2024-10-06 2:34:45()
説教「貧しい人に福音を告げ知らせるために」2024年10月6日(日)聖霊降臨節第21主日公同礼拝
順序:招詞ルカ15:7,頌栄29、主の祈り,交読詩編141、使徒信条、讃美歌21・401、聖書 イザヤ書61:1~4、ルカ福音書4:16~30、祈祷、説教、祈祷、讃美歌433、聖餐式(讃美歌56)、献金、頌栄83(1節)、祝祷。
(イザヤ書61:1~4) 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
(ルカ福音書4:16~30) イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第21主日公同礼拝です。新約聖書は、ルカ福音書4章16~30節、説教題は「貧しい人に福音を告げ知らせるために」、小見出しは「ナザレで受け入れられない」、です。
本日の前のルカ福音書は、イエス様が荒れ野で悪魔からの3つの強力な誘惑を受け、それを全て撃退なさった場面です。イエス様は、悪魔との激しい闘いに全て勝利されました。それは甘い誘惑にさらされるご自分の心の中の闘いでもあったと思います。こうして悪魔とのつばぜり合いに勝利され、父なる神様から与えられた試験に合格されたイエス様について、本日の直前の14~15節が、こう記します。「イエスは霊(聖霊)の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。」
そして本日の16節です。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。」イスラエルの安息日は土曜日です。イエス様もイスラエル人の一人ですから、安息日には父なる神様を毎週礼拝しておられました。「いつものとおり」とあります。私たちの信仰も「いつものとおり」であることが大切です。いつものとおり礼拝に行き、いつものとおり婦人会や聖書の学び・祈祷会に出席することが望ましいですね。今は、神様の恵みによって、体調不良・ご高齢等で教会に行くことができない時には、二次的な方法として、オンラインで礼拝は集会に参加する道も用意されています。但し、パソコン等の機器の不調等によってうまく配信できないこともあり、その場合は。ご容赦いただくほかはございません。
イエス様の時代、イスラエルの各地に会堂(シナゴーグ)があり、人々の礼拝の場であり、また公民館(コミュニティーセンター)の役割を果たしていました。イエス様も他の人々も、モーセの十戒の第四の戒めを守るように心がけていました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」安息日は、神様に感謝と讃美の礼拝を献げ、神様の恵みと祝福を受ける、最も喜ばしい日です。
イエス様は、この安息日も礼拝のために会堂に入られました。会堂の礼拝は、おそらく私たちプロテスタント教会の礼拝とある意味似ていて。祈り、聖書(旧約)朗読、説教、賛美等が内容だったようです。会堂には会堂長という責任者がいて、会堂長が聖書を朗読することもあれば、会堂長が指名する人が聖書朗読を行うこともあったようです。この日はイエス様が、聖書朗読と説教を依頼されていたのでしょう。17節「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。」今のような印刷術がない当時の聖書は、羊皮紙などに手紙で御言葉が書かれており、イザヤ書だけでも相当の分量の巻物だったと思われます。
イエス様が朗読されたのは、私たちの本日の旧約聖書であるイザヤ書61章です。すばらしい御言葉です(他の御言葉もすばらしいですが)。18~19節「主の霊(聖霊)が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために。主が私に油(聖霊)を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」20節「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。」席に座って説教する習慣だったようです。21節「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」
この旧約聖書イザヤ書61章は、イエス様の存在と行いによって成就した、実現した、現実のものとなったというのです。ヨハネ福音書1章1節には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。言はイエス・キリストを指します。イエス様は神の言葉だというのです。神の言葉、メッセージ、意志、愛が具体的な肉体をもつ人間となったのがイエス・キリストなのです。これをキリスト教用語で「受肉」と呼びます。「肉を受ける」と書きます。肉体を受けて具体的な人間となったことを意味します。イエス様は、「イザヤ書61章は、私の存在によって受肉し、現実のものとなった」と宣言しておられます。「私こそ、生きている聖書だ」と宣言されたのです。その通りで、旧約聖書も新約聖書も、生きておられるイエス・キリストによって完成されると言えます。
もう一度18節「主の霊(聖霊)が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために。主が私に油を注がれたからである。」キリストという言葉はヘブライ語ではメシアで、共に「救い主」の意味に用いられますが、キリストもメシアも直接の意味は「油を注がれた者」です。油は神の清き油で、つまりは聖霊を指します。「主が私に油を注がれた。」イエス様は「父なる神様が私に聖霊を注がれた」とおっしゃり、つまり「私こそ油注がれた者、キリスト・メシア・救い主である」と宣言しておられるのです。イエス様はこのナザレでお育ちになったのですが、その地元で今日、「キリスト・メシア・救い主」としてデビューなさったも言えます。
「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」「主の恵みの年」は、旧約聖書・レビ記25章にある「ヨベルの年」がさらに理想化された年と言えます。ヨベルの年のことは、こう書かれています。「あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は49年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。~ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。」
これは貧しくて自分の土地を売った場合も、ヨベルの年には返却されて、新規巻き直しが可能になる恵みの年です。社会の貧富の格差を拡大させない神の恵みの年です。イザヤ書61章はこのことをさらに理想化して、メシア(救い主)が来て全ての圧迫を解放すると述べており、イエス様が「私こそそれを真の意味で実現するメシア(救い主)である」と宣言しておられるのです。その真の解放は、イエス様の十字架の贖いの死による私たちの罪からの解放、イエス様の復活による私たちの死からの解放です。
22節「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」ナザレはイエス様が育たれた土地ですから、人々は赤ん坊の時からイエス様を知っていました。マリアもヨセフも知っていました。人々はそのヨセフのせがれ、ヨセフの長男坊が約30才になったとはいえ、礼拝で驚くべき恵み深い説教を語ったので、驚嘆したのです。
そしてイエス様は言われます。23節「きっと、あなた方は『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、故郷のここでもしてくれ』と言うに違いない。」カファルナウムで、病人を癒すなどの奇跡を行われたのでしょう。「故郷のここでもしてくれ」の言い方には、助けを求める切実さが感じられず、興味本位の印象を受けます。へりくだって切実に、真剣に助けを求められれば、イエス様は助けて下さったでしょう。でもそうではありませんでした。「お前は本当にメシア(救い主)なのか? ちょっと信じられない。メシアなら故郷のここでも奇跡を行ってくれ。故郷なのだから、それくらいのサービスはしてくれてもよいだろう。奇跡を見たらメシア(救い主)だと信じてやってもよいよ。」マタイ福音書4章によると、イエス様のガリラヤでの伝道の第一声は、「悔い改めよ、天の国は近づいた」です。イエス様は故郷であるガリラヤのナザレの人々にも、「悔い改めよ、天の国は近づいた」とおっしゃりたいのではないでしょうか。またヨハネ福音書2章には、しるし(奇跡)を見てイエス様のことを信じる人々を、イエス様は信用されなかったと書かれています。「故郷のここでも奇跡を行ってくれ」という気持ちのナザレの人々に、イエス様は失望され、故郷の人々を信用されなかったと思うのです。イエス様は、イエス様がメシア(救い主)であることを疑い、興味本位で奇跡を見ようとするナザレの人々に向かって、「あなた方のためには奇跡を行わない」と宣言するのです。リップサービスなし。
24節以下「はっきり言っておく。預言者(神の人)は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に3年6ヶ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめ(神の民イスラエル人でない、異邦人)のもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマン(神の民イスラエル人でない、異邦人)のほかはだれも清くされなかった。」つまり神様は預言者エリヤとエリシャの時代にも、神様はイスラエル人よりも異邦人を救われた。「私もそれに似て、地元のあなた方のために奇跡は行わない」と宣言されたのです。地元で随分厳しいことを言われたものです。
聞いた地元の人々は、激しく怒りました。「ヨセフのせがれに過ぎない癖に、何と生意気なことを言うのか。」28~30節「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落そうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」殺されかかったのです。伝道開始早々、何ということかと、私たちも読んで、ナザレの人々の反応に驚くと思うのです。ガリラヤの春どころではありません。
イエス様もバプテスマのヨハネも、真実を語るので、人々から憎まれることがあります。私たち人間の中に、神の真実の御言葉を嫌う罪があるのですね。その罪がイエス様を十字架に追い込みます。今日の場面で既に、人間たちがイエス様を嫌い、イエス様を憎んでいます。ルカ福音書が始まって間もない4章で、イエス様が救い主としてデビューしたその時に、故郷のナザレで既に、イエス様の道が十字架の道であることが明らかになっています。イエス様はこのルカ福音書9章で、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自分)には枕するところもない」と言われました。育ったナザレにおいてさえ、居場所がないイエス様です。
イエス様は、ナザレの人々のごきげんをとろうとは、全くなさいませんでした。ナザレの人々の問題は、本当の救いを切実に求めていなかったことではないでしょうか。本当の救いとは、私たちの罪が、神様の御前に赦されることです。現代の私たちも、自分の罪が赦されることを最大の願いとは、あまりしていないかもしれません。イエス様が与えようとしておられる真の救いは、神様の前の私たちの罪が、赦されることです。イエス様は十字架にかかってまで、私たちに真の罪を赦そうとして下さいました。しかしナザレの人々は、真の救いを求めていなかったと思われます。私たち現代の日本人にも通じる問題です。イエス様の十字架による私たちの罪の赦しが最も大事ですが、その罪の赦しを切に求める人が、あまり多くない。十字架による罪の赦しに、あまり魅力を感じない。あまり人気が出ない。それでイエス・キリストを求めてクリスチャンになる人が少ないのではないかと感じます。
イザヤ書61章には、こうありました。「主の霊が私(イエス様)の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。」貧しい人とは、経済的に貧しい人のことでもあると思います。神様はエリヤを養った異邦人の貧しいやもめに、食べ物を与えて養って下さいました。同時に貧しい人は、自分の霊的な貧しさを知る人、自分の罪深さに気づいている人をも指すでしょう。「貧しい人に福音を告げ知らせるために。」心へりくだり、自分の罪を悔い改める人にこそ、イエス様は「あなたの罪は赦された」という福音を宣言して下さいます。そのようなへりくだりと悔い改めの姿勢が、ナザレの人々にはなかったと思われます。
そのことをイエス様は悲しまれて、「あなた方の前で奇跡は行わない」とおっしゃったと思います。
キリスト教はご利益宗教でないという言い方があります。自己中心的なご利益は与えられないと思います。しかし神様は、私たちの祈りに応えて、私たちに真に必要な恵みを与えておられます。さらに罪の赦しと永遠の命を与えて下さいます。あぞれをあえてご利益と呼ぶなら、その意味ではご利益はあります。しかしイエス・キリストを信じれば、自動的に大金持ちになるというようなご利益はありません。その意味では確かにキリスト教はご利益宗教ではありません。「故郷のここでも奇跡を起こしてくれ」という言い方は、「あなたを信じれば、どんなご利益があるか、故郷のここでも明らかにしてくれ」という自分勝手な言葉に聞こえます。この言葉は、イエス様を悲しませたでしょう。
イエス様ば私たちに日毎の糧を与え、時に病を癒して下さいます。しかしイエス様が与えて下さる最も大事な恵みは、罪の赦しと永遠の命です。今から受ける聖餐式のパンとぶどう汁に、罪の赦しと永遠の命という最大の恵みがつまっています。イエス様はこの恵みを下さるために地上に来て下さったことを感謝して、尊いパンとぶどう液をいただきたいと思います。アーメン。
(イザヤ書61:1~4) 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
(ルカ福音書4:16~30) イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第21主日公同礼拝です。新約聖書は、ルカ福音書4章16~30節、説教題は「貧しい人に福音を告げ知らせるために」、小見出しは「ナザレで受け入れられない」、です。
本日の前のルカ福音書は、イエス様が荒れ野で悪魔からの3つの強力な誘惑を受け、それを全て撃退なさった場面です。イエス様は、悪魔との激しい闘いに全て勝利されました。それは甘い誘惑にさらされるご自分の心の中の闘いでもあったと思います。こうして悪魔とのつばぜり合いに勝利され、父なる神様から与えられた試験に合格されたイエス様について、本日の直前の14~15節が、こう記します。「イエスは霊(聖霊)の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。」
そして本日の16節です。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。」イスラエルの安息日は土曜日です。イエス様もイスラエル人の一人ですから、安息日には父なる神様を毎週礼拝しておられました。「いつものとおり」とあります。私たちの信仰も「いつものとおり」であることが大切です。いつものとおり礼拝に行き、いつものとおり婦人会や聖書の学び・祈祷会に出席することが望ましいですね。今は、神様の恵みによって、体調不良・ご高齢等で教会に行くことができない時には、二次的な方法として、オンラインで礼拝は集会に参加する道も用意されています。但し、パソコン等の機器の不調等によってうまく配信できないこともあり、その場合は。ご容赦いただくほかはございません。
イエス様の時代、イスラエルの各地に会堂(シナゴーグ)があり、人々の礼拝の場であり、また公民館(コミュニティーセンター)の役割を果たしていました。イエス様も他の人々も、モーセの十戒の第四の戒めを守るように心がけていました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」安息日は、神様に感謝と讃美の礼拝を献げ、神様の恵みと祝福を受ける、最も喜ばしい日です。
イエス様は、この安息日も礼拝のために会堂に入られました。会堂の礼拝は、おそらく私たちプロテスタント教会の礼拝とある意味似ていて。祈り、聖書(旧約)朗読、説教、賛美等が内容だったようです。会堂には会堂長という責任者がいて、会堂長が聖書を朗読することもあれば、会堂長が指名する人が聖書朗読を行うこともあったようです。この日はイエス様が、聖書朗読と説教を依頼されていたのでしょう。17節「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。」今のような印刷術がない当時の聖書は、羊皮紙などに手紙で御言葉が書かれており、イザヤ書だけでも相当の分量の巻物だったと思われます。
イエス様が朗読されたのは、私たちの本日の旧約聖書であるイザヤ書61章です。すばらしい御言葉です(他の御言葉もすばらしいですが)。18~19節「主の霊(聖霊)が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために。主が私に油(聖霊)を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」20節「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。」席に座って説教する習慣だったようです。21節「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」
この旧約聖書イザヤ書61章は、イエス様の存在と行いによって成就した、実現した、現実のものとなったというのです。ヨハネ福音書1章1節には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。言はイエス・キリストを指します。イエス様は神の言葉だというのです。神の言葉、メッセージ、意志、愛が具体的な肉体をもつ人間となったのがイエス・キリストなのです。これをキリスト教用語で「受肉」と呼びます。「肉を受ける」と書きます。肉体を受けて具体的な人間となったことを意味します。イエス様は、「イザヤ書61章は、私の存在によって受肉し、現実のものとなった」と宣言しておられます。「私こそ、生きている聖書だ」と宣言されたのです。その通りで、旧約聖書も新約聖書も、生きておられるイエス・キリストによって完成されると言えます。
もう一度18節「主の霊(聖霊)が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために。主が私に油を注がれたからである。」キリストという言葉はヘブライ語ではメシアで、共に「救い主」の意味に用いられますが、キリストもメシアも直接の意味は「油を注がれた者」です。油は神の清き油で、つまりは聖霊を指します。「主が私に油を注がれた。」イエス様は「父なる神様が私に聖霊を注がれた」とおっしゃり、つまり「私こそ油注がれた者、キリスト・メシア・救い主である」と宣言しておられるのです。イエス様はこのナザレでお育ちになったのですが、その地元で今日、「キリスト・メシア・救い主」としてデビューなさったも言えます。
「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」「主の恵みの年」は、旧約聖書・レビ記25章にある「ヨベルの年」がさらに理想化された年と言えます。ヨベルの年のことは、こう書かれています。「あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は49年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。~ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。」
これは貧しくて自分の土地を売った場合も、ヨベルの年には返却されて、新規巻き直しが可能になる恵みの年です。社会の貧富の格差を拡大させない神の恵みの年です。イザヤ書61章はこのことをさらに理想化して、メシア(救い主)が来て全ての圧迫を解放すると述べており、イエス様が「私こそそれを真の意味で実現するメシア(救い主)である」と宣言しておられるのです。その真の解放は、イエス様の十字架の贖いの死による私たちの罪からの解放、イエス様の復活による私たちの死からの解放です。
22節「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」ナザレはイエス様が育たれた土地ですから、人々は赤ん坊の時からイエス様を知っていました。マリアもヨセフも知っていました。人々はそのヨセフのせがれ、ヨセフの長男坊が約30才になったとはいえ、礼拝で驚くべき恵み深い説教を語ったので、驚嘆したのです。
そしてイエス様は言われます。23節「きっと、あなた方は『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、故郷のここでもしてくれ』と言うに違いない。」カファルナウムで、病人を癒すなどの奇跡を行われたのでしょう。「故郷のここでもしてくれ」の言い方には、助けを求める切実さが感じられず、興味本位の印象を受けます。へりくだって切実に、真剣に助けを求められれば、イエス様は助けて下さったでしょう。でもそうではありませんでした。「お前は本当にメシア(救い主)なのか? ちょっと信じられない。メシアなら故郷のここでも奇跡を行ってくれ。故郷なのだから、それくらいのサービスはしてくれてもよいだろう。奇跡を見たらメシア(救い主)だと信じてやってもよいよ。」マタイ福音書4章によると、イエス様のガリラヤでの伝道の第一声は、「悔い改めよ、天の国は近づいた」です。イエス様は故郷であるガリラヤのナザレの人々にも、「悔い改めよ、天の国は近づいた」とおっしゃりたいのではないでしょうか。またヨハネ福音書2章には、しるし(奇跡)を見てイエス様のことを信じる人々を、イエス様は信用されなかったと書かれています。「故郷のここでも奇跡を行ってくれ」という気持ちのナザレの人々に、イエス様は失望され、故郷の人々を信用されなかったと思うのです。イエス様は、イエス様がメシア(救い主)であることを疑い、興味本位で奇跡を見ようとするナザレの人々に向かって、「あなた方のためには奇跡を行わない」と宣言するのです。リップサービスなし。
24節以下「はっきり言っておく。預言者(神の人)は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に3年6ヶ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめ(神の民イスラエル人でない、異邦人)のもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマン(神の民イスラエル人でない、異邦人)のほかはだれも清くされなかった。」つまり神様は預言者エリヤとエリシャの時代にも、神様はイスラエル人よりも異邦人を救われた。「私もそれに似て、地元のあなた方のために奇跡は行わない」と宣言されたのです。地元で随分厳しいことを言われたものです。
聞いた地元の人々は、激しく怒りました。「ヨセフのせがれに過ぎない癖に、何と生意気なことを言うのか。」28~30節「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落そうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」殺されかかったのです。伝道開始早々、何ということかと、私たちも読んで、ナザレの人々の反応に驚くと思うのです。ガリラヤの春どころではありません。
イエス様もバプテスマのヨハネも、真実を語るので、人々から憎まれることがあります。私たち人間の中に、神の真実の御言葉を嫌う罪があるのですね。その罪がイエス様を十字架に追い込みます。今日の場面で既に、人間たちがイエス様を嫌い、イエス様を憎んでいます。ルカ福音書が始まって間もない4章で、イエス様が救い主としてデビューしたその時に、故郷のナザレで既に、イエス様の道が十字架の道であることが明らかになっています。イエス様はこのルカ福音書9章で、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自分)には枕するところもない」と言われました。育ったナザレにおいてさえ、居場所がないイエス様です。
イエス様は、ナザレの人々のごきげんをとろうとは、全くなさいませんでした。ナザレの人々の問題は、本当の救いを切実に求めていなかったことではないでしょうか。本当の救いとは、私たちの罪が、神様の御前に赦されることです。現代の私たちも、自分の罪が赦されることを最大の願いとは、あまりしていないかもしれません。イエス様が与えようとしておられる真の救いは、神様の前の私たちの罪が、赦されることです。イエス様は十字架にかかってまで、私たちに真の罪を赦そうとして下さいました。しかしナザレの人々は、真の救いを求めていなかったと思われます。私たち現代の日本人にも通じる問題です。イエス様の十字架による私たちの罪の赦しが最も大事ですが、その罪の赦しを切に求める人が、あまり多くない。十字架による罪の赦しに、あまり魅力を感じない。あまり人気が出ない。それでイエス・キリストを求めてクリスチャンになる人が少ないのではないかと感じます。
イザヤ書61章には、こうありました。「主の霊が私(イエス様)の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。」貧しい人とは、経済的に貧しい人のことでもあると思います。神様はエリヤを養った異邦人の貧しいやもめに、食べ物を与えて養って下さいました。同時に貧しい人は、自分の霊的な貧しさを知る人、自分の罪深さに気づいている人をも指すでしょう。「貧しい人に福音を告げ知らせるために。」心へりくだり、自分の罪を悔い改める人にこそ、イエス様は「あなたの罪は赦された」という福音を宣言して下さいます。そのようなへりくだりと悔い改めの姿勢が、ナザレの人々にはなかったと思われます。
そのことをイエス様は悲しまれて、「あなた方の前で奇跡は行わない」とおっしゃったと思います。
キリスト教はご利益宗教でないという言い方があります。自己中心的なご利益は与えられないと思います。しかし神様は、私たちの祈りに応えて、私たちに真に必要な恵みを与えておられます。さらに罪の赦しと永遠の命を与えて下さいます。あぞれをあえてご利益と呼ぶなら、その意味ではご利益はあります。しかしイエス・キリストを信じれば、自動的に大金持ちになるというようなご利益はありません。その意味では確かにキリスト教はご利益宗教ではありません。「故郷のここでも奇跡を起こしてくれ」という言い方は、「あなたを信じれば、どんなご利益があるか、故郷のここでも明らかにしてくれ」という自分勝手な言葉に聞こえます。この言葉は、イエス様を悲しませたでしょう。
イエス様ば私たちに日毎の糧を与え、時に病を癒して下さいます。しかしイエス様が与えて下さる最も大事な恵みは、罪の赦しと永遠の命です。今から受ける聖餐式のパンとぶどう汁に、罪の赦しと永遠の命という最大の恵みがつまっています。イエス様はこの恵みを下さるために地上に来て下さったことを感謝して、尊いパンとぶどう液をいただきたいと思います。アーメン。
2024-09-29 3:02:10()
説教「光の子として歩みなさい」2024年9月29日(日)聖霊降臨節第20主日公同礼拝
順序:招詞ルカ15:7,頌栄28、主の祈り,交読詩編140、使徒信条、讃美歌21・482、聖書 イザヤ書60:1~3、エフェソ5:6~20、祈祷、説教、祈祷、讃美歌403、献金、頌栄27、祝祷。
(イザヤ書60:1~3) 主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
(エフェソの信徒への手紙5:6~20) むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第20主日公同礼拝です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙5章6~20節、小見出し「光の子として生きる」、説教題は「光の子として歩みなさい」です。
本日の御言葉の大前提は、5章1~2節です。「あなた方は、神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとして私たちのために神に献げてくださったように、あなた方も愛によって歩みなさい。」私たちが、父なる神様に愛され、イエス・キリストに愛され、イエス様の十字架の死と復活のお陰で、神の子にされている事実が前提です。
そして本日の最初の6節です。「むなしい言葉に惑わされてはなりません。」あいまいに聞こえます。口語訳聖書では、「あなた方は、誰にも不誠実な言葉でだまされてはいけない」です。新改訳聖書2017では、「だれにも空しい言葉でだまされてはいけません。」一番新しい聖書協会共同訳でも、「空しい言葉にだまされてはなりません。」先週の礼拝は、イエス様が悪魔の誘惑に打ち勝たれた個所でした。悪魔は色々な手口でイエス様を騙そうとしたのです。イエス様は、いかにも悪魔の姿で現れたわけではないと思います。いかにも親切心を発揮しているふりをして現れたのではないかと思います。それは、いかにも親切なふりをして、イエス様を騙して罪に陥れようとしたのではないかと思います。それを見破ることは、簡単ではありません。しかしイエス様は見事に見破って、悪魔の誘惑を全て撃退し、悪魔に一度も騙されませんでした。さすがイエス様です。創世記3章を見ると、イエス様と正反対だったのがエバとアダムです。悪魔のずる賢い言葉に騙されて、まずエバが神様の戒めに背き、罪を犯し、悪魔の支配下に落ちてしまいました。続いてアダムも、エバの誘いに乗って同じ罪を犯してしまいました。このエバとアダムの悪魔に負けた罪・失敗を、イエス様が生涯をかけて、特に十字架の死によって、取り戻して下さり、奪回して下さったのです。従って私たちは、もはやエバとアダムのように、悪魔の騙しに騙されて、神の愛の支配から外れないように、十分注意して歩みます。そのためには、礼拝を献げ、聖書を読み祈り、具体的には神様に助けていただきながら、十戒を行うように心がけていれば、悪魔の騙しに騙されない歩みがかなりできると思うのです。
8月下旬に、長野県下伊那郡阿智村にある満蒙開拓平和記念館を見学したので、そこで見学したこと等が頭の中にあるのですが、批判的なことを申して恐縮ですが、日本から約27万人も満州に開拓民として渡ったのですが、政府が安く買い上げた土地を開拓・耕作したとは言え、現実には多くの中国人を追い出し、中国人の土地を奪ったに等しかったそうです。その後大きなご苦労をなさった開拓民の方々には申し上げにくいことですが、このようなことがあるため記念館でも、「満蒙開拓の歴史を美化することはできない」と書かれていました。その後発生した中国残留日本人孤児の肉親捜しに後半生を献げた山本慈昭というお坊さんを主人公にした『望郷の鐘』という映画がありますが(この山本さんは、自身も満州開拓民で、シベリア抑留を経ての生還者で、夫人を満州で失い、娘さんが残留孤児になり、その後再会できた方)、山本さんが生還後に阿智村の少年に言い聞かせる場面があります。「だがな、騙す者と騙される者が揃わなかったら、戦争は起きなかった」と言い聞かせるのです。山本さんの痛切な反省があるのでしょう。自分も開拓民のリーダーとして満州に行った。そして中国人を苦しめる一端を担った。長野県の村長の中には、国に促されても自分が責任を持つ村が開拓団に加わることを拒否した気骨のある村長もいたそうです。ここから先は私の推測ですが、そのような村長は、満州開拓がどのようなことか分かっていたのではないかと思います。結局は中国人の土地を奪うことで、よいことではない。ソ連との国境に近い所に配置されれば、もし日本とソ連が戦争になった場合、開拓民は戦争に巻き込まれ、大きな犠牲が出るかもしれない。そこまで考えた村長もいて、自分が責任をもつ村が開拓団に加わることを、国の要請であっても拒否したのではないかと思います。もしこの推測が当たっていれば、その村長は、国のむなしい言葉に惑わされず、騙されず、正しい決断をしたことになると思います。
6~7節「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。」「彼ら」が具体的に誰を指すのか分かりませんが、神様に背く悪と罪の道に引きずり込もうとする人々であることは確かです。せっかく自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じて、神様に属する者となったのですから、そこにしっかりとどまって、再び神様に背く道に逆戻りしないように注意しなさい、ということだと思います。
8節「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光の子として歩みなさい。」「以前と今」の対比が記されています。それはイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受ける以前と、受けた今の対比です。以前と今とでは、状況が一変したのです。洗礼を受ける以前は、暗闇の中を歩んでいた。罪と悪魔と死の支配下の暗闇にいたのです。しかし洗礼を受けた今は全く違います。「今は主イエス・キリストに結ばれて、光」となっているのです。今既にそうなっているのです。主イエス・キリストに結ばれるとは、「父・子・聖霊なる三位一体の神様」の御名による洗礼を受けることです。洗礼を受けた今は、復活の主イエス・キリストに結ばれて、世の光であるイエス・キリストに所属する者となっているのです。罪と悪魔と死の支配から解放されて、今既に永遠の命を受けているのです。今既に光の子になっているのです。ですから、「光の子として歩みなさい」と著者のパウロが、この手紙を読む私たちを、励ましてくれます。聖霊に満たされて、復活のイエス様と共に歩みなさいということです。
洗礼とは何であったか? ローマの信徒への手紙6章4節以下に記されています。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」
エフェソ5章9節「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」光とは、「私は世の光である」と宣言されるイエス・キリストです。イエス・キリストから、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。洗礼を受けた私たちは、イエス・キリストと一体となっています。私たち自身は本来光ではないのですが、イエス・キリストというまばゆい光が輝いておられるので、私たちもそれを反射する仕方で光輝きます。10節「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろそれを明るみに出しなさい。」私たちが何かを行うときに、「これはイエス様に喜んでいただけることだろうか」と自問自答し、「これはイエス様に喜んでいただけることだ」と確信できることばかり行うのがよいのです。まだ罪が残る私たちが、100%そのように行うことは難しいですが、しかし日々このように心がけることが大切と信じます。暗闇の業とは、悪魔に従う罪深い行いです。
11~13節「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろそれを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」彼らとは、先ほどと同じで、神様に背く悪と罪の道に引きずり込もうとする人々であることは確かです。彼らの誘惑に負けてはいけない。神様の目には、何もごまかすことができません。私たちの隠れた行いも、私たちの人には見えない心の中も、神様にはすべてさらけだされています。政治家の裏金も白日の下にさらされました。この神様が、私たち全ての人間を、最後の審判で裁かれます。人間の裁判にはしばしば間違いがありますが、神様の裁きは100%正確です。この神様に対して私たちは、最後の審判で申し開きを行わなければならないのです。しかしイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けていれば、安心です。私たちはイエス様の十字架の犠牲の死のお陰で、必ず無罪の宣告を受けることができます。
14節「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」この「起きよ」は、本日の旧約聖書イザヤ書60章1節の引用かもしれません。そこにはこうあります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」2節もよいです。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」そしてエフェソ5章14節は、当時の洗礼式の時に歌われた讃美歌だろうとも言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 「眠りについている者」とは、罪と死の中に埋没して、イエス・キリストに対して眠りこけている状態、私たちがキリストを信じる前の状態です。「起きよ」は「起き上がれ」の意味、古い自分に死に、新しい命に起き上がれの意味です。「死者の中から立ち上がれ」は、神の前に死んだ状態から、復活の命に立ち上がれ、の意味です。洗礼を受ける時に起こる出来事です。洗礼を受けることは、これほどすばらしいこと、キリストの光によって照らされ、キリストの復活の命をプレゼントされる恵みです。コリントの信徒への手紙(二)4章6節に、次のすばらしい御言葉がございます。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。」この神の光が、全ての人の心の中に輝いて、私たちの家族や友人も皆、洗礼に導かれるように、切に祈ります。
エフェソ5章15~17節「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」「時をよく用いなさい。」時は有限なので、私たちは時を無駄にすることはできず、当然有意義に用いる必要があります。やはり伝道のために、私たち一人一人に何ができるのか、自分にできることを祈りながら、1つ1つ着実に行うことがよいと思っています。「今は悪い時代なのです」とあります。この手紙が書かれた約2000年前もそうだった。今は交通や情報の伝達などは当時よりはるかに便利になっていますが、未だに戦争はあり、殺人事件等の罪もなくなりません。悪い宗教もあります。その意味で、残念ながら今も悪い時代と言わざるを得ません。その中で悪に抵抗し、悪と戦い、神様の愛と平和と正義を実行することが求められます。
18~19節「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊(聖霊)に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」酒に酔うのではなく、聖霊に酔い、聖霊に満たされなさいとあります。聖霊に満たされるためには、祈るほかありません。礼拝に参加し、日曜日が無理なら、水曜日の定例婦人会・祈祷会や、聖書の学び・祈祷会に参加することも重要です。「主にむかって心からほめ歌いなさい。」讃美です。讃美で印象深い場面は、使徒言行録16章で、パウロと同労者(共に働く者)シラスが、フィリピの牢獄の中で讃美している場面です。パウロとシラスが伝道旅行の中で、フィリピで捕えられ、衣服をはぎ取られ、何度も鞭打たれ、一番奥の牢に投げ込まれ、足には木の足かせをはめられ、厳重に監視されていました。鞭打たれた傷がさぞ痛かったと思います。こんな苦難の中でも「真夜中頃、パウロとシラスが讃美の歌を歌って、神に祈っていた」と書かれています。本当にどんな境遇にあっても、神を賛美する歌を歌い、神に祈っていたパウロとシラスの信仰は、すばらしいなと感じ入ります。この後、神様が介入され、地震が起こり、牢の戸が皆開き、全ての囚人の鎖も外れ、パウロとシラスは逃げなかったのですが、結局解放されます。
「主に向かって心からほめ歌いなさい。」14節が当時の洗礼式の時の讃美歌なら、14節にメロディーをつけて歌ってもよいのです。「眠りについている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」これはイエス様の復活を連想させます。ある説教者は、教会はイースターの讃美歌を、イースター以外の時にもっと歌ってよいし、いやむしろ歌うべきだと言っています。イエス様の十字架はもちろんですが、復活こそ、死に勝利した大きな喜び、洗礼を受けた人が永遠の命、復活の体を受ける確かな保証だからです。
本日の御言葉には、光という言葉がよく出ます。ヨハネ福音書12章35節以下に、イエス様の次の御言葉があります。「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」今年6月1日に天に召されたAさんが、洗礼を受ける決心をなさった御言葉です。「光の子となるために、光のあるうちに、光(キリスト)を信じなさい。」ここを読まれて、「早く洗礼を受けなきゃ」と思って、洗礼を受けられたそうです。光の子になられたのです。
「主に向かって、心からほめ歌をうたいなさい。」思うに、ほめ歌を歌う平安な心も、神様が与えて下さると思うのです。私の同級生のM牧師が7月に天に召されました。彼は息子さんに「死ぬことは怖くないの」と聞かれて「怖くないよ」と答えたそうです。もちろん時には「なぜ、自分がこの病気に」と思い、叫んだこともありました。」それでも最後まで礼拝に出席して賛美する信仰を、神が与えて下さったと思います。東久留米教会の近所の清瀬福音自由教会の岩井先生のメッセージ。
苦難の中でも神を賛美する信仰は、神が与えて下さる。そう信じて、共にイエス様を讃美する生き方を生涯続け、その後は天で讃美する者とされたいと思います。アーメン。
(イザヤ書60:1~3) 主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
(エフェソの信徒への手紙5:6~20) むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第20主日公同礼拝です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙5章6~20節、小見出し「光の子として生きる」、説教題は「光の子として歩みなさい」です。
本日の御言葉の大前提は、5章1~2節です。「あなた方は、神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとして私たちのために神に献げてくださったように、あなた方も愛によって歩みなさい。」私たちが、父なる神様に愛され、イエス・キリストに愛され、イエス様の十字架の死と復活のお陰で、神の子にされている事実が前提です。
そして本日の最初の6節です。「むなしい言葉に惑わされてはなりません。」あいまいに聞こえます。口語訳聖書では、「あなた方は、誰にも不誠実な言葉でだまされてはいけない」です。新改訳聖書2017では、「だれにも空しい言葉でだまされてはいけません。」一番新しい聖書協会共同訳でも、「空しい言葉にだまされてはなりません。」先週の礼拝は、イエス様が悪魔の誘惑に打ち勝たれた個所でした。悪魔は色々な手口でイエス様を騙そうとしたのです。イエス様は、いかにも悪魔の姿で現れたわけではないと思います。いかにも親切心を発揮しているふりをして現れたのではないかと思います。それは、いかにも親切なふりをして、イエス様を騙して罪に陥れようとしたのではないかと思います。それを見破ることは、簡単ではありません。しかしイエス様は見事に見破って、悪魔の誘惑を全て撃退し、悪魔に一度も騙されませんでした。さすがイエス様です。創世記3章を見ると、イエス様と正反対だったのがエバとアダムです。悪魔のずる賢い言葉に騙されて、まずエバが神様の戒めに背き、罪を犯し、悪魔の支配下に落ちてしまいました。続いてアダムも、エバの誘いに乗って同じ罪を犯してしまいました。このエバとアダムの悪魔に負けた罪・失敗を、イエス様が生涯をかけて、特に十字架の死によって、取り戻して下さり、奪回して下さったのです。従って私たちは、もはやエバとアダムのように、悪魔の騙しに騙されて、神の愛の支配から外れないように、十分注意して歩みます。そのためには、礼拝を献げ、聖書を読み祈り、具体的には神様に助けていただきながら、十戒を行うように心がけていれば、悪魔の騙しに騙されない歩みがかなりできると思うのです。
8月下旬に、長野県下伊那郡阿智村にある満蒙開拓平和記念館を見学したので、そこで見学したこと等が頭の中にあるのですが、批判的なことを申して恐縮ですが、日本から約27万人も満州に開拓民として渡ったのですが、政府が安く買い上げた土地を開拓・耕作したとは言え、現実には多くの中国人を追い出し、中国人の土地を奪ったに等しかったそうです。その後大きなご苦労をなさった開拓民の方々には申し上げにくいことですが、このようなことがあるため記念館でも、「満蒙開拓の歴史を美化することはできない」と書かれていました。その後発生した中国残留日本人孤児の肉親捜しに後半生を献げた山本慈昭というお坊さんを主人公にした『望郷の鐘』という映画がありますが(この山本さんは、自身も満州開拓民で、シベリア抑留を経ての生還者で、夫人を満州で失い、娘さんが残留孤児になり、その後再会できた方)、山本さんが生還後に阿智村の少年に言い聞かせる場面があります。「だがな、騙す者と騙される者が揃わなかったら、戦争は起きなかった」と言い聞かせるのです。山本さんの痛切な反省があるのでしょう。自分も開拓民のリーダーとして満州に行った。そして中国人を苦しめる一端を担った。長野県の村長の中には、国に促されても自分が責任を持つ村が開拓団に加わることを拒否した気骨のある村長もいたそうです。ここから先は私の推測ですが、そのような村長は、満州開拓がどのようなことか分かっていたのではないかと思います。結局は中国人の土地を奪うことで、よいことではない。ソ連との国境に近い所に配置されれば、もし日本とソ連が戦争になった場合、開拓民は戦争に巻き込まれ、大きな犠牲が出るかもしれない。そこまで考えた村長もいて、自分が責任をもつ村が開拓団に加わることを、国の要請であっても拒否したのではないかと思います。もしこの推測が当たっていれば、その村長は、国のむなしい言葉に惑わされず、騙されず、正しい決断をしたことになると思います。
6~7節「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。」「彼ら」が具体的に誰を指すのか分かりませんが、神様に背く悪と罪の道に引きずり込もうとする人々であることは確かです。せっかく自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じて、神様に属する者となったのですから、そこにしっかりとどまって、再び神様に背く道に逆戻りしないように注意しなさい、ということだと思います。
8節「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光の子として歩みなさい。」「以前と今」の対比が記されています。それはイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受ける以前と、受けた今の対比です。以前と今とでは、状況が一変したのです。洗礼を受ける以前は、暗闇の中を歩んでいた。罪と悪魔と死の支配下の暗闇にいたのです。しかし洗礼を受けた今は全く違います。「今は主イエス・キリストに結ばれて、光」となっているのです。今既にそうなっているのです。主イエス・キリストに結ばれるとは、「父・子・聖霊なる三位一体の神様」の御名による洗礼を受けることです。洗礼を受けた今は、復活の主イエス・キリストに結ばれて、世の光であるイエス・キリストに所属する者となっているのです。罪と悪魔と死の支配から解放されて、今既に永遠の命を受けているのです。今既に光の子になっているのです。ですから、「光の子として歩みなさい」と著者のパウロが、この手紙を読む私たちを、励ましてくれます。聖霊に満たされて、復活のイエス様と共に歩みなさいということです。
洗礼とは何であったか? ローマの信徒への手紙6章4節以下に記されています。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」
エフェソ5章9節「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」光とは、「私は世の光である」と宣言されるイエス・キリストです。イエス・キリストから、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。洗礼を受けた私たちは、イエス・キリストと一体となっています。私たち自身は本来光ではないのですが、イエス・キリストというまばゆい光が輝いておられるので、私たちもそれを反射する仕方で光輝きます。10節「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろそれを明るみに出しなさい。」私たちが何かを行うときに、「これはイエス様に喜んでいただけることだろうか」と自問自答し、「これはイエス様に喜んでいただけることだ」と確信できることばかり行うのがよいのです。まだ罪が残る私たちが、100%そのように行うことは難しいですが、しかし日々このように心がけることが大切と信じます。暗闇の業とは、悪魔に従う罪深い行いです。
11~13節「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろそれを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」彼らとは、先ほどと同じで、神様に背く悪と罪の道に引きずり込もうとする人々であることは確かです。彼らの誘惑に負けてはいけない。神様の目には、何もごまかすことができません。私たちの隠れた行いも、私たちの人には見えない心の中も、神様にはすべてさらけだされています。政治家の裏金も白日の下にさらされました。この神様が、私たち全ての人間を、最後の審判で裁かれます。人間の裁判にはしばしば間違いがありますが、神様の裁きは100%正確です。この神様に対して私たちは、最後の審判で申し開きを行わなければならないのです。しかしイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けていれば、安心です。私たちはイエス様の十字架の犠牲の死のお陰で、必ず無罪の宣告を受けることができます。
14節「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」この「起きよ」は、本日の旧約聖書イザヤ書60章1節の引用かもしれません。そこにはこうあります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」2節もよいです。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」そしてエフェソ5章14節は、当時の洗礼式の時に歌われた讃美歌だろうとも言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 「眠りについている者」とは、罪と死の中に埋没して、イエス・キリストに対して眠りこけている状態、私たちがキリストを信じる前の状態です。「起きよ」は「起き上がれ」の意味、古い自分に死に、新しい命に起き上がれの意味です。「死者の中から立ち上がれ」は、神の前に死んだ状態から、復活の命に立ち上がれ、の意味です。洗礼を受ける時に起こる出来事です。洗礼を受けることは、これほどすばらしいこと、キリストの光によって照らされ、キリストの復活の命をプレゼントされる恵みです。コリントの信徒への手紙(二)4章6節に、次のすばらしい御言葉がございます。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。」この神の光が、全ての人の心の中に輝いて、私たちの家族や友人も皆、洗礼に導かれるように、切に祈ります。
エフェソ5章15~17節「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」「時をよく用いなさい。」時は有限なので、私たちは時を無駄にすることはできず、当然有意義に用いる必要があります。やはり伝道のために、私たち一人一人に何ができるのか、自分にできることを祈りながら、1つ1つ着実に行うことがよいと思っています。「今は悪い時代なのです」とあります。この手紙が書かれた約2000年前もそうだった。今は交通や情報の伝達などは当時よりはるかに便利になっていますが、未だに戦争はあり、殺人事件等の罪もなくなりません。悪い宗教もあります。その意味で、残念ながら今も悪い時代と言わざるを得ません。その中で悪に抵抗し、悪と戦い、神様の愛と平和と正義を実行することが求められます。
18~19節「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊(聖霊)に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」酒に酔うのではなく、聖霊に酔い、聖霊に満たされなさいとあります。聖霊に満たされるためには、祈るほかありません。礼拝に参加し、日曜日が無理なら、水曜日の定例婦人会・祈祷会や、聖書の学び・祈祷会に参加することも重要です。「主にむかって心からほめ歌いなさい。」讃美です。讃美で印象深い場面は、使徒言行録16章で、パウロと同労者(共に働く者)シラスが、フィリピの牢獄の中で讃美している場面です。パウロとシラスが伝道旅行の中で、フィリピで捕えられ、衣服をはぎ取られ、何度も鞭打たれ、一番奥の牢に投げ込まれ、足には木の足かせをはめられ、厳重に監視されていました。鞭打たれた傷がさぞ痛かったと思います。こんな苦難の中でも「真夜中頃、パウロとシラスが讃美の歌を歌って、神に祈っていた」と書かれています。本当にどんな境遇にあっても、神を賛美する歌を歌い、神に祈っていたパウロとシラスの信仰は、すばらしいなと感じ入ります。この後、神様が介入され、地震が起こり、牢の戸が皆開き、全ての囚人の鎖も外れ、パウロとシラスは逃げなかったのですが、結局解放されます。
「主に向かって心からほめ歌いなさい。」14節が当時の洗礼式の時の讃美歌なら、14節にメロディーをつけて歌ってもよいのです。「眠りについている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」これはイエス様の復活を連想させます。ある説教者は、教会はイースターの讃美歌を、イースター以外の時にもっと歌ってよいし、いやむしろ歌うべきだと言っています。イエス様の十字架はもちろんですが、復活こそ、死に勝利した大きな喜び、洗礼を受けた人が永遠の命、復活の体を受ける確かな保証だからです。
本日の御言葉には、光という言葉がよく出ます。ヨハネ福音書12章35節以下に、イエス様の次の御言葉があります。「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」今年6月1日に天に召されたAさんが、洗礼を受ける決心をなさった御言葉です。「光の子となるために、光のあるうちに、光(キリスト)を信じなさい。」ここを読まれて、「早く洗礼を受けなきゃ」と思って、洗礼を受けられたそうです。光の子になられたのです。
「主に向かって、心からほめ歌をうたいなさい。」思うに、ほめ歌を歌う平安な心も、神様が与えて下さると思うのです。私の同級生のM牧師が7月に天に召されました。彼は息子さんに「死ぬことは怖くないの」と聞かれて「怖くないよ」と答えたそうです。もちろん時には「なぜ、自分がこの病気に」と思い、叫んだこともありました。」それでも最後まで礼拝に出席して賛美する信仰を、神が与えて下さったと思います。東久留米教会の近所の清瀬福音自由教会の岩井先生のメッセージ。
苦難の中でも神を賛美する信仰は、神が与えて下さる。そう信じて、共にイエス様を讃美する生き方を生涯続け、その後は天で讃美する者とされたいと思います。アーメン。
2024-09-22 1:23:59()
説教「誘惑に打ち勝ったイエス様」2024年9月22日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第73回)
順序:招詞ルカ15:7,頌栄16(1節)、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・358、聖書 ルカ福音書4:1~14、祈祷、説教、祈祷、讃美歌530、献金、頌栄27、祝祷。
(ルカ福音書4:1~14) さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第73回)です。新約聖書は、ルカによる福音書4章1~14節、説教題は「誘惑に打ち勝ったイエス様」です。
イエス様が宣教を開始され、公の生涯に入られたのは、およそ30才のときでした。しかし宣教・伝道に入る前に、まず試練の時がありました。悪魔の強い誘惑をお受けになったのです。第1節「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から代お帰りになった。そして、荒れ野の中を霊(聖霊)によって引き回され」とあります。荒れ野は砂漠で、緑が少なく、食べ物と水が非常に乏しい所、人間と他の生き物の生存がとても厳しい場所だと思います。洗礼者ヨハネも荒れ野で長い時間を過ごしたようですが、イエス様も荒れ野に導かれて来ました。聖霊によって、つまり神様によってです。イエス様が神の子として働くために、父なる神様がイエス様を訓練なさったと言えます。試みという言葉がありますが、試みは試練とも言えますし、誘惑とも言えます。私は、神に試みられることを試練と呼び、悪魔に試みられることを誘惑と呼ぶと思っています。
神様が人を悪へと誘惑することはあり得ません。ヤコブの手紙1章12節以下に、次のように書いてあることからそれが分かります。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、誰も『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、ご自身でも人を誘惑したりなさらないからです。」神様は決してイエス様を誘惑されませんが、イエス様を悪魔の誘惑の中に置かれて、イエス様の信仰の強さを試されたとは言えると思います。イエス様の深い信仰がさらに万全に鍛えられるためではないかと思います。
2節「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」四十日間断食すれば、その間にも非常な空腹を覚えるはずです。途中で楽になるとも聞きますが、四十日間空腹でなかったとはとても思えません。水も飲まなかったのか。書いていないので、それは全く分かりません。比叡山千日回峰という荒行がありますが、千日の途中で、最も過酷な9日間の修行があるそうで、9日間、断食・断水・不眠・不臥の日々を過ごすそうです。そうすると死斑が出ると聞きました。死とすれすれです。イエス様もそのような状態だったと思います。生身の人間がこんなことに耐えられるのか、イエス様は心身ともに本当に強靭だったのでしょう。十字架にさえ耐えた方ですから。それでもイエス様は、神の子でありながら、私たちと全く同じ肉体を持つ人間なのです。
空腹のあまり、目の前に食べ物の幻影が見えたかもしれません。一昨日新聞を読んでいると、戦争中に学童疎開に行った方々の投書がありました。ひもじかった思い出が綴られています。辛かったでしょうね。イエス様もひもじかった。そこへ悪魔のささやきです。「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ。」イエス様にはその力があります。イエス様にとって簡単なことです。ですから誘惑になります。私たちには、石をパンに変える力はないので、悪魔にこうささやかれても、実行不可能なので全く誘惑になりません。
しかしイエス様は、なぜ石をパンに変えてはいけないのでしょう。イエス様は、飢えている群衆のためならば、奇跡を起こして下さいます。わずか五つのパンと二匹の魚で、何千人もの群衆を養う奇跡を、実際行って下さいました。しかし、ご自分のために奇跡を行うことは、決してなさいません。救い主イエス様の使命は、どんなに苦しい時も、父なる神様の御言葉・御心に100%従いきることです。どんな辛い時も、悪魔の誘いを完全に拒否することです。イエス様は悪魔に返答なさいました。4節「イエスは、『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある。」これは旧約聖書・申命記8章3節です。2節より読みます。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起しなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水があふれる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」これは、人は神様の御言葉が語られる礼拝によって生きる、の意味だと思います。普通の知恵はその反対を説きます。「衣食足りて礼節を知る。」「衣食が足りて、初めて神様を礼拝する余裕ができる。衣食が先だ。」私たちもこの言葉に説得力を感じるかもしれません。しかし神様は逆だと言われます。マタイ福音書6章31節以下のイエス様の御言葉。「『何を食べようか』『何を飲もうか』と言って、思い悩むな。それは皆、異邦人が切に求めているものだ。あなた方の天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」神様に従うことを第一にし、礼拝を第一にすれば、これらのもの(生活に必要なもの)はみな、加えて与えられる。」
イスラエルの民がエジプトを脱出して荒れ野の旅をしていたとき、神様は十戒を与えられ、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と言われました。七日目の安息日には、礼拝するように求められました。神様は荒れ野でイスラエルの民に毎朝マナという食物を与えて養って下さいました。しかし安息日以外は働く日ですが、安息日は働いてはいけない日でマナを取りに行くことも禁止です。しかし神様は安息日の前の日の金曜日に、二日分のマナを与えてえ下さり、安息日に礼拝する民が、安息日にも飢えないように愛して下さいました。ですから「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そううすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる。」つまり神の言葉が語られる礼拝によってこそ、人は真に生きるのです。
イエス様は、どんなときにも、神様の御言葉に従う生き方を貫く必要があります。どんなに飢えていても、神様の御言葉に100%従わなければ、神の子失格です。奇跡を用いて石をパンに変えて食べてはならないのです。神様の御言葉に100%従いきる。この生き方を貫くと、十字架への道になります。イエス様は、石をパンに変えない生き方で、今既に十字架への道を開始しておられるのです。イエス様がこの地上に来られた目的は、悪魔に打ち勝つことです。私たち人間は、気づかないうちに悪魔に支配されています。エバとアダムが悪魔の誘惑に負けて、悪魔に従ってしまいました。それ以来、この世界は悪魔の支配下に落ちました。今も多くの人々はそれに気づいていないかもしれません。その悪魔の支配を打ち破り、人間たちを神様の愛の支配下に移す目的で、イエス様はこの地上に生まれて下さいました。イエス様が悪魔の誘惑に一回でも負ければ、イエス様も悪魔の支配下に入り、イエス様が地上に生まれた目的は果たせなくなります。
イエス様は、どんな苦難の中にあっても、生涯の中で、ただの一度も罪を犯さない、ただの一度も神様の御言葉に背かないで御言葉に従いきる生き方を貫く使命をお持ちです。他の人間たちと全く同じ条件下で生き、どんな辛い中にあっても、一度も御言葉に背かない生き方を全うする必要があります。他の人間が奇跡を起こせないのに、イエス様が自分のために奇跡を起こして石をパンに変えて食べれば、他の人間と全く同じ条件下で生き、なおかつ一度も罪を犯さない使命は失敗に終わります。従って、どんなに空腹でも石をパンに変えてはなりません。
悪魔は、次の誘惑に移ります。5~6節「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」悪魔が本性を現します。「私を拝め」というのです。悪魔にひれ伏せば、全世界の権力と繁栄を与えるというのです。実に魅力的な提案ではないでしょうか。繁栄という以上、お金もたくさん得られるに違いありません。悪魔は、人間の限りない欲望と野心を満たすと約束するのです。しかし悪魔の力に頼って力を得るのですから、最後は神様によって滅ぼされます。エジプトも滅び、バビロン帝国も、ヒットラーの帝国も滅びました。キリスト教を迫害した豊臣秀吉も滅びました。日本の軍人たちも中国大陸の東北部に満州国という「国」を強引に造って(国際連盟は認めなかった)野望を実現しようとしましたが、神の御心に適わなったのではないでしょうか、満州国は消えました。男性は特に権力が好きです。
2000年にわたるキリスト教会の歴史にも様々な汚点があるようです。教会もまた、時々権力の誘惑に負けて来たと思われます。しかしイエス様には権力への野心は全くありません。そこがイエス様のすばらしい点です。貧しく生きる道を選び取られます。ひたすら父なる神様に従われるのです。ですから悪魔に言下にお答えになります。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」旧約聖書の申命記6章13節のことをおっしゃっていると思われます。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」当然イエス様は、旧約聖書を全てよくよく知っておられます。また申命記6章14節にも、私たちも繰り返し立ち帰るべき、重要な御言葉があります。「聞け、イスラエル。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」イエス様は当然このように生きられます。私たちもそうでありたい。イエス様はサタンに耳を貸しません。私たちもサタンに耳を貸してはいけません。イエス様は、マタイ福音書4章の、ほぼ同じ場面で、「退け、サタン」と一喝しておられます。私たちも「退け、サタン」と一喝する必要があります。
悪魔はまだあきらめずイエス様を惑わせようとします。悪魔は何とかしてイエス様を、父なる神様に従う道から離れさせたいのです。イエス様が父なる神様に従い通されれば、悪魔はイエス様に敗北するからです。悪魔が人間全体を支配している支配権を失って滅ぼされてしまうからです。悪魔は高度な誘惑を仕掛けます。聖書の御言葉を使うのです。イエス様がここまでの2つの誘惑を、旧約聖書の御言葉によって見事に撃退されたので、悪魔は今度は旧約聖書の御言葉を用いて誘惑するのです。旧約聖書の御言葉を使うのでイエス様も心を許し、罪への誘惑だと気づかず、罪に落ちてくれるのではないか、そこを狙って悪魔は旧約聖書の御言葉を用いて甘くささやきます。しかしイエス様は、悪魔のたくらみを見事に見破り、この誘惑をも見事に撃退なさいます。イエス様には、悪魔への隙が全くないのです。
9~10節「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。「神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。」また、/「あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。」』」これは詩編91編です。確かにそう書いてあります。ですがこれは、「神様の愛と守りを信頼しなさい」のメッセージと思います。わざわざ危険を冒して、神様の御言葉が本当かどうか試してみなさいと悪魔は言うのです。神様を本当に信頼しているなら、試して実験してみる必要はありません。一つの例外を除いて、神様を試すことは、神様を内心では疑っていて信頼していない罪になります。ですからイエス様は、悪魔に断固反論なさいます。「あなたの神である主を試してはならない、と言われている。」これは申命記6章16節です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」イエス様が当然ですが旧約聖書の全てを熟知しておられ、正しく理解しておられます。
そして悪魔も、聖書をよく知っています。聖書の正しい御言葉を悪用して、イエス様や私たちをだまそうとします。私たちは、悪魔に負けないくらい聖書をよく読んで知っておく必要があります。聖書の御言葉そのものは正しいのですが、悪魔は聖書の御言葉を悪用して私たちをわなにはめようとするほど悪質であることが分かります。私たちは悪魔のわなを見破ってこれを撃退するためにも、聖書を学ぶ時間を惜しんではいけませんが、私たちの力にも限りがあるので、私たちが悪魔の誘惑に気づいて、悪魔の誘惑を退けることができるように、ますます熱心に祈る必要を覚えます。「我らを試みに合わせず、悪より救い出したまえ。」この主の祈りの中の祈りを、一生懸命祈らなければならない、私たちの弱さに気づきたいものです。一生懸命祈れば、必ず神様が助けて下さいます。
13節「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」イエス様は神様のテストに合格され、神の子の活動を開始されます。そのクライマックスが十字架です。無実で十字架にかけられても、イエス様は不平不満を言う罪さえ一度も犯されません。一度でも罪を犯せば、悪魔に負けます。そうすれば悪魔の天下が続きます。しかしイエス様は十字架でも一言も罪の発言をなさらず、遂に悪魔に負けなかったので、悪魔はイエス様に敗北し、滅びることが決定したのです。イエス様は十字架で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、あの言葉は不平不満の罪ではなく、神さまへの問いかけです。本日の箇所は、イエス様と悪魔の戦いです。戦いは十字架でイエス様が死なれたときに決着しました。一度も誘惑に負けす、罪を犯さなかったイエス様が、悪魔に完全勝利したのです。三日目に復活もされました。このイエス様が私たちの味方です。イエス様に助けられながら、私たちも地上の人生の最後まで神様に従い、天国に入れていただきます。アーメン。
(ルカ福音書4:1~14) さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第73回)です。新約聖書は、ルカによる福音書4章1~14節、説教題は「誘惑に打ち勝ったイエス様」です。
イエス様が宣教を開始され、公の生涯に入られたのは、およそ30才のときでした。しかし宣教・伝道に入る前に、まず試練の時がありました。悪魔の強い誘惑をお受けになったのです。第1節「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から代お帰りになった。そして、荒れ野の中を霊(聖霊)によって引き回され」とあります。荒れ野は砂漠で、緑が少なく、食べ物と水が非常に乏しい所、人間と他の生き物の生存がとても厳しい場所だと思います。洗礼者ヨハネも荒れ野で長い時間を過ごしたようですが、イエス様も荒れ野に導かれて来ました。聖霊によって、つまり神様によってです。イエス様が神の子として働くために、父なる神様がイエス様を訓練なさったと言えます。試みという言葉がありますが、試みは試練とも言えますし、誘惑とも言えます。私は、神に試みられることを試練と呼び、悪魔に試みられることを誘惑と呼ぶと思っています。
神様が人を悪へと誘惑することはあり得ません。ヤコブの手紙1章12節以下に、次のように書いてあることからそれが分かります。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、誰も『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、ご自身でも人を誘惑したりなさらないからです。」神様は決してイエス様を誘惑されませんが、イエス様を悪魔の誘惑の中に置かれて、イエス様の信仰の強さを試されたとは言えると思います。イエス様の深い信仰がさらに万全に鍛えられるためではないかと思います。
2節「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」四十日間断食すれば、その間にも非常な空腹を覚えるはずです。途中で楽になるとも聞きますが、四十日間空腹でなかったとはとても思えません。水も飲まなかったのか。書いていないので、それは全く分かりません。比叡山千日回峰という荒行がありますが、千日の途中で、最も過酷な9日間の修行があるそうで、9日間、断食・断水・不眠・不臥の日々を過ごすそうです。そうすると死斑が出ると聞きました。死とすれすれです。イエス様もそのような状態だったと思います。生身の人間がこんなことに耐えられるのか、イエス様は心身ともに本当に強靭だったのでしょう。十字架にさえ耐えた方ですから。それでもイエス様は、神の子でありながら、私たちと全く同じ肉体を持つ人間なのです。
空腹のあまり、目の前に食べ物の幻影が見えたかもしれません。一昨日新聞を読んでいると、戦争中に学童疎開に行った方々の投書がありました。ひもじかった思い出が綴られています。辛かったでしょうね。イエス様もひもじかった。そこへ悪魔のささやきです。「神の子なら、この石にパンになるよう命じたらどうだ。」イエス様にはその力があります。イエス様にとって簡単なことです。ですから誘惑になります。私たちには、石をパンに変える力はないので、悪魔にこうささやかれても、実行不可能なので全く誘惑になりません。
しかしイエス様は、なぜ石をパンに変えてはいけないのでしょう。イエス様は、飢えている群衆のためならば、奇跡を起こして下さいます。わずか五つのパンと二匹の魚で、何千人もの群衆を養う奇跡を、実際行って下さいました。しかし、ご自分のために奇跡を行うことは、決してなさいません。救い主イエス様の使命は、どんなに苦しい時も、父なる神様の御言葉・御心に100%従いきることです。どんな辛い時も、悪魔の誘いを完全に拒否することです。イエス様は悪魔に返答なさいました。4節「イエスは、『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある。」これは旧約聖書・申命記8章3節です。2節より読みます。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起しなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水があふれる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」これは、人は神様の御言葉が語られる礼拝によって生きる、の意味だと思います。普通の知恵はその反対を説きます。「衣食足りて礼節を知る。」「衣食が足りて、初めて神様を礼拝する余裕ができる。衣食が先だ。」私たちもこの言葉に説得力を感じるかもしれません。しかし神様は逆だと言われます。マタイ福音書6章31節以下のイエス様の御言葉。「『何を食べようか』『何を飲もうか』と言って、思い悩むな。それは皆、異邦人が切に求めているものだ。あなた方の天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」神様に従うことを第一にし、礼拝を第一にすれば、これらのもの(生活に必要なもの)はみな、加えて与えられる。」
イスラエルの民がエジプトを脱出して荒れ野の旅をしていたとき、神様は十戒を与えられ、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と言われました。七日目の安息日には、礼拝するように求められました。神様は荒れ野でイスラエルの民に毎朝マナという食物を与えて養って下さいました。しかし安息日以外は働く日ですが、安息日は働いてはいけない日でマナを取りに行くことも禁止です。しかし神様は安息日の前の日の金曜日に、二日分のマナを与えてえ下さり、安息日に礼拝する民が、安息日にも飢えないように愛して下さいました。ですから「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そううすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる。」つまり神の言葉が語られる礼拝によってこそ、人は真に生きるのです。
イエス様は、どんなときにも、神様の御言葉に従う生き方を貫く必要があります。どんなに飢えていても、神様の御言葉に100%従わなければ、神の子失格です。奇跡を用いて石をパンに変えて食べてはならないのです。神様の御言葉に100%従いきる。この生き方を貫くと、十字架への道になります。イエス様は、石をパンに変えない生き方で、今既に十字架への道を開始しておられるのです。イエス様がこの地上に来られた目的は、悪魔に打ち勝つことです。私たち人間は、気づかないうちに悪魔に支配されています。エバとアダムが悪魔の誘惑に負けて、悪魔に従ってしまいました。それ以来、この世界は悪魔の支配下に落ちました。今も多くの人々はそれに気づいていないかもしれません。その悪魔の支配を打ち破り、人間たちを神様の愛の支配下に移す目的で、イエス様はこの地上に生まれて下さいました。イエス様が悪魔の誘惑に一回でも負ければ、イエス様も悪魔の支配下に入り、イエス様が地上に生まれた目的は果たせなくなります。
イエス様は、どんな苦難の中にあっても、生涯の中で、ただの一度も罪を犯さない、ただの一度も神様の御言葉に背かないで御言葉に従いきる生き方を貫く使命をお持ちです。他の人間たちと全く同じ条件下で生き、どんな辛い中にあっても、一度も御言葉に背かない生き方を全うする必要があります。他の人間が奇跡を起こせないのに、イエス様が自分のために奇跡を起こして石をパンに変えて食べれば、他の人間と全く同じ条件下で生き、なおかつ一度も罪を犯さない使命は失敗に終わります。従って、どんなに空腹でも石をパンに変えてはなりません。
悪魔は、次の誘惑に移ります。5~6節「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」悪魔が本性を現します。「私を拝め」というのです。悪魔にひれ伏せば、全世界の権力と繁栄を与えるというのです。実に魅力的な提案ではないでしょうか。繁栄という以上、お金もたくさん得られるに違いありません。悪魔は、人間の限りない欲望と野心を満たすと約束するのです。しかし悪魔の力に頼って力を得るのですから、最後は神様によって滅ぼされます。エジプトも滅び、バビロン帝国も、ヒットラーの帝国も滅びました。キリスト教を迫害した豊臣秀吉も滅びました。日本の軍人たちも中国大陸の東北部に満州国という「国」を強引に造って(国際連盟は認めなかった)野望を実現しようとしましたが、神の御心に適わなったのではないでしょうか、満州国は消えました。男性は特に権力が好きです。
2000年にわたるキリスト教会の歴史にも様々な汚点があるようです。教会もまた、時々権力の誘惑に負けて来たと思われます。しかしイエス様には権力への野心は全くありません。そこがイエス様のすばらしい点です。貧しく生きる道を選び取られます。ひたすら父なる神様に従われるのです。ですから悪魔に言下にお答えになります。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」旧約聖書の申命記6章13節のことをおっしゃっていると思われます。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」当然イエス様は、旧約聖書を全てよくよく知っておられます。また申命記6章14節にも、私たちも繰り返し立ち帰るべき、重要な御言葉があります。「聞け、イスラエル。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」イエス様は当然このように生きられます。私たちもそうでありたい。イエス様はサタンに耳を貸しません。私たちもサタンに耳を貸してはいけません。イエス様は、マタイ福音書4章の、ほぼ同じ場面で、「退け、サタン」と一喝しておられます。私たちも「退け、サタン」と一喝する必要があります。
悪魔はまだあきらめずイエス様を惑わせようとします。悪魔は何とかしてイエス様を、父なる神様に従う道から離れさせたいのです。イエス様が父なる神様に従い通されれば、悪魔はイエス様に敗北するからです。悪魔が人間全体を支配している支配権を失って滅ぼされてしまうからです。悪魔は高度な誘惑を仕掛けます。聖書の御言葉を使うのです。イエス様がここまでの2つの誘惑を、旧約聖書の御言葉によって見事に撃退されたので、悪魔は今度は旧約聖書の御言葉を用いて誘惑するのです。旧約聖書の御言葉を使うのでイエス様も心を許し、罪への誘惑だと気づかず、罪に落ちてくれるのではないか、そこを狙って悪魔は旧約聖書の御言葉を用いて甘くささやきます。しかしイエス様は、悪魔のたくらみを見事に見破り、この誘惑をも見事に撃退なさいます。イエス様には、悪魔への隙が全くないのです。
9~10節「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。「神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。」また、/「あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。」』」これは詩編91編です。確かにそう書いてあります。ですがこれは、「神様の愛と守りを信頼しなさい」のメッセージと思います。わざわざ危険を冒して、神様の御言葉が本当かどうか試してみなさいと悪魔は言うのです。神様を本当に信頼しているなら、試して実験してみる必要はありません。一つの例外を除いて、神様を試すことは、神様を内心では疑っていて信頼していない罪になります。ですからイエス様は、悪魔に断固反論なさいます。「あなたの神である主を試してはならない、と言われている。」これは申命記6章16節です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」イエス様が当然ですが旧約聖書の全てを熟知しておられ、正しく理解しておられます。
そして悪魔も、聖書をよく知っています。聖書の正しい御言葉を悪用して、イエス様や私たちをだまそうとします。私たちは、悪魔に負けないくらい聖書をよく読んで知っておく必要があります。聖書の御言葉そのものは正しいのですが、悪魔は聖書の御言葉を悪用して私たちをわなにはめようとするほど悪質であることが分かります。私たちは悪魔のわなを見破ってこれを撃退するためにも、聖書を学ぶ時間を惜しんではいけませんが、私たちの力にも限りがあるので、私たちが悪魔の誘惑に気づいて、悪魔の誘惑を退けることができるように、ますます熱心に祈る必要を覚えます。「我らを試みに合わせず、悪より救い出したまえ。」この主の祈りの中の祈りを、一生懸命祈らなければならない、私たちの弱さに気づきたいものです。一生懸命祈れば、必ず神様が助けて下さいます。
13節「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」イエス様は神様のテストに合格され、神の子の活動を開始されます。そのクライマックスが十字架です。無実で十字架にかけられても、イエス様は不平不満を言う罪さえ一度も犯されません。一度でも罪を犯せば、悪魔に負けます。そうすれば悪魔の天下が続きます。しかしイエス様は十字架でも一言も罪の発言をなさらず、遂に悪魔に負けなかったので、悪魔はイエス様に敗北し、滅びることが決定したのです。イエス様は十字架で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、あの言葉は不平不満の罪ではなく、神さまへの問いかけです。本日の箇所は、イエス様と悪魔の戦いです。戦いは十字架でイエス様が死なれたときに決着しました。一度も誘惑に負けす、罪を犯さなかったイエス様が、悪魔に完全勝利したのです。三日目に復活もされました。このイエス様が私たちの味方です。イエス様に助けられながら、私たちも地上の人生の最後まで神様に従い、天国に入れていただきます。アーメン。
2024-09-15 2:05:45()
説教「洗礼を受けられたイエス様」2024年9月15日(日)聖霊降臨節第18主日礼拝
順序:招詞ルカ15:7,頌栄85、主の祈り,交読詩編139、使徒信条、讃美歌21・17、聖書 イザヤ書42:1~7,ルカ福音書3:21~38、祈祷、説教、祈祷、讃美歌67、聖餐式、献金、頌栄83(2節)、祝祷。
(イザヤ書42:1~7) 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
(ルカ福音書3:21~38) 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、 マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第18主日公同礼拝の公同礼拝です。新約聖書は、ルカによる福音書3章21~38節、説教題は「洗礼を受けられたイエス様」です。
洗礼者ヨハネが、ヨルダン川沿いの地方一帯で、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えていました。多くの人々が心を低くして、ヨハネから洗礼を受けました。しかしガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、洗礼を受けませんでした。彼は自分の兄弟の妻ヘロディアを奪って、自分の妻としました。その悪を含めて、彼が行った様々な悪についてヨハネに責められたので、ヨハネを投獄しました。神様の御言葉を滅ぼそうとしたに等しいです。
それと正反対に、イエス様が身を低くして、父なる神様の御心に服従されたお姿が、本日のルカによる福音書3章21節以下に記されています。「民衆が皆洗礼(バプテスマ)を受け、イエスも洗礼(バプテスマ)を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」誰がイエス様に洗礼を授けたかは明記されていませんが、もちろん洗礼者ヨハネからです。ヨハネが投獄される前に洗礼を受けられたに違いありません。洗礼は、私たち罪人(つみびと)が、神様に罪を赦していただくために受けるものです。イエス様は全く罪のない神の子ですから、私たちと違って罪を赦してもらう必要が全然ありません。洗礼を受ける必要が全くない唯一の方ですが、あえてへりくだって洗礼を受けられました。しかも私たちが受けた三位一体の神様の御名による洗礼と違って、ヨハネが授けた洗礼は、イエス様の十字架の死と復活より前の不完全な洗礼です。そしてヨハネは非常に清い人ではありますが、罪人(つみびと)です。本来、全く罪がないイエス様が罪のあるヨハネに洗礼を授けるのが筋なのに、あべこべに、罪あるヨハネから罪なきイエス様が洗礼をお受けになりました。
これは、イエス様の謙遜さのなせる業です。イエス様は、私たち罪人(つみびと)の友となるため、私たち罪人(つみびと)を同じ立場に立つため、身を低くしてヨハネから洗礼を受けられました。私たち罪人(つみびと)と連帯するために、です。このことは、フィリピの信徒への手紙2章6節以下の御言葉と、よく一致します。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
イエス様は、私たち罪人(つみびと)への愛にゆえに、私たちと同じ立場に身を低くして洗礼を受けられ、私たちの罪を全て身代わりに背負うために、十字架を担われました。これはイエス様は、父なる神様を愛するがゆえに、自由意志によってこのような生き方を選ばれました。これが本当の自由であることが分かります。宗教改革者マルティン・ルターが『キリスト者の自由』という本の冒頭に書いたことと同じです。「キリスト者は、全ての者の自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は、全ての者に奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する。」一見矛盾するこの2つの文章が、同時に実現している人がクリスチャンです。それはイエス・キリストご自身がそのような方、本当の意味で完全に自由な方だからです。自由に生きるとは、喜んで進んで神様と他者を愛することです。喜んで、進んで他の方にお仕えすることです。ですから真の自由とは愛のことです。イエス様のように弟子たちの、人々の足を喜んで洗う生き方です。
「イエスも洗礼(バプテスマ)を受けて祈っておられると」とあります。ルカによる福音書は、「祈るイエス様」のお姿を強調しています。5章16節には、「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」とあります。十二弟子を選ぶときもそうです。「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」徹夜の祈りをされたと分かります。こうして聖霊の愛と力に満たされたのです。最も身近な三人の弟子たちと山に登られた時もそうです。「祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」そして十字架前夜のオリーブ山での熱烈な祈りがあります。
今日の場面では、イエス様が洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」とあります。上の天国が開け、聖霊が鳩のように「目に見える」姿で、イエス様の上に降って来ました。通常、聖霊は目に見えませんが、この時は鳩のような姿が、周りの人々にも見えたのではないでしょうか。これはイエス様への聖霊降臨です。イエス様の祈りが聞かれて、聖霊が降って来たのです。ペンテコステの朝も、イエス様の弟子たちや母マリアが祈っている所に、天から聖霊が注がれました。私たちが聖霊を求めて祈るときも、聖霊が上から注がれます。ですがイエス様はこの時初めて、聖霊をお受けになったのではありません。母マリアは聖霊によってみごもりました。イエス様も当然、母マリアの胎内にいる時から既に聖霊に満たされておられます。そして洗礼を受けられた時、改めて天からイエス様に聖霊が降りました。私たちが洗礼を受けたときも、私たちの上に聖霊が降ったのです。今もクリスチャン一人一人の中に、最も尊い神様の霊・イエス様の清き霊である聖霊が、生きて住んでおられます。生きておられる聖霊が私たちの内に住んでおられることを、私たちはいつも自覚して感謝する必要があります。聖霊が住んでおられる以上、私たちは神様に属する者となっています。この体も心も神の所有ですから、この体によって罪を犯さないように気をつけ、健康にも気を配る必要があります。神のものを壊さない心がけが必要です。よく気を配っても病気になることはあるので、その場合はやむをえませんが、できるだけ治すよう心がけます。限界はありますが。
聖霊が降ると、天から父なる神様の御声が肉声で聞こえました。この場面には、神の子イエス・キリスト(子なる神キリスト)、聖霊なる神様、父なる神様、つまり三位一体の神が明らかに登場しています。声はこう言いました。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者。」父なる神様が、イエス様を「神が愛する子」であることを明確に宣言されました。これは旧約聖書の詩編第2編7節と、本日の旧約聖書であるイザヤ書42章1節を、神様が用いて語られたと言えます。詩編2編7節は、こうです。「主は私(イエス様)に告げられた。お前は私の子、今日、私はお前を生んだ。」(因みに、一番新しい訳である聖書協会共同訳では、「お前」ではなく「あなた」になっています。父なる神様がイエス様に「お前」と言われるとは考えにくいので、「あなた」の方が人格を尊重している感じで、よいと思います。)そして、イザヤ書42章1節はこうです。「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊(聖霊)は置かれ」神様がこの二か所を用いて、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」とおっしゃったようです。「私の心に適う者」を直訳すると、「私はあなたを喜ぶ」となります。そしてイザヤ書42章3~4節には、こうあります。「彼は(神の僕、イエス様)は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。」大声で自分を宣伝しないという意味だと思います。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁き(正義)を導き出して、確かなものとする。」
「傷ついた葦、暗くなってゆく灯心」は、弱いものの代表です。神の僕イエス様は、弱い者いじめをせず、むしろ守って下さる意味だと思います。クリスチャンのパスカルという人が、「人間は考える葦である」と言ったそうですが、もしかするとパスカルはこの言葉を、今のイザヤ書43章3節の、「傷ついた葦」の御言葉からヒントを得て、「人間が考える葦である」という言葉を思いついたのではないか、という説もあるそうです。この説が正しいかどうかは分かりませんが。
さて、ルカ福音書3章23節以下です。ここにはイエス様の系図が記されています、23節「イエスが宣教を始められたときは、およそ三十歳であった。」民数記4章を見ると、イスラエルの民のレビ族の人々が、祭司の務めを担う場合、30歳から奉仕を始めることができて、50才までで奉仕を終えることになっています。サムエル記・下5章4節によると、ダビデ王は30歳で王となっています。このようにイスラエルでは、神様の重要な職務を担うには、30歳から担うことができるという了解があったと思われます。
この系図には、イエス様を含めて(神様を含めないで)77名の名前が記されています。イエス様の系図はマタイ福音書1章にもあります。マタイ福音書の系図は、アブラハムから始まってダビデ王も登場してヨセフに至り、イエス様に至る系図です。これに対して、ルカによる福音書による系図は、逆にイエス様から始まって遡り、ヨセフ、ダビデ王を通り、アブラハムを通って最初の人間アダムに至り、さらにアダムをお造りになった神にまでさかのぼる系図です。マタイ福音書の系図は、14代ごとに区切られています。14は完全数7×2です。ルカによる福音書の系図には77名が登場しますが、77は完全数7×11です。聖書では7は重要な数ですから、双方の系図が7の数字と深く関わることは、2つの福音書がイエス様の系図を大切に考えていることを示すのでしょう。両方の系図の名前は、もちろん一致するものもあります。ですが一致しない名前もあります。マタイとルカが互いに会ったことがあるかどうかは分かりません。二人が、系図に関しては別々の資料をもっていて各々の福音書を書いたかもしれないので、それで系図の名前に一致しない部分があるのかもしれません。
この不一致の原因を、当時イスラエルで行われていたレビラート婚という結婚制度に求める説が、昔からあるそうです。レビラート婚は、旧約聖書に基づいてイスラエルで行われていた結婚のあり方で、申命記25章5節以下に、こうあります。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、~亡夫の兄弟が彼女の所に入り、めとって妻として兄弟の義務を果たし」とあります。ルカの系図ではヨセフの父の名はエリ、マタイの系図ではヨセフの父の名はヤコブです。エリが妻との間に息子をもうけずに死んだので、妻がエリの兄弟ヤコブと再婚してヨセフが生まれたと解釈するのです。もしそうなら、ヤコブがヨセフの実父ですが、エリは法律上の父親になるそうです。ヤコブが先に死んで、ヤコブの妻とエリが再婚してヨセフが生まれたとも解釈できます。こう解釈すれば、ヨセフの父親の名が2つの系図で違っている理由を、一応説明できます。ですがこの説が正しいかどうかは、実際には分かりません。
2つの系図に不一致の部分がある原因を探求することは自然なことですが、違いにあまりこだわらないで、マタイの系図、ルカの系図それぞれに意図とメッセージがあると考えることもできます。マタイの場合は、系図がイスラエル人の偉大な先祖アブラハムから始まっていることから分かる通り、イエス様こそユダヤ人が旧約聖書の預言に基づいて待望しているメシア(救い主)であることを強調する意図があると思われます。それに対してルカの系図は、イエス様から始まって歴史をさかのぼるのですが、アブラハムで終わりません。創世記に登場するアブラハムの先祖も出てきます。ノアも出てきます。そして最初の人間アダムに至ります。アダムはイスラエル人の最初の先祖であるばかりでなく、どの異邦人(イスラエル人以外)にとっても最初の先祖です。ルカの意図は、イエス様がイスラエル人だけでなく、異邦人を含む全人類の救い主であることを示すことだと思われます。マタイはイスラエル人、ルカは異邦人と言われます。「アダム。そして神に至る」とあり、聖書の神様がイスラエル人の神であるばかりでなく、全人類の神であることが示されます。
この系図の最初の人間がアダム、最後がイエス様です。イエス様は完全な人であり、同時に完全な神であられます。最初の人間アダムは、妻エバの誘いに負けて、神様の戒めに背いてしまい、罪に落ちました。エデンの園から追放されました。その子孫たちは皆、罪に落ちており、エデンの園から追放されており、罪の結果である死に支配されています。私たちもそうでした。そのアダムの大失敗以来、悪魔と罪と死の支配に負け続けている私たち人類を、その惨めな状態から救い出すために生まれて下さった方がイエス様です。世の中の殺人事件や戦争の多くは、人間の欲望や罪が原因となっています。この異常な暑さなどの異常気象も、人間が資源を乱獲したり、多くの二酸化炭素を排出した活動の結果、発生している可能性も大きいですね。私たち人間の罪が、この世の中の悲惨を招いています。私たちのエネルギーを多く消費する生活スタイルにも、悔い改めるべき部分が色々あります。そのような私たちを、自分の罪とその結果の死から救い出すために、イエス・キリストが人間の赤ん坊として地上に誕生され、自ら十字架にかかって、私たちの全ての罪の責任を身代わりに背負って下さいました。イエス様を救い主と信じて、自分の罪を悔い改める人は皆、全ての罪の赦しと、死を乗り越えた永遠の命、復活の体をいただきます。
ルカとしばしば共に活動した使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)15章47節以下で、こう述べます。「最初の人(アダム)は土ででき、地に属する者であり、第二の人(イエス・キリスト)は天に属する者です。」こう述べて、ルカの系図の最後のアダムと最初のイエス様を対比します。そしてこう述べます。「私たちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」イエス様を信じて洗礼を受けた人の中には、聖霊が主人公として生きて住んでおられますから、聖書を読んで祈り、礼拝し続けるその方は、次第にイエス様に似た人格の人へと、造り変えられます。
さて、この系図はイエス様で終わりますが、ある意味では続きがあることも、語っておきたいと思います。イエス様には妻も子どもも孫もいませんでした。従ってこの系図に、イエス様の子どもが書き記されることはありません。しかし、イエス様を信じる人々は皆、イエス様の霊的な妹たち、弟たちです。イエス様が長男です。イエス様には、霊的な妹たち、弟たちが世界中に大勢、何億人もいます。過去のクリスチャン、今のクリスチャン、将来のクリスチャン、皆イエス様の霊的な妹たち、弟たちです。私たちもその中に含まれています。それは教会であり、神の家族ですね。聖書の中の現実に書き込んで印刷されることはありませんが、私たちもこの系図の中に、イエス様の霊的な妹たち、弟たちとして、自分の名前が加えられているに等しいと言えます。この神の霊的な家族がさらに増えるように、ご一緒に救い主イエス・キリストを宣べ伝えて参りましょう。アーメン。
(イザヤ書42:1~7) 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
(ルカ福音書3:21~38) 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、 マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第18主日公同礼拝の公同礼拝です。新約聖書は、ルカによる福音書3章21~38節、説教題は「洗礼を受けられたイエス様」です。
洗礼者ヨハネが、ヨルダン川沿いの地方一帯で、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えていました。多くの人々が心を低くして、ヨハネから洗礼を受けました。しかしガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、洗礼を受けませんでした。彼は自分の兄弟の妻ヘロディアを奪って、自分の妻としました。その悪を含めて、彼が行った様々な悪についてヨハネに責められたので、ヨハネを投獄しました。神様の御言葉を滅ぼそうとしたに等しいです。
それと正反対に、イエス様が身を低くして、父なる神様の御心に服従されたお姿が、本日のルカによる福音書3章21節以下に記されています。「民衆が皆洗礼(バプテスマ)を受け、イエスも洗礼(バプテスマ)を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」誰がイエス様に洗礼を授けたかは明記されていませんが、もちろん洗礼者ヨハネからです。ヨハネが投獄される前に洗礼を受けられたに違いありません。洗礼は、私たち罪人(つみびと)が、神様に罪を赦していただくために受けるものです。イエス様は全く罪のない神の子ですから、私たちと違って罪を赦してもらう必要が全然ありません。洗礼を受ける必要が全くない唯一の方ですが、あえてへりくだって洗礼を受けられました。しかも私たちが受けた三位一体の神様の御名による洗礼と違って、ヨハネが授けた洗礼は、イエス様の十字架の死と復活より前の不完全な洗礼です。そしてヨハネは非常に清い人ではありますが、罪人(つみびと)です。本来、全く罪がないイエス様が罪のあるヨハネに洗礼を授けるのが筋なのに、あべこべに、罪あるヨハネから罪なきイエス様が洗礼をお受けになりました。
これは、イエス様の謙遜さのなせる業です。イエス様は、私たち罪人(つみびと)の友となるため、私たち罪人(つみびと)を同じ立場に立つため、身を低くしてヨハネから洗礼を受けられました。私たち罪人(つみびと)と連帯するために、です。このことは、フィリピの信徒への手紙2章6節以下の御言葉と、よく一致します。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
イエス様は、私たち罪人(つみびと)への愛にゆえに、私たちと同じ立場に身を低くして洗礼を受けられ、私たちの罪を全て身代わりに背負うために、十字架を担われました。これはイエス様は、父なる神様を愛するがゆえに、自由意志によってこのような生き方を選ばれました。これが本当の自由であることが分かります。宗教改革者マルティン・ルターが『キリスト者の自由』という本の冒頭に書いたことと同じです。「キリスト者は、全ての者の自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は、全ての者に奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する。」一見矛盾するこの2つの文章が、同時に実現している人がクリスチャンです。それはイエス・キリストご自身がそのような方、本当の意味で完全に自由な方だからです。自由に生きるとは、喜んで進んで神様と他者を愛することです。喜んで、進んで他の方にお仕えすることです。ですから真の自由とは愛のことです。イエス様のように弟子たちの、人々の足を喜んで洗う生き方です。
「イエスも洗礼(バプテスマ)を受けて祈っておられると」とあります。ルカによる福音書は、「祈るイエス様」のお姿を強調しています。5章16節には、「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」とあります。十二弟子を選ぶときもそうです。「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」徹夜の祈りをされたと分かります。こうして聖霊の愛と力に満たされたのです。最も身近な三人の弟子たちと山に登られた時もそうです。「祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」そして十字架前夜のオリーブ山での熱烈な祈りがあります。
今日の場面では、イエス様が洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」とあります。上の天国が開け、聖霊が鳩のように「目に見える」姿で、イエス様の上に降って来ました。通常、聖霊は目に見えませんが、この時は鳩のような姿が、周りの人々にも見えたのではないでしょうか。これはイエス様への聖霊降臨です。イエス様の祈りが聞かれて、聖霊が降って来たのです。ペンテコステの朝も、イエス様の弟子たちや母マリアが祈っている所に、天から聖霊が注がれました。私たちが聖霊を求めて祈るときも、聖霊が上から注がれます。ですがイエス様はこの時初めて、聖霊をお受けになったのではありません。母マリアは聖霊によってみごもりました。イエス様も当然、母マリアの胎内にいる時から既に聖霊に満たされておられます。そして洗礼を受けられた時、改めて天からイエス様に聖霊が降りました。私たちが洗礼を受けたときも、私たちの上に聖霊が降ったのです。今もクリスチャン一人一人の中に、最も尊い神様の霊・イエス様の清き霊である聖霊が、生きて住んでおられます。生きておられる聖霊が私たちの内に住んでおられることを、私たちはいつも自覚して感謝する必要があります。聖霊が住んでおられる以上、私たちは神様に属する者となっています。この体も心も神の所有ですから、この体によって罪を犯さないように気をつけ、健康にも気を配る必要があります。神のものを壊さない心がけが必要です。よく気を配っても病気になることはあるので、その場合はやむをえませんが、できるだけ治すよう心がけます。限界はありますが。
聖霊が降ると、天から父なる神様の御声が肉声で聞こえました。この場面には、神の子イエス・キリスト(子なる神キリスト)、聖霊なる神様、父なる神様、つまり三位一体の神が明らかに登場しています。声はこう言いました。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者。」父なる神様が、イエス様を「神が愛する子」であることを明確に宣言されました。これは旧約聖書の詩編第2編7節と、本日の旧約聖書であるイザヤ書42章1節を、神様が用いて語られたと言えます。詩編2編7節は、こうです。「主は私(イエス様)に告げられた。お前は私の子、今日、私はお前を生んだ。」(因みに、一番新しい訳である聖書協会共同訳では、「お前」ではなく「あなた」になっています。父なる神様がイエス様に「お前」と言われるとは考えにくいので、「あなた」の方が人格を尊重している感じで、よいと思います。)そして、イザヤ書42章1節はこうです。「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊(聖霊)は置かれ」神様がこの二か所を用いて、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」とおっしゃったようです。「私の心に適う者」を直訳すると、「私はあなたを喜ぶ」となります。そしてイザヤ書42章3~4節には、こうあります。「彼は(神の僕、イエス様)は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。」大声で自分を宣伝しないという意味だと思います。「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁き(正義)を導き出して、確かなものとする。」
「傷ついた葦、暗くなってゆく灯心」は、弱いものの代表です。神の僕イエス様は、弱い者いじめをせず、むしろ守って下さる意味だと思います。クリスチャンのパスカルという人が、「人間は考える葦である」と言ったそうですが、もしかするとパスカルはこの言葉を、今のイザヤ書43章3節の、「傷ついた葦」の御言葉からヒントを得て、「人間が考える葦である」という言葉を思いついたのではないか、という説もあるそうです。この説が正しいかどうかは分かりませんが。
さて、ルカ福音書3章23節以下です。ここにはイエス様の系図が記されています、23節「イエスが宣教を始められたときは、およそ三十歳であった。」民数記4章を見ると、イスラエルの民のレビ族の人々が、祭司の務めを担う場合、30歳から奉仕を始めることができて、50才までで奉仕を終えることになっています。サムエル記・下5章4節によると、ダビデ王は30歳で王となっています。このようにイスラエルでは、神様の重要な職務を担うには、30歳から担うことができるという了解があったと思われます。
この系図には、イエス様を含めて(神様を含めないで)77名の名前が記されています。イエス様の系図はマタイ福音書1章にもあります。マタイ福音書の系図は、アブラハムから始まってダビデ王も登場してヨセフに至り、イエス様に至る系図です。これに対して、ルカによる福音書による系図は、逆にイエス様から始まって遡り、ヨセフ、ダビデ王を通り、アブラハムを通って最初の人間アダムに至り、さらにアダムをお造りになった神にまでさかのぼる系図です。マタイ福音書の系図は、14代ごとに区切られています。14は完全数7×2です。ルカによる福音書の系図には77名が登場しますが、77は完全数7×11です。聖書では7は重要な数ですから、双方の系図が7の数字と深く関わることは、2つの福音書がイエス様の系図を大切に考えていることを示すのでしょう。両方の系図の名前は、もちろん一致するものもあります。ですが一致しない名前もあります。マタイとルカが互いに会ったことがあるかどうかは分かりません。二人が、系図に関しては別々の資料をもっていて各々の福音書を書いたかもしれないので、それで系図の名前に一致しない部分があるのかもしれません。
この不一致の原因を、当時イスラエルで行われていたレビラート婚という結婚制度に求める説が、昔からあるそうです。レビラート婚は、旧約聖書に基づいてイスラエルで行われていた結婚のあり方で、申命記25章5節以下に、こうあります。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、~亡夫の兄弟が彼女の所に入り、めとって妻として兄弟の義務を果たし」とあります。ルカの系図ではヨセフの父の名はエリ、マタイの系図ではヨセフの父の名はヤコブです。エリが妻との間に息子をもうけずに死んだので、妻がエリの兄弟ヤコブと再婚してヨセフが生まれたと解釈するのです。もしそうなら、ヤコブがヨセフの実父ですが、エリは法律上の父親になるそうです。ヤコブが先に死んで、ヤコブの妻とエリが再婚してヨセフが生まれたとも解釈できます。こう解釈すれば、ヨセフの父親の名が2つの系図で違っている理由を、一応説明できます。ですがこの説が正しいかどうかは、実際には分かりません。
2つの系図に不一致の部分がある原因を探求することは自然なことですが、違いにあまりこだわらないで、マタイの系図、ルカの系図それぞれに意図とメッセージがあると考えることもできます。マタイの場合は、系図がイスラエル人の偉大な先祖アブラハムから始まっていることから分かる通り、イエス様こそユダヤ人が旧約聖書の預言に基づいて待望しているメシア(救い主)であることを強調する意図があると思われます。それに対してルカの系図は、イエス様から始まって歴史をさかのぼるのですが、アブラハムで終わりません。創世記に登場するアブラハムの先祖も出てきます。ノアも出てきます。そして最初の人間アダムに至ります。アダムはイスラエル人の最初の先祖であるばかりでなく、どの異邦人(イスラエル人以外)にとっても最初の先祖です。ルカの意図は、イエス様がイスラエル人だけでなく、異邦人を含む全人類の救い主であることを示すことだと思われます。マタイはイスラエル人、ルカは異邦人と言われます。「アダム。そして神に至る」とあり、聖書の神様がイスラエル人の神であるばかりでなく、全人類の神であることが示されます。
この系図の最初の人間がアダム、最後がイエス様です。イエス様は完全な人であり、同時に完全な神であられます。最初の人間アダムは、妻エバの誘いに負けて、神様の戒めに背いてしまい、罪に落ちました。エデンの園から追放されました。その子孫たちは皆、罪に落ちており、エデンの園から追放されており、罪の結果である死に支配されています。私たちもそうでした。そのアダムの大失敗以来、悪魔と罪と死の支配に負け続けている私たち人類を、その惨めな状態から救い出すために生まれて下さった方がイエス様です。世の中の殺人事件や戦争の多くは、人間の欲望や罪が原因となっています。この異常な暑さなどの異常気象も、人間が資源を乱獲したり、多くの二酸化炭素を排出した活動の結果、発生している可能性も大きいですね。私たち人間の罪が、この世の中の悲惨を招いています。私たちのエネルギーを多く消費する生活スタイルにも、悔い改めるべき部分が色々あります。そのような私たちを、自分の罪とその結果の死から救い出すために、イエス・キリストが人間の赤ん坊として地上に誕生され、自ら十字架にかかって、私たちの全ての罪の責任を身代わりに背負って下さいました。イエス様を救い主と信じて、自分の罪を悔い改める人は皆、全ての罪の赦しと、死を乗り越えた永遠の命、復活の体をいただきます。
ルカとしばしば共に活動した使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)15章47節以下で、こう述べます。「最初の人(アダム)は土ででき、地に属する者であり、第二の人(イエス・キリスト)は天に属する者です。」こう述べて、ルカの系図の最後のアダムと最初のイエス様を対比します。そしてこう述べます。「私たちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」イエス様を信じて洗礼を受けた人の中には、聖霊が主人公として生きて住んでおられますから、聖書を読んで祈り、礼拝し続けるその方は、次第にイエス様に似た人格の人へと、造り変えられます。
さて、この系図はイエス様で終わりますが、ある意味では続きがあることも、語っておきたいと思います。イエス様には妻も子どもも孫もいませんでした。従ってこの系図に、イエス様の子どもが書き記されることはありません。しかし、イエス様を信じる人々は皆、イエス様の霊的な妹たち、弟たちです。イエス様が長男です。イエス様には、霊的な妹たち、弟たちが世界中に大勢、何億人もいます。過去のクリスチャン、今のクリスチャン、将来のクリスチャン、皆イエス様の霊的な妹たち、弟たちです。私たちもその中に含まれています。それは教会であり、神の家族ですね。聖書の中の現実に書き込んで印刷されることはありませんが、私たちもこの系図の中に、イエス様の霊的な妹たち、弟たちとして、自分の名前が加えられているに等しいと言えます。この神の霊的な家族がさらに増えるように、ご一緒に救い主イエス・キリストを宣べ伝えて参りましょう。アーメン。
2024-09-08 1:06:53()
説教「洗礼者ヨハネの登場」2024年9月8日(日)聖霊降臨節第17主日礼拝
順序:招詞ルカ15:7,頌栄85、主の祈り,交読詩編138、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・224、聖書 イザヤ書40:3~5,ルカ福音書3:1~20、祈祷、説教、祈祷、讃美歌431、聖餐式、讃美歌79、献金、頌栄92、祝祷。
(イザヤ書40:3~5) 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。
(ルカ福音書3:1~20)
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第17主日公同礼拝の公同礼拝です。新約聖書は、ルカによる福音書3章1~20節、説教題は「洗礼者ヨハネの登場」です。小見出しは、「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」です。この直前には、イエス様が12歳の時の出来事が記されていました。3章は、それから約18年たっています。
1節「皇帝ティべリウスの治世第15年、ポンティオ・ピラトはユダヤの総督、ヘロデ(ヘロデ・アンティパス)がガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、アンナスとカイアファが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」ここに当時のこの地方の6人の権力者の名前が記されていて、時期の特定に役立ちます。ポンティオ・ピラトがユダヤの総督だった時期は、紀元26年から36年であり、これは発掘された石碑に明確に記されていたそうです。イエス様より約半年早く生まれたザカリアとエリサベトの子ヨハネ、洗礼者ヨハネが活動を開始します。ヨハネも約30才です。「アンナスとカイアファが大祭司であったとき」と記されています。カイアファが大祭司職にあったのは紀元18年から36年まで、カイアファのしゅうとであるアンナスが大祭司職にあったのは、それより前の紀元6年から15年まです。ヨハネとイエス様の活動時期に、アンナスは正式な大祭司ではなかったのですが、カイアファのしゅうとである立場により、なお大祭司の称号と権威を保持していました。院政を敷いていたようなものですね。
このような権力者たちに比べて、ヨハネはイエス様の荒れ野(砂漠)にいて、真に質素な生活をしていました。マタイ福音書3章によると、「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物」とする、貪欲と正反対の真に清い生活を送っていました。荒れ野は、人間の生存さえも厳しい環境だと思います。イスラエルの荒れ野にはクムランという場所があり、そこではクムラン教団と呼ばれる人々が修道院のような祈り深い生活をしていたと分かっています。そこの人々は、非常に質素に暮らしているためか、非常に長寿だったと聞いています。洗礼者ヨハネも、もしかするとこのクムラン教団のメンバーだったのではないかと推測する人もおりますが、はっきりとは分かりません。
3節以下「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」洗礼者ヨハネは新約聖書の登場人物ではありますが、旧約の時代の最後の預言者と呼ぶことができます。神様が彼をイスラエルに送ることは、旧約聖書の最後の書・マラキ書3章の最後に明記されています。「見よ、私(神様)は、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。」洗礼者ヨハネは、預言者エリヤの霊をもつ、エリヤの再来です。彼が「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」とありますが、この父は父なる神様ではなく、イスラエル社会の一般の父親です。当時のイスラエルでは、父親と息子が対立していることが多かったようです。再来の預言者エリヤの導きによって父親と息子が悔い改め、和解することが、ここで述べられています。こうして多くの父子が和解することで、神様の怒りが和らぎ、神様の裁きが回避されると言っているようです。
洗礼者ヨハネもまた、かたくなになっているイスラエルの人々を悔い改めに導き、人々が神の怒りを受けないで済むようにし、人々の心をへりくだりに導いて、ヨハネの後に働きを開始する真の救い主が働きやすいように、人々を神への悔い改めに導いて、救い主が働く環境を準備することが使命です。ヨハネは、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えました。私たちが受けた洗礼は、イエス・キリストの十字架での贖いの死と復活を土台とした洗礼ですから、いわば完全な洗礼です。ですがヨハネが授けた洗礼は、まだイエス様の十字架の死と復活によるすべての罪の赦しと復活が起こっていないので、その意味ではまだ完全とは言えない、準備段階の洗礼だったと言えます。それでも神の意志に従ってヨハネは洗礼を授けていたのですから、人々がへりくだってヨハネから洗礼を受けることは、神様に喜ばれることでした。
洗礼者ヨハネが登場して宣教することは、旧約聖書のイザヤ書40章で預言されていると、このルカによる福音書は記します。「荒れ野で叫ぶ者(ヨハネ)の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はすべて低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」ここには荒れ野という自然界の曲がった道がまっすぐになり、でこぼこの道が平らによくなることが描かれていますが、同時に私たち人間の心の中の荒れ野が、よい状態に変えられていくことを述べているのでしょう。ヨハネのメッセージによって、神様の愛の働きによって、人の心の荒れ野が正常になり、平和に向かうことが述べられていると思います。そして「人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」救い主イエス・キリストを仰ぎ見るということと思います。
ヨハネは、イスラエルの群衆に厳しいメッセージを語ります。7節「そこでヨハネは、洗礼(バプテスマ)を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。『蝮の子らよ。』」これは相当厳しい呼びかけです。「悪魔の子らよ」という意味と思います。「差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。」神の怒りは確かにあります。私たち人間の罪に対する、神様の聖なる怒り、正当な怒りです。神様は大変忍耐強い方なので、私たちの罪をなかなか裁かず、忍耐して下さっています。そして父なる神様は、そのすべての怒りを、十字架のイエス・キリストに集中砲火的にぶつけられました。イエス様が十字架で、私たちの罪に対する父なる神様の聖なる怒りを、全て引き受けて下さったお陰で、私たちは父なる神様の正当な聖なる怒りを、まともに受けずに済んでいます。イエス様が十字架上で、父なる神様の聖なる怒りを全て、受けとめて下さったお陰です。
8節「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父(先祖)はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たち(子孫たち、真の救いを受け継ぐ者たち)を造り出すことがおできになる。」悔い改めは、方向転換です。いわゆる反省と少し違うかもしれません。反省は神様なしでもできるかもしれませんが、悔い改めは、自己中心的に生きる生き方から方向転換して、神様を礼拝して、神様の御心に適う生き方に進むことです。もう少し具体的に言うと、聖霊に助けられ、神様を礼拝ながら、神の戒めであるモーセの十戒を行いながら生きることです。神様を愛り、隣人を愛して生きることです。そうすれば必ず悔い改めの良い実を結ぶことができます。
「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。」自分たちは、神様に選ばれた偉大な人アブラハムの血を引く子孫だ。神に選ばれた民イスラエルの一員だ。だから自動的に祝福され、天国を約束されている。神様に従う生き方をしなくても大丈夫だ」などと思い上がってはいけない。アブラハムの真の子孫は、神様に従う人だ。「神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子たち(アブラハムと同じ信仰に生きる人たち)」を作り出すことがおできになる。」全くその通りです。私たち自身がその証拠です。イスラエルからはるか遠く離れた極東の日本に住む私たち、アブラハムとは血縁関係が全然ない完全に異邦人の私たちが、イエス様によって永遠の命を約束された神の民になっているのですから。ヨハネは厳しく迫ります。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」群衆に、本心から神に立ち帰ることを求めたのです。
群衆は、ヨハネの迫真のメッセージに心を打たれ、「悔い改めよう」との気持ちに導かれたのです。10節「そこで群衆は、『では、私たちはどうすればよいのですか』 と尋ねた。ヨハネの導きを求めたのですね。ヨハネは、具体的なアドヴァイスをします。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っているものも同じようにせよ。」下着を二枚持っている者は、私たちから見ると随分貧しいかもしれません。それでももっと貧しい人と分け合いなさいと、ヨハネは求めます。「食べ物を持っている者も同じようにせよ。」ある人は言います。「自分のパンを自分のためだけに取っておこうとするときに、初めて飢えが始まる。独り占めする人が全くいなくなれば、飢えはかなり防げる可能性が出て来るのでしょう。米不足の今、特に心に刻みたいと思います。
先週の週報に書いた通り、私ども夫婦は約二週間前8月26日(月)に、長野県の下伊那郡阿智村にある満蒙開拓平和記念館を見学しました。1931年頃から、国策で約27万人の日本人が満州開拓団として中国大陸に渡りました。長野県から行った人々が3万人以上で、最多です。背景には経済的な貧しさがありました。しかし満州は無人の土地ではなく、日本政府が安く買い上げた土地などを開拓すると言っても、現実には追い出された中国人も多く、結局は中国人の土地を奪って開拓しました。現地に行った開拓団にもそれが分かったはずですが、結局は多くの人々はそのことには目をつむったと記念館での文章に書いてありました。罪と言わざるを得ません。ヨハネなら、ことも厳しく叱るでしょう。満蒙開拓団には加害の面と被害の面があるので、開拓を美化することはできないと書かれていました。
その後、日本が敗戦した少し前からソ連軍が攻め込んで来て、悲劇の逃避行が始まります。男の多くは既に徴兵されて不在で、いた男たちもソ連軍によってシベリア等の収容所に送られました。多くの人が命を落とす中で、日本に連れて帰ることは無理だと思われた多くの乳幼児が中国人に預けられたり、売られたりしました。よくご存じの中国残留日本人孤児です。1981年ころから一時帰国しての肉親捜しが本格的に始まりましたが、育てて下さった中国人の養父母の方々は実に偉いと思います。色々な養父母がいたとしても、それでもその方々から日本が受けた恩義は。非常に大きなもので、決して忘れることなく感謝すべき恩義だと、記念館で写真や資料を見て、改めて思いました。ご自分たちも貧しいのに、日本人の子どもたちに食べ物も着る者も分けて下さったからです。きっと洗礼者ヨハネも、その方々のことを称賛するだろうと思うのです。中国の政治的リーダーが怖いからミサイルを配備する等よりも、こんなに中国人に愛を与えられたことを、深い感謝を込めて思い起こすことが必要と思います。
ヨハネのもとに、徴税人も洗礼(バプテスマ)を受けるために来ました。徴税人は、イスラエル人ですが、ローマ帝国の下部役人のような形で、同胞のイスラエル人たちから税金を徴収して、しかも規定より多く徴収して、私腹を肥やしていました。自分がもつ小さな権力を不当に行使して、不正にお金をためていました。ヨハネは「規定以上のものは取り立てるな」と求めました。当たり前のことです。徴税人をやめて、職を失って路頭に迷うことは求めませんでした。その意味では、当人の生活が破綻することまでは求めず、不正と罪は明確に捨て、現実的に可能な範囲で、精一杯の隣人愛の実行を求めたのです。14節「兵士も、『この私たちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ』と言った。」この兵士は、ローマ軍の兵士なのか、あるいはガラテヤの領主ヘロデ・アンティパスの兵士の可能性もあるそうです。兵士も槍などを持っていますから、民衆から見れば怖い存在です。槍などで脅してゆすり取ったり、だまし取ったりしていました。ヨハネは、そのような悪は全面的にやめて、むさぼりの罪を犯さず、自分の給料満足せよ、と求めます。ここでもヨハネは、兵士をやめよとまでは言っていません。兵士をやめて路頭に迷うことは求めず、兵士の力を悪用して金を得ることはやめ、足るを知ることを求めています。兵士は実行したでしょう。こうしてヨハネは、小さな権力者たちが、弱い庶民から不正に金を奪うことを止めさせ、イスラエルの中から罪を減らし、救い主イエス・キリストの伝道が始まる前の、地ならしを実行致しました。
それにしても、改めて思います。神様は一人の人が罪を悔い改めることを、私たちが思う以上に喜んで下さることを。今月の礼拝の招詞は、ルカ福音書15章7節のイエス様の御言葉です。「言っておくが、このように悔い改める一人の罪人(つみびと)については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも、大きな喜びが天にある。」これはやはり驚くべき御言葉だと感じます。私たちはもしかすると、99人の正しい人の方が、一人の悔い改め罪人(つみびと)よりも、大切だという常識に生きているかもしれないのです。99人の正しい人がいることも大事です。その方が社会が安定することは確かだからです。しかし神様は、一人の罪人(つみびと)が悔い改めて神様に立ち帰り、永遠の命を得ることを、私が思う以上に喜んで下さることが分かります。旧約聖書のエゼキエル書18章31節以下で、神様がイスラエルの民にこう言われます。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ、と主なる神は言われる。」
15~18節「民衆はメシア(救い主)を待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『私はあなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、私よりも優れた方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。そして、手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。』ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。」ヨハネは厳しいメッセージを語ったと感じますが、実に謙遜です。「自分は救い主ではない。私はその方(メシア)の履物のひもを解く値打ちもない」と言いました。これは彼の本心だったはずです。彼はヨハネ福音書3章ではこう語っています。「あの方(救い主イエス・キリスト)は栄え、私は衰えねばならない。」それでよい。私はそれで本望だ。この謙遜さは、使徒パウロにも似ています。パウロは言いました。「私は罪人(つみびと)の頭(かしら)」(テモテへの手紙(二)1章15節)。「自分を全く取りに足りない者と思い」(使徒言行録20章19節)。この後、ヨハネは、領主へロデ・アンティパスの罪を指摘したため、彼に憎まれて投獄されます。正しく生きたのに、不当な苦難を受ける。イエス様の十字架にも似た苦難です。苦難を恐れず、どこまでも神様に従った洗礼者ヨハネを神様は喜ばれ、永遠の命、復活の体を与えて報いて下さるに、違いありません。アーメン。イザヤ書58。
(イザヤ書40:3~5) 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。
(ルカ福音書3:1~20)
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第17主日公同礼拝の公同礼拝です。新約聖書は、ルカによる福音書3章1~20節、説教題は「洗礼者ヨハネの登場」です。小見出しは、「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」です。この直前には、イエス様が12歳の時の出来事が記されていました。3章は、それから約18年たっています。
1節「皇帝ティべリウスの治世第15年、ポンティオ・ピラトはユダヤの総督、ヘロデ(ヘロデ・アンティパス)がガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、アンナスとカイアファが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」ここに当時のこの地方の6人の権力者の名前が記されていて、時期の特定に役立ちます。ポンティオ・ピラトがユダヤの総督だった時期は、紀元26年から36年であり、これは発掘された石碑に明確に記されていたそうです。イエス様より約半年早く生まれたザカリアとエリサベトの子ヨハネ、洗礼者ヨハネが活動を開始します。ヨハネも約30才です。「アンナスとカイアファが大祭司であったとき」と記されています。カイアファが大祭司職にあったのは紀元18年から36年まで、カイアファのしゅうとであるアンナスが大祭司職にあったのは、それより前の紀元6年から15年まです。ヨハネとイエス様の活動時期に、アンナスは正式な大祭司ではなかったのですが、カイアファのしゅうとである立場により、なお大祭司の称号と権威を保持していました。院政を敷いていたようなものですね。
このような権力者たちに比べて、ヨハネはイエス様の荒れ野(砂漠)にいて、真に質素な生活をしていました。マタイ福音書3章によると、「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物」とする、貪欲と正反対の真に清い生活を送っていました。荒れ野は、人間の生存さえも厳しい環境だと思います。イスラエルの荒れ野にはクムランという場所があり、そこではクムラン教団と呼ばれる人々が修道院のような祈り深い生活をしていたと分かっています。そこの人々は、非常に質素に暮らしているためか、非常に長寿だったと聞いています。洗礼者ヨハネも、もしかするとこのクムラン教団のメンバーだったのではないかと推測する人もおりますが、はっきりとは分かりません。
3節以下「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」洗礼者ヨハネは新約聖書の登場人物ではありますが、旧約の時代の最後の預言者と呼ぶことができます。神様が彼をイスラエルに送ることは、旧約聖書の最後の書・マラキ書3章の最後に明記されています。「見よ、私(神様)は、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。」洗礼者ヨハネは、預言者エリヤの霊をもつ、エリヤの再来です。彼が「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」とありますが、この父は父なる神様ではなく、イスラエル社会の一般の父親です。当時のイスラエルでは、父親と息子が対立していることが多かったようです。再来の預言者エリヤの導きによって父親と息子が悔い改め、和解することが、ここで述べられています。こうして多くの父子が和解することで、神様の怒りが和らぎ、神様の裁きが回避されると言っているようです。
洗礼者ヨハネもまた、かたくなになっているイスラエルの人々を悔い改めに導き、人々が神の怒りを受けないで済むようにし、人々の心をへりくだりに導いて、ヨハネの後に働きを開始する真の救い主が働きやすいように、人々を神への悔い改めに導いて、救い主が働く環境を準備することが使命です。ヨハネは、罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えました。私たちが受けた洗礼は、イエス・キリストの十字架での贖いの死と復活を土台とした洗礼ですから、いわば完全な洗礼です。ですがヨハネが授けた洗礼は、まだイエス様の十字架の死と復活によるすべての罪の赦しと復活が起こっていないので、その意味ではまだ完全とは言えない、準備段階の洗礼だったと言えます。それでも神の意志に従ってヨハネは洗礼を授けていたのですから、人々がへりくだってヨハネから洗礼を受けることは、神様に喜ばれることでした。
洗礼者ヨハネが登場して宣教することは、旧約聖書のイザヤ書40章で預言されていると、このルカによる福音書は記します。「荒れ野で叫ぶ者(ヨハネ)の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はすべて低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」ここには荒れ野という自然界の曲がった道がまっすぐになり、でこぼこの道が平らによくなることが描かれていますが、同時に私たち人間の心の中の荒れ野が、よい状態に変えられていくことを述べているのでしょう。ヨハネのメッセージによって、神様の愛の働きによって、人の心の荒れ野が正常になり、平和に向かうことが述べられていると思います。そして「人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」救い主イエス・キリストを仰ぎ見るということと思います。
ヨハネは、イスラエルの群衆に厳しいメッセージを語ります。7節「そこでヨハネは、洗礼(バプテスマ)を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。『蝮の子らよ。』」これは相当厳しい呼びかけです。「悪魔の子らよ」という意味と思います。「差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。」神の怒りは確かにあります。私たち人間の罪に対する、神様の聖なる怒り、正当な怒りです。神様は大変忍耐強い方なので、私たちの罪をなかなか裁かず、忍耐して下さっています。そして父なる神様は、そのすべての怒りを、十字架のイエス・キリストに集中砲火的にぶつけられました。イエス様が十字架で、私たちの罪に対する父なる神様の聖なる怒りを、全て引き受けて下さったお陰で、私たちは父なる神様の正当な聖なる怒りを、まともに受けずに済んでいます。イエス様が十字架上で、父なる神様の聖なる怒りを全て、受けとめて下さったお陰です。
8節「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父(先祖)はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たち(子孫たち、真の救いを受け継ぐ者たち)を造り出すことがおできになる。」悔い改めは、方向転換です。いわゆる反省と少し違うかもしれません。反省は神様なしでもできるかもしれませんが、悔い改めは、自己中心的に生きる生き方から方向転換して、神様を礼拝して、神様の御心に適う生き方に進むことです。もう少し具体的に言うと、聖霊に助けられ、神様を礼拝ながら、神の戒めであるモーセの十戒を行いながら生きることです。神様を愛り、隣人を愛して生きることです。そうすれば必ず悔い改めの良い実を結ぶことができます。
「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。」自分たちは、神様に選ばれた偉大な人アブラハムの血を引く子孫だ。神に選ばれた民イスラエルの一員だ。だから自動的に祝福され、天国を約束されている。神様に従う生き方をしなくても大丈夫だ」などと思い上がってはいけない。アブラハムの真の子孫は、神様に従う人だ。「神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子たち(アブラハムと同じ信仰に生きる人たち)」を作り出すことがおできになる。」全くその通りです。私たち自身がその証拠です。イスラエルからはるか遠く離れた極東の日本に住む私たち、アブラハムとは血縁関係が全然ない完全に異邦人の私たちが、イエス様によって永遠の命を約束された神の民になっているのですから。ヨハネは厳しく迫ります。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」群衆に、本心から神に立ち帰ることを求めたのです。
群衆は、ヨハネの迫真のメッセージに心を打たれ、「悔い改めよう」との気持ちに導かれたのです。10節「そこで群衆は、『では、私たちはどうすればよいのですか』 と尋ねた。ヨハネの導きを求めたのですね。ヨハネは、具体的なアドヴァイスをします。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っているものも同じようにせよ。」下着を二枚持っている者は、私たちから見ると随分貧しいかもしれません。それでももっと貧しい人と分け合いなさいと、ヨハネは求めます。「食べ物を持っている者も同じようにせよ。」ある人は言います。「自分のパンを自分のためだけに取っておこうとするときに、初めて飢えが始まる。独り占めする人が全くいなくなれば、飢えはかなり防げる可能性が出て来るのでしょう。米不足の今、特に心に刻みたいと思います。
先週の週報に書いた通り、私ども夫婦は約二週間前8月26日(月)に、長野県の下伊那郡阿智村にある満蒙開拓平和記念館を見学しました。1931年頃から、国策で約27万人の日本人が満州開拓団として中国大陸に渡りました。長野県から行った人々が3万人以上で、最多です。背景には経済的な貧しさがありました。しかし満州は無人の土地ではなく、日本政府が安く買い上げた土地などを開拓すると言っても、現実には追い出された中国人も多く、結局は中国人の土地を奪って開拓しました。現地に行った開拓団にもそれが分かったはずですが、結局は多くの人々はそのことには目をつむったと記念館での文章に書いてありました。罪と言わざるを得ません。ヨハネなら、ことも厳しく叱るでしょう。満蒙開拓団には加害の面と被害の面があるので、開拓を美化することはできないと書かれていました。
その後、日本が敗戦した少し前からソ連軍が攻め込んで来て、悲劇の逃避行が始まります。男の多くは既に徴兵されて不在で、いた男たちもソ連軍によってシベリア等の収容所に送られました。多くの人が命を落とす中で、日本に連れて帰ることは無理だと思われた多くの乳幼児が中国人に預けられたり、売られたりしました。よくご存じの中国残留日本人孤児です。1981年ころから一時帰国しての肉親捜しが本格的に始まりましたが、育てて下さった中国人の養父母の方々は実に偉いと思います。色々な養父母がいたとしても、それでもその方々から日本が受けた恩義は。非常に大きなもので、決して忘れることなく感謝すべき恩義だと、記念館で写真や資料を見て、改めて思いました。ご自分たちも貧しいのに、日本人の子どもたちに食べ物も着る者も分けて下さったからです。きっと洗礼者ヨハネも、その方々のことを称賛するだろうと思うのです。中国の政治的リーダーが怖いからミサイルを配備する等よりも、こんなに中国人に愛を与えられたことを、深い感謝を込めて思い起こすことが必要と思います。
ヨハネのもとに、徴税人も洗礼(バプテスマ)を受けるために来ました。徴税人は、イスラエル人ですが、ローマ帝国の下部役人のような形で、同胞のイスラエル人たちから税金を徴収して、しかも規定より多く徴収して、私腹を肥やしていました。自分がもつ小さな権力を不当に行使して、不正にお金をためていました。ヨハネは「規定以上のものは取り立てるな」と求めました。当たり前のことです。徴税人をやめて、職を失って路頭に迷うことは求めませんでした。その意味では、当人の生活が破綻することまでは求めず、不正と罪は明確に捨て、現実的に可能な範囲で、精一杯の隣人愛の実行を求めたのです。14節「兵士も、『この私たちはどうすればよいのですか』と尋ねた。ヨハネは、『誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ』と言った。」この兵士は、ローマ軍の兵士なのか、あるいはガラテヤの領主ヘロデ・アンティパスの兵士の可能性もあるそうです。兵士も槍などを持っていますから、民衆から見れば怖い存在です。槍などで脅してゆすり取ったり、だまし取ったりしていました。ヨハネは、そのような悪は全面的にやめて、むさぼりの罪を犯さず、自分の給料満足せよ、と求めます。ここでもヨハネは、兵士をやめよとまでは言っていません。兵士をやめて路頭に迷うことは求めず、兵士の力を悪用して金を得ることはやめ、足るを知ることを求めています。兵士は実行したでしょう。こうしてヨハネは、小さな権力者たちが、弱い庶民から不正に金を奪うことを止めさせ、イスラエルの中から罪を減らし、救い主イエス・キリストの伝道が始まる前の、地ならしを実行致しました。
それにしても、改めて思います。神様は一人の人が罪を悔い改めることを、私たちが思う以上に喜んで下さることを。今月の礼拝の招詞は、ルカ福音書15章7節のイエス様の御言葉です。「言っておくが、このように悔い改める一人の罪人(つみびと)については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも、大きな喜びが天にある。」これはやはり驚くべき御言葉だと感じます。私たちはもしかすると、99人の正しい人の方が、一人の悔い改め罪人(つみびと)よりも、大切だという常識に生きているかもしれないのです。99人の正しい人がいることも大事です。その方が社会が安定することは確かだからです。しかし神様は、一人の罪人(つみびと)が悔い改めて神様に立ち帰り、永遠の命を得ることを、私が思う以上に喜んで下さることが分かります。旧約聖書のエゼキエル書18章31節以下で、神様がイスラエルの民にこう言われます。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ、と主なる神は言われる。」
15~18節「民衆はメシア(救い主)を待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『私はあなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、私よりも優れた方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。そして、手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。』ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。」ヨハネは厳しいメッセージを語ったと感じますが、実に謙遜です。「自分は救い主ではない。私はその方(メシア)の履物のひもを解く値打ちもない」と言いました。これは彼の本心だったはずです。彼はヨハネ福音書3章ではこう語っています。「あの方(救い主イエス・キリスト)は栄え、私は衰えねばならない。」それでよい。私はそれで本望だ。この謙遜さは、使徒パウロにも似ています。パウロは言いました。「私は罪人(つみびと)の頭(かしら)」(テモテへの手紙(二)1章15節)。「自分を全く取りに足りない者と思い」(使徒言行録20章19節)。この後、ヨハネは、領主へロデ・アンティパスの罪を指摘したため、彼に憎まれて投獄されます。正しく生きたのに、不当な苦難を受ける。イエス様の十字架にも似た苦難です。苦難を恐れず、どこまでも神様に従った洗礼者ヨハネを神様は喜ばれ、永遠の命、復活の体を与えて報いて下さるに、違いありません。アーメン。イザヤ書58。