日本キリスト教団 東久留米教会

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2025-03-16 2:15:53()
「これほどの信仰を見たことがない」2025年3月16日(日)受難節(レント)第2主日公同礼拝
(イザヤ書55:8~11) わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。


(ルカ福音書7:1~10) イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。

 ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

(説教) 本日は、受難節(レント)第2主日の礼拝です。説教題は「これほどの信仰を見たことがない」、小見出しは「百人隊長の僕をいやす」。
 
 本日のルカによる福音書の直前の6章20~49節は、イエス様の「平地の説教」と呼ばれる個所でした。本日の7章には、「平地の説教」を終えたイエス様の愛の働きが記されています。1節「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。」マタイ福音書4章によると、イエス様はガリラヤ湖畔の町カファルナウムに住んでおられたのですね。カファルナウムは「慰めの村」という意味のヘブライ語だそうです。ガリラヤ湖のすぐ北にあります。当時のカファルナウムは、南のエルサレムから出発してカファルナウムを通り、北のダマスコを経て、バビロンに至る道の大切な中継地点として栄えていたそうです。ローマ軍も駐屯し、交易税を徴収する税関(収税所?)もあったそうです。

 2節「ところで、ある百人隊長に重んじられていた部下が、病気で死にかかっていた。」この百人隊長は、当時イスラエルを支配していたローマ帝国の軍隊の百人隊長かと思っていたのですが、そうではないという説もあります。当時ガリラヤを支配していたヘロデ・アンティパスという領主(彼はおそらくユダヤ人)に仕えていた兵士たちの百人隊長だったという説もあります。その場合でも、この百人隊長はユダヤ人ではない異邦人でした。彼は百人の兵士の上に立つ隊長としての力をもっていました。百人の兵士を率いる隊長として、優秀な人でもあったのでしょう。同時に部下への愛と思いやりに富んだ人でもありました。彼が重んじ、頼りにしていた部下が、病気死にかかっていました。何の病気か分かりませんが、死にかかるほどの重い病気でした。医者にみせても治せなかったかもしれないので、諦めても不思議でない状況でした。しかし百人隊長は諦めず、当時評判になっていたイエス様にすがることを決心しました。

 3節「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来て下さるように頼んだ。」百人隊長の行動は、新約聖書・ヤコブの手紙5章14~15節を連想させます。「あなた方の中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブを塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせて下さいます。その人が罪を犯したのであえば、主が赦して下さいます。」百人隊長は、長老たちを招いたのではなく、長老たちに頼んで、イエス様のもとに行ってもらい、イエス様に来ていただくように頼むことを依頼しました。長老たち以上に神様に近いイエス様、神の子であり、神ご自身であるイエス様に、助けに来て下さいと頼んだのです。

 長老たちも、喜んで百人隊長の頼みを聞き入れました。百人隊長は、カファルナウムのユダヤ人たちのために、多く尽くしていたと思われます。それでカファルナウムのユダヤ人たちに、とても愛され、信頼されていました。4~5節「長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。私たちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。』」百人隊長は、ユダヤ人ではなく異邦人(外国人)でしたが、ユダヤ人たちが礼拝する真の神様を信じ、きっと礼拝も献げていたに違いありません。ユダヤ人たちと、非常によい友情関係を築いていました。ですから長老たちは、熱心にイエス様に願ったのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。私たちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」当時のユダヤ人たちの会堂は、シナゴーグと呼ばれていました。

 礼拝の会堂を建てることは、昔も今もかなりの大きな事業と思います。祈りはもちろんですが、お金も多くかかります。この会堂も祈ってお金をため始めて建築して、教会債等を全て返済するまで、計15年くらいかかったと思います。大半のお金は自分たちで献金しましたが、他の教会からも献金をいただきました。私たちも他の教会の会堂建築のためにも献金しています。この百人隊長は、「自ら会堂を建ててくれた」と言われているので、建築資金の大半を出したのではないかと思います。なかなかできることではありません。ユダヤ人たちは、百人隊長にとてもとても感謝していたでしょう。神様にも喜ばれていたと思うのです。今のカファルナウムの写真を見ると、石造りの遺跡が見えます。かなり頑丈な感じです。土台の部分は、イエス様の時代のものとの解説されています。それより上の部分は、もう少し後の時代のものとも言われます。

 6~7節「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、ご足労には及びません。私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、私の方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃって下さい。そして、私の僕(しもべ)をいやして下さい。」まず彼は、自分が異邦人であることを意識していたと思います。当時ユダヤ人は、異邦人を汚れていると見なし、異邦人の家には足を踏み入れない習慣だったそうです。ユダヤ人であるイエス様に自分の家に入っていただくわけにはいかない。自分は汚れた異邦人だから、という思いもあったのではないかと思います。最初に長老たちに行ってもらったのも、異邦人である自分はユダヤ人の聖なる方イエス様に直接お会いすることはできないと考えたからかもしれません。私はイエス様にお会いするにふさわしくない者である。そして、ユダヤ人の長老たちに頼んでイエス様に来ていただくように依頼したが、やはりイエス様に自分の家に入っていただくわけにはいかない。そこで、自分の家に来られないで、「ひと言とおっしゃって下さい」それで十二分以上です。そのひと言で、私の死にかかっている僕は、必ず癒される。ここに百人隊長の、イエス様に対する絶対の信頼が示されています。
 
 それにしても、この百人隊長は実に謙遜です。「私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、私の方からお伺いするのさえ、ふさわしくないと思いました。」自分が異邦人であることだけでなく、聖なるイエス様に比べたとき、自分が罪人(つみびと)であることは、否定しようがないと感じていました。その通りです。イエス様の比べたときの自分の罪の深さ。偉大な洗礼者ヨハネは、こう述べました。「私よりも優れた方(イエス様)が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」偉大な伝道者パウロは、こう述べます。「自分を全く取るに足りない者と思い」(使徒言行録20章19節)。「月足らずで生まれたような私」、「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(コリント(一)15章8~9節)。「私は、その罪人(つみびと)の中で最たる者です」(口語訳「私は罪人(つみびと)の頭(かしら)である」)(テモテ(一)1章15節)。パウロの本心です。

 この百人隊長は、信仰者の理想的な姿を身をもって示す存在ではないでしょうか。まず、本心から謙遜です。「私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、私の方からお伺いするのさえふわさしくないと思いました。」しかしユダヤ人の長老たちは、彼を高く評価しています。「あの方はそうしていただくのにふさわしい人です。私たちユダヤ人を愛して、自ら進んで会堂を建ててくれたのです。」本人は「自分はふわしくない」と告白し、親しい人々は、「あの方はふさわしい人」と言っています。これは理想的なことと思います。逆だと悲惨です。本人が「私こそふさわしい」と言い、周りの人々が「あの人はふわしくない」と評価していれば、みっともなくて目も当てられません。しかし幸い、この百人隊長の場合は、本人は「自分はふさわしくない」が本心で、周りの人々の本心が「あの人こそふさわしい」です。実に麗しく、理想的です。使徒パウロの言葉が思い出されます。「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」(コリント(二)10章18節)。

 百人隊長は述べました。「ひと言、おっしゃって下さい。そして、私の僕(しもべ)を癒して下さい。」彼は、イエス様こそ真の神の子と完全に信頼していました。神の子イエス様のひと言には、絶対の権威がある。ひと言で十分以上だ。イエス様のひと言さえいただければ、私の大切な部下の瀕死の病も、必ず癒される。百人隊長は、イエス様に絶対の信頼を寄せていました。それは、彼が軍人で、自分のひと言の命令が、部下に絶大な力をもっていることを熟知していたことが大きかったと思います。軍隊は今も昔も、どこの国でも、部下は上官に絶対服従の世界なのでしょう。彼は言います。「私も権威の下(ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの権威の下)に置かれている者ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」でも彼は、横暴で無茶な命令を下す隊長ではなく、思いやり深い百人隊長だったに違いありません。彼は「私のひと言でさえ、これだけの力があるのだから、ましてイエス様のひと言は、必ず私の大切な部下の瀕死の病であっても、必ず癒す力をもつ」と信頼しきっていました。この絶大な信頼・信仰が、イエス様の魂を打ちました。

 9節「イエスはこれを聞いて感心され、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことがない。』」「感心された」は、直訳では「驚かれた」です。イエス様は百人隊長の深い信仰に驚かれた、新鮮な驚きを覚えられたのです。父なる神様が、この異邦人の百人隊長に、非常に深い信仰をお与えになりました。ルカ福音書3章8節で、洗礼者ヨハネが言っています。「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たち(信仰者たち)を造り出すことがおできになる。」信仰を与えて下さる方は、神様です。神様は、人を分け隔てなさいません。神様は、どんな人にも聖霊を注いで、どんな人にも深い信仰を与えることがおできになります。ユダヤ人(イスラエル人)に、イエス様を真の救い主と信じる信仰をお与えになり、私たち日本人(異邦人)にも、同じ信仰を与えることがおできになります。父なる神様は、この真に謙遜な百人隊長を愛し、彼にイエス様が驚かれるほどの、深い信仰をお与えになりました。ペトロの手紙(一)5章5節には、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」と書かれています。百人隊長は謙遜だったので、父なる神様から深い信仰を与えられました。神様は、人を分け隔てなさいません。この現実の前に、私たちも繰り返し謙遜になり、繰り返し襟を正す必要があると思えてなりません。

 百人隊長の信仰は、「ひと言、おっしゃって下さい。そして、私の僕(しもべ)を癒して下さい」という者です。父なる神様のひと言、神の子イエス様のひと言に、その力があるというよき確信です。イエス様は深く驚かれ、深く感心されました。「言っておくが、イスラエル(信仰の民)の中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことはない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていました。イエス様の力によって、部下は完全にいやされたのです。百人隊長はイエス様に全く会いませんでした。イエス様は、その部下に会わなかったとしても、彼を完全に癒す力を持っておられます。

 神様の御言葉、イエス様の御言葉の力のすばらしさを思います。前にも申した通り、ヘブライ語のダーバールという言葉は「言葉」という意味。同時に、ダーバールには「出来事」の意味もある。言葉が出来事を造り出す力を持っている、言葉が出来事を創造する力を持っているのです。創世記1章3節「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」イザヤ書55章8~11節「私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私の元に戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす。」ヘブライ人への手紙11章3節「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」

旧約聖書の「ヨブ記」を読んでいると、神の言葉の力強さに圧倒されます。ヨブ記38章でも天地創造のことが語られています。8節以下「海は二つの扉を押し開いてほとばしり、母の胎からあふれ出た。私は密雲をその着物とし、濃霧をその産着としてまとわせた。しかし、私はそれに限界を定め、二つのかんぬきを付け、『ここまで来てもよいが超えてならない。高ぶる波をここでとどめよ』と命じた。」神の命令の言葉に、自然界が従うことが記されています。 34~3節「お前(ヨブ)が雨雲に向かって声をあげれば、洪水がお前を包むだろうか。お前が送り出そうとすれば、稲妻が『はい』と答えて出て行くだろうか。」神の言葉の力。

 イエス・キリストこそ、生きた神の御言葉です。このイエス・キリストの全幅の信頼をおき。父なる神様に祈りながら。ご一緒に祈り、礼拝、伝道に励ませていただきましょう。アーメン。


2025-03-08 21:53:27(土)
説教「イエス様の言葉を聴いて、行う私たち」2025年2月9日(日)受難節(レント)第1主日公同礼拝
(イザヤ書5:1~7) わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。

(ルカ福音書6:43~49) 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

(説教) 本日は、受難節(レント)第1主日の礼拝です。説教題は「イエス様の言葉を聴いて、行う私たち」、小見出しは「実によって木を知る」と、「家と土台」。
 
 イエス・キリストの「平地の説教」の続きです。最初の43~44節「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。」イエス様は、本当は人間のことをおっしゃっているのだと思います。私たち人間が、自分の表面を取り繕ってみても、神様の前には、私たちが自分の真の姿をごまかすことができない、ということだと思うのです。45節「善い人は良いものを入れた心の倉から善い物を出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

 私たちの口から、悪い言葉が出てしまうとすれば、それはやはり私たちの心の名中に罪が残っている体と思います。心の中の罪を減らすためには、私たちの心の中を聖霊によって清めていただくほかはありません。新約聖書のエフェソの信徒への手紙4章29節以下には、こうあります。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなた方は、聖霊により、贖いの日(神の国の完成の日)に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを。一切の悪意と一緒に捨てなさい。」
「悪い言葉を一切口にしてはなりません。」この御言葉を自分の努力で、100%達成することは、できません。聖霊によって、心を清めていただくことが必要です。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書5章1節以下です。ここには、神様の嘆きが、たとえ話の形で記されています。神の民イスラエルが、酸っぱい悪いぶどうに変わってしまったことを、嘆く御言葉です。「私(神様)は歌おう、私の愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。私の愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を建て、酒ふねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ、私と私のぶどう畑の間を裁いてみよ。私がぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。私は良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」

 私たちキリスト者は、神様に愛されていますが、私たちの罪については、神様はやはり悲しみ嘆いておられると思いますので、自分の罪については悔い改めて、神様の嘆きが増えないで減るように、心がけたいと願います。

 2つ目の小見出しは、「家と土台」です。46~48節「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。私のもとに来て、私の言葉を聴き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。」私たちプロテスタント教会は、信仰義認を真理として強調します。信仰義認とは、「私たちがイエス・キリストを救い主と信じる、信仰によってのみ、私たちが父なる神様の前に義と認められる」ということです。信仰義認は聖書の真理です。しかしイエス・キリストを救い主と信じた私たちは、イエス様の十字架の愛に対して、感謝の応答へと押し出されます。信じたけれども、感謝の応答を全くしないことは、あり得ません。感謝の応答へと押し出されます。イエス様の弟子・使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙5章6節には、このように書かれています。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」ここで言われていることは、信仰が大事であって、信仰から愛が生じるということです。

 ルカ福音書に戻り、46節「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。」イエス様の御言葉を聴いて、イエス様を救い主と信じ、イエス様の御言葉を行うことは、イエス様の弟子(私たち)の道、弟子たち(私たち)の生き方です。47節以下「私のもとに来て、私の言葉を聴き、それを行う者が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしに地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その倒れ方がひどかった。」

 東久留米教会のこの新会堂は2011年に完成し、その年の6月(7月)から礼拝に用いています。土台を堅牢に建築することを強く意識し、深さ5メートルの鉄骨(固い岩盤に達する)を確か30本地中に埋めて、建物を支えています。設計段階ではまだ東日本大震災が発生していませんでしたが、阪神淡路大震災級の揺れでは倒壊しないように設計されています。これは物理的なこの建物のことです。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。」私たちキリスト者の生き方も、そうでありたいのです。イエス・キリストを救い主と信じ、御言葉を実行する確かな生き方です。「洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」数年前に、秋田で豪雨災害があり、被災した教会のために、東久留米教会でも献金を献げました。その教会の牧師だった方のお話を先日伺う機会がありました。今は、西武線沿線の教会に転任しておられます。大雨が降り、近くの川が氾濫したようで、教会堂は床下浸水したそうです。近くの民家は床上浸水したそうです。その夜は、避難したと伺ったように思います。教会堂の土台はしっかりしていたので、会堂が揺らぐことはなかったようですが、床下浸水したので、後に各地の教会から青年ボランティアも来て下さり、床下の清掃を行って下さったようです。

 「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。」私は先週の月曜日に、西東京教区の世界宣教協力委員会主催の講演会に出席致しました。講師は、エックハルト・シャルフシュベアト先生です。ドイツ人で、医学博士です。一昨年の東久留米教会の祈祷会に来て下さった大宮前教会の山本隆久牧師の、ドイツ留学時代の中国奥地伝道で知られるハドソン・テーラーという19世紀の宣教師に憧れて、中国語を学び、ご夫人、お子さん方と共に中国の東の方に行かれました。イエス・キリストを宣べ伝える希望をもっておられるのですが、現在の中国政府は、キリスト教に対して否定的な姿勢で臨んでいるので、表立っての伝道活動はできません。そこで基本は、医者として大変誠実に、病院で働かれました。中国の都会ではなく、地方です。クリスマスの時期に、地域の子どもたちや、病院の同僚を招いてのクリスマス会は、行うことができたそうです。ストレートな伝道活動はできないが、医者として働くことで、イエス・キリストの愛を示す形での伝道です。隣人愛による伝道です。「あなたの人生が、あなたのメッセージ」という言葉を、強調されました。イエス・キリストの言葉を宣べ伝えることが大切ですが、それができない場合もある。「あなたの(私たちの)人生(生き方)が、あなたの伝道のメッセージだ」ということです。私たちの言葉だけでなく行いも、私たちの生き方そのもの(全体)が、イエス・キリストを伝えるメッセージとなる。まさにその通りです。

 エックハルト先生によると、中国の人々は、結婚すると、家を建てたり、家族のために働くためにとても忙しくなり、自分の生き方や、宗教・哲学等に関して考えるゆとりがなくなる。これは日本にも同じようなことがあります。そうなる前に、学生の時代に中国人に何とか宣教したいと考えておられるそうです。そこで旧約聖書・ヨシュア記のイスラエルの人々のように、住んでいた町の周りを七週して祈ったそうです。ヨシュア記のエピソードは、イスラエルの民がエリコという町を占領した話です。それは戦争ですが、よく読むと武器によってではなく、神様の力によって勝利しています。祈りの戦いだったのですね。エックハルトさんは、大変優しそうな方です。中国では伝道が非常に制限されるが、この霊的な壁を神様が打ち破って、イエス・キリストへの信仰を自由に宣べ伝えることができるように、神様が中国の方々の心が、イエス・キリストを受け入れる心になるように耕して下さるように、エックハルトさんは、住んでいた町を七周回って、祈ったそうです。中国の大都会には教会はあります。それは政府が公認した教会です。非公認教会には弾圧があるようです。中国の共産党は、神様が共産党より上におられる考えを許しません。神様を共産党の下に置けば、受け入れられるらしいのですが、そうすると聖書の教えに明らかに反してしまいます。

 イエス様の御言葉に戻ります。「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。私の元に来て、私の言葉を聴き、それを行う者が皆、どんな人に似ているか、示そう。」ここを読むと、イエス様が「最後の審判」のことを語られたマタイ福音25章31節以下を連想しますね。「人の子(イエス様)は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで王(イエス・キリスト)は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国(天国)を受け継ぎなさい。お前たちは、私(イエス様)が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』」この世の中で、軽く扱われている方がおらえたとして、実はその中にイエス様が住んでおられるかもしれないのですね。そうであれば、私たちがその方を軽んじた場合は、イエス様を軽んじことになり、逆にその方に親切を行ったときには、気づかないで、イエス様に親切にさせていただいたことになります。

 このようにキリスト者は愛の行いを行うのですが、それはあくまでもイエス・キリストを救い主と信じる信仰から出るのです。イエス様がヨハネ福音書15章で、こうおっしゃっています。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も私につながっていなければ、実を結ぶことができない。」実は愛と言えます。「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」イエス様というぶどうの木につながって、そこからキリストの愛をたっぷり注がれて、その愛に押し出されて、隣人愛を行わせていただきます。イエス・キリストにつながっていないと、愛の実を結ぶことができません。あるいはイエス様の霊である聖霊に満たされ、聖霊に押し出されて、愛の行いを行わせていただくと言ってもよいと思います。

 最後に、ヤコブの手紙2章14節以下を読みます。新約聖書423ページ上段からです。ヤコブの手紙は、行いを強調することで知られています。これは、今申し上げたことを前提として読むのが正しいと思います。つまりぶどうの木であるイエス様から愛を注がれてという前提で読みのが正しいと思います。信仰義認を強調したマルティン・ルターは、ヤコブの手紙を嫌ったそうですが、イエス様の愛に支えられて愛を行うと読めば、ヤコブの手紙を嫌う必要は全くありません。むしろ信仰義認と両立する書として、愛読したいと思うのです。
 
 ヤコブの手紙2章14節より。「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなた方の誰かが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 しかし、『あなたには信仰があり、私には行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、私は行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神が私たちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。『アブラハムは神を信じた。それが神の義と認められた』(信仰義認)という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなた方にも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」
 
 長く引用しました。私たちは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって神様の前に義と認められ、神の子とされ、天国に入ることを約束されます。しかし信じた人は、イエス様の愛に満たされ、イエス様の愛に押し出されて、少しずつ愛の業を行うことになります。私たちは、よく祈って聖霊に多く助けられて、私たちの信仰を、行いによって完成させていただきたいと、切に祈ります。神様の友として、天国に入るまで生きてゆきたいと祈ります。アーメン。



2025-03-02 1:58:51()
説教「与えなさい。そうすれば与えられる」 2025年3月2日(日)降誕節第10主日公同礼拝
(サムエル記下12:1~10) 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』

(ルカ福音書6:37~42) 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

(説教) 本日は、降誕節第10主日の礼拝です。説教題は「与えなさい。そうすれば与えられる」、小見出しは「人を裁くな」です。先々週、先週に続き、イエス・キリストの「平地の説教」の中の御言葉です。

 最初の37節「人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない。」これは、直前の36節の続きとして読むのがよいです。「あなた方の父(神様)が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない。人を罪人(つみびと)だと決めるな。そうすれば、あなた方も罪人(つみびと)だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される」私たちは、えてして、他人には厳しくなり、自分には甘くなりがちです。従って、他人には寛容に、自分には厳しく臨むことが必要と思います。私たちはしばしば他人を裁きます。他人を批判し、他人の悪口を言います。でも本当に誤りなく裁くことができる方は、全ての状況と事情をよくご存じの神様だけです。私たちが他人を裁いて、他人を批判するとき、私たちは自分を神様にしていることに気づく必要があります。それは傲慢なことかもしれません。自分も神に裁かれます。最後の審判。

 この御言葉の最もよい解説は、マタイ福音書18章でイエス様が語られた「仲間を許さない家来のたとえ」です。よくご存じの方が多いでしょうが、このような内容です。まずイエス様の弟子ペトロが、イエス様に尋ねます。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」これに対して、イエス様が言われたのです。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」七は完全を意味する数字と言われます。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」七が二回出てきます。これは490回赦して終わりでなく、ほとんど無限に赦しなさい、と言っておられると思います。ペトロの予想をはるかに超えるお答えです。

 そしてイエス様は、天の国のたとえとして、「仲間を赦さない家来のたとえ」をお語りになりました。ある王に1万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし返済できなかったので、王はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願いました。王は憐れに思って彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。帳消しとは、驚きます。ところがこの家来は外に出て、自分に100デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言った。仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、王の前に出て事件を残らず告げた。そこで主君はその家来を呼びつけて言った。「不届き家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そして王は怒って、借金をすっかり返済するまでと家来を牢役人に引き渡した。以上がたとえです。イエス様は最後に、「あなた方の一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなた方に対して同じようになさるであろう。」

 この家来が王に借金していた金額1万タラントンです。1タラントンは6000日分の給料ですので、1万タラントンは6000万日分の給料です。仮に1日分の給料を5000円とすると、1万タラントンは3000億円です。つまり無限大の借金です。借金は罪のことを意味します。私たち一人一人が、この家来と同じ立場にいます。王は神様です。私たちは神様に3000憶円(無限大)に匹敵する罪を赦していただいたのです。イエス様の十字架のお陰で、無限大の罪を赦していただいて、今生かされている。これが私たちの現実であることになります。

 私たちは、自分の罪はそれほど重大でないと思っているかもしれませんが、神様からご覧になると、無限大に等しい罪を赦されて生きている私たちの真の姿が、よく見えるに違いありません。この家来は、自分に100デナリオン借金している仲間を赦しませんでした。100デナリオンは、先ほどの基準で計算すると50万円です。家来の借金の60万分の1の金額です。私たち一人一人の罪の重さは、神様から見ないと分からないと思います。自分の罪の重さを知らないで、私たちが他人を裁くとき、私たちは自己義認の罪に陥っている可能性があります。自分は罪人(つみびと)なのに、自分こそ正しいと思い込み、高慢になってしまう罪です。これがファリサイ派の人々の罪ですね。ファリサイという言葉には「分離する」という意味があるそうです。「自分は、あの連中とは違う」と自分と他人を区別し、思い上がってしまう罪です。ルカ福音書の中で、イエス様は言われました。「赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。」私たちはイエス様の十字架によって、無限大の罪を赦されました。なので、自分に罪を犯す他人の罪を赦す必要があります。そうすれば、私たちがあの家来のように、「不届きな家来だ」と神様に叱られることはありません。私たちはイエス様のお言葉「七倍どころか、七の七十倍まで赦しなさい」に驚きますが、自分が無限大の罪を赦していただいていると分かれば、なるほどと思います。

 イエス様はさらに言われます。38節「与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなた方は自分の量る秤で量り返されるからである。」これは、経験的にも本当です。色々な所に献金しているときの方が、不思議と自分も助けを受ける機会が多くなるように感じます。関連する聖句を、いくつか挙げることができます。申命記15章7節以下「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。(…)彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福して下さる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、私はあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」

 箴言11章25節「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。」26節「穀物を売り惜しむ者は民の呪いを買い、供する人の頭上には祝福が与えられる。」お米の値段が上がったままで、政府が備蓄米を放出する事態になっています。お米を買い占めて、お米の値段を釣り上げている人々がいるのではないかと言われます。もしそのような人々がいれば、神様に厳しく叱られると思います。箴言22章9節「寛大な人は祝福を受ける。自分のパンを裂いて弱い人に与えるから。」詩編112編5節「憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁き(最後の審判)のとき、彼の言葉は支えられる。」コリントの信徒への手紙(二)9章6節以下も、本日のイエス様の御言葉とよく響き合います。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです。」イエス様の御言葉は、こうでした。「与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほど量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなた方は自分の量る秤で量り返されるからである。」

 39節「イエスはまた、たとえを話された。『盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。』」イエス様がここで本当におっしゃりたいことは、先ほどの王の家来のように、自分が無限大の借金(罪)を帳消しにしていただく大きな恵みを受けたことが見えていない人(心の目が見えていない人)に、正しい信仰的な判断はできないということと思います。40節「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」これは一般論でしょう。一般的にはそうですが、私たちが一心不乱に修行しても、イエス様と同じにはなれないと思います。

 41~42節「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」本日の旧約聖書・サムエル記・下12章でのダビデ王も、自分の目にある丸太に気づかなかった人です。自分の部下ウリヤの妻を奪い、更にウリヤを戦死に追い込んだのに、自分の大きな罪に気づいていませんでした。神様が預言者ナタンを送って、厳しく叱責なさった時に、初めて丸太のように大きな自分の罪に気づいたのでした。

 もう一度37節に戻ります。「赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。」
先週は、箴言19章11節の感銘深い御言葉をご紹介致しました。「背きを赦すことは人に輝きをそえる。」赦し難きを赦す人は、まさに尊敬に値します。もちろん、その筆頭はイエス様です。十字架につけられた時の、あの祈りです。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」

 旧約聖書の創世記にも、感動的な赦しの場面があります。兄たちによって憎まれて穴に投げ込まれたヨセフという男性が、ミディアン人の商人たちによって穴から引き上げられ、イシュマエル人に売られ、エジプトに連れて行かれポティファルという人に売られ、無実の罪で監獄に入れられる苦難を味わいます。ヨセフがその兄たちを最終的に赦した場面が、創世記50章にあります。ヨセフの仕返しを恐れていた兄たち(何しろヨセフはエジプトの総理大臣)は、一生懸命謝ったのです。ヨセフは涙を流して兄たちに言いました。「恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか。」ヨセフは、深い信仰の人になっています。神様お一人のみが、正しく裁くことがおできなる方と、よく分かっていたのです。それで「私が神に代わってあなた方を裁くことができるでしょうか。できません」と言ったのだと思います。「あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにして下さったのです。どうか恐れないで下さい。この私が、あなたたちとあなたたちの子どもを養いましょう。」ヨセフは兄たちを慰め、優しく語りかけたのです。ヨセフが兄たちを厳しく試した場面もありますが、こうして最終的に兄たちを完全に赦したヨセフの信仰は輝いています。「背きを赦すことは、人に輝きをそえる。」

 イエス様は言われます。「赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。」「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」その前提は、イエス様が十字架にかかって、私たちの一生分の罪の赦しを与えて下さった事実です。今から聖餐を味わいます。十字架にかかることで私たちの罪を赦して下さった、イエス様の十字架の愛を十二分に味わいたいと思います。そしてもちろん、将来必ず復活の体をいただく希望にも、改めて満たされたいと思います。アーメン。

2025-02-23 2:06:13()
「敵を愛しなさい」 2025年2月23日(日)降誕節第9主日公同礼拝
(列王記下6:15~23) 神の人の召し使いが朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。アラム軍が攻め下って来たので、エリシャが主に祈って、「この異邦の民を打って目をくらましてください」と言うと、主はエリシャの言葉どおり彼らを打って目をくらまされた。エリシャは彼らに、「これはあなたたちの行く道ではない。これはあなたたちの求める町ではない。わたしについて来なさい。あなたたちの捜している人のところへわたしが連れて行ってあげよう」と言って、彼らをサマリアに連れて行った。 彼らがサマリアに着くと、エリシャは、「主よ、彼らの目を開いて見えるようにしてください」と言った。主が彼らの目を開かれ、彼らは見えるようになったが、見たのは自分たちがサマリアの真ん中にいるということであった。イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに、「わたしの父よ、わたしが打ち殺しましょうか、打ち殺しましょうか」と言ったが、エリシャは答えた。「打ち殺してはならない。あなたは捕虜とした者を剣と弓で打ち殺すのか。彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主君のもとに行かせなさい。」そこで王は彼らのために大宴会を催した。彼らは食べて飲んだ後、自分たちの主君のもとに帰って行った。アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった。

(ルカ福音書6:27~36)  しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

(説教) 本日は、降誕節第9主日の礼拝です。説教題は「敵を愛しなさい」、小見出しも「敵を愛しなさい」です。先週に続き、イエス・キリストの「平地の説教」の一部です。「平地の説教」という名称は、マタイ福音書5~7章の「山上の説教」に対応するものです。ルカ福音書6章20節から最後の49節までが「平地の説教」。

 最初の27節「しかし、私の言葉を聞いているあなた方に言っておく。敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。」これは、本当にイエス様のすばらしい御言葉と思います。敵とは、基本的には日常生活の中で、意見の合わない人、肌の合わない人と思います。そうであっても、世界中の人々が、一斉に敵を愛すれば、全てのもめ事は一秒で解決し、世界の戦争もすべて一秒で終わり、世界中が一秒で完全平和になると思うのです。「敵を愛しなさい」」は、それほど凄い一言です。1996年(今から29年前)だったと思いますが、「敵を愛しなさい」の説教題看板の草刈眞一さんという教会員の方が大きな書いて下さって、教会の外に大きく掲示していました。すると通りがかりの男性がご覧になって、「敵を愛しなさいか。いいね」と言って、去って行かれました。その声が、教会の中にいた私に聞こえました。そんな思い出があります。

 旧約聖書のレビ記19章には、もちろん隣人愛の教えがあります。「心の中で兄弟を憎んではならない。(…)復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」「民の人々に恨みを抱くな」は、仲間のイスラエルの民に恨みを抱くな、の意味でしょう。これより一歩進んだ御言葉も、旧約聖書の箴言25章21節にあります。「あなたを憎む者が飢えているなら、パンを与えよ。渇いているなら、水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」これは「敵を愛しなさい」に近い御言葉ですね。「こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。」これは分かりにくい表現ですが、「こうすれば、相手が恥じ入る」の意味だそうです。「あなたを憎む者が飢えているなら、パンを与えよ。喉が渇いているなら、水を飲ませよ。こうすれば、相手が恥じ入る。」憎む相手から憎しみを返されると、憎しみがさらに増すが、憎む相手から逆に親切にされてしまうと、憎んでいたことが恥ずかしくなり、憎む気持ちが減る、消えるものだ、というのです。こうして自分を憎む相手と和解し、真の意味での勝利を得ることができる。そして神様があなたによき報いを与えて下さる。」これが知恵ある解決の道だというのです。

 ルカに戻り、28~29節「悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために、祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」この実行は、難しいです。私たち罪人(つみびと)の本性に反します。後半は、マタイ福音書5章では、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」です。右の頬を相手の右手で打たれるのは、左の頬を打たれるより屈辱感が強いと読んだことがあります。自分の右の頬を打たれる場合、打つ側が右手の甲で打つことになるからです。手の甲で打たれる方が固いからでしょうか、打たれる側の屈辱感が強いと聞いたことがあります。その通りかもしれません。「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」全てを与えなさい、ということでしょう。この通り実行することは、非常に難しいです。「求める者には、誰にでも与えなさい。」自分の持てるものを与えることはできます。但し、全部与える決断は、なかなかで来ません。「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。」この実行も、極めて難しいです。こんなことをすれば、相手がつけあがるだけのように思います。

 ですが、イエス様が一番おっしゃりたいのは、31節ではないかと思います。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」これはマタイ福音書5章12節の、黄金律(ゴールデンルール)と呼ばれる御言葉と、ほぼ同じです。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。これこそ律法と、預言者である。」「律法と預言者」とは、旧約聖書ということとほぼ同じです。積極的に、人を愛しなさい、の意味です。これは金メダルの御言葉と言えます。似た言葉が論語にあるそうです。「己の欲せざるところを、人にほどこすことなかれ。」自分が人にしてほしくないことを、他人に行ってはならないの意味で、これは、聖書の言葉ではありませんが、銀メダルの言葉と言えます。金メダルの「だから、人にしてもらいたいと思うことは、何でも、あなた方も人にしなさい」の御言葉が、ずっと積極的です。イエス様は、私たちが、積極的な隣人愛に生きることを、願っておられると感じます。

 32~34節「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな恵みがあろうか。罪人(つみびと)でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人(つみびと)でも同じことをしている。返してもらうことをあてにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人(つみびと)さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人(つみびと)に貸すのである。」この場合の罪人(つみびと)とは、イエス様の時代のイスラエルで、人々から罪深い者とされて嫌われていた、たとえば徴税人(仲間のイスラエル人から税金を徴収し、しばしば規定以上に徴収して私腹を肥やした)、売春婦、神の律法を守れない人々と思います。ここでは、罪人(つみびと)は、悪いマイナスの意味で用いられています。まとめると、世の中で、自分に親切にしてくれた人に同等のお返しすることは、当たり前に行われている。ギヴ・アンド・テイク、あるいはテイク・アンド・ギブは、当然の常識として行われている。

 しかし、イエス様の弟子たち(私たち)は、ここに留まっていてはいけないので、もっと与える愛に行きなさい、とイエス様は言われます。35節「しかし、あなた方は敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで、貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方(父なる神)の子となる(神の子になる)。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。」これがイエス様の弟子の道、私たちの道として示されます。これはつまり、復讐するなという教えです。ローマの信徒への手紙12章にも、よく似たことが書かれています。「あなたがたを迫害する者のために、祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(…)誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」自分で復讐するな。神がすべての罪と悪を、必ず正しく裁いて下さる。但し、その時には、私どもの罪も裁かれることを忘れることができません。いずれにしても、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。そして結論は「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と書かれています。これが目的です。「善をもって、悪に勝て。」「愛をもって、悪に勝て。」悪によって悪に勝つのではなく、暴力によって暴力に勝つのではなくて、善と愛によって悪に勝て、というのです。これが真の信仰の勇者の戦いです。

 「敵を愛しなさい」は、すばらしい御言葉ですが、実行は非常に難しいと、誰しも思います。イエス様こそ、この御言葉を自ら実践なさったと、私たちは知っています。ルカ福音書23章34節で、イエス様が十字架につけられた時の祈りです。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られた祈りです。これは御自分を十字架につける敵を赦し、愛する祈りです。イエス様を
直接十字架につける人々だけでなく、私たちもイエス・キリストを救い主と信じる前は、神様に背く神様の敵だったのです。ローマの信徒への手紙5章10節に、こう書かれています。「敵であったときでさえ、御子(イエス様)の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」「敵であったときでさえ」とありますから、私たちはイエス様を信じて罪を悔い改め前は、父なる神様とイエス様に背く敵だったのです。イエス様は、敵であった私たちのために、私たち敵を愛して、十字架で死んで下さいました。

 旧約聖書・列王記下6章のエピソード。イスラエルの民が敵を愛した実例。
約10年前に修養会でお招きした棚村牧師が語られたこと。
コヴェル宣教師夫妻の娘さん。箴言19章11節「背きを赦すことは人に輝きをそえる。」  昨年3月に訪問した韓国の提岩里(チェアムリ)教会
最近の若い世代は忠臣蔵(赤穂浪士)を知らない。よいこと。あのかたき討ちの話が日本人に喜ばれたことは問題。イエス様の「敵を赦す心」「敵を愛する心」と正反対。しかも12月のクリスマスの時期に放映されてきた(討ち入りが12月だった)。次第に忘れられることが望ましい。敵を愛することは困難ですが、トライしたい。

2025-02-16 2:33:10()
「貧しい人々は、幸い」 2025年2月16日(日)降誕節第8主日公同礼拝
(コヘレトの言葉2:1~11) わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。笑いに対しては、狂気だと言い/快楽に対しては、何になろうと言った。わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。大規模にことを起こし/多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。庭園や果樹園を数々造らせ/さまざまの果樹を植えさせた。池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。買い入れた男女の奴隷に加えて/わたしの家で生まれる奴隷もあり/かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く/牛や羊と共に財産として所有した。金銀を蓄え/国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ/人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって/わたしは大いなるものとなり、栄えたが/なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ/どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。しかし、わたしは顧みた/この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく/風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。

(ルカ福音書6:20~26) さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」


(説教) 本日は、降誕節第8主日の礼拝です。説教題は「貧しい人々は、幸い」、小見出しは「幸いと不幸」です。

 先週の箇所で、イエス様は山に登って夜を徹して祈られ、12人の弟子たち(使徒たち)を選ばれました。その後、12人と共に山から下りて、平らな所にお立ちになりました。平地は、人々の現実の生活の場で、様々な病気に悩む人々がおりました。人生の辛い多くの現実があったのです。その平地で、イエス様は目を上げ、弟子たちを見て語られました、この説教を「平地の説教」と呼びます。マタイによる福音書5~7章には、有名な「山上の説教」があります。「平地の説教」と「山上の説教」の内容は、よく似ています。このような説教は、イエス様が平地や山の上で、一回ずつ語られただけでなく、イエス様の地上の人生の間、様々な機会に繰り返し語られたのだと思います。

 最初に「幸い」について語られます。幸いとは祝福です。私たちが普通に考える祝福とは正反対のことが語られ、しかもそれが「幸いだ、祝福だ」とおっしゃるのですから、「え? それが祝福ですか。違うのではありませんか」と言いたくなります。しかしイエス様は、ここに語られていることこそが、「真の祝福」だとおっしゃりたいのだと思います。「貧しい人々、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」私たちは、ここでつまづくのではないでしょうか。経済的に貧しくて、ご飯も食べられないと、辛い。貧困は苦しい。貧しいのは困る、と思うのではないでしょうか。マタイによる福音書5章3節(山上の説教)では、イエス様は「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」とおっしゃっています。
マタイ福音書では、「心の貧しい人々は幸い」とおっしゃり、ルカ福音書では、「心」という言葉がなくて、「貧しい人々は、幸い」となっています。

 イエス様と弟子たちは、多くのお金はもっていなかったと思います。イスカリオテのユダが金入れを預かる会計だったとヨハネ福音書にありますから、無一文ではなかったと思いますが、多くのお金は持っていなかったでしょう。経済的には貧しいながらも、父なる神様から必要な食物等を与えられて、伝道に励む日々だったと思います。ご自分たちも貧しいが、父なる神様に愛されて、父なる神様と共に歩んでている。だからこそ、心には平安があり、「貧しい人々は、幸い(幸せ)である。神の国はあなた方のものである」と確信をもって語ることができました。イエス様と弟子たちが、まさにそうだったからです。この世の権力や富をたくさん持って横暴に生きる人よりも、貧しくても、いつも神様に深く信頼して、神様と共に歩んでいる人々のほうが、本当の意味で祝福されていて、幸せだ、とイエス様はおっしゃっているのではないでしょうか。

 このようなメッセージは、旧約聖書のコヘレトの言葉や箴言に、既によく見られます。コヘレトの言葉や箴言は、まとめて「知恵文学」と呼ばれます。コヘレトという人は、実は栄華を極めたソロモン王だと、伝統的に言われています。この世で栄華を極めることは空しいというのが、コヘレトの言葉の基本にはありますね。2章4節以下に、こう記されています。コヘレト(ソロモン王)は、「大規模にことを起こし、多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。庭園や果樹園を数々造らせ、様々の果樹を植えさせた。(…)勝枝かつてエルサレムに住んだ者の誰よりも多く、牛や羊と共に財産として所有した。金銀を蓄え、国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ、人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。かつてエルサレムに住んだ者の誰にもまさって、私は大いなる者となり、栄えたが、なお、知恵は私のもとにとどまっていた。目に望ましく映るものは何一つ拒まず手に入れ、どのような快楽も余さず試みた。(…)見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。」

 ルカ福音書に戻り、21節「今飢えている人々は、幸いである、あなたがた満たされる。」これも共感しにくい御言葉です。終戦後の食糧不足を体験された方々もおられます。ひもじい思いは辛かったに違いありません。世間には「食べ物の恨みは恐ろしい」という言葉もあります。しかし、神様はこの世の中で大きい者や強い者が幅を利かせている現実を、ひっくり返して下さるというのです。このルカ福音書16章の「金持ちとラザロ」の話が思い出されます。ある金持ちがいて、ぜいたくに遊び暮らしていたが、この人の門前にラザロというできものだらけの貧しい人が横たわっていた。金持ちは、貧しいラザロを助けなかったようです。やがてラザロが死ぬと、天使たちによって天国と思われる所に運ばれた。金持ちは、死者の国に行き、炎の中でもだえ苦しんだ。地上での立場が、ひっくり返ったという話です。金持ちがそうなったのは、自分が経済的に恵まれていたのに、貧しく病気のラザロを助けなかったからだと読むことができます。神様は、このような逆転を引き起こすことがおできになす。だからこのような結果にならないように注意しなさい、という警告の話と読むことができます。また、今貧しくて苦しんでいる方々にも、神様が逆転の恵みを与えて下さるとの約束です。それは天国で、ということになる可能性がありますが。神様が今の労苦に必ず報いて下さるという約束です。「今、泣いている人々は、幸いである。あなた方は笑うようになる。」

 「今泣いている人々が幸い」も、共感しにくい言葉です。しかし、地上では貧しくできものだらけで苦しんだラザロは、天国に上げられ、永遠の祝福に入ったのです。また、コリントの信徒への手紙(二)1章3節以下の御言葉(使徒パウロの言葉)も、「今泣いている人々は幸い」の御言葉を理解する助けになると思います。「私たちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かに下さる神が、ほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を、慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。(…)兄弟たち、アジア州で私たちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。私たちは耐えらえないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。私たちとしては、死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させて下さる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救って下さったし、また救って下さることでしょう。これからも救って下さるに違いないと、私たちは神に希望をかけています。」「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなた方のものである。今飢えている人々は、幸いである。あなた方は満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなた方は笑うようになる。」特に、神様に従って、貧しくなっている人々、今飢えている人々、今泣いている人々は、幸いである。最後には、神様が必ず神の国の愛と祝福と恵みによって報いて下さる。

 22~23節「人々に憎まれるとき、また人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなた方は幸いである。その日には、喜び躍りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」 杉原千畝。 イエス・キリストにひたすら従う時、迫害を受けることがあります。しかし本当にイエス様に従っているなら、神様に喜ばれているので、この地上で報われないこともあるが、天国で大きな報いを受けるから、喜び躍れ、というのです。

 24節以下は、幸いの反対の不幸が語られます。「しかし、富んでいるあなた方は不幸である。あなた方はもう慰めを受けている。」これはお金もたっぷりあって、地上の生活にすっかり満ちて足りている人の姿です。いろいろなことも順調なのです。それが悪いとは言いきれません。全て神様の恵みなのですから。しかしその幸せを当たり前と思い、与えて下さる神様に感謝もせず、他の人に分け与えもしないなら傲慢で、災いです。「金持ちとラザロ」の金持ちにようになるかもしれません。日本の平安時代に藤原道長という貴族が、「この世をば わが世とぞ思う望月の、欠けたることもなしと思へば」という歌を詠んで、栄耀栄華の絶頂にいたと思われますが、傲慢な歌だと思うのは、私一人ではないと思います。栄耀栄華を極めて傲慢になっていたとすれば、彼は実は不幸だったのです。天国での報いはないのですから。

 「今満腹している人々、あなた方は不幸である。あなた方は飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である。あなた方は悲しみ泣くようになる。」この世で大いに成功し、自己満足に浸っている人と思います。この世のことが思い通りにいくので思い上がり、神様にも永遠の命にも、全く関心がないのです。神様に喜ばれるように、神様に全力でお仕えして生きていこう、という発想がありません。約40年前のフィリピンのマルコス大統領を思い出します。権力の絶頂を誇っていましたが、貧しい民衆の革命によって、ハワイに亡命を余儀なくされ、失意のうちに人生を終えたと思います。

 26節「すべての人にほめられるとき、あなた方は不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」事実に即した正しい褒め方もあると思います。ですが、人々は、力を持っている人にすり寄り、ご機嫌をとることを言うことがあります。そのような偽りの褒め言葉に乗って、いい気分にならないように注意する必要があります。むしろ、耳に痛いことを言って下さる方を大切にする必要がありますね。真の預言者は厳しい真実を語るので、人々に嫌われます。偽預言者は、人々に都合のよいことを言うので、人々に喜ばれます。そして偽預言者も、そのメッセージを喜ぶ人々も、共に神様から離れて、悪の道に落ち込む恐れがあるので、そうならないように私たちは皆、注意する必要があります。

 テモテへの手紙(二)4章2節以下が、思い出されます。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」ここを口語訳聖書は、こう訳していて、私には印象的です。「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め。」「耳ざわりのよい話」という言葉は印象的です。健全な福音を聴くのはもちろんよいのですが、聖書の教えでない「耳ざわりのよい話」を求めないように、私たち皆、気をつける必要があります。

 「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである。」これに似た御言葉は、旧約聖書の箴言に多い。「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい」(15章17節)。「稼ぎが多くても正義に反するより、僅かなもので恵みの業をする方がよい」(16章8節)。「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば、いけにえの肉で家を満たして争うよりよい」(17章1節)。日本人も、財産が必ずしも真の祝福を招かないことを、経験的に知っています。遺産が多くあると、却って相続争いを惹き起こすことがあるので、「子孫に美田を残さない方がよい」という知恵がありますね。

 「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである。」イエス様こそ、まさに貧しくなって、天から私たち罪人(つみびと)のもとに降りて来られました。コリントの信徒への手紙(二)8章9節「主(イエス様)は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです。」イエス様は、貧しい家畜小屋で生まれ、十字架の死に至る、まで、最も貧しい底辺に降ってくださいました。

 貧しさは謙虚さに通じます。旧約聖書のダビデ王が、貧しさに徹した場面が、サムエル記下6章にあります。ダビデたちは、モーセの十戒を刻んだ二枚の板の入った神の箱をエルサレムに運び上げようとして、一回目は、神様への恐れ敬いが足りず、手痛い失敗をしました。しかし、より御心に即して慎重に行った二回目は、神の箱をエルサレムに運び上げることに、成功しました。神様の前でダビデは、喜んで力の限り跳ね踊りました。妻ミカルに馬鹿にされて、こう言われました。「今日のイスラエル王はご立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」しかしダビデ王は、妻ミカルにこう語ります。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、この私を選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前で私は躍ったのだ。私はもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたちからは、敬われるだろう。」

 「私はもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。」これは「神様の前に、もっと貧しい者になろう」ということです。ダビデのこの謙遜は姿勢を、神様は喜ばれたと思うのです。この約1000年後に、ダビデの子孫として生まれたイエス様(正確にはダビデの子孫ヨセフの長男(血のつながりはないが))こそ、この精神でもっとへりくだって十字架にかかって、最も貧しくなって下さいました。

 週報の最後のページに書いたように、私は先週火曜日に、栃木県那須塩原市にあるアジア学院に行きました。20年ぶりです。キリスト教精神による農村指導者養成学校で、アジア・アフリカからの研修生も多いです。アジア学院のモットーの1つが「サーヴァント・リーダーシップ」です。「僕(しもべ)としてのリーダーシップ」。日本家屋の礼拝堂に、弟子たちの足を洗うイエス様の絵が掲げられていました。イエス様こそ、サーヴァント・リーダーシップの模範です。礼拝でお話しする人が座る所が、掘りごたつのような一番下にあり、これがサーヴァント・リーダーシップをまさに体現していました。イエス様のように低い場所、貧しい立場に立つリーダーこそ必要ということです。「貧しい人々は幸いである。神の国は、あなた方のものである」の御言葉に、よく通じると感じたのです。アーメン。