日本キリスト教団 東久留米教会

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2015-02-05 11:12:40(木)
「三日目に復活されたキリスト」 2015年2月1日(日) 降誕節第6主日礼拝説教
朗読聖書:ヨブ記19章23~27節、ルカ福音書24章1~12節
「あの方は、ここにおられない。復活なさったのだ」(ルカ福音書24章6節)。

 主イエス様は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれて、息を引き取られました。そしてアリマタヤ(町の名)出身のヨセフというユダヤ最高法院の議員が、総督ピラトの所に行き、イエス様の遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだ誰も葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めました(もちろんこのヨセフは、イエス様の父ヨセフとは別人です。イエス様の父ヨセフは、既に天に召されていたと思われます)。その日は金曜日、安息日の前日でした。母マリアが、十字架から降ろされたイエス様の遺体を抱いている様子を描いた彫刻や絵をピエタと呼びます。ピエタはイタリア語で、「哀しみ」、「慈悲」の意味だそうです。バチカンの聖ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロ作の彫刻ピエタが有名とのことです。直接御覧になった方もおられるかもしれません。私は写真で見ました。このミケランジェロのピエタのマリアさんのお顔がとても若いのだそうです。写真で見ても分かります。マリアさんがイエス様を出産したとき16歳くらいだったと仮定すると、十字架のときは50歳の手前くらいだったはずです。

 なぜミケランジェロのマリアの顔は若いのか。次のような解釈を聞いたことがあります。ミケランジェロが、天使のお告げを受けたときのマリアを思い描いていたからではないかというのです。天使がマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げたとき、マリアは最終的にこう答えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」これはマリアの覚悟です。ミケランジェロがこの深い信仰の言葉を語ったマリアを思いながら、ピエタを制作したので、ピエタのマリアの顔は若いのではないかという解釈です。もしかするとそうかもしれません。十字架から降ろされたイエス様を抱くマリアの姿。この時確かに「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」が、実現していたと言わざるを得ません。

 そしてイエス様はアリマタヤ出身のヨセフによって、岩に掘った墓の中に納められました。私はこれまで十字架につけられているイエス様の絵画を本などで見て来ましたが、イエス様が十字架から降ろされる様子を描いた絵画、人々がイエス様の遺体を拭いている様子を描いた絵画、イエス様が墓に埋葬される様子を描いた絵画、死んで墓の中に横たわるイエス様を描いた絵画も、多くあります。そのような絵画をじっと見つめていると、イエス様が死んで葬られたことが、確かに本当のことだったがことが強く感じられます。私たちは毎週、使徒信条の中で、「主は(~)ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」と告白致しました。「死にて葬られ」とはっきり告白致しました。イエス様は仮死状態だったのではないのです。仮死状態から蘇生したのではないのです。イエス様は本当に死なれました。墓に葬られるほどに確かに死なれたのです。使徒信条の言葉は一つ一つすべて重要ですが、「死にて葬られ」も、イエス様が確かに死なれたことを語っていてとても重要です。死んで墓の中に横たわるイエス様の絵画も複数ありますが、それを見つめても、イエス様が死なれたことが現実であるとよく伝わって来ます。このことをしっかりと受けとめる時、イエス様の復活がどんなに力強い出来事であるかが、はっきりと伝わって参ります。

 今日の直前の23章55~56節を見ると、「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有り様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」と書かれています。ここに女性たちのイエス様への愛が現れています。アリマタヤのヨセフもそこまではしませんでした。男の弟子たちもそこまでしませんでした。翌日が安息日(礼拝の日、土曜日、どんな仕事もしてはいけない日)だったので、婦人たちも休みました。しかし安息日が終わると、週の初めの日・日曜日のまだ暗い早朝に婦人たちは早速行動を起こします。今日の24章の1節「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」金曜日にイエス様を慌しく埋葬したので、もっと愛情を込めて丁寧に埋葬しようとしたのです。ここでも婦人たちのイエス様へのひたむきな愛が光っています。

 当時のユダヤは男性中心の社会で、女性や子供は信頼できる証言者として考えられていなかったそうです。ところが神様はそうではないのです。神様は、イエス様の復活の第一の証人として、男性ではなく女性たちをお選びになりました。当時の価値観と反対のことをなさいました。このときも今も、神様は女性に期待しておられると思われます。男性にも期待しておられるでしょうが、当時も今も女性に期待しておられると感じます。ほとんどの教会で男性より女性が多いことからもそれは察せられます。考えてみると、イエス様を十字架につける方向に進めたのは全員男性です。しかしイエス様の墓に真っ先に駆けつけたのは全員女性です。どちらが神様の御心に適ったかは明瞭です。私たちは男性であっても女性であっても、イエス様を十字架につけるのではなく、イエス様のもとに真っ先にかけつける者でありたいのです。

 墓に行って見ると、思いもかけないことが起こっていました。(2~3節)「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」大きな石がわきへ転がしてあったことも意外でしたが、イエス様の遺体がなくなっていたことが驚きです。「一体どうしたのか。誰かがお移ししたのか。あるいは誰かが盗みだしたのか?」女性たちの理解を超える出来事です。女性たちはびっくりして途方に暮れていました。私たちであっても途方に暮れ、どうしてよいか分からなくなったに違いありません。私はここで、イエス様の弟子・使徒パウロがコリントの信徒への手紙(二)4章8~9節に書いた言葉を思い出します。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」人の力が行き詰まることは確かにありますが、神様の愛の力で意外な道が開かれることがある。パウロは何度も何度も行き詰まり、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒されました。もう駄目と思ったことも一度ならずあったはずです。人よりも多くの苦難を経験したのですが、その度に神様に助けられ、自分の願いの実現のためではなく、神様の御心が実現するために奉仕する、伝道の人生を生きることができたのです。

 婦人たちも、予想を超える事態の前でうろたえ、途方に暮れていました。しかしそこへ、何と、輝く衣を着た二人の人がそばに現れたのです。天使たちです。神様は、天使によって人間たちの世界に介入し、神様の重要なメッセージをお伝えになることがあります。(5節)「婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。』」神の国から来た天使たちは神様の聖なる栄光にまばゆく輝いていました。婦人たちは畏怖の念を覚え、地に顔を伏せたのです。天使たちは、「生きておられる方」と言いました。新約聖書のギリシア語では、「生きる」という言葉は少なくとも2つあります。一つは「(生物学的な意味で)生きる」という意味の言葉です。もう一つは「本当の意味で生きる、つまり神様と隣人を愛して生きる」という意味の言葉です。ここでの「生きておられる方」はもちろん、後者です。一つのめの言葉「ただ生物学的に生きる」では、動物が生きているのと変わりません。食べて出して、欲望を満たしながら生存するということです。しかし私たちが「神様に似た者に造られた者」として生きることは、動物のように生きることとは違い、神様と隣人を愛して生きることです。そうでないと本当に生きていることになりません。

 私たちは残念ながら罪人(つみびと)なので自己中心であり、なかなか神様と隣人を十分に愛して生きることができません。でも聖霊に助けていただいて、その方向を目指すことは必要です。イエス様は「生きておられる方だ」と天使たちは告げました。それはただ生存しているということではなく、「神様と隣人を愛する命に生きている」ということです。十字架の前もそのように生きられ、今十字架の死から復活されて、やはり「神様と隣人を愛する愛に生きておられる」と天使は告げたのです。さらに言えば、「神様と隣人を愛する命」こそ、永遠の命なのです。私たちは生まれたままの状態で聖霊を受けていなければ自己中心であり、神様と隣人を愛することが難しいので、永遠の命に生きていないのです。ですから私たちは皆、イエス様を救い主と信じて聖霊を受け、「神様と隣人を愛する永遠の命」に生き始めることが必要です。

 (6~7節)「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられた頃、お話しになったことを思い出しなさい。人の子(イエス様ご自身)は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」復活されたイエス様は、もう二度と死ぬことがありません。「することになっている」は、原語のギリシア語で「デイ」という小さい言葉、小さいけれど重要な言葉です。「デイ」は、「必然、神様の必然」と表します。イエス様が十字架で死なれ、三日目に復活なさることは神様の必然、神様のご計画、神様の御心だったということです。イエス様は、私たちの罪を背負うために、どうしても十字架で死なれる必要があったのです。イエス様はそれを深く自覚しておられました。ですから、このルカによる福音書9章22節でこう予告しておられます。「人の子(ご自身)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と。

 旧約聖書は、いくつかの箇所でイエス様の十字架の死と復活を予告(暗示)しています。イエス様の十字架を予告する最も重要な箇所はイザヤ書53章でしょう。「彼が刺し貫かれたのは/ わたしたちの背きのためであり/ 彼が打ち砕かれたのは/ 私たちの咎のためであった」という御言葉とその前後です。そして詩編118編22~23節が、イエス様の十字架と復活を暗示していることも確かなことです。「家を建てる者の退けた石が/ 隅の親石となった。/ これは主の御業/ わたしたちの目には驚くべきこと。」「家を建てる者の退けた石」は、十字架で死なれたイエス様を暗示します。その石が隅の親石となったことが、イエス様の復活を暗示します。

 そして本日の旧約聖書・ヨブ記19章25節に記された義人ヨブの言葉です。「わたしは知っている/ わたしを贖う方は生きていおられ/ ついには塵の上に立たれるであろう。」これはヨブのために弁護して下さる方、ヨブの贖い主(イエス・キリスト)が、ついには塵の上に立たれる、つまり復活なさることを期待し信じるヨブの、待望の言葉です。ヨブは救い主のおいでと復活を待ち望む人だった言えるのです。その救い主が、遂にベツレヘムの馬小屋でお生まれになり、十字架で死なれ復活なさったことを、私たちは知っているのです。

 天使たちは、墓に遺体がない理由を教えてくれました。婦人たちはこの時点では、復活なさったイエス様にお会いしていないのです。しかし天使たちに、「イエス様は復活され、生きておられる」と言われ、その言葉を信じたに違いありません。天使たちが語った直後は、「イエス様の言葉を思い出した」だけでしたが、その後すぐに、墓から帰って、十一人の弟子たち(ユダを除く)とほかの人皆に一部始終を知らせたのです。その頃には、天使たちが語ったイエス様の復活を素直に受け入れていたに違いありません。その婦人たちとは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちでした。「ヤコブの母マリア」がイエス様の母マリアと思われます。イエス様はヨハネによる福音書で弟子トマスに、「見ないのに信じる人は幸いである」と言われましたが、この婦人たちも「見ないのに信じる幸いな人」になったと思います。私たちも「見ないのに信じる幸いな人」になりたいのです。神様の御言葉を素直に信じる幸いな者でありたいのです。               

 婦人たちは、これらのことを使徒たち・イエス様の十一人の弟子たちに語りました。しかし男性の使徒たちには、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じませんでした。男性は理性が強いので、イエス様の復活をあり得ない話、ナンセンスなこととして片づけました。復活を信じることは、理性から見れば「たわ言、愚かなこと」でしょう。しかしコリントの信徒への手紙(一)1章21節には、「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」とあります。理性から見れば「たわ言」のように聞こえるイエス様の復活を、愚直に信じることこそ、神様に喜ばれることです。この時、一番弟子で熱血漢のペトロだけは、立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞきました。確かに遺体がなく、イエス様の遺体を包んだ亜麻布だけがあったので、この出来事に驚き、どう考えてよいか分からず、理解できないまま、家に帰りました。その後、復活されたイエス様に出会って復活を信じるようになります。神様は今でも、「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おう」とお考えですので、私たちは、墓が空っぽだったのは、イエス様が復活されて今も生きておられるからだと、素直に信じる者でありたいのです。

 あるクリスチャンの文章を読んだのですが、「信仰という言葉は多くの場合、希望と言い換えることができる」と、書かれていました。その通りだと思います。イエス様の復活を信じる信仰は、イエス様が死の力より強い方であるという確かな希望を私たちに与えてくれます。私たちはどんなに健康でも、死の力にいつかは負けます。しかし父なる神様は、イエス様をその死の力に打ち勝たせて下さったのです。このことを信じる信仰は、私たちに死を超えた確かな希望を与えてくれます。イエス様を信じる信仰こそ真の希望です。ペトロの手紙(一)1章3~4節に次のようにあります。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」祈りも希望の源です。この真の希望に全ての方に入っていただきたいのです。
 
 今朝、真に悲しい報道がありました。中東で人質にされていた日本人男性が殺害されたらしいという報道です。この方はクリスチャンであるようです。ご家族の上に神様の深い深い御慰めを切にお祈りするばかりです。悪と死の凶暴な力に慄然とします。その前に落胆する私たちですが、イエス様の復活の力は悪魔よりも死よりも強いのです。ここにのみ真の希望があります。イエス様は言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16:33)。この御言葉に勇気を与えられ、深い悲しみと落胆からもう一度立ち上がって、キリストの道をご一緒に歩みたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。


2015-01-30 20:46:03(金)
「ぜひキリストを告げ知らせたい」 2015年1月25日(日) 降誕節第5主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書61章1~4節、ローマの信徒への手紙1章8~15節
「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。」(ローマの信徒への手紙1章14節)。

 1月4日(日)の礼拝で申しましたが、今年より月1回、ローマの信徒への手紙の連続講解説教を致したいと思います。今月のみ1月4日(日)と本日の2回になります。ローマの信徒への手紙の連続講解説教を行う分、旧約聖書による説教が月2回から月1回に減りますが、ご了解いただけますとありがたく存じます。

 ローマの信徒への手紙を書いたのは、イエス様の弟子・使徒パウロです。パウロは少し前の5節でこう述べます。「わたしたちはこの方(イエス・キリスト)により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」パウロは、イスラエルの外に住んでいた同胞のユダヤ人にも救い主イエス・キリストを宣べ伝えましたが、パウロの主な使命は異邦人(ユダヤ人でない人)にイエス・キリストを宣べ伝えることでした。パウロは今、ローマにいるクリスチャンたちに宛てて、この手紙を書いています。パウロは、この手紙を書いている時点ではまだローマに行ったことがありませんでした。パウロは生涯の最後の段階でローマに行くことになります。そしてローマで殉教したと言われています。パウロがこの手紙を書いている時、ローマには既にクリスチャンたちがおり、教会がありました。立派な会堂はなかったでしょうが、クリスチャンの共同体としての教会がありました。そのローマのクリスチャンたちに、改めてイエス・キリストを宣べ伝えたい、告げ知らせたい。パウロはその熱情を込めて、ローマのクリスチャンたちにこの手紙を書き送っています。

 当時のローマは、世界の政治の中心です。「全ての道はローマに通ず」と言われた世界の中心です。パウロがこの手紙を書く約60年前、ローマ皇帝アウグストゥスが、全領土の住民に、登録をせよとの勅令を出しました。それでヨセフとマリアがガリラヤの町ナザレから小さな村ベツレヘムへ上って行き、マリアはベツレヘムの汚ない馬小屋でイエス様を産んだのです。その救い主イエス様の御名が、今度はイスラエルの地から逆流して、皇帝が住まうローマにまで届き、イエス様を救い主と信じるクリスチャンたちが起こされていたのです。さらに地の果てまで広められていったのです。地の最果てである極東の日本にまで、時間をかけて届きました。

 (8節)「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」ローマのクリスチャンたちがイエス様への純真な信仰を抱いていることがパウロに伝わっていました。パウロはこの手紙を、ギリシアの都市コリントで書いていると思われます。9~10節には、パウロがローマに行くことを切に願っている心情が吐露されています。「わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。」パウロはまだローマに行ったことがないのですが、ローマの教会に知り合いが多いのです。パウロが別の場所で会った人々がその後ローマに行ったケースが多かったのでしょう。この手紙の最後の16章を見ると、パウロは大勢のクリスチャンの名前を挙げて、その人たちに「よろしく伝えてほしい」と述べています。

 「わたしの同胞(ユダヤ人)で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。~主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」パウロはこの一人一人を愛して、思い出して祈っていたのですね。これはローマ教会員の名簿のようなものです(もちろん全員のリストではないでしょうが)。私たちにとっての東久留米教会員名簿のようなものではないでしょうか。名前を見ればどなたかすぐ分かる名簿。私たちが一人一人に神の祝福を祈る名簿です。

 パウロには、ローマに愛する人々が大勢いるのですね。ですからローマに行って、その人々に改めてキリストの福音を告げ知らせ、互いに励まし合いたいと願っているのです。(11節)「あなたがたにぜひ会いたいのは、『霊』(聖霊)の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。」パウロは聖霊に満たされており、神様から豊かな霊の賜物を受けていました。パウロは異言という超自然的な言葉を誰よりも多く語ることができました。使徒言行録を見ると、パウロが病人のために祈り、手を置いていやした場面がありますから、病気を治す賜物も与えられていたようです。そしてパウロは最高の賜物、最高の道は愛(アガペー)だと言っています。神様を愛し、隣人を愛する愛。敵をも愛する愛。これこそ最高の賜物だと言っています。パウロはこのような聖霊の賜物をローマのクリスチャンたちにいくらかでも分け与えて、力になりたいと言っています。

 但しパウロは、自分が一方的に与えるとは言いません。(12節)「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」ローマのクリスチャンに与えられていて、パウロに与えられていない霊の賜物もあるでしょう。パウロが助けるだけでなく、ローマのクリスチャンたちがパウロを助けることもあるのです。パウロは上に立っているのではなく、ローマのクリスチャンたちの仲間なのです。仲間ですから互いに助け合い、励まし合います。パウロはどの教会ともそのような関係でいたいと願っていたはずです。東久留米教会の中でもそうで、一人一人に異なった賜物が与えられています。それによって助け合い、励まし合う。それが神様の教会だと教えられます。一人一人に役割があることがよいことです。もちろん私たちの最大の奉仕は祈ることです。

 パウロがコリントの信徒への手紙(一)12章で書いたことを思い出します。互いに助け合い、励まし合う共同体がキリストの教会だという意味のことが書かれています。「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」特にこの最後がすばらしいですね。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」パウロも、ローマの教会の人々と、苦しみと喜びを共にしたいのです。

 (13節)「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。」パウロはローマで伝道して、新しくクリスチャンになる人が与えられることをも祈っています。それが「何か実りを得たい」ということです。しかし何回もローマに行こうとしたけれども、果たせないで来た。それは悪魔の妨害があったからですし、神様に深いお考えがあって機が熟すまで待たされたということもあるでしょう。パウロは自分でも思いがけない形でローマに行くことになります。囚人となってローマに行くことになります。彼はまだそれを知りません。パウロが囚人としてローマに行くことが、神様のご計画だったのです。

 (14~15節)「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」ギリシア人は文明人の代表です。「未開の人」の原語は、「バルバロス」です。「わけのわからないちんぷんかんぷんの言葉を語る人」という意味です。現代の私たちから見れば差別的な言葉です。「文明化されていない野蛮な人」ということでしょう。パウロには、文明人にもそうでない人々にも、イエス・キリストを告げ知らせる責任が、神様から与えられていました。私たちにも同じ責任が与えられています。私たちには、主に日本人にイエス・キリストを告げ知らせる責任が与えられています。

 パウロは、イエス・キリストのために人生の後半を100%献げました。パウロは、フィリピの信徒への手紙3章で、自分は「キリスト・イエスに捕らえられている」と告白しています。パウロはイエス様に捕らえられた、イエス様の僕です。僕と訳されているギリシア語は、直訳すると奴隷という意味です。パウロはイエス様の十字架の愛によって捕らえられ、イエス様の僕(奴隷)として、イエス様を告げ知らせるために自分を献げ尽くしているのです。本日の旧約聖書であるイザヤ書61章1節には、
「主はわたしに油を注ぎ/ 主なる神の霊がわたしをとらえた。
 わたしを遣わして/ 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために」
と書かれています。これは直接には預言者イザヤのことでしょうし、イエス様にも当てはまることです。そしてパウロにも当てはまります。私たち一人一人にも当てはまります。私も聖霊を注がれた者、聖霊によって捕らえられた者なのです。「信仰とは、神の霊によって捕らえられた状態のこと」と言った人もいます。私たちは、神様の僕として生きるように聖霊によって捕らえられています。イエス様を伝えるように、期待されています。

 パウロは、イエス様を告げ知らせるために命を懸けました。コリントの信徒への手紙(一)9章で、「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」と言っています。あらゆる人にイエス様を告げ知らせるために、自分を低くして奉仕して来たと述べています。パウロは自分の生き方を、コリントの信徒への手紙(一)9章19節以下でこう語ります。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人(これもユダヤ人のことでしょう)に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。」

 少し飛んで22節。「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべての者になりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」 パウロの責任は、あらゆるタイプの人々にイエス・キリストを知らせることです。そのためにパウロは仕える姿勢をとり、できるだけ相手に合わせて、相手がイエス様を信じることができるように心がけたと言っています。「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」と言っています。パウロは、自分を人の上に置こうとしません。自分もキリストの福音(十字架による罪の赦しと、復活による永遠の命)の恵みを共に受ける仲間だと考えています。キリストを告げ知らせることで、神様と隣人に奉仕する決心をしているのです。

 イエス・キリストは、私たち皆のすべての罪を背負って十字架で命を捨てられ、三日目に復活なさいました。このイエス・キリストを救い主と信じ告白する人には、全ての罪の赦しと永遠の命が与えられる。これこそ私たちの確信です。この福音を出会うすべての人、特に異邦人に告げ知らせる。これがパウロに与えられた責任です。この福音のすばらしさは、ローマの信徒への手紙5章16節に的確に言い表されています。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」前半は、旧約の時代のことです。旧約の時代にはモーセの十戒をはじめとする神様の戒め、律法が力を持っていました。もちろん律法にも意味があります。律法は私たちに、何が正しくて何が罪であるかを教えます。ですが律法だけの世界は、赦しがはっきりしないのです。ところがイエス様の十字架の愛が示された新約の時代は、恵みが大きく示された時代です。イエス様の十字架の死によって、私たち人間の全ての罪が背負われたのです。従って今は、「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」時代です。もちろん、だからと言ってどんどん罪を犯してよいわけではありません。しかし、恐れることなくすべての方にイエス様を信じていただき、洗礼を受けていただきたいのです。

 ある日本人ジャーナリストの約30年前の本だったと記憶しますが、世界のいわゆる未開の地で、「このような所には誰も来たことないだろう」と思われる地にも、キリスト教の宣教師が来ているのだ、と書いてありました。日本に最初に来た宣教師フランシスコ・ザビエルは、戦国時代まっただ中の1549年8月15日に鹿児島に上陸しました(8月15日は、日本にとって大切な日です)。ザビエルを日本伝道に駆り立てた御言葉の1つは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイによる福音書16:26)と、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコによる福音書16:15)だということです。使徒言行録には、使徒パウロの苦難の伝道の様子が書かれていますが、ザビエルの日本伝道もそれと似ていました。宣教師ルイス・フロイスがザビエルの伝道について、次のように記録しているそうです(尾原悟『ザビエル』清水書院、1999年、69ページより)。「たいへんな寒さと深い雪のために脚が腫れたりした。またある時には、非常に道が険しく、高い山脈を越えてゆかねばならなかったし、背中に荷物を負っていたので、途中で倒れもした。またザビエルらは、日本人の目にはいとも新奇で、かつてその地方(九州から山口)で見たこともない異様さであり、それに貧しい身なりをしていたので、路頭や広場で時々、子供たちから投石されたり罵倒されたりした。このような艱難辛苦を嘗めながらザビエルは道をたどった。」使徒言行録のパウロの苦難の伝道そっくりです。

 ザビエルに同行していたフェルナンデスという修道士がいました。二人は大内氏という大名が治める山口に、一時滞在し、内田という人の家に宿泊していました。二人は公の場で説教しました。ある時、聴いていた一人がフェルナンデスに唾を吐きかけました。しかしフェルナンデスは落ち着いて唾をぬぐい、説教を続けたそうです。これを見ていた内田という人は感銘を受け、キリストの教えを学び、ザビエルから洗礼を受けたそうです。妻や親戚も、信仰に入りました。パウロはローマに行きたいと切望し、ザビエルは日本に行きたいと切望しました。ザビエルは最初、インドに行きました。インドに行くはずだったイエズス会士が熱病で行けなくなりました。盟友イグナチオにそれを知らされたザビエルは、「私はここにおります」と答えたそうです(同書、13ページ)。預言者イザヤの神様への応答そっくりです。イザヤはこう応答したのです。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

 このようにイエス様を信じ、イエス様に従った方々のお陰で、私たちもイエス様を知ることができました。このことに感謝し、私たちも身近な方々が、イエス・キリストを信じて下さるように祈り、言葉と行いでイエス・キリストを宣べ伝えたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-01-20 10:18:16(火)
「約束の地での生き方」 2015年1月18日(日) 降誕節第4主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記23章1~33節、ルカによる福音書13章10~17節
「あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」
                     (出エジプト記23章12節)
 
 出エジプト記20章には、モーセの十戒が書かれています。神様は、エジプトの地で奴隷として酷使されていたイスラエルの民を、解放して下さいました。この大きな愛を受けたイスラエルの民は、神様の愛に応答して生きるのです。それは具体的には十戒を守る生活になります。出エジプト記20章の終わりの方から23章の最後までは、「契約の書」という小見出しでまとめられています。ここには神様に従う具体的な生き方が11に分けて記されています。本日の最初の小見出し(小見出しのさらに小さな小見出し)は、(11)「法廷において」です。法廷では真実を明らかにすることが最も重要です。(1節)「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。」これは十戒の第九の戒め「隣人に関して偽証してはならない」とほぼ同じことです。これは法廷での裁判だけではなく、日常生活にも当てはまります。根拠のないうわさ、悪口、蔭口を語らないのです。私たちは誰でも、根拠のないうわさ、悪口、陰口を言われれば困ります。

 そして「悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない」とも書かれています。証人にとって大切なことは真実を語ることです。力を持っている悪人に不当に加担して、無実の人を有罪とする偽りの証言をしてはならないのです。当たり前のことですが、このような悪が行われた例が旧約聖書にあります。「ナボトのぶどう畑」の事件です。北イスラエル王国の王アハブは、神様の忠実な僕ナボトのぶどう畑が欲しくなり、ナボトに譲ってくれるように申し入れましたが、ナボトに断わられてしまいます。すると悪女と呼ばざるを得ないアハブの妻イゼベルが、恐るべき陰謀を考え出します。イゼベルは夫アハブ王の名で手紙を書き、ナボトのいる町に住む長老と貴族に送ります。その手紙にはこう書かれていました。「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。ならず者を二人ナボトに向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ。」その通りに実行され、ナボトは全くの無実なのに偽証によって有罪に仕立て上げられ、石打ちによる死刑にされてしまいます。恐るべき犯罪です。ならず者たちは偽証を行い、まさに悪人イゼベルに加担して、不法を引き起こす証人となってしまいました。神様はこの悪に対して正義の審判をもって臨まれ、アハブ王と妻イゼベルは、別々のときに悲業の死を遂げる結果になります。

 イエス様の裁判でも偽証が行われました。マタイによる福音書を見ると、「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた」と書かれています。最高指導者たちがそろって、堂々と偽証を求めたとは信じがたいことですが、事実です。「偽証人は何人も現れた」とも書いてあるので、ますます驚くばかりです。しかし互いの偽証が食い違ったので、偽証人たちの言葉はイエス様を有罪にすることができませんでした。ここでも偽証人たちは、「悪人に加担して、不法を引き起こす証人」となり下がってしまったのです。イスラエル人なのですから十戒も、出エジプト記23章も知っているはずなのに、なぜこうなってしまうのか、理解に苦しみます。

 (2~3節)「あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。」以前「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という変な言葉がありました。「悪いことも、みんなですれば怖くない」というのですから困ります。悪いことをしてはならないのは当然で、集団が悪いことをしている場合には、一人であってもそれを止めることが必要です。

 これで思い出すのは、昨年3月27日に再審開始決定が出された袴田事件です。この強盗殺人放火事件は1966年6月30日に起こりました。私が生まれるほぼ1ヶ月前です。袴田巌さんは47年7ヶ月ぶりに東京拘置所から釈放されました。静岡地方検察庁が東京高裁に即時抗告したため、今は再審開始が先延ばしになっているようです。もちろん私にはこの事件の真相は分かりませんが、日本弁護士連合会が支援する再審事件だということです。もしかすると冤罪かもしれません。静岡地方裁判所の元裁判官・熊本典道さんは、一審で死刑判決文を書きましたが、それをずっと悔やんできたそうです。裁判が進むほどに自白や証拠への疑問が湧いて来ましたが、有罪と考えていた先輩裁判官二人との多数決で負け、死刑判決を書くことを命じられたそうです。書きかけていた無罪判決文を破り捨てて、仕方なく有罪・死刑判決文を書いたそうです。せめてもの抵抗として、死刑判決文の付言で、長時間にわたり被告人を取り調べ、自白を得るためにきゅうきゅうとし、物的証拠の捜査を怠ったという意味のことを書いて捜査を批判し、控訴審で判決が覆ることを願ったそうですが、付言に注目する人はなく、長年死刑判決が覆りませんでした。「やはり、死刑判決文を書くべきではなかった。心にもない判決文を書いて、袴田さんの人生を大きく狂わせた」という良心の痛みに耐えられず、間もなく裁判官を辞め弁護士になられました。

 しかし酒浸りの生活になり、弁護士も辞めたそうです。「袴田さんに申し訳ない」の気持ちが晴れる日はなく、涙を流して来られたそうです。袴田さんは1984年に東京拘置所で洗礼を受けられたそうです。熊本さんは昨年2月22日に、カトリックの洗礼を受けたそうです。脳梗塞で体が不自由なため、福岡市の自宅に神父さんに来てもらって洗礼を受けられたそうです。袴田さんの気持ちに近づきたいお気持ちがあったようです。熊本さんは言ってみれば、「悪人(と言うと言い過ぎかもしれませんが)に加担して、不法を引き起こす証人」となってしまったと深く悔いられたのでしょう。「法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げた」と、心の底から悔いられたのでしょう。神様は、その悔いる心をしっかりと受け止めて、罪を赦して下さったに違いありません。2~3節を読んでこのことを思い出しました。袴田氏がもし無実なら、早くそれが確定するように祈ります。

 次の小見出しは(12)「敵対する者とのかかわり」です。(4~5節)「あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。」自分と仲がよくない人が困っている場合、ちゃんと手助けしなさいということです。神様は、決して意地悪をしないで、相手のプラスになるように協力しなさいと言っておられます。敵を愛しなさいということです。ここでの相手は仲間のイスラエル人です。旧約の時代は、外国人を愛することはあまり求められていませんでした。しかしイエス様が「敵を愛しなさい」とおっしゃる場合は、同じ国民だけでなく、もちろん外国人をも愛することが必要です。当たり前ですが、同国人も外国人も、同じ神様に造られた人間です。宗教が違う人も同じ人間です。東久留米市では、昨年12月の市議会で「ヘイトスピーチなど、人種および社会的マイノリティーへの差別を禁止する法整備を求める意見書」が賛成多数で採択されたそうです。大筋においてよいことだと思います。9節の精神とも一致します。「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持ちを知っている。あなたたちは、エジプトで寄留者であったからである。」

 次の小見出しは、(14)「安息年」です。安息は人間のためだけにあるのではなく、土地のためにも必要なのです。(10~11節)「あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。」土地を休みなく使い続けると、やせるばかりです。一年間休ませると栄養分が回復します。休ませているときも、自然に生えるものがあるようです。それは貧しい人や動物に自由に食べさせなさいと、神様がおっしゃいます。神様は貧しい人、動物のために配慮しておられます。

 聖書には、人間が犯す罪によって土地が汚れて安息を失うということも書かれています。出エジプト記より後の時代のことですが、イスラエルの民が十戒を破り続けたので、遂にイスラエルの民は神様の強いお叱りを受け、バビロン帝国によって蹂躙され、多くの人々がバビロンに連行されてしまいます。その結果どうなったでしょうか。歴代誌・下の最後の部分にこう書かれています。「この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた。」それまでイスラエルの土地は、人々が犯す罪によって汚されて苦しみ、安息を失っていたのでしょう。しかし、多くの人々がバビロンに連行され、それが七十年(実際には約半世紀)続いたため、土地が安息を回復したというのです。人間が罪を犯すことは土地にとっても迷惑なことなのですね。私たち人間は、自分たちの欲望を満たすために乱獲を行い、公害などによって、神様がお造りになった自然界を壊しています。戦争は最大の環境破壊だといいます。そして今の日本では原発事故です。あの事故によって特に福島県の美しい土地をかなり汚してしまいました。津波と地震が直接の原因とはいえ、原発事故によって土地から安息を奪ってしまったのです。このことをよく反省して、これからの生き方を決める必要があります。

 次の小見出しは、(15)「安息日」です。(12節)「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。」安息日の目的は、家の家畜が休み、女奴隷の子や寄留の外国人が元気を回復するためだと強調されています。神様は家畜にも優しく、家の使用人や、その国に慣れていない外国人にも優しいのですね。十戒は出エジプト記20章と申命記5章に記されていますが、今の御言葉は申命記5章の十戒の安息日の規定の精神とよく一致しています。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。」男女の奴隷にも休息を与えるために、家畜を労働から解放するために安息日がある、と強調されています。

 本日の新約聖書は、ルカによる福音書13章10節以下です。イエス様が安息日の精神をよく汲み取ってなさった業が書かれています。(10節)「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。」イエス様は、安息日(土曜日)に会堂での礼拝に出席され、説教しておられたようです。そこに、18年間も病の霊に取りつかれ、腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができない婦人(安息を失った婦人)がおりました。イエス様は婦人を呼び、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれました。すると腰がたちどころにまっすぐになり、婦人が感謝と喜びのあまり、神様を賛美したのです。ところが会堂長は、「仕事をしてはならない」安息日にイエス様が病気を治されたことに腹を立て、群衆に言いました。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」

 確かに申命記にも、安息日にはいかなる仕事もしてはならないと書いてあります。
しかしイエス様は安息日を、神様を愛し、隣人を愛する日ととらえておられます。イエス様のこの精神は、父なる神様の御心に深く適います。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4~5節)。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ記19章18節)。この御言葉を実践することこそ安息日に最もふさわしいとイエス様は信じておられました。もちろん神様を愛し、隣人を愛することは安息日にだけ行えばよいのではなく、毎日そのように生きることがよいのです。

 イエス様は会堂長をお叱りになりました。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて(解放して)、水を飲ませに引いていくではないか。」安息日を大事にするユダヤ人でも、安息日にも牛やろばを水場に連れて行ったのです。人間は当然もっとはるかに大切です。ましてこの婦人はアブラハムの娘、つまり神の民の一員です。イエス様は深い憐れみの心によって癒やして下さいます。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」イエス様はこの婦人を悪魔の力・病の力から解放し安息を与えて下さいました。安息日にぴったりの業だったのです。私たちは天国に入らせていただく時に、完全な安息をいただきます。礼拝も安息の場です。災害やテロなどが起こって安息が破壊されるこの世の中にあって、少しでも周りに安息をもたらす者でありたいのです。

 出エジプト記に戻り、18節に、「あなたはわたしにささげるいけにえの血を、酵母を入れたパンと共にささげてはならない」とあります。分かりにくいのですがある解説書(『新共同訳 旧約聖書註解Ⅰ』日本基督教団出版局、1996年、169ページ)には、「神にささげられる血は神に属する聖なるものである。その血を《酵母を入れたパンと共にささげてはならない》のは、《酵母は発酵成分》であり、腐敗を促進する物を含んでいるので、いのちの源泉である血と並べてはならなかったからである」と説明されています。19節に「あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない」とあります。これは、「ラッシャムで発見されたウガリトの文書では、豊饒に関わる文脈の中で、『子山羊を乳で煮、子羊をバターで調理せよ』という文言があり、母親の乳という特定はないが、異教的な豊饒儀礼を背景にして禁止されたことは明らか」(旧約聖書翻訳委員会編『旧約聖書Ⅲ 民数記 申命記』岩波書店、2003年、316ページ)。偶像の宗教で、「子山羊をその母の乳で煮る」ことが行われていたようです。それでこの行いを忌むべきこととして禁止しているのです。

 神の愛に感謝して、約束の地カナンに入った暁には、神様を愛し隣人を愛する生き方をしなさいと、本日の出エジプト記23章は勧めています。私どもも自分の罪を悔い改めて、このような生き方ヘと進みたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-01-12 21:17:35(月)
「わたしの霊を御手にゆだねます」 2015年1月11日(日) 降誕節第3主日礼拝説教
朗読聖書:詩編31編2~25節、ルカによる福音書23章44~56節
 「『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』」(ルカによる福音書23章46節)
 
 礼拝でこの直前の箇所を読んだのは、昨年の11月9日(日)ですから、2ヶ月前です。ゴルゴタの丘に三本の十字架が立っています。イエス様の十字架が真ん中です。イエス様は十字架の上で、あの有名な祈りを献げられました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」その後、十字架につけられていた犯罪人の一人がイエス様に話しかけました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」するとイエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束されたのです。

 そして昼の十二時頃になりました。全地が暗くなり、それが三時まで続いたのです。この暗闇はアモス書8章9~10節の実現かもしれません。
「その日(神様の審判の日)が来ると、と主なる神は言われる。
 わたしは真昼に太陽を沈ませ/ 白昼に大地を闇とする。
 わたしはお前たち(イスラエルの民)の祭りを悲しみに
 喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え
 どの腰にも粗布をまとわせ/ どの頭の髪の毛もそり落とさせ
 独り子を亡くしたような悲しみを与え/ その最期を苦悩に満ちた日とする。」
新約聖書においては、独り子を亡くす方は、父なる神様ご自身です。全地が暗くなる現象によって、神様ご自身の深い悲しみが表されているのかもしれません。暗闇は三時まで続きました。

 (45節)「太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。」神殿の垂れ幕の向こう側には、最も聖なる空間・至聖所がありました。そこには聖なる神様の霊が充満しています。至聖所には年に一回、大祭司だけが、自分自身とイスラエルの民の罪の贖いのためのいけにえの雄牛と雄山羊の血を携えて、入ることができました。大祭司以外の人は決して入ることが許されなかったのです。もし入れば、聖なる神様に打たれて死にます。至聖所の手前の垂れ幕は、出エジプト記36章によると、青・紫・緋色の毛糸、及び亜麻のより糸で作られており、それにケルビムという人間の顔を持ち、翼を持った天的な動物のデザインが施されていました。その垂れ幕が真ん中から裂けたのです。これは重要な出来事で、神の子イエス様ご自身が十字架で清い血を流して、いけにえとなって死んで下さることで、もはや雄牛や雄山羊という動物の犠牲を献げる必要がなくなり、旧約の時代が終わったことを意味しています。イエス様を自分の救い主と告白する人は、イエス様の十字架の清い血のお陰で、大司祭でなくても、父なる神様に恐れなく近づくことができるようになったのです。これは大きな恵みです。

 ヘブライ人への手紙10章19節を読まないわけにはゆきません。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所(至聖所を指すのでしょう)に入れると確信しています。」そして22節の御言葉も私たちを励まします。「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」もはや、聖なる神様と私たちの間を隔てていた垂れ幕は、真ん中から真っ二つに裂けたのです。隔てがなくなりました。神殿は役割を終えました。役割を終えた神殿では、その後も祭司がいけにえを献げ続けたでしょうが、それはもう無意味なことでした。私たちは神殿ではなく、主イエス様をこそ仰ぎ見ることが必要です。神殿は約40年後にローマ軍によって破壊され、本当になくなりました。

 ルカによる福音書に戻り、46節。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」イエス様の「十字架上の7つの言葉」がありますが、有名なのはマタイによる福音書の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)です。マルコによる福音書では少し言葉が違って、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」ですが意味は同じです。イエス様のこの有名な叫びをルカによる福音書は記していません。マタイとマルコでは、イエス様がその後再び大声で叫び、息を引き取られたと書かれていますので、息を引き取る直前の大声が、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」だったのではないかと、私は考えています。

 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」これは、イエス様の地上での最後の祈りです。イエス様は全ての人々を愛し、愛と正しいことだけを行って約33年間生きて来られました。ごく小さな罪さえ一つも犯したことはありません。父なる神様の御旨に文字通り100%従って来られたのです。心にやましさは一点もないのです。それなのに十字架につけられ、侮辱の限りを受けて殺される。これ以上の不合理、不条理はありません。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と必死に叫んで訴えるのが当然なのです。イエス様もそう叫ばれましたが、父なる神様から何の答えもありませんでした。それでもイエス様は父なる神様を信頼する気持ちを貫かれました。それで、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と信頼の祈りを献げて、息を引き取られたのです。
 
 イエス様は信頼を貫かれ、最終的に悪が勝利することは決してないと信じて死なれました。神様の愛と正義が、最後の最後の最後には、必ず悪と悪魔に勝利するのです。今は悪が勝利しているように見えても、父なる神様が最後の最後には必ず悪を打ち破って下さることを確信して、死なれました。どうしてもペトロの手紙(一)2章19節以下を、読まないではいられません。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」イエス様は最も不当な苦しみに耐えられ、父なる神様が必ず悪を悪として裁き、正しい者を立ち上がらせて下さると信頼して、お任せなさったのです。その信頼は応えられ、イエス様は三日目に父なる神様によって復活の勝利を与えられたのです。時間がかかることも多いですが、父なる神様におゆだねして決して間違いはないのです。

 本日の旧約聖書は詩編31編です。作者はダビデ王です。若いときのダビデは、サウル王に憎まれ命を狙われ、逃亡生活を送りました。そのときのことを歌っているのではないかと感じます。2~5節で、神様に必死に助けを求めています。
「主よ、御もとに身を寄せます。
 とこしえに恥に落とすことなく/ 恵みの御業によってわたしを助けてください。
 あなたの耳をわたしに傾け
 急いでわたしを救い出してください。/ 砦の岩、城塞となってお救いください。
 あなたはわたしの大岩、わたしの砦/ 御名にふさわしく、わたしを守り導き
 隠された網に落ちたわたしを引き出してください。/ あなたはわたしの砦。」
そして6節でイエス様と同じ祈りを献げています。7節まで読みます。
「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。/わたしを贖ってください。
 わたしは空しい偶像に頼る者を憎み/ 主に、信頼します。」
神様がその信頼に応えて下さいました。その喜びが8~9節です。
「慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。
 あなたはわたしの苦しみを御覧になり
 わたしの魂の悩みを知ってくださいました。
 わたしを敵の手に渡すことなく
 わたしの足を/ 広い所に立たせてくださいました。」

 ルカによる福音書に戻ります。イエス様は、ただの一度も罪を犯されませんでした。完全に無実です。それなのに死刑にされました。世界の歴史の中でこれ以上の不条理・不正義はありません。

 私は先日、「きけわだつみのこえ」という本を少し読みました(日本戦没学生記念会編『新版 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記』岩波書店、2013年)。その中の木村久夫さんという方の手記を少しご紹介します。「1946年5月23日、シンガポールのチャンギ―刑務所にて戦犯刑死。陸軍上等兵。二十八歳」と書かれています。B級かC級戦犯として死刑にされた方のようですが、手記を読むと無実のように思われます。現地で行われたB級・C級戦犯裁判では、いい加減な裁判で無実で死刑になった人もあると聞いていますが、この木村久夫さんのケースもそうかもしれません。「私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう(444ページ)。~私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である(445ページ)。私は生きるべく、私の身の潔白を証明すべくあらゆる手段を尽した。私の上級者たる将校連より法廷において真実の陳述をなすことを厳禁せられ、それがため、命令者たつ上級将校が懲役、被命者たる私が死刑の判決を下された。これは明らかに不合理である(453ページ)。」これを読む限りでは、上級将校の罪をかぶって木村さんが死刑になった印象を受けます。

 木村さんはこの不条理を、受け入れる気持ちになってゆかれたようです。「私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である。しかし今の場合弁解は成立しない。~全世界から見れば彼らも私も同じく日本人である。彼らの責任を私がとって死ぬことは、一見大きな不合理のように見えるが、かかる不合理は過去において日本人がいやというほど他国人に強いて来た事であるから、あえて不服は言い得ないのである。彼らの眼に留った私が不運とするより他、苦情の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んで行ける(445ページ)。」 自分は何も死刑になるような悪を行っていないが、日本人が外国人に多くの苦難を与えたのは事実だから、たまたま相手の目についた日本人である自分がその責任をとらされると思えば、不合理ではあるがやむを得ない、との心境に至られたようです。「我が国民は今や大きな反省をなしつつあるだろうと思う。その反省が、今の逆境が、将来の明るい日本のために大きな役割を果たすであろう。それを見得ずして死ぬのは残念であるが、致し方ない(447ページ)。」この方がクリスチャンかどうかは分かりません。「私としては神がかくもよく私をここまで御加護して下さった事を感謝しているのである。私は自分の不運を嘆くよりも、過去における神の厚き御加護を感謝して死んで行きたいと考えている。父母よ嘆くな、私が今日まで生き得たという事が幸福だったと考えて下さい。私もそう信じて死んで行きたい(456ページ)。」

 このような不合理・不条理の死を死んで行かれた28歳の方がいらしたのですね。上級将校の罪をかぶらされたようです。木村さんは、太平洋戦争で日本人が犯した罪の一部でも償えれば、という気持ちで死刑を受け入れたのではないかと考えられます。この裁判が間違った裁判だったのであれば、神様が最後の審判のときにそのことを明らかにして下さるでしょう。木村さんが無実であれば、神様はそれをよく知っておられるのですから、神様は最後の審判の時に、木村さんの無実を明らかにし、木村さんの名誉を回復して下さると思うのです。木村さんがクリスチャンであったかどうかは分かりませんが、木村さんの死刑も、イエス様の十字架に似て、不条理の死のように思われます。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」との御言葉を、私は連想します。 

 旧約聖書にヨブ記という書物があります。ヨブも不条理に苦しんだ人です。旧約聖書には一応の原則があり、それは神様に従えば祝福され、神様に逆らえば裁きを受けるという原則です。ところが、それまで大いに祝福されていたヨブが、神様に変わらず従い続けているのに、次々と大きな試練に見舞われるのです。ヨブはどうしても納得できずに苦しみます。ヨブ記を読んでいて知ることは、ヨブが本当に清く正しく生きようとしていたことです。もちろん聖なる神様からご覧になればヨブも完璧ではないでしょうが、それでもヨブは私たちよりずっと清く正しく生きようとしていたのです。従ってヨブは、自分に試練が続くことが、どうしても納得できないのです。彼は嘆いて言います。「わたしの手には不法もなく/ わたしの祈りは清かったのに。」そしてヨブは意味深長な言葉を語ります(16章19~20節)。
「このような時にも、見よ/ 天にはわたしのために証人があり
 高い天には/ わたしを弁護してくださる方がある。   
 わたしのために執り成す方、わたしの友。」
これはヨブの「わたしのために執り成しをして下さる弁護者がほしい」という願いでしょうか。救い主・執り成し主・弁護者(イエス・キリスト)の存在を確信し、待望する言葉ではないでしょうか。ヨブが待ち焦がれた弁護者は、ヨブの時代よりかなり後に、ベツレヘムの馬小屋で誕生して下さいました。私たちはその方イエス・キリストを知っているのです。ヨブが知ったら、さぞ羨しがるでしょう。

 ヨブはこうも言います(19章25節)。
「わたしは知っている
 わたしを贖う方は生きておられ/ ついには塵の上に立たれるであろう。」
これも贖い主イエス・キリストがおられることを確信しているような、驚くべき言葉です。「塵の上に立たれる」という言葉は、復活を暗示しているように読めます。 不条理に悩むヨブは、贖い主の登場を待ちわびていたのです。ヨブ記は、救い主を待望する書とも言えるのです。

 その贖い主イエス・キリストは、ヨブよりずっと清い方でしたが、十字架で殺される最大の不条理を忍耐されました。ヨブよりも大きな不条理を忍耐されたのです。にもかかわらず、ヨブのように「納得できない」としつこく訴え続けるのではなく、(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と一度叫ばれましたが、最後には)「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈られ、父なる神様を信頼してすべてをお任せになりました。「納得できない」と訴え続けたヨブも、自分より大きな不条理を忍耐なさったイエス様の前では、ひれ伏すほかありません。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」これはイエス様の深い信頼と忍耐の祈りです。悪と不条理が一時的に勝利するように見えても、最後の最後には必ず神様の愛と正義が勝利することを信じてゆだねた祈りです。 

 これより歌う讃美歌21の469番は、何回か歌いましたが、まだ十分馴染みがあるとは言えない讃美歌です。作詞はドイツの牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーです。ナチスとヒットラーが支配するドイツの最も暗黒の時代を生きた人です。悪の権化のようなヒットラーを倒そうとしましたが捕らえられ、39歳で死刑になりました。これも不当な死、不条理の死です。しかし自分が死んでも、神様の愛と正義が最後に必ず勝利すると信じていたはずです。悪が勝利していると見える現実の中にあっても、いや本当に支配しておられるのは神様の善き力だと信頼していました。暗黒のただ中で、自分の死を予感して、なお希望を捨てずにこのような詩を書くことができた信仰の深さには驚かされます。十字架上でのイエス様の思いと深く一致します。4節と5節はこうです。
「輝かせよ、主のともし火、/ われらの闇の中に。
 望みを主の手にゆだね/ 来たるべき朝を待とう。
 善き力に、守られつつ、/ 来たるべき時を待とう。
 夜も朝も、いつも神は/ われらと共にいます。」
自分が死刑になるときも、神様は自分と共にいて下さると信頼していたのでしょう。

 不条理に悩むことは、どなたの人生にもあることでしょう。しかし最後の最後には神様が必ず最善をなして下さると信頼するのが信仰です。日々ベストを尽くして善を行い、あとは神様にゆだねる。そのような神様への信頼に生きて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-01-06 13:00:39(火)
「主イエスの御名を広める」 2015年1月4日(日) 降誕節第2主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記・下7章8~17節、ローマの信徒への手紙1章1~7節
「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」(ローマ書1章5節)。

 元旦礼拝をお休みにしてしまいまして、真に申し訳ございません。これまでローマの信徒への手紙を部分的に取り上げたことはありますが、私が東久留米教会の礼拝でローマの信徒への手紙の連続講解説教を行ったことはないのです。そこで2015年はこの課題に取り組もうと考えます。今後は月の後半に一回行う形を考えています。その分、旧約聖書による説教が月2回から月1回に減ると思います。ご了解いただけますと、ありがたく存じます。

 (1節)「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、―」。これを書いているのはイエス様の弟子・使徒パウロです。このときのパウロは恐らく60才くらいでしょう。パウロは自分を「キリスト・イエス(イエス・キリストと言っても同じですが)の僕」と呼んでいます。「僕」は原語のギリシア語で「ドゥーロス」で、「奴隷」という意味です。パウロは、自分を「キリスト・イエスの僕・奴隷」と信じていました。それはパウロが、イエス様に倣って生きようとしていることを意味しています。イエス様ご自身が、僕・奴隷として生きられたからです。イエス様は、マルコによる福音書10章でこう言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(ドゥーロス。奴隷)になりなさい。人の子(イエス様ご自身)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」こうおっしゃり、ご自分を裏切るユダを含む弟子たちの足を洗い、遂には十字架にかかって、私たち皆の罪の責任を身代わりに担い切って下さいました。そして三日目に復活されました。このように神の子でありながら、僕・奴隷として生きることに徹せられたイエス様に倣って生きようと志すパウロは、自分を「キリスト・イエスの僕(奴隷)」と呼んだのです。

 さらにパウロは、自分が「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」と言っています。皆様ご存じの通り、パウロがクリスチャンになったのは奇跡と言ってよい出来事です。パウロという名はギリシア語名で、彼は若い頃はサウロというヘブライ語名を名乗っていました。サウロはクリスチャンを憎み、迫害していました。そしてクリスチャンたちを見つけたら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するために、シリアのダマスコに向かいました。ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らしました。有名な場面です。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞きました。サウルが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町へ入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていました。サウロは目が見えなくなっていました。

 人々はサウロの手を引いてダマスコに連れて行きました。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしませんでした。神様から遣わされたアナニアという人が、ユダという人の家にいたサウロの所に来て、サウロの上に手を置いて、「主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」と言いました。すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは目えるようになりました。そしてサウロは身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻したのです。そして暫くすると、あちこちのユダヤ人の会堂で、「この人こそ神の子である」とイエス様を宣べ伝え始めたのです。このような劇的な形で、サウロ・パウロはクリスチャンへと変えられました。

 ローマの信徒への手紙に戻り、2~4節「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」神様は、救い主をダビデ王の子孫から誕生させると、旧約聖書で預言しておられます。その箇所が、本日の旧約聖書・サムエル記(下)7章です。ダビデがイスラエルの王となり、次第に国が平穏に治まるようになりました。

 神様が預言者ナタンにおっしゃいます。「わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。わたしの民イスラエルの上に士師を立てた頃からの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。」この子孫とは、直接にはダビデの子ソロモンとその子孫たちです。しかし究極的にはメシア・救い主です。

 13節が、神様がダビデ王の子孫からメシア・救い主を誕生させるさらに決定的な預言です。「この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」「この者」は直接にはソロモン、究極的には救い主イエス様です。(14節)「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。」イエス様が過ちを犯すことは全くないので、これはソロモンを対象にした言葉です。

 ローマの信徒への手紙に戻り4節に、イエス様が「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」とあります。その通りでしょうが、イエス様は復活以前から、いえマリアから生まれる前から既に神の子と定められていたのです。5~6節にはこうあります。「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へ導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがた(直接にはローマのクリスチャンたち。そして私たち日本人クリスチャンも含まれる)もいるのです。」パウロたちの使命は、イエス・キリストの御名を世界に広めることです。パウロは仲間のユダヤ人にもイエス・キリストを伝えましたが、彼の使命は基本的に異邦人(外国人)にイエス・キリストを宣べ伝えることでした。パウロはユダヤ人ですが、生まれはイスラエルの外、ローマ帝国キリキア州タルソスです。パウロはヘブライ語を話し、当時の地中海沿岸世界の共通語ギリシア語も話しました。ですからユダヤ人にも異邦人にも伝道することができました。パウロは7節で、まだ見ぬローマのクリスチャンたちに祝福の挨拶を送ります。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」私たちも同じ神様に愛されています。

 イエス様の時代から1500年以上を経て、イエス様の福音が地の果てとも言うべき日本にもたらされました。かの有名なフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのは1549年8月15日です。キリシタンは増えてゆきましたが、豊臣秀吉が1587年にバテレン追放令(バテレンは、ポルトガル語で神父)を出し、宣教師に国外退去を命じます。この追放令は徹底できなかったようですが、徳川家康もキリスト教迫害を継続し、三代将軍家光の時代には江戸でも集団でキリシタンが殺されました。三田の慶応大学の近く、「札の辻」という大きな交差点の所です。私は昨年11月に見学して参りました。当時も多くの人々が通る所だったので、そこで見せしめで殺されたのです。近くにささやかな「キリシタン殉教の碑」がありました。徳川家光はキリシタンを非常に憎んで、根絶やしにしようとしたそうです。

 井上筑後守というキリシタン奉行が、1646年に江戸の小日向(現・文京区小日向)の自分の屋敷に宣教師たちを幽閉し、そこで信仰を捨てるように説得することを開始したそうです。一般の牢屋に宣教師たちを入れておくと、牢内で伝道し、牢屋にいる人々が次々キリシタンになってしまうので、宣教師たちを井上筑後守の屋敷に隔離したのです。その屋敷は後に、「キリシタン屋敷」と呼ばれるようになりました。私は「札の辻」に行った同じ日の午前に「キリシタン屋敷」跡地を見に行きました。池袋から丸ノ内線に乗って2駅目の茗荷谷で降りて、徒歩約10分です。今は石碑があるだけです。ここに外国人宣教師たちと日本人キリシタンが幽閉され、拷問するなどして信仰を捨てさせることが行われたのです。日本人はひどいことをしたものです。

 そこに最後に入れられた宣教師が、イタリア人のシドッチ神父です。「最後のバテレン」と呼ばれています。日本に伝道に行けば必ず捕らえられ、場合によっては殺されることを承知で来て下さったのですから、偉いものです(以下の記述は、谷真介著『江戸のキリシタン屋敷』女子パウロ会、2007年によります)。シドッチ神父は1668年にイタリアのシチリア島に生まれ、ローマで学んで神父になりました。人格的に立派で、教養も豊かで非常に信頼されていたそうです。1703年春、イタリアを出発して日本を目指します。船で大西洋を南下し、アフリカの喜望峰をまわり、1704年にフィリピンのマニラに着きました。マニラに4年間滞在し、日本人に変装して1708年8月28日に屋久島に上陸します。そして翌日、藤兵衛という男に出会い、藤兵衛の通報によって鹿児島、長崎へ送られます。長崎奉行所での取り調べの中で、「江戸で布教したいので、江戸に送ってほしい」と述べました。長崎の牢に約1年間留め置かれ、1709年11月1日に江戸に到着し、キリシタン屋敷に収容されます。そこで新井白石の取り調べを受けるのです。

 この頃は、キリシタンはほぼいなくなったと見られており、潜入して来る宣教師もなく、嵐のような迫害は終わっていました。しかしキリスト教が禁止であることに変わりはありません。新井白石が書いた『西洋紀聞』という本にシドッチ神父との対話が多く記されているそうです。白石はシドッチからヨーロッパのことを多く学び、シドッチの教養の深さに驚き感銘を受け、その人格を、つつしみ深く誠実だと高く評価しています。そして将軍への報告書で次のような意味のことを書いているそうです。「国の王とローマ教皇の命令により、身を捨て、命をも顧ず、老母や姉兄と別れ、万里の外に使いとして6年間の困難を経てここに来たその志は、もっとも憐れむべきことです。」白石が提案した上策は、「彼を本国に送り返すこと」、中策は「囚われの身のままにすること」でした。「彼を死刑にするなどは下策」と白石は進言したそうです。江戸幕府は中策をとりました。キリシタン屋敷に幽閉したままにしたのです。

 キリシタン屋敷に長助とはるという若くない夫婦がいました。二人の親がキリシタンだったか、あるいは二人の親が犯罪を行って刑罰を受けたようです。当時は連座制だったからでしょう、子にまで罪が及び、二人は子供の頃からキリシタン屋敷で育ち、外に出ることが許されませんでした。二人は兄妹ではなく、別々の両親の子です。年頃になり、結婚しました。長助とはるの夫婦がシドッチ神父の世話役をしていました。ある日、長助とはるが役人の所に行って話をしました。夫婦そろってシドッチ神父から洗礼を受けたと告白したのです。役人は仰天しました。長助とはるはシドッチ神父からイエス様のことを聴き、シドッチ神父の人格の立派さに心を打たれ、洗礼を受け、禁制のキリシタンになったのでした。その後、長助とはるはキリシタン屋敷内の別々の牢に入れられたようです。

 もう若くなく地上で生きるのもそう長くないと思い、生きていてもキリシタン屋敷から出ることもできない、ならばイエス様を信じて天国の希望に入りたい。そう考えたのでしょう。どのような罰を受けてもよいと覚悟して洗礼を受けたのです。シドッチ神父は屋敷内の別の牢にいたようですが、昼も夜も大きな声で長助とはるを励まし続けたそうです。「死んでも、決して信仰を捨ててはいけない」と励まし続けたそうです。暫くして長助とはるは病死したそうです。その後、シドッチ神父も亡くなったのですが病死とも餓死とも言われ、はっきりしません。シドッチ神父47才でした。

 日本にイエス様の御名を広めるために行けば、必ず捕らえられ、場合によっては拷問されて殺されると知った上で、日本に来て下さったその信仰と勇気はすばらしいです。それを見て、尊敬の念を抱いた長助とはるに洗礼を授け、この夫婦を救い・天国に導いたのでした。それを見て、自分もキリシタン屋敷内で天に召されたのです。日本人の救いのために、47年の人生を献げて下さったシドッチ神父の名を、私たちも感謝をもって記憶に刻みたいものです。パウロが外国に伝道に赴いたのと同じ情熱で、はるかに遠い鎖国と禁教の日本に、命がけで来て下さいました。私たちもこのような先人の信仰の情熱を引き継いで、礼拝し祈り、救い主イエス・キリストを言葉と行いで伝えて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。