日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2013-12-10 0:53:38(火)
「良い僕(しもべ)だ、よくやった」 2013年12月8日(日)待降節(アドヴェント)第2主日公同礼拝 説教 
朗読された聖書:マラキ書3章19~20節、ルカによる福音書19章11~27節

「そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。」(ルカによる福音書19章13節)

 イエス様が、エルサレムにかなり近づいて来られました。イエス様はもうすぐ十字架におかかりになります。私たち皆の罪をすべて背負うためです。そのイエス様が1つのたとえを語られます。「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」(11節)。人々は、イエス様こそイスラエルのメシア・救い主と信じ、熱狂的にイエス様に従っていました。人々は、イエス様を王様とする栄光のイスラエル王国を打ち立てようとしていました。イスラエルを支配していたローマ帝国を、イエス様と共に打ち倒し、民族の独立を果たしたいと燃えていました。「とうとうその時がやって来た!」 

 しかしイエス様は群衆の熱気にお乗りになりません。却って人々をいさめるようにたとえを話されます。「イエスは言われた。『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は10人の僕(しもべ)を呼んで10ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせた』」(12~14節)。 「ある立派な家柄の人」はイエス様です。イエス様はもうすぐ十字架で死なれます。そして三日目に復活され、それから40日目に天に昇られます。そして将来必ず世界の真の王として地上においでになり、神の国を完成されます。このことを「キリストの再臨」と呼びます。因みにイエス様が約2000年前に地上においでになったことを「キリストの初臨」と呼ぶことがあります。 

 日本のキリスト教会の1つの考えとして、「未来」という言葉と、「将来」という言葉を比べるときに(両者は似た意味の言葉ですが)、「将来」の方が信仰的だ、ということを読んだことがあります。「未来」は「いまだ来たらず」の意味で語感が消極的ですが、「将来」は「まさに来たるべし」の意味で、積極的かつ確信に満ちた響きがあるからです。ですから「イエス様は未来に必ずおいでになる」と言うよりも、「イエス様は将来必ずおいでになる」と言う方が確信に満ちていて信仰的です。

 初代教会の人々は、イエス様の再臨はすぐにでも起こると信じていました。使徒パウロも、新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)7章26節で、「今危機が迫っている状態にある」と書いています。これは「イエス様が再臨されて神の国が完成され、最後の審判が行われる、その危機が間近に迫っている」という意味です。しかしパウロも晩年になると、イエス様の再臨は自分が地上で生きている間には起こらないと考えるようになりました。そして今に至るまで、再臨はまだ実現していません。それがなぜかという問いに対する答えは、ペトロの手紙(二)3章8節~9節に明確に記されています。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」神様は、何とかして世界の全員に救われてほしいと願われ、人類一人一人全員が自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じ、全員が天国に入ることを願われて、再臨のときを延期しておられます。しかし永久に延期されるのではなく、父なる神様がお定めになった時に、イエス様は必ず再臨されるのです。本日のたとえの中の、「家柄の立派な人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」という御言葉は、イエス様が再臨されるまでに、かなりの時間がかかることを暗示しています。その間に、私たちクリスチャンが何をすべきか、それが今日のルカによる福音書が私たちに問いかけることです。

 「そこで彼は、10人の僕(しもべ)を呼んで10ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った』」(13節)。イエス様は、僕たちに宿題を与えたのです。僕たちは、私たちです。一人に1ムナずつ渡したのです。1ムナは100デナリオン。1デナリオンは一日分の給料ですから、一日の給料を仮に5000円とすると、1ムナは100日分の給料で50万円です。一人一人に50万円の元手が渡されたのです。

 これと似た話がマタイによる福音書25章に出ています。それは「タラントンのたとえ」と呼ばれます。そこでは、ある人(イエス様)が旅行に出かけるとき、三人の僕たちを呼んで、それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンと、三人に異なる額を預けたと書かれています。1タラントンは6000日分の給料ですから、5タラントンは3万日分の給料で1億5000万円です。2タラントンは6000万円、1タラントンは3000万円です。今日のルカによる福音書では、僕は10人登場し、皆に同じ額1ムナが渡されています。1ムナは50万円と考えられますから、マタイによる福音書25章に比べると金額がだいぶ小さいですね。この2つのたとえ話は似ていますが、このような違いがあります。

 マタイに出て来るタラントンという言葉は、英語のタレント(才能)という言葉の語源ですから、マタイのたとえのメッセージは、「神様が与えて下さった才能を、神様のためにお献げして、神様のために惜しみなく精一杯用いなさい」ということです。ルカに出て来るムナという言葉は、単純に通貨の単位であって、それ以上に深い意味はないようです。イエス様は、10人の僕にそれぞれ1ムナ(50万円)を渡して、商売をするように指示されます。主人(イエス様)は僕一人一人を深く信頼して1ムナずつ(それは主人にとって大切な1ムナ)を預けて下さったのです。主人は旅立ちますが、僕以外の国民は彼を憎んでおり、彼が王になることを拒否していました。このことはイエス様が(悪いことを1つもしていないのに)十字架で殺されることと重なります。そして時がたちます。

 「さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの1ムナで10ムナもうけました』と言った」(15~16節)。非常に努力したのでしょう。大きな成果です。「主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、10の町の支配権を授けよう』」(17節)。 「二番目の者が来て、『御主人様、あなたの1ムナで5ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は5つの町を治めよ』と言った」(18~19節)。この人もだいぶ成果をあげました。そして三人目です。「また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです』」(20~21節)。

 この僕は、主人に不信の念を抱いていました。主人が愛と信頼をもって大切な1ムナを預けてくれたことを信じていませんでした。そしてせっかくの主人の信頼と期待を裏切ってしまったのです。この僕は、1ムナを布に包んでしまい込んでしまいました。活用すべき宝を少しも生かさず、死蔵してしまったのです。神様は、私たちに様々な賜物を与えて下さっています。ある程度の健康、才能、時間、お金などです。それらを(自分のためにだけでなく)神様と隣人への愛のために精一杯用いることを、神様は望んでおられます。私たちが怠惰になることなく、与えられた(否、預けられた)賜物を、神様と隣人のために喜んで用いて奉仕することを、神様は望んでおられます。

 神様から預けられた尊い賜物を全然生かさず、死蔵してしまった僕に対するイエス様のお言葉は厳しいものでした。「主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに』」(22~23節)。当時既に銀行があったというのは興味深いですね。「せめて銀行に預けておけば、最低限利息はついたのに」というのです。つまり神様の御用のために最低限のことさえしなかった怠慢が責められています。私たちも伝道のために怠惰であってはならないことを示されます。自分にできる仕方でよいので精一杯、イエス・キリストを日々宣べ伝えているかどうかが、問われています。私たちは当面はクリスマスコンサートのために御一緒に力を注いでゆきたいのです。

 資本主義を発達させたのはプロテスタントのクリスチャンたちだという説があります。マックス・ヴェーバー(1864年~1920年。ドイツの社会学者・経済学者)の説です。ヴェーバーの書いた本『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に詳しく書かれているそうです。プロテスタント教会は16世紀の宗教改革によって成立しました。プロテスタントの人々は、自分の職業は神様から与えられた職業だと考えます。ですからプロテスタントの人々は、神様にお仕えする気持ちで、非常に良心的且つ勤勉に自分の職業の道で働きました。そのため、結果として思いがけずお金・富がたまってしまった。その富が、資本主義が発達するきっかけになったというのです。興味深い説であり、ある程度当たっているのでしょう。ただその後の資本主義は信仰によらず、世俗的な考えによって進められています。それはともかく、苦難に負けず、勤勉に一生懸命働くのがプロテスタントの人々の生き方でした。今日のルカによる福音書の御言葉も、プロテスタントの人々の勤勉な生き方に大いに感化を与えたのではないかと思えます。私たちもその伝統を受け継ぎ、怠惰になることなく信仰の道を宣べ伝え、日々、神様に勤勉にお仕えしたいのです。イエス様に「怠慢な、悪い僕だ」とは言われたくありません。もちろん一人一人の健康状態や生活状況は異なるので、自分にできる仕方で神様にお仕えすればよいでしょう。

 しばらく前の礼拝で、イギリスの伝道者ジョン・ウェスレー(1703年~1791年)の、お金についての教えをお話したことがあります。ウェスレーの時代のイギリスでは、産業革命が起こり、そのために社会が急激に変化し、人々の心や倫理が混乱していました。そのような中で馬に乗ってイギリス中を説教して回り、人々にキリストの道を語り、イギリスを精神的に救った伝道者と評されています。ウェスレーは、プロテスタント教会の一派であるメソジスト教会を作った人です(本当にお作りになったのは神様ですが)。当時のイギリスでは金銭倫理も混乱していたでしょう。そんな中でウェスレーは『金銭の用い方』という説教の中で次のように語ったそうです(その時代の実際的な指針であり、私たち一人一人にどのように当てはめることができるかは、一人一人が考える必要があります)。「あなたにできるだけ稼ぎなさい。できるだけ貯蓄・節約しなさい。できるだけ与えなさい」(Gain all you can, save all you can, and give all you can!)。実は私は、最初の「できるだけ稼ぎなさい」に抵抗を感じて来ました。クリスチャンの理想は清貧ではないかという思いがあるからです(実際に私が十分に清貧に生きている自信はないのですが)。ですが私は今回、ウェスレーがもしかすると、本日のルカによる福音書19章16節の「良い僕」の言葉(「御主人様、あなたの1ムナで10ムナをもうけました」)を念頭に置いてこのように述べたのではないかと想像したのです。 ウェスレー自身は質素な生活をし、年齢が上がって収入が増えてからも若い頃と同じ生活費で生活し、多くを貧しい人々に献げたそうです。ウェスレーは多くの説教をしましたが、彼の臨終の言葉は次の言葉だったそうです。「あらゆることの中で一番すばらしいことは、神様が私たちと共におられることだ」(Best of all, God is with us.)。

 ルカによる福音書に戻ります。主人が言います。「なぜ、せめてわたしの金を銀行に預けなかったのか。」これを聞くと私たちは、「自分にできることはわずかだ。自分も神様に叱られるのではないか」と心配になるかもしれません。しかし私たちは自分にできることを精一杯すればよいのです。コリントの信徒への手紙(二)8章12節にこのように書かれています。「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」神様は私たちに、無理難題を押し付ける方ではありません。人と比べる必要はないのです。「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」 あの僕は、現に持っているもの(預けられていた賜物)さえ、神様のために全然用いなかったので、怠慢だと厳しく叱られたのです。

 主人はそばに立っていた人々に言います。「その1ムナをこの男から取り上げて、10ムナ持っている者に与えよ」(24節)。「僕たちが、『御主人様、あの人は既に10ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる』」(25~26節)。不公平に思えるかもしれませんが、これも一つの真理です。一つの責任を果たすと、次の責任が与えられます。反対に責任を果たさないと信用が失われ、次の仕事が来ない恐れがあります。社会でもそうですし、神様と私たちの間でもそうであるということです。

 この僕は、失敗を恐れすぎました。確かに挑戦・チャレンジには失敗の危険があります。挑戦・チャレンジは自分にとって経験がないこと、未知の領域に踏み出すことですから失敗の危険があります。世の中では失敗が許されないことが多いのも事実です。特に他人の運命を狂わせる大失敗は避けなければなりません。新しいことをスタートするときは、よく計画を練る必要があることは確かです。しかし伝道のために全然挑戦しないことも、神様の御心に反します。東久留米教会にとって新会堂建築は、思い切った決断でした。何度も何度も話し合い、祈りました。神様がここまで守り導いて下さいました。多くの方々の祈りと支援をいただきました。ただ感謝です。このようなすばらしい会堂を与えられたのですから、私たちはこの悪い僕になってはならず、一歩踏み出してイエス・キリストを宣べ伝える者でありたいのです。

 20世紀の著名な神学者にパウル・ティリッヒ(1886年~1965年)というドイツ人がいます。この人が次のように語ったそうです。「危険を冒して失敗する人は赦され得る。少しも危険を冒さず、少しも失敗しない人は、彼の全存在において失敗している。」まさにあの叱られた僕に当てはまる警句です。ある人はこの言葉について「小さなことでもいいので、チャレンジし続けることが大切ということ」と述べています。私たちも神様の御言葉を宣べ伝えるために、小さな仕方(手紙に聖書の御言葉を書く、クリスマス礼拝へのお誘いのはがきを出すなど)でよいので、日々チャレンジし続けたいものです。

 最後に、本日の旧約聖書マラキ書3章を見ます。小見出しの「主の日」は、神様が悪を滅ぼされる日です。イエス様が再臨されて、神の国を完成される日です。
「しかし、わが名(神様の御名)を畏れ敬うあなたたちには/ 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」(20節)。 キリスト教会は、「義の太陽」こそ、再臨のイエス様と信じて来ました。私たちもそう信じます。「義の太陽」、「希望の太陽」イエス様が来られる日まで、時がよくても悪くても、救い主イエス・キリストを宣べ伝えて参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2013-12-07 20:55:57(土)
「神様は愛です」 12月(クリスマス)の聖書メッセージ
「神は愛です」(新約聖書・ヨハネの手紙(一)4章16節)

 もうすぐクリスマスです。このシーズンに読みたい本に『靴屋のマルチン』があります。子ども向けに親しみやすくして出版されているので、ファミリーでお読み下さい。原作の題は『愛のあるところに神あり』(トルストイ民話集『人はなんで生きるか』岩波文庫所収)で、心温まるストーリーです。

 試練の多い人生の中で、聖書を読んで心の平安を得たマルチンは、神の子イエス様の声を聴きます。「明日、通りを見ていなさい。わたしが行くから。」翌日、マルチンは朝からイエス様をお待ちしますが、なかなかおいでになりません。仕事をしつつ外を見ると、お年寄りが雪かきをして疲れています。マルチンはこの人を家に招き温かいお茶を出します。その人はとても喜びます。

 その人が出ると、貧しい女の人が赤ちゃんを抱いていますが、赤ちゃんを包むものがないのが見えます。マルチンは、この親子を家に入れてシチューとパンを出し、古い冬着を贈ります。女の人は感激します。しばらくすると、りんご売りのおばあさんと、おばあさんからりんごを1個奪おうとした男の子がいて、おばあさんが男の子を警察に突き出そうとして二人が争っています。マルチンは飛び出して、おばあさんには「放してやりなさい」と言い、男の子には「謝りなさい」と言い、男の子が謝ります。二人は和解し、おばあさんが重い袋を担ごうとすると、男の子が「僕が持つよ」と言い、二人は並んで歩いて行きます。

 そして一日が暮れました。果たしてイエス様は来られなかったのか…。 マルチンはその夜、聖書を読みます。イエス様のみ言葉が胸に沁みわたり、マルチンの心は喜びでいっぱいになります。「お前たちは、わたし(イエス様)が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた(…)。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(新約聖書・マタイによる福音書25章35~40節)。私たちも、神様を愛し、隣人愛を行うクリスマスにしたいですね。アーメン(「真実に、確かに」の意)。

2013-12-04 1:33:02(水)
「失われたものを救うため」 2013年12月1日(日)待降節(アドヴェント)第1主日公同礼拝 説教
朗読された聖書:エゼキエル書34章1~16節、ルカによる福音書19章1~10節

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカによる福音書19章8節)

 イエス様は、私たちの罪を背負って十字架にお架かりになるために、エルサレムに向かっておられます。この19章の後半で、エルサレムにお入りになります。「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった」(1~2節)。イエス様はエリコの町に入られました。エリコは世界で最も古い町と言われ、紀元前8000年頃にはもう集落ができていました。エリコの位置は死海の北西およそ15キロ、エルサレムの北東およそ24キロの地点です。エリコはヨルダンの谷にあり、標高が地中海面下250メートル(海抜マイナス250メートル)で、世界で最も標高が低い町だそうです。エルサレムに向かう入口の位置にあります。エリコは美しいオアシスの町です。旧約聖書の申命記34章3節では「なつめやし(棕櫚)の茂る町」と紹介されています。なつめやしの大きな森があるとても肥沃な土地でした。ローマ人はこのなつめやしを世界に送り出していたそうです。売っていたのでしょう。このためエリコは活気があって経済的に豊かな町、重要な町、そしてローマ人にとって多くの税金を取ることのできる町になっていたそうです。この時代、ローマ帝国がイスラエルを支配していました。

 ザアカイという徴税人(税金の取り立てを職業とする男)が登場します。ザアカイという名前は「正しい人」という意味です。ですがこの人は名前の通りに生きてはいませんでした。ある本によるとローマ帝国がイスラエルの人々から税金を徴収するようになったのは紀元6年からです。税金は非常に重かったそうです。税金には直接税と間接税があり、直接税はローマ人が生産物の20~25%を直接徴収しました。間接税は橋や川の渡し場、町の入口などでローマ人の監督の下で、ローマ人に雇われたユダヤの徴税人が取り立てました。徴税人はユダヤ人であり、支配者ローマの権威を笠に着て税金を過酷に取り立てました。しかも不正に高額な税金を取り立て、自分たちの私腹を肥やしていたので、仲間のユダヤ人から非常に嫌われ、憎まれていました。ザアカイはその徴税人の頭(いわば罪人の頭)であり恐らく強欲で、金持ちでした。どのようにして金持ちになったのか。仲間のユダヤ人から税金を不当に高額に取り立てることによってです。仲間から見れば支配者ローマ人の手先、許せない売国奴・裏切り者です。徴税人がこのように憎まれていたのは、自業自得であったのです。悪徳業者、犯罪者だったと言ってもよいのです。私たちも当時のユダヤ人であったら、徴税人を憎んだでしょうし、それが当たり前だと思ったでしょう。神様に裁かれても仕方がないのが徴税人だったのです。

 ところがこの悪徳徴税人ザアカイとイエス様の出会いが起こるのです。ザアカイは態度の上では強がっていたでしょうが、心の奥底では孤独を覚えていたでしょう。このままでは自分は天国には行けないし、永遠の滅びに落ち込む。そういう恐れを抱いていたでしょう。でも普段はその気持ちを決して人には見せなかったでしょう。そのザアカイがなぜかイエス様に引きつけられました。自分を救ってくれるとまでは期待していなかったでしょうが、ザアカイは好奇心旺盛な男で、今評判のイエスという男をぜひこの目で見てみたいと思いました。そして早速行動します。「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである」(3~4節)。 このときザアカイが登ったとされるいちじく桑の木が今もあるそうですが、まさにその木に登ったのかどうかは分からないでしょう。ですがいちじく桑の木は、イスラエルの南部に多く立っており、写真で見ると幹がかなり太いですね。枝分かれしていますが、枝もとても太くてがっしりしています。ですから人が登りやすく、腰掛けるスペースもかなりある印象です。このような木にザアカイが登ったということは、合理的です。ザアカイは背が低かったのですが、すばしこい人で、たちまちいちじく桑の木に登ったことでしょう。ザアカイは、イエス様から見えない安全圏に身を置いて、上からイエス様を観察するつもりでした。

 ところがイエス様は何もかもお見通しです。木の上にザアカイが来ていることを知っておられました。心の一番深いところで救いを求めている孤独な魂の持ち主が来ていることに気づいておられました。そして声をおかけになります。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』」(5節)。イエス様が下に立っておられることが象徴的です。下に立つということを英語にすると「アンダー」に「スタンドする」です。アンダースタンド。理解するという意味ですね。イエス様はザアカイの心の一番深い部分を理解しておられました。孤独な人生から抜け出して救われたい願いが痛いほど伝わっていました。イエス様は、私たち一人一人の深い理解者です。アッシジのフランチェスコの有名な祈り「平和を求める祈り」に次のような祈りがあります。「理解されるよりも理解する者にならせて下さい」という祈りです。イエス様はまさにそのように生きられました。「平和を求める祈り」全体を読んでみます。これはまさにイエス・キリストの心・生き方と一致する祈りです。

「主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみのあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、悲しみあるところに喜びを。 
主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。 
それは、私たちが、自ら与えることによって受け、赦すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって、
とこしえの命を得ることができるからです。」 

この祈りのように、イエス様はザアカイに愛の言葉をかけて下さいました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

 ザアカイには友がいませんでした。家に友人が来ることもなかったでしょう。お金だけが友だったのです。『クリスマスキャロル』という物語に出て来る強欲のスクルージのようです。ですがイエス様はザアカイの友となって下さいました。私たちはザアカイの友になることができるでしょうか。犯罪者を愛することができるかどうか。なかなか難しいかもしれませんね。現実には愛しても裏切られることがあります。イエス様はそれでも愛されました。私たちの愛もイエス様に似た愛なのか、いつも問われます。幸い、ザアカイには素直なところがありました。良い意味で単純で愛すべきところありました。それが救いです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」まさにサプライズです。ザアカイは驚き、耳を疑ったでしょう。「まさか。あり得ない。有名なイエス様が今日、わが家に着て下さるなんて…。」ザアカイは耳を疑いながらも急いで降りて来て、喜んで興奮してイエス様を家に迎えました。

 このことは周りで見ていた人々にとっても、全く意外な成り行きでした。私たちがその場にいたとしても、驚くに違いありません。「イエス様は、もっと立派な人の家にお泊まりになるはずではないか」と。「これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった』(7節)。」私は、このつぶやいた人たちの気持ちが分かる気がします。同じルカによる福音書の5章でイエス様は既に、徴税人レビに声をかけて招かれました。「私に従いなさい。」レビはイエス様を家に招いて盛大な祝宴を催しました。するとユダヤのファリサイ派の人々や律法学者たちがつぶやいてイエス様の弟子たちに、「なぜ、あなたたちは徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と言いました。イエス様が鮮やかに答えられます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」イエス様は、ザアカイの、自分勝手に生きる罪を癒す魂の医者として、ザアカイに接して下さったのです。

 イエス様はザアカイの家だけの客なのでしょうか。違います。イエス様は、私たち一人一人の家の客人として来て下さっています。あるクリスチャンの家の壁に木彫りが掲げられているのを見たことがあります。同じ木彫りをご覧になった方があるでしょう。このような文が彫られています。

「キリストはわが家の主、食卓の見えざる賓客、あらゆる会話の沈黙せる傾聴者。」
あるクリスチャンの家では、食卓にイエス様の場所を用意すると聞いたことがあります。食事までは置かないのかもしれませんが、「ここはイエス様の場所」という場所を作るのです。まさにイエス様を毎日お客様としてお迎えする信仰の表れです。ザアカイは、喜んでイエス様を家に迎えました。私たちも、イエス様が家族の一員として家におられる気持ちで生活したいものです。

 ザアカイは立ち上がってイエス様を迎えます。「~ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』」(8節)。聖書では姿勢が意味を持つと聞いたことがあります。ザアカイが立ち上がったということは、ザアカイがイエス様をお迎えするために敬意を表したと同時に、それまで罪深い生き方を決然と捨てて、立ち上がった。自分のこれまでの罪をはっきり悔い改めて立ち上がった、これまでの古い自分・罪深い生き方をきっぱり捨てて、新しい生き方へと立ち上がったということです。ザアカイはここで形の上で洗礼を受けてはいませんが、洗礼を受けたことと同じことが起こっているのです。ザアカイは、まさに罪人の頭である自分の家に泊まりに来て下さるイエス様の予想外の愛に感激し、それまでの頑固で強欲な、エゴイズムに満ちた生き方を捨てる気持ちになったのです。北風と太陽という話がありますが、イエス様は冷たい北風ではなく、まさに暖かい太陽です。イエス様の太陽のような暖かい愛に心を動かされ、ザアカイは悔い改める決心をしました。放蕩息子ザアカイは悔い改めて、イエス様と隣人を愛する人に生まれ変わったのです。天で大きな喜びがあったに違いありません。

 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」財産の半分です! 不正な手段によって得たお金ですから、世の中に返すのは当たり前なのですが、それにしても思い切った生き方の変更です。私たちにはザアカイほどお金がありませんが、この姿勢は見習いたいと思わされます。先ほどのフランチェスコの祈りに、
「わたしたちが、自ら与えることによって受け、赦すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによって、とこしえの命を得ることができるからです」とありますが、この心がザアカイに宿り始めたのです。ルカによる福音書は、お金持ちに厳しい福音書です。前の18章でイエス様は、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃりました。ザアカイが神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しいこと、不可能なことであったのです。ザアカイは天国から一番遠い人だったのです。しかしイエス様は、ザアカイも悔い改めて天国に入ってほしいと願っておられるのです。

 マタイによる福音書18章14節でイエス様はこう言われます。「これらの小さな者(ザアカイのことでもあります)が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない。」イエス様は、ルカによる福音書15章で有名な「見失った羊のたとえ」をお語りになりました。「あなた方の中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹(ザアカイでもあります)を見失ったとすれば、99匹を野原に残しておいて、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか(当然、捜し回ります)。そして見つけたら、喜んでその羊(ザアカイ、そして私たち)を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人(ザアカイ)については、悔い改める必要のない(本当はそのような人はいません)99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」ザアカイが悔い改めたことで、イエス様は大きな喜びに満たされたのです。ザアカイは、惜しみなく与える愛に生きる人に変えられました。

「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」償いについて、出エジプト記21章37節に次のような規定があります。「人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。」ザアカイは、自分がこれまで盗みの罪を犯して来たと自覚したのです。そこで出エジプト記の規定にできるだけ従って返そうとしたのです。ザアカイは本気で悔い改め、彼の生き方が180度変わりました。イエス様は深く喜んで言われます。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子(イエス様ご自身)は、失われた者を捜して救うために来たのである」(9~10節)。 アブラハムは、神の民イスラエルの偉大な先祖、神様に選ばれた先祖です。ザアカイもその血を引いているのです。ですが罪を犯し続けているので、このまま自動的に天国に行くことはできません。神の民に形の上では属しているのに、罪を犯し続けて救いから最も遠く離れてしまったザアカイ。神様はザアカイに滅びてほしくないのです。何とかして罪を悔い改めて救われて欲しい。その神様の願いがかなって、ザアカイが罪をはっきり悔い改めたのです。イエス様と父なる神様の喜びは深く大きいのです。神様の次の御言葉を思い出さずにはおれません。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(エゼキエル書33章11節)。

 本日の旧約聖書は、エゼキエル書34章1節より16節です。小見出しが「イスラエルの牧者」です。牧者は羊飼いです。ここではイスラエルの指導者を指します。神様が、悪い指導者たちを厳しく告発しておられます。「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群を養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、超えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを探し求めず、かえって力づくで、苛酷に群れを支配した」(2節の途中から4節)。

 これに対して、神様ご自身がよき羊飼いとなって民を救うと宣言されます。「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。~わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養れる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追 われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(11節の途中から16節)。この神様が、最も良い羊飼いイエス様を、私たちの世に送って下さったのです。

 最後に新約聖書のテモテへの手紙(一)6章17節~19節を読みます。これはザアカイに向けられた御言葉、そして私たちにも向けられている御言葉と言えます。
「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」アーメン(「真実に、確かに」)。

2013-11-25 23:57:00(月)
「エジプト脱出」 2013年11月24日(日) 礼拝説教
朗読された聖書:出エジプト記12章29節~51節
ヨハネによる福音書19章31節~37節

「430年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した。」
(出エジプト記12章41節)

 礼拝で出エジプト記を読むのは、約2ヶ月ぶりです。神様は、ご自分の民イスラエルをエジプトでの奴隷生活から解放しようと働いておられます。イスラエルの民はエジプトから解放されて、シナイ山で十戒を与えられ、真の神様と契約を結ぶことになります。ところがエジプト王ファラオが解放を拒否したので、神様はこれまでエジプトに9つの災いを下されました。そして神様は出エジプト記12章の前半で指導者モーセとその兄アロンにおっしゃいます。「今月の十日、イスラエルの民は家族ごとに傷のない一歳の雄の小羊を一匹用意しなければならない。~それを十四日まで取り分けておき、皆で夕暮れに屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。その夜、私はエジプトの国を巡り、人であれ家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。またエジプトのすべての神々に裁きを行う。あなたたちのいる家に塗った血を見たならば、私はあなたたちを過ぎ越す。私がエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者(滅ぼす天使でしょう)の災いはあなたたちには及ばない。」神様は、神様に逆らうエジプトを撃たれ、イスラエルの民を救われます。

 とうとうその時が来ました。これがエジプトへの第10の災い、最後の災い、最大の災いです。本日の最初の小見出しは、「初子の死」です。「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった」(29~30節)。ファラオとエジプトの人々が、神様の再三の警告にもかかわらず心から悔い改めず、神様に従わなかったので、神様がとうとう非常に厳しい裁きを下されました。初子は、初めて生まれた子です。ファラオ自身の初子も撃たれて死にました。アメリカ映画『十戒』にもこの場面があります。ユル・ブリンナー(俳優)が扮するファラオの一人息子が死ぬのです。

映画の中でファラオは、鳥の頭をしたエジプトの黒い神の像(偶像)の両腕に息子を抱かせて言います。「ソーカー神よ、私はあなたにひざまずく。あなたがモーセの神より力を持っていることを示したまえ。私の息子の命を取り戻したまえ。私はあなたのためにピラミッドより偉大な神殿を建てましょう。」さらにこの偶像の前に頭を垂れて祈るのです。「暗闇の神よ、あなたはモーセの神より偉大でないということなのか。私があなたに懸命に訴えても、息子の命が戻って来ない。聞きたまえ! 私の息子はファラオになるはずだった。世界を治めるはずだった。私はモーセの神の力に対抗することができない。」こう言ってエジプトの偶像、偽物の神の無力さにあきらめを覚えます。ですがその後、妻に唆されて戦車隊を率いてモーセとイスラエルの民を攻撃するために出陣するのです。この場面は、エジプトの偶像、偽物の神の敗北と、真の神様の勝利を物語ります。

 映画では同じ頃、モーセが家族と共にいる家の中で語ります。「今夜、死の闇が過ぎ越し、明日私たちの上に自由の光が輝く。私たちがエジプトを出て行く時に。」エジプト人のすべての家で初子が死んだので、大きな叫びが起こりました。ファラオも人々もこのままでは自分たちも皆死ぬのではないかとパニックに陥り、ファラオは夜のうちにモーセを呼び出して、エジプトから出て行くようにせきたてます。「『さあ、私の民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい』」(31~32節)。こうして事態が急展開し、イスラエルの民は急いでエジプトを出ることになりました。民は慌しく、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担ぎました。神様は、エジプト人がイスラエルの民に好意を持つようになさったので、エジプト人はイスラエルの民に金銀の装飾品や衣類を渡してくれました。「彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした」(36節)と書かれています。私たちは分捕り物というと、奪い取ったようで抵抗を覚えますが、これはエジプト人が好意的に与えてくれた贈り物です。神様の恵みです。イスラエルの民が非常に長い間奴隷として酷使されたことを思えば、不当に取ったとは言えないでしょう。

 こうしてイスラエルの民は、先祖から430年間も滞在していた苦しみの地・エジプトをいよいよ出発します。紀元前1280年頃の出来事と考えられています。今から約3300年前です。喜びあふれる感激の場面です。映画『十戒』では、モーセが大きな杖を持って先頭に立ち、人々が希望に満ちて、意気揚々とエジプトを出て行きます。モーセが力強く述べます。「聞け、イスラエルよ。この日を記憶せよ。主の力強い御手があなた方を束縛から導き出す日を。」民が歓呼をもって応えます。「主が私たちの神。主は一人!」そして行進が開始されます。音楽も歓喜に満ちた威風堂々たる音楽です。多くの羊も一緒に進みます。乗り物の幌の中で一人の男の子が産声を上げます。助産婦が男性に「あなたに強い新しい男の子が生まれた」と祝福します。別の場所では高齢の男性が抱かれて、「自分にはもう力がない」と言います。すると約80年前に赤ちゃんモーセを、ナイル川から引き上げた前のファラオの娘がイスラエルの民に加わっていて、「私の車に乗ってはどう?」と言い、男性が持っていたいちじくの苗木について、「これを新しい地に植えましょう。子どもたちが食べるでしょう」と言います(映画の脚色)。

 「イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ60万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった」(37~38節)。妻子を含めると200万人以上になったことでしょう。東久留米市の人口の約20倍です。映画では、モーセが勇ましく出発する前に一人で、「荒れ野の中でどのようにして行くべき道を見出せばよいのでしょう。これだけの大人数にどのようにして水を与えればよいのでしょう」と主に祈ります。モーセには民の知らない内面の孤独な戦いがあったのでしょう。ですがモーセは意を決して、すべてを主に委ねて民の先頭に立って出発します。「イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は430年であった。430年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した。その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである」(40~42節)。神様が寝ずの番をされたということは、神様がイスラエルの民をいつも守っておられるということです。神様は私たちをも、昼も夜も守っていて下さいます。詩編121編4節を思い出します。
「見よ、イスラエルを見守る方は/ まどろむことなく、眠ることもない。 
主はあなたを見守る方/ あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 
昼、太陽はあなたを撃つことがなく/ 夜、月もあなたを撃つことがない。」

 出エジプトした民に「種々雑多な人々」が加わっていたとありますが、これは他国人のようです。民数記11章を見ると、この人々が荒れ野の旅で不平不満を言ってエジプトを懐かしんだと書かれています。一部外国人が加わっていたことに、モーセの寛容さを見ます。神様はここでは多くのイスラエルの民と少しの外国人をエジプトから脱出させられましたが、今は世界のすべての人を、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪と死から救いたいと願っておられます。映画『十戒』では、モーセがこう語って外国人が民に加わることを受け入れています。「誰でも神の憐れみを求める者は仲間だ。誰でも自由を渇き求める者は皆、私たちと共に行くことができる」と。

 次の小見出しは、「過越祭の規定」です。出エジプトの劇的な喜びから少し離れて、イスラエルの民が約束の地に入った時に、出エジプトを記念する重要な祭りである過越祭をどのように行うべきかが書かれています。 「『過越祭の掟は次の通りである。外国人は誰も過越の犠牲を食べることはできない。ただし、金で買った男奴隷の場合、割礼を施すならば、彼は食べることができる』」(43~44節)。割礼は、旧約聖書の時代の神様の民の男子であることのしるしです。そして46節「『一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。』」

この言葉を聞いて私たちは、新約聖書ヨハネによる福音書19章のイエス様の十字架の場面を連想します。ヨハネによる福音書19章は、イエス様こそ真の過越の小羊であると訴えています。31節から33節と見ると、十字架につけられた3人の足を折ることがポイントになっています。痛ましいことですが、足を折って死を早めるのです。「その日は準備の日(金曜日)で、翌日は特別の安息日(過越祭の第一日)であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。」イエス様の足を折らなかったことに、大きな意味があるのですね。36節に、「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉(本日の出エジプト記12章46節)が実現するためであった」とあります。

ヨハネによる福音書は、イエス様こそ真の過越の小羊であられることを私たちに示します。洗礼者ヨハネは、ヨハネによる福音書1章29節でイエス様のことをこう告げます。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。この世界の全時代のすべての罪、私たち一人一人のすべての罪を、十字架の死によって取り除いて下さる、本当にありがたい神の小羊がイエス様です。出エジプト記では、小羊の血を家の入口の二本の柱と鴨居に塗ると、その家を神様の裁きが通り過ぎました。イエス様の十字架の清い血潮は、世界の全員の罪を取り除く偉大な力を持っています。イエス様を救い主と信じ、告白するすべての人の上を、神様の聖なる審判が通り過ぎます。

私たち人間は全員、最後の審判を受けます。そのときの審判主は、子なる神イエス・キリストです。私たちはイエス様の十字架の血潮によって罪を赦されているので、最後の審判の時も安心です。私たちは旧約のイスラエルの民ではないので過越祭を行いませんが、イエス・キリストによる神の民ですので、聖餐式を行って、イエス様の十字架の死と復活による救いをしっかりと、魂と体に刻み込みます。「イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。」「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった。」これは本当に意味の深い聖句です。

 これから歌う讃美歌471番は「勝利を望み」という黒人(今はアフリカ系アメリカ人と呼ぶべきかもしれませんが)霊歌です。作詞者も作曲者もはっきり分かりません。非常に力があり、勇気を与えてくれる歌です。有名なマーティン・ルーサー・キング牧師たちがリードしたアメリカの1950年代、60年代の公民権運動(黒人差別をなくすための非暴力の運動)で繰り返し歌われたそうです。1963年に、この運動のシンボルとも言うべき「ワシントン大行進」が行われ、キング牧師が先頭に立って20万人がアメリカの首都ワシントンDCを行進し、キング牧師が有名な「私には夢がある」という演説を行いました。そのワシントン大行進でもこの歌が歌われたそうです。「ワシントン大行進」は1963年8月28日に行われ、同じ年の11月22日にケネディ大統領がダラスで暗殺され、5年後の1968年にキング牧師が39才で暗殺されています。「ワシントン大行進」とケネディ暗殺は今からちょうど50年前です。

 第1節の最初の歌詞は「勝利を望み」ですが、英語では「ウィーシャル オーヴァーカム」ですので、「私たちは乗り越える、克服する」ということです。ある人はこの歌は「敵をやっつけようというのでなく、友を勝ち取ろう」という歌だと述べます。「友を勝ち取ろう」とは、「敵を友に変えよう」ということでしょう。キング牧師の説教集『汝の敵を愛せよ』(新教出版社、1995年)の中で、キング牧師はリンカーンが、「私は自分の敵を友に変えてしまう時、敵を滅ぼしたことにはならないでしょうか」と語ったと書いています(77ページ)。そして「これが贖罪愛の力である」と書いています(同)。

2節の歌詞が胸を打ちます。
「恐れをすてて 勇んで進もう/ 闇に満ちた今日も。
 ああ、その日を信じて/ われらは進もう。」 

手をつないでこの歌を歌いながら行進する黒人の方々(奴隷の子孫であり、奴隷制度がなくなった後も差別を受けて来た方々)は、この歌詞に完全に共感して歌ったことでしょう。「恐れを捨てて、勇んで進もう/ 闇に満ちた今日も。」この歌は、苦難の中にある人を勇気づける力を持っています。イエス様はヨハネによる福音書16章33節で、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と弟子たちを励まされました。このイエス様の御言葉とこの讃美歌は深く通じ合っています。

 キング牧師は現代(と言っても約50年前ですが)のモーセのように感じられます。キング牧師は非暴力の運動をリードしました。モーセも似ています。決してイスラエルの民に、エジプトで暴力革命を起こすことを促しませんでした。イスラエルの民は力で反乱を起こしてエジプトを脱出したのではなく、ただ神様の全能の御力に頼ってエジプトから脱出したのです。はっきり書かれていませんが、皆でひたすら祈り続けて出エジプトにたどり着いたと言えるのです。お金も武力も何もない人々が、ただ皆で長年ひたすら祈り続けた結果、出エジプトが現実になったのです。イスラエルの民が出エジプトしたときにはまだ「勝利を望み」の讃美歌はありませんでした。しかしイスラエルの人々は、この讃美歌の歌詞と同じ気持ちで互いに励まし合い、祈り合って、エジプトを脱出する日を待ち望んでいたと思うのです。キング牧師たちの運動も祈りの運動だったのでしょう。このことは私たちにも勇気を与えます。当たり前のことですが、祈りを軽く考えてはならないのですね。祈りには力があります。神様が私たちのどんな小さな祈りも聴いていて下さるからです。神様の御心に適う祈りは必ず実現します。

私は昨日、西東京教区の伝道協議会の二日目に参加しました。加藤常昭先生の講演を伺いました。心に残ったことの1つは、次のことです。1989年に中国で天安門事件が起こり多数の死傷者が出た時、ヨーロッパでは多くの人々が心を痛め、多くの教会でこのために祈祷会を行って犠牲者のために祈ったそうです。2004年のインド洋大津波で多くの犠牲者(22万人以上と言われます)が出た時も、ヨーロッパの多くの教会がこのための祈祷会を開き、犠牲者のために祈ったそうです。ヨーロッパの教会では、刑務所に入っている人々のためにもよく祈るそうです。政治的な弾圧を受けて、不当に刑務所に入れられている人々もいるのです(ヘブライ人への手紙13章3節参照)。代祷、執り成しの祈りです。特に苦難の中におられる方々と連帯し、その方々のために祈らせていただくことは、教会の大切な使命です。

私たちも思い新たにして、もう一度共に祈ることを始めましょう。祈りによって東久留米教会、そして世界のすべての教会が前進し、神様の栄光となりますように。今、被災のご苦労の中にある東北の方々、フィリピンの方々に、神様のたくさんの助けが届けられますように。アーメン(「真実に、確かに」)。

2013-11-19 15:22:31(火)
「それは極めて良かった」 2013年11月17日(日) 収穫感謝日・教会学校との合同礼拝 説教
朗読された聖書:創世記1章24節~31節

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」
 (創世記1章31節)

 日本人宇宙飛行士の古川聡さんのお話が、しばらく前の朝日新聞に掲載されていました。宇宙から地球と見ると圧倒的な存在感があること、地球は絶妙のバランスによって存在しており私たち人間もその一部であること、この地球を大切にしなければいけないと思いを新たにしたこと、宇宙ステーションでは酸素を人工的に作らなければならないが、地球には作らなくても新鮮な空気があることに感激したこと、宇宙に行った最初は仲間と「あそこは日本だ」、「アメリカだ」、「ロシアだ」と自分の故郷の話をしていたが、地球全体がとても美しく地球が自分の故郷だと感じられるようになったこと、などを語っておられました。神様は、地球を多くの生き物と私たち人間が生きる場として、愛情をこめてお造りになったのです。

 旧約聖書の創世記第1章は、神様がこの世界をお造りになった様子を描きます。神様は第一日から第四日までかけて、光、大空、地、海、草、果樹を造られ、太陽と月を造られました。神様は五日目に、水に群がる生き物、空を飛ぶ翼を持つ鳥をお造りになりました。神様は水の生き物。空の鳥を祝福して言われます。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」第五の日が終わりました。神様はこの世界をお造りになったことを喜んでおられます。

 そして六日目です。神様は地の上の生き物をお造りになりました。そして神様は世界を造るわざの最後に、満を持して人間をお造りになりました。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(26~27節)。

 私たち人間は、神様に似ているのです。どこが似ているのでしょうか。父である神様には姿形はないので、姿形ではありません。愛することを知っているところが似ています。もちろん神様の愛は完全な愛で、私たち人間の愛はとても小さな愛です。ですが人間は不完全ながら愛することを知っています。そして言葉を持っていることです。神様は言葉を語られます。神様が「光あれ」とおっしゃると光ができたのです。私たちも言葉を持っています。神様の言葉に比べると不完全ですが、私たちも言葉を持っています。私たちは言葉でコミュニケーションを行います。動物にも少しは言葉があるかもしれません。ワンワン、コケコッコーなども言葉かもしれません。ですがあまり発達してはいません。人間の言葉はもっと複雑で発達しています。神様の言葉ほど上等ではありませんが、動物の言葉(言葉と言えるならば)よりかなり発達しています。もちろん動物の命も神様がお造りになった大切な命です。ですが人間だけが神様に似せて造られたのですから、人間の命には特別の尊さがあります(もちろんだからと言って人間は思い上がってはいけません)。ですから決して人間を殺してはいけないのです。もちろんふつうはほかの動物を殺すこともいけません。神様は人間をお造りになり、お造りになったすべてのものを改めて見渡されました。「見よ、それは極めて良かった」(31節)。神様は深い喜びに満たされたのです。私たちの身の周りには、体が不自由な方がおられ、いろいろなご病気の方も多いのです。私たちがそうなることもあります。どの人の命も皆大切です。

 ドイツのべーテルという町があるそうです。創世記28章19節からとった名で、「神様の家」の意味です。今から74年前の1939年、ドイツではナチスが権力を握っていました。そのトップがヒットラーです。ナチスは神様に逆らいました。ナチスはドイツ人が一番優秀だと信じ込んでおり、健康で強くて元気な人だけが大切だと考えました。国の役に立つ人だけが生きる価値があると考えたのです。(社会進化論に基づく)弱肉強食をよしとする考え、悪魔の考えです。障害のある方や病気の方は生きる価値がないというのです。このような考えは、今の日本にも少しあるかもしれないので、気をつける必要があります。神様は私たちみんなを愛しておられます。どの人間の命も地球より重いほど大切です。神の子であるイエス様は、一人一人全員を愛して、一人一人のために十字架で死んで下さいました。ナチスは、障害のある方や病気の方のお世話をするために人が働いたり、国がお金を使うことは無駄だと考えました。命を愛される神様に真っ向から逆らう間違った考えです。神様は旧約聖書のモーセの十戒の第六の戒めで、「殺してはならない」とはっきりおっしゃっています。ですが、ナチスは障害のある方を安楽死させる悪魔的な計画を実行しました。

 べーテルは1867年にルーテル教会の方が農家を買って、てんかんの子どもたちを保護したことから始まったそうです。ナチスの時代には、約3000人の障害のある方と、約3000人の職員が暮らす大きな町、イエス様の愛によって共に生きる町になっていました。ここにもナチスの魔の手が伸びて、安楽死させるべき人がいないかという問い合わせが来たそうです。二代目の施設長であったボーデルシュヴィンク牧師は、「神様によって造られた一人一人であるから、そのようにするべき人は一人もいない」と言いました。能力が高いから生きる価値があり、それほどでないから生きる価値がないという考え方は完全に間違っています。神様は全ての人間を同じに愛しておられます。神様は命の産みの親だからです。ボーデルシュヴィンク牧師はナチスに必死に抵抗し、3000人近くの命を救ったそうです。しかし残念ながら全員を救うことができなかったとのことです(一説には89名が移送され、命を奪われたといいます)。それでも、ナチスに懸命に抵抗したボーデルシュヴィンク牧師の、イエス様に従う生き方を私は尊敬します。

 私が洗礼を受けた教会は、茨城県にある日本キリスト教団筑波学園教会です。そこの青年会でご一緒したKさんという男性がいます。その教会では洗礼を受けるときに、自分がなぜ洗礼を受けることにしたのかを書いた作文を礼拝の会衆の前で朗読します。その中でKさんが言われた言葉を思い出します。「自分には双子の兄弟が故郷の大分にいます。障害のある兄弟です。」重度の障害のようでした。私たちはKさんとそれなりに親しくしていたつもりだったので、そのことを初めて聞いてびっくりしました。Kさんの言葉は続きます。「自分はこれまで人と比べて、『自分はこれができる、あれができない』と思い不平不満を抱いて来た。しかし人より能力が高いから優れているとか、能力が低いから価値がないという考え方はおかしい、いや、確かに間違っている。」能力やこの世での成功・出世よりももっと大切なことがある。神様が下さった命そのものが一番大切だということだと思います。

 神様は、私たちが人様の命を支配することを望まれません。私たちが人様の命に仕えることをお望みです。イエス様はおっしゃいました。「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子(イエス様)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコによる福音書10章43~44節)。

 今週の金・土曜日に、日本キリスト教団西東京教区の伝道協議会があり、加藤常昭先生とおっしゃる有名な先生のお話を伺いますが、私が神学校(牧師を養成する学校)で学んでいたときに、学校の修養会で加藤先生のお話を伺いました。たった一つ覚えていることは、「君たちは教会の底辺に立て」という教えです。そこだけ覚えています。「君たちは教会の底辺に立て。」果たして自分は今、教会の底辺に立っているだろうか、立っていないのではないか。そう思って悔い改めます。神様は、私たちが神様のお造りになった命に仕えることを喜んで下さいます。

 私は、『喜びのいのち』(新教出版社、2000年)という本によって初めてべーテルを知りました。障害があるないに関係なく、神様がすべての人を愛しておられることを教えてくれる良い本です。この本を私にプレゼントして下さったのはHさん(私と同じ年に神学校に入学された方)です。入学の頃62才くらいでいらしたので、多くの神学生にとって父親のような方でした。卒業後、約2年間教会で伝道師として働かれ、ご病気になって働きから引かれました。隣りの東村山市にお住まいでしたので、東久留米教会の礼拝にも出席して下さいました。そして病と闘っておられたときこの本をお読みになり、「とても良い本です」とおっしゃって私に一冊プレゼントして下さいました。その後、天に召されたので、私はこの本を大切にして読み返しています。

 先ほど歌った『讃美歌21』の223番は、アッシジのフランチェスコが作詞したと書かれています。自然界をお造りになった神様を賛美するすばらしい歌です。第1節の歌詞。
「造られたものは たたえよみ神を、ハレルヤ、ハレルヤ、
 輝く太陽、夜を照らす月も、主をほめたたえよ。
 ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ。」

 フランチェスコは今から800年ほど前のイタリアに生きました。イエス様を愛して、イエス様のように生きようとした人です。フランチェスコは、神様がお造りになったこの世界が大好きでした。鳥に説教したという伝説もあります。そして「太陽の賛歌」という歌を作りました。天国行く前の年です。フランチェスコの目には、神様がお造りになった自然界が輝いて見えたのです。
「~太陽は兄弟、月と星は姉妹、みんななかまです
  水は神さまからのプレゼント 
  清く、かわきをいやしてくれます。
  緑も、神さまからの贈りもの、
  花をさかせ、実をむすび、やしなってくれます

  空気と風、青空と雲、雨と七色のにじ
  空を飛ぶ鳥たち、野原の動物たち、
  水にすむ大きな魚、小さいものも兄弟、
  みんないっしょに生きているなかまです
  神さまのつくられた、たいせつな家族です ~」(戸田三千雄『神さまだいすき―10人の聖人たち―』女子パウロ会、1999年、31~32ページより)

 フランチェスコを主人公にした『ブラザーサン・シスタームーン』という映画がありますが、タイトルはこの『太陽の賛歌』からとったのでしょう。

 フランチェスコは、神様から「私の家を建て直しなさい」との御言葉を受けます。フランチェスコと仲間たちは、石を積んで、崩れかけていた教会を建て直します。本当は建物のことではなく、教会がイエス様に真に喜ばれる共同体になるために、祈り仕えなさいということです。映画の中で、フランチェスコたちが建て直した教会堂が完成したとき、彼と仲間たちが次のように歌います。
 「もしあなたの夢が実現することを願うのなら、時間をかけてゆっくり進みなさい。
  少しのことをしなさい、但しちゃんとよくしなさい。心をこめた仕事は清く育つ。
  もしあなたが人生を自由に生きたいのなら、時間をかけてゆっくり進みなさい。
  少しのことをしなさい、但しちゃんとよくしなさい。心をこめた仕事は清く育つ。
  一日一日、石を一つ一つ。あなたの人目につかない業をゆっくり築きなさい。
  一日一日あなたも成長する。あなたは天の栄光を知るでしょう。」 

 丁寧に、愛をこめて取り組みなさいということでしょう。先日私は、西東京教区の社会部が主催した集会「被災地支援の今」に参加しました。日本キリスト教団東北教区被災者支援センター・エマオで働いておられる佐藤伝道師のお話を伺いました。エマオのモットーは「スローワーク」です。フランチェスコたちの歌に通じていると感じます。地震・津波で大きな被害を受けた東北沿岸に赴くボランティアの多くは、やる気に満ちています。ですが自分の考えだけでバリバリ働くと、現地のお宅の方々が望んでいないことまで行ってしまうことがあったようです。するとかえって不満が生まれます。この反省を踏まえて、エマオのモットーは「スローワーク」になりました。だらだら働くのではありません。現地の方々との心の交流を重視し、できるだけ寄り添わせていただき、丁寧に仕事をすることです。

 神様は、地球に生きる私たちが皆でイエス様を礼拝し、すべてを分け合って生きることをお望みと信じます。今は東北の方々が苦労しておられ、フィリピンのレイテ島と周辺の島々の方々が台風30号の甚大な被害を受けたばかりです。私たちも東日本大震災の際に、外国にたくさん助けていただきました。フィリピンの方々に神様の助けがたくさんあるように祈ります。私たちが国や人種を超えて互いに助け合い、神様に喜ばれる世界を造ることができますように。アーメン(「真実に、確かに」)。