日本キリスト教団 東久留米教会

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2014-12-02 0:39:16(火)
「憐れみ深い神様」 2014年11月30日(日) 待降節(アドヴェント)第1主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記21章37~22章30節、ヤコブの手紙5章1~6節
「彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」
                    (出エジプト記22章26節)。

 最初の小見出しには、「盗みと財産の保管」とあります。「モーセの十戒」の第八の戒めに「盗んではならない」とありますから、盗みはもちろん罪です。もし盗みをしたのであれば当然、罪を悔い改めて償いをしなければなりません。(37節)「人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。」これが償いの規定です。牛や羊はとても大切な財産です。特に牛は農作業のためによく働く家畜です。それが盗まれることは、一家の暮らしが不可能になることでした。屠られてしまえば(殺されてしまえば)、もうその牛は働いてくれません。新しい牛を手に入れたとしても、前の牛と同じように働くように調教するには、かなりの時間と労力がかかります。売られてしまった場合も取り返すことは困難ですから、大きな損害です。ですから牛一頭の代償は牛五頭だったのでしょう。羊一匹の代償は羊四匹です。盗みは、残念ながら時々あったのかもしれません。

 ルカによる福音書19章にザアカイという男が登場しますが、仲間から税金を規定よりも多く取り立てて、私腹を肥やしていました。盗みです。ザアカイはイエス様の愛を受けて、すっかり心が溶けてしまいました。ザアカイは立ち上がってイエス様に言います。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」ザアカイは出エジプト記の規定を知っていたのかもしれません。「羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。」その通り、「四倍にして返します」とイエス様に宣言しました。

 22章の最初「彼は必ず償わなければならない。もし、彼が何も持っていない場合には、その盗みの代償として身売りせねばならない。」盗みの代償として奴隷に身を落とすことも覚悟しなければならないのでした。(3節)「もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わねばならない。」生きたまま見つかれば(ひどく傷つけられていないのであれば)、また家畜として用いることができますから、比較的損害が少ないので、二倍にして償うだけで済んだのでしょう。 次は1節になっています。ここはヘブライ語本文の確定が難しい箇所なのかもしれません。あまり気にしないで1節を読みます。「もし、盗人が壁に穴をあけて入るところを見つけられ、打たれて死んだ場合、殺した人に血を流した罪はない。」これは夜、盗人が家に穴を開けて侵入しようとする場合です。それに気づいた家人が恐怖を感じ、相手は人殺しかもしれないと思って必死に戦って盗人が死んだ場合、夜であれば殺人の罪に問われないという掟です。現代ではこれは過剰防衛になるのではないでしょうか。(2節a)「しかし、太陽が昇っているならば、殺した人に血を流した責任がある。」昼であれば単なる盗人で、殺人目的ではないと分かるはずなので、盗人を殺せば殺人罪です。

 (6節)「人が銀あるいは物品の保管を隣人に託し、それが隣人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかれば、盗人は二倍にして償わねばならない。もし、盗人が見つからない場合は、その家の主人が神の御もとに進み出て、自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかったことを誓わねばならない。」どうしてもその家の主人に疑いの目が向けられるので、主人は自分が盗んだのではないことを神様の前に誓うことが求められました。神の前で嘘はつかないのが前提ですから(もちろん人の前でも嘘をついてはなりませんが)、その誓いは信用されたのでしょう。(9節)「人が隣人にろば、牛、羊、その他の家畜を預けたならば、それが死ぬか、傷つくか、奪われるかして、しかもそれを見た者がいない場合、自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかったと、両者の間で主に誓いがなされねばならない。そして、所有者はこれを受け入れ、預かった人は償う必要はない。」

 「預ける・預かる」はトラブルのもとです。預けたものが無くなった場合は厄介です。今は気楽に預けたり、預かったりすることはできない世の中です。預けたものがなくなった場合、預けた側は預かった側の責任を問います。裁判になることもあります。預かった側は、「好意で預かったのになぜ文句を言われるのか。ならば最初から預けなければよいではないか」と考えます。気楽に預けたり、預かったりすることはできませんね。人が隣人に家畜を預けた場合、それが死ぬか、傷つくか、奪われるかして、しかもそれを見た者がいない場合、預かった人は相手と神様の前で厳粛に誓うことが求められています。「私は決して犯人ではない」と。神様の前で嘘をつくことはあり得ないという前提と信用によって、償いが免除されます。しかし11節には厳しいことが書かれています。「ただし、彼のところから確かに盗まれた場合は、所有者に償わねばならない。」確実に盗まれたことが分かる場合は、預かった人が責任をもって償う義務があると明記されています。 (12節)「もし、野獣にかみ殺された場合は、証拠を持って行く。かみ殺されたものに対しては、償う必要はない。」自然災害にも似た不可抗力と見なされ、人の責任は問われません。

 次の小見出しは、「処女の誘惑」です。この時代は今と違って、未婚の女性は父親の所有物と考えられていました。もちろん今はそうではありません。15節に、とんでもないケースのことが書かれています。「人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金を払って、自分の妻としなければならない。」もちろん結婚していない男女の性的関係はすべて罪です。ヘブライ人への手紙13章4節の御言葉が思い出されます。「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。」過ちを犯してしまったならば、必ず結納金を払って自分の妻としなければならない、とありますが、お金で解決すればよいとも感じられ、現代の私たちはかなり抵抗を覚えます。このような罪を犯さなければよいのです。

 次の小見出しは、「死に値する罪」です。(17節)「女呪術師を生かしておいてはならない。」男呪術師でも同じでしょう。呪術師、まじない師、口寄せ、霊媒。これらの人々は悪魔・悪霊と交わっていると考えられます。日本にも青森県の恐山のイタコ、沖縄のユタのような存在があるそうです。この人々は、神様の清い霊ではなく、汚れた悪霊と交わっていると思われますから、クリスチャンはこれらと関わりをもちません。(18節)「すべて獣と寝る者は必ず死刑に処せられる。」とんでもない話ですが、古代の中近東にはこのようなことがあったようです。(19節)「主ひとりのほか、神々に犠牲をささげる者は断ち滅ぼされる。」偶像崇拝をしてはならないということです。偶像崇拝は、私たちを愛して下さる真の神様のお心を傷つける行為です。

 次の小見出しは、「人道的律法」です。世の中の弱い立場の人々を守ることを求める御言葉です。(20節)「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。」外国人に親切にしなさいということです。アメリカで18才の黒人の少年(青年)が白人の警察官に射殺された事件で、警察官が起訴されなかったので、抗議のデモや焼き打ちが起こりました。起訴されなかったことがアメリカの法律に照らして合法なのか違法なのか、私にはよく分かりませんが、アメリカの多くの地域で抗議デモが発生し、黒人だけでなく白人も抗議しているそうです。黒人差別がまだ完全にはなくなっていないのだと思わされます。白人にも抗議する人々がいることが救いです。私たち日本人が寄留の外国人を十分愛しているかどうかも考える必要があります。公立高校授業料無償化から朝鮮学校を外すことは、よくないと考えます。

 (21~23節)「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子どもらは孤児となる。」神様は寡婦や孤児の味方なので、寡婦や孤児が不当に苦しめられて叫ぶならば、神様はその叫びを聴き、苦しみをもたらした責任者に審判を下すと宣言しておられます。神様は、貧しい人や寡婦、孤児を特に愛しておられるのです。それを苦しめる者は裁かれます。そのような神様の深い憐れみの心、愛の心が24~26節に書かれています。「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸貸しのようになってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」 イスラエルで昼が暑いときでも夜はかなり冷え込むことがあるそうです。神様は、貧しい人が風邪をひかないように配慮しておられます。「わたしは憐れみ深いからである。」今日の説教題、「憐れみ深い神様」はここからとりました。

 不正義と悪によって命を奪われた人がいるならば、神様が、正しい裁きが行われることを求める被害者たちの叫び声を聴いて、悪に対して正しい裁きを下されます。旧約聖書の列王記上21章に、「ナボトのぶどう畑」という事件が出ています。約2ヶ月前9月28日(日)に、十戒の第九の戒め「隣人に関して偽証してはならない」を学んだときに、読みました。全く無実で、神様に対して忠実なナボトという男性が、イスラエルの王アハブの妻イゼベル(悪女として有名)の陰謀によって濡れ衣を着せられ、石打ちの刑で殺されてしまうひどい事件です。神様が預言者エリヤを遣わして、アハブ王と妻イゼベルに審判の預言を語られます。「犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなた(アハブ王)の血を犬の群れがなめることになる。」「イゼベルはイズレエルの塁壁の中で犬の群れの餌食になる。」この預言はまさに的中しました。アハブ王はアラム軍と戦って負傷し、戦死してサマリアに葬られます。「サマリアの池で戦車を洗うと、主が告げられた言葉のとおり、犬の群れが彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った」と書かれています。

 イゼベルという女性は本当に悪女で、ナボトを陰謀によって殺したほかにも、神様の複数の預言者を殺し、預言者エリヤの命をも狙います。幸いエリヤは殺されませんでした。神様がイエフという男を選んでイスラエルの王としてお立てになり、イエフは王家に対して謀反を起こします。これは神様の導きでした。イエフが城に入ると、イエフの命令によってイゼベルは窓から突き落とされます。こうして悪行を重ねたイゼベルは、神様の正義によって裁かれ、悲業の死を遂げたのです。イエフが述べます。「これは主の言葉のとおりだ。主はその僕ティシュベ人エリヤによってこう言われた。『イゼベルの肉は、イズレエルの所有地で犬に食われ、イゼベルの遺体はイズレエルの所有地で畑の面にまかれた肥やしのようになり、これがイゼベルだとはだれも言えなくなる。』」 こうして神様は、正しい人ナボトが不当に殺された悪事をそのまま放置されず、ナボトを憐れまれ、ナボトの叫びを聞き、アハブ王とイゼベルに正義の審判をお下しになったのです。この世界では昔から多くの悪が行われて参りました。被害者が泣き寝入りしたケースも多いはずです。それらに対する正しい裁きは、世の終わりの最後の審判の時に必ず行われます。ですから私どもは聖なる神様を畏れて、悪を行わないで生きてゆきたいのです。

 本日の新約聖書は、ヤコブの手紙5章1~6節です。小見出しは、「富んでいる人たちに対して」です。ヤコブの手紙はお金持ちに対して厳しいのです。「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」賃金を支払わない悪い経営者への審判の言葉です。賃金についてレビ記19章13節には、「あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない」と書かれています。申命記24章15節には、「賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。」神様は、貧しい暮らしをする労働者の味方です。

 改めて出エジプト記22章21~23節。「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたし(神様)に向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。」神様は寡婦、孤児の味方でもあります。

 主に明治時代に多くの孤児を助けた人に石井十次という人がいます。1865年に今の宮崎県に誕生し、1914年に48才で天に召されています。最初は医者になることを志し、1882年(明治15年)に岡山県医学校に入学します。2年後にプロテスタントの岡山基督教会で洗礼を受け、クリスチャンになりました。当時の岡山ではキリスト教会の伝道が盛んだったそうです。1887年、22才の時に貧しい女性の子ども(男の子)を初めて預かります。そしてお寺を借りて「孤児教育界」を設立し、それが後に岡山孤児院と改名されて有名になったそうです。国は富国強兵に必死で、福祉をほとんど行っていなかった時代です。24才の時には6年間学んだ医学書を焼き、孤児を助ける使命に生きることを決心します。引き受ける孤児がどんどん増えてゆきます。

 1891年に愛知・岐阜県に濃尾大地震が発生し7200人が亡くなり、孤児が多く発生すると引き取ります。大変なことですね。後に日本の救世軍のリーダーとなる山室軍平とも交流を持ちます。一番の課題は運営資金です。多くを寄付金によってまかなうしかありません。孤児の中には病弱な子、知的障碍の子もいました。コレラ、赤痢で死ぬ子も出ました。孤児院音楽隊を作ったりもします。1905年に東北地方が大凶作に見舞われると東北の子ども多く受け入れたり、日露戦争で戦死した人の子どもを引き受けたり、約30年間で延べ3000人の子どもを救ったそうですから、大変な働きです。こんなクリスチャンがいたのだと感嘆します。懸命に働き過ぎたせいか、48才で天に召されています。運営資金の確保に生涯悩まされます。日本の福祉の先駆者の一人です。神様が貧しい時代の日本の孤児のために、起こして下さった働き人・リーダーです。もちろん多くの人の協力によって支えられました。今から見ると、運営法には問題も感じます。ですが日本で前例のないことに着手したのですから、やむをえないと言うしかないでしょう。

 本人が腸チフスにかかって闘っていたときに、幻を見たそうです。霊の夢かもしれません。「キリストが大きなかごを背に現れた。かごは数百人の児童でいっぱいだった。なのに後ろに二十人ほどの大人がいて、外に残っている二百、三百人の子どもを次々とかごに押し込んだ。全部入れてしまうと、キリストは『もう済んだのか』という態度で立ち上がり、十次もかごを手に掛け手伝って運んだ……。幻が消えたあと十次はこう受け取った。『自分は大勢の子が次々と来てどうなるかと心配しているけれど、「孤児院を背負っているのはお前ではなくキリストだ。お前は孤児院が狭くてもう子どもを入れることはできないと思っているが、今見たとおりいくらでも入る。お前は心配せずにありたけの力を出してかごの底に手を掛けて手伝いさえすればよい」とキリストは黙示をもって教訓を垂れたもうた』のだと」(横田賢一『岡山孤児院物語―石井十次の足跡』山陽新聞社、2012年、82ページ)。神様は日本でも石井十次さんや協力者を通して、孤児の味方として働いて下さったのです。

 神様はもちろん今も、憐れみ深み方でいらっしゃいます。この神様の御心に即して、私どもも祈り・礼拝・伝道・奉仕に生きて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-11-27 17:59:14(木)
「クリスマスは憎しみを捨てるとき」11月の聖書メッセージ 牧師・石田真一郎
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章44節)

 最近、1980年代にアメリカのフィラデルフィアに行かれたT牧師の経験を伺いました。その地のプロテスタント教会の長老さんと親しくなり話を聴くと、太平洋戦争中に、その長老さんとT牧師のお父様が、何と同じ島の戦いに参加していたことが分かったのです。戦場で直接顔を合わせたのではないでしょうが、長老さんには日本軍のために戦死した仲間もいたそうです。一瞬、座が凍りついたそうですが、その長老さんは言われたのです。「よかった。あなたのお父さんは生きていたから、あなたが生まれたんだね。今は私たちはキリストによって兄弟だ。」

 イエス・キリストは、私たちすべての人間のすべての罪を背負って、十字架で死なれ、三日目に復活されました。心の中で人を憎むことも罪です。残念ながら私たちは皆、心の中に罪をもっています。あの長老さんは、ご自分の罪がイエス様の十字架によって赦されたことを知っておられ、戦争で敵だった日本兵の息子のT牧師の罪もイエス様の十字架によって赦されたことを知っておられました。イエス様の十字架の愛に感謝して憎しみを乗り越え、「今は私たちはキリストによって兄弟だ」とおっしゃることができたのです。心に残る話です。赦しの心はクリスマスの心です。

 先日、在日韓国人のキリスト教会の牧師のお話を伺いました。ご自分たちが、今の日本ヘイトスピーチにとても苦しんでいることを訴えられ、日本人のクリスチャンにも、ヘイトスピーチがなくなるように共に祈り、協力してほしいと述べられ、私は心が痛みました。ヘイトスピーチはイエス様の愛の心と正反対です。ヘイトスピーチをなくし、在日韓国・朝鮮の方々を愛し、周りのすべての国の人々愛する日本となって、平和なクリスマスを迎えたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-11-26 2:41:27(水)
「左の頬をも向けなさい」 2014年11月23日(日) 降誕前第5主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記21章1~32節、マタイ福音書5章38~42節
「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」                        (マタイ福音書5章39節)

 神の民の基本的な生き方は十戒に記されていますが、それをより細かく具体的に記した律法・教えが出エジプト記20章22節から23章に書かれています。これらの律法を守ることで、イスラエル社会の正義と秩序が守られたのです。

 今日の最初の小見出しは、「奴隷について」です。古代社会には奴隷がおり、イスラエル社会にも奴隷がいました。イスラエルの民自身もエジプトで奴隷だったのです。私たちから見れば、奴隷制度そのものが100%悪ですので、イスラエル社会に奴隷制度があったこと自体に大きな抵抗を感じます。ですが現実にイスラエルに奴隷がいた以上、そこから話を始めざるを得ません。解説書によると、古代においてほかの国々の奴隷制度はもっと残酷であったそうです。イスラエルの奴隷は、それに比べれば思いやりをもって取り扱われるように律法が規定していたそうです。たとえばイスラエルの奴隷は安息日には働かなくてもよい決まりでした。十戒の安息日の規定に、「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も」と書かれている通りです。

 それでも奴隷がいたことにまだ抵抗を感じます。新約聖書の時代にも地中海沿岸地域に奴隷はいたようです。19世紀のアメリカには多くの黒人奴隷がいました。しかしリンカーン大統領が奴隷解放宣言を出しています。旧約聖書の時代はまだ完成への途上の時代です。神様はその後、長い時間をかけて世界から奴隷制度がなくなるように導いて来られました。私は、今は公に奴隷制度を維持している国はまずないと思っていましたが、最近イスラム国が奴隷制の復活を宣言したと聞きます。許されないことです。公の制度はなくても、奴隷のように酷使されたり人権を侵害されている人は世界に少なくないでしょう。そのような罪を減らしていくことが今の時代の課題です。今の日本にもブラック企業と言われて、若者を不当に酷使する企業があるようです。この改善も必要です。

 (21章1~2節)「以下は、あなたが彼らに示すべき法である。あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼らは六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる。」エジプトで奴隷の苦しみを長く味わったイスラエルの民は、奴隷の苦しみが十分分かっているのですから、仲間が貧しくなってやむを得ず自分の奴隷になった場合、決して苛酷に扱ってはならないのでした。そして七年目(安息年)には、無償で解放しなければならないのでした。六年間は長いですが、それでも一生奴隷でなく、七年目に解放されることがはっきりしていれば何とか希望をもつことができます。4節は厳しい規定です。「もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らねばならない。」 そして5~6節「もし、その奴隷が、『わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません』と明言する場合は、主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口もしくは入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通すならば、彼を生涯、奴隷とすることができる。」今であればこれも人権侵害です。この規定にあえて意味を読み取るとすれば、「愛」がポイントでしょう。「わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません。」愛は強制されてではなく、自由な意志によって相手に奉仕する生き方に至ります。この場合の奴隷は、自由に去ってよいのですが、主人と妻子を愛しているので、あえて主人の家にとどまって一生、喜んで主人に仕え、妻子のために働きたいと申し出るのです。

 これはイエス・キリストの生き方に通じるのではないでしょうか。フィリピの信徒への手紙は、イエス・キリストの生き方を次のように言い表します。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分の無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架に死に至るまで従順でした」(2:6~8)。「僕の身分になり」の「僕」は原文では「奴隷」という言葉です。イエス様は自ら進んで私たち罪人の奴隷になって、愛をこめて奉仕して下さったのです。それがご自分から進んで十字架につく生き方になりました。イエス様は12人の弟子たち(その中にはイエス様を売るユダも含まれています)の汚れた足を洗われましたが、人の足を洗うことは当時の奴隷の仕事でしたから、まさにイエス様は自ら進んで12人の弟子たち、そして私たちの奴隷として奉仕して下さったのです。そして、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15:13)とおっしゃり、私たちの罪をすべて背負って十字架で命をなげうって下さいました。

 イエス様は、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ福音書8:34)とおっしゃいました。私たちも罪と悪魔と死の奴隷であったのです。しかしイエス様が十字架の上で私たちのすべての罪を背負いきって下さったお陰で、私たちは罪と悪魔と死の奴隷状態から解放されたのです。解放された私たちは、今はイエス・キリストの奴隷なのです。イエス様が真心こめて私たちに仕えて下さったように、イエス様と隣人を、真心を込めて愛することが、キリストの奴隷である私たちの生き方です。そのように十分できていない自分を恥じるばかりですが、聖霊に助けられて少しでもそのように生きたいのです。イエス様は、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(原語・奴隷)になりなさい。人の子(イエス様ご自身)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ福音書10:43~45)とおっしゃり、私たちにイエス様の弟子(あるいは奴隷)としての生き方を教えて下さいました。イエス様の弟子・使徒パウロも、「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです」(エフェソの信徒への手紙6:6~7)と、私たちの生き方を教えてくれます。 

 出エジプト記21章に戻り、7~11節は女奴隷の扱い方を述べています。主人が女奴隷を身勝手に扱ってはいけないと教えているようです。これは古代としては比較的思いやりのある扱い方のようです。もちろん現代では奴隷制度そのものが許されないことは、言うまでもありません。

 12~17節は「死に値する罪」について教えています。故意の殺人は死刑になると定められています。故意ではなく偶発的な事故で人を死なせてしまった場合は区別され、死刑にはならないと書かれています。人を誘拐する者は必ず死刑に処せられると書かれています。モーセの十戒の第八の戒め「盗んではならない」を学んだとき第八の戒めが、金や物を盗むことだけでなく、人を盗むことを禁じているとする説があるとお話致しました。ですから「人を誘拐する者は必ず死刑」という規定は、第八の戒めと深く関わっているとも言えます。人を拉致することも、従軍慰安婦にするために連れて行くことも、死刑にあたる罪です。17節には、「自分の父あるいは母を呪う者は。必ず死刑に処せられる」とあります。十戒の第五の戒めは、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」です。この戒めと一致します。

 18節以下には、「身体の傷害」という小見出しがついており、他人に怪我をさせてしまった場合の償いに関する規定が書かれています。現代によく通じる部分です。現代ではもっと細かく規定されているでしょう。(18~19節)「人々が争って、一人が他の一人を石、もしくはこぶしで打った場合は、彼が死なないで、床に伏しても、もし、回復して、杖を頼りに外を歩き回ることができるようになるならば、彼を打った者は罰を免れる。ただし、仕事を休んだ分を補償し、完全に治療させねばならない。」きちんと償いをしなければなりません。(22節)「人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。仲裁者の裁定に従ってそれを支払わねばならない。」賠償金の定めです。

 23~24節には、有名な同害報復(同じ害を与える復讐・刑罰、ラテン語でタリオ)について書かれています。「もしその他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」私はこの教えを最初に聞いたのは、高校の世界史の授業の時であったと記憶しています。それ以来「何と野蛮な古代の法律だろう」と思っていました。ですが旧約聖書でよく読んでみると、これは復讐・報復の掟というよりも償いの掟であることが分かります。もし私がどなかの命を奪ってしまうことがあれば(悪意のない事故の場合はやや別かもしれませんが)、自分の命を捨てることによって償いを果たし、責任をとらなければならないのです。これによって正義が行われるのです。もし私が、どなたかの目を失明させてしまうようなことがあれば、私が自分の目を失明させることで償いを果たし、責任をとらなければならないのです。歯でも手でも足でも同じことです。加害者が同じ害を受けることで正義が行われるのです。分かりやすく合理的でフェアな掟と思うのです。

 反対に、私の目がどなたかによって失明し私が被害者になった場合、私は加害者の目を失明させるように求める権利を持ちます。同時に、相手にそれ以上の損害を与えることを禁じられます。同害報復にはこの面もあることが大事です。つまり同じ害を与える以上の反撃・復讐・報復を禁じています。過度の復讐を抑える役割をも持っています。暫く前に『半沢直樹』というテレビドラマが流行りました。私の家にはとても小さなテレビしかないので私は見ませんでしたが、主人公の決めゼリフは「倍返しだ」だったそうです。このドラマを見て鬱憤を晴らす人が多かったから流行ったのかなと思い、複雑な気持ちになります。「倍返し」は旧約聖書の同害報復の掟に反しますし、イエス様の教えにはもっと反します。

 そこで本日の新約聖書・マタイによる福音書5章38~42節に移ります。「復讐してはならない」が小見出しです。「(旧約聖書では認められている)同害報復を愛によって乗り越えなさい」、これがイエス様の新しい教えです。同害報復は正義の律法ですが、イエス様は正義よりもっと次元が高い愛(アガペー)に生きるように私たちを促されます。(38節)「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」(これは旧約聖書の同害報復)。イエス様はここにとどまらないで、もっと高い次元に進みなさいと言われます。(39節)「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」説教題を、この教会の敷地以外では一箇所、Kさんというお宅のブロック塀に(お礼を差し上げて)貼らせていただいていますが、近くでパンを売っているほかの教会の男性がいつもじっくり見て下さいます。先週その方とブロック塀の前でお話しましたが、その方が今週の説教題を見て、「まずは敵を作るなということですね」と感想を言って下さいました。確かにその通りです。

 「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」実行が難しい教えです。ですがクリスチャンですから、何とか実行したい教えです。誰か(右利きの人)が右手で私たちの右の頬を打つ場合、相手は右手の甲で打つことになります。手の甲で打たれるので、右の頬を打たれることは左の頬を打たれるより大きな屈辱になると聞いたことがあります。そのように大きな屈辱を受けてなお、ただ忍耐するのでなく、もちろん反撃するのでもなく、「左頬をも打って下さい」と差し出す。これはなかなかできないことです。これはまさに敵を積極的に愛しなさいということであり、驚くべき教えです。イエス様はこれを実行されました。十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と敵を赦す、執り成しの祈りをなさいました。

 旧約聖書のレビ記19章18節には、有名な隣人愛の教えが書かれています。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」これはイスラエル人に同じイスラエル人を愛することを求める御言葉で、外国人は含まれていないようです。しかしイエス様は、敵をも外国人をも隣人として愛しなさいと教えられます。イエス様は旧約聖書を乗り越えるお方です。イエス様の愛の霊(聖霊)を豊かに注がれた使徒パウロは、ローマの信徒への手紙12章20節で、旧約聖書の箴言を引用してこう書いています。お聴き下さい。「『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」 「敵に親切にしなさい」という教えです。「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」分かりにくい表現ですが、「そうすれば相手が良心に痛みを覚え、良心の呵責を感じ、恥じ入るようになる」ということです。攻撃した相手から反撃されず反対に親切にされれば、攻撃した人は「悪いことをしたな。恥ずかしいな」という反省の気持ちになる。そうなるように、敵に親切にしなさいというのです。暴力に対して暴力で対抗するな。悪に対して悪で対抗するな。善をもって悪に勝ちなさい、愛によって悪に勝ちなさい。これはイエス様のすばらしい教えです。私たちが、そして世界中の人々がこの教えを実行すれば、争いも戦争もたちどころになくなり、すばらしい世界になります。「敵を愛しなさい」、実行は難しいですが、イエス様の最高の教えです。

 私は半年ほど前に、中国の撫順戦犯管理所という所の存在を知りました。1950年にそこに969人の日本人戦犯(戦争犯罪人)が収監されたそうです。当時のソ連政府から中国政府に身柄が移された人々です。戦争中、中国人を殺したり苦しめたり様々な罪を犯した人々です。その中でも特に罪が重い70名を死刑にする案が出たことがあったそうです。ですが周恩来という総理が、「日本戦犯の処理については、一人の死刑もあってはならず、また一人の無期徒刑(無期懲役)者も出してはならない。有期徒刑(有期刑)もできるだけ少数にすべきである。起訴状は、基本罪状をはっきり書くべきで、罪行が確実でないと起訴できない。普通の罪の者は不起訴である。これは中央の決定である」と方針を指示したそうです(中国帰還者 連絡会訳編『覚醒 日本戦犯改造の記録 撫順戦犯管理所の六年』新風書房、1995年、21ページ)。次のような勧告もなされたそうです。「撫順戦犯管理所は、世界のいかなる国のそれとも異なったものでなければならない…たとえ戦犯といえども皆人間である。人間である以上人格を尊重しなければならないと」(同書、「『もうひとつの戦犯』は問いかける」、より)。この戦犯管理所で日本人戦犯の世話や教育に当たった中国人は、日本人によってひどい目に遭っていたので憎しみの心を持っていましたが、この方針を受け入れ、戦犯に非常に親切に尽くしたそうです。T氏というかなりの罪を犯した人が脳血栓で半身不随になると、専任の女性看護師がついて非常に親切な介護を4年間行ったそうです。T氏は1956年に仮釈放され、帰国できたそうです。

 ある日本人戦犯はこう書いているそうです。「我々は過去、殺人兵器を持って神聖な中国の領土に侵入し、公然と国際法と人道に違反し、勤勉で素朴な、平和を愛する中国人民を敵とし、逮捕・酷使・拷問・強姦し、殺しつくし、やきつくし、奪いつくす三光作戦を実施し、筆舌につくし難い罪行を犯した。~しかるに、中国人民が我々に与えてくれたものは何であったか? 毎年季節が変わるごとに真新しい服 を支給し、我々の口に合う日本食を与えてくれ、厳寒の冬には『むろ』に保管された新鮮なトマトや野菜、それにお菓子、果物、お茶、煙草に至るまで支給してくれた。~これほど厚い温情がどこにあろうか」(同書、185ページ)。多くの戦犯はこう言ったそうです。「政府の幹部が代用食のウオウオトウを食べ、我々戦犯には真っ白のパンを食べさせる―こんなことは未だかつてなかったことだし、いかなる国家もなしうることではない。これを思えば益々はっきりと、私は~自分の残酷な罪行を憎む。だが、中国政府が我々に対して与えてくれる人道主義の待遇と中国の工作員の我々に対する肉親のような心配りには、感動させられる」(同書、188ページ)。

 このような驚くべき親切を受けて、多くの戦犯は心から自分の罪を悔いるようになったそうです。「撫順の奇跡」と呼ばれる出来事だそうで、今はあまり知られていないと思うので、年若い世代に伝えるべきことだと感じます。日本と中国の平和のためにもです。特に罪が重い45名の戦犯については公開裁判が行われ、死刑の人はなく、8年から20年の判決が出たそうです。服役中に病死した一人を除き、ほかの44名全員が1964年3月までに満期もしくは減刑されて、帰国できた(同書、「編者のことば」より)というのですから、温情あふれる措置を受けたと言えるでしょう。それ以外の、罪が割合軽く、罪を悔いる気持ちがよく現れていた、おそらく千人近い戦犯は起訴を免除され、1956年頃に釈放され、帰国できたそうです。「目には目を」を乗り越えた出来事です。悪人に手向かうのでなく、むしろ愛によって悔い改めに導いた出来事です。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」を実行した出来事です。

 これより歌う讃美歌は471番「勝利を望み」です。これはアメリカの黒人差別に非暴力で抵抗したマーティン・ル―サー・キング牧師たちがよく歌った讃美歌だそうですね。黒人差別がなくなる日を神様が必ず与えて下さる日を信じ、希望をもって歩もうと励まし合って歌った讃美歌と聞きます。祈りと連帯の讃美歌ですね。今の日本でもヘイトスピーチがあるなど、差別がないとは言えない状況で苦しむ方もあり、この讃美歌を心から歌いたい方がおられると思います。もちろん人間の手で神の国を完成することはできません。イエス・キリストがもう一度おいでになる時に神の国が完成します。ですが、私たちはイエス様の十字架と復活の福音を宣べ伝えると共に、この地上も少しでも神様に喜んでいただける世界になるように、祈りながら、微力を尽くしたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-11-17 22:08:36(月)
「大小の生き物は数知れない」 2014年11月16日(日) 収穫感謝日・教会学校との合同礼拝(子ども祝福式)説教
朗読聖書:詩編104編19~30節
「海も大きく豊かで その中を動き回る大小の生き物は数知れない」(詩編104編25節)。

 立花隆氏(評論家)が書いた『宇宙からの帰還』(中公文庫、1985年)という本を読みました。立花隆さんはクリスチャンではないと思いますが、お母様が熱心なクリスチャンだったと読んだ記憶があります。アメリカがアポロ11号を月に送ったのは1969年です。私が3歳になる直前で、私はテレビで見た記憶はありません。宇宙に行った人々の多くは、人生観にいろいろな影響を受けたそうです。人類で初めて宇宙に行った旧ソ連のユーリ・ガガーリンという宇宙飛行士は、「地球は青かった」(同書、44ページ)という有名な言葉を語りました。今は私たちも地球が青いことを写真で見て知っています。ですが宇宙飛行士によると、写真ではその本当に美しさは分からないとも言います。写真で見ても地球はかなり美しいですから、宇宙から見ればもっと美しいのでしょう。ある宇宙飛行士は、「地球は宇宙のオアシスだ」(同書、44ページ)と言ったそうです。宇宙空間は人間が生きることができない死の空間です。どんな生き物も宇宙空間ではすぐに死ぬでしょう。宇宙空間にはどんな命もなく、地球だけに命はあるのです。ほかのどの天体でも命は見つかっていませんし、これからも見つからないと私は思います。地球だけに命があります。ジム・アーウィンという宇宙飛行士は「宇宙の暗黒の中の小さい青い宝石。それが地球だ。(宇宙にいると)神の恩寵なしには我々の存在そのものがありえないということが疑問の余地なくわかるのだ」と言っています(同書、134ページ)。地球の青さは、主に海があることによります。地球の表面の約70%が水(海)です。神様が愛を込めて、心を込めてお造りになった惑星が、私たちが住んでいる地球です。地球に代わりはありません。ですから私たちは地球の環境を壊さないように注意しながら生きなければなりません。

 このアーウィンさんは月に行って、神様の存在をとても身近に感じたと言っています。宇宙飛行士が皆そう感じたのではないようですが、アーウィンさんは月に行って、神様がすぐ近くにおられると実感したそうです。「神の姿を見たわけではない。神の声を聞いたわけではない。しかし、私のそばに生きた神がいるのが分かる」経験をしたそうです(同書、135ページ)。月でいろいろなトラブルがあったそうです。地球の基地に問い合わせていたのでは間に合わない。自分でとっさに決めなければならない。「どうすればいいのですかと神に問う。するとすぐに答えが返ってくる。誰か人間にたずねて答えてもらうのとはプロセスがちがう。全プロセスが一瞬なのだ。~直接的に神が導くのだ」(同書、136~137ページ)という体験をなさったそうです。そして地球に帰ると伝道者になったそうです。
 
 神様が宇宙を造り、地球を造られました。図鑑などによると、宇宙ができたのは今から約137億年前だそうです。地球ができたのは約46億年前だそうです。本当に何年前かは、神様に直接聞いてみないと分かりませんが、図鑑などにはそう書いてあります。神様は時間をもお造りになりました。ですから神様にとっては137億年も1秒も同じです。地球と宇宙がいつできたとしても、大切なことは神様がこれらをお造りになったということです。今日の礼拝の招きの言葉は、旧約聖書のヨブ記38章からとりました。7節と8節は、神様がこの世界をお造りになったときの様子を描く言葉です。「そのとき、夜明けの星(複数)はこぞって喜び祝い 神の子らは皆、喜びの声をあげた。」「神の子ら」は天使たちであるようです。「海は二つの扉を押し開いてほとばしり 母の胎から溢れ出た。」神様が海をお造りになって、その水がほとばしり出る様子が力強いですね。そして神様は31節と32節で、ヨブという人に(また私たちに)次のようにおっしゃって、ご自分の力の偉大さを教えて下さいます。「すばるの鎖を引き締め、オリオンの綱を緩めることがお前にできるか。時がくれば銀河を動かし、大熊と子熊を共に導き出すことができるか。」今、夜空を見上げるとオリオン座を見ることができます。神様は星・天体を、星座を動かし、コントロールしておられるのです。私たちにはそれはできません。神様は空の星を自由自在に操っておられます。もちろん普段は星は、神様の命令に従って法則に従って動きます。ですが神様は、法則と違う動き方をするよう星たちに命じることもできます。イエス様がお生まれになったとき、星が占星術の学者たちを導きましたが、あの星も父なる神様の命令によって特別な動き方をしたと思うのです。

 今日の中心の聖書は、詩編104編19節以下です。19節にこうあります。
「主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。」神様は太陽と月を造り、私たちに昼と夜を与え、春夏秋冬の4つの季節を与えて下さいました。私たち日本人は自然の恵みを感謝することをよく知っていますが、その自然を造ったのは神様であり、自然の恵みは実は神様の恵みです。皆様が持って来て下さってここの並べられている果物なども、皆、神様から御手によるプレゼントです。21節に「若獅子は餌食(えさ)を求めてほえ、神に食べ物を求める。」ライオンやほかの動物がえさを求めて吠えるとき、それは神様に向かって吠えているのです。神様が動物にえさを用意し、私たち人間にも食べ物を備えていて下さいます。

 (24~25節)「地は、お造りになったものに満ちている。同じように、海も大きく豊かで その中を動き回る大小の生き物は数知れない。」 ある資料によると、地球上の動物は100万種類いるそうです。その中身は、鳥類が9000種類、魚類が2万3000種類、哺乳類が5000種類、両生類が2000種類、爬虫類が5000種類、以上はすべて脊椎動物で計4万4000種類です。このほかにも(マイナー動物というといけないかもしれませんが)節足動物80万種類、軟体動物11万種類、原生動物3万種類、腔腸動物1万種類で、合わせて約100万種類です。 植物は30万種類あるそうです。動物と植物で合わせて130万種類ですが、ウイルス、細菌、菌類まで含めると地球上の生物は計500万種類以上になるそうです。まさに「大小の生き物は数知れない」のです。すぐそこの落合川にも多くの魚や鳥がいます。川の横の看板によると、魚はアブラハヤ、ギンブナ、オイカワ、シマドジョウ、ジュズカケハゼ、タカハヤ、ドジョウ、スミウキゴリ(ハゼの一種)、ホトケドジョウ(絶滅が危惧されているとのことです)、メダカ、ミツゴ、ヨシノボリ、アメリカザリガニがいるそうです。こんなに多くの種類がいるのかと思います。鳥は、アオサギ、オオヨシキリ、オナガカモ、カワセミ、カルガモ、カイツブリ、キセキレイ、コガモ、コイサギ、タシギ、ダイサギ、ハクセキレイ、ヒドリガモ、マガモがいるそうです。多くて覚えきれません。神様は全部覚えておられます。南沢湧水には夏はカブトムシ、クワガタムシ、スズメバチもいます。

 昔イスラエルにソロモンという王がおり、神様はソロモンに非常に豊かな知恵をお与えになりました。ソロモンが樹木について語れば、レバノン杉から石垣に生えるヒソプにまで及びました。ソロモンはまた、獣類、鳥類、爬虫類、魚類についても語りました。それほど多くの知恵を与えられていましたが、神様の知恵には遠く及ばなかったはずです。神様は大小数知れない生き物をお造りになり、そのすべてを完全に知っておられます。人間は宇宙のことについて熱心に調べていますが、まだまだ分からないことだらけです。神様は宇宙のすべてのことを完全に知っておられます。人の知恵は、神様の完璧な知恵のほんの一部です。ですから火山の噴火や地震の発生を完全に予知することもできません。

 (27節)「彼ら(生き物)はすべて、あなた(神様)に望みをおき、ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。」 生き物は皆、神様に依存して生きています。生き物は私たちと違って、くよくよ思い悩んだりしません。神様が食べ物を下さることに信頼しきって生きています。私たち人間の場合は、自分がなすべきことをなす努力は必要ですが、食べ物や必要なものは皆、神様の御手から来ることを信じます。(28節)「あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。」 この後で歌う「讃美歌21」の386番は収穫感謝日の讃美歌です。「くりかえし」の歌詞がとてもよいと思うのです。「良い物みな、神から来る。その深い愛をほめたたえよう。」神様の御手からのみ、すべての良い物が来るのです。

 ある人(キェルケゴール)の祈りに次のような祈りがあるそうです。
「天にいます父よ、わたしどもは、あなたの御手からすべてのものを受けるのです。~あなたはあわれみ深い御手を開きたもうて、生きとし生けるものを豊かな恵みで満たしたまいます。時として、あなたの御手が見えず、恵みが隠されたときは、わたしどもをさらに豊かな恵みをもって満たすために、あなたは御手を閉じたもうたのだと信じます」(大村勇説教集『輝く明けの明星』日本基督教団阿佐ヶ谷教会、1991年、29ページ)。 深い信仰の祈りだと感じます。すべての恵みはただ神様の御手からのみ来る。でも神様の愛が感じられない時があります。「それは神様が何らかの深いお考えによって、しばらく御手を閉じられたのである。それはさらに豊かな恵みによって、あるいは本当の意味での深い恵みによって私たちを満たすためだと信じます」、という祈りです。このように祈れないこともありますが、神様の支えの御手がいつもあることを信頼する祈りです。この神様の御手によって大小数知れない生き物が、今生かされていますし、私たち一人一人も生かされています。宇宙のオアシスである青い美しい地球も、神様の御手によって支えられています。アーウィン宇宙飛行士は言います。「この地球にだけ神の手が働き、我々が創造されて生きているのだということには、疑問の余地がない。~これほど見事な、美しい、完璧なものを神以外に作ることはできない。~科学は神の手がいかに働いているかを、少しずつ見つけ出していく過程なのだ」(同書、147ページ)。

 別のウォーリー・シラーという宇宙飛行士は、地球環境が悪化していることが宇宙から見えたと言っています。「宇宙から見る地球はほんとに美しい。~しかし同時に、それが汚されつつあるというのもほんとなのだ。~人間の肉眼でそれが分かるのだ。~特に私の場合は、(19)62年、65年、68年と、6年間に3回宇宙から地球の姿を見てきた。だから、その変化が分かる。特に大気汚染、水汚染の状況が分かる。ロスアンゼルスのスモッグ、デンバーのスモッグ、東京のスモッグなど、世界的に有名な大気汚染は肉眼で観察できた。それは実に悲しい眺めだ。地球全体が美しすぎるほど美しいだけに、そういうシミのような部分の存在を目にすると、ほんとに悲しくなる。~宇宙を飛ぶ前は、環境問題などにはまるきり関心がなかったが、地球に戻ってからは、NASAを引退したら環境問題に取り組もうと決心していた」(同書、253~254ページ)。

 このシラーさんは、宇宙から万里の長城が見えた、ベトナム上空では、戦場で射ち合っている戦火が見えたと言っています(同書、255ページ)。ベトナム戦争の頃のことです。「ベトナム上空でバチバチ光るものを見たとき、はじめは稲妻かと思った。~しかし稲妻の場合は、必ず雲の中で光る。ところがベトナム上空は快晴だったのだ。それで戦火だとわかった」(同書、255ページ)。「宇宙から見ると国境なんてどこにもない。国境なんてものは、人間が政治的理由だけで勝手に作り出しただけの、もともとは存在しないものなのだ」(同書、256ページ。もっとも、聖書には「(神は)彼ら(民族)の居住地の境界をお決めにな」った(使徒言行録17:26) という記述がありますが、シラーさんがおっしゃりたいことは分かります)。

 「宇宙からこの美しい地球を眺めていると、そこで地球人同士が相争い、相戦い合っているということが、なんとも悲しいことに思えてくるのだ。どんなに戦っても、お互い誰もこの地球の外に出ていくことはできない」(同書、256ページ)。 神様が毎日下さる食べ物などの恵みを感謝し、水の惑星である美しい地球を造って下さったことを感謝し、日本とアジアと世界が平和であるように祈ります。平和でないと、命が奪われたり、食べ物が行き渡らない世界、神様の御心を妨げる世界になってしまうのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-11-12 3:11:36(水)
「わたしと一緒に楽園にいる」 2014年11月9日(日) 降誕前第7主日礼拝説教
朗読聖書:詩編22編2~32節、ルカによる福音書23章26~43節
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」
                 (ルカによる福音書23章34節)。

 先ほど歌った「讃美歌21」の112番は、タイトルに「葬儀」とありますが、これはもちろん一応の分類であり、葬儀の時の讃美歌と決まっているわけではありません。「イエスよ みくににおいでになるときに、イエスよ わたしを思い出してください。」もちろん今日のルカによる福音書23章42節の、名も知られない犯罪人の言葉です。犯罪人ですから、かなり悪いことをしたのです。人を殺した可能性もあります。ですがこの人は人生の最後の最後で、自分の罪を悔い改めたのです。そして、自分の隣りで十字架につけられているイエス様が完全に無実であることを直感しました。そして、実にささやかな願いを口にしました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」「私を天国に入れて下さい」とは言わないのです。とても自分には天国に入る資格などないと感じていたのです。しかしイエス様は、この犯罪人が自分の罪を悔いていることを認めて下さいました。そして慰めに満ちた約束を語られました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

 「はっきり言っておく」は、元の言葉で「アーメン、わたしはあなたに言う」です。ご存じの通り、「アーメン」は「真実に、確かに」の意味です。「アーメン、わたしはあなたに言う」とは、「真実で確かなことをあなたに言う」ということです。イエス様はしばしばこの言い方をなさいますが、非常に重要なことをおっしゃる時の前置きです。イエス様は非常に大切な救いの言葉を犯罪人に語られたのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」 楽園はもちろん天国です。犯罪人はまさに人生の土壇場で自分の罪を悔い改め、イエス様に救いを約束され、十字架上で息絶えると同時に、天国に入れられたのです。

 (26節)「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」キレネとはアフリカの今のリビアです。エジプトの西側で地中海に面しています。シモンは名前からユダヤ人だと思われます。ユダヤ人はイエス様の時代のかなり前から、イスラエルだけでなく地中海沿岸各地に離散して広がって住んでいました。イエス様が十字架につけられたのは、ユダヤ人の非常に重要な祭り・過越祭の時でしたから、シモンも過越祭を祝うために遠くキレネからやって来ていたのでしょう。シモンは黒人だったのではないかという説もあります。イエス様が鞭打ちを受けてだいぶ弱っておられたので、シモンが代わりに十字架を背負わされたのです。

 (27節)「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」民衆はどのような気持ちでついて行ったのか、よく分かりません。イエス様に同情しているのか、イエス様を嘲っているのかよく分かりません。「嘆き悲しむ婦人たち」については、イエス様が28節で「エルサレムの娘たち」と呼びかけておられますから、ガリラヤからついて来た婦人たちではなく、エルサレムに住んでいる婦人たちでしょう。この婦人たちはイエス様のために嘆き悲しんでいましたが、心の底から嘆き悲しんでいたのか、よく分かりません。当時はいわゆる泣き女がいたそうで、この婦人たちもそれかもしれないという人もいます。(28~29節)「イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。『エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来る。』」

 イエス様の目には、約40年後の紀元70年のローマ軍によるエルサレム破壊の悲劇が、見えていました。イスラエルの民は、神様の聖なる国民です。しかしその神様の民が、実際には神様のご意志に従わない民になってしまいました。たとえば聖なる神殿は、祈りと礼拝よりも、人々が商売を行い利益をむさぼる騒々しいマーケットのように堕落していました。神の子イエス様が登場され、貧しい人を助け、病気の人を癒やす神の愛を実行していたのに、今、罪が全くない聖なる神の子を十字架につけて殺そうとしています。全く罪のない神の子と殺すことは、真に恐ろしい罪です。そのような罪を犯して、ただで済むはずがないのです。イスラエルの民・エルサレムの都は、神様の審判を受けざるを得ません。ローマ軍によってエルサレムは破壊され、神殿は焼かれ、多くの人々が殺されるのです。「今から十字架に架けられる私のことよりも、エルサレムの運命に思いを致して、悲しみなさい」と、イエス様は言われたのです。イエス様は十字架を目の前にしても、ご自分のことで頭がいっぱいだったのではなく、愛するイスラエルの民の運命をこそ、憂いて悲しんでおられたのです。

 (30~31節)「そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」ローマ軍の攻撃に遭う人々は、何とかしてそれから逃れようと、山に向かっては「我々の上に崩れ落ちて我々を隠してくれ」、丘に向かっても「我々の上に崩れて、我々を覆い隠してくれ」と叫ぶということではないかと思います。「生の木」は罪なき者(ここではイエス様)、「枯れた木」は罪多き者(ここではエルサレム)を指します。「罪なきイエス様が十字架につけられるとすれば、罪多きエルサレムには一体どのような苛酷な運命が毎受けているだろうか」と、イエス様は様々な罪を犯しながらも悔い改めないエルサレムの人々の行く末を思って、涙されたのです。

 これは私たちにとっても人ごとではないのです。新約聖書のペトロの手紙(一)4章17~18節には次のように書かれています。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。『正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか』と言われているとおりです。」 神様を信じて従わない人々の行く末も確かに心配です。しかし裁きはまず「神の家から」、今ならばまず教会から始まるのです。神様は教会を清めようとなさいます。教会が神様から懲らしめられることがあるとすれば、それは神様が教会を愛して、教会から罪を取り除こうとなさるからです。ご自分の教会に対する神様の期待は大きいと思います。神様は教会を愛されるからこそ、まず教会を裁いて清め給います。

 ルカによる福音書に戻ります。(32~33節)「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」「されこうべ」はヘブライ語(とアラム語)では「ゴルゴタ」です。ラテン語では「カルヴァリー」です。讃美歌の歌詞にありますね、「カルヴァリ山の十字架につき、イエス様は尊き血潮を流し。」「カルヴァリーチャペル」という名前の教会もあります。「犯罪人も、一人は右に一人は左に十字架につけた」という御言葉は、イエス様の十字架の死を予告するイザヤ書53章の実現と言えます。12節にこう預言されています。「彼が自らをなげうち、死んで、罪人(つみびと)のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」

 (34節)「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」このイエス様の有名な祈り「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」がかっこの中に入っているのが気になります。新共同訳聖書の凡例を見ると、このかっこの意味がこう説明されています。「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である個所を示す。」解説書によると、この祈りは新約聖書の多くの重要写本にないそうです。しかしこの祈りが書かれている写本もあるから、かっこつきながらもイエス様の御言葉として書かれているのでしょう。ですからもちろん私は、イエス様が十字架の上でこの祈りを祈られたと信じて疑いません。これは敵を赦し、敵のために父なる神様に執り成しをする祈り、敵を愛する祈りです。真に感動的な祈りです。イエス様は、「敵を愛しなさい」と言われますがそのお言葉の通り、ご自分を殺す人々を赦し愛する祈りをなさったのです。果たして自分にこの祈りができるだろうかと考え込んでしまいます。

 この祈りに感激して、あるいはこの祈りに衝撃を受けてクリスチャンになった方が日本に多いと聞いたことがあります。私が洗礼を受けた茨城県の教会の信徒で今は天国におられるHさんという男性も、そのお一人でした。ある日曜日の礼拝後に、私に語って下さいました。「私はイエス・キリストのこの祈りに感動してクリスチャンになった」と。確かにこの祈りにはそれだけの力があります。イエス様が十字架上でおっしゃった7つの言葉というのがあります。その3つまでがルカによる福音書に記されています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」の祈りは、十字架上の7つの言葉の一番最初かもしれません。ちなみに43節の「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」も十字架上の7つの言葉の1つです。今日の後ですが、46節の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」も、7つの言葉の1つです。

 私は最近、『死線を越えて 賀川豊彦物語』というDVDを見ました。1988年、賀川豊彦牧師生誕100周年記念映画です。「日本のガンジー」と呼ばれ、以前は有名であった賀川豊彦牧師のことを私はそれほどよく知りません。この映画があることは前から知っていました。私が茨城県の教会でお世話になったバートンルイス宣教師という方が、賀川豊彦に洗礼を授けたマヤス宣教師役で出演したからです。その時は映画館に見に行きませんでした。そのバートンルイス宣教師のお子さんたちは、東久留米にあるクリスチャンアカデミーを卒業しておられます。バートンルイス宣教師は日本での伝道の頑張りすぎで50才くらいのときに倒れ、アメリカに帰られ、残念ながら健康を十分回復されることなく昨年70才で天に召されました。そのバートンルイス宣教師がお元気だった時のお姿を見たいという気持ちもあり、もちろん賀川牧師のことを学びたい気持ちもあり、DVDを見たのです。

 じっくり見て感じたことは、映画のテーマの1つが反戦であることです。後半に、賀川豊彦牧師が逮捕される場面があります。太平洋戦争中の、おそらく東京の松沢教会の日曜礼拝で説教中に刑事が踏み込んで来て逮捕される場面があります。実際の逮捕は礼拝説教中ではなかったと聞きます。映画では国広富之さんという俳優が演じる賀川牧師が、イエス様の今日の祈りを引用して、次のように説教しています。「イエスは十字架の苦しみの極みにあって、『主よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです』と、お祈りになりました。これを思ったら、私たちはどんな辱めでも受けられるのではありませんか。非国民、国賊とののしられ、暴力を受けるようなことがあっても、断じてこの軍国主義の行き方に妥協してはなりません。敵をも十字架の愛のもとにおいて赦し、徹底して無抵抗主義を貫き通す。これが贖罪愛の実践であり、キリスト者の道なんです。」こう説教したところで刑事に連行されます。今では考えられないことですが、当時は戦争に反対することは国策に反対することで、許されないことだったのですね。

 「自分が何をしているのか知らないのです。」神様の願いは、私たちが神様を愛し、隣人を愛することですが、それを知らないと自分勝手なことを行い、「自分が何をしているか知らない」ままに罪の行動に出て、少しも恥じない結果になる恐れがあります。イエス様の弟子・使徒パウロは自分の罪を次のように告白しました。ローマの信徒への手紙7章です。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。~わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」 善を行う力が自分にはない。望まない 悪を行ってしまう。このように自分の罪を告白しています。このパウロの罪、そして私たちの罪を背負って、イエス様は十字架に架かって下さいました。ご自分を十字架につける人々の罪をも背負って、十字架で死んで下さったのです。

 「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」ほかの3つの福音書では、くじを引いたのはローマ兵だったと記しています。これは今日の旧約聖書・詩編22編の実現です。私はいつも詩編22編を読むとき驚きを覚えます。あまりにも正確にイエス様の十字架の場面を預言していることに驚きを覚えるのです。9節の、ののしりの言葉も、十字架上のイエス様をののしる人々の言葉そっくりです。(19節)「わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く。」これがまさにイエス様の十字架のときに現実となりました。イエス様が私たち皆の罪を背負って十字架で死なれることは、はるか昔からの神様のご計画だったのです。 

 さて、あの犯罪人は人生の最後の最後で罪を深く悔い改めました。そのことがイエス様の心を深く打ったのです。イエス様はこの人の悔い改めを喜んで下さいました。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカによる福音書15:7)の御言葉が思い出されます。そしてこの犯罪人によい点があるとすれば、「自分には天国に入れていただく資格が全くない」と深く自覚していることです。「自分には天国に入れていただく資格が全くない」という自分の罪の自覚こそ、あえて言えば天国に入れていただく資格です。

 ドストエフスキーというロシアの文豪に『罪と罰』という大長編があります。そこに病気の継母らのために自分を売ったソーニャという優しい娘が登場し、彼女の父親(酒飲みのどうしようもない父親)も登場します。この父親が居酒屋で「最後の審判」について次のような意味のことを語る場面があります。いろいろな人の審判が済んで、自分の番が来る。裁き主(イエス・キリスト)はおっしゃるだろう。「飲んだくれも、恥じ知らずも出て来なさい。」するとほかの人々が、「主よ、なぜこんな連中を救いに迎えるのですか」と問う。そこで裁き主が、「それはこれらの者が誰一人、自分にその資格があると考えていないからだ」と答える。ここにドストエフスキーの信仰が現れているのでしょう。自分の罪深さをよく知っていて、自分の罪に嫌気がさしているような人が、天国に一番近いのではないでしょうか。あの犯罪人はそのような心境になっていたのです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」というイエス様の山上の説教の言葉が思い出されます。

 その犯罪人にイエス様は、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との最高の約束を下さったのです。楽園という言葉で思い出すのは、1597年に豊臣秀吉の迫害によって長崎の西坂で殉教した26人の中で最年少の12才だったルドビコ茨木という少年です。彼は、「信仰を捨てれば命を助ける」と語る役人の言葉を、きっぱりと断って言いました。「そのような条件であるならば、生命を望みません。つかの間の命と永遠の命を交換するのは意味のないことです」(ルイス・フロイス著・結城了悟訳『日本二十六聖人殉教記』聖母の騎士社、2009年、181ページ)。 この少年は刑が行われる前に十字架の上で、「非常に喜び、一人の信者が彼に、『間もなくパライソ(天国)に行くでしょう』と激励したので、勇躍するかのように十字架に縛られている体を上方に動かすが、手を縛られていたのでせめても指先を動かしていた」(同書、208~209ページ)。この少年も、息絶えると同時に天国(楽園)に入れられたのです。

 この26人の中にパウロ三木という日本人修道士がおり、十字架の上でも説教していました。「私は~ただ我らが主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由でぬことを喜び、これは神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。今、この時を前にして貴方達を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。~キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を許すように教えている故、私は国王とこの私の死刑に関わったすべての人々を許す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する」(同書、209~210ページ)。「父よ、彼らをお赦しください」と十字架上で祈られたイエス様に似た心境に達していたと思うのです。

 私たちはこのルドビコ茨木少年やパウロ三木ほど立派ではないかもしれません。私たち一人一人は天国に入れていただく資格を持たない罪人です。ですがただイエス様の十字架の犠牲の死のお陰で天国に入れていただけます。このイエス様の十字架の愛に改めて感謝し、このイエス様にお従いする道を、ご一緒に進んで参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。