2013-12-31 0:02:29(火)
「神様の保護」 2013年12月29日(日) 降誕節第1主日公同礼拝説教
朗読された聖書:ホセア書11章1~4節、マタイによる福音書2章13~23節
「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」(マタイによる福音書2章15節)
幼子イエス様を礼拝した占星術の学者たちは、ヘロデ王のもとに戻らず、別の道を通って自分たちの国・東方に帰って行きました。ユダヤ人の王が誕生したと知らされたヘロデ王は、自分の地位が脅かされると考え、誕生した王を亡き者にしようと決意しています。生まれたばかりのイエス様は、早くも命を狙われているのです。ヘロデ王は悪魔の化身のような男です。父なる神様は、天使を送ってイエス様一家に危機を知らせて下さいます。「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている』」(13節)。
ここで目立つのは、イエス様の父ヨセフの従順さです。ヨセフはマリアの夫、イエス様の保護者としての責任を全力で果たすのです。「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」(14~15節)。 この預言者は、旧約聖書に登場するホセアです。預言者ホセアは、預言者イザヤと同時代人であり、紀元前8世紀のイスラエルで神様に奉仕しました。
「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」(ホセア書11章1節)。
これはもちろん出エジプトの出来事です。神様は、エジプトで虐げられていたイスラエルの民を愛しておられました。そしてイスラエルの民をエジプトから脱出させて下さったのです。しかし2節以下には神様の嘆きが記されています。イスラエルの民が、エジプトから救い出して下さった真の神様から離れ、偶像(偽物の神、その正体は悪魔)に心を惹かれ、偶像礼拝を行うようになってしまったからです。
「わたしが彼らを呼び出したのに/ 彼らはわたしから去って行き
バアル(偶像)に犠牲をささげ/ 偶像に香をたいた。
エフライム(イスラエル)の腕を支えて/ 歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを/ 彼らは知らなかった。
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り/ 身をかがめて食べさせた」(2~4節)。
神様が、荒れ野を旅するイスラエルの民を、愛情をこめて守り導かれ、日々身をかがめてマナという食物で養って下さったのです。それなのに、イスラエルの民がご自分を離れて、偶像を愛するようになってしまったことを、神様が悲しんでおられます。イスラエルの民は、このような罪を犯してしまいました。
マタイはホセア書を引用して、「『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と書きます。イエス様もイスラエル人の一人、イエス様こそ真のイスラエル人です。イエス様はヨセフとマリアに守られてエジプトに避難し、その後エジプトを出てイスラエルに戻られます。いわば第二の出エジプトです。イエス様は全く罪がなく、全く罪を犯さない唯一の人(そして神の子)ですから、第二の出エジプトをなさっても、旧約時代のイスラエルの民と違って、父なる神様に逆らう罪を一度も犯されることなく、父なる神様に100%従順に従い通されます。父なる神様のご意志に100%一致する生き方を、生涯貫かれるのです。イエス様は、旧約のイスラエルの民の失敗を繰り返すことなく、反対にその失敗を取り戻すように、父なる神様の御心に100%適う生き方を貫かれるのです。
そして見方を変えれば、イエス様はエジプトという外国に、難民として逃げる経験をなさったのです。ホームレスなられました。ですからイエス様は難民・ホームレスの方々の味方ではないかと思うのです。今の日本には原発事故のために故郷を追われた方々が多くおられます。イエス様はその方々の気持ちをよく分かって下さるに違いありません。
「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(16節)。
ヘロデはヒットラーのような残酷な男です。恐るべき虐殺をさせました。悪魔がヘロデを通して猛威をふるっているのです。ヒットラーに抵抗して死刑になったドイツの牧師ボンヘッファーは、このとき犠牲になった子どもたちを「幼児殉教者」と呼んでいるそうです。悪魔によって一方的に犠牲にさせられた子どもたちです。この子の親たちの嘆きは想像することさえできません。ベツレヘムと周辺は悲嘆と涙と絶望の地になってしまったのです。このような虐殺はその後の歴史でも起こっています。ヒットラーに率いられたナチスは600万人のユダヤ人をガス室などで殺害したと言われます。恐るべき数です。ボンヘッファー自身もナチスによって死刑にされました。日本人も、関東大震災のときに朝鮮の方々を虐殺したと聞いています。私たち最近の日本人がそれを忘れてかけているのではないかと感じ、心配になります。私たち日本人が犯した罪を忘れることは、罪の上塗りであり罪悪です。この罪を決して忘れないで語り伝え、悔い改めてゆく必要があります。
悪の暴虐の犠牲とされた人々は、どうなるのでしょうか。この問いへの1つの答えとなる御言葉があるとすれば、ヨハネの黙示録6章9節以下ではないかと思います。「小羊(イエス・キリスト)が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証のために殺された人々(殉教者)の魂を、わたし(著者ヨハネ)は祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じようにされようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく清かに待つようにと告げられた。」神様は、殉教なさった方々の叫びをしっかりと受けとめておられます。神様が悪を必ず裁くので、そのときまで待つようにとおっしゃるのです。
悪魔は確かに猛威をふるいますが、神様が許可なさる範囲でしか、暴れることができません。悪魔の化身のようなヘロデ王もヒットラーにも、人である以上死があります。ですから多くの悪を行っても、永遠に生きておられる神様に打ち勝つことは決してできません。最後の最後の最後には、必ず神様の愛と正義が勝利し、殉教者も報われるのです。イエス様は、マタイによる福音書10章28節で次のようにおっしゃって、私たちを励まされます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」悪魔や権力者は私たちの体を殺すことができますが、イエス様が私たちに与えて下さる永遠の命を奪うことは、決してできないのです。
しかし一時的とは言え、悪魔が激しく暴れています。ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子が皆殺しにされるという悲劇が起こったのです。
「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
『ラマで声が聞こえた。/ 激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルは子供たちのことで泣き、/ 慰めてもらおうともしない、
子供たちがもういないから』」(マタイ福音書2章17~18節)。
ラケルは、イスラエルの先祖の一人ヤコブの妻です。創世記によると、ラケルはべテルからベツレヘムに向かう道の傍らに葬られ、そこに葬りの碑が建てられました。預言者エレミヤが活動したのは、ラケルよりずっと後の時代、紀元前6世紀です。その頃、ラケルはイスラエル民族全体の偉大な母と見られていたのでしょう。エレミヤの時代にイスラエルの民は、国の滅亡という非常に辛い経験をします。人々はバビロンに捕囚として連れ去られます。日本にも敗戦体験があります。17節と18節に引用されているエレミヤ書の御言葉は本来、次の意味でしょう。
「ラマに葬られたイスラエルの母ラケルが、草葉の陰で激しく嘆き悲しんでいる。愛する子孫たちがバビロン帝国に殺され、国が破滅したからだ。」 そのときと同じ大きな悲しみが、ベツレヘムに満ちてしまったのです。ベツレヘムだけでなく、私たちの住む世界には悲しみが満ちています。最近では日本の東北地方や伊豆大島、フィリピンを大きな苦難(災害)が襲いました。イエス様は泣く方と共に泣いて下さる方であり、私たちもそうでありたいのです。イエス様は、十字架にかかる非常な苦難を体験された方であり、父なる神様は、愛する独り子を十字架に架ける苦痛に耐えて下さいました。
悪魔は神の子イエス様を殺そうと、ヘロデを通して激しく攻撃してきました。同じことがヨハネの黙示録12章4節以下に、別の表現で書かれています。
「竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子(イエス様)を産もうとしている女(マリア、そして救い主を生む神の民)の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた」(4節)。 竜は悪魔であり、悪魔の化身ヘロデとも言えます。 「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた」(5節)。これは、イエス様が十字架の死と復活の後に天に、昇られたことを指すようです。「女は荒れ野に逃げ込んだ。そこには、この女が1260日の間養われるように、神の用意された場所があった」(6節)。神の民が悪魔に迫害され、苦しめられるのですが、神様が保護して下さるのです。迫害もあるが、神様の保護もある。だから迫害に負けないで信仰を守り通すようにと、神様が私たちを励ましておられます。
さしものヘロデも、寿命が尽きるときが来ました。「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に生きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった』」(マタイ福音書2章19~20節)。 悪魔は最後の最後に必ず滅びます。ヘロデもヒットラーも滅んだのです。「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた」(21~22節前半)。どうすればよいのか、ヨセフは祈ったと思うのです。行き詰まりを打開して下さるのは神様です。「ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引き込もり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが、実現するためであった」(22節後半~23節)。
「彼はナザレの人と呼ばれる」という、そのものずばりの御言葉は旧約聖書にありません。それで困るのですが、候補の御言葉は2つあります。1つはイザヤ書11章1節です。メシアの誕生を予告する御言葉です。
「エッサイ(ダビデ王の父)の株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝(メシア)が育ち」 とあります。
この「若枝」が、もとの言葉ヘブライ語で「ネーツェール」です。マタイ福音書2章23節の「ナザレの人」は、(新約聖書が記されている)ギリシア語では「ナゾーライオス」で、「若枝」のヘブライ語「ネーツェール」と音が似ているというのです。やや苦しい感じもしますが、ヘブライ語は母音より子音が大切なので、子音だけ比べれば割に似ています。これはメシア預言ですから、マタイがこの御言葉を絶えず念頭に置いていたとしても、不思議はありません。
マタイは士師記13章5節のことを述べているのではないか、という説もあります。これは(外敵ペリシテ人からの)イスラエルの解放者サムソンを、母親がみごもった時に、天使が母親に語った御言葉です。「あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときからナジル人(びと)として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」 この「ナジル人(びと)」という言葉は確かに、「ナザレの人」と似ています。ナジル人は、一定の期間、神様に自分を献げて聖なる生き方をしている人です。イエス様は全人生を神様に献げられた聖なる方ですから、究極のナジル人です。
本日のマタイによる福音書で、マタイは三度も「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」などと書きます。イエス様こそ真のイスラエル人、究極の神の民です。父なる神様に100%従いきるお方です。その意味でイエス様は、旧約聖書の偉大な預言者たちが待ち望んだ方です。この方が、私たちのすべての罪を背負って十字架で死んで復活され、今も生きて働いておられます。この方を礼拝し、この方の弟子となってお従いして参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。
「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」(マタイによる福音書2章15節)
幼子イエス様を礼拝した占星術の学者たちは、ヘロデ王のもとに戻らず、別の道を通って自分たちの国・東方に帰って行きました。ユダヤ人の王が誕生したと知らされたヘロデ王は、自分の地位が脅かされると考え、誕生した王を亡き者にしようと決意しています。生まれたばかりのイエス様は、早くも命を狙われているのです。ヘロデ王は悪魔の化身のような男です。父なる神様は、天使を送ってイエス様一家に危機を知らせて下さいます。「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている』」(13節)。
ここで目立つのは、イエス様の父ヨセフの従順さです。ヨセフはマリアの夫、イエス様の保護者としての責任を全力で果たすのです。「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」(14~15節)。 この預言者は、旧約聖書に登場するホセアです。預言者ホセアは、預言者イザヤと同時代人であり、紀元前8世紀のイスラエルで神様に奉仕しました。
「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」(ホセア書11章1節)。
これはもちろん出エジプトの出来事です。神様は、エジプトで虐げられていたイスラエルの民を愛しておられました。そしてイスラエルの民をエジプトから脱出させて下さったのです。しかし2節以下には神様の嘆きが記されています。イスラエルの民が、エジプトから救い出して下さった真の神様から離れ、偶像(偽物の神、その正体は悪魔)に心を惹かれ、偶像礼拝を行うようになってしまったからです。
「わたしが彼らを呼び出したのに/ 彼らはわたしから去って行き
バアル(偶像)に犠牲をささげ/ 偶像に香をたいた。
エフライム(イスラエル)の腕を支えて/ 歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを/ 彼らは知らなかった。
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎から軛を取り去り/ 身をかがめて食べさせた」(2~4節)。
神様が、荒れ野を旅するイスラエルの民を、愛情をこめて守り導かれ、日々身をかがめてマナという食物で養って下さったのです。それなのに、イスラエルの民がご自分を離れて、偶像を愛するようになってしまったことを、神様が悲しんでおられます。イスラエルの民は、このような罪を犯してしまいました。
マタイはホセア書を引用して、「『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と書きます。イエス様もイスラエル人の一人、イエス様こそ真のイスラエル人です。イエス様はヨセフとマリアに守られてエジプトに避難し、その後エジプトを出てイスラエルに戻られます。いわば第二の出エジプトです。イエス様は全く罪がなく、全く罪を犯さない唯一の人(そして神の子)ですから、第二の出エジプトをなさっても、旧約時代のイスラエルの民と違って、父なる神様に逆らう罪を一度も犯されることなく、父なる神様に100%従順に従い通されます。父なる神様のご意志に100%一致する生き方を、生涯貫かれるのです。イエス様は、旧約のイスラエルの民の失敗を繰り返すことなく、反対にその失敗を取り戻すように、父なる神様の御心に100%適う生き方を貫かれるのです。
そして見方を変えれば、イエス様はエジプトという外国に、難民として逃げる経験をなさったのです。ホームレスなられました。ですからイエス様は難民・ホームレスの方々の味方ではないかと思うのです。今の日本には原発事故のために故郷を追われた方々が多くおられます。イエス様はその方々の気持ちをよく分かって下さるに違いありません。
「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(16節)。
ヘロデはヒットラーのような残酷な男です。恐るべき虐殺をさせました。悪魔がヘロデを通して猛威をふるっているのです。ヒットラーに抵抗して死刑になったドイツの牧師ボンヘッファーは、このとき犠牲になった子どもたちを「幼児殉教者」と呼んでいるそうです。悪魔によって一方的に犠牲にさせられた子どもたちです。この子の親たちの嘆きは想像することさえできません。ベツレヘムと周辺は悲嘆と涙と絶望の地になってしまったのです。このような虐殺はその後の歴史でも起こっています。ヒットラーに率いられたナチスは600万人のユダヤ人をガス室などで殺害したと言われます。恐るべき数です。ボンヘッファー自身もナチスによって死刑にされました。日本人も、関東大震災のときに朝鮮の方々を虐殺したと聞いています。私たち最近の日本人がそれを忘れてかけているのではないかと感じ、心配になります。私たち日本人が犯した罪を忘れることは、罪の上塗りであり罪悪です。この罪を決して忘れないで語り伝え、悔い改めてゆく必要があります。
悪の暴虐の犠牲とされた人々は、どうなるのでしょうか。この問いへの1つの答えとなる御言葉があるとすれば、ヨハネの黙示録6章9節以下ではないかと思います。「小羊(イエス・キリスト)が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証のために殺された人々(殉教者)の魂を、わたし(著者ヨハネ)は祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じようにされようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく清かに待つようにと告げられた。」神様は、殉教なさった方々の叫びをしっかりと受けとめておられます。神様が悪を必ず裁くので、そのときまで待つようにとおっしゃるのです。
悪魔は確かに猛威をふるいますが、神様が許可なさる範囲でしか、暴れることができません。悪魔の化身のようなヘロデ王もヒットラーにも、人である以上死があります。ですから多くの悪を行っても、永遠に生きておられる神様に打ち勝つことは決してできません。最後の最後の最後には、必ず神様の愛と正義が勝利し、殉教者も報われるのです。イエス様は、マタイによる福音書10章28節で次のようにおっしゃって、私たちを励まされます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」悪魔や権力者は私たちの体を殺すことができますが、イエス様が私たちに与えて下さる永遠の命を奪うことは、決してできないのです。
しかし一時的とは言え、悪魔が激しく暴れています。ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子が皆殺しにされるという悲劇が起こったのです。
「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
『ラマで声が聞こえた。/ 激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルは子供たちのことで泣き、/ 慰めてもらおうともしない、
子供たちがもういないから』」(マタイ福音書2章17~18節)。
ラケルは、イスラエルの先祖の一人ヤコブの妻です。創世記によると、ラケルはべテルからベツレヘムに向かう道の傍らに葬られ、そこに葬りの碑が建てられました。預言者エレミヤが活動したのは、ラケルよりずっと後の時代、紀元前6世紀です。その頃、ラケルはイスラエル民族全体の偉大な母と見られていたのでしょう。エレミヤの時代にイスラエルの民は、国の滅亡という非常に辛い経験をします。人々はバビロンに捕囚として連れ去られます。日本にも敗戦体験があります。17節と18節に引用されているエレミヤ書の御言葉は本来、次の意味でしょう。
「ラマに葬られたイスラエルの母ラケルが、草葉の陰で激しく嘆き悲しんでいる。愛する子孫たちがバビロン帝国に殺され、国が破滅したからだ。」 そのときと同じ大きな悲しみが、ベツレヘムに満ちてしまったのです。ベツレヘムだけでなく、私たちの住む世界には悲しみが満ちています。最近では日本の東北地方や伊豆大島、フィリピンを大きな苦難(災害)が襲いました。イエス様は泣く方と共に泣いて下さる方であり、私たちもそうでありたいのです。イエス様は、十字架にかかる非常な苦難を体験された方であり、父なる神様は、愛する独り子を十字架に架ける苦痛に耐えて下さいました。
悪魔は神の子イエス様を殺そうと、ヘロデを通して激しく攻撃してきました。同じことがヨハネの黙示録12章4節以下に、別の表現で書かれています。
「竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子(イエス様)を産もうとしている女(マリア、そして救い主を生む神の民)の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた」(4節)。 竜は悪魔であり、悪魔の化身ヘロデとも言えます。 「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた」(5節)。これは、イエス様が十字架の死と復活の後に天に、昇られたことを指すようです。「女は荒れ野に逃げ込んだ。そこには、この女が1260日の間養われるように、神の用意された場所があった」(6節)。神の民が悪魔に迫害され、苦しめられるのですが、神様が保護して下さるのです。迫害もあるが、神様の保護もある。だから迫害に負けないで信仰を守り通すようにと、神様が私たちを励ましておられます。
さしものヘロデも、寿命が尽きるときが来ました。「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に生きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった』」(マタイ福音書2章19~20節)。 悪魔は最後の最後に必ず滅びます。ヘロデもヒットラーも滅んだのです。「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた」(21~22節前半)。どうすればよいのか、ヨセフは祈ったと思うのです。行き詰まりを打開して下さるのは神様です。「ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引き込もり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが、実現するためであった」(22節後半~23節)。
「彼はナザレの人と呼ばれる」という、そのものずばりの御言葉は旧約聖書にありません。それで困るのですが、候補の御言葉は2つあります。1つはイザヤ書11章1節です。メシアの誕生を予告する御言葉です。
「エッサイ(ダビデ王の父)の株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝(メシア)が育ち」 とあります。
この「若枝」が、もとの言葉ヘブライ語で「ネーツェール」です。マタイ福音書2章23節の「ナザレの人」は、(新約聖書が記されている)ギリシア語では「ナゾーライオス」で、「若枝」のヘブライ語「ネーツェール」と音が似ているというのです。やや苦しい感じもしますが、ヘブライ語は母音より子音が大切なので、子音だけ比べれば割に似ています。これはメシア預言ですから、マタイがこの御言葉を絶えず念頭に置いていたとしても、不思議はありません。
マタイは士師記13章5節のことを述べているのではないか、という説もあります。これは(外敵ペリシテ人からの)イスラエルの解放者サムソンを、母親がみごもった時に、天使が母親に語った御言葉です。「あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときからナジル人(びと)として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」 この「ナジル人(びと)」という言葉は確かに、「ナザレの人」と似ています。ナジル人は、一定の期間、神様に自分を献げて聖なる生き方をしている人です。イエス様は全人生を神様に献げられた聖なる方ですから、究極のナジル人です。
本日のマタイによる福音書で、マタイは三度も「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」などと書きます。イエス様こそ真のイスラエル人、究極の神の民です。父なる神様に100%従いきるお方です。その意味でイエス様は、旧約聖書の偉大な預言者たちが待ち望んだ方です。この方が、私たちのすべての罪を背負って十字架で死んで復活され、今も生きて働いておられます。この方を礼拝し、この方の弟子となってお従いして参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。
2013-12-30 2:17:20(月)
「真の喜び」 2013年12月24日(火) クリスマスイヴ礼拝説教
朗読された聖書:イザヤ書9章1節~6節、ルカによる福音書1章47節~55節、2章8節~20節
「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全員に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。』」(ルカによる福音書2章10~11節)
クリスマスおめでとうございます。
ルカによる福音書のクリスマスの場面に登場するのは、この世の力を持たない人々です。まずマリアがそうです。神様はガリラヤの(おそらく)14才くらいの少女マリアを、主イエス・キリストの母としてお選びになりました。これは神様の自由な選びによることです。マリアには最初戸惑いがありましたが、神様を信頼して自分の身を委ねることを決断しました。そして聖霊に満たされ、聖なる喜びに満たされて神様を賛美しました。この時マリアと共にいたのは、だいぶ年上の親類エリサベト、そしてエリサベトのお腹にいる胎児の洗礼者ヨハネ、マリアのお腹にいる小さなイエス様だけです。神様は、人知れず祈るいと小さき私たち一人一人の祈りに、喜んで耳を傾けて下さいます。
そして羊飼いたちです。羊飼いは貧しかったでしょう。彼らの仕事はきつい肉体労働です。彼らは野宿をしながら、夜も眠らないで大切な羊の群れの番をしていたのです。現代でも夜勤のある仕事をする方々がおられます。夜中に道路工事をして下さっている方々もおられます。神様はその方々のご苦労をよくご存じであり、そのお一人お一人を愛しておられます。神様は、イスラエルの首都エルサレムにいる大祭司や、出世している人々に救い主誕生の知らせを真っ先に知らせることもできたのです。ですが神様はあえて、きつい労働をしているが誰からも褒められない、無名の羊飼いたちを選んで、救い主誕生の真の喜びをお告げになったのです。神様は有名でない小さき一人一人の味方なのです。
「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」(9節)。天使には聖なる雰囲気、威厳があります。ですから羊飼いたちは恐れたのです。「天使は言った。『恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(救い主)である。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである』」(10~12節)。ベツレヘムとは、「パンの家」の意味です。パンを作る小麦がとれたのでしょう。
天使は「大きな喜び」と言いました。それは「真の喜び」です。私たちの喜びとは何でしょうか。世の中にも様々な喜びがあります。しかし「真の喜び」でないものもあります。単なる自分勝手な欲望の充足を真の喜びと勘違いすることもあります。真の喜びは、救い主イエス・キリストが私たちといつも共にいて下さることです。聖書は「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」と述べています(ヘブライ人への手紙13章8節)。これは死を超えて永遠に続く喜びであり、いつまでも変わらない真の慰めです。18世紀のイギリスの伝道者ジョン・ウェスレーの臨終の言葉は、「あらゆることの中で一番すばらしいことは、神様が私たちと共におられることだ」だったそうです。これは私たちの信仰でもあります。イエス様は、小さき私たちと共に生きるために貧しい馬小屋で誕生され、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかるために生きてゆかれます。
「瞬きの詩人」と言われた水野源三さんを思います。水野源三さんは、1946年8月に長野県埴科郡坂城町に発生した集団赤痢のため、9才で「見る」、「聴く」以外の機能を失われました。実に辛いことです。宗教は嫌いでしたが、ある牧師の訪問によりイエス・キリストの福音を受け入れます。そして明るくなったそうです。五十音図を持つお母様に、瞬きで合図を送る忍耐強い方法で詩作なさるようになります。心を洗われる詩を作られました。
「キリストのみ愛に触れたその時に
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました。
憎しみも恨みも
霧のように消えさりました。
キリストのみ愛に触れたその時に
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました。
悲しみも不安も
雲のように消えさりました。
キリストのみ愛に触れたその時に
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました。
喜びと希望の
朝の光がさして来ました。」(『瞬きの詩人 水野源三の世界 こんな美しい朝に』いのちのことば社、1990年、10~11ページ)
ある人がその町で源三さんの家の場所を尋ねたところ、町の人が、「源三さんはこの町の宝です」と答えたと聞いたことがあります。イエス様は、源三さんと共に歩んで下さいました。
天使から救い主誕生のニュースを聞いた羊飼いたちは、ベツレヘムへ急ぎます。そしてマリアとヨセフ、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。マリアとヨセフは羊飼いたちの突然の訪問に驚いたでしょう。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」マリアが祈ったということでしょう。私たちも神様へのご奉仕と思っていろいろ活動しますが、同時に祈り続けることを忘れないようにしたいと思います。
ここに登場するのは、小さき人々ばかりです。神様は小さき人をあえて選んで信仰を与えて下さる方です。私たちも小さき者なので、神様が選んで信仰を与えて下さいました。この深い光栄を感謝します。私がルカによる福音書のクリスマスの場面と深く一致すると思うのは、次の御言葉です。
「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵のある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選らばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(コリントの信徒への手紙(一)1章26~29節)。神様は小さき者の味方です。
テノール歌手・新垣勉さんの次のメッセージに学ばされました。生後間もなく失明された方です。「今の時代は、効率ばかり優先されますが、人生には時には遠回りが必要です。~憎しみでは何も変わらないし、何も生まれないことに気付きました。~人生はやり直しがきくのです。一生という長い区切りでものを見てください。ゆっくりとした歩みの中から、今まで見落としてきたものに気づくこともあるでしょう。そして、人との出会いを大切にしてほしいと思います。人は出会いによって成長し、愛が育まれるのです。相手を変えようと思わず、まずは自分自身が優しい心で人と接してください。~あなたを必要としている人が必ずいます。他人と比較するのではなく、自分の持っている良さにしっかりと磨きをかけてください。」とてもよいメッセージです。私もこのような気持ちで丁寧に生きてゆきたいと思いました。
小さき者を愛して下さる神様に感謝して、イエス様のご誕生をお祝い致しましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。
「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全員に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。』」(ルカによる福音書2章10~11節)
クリスマスおめでとうございます。
ルカによる福音書のクリスマスの場面に登場するのは、この世の力を持たない人々です。まずマリアがそうです。神様はガリラヤの(おそらく)14才くらいの少女マリアを、主イエス・キリストの母としてお選びになりました。これは神様の自由な選びによることです。マリアには最初戸惑いがありましたが、神様を信頼して自分の身を委ねることを決断しました。そして聖霊に満たされ、聖なる喜びに満たされて神様を賛美しました。この時マリアと共にいたのは、だいぶ年上の親類エリサベト、そしてエリサベトのお腹にいる胎児の洗礼者ヨハネ、マリアのお腹にいる小さなイエス様だけです。神様は、人知れず祈るいと小さき私たち一人一人の祈りに、喜んで耳を傾けて下さいます。
そして羊飼いたちです。羊飼いは貧しかったでしょう。彼らの仕事はきつい肉体労働です。彼らは野宿をしながら、夜も眠らないで大切な羊の群れの番をしていたのです。現代でも夜勤のある仕事をする方々がおられます。夜中に道路工事をして下さっている方々もおられます。神様はその方々のご苦労をよくご存じであり、そのお一人お一人を愛しておられます。神様は、イスラエルの首都エルサレムにいる大祭司や、出世している人々に救い主誕生の知らせを真っ先に知らせることもできたのです。ですが神様はあえて、きつい労働をしているが誰からも褒められない、無名の羊飼いたちを選んで、救い主誕生の真の喜びをお告げになったのです。神様は有名でない小さき一人一人の味方なのです。
「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」(9節)。天使には聖なる雰囲気、威厳があります。ですから羊飼いたちは恐れたのです。「天使は言った。『恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(救い主)である。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである』」(10~12節)。ベツレヘムとは、「パンの家」の意味です。パンを作る小麦がとれたのでしょう。
天使は「大きな喜び」と言いました。それは「真の喜び」です。私たちの喜びとは何でしょうか。世の中にも様々な喜びがあります。しかし「真の喜び」でないものもあります。単なる自分勝手な欲望の充足を真の喜びと勘違いすることもあります。真の喜びは、救い主イエス・キリストが私たちといつも共にいて下さることです。聖書は「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」と述べています(ヘブライ人への手紙13章8節)。これは死を超えて永遠に続く喜びであり、いつまでも変わらない真の慰めです。18世紀のイギリスの伝道者ジョン・ウェスレーの臨終の言葉は、「あらゆることの中で一番すばらしいことは、神様が私たちと共におられることだ」だったそうです。これは私たちの信仰でもあります。イエス様は、小さき私たちと共に生きるために貧しい馬小屋で誕生され、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかるために生きてゆかれます。
「瞬きの詩人」と言われた水野源三さんを思います。水野源三さんは、1946年8月に長野県埴科郡坂城町に発生した集団赤痢のため、9才で「見る」、「聴く」以外の機能を失われました。実に辛いことです。宗教は嫌いでしたが、ある牧師の訪問によりイエス・キリストの福音を受け入れます。そして明るくなったそうです。五十音図を持つお母様に、瞬きで合図を送る忍耐強い方法で詩作なさるようになります。心を洗われる詩を作られました。
「キリストのみ愛に触れたその時に
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました。
憎しみも恨みも
霧のように消えさりました。
キリストのみ愛に触れたその時に
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました。
悲しみも不安も
雲のように消えさりました。
キリストのみ愛に触れたその時に
キリストのみ愛に触れたその時に
私の心は変わりました。
喜びと希望の
朝の光がさして来ました。」(『瞬きの詩人 水野源三の世界 こんな美しい朝に』いのちのことば社、1990年、10~11ページ)
ある人がその町で源三さんの家の場所を尋ねたところ、町の人が、「源三さんはこの町の宝です」と答えたと聞いたことがあります。イエス様は、源三さんと共に歩んで下さいました。
天使から救い主誕生のニュースを聞いた羊飼いたちは、ベツレヘムへ急ぎます。そしてマリアとヨセフ、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。マリアとヨセフは羊飼いたちの突然の訪問に驚いたでしょう。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」マリアが祈ったということでしょう。私たちも神様へのご奉仕と思っていろいろ活動しますが、同時に祈り続けることを忘れないようにしたいと思います。
ここに登場するのは、小さき人々ばかりです。神様は小さき人をあえて選んで信仰を与えて下さる方です。私たちも小さき者なので、神様が選んで信仰を与えて下さいました。この深い光栄を感謝します。私がルカによる福音書のクリスマスの場面と深く一致すると思うのは、次の御言葉です。
「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵のある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選らばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(コリントの信徒への手紙(一)1章26~29節)。神様は小さき者の味方です。
テノール歌手・新垣勉さんの次のメッセージに学ばされました。生後間もなく失明された方です。「今の時代は、効率ばかり優先されますが、人生には時には遠回りが必要です。~憎しみでは何も変わらないし、何も生まれないことに気付きました。~人生はやり直しがきくのです。一生という長い区切りでものを見てください。ゆっくりとした歩みの中から、今まで見落としてきたものに気づくこともあるでしょう。そして、人との出会いを大切にしてほしいと思います。人は出会いによって成長し、愛が育まれるのです。相手を変えようと思わず、まずは自分自身が優しい心で人と接してください。~あなたを必要としている人が必ずいます。他人と比較するのではなく、自分の持っている良さにしっかりと磨きをかけてください。」とてもよいメッセージです。私もこのような気持ちで丁寧に生きてゆきたいと思いました。
小さき者を愛して下さる神様に感謝して、イエス様のご誕生をお祝い致しましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。
2013-12-29 0:31:19()
「幼子キリストを拝む」2013年12月22日(日) クリスマス公同礼拝説教
朗読された聖書:ミカ書5章1~5節、マタイによる福音書2章1~12節
「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイによる福音書2章10節)
クリスマスおめでとうございます。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』」(1~2節)。ヘロデ王は、紀元前37年から紀元前4年までイスラエル・ユダヤを統治した王です。ヘロデ大王とも呼ばれます。ヘロデ王の政権はローマ帝国の支持の下に成り立つ政権でした。その意味ではローマのあやつり人形のような政権でしたが、ユダヤ国内では大きな力を持っていました。ヘロデ王の時代は、恐怖政治と大建造物の建築によって記憶されています。ヘロデ王は猜疑心が非常に強く、自分の地位が乗っ取られることを警戒して妻や息子二人までも殺害しています。粛清です。今の北朝鮮のトップの人に似ていると思うのです。同じ時代のローマ皇帝アウグストゥスは、「ヘロデの息子であるよりは、豚である方がまだ安全だ」と言いました。
ヘロデ王はいろいろな大きな建造物を作りました。新共同訳聖書の巻末の解説の「神殿」の項を見ると、「紀元前20年ごろ、ヘロデ大王は(エルサレム神殿の)大規模な修理拡張工事を始めた。イエスの時代には、周囲に回廊を巡らした広い境内と、白い大理石の美しい本殿を持つ、立派な建造物であった」と書かれています。この神殿は当時の地中海沿岸世界で有名になり、離散していたユダヤ人や外国人までもこの神殿で礼拝するために、エルサレムを訪れるようになりました。神様を本当に愛して礼拝に来る人もいたでしょうが、単なる物見遊山の人もいたかもしれません。イエス様はヘロデ王の人生の晩年にお生まれになったのですから、紀元前6年頃にお生まれになったことになります。
解説書によると、「占星術の学者」は、ペルシャのゾロアスター教の祭司ではないかとされ、天文学、占星術、魔術、夢解釈などを行い、人や世の中の運命を伝える人々であったそうです。学者ですから、当時の最高の教育を受けた知識人です。イスラエル人・ユダヤ人ではなく外国人です。彼らは見上げた人々で、外国人であるのにユダヤの真の王を礼拝したい一念で、遠くから巡礼の旅をして来たのです。彼らは観光気分ではなかったので、ヘロデ王が拡張した大神殿には関心を持ちませんでした。この外国人たちがイエス様を礼拝するためにやって来たことは、イエス様が全世界の王であることを意味しています。イエス様は、私たち日本人にとっても真の王なのです。私たちは今、真の王を礼拝するために礼拝堂に集まっています。
神様が彼らに1つの星を見せて下さいました。彼らにはそれが特別な星であることが分かりました。神様が分からせて下さったのです。このメシア(救い主)誕生の場面に星が出て来ることには意味があります。旧約聖書で、星はメシア・救い主のシンボルです。民数記24章17節でバラムという人が、神様の清い霊に満たされてこう述べています。おそらく紀元前1240年頃のことです。
「わたしには彼(メシア)が見える。/ しかし、今はいない。
彼を仰いでいる。/ しかし、間近にではない。
ひとつの星がヤコブから進み出る。」
この星はメシアです。聖書の民イスラエルにとって、星とメシアはストレートにつながっているのです。新約聖書のヨハネの黙示録では、イエス様ご自身が「わたしは~輝く明けの明星である」(22章16節)とおっしゃっています。神様は、星によって学者たちをイスラエルの首都エルサレムまで導いて来られました。
「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)。ヘロデ王は、自分の地位が奪われるのではないかと恐れました。不思議なことに、ヘロデ王だけでなくエルサレムの人々も皆、不安を抱きました。長年待ち望んだメシアがとうとう誕生したのですから、感激の涙を流して喜ぶはずです。しかし人々はメシアが生まれるという神様の約束を古ぼけた昔話のように考え、本気で信じなくなっていたのです。今さらメシアに誕生されて、自分たちの考え方やライフスタイルを変更することが嫌だったのです。それは私たちにも分かることです。イエス様を信じて洗礼を受けると、原則として日曜日は礼拝に行く生活になります。自分の生活をこのようなスタイルに変えることに抵抗を感じることはあり得ることです。そこは乗り越えたいことです。もちろん礼拝に出席するからクリスチャンでない家族を放置してよいわけではないので、礼拝出席と家族への責任を果たすことの両立を目指すことになります。皆様はもう既に、十分にこのために工夫と努力をして下さっていることを、私は感謝しています。
「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
「ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で/ 決して一番小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである」』」(4~6節)。
ユダヤ人の祭司長たちや律法学者たちは、旧約聖書の正確な知識を持っていました。この人たちが引用しているのはミカ書5章です。この人たちの不思議なところは、ユダヤ人の王が誕生したニュースを聞き、その場所を正確に知っていたにもかかわらず、この王を拝むためにベツレヘムに行こうとしないところです。この人たちはユダヤで力を持っていたのでしょう。それを維持したいのです。メシアが誕生されれば、メシアに中心をお譲りしなければなりません。それが嫌だったのではないでしょうか。今さらメシアに誕生されては迷惑なのが本音だったのではないでしょうか。ですからメシア誕生の場所を熟知していながら、ベツレヘムに行こうとしなかったのです。
私たちはそうならないように気をつけながら、ミカ書5章のメシア預言を味わいましょう。
「エフラタのベツレヘムよ/ お前はユダの氏族の中でいと小さき者(この部分をマタイは、「決していちばん小さい者ではない」と変えています。実際にメシア がベツレヘムで誕生したので変えたのでしょう。私は、いと小さき者をご自分の聖なる目的のために大きく用いて下さる神様の愛情を感じます)。
お前の中から、わたしのために/ イスラエルを治める者がでる。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(1節)。
3節には、メシアが真の羊飼い、私たちの導き手であることが書かれています。
「彼は立って、群れを養う/ 主の力、神である主の御名の威厳をもって。
彼らは安らかに住まう。/ 今や、彼は大いなる者となり
その力が地の果てに及ぶからだ。」
4節には力強い宣言があります。「彼こそ、まさしく平和である。」イエス・キリストこそ、まさしく平和の方です。私の神学校(牧師を養成する学校)の同級生に、「○○将平」という牧師がおられます。お父様も牧師です。これは私の推測ですが、きっとご両親がこのミカ書5章4節の御言葉からお名前をお付けになったのではないかなと思います。「彼こそ、将(まさ)しく平和である!」 平和のメシアが、ミカ書の預言どおりベツレヘムで誕生されました。神様は約束を100%お守りになる方です。
「そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言って、ベツレヘムで送り出した」(マタイ福音書2章7~8節)。学者たちが東方で見た星は、一時的に姿を消しました。ですから学者たちはすぐにベツレヘムには行きませんでした。星が消えて彼らは困ったでしょう。どこに行けばよいか分からないからです。ユダヤ人の王が生まれるのだから場所は首都エルサレムであろうと見当をつけて、エルサレムに来たものと思われます。しかしエルサレムを歩き回っても、新しい王の誕生をお祝いしている雰囲気は全くありません。そこで新しい王はどこにおられるのか、尋ね回りました。するとヘロデ王に呼び寄せられ、メシアが誕生する地はベツレヘムであると初めて教えられました。星は確かに重要な役を果たしているのですが、もっと大切なのは聖書の御言葉であって、御言葉がいつも私たちに真理を教えて下さるのです。ですから私たちも聖書の御言葉によって生き方を導かれる必要があります。
「どうして星は学者たちを、直接すぐにベツレヘムに導かなかったのだろうか」という問いに対して、宗教改革者マルティン・ルターが次のように答えています。「それは神さまがわたしたちに、自分自身のあさはかな考えに頼らず、ただみことばに従うべきだということを教えたいと思われたからでした」(マルティン・ルター『クリスマスブック』R.ベイントン編 中村妙子訳、新教出版社、2000年、72ページ)。 星も大切ですが、学者たちをベツレヘムに向かわせたのは、聖書の御言葉(ミカ書5章1節)なのです。御言葉こそ、本当の意味での導きの星なのです。御言葉の大切さを思います。
「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(9~10節)。御言葉を、子どものように素直に単純に信じてベツレヘムに向かった彼らの信仰を、神様が喜んで下さったのでしょう。再び神様の直接の助けが与えられます。星が再び現れたのです。星を見失って、正直に言って落胆していたであろう彼らは、感激と喜びに満たされました。そしてとうとう幼子のいる家を探し当てることができたのです。それは貧しい住まいだったはずです。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(11節)。学者たちの人数は書かれていないので分かりません。贈り物が3種類ですから、3人の可能性が高いとは思います。彼らは世界の真の王に出会う喜びを味わい、宝を献げてイエス様を礼拝しました。イエス様を礼拝することこそ、わたしたち皆にとって、最もふさわしいことです。
学者たちは、当時の最高の知性の持ち主だったでしょう。ですが人間の知恵も知識も、科学技術の力も、神様の前には取るに足りません。人間の科学がどんなに発達してもゼロから命を作ることはできませんし、原子力発電所を完全に制御することもできないのです。子どものように素直な心で、イエス様を礼拝することが、最も知恵あることなのです。人間の頭脳に頼る限りは、必ずどこかで行き詰まります。行き詰まったときに神様に祈り、イエス様を礼拝する謙遜な生き方に転換したいものです。
黄金・乳香・没薬は皆、価値の高いもの、貴重品です。彼らはそれらを惜しげもなくイエス様に差し出しました。黄金が価値の高いものであることはすぐ分かります。乳香は、旧約聖書で礼拝で神様に献げる神聖な香(よい香りのするもの)です。ですから神の子イエス様に献げられるにはふさわしいのです。現代でもキリスト教会の一つであるギリシア正教会の礼拝で使用されています。没薬はミルラとも呼ばれ、殺菌作用を持つ鎮静薬、鎮痛薬として使用されました。このように医師が薬用に用いたため、救い主(癒し主)を象徴しているという解釈もあります。没薬は防腐処置のためにも用いられました。
私たちはこの3つの宝を持っていなくてよいのです。イエス様は十字架にかかって、私たちの全ての罪を身代わりに背負って下さった愛の方です。ご自分の尊い命を私たち罪人(つみびと)のために献げて下さいました。その愛にお応えして、私たちも自分自身をイエス様に献げます。私たちは強制されてではなく、イエス様の十字架の愛に感謝して、自由な決断によって私たちの心・体・時間などを、イエス様のために、そしてイエス様が愛しておられる私たちの隣人のために、お献げします。イエス様の十字架の愛に感謝してです。人と比べる必要はありません。イエス様は、神殿で貧しいやもめが(この世的には)最も価値の少ないレプトン銅貨2枚を献金した時、この人の貧しい生活を知っておられ、「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた」と感動されました。私たちも、イエス様をひたむきに愛すれば、イエス様が喜んで下さいます。イエス様お一人に喜んでいただければ十二分です。占星術の学者たちも、あの貧しいやもめもイエス様に等しく喜ばれているのです。
星に関連して、新約聖書を一箇所引用します。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい(これは生活の中で時々思い出したい御言葉ですね)。そうすれば、とがめられることのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(フィリピの信徒への手紙2章14節~16節)。
私たちは、有能でなく不器用でも、イエス様を愛しイエス様に従うならば、星のように輝いているのです。人の目にそう見えなくとも、イエス様の目には星のように輝いています。あのやもめの生き方も、イエス様の目から見れば星のように輝いていたのです。私ども小さき僕(しもべ)をそのように喜んで下さるイエス様の愛に感謝して、ご一緒にイエス様に従って参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイによる福音書2章10節)
クリスマスおめでとうございます。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』」(1~2節)。ヘロデ王は、紀元前37年から紀元前4年までイスラエル・ユダヤを統治した王です。ヘロデ大王とも呼ばれます。ヘロデ王の政権はローマ帝国の支持の下に成り立つ政権でした。その意味ではローマのあやつり人形のような政権でしたが、ユダヤ国内では大きな力を持っていました。ヘロデ王の時代は、恐怖政治と大建造物の建築によって記憶されています。ヘロデ王は猜疑心が非常に強く、自分の地位が乗っ取られることを警戒して妻や息子二人までも殺害しています。粛清です。今の北朝鮮のトップの人に似ていると思うのです。同じ時代のローマ皇帝アウグストゥスは、「ヘロデの息子であるよりは、豚である方がまだ安全だ」と言いました。
ヘロデ王はいろいろな大きな建造物を作りました。新共同訳聖書の巻末の解説の「神殿」の項を見ると、「紀元前20年ごろ、ヘロデ大王は(エルサレム神殿の)大規模な修理拡張工事を始めた。イエスの時代には、周囲に回廊を巡らした広い境内と、白い大理石の美しい本殿を持つ、立派な建造物であった」と書かれています。この神殿は当時の地中海沿岸世界で有名になり、離散していたユダヤ人や外国人までもこの神殿で礼拝するために、エルサレムを訪れるようになりました。神様を本当に愛して礼拝に来る人もいたでしょうが、単なる物見遊山の人もいたかもしれません。イエス様はヘロデ王の人生の晩年にお生まれになったのですから、紀元前6年頃にお生まれになったことになります。
解説書によると、「占星術の学者」は、ペルシャのゾロアスター教の祭司ではないかとされ、天文学、占星術、魔術、夢解釈などを行い、人や世の中の運命を伝える人々であったそうです。学者ですから、当時の最高の教育を受けた知識人です。イスラエル人・ユダヤ人ではなく外国人です。彼らは見上げた人々で、外国人であるのにユダヤの真の王を礼拝したい一念で、遠くから巡礼の旅をして来たのです。彼らは観光気分ではなかったので、ヘロデ王が拡張した大神殿には関心を持ちませんでした。この外国人たちがイエス様を礼拝するためにやって来たことは、イエス様が全世界の王であることを意味しています。イエス様は、私たち日本人にとっても真の王なのです。私たちは今、真の王を礼拝するために礼拝堂に集まっています。
神様が彼らに1つの星を見せて下さいました。彼らにはそれが特別な星であることが分かりました。神様が分からせて下さったのです。このメシア(救い主)誕生の場面に星が出て来ることには意味があります。旧約聖書で、星はメシア・救い主のシンボルです。民数記24章17節でバラムという人が、神様の清い霊に満たされてこう述べています。おそらく紀元前1240年頃のことです。
「わたしには彼(メシア)が見える。/ しかし、今はいない。
彼を仰いでいる。/ しかし、間近にではない。
ひとつの星がヤコブから進み出る。」
この星はメシアです。聖書の民イスラエルにとって、星とメシアはストレートにつながっているのです。新約聖書のヨハネの黙示録では、イエス様ご自身が「わたしは~輝く明けの明星である」(22章16節)とおっしゃっています。神様は、星によって学者たちをイスラエルの首都エルサレムまで導いて来られました。
「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)。ヘロデ王は、自分の地位が奪われるのではないかと恐れました。不思議なことに、ヘロデ王だけでなくエルサレムの人々も皆、不安を抱きました。長年待ち望んだメシアがとうとう誕生したのですから、感激の涙を流して喜ぶはずです。しかし人々はメシアが生まれるという神様の約束を古ぼけた昔話のように考え、本気で信じなくなっていたのです。今さらメシアに誕生されて、自分たちの考え方やライフスタイルを変更することが嫌だったのです。それは私たちにも分かることです。イエス様を信じて洗礼を受けると、原則として日曜日は礼拝に行く生活になります。自分の生活をこのようなスタイルに変えることに抵抗を感じることはあり得ることです。そこは乗り越えたいことです。もちろん礼拝に出席するからクリスチャンでない家族を放置してよいわけではないので、礼拝出席と家族への責任を果たすことの両立を目指すことになります。皆様はもう既に、十分にこのために工夫と努力をして下さっていることを、私は感謝しています。
「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
「ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で/ 決して一番小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである」』」(4~6節)。
ユダヤ人の祭司長たちや律法学者たちは、旧約聖書の正確な知識を持っていました。この人たちが引用しているのはミカ書5章です。この人たちの不思議なところは、ユダヤ人の王が誕生したニュースを聞き、その場所を正確に知っていたにもかかわらず、この王を拝むためにベツレヘムに行こうとしないところです。この人たちはユダヤで力を持っていたのでしょう。それを維持したいのです。メシアが誕生されれば、メシアに中心をお譲りしなければなりません。それが嫌だったのではないでしょうか。今さらメシアに誕生されては迷惑なのが本音だったのではないでしょうか。ですからメシア誕生の場所を熟知していながら、ベツレヘムに行こうとしなかったのです。
私たちはそうならないように気をつけながら、ミカ書5章のメシア預言を味わいましょう。
「エフラタのベツレヘムよ/ お前はユダの氏族の中でいと小さき者(この部分をマタイは、「決していちばん小さい者ではない」と変えています。実際にメシア がベツレヘムで誕生したので変えたのでしょう。私は、いと小さき者をご自分の聖なる目的のために大きく用いて下さる神様の愛情を感じます)。
お前の中から、わたしのために/ イスラエルを治める者がでる。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(1節)。
3節には、メシアが真の羊飼い、私たちの導き手であることが書かれています。
「彼は立って、群れを養う/ 主の力、神である主の御名の威厳をもって。
彼らは安らかに住まう。/ 今や、彼は大いなる者となり
その力が地の果てに及ぶからだ。」
4節には力強い宣言があります。「彼こそ、まさしく平和である。」イエス・キリストこそ、まさしく平和の方です。私の神学校(牧師を養成する学校)の同級生に、「○○将平」という牧師がおられます。お父様も牧師です。これは私の推測ですが、きっとご両親がこのミカ書5章4節の御言葉からお名前をお付けになったのではないかなと思います。「彼こそ、将(まさ)しく平和である!」 平和のメシアが、ミカ書の預言どおりベツレヘムで誕生されました。神様は約束を100%お守りになる方です。
「そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言って、ベツレヘムで送り出した」(マタイ福音書2章7~8節)。学者たちが東方で見た星は、一時的に姿を消しました。ですから学者たちはすぐにベツレヘムには行きませんでした。星が消えて彼らは困ったでしょう。どこに行けばよいか分からないからです。ユダヤ人の王が生まれるのだから場所は首都エルサレムであろうと見当をつけて、エルサレムに来たものと思われます。しかしエルサレムを歩き回っても、新しい王の誕生をお祝いしている雰囲気は全くありません。そこで新しい王はどこにおられるのか、尋ね回りました。するとヘロデ王に呼び寄せられ、メシアが誕生する地はベツレヘムであると初めて教えられました。星は確かに重要な役を果たしているのですが、もっと大切なのは聖書の御言葉であって、御言葉がいつも私たちに真理を教えて下さるのです。ですから私たちも聖書の御言葉によって生き方を導かれる必要があります。
「どうして星は学者たちを、直接すぐにベツレヘムに導かなかったのだろうか」という問いに対して、宗教改革者マルティン・ルターが次のように答えています。「それは神さまがわたしたちに、自分自身のあさはかな考えに頼らず、ただみことばに従うべきだということを教えたいと思われたからでした」(マルティン・ルター『クリスマスブック』R.ベイントン編 中村妙子訳、新教出版社、2000年、72ページ)。 星も大切ですが、学者たちをベツレヘムに向かわせたのは、聖書の御言葉(ミカ書5章1節)なのです。御言葉こそ、本当の意味での導きの星なのです。御言葉の大切さを思います。
「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(9~10節)。御言葉を、子どものように素直に単純に信じてベツレヘムに向かった彼らの信仰を、神様が喜んで下さったのでしょう。再び神様の直接の助けが与えられます。星が再び現れたのです。星を見失って、正直に言って落胆していたであろう彼らは、感激と喜びに満たされました。そしてとうとう幼子のいる家を探し当てることができたのです。それは貧しい住まいだったはずです。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(11節)。学者たちの人数は書かれていないので分かりません。贈り物が3種類ですから、3人の可能性が高いとは思います。彼らは世界の真の王に出会う喜びを味わい、宝を献げてイエス様を礼拝しました。イエス様を礼拝することこそ、わたしたち皆にとって、最もふさわしいことです。
学者たちは、当時の最高の知性の持ち主だったでしょう。ですが人間の知恵も知識も、科学技術の力も、神様の前には取るに足りません。人間の科学がどんなに発達してもゼロから命を作ることはできませんし、原子力発電所を完全に制御することもできないのです。子どものように素直な心で、イエス様を礼拝することが、最も知恵あることなのです。人間の頭脳に頼る限りは、必ずどこかで行き詰まります。行き詰まったときに神様に祈り、イエス様を礼拝する謙遜な生き方に転換したいものです。
黄金・乳香・没薬は皆、価値の高いもの、貴重品です。彼らはそれらを惜しげもなくイエス様に差し出しました。黄金が価値の高いものであることはすぐ分かります。乳香は、旧約聖書で礼拝で神様に献げる神聖な香(よい香りのするもの)です。ですから神の子イエス様に献げられるにはふさわしいのです。現代でもキリスト教会の一つであるギリシア正教会の礼拝で使用されています。没薬はミルラとも呼ばれ、殺菌作用を持つ鎮静薬、鎮痛薬として使用されました。このように医師が薬用に用いたため、救い主(癒し主)を象徴しているという解釈もあります。没薬は防腐処置のためにも用いられました。
私たちはこの3つの宝を持っていなくてよいのです。イエス様は十字架にかかって、私たちの全ての罪を身代わりに背負って下さった愛の方です。ご自分の尊い命を私たち罪人(つみびと)のために献げて下さいました。その愛にお応えして、私たちも自分自身をイエス様に献げます。私たちは強制されてではなく、イエス様の十字架の愛に感謝して、自由な決断によって私たちの心・体・時間などを、イエス様のために、そしてイエス様が愛しておられる私たちの隣人のために、お献げします。イエス様の十字架の愛に感謝してです。人と比べる必要はありません。イエス様は、神殿で貧しいやもめが(この世的には)最も価値の少ないレプトン銅貨2枚を献金した時、この人の貧しい生活を知っておられ、「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた」と感動されました。私たちも、イエス様をひたむきに愛すれば、イエス様が喜んで下さいます。イエス様お一人に喜んでいただければ十二分です。占星術の学者たちも、あの貧しいやもめもイエス様に等しく喜ばれているのです。
星に関連して、新約聖書を一箇所引用します。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい(これは生活の中で時々思い出したい御言葉ですね)。そうすれば、とがめられることのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(フィリピの信徒への手紙2章14節~16節)。
私たちは、有能でなく不器用でも、イエス様を愛しイエス様に従うならば、星のように輝いているのです。人の目にそう見えなくとも、イエス様の目には星のように輝いています。あのやもめの生き方も、イエス様の目から見れば星のように輝いていたのです。私ども小さき僕(しもべ)をそのように喜んで下さるイエス様の愛に感謝して、ご一緒にイエス様に従って参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
2013-12-18 8:20:07(水)
「神は我々と共におられる」 2013年12月15日(日)待降節(アドヴェント)第3主日公同礼拝 説教
朗読された聖書:イザヤ書7章10~17節、マタイによる福音書1章1~25節
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(マタイによる福音書1章23節)
本日のマタイによる福音書は、小見出しによって2つに分けられます。最初の小見出しは、「イエス・キリストの系図」です。第1節は、新約聖書の最初の御言葉です。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」「子」は子孫のことです。この系図で一番ポイントになるのはイエス・キリストを除けば、アブラハムとダビデです。アブラハムは、神の民イスラエルの偉大な先祖です。神様は、創世記12章1節から3節で、アブラハムに言われました。
「あなたは生まれ故郷/ 父の家を離れて/ わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし/ あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。/ あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。/ 地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
神様のご計画は、アブラハムを選んで祝福し、その子孫イスラエルを神の民として選んで祝福し、そこから神の子イエス・キリストを誕生させることです。イエス様は最も祝福された方です。このイエス様を救い主と信じる人も、真の意味で祝福されます。イエス様を信じる人は、イスラエル人であっても異邦人(外国人)であっても祝福されます。神様はイエス・キリストを通して、世界のすべての人に真の祝福を及ばしたいお考えなのです。アブラハムの子孫からイエス様を誕生させることが、神様の最初からのご計画でした。ですからイエス様の系図の冒頭にアブラハムが登場するのです。
次に登場するのがダビデです。ダビデは、アブラハムの子孫であり、イスラエルの歴史で一番有名な王です。神様は、ダビデ王の子孫からイスラエルにメシア・救い主を送ると約束しておられました。旧約聖書のサムエル記(下)7章12節から14節に、こう記されています。「あなた(ダビデ)が生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたし(神様)の名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」ダビデの身から出る子孫とは直接には、ダビデの子ソロモン王です。しかしもっと深い意味においては世界の真の王イエス様です。神様は、ダビデ王の子孫からイエス様を誕生させることを計画しておられました。ですからイエス様の系図には、ダビデ王が登場しなければならないのです。イエス様の系図は、アブラハムから始まり、ダビデを経由してイエス様に至る系図になるのです。神様がそのように計画され、途中で人間の様々な罪が発生したにもかかわらず、強い意志をもって歴史をそのように導かれたのです。
実際、この系図を見ると、人間の驚くべき罪が入り込んでいます。週刊誌顔負け、「事実は小説よりも奇なり」ともいうべき強烈な罪の現実があります。そのうち2つを取り上げますが、こんなにおぞましいことがあっては、神様がこの系図の人々を滅ぼしてしまわれても不思議ではないと思えます。しかし神様は忍耐され滅ぼすことをせず、罪に汚れた人間たちを罪から救うために、この系図の最後の方として救い主イエス様を誕生させて下さったのです。
「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを」(2~3節)。アブラハムの曾孫ユダにとって、タマルは長男の妻です。ユダの長男は主の意に反したので死にました。その後タマルは、当時の習慣に従ってユダの次男の妻となりますが、次男も主の意に反したので死にます。タマルは自分の父の家に帰りますが、身なりを変え娼婦に変装し、あろうことか舅ユダと関係を持つのです。どう考えても、聖書が「モーセの十戒」で固く禁じている姦淫の罪です。その結果生まれたのがペレツとゼラの双子です(もちろんペレツとゼラにこの罪の責任はありません)。姦通の罪を犯したユダとタマルはイエス様の先祖になるのです。もちろんイエス様は、処女マリアからお生まれになったので、マリアの夫ヨセフと血はつながっていません。ですから正確にはユダとタマルはヨセフの先祖であり、イエス様とは血がつながっていません。それでもこの系図はイエス様の系図ですから、少なくとも形の上ではユダとタマルはイエス様の先祖としてこの系図に登場するのです。このように、この系図には驚くべき罪が含まれています。神様はこのような罪を御覧になりながらも、忍耐しておられます。
もう一つはダビデの罪です。これは有名です。6節の後半に「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とありますが、ダビデは罪深い仕方でウリヤの妻と結婚しました(サムエル記下11章)。姦淫・姦通・不倫です。ダビデは王となっていたある日、王宮の屋上を散歩していたときに、屋上から一人の女性が水を浴びているのを目に留めます。それはダビデの忠実な部下ヘト人ウリヤの妻バト・シェバでした。ダビデは心を引かれてしまい、使いを送って彼女を召し入れ、関係を持ちます。そして彼女は妊娠します。慌てたダビデは、事を隠そうとウリヤを戦場から呼び戻し、ウリヤに戦況を尋ね、労をねぎらうふりをして「家に帰って足を洗うがよい」と言います。ところがウリヤは非常に見上げた人で、家に帰らないのです。ダビデは「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか」と問います。ウリヤは、「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしにはそのようなことはできません」(11節)。ダビデはウリヤを酔わせて家に帰るように仕向けますが、ウリヤは帰宅しないのです。
ダビデは次の方法、はるかに悪質な方法をとります。戦場の指揮官ヨアブに手紙を書きウリヤに託します。戦慄すべき内容の手紙です。「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ。」ヨアブはこの通りに実行し、何も知らないウリヤは戦死するのです。若い頃のダビデは純真だったのですが、権力を握ると、すべてが思い通りになるので慢心し、善悪の感覚が完全に麻痺してしまったのです。ダビデは悪いことをしたと全然思っていませんでした。ダビデは悪魔に従っており、しかも気づかないのです。周囲にダビデを諌める部下もいませんでした。部下は皆イエスマンだったのです。恐るべきことです。しかし、神様が黙っておられませんでした。神様は預言者ナタンを送り、ダビデを厳しく叱責させます。「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ」(サムエル記下12章9~10節)。
ダビデは目が覚めました。ダビデには純真な心も残っていました。ダビデは罪を自覚し、悔い改めます。神様はダビデを赦されますが、ダビデとバト・シェバの間に生まれた男の子を、ダビデの身代わりのようにお撃ちになり、男の子は七日目に死にます。その次に生まれたのがソロモンです。神様はソロモンを愛されました。このソロモンによって、イエス様の系図は続きます。マタイ福音書1章6節後半の「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」の文言を読むたびに、私たちはダビデの姦淫の罪を思い出すのです。それほど強烈な罪です。このような罪の現実を知ると私たちは驚き、人間の罪がこれほど汚ないのであれば、神様が人間たちを滅ぼされても仕方がないと思うのではないでしょうか。しかし神様はそうなさらないで忍耐されます。このような人間たちを憐れみ、その全ての罪を十字架の上で背負わせるために、救い主イエス様を送って下さったのです。
第二の小見出し「イエス・キリストの誕生」に進みます。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。当時の婚約者同士は、法的に夫婦と同等と見なされたそうですが、ヨセフとマリアはまだ別々に暮らしていました。従って妊娠するはずがありません。それが妊娠したということは、常識的にはヨセフ以外の男性と関係をもったとしか考えられないことになります。しかしもちろんそうではないのです。ヨセフとマリアは(厳密に言えば罪人ですが)、神様を愛し、神様の十戒・律法を守って、清く正しくしかも愛に生きる人たちです。ユダやダビデの驚くべき罪を思い出した後に、このように清く正しく、しかも愛に生きる若いカップルが登場することは、私たちにとって救いです。
マリアの妊娠を知って、若く真面目なヨセフは困惑します。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)。旧約聖書の申命記22章23節に、神様の定め・当時の社会の定めがこう書かれています。「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。」マリアが姦淫したのであれば、マリアも相手の男も、石打ちによる死刑になる運命です。ヨセフは神様の定めをよく知っていましたから、このままいくとマリアが石打ちになることを知っていました。しかしヨセフは愛の人でもあったので、婚約者マリアが死刑になることを思うと、胸が張り裂けそうでした。ヨセフは一人で悩み、一人で一生懸命考えました。姦淫の罪を犯したと思われるマリアともはや結婚することはできない。しかし離縁を公にすれば、マリアの罪が皆に知られ、マリアは死ぬ。それを避けるために、ひそかに、目立たないように離縁しよう。お腹が大きくなるマリアがその後どこでどうして生きて行けばよいのかという疑問も湧きますが、そこまではヨセフが責任を負うことは無理でした。ヨセフは精一杯悩んで、以上の結論を出しました。孤独な決断です。
幸いなことに、神様がヨセフと共におられたのです。先週、18世紀のイギリスの伝道者ジョン・ウェスレーの臨終の言葉が、「あらゆることの中で一番すばらしいことは、神様が私たちと共におられることだ」だったとお話しましたが、幸いなことに、神様がヨセフと共にいて下さったのです! ヨセフは行き詰まり、苦悩していました。私たちも行き詰まることはあります。そこに神様が恵みをもって介入して下さいました。天使を送って下さったのです。聖書の中で天使は、重要な場面に登場して、神様のメッセージを告げ、神様のご意志を実行する存在です。神様はヨセフの苦悩をよく知っておられるのです。
私たちが困っているときに、神様が人を送って助けて下さることはあります。その時、神様がその人を天使のような存在として用いて下さっているのです。多くの場合、小さな助け、ちょっとした励ましです。でもそれは神様からの助けです。それに気づきたいものです。私たちが小さな愛を行うとき、私たちは神様の愛を運ぶ天使として用いられています。私が東久留米教会に赴任してまだ5年もたたない頃、あることで困っていました。そのことを何もご存じなかったある教会員の方(今は天国におられます)が、長年のお友達のベテランクリスチャン(他教会員)の家(埼玉県)に私を案内して下さったことがあります。その日は、その方のお友達のベテランクリスチャンの方の家で、信仰の交流を致しました。それによって困ったことが解決したわけではありません。しかし神様の恵みをいただいた一日で、心が励まされました。その方は何も知らないで、神様の天使としての役を果たして下さったのです。そのお陰で私は、困ったことがありながらも、なお神様の守りの御手の中にあることを感じました。困ったことも少しずつ解決してゆきました。その後、教会の皆様に、色々な形で助けていただいていることを感謝しています。
悩んだ末、結論に達したヨセフの夢に、天使が現れました。「『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」(20~21節)。イエスという名の意味は「主は救い」です。神様がおつけになった名、救い主にふさわしい名です。名は体を表すのです。そしてマタイは書きます。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
この預言は、イザヤ書7章に記されています。紀元前738年頃の預言です。当時のイスラエルは南北の王国に分裂しており、複雑な国際情勢の中にありました。最大の脅威はアッシリア帝国でした。北イスラエル王国とアラム国は、アッシリアに対抗するため、反アッシリア同盟を結びました。この両国が南ユダ王国の首都エルサレムに攻め上り、王であるアハズ(彼の名はイエス様の系図・マタイ福音書1章9節に登場)の首をすげ変える計画を立てたのです。しかし神様は明言されます。「それは実現せず、成就しない」(7節)、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」(9節)。神様は、このことを証明する「しるし」を求めなさいとアハズに言われます。しかしアハズ求めないと返答します。これは神様の御心に適わないことでした。そこで神様が自ら、このことを証明する「しるし」を与えると断言されます。それがインマヌエルという名の男の子の誕生なのです。 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/ その子をインマヌエルと呼ぶ」(14節)。 神様がこうおっしゃったのですから、インマヌエルという名の男の子が誕生したはずです。神様は約束されます。インマヌエルが災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に(インマヌエルが物心つく前に)、二人の王(北イスラエルの王とアラムの王)の領土は必ず捨てられ、彼らの計画は頓挫すると(16節)。イザヤ書7章14節のインマヌエル預言はこのような意味です。
預言は、神様の意志を表すメッセージです。この預言はさらに生き続け、究極的にはイエス・キリストの誕生によって成就したのです。ですからマタイが感動をもって、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」と書いたのです。 神様は、人間イエス様となって地上に生まれて下さいました。そして私たちの罪をすべて背負って十字架で死んでさえ下さいました。神様はイエス様として、今も私たちと共におられ、苦楽を共にしていて下さるのです。次の御言葉が思い出されます。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピの信徒への手紙2章6~9節)。クリスマスこそ、インマヌエル(神、我らと共にいます)が、神が赤ちゃんになることによって現実化した恵みの時です。ただ感謝です。
私の実家に、こんな言葉の壁かけがあります。
「信仰のある所 そこには愛がある
愛のある所 そこには平和がある
平和のある所 そこには神がおられる
神様がいて下されば、何もいらない」
「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」(24~25節)。眠りから「覚めた」とは、信仰に「目覚めた」ことかもしれません。ヨセフは神様の御言葉・メッセージを受け入れ、神様に従う決断をしました。私たちも、神様の御言葉を心から受け入れ、イエス様を心から受け入れ、神様に従う決断をしましょう。イエス様と心を一つにし、イエス様が喜んで下さる小さな愛と正義の奉仕を日々行い、生きて行きましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(マタイによる福音書1章23節)
本日のマタイによる福音書は、小見出しによって2つに分けられます。最初の小見出しは、「イエス・キリストの系図」です。第1節は、新約聖書の最初の御言葉です。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」「子」は子孫のことです。この系図で一番ポイントになるのはイエス・キリストを除けば、アブラハムとダビデです。アブラハムは、神の民イスラエルの偉大な先祖です。神様は、創世記12章1節から3節で、アブラハムに言われました。
「あなたは生まれ故郷/ 父の家を離れて/ わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし/ あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。/ あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。/ 地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
神様のご計画は、アブラハムを選んで祝福し、その子孫イスラエルを神の民として選んで祝福し、そこから神の子イエス・キリストを誕生させることです。イエス様は最も祝福された方です。このイエス様を救い主と信じる人も、真の意味で祝福されます。イエス様を信じる人は、イスラエル人であっても異邦人(外国人)であっても祝福されます。神様はイエス・キリストを通して、世界のすべての人に真の祝福を及ばしたいお考えなのです。アブラハムの子孫からイエス様を誕生させることが、神様の最初からのご計画でした。ですからイエス様の系図の冒頭にアブラハムが登場するのです。
次に登場するのがダビデです。ダビデは、アブラハムの子孫であり、イスラエルの歴史で一番有名な王です。神様は、ダビデ王の子孫からイスラエルにメシア・救い主を送ると約束しておられました。旧約聖書のサムエル記(下)7章12節から14節に、こう記されています。「あなた(ダビデ)が生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたし(神様)の名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」ダビデの身から出る子孫とは直接には、ダビデの子ソロモン王です。しかしもっと深い意味においては世界の真の王イエス様です。神様は、ダビデ王の子孫からイエス様を誕生させることを計画しておられました。ですからイエス様の系図には、ダビデ王が登場しなければならないのです。イエス様の系図は、アブラハムから始まり、ダビデを経由してイエス様に至る系図になるのです。神様がそのように計画され、途中で人間の様々な罪が発生したにもかかわらず、強い意志をもって歴史をそのように導かれたのです。
実際、この系図を見ると、人間の驚くべき罪が入り込んでいます。週刊誌顔負け、「事実は小説よりも奇なり」ともいうべき強烈な罪の現実があります。そのうち2つを取り上げますが、こんなにおぞましいことがあっては、神様がこの系図の人々を滅ぼしてしまわれても不思議ではないと思えます。しかし神様は忍耐され滅ぼすことをせず、罪に汚れた人間たちを罪から救うために、この系図の最後の方として救い主イエス様を誕生させて下さったのです。
「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを」(2~3節)。アブラハムの曾孫ユダにとって、タマルは長男の妻です。ユダの長男は主の意に反したので死にました。その後タマルは、当時の習慣に従ってユダの次男の妻となりますが、次男も主の意に反したので死にます。タマルは自分の父の家に帰りますが、身なりを変え娼婦に変装し、あろうことか舅ユダと関係を持つのです。どう考えても、聖書が「モーセの十戒」で固く禁じている姦淫の罪です。その結果生まれたのがペレツとゼラの双子です(もちろんペレツとゼラにこの罪の責任はありません)。姦通の罪を犯したユダとタマルはイエス様の先祖になるのです。もちろんイエス様は、処女マリアからお生まれになったので、マリアの夫ヨセフと血はつながっていません。ですから正確にはユダとタマルはヨセフの先祖であり、イエス様とは血がつながっていません。それでもこの系図はイエス様の系図ですから、少なくとも形の上ではユダとタマルはイエス様の先祖としてこの系図に登場するのです。このように、この系図には驚くべき罪が含まれています。神様はこのような罪を御覧になりながらも、忍耐しておられます。
もう一つはダビデの罪です。これは有名です。6節の後半に「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とありますが、ダビデは罪深い仕方でウリヤの妻と結婚しました(サムエル記下11章)。姦淫・姦通・不倫です。ダビデは王となっていたある日、王宮の屋上を散歩していたときに、屋上から一人の女性が水を浴びているのを目に留めます。それはダビデの忠実な部下ヘト人ウリヤの妻バト・シェバでした。ダビデは心を引かれてしまい、使いを送って彼女を召し入れ、関係を持ちます。そして彼女は妊娠します。慌てたダビデは、事を隠そうとウリヤを戦場から呼び戻し、ウリヤに戦況を尋ね、労をねぎらうふりをして「家に帰って足を洗うがよい」と言います。ところがウリヤは非常に見上げた人で、家に帰らないのです。ダビデは「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか」と問います。ウリヤは、「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしにはそのようなことはできません」(11節)。ダビデはウリヤを酔わせて家に帰るように仕向けますが、ウリヤは帰宅しないのです。
ダビデは次の方法、はるかに悪質な方法をとります。戦場の指揮官ヨアブに手紙を書きウリヤに託します。戦慄すべき内容の手紙です。「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ。」ヨアブはこの通りに実行し、何も知らないウリヤは戦死するのです。若い頃のダビデは純真だったのですが、権力を握ると、すべてが思い通りになるので慢心し、善悪の感覚が完全に麻痺してしまったのです。ダビデは悪いことをしたと全然思っていませんでした。ダビデは悪魔に従っており、しかも気づかないのです。周囲にダビデを諌める部下もいませんでした。部下は皆イエスマンだったのです。恐るべきことです。しかし、神様が黙っておられませんでした。神様は預言者ナタンを送り、ダビデを厳しく叱責させます。「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ」(サムエル記下12章9~10節)。
ダビデは目が覚めました。ダビデには純真な心も残っていました。ダビデは罪を自覚し、悔い改めます。神様はダビデを赦されますが、ダビデとバト・シェバの間に生まれた男の子を、ダビデの身代わりのようにお撃ちになり、男の子は七日目に死にます。その次に生まれたのがソロモンです。神様はソロモンを愛されました。このソロモンによって、イエス様の系図は続きます。マタイ福音書1章6節後半の「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」の文言を読むたびに、私たちはダビデの姦淫の罪を思い出すのです。それほど強烈な罪です。このような罪の現実を知ると私たちは驚き、人間の罪がこれほど汚ないのであれば、神様が人間たちを滅ぼされても仕方がないと思うのではないでしょうか。しかし神様はそうなさらないで忍耐されます。このような人間たちを憐れみ、その全ての罪を十字架の上で背負わせるために、救い主イエス様を送って下さったのです。
第二の小見出し「イエス・キリストの誕生」に進みます。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。当時の婚約者同士は、法的に夫婦と同等と見なされたそうですが、ヨセフとマリアはまだ別々に暮らしていました。従って妊娠するはずがありません。それが妊娠したということは、常識的にはヨセフ以外の男性と関係をもったとしか考えられないことになります。しかしもちろんそうではないのです。ヨセフとマリアは(厳密に言えば罪人ですが)、神様を愛し、神様の十戒・律法を守って、清く正しくしかも愛に生きる人たちです。ユダやダビデの驚くべき罪を思い出した後に、このように清く正しく、しかも愛に生きる若いカップルが登場することは、私たちにとって救いです。
マリアの妊娠を知って、若く真面目なヨセフは困惑します。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)。旧約聖書の申命記22章23節に、神様の定め・当時の社会の定めがこう書かれています。「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。」マリアが姦淫したのであれば、マリアも相手の男も、石打ちによる死刑になる運命です。ヨセフは神様の定めをよく知っていましたから、このままいくとマリアが石打ちになることを知っていました。しかしヨセフは愛の人でもあったので、婚約者マリアが死刑になることを思うと、胸が張り裂けそうでした。ヨセフは一人で悩み、一人で一生懸命考えました。姦淫の罪を犯したと思われるマリアともはや結婚することはできない。しかし離縁を公にすれば、マリアの罪が皆に知られ、マリアは死ぬ。それを避けるために、ひそかに、目立たないように離縁しよう。お腹が大きくなるマリアがその後どこでどうして生きて行けばよいのかという疑問も湧きますが、そこまではヨセフが責任を負うことは無理でした。ヨセフは精一杯悩んで、以上の結論を出しました。孤独な決断です。
幸いなことに、神様がヨセフと共におられたのです。先週、18世紀のイギリスの伝道者ジョン・ウェスレーの臨終の言葉が、「あらゆることの中で一番すばらしいことは、神様が私たちと共におられることだ」だったとお話しましたが、幸いなことに、神様がヨセフと共にいて下さったのです! ヨセフは行き詰まり、苦悩していました。私たちも行き詰まることはあります。そこに神様が恵みをもって介入して下さいました。天使を送って下さったのです。聖書の中で天使は、重要な場面に登場して、神様のメッセージを告げ、神様のご意志を実行する存在です。神様はヨセフの苦悩をよく知っておられるのです。
私たちが困っているときに、神様が人を送って助けて下さることはあります。その時、神様がその人を天使のような存在として用いて下さっているのです。多くの場合、小さな助け、ちょっとした励ましです。でもそれは神様からの助けです。それに気づきたいものです。私たちが小さな愛を行うとき、私たちは神様の愛を運ぶ天使として用いられています。私が東久留米教会に赴任してまだ5年もたたない頃、あることで困っていました。そのことを何もご存じなかったある教会員の方(今は天国におられます)が、長年のお友達のベテランクリスチャン(他教会員)の家(埼玉県)に私を案内して下さったことがあります。その日は、その方のお友達のベテランクリスチャンの方の家で、信仰の交流を致しました。それによって困ったことが解決したわけではありません。しかし神様の恵みをいただいた一日で、心が励まされました。その方は何も知らないで、神様の天使としての役を果たして下さったのです。そのお陰で私は、困ったことがありながらも、なお神様の守りの御手の中にあることを感じました。困ったことも少しずつ解決してゆきました。その後、教会の皆様に、色々な形で助けていただいていることを感謝しています。
悩んだ末、結論に達したヨセフの夢に、天使が現れました。「『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」(20~21節)。イエスという名の意味は「主は救い」です。神様がおつけになった名、救い主にふさわしい名です。名は体を表すのです。そしてマタイは書きます。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
この預言は、イザヤ書7章に記されています。紀元前738年頃の預言です。当時のイスラエルは南北の王国に分裂しており、複雑な国際情勢の中にありました。最大の脅威はアッシリア帝国でした。北イスラエル王国とアラム国は、アッシリアに対抗するため、反アッシリア同盟を結びました。この両国が南ユダ王国の首都エルサレムに攻め上り、王であるアハズ(彼の名はイエス様の系図・マタイ福音書1章9節に登場)の首をすげ変える計画を立てたのです。しかし神様は明言されます。「それは実現せず、成就しない」(7節)、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」(9節)。神様は、このことを証明する「しるし」を求めなさいとアハズに言われます。しかしアハズ求めないと返答します。これは神様の御心に適わないことでした。そこで神様が自ら、このことを証明する「しるし」を与えると断言されます。それがインマヌエルという名の男の子の誕生なのです。 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/ その子をインマヌエルと呼ぶ」(14節)。 神様がこうおっしゃったのですから、インマヌエルという名の男の子が誕生したはずです。神様は約束されます。インマヌエルが災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に(インマヌエルが物心つく前に)、二人の王(北イスラエルの王とアラムの王)の領土は必ず捨てられ、彼らの計画は頓挫すると(16節)。イザヤ書7章14節のインマヌエル預言はこのような意味です。
預言は、神様の意志を表すメッセージです。この預言はさらに生き続け、究極的にはイエス・キリストの誕生によって成就したのです。ですからマタイが感動をもって、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」と書いたのです。 神様は、人間イエス様となって地上に生まれて下さいました。そして私たちの罪をすべて背負って十字架で死んでさえ下さいました。神様はイエス様として、今も私たちと共におられ、苦楽を共にしていて下さるのです。次の御言葉が思い出されます。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピの信徒への手紙2章6~9節)。クリスマスこそ、インマヌエル(神、我らと共にいます)が、神が赤ちゃんになることによって現実化した恵みの時です。ただ感謝です。
私の実家に、こんな言葉の壁かけがあります。
「信仰のある所 そこには愛がある
愛のある所 そこには平和がある
平和のある所 そこには神がおられる
神様がいて下されば、何もいらない」
「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」(24~25節)。眠りから「覚めた」とは、信仰に「目覚めた」ことかもしれません。ヨセフは神様の御言葉・メッセージを受け入れ、神様に従う決断をしました。私たちも、神様の御言葉を心から受け入れ、イエス様を心から受け入れ、神様に従う決断をしましょう。イエス様と心を一つにし、イエス様が喜んで下さる小さな愛と正義の奉仕を日々行い、生きて行きましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。
2013-12-10 0:53:38(火)
「良い僕(しもべ)だ、よくやった」 2013年12月8日(日)待降節(アドヴェント)第2主日公同礼拝 説教
朗読された聖書:マラキ書3章19~20節、ルカによる福音書19章11~27節
「そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。」(ルカによる福音書19章13節)
イエス様が、エルサレムにかなり近づいて来られました。イエス様はもうすぐ十字架におかかりになります。私たち皆の罪をすべて背負うためです。そのイエス様が1つのたとえを語られます。「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」(11節)。人々は、イエス様こそイスラエルのメシア・救い主と信じ、熱狂的にイエス様に従っていました。人々は、イエス様を王様とする栄光のイスラエル王国を打ち立てようとしていました。イスラエルを支配していたローマ帝国を、イエス様と共に打ち倒し、民族の独立を果たしたいと燃えていました。「とうとうその時がやって来た!」
しかしイエス様は群衆の熱気にお乗りになりません。却って人々をいさめるようにたとえを話されます。「イエスは言われた。『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は10人の僕(しもべ)を呼んで10ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせた』」(12~14節)。 「ある立派な家柄の人」はイエス様です。イエス様はもうすぐ十字架で死なれます。そして三日目に復活され、それから40日目に天に昇られます。そして将来必ず世界の真の王として地上においでになり、神の国を完成されます。このことを「キリストの再臨」と呼びます。因みにイエス様が約2000年前に地上においでになったことを「キリストの初臨」と呼ぶことがあります。
日本のキリスト教会の1つの考えとして、「未来」という言葉と、「将来」という言葉を比べるときに(両者は似た意味の言葉ですが)、「将来」の方が信仰的だ、ということを読んだことがあります。「未来」は「いまだ来たらず」の意味で語感が消極的ですが、「将来」は「まさに来たるべし」の意味で、積極的かつ確信に満ちた響きがあるからです。ですから「イエス様は未来に必ずおいでになる」と言うよりも、「イエス様は将来必ずおいでになる」と言う方が確信に満ちていて信仰的です。
初代教会の人々は、イエス様の再臨はすぐにでも起こると信じていました。使徒パウロも、新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)7章26節で、「今危機が迫っている状態にある」と書いています。これは「イエス様が再臨されて神の国が完成され、最後の審判が行われる、その危機が間近に迫っている」という意味です。しかしパウロも晩年になると、イエス様の再臨は自分が地上で生きている間には起こらないと考えるようになりました。そして今に至るまで、再臨はまだ実現していません。それがなぜかという問いに対する答えは、ペトロの手紙(二)3章8節~9節に明確に記されています。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」神様は、何とかして世界の全員に救われてほしいと願われ、人類一人一人全員が自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じ、全員が天国に入ることを願われて、再臨のときを延期しておられます。しかし永久に延期されるのではなく、父なる神様がお定めになった時に、イエス様は必ず再臨されるのです。本日のたとえの中の、「家柄の立派な人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」という御言葉は、イエス様が再臨されるまでに、かなりの時間がかかることを暗示しています。その間に、私たちクリスチャンが何をすべきか、それが今日のルカによる福音書が私たちに問いかけることです。
「そこで彼は、10人の僕(しもべ)を呼んで10ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った』」(13節)。イエス様は、僕たちに宿題を与えたのです。僕たちは、私たちです。一人に1ムナずつ渡したのです。1ムナは100デナリオン。1デナリオンは一日分の給料ですから、一日の給料を仮に5000円とすると、1ムナは100日分の給料で50万円です。一人一人に50万円の元手が渡されたのです。
これと似た話がマタイによる福音書25章に出ています。それは「タラントンのたとえ」と呼ばれます。そこでは、ある人(イエス様)が旅行に出かけるとき、三人の僕たちを呼んで、それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンと、三人に異なる額を預けたと書かれています。1タラントンは6000日分の給料ですから、5タラントンは3万日分の給料で1億5000万円です。2タラントンは6000万円、1タラントンは3000万円です。今日のルカによる福音書では、僕は10人登場し、皆に同じ額1ムナが渡されています。1ムナは50万円と考えられますから、マタイによる福音書25章に比べると金額がだいぶ小さいですね。この2つのたとえ話は似ていますが、このような違いがあります。
マタイに出て来るタラントンという言葉は、英語のタレント(才能)という言葉の語源ですから、マタイのたとえのメッセージは、「神様が与えて下さった才能を、神様のためにお献げして、神様のために惜しみなく精一杯用いなさい」ということです。ルカに出て来るムナという言葉は、単純に通貨の単位であって、それ以上に深い意味はないようです。イエス様は、10人の僕にそれぞれ1ムナ(50万円)を渡して、商売をするように指示されます。主人(イエス様)は僕一人一人を深く信頼して1ムナずつ(それは主人にとって大切な1ムナ)を預けて下さったのです。主人は旅立ちますが、僕以外の国民は彼を憎んでおり、彼が王になることを拒否していました。このことはイエス様が(悪いことを1つもしていないのに)十字架で殺されることと重なります。そして時がたちます。
「さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの1ムナで10ムナもうけました』と言った」(15~16節)。非常に努力したのでしょう。大きな成果です。「主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、10の町の支配権を授けよう』」(17節)。 「二番目の者が来て、『御主人様、あなたの1ムナで5ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は5つの町を治めよ』と言った」(18~19節)。この人もだいぶ成果をあげました。そして三人目です。「また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです』」(20~21節)。
この僕は、主人に不信の念を抱いていました。主人が愛と信頼をもって大切な1ムナを預けてくれたことを信じていませんでした。そしてせっかくの主人の信頼と期待を裏切ってしまったのです。この僕は、1ムナを布に包んでしまい込んでしまいました。活用すべき宝を少しも生かさず、死蔵してしまったのです。神様は、私たちに様々な賜物を与えて下さっています。ある程度の健康、才能、時間、お金などです。それらを(自分のためにだけでなく)神様と隣人への愛のために精一杯用いることを、神様は望んでおられます。私たちが怠惰になることなく、与えられた(否、預けられた)賜物を、神様と隣人のために喜んで用いて奉仕することを、神様は望んでおられます。
神様から預けられた尊い賜物を全然生かさず、死蔵してしまった僕に対するイエス様のお言葉は厳しいものでした。「主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに』」(22~23節)。当時既に銀行があったというのは興味深いですね。「せめて銀行に預けておけば、最低限利息はついたのに」というのです。つまり神様の御用のために最低限のことさえしなかった怠慢が責められています。私たちも伝道のために怠惰であってはならないことを示されます。自分にできる仕方でよいので精一杯、イエス・キリストを日々宣べ伝えているかどうかが、問われています。私たちは当面はクリスマスコンサートのために御一緒に力を注いでゆきたいのです。
資本主義を発達させたのはプロテスタントのクリスチャンたちだという説があります。マックス・ヴェーバー(1864年~1920年。ドイツの社会学者・経済学者)の説です。ヴェーバーの書いた本『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に詳しく書かれているそうです。プロテスタント教会は16世紀の宗教改革によって成立しました。プロテスタントの人々は、自分の職業は神様から与えられた職業だと考えます。ですからプロテスタントの人々は、神様にお仕えする気持ちで、非常に良心的且つ勤勉に自分の職業の道で働きました。そのため、結果として思いがけずお金・富がたまってしまった。その富が、資本主義が発達するきっかけになったというのです。興味深い説であり、ある程度当たっているのでしょう。ただその後の資本主義は信仰によらず、世俗的な考えによって進められています。それはともかく、苦難に負けず、勤勉に一生懸命働くのがプロテスタントの人々の生き方でした。今日のルカによる福音書の御言葉も、プロテスタントの人々の勤勉な生き方に大いに感化を与えたのではないかと思えます。私たちもその伝統を受け継ぎ、怠惰になることなく信仰の道を宣べ伝え、日々、神様に勤勉にお仕えしたいのです。イエス様に「怠慢な、悪い僕だ」とは言われたくありません。もちろん一人一人の健康状態や生活状況は異なるので、自分にできる仕方で神様にお仕えすればよいでしょう。
しばらく前の礼拝で、イギリスの伝道者ジョン・ウェスレー(1703年~1791年)の、お金についての教えをお話したことがあります。ウェスレーの時代のイギリスでは、産業革命が起こり、そのために社会が急激に変化し、人々の心や倫理が混乱していました。そのような中で馬に乗ってイギリス中を説教して回り、人々にキリストの道を語り、イギリスを精神的に救った伝道者と評されています。ウェスレーは、プロテスタント教会の一派であるメソジスト教会を作った人です(本当にお作りになったのは神様ですが)。当時のイギリスでは金銭倫理も混乱していたでしょう。そんな中でウェスレーは『金銭の用い方』という説教の中で次のように語ったそうです(その時代の実際的な指針であり、私たち一人一人にどのように当てはめることができるかは、一人一人が考える必要があります)。「あなたにできるだけ稼ぎなさい。できるだけ貯蓄・節約しなさい。できるだけ与えなさい」(Gain all you can, save all you can, and give all you can!)。実は私は、最初の「できるだけ稼ぎなさい」に抵抗を感じて来ました。クリスチャンの理想は清貧ではないかという思いがあるからです(実際に私が十分に清貧に生きている自信はないのですが)。ですが私は今回、ウェスレーがもしかすると、本日のルカによる福音書19章16節の「良い僕」の言葉(「御主人様、あなたの1ムナで10ムナをもうけました」)を念頭に置いてこのように述べたのではないかと想像したのです。 ウェスレー自身は質素な生活をし、年齢が上がって収入が増えてからも若い頃と同じ生活費で生活し、多くを貧しい人々に献げたそうです。ウェスレーは多くの説教をしましたが、彼の臨終の言葉は次の言葉だったそうです。「あらゆることの中で一番すばらしいことは、神様が私たちと共におられることだ」(Best of all, God is with us.)。
ルカによる福音書に戻ります。主人が言います。「なぜ、せめてわたしの金を銀行に預けなかったのか。」これを聞くと私たちは、「自分にできることはわずかだ。自分も神様に叱られるのではないか」と心配になるかもしれません。しかし私たちは自分にできることを精一杯すればよいのです。コリントの信徒への手紙(二)8章12節にこのように書かれています。「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」神様は私たちに、無理難題を押し付ける方ではありません。人と比べる必要はないのです。「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」 あの僕は、現に持っているもの(預けられていた賜物)さえ、神様のために全然用いなかったので、怠慢だと厳しく叱られたのです。
主人はそばに立っていた人々に言います。「その1ムナをこの男から取り上げて、10ムナ持っている者に与えよ」(24節)。「僕たちが、『御主人様、あの人は既に10ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる』」(25~26節)。不公平に思えるかもしれませんが、これも一つの真理です。一つの責任を果たすと、次の責任が与えられます。反対に責任を果たさないと信用が失われ、次の仕事が来ない恐れがあります。社会でもそうですし、神様と私たちの間でもそうであるということです。
この僕は、失敗を恐れすぎました。確かに挑戦・チャレンジには失敗の危険があります。挑戦・チャレンジは自分にとって経験がないこと、未知の領域に踏み出すことですから失敗の危険があります。世の中では失敗が許されないことが多いのも事実です。特に他人の運命を狂わせる大失敗は避けなければなりません。新しいことをスタートするときは、よく計画を練る必要があることは確かです。しかし伝道のために全然挑戦しないことも、神様の御心に反します。東久留米教会にとって新会堂建築は、思い切った決断でした。何度も何度も話し合い、祈りました。神様がここまで守り導いて下さいました。多くの方々の祈りと支援をいただきました。ただ感謝です。このようなすばらしい会堂を与えられたのですから、私たちはこの悪い僕になってはならず、一歩踏み出してイエス・キリストを宣べ伝える者でありたいのです。
20世紀の著名な神学者にパウル・ティリッヒ(1886年~1965年)というドイツ人がいます。この人が次のように語ったそうです。「危険を冒して失敗する人は赦され得る。少しも危険を冒さず、少しも失敗しない人は、彼の全存在において失敗している。」まさにあの叱られた僕に当てはまる警句です。ある人はこの言葉について「小さなことでもいいので、チャレンジし続けることが大切ということ」と述べています。私たちも神様の御言葉を宣べ伝えるために、小さな仕方(手紙に聖書の御言葉を書く、クリスマス礼拝へのお誘いのはがきを出すなど)でよいので、日々チャレンジし続けたいものです。
最後に、本日の旧約聖書マラキ書3章を見ます。小見出しの「主の日」は、神様が悪を滅ぼされる日です。イエス様が再臨されて、神の国を完成される日です。
「しかし、わが名(神様の御名)を畏れ敬うあなたたちには/ 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」(20節)。 キリスト教会は、「義の太陽」こそ、再臨のイエス様と信じて来ました。私たちもそう信じます。「義の太陽」、「希望の太陽」イエス様が来られる日まで、時がよくても悪くても、救い主イエス・キリストを宣べ伝えて参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。
「そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。」(ルカによる福音書19章13節)
イエス様が、エルサレムにかなり近づいて来られました。イエス様はもうすぐ十字架におかかりになります。私たち皆の罪をすべて背負うためです。そのイエス様が1つのたとえを語られます。「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」(11節)。人々は、イエス様こそイスラエルのメシア・救い主と信じ、熱狂的にイエス様に従っていました。人々は、イエス様を王様とする栄光のイスラエル王国を打ち立てようとしていました。イスラエルを支配していたローマ帝国を、イエス様と共に打ち倒し、民族の独立を果たしたいと燃えていました。「とうとうその時がやって来た!」
しかしイエス様は群衆の熱気にお乗りになりません。却って人々をいさめるようにたとえを話されます。「イエスは言われた。『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は10人の僕(しもべ)を呼んで10ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせた』」(12~14節)。 「ある立派な家柄の人」はイエス様です。イエス様はもうすぐ十字架で死なれます。そして三日目に復活され、それから40日目に天に昇られます。そして将来必ず世界の真の王として地上においでになり、神の国を完成されます。このことを「キリストの再臨」と呼びます。因みにイエス様が約2000年前に地上においでになったことを「キリストの初臨」と呼ぶことがあります。
日本のキリスト教会の1つの考えとして、「未来」という言葉と、「将来」という言葉を比べるときに(両者は似た意味の言葉ですが)、「将来」の方が信仰的だ、ということを読んだことがあります。「未来」は「いまだ来たらず」の意味で語感が消極的ですが、「将来」は「まさに来たるべし」の意味で、積極的かつ確信に満ちた響きがあるからです。ですから「イエス様は未来に必ずおいでになる」と言うよりも、「イエス様は将来必ずおいでになる」と言う方が確信に満ちていて信仰的です。
初代教会の人々は、イエス様の再臨はすぐにでも起こると信じていました。使徒パウロも、新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)7章26節で、「今危機が迫っている状態にある」と書いています。これは「イエス様が再臨されて神の国が完成され、最後の審判が行われる、その危機が間近に迫っている」という意味です。しかしパウロも晩年になると、イエス様の再臨は自分が地上で生きている間には起こらないと考えるようになりました。そして今に至るまで、再臨はまだ実現していません。それがなぜかという問いに対する答えは、ペトロの手紙(二)3章8節~9節に明確に記されています。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」神様は、何とかして世界の全員に救われてほしいと願われ、人類一人一人全員が自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じ、全員が天国に入ることを願われて、再臨のときを延期しておられます。しかし永久に延期されるのではなく、父なる神様がお定めになった時に、イエス様は必ず再臨されるのです。本日のたとえの中の、「家柄の立派な人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」という御言葉は、イエス様が再臨されるまでに、かなりの時間がかかることを暗示しています。その間に、私たちクリスチャンが何をすべきか、それが今日のルカによる福音書が私たちに問いかけることです。
「そこで彼は、10人の僕(しもべ)を呼んで10ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った』」(13節)。イエス様は、僕たちに宿題を与えたのです。僕たちは、私たちです。一人に1ムナずつ渡したのです。1ムナは100デナリオン。1デナリオンは一日分の給料ですから、一日の給料を仮に5000円とすると、1ムナは100日分の給料で50万円です。一人一人に50万円の元手が渡されたのです。
これと似た話がマタイによる福音書25章に出ています。それは「タラントンのたとえ」と呼ばれます。そこでは、ある人(イエス様)が旅行に出かけるとき、三人の僕たちを呼んで、それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンと、三人に異なる額を預けたと書かれています。1タラントンは6000日分の給料ですから、5タラントンは3万日分の給料で1億5000万円です。2タラントンは6000万円、1タラントンは3000万円です。今日のルカによる福音書では、僕は10人登場し、皆に同じ額1ムナが渡されています。1ムナは50万円と考えられますから、マタイによる福音書25章に比べると金額がだいぶ小さいですね。この2つのたとえ話は似ていますが、このような違いがあります。
マタイに出て来るタラントンという言葉は、英語のタレント(才能)という言葉の語源ですから、マタイのたとえのメッセージは、「神様が与えて下さった才能を、神様のためにお献げして、神様のために惜しみなく精一杯用いなさい」ということです。ルカに出て来るムナという言葉は、単純に通貨の単位であって、それ以上に深い意味はないようです。イエス様は、10人の僕にそれぞれ1ムナ(50万円)を渡して、商売をするように指示されます。主人(イエス様)は僕一人一人を深く信頼して1ムナずつ(それは主人にとって大切な1ムナ)を預けて下さったのです。主人は旅立ちますが、僕以外の国民は彼を憎んでおり、彼が王になることを拒否していました。このことはイエス様が(悪いことを1つもしていないのに)十字架で殺されることと重なります。そして時がたちます。
「さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの1ムナで10ムナもうけました』と言った」(15~16節)。非常に努力したのでしょう。大きな成果です。「主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、10の町の支配権を授けよう』」(17節)。 「二番目の者が来て、『御主人様、あなたの1ムナで5ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は5つの町を治めよ』と言った」(18~19節)。この人もだいぶ成果をあげました。そして三人目です。「また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです』」(20~21節)。
この僕は、主人に不信の念を抱いていました。主人が愛と信頼をもって大切な1ムナを預けてくれたことを信じていませんでした。そしてせっかくの主人の信頼と期待を裏切ってしまったのです。この僕は、1ムナを布に包んでしまい込んでしまいました。活用すべき宝を少しも生かさず、死蔵してしまったのです。神様は、私たちに様々な賜物を与えて下さっています。ある程度の健康、才能、時間、お金などです。それらを(自分のためにだけでなく)神様と隣人への愛のために精一杯用いることを、神様は望んでおられます。私たちが怠惰になることなく、与えられた(否、預けられた)賜物を、神様と隣人のために喜んで用いて奉仕することを、神様は望んでおられます。
神様から預けられた尊い賜物を全然生かさず、死蔵してしまった僕に対するイエス様のお言葉は厳しいものでした。「主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに』」(22~23節)。当時既に銀行があったというのは興味深いですね。「せめて銀行に預けておけば、最低限利息はついたのに」というのです。つまり神様の御用のために最低限のことさえしなかった怠慢が責められています。私たちも伝道のために怠惰であってはならないことを示されます。自分にできる仕方でよいので精一杯、イエス・キリストを日々宣べ伝えているかどうかが、問われています。私たちは当面はクリスマスコンサートのために御一緒に力を注いでゆきたいのです。
資本主義を発達させたのはプロテスタントのクリスチャンたちだという説があります。マックス・ヴェーバー(1864年~1920年。ドイツの社会学者・経済学者)の説です。ヴェーバーの書いた本『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に詳しく書かれているそうです。プロテスタント教会は16世紀の宗教改革によって成立しました。プロテスタントの人々は、自分の職業は神様から与えられた職業だと考えます。ですからプロテスタントの人々は、神様にお仕えする気持ちで、非常に良心的且つ勤勉に自分の職業の道で働きました。そのため、結果として思いがけずお金・富がたまってしまった。その富が、資本主義が発達するきっかけになったというのです。興味深い説であり、ある程度当たっているのでしょう。ただその後の資本主義は信仰によらず、世俗的な考えによって進められています。それはともかく、苦難に負けず、勤勉に一生懸命働くのがプロテスタントの人々の生き方でした。今日のルカによる福音書の御言葉も、プロテスタントの人々の勤勉な生き方に大いに感化を与えたのではないかと思えます。私たちもその伝統を受け継ぎ、怠惰になることなく信仰の道を宣べ伝え、日々、神様に勤勉にお仕えしたいのです。イエス様に「怠慢な、悪い僕だ」とは言われたくありません。もちろん一人一人の健康状態や生活状況は異なるので、自分にできる仕方で神様にお仕えすればよいでしょう。
しばらく前の礼拝で、イギリスの伝道者ジョン・ウェスレー(1703年~1791年)の、お金についての教えをお話したことがあります。ウェスレーの時代のイギリスでは、産業革命が起こり、そのために社会が急激に変化し、人々の心や倫理が混乱していました。そのような中で馬に乗ってイギリス中を説教して回り、人々にキリストの道を語り、イギリスを精神的に救った伝道者と評されています。ウェスレーは、プロテスタント教会の一派であるメソジスト教会を作った人です(本当にお作りになったのは神様ですが)。当時のイギリスでは金銭倫理も混乱していたでしょう。そんな中でウェスレーは『金銭の用い方』という説教の中で次のように語ったそうです(その時代の実際的な指針であり、私たち一人一人にどのように当てはめることができるかは、一人一人が考える必要があります)。「あなたにできるだけ稼ぎなさい。できるだけ貯蓄・節約しなさい。できるだけ与えなさい」(Gain all you can, save all you can, and give all you can!)。実は私は、最初の「できるだけ稼ぎなさい」に抵抗を感じて来ました。クリスチャンの理想は清貧ではないかという思いがあるからです(実際に私が十分に清貧に生きている自信はないのですが)。ですが私は今回、ウェスレーがもしかすると、本日のルカによる福音書19章16節の「良い僕」の言葉(「御主人様、あなたの1ムナで10ムナをもうけました」)を念頭に置いてこのように述べたのではないかと想像したのです。 ウェスレー自身は質素な生活をし、年齢が上がって収入が増えてからも若い頃と同じ生活費で生活し、多くを貧しい人々に献げたそうです。ウェスレーは多くの説教をしましたが、彼の臨終の言葉は次の言葉だったそうです。「あらゆることの中で一番すばらしいことは、神様が私たちと共におられることだ」(Best of all, God is with us.)。
ルカによる福音書に戻ります。主人が言います。「なぜ、せめてわたしの金を銀行に預けなかったのか。」これを聞くと私たちは、「自分にできることはわずかだ。自分も神様に叱られるのではないか」と心配になるかもしれません。しかし私たちは自分にできることを精一杯すればよいのです。コリントの信徒への手紙(二)8章12節にこのように書かれています。「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」神様は私たちに、無理難題を押し付ける方ではありません。人と比べる必要はないのです。「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」 あの僕は、現に持っているもの(預けられていた賜物)さえ、神様のために全然用いなかったので、怠慢だと厳しく叱られたのです。
主人はそばに立っていた人々に言います。「その1ムナをこの男から取り上げて、10ムナ持っている者に与えよ」(24節)。「僕たちが、『御主人様、あの人は既に10ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる』」(25~26節)。不公平に思えるかもしれませんが、これも一つの真理です。一つの責任を果たすと、次の責任が与えられます。反対に責任を果たさないと信用が失われ、次の仕事が来ない恐れがあります。社会でもそうですし、神様と私たちの間でもそうであるということです。
この僕は、失敗を恐れすぎました。確かに挑戦・チャレンジには失敗の危険があります。挑戦・チャレンジは自分にとって経験がないこと、未知の領域に踏み出すことですから失敗の危険があります。世の中では失敗が許されないことが多いのも事実です。特に他人の運命を狂わせる大失敗は避けなければなりません。新しいことをスタートするときは、よく計画を練る必要があることは確かです。しかし伝道のために全然挑戦しないことも、神様の御心に反します。東久留米教会にとって新会堂建築は、思い切った決断でした。何度も何度も話し合い、祈りました。神様がここまで守り導いて下さいました。多くの方々の祈りと支援をいただきました。ただ感謝です。このようなすばらしい会堂を与えられたのですから、私たちはこの悪い僕になってはならず、一歩踏み出してイエス・キリストを宣べ伝える者でありたいのです。
20世紀の著名な神学者にパウル・ティリッヒ(1886年~1965年)というドイツ人がいます。この人が次のように語ったそうです。「危険を冒して失敗する人は赦され得る。少しも危険を冒さず、少しも失敗しない人は、彼の全存在において失敗している。」まさにあの叱られた僕に当てはまる警句です。ある人はこの言葉について「小さなことでもいいので、チャレンジし続けることが大切ということ」と述べています。私たちも神様の御言葉を宣べ伝えるために、小さな仕方(手紙に聖書の御言葉を書く、クリスマス礼拝へのお誘いのはがきを出すなど)でよいので、日々チャレンジし続けたいものです。
最後に、本日の旧約聖書マラキ書3章を見ます。小見出しの「主の日」は、神様が悪を滅ぼされる日です。イエス様が再臨されて、神の国を完成される日です。
「しかし、わが名(神様の御名)を畏れ敬うあなたたちには/ 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」(20節)。 キリスト教会は、「義の太陽」こそ、再臨のイエス様と信じて来ました。私たちもそう信じます。「義の太陽」、「希望の太陽」イエス様が来られる日まで、時がよくても悪くても、救い主イエス・キリストを宣べ伝えて参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。