日本キリスト教団 東久留米教会

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2024-06-16 2:03:31()
「その子をヨハネと名付けなさい」 2024年6月16日(日)聖霊降臨節第5主日礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書3:16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編128、使徒信条、讃美歌21・210、マラキ書3:20~24、ルカによる福音書1:5~25、祈祷、説教、祈祷、讃美歌377、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(マラキ書3:20~24) しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。
 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。

(ルカによる福音書1:5~25) ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第5主日の礼拝です。説教題は「その子をヨハネと名付けなさい」です。新約聖書は、ルカによる福音書1章5~25節です。著者ルカは、イエス・キリストの生涯を書き記すことを、まず洗礼者ヨハネの誕生のいきさつから語り始めます。3節で「順序正しく書いて」テオフィロ氏に献呈するのがよいと書いている通り、順序正しく書こうとしています。本日の小見出しは、「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」です。

 最初の5節「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。ヘロデは、ヘロデ大王と呼ばれる人です。その治世は紀元前37年から紀元4年までです。モーセの兄アロンの子孫たちがイスラエルで祭司の務めを担いました祭司たちは24の組に分かれ、その8番目がアビヤ組だったそうです。それは旧約聖書の歴代誌上24章に書かれています。祭司は当時何と、1万8000人から2万人いたそうで、ザカリアはその一人でした。ザカリアという名前の意味は「神に覚えられている人」です。「神に忘れられない人」とも言えます。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトと言いました。エリサベトという名前は、「神は誓いを立てた」、「神は完全である」の意味と解釈できるそうです。6節「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」もちろんこのご夫婦も、神様からご覧になれば罪人(つみびと)だったはずですが、旧約聖書の律法を一生懸命、万全に守ろうと心がけていたのです。7節「しかし、エリサベトは不妊の女で、彼らには子供がなく、二人とも既に年をとっていた。」似たことは旧約聖書にもありました。イスラエルの先祖アブラハムとサラの夫婦の間には、長年子どもが生まれない苦労がありました。

 8~9節「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。」祭司は2万人もいたのですから、アビヤ組だけでも800人はいたでしょう。もし800人でくじを引いたとすれば、当たる確率は800分の1です。一生当たらない人もいたと思われます。当たる確率は非常に低いのですから、もし当たれば、一生に一度、一世一代の大仕事になります。それがザカリアに当たってしまったのです。彼は大いに驚き、「これは大変なことになった。しっかり役目を果たさなければ」と緊張して、奮い立ったと思うのです。10節「香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。」香をたくことは、神様を礼拝する行為です。このことについては、出エジプト記30章6節にこうあります。「この掟の箱(モーセの十戒を記した石の板2枚が入っている)の上の贖いの座の前で私はあなたと会う。アロンはその祭壇で香草の香をたく。」民数記17章5節には、こうあります。「アロンの子孫以外の者が主の御前に近づき、香をささげてはならない。」他の人が香をささげれば、聖なる神様に撃たれて死ぬ恐れがあります。それで、民衆は外で祈っていました。くじに当たった祭司は、香の壇に新しい炭火を置き、その上に香をたき、ひれ伏して祈ったそうです。

 香をたいた祭司が出てくれば、礼拝は無事終わったとなります。しかしこの時はふだんと違う意外なことが起こりました。神様の介入があったのです。11~12節「すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。」神様は完全に聖なる方、天使は神ではないが、聖なる存在です。私たちは罪人(つみびと)です。罪人(つみびと)にとって聖なる神様や天使を見る体験は気軽なことではなく、恐ろしい体験でもあります。撃たれれて死ぬ可能性もあります。13~14節「天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。』」ヨハネという名前は、「主は慈しみ深い」の意味だそうです。

 天使は突然現れたとも言えますが、ザカリアとエリサベトの長年の祈りに応えて現れたのです。民衆も皆、外で祈っていました。祈りが積み重ねられて、神の時が満ちたときに天使が現れたと言えます。3週間前の礼拝で読んだ使徒言行録10章も似ています。同じルカが書いたから似ている面もあるでしょう。しかし大切なことは、祈りが積み重ねられていた所に、天使は出現したことです。使徒言行録10章では、カイサリアにいたコルネリウスというローマの百人隊長に天使が現れ、神様の恵みが与えらることになります。それまでコルネリウスは、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていたのです。ザカリアとエリサベトのような夫婦、家族だったに違いありません。神様に誠実に仕えたザカリア・エリサベト夫妻、そしてコルネリウス一家を、神様はご自分の世界の人々を救う尊いご計画のために用いて下さいました。ザカリア・エリサベト夫妻、コルネリウス一家にとって、大変光栄なことでした。私たちも神様に誠実にお仕えすることによって、神様のご計画が進むために、私たちのいる場所にあって用いていただけます。大変光栄なことと感謝致します。

 15節「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。」生まれて来る洗礼者ヨハネは、古い契約の時代の最大最高の人物です。ルカによる福音書は新約聖書ですから、こう新しい契約の時代に入りつつありますが、新しい契約をもたらすイエス・キリストの誕生の少しだけ前に生まれた洗礼者ヨハネは、古い契約(旧約)の時代の最大最高の信仰者です。「彼はぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母親の胎内にいるときから聖霊に満たされていて。」旧約聖書の民数記6章に、神様に一定の期間身を献げるナジル人(びと)が出てきます。ナジル人である期間は、ぶどう酒も濃い酒も飲まず、ぶどう液は一切飲まない聖なる生き方をします。洗礼者ヨハネも、ナジル人のような人です。ナジル人が一定の期間ぶどう酒も濃い酒も飲まないのに対して、生まれつきナジル人のような洗礼者ヨハネは、おそらく一生ぶどう酒も濃い酒も口にしなかったのでしょう。

 16~17節「(ヨハネは)イスラエルの多くの子ら(人々)をその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
ここは旧約聖書の一番最後、(本日の旧約)マラキ書3章23~24節の引用と言えます。「見よ、私(神様)は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」それが洗礼者ヨハネなのですね。「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。」イスラエルの中で、父と子の仲たがいが多かったようです。神様が、父親と子供が和解するように導かれる。その時、モーセの十戒にある「父母を敬え」がよく行われるようになります。本日は「父の日」ですね。こうしてイスラエルの民の中で悔い改めが行われ、人々が真の神様に立ち帰る。こうして神様がイスラエルの民を裁くことが避けられる。洗礼者ヨハネがイスラエルの民を悔い改め、真の神様への立ち帰りへと導き、真の救い主のお越しの備えがなされる、ということと思われます。マラキ書3章20節に、「しかし、わが名(神の御名)を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。」この「義の太陽」こそイエス・キリストだと、昔から教会は解釈してきました。

 天使のメッセージを聞いたザカリアは、あまりにも大きな恵みが与えられると聞いて、驚いたでしょう。そして不信仰なことを語ってしまいます。「何によって、私はそれを知ることができましょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています。」「その証拠を見せてほしい。でないと信じられない。私たち夫婦は高齢だから」と言ったと言えます。天使からは厳しい裁きの言葉が発せられます。「私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。」非の打ちどころがなく律法を日々守っていたザカリアでも、このような不信仰の罪を犯すことがあるのですね。

 神様の約束、神様の御言葉は必ず実現するのです。それを信じられなかったザカリアに、一時的に神様の裁きが与えられ、彼は口を利くことができなくなりました。
出エジプト記4章の神様のモーセへの御言葉が思い出されます。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なる私ではないか。さあ行くがよい。この私があなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」私たちの口を利けるようにし、利けないようにするのは神様です。神様が私たちの口も耳も目も造って下さったからです。私たちが罪深いこと口にするたびに、神様が私たちの口を利けなくなさったら、どうでしょう。私たちが少しでもぶつぶつ不平不満を言うたびに、神様が私たちの口を利けなくなされば、私たちはしょっちゅう、口が利けなくなるのではないでしょうか。そうならないのは、不思議です。これは私たちが口で罪を犯しても、神様が敢えて裁かないで忍耐しておられるからだと思います。

 私は昨年の2月ごろと今年の1月、風邪に伴う副鼻腔炎になり、声が出にくくなり、礼拝の説教を役員の方々に代読していただきました。耳鼻咽喉科で診ていただくと、副鼻腔炎と診断され、昨年は内視鏡に映った膿の映像も見せていただきました。薬を処方され飲んで、次第に治りました。あの2回、声が出にくい状態の中で、ザカリアの気持ちを考えたことでした。そして声が出るという、普段は当たり前と考えていることが、実は神様の恵みのプレゼントであることに、感謝すべきプレゼントであることにようやく気付きました。

 私たちの口や舌について考える時、ヤコブの手紙3章2節以下を思い出さないことはできません。「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。(~)舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を讃美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」

 ペンテコステの朝、イエス様に従う人々の上に炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。一同は聖霊に満たされ、他の国々の言葉で神の偉大な業を語り始めました。聖霊によって心が清められ、舌と唇が清められ、神に偉大な業を語りました。私たちの心と舌も、御言葉と聖霊によって清めていただきたいのです。讃美歌第二編に『シャロンの花』という讃美歌があります。「シャロンの花、イエス君よ、汝(な)がかおり放ちたまえ。わが言葉、行いみな、汝(なれ)の如くになるまで」というすばらしい歌詞があります。この歌詞が私たちの上に実現してほしいものです。 歌手ベー・チェチョルさん。  アーメン。


2024-06-12 15:49:30(水)
伝道メッセージ(6月分)石田真一郎(市内の保育園のお便りに掲載した文章)
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。~明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなた方にはなおさらのことではないか」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書6章28~30節)。

 保育園では、今年は6月7日(金)に「花の日礼拝」を神様にお献げ致します。「花の日」は、19世紀半ばにアメリカのプロテスタント・キリスト教会で始まりました。その地域ではこの時期、花が豊富で美しかったのです。花を、真の神様の愛のシンボルとして教会に飾り、花を持って高齢の方々や交番を訪問する麗しい日になりました。東久留米市の花はツツジ、木はイチョウです。5月はツツジが美しかったですね。植木鉢の花がしおれたとき水をやると、しばらくしてみるみる生気を取り戻します。植物は生きていると分かり、嬉しくなります。花も人間も神様から命を与えられています。この神様に信頼して祈るのが信仰です。

 『サザエさん』作者の長谷川町子さんはクリスチャンでした(工藤美代子『サザエさんと長谷川町子』幻冬舎、2020年)。町子さんの父親は神様を信じない人でしたが、1933年に福岡で亡くなる直前に、神様を信じる人に変えられました。目を見開いて家族に、「こんな嬉しい日に泣いてはいけないよ。神様がいつもお前たちを守って下さる」と言い、誰にも見えない何者かに向かって手を伸ばし、『イエス様が迎えに来て下さった』と喜色満面で言い、パタリと手を落として息を引きとったそうです。現実は大変です。大黒柱を失い、一人で娘三人を育てることになった母親は、一家で東京に行くと決断します。寡婦とその子どもが餓死寸前で神様に助けられ、「壺の粉は尽きることなく、かめの油はなくならない」(旧約聖書・列王記上17章14節)状態になったと記す聖書の御言葉を、母親は信頼しきったのです。「それが真実ならば、キリスト教とは何と頼りになる宗教であろうか」と工藤さんが書きますが、正確には、真の神様と神の子イエス・キリストが頼りになるのです。

 懸命に働いてやっと食べてゆける時代でしたが、町子さんが1935年に15才でマンガ家デビューし、戦後『サザエさん』がヒットしたことは、一家への神様の助けだったのです。母親は熱心なクリスチャンで、貧しい人や困っている人に、どんどんお金をプレゼントする人で、一家は困りましたが、母親の晩年に一家でイスラエルを旅行し、イエス様が誕生され、働かれた地に立って感激する恵みを受けました。そのイエス様が伝道されたイスラエルで戦争が続き、イエス様の御心と真逆のことが行われており、私は悲しみと憤りを覚えます。戦争が早く終わり、傷ついた多くの人々が癒されるように祈るのみです。アーメン(「真実に」)。

2024-06-09 2:17:34()
「確実な教え ルカによる福音書」 2024年6月9日(日)聖霊降臨節第4主日
順序:招詞 ヨハネ福音書3:16,頌栄29、主の祈り,交読詩編127、使徒信条、讃美歌21・209、ルカによる福音書1:1~4、祈祷、説教、祈祷、讃美歌461、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(ルカによる福音書1:~4) わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第4主日の礼拝です。説教題は「確実な教え ルカによる福音書」です。新約聖書は、ルカによる福音書1章1~4節です。ヨハネ福音書の連続講解説教が終わりましたので、考えた結果、ルカによる福音書の連続講解説教を始めようと思います。毎月3回ほど、ルカによる福音書を読むことになります。私にとりまして、ルカによる福音書の連続講解説教に取り組むのは、私が1996年に東久留米教会に着任させていただいたとき以来、2回目になります。

 本日の小見出しは「献呈の言葉」です。1~2節「私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々が、私たちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。」著者のルカという人は、イスラエル人(ユダヤ人)ではなく、ギリシア人だと言われています。マタイによる福音書を書いたマタイはイスラエル人(ユダヤ人)で、旧約聖書以来の神の民イスラエル人に、真の救い主イエス・キリストを伝えるためにマタイによる福音書を書いたと考えられます。これに対してルカはギリシア人、異邦人なので、異邦人(イスラエル人以外)にイエス・キリストを宣べ伝える目的で、ルカによる福音書を書いたとされています。

 「私たちの間で実現した事柄とは、洗礼者ヨハネの誕生、その親類マリアからのイエス様の誕生に始まり、イエス様の十字架の死、復活、昇天までを指すでしょう。ルカ自身は、十字架に架かる前のイエス様に直接会った証拠はありません。おそらく十字架前のイエス様に直接会った経験はないものと思います。最初の頃からイエス様に出会って目撃して、御言葉のために働いた人々と言えば、十二弟子がそうです。マタイも十二弟子の一人です。その人々がルカたち十字架前のイエス様に直接会ったことのない人々に、イエス様のことを伝えた。その人々が口で伝えたり、書いて伝えたものもあったのでしょう。それらをも資料として用いて、物語に書き連ねうようと、多くの人々が既に手をつけているとルカは書いています。ルカもその人々と同じように、書き連ねようと決心したのです。多くの人々がイエス様の地上の生涯を物語・書物に書き記した。多くの文書が書かれたと思われますが、その中で、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の4冊が聖書の中に取り入れられて、今日に至っています。ペトロによる福音書という書物もあるようですが、実際にペトロが書いたかはっきり分かりませんし、内容も信頼性に乏しいと見られ、聖書には入れられていません。

 3~4節「そこで、敬愛するテオフィロ様、私もすべてのことを事の初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」ルカは「すべてのことを事の初めから詳しく調べている」と書いています。イエス様に会った人々の話を聴いたり、既に書かれていた文書等を読んで事の順序を確かめ、そして祈りながら聖霊に導かれて、この福音書を書いたことでしょう。テオフィロという人がどんな人かはっきり分かりませんんが、ローマ帝国の高官と思われます。「テオ」はギリシア語で「神」、フィロは「愛」の意味なので、「神に愛された者」、「神の友」の意味だと言われ、出来過ぎた名前とも見えるので、実際には存在しない人ではないかという説もあります。もしそうなら、実際には存在しない立派な人をルカが造り上げて、ルカがその人に献呈する形をとったことになります。しかし、多くの人は、テオフィロがどんな人かは分からないが、やはり実際に存在した高官だと考えているようです。そうであれば、テオフィロはイエス・キリストへの信仰について実際に教えを受けた人です。

 「お受けになった教え」とあるので、イエス・キリストへの信仰について教えを受けたことが分かります。ルカが教えたのかもしれません。でもまだ洗礼に進んでいないのかもしれません。それでルカがこう書いているのかもしれません。「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」この福音書を読んで下されば、お受けになった教えに誤りがないことがよく分かる。これを読んで、イエス・キリストがどんなにすばらしい方かよく分かって、ぜひ確信をもって洗礼を受けていただきたい。それがルカの願いと思います。この確実な教えにあなたの全人生を委ねて、決して間違いは起こらない。テオフィロだけではないのです。この福音書を読む全ての人が、イエス・キリストがどんなにすばらしい方かをよく悟って、安心して喜んで洗礼を受けて救われ、クリスチャンになってほしい。このルカの願いが伝わってきます。

 そしてルカは、まずこのルカによる福音書を書きました。その第二巻として、ルカは使徒言行録を書きました。使徒言行録1章1~2節にも、似た献呈の言葉が記されています。「テオフィロさま、私は先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」因みに新共同訳聖書でルカによる福音書は64ページあり、使徒言行録は60ページあり、計124ページです。新約聖書全体が480ページですから、ルカ一人で新約聖書の約4分の1を書いたことになります。私たちはルカの執筆努力から多くの恩恵を受けていると分かります。パウロも約130ページ書いているとも解釈できるので、ルカとパウロが新約聖書の半分以上を書いていると分かります。

 では、そのルカはどのような人だったのでしょうか。パウロが書いたとされるコロサイの信徒への手紙4章14節には、「愛する医者ルカとデマスも、あなた方によろしくと言っています」とあり、ルカが医者だったことが分かります。パウロが愛する医者、パウロに非常に敬愛された医者、それがルカでした。ルカによる福音書を読むと、イエス様の慈しみが深く強調されていると感じます。それはルカが医者であることとも関係しているのだと思います。医者は心優しく、病気の人や苦労している人々にいたわりと愛を注ぐ人です。その医者であるルカが書いた福音書で、イエス様の慈しみ深さや憐れみ深さが強調されていることは、やはりルカが医者としての感性を発揮して、イエス様の慈しみ深さに敏感に気づいたからこそ、彼の福音書の中で、イエス様の弱い立場の人への愛が、強調されて描かれていると読むことができます。

 パウロは、テモテへの手紙(二)4章9節以下でも、こう書いています。「ぜひ、急いで私の所へ来て下さい。デマスはこの世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。ルカだけが私の所にいます。」仲間のはずのデマスは、信仰に生きるよりも世間の楽しみの方にそれて、パウロを見捨ててテサロニケに行ってしまった。クレスケンスはおそらく伝道のためにガラテヤに行き、テトスも伝道のためにダルマティアに行っている。「ルカだけが私の所にいます。」ルカはパウロの伝道を支え、パウロが一人の時もパウロの傍らにいて、パウロを支え続けていたのです。ルカの名は、パウロが書いた「フィレモンへの手紙」にも登場します。「キリスト・イエスのゆえに私と共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。私の協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。」

 ここではパウロがイエス・キリストへの信仰のゆえに捕らわれていることが分かります。コロサイの信徒への手紙もテモテへの手紙(二)も、パウロの獄中書簡とされます。パウロがカイサリア、あるいはローマの獄中で書いたとされます。であれば、ルカは獄中のパウロを見捨てないで支えたことになります。他の協力者がいたこともあれば、ルカ一人がパウロを支えた時もあったことになります。ルカも一緒に捕らわれたこともあったのか、あるいはルカはいつも牢獄のパウロを訪問して外から支え続けたのか分かりませんが、ルカは自分一人になってもパウロを見捨てず、パウロを支え続けた真に忠実な人、誠実な信仰の友だったことが分かります。「まさかの時の友こそ、真の友」という言葉がありますが、パウロにとってルカは、それに近い存在だったのではないでしょうか。

 使徒言行録を丁寧に読むと分かるように、ルカはパウロとよく伝道活動を共にしています。ルカは使徒言行録を書いたのですが、ずっと客観的に書いて来て、突然16章で「私たちは」と自分を登場させ、一人称で語り始めます。パウロがトロアスで幻を見ます。一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けて下さい」とパウロに願ったのです。その直後にこう書かれています。「パウロがこの幻を見たとき、私たちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」そしてルカも同行してパウロたちはトロアスから海を渡ってネアポリス、フィリピに着き、リディアという婦人の家に泊まり、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に会います。彼女から占いの霊を追い出したことで、彼女の占いで金もうけしていた人々の怒りを買い、パウロとシラスという人が投獄されます。真夜中に大地震が起こってパウロとシラスは劇的に解放されるのですが、この時ルカは投獄されなかったものの、同行していたと思われます。この後は、「私たち」という言い方が暫く途絶えるので、ルカがパウロに同行していたかどうかは、不明になります。

 次に「私たち」という言い方が復活してルカの同行が明らかになるのは、パウロの第三伝道旅行の終わりの頃です。使徒言行録20章6節に、「私たちは、除酵祭の後フィリピから船出し」とあるので、ルカがパウロろ同行していることが分かります。この後はずっと同行していると思われます。ここからのパウロは苦難の連続になります。20章にはパウロがエフェソの長老たちに別れを告げる感動的な場面があり、ルカはそこにも立ち会っています。そしてパウロはエルサレムに行きます。ルカも同行しています。パウロと一行はイエス様の弟ヤコブに会います。ルカはこの時ヤコブに会い、イエス様の十字架までの地上の歩みを、イエス様の弟ヤコブから直接多くのことを聞いた可能性があります。そして後のルカによる福音書執筆に大いに用いた可能性は高いと思います。

 パウロはエルサレムで捕らえられます。これは神様のご計画です。パウロはエルサレムからカイサリアに護送されて、監禁されます。ルカの何らかの形でついて行った可能性があります。その後パウロは、皇帝の下で裁判を受けるために船でローマに向かいます。ルカも同じ船に乗りました。この船は暴風雨に襲われ、人々は生きる望みを失いかけますが神様の守りがあり、難破の後、マルタ島に上陸して助かります。ルカも一緒なのです。そして遂にパウロたちはローマに着くのです。パウロは番兵を一人つけられたが、自費で借りた家に二年間住んでイエス・キリストを宣べ伝えました。ルカも身近にいたと思われます。ここまでパウロと共に歩んだ上で、使徒言行録を書いたはずです。

 私が申したいことは、ルカという人は、パウロの晩年の苦難の日々を、パウロと共に耐え忍んで生きたということです。パウロの苦難の日々に寄り添い、パウロの心を支えたと思うのです。先ほどのテモテへの手紙(二)を、パウロはローマで書いたと思われます。「ルカだけが私のところにいます。」ルカはパウロの殉教まで、パウロに寄り添っていた可能性があります。私が申したいのは、ルカはそのようなイエス様の忠実なしもべだということです。もちろんイエス・キリストが共にいてくださるのですから、ルカがいなくてもパウロは耐えることができたと思います。でも、人間の友がいてくれることもまた、パウロの心に安心を与えたと思うのです。ルカの生き方を見て、やはり人様に寄り添うことは大切だと教えられると思うのです。ルカはテオフィロにも寄り添う姿勢で福音書を書き、これがあなたの人生を懸けて間違いない確実な教えだから、ぜひイエス・キリストを信じて、救われてほしいとテオフィロの救いを祈って福音書を書いたと思います。そしてルカは、将来の読者である私たちにも寄り添う気持ちでルカによる福音書を書き、私たちが救われることをも祈りながら書いたに違いありません。

 寄り添いと言うと、先日天に召された長嶺トヨ子さんには、いつも神様、イエス・キリスト、聖霊が寄り添っておられたと同時に、娘さん方が交代で寄り添っておられたことも、長嶺さんの大きな喜びだったに違いありません。そしてもちろん神様が私たちにも寄り添い、私たちが天国にたどり着くまで寄り添っていて下さいます。ある人は、イエス様は「永遠の同伴者だ」と言いましたね。日本におられたホイヴェルス神父様が、故郷のドイツでご友人から紹介されたという「最上のわざ」という有名な詩を思い出しました。
 
 「この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、動きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、己の十字架を担う。/若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり(私はまだこの境地に達していません)、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。/老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承認するのだ。/神は最後にいちばんよい仕事を残して下さる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。/すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。『来よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ』と。」

 父なる神様がいつも寄り添って下さることを感謝して、これより毎月数回、ルカによる福音書を読んで礼拝を献げて参りましょう。アーメン。


2024-06-02 3:05:21()
説教「外国人にも聖霊が注がれる」 2024年6月2日(日)聖霊降臨節第3主日
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23,頌栄24、主の祈り,交読詩編126、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・351、エレミヤ書31:31~34、使徒言行録10:34~48、祈祷、説教、祈祷、讃美歌352、聖餐式78,献金、頌栄27、祝祷。 

(エレミヤ書31:31~34) 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

(使徒言行録10:34~48) そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第3主日の礼拝です。説教題は「外国人にも聖霊が注がれる」です。新約聖書は、使徒言行録10章34~48節です。私たちは2週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げました。使徒言行録2章を読みましたが、そこで聖霊を注がれた人は皆、イスラエル人・ユダヤ人です。使徒言行録2章ではペトロが説教し、旧約聖書のヨエル書を引用しました。そこには「私(神様)の僕(しもべ)、はしためにも、そのときには、私の霊を注ぐ」と書かれていました。僕は男奴隷、はしためは女奴隷と訳すこともできます。男奴隷にも女奴隷にも聖霊が注がれ、奴隷も差別されないと言われていると思います。ですがこれはイスラエルの中の奴隷のことと思われます。まだ異邦人、外国人は含まれていないようです。

 その限界は、本日の使徒言行録10章で突破されます。10章は長い章で、本当はこれを全部読むべきですが、本日は、イスラエル人以外(異邦人)にも聖霊が注がれたクライマックスの少し前から読んでいただきました。10章の最初から手短にまとめると、イスラエルの地中海沿いのカイサリアに、コルネリウスというローマ軍の百人隊長がおり、大変信仰深くて、神様に信頼されていました。彼の前に天使が現れ、「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。」そこでコルネリウスは、二人の召し使いと側近の部下で信仰深い兵士を呼び、すべてを話してヤッファへ送りました。

 この三人がヤッファに近づいた頃、ペトロは不思議な体験をしていました。ペトロが祈るために屋上に上がったところ、天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされて地上に降りて来るのが見え、その中にあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして「ペトロよ、身を起こし屠って食べなさい」という声が聞こえました。しかしそれらが旧約聖書の律法で「汚れたもの」とされるものだったので、ペトロは「とんでもないことです」と断ります。するとまた声が聞こえます。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、入れ物は急に天に引き上げられました。そこへ三人が到着したのです。イスラエル人は異邦人を汚れた者と見ていたのですから、普通なら会うのを拒否しても不思議はありません。しかし霊(聖霊が)、「ためらわないで、一緒に出発しなさい。私があの者たちをよこしたのだ」と語ったので、ペトロはカイサリアまで同行しました。そしてこう述べたのです。「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問することは、律法で禁じられています。けれども神は、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。なぜ招いて下さったのですか。」コルネリウスが経緯を説明して言います。「よくおいで下さいました。今私たちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」

 異邦人コルネリウスの誠実な態度に、ペトロも心打たれたのでしょう。今日の最初の34節。「そこで、ペトロは口を開きこう言った。」「口を開き」という言葉は、何気ないようですが、「これから重要なことを語りますよ」というしるしです。イエス様が「山上の説教」を語るときも、「イエスは口を開き、教えられた」と書かれていますから。ペトロはまず述べます。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」これは非常に大切なポイントと思います。「神様は一切の分け隔てをなさらない。」私たちはクリスチャンで救われており、永遠の命を受けているのですが、しかしだからと言ってクリスチャンでない方に対して、何か妙な優越感を持ってはいけないと思います。「神は分け隔てをなさらない。」この事実は、聖書の色々な個所に記されています。たとえば旧約聖書の申命記10章17節以下には、こうあります。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物を衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」こうおっしゃる神様ですから、外国人を差別したり、偏り見ることもないのです。

 聖書は確かにイスラエルの民を、神様に選ばれた民と明記していますが、例えば旧約聖書のルツ記を読むと、イスラエル人の男性と結婚したモアブ人の女性ルツのことを非常に称賛していますね。ルツが真の神様を敬い、姑によく仕えたことで外国人ルツを一切偏り見ないで、ルツを称賛しています。ルツの先祖からダビデ王が生まれたのですから、ダビデ王にも外国人の血が入っていることになります。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受入れられるのです。」

 この大前提を述べた上で、ペトロはイエス・キリストの恵みの福音を語ります。10章36節以下「神がイエス・キリストによって―この方こそ、すべての人の主ですー平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送って下さった御言葉を、あなた方はご存じでしょう。ヨハネ(洗礼者ヨハネ)が洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力とによってこの方を油(聖霊)注がれた者(メシア、キリスト、救い主)となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは神が御一緒だったからです。私たちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木(十字架)にかけて殺してしまいましたが、それは神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現して下さいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、ご一緒に食事をした私たちに対してです。」

 ペトロはさらに語ります。「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました。」ここに、イエス・キリストが「生きている者と死んだ者との審判者」であると書かれています。これは私たちが毎週、使徒信条で告白している信仰と一致しますね。「主は、(~)十字架につけられ、死にて葬られ、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり。かしこより来りて、生ける者と死ねる者を裁きたまはん。」イエス・キリストが最後の審判を行って下さいます。しかしイエス様は憐れみ深い方ですから、御自分の十字架の贖いのゆえに、イエス・キリストを救い主と信じ告白する者に、無罪の宣告を与えて下さいます。ペトロは述べます。43節「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」イエス様を信じる者は「誰でも」です。そこには何の差別もありません。

 しかしペトロは「誰でも」と言いながらも、ユダヤ人でない異邦人も救われることについて、まだ半信半疑だったようです。ペトロもこの後の展開に、大いに驚いたのです。次の小見出し「異邦人も聖霊を受ける」に進みます。44~46節「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている(ユダヤ人)信者(クリスチャン)で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを聞いたからである。」異言とは、聖霊が与えて下さる言葉で、何語なのか、話している本人にも分からないことが多いようです。私も人々が異言を語っていると思われる会に出席したことがありますが、私自身は異言を語った経験はありません。異言も尊い聖霊の恵みの賜物ですが、パウロはコリントの信徒への手紙(一)で、教会を造り上げるためには異言よりも預言の方が優れていると書いています。預言は分かる言葉だからです。礼拝の説教も、一種の預言(神の言葉を預かって語る)と言えますね。

 異邦人にも聖霊の賜物が与えられた現実を見て、ペトロは、本当に神様が人を一切分け隔てなさらにことを、本当に悟りました。そこでペトロは「私たち(ユダヤ人クリスチャン)と同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができますか」と言いました。この異邦人たちが聖霊を受けたことは、彼ら(彼女ら)がイエス様を自分の救い主と信じて、自分の罪を悔い改め、それが神様によしとされた証拠です。ペトロも自分が差別意識を持っていたことを悔い改め、彼ら(彼女ら)と信仰の兄弟姉妹となることを受け入れました。そして水の洗礼をも受けるようにと求めました。48節「イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。」これは教会が誕生した最初期のことで、水の洗礼の授け方も完全に確立していなかったと言えるでしょう。今であれば、「父・子・聖霊なる三位一体の神様」のお名前によって洗礼を受けるのです。「それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。」さらに深く教えを乞うためでしょう。コルネリウスは、本当に誠実な新クリスチャンです。

 私は「東久留米キリスト者九条の会」という会に入っていますが、そこに市内の氷川台にある日本長老教会・東久留米泉教会のBさんという女性の宣教師さんが出席しておられます。以下の内容は、Bさんがお書きになった文章に書かれていることです。Kさんは、1994年に南太平洋の赤道直下、パプアニューギニアの西ブリテン州のワシラオ村付近に宣教師として派遣された方です。日本ウイクリフ聖書翻訳協会という団体に所属しておられるようです。その村との距離はよく分かりませんが、先日パプアニューギニアで地滑りがあり、約2000人も埋まってしまったそうで、大きな災害となり、私もインターネットのニュースで見ました。この地域は、太平洋戦争の激戦地で、日本軍と米軍が激戦を繰り広げ、現地の住民も多く亡くなり、日本軍も米軍も多くの死傷者を出したそうです。

 Bさんが派遣されたワシラオ村付近では、アタ語という言語が話されているそうです。アタ語には文字がなかったそうです。もっと前の1983年に派遣された橋本さんという聖書翻訳宣教師が、アタ語の音韻、文法を研究され、聖書をアタ語に翻訳することに生涯を献げられたそうです。その後、1988年にアタ語の創世記の翻訳が完成したそうです。その時、地域の方々が歌を作って、「神様がアタ語で語り始められた。私たちは、この日を喜ぼう。」そして橋本宣教師は1997年に、天に召されたそうです。その後、現地のクリスチャンたちや、おそらくBさんも加わってと思われますが、2009年にさらに新約聖書と、旧約聖書のヨナ書の翻訳が完了したそうです。聖書を少数民族の言語に翻訳するときに、村人に聞いていただいて、分かるか、自然なアタ語になっているか、を審査するそうです。その日初めて、ワシラオ村で、ヨハネによる福音書が朗読されたそうです。聴き入っていた人々の中から「トアグ」という感想の言葉が聞こえたそうです。「トアグ」はアタ語で、「甘い」の意味であるそうです。こう申しますと、既に何名かの方々は、詩編を連想しておられると思います。詩編19編11節「(主の律法、定め、命令、戒め、つまり御言葉は)金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」詩編119編103節「あなた(神様)の仰せを味わえば、私の口に蜜よりも甘いことでしょう。」自分たちの言葉であるアタ語で聞いた聖書は、本当に甘かったのです。外国語でなく、自分たちの言葉で聖書が読まれると、心にストレートにしみ込んで来ますし、その本来の甘さがよく感じられるのですね。もちろん中には苦い、厳しい御言葉もありますが、全体としては福音ですから甘いのでしょう。この地域はマラリア原虫がいる地域で、宣教活動もマラリアとの戦いの面もあるそうです。この地域の方々は、今でも日本で言う古代のような生活環境で暮らしておられるそうですが、もちろん神様は一切分け隔てなさいませんし、イエス様を信じるならこの方々にも神様は聖霊を注いで下さり、神の子として下さり、祝福して下さいます。

 昨日は大変悲しいことに、私どもが敬愛してやまないAさんが、清瀬市の複十字病院にて、天に召されました。眠ったまま、早朝に息を引き取られたようです。長嶺さんは病院に入られてからも、『ゆうべの祈り』という本を用いて、毎日お祈りしていると、お見舞いに伺ったときに、私にも語って下さいました。ブルームハルトという牧師の祈りを、加藤常昭先生が訳された本です。Aさんは、東久留米教会の会員でいらした吉加江治与さんに紹介されたこの本をずっと大切にし、この本を用いて祈って来られたようです。1年間366日(うるう年も含めて)の祈りが記されているのですね。ある牧師が書いていますが、「病のために祈るのは当然です。神は祈りを聴いて下さるのです。しかし、病気が治らないで、病気のままで召される人もたくさんいます。ところが、病が癒されず、病床にあるままに、その人の信仰がかえって輝きを増し、その健康であった何十年かにまさってからのわずかの間に信仰のかつてない喜びを経験しながら天に召されて行った人々を、私は何人も知っています。神に対する信仰の深さにおいても、隣人に対する優しさにおいても、どんなに深い愛を身につけるか、どんなに忍耐深くなるか。牧師もまた襟を正して神の恵みを讃美するようなことが起こります。」

 まさにAさんにこのことが起こっていたと感じています。聖霊のお働きと思います。先週の礼拝後のご報告にもありましたように、私も8日前の土曜日に2名の方々と共にお見舞いさせていただいたときに、「今までこの入院を試練と思っていたけれども、今は祝福と思っています」という意味のことを言われました。私は、心の中で感嘆しました。クリスチャンでも、なかなか言えない言葉だと思います。ご病気の中で、人格が練り清められたと拝察致します。ご本人が祈り、皆様が祈り続けて下さった中で、聖霊のお働きが与えられた。異言もすばらしいでしょうが、先ほどの言葉も、聖霊によって与えらえた信仰の高みの言葉だと信じ、そのような清き信仰を与えて下さった、神様の聖なるお名前を讃美致します。ご家族・ご親族の上に、イエス・キリストのたくさんの御慰めを、お祈り申し上げます。アーメン。



2024-05-26 2:41:16()
説教「愛によって造り上げられる教会」 2024年5月26日(日)聖霊降臨節第2主日
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23,頌栄16(1節)、主の祈り,交読詩編125、使徒信条、讃美歌21・476、詩編68:19、エフェソ4:7~16、祈祷、説教、祈祷、讃美歌390、献金、頌栄27、祝祷。 

(詩編68:19)主よ、神よ/あなたは高い天に上り、人々をとりことし/人々を貢ぎ物として取り、背く者も取られる。彼らはそこに住み着かせられる。

(エフェソの信徒への手紙4:7~16) しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第2主日の礼拝です。説教題は「愛によって造り上げられる教会」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4章7~16節です。本日の個所は1節から始まる小見出し「キリストの体は一つ」の後半です。

 エフェソの信徒への手紙の全体のテーマは「教会とは何か」だと言えます。教会の本質は、「イエス・キリストの体」だと私たちは知っています。本日の少し前の4~6節には、こう書かれています。「体(キリストの体である教会)は一つ、霊(聖霊)は一つです。それは、あなた方が、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主(イエス・キリスト)は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ、すべてのものの父である神は唯一。」そして本日最初の7節「しかし、私たち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」教会は一つだけれども、教会の一員である私たち一人一人には、それぞれ別の恵みが与えられているというのです。恵みは、元の言葉ギリシア語でカリスです。

 8節、「そこで『高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた』と言われています。」これは本日の旧約聖書である詩編68編19節です。この御言葉の直接の意味は、力強く戦って勝利した神が高い天に上り、そして戦いに負けた人々を捕虜にし、捕虜たちを貢ぎ物として捕えるの意味です。エフェソの信徒への手紙を記した人(私はパウロと思う)は、別の意味を込めて引用しています。イエス・キリストが天に昇られた昇天の出来事に当てはめて引用しています。「イエス・キリストが高い天に昇られたとき、捕らわれ人を連れてゆき(神に背く悪の諸霊を勝利の行進のさらし者にした)、人々に聖霊の賜物を分け与えられた」の意味に解釈し直して、引用しています。私たち一人一人に皆、聖霊ご自身、あるいは聖霊の何らかの賜物が分け与えられています。

 9節「『昇った』というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。」その通り、イエス様は天から降って来られてベツレヘムの家畜小屋で誕生され、貧しい人々の友して歩まれ、私たちの全部の罪を背負って十字架の低きに降られ、さらに死者の国にまで降られました。10節「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」当時、天にはいくつもの階層があると考えられていたようです。復活されたイエス様は、その諸々の天よりも更に高い、最も高い天に昇られました。そこは父なる神様がおられる所です。このことをエフェソの信徒への手紙は1章20節以下で、こう述べます。「神は(…)キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座(父なる神様に最も近い所)に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」これはヨハネの黙示録の表現を借りれば、イエス様が「王の王、主の主」になられたことです。イエス・キリストは教会の主・頭であり、全世界・全宇宙の主・頭であられます。

 4章10節を改めて見ると、「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天より更に高く昇られたのです。」「すべてのものを満たすため」とは、上から聖霊を注いで、すべてのものを聖霊で満たす、すべてのものを愛で満たすの意味だと思います。それはペンテコステの日に起こったとで、イエス様は今も継続して天から私たちに聖霊を注いで下さっています。11節「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」ここには当時の教会の5つの務めの名前、職務の名前が出ています。当時の教会内には、このような人々がいたのでしょう。今の教会の牧師、伝道師、宣教師等に当たるでしょう。今の教会の務めの名前、職務の名前と似ていますが、違いありますね。大事なことは、教会内の人々が聖霊を注がれて、これらの務めを行う者として任命されていることです。コリントの信徒への手紙(一)27節にも、似たことが記されています。「あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気を癒す賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」使徒、預言者、教師は先ほどのエフェソ書と同じで、今の教会の牧師、伝道師、宣教師に当たるでしょう。「援助する者、管理する者」は役員に当たるかもしれません。「病気を癒す賜物を持つ者、異言を語る者」は、牧師、伝道師、宣教師、役員に限りませんね。当時の教会にはそのような人々がいたのですし、今もそうである教会もあるでしょう。ここでのポイントは、神様が教会内に色々な賜物(ギフト)、務めの人々を与えておられることです。

 ですからパウロはこう述べます。「皆が使徒であろうか(そうではない)。皆が預言者であろうか(そうではない)。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気を癒す賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなた方は、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」そして愛(アガペー)こそが、最高の賜物だという結論に至るのですね。異言とは、人が聖霊に満たされて語る言葉のことで、何語か分からないので、おそらく本人にも意味が分からないことが多いようです。ここで異言も、聖霊の賜物の1つとして挙げられています。

 エフェソ4章に戻り12節「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体(教会)を造り上げてゆき」とあります。「奉仕の業」とあります。神様が教会の一人一人に聖霊を注いで、色々な務めの人をお立てになったのは、その一人一人が権力を握ったり支配するためではなく、その反対に、教会に奉仕するためだと分かります。教会の頭キリストに仕え、教会メンバー一人一人に奉仕するために、聖霊とその賜物を与えられ、務めを与えられたと分かります。そして皆で、キリストの体である教会という礼拝共同体を造り上げてゆきます。造り上げることが大切で、破壊してはいけません。ある教会では、「一人一役」をモットーにしていると聞きます。全員に一つ役目を担っていただくのです。これは一つの方法ですね。誰もが必要な存在であることがはっきりします。その方ができる役割を一人にできるだけ(必ず)一つは引き受けていただき、皆で共に教会を造り上げてゆこうという方法です。一つの知恵です。

 「キリストの体を造り上げてゆき」の、「造り上げる」は元の言葉では「家を建てる、建物を建てる」という意味の言葉です。パウロはコリントの信徒への手紙(一)8章1節で述べます。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」14章では集会の持ち方を教えて、こう述べます。「あなた方は集まったとき、それぞれ詩編の歌を歌い、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなた方を造り上げるためにすべきです。」「造り上げる」を口語訳聖書は、「徳を高める」と訳しています。ひと昔前の日本の教会では、「徳を高める」という表現がよく用いられました。徳の漢字は「あの人は徳が高い」と言う場合の「徳」です。「教会の徳を高める。」教会で何かの意志決定をするとき、「果たしてこのことが教会の徳を高めることになるのかどうか」という点が、重要な判断基準になっていたと思います。「果たしてこの決定をすることが神様の御心に適い、この教会の徳を高めることになるのか、どうなのか」の点を一人一人がよく祈って考えて、役員会や総会で意志表示、採決に臨んだと思います。そして「建徳的」という言葉もよく用いられました。「徳を建てる」と書きます。「愛をもって教会を造り上げる、教会の徳を高める」ことが非常に重要であることが分かります。

 どのような教会が徳のある教会かと言うと、皆で喜んで神様を礼拝し、神様に従い、お互いを配慮する愛のある教会ということになります。パウロはコリントの信徒への手紙(一)12章で、誰も他の人に向かって「あなたは要らない」とは言えないと述べています。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」これは特に大切なことですね。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」これまでの競争社会では、強い人が生き残り、弱い人は置いてきぼりになり、軽視されました。これでは神様の御心に適いません。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」「~神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」私たちもさらにこうなりたいと願います。

 13節「ついには、私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」「成熟した人間」は単数、つまり一人の人を指します。これは「キリストを頭とする教会」を指すようです。これは1つ1つの教会を指すとも言えるし、すべての時代のすべての地域の教会、つまり全教会を指すとも思えます。「ついには、私たちは皆、神の子(イエス様)に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。「一つのものとなり」とありますが、そもそもこの4章の4節を振り返ると、「体は一つ」だと書かれています。体はキリストの体なる教会ですから、「教会はそもそも一つ」だと宣言しているのです。神様から見れば、全世界の全時代の教会は「一つ」なのです。

 教会を考える時に、「見える教会と見えない教会」という見方があります。見える教会の1つは東久留米教会であり、同時に皆様がこれまで属して来られ、愛して来られた1つ1つの具体的な教会です。1つ1つの教派を考えることもできますね。大きく分けると東方教会と西方教会。東方教会の代表はギリシア正教会で、ロシア正教会もその中に入るでしょう。西方教会はカトリック教会とプロテスタント教会、その中間のような聖公会。プロテスタント教会は日本でも多くの教派があります。福音派と呼ばれる諸教団、ホーリネス教会、メソジスト教会、バプテスト教会、改革派教会、セブンスデーアドヴェンティスト教会、無教会、救世軍、吉祥寺キリスト集会、日本基督教団。これらが見える教会で、それぞれの組織や制度を持ちます。秩序を保つために、ある程度の組織や制度は必要です。ですが組織や制度だけでは教会になりません。そこに祈りと聖霊のお働きが必要です。そうでないとそこに命が宿りません。宗教改革者ジャン・カルヴァンは、「聖書に基づく説教が行われ、キリストの制定によって聖礼典(洗礼と聖餐)が執り行われる所、そこに教会がある」と言いました。

 以上の「見える教会」に対して「見えない教会」は「霊的教会」とも言います。人間の教派・教団、組織や制度を超えて、「神様の目に見えている全体教会」です。神様をこれを指して「体は一つ」と述べておられると思います。「見える教会」「見えない教会」の両方とも大事です。「ついに私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものになり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」これは教会の成熟、成長を述べているようです。1つ1つの教会、教派の成熟、成長を述べていると思うのです。教会はそもそも一つだが、現実には多くの教会、教派に分かれている。それを神様が一つになるように導いておられる。神様が教会を完成に向けて導いておられる。そのような壮大なことが語られていると思います。ヨハネ福音書17章のイエス様の祈りの言葉が思い出されます。「私が彼ら(弟子たち)の内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」一つになるには私たち一人一人の努力も大切ですが、それを実現へ導いて下さるのは聖霊なる神様であることも事実と思うのです。

 14~15節「こうして、私たちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ愛に根差して真理を語り、あらゆる面で頭であるキリストに向かって成長していきます。」これはキリスト者個人のことと思います。キリスト者は御言葉を学び、聖霊を受けることで、未熟を卒業して大人になり、間違った教えに振り回されることなく、愛に根差して真理を語り、あらゆる面で頭であるキリストに向かって成長し、イエス・キリストに似た人格の人に造りかえられてゆきます。今から20年ほど前でしょうか、「教会成長」が強調された時期がありました。よく「教会成長セミナー」のような集会の案内が届きました。それはどちらかと言うと教会の人数を増やすことに重きが置かれた考えだったと感じます。教会に集ってクリスチャンになる方が増えることは確かに喜ばしいことですが、人数が増えることと共に、中身の充実は大切と言いましょうか、クリスチャン一人一人の人格は成熟することも、とても大切と思います。

 16節「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」キリストの体である教会は、一人一人のクリスチャンが互いに補い合い、結び合わされて、愛によって造り上げられてゆくと書かれています。もっと大きな視点で見れば、様々な教派が互いの足りないところを補い合い、結び合わされて、愛によって全体教会として愛によって造り上げられてゆくということと思います。2章22節には、「キリストによってあなた方(教会)も共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなる」とあります。ですから教会が愛によって造り上げられるために、聖霊が働いて下さると分かります。

 また5章25節には、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」とあり、キリストが教会を愛しておられることが分かります。続く26節には、「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗い(洗礼)によって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした」とあり、キリストが教会を聖なる、汚れのない、栄光の輝く教会となるように完成へと導いて下さると約束されています。教会の本質は、キリストの花嫁なのです。29節に、「わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養いいたわるものです」とあり、キリストが教会を養い、いたわってくださると分かります。このようにキリストが教会を愛し清めて完成させて下さるのですから、私たちは安心し信頼して自分をイエス・キリストに委ね、三位一体の神様の讃美する喜びの礼拝を献げて参りましょう。アーメン。