日本キリスト教団 東久留米教会

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2018-09-17 23:47:26(月)
「あなたがたは地の塩、世の光」 2018年9月2日(日) 聖霊降臨節第16主日礼拝 説教
聖書:列王記下2章19~22節、マタイによる福音書5章13~16節

 今日の新約聖書は、マタイによる福音書の5章13節から16節までを与えられております。イエス・キリストの山上の説教、山の上での説教と呼ばれる有名な箇所の一部でございます。今日のところの小見出しは、「地の塩、世の光」となっております。イエス・キリストがこういうふうに語られました。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である」と語られました。

 地の塩。世の中には白くない塩もあるでしょうが、基本的に塩は白さ、清さ、純白、純潔を表しているそうですね。塩は昔から、腐ることを防ぐ、腐敗を防ぐ、貴重なものとして用いられてきたと聞いております。防腐剤として用いられて来たと聞いております。「あなたがたは地の塩である」とイエス・キリストが言われましたけれども、私どもがこの罪ある世を少しでも清め、罪への堕落を防ぎ、そして罪による腐敗を防いでゆく、そういう防腐剤としての務めがあると、キリストがここで語って下さったと信じます。もちろん、本当にそれができる方はイエス・キリスト一人でありますけれども、しかし私たちもキリストによって救われ、そしまたて聖霊を注がれた者として、自分のできる範囲で精一杯この世の罪を清めてゆく、そのような務めを与えられているものと受けとめます。

 今日の旧約聖書は、列王記・下の2章19節以下を読んでいただきましたが、これは預言者エリシャの時代に起こったことです。人々が来て、「この町は住むには良いのですが、水が悪く、土地は不毛です」と訴えると、エリシャは塩を水の源に投げ込みました。そしてこう言いました。「主はこう言われる。『わたしはこの水を清めた。(塩で清めた。)もはやここから死も不毛も起こらない』と言った。エリシャの告げた言葉のとおり、水は清くなって今日に至っている」とありますから、塩は清めのためのものであることが、ここでもよく分かると思います。
 
 私たちキリスト者には、神様の清き霊である聖霊が注がれておりますから、塩は聖霊を暗示するとも言えるのではないでしょうか。聖書の言葉と聖霊によって清められているキリスト者が、世の汚れ、世の罪への堕落を防止する地の塩として働く使命が与えられていることを、今日の御言葉から悟ることができます。そしてまた塩は、それがないと人が生きられないものでもありますね。この猛暑の夏、「水分を補給しましょう」ということと共に、「塩分を補給しましょう」ということも盛んに言われていました。塩分によって私たちが生かされてゆくということがあると思います。

 また塩は不思議なことに、それをスイカにかけると甘くなるという不思議な作用もございます。塩はおいしさを与えてくれる、神様の愛を象徴する、喜びを与えてくれるとも言えるのではないでしょうか。辛い人生に神様が与えて下さる慰め、また喜び、それを塩が表していると言うこともできると思います。新約聖書のコロサイの信徒への手紙4章を見ますと、このように記されております。372ページ下段。4章6節。イエス様の使徒パウロが、このように書いております。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」と、パウロが勧めております。だいぶ前に、この教会に説教に来て下さった先生が、この箇所を引用して語られまして、「塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」、「快い言葉」をある英語の聖書で調べてみたら、「スウィート ワーズ」と書いてあった、と語られたことを思い出しました。「スウィート ワーズで語りなさい」、「甘い言葉で語りなさい」とおっしゃたことを思い出します。塩はですから、清めと同時に、甘くもあり喜びをもたらすものでもある、人を生かすものでもあるということを、この箇所から示されるように、私は思います。

 「あなたがたは地の塩である」、こう言われたイエス様は、非常に大胆に神の神殿をお清めになりました。イエス・キリストは勇敢に、大胆に、神の神殿を清められました。今日と同じマタイ福音書で見ますと、マタイ福音書21章12節以下で、イエス・キリストはそのような行動をしております。新約聖書40ページ下段。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。『こう書いてある。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている』」とおっしゃって、びっくりするほど大胆に勇敢に、神殿をお清めになりました。ヨハネ福音書を読むと、鞭を振るったとさえ書かれております。神殿がそのように腐敗していたのでありましょうか。「強盗の巣にしている」とありますから、神様を礼拝するよりも、人々の欲望を満たすために用いられてしまっていたのでありましょうか。「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。」「ここをあなたたちの勝手な金儲けの欲望の場にしてはならない、とおっしゃって神殿を清められたと受けとめることができます。イエス・キリストはまさに地の塩として、そのようなこともなさいました。

 そして、新約聖書のペトロの手紙(一)4章17節。新約聖書433ページ下段。そこには、このような言葉が記されています。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。『正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか』と言われているとおりです」という、ギクッとする言葉があり、「今こそ神の家から(教会ですね)」、「神の家から裁きが始まる時です」という言葉が記されております。神殿を清められたイエス・キリストは、現代の教会をも清めようとお働きになることでありましょう。このことに気をつけて歩みをさせていただきたいと願うものです。

 ここ数年報道されている大変残念なことは、アメリカやヨーロッパのカトリック教会において聖職者(男性でしょうが)による少年への性的虐待が、これまで少なくなく行われて来た、ということが報道されていて、私は「まさか」と思って参りましたが、どうやら本当なのかなと思わざるを得ない状態です。今の法王がそのことをめぐって抗議を受けたということがアイルランドで行われた、ということも報道されています。私が、それが本当かどうか確認できたわけではありませんが、もしその通りだとすれば、大変、真に残念なことだと言わざるを得ません。しかしそれが明らかにされてきたこともまた、神様が世の終わりに向けて、教会を清めておられることの表れではないか、ということをも、この箇所を読んで思わされた次第です。人間の罪が教会を汚してしまう。そのようなことが自分たちの教会や、自分たちの属する教団などで起こらないように心してゆくことが私たちにも求められていると、報道を読みながら思わざるを得ません。今もイエス・キリストは地の塩として働いて下さっていると思います。

 私は半年ほど前に、『地の塩 山室軍平』という映画を見ました。この話は何回かしていますから、本日は少しに致しますが、ご存じのように山室軍平という方はキリスト教会の一つである日本の救世軍の初期のリーダーです。明治の日本には公娼制度、娼婦制度を公認するという悪い制度があって、それによって金儲けをする業者もいたと聞いております。そのような悪い制度をやめさせようとして立ち上がったのが救世軍ということを、映画を見て知りました。女性たちをいわば捕らえて金儲けをしている人たちの所へ行って、「その仕事をやめたい人はすぐにやめてよいのだ」というちらしを配って、「やめたい人はここに来れば支援するから、ぜひ来てほしい」、というちらしを配ってゆく。すると相手側は暴力団を雇って、暴力でそれを潰そうとしてくるのですけれども、それに対して暴力で抵抗しないで、殴られても蹴られても、ちらしを配り続ける。その場面を見まして、「まさにこれは地の塩としての働きだな」、映画のタイトルは『地の塩 山室軍平』でしたが、本当にこれは地の塩としての働きだ、また世の光だということを、見て感じたのです。今日のところでイエス・キリストは、「あなたがたは地の塩である」と言われ同時に「あなたがたは世の光である」とも言われました。その映画を見て、クリスチャンたちの戦い、まさに世の光だなと思わされた次第です。

 もちろん私たちの信仰の中心はイエス・キリストの十字架の死と復活、これが私たちの信仰の中心ですね。イエス・キリストが私たちの罪を背負って十字架で死んで下さって、三日目に復活して下さった。罪を悔い改めて、キリストを信じる人は、全ての罪の赦しと永遠の命を受ける。これが聖書の信仰の中心でありますけれども、それと同時に、キリストによって救われた者として私たちもまた、イエス様ほどにはできなくても、地の塩・世の光として生かされていることもまた大切なことであると、今日のところを読んで思わされます。

 私は先日、台湾に行かせていただきましたけれども、25年前に初めて行って、今回が2回目でありました。25年前のことを少し思い出したのですが、私たちは台湾基督長老教会の教会を前回も巡ったのですが、その時に、首都にあります原住民少女救出センターという所にも連れて行かれました。原住民と呼ばれる方々が東(西は間違い)の方に多く住んでおられますが、25年前はその方たちはあまり教育もたくさんは受けておられなかったからでしょうか、そこの娘さんたちを悪い人が騙して、都会に連れて来る、親には、「いい仕事があるから、お嬢さんたちを預けてほしい」と言って都会に連れて行く。そして行うことは、閉じ込めて売春をさせて、その利益は大半を自分たちがもらってしまう、そのような闇社会が台湾にもあるということを前回聞かされたのです。台湾基督長老教会の原住民少女救出センターは、その人たちを救い出す働きをしていることを聞かされました。その場所は公表していない。私たちは連れて行ってもらいましたけれども、普通のビルの一角で気がづかないような所だったと記憶していますが、公表すると暴力団が攻めて来るかもしれないので、公表せずに行っていると聞かされましたが、「立派な働きだな、本当に地の塩だ」と思わされた、それが25年前のことでありました。そんなことも、地の塩ということを読みながら思わされた次第です。

 今回の台湾旅行では、日本と台湾の青年の人たちと10日間ほど一緒に行動したわけですが、朝と夕はディボーションというミニ礼拝を行っていました。それぞれ一人一人が担当して、聖書の箇所を選んで感想を述べる、また話し合ってお祈りする。そんなことを朝夕に続けてきたのですが、ある時の礼拝の箇所が、旧約聖書の箴言3章30節でした。旧約聖書994ページ上段。「理由もなく他人と争うな。あなたに悪事を働いていないなら」という箇所が、その日の聖書の言葉の一部に入っておりました。27節から読んで30節までだったのですが、ある朝のディボーションというミニ礼拝で、台湾の女性の青年がその箇所で、お話をしたのです。「質問がある」と私に言われて、「30節がよく分からない」というのです。「『理由もなく他人を争うな。あなたに悪事を働いていないなら』と書いてあるけれども、クリスチャンは、平和に過ごし赦していく、それがクリスチャンであるはずだけれども、『理由もなく他人と争うな』と書いてある。では、理由があれば他人と争ってよいか。どういうことか、質問したい」と言われて、私なりに一生懸命答えました。

 「キリスト者はもちろん平和を一番大事にするけれども、時として世の罪や悪と闘わなければいけない時がある」、そのような話をしました。「世の罪と悪と闘わなくてはいけない時もある。有名なマーティン・ルーサー・キング・ジュニアという牧師は、黒人差別の悪と闘った。しかし、暴力は使わないで悪と闘った。その人のことを皆知っていると思います」、と話しました。「『争い』という言葉は、少し、もしかすると違うかもしれないけれども、闘わなければならない時もあるということだと思う」、とその時、答えました。ローマの信徒への手紙(12章21節)で使徒パウロが言っています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と使徒パウロが言っております。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」 「悪に負けてはいけない。しかし暴力で悪に対抗してもいけない。そうではなくて善をもって、または愛をもって悪を乗り越えなさい、とパウロは教えている。そういうことではないか」と、その時、答えました。「理由もなく他人を争うな。あなたに悪事を働いていないなら。」このことに対する質問だったわけですが、暴力に対して暴力で対抗はしないけれども、善と愛によって悪を乗り越えて行く、そのような地の塩としての働きが私たちにも求められる時があるということであろうと、私はこの箇所を受けとめたのです。

 さて、今日のところでイエス・キリストは、「あなたがたは地の塩である」とおっしゃり、また、「あなたがたは世の光である」とも言われました。「山の上にある町は隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」 世の中で隠れたクリスチャンとなるのではなくて、キリスト者であることを公表し、そして信仰をもって生きて行くことをお求めになったものと思います。私たちは自分の力で輝くことはできず、しかしイエス・キリストが真の世の光でいらっしゃいますから、そのイエス・キリストの光を受けとめて、反射させていただくことで、少しは世の光とならせていただくことができると思います。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」100%立派な行いはできないかもしれませんが、しかしイエス・キリストの光を受けて、それを反射して、少しでも神様のことをお知らせするような生き方ができれば、本当にすばらしいと思います。どうか私たちが、キリストの十字架によって赦された、また救われた者として、聖霊に満たされて、少しずつでも地の塩、世の光として日々励んでいくことができますように、ご一緒に祈りながら信仰生活を続けてゆきたいと、切に願っております。

(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、聖なる御名を讃美致します。真の地の塩、世の光はイエス・キリストでいらっしゃいます。私たちは罪人(つみびと)でありますが、しかしキリストの愛を受け、キリストの聖霊を受けた者として、どうか私たちも少しでも地の塩、世の光として奉仕することができますように、私たちを清めて、あなたの御業のために用いて下さるように、心からお願い致します。あなたの全ての守りを感謝して、この祈りをイエス・キリストのお名前を通して、御前にお献げ致します。アーメン。

2018-08-09 18:23:34(木)
「本当の幸せとは」 2018年8月5日(日) 平和聖日礼拝説教 要旨 
聖書: 詩編51編1~11節、マタイ福音書5章1~7節

 本日(8月第一聖日)は、日本キリスト教団の暦よる「平和聖日」です。毎月2回ほど、マタイによる福音書を読む礼拝を献げていますが、本日より5章、イエス・キリストが語られた有名な説教、「山上の説教」に入ります。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」「口を開き」という言葉には、「これから重要なことを話します」というメッセージが込められています。先ほど歌った「讃美歌21」の57番の第1節の歌詞は、この「山上の説教」のことを歌っています。「ガリラヤの風かおる丘で ひとびとに話された 恵みのみことばを わたしにも聞かせてください。」

 「幸い」という小見出しがあり、1~10節に、「8つの幸い(祝福)」(八福)が語られます。7節「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」ギリシア語原文では、「幸いだ」が冒頭に来ています。文語訳聖書では、「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり」です。こんな讃美歌もあります。「幸いなるかな、貧しい人、神の国はあなたのもの。」「幸いだ」はギリシア語で、「マカリオイ」です。日本キリスト教団年鑑によると、岡山県倉敷市に「マビ・マカリオイ教会」があります。マビは地名(真備)と思います。今年7月の西日本豪雨で大きな被害を受けられた地域です。そこに「マビ・マカリオイ教会」つまり、「真備・幸いなるかな教会」があるのですね。辛い被害を受けた地域にあって、地域と共に歩み、今日も礼拝を献げておられることと存じます。「マビ・マカリオイ教会」と地域の方々に、神様のたくさんの慰めと守りがありますように、切にお祈り申し上げます。

 カトリックのフランシスコ会訳の聖書では、「自分の貧しさを知る人は幸いである」です。これが分かり易いと感じます。私たちの命は、神様に全面的に依存しています。旧約聖書のダニエル書(5章23節)の御言葉を借りれば、神様が私たちの「命と行動の一切を手中に握っておられ」るのです。このことを深く悟ることが必要です。しかも私たちは、聖なる神様から見れば皆、罪人(つみびと)です。神様によって罪を赦されなければ、生きることができないのです。貧しさは、罪深さを指すとも言えます。宗教改革者マルティン・ルターが、「私たちは乞食だ。それは本当のことだ」と言ったと聞きましたが、ルターは自分の貧しさを深く悟っていたと思うのです。

 本日の旧約聖書は、「悔い改めの詩編」として有名な詩編51編です。ダビデ王が人の妻を奪い、その女性の夫を戦死させた時に、神の預言者ナタンが来て、ダビデを厳しく叱責しました。その時のダビデの真実の悔い改めを語るのが詩編51編です。ある教会は毎週の礼拝で詩編51編を皆で読んで、直前の週の罪を悔い改めるそうです。(3~4節)「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。」(7節)「わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。」 7節は「生まれつきの罪」のことを語っています。原罪のことと言えます。私たち人間は皆、残念ながら罪をもって生まれて来るのです。聖書の中に「原罪」という言葉はありません。しかし7節は明らかに私たちが生れつき罪をもっていること語っており、この罪を教会が原罪と名付けたのだと思います。

 クリスチャン作家・三浦綾子さんのデビュー作は『氷点』です。『氷点』のテーマは原罪です。氷点という言葉が、実は原罪を意味して使われています。私は今年、初めて全部を読みました。詩編51編19節には、「~神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません」とあります。心の底から罪を悔い改めることを、神様は喜んで下さいます。「心の貧しい人」とは、真底自分の罪を悔い改める謙虚な人です。神は喜んで天国を与えて下さいます。

 マタイ福音書5章に戻り、6節。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」イエス様は十字架に架かられ、誰よりも苦しまれ、悲しまれましたから、イエス様は私たちの悲しみを全て分かって下さいます。イエス様の十字架の死を予告したイザヤ書53章にこうあります(口語訳)。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔を覆おおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い。われわれの悲しみをになった。」この御言葉を聞くと、イエス様に親しさを感じることができるのではないでしょうか。「その人たちは慰められる。」聖霊は慰め主、イエス様も慰め主、父なる神様も私たちに慰めを与えて下さる方です。コリントの信徒への手紙(二)1章3節以下に、このようなすばらしい御言葉があります。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」

 「悲しむ人々は、幸いである。」この悲しみは、自分の罪を悲しむ悲しみとも言えます。ダビデは詩編51編で、自分の罪を悲しみました。「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。」コリントの信徒への手紙(二)7章10節にこうあります。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」ると。自分の罪を悲しむ人は、罪を深く悔い改めます。神はそれを喜び、取り消されることのない救い・永遠の命を与えて下さいます。その人は、真の意味で幸いな人です。

 マタイ福音書に戻り、5節には「柔和な人々は、幸いである」とあります。イエス様こそ柔和な方です。「悲しむ人々は幸い」、「柔和な人々は幸い」と続くと、この人々は弱々しいと感じるかもしれません。しかし6節には、「義に飢え渇く人々は、幸いである」とあります。イエス様は私たち罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪そのものを憎まれ、悪を憎まれます。クリスチャンもそうである必要があります。イエス様はエルサレムの神殿を非常に激しく清められました。まさに「義に飢え渇く方」なのです。

 本日歌った讃美歌21の211番の作詞者はハリエット・E・ストウという19世紀のアメリカ婦人です。名作『アンクルトムの小屋』の作者です。黒人奴隷トムが虐待され、最後には死んでゆく悲しい物語です。私は子ども版を小学校4年生の頃に読みましたが、涙なくしては読めませんでした。ストウ夫人はは熱烈なクリスチャンだったそうです。ストウ夫人は、奴隷制度の悲惨さを訴えたくてこの書物を書いたのです。この書物の反響は大きく、奴隷制度をなくす方向で世論を動かしたそうです。まさに「ペンは剣よりも強し」(聖書の言葉ではない)です。アメリカは南北戦争という大きな試練を経て、リンカーン大統領による奴隷解放宣言にたどり着きました。ストウ夫人はまさに、「義に飢え渇く人」だと感じ入るのです。

 どうか私たちも、「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」となり、真の意味で幸いな人になることができますように。そしてイエス様に似た一人一人となることができますように、切にお祈り致します。アーメン(「真実に」)。


2018-08-01 21:51:10(水)
「平和を愛する」  伝道メッセージ  石田真一郎
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(新約聖書・マタイによる福音書5章9節)

 5月に長崎市に行きました。長崎はキリスト教のカトリックの伝統の深い町、原爆被爆地です。爆心地そばの原爆資料館、平和祈念公園を見学しました。写真を見るとまさに焼け野原です。重症の方々、亡くなった方々の写真も見ました。山と谷、アップダウン・坂の多い町です。空を見上げると今は青空です。二度と核兵器を使わせないことが、私たちの責務です。

 世界の昨年の大切な動きの1つは、国連での核兵器禁止条約の採択です(7月)。122の国・地域が賛成しました。核兵器保有国は皆不参加、真に残念ながら日本も不参加です。この採択に貢献した団体「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」にノーベル平和賞が授与され、勇気づけられました。ICANの運営委員の一人が、私のいる東久留米教会の会員の親族なので、なお嬉しかったのです。核兵器廃絶など夢のまた夢と思っていましたが、あきらめないで本気で取り組む人々が必要です。原爆資料館に、ICANのリーダー女性の「核兵器廃絶が先か、人類の滅亡が先か、です」とのメッセージが掲示されていたのが印象に残ります。

 ノーベル平和賞授賞式で、カナダ在住のサーロー節子さんは広島で被爆した13才のときの体験を語りました。キリスト教主義の学校の生徒でした。「建物の下敷きになった。『あきらめるな。隙間から光が見えるだろう? そこに向かって這って行け』の声を聞いて這い出た。核兵器は必要悪ではなく、絶対悪。」神様が光を見せて、助けて下さったと思うのです。

 アメリカのキング牧師は、「私には夢がある」と演説しました。人種差別がなくなることを祈る夢です。完全には実現していません。私たちの夢は、核兵器が完全になくなる平和な世界が来ることです(もちろん、世界中の人がイエス・キリストを信じることも、私たちの大きな夢です)。確かに難しい。しかし、あきらめずに取り組む市民の力が必要です。そして神の国が来ることを私たちは祈ります。イエス様は、「平和を実現する人々は、幸いである」と言われます。子どもたちが生きる日本と世界が平和であるように祈り、努力したいと願います。アーメン(「真実に」)。


2018-08-01 21:41:35(水)
「思い上がらない信仰」 2018年7月29日(日) 聖霊降臨節第11主日礼拝説教 要旨
聖書: 哀歌3章22~23節、ローマの信徒への手紙11章17~24節

 イエス・キリストを宣べ伝えるパウロにとって、自分の同胞であるイスラエル人(ユダヤ人)がなかなかイエス様を信じてくれないことは、非常に深い悲しみでした。しかし、このことには、全世界の人々の救いを願う、神様の深いお考えがあることに、パウロは次第に気づくのです。ローマの信徒への手紙11章11節「かえって、彼ら(ユダヤ人)の罪(イエス様を拒否した罪)によって異邦人(ユダヤ人以外の人々)に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」ユダヤ人の多くがイエス様を信じなかったためにパウロが異邦人にイエス様を宣べ伝え、多くの異邦人がイエス様を信じて救われる(永遠の命を受ける)結果になった。それを見てユダヤ人たちが、「ああ、うらやましいな。自分たちもかたくなな心を捨ててイエス・キリストを信じ、永遠の命を受けたい」と考える方向に進むこと、神様がそれをめざしておられるとパウロは悟ったのです。

 パウロは本日の箇所で、救われた異邦人たちに忠告します。私たち日本人クリスチャンも異邦人クリスチャンですから、私たちも心して耳を傾けるべき御言葉です。17~20節「しかし、ある枝(ユダヤ人)が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ、恐れなさい。」

 旧約聖書以来の神の民であるイスラエル人(ユダヤ人)が、神の民の本家本元です。私たち異邦人クリスチャンは、確かに神の民に加えられていますが、神の民としての本家本元ではありません。従って、ユダヤ人に対して誇る資格はないのです。私たちも、聖なる神様からご覧になれば罪人(つみびと)の一人でしかありません。何か神様に対して誇ることができる立派な点があったから救われた(永遠の命を受けた)のではありません。私たちは罪人(つみびと)に過ぎないのに、イエス様がその罪人(つみびと)たちの全ての罪を背負って、身代わりに十字架で死んで下さった、ひとえのそのお陰で、私たちは罪を赦されて永遠の命をいただきました。100%イエス様のお陰です。私たちの功績はゼロです。

 確かに、私たち異邦人クリスチャンは、信仰によって立っています。イエス・キリストを自分の救い主と信じる信仰によってのみ、義とされた(救われた)のです。これがプロテスタントの強調する信仰義認です。信仰義認は確かに真理です。しかしだからと言って油断し、罪を犯しても平気な生活へと堕落してはならないのです。同じパウロが、コリントの信徒への手紙(一)10章12節で、こう述べています。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」パウロは、出エジプトしたイスラエルの民を見よ、と言います。せっかくエジプトから脱出したイスラエルの民ですが、成人はヌンの子ヨシュアと、エフネのカレブ以外は約束の地に入ることができなかったのです。それは彼らが神様に対していくつかの罪を犯したからです。コリントの信徒への手紙(一)10章5~11節「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」

 パウロは私たち異邦人クリスチャンに、約束の地に入れなかったイスラエルの民の失敗を繰り返すな、と愛の警告を語ります。思い上がるのではなく、ますますへりくだって神様を畏れ敬い、ますます神様に感謝する人になるように、ということでしょう。私たち、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを自分の救い主と信じて救われた者は、どのような生活を心掛ければよいのでしょうか。神様に祈り、聖霊の御助けをいただいて神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する生活を心がけることと信じます。もう少し詳しく言うと、聖霊の御助けをいただいてモーセの十戒を行う生活を心がけることと信じます。そうすれば、少なくとも大きな罪を犯すことは避けることができます。

 パウロは、「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」と勧めます。同じパウロが、フィリピの信徒への手紙2章12節でこう語ります。「~恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」私たちの救いは、自分の罪を悔い改め、十字架と復活のイエス様を信じる信仰のみによって与えられます。救われた後は、イエス様に従う生活をするように心がけることで、確実に天国に入れていただけるようになります。

 パウロはローマの信徒への手紙11章22節で、「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」と私たちに求めます。口語訳では、「神の慈愛と峻厳とを見よ」という印象的な言葉です。神の慈しみと聞くと、私は本日の旧約聖書である哀歌3章22~23節を思い出します。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。」私たちの命は、今日もこの神様の慈しみに支えられています。神様は愛の方であると同時に聖なる方です。神様は罪人(つみびと)を愛して救おうと全力を傾けられます。同時に罪を憎んでおられます。イエス様は私たちの身代わりに十字架におつきになり、父なる神様から(本来私たちが受けるべき)峻厳な裁きをお受けになりました。私たちも明らかな罪を犯すなら、神様の峻厳な裁きを受ける可能性がないとは言えません。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」大きな救いを与えて下さった神様に感謝し、神様を畏れ敬って罪を避けて、イエス様に従って参りましょう。アーメン(「真実に」)。

2018-07-18 21:40:12(水)
「本当の救いは、自分のエゴからの救い」 聖霊降臨節第9主日公同礼拝 説教要旨
聖書:申命記32章15~22節、ローマの信徒への手紙11章11~16節

 このローマの信徒への手紙を書いたイエス様の使徒パウロの深い悲しみは、自分の同胞である愛するイスラエル人(ユダヤ人)の多くが、なかなかイエス・キリストを救い主と信じてくれず、従ってすべての罪の赦しと永遠の命を受けないでいることです。神様からご覧になった場合の私たち人間の罪の根本は、自己中心です。エゴと言い換えることもできます。自分が常に一番大事で、神様をも隣人をもあまり愛さないことが罪です。この罪から、私たちを根本的に救って下さる方が、イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちの罪をすべて背負って十字架で死なれ、三日目に復活されました。イエス様の十字架の死だけが、私たちの罪をすべて赦す救い、根本的な救いです。このイエス・キリストを、ぜひご自分の救い主として、心から受け入れ、信じて下さるようにお願い致します。新約聖書の使徒言行録4章12節で、イエス様の弟子ペトロが説教しています。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリストの名)のほか、人間には与えられていないのです。」この言葉は、真実です。

 パウロは、自分の同胞である愛するユダヤ人たちの多くが、この救い主イエス様を信じないので、深く心を痛めたのです。11節「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまった(永久に神から見捨てられた)ということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」ユダヤ人の多くがイエス様を拒否し、パウロが異邦人(ユダヤ人以外)に伝道する方向に導かれました。その結果、異邦人で自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じる人々が多く与えられ、元来は神の民でなかった異邦人が救われる(罪の赦しと永遠の命を受ける)という現実が生じたのです。このことには、全世界の人々の何とかして救うための、神様の深いお考えがあると、パウロは神様によって気づかされたのです。

 パウロは申命記32章21節で、神様がこのことへの答えを示しておられることに気づきました(そこでパウロは、ローマの信徒への手紙10章でこの申命記を引用しています)。申命記32章21節にはこうあります。「彼ら(イスラエルの民)は神ならぬ(偶像の神、偽物の神)ものをもって/ わたしのねたみを引き起こし/ むなしいもの(同)をもって/ わたしの怒りを燃え立たせた。/ それゆえ、わたしは民ならぬ者(異邦人)をもって彼らのねたみを引き起こし/ 愚かな国(同)をもって/ 彼らの怒りを燃え立たせる。」

 キリスト教会にとっても重要なモーセの十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。神様はご自分を「熱情の神」とおっしゃいます。これは口語訳聖書では、「ねたむ神」と訳されています。これは「ねたむほどに愛する情熱的、熱情的な愛」のことです。神様は、イスラエル(神の民)が他の神々(本当は神ではない、偶像であり、偽物の神)を礼拝し、これに心を寄せるとき、激しいねたみを起こされるのです。これはイスラエルを深く愛しているからこそ、起こることです。ねたみと言うとマイナスの感情というイメージが湧くかもしれませんが、正しいねたみもあります。夫婦の愛は神聖で、別の異性が入ることはあり得ませんし、許されません。万一そのようなことが起これば、夫婦の片方が強いねたみを起こします。これは全く正常なことで、正しいねたみです。正しいねたみが起こらないのであれば異常です。聖書では、神様と神の民の間柄は夫と妻です。妻であるイスラエルが偶像を礼拝し、これに心を寄せるなら、それは霊的な姦淫(不倫)の罪で、神様の正しいねたみ(熱情、怒り)を引き起こします。

 申命記32章21節の後半で神様は、「それゆえ、わたしは民ならぬ者(異邦人)をもって/ 彼ら(イスラエルの民)のねたみを引き起こし/ 愚かな国(同)をもって/ 彼らの怒りを燃え立たせる。」パウロは、ここに神様の深いお考えが記されていると悟ったのです。そこでローマの信徒への手紙11章11節で、こう書いたのです。「かえって、彼ら(ユダヤ人)の罪(イエス・キリストを拒否した罪)によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」「彼らにねたみを起こさせるため」を口語訳聖書は、「イスラエルを奮起させるため」と訳しています。

 異邦人が、イエス様を信じて救われてゆく様子を見て、ユダヤ人たちが「神様はなぜ、神の民である私たちユダヤ人を救わないで、異邦人をお救いになるのか」とねたみを覚え、神に怒りを覚え、「待てよ、私たちユダヤ人も、神様が送られた救い主を拒否して、神様の愛を無視して神様をねたませ、悲しませているのではないか」と神様の愛に気づき、発奮し、神様への愛を燃え立たせるようになる。これが神のめざしておられることだと、パウロは悟ったのです。神様は、ユダヤ人たちを何とかして救うために、ユダヤ人にこのような形で刺激をお与えになったのです。あるいは、イエス様を信じて救われてゆく異邦人たちを見て、ユダヤ人たちが「うらやましいな、私たちもあのように救われたい。よし、かたくなな心を捨てて、救い主イエス様を信じよう」と発奮する。神様はそれをめざして、イスラエルに発破をおかけになったと思います。

 旧約聖書のコヘレトの言葉4章4節に、このような御言葉があります。「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。」人間には向上心、競争心、ライバル心があります。健全な競争心・ライバル心は、互いが刺激し合い助け合い、共に向上することを可能にします(過度の競争はよくありませんが)。神様は異邦人にイエス・キリストを信じる信仰を与え、異邦人に永遠の命を与えることで、イスラエルの競争心を刺激なさったと思います。救われる異邦人を見てユダヤ人が、「うらやましいな、私たちもあのように救われて喜びたい。よし、思いきってかたくなな心を捨てて、救い主イエス・キリストを信じよう」と発奮し、実際にイエス様を信じる。神様は、このようになることをめざして行動しておられます。そして遂には、ユダヤ人も異邦人も、全世界の人々が救われること、これが神様の悲願です。これを読んで下さる方も、ぜひご自分の罪を悔い改め、イエス・キリストをご自分の救い主として信じて下さるようにお願い致します。できるだけ教会で洗礼をお受けになることをお薦め致します。

 さて、似たことはキリスト教会の歴史にも認めることができると思います。昨年はルターの宗教改革からちょうど500年の記念の年でした。プロテスタント教会の出現は、カトリック教会に刺激を与えたに違いありません。カトリック教会は自らの改革の必要を認め、自らを改革します。そして世界伝道に乗り出しました。大航海時代の船に乗って、です。アフリカ、アジア、南北アメリカに宣教師が派遣されました。この流れのなかでフランシスコ・ザビエルも日本に1549年に来たのです。このカトリックの世界伝道が、スペインやポルトガルの植民地政策に乗った面もややあったのは事実でしょう。しかし多くの宣教師は、純粋に伝道のために海を渡ったと思います。そこからプロテスタントが刺激を受けた面もあるのではないでしょうか。今の世界には、多くのキリスト教の派がありますが、それぞれが神様からいただいた賜物を生かし、互いによい刺激を与え合って、協力して世界伝道を進めることを、神様はお望みではないでしょうか。私たちが海外宣教にも多くの関心を持ちつつ、与えられた持ち場での伝道に励みたいと願います。アーメン(「真実に」)。