日本キリスト教団 東久留米教会

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2026-03-22 2:35:19()
「あなたの信仰がなくならないように祈った」 2026年3月22日(日)受難節(レント)第5主日公同礼拝・「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」第87回
(ルカによる福音書22:31~38)
 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。

(説教) 本日は、受難節(レント)第5主日礼拝、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」の第87回。説教題は「あなたの信仰がなくならないように祈った」です。私たちは今、イエス・キリストの十字架を特に深く心に留める受難節(レント)を過ごしています。特に一生懸命聖書を読み、礼拝し、祈る季節です。

 本日の個所は、イエス・キリストがあと4~5時間もするとユダの裏切りによって逮捕される場面です。にもかかわらず、12人の使徒たち(弟子たち)は「自分たちの中で誰が一番偉いか」というレベルの低い議論に夢中になっていました。イエス様はそれに対して「あなた方の中で一番偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と言われ、同時に使徒たちへの感謝も述べられました。「あなた方は、私が種々の試練に遭ったとき、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた」と。だから「あなた方は、私の国(神の国、天国)で私の食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」これは今の世で権力を与えるということではなく、天国で豊かな報いを受けるという約束です。

 この約束を前提として、イエス様は次の踏み込んだ御言葉を語られます。本日の最初の31節「シモン、シモン。」名前を二回繰り返して呼びかけることは、非常に重要なメッセージを語ることを意味します。「シモン、シモン、サタン(悪魔)はあなた方を、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」これは厳しいことです。但しサタンは、神様より弱いので、神様の許可なしには何もできません。神様が許可した範囲のことしかできません。サタンは、父なる神様の許可を得て、シモンをはじめとするイエス様の弟子たちをふるいにかけます。困難の中でも父なる神様に従うかどうか、真の信仰の持ち主かどうか、試されます。日常生活の中で、様々なものをふるいにかけると、本物と偽物がより分けられます。神様はなぜ、サタンがイエス様の弟子たちをふるいにかけることを許可なさったのでしょうか。簡単に答えは出ません。

 サタンがふるいにかけると聞くと、私たちはヨブ記を思い出すと思います。神様がサタンに言われます。「お前は私の僕(しもべ)ヨブに気づいたか。地上の彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」するとサタンが挑戦します。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。(~)ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪いに違いありません。」すると一定に制限の中で、神の許可が出ます。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には手を出すな。」こうして、何か罪を犯したわけでもないヨブに苦難がふりかかります。

 似たことが、シモン・ペトロをはじめとする12人の弟子たちにも起こるのです。そしてシモンたちの場合は、誰よりもイエス様ご自身に、最も理不尽で最も厳しい苦難が下ります。イエス様は、それを受け止める覚悟をしておられます。イエス様ご自身が、最も厳しくふるいにかけられます。父なる神様に、どこまで従いきるかどうかが試されます。イエス様にとっても困難なことですが、最終的にご自分が12人の弟子たちを代表して、サタンに勝利なさることを確信しておられます。ですから弟子たちに、「あなた方は、私の国で私の食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの12部族を治めることになる」と、約束されました。

 ですが同時に、ふるいにかけられることは厳しいことです。イエス様は、シモン・ペトロがそれに耐えられないことを予見しておられたので、言われます。32節「しかし、私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモン・ペトロは挫折するが、イエス様の祈りに支えられて必ず立ち直ることができる。それがイエス様の確信です。イエス様は弟子の筆頭シモン・ペトロのために、前々から熱い執り成しの祈りを献げておられたに違いありません。ユダのためにも、他の10人の弟子たちのためにも、熱い執り成しの祈りを献げておられたに違いありません。「シモン・ペトロ、あなたは挫折する。しかし私は、あなたのために熱く祈った。だからあなたは必ず立ち直ることができる。あなたが立ち直ったら、同じく挫折した他の兄弟たち(弟子たち)を力づけ、励ましなさい。」これがイエス・キリストの福音なのでしょうね。誘惑や試練に負け、罪を犯してしまう。しかしイエス様の執り成しの祈りとイエス様の十字架の贖いに励まされ力づけられて、罪を悔い改めて立ち直ることができる。

 33節「するとシモンは、『主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った。イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう。』」ペトロは、「まさか」と思ったのではないでしょうか。しかし現実は、その通りになってしまいます。ペトロは、サタンのふるいにかけられ、敗れてしまいます。この後、イエス様はオリーブ山で汗が血のように滴る切なる祈りの後、大祭司の手下や祭司長、神殿守衛長、長老たちによって捕らえられ、大祭司の屋敷に連行され、次に最高法院で尋問され、さらに総督ピラトの尋問を受けます。

 ペトロは大祭司の屋敷で女中に、「この人も一緒にいました」と言われ、「私はあの人を知らない」と言ってしまいます。ほかの人に「お前もあの連中の仲間だ」と言われると、「いや、そうではない」と二回目の否定を行います。一時間ほど後にまた別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張ると、「あなたの言うことは分からない」と逃げ腰になります。まだ言い終わらないうちに、突然、鶏が鳴きました。イエス様は振り向いてペトロを見つめられました。実に印象深い場面です。イエス様のまなざしは、どのようなまなざしだったのでしょうか。ペトロをにらみつけたり、ペトロに怒りをぶつけるまなざしではなかったと思います。「ペトロ、やはりあなたは私を知らないと言ったのだね。私は残念に思う。私にじっと見つめられることは、たまらないだろう。しかし私は今もあなたのために祈っている。私はあなたの三度の裏切りの罪をも赦すために、あなたのためにも十字架にかかる。あなたは三度の裏切りの罪を悔い改めて、必ず立ち直ることができる。」イエス様は、心の中でこのように考えておられたのではないかと思います。ペトロは、イエス様にじっと見つめられてはっとし、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と予告されたイエス様の言葉を思い出しました。そして外に出て、激しく泣いたと記されています。自分のうかつさ、自分のいい加減さ、自分の罪を悔いて、悔い改める涙です。

 ペトロは、この時はまだ気づいていなかったかもしれません。自分の大きな罪を悔い改めるこの涙が、父なる神様の御心に適う涙であることを。詩編51編19節には、こうあります。ダビデ王の悔い改めの言葉ですね。「神の求めるいけいえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」「神の求めるいけいえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」

 先週の礼拝では、聖餐式についても語らせていただきました。聖餐式を受けるにふさわしいかどうかは、どのように判断すればよいのでしょうか。聖餐式を受けるのにふわしい人は、聖書の御言葉と聖霊に導かれて正しく生きていることも大切です。ですがイエス様ほど正しく生きることができない私たちであることを思うと、自分の罪を悔い、自分の罪を悔い改める本心からの涙を流していることが、聖餐式を受けるために最も重要なこととも言えます。日本人は喜怒哀楽をあまり表に出さない傾向もあるので、心の中で涙を流しているということでもよいと思います。

 「聖餐式を受けるのに全くふさわしくない私のために、イエス様が十字架で死んで下さった。」このことを知るならば、私たちは自分の罪を悔い改めないわけには、いかなくなります。少し昔のある著名な牧師は、聖餐式を司式するたびに涙ぐんだと聞きます。ある意味で、当然のことと思います。私もそのような気持ちで毎回、聖餐式の司式をさせていただきたいと思いますし、司式でなく受ける時も、毎回そのような気持ちで受けたいと思うのです。イエス様の十字架の恵みに、慣れてしまって、何の感動も感謝もなく、聖餐式を受けることだけは、避けたいと思います。ペトロの三度の裏切りは私たちの模範になりませんが、しかしペトロの涙は純粋な悔い改めの涙であって、私たちも自分の罪を純粋に悔い改めて、あのような純粋な涙を本心から流せる信仰に生かされたいと、切に願います。

 次の小見出しは、「財布と袋と剣」です。35節「それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」
 
 イエス様は、ルカによる福音書10章4節以下で言われました。72名を任命して、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた時です。「財布も袋も履物も持っていくな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和は、その人にとどまる。~その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。」その時は、何を持って行かなくても、弟子たちは何にも不足しなかったのです。神様が全て、備えて下さいました。

 しかし今は、状況が非常に悪化しているのです。イエス様は、本日の御言葉の少し先で、「今は闇が力を振るっている」と言われました。これから暫く、悪魔が猛威を振るうのです。その中で信仰をもって生きる強い心構えが必要です。それが「財布を持ち、袋を持ち、剣を買いなさい」の意味ではないかと思います。彼らが「剣がここに二振りあります」と答えましたが、この二本だけでは、イエス様を捕らえに来る大勢と戦って勝つこともできないでしょう。

 「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、私の身に必ず実現する。」これは本日の旧約聖書イザヤ書53章12節の引用です。ご存じの通り、イザヤ書53章は、イエス様の十字架の犠牲の死の予告。「彼が自らを投げ打ち死んで、罪人(つみびと)の一人日数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」イエス様が、ご自分の口で、イザヤ書53章の御言葉を語られる箇所は、新約聖書でこの37節だけだそうです。 

 私は一昨日、西東京教区の全体研修会(阿佐ヶ谷教会にて)に参りました。カトリックの作家・遠藤周作と交流のあった山根道公氏(岡山のノートルダム清心女子大の先生)です。今年は遠藤周作召天30年です。遠藤周作の言葉「人間は、永遠の同伴者を、自分の悲しみや苦しみを分かち合い、共に涙を流してくれる同伴者を必要としている。」「私にだってまあ、辛い時や挫折が何回もあった。私に入院二ヵ年半、大きな手術三回やるというかなり長い病気の期間がある。病気という生活の挫折を三年近くたっぷり噛みしめたおかげで、私は人生や死や人間の苦しみと正面からぶつかることができた。これは小説家にとって苦しいが貴重な勉強と体験だった。少なくともそのお陰で、人間と人生を視る眼が少し変わって来た。今思うと『沈黙』という私にとって大事なあの作品はあの生活上の挫折がなければ、心の中で熟さなかったに違いない。」こう書く遠藤さんは、37歳のときに肺結核再発、二度の手術失敗。手術死の危険の高い三度目の手術を受け、数秒心臓が止まるが、死の淵から生還する。三年に及ぶ病体験の中で、なぜ人間に苦しみが与えられ、神に問い続け、その苦しみを共に分かち合うキリストの眼差しに出会う。

 遠藤周作は、ペトロと同じ体験をしたわけではありません。それでも遠藤さんが実感したイエス・キリストの眼差しは、ペトロが「知らない」と言った時に振り向いてペトロを見つめられたイエス様の眼差しと共通するものがあったと思うのです。遠藤さんは『沈黙』という代表作の最後に主人公とイエス・キリストの対話を書きます。「主よ、あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました。」「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。」

 ルカ福音書に戻ると、イエス様はペトロに言われたのです。「私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス・キリストはペトロの裏切りの罪をも背負って十字架にかかり、私たちの罪や苦しも背負っていて下さいます。このイエス様に励まされて、私どもも、人様のご苦労を少しでも共に背負わせていただき、共に神の国を目指して前進したいものです。アーメン。


2026-03-15 0:54:41()
「キリストの血による新しい契約」 2026年3月15日(日)受難節(レント)第4主日公同礼拝
(ルカによる福音書22:14~30)
 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。
また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」

(説教) 本日は、受難節(レント)第4主日礼拝。説教題は「キリストの血による新しい契約」です。小見出しは「主の晩餐」と「いちばん偉い者です。私たちは今、イエス・キリストの十字架を特に深く心に留める受難節(レント)を過ごしています。特に一生懸命聖書を読み、礼拝し、祈る季節です。

 最初の小見出し「主の晩餐」これはいわゆる「最後の晩餐」の場面です。14節から「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなた方と共にこの過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。』」「切に願っていた」と直訳すると「私は望みに望んだ」になります。「望む」という言葉が、2回書かれています。イエス様が弟子たちとこの食事を行うことを、心の底から強く願われたことが分かります。「私は望みに臨んだ。」「苦しみを受ける前に」の苦しみは、もちろん十字架の受難を意味します。「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事をとることはない。」

 イスラエル人にとって重要な過越祭は、モーセの時代にエジプトで奴隷として酷使されていた苦難から、神様の愛によって奇跡的に救い出されたことを記念する祭であり食事です。あの時、神様の裁きがエジプト全土を覆いました。しかしイスラエル人の家庭では、神様の指示に従って傷のない一才の雄の羊を夕暮れに屠り、その血を取って小羊を食べる家の入口の二本の柱と鴨居に塗り、小羊の肉を火で焼いて食べ、酵母を入れないパンと苦菜を添えて食べました。家に塗った血がしるしとなり、神様はその血のある家には裁きを行わず、過ぎ越したので、イスラエルの家には裁きが下りませんでした。これが過越祭と過越の食事のいわれですね。これは旧約聖書(古い契約)の時代の祭りです。そしてイエス様は今や、それを乗り越える新しい契約を打ち立てようとしておられます。「神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事をとることはない。」「神の国で過越が成し遂げられる」とは、イエス様の十字架と復活によって、私たちに真の救いが与えられることを意味するのでしょう。その後にならないとイエス様は次の過越の食事をとることはないと言っておられますが、これは復活後のエマオでの食事を指すのかもしれませんし、天国で待っている完全な祝福を、過越の食事という言葉で象徴させておられるのかもしれません。

 17~18節が、旧約聖書の時代の過越の食事であるそうです。「そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。『これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』」イエス様の12弟子が、過越の食事のぶどう酒を飲んでいる場面です。ここに書かれていませんが、通常、この後に小羊の肉を食べたそうです。イエス様が言われます。「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」使徒たち(弟子たち)と一緒にぶどう酒を飲むことは、永遠の喜びのシンボルで、ここではイエス様が一旦弟子たちと別れることになる悲しみもあります。しかしもっと大きな喜びが天国で待っています。ここまでが過越の食事です。

 19節からが、イエス・キリストによる「新しい食事の制定」です。これは普通の食事ではなく、聖なる食事です。第1回目の聖餐式とも言えます。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなた方のために与えられる私の体である。私の記念として、このように行いなさい。』」前にも申しましたが、私が神学生だった時に、お隣の日本ルーテル神学大学との一致礼拝に出席したとき、プロテスタントのルター派の教会の聖餐式を経験しました。ルーテル教会の牧師が、一人一人の目の前でパンをちぎって渡して下さいます。一人一人に言うのです。「これは、あなた方のために与えられる私の体である」と。目の前で一人一人のためにちぎって渡して下さるので、「イエス様の御体が私の罪のために十字架で釘と槍でちぎられた、裂かれた」事実を、目の前で示して下さいます。とても印象深い聖餐式です。

 「私の記念として、このように行いなさい。」記念と訳された元のギリシア語は、「想起する、思い出す」の意味でもあります。イエス・キリストの十字架と復活が、まさしく私たち一人一人のために行われたことを、パンとぶどう液を受けることで、はっきりと思い出す、想起するのです。「このように行いなさい。」イエス・キリストのこの明確なご意志、直接の命令によって、東久留米教会でもどの教会でも。聖餐式が行われます。20節「食事を終えてから、杯をも同じようにして言われた。『この杯は、あなた方のために流される、私の血による新しい契約である。』」イエス・キリストが、私たちの全ての罪の責任を身代わりに背負って、十字架で体だを裂き、血を多く流して死んで下さいます。イスラエルの民のエジプト脱出の時に成立した古い契約の時は、いけにえの小羊の血が流されました。新しい契約が確立される今回は、真の神の子イエス様が真のいけにえとなって血を流して死んで下さいます。血は命そのものです。私たち人間の罪が赦されるためには、いけにえの命によって償うほか道がありません。本当は小羊ではだめです。神の子が十字架で血を長して死ぬしか、私たちの罪が赦される道がありません。ヘブライ人への手紙9章22節に、「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」と書かれている通りです。

 私たちが今読んだ御言葉とほとんど同じことを、使徒パウロも書いています。これにより、イエス様が確かにこのことを直接命じられたことが分かります。コリントの信徒への手紙(一)11章です。聖餐式の時にいつも読む御言葉です。「私があなた方に伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これはあなた方のための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなた方は、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」ここにも「記念」という言葉が二回出てきます。これはイエス様を過去の方として想起する、思い起こすだけでなく、もちろん今共にいて下さる神の子として信じることを意味します。そして私たちは、あの聖餐式のパンを食べ、ぶどう液を飲むたびに、イエス様が私の罪のために十字架で死で下さった恵みを、心と口と胃で具体的に味わいます。

 その先には、こうあります。27節以下「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体(パンが聖別された聖なるパンであること)をわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」「自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」自分が十戒等に照らして明らかな罪を犯していないか等を、自分でチェックした上で、パンとぶどう液をいただきなさいということと思います。明らかな罪を悔い改めもしないで、うかつにパンとぶどう液を受けると、聖なる神様に裁かれる恐れもあると警告しています。

 この御言葉を読むと、洗礼を受けていない方に聖餐式のパンとぶどう液を渡すことは、行ってはいけないこととよく分かります。洗礼を受けていない人にもパンとぶどう液を配る教会もあるらしいのですが、私は現場は見たことがありません。洗礼を受けていない人にもパンとぶどう液を配ることは、一見、差別をなくしたよいことのように見えます。ですがそれは相手を危険にさらすことと思います。洗礼を受けていないことは、自分の罪を悔い改めていないことですから、その方がうかつに聖餐式のパンとぶどう液を受けると、ここに書いてあるように「自分に対する裁きを飲み食いする」ことになってしまいます。そして私たちは、31節のパウロの言葉に、ほっとします。「私たちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。」ちゃんと自分の罪を悔い改めていれば、裁かれることはないということでしょう。

 もう一か所、コリントの信徒への手紙(一)10章14節以下も見たいのです。ここでも、私たちは聖餐式に臨む心構えを教えられます。偶像崇拝を行いながら、聖餐式に参加することはできないと語られています。「私の愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。偶像礼拝は、偽物の神を拝むことですね。パウロが20節ではっきり書いているように、偶像の正体は悪霊。悪魔なのです。16節「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。」キリストの純粋な血、キリストの聖なる血をいただくのが聖餐式です。「あずかる」という言葉は、元のギリシア語で「コイノーニア」で「交わる」「交流する」の意味です。私たちが聖餐式のぶどう液を飲むとき、私たち罪人(つみびと)が生けるイエス・キリストの聖なる血と交流しているのです。これはやはりへりくだって襟を正して行うことだと感じます。「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」パンをいただく時も同じです。普通の食事ではなく、聖なる食事です。

 聖なるキリストと交流する聖餐式。聖餐式にあずかりながら、同時に偶像(他の宗教)の食卓・儀式に参加することはできないとパウロが説きます。偶像は悪霊・悪魔であり、偶像の儀式に参加することは、悪霊と交流することですから、聖なる神を礼拝するクリスチャンにできないことです。それは父なる神様とイエス・キリストを裏切る行為になります。パウロは言います。「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも主にねたみを起こさせるつもりなのですか。」私たちが偶像の儀式に参加すると、神様のねたみを引き起こす。聖なる怒りを招くので、キリストの神聖な食卓にあずかってイエス様と聖なる純粋な交流をする私たちクリスチャンは、汚れた偶像の儀式に参加することはできない。私たちは聖餐式で、イエス様との聖なる純粋な交流に生きているのだからです。このことをよく心に刻んで、聖餐式にあずかることが必要です。

 ルカ22章に戻り、21節。「私を裏切る者」の「裏切る」は元のギリシア語で「パラディドーミ」、「渡す」という言葉。ローマの信徒への手紙5章32節にも出て来る。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」イエス様の十字架は悪魔がユダを誘惑してイエス様を裏切らせたこと、悪魔がリードしているように見えるが、最も深い部分では父なる神様がリードし、導いておられること。「人の子を裏切るその者は不幸だ(ウーアイ)。」呻き。

 小見出し「いちばん偉い者。」弟子たちの野心。特に男性のこの心がある。地上で権力を与えられるのではなく、地上でイエス様と共に奉仕に生きれば、天国で報われるということ。ペトロの手紙(一)5章5、6節参照。
首から釘を下げた牧師、すばらしい伝道をした。アーメン。

2026-03-11 14:51:15(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」2026年3月号に掲載した文章)石田真一郎
「寄留者(外国人)を虐待したり、圧迫したりしてはならない。」(旧約聖書・出エジプト記22章20節)。」
 
 年長の皆さん、卒園おめでとうございます! 卒園しても、イエスさまを決して忘れないで下さいね。卒園すると礼拝がなくなるので、日曜日にぜひ、お近くの教会の「子どもの礼拝」に行って下さい。歓迎して下さいます。

 私は2023年より東久留米市役所で火曜夜7:00より、外国人に日本語をお教えするボランティアをしています。ボランティアと外国人が一対一か二で50~60人、和気あいあいのよいクラスです。国際平和造りの最前線です。皆様も参加されませんか? 神様は旧約聖書の中で、イスラエル人にこう言われます。「(神は)孤児と寡婦の権利を守り、寄留者(外国人)を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」(申命記10章18~19節)。今のイスラエルにもパレスティナ人、特にその子どもたちを愛してほしいものです。

 最近、日本にも外国の方が増えました。東久留米市には、3000人強の外国人が住んでおられます。人数の多い国は上位から中国、韓国、ベトナム、フィリピン、アメリカです。この方々とよき友情を築きたいですね。最近の日本では、外国人排斥の言説もあるようで心配です。少なくとも東久留米市では、そんなことがないようにしたいですね。私も中国語、韓国語をもっと勉強したいです。私は大人に日本語をお教えしていますが、別の団体が市役所で午後に、外国人の子どもたちに日本語を教えるクラスもあり、私の知人の日本人クリスチャンの方々もボランティアしておられます。私のいるクラスの外国の方には、クリスチャンもおられます。アフリカやフィリピンやアメリカのクリスチャン、インドネシア人の牧師に会いました。

 キリスト教の若い宣教師ご夫妻にも会いました。妻はカナダ人、夫はカリブ海のトリニダード・トバゴ(美しいサンゴ礁の国)人です。人種の違いを超えて結婚し愛し合っておられる姿に、尊敬の念を覚えます。日本に来た理由を夫は日本語で、「イエスさまが日本にいきなさいといわれたので、きました」とゆっくり書いて下さいました。私が牧師と知ると、有名な聖書の詩編23編の日本語訳の漢字一文字ごとの読み方を教えてくれと言われ、私は丁寧にお教えしました。昨年の12月に市役所一階のホールで行われた交流会で、妻はヴァイオリン、夫はあの赤いピアノで、クリスマスの讃美歌「天(あめ)なる神には、み栄えあれ」を実に美しく合奏して下さいました。私は東久留米市にも国籍を超えるイエス・キリストの愛が注がれていることを実感し、感動に打たれて聴きました。私が、「その讃美歌は日本の教会でも歌っているよ」と言って歌詞を渡すと喜んで下さいました。卒園する皆さんに、イエス様の愛が一生注がれますように、祈ります。アーメン(真実に)。

2026-03-11 14:40:16(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」2026年2月号に掲載した文章)石田真一郎
 「わたし(イエス・キリスト)は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(新約聖書・マタイによる福音書28章20節)。」

 南米のチリのサンホセ鉱山で、2010年8月5日に落盤事故が起こり、33名の炭坑労働者が地下700mに閉じ込められました。生存は無理と思われましたが、ドリルで直径8cmの穴を貫通させて引き上げると、「我々は生きている」と書いた紙片が付いていました。ファイバースコープを入れて地下の男たちの顔を映し、23日には音声通話に成功。食料を地下に届けること、手紙やビデオの交換もできるようになります。69日間の地下生活を絶望せずに耐えた33名の精神力は、尊敬に値します。

 33年間鉱山労働を続けながら牧師でもあったホセ・エンリケスは、地下で祈りの会を主宰し、カトリックとプロテスタントのクリスチャン労働者が神様に助けを祈りました。彼らは自分たちを「34人」と呼びました。イエス・キリストも34人目の炭坑労働者として共におられると信じ、無神論者まで祈り始めました。チリはカトリックの国で、神様を信じる人が多いこともプラスに働きました。真の神様への祈りが希望を生みます。もちろん地上の家族も友人たちも、一生懸命に神様に祈り続けました。世界中の人々が救出のために祈り、私も祈りました。

 坑内で落盤を起こさないで、救出用の穴を通すために、様々な方法が検討され、世界中から技術者が協力しました。日本も、33名に肌着や宇宙日本食等を提供したそうです。幾多の困難を克服して、3つのプランの中のプランBが成功し、固い岩盤を直線の穴(直径70cm)が貫通し、一人だけ入れる救出用カプセルを地下に届け、一人ずつ乗って遂に全員が救出されました! 事故から69日目の10月13日、世界中が歓喜に湧きました! セプルベタというリーダーは、「神が私を地上に救い出してくれることを一度も疑わなかった」と語りました。
 
 精神科医の香山リカさんは、ラテン系の気質もプラスだったと書きます。「前向きで明るく、『もしまた落盤したら。酸素が足りなくなったら』と悪い方に考えてクヨクヨしない。『クリスマスは地上で楽しく過ごせるよ』と、よい未来だけを考える。そのラテン系気質を、『神様が僕たちを救わないわけはない』という信仰も支えていた。互いを思いやる気持ちを忘れず、心にゆとりを持ち、苦しい中でも楽しみを見つけて過ごすことが、良い結果を招いたのではないか」と。

 旧約聖書の言葉を2つ、ご紹介します。
「深い地の底も(神の)御手の内にあり、山々のいただきも主(しゅ。神)のもの」(詩編95編4節。地下の33人に、地上から贈られたTシャツにプリントされた励ましの言葉)。「わたし(神)は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ書29章11節)。アーメン(真実に)。

2026-03-11 14:37:59(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」2026年1月号に掲載した文章)石田真一郎
「国と力と栄とは、限りなく汝(なんじ=神様)のものなればなり。アーメン。」(「主(しゅ)の祈り」のしめくくり)。

 新年おめでとうございます。本年も、よろしくお願い申し上げます。
このしめくくりの言葉は、イエス様が教えた元来の「主の祈り」にはなく、後のキリスト教会が旧約聖書・歴代誌・上29章11節「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの」から取り、加えたと言われます。イエス様の父なる神様は、この全宇宙の全てを(私たちを含む)を創造した方なので、この宇宙の中の全てのものは、この神の所有です。旧約聖書の出エジプト記19章5節で神様は、「世界はすべてわたしのものである」と宣言しておられます。この神様を讃美することは、神に造られた私たち人間にとって最も必要で、最も謙遜な行為です。ところが現実には、私たちはこの神様にあまり感謝せず、神様を無視して生きる罪を犯しています。
 
 12月にクリスマス会を行い、ペイジェント(キリスト聖誕劇)を行いました。聖書のその場面で、天使たちの美しい讃美が描かれます。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ(ルカによる福音書2章14節)。旧約聖書のダニエル書で、神に仕えるダニエルが、傲慢な王を厳しくいさめます。「あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」私たちの命は、100%この神に依存しています。私たちは、この神の守りなしに1秒も生きられないのが現実です。

 私の父が11月24日(月)に95才で天に召されました。私が声に出してお祈り(「主の祈り」だったかもしれません)をし、「アーメン」(「真実に」「本当にそうです」)と言うと、「アー」と声を出しました。「アーメン」と言おうとして「アー」で止まったと思います。その数分後に、天国に移りました。イエス様を信じていたので永遠の命をいただいており、今は天国に入って、神様を讃美・礼拝しています。悲しいですが、この点については安心しています。「アーメン」と言いかけて、祈りながら天に召されるというキリスト者らしい最期を与えられ、神に感謝です。

 旧約聖書の詩編8編2~3節に、こうあります。「天に輝くあなた(神)の威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって。」神様は、しおんの子どもたちの歌う讃美歌、お祈り、演じるペイジェントを天で大喜びで見ておられます。聖書によるとイエス様は、もう一度天から地上に来られて、神の国を完成されます。その時、天では次の賛美が歌われます。「ハレルヤ、私たちの神である主が王となられた。私たちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう」(新約聖書・ヨハネの黙示録19章6~7節)。その時まで、私たちは祈り続けます。「国と力と栄えとは、限りなく汝(=神様)のものなればなり。アーメン。」この神にのみ、栄光があるように!