日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2013-02-26 23:12:01(火)
「一粒の麦」 ~イースターに向かって~
 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
  だが、死ねば多くの実を結ぶ。」(新約聖書・ヨハネによる福音書12章24節)

 「一粒の麦」とはイエス・キリストのことです。イエス様は、私たちのすべての罪と過ちの責任を身代わりにとって、十字架で死なれました。私たちを命がけで愛して下さったのです。そして、三日目に復活されました。このイエス様を自分の救い主と信じる人は皆、永遠の命を受けます。これが「多くの実を実ぶ」ということの意味です。

 キリスト教会は今、イエス様の十字架の犠牲の愛を特に心に刻む季節・受難節を過ごしています。受難節が終わると喜びのイースター(十字架の死の三日目、イエス様の復活の日)を迎えます。今年のイースターは3月31日(日)です。ぜひ東久留米教会、あるいはお近くの教会の礼拝にお出かけ下さい(子どもの礼拝もあります)。子どもたちのために、楽しい「卵探し」のときを用意する教会が多いでしょう。卵はイエス様の復活の愛の命のシンボルです。

 1954年9月26日、非常に強い台風が日本を襲う中、もう大丈夫と判断した青函連絡船・洞爺丸(とうやまる)が、函館を出ました(私も1985年に青函連絡船に乗りました)。しかし浸水し転覆し、多くの方々が亡くなる大惨事になってしまいました。岸からそれほど遠くない場所だったそうです。洞爺丸にキリスト教の宣教師が三人乗っていました。そのうちのディーン・リーバー宣教師(アメリカ人)とアルフレッド・ストーン宣教師(カナダ人)は、乗客に自分の救命具を渡して亡くなったそうです。救われた人たちの家族の証言によってこのことが明らかになったそうです。この宣教師の方々は、日頃からイエス様のハート、与える愛に生きていたのでしょう。ふだんの生き方がその時も出たのです。日本人のために自分の命を献げて下さった勇気ある外国の方々がいらしたことを、私たちは決して忘れてはいけないと信じます。私たちは、自分が受けた愛や恵みを忘れることが多いですが、それは罪深いことですね。反省させられます。このお二人はまさに「一粒の麦」となって、隣人に命を与えて下さいました。

 私たちは、このお二人ほど勇敢に生きることは難しいかもしれません。ですが、隣人に小さな愛を贈りながら、イエス様の十字架の愛に感謝するこの受難節を過ごしたいのです。アーメン。(「真実に、確かに」の意)。

2013-01-27 17:14:53()
「これからは、もう罪を犯してはならない。」 ~映画『レ・ミゼラブル』を見て~
 話題のミュージカル映画『レ・ミゼラブル』(「悲惨な人々」の意、原作はフランス人ビクトル・ユゴー)を見ました。日本では『ああ無情』のタイトルで有名です。

 ジャン・ヴァルジャンという男が主人公です。一本のパンを盗んだために19年間監獄に入れられます。姉(夫は死亡)の7人の子どもたちを養うために懸命に働きますが、貧しくてパンがなくなります。パンを盗もうとして捕まります。盗みはやはり行ってはならない罪です。5年の刑でしたが、脱走を4回も試みたために19年になります。やっと解放されますが、前科者を泊めてくれる所がありません。しかしカトリック教会が泊めてくれます。ですがジャン・ヴァルジャンは恩を仇で返します。銀の食器を盗みます。ところが、ミニエル老司教(カトリック教会の聖職者)は憲兵に、銀の食器は自分がジャンにあげたものだと告げます。そして銀の燭台までもあげてしまうのです。ジャンは驚いて、体を震わせます。憲兵もジャンを釈放するほかなくなります。

 ミニエル老司教が最も重要な言葉を語ります。「決して忘れないでください。あなたが正直な人間になるために、この銀器を使うとわたしに約束したことを。~あなたはもう悪の味方ではなく、善の味方です」(『レ・ミゼラブル(一)』新潮文庫、168ページ)。ミニエル司教は、ジャン・ヴァルジャンを刑務所に逆戻りさせたくなかったのだと思います。立ち直らせたかったのです。「決して忘れないでください。あなたが正直な人間になるために、この銀器を使うとわたしに約束したことを。」これはジャン・ヴァルジャンへの決定的に重要なメッセージです。愛をこめて「もう罪を犯してはなりませんよ」と言い含めたのです。イエス・キリストは姦通の罪を犯した婦人に、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(新約聖書・ヨハネによる福音書8章11節)と言われました。ミニエル司教のメッセージとイエス様の御言葉の中身は同じです。ミニエル司教は、イエス様のハートで生きていたのです。わたしたちもそうでありたいですね。

 ジャン・ヴァルジャンは感激し、ミニエル司教を裏切らないという一念で生き始めます。市長になり、悪戦苦闘しながら、人を愛して正直に生きてゆきます。立ち直って、一生懸命生きる姿に感銘を受けます。ジャン・ヴァルジャンの生き方を見て、イエス様の次の御言葉を思い出しました。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(新約聖書・ルカによる福音書15章7節)。アーメン(「真実に、確かに」の意)。







2012-12-26 19:59:01(水)
クリスマスおめでとうございます。
 クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日です。皆様に、イエス様の祝福をお祈り申し上げます。

 イエス様は、馬小屋で誕生され、貧しい家庭でお育ちになりました。ですから貧しい人の気持ちがよくお分かりになります。そして父ヨセフから大工仕事の手ほどきを受け、その手伝い(肉体労働)をなさったと思います。成長すると、人々に真の神様のことを話し、愛のゆえに人々の病をいやし、弟子たちの足を洗われました。ひたすら愛の奉仕に生きたのです。33歳くらいのときに、私たちすべての人間のすべての罪と過ちの責任を身代わりにとって、十字架で死なれました。そして三日目に復活されました。このイエス様を自分の救い主と信じ、告白する人には、すべての罪と過ちのゆるしと永遠の命が与えられます。皆様ぜひイエス様を信じて下さい。そして聖書を読み、キリスト教会においで下さい。

 イエス様のような愛に生きようとした人は多くおられます。三浦綾子さんの『塩狩峠』は非常に感銘深い小説です(新潮文庫、670円+税)。ぜひお読みいただきたいと思います。この小説の主人公にはモデルがおり、長野政雄という鉄道職員です。北海道旭川の北約30㎞の所に、塩狩峠という大きな峠があるそうです。1909年2月28日、この峠を登っていた列車の最後部の客車が突然分離し、後ろから下り始めたそうです。熱心なクリスチャンでたまたま乗車していた長野氏は、すぐにデッキに出てブレーキを全力でしめましたが止まりきらず、線路に飛び降り、自分の体を下敷きにして客車を完全に止めました。長野氏の死により、ほかの乗客全員が助かりました。三浦さんはこの約半世紀後に同じ教会の会員となり、この出来事を知って深く感動し、『塩狩峠』を書かれました。最後のページにイエス様の御言葉「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである」(新約聖書・ヨハネによる福音書12章24節)が文語訳で引用されています。この御言葉は、「だが、死ねば多くの実を結ぶ」と続きます。長野氏はイエス様に従って生きたのです。

 三浦綾子さんの本を読んでクリスチャンになった方は多いのです。皆様もぜひお読みください。自伝『道ありき』(新潮文庫)、分かりやすい『旧約聖書入門』(光文社、知恵の森文庫)、『新約聖書入門』(同)がお薦めです。ぜひ読んでいただきたいと願います。アーメン(「真実に、確かに」の意)。







 
2012-11-12 20:32:29(月)
聖書:ヨハネによる福音書3章16節
「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」聖書の中で、最も愛されている言葉の1つです。この「愛された」は、原語のギリシア語では、アガペーという言葉の動詞の形です。相手からの報いを少しも求めない「無償の愛」です。英語の「チャリティー」に近いでしょう。徹底した相手中心の愛です。イエス様は「敵を愛しなさい」と説かれましたが、まさにこれがアガペーです。16世紀に日本に初めてキリスト教が入ったとき、当時のキリシタン(クリスチャン)たちは「お大切にする」と訳したそうです。

 無償の愛で思い出すのは、2001年にJR新大久保駅で、線路に落ちた男性を助けようと、二人の男性が線路に飛び込んだ出来事です。非常に残念なことに三名とも命を落とされましたが、日本中に大きな感動を呼びました。私も大変感激しました。飛び込んだ男性の一人は韓国人の青年でした。その後、ご両親が韓国から来られて、息子さんが若い命を散らした現場で悲しみに耐えておられました。私たちにとって忘れられない出来事だと思います。私はその後、新大久保駅に行ったとき、ホームから階段を降りた所の壁に、飛び込んだお二人の勇気をたたえる記念プレートがはめ込まれているのを見つけました。

 もう1つ思い出すのは、戦争で中国に残された日本人の子どもたちが大人になって、肉親を探しに大勢で日本に来られたことです。私が中学生だった1980年頃です。育てて下さったのは中国人の養父母の方々です。これも感謝すべき愛です。また昨年の東日本大震災のとき、中国人の研修生の女性たちを助けて、その後自分の家族を探しに行って津波にのまれた日本人男性もおられました。私たちの世の中は、多くの方々の無償の愛に支えられています。

 イエス様は、とことん無償の愛に生きられました。私たちはわがままに生きてしまいがちですが、イエス様は私たち全員のわがまま(罪と過ち)の責任を身代わりにとって、十字架で死んで下さったのです! そして三日目に復活されたのです。イエス様は十字架にかかることで、最高の無償の愛を生きられました。この大きな犠牲の愛をいつまでも心に刻むために、キリスト教会には十字架があります。アーメン。(「真実に、確かに」の意)。