日本キリスト教団 東久留米教会

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2017-04-01 12:17:46(土)
「勝ち得てあまりあり」 2017年3月26日(日) 受難節(レント)第3主日礼拝説教
朗読聖書:創世記22章9~14節、ローマの信徒への手紙8章31~39節。
「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(ローマ書8章37節)。

 著者パウロは、最初の31節で述べます。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」神様は、ご自分に逆らって来た私たち罪人(つみびと)を愛し、私たちのすべての罪を身代りに負わせるために、独り子イエス・キリストを地上に送る決断をされました。それがクリスマスの出来事です。神様は私たちの味方となる決意をされ、イエス・キリストを救い主と信じ告白して自分の罪を悔い改める罪人(つみびと)に、永遠の命を与えることを決定されました。

 パウロは32節で、「わたしたちすべてのために、その御子(イエス・キリスト)をさえ惜しまず死に渡さされた方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか」と述べます。父なる神様は、御子イエス・キリストが惜しくなかったのではありません。逆に、最も惜しくて惜しくて仕方のない独り子がイエス様です。どうしても本日の創世記22章、旧約聖書の重要な人物の一人アブラハムが、神様の試しによって独り子イサクを、ほとんど献げかけた場面を連想致します。神様が天使を通してアブラハムに言われたのです。「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしに献げることを惜しまなかった。」「独り子」、「惜しまなかった」の言葉が、父なる神様が、断腸の思いでイエス・キリストを十字架におかけになった愛の行為を、強く指し示します。

 深井智朗先生とおっしゃる牧師の著書に、次のたとえ話が記されています。私たち皆のために独り子を惜しまず死に渡された父なる神様の愛を語るたとえ話です。本当にあったことではないと思います。深井先生が子どもの頃、教会学校のクリスマスで聞かれた話です。「昔あるところに跳ね橋の管理をしている親子がいたというのです。(~)時間になると父は車や人を止めて跳ね橋を吊り上げるワイヤーのスイッチを入れます。(~)両側に巻き上げられた橋の下を船が通過します。その日もいつもと同じでした。時間になり向こうに船が見えました。父は跳ね橋を巻き上げる機会のスイッチを入れようとしました。するとそのワイヤーのタンクに息子が落ちてしまっているのです。助けていると船が橋に到着する時間に間に合いません。しかしこのまま跳ね橋を巻き上げれば、息子はワイヤーに巻き込まれてしまいます。父は決断し、ワイヤーを巻き上げたのです。船は無事に通過し、橋の下に、いつものように船の上から父に向って手をふる子供たちの姿があったというのです。 私は息を飲んでその話を聞きました。先生はその話を終えて、この父が神さまです。この息子がイエスさまですと言われたのです。そして私も、みなさんもこの船の上の人々ですね。この神の聖なるご決断によって救われたのです、と言われたのです」(深井智朗『伝道』日本キリスト教団出版局、2012年、45~46ページ)。この父の決断がどんなにつらいものか、私たちも感じ取ることができます。父なる神様も同じつらさに耐えて、独り子を十字架につけて下さいました。

 (33~34節)「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」 イエス・キリストは、私たちがこれまでに犯した全ての罪も、これからの人生で心ならずも犯してしまう全ての罪も、十字架で背負いきって下さいました。ですからイエス様を救い主と信じ告白して、自分の罪を悔い改める人は、罪に定められる(=最後の審判の時に有罪を宣告される)ことなく、確実に天国に入れられます。だれもキリストを信じた人を罪に定めることはできません。神様の次に強い存在は悪魔ですが、悪魔も私たちを罪に定めることはできないのです。

 今から20年ほど前に、東京の武道館を一週間ほど借りきって、超教派の伝道集会や伝道コンサートが連日行われたことがあります。私は2日ほど参加致しました。ある有名な牧師がメッセージをされました。その先生は日ごろ、多くの人々にキリストを信じるよう勧めておられましたが、ある時、病気で生死の境をさまよわれたそうです。すると悪魔の声が聞こえたそうです。「あなたは牧師と名乗っているが、心の中で考えていることは、清いことだけではないではないか。あなたは偽善者だ!」 悪魔の指摘はいちいちもっともで、当たっているのです。それなら悪魔が勝つのでしょうか。そうではありません。その先生は、悪魔に次のような意味の反論をなさったそうです。「悪魔よ、お前の言うことは正しい。しかし、私の罪は既にイエス様が十字架で、全部あがなって(償って)下さったのだ。だからお前の告発にもかかわらず、私はキリストによって天国に入れていただくことに決まっているのだ。」その通りです。イエス様の十字架によってすべての罪をあがなわれた人を、、だれも(悪魔も)罪に定める力をもたないのです。

 私たちは皆、日々、病気、老い、お金のこと、災害の不安、死によって脅かされる現実に生きています。でも最終的には天国を保証されています。パウロは37節の冒頭で「しかし」と書きます。この「しかし」は、実に力強い「希望のしかし」ですね。パウロは、感動をもって書きます。(37節)「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」この御言葉は、イエス様の御言葉と呼応します。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ福音書16章33節)。世とは、罪と悪魔と死、あらゆるこの世の不安でしょう。

 東久留米教会のお墓は、入間メモリアルパークにあります。同じ列のある教会のお墓に大きく、「神の愛の勝利」(「神の恵みの勝利」だったかもしれません)と刻んでありました。ローマ書8章37節をヒントにして刻まれた文字ではないかな、と感じます。口語訳聖書は37節を、「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある」と訳し、文語訳聖書は、「されど凡てこれらの事の中(うち)にありても、我らを愛したまふ者に頼り、勝ち得て余(旧字体、あまり)あり。」

 最愛の独り子イエス・キリストを十字架につける辛さを忍耐された父なる神様の、犠牲を忍ぶ愛によって、私どもは天国を約束されています。ただ感謝です。アーメン(「真実に、確かに」)。

2017-03-23 20:02:28(木)
「善をもって悪に勝つダビデ王」 2017年3月19日(日) 受難節(レント)第3主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記(下)19章16~40節、ローマの信徒への手紙12章9~21節「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12章21節)。

 ダビデ王は、生涯最大の危機を脱しました。反逆した息子アブサロムは戦死し、ダビデは王としてエルサレムに復帰することになったのです。神がそれをよしとして下さいました。ダビデと家臣たちがヨルダン川を渡る時、いろいろな人が傍に来ました。バフリム出身のベニヤミン人、ゲラの子シムイもその一人です。シムイはベニヤミン族の千人を率いていました(ダビデたちを助けるためか、ダビデたちに自分の力を見せるためか、よく分かりません)。シムイは、ダビデがヨルダン川を渡ろうとする時、王の前にひれ伏して言いました。「どうか、主君がわたしを有罪とお考えにならず、主君、王がエルサレムを出られた日にこの僕が犯した悪をお忘れください。心にお留めになりませんように。わたしは自分の犯した罪をよく存じています。ですから、本日ヨセフの家のだれよりも早く主君、王をお迎えしようと下って参りました。」

 これには背景があります。サムエル記(下)16章5節以下です。「ダビデ王がバフリムにさしかかると、そこからサウル家の一族の出で、ゲラの子シムイという男が呪いながら出て来て、兵士、勇士が王の左右をすべて固めているにもかかわらず、ダビデ自身とダビデ王の家臣たち皆に石を投げつけた。シムイは呪ってこう言った。『出て行け、出て行け、流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家のすべての罪を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ。』」家臣がシムイを殺害すると言いますが、ダビデは止めます。「『ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから。「どうしてそんなことをするのか」と誰が言えよう。』ダビデはさらにアビシャイと家臣の全員に言った。『わたしの身から出た子がわたしの命をねらっている。ましてこれはベニヤミン人だ。勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。』 ダビデと一行は道を進んだ。シムイはダビデと平行して山腹を進み、呪っては石を投げ、塵を浴びせかけた。王も同行の兵士も皆、疲れて到着し、そこで一息ついた。」

 ダビデは、決してサウルから不当に王位を奪ったのではありません。サウルは自分の罪のために死に、神様がダビデを王位につけられました。シムイの告発は誤りです。にもかかわらずダビデが一切抵抗しないのは、息子アブサロムの反逆という苦境を招いたのは、ダビデが最も忠実な部下ウリヤの妻を奪い、ウリヤを計画的に戦死に追い込んだ大きな罪(姦淫と殺人)を犯したことが原因だと、ダビデが熟知していたからです。神様が預言者ナタンを送られ、ダビデを厳しく叱責されました。「剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたし(神様)を侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。~わたしはあなたの家の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。」この預言が実現しているのです。シムイの言葉は誤っていますが、ダビデは神様がシムイによる呪いと石投げによって、自分を懲らしめていると受けとめたのでしょう。一切抵抗しないのです。神様からの懲らしめならば、払いのけず甘んじて受け続けることが大切だと受けとめました。
哀歌3章28~32節に、こうあります。「打つ者に頬を向けよ。/ 十分に懲らしめを味わえ。/ 主は決して/ あなたをいつまでも捨て置かれはしない。/ 主の慈しみは深く/ 懲らしめても、また憐れんでくださる。」

 イエス様の御言葉も思い出されます。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ福音書5章39節)。ダビデは、両方の頬を出すことまでしませんでしたが、悪人シムイに無抵抗を貫いています。神の懲らしめ、神の呪い(=神の正しい裁き)を、忍耐して受け続けます。

 今私たちは、受難節を過ごしています。受難節は、イエス・キリストが私たち皆の一つ一つの罪を背負って十字架で死なれたことを、心に強く刻む季節です。イエス様は、父なる神様の呪い(=正しい裁き)を一身に引き受けて下さったのです。ダビデ王は、将来誕生するメシア・救い主を指し示す存在です。イスラエルの人々は、メシア・救い主を「ダビデの子(ダビデの子孫)」と呼びました。ダビデは不完全な人ですが、メシア・救い主の陰のような存在、メシアを指し示す存在です。そのダビデがシムイに呪われ、シムイに石を投げつけられながらも、一切抵抗せず、ひたすら耐え忍び、「主の御命令で呪っているのだ」と言っている姿は、イエス様のお姿を指し示すと言えないでしょうか。イエス様は人々にののしられ、馬鹿にされ、茨の冠をかぶせられ、鞭打たれ、ほとんど裸で十字架につけられ、さらされました。受難をひたすら忍耐されたのです。

 ダビデの忍耐は報われました。ダビデは、王としてエルサレムに復帰することになったのです。ダビデたちがヨルダン川を渡る時、シムイが千人を率いて来て、謝罪します。呪った姿と比べると、見苦しいですね。ダビデの家臣・ツェルヤの子アビシャイが言います。「シムイが死なずに済むものでしょうか。主が油を注がれた方をののしったのです。」しかしダビデは同意しません。「今日、イスラエル人が死刑にされてもよいものだろうか。」ダビデはシムイに誓います。「お前を死刑にすることはない」と。ダビデは、アブサロムに味方した人々をも赦して、国を和解と再統一に導こうとしています。その時に、イスラエル人を死刑にすることはふさわしくありません。ダビデは自分を呪った敵とも言うべきシムイを赦します。敵を愛したと言えます。寛大なダビデです。ローマの信徒への手紙12章のパウロの言葉を連想します。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人々の前で善を行うように心がけなさい。」「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」

 サウルの孫、ヨナタン(ダビデの親友)の子メフィボシェトも、ダビデを迎えに下って来ました。ヨナタンとダビデの間には、約束がありました。ヨナタンはダビデに言ったのです。「主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家から断たないでほしい。」ダビデはこの約束を守り、メフィボシェトは王子の一人のように、ダビデの食卓で食事をする者とされていました。
ダビデが都落ちしている間、足が不自由なメフィボシェトはダビデと行動を共にすることができませんでしたが、ダビデがエルサレムに帰還する日まで、「足も洗わず、ひげもそらず、衣服も洗わず、ダビデと苦難を共にしたのでした。

 バルジライという男性は、ダビデを見送るためにヨルダン川に来ました。バルジライは、都落ちして荒れ野で疲れていたダビデと兵士たちに、寝具、たらい、陶器、小麦、大麦、麦粉、炒り麦、豆、レンズ豆、炒り麦、蜂蜜、凝乳、羊、チーズを食糧として差し出し、彼らの生活を支えた裕福な人です。彼は80才です。ダビデは彼に恩義を感じていましたから、エルサレムに招きます。しかしバルジライは固辞します。報いを求めないのです。「どうか僕が帰って行くのをお許しください。父は母の墓のあるわたしの町で死にたいのです。」ダビデはバルジライに口づけして、祝福します。バルジライは帰って行くのです。

 ダビデは敵対した者をも赦し、和解に向けて進みます。ここにダビデの子孫ヨセフの子として育つ平和の主イエス様に通じる姿を見ます。アーメン(「真実に、確かに」)。

2017-03-17 23:42:54(金)
「一粒の麦は、多くの実を結ぶ」 2017年3月12日(日) 受難節(レント)第2主日礼拝説教
朗読聖書:詩編126編1~6節、ヨハネ福音書12章20~26節「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ福音書12章24節)。

 イエス様が先週の箇所で、ろばの子に乗ってエルサレムの都に入城されました。ユダヤ人の最大の祭り・過越祭が間近に迫り、エルサレムは大勢の人の熱気に満ちていました。礼拝のためにエルサレムに来た、何人かのギリシア人がいました。(21節)「彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。」イエス様の十字架の死と復活後、イエス様の愛の福音は、ユダヤ人だけでなく異邦人(外国人)へ、世界中へ広まります。ここでのギリシア人たちは、このことを暗示する存在として登場しているのではないかと思います。

 イエス様は、お答えになります。(24~26節)「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところ(天国)に、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその子を大切にしてくださる。」 ここで言う「自分の命」は、エゴのことです。エゴを愛し、自己中心に、わがままに生きる者は、真の命を失うが、自分のエゴを憎んで、神様と隣人を愛して生きる人は、永遠の命に入ります。イエス様に従い、イエス様に仕える人は、イエス様と共に天国に入ります。土の中に蒔かれた種や麦は死んで消えます。しかしそこから次の新しい芽が出て根を張り、茎が伸びて成長し、花が咲き、多くの実が実ります。種や麦は、地中に蒔かれなければ次の命が芽吹きません。私たちにとって、真に実を結ぶ生き方をするためには、自分のエゴに死ぬことが大切です。

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」これは直接には、イエス様のことです。イエス様が私・私たちの全部の罪を背負って十字架で死なれ、復活なさることで、多くの人々が全ての罪の赦しと永遠の命を受けることを指しています。イエス様の十字架を預言するイザヤ書53章の11節に、こうあります。「彼は自らの苦しみの実りを見/ それを知って満足する。/ わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/ 彼らの罪を自ら負った。」

 一粒の麦となった人に、使徒言行録のステファノがいます。ステファノは、キリスト教会最初の殉教者です。ステファノは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで、亡くなりました。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行きました。散った先で伝道が行われたのです。サマリアで男も女も洗礼を受け、エルサレムからガザへ下る道では、エチオピア人の宦官が洗礼を受けました。ステファノが一粒の麦となり、クリスチャンたちが誕生したのです。殉教者の血が、教会の祝福の基となることは、しばしばあるようです。

 日本の戦国時代から江戸時代にかけて、キリシタン迫害がありました。豊臣秀吉が26聖人を、長崎・西坂の丘で見せしめに、死刑にしました。ところが、次のような結果になったそうです、「日本の人々は、神様のために喜んでいのちをささげた人々をはじめて見ました。~この新しい生き方に、人々は感動しました。そしてそのような生き方をする仲間に入りたいと言いだしました。見せしめのはずの26人の殉教は、かえって仲間の信者たちを勇気づけ、イエス様の教えを信じる人々をふやす結果になったのです」(『子どものための教会史・長崎 まるちれす』カトリック長崎大司教区 長崎地区カテキスタ養成委員会、2007年、24ページ)。殉教なさった26名も、「一粒の麦」となられたのです。

 藤崎るつ記さんという女性がおられました(藤崎るつ記記念文集編集委員会編『るっちゃんの旅立ち』キリスト新聞社、1984年、をお読み下さい)。茨城県にいらした牧師の方の娘さんです。私はお父様のお説教を伺ったことがありますが、ご本人にお会いしたことはありません。るつ記さんは、フィリピン大学への留学を志し、ルソン島のボトランという所でボランティアをされたそうです。一時帰国を前に送別会が行われた時、場所が海岸で、フィリピンのお二人が海でおぼれたそうです。泳ぎが上手だったるつ記さんが近づき、しがみつかれておぼれたそうです。二人は助かりましたが、るつ記さんは24歳で天国に旅立たれました。胸がつぶれる出来事です。1983年4月のことです。

 お父様のいらした教会では、「るつ記記念基金」を創設し、現在までに100名以上のフィリピンの若者に、奨学金を提供されました。実を結んでいるのです。基金を継続することは簡単ではないと思います。るつ記さんの生き方、神様の助け、多くの方々の祈りと協力によって、実を結んでいるのだと思います。「~ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(マタイ福音書13章8節)。

 私は一昨日、早稲田教会で行われた「東日本大震災6年礼拝」に出席致しました。東久留米教会の皆さんも、被災教会のための献金に尊いご協力をなさって下さいました。「東日本大震災6年礼拝」で聞いたことは、台湾から驚くほど多くの献金が東北のために献げられたことです。台湾のある学校では、教職員と生徒が一食を抜いて、そのお金を献金として東北のために送って下さったそうです。本当に感謝です。

 アッシジのフランシスコの「平和の祈り」の最後にこうあります。「(私たちは)自分の体を献げ死ぬことによって、永遠の命を得ることができるからです。主キリストの名によって、アーメン。」私たちは、人様のために死ぬことはできないかもしれません。でも神様を礼拝しつつ、人様のために自分の時間を献げる、労力を献げる、お金を献げることは、ある程度できると思うのです。全く自分の利益にならないことのために働くこともできます。イエス様に従い、このような生き方へ進みたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2017-03-09 21:07:15(木)
「ろばの子に乗るイエス様」 2017年3月5日(日) 受難節(レント)第1主日礼拝説教 
朗読聖書:ゼカリヤ書9章9~10節、ヨハネ福音書12章12~19節「『見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って』」(ヨハネ福音書12章15節)。

 イエス様が、愛する友ラザロを生き返らせなさいました。それによってイエス様は一躍、ときの人、ヒーローになりました。エルサレムの都はユダヤ人最大の祭・過越祭の前で、人口が大きく膨らんでおり、人々がイエス様に期待する熱気でむんむんしていたようです。大勢の群衆は、イエス様がエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出ました。これは王を出迎える礼儀です。伝統的には「しゅろの枝」と訳されています。これはイエス様が十字架に架かられる5日前の日曜日の出来事です。教会暦ではこの日曜日を「パームサンデー(しゅろの主日)」と呼びます。パームはしゅろのことです。教会の歴史では、この箇所を「しゅろの主日」とアドヴェント(待降節)第1主日に読んできたそうです。この出来事を記念して、今も巡礼にエルサレムに来たクリスチャンは、「しゅろの主日」にしゅろ(なつめやし)の枝を持って、行進しているそうです。今も「ホサナ、ホサナ」の歌声がオリーブ山にこだまするそうです。

 大群衆は、熱狂して叫びました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。イスラエルの王に。」人々は、イエス様こそ待ち望んで来たイスラエルのメシア・救い主、王だと信じました。ダビデ王のような力強い王が、遂に現れたと思ったのでしょう。群衆が叫んだ言葉は、詩編118編25、26節から来ています。「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。」ホサナは、「どうぞ救って下さい」の意味で、「救いを」の部分がホサナにあたるようです。ホサナは、ヘブライ語化したアラム語とのことです。ホサナは慣用語化し、「万歳」の意味に近かったようです。

 群衆は、深く考えずに、「ホサナ、ホサナ」と歓呼したのでしょう。しかし、「ホサナ」には、「どうぞ救って下さい」という深い意味があるのです。群衆は、自分たちの思いをはるかに超えて深い言葉を叫んでいるのです。神様がそのようにさせて下さったのです。イエス様は真の救い主です。真の救い主をお迎えするのに、「どうぞ救って下さい」は、最もふさわしい言葉です。群衆は自覚していませんでしたが、神様が実に深い歓迎の御言葉を与えて、この場面を導いておられるのです。

 私たちが最も必要としている救いは、「罪の赦し」です。罪が赦されない限り、私たちは天国に入ることができないからです。イエス様は、十字架にかかって、この最も大切な救いをもたらして下さいます。父なる神様から御覧になると、私たちが最も必要としている救いが「罪の赦し」であることがよくお分かりになるはずです。ところが、私たち人間は、罪の赦しという最も必要な救いを、あまり切実に求めないのではないでしょうか。イエス様は、私たちの一つ一つの罪をすべて背負って、十字架で死なれました。ある人が書いていました。「私たちは、自分の罪の重さを知らない」と。その通りでしょう。私たちは、自分の一生の罪がどんなに重いか、きっと分かっていません。イエス様がご存じです。私たちの一つ一つの罪の全てを背負われたイエス様が、私たち一人一人の罪の重さを肉体で知っておられます。私たちの一つ一つの罪が、十字架上のイエス様を苦しめました。でも、私たちはどうしても自分の罪の赦しをいただきたいのです。ですから、深い思いもってイエス様に叫びます。「ホサナ。どうぞ私たちを救って下さい。真の救いを与えて下さい。私の罪を背負って十字架で死ぬために来られたあなたに心から感謝し、イエス様の御名をほめたたえます。ホサナ。」

 群衆に「ホサナ、ホサナ」の歓呼で迎えられたイエス様は、あえてろばの子を見つけて、お乗りになりました。こうして、本日の旧約聖書のゼカリヤ書9章の預言が成就されたのです。
「娘シオンよ、大いに踊れ。/ 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来る。/ 彼は神に従い、勝利を与えられた者
 高ぶることなく、ろばに乗って来る/ 雌ろばの子であるろばに乗って。
 わたし(神様)はエフライムから戦車を/ エルサレムから軍馬を絶つ。
 戦いの弓は絶たれ/ 諸国の民に平和が告げられる。
 彼の支配は海から海へ/ 大河から地の果てに及ぶ。」

 ろばは家畜、平和のシンボルです。この御言葉を読むと、「ちいろば牧師」と呼ばれた榎本保郎先生を思い出します。お会いしたことはありません。私が21才のとき、『ちいろば』というご著書をクリスチャンの友人が私に紹介してくれ、わたしは随分感銘を受けました。三浦綾子さんによる伝記小説『ちいろば先生物語』もとてもすばらしい書物です。榎本牧師は、「自分はちいろばだ、イエス様をお乗せして、どこへでも行くちいろばだ」との心意気に生きられました。首都に入る王は、ふつうは威風堂々と軍馬に乗ります。軍馬は武力のシンボルです。ところがイエス様は、あえて平和のシンボルであるろばに乗られました。イエス様が物理的な武力をお用いになることは考えられません。イエス様は(御言葉の剣を用いられますが)、物理的にはいつも丸腰です。イエス様の武器は、神の言葉と祈りと愛です。貧しい馬小屋に生まれ、人々の病を癒やされ、ろばに乗って首都エルサレムに入り、弟子たちの汚ない足を洗い、遂には私たちの一つ一つの罪を背負って、十字架で死なれました。イエス様は言われます。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる。」「敵を愛しなさい。」

 イエス様が平和の動物であるろばに乗られたことを思う時、イザヤ書2章4節の御言葉も、同じ平和メッセージの御言葉として思い出されます。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし/ 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず/ もはや戦うことを学ばない。」
 マタイ福音書の「エルサレム入城」の場面には、イエス様がお乗りになるろばのことが、こう書かれています。「荷を負うろばの子、子ろば」と。ろばは荷物を負う家畜です。イエス様も十字架という重荷、私たちの一つ一つの罪という重荷を担われました。

 エルサレムに入られたイエス様が、まずなさったことは何でしょうか。それは神殿を清めることでした。平和の主イエス様が、神殿を清める時には、非常に激しい果敢な行動に出られたのです。その落差に驚きます。イエス様は剣を用いられませんでしたが、鞭を振るわれ、売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されました。イエス様は、平和の主ですが、「事なかれ主義者」ではないのです。神殿から人々の罪を取り除くことに熱心でした。そして純粋な真の神礼拝を確立されたのです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」 イエス様は、「荒れ野の誘惑」の時に、悪魔に宣言されました。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」また、次の重要な御言葉も思い出されます。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」エルサレムの人々の礼拝の姿勢が、これらの御言葉どおりでなかったのでしょう。私たちの礼拝の姿勢はどうか、と襟を正されます。

 もうすぐ頌栄81番2節を讃美致します。「ダビデの子に ホサナ ホサナ、み名によりて 来たる主に 祝福あれ、栄えあれ。いとも高き神に ホサナ。」イエス様を迎えた群衆が、イエス様が十字架にかかって下さる救い主であることを考えずに「ホサナ、ホサナ」と熱狂しましたが、私たちはそうではありません。私たち一人一人のために十字架で苦しんで下さる、本当の意味で有り難い救い主であるイエス様を、「ホサナ、ホサナ」と讃美しながら、心をこめて、心の王座にお迎え致しましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2017-03-02 3:03:50(木)
「万事を益となさる神様」 2017年2月26日(日) 降誕節第10主日礼拝説教
朗読聖書:創世記45章1~8節、ローマの信徒への手紙8章26~30節。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマの信徒への手紙8章28節)。

 この手紙を書いたパウロ(口述筆記。筆記者はテルティオ)は、26節で、「同様に“霊”(聖霊)も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と書きます。イエス様は、どう祈るべきかを知らない私たちに「主の祈り」を教えて下さいました。そして私たちは、先輩クリスチャンからも祈り方を教わります。東久留米教会の教会員で今は天国におられるKさんも、お若い頃、先輩クリスチャンに祈り方を教えられたそうです。「讃美、感謝、罪の悔い改め、願い」と習ったと伺ったと記憶しています。「最初は美辞麗句を並べているように感じるが、何年も祈り続けるうちに本当に自分の祈りになっていく」とおっしゃいました。その通りだと思います。

 そしてパウロは、聖霊が私たちの祈りを、(父なる神様に)執り成して下さると教えてくれます。イエス様は、聖霊を「弁護者」(ヨハネ福音書14章16節)と呼ばれます。口語訳聖書では、「助け主」と訳されています。聖霊は、弁護者・助け主なので、私たちの祈りをうめきをもって助け、執り成して下さるのですね。感謝です。もちろん、私たち罪人(つみびと)のための最大の執り成しは、イエス・キリストの十字架の死によってなされました。イエス様は、十字架で執り成しの祈りをされました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」イエス様の十字架の死という執り成しのお陰で、私たちの全ての罪が解決されたのです。

 イエス様は、十字架にかかられる前から、弟子のために執り成しの祈りをなさいました。ペトロにこう言われました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」そして十字架にかかられる直前に、オリーブ山で、うめきのような必死の祈りをなさいました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」イエス様が、十二弟子や私たちのために十字架にかかるために、これほど必死のうめきの祈りを献げておられる時、弟子たちは(悲しみの果てとは言え)眠りこけていました。弟子としての自覚が足りないと言えますが、私たちも同じかもしれません。私たちも、イエス様が私たちの罪のために十字架で死んで下さったことをあまり深く思わず、イエス様の弟子との自覚が足りないこともあるかもしれないのです。

 イエス様は、今も天で父なる神様の右に座して私たちのために、執り成しを行っていて下さいます。イエス様は父なる神様に等しい方・神であられます。イエス様がおられる神の右の座は、天の天、最も高い天です。「もろもろの天よりも更に高く昇られた」(エフェソの信徒への手紙4章10節)とある通りです。イエス様は、そこで、私たちが永遠の命をいただいている今も、日々少しずつ犯してしまう罪のために執り成しをしていて下さいます。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマの信徒への手紙8章34節)。「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブライ人への手紙7章25節)。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」(ヨハネの手紙(一)2章1節)。弁護者は、執り成す方です。

 そのイエス様と聖霊に支えられて、私たちも「執り成しの祈り」を致します。自分だけのために祈るクリスチャンはいません。P.T.フォーサイスという牧師は、祈りに関する名著と呼ばれる『祈りの精神』という著書の中で、「とりなしの祈りの霊的価値は絶大である」(齋藤剛毅訳、ヨルダン社、1986年、111ページ)と述べています。私もこの言葉を読むたびに、「そうなんだ!」と意を強くし、非常に励まされます。ヒットラーに抵抗したボンへッファーも、彼の名著『共に生きる生活』で、「キリスト者の交わりは、その成員相互のとりなしの祈りによって生きるのであって、それがなければ、その交わりはこわれてしまう」(森野善右衛門訳、新教出版社、1991年、82ページ)。

 (28節)「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」それは、神様の善い御計画が前進し、私たちの人格がキリストに似た者となるために、万事が益となるように共に働くということだと思うのです。ヘブライ人への手紙12章10~11節の御言葉が思い出されます。「霊の父(神)はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で、わたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」パウロは、自分にとっては死さえも益となると言っています。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。~一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと切望しており、この方がはるかに望ましい」(フィリピの信徒への手紙1章21~23節)。

 本日の旧約聖書は、創世記45章1~8節です。ここに登場するヨセフは、イスラエルの先祖ヤコブの息子の一人です。ヨセフが生意気だったせいもありますが、ヨセフは兄たちに憎まれ、エジプトに売られる結果になります。しかもエジプトで誠実に働いたにもかかわらず、濡れ衣を着せられて長年監獄に入れられます。苦難の連続の人生です。しかし時が来て、ヨセフは何と一気にエジプトの総理大臣に任命されます。そこに飢饉で食べ物に困った兄たちがカナンの地からやって来て、二度目に時についにヨセフが名乗り出るのです。ヨセフは、実に深い信仰の言葉をのべます。「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。~神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」兄たちが行ったことは、明らかに罪・悪であり、弁解の余地はありません。しかし神は悪を善に変えて下さったのです。万事を益として下さったのです。ハレルヤです。私たちは意味も目的もない運命に支配されているのではありません。神様の摂理のもとにいるのです。

 私は先週、今話題の映画『サイレンス 沈黙』を見て来ました。いろいろな感想をもちましたが、踏み絵を踏んでしまう司祭ロドリゴが、まだ信仰に強く生き切ろうとしていた段階で述べた、次の言葉を、心に強くとめました。「迫害が行われ、殉教者が出ることが、教会の成長の基となる」という意味の言葉です。近世の日本でも、見せしめに死刑にされても信仰を捨てないキリシタンの姿を見て、逆に人々は勇気づけられ、逆に信者が増えるのです。殉教者の血が、多くの実りの基となるのです。迫害さえも益となるということだと思うのです。

 殉教者の血の話を致しましたが、まずイエス様が、私たちのために血を流して下さいました。イエス様の聖なる血には、私たち皆の罪を清める力があります。日本人は「血は水よりも濃い」と言い、血のつながりを重んじます。教会は、イエス様の十字架の血によって一つとされた家族・血族です。この家族は、ふつうの血のつながりも民族も国も超えて一つとなる家族です。ふつうの家族・親族よりの血のつながりよりも、イエス様の血によるつながりが強いとさえ思うのです。神様が父、イエス様が長男、私たちは父なる神様の子たちであり、イエス様の妹たち、弟たちです。

 神様の摂理と守りの下にいて、神様の血族とされた私たちであることを感謝し、信仰と勇気を抱いて、イエス・キリストを宣べ伝えて参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。