日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2019-09-19 2:44:32(木)
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れる」 2019年9月15日(日) 聖霊降臨節第15主日礼拝説教 要旨
聖書:イザヤ書58:6~14、マタイ福音書9:14~17

 「そのころ、(洗礼者)ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『私たちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った。」当時のユダヤ人は、祈り、断食、施しを重視していたのです。イエス様は、悪魔の誘惑と戦った時に、40日40夜もの断食をなさいました。でも弟子たちは断食しなかったようです。イエス様がこの質問に答えて下さいました。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」ご自分を花婿にたとえられました。

 旧約聖書では、神様が夫、神の民イスラエルが妻にたとえられます。神はモーセの十戒の第一の戒めでイスラエルに、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってならない」と言われ、「わたしは熱情の神」と言われます。口語訳聖書では「ねたむ神」でした。2018年に出た聖書協会共同訳聖書では、「妬む神である」です。ふつう「ねたみ」は人間が他人の幸福を不快に思う罪深い思いをさします。「神のねたみ」は別です。それは、夫なる神が妻イスラエルを深く愛する最も情熱的な愛をさします。イスラエルが別の神々=偽の神々を拝む偶像崇拝を行うことは、真の神への裏切りであり、霊的な姦淫(不倫)の罪であり、神は激しく傷つけられ、神の激情、聖なる怒りを引き起こします。これが「神のねたみ」、「聖なるねたみ」です。

 新約聖書では、神の子イエス・キリストは花婿、教会が花嫁です。イエス様の使徒パウロが書いています。「あなたがた(コリント教会)に対して、神が抱いておられる熱い思い(ねたみ)をわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫(キリスト)と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」コリント教会も東久留米教会も、どの教会もキリストの花嫁です。

 内村鑑三のエピソードを思い起こします(重平友美著『少年少女信仰偉人伝 内村鑑三』教会新報社より)。内村鑑三の娘ルツ子は、1912年に17才で天に召された。内村は、深い悲しみに耐え、葬儀で語りました。「『娘はキリストの花嫁として、天に召されて行きました。私も天国に親類をもつ者となりました。~どうか娘の旅立ちを、拍手をもって送っていただきたいのです。~』内村の言葉が終わったとき、会葬者の中に拍手が起こった。~祈り終えた内村は、ひとにぎりの土をとって、『ルツ子、バンザイ』と、叫んだ(162~163ページ)。」内村はその夜、ルツ子が白い星になって、空を飛ぶ夢を見た。『ルツ子はなぜ笑っているんだ。』~『イエスさまが、涙を全部ふいて下さるからよ』(164ページ)。内村は悟ります。「ルツ子は天国に行った。キリストの花嫁として行ったのだ……、そして、教えてくれた。私の理想としている教会こそ、キリストの花嫁であることを……」(169ページ)。どの教会も、クリスチャンも(男性も)、キリストの花嫁です。カトリックのシスター(修道女)の方々は、キリストと結婚している(キリストの花嫁)ということだと聞きます。もちろん男女の普通の結婚と同じではなく、キリストの十字架の愛に応えて、キリストに全身全霊で献身しているということです。私たちにとっても、日曜礼拝に出席することは、キリストへの愛の表明、キリストへの献身の表明です。

 ヨハネの黙示録19章が描く神の国の完成の場面は、花婿イエス・キリストと花嫁なる教会の結婚です。「小羊(イエス様)の婚礼の日が来て、花嫁(教会)は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」そして聖書の締めくくり近くで「霊(聖霊)」と花嫁(教会)が花婿なるキリストに呼びかけます。「来てください。」花婿キリストが答えます。「然り、わたしはすぐに来る。」これは再臨の約束です。天国、永遠の命への信仰を深めた内村は、ルツ子の召天後、しばらくしてから、ホーリネス教会の中田重治(じゅうじ)牧師と協力して、キリスト再臨運動を展開しました(再臨運動が起こったのは、第一次世界大戦で、西洋文明への深刻な反省が生じたことも原因)。

 マタイ福音書に戻ります。イエス様は言われます。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」できません。イエス様は地上でおそらく2年前後、弟子たちと共に歩まれました。弟子たちにとって至福の時、喜びの時です。イエス様の十字架は非常に悲しい出来事ですが、イエス様は復活されました。復活されたイエス様は天に昇られましたが、聖霊を送って下さいました。クリスチャンの内には聖霊が住んでいます。聖霊は聖なる喜びと慰めの霊です。クリスチャンはその聖霊に満たされ、愛に満たされて歩み、新しい生き方で歩みます。イエス様は、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言われます。これはクリスチャンの新しい生き方をさします。神を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する生き方です。敵をさえ、愛そうとする生き方です。花嫁なる私たちが、花婿キリストの愛を一身に受けるとき、この新しい生き方で一歩ずつ進む道が開かれます。ハレルヤ(主を、たたえよ)。

2019-09-11 22:43:24(水)
「罪人(つみびと)をこそ、招くキリスト」 2019年9月8日(日) 聖霊降臨節第14主日礼拝説教 要旨
聖書:エレミヤ書31:18~20、マタイ福音書9:9~13

 「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、徴税人は仲間のイスラエル人から税金を取り立ててローマに納め、規定より多く取り立てて私腹を肥やしていたそうです。それで同胞のイスラエル人から、売国奴、裏切り者と見慣られ、憎まれていたそうです。確かに罪深い生き方です。マタイが収税所に「座っていた」とは、罪に安住し「座りこんでいた」こととも言えます。しかし心のどこかで、「このままではいけない。ここから抜け出したい」とも思っていたでしょう。しかしきっかけがありませんでした。イエス様が通りかかり、これらのことを一瞬で見抜きます。

 「わたしに従いなさい」と声をかけ、彼を招き、彼の背中を押します。彼は立ち上がってイエス様に従います。罪深い生き方を捨て、誘惑する悪魔を蹴飛ばし、決然と立ち上がってイエス様に従い、神を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する喜ばしい生き方の方向に進み始めたのです。マタイは確かに罪人(つみびと)でした。そのマタイをイエス様は招き、罪を捨てる生き方(まだ罪が残っているにしても)へと押し出して下さいました。

 イエス様は、マタイの家で食事なさいます。食事は親しい交わりのシンボルです「徴税人や罪人(つみびと、おそらく売春婦など)も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派と呼ばれる潔癖な人たちには許せない光景でした。ファリサイとは「分離する」の意味と聞いたことがあります。自分は徴税人や売春婦とは違う立派な人間だとの誇り(プライド)に満ち、優越感に満ち、他人を見下していました。これを自己義認と言います。ファリサイ派は、自分には罪がないと思っていたのではないでしょうか。でも神様から見れば、税金を規定以上に取り立てるのも罪、売春も罪、自己義認も罪です。すべての人の罪を背負って十字架にかかったイエス様によらなければ、徴税人も売春婦もファリサイ派も、罪赦されて天国に行くことはできないのです。

 ファリサイ派は、イエス様の弟子たちを問い詰めます。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人(つみびと)と一緒に食事をするのか。」弟子たちは答えに窮したかもしれませんが、イエス様が答えて下さいました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。~わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。」別の箇所(ルカ5:32)では、「罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」とおっしゃいました。悔い改めが大切と思います。イエス様は徴税人ザアカイを救いに導いたときは、「ご自分は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われました。イエス様が、どんな罪人も滅びることを望まれないことが分かります。イエス様は滅びようとする罪人(つみびと)をこそ捜して、悔い改めへと招く方です。

 イエス様は、マタイ福音書18章12節以下で言われます。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(私は洗礼を受けた頃、「1と99」という題の説教を聞いたことがあります)。マタイ20章14節には、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」というぶどう園の主人(神)の愛の言葉もあります。エゼキエル書33章11節では、神様が「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と言われます。それなら神様は、どんな罪をも受け入れて下さる甘い方なのかというと、違います。神様は、私たち罪人を憐れんで、独り子イエス・キリストを私たちの身代わりに十字架にかける深い愛の方であると同時に、どんな小さな罪をもとことん憎まれる方です。

 私は最近、ある方から向井武子著『死刑囚の母となって』(新教出版社、2009年)という本をいただき、読みました。3名を殺害した拘置所の青年・伸二を養子とした女性牧師の著書です。彼が不幸な家庭に育ち、その母も不幸な少女時代を過ごしたことを知り、彼の真の救いを祈って生きた記録です。「伸二が兄のように慕っていたS死刑囚の刑が確定した。Sさんには謝罪の心がないという人がいた。しかし、Sさんの処刑後、遺品の中から見つかった謝罪文は便せん40枚に及んだという。そして、Sさんが使用した、ボロボロになった祈祷書が3冊出てきたという。ひとり、独房で祈り抜いていたSさんの姿が浮かぶ。おもてに現れない、秘められた死刑囚の心を見る思いがした」(86ページ)。

 「私は、今のうちに伸二に洗礼を授けておきたいと願った。~私は文章を交わして洗礼に替えた。『誓約  問・あなたは聖書に基づき、イエス・キリストを主と仰ぎ、罪の赦しを求める信仰告白をしますか。 答・はい、告白します。 問・ あなたは主イエス・キリストの救いのしるしであるバプテスマ(洗礼)を受けることを心から願いますか。 答・はい、心から願います。 1993年7月17日 氏名 向井伸二』 私たちは、ともに『主の祈り』を捧げた。この洗礼に異議を唱える人がいるかもしれない。しかし、私は伸二は神の子になったのだと信じた。伸二の祈りは変わった。『自分のような罪深い人間ですが、どうぞお許しください。』 ~私は『祈りの子は滅びない』と信じて、ともに生きてきた」(89~92ページ)。刑は2003年に執行されました。
 
 「『私たちは神の許しと愛によって生かされているものである』、これが旅の中で今私が得ている答えです。神様からの赦しと愛は、死刑囚にこそ注がれていると確信します。この死刑囚のこと、死刑のこと、これを福音の課題として、救いのこととして、これからも、たとえ小さな力であれ関わり続けていきたいと願っております」(139~140ページ)。死刑囚は世間から見捨てられています。向井牧師はイエス様の代理人として、失われかけていた青年の真の救いのために愛を込めて奉仕されました。尊敬致します。

 イエス様も死刑囚になられました。もちろんイエス様は1つも罪を犯していません。ですがイエス様も死刑囚になられたことは、死刑囚にとって大きな慰めでしょう。イエス様は、ご自分の横で十字架にかかっている犯罪人が悔い改めると、こう約束されました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」犯罪人は天国に入りました。今日の説教題は、「罪人(つみびと)をこそ、招くキリスト」です。私たちも罪人(つみびと)なので、イエス様が「わたしに従いなさい」と招いて下さいました。自分の罪をできるだけ捨て、イエス様の招きに従う決断の一日一日を歩みたいのです。もちろん聖霊に助けていただいて。アーメン(「真実に」)。

2019-08-09 21:14:53(金)
「神の言葉の力」 2019年7月7日(日) 聖霊降臨節第5主日礼拝説教 要旨
聖書:創世記1:1~19、マタイ福音書8:5~13

 イエス様がガリラヤ湖畔の町カファルナウム(イエス様はそこに住まわれた)に入られると、一人のローマ軍の百人隊長が懇願します。「主よ、わたしの僕(しもべ)が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」イエス様は「わたしが行っていやしてあげよう」と言われます。すると百人隊長は言います。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません(実に謙遜です)。ただ、ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」彼は、イエス様の言葉には全てのものを従わせる権威があると信頼しきっているのです。

 私には軍隊や軍人に対する抵抗があります。しかし私たちクリスチャンは、この世の兵士でなくても、キリストに従う愛の兵士です。テモテへの手紙(二)2:3に「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたし(パウロ)と共に苦しみを忍びなさい。兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。」救世軍というキリスト教会があります。そのメンバーは、キリストの愛の兵士と思います。

 イエス様は百人隊長の信仰に非常に感銘を受けられました。「感心し」たと書かれていますが、直訳では「驚いた」です。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」イスラエルは神の民・信仰の民なので、イスラエルの人々に信仰が見られるのはある意味当然です。しかし現実にはイスラエルの民の信仰には、問題があることも少なくなかったのです。

 イエス様は言われます。「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子ら(イスラエルの民)は、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」イエス様はこの部分を、非常に心を痛めておっしゃったと思うのです。これはイスラエルの民への警告であると同時に、奮起を促す言葉と思います。そして百人隊長に、「あなたが信じたとおりになるように」と言われます。ちょうどそのとき、僕の病気がイエス様の力によって癒されたのです。

 本日の旧約聖書は、創世記1章です。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」旧約聖書のほとんどはヘブライ語で書かれています。ヘブライ語で「言葉」を意味する言葉は「ダーバール」です。「ダーバール」は同時に「出来事」の意味をもちます。「言葉=出来事」、「言葉は出来事となる」ということです。特に神の言葉には創造の力があり、「光あれ」の命令が光を創造するのです。神の言葉がこの世界を創造したのです。ヘブライ人への手紙11:2~3「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」

 人間の言葉にも、ある程度の力があります。私たちが発する言葉は人を励ますこともでき、人を傷つけることもできます。私自身、言葉で人様を傷つけて来た罪を、心より悔い改めるものです。私は20代の頃、ある病院でお医者さんが「君のアトピーは治るよ」と力強く言って下さった言葉で、目の前がぱっと明るくなったことを忘れることができません。お医者さんの一言の励ましが、心の中まで明るくするのです。

 イエス様の使徒パウロは、預言についてこう書きます。礼拝の説教も預言の一つと言えます。「預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます」(コリントの信徒への手紙(一)14:3)。人を造り上げる愛こそ、最も大切です。こうも述べます。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソの信徒への手紙4:29~30)。人を造り上げる言葉、教会を造り上げる言葉のみを、語ってゆきましょう。罪の悔い改めを求める言葉は、相手が永遠の命に確実に入るために必要な、造り上げるための愛の言葉です。アーメン(「真実に」)。

2019-08-09 17:23:55(金)
「平和をめざしましょう」 伝道メッセージ 2019年8月
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」
(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章9節。) 

 「さとうきび畑」(作詞・作曲 寺島尚彦)という印象深い歌があります。1945年の沖縄戦が背景です。
「ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ/ あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 夏の陽ざしのなかで/(~)ざわわ ざわわ ざわわ 風に涙はかわいても ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは消えない」

 テノール歌手の新垣勉さんが、心をこめて歌われます(歌中の父は、新垣さんの父ではない。以下は、新垣勉著『ひとつのいのち、ささえることば』マガジンハウス、2004年等より)。新垣さんは1952年、沖縄生まれ。生後すぐ、医療ミスで失明。父は沖縄に駐留したメキシコ系アメリカ軍人、母は日本人。父は帰国、母は家を出て再婚。新垣さんは祖母に育てられました。混血と呼ばれ劣等感のかたまりで、生きる意欲を失っていました。でもある牧師が、涙を流してすべてを聴いてくれ、生まれて初めて新垣さんのための誕生会も開いて下さいました。

 歌が上手で、イタリア人の先生につくと、「あなたのラテン系の明るい声は、父からの贈り物、神様からプレゼントされた楽器だ。しっかり磨いて用いなさい」と励まされます。父母への恨みが溶け、「神様は私から光を奪ったが、声をプレゼントして下さった」とのプラスの気持ちが生まれました。遠回りでいい。人と比べるのではなく、ナンバーワンでなく、「オンリーワンの人生を生きよう」と呼びかけます。

 「人を、減点法でなく加点法で見てあげることが必要。モチベーションが上がり、その人がやる気になる。」「太平洋戦争がなければ、父は沖縄に来なかった。私も生まれなかった。その私が生きているということは、平和のために何かしなさい、ということ」と語られます。反戦の思いを込めて、「さとうきび畑」を歌われます。新垣さんのメッセージに、私は多くのよきことを教えられます。私たちも平和を祈り求める8月、そして人生を生きましょう。アーメン(「真実に」)。

2019-07-18 19:38:03(木)
「分け隔てしない神の愛」 2019年6月16日(日) 聖霊降臨節第2主日礼拝説教 要旨
聖書:歴代誌・下16章8~9節、使徒言行録10章34~48節

 先週はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝でした。その礼拝で読んだ使徒言行録2章で、聖霊を注がれたのは皆、ユダヤ人(イスラエル人。旧約聖書以来の神の民)でした。本日の使徒言行録10章は、異邦人(ユダヤ人以外)に聖霊が注がれた画期的な場面です。「異邦人のペンテコステ」と呼ばれるそうです。異邦人にも聖霊が与えられることは、ユダヤ人クリスチャンにとって、やはり驚きだったのです。

 コルネリウスというローマ人の百人隊長が登場します。この人は実にすばらしい人で、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」私たちもぜひ、コルネリウスのような人になりたいですね。天使が彼に言います。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。」

 コルネリウスに招かれたペトロは、言います。「ご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」神には偏見が全くありません。神だけが、全ての人を誤りなく正しくジャッジする(裁く)ことができます。神は完全に公平、フェアな方で、一切差別をなさいません。神の裁きだけが、常に100%正しいのです。

 歴代誌・下16章9節に、「主(神)は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」とあります。神は、キリスト教が本に伝わるずっと以前から、日本をも(もちろんほかの国をも)見つめ、ご自分と心を一つにする者を探し、力づけて来られたと思うのです。

 ペトロの説教を聞いている異邦人たちの上に、聖霊が降りました。ペトロと共に来たユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれ、異邦人が異言を話し、神を賛美するのを聞いて大いに驚きました。ペトロは彼らに、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるように命じました。ペトロがエルサレムのユダヤ人クリスチャンたちにこれを報告すると、彼らは「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美しました。異邦人たちは、自分の罪を悔い改めたのです。悔い改めなしに聖霊が注がれることはないでしょう。悔い改めが大切です。

 私は6月15日(土)に、日本キリスト教団西東京教区の世界宣教協力委員会の講演会「神の呼びかけに応える」に行きました。A教会の女性の講演を伺いました。この方はインド東北のナガランド州コヒマ出身のクリスチャンです。ナガランドはインドでクリスチャンが最も多い州で、人口の90%以上がクリスチャンだそうです。19世紀末にバプテスト教会の宣教師が、熱心に伝道なさったようです。コヒマの近くにインパールという所があります。太平洋戦争中の日本軍の極めて無謀な作戦として有名になってしまったインパール作戦の場所です。コヒマには戦没日本兵の慰霊碑やイギリス兵の墓地がある模様です。

 コヒマがクリスチャンの多い地になる前に、この地には悪い風習がありました。首狩りです。敵の首を多く狩った人がヒーローになったようです。コヒマの人々は首狩りの大きな罪を悔い改め、この罪を捨てました。ユダヤ人も異邦人も、神様から聖霊と永遠の命を受けるには、罪を悔い改めることが必要です。私たちも日々、自分の罪を悔い改めましょう。そしてイエス様に従い、神の国をめざして前進しましょう。アーメン(「真実に」)。