
2017-12-01 19:54:46(金)
「失われた人を捜し求める神様」 2017年11月26日(日) 「はじめて聞く人にわかる聖書の話」礼拝(第8回) 説教要旨
聖書:ルカによる福音書19章1~10節
舞台はエリコという町です。エリコは非常に古い町で、今から7000年も前から人が住んでいたと読んだことがあります。エリコはオアシスとなつめやしの町でもあるそうです。(1~2節)「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。」当時のイスラエルは、ローマ帝国の植民地だったそうです。ザアカイはイスラエル人でありながら、ローマ帝国の手先となって、仲間のイスラエル人から税金を取り立てる仕事をしており、しかもその頭(かしら)でした。さらに徴収した税金の一部をピンはねし、私腹を肥やしていたと言われます。そのような悪を行って金持ちになったのです。仲間のイスラエル人からは、民族を裏切った男、売国奴、ローマの犬と見られていたでしょう。
(3~4節)「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」イエス様は当時、非常に注目されており、エリコに来られるとの報が伝わると、多くの人々がイエス様を一目見たいと、出て来たのです。ザアカイもイエス様に非常に関心を持ったのです。ザアカイは、背が低かったとあります。このことで劣等感を抱いていたでしょう。それはともかく、ザアカイはイエス様を見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登りました。先手必勝、ザアカイは頭がくるくると回転し、機を見るに敏な、すばしこい人でした。このすばしこさでお金を儲けてきたに違いありません。そして今、自分はいちじく桑の木という安全圏に登り、上からイエス様を見ようとしたのです。ところがイエス様は、ザアカイに出会う前からザアカイを深く知り、彼こそ最も救いと愛を必要としている人であることを見抜いておられました。
(5~6節)「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」英語にアンダースタンドという言葉があります。「理解する」という意味です。アンダーは「の下」、スタンドは「立つ」の意味です。理解することは、相手に下に立つことによって可能になる、ということだと、ある牧師の説教で聞きました。イエス様は、ザアカイの下に立っておられて、ザアカイの心を完全に理解しておられるのです。ザアカイは、愛情に飢えていたに違いありません。イエス様はザアカイの心が淋しく、愛を求めていることを分かっておられました。ザアカイの心に愛と喜びを与えようと決心されたのです。そこでザアカイに呼びかけました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエス様を迎えました。ザアカイは、やはり愛情に飢えていたのです。
(7節)「これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』」私たちもこの人々と同じように、ぶつぶつ言うのではないでしょうか。「何も、あんなに罪深い男の家に泊まらなくてもよいのに」と。ザアカイはほとんど犯罪人と見られていたのでしょう。私たちも刑務所にいる人々に、冷たい気持ちを抱いているのではないでしょうか。「自業自得だ」と。しかしイエス様は、こう言われます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ福音書5:31~32)。エゼキエル書18章31~32節にも、神様の次の御言葉があります。「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」
人々は冷たい目を向けましたが、ザアカイの心は喜びに満たされました。(8節)「~ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」ザアカイは、徹底的な悔い改めをしたのです。「立ち上がった」とは、彼がこれまでの欲張りで自己中心的な生き方を決然と捨てて、神様と隣人を愛する生き方へ180度の方向転換を行ったことを意味します。実に鮮やかな方向転換です。悔い改めとは、生き方の方向転換です。「北風と太陽」というお話がありますね。ある男のコートを脱がせようとして北風はビュービュー吹きつけて脱がせようとしたが、男はコートを吹き飛ばされまいとますます強くコートを握りしめた。太陽はポカポカと照って気温を上げたところ、男は暑くなって自分からコートを脱いだという、あの話です。太陽のポカポカは暖かい愛と言えます。人々が「悔い改めなさい」とザアカイに何回も言ってきたかもしれませんが、人々の批判はザアカイを悔い改めに導くことができませんでした。しかしイエス様の暖かい愛がザアカイの心を溶かし、彼は自分から進んで悔い改めたのです。
それは驚くべき、本気の悔い改めでした。「財産の半分を貧しい人々に施します。だれかから何かだまし取っていたら(実際にだまし取っていたのだと思います)、それを四倍にして返します。」私たちにこんなことができるでしょうか。ザアカイの喜びが、どんなに深いかが分かります。ザアカイはそれまで、死と滅びへの道を突き進んでいましたが、ここで命に道に転換し、まさに救われました。天に大きな喜びがあったに違いありません。ザアカイのこの180度の方向転換は、ディケンズ作『クリスマス・キャロル』の欲深かった主人公スクルージの、鮮やかな方向転換を思わせます。
イエス様も深く喜ばれました。(9節)「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子(神の民イスラエル人)なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」最後の文は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」と同じ意味です。
このようにザアカイは、死と滅びの道から救われ、愛と命の道に進み、今は天国という天の故郷にいるに違いありません。先日、日本人が好きな「故郷(ふるさと)」という歌について学びました。
1節は、「うさぎ追ひし彼(か)の山/ 小鮒(こぶな)釣りし彼の川/ 夢は今も巡りて/ 忘れ難き故郷(ふるさと)」です。
3節は、「志を果たして/ いつの日にか帰らん/ 山は青き故郷/ 水は清き故郷」です。
熊田和子文・伊東泰生写真『日本キリスト教史の夜明け 写真で訪ねる信仰遺産』(いのちのことば社、2017年、14~19ページ)によると、作曲者の岡野貞一氏(1878年~1941年)は、14歳の時にアメリカ人宣教師から洗礼を受けたクリスチャンとのことです。作詞者は高野辰之氏という方です。岡野氏は、東京音楽学校(今の東京藝術大学)で学び、そこで長く教師を務めたそうです。東京の本郷中央教会の礼拝奏楽者、聖歌隊指揮者として42年間ご奉仕なさったそうです。岡野氏は「故郷(ふるさと)」の作曲者であって作詞者ではありませんが、「故郷(ふるさと)」を、ご自分の故郷を思い出しながら作曲なさったでしょう。後年ご自分で口ずさまれることもあったと想像しますが、クリスチャンですから、「天の故郷」を思いつつ口ずさまれたこともあったのではないかと推測致します。皆様が「故郷(ふるさと)」を歌われる時、このことをも思い出していただけますと、ありがたく思います。
ザアカイがいる天の故郷をめざして、私たちも自分の罪を悔い改めながら、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する道を進ませていただきましょう。アーメン(「真実に」)。
舞台はエリコという町です。エリコは非常に古い町で、今から7000年も前から人が住んでいたと読んだことがあります。エリコはオアシスとなつめやしの町でもあるそうです。(1~2節)「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。」当時のイスラエルは、ローマ帝国の植民地だったそうです。ザアカイはイスラエル人でありながら、ローマ帝国の手先となって、仲間のイスラエル人から税金を取り立てる仕事をしており、しかもその頭(かしら)でした。さらに徴収した税金の一部をピンはねし、私腹を肥やしていたと言われます。そのような悪を行って金持ちになったのです。仲間のイスラエル人からは、民族を裏切った男、売国奴、ローマの犬と見られていたでしょう。
(3~4節)「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」イエス様は当時、非常に注目されており、エリコに来られるとの報が伝わると、多くの人々がイエス様を一目見たいと、出て来たのです。ザアカイもイエス様に非常に関心を持ったのです。ザアカイは、背が低かったとあります。このことで劣等感を抱いていたでしょう。それはともかく、ザアカイはイエス様を見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登りました。先手必勝、ザアカイは頭がくるくると回転し、機を見るに敏な、すばしこい人でした。このすばしこさでお金を儲けてきたに違いありません。そして今、自分はいちじく桑の木という安全圏に登り、上からイエス様を見ようとしたのです。ところがイエス様は、ザアカイに出会う前からザアカイを深く知り、彼こそ最も救いと愛を必要としている人であることを見抜いておられました。
(5~6節)「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」英語にアンダースタンドという言葉があります。「理解する」という意味です。アンダーは「の下」、スタンドは「立つ」の意味です。理解することは、相手に下に立つことによって可能になる、ということだと、ある牧師の説教で聞きました。イエス様は、ザアカイの下に立っておられて、ザアカイの心を完全に理解しておられるのです。ザアカイは、愛情に飢えていたに違いありません。イエス様はザアカイの心が淋しく、愛を求めていることを分かっておられました。ザアカイの心に愛と喜びを与えようと決心されたのです。そこでザアカイに呼びかけました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエス様を迎えました。ザアカイは、やはり愛情に飢えていたのです。
(7節)「これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』」私たちもこの人々と同じように、ぶつぶつ言うのではないでしょうか。「何も、あんなに罪深い男の家に泊まらなくてもよいのに」と。ザアカイはほとんど犯罪人と見られていたのでしょう。私たちも刑務所にいる人々に、冷たい気持ちを抱いているのではないでしょうか。「自業自得だ」と。しかしイエス様は、こう言われます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ福音書5:31~32)。エゼキエル書18章31~32節にも、神様の次の御言葉があります。「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」
人々は冷たい目を向けましたが、ザアカイの心は喜びに満たされました。(8節)「~ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」ザアカイは、徹底的な悔い改めをしたのです。「立ち上がった」とは、彼がこれまでの欲張りで自己中心的な生き方を決然と捨てて、神様と隣人を愛する生き方へ180度の方向転換を行ったことを意味します。実に鮮やかな方向転換です。悔い改めとは、生き方の方向転換です。「北風と太陽」というお話がありますね。ある男のコートを脱がせようとして北風はビュービュー吹きつけて脱がせようとしたが、男はコートを吹き飛ばされまいとますます強くコートを握りしめた。太陽はポカポカと照って気温を上げたところ、男は暑くなって自分からコートを脱いだという、あの話です。太陽のポカポカは暖かい愛と言えます。人々が「悔い改めなさい」とザアカイに何回も言ってきたかもしれませんが、人々の批判はザアカイを悔い改めに導くことができませんでした。しかしイエス様の暖かい愛がザアカイの心を溶かし、彼は自分から進んで悔い改めたのです。
それは驚くべき、本気の悔い改めでした。「財産の半分を貧しい人々に施します。だれかから何かだまし取っていたら(実際にだまし取っていたのだと思います)、それを四倍にして返します。」私たちにこんなことができるでしょうか。ザアカイの喜びが、どんなに深いかが分かります。ザアカイはそれまで、死と滅びへの道を突き進んでいましたが、ここで命に道に転換し、まさに救われました。天に大きな喜びがあったに違いありません。ザアカイのこの180度の方向転換は、ディケンズ作『クリスマス・キャロル』の欲深かった主人公スクルージの、鮮やかな方向転換を思わせます。
イエス様も深く喜ばれました。(9節)「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子(神の民イスラエル人)なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」最後の文は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」と同じ意味です。
このようにザアカイは、死と滅びの道から救われ、愛と命の道に進み、今は天国という天の故郷にいるに違いありません。先日、日本人が好きな「故郷(ふるさと)」という歌について学びました。
1節は、「うさぎ追ひし彼(か)の山/ 小鮒(こぶな)釣りし彼の川/ 夢は今も巡りて/ 忘れ難き故郷(ふるさと)」です。
3節は、「志を果たして/ いつの日にか帰らん/ 山は青き故郷/ 水は清き故郷」です。
熊田和子文・伊東泰生写真『日本キリスト教史の夜明け 写真で訪ねる信仰遺産』(いのちのことば社、2017年、14~19ページ)によると、作曲者の岡野貞一氏(1878年~1941年)は、14歳の時にアメリカ人宣教師から洗礼を受けたクリスチャンとのことです。作詞者は高野辰之氏という方です。岡野氏は、東京音楽学校(今の東京藝術大学)で学び、そこで長く教師を務めたそうです。東京の本郷中央教会の礼拝奏楽者、聖歌隊指揮者として42年間ご奉仕なさったそうです。岡野氏は「故郷(ふるさと)」の作曲者であって作詞者ではありませんが、「故郷(ふるさと)」を、ご自分の故郷を思い出しながら作曲なさったでしょう。後年ご自分で口ずさまれることもあったと想像しますが、クリスチャンですから、「天の故郷」を思いつつ口ずさまれたこともあったのではないかと推測致します。皆様が「故郷(ふるさと)」を歌われる時、このことをも思い出していただけますと、ありがたく思います。
ザアカイがいる天の故郷をめざして、私たちも自分の罪を悔い改めながら、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する道を進ませていただきましょう。アーメン(「真実に」)。
2017-11-22 18:54:08(水)
「神さまがくださった良い土地」 2017年11月19日(日) 収穫感謝日・教会学校との合同礼拝 説教要旨
聖書:申命記8章3~10節
今日は、収穫感謝、子ども祝福と、いろいろな恵みに満ちた礼拝です。神様は、荒れ野を旅していた旧約聖書のイスラエルの民に、カナンの地という良い土地を与えるとの希望の約束を与えて下さいました。「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」この七つの産物を、「イスラエルの七産物」と呼ぶ人もあるそうです。旧約聖書はこのカナンの地を「乳と蜜の流れる地」と呼んでいます。
私たちの教会の環境もこれと似ています。すぐ近くを落合川が流れ、南沢湧水から泉が湧いています。ある教会の牧師の方は、ご自分がおられる教会で洗礼を受ける方が与えられた時、この南沢湧水の水を汲みに来た、その水で洗礼式を執り行ったと語って下さいました。ほかの教会の牧師の方が洗礼式の水を汲みに来られるようなよき南沢湧水のすぐ近くにこの教会が建てられています。まさに神様の恵みです。この東久留米市には自由学園や小山台遺跡公園に縄文時代の住居跡があるようです。昔から水が豊富だったのでしょう。水がある所に人は住み、集落ができます。昔も今も、神様の恵みを豊かに受けた土地なのです。
私は最近、何回か小旅行の機会を与えられています。8月には日帰りで会津若松と周囲に行きました。野口英世の生家の前に猪苗代湖があります。周囲の田んぼには稲が青々としていて、非常に美しかったです。日本は神様が美しい自然を与えて下さった瑞穂の国と実感しました。もちろん美しい自然は厳しさと裏表で、猪苗代も雪の季節は大変のようです。10月末には山梨県の甲府市に行きました。帰路に車に乗せていただいて風景を見渡すと山々に囲まれたまさに盆地で、紅葉が美しく、ぶどう畑も見えました。ぶどうはイスラエルの七産物の一つで、聖書にはぶどうに関する記述が数百回もあると、ある書に記されています。ある牧師の方は、山梨県にぶどうやぶどうジュースを買いに来て、それでご自分が奉仕する教会で聖餐式を行われるそうです。
私は11月上旬には、日本キリスト教団の「障がい」を考える小委員会に参加し、岩手県北部にある「カナンの園」というキリスト信仰による、「障がい」を持つ方々の施設群を見学して参りました。大変よき学びを致しました。その歴史をまとめると、「戦後開拓の大きな夢を西岳山麓に抱いた『奥中山開拓団』という伏流水が、福祉の世界に幻を抱く『雲の柱』という泉となって湧き出、『盛岡キリスト者精薄問題研究会』等と合流、『総合福祉事業団カナンの園設立委員会』という川となり流れ出しました」(カナンの園事務局でいただいた冊子より引用)。「カナンの園」と名付けられたのは、この土地こそ旧約聖書のカナンの地と同じ神様に与えられた「乳と蜜の流れる地」、あるいは神様に祈りながら労働して、必ずや「乳と蜜の流れる地」にしたいとの祈りがあったからでしょう。
カナンの園のめざすところは、「私たちは、神につくられた大切な一人一人として生かされて」いるので、「キリストの愛のもとに、障がい者といわれている人々を中心として、全ての人が互いに尊重しつつ、助け合って生きていく社会の実現」とのことです。「カナンの園の3本の柱」として、次のように記されていました。「1.神に感謝しつつ歩む。 2.共に学び、共に育つ。施設に合った人をつくるのではなく、その人の成長の必要に応じた環境づくりをする。 3.連帯の輪を広げる。施設づくりは、枠づくりではなく、連帯し共に育ち合う家庭・地域・社会づくり。」
山々が見え、非常に美しい紅葉、自然の中にありました。それは同時に厳しい自然です。初期の開拓を担った方々の座談会の文章には、次のように書かれています(いただいた冊子より引用)。「かめに汲んだ水が朝になると凍っている。~電気がついたのは四年目でした。」「木を切って、根っこを掘って、ひと鍬ひと鍬、畑を作りました。」「時には手で掘ったのよ、根っこを。機械なんか無いのですから。」奥中山教会という教会があり、日曜日には約80名が礼拝に集うそうです。すばらしいことです。特別支援学校・三愛学舎(三愛とは、神を愛し、人を愛し、土を愛する)、美味なパンを作るカナン牧場、みことばせんべいを作るシャローム、羊を飼い、羊毛製品を作る「ひつじ工房 アドナイ・エレ」を見学することができました。「アドナイ・エレ」では、羊毛で作った足マット(羊飼いと羊のデザイン、「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」の聖句が大きく書かれています)を買いました。
本日は収穫感謝日礼拝です。深い喜びの日ですが、6年8ヶ月前の東日本大震災の時の原発事故による自然界汚染の現実があります。ある牧師がこう書いておられます。「神さまが創造した豊かな自然は、人間が撒き散らした放射能によって傷つけられました。放射能汚染によって苦しんでいる農家がいます。~収穫感謝礼拝を通して、私たちはこの『感謝』をうわべだけのものとするのではなく、『深い痛みの共感を持つ感謝』にしていくことが必要です。そのために、たとえ遠く離れていたとしても、被災地からの声に耳を傾けることを大切に続けていきましょう」(佐藤真史牧師<荒尾教会牧師>「収穫を感謝するということ ―放射能汚染を経験した私たちの祈り―」、『季刊 教師の友 2017年10,11,12月号』日本キリスト教団出版局、2~4ページ)。
昨年、ある会で、「風評被害が大変ですね」と言われた福島県の牧師の方がおっしゃいました。「風評被害ではありません。」放射能による本当の農業被害・健康不安に苦しんでいるという意味と思います。神様が創造なさった美しい自然を、原発事故で放出された放射能が汚しました。これは私たち人間の罪です。神様が創造なさった自然を汚さない生き方をするように、努力したいのです。アーメン(「真実に」)。
今日は、収穫感謝、子ども祝福と、いろいろな恵みに満ちた礼拝です。神様は、荒れ野を旅していた旧約聖書のイスラエルの民に、カナンの地という良い土地を与えるとの希望の約束を与えて下さいました。「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」この七つの産物を、「イスラエルの七産物」と呼ぶ人もあるそうです。旧約聖書はこのカナンの地を「乳と蜜の流れる地」と呼んでいます。
私たちの教会の環境もこれと似ています。すぐ近くを落合川が流れ、南沢湧水から泉が湧いています。ある教会の牧師の方は、ご自分がおられる教会で洗礼を受ける方が与えられた時、この南沢湧水の水を汲みに来た、その水で洗礼式を執り行ったと語って下さいました。ほかの教会の牧師の方が洗礼式の水を汲みに来られるようなよき南沢湧水のすぐ近くにこの教会が建てられています。まさに神様の恵みです。この東久留米市には自由学園や小山台遺跡公園に縄文時代の住居跡があるようです。昔から水が豊富だったのでしょう。水がある所に人は住み、集落ができます。昔も今も、神様の恵みを豊かに受けた土地なのです。
私は最近、何回か小旅行の機会を与えられています。8月には日帰りで会津若松と周囲に行きました。野口英世の生家の前に猪苗代湖があります。周囲の田んぼには稲が青々としていて、非常に美しかったです。日本は神様が美しい自然を与えて下さった瑞穂の国と実感しました。もちろん美しい自然は厳しさと裏表で、猪苗代も雪の季節は大変のようです。10月末には山梨県の甲府市に行きました。帰路に車に乗せていただいて風景を見渡すと山々に囲まれたまさに盆地で、紅葉が美しく、ぶどう畑も見えました。ぶどうはイスラエルの七産物の一つで、聖書にはぶどうに関する記述が数百回もあると、ある書に記されています。ある牧師の方は、山梨県にぶどうやぶどうジュースを買いに来て、それでご自分が奉仕する教会で聖餐式を行われるそうです。
私は11月上旬には、日本キリスト教団の「障がい」を考える小委員会に参加し、岩手県北部にある「カナンの園」というキリスト信仰による、「障がい」を持つ方々の施設群を見学して参りました。大変よき学びを致しました。その歴史をまとめると、「戦後開拓の大きな夢を西岳山麓に抱いた『奥中山開拓団』という伏流水が、福祉の世界に幻を抱く『雲の柱』という泉となって湧き出、『盛岡キリスト者精薄問題研究会』等と合流、『総合福祉事業団カナンの園設立委員会』という川となり流れ出しました」(カナンの園事務局でいただいた冊子より引用)。「カナンの園」と名付けられたのは、この土地こそ旧約聖書のカナンの地と同じ神様に与えられた「乳と蜜の流れる地」、あるいは神様に祈りながら労働して、必ずや「乳と蜜の流れる地」にしたいとの祈りがあったからでしょう。
カナンの園のめざすところは、「私たちは、神につくられた大切な一人一人として生かされて」いるので、「キリストの愛のもとに、障がい者といわれている人々を中心として、全ての人が互いに尊重しつつ、助け合って生きていく社会の実現」とのことです。「カナンの園の3本の柱」として、次のように記されていました。「1.神に感謝しつつ歩む。 2.共に学び、共に育つ。施設に合った人をつくるのではなく、その人の成長の必要に応じた環境づくりをする。 3.連帯の輪を広げる。施設づくりは、枠づくりではなく、連帯し共に育ち合う家庭・地域・社会づくり。」
山々が見え、非常に美しい紅葉、自然の中にありました。それは同時に厳しい自然です。初期の開拓を担った方々の座談会の文章には、次のように書かれています(いただいた冊子より引用)。「かめに汲んだ水が朝になると凍っている。~電気がついたのは四年目でした。」「木を切って、根っこを掘って、ひと鍬ひと鍬、畑を作りました。」「時には手で掘ったのよ、根っこを。機械なんか無いのですから。」奥中山教会という教会があり、日曜日には約80名が礼拝に集うそうです。すばらしいことです。特別支援学校・三愛学舎(三愛とは、神を愛し、人を愛し、土を愛する)、美味なパンを作るカナン牧場、みことばせんべいを作るシャローム、羊を飼い、羊毛製品を作る「ひつじ工房 アドナイ・エレ」を見学することができました。「アドナイ・エレ」では、羊毛で作った足マット(羊飼いと羊のデザイン、「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」の聖句が大きく書かれています)を買いました。
本日は収穫感謝日礼拝です。深い喜びの日ですが、6年8ヶ月前の東日本大震災の時の原発事故による自然界汚染の現実があります。ある牧師がこう書いておられます。「神さまが創造した豊かな自然は、人間が撒き散らした放射能によって傷つけられました。放射能汚染によって苦しんでいる農家がいます。~収穫感謝礼拝を通して、私たちはこの『感謝』をうわべだけのものとするのではなく、『深い痛みの共感を持つ感謝』にしていくことが必要です。そのために、たとえ遠く離れていたとしても、被災地からの声に耳を傾けることを大切に続けていきましょう」(佐藤真史牧師<荒尾教会牧師>「収穫を感謝するということ ―放射能汚染を経験した私たちの祈り―」、『季刊 教師の友 2017年10,11,12月号』日本キリスト教団出版局、2~4ページ)。
昨年、ある会で、「風評被害が大変ですね」と言われた福島県の牧師の方がおっしゃいました。「風評被害ではありません。」放射能による本当の農業被害・健康不安に苦しんでいるという意味と思います。神様が創造なさった美しい自然を、原発事故で放出された放射能が汚しました。これは私たち人間の罪です。神様が創造なさった自然を汚さない生き方をするように、努力したいのです。アーメン(「真実に」)。
2017-11-16 2:26:47(木)
「天の故郷」 2017年11月12日(日) 聖徒の日(召天者記念日)礼拝 説教要旨
聖書・詩編23編1~6節、ヘブライ人への手紙11章8~16節
ヘブライ人への手紙11章1節は、聖書の中でたった1ヶ所、「信仰とは何か」(信仰の定義)を語っています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
本日の最初の8節「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」アブラハムの故郷は真の神様を礼拝しない人々の土地、偶像崇拝の土地でした。アブラハムは、故郷をいわば脱出したのです。9~10節「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都(神の国、天国)を待望していたからです。」
創世記12章は、約束の地(カナンの地)に入ったアブラハムの歩みを、こう語ります。「アブラハムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。アブラハムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築いた。」アブラハムの生き方を特徴づけるものは、「祭壇と天幕(テント)」です。祭壇は礼拝の場です。アブラハムは礼拝を非常に重視したのです。そしてアブラハムは天幕で生活しました。天幕は、寄留者のシンボルです。アブラハムは地上では仮住まいの身で、彼の真の故郷は天(神の国、天国)です。私たちもアブラハムと同じです。礼拝し、寄留者(仮住まいの者)として人生を歩んでいます。地上の人生はもちろん大切です。しかし最終的な希望はこの地上にはなく、神の国・天国にあります。
ヘブライ人への手紙11章15~18節「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」天の故郷は、真の故郷です。
私の青年時代に、山川千秋さんとおっしゃる国際派ニュースキャスターがおられました。残念ながらご病気になられた時に、吉祥寺キリスト集会のベックさんというドイツ人の宣教師の方の宣教を受けられます。以下は、山川さんご夫妻連名の著書『死は「終り」ではない』(文藝春秋社、1989年、57~58ページ)からの引用です。「彼(山川さん)は『どうすれば、イエス・キリストに救ってもらえるのか?』と尋ねてきました。私(ベック宣教師)は、『神の前に正直になること、これまで神に背いてきた罪を悔い改めて、主イエスを私の神として受け入れると口に出して言うことです、と答えました。千秋さんはしばらく考えて、彼の過去の背きの罪をすなおに告白しはじめたのです。 やがて彼の表情は穏やかなものとなり、私が、人は病気によって死ぬのではなく、神がわたしの所に来なさい、と言われた時が死ぬ時です。それは最善の時であり、死は終わりなどでは決してなく、キリストと一緒にいられる最高の幸せの始まりです、というと、素直にうなずいておられました。』」キリストを信じる者は、この地上で既に永遠の命をいただいています。地上の人生が終わっても、永遠の命によって天国で生きているのです、天国でひたすら三位一体の神様を讃美して、生きているのです。私たち全員のすべての罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさったイエス・キリストのお陰です。
本日の旧約聖書は、有名な詩編23編です。6節にこうあります。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう。」「命のある限り」とありますが、キリストを信じる人は永遠の命を受けているので、地上の命が終わっても、神の恵みと慈しみはその人を追い続けるのです。「主の家」は教会とも言えます。最終的には天国です。天国が、私たちの真の故郷です。
先日、多磨霊園にある内村鑑三の墓を見させていただいて参りました。内村先生の信仰は、日露戦争の時に非戦論を唱えるなど、勇敢な信仰という印象を、私は持っています。この内村先生の信仰を、天国に向かって非常に深めたのは、お嬢さん・ルツ子さんが若くして天に召された辛い体験のようです。以下は重平友美著『内村鑑三』教会新報社、1982年、162~163ページによります。内村先生は葬儀の時に語ったそうです。「娘はキリストの花嫁として、天に召されていきました。~私も天国に親類をもつものとなりました。」そして内村先生は最後に、「ルツ子、バンザイ」と叫ばれたそうです。ルツ子さんが天の故郷に帰られたことを確信なさったのでしょう。
私たちの教会はプロテスタントですが、カトリックでは天に召されることを「帰天」と言うようです。よい言葉と感じます。前の前のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、帰天の前に、「主の家に行きたい」と言われたと読んだ記憶があります。私たちも天の故郷に帰る時まで、ご一緒に礼拝しつつ、神様が与えて下さった伝道の使命、真の救い主イエス・キリストを証しする(イエス・キリストを指し示す)使命を、一生懸命果たして参りたいのです。アーメン(「真実に」)。
ヘブライ人への手紙11章1節は、聖書の中でたった1ヶ所、「信仰とは何か」(信仰の定義)を語っています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
本日の最初の8節「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」アブラハムの故郷は真の神様を礼拝しない人々の土地、偶像崇拝の土地でした。アブラハムは、故郷をいわば脱出したのです。9~10節「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都(神の国、天国)を待望していたからです。」
創世記12章は、約束の地(カナンの地)に入ったアブラハムの歩みを、こう語ります。「アブラハムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。アブラハムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築いた。」アブラハムの生き方を特徴づけるものは、「祭壇と天幕(テント)」です。祭壇は礼拝の場です。アブラハムは礼拝を非常に重視したのです。そしてアブラハムは天幕で生活しました。天幕は、寄留者のシンボルです。アブラハムは地上では仮住まいの身で、彼の真の故郷は天(神の国、天国)です。私たちもアブラハムと同じです。礼拝し、寄留者(仮住まいの者)として人生を歩んでいます。地上の人生はもちろん大切です。しかし最終的な希望はこの地上にはなく、神の国・天国にあります。
ヘブライ人への手紙11章15~18節「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」天の故郷は、真の故郷です。
私の青年時代に、山川千秋さんとおっしゃる国際派ニュースキャスターがおられました。残念ながらご病気になられた時に、吉祥寺キリスト集会のベックさんというドイツ人の宣教師の方の宣教を受けられます。以下は、山川さんご夫妻連名の著書『死は「終り」ではない』(文藝春秋社、1989年、57~58ページ)からの引用です。「彼(山川さん)は『どうすれば、イエス・キリストに救ってもらえるのか?』と尋ねてきました。私(ベック宣教師)は、『神の前に正直になること、これまで神に背いてきた罪を悔い改めて、主イエスを私の神として受け入れると口に出して言うことです、と答えました。千秋さんはしばらく考えて、彼の過去の背きの罪をすなおに告白しはじめたのです。 やがて彼の表情は穏やかなものとなり、私が、人は病気によって死ぬのではなく、神がわたしの所に来なさい、と言われた時が死ぬ時です。それは最善の時であり、死は終わりなどでは決してなく、キリストと一緒にいられる最高の幸せの始まりです、というと、素直にうなずいておられました。』」キリストを信じる者は、この地上で既に永遠の命をいただいています。地上の人生が終わっても、永遠の命によって天国で生きているのです、天国でひたすら三位一体の神様を讃美して、生きているのです。私たち全員のすべての罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさったイエス・キリストのお陰です。
本日の旧約聖書は、有名な詩編23編です。6節にこうあります。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう。」「命のある限り」とありますが、キリストを信じる人は永遠の命を受けているので、地上の命が終わっても、神の恵みと慈しみはその人を追い続けるのです。「主の家」は教会とも言えます。最終的には天国です。天国が、私たちの真の故郷です。
先日、多磨霊園にある内村鑑三の墓を見させていただいて参りました。内村先生の信仰は、日露戦争の時に非戦論を唱えるなど、勇敢な信仰という印象を、私は持っています。この内村先生の信仰を、天国に向かって非常に深めたのは、お嬢さん・ルツ子さんが若くして天に召された辛い体験のようです。以下は重平友美著『内村鑑三』教会新報社、1982年、162~163ページによります。内村先生は葬儀の時に語ったそうです。「娘はキリストの花嫁として、天に召されていきました。~私も天国に親類をもつものとなりました。」そして内村先生は最後に、「ルツ子、バンザイ」と叫ばれたそうです。ルツ子さんが天の故郷に帰られたことを確信なさったのでしょう。
私たちの教会はプロテスタントですが、カトリックでは天に召されることを「帰天」と言うようです。よい言葉と感じます。前の前のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、帰天の前に、「主の家に行きたい」と言われたと読んだ記憶があります。私たちも天の故郷に帰る時まで、ご一緒に礼拝しつつ、神様が与えて下さった伝道の使命、真の救い主イエス・キリストを証しする(イエス・キリストを指し示す)使命を、一生懸命果たして参りたいのです。アーメン(「真実に」)。
2017-10-21 22:08:52(土)
「十字架、それは神の愛」 2017年10月15日(日) 「はじめて聞く人にもわかる聖書の話」礼拝(第7回) 説教要旨
聖書:ヨハネ福音書10章7~18節
救い主イエス・キリストの恵み深い御言葉が記されています。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」
このヨハネ福音書で、イエス様はよく、「わたしは○○である」という言い方をなさいます。本日の箇所では、「わたしは良い羊飼いである」と言われます。
有名な詩編23編にこうあります。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ/ 憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく/ わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも/ わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。」
この羊飼いこそ、良い羊飼いイエス・キリストです。
この良い羊飼いは、雇い人ではないので、羊一匹一匹(私たち一人一人)のことを、深く心にかけていて下さいます。このイエス様は、マタイ福音書18章12節以下でこう言われます。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」それほどに小さな私たち一人一人を、心にかけていて下さいます。
「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」私が牧師となる按手式を受けたのは、1998年12月です。私の友人も共に按手を受けました。友人のお母様が私に色紙をプレゼントして下さいました。「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と記した色紙です。私への大いなる励ましの言葉です。今でも大切に保管しています。
良い羊飼いイエス様は、私たち(羊)一人一人の全部の罪を背負って、十字架で身代わりに死んで下さいました。イザヤ書53章6節に、次のようにある通りです。
「わたしたちは羊の群れ/ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて/ 主は彼(イエス様)に負わせられた。…
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。…
多くの人の過ちを担い/ 背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」
本日のお話の題は、「十字架、それは神の愛」です。私たちは皆、神様から見れば罪ある者です。私たちは、残念ながら生まれた時から罪を背負っています。教会の言葉でこれを原罪と呼びます。そのような私たちの罪を根本的に赦すために、父なる神様は最愛の独り子イエス様を、十字架におつけになったのです。ここに神様の偉大な愛が示されたのです。このことは、どんなに強調しても、し過ぎることはありません。ですから非常に多くの教会で、父なる神様の私たち罪人(つみびと)への愛の強力なシンボルである十字架を掲げています。私たちは、私たちの罪を背負うために十字架に釘づけられて死んで下さり、三日目に復活されたイエス様の愛を、毎日心に強く留めたいのです。私たちのために十字架で命を捨てて下さった良い羊飼いイエス様は、私たちが死に瀕するときも共にいて下さるのです。詩編23編4節に、「死の陰の谷を行くときも/ わたしは災いを恐れない。/ あなたがわたしと共にいてくださる」と力強く記されている通りです。
韓国の大統領になった金大中(キム・デジュン)氏という方がおられました。韓国の民主化に尽力した方で、苦難の多い人生を歩まれました。最大の危機の一つは、1973年に東京のホテルで拉致されたことです。海に投げ込まれて殺されるところだったのです。その時に、イエス・キリストに出会ったという証しを、ご本人が日本のテレビの報道番組で語られたのを、私は30年ほど前だったか、見たのです。自伝を見ると、その時のことがこう記されているのを、私は最近読みました(以下は、金大中著<波佐場清/康宗憲 訳>『金大中自伝Ⅰ 死刑囚から大統領へ 民主化への道』岩波書店、2011年、239~243ページより)。
「両腕を縛っているロープはびくともしなかった。すべては無駄だった。目の前が真っ暗になった。その時、まさにその時にイエスが出現された。私はお祈りなど考えも及ばず、死を前に震えたいたのにイエスはすぐ前に立っておられた。あぁ、イエス様! 聖堂で見た姿そのものであり、表情もそのままだった。服装も同じだった。私はイエスの長い服のすそをつかんだ。『お助け下さい。私にはまだ、やることが残っています。国民のためにしなければならないことがあります。お助け下さい。』 すると飛行機が飛んで来たそうです。海に投げ込むことができなくなり、船は全速力で走り、金氏は助かったのです。その後、ソウルの自宅に帰り着くことができました。喜ぶ人々に金氏は、「神が生きておられるのを体験した。主の恵みで助かった。みんないっしょにお祈りをしよう」と話し、皆でひざまずいて感謝の祈りをささげたそうです。実に驚くべき証しです。金氏が、「死の陰の谷」を通ったときも、良い羊飼いイエス・キリストは、確かに共におられたのです。
このイエス様が、目に見えなくとも私たちとも、共にいて下さいます。この事実に励まされて、これからもご一緒に礼拝しつつ、歩みたいのです。アーメン(「真実に」)。
救い主イエス・キリストの恵み深い御言葉が記されています。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」
このヨハネ福音書で、イエス様はよく、「わたしは○○である」という言い方をなさいます。本日の箇所では、「わたしは良い羊飼いである」と言われます。
有名な詩編23編にこうあります。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ/ 憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく/ わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも/ わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。」
この羊飼いこそ、良い羊飼いイエス・キリストです。
この良い羊飼いは、雇い人ではないので、羊一匹一匹(私たち一人一人)のことを、深く心にかけていて下さいます。このイエス様は、マタイ福音書18章12節以下でこう言われます。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」それほどに小さな私たち一人一人を、心にかけていて下さいます。
「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」私が牧師となる按手式を受けたのは、1998年12月です。私の友人も共に按手を受けました。友人のお母様が私に色紙をプレゼントして下さいました。「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と記した色紙です。私への大いなる励ましの言葉です。今でも大切に保管しています。
良い羊飼いイエス様は、私たち(羊)一人一人の全部の罪を背負って、十字架で身代わりに死んで下さいました。イザヤ書53章6節に、次のようにある通りです。
「わたしたちは羊の群れ/ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて/ 主は彼(イエス様)に負わせられた。…
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。…
多くの人の過ちを担い/ 背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」
本日のお話の題は、「十字架、それは神の愛」です。私たちは皆、神様から見れば罪ある者です。私たちは、残念ながら生まれた時から罪を背負っています。教会の言葉でこれを原罪と呼びます。そのような私たちの罪を根本的に赦すために、父なる神様は最愛の独り子イエス様を、十字架におつけになったのです。ここに神様の偉大な愛が示されたのです。このことは、どんなに強調しても、し過ぎることはありません。ですから非常に多くの教会で、父なる神様の私たち罪人(つみびと)への愛の強力なシンボルである十字架を掲げています。私たちは、私たちの罪を背負うために十字架に釘づけられて死んで下さり、三日目に復活されたイエス様の愛を、毎日心に強く留めたいのです。私たちのために十字架で命を捨てて下さった良い羊飼いイエス様は、私たちが死に瀕するときも共にいて下さるのです。詩編23編4節に、「死の陰の谷を行くときも/ わたしは災いを恐れない。/ あなたがわたしと共にいてくださる」と力強く記されている通りです。
韓国の大統領になった金大中(キム・デジュン)氏という方がおられました。韓国の民主化に尽力した方で、苦難の多い人生を歩まれました。最大の危機の一つは、1973年に東京のホテルで拉致されたことです。海に投げ込まれて殺されるところだったのです。その時に、イエス・キリストに出会ったという証しを、ご本人が日本のテレビの報道番組で語られたのを、私は30年ほど前だったか、見たのです。自伝を見ると、その時のことがこう記されているのを、私は最近読みました(以下は、金大中著<波佐場清/康宗憲 訳>『金大中自伝Ⅰ 死刑囚から大統領へ 民主化への道』岩波書店、2011年、239~243ページより)。
「両腕を縛っているロープはびくともしなかった。すべては無駄だった。目の前が真っ暗になった。その時、まさにその時にイエスが出現された。私はお祈りなど考えも及ばず、死を前に震えたいたのにイエスはすぐ前に立っておられた。あぁ、イエス様! 聖堂で見た姿そのものであり、表情もそのままだった。服装も同じだった。私はイエスの長い服のすそをつかんだ。『お助け下さい。私にはまだ、やることが残っています。国民のためにしなければならないことがあります。お助け下さい。』 すると飛行機が飛んで来たそうです。海に投げ込むことができなくなり、船は全速力で走り、金氏は助かったのです。その後、ソウルの自宅に帰り着くことができました。喜ぶ人々に金氏は、「神が生きておられるのを体験した。主の恵みで助かった。みんないっしょにお祈りをしよう」と話し、皆でひざまずいて感謝の祈りをささげたそうです。実に驚くべき証しです。金氏が、「死の陰の谷」を通ったときも、良い羊飼いイエス・キリストは、確かに共におられたのです。
このイエス様が、目に見えなくとも私たちとも、共にいて下さいます。この事実に励まされて、これからもご一緒に礼拝しつつ、歩みたいのです。アーメン(「真実に」)。
2017-10-12 0:33:02(木)
「永遠の命のパンのために働く」 神学校日・伝道献身者奨励日 礼拝説教要旨
聖書・申命記8章1~6節、ヨハネ福音書6章22~40節
本日は日本キリスト教団の暦による神学校日の礼拝です。日本キリスト教団には1つの教団立神学校と、5つの認可神学校があります。それぞれの神学校で、イエス・キリストを、そして神の言葉を宣べ伝える伝道者を養成しています。
ヨハネ福音書6章は長くてまとまった章です。最初でイエス様が、ガリラヤ湖の近くで五千人の男たちを、パン5つと魚2匹で満腹にする奇跡を行われます。人々は、この方さえいれば自分たちは食いっぱぐれないと思い、イエス様を王にしようとします。しかしイエス様はそれを拒み、一人で山に退かれます。イエス様は、ご自分を探してカファルナウムに来た人々に、大事なことを言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」朽ちる食べ物ももちろん非常に大切です。パンは大切、パンを買うお金も必要です。しかし人が食べるだけなら、動物と同じとも言えます。人間は動物と同じであってはなりません。「永遠の命に至る食べ物」とは、神の言葉です。私たちは、神の言葉(聖書)によって、神に喜ばれる生き方と、真の救いの道を教えられる必要があります。
「永遠の命に至る食べ物」は、イエス・キリストご自身でもあります。イエス様は、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と宣言されます。イエス様は次のようにも言われます。これは明らかに聖餐式を思わせる御言葉(みことば)です。「人の子(イエス様ご自身)の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる。~わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。」聖餐式のパンは小さく、ぶどう汁も少量です。しかしそれらがどんなに大きな恵みか、この御言葉(みことば)が教えてくれます。
さて、人々がイエス様に質問します。「神の業(わざ)を行うためには、何をしたらよいでしょうか。」イエス様が答えられます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」父なる神様は、私たち全ての人間の罪をゆるすために、最愛の独り子イエス様を地上に誕生させ、私たちの全部の罪を背負わせて十字架におかけになりました。そして三日目に復活させられました。イエス・キリストこそ、父なる神様から私たち人間への最大のプレゼントです。私たち日本人は、何かをいただくとすぐ、お返しをどうしようかと、考えることが少なくないと思います。しかし相手の好意を素直に受けることが喜ばれることも、しばしばあるのではないでしょうか。私たちは、父なる神様の好意から来るプレゼント(イエス様)を、素直に心に受け入れることが大切です。ここで遠慮することは、かえって父なる神様のご好意を無にすることになる恐れがあります。「神がお遣わしになった者(イエス・キリスト)を信じること、それが神の業である。」どなたもぜひ、イエス・キリストをご自分の真の救い主と信じて下さるように、お願い致します。
イエス様が命のパンであると同時に、神様の御言葉(みことば)も命のパン(「永遠の命に至る食べ物」)です。本日の旧約聖書は、申命記8章1~6節です。旧約聖書以来の神の民であるイスラエルの民の指導者モーセが、民に告げます。「主(神様)はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」「主の口から出るすべての言葉」は、たとえば十戒です。私たちは十戒によって、神様が喜ばれる生き方を知ることができるのです。
神の言葉(律法)について、詩編19編11節には、こうあります。それは、「蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」エゼキエル書3章には、神様が預言者エゼキエルに、神の御言葉が記された巻物を食べるようにお命じにある場面があります。「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」と書かれています。
そしてアモス書8章11~12節に、次の御言葉(みことば)があります。
「見よ、その日が来ればと/ 主なる神は言われる。/わたしは大地に飢えを送る。
それはパンに飢えることでもなく/ 水に渇くことでもなく
主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
人々は海から海へと巡り/ 北から東へとよろめき歩いて
主の言葉を探し求めるが/ 見いだすことはできない。」
神の言葉が失われることは致命的です。神様に喜ばれる生き方が、分からなくなるからです。イエス様は言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」永遠の命のパンであるイエス・キリスト、そして神の言葉を宣べ伝える働きをしなさい、ということと思います。私たち皆が、祈りつつこのことに取り組んで参りましょう。 アーメン(「真実に」)。
本日は日本キリスト教団の暦による神学校日の礼拝です。日本キリスト教団には1つの教団立神学校と、5つの認可神学校があります。それぞれの神学校で、イエス・キリストを、そして神の言葉を宣べ伝える伝道者を養成しています。
ヨハネ福音書6章は長くてまとまった章です。最初でイエス様が、ガリラヤ湖の近くで五千人の男たちを、パン5つと魚2匹で満腹にする奇跡を行われます。人々は、この方さえいれば自分たちは食いっぱぐれないと思い、イエス様を王にしようとします。しかしイエス様はそれを拒み、一人で山に退かれます。イエス様は、ご自分を探してカファルナウムに来た人々に、大事なことを言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」朽ちる食べ物ももちろん非常に大切です。パンは大切、パンを買うお金も必要です。しかし人が食べるだけなら、動物と同じとも言えます。人間は動物と同じであってはなりません。「永遠の命に至る食べ物」とは、神の言葉です。私たちは、神の言葉(聖書)によって、神に喜ばれる生き方と、真の救いの道を教えられる必要があります。
「永遠の命に至る食べ物」は、イエス・キリストご自身でもあります。イエス様は、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と宣言されます。イエス様は次のようにも言われます。これは明らかに聖餐式を思わせる御言葉(みことば)です。「人の子(イエス様ご自身)の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる。~わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。」聖餐式のパンは小さく、ぶどう汁も少量です。しかしそれらがどんなに大きな恵みか、この御言葉(みことば)が教えてくれます。
さて、人々がイエス様に質問します。「神の業(わざ)を行うためには、何をしたらよいでしょうか。」イエス様が答えられます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」父なる神様は、私たち全ての人間の罪をゆるすために、最愛の独り子イエス様を地上に誕生させ、私たちの全部の罪を背負わせて十字架におかけになりました。そして三日目に復活させられました。イエス・キリストこそ、父なる神様から私たち人間への最大のプレゼントです。私たち日本人は、何かをいただくとすぐ、お返しをどうしようかと、考えることが少なくないと思います。しかし相手の好意を素直に受けることが喜ばれることも、しばしばあるのではないでしょうか。私たちは、父なる神様の好意から来るプレゼント(イエス様)を、素直に心に受け入れることが大切です。ここで遠慮することは、かえって父なる神様のご好意を無にすることになる恐れがあります。「神がお遣わしになった者(イエス・キリスト)を信じること、それが神の業である。」どなたもぜひ、イエス・キリストをご自分の真の救い主と信じて下さるように、お願い致します。
イエス様が命のパンであると同時に、神様の御言葉(みことば)も命のパン(「永遠の命に至る食べ物」)です。本日の旧約聖書は、申命記8章1~6節です。旧約聖書以来の神の民であるイスラエルの民の指導者モーセが、民に告げます。「主(神様)はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」「主の口から出るすべての言葉」は、たとえば十戒です。私たちは十戒によって、神様が喜ばれる生き方を知ることができるのです。
神の言葉(律法)について、詩編19編11節には、こうあります。それは、「蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」エゼキエル書3章には、神様が預言者エゼキエルに、神の御言葉が記された巻物を食べるようにお命じにある場面があります。「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」と書かれています。
そしてアモス書8章11~12節に、次の御言葉(みことば)があります。
「見よ、その日が来ればと/ 主なる神は言われる。/わたしは大地に飢えを送る。
それはパンに飢えることでもなく/ 水に渇くことでもなく
主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
人々は海から海へと巡り/ 北から東へとよろめき歩いて
主の言葉を探し求めるが/ 見いだすことはできない。」
神の言葉が失われることは致命的です。神様に喜ばれる生き方が、分からなくなるからです。イエス様は言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」永遠の命のパンであるイエス・キリスト、そして神の言葉を宣べ伝える働きをしなさい、ということと思います。私たち皆が、祈りつつこのことに取り組んで参りましょう。 アーメン(「真実に」)。