日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2014-03-19 21:18:27(水)
「一粒の麦・井深八重さん」 3月の聖書メッセージ 石田真一郎
 東久留米教会の会堂は、2011年に建て替えた新しい建物です。阪神淡路大震災クラスの地震でも倒壊しないように建ててあります。万一の大地震の際には、近隣の皆様に一時避難所として使っていただこうと考えております。ぜひ一度お入り下さい。
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「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」
(イエス・キリスト。新約聖書・ヨハネによる福音書12章24節)。

 今回は、井深八重さん(1897~1989)というクリスチャンをご紹介致します。八重さんのことは、遠藤周作氏が小説にし、『愛』という映画にもなり、17年ほど前に私も見ました。八重さんは同志社女学校で学び、英語教師として長崎に赴任しますが、当時非常な偏見にさらされていたハンセン氏病との診断を受けます。このことは八重さんに伏せられたまま、八重さんは富士山に近い御殿場の神山(こうやま)復生病院(ハンセン氏病専門のカトリックの病院)に入院します。

 そこで初めて病名を明かされ、泣きに泣きます。が、そこで出会った病院長でただ一人の医者・レゼー神父(フランス人)が患者さんたちに献身的に尽くしている姿に尊敬の念を抱きます。当時のこの病院は極貧状態で看護師はいなかったので、八重さんは院長の手伝いをしました。八重さんの病状が悪化しないので、東京の病院で再検査を受けると、何と誤診だったと判明します。神山復生病院を退院してよいのですが、八重さんの気持ちは変わり、自分の意志で「ここで働きたい」と申し出ます。東京の学校で看護師の免許を取り、27才で神山復生病院の看護師として働き始めます。看護、掃除、洗濯、食事作り、畑仕事、募金などあらゆる仕事を引き受け、戦中・戦後の病院の困難な時期を乗り切りました。独身で60年以上働き、「母にもまさる母」と慕われたそうです。亡くなる前には「神様の待っておられるよいところへ行きます。喜んで」と語られたそうです。1992年に『知ってるつもり』というテレビ番組で紹介され、大きな反響を呼んだそうです。
           
 神山復生病院の敷地内の八重さんのお墓には直筆で「一粒の麦」と刻まれているそうです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12章24節)。エゴに死んで、神様と隣人のために献げ尽くした見事な生涯と感服するほかありません。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-03-18 2:05:18(火)
「マナ 神様の恵み」 2014年3月16日(日) 受難節第2主日礼拝説教  
朗読聖書:出エジプト記16章1~36節、ヨハネによる福音書6章53~59節

「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。~ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。』」(出エジプト記16章4~5節)

 イスラエルの民は、意気揚々とエジプトから脱出したのです。しかし早速、試練に直面します。荒れ野には水や食物が乏しいのです。彼らはぶつぶつ不平を言います。私たちにも身に覚えのあることです。(2~3節)「荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。』」 しばらく前に葦の海での劇的な奇跡を体験したばかりです。感激は簡単に冷めてしまい、もう神様を信頼できなくなってしまったのです。神様に失礼な情けない姿です。せっかくエジプトから脱出できたのに、「エジプトで死んだほうがましだった」などと言うのです。もしエジプトでの奴隷生活に戻ったなら、「エジプトを脱出したときは本当によかった」と不平を言うでしょう。

 神様は忍耐強い方です。怒りもせずにおっしゃいます。(4~5節)「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。』」 エジプトに引き返すのではなく、神様を信頼して進めということです。神様は、毎日必要な分だけパンを与えると約束して下さいます。だから毎日必要な分だけ集めなさいとおっしゃいます。欲を出して次の日の分まで集めてはいけないのです。次の日の分は神様がちゃんと次の日に与えて下さいます。そのことに信頼しなさいというのです。但し、六日目は別です。六日目は金曜日、その次の土曜日は安息日です。安息日は神様への礼拝に集中する日、いかなる労働もしてはならない日です。食物を集めることもしてはならないのです。礼拝に全身全霊を集中するのです。では安息日は食事なしなのでしょうか。そうではありません。神様はちゃんと六日目の金曜日に二日分のパンを与えて下さるのです。ですから安息日にパンを探しに行かなくても大丈夫ですし、行ってはならないのです。神様が事前に配慮して下さいます。

 イスラエルの民も私たちも不平不満を言うのが得意です。私たちは「自分が言う不平は正当だ」と考えてしまうのです。本当に正当かどうかは神様が判断して下さいます。モーセとアロンは人々の不平に閉口して、言います。(6~8節)「モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。『夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。』モーセは更に言った。『主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。』」

 神様は忍耐強い方で、不平を聞いてもすぐにはお怒りになりません。神様は、夕暮れには肉を与え、朝にはパンを与えて満腹にすると約束されます。そして12節で、「あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」とおっしゃいます。神様が直接食べさせて下さいます。この恵みの事実によってイスラエルの民は、この神様こそ真の神様であり、自分たちの命を造り、食べ物を与えて下さる方であることを知り、この方のみを礼拝するように導かれるのです。私たちも同じです。あちらに誘惑され、こちらに惑わされるのではなく、この唯一の神様を礼拝することに集中します。

 神様は約束を果たされます。(13~15節)「夕方になると、うずら飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。『これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。』」 「これは一体何だろう」は原語で、「マーン・フー」です。直訳すると「何だ、これは」です。私たちがマナと呼ぶ食べ物の原語はマーンです。「マーン」が「何」、「フー」が「これ」です。「何」という意味の「マーン」がそのまま食物の名前になったのですね。「何だ、これは?」と人々が不思議に思いながらマナを拾い上げている情景が目に浮かびます。因みに「マーン」は新約聖書(ギリシア語で書かれている)では「マンナ」です。それはそれまで人々が見たことがなかった、薄くて壊れやすいもの、霜のようなものでした。これが神様からの恵みの食物です。

 神様はモーセを通して仰せになります。(16節)「『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり1オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」1オメルは約2.3リットルです。一人一日1オメルで十分なのです。ところが多く集める者も出るのです。あさましい姿ですが、これが欲望多き私たちの現実の姿かもしれないのです。ですが神様が公平になるように正されます。(17~18節)「イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。」現実の世の中には、持てる者と持てない者がいます。神様は、このような貧富の差がなくなって、世界中の皆で持てるものを分け合うことをお望みに違いないのです。経済的に富んでいる国と国民が飢えている地域がありますが、世界の食物を本当に公平に分配すれば足りると聞いたことがあります。今の貧富の差が大きくある世界の状態は非常に罪深いですね。神様が悲しんでおられることでしょう。クリスチャンではないようですが、相田みつをという方に、「奪い合えば足らぬ 分け合えば余る」という言葉があります。これは確かに1つの真理です。「奪い合えば足らぬ 分け合えば余る。」

 モーセは神様のご意志に従って人々に、その日に必要な分のみ集めよと言い、それを翌朝まで残しておいてはならないとも言いました。ですが何人かはそれに聴き従わず、一部を翌朝まで残しておきました。虫がついて臭くなったので、露見してしまいます。モーセが正義の怒りを表したので、人々はモーセに従い、朝ごとに必要な分だけを集めるようになります。神様は永遠に生きておられるので、明日も必ず養って下さる。この神様に信頼しなさいとうことです。しかし六日目になると、人々は二倍の量、一人当たり2オメルのパン(マナ)を集めたのです。代表者たちがこのことをモーセに報告すると、モーセは言います。(23節)「これは主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」

 安息日は礼拝に集中する日です。労働は禁止されており、マナを探しに行くことも許されていません。そこで神様は、前の日の金曜日に二日分のマナを与えて下さったのです。神様を信頼してよいのです。ところが神様を信頼できず、何人かが安息日にマナを集めに行ったのです。しかし何もありませんでした。神様はモーセを通してイスラエルの民をお叱りになります。(20節)「主はモーセに言われた。『あなたたちはいつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。よくわきまえなさい。主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。』」七日目は礼拝の日です。民はそのことをわきまえるようになり、七日目にマナを探す人もいなくなったようです。

 (30~31節)「民はこうして、七日目に休んだ。イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。」コエンドロという植物は、「セリ科で30~40センチの一年生草木」(木幡藤子・山我哲雄訳『出エジプト記 レビ記』岩波書店、2000年、76ページ)で、「実は甘く、菓子に入れる」(同)そうです。カトリック教会が聖餐式に用いるパンをホスチアと呼ぶそうです。ホスチアはやや煎餅のようでパリっとしているそうです。ホスチアは聖餐式用に作られ、もちろん第一にイエス・キリストの御体です。ホスチアは、酵母(イースト菌)を入れないで作るそうで、イスラエルの民が出エジプトした少し後に焼いた「酵母を入れないパン菓子」、「種入れぬパン」の意味をも持たせているそうです。自分たちもイスラエルの民の荒れ野での苦難を忘れないためでしょう。ホスチアは口に入れると割に早く溶けるらしいです。それはマナでもあると最近聞きました。マナは「薄くて壊れやすいもの」と書かれていますから、ホスチアはそれに似て早く溶けるのでしょう。ホスチアは、第一にイエス・キリストの御体であり、同時に出エジプト記の「酵母を入れないパン」の面とマナの面をも持っていることになります。信仰的に深い中身を持っています。

 神様は、マナをイスラエルの民に40年間も与え続けて下さいました。イスラエルの民が約束の地・カナンの地に入る直前まで与え続けて下さったのです。神様は私たちにも、日々の食物を与え、必要を豊かに満たして下さっています。本当に感謝です。マナはぜいたくな食物ではなく、質素な食物です。私たちの罪は、時として神様が与えて下さるマナだけで満足できなくなることです。私たちは貪欲になることがあるのです。

 先週の火曜日から木曜日まで、私は日本基督教団が主催した東日本大震災国際会議に参加させていただきました。多くの話を聴き、全てを消化することはできておらず、もう一度資料を読み返してみる必要があります。会議の内容は後で本になって出版される予定と聞きました。会議のテーマは「原子力安全神話に抗して―フクシマからの問いかけ」です。クリスチャンの間でも原発への意見は様々あるでしょうが、この会議はテーマから分かるように原発に批判的な内容に終始しました。二日目の朝の小礼拝の時間を韓国の女性が司会しました。創世記3章の「蛇の誘惑」の箇所を朗読されました。(6節)「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」なぜこの箇所を読まれたのかなと思いましたが、やはり原子力を利用することが、神様にたった1つ禁じられた木から実を取って食べたエバとアダムの姿と重なるからでしょう。エバが、蛇に象徴される悪魔の誘惑に負け、神様にたった1つ禁じられていた木から実を取って食べて欲望を満たしたことが、原発に依存する快適な生き方を選び取った私たちと同じだと思われたからでしょう。

 神様は気前の良い方で、創世記2章16節でアダムにこう言われたのです。「園(エデンの園)のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」エデンの園に木が何本あったか分かりませんが、仮に30本あったとすれば、神様は29本からは食べてよいとおっしゃったのです。ただし善悪の知識の木からだけは、「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と、はっきり言われました。食べてよい木がたくさんあるのに、それで満足できないところに私たち人間の罪があります。マナさえあれば十分生きて行くことができるのに、「マナばかりで何もない」とぶつぶつ不平を言ってしまうところに、私どもの罪があります。蛇は創世記3章5節でエバを誘惑して言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」この一言にエバは負けます。ここに「善悪を知るものとなる」とありますが、ある解釈によると「善」と「悪」の対象的な言葉2つを並べることで「全て」の意味となるそうです。すなわち「神のように善悪を知るものとなる」とは、「神のように全部を知るものとなる」、「神のように全知」さらには全能になる。エバとアダムはこの欲望を満たそうとして傲慢になり、神様の禁を犯し、エデンの園から追放されたのです。

 原発にも似た面が大いにあると言わざるを得ません。原子力は巨大なパワーですから、これを自由自在にコントロールできれば、人間は神に近い力を手に入れることになります。それは傲慢ですから、神様がお認めになるはずがありません。原子力を人間の都合のよいようにコントロールしようとする人間の試みは、神様からご覧になれば傲慢ですから、最後には必ず挫折すると思います。エデンの園から追放されたエバとアダムの過ちを繰り返し、愚かさを繰り返すことになります。今のうちに方向転換することが賢明です。罪を悔い改めるということは、生き方を方向転換すること、神様に従う生き方に方向転換することであると、聖書を読む私どもは知らされています。素直に方向転換することがベストです。

 イスラエルの民は、厳しい荒れ野を旅しています。そこで神様に多くの不平を言う罪を犯しています。今、キリスト教会はイエス様の十字架を強く思う受難節を過ごしています。受難節は日曜日を除く40日間です。日曜日はイエス様の復活を喜
ぶ日なので、受難節の40日間から除かれています(それでも、受難節第○主日という言い方をしますが)。なぜ受難節が40日間かと言うと、イエス様が40日間に渡って悪魔から誘惑を受けられた「荒れ野の誘惑」に合わせてあるからです。イエス様は40日間、夜も昼も断食なさいました。イエス様の立派なことは、その間一言も不平を言わなかったことです。それどころかイエス様は、お生まれになってから十字架の上で死なれるまで、どんなに辛いときも、一生にただの一度もぶつぶつ不平を言われなかったのです。イスラエルの民や私どもと対照的です。十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、それは問いかけであって不平ではありません。

 今日の出エジプト記は、神様が恵みのパン・マナを与えて下さった事実を述べています。パンは非常に大切です。そのことを十分ご存じの上で、イエス様は「荒れ野の誘惑」のときに悪魔に向かって明確に言われます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイによる福音書4章4節)。パンは大事ですが、食べるだけでよいなら動物と変わりません。お腹いっぱいになることよりもっと大切なことがある。それは神様の御言葉を学び、神様の御言葉に従うことです。パンもお金も大事、経済は大事。でももっと大事なものがあります。聖書に書かれた神様の尊い御言葉を学び、神様に従うことです。経済最優先は、イエス様の御心ではありません。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」神様の御言葉こそ、私たちの生き方を正しく導く心のパンです。ですから私は敢えて申し上げます。「人はパンだけで生きるものではない。神様の御言葉が語られる礼拝によって生きる」と。イスラエルの民も、安息日は礼拝最優先で、マナを探すことも許されませんでした。でも神様は、ちゃんと前の日に二日分のマナを与えて下さったのです。

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。」この御言葉を言い換えると、イエス様がマタイによる福音書6章33節以下でおっしゃった次の御言葉になります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(パンや必要なもの)はみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 すばらしい御言葉です。私たちの迷いを追い払ってくれます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 何よりもまず神様に従いなさい。何よりもまずイエス様に従いなさい。そうすれば後は神様が支えて下さる。

 最後に、ヨハネによる福音書6章53節以下を見ます。イエス様の驚くべき御言葉です。イエス様ご自身が命のパンなのです。イエス様ご自身が、イスラエルの民に与えられたマナ以上の、真のマナなのです。聖餐式のときにぜひ思い出したい御言葉です。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子(イエス様)の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなもの(マナ)とは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』」

 聖餐式でイエス様の御体であるパンと、イエス様の御血潮であるぶどう汁をいただく人は、真のマナ・命のパンを食べているのであり、永遠の命を受けているのです。大きな感謝です。ぜひ全ての方が洗礼をお受けになり、ご一緒にあのパンをにお食べになることを切に祈ります。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-03-10 22:22:18(月)
「死を越えて命を支える神」 2014年3月9日(日) 受難節第1主日礼拝説教
朗読聖書:申命記25章5~10節、ルカによる福音書20章27~40節

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(ルカによる福音書20章38節)

 イエス様が、日曜日にエルサレムに入られ、月曜日に神殿を清められ、火曜日にエルサレムの信仰の指導者たちと問答を重ねられました。本日の個所には「復活についての問答」という小見出しが付けられていますが、この問答も火曜日に行われました。イエス様にこの問答を仕掛けたのは、サドカイ派と呼ばれる人々です。

 (27節)「さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。」サドカイという言葉は、旧約聖書でソロモンに油を注いで王とした祭司ツァドクに由来するという説があります。イエス様の時代のサドカイ派は祭司階級、お金持ち階級でした。祭司階級ですから、神殿と強く結び付いていたそうです。その神殿は腐敗していたのですから、サドカイ派もそうだったのでしょう。権力者と結びつき、ローマ人とも仲良くしていました。この世でうまくいっていたので、考え方が非常に現世的・現実的・この世的であったそうです。それでも神様を信じていたのですが、旧約聖書の中のモーセ五書(旧約聖書の最初の5つの書物である創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)を非常に重視していました。サドカイ派は、ローマ軍がエルサレムを攻撃し、神殿を破壊した紀元70年に滅び去りました。そのためあまり資料が残っていないそうです。ここには、サドカイ派は、死者の復活があることを否定していたと書かれています。使徒言行録23章8節には、「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めている」と書かれています。このように、サドカイ派は現世的・物質主義的であり、この世のことにしか関心がありませんでした。

 最近、あるアメリカ人の宣教師と話す機会がありました。日本人、韓国人、アメリカ人、イスラム教の人にも伝道して来られた方です。仏教徒だと言う人に「仏典には何と書かれていますか」と聞くと「知らない」と言われた、イスラム教徒だというある人に「コーランには何と書いてありますか」と聞くと、「知らない。指導者に聞いてくれ」と言われた、と語られました(コーランを熱心に読んでいるイスラム教徒もおられるでしょうが)。現代の人の多くは、日本人も韓国人もアメリカ人も、イスラムの人も、現世的・物質主義的で、考え方が浅いとおっしゃいました。自分が何のために生まれて来たのか、何のために生きているのか、永遠の命とは何か、について考えない人が多い、とおっしゃいました。世界的な傾向であるようです。この世のことにしか関心がない人が多いように思われます。とすると、サドカイ派に似ているのではないでしょうか。

 私は一昨日、東京神学大学の卒業式に出席して参りました。学長先生より、各地の教会の派遣されてゆく卒業生へのメッセージがありました。今の日本では伝道者に石が投げつけられるような迫害はほとんどないが、(教会内は別として)多くの人々は神の言葉に無関心だ。語っても聴いてもらえないことを覚悟して行かねばならない、という意味のことをおっしゃいました。残念ながら、確かに多くの日本人は神の言葉に無関心です。

 さて、サドカイ派の人々が、イエス様をやりこめようとして難問を作り出しました。イエス様は、死者の復活はあるとお考えになっています。サドカイ派はそれを知っていて、死者の復活はないという考えでイエス様を打ち破りたいと考えているのです。イエス様に明らかに悪意を抱いています。彼らはモーセ五書を重視していたので、その中の申命記を引用して言います。28節「『先生、モーセはわたしたちのために書いています。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と。』」

 これはレビラート婚と呼ばれる旧約の時代の習慣です。申命記25章5節以下を御覧下さい。小見出しは「家名の存続」ですから、旧約の時代は「家を残す」ことが非常に重視されていて、そのための結婚という意味合いが強かったことが分かります。以前の日本と似ています。(5~6節)「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから絶えないようにしなければならない。」サドカイ派はこの御言葉を引用した上で、復活がないことを証明しようとして、現実にはあり得なさそうな事例を提出します。但 し旧約聖書の続編(続編は聖書ではありませんが、旧約時代と新約時代の間の歴史を知るために有益です)の『トビト記』3章には、サラという悲運の女性が登場します。サラは七人の男性に嫁ぎましたが、夫婦の関係を持つ前にその都度、悪魔アスモダイが男性を殺してしまったのです。そして自分の女奴隷から「あなたが、御主人たちを殺したのです。あなたは七人の男に嫁ぎながら、どの方の名も名乗らなかったではありませんか」という屈辱的な言葉を投げつけられたのです。サドカイ派がこの話を知っていた可能性は高いと思います。

 (29~33節)「『ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。』」(ファリサイ派のある指導者は、「このような場合は、その女性は長男の妻である」と答えたそうです。)サドカイ派の主張は、「もし死者の復活があるならば、復活の時この女性と七人の夫たちは非常に困るではないか。だから復活ということはあり得ない」、というものです。

 イエス様は、サドカイ派の人々が復活について根本的に思い違いをしていることを指摘なさいます。それはサドカイ派が、復活の後も結婚関係が継続すると考えていること、つまり今の命と復活の命を同じ次元で考えていることです。「そうではない」とイエス様はおっしゃいます。イエス様は、死を越えた永遠の命があること、死者の復活があることをご存じです。それはこの世の命とは次元の違う新しい命です。Aさんという人が復活の命に入る時、AさんはAさんの個性を維持していますが、同時に次元の違う新しい命に入るのです。イエス様は言われます。(34~35節)「『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。』」

 イエス様は「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」と言っておられますから、「ふさわしい人」と「ふさわしくない人」がいるとも読み取れます。しかし聖書には多様な言葉があり、どの人も一度は必ず復活すると読み取れる箇所もあります。ヨハネによる福音書5章28~29節でイエス様は、「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」と言っておられます。イエス様がおっしゃる「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」は、「善を行って、命を受けるために復活して墓から出て来る者」と同じではないでしょうか。その人々は「めとることも嫁ぐこともない」のです。結婚関係はこの地上限りのものです。天国では結婚は必要なくなるのです。天国に入った人はもはや死ぬことがありませんし、子孫を残す必要もありません。 

 (36節)「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」イエス様は「天使に等しい者」とおっしゃることで、天使の実在を認めておられます。サドカイ派は「天使はいない」と主張していたので、イエス様はその主張をも論破なさったことになります。イエス様は地上のことも、天国のことも、永遠の命のことも全てご存じです。私たちはそうではないので、イエス様から学ぶことが必要です。「天使に等しい者」とは、「もはや死なない者」ということです。新しい次元に生きている者です。その人たちは、神の子なのです。私たちは、この地上で神の子とされることができます。私たちの罪をすべて背負って十字架で死なれ、死者の中から最初に復活されたイエス様を救い主と信じ告白して洗礼を受ければ、私たちは神の子とされます。

 イエス様は37節で、死者の復活があることを証明する御言葉が、サドカイ派が重視するモーセ五書の、出エジプト記3章に存在すると指摘されます。「死者が復活することは、モーセも『柴の個所』で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。」そして38節で宣言されます。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」。 「柴の個所」とは、出エジプト記3章で、神様がモーセにご自身を示される場面です。生まれた土地エジプトから一旦逃げ出したモーセは羊飼いをしていましたが、ある時、神の山ホレブに来ます。その時、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れます。モーセが見ると、柴は火に燃えているのに、柴が燃え尽きません。常識ではあり得ない不可思議な現象です。モーセは「どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」と思い、この光景を見に近づきます。すると神様が柴の間から声をかけられるのです。「モーセよ、モーセよ。」モーセが「はい」と答えると、神が言われます。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」さらに神様は言われます。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

 この時、創世記の登場人物であるアブラハム・イサク・ヤコブはとうの昔に死んでいます。この箇所を普通に読めば、神様はモーセに「わたしはあなたの先祖アブラハム・イサク・ヤコブを守り導いた神である」と宣言されたと受け取ることができます。しかしイエス様は、私たちに見えない神様の真理を知っておられます。イエス様は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神様の御言葉が、死者の復活を証明していると断言されます。すなわちこの御言葉の意味が「わたしは今も生きているアブラハムの神、今も生きているイサクの神、今も生きているヤコブの神」という意味だとおっしゃるのです。驚くべきことです。既に死んだアブラハム・イサク・ヤコブは地上にいませんが、神様のご支配の中の(私たちには見えないどこかに)モーセの時代にも存在していたのです。ということは今も(私たちに見えないだけで)、神様のご支配の中のどこかに生きているのです。神の子であるイエス様には、それがはっきりと見えているのです。

 イエス様は断言されます。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」 「神は生きている者の神」、つまり生きているアブラハム・イサク・ヤコブの神なのです。神様は、私たちが死んでもなお、私たちを支えて下さる神様なのです。「すべての人は、神によって生きている」!! 今生きている人も、既に亡くなった方も、すべての人は今「神によって生きている、神によって生かされている」のです。既に亡くなった方も、私たちの目に見えないだけで、神様の目にはそのお一人お一人の存在が見えているのです。これは驚くべき真理の開示です。聖書を読まなければ分からないことです。こうしてイエス様は、死者の復活があることを論証なさり、サドカイ派を論破されました。39節には、イエス様の見事なお答えを聞いてある律法学者が感銘を受けたことが記されています。「そこで、律法学者の中には、『先生、立派なお答えです』と言う者もいた。」律法学者の多くはファリサイ派に属しており、ファリサイ派は復活があると信じていたので、この律法学者もイエス様のお答えを受け入れたのでしょう。(40節)「彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。」 この火曜日に、イエス様が3つの問いに目の覚めるような答えをなさったので、もはや誰もイエス様に議論を仕掛けようとしなくなりました。

 詩編139編7~8節に次の御言葉があります。
「どこに行けば/ あなた(神様)の霊から離れることができよう。
 どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 
 陰府(死者の国)に身を横たえようとも
 見よ、あなたはそこにいます。」
神様はすべての所で共におられ、この世だけでなく陰府(死者の国)にもおられるのです。亡くなった方々は皆、神様のご支配の中におられるのです。イエス様は十字架で死なれた後、陰府(死者の国)に下られました。先ほど使徒信条で、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり」と唱えた通りです。陰府にもイエス様の愛が届いたのです。陰府にもイエス様のご支配は及んでいます。

 もちろんだからと言って私は、どんな悪いことをした人も全員自動的に救われると考える万人救済説を支持しません。私たちは皆、罪人(つみびと)ですから、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じ告白して洗礼を受けることが大切です。しかしそれでも陰府にもイエス様のご支配が及んでいることは、私たちにとって慰めです。私たちは、イエス様を救い主と信じないで亡くなった方を何人も知っているからです。 私たちも亡くなった方々も、必ず愛の主イエス様による最後の審判を受けます。イエス様を信じている人たちは、永遠の祝福に入れられます。イエス様を信じておられなかった方々については、愛の主であるイエス様に信頼してお委ね致しましょう。

 死後のこと、永遠の命のこと、復活のこと、天国のこと。イエス様はその全てを知っておられますが、私たちは全てをはっきりと知らされておりません。コリントの信徒への手紙(一)13章12節にあるように「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」状態です。ですがはっきりしていることは、イエス様を救い主と信じ告白した人には、今既に永遠の命が与えられていること、将来必ずイエス様の復活の体と同じ復活の体が与えられることです。

 神様が私たちキリスト者に与えて下さる復活の体がどのようなものであるか。それがコリントの信徒への手紙(一)15章35節以下に記されています。
「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。」つまり復活の体は、今のこの体と次元の異なる全く新しい体なのだということを言おうとしています。

 それはイエス・キリストの復活の体と同じ体です。それは確かに体であり、幽霊のようなものではありません。その証拠に復活されたイエス様は、ルカによる福音書24章で、弟子たちの前で焼いた魚を食べられました。そしてイエス様は、ヨハネによる福音書20章で、イエス様の復活を信じることができないトマスにこう言われました。「あなたの指をここ(イエス様の両手足の釘の穴)に当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹(槍による穴)に入れなさい。」トマスは実際にはイエス様の両手足の釘の穴を触らず、脇腹に手を入れませんでしたが、そうしていれば確実に穴のあいた両手足と穴のあいた脇腹に触れることができたのです。このように復活の体は、幽霊のようなものではなく、触れることが可能なものです。しかし今のこの体とは次元の違う、全く新しい体です。

 (40~44節)「また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星の間の輝きにも違いがあります。死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」

 私たちは一旦死んで、新しい命に復活するのです。死ぬ以上、そこに断絶が起こります。その断絶を経て初めて、復活の体に復活することができるのです。神様が必ずそうして下さるのですから、私たちは安心して委ねて、ただひたすらイエス様に従って行けばよいのです。イエス様はヨハネによる福音書12章24節で言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」私たちに必要なことは、自分の罪を憎み、自分のエゴを滅ぼすことです。自分のエゴを叩き伏せて、イエス様にひたすら従うことです。イエス様にひたすら従う生き方の先に、復活の命が与えられます。
 
 今、日本キリスト教団では東日本大震災で被災した教会などを支援するための募金を行っています。ある教会の信徒の方が、ご自分が属する教会に多額の献金をなさろうとしたそうです。その教会は、自分たちが受けるよりも被災教会に献げる決断をなさったとのことです。もちろんそれ以外にも多くの方々が、自分のために使いたいお金をあえて被災教会のために献げる決断をなさって来たに違いありません。私・私どもは、「自分さえよければよい」というエゴを持っています。本日は受難節第一主日です。イエス様の十字架の自己犠牲に特に感謝する季節です。「自分さえよければよい」という私・私どもの恥ずべきエゴを叩き伏せて、ご一緒にひたすらイエス様に従って参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-03-03 23:38:58(月)
「神のものは神に返しなさい」 2014年3月2日(日) 降誕節第10主日礼拝説教 
朗読聖書:ダニエル書6章1~29節、ルカによる福音書20章20~26節

「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
(ルカによる福音書20章25節)

 イエス様の十字架が3日後に近づいています。今日の問答は火曜日になされました。イエス様はこの2日前の日曜日に、ろばに乗ってエルサレムにお入りになりました。そして月曜日に、腐敗していた神殿を激しく清められます。そして火曜日に、エルサレムの信仰の指導者たちと問答を重ねられます。この火曜日を「問答の火曜日」と呼ぶそうです。今日の「皇帝への税金」の小見出しの問答も、この火曜日に行われました。エルサレムの律法学者たちや祭司長たちは、イエス様が神殿を激しく清められたので、イエス様を激しく憎むようになっています。そこで不当にもイエス様をやっつけようとしているのです。

 (20節)「そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。」イエス様を言葉で罠にかけて、ローマから派遣されている総督ピラトに捕らえられるようにと、陰謀を計画したのです。回し者らは、心の中に悪意を抱いているのにそれを隠し、さもイエス様を尊敬するふりをして、嘘を述べます。 (21節)「回し者らはイエスに尋ねた。『先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えて下さることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。』」 そして何気ないふりをしてイエス様に質問をします。(22節)「『ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。』」 

 これは当時のイスラエルで、人によって意見が真っ二つに分かれる厄介な問題でした。ユダヤ人が最も重視したのは律法・神様の掟です。イスラエルはこの時代、ローマ帝国の属国でした。それはユダヤ人にとって大きな屈辱でした。愛国主義者たちは言いました。「ローマ皇帝は偶像崇拝者である。偶像崇拝者であるローマ皇帝が取り立てる税金を、真に神様を信じる我々ユダヤ人は納めるべきではない。」 その反対の現実主義者たちもいました。特にサドカイ派と呼ばれる人たちは、割にお金持ちでした。お金持ちはその社会でうまくいっている人たちですから、現状を変えたくありません。彼らはローマ人とも親しくしていました。そこでサドカイ派の人たちはローマへの納税に賛成していました。ユダヤ人同士でもこのように立場・意見がくっきり分かれていたのです。この状況をよく理解した上で、回し者らはイエス様に、「あなたの立場はどちらですか」と質問したのです。イエス様がどちらと答えても、誰かを敵に回す結果になるのです。回し者らは、イエス様が「皇帝に税金を納めることは律法に適っていない」と返答なさることを内心期待していたのでしょう。そうお答えになれば、「イエスという男はローマの支配に反対する危険な人物だ」と総督ピラトに訴え出ることができます。ピラトは直ちにイエス様を反ローマの危険人物として逮捕するでしょう。

 ところがイエス様は彼らの陰謀を見抜き、独自の答えをなさるのです。(23~25節)「イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。『デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、誰の肖像と銘があるか。』彼らが『皇帝のです』と言うと、イエスは言われた。『それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」 デナリオン銀貨はローマの銀貨で、一日分の賃金に当たります。このローマの銀貨がイスラエルでも流通していたのですね。このデナリオン銀貨でローマへの税金も治めたのでしょう。デナリオン銀貨には、ローマ皇帝の肖像と銘が刻印されていました。表面には、月桂冠を被った皇帝の肖像が刻印され、「皇帝ティベリウス・神の子アウグストゥス」の文字が刻まれていたそうです。これは皇帝が発行させた銀貨ですから、当然皇帝の所有です。「従って当然皇帝に返すべきである」とイエス様はおっしゃいました。ローマ皇帝に納税しなさいとおっしゃったのです。

 私たちも住む市と日本国に税金を納めます。こうして市民・国民の義務と責任を果たします。市や国に少々不満があったとしても、だからと言って税金を納めないという道を選びません。皆様、よき市民・国民として税金を納めておられます。もちろん私も毎月納めています。こうして言わば「皇帝のものを皇帝に返して」いるのです。市や日本国に返しているのです。

 ですがイエス様のお答えには、続きがあります。「神のものは神に返しなさい。」
皇帝(権力者)は国の政治の責任者ですが、もちろん全世界の主なる神様ではありません。神様の前には皇帝もひざまずかねばならないのです。どんなに力を持つ皇帝も、どんなに力を持つ国も、このことを忘れてはなりません。皇帝や国が神格化されると、人々に、真の神様をないがしろにする偶像崇拝の罪を犯させることになります。どの皇帝も神様のもの、どの国も神様のものであり、神様の下に来ます。神様の所有です。神様にお仕えするために存在しているのです。皇帝の支配の及ばない範囲があるのです。

 創世記1章27節に、次の重要な御言葉があります。
「神は御自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。/ 男と女に創造された。」
私たち人間は皆、「神様にかたどって創造された」のです。これを「神の似姿」と言います。神様に似ている者として創造されたのです。似ているのは姿形ではありません。人格と尊厳があるところが似ています。クリスチャンであってもクリスチャンでなくても、人は皆、神様によって神様に似せて造られました。人は皆、神のものです。地球も宇宙も神のものです。私たちは、地上の人生が終わると、自分の命を神様にお返し致します。皆そうします。クリスチャンの場合は、ただ死ぬとは思わず、「主よ、私の命をあなたにお返し致します」と祈ります。この自覚的な祈りをもって人生の終わりを迎えます。私たちは、自分の命は自分のものである以上に神様の所有であることを知っています。ですから自分の命と時間とささやかな力を、神様の御心に則して用いるように心がけます。神様の御心に従うことによってのみ、自分の命を最大限生かすことができます。ひたすら神様に従いたいのです。それは天国に向かって進む人生になります。人生が終われば神様に命をお返しし、そのまま天国に入れていただきます。

 私たちは神のものなのですから、自分を神に返そうではありませんか。自分自身を神様に返しましょう。神様のものである私たちすべての人間は行くべき場所はどこでしょうか。教会の礼拝の場です。私たちすべての人間は、いつも真の神様を礼拝する礼拝に帰ることがふさわしいのです。皇帝も天皇陛下も皆、真の神様を礼拝することが一番幸せなのです。そしてできれば洗礼を受ける方がよいのです。洗礼を受けることは、私たちが真に神様の所有となることだからです。

 ローマの信徒への手紙13章に、今日の問答に関連する御言葉があります。(1節)「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」 国家に税金を納めなさい。会社では原則として上司に従いなさいということになります。国家や上司が明らかに神様に逆らっている場合は、例外になりますが、そうでない限りは、国家に税金を納め、市民としての責任と義務をきちんと果たし、会社では上司に従いなさいということです。「皇帝のものは皇帝に返しなさい」ということです。

 (4節)「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。」権威者とは、人の上に立つ人ですが、その人は「あなたに善を行わせるために、神に仕える者」だというのです。何らかの権威を持つ立場の人には、この「自分は神様に仕える者である」との自覚がぜひ必要です。そうでないと横暴になり、下の人を困らせることになります。 (6節)「あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。」ここにも「権威者は神に仕えるものである」ことが繰り返されています。 そして7節「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」 よい御言葉です。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。」自分に関係する人々への義務をきちんと果たしなさいということです。よき社会人として日々責任を果たしなさいということです。税金もきちんと納めなさいと言っています。「恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」学校の先生を敬い、皇帝をも敬いなさいということです。

 これが原則です。但し問題は、皇帝や国が神格化されて、神様に逆らう場合です。本日の旧約聖書・ダニエル書6章を御覧下さい。ダニエルは、イスラエル人ですが、バビロン帝国に捕囚として連れて来られていました。ダレイオス王はペルシャ帝国の王です。ペルシャ帝国には120人の総督がおり、その上に立つ3人の大臣がいました。ダニエルは非常に信頼されており、その3人の大臣の一人であり、王はダニエルさらに総責任者にしたいと考えていました。 (4節)「ダニエルには優れた霊(聖霊)が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた。王は彼に王国全体を治めさせようとした。」

 このことが他の大臣や総督の嫉妬を生みます。(5節)「大臣や総督は、政務に関してダニエルを陥れようと口実を探した。しかし、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく、彼らは訴え出る口実を見つけることができなかった。」ダニエルは、すばらしいですね。ダレイオス王から委ねられたこの世の責任を非常に忠実に果たしていました。それこそ「皇帝のものは皇帝に返す」と言いましょうか、この世の国への責任を誰よりも忠実に果たしていたのです。

 ダニエルは同時に、「神のものを神に返す」ことも忠実に実行していました。真の神様を礼拝し、自分自身を毎日真の神様にお献げしていたのです。同僚たちは、実に不当にもダニエルの礼拝の自由を奪おうとします。行ってはならないことです。(6~8節)「それで彼らは、『ダニエルを陥れるには、その信じている神の法に関してなんらかの言いがかりをつけるほかはあるまい』と話し合い、王のもとに集まってこう言った。『ダレイオス王様がとこしえまでも生き永らえられますように。王国の大臣、執政官、総督、地方長官、側近ら一同相談いたしまして、王様に次のような、勅令による禁止事項をお定めいただこうということになりました。すなわち、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる、と。王様、どうぞこの禁令を出し、その書面に御署名ください。そうすれば、これはメディアとペルシャの法律として変更不可能なものとなり、廃止することはできなくなります。』」 このことが実行されます。

 ところがダニエルの信仰は揺るがないのです。彼は禁令を無視して、真の神様を礼拝します。モーセの十戒の第一の戒めに従うのです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」11節は、ダニエルのすばらしい信仰を記しています。「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」 迫害に屈することなく、礼拝を続けたのです。私たちはこのダニエルの姿に大いに学ばせられます。

 太平洋戦争中、日本の政府は日本のキリスト教会に、日曜礼拝の前に皆で皇居を拝むことを要求しました。多くの教会はその要求に従ってしまったと聞いています。その厳しい時代を生きていない私に当時の教会を批判する資格はありませんが、それはやはり偶像崇拝の罪だったのです。皇帝も天皇も神ではありません。私ども戦後の日本のキリスト教会は、同じ罪を二度と繰り返さないと決意して、毎週の日曜礼拝を献げているのです。信教の自由は重要ですし、思想・良心の自由も重要です。今の日本は逆戻りの傾向が強いのです。非常に危険です。逆戻りが止まるようにキリスト者が祈りを合わせ、祈りを強めることが何としても必要です。キリスト者の良心は、真の神様以外のものを決して礼拝しないという良心です。ダニエルは信仰者としての良心に従って生き、迫害に負けないで、真の神様のみを礼拝し続けました。見上げた信仰者です。

 その結果、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれました。ダレイオス王はダニエルに好意的だったので、ダニエルを獅子の洞窟に入れられないように努力しましたが、自分がうかつにも署名した禁令に従わざるを得ませんでした。ダニエルは死を覚悟していたと思うのです。ですがこの時は幸い、神様が奇跡を起こして下さり、天使を送って獅子の口を閉ざして下さいましたので、ダニエルは何の危害も受けなかったのです。すっかり驚いたダレイオス王は、この真の神様を信じるようになりました。そして自分の王国に住む人々に、次の言葉の手紙を送りました。(27~28節)
「この王国全域において、すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。
 この神は生ける神、世々にいまし
 その主権は滅びることなく、その支配は永遠。
 この神は救い主、助け主。
 天にも地にも、不思議な御業を行い 
 ダニエルを獅子の力から救われた。」

 イエス様は言われました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
これは「隣人を愛し、神を愛しなさい」と通じる御言葉とも思います。自分の全存在を神様に献げ、ひたすらイエス様に従って参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-02-25 18:17:19(火)
「主はわたしの力、わたしの歌」 2014年2月23日(日) 降誕節第9主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記15章1~27節、ヨハネの黙示録15章1~4節

「主に向かってわたしは歌おう。/ 主は大いなる威光を現し
 馬と乗り手を海に投げ込まれた。」(出エジプト記15章1節)

 先週の出エジプト記14章で、聖書の中でも有名な奇跡が起こりました。神様が一晩中激しい風を発生させて葦の海を押し返されたので、海が乾いた地に変わり、水が分かれ、水がイスラエルの民の右と左に壁のようになりました。この状態が夜明け前まで続いたのです。驚くべき奇跡です。神様が宇宙を創造なさった偉大な力を発揮なさったのです。尤も、これも神様にとってはいと小さきこと、容易なことです。出エジプト記を読むと、神様が自然界を支配する偉大な力の持ち主であることがよく分かります。

 イスラエルの民が脱出する前、神様は10の災いをエジプトに下されました。第一の災いは「血の災い」で、モーセの兄アロンが杖を振り上げて、ナイル川の水を打つと、川の水はことごとく血に変わったのです。第二の災いは「蛙の災い」です。アロンが神様の仰せに従ってエジプトの水の上に手を差し伸べると、蛙が這い上がって来てエジプトを覆いました。その後モーセが、蛙のことで神様に訴えると(祈ると)、神様が訴えを聞いて下さり、蛙は家からも庭からも畑からも死に絶えたのです。第八の災いは「いなごの災い」です。モーセが神様の仰せに従ってエジプトの地に杖を差し伸べると、神様はまる一昼夜、東風を吹かせられます。東風がいなごの大群を運んで来、いなごはエジプト全土を襲い、エジプト中に緑のものは何一つ残りませんでした。その後モーセがファラオに哀願されて神様に祈ると、神様は風向きを変えて甚だ強い西風となさり、いなごを吹き飛ばして葦の海に追いやられたので、エジプト領土にいなごは一匹も残りませんでした。このように出エジプト記を読むと、神様が蛙やいなごなどの生き物、巨大なナイル川、風の向きを自由自在にコントロールする力を持っておられることがよく分かるのです。その集大成が葦の海の奇跡です。神様が宇宙の創造主としての力のほんの一部を発揮されただけで、これほど偉大な現象が起こったのです。神様の御手の業、神様の指の働きです。

 1956年のアメリカ映画『十戒』は、今見ても劇的です。イスラエルの民は驚き、感激して乾いた地を通りながら、神様を賛美する歌を歌っています。聖書にはファラオがどうなったかはっきり書かれていませんが、映画ではファラオは、乾いた葦の海に突入せず生き残ります。そしてエジプト軍の敗北を見て頭を抱え、宮殿に引き返し、「彼(モーセ)の神は神だ」、つまり「モーセの神こそ、真の神だ」と敗戦の弁を語るのです。

(1~5節)「モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
 主に向かってわたしは歌おう。
 主は大いなる威光を現し/ 馬と乗り手を海に投げ込まれた。
 主はわたしの力、わたしの歌/ 主はわたしの救いとなってくださった。
 この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。
 わたしの父の神。わたしは彼をあがめる/ 主こそいくさびと、その名は主。
 主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み/ えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。
 深淵が彼らを覆い、彼らは深い底に石のように沈んだ。」

 この歌は、聖書の中で「最古の歌」であるそうです。今年はうま年ですが、馬には馬力があり、馬は力・権力のシンボルです。
詩編20編8~9節にはこう書かれています。
「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが
 我らは、我らの神、主の御名を唱える
 彼らは力を失って倒れるが/ 我らは力に満ちて立ち上がる。」
この通りのことが、葦の海の奇跡で起こりました。

 また詩編33編16節以下にも、似たことが書かれています。
「王の勝利は兵の数によらず/ 勇士を救うのも力の強さではない。
 馬は勝利をもたらすものとはならず/ 兵の数によって救われるのでもない。
 見よ、主は御目を注がれる/ 主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
 彼らの魂を死から救い/ 飢えから救い、命を得させてくださる。」

 馬が多い方、兵士の多い方、力が強い方が勝つのがこの世の現実です。ですから今でも国は力を競います。力が弱くなると他国に圧迫されると恐れ、力を強くしようとします。しかしどんな国・権力者よりも神様の方が強いのです。神様に逆らう力は最後の最後には滅びます。神様に従う人が最後の最後には勝たせていただくのです。ですから、神様に従いなさいと聖書は教えます。「神様に逆らう強き者」と、「神様に従う小さき者」では、最後の最後にはどちらが勝つのか。「神様に従う小さき者」だと聖書は告げます。このことを受け入れるには勇気が要ります。力ある者は一時的には勝利するからです。ですが神様に逆らう者の勝利は必ず終わります。

 旧約聖書に記された、「神様に従わない巨人ゴリアテ」と「神様に従う少年ダビデ」の戦いを思い出しましょう。勝ったのはダビデです。ダビデはたった一つの小石を石投げ紐で飛ばし、ゴリアテの額・急所に命中させ、このたった一撃で、「神様に従わない歴戦のつわものゴリアテ」を倒したのです。ダビデはゴリアテと戦う前にゴリアテに向かってこう言いました。
「わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。~全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」(サムエル記・上17章45~47節)。ですから、神様に従いなさいと聖書は説きます。神様に従って愛と正義に生きる人が、最後の最後には神様の助けを受けるからです。「葦の海の奇跡」でもこのことが証明されました。神様に逆らうエジプト軍は壊滅し、神様に従わんとする無力な民イスラエルは、劇的に救われたのです。
 
 出エジプト記に戻ります。(6節)
「主よ、あなたの右の手は力によって輝く。
 主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。」
「右の手」は神様の力の象徴です。日本人は右利きの人が多いですから、「右の手」が力の象徴であることは分かりやすいと思います。(10節)
「あなたが息を吹きかけると/ 海は彼らを覆い
 彼らは恐るべき水の中に鉛のように沈んだ。」神様のひと息で、水は元の場所に流れ返り、エジプト軍は敗れ去ったのです。11節は、神様の偉大さを反問の形で讃えています。
「主よ、神々の中に/ あなたのような方が誰かあるでしょうか。
 誰か、あなたのように聖において輝き
 ほむべき御業によって畏れられ/ くすしき御業を行う方があるでしょうか。」
もちろん、このように偉大な神は主のみです。
アロンとモーセの姉ミリアムは、小太鼓(タンバリン)を持ち、音頭を取って女たちと共に歌いました。(21節)
「主に向かって歌え。
 主は大いなる威光を現し/ 馬と乗り手を海に投げ込まれた。」

 次の小見出しは、「マラの苦い水」です。大きな感激と讃美に満たされ、さあ前進です。が、次の困難が待ち受けます。イスラエルの民の歩みは、困難の連続の中で、しかし神様に助けられる歩みです。私たちも同じです。 (22~23節)
「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。」 苦くて飲めない水。確かに辛い試練です。飲み水がないと生きることができません。困難に直面すると私たちは冷静さを失い、動揺します。動揺すると周囲が見えなくなります。民はモーセに「何を飲んだらよいのか」と詰め寄ります。つい三日前に葦の海で神様の偉大な助けを体験したばかりですが、人間の心は弱いものです。もう神様を信頼できなくなっているのです。彼らは祈らないのです。モーセは神様に助けを求めて叫び、祈ったのです。すると神様は、モーセに一本の木を示されました。神様が一本の木を用意しておられたのです。モーセはその木を水に投げ込みました。すると神様の愛の力が働いて、水が甘く飲めるようになったのです。

 「神の山に、備えあり」(創世記22章14節)、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリント(一)10章13節)という御言葉を思い出します。困難に直面するとき、心を静めて静かに祈り考えると、「こうしてみよう」とひらめくことがあります。動揺する心を落ち着けて祈ることが必要です。

 モーセに神様の恵みの言葉が与えられます。(25節後半~26節)「その所で主は彼に掟と法とを与えられ、またその所で彼を試みて、言われた。『もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたがたをいやす主である。』」

 神様はエジプト人に疫病の災いとはれ物の災いを下されました。それはエジプト人の罪への罰でありました。イスラエルの民(そして私たち)が、神様の戒め(その代表はモーセの十戒)を守り、神様を愛し、隣人を愛し、神様に従って歩むならば、罰としての病を下されることはないのです(もちろん病には、神様の罰でない病もあります)。そして神様は、「わたしはあなたをいやす主である」と宣言されます。私たちは、神様からいただいた心身の健康を自分の不節制によって損なわないように注意し、病になってしまった場合には神様にいやしを祈り求め、医学の治療をも受けて回復に努めます。

 (27節)「彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した。」エリムという地名の意味は分かりませんが、調べてみると、(この御言葉から取ったのでしょう)エリム教会という教会、エリムという名の老人ホーム、エリム薬局という薬局もあることが分かりました。東久留米教会の周りもエリムのような環境で、南沢湧水や落合川がすぐ近くにあります。湧水のすぐ近くに南沢浄水所(給水塔)があり、大地震のときにはそこで水を配ると大きく書いてあります。ですから東久留米教会もエリム教会です。「十二の泉、七十本のなつめやし」があったのです。天国のような場所です。イスラエルの民が泉の数となつめやしの数を数えたので、数が分かるのでしょう。私たちも、自分に神様の恵みは少ないと言いたくなることがありますが、1つ1つ数えてみると、泉となつめやし(恵み)も与えられて来たことに気づきます。人生には、マラ(苦いこと)も多くあります。多くのマラの中で、しかし神様に助けを求めて祈り、助けられてここまで参りました。神様はエリム(恵み)をも与えて下さいます。教会でご一緒に礼拝するときがエリムのときです。

 私は昨日、西東京教区の教会役員研修会に参加致しました。題は「教会役員の務め 洗礼試問会をとおして」です。講師の楠本史郎牧師(北陸学院)の次のお話が印象に残りました。楠本先生のご経験の中で、ある洗礼志願者のための洗礼試問会である役員の方が、「あなたは一生教会に通い続ける決意がありますか」と問うたそうです。その志願者は、ややびくっとしながらも「はい」とお答えになったそうです。確かにこのくらいの真剣な問答が大切だと思いました。人生にマラ(苦いこと)も多くある中で、しかし教会の礼拝に通い続ける決意が大切です。
 
 本日の新約聖書・ヨハネの黙示録15章をもご覧下さい。今日の出エジプト記の場面に似ています。(2節)「わたし(著者ヨハネ)はまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。」この獣は、恐らくローマ皇帝ネロを指し、悪魔のシンボルです。「火が混じったガラスの海」とありますが、火は赤ですので、獣・悪魔と戦って屈服せずに信仰を貫いた「殉教者の血の色が、この海に映っているのであろう」と注解書に書かれています(『新共同訳 新約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局、1992年、522ページ)。

3~4節は、ローマ皇帝を礼拝せず、悪魔に屈服せず、信仰を貫いた殉教者たちが、天で歌う讃美の歌です。
「彼らは、神の僕モーセの歌と小羊(イエス・キリスト)の歌を歌った。
 『全能者である神、主よ、/ あなたの業は偉大で、驚くべきもの。 
 諸国の民の王よ、/ あなたの道は正しく、また、真実なもの。
 主よ、だれがあなたの名を畏れず、/たたえずにおれましょうか。
 聖なる方はあなただけ。
 すべての国民が、来て、/ あなたの前にひれ伏すでしょう。
 あなたの正しい裁きが、/ 明らかになったからです。』」
 神様が悪を裁かれることを確信して、神様を賛美する歌です。

 神様が私たちを助けて下さるとき、私たちは神様を賛美致します。最近私は『ハリエットの道』(日本キリスト教団出版局、2014年)という本を読みました。主人公はハリエット・タブマンというアメリカの実在の黒人女性です。1820年もしくは1821年に生まれ、1913年に90才以上で亡くなっています。南部の奴隷として虐待に耐えてきました。奴隷監督に頭部を殴られ、その後遺症に生涯苦しんだとのことです。勇気を出して奴隷制度のない北部に逃げたのです。その後、危険を冒して何回も南部に行き、自分の仲間の黒人奴隷を約300人も自由の土地へ導いたそうです。「300人は誇張で、実際に助けたのは70~80人」という説もあります。それでも大きな働きです。黒人モーセ、女モーセと呼ばれています。私は、「こんな人がいたのか」と驚きを覚えました。

 モーセも非常に苦労してイスラエルの民をエジプトから脱出させ、約40年かけて約束の地カナンへ導いてゆきました(モーセ自身と第一世代のほとんどは約束の地に入ることができず、入れたのは第一世代の二人と出エジプトのとき子どもだった人々ですが)。

 1861年当時、アメリカには400万人の奴隷がいたそうです。その人々にとって旧約聖書の出エジプトの出来事は希望の話でした。私たちよりはるかに出エジプト記を生きた話として読むことができたでしょう。奴隷のハリエットはある時、さらに南に売られることになりました。家族とも離れ離れになります。我慢できなくなったハリエットは逃げ出す決心をします。見つかれば連れ戻され、ひどい罰を受けるに違いありません。命がけです。神様の助けを求めて一生懸命祈りながらの旅です。野や山で眠り、人を避け、危険を乗り越えながら奴隷制度のない北部を目ざして145キロをほとんど徒歩で進みます。とうとう北部のフィラデルフィアの町にたどり着き、自由の身になります。フィラデルフィアという地名は「兄弟愛」という意味です。ハリエットは、神様の声を聴いた人だそうです。

 ハリエットはそれだけで満足できませんでした。危険を冒して何度も南部に戻り、家族や仲間の奴隷たちを自由の地に導いたそうです。南部ではハリエットを捕らえるために懸賞金がかけられたそうですが、ついに捕まりませんでした。当時、「自由への地下鉄道」があったそうです。本当の地下鉄ではありません。南部にも奴隷制に反対する人々がいて、逃亡奴隷を匿って北部やカナダに逃がす協力者の秘密ルート、ゆるやかな組織があったそうです(同書による)。そのような教会もあったそうです。晩年のハリエットはニューヨーク州で暮らし、身寄りのない元奴隷や、南北戦争で亡くなった黒人兵の遺族を助けたそうです。自由になった奴隷がハリエットをたたえると、ハリエットは言ったそうです。「わたしではなく、主のみわざです。わたしは、主がみちびいてくださることをいつも信じていただけなのです」(同書より)。ハリエットは、神様が数々の危険から自分たちを何回も助け出して下さったと確信していました。その信仰の心は、モーセとイスラエルの民の心に通じています。彼らは歌います。
「主はわたしの力、わたしの歌/ 主はわたしの救いとなってくださった。」

 私どもも同じ神様に助けられて、今までの旅路を歩んで参りました。この神様、そして神の子イエス・キリストへの祈りを忘れないで、今週も進んで参りたいと存じます。アーメン(「真実に、確かに」)。