日本キリスト教団 東久留米教会

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2015-07-20 21:47:10(月)
「聖別」 2015年7月19日(日) 聖霊降臨節第9主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記40章1~38節、コリント(一)6章12~20節。
「あなたは洗盤と台に油を注ぎ、それを聖別しなさい。」(出エジプト記40章11節)。

 イスラエルの民がエジプトを脱出してからちょうど1年たったのです。小見出しは「幕屋建設の命令」です。幕屋は荒れ野での移動式・テント式の礼拝所です。後にイスラエルの民がカナンの地・イスラエルの地に定住するようになるまでは、この幕屋が神様のおられる場所、神様にお目にかかる場所、神様を礼拝する場所でした。もちろん神様は世界中、宇宙中どこにもおられます。しかしイスラエルの民のためにあえてこの幕屋を、神様にお目にかかり、神様を礼拝する場としてお決めになりました。(1~2節)「主はモーセに仰せになった。第一の月の一日に幕屋、つまり臨在の幕屋を建てなさい。」幕屋は正式には「臨在の幕屋」と呼ばれます。口語訳の旧約聖書では、「会見の幕屋」と訳されていました。民が荒れ野を旅しながら、聖なる神様を礼拝する生活が始まるのです。

 (3~4節)「あなたはそこに掟の箱を置き、垂れ幕を掛けて箱を隔て、机を運び入れ、その付属品を並べ、燭台を運び入れてともし火をともす。」掟の箱の中には、十戒を刻んだ石の板二枚が入れられています。ですからこの掟の箱は、極めて聖なる存在です。罪ある人間がうかつに手を触れるならば、聖なる神様に撃たれて死ぬでしょう。聖なるものは危険でもあり、極めて慎重に取り扱わなければならないのです。気楽に触れることなど考えられません。「聖なる」の「聖」は、ヘブライ語で聖(カードシュ)という言葉がしばしば使われます。カードシュのもともとの意味は「分離」ではないかと言われます。神様は宇宙のすべて、そして人間をお造りになった方です。人間は神様に造られた者です。ここには大きな分離、違いがあります。旧約において神様はしばしば、「イスラエルの聖なる神」と呼ばれます。それは神様に私たち人間を超える尊厳があることを示します。

 神様はモーセに、「あなたはそこに掟の箱を置き、垂れ幕を掛けて箱を隔て」なさいと言われます。これは神様が最も信頼するモーセがなすべきことでした。ほかの人ではいけなかったのだと思います。垂れ幕によって隔てられた最も奥の空間に掟の箱が置かれました。ここは至聖所と呼ばれる最も聖なる空間になります。後の時代、ソロモン王がエルサレムに神殿を建てました。そこにも至聖所がありました。そこは年に一度だけ、大祭司だけが自分自身の過失の罪と、民の過失の罪のために、いけにえの雄牛の血を携えて入ることが許されます。他の者が入ることは許されません。入れば聖なる神様に撃たれて死ぬでしょう。罪人が聖なる神様を直接見ると、撃たれて死ぬのです。 

 民は荒れ野を旅していたのですから、神様に導かれて場所を移動するときに、幕屋をも移動させる必要があります。その際、掟の箱は極めて注意深く取り扱われました。掟の箱を運搬するのは、レビ人と呼ばれる人々、つまりレビ族の中の男性で30歳以上50歳以下の人々だけです。レビ人は、祭司の補佐的な役割を行う人々でした。モーセとその兄アロンもレビ族に属していました。アロンは初代の大祭司と言えます。アロンの子ら、つまりアロンの子孫だけが祭司になることができました。祭司は、礼拝の中心的な部分、聖なる神様に最も近づく神聖な部分、いけにえの動物を屠って神様に献げるなどの奉仕を担います。レビ人は礼拝の中心的な部分、最も神聖な部分を担うことは許されていません。レビ人は礼拝のやや周辺的な部分を担ったのです。祭司もレビ人も、聖なる神様に近づくのですから、自分を清く保っておくことが必要でした。それを「聖別」と呼んでよいでしょう。聖なるものとして、俗なるものから自分を分けておくのです。

 民数記6章によると、掟の箱を移動するときは、まずアロンとその子らである祭司たちが、次の行動をするのでした(この行動をレビ人が行うことは許されていません)。まず最も至聖所の垂れ幕をはずし、垂れ幕で掟の箱を覆います。その上にじゅごんの皮で丁重に覆います。じゅごんは、イルカやアザラシと同じく海に住む哺乳類で、今は国際保護動物に指定されています。その上からさらに青い一枚布を広げ、担ぎ棒を差し入れます。こうして聖なる掟の箱を三重に包みます。覆う前にレビ人が直接見たり触れたりすれば、聖なる神に撃たれて死ぬでしょう。そうならないために、三重に覆った後で、初めてレビ人たちが来て運搬に取りかかります。祭司とレビ人以外が運搬すれば、聖なる神様に撃たれて死ぬでしょう。幕屋の中の礼拝の道具一つ一つの運搬について、このような注意深い作業が必要です。

 出エジプト記40章5節。「更に、掟の箱の前に香をたく金の祭壇を置き、幕屋の入り口には幕をかける。」掟の箱の手前に垂れ幕があり、その手前に「香をたく金の祭壇」がありました。その手前に幕屋の入り口があり、そこに幕が掛けられ、その手前に洗盤があり、その手前に動物の焼き尽くす献げ物を献げる祭壇がある、というのが幕屋の構造です。図で見る方が分かりやすいですね。「香をたく金の祭壇」はアカシヤ材で作られていました。そこで祭司が毎朝と毎夕に香を焚くのです。香を焚くと煙が立ち上り、よい香りが立ち上ります。これは聖なる香であり、材料と作り方が決められています。私たちの礼拝では香をたくことは行いません。ヨハネの黙示録5章には、香は「聖なる者たちの祈り」、クリスチャンたちの祈りであると書かれています。私たちが献げる祈りが、神様にとって芳ばしいよい香りであることは、私たちにとって励ましです。

 このような旧約聖書の時代の礼拝について読んでも、あまり意味がないと思われるかもしれません。しかし神様が聖なる方であることを強く意識し、旧約の時代にこれほど注意深く、礼拝に関わることに、祭司やレビ人たちが取り組んでいたことを知ることには意味があります。なぜなら、私たちが今礼拝している神様も、同じ神様であられるからです。神様は愛の方であり、同時に聖なる方であられます。

 (6節)「また、焼き尽くす献げ物の祭壇を幕屋、つまり臨在の幕屋の入り口の前に据え」とあります。この祭壇で動物のいけにえを屠って神様に献げたのです。動物の血が流されたのですから、強烈です。今はこの焼き尽くす献げ物の祭壇は必要なくなりました。幕屋も神殿も必要なくなりました。動物ではなく、最も尊い神様の独り子イエス・キリストが十字架で血を流して死んで下さり、私たちの全ての罪を贖い、償って下さったからです。イエス様が十字架で息を引き取られたとき、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」ました。神様かお裂きになったのです。掟の箱の手前にあって隔てていた垂れ幕が裂けたのです。これはイエス様の十字架の贖いの死のお陰で、私たち罪人が、イエス様を通して聖なる父なる神様に近づくことができるように変わったことを意味します。もはや地上の至聖所はなくなりました。強いて言えば天国が至聖所です。本来私たち罪人は天国に入る資格を持ちませんが、イエス様の十字架の死によって全ての罪を赦された者として、天国という最高の祝福に満ちた至聖所に入ることができる時代になりました。

 この恵みを、新約聖書のヘブライ人への手紙10章19節以下が、次のように語ります。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所(至聖所、天国)に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司(イエス様)がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」イエス様の十字架の死と復活のお陰で、旧約の時代が終わり、新約の恵みの時代がもたらされたことを、心より感謝致します。

 但し、神様が聖なる方でなくなったわけではありません。神様は今も変わらず聖なる方でもあります。そのことは心して信仰生活を送る必要があると思うのです。祈りに関する名著と呼ばれるフォーサイスというイギリスの牧師が書いた『祈りの精神』という本に、次のように書かれています。「神の聖なることを日々に意識できならば、われわれは福音に親しんでいるとは言えない。~十字架についての洞察力が新たにされると、十字架に臨んでいる神の愛とその厳粛な聖さに宿る深い意味が、とりわけ明らかになる。そして、神の聖さを鮮やかに知ると、この汚れた唇に神のみ名を口にすることすらできなくなる』(P.T.フォーサイス著・齋藤剛毅訳『祈りの精神』ヨルダン社、1986年、102ページ)。

 出エジプト記に戻り、9~11節「次に、あなたは聖別の油を取って、幕屋とその中のすべてのものに注ぎ、幕屋とそのすべての祭具を聖別する。それは聖なるものとなる。次いで、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具に油を注ぎ、祭壇を聖別する。祭壇は神聖なものとなる。あなたは洗盤と台に油を注ぎ、それを聖別しなさい。」礼拝のための場と道具をすべて聖別する、聖なるものとして分かつのです。聖別の油を作る材料は、出エジプト記30章によると、上質の香料、具体的にはミルラ(没薬)の樹脂、シナモン、匂い菖蒲、桂皮、オリーブ油です。これらを決められた方法で混ぜ合わせ、聖別の油を作ったのです。聖別の油は聖霊のシンボルと言えます。本当に清める力を持つのは、生きた聖霊なる神様です。

 礼拝に直接タッチするモーセの兄アロンとその子たちである祭司たちも、聖別されなければなりません。(12~15節)「次に、アロンとその子らを臨在の幕屋の入口に進ませ、彼らを水で清めなさい。アロンに祭服を着せ、彼に油を注いで聖別し、祭司としてわたしに仕えさせ、彼の子らを前に進ませ、これに衣服を着せる。あなたは、彼らの父(アロン)に油を注いだように、彼らにも油を注ぎ、わたしに仕える祭司としなさい。彼らがこのように、油を注がれることによって、祭司職は代々にわたり、永遠に彼らに受け継がれる。」

 15節までが神様の指示です。16節から33節までは、モーセがその通りを実行したことの報告です。「主がモーセに命じられたとおりであった」と7回繰り返して書かれているのです。7という数字は、聖書では完全・完成を意味しますね。モーセがいかに神様に徹底的に忠実に従ったかが分かるのです。神様が七日間で天地創造をなさったことを思い浮かべてもよいでしょう。天地創造は、混沌(混乱)にリズムと秩序をもたらす神様の業とも言えます。イスラエルの民が、荒れ野という混沌の場に、神様を礼拝する幕屋を建てました。これによって民の生活は、礼拝を中心とするリズムと秩序ある生活となりました。礼拝の場と神様の御言葉(特に十戒)がなければ、彼らの生活は目的もリズムも秩序もなく、善悪の基準も分からない堕落した生活になり、烏合の衆になり果てる恐れがあったと思うのです。そうならないために、礼拝の場と十戒が与えられたことは、真に幸いでした。

 私たちが生きる現代の日本も、精神的な荒れ野かもしれません。生きる目的や、善悪の基準も分からない状態になりかかっている危機にあります。そのような私たちに神様は、日曜礼拝の場所と、神様の御言葉・聖書を与えて下さいました。神様への礼拝を中心とする清いリズムある生活、聖書の言葉に導かれる聖なる生活を与えられています。私たちはそのお陰で、荒れ野のような状況の中にあっても、神様から平安と慰めをいただくことができます。

 本日の新約聖書は、コリントの信徒への手紙(一)6章12節以下です。私たちを聖別、聖なる者として選び分けて下さる方は聖霊です。私たちはイエス・キリストを救い主と信じ告白して洗礼を受けたときに、聖霊を受けて聖別されたのではないでしょうか。その方の内に聖霊が住んでおられるならば、その方は聖別された方です。その方の内に聖霊が住んでおられないならば、その方は聖別された方とは言えません。ポイントは聖霊が住んでおられるかどうかです。聖霊は目に見えませんから、その方の内に聖霊が住んでおられるかどうか、間違いなく判定できるのは神様お一人です。私たちの内に聖霊が住んでおられれば私たちは聖別された者ですが、地上にある限り、残念ながらまだ罪を持っています。地上における私たちの生き方は、聖霊によってさらに清めていただくように祈り、イエス様に従い、罪をできるだけ犯さないように心がける生き方になります。

 この手紙を書いたパウロは、宛先であるギリシャのコリントの地のクリスチャンたちを、1章2節で「召されて聖なる者とされた人々」と呼んでいます。コリントのクリスチャンたちはまだまだ未熟で、多くの罪・トラブルを抱えていました。それでも彼らがキリストを信じて聖霊を受けていたので、「聖なる者とされた人々」と呼びました。同時に、罪を犯す生き方をやめて、神様に喜ばれる清い生活に進む必要があると強く指導しています。6章を見ると、驚くべきことに売春婦と関係をもっている教会員がいたのです。パウロは15節で咎めます。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。」

 教会はイエス・キリストの体です。イエス様が頭で、一人一人は体の各部です。私たち一人一人は今既にキリストの聖なる体の一部です。この自覚が必要です。私たちの体も心ももはや自分のものではなく、キリストに属するものです。イエス様の所有ですから、自分の体を罪の行為で汚してはならず、できる限り清く保たなければならないのです。「キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。」最後の部分は、口語訳聖書では、「断じていけない」と訳されています。強い調子で、みだらな行いを禁じているのです。

 (19~20節)「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」旧約の時代、神様は幕屋という移動式礼拝所に住んで下さったのです。今は私たち一人一人の中に、聖霊なる神様が住んでおられます。私たちの体が聖なる神殿です。ですから、私たちの体と心をできるだけ清く保つことが必要です。「あなたがたは代価を払って買い取られた。」お金ではなく、聖なる神の子イエス・キリストの十字架の死という、考えられないほど高価な代価・犠牲によって買い取られ、神のものとされた尊い存在が、一人一人のクリスチャンなのです。「だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」「だから自分の体で、神様に喜ばれる清い生き方をしなさい」ということと思います。

 本日の説教題は「聖別」です。私たちは日曜日を聖別します。教会では日曜日を「主日」、「聖日」と呼びます。神様の日、聖なる日、礼拝の日として聖別しています。十戒の第四の戒め、安息日の規定では、安息日を聖別するように求めています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」安息日は聖別された日、聖なる祝福に満ちた日です。旧約の時代の安息日は土曜日で、キリスト教会の礼拝の日はイエス様が復活なさった日曜日ですが、聖別された日である本質は同じです。

 わたしたちは礼拝で献金を致しますが、そのお金を「神様のもの」としてあらかじめ分けておき、聖別して献げます。こんな話を聞いたことがあります。以前、日本で苦しい生活を送っておられた韓国・朝鮮の方々には、非常に純粋な信仰をもつクリスチャンがおられました。廃品回収などの仕事で貧しい生活を送りながらも、神様に忠実に献金しておられました。比較的きれいなお札が手に入ると「これは神様の分」として分け、アイロンを当ててしわを伸ばし、礼拝献金のためにとっておいて献げたそうです。これこそ聖別の信仰ではないでしょうか。本当に純粋な信仰と、頭が下がります。襟を正されます。お金のことだけではなく、私たちの生き方全体を聖別して、神様にお献げしたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。


2015-07-16 12:14:33(木)
「独り子を与える愛」 2015年7月12日(日) 聖霊降臨節第8主日礼拝説教
朗読聖書:創世記22章1~19節、ヨハネ福音書3章16~21節。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章16節)。

 最初の16節は、「聖書の中の聖書」と呼ばれる有名な御言葉、多くの方々が愛している御言葉です。宗教改革者マルティン・ルターは、この箇所を小聖書と呼んだそうです。そしてこの御言葉を愛したのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」「独り子」はもちろんイエス・キリストです。「独り子」には「一人息子」というだけでなく「特に愛されている子」というニュアンスがあるようです。世は原語のギリシア語でコスモスという言葉です。世、世界、宇宙などと訳されます。世(コスモス)は、単に世界ということではなく、神様に逆らう世・世界です。世(コスモス)という言葉がこのヨハネによる福音書で最初に登場するのは、1章10節においてです。「言(イエス・キリスト)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」世(コスモス)はイエス・キリスト(イエス・キリストは三位一体の神ご自身です)によって造られたが、世はイエス・キリストを認めなかった、のです。この世界・宇宙はイエス・キリストによって造られたのに、この世界はイエス・キリストを拒否したのです。拒否して十字架につけて殺したのです。神様はその世を、あえて愛されたのです。ご自分に逆らい、ご自分に敵対する世を、あえて愛されたのです。

 「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」イエス・キリストを救い主と信じる人は、一人も滅びることなく、永遠の命を得るのです。永遠の命とは何でしょうか。永遠とは何でしょうか。永遠は原語のギリシア語で「アイオーニオン(アイオーニオス)」という言葉です。永遠とは、この世界の時間がいつまでも続くという意味ではありません。50万年も1億年も続くという意味ではありません。そうではなくて質が異なるということです。永遠の命は、今の命とは質が異なる新しい命ということです。私たちの今の命には自己中心の罪がこびりついていますから、なかなか神様と隣人を愛することができません。なかなか敵を愛することができません。今の命は、罪があるために死ぬことも避けられません。しかし永遠の命は違います。それは神の子イエス・キリストの命と同じ命です。神様と隣人を完全に愛することができる命です。イエス様と同じで敵をも愛することができる命です。罪が全くない命です。今の命と完全に質が違う新しい命です。独り子イエス様を救い主と信じる人は、一人も滅びないでこの全く新しい質の命を受けます。イエス様がその方の罪をも全て背負って十字架で死んで下さり、三日目に復活なさったからです。

 (17節)「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」「裁く」は原語で「クリノー」です。クリノーは「分ける」という意味でもあります。「裁く」とは、正しいことと正しくないことを分けることです。神様がイエス様をベツレヘムの馬小屋で誕生させられ、十字架におつけになったのは、この世を裁くためではなく、イエス様によってこの世を救うためです。イエス様はご自分を憎むこの危険な世に、あえて生まれて下さったのです。大きな危険を冒されました。そして現に十字架につけられたのです。私たち人間の罪深さを思います。

 (18節)「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」イエス様を救い主と信じる人は、イエス様の十字架の身代わりの死のお陰で、神様の裁きを免れます。イエス様を信じることは大きな恵みです。信じない人は、この大きな恵みを自ら拒否しています。イエス様を信じないことは不幸なのです。(19節)「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。」「光が世に来た。」光はイエス・キリストです。クリスチャン作家の三浦綾子さんは、今は天におられますが、そのご主人の三浦光世さんは昨年、天に召されました。光世さんというお名前は、明らかにこの19節からとられています。「光が世に来た~。」これはクリスマスの出来事です。

 しかし光が世に来たので、人々が光を歓迎したかというと、そうではありませんでした。「人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」というのです。神様はさぞ悲しまれたことでしょう。「それが、もう裁きになっている。」神様が人々を裁くというよりも、父なる神様が送って下さった唯一の救い主イエス様を、人々が自ら拒否して、神様が提供して下さった救いを退ける道を選び取った。それが既に裁きになっているというのです。それは退けた人間の責任です。

 (20節)「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」太陽に照らされると影ができるのと同じで、真の光に照らされると私たちの持つ闇・罪が照らし出されます。それを恐れて、悪を行う者は光の方に来ないというのです。(21節)「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」真理を行う者、真の救いを求める者は光・イエス様の方に来る。今ももちろんその道が開かれています。父なる神様は、すべての人がイエス様のもとに来ることを切に望んでおられます。

 父なる神様が、私たちの罪を背負わせるために独り子イエス・キリストを犠牲として十字架におかけになった。神様が考えられないほどの痛みを忍耐して下さったに違いありません。私たちはこの神様の痛さをあまり考えていないかもしれません。「親の心、子知らず」と申しますが、私たちも真の父である神様のお心をよく知らないかもしれません。10年少し前に、イエス様の鞭打ち、十字架の死を徹底的にリアルに描いた『パッション』という映画がありました。パッションという英語は、受難の意味であり、情熱・熱情の意味でもあります。『パッション』という題名はイエス様の受難を意味し、同時に最愛の独り子を、十字架におつけになった父なる神様の熱情を意味するのかもしれません。イザヤ書9章6節に「万軍の主の熱意」という言葉があります。まさに万軍の主なる神様の、私たち罪人を救いたいと切望なさる熱意が、独り子イエス様を身代わりに十字架につける激しい行動となったのです。独り子に十字架の死という極限の苦しみを味わわせることが、父なる神様にとっても耐えがたい苦しみであったことは間違いありません。『パッション』の映画でイエス様が十字架で遂に息を引き取られたとき、天から一滴の水が落ちる場面があり、印象に残りました。天からの涙です。私は父なる神様の涙だと解釈しています。

 本日の旧約聖書は、創世記22章です。有名であり、不可解とも言える場面です。イスラエルの民の先祖アブラハムが、神様の命令によって独り子イサクを献げる場面です。神様の約束によってアブラハムとサラ夫婦の間に生まれた男の子がイサクです。アブラハムとサラが神様の約束の実現を待ちきれず、アブラハムと、サラの女奴隷ハガルの間にイシュマエルという男の子が生まれていました。しかしイシュマエルは神様の約束の子ではありません。ただイサクだけが、神様の約束によってアブラハムとサラの間に生まれた子、独り子なのです。ヨハネ福音書3章16節と創世記22章は、「独り子」のキーワードによって結びつきます。

 創世記22章は、神様がアブラハムの信仰の深さを知るためにアブラハムに与えられた試練です。試練は人間をいじめるために与えられるのではありません。神様は私たちの信仰を清めて純粋にするために、試練を与えられるのではないでしょうか。1節にはっきりと、神様がアブラハムを試されたと書いてあります。(1~2節)「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が『はい』と答えると、神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」 愛する独り子イサク! イサクは、神様の愛する独り子イエス様を連想させる存在です。イエス様の十字架の死を予告するような存在です。

 アブラハムは「信仰の父」と呼ばれる人です。この場面ほどアブラハムの信仰の純粋さを示す場面はありません。アブラハムは、神様の命令が悪い命令であるはずがないと信頼し抜いて、最愛の独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげる決心をし、神様にひたすら服従するのです。(3~5節)「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れて、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。『お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻って来る。』」 神様の無茶とも思える命令です。アブラハムの心の思いはどのようであったのか。激しい葛藤があったと考えるのが普通ですが、聖書には一言も記されていませんので、分かりません。

 アブラハムはひたすら神様に信頼して服従します。イサクも、「何か様子が変だな」と思ったでしょうが、一切反抗せず、神様に従います。父アブラハムをも完全に信頼して、イサクは従って行きます。(6~8節)「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、『わたしのお父さん』と呼びかけた。彼が、『ここにいる。わたしの子よ』と答えると、イサクは言った。『火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。』アブラハムは答えた。『わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。』二人は一緒に歩いて行った。」アブラハムとイサクは、心を一つにして神様に従います。薪を背負うイサクの姿は、十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かうイエス様の姿を連想させます。

 そして事態は最高度に緊迫します。(9~10節)「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」独り子イサクは、ほとんど屠りかけられます。本当に瀬戸際まで行くのです。息を飲むところで、神の天使の介入が起こります。神様がアブラハムの信仰の純粋さを極限まで試されましたが、アブラハムはその試し(テスト)に合格したのです。(11~12節)「そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハムと呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしに献げることを惜しまなかった。』』 アブラハムは信仰の父、信仰者の鏡です。

 アブラハムイサクは辛い体験をしました。しかしアブラハムはすんでのところで、イサクを屠らずに済んだのです。しかし神様ご自身は、アブラハムよりもさらに辛い体験をなさったのです。最も愛するイエス様を、十字架の上で本当に屠らせなさったのです。アブラハムはこの辛い体験によって、神様ご自身の気持ちが一部分かる人とされたのではないでしょうか。私たちを罪と滅びから救って永遠の命を与えるために、独り子の十字架の死という非常な辛さを耐えられた、神様ご自身の気持ちを、ほかの人よりも分かる人にされたのではないかと思うのです。

 独り子を失うことが、どのようなことか、旧約聖書のいくつか記されています。アモス書8章9~10節には、神様がイスラエルの民の罪に対して断を下し、審判を与える終わりの日が、次のように描写されています。
「その日が来ると、と主なる神は言われる。
 わたしは真昼に太陽を沈ませ/ 白昼に大地を闇とする。
 わたしはお前たちの祭りを悲しみに/ 喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え
 どの腰にも粗布をまとわせ/ どの頭の髪の毛もそり落とさせ
 独り子を亡くしたような悲しみを与え/ その最期を苦悩に満ちた日とする。」
しかし実際には、神様ご自身が「独り子を亡くした悲しみ」を味わって下さったのです。エレミヤ書6章26節にも、「独り子」の言葉が登場します。そこでは、イスラエルの民の罪に対して、神様の審判が下ることの覚悟を求める預言者エレミヤの次の言葉が書かれています。
「わが娘よ、粗布をまとい/ 灰を身にかぶれ。
 独り子を失ったように喪に服し/ 苦悩に満ちた声をあげよ。
 略奪する者が、突如として我々を襲う。」
このように旧約聖書では、「独り子を失う」ことが、非常に大きな試練の代表として描かれています。しかし実際は、神様ご自身がその最大の辛さを味わって下さったのです。神様が最愛の独り子を、罪に満ちて危険なこの世に送られ、あえて十字架におつけになったのです。

 この神様の愛を、新約聖書のヨハネの手紙(一)4章9~10節が次のように記します。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

 創世記に話を戻すと、御使いはアブラハムに言ったのです。「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムがそれほどまでに神様を信頼し、神様を愛していることが分かったというのです。「惜しまなかった」という言葉で、わたしは新約聖書のローマの信徒への手紙8章32節を思い出します。ここにはアブラハムの神様への純粋な愛よりも更に深い、神様の私たちへの愛が記されています。「わたしたちすべてのために、その御子(イエス・キリスト)をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」 神様の愛は、断腸の思いに耐えて、独り子をさえ惜しまず、私たちすべてのために十字架におつけになる愛であることが明らかにされています。アブラハムが独り子イサクを事実上献げて神様への愛を示した行為は、神様の私たちへの愛を、早くも旧約聖書のはじめの方で暗示し、指し示す、貴重な意義を持つのです。

 創世記に戻り13~14節。「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている。」 ヤーウェは、神様のお名前です。イルエは「見る」という意味のヘブライ語の動詞の未完了形と思われます。神様が全ての状況を見ておられる、見通しておられ、守っておられるという信頼を表しています。神様には想定外のことは一つもありません。神様が全てを見通しておられ、守っておられることを、神の摂理と呼びます。私たちは、意味不明な運命に支配されてはいません。神様の守りと配慮の中に置かれています。そのことに信頼することが摂理信仰です。「ヤーウェ・イルエ」、「主は見ておられる、主は備えておられる」と信じるのです。神への信頼は祈りにつながります。

 摂理を英語でプロヴィデンスと言います。「プロ」は「予め」の意味です。「ヴィデンス」は「ヴィデオ」などと同じ系統の言葉で、「見る」と直接かかわります。摂理、プロヴィデンスは「予め見る」、神様が「予め見ておられる」の意味です。プロヴィデンスという英語とプロヴァイドという英語も同じ系統の言葉です。プロヴァイドは「備える、提供する」の意味ですね。神様が私たちの将来を全て見通しておられ、困難もあるが助けも与えて導いて下さる。これが摂理信仰であり、アブラハムが神様にひたすら服従したのも、この摂理信仰に生きていたからでしょう。昔からクリスチャンたちは、この創世記22章を繰り返し読んで、神の摂理を深く学んで来たそうです。先程、将来という言葉を用いましたが、クリスチャンは未来という言葉よりも将来という言葉を用いる方がふさわしいと学びました。未来は、「未だ来らず」の意味で、神への信頼を感じさせません。将来は、「まさに来るべし」の意味で、神様に祈り信頼して恐れずに、もう一度必ず来られるイエス・キリストを待ち望むニュアンスがあるようです。「待ち望む」もよい言葉です。ただ待つのではなく、神様に祈り信頼して望みをもちつつ「待つ」のが信仰者の姿勢です。

 神様は、私たちにとって最も必要なことを、私たちが生まれる2000年も前に備えて下さいました。私たちのすべての罪が赦されるために、独り子イエス様を十字架におつけになり、三日目に復活させなさったのです。まさに「主の山に備えあり」です。私たちは「独り子を与える愛」を実行して下さった神様に、毎日感謝を献げます。アブラハムとイサクのために、献げるべき小羊をも備えて下さった神様に信頼して、イエス・キリストのおいでを待ち望みつつ、祈りを絶やさないで歩み続けたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-07-06 11:49:26(月)
「新たに生まれる」 2015年7月5日(日) 聖霊降臨節第7主日礼拝説教
朗読聖書:エゼキエル書18章25~32節、ヨハネ福音書3章1~15節。
  「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
                         (ヨハネ福音書3章5節)

 多くのクリスチャンが、今日の場面を知っておられることでしょう。(第1節)「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」福音書ではしばしばファリサイ派の人々とイエス様が衝突しますが、ニコデモはファリサイ派に属しながらも、イエス様に好意的な人でした。ニコデモはユダヤ人たちの議員、つまり最高法院の議員でした。学問も社会的な名声も持っていたのです。(2節)「ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ(先生)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。』」「夜」に意味があると言われます。4節でニコデモは自分のことを「年をとった者」と言っていますから、50歳か60歳くらいだったのでしょう。当時としては長老の年齢だったでしょう。それに比べてイエス様は30歳くらいの青年です。長老が青年に教えを請いに来たのです。世間体が悪いし、恥かしい。それで人目を避けて夜、イエス様を訪問したのであろうとよく説明されます。それは当たっているのでしょう。「夜」はまた闇、無知を象徴するとも言われます。真理に対してまだ目が開かれていなかったニコデモの無知を、「夜」が表している可能性があります。しかしニコデモは、自分よりずっと年若いイエス様に教えを請う謙虚さを持っていました。これはニコデモのすばらしい点です。「夜」はまた、ニコデモの心が暗くなっていたことを示しているとも言えます。ニコデモは光を、希望を求めていました。光、希望を求めてイエス様のもとに来たのです。人生の後半を迎えて、自分が本当に神の国、永遠の命に入ることができるのか、改めて考えていたと思うのです。

 ニコデモはイエス様に、「ラビ(先生)、わたしどもはあなたが神のもとから来た教師であることを知っています。」「ラビ」は、ユダヤ人・イスラエル人の律法(十戒がその代表)の教師です。ニコデモはイエス様を立派な教師と認めました。しかし実はそれだけでは不十分です。イエス様こそ神の子であるという信仰に至ることが必要です。ニコデモは、「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」とも言います。ニコデモは、父なる神様がイエス様と共におられることをも認めました。神様の力が与えられているのでなければ、だれもイエス様がなさったようなしるし・奇跡を行うことができないからです。イエス様がこれまでに行われたしるしの代表は、ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えられたことです。ですがしるしを見たからイエス様に着いて行くというだけでは、不十分です。しるしを見たから信じる信仰は、しるしがなければ信じないことになりがちです。そしてイエス様が十字架で死なれれば、「こんなはずではなかった」とイエス様を見限る恐れもあります。必要なことは、イエス様が行われるしるしを見てイエス様を尊敬し、さらにイエス様が私たちの罪のために十字架にかかって下さる神の子であることを信じる信仰に至ることです。

 はっきり書かれていませんが、ニコデモは心の中に大きな問いを抱いていました。「どうすれば神の国に入ることができるか、どうすれば永遠の命を受けることができるか」という問いです。イエス様はそのことを見抜かれました。ニコデモが夜、わざわざイエス様を訪ねたのは、この問いへの答えを求めていたからです。ニコデモは人生のベテランで、最高法院の議員でしたから、イスラエルの民の中で指導的な立場にいました。それでもなお、この根本的な大問題で悩んでいたのです。多くの方は、人生のベテランになった改めてこの問題で悩んだりしないのではないでしょうか。しかしニコデモは違いました。自分の疑問をごまかさない人でした。「青臭い」と言われかねないこの人生問題の、本当の答えを得たいと切に願っていたのです。ある人が書いていましたが、今の日本でクリスチャンになる人が多くないのは、人が以前より悩まなくなったからではないか、というのです。もし違っているのであれば、申し訳ございません。

 「自分が何のために生まれてきたのか。どのように生きればよいのか。人生の目的は何か。」以前の日本人は、この問題で悩む人は少なくなかったように思います。そのような人が哲学書をひもといたり、聖書を読んだり、教会の門を叩いたのです。もしかすると今は、このことを真剣に悩む若者も大人も減った。インターネットなどで情報を得ることは上手になったが、この人生の根本問題に悩む人が減った。それで神様に真の救いを求め、聖書に真理を求める人も減った。私は、この意見はある程度当たっているように思います。しかしニコデモは違います。長年生きて来た知恵によっても、また律法主義によっても、人生の根本問題に答えが得られない。どうすれば神の国に入ることができるのか、どうすれば永遠の命に至ることができるのか。その答えを得たくて、自分よりずっと若いイエス様を訪ねたのです。

 イエス様は答えて下さいました。(3節)「『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」 「はっきり言っておく」は、直訳では「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う」です。これはイエス様が非常に大切なことをおっしゃる時の前置きです。アーメンは「真実に」の意味です。「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う」、「真実に、真実にわたしはあなたに言う。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 新たに生まれる? 一体どのようなことでしょうか。ニコデモは理解できません。そこで地上の次元で答えます。(4節)「ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』」 もちろんそんなことはできません。イエス様がおっしゃるのは、そのようなことではないのです。イエス様はさらに言われます。(5節)「はっきり言っておく(アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う)。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」「水」は聖霊のシンボル、洗礼の水のシンボルとも言えます。「霊」は聖霊・神様の霊です。聖霊によって、神の愛の霊によって新たに生まれることが、どうしても必要です。

 それにはどうすればよいのでしょうか。自分の罪に気づいて悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じることです。イエス様は6節で言われます。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」肉とは、神様に従わない人間の罪です。残念ながら私たちは皆、罪人(つみびと)です。イエス様以外の人間は皆、罪人です。罪人が罪の赦しを受けないで天国に入ることはできません。水と霊とによって生まれなければ天国、神の国に入ることができないのです。

 本日の箇所は、洗礼と深く関わっています。私たち罪人は、洗礼を受けるときに「水と霊とによって生まれる」、「新たに生まれる」からです。この東久留米教会が属する日本基督教団の洗礼式の時の式文には、次のように書かれています。司式する牧師が、次のように申します。「わたしたち人間は、罪の中に生まれ、肉に属する者でありますから、そのままでは神のみこころにかなうことができません。思いや言葉や行いによって神に背いているものであります。そこで救主イエス・キリストは『だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国に入ることはできない』と言って、罪のゆるしと新しいいのちとをあたえるためにバプテスマ(洗礼)の聖礼典を制定されました。(~)わたしたちは今、この兄弟(姉妹)がみ言葉に従ってバプテスマを受け、キリストの聖なる教会に受けいれられ、そのみ体の生きたえだとなるように祈りましょう。」

 そして次のように祈ります。「天の父、み恵みによってこの兄弟(姉妹)を今まで守り導き、ここにあなたの子として生涯を送る志を起させて下さいましたことを感謝いたします。どうか、このバプテスマの式をきよめ、み霊によってこの兄弟(姉妹)を生れかわらせてください。み子イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。」そして聖書が読まれ、信仰告白が読まれ、誓約がなされ、父・子・聖霊なる三位一体の神様のお名前によって洗礼が授けられます。こうして神の子として新たに誕生するのです。水と霊とによって新たに生まれるのです。その後は、礼拝を中心とする信仰生活に入ります。その中で祈り、神様の御言葉に聴き従い続ける中で、聖霊によって次第に清められてゆきます。但し、この地上に生きている限りは、罪がゼロにはなりません。地上の人生を終えるときに、天国で新しく神の子として誕生します。その時には罪を完全に脱ぎ捨てて、完全に清くされて天国で新しく誕生します。私たちが受ける洗礼は、地上の人生を終えて天国に入れていただくときに、完成します。今は完成に向けてのプロセスの中にいます。

 イエス様は7,8節で言われます。「『「あなたがたは新たに生まれなければならない」とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。』」6節の「霊」という言葉は、原語のギリシア語で「プネウマ」です。8節の「風」の原語も同じ「プネウマ」です。プネウマは、霊、風、息と訳することができます。8節の最初の文を「霊は思いのままに吹く」と訳すことも可能です。「あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」「霊から生まれた者」とは「聖霊によって生まれた者、水と霊とによって新たに生まれた者」です。「その人は、神様と隣人を愛する真の自由に生きる。時には喜んで十字架に進む道に生きる。その生き方を、肉(自己中心)に生きる者は理解できない」ということと思います。

 少し飛んで13節「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」人の子とはイエス様ご自身です。イエス様が「天から降って来た者、神の子」であることが分かります。14節「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(民数記21:4~9の「青銅の蛇」のエピソード参照)。イエス様は十字架に上げられます。青銅の蛇を仰いだ人は、地上の命を得ました。十字架のイエス様を仰ぐ者は、永遠の命を受けるのです。

 本日の説教題を「新たに生まれる」としています。新たに生まれるために必要なことは、私たちが自分の罪を悔い改めることです。本日の旧約聖書は、エゼキエル書18章25節以下です。神様は私たち罪人に、罪を犯して滅びるのではなく、「罪を悔い改めて生きよ」と呼びかけておられます。(30~32節)「『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」 「立ち帰る」は原語のヘブライ語で「シューブ」という言葉と記憶しています。「シューブ」は方向転換ということです。イザヤ書53章6節に、「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」とありますが、そこから方向転換して真の神様のもとに立ち帰るのです。ルカによる福音書16章のあの放蕩息子が、自分勝手な方向に進んで痛い目に遭ってようやく回心し、父親のもとに立ち帰ったように、私たちも自分の犯した罪を悔い改めて、真の神様のもとに立ち帰ります。そして洗礼を受けるならば、それが最善です。水と霊によって新たに生まれるのです。

 新たに生まれると、霊の人、聖霊の人、愛の人として生き始めます。神様を愛し、隣人を愛する人として生き始めます。私は先週、仙台のエマオという日本キリスト教団東北教区の被災者支援センターに短期間行きました。そのご報告は週報に書いています。東日本大震災直後からのエマオの働きを記録した土井敏邦監督DVD『被災地に来た若者たち』を買って参りました。エマオでスタッフとして働いた青年たちのインタビューなどが内容です。そこにBさんというキリスト教主義大学の青年も登場します。クリスチャンかどうかは分かりません。私も簡単な会話程度はしたことのある人です。Bさんはこう語っていました。「ボランティアが楽しいんです。畑作業にしろ、家の中を掃除するにせよ、その先を考える。ここをきれいにして、家の人が野菜を植えて、その野菜を収穫して出荷して、それを食べる人がいるということを考えたりする。ここをきれいにして家の人が戻って来て、前と変わらない生活を送る姿を想像すると楽しくなって、自分ってこんなにも想像力が豊かだったのかと最近思うようになった。喜んでいる人がいることを想像して、喜んでいる顔を思い浮かべると、嬉しくなって来て、その嬉しさが募っていくと、もう何か楽しいんですよね。 ~ 当たり前だった生活が当たり前じゃなくなって、金銭的にも精神的にもしんどくなったときに、ボランティアして、その人たちの全てが分かるようになったわけではないのですが、一部の辛さや苦しみが分かった、人の痛みが分かるようになった、より分かるようになった。」 このBさんの様子を見て、大学の指導教授も、「B君は変わった」と言われます。新しくされていったのだろうなと思わされます。人に喜んでもらえることを喜ぶ、新しい人に変えられていったことが感じとれます。

 私たちの自我は固く、自己中心の思いもなかなか消えません。しかし愛の方イエス様を見つめて新しい人へ、神様と隣人を愛する新しい自分に、今改めて誕生させていただきたいと祈ります。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-07-04 22:47:00(土)
「神様の慈愛と寛容と忍耐」 2015年6月28日(日) 聖霊降臨節第6主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記(下)12章1~10節、ローマの信徒への手紙2章1~16節。
「その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(ローマ2章4節)。

 今年の1月より、礼拝でローマの信徒への手紙を学び始めました。本日で5回目です。この手紙を書いたのは、イエス様の死と復活の後に使徒・弟子となったパウロです。この前の小見出しは「人類の罪」でした。人類全体、特に旧約聖書以来の神様の民イスラエル人・ユダヤ人以外、つまり異邦人の罪が告発されていました。本日の2章では、ユダヤ人の罪が告発されています。

 (第1節)「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」イエス様もマタイ福音書7章1節以下で、同じことを言われます。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」 

 パウロは書きます。「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」「裁く」は、原語のギリシア語で、「クリノー」という言葉です。「クリノー」は「分ける」という意味でもあります。裁くことは、分けることです。「正しいこと」と「正しくないこと」を分けることです。裁くことは、本来は神様がなさることです。神様であれば、全く偏見や過ちなく、完全に正しく裁くことができます。しかし人間が裁く場合は、なかなかそうはいきません。偏見や過ちがないとは言い切れないのです。ですから人を裁くに当たっては、慎重でなければなりません。そうでないと過ちを犯す恐れがあります。ギリシア語「クリノー」は、英語の「クリティサイズ」(批判する、批評する)や「クライシス」という言葉のもとになったそうです。

 クライシスは危機と訳されます。人を批判し、裁く者は自分が危機に陥ります。自分の裁く裁きで、自分が裁かれるからです。何年か前に、ある非常に優秀な検察官が書類を改ざんし、無実と思われる人を有罪にするという事件がありました。それまでその検察官は、裁判で被告を厳しく批判していたと思われます。しかし書類を改ざんし無実と思われる人を有罪にしてしまう冤罪を発生させた責任で、自分が有罪になったと記憶しています。その検察官だけではないのです。私は裁判に関係する人間ではありませんが、私も日常の中でほかの方を批判すれば、自分自身にその裁きははね返って来ます。自分の危機になります。暫く前に日本の国会の何かの委員会で、野党のある議員が、数分遅刻した与党の議員を非常に厳しく責め立てて、謝罪をさせたそうです。ところが暫くして今度は自分が同じ委員会に遅刻して、注意を受けたそうです。他人への裁きと批判は、ブーメランのように自分に返って来ます。もちろん人を諭し注意することは必要です。しかし一方的に裁くとき、私たちは自分を神にして、優越感に浸っているかもしれません。他人を全く諭さず注視しないことはできませんが、最終的には裁きは神がなさること、特に最後の審判は神様ご自身がなさる聖なる審判であることを、心に留めたいのです。私たちも、最後の審判を受けます。しかし、イエス・キリストを救い主と信じた人は、最後の審判を恐れる必要がありません。イエス様が全ての罪を背負って十字架で死んで下さり、復活なさったからです。イエス様がその人の弁護をして下さり、その人は無罪の宣告を受けます。

 (2~3節)「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをする者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。」ユダヤ人には、自分は真の神を知っている、十戒に代表される神様の戒めを知っているという強い誇り・プライド・優越感があり、異邦人を精神的に見下していました。そのようなユダヤ人の代表が、イエス様と衝突したファリサイ派や律法学者と呼ばれる人々でした。パウロ自身も、復活のイエス様を受け入れるまでは、がちがちのファリサイ派だったのです。その人々は、自分たちは完全に正しい人間で、神様の前にも罪などないと思っていたかもしれません。しかしイエス様から見ればいろいろな罪のあったのだと思います。自分で気づかないだけでした。思い上がりの罪を犯していたと思います。自分で自分を正しいと決める自己義認の罪を犯していました。隣人への愛もありませんでした。自分の罪に気づいて、へりくだって悔い改める姿勢に欠けていました。私たちもそのようになることはあります。イエス様と衝突したファリサイ派・律法学者は、自分たちが神に裁かれると思わないほど、自信満々だったようです。

 (4節)「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」聖書の神様は確かに罪をお裁きになりますが、私たち人間の悔い改めを待って、なかなか人間の罪を裁かずに忍耐して下さる憐れみ深い神様です。しかし永久に裁かない神ではありません。神様が忍耐強をよいことにあぐらをかいて、永久に甘え続けることはできません。神様が忍耐して下さっているうちに、自分の罪を神様の前に悔い改めて、洗礼を受けることが、神様に喜んでいただける道と思います。神様の忍耐強さは私たちにとって大きな救いです。神様が忍耐強くなく、私たちの罪をすぐに裁かれるのであれば、私たちもこの世界もとうの昔に滅んでいたのです。父なる神様の慈愛と寛容と忍耐、そしてイエス様の十字架のとりなし、信仰者たちのとりなしの祈りのゆえに、この世界が滅びることなく今も維持されていると思うのです。

 (5節)「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」
神様の御言葉を素直に受け入れず、自分の罪を素直に認めて悔い改めないかたくなさ、強情さこそユダヤ人の罪、また私の罪です。私たちが神様の前に悔い改めないで生き続ける時、私たちは毎日少しずつ罪を積み重ね、自分に対する神の怒りを増やし続けているのです。「神の怒りの日」とは最後の審判の日です。その日、神様によってこの世の全ての罪と悪、そして悪魔が滅ぼされます。人の目に隠されている罪と悪も全て滅ぼされます。最後の敵・死も滅ぼされます。その日は、イエス様を救い主と信じる人々、神様に従おうとする人々にとっては救いの日、希望の日です。

 (6~8節)「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。」
私たちは、自分の蒔いた種を刈り取ることになります。イエス様に従って神様を愛し、隣人を愛する生き方は永遠の命に至り、神様に逆らい悪魔に従って、神様も隣人をも愛さない生き方は、滅びに至ります。(9~11節)「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。」神様はユダヤ人をも異邦人をも公平に裁かれます。神様は人を偏り見ることなく、差別をなさいません。「ユダヤ人はもとより」と書かれています。「ユダヤ人はもちろん」ということです。

 神様は最初にユダヤ人・イスラエル人を神様の民としてお選びになりました。そして神の聖なるご意志を示す十戒を与えて下さいました。それだけユダヤ人には責任が与えられたのです。神様の民として最初に選ばれたことは真に光栄なことです。同時に光栄な責任も与えられました。神様が教えて下さった善悪の基準である十戒を守って生きる光栄ある責任です。ユダヤ人は十戒を教えられているので、神様の善悪の基準を知らなかったと言い訳ができない民です。知っているのに悪を行ったのであれば、言い訳の余地がなく、情状酌量の余地がありません。ですので「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとより」「ユダヤ人にはもちろん」苦しみと悩み、神様の聖なる審判が下ります。しかしギリシア人に象徴される異邦人も、悪を行った責任は問われます。逆に善を行えば、十戒を知っているユダヤ人はもちろん、十戒を知らない異邦人にも、神様から栄光と誉れと平和という祝福が与えられます。神様は公平でフェアな方で、どの人をも分け隔てなさいません。

 (12~13節)「律法(代表が十戒)を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」ここに厳しいことが書かれています。「律法を知らないで罪を犯した者」とは異邦人が律法に違反した場合のことを指すのでしょう。その者は律法と関係なく滅びる、と書かれています。「律法の下にあって罪を犯した者」とは、ユダヤ人が律法を知っているのに律法を破った場合のことです。ユダヤ人は律法を知っているのだから、律法によって裁かれると書かれています。律法を聞くだけでは足りない。律法を聞いて知って、実行する者だけが、神様の前に正しいと認められる。ユダヤ人も律法を知っているだけでは意味がないので、ユダヤ人であっても律法を破れば裁きを受けると書かれています。 ここでは律法を守らない者への神様の聖なる怒り、聖なる裁きが強調されています。このままではユダヤ人も異邦人も、誰も救われることができません。律法を守りきれない私たちを救うために来て下さったイエス・キリストのことは、3章22節から書かれています。暫くお待ち下さい。

 (14~15節)「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことをしています。」「律法の要求する事柄がその心に記されている。」それは良心のことと思われます。人間には良心があります。クリスチャンにもクリスチャンでない人にも、その人なりの良心があります。それは神様が与えて下さったものでしょう。しかし良心も罪に汚されています。善悪の基準が人によって違うのです。厳格な良心を持つ人もいれば、いい加減な良心を持つ人もいます。その意味で良心も罪に汚されており、私たちの良心は不完全・不十分な良心です。しかし全くないよりはよいです。たとえば、人を殺してはいけないという教えには、ほとんどの人が賛同するでしょう。それは教育の成果かもしれません。そうであっても、不完全ながら、人間の心に良心があることはよいことです。私たちが悪いことを行えば、良心が痛みます。異邦人は、神様の聖なるご意志である十戒を知らなかったのですが、神様が与えて下さった良心によって、不十分ながら神様のご意志を知っているのです。良心に従って生きれば、異邦人で十戒を知らなくても、ある程度、神様に従ったことになります。

 (16節)「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」最後の審判の日には、人間が隠していたすべての罪と悪が明らかになります。神様の目から何も隠すことはできないのです。コリントの信徒への手紙(一)3章13節以下に、
この日(「かの日」)のことが書かれています。「おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」最後の審判の時は、神様が私たちの営みの全ての内実を、火によって吟味する一切のごまかしの効かない日です。イエス様を救い主と信じ、イエス様に従いつつある人は、「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と書かれています。厳しいですね。私たちは救われるのだけれども、神様によって清められて、「火の中をくぐり抜けて来た者のように」救われるというのです。

 もっと嬉しい書き方の箇所もあります。コリントの信徒への手紙(一)の4章5節です。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。」イエス様を信じ、イエス様に従いつつある人は、最後の審判のときに、父なる神様から「よくやった」とおほめにあずかるのです。3章と4章をまとめてみると、「火の中をくぐり抜けて来た者のようにではあるが確実に救われて、『よくやった』と神様からおほめにあずかる」ということでしょう。日本基督教団信仰告白にはこうあります。「愛の業に励みつつ、主の再び来り給うを待ち望む。」私たちはイエス様を救い主と崇め、愛の業に励みつつ、イエス様が再び来られる日、最後の審判の日を待ち望みます。

 本日の旧約聖書は、サムエル記(下)12章1~10節です。ダビデ王が、神様から遣わされた預言者ナタンに厳しく叱責される有名な箇所です。ダビデは、忠実な部下ウリヤの妻を奪い、しかもウリヤを意図的に戦死させました。十戒で明確に禁じられている姦淫と殺人の罪を犯したのです。しかも自分の罪に気づいていませんでした。ナタンが来て、たとえ話を語ります。貧しい男が心から慈しんでいた一匹の雌の小羊を奪った豊かな男のたとえです。聞いたダビデは激怒しました。「そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の値を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」預言者ナタンが鋭く迫ります。(7~10節)「ナタンはダビデに向かって言った。『その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。「あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。」』

 ダビデが豊かな男を裁いた裁きの言葉は、まさしくブーメランのようにダビデに帰って来ました。ローマの信徒への手紙2章3節のとおりです。「このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。」そして9節に「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り」とある通り、ダビデには苦しみが下ります。まずバト・シェバとの間に生まれた赤ん坊が、神様に打たれて死にます。そしてダビデはわが子アブサロムに反逆され、ダビデの軍とアブサロムの軍が戦い、アブサロムは殺されます。このような剣(戦い)の苦しみは、ダビデがウリヤを殺した罪への報いです。ダビデは罪の結果、このような苦しみを受けました。

 しかしダビデのよいところは、自分の罪を悔い改めたことです。ダビデは預言者ナタンに言います。「わたしは主に罪を犯した。」そして「悔い改めの詩編」として知られる詩編51編を作ったのです。
「あなた(神様)の言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。~
 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/ わたしが清くなるようにい。
 わたしを洗ってください/ 雪よりも白くなるように。」

 パウロは書きます。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」ダビデの大きな罪を即座には裁かず、預言者ナタンを送って罪を指摘して下さったことに、神様の憐れみが現れています。悔い改めの猶予を与えて下さったのではないでしょうか。ダビデはナタンの叱責を受け入れ、へりくだって大きな罪を悔い改めました。この姿勢をこそ、ダビデから学びたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-06-23 1:01:52(火)
「神の光を放つ」 2015年6月21日(日) 聖霊降臨節第5主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記34章1~9節と29~35節、コリント(一)4章1~6節。
 「なんと、彼の顔の肌は光を放っていた」(出エジプト記34章30節)。

 おさらいから入りますと、神様は、出エジプト記20章でイスラエルの民に聖なる十戒をお与えになったのです。しかしモーセがシナイ山に上って十戒を受け取っている間に、イスラエルの民は早速堕落してしまいました。金の子牛の偶像を作ってそれを拝み、性的にも乱れたのです。山から降りて来たモーセはそれを見て、激しく憤りました。モーセの怒りは聖なる怒りです。私たちは先週の礼拝で、イエス・キリストがエルサレムの神殿で、鞭を振るってまで神殿を清めた出来事を読みました。あのイエス様の怒りも聖なる怒りでした。モーセも民の堕落を見て、イエス様の怒りにも似た聖なる怒りに満たされたのです。そして神様から受け取ったばかりの、十戒が彫り刻まれた二枚の石の板を投げつけ、山のふもとで砕いたのです。その二枚の板には、表にも裏にも文字が書かれていました。その板は、神ご自身が作られ、筆跡も神ご自身の筆跡でした。モーセは、その二枚の板を砕いたのです。

 十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。第二の戒めは、「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。民は早速、この2つの大切な戒めを破ってしまいました。そこで神様ご自身の聖なる怒りも燃え上がりました。神様はイスラエルの民と私たちを深く愛しておられます。偶像崇拝はその神様を裏切る行為、神様の心を深く傷つける行為です。神様は強く憤られたのですが、その強い憤りは逆に、神様がイスラエルの民をいかに深く愛しておられるかを証明しています。神様が民を愛しておられず無関心ならば、憤られることもないのです。

 神様は、それでもイスラエルの民に、約束の地・カナンの地・乳と蜜の流れる土地に上りなさいと言われました。同時に「わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」と言われました。しかし神様が共に上って下さらないのであれば、約束の地に行く意味がありません。そこでモーセが必死に執り成しました。神様はモーセの執り成しを聴いて下さり、「わたしが自ら同行する」とおっしゃって下さいました。

 そして本日の34章に入ります。神様は聖なる憤りを静めて下さり、もう一度十戒の石の板を与えるとおっしゃって下さいます。(1~3節)「主はモーセに言われた。『前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉(十戒)を、その板に記そう。明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂でわたしの前に立ちなさい。だれもあなたと一緒に登ってはならない。山のどこにも人の姿があってはならず、山のふもとで羊や牛の放牧もしてはならない。』」モーセは言われた通りに行動しました。即ち、前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、シナイ山に登ったのです。聖書の人々は、しばしば朝早く起きて、神様の意志に従いました。早朝・朝は神様の恵みが新しく与えられる時です。イエス様の復活も早朝だったのです。モーセはその後、神様と共に四十日四十夜シナイ山にとどまり、パンも食べず水も飲まず、十の戒めから成る契約の言葉を二枚の石の板に書き記したのです。

 (5節)「主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。」「名は体(たい)を表す」と言います。「名は本質を表す」ということです。「主の御名を宣言された」ことは、主なる神の体(たい)・本質を宣言されたことです。(6~7節)「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべきものを罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。』」 神様はイスラエルの偶像崇拝を激しく憤られましたが、基本的には「憐れみ深く恵みに富む方、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた方」です。旧約聖書の中で、神様が人の罪に対して怒られることがしばしばあるので、「怒りの神」、「裁く神」という印象を持つ方もおられます。しかしよく読んでみると、神様はモーセたちの執り成しによって裁きをおやめになったり、民による罪の悔い改めを待って、なかなか裁かれないことも少なくありません。そこである方は、「怒りの神」、「裁きの神」よりもむしろ「忍耐の神」ではないかと書いておられます。その通りだと思います。神様は、「憐れみ深く恵みに富み、忍耐強い神」なのです。この憐れみ深く恵みに富み、すぐに裁かない忍耐強い神の姿は、ルカによる福音書の「放蕩息子のたとえ」に明瞭に示されています。旧約聖書の神と新約聖書の神は、もちろん同じ神様です。
 
 (7節)「幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」神様のこの本質は、既に十戒の第二の戒めに記されています。実は第二の戒め全体は、長いのです。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」私は「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と書いてあることに、恐れを覚えます。この言い方には、神様の厳しさが現れています。ですが強調点は後半にあると言えます。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」「幾千代」ですから、ここに神様の大きな愛が示されています。宗教改革者ジャン・カルヴァンが書いたジュネーブ教会信仰問答の、問158とその答に次のように書かれています。

問「何ゆえここでは、千代といい、威嚇(厳しさ=石田註)の場合には、ただ三四代としか言われないのですか。」

答「神の本性が峻厳よりむしろ、慈愛をもって柔和に振舞われることを表すためであって、これは神が善をほどこすに速かで、怒るのに緩やかであると証ししておられる通りであります」(外山八郎訳『ジュネーブ教会信仰問答』新教出版社、1997年、62ページ)。
 
 神様が私たちの罪を全て裁かれるのであれば、私たちはとうの昔に滅びていたはずです。神様は確かに罪を裁くことがありますが、しかし神様は非常に忍耐強い方で、私たちの罪への裁きを留保し、何度も何度も赦して来られたのです。私たちがそれに気づいていないということが、大いにあり得るのですね。「罪と背きと過ちを赦す」神様です。マタイ福音書18章でペトロがイエス様に、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と質問したとき、イエス様は「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とお答えになりました。その前提は、ペトロも私たちも、神様に多くの罪を赦していただいて生きているのが現実だということでしょう。

 そしてイエス様はペトロに、「仲間を赦さない家来のたとえ」の話をなさったのですね。主君に1万タラントン借金していた家来がいたのですが、主君は彼を憐れに思って彼を赦し、借金を帳消しにして下さいました。1タラントンは6000日分の賃金ですから、1万タラントンは6000万日分の賃金です。一日の賃金を5千円として計算すると、1万タラントンは3000億円になります。私たちがこの家来だと考えるなら、私たちは神様に3000億円の借金を帳消しにしていただいた、無限大の罪を帳消しに赦していただいて生きていることになります。

 イエス様の十字架は、私たちの全ての罪を背負う十字架です。あのイエス様の十字架の死のお陰で私たちの無限大の罪は帳消しに赦されて、私たちが今生きることを許されています。それなのに私たちはそれを当たり前に思い、十分に感謝していないかもしれません。1万タラントンの借金を帳消しにしていただいた家来は、自分に100デナリオン借金している仲間を赦そうとしませんでした。100デナリオンは100日分の賃金ですから、先ほどと同じ計算をすると50万円です。自分は3000億円の借金を主君に帳消しにしていただいた家来が、自分に50万円(60万分の1の金額)借金している仲間を赦さなかった。滑稽であり、大きな矛盾ですが、神様からご覧になれば私も似たことをしながら生きて来たと思うのです。

 イエス様は、弟子のヤコブとヨハネの兄弟に「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われました。「飲もうとしている杯」とはもちろん十字架のことです。イエス様は最後の一滴までこの苦難の杯を飲み干されました。十字架の苦しみを極限まで味わい尽くし、私たちのどんな小さな罪までも一つ残らず背負って下さったのです。中世のアンセルムスというクリスチャン(神学者)は、「あなたは、罪がどんなに重いかを考えたことがないのだ」と言ったそうです(清瀬みぎわ教会ホームページ・和田道雄牧師のメッセージより引用)。私たちは、神様から見た私たちの罪がどんなに重いか十分に考えていない、イエス様の十字架がどれほど大切か、まだまだ考え足りないかもしれないのです。私たちの罪がただイエス様の十字架のお陰で帳消しにされたことのありがたみを、感じることが少ないかもしれません(私だけかもしれませんが)。「罪と背きと過ちを赦す神。」私たちの罪を赦すことは、神様にとっても決して楽なことではないと思うのです。楽どころか、最も愛する独り子イエス様を、あまり感謝しない私の身代わりとして、十字架で苦しめて死に至らせる。その神様の覚悟と犠牲の痛みなしに、私たちの罪が赦されることはありませんでした。

 さて、出エジプト記34章の終りの方、「モーセの顔の光」の小見出しの所に進みます。(29~30節)「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。」神様がモーセと顔と顔とを合わせて語られました。本来、私たち罪人(つみびと)は聖なる神様にうかつに近づくことができない、神を見ると死ぬのが旧約聖書の世界です。しかしモーセは罪人であったけれども例外だったようです。神様は、人がその友と語るように、顔と顔とを合わせて親しくモーセに語られました。神様はまばゆい光の放っておられるでしょう。その聖なる光の一部がモーセの顔にとどまったのです。神様のもとから宿営に帰ると、暫くの後、モーセの顔の光は消えました。モーセは、光が消える様子をイスラエルの人々に見られることを好みませんでした。それで彼は神様のもとから退出すると、顔に覆いをかけました。しかし神様のもとに行って語るときは、覆いを外して、栄光に輝く聖なる神様の御顔に直面しました。すると、また神様の御顔の光が一部、モーセの顔にとどまったようです。(34~35節)「モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いをかけた。」

 若干脇道に逸れるかもしれませんが、ローマ・サンピエトロ・イン・ヴィンリコ聖堂の入り口にミケランジェロ作のモーセ像があるそうです。このモーセ像には頭に二本の角が生えているそうです。確かに写真で見ると二本の角が見えます。ほかにもそのようなモーセの絵があるようです。一般的にはこれは誤解に基づいてこのような彫像や絵が作られたのだと言われます。29節、30節、35節にモーセの顔が「光を放って」と書かれています。この「光を放つ」は原語のヘブライ語で「カーラン」という言葉だそうです。「カーラン」に2つの意味があり、1つ目の意味が「光線、一点から出る線、放つ、放射」です。2つ目の意味が「角(つの)、かど」です。モーセの顔については1つ目の意味に訳すのが正しいと思われますが、昔カトリック教会が用いていたラテン語訳聖書(ウルガタと呼ぶ)が、恐らく誤って「角」と訳したそうです。ミケランジェロが用いていた聖書がそのラテン語訳、もしくはその影響を受けた翻訳だったようで、それでミケランジェロがモーセ像を彫ったときに、頭に二本の角をつけたと言われています。ミケランジェロは1475年に生まれ、1564に天に召されたイタリア人芸術家です。ほかにもドレという人の銅版画(モーセが十戒の板を持っている姿を描く)では、モーセの頭から二列の光が天に向かって放射されています。光ですが直線状で、角のようにも見えなくもありません。もしかするとドレは、「カーラン」の2つの意味「光線」と「角」の両方に当てはまるように意識してこの銅版画を作ったのではないかと、私は想像致します。しかし「角」とする解釈ではなく、やはり「光、光線」の意味を採用する翻訳が正しいのでしょう。「モーセの顔の肌は光を放っていた。」この御言葉を巡って、以上のエピソードがあることをお話した次第です。

 本日の新約聖書は、コリントの信徒への手紙(二)4章1~6節です。4節にこうあります。「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。」「神の似姿であるキリストの栄光!」 イエス・キリストは三位一体の神ご自身ですから、天で栄光に輝いておられました。その方があえてベツレヘムの汚い馬小屋で生まれて下さったのです。そして十字架の死に至るまで、父なる神様のご意志に忠実に従われました。そのキリストが、栄光の姿を一瞬、垣間見せて下さった時があります。イエス様がペトロとヨハネとヤコブだけを連れて山に登られたときです。その山で祈っておられるうちに、イエス様の顔の様子が変わり、服が真っ白に輝きました。イエス様は神の子、そして神としての栄光に輝く本来のお姿を3名の弟子たちに、一瞬垣間見せて下さったのです。そしてコリント(二)4章6節にはこうあります。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光!」 イエス・キリストは神の子であり、三位一体の神ご自身ですから、モーセと顔と顔とを合わせて語られた神様は、キリストご自身です。

 初代教会の最初の殉教者にステファノがいます。ステファノはいつも神様に祈っていたのでしょう。使徒言行録はステファノを「信仰と聖霊に満ちている人」と紹介しています。ステファノを憎む者たちが、人々を扇動してステファノを捕らえ、ステファノは最高法院に引いて行かれます。偽証人が登場してステファノを訴えます。まるでイエス様の裁判の再現です。その時、ステファノの顔は天使のように見えました。きっと非常に輝いていたのです。いつも神様に祈り、神様と親しく交流していて聖なる喜びに満たされていたからでしょう。祈り続けることによって、人は次第にこのようになるのです。

 遠藤周作氏が天に召されたときのことを、ご夫人が書いておられた文章を思い出しました。天に召されるとき、周作氏のお顔が歓喜の表情になられたそうです。ご夫人は握った手を通して、周作氏の無言のメッセージ(ご自分が光の中に入り、母上らに会われたという内容)を感じ取られたと、書いておられました。周作氏は天国に入りつついらしたときに、神様からの愛と光で表情が輝いたのだと思います。

 私たちが自分で光を放つことは難しいでしょう。神様と神の子イエス・キリストを太陽にたとえるならば、クリスチャンを月にたとえることができるのではないでしょうか。月の輝きは、太陽の光を受けて反射する輝きです。モーセの顔が放った光も、神様の栄光を反射した光です。神様に祈り続け、神様と交流し続けることで、私たちもほんの少しは光を放つようにされるのではないでしょうか。神様が私たちにも光を与えて下さるように、祈って参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。