日本キリスト教団 東久留米教会

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2025-11-09 3:28:25()
「上にあるものを求めなさい」    2025年11月9日(日)聖徒の日礼拝
(コロサイ3:1~14) 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」
 
(説教) 本日は、聖徒の日(召天者記念日)礼拝です。説教題は「上にあるものを求めなさい」です。小見出しとしては「日々新たにされて」の後半です。

 これはクリスチャンになった人々への、勧めの言葉なので、クリスチャンになっておられない方々に少し分かりにくいようでしたら、申し訳ございません。第1節「さて、あなた方は、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」

 この御言葉(聖書の言葉、神の言葉)には、かなり深い意味が込められています。「あなた方は、キリストと共に復活させられた。」これは、洗礼のことを語っています。ローマの信徒への手紙6章4節以下に、こうあります。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新し命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると
信じます。」

 イエス・キリストは、私たちの全部の罪を、私たちの身代わりに背負って、十字架で死んで下さったのです。そして死者の国に降られ、三日目に復活されました。復活の体をもって復活されました。そして天に昇られ、今も天で生きておられて、私たちを守っていて下さいます。洗礼を受けることは、このイエス・キリストと一体になることです。罪深い古い自分は、イエス様と共に十字架につけられて死んだ。そしてイエス様と共に新しい命、永遠の命をもつ自分に復活したのです。洗礼は単なる儀式ではないのです。深い意義を持ちます。古い罪深い自己中心の自分が死んで、イエス様と同じ愛の命・永遠の命に生きる新しい自分に復活したのです。東久留米教会では、頭に水を垂らす方式の洗礼式を行うので、今述べたような実感にやや乏しいとは思います。でも有効な洗礼です。

 本当に水に入る方式の洗礼式もありますね。本当に水に入るので、その方式で洗礼を受けると全身の体験になり、強烈な体験で決して一生忘れられない体験になるでしょう。水を頭に垂らす式の洗礼でも、もちろん一生忘れませんが。礼拝堂内に洗礼槽という水槽があり、そこに入って洗礼式を行う教会も多いと思います。今年の6月でしたか、もう既に暑かったですが、このすぐ近くの落合川で、他の教会の洗礼式を行うと私も誘われて、近いので参りました。私は会衆として見守り、お祈り致しました。洗礼を受ける方が川に入り、サポート係の方も川に入り、韓国人の牧師の方も川に入りました。聖書が読まれ、お祈りがなされ、受ける方は2~3秒、体も頭も水に沈んで、洗礼を受けました。上に上がって体も乾かしたあとに牧師が聖書をプレゼント。「棺に入る時、この聖書も入れる。読み込んであって真っ黒でないといけない。本棚にしまって白いままでは、恥ずかしい思いをする。」

 洗礼で大切なのは、自分の罪を悔い改めることです。罪を悔い改めていないと、形だけ洗礼を受けても意味がないでしょう。本当に水に入る洗礼の場合で見れば、水の中にどぼんと入った時に古い自分は死んだ。そして水から出た時に、全く新しい、神と人への愛に満ちた自分に生まれ変わりました。私たちは水を飲まないと生きていけませんが、この場合は、水が私たちに与えられた永遠の命を象徴します。罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ告白して洗礼を受けると、永遠の命を受けます。しかし現実には、私たちの罪は死にきっておらず、まだ少しずつ罪を犯します。日々自分の罪を悔い改める、祈って聖霊を受けることで、次第に清められてゆきます。そして私たちが地上の人生を終えるとき、私たちの残った罪も完全に死に絶え、私たちは全く罪のない清らかな自分になって、新しく天国に誕生します。地上の人生の終わりは、洗礼の完成です。ですが決して、天国行きを急がないで下さい。

 1~2節「あなた方は、キリストと共に復活させられたのですから、上(天国、神の国)にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」上にあるものを求めなさいとは、神の国と神の義を第一に求めなさい、ということです。洗礼を受けて神の子になったのだから、神様に喜ばれる、愛と正義に満ちたことばかりを求め行って、生きていきなさい、ということです。罪を捨てなさいということです。具体的には5節に記されています。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い(性的な罪)、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」上にあるものを求め、下(地上的、この世的)の罪深いことを捨て去りなさい、と言っています。

 戻って3節「あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」そう、私たちは洗礼を受けた時に、古い自分はイエス様と共に十字架につけられた死んだのです。そしてイエス・キリストを信じて亡くなった方々は、今は目に見えませんが、その方々の命は「キリストと共に神の内に隠されているのです。」その方々の命は、復活されたイエス様と共にあるから、心配する必要はない。いつまでも隠されているのではありません。4節「あなた方の命であるキリストが現れるとき、あなた方も、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」キリストが現れる時とは、イエス様がもう一度地上においでになる再臨の時です。イエス様がその時、神の国を完成して下さいます。

 イエス様が再臨なさる時に何が起こるか。ヨハネの手紙(一)3章2、3節にこうあります。「愛する者たち、私たちは今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるときに、御子(イエス様)に似た者となるということを知っています(人格がイエス様に似た者となり、イエス様と同じ栄光で満たされる)。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」フィリピの信徒への手紙3章20節以下には、こうあります。「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。」私たちにも、既に亡くなって、今私たちが見ることのできないクリスチャン方にも、以上の恵みが必ず与えられると約束されています。

 コロサイに戻り、5節の「みだらな行い」は元のギリシア語で、ポルネイアです。ポルノという言葉の語源と思います。貪欲を新改訳聖書は「むさぼり」と訳しています。「地上的なものを捨て去りなさい」を、口語訳聖書と新改訳聖書は「殺してしまいなさい」と訳しています。上(天国、神の国)のものを求め、下(地上、この世)の罪深い思いと行動を殺してしまいなさい、と言っています。捨てるだけでは足りない。神に背く罪深い思いを殺してしまいなさいと言っています。非常に強い言葉です。罪を憎むべきことが、この後も強調されます。6節以下「これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなた方も、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。」キリストを信じて洗礼を受ける「以前は」、5節にある罪を犯しながら生きて来た。しかし、洗礼を受けた「今」それらの罪を捨てなさい。殺しなさい。以前と今では生き方が明確に違うのです。「今は」、そのすべてを、すなわち怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。

 9節「互いに嘘をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、作り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」「造り主(神様)の姿に倣う新しい人を身に着け。」本日の旧約聖書・創世記1章26~27節「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男の女に創造された。」神様に似せ造られたところに私たち人間の、他の動物と違う尊厳があります。障碍があっても、神に似せて造られた尊厳があります。エバとアダム(人間の先祖)が悪魔の誘惑に負けて神様に背いて、罪の支配下に落ちたとき、この尊厳はかなり損なわれたと思いますが、完全に損なわれたのではないようです。「作り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて。」これは私たちが、聖霊(神様の清き霊)に満たされて清められ、神様に似せて造られた本来の姿を回復することを、述べていると思います。」イエス・キリストは神であり、神の子であり、同時に人間でもある方です。イエス様には全く罪がないので、イエス様だけが、神様に造られた全く罪のない人間の本来の姿を維持している方です。「作り主の姿に倣う新しい人を身に着け」るとは、このイエス様に似ていくということです。人格がです。

 12節はすばらしい。イエス様に似た者になれ。神様がそうして下さいます。14節「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させる絆です。」絆には傷が含まれてている。イエス様の十字架の傷のおかげで私たちの罪は赦され、私たちはイエス様と固いきずなで結ばれた。アーメン。


2025-11-02 0:39:19()
「神の預言者の血を流す罪」     2025年11月2日(日)礼拝
(ルカによる福音書11:45~54)
 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入らせない。

(説教) 本日は、東久留米教会創立64周年記念日礼拝です。説教題は「神の預言者の血を流す罪」です。小見出しは「ファリサイ派の人々と律法の専門家とを非難する」の後半です。この小見出しは、37節から始まっています。イエス様は、当時のイスラエルの宗教(信仰)のリーダーと言えるファリサイ派の人々を、厳しく非難されました。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」これは相当手厳しい非難です。ファリサイ派の人々は、偽善者だと言っておられるのです。
  
 本日は、イエス様による律法の専門家への非難です。最初の45、46節「そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、私たちをも侮辱することになります」と言った。イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸(ウーアイ)だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」ウーアイは、「うう、ああ」という呻きの言葉で、人間たちの罪に対するイエス様の嘆きと怒りが混ざった言葉だと、私は思います。当時のイスラエルでは、宗教上(信仰上)の律法(規則)が613あったと言われています。これを全部守らないと天国に入ることはできないと教えたのではないでしょうか。613もあると、大変な重荷です。律法の専門家は、民衆にこの613もの教えを実行するように求めましたが、背負うための手助けを、一切しなかったと思われます。愛がなかったと思われます。

 しかしイエス様は違います。イエス様は、マタイによる福音書11章28節以下で、こう言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私の元に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」重荷とは、神様の律法(私たちが守り切れない戒め)であり、私たちの罪を指すと言えます。イエス・キリストは、私たちをこれらの重荷(私たちが守りきれない律法と罪)から私たちを解放し、慰めと平安を与えて下さいました。私たちの全員の全部の罪の責任を身代わりに十字架で背負って下さり、イエス様を救い主と信じる全ての方に、永遠の命をプレゼントして下さったのです。

 イエス様ご自身が、十字架という最大の重荷を担って下さって、私たちを重荷から解放して下さいました。私たちも、このイエス様の十字架の愛に感謝して、イエス様が言われるように、自分の十字架を背負ってイエス様に従います。それを大変だと思うこともありますし、確かに本当に大変な十字架を背負われる方々もおられます。イエス様が共にその十字架を背負って下さると思いますし、周りの人々には、執り成しの祈りや具体的なサポートによって、一人一人の十字架が少しでも軽くなるようにできる応援をする務めが与えられていると思います。

 47~48節「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人になり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。」マタイ福音書23章では、この後にイエス様がこう言われます。「そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側には付かなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。」

 確かに、旧約聖書の時代にも、真の神様に従う預言者たちが迫害されました。旧約聖書の時代の預言者たちは、主にイスラエルの人々が犯した偶像礼拝の罪をやめるように語り、迫害されました。預言者たちは、モーセの十戒の第一の戒め「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」を守るように訴えました。しかし人々は、豊かさを求めてバアルなどの偶像(偽物の神)を礼拝することを、なかなかやめませんでした。これは当時の人々が、経済を拝んだこととも言えるので、他人事とは言えません。現代を生きる私たちも、お金を神としたくなる誘惑には、さらされていると思いますから。偶像崇拝をしてはならないと説く預言者たちは、イスラエルにおいて迫害されました。預言者イザヤも、預言者エレミヤも殉教したと言われます。

 そしてイエス様の時代に、人々は自分たちの先祖が殺した預言者たちの墓(記念碑)を建てたようです。こうして「昔の預言者は偉かった。自分たちは預言者を殺したりはしない」と、自分たちは信仰深いと自画自賛していました。ところがこの人々がイエス様を十字架につけて殺してしまうのです。人間の心には、本当に罪深いものが潜んでいるのではないでしょうか。それに自分でも気づいていない可能性があります。平穏な時にはそれは表面化しなくても、私たちが色々なピンチに陥ると、ふだんは隠れている自分のエゴが向き出しに出て来る恐れは、ないとは言いきれません。私たちはいつになっても、自分が本当にイエス様に従っているか、自分に問い直す必要があるのはないかと思います。

 49節「だから、神の知恵もこう言っている。『私は預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』」当時「神の知恵」という書物があったのかもしれませんが、イエス様は「神の知恵」に書いてあることに同意なさるのですね。50節「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。」これは、イエス様の時代のイスラエルの民が、それまで人間たちが神に背いて来た罪の責任を背負わされるという、実に厳しい言葉です。罪が裁かれる総決算の時が来たということです。ガラテヤの信徒への手紙5章7節の御言葉が、思い出されます。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」私たちが蒔いた罪の結果は、私たち自身にふりかかります。厳しい現実です。私たちが蒔いた罪の結果を、十字架で全て引き受けて下さったのがイエス様です。ですから私たちは、イエス様の十字架の恵みなしに、生きることは不可能です。

 51節「それはアベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。」創世記4章によるとアベルは、兄カインによって不当に殺されました。神はカインに言われます。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。」ゼカルヤのことは、本日の旧約聖書・歴代誌・下24章17節以下に記されています。イスラエルのヨアシュ王が命令して、真の預言者と言うべきゼカルヤが不当に殺されました。ゼカルヤは殉教の死を遂げたのです。ゼカルヤは死に際して言いました。「主がこれをご覧になり、責任を追及して下さいますように。」その通りと言うべきか、ヨアシュ王は、家臣たちに殺されます。そしてイエス様の時代までに流された預言者たちの死の責任を、イエス様の時代のイスラエルの人々が負うことになると言うのです。

 52節以下「『あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げて来たからだ。』イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろな問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉尻をとらえようとねらっていた。」イエス様こそ、預言者たちが(名前は示さないまでも)予告したメシア(救い主)です。預言者たちとイエス・キリストは、同じ線上に並ぶ人々です。そのイエス様をメシア(救い主)と認めないファリサイ派の人々、律法学者たちは、先祖たちと同類で、神様に逆らう者たちだということになります。イエス様に激しい敵意を抱き、ついに十字架で殺すことになります。神様への最大の反逆です。その結果、イスラエルはローマ帝国の攻撃を受けて、この約30年後に神殿は焼け落ち、エルサレムも一旦滅亡してしまいます。

 キリスト教会も神の民です。ですがキリスト教会も、100点の存在ではないので、悪魔の誘惑に負けて神様に背かないように、世の終わりまで気をつける必要があります。一昨日の10月31日は、宗教改革記念日でした。1517年の10月31日に、マルティン・ルターが、ドイツのヴィッテンブルグ城教会に95ヶ状の意見を貼り出して宗教改革(教会改革)が始まって日と言われます。本日の週報にその様子の絵を貼りました。95ヶ状の意見の中で、おそらく一番有名なのは次の言葉と思います。「イエス・キリストが悔い改めよと言われた時、イエス様はキリスト者の全生涯が悔い改めであることを求められたのである。」クリスチャン個人も、どの教会も、これを忘れないようにしないと堕落する恐れがあります。信仰の道は謙遜、謙遜、また謙遜です。

 昔のカトリック教会が堕落した時代もありました。「平和の祈り」で有名なイタリア人アッシジのフランチェス(1182年~1226年)は、聖堂で祈っていたときに、「私の教会を建て直しなさい」というイエス様の声を聞いたそうです。それで教会堂を修復する作業を行っていましたが、イエス様が本当に言わんとされたことは、教会の建物ではなく信仰の立て直し(改革)だったと思います。当時おそらくローマカトリック教会ではローマ教皇の権威や権力が絶大だったのでしょう。都会では豪華な聖堂が建築されていたのではないでしょうか。権力やお金の力が支配する世俗的な教会になったいたのではないかと思います。フランチェスコたちが修道院運動を始めたようです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである」というイエス様の精神です。教会は清貧(清く貧しい)に立ち帰る必要がある。教会は権力、お金、組織の力で成り立つのではない。そうなると悪魔の誘惑に負けて堕落する。教会は聖書の御言葉と祈りによってのみ成り立つ。ルターの500年前にも、このような改革者、教会を刷新した人々がいたのです。本日は、東久留米教会の創立64周年記念日の礼拝もあります。東久留米教会の原点も、これから歩む道も、聖書と祈りを第一にしての歩みにしなければいけません。

 ある人の文章によれば、「教会が権力や金銭(富)と結びつくと、必ず堕落する。教会の歴史を振り返ると、迫害され苦しんでいたときは純粋ですばらしい信仰共同体を作ったが、キリスト教がローマ帝国に公認され、国教になり、ローマ皇帝の権力と結びついてからは、争いや分裂に陥った。権力とお金に対する貪欲を、もっともらしい教理と神学(もちろんよい教理と神学もありますが)、で正当化し、堕落した。このような堕落にもかかわらず、教会が2000年間滅びなかったのは、アッシジのフランチェスコのような聖人が修道院運動を起こし、教会を権力とお金への執着から解放し、清貧(清らかさと貧しさ)と悔い改めに導いたからだ。それは神様がそのような清い改革者を起こして下さったのです。

 広島流川教会の週報。日本キリスト教団戦争責任告白。
権力、支配、お金、効率ではなく。イエス様に従うこと、聖書、祈り、奉仕こそ教会の生きる道。 そして教会はイエス・キリストの花嫁(女性も男性も)。ご葬儀の花で飾られた棺。 アーメン。

2025-10-12 1:21:53()
「正義の実行と神への愛」  2025年10月12日(日)礼拝説教   石田真一郎
(説教) 本日は、聖霊降臨節第主日公同礼拝です。説教題は「正義の実行と神への愛」です。小見出しは「ファリサイ派の人々と律法の専門家とを非難する」です。

 先週に続き、イエス様の厳しい言葉が語られています。先週の個所でイエス様は、「今の時代の者たち(イエス様の時代のイスラエルの人々)はよこしまだ」と言われました。邪悪だと言われたのです。先週の水曜日に婦人会で、エフェソの信徒への手紙5章を読みましたが、そこでもパウロが「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」と書いています。21世紀の今も、戦争も核兵器もあるので、悪い時代なのでしょう。私たち人間の罪が悪い時代を作ります。暗澹たる気持ちになります。

 本日の最初の37節。「イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。」ファリサイ派は、イエス様を批判していたグループですが、イエス様はその招きを断ることはなさらず、ファリサイ派の人の家に入って食事の席に着かれました。友好的です。38節「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。」マルコ福音書7章を読むと、当時の事情が分かります。「ファリサイ派の人々をはじめ、ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど。昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」

 旧約聖書そのものはもちろん、その後に旧約聖書を解釈するなどしてできた、多くの慣習や決まりごとを守っていたそうです。一説には613個ほどの決まりごとがあったそうです。私たちはこう聞くと、ファリサイ派の人々は無意味な細かい決まり事ばかり大切にする愛のないこちこちの形式主義者だったと受け止めます。その通りかもしれませんが、今の社会でも、色々な慣習や決まりごとはあります。それらを守ることで、物事がスムーズに進む、守らないとスムーズに進まないということはあると感じます。職場によっても、様々な約束事があり、それを守らないと人間関係も良好に回らないこともあると思います。当時のイスラエル社会においても、長年の間に積み重なった様々な決まりごとあり、それらが日常の中で権威・重みをもっていたと思います。しかしそれがあまり多くなって、弊害が目立つようになると、「原点に帰ろう」という原点復帰あるいは改革を求める声が上がってくると思います。本日の場面は、イエス様による宗教改革(信仰改革)と言えるでしょう。あるいは4つの福音書すべてが、イエス様による宗教改革(信仰改革)の記録とも言えます。イエス様が現代の社会、現代の教会に来られれば、やはり何らかの改革を行われるかもしれません。私たちは、イエス様による信仰改革ならば、喜んで受け入れて参りたいものです。
 

 39節「主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。」ファリサイという言葉の意味は、「区別する」だと聞いており、つまり自分たちは他の人々と違って、神様に全力で従って清く生きている者たちと考えていたと聞いています。その意味で、平均以上に立派な人々だったが、その分、自分たちだげが絶対正しいとプライドが高すぎ、謙遜さに欠ける問題があったと聞いてきました。ですがそれだけでなく、イエス様のお言葉を聞くと、「自分の内側は強欲と悪意に満ちている」と言われています。本当にそうだったのかと驚きます。外側では信仰深く見せながらも、内心では欲が深く、悪意に満ちている二重人格の人々だったのでしょうか。イエス様の神殿清め!

 ルカによる福音書16章では、ファリサイ派の人々は「金に執着する人々」と書かれています。こう書いてあるのであれば、その通りだったと思うほかはありません。信仰に一生懸命な人がお金に執着するはずがないと思うので、驚きますが。マタイ福音書7章15節でイエス様は、「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなた方のところ来るが、その内側は貪欲な狼である」とおっしゃっています。偽宗教家、偽預言者が当時いたし、今もいると思います。多くの献金を要求し、つぼを高価な値段で売りつける霊感商法を行う統一協会も、強欲で貪欲な狼といえます。私たちはよい宗教のつもりですが、それでもやはり悪魔の誘惑によく注意し、悪魔の誘惑に負けて悪い宗教にならないように、いつも注意は必要と思います。

 40節「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」もちろん外側だけをきれいに取り繕っているのでは、いけません。心の内側、中身が大事ですね。そして生き方が大事と思います。外側・外見がどうでもよいとまでは言いませんが、内面・中身が清いことが重要であることは、確かです。「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」これは「喜んで、与えなさい」ということだと思います。旧約聖書の箴言11章25節には、「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。」「与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなた方は自分の量る秤で量り返されるからである。」使徒言行録20章34、35節のパウロの言葉「ご存じの通り、私はこの手で、私自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなた方もこのように働いて弱い者を助けるように、また主イエスご自身が、『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」強欲なら、自分が獲得することにばかり熱心で、貪欲になります。「強欲資本主義」という言葉を聞いたこともあります。資本主義は、一つ間違うと、非常に強欲になるという警告の言葉と思います。「器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」これは「与える喜びに生きなさい」というイエス様の勧めの御言葉と思います。

 42節「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。」薄荷は、他の訳ではミントです、薄荷は確かにミントのことですね。「十分の一」の献げ物は、旧約聖書のレビ記27章30節に根拠があります。「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので、主に属す。」以前は日本にも収入の「十分の一」を献金する「十分の一献金」を奨励する教会は多かったと思います。もちろん「十分の一献金」は、神様の御心に適っていると思います。ですが自分の属する教会に「十分の一」全部を献げなくても、他の方面にも献げて十分の一にすることも、よいことと思います。最近は、十分の一献金を強調する教会は少ないのではないかと思います。教会の方からそれを求めると、教会が強欲になる恐れもあるので、慎重にする方がよいと思います。

 「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。」「不幸だ」は原語のギリシア語で「ウーアイ」です。これは「うう、ああ」という呻きです。「ウーアイ」は、イエス様のどんなお気持ちを表現する言葉なのでしょうか。それは「深い悲しみと聖なる怒り」が混ざった言葉ではないかと思います。ファリサイ派の人々の、私たち罪人(つみびと)たちの、なかなか自分の罪を認めて悔い改めない頑なさ、頑固さへの、イエス様の「深い悲しみと聖なる怒り」が混ざった気持ちを表しているのが「ウーアイ」という呻きだと思うのです。今日の聖書の箇所に3回、この言葉が出て来ます。

 イエス様は「もとより十分の一の献げ物もおろそかにしてはならない」とおっしゃると同時に、「正義の実行と神への愛をおろそかにしてはならない。これこそ行うべきことだ」と強調されます。ファリサイ派の人々が「薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ」と、イエス様は言われます。ファリサイ派の人々は、薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一、つまり非常に小さいものの十分の一さえも献げるほど、十分の一の献げ物を徹底的に行っていたけれども、「正義の実行と神への愛」をおろそかにしていたのでしょう。「木を見て、森を見ない」傾向に陥っていたのかもしれません。

 「正義の実行と神への愛」が具体的に何を意味するのかはっきり書かれていませんが、「隣人への愛を実行し、神様に祈り、神様を讃美し、神様を礼拝する」ことを指すのではないかと思います。このことは、本日の旧約聖書であるミカ書6章6~8節にも記されています。6~7節では献げ物について語られ、献げ物は大切だけれども形だけ、形式的に子牛や羊を献げているだけではいけないと語られています。「何をもって、私は主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか、幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。」8節が有名です。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に知らされている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」すばらしい御言葉ですね。

 43~44」節「あなたたちファリサイ派の人々は不幸(ウーアイ)だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸(ウーアイ)だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」会堂では上席に着くことが当たり前と思い、思い上がりの罪を罪を犯しているというのです。「これは礼拝堂で説教させていただく牧師のことだ、私のことだ」と、非常にビクッとします。十分気をつけなければいけません。「広場で挨拶されることを好むからだ。」自分から挨拶せず、相手が先に挨拶して下さるのが当たり前だと傲慢になっている姿です。私が東京神学大学を卒業した卒業式で、来賓として来られた辻哲子牧師が「卒業生への励ましの言葉」で、「自分から挨拶する牧師になって下さい」と言われたことを思い出しました。この御言葉を聞いて、思い出しました。卒業したての頃は、実践していたつもりですが、最近忘れていたかもしれません。初心忘るべからず。辻先生がおっしゃったことは、「東京神学大学出身の牧師は、自分から挨拶しないので、あなたたちは自分から挨拶する牧師になって下さい」とその日言われ、辛口の言葉に、当時の学長が苦笑していました。 

 鈴木ソンヒさんの証し。アーメン。

2025-10-04 23:18:48(土)
「神の言葉を聞き、守る幸い」     2025年10月5日(日)礼拝
(ルカによる福音書11:27~36) 
イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

(説教) 本日は、世界聖餐日・世界宣教日の公同礼拝です。説教題は「神の言葉を聞き、守る幸い」です。小見出しは「真の幸い」、「人々はしるしを欲しがる」、「体のともし火は目」です。

 先週の御言葉は、イエス様が神の指で、神様の愛の力で口の利けない方を利けるようにして下さった場面でした。イエス様に悪意を抱く人々が、「この奇跡は悪魔の力によって行われたのだ」と事実に反する悪口を言いました。イエス様はそれを否定され、言われました。「私に味方しない者は私に敵対し、私と一緒に集めない者は散らしている。」イエス様は私たちに、「さあ、私に味方してほしい。私と一緒に神の国の前進のために奉仕してほしい」と呼びかけておられます。

 そして本日の個所です。27節「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』」あなたのようなすばらしいお子のお母様は、何と幸い、何と祝福されていることでしょう、と声高らかに言ったのです。確かにマリアさんは祝福されています。マリアの親類で、洗礼者ヨハネの母エリサベトが、身ごもって間もないマリアに言った通り。「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様が私の所に来て下さるとは、どういうわけでしょう。』」マリア自身も、喜んで神様を讃美したのです。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も私を幸いな者と言うでしょう。力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。」クリスマスの時期によく読むマリアの賛歌です。

 しかしイエス様は言われます。28節「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」小見出しが「真の幸い」ですね。世の中には色々な幸せ、幸いがあります。健康で、家族・友人に恵まれ、仕事で成功し、お金持ちになる。このような幸せを、多くの人々が求めると思います。確かにこれらは豊かな祝福です。しかしイエス・キリストを知るという祝福、幸い、イエス様に従って生きる祝福と幸いがあるはずです。それは確実に天国に至る祝福ですから、真の祝福です。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」クリスチャンは、この幸いに生きている人です。このような人は、イエス様の母マリアと同じように、あるいはマリア以上の幸いと祝福に生きているのです。その方の中に、神様の尊い聖霊が宿っているならば、その人は神の子、永遠の命と天国を保証された人であり、神様からイザヤ書43章に書かれている通り、「私の目にあなたは値高く尊く、私はあなたを愛し」と言っていただける最も幸いな人、祝福された人です。マリアに劣らず、幸いな人です。光栄なことです。

 次の小見出しは「人々はしるしをほしがる」です。29節「群衆の数がますます増えて来たので、イエスは話し始められた。『今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』」「よこしまだ」とは、邪悪だということです。きつい言葉です。イエス様の生きておられた時代のイスラエルは、邪悪だと言うのです。それは今の世界も同じなのだと思います。ペンテコステ(聖霊降臨日)に、イエス様の弟子ペトロも同じことを言っています。

 「邪悪なこの時代から救われなさい。」ペトロの言葉を受け入れた人々は、洗礼を受け、その日に三千人が仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった、と書かれています。使徒パウロも、ガラテヤの信徒への手紙1章4節で、似たことを述べます。「キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救いだそうとして、ご自身を私たちの罪のために献げて下さったのです。」私たちの時代にも、立派な方も多くおられますが、多くの詐欺が横行し、悪い宗教もあり、悲惨な戦争も複数あることを思えば、邪悪な面が確かにあります。

 イエス様は旧約聖書のヨナのことを語られます。「つまり、ヨナがニネべの人々に対してしるしとなったように、人の子(イエス様)も今の時代(イエス様の時代)の者たちに対してしるしとなる。」アッシリアの首都ニネべは、邪悪の町の代表でした。ヨナはニネべに行けという神様の指示に最初は抵抗しましたが、ヨナが逃げるために乗った舟が大嵐に遭い、ヨナは海に放り込まれ、しかし神様のはからいによって巨大な魚の腹の中でお祈りし、悔い改めて陸地に吐き出され、今度は直ぐにニネべに行って説教したのです。「あと四十日すれば、ニネべの都は滅びる。」邪悪な町ニネべの人々が罪を悔い改めわけがないとヨナは思っていたらしいのですが、驚いたことに、ニネべの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまといました。皆が本気でへりくだって悔い改めるという、驚くべきことが起こりました。神様はこの様子をご覧になって、ニネべに裁きを下すことを中止されました。ヨナの説教によって、素直に悔い改めたのです。「人の子(イエス様)も今の時代(イエス様の時代)の者たちに対してしるしとなる。」つまりイエス様の時代の人々も、イエス様に接して、「この方こそ神の子だ」と素直に信じ、自分たちの罪を悔い改めることが求められているのですね。

 少し飛んで32節「また、ニネべの人々は裁きの時(最後の審判の時)、今の時代の者たち(イエス様の時代の人たち)と一緒に立ち上がり(聖書協会共同訳では、復活し)、彼らを罪に定めるであろう。ニネべの人々は、ヨナの説教を聴いて悔い改めたからである。ここにヨナにまさるものがある。」ある人が言うには、ヨナの話はイスラエルの人々にとって痛快だっただろうと言うのです。イスラエル人のヨナの説教によって、異邦人(外国人)ニネべの人々が悔い改めたからです。しかしイエス様は、ヨナの話をそのように解釈するのではなく、悔い改めて真の神様に立ち帰ったニネべの人々の態度がよかったという視点で語っておられる、というのです。だから最後の審判の時には、悔い改めたニネべの人々が、イエス様を受け入れない頑ななイスラエルの人々を裁くと、おっしゃいます。「ここにヨナにまさる者がある。」罪のあるヨナでさえ、神のメッセンジャーとして用いられた。イエス様はヨナよりはるかに立派な神の子です。であるなら、イスラエルの人々も私たちも、当然イエス様の御言葉を素直に受け入れる必要があります。

 少し戻って31節。「南の国の女王は、裁きのとき、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聴くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさる者がある。」これは本日の旧約聖書である歴代誌・下9章のことです。シェバは、今のイエメンだと言われます。アラビア半島の南端ですね。シェバの女王(神の民イスラエルに属さない異邦人)が、ソロモン王の名声を聞き、難問をもってソロモンを試そうと、極めて大勢の随員を伴い、香料、多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来ました。彼女の浴びせる難問に、ソロモンは全て解答しました。神様が知恵を与えておられたからです(ソロモンのよき祈り531ページ)。シェバの女王はすっかり感服しました。」8節「あなたを王位につけられたあなたの神、主のための王とすることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。あなたの神はイスラエルを愛して、とこしえに続くものとし、あなたをその上に王として立て、公正と正義を行わせられるからです。」

 この話も、イスラエル人にとって心地よいものだったでしょう。外国の女王がやって来て、ソロモンの偉大さを認めた話と受け取れるからです。ソロモン王のすばらしさを際立たせる話と受け取り、誇らしくなったのではないでしょうか。ですがイエス様は、むしろ女王の謙遜さを評価されます。真の神から与えられたソロモンの知恵を聞くために、わざわざ外国からやって来たシェバの女王の、真の神様に対する謙遜で、心開かれた姿勢は、まさに信仰者の模範だとおっしゃっているのではないかと思います。「南の国の女王は、裁き(最後の審判)の時、今の時代(イエス様の時代)の者たちと一緒に立ち上がり(聖書協会共同訳では、復活し)、彼ら(イエス様の時代のイスラエル人たち)を罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンまさるものがある。」ソロモンから神の知恵を聞いた女王が模範ですから、ましてソロモンよりはるかに立派なイエス様がおられるのに、イエス様に聞き従わないことはあり得ないことです。謙遜にイエス様に聞き従うことが、父なる神様に喜ばれることです。

 次の小見出しは「体のともし火は目」です。33節「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」マタイ福音書5章14節以下には、こうあります。「あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである。」信仰の生き方を隠さないで、表明するようにと、おっしゃっています。

 ルカに戻り34節「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」「濁っている」という言葉の元のギリシア語は、29節の「よこしま」と同じ言葉です。「濁っている」とは「よこしまで邪悪」だということです。従って「目が澄んでいる」はその反対で、「濁っていない、よこしまでない、邪悪でない」ということになります。当然、「目が澄んでいる」方がよいに決まっています。これまでの流れで言うと、イエス様と同じ時代のイスラエル人は、よこしまで邪悪だが、悔い改めたニネべの人々の目は澄んでおり、謙遜にソロモンから神の知恵を聞いたシェバの女王の目も澄んでいたことになります。もちろん、一番目が澄んでいて、心も澄んでいて清い方はイエス・キリストです。そして、私たちの両目は澄んでいるか、心は澄んでいて清いかが問われることになります。マタイ福音書5章8節には、「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」と記されていて、心に残ります。

 エフェソ1章17~18節。パウロはクリスチャンを迫害していたが、彼の目は煮濁っていたと思います。パウロはイエス様に出会い、目が見えなくなった。使徒言行録9章17~18節、目からうろこのようなものが落ちた。使徒言行録26章17~18節。うろことは、わたしたちの心の中の偏見や誇り(プライド)、罪と思います(よいプライドもあるが)。曇りやうろこはわたしたちの目に知らないうちに再びつくことがあると思います。聖書を読み祈り、神様によって毎日目と心の曇りを取り除いていただきたい。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」この光は、イエス・キリストであり、私たちの心の中に住まわれる聖霊と思います。コヘレト7章29節。矢部喜好牧師。「天国が見える。イエス様が見える。ばんざーい」と召天。目と心が澄んだ人だったと思います。アーメン。

2025-10-01 12:44:28(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」10月号に掲載する石田真一郎の文章)
「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ」(「主(しゅ)の祈り」の第四の祈り)。

 私たちに食事を与えて下さるのは、神様です。もちろん米や野菜を育てて下さる農家の方に感謝です。しおんでは先生方も農作業を担って下さり、感謝です。調理場の先生方、各家庭で食事を作るお母様、お父様に感謝です。しかし農家の方も、ゼロから米や野菜を作ることはできません。米、野菜、魚肉、全ての食べ物の大元の命を造ったのは神様です。

 大人は、自分と家族を養うために働きます。ですが、あくせくし過ぎないことも必要です。イエス様は、父なる神様に信頼しなさいと言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食住)はみな、加えて与えられる」(マタイ福音書6章33節)。日曜日に教会で神様を礼拝し、平日に誠実に働けば、神様が必要な衣食住を与えて下さるので、心配しないようにと。これを聴いて、私たちは平安を得ます。

 食糧の行き渡りを阻害する最たるものは、戦争です。人間が行う罪と悪が、飢餓をもたらします。私たちにはロシアがウクライナ攻撃をすぐやめ、ガザでの戦闘がすぐ終わるように、祈る責任があります。日本でも、太平洋戦争末期と戦後は、非常な食糧難でした。その原因は、①男性が兵隊になり、農業従事者が減った、②食糧輸入の海上ルートが連合国軍艦等によって遮断された、③空襲で鉄道・トラックが破壊され、農村から都市への輸送が滞った。天候不順もありますが、食糧不足の原因は人災も多いと思います。神様の恵みがあるのに、人が阻害します。

 新約聖書には、パウロというイエス様の弟子が人々に、真の神様を信じるように紹介する場面があります。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は、過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」(使徒言行録14章15~17節)。私たちもこの神様を信じます。

 旧約聖書に、次のすばらしい祈りがあります。「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主(神様)など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚(けが)しかねません」(箴言<しんげん>30章8~9節)。私たちもこの祈りを、毎日祈りたいのです。アーメン(「真実に」)。