日本キリスト教団 東久留米教会

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2022-11-26 23:36:50(土)
「イエス様こそ永遠の命のパン」 2022年11月27(日)待降節第1主日礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書6:27~29,頌栄29、主の祈り,使徒信条、讃美歌21・231、聖書 ヨハネ福音書6:22~40(新約p.175)、讃美歌471、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ヨハネ福音書6:22~40) その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第1主日の礼拝です。本日の説教題は「イエス様こそ永遠の命のパン」です。聖書は、ヨハネ福音書6章22~41節です。

 6章は長い章ですが、確かに1つのまとまったストーリーです。最初の1~15節は、イエス様が男だけで五千人の群衆を、大麦のパン五つと魚二匹で養った愛の奇跡を語っています。その後夕方になり、弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸のカファルナウムを目指しました。最初、イエス様は舟に乗っておられませんでした。するとイエス様が、何と湖の上を歩いて舟に近づいて来られ、漕ぎ悩んでいた弟子たちは、イエス様を舟に迎え入れようとしました。すると間もなく舟は、めざすカファルナウムに着いたのです。マタイ福音書によると、イエス様の家はカファルナウムにあったのです。

 本日の最初の22節「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一艘しかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。」パンと魚の奇跡の翌日になっても、まだ群衆は舞い上がっていました。イエス様はどこに行った? イエス様を必死に捜し求めたようです。23~24節「ところが、ほかの小舟が数そう、ティべリアスから、主(イエス様)が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。」群衆は、イエス様の奇跡の後、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言い、イエス様を王様に祭り上げようとしたのです。ところがイエス様には、この地上の政治的な王、権力者になるつもりは全くなかったので、独りで山に退かれ、その後湖の上を歩いて弟子たちと合流したのでした。

 25節「そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ(先生)、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。」イエス様が答えて言われます。「はっきり言っておく。」原文では「アーメン、アーメン、私はあなた方に言う」です。これはイエス様がとても大切なことをおっしゃる時の前置きです。アーメンは「真実に」の意味です。「あなた方が私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」群衆は確かに、イエス様が五つの大麦パンと二匹の魚で群衆を満腹させたしるし(奇跡)を目撃し、体験したのです。しかしイエス様が、永遠の命を与えて下さる最も深い意味での救い主、神の子であることを悟ることができなかったのでした。確かに私たち体を持つ人間にとって、パン(食べ物)は非常に必要です。食べ物がないと生きることができません。食べ物を買うお金もないと、生きることができません。もちろんイエス様は、それをよくご存じです。よくご存じなので、群衆に食べ物を与えて下さいました。パンと魚で皆を満腹させて下さったのです。真の神様、神の子イエス様は、私たちに肉体を養う食物も与えて下さいます。私たちはそれを信じて、先ほどの「主の祈り」でも「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と一生懸命に祈りました。神様が聞き届けて下さると信じてです。

 イエス様がここでおっしゃりたいのは、その先です。27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子(イエス様)があなた方に与える食べ物である。父である神が、人の子を認証したからである。」「永遠の命に至る食べ物」とは何か? それはイエス・キリストの御言葉であり、神様の御言葉である聖書であり、(今日は行いませんが)教会が行う聖餐式という式でクリスチャンがいただくパン(イエス様の聖なる御体を表す)とぶどう液(イエス様の聖なる御血潮を表す)を指すと言えます。

 旧約聖書の申命記8章に、既にこう書かれています。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主(神様)の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」イエス様も、この御言葉を引用して、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とおっしゃいました。私たちの生き方が神様の御言葉によって導かれないと、永遠の命の命に至る生き方にならないのです。神様の御言葉に全然従わないで、悪いことばかりしていて、ご飯はたらふく食べていたとしても、それでは永遠の命、天国に至ることができません。それでは何のために生きたのか、分かりません。神様の御言葉という永遠の命に至るパンを心の中に蓄えて、神様を愛し、隣人を愛する生き方に押し出されることが大切ですね。イエス様はマタイ福音書6章で、こうも言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」神様の御言葉を信じ、神様の御言葉に従うことを第一にしなさい。そうすれば、生活に必要な糧はみな、加えて与えられる。」イエス様はこの順序が大切だとおっしゃいます。言い換えると、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。礼拝を第一にし、永遠の命を与えて下さる神様にお仕えすることを第一にしなさい。そうすれば生活に必要な糧は、加えて与えられる」ということだと思います。

 ヨハネ福音書に戻り、28節「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」神の業を行うためには、あれもこれも行う必要があると私たちはつい考えるのです。それが必要な場合もあるでしょうが、一番根本的なことは、父なる神様が私たちの世界に。救い主として誕生させて下さった「イエス・キリストを、信じる」の一点です。イエス・キリストが私たちが永遠の命に入るため(救われるため)に必要なことを、全部行って下さったからです。すなわちイエス・キリストは、私たちが神様を愛さず、隣人を愛さず、自己中心的に生きて来た罪を全て身代わりに背負って、十字架で死んで下さったのです。本当に完全に死なれました。そして三日目に、父なる神様によって復活させられました。天に昇られ、今も天で復活の体をもって生きておられます。天から今も、私たちに神様の清き霊である聖霊を送って下さっています。そして聖霊によって、私たちがイエス・キリストを救い主と信じる信仰へと導いて下さいます。このように、私たちが救われるために(永遠の命を受け、天国に入るために)必要なことは、イエス・キリストが100パーセント成し遂げて下さいました。足りないことは1つもないのです。そこで私たち全員にできること、私たち全員がなすべきことは、このイエス・キリストを自分の救い主として、心から受け入れる、これが最も大切なことです。

 群衆の質問「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」に対して、イエス様はお答えになったのです。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」つまりイエス・キリストを救い主と信じること、これが最も重要な神の業だと断言されます。「神の業」だということは、イエス様を救い主と信じさせて下さることも神様の業、神様のなさること、という意味ではないでしょうか。「聖霊(神様の清い霊)によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」という新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)12章3節の御言葉が思い出されます。人間の心は頑固で、なかなかイエス・キリストを救い主と受け入れない方もおられますから、私たちがよくお祈りして、聖霊が豊かに働いて下さって、全ての人が心を開いて、イエス・キリストを信じることができるようにしていただく必要を強く感じます。伝道のためには、私たちのとりなしの祈りが極めて重要であることを痛感致します。

 群衆は言います。30節「それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行って下さいますか。どのようなことをしてくださいますか。」イエス様は既に、大麦パン五つと魚二匹で、五千人の群衆を満腹にする奇跡を行って下さいました。この奇跡・しるしで十分なはずなのに、まだ「どんなしるしを行って下さいますか」と言っています。悟る力がないと、このようになってしまいます。私たちも本当のことを悟る力を神様からいただくように、いつも祈り求める必要があります。 群衆は言います。31節「私たちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてある通りです。」その通りです。旧約聖書出エジプト記に出ているイスラエルの人々の経験です。マンナ(マナ)が神様によって40年間与えられた食物です。群衆は、指導者だったモーセがマナを与えたと誤解しているようです。イエス様が訂正して言われます。「はっきり言っておく。モーセが天からのパン(マンナ)を与えたのではなく、私の父(神様)が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そのパンは、イエス様ご自身なのですね。

 そこで群衆は、『主よ、そのパンをいつも私たちに下さい』と言いました。群衆はそれが永遠の命のパンとはまだ理解していません。それをいつももらえれば、食べ物を得る苦労をしないで済むと思っています。そこでイエス様が言われました。35節「私が命のパンである。私のもとに来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」これはどちらかと言うと肉体の飢えと渇きではなく、心の(魂の)のことと思います。イエス様のもとに来る者は、心と魂が飢えることなく、心と魂が渇くこともない。

 イエス様が命(永遠の命)のパンであり、聖書の言葉が永遠の命のパンです。旧約聖書のアモス書8章11節以下に、こんな御言葉があります。旧約聖書1140ページ上段。「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見出すことはできない。」これは神様の裁きなのです。旧約聖書では神様の民はイスラエルの民です。そのイスラエルの民が神様に従わない日々が長く続いたとき、神様が下す最も厳しい裁きの1つがこれです。神の言葉を取り上げてしまう。聖書を取り上げると言ってもよいでしょう。聖書がないと、私たちは神様がどんな方か、知ることができません。神様のご意志は何か、知ることができません。イエス様をよく知ることもできません。イエス様を信じれば、永遠の命を受けることができる恵みすら、知ることができません。神の言葉・聖書がないということは、致命的です。どうすれば永遠の命に至ることができるか、分からなくなります。神の言葉・聖書がなくなれば、右往左往するほかなくなります。「人々は海から海へと巡り、来たから東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見出すことはできない。」

 ヨハネ福音書に戻り、36、37節「しかし、前にも言ったように、あなた方は私を見ているのに、信じない。父が私にお与えになる人は皆、私の所に来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」ここでは群衆がイエス様を救い主と信じません。「父が私(イエス様)にお与えになる人は皆、私の所に来る。」私たちも皆、「父なる神様がイエス様にお与えになった者」です。その証拠は、私たちがイエス様を礼拝するこの場に来ていることです。「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」実にありがたいことです。イエス様の元に来る私たちを、イエス様は決して追い出したりなさらないのです。実に感謝です。ですから全ての方が安心して、イエス様を信じる洗礼を受けていただくことを祈ります。それはイエス様ご自身の願いです。そして父なる神様がさらに働いて下さり、私たちの家族や友人たち全員をここに呼び寄せて下さるように、切に祈ります。10月23日(日)に私たちは、修養会を行いました。テーマは「家族伝道」でした。講師の先生は、「神の選び」を割に強調なさったように思います。「神の選び」がある。今日の個所の御言葉で言うと、「神に選ばれた人」とは「父なる神様がイエス様にお与えになる人」を指すと思います。ここに私たちの祈りの出番があります。「神様、私たちの家族や友人たちをも皆、そして世界のすべての人々をイエス様にお与えになって下さい。私たちの家族、友人たち、世界の全ての人々に、イエス様を信じる素直な信仰を与えて下さい。」

 38~40節「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子(イエス様)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」 父なる神様の御心(ご意志)を行うためにイエス様は、天から降って来られました。御心とは、イエス様が十字架に架かって、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って下さることにほかなりません。十字架で死に、三日目に復活することを目的に、イエス様は誕生されました。それがクリスマスです。

 「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」これは、このヨハネ福音書の有名な3章16節と深く響き合う御言葉ですね。3章16節は「福音の中の福音」とも呼ばれる御言葉です。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びびないで、永遠の命を得るためである。」私たちは聖書全体を読みながらも、いつもこの3章16節に立ち帰って来ることがよいと思うのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも父なる神様の独り子イエス様を、心の底から信じる、信頼することが、最も大切であることが語られています。

 昨日は、教会員のSさんの納骨式を、入間メモリアルパークの東久留米教会墓前で執り行いました。Sさんもイエス様を救い主と信じて1988年に東久留米教会で洗礼を受けられました。そのとき聖霊を受けられ、永遠の命を受けられたのです。そして約2ヶ月前の9月24日に天国に入られました。そのことを昨日、墓前で改めて確信致しました。東久留米教会のお墓には「永遠の命」の4文字が刻まれています。教会員の草刈眞一さんが、ほとんど最後の力を振り絞って書いて下さった何枚かの「永遠の命」と毛筆で書かれた紙から、一番良いものを選んで、それに沿って、石に彫っていただきました。「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆、永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日(世の終わりの日)に復活させることだからである」とイエス様がおっしゃる「永遠の命」です。私たちに永遠の命が与えれていることを感謝し、全ての人がイエス様を信じて永遠の命を受けるように祈り、感謝してますますイエス様に従って参りましょう。アーメン(真実に)。

2022-11-23 18:16:15(水)
11月の伝道メッセージ(石田真一郎。 近くの保育園の「おたより」に掲載した文章)
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」
(イエス・キリストの言葉。新約聖書・マタイ福音書5章9節)。

 私の願いは、この地域の子どもたちが、真の神様と神の子イエス・キリストを信じ、平和と愛と正義と思いやりを愛する人になることです。私のこの8月に妻と広島市に行き、平和記念資料館(原爆資料館)に行きました(3回目、長崎の原爆資料館は2回見学)。私の母の伯父は、広島の原爆で亡くなりました。爆心地に近い平和記念公園、原爆ドーム前に立ち、原爆投下当日の惨状を思い、ウクライナと日本と世界の平和を祈りました。ウクライナ戦争で悪いのはプーチン大統領と取り巻きで、ロシアの一般国民が悪いとは思いませんし、まして日本在住の一般ロシア人が嫌がらせ受けることがあってはなりません。

 8月28日(日)には、妻と日本キリスト教団広島流川教会の礼拝に出席しました。原爆で壊れた古い礼拝堂の、焼け焦げた木材を組み合わせ作った十字架(イエス様の愛のシンボル)を掲げ、青空礼拝から再開したそうです。礼拝堂を再建し、1995年に被爆50年を記念し、その黒焦げの十字架を改めて堂内の正面に掲げ、さらに建て直した今の礼拝堂にも掲げて、それを見上げて毎週の日曜礼拝が献げられています。戦争と原爆の罪深さを心に刻み、イエス様の御言葉「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(上記)を実行し、核兵器が1つもない世界を造る強い決意を新たにするためです。唯一の戦争被爆国・日本に生きる私たち一人一人に、その責任と使命があると信じます。プーチンが絶対に核兵器を使わないように祈る責任もあります。

 この7月に年長児合宿で3年ぶりに飯能市の「大平(おおひら)ハウス」に行きました。最近知って驚いたのは、幕末から明治になった1868年の戊辰戦争で、飯能駅付近でも戦争があったことです。駅近く北西の能仁寺に幕府方が本拠を置き、新政府軍の砲撃で炎上したそうです。昨年のNHK大河ドラマの主人公・渋沢栄一の甥がそこで幕府方で戦いました。人間は何と戦争好きなのかと、悲しみと怒りを覚えます。これからはもちろん、変わる必要があります。「主(しゅ。神様)は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に。彼らが愚かなふるまい(戦争)に戻らないように」(旧約聖書 詩編85編9節)。この地域の子どもたちがイエス様を愛し、世界のすべての国と地域の人々と仲良くする人になるように祈ります。アーメン。

2022-11-19 1:36:00(土)
「あなたたちの食物としなさい」 2022年11月20(日)収穫感謝日礼拝 説教
順序:招詞 ヨハネ福音書6:27~29,頌栄29、「主の祈り」,交読詩編104:10~30,使徒信条、讃美歌21・224、聖書 創世記9:1~15(旧約p.11)、祈祷、説教、讃美歌21・386、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(創世記9:1~15)  
 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」

 神はノアと彼の息子たちに言われた。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。

(説教) 本日は、収穫感謝日礼拝、降誕前第5主日の礼拝です。本日の説教題は「あなたたちの食物としなさい」です。聖書は、旧約聖書の創世記9章1~15節です。小見出しは「祝福と契約」です。

 神様が私たちに食べ物を与えて、心身を元気づけて下さることを感謝致します。創世記1章の天地創造の場面を見ると、神様は第三の日にこう命じられます。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになりました。「地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。」そして神様は、男と女を創造なさった第六の日に、人間たちに言われました。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」「そのようになった。神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」と、書かれています。エデンの園では人間も動物も、野菜や果物だけを食べていたのですね。動物たちもそうで、肉食動物が草食動物を食べることは全くありませんでした。弱肉強食は全くない、完全に平和な理想の世界でした。天国です。

 この後、創世記3章で、最初の人間たちエバとアダムが蛇の誘惑(悪魔の誘惑)に負けて、神様の戒めに背く罪を犯します。そこから世界は狂ってきます。神様がアダムを叱り、これからは労働してパンを得るようになると宣告されます。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」最新の翻訳である聖書協会共同訳では、神様はここでアダムに「お前」ではなく、「あなた」と呼びかけておられます。ちょっとした変化ですが、聖書協会共同訳では「お前」という訳語が減り、「あなた」になった個所が多い印象です。

 それはともかく、神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せる憐れみを示された上で、二人をエデンの園から追い出し、アダムに彼がそこから取られた土を耕させることにされました。この時から、私たちは厳しい労働をして食べ物を得る生活に入りました。その後、増え広がった人間たちが悪ばかり行うので、神様は洪水を起こして、世界を一旦滅ぼされました。ノア夫婦と三人の息子たちとその妻たちの8人と、雄雌の鳥、家畜、地を這うものたちが箱舟に入り、食べられるもの(野菜や木の実)も食料として積み込まれました。ノア一家と動物たちも、これを食べて生き延びたのです。ようやく洪水がひき、ノアたちは外に出て、ノアは祭壇を築いて、神様を礼拝しました。

 すると神様が言われます。本日の9章1節途中からです。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」この時から、青草(野菜や果物)だけでなく、「動いている命あるもの」つまり動物や魚を食べることが許されるようになりました。肉食の許可です。但し、血は命なので、血を含んだまま食べてはならないと強調されています。血は命だからと。確かに血は命です。血液を失うと、人間も動物も死にます。血を多く失った場合は、輸血しなければ死にます。献血をすると、血は本当に命だと実感します。

 ノアの洪水後の世界では、神様によって肉食が許可されるようになりました。その後、イスラエルの民にモーセの十戒と律法が与えられると、清くて食べてよい動物と、汚れていて食べてはいけない動物に分けられるようになりました。旧約聖書のレビ記11章に記されています。「地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反芻するものである。」この条件を満たす動物は清いので食べてよいが、満たさない動物は清くないので、食べてはならないという論法です。これは新約聖書の時代の今は気にしなくてよいのですが、旧約聖書の時代には生きていた決まりです。「ひづめが分かれ、完全に割れており、反芻する動物」は牛、羊、山羊等だそうです。そこで牛、羊、山羊が清い動物で、神様への供え物(犠牲、いけにえ)として献げられました。牛、羊、山羊等は清い動物とされたので、神様への献げ物として献げられ、また清いので食べることもできました。反対に清くない、汚れた動物の例はいのししです。いのししは豚と言ってもほぼ同じようです。そこで汚れている豚は神様への献げ物にすることができず、食べることも禁じられていました。今でもユダヤ教では豚肉を食べることを禁じていると思います。鳥に関しては、汚れた鳥は神様への献げ物にできませんが、山鳩や家鳩は清いと見なされ、神様への献げ物にできたようです。こう見ると、神様への礼拝と日常の飲食が結びついている感じがします。清い動物は神様への献げ物にでき、食べることも許され、汚れた動物についてはそのどちらもできないのですから。

 新約聖書の今は、清い動物、汚れた動物の区別はありません。豚を食べてはいけないこともありません。新約聖書の使徒言行録10章で、イエス様の弟子ペトロが、ヤッファという町にいたとき、ペトロが昼食前に屋上で祈っていた時、我を忘れたような状態になり、天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされて、地上に降りて来るのを見ました。その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。レビ記の規定では汚れている動物も入っていたようです。神様の声が聞こえます。「ペトロよ、屠って食べなさい。」ペトロはユダヤ人なので驚き、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」するとまた声(神の声)が聞こえて、「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」このようなことが三度もあって、入れ物は天に引き上げられました。神様が「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われたのですから、今や清い動物と汚れた動物の区別はありません。私たちは基本的には、どの動物も食べることを許されています。

 少しひっかかるとすれば、野菜や果物も生きているのですが、魚や肉を食べる場合は、はっきり殺して食べることです。このことを少し考えようと、私はしばらく前にJR品川駅すぐ近くにある食肉市場・お肉の情報館に行きました。東京中央卸売市場の中だったようです。食肉市場では毎日多くの牛や豚を解体して、肉にしています。本当は解体の現場を見学したかったのですがそれはできず、お肉の情報館で写真や資料、DVDを見ることができました。気分よくない話で申し訳ありませんが、牧場等から車両で運んで来た牛や豚を、まず道具で頭の急所を打ってアッと言う間に失神させるのですね。血管を切ると、血液を抜くことができます。続いて皮をはぎ、体を解体して肉を切り出して行く。熟練した人々による流れ作業という現実です。牛や豚が何らかの病気にかかっていないかも顕微鏡で検査しています。病気が見つかると市場には出せません。私たちは小さくされた肉をお店で買って食べるのですが、DVDとは言え見学すると、きれいごとではないことを感じます。神様の許可があるので食べてよいのですが、牛や豚の命を食べて、私たちは生きているのだなと、改めて悟ります。神様と、死んでくれた動物たちに感謝して食べないといけないと、改めて感じます。食肉市場の敷地には、死んだ動物たちの慰霊碑もあるそうです。   (解体業が差別された歴史。)

 本日の創世記9章以来、聖書で肉食は許されています。ですが、ルカ福音書15章の放蕩息子のたとえで、息子の帰宅を喜んで「肥えた子牛を屠りなさい。食べて祝おう」と言っているように、肉は特別の時のごちそうとも言えそうです。必ず食べなさいと命じられているわけではないと思います。菜食が基本的には健康によいと思います。但し最近は、高齢者こそ採食ばかりでなく、時々肉を食べて体力の低下を防ぐ必要があると言われ、それもその通りと思います。でも同時に過度の肉食は、やはりあまり健康によくないと思います。お肉の情報館の資料に書いてあったのですが、今は牛を増やすために人工授精も行う。そこまでして牛を増やして肉を食べる必要はないのではないかとの疑問もあると書かれていました。動物愛護団体によると、日本の養鶏場では、狭いスペースに鶏を詰め込んでいて、いくら食べられてしまう鶏でも可哀そう。動物虐待。鳥インフルエンザが発生すれば、やむを得ないとは言え、何千何万匹の鶏を殺処分する。ある神父は「あれは本当に愛がないですよね」と説教で語っていました。聖書で肉食が許されているとは言え、人工授精で増やしてたくさん食べる、必要以上にたくさん食べるのは、貪欲の罪になると思います。人間も牛も豚も鶏も、神様に造られた仲間でもあるので、動物の命も大事にすることが必要です。肉を食べるにしても、節度を保つことが当然必要になると思います。

 キリスト教会の一派に、セブンスデーアドヴェンティストという教派があり、ご存じの通り、このすぐ近くのシャローム東久留米は、セブンスデーアドヴェンティスト教団の高齢者施設です。セブンスデーアドヴェンティストは、菜食主義と聞きます。実際、健康にはよいと思います。私たちはプロテスタント教会ですが、カトリック教会では以前は(今はどうか分かりませんが)、毎週金曜日には肉を食べない習慣があったそうです。金曜日はイエス様が私たちの罪を背負って十字架に架かって下さった日なので、毎週(受難週だけでなく)金曜日は肉を食べない習慣があったそうです。魚はOKだったそうです。これは信仰上の節制、ぜいたくを避けることと思います。それが神様に喜ばれると考える人は、採り入れてもよいと思います。

 野菜を食べるにしても、お米を食べるにしても、肉や魚を食べるにしても、食べ物は全て神様の恵みと信じ、感謝して食べることが大切であることは、申すまでもありません。共に食べることは、共に神様の恵みに感謝することですね。箴言の15章17節を思い出します。「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。」「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食で愛し合う方がよい。」なるほどと感じる、味わい深い御言葉です。箴言には味わい深い御言葉が多いです。

 そして、使徒言行録14章15節以下には、イエス様の弟子・使徒パウロの、恵み深い伝道メッセージが記されています。ゼウスなどの偶像(偽物の神)を拝んでいたギリシア人たちへのメッセージです。「あなた方がこのような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなた方の心を喜びで満たして下さっているのです。」真の神様は恵み深い方で、私たちが真の神様を知る前から、雨を降らせて実りの季節を与え、食物を与えて、すべての人間と生き物に喜びを与えて来られたと言っています。私たちも本日、食べ物を与えて下さる神様に感謝するために、礼拝に集まっています。私たちは同時に、農家の方々に感謝し、牛や豚を飼育する方々、解体する方々にも感謝し、それを流通させて下さるトラックの運転手さん(きつい労働!)にも、神様の祝福を祈りたいと思います。

 肉ではなく、創世記1章から人間と動物たちに食物として与えられている野菜や果物について言えば、皆さんの中にも家庭菜園をなさっている方々がおられます。私も少しだけ真似をして、集合住宅3階のベランダのプランターで、数年前から少しずつ挑戦しています。ほんの僅かです。今年はミニトマト、シソの葉、初めてピーマン、小ぶりのなすが採れました。わずかなので、お恥ずかしい限りです。きゅうりはだめでした。来年は肥料を入れて、もう少しがんばろうと思います。

 私はお会いしたことがありませんが、かつて小林カツ代さんとおっしゃる著名な料理研究家(今は天国です)が東久留米教会の会員でいらしたそうです。その後は、ひばりが丘教会に移られたようです。『暮らしの手帖』という雑誌の2020年7月号に、小林カツ代さんの特集が組まれ、私も買って読みました。題は「キッチンから平和を伝えた人」。小林さんの料理の原点には、創世記1章29節があるようです。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」小林さんは言われます。「私は料理研究家になってよかった。スーパーでしおれていたホウレンソウが、水で洗うとみるみる生気を取り戻す。野菜だって何だって、命あるものはすべて生きたがっている。それに気づくことができた。」すべての命は、神様が造られた尊い命と言う信仰がありました。「だから私は、キッチンから戦争に反対していく。」お父様が兵隊で中国に行かれた経験を聞いて、戦争絶対反対の気持ちを生涯もたれたようです。料理研究家になられ、神様が造られた全ての命を愛されました。その命を殺す戦争に当然反対でした。「歴史の暗い部分をしっかり見つめ、若い人のためにこそ戦争を絶対起こさないために、元気でパワフルに、しっかり生きて行こうと思います」と語られました。

 私たちは今日も「主の祈り」で、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈りました。少し前の礼拝でも申しましたが、500年前の宗教改革者マルティン・ルターが、「主の祈り」の解説の中だったかもしれませんが、こう書いたと聞きます。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るときは、世界平和をも祈らないといけない。せっかく収穫された食物も、戦争があると、その流通が妨げられるから、と。戦争も食物の行き渡りを妨害するし、金持ちの国が世界から多くの食料を買い過ぎることも、貧富の格差や、飢えに苦しむ人々を産み出してしまいます。世界人口が80億人を超えたそうです。私が子どもの頃は40億人でしたから、何と二倍です。もっと食糧が公平に行き渡り、飢える人がいない世界にするよう、私たちも努力する必要があります。フードバンク運動も大切と思います。自分にできることを行いながら、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈り続けて参りたく思います。アーメン(真実に)。



2022-11-12 23:45:23(土)
「更にまさった故郷、天の故郷」 2022年11月13(日)召天者記念日礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書6:27~29,頌栄24、「主の祈り」,交読詩編16,使徒信条、讃美歌21・514、聖書 創世記22:9~12(旧約p.31)、ヘブライ人への手紙11:13~22(新約p.415)、祈祷、説教、讃美歌21・532、献金、頌栄27、祝祷。 

(創世記22:9~12)  神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

(ヘブライ人への手紙11:13~22) この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

(説教) 本日は、聖徒の日(召天者記念日)礼拝、降誕前第6主日の礼拝です。本日の説教題は「更にまさった故郷、天の故郷」です。新約聖書は、ヘブライ人への手紙11章13~22節です。11章全体の小見出しが「信仰」です。信仰とはどのようなことかを示し、実際に信仰に生きた旧約聖書の多くの人々が信仰に生きた実例を多く語り、今信仰に生きている私たち、信仰に生きようとしている私たちを励ます内容です。

 今日の最初の13節。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。」「この人たち」とは、旧約聖書に登場するアベル、エノク、ノア、アブラハムと妻サラです。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたもの(天国)を手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」信仰とは、天国と永遠の命をいただく真の希望と言い換えることができます。彼らは信仰という真の希望を抱いて、この地上の人生を歩んだけれども、この地上では神様が約束されたもの(天国)を完全な形で受けることはできなかった。地上の人生は、苦労の多い人生だった。しかし彼らは、地上の人生の後で、神様が約束された希望(天国、永遠の命)を間違いなく受けることを知っていたので、それをはるかに望み見て、地上でも喜びの声を上げていたのだ、と語られています。その意味で私たちの信仰は、先取りの信仰です。現実は苦しいことが多いけれども、最後の最後には天国という永遠の祝福が約束され、用意されていることを信じる信仰だからです。希望を先取りしています。この11章の1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確認し、見えない事実を確認することです」と書いてある通りです。

 「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」もちろん、地上が仮住まいとは言っても、地上の人生を責任をもって生きることは非常に大切です。しかし、地上の人生が最終ゴールでなく、天国・神の国が最終ゴールであることは事実です。そのためには、真の神様に従い、真の神の子イエス・キリストに従って生きることが重要になります。地上の人生には、様々な浮き沈みがあるでしょうが、あくまでも目指す所は、天の国と信じます。旧約聖書の代表的な信仰者の一人アブラハムも、そのように生きました。アブラハムの生き方を特徴づけたのは、祭壇と天幕です。アブラハムは行く先々で祭壇を築きました。真の神様を礼拝し、礼拝を非常に大切にしました。アブラハムは遊牧民的に生きました。一か所に定住するより、移動しながらのテント生活だったようです。テント生活は、仮住まいの生活です。礼拝と天幕(テント)の生活。これが信仰者アブラハムの生き方です。私たちも同じです。日曜ごとに教会堂に集まって(あるいは今はオンラインで)真の神様を礼拝します。そして地上にどこまでもしがみつくのでない意識で、生活します。テントでなく建てた家に住んでいたとしても、それも実は一種のテントでの仮住まいです。礼拝と天幕(テント)。私たちもアブラハムと同じで、この2つを生活に土台にして生きて行きます。天国を目指して。

 14節「このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」人は皆、無意識の内に、真の故郷を捜し求めているのではないでしょうか。私たちの命を造って下さった真の神様が、私たち皆の真の故郷です。昔、アゥグスティヌスという有名なクリスチャンが言った言葉が思い出されます。「神様は私たちの心を神様に向かって造られたので、私たちは神様の元に帰らないと、真の平安を得ることができない。」実に味わい深い言葉です。

 そして、その真の神様が用意しておられる天国が、私たちの帰るべき真の故郷です。すべての人がそれを知って、真の神様と神の子イエス様を信じ、あらかじめ真の故郷を明確に知って準備しておくことが必要です。イエス・キリストは十字架に架かる前に弟子たちに、ヨハネ福音書14章でこう語られました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる。」そしてイエス様は、さらに言われたのです。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父(父なる神様)の元に行くことができない。」これは重大なメッセージです。「イエス・キリストを通らなければ、誰も父なる神様の元(天国・真の故郷)に行くことができない。」そこでぜひ今、時のある間に、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、信じることが、ぜひ必要です。ぜひそうしてほしいと、父なる神様と神の子イエス様が、今この時も私たちに呼びかけ、私たちを招いておられます。この招きにぜひ応えましょう。私たちプロテスタント教会では、人生を終えて天国に行くことを「召天」(天に召される)と言いますが、カトリック教会で「帰天」と言いますね。「召天」もよいですが、「帰天」もなかなかよい言葉です。天国という真の故郷に帰ったということですね。帰天、天国に帰った。

 15節「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。」アブラハム(最初の名前はアブラム)の故郷は、カルデアのウルという所です。今のイラクと思います。アブラムの父テラは、アブラムたちを連れてウルを出発し、ハランという所に来て、テラは死にました。神様がアブラハムに呼びかけます。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」75才のアブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、全財産を携え、ハランで加わった人々と共に、カナン地方(イスラエル)に向かって出発し、カナン地方に入ったのです。アブラムは、「私が示す地に行きなさい」という神様の御言葉に聴き従った、服従したのです。信仰とは、神様のご意志に聴き従うことでもあります。イエス様を救い主と信じたけれども、聴き従うことは一切しない、というわけにはゆきません。日常の小さなことから、神様に聴き従いたいものです。

 神様が私たちに願われることは、私たちが神様を愛して礼拝し、神様に愛されている自分を正しく愛し(決して、エゴイズムをよしとするのでなく)、隣人を愛することです。アブラムは、神様を愛していたので、神様の御言葉し服従し、約束の地カナンをめざして出発し、カナンに到着しました。生まれ故郷のウルに帰ることは一度もありませんでした。そしてアブラムの信仰の旅は、続きます。それはカナンに着いて終わりではなく、神の国・天国をめざす人生という旅です。私たちも古い自分から、新しく出発します。古い罪深い自分から出発して洗礼を受け、神様を礼拝し神様に祈り、神様に聴き従う新しい生き方へと出発します。罪を犯して罪とも思わなかった古い自分とできるだけ決別し、イエス様に支えられて天国をめざす人生に入って行きますし、多くの皆さんは既に入っておられます。罪を罪とも思わなかった悪しき古い生き方に逆戻りしないで、礼拝しながら清き天国をめざします。

 15~16節「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」故郷というものは懐かしいものですが、アブラムは、地上の故郷よりもっとすばらしく、もっと懐かしい天の故郷を熱望していました。「だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都(天国)を準備されていたからです。」神様は私たちのために、都(天国)を準備しておられるのです。

 17~19節「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子(独り息子のイサク)を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなた(アブラハム)の子孫と呼ばれる』と(神様から)言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」

 これは旧約聖書・創世記22章の有名な場面です。本日はその中心部分を朗読していただきました。神様がアブラハムの信仰を試された場面です。神様はアブラハムの子孫にカナンの地を与える、アブラハムの子孫を通して地上の全ての氏族に祝福を及ぼすと約束しておられました。その約束を担う子イサクは、25年後にようやく誕生し、アブラハムとサラの夫婦は、安心して喜んだのです。ところがそのイサクを献げなさいとの、神様の不可思議な命令が下ります。独り子イサクを「焼き尽くす献げ物として献げなさい。」屠って、殺して献げなさいというのです。イサクが死ねば、イサクを通して全氏族を祝福する神の約束が不可能になってしまいます。それに25年間待って、やっと生まれた約束の子を失うことは、アブラハムとサラ夫婦にとって耐えがたいことです。しかしアブラハムは従います。「きっと神様がイサクを復活させて下さるから大丈夫た」という余裕しゃくしゃくの平安な気持ちだったとは、私は考えにくいと思います。どんな気持ちだったのか。やはり必死の気持ちだったと思います。どうなるのか具体的には分からないが、きっと神様が何とかして下さるに違いないと自分に言い聞かせて、神様に従ったのだと思います。創世記22章9節以下。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私(神様)に献げることを惜しまなかった。』」アブラハムが神を畏れる・畏れ敬う者であることが今分かった。これは最高の褒め言葉です。アブラハムは、神様のテストに合格したのです。

 このかなり辛い信仰上の試練を通されて、アブラハムの信仰はますま純粋になり、練り清められ、アブラハムは神様への信頼をますます深めたと思います。これはイエス様の十字架の死と復活に少し似ている、イエス様の十字架と復活の前触れのような体験です。ヘブライ人への手紙は書きます。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。~アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」新約聖書は、このアブラハムの信仰に、神様が死者を復活させることができると信じる復活信仰(あるいはその芽生え)が含まれていると教えてくれます。「そうだったのか!」と目を開かされ、新鮮な驚き覚えます。イサクの場合は、死ぬ寸前で死なずにアブラハムに返されましたが、イエス様の場合はもっと厳しい経験です。十字架で私たち全員の全部の罪を背負って、完全に死なれ死者の国に降られ、三日目に父なる神様によって復活させられたのです(復活の体を伴って)。父なる神様は、ご自分に従う者たちを清めて鍛え、ご自分の神聖さにあずからせるために鍛錬を与えることがありますが、最後の最後には必ず復活、永遠の命、天国という最高の祝福をもって報いて下さいます。それでこのヘブライ人への手紙は、次の12章で、結論的に私たちに勧めます。「私たちもまた、このようにおびただしい証人の群れ(アブラハム、イサクたち信仰者の群れ、礼拝後にお写真をご紹介する東久留米教会の歩みの中で天に召された方々をも含む)に囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」

 私の神学校時代の同級生のK牧師(男性。私より8才年上)が、驚いたことにこの8月21日に天に召されました。友人の牧師が知らせてくれたのですが、大宮方面の教会の牧師で、葬儀は家族と教会員のみでしたが、前日に親しい関係者のための地上でのお別れ(天国で再会する時までの一時的なお別れ)の時が用意され、私も行ってお祈りして参りました。3年間闘病していたとは知らなかったのです。その牧師の愛唱聖句がプリントされ、渡されました。フィリピの信徒への手紙3章12~14節です。イエス様の弟子・使徒パウロの言葉です。「私は、既にそれ(天国)を得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のもの(天国)に全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」実はK牧師は、5年ほど前の夏に、東久留米教会の礼拝に出席して下さいました。以前は、ご夫婦で伊豆高原教会の牧師でした。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生がご隠退後は伊東市に家を建ててお住まいでしたから、浅野先生ともお知り合いでした。浅野先生がその後、伊豆高言十字の園というキリスト教のホームに入られ、私が訪問した時(8年ほど前)、ホームの受付にいると、外から私に手を振って下さるご夫婦がおられ、「え? 一体どなただろう」と思って見ると、近所の教会のK牧師ご夫妻でした。そのようなことを想い出します。「K先生、早すぎるよ」と申したい気持ちです。

 そのフィリピの信徒への手紙の同じ3章の少し先には、こう書かれています。「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。」私たちが死んでも、復活の体を与えて下さる約束です。パウロは、一度天国に入る、特別な恵みを経験したようです。コリントの信徒への手紙(二)12章でこう書いています。「私はキリストに結ばれていた一人の人を知っていますが(パウロ自身)が、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。~彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表し得ない言葉を耳にしたのです。~あの啓示されたことがあまりにもすばらしいからです。」楽園(天国)は「あまりにもすばらしい」所だったと言っています。キリストを信じて亡くなった方は、今そこにおられます。地上に残された者は寂しいですが、天に行かれた方々については何の心配も要りません。私たちもいずれそこに入れていただきます。急いで行く必要はありません。地上で神様がよしとされる時まで、伝道の責任を果たさせていただき、時が満ちたら、天に入れていただきましょう。アーメン(真実に)。

2022-11-05 22:48:12(土)
「恐れることはない」 2022年11/6(日)東久留米教会創立61周年礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書6:頌栄28、「主の祈り」,交読詩編74,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・390、聖書 出エジプト記14:10~18(旧約p.116)、ヨハネ福音書6:16~21(新約p.174)、祈祷、説教、讃美歌21・462、献金、頌栄27、祝祷。 

(出エジプト記14:10~18)  ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。」モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」

(ヨハネ福音書6:16~21) 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。

(説教) 本日は、降誕前第7主日の礼拝です。本日の説教題は「恐れることはない」です。聖書は、ヨハネによる福音書6章16~21節です。小見出しは「恐れることはない」です。6章はとても長い章で、6章の全体のテーマは、「イエス・キリストこそ永遠の命のパン」ということです。本日16~21節には、そのことは直接出て来ません。イエス様が何と湖の上を歩かれたこと、そして湖の上で漕ぐことに苦労していた弟子たちが乗った舟が、イエス様の守りによって目指す地に着いた出来事が記されています。

 最初の16節「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。」湖はもちろんガリラヤ湖(別名ティべリアス湖)です。新約聖書の元の言葉ギリシア語で、湖は海と訳すこともできます。海の中には多くの生き物が生きていますが、聖書では海はしばしば、混沌とした所(混乱していて無秩序な所)、レビヤタンと呼ばれる怪物の住む所、悪魔が支配する所、死が支配する所です。確かに現実の海にも、そのような面があります。11年前の東日本大震災で、私たち日本人は津波の恐ろしさを、強烈に示されました。弟子たちが湖畔に下りて行ったとは、弟子たちがそのような場所に行ったということです。

 17節「そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。」マタイ福音書4章によると、カファルナウムはイエス様が住んでおられた町です。弟子たちはきっと、イエス様がカファルナウムに行かれたと思って、カファルナウムを目指したのだと思います。舟はご存じの通り、聖書ではしばしば教会の象徴、シンボルです。その代表は、ノアの箱舟でしょう。池袋には、ノアの箱舟を模したと思われる会堂を持つ教会があります。弟子たちが乗ったこの舟も、教会を象徴しています。「既に暗くなっていた。」それだけで私たちは十分不安になります。私たちは電気のある生活をしていますが、イエス様の時代にはもちろん電灯はありません。電灯が全くつかない真っ暗の状態に置かれれば、私たちはやはり不安になると思います。月明かりや星の光に多少の安らぎを得ることはあるでしょうが。時は夕方から夜に差し掛かっています。聖書では夜もまた、悪魔の暗躍する時を象徴すると言えます。「イエスはまだ彼らのところには、来ておられなかった。」私たちにとって、これは困ります。イエス様に早く来ていただく必要があります。18節「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。」マタイ福音書14章は「逆風」と書いています。強い逆風だとすると、これは舟の上の人々にとって大きな困難、大きな試練です。

 19節「25ないし30スタディオン(約4.6~5.6km)ばかり漕ぎ出したところ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。」暗くて誰だか分からないのですから、黒く見える人影が近づくのを見て、弟子たちの心は動揺し、不安と恐れでいっぱいになったでしょう。私たちも驚きます。湖水の上を歩くなど、普通の人間にできるわけがありません。イエス様はやはり神であり、神の子なのです。自然界全体をお造りになり、ガリラヤ湖も造ったお方なので、ガリラヤ湖の上を歩くこともおできになります。湖は海と言ってもよく、混沌(混乱)、悪魔、死の力のシンボルです。その上を歩くイエス様は、悪魔の誘惑と死の力に完全に勝利した復活のイエス様だと言ってよいですね。

 20~21節「イエスは言われた。『私だ。恐れることはない。』そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」「私だ」という言葉が大切です。元のギリシア語で「エゴ―・エイミー」です。これまでに礼拝で何回も聞いたと思い出される方々もおられると思います。エゴーというとエゴイズム(自己中心)という言葉を連想する方もあるでしょう。でもエゴーはギリシア語で単純に「私」の意味です。「エゴ―・エイミー」は英語にすると単純に「アイ アム」です。「私は存在する」とか「私は〇〇だ」の意味です。この「エゴー・エイミー」が重要なのは、旧約聖書の出エジプト記3章14節と深く関連するからです。そこには、聖書の神様の自己紹介が記されています。「神はモーセに、『私はある。私はあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「私はある」という方が、私をあなたたちに遣わされたのだと。』」神様がご自分のことを「私はある」という者だ、と自己紹介しておられます。旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、それをギリシア語に訳した旧約聖書があり、それにはこの「私はある」が「エゴー・エイミー」と訳されています。つまりイエス様の発言「私だ」と、出エジプト記での神様の自己紹介「私はあるという者だ」は、両方とも「エゴー・エイミー」で全く同じです。「私だ」とおっしゃったイエス様は、モーセに自己紹介なさった神様ご自身です。もう少し正確には、父・子・聖霊なる三位一体の同じ神様なのですね。イエス様が神様ご自身であり、神の子なので、ガリラヤ湖の上を自由自在に歩き回ることがおできになります。

 この「エゴー・エイミー」の言葉を、イエス様はヨハネ福音書で何回も使っておられます。「私は〇〇だ」という言い方は全部そうです。たとえばこのヨハネ福音書6章35節でイエス様が「私が命のパンである」と宣言しておられますが、これは元の文では「エゴー・エイミー」の直後に「命のパン」とおっしゃっていて「私が命のパンである」の意味です。8章12節の「私は世の光である」も、「エゴー・エイミー 世の光」です。他にもいろいろあります。「私は良い羊飼いである。」「私は復活であり、命である。」「私はまことのぶどうの木」である。これらの宣言は皆、イエス様の本質を言い表しています。そしてそれぞれの中に「エゴー・エイミー」の言葉が含まれているので、「私は神だ」という宣言をも含んでいるのです。神様はこのヨハネ福音書を読んでこれらの宣言を聞く私たち皆に、「だから真の神、真の神の子イエス・キリストを自分の救い主と信じて、永遠の命を受けなさい」と、愛を込めて、今日も力強く呼びかけておられるのです。21節「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」イエス・キリストの力が、逆風の力、悪魔の力、死の力に勝利し、舟を(つまり教会を)目指す地(それは最終的には神の国、天国)に到達させて下さったのです。困難な時には、祈ってイエス・キリストの助けを求め、イエス・キリストに信頼しなさい、ということと信じます。

 本日の旧約聖書・出エジプト記14章は、少し似た場面です。有名で劇的な場面です。神様に選ばれた民イスラエルが、エジプトでの奴隷状態から脱出する場面です。エジプトの国が神様に裁かれたため、エジプト王ファラオは、イスラエルの民にエジプトから出て行くように命じました。そうしないとエジプト人が皆、死んでしまうと思ったのです。壮年男子だけで約60万人のイスラエルの民が、エジプト脱出へ向かいます。ところがファラオは、暫くすると考えを一変させます。「しまった、イスラエルの民を労役から解放して去らせるのではなかった。」エジプト軍が、イスラエルの民を追いかけます。14章10節から。「ファラオは既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後から襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った。『我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。』」13節以下、「モーセは民に答えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。』」 「恐れてはならない。落ち着いて、主なる神様に信頼しなさい」と語られたのだと、私は受けとめます。「神様に信頼しなさい」だと。

 神様はさらにモーセに言われます。16節以下「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、私はエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、私はファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。私がファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、私が主であることを知るようになる。」この通りになり、神様の偉大な愛の力によって海の水は分かれ、イスラエルの民は乾いた所を進んで、エジプトを脱出することができたのです。後を追って来たエジプト軍に上に、水は流れ返り、エジプト軍は全滅しました。こうして神様の偉大さが明らかにされ、神の栄光が現わされ、エジプト人は(イスラエル人も!)、「私が主であることを知るように」なりました。この神様が、全宇宙をお造りになった真の主であることを、皆が知るに至ったのです。ヨハネ福音書で、イエス様が荒れる湖で、弟子たちの乗る舟を目的地に到達させたことも同じで、これによりイエス様が真の神、自然界全体の主どであることが示され、神の子イエス様の栄光と、父なる神様の栄光が現わされました。

 皆様も人生の中で、神様に様々に助けられて来た経験をお持ちと思います。私が思い出すのは、この会堂を建築した時のことです。前の会堂を取り壊したのが2010年10月頃で、この会堂が完成したのが2011年7月頃だったと記憶しています。ヴォーリズ建築事務所に設計等を依頼しました。取り壊す前に、土地を測量し直したところ、ごく一部ですが、教会名義になっていない部分があることが分かり、その部分を買い取ろうということになりました。ところが相手は安く売ってはくれないと分かり、どうすればよいか等で、教会内でもいろいろな意見が出て、暫く建築計画の進展が止まりました。ヴォ―リズ社は教会建築の経験が豊富で、「どこの教会の建築でも、いろいろな困難が発生する。何年もかかった例もある。しかし完成に到達しなかった経験は一度もない」と言って励まして下さいましたが、しかし私たちの会堂建築の困難は、解決しなければ建築は進みません。半年くらい止まったように記憶していますが、最終的には皆様の大いなるご協力と、神様の助けによって、課題を正攻法で解決し、その後も小さな問題は生じましたが、解決しながら進み、その後は割に順調に進みました。しかし敷地の問題の解決には、私の記憶では半年くらいを要し、「建築完成という向こう岸、目指す地に、本当に到達できるのだろうか?」と、不安を感じた時期があったことは確かです。しかし、皆様の大いなるご協力と、神様の助けによって、献堂式という向こう岸、目指す地にたどり着くことができました。どの教会でも経験なさることと思いますが、この会堂が完成するまでにも、ドラマがありました。

 古い会堂を取り壊す前には、礼拝堂の会衆の皆様が座る長椅子・ベンチを、遠くの教会に差し上げました。それを先方の教会が大きなトラックで受け取りに来られたのですが、普段であれば、そんな大きなトラックがこの狭い道に入ることはできません。ところが、今の私から見て左側のお宅が、前の方が引っ越されて、今の方が入る前に、前の家を解体して更地になっていました。そこも利用させていただいてトラックに入っていただき、無事10個くらいのベンチをトラックに積み込んで、先方の教会に運んでいただくことができました。左のお宅の場所が更地でなかったら、できませんでした。ちょうどその時に更地だったのは、神様の愛の奇跡であって、神様の応援だと、その時、深く実感した次第です。神様を信頼してよいのだと。

 旧約聖書・歴代誌下20章の出来事をご紹介します。日頃から、真の神様を真心こめて礼拝し、真の神様に従うように心がけていれば、ピンチの時に必ず助けて下さいます。ヨシャファトという王が南ユダ王国を治めていた時、モアブ人・アンモン人・メウ二ム人の一部が、大軍で攻めて来ました。この大ピンチにヨシャファト王は恐れ、真の主なる神様を求めることを決意し、ユダの全ての人々に断食を呼びかけ、神様に助けを求めて祈るように要請しました。ヨシャファト王は、主の神殿でイスラエルの民の中で、こう祈りました。「私たちの先祖の神、主よ。あなたは天います神、異邦人の国を全て支配しておられる方ではありませんか。御手には力と勢いがあり、あなたに立ち向かうことのできる者はいません。~もし私たちが裁きとして剣、疫病、飢饉などの災いに襲われたなら、この神殿にこそ御名がとどめられているのですから、この神殿の前で御前に立ち、苦悩の中からあなたに助けを求めて叫びます。あなたはそれに耳を傾け、救って下さい。~私たちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、ただあなたを仰ぐことしかできません。」その時、神様に仕えるレビ人のヤハジエルという人に神の霊(聖霊)が降り、彼はこう語ります。「主はあなたたちにこう言われる。『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。~あなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。ユダとエルサレムの人々よ、恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる。』」

 ヨシャファト王も人々に言います。「あなたたちの神、主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる。」ヨシャファトは民と協議し、主に向かって歌を歌い、主の聖なる輝きをたたえる者たち(聖歌隊)を任命し、彼らに軍の先頭を進ませ、言わせました。「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに。」彼らが喜びと讃美の歌を歌い始めると、主は攻めて来た敵に伏兵を向けられたので、敵は敗れました。そして敵は同士討ちをして自滅しました。神様が戦って下さったので、イスラエルは勝ち、大ピンチを脱しました。神様に信頼していたからです。但し、イスラエルの民が神様に従っていなくて、逆らっているときには、負けるようです。

 イエス様の弟子たちは、真っ暗な湖の上で恐れでいっぱいでした。イエス様は十字架の上で、もっと深い絶対の孤独と絶望を経験されたと思います。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。最も深い闇の経験をなさった方なので、試練の中にいる私たちを慰め、助けることがおできになります。イエス様の使徒パウロは、ローマに行く前に、地中海で遭難しそうになりました。パウロを含め、276人が乗っていた船が暴風雨に巻き込まれ、何日も太陽も星も見えませんでした。パウロは囚人なのに、人々を励まします。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。私が仕え、礼拝している神からの天使が昨夜私のそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せて下さったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に告げられたことは、必ずその通りになります。私たちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」その通りになりました。

 以前、東久留米教会に西森さんという、シベリア抑留から帰って来た方がおられました。今は天国です。西森さんがおっしゃったのですが、「私がシベリアから日本に帰って来た時に思ったことは、神様が私に『あなたにはまだ使命がある』とおっしゃっているのだと理解した」と、言われました。私たち使命がある限り、神様はこの地上でピンチを乗り越えさせて生かして下さいます。パウロもそうでした。その後も、死という海を無事渡り切って、神の国、天国という向こう岸に必ず到着させて下さいます。この神様の約束に信頼して、ご一緒に地上で精一杯、使命を果たさせていただきましょう。アーメン(真実に)。