日本キリスト教団 東久留米教会

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2014-04-28 22:48:52(月)
「すべての造られたものに福音を」2014年4月27日(日)復活節第2主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書11章1~10節、マルコによる福音書16章14節~結び二
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
(マルコによる福音書16章15節)

 マルコによる福音書は、イエス様の空の墓を見て、天使からイエス様の復活を知らされた婦人たちの反応を非常に正直に伝えています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」 婦人たちは、イエス様が甦ったとは少しも予想しないで墓に行きました。天使が告げたことは、婦人たちにとってあまりに衝撃的だったのです。同じ朝、イエス様はマグダラのマリアにご自身の姿を現されました。マグダラのマリアは、以前イエス様に7つの悪霊を追い出していただいた女性です。マリアは、以前イエス様と一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、甦りのイエス様に会ったことを伝えました。しかしこの人々は、イエス様が生きておられること、マリアがそのイエス様に会ったことを聞いても、信じませんでした。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエス様が別の姿で御自分を現されたと書かれています。別の姿とはどんな姿なのか分かりませんが、別の姿であってもイエス様であることははっきり分かる姿だったようです。この二人も行って残りの人たちに知らせましたが、彼らは二人の言うことも信じませんでした。復活は、人間の理性を超えた奇跡です。理性では理解できません。神様の聖霊を注いでいただいて初めて私たちの目が開かれて、信じることができるようになります。

 今日のマルコによる福音書が、イエス様が直接登場して下さいます。(14節)「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」復活されたイエス様を自分の目で見た弟子たちは驚き、そして喜んだでしょう。ヨハネによる福音書は、イエス様の復活をなかなか信じなかったトマスという弟子を紹介しています。トマスは自分の目で直接見て、自分の手で直接触ってみなければ信じない、という人でした。トマスのこの不信仰はよいことではありませんが、イエス様はトマスの前に現れて、トマスが信じることができるようにして下さいました。イエス様はトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはそこまで言って下さるイエス様の愛に感激し、イエス様に向かって「わたしの主、わたしの神よ」と告白しました。完全に疑っていたトマスでさえもイエス様の復活を信じることができたのだから、「私も信じよう」と決断することができた人は多いのではないかと思うのです。今日のマルコによる福音書では、イスカリオテのユダを除く11人の弟子たちは、復活のイエス様に出会い、イエス様の復活を信じたのです。

 イエス様は弟子たちに任務をお与えになります。(15節)「全世界に行って、すての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」 今から5年前の2009年に「プロテスタント日本伝道150周年」の記念集会が行われましたが、その時の主題聖句がこの御言葉だったと聞きました。「すべての造られたもの」を狭く受け取れば「世界のすべての人」になりますし、広く受け取れば「神様がお造りになった世界のすべての生き物と自然界」になります。ここでは狭い受け取り方の方がよいかと思いますが、私たちが忘れるべきでないことは、イエス・キリストの十字架は人間のためだけに起こったことではないということです。それは世界の全ての生き物・自然界のためにも起こったのです。

 新約聖書のコロサイの信徒への手紙1章19~20節に次のように書かれています。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」「地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を」ですから、この宇宙全体です。この自然界全体・宇宙全体が神様から離れていた。それがイエス様の十字架の死によって父なる神様との和解に至ったというのです。創世記3章のエバとアダムが神様に背いた場面を読むと、神様がアダムにこうおっしゃっています。「お前(アダム)のゆえに、土は呪われるものとなった。」アダムの罪のゆえに土は呪われるものとなったのです。この土は自然界全体を指すと思います。創世記5章を読むとノアの父レメクという人が、ノアが生まれたとき、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるだろう」と言って、「その子をノア(慰め)と名付けた」と書かれています。そして新約聖書のローマの信徒への手紙8章には、「被造物(神様に造られたもの)は虚無に服している」、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」とあります。神様に造られたこの世界全体が、人間の罪のために神様から離れ、共にうめき苦しんでいるというのです。この造られた世界全体が神様と和解し、神様のもとに帰るためにもイエス様は十字架にかかられたのです。

 私たちは知っています。自然界は非常に美しいですが、地震・台風・津波などの災害を起こすことをです。生き物の世界の現実も食うか食われるか、生存競争、弱肉強食です。少し前に映像で見たのですが、ヘビとワニが激烈な戦いを繰り広げ、最後は何とヘビがワニを飲み込んでしまったのです。ワニがヘビをではなく、ヘビがワニを飲み込んだのです。実に恐るべきことが自然界にはあるのです。このような宇宙全体が、父なる神様と和解するためにも、イエス様は十字架にかかって下さったのです。イエス様の十字架の死によって、自然界と父なる神様の和解は実現したのですが、救いの完成は神の国の完成のときに起こります。聖書は、神様が新しい天と新しい地をもたらして下さると告げています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」すべての人にイエス様の十字架の愛を宣べ伝え、自然界全体にもイエス様の愛をもって接するということでしょう。環境破壊をしないように注意するということでしょう。自然界に向かって説教することはできないと私は思いかけましたが、自然を愛したアッシジのフランチェスコというクリスチャンは、鳥に向かって説教したと伝えられます。これは伝説かもしれませんが、神様が造られたすべてのものを愛したのです。フランチェスコは次のような讃美の歌を歌ったそうです。「太陽は兄弟、月と星は姉妹、みんななかまです」(戸田三千雄『神さまだいすき』女子パウロ会、1999年、31ページ)。フランチェスコを主人公にした映画に『ブラザーサン・シスタームーン』がありますが、「わたしの兄弟である太陽、姉妹である月」の意味ですね。「すべての造られたものに福音を宣べ伝える」気持ちで、鳥に向かって説教したのではないでしょうか。

 (16節)「信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」前半は大きな恵みの言葉、後半は厳しい裁きの言葉です。強調点は前半にあります。イエス様を救い主として信じ告白し、恵みの洗礼を受けるように全ての人を招く御言葉です。神様はすべての人がイエス・キリスト救い主と信じ告白して洗礼を受けることを望んでおられます。テモテへの手紙(一)2章4節に、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」と書かれています。神様はすべての人をイエス・キリストを信じる信仰へと今も招いておられます。イエス様を信じる人は、永遠の命をいただきます。

 (17節)「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。」確かに、イエス様の弟子たちの活動を記した使徒言行録には、この実例が見られます。使徒言行録19章に、パウロについてこう書かれています。「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。」 神様はパウロの手を通して悪霊を追い出されたのです。私たちも熱心に祈り、イエス様に従うならば、ある程度私たちの身の周りから悪霊を追い払うことができると思うのです。但し、悪霊は一旦追い払っても、またしつこく誘惑を仕掛けて来ますから、誘惑に負けないように心がけ続けたいのです。もしも誘惑に負けた時には、すぐに悔い改めたいのです。

 「新しい言葉と語る」ことについては、使徒言行録2章の聖霊が降る場面(ペンテコステの場面)に、「一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という奇跡が書かれています。私たちがイエス様を信じて洗礼を受けると、聖霊(神様の清い霊)を与えられることは事実です。聖霊を受けていることが永遠の命を受ける保証になります。聖霊を受けた人が皆、「ほかの国々の言葉で話す」わけではありません。このような奇跡体験する人もいますが、そうでない人も多いのです。私にはこのような奇跡的な体験はありません。ですが私たちが聖書を読んで、祈りをこめて聖書の話をする時、それは「新しい言葉」を語っていると思うのです。それは「神の言葉」になるからです。私たちも「新しい言葉」、「神の言葉」を語らせていただくことができるのです。

 (18節)「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」神様は何でもできる方ですから、神様が偉大な力で助けて下されば、このことが私たちに起こることは可能です。ですが、わざと手で蛇をつかんだり、毒を飲んでみるべきではありません。通常は大変な病気になり、死に至ります。わざと試してみるべきではありません。但し、使徒言行録を読むと、使徒パウロはこのようなことを体験しています。パウロが囚人としてローマに向かう途中で船が難破し、パウロや同行のルカたちはやっとの思いでマルタという島に漂着します。雨が降り寒かったので、島の住民がたき火をたいて、パウロ・ルカたち一同をもてなしてくれます。パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みつきました。そして噛んだに違いありません。島の住民たちは、パウロの体がはれ上がるか、急に倒れて死ぬだろうと思って様子をうかがっていましたが、パウロは蝮を火の中に振り落とし何の害も受けなかったのです。島の長官プブリウスがパウロたちを歓迎して手厚くもてなしてくれたのですが、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやしたのです。島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらいました。まさに「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」、ほとんどこの通りのことがパウロの身に実現しています。神様がパウロに特別な聖霊の力を与えられたのです。私たち一人一人にも、神様が賜物(能力)を与えておられます。それは奇跡的な賜物ではないかもしれません。料理の能力であったり、祈る賜物であったり様々ですが、神様からの立派な賜物です。

 (19~20節)「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」 弟子たちがイスラエルから始めて地中海沿岸世界などに出て行ってイエス・キリストを宣べ伝えると、神様の力が働いて様々なしるしが起こりました。しるしは奇跡です。私は4月18日(金・受苦日=十字架の日)に保育園の礼拝でイエス様の十字架の話をしたのですが、その後、園の庭で子どもたちと遊びながら、ある5才くらいの女の子に「今日の礼拝でどんなお話を聞いた?」と尋ねてみました。普段あまり尋ねないのですが、その日は尋ねてみました。まだ保育園児ですから完璧には答えられないのですが、「イエス様が何も悪いことをしていないのに十字架にかかったこと」と答えて、さりげなくこう付け足しました。「私、イエス様を愛しているの。」その子はそれほど強い気持ちで言ったのではないかもしれないのですが、こちらが驚きました。イエス様を見たこともないのに、なぜこんなことを言うことができたのか、「神様が言わせて下さったのだな」と思うほかありません。「教会に通っているの?」と尋ねましたら、「行っていない」と答えます。園にいる間は月曜日から金曜日まで礼拝があるので、弱くてもこのような信仰を持ち続けることができるのかと思いますが、残念ながら卒園するとほとんどの子の生活から礼拝がなくなり、祈りもなくなり、せっかくの信仰が弱くなり消えかかるのかなと思います。しかし一人一人の人生のどこかで神様が再び礼拝や聖書と出会わせて下さることを信じたいものです。

 今日の旧約聖書は、イザヤ書11章1節以下です。小見出しは「平和の王」です。メシア・救い主のおいでを予告する御言葉です。救い主はもちろんイエス様です。1節にエッサイという名前がありますが、ダビデ王の父親です。エッサイの子孫、つまりダビデ王の子孫からメシア・救い主・平和の王が生まれると言っています。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで 
 その根からひとつの若枝(イエス・キリスト)が育ち
 その上に主の霊がとどまる。
 知恵と識別の霊/ 思慮と勇気の霊  
 主を知り、畏れ敬う霊。」
4節にあるように、この方は
「弱い人のために正当な裁きを行い
 この地の貧しい人を公平に弁護する」方です。

 6節以下に、神の国が完成し、新しい天と新しい地がもたらされる時の様子が描かれます。まさに最初のエデンの園、完全な祝福の回復です。ここにはもはや「食うか食われるか」の恐ろしい生存競争の世界は消え去っています。
「狼は小羊と共に宿り/ 豹は子山羊と共に伏す。
 子牛は若獅子と共に育ち/ 小さい子供がそれらを導く。
 牛も熊も共に草をはみ/ その子らは共に伏し 
 獅子(肉食動物が草を食べる!)も牛もひとしく干し草を食らう。
 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
 幼子は蝮の巣に手を入れる(そして害を受けない!)。
 わたし(神様)の聖なる山においては 
 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
 水が海を覆っているように 
 大地は主を知る知識で満たされる。
 その日が来れば/ エッサイの根(イエス・キリスト)は
 すべての民の旗印として立てられ
 国々はそれを求めて集う。
 そのとどまるところは栄光に輝く。」
神の国の完成の時には、イエス・キリストが全ての民の救い主として立てられ、あがめられ、礼拝されるのです。

 先ほど、イエス様の十字架の死は、父なる神様と自然界との和解のためでもあったと申しました。イエス様の犠牲の死によって父なる神様との和解に導かれた自然界を、私たちは破壊しないようにする責任があります。しかし私たちは、二酸化炭素を多く発生させるライフスタイルによって地球温暖化をもたらし、放射能によって地球を汚染してしまいました。3月に日本キリスト教団主催の東日本大震災国際会議が仙台で開催され、私も出席させていただきました。その会議宣言文がようやく完成し、送られて来ました(『教団新報』2014年4月26日号、10ページ)。原発についてはクリスチャンの間でも様々な意見があると思いますが、この宣言文に少し触れます。

 原発事故は7つの具体的な罪の結果であると告白しています。第一は傲慢の罪。「人類が自然界の安定した原子を破壊することによって恐るべきエネルギーに変え、自らの知恵と技術によって安全に管理、制御することができるという自己過信に陥ったことです。ここに傲慢の罪があります。原子力エネルギーは今日の人間にとってまさに「禁断の木の実」でした。」

 第二の罪は貪欲の罪。「原子力を用いることによる繁栄、豊かさへの欲望と、より大きな力への渇望を制御できなかった『貪欲』です。」

 第三の罪は偶像崇拝。「貪欲に陥ったわたしたちは、生ける真の神に依り頼むのでなく、経済的利益や富を至上の価値としてあがめ、それに仕える『偶像崇拝』の罪に陥りました。」
 
 第四の罪は隠ぺいの罪。「これまで原子力発電の危険性は極力隠され、事故やトラブルの情報も隠されてきました。また、平和利用の名のもとに核そのものの危険性、また核兵器との繋がりも隠ぺいされ、安全性やメリットのみが喧伝されてきました。このたびの事故についての情報も隠され、地域住民はもとより、国民全体が不安や疑心暗鬼の中に置かれています。」

 第五の罪は怠惰の罪。「そこには同時に、『不都合な事実』を知ろうとしなかったわたしたち自身の罪があります。~過疎の地域の人々や、繁栄や権力から遠い人々の痛みと犠牲のシステムの上に成り立つものであることを見抜くことなく、それを認め受け入れ、無関心になり、過去の歴史に学ぶこともしなかったことは『怠惰』の罪の故です。」

 第六の罪は無責任の罪。「原子力発電は、放射性廃棄物の処分方法を確立できないままに進められてきました。~事故は未だ終息していないのに、日本国政府は原発を再稼働し、さらに外国に輸出しようとしています。~あまりにも無責任であると言わざるを得ません。」

 第七の罪は責任転嫁の罪。「~これほどの被害にもかかわらず、国も電力会社も地方自治体も、そして、わたしたちも、自らの責任を認めようとせず、他者に責任を転嫁しています。」

 そして「わたしたちは、聖霊の導きのもとに以下のことに努めます」と8つの決意を列挙します。そのうちの4つ目には、「神に造られたすべての被造物に対して責任ある管理に努め、将来の世代の人々への責任を果たします」とあります。聖書は「隣人を自分のように愛しなさい」と語りますが、ここには将来の世代への愛も含まれるはずです。原発のことだけでなく、私たちは二酸化炭素の排出による温暖化、様々な公害によって神様が造られた地球を汚す罪を犯して参りました。この罪を悔い改め、神様が造られた地球環境を破壊しない生き方に転換したいものです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」人々にイエス・キリストの十字架と復活の福音を宣べ伝え、自然界をも大切にする生き方をしてゆきたいのです。

2014-04-22 1:06:58(火)
「弟子たちとペトロへの福音」 2014年4月20日(日) イースター礼拝説教
朗読聖書:ホセア書6章1~6節、マルコによる福音書16章1~8節 
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。」(マルコによる福音書16章7節)

 イエス・キリストは金曜日に十字架にかかられ、死なれました。当時のユダヤでは金曜日の夕方に日付が変わり、安息日である土曜日になります。安息日は礼拝に集中する日であり、誰も働くことができません。また当時遺体は汚れたものと考えられていたので、聖なる安息日に十字架に遺体がかかったままにしておくことは適切でないと考えられました。そこで人々は金曜日のうちにイエス様の遺体を十字架から取り降ろし、遺体を布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておきました。こうしてイエス様を埋葬したのです。使徒信条で、イエス様について「十字架につけられ、死にて葬られ」と毎週告白している通りです。

 (16章1節)「安息日が終わると、マグダラ(地名)のマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。」マグダラのマリアは、イエス様に七つの悪霊を追い出していただいた女性です。次に「ヤコブの母マリア」が登場しますが、ヤコブはイエス様の弟と思われるので、このマリアはイエス様の母マリアでしょう。サロメという女性のことは全く分かりません。この三人の女性はイエス様を深く愛し、非常に慕っておりました。ですから安息日が終わるとすぐに、土曜日の夕方に香料を買ったと思われます。女性たちは愛をこめてイエス様を改めて丁寧に葬ろうと考えておりました。(2節)「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」日曜の早朝4時半か5時でしょう、太陽が出ることを待ちかねていた三人はすぐ墓に駆けつけたのです。ここには男性の弟子は一人も出ていません。女性だけです。イエス様の十字架のとき、男性の弟子ではヨハネ一人がイエス様のもとにいました。ここでは三人の女性たちだけです。女性の弟子たちの忠実さが際立っています。

 この時代のイスラエルは男性中心の社会であり、女性や子どもは成人男性よりもかなり低く扱われていたそうです。ところが新約聖書の価値観、神様の価値観は違います。ここで神様は女性たちに重要な役割を与えておられます。イエス・キリストの復活の証人となる非常に重要な使命、光栄な使命を女性に与えておられるのです。当時のイスラエルでは、男性であってもたとえば羊飼いは非常に低く扱われていたそうです。ところが神様は、ベツレヘムの馬小屋で救い主が誕生したよきニュースを、まず無名の羊飼いたちに知らせて下さったのです。そして今日の場面では、男性ではなくあえて女性たちをイエス様の復活の証人としてお選びになったのです。これは神様が意図的になさったことです。この世に弱肉強食の面があることは事実です。ですが神様は弱肉強食をよしとせず、教会もそれをよしとされません。神様は、この世でいと小さき者にこそ慈しみの目を注いで下さいます。十字架にかかられたイエス様は、いと小さき者・貧しい者の味方です。

 この三人の女性たちには1つの不安がありました。(3節)「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」女性の力では動かせない大きな石でした。(4節)「ところが、目を上げて見ると、石は既わきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」神様の偉大な力が働いて、石はわきへ転がされていたのです。先日4月12日(土)の午後にAさんの納骨式を東久留米教会墓地で執り行いましたが、その式の直前にBさんという方の娘さんから連絡を受けました。Bさんが亡くなったので、葬儀を依頼したいという連絡です。Bさんは東久留米教会の以前の教会員で、今は天おられるCさんのご子息です。葬儀の場所が教会墓地の最寄りの駅から近い駅でしたので、Aさんの納骨式を終えて東久留米に戻る途中で降りて、打ち合わせを行うことができました。そのため月曜日の前夜式・火曜日の告別式と比較的スムーズに行うことができたように思います。すべてが神様の守りの御手の中にあることを実感致しました。神様が大きな石を既に動かしていて下さったことに比べればささやかなことかもしれせんが、神様のご配慮があることを感じました。

 (5節)「墓の中に入ると、白い衣を来た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。」清く輝く純白の衣を来た若者、それは天使です。天使とはどのような存在か、ヘブライ人への手紙1章14節にこう書かれています。「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」と。天使が登場するのは重要な場面です。天使は、神様に従う人々に神様の意志を伝えたり、神様の助けをもたらします。イエス様の復活は非常に重要な出来事ですので、天使が登場します。天使は天から来た聖なる存在であり、天使を見ることは気楽なことではありません。気楽どころか、息もとまらんばかりの圧倒的な体験かもしれないのです。イザヤ書6章を読むと、預言者イザヤは、天の聖なる神様を垣間見てしまったとき、神様の栄光・神様の清さに圧倒され、非常な怖れに打たれました。イザヤは神様と比べた際の自分の非常な罪深さを自覚し、こう叫びます。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」これが神を見る体験です。天使は神様ではないので、神様ほどの清さで人を圧倒することはないかもしれませんが、それでも天から来た存在ですから、その純白の清い輝きによって、見る人に畏怖の念を与えずにはおかないはずです。ですから婦人たちも深い驚きを覚えたのです。私たちも自分で天使を目撃すれば、同じ反応を示すに違いないのです。

 (6節)「若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。』」新約聖書のギリシア語で十字架は、スタウロスという言葉です。「復活なさった」という言葉を直訳すると「起こされた」、「甦らせられた」となります。受け身の形です。「神によって起こされた」、「神によって甦らせられた」ということです。イエス様は自分の力によって甦ったのではないのです。父なる神様によって起こされた、甦らせられたのです。

 イエス様が十字架につけられたことは、決定的に重要なことです。イエス様が十字架で私たちの全ての罪を背負って死んで下さったお陰で、私たちの罪は全て解決されたのです。イエス様の十字架の死がなければ私たちの罪が赦されることはあり得ず、私たちが天国に行く道が開かれることもなかったのです。ですからほとんどの教会では会堂に十字架を掲げています。十字架は死刑道具ですから、美しいものではありません。むしろ見たくないものです。ですが誰もかかりたくない、あのいやな十字架に神の子があえてかかって下さったことの大きな意味を私たちは考える必要があります。神の子が十字架にかかる以外に、私たちの罪が赦される道は一つもないのです。ですからイエス様の復活の後に弟子になったパウロという人は、ひたすら十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えました。そのために迫害されました。なぜ迫害されたのかと言うと、十字架で惨めに死んだ方を救い主と信じることが様々な人々、特にユダヤ人に嫌われたからです。ユダヤ人は神様に選ばれた民ですが、イエス様の時代のユダヤ人はこのことで非常に誇り高くなっており、十字架につけられて惨めに死んだ方を救い主として受け入れることに非常な抵抗を感じており、パウロを迫害したのです。しかしパウロは迫害に負けることなく十字架のイエス・キリストを宣べ伝え、ガラテヤの信徒への手紙6章14節で次のように断言しています。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」イエス様の十字架の死と復活こそ、キリスト教会にとって命そのものです。

 私に洗礼を授けて下さった牧師が、以前説教で語られたことを思い出しました。その先生に洗礼を授けて下さった牧師のことです。受難節(受難週)には、首から釘を下げて生活しておられたというのです。その先生は残念なことに(私の記憶では)40代くらいでご病気で亡くなられたとのことです。首から釘を下げて生活されたことはもちろん、イエス様が自分のために十字架で死んで下さったことを一瞬も忘れないで、常に感謝するためでしょう。私たちは受難節(受難週)でも首から十字架を下げて生活していませんが、スピリット・精神としては、いつもこの先生の信仰の生き方に倣いたいのです。持病がおありでしたので、教会員のお医者さんが善意のアドバイスをなさったそうです。「働き過ぎで、このままでは長生きできません。仕事を減らして下さい。」しかしアドバイスに感謝しつつも、イエス様のために精一杯働かれて40代くらいで天国へ行かれたと伺ったと思います。

 聖書は、イエス様が復活なさった場面そのものを描写してはいません。ヨハネによる福音書20章を読むと、「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」とありますので、私はそこを読むと、復活されたイエス様が頭の覆いを取って、少し移動して、覆いを丸めて置いて、墓を出て行かれたのかなと想像しています。とにかくイエス様が起き上がられた場面は聖書では省かれています。それは神様の大いなる御業の場面ですが、いわば神秘として私たちに隠されています。私たちが見る必要のない場面なのでしょう。「見ないで信じる者は幸い」なのです。神様の非常に重要な御業を人に見せないケースはもう1つあります。神様がアダムのあばら骨からエバをお造りになる場面です。創世記2章21~22節にこうあります。「主なる神様はそこで、人(アダム)を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。」エバが造られる場面でアダムは神様によって深い眠りに落とされており、エバが造られる重要な場面を見ることを許されていません。それは一種の神秘として人に隠されていたようです。同じように、イエス様が死から甦る決定的な様子を、私たちは知ることを許されていません。空の墓と天使の言葉によって、信じることを求められています。

 マルコによる福音書に戻り7節。天使の言葉です。「さあ、行って弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」イスカリオテのユダが死んだので、イエス様の弟子は11人になっています。ペトロも弟子ですが、天使は特にペトロの名前を出しました。弟子たちの中でイエス様の十字架の足元にいたのはヨハネだけです。あとの10人は逃げてしまいました。その中でペトロは、捕らえられたイエス様の様子を伺うために、遠く離れて従いました。しかしイエス様を三度否定してしまったので、やはり裏切って逃げたことになります。ペトロは一番弟子ですから、このことはペトロの心に大きな傷となりました。ペトロはイエス様が捕らえられるわずか数時間前に、イエス様にはっきりこう言いました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」すると何もかも見通しておられるイエス様がおっしゃいました。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは「そんなおっしゃりようは心外です」という顔をして、力を込めて言い張ります。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」

 ですが私たちは、予想外のことが起こってパニックになると、何を言ってしまうか、どんな行動をとってしまうか、分かりません。本能が丸出しになってしまうのです。衣食足りているときは礼節をわきまえている人が、食糧や水が欠乏したときに、人を押しのけて自分の分を奪い取るかもしれないのです。ペトロは人々の中に埋没しようとしましたが、見つかってしまいます。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言うと、鶏が鳴きました。次に「この人は、あの人たちの仲間です」と言われ、再び打ち消しました。さらに「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と追い打ちをかけられると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めたのです。するとすぐ、鶏がまた鳴きました。イエス様の予告は実に正確に的中したのです。イエス様はペトロ自身が知るよりもずっと深くペトロを知っておられました。ペトロは鶏の二度目の声で「はっ」と我に返ります。自分がイエス様を三度も見捨てる罪、裏切る罪を犯してしまったことに気づきました。あまりの情けなさにペトロは、いきなり泣き出したのです。深い悔いの涙です。ある人は「ペテロはイエスを裏切り、ペテロはそれを悔いて、はらわたをしぼり出すほどに泣いた」(ウィリアム・バークレー・柳生直行訳『聖書註解シリーズ9 コリント』ヨルダン社、1986年、183ページ)と書いています。

 イエス様が復活されたという知らせは、ペトロとほかの弟子たちにとって直ちによいニュースでないとも言えます。イエス様に合わせる顔がないからです。特に三度裏切ったペトロは、苦しむはずです。しかしイエス様は弟子たちを愛し、弟子たちの裏切りの罪を赦しておられます。ペトロの三度の裏切りも赦しておられます。三度裏切ったペトロの心の深い傷を思いやり、神様は天使に特にペトロの名前を述べるように指示なさったのではないでしょうか。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる。』と」

 次の8節に天使のメッセージを聞いた女性たちの反応が非常に正直に書かれています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」4つの福音書の中で、マルコによる福音書は一番最初に書かれた福音書だと言われます。長さも短く、素朴な印象を受けます。復活は私たちの理性をはるかに超えた出来事です。婦人たちもすぐには信じられなかったのです。神様の働きかけがあって、次第に信じることができるようにされたのでしょう。私たちも同じです。イエス様の復活は、私たちの理解をはるかに超えた出来事、神様の奇跡です。最先端の科学でも永久に説明できないでしょう。礼拝に出席し、クリスチャンと交流し、自分でも聖書を読み祈ることを続けるうちに、神様の聖霊の助けを受けて、信じることができるようになると思うのです。

 本日の旧約聖書は、ホセア書6章1節以下です。2節に「三日目に、立ち上がらせてくださる」という御言葉があり、これがイエス様の三日目の復活を予告する御言葉として、伝統的に引用されます。宗教改革者マルティン・ルターも、この御言葉をイエス様の復活を預言する御言葉と信じたと、注解書で読みました。但し、この新共同訳聖書では6章の1節に「偽りの悔い改め」という小見出しが付けられています。1節から3節にはイスラエルの民の悔い改めが書かれていますが、文脈をよく読むとあまり真剣な悔い改めではなく、形ばかりの悔い改めのように読めます。ペトロの悔い改めのような本気の悔い改めではなく、言葉だけの悔い改め、神様に喜ばれない、いい加減な悔い改めと読めそうです。とすると、伝統的にイエス様の復活を預言する御言葉として引用されてきたとは言っても、本当にそう信じてよいのか、私は疑問を抱いてしまいます。

 むしろイエス様の三日目の復活を予告する旧約の御言葉として有力なのは、ヨナ書です。預言者ヨナは、神様から大国アッシリアの首都ニネベに行って、人々に悔い改めを求めるメッセージを語るよう命じられます。ところがヨナはこれを拒否し、船に乗って全く別の方角に向かいます。すると神様が大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れになり、ヨナがこれは自分のせいだと告白したので、人々はヨナを海へほうり込みます。神様は巨大な魚に命じてヨナを呑み込ませられます。これは神様の一種の保護です。ヨナな三日三晩、魚の腹の中にいたのです。イエス様はこの出来事をマタイによる福音書12章40節で引用し、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子(イエス様ご自身)も三日三晩、大地の中にいることになる。」これは、イエス様が十字架の死によって陰府(死者の国)に降られ、三日目に復活することを、イエス様ご自身が予告した御言葉です。ヨナが三日三晩、魚の腹の中にいたことが、イエス様の十字架の死と三日目の復活を指し示す出来事だと、イエス様ご自身が語っておられるのです。

 説教題を「弟子たちとペトロへの福音」と致しました。イエス様は、本心から悔い改めたペトロを伝道者として用いられます。これは私たちにとって深い慰めです。使徒言行録の中でペトロはイエス・キリストの復活を宣べ伝える者として大いに働いています。イエス様は自分の罪を真底悔い改める人を喜び、その人に聖霊を注いでイエス様の復活を宣べ伝える者として用いて下さいます。イエス・キリストは私たちをも伝道者として用いて下さいます。神の子イエス・キリストを、言葉と行いよって全力で宣べ伝えましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。


2014-04-15 22:30:53(火)
「御心が行われますように」 2014年4月13日(日) 受難節第6主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書52章13節~53章12節、マルコによる福音書14章32~42節 
「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
                   (マルコによる福音書14章36節)

 私たちキリスト教会は今、受難節を過ごしています。受難節はイースターの前の、日曜日を除く40日間です。日曜日を除くのは、日曜日は毎週基本的にイエス様の復活を祝う日の意味があるからです。教会の暦に「灰の水曜日」がありますが、毎年この日から受難節に入ります。灰は悔い改めのシンボルです。西洋や南米にはカーニバルという風習があります。日本語で謝肉祭と訳します。この風習はゲルマン民族の風習にさかのぼるという説もるようですが、キリスト教会ともかかわりがあります。受難節はイエス様の十字架を強く心に刻む期間なので、伝統的に肉や卵をあまり食べないなど禁欲と節制が強調される期間です。その前の7日間ほど大いに飲み食いして楽しんでおこうというのがカーニバル・謝肉祭の起源であるそうです。ですから受難節の精神とは反対のこと、人間の欲望を充足させるための世俗的な祭りと言えるでしょう。今週は受難節の最後の一週間、イエス様の十字架を特に強く強く心に刻む受難週です。木曜日と金曜日に受難週祈祷会を行いますので、ぜひご出席下さい。

 マルコによる福音書14章の最初の32節。「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。」ゲツセマネとは「油搾り器」の意味です。イエス様はここで、まさにご自分の心と体を搾るような祈りを献げられたのです。ルカによる福音書には、「汗が血の滴るように地面に落ちた」と書かれています。それほど真剣に、まさしく全身全霊を込めて祈られました。

 (33~34節)「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』」ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は12弟子の代表です。イエス様は非常に重要な場面では、特にこの三人を伴われます。イエス様は、非常な恐れと悲しみに満たされておられました。これまでにはなかったことです。イエス様は十字架が目前に迫っていることを知っておられました。弟子たちはそのことに全く気付いていませんでした。イエス様は十字架刑の恐ろしさをよく知っておられました。しかしイエス様にとっての恐れは、肉体の痛みだけではないのです。
イエス様は、死の本当の恐ろしさを知る唯一の方です。死の本当の恐ろしさとは、父なる神様から切り離されることです。

 創世記にエバとアダムがエデンの園から追放された記事があります。あの話に示されているように私たちは皆、罪人(つみびと)であり、神様から離れています。ですから神様から離れている状態に悪い意味で慣れてしまっており、平気になり鈍くなってしまっている面があります。ですがエバとアダムは、神様のもと(エデンの園)から追放されたとき、本当に「しまった」と思ったでしょうし、非常な苦痛を感じたでしょう。イエス様は神の子であり、一瞬も父なる神様から離れることなく、常に父なる神様と心を一つにして歩んで来られました。死とは、その父なる神様から完全に切り離されることです。肉体の痛みよりも恐ろしいのはこのことです。イエス様にとって死は、私たちにとって死が恐ろしいより、はるかにずっと恐ろしいはずです。「生木を裂くように」父なる神様と一体のつながりが裂かれる恐ろしさと悲しみです。私たちはイエス様ほど父なる神様と一心同体に生きていないので、死の本当の恐ろしさが分からなくなっているのです。

 イエス様のこの恐れは十字架の上でも続きます。それでイエス様は十字架上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。新約聖書のヘブライ人への手紙5章7節に次の御言葉があり、これはゲツセマネの祈りと十字架上での叫びのことを述べていると思います。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」「聞き入れられた」とは、復活という良き報いを与えられたことでしょう。

 ルカによる福音書に戻りますが、イエス様は34節でペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われました。三人の弟子たちに近くで共に祈っていてほしいと願われたのです。目を覚まして祈り続けていないと、悪魔の誘惑に簡単に負けて罪を犯してしまうのです。 (35~36節)「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」 「アッバ」は、イエス様たちが日常的に話しておられたアラム語(ヘブライ語の兄弟言語)で父親に親しく呼びかける言葉だそうですね。「パパ」とほとんど同じです。イエス様と父なる神様の親しさ、近さがよく分かります。私たちもイエス様と同じに「アッバ、父よ」と祈ることが許されています。ローマの信徒への手紙8章15節にこう書かれています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊(聖霊)を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」真に光栄なことです。

 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」「この杯」は十字架です。イエス様は神の子であると同時に人間です。「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」、「この杯をわたしから取りのけてください」は、人間としてのイエス様の正直な気持ちです。ですがこの直後に決然と「しかし」とおっしゃいます。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られたのです。「わたしの正直な願いはこうですが、しかし最終的にはあなたの御心に従います」とはっきり祈られたのです。見事な言葉です。イエス様の心の中には非常に激しい戦いがありました。厳しい葛藤がありました。しかし、「父なる神様の御心に従う」決意が勝ったのです。イエス様の十字架に向かう覚悟・雄々しい決意が明確になってゆきます。私たちも様々な祈りを祈り、様々な願いを持ちます。ですが最後には「神様、あなたの御心に適うことが行われますように」との祈りで締めくくりたいものです。イエス様の祈りは、私たちの祈りの模範です。

 (37~38節)「それから戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』」一時は、約2時間のことだと聞きました。イエス様の一回目の祈りは約2時間だったことになります。イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に「目を覚ましていなさい」と言われたのですが、深夜のことで弟子たちは睡魔に負け、眠りこけていました。ここはイエス様の人生の最大のヤマ場、正念場です。私たちも仕事の正念場では徹夜することもあるでしょう。ですがイエス様の最大の正念場で、弟子たちは目を覚まして祈り続けることができませんでした。神様に従い続けることができなかったのです。これは残念ながら私たちの姿でもあります。

 悪魔が弟子たちを誘惑して、眠りこけるように仕向けたのです。私たちは毎日徹夜することはできませんが、少なくとも信仰の正念場では目を覚まして神様に祈り続けたいものです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」私たちはいつも神様に従う自覚をもって生きていないと、悪魔の誘惑を誘惑とも気づかずに誘惑に負けてしまいます。神様に従う生き方を貫く強い気持ちを持っていないと、私たちは簡単に安易な道に逸れて、神様に従う道から外れてしまいます。そうならないために毎日聖書を読み、毎日祈り、毎週の礼拝に出席する強い意志を貫くことが必要です。「心は燃えても、肉体は弱い。」残念ながらこれも私たちの現実です。イエス様は弟子たちと私たちの弱さをご存じなのです。「心が燃えていて、肉体も強い」方はイエス様です。

 (39節)「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。」「この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」イエス様の十字架に向かう決意が強められてゆきます。(40節)「再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らはイエスにどう言えばよいのか、分からなかった。」弟子たちは「今度こそ眠らないぞ」と決心したはずですが、またも眠ってしまいました。悪魔はイエス様をも眠らせようとしたと思うのです。イエス様が十字架に向かわないように全力で眠りの霊を送って誘惑したと思うのです。イエス様が私たちすべての人間の罪を背負って十字架で死なれると、この世での悪魔の支配が打ち破られてしまうからです。イエス様は悪魔に負けず、十字架へと敢然と進んで行かれました。そのお陰で私たちの罪は赦されたのです。しかし弟子たちは弱く、悪魔の誘惑に負けて眠らされてしまいました。私たちも弱い者ですが、少なくとも信仰の正念場では目を覚まして、イエス様に従い続けたいのです。

 (41~42節)「イエスは三度目に戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子とは罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。』」 情けないことに弟子たちは三度目も眠りこけてしまったのです。イエス様は悪魔の誘惑に打ち勝たれ、最後まで祈り通されました。そしていよいよ「時が来た」とおっしゃいます。十字架の時です。イエス様は十字架で死なれるために誕生されたのです。イエス様を裏切るイスカリオテのユダと、剣や棒を持った群衆が間もなくやって来ます。イエス様は一切罪を犯していないのに、捕らえられ、裁判をお受けになるのです。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書52章13節以下です。小見出しは「主の僕の苦難と死」となっています。イエス様の十字架の犠牲の死を予告しています。53章2~4節を読みます。
「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/ この人は主の前に育った。
 見るべき面影はなく/ 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/ 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し/ わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 彼が担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 
 彼は苦しんでいるのだ、と。」
事実イエス様は、本日のゲツセマネの祈りでも非常に苦しんでおられます。5節。
「彼が刺し貫かれたのは/ わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは/ わたしたちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって/ わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

 イエス様のゲツセマネでの祈り。それは神様に従う、神様に服従する生き方の模範です。神様に従うことこそ最善と信じる生き方の模範です。それは神様に全面的に信頼して委ねる生き方です。創世記に信仰の父と呼ばれるアブラハムが登場致します。アブラハムもイエス様に近い信仰に生きた人です。アブラハムが75才のとき、神様はアブラハムに子孫を与えると約束されます。しかしなかなか子どもが与えられないのです。でも神様は100%約束を守られる方です。アブラハムが100才のときに妻サラ(90才)との間に待望の息子が誕生します。イサクです。ほっとしたアブラハムに、神様が試練を与えられます。神様から来る試練は決して人をいじめるためのものではなく、人の信仰が純粋になるように信仰を鍛えるためにあるのではないかと思います。神様は創世記22章でアブラハムに命じられました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つの登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」耳を疑う命令です。神様はアブラハムが75才のときに、「あなたの子孫にこの土地(イスラエルの地)を与えると約束されました。イサクを焼き尽くす献げ物として献げればイサクは死ぬのですから、神様の約束も果たされないことになってしまうと普通は考えます。実に理解に苦しむ命令なのです。

 ところが驚くべきことに、信仰の父アブラハムは神様を100%信頼して、命令に従順に従うのです。創世記22章のどこを見ても、アブラハムが神様に「なぜですか、私には理解できません」と疑問を述べたことすら一言も書かれていません。信仰の父アブラハムは、「神様のなさることには、絶対に間違いがない」(三浦綾子『旧約聖書入門』光文社、1988年、109ページ)と100%信頼して、神様の命令に黙々と従ったのです。アブラハムの信仰はイエス様の信仰と非常に近いのです。イエス様は祈られました。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」イエス様は私心を一切捨て切られました。アブラハムも同じです。「神様の御心は絶対に正しい」との信頼によってです。創世記22章9節以下はこう記します。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」まさにイサクは、イエス様のように犠牲になりかかるのです。

 このときは神様がアブラハムの信仰をよしとされて、介入されます。アブラハムの信仰が非常に純粋で、神様に絶対の信頼を献げる信仰であることを見て取られ、神様が天使を通してアブラハムにストップをかけられます。天使は言います。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムが神様に淡々と服従したのか、あるいは清水の舞台から飛び降りる気持ちで服従したのか、アブラハムの心の内ははっきり書かれていないので分かりません。ここではアブラハムとイサクの二人が神様に服従しています。アブラハムはイサクを屠ろうとすることによって積極的に神様に服従し、イサクは自分を屠ろうとする父アブラハムに抵抗しないことによって受け身的に神様に服従しています。イサクは一種の殉教者になりかかったとも言えます。アブラハムはイサクを殺そうとしたというよりは、神様にお返ししようとしたのだと思います。イサクを神様の御手に委ねた、イサクを神様ご自身の御手に直接渡そうとしたのです。神様から与えられたイサクですから、神様にお返しすることは当たり前と考えたのではないでしょうか。この神様への全面的な信頼・服従を神様は喜ばれました。

 先週も申しましたが、私は4月5日(土)に群馬県みどり市にある星野富弘さんの美術館に行きました。星野さんは器械体操の事故による大怪我のため首より下が動かない方ですが、口に筆をくわえて美しい花などの絵と詩の作品を作ることで、神様の栄光を現しておられます。大怪我なさる前は私が思っていたよりずっと元気いっぱいの若者だったことが分かりました。美術館には怪我をなさる前の星野さんの写真が特別展示されていました。1966年に器械体操(つり輪)をなさっている写真がありました。1964年の東京オリンピックの影響があったかもしれません。ロッククライミングなさっている写真、谷川岳で逆立ちしておられる写真。長野県のスキー場でパトロールのアルバイトをなさり、3ヶ月以上、朝から夕方まで一日中滑っておられたそうです。そういう方が首から下が動かなくなったことは大変な試練です。9年間入院生活を送って退院されたそうです。長い時間をかけて、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という思いに心が純化されてゆかれたのかなと感じます。怪我したご自分を受け入れることは大変なことだったに違いないのです。28歳で洗礼を受けておられます。

 このような文章を書いておられます。「大怪我をした時、病院のベッドの上で『人生が二度あれば』と思ったことがあった。しかし、今の人生を精一杯生きられないで、どうして二度目の人生を生きられるだろうかと気付いた。どんな生物でも、生まれる時と場所を選ぶことはできない。もし、生まれ変われたとしても、平和な時代とは限らないのだ。~こんな私をじっと見守り助けてくれる人たちがいる。これは素晴らしいことなんだ」(星野富弘『花の詩画集 種蒔きもせず』偕成社、2010年、29ページ)。

 私は次の作品に心打たれます。
「冬があり夏があり 昼と夜があり 
 晴れた日と雨の日があって ひとつの花が咲くように 
 悲しみも苦しみもあって 私が私になってゆく。」
 (星野富弘『いのちより大切なもの』いのちのことば社、2012年、17ページ)

「痛みを感じるのは生きているから 悩みがあるのは生きているから
 傷つくのは生きているから 私は今かなり生きているぞ」
 (同書、20ページ)

 神様が星野富弘さんという一人の方を、神様の尊い作品として作り上げておられるように感じます。神様は星野さんを特に見込まれて、大きめの十字架をお与えになったようです。お一人お一人に異なる形で十字架(試練)があることと存じます。「御心に適うことが行われますように」と祈ることは時に勇気を必要とします。しかし神様は決して無意味な涙を流させない、涙を涙で終わらせることのない方であることを信じ、この神様に信頼して、「御心に適うことが行われますように」と祈って参りたいと思います。イエス様の十字架の後に復活があったことに希望を与えられて、イエス様に従う歩みを致しましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-04-08 3:06:27(火)
「神の右におられるキリスト」 2014年4月6日(日) 受難節第5主日礼拝説教
朗読聖書:詩編110編1~7節、ルカによる福音書20章41~47節

「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を /あなたの足台とするときまで』と。」(ルカによる福音書20章11節)

 イエス・キリストは日曜日に、ろばに乗ってエルサレムの都に入られ、月曜日に神殿を激しく清められました。そして火曜日にエルサレムの宗教指導者と論争を重ねられます。本日の「ダビデの子についての問答」も、その火曜日に行われました。イエス様の十字架の死の3日前です。これまでの問答で、イエス様は見事な答えをなさって来ました。聖霊に満たされたイエス様の鮮やかなお答えに、誰も太刀打ちできなかったのです。もはや誰もイエス様にあえて何かを問う人はいなくなったのです。そこでイエス様が本日の問答をお始めになります。

 (41節)「イエスは彼らに言われた。『どうして人々は、「メシアはダビデの子だ」と言うのか。』」 「メシア」とは救い主、「ダビデの子」は「ダビデの子孫」です。人々はそう言い合っていたのです。なぜなら旧約聖書で確かに予告されていたからです。たとえばサムエル記下7章12節以下で、預言者ナタンがダビデ王自身に告げます。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」 これはダビデの子ソロモンがダビデの跡を継いで王となることを預言すると同時に、ダビデの子孫から永遠の王・メシアが生まれることを預言する御言葉です。

 そしてクリスマスによく読まれるイザヤ書9章の5節以下も、ダビデの子孫として誕生する一人の男の子こそメシアであると預言しているようです。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
 権威が彼の肩にある。
 その名は、『驚くべき指導者、力ある神/ 永遠の父、平和の君』と唱えられる。
 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。
 王国は正義と恵みの業によって 
 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
 万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」

 このようにメシアは確かにダビデの子孫から出ます。「メシアはダビデの子(子孫)だ」と言う人々の言葉は正しいのです。ですが、メシアはダビデの主、つまりダビデ以上の方でもあるのです。ダビデ自身が旧約聖書の詩編110編で、メシアを「自分の主」と呼んでいるのです。イエス様はこの事実を指摘され、メシア(ご自分)が「ダビデの主」であると宣言なさるのです。

 本日の旧約聖書・詩編110編も重要なメシア預言です。1節に、この詩編の作者がダビデ王自身であることが書かれています。ダビデが聖霊に導かれて作った詩編です。
「わが主(メシア)に賜った主(父なる神様)の御言葉。
『わたしの右の座に就くがよい。
 わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』 
 主はあなたの力ある杖をシオン(エルサレム)から伸ばされる。
 敵のただ中で支配せよ。
 あなたの民は進んであなたを迎える。
 聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ、
 曙の胎から若さの露(神様の恵みのシンボル)があなたに降るとき。 

 主は誓い、思い返されることはない。
『わたしの言葉に従って/ あなたはとこしえの祭司 
 メルキゼデク(わたしの正しい王)。』」 

 祭司は、神様と人の間を執り成す方です。イエス・キリストこそ究極の祭司であ
り、十字架で私たち全員の罪を背負いきり、神様と私たちの間を決定的に執り成して下さいました。メルキゼデクは創世記に登場する祭司ですが、この御言葉はメシアがメルキゼデクと同じような永遠の祭司、いえメルキゼデクをはるかにしのぐ真の祭司であることを主張しています。

 ルカによる福音書に戻り、42~43節。「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主(父なる神様)は、わたし(ダビデ)の主(メシア)にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。」~』」

 ここでダビデは、「わたしの主」、つまり「わたしより上の方」と呼んでいます。従って、メシアはダビデ以上の存在である。これがイエス様のメッセージです。メシアはダビデよりはるかに上の存在・神の子である。これがメシアの本質なのです。

 ダビデは旧約聖書の重要な登場人物であり、イスラエル史上最も有名な王様です。ダビデの生涯は、基本的には神様に従う生涯でした。しかしダビデの人生には汚点もあります。忠実な部下ヘト人ウリヤの妻バト・シェバとの姦淫・不倫の罪です。ダビデは最も忠実な部下ウリヤを奪い、ウリヤを計画的に戦死に至らしめました。神様は預言者ナタンを送り、ダビデを厳しく叱責させます。ダビデとバト・シェバの間に生まれた男の子は、ダビデの罪を身代わりに背負うかのように、神様に打たれて死にます。ダビデは自分の大きな罪に気づき、心底から悔い改めます。詩編51編は、ダビデの悔い改めの祈りとして非常に有名です。ある教会では毎週の礼拝で詩編51編を唱え、悔い改めの祈りとしていたと聞きます。臨終のときに詩編51編を唱えつつ天に召されていったクリスチャンも多いと聞きます。

 ダビデの真剣な悔い改めは主の御心に適うものでしたが、ダビデの不倫の罪そのものは非常に悪質です。メシアがダビデの子孫から生まれることは事実ですが、ダビデと同等の方では困るのです。メシアは全く罪のない方でなくてはなりません。メシアはダビデよりはるかに優れた方でなければならないのです。そして感謝なことに、メシア・イエス様は罪が全くない清い神の子なのです。

 イスラエルはダビデとその子ソロモンの時代に一番繁栄したと言われます。イスラエルの黄金時代です。イエス様の時代のイスラエルはその反対に、ローマ帝国の支配下にあって税金をとられ、人々は屈辱を味わっていました。「あのダビデ・ソロモンの時代の栄光をもう一度!」と人々は強く願っていました。そして旧約聖書の預言によってメシアを待望していました。ダビデ王は、イスラエルの周囲の敵と戦いました。そこで人々は、自分たちの先頭に立ってローマ軍と勇敢に戦い、イスラエルの独立を勝ち取ってくれる民族の軍事的英雄・ヒーローのメシアを切に待望していました。人々がメシアを「ダビデの子」と呼ぶとき、このような民族の英雄をイメージしていたのです。イエス様が登場して病気の人を癒すなどの愛の奇跡を行われたとき、人々は「この方こそ、待ち望んでいたメシアに違いない」と期待をかけたのです。そのイエス様が首都エルサレムに入られたのです。人々は、「遂にイエス様を先頭に押し立ててローマ帝国と戦う時が来た!」とナショナリズムに燃え、熱狂して迎えたのです。
「ホサナ(万歳)。
 主の名によって来られる方に/ 祝福があるように。
 我らの父ダビデの来るべき国に、/ 祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」(マルコによる福音書11:9~10) 

 ところがイエス様は、人々のその期待に応える気持ちは少しも持っておられません。期待に応えるお気持ちならば、軍隊の指揮官として勇ましく馬に乗って首都エルサレムにお入りになったはずです。ところがイエス様は、あえてその反対に柔和なろばに乗って首都にお入りになったのです。軍事的メシアではなく、平和のメシアであることをお示しになったのです。ダビデの時代には、イスラエルの周囲には多くの敵があり、ダビデは武力で敵と戦わざるを得ませんでした。ダビデはそのような役割を果たさざるを得ない状況に置かれていました。しかし神様は基本的には人と人の殺し合いである戦争を望まない方、平和を愛するであると信じます。

 ダビデは、神様を礼拝する家・神殿を建てることを望みましたが、神様はダビデにそのことをお許しになりませんでした。神様はダビデにこうおっしゃったのです。(歴代誌・上22章8~9節)「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない。見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人である。わたしは周囲のすべての敵からその子を守って、安らぎを与える。それゆえ、その子の名はソロモンと呼ばれる。わたしは、この子が生きている間、イスラエルに平和と静けさを与える。」 ソロモンという名前は、シャローム(平和)と深くつながるのでしょう。イエス様も、武力で戦うメシアではなく平和のメシアとして来られたのです。

 メシアはダビデ以上の存在であると申しました。それはダビデ以上に強い武力で戦う方という意味ではありません。その反対に、へりくだって私たち罪人の足を洗い、私たちに奉仕して下さり、ついには私たちのために十字架で死んで下さるメシアです。イスラエルの人々にとって全く予想外のメシアなのでした。イエス様はマルコによる福音書10章42節以下でおっしゃいます。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間ではそうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子(イエス様ご自身)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 イエス様をこのようなメシアとして信じたイスラエル人もいましたが、英雄メシアを待望し続ける人々もおりました。イエス様の十字架と復活が起こったのは紀元30年頃ですが、その後イスラエルの民はローマに反乱を起こします。これを第一次ユダヤ戦争(紀元66~70年)と呼びます。エルサレムはローマ軍に包囲され破壊され、神殿も炎上し、人々は悲惨な末路をたどりました。それでもイスラエル人は諦めず、バル・コクバという人をリーダーに押し立てて再びローマに対して反乱を起こします。第二次ユダヤ戦争(紀元132~135年)です。ラビ(律法の教師)のアキバという人が、バル・コクバこそメシアであると宣言したそうです。バル・コクバとは「星の子」という意味です。多くのイスラエル人がバル・コクバをメシアと信じて、ついて行ったそうです。この二回目の反乱もイスラエルの敗北に終わってしまいました。

 真に痛ましいことです。多くの人々が平和のメシア・イエス様の御言葉に耳を傾け、武力で立ち上がることをせず、無謀な反乱を思いとどまっていたならば、悲惨な敗北を避けることができたでしょう。イスラエル人が民族主義に燃えて戦争による解決を目指さした結果、悲惨な敗北に終わってしまったのです。今、日本の国も、愛国心を強調し、武器輸出をしない長年の原則を緩める方向に進んでいますが、イエス様のお考えと反対の危険な方向に向かっていると心配です。

 ルカによる福音書に戻ります。もう一度42~43節。「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。~」と。』」 事実イエス様は十字架で死なれた後、三日目に墓を破って復活されます。そして40日目に天に昇られ、父なる神様の右の座に着かれたと、新約聖書は告げます。日本語には「あなたは私の右腕だ」という言い方があります。復活されたイエス・キリストが、天で父なる神様の右の座に着かれたことは、イエス・キリストが父なる神様の右腕、父なる神様と等しい力を持つ方、神に等しい方であることを意味します。16世紀にスイスで宗教改革を行ったジャン・カルヴァンという人がいます。カルヴァンが書いた『ジュネーブ教会信仰問答』(外山八郎訳、新教出版社刊)には、このことについて次のように書かれています。
問「ここに言われている右と、この座すとは、何を意味しますか。」 
答「それはこの世の君主からとった一つの比喩であって、彼らは自分の代わりに統治させるた   め、副官に任じた人々を、その右に座らせるのであります。」

 イエス・キリストは、父なる神様に代わり、その右腕となってこの世界を治める主であり、王なのです。ですから右とは、最も高い天であり、イエス様がそこにお座りになったことは、イエス様が神に等しい方、教会の主、全宇宙の王であることを意味します。

 「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 後半は世の終わりに起こる出来事です。世の終わりは、イエス・キリストがもう一度地上においでになり、神の国が完成するときに実現します。その時、イエス様の敵が完全に滅ぼされます。イエス様の敵とは、人間であるよりは悪魔・罪・死です。今の私たちはイエス様に従いながらも、悪魔と罪と死に悩まされています。しかし、神の国が完成するときには、神様に逆らう勢力である悪魔・罪・死が完全に滅ぼされます。それは私たちにとって、悪魔・罪・死から完全に解放される希望のときです。神の国は、完全な愛・清さ・祝福に満ちたすばらしい国です。キリストを信じて亡くなった方は、今確かにそこにおられますし、イエス様がもう一度おいでになるときに神の国が完成されます。これこそ私たちの真の希望です。

 ルカによる福音書をもう少し先まで読みます。(45~46節)「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。』」 律法学者は聖書(旧約聖書)を懸命に学んで教えているように見えながら、心の奥は強欲で、神様も隣人も愛していない偽善者だと指摘しておられるのです。私自身も罪人なので、このイエス様の御言葉は自分に言われている御言葉だと思って、よくよく気をつけねばならないと感じます。今私はガウンという長い衣をまとっていますし、会堂で上席(説教壇)に立たせていただいているのですから、自分こそイエス様がおっしゃる律法学者であると深く自覚しなければなりません。

 (47節)「そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」私も先ほど、長い祈りをしたので、それが見せかけの祈りで本心は別にならないように、常に自分を戒めることが必要です。人一倍厳しい裁きを受けるのは、イスラエルの律法学者に限ったことではありません。新約聖書・ヤコブの手紙3章1~2節の御言葉が思い出されます。著者のヤコブはイエス様の肉親の弟ですから、イエス様とよく似たことを言います。 「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師(信仰の教師)になってはいけません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」 説教で立派なことを多く語っても、その通りに生きていないなら、イエス様にこのように厳しく叱責されます。

 イエス様が引用なさった詩編110編は、使徒言行録2章のペンテコステの場面でも引用されています。聖霊に満たされた使徒ペトロが、熱のこもった説教をする場面です。(32節~)「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、このことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着け。
 わたしがあなたの敵を/ あなたの足台とするまで。」』 
 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけ て殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 

 51日前に十字架刑を受けて死なれ、復活して神の右に上げられたイエス様こそ詩編110編が預言するメシアにほかならない。このイエス様を救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。そうすればどんな大きな罪も赦され、神様からのプレゼントとして聖霊を受ける。ペトロがこのように情熱をこめて説教すると、何とその日三千人ほどが仲間に加わりました。三千人ほどが洗礼を受けたと言って間違いないと思います。イエス様は、このペトロの説教を通して今も私たちに、「イエス・キリストをメシアと信じて自分の罪を悔い改め、洗礼を受けるように」と呼びかけておられます。

 復活されたイエス様は、今も父なる神様の右に座しておられます。そこで何をしておられるのかが、ローマの信徒への手紙8章34節に書かれています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」 キリストは今も生きて働いておられます。洗礼を受けた後も、私たちが心ならずも悪魔の誘惑に負けて日々犯してしまう比較的小さな罪(神様は「小さくない」とおっしゃるかもしれませんので注意が必要です)のために御心を痛めて、私たちのために父なる神様に執り成して下さっているのです。本当に感謝です。私たちはこのイエス様に感謝し、同時に「イエス様が執り成して下さっているからどんどん罪を犯しても大丈夫だ」という間違った考えを拒否します。イエス様の愛にひたすら感謝して、迷うことなくイエス様にひたすら従ってこの受難節、またその後の人生を生きて参りたいのです。イエス様にひたすら従う人生は、たとえこの世で報われなかった場合でも、必ず復活の命にたどり着く希望があります。

 わたしは昨日、群馬県みどり市にある「富弘美術館」(星野富弘さんの作品を展示する美術館)に行って参りました。電車6本とバス1本を乗り継いで行き、片道約5時間ずつかかり、「遠かったなあ」という印象です。もちろん行ってよかったです。最後に乗ったトロッコ列車は渡良瀬川沿いを走り、桜の木などの花が非常にきれいでした。美術館は草木湖という湖のほとりにあります。自然豊かな所です。星野さんは28歳で洗礼を受けられたとのことです。星野さんの姿を映したビデオも上映されていて、その中で星野さんは、大けがをする前は草花を踏みつけて歩いていたが、けがをして草花の絵を描くようになったとき、「これほど美しかったのかと驚いた。私の口では、実際の花の美しさの千分の一も描くことができない」という意味のことをおっしゃっていたと記憶しています。これはそのまま、美しい花を作られた神様への賛美です。最初の頃は、顔を横にする姿勢で花を見つめて、描いておられたようです。花を横から、あるいは下からじっと観察されたのではないかと思います。「下から目線」とでも言いましょうか。星野さんは神様に見込まれた方ではないかと思います。花の絵と詩によって、神様の栄光を現しておられます。

 イエス様は私たちの下に立って仕えて下さる方です。このイエス様のようにへりくだって生きて参りたいのです。私の深い罪を悔い改めつつ…。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-03-25 15:18:05(火)
「命の水を与えて下さる神」 2014年3月23日(日) 受難節第3主日礼拝説教 
朗読聖書:出エジプト記17章1~16節、コリント(一)10章1~14節

「モーセが手を上げて間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」(出エジプト記17章11節)

 先週の16章で、神様は荒れ野でイスラエルの民にマナを与えて下さいました。マナは質素な食物ですが、栄養を得るには十分で、神様は以後40年間にわたってマナを与え続けて下さるのです。もう1つ問題がありました。荒れ野では水が非常に乏しいのです。この問題は少し前の15章にも出て来ました。葦の海の奇跡の後、イスラエルの民は荒れ野を3日間進みましたが、水を得なかったのです。暑さの中ですから非常に辛いですね。マラという所でやっと水を見つけたのですが、苦くて飲めない水でした。民は早速モーセに不平を言います。困ったモーセが神様に向かって叫ぶと、神様が一本の木を示され、その木を水に投げ込むと水が甘くなったのです。神様の愛の奇跡です。その後、神様は民をエリムという所に導かれました。そこは12の泉と70本のなつめやしが茂るオアシスでした。神様は私たちにマラ(苦いこと)とエリム(恵み)の両方を与えて下さいます。

 今日の17章では再びマラ(苦いこと)を経験させられます。1節「主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。」水がないと苦痛ですし、生きることができません。この点で日本は恵まれていますし、東久留米教会も恵まれています。すぐ近くを落合川が流れ、南沢湧水があります。湧水より南の高い所に南沢浄水所があり、そこの看板には「大震災に際には、ここで皆さんに水を配ります」と書かれています。非常に心強いですね。その私たちと対象的に、イスラエルの民は飲み水がないという苦難に直面しました。神様がイスラエルの民の信仰を訓練しておられるのです。人間は苦しいとすぐに不平不満に満たされてしまい、神様を信じられなくなり易いのです。民はモーセに文句を言います。(2節)「民がモーセと争い、『我々に飲み水を与えよ』と言うと、モーセは言った。『なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。』」この場合の試すとは、神様が確かに守っていて下さるのに、その事実を疑い、神様を信用しないことです。不信仰の罪です。私たちにも身に覚えがあるのではないでしょうか。苦しいと、本当に神様が共にいて守っていて下さるのか、疑い始めてしまうのです。

 民の文句は、モーセにたしなめられても止まりません。民は殺気立っています。(3節)「しかし、民は喉が渇いてしかたがないので、モーセに向かって不平を述べた。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。』」 モーセは身の危険を感じ、主に向かって叫びます。(4節)「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています。」神様の助けが与えられます。(5~6節)「主はモーセに言われた。『イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。』モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。」

 神様は目に見えませんが、確かにホレブ(地名)の岩の上でモーセの前に立たれたのです。モーセはその岩を杖で打ちました。神様の御言葉に忠実に聴き従ったのです。その杖は、モーセが葦の海で高く上げ、手を海に向かって差し伸べて海を二つに分けた、あの杖です。この杖は神様の力のシンボルです。杖そのものに力があるのではなく、モーセが神様の御言葉に忠実に聴き従ったことが大切です。モーセと私たちが神様の御言葉に忠実に聴き従う時、神様が働いて下さり、栄光の御力を見せて下さるのです。モーセがあの杖で岩を打つと、水がほとばしり出たはずです。そして民はたっぷりと水を飲むことができました。ハレルヤです。

 私たちはしばしば現実に負けそうになります。現実は手強いのです。ですが神様に祈って力をいただき、現実がマイナスの状況にあったとしても、打ち勝ってゆきたいのです。(7節)「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである。」 神様は奇跡を起こして水を飲ませて下さいましたが、「神様が本当に共におられるのかどうか」と疑ったことは、イスラエルの民の罪です。神様は確かに私たち一人一人と共に歩んでおられます。この神様を信頼することが信仰です。イスラエルの民は試練に遭うと神様を信頼できなくなりました。「奇跡を見ないと信じない」気持ちになってしまったのです。そうではいけないのです。

 イエス様は、イエス様の復活を信じることができなかったトマスという弟子に、ヨハネによる福音書20章29節でで、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃいました。奇跡を見て信じるのなら、簡単なことです。「見ないのに信じる」のが信仰です。神様が目に見えなくても、試練があっても、なお神様が共にいて下さることを信じるのが信仰です。こう聞くと、正直に言って「ちょっと辛いな」と思われるのではないでしょうか。モーセも辛かったと思います。そんなときモーセは、神様に向かって叫びました。そして神様から助けをいただいたのです。私たちも辛いときは、神様に向かって祈りましょう。場合によってはモーセのように助けを求めて叫びましょう。神様が何らかの形で助けを与えて下さいます。たとえば協力者が与えられるなどの形で、神様が助けを与えて下さいます。

 本日の新約聖書は、コリントの信徒への手紙(一)10章1節より14節です。これを書いたのはイエス様の弟子・使徒パウロです。1~4節に、出エジプトしたイスラエルの民のことが書かれています。「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり(神様が雲の柱、火の柱によって導いて下さったこと)、皆、海を通り抜け(葦の海を歩いて渡ったこと)、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼(バプテスマ)を授けられ、皆、同じ霊的な食物(マナ)を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました(神様が岩から水を出して下さったこと)。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」 「霊的な岩」は、直接には神様ご自身です。

 旧約聖書は、神様をよく力強い岩にたとえます。申命記32章4節で、モーセが言います。「主は岩、その御業は完全で/ その道はことごとく正しい。」 詩編95編1節には、次のようにあります。「主に向かって喜び歌おう。/ 救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。」そうです。神様は頼りになる真の岩なのです。モーセが杖で岩を打つと水がほとばしり出たのですが、打たれた岩が大事なのではありません。「岩を打て」とお命じになった「生ける真の岩」神様が水を与えて下さったのです。この「生ける真の岩」をパウロは「霊的な岩」と書きましたが、それはまずは神様ご自身です。そしてさらにパウロは、「この岩こそキリストだったのです」と驚くべきことを述べます。モーセやイスラエルの民と共に荒れ野を歩んだ神は、実はキリストご自身だったのです。旧約聖書にはキリストは直接登場なさいません。神様が父・子・聖霊なる三位一体の方であることは、新約聖書に至って初めて明らかになります。ですがこの父・子・聖霊なる三位一体の神様が、旧約聖書の神様でもあるのです。キリストは天地創造をなさった神様ご自身であられ、葦の海を分けられたのもキリストだったと言ってもよいのです。今日の出エジプト記17章で、岩から水を出された神様は、三位一体の神であり、ですからキリストでもあるのです。このキリストが天から降られ、ベツレヘムの馬小屋で人間の赤ちゃんとして生まれて下さり、イエスと名付けられたのです。キリストは旧約聖書の中で働いておられるのです。驚くべき真理が開示されたのです。

 (5節)「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。」イスラエルの民は意気揚々とエジプトを脱出しましたが、その時20歳以上だった者で、40年後に約束の地・カナンの地に入ることができたのは、二人だけだったのです。エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアの二人だけです。モーセさえ入ることができませんでした。入ることができたのは出エジプトの時、19歳以下だった人たちとその子孫です。なぜ多くの人々が約束の地に入ることができなかったのか。それは荒れ野の旅の途中で何回も神様を疑い、神様に逆らったからです。それで神様の聖なる怒りに触れ、荒れ野に死に絶えたのです。この事実は私たちに緊張感を与えます。信仰生活は恵みの生活ですが、だれることは問題です。私どもは礼拝を第一にして日々聖書を読んで神様に祈り、できるだけ罪を避け、罪を犯せば悔い改めて、自覚的にイエス・キリストに従って歩むことが必要です。そうでないと神様に向かって多くの不平不満を述べて神様の聖なる怒りに触れて滅びた、イスラエルの多くの人々の二の舞になってしまいます。

 (6~7節)「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼ら(イスラエルの民)が悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります。」 偶像礼拝をしてはいけないと強調されています。偶像礼拝は、真の神様以外のものを拝むことです。偶像はお金の場合もあり、自分の欲望の場合もあります。イエス・キリストに従うよりも、身勝手な欲望の充足を一番大事にするならば、偶像崇拝になります。(9節)「また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。」パウロはここで、イスラエルの民が「キリストを試み」たと書き、荒れ野で民と共におられた方が確かにキリストであったことを再度教えています。民が「蛇にかまれて滅びた」出来事は民数記21章に出ています。神様に逆らって不平を言った人々への、神様の聖なるお怒りでした。

 (10~11節)「彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」イエス・キリストは世界の全ての人々の救い主として誕生され、私たち全員の罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさいました。イエス様が誕生なさったことによって、世界は終わりに時代に入っています。時のあるうちに、全ての人がイエス様を救い主と信じ告白し、洗礼を受けることが神様の願いです。そしてイスラエルの民の荒れ野での罪が旧約聖書に書かれている目的は、私たちがこの民のように偶像礼拝などの罪を犯して、救いの道から脱落することのないためです。ですからパウロは12節で私たちにこう述べます。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」 「自分の信仰は大丈夫だ」と気が緩んで偶像崇拝の罪などを犯して堕落することがないように、というのです。私たちは罪を避けて生活するために、もう一度モーセの十戒をよく学び、何が神様の御心に適う正しいことで、何が神様の御心に逆らうこと・罪であるか、よく学ぶことが必要です。

 13節は、多くの方が知る御言葉です。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」 辛いときも偽物の神々・偶像に頼ることをしてはいけない。あくまでも真の神様のみに祈り続けるように。なぜなら偽物の神々・偶像の正体は悪霊だからです。悪霊を拝み、悪霊について行けば、行き着く先は滅びです。ですからパウロは14節でこう断言します。「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」荒れ野でのイスラエルの民は、今日の出エジプト記17章で、神様を信頼せず、神様に文句を言う罪を犯しました。民数記では偶像崇拝という大きな罪をも犯してしまうのです。残念ながら、彼らは今日の出エジプト記17章前半では、私たちの反面教師なのです。

 出エジプト記17章に戻ります。後半の小見出しは「アマレクとの戦い」です。
次の試練がイスラエルの民を襲います。異民族の襲撃です。最後の15節に、「彼ら(アマレク)は主の御座に背いて手を上げた」と書かれていますから、アマレクは神様に逆らう人々、獰猛な人々でした。私たちの真の敵は人間ではなく悪魔ですから、ここでのアマレクは悪魔のシンボルだと思うのです。信仰生活は、私たちを誘惑して罪を犯させようとする悪魔との戦いでもあります。

 (8~9節)「アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、モーセはヨシュアに言った。『男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。』」後にモーセの後継者となるヨシュアは、モーセの命令に従います。戦いには神様の力と助けが必要でした。ヨシュアは若者を率いて戦いに出ました。しかし若いとは言っても人間の力だけで悪魔には勝てないのです。背後の祈りの応援がどうしても必要です。モーセと兄アロン、そしてフルという人が丘の頂に登ります。フルはモーセの姉ミリアムの夫という伝承があるそうですが、確認はできません。モーセもアロンはも元気だったでしょうが、80歳を超えています。体を張っての戦いは若者に任せ、モーセは祈りに専念します。アロンとフルがそれを支えます。

 (11節)「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」 詩編63編5節に次のように書かれています。「命のある限り、あなたをたたえ/ 手を高く上げ、御名によって祈ります。」「手」は両手です。両手を高く上げて、主なる神様のお名前によって祈るのです。モーセも両手を上げてイスラエルのために全力で祈っていたのです。これは霊的な戦い、悪魔との戦いなのです。祈って神様の助けをいただくことが何としても必要です。私たちも祈ることが必要です。自分のため、家族のため、教会のため、教会の伝道のため、日本のため、多くのことのために祈ることが必要です。神様の御心に適う祈りを一生懸命祈るなら、神様は必ず聞き届けて下さいます。モーセは必死に祈りました。ですからだんだん疲れてきます。モーセの祈りが弱くなるとイスラエルは劣勢になり、アマレクが優勢になります。勝敗は祈りの継続にかかっているのです。

 私たちの祈りの責任も重いのです。モーセの祈りが弱まることは、イスラエルの敗北に直結します。そこでアロンとフルが全力で支えます。(12節)「モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。」ヨシュアたちも懸命に戦いましたが、モーセの必死の執り成しの祈り、モーセを支えたアロンとフルの奉仕によって神様の力が注がれ、イスラエルはアマレクを打ち破ることができました。祈りの勝利、神様の勝利です。この勝利を記念して、モーセは礼拝のための祭壇を築き、それを「主はわが旗」と名付けました。自分の力で勝ったのではない、神様の力によって悪魔に勝たせていただいた。その信仰が表明されています。私たちも祈りによって、神様に助けていただいて、伝道を進めたいのです。

 主イエス様のために働く人には、神様の助けが与えられます。私は先々週、日本キリスト教団が主催した東日本大震災国際会議に参加させていただき、いろいろな方のお話を伺いましたが、一番印象に残ったのは若松栄町教会員・会津放射能情報センター代表・片岡輝美さんの報告でした。かなりインパクトのある話でした。福島第一原発事故による放射能被害についてこう語られました。

 「原発事故直後からテレビでは『直ちに健康に影響はない』と繰り返し、安心安全キャンペーンを張った日本政府は、私たち国民に真実を知らせることはありません。なんとかして原発事故を過小評価しようとしています。本来は日本政府や福島県は原発事故を起こした責任として、全ての食品や空間・土壌・海洋の線量を公表しなくてはならない。その数値を見て、私たちは『子どもに食べさせる・食べさせない、ここで遊ばせる・遊ばせない、ここに住む・住まない』と判断する。安全かどうかを決める権利は、当然、私たちにあるはずなのです。しかし、3年経った今でも、それは実現されていません。
 2011年11月、私たちは~スウェーデン・ガンマデータ社の食品放射能測定器GDM15を日本で最初に購入しました。(会津放射能情報)センターを始めた頃の私たちには全く資金がありませんでした。それなのに少しでも早く食の安全を確認するために、測定器を購入したい。しかし、資金をどのように作ればよいのかと検討し、食品測定器を購入するかしないかの決断をする前の夜、私は一通のメールを受け取りました。7月に私たちを訪れたドイツ~EMS(連帯福音宣教会)からでした。メールには「私たちから献金を送ります。働きのために使ってください」と書いてありました。献金額を見て、私は非常に驚きました。丁度、私たちが食品測定器購入に必要としていた金額250万円だったのです。主の大きな計らいに心から感謝しました」(『日本基督教団 東日本大震災国際会議 原子力安全神話に抗して―フクシマからの問いかけ―』2014年、68ページ)。 神様の助けだと強く思い、感銘を受けました。

 神様の御心に適うことのためならば、神様が祈りに応えて助けて下さる。私どももこの神様に信頼し、できるだけ罪を避け、神様の御心に適うことのために共に祈りを献げ、働いて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。