
2018-01-18 17:21:47(木)
「勇気を出しなさい」 2018年1月14日(日) 降誕節第3主日礼拝説教要旨
聖書:出エジプト記14章10~18節、ヨハネ福音書16章25~33節
イエス様の十字架が目前に迫っています。イエス様は弟子たちに言われます。わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」たとえを用いて語って来たとは、ストレートに語らず、やや暗示的に語って来たということでしょう。しかし、十字架が目前です。暗示的に語るゆとりはありません。ストレートに語る時です。
「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」「神のもとから出て来た」のことですが、「のもと」訳語は削ってもよいように思います。「神から出て来た」と訳してよいように思います。イエス・キリストは三位一体の神です。神から直接来られたのです。
イエス様は言われます。「~あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」実に励まされる御言葉です。説教題「勇気を出しなさい」を、ここからとりました。これは厳密には、十字架と復活後を、見越して語られた御言葉とも言えます。死んで(仮死状態からの蘇生ではなく、イエス様は本当に死なれたのです)復活されたイエス様は、悪魔と罪と死に完全に勝利されました。イエス様は勝利者です。この世のあらゆる苦難、試練、誘惑に打ち勝たれました。このイエス様につながっていれば、私たちも苦難、試練、誘惑、罪、死に打ち勝つことができます。復活されたイエス様は、地震をも津波をも原発事故をも乗り越える力をお持ちです(私たちは、地震・津波・原発事故に打ち勝つ力を持ちませんが)。イエス様は、既にこの世のあらゆるマイナスの力に勝っておられます。ヨハネの手紙(一)2章8節にも似た御言葉、「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」という御言葉があります。
復活されたイエス・キリストは、聖霊として、使徒パウロを励まして言われました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(使徒言行録23:11)。パウロは人生の後半で伝道に献身しましたが、その伝道は苦難の連続でした。しかしイエス・キリストに守られて、パウロは伝道の使命を果たしたのです。
神様は、その民を励まして下さる方です。本日の旧約聖書は、出エジプト記14章です。モーセに率いられて意気揚々とエジプト脱出を開始したイスラエルの民ですが、すぐにファラオ(エジプト王)の軍隊が追跡して来ます。民はパニックに陥り、主に向って叫びます。モーセが答えます。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」これは劇的な場面です。神様はエジプトの大軍を破って、栄光を現されたのです。同じ神様が、イエス・キリストを復活させなさることで、さらに栄光を現して下さったのです。
私たちも、この地上を生きる限り、悩みや苦労は絶えません。しかし、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と断言なさるイエス様が共におられます。このイエス様に支えられて、私たちも様々な悩み・苦労を1つずつ乗り越えてゆきます。
多くのクリスチャンたちが、イエス・キリストに信仰の勇気を与えられ、信仰に行きました。島根県の津和野は、明治初期に長崎から送られたキリシタンたちが信仰を捨てるように求められ、拷問を受けた所です。私は1989年の3月頃に行きました。氷の張った池に浸けられたり、三尺牢という身動きのとれない牢に入れられたりしました。高木仙右衛門という人が、辛い拷問にも関わらず、遂に信仰を守り抜きました。仙右衛門がしたことは、ただ熱心に祈ることだったそうです。祈って拷問に耐える力を与えられました。私が津和野で読んだ説明には、夜に婦人が現れて仙右衛門を励ましたと書いてあった記憶があります。仙右衛門はキリシタン(カトリック)なので、その婦人はイエス様の母マリアだと、その説明は述べていたのだと思います。ともかく、仙右衛門に神様が耐える力を与えて下さったということだと受けとめます。
上智大学で長く教えられたドイツ人のデーケン神父という方がおられます。私も一度、阿佐ヶ谷教会で講演を伺ったことがあります。そのデーケン先生の著書(『よく生き よく笑い よき死と出会う』新潮社、2010年)に、先生が小学生の頃、ナチの指導者養成学校に学校から推薦されそうになったことが記されています。デーケン先生は、校長先生の推薦の申し出を断られました。ナチの独裁体制に賛成できなかったからです。小学生なりに、勇気をもってイエス様に従う道を選びとったのだと思います。
ほかのあるドイツ人の神父様は、反ナチの働きをしておられたと聞きました。神父になる前かもしれません。ナチに賛成のふりをして入りこみ、情報を得て、反ナチ側に伝えるという働きだったようです。実に危険な任務です。知られればただでは済まない、殺される可能性もあったと思うのです。勇気をもって、イエス様のために悪と闘ったのだと思います。
そしてマーティン・ルーサー・キング牧師を思います。キング牧師は仲間たちと、黒人差別をなくすために非暴力で活動したことで知られます。しかし暴力や迫害を受けました。1956年1月27日に、次のような印象深い祈りを献げたそうです(梶原寿『マーティン=L=キング』清水書院、1993年、91~92ページより)。「私は祈りに祈った。私は言った。主よ私はここで正しいことをしようとしています。私たちが掲げている主張は正しいと考えています。しかし主よ、私は告白しなければなりません。私は今弱いのです。くじけそうです。勇気を失いつつあります。だが私はこんな姿を人々に見せたくありません。~その瞬間、私は内なる声を聞いたように思った。マーティン・ルーサーよ、義のために立て、公義のために立て、真理のために立て。見よ、私はあなたとともにいる。世の終わりまでともにいる。私は~罪の大波が私の魂を征服すべく突進してくるのを感じた。しかし私は同時に、闘い続けよ、と優しく語りかける主イエスの声を聞いた。彼は私に、決して一人にはしないと約束した。決して決して一人にはしないと。」
イエス様は、今も私たちに言われます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」このイエス様の励ましに勇気を与えられ、日々祈りながら、イエス様を宣べ伝えて参りましょう。アーメン(「真実に」)。
イエス様の十字架が目前に迫っています。イエス様は弟子たちに言われます。わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」たとえを用いて語って来たとは、ストレートに語らず、やや暗示的に語って来たということでしょう。しかし、十字架が目前です。暗示的に語るゆとりはありません。ストレートに語る時です。
「あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」「神のもとから出て来た」のことですが、「のもと」訳語は削ってもよいように思います。「神から出て来た」と訳してよいように思います。イエス・キリストは三位一体の神です。神から直接来られたのです。
イエス様は言われます。「~あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」実に励まされる御言葉です。説教題「勇気を出しなさい」を、ここからとりました。これは厳密には、十字架と復活後を、見越して語られた御言葉とも言えます。死んで(仮死状態からの蘇生ではなく、イエス様は本当に死なれたのです)復活されたイエス様は、悪魔と罪と死に完全に勝利されました。イエス様は勝利者です。この世のあらゆる苦難、試練、誘惑に打ち勝たれました。このイエス様につながっていれば、私たちも苦難、試練、誘惑、罪、死に打ち勝つことができます。復活されたイエス様は、地震をも津波をも原発事故をも乗り越える力をお持ちです(私たちは、地震・津波・原発事故に打ち勝つ力を持ちませんが)。イエス様は、既にこの世のあらゆるマイナスの力に勝っておられます。ヨハネの手紙(一)2章8節にも似た御言葉、「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」という御言葉があります。
復活されたイエス・キリストは、聖霊として、使徒パウロを励まして言われました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(使徒言行録23:11)。パウロは人生の後半で伝道に献身しましたが、その伝道は苦難の連続でした。しかしイエス・キリストに守られて、パウロは伝道の使命を果たしたのです。
神様は、その民を励まして下さる方です。本日の旧約聖書は、出エジプト記14章です。モーセに率いられて意気揚々とエジプト脱出を開始したイスラエルの民ですが、すぐにファラオ(エジプト王)の軍隊が追跡して来ます。民はパニックに陥り、主に向って叫びます。モーセが答えます。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」これは劇的な場面です。神様はエジプトの大軍を破って、栄光を現されたのです。同じ神様が、イエス・キリストを復活させなさることで、さらに栄光を現して下さったのです。
私たちも、この地上を生きる限り、悩みや苦労は絶えません。しかし、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と断言なさるイエス様が共におられます。このイエス様に支えられて、私たちも様々な悩み・苦労を1つずつ乗り越えてゆきます。
多くのクリスチャンたちが、イエス・キリストに信仰の勇気を与えられ、信仰に行きました。島根県の津和野は、明治初期に長崎から送られたキリシタンたちが信仰を捨てるように求められ、拷問を受けた所です。私は1989年の3月頃に行きました。氷の張った池に浸けられたり、三尺牢という身動きのとれない牢に入れられたりしました。高木仙右衛門という人が、辛い拷問にも関わらず、遂に信仰を守り抜きました。仙右衛門がしたことは、ただ熱心に祈ることだったそうです。祈って拷問に耐える力を与えられました。私が津和野で読んだ説明には、夜に婦人が現れて仙右衛門を励ましたと書いてあった記憶があります。仙右衛門はキリシタン(カトリック)なので、その婦人はイエス様の母マリアだと、その説明は述べていたのだと思います。ともかく、仙右衛門に神様が耐える力を与えて下さったということだと受けとめます。
上智大学で長く教えられたドイツ人のデーケン神父という方がおられます。私も一度、阿佐ヶ谷教会で講演を伺ったことがあります。そのデーケン先生の著書(『よく生き よく笑い よき死と出会う』新潮社、2010年)に、先生が小学生の頃、ナチの指導者養成学校に学校から推薦されそうになったことが記されています。デーケン先生は、校長先生の推薦の申し出を断られました。ナチの独裁体制に賛成できなかったからです。小学生なりに、勇気をもってイエス様に従う道を選びとったのだと思います。
ほかのあるドイツ人の神父様は、反ナチの働きをしておられたと聞きました。神父になる前かもしれません。ナチに賛成のふりをして入りこみ、情報を得て、反ナチ側に伝えるという働きだったようです。実に危険な任務です。知られればただでは済まない、殺される可能性もあったと思うのです。勇気をもって、イエス様のために悪と闘ったのだと思います。
そしてマーティン・ルーサー・キング牧師を思います。キング牧師は仲間たちと、黒人差別をなくすために非暴力で活動したことで知られます。しかし暴力や迫害を受けました。1956年1月27日に、次のような印象深い祈りを献げたそうです(梶原寿『マーティン=L=キング』清水書院、1993年、91~92ページより)。「私は祈りに祈った。私は言った。主よ私はここで正しいことをしようとしています。私たちが掲げている主張は正しいと考えています。しかし主よ、私は告白しなければなりません。私は今弱いのです。くじけそうです。勇気を失いつつあります。だが私はこんな姿を人々に見せたくありません。~その瞬間、私は内なる声を聞いたように思った。マーティン・ルーサーよ、義のために立て、公義のために立て、真理のために立て。見よ、私はあなたとともにいる。世の終わりまでともにいる。私は~罪の大波が私の魂を征服すべく突進してくるのを感じた。しかし私は同時に、闘い続けよ、と優しく語りかける主イエスの声を聞いた。彼は私に、決して一人にはしないと約束した。決して決して一人にはしないと。」
イエス様は、今も私たちに言われます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」このイエス様の励ましに勇気を与えられ、日々祈りながら、イエス様を宣べ伝えて参りましょう。アーメン(「真実に」)。
2018-01-10 20:10:39(水)
「悲しみは喜びに変わる」 2018年1月7日(日) 降誕節第2主日礼拝説教要旨
聖書:エレミヤ書29章7~14節、ヨハネ福音書16章16~24節
2018年の最初の聖日礼拝を献げることを許され、心より感謝致します。ヨハネ福音書16章は、イエス様が捕らえられる直前の箇所です。イエス様は18章で捕らえられ、19章で十字架につけられます。
イエス様は弟子たちに言われます。「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
旧約聖書の原則は、神様に従えば祝福があり、神様に背けば神様の裁きがあるということです。しかし世の中の現実は、そうでない場合もあります。神様に従う人が苦労し、神様に従わない人が繁栄することもあるのです。難しい言葉を使うと、不条理ということです。そこで問いが生まれます。神様が世界を支配しておられるのに、なぜ罪と悪がはびこるのか。ヨブもこの問いを発しています。この問いに答えることは簡単とは言えません。しばらく前に、池袋でホームレスの方々にお弁当を配っているクリスチャンの方々に出会いました。そのお一人の男性は、東日本大震災の津波で、お母様と奥様が流されたとのことです。地元は原子力発電事故の被害で帰宅できないそうなのです。「なぜ」と問いたくなるのが当然です。大きな不条理です。それなのに、ホームレスの方々にお弁当を配る側で奉仕しておられるお姿を見て、私は頭が下がります。
はっきりしていることは、神の国が完成する時には、神様の愛と正義と平和が完全に実現し、悪魔が滅びて罪と悪が完全に消え去ることです。神に従う人がこの世で苦労するのは、神の国のための「産みの苦しみ」の面があると思うのです。世界で最大の不条理は、イエス様の十字架の死です。イエス様は、父なる神様に100%従い切った方なのに、捕らえられて十字架で完全に不当に殺されたからです。そして弟子たちも悲嘆に暮れたのです。
ですがイエス様は言われます。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」イエス様が復活なさった時、イエス様は弟子たちと再会なさいました。ヨハネ福音書20章19~20節にこうあります。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」
私たちも今日の礼拝の中で、復活のイエス様に出会います。聖餐式のパンとぶどう汁によって、やや間接的にではありますが、私たちの罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさって今も生きておられるイエス・キリストに出会います。パンはイエス様の御体、ぶどう汁はイエス様の十字架の血潮です。聖餐式は復活されたイエス様を味わう聖なる喜びの時です。マザー・テレサは、毎朝、聖餐のパンを受けて、一日の奉仕に向ったそうです。それほど聖餐は重要です。体調不良等で礼拝を長くお休みしておられる方々のお住まいに伺って聖餐を行います。このことを東久留米教会でも多くの教会でも行います。それほど聖餐は大切です。そして私たちは、天国に行ったときに、イエス様と直接お会いします。その時に、完全に聖なる喜びに満たされます。
本日の旧約聖書は、エレミヤ書29章です。時代は紀元前6世紀です。イスラエルの民が十戒を守らず、神様の戒めに繰り返し背いていたため、神様は忍耐に忍耐を重ねておられましたが、イスラエルの民が罪を悔い改めなかったので、神様は遂に怒りを発せられ、イスラエルはバビロン軍に攻撃され、神殿は破壊され、多くの人々が捕囚としてバビロンに連行されたのです。バビロン捕囚です。神様がイスラエルの民に言われます。「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町(バビロンの国)の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」私たちは東久留米市と周りの市のために、神様の平安を祈ります。
神様がイスラエルの民に言われます。「バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」
バビロン捕囚は、当初七十年間と言われたようです。神様の憐れみがあり、結果的に約五十年間で終わりました。イスラエルの民は、祖国に帰還する喜びを味わうことができたのです。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」人間がどうしても罪を悔い改めないと、神様は忍耐の末に審判をお与えになることがあります。しかし神様は、私たち人間が罪を悔い改めて、平和と祝福に入ることを望んでおられます。私たち人間が、自分の罪を悔い改めるならば、将来に希望をもつことができます。
核兵器をもって、互いを脅し合うのは人間の罪です。このような罪を人間たちが行うことをやめ悔い改め、核兵器が廃絶されることを祈ります。それは夢物語と思ってしまっていた自分に気づきますが、先日、核兵器廃絶を進めようとする団体にノーベル平和賞が与えられ、私も新たな希望を抱きます。神様の力で核兵器を廃絶してくださるように心より祈ります。
東久留米教会に以前、KさんとMさんという男性方が出席しておられました。お二人は、シベリア抑留から生還された方々です。Mさんが私に言われました。「シベリアから帰国できた時、神様が私に、『あなたにはまだ使命がある』と言われたのだと受けとめました。」私たち一人一人にも、神様から果たすべき責任・使命が与えられています。十字架と復活のイエス様を宣べ伝える責任・使命があり、また一人一人に様々な責任が与えられているでしょう。イエス様に助けていただき、その責任・使命を果たしながら前進する2018年と致しましょう。アーメン(「真実に」)。
2018年の最初の聖日礼拝を献げることを許され、心より感謝致します。ヨハネ福音書16章は、イエス様が捕らえられる直前の箇所です。イエス様は18章で捕らえられ、19章で十字架につけられます。
イエス様は弟子たちに言われます。「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
旧約聖書の原則は、神様に従えば祝福があり、神様に背けば神様の裁きがあるということです。しかし世の中の現実は、そうでない場合もあります。神様に従う人が苦労し、神様に従わない人が繁栄することもあるのです。難しい言葉を使うと、不条理ということです。そこで問いが生まれます。神様が世界を支配しておられるのに、なぜ罪と悪がはびこるのか。ヨブもこの問いを発しています。この問いに答えることは簡単とは言えません。しばらく前に、池袋でホームレスの方々にお弁当を配っているクリスチャンの方々に出会いました。そのお一人の男性は、東日本大震災の津波で、お母様と奥様が流されたとのことです。地元は原子力発電事故の被害で帰宅できないそうなのです。「なぜ」と問いたくなるのが当然です。大きな不条理です。それなのに、ホームレスの方々にお弁当を配る側で奉仕しておられるお姿を見て、私は頭が下がります。
はっきりしていることは、神の国が完成する時には、神様の愛と正義と平和が完全に実現し、悪魔が滅びて罪と悪が完全に消え去ることです。神に従う人がこの世で苦労するのは、神の国のための「産みの苦しみ」の面があると思うのです。世界で最大の不条理は、イエス様の十字架の死です。イエス様は、父なる神様に100%従い切った方なのに、捕らえられて十字架で完全に不当に殺されたからです。そして弟子たちも悲嘆に暮れたのです。
ですがイエス様は言われます。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」イエス様が復活なさった時、イエス様は弟子たちと再会なさいました。ヨハネ福音書20章19~20節にこうあります。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」
私たちも今日の礼拝の中で、復活のイエス様に出会います。聖餐式のパンとぶどう汁によって、やや間接的にではありますが、私たちの罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさって今も生きておられるイエス・キリストに出会います。パンはイエス様の御体、ぶどう汁はイエス様の十字架の血潮です。聖餐式は復活されたイエス様を味わう聖なる喜びの時です。マザー・テレサは、毎朝、聖餐のパンを受けて、一日の奉仕に向ったそうです。それほど聖餐は重要です。体調不良等で礼拝を長くお休みしておられる方々のお住まいに伺って聖餐を行います。このことを東久留米教会でも多くの教会でも行います。それほど聖餐は大切です。そして私たちは、天国に行ったときに、イエス様と直接お会いします。その時に、完全に聖なる喜びに満たされます。
本日の旧約聖書は、エレミヤ書29章です。時代は紀元前6世紀です。イスラエルの民が十戒を守らず、神様の戒めに繰り返し背いていたため、神様は忍耐に忍耐を重ねておられましたが、イスラエルの民が罪を悔い改めなかったので、神様は遂に怒りを発せられ、イスラエルはバビロン軍に攻撃され、神殿は破壊され、多くの人々が捕囚としてバビロンに連行されたのです。バビロン捕囚です。神様がイスラエルの民に言われます。「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町(バビロンの国)の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」私たちは東久留米市と周りの市のために、神様の平安を祈ります。
神様がイスラエルの民に言われます。「バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」
バビロン捕囚は、当初七十年間と言われたようです。神様の憐れみがあり、結果的に約五十年間で終わりました。イスラエルの民は、祖国に帰還する喜びを味わうことができたのです。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」人間がどうしても罪を悔い改めないと、神様は忍耐の末に審判をお与えになることがあります。しかし神様は、私たち人間が罪を悔い改めて、平和と祝福に入ることを望んでおられます。私たち人間が、自分の罪を悔い改めるならば、将来に希望をもつことができます。
核兵器をもって、互いを脅し合うのは人間の罪です。このような罪を人間たちが行うことをやめ悔い改め、核兵器が廃絶されることを祈ります。それは夢物語と思ってしまっていた自分に気づきますが、先日、核兵器廃絶を進めようとする団体にノーベル平和賞が与えられ、私も新たな希望を抱きます。神様の力で核兵器を廃絶してくださるように心より祈ります。
東久留米教会に以前、KさんとMさんという男性方が出席しておられました。お二人は、シベリア抑留から生還された方々です。Mさんが私に言われました。「シベリアから帰国できた時、神様が私に、『あなたにはまだ使命がある』と言われたのだと受けとめました。」私たち一人一人にも、神様から果たすべき責任・使命が与えられています。十字架と復活のイエス様を宣べ伝える責任・使命があり、また一人一人に様々な責任が与えられているでしょう。イエス様に助けていただき、その責任・使命を果たしながら前進する2018年と致しましょう。アーメン(「真実に」)。
2017-12-22 18:25:37(金)
「その子をイエスと名付けなさい」 2017年12月17日(日) 礼拝説教要旨
聖書:イザヤ書7章12~17節、マタイによる福音書1章18~25節
次週にクリスマス礼拝を控えています。本日の聖書は、イエス様の誕生の箇所です。(18節)「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」マリアは15才前後と思われます。当時のイスラエルでは、婚約は結婚と同等の法的な重みをもっており、婚約した者同士は夫婦と見なされました。但し、まだ一緒に住むことは許されていませんでした。長い時は、1年くらいの婚約期間(夫婦と見なされるが、まだ一緒に住むことができない期間)があったそうです。マリアとヨセフがその期間を過ごしている時に、マリアの妊娠が分かったのです。常識で考えると、マリアがヨセフを裏切って姦淫を行った、不倫を行ったことになります。神様の掟では姦淫・不倫は死刑に当たる大きな罪です。
申命記22章23節に、こうあります。「ある男と婚約している処女の女がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さなければならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から愛を取り除かなければならない。」
ヨセフは悩み、途方に暮れました。夜も悩みながらの眠りです。(19節)「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」新改訳聖書は、次のようになっています。「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」ヨセフはマリアが姦淫の罪を犯したと思っていたので、もはや結婚はできないと考えました。ヨセフは正しい人、つまり神様の律法(戒め)を忠実に守る人だからです。しかしマリアのことを公にし、マリアが石打ちの刑で死ぬことには耐えられませんでした。正しい人ヨセフには優しい心があり、正しさに徹することができませんでした。しかしここにヨセフの人間味を感じますね。「ひそかに離縁する。」これが、ヨセフが精一杯考えて出した結論です。
ここに神様が介入して下さいます。ヨセフに天使を送られたのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」マリアが姦淫の罪を犯してヨセフを裏切ったのではないことを、天使が知らせてくれました。ヨセフは大きな安堵に包まれたと思うのです。私たちも途方に暮れることがあります。そんな時、聖書の次の御言葉が励ましになります。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(コリントの信徒への手紙(二)4章8~9節)。
私たちは、一生懸命考えても解決策が見つからず、ため息をつくことがあります。私たちは身の周りばかりを見て、視野が狭くなっているかもしれません。しかし上を見上げれば空は広い、天の窓があります。神の窓です。私たちには、祈りという大切な逃げ道があります。祈ることで、神様が上から聖霊を注いで下さいます。天の窓という開かれた窓があります。神様はヨセフにも、天から手を差し伸べて下さいました。「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」マリアは姦淫をするような人ではないのです。神様はこうしてヨセフを安堵させて下さいました。
新潟青陵大学大学院の碓井真史先生は以前、日本キリスト教団出版局発行の『心の友』に、この時のヨセフの行動から、次の学びを与えられるとお書きになりました。難しい問題に直面したとき、正しい態度をとる必要があるが、決め手は人を大切にし生かすことができるか、愛に基づくものであるか、であると。ヨセフのようにマリアの幸せを願って行動することが大切だ、と。
私は17年ほど前に、杉原千畝氏のご夫人・幸子氏の講演を伺ったことがあります。杉原千畝氏は、多くのユダヤ人の命を救うビザを発行したことで、苦労なさりつつも後年知られるようになった方です。外務省の指示に背く決断でしたから、苦悩の末の決断だったのです。ヨセフの苦悩に通じるように思います。杉原氏は決断し、多くのユダヤ人に日本通過ビザを発行しました。ご夫人は後年、アメリカでその時救われた方たちに再会されました。その場には、救われた方のお孫さんもいました。大統領候補にもなったデュカキス氏の夫人が、「あなたのご主人のビザがなかったら、こんな天使のような子の生命は神から授けられなかったのですよ」と言われたそうです(杉原幸子著『六千人の命のビザ』大正出版、2000年、201~202ページ)。
こんな話を読んだことがあります。1979年頃のことではないかと思うのですが、ベトナムなどからボートピープルと呼ばれる難民が、舟で日本に来たことがあります。日本のあるカトリック教会で、一時的にかもしれませんが、その方たちに教会に住んでいただく決断をした神父がおられたそうです。後日、子どもたちが生まれたようです。ある人が言いました。「あの時の神父の決断がなかったら、この子どもたちは生まれていなかった。」1つの愛の決断が将来を開くことを学びます。
ヨセフの決断(マリアを告発しない決断)は、マリアを守り、イエス様を守りました。ヨセフがマリアを告発していたら、(理論上は)マリアもお腹のイエス様も死んだ可能性があります。もちろんイエス様を救い主として誕生させることが父なる神様の強いご意志ですから、マリアと赤ちゃんイエス様が死ぬことはないのですが、しかし理屈の上ではもしヨセフがマリアを告発していたら、マリアは死刑になり、お腹のイエス様も死んだはずです。しかしヨセフが律法を超えた愛の決断をしたことで、マリアもイエス様も救われました。もしマリアとイエス様が死んでいたら、イエス様の十字架と復活による私たちの救いもなかったことになります。ヨセフの苦悩の末の愛の決断があったからこそ、私たちもイエス様によって救われることができたとも言えます。1つの愛の決断が、未来を大きく開くことを教えられます。
さて、安堵したヨセフに、神様が指示を与えられます。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」イエスという名前は、「主は救い」の意味です。神の民イスラエルを、罪から解き放つ。そしてイスラエルから見れば異邦人である民すべて(日本人を含む)をも罪から解き放つ。そのような神様の強い意志を決意を感じます。そのために最愛の独り子イエス様を、地上に送られました。イエス様の使命は、十字架にかかってすべての人の罪を身代りに背負うことです。十字架にかかって死に、三日目に復活される目的のために、地上に生まれて下さったのです。
(22~23節)「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」この預言者の言葉は、旧約聖書のイザヤ書7章に記されています。この預言者の言葉は、紀元前8世紀に赤ん坊が生まれ、インマヌエルと命名されたことで、一旦成就したと思われます。しかしこの言葉の究極の成就は、イエス様に誕生によってなされたのです。イエス・キリストこそ、私たちの真の救い主、インマヌエルの主でいらっしゃいます。
旧約聖書のエステル記9章に、プリム祭というユダヤ人の祭りのことが記されています。ユダヤ人を絶滅させる悪の謀略があったのですが、その謀略がとん挫し、逆にユダヤ人がその敵に復讐して大勢を殺す結果になったことを記念し、喜ぶ祭りのようです。この日は宴会と祝祭の日であり、「贈り物を交換し、貧しい人に施しをする」日です。まるでクリスマスのようです。神の民イスラエルを滅亡させる悪の謀略が挫折したことは喜ばしいことですが、ユダヤ人の徹底的な復讐ぶりには、違和感を覚えます。旧約聖書は確かに神の御言葉ですが、限界があります。この旧約聖書の限界は、イエス様の十字架の死と復活によって乗り越えられます。イエス様は敵を愛しなさいとおっしゃり、十字架上で敵をゆるすお祈りをなさいました。この真の救い主イエス様の誕生を祝う日がクリスマスです。クリスマス礼拝までの一週間を、祈りと感謝をもって、過ごして参りたいのです。アーメン(「真実に」)。
次週にクリスマス礼拝を控えています。本日の聖書は、イエス様の誕生の箇所です。(18節)「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」マリアは15才前後と思われます。当時のイスラエルでは、婚約は結婚と同等の法的な重みをもっており、婚約した者同士は夫婦と見なされました。但し、まだ一緒に住むことは許されていませんでした。長い時は、1年くらいの婚約期間(夫婦と見なされるが、まだ一緒に住むことができない期間)があったそうです。マリアとヨセフがその期間を過ごしている時に、マリアの妊娠が分かったのです。常識で考えると、マリアがヨセフを裏切って姦淫を行った、不倫を行ったことになります。神様の掟では姦淫・不倫は死刑に当たる大きな罪です。
申命記22章23節に、こうあります。「ある男と婚約している処女の女がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さなければならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。あなたはこうして、あなたの中から愛を取り除かなければならない。」
ヨセフは悩み、途方に暮れました。夜も悩みながらの眠りです。(19節)「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」新改訳聖書は、次のようになっています。「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」ヨセフはマリアが姦淫の罪を犯したと思っていたので、もはや結婚はできないと考えました。ヨセフは正しい人、つまり神様の律法(戒め)を忠実に守る人だからです。しかしマリアのことを公にし、マリアが石打ちの刑で死ぬことには耐えられませんでした。正しい人ヨセフには優しい心があり、正しさに徹することができませんでした。しかしここにヨセフの人間味を感じますね。「ひそかに離縁する。」これが、ヨセフが精一杯考えて出した結論です。
ここに神様が介入して下さいます。ヨセフに天使を送られたのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」マリアが姦淫の罪を犯してヨセフを裏切ったのではないことを、天使が知らせてくれました。ヨセフは大きな安堵に包まれたと思うのです。私たちも途方に暮れることがあります。そんな時、聖書の次の御言葉が励ましになります。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(コリントの信徒への手紙(二)4章8~9節)。
私たちは、一生懸命考えても解決策が見つからず、ため息をつくことがあります。私たちは身の周りばかりを見て、視野が狭くなっているかもしれません。しかし上を見上げれば空は広い、天の窓があります。神の窓です。私たちには、祈りという大切な逃げ道があります。祈ることで、神様が上から聖霊を注いで下さいます。天の窓という開かれた窓があります。神様はヨセフにも、天から手を差し伸べて下さいました。「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」マリアは姦淫をするような人ではないのです。神様はこうしてヨセフを安堵させて下さいました。
新潟青陵大学大学院の碓井真史先生は以前、日本キリスト教団出版局発行の『心の友』に、この時のヨセフの行動から、次の学びを与えられるとお書きになりました。難しい問題に直面したとき、正しい態度をとる必要があるが、決め手は人を大切にし生かすことができるか、愛に基づくものであるか、であると。ヨセフのようにマリアの幸せを願って行動することが大切だ、と。
私は17年ほど前に、杉原千畝氏のご夫人・幸子氏の講演を伺ったことがあります。杉原千畝氏は、多くのユダヤ人の命を救うビザを発行したことで、苦労なさりつつも後年知られるようになった方です。外務省の指示に背く決断でしたから、苦悩の末の決断だったのです。ヨセフの苦悩に通じるように思います。杉原氏は決断し、多くのユダヤ人に日本通過ビザを発行しました。ご夫人は後年、アメリカでその時救われた方たちに再会されました。その場には、救われた方のお孫さんもいました。大統領候補にもなったデュカキス氏の夫人が、「あなたのご主人のビザがなかったら、こんな天使のような子の生命は神から授けられなかったのですよ」と言われたそうです(杉原幸子著『六千人の命のビザ』大正出版、2000年、201~202ページ)。
こんな話を読んだことがあります。1979年頃のことではないかと思うのですが、ベトナムなどからボートピープルと呼ばれる難民が、舟で日本に来たことがあります。日本のあるカトリック教会で、一時的にかもしれませんが、その方たちに教会に住んでいただく決断をした神父がおられたそうです。後日、子どもたちが生まれたようです。ある人が言いました。「あの時の神父の決断がなかったら、この子どもたちは生まれていなかった。」1つの愛の決断が将来を開くことを学びます。
ヨセフの決断(マリアを告発しない決断)は、マリアを守り、イエス様を守りました。ヨセフがマリアを告発していたら、(理論上は)マリアもお腹のイエス様も死んだ可能性があります。もちろんイエス様を救い主として誕生させることが父なる神様の強いご意志ですから、マリアと赤ちゃんイエス様が死ぬことはないのですが、しかし理屈の上ではもしヨセフがマリアを告発していたら、マリアは死刑になり、お腹のイエス様も死んだはずです。しかしヨセフが律法を超えた愛の決断をしたことで、マリアもイエス様も救われました。もしマリアとイエス様が死んでいたら、イエス様の十字架と復活による私たちの救いもなかったことになります。ヨセフの苦悩の末の愛の決断があったからこそ、私たちもイエス様によって救われることができたとも言えます。1つの愛の決断が、未来を大きく開くことを教えられます。
さて、安堵したヨセフに、神様が指示を与えられます。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」イエスという名前は、「主は救い」の意味です。神の民イスラエルを、罪から解き放つ。そしてイスラエルから見れば異邦人である民すべて(日本人を含む)をも罪から解き放つ。そのような神様の強い意志を決意を感じます。そのために最愛の独り子イエス様を、地上に送られました。イエス様の使命は、十字架にかかってすべての人の罪を身代りに背負うことです。十字架にかかって死に、三日目に復活される目的のために、地上に生まれて下さったのです。
(22~23節)「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」この預言者の言葉は、旧約聖書のイザヤ書7章に記されています。この預言者の言葉は、紀元前8世紀に赤ん坊が生まれ、インマヌエルと命名されたことで、一旦成就したと思われます。しかしこの言葉の究極の成就は、イエス様に誕生によってなされたのです。イエス・キリストこそ、私たちの真の救い主、インマヌエルの主でいらっしゃいます。
旧約聖書のエステル記9章に、プリム祭というユダヤ人の祭りのことが記されています。ユダヤ人を絶滅させる悪の謀略があったのですが、その謀略がとん挫し、逆にユダヤ人がその敵に復讐して大勢を殺す結果になったことを記念し、喜ぶ祭りのようです。この日は宴会と祝祭の日であり、「贈り物を交換し、貧しい人に施しをする」日です。まるでクリスマスのようです。神の民イスラエルを滅亡させる悪の謀略が挫折したことは喜ばしいことですが、ユダヤ人の徹底的な復讐ぶりには、違和感を覚えます。旧約聖書は確かに神の御言葉ですが、限界があります。この旧約聖書の限界は、イエス様の十字架の死と復活によって乗り越えられます。イエス様は敵を愛しなさいとおっしゃり、十字架上で敵をゆるすお祈りをなさいました。この真の救い主イエス様の誕生を祝う日がクリスマスです。クリスマス礼拝までの一週間を、祈りと感謝をもって、過ごして参りたいのです。アーメン(「真実に」)。
2017-12-14 18:17:00(木)
「小さい者にしたことは、キリストにしたこと」 2017年12月10日(日) 礼拝説教要旨
聖書:箴言14章31節、マタイによる福音書25章31~46節
今私たちは、アドヴェント(待降節)を過ごしています。アドヴェントは、ラテン語で「到来」、「来る」の意です。2000年前にベツレヘムの馬小屋に誕生されて、十字架の死と復活を経て天に昇られたイエス・キリストは、世の終わり(神の国の完成の時)にもう一度来られると約束しておられます。アドヴェントはこの信仰を新たにする季節です。ミケランジェロがバチカンのシスティーナ礼拝堂に大きな「最後の審判」の絵を描いていますが、それは本日のマタイ福音書に基づく絵です。イエス様は言われます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」私は、「○○羊右氏」というお名前を拝見したことがあります。この「羊を右に」の聖句が基になったお名前と思います。きっと親御さんが、「右側に置かれて祝福される羊」になるようにとの祈りをこめて、お付けになったお名前と思います。
(34~36節)「そこで、王(イエス様)は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』」すると、正しい人たちは戸惑い、「主よ、いつわたしたちはそのことを行いましたか」という意味のことを問います。すると王は答えます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイ福音書10章42節には、似た御言葉があります。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
イエス様は、「わたしが飢えていたときに食べさせ」と言われます。ヨハネ福音書の十字架の場面でイエス様は、「渇く(我渇く)」と言われました。これは、イエス様の十字架上での肉体の渇きと同時に、父なる神様の御心(十字架にかかること)に飢え渇いておられる気持を表すようです。インドのコルカタにあるマザー・テレサの「神の愛の宣教会」の礼拝堂の十字架の近くに、「渇く(我渇く)」の御言葉が記してあるそうです。マザー・テレサはこの御言葉を非常に深く心に留めていたそうです。「我渇く。」マザー・テレサは、貧しくて飢え渇く多くの人たちに出会いました。その方々に会うたびに、「この人々の中で、イエス様が渇いておられる」と強く感じ、それに促されて奉仕活動をなさったのではないでしょうか。
セブンスデイ・アドヴェンティストの教団の東京衛生病院では、患者さんをイエス様と思って接して下さるそうです。手術前にはお祈りして下さると聞きます。東久留米市の隣りの清瀬市にある救世軍清瀬病院でも同じだろうと思います。私は先日、清瀬市の別の病院に行きましたが、ある方(クリスチャンではなさそうでした)が語っておられるのが聞こえました。その方は、いくつかの病気を乗り越えて来られたそうですが、「もし将来私が治らないと言われることがあれば、救世軍清瀬病院のホスピスに入れてもらうつもり。あそこはミッションだから、本当に親切で、いいよ。」クリスチャンでない方からも、よい評判を受けておられる病院なのだなと、よく分かりました。私は先日、『山室軍平』という映画を見ました。山室軍平は、日本の救世軍の初期のリーダーです。心を打たれたのは廃娼運動の場面です。遊廓から女性たちを救うために、娼婦をやめることができることを伝えるちらしを配ります。遊廓側はやくざを雇い、廃娼運動をつぶそうと暴力を使います。しかし殴られても蹴られても、血が流れても屈せず、ちらしを配ります。もちろん暴力で抵抗しません。正義の闘いがあるならば、これぞ正義の闘い、神の闘い、愛の闘いと感じました。救世軍兵士は、この世の兵士ではなく、キリストの愛の兵士です。
私たちの教会の婦人会で約40年間、フィリピンの子どもさんたちにささやかな支援を続けて参りましたが、この働きも、子どもたちを応援することを通してイエス様にお仕えするわざだと思い、感謝の気持ちになります。戦国時代に小西行長というキリシタン大名がいました。高山右近ほど純粋に信仰を貫くことができなかったと聞くこともありますが、生まれ故郷の堺や、領地であった肥後・宇土(うと)に日本初のハンセン氏病患者の施療院や孤児の施設を造ったそうです。残念ながら関ヶ原の戦いで敗れ、処刑されましたが。
イエス様は、「牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われます。ヘブライ人への手紙13章2~3節に、こうあります。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」
これらの御言葉で「牢に捕らわれている人」は、第一には無実の罪で牢に捕らわれている人々ではないかと思います。ですが、本当に悪を行って牢に捕らわれている人々をも含むのではないかと思います。教誨師として奉仕しておられる日本基督教団長野教会牧師・横井先生が、次のように書いておられます(『ひとやの友 第43号 2017年11月』日本基督教団教誨師会発行より)。「現在、長野刑務所においては10名前後の収容者の方々と共に讃美歌を歌い、聖書の御言葉を味わい、主の祈りをもって、会を閉じる『聖書研究会』を行っている。~出席者は聖書の言葉に真剣に耳を傾けている。特にその真剣さが感じられるのは、ルカによる福音書15章の三つのたとえ話を読んでいる時である。『徴税人や罪人たちが皆、話を聞こうとイエスのところに集まって来た』(15章1節)。~そして『見失った羊を捜し回る羊飼い』の譬え話について語り、『このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある』(7節)に至る。~この御言葉は、刑務所に収容されている人たちの心に響いていた。この学びの後の『質問』の時間で『洗礼を受けるにはどうしたらよいのか』という発言が出て驚いた。」エゼキエル書18章32節を思い出します。「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」スイスにカール・バルトという著名な神学者がおられましたが、バルトは人生の終わりに近い頃には、刑務所で説教することが多かったと聞きます。キリストの救いを最も必要とする人たちが刑務所にいるからでしょう。
イエス様は言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」高田三郎さんというカトリック信者の音楽家の方がおられました。高田さんが作詞・作曲なさった「ちいさなひとびとの」という印象的な歌があります(CD『高田三郎の典礼聖歌Ⅰ 東京荒川少年少女合唱団のうたうこころのうた』FONTEC INC.より)。
「ちいさなひとびとの/ ひとりひとりを見守ろう
ひとりひとりの中に キリストはいる
まずしい人が 飢えている/ まずしい人が 渇いている
くにを出た人に 家がなく/ 寒い冬に 着物がない
ちいさなひとびとの/ ひとりひとりを見守ろう
ひとりひとりの中に キリストはいる
病気の人が 苦しみ/ 牢獄の人は さげすまれ
みなし子たちは さびしく/ 捨てられた人に 友がない
ちいさなひとびとの/ ひとりひとりを見守ろう
ひとりひとりの中に キリストはいる キリストはいる」
もちろん私たちは、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、救われます。しかし、イエス様に愛され、イエス様の十字架の死のお陰で罪を赦された人は、深い感謝を抱きます。イエス様の十字架の愛に応答して、神様と隣人を愛する生き方へ(少しずつでも)必ず踏み出さないではおれないのです。どうか私どもが、身の周りの一人一人の中におられるイエス様を発見し、一人一人に小さな愛を注ぐことで、イエス様を愛することができますように。アーメン(「真実に」)。
今私たちは、アドヴェント(待降節)を過ごしています。アドヴェントは、ラテン語で「到来」、「来る」の意です。2000年前にベツレヘムの馬小屋に誕生されて、十字架の死と復活を経て天に昇られたイエス・キリストは、世の終わり(神の国の完成の時)にもう一度来られると約束しておられます。アドヴェントはこの信仰を新たにする季節です。ミケランジェロがバチカンのシスティーナ礼拝堂に大きな「最後の審判」の絵を描いていますが、それは本日のマタイ福音書に基づく絵です。イエス様は言われます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」私は、「○○羊右氏」というお名前を拝見したことがあります。この「羊を右に」の聖句が基になったお名前と思います。きっと親御さんが、「右側に置かれて祝福される羊」になるようにとの祈りをこめて、お付けになったお名前と思います。
(34~36節)「そこで、王(イエス様)は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』」すると、正しい人たちは戸惑い、「主よ、いつわたしたちはそのことを行いましたか」という意味のことを問います。すると王は答えます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイ福音書10章42節には、似た御言葉があります。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
イエス様は、「わたしが飢えていたときに食べさせ」と言われます。ヨハネ福音書の十字架の場面でイエス様は、「渇く(我渇く)」と言われました。これは、イエス様の十字架上での肉体の渇きと同時に、父なる神様の御心(十字架にかかること)に飢え渇いておられる気持を表すようです。インドのコルカタにあるマザー・テレサの「神の愛の宣教会」の礼拝堂の十字架の近くに、「渇く(我渇く)」の御言葉が記してあるそうです。マザー・テレサはこの御言葉を非常に深く心に留めていたそうです。「我渇く。」マザー・テレサは、貧しくて飢え渇く多くの人たちに出会いました。その方々に会うたびに、「この人々の中で、イエス様が渇いておられる」と強く感じ、それに促されて奉仕活動をなさったのではないでしょうか。
セブンスデイ・アドヴェンティストの教団の東京衛生病院では、患者さんをイエス様と思って接して下さるそうです。手術前にはお祈りして下さると聞きます。東久留米市の隣りの清瀬市にある救世軍清瀬病院でも同じだろうと思います。私は先日、清瀬市の別の病院に行きましたが、ある方(クリスチャンではなさそうでした)が語っておられるのが聞こえました。その方は、いくつかの病気を乗り越えて来られたそうですが、「もし将来私が治らないと言われることがあれば、救世軍清瀬病院のホスピスに入れてもらうつもり。あそこはミッションだから、本当に親切で、いいよ。」クリスチャンでない方からも、よい評判を受けておられる病院なのだなと、よく分かりました。私は先日、『山室軍平』という映画を見ました。山室軍平は、日本の救世軍の初期のリーダーです。心を打たれたのは廃娼運動の場面です。遊廓から女性たちを救うために、娼婦をやめることができることを伝えるちらしを配ります。遊廓側はやくざを雇い、廃娼運動をつぶそうと暴力を使います。しかし殴られても蹴られても、血が流れても屈せず、ちらしを配ります。もちろん暴力で抵抗しません。正義の闘いがあるならば、これぞ正義の闘い、神の闘い、愛の闘いと感じました。救世軍兵士は、この世の兵士ではなく、キリストの愛の兵士です。
私たちの教会の婦人会で約40年間、フィリピンの子どもさんたちにささやかな支援を続けて参りましたが、この働きも、子どもたちを応援することを通してイエス様にお仕えするわざだと思い、感謝の気持ちになります。戦国時代に小西行長というキリシタン大名がいました。高山右近ほど純粋に信仰を貫くことができなかったと聞くこともありますが、生まれ故郷の堺や、領地であった肥後・宇土(うと)に日本初のハンセン氏病患者の施療院や孤児の施設を造ったそうです。残念ながら関ヶ原の戦いで敗れ、処刑されましたが。
イエス様は、「牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われます。ヘブライ人への手紙13章2~3節に、こうあります。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」
これらの御言葉で「牢に捕らわれている人」は、第一には無実の罪で牢に捕らわれている人々ではないかと思います。ですが、本当に悪を行って牢に捕らわれている人々をも含むのではないかと思います。教誨師として奉仕しておられる日本基督教団長野教会牧師・横井先生が、次のように書いておられます(『ひとやの友 第43号 2017年11月』日本基督教団教誨師会発行より)。「現在、長野刑務所においては10名前後の収容者の方々と共に讃美歌を歌い、聖書の御言葉を味わい、主の祈りをもって、会を閉じる『聖書研究会』を行っている。~出席者は聖書の言葉に真剣に耳を傾けている。特にその真剣さが感じられるのは、ルカによる福音書15章の三つのたとえ話を読んでいる時である。『徴税人や罪人たちが皆、話を聞こうとイエスのところに集まって来た』(15章1節)。~そして『見失った羊を捜し回る羊飼い』の譬え話について語り、『このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある』(7節)に至る。~この御言葉は、刑務所に収容されている人たちの心に響いていた。この学びの後の『質問』の時間で『洗礼を受けるにはどうしたらよいのか』という発言が出て驚いた。」エゼキエル書18章32節を思い出します。「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」スイスにカール・バルトという著名な神学者がおられましたが、バルトは人生の終わりに近い頃には、刑務所で説教することが多かったと聞きます。キリストの救いを最も必要とする人たちが刑務所にいるからでしょう。
イエス様は言われます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」高田三郎さんというカトリック信者の音楽家の方がおられました。高田さんが作詞・作曲なさった「ちいさなひとびとの」という印象的な歌があります(CD『高田三郎の典礼聖歌Ⅰ 東京荒川少年少女合唱団のうたうこころのうた』FONTEC INC.より)。
「ちいさなひとびとの/ ひとりひとりを見守ろう
ひとりひとりの中に キリストはいる
まずしい人が 飢えている/ まずしい人が 渇いている
くにを出た人に 家がなく/ 寒い冬に 着物がない
ちいさなひとびとの/ ひとりひとりを見守ろう
ひとりひとりの中に キリストはいる
病気の人が 苦しみ/ 牢獄の人は さげすまれ
みなし子たちは さびしく/ 捨てられた人に 友がない
ちいさなひとびとの/ ひとりひとりを見守ろう
ひとりひとりの中に キリストはいる キリストはいる」
もちろん私たちは、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、救われます。しかし、イエス様に愛され、イエス様の十字架の死のお陰で罪を赦された人は、深い感謝を抱きます。イエス様の十字架の愛に応答して、神様と隣人を愛する生き方へ(少しずつでも)必ず踏み出さないではおれないのです。どうか私どもが、身の周りの一人一人の中におられるイエス様を発見し、一人一人に小さな愛を注ぐことで、イエス様を愛することができますように。アーメン(「真実に」)。
2017-12-07 15:22:49(木)
「クリスマス・キャロル」のメッセージ 伝道メッセージ
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である」(新約聖書・ルカ福音書2:11)
クリスマスは、父なる神様が最愛の独り子イエス・キリストを地上に誕生させて下さった記念日です。イエス様こそ、私たちへの最大のプレゼントです。クリスマスは、「与える季節」です(一年中をそう生きると、最高)。
クリスマスに読みたい名作の1つにディケンズ作『クリスマス・キャロル』(新潮文庫など)があります。舞台は19世紀のロンドンのようです。スクルージという老人がいました。大変けち・欲張りで、クリスマスにも貧しい人々に寄付することを拒否します。一人の幽霊(私は幽霊はいないと信じますが、これは物語なので幽霊が登場します)が現れて、スクルージに彼の子どもの頃のクリスマスを見せます。子どものスクルージがさびしそうに本を読んでいます。彼はそれを見て、最近、貧しい子どもを追い払った自分を悔います。彼の青年時代に、雇ってくれた主人の家の当時のクリスマスも見ます。優しい主人で、使用人たちに、皆で踊るクリスマスをプレゼントしたのです。スクルージがお金だけを愛する男になったために離れて行った、昔の婚約者にも会います。
第二の幽霊が現れて、今、スクルージのもとで働いているボブの家庭のクリスマスを見せます。奥さんと子どもたちがおり、足が不自由な末息子のティムもいます。貧しい大家族が、今日だけは精一杯のごちそうです。何と一家は、少ない給料しかくれないスクルージに祝福を祈るのです! 第三の幽霊が来て、スクルージに未来のクリスマスを見せます。ある男が死に、誰もそれを悲しまない、むしろ喜んでいます。その男はスクルージらしいのです。彼はこれまでの過ちを悟り、生き方を変える決心をします。彼は困っている人に寄付することに喜びを見出し、晴れ晴れとしてボブに、「君の給料を上げることにした。クリスマスおめでとう」と言うのです。生き方を変えるのに遅すぎることはないのです。イエス様は、「受けるよりは与えるほうが幸いである」と言われました。スクルージはそうなりました。私たちもそうなりたいですね。アーメン(「真実に」)。
クリスマスは、父なる神様が最愛の独り子イエス・キリストを地上に誕生させて下さった記念日です。イエス様こそ、私たちへの最大のプレゼントです。クリスマスは、「与える季節」です(一年中をそう生きると、最高)。
クリスマスに読みたい名作の1つにディケンズ作『クリスマス・キャロル』(新潮文庫など)があります。舞台は19世紀のロンドンのようです。スクルージという老人がいました。大変けち・欲張りで、クリスマスにも貧しい人々に寄付することを拒否します。一人の幽霊(私は幽霊はいないと信じますが、これは物語なので幽霊が登場します)が現れて、スクルージに彼の子どもの頃のクリスマスを見せます。子どものスクルージがさびしそうに本を読んでいます。彼はそれを見て、最近、貧しい子どもを追い払った自分を悔います。彼の青年時代に、雇ってくれた主人の家の当時のクリスマスも見ます。優しい主人で、使用人たちに、皆で踊るクリスマスをプレゼントしたのです。スクルージがお金だけを愛する男になったために離れて行った、昔の婚約者にも会います。
第二の幽霊が現れて、今、スクルージのもとで働いているボブの家庭のクリスマスを見せます。奥さんと子どもたちがおり、足が不自由な末息子のティムもいます。貧しい大家族が、今日だけは精一杯のごちそうです。何と一家は、少ない給料しかくれないスクルージに祝福を祈るのです! 第三の幽霊が来て、スクルージに未来のクリスマスを見せます。ある男が死に、誰もそれを悲しまない、むしろ喜んでいます。その男はスクルージらしいのです。彼はこれまでの過ちを悟り、生き方を変える決心をします。彼は困っている人に寄付することに喜びを見出し、晴れ晴れとしてボブに、「君の給料を上げることにした。クリスマスおめでとう」と言うのです。生き方を変えるのに遅すぎることはないのです。イエス様は、「受けるよりは与えるほうが幸いである」と言われました。スクルージはそうなりました。私たちもそうなりたいですね。アーメン(「真実に」)。