
2026-02-15 0:12:21()
「私たちを集めてくださるイエス様の愛」 2026年2月15日(日)伝道礼拝
(ルカによる福音書13:31~35)
ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
(説教) 本日は、伝道礼拝、説教題は「私たちを集めてくださるイエス様の愛」です。小見出しとしては「エルサレムのために嘆く」です。
前回のルカによる福音書で、イエス様は「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われました。強い言葉です。旧約聖書以来の神の民イスラエルの人々と私たちへのメッセージと思います。
最初の31節「ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去って下さい。ヘロデがあなたを殺そうとしています。』」
ファリサイ派というと、イエス様と対立しているイメージがありますが、このファリサイ派の人々は、イエス様に好意的だったようです。このヘロデとは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスです。ローマ皇帝のような巨大な権力者ではなく、ローマ帝国の支配の下で、ガリラヤ地方を治めていた地方の小権力者でした。自分の兄の妻を奪って、自分の妻としていました。その罪を非難した洗礼者ヨハネを殺害した人物です。洗礼者ヨハネを憎んだのですから、ヨハネと親しいイエス様にも敵意を抱いたのでしょう。イエス様を殺害しようとしていたようです。ある訳では、この部分に「ヘロデの悪計」という小見出しをつけています。
イエス様は言われます。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にすべてを終える』と私が言ったと伝えなさい。」ヘロデのことを、「あの狐」と呼んでおられますが、狐はずる賢くて狡猾な動物と考えられていました。同時に狐の知恵は浅知恵とも考えらえていたそうです。イエス様は「ヘロデにこう伝えなさい」と言われます。「私は今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にすべてを終える、と私が言った、と伝えなさい。」イエス様は、「私には父なる神様から与えられた使命がある」と言われるのです。ヘロデがイエス様の邪魔をすることはできません。イエス様は、ひたすら父なる神様の御心を行うために、進んで行かれます。「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にすべてを終える。」ここに明らかに、イエス様の十字架の死と三日目の復活が暗示されています。「三日目にすべてを終える。」「全てを終える」という言葉は、「完成する」の意味です。ヨハネ福音書19章の、イエス様の十字架上の最後の言葉を思い出すことができます。「イエスはこのぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」「成し遂げられた」は「完成された」の意味です。全ての人の全ての罪を背負いきる使命が完成された、の意味です。その使命の達成を、ヘロデが妨げることはできないのです。
33節「だが、私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ないからだ。」「進まねばならない」の「ねばならない」は、元のギリシア語で「デイ」という小さな言葉です。私がよく申し上げるので、皆様もすっかりなじんでおられる言葉ではないかと思います。「デイ」は必然、神の必然を表します。イエス様の使命を表します。十字架にかかって私たちの全部の罪を背負いきる使命を指します。「私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。十字架に向かって。そして十字架を経ての復活に向かって。」
「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、あり得ないからだ。」実に厳しい言い方です。「エルサレム、エルサレム」と二度繰り返して呼び変えていますから、エルサレムへの愛が深いことが分かります。神の民イスラエルの首都エルサレムの人々が、これまで行って来たことは神様が派遣した預言者たちを殺して、神様に反逆することだったと、言われるのです。だからイエス様もエルサレムで死ぬとおっしゃっています。34節「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
エルサレムの人々は、真に神様のみを礼拝するように説く預言者たちの説教を無視し、偶像崇拝の罪に走った。モーセの十戒を守るように訴える預言者たちの説教をも、しばしば無視したのだと思います。イエス・キリストは、そのエルサレムの深い罪を悲しみ、その深い罪に対して、憤りを覚えておられるでしょう。新共同訳では「エルサレムのために嘆く」という小見出しを掲げていますが、別の訳では「エルサレムを非難」するという小見出しです。これは決して他人事ではなく、私たちもモーセの十戒を守らず、イエス様の招きを無視するなら、真の神様に背く罪を犯すことになります。
「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」神様は、イスラエルの民を、エジプトでの苦難の奴隷の日々から救い出して下さったのです。そして「私の愛を受けて、十の戒めを守って歩みなさい。私がいつも守るから」と言っておられたのですね。ところが、そこから迷い出ることの多いイスラエルの民でした。
本日の旧約聖書は申命記32章10節以下です。神様のイスラエルへの愛が印象深く語られます。「主は荒れ野で彼を見出し、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、ご自分の瞳のように守られた。鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように。ただ主のみ、その民を導き、外国の神は彼と共にいなかった。主はこれを丘陵の地に導き上り、野の作物で養い、岩から野蜜を、硬い岩から油を得させられた。彼らは、牛の凝乳、羊の乳、雄羊の脂身、バシャンの雄牛と雄山羊、極上の小麦を与えられ、深紅のぶどう酒、泡立つ酒を飲んだ。エシュルン(イスラエルの別名)はしかし、肥えると足でけった。お前は肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。」イスラエルにいわば裏切られた神様の深い悲しみが感じ取れます。
詩編61編には、こうあります。「神よ、私の叫びを聞き、私の祈りに耳を傾けて下さい。心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に、私を導いて下さい。あなたは常に私の避けどころ、敵に対する力強い塔となって下さいます。あなたの幕屋に私はとこしえに宿り、あなたの翼を避けどころとして隠れます。」「あなたの翼は私の避けどころ。」これは詩編を記した詩人たちが、最も愛した言い方です。クリスチャンが、自分の人生の歩みを一冊の本にまとめることがありますが、しばしば用いられる題は『み翼のかげに』だと聞いたことがあります。神様という御翼のかげに守られて、歩んで来た、という信仰を表す題です。
私たちは、神様のみ翼のかげに休み、憩うことができます。礼拝こそまさに、神様の、み翼のかげです。私たちはそこで安らいでいます。イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。めん鳥のような、父なる神様のみ翼のかげで、私たちは休ませていただきます。詩編94編19節。池上先生を送って下さった神様。
ですがイエス様が嘆かれます。「だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」イエス・キリストは、今日も全ての人を招いておられます。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストに立ち帰り、洗礼を受けて永遠の命を受けなさいと、呼びかけておられます。私たちもそれを知って、イエス様の伝道のお手伝いを致します。ですが残念ながら、なかなか振り向いてもらえません。
ルカによる福音書の次のページの上の段の終わりの方を見ると、こうあります。神様が、神の国の宴会に、人々を招く場面です。皆次々に断るのです。「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか失礼させて下さい。」 「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させて下さい。」 「妻を迎えたばかりなので、行くことができません。」 皆、もっともな理由ではあります。しかし、最も大切な神様からのお招きを断るとは、やはり残念過ぎます。イエス・キリストは言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(食べ物、飲み物、着る物)はみな、加えて与えられる。」
本日の35節。イエス様の、イスラエルの民への言葉。「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」これは将来の希望を語っているように思われます。「主の名によって来られる方に、祝福があるように。」これはまず、暫く後にイエス様がエルサレムの都に入られるときに実現します。弟子の群れがこぞって、神を賛美するのです。「主の名によって来られる方、王に祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
しかしイスラエルの民はその後、神の子イエス様を十字架につけて殺す大罪を犯し、神様に反逆し、その約30年後に、ローマ帝国の軍隊に攻撃され、エルサレムは一旦滅びるという報いを受けます。しかしイエス様は、そのさらに将来の希望を語っていると思われます。イスラエルの民が本当に悔い改めて、イエス様をメシア(旧約聖書の預言者たちが預言した救い主)と信じ告白して、救われていく世の終わりの時の希望です。これについてはイエス・キリストの使徒パウロが、ローマの信徒への手紙11章25節以下で語っています。「兄弟たち(異邦人のクリスチャンたち)、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてある通りです。『救う方がシオン(エルサレム)から来て、ヤコブ(イスラエル)から不信心を遠ざける。これこそ、わたしが彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。』」これは旧約聖書のイザヤ書とエレミヤ書からの引用ですが、「救う方(イエス様、父なる神様)がシオンから来て、ヤコブ(イスラエル)から不信心を遠ざける」とあります。つまりイエス様か父なる神様が、イスラエルから不信仰を遠ざけ、信仰を与えると読めます。イエス様の目の前の現状は、イスラエルの民が非常にかたくなでイエス様を拒否し神様に逆らっている。しかし将来、必ず異邦人が罪を悔い改め、イスラエルの民が罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じる希望の日が来る。そうイエス様は確信しておられるのですね。
どのようなプロセスでそうなるのか、分かりません。私たちがなすべきことはただ一つ。私たち自身が、イエス・キリストの招きに応え、イエス・キリストに従う者になることです。神様の招きに応えることを第一にして、天国に入るまでご一緒に歩み通しましょう。アーメン。
ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
(説教) 本日は、伝道礼拝、説教題は「私たちを集めてくださるイエス様の愛」です。小見出しとしては「エルサレムのために嘆く」です。
前回のルカによる福音書で、イエス様は「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われました。強い言葉です。旧約聖書以来の神の民イスラエルの人々と私たちへのメッセージと思います。
最初の31節「ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去って下さい。ヘロデがあなたを殺そうとしています。』」
ファリサイ派というと、イエス様と対立しているイメージがありますが、このファリサイ派の人々は、イエス様に好意的だったようです。このヘロデとは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスです。ローマ皇帝のような巨大な権力者ではなく、ローマ帝国の支配の下で、ガリラヤ地方を治めていた地方の小権力者でした。自分の兄の妻を奪って、自分の妻としていました。その罪を非難した洗礼者ヨハネを殺害した人物です。洗礼者ヨハネを憎んだのですから、ヨハネと親しいイエス様にも敵意を抱いたのでしょう。イエス様を殺害しようとしていたようです。ある訳では、この部分に「ヘロデの悪計」という小見出しをつけています。
イエス様は言われます。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にすべてを終える』と私が言ったと伝えなさい。」ヘロデのことを、「あの狐」と呼んでおられますが、狐はずる賢くて狡猾な動物と考えられていました。同時に狐の知恵は浅知恵とも考えらえていたそうです。イエス様は「ヘロデにこう伝えなさい」と言われます。「私は今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にすべてを終える、と私が言った、と伝えなさい。」イエス様は、「私には父なる神様から与えられた使命がある」と言われるのです。ヘロデがイエス様の邪魔をすることはできません。イエス様は、ひたすら父なる神様の御心を行うために、進んで行かれます。「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にすべてを終える。」ここに明らかに、イエス様の十字架の死と三日目の復活が暗示されています。「三日目にすべてを終える。」「全てを終える」という言葉は、「完成する」の意味です。ヨハネ福音書19章の、イエス様の十字架上の最後の言葉を思い出すことができます。「イエスはこのぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」「成し遂げられた」は「完成された」の意味です。全ての人の全ての罪を背負いきる使命が完成された、の意味です。その使命の達成を、ヘロデが妨げることはできないのです。
33節「だが、私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ないからだ。」「進まねばならない」の「ねばならない」は、元のギリシア語で「デイ」という小さな言葉です。私がよく申し上げるので、皆様もすっかりなじんでおられる言葉ではないかと思います。「デイ」は必然、神の必然を表します。イエス様の使命を表します。十字架にかかって私たちの全部の罪を背負いきる使命を指します。「私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。十字架に向かって。そして十字架を経ての復活に向かって。」
「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、あり得ないからだ。」実に厳しい言い方です。「エルサレム、エルサレム」と二度繰り返して呼び変えていますから、エルサレムへの愛が深いことが分かります。神の民イスラエルの首都エルサレムの人々が、これまで行って来たことは神様が派遣した預言者たちを殺して、神様に反逆することだったと、言われるのです。だからイエス様もエルサレムで死ぬとおっしゃっています。34節「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
エルサレムの人々は、真に神様のみを礼拝するように説く預言者たちの説教を無視し、偶像崇拝の罪に走った。モーセの十戒を守るように訴える預言者たちの説教をも、しばしば無視したのだと思います。イエス・キリストは、そのエルサレムの深い罪を悲しみ、その深い罪に対して、憤りを覚えておられるでしょう。新共同訳では「エルサレムのために嘆く」という小見出しを掲げていますが、別の訳では「エルサレムを非難」するという小見出しです。これは決して他人事ではなく、私たちもモーセの十戒を守らず、イエス様の招きを無視するなら、真の神様に背く罪を犯すことになります。
「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」神様は、イスラエルの民を、エジプトでの苦難の奴隷の日々から救い出して下さったのです。そして「私の愛を受けて、十の戒めを守って歩みなさい。私がいつも守るから」と言っておられたのですね。ところが、そこから迷い出ることの多いイスラエルの民でした。
本日の旧約聖書は申命記32章10節以下です。神様のイスラエルへの愛が印象深く語られます。「主は荒れ野で彼を見出し、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、ご自分の瞳のように守られた。鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように。ただ主のみ、その民を導き、外国の神は彼と共にいなかった。主はこれを丘陵の地に導き上り、野の作物で養い、岩から野蜜を、硬い岩から油を得させられた。彼らは、牛の凝乳、羊の乳、雄羊の脂身、バシャンの雄牛と雄山羊、極上の小麦を与えられ、深紅のぶどう酒、泡立つ酒を飲んだ。エシュルン(イスラエルの別名)はしかし、肥えると足でけった。お前は肥え太ると、かたくなになり、造り主なる神を捨て、救いの岩を侮った。」イスラエルにいわば裏切られた神様の深い悲しみが感じ取れます。
詩編61編には、こうあります。「神よ、私の叫びを聞き、私の祈りに耳を傾けて下さい。心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に、私を導いて下さい。あなたは常に私の避けどころ、敵に対する力強い塔となって下さいます。あなたの幕屋に私はとこしえに宿り、あなたの翼を避けどころとして隠れます。」「あなたの翼は私の避けどころ。」これは詩編を記した詩人たちが、最も愛した言い方です。クリスチャンが、自分の人生の歩みを一冊の本にまとめることがありますが、しばしば用いられる題は『み翼のかげに』だと聞いたことがあります。神様という御翼のかげに守られて、歩んで来た、という信仰を表す題です。
私たちは、神様のみ翼のかげに休み、憩うことができます。礼拝こそまさに、神様の、み翼のかげです。私たちはそこで安らいでいます。イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。めん鳥のような、父なる神様のみ翼のかげで、私たちは休ませていただきます。詩編94編19節。池上先生を送って下さった神様。
ですがイエス様が嘆かれます。「だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」イエス・キリストは、今日も全ての人を招いておられます。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストに立ち帰り、洗礼を受けて永遠の命を受けなさいと、呼びかけておられます。私たちもそれを知って、イエス様の伝道のお手伝いを致します。ですが残念ながら、なかなか振り向いてもらえません。
ルカによる福音書の次のページの上の段の終わりの方を見ると、こうあります。神様が、神の国の宴会に、人々を招く場面です。皆次々に断るのです。「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか失礼させて下さい。」 「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させて下さい。」 「妻を迎えたばかりなので、行くことができません。」 皆、もっともな理由ではあります。しかし、最も大切な神様からのお招きを断るとは、やはり残念過ぎます。イエス・キリストは言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(食べ物、飲み物、着る物)はみな、加えて与えられる。」
本日の35節。イエス様の、イスラエルの民への言葉。「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」これは将来の希望を語っているように思われます。「主の名によって来られる方に、祝福があるように。」これはまず、暫く後にイエス様がエルサレムの都に入られるときに実現します。弟子の群れがこぞって、神を賛美するのです。「主の名によって来られる方、王に祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
しかしイスラエルの民はその後、神の子イエス様を十字架につけて殺す大罪を犯し、神様に反逆し、その約30年後に、ローマ帝国の軍隊に攻撃され、エルサレムは一旦滅びるという報いを受けます。しかしイエス様は、そのさらに将来の希望を語っていると思われます。イスラエルの民が本当に悔い改めて、イエス様をメシア(旧約聖書の預言者たちが預言した救い主)と信じ告白して、救われていく世の終わりの時の希望です。これについてはイエス・キリストの使徒パウロが、ローマの信徒への手紙11章25節以下で語っています。「兄弟たち(異邦人のクリスチャンたち)、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてある通りです。『救う方がシオン(エルサレム)から来て、ヤコブ(イスラエル)から不信心を遠ざける。これこそ、わたしが彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。』」これは旧約聖書のイザヤ書とエレミヤ書からの引用ですが、「救う方(イエス様、父なる神様)がシオンから来て、ヤコブ(イスラエル)から不信心を遠ざける」とあります。つまりイエス様か父なる神様が、イスラエルから不信仰を遠ざけ、信仰を与えると読めます。イエス様の目の前の現状は、イスラエルの民が非常にかたくなでイエス様を拒否し神様に逆らっている。しかし将来、必ず異邦人が罪を悔い改め、イスラエルの民が罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じる希望の日が来る。そうイエス様は確信しておられるのですね。
どのようなプロセスでそうなるのか、分かりません。私たちがなすべきことはただ一つ。私たち自身が、イエス・キリストの招きに応え、イエス・キリストに従う者になることです。神様の招きに応えることを第一にして、天国に入るまでご一緒に歩み通しましょう。アーメン。
2026-02-08 0:57:31()
「狭い戸口から入りなさい」 2026年2月1日(日)降誕節第主7日公同礼拝
(ルカによる福音書13:18~30)
そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
◆狭い戸口
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
(説教) 本日は、降誕節第6主日公同礼拝、説教題は「狭い戸口から入りなさい」です。小見出しとしては「からし種とパン種のたとえ」と「狭い戸口」です。
最初の18節「そこで、イエスは言われた。『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それはからし種に似ている。人がそれを取って、庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。』」私も以前、イスラエルのからし種を見たことがありますが、一粒が極めて小粒、少しうっかりすると、たちまちどこかに紛れ込んで消えてします、とてもとてもとても小さな一粒だったことを思い出します。しかしイエス様がおっしゃるには、からし種には強い生命力があり、「人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」までに大きくなるというのです。
ある人によれば一粒のからし種は、当時のイスラエル(パレスティナ)で、考えられる最小のもののたとえです。今で言えば分子や原子のような極小のものです。しかしパレスティナのからし種は、しばしば2メートル、時には4メートル近くま成長したそうです。吹けば飛ぶような極小の一粒の種が、驚異的な成長を遂げる。これはもちろん神様の愛の力によってです。これは教会の成長の約束とも言えます。小さな教会の希望を与える御言葉です。西東京教区の中に「立川からしだね伝道所」があります。西東京教区としての開拓伝道で、設立されました。東久留米教会も立川からしだね伝道所も、神様の愛の力をいただいて、着実に成長するようにお祈りして参りましょう。現実には、いろいろな逆風に悩まされることもあると思います。悪魔の妨害が起こりますから。しかしイエス様が共におられるので、イエス様の復活の力をいただいて強い逆風にも負けないで、進みたいと祈ります。空の鳥は、イスラエル人でない異邦人を指すという人もいます。そうであれば、教会・神の国がイスラエルを超え、日本にも世界中にも、大きく成長することを意味するでしょう。
20節「また言われた。『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。』」パン種はイースト菌ですね。三サトンは約39ℓ、約50kgとのことです。一般家庭の感覚では、かなり重いですね。この量は、神様の恵みを表します。そこに神の国は成長力を秘めたパン種(イースト菌)が入る。すると約50 kgの粉が、さらに膨らんでゆくとイエス様は言われます。このようにして伝道が進み、神の国が成長するとイエス様は約束されました。私たちを元気づける約束です。最初のたとえは、最初極めて小さく見えた神の国は力強く成長する話、二つ目のたとえはそれを可能にするパン種の成長力を語るといます。成長力を持つのは、神の御言葉、聖書の御言葉です。一粒の麦。
次の小見出しは、「狭い戸口」です。22節「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」』」厳しい御言葉です。「狭い戸口から入るように努めなさい。」マタイ福音書7章にも、よく似た有名な御言葉があります。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」
狭い戸口から入りなさいとは、「神様を愛し、隣人を愛して生きよ」というメッセージではないかと思います。私たちは自己中心に生きる傾向の強い罪人(つみびと)ですから、これをなかなか完全には実行できないと感じます。でもその心がけはもちろん必要です。「神様を愛し、隣人を愛して生きる。」これが狭い戸口から入る生き方だとすると、それを完全に実行して下さった方は、私たちの救い主イエス・キリストお一人と思います。私たち罪人(つみびと)たちを愛し、私たちの全部の自己中心の罪を背負って、身代わりとなって十字架で死んで下さった、このイエス様の生き方こそ、私たちの先頭に立って、最も狭い戸口から入って、最も狭い道を通りぬけきって下さったその生き方こそ、まさに最も狭い戸口から入った生き方と思うのです。最も愛に満ち、最も困難に満ちた生き方だったと思うからです。私たちはおそらく、イエス様ほど「狭い戸口から入る」生き方が、なかなかできません。そこでイエス様が先頭に立って、最も狭い戸口から入る生き方、十字架にかかる生き方を実行して下さいました。私たちはイエス様が切り開いて下さった狭い戸口に入り、イエス様に従って狭い戸口の中の道を進みます。それは依然として狭い道ではありますが、でも先頭のイエス様が既に通って下さった後なので、私たちも多少努力すればその道を歩み通すことができます。
私たちは父なる神様から、「あなたが先頭に立って、最も狭い戸口から入って、最も狭い細い道を歩み通し、出口まで道を切り開き、貫通させなさい」と言われれば、できなかったでしょう。でもイエス様が十字架にかかることで、先頭としての務めを完全に成し遂げて下さいました。私たちは二番手か以下なので、既にできた道を通ればよい。それ依然として狭い道ですが、私たちでも努力すれば歩み通すことのできる道です。イエス様に感謝してイエス様に従って生き、イエス様ほどにはできなくても、自分にできる範囲で精一杯、神様を愛し隣人を愛して、生きて参りたいのです。もちろん自分をいじめる必要はなく、自分のことも正しく適切に愛しながら生きることになります。
25節~27節「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。」幸い、神の国のドアはまだ空いています。今なら、まだ間に合います。まだ当分開いている可能性もあります。しかしいつかは閉まります。イエス・キリストは、ヨハネ福音書12章35節で言われます。「光(イエス様)は、いま暫くあなた方の間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」今は天に召された東久留米教会のある方は、「この御言葉に励まされて、洗礼を受けた」と言っておられました。
それにしても、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」、こんな厳しいことをイエス様、父なる神様は本当におっしゃるのだろうか、と思う方もあると思うのです。プロテスタント教会は、信仰義認を説いているではないか。日本基督教団信仰告白でも、「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」と告白しているではないか、という意見も出ると思うのです。もちろん信仰義認は正しい。しかしイエス様を救い主と信じて聖霊を受けた人は、聖霊に励まされて、イエス様の愛に応答して、神を愛し、隣人を愛する第一歩へと必ず踏み出すはずなのです。イエス様を救い主と信じたなら、神の清き霊である聖霊を受け、聖霊(イエス様の愛の霊)に励まされ必ず、神と隣人を愛する生き方へ、踏み出さないことはあり得ないからです。一歩も踏み出さなかったなら、「不義を行う者ども、皆私から立ち去れ」と言われることはあり得るでしょう。
マタイ福音書25章が参考になります。世の終わりの「最後の審判」の場面です。審判をなさる方は、イエス様です。王(イエス様)が、ある人々に言われます。「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の日に入れ。」隣人に小さな親切を行わなかった人々に、こう言われています。その反対の人々もいます。イエス様にこう言っていただく人たちです。私たちもこうでありたいので、こちらを詳しく読みます。「王は右側にいる人々に言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは(聖書協会共同訳「あなたがた」!)、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。』そこで王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』」最も目立たない(失礼な言い方ですが)人にした親切は、イエス様にしたことと同じだと言われます。この小さな親切を行った人は天国に入り、それを全くしなかった人には、「この最も小さい人の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」とイエス様に言われ、「私から離れ去れ」と言われてしまうというのです。
ルカに戻り、28節以下。「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」イエス様のメッセージに耳を傾けない、イエス様の時代の神の民イスラエルの人々は、神の国から外に投げ出されてしまうという警告です。初めは神の民でなかった異邦人(イスラエル人以外)がイエス様のメッセージを素直に聴き入れて、神の国に入る。逆転現象が起こる。「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」私たちも皆、天国に入りきるまでは油断してはいけない、ということでしょう。
イエス様は、「狭い戸口から入りなさい」と言われます。それはイエス・キリストに従って、父なる神様と隣人を愛する生き方でしょう。イエス様は、「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである」と言われます。これが「狭い戸口から入る」生き方でしょう。渡邊良三『小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』岩波書店。
旧約聖書の箴言を読むと、色々な知恵が書かれています。これこそイエス様に従う生き方、狭い戸口から入る生き方と思える御言葉も多く記されています。3章27節以下「施すべき相手に善行を拒むな。あなたの手にその力があるなら。出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな。あなたが今持っているなら。」 3章34節「主は不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る。」 11章18、19節「慈善を蒔く人の収穫は真実。慈善は命への確かな道。」11章25節「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。」 14章31節「弱者を虐げる者は、造り主を嘲る。作り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。」 15章17節「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。」 16章7節「主に喜ばれる道を歩む人を、主は敵と和解させて下さる。」 17章5節「貧しい人を嘲る者は主をみくびる者。」災いのとき喜ぶ者は赦されない。」 17章17節「どのようなときにも、友を愛すれば、苦難のときの兄弟が生まれる。」 18章9節「仕事に手抜きする者は、それを破壊する者の兄弟だ。」 21章13節「弱い人の叫びに耳を閉ざす者は、自分が呼び求める時が来ても答えは得られない。」 24章10節以下「苦難の襲うとき気力を失い、力を出し惜しみ、死に捕らえられた人を救い出さず、殺されそうになっている人を助けず、『できなかったのだ』などと言っても、心を調べる方は見抜いておられる。」 17章17節以下「敵が倒れても喜んではならない。彼がつまずいても心を躍らせるな。主がそういうあなたを見て不快とされるなら、彼への怒りを翻されるであろう。」 25章21節「あなたを憎む者が飢えているなら、パンを与えよ。渇いているなら、水を飲ませよ。」 30章8節以下「貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで、私を養って下さい。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言う恐れがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません。」 これらの神様の知恵に満ちた御言葉を心に刻んで、実行するように心がけるなら、イエス様に従う生き方、狭い戸口から入る生き方、天国に入れていただける生き方になると思うのです。ご一緒に、狭い戸口から入る生き方で、生きて参りましょう。アーメン。
そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
◆狭い戸口
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
(説教) 本日は、降誕節第6主日公同礼拝、説教題は「狭い戸口から入りなさい」です。小見出しとしては「からし種とパン種のたとえ」と「狭い戸口」です。
最初の18節「そこで、イエスは言われた。『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それはからし種に似ている。人がそれを取って、庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。』」私も以前、イスラエルのからし種を見たことがありますが、一粒が極めて小粒、少しうっかりすると、たちまちどこかに紛れ込んで消えてします、とてもとてもとても小さな一粒だったことを思い出します。しかしイエス様がおっしゃるには、からし種には強い生命力があり、「人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」までに大きくなるというのです。
ある人によれば一粒のからし種は、当時のイスラエル(パレスティナ)で、考えられる最小のもののたとえです。今で言えば分子や原子のような極小のものです。しかしパレスティナのからし種は、しばしば2メートル、時には4メートル近くま成長したそうです。吹けば飛ぶような極小の一粒の種が、驚異的な成長を遂げる。これはもちろん神様の愛の力によってです。これは教会の成長の約束とも言えます。小さな教会の希望を与える御言葉です。西東京教区の中に「立川からしだね伝道所」があります。西東京教区としての開拓伝道で、設立されました。東久留米教会も立川からしだね伝道所も、神様の愛の力をいただいて、着実に成長するようにお祈りして参りましょう。現実には、いろいろな逆風に悩まされることもあると思います。悪魔の妨害が起こりますから。しかしイエス様が共におられるので、イエス様の復活の力をいただいて強い逆風にも負けないで、進みたいと祈ります。空の鳥は、イスラエル人でない異邦人を指すという人もいます。そうであれば、教会・神の国がイスラエルを超え、日本にも世界中にも、大きく成長することを意味するでしょう。
20節「また言われた。『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。』」パン種はイースト菌ですね。三サトンは約39ℓ、約50kgとのことです。一般家庭の感覚では、かなり重いですね。この量は、神様の恵みを表します。そこに神の国は成長力を秘めたパン種(イースト菌)が入る。すると約50 kgの粉が、さらに膨らんでゆくとイエス様は言われます。このようにして伝道が進み、神の国が成長するとイエス様は約束されました。私たちを元気づける約束です。最初のたとえは、最初極めて小さく見えた神の国は力強く成長する話、二つ目のたとえはそれを可能にするパン種の成長力を語るといます。成長力を持つのは、神の御言葉、聖書の御言葉です。一粒の麦。
次の小見出しは、「狭い戸口」です。22節「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」』」厳しい御言葉です。「狭い戸口から入るように努めなさい。」マタイ福音書7章にも、よく似た有名な御言葉があります。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」
狭い戸口から入りなさいとは、「神様を愛し、隣人を愛して生きよ」というメッセージではないかと思います。私たちは自己中心に生きる傾向の強い罪人(つみびと)ですから、これをなかなか完全には実行できないと感じます。でもその心がけはもちろん必要です。「神様を愛し、隣人を愛して生きる。」これが狭い戸口から入る生き方だとすると、それを完全に実行して下さった方は、私たちの救い主イエス・キリストお一人と思います。私たち罪人(つみびと)たちを愛し、私たちの全部の自己中心の罪を背負って、身代わりとなって十字架で死んで下さった、このイエス様の生き方こそ、私たちの先頭に立って、最も狭い戸口から入って、最も狭い道を通りぬけきって下さったその生き方こそ、まさに最も狭い戸口から入った生き方と思うのです。最も愛に満ち、最も困難に満ちた生き方だったと思うからです。私たちはおそらく、イエス様ほど「狭い戸口から入る」生き方が、なかなかできません。そこでイエス様が先頭に立って、最も狭い戸口から入る生き方、十字架にかかる生き方を実行して下さいました。私たちはイエス様が切り開いて下さった狭い戸口に入り、イエス様に従って狭い戸口の中の道を進みます。それは依然として狭い道ではありますが、でも先頭のイエス様が既に通って下さった後なので、私たちも多少努力すればその道を歩み通すことができます。
私たちは父なる神様から、「あなたが先頭に立って、最も狭い戸口から入って、最も狭い細い道を歩み通し、出口まで道を切り開き、貫通させなさい」と言われれば、できなかったでしょう。でもイエス様が十字架にかかることで、先頭としての務めを完全に成し遂げて下さいました。私たちは二番手か以下なので、既にできた道を通ればよい。それ依然として狭い道ですが、私たちでも努力すれば歩み通すことのできる道です。イエス様に感謝してイエス様に従って生き、イエス様ほどにはできなくても、自分にできる範囲で精一杯、神様を愛し隣人を愛して、生きて参りたいのです。もちろん自分をいじめる必要はなく、自分のことも正しく適切に愛しながら生きることになります。
25節~27節「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。」幸い、神の国のドアはまだ空いています。今なら、まだ間に合います。まだ当分開いている可能性もあります。しかしいつかは閉まります。イエス・キリストは、ヨハネ福音書12章35節で言われます。「光(イエス様)は、いま暫くあなた方の間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」今は天に召された東久留米教会のある方は、「この御言葉に励まされて、洗礼を受けた」と言っておられました。
それにしても、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」、こんな厳しいことをイエス様、父なる神様は本当におっしゃるのだろうか、と思う方もあると思うのです。プロテスタント教会は、信仰義認を説いているではないか。日本基督教団信仰告白でも、「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」と告白しているではないか、という意見も出ると思うのです。もちろん信仰義認は正しい。しかしイエス様を救い主と信じて聖霊を受けた人は、聖霊に励まされて、イエス様の愛に応答して、神を愛し、隣人を愛する第一歩へと必ず踏み出すはずなのです。イエス様を救い主と信じたなら、神の清き霊である聖霊を受け、聖霊(イエス様の愛の霊)に励まされ必ず、神と隣人を愛する生き方へ、踏み出さないことはあり得ないからです。一歩も踏み出さなかったなら、「不義を行う者ども、皆私から立ち去れ」と言われることはあり得るでしょう。
マタイ福音書25章が参考になります。世の終わりの「最後の審判」の場面です。審判をなさる方は、イエス様です。王(イエス様)が、ある人々に言われます。「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の日に入れ。」隣人に小さな親切を行わなかった人々に、こう言われています。その反対の人々もいます。イエス様にこう言っていただく人たちです。私たちもこうでありたいので、こちらを詳しく読みます。「王は右側にいる人々に言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは(聖書協会共同訳「あなたがた」!)、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。』そこで王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』」最も目立たない(失礼な言い方ですが)人にした親切は、イエス様にしたことと同じだと言われます。この小さな親切を行った人は天国に入り、それを全くしなかった人には、「この最も小さい人の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」とイエス様に言われ、「私から離れ去れ」と言われてしまうというのです。
ルカに戻り、28節以下。「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」イエス様のメッセージに耳を傾けない、イエス様の時代の神の民イスラエルの人々は、神の国から外に投げ出されてしまうという警告です。初めは神の民でなかった異邦人(イスラエル人以外)がイエス様のメッセージを素直に聴き入れて、神の国に入る。逆転現象が起こる。「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」私たちも皆、天国に入りきるまでは油断してはいけない、ということでしょう。
イエス様は、「狭い戸口から入りなさい」と言われます。それはイエス・キリストに従って、父なる神様と隣人を愛する生き方でしょう。イエス様は、「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである」と言われます。これが「狭い戸口から入る」生き方でしょう。渡邊良三『小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』岩波書店。
旧約聖書の箴言を読むと、色々な知恵が書かれています。これこそイエス様に従う生き方、狭い戸口から入る生き方と思える御言葉も多く記されています。3章27節以下「施すべき相手に善行を拒むな。あなたの手にその力があるなら。出直してくれ、明日あげよう、と友に言うな。あなたが今持っているなら。」 3章34節「主は不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る。」 11章18、19節「慈善を蒔く人の収穫は真実。慈善は命への確かな道。」11章25節「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。」 14章31節「弱者を虐げる者は、造り主を嘲る。作り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。」 15章17節「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。」 16章7節「主に喜ばれる道を歩む人を、主は敵と和解させて下さる。」 17章5節「貧しい人を嘲る者は主をみくびる者。」災いのとき喜ぶ者は赦されない。」 17章17節「どのようなときにも、友を愛すれば、苦難のときの兄弟が生まれる。」 18章9節「仕事に手抜きする者は、それを破壊する者の兄弟だ。」 21章13節「弱い人の叫びに耳を閉ざす者は、自分が呼び求める時が来ても答えは得られない。」 24章10節以下「苦難の襲うとき気力を失い、力を出し惜しみ、死に捕らえられた人を救い出さず、殺されそうになっている人を助けず、『できなかったのだ』などと言っても、心を調べる方は見抜いておられる。」 17章17節以下「敵が倒れても喜んではならない。彼がつまずいても心を躍らせるな。主がそういうあなたを見て不快とされるなら、彼への怒りを翻されるであろう。」 25章21節「あなたを憎む者が飢えているなら、パンを与えよ。渇いているなら、水を飲ませよ。」 30章8節以下「貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで、私を養って下さい。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言う恐れがあります。貧しければ、盗みを働き、私の神の御名を汚しかねません。」 これらの神様の知恵に満ちた御言葉を心に刻んで、実行するように心がけるなら、イエス様に従う生き方、狭い戸口から入る生き方、天国に入れていただける生き方になると思うのです。ご一緒に、狭い戸口から入る生き方で、生きて参りましょう。アーメン。
2026-02-01 2:04:15()
「安息日に起きた解放」 2026年1月27日(日)降誕節第主6日公同礼拝
(ルカによる福音書13:10~21)
安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
(説教) 本日は、降誕節第5主日公同礼拝、説教題は「安息日に起きた解放」です。小見出しとしては「安息日に、腰の曲がった婦人をいやす」です。
イエス様は、ガリラヤからエルサレムへ向かう旅の中にあられたと思います。
最初の10節「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。」イエス様は、モーセの十戒に従って、安息日である土曜日にはユダヤ人の会堂で、父なる神様を礼拝しておられました。11節「そこに、18年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」何らかの原因で腰を痛め、18年間も腰が曲がったままで硬直した状態だったのだと思います。血の巡りも悪かったかもしれません。私も同じような状態の方に出会ったことがあります。歩いて進むことにも時間がかかり、食べて行くための仕事を行うことも難しい、日常の家事を行うことも、簡単ではなかったと思います。家から礼拝のために会堂に来ることも、他の人よりきつかったと思います。しかし父なる神様と、神の子イエス様は、彼女を見捨てたりしません。この女性の痛みを、ご自分の痛みとして共に痛む思いになられ、愛を込めて腰をいやして下さいました。この女性の年齢は分かりません。何才であっても、18年間の腰の間の腰の曲がりはきつかったと思います。いろいろ治療にも努めたかと思いますが、よくなることはありませんでした。もう治ることは諦めていたかもしれません。しかしイエス様は、癒して下さいました。
12節「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。」手は複数形なので、両手を置かれたのです。イエス・キリストは神の子であり、三位一体の神様ご自身でもあります。父なる神様、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神のうちの、「子なる神」がイエス・キリストです。イエス・キリストは100%神であり、同時に100%人間でもあります。そのイエス様の両手は、神の両手でもあります。
旧約聖書の詩編95編4節には、こう記されています。「深い地の底も御手の内にあり、山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。」父なる神様の御手が天地を創造されたのですから、イエス・キリストの手が天地創造を成し遂げたと言えます。その御手が、あの女性の上に置かれ、女性の腰は完全に癒されました。癒しは新しい創造とも言えます。詩編104編25節以下には、こう書かれています。「海も大きく豊かで、その中を動き回る大小の生き物は数知れない。(~)あなた(神様)がお与えになるものを彼らは集め、御手を開かれば彼らは良い物に満ち足りる。」神様が御手を開いて、海の生き物たちに、愛をもって食べ物を与えて下さっています。その神様が、イエス様として地上の降って来られ、愛の御手を置いて、あの女性の腰を完全に癒されました。私たちのために十字架で釘で穴が開けられる両手です。
「婦人よ、病気は治った」の「治った」の元のギリシア語は、「解放された」という意味の言葉です。彼女は病から解放されました。イエス様は16節で、「この女はアブラハムの娘(イスラエルの偉大な信仰の先祖アブラハムの子孫)なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と言っておられます。女性を束縛から解くべき解放するべきと言われました。イエス様が12節で言われた「解放された」と、16節の「解いてやるべき」は深く通じています。
「女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」ルカによる福音書には、このような場面が多くて嬉しいですね。本日の終わりの17節も、「群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て、喜んだ」とあります。1章の「マリアの賛歌」では、イエス様の母マリアが讃美しています。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」18章では、もうすぐエルサレムの都に入るイエス様が、盲人の目を開かれました。「盲人は、たちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」とあります。
14節「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人を癒されたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」この会堂長は、私たちにとって反面教師であって、このようにならないように気をつける必要があると思わせられます。会堂長は、イエス様がなさった癒しそのものには反対はないのでしょう。安息日に癒したことがいけない、と主張しています。
ご存じのように、安息日の規定はモーセの十戒の第四の戒めとして出エジプト記20章と申命記5章に明記されています。但し出エジプト記20章と申命記5章では、書き方が少し違います。出エジプト記20章の安息日の規定はこうです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」確かに「いかなる仕事もしてはならない」と明記されています。会堂長は、病を癒すことも仕事になると考え、癒しを行うと安息日違反になると考えて、腹を立てたのです。
しかしイエス様は、申命記5章のモーセの十戒の安息日規定を、より重視されたのではないかと思います。こうあります。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」ここまではほぼ同じです。この後が違います。「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手を御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」イスラエルの民が安息日に仕事を休めば、家の奴隷(使用人)も主人と同じように休むことができる。労働から解放される。イスラエルの民はかつて、エジプトの国で奴隷として苦しい日々を送っていた。神様が出エジプト(エジプト脱出)の解放の道を与えて下さった。その解放の恵みを思い出して仕事を休む日が安息日だ。だから安息日に隣人の病を癒し、隣人を病から解放することこそ、安息日に最もふさわしいことだ。これがイエス様のお考えで、安息日についての正しい解釈ではないかと思います。安息日は、労働から解放されて父なる神様を礼拝し、隣人を重荷から解放する日なのですね。
イエス様は会堂長とその仲間に言われます。「偽善者たちよ、あなたたちは誰でも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて(解放して)、水を飲ませに引いて行くではないか。」確かに出エジプト記23章5節にこうあります。「もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。」安息日でもそうなのでしょう。だから、とイエス様は言われます。「この女はアブラハムの娘(信仰の父アブラハムの子孫の女性、つまり神の民イスラエルの女性)なのに、18年もの間サタン(悪魔)に縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。」
私たちは、「あの会堂長はなぜ、あんなに安息日の癒しに反対したのだろうか」と思います。しかしユダヤ人たちが安息日を守ったその守り方は、狂気じみていたケースもあったと思われます。旧約聖書の時代と新約聖書の時代の中間時代の歴史を記したマカバイ記という書物があります。続編。アンティオコス・エピファネスという悪い王がイスラエルを攻めたとき、彼らは安息日に攻撃しました。ユダヤ人たちは応戦せず、投石はおろか隠れ場を守ることもせず、言いました。「我々は全員、潔く死ぬ。」敵は安息日に攻撃し、ユダヤ人たちは「防衛することも、仕事になり、安息日の戒めに違反する」と考え、無抵抗だったので、一千人が死んだと書かれています。その後さすがのユダヤ人達も話し合い、「安息日だからといって防衛もしなければ、自分たちは地上から抹殺されてしまう。これからは安息日であっても、攻めて来る敵は戦おう」と方針を変えました。でもその前までは、安息日を守るためなら全滅しても仕方ない。安息日を絶対守ると決心していたのです。安息日への熱心を通り越して、狂気じみていると感じます。このような異常なまでの安息日への熱心さを受け継いだのが、イエス様の時代の律法学者、ファリサイ派、今日の会堂長のような信仰のリーダーたちだったと思うのです。しかしイエス様はきっと、安息日への狂気じみた熱心さを軌道修正して、健全な熱心さへ導いて下さったと思うのです。安息日をヘブライ語でシャバットと言うそうです。これには中断するという意味が含まれていると聞きます。それは仕事を中断すること、人間の業を中断してやめること、人間の罪を中断して罪をストップして、罪を犯すことをやめること。これが安息日に私たちがストップするべき最たるものだと思うのです。人を病から癒すことは、解放を与えることで、安息日に最もふさわしいことなのです。
レビ記25章。ヨベルの年。私たちに真の安息(真のヨベルの年)を与えて下さるのは、イエス・キリストの十字架と復活。ローマの信徒への手紙8章1節以下。
私たちはイエス様の十字架と復活のお陰で、「罪、死、律法、神の怒り、悪魔」の支配から解放された。真の安息を与えられた。これがイエス・キリストの福音。
ヨハネの黙示録14章13節。ですが、天国に決して急がないで下さい。
18年間の辛い病から解放された女性を同じように、イエス様は私たちにも真の解放と安息を与えて下さいました。その保証の聖餐式のパンとぶどう液を、これから感謝をもっていただきます。アーメン。
安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
(説教) 本日は、降誕節第5主日公同礼拝、説教題は「安息日に起きた解放」です。小見出しとしては「安息日に、腰の曲がった婦人をいやす」です。
イエス様は、ガリラヤからエルサレムへ向かう旅の中にあられたと思います。
最初の10節「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。」イエス様は、モーセの十戒に従って、安息日である土曜日にはユダヤ人の会堂で、父なる神様を礼拝しておられました。11節「そこに、18年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」何らかの原因で腰を痛め、18年間も腰が曲がったままで硬直した状態だったのだと思います。血の巡りも悪かったかもしれません。私も同じような状態の方に出会ったことがあります。歩いて進むことにも時間がかかり、食べて行くための仕事を行うことも難しい、日常の家事を行うことも、簡単ではなかったと思います。家から礼拝のために会堂に来ることも、他の人よりきつかったと思います。しかし父なる神様と、神の子イエス様は、彼女を見捨てたりしません。この女性の痛みを、ご自分の痛みとして共に痛む思いになられ、愛を込めて腰をいやして下さいました。この女性の年齢は分かりません。何才であっても、18年間の腰の間の腰の曲がりはきつかったと思います。いろいろ治療にも努めたかと思いますが、よくなることはありませんでした。もう治ることは諦めていたかもしれません。しかしイエス様は、癒して下さいました。
12節「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。」手は複数形なので、両手を置かれたのです。イエス・キリストは神の子であり、三位一体の神様ご自身でもあります。父なる神様、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神のうちの、「子なる神」がイエス・キリストです。イエス・キリストは100%神であり、同時に100%人間でもあります。そのイエス様の両手は、神の両手でもあります。
旧約聖書の詩編95編4節には、こう記されています。「深い地の底も御手の内にあり、山々の頂も主のもの。海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。」父なる神様の御手が天地を創造されたのですから、イエス・キリストの手が天地創造を成し遂げたと言えます。その御手が、あの女性の上に置かれ、女性の腰は完全に癒されました。癒しは新しい創造とも言えます。詩編104編25節以下には、こう書かれています。「海も大きく豊かで、その中を動き回る大小の生き物は数知れない。(~)あなた(神様)がお与えになるものを彼らは集め、御手を開かれば彼らは良い物に満ち足りる。」神様が御手を開いて、海の生き物たちに、愛をもって食べ物を与えて下さっています。その神様が、イエス様として地上の降って来られ、愛の御手を置いて、あの女性の腰を完全に癒されました。私たちのために十字架で釘で穴が開けられる両手です。
「婦人よ、病気は治った」の「治った」の元のギリシア語は、「解放された」という意味の言葉です。彼女は病から解放されました。イエス様は16節で、「この女はアブラハムの娘(イスラエルの偉大な信仰の先祖アブラハムの子孫)なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と言っておられます。女性を束縛から解くべき解放するべきと言われました。イエス様が12節で言われた「解放された」と、16節の「解いてやるべき」は深く通じています。
「女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」ルカによる福音書には、このような場面が多くて嬉しいですね。本日の終わりの17節も、「群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て、喜んだ」とあります。1章の「マリアの賛歌」では、イエス様の母マリアが讃美しています。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」18章では、もうすぐエルサレムの都に入るイエス様が、盲人の目を開かれました。「盲人は、たちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」とあります。
14節「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人を癒されたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」この会堂長は、私たちにとって反面教師であって、このようにならないように気をつける必要があると思わせられます。会堂長は、イエス様がなさった癒しそのものには反対はないのでしょう。安息日に癒したことがいけない、と主張しています。
ご存じのように、安息日の規定はモーセの十戒の第四の戒めとして出エジプト記20章と申命記5章に明記されています。但し出エジプト記20章と申命記5章では、書き方が少し違います。出エジプト記20章の安息日の規定はこうです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」確かに「いかなる仕事もしてはならない」と明記されています。会堂長は、病を癒すことも仕事になると考え、癒しを行うと安息日違反になると考えて、腹を立てたのです。
しかしイエス様は、申命記5章のモーセの十戒の安息日規定を、より重視されたのではないかと思います。こうあります。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」ここまではほぼ同じです。この後が違います。「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手を御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」イスラエルの民が安息日に仕事を休めば、家の奴隷(使用人)も主人と同じように休むことができる。労働から解放される。イスラエルの民はかつて、エジプトの国で奴隷として苦しい日々を送っていた。神様が出エジプト(エジプト脱出)の解放の道を与えて下さった。その解放の恵みを思い出して仕事を休む日が安息日だ。だから安息日に隣人の病を癒し、隣人を病から解放することこそ、安息日に最もふさわしいことだ。これがイエス様のお考えで、安息日についての正しい解釈ではないかと思います。安息日は、労働から解放されて父なる神様を礼拝し、隣人を重荷から解放する日なのですね。
イエス様は会堂長とその仲間に言われます。「偽善者たちよ、あなたたちは誰でも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて(解放して)、水を飲ませに引いて行くではないか。」確かに出エジプト記23章5節にこうあります。「もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。」安息日でもそうなのでしょう。だから、とイエス様は言われます。「この女はアブラハムの娘(信仰の父アブラハムの子孫の女性、つまり神の民イスラエルの女性)なのに、18年もの間サタン(悪魔)に縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。」
私たちは、「あの会堂長はなぜ、あんなに安息日の癒しに反対したのだろうか」と思います。しかしユダヤ人たちが安息日を守ったその守り方は、狂気じみていたケースもあったと思われます。旧約聖書の時代と新約聖書の時代の中間時代の歴史を記したマカバイ記という書物があります。続編。アンティオコス・エピファネスという悪い王がイスラエルを攻めたとき、彼らは安息日に攻撃しました。ユダヤ人たちは応戦せず、投石はおろか隠れ場を守ることもせず、言いました。「我々は全員、潔く死ぬ。」敵は安息日に攻撃し、ユダヤ人たちは「防衛することも、仕事になり、安息日の戒めに違反する」と考え、無抵抗だったので、一千人が死んだと書かれています。その後さすがのユダヤ人達も話し合い、「安息日だからといって防衛もしなければ、自分たちは地上から抹殺されてしまう。これからは安息日であっても、攻めて来る敵は戦おう」と方針を変えました。でもその前までは、安息日を守るためなら全滅しても仕方ない。安息日を絶対守ると決心していたのです。安息日への熱心を通り越して、狂気じみていると感じます。このような異常なまでの安息日への熱心さを受け継いだのが、イエス様の時代の律法学者、ファリサイ派、今日の会堂長のような信仰のリーダーたちだったと思うのです。しかしイエス様はきっと、安息日への狂気じみた熱心さを軌道修正して、健全な熱心さへ導いて下さったと思うのです。安息日をヘブライ語でシャバットと言うそうです。これには中断するという意味が含まれていると聞きます。それは仕事を中断すること、人間の業を中断してやめること、人間の罪を中断して罪をストップして、罪を犯すことをやめること。これが安息日に私たちがストップするべき最たるものだと思うのです。人を病から癒すことは、解放を与えることで、安息日に最もふさわしいことなのです。
レビ記25章。ヨベルの年。私たちに真の安息(真のヨベルの年)を与えて下さるのは、イエス・キリストの十字架と復活。ローマの信徒への手紙8章1節以下。
私たちはイエス様の十字架と復活のお陰で、「罪、死、律法、神の怒り、悪魔」の支配から解放された。真の安息を与えられた。これがイエス・キリストの福音。
ヨハネの黙示録14章13節。ですが、天国に決して急がないで下さい。
18年間の辛い病から解放された女性を同じように、イエス様は私たちにも真の解放と安息を与えて下さいました。その保証の聖餐式のパンとぶどう液を、これから感謝をもっていただきます。アーメン。
2026-01-25 1:31:34()
「悔い改めなければ」 2026年1月20日(日)降誕節第主5日公同礼拝
(ルカによる福音書13:1~9)
ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
(説教) 本日は、降誕節第5主日公同礼拝、説教題は「悔い改めなければ滅びる」です。小見出しとしては「実のならないいちじくの木」のたとえ」です。
本日の御言葉は、「罪の悔い改め」の大切さを語っていると思えます。最初の第1節。「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラト(ローマから派遣されている総督)が、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。」これは、当時本当に起こった事件と思われます。イエス様も北のガリラヤ地方で育たれたのですが、ガリラヤの人々の気性は非常に激しいものがあったそうです。ガリラヤ人もイスラエル人の一部で、当時自分たちの国がローマ帝国に支配されていたことに、強い反感を抱いていました。動物のいけにえ(犠牲)を献げることは、エルサレムの神殿においてのみ行われていたので、この事件がエルサレムの神殿で起こったことが分かります。過越祭の時には、一般人も神殿に入ることができたそうなので、過越祭の時期に起こったローマへの反逆事件と推定されます。「ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた。」ピラトが、神殿の中か周囲で、ガリラヤ人たちを弾圧して、兵隊に殺させたのではないかと思います。この事件は、ピラトが残忍な男であったことを示しています。ガリラヤ人は複数形なので、少なくとも二人です。もしかすると十人単位のガリラヤ人たちが殺されたのかもしれません。この事件については、当時の他の文書に記載がなく、実際に起こったことは間違いないと思いますが、詳しいことは分かりません。
イエス様はこの事件を耳にして、人々にこう言われます。「そのガリラヤ人たちがそのような災難・不幸に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」私たちの人生や、日本の中や外国で、様々な事故・事件が起こります。道路が陥没して転落して亡くなる方が出る事故もあります。殺人事件で殺される方もあります。列車の脱線事故で亡くなる方もあり、阪神淡路大震災、東日本大震災、能登半島地震で被災され、亡くなった方々が多くおられます。戦争で亡くなる方も多くあると報道で見知っています。私たちは、このような不幸なことを日々、ニュースで聞きながら、日々を歩んでいます。そして心を痛め、時には募金に応じたりしながら生きています。
イエス様の時代にも、同じようなことは色々起こっていたと思われます。それに対する当時のイスラエル人(ユダヤ人)の有力な考えは、「そのような不慮の災難に遭って被害を受けたり、命を落とした方々は、特に罪深い人々だったから、神の裁きを受けてあのような最期を遂げたのだ」というものだったようです。この考えを因果応報と呼ぶそうです。悪いことをした結果として、神の裁きの災難・不幸が降りかかった。この因果応報の考えが浸透していると、自分が病気になったことも、親や自分の罪の結果の罰としてこうなったとの考えに追い詰められ、救いがなくなってしまいます。例えばハンセン氏病は、日本でも天刑病と呼ばれたこともあるそうで、その人か親が悪いことをしたので、天罰・不幸が下ったと解釈されてしまい、家族や村や町から切り離され、隔離場所でしか生きられないことになってしまいます。しかも隔離する側は、隔離することが正義と思っているので、隔離された人々は、肩身を狭くして孤独に生きるほかなくなってしまいます。
大変嬉しいことにイエス様は、単純な因果応報の考えを否定して下さいました。
ヨハネ福音書9章を読むと、イエス様が通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた場面があります。弟子たちが「ラビ(先生)、この人が生まれつき目は見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」弟子たちもまた、単純な因果応報の考えに捕らわれていたことが分かります。日本風に言うと、「あの人が目が見えないのは、本人か親の罪にバチが当たったからだ。」ところがイエス様のお答は、弟子たちが全く予想しないものでした。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」多くの目の不自由な方々が、イエス様のこの御言葉に心を救われたといいます。御自分や親御さんが、何らかの罪を犯したことが原因で、その罰でご自分の目が不自由になったわけではないと、はっきり分かったからです。それと同じで、イエス様は、ピラトに殺される不幸に遭ったガリラヤ人たちが、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深かったから、そのような不幸な目にあったわけではないと、明確に語って下さいました。
私が神学生だった1995年1月17日に、阪神・淡路大震災が発生しました。同級生の神学生に神戸出身の方がおられ、皆で心を痛めたと思います。当時私は、水曜日の祈祷会には、実家の近くの久我山教会に通っておりました。当時の尾崎風伍牧師が、祈祷会で本日の個所を取り上げれました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。」神戸市の人々、被害の大きかった長田地区の人々が特に罪深かったから、この大震災が襲ったわけではない。その後の東日本大震災でも、能登半島地震でも同じです。イエス様も、必ずそうおっしゃるでしょう。
イエス様とは逆に、人の不幸は本人や親の罪の結果と説いて、人々を不安に陥れる悪い宗教が現に存在ます。その不幸を取り除くには、この壺を買うとよいと説いて、安い壺を数百万円で売って来た統一教会がそれです。これは明らかに詐欺の犯罪です。イエス様の教えとは正反対です。宗教と呼ぶに値しない犯罪集団ですね。安倍元首相を殺害した山上という男性の殺害行為は悪ですが、山上という男性の生まれた家庭を破壊したのは統一教会と言えます。文科省の解散命令は当然です。それはともかく、イエス様の教えは、あのガリラヤ人たちは、何か特に罪深いことを行った罰として、ピラトに殺されたのではないということです。
イエス様は、もう一つ似た例を出されます。4節「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。」旧約聖書の列王記下20章20節を見ると、ヒゼキヤという王様が、貯水池と水道を造ってエルサレムの都に水を引いたと書かれています。シロアムの塔は、この水道に沿った所に立てられていたそうです。それが倒壊する事故が起こり、18名が亡くなる不幸が起こりました。この不幸についても、もしかするとエルサレムの人々は、この18人の行った悪への罰として、18人が倒壊事故に巻き込まれて死んだと噂したかもしれません。でもイエス様は違うと言われます。あの18名は、自分が行った悪へのバチを受けて死んだのではないと言われます。彼らが行った悪への罰だと考えている限り、自分には全く関係ないこと、完全に他人事でしかないことになります。しかし、現実はしばしば不条理であって、旧約聖書のヨブ記を読めばよく分かる通り、ヨブのように善ばかり行って来た義人に、多くの苦難が降りかかることもあるのです。そして最大の不条理、世界史上で最も理不尽で、最も筋が通らないことは、全然罪がないイエス様が十字架で殺されたことです。これほど筋が通らないことは、ほかにありません。
それはともかく、イエス様は言われます。ピラトに殺されたガリラヤ人たちも、塔が倒れる事故で亡くなった18人も、特に罪深かったわけではない。「言っておくが、あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」様々な災害や不幸が、その人の罪の直接の結果と決めつけることはできない。しかしそれらの災害や不幸は、私たちが自分が罪を悔い改めて、真の神様に立ち帰るきっかけとなり得る。阪神・淡路大震災、東日本大震災、能登の震災が起こったので、私たちはせめて献金を送ることで、現地の方々と連帯したいと願うものです。あのような災害は、世の中全体への、神さまからの警告と言えるのではないでしょうか。今こそ助け合い、愛し合うように。そして自分の罪を悔い改めて、私たちの命を造って下さった真の神様に立ち帰るようにという警告であり、神の招きです。「あなたが滅びないように、悔い改めて神に喜ばれる生き方に立ち帰りなさい」という招きでもあるのですね。この与えられた貴重なチャンスを逃さないで、生かすことが必要です。メメント・モリ(汝、死ぬべきものであることを覚えよ)。
今日の個所には後半があります。小見出し「実のならないいちじくの木のたとえ。」
「そして、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」』」
ぶどう園なのにいちじくの木を植えたことを不思議に思う方もあるでしょう。解説書によると、当時のイスラエルのぶどう畑には、他の実の実る木、特にいちじくを植えるのが普通だったそうです。ぶどうの木をいちじくに結び付けて、支えにしたそうです。主人は父なる神様、園丁はイエス・キリストでしょうね。いちじくの木は、旧約聖書以来の神様の民イスラエル、そして私たちをも指す可能性があります。いちじくの木が実を結ぶまでには、長い年月がかかるそうです。主人は実が実ことを期待して待っている、辛抱強く、忍耐強く待っています。神様は実に辛抱強く、忍耐強く私たち罪人(つみびと)の悔い改め、立ち帰りを待っておられるのです。3年たって、もう実を結んだのではないかと見に来ましたが、一向に実を結んでいませんでした。主人はしびれを切らして園丁に、「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と、やや怒りをぶつけます。この段階では木はまだ切り倒されないで済みましたが、主人の忍耐が終わりに近づいていることが暗示されます。ですが、園丁が最後の審判を、必死に押しとどめています。「見捨てないで、もう少し待って下さい」と、必死にとりなしているのですね。
この園丁の姿は、私たちを第二の死、永遠の滅びから救うために、十字架で死んで下さったイエス様の愛を強く思い出させます。父なる神様、罪人(つみびと)たちを滅ぼさないで下さい。私が彼らの身代わりに十字架で死んで、彼らの全ての罪の責任を身代わりに背負いきりますから。だから私の十字架に免じて、罪人(つみびと)たちを赦してやってください。それが私たちの救い主イエス・キリストです。父なる神様は、イエス様を救い主と信じ告白する人々に、永遠の命を与えられます。
本日の旧約聖書は、詩編106編です。19~22節は、イスラエルの民の罪を語っています。23節「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」似た言葉が、エゼキエル書22章30節にあります。「この地(イスラエル)を滅ぼすことがないように、私(神様)は、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者(身を挺してとりなしをする者)を彼ら(イスラエルの民)の中から探し求めたが、見出すことができなかった。」これは古代の戦争のやり方が前提になっている御言葉です。古代の戦争で、城壁のある町が攻められるとき、攻める側は城壁の石垣に穴を開けようとしました。穴を開ければ、そこから攻め込んで町を占領することができます。逆に守側は、穴を開けられないように、城壁の上から矢を射かけたりして抵抗します。とうとう穴を開けられたら、壁の内側の勇士が穴の所に立って戦い、入ろうとする敵を撃退します。戦争は実に悲惨です。
このような古代の戦争の実態を踏まえて、詩編106編23節は書かれているようです。「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」モーセが石垣の破れ口に立って、身を挺して神様に命がけの執り成しをした。「主よ、お怒りはごもっともですが、何とか私に免じてイスラエルの民の罪を赦して下さい。」とりなしは必死で、ある意味、命がけなのですね。イエス・キリストもまさに命をかけて、十字架で執り成しをして下さいました。
今、キリストの再臨がなかなか実現しないでいます。それは私たちが悔い改めて、真の神様に立ち帰るチャンスが、今日も与えられていることを意味します。ペトロの手紙(二)3章9~10節「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。」神様は、実に忍耐強い方なのです。ですが永遠に忍耐して下さるわけではありません。キリストが来られる前に、時があるうちに、真の神に立ち帰る決断をする必要があります。善は急げです。神様に喜んでいただくために、早いうちに、私たちは今日もイエス・キリストに立ち帰って生きて参りたいのです。アーメン。
ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
(説教) 本日は、降誕節第5主日公同礼拝、説教題は「悔い改めなければ滅びる」です。小見出しとしては「実のならないいちじくの木」のたとえ」です。
本日の御言葉は、「罪の悔い改め」の大切さを語っていると思えます。最初の第1節。「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラト(ローマから派遣されている総督)が、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。」これは、当時本当に起こった事件と思われます。イエス様も北のガリラヤ地方で育たれたのですが、ガリラヤの人々の気性は非常に激しいものがあったそうです。ガリラヤ人もイスラエル人の一部で、当時自分たちの国がローマ帝国に支配されていたことに、強い反感を抱いていました。動物のいけにえ(犠牲)を献げることは、エルサレムの神殿においてのみ行われていたので、この事件がエルサレムの神殿で起こったことが分かります。過越祭の時には、一般人も神殿に入ることができたそうなので、過越祭の時期に起こったローマへの反逆事件と推定されます。「ピラトが、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた。」ピラトが、神殿の中か周囲で、ガリラヤ人たちを弾圧して、兵隊に殺させたのではないかと思います。この事件は、ピラトが残忍な男であったことを示しています。ガリラヤ人は複数形なので、少なくとも二人です。もしかすると十人単位のガリラヤ人たちが殺されたのかもしれません。この事件については、当時の他の文書に記載がなく、実際に起こったことは間違いないと思いますが、詳しいことは分かりません。
イエス様はこの事件を耳にして、人々にこう言われます。「そのガリラヤ人たちがそのような災難・不幸に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」私たちの人生や、日本の中や外国で、様々な事故・事件が起こります。道路が陥没して転落して亡くなる方が出る事故もあります。殺人事件で殺される方もあります。列車の脱線事故で亡くなる方もあり、阪神淡路大震災、東日本大震災、能登半島地震で被災され、亡くなった方々が多くおられます。戦争で亡くなる方も多くあると報道で見知っています。私たちは、このような不幸なことを日々、ニュースで聞きながら、日々を歩んでいます。そして心を痛め、時には募金に応じたりしながら生きています。
イエス様の時代にも、同じようなことは色々起こっていたと思われます。それに対する当時のイスラエル人(ユダヤ人)の有力な考えは、「そのような不慮の災難に遭って被害を受けたり、命を落とした方々は、特に罪深い人々だったから、神の裁きを受けてあのような最期を遂げたのだ」というものだったようです。この考えを因果応報と呼ぶそうです。悪いことをした結果として、神の裁きの災難・不幸が降りかかった。この因果応報の考えが浸透していると、自分が病気になったことも、親や自分の罪の結果の罰としてこうなったとの考えに追い詰められ、救いがなくなってしまいます。例えばハンセン氏病は、日本でも天刑病と呼ばれたこともあるそうで、その人か親が悪いことをしたので、天罰・不幸が下ったと解釈されてしまい、家族や村や町から切り離され、隔離場所でしか生きられないことになってしまいます。しかも隔離する側は、隔離することが正義と思っているので、隔離された人々は、肩身を狭くして孤独に生きるほかなくなってしまいます。
大変嬉しいことにイエス様は、単純な因果応報の考えを否定して下さいました。
ヨハネ福音書9章を読むと、イエス様が通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた場面があります。弟子たちが「ラビ(先生)、この人が生まれつき目は見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」弟子たちもまた、単純な因果応報の考えに捕らわれていたことが分かります。日本風に言うと、「あの人が目が見えないのは、本人か親の罪にバチが当たったからだ。」ところがイエス様のお答は、弟子たちが全く予想しないものでした。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」多くの目の不自由な方々が、イエス様のこの御言葉に心を救われたといいます。御自分や親御さんが、何らかの罪を犯したことが原因で、その罰でご自分の目が不自由になったわけではないと、はっきり分かったからです。それと同じで、イエス様は、ピラトに殺される不幸に遭ったガリラヤ人たちが、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深かったから、そのような不幸な目にあったわけではないと、明確に語って下さいました。
私が神学生だった1995年1月17日に、阪神・淡路大震災が発生しました。同級生の神学生に神戸出身の方がおられ、皆で心を痛めたと思います。当時私は、水曜日の祈祷会には、実家の近くの久我山教会に通っておりました。当時の尾崎風伍牧師が、祈祷会で本日の個所を取り上げれました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。」神戸市の人々、被害の大きかった長田地区の人々が特に罪深かったから、この大震災が襲ったわけではない。その後の東日本大震災でも、能登半島地震でも同じです。イエス様も、必ずそうおっしゃるでしょう。
イエス様とは逆に、人の不幸は本人や親の罪の結果と説いて、人々を不安に陥れる悪い宗教が現に存在ます。その不幸を取り除くには、この壺を買うとよいと説いて、安い壺を数百万円で売って来た統一教会がそれです。これは明らかに詐欺の犯罪です。イエス様の教えとは正反対です。宗教と呼ぶに値しない犯罪集団ですね。安倍元首相を殺害した山上という男性の殺害行為は悪ですが、山上という男性の生まれた家庭を破壊したのは統一教会と言えます。文科省の解散命令は当然です。それはともかく、イエス様の教えは、あのガリラヤ人たちは、何か特に罪深いことを行った罰として、ピラトに殺されたのではないということです。
イエス様は、もう一つ似た例を出されます。4節「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。」旧約聖書の列王記下20章20節を見ると、ヒゼキヤという王様が、貯水池と水道を造ってエルサレムの都に水を引いたと書かれています。シロアムの塔は、この水道に沿った所に立てられていたそうです。それが倒壊する事故が起こり、18名が亡くなる不幸が起こりました。この不幸についても、もしかするとエルサレムの人々は、この18人の行った悪への罰として、18人が倒壊事故に巻き込まれて死んだと噂したかもしれません。でもイエス様は違うと言われます。あの18名は、自分が行った悪へのバチを受けて死んだのではないと言われます。彼らが行った悪への罰だと考えている限り、自分には全く関係ないこと、完全に他人事でしかないことになります。しかし、現実はしばしば不条理であって、旧約聖書のヨブ記を読めばよく分かる通り、ヨブのように善ばかり行って来た義人に、多くの苦難が降りかかることもあるのです。そして最大の不条理、世界史上で最も理不尽で、最も筋が通らないことは、全然罪がないイエス様が十字架で殺されたことです。これほど筋が通らないことは、ほかにありません。
それはともかく、イエス様は言われます。ピラトに殺されたガリラヤ人たちも、塔が倒れる事故で亡くなった18人も、特に罪深かったわけではない。「言っておくが、あなた方も悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」様々な災害や不幸が、その人の罪の直接の結果と決めつけることはできない。しかしそれらの災害や不幸は、私たちが自分が罪を悔い改めて、真の神様に立ち帰るきっかけとなり得る。阪神・淡路大震災、東日本大震災、能登の震災が起こったので、私たちはせめて献金を送ることで、現地の方々と連帯したいと願うものです。あのような災害は、世の中全体への、神さまからの警告と言えるのではないでしょうか。今こそ助け合い、愛し合うように。そして自分の罪を悔い改めて、私たちの命を造って下さった真の神様に立ち帰るようにという警告であり、神の招きです。「あなたが滅びないように、悔い改めて神に喜ばれる生き方に立ち帰りなさい」という招きでもあるのですね。この与えられた貴重なチャンスを逃さないで、生かすことが必要です。メメント・モリ(汝、死ぬべきものであることを覚えよ)。
今日の個所には後半があります。小見出し「実のならないいちじくの木のたとえ。」
「そして、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」』」
ぶどう園なのにいちじくの木を植えたことを不思議に思う方もあるでしょう。解説書によると、当時のイスラエルのぶどう畑には、他の実の実る木、特にいちじくを植えるのが普通だったそうです。ぶどうの木をいちじくに結び付けて、支えにしたそうです。主人は父なる神様、園丁はイエス・キリストでしょうね。いちじくの木は、旧約聖書以来の神様の民イスラエル、そして私たちをも指す可能性があります。いちじくの木が実を結ぶまでには、長い年月がかかるそうです。主人は実が実ことを期待して待っている、辛抱強く、忍耐強く待っています。神様は実に辛抱強く、忍耐強く私たち罪人(つみびと)の悔い改め、立ち帰りを待っておられるのです。3年たって、もう実を結んだのではないかと見に来ましたが、一向に実を結んでいませんでした。主人はしびれを切らして園丁に、「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と、やや怒りをぶつけます。この段階では木はまだ切り倒されないで済みましたが、主人の忍耐が終わりに近づいていることが暗示されます。ですが、園丁が最後の審判を、必死に押しとどめています。「見捨てないで、もう少し待って下さい」と、必死にとりなしているのですね。
この園丁の姿は、私たちを第二の死、永遠の滅びから救うために、十字架で死んで下さったイエス様の愛を強く思い出させます。父なる神様、罪人(つみびと)たちを滅ぼさないで下さい。私が彼らの身代わりに十字架で死んで、彼らの全ての罪の責任を身代わりに背負いきりますから。だから私の十字架に免じて、罪人(つみびと)たちを赦してやってください。それが私たちの救い主イエス・キリストです。父なる神様は、イエス様を救い主と信じ告白する人々に、永遠の命を与えられます。
本日の旧約聖書は、詩編106編です。19~22節は、イスラエルの民の罪を語っています。23節「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」似た言葉が、エゼキエル書22章30節にあります。「この地(イスラエル)を滅ぼすことがないように、私(神様)は、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者(身を挺してとりなしをする者)を彼ら(イスラエルの民)の中から探し求めたが、見出すことができなかった。」これは古代の戦争のやり方が前提になっている御言葉です。古代の戦争で、城壁のある町が攻められるとき、攻める側は城壁の石垣に穴を開けようとしました。穴を開ければ、そこから攻め込んで町を占領することができます。逆に守側は、穴を開けられないように、城壁の上から矢を射かけたりして抵抗します。とうとう穴を開けられたら、壁の内側の勇士が穴の所に立って戦い、入ろうとする敵を撃退します。戦争は実に悲惨です。
このような古代の戦争の実態を踏まえて、詩編106編23節は書かれているようです。「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」モーセが石垣の破れ口に立って、身を挺して神様に命がけの執り成しをした。「主よ、お怒りはごもっともですが、何とか私に免じてイスラエルの民の罪を赦して下さい。」とりなしは必死で、ある意味、命がけなのですね。イエス・キリストもまさに命をかけて、十字架で執り成しをして下さいました。
今、キリストの再臨がなかなか実現しないでいます。それは私たちが悔い改めて、真の神様に立ち帰るチャンスが、今日も与えられていることを意味します。ペトロの手紙(二)3章9~10節「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。」神様は、実に忍耐強い方なのです。ですが永遠に忍耐して下さるわけではありません。キリストが来られる前に、時があるうちに、真の神に立ち帰る決断をする必要があります。善は急げです。神様に喜んでいただくために、早いうちに、私たちは今日もイエス・キリストに立ち帰って生きて参りたいのです。アーメン。
2026-01-17 23:49:15(土)
「火を投ずるイエス様」 2026年1月18日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第85回)石田真一郎
(ルカによる福音書12:49~59)
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」
◆時を見分ける
イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
◆訴える人と仲直りする
「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
(説教) 本日は、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝、説教題は「火を投ずるイエス様」です。小見出しとしては「分裂をもたらす」、「時を見分ける」、「訴える人と仲直りする」です。
最初の49節「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」私たちが少々驚く、イエス様の厳しい御言葉と感じます。イエス様は愛の方、優しい方、平和の方ではないのか。もちろんその通りですが、同時に本日の御言葉もイエス様の御言葉です。イエス様は、ただ優しく甘いだけの方ではなさそうです。火は聖霊、神の裁き、神の清めを意味します。私がこのイエス様の厳しい御言葉を聴いて連想するのは、イエス様が十字架に架かられる少し前に行われた「宮清め」、エルサレムの神殿を清められた行為です。
マタイによる福音書21章では、このように記されています。「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒された。そして言われた。『こう書いてある(旧約聖書のイザヤ書56章7節に)。「わたし(神様)の家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗に巣にしている。』」これはまさに、私たちの世界に火を投げ込むような行為だったと思うのです。」このような一見荒っぽい行動をなさりながら、その神殿の境内で、目の見えない人や足の不自由な人々を、愛をもって癒されました。イエス様は、神様の聖なる尊い神殿が、人間たちの欲望にまみれることが、我慢ならなかったのだと思います。これは決して、イエス様が闇雲に腹立ちまぎれに行われたことではなく、神の子としての聖なる怒りを発揮された、父なる神様の御心に適う正しい行為と思います。人間の欲望にまみれた神殿を、神の火で聖化するような(清める)激しい行為だったと思います。イエス様はそのような方でもある。
ルカに戻り50節「しかし、私には受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむだろう。」これはイエス様の十字架の死を指しますね。イエス・キリストの最大の使命は、私たち全ての人間の全ての罪の責任を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさることです。このイエス様を自分の救い主と信じ告白する人は、皆必ず、全ての罪の赦しと、永遠の命を受けます。「それが終わるまで、私はどんなに苦しむだろう。」そしてそれは終わりました。ヨハネ福音書19章の十字架の場面でイエス様は、「成し遂げられた」と言って頭を垂れて息を引き取られました。「それが終わる」の「終わる」という元の言葉は、「成し遂げられた」と同じ言葉です。「それが成し遂げられるまで、私はどんなに苦しむだろう。」それは成し遂げられたのです。イエス様の尊い苦しみの十字架の死による私たちの罪の贖い(償い)は成し遂げられ、完成しました。今や、自分の罪を悔い改めて、イエス様を自分の救い主と信じ告白する人には、永遠の命が与えられます。今はその恵みの時代に突入しています。
51節「あなた方は、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。むしろ分裂だ。」マタイ福音書10章ではイエス様は、「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と宣言されるので、少々驚きます。基本的にイエス様は「平和の主」です。マタイ福音書5章9節で、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われた通りです。この平和は、単なる妥協の産物の平和ではないと思います。真理に基づく平和と思います。旧約聖書の詩編85編9節以下に、こうあります。「主は平和を宣言されます。ご自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かなふるまいに戻らないように。(~)慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。」「正義と平和は口づけし」が重要と思います。平和は、正義や愛と両立してこそ、真の平和(旧約聖書のヘブライ語でシャローム)ではないでしょうか。
たとえば、アメリカに奴隷制度がありました。奴隷制度の中で、黒人と白人が仲良く暮らす地域があったかもしれません。争いがなく穏やかなので、真の平和があると言ってよいのでしょうか。奴隷制度があることは正義に反するでしょう。でも黒人も奴隷制度を受け入れているから、そのままでもよくてそれを平和と呼べるでしょうか。それは真の平和ではありません。奴隷制度をなくなって初めて、真の平和になります。奴隷制度をなくそうと提案する人が現れ、改革を行う必要があります。それを行わないなら、平和ではなく事なかれ主義に過ぎません。事なかれ主義は、一見平和に似て、実は平和ではありません。正義に反するからです。奴隷制度をなくそうと言う人が現れると、町の平和を乱し分裂をもたらす悪人として排斥されるでしょう。殺されるかもしれません。しかし彼こそ真の平和主義者です。イエス様も、このような人に似ているのではないでしょうか。
52節以下。「今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」これは、本日の旧約聖書・ミカ書7章6節の引用です。「息子は父を侮り、娘は母に、嫁は姑に立ち向かう。人の敵はその家の者だ。」聖書の基本的な教えは、モーセの十戒の第五の戒めです。「あなたの父母を敬え」です。これが基本なのですが、こと信仰については、イエス様を信じる道を選び取ることが、父なる神様に喜ばれる道です。イエス・キリストのメッセージは、私たちに決断を求めます。イエス様を救い主と信じて、イエス様の味方になるか、イエス様を救い主と告白せず、イエス様を信じないか。私たちは決断をして、どちらかを選ぶ取らないといけないのです。新約聖書の使徒言行録4章12節には、こうあります。「ほかの誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
私の手元に『荒れ野に水は湧く ぞうり履きの伝道者 升崎外彦物語』(田中芳三著、キリスト新聞社、1969年)という本があります。この本は『親鸞よりキリストへ』という題でも出版されています。升崎外彦牧師は1892年に誕生され、1975年に天に召されておられます。熱心な仏教徒を父にもち、金沢のお寺の後継者になることが期待されていました。父から、「キリスト教は、最も下等で迷信的な宗教」と教え込まれていました。青年時代に行き詰まっていた時に、キリスト教の一派・救世軍の野戦(野外伝道)に出会います。イエス・キリストの福音を聞きます。「凡て労する者、重荷を負う者、我に来たれ、我汝らを休ません」(マタイ福音書11章28節)。キリスト教は邪教ではないことが分かりました。彼は探し求めていた、真の救い主に出会ったのです。彼は仏教の世界にいたので、独特の表現で救いの第一声を語りました。「おお主イエスよ、私は信じます。あなたこそ真の阿弥陀仏。生きた如来様です。」奇妙な言い方に聞こえますが、彼は当時仏教の世界の真っただ中にいたので、このような表現でイエス・キリストこそ真の救い主であることを告白したのです。
激怒したのはお父さんです。大切な息子が邪教を信じたと思いました。「外彦、耶蘇(キリスト)の洗礼が有難いか! 親の愛とどちらが有難いか!」という意味のことを言って、息子を冬の氷の張りつめた池の上に投げ飛ばしました。外彦が怪我をして血が吹き出ました。自分の真っ赤な血を見て、イエス様の十字架の愛の血潮を思い出した外彦は、「十字架の血潮は、わがためなり」という讃美歌を歌いました。外彦は、父親の前で両手をつき、「私が暫く親不幸者になりますことを、お許し下さい」と言いました。父は刀を持って、男泣きに泣いていました。外彦もたまらなく悲しかったのですが、イエス・キリストを捨てることはできないと、一旦、父と別れる決心をして、一礼して寺を出ました。イエス様の御言葉を思い出していました。マタイ10章35節です。「我地に平和を投ぜんために来たれりと思うな。かえって剣を投ぜんために来たれり。それ我が来れるは、人をその父より、娘を母より、嫁をその姑より分たんためなり。」金沢の南の小松市で、路傍伝道に励み、浄土真宗の盛んな土地だったので、「耶蘇気違い」と呼ばれました。その後、救世軍に入り、仙台や出雲、和歌山で伝道し、「草履履きの伝道者」と呼ばれました。その後、日本基督教団の教会の牧師になられたようです。
お父さんは、徹底した人で、わが子を耶蘇から取り戻そうと、キリスト教の弱点を突き、聖書の誤りを見つけようと、マタイ福音書1章から読み始めたのですが、さっぱり分かりません。そして旧約聖書・新約聖書を何回も読み返しました。救世軍の山室軍平の名著『平民の福音』も暗唱するほどに読みました。立派なお父さんです。「人にして神、神にして人なるイエス・キリストは、自分が日夜尊崇し奉る親鸞上人とは比較にならぬ、親鸞上人は一介の僧侶、彼キリストはまさに神の独り子と悟りました。「キリスト、神ならば御姿を現し給え」と父は21日間、食を断ち、滝に打たれる荒行を試みた。2月半ば、父65才でした。満願の21日目に滝から上がり、掌を合わせて念じていると、白衣のキリストが彷彿として出現したと言います。父はキリストを信じました。掛け軸に書をしたためました。「振り向いてカルバリ山を仰ぎけり。」カルバリ山とは、イエス様が十字架に架かられたゴルゴタの丘(されこうべの場所の意味で、ラテン語にするとカルバリになるようです)。
父と子は完全に和解し、あふれるような感謝の祈りが献げられました。その後71才で天に召されるまで、余生をキリストへの奉仕に献げました。その父が危篤になり、外彦が帰宅すると父は、「外彦、お前は偉い奴だ。お前はいいものを見つけたのお。礼を言うぞ。お前は俺を天国の特等席に案内してくれた大恩人だ。外彦、出雲へ帰れ、耶蘇(キリスト)のために働いて死ね、耶蘇のために働いて死ね。」父の時世の歌「荒野なる浮世の旅も今過ぎて 父の御許に行くぞ嬉しき。」一つの家族の中にクリスチャンが誕生すると、このように最初は波風が立つこともあります。ですがイエス様は、それを真の和解へと導いても下さると思うのです。
もう一度最初の49節「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、私には受けねばならないバプテスマ(洗礼)がある。」この火を聖霊、神の裁き、清めの火とお話致しました。それも正しいと同時に、このような見方もあります。この燃える火は、キリストの聖なる愛だと。敵をさえ愛するイエス・キリストの聖なる愛だと。イエス様は、この聖なる愛を地上に投ずるために来られました。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」この火は、イエス様の十字架の犠牲の愛に感動した人々の心の中に燃え上がります。日本にイエス・キリストの福音を初めてもたらしたフランシスコ・ザビエルの有名な肖像画がありますね。日本史の教科書に出てきます。私も確か、1997年頃に池袋で開催された「ザビエル展」で現物を見た記憶があります。あの絵を見ると、ザビエルの左の旨に真っ赤なハートが描かれています。あの真っ赤なハートは、ザビエルのイエス様への熱い愛を表現しているそうです。私たちもイエス様の十字架の熱烈な愛を受けとめて、熱い愛に燃やされてキリストを伝えて参りましょう。アーメン。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」
◆時を見分ける
イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
◆訴える人と仲直りする
「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
(説教) 本日は、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝、説教題は「火を投ずるイエス様」です。小見出しとしては「分裂をもたらす」、「時を見分ける」、「訴える人と仲直りする」です。
最初の49節「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」私たちが少々驚く、イエス様の厳しい御言葉と感じます。イエス様は愛の方、優しい方、平和の方ではないのか。もちろんその通りですが、同時に本日の御言葉もイエス様の御言葉です。イエス様は、ただ優しく甘いだけの方ではなさそうです。火は聖霊、神の裁き、神の清めを意味します。私がこのイエス様の厳しい御言葉を聴いて連想するのは、イエス様が十字架に架かられる少し前に行われた「宮清め」、エルサレムの神殿を清められた行為です。
マタイによる福音書21章では、このように記されています。「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒された。そして言われた。『こう書いてある(旧約聖書のイザヤ書56章7節に)。「わたし(神様)の家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗に巣にしている。』」これはまさに、私たちの世界に火を投げ込むような行為だったと思うのです。」このような一見荒っぽい行動をなさりながら、その神殿の境内で、目の見えない人や足の不自由な人々を、愛をもって癒されました。イエス様は、神様の聖なる尊い神殿が、人間たちの欲望にまみれることが、我慢ならなかったのだと思います。これは決して、イエス様が闇雲に腹立ちまぎれに行われたことではなく、神の子としての聖なる怒りを発揮された、父なる神様の御心に適う正しい行為と思います。人間の欲望にまみれた神殿を、神の火で聖化するような(清める)激しい行為だったと思います。イエス様はそのような方でもある。
ルカに戻り50節「しかし、私には受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむだろう。」これはイエス様の十字架の死を指しますね。イエス・キリストの最大の使命は、私たち全ての人間の全ての罪の責任を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさることです。このイエス様を自分の救い主と信じ告白する人は、皆必ず、全ての罪の赦しと、永遠の命を受けます。「それが終わるまで、私はどんなに苦しむだろう。」そしてそれは終わりました。ヨハネ福音書19章の十字架の場面でイエス様は、「成し遂げられた」と言って頭を垂れて息を引き取られました。「それが終わる」の「終わる」という元の言葉は、「成し遂げられた」と同じ言葉です。「それが成し遂げられるまで、私はどんなに苦しむだろう。」それは成し遂げられたのです。イエス様の尊い苦しみの十字架の死による私たちの罪の贖い(償い)は成し遂げられ、完成しました。今や、自分の罪を悔い改めて、イエス様を自分の救い主と信じ告白する人には、永遠の命が与えられます。今はその恵みの時代に突入しています。
51節「あなた方は、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。むしろ分裂だ。」マタイ福音書10章ではイエス様は、「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と宣言されるので、少々驚きます。基本的にイエス様は「平和の主」です。マタイ福音書5章9節で、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われた通りです。この平和は、単なる妥協の産物の平和ではないと思います。真理に基づく平和と思います。旧約聖書の詩編85編9節以下に、こうあります。「主は平和を宣言されます。ご自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かなふるまいに戻らないように。(~)慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。」「正義と平和は口づけし」が重要と思います。平和は、正義や愛と両立してこそ、真の平和(旧約聖書のヘブライ語でシャローム)ではないでしょうか。
たとえば、アメリカに奴隷制度がありました。奴隷制度の中で、黒人と白人が仲良く暮らす地域があったかもしれません。争いがなく穏やかなので、真の平和があると言ってよいのでしょうか。奴隷制度があることは正義に反するでしょう。でも黒人も奴隷制度を受け入れているから、そのままでもよくてそれを平和と呼べるでしょうか。それは真の平和ではありません。奴隷制度をなくなって初めて、真の平和になります。奴隷制度をなくそうと提案する人が現れ、改革を行う必要があります。それを行わないなら、平和ではなく事なかれ主義に過ぎません。事なかれ主義は、一見平和に似て、実は平和ではありません。正義に反するからです。奴隷制度をなくそうと言う人が現れると、町の平和を乱し分裂をもたらす悪人として排斥されるでしょう。殺されるかもしれません。しかし彼こそ真の平和主義者です。イエス様も、このような人に似ているのではないでしょうか。
52節以下。「今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」これは、本日の旧約聖書・ミカ書7章6節の引用です。「息子は父を侮り、娘は母に、嫁は姑に立ち向かう。人の敵はその家の者だ。」聖書の基本的な教えは、モーセの十戒の第五の戒めです。「あなたの父母を敬え」です。これが基本なのですが、こと信仰については、イエス様を信じる道を選び取ることが、父なる神様に喜ばれる道です。イエス・キリストのメッセージは、私たちに決断を求めます。イエス様を救い主と信じて、イエス様の味方になるか、イエス様を救い主と告白せず、イエス様を信じないか。私たちは決断をして、どちらかを選ぶ取らないといけないのです。新約聖書の使徒言行録4章12節には、こうあります。「ほかの誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
私の手元に『荒れ野に水は湧く ぞうり履きの伝道者 升崎外彦物語』(田中芳三著、キリスト新聞社、1969年)という本があります。この本は『親鸞よりキリストへ』という題でも出版されています。升崎外彦牧師は1892年に誕生され、1975年に天に召されておられます。熱心な仏教徒を父にもち、金沢のお寺の後継者になることが期待されていました。父から、「キリスト教は、最も下等で迷信的な宗教」と教え込まれていました。青年時代に行き詰まっていた時に、キリスト教の一派・救世軍の野戦(野外伝道)に出会います。イエス・キリストの福音を聞きます。「凡て労する者、重荷を負う者、我に来たれ、我汝らを休ません」(マタイ福音書11章28節)。キリスト教は邪教ではないことが分かりました。彼は探し求めていた、真の救い主に出会ったのです。彼は仏教の世界にいたので、独特の表現で救いの第一声を語りました。「おお主イエスよ、私は信じます。あなたこそ真の阿弥陀仏。生きた如来様です。」奇妙な言い方に聞こえますが、彼は当時仏教の世界の真っただ中にいたので、このような表現でイエス・キリストこそ真の救い主であることを告白したのです。
激怒したのはお父さんです。大切な息子が邪教を信じたと思いました。「外彦、耶蘇(キリスト)の洗礼が有難いか! 親の愛とどちらが有難いか!」という意味のことを言って、息子を冬の氷の張りつめた池の上に投げ飛ばしました。外彦が怪我をして血が吹き出ました。自分の真っ赤な血を見て、イエス様の十字架の愛の血潮を思い出した外彦は、「十字架の血潮は、わがためなり」という讃美歌を歌いました。外彦は、父親の前で両手をつき、「私が暫く親不幸者になりますことを、お許し下さい」と言いました。父は刀を持って、男泣きに泣いていました。外彦もたまらなく悲しかったのですが、イエス・キリストを捨てることはできないと、一旦、父と別れる決心をして、一礼して寺を出ました。イエス様の御言葉を思い出していました。マタイ10章35節です。「我地に平和を投ぜんために来たれりと思うな。かえって剣を投ぜんために来たれり。それ我が来れるは、人をその父より、娘を母より、嫁をその姑より分たんためなり。」金沢の南の小松市で、路傍伝道に励み、浄土真宗の盛んな土地だったので、「耶蘇気違い」と呼ばれました。その後、救世軍に入り、仙台や出雲、和歌山で伝道し、「草履履きの伝道者」と呼ばれました。その後、日本基督教団の教会の牧師になられたようです。
お父さんは、徹底した人で、わが子を耶蘇から取り戻そうと、キリスト教の弱点を突き、聖書の誤りを見つけようと、マタイ福音書1章から読み始めたのですが、さっぱり分かりません。そして旧約聖書・新約聖書を何回も読み返しました。救世軍の山室軍平の名著『平民の福音』も暗唱するほどに読みました。立派なお父さんです。「人にして神、神にして人なるイエス・キリストは、自分が日夜尊崇し奉る親鸞上人とは比較にならぬ、親鸞上人は一介の僧侶、彼キリストはまさに神の独り子と悟りました。「キリスト、神ならば御姿を現し給え」と父は21日間、食を断ち、滝に打たれる荒行を試みた。2月半ば、父65才でした。満願の21日目に滝から上がり、掌を合わせて念じていると、白衣のキリストが彷彿として出現したと言います。父はキリストを信じました。掛け軸に書をしたためました。「振り向いてカルバリ山を仰ぎけり。」カルバリ山とは、イエス様が十字架に架かられたゴルゴタの丘(されこうべの場所の意味で、ラテン語にするとカルバリになるようです)。
父と子は完全に和解し、あふれるような感謝の祈りが献げられました。その後71才で天に召されるまで、余生をキリストへの奉仕に献げました。その父が危篤になり、外彦が帰宅すると父は、「外彦、お前は偉い奴だ。お前はいいものを見つけたのお。礼を言うぞ。お前は俺を天国の特等席に案内してくれた大恩人だ。外彦、出雲へ帰れ、耶蘇(キリスト)のために働いて死ね、耶蘇のために働いて死ね。」父の時世の歌「荒野なる浮世の旅も今過ぎて 父の御許に行くぞ嬉しき。」一つの家族の中にクリスチャンが誕生すると、このように最初は波風が立つこともあります。ですがイエス様は、それを真の和解へと導いても下さると思うのです。
もう一度最初の49節「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、私には受けねばならないバプテスマ(洗礼)がある。」この火を聖霊、神の裁き、清めの火とお話致しました。それも正しいと同時に、このような見方もあります。この燃える火は、キリストの聖なる愛だと。敵をさえ愛するイエス・キリストの聖なる愛だと。イエス様は、この聖なる愛を地上に投ずるために来られました。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」この火は、イエス様の十字架の犠牲の愛に感動した人々の心の中に燃え上がります。日本にイエス・キリストの福音を初めてもたらしたフランシスコ・ザビエルの有名な肖像画がありますね。日本史の教科書に出てきます。私も確か、1997年頃に池袋で開催された「ザビエル展」で現物を見た記憶があります。あの絵を見ると、ザビエルの左の旨に真っ赤なハートが描かれています。あの真っ赤なハートは、ザビエルのイエス様への熱い愛を表現しているそうです。私たちもイエス様の十字架の熱烈な愛を受けとめて、熱い愛に燃やされてキリストを伝えて参りましょう。アーメン。