仰に、私たちも励まされたいのです。

 クリスチャンたちはさらに祈ります。30節「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」「神様、どうか御手を伸ばして下さい」と人々は祈りました。神様の御手には全能の御力があります。その全能の御力を発揮して下さいと祈ったのです。私たちも大胆に、粘り強くそう祈りましょう。「聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業(奇跡)が行われるようにしてください」と祈りましょう。祈りの結果が31節に記されています。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」場所が揺れ動いたことは、神様がおられるしるしです。「語りだした」は文法的には未完了形であり、「語り続けた」の意味です。教会が今に至るまでイエス・キリストの十字架と復活を語り続けている、世の終わりまで語り続けてゆく、ということです。

 旧約聖書の詩編第二編をも開いてみましょう。これは確かにイエス・キリストを予告する詩編です。2節は、本日の使徒言行録に引用されていました。文言がやや違いますが、意味は同じです。「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/ 人々はむなしく声をあげるのか。/ なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/ 主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。」 このような神への反抗は、神によって打ち破られます。4~6節にそのことが記されています。「天を王座とする方(神様)は笑い/ 主は彼らを嘲り/ 憤って、恐怖に落とし/ 怒って、彼らに宣言される。『聖なる山シオンで/ わたしは自ら、王を即位させた。』」これは人間の罪と悪に対する、神の勝利宣言です。かつてナチスが勝利に勝利を重ねてヨーロッパを支配しかけていたとき、カール・バルトという牧師(神学者)はナチスの滅亡を予告したそうです。神に逆らう者は必ず滅びるのです。6節の「聖なる山シオンで/ わたしは自ら、王を即位させた」は、シオン・エルサレム郊外で茨の冠を被せられて十字架で死なれ、復活された世界の真の王イエス様を指すのではないでしょうか。

 (7節)「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子/ 今日、わたしはお前を生んだ。』」この7節は、使徒言行録13章33節に引用されています。そこではこの7節が、イエス様の復活の約束を語っていると述べられています。すなわち使徒言行録13章30~33節に次のように書かれています。「わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子/ わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。」

 詩編第二編8~9節には、「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/ 地の果てまで、お前の領土とする。/ お前は鉄の杖で彼らを打ち/ 陶工が器を砕くように砕く」と書かれています。「わたし」は神様で、「お前」はイエス・キリストを指します。ヨハネの黙示録12章5節でイエス・キリストについて、「この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた」と書いてあるからです。「わたしは国々をお前の嗣業とし/ 地の果てまで、お前の領土とする。/ お前は鉄の杖で彼らを打ち/ 陶工が器を砕くように砕く。」この御言葉は、イエス・キリストこそ全世界を治める王であることを告げています。詩編第二編は全体として、確かにイエス・キリストを預言する詩編なのです。

 使徒言行録4章に戻り、32節以下をも見ます。「持ち者を共有する」という小見出しでまとめられています。(32~33節)「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」これを原始共産制と呼ぶことがあります。皆が聖霊に満たされていましたから、心もイエス様に似た状態にあったのでしょう。「受けるよりは与える方が幸い」という気持ち、与える愛、兄弟愛に燃えていたのです。誕生したばかりの愛の共同体・教会の理想的な状態です。今の教会もこのようになることができれば理想的ですね。世界全体がこのようになれれば、すばらしいですね。それを阻んでいるのは、私たちの自己愛、欲望、罪です。それを悔い改める必要があります。聖書の言葉ではありませんが、「奪い合えば足らぬ。分け合えば余る」という言葉があります。分け合う信仰に生きてゆきたいのです。

 (34~35節)「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売って代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」驚くべき愛です。土地や家を持っている人が皆、それを売って代金をすべて使徒たちに渡した、教会に寄付したのです。教会はそれを自分のために使ったりせず、貧しいクリスチャンたちに分配しました。申命記15章7~8節の御言葉を思い出しました。「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。」そして10節には、「彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。」最初期のクリスチャンたちは、この通りに生きたのです。

 使徒言行録に戻り、36~37節。「たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ―『慰めの子』という意味―と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」バルナバはパウロと共に神様への奉仕に生きる人です。本名はヨセフで、バルナバは「慰めの子」という意味のニックネームです。旧約聖書のノアの名は「慰め」の意味だと創世記5章に書かれています。バルナバはノアにも似た信仰の人、慰め主なる聖霊に満ちた人だったのでしょう。私どもは、初代教会のクリスチャンたちのように、折りが良くても悪くてもイエス・キリストを宣べ伝え、兄弟愛に生きる教会を作らせていただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-05-27 14:01:18(水)
「聖霊によって語る弟子たち」 2015年5月24日(日) ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教
朗読聖書:民数記11章24~30節、使徒言行録2章1~21節
「一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」
                          (使徒言行録2章4節)。
     
 イエス様は、私たちのすべての罪を背負って十字架で死なれました。そして三日目に甦らされたのです。そして40日に渡って人々の前に現れ、神の国について話されました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」聖霊が注がれるまで待ちなさいと言われたのです。そして復活の体で天に上ってゆかれたのです。その後、弟子たちは2つのことを行いました。一つ目は集まって熱心に祈ることです。これは今でも非常に大切です。教会は事あるごとに集まって祈ります。もう一つはユダの死によって欠員が生じた十二弟子・十二使徒の補充をすることです。ヨセフ(イエス様の父とは別人)とマティアという二人の候補者が立てられ、人々は祈りました。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」こう祈ってくじを引きました。するとマティアに当たったので、神様のご意志が示されたと確信し、人々はマティアを十二弟子・十二使徒に加え、態勢を整えました。こうしてなすべきことをなして祈り続け、五旬祭の朝を迎えたのです。

 五旬祭は、ユダヤ人の三大祭り(過越祭、七週祭、仮庵祭)のうちの七週祭で、小麦の収穫の初穂を神様に献げる日、いわば収穫感謝祭でした。五旬祭をギリシア語でペンテコステーと言います。ペンテコステーとは「第五十、五十番目」の意味です。(1~3節)「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」驚くべきことです。百二十人ほどの人々が一つになって祈っていたのです。そこに炎のような真っ赤な舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。神様の燃える強烈な愛の霊が下り、一人一人に分け与えられたのです。神様はこうして一人一人に異なる賜物、異なる能力を与えて下さるのです。(4節)「すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」聖霊の力によっていきなり外国語で語り出したのですから、誰しも驚きます。

 (5~6節)「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」この時代、既にユダヤ人はイスラエルだけでなく、地中海沿岸の各地に広がって住んでいました。この頃の日本は弥生時代で、文字さえありませんでしたが、中近東は非常に文化が発達していました。そのほとんどがヘブライ語で書かれているユダヤ人の聖書(私たちが旧約聖書と呼ぶ書物)の形はほぼ固まりつつあり、しかもそれが既に地中海沿岸地域の共通語であるギリシア語に翻訳されていました。その地中海沿岸のいろいろな地域に住んでいたユダヤ人は、イスラエル生まれでなかったので(ヘブライ語も話すことができたでしょうが)、生まれた地域の言語を使っていました。後に使徒となるパウロも、ローマ帝国キリキア州のタルソス生まれであり、ヘブライ語とギリシア語を話すことができました。人々は非常に驚きました。聖霊を受けた人々が、聞いている人々の生まれ故郷の言葉(ヘブライ語でない言葉)で語っていたからです。この奇跡を多言奇跡と呼びます。

 (7~8節)「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』」「ガリラヤの人」という言い方にやや蔑み、「この人たちは皆、学のない田舎のガリラヤ人ではないか」という響きがあるように思います。マタイ福音書4章には、「異邦人のガリラヤ」という言い方が出て来ます。ユダヤ人は異邦人を低く見ていました。イエス様がお育ちになったナザレはガリラヤの中にありますが、ナザレは旧約聖書に一回も登場せず、ヨハネによる福音書1章ではナタナエルという人が「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と発言しています。イエス様の弟子の多くはガリラヤ出身でしたが、イスラエル社会で重んじられている人々でなかったことは確かでしょう。しかし神様は、あえてその人々に、尊い聖霊を注いで、奇跡的に外国語を語らせて下さったのです。

 (9~11節)「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」ここには15の地名が登場しています。アジア、アフリカ、ヨーロッパの地名です。これほど多くの地域の言葉が語られていたのです。多くの言語による賛美の礼拝が献げられていたと言えます。

 語られていたことは、「神の偉大な業」です。神の偉大な業とは、イエス様が私たちのすべての罪を背負って十字架で死んで下さったこととイエス様の三日目の復活でしょう。特に復活は、まさに神の偉大な業です。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」東久留米教会の今年度の標語聖句は、使徒言行録4章29節、「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」です。まさに人々は聖霊を受けて、思い切って大胆に神様の御言葉を語っておりました。私たちも聖霊を注がれて、思い切って大胆に神様の御言葉を語りたいのです。

 ここでは偉大な奇跡によって、多くの言語で神の偉大な業が語られました。これはここから世界伝道が始まることを予告しています。その後、神様の言葉である聖書は、多くの人々の忍耐強い愛の努力によって、多くの言語に翻訳されました。聖書をヘブライ語やギリシア語から日本語に翻訳することも、大変な努力です。世界には約6600の言語があるそうで、2012年末現在、聖書は2551の言語に翻訳されているそうです(部分訳を含む)。私は1993年3月に東京神学大学のアジア伝道論という授業の一環で、10名くらいの方々(宣教師と神学生たち)と一緒に台湾の諸教会を訪問する10日間の旅をしました。その時、高雄市にある台南神学院という神学校にも行きました。台湾の言語状況は複雑で、今多くの人々は北京語を話しますが、北京語が入ったのは基本的に第二次大戦後でしょうから、台湾の原住民と呼ばれる方々もおられます。この方々は原住民という呼び名に誇りをもっていると聴きました。原住民の言語は10言語ほどあると聞いた記憶があります。台南神学院で、その一つ一つの言語に聖書を翻訳する作業が行われているようでした。北京語に訳して終わりではなく、原住民の言語に聖書を翻訳する、その人々が一番親しんでいる言葉に翻訳する作業です。このような地道な努力が積み重ねられて、2551あるいはそれ以上の言語に翻訳されているのですね。ペンテコステの朝に聖霊の力で一瞬に起こった多言奇跡が、その後の多くの人々の祈りに満ちた翻訳の努力によって、本質的に同じことが継続しているのです。本日はペンテコステ礼拝ですが、あるキリスト教の高校では、アラビア語、スワヒリ語など約20の言語で聖書を朗読して、ペンテコステ礼拝を行うのだそうです。

 12~13節に、聞いた人々の反応が記されています。「人々は皆、驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」聖霊は神様の清き愛と喜びの霊ですから、聖霊を受けた人々は天からの清き愛と喜びに酔いしれていました。それで酔っているように見えたのです。本日の招きの言葉・ローマの信徒への手紙5章5節には、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」とある通りです。

 ところで、聖霊によって語られていることは、聞く人も聖霊を受けないと理解できません。神の言葉を聞く人も聖霊を受けないと、神の言葉が分からないのです。それでとまどう人やあざける人が出ました。特に復活信仰は嘲りの対象になりやすいと思います。使徒言行録17章でパウロは、アテネの人々に大胆にイエス様の復活を宣べ伝えました。死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った、と書かれています。イエス様が復活なさった事実は、聖霊を受けないと信じることができません。聖書を読んでも、聖霊に助けられて読まないとよく分からないのです。ですから私たちを含め全ての人が聖霊を受けることが必要です。私たちはそのために祈ってゆきたいのです。

 さて、あざける人もいる中で、イエス様の一番弟子ペトロが、十一人の共に立ち上がって声を出し、勇敢に説教を始めたのです。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。』」旧約聖書ヨエル書のこの預言が実現して、聖霊が注がれたのだとペトロは言っています。その通りです。

 旧約の時代は、聖霊は王・祭司・預言者など特別な人に注がれる傾向がありました(絶対そうではなかったのですが)。しかしヨエル書の預言によると、終わりのときには、神の清き霊・聖霊は、すべての人に注がれるのです。息子にも娘にも、若者にも老人にも、僕(直訳では奴隷)やはしため(直訳では女奴隷)にも差別なく、です。(20~21節)「主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」「主の偉大な輝かしい日」とは、イエス様がもう一度おいでになって神の国を完成して下さる輝かしい日でしょう。その前に日食と月食、天変地異があるということでしょうか。「太陽が暗くなる」は日食でしょうか。「月は血のように赤くなる。」今年の4月9日(木)夜に皆既月食がありました。私も空を見ましたが、残念ながら曇っていて月は見えませんでした。しかし地域によっては赤い満月が見えたそうです。月が赤く見える現象があるそうなのですが、光の具合によって赤く見えるのでしょう。「月は血のように赤くなる」は月食を指すのではないかと思います。あまり気持ちのよい描写ではありません。しかし21節は希望を語ります。「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」この主は、イエス・キリストではないかと思います。主イエス・キリストの名を呼び求める者は皆、救われる。呼び求めて洗礼にまで至っていただければ、ベストです。

 本日の旧約聖書は、民数記11章24節以下です。ペンテコステを予告するような出来事が記されています。イスラエルの民がエジプトを脱出して荒れ野を旅していたときのことです。(25節)「主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊(神の霊)の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。」モーセに神様の霊が豊かに注がれていたのですが、モーセだけでイスラエルの多くの民(壮年男性だけで60万人)を率いることは困難だったので、神様はモーセに授けられていた霊の一部を取って、七十人の長老たちにも与えられたのです。彼らがモーセの務めを助けるためです。あと二人の長老エルダドとメダドにも神の霊が注がれ、二人は預言状態になりました。若い頃からモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言いましたが、モーセはヨシュアに言いました。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」ペンテコステの朝、「主の民すべて」にではありませんが、120人ほどの人々に聖霊が注がれ、彼らが神の言葉を語る預言者とされたのです。私たちも皆、主の民ですから、私たち全員が聖書を読んで、神様のことを身の周りの方々に語らせていただく預言者となることがモーセの願いであり、イエス様の願いだと思うのです。

 さて、120人のほどの人々が聖霊を受けて、一斉に様々な言語で、神様の偉大な業を語り出したことは、神様の大きなエネルギーが注がれた、爆発的と言ってよい出来事です。1つの事が始まるときには、確かに大きなエネルギーが必要です。120人の人々が一斉に様々な言語で語り始めれば、一体この出来事の意味は何なのか、じっくり聴き取ろうとした人以外には分からなかったのは無理のないことです。そこで、聖霊に満たされたペトロが、見ている人々に分かるように、この出来事の意味を説教し始めたのでした。分かる言葉による解き明かしが必要でした。ペトロは、この出来事がヨエル書の預言の実現だと教えたのです。このペトロの説教もまた、聖霊によって導かれた預言と言えます。

 このペンテコステの出来事の意味は、使徒言行録2章を最後まで読まないと分かりません。ペトロは説教の中で、エルサレムの人々が49日前に十字架につけて殺したイエス様が復活なさったこと、その後天に昇られて父なる神の右に着かれ、そこから聖霊を注いで下さったこと、このイエス様こそイスラエルの民が長年待ち望んで来たメシア・救い主であることを真理として説教するのです。このペトロの説教は非常に重要です。コリントの信徒への手紙(一)14章4節で使徒パウロが、「預言する者は教会を造り上げます」と書いていますが、ペトロの説教はまさに、キリスト教会を造り上げる預言的説教です。ペトロの説教を聴いた人々は、大いに心を打たれ、「わたしたちはどうしたらよいのですか」とペトロに導きを求めました。ペトロは聖霊に満たされて勧めます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」このペトロの説教を聴いた人々の多くは、へりくだって悔い改め、洗礼を受けました。そして聖霊を受けたのです。何とその日、三千人ほどがクリスチャンになりました。驚くべき神の力です。多言奇跡だけがペンテコステではありません。人が罪を認め、罪を悔い改めてイエス様を救い主と告白し、洗礼を受けたことがペンテコステの出来事、神様の偉大な業です。東久留米教会においても、世界のどの場所においても、このペンテコステ・神の偉大な業が起こるように、神様に祈り求めて参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-05-20 12:03:37(水)
「神の友モーセ」 2015年5月17日(日) 復活節第7主日礼拝説教  
 朗読聖書:出エジプト33章7~23節、ヨハネによる福音書15章13~17節
「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」
                  (出エジプト記33章11節)。

 本日の33章の前の32章は、イスラエルの民が早速、金の子牛を像を作って偶像崇拝の大きな罪に堕落し、性関係も乱れた現実を語っていました。偶像崇拝は偽物の神(正体は悪魔)を拝む罪であり、私たちを愛して下さる真の神様のお心を深く傷つける行為です。ですからこの罪のためにイスラエルの民のうちおよそ3000人が、神様の審判を受けて死んだのです。33章に入ると、神様がイスラエルの民に出発を促します。(1~3節)「主はモーセに仰せになった。『さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、「あなたの子孫にそれを与える」と言った土地に上りなさい。わたしは、使い(天使)をあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。』」神様が遣わす天使がイスラエルの民と共に、約束の地・カナンの地に上ります。しかし神様ご自身は共に上らないと言われたのです。共に上ると、イスラエルの民の罪に対して聖なる怒りを発して、民を滅ぼす恐れがある。だから民を滅ぼさないために、民から離れることにするとおっしゃったのです。これは悪い知らせです。

 民はこの悪い知らせを聞いて、嘆き悲しみました。神様がこうおっしゃったからです。(5節)「あなたたちはかたくなな民である。わたしがひとときでも、あなたの間にあって上るならば、あなたを滅ぼしてしまうかもしれない。直ちに、身に着けている飾りを取り去りなさい。そうすれば、わたしはあなたをどのようにするか考えよう。」飾りを取り去るとは、日本風に言うと、謹慎の意を示すことでしょう。偶像崇拝の罪への悔い改めを示すのです。そうすれば神様も怒りを抑え、お考えを変えて下さるかもしれないのです。ありがたいことに神様は機械ではなくハートをお持ちの方なので、私たちが罪を本心から悔い改めれば、裁きを考え直して下さることもあります。

 神様と民のコミュニケーションのために、仲介者となっているのはモーセです。モーセが民の代表として神様の御言葉を受けるのが基本でした。民が荒れ野を旅している間、神様は臨在の幕屋と呼ばれる移動式のテントの中でモーセと出会って下さいました。(7節)「モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。」神様がモーセと出会う場として臨在の幕屋が設定されたのです。臨在の幕屋は、口語訳聖書では、会見の幕屋と訳されていました。モーセが臨在の幕屋の神様のもとに行く時、イスラエルの民は緊張感をもってモーセを見送りました。8節に「モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。」神様は、昼は雲の柱、夜は火の柱で民を導かれましたが、モーセと会見するときは、臨在の幕屋に降りて来られたのです。(9~10節)「モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。」民は立って神様を礼拝しました。私は神田のニコライ堂というギリシア正教会(キリスト教の一派)の土曜日の晩祷(礼拝)に出席したことがありますが、最初から最後まで立った状態での礼拝でした。日曜日はもっと長い時間を基本的に立った状態で礼拝するそうです(疲れた方のために椅子もあります)。

 (11節)「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者であるヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。」神様はモーセを愛し、深く信頼しておられたのですね。神様とモーセは驚くほど親しく近しい関係にあったのです。民数記11章には、「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」と書かれています。そして神様ご自身がモーセについて、モーセの兄アロンと姉ミリアムにこう語られます。
「あなたたちの間に預言者がいれば
 主なるわたしは幻によって自らを示し/ 夢によって彼に語る。
 わたしの僕モーセはそうではない。
 彼はわたしの家の者すべてに信頼されている。
 口から口へ、わたしは彼と語り合う。/ あらわに、謎によらずに。
 主の姿を彼は仰ぎ見る。」

 モーセは神様と、顔と顔を合わせて、ほとんど直にお目にかかることができるというのです。これは神様による破格の扱いです。神様がモーセを愛しておられるのです。但し、本日の出エジプト記33章の終りには、これと反することも書いてありますので、モーセも神の子イエス様ほどには、父なる神様と近しくなかったと思われます。父なる神様と本当に隔たりゼロの状態で、親しく語り合うことがおできになるのはイエス様お一人です。私たちは今、イエス様を通して父なる神様に親しく祈ることができます。やがて天国に入れていただくときには、顔と顔を合わせて直に神様にお目にかかるのです。モーセは、イエス様ほどではありませんが父なる神様と真に近しく、顔と顔を合わせて語り合い、神様の友のようであったと出エジプト記は記すのです。神様がモーセと顔と顔を合わせて語り合われた結果、その後暫くモーセの顔は光を放ったのです。神様の栄光の御顔に近しく親しく接したからです。そしてイエス・キリストの御顔は本来、神様に接した後のモーセの顔よりもさらに栄光に輝いていたのです。ヘブライ人への手紙1章2節に、「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」であると書かれていることから、そう分かります。

 神様と出会ってモーセがなすことは、民のためのとりなしです。モーセは自分が神様と親しいから、ほかの人はどうでもよいとは考えません。モーセは仲間の民を愛しているのです。モーセは13節で、「この国民があなたの民であることも目にお留めください」と神様に訴えます。すると神様は、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言って下さいました。ですがこれではモーセ一人に安息が与えられるとも聞こえます。モーセはあくまでも自分だけでなく、イスラエルの民に希望が与えられることを願い求めます。(15~16節)「モーセは主に言った。『もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。』」

 モーセの真心からのとりなしの祈りが功を奏して、神様はモーセの願いを聞き入れて下さいました。神様はモーセに、「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」と言われます。神様は、イスラエルの民と共に約束に地に上って下さるとおっしゃったのです! 民にとって本当に幸いなことです。神様が共にいて祝福してくださらないのであれば、私たちがこの世でどんな大成功を収めたとしても無意味であり、空しいのです。バベルの塔のようにいずれ滅びてしまうからです。しかし、神様が共にいて祝福して下さるのであれば、私たちのなすことがどんなに人の目に小さく見えることであったとしても、永遠の意味を持ちます。神様が祝福して下さるので、それが永遠の価値をもつのです。詩編127編を思い起こします。
「主御自身が建ててくださるのでなければ/ 家を建てる人の労苦はむなしい。
 主御自身が守ってくださるのでなければ/ 町を守る人が目覚めているのもむなしい。」
東久留米教会のこの新会堂を建てたとき、私どもはこの御言葉を心に刻みつつ建てたのです。

 本日の新約聖書は、ヨハネによる福音書15章13節以下です。ここでイエス様は直弟子たちを、そして私たちを友と呼んで下さいます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」これは一般的にそうだということと同時に、私たちのために十字架で命を捨てて下さるイエス様ご自身の愛をも指すのでしょう。この愛は原語のギリシア語でアガペーです。14節と15節で、イエス様は直弟子たちと私たちを愛して、友と呼んで下さいます。本当に嬉しいことです。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」私たちを尊重して、対等の友人扱いして下さるのです。驚くべきこと、光栄なことです。16節も恵み深い御言葉です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」私が1988年に礼拝の中で洗礼を受けたときに、会衆の前で読んだ作文にこの言葉を引用しました。「聖書には、『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ』と書いてあります」と。

 私たちは皆、イエス様に選ばれてここにいるのです。イエス様がどのような基準で私たちを選んで下さったかは、分かりません。しかし私たちを愛して選んで下さったのです。ですからその選びの愛に応えて、私たちが思いきって洗礼を受けることが、イエス様に喜ばれることと信じます。神様はモーセに、「わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだ」と言われました。同様にイエス様は、私たち一人一人に好意を示され、私たち一人一人を名指しで選んで、任命して下さったのです。ご自分の友として。16節の後半に、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」と書いてある通りです。

 旧約聖書にはモーセ以外にもう一人、神様の友と呼ばれる信仰者が登場します。アブラハムです。アブラハムについて、歴代誌・下20章7節に、ヨシャファトと  いう王の神様への次のような祈りが記されています。「あなたはあなたの民イスラエルの前からこの地(カナンの地)の先住民を追い払い、この地をあなたの友アブラハムの子孫にとこしえにお与えになったではありませんか。」ヨシャファト王は、アブラハムを「あなた(神様)の友」と呼んでいます。そしてイザヤ書41章8節では、神様ご自身がイスラエルのことを、「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ」と親しく呼びかけておられます。アブラハムが神様の愛する友、信頼する友と呼ばれています。新約聖書のヤコブの手紙2章も、アブラハムがかつて、最愛の独り子イサクを神様に献げることを拒否しないで神様に従順に従おうとした信仰を称賛して、こう記します。「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」モーセは神の友、アブラハムも神の友、そして私たちは神の子イエス様の友です。

 出エジプト記33章に戻り、18節以下も見ます。モーセがさらに踏み込んだ祈りをします。「どうか、あなたの栄光をお示しください。」神様は19節で、「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」と返答されます。最後の部分は難解ですが、神様の自由な主権を意味します。神様は自由に選ばれるので、誰も神様の自由を妨げることはできません。神様は、教会の迫害者であったパウロをさえ選んで、大伝道者としてお用いになったのです。 20節で神様はモーセに、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできない」と言われます。「顔と顔を合わせてモーセに語られた」と矛盾する御言葉です。しかしどちらも本当です。神様の愛と神様の厳しさの両面があることを知りたいものです。聖書の原則では、私たち罪人が神様を見ることはできません。私たち罪人が聖なる神を見ると、撃たれて死ぬのです。ですから、神様が顔と顔を合わせてモーセに語られたことは、特別の扱い、破格の扱いです。私たちは今は、イエス様を通して父なる神様に大胆に近づき、祈ることができます。天国に行かれた方々は顔と顔を合わせて、直に神様にお会いして、神様の愛と慰めを一身に受けておられる。神様は23節でモーセに、「あなたはわたしの後ろを見るが、顔は見えない」と言われます。私たちは経験的に、神様の慈しみにあとから気づくことが少なくないことを知っています。その時は神様を感じない、しかしあとになってから、「やはり神様は共におられたのだ」と思われたことが、どなたもおありではないでしょうか。いつも共にいて下さる神様に信頼し、祈りつつ、今週も進んで参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。 

2015-05-14 2:34:07(木)
「神の子キリストと出会う」 2015年5月10日(日) 復活節第6主日礼拝説教
朗読聖書:ダニエル書9章20~27節、ヨハネによる福音書1章35~51節
「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(ヨハネ福音書1章49節)。

 洗礼者ヨハネが、イエス様が自分の方に来られるのを見て、イエス様の本質を言い当てました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。その翌日、またヨハネは二人の弟子たちと一緒にいました。そして歩いておられるイエス様を見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言いました。イスラエルの荒れ野で人々に、自分の罪を悔い改めるように説教し、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を施していたヨハネには、弟子たちがいました。ヨハネが「見よ、神の小羊だ」と言ったとき、ヨハネは二人の弟子たちと一緒にいました。そして二人の弟子たちはイエス様に従ったのです。ヨハネの弟子であることをやめて、イエス様の弟子になったのです。ヨハネは喜んで見送りました。彼らを自分の弟子のままにしておこうとは考えませんでした。イエス様の方がよりよい師匠なのですから、自分の弟子たちがイエス様の弟子になることをヨハネは喜んだのです。ヨハネは心の広い人でした。

 (38節)「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。」「何を求めているのか」という問いは、深い問いです。私たちは、何を求めて生きているのでしょうか。イエス様に何を求めて生きているのでしょうか。日本人の年初めの願いは「家内安全、商売繁盛」かもしれません。「家内安全、商売繁盛」は人間の正直な願いですが、イエス様は私たちにこの願いを第一にもってほしいと思っておられるでしょうか。おそらく違うのではないでしょうか。私たちが本当に願い求めるべきことは何でしょうか。それは、「イエス様によりよく従うことができますように」、「神様と隣人をもっと愛することができますように」ということではないでしょうか。

 旧約聖書に登場するソロモン王(ダビデ王の子)は、神様に「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたとき、次のように願いました。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」神様は、ソロモンのこの願いをお喜びになり、言われました。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。」 

 そして、私たちが最も必要としていることは、罪の赦しです。神様は私たちに十戒という最も基本的な戒めを与えて下さいました。しかし私たちは、十戒の一つをさえ100%守ることができないのです。毎日十戒を守りきれないで生活しているのです。そのような私たちに最も必要なことは、罪の赦しです。神様によって罪を赦していただくことが、どうしても必要です。次のような祈りを聞いたことがあります。「主よ、与えて下さい。日毎のパンと罪の赦しを。」私たちに最も必要なことが、日毎のパンと罪の赦しであることが分かるのです。ですから私たちは、「主の祈り」でもこの2つを神様に求めます。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をも赦したまえ。」神様に罪を赦していただかなければ、私たちは天国に入ることができません。ですから、「我らの罪をも赦したまえ」の祈りはとても大切なのですね。私たちは毎日、比較的小さな罪(神様は「小さな罪ではない」とおっしゃるかもしれませんが)を犯していますから、毎日こう祈ることが必要です。しかし私たちは、切実に「我らの罪をも赦したまえ」と祈る気持ちになかなかならないのではないかと思います。それだけ自分の罪に気づくことに鈍いからです。 イエス様の「何を求めているのか」の御言葉から、私たちが本当に求めるべきものは何か、考えてみました。

 イエス様に「何を求めているのか」と問われて、ヨハネの弟子たちは、「ラビ―『先生』という意味―どこに泊まっておられるのですか」と質問で答えました。イエス様は、「来なさい。そうすれば分かる」とお答えになりました。イエス様のもとに行けば、イエス様が何者かが分かる、イエス様の本質が分かるということと思います。イエス様の本質は神の子であり、世の罪を取り除く神の小羊であることです。そして彼らはイエス様について行き、どこにイエス様が泊まっておられるかを見ました。そしてその日は、イエス様のもとに泊まって、イエス様と共に過ごしたのです。そしてイエス様の本質を悟ることができたのです。38節と39節に、「泊まる」という言葉が3回出て参ります。「泊まる」はヨハネによる福音書で重要な言葉です。原語のギリシア語で、「メノー」という言葉です。「メノー」を「とどまる」と訳すこともできます。

 この「メノー」は、ヨハネによる福音書15章に繰り返し出て参ります。そこでは「つながる」と訳されています。私たちにとって、イエス様にとどまり、イエス様につながることがどんなに大切かが分かります。イエス様がこうおっしゃっています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」今の箇所に「つながる」(メノー)が8回も出て参ります。イエス様とつながっていることが、どんなに重要か分かります。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」イエス様につながっていれば、イエス様というぶどうの木から愛という養分を十分にいただくので、私たちぶどうの枝も、少しずつ愛を与える生き方をすることができるということです。先ほどの二人の弟子たちもイエス様のところに泊まり、イエス様の愛を豊かに受けました。そしてイエス様こそ神の子・救い主(メシア)であると悟ることができたのです。

 40節で二人の弟子たちのうちの一人の名が示されます。「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。」アンデレはイエス様のもとに一晩泊まってイエス様の本質を深く悟り、喜びと興奮に満たされたでしょう。イエス様との出会いを兄弟シモンに、勇んで語るのです。(41節)「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシア―「油を注がれた者」という意味―に出会ったと言った。』」油とは、神様の聖なる香油です。旧約の時代、王・祭司・預言者という神様に奉仕する人々は、聖なる香油を注ぎかけられて職に任じられました。メシア・救い主は、その聖なる油を誰よりも多く注がれた方です。聖なる油は聖霊のシンボルです。メシアはヘブライ語であり、これをギリシア語に翻訳するとクリストスになります。クリストスが英語でクライストになり、日本語でキリストになりました。まさにイエス・キリストは、真の聖なる油である聖霊を、誰よりも濃厚に完璧に注がれている方です。

 本日の旧約聖書・ダニエル書9章25節に、そのメシア「油を注がれた者」がイスラエルに現れることを予告する御言葉があります。アンデレもシモンも、この御言葉をよく知っていたでしょう。これは神様が天使ガブリエル(後にマリアに受胎を告知する天使ガブリエル)を通して、ダニエルという忠実な信仰者に語られた預言です。メシア「油を注がれた者」イエス様のことを預言しているのではないでしょうか。
「これを知り、目覚めよ。
 エルサレム復興と再建についての/ 御言葉が出されてから
 油注がれた君の到来まで/ 七週あり、また、六十二週あって
 危機のうちに広場と堀は再建される。/ その六十二週のあと油注がれた者は
 不当に断たれ(イエス様の十字架の犠牲の死を指すのではないでしょうか)
 都と聖所(神殿でしょう)は/ 次に来る指導者の民によって荒らされる。
 その終わりには洪水があり/ 終わりまで戦いが続き/ 荒廃は避けられない。
 彼は一週の間、多くの者と同盟を固め/ 半週でいけにえと献げ物を廃止する。
 憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。
 そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」 マタイによる福音書24章を読みながら解釈するなら、「都と聖所は/ 次に来る指導者の民によって荒らされる」は、ローマ軍の攻撃によってエルサレムの町と神殿 が破壊された紀元70年の出来事を指すと言えるでしょう。「七週」や「六十二週」が具体的 にどれほどの長さの時間を意味するのか興味が湧きますが、いろいろ説はあるでしょうが、私 には分かりません。とにかくこのダニエル書9章25節で、「油注がれた方」(メシア)の到 来が予告されていること、26節に「油注がれた者は/ 不当に断たれ」とあり、イエス様の 十字架の死が暗示(予告?)されていると思われることが大切と思います。
 
 ヨハネによる福音書に戻り42節。「そして(アンデレは)、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―「岩」という意味―と呼ぶことにする』と言われた。」こうしてアンデレとシモンはイエス様の弟子になりました。シモンには特に大きな使命が与えられました。まずケファ(岩)という名前が与えられました。ケファはヘブライ語・アラム語です。岩をギリシア語ではペトロと言います。それゆえ私たちは彼をシモン・ペトロと呼んでいます。シモンはイエス様が十字架におつきになるとき、イエス様を見捨てて逃げたのです。しかしイエス様はその罪を完全に赦して下さいました。シモンは立ち直り、初期の教会の岩のような存在になりました。イエス様は、マタイによる福音書16章18節でシモンに、「あなたはペトロ(岩)、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とおっしゃっています。

 次の日、イエス様はさらに二人の人を弟子になさいます。(43~44節)「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、べトサイダの出身であった。」フィリポは、イエス様が救い主であることをすぐに悟り、イエス様の弟子になる決断をしたようです。フィリポはナタナエルに出会い、確信を込めて語ったのです。(45節)「フィリポはナタナエルに出会って言った。『わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。』」「預言者たちも書いている」とは、たとえばイザヤ書53章です。「見るべき面影はなく/ 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。/ 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/ 多くの痛みを負い、病を知っている」と、十字架のイエス様が預言されています。ナタナエルはすぐには信じません。「ナザレから何かよいものが出るだろうか。」ガリラヤのナザレは、イエス様がお育ちになった土地です。ただ、ナザレは旧約聖書の中に一回も登場しません。それで軽く見られていた町だったようです。人々が関心を持たず、もしかすると馬鹿にし、無視していた町だったかもしれません。しかし神様は、むしろいと小さきものを愛し、私たちが無視し軽んじているものに、進んで目を留め、心にかけて下さる方です。ですから私たちはよく注意して、何をも軽んじないように気をつける必要があります。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」これはナタナエルの色めがね・偏見です。ナザレから最高の方が出られます。救い主イエス様が出られるのです。

 ナタナエルは、「来て、見なさい」というフィリポに素直について行きます。そして偏見から解放されます。イエス様は、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、ナタナエルをほめて言われました。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」私たちもイエス様に「この人には偽りがない」と言っていただければ、最高の幸せです。そのような生き方をしたいものです。ナタナエルは、初めて会うのに、イエス様が自分のことをよく知っておられるのを感じて、驚いて尋ねます。「どうしてわたしを知っておられるのですか。」するとイエス様は、踏み込んで言われます。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た。」イスラエルのいちじくの木は、非常な大木になるそうです。イエス様の時代、いちじくの木陰で、律法(モーセの十戒などの神の御言葉)の教師たちが弟子を教えたそうです。ナタナエルも、いちじくの木陰で、熱心に律法を学んだと思われます。イエス様はそれを知っていると語られたのです。イエス様は前から、最初の最初から(ナタナエルが生まれる前から)ナタナエルのことを全てご存じなのです。イエス様は、私たち一人一人のことをも、最初の最初から全てご存じです。私たち自身以上に、私たちのことをご存じです。神様は(イエス様は)私たち自身が知らない私たちの髪の毛の本数までも、正確にご存じです。

私は、詩編139編1~4節を思い起こします。
「主よ、あなたはわたしを究め/ わたしを知っておられる。
 座るのも立つのも知り/ 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
 歩くのも伏すのも見分け/ わたしの道にことごとく通じておられる。
 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/ 主よ、あなたはすべてを知っておられる。」
ナタナエルは、イエス様が自分のすべてを知っておられることに感嘆して、告白します。「ラビ(先生)、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(50節)「イエスは答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』」 「もっと偉大なこと」とは、イエス様が私たち皆の罪を背負って十字架で死んで下さる偉大な贖いと、三日目の復活ではないかと思います。

 (51節)「さらに言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子(イエス様)の上を昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。』」 これは創世記28章のエピソードに基づいて語られています。イスラエルの先祖の一人ヤコブの若い日の出来事です。ヤコブは兄エサウをだましたためにエサウの怒りを買い、故郷カナンから逃げ出すことになります。逃亡中のヤコブは、ある場所で夜に夢を見ました。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていたのです。その時、神様ご自身がヤコブの傍らに立って語られたのです。眠りから覚めたヤコブは、「ここは何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」イエス様は、「天が開け、神の天使たちが人の子(イエス様)の上を昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われます。これは、イエス・キリストこそ真の「天の門」だということです。イエス様はヨハネによる福音書10章で、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」と言われます。この真の天の門であるイエス様をしっかりと信じて、感謝をもって歩みたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-05-04 23:58:39(月)
「世の罪を取り除く神の小羊」 2015年5月3日(日) 復活節第5主日礼拝説教 
朗読聖書:イザヤ書40章1~8節、ヨハネによる福音書1章19~34節
「『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」(ヨハネ福音書1章29節)。

 イスラエルの荒れ野に、洗礼者ヨハネが現れました。そして人々に、神様の前に自分の罪を悔い改めなさいとメッセージを語り、悔い改めの洗礼を施し始めたのです。イエス様も身を低くして、ヨハネから洗礼をお受けになったのです。ヨハネの働きはイスラエル全土の人々の注目を集めました。ある人々は、このヨハネこそ、イスラエル民族が約千年も待ち望んでいたメシア・救い主ではなかろうかと話し合ったのです。ヨハネがメシアかどうかを確かめるために、ユダヤ人たちは祭司やレビ人をヨハネのもとに派遣しました。ヨハネによる福音書は、「ユダヤ人」という言葉をよく用います。その場合の「ユダヤ人」という言葉は、直接ユダヤ民族の一人一人を指すのではなく、世の中の罪の象徴、神様に逆らう勢力のシンボルの意味で用いられています。このことをよく気をつける必要があります。そうしないと、私たちが「ユダヤ人は皆悪人だ」と誤解してしまう恐れがあります。

 1章19節の冒頭。「さて、ヨハネの証しはこうである。」証しとは証言です。日本人が日常生活であまり使わない言葉です。法廷用語です。証言は嘘偽りであってはならず、真実でなければなりません。モーセの十戒の第九の戒めは「隣人に関して偽証してはならない」です。偽りの証言をしてはならないのです。証言は真実でなければなりません。ヨハネは清く正しい人物です。ですからその証言はもちろん真実であり、100%信用できます。そのヨハネが、自分が誰であるかを尋ねられ、証ししている・証言しているのがこの場面です。(19~20節)「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたはどなたですか』と質問させたとき、彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した。」ここを直訳すると、「彼は告白して否定せず、『わたしはキリストではない』と告白した」となり、「告白」という言葉が二度用いられています。告白という言葉は、キリスト教会にとって重要です。私たちは毎週の礼拝で使徒信条により信仰告白を致します。信仰告白は公にすることが大切です。本日の礼拝では、「日本基督教団信仰告白」により信仰告白を致します。教会は信仰告白に命を賭ける「神の家族」です。毎週日曜日ごとに、命を賭けて真の神様を礼拝する「神の家族」が教会です。

 ヨハネは真剣に告白して言いました。「わたしはメシアではない。」そこで質問が続きます。(21節)「彼らがまた、『では何ですか。あなたはエリヤですか。』」エリヤは旧約聖書の偉大な預言者で、イスラエルの偶像崇拝の罪と戦った人です。エリヤについて、旧約の最後の書マラキ書3章23節に、こう書かれています。「見よ、わたし(神様)は/ 大いなる恐るべき主の日(神様が世を裁く日)が来る前に/ 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」そこでイスラエルの人々は、預言者エリヤがメシア的な存在として再来すると信じていました。しかしヨハネは「違う」と答えます。但しほかの福音書では、ヨハネは再来のエリヤであると書かれているので、ヨハネのこの答えは理解に苦しむところです。イスラエルの人々が再来のエリヤをメシア的な存在と信じていたので、ヨハネは、自分は再来のエリヤだが、メシア的な存在ではない、と言いたかったのかもしれません。ヨハネはメシアではありませんから。

 人々がさらに、「あなたはあの預言者なのですか」と尋ねるとヨハネは、「そうではない」と答えました。「あの預言者」については、出エジプトのリーダー・モーセが、イスラエルの民に申命記18章15節で、こう述べています。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」「わたしのような預言者」、「モーセのような預言者」、それはイエス・キリストです。ヨハネは、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねられて、「そうではない」と否定しました。

 (22~23節)「そこで、彼らは言った。『それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。』ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「主の道をまっすぐにせよ」と。』」ヨハネは言うのです。「わたしは声である。荒れ野で叫ぶ声である。メシアではない。わたしは神のメッセージを伝える声である。」

 「主の道をまっすぐにせよ。」これは本日の旧約聖書・イザヤ書40章3節の引用です。そこにはこうあります。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/ わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」ヨハネは、神の子イエス様がイスラエルにおいでになるための、道備えをするために生まれたのです。イスラエルの人々が自分の罪を悔い改め、真の救い主を受け入れるにふさわしい民になるように導く。そして真の救い主がおいでになるとき働きやすいように、人々が神様に素直に従う気持ちになるように、人々の心を耕しておく。神様はこの使命をヨハネに与えられました。ヨハネは人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と説教したのです。

 それより約1500年後、1517年のドイツでも、同じ主旨の声が文章に書かれて広がったのです。それを書いて貼り出したのはマルティン・ルターです。ルターは95ヶ条の信仰上の主張を城の教会の門に貼り出しました。その第一条はこうです。「われわれの主であり、師であるイエス・キリストは『悔い改めよ』などと言われたことによって、信徒の全生涯が悔い改めであることを求められたのである。」これは真理の声です。この声によって宗教改革が始まりました。ルターの声も洗礼者ヨハネの声と同じく、「荒れ野で叫ぶ者の声」となったのです。私たち罪人は、残念ながら毎日罪を犯していますから、毎日悔い改めることが必要です。

 遣わされた祭司やレビ人たちはファリサイ派に属していました。(25節)「彼らはヨハネに尋ねて、『あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼(バプテスマ)を授けるのですか』と言うと、ヨハネは答えた。『わたしは水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。』」 履物のひもを解くことは、当時の奴隷の仕事でした。ヨハネによる福音書13章に、イエス様が弟子たちの足を洗われる場面があり、足を洗うことも当時の奴隷の仕事でした。ヨハネは、偉大な謙遜に生きるイエス様を深く深く尊敬し、自分はイエス様の奴隷にならせていただく値打ちもない者だ、と告白したのです。

 「謙遜とは、自分を無理にへりくだらせることではない」という文章を読んだことがあります。自分のありのままの姿(特にありのままの心の姿)をごまかさないで直視すれば、誰しもイエス様に比べて自分がいかに罪深いか、よく分かるのです。私がいかにずるくて愛がなく、自分勝手であるか、イエス様と比べてみれば、よく分かります。無理にへりくだらなくても、ありのままの自分をごまかさないで直視すれば、自分の罪深さが分かるので、「私は罪人です」と告白しないわけにはゆかないのです。ヨハネは清く生きる人でしたが、それでもイエス様に比べれば、自分に罪があり、愛もずっと少ない者であることを痛感していたでしょう。それで、「わたしはその履物のひもを解く資格もない」と自分の小ささを告白したのです。これはヨハネの本心です。

 聖書に登場する人々は、神様の愛と清さを知るに従って、次第に謙遜な人に変えられてゆくようです。たとえば、若いときずる賢かったヤコブは、神様の恵みによって多くの家族と財産をもって故郷カナンの地に帰るとき、こう祈りました。「わたしは、あなた(神様)が僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。」旧約の民数記は、出エジプトのリーダー・モーセについて、「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」と書いています。ダビデは、大きな罪を犯して神様に厳しく懲らしめられたとき、次のような告白に導かれました。「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。/ あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/ 御目に悪事と見られることをしました。/ あなたの言われることは正しく/ あなたの裁きに誤りはありません」(詩編51編5~6節)。

 使徒パウロも、復活のイエス様に出会った後に謙遜な人になりました。パウロは、使徒言行録20章で、「自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました」と述べています。コリントの信徒への手紙(一)15章では、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と告白しています。エフェソの信徒への手紙3章では自分のことを、「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたし」と語っています。テモテへの手紙(一)1章では、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と告白しています。これは口語訳では、「わたしは、その罪人の頭なのである」という印象的な言葉になっています。「罪人の頭。」パウロは若い時はクリスチャン迫害の先頭に立っていたので、復活のイエス様に出会い、悔い改めてすべての罪を許された後も、自分こそ罪人の頭である、世界で自分ほど深い罪を犯した者はいないと心底信じていたのです。私たちも、自分が生まれてから今まで犯して来た罪をすべてリストアップするなら、「自分こそ罪人の頭である」と感じるのではないでしょうか。

 初期の教会の指導者の一人アウグスティヌスは、信仰の道は「一に謙遜、二に謙遜」と説いたと聞いたことがあります。中世のクリスチャンで、『キリストにならいて』という有名な本を書いたトマス・ア・ケンピスという人は、ひたすら信仰の道を生き、こう書いているそうです。「自分自身を正しく知り、自分を取るに足らない者と思うことを学ぶことは、最も高く、最も有益な課題である。自分自身を取るに足らない者と思い、それに対して、常に他者の長所を考えることは、大きな知恵であり、完成である」(ボンへッファー著・森野善右衛門訳『共に生きる生活』新教出版社、1991年、92ページ)。 「もしあなたが、自分はほかのすべての人よりも小さいことを深く感じないなら、あなたは聖化のわざにおいて一歩前進したと信じてはならない」(同書、94ページ)。

 進んで29節「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」これはイエス様の本質を言い当てた言葉です。私たちは出エジプト直前の出来事を思い起こします。神様は予めイスラエルの民にこう指示なさっていたのです。「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が小人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊で山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。~その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」

 神様はこの通りに行われました。小羊を屠り、その血を入り口の二本の柱と鴨居に塗ったイスラエル人の家の上は、神様の裁きが通り過ぎました。小羊の血をどこにも塗っていなかったエジプト人の家には、例外なく神様の裁きが下ったのです。イスラエルの民は小羊の犠牲の血によって救われました。ヨハネはイエス様を見て言います。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。イエス様こそ真の過越の小羊です。イエス様は十字架にかかって清い血潮を流されます。イスラエル人だけでなく、世界のすべての人のすべての罪を身代わりに背負って、十字架で清い血を流し、死んで下さいました。そして三日目に復活されました。イエス様こそ、真の過越の小羊です。ヨハネはそう語っているのです。真の過越の小羊イエス様の尊い救いの血潮を、私たちは間もなく聖餐式でいただくのです。

 イエス様の十字架の贖いの死・犠牲の死を予告するイザヤ書53章の7節にも、救い主を小羊と結びつける言葉があります。「苦役を課せられて、かがみ込み/ 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/ 毛を切る者の前に物を言わない羊のように/ 彼は口を開かなかった。/ 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」 聖書の最後の書・ヨハネの黙示録にも小羊が登場する場面があります。5章6節です。「わたし(黙示録を書いたヨハネ)はまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。」「屠られたような小羊」は、十字架で死なれたイエス様です。小羊が立っていたことは、イエス様が死から復活なさって立っておられることを表します。

 ヨハネによる福音書に戻り、30節のヨハネの言葉。「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」イエス様は、ヨハネよりも先におられた方。それどころか、この世界が造られる前から生きておられた方なのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」天地創造の前の初めから生きておられる神にして神の子、それがイエス・キリストです。 ヨハネはさらに言います。「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼(バプテスマ)を授けに来た。」ヨハネはイエス様の露払い役です。イエス様はヨハネより優れた洗礼、「聖霊による洗礼」を授ける方です。キリスト教会が執り行う洗礼式も、イエス様によって託されて行う洗礼ですから、本質は「聖霊による洗礼」です。

 (32~34節)「そしてヨハネは証しした。『わたしは、霊(聖霊)が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方(父なる神様)が、「霊(聖霊)が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」とわたしに言われた。わたしはそれを見た。』」 それはイエス様がヨハネから洗礼をお受けになったときに起こった出来事です。「『だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。』」

 イエス・キリストこそ神の子である。これが洗礼者ヨハネの信仰告白であり、私たちキリスト教会の永遠に変わらない信仰告白です。教会はこの信仰告白に命を懸ける群れです。教会はイエス様への愛に命を懸ける群れです。この信仰告白が困難になる時代があります。1934年頃、ドイツではヒットラーに率いられたナチスが、国の支配を固めつつありました。ナチスは旧約聖書以来の神の民であるユダヤ人を大勢殺害し、ドイツ人こそ最も優秀であるとする極端な愛国主義、民族主義に凝り固まり、教会をも支配下に置こうとしました。イエス・キリストに従うのではなく、ヒットラーに従う教会にならせようとしました。それに飼い馴らされてしまった教会もあったようです。しかしそれに抵抗する教会が、教派を超えて告白教会と呼ばれる共同体を作ったそうです。この人々が、1934年にバルメン宣言と呼ばれる宣言を公にし、自分たちの信仰の立場を明らかにしました。ヒットラーとナチスに服従する教会ではなく、イエス・キリストにのみひたすら服従する教会であり続けることを宣言したのです。

 そのバルメン宣言の第一項は、次のような宣言です。「『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない』(ヨハネ14:6)。『よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前に来た人は、みな盗人であり、強盗である。…わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ…る』(ヨハネ10:7、9)。聖書において我々に証しされているイエス・キリストは、我々が聞くべき、また我々が生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。」この告白に命を懸けて生きることを明らかにしたのです。その結果、ナチスに殺され殉教する牧師も出ました。

 「イエス・キリストこそ神の子である。ほかにはいない。」私たちもこの信仰告白に命を懸ける者です。イエス・キリストを愛し、「あなただけが私たちのために十字架で死なれ、復活された神の子です」と告白する礼拝を、毎日曜日に全力で献げているのです。生きる限り献げます。地上の人生が終われば、天国で永遠に同じ礼拝を献げ続けます。礼拝こそ、私たちの最高の幸せです。アーメン(「真実に、確かに」)。