日本キリスト教団 東久留米教会

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2014-08-01 20:12:18(金)
8月の聖書メッセージ 「はだしのゲンの平和メッセージ」
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」
        (イエス・キリスト。新約聖書・マタイ福音書5章9節)

 ある市の小中学校において、一昨年12月に亡くなった中沢啓治さんのまんが『はだしのゲン』に閲覧制限がかけられましたが、その後、撤回されるということが昨年ありました。撤回されて本当によかったと思います。

 『はだしのゲン』は、原爆被害を受けた後の広島で、たくましく生きる少年ゲンを主人公にした作品です。戦争反対がメッセージです。中沢さんは書いています。「戦争と原爆のことだけは、忘れてはいけない~。『戦争は人間のもっとも愚かな業』というのがぼくの持論です。戦争はきっと、忘れたころにまたやってきます。~それを阻止する力を結集しなくちゃいけないと思っています。~人類にとって最高の宝は平和です。」(中沢啓治『はだしのゲン わたしの遺書』朝日学生新聞社、2013年、202~203ページ)。

 戦争の苦しい記憶が日本人から薄らぐと、次の戦争に向かって前進してしまう恐れがあります。その意味で、忘れることは罪深いことです。最近の日本の雰囲気は、「戦争絶対反対」ではなく、「場合によっては戦争もやむを得ない」に傾きつつあるのではないでしょうか。このようなあいまいな態度では、ずるずる戦争に引き込まれる恐れがあります。そうではなく、「隣国との戦争は絶対にしない」と日本全体で強く決意し続けることが必要です。

 『はだしのゲン』のテーマの1つは「麦」だそうです。「もう緑は生えない」と言われた原爆投下後の広島に、麦の芽が出たのを見て、ゲンの母親がゲンたちに言います。「おまえたち、いつもとうさんがいうとった麦になるんだよ。ふまれてもふまれても強くまっすぐにのびる麦に…」(前掲書215ページ)。この麦の芽は希望の芽です。私たちも、平和への希望を失わず、「平和を実現する」ために、自分にできることを精一杯行いたいものです。平和の主イエス・キリストに祈りつつ。 アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-08-01 20:09:40(金)
7月の聖書メッセージ 「石巻市で会ったクリスチャン」
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。」
(イエス・キリスト 新約聖書マタイ福音書7章12節)

 6月下旬に、私は初めて宮城県石巻市に行きました。Oさんという日本人クリスチャンに出会いました。Oさんは、ボランティアで仮設住宅での映画会を続けておられます。6月24日(火)は『おとうと』(山田洋次監督、吉永小百合主演)を上映し、約27名が参加されました。仮設住宅の課題は、入居しておられる方々の孤独化を防ぐことです。Oさんの映画会は、いくつかの場所で約90回も行われたそうです。地震・津波で家を失った方々の心の癒しとコミュニケーションの場となっています。私は、その隣人愛のスピリットに感銘を受けました。

 Oさんはまた、漁師さんからワカメを多く買っておられます。それをご自分でパックし、ご自分が所属するキリスト教会(埼玉県)などで売っておられます。漁師さんたちの現金収入になるのだと思います。このような東北復興支援を3年間続けておられるそうです。今後さらに、学童保育で勉強を教えることなども行いたいと語っておられます。熱意に頭が下がります。

 Oさんは、ご自宅のある埼玉県から毎週のように車で石巻市に通っておられます。住む所を確保し、週日はいろいろなボランティアをしておられるようです。週末はご自宅に戻られ、教会の礼拝に出席されます。上記のイエス・キリストの言葉「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」を実行しておられる、イエス様のよきお弟子さんです。

 今年の2月、石巻から埼玉に戻る途中、大雪で車が動けなくなり、車の中で夜を明かそうかと考えたそうです。知らない方が窓を叩いて下さり、建物に案内して下さったそうです。神様が助けて下さったのです。大雪の中、一晩中、車の中では命の危険があります。神様がOさんを助けてくださいました。この神様が、私をOさんと出会わせてくださいました。心より感謝しています。

 この真の神様が、私たち皆に命を与えて下さったのです。真の神様を賛美する礼拝に、ぜひおいでください。聖書の学びを希望する方も、ぜひおいでください。心よりお待ちしています!
アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-07-28 19:17:50(月)
「安息日―祝された聖日 十戒④」 2014年7月27日(日) 聖霊降臨節第8主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、マルコ福音書3章1~6節。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」(出エジプト記20章7節)

 本日は十戒の第四の戒めを学びます。(8~11節)「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」 十戒を二つに分けると、第一戒から第四戒までが神様を愛する生き方を教え、第五戒から第十戒までが隣人を愛する生き方を教えています。十戒は二枚の石の板に彫り刻まれました。第一戒から第四戒までが一枚目の石に刻まれ、第五戒から第十戒までが二枚目の板に彫り刻まれたのではないかと推測されています。

 安息日は第七の日・土曜日でした。旧約の時代は土曜日が礼拝の日だったのです。今でもユダヤ教の人々は土曜日に礼拝を守っているはずです。キリスト教会では、イエス・キリストが日曜日に復活されたので、礼拝の日を日曜日に変更しています。イエス様の復活は、非常に大切な礼拝の日を変更させるほど大きな出来事だったのです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」聖別するとは、「聖なる日としてほかの日から選び分かつ」ということです。安息日は聖なる日、礼拝に専念する日です。月曜日から金曜日までは労働の日々です。そして安息日は礼拝に専念する日です。旧約聖書では一日は、前日の日没から始まります。ですから安息日は金曜日の日没から土曜日の日没までです。この間はいかなる仕事もしてはならないのでした。この規定は家のすべての人に及びました。

 11節には、七日目を安息日とする根拠が記されています。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」神様が六日間で天地創造の業を行われ、七日目に休まれたことが、七日目を安息日とする根拠だと述べています。ここで私たちはどうしても、創世記1章31節~2章3節を連想致します。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」これが出エジプト記20章の十戒では、安息日の根拠です。 

 十戒は申命記5章にも書かれています。もちろん出エジプト記20章の十戒と基本的に同じですが、少し違いがあります。安息日の根拠の部分が違います。そこで申命記5章12~15節を読みます。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである。」ここでは安息日を守る根拠は、神様がイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放し、安息を与えて下さったことです。あの偉大な解放を思い出して感謝し、仕事を止めて休み、神様に感謝の礼拝を献げるのです。家の主人が休むことで家の奴隷(使用人)や家畜までも休むことができます。神様が使用人や家畜にまで配慮していて下さることが分かります。ともかく、安息日は神様が祝福された聖なる日なのです。

 旧約聖書では、安息日の規定に違反した場合には真に厳しい結果が待ち受けていました。民数記15章を見ると、安息日に薪を拾い集めている(仕事をしている)ところを見つけられた男に対して、神様が「その男は必ず死刑に処せられる。共同体全体が宿営の外で彼を石で打ち殺さねばならない」と命じておられます。そしてその通り実行されています。何と厳しいことかと思います。

 しかし後の時代にはイスラエルでも安息日が軽んじられた時期があったようです。イザヤ書58章を見ると、預言者が安息日を軽んじる人々に次のような忠告のメッセージを語っています。
「安息日に歩き回ることをやめ/ わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ
 安息日を喜びの日と呼び/ 主の聖日を尊ぶべき日と呼び
 これを尊び、旅するのをやめ/ したいことをし続けず、取り引きを慎むなら
 そのとき、あなたは主を喜びとする」(13~14節)

 このように安息日を軽視した人々とは正反対に、安息日を文字通り命がけで守った人々も、もっと後の時代に出ました。旧約聖書と新約聖書の中間の時代のことです。紀元前2世紀に、シリアのアンティオコス・エピファネスという悪い王がエルサレムに進撃して来ました。そして神様の戒めを守る人々を弾圧したのです。それに対して抵抗の戦いが起こります。リーダーであるマタティアという祭司に従う人々は荒れ野に逃れましたが、アンティオコス・エピファネスの軍隊が安息日に攻撃して来ました。ユダヤ人たちは安息日には働いてはいけないと考え、抵抗しませんでした。その結果、約1000人が殺されたというのです。まさに死を賭して安息日を守ったのです。神様がなぜこの約1000人を助けて下さらなかったのかとも思います。神様には奇跡を起こしてこの約1000人を救うことがおできになりましたが、神様に深いお考えがあって、あえて奇跡を起こされず、約1000人に殉教の道をお与えになったのかもしれません。ここまでして安息日を守ったということを聞くと私たちは驚嘆すると共に、極端な話だと感じるのではないでしょうか。

 私は10年ほど前に、ユダヤ人のご夫妻に会ったことがあります。神様が会わせて下さったと思っています。そのご夫妻は比較的熱心なユダヤ教徒で、フレンドリーな方々でした。ご主人の仕事で日本に来られたのですが、東京都渋谷区広尾にあるユダヤ教の礼拝所に近いホテルに宿泊され、安息日はずっと礼拝所で過ごされたようです。安息日には仕事をせず、電話もとらないそうです。イスラエルに帰国するときも、安息日に十分間に合う飛行機を予約します。食事についても、レビ記の規定を守っておられます。このご夫妻おの接待を担当した日本人男性は、ご夫妻を豆腐レストランに案内されました。これは非常に賢明な配慮でした。このご夫婦との短い出会いの中で、私は現代のユダヤ教徒が、熱心に安息日礼拝を守っている様子をうかがい知ることができました。

 もちろん私たちにとっても日曜礼拝は非常に重要であり、日本人クリスチャンにも「礼拝第一」と考える人は多いのです。以前の教会は「礼拝厳守」を説きました。30年ほど前に日本でも公開された映画に『炎のランナー』があります。わたしは暫く前にDVDをお借りして改めて見ました。実話をもとにした映画です。スコットランド人のエリック・リデルという男性は、熱心なクリスチャンで、イギリスのエディンバラ大学の学生、優秀な陸上競技の選手でした。そして1924年のパリオリンピックに出場することになったのです。ところが100メートル競走が日曜日に行われることになります。日曜日は礼拝の日です。国の代表なのだから100メートル競争に出場するように説得を受けますが、リデルは礼拝を優先して、100メートル競技への出場をとりやめました。結果的に別の日の400メートル競走に出場できることになり、それで金メダルを獲得するという神の恵みを受けます。エリックは金メダルという栄誉のために走る人ではなく、信仰をもって神様の栄光を表す目的で走る人だったのです。その後の人生では、宣教師となって中国伝道に尽くしたそうです。このように日曜礼拝を第一として生きた人の生き方は、私たちを同じ生き方に導きます。

 このように礼拝は重要なのですが、私たちは安息日を巡ってイエス様とユダヤの非常に信仰熱心なファリサイ派の人々が衝突したことを知っています。イエス様も安息日を礼拝の日として大切にしておられましたし、ファリサイ派の人々も安息日を礼拝の日として非常に重視していました。両者ともに安息日を大切にしていたのですから一致しそうなものですが、実際には安息日についての考えが違ったのです。もちろん私たちはイエス様の教えに従うことが大切です。イエス様はもちろん安息日には必ず会堂に行って父なる神様を礼拝されました。イエス様にとって安息日に礼拝に行かないことは考えられないことでした。

 マルコによる福音書3章1節以下をご覧下さい。安息日の出来事が記されています。(1~2節)「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか注目していた。」ファリサイ派の人々は、病気をいやすことも仕事・労働になり、神様によって安息日には禁じられていると確信していました。これは間違った確信です。愛を重視するイエス様なら、安息日に奇跡の力で病気の人をいやすのではないかと意地悪く観察していました。イエス様はそれを承知の上で行動を起こされます。(3~5節)「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。」もちろん安息日に神様の律法(戒め)で許されていることは、善を行うこと、命を救うことです。これがイエス様の確信であり、私たちの確信です。この確信は間違っていません。

 イエス様は御自分の確信に則して大胆に行動されます。(5節)「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。」動かなかった手をいやしていただいた人は、感激したに違いありません。しかしファリサイ派の人々は非常に怒り、ヘロデ派(洗礼者ヨハネを殺すガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの一派)の人々と一緒に、イエス様を殺す相談を始めたのです。彼らは自分たちが正しくて、イエス様が間違っていると信じ込んでいました。「安息日にはいかなる仕事もしてはならないと書いてあるではないか。イエスという男は安息日に病気をいやす仕事を行った。神様に逆らう悪い男だ」と信じ込んだのです。

 そこでもう一度、出エジプト記20章の安息日の部分を読んでみます。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」では「仕事」とは何なのか、この点をよく考える必要があります。ここで言う「仕事」とは「人間の業」、「人間の自己中心的な業」、はっきり言えば罪のことだと思うのです。安息日は神様を礼拝し、私たち人間の罪を捨てる日です。罪の反対は、愛することです。安息日は、罪を捨てて、神様と隣人を愛するための日なのです。愛の行いは全く禁じられていません。病をいやすことは安息日違反どころか、安息日に最もふわしい愛の業です。

 安息という言葉はヘブライ語で「シャーバート」です。この「シャーバート」という言葉はもともと「中断する」という意味だそうです。安息日は仕事・人間の業を中断して、神様を礼拝し、神様の御言葉に耳を傾けて、自分の生き方の軌道修正をする日です。生き方の軌道修正をするのですから、自分の罪をできるだけ捨てることは当然です。日本人は仕事好きな勤勉な民族です。それは日本人の美徳です。安息日の戒めにも「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし」と書かれていますから、月曜日から土曜日(金曜日)まで仕事をすることは、神様に喜ばれることです。しかしその仕事も、やみくもに突進するだけでは危険な場合もあります。もう十分にお金持ちのある方が、日曜日に人が休んでいるときにも、夜、人が眠っているときにも、お金儲けに精を出していた話を聞いたことがありますが、それは仕事のやり過ぎで、神様の御心に反することです。どなたにとっても、定期的にちょっと離れたところから自分の仕事や生き方を、「これでよいのか」と見直してみることは必要です。自分の仕事・生き方が神様の御心から逸れていることに気づくこともあると思うのです。安息日は、聖書の御言葉に耳を傾けてそのことに気づく日ではないでしょうか。ファリサイ派の人々も、イエス様の御言葉に素直に耳を傾けて、安息日の戒めの正しい意味を教えていただく姿勢をもてばよかったのです。私・私たちも間違いを犯すことはあるので、聖書の御言葉・イエス様の御言葉によって軌道修正する日々を送りたいのです。

 しばらく前のヨーロッパでは、日曜日に商店は閉まっていることは珍しくなかったようです。皆、礼拝に行ったのでしょう。それが次第に日曜午後は開店する所が出て来たそうです。人間の健康から考えても、六日働いて一日仕事を休むことはよいリズムを生みます。日本のように24時間営業のコンビニが多いことはよくありません。そこで働く方々が過労になってしまい、非人間的だと思います。

 『ハイデルベルク信仰問答』には、神様は安息日が次のような日であることを望んでおられる、と書かれています。
「(安息日に)神が望んでおられることは、
 第一に、説教の務めと教育活動が維持されて、
 わたしがとりわけ安息の日には神の教会に熱心に集い、
 神の言葉を学び、聖礼典にあずかり、
 公に主に呼びかけ、キリスト教的な施しをする、ということ、
 第二に、生涯のすべての日において、
 わたしが自分の邪悪な行いを休み、
 わたしの内で御霊を通して主に働いていただき、
 こうして永遠の安息を
 この生涯において始めるようになる、ということです。」
(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、2002年、96ページ)。

 ルカによる福音書10章に有名な、「マリアとマルタ」の話があります。この二人は姉妹ですが、同時に私たちの心の中の2つの面を象徴するとも言えます。いらいらしているマルタは、平日に職場のストレスなどで苛立いっている私たちの姿と言えます。イエス様の足元に座って、その話に聞き入っているマリアは、日曜日にイエス様の御言葉に聞き入って礼拝し、安息をいただいている私たちとも言えます。日曜日ごとに安息の礼拝に戻り続ける生き方を、今後もご一緒にずっと継続して参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-07-21 20:38:49(月)
「主の名をみだりに唱えず 十戒③」 2014年7月20日(日) 聖霊降臨節第7主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、フィリピの信徒への手紙2章1~11節。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」(出エジプト記20章7節)

 モーセの十戒の第三の戒めを学びます。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」 「名は体を表す」と言います。名前は本質です。「主の名」は、聖なる神様ご自身であり、神様の尊厳そのものです。「みだりに」とは「乱暴に」ということとも言えます。神様の聖なるお名前を乱暴に口にしてはならず、その尊厳を深く思って初めて口にせよということです。あるいは「主の名をみだりに唱えない」とは、「主の名を濫用しない」ということでしょう。人間の世界で王などに対して閣下、陛下と呼ぶことに似ています。王のことを考えなくても、私たちは人さまのお名前に敬意を表します。名刺をいただけば、丁重に扱います。人に対してもそうなのですから、まして聖なる神様に対する時には、神様の御名の尊厳を深く思い、尊敬以上の気持、讃美と礼拝の思いを込めて、聖なる神様のお名前を口にするのです。私どもよりはるかに偉大な方との思いを込めて、初めて神様の聖なるお名前を口にします。

 実際に、神様の聖なるお名前を乱暴に口にして(おそらくは神様の聖なるお名前をののしって)非常に厳しい処罰を受けた男がレビ記24:10~に登場します。「イスラエルの人々の間に、イスラエル人を母とし、エジプト人を父に持つ男がいた。この男が宿営において、一人の生粋のイスラエル人と争った。イスラエル人を母に持つこの男が主の御名を口にして冒瀆した。人々は彼をモーセのところに連行した。~人々は彼を留置して、主御自身の判決が示されるのを待った。主はモーセに仰せになった。冒瀆した男を宿営の外に連れ出し、冒瀆の言葉を聞いた者全員が手を男の頭に置いてから、共同体全体が彼を石で打ち殺す。あなたはイスラエルの人々に告げなさい。神を冒瀆する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪う者は死刑に処せられる。」その通りに実行されたのです。これは第三の戒めにはっきりと違反した人のケースです。

 聖書の神様のお名前は、ヘブライ語のアルファベットでYHWHです。これを聖四文字と呼びます。読み方はヤハヴェもしくはヤハウェであろうと言われます。旧約聖書を朗読するときに、敬虔なイスラエル人・ユダヤ人は、YHWHのところに来ると、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」の戒めを強く思い、神様のお名前を口にするのはあまりにも畏れ多いと考え、お名前を発音せず、「アドナイ(主人・主の意)」という言葉に読み変えたそうです。その習慣が長く続いたために、YHWHの正確な発音が次第に分からなくなったと言われます。それほど第三の戒めを重んじたのです。YHWHというお名前には意味があるようで、新共同訳聖書巻末の「主」の用語解説を見ると、「空虚な神々とは違って実際に『存在する者』、行動的に人々とともにいて、彼らに援助を与え、『現存する者』という意味が最も重要と思われる」と書かれています。

 実際、出エジプト記3章14節を読むと、神様がモーセにご自分のお名前を明かしておられます。名は体(本質)を表しますから、神様はモーセに御自分の本質を明かして下さったのです。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」 「わたしはある」が神様の本質なのです。

 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」「みだりに唱える」ことの反対は、讃美と礼拝の気持ちを込めてお名前を唱えること、お名前を呼ぶことです。「みだりに唱える」ことは罪ですが、「主の名を深く畏れ敬いつつ、礼拝の気持ちをもってお呼びする」ことは許されています。そうでないと神様をあがめて祈ることも、礼拝することもできなくなってしまいます。「神様のお名前を呼ぶ」とは、神様を礼拝することです。創世記4章の最後に、最初の人アダムの三人目の息子セトとセトの子エノシュの名前が出ています。そして「主の名を呼び始めたのは、この時代のことである」と書かれています。エノシュの時代から神様のお名前を呼ぶ礼拝が始まったということです。そして創世記12章を見ると、イスラエルの民の先祖アブラム(後のアブラハム)が「主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」と書かれており、アブラムが礼拝をしていることが分かります。

 旧約聖書最後の書・マラキ書を見ると、神様の御名をあがめる礼拝を軽んじる祭司たちがいたことが記されています。神様にお仕えすることはむなしいと言う人々もいました。しかし中には少数かもしれませんが、神様の御名を重んじ、心をこめて礼拝する人々もいたようです。マラキ書3章16~17節にこう書かれています。
「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。
 神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。
 わたしが備えているその日に/ 彼らはわたしにとって宝となると
 万軍の主は言われる。
 人が自分に仕える子を憐れむように/ わたしは彼を憐れむ。」

 神様を畏れ敬い、御名を重んじる人々が神様に喜ばれているというのです。私たちもこの人々のようでありたいですね。そして3章20節には、神の国の完成の時にはこうなるという、神様の約束が記されています。
「わが名を畏れ敬うあなたたちには
 義の太陽が昇る。/ その翼にはいやす力がある。」
 
 神様の御名を畏れ敬う人々には、よき報いがある。「義の太陽」は、イエス・キリストです。イエス様のいやしと愛が注がれ、永遠の命が与えられます。「旧約の預言者たちは月や星、イエス・キリストは太陽」という意味の文章を読んだことがあります。まさにその通りです。

 さて、「主の名をみだりに唱えない」とは、「主の名を濫用しない」ということだと申しました。レビ記19章12節に次のように書かれています。「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。」 昔の日本人は「天地神明にかけて真実であることを誓う」という言い方をしました。この神は聖書の神ではありませんが、誓いをする時に、神を引き合いに出して誓ったのです。今の日本人はあまりこのような言い方をしません。ですが教会の信仰生活の中ではしばしば誓いがあります。これは真の神様の前で誓うのです。伝道師・牧師就任式での誓い、洗礼式での誓い、転入会式での誓い、役員・監事任職式での誓い、結婚式での誓い。私たちは神様が見ておられる前で誓います。万一、神様の前で偽り誓うことがあれば、「主の名をみだりに唱える」罪になると思うのです。私たちは、さすがに神様の前で自覚して偽り・嘘の誓いをすることはありません。ですが神様の前で誓ったことを忘れてしまうことはないと言いきれないのではないでしょうか。それも「主の名をみだりに唱える」ことになる恐れがあるのではないでしょうか。私自身、深く悔い改めたいのです。神様の前で誓ったことを、神様はもちろん覚えておられます。私たちが忘れてよいはずはありません。私たちは神様の前で行った誓いをいつも思い出し、忘れないように心がけたいのです。

 祈りについての名著にフォーサイスというイギリス人が書いた『祈りの精神』があります。フォーサイスはよく祈った人です。フォーサイスはこう書いています。「十字架についての洞察力が新たにされると、十字架に臨んでいる神の愛とその厳粛な聖さに宿る深い意味が、とりわけ明らかにされる。そして、神の聖さを鮮やかに知ると、この汚れた唇に神のみ名を口にすることすらできなくなる」(P.T.フォーサイス『祈りの精神』ヨルダン社、1986年、102ページ)。 「神の聖さを鮮やかに知ると、この汚れた唇に神のみ名を口にすることすらできなくなる。」本当にそうなのだと思います。もちろん、だから私たちが祈らない方がよいのではありません。そうではなく、私たちの汚れた唇で、なお祈ることを許して下さる神様の憐れみに感謝することこそ、ふさわしいのです。

 本来は祈ることもはばかられる汚れた唇を持つ私どもが、安心して祈ることができるようにして下さった方は、イエス・キリストです。イエス様は私たちの罪の全てを背負って、十字架で死んで下さいました。イエス様は神の子ですから、「父よ」と親しく神様に祈られました。「父よ」と祈ることができる方は本来、イエス様お一人です。ですがイエス様が十字架で私たちの罪を全て背負いきって下さったので、私たちも罪人(つみびと)であるにもかかわらず、「父よ」と親しく呼びかけて祈ることができるようになったのです。イエス様の十字架の愛のお陰です。イエス様を信じて聖霊を受けた私たちは、神の子たちとなったのです。本来神の子でなかった私たちが、神の子たちとされたのです。すばらしい福音・グッドニュースです。ローマの信徒への手紙8章15~16節にこの恵みが書かれています。

 「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊(聖霊)を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」イエス様と同じように「アッバ、父よ」と神様に呼びかけて祈ることができるのです。「アッバ」は、ほとんど「パパ」であって、子供が父親に親しく呼びかける言葉です。私たちは十戒を学びながら、イエス様のお陰で父なる神様との距離がぐっと近くなったことを喜んでよいのです。1997年に加藤常昭先生という有名な先生をお招きして東久留米教会で伝道集会を行いましたが、その時、加藤先生がおつけになったメッセージの題が「あなたも神の子として生きる」であったことをよく覚えています。

 そのイエス様は私たちに、「主の祈り」を教えて下さいました。まだ洗礼を受けておられない方も「主の祈り」を祈ります。ですが、イエス様を救い主と告白して洗礼を受け、神の子とされた人が祈るとき、神様の恵みをさらに深く味わわせていただける祈りが「主の祈り」です。私たちは最初にこう祈ります。「天にまします我らの父よ、御名をあがめさせたまえ。」私たちは、「主の名をみだりに唱えない」ように注意しますが、同時に「父よ」と親しく呼びかけ、「御名があがめられますように」と積極的にほめたたえることができる新約聖書の時代に生きているのです。本当に感謝です。私たちの名があがめられることが大事なのではなく、神様の御名があがめられることが大事です。「御名があがめられますように」とは、「神様の偉大さが讃美され、神様の御心が成りますように。私たちが神様の御心に喜んで従うことができますように」ということです。

 10年以上前のことですが、ある神学校の著名な先生が天に召されました。後でその先生の葬儀の礼拝で読まれた聖書がヨブ記だったと聞きました。大きな試練を受けたヨブが語ります。
「わたしは裸で母の胎を出た。/ 裸でそこに帰ろう。
 主は与え、主は奪う。/ 主の御名はほめたたえられよ」(1章21節)。
ヨブは大きな試練を受けたとき、このように主の御名をあがめたのです。驚くべき深い信仰です。その先生は、教会や神学校のために多く働かれ、実績を残されました。それだけに葬儀の礼拝でご自分の名がたたえられることを警戒されたのではないかと、私は受けとめました。それでは、神に栄光をお返しすることにならない。礼拝にならない。そうならないように祈られたのではないかと思うのです。それでヨブ記をお選びになったのではないかと私は拝察致します。
「わたしは裸で母の胎を出た。/ 裸でそこに帰ろう。
 主は与え、主は奪う。/ 主の御名はほめたたえられよ。」
ご自分の名がほめたたえられる葬儀ではなく、父なる神様のお名前・イエス様のお名前のみが讃えられる葬儀になることを祈り願われたと思うのです。

 もう1つ似たエピソードを述べれば、宗教改革者にジャン・カルヴァンという人がいます。カルヴァンはスイスのジュネーブの宗教改革に非常な実績を残し、カルヴァンの著作は今も日本でも読まれて、信仰の感化を与え続けています。彼は自分が死ぬとき、自分の名があがめられることを警戒しました。自分の遺体は共同場地に埋葬し、墓石を据えるなと固く言い残したそうです。カルヴァンの願いは、自分が忘れられて、ただ神様のお名前のみが皆に尊ばれ、ほめたたえられることでした。ですからカルヴァンの墓がどこにあるか、分からないそうです。ジャン・カルヴァンの頭文字はJ.C.です。これは神様のご計画と思います。イエス・キリストはいわゆる姓名ではありませんが、強いてイエス・キリスト(英語ではジーザズ・クライスト)の頭文字は何かというと、同じJ.C.です。カルヴァンにとって自分の名前は忘れられた方がよいので、同じJ.C.でもイエス・キリストのお名前のみがあがめられ、永遠にたたえられることが切なる願いだったのです。

 「すべて神の栄光のために!」 これがカルヴァンの願いです。私たちにとっても同じです。「自分の人生は、すべて神の栄光のためにささげる!」 これがクリスチャンの生き方です。バッハという有名な音楽家がおりましたが、バッハもいつも言っていたそうです。「音楽の目的は第一に神に栄光を帰し、そして、隣人に喜びを与えることだ」と。父なる神様のお名前のみがほめたたえられ、イエス・キリストのお名前のみがほめたたえられる! 礼拝はそのような場であり、それこそがクリスチャンの唯一の願いです。

 本日の新約聖書は、フィリピの信徒への手紙2章1節~です。フィリピの教会に多少の混乱があったようで、この手紙を書いたパウロはクリスチャンの生き方について教え諭しています。私も心して耳を傾けたいと思います。
(1~5節)「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、『霊』(聖霊)による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

 世の終わりには必ずこのようになります。「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」 そのとき、主の名がみだりに唱えられることはもはやありません。父なる神様の御名も、尊い神の子イエス・キリストの御名も高らかにほめたたえられます。今の礼拝が既にそのような場です。礼拝は天国の先取りだからです。

 イエス様の御名に触れている新約聖書を2ヶ所開きます。
マタイによる福音書18章20節。「二人または三人がわたし(イエス様)の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」二人または三人がイエス様の御名によって集まり、イエス様の御名をあがめるとき、そこにイエス様は共におられるのです。場所は礼拝堂でも、家庭でも、迫害を受けて牢にいるときの牢でも構いません。

 使徒言行録4章11~12節。ペトロの説教です。
「この方(イエス様)こそ、
 『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、
  隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても救いは得られません。わたしたちが
  救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 
十字架で死んで復活されたイエス様こそ唯一の救い主であり、私たちはこのイエス様の聖なる御名を、限りなくほめたたえるのです。 

 十戒の「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」は、「主の祈り」の「願わくは、御名をあがめさせたまえ」につながっています。信仰に生きる私たちは、「私たちの名ではなく、父なる神様・主イエス様の聖なるお名前が永遠にほめたたえられますように」と賛美・礼拝しつつ歩むのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-07-15 1:36:31(火)
「新しい契約の食事」 2014年7月13日(日) 聖霊降臨節第6主日礼拝説教
朗読聖書:エレミヤ書31章31~34節、ルカ福音書22章1~23節
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」(ルカ福音書22章15節) 

 本日の場面では、イエス様を亡き者にする陰謀が巡らされています。(1~2節)「さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。」 過越祭はイスラエルの民の出エジプトを記念する、ユダヤ人にとって最も重要な祭りです。モーセに率いられたイスラエルの民の出エジプトは、ある年表では紀元前1280年頃になっています。イエス様の十字架は紀元30年頃ですから、出エジプトは今日の場面の約1300年前です。それほど前の神の恵みをも忘れないで、イスラエルの民は感謝の過越祭を行っていたのです。今も行っているのでしょう。出エジプト記12章には、過越祭の由来となった神様の指示が記されています。

 「今月(ユダヤ暦アビブ<ニサン>の月、太陽暦の3~4月)の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。~その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。~それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦い菜を添えて食べる。~これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。」神様はこの通りに実行されました。エジプト人の全ての家で初子が神様に撃たれて死にましたが、神様の指示を守ったイスラエル人の家を、神様の裁きは通り過ぎて行きました。民はその真夜中、エジプト脱出を開始したのです。

 この劇的な救いを記念する祭りが過越祭です。過越祭とセットの祭りに除酵祭がありました。神様の先ほどの指示の中に「酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる」とありました。民はエジプトを脱出するとき、ぐずぐずしている暇がなかったので、酵母を入れないパンを焼きました。これが除酵祭の由来ですね。酵母を入れないパンはおしくないでしょう。除酵祭で酵母を入れないパンを食べることで、出エジプトの時の苦難、質素な生活を忘れないようにと心がけたのではないでしょうか。新会堂を建てるかどうか、この教会の中で話し合っていた時に、今は天国に行かれたFさんが、「ドラム缶風呂でよしとした精神を忘れてはなりません」とアンケートにお書きになったことを思い出します。東久留米教会初代牧師の浅野先生はこの場所で開拓伝道された約50年前、ドラム缶風呂で汗を流しておられたようです。Fさんは後で転入会された方ですが、この教会の貧しい時代の苦労を忘れてはならないと戒めて下さったのだと受け留めました。除酵祭にも同じような意味があったのではないでしょうか。

 ルカによる福音書に戻りますが、その過越祭・除酵祭が近づいていました。これは偶然ではなく、神様のご計画です。イエス様は過越祭の時に十字架におかかりになる必要がありました。イエス様こそ、真の過越の小羊だからです。屠られた小羊の血を取って、二本の柱と鴨居に塗った家の上を神様の裁きが通り過ぎて行ったように、イエス様が自分のために十字架で尊い血を流して下さったと信じる人については、神様の裁きがその人の上を通り過ぎ、その人は永遠の命を受けるからです。ヨハネ福音書19:31によると、イエス様の十字架の死は、過越祭(安息日)の前日の金曜日でした。父なる神様がそう計画なさったのです。過越祭は3~4月ですので、今でもキリスト教会はこの時期にイエス様の十字架の死の金曜日と復活の日曜日(イースター)を設定しています。イスラエルの過越祭とイエス様の十字架・復活にはつながりがあります。そしてイエス様は、本日の箇所で旧約聖書の過越祭を乗り越える新しい契約の食事・聖餐を制定なさるのです。

 目に見えない悪魔が人々を唆して、人々がイエス様を殺すようにと働きかけています。この悪魔の動きに対してはっきり目を覚まして、悪魔の動きを見抜いていたのはイエス様と父なる神様だけです。弟子たちでさえ、悪魔の働きを見抜くことができないでいました。私たちも知らず知らずのうちに、悪魔の唆しに乗ってしまうことがあるかもしれないので、よく注意したいと思います。悪魔に負けないために、よく聖書を読み、目を覚ましてよく祈って聖霊に助けていただくことが必要です。(3節)「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中にサタンが入った。」悪魔はユダを強力に唆し、ユダは唆しに乗ってしまったのです。ユダは悪魔の唆しを拒否することもできたのです。しかし拒否せず、受け入れてしまったのです。ですから裏切りはユダの責任です。(4~6節)「ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」マタイによる福音書によると、ユダは銀貨30枚でイエス様を売ったのです。

 (7節)「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。」木曜日です。イエス様は次の日に十字架につけられます。イエス様は、過越祭の食事の準備をするようにペトロとヨハネに指示をなさいます。二人はイエス様の指示に従って、ある家の二階に過越の食事の準備をします。そして夕刻、過越の食事の時が来ます。弟子たちはきっと、いつもの年の過越の食事と同じような気持ちでこの時を迎えたのではないでしょうか。しかしイエス様にとっては重大な決意をもって迎えた過越の食事です。これまでとは違うのです。この食事がいわゆる最後の晩餐になりました。(15~16節)「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。』」 「わたしは、復活後も神の国が完成するまで、決して過越の食事をとることはない、苦しむ者と共に生きる、質素に生きる」とイエス様はおっしゃったのではないでしょうか。そして杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と、似たことを言われました。目に見えなくとも、イエス・キリストを宣べ伝える弟子たちと共にいて、苦難を共にするとおっしゃったのでしょう。

 ここからがイエス様による聖餐制定の御言葉です。(19節)「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」イエス様はパンを裂くことで、間もなくご自分の体が十字架の上で釘によって裂かれ、槍によって裂かれることを示されたのです。聖餐の式文を連想します。「これは、あなたがたのために裂かれた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、心のうちにキリストを味わうべきであります。」

 私が神学生だった1995年頃、私が通っていた東京神学大学のお隣りの日本ルーテル神学大学(現・ルーテル学院大学)との一致礼拝に出席したことがあります。その時、ルター派の聖餐式を体験することができました。白い服を着た牧師が、一人一人の目の前でパンを裂いて、「これは、あなたがたのために裂かれた主イエス・キリストの体です」と言って裂いたパンを渡して下さるのです。目の前でパンを裂いて下さるのが印象的でした。この方式ですと、まさにイエス様が十字架で、ご自分の体を裂いて下さった事実を強く意識することができます。そして牧師が、弟子たちの目の前でパンを裂かれたイエス様の動作を、再現しているとも言えます。聖餐式にしても洗礼式にしても、真の執行者はイエス・キリストです。人間の牧師はイエス様の代理人に過ぎません。

 イエス様が私たち一人一人のために、十字架で肉を裂いて下さった事実を思うことは、信仰にとって大切です。ヒットラーへの抵抗を呼びかけたスイスの神学者(牧師)にカール・バルトがいます。バルトは多くの信仰書を書きましたが、書斎にグリューネヴァルトという画家が描いたイエス・キリストの十字架の絵(十字架の死の悲惨さをごまかさない凄惨な絵)を掲げ、それを見ながら執筆したそうです。イエス様の十字架の犠牲の愛をいつも心に刻もうとしたのでしょう。受難節に釘を首から下げて生活した日本人の牧師もおられたそうです。ドイツのオーバーアマガウという村では、1630年代にペストが流行し、多くの方が死んだそうです。しかし村を挙げて神様に助けを祈り求めたところ、神様が祈りを聴いて下さり、ペストは次第におさまったそうです。村ではそれ以来、神様への感謝のしるしとして、10年ごとに村を挙げて「イエス・キリストの受難劇」を上演するようになり今日に至っています。東久留米教会が所属する西東京教区でも、7~8年前に全体研修会で牧師・伝道師たちを中心に受難劇を行いました。このような形で多くのクリスチャンたちが、イエス様の十字架の愛を一生懸命に心に刻もうと努力して来たのです。私たちもイエス様の十字架の愛をいつも魂に刻印したいのです。もちろんそのために聖餐が備えられています。

 (20節)「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」 新しい契約の前にあるのが古い契約です。神様はイスラエルの民をエジプトから脱出させる大きな愛を実行され、イスラエルの民に十戒を与え、十戒を守って生きることで神様への愛を示すように求められました。これが古い契約です。神様とイスラエルの民の間で古い契約が結ばれる場面は、出エジプト記24章に出ています。(5~8節)「彼(モーセ)はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。』」 モーセは「契約の血である」とはっきり言いました。モーセは、いけにえの動物の血を祭壇とイスラエルの民に振りかけて、祭壇と民を清めたのです。

 血を振りかけて清めることは、私たち日本人から見ると異様です。ですが血は命そのものです。人が犯した罪は、本当はその人が血を流すことによって償うことが必要です。私たちは小さな罪を毎日犯しています。その罪のためにも血を流して償うことが必要ですが、それでは人が死ぬことになります。そこで旧約聖書では、人の身代わりに動物を殺してその血をもって罪の償いとしたのです。ですから旧約時代の神殿では、毎日動物を殺して血を流し、いけにえを神様に献げていたそうです。これは野蛮ということではなく、人の罪が赦されるには、どうしても身代わりに動物の血を流す必要があったのです。ヘブライ人への手紙9章22節には、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」と明確に書かれています。

 人間の原罪(罪)について、マルティン・ルターはこう語ったそうです。「人間の口髭のようなものだ。口の周囲に一本の髭も残らないほどにきれいに剃られても、次の朝再びはえる。~しかし人間はこの原罪に抵抗しなければならぬ。かくのごとき髭を絶えず切り去らなければならない」(ルターの『卓上語録』を辻宣道著『教会生活の四季』日本キリスト教団出版局、1991年、47ページより孫引き)。

 この人間の罪を償うためには、実は動物の血では不十分です。本当に人間の罪が赦されるためには、人間の血が流される必要があります。世界中の全ての時代の全て人間の罪を身代わりに背負って、血を流して死ぬ人が必要です。その方は全く罪がない方でなければなりません。父なる神様は、その方をこの世界に送って下さいました。もちろんそれがイエス・キリストです。イエス様はまさに十字架で死ぬために誕生して下さいました。モーセは動物の血を祭壇とイスラエルの民に振りかけて「これは~契約の血である」と宣言しましたが、イエス様は十字架を目の前にして「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と宣言されたのです。過渡的な古い契約の時代が終わり、父なる神様と私たちの間に新しい契約が結ばれる決定的な時が来たのです。これが私たちの救いのための、神様の最後の切り札です。イエス様を救い主と信じ告白して、この新しい契約の入るように、神様が全ての人を招いておられます。喜んでその招きに応えたいのです。

 本日の旧約聖書はエレミヤ書31章31節以下です。古い契約に代わる新しい契約が結ばれる時が来るという預言です。旧約の中の新約と呼ばれる箇所です。イエス様の十字架の死と復活による新しい契約を予告する御言葉です。(31~32節)「見よ、わたし(神様)がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」イスラエルの民が古い契約を何度も破ったのです。

 そこで神様は新しい契約を結ぶことを決断されます。古い契約では契約を破った人間のために動物が血を流しました。新しい契約では、神様ご自身が人の罪の責任を背負うことを決意されます。神様の最愛の独り子イエス・キリストが、赤の他人とも言える私たち罪のために、十字架で血を流して死ぬ。神様の独り子と神様ご自身が、人の罪の責任を自ら背負って痛みを引き受ける。独り子イエス様が最大の痛みを引き受け、父なる神様は独り子の受難を天で忍耐なさる。私たちのために、神様ご自身が大きな痛みを引き受ける新しい契約を結ぶことを決断されたのです。そして私たち人間を罪から救おうとお考えになったのです。 

 (33~34節)「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家(そして世界中のイエス様を信じる人)と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す(神様の戒めを石の板にではなく、わたしたちの心に直接書きつける)。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる(これは神と人との間に契約を締結することを意味する)。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」この約束を実現するために父なる神様はイエス様を地上に送られ、イエス様は十字架の苦難を味わわれ三日目に復活されたのです。神様は約束を100%必ず守る方です。

 ルカによる福音書に戻ります。(21~22節)「『しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子(イエス様ご自身)は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。』」イスカリオテのユダのために嘆いて言われたのです。十字架の死はイエス様がこの世に誕生される前から決まっていたことです。それはユダの裏切りが大きなきっかけになって実現してゆきます。ユダは、神の子を売り渡すという非常に大きな罪を犯してしまいます。それはユダにとって大きな不幸です。「その者は不幸だ」の不幸という言葉は、もとの言葉で「ウーアイ」です。これはイエス様の呻き声です。「ああ!」と訳すこともできます。「ああ、ユダよ、何という大きな罪をあなたは犯してしまうのか。あなたは非常に不幸だ。」イエス様の深い嘆きなのです。

 この最後の晩餐は、教会の聖餐式につながっています。私たちはイエス様を救い主と信じ告白して洗礼を受けることで、神様との新しい契約に入れられます。この新しい契約に入れられた者が、イエス・キリストの尊い御体と御血潮を受ける聖餐に与ります。聖餐式は新しい契約の食事です。ですから本日の説教題を「新しい契約の食事」と致しました。聖餐式と深くかかわる御言葉で、わたしがいつも驚きをもって読むのはヨハネによる福音書6章53~58節です。最後のそこを共に読み、聖餐がどのように大きな驚くべき恵みの食事であるかを味わいましょう。

 「イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命(永遠の命)はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これ(イエス様)は天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなもの(マナ)とは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』」

 イスラエルの民は神様からマナを受けましたが、わたしたちはマナよりはるかに大きな恵み・聖なる神の子の御体なるパンと御血潮であるぶどう汁をいただいています。イスラエルの民より大きな恵みを受けているのです。それだけ神様からの期待を受けており、責任も大きいことを自覚したいのです。神様の御言葉を宣べ伝える使命に一層励んで参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。