日本キリスト教団 東久留米教会

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2016-12-15 13:56:17(木)
「神があなたの罪を取り除かれる」 2016年12月11日(日) アドヴェント(待降節)第3主日礼拝説教 
朗読聖書:サムエル記・下12章1~25節、ローマの信徒への手紙8章1~4節。
「その主があなたの罪を取り除かれる」(サムエル記・下12章13節)。
 
 この前の11章で、ダビデは生涯最大の罪を犯しました。自分の最も忠実な部下ウリヤの妻バト・シェバを奪ったのです。ウリヤは国のために戦争に行っていました。王であるダビデのために、命を懸けて戦っていました。ダビデはそのウリヤを裏切りバト・シェバと関係を持ち、バト・シェバは妊娠しました。慌てたダビデは、ウリヤを戦場から呼び戻し、報告を聞いた後で、自宅に帰るように促します。ところが最も忠実な部下ウリヤは決して家に帰りません。「(モーセの十戒が納められた最も大切な)神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」ダビデは、悪魔的な計画を考え出します。ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、ウリヤを残して退却し戦死させるように、自分の軍隊の長に命令するのです。そしてウリヤは戦死します。ダビデは、十戒の第六の戒めと第五の戒めを破る、重大な罪を犯しました。第六の戒めは、「姦淫してはならない」です。第五の戒めは、「殺してはならない」です。ウリヤが死んだと聞くと、バト・シェバは夫のために嘆き、喪が明けるとダビデの妻に迎えられます。これでバト・シェバが出産しても、ダビデとバト・シェバの姦淫が露見する恐れはない。ダビデの計画は、ウリヤを犠牲にして、完全に成功したはずでした。しかし人を騙すことができたとしても、神様を騙すことはできません。神様が黙っておられないのです。神様の出番です。

 本日の第1節。「主はナタン(預言者)をダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。『二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い、小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて、彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに、自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振る舞った。』」ナタンは意味深長な話をしたのです。

 しかし、ダビデは気づきません。(5~6節)「ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。『主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の値を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。』」この言葉がブーメランのようにダビデ自身に帰って来ます。ナタンがダビデを一気に叱りつけます。(7~10節)「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』」こう明確に叱責されて、ダビデは電流に打たれたような気持ちになったに違いありません。真にうかつにも、初めて自分の大きな罪に気づいたのです。私たちにも、他の人に指摘されて、初めて気づくことがあると思うのです。

 私は、マタイによる福音書7章1節以下の、イエス様の御言葉を思い出します。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」ダビデはナタンの話を聞いて、「貧しい男の小羊を取り上げて、自分の客に振る舞った豊かな男」を非難し、裁きました。しかし同じ裁きの基準を自分に当てはめていませんでした。自分を棚に上げていました。その大きな過ちをナタンに、強く指摘されたのです。イエス様は言われます。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」ダビデは預言者ナタンに指摘されて、自分の目から丸太が取り除かれ、物事がはっきりと正確に見えるようになりました。ダビデの目にあった丸太は、偏見であり自己愛だったと思います。私たちの目にも偏見や自己愛があり、物事を正しく見ることをしばしば妨げている可能性はあります。気をつけたいと思います。

 ダビデは自分の大きな過ちに初めて気づき、心の中が自己嫌悪でいっぱいになったに違いありません。ダビデは愕然としてナタンに告白します。「わたしは主に罪を犯した。」主に対してだけでなく、ウリヤに対しても罪を犯したのです。そのことに触れていないことは不思議です。しかしダビデは、本気で罪を悔い改めたと思います。これだけ大きな罪を犯したのですから、当然と言えば当然ですが。この時のダビデの悔い改めを知るために、有名な詩編51編を見ておくべきでしょう。1~4節を一気に読みます。

「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。
 神よ、わたしを憐れんでください。/ 御慈しみをもって。
 深い御憐れみをもって/ 背きの罪をぬぐってください。
 わたしの咎をことごとく洗い/ 罪から清めてください。
 あなたに背いたことをわたしは知っています。
 わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し
 御目に悪事と見られることをしました。
 あなたの言われることは正しく/ あなたの裁きに誤りはありません。」

 そしてダビデは、9~10節で祈ります。
「ヒソプ(清めの儀式に用いた植物)の枝でわたしの罪を払ってください。
 わたしが清くなるように。
 わたしを洗ってください。/ 雪よりも白くなるように。
 喜び祝う声を聞かせてください。
 あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。 
 わたしの罪に御顔を向けず/ 咎をことごとくぬぐってください。」
この詩編は、「悔い改めの詩編」として知られていますが、臨終の場でこの詩編で祈りながら天に召されて行ったクリスチャンが少なくないと聞いています。ダビデは自分の罪に震えながら、必死で悔い改めたのではないでしょうか。

 サムエル記(下)に戻ります。そのダビデに、ナタンが告げます。13節の途中から。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」自己嫌悪でいっぱいになっていたであろうダビデにとって、実に驚くべき恵みの言葉です。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」
ダビデが、「わたしは主に罪を犯した」と率直に認めてへりくだったからでしょうか、ダビデが本気で悔い改めたからでしょうか、とにかくナタンは、ダビデの罪を告発なさる神様ご自身がダビデの罪を取り除いて下さると宣言するのです。しかし、ただで赦されるのではありません。ダビデは大きな代償を払わせられます。バト・シェバとの間に生まれた、目の中に入れても痛くない男の赤ちゃんが、ダビデの身代わりのように死ぬのです。私はここに神様の罪人(つみびと)への深い愛と、罪に対する厳しい怒りを感じます。「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ書11章22節、口語訳)を連想するのです。

 「わたしは主に罪を犯した。」「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」本日の新約聖書は、ローマの信徒への手紙8章1~4節です。1~2節は、すばらしい恵みと解放の御言葉です。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」そして
3節。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子(イエス・キリスト)を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」「肉」とは、私たち罪を持ち、また肉体を持つ人間のことです。私たちが、モーセの十戒に代表される神様の律法を100%守ることができたなら、私たちは自力で救われ、自力で天国に入ることができます。しかし私たち(肉)は弱く、神様の律法を100%守ることができません。

 そのような弱い私たちを助けるために、神様が自ら行動して下さいました。ダビデの罪を取り除いてダビデを赦して下さった同じ神様が、私たちの罪を取り除くために、神の独り子イエス・キリストを、罪深い肉(人間)と同じ姿でこの世に送って下さいました。ベツレヘムの馬小屋で誕生なさったイエス様です。クリスマスの出来事です。全宇宙をお造りになり、人間をお造りになった神様が、神様であることをやめずに、同時に造られた存在である人間、私たちと同じ肉体を持つ人間、切れば赤い血の出る人間になって下さったのです。「その肉において罪を罪として処断されたのです。」肉体を持つイエス様は、十字架に架けられました。苦難を耐えられました。私たち皆の全部の罪を、私たちの身代わりに背負って十字架の苦難を引き受けられ、死なれました。私たちに代わり、本来私たちが受けるべき父なる神様の裁きを、イエス様が背負いきって下さいました。そのお陰で、1節に明記されている通り、私たちは今や罪に定められることはなくなり、全ての罪を赦されて天国に入れていただけることになったのです。イエス様に、ひたすら感謝するほかありません。

 (4節)「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」律法の要求は、全ての罪が正しく裁かれることです。イエス様が人類の全部の罪への全部の裁きを引き受けて下さったので、律法の要求は完全に満たされたのです。もはや私たちキリストに結ばれた者は神様の裁きから完全に解放されました。ここにこそ私たちの平安、真の平安があります。

 サムエル記(下)に戻ります。ナタンがダビデに言います。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれて来るあなたの子は必ず死ぬ。」生まれたばかりの男の子には何の落ち度もないのですから、男の子は気の毒としか言いようがありませんが、ダビデとバト・シェバの罪を身代わりに背負ったかのように、男の子は死にます。ダビデはわが子が助かるように、必死に神様に願い求め、断食して祈りました。まさに全身全霊で祈りました。しかし、ダビデの犯した罪があまりに大きかったからでしょう、神様はダビデのこの祈りを聞き届けては下さいませんでした。神様は、私たちの祈りを聞き届けて下さることもありますが、そうでない時もあります。ダビデは、神様のなさりようを受け入れました。こうなった原因は自分の罪なのです。ダビデは家臣たちに言いました。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところ(陰府、死者の国)に行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」男の子は、自分の父親と母親の身代わりのように死にました。私たちの罪を身代わりに背負って死なれたイエス様を、暗示しているかもしれません。

 次の24、25節は、神様の慰めとも言えます。「ダビデは妻バト・シェバを慰め。彼女のところに行って床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた。主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名付けた。」そもそもが不倫結婚ですから、ダビデとバト・シェバは離婚すべきだという意見も聞いたことがあります。しかし神様は、喜んでではないかもしれませんが、二人の結婚を認められたように思えます。二人は、最初の男の子が死ぬという厳しい報いを受けました。真に痛い思いをして、神様を侮ってはならないことを学ばせられました。それをけじめとして、神様が憐れみをもって、二人の結婚を認めて下さったように見えます。私はウリヤが気の毒だと思うのですが、死んだウリヤのことは、神様にお委ねするほかありません。ダビデとバト・シェバには、神様の憐れみによってソロモンという男の子が与えられました。ダビデが罪を犯し、バト・シェバが罪を犯し、ソロモンも将来罪を犯します。にもかかわらずこの一家が曲がりなりにも成り立って行くのは、ひとえに神様の憐れみによります。私たちも罪ある者です。罪をなくそうと努力しても、罪を完全になくすことができません。そんな私たちも、イエス様の十字架と父なる神様の憐れみのお陰で、まだ生かされています。この神様の憐れみに感謝し、与えられた日々を、神様が与えて下さった務めを果たすために用い尽くして参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。


2016-12-07 20:23:08(水)
「良い羊飼いキリスト」 2016年12月4日(日) アドヴェント(待降節)第2主日礼拝説教
朗読聖書:詩編23編1~6節、ヨハネ福音書10章1~21節。
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章11節)。
 
 イエス・キリストが3~5節で、おっしゃいます。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」この羊飼いは、イエス・キリストです。聖書の舞台地であるイスラエルの人々にとって、羊や羊飼いは身近な存在です。羊飼いは、命を張って羊たちを守ります。イスラエルの人々は、羊飼いの姿を見て、神様はまさにこの羊飼いのような方だと実感していたのでしょう。

 当時の羊飼いの仕事は、いわゆる3Kだったと聞きます。「汚い、きつい、危険」の三拍子が揃っていたのです。今でも生き物相手の仕事は、人間中心ではなく、生き物中心になるので、なかなかきついと思います。東久留米教会の前の会堂の台所に、崖から落ちそうになっている一匹の羊を、羊飼いが必死につかんで落ちないようにしている絵が、かかっていたと記憶しています。モーセも少年時代のダビデも羊飼いでした。ダビデは巨人ゴリアテと戦う前にサウル王にこう言いました。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒して来たのですから、あのペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。」

 ここに羊飼いの生活のハードさが表れています。羊を襲うライオンや熊とも戦わなければならないのです。文明生活に慣れた私たちに務まるかどうか疑問です。父なる神様も、神の子イエス・キリストも悪魔の力と戦って、羊(私たち)一匹一匹を守って下さいます。羊たちは羊飼いを全面的に信頼しています。羊飼いは愛と責任をもって羊たちを安全な方向に導きます。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」と、イエス様がおっしゃっている通りです。この場合の「ほかの者」は、イエス様を批判するファリサイ派の人々です。

 7節以下には、「イエスは良い羊飼い」との小見出しがつけられています。恵み深い御言葉です。イエス様は言われます。(10~11節)「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ヨハネによる福音書でイエス様はよく、「わたしは~である」と宣言なさいます。「わたしは~である」が原語のギリシア語で「エゴー・エイミー」です。英語の「アイ・アム」と同じ意味です。この「エゴー・エイミー」は、出エジプト記3章14節で、神様が自己紹介しておられる御言葉と深く一致します。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしあなたたちに遣わされたのだと。』」イエス様が「わたしは~である」とおっしゃるとき、ご自分が全宇宙を創造なさった神ご自身であり、旧約聖書でモーセをイスラエルの人々に遣わした神ご自身だと宣言しておられるのです。そして同時に、ご自分が良い羊飼いであることを宣言しておられます。

 「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」私が牧師になる按手式を受けたのは、1998年の12月です。18年前になります。その時、一緒に按手を受けた神学校の同級生のお母様が、私に色紙をプレゼントして下さいました。そこにはこの御言葉が書かれていました。本当に良い御言葉を書いて下さいました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」今でも保管しています。見るたびに、自分の責任を痛感させられる色紙です。

 (12~13節)「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。―彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」 「私は羊飼いか、あるいは使命感・責任感のない雇い人にすぎないのか。」この御言葉を読むたびに、自分が問われていると感じます。 そして良い羊飼いイエス様は断言されます。(15節)「わたしは羊のために命を捨てる。」(17~18節)「わたしは命を、再び受けるために捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」イエス様は私たちを愛しておられるので、私たちの罪を背負って、進んで十字架に架かって命を捨てて下さいます。ヨハネによる福音書、自ら進んで十字架を背負う、雄々しいイエス・キリストの姿を描いています。

 本日の旧約聖書は、有名な詩編23編です。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
 主はわたしを青草の原に休ませ/ 憩いの水のほとりに伴い
 魂を生き返らせてくださる。」
この羊飼いは、イエス・キリストだと言うことができます。
「死の陰の谷を行くときも/ わたしは災いを恐れない。
 あなたがわたしと共にいてくださる。」
私たちもいずれ、死の陰の谷を行きますが、良い羊飼いイエス様が共にいて下さいます。イエス様が、私たちを死の陰から救い出し、天国に同伴して下さいます。

 私たち東久留米教会は、10月に初代牧師A先生を、天にお送り致しました。先日、ある方から次のようなお手紙が届きました。これを読み、私は先生が本当に良い羊飼いでいらしてことを深く感じました。「幼少の頃より、遠く銀座まで自転車で、『子どもの友』を買いに走って下さったり、教会で可愛がって下さり、洗礼を授けて下さいました。時が流れて、神様から授かった子ども達と、読んだ絵本の多くが、先生が労して届けて下さった作品で、私の中には先生を通して多くの御言葉が流れ、活きているのだなと思います。」

 良い羊飼いである神様・イエス様のお姿は、ルカによる福音書15章のイエス様のたとえ話にも出て参ります。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失った人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」良い羊飼いイエス様は、私たち羊を愛を込めて担いで下さいます。

 私は、マーガレット・パワーズという女性の作品と言われる、「あしあと」という有名な詩を思い出します。この方は、共に歩んで下さっているはずの神様に、疑問をぶつけます。「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしと共に歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしには分かりません。」 神様が応えて下さいます。「わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 良い羊飼いが、今日もこれからも私たちを背負っていて下さいます。このイエス様に信頼して、ご一緒に進みたく思います。アーメン(「真実に、確かに」)。


2016-11-30 19:07:23(水)
「日々新たにされる私たち」 2016年11月13日(日) 聖徒の日・召天者記念日礼拝説教 
 
朗読聖書:コヘレトの言葉12章1~14節、コリント(二)章4章16~5章41節。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(コリントの信徒への手紙(二)4章16節)。

 この手紙を書いたのは、イエス・キリストの弟子・使徒パウロです。最初の16節「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」これは現実です。「外なる人」とは、私たちの肉体・外見と言えます。それは残念ながら次第に衰えます。最近の60代、70代、80代の方々は、以前に比べてずっと若々しいですし、アンチエイジングもはやっていますが、それでも肉体が少しずつ衰えることは避けられません。パウロも同じでした。それでは年齢を重ねることにプラスはないのかと言うと、パウロは「わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」と語ります。「内なる人」とは心とも言えます。一般的には、年齢と共に人格が成熟するということがあります。信仰に生きる人の場合はそれにとどまらず、聖書を読み、祈りを続けてきたことで、神の聖霊によって、ますます満たされ清められます。特に祈りにおいて、神様とますます深く交わるようになります。聖書を読んでも、若い時には気に留めなかった小さな御言葉が心に留まり、その深い意味をしみじみと味わうようになる、と聞いたことがあります。

 そうは言っても、肉体が弱くなる老化が厳しいことであることは事実です。そのことに不安を覚える私たちに、神様は旧約聖書のイザヤ書46章3~4節で、このように語りかけて下さいます。
「あなたたちは生まれた時から負われ
 胎を出た時から担われて来た。
 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
 白髪になるまで、背負って行こう。
 わたしはあなたたちを造った。
 わたしが担い、背負い、救い出す。」
これは神様の、実にありがたい約束です。

 コリント書に戻り、17節「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」艱難は、この世の苦労と思います。パウロの場合は、迫害を受ける苦労もありました。パウロは、艱難は一時的だと言います。この世のどんな苦労も、永久に続くことはありません。でもその渦中にある人は、苦労がいつまでも続くような絶望的な気持ちになることもあります。しかしパウロは、「この世の苦労は永久に続くことはなく、天国では地上の苦しみを全て忘れてしまうほどのすばらしい栄光を、永遠に味わうことができる」と述べます。私たちより先に天国に行かれた方々は、人の言葉で表現できないすばらしい永遠の祝福と慰めの中におられます。

 (18節)「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」私たちはこの目に見える世界に生きていますから、どうしてもこの世界のことばかり考えます。もちろん自分や家族のこと、地域のこと、世界のことに責任をもつことは大切です。私たちは日々、様々な責任を果たす必要があります。でも、私たちの人生は死をもって終わります。それだけならば、一体何のために苦労して生きているのかという疑問や空しさを覚えるのも当然でしょう。でも聖書は、天国、永遠の命の希望があると告げています。神様は、全ての人に天国・永遠の命に入ってほしいと願って、招いておられます。私たちが天国・永遠の命に入ることを願って、神の子イエス・キリストは、私たちの身代わりに十字架に架かって死なれました。私たちは日々、神様に少しずつ逆らって罪を犯していますが、イエス様はその全ての罪の責任を私たちの身代わりにおとりになって、十字架で死なれました。そして三日目に墓を破って復活されました。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ告白する人は皆、天国・永遠の命に入ります。

 ヨハネの黙示録14章13節に、次の慰めの御言葉があります。「また、わたし(著者ヨハネ)が天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と。』“霊”も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」天国に行けば、そこで父なる神様・イエス・キリストと直接お目にかかり、神様を讃美することになります。先に天国に行った方々とも再会して、共に神様を讃美する最高の祝福と安らぎの状態に入ります。

 5章に入り、1~2節。「わたしたちの地上の住みかである幕屋(この肉体)が滅びても、神によって建物(復活の体)が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものでない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みか(復活の体)を上に着たいと切に願って、この地上の幕屋(今の肉体)にあって苦しみもだえています。」東久留米教会は、先月10月14日(金)に、初代牧師であるA先生を天にお送り致しました。A先生が東久留米教会の牧師でいらしたとき、お説教でよく人生の苦しみについて「生老病死」と語られたそうです。「生老病死」は仏教の言葉かもしれませんが、人生にこの4つの苦しみがあるというのです。確かにその通りです。生きること自体がまず苦しみとも言えます。生きている限り、いろいろな悩みが出て来るのですから。そして「老病死」は、私たちにつきまとっています。今の日本では高齢化に伴い、老の苦しみが多くなっているかもしれません。

 私は、旧約聖書のコヘレトの言葉12章を思い起こします。1節は、教会ではよく知られる御言葉です。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」口語訳聖書では、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」です。青年の集会のテーマになることの多い御言葉です。続きがあります。「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」老いることの厳しさを述べています。「年を重ねることに喜びはない」という年齢にならない若い日に、あなたの造り主である神様を知り、神様に帰りなさい、というメッセージです。神様を信じる人生にこそ、真の希望があるからです。神様を信じない人をも、神様は守っておられます。でも神様を信じて、神様に祈りながら生きるほうがずっと恵みです。神様を信じていても試練はあります。しかしそれでも神様に祈りながら、神様との交わりの中で慰めを受け、励まされて生きることができます。

 2節以降は、具体的に体の衰えを比喩を用いて語っているのですね。
「太陽が闇に変わらないうちに/ 月や星の光がうせないうちに。」
これは視力が落ちて、太陽も月も星もよく見えなくなることを述べています。昔は眼鏡もないので、視力のダウンを眼鏡で補うこともできませんでした。
「その日には、家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。」
手足などが震えるようになり、腰が曲がっていくことを述べています。
「粉ひく女の数は減って行き、失われ/ 窓から眺める女の目はかすむ。」
歯が減り、眼がよく見えなくなることを言っています。
「通りでは門が閉ざされ、粉をひく音はやむ。/ 鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。」耳が聞こえにくくなり、声もだんだん低くなることを指すようです。

 このように年齢を重ねることの厳しさを語り、その前に最初の1節で、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と勧めています。どなたでも今後の人生では、今日が一番若いのですから、今日、神様を信じて、神様に祈り、神様を礼拝する、真の希望のある人生に入りたいのです。

 私たちに命を与えて下さった方は、聖書の神様です。命の与え主である神様につながることで、私たちは真の安息と永遠の命を受けます。アゥグスティヌスという昔のクリスチャンは神様に向かって、「あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまで、安んじない」(アウグスティヌス著・服部英次郎訳『告白(上)』岩波書店、2012年、5ページ)と告白しました。まさにその通りです。私たちはご一緒に、主イエス・キリストを救い主と信じて、厳しい現実の中にありつつも、真の希望のある人生を歩ませていただきましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。


2016-11-09 19:58:42(水)
「心の目が開く」 2016年11月6日(日) 東久留米教会創立55周年礼拝説教
朗読聖書:士師記16章21~31節、ヨハネ福音書9章24~41節。
「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(ヨハネ福音書9章39節)。

 ヨハネによる福音書9章は、全体として一つのストーリーになっています。先月の第一日曜日の礼拝で前半を読みました。本日は終わりの方の24節から先を読んでいます。しかし、やはりこのストーリーの発端を語らないわけにはいかないでしょう。発端は、第1節にある通り、イエス様が通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられたことです。弟子たちが問います。「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエス様が、誰も予想できなかった答えをなさいます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」この御言葉は、昔から多くの人に慰めと救いを与えてきました。何か神様の深いお考え・ご計画がある、というのです。

 拉致問題の被害者である横田めぐみさんのお母様の横田早紀江さんのご著書『愛は、あきらめない』(いのちのことば社、2014年、111~112ページ)にも、この御言葉が引用されています。「娘がこつ然と姿を消すという、思いもかけない大きな出来事の中にあって、夜はあまり眠れず、昼間はむなしくなってぼんやりしたり、涙にぬれていたりしました。そんな頃に、いろいろな宗教や占いの人たちが、よく訪ねて来て、『こんな事件が起こるのは因果応報だ』とか、『きちんと先祖をお祀りしていないからだ』とか、心に突き刺さることばを残していきました。~
 そんなことに心を痛めている私に、めぐみのいちばん仲の良かったお友達のお母さんであるMさんが、慰めの言葉をかけてくださいました。それは聖書の言葉でした。「イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』
 初めて聞く、不思議な言葉でした。彼女はまた、『神のわざがというのが、どう現れるのかは今はわからないけれど、これはものすごく大きなことね』と言いました。私にとって理解は難しかったのですが、このことが子どもの罪のためでも、両親の罪のためでもないということばは、当時の私の心の中に、大きな慰めを与えてくれたのは確かでした。」

 このヨハネ福音書9章の盲人の場合は、イエス様によって肉眼を開かれたのです。それはすばらしい愛の奇跡ですが、もっと大切なことは、この人の心の目が開かれていくことかもしれません。イエス様が、彼の肉眼を開く愛の奇跡を行って下さったのは、安息日でした。ユダヤ社会では、安息日はいかなる仕事もしてはいけない日として決められていました。ところがイエス様は、実に大胆なことに、あえて安息日にこの盲人の肉眼を開かれたのです。そこにはイエス様の意図があったと思います。安息日はただ単に何もしないための日ではないのです。安息日は神様を礼拝し、神様と隣人を愛する日なのです。ですから安息日に愛の癒しを実行することは、本当は安息日に最もふさわしいことです。イエス様はそれを示すために、あえて安息日にこの盲人の肉眼を開いて下さいました。しかしそれは、表面的にはユダヤの社会の掟に反することだったので、ユダヤ人の強い反発を買いました。でも盲人だった人は、イエス様に深い尊敬の念を抱くようになりました。彼は17節でこう告白します。「あの方は預言者です。」

 本日の24節以下は、この人と、イエス様に反発するユダヤ人たちとの対話です。イエス様についての両者の意見は正反対です。「さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。『神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。』彼は答えた。『あの方が罪人(つみびと)かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。』すると、彼らは言った。『あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。』彼は答えた。『もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。』」この人は、イエス様の弟子になりたいと願うようになっていたのではないかと思います。

 「そこで、彼らはののしって言った。『お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者(イエス様)がどこから来たのかは知らない。』」このユダヤ人たちは、イエス様に反感を抱いていますが、この反感は間違っています。モーセがイエス様に接すれば、喜んでイエス様に従うに違いないのです。このユダヤ人たちは、自分たちがモーセの弟子だと自慢げに言っていますが、モーセの真の弟子ならば、イエス様に喜んで従うはずなのです。それなのにイエス様に反発しているということは、彼らには物事が正しく見えていないからです。でもそれは私たちも同じかもしれません。私たちは日ごろ、自分のしている日々の判断は、まずます正しいと思っているでしょうが、本当に正しいかどうかは、神様に伺ってみないと分かりません。私たちは、気づかないうちに様々な色眼鏡・偏見をもって物事を判断している可能性があります。単なる好き嫌いで判断してしまうことさえあるように思います。何の偏見もなく、物事を正しく判断できる方は、イエス様です。イエス様と同じように物事を見て判断し、行動できるように、絶えず神様に祈り続ける必要があります。

 本日の旧約聖書は、士師記16章21節以下です。神様が、イスラエルをペリシテ人から救うためにお立てになったサムソンが登場致します。サムソンはナジル人(びと)として、神様に献げられた人です。彼には弱点があり、それは女性でした。神様はサムソンに怪力を与えておられましたが、その怪力の秘密は長い髪の毛にありました。サムソンはその聖なる秘密を、デリラという女性に打ち明けてしまいます。デリラは膝を枕にサムソンを眠らせ、人を呼んでサムソンの髪の毛七房をそらせます。彼の力は抜け、神様も彼を離れられました。ペリシテ人がサムソンを捕らえ、目をえぐり出してガザという所に連行し、青銅の足枷をはめ、牢屋で粉をひかせます。サムソンは肉眼が見得なくなって、かえって物事の本質が見えるようになったかもしれません。明かしてはならない大切なことを、女性に打ち明けてしまった罪を深く悔い改めたかもしれません。そして神様が与えて下さった使命、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ使命に、もう一度目覚めたのかもしれません。

 サムソンは、神様に祈ります。「わたしの神なる主よ、わたしを思い起こしてください。神よ、今一度だけわたしに力を与え、ペリシテ人に対してわたしの二つの目の復讐を一気にさせてください。」こうしてサムソンは、多くのペリシテ人と共に息絶える結果になります。この最後の場面は、自爆テロのようで抵抗を覚えますが、サムソンがイスラエルを苦しめるペリシテ人からイスラエルを救う使命に立ち帰ったことを意味するのでしょう。彼は肉眼を失いましたが、罪を悔い改めて心の目が開き、使命に生きる自分を取り戻したと思われます。

 アメイジング・グレイスという有名な讃美歌があります。『讃美歌21』の451番です。作詞者はジョン・ニュートンというイギリス人です。日本語の歌詞に訳出されていないのですが、英語の歌詞を見ると、「私は以前は見えなかったが、今は見えるようになった」という部分があります。彼は奴隷船の船長だったそうです。奴隷を牛馬のように扱ったことでしょう(もちろん、牛馬を虐待することも罪です)。しかし後に悔い改めて、伝道者になり、この歌詞を作ったようです。以前の自分は罪を犯しても平気な者、大切なことが何も見えていない者だったが、神様の驚くべき恵みによって、今は本当のことが見えるようになった。

 マタイによる福音書7章1節以下で、イエス様がこうおっしゃっています。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

 私たちの偏見が取り除かれて、心の目が開かれますように。どうか私たちが、イエス様の目で物事を見、イエス様の心で思い考え、イエス様に喜んでいただける行動をすることができますように。アーメン(「真実に」)。


2016-11-09 18:02:58(水)
「洗礼を受けたイエス・キリスト」 2016年10月30日(日) 修養会礼拝説教 
朗読聖書:詩編2編1~12節、マタイ福音書3章13~17節。
「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(マタイ福音書3章17節)。

 紀元30年頃のことです。中東の小さな国イスラエルの荒れ野に、洗礼者ヨハネが現れました。ヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言い、「神の前にへりくだって各々の罪を悔い改めなさい」と、力強く公の伝道を開始したのです。ヨハネは、神様のメッセージを代弁しました。すると大勢の人々がエルサレムとユダヤ全土、そしてヨルダン川沿いの地方一帯からヨハネのもとに来て、各々の罪を告白し、罪を悔い改めて、ヨルダン川でヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けました。ヨハネは神様のメッセンジャーとして民衆に大きな影響力をもったのですね。しかしヨハネは、自分の後に、はるかに偉大な神の子がやって来られることを、よく知っていました。自分がしていることは神の子が働かれるための、準備の奉仕であることを、よく悟っていました。ですからこう言いました。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」

 悔い改めと言えば、マルティン・ルターの宗教改革を思い出します。明日10月31日は宗教改革記念日です。宗教改革は、キリスト教会の改革運動です。教会とクリスチャンの改革とは、つまりは罪の悔い改めです。まず自分自身をこそ日々改革することが必要です。それは日々、自分の罪を悔い改めることです。マルティン・ルターは、499年前の10月31日に、ドイツのヴィッテンベルク城教会に、「95ヶ条の提題」(討論のテーマ)を貼り出しました。それは当時の教会が悔い改めを忘れていたからでしょう。ルターが掲げた第一の提題は、こうです。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『あなたがたは悔い改めなさい』と言われたとき、イエスは信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」(徳善義和『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』岩波新書、2012年、67ページ)。先週の礼拝で読んだ詩編51編は、真実な「悔い改めの詩編」として知られています。昔から多くの人々が詩編51編を愛し、信仰深い人々は臨終の床で詩編51編を口や心で祈り、自分の罪を悔い改めながら、天に召されたそうです。そんな生き方こそ、ルターが願った生き方、宗教改革の心に即した生き方だと思うのです。来年は宗教改革500年の記念の年です。今から色々な記念行事が計画されています。その中心に、罪の悔い改めこそ必要です。

 さて、ヨハネが人々に洗礼を授けているところに、ある男性がやって来たのです。ヨハネの母エリサベトと、イエス様の母マリアは親類ですが、ヨハネはその男性(イエス様)に会うのは初めてでした。しかしすぐピンと来たのです。この方こそ、自分を含めて、神の民イスラエルの皆が待ち望んでいるメシア(救い主)・神の子にほかならないと直感しました。その方はヨハネに、洗礼を授けてほしいと申し出たのです。(13節)「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼(バプテスマ)を受けるためである。」イエス様もイスラエル人の一人です。ご自分の多くの仲間が、父なる神様の御心に従って、ヨハネに自分の罪を告白し、へりくだってヨハネから洗礼を受けているのを見て、ご自分もその人々の友になろうと思われ、洗礼を受けることを申し出られました。

 洗礼は、罪の赦しをいただくために受けるものですから、全く罪のない神の子であるイエス様が、洗礼を受ける必要は全くありません。しかもヨハネは、相当清く正しい人ではあるけれども、神様から見れば少しは罪があるのです。罪人(つみびと)の一人であるヨハネから、全く罪のない神の子であるイエス様が、洗礼を受ける必要は少しもありません。ですがイエス様は非常に謙虚な方なので、あえてヨハネの前に頭を垂れて、洗礼を受けると申し出られたのです。イエス様は、神の子であると同時に、一人の人間です(但し、ほかの人間と異なる点は、罪が全然ない人間であることです)。一人の人間なので、ほかの人々の仲間になるために、同じように洗礼を申し出られました。神の子だから特別扱いしてほしいなどとは、全くおっしゃいません。

 思えばイエス様は、神の子でありながら、ベツレヘムの貧しい馬小屋で誕生されました。そして貧しい人々や病気・障碍をもつ人々の友として歩まれ、ご自分には必要のない洗礼を受けられ、愛する弟子に裏切られ、見捨てられ、全く罪を犯したことがないのに、最大の罪人がかかるべき十字架で死なれました。私たちができるだけ避けようとするこの世のマイナス面を、一手に引き受けた生き方をなさいました。そうしないと、この世界の人々が救われないからです。

 ヨハネは、まさか神の子が自分の所に来て、洗礼を申し出られるとは思っていませんでしたので、驚きます。(14節)「~ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼(バプテスマ)受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』」 ヨハネは本当に自分という存在をわきまえていますね。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべき罪人です。」その通りです。ヨハネは全然おごっていません。「イエス様、あなたこそこの罪人(つみびと)である私に、罪の赦しの洗礼を授けて下さい。」ヨハネはこう言いたい心境だったでしょう。それが当然です。

 (15節)「しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」 「正しいこと」とは、父なる神様の御心にかなうこと、父なる神様の御心に従うことです。イエス様は、父なる神様に等しい方、つまり三位一体の神ご自身ですが、父なる神様を愛しておられるので、父なる神様に喜んで服従なさいます。罪が全くないのに洗礼を受けられ、十字架で死なれます。私たち罪人(つみびと)と同じ立場に立って、友となって下さいます。ヨハネは、イエス様の指示に従います。イエス様は洗礼を受けられました。ヨハネは、罪人(つみびと)である自分がこのように大きく用いられて、何とイエス様に洗礼を授けさせていただくあまりの光栄に、心震える気持ちで洗礼をお授けしたに違いありません。

 (16~17節)「イエスは、洗礼(バプテスマ)を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」 マルコによる福音書1章の同じ場面では、「天が裂けて」という強い表現が用いられています。「天が開いた、天が裂けた」とは、日常とは異なる出来事が起こったということでしょう。日常を超えた出来事が起こったのです。

 本日は修養会の日で、修養会のテーマは「三位一体の神」です。今のイエス様が洗礼を受けられた箇所の特徴は、神の子イエス・キリストが登場され、聖霊なる神様が鳩のように降られ、父なる神様のお声「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」が聞こえたということです。つまり、父・子・聖霊なる三位一体の神様が揃っておられることです。父なる神様・子なる神キリスト・聖霊なる神様は、それぞれ固有の人格(神格)を持ちながらも、ただおひとりの神です。決して多神教ではありません。これは私たちの頭で考えると、確かに矛盾です。しかし私たちの頭には限界があります。小説家は、「自分より優れた人格は書きえない」と聞いたことがあります。私たちよりはるかに偉大で深い方である神様を、私たちが完全に理解することはできません。私たちにできることは、聖書の神様が、確かに三位一体の神であることを聖書に基づいて信じ、この宇宙をお造りになり、私たちを造って下さったことを感謝し、この神様を賛美することだけなのです。

 イエス様が洗礼を受けられたとき、父なる神様の肉声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」この肉声によって、イエス様が「父なる神様の愛する子」、神の子であられることがはっきり分かります。イエス・キリストは神の子です。これは本日の旧約聖書である詩編の第2編に登場する御言葉でもあります。詩編第2編は、メシア(救い主)を予告・預言する詩編です。その2節は、メシアであるイエス様に人々が反抗することを予告しています。
「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/ 人々はむなしく声をあげるのか。
 なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して
 主に逆らい、主の油注がれた方(メシア)に逆らうのか。」
この部分は使徒言行録4章に引用され、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスとローマから派遣された総督ポンティオ・ピラトが、ローマ人やイスラエルの民と一緒になり、イエス様に逆らったことを預言する御言葉だと、はっきり書かれています。
 
 7節の後半が、イエス様が洗礼を受けられたとき、父なる神様が天から語られた御言葉です。「お前はわたしの子/ 今日、わたしはお前を生んだ。」こう書いてありますから、イエス様は父なる神様から生まれた方、神の子であられます。このことについて、新約聖書のコロサイの信徒への手紙1章15節に、次のように書かれています。「御子(イエス・キリスト)は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」 イエス・キリストは神の姿、つまり神だと書かれています。そして「すべてのものが造られる前に生まれた方です」と書かれています。天地創造の前に「生まれた方」です。天地創造の前にキリストは生きておられたのです。「生まれた方」であるということは、造られた存在ではないということです。この世界には、すべてをお造りになった神と、神に造られたものしか存在しません。中間のものはないのです。キリストは造られた存在でないのですから、すべてを造った方、神であることは確かです。

 私たちは礼拝で毎週、使徒信条によって信仰告白を致しますが、もう一つ古代教会から受け継がれている信仰告白の文章に「二ケア信条」があり、『讃美歌21』の147ページに記されています。そこでは、イエス・キリストについて、このように告白されています。私たちももちろんこのように告白致します。「またただひとりの主イエス・キリストを信じます。主は神のみ子、御ひとり子であって、世々に先立て父から生まれ、光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでなく生まれ、父と同質であって、すべてのものは主によって造られました。」この二ケア信条には、三位一体が強調されています。

 古代教会の時代には、イエス・キリストについて様々な間違った説が流れました。聖書をよく読んで正しく受け取らないと、イエス・キリストについての間違った説が信じられてしまう恐れがあります。古代教会は間違った説と戦い、その一つ一つを克服して、聖書の神様が「父・子・聖霊なる三位一体の神」であるとの真理を確認するに至りました。私たちが礼拝で2回歌う頌栄は、三位一体の神をほめたたえる歌です。たとえば、頌栄29番の歌詞はこうです。「天のみ民も、地にあるものも、父・子・聖霊なる神をたたえよ、とこしえまでも。アーメン。」頌栄は、三位一体の神様をたたえる歌だと思いますので、これからの礼拝で、頌栄をますます心をこめて賛美し、父・子・聖霊なる三位一体の神様をたたえて参りたいのです。アーメン(「真実に」)。