日本キリスト教団 東久留米教会

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2025-06-15 0:51:29()
説教「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい」2025年6月15日(日)聖霊降臨節第2主日礼拝 
(使徒言行録2:29~42) 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第2主日公同礼拝です。説教題は「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい」です。小見出し「ペトロの説教」の後半です。

 ペンテコステの日に聖霊を受けたペトロが、エルサレムの人々に向かって、力強く説教しています。ペトロはエルサレムの人々が、先祖のダビデ王をよく知っていると分かっていたので、ダビデがイエス・キリストの復活を予告していると語ります。29節以下。「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓はは今でも私たちの所にあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓って下さったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。」これは詩編16編9~10節です。詩編16編は「ダビデの詩」と書いてあります。9~10節に、こうあります。「からだは安心して憩います。あなたは私の魂を陰府に渡すことなく。」ペトロはこうしてダビデが、ペトロの時代の約1000年前に、イエス・キリストの復活を預言していたと、エルサレムの人々に説いています。人々は、これに説得力を感じたと思うのです。

 32節「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いで下さいました。あなた方は今このことを見聞きしているのです。」ペトロは、イエス様が神の右に上げられたと語っています。これにつき、エフェソの信徒への手紙1章20節以下に、こうあります。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足元に従わせ、キリストをすべての上にある頭(かしら)として教会にお与えになりました。」つまり復活して天に昇られたイエス・キリストは、全てのものの上の座にお着きになったと述べています。エフェソの信徒への手紙4章10節にはこうあります。「この降りて来られた方(地上に降りて来られたイエス様)が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」もろもろの天よりも更に高く昇られた。これが神の右の座に着かれたということです。ヨハネの黙示録19章の表現を借りれば、「王の王、主の主」になられたことを意味します。有名な「ハレルヤコーラス」で、「キングオヴキングス、ロードオヴローズ」と歌い上げる通りです。最高の最高の座に着かれたのです。そこから聖霊を注いで下さいます。

 さらに言えば、注がれる聖霊が一人一人に、色々な賜物を与えて下さいます。本日の使徒言行録をやや超えますが、せっかくの機会なので、このことをも確認しておきます。コリントの信徒への手紙(一)12章です。まず聖霊は、「イエスは主である」という信仰告白を与えて下さいます。その次にこう書かれています。「賜物には色々ありますが、それをお与えになるのは同じ霊(聖霊)です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に霊(聖霊)の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊にほよって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の霊(聖霊)の働きであって、霊(聖霊)が望むままに、それを一人一人に分け与えて下さるのです。」ペンテコステの朝に聖霊が注がれたときは、外国語で語る賜物を与えられた人が多かったのですが、聖霊が注がれることは、教会の人々に色々な賜物が与えられたことを意味するのですね。

 使徒言行録2章に戻り、34節のペトロの言葉。「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています(詩編110編の引用)。「主(父なる神様)は私の主(イエス様)にこうお告げになった。『私の右の座に着け。私があなたの敵を、あなたの足台とするときまで。』」ここに、イエス様が父なる神様の右の座に着かれることが、預言されています。そしてペトロは、エルサレムの人々に大胆に説教します。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシア(救い主)となさったのです。」

 人々は、これを聞いて「イエス様を殺すなんて、とんでもない悪を行ってしまった」と深く気づいたのです。人々は非常にへりくだりました。37節「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ(心を刺されたと言ってもよいでしょう)、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った。悔い改めなさい。めいめい。イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなた方にも、あなた方の子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いて下さる者ならだれにでも与えられているものなのです。」

 「私たちは、どうすればよいのですか」と人々は真剣に問うています。ペトロの答えは、「悔い改めなさい」です。ダビデ王も、罪の悔い改めこそ非常に大切と気づいた人です。ダビデ王は、部下の妻バト・シェバを奪って、部下を戦死に追いやる大きな罪を犯しました。そしてバト・シェバとの間に生まれた男の子が死ぬことで、神様の裁きを受けました。ダビデは詩編51編19節で、告白しています。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」ダビデは痛い思いをして、罪を悔い改めることこそ最も大切と悟ったのです。

 旧讃美歌の239番の歌詞がすばらしくて、非常に思い出されます(残念ながら讃美歌21にない)。1節「さまよう人々、たちかえりて、あめなる御国の父を見よや。罪とが悔やめる心こそは、父より与うる賜物なれ。」罪と咎を悔い改める心こそ、神様からのすばらしいプレゼントだと歌っています。その通りです。私たちは罪を悔い改めることで洗礼に導かれ、聖霊を受け、神の子とされ救われるからです。 2節「さまよう人々、立ち帰りて、父なる御神の御前に行き。まことの悔いをば言い表せ。世びとは知らねど、知りたまえり。」 3節「さまよう人々、たち帰りて、主イエスの御許に、とくひれ伏せ。わが主は憐れみ、御手を延べて、こぼるる涙を拭いたまわん。」 4節「さまよう人々、立ち帰りて、十字架の上なるイエスを見よや。血潮のしたたる御手を広げ、いのちを受けよと招きたもう。」明治時代に日本で最初に正式に女性の医師となった荻野吟子さんはクリスチャンです。私は5、6年前に荻野吟子さんを描いた映画を見ましたが、荻野さんが東京の本郷中央教会で洗礼を受ける場面で、この讃美歌が流れていたと記憶しています。私たちは、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けるのですから、この悔い改めを歌うこの讃美歌は、洗礼式にふさわしいですね。

 エルサレムの人々も、私たちもさまよう人々だった。聖書で言う罪は、「的外れ」の意味だと、よく説明されます。的外れとは、弓から放たれた矢が、的めがけてまっすぐ飛んでいかないで、逸れてしまうことです。イザヤ書53章にこうあります。「私たちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」神様が願う道から逸れて、的はずれの生き方をして来た、さまよっていた。しかしイエス・キリストのもとに立ち帰れば、救われます。ペトロの手紙(一)2章25節の御言葉どおりです。「あなた方は羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方(イエス様)の所へ戻って来たのです。」

 悔い改めて、真の救い主イエス様に立ち帰った私たちは、洗礼を受けました。ローマの信徒への手紙6章4節、イエスの焼き印。聖霊を受けて、神の子とされ、永遠の命を受けた。マルティン・ルターの宗教改革は、ヴィッテンブルグ城教会の門に、95ヶ状の主張を貼り出したことで始まったと言われます。この中でルターは、「イエス・キリストが悔い改めよと命じられた時、それは私たちの全生涯が悔い改めであることを求められたのである」と書いたそうです。

 40節「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」今の時代にも邪悪なことは多くあります。詐欺が多発しています。警察を装う詐欺も多いそうで、何を信用すればよいのか分からない時代です。そんな中で、キリスト教会なら間違いなく信用できると、世の中の方々に信用していただける東久留米教会を、これからも形作ってゆく必要があります。

 ここに教会の原型があります。「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」この日、一気に約3000人のユダヤ人たちが、クリスチャンになりました。大きな奇跡です。ですが一人洗礼を受けることも大きな奇跡です。ルカによる福音書15章7節で、イエス様が語っておられます。「悔い改める一人の罪人(つみびと)については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」一人が真の神に立ち帰って洗礼を受ければ、大きな喜びが天にある」のです。「相互の交わり」は、クリスチャン同士の交流ですね。祈りによる交流と思います。交わりは、元のギリシア語でコイノニア。東久留米市の滝山にはクリスチャンの佐原さんが行っておられるコイノニアという作業所がありますね。
 
 「パンを裂くこと」は聖餐式の原型と思います。6月1日(日)に西東京教区倒壊で阿佐ヶ谷教会に行き、その夕方に聖餐式がありました。阿佐ヶ谷教会は、元はプロテスタントのメソジストの伝統の教会です。礼拝堂の前の方に、「恵みの座」があります。今まであまり気づきませんでした。聖餐式が行われ、配餐なさる方々は、配り終わると前の方でパンを食べ、ぶどう汁を飲みます。よく見るとひざまずいてパンを食べ、ぶどう汁を飲んでおられます。これがメソジスト教会の「恵みの座」なのだなと分かりました。礼拝堂の前の方にひざまずく場があるのです。ひざまずいて神様の恵みのパンとぶどう汁をいただくのです。ひざまずいて祈ることもあるのだと思います。よいことだと思います。

 私は神田のニコライ堂(ギリシア正教の教会)の土曜日の夜の礼拝に参加したことがあります。聖餐式がありました。床にはいつくばって受けるのです。ひざまずくよりもさらに低く、床にはいつくばって受けるのです。それほどとことん謙遜にへりくだって聖餐を受ける。その姿勢が大事だと学びました。私たちの礼拝の祈りや聖餐式では体でひざまずいたり、はいつくばったりしませんが、心の姿勢としてはその姿勢で、へりくだって聖餐を受けたいのです。「祈ることに熱心であった。」毎日の祈りは、信仰生活の基本ですね。私たちも、この最初のクリスチャンたちのようにフレッシュな気持ちで、「使徒の教え(聖書には使徒パウロや使徒ペトロの手紙あり)、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心な」東久留米教会を、共に形作って参りましょう。アーメン。

2025-06-08 2:30:35()
「若者は幻を、老人は夢を見る」2025年6月8日(日)ペンテコステ礼拝説教

(使徒言行録2:1~21) 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

(説教) 本日は、ペンテコステ公同礼拝です。説教題は「聖霊が降る」と「ペトロの説教」です。
 
 イエス・キリストは十字架で死なれた後、三日目に復活され、40日に渡って弟子たちに現れ、神の国について話されました。そして「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい。ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなた方が間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。」私たちは、イエス・キリストが神の子であることを周りの人々に証言する証人なのです。イエス様は、彼らが見ているうちに天に上げられました。白い服を着た二人の人(天使)がいて言いました。「あなた方を離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 天使は、聖書の重要な局面で登場します。イエス様は復活の体を持って天に昇られました。毎年確認していますが、イエス様の召天によって、私たちは3つの恵みを受けました。一つは、私たちが天国とつながったことです。教会はキリストの体であり、イエス様はその教会の頭(かしら)です。私たちはキリストの体の手や足やお腹や背中です。私たちはまだ地上にいますが、頭であるイエス様が天国におられるので、私たちは天国と明確につがりました。第二の恵みは、イエス様が天国で私たちのために日々、今日も執り成しをして下さることです。もちろん、イエス様の十字架の執り成しによって、私たちの罪が完全に赦された(洗礼を受けた後に、日々心ならずも犯す罪を含む)ことに間違いありません。ですが、私たちがますます救いに近づくために、父なる神様に執り成して下さるのだと思います。イエス様は弁護者ですから。ヘブライ人への手紙7章25節に、こうあります。「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」第三の恵みは、イエス様が天から聖霊を注いで下さったことです。神の清き霊である聖霊を注がれることで、生きておられる神の霊が私たちの中で生きて働いて下さることになり、私たちは神の子になります。ローマの信徒への手紙5章5節に、こうあります。「希望は私たちを欺むくことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」聖霊は、神の愛と希望の霊であられると分かります。

 2章の1節「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」神様の燃える愛が降ったという印象です。風、炎、舌は、聖霊の力強い働きを耳に聞こえる風のような大きな音で、目に見える真っ赤な炎と舌の形で、強烈に示しています。旧約聖書・創世記1章1~2節の天地創造の場面を読むと、こう書かれています。「初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(聖書協会共同訳)。この「動いていた」という言葉は、旧約聖書のヘブライ語で「鷲がその巣の上の雛に羽ばたく」場合の「羽ばたく」と訳される言葉です。鷲の羽ばたきですから、かなり激しい動きです。天地創造の時、神の霊(聖霊)は動いていた、力強く羽ばたくほどに動いて吹いていたのです。それに似て、天から羽ばたくように聖霊が強烈に降って来たのです。今回は天地創造のためではなく、キリストの教会を創造するためと言えます。

 驚くべき奇跡が起こり、イエス様の弟子たちや仲間の人々は、聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。教会によっては、その日は牧師がガウンの上に赤いストールを着たり、教会員の方々も服に何か赤いものを着けて礼拝に参加し、聖霊が降った日のことを視覚的に表す礼拝を献げるそうです。私たちはそれはしませんが、あの日のように聖霊に降っていただきたいとは、切に祈ります。

 「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」当時ユダヤ人は、イスラエルを出て、地中海沿岸の各地に住んでいました。そして過越祭などの重要な季節には、イスラエルに来ていたようです。この人たちは、ヘブライ語も話せたかもしれませんが、生まれた外国の言葉を話したようです。ところが聖霊に満たされた人々が、話せないはずの外国語で「神の偉大な業」を語り始めたので、聞いた人々びっくり仰天しました。ここから神様の強いご意志が示されて、エルサレムから世界への福音伝道が始まったのです。ヘブライ語とギリシア語だけでは世界伝道ができません。そこで別の諸言語でも、神の御業が宣べ伝えられ始めたのです。

 「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。」この奇跡は、多言語奇跡と呼ばれます。多くの言語で福音が宣べ伝えられることにより、国籍を超え、民族を超えて「神の家族」教会が形作られます。世界がイエス・キリストによって一致し、完全な平和の神の国が来ることが、私たちの幻、夢だと思います。

 私は最近、ほぼ毎週火曜日に東久留米市役所で、外国の方々に日本語をお教えするボランティアを行っています。そこで出会った人に教会に来ていただくことまでは、まだできていません。外国の方々の中にやはりクリスチャンがおられますね。先週始めてお話したアフリカ出身のグロリアさんという婦人は、名前から連想できる通り、話してみたらセヴンスデイアドヴェンティストのクリスチャンでした。グロリアさんというお名前は、「神に栄光」の意味でしょうね。セヴンスデイでしたら、「土曜日に礼拝に行くのですね」と言いましたら、「そうです」とのお返事。国境を超えて、すぐ話しが通じるところが、神の家族の恵みです。

 『信徒の友』6月号を読んでいましたら、切り絵作家の澤田知子さんという方が、こう書いておられました。「私の息子には知的障害があり、言葉がありません。言葉で伝えられないことに、どれほどのストレスがあるかと思います。しかし言葉がないからといってコミュニケーションがとれないのではありません。ある意味正直な彼の心は、五感を通してその本心、本質を私に伝えてくれるのです。神様が望まれた『多様な言葉』には、言語でないものも含まれているのではないでしょうか。言葉を用いて何を伝えるのか。聖霊に満たされ、意味のある、そして心ある言葉が、平和を作るために使われ、再び世界中に神の言葉が伝えられることを願っています。」言葉を用いるのに困難を覚える方々もおられます。私たち自身が、そうなる可能性もありますね。その場合、できる方なら手話、身振り手振り、表情、声の調子などでコミュニケーションを行うことになると思います。非言語コミュニケーションと言ってもよいでしょう。このペンテコステ(聖霊降臨日)の朝に語られた言葉は、かなり明確な言語だったと思いますが、神様は非言語コミュニケーションによっても、神様の愛が世界に宣べ伝えられることを願っておられると思います。

 この場面を見て、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者もいた、とあります。せっかくすばらしい場面に出会っていて、よく耳を澄ませて聞けば、この嘲った人たちの言語でも、神の大切な御業が語られていることに気づけたはずなのに、よく聴こうとしなかったために、宝のように大切な御言葉を聴き取ることができませんでした。自分が救われるチャンスを、みすみす逃してしまったと言えます。耳を傾けてよく聴き取ろうとする姿勢がいかに大切かを、この模範の逆の人たち(反面教師)から、学びたいと思います。

 クリスチャンは皆、洗礼を受けたときに聖霊を受けています。ですから必ずしも劇的な聖霊体験がなくても、大丈夫です。小さな聖霊体験なら、多くの方々が経験しておられると思います。たとえば聖書を読んでいて、ある聖句に感銘を受ける。それは立派な聖霊体験だと思います。先日、長嶺さんのご納骨式を執り行いましたが、それに先立って長嶺さんが以前書かれた証しを読み返しました。ある時、本田弘慈先生という有名な伝道者の集会が小金井公会堂で開催され、それに出席なさったそうです。メッセージを聞きながら、不思議にも涙があふれたと書いておられました。聖霊の感化をお受けになったと思います。この東久留米教会と同じ市内にある日本基督教団東京新生教会元牧師の横山義孝先生が4月に天に召されましたが、ご葬儀で伺いましたが、伝道者になられた後のある時、聖霊の働きを深く受ける体験をなさり、その時から説教が変わったということです。その体験を、その後何度も語られたとのことです。

 14節以下「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』」ご存じの通り、旧約聖書の時代には、聖霊は主に王、祭司、預言者という神様の重要な職務を行う人々に注がれたようです。しかし新約聖書の時代は違います。イエス・キリストを救い主と信じる人なら、どの国の人にも、女性にも男性にも、子どもにも人生の大ベテランにも差別なく聖霊が注がれます。聖霊を受けてあなたたちの息子、娘も預言する、つまり聖書のメッセージ、神の御言葉を語ると約束されます。

 「若者は幻を見、老人は夢を見る。」若者は神から来る幻を見、老人も神から来る夢を見る。すばらしいですね。箴言29章18節「幻がなければ民は堕落する」とあります。ここの幻は、預言と訳すこともできます。預言は神の言葉、幻は人間の勝手なヴィジョンでなく神から来るヴィジョン。夢も人間の勝手な夢ではなく神から来る夢。この世では、お金の力で多くの幻・ヴィジョンを実現できます。しかし私たちは、できるだけお金の力に頼らないで、神様の助けをいただいて、祈りの力でヴィジョンを実現できるとすばらしいと思います。今年8月の台湾ユースミッション。私の幻・ヴィジョンは、東久留米と日本と世界でクリスチャンがどんどん増える。核兵器と戦争なき平和な世界。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(ゼカリヤ書4章6節)。アーメン。

2025-06-01 0:53:09()
①「風と荒波を静めるキリスト」2025年6月1日(日)復活節第7主日礼拝
(ルカ福音書8:16~25) 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」

 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

(説教) 本日は、復活節第7主日の公同礼拝です。説教題は「風と荒波を静めるキリスト」、小見出しは3つで、「ともし火のたとえ」、「イエスの母、兄弟」、「突風を静める」です。

 16節「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」イエス・キリストを救い主と信じれば救われる福音は、隠されてはいません。今や、全世界で公開されています。あまり公に宣べ伝えられていないところがあれば、必ず公に宣べ伝えられる必要があります。 17節「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」隠されている悪事は、必ず神様によって明るみに出されるの意味かもしれません。あるいは、旧約聖書の時代にはまだ世界に明らかにされていなかったイエス・キリストの福音は、今の時代には世界の全ての人々に公に明らかに示される、の意味かもしれません。

 18節「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」これは私たちの、真理への姿勢について語られているのかもしれません。神の御言葉・聖書を学ぶ人は、ますます信仰から信仰へ進むが、神の言葉・聖書を学ばない者は、知っていた御言葉さえも次第に忘れ、ますます神様から遠ざかる。それで「どう聞くべきかに注意しなさい。」先週の御言葉にあったように、「良い土地に落ちたの(種)は、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」そうして百倍の実を結んでほしいという、イエス・キリストの招きです。

 次の小見出しは、「イエスの母、兄弟」です。19節から。「さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、『母上とご兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます』との知らせがあった。するとイエスは、『私の母、私の兄弟とは、神の言葉を聴いて行う人たちのことである』とお答えになった。」イエス様の母マリアと、イエス様の弟・妹たちも、イエス様の活動が理解できなかったのですね。イエス様は子どものころは、「両親に仕えてお暮らしになった」と書かれているので、おそらく父ヨセフから大工仕事を教わりながら、モーセの十戒の第五の戒め「あなたの父母を敬え」を忠実に守って生活しておられました。もちろんマリアさんは、イエス様の誕生の前、天使からメッセージを聞いており、この子が聖霊によって自分の胎内に宿ったことを知っています。そしてイエス様が12歳のときに神殿にいて、「私が自分の父の家(神殿)にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と言われたことも知っています。しかしそれから約18年たって、そこ記憶もやや薄らいだのかもしれません。しかしイエス様は今は、公の伝道の生涯に入っておられます。それで肉親の愛情を超えて、神の子としての使命に生きることが最優先になっています。

 イエス様が母マリアを愛しておられたことは明らかです。ヨハネ福音書を見ると、十字架の上からマリアに、愛する弟子ヨハネを示して、「ご覧なさい、あなたの子です」と言われ、ヨハネにはマリアを示して「見なさい、あなたの母です」と言われました。老いて行く母マリアを、弟子ヨハネに託しました。このようにイエス様が母マリアを愛しておられたことは確かですが、しかし家族を出て、父なる神様に従うことを最優先する神の子としての公の伝道の人生に入られました。兄弟にもそれが理解できませんでした。しかしマリアとイエス様の兄弟たちが、イエス様の十字架の頃になるとイエス様の神の子としての働きを次第に理解するようになり、ペンテコステ(聖霊降臨)直前の日々には、イエス様の弟子たちと一緒に、熱心に祈るようになりました。肉親の家族から、神の家族(霊の家族)になることができました。イエス様は本日の個所で言われます。「私の母、私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである。」イエス様は、肉親の家族を愛されながらも、霊の家族を優先されます。教会はまさに神の家族(霊の家族)です。教会は国の壁を超え、人種・民族の壁を超えた神の家族です。父なる神様を礼拝し、イエス・キリストを頭(かしら)とし、一人一人がキリストの体の各部である神の家族です。「神の言葉を聞いて行う人たちこそ、私の母、兄弟だ」とイエス様は言われます。それは今日の直前の15節にある、「良い土地に落ちたのは(種は)、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」、この人たちこそ、神の家族だということですね。

 次の小見出しは「突風を静める」です。22節「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので、船出した。渡っていくうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。」小さな舟でしょう。ガリラヤ湖で船出しました。イエス様が「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたのですから、必ず渡りきれるのです。イエス様には渡り切れる確信があります。私たちはここで、ヨハネ福音書16章33節のイエス様の御言葉を思い出すことができます。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」イエス様は復活された方なので嵐にも打ち勝っておられます。イエス様はすっかり安心して、眠ってしまわれます。

 嵐が来ます。「突風が湖に吹き降ろして来て、彼は水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、おぼれそうです』と言った。」死の恐怖が弟子たちを襲いました。イエス様が起き上がって、風と波とをお叱りになると、静まって凪になりました。イエス様は、「あなた方の信仰はどこにあるのか」と言われたのです。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい。この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言いました。ある厳しい人は、イエス様が最初に「向こう岸に渡ろうと言われて、イエス様が共に乗っておられるのだから、どんな嵐が襲って来ても向こう岸に必ず着けるのだから、弟子たちは必死に漕いでさえいれば、イエス様を起こさなくても向こう岸に渡れたのだ」と言われます。確かに正論です。イエス様も嵐を静めて下さった上で、「あなた方の信仰はどこにあるのか」と言っておられるのですから、弟子たちは恐怖に負けてイエス様への信仰、信頼を失い、不信仰に陥っていました。これは私たちの正直な姿と思います。人生の嵐が襲って来ます。その時に、信仰が十分あれば、「イエス様が共におられるので大丈夫、何の心配もない」と思えて、動揺しないはずですね。しかし、現実には、なかなかそうはいきません。いろいろなことが起こる度に、私たちの心は不安、心配になり、動揺することもあります。お祈りして心の不安を静めることができればよいのですが、その祈りができなくなることもあります。そんな時には、教会の神の家族に代わってお祈りしてもらうことができるのが、神の家族のよいところです。弟子たちも立派な祈りは全然できず、ただイエス様に必死に呼びかけるだけでした。

 「先生、先生、おぼれそうです。死にそうです。助けて下さい。」こんなお祈りとも言いにくいお祈りでも、イエス様はちゃんと聴いて下さいます。「あなた方の信仰はどこにあるのか」と少し
2025-05-25 1:43:18()
「神の言葉を聴き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」2025年5月25日(日)復活節第6主日
(コヘレトの言葉11章1節)「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」

(ルカ福音書8:1~15) すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」

「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

(説教) 本日は、復活節第6主日の公同礼拝です。説教題は「神の言葉を聴き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」、小見出し「婦人たち、奉仕する」と「種を蒔く人のたとえ」、「たとえを用いて話す理由」、「種を蒔く人のたとえの説明」です。

 1~3節「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気を癒していただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラ(地名)の女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分たちの持ち物と出し合って、一向に奉仕していた。」イエス様に癒され、助けられた婦人たちが、イエス様の十二人の弟子たちに奉仕しておられました。七つの(多くの)悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、とあります。ヘロデはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスでしょう。その家令(使用人の上の方の人)クザの妻ヨハナ。ヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネを殺した人ですから、そのヘロデの家令の妻もイエス様に従っていたとは、驚くべきことです。彼女もイエス様に助けられたのかもしれません。本当に色々なタイプの婦人たちが、イエス様一向に奉仕していたのです。

 奉仕していたという言葉は、元のギリシア語でディアコネオーという動詞です。新約聖書のテモテへの手紙(一)3章1節に、教会の奉仕者についてこう記されています。「奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず。」この奉仕者は元のギリシア語でディアコノスという名詞で、先ほどのディアコネオーに非常に近い言葉です。つまり、イエス様一行の奉仕していた婦人たちこそ、キリストの教会に仕えて下さる役員の方々の原型・モデルということになります。もちろん教会の奉仕者(役員)は婦人だけでなく、男性もなられます。因みにマグダラのマリアとヨハナという婦人は、イエス様の十字架の死の三日目の日曜日に、イエス様の墓に行き、イエス様の遺体がないことを自分の目で確かめ、イエス様の復活を告げる二人の天使に遭遇しています。

 次の小見出しは「種を蒔く人のたとえ」です。神の言葉を宣べ伝える伝道が、種蒔きにたとえられています。4節「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話になった。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。』イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聴きなさい』と大声で言われた。」大声で言われたとは、イエス様が一生懸命訴えていることを意味します。神の言葉という種は、真の祝福の種だからです。

 ここに出て来るのは、3つのうまくいかなかった種のケースと、1つの良い結果になった種のケースです。当時のイスラエルの種蒔きの方法をも頭に入れて聞く必要があります。日本であれば、農地に列を作って均等に距離をあけて、秩序正しく並べる形で、種を蒔くでしょう。しかし当時のイスラエルでは、農家の方が、袋か何かの中から多くの種を手につかんで、ポーン、ポーンと周りに投げながら歩く方法で種を蒔いたそうです。そのような蒔き方がここの前提になっています。

 うまく成長しなかったのは、「道端に落ち、人に踏みつけれ、空の鳥に食べられてしまった種。石地に落ちて、芽が出たが、水気がないので枯れてしまった種。茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押し被ってしまった種。」しかし、大いに実を結んだ種もあります。「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て百倍の実を結んだ。」イエス様が、私たちがそのようになるように、百倍の実を結ぶように、私たちを招き祝福して下さいます。百倍の実を結ぶとは、私たちがイエス・キリストの人格に似た者となり、聖霊の実を結ぶことを指すでしょう。昨年の東久留米教会の標語聖句ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節です。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」

 次の小見出しは「たとえを用いて話す理由」です。イエス様は、不思議なことを言われます。「弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。『あなた方には神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、「彼らが見ても見えず、聞いても理解できない」ようになるためである。』」弟子たちにはこの後、イエス様が「種蒔く人のたとえ」の説明を語って下さいます。ですがイエス様は、群衆には「種を蒔く人のたとえ」だけを語り、説明をして下さらないのです。これは実に理解しにくいことです。イエス様は群衆に言われました。「聞く耳のある者は聴きなさい。」これは群衆へのチャレンジではないでしょうか。イエス様の御言葉をよく聞いて、決して聞き流さず、その意味をよく考え、御言葉を聴いて行う者になり、豊かな実を結んでほしい。聞いてもよく考えず、聞き流すだけなら、「見ても見ず、聞いても理解できない」結果になってしまう。そうならないで、御言葉をよく聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人になってほしい。イエス様は群衆と私たちに、このようにチャレンジしておられるのではないかと思います。自然界の種も、風雨・風雪に耐えてこそ、強く成長し、花を咲かせ、実を実らせるのだと思います。

 3つ目の小見出しは、「種を蒔く人のたとえの説明」です。イエス様は、弟子たちだけに説明して下さるのです。11~12節「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。」しかし、私たちは悪魔に抵抗することができます。ペトロの手紙(一)5章8節以下に、こうあります。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと捜し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなた方と信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなた方も知っている通りです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなた方を永遠の栄光へ招いて下さった神ご自身が、しばらくの間苦しんだあなた方を完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにして下さいます。」また、ヤコブの手紙4章7~8節には、こうあります。「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいて下さいます。」私たちから祈りで神様に近づき、神様に服従して、悪魔に反抗すれば、神が近づいて下さり、悪魔は私たちから逃げて行きます。

 ルカに戻り13節「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。」試練を忍耐して、信仰の道を守り通すことが必要です。イエス様も公の生涯の最初に厳しい試練に遭われたのです。悪魔の激しい誘惑という試練を忍耐して、それに打ち勝たれたのです。私たちも、イエス様に助けていただいて、試練に遭っても、信仰の道を貫く者でありたいのです。試練には、信仰を鍛えるという面もあります。試練については、ヘブライ人への手紙12章5節以下が、思い出されます。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなた方はこれを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もし誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなた方は庶子であって、実の子ではありません。さらにまた、私たちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父(神様)に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益になるように、ご自分の神性にあずからせる目的で、私たちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなった膝をまっすぐにしなさい。」鍛錬によって鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせる。これこそイエス様のおっしゃる「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」と言えます。

 ルカに戻り14節「そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。少し油断すると、色々な思い煩いが私たちを襲います。私も以前は、思い煩うことが得意でした。このような得意は罪深いです。しかし、何かで読みました。思い煩いは、神様への罪だと。思い煩いは、神様の愛を信用しない罪ですね。私たちは祈ることで、思い煩いに打ち勝つことができます。イエス様は、マタイ福音書6章で、思い煩いに打ち勝つ御言葉を与えて下さっています。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って思い悩むな(思い煩うな)。それはみな、異邦人(神を知らぬ民)が切に求めているものだ。あなた方の天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(食物、生活費)はみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」まず、神様を求める礼拝を第一にしなさい、というのです。それが思い煩いに打ち勝つ秘訣です。

 イエス様は「富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たち」のことも語られました。悔い改める前のあの放蕩息子のような生き方です。慎ましい生き方ではなく、多くのお金や権力や快楽を追い求める生き方への警告と思います。イエス様は言われたのです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」私たちは、永遠の命を得るよりも、多くのお金や権力や快楽を追い求める愚かさに陥りたくありません。その愚かさに私たちを引き込もうとする悪魔の誘惑を、いつも退ける者でありたいのです。

 イエス様は15節で結論として、「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」このような人々も確かにおられるということです。生え育って百倍の実を結ぶ人々も、確かにおられるのです。ポイントの1つは忍耐だと思います。忍耐という言葉は、最近はあまり好まれない印象を持ちます。でもやはり忍耐は重要ですね。ローマの信徒への手紙5章で、パウロは書きます。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ヤコブの手紙5章10~11節には、こうあります。「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、私たちは思います。あなた方は、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにして下さったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」旧約聖書のヨブは真に厳しい試練を受けましたが、神様はその後のヨブを、以前にも増して祝福して下さいました。聖書の言葉ではありませんが、「忍耐は、すべてを勝ち取る」という言葉も聞いたことがあります。

 セミナリーは苗床。エゴを破る。 コヘレトの言葉11:1。若月牧師。慈善を蒔く人の収穫は真実(箴言11章18節)。信頼! 報いを望まで、人に与えよ。水の上に落ちて流れし種も、いずこの岸にか生いたつものを(讃美歌21の566番。松下さん愛唱)。慈善行為。成長させて下さるのは神。アーメン。

2025-05-18 0:00:22()
「感謝の涙」2025年5月18日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第80回、復活節第5主日)
(詩編51:19)しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。

(ルカ福音書7:36~50) さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

(説教) 本日は、復活節第5主日の公同礼拝です。説教題は「感謝の涙」、小見出し「罪深い女を赦す」です。

 とても印象深い出来事です。最初の36節「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。」イエス様は基本的に、誰から招かれても応じて下さいます。37節「この町に一人の罪深い女がいた。」おそらくは売春婦だったと言われます。「イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」当時のイスラエル人の食事風景は、履物を脱ぎ、床に横たわった状態で食事するのが習慣だったそうで、この時もそうだったと言われます。私たちから見るとだらしない感じですが、当時はそれが普通で、特に失礼でもなかったそうです。そこに、香油の入った石膏の壺を持ったk女性が入って来ました。当時、客を招いた家には、誰でも客に会うために自由に入ることができたそうです。それで、この女性は招かれていませんでしたが、自由に入ってイエス様に近づくことができました。香油はよい香りの油で。値段も高価だった可能性があります。石膏の壺は、原語でアラバストロン。今の言葉ではアラバスターと思います。美しい白色の鉱物です。その白さが非常に美しいのですね。古代エジプトでもよく使用されたようです。アラバスターは雪花石膏と訳されます。雪の花のように美しいからでしょう。

 「後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい。イエスの足に接吻して香油を塗った。」イエス様に正面から堂々と近づく勇気はありませんでした。後ろから、最初はそっと近づいたと思います。泣きながら、その足(両足)を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい。」この涙は、この女性の悔い改めとイエス様への感謝と喜びが混ざった涙と思います。私たちも、このような涙を流すことができるのであれば、幸いです。この女性は、以前にイエス様の説教を聴き、それまでの自分の罪(おそらく性的な罪、売春)を悔い改め、罪の生活をやめたのではないかと思います。そしてイエス様が自分の罪を赦して下さることを悟っていたと思います。その両足を涙で濡らしました。イエス様が自分の罪のためにも十字架にかかって両足に釘打たれて下さることを、直感したのかもしれません。さらにイエス様の両足を自分の髪の毛でぬぐいました。女性にとって一番大切な髪の毛を汚してまでぬぐったことに、この女性の精一杯の感謝が込められているのでしょう。とても不器用ながら、精一杯のひたむきな感謝の表現です。イエス様はこの女性の涙を、喜んで受け入れて下さっています。本日の旧約聖書である詩編51編19節が思い出されます。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」

 さらにイエス様の両足に接吻して香油を塗りました。接吻もまた、この女性の精一杯の感謝と愛の表現です。男女の愛より、もっと深いレベルの愛と思います。そして香油を塗った行為から、2つのことを連想します。聖書は、イエス様こそすべての人の真の救い主と語ります。救い主のことを旧約聖書のヘブライ語でメシアと呼びます。メシアとは、「油を注がれた者」の意味です。メシアを、新約聖書のギリシア語でクリストスと言い、英語ではクライスト、日本語でキリストになります。油とは聖なる油で、聖霊のシンボルです。この女性が、イエス様の両足に香油を注いだことが、イエス様が本当に「油を注がれた者」、つまりメシア・キリスト・真の救い主であることを目に見える形で表す行為・象徴的な行為になります。そして香油を注いだことは、イエス様の十字架の死を暗示する可能性もあります。イエス様が、この女性の罪と、私たち罪を赦すために十字架で死んで下さる。香油を注ぐことは、当時葬りの時に遺体に行った処置です。ですからこの女性がイエス様の両足に香油を注いだことは、イエス様が私たちの罪を赦すために十字架で死なれたそのお体に香油を塗ることを暗示し、つまりはイエス様がこの女性のためにも私たちのためにも十字架で死んで、遺体となって下さることを暗示するのだろうと思います。

 39節「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った。」心の中でぶつぶつ言ったのです。イエス様を預言者と思っているが、神の子とは思っていないことが分かります。この人は、イエス様につまずいたのです。先週の個所ルカ7章23節で、イエス様は言われたのです。「私につまずかない人は幸いである。」このファリサイ派の男性シモンは、イエス様につまずいています。私たちももしかすると、この女性を見てシモンと同じ気持ちになるかもしれません。私たちも、イエス様につまずきやすいのかもしれません。それでイエス様は「私につまずかない人は幸いである」と言われました。

 40~41節「そこで、イエスがその人に向かって、『シモン、あなたに言いたいことがある』と言われると、シモンは、『先生、おっしゃって下さい』と言った。」イエス様は、分かりやすいたとえを語られます。41節以下「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン(1デナリオンは一日分の賃金なので、仮に5000円とすれば250万円)、もう一人は50デナリオン(25万円)である。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答え、イエス様も「その通りだ」と答えて下さいます。 

 「帳消し」という言葉を聞いて、驚きを覚えます。借金を帳消しにしてもらえることは、普通はありません。聖書では、借金は罪のことと指すと思います。ですからこれは、罪の帳消しの話です。罪を帳消しにしていただけることも、普通はあり得ません。そしてイエス様は女性の方を振り向いて、シモンに言われます。「この人を見ないか。」シモンがこの女性から目を背けていたから、こう言われたのかもしれません。「私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足を濡らし、神の毛でぬぐってくれた。あなたは私に接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻してやまなかった。あなたはオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」明らかに、この女性はイエス様に多くの感謝の愛を示しました。ファリサイ派シモンは、イエス様を少ししか愛しませんでした。シモンは、礼儀正しかったけれども、イエス様を愛することは少なかったのです。

 「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」この女性は、自分の罪の大きさに絶望していたのだと思います。こんなに大きな自分の罪が赦されることは、あり得ない。しかしどこかでイエス様の話を聴いて、イエス様が私の罪をも赦して下さると確信したのではないでしょうか。あるいは、イエス様が自分の罪のために十字架で死んで下さることを直感的に悟り、それで深い悔い改めと感謝と愛と喜びに満たされて、シモンの家にいるイエス様のもとに来て、実に激しい形で悔い改めと愛と喜びの涙を流したのだと思います。私たちもこのような涙を流す者でありたいのです。少し昔の有名な牧師で、聖餐式の度に涙が出る方がおられたそうです。でもそれこそ、最も健全なことと思うのです。聖餐式を何となく受けることはできません。イエス様が私の罪のために十字架で死んで下さった! そのことを深く思うならば、私たちは、あからさまに涙を流さなくても、少なくとも心の中で涙を流すことなく、あのパンとぶどう液を受けることはできないと思うのです。

 私は本日の箇所を読んで、改めてイエス様に衝撃を受けました。私がこの場面にいたとしたら、どちらかと言うとシモンの心に近かったかもしれないと思ったのです。この箇所は、イエス・キリストの福音とは何かを学ぶために、これからも繰り返し読む必要がある箇所と思います。イエス様は48節で女性に、「あなたの罪は赦された」と宣言され、確約されました。罪は複数形ですので、この女性の全部の罪を指すでしょう。「赦された」は、「解かれた、解放された」という意味の言葉です。あなたは全ての罪から解放された、もはや父なる神様も、あなたの罪を咎めない。罪の裁きを受ける恐れから、あなたは完全に解放された、という確約です。

 49節「同席の人たちは、『罪まで赦すこの人は、何者だろう』と考え始めた。」当時の人々は、罪を赦すことができる権威者は、神様のみと知っていました。それで、「もしかするとこのイエスという方は、神に近い方、神に等しい方なのではないか」と思ったのだと思います。イエス様は女性に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。彼女はイエス様に感謝の愛を献げたのですから、イエス様は「あなたの愛があなたを救った」とおっしゃってもよかったと思います。「安心して行きなさい。」東京神学大学の近藤勝彦先生を礼拝にお招きすると、最後の祝祷で必ず「安心して行きなさい」と語られますね。 Aさん。

 この女性の罪は、帳消しにされました。この女性の罪も私たちの罪も、イエス・キリストの十字架の犠牲の死との引き換えで、帳消しにされたのです。私たちは、自分の罪はこの女性ほど深くないと思っているかもしれません。でもそれは分かりません。この女性の罪と、シモンの高慢の罪と、どちらがより重い罪か、それを判定できるのはイエス様だけです。もしかするとシモンの高慢の罪の方が、イエス様から見れば重いかもしれないのです。ファリサイ派のファリサイという言葉は、「区別する」という意味だと聞きます。自分と他人を区別し、自分の方が上だと思う高慢の罪です。神様は一切分け隔てなさらない方です。一切分け隔てなさらない神様からご覧になれば、シモンの罪が女性の罪より重いかもしれません。ファリサイ派は区別するので、分け隔てするのです。私たちも心のどこかで人を分け隔てしています。その自分の分け隔ての罪に毎日新たに気づく必要があると思います。

 この女性の罪を完全に赦されたイエス様を思う時、私は先週の礼拝でもお読みしたローマの信徒への手紙5章16節を、改めて連想します。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されます。「悔い改める一人の罪人(つみびと)については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも、大きな喜びが天にある。」この女性こそ教会の象徴とさえ言えます。但し、忘れてならないのは、イエス様がヨハネ福音書8章で、姦通の女性に最後に言われた一言です。「これからはもう、罪を犯してはならない。」もちろんイエス様にこれほど感謝しているあの女性が、二度と同じ罪を犯すことはなかったと確信できます。あの女性の罪も、私たちの罪も、イエス様の十字架のお陰で帳消しにされました。ボンヘッファーというドイツの牧師はこれを「高価な恵み」と呼びました。決して「安価な恵み」ではない。帳消しの恵みと引き換えに、最も尊い神の子が十字架で死なれた事実を、決して忘れてはならないのです。それを忘れるならば、私たちは「高価な恵み」を「安っぽい恵み」に貶めてしまいます。この過ちを犯すことがあってはいけないのです。高価な犠牲、高価な恵みによって罪を帳消しにされたことを、あの女性にように深く感謝して、イエス様にひたすら従って歩む私たちです。アーメン。