
2025-02-09 1:27:05()
「夜を徹して祈るキリスト」2025年2月9日(日)降誕節第7主日公同礼拝
(出エジプト記19:3~6) モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
(ルカ福音書6:12~19) そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
(説教) 本日は、降誕節第7主日の礼拝です。説教題は「夜を徹して祈るキリスト」、小見出しは「十二人を選ぶ」です。
イエス様が、新しい信仰の生き方を、身をもって示しておられます。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」とおっしゃり、「人の子(ご自分)は安息日の主である」とおっしゃり、ご自分が安息日を制定した神、ご自分こそ安息日がどのような日か決める立場にある者だと宣言されました。そして、安息日が礼拝の日であると共に、積極的に善を行い、命を救う日であると教えられました。そのイエス様が、そのように共に生きる弟子たちを選ばれます。
最初の12節「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」人里を離れて、静かな山に行って、世を徹して父なる神様に祈られました。ご自分の最も身近に置く12名を選ぶためです。思いつきでこの大切な12名を選ぶことはできません。どの山に登られたのか、分かりません。私たちも山に登ると、現実の煩わしさからしばし逃れ、フレッシュな気持ちになります。おいしい空気・酸素を吸って、清々しい気持ちになります。山は天に近い所、神様に近い所とも言えます。もちろん地上にいても、神様はいつも私たちと共にいて下さいます。ですが清々しい山に行くと、私たちは信仰が深まる思いになると思うのです。
旧約聖書の偉大な信仰者モーセも、神様が十戒をお示しになる少し前に、山に登りました。シナイ山です。本日の旧約聖書である出エジプト記19章3節以下、「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。『ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た。私がエジプト人にしたこと。また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。今、もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、私の宝となる。世界はすべて私のものである。あなたたちは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。』」神様はこうおっしゃって、イスラエルの12部族の人々が、神様の宝の民、祭司の王国、聖なる国民になると宣言されました。
ですが、旧約聖書のイスラエルの12部族の人々は、神様に従った時もありますが、真の神様から離れて偶像礼拝(偽物の神=正体は悪魔)を礼拝することも、少なくなかったのです。神の子のイエス様は今、12人の弟子たちを選んでおられます。彼らは「新しいイスラエル」です。ある説教者の言い方では、イエス様がいわば「やり直し」を行っておられる。12名の弟子たちを選ぶことによって、「新しいイスラエル」、「新しいい神の民」をここに選び出しておられます。イエス様もイエス様の12弟子たちも、イスラエル人です。ですから「新しいイスラエル」も、その土台は旧約聖書以来の神の民イスラエルに土台をもっています(つながっています)。そこから出発して、この「新しいイスラエル」つまりキリスト教会は、イエス様を救い主と信じる異邦人(イスラエル人以外の外国人)をもメンバーとして受け入れます。どんどん受け入れます。ですから「新しいイスラエル」は、外国人をも力強く招き入れる神の民です。私たち日本人クリスチャンも皆、「新しいイスラエル」(つまりキリスト教会)のメンバーです。
13節「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から12人を選んで使徒と名付けられた。」マルコ福音書3章によると、イエス様が彼らを任命されたのは、彼らを自分の傍に置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」と書かれています。この前からイエス様の弟子になった人々はいました。既に5章でシモン・ペトロと、おそらくその兄弟アンデレも、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟、徴税人レビが弟子になっています。選ばれた12弟子たちは、使徒と名付けられました。使徒とは、「遣わされる者」の意味だと思います。彼らは今は、イエス様と寝食を共にします。彼らが実際に伝道に派遣されるのは、ルカ福音書9章においてです。その後、さらに本格的に伝道に派遣されるのは、イエス様の十字架と復活後になります。使徒たちが重要なのは、彼らがイエス様の復活の目撃者であるからです。但しイスカリオテのユダは例外です。
14~16節に、イエス様が徹夜で祈って選ばれた12名の名前が記されています。この順序も重要です。12名の中に差別はありませんが、トップに来るのは、イエス様がペトロ(岩)と名付けられたシモンです。イエス様は、マタイ福音書16章で、シモンに言われました。「あなた方はペトロ(岩)。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府(死の国)の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」イエス様は、ペトロに代表される教会に、天国の鍵を授けられました。もちろん、天国の鍵を本当に握っておられる方は、イエス・キリストです。ですがイエス様は、天国の鍵を、シモン・ペトロに代表されるキリスト教会にお委ねになりました。天国に入るための鍵とは、真の救いを与える聖書の御言葉であり、洗礼であり聖餐です。教会は、真の救いを与える聖書の御言葉、洗礼、聖餐という天国の鍵を、イエス・キリストから委ねられています。次に期されたアンデレは、シモンの兄弟です。
その次は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟です。マルコ福音書3章には、イエス様がこの二人にボアネルゲス「雷の子ら」という名を付けられたと、書かれています。非常に激しい性格だったのでしょう。フィリポは、ヨハネ福音書6章に出て来ます。バルトロマイについては、不明です。7人目のマタイは、マタイ福音書によれば徴税人です。この徴税人マタイは、ルカ福音書5章の徴税人レビと同一人物かもしれません。8番目のトマスは、ヨハネ福音書20章に出て来るトマスで、イエス様の復活を疑った人です。トマス以外の弟子たちが、復活されたイエス様に出会ったのですが、トマスは信じませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と主張しました。しかし、もう一度来て下さったイエス様に出会い、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく。信じる者になりなさい」と諭されたとき、「私の主、私の神よ」と告白したのです。
9人目のアルファイの子ヤコブのことは、よく分かりません。マルコ福音書15章40節のイエス様の十字架の場面に、「小ヤコブとヨセの母マリア」が登場しますが、この小ヤコブと書かれた人と同じと思われます。10人目の「熱心党のシモン」は、イスラエルの熱心党という政治的なグループのメンバーです。ローマ帝国からの独立運動に熱心に燃えていたグループのメンバーです。11人目の「ヤコブの子ユダ」のことも、よく分かりません。マルコ福音書3章の12人のリストに登場するタダイと同じ人ではないかと思われます。12人目(最後)が問題の人物です。「後に裏切り者になったイスカリオテのユダである。」イスカリオテは地名と言われます。イエス様がなぜユダを選ばれたのか、謎です。ユダの裏切りをイエス様が予見できないはずはありません。なぜユダを選ばれたのか、謎としか言えません。
それにしても、イエス様が12名を選ぶために、夜を徹して祈られたことが、とても印象的です。イエス様が、弟子たちのために祈られたのは、このときだけではないに違いありません。イエス様は、毎日、弟子たちのためにお祈りなさったと思うのです。十字架の前夜、イエス様はペトロに言われました。「シモン、シモン、サタン(悪魔)はあなた方を小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様は、ペトロの信仰がなくならないように祈られたのです。ほかの11人のためにも祈られたでしょう。イエス様が捕らえられたとき、ペトロはイエス様を三回否定してしまいます。「私はあの人を知らない。」「いや、そうではない(仲間ではない)。」「あなたの言うことは分からない。」こう言い終わらないうちに、鶏が鳴き、イエス様が振り向いてペトロを見つめられます。ペトロは外に出て、激しく泣きました。自分の命が危険になると、人はなかなか信仰を貫けないのでしょう。しかしペトロは、立ち直ります。イエス様の弟子・使徒として働き、殉教の死を遂げます。ペトロを支えたのは、イエス様のとりなしの祈りです。ペトロの罪が赦されるように。ペトロの信仰がないならないで、弟子として立ち直れるように、イエス様が予め祈って下さいました。
そしてイエス様による最大のとりなしは、十字架です。十字架にかかって、ペトロの罪をも背負い、私たちの全ての罪の責任も、背負いきって下さいました。十字架につけられたイエス様は、祈られました。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているか、知らないのです。」ご自分を殺す人々の罪が赦されるように、とりなしの祈りをなさったのです。そして十字架こそ、イエス様による私たちのための、最大のとりなしです。十字架の直前にもゲツセマネで、(ルカ福音書の言葉ではオリーブ山で)、汗が血のように滴る祈りをなさって、十字架に向かわれました。そして「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているか、知らないのです。」このように、イエス様の地上のご生涯は、まさにとりなしのご生涯だったと思うのです。
十字架で死なれたイエス様は、三日目に復活されました。今、私たちイエス様を救い主と信じる者は、イエス様のお陰ですべての罪を赦され、確実に永遠の命、復活の命を、今既にいただいています。地上の命が終わっても、天国に入ること、最終的には復活の体をいただくことを約束されています。本日のルカによる福音書は、12人の使徒たちを選ぶ場面です。私たちも、イエス様に選ばれて教会に来ています。ヨハネ福音書15章15節以下で、イエス様は言われます。「私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」私たちも、イエス様によって選ばれて、ここにいます。
イエス様は、ヨハネ福音書17章で、「大祭司の祈り」と呼ばれる長い祈りをなさいます。十字架の直前と言えます。12弟子のためにとりなして、こう祈られました。「私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えて下さった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子(ユダ)のほかは、誰も滅びませんでした。~私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守って下さることです。私が世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者として下さい。」
イエス様はさらに、弟子たちの伝道によって、イエス・キリストを信じるようになる人々のためにも、とりなしの祈りをなさいます。イエス様の直弟子でない私たちのためにも祈られたのです。「私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、私に与えて下さった人々を、私のいる所(天国)に、共におらせて下さい。それは、天地創造の前から私を愛して、与えて下さった私の栄光を、彼らに見せるためです。」イエス様のとりなしの祈りは必ず聞かれるので、私たちもイエス様がおられる天国に入れていただき、そこでイエス様の栄光を仰ぐことになります。
もう1つの大きな恵みは、イエス・キリストが天で、今も私たちのために執り成していて下さる事実です。それはもちろん、十字架による罪の赦しが不十分という意味ではありません。イエス様の十字架は、確かに私たちが一生で犯す全部の罪を背負いきられた十字架です。イエス様の十字架と復活による救いは、完璧です。イエス様が今も私たちのために天でとりなしていて下さるのは、私たちの全ての罪が赦されているけれども、なお残っている罪に従って生きないように、神の清き霊である聖霊に満たされて、イエス・キリストに従って生きるように、とりなしておららると思います。ローマの信徒への手紙8章34節に、こう書かれています。「誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです。」実にありがたいことです。
ヘブライ人への手紙7章24、25節にはこう書かれています。「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たち、完全に救うことがおできになります。」本当にありがたいことです。「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たち、完全に救うことがおできになります。」今も天で生きて私たちのために、父なる神様にとりなしを行って下さっているイエス・キリストが、私たちを完全に救って下さいます。
この偉大なとりなし手イエス様に支えられ、私たちもイエス・キリストを宣べ伝え、人様のために執り成しの祈りを献げます。何回かお話した祈りについての名著『祈りの精神』という本には、「とりなしの祈りの効果は絶大である!」と記されていて、読む私たちに勇気を与えてくれます。私たちはイエス様に支えられて、自分の為にも祈り、人様がイエス様を信じて下さるように、病の方々の病が癒されるように、勇気をもって執り成しの祈りに励んで参りましょう。アーメン。
2025-02-02 1:09:35()
説教「善を行い、命を救う安息日」2025年2月2日(日)降誕節第6主日公同礼拝
(ルカ福音書6:1~11) ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」
また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。
(説教) 本日は、降誕節第6主日の礼拝です。説教題は「善を行い、命を救う安息日」、小見出しは「安息日に麦の穂を摘む」と「手の萎えた人をいやす」です。
第1節「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。」この行為は、今の日本では、イエス様の時代のイスラエルとは別の理由で問題になると思います。私の妻の母親の家は、さいたま市にありますが、荒川のすぐそばで、近くに田んぼがあり、夏の終わり頃には稲穂が垂れていて非常に美しいのです。美しいのでスマホで写真を撮りますが、稲穂からお米を取り出して食べたりはしません。それを行うと犯罪になるのではないでしょうか。東久留米でも昨年秋は柿が豊作で、色々な家の庭の柿の木に柿が実っていましたが、昔は分かりませんが、他人の家の柿の木から柿をとって食べる人は見かけません。勝手に取って食べると、窃盗になるのでないかと思います。
ですが、イエス様の時代のイスラエルでは、このような行為は、ある程度認められていたようです。旧約聖書の申命記23章25~26節にこうあります。「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」寛容で、驚きます。隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてよい。但し、籠に入れて持ち帰ることはだめ。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよい。食べてもよいのだと思います。但し鎌を使ってたくさん刈り取ることは禁止。イエス様の弟子たちが行ったことは、麦の穂を摘み、手でもんで食べたことですから、通常はOKの行為です。ちなみに、この旧約聖書の寛容な規定は、お金がなく貧しい人々が、これくらいのことを行って食べることはOKにするという、神様の愛と憐れみを示していると思います。
旧約聖書のレビ記19章9節以下では、畑の持ち主に対して、このように語られています。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂(落ちた穂)を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。私はあなたたちの神、主である。」畑の持ち主であっても、収穫物をことごとく自分のものにしてはいけないので、貧しい人々が自由に持っていける分を残しておくように、神様が命じておられます。実際、旧約聖書のルツ記を読むと、異邦人(外国人)の若い女性ルツが貧しかったので、ボアズという人の畑で落ち穂拾いをする場面があります。ボアズも寛容な人なので、咎めないどころか、若者に指示して、わざと落ち穂を増やすようにさえしています。
このように、神様が貧し人々のために、畑の作物の一部を無償提供して下さることが分かります。イエス様と弟子たちも貧しかったはずです。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べ始めた。」先ほども申した通り、これは普段の日においては完全に合法で、問題のない行為です。ですがそれが安息日であったことが、火種をもたらします。2節「ファリサイ派のある人々が、『なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか』と言った。」
ご存じのように、モーセの十戒の第四の戒めが安息日の戒めです。出エジプト記20章と申命記5章に記されています。イエス様の行為を理解するには、申命記5章に記された十戒を読む方がよいと思います。申命記5章12節にはこうあります。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国の奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」
今でもイスラエルに行くと、安息日の土曜日には商店等は閉まっていると聞いています。キリスト教会は、イエス・キリストが復活なさった日曜日に礼拝の日を変えましたが、イギリスやドイツに行った方に伺うと少し前まで日曜日はお店がしまっている、あるいは午前は閉まっていて、午後のみ営業していると聞いています。日本では個人商店は日曜日に営業しない場合も少なくないでしょうし、学校や病院も開いていません。でも大きなお店は、日曜日こそかき入れ時と、大抵営業しています。私たちは24時間営業のコンビニ等がある生活を当たり前に考えているかもしれませんが、これは異常なことだと考える方がよいのではないかと思います。日曜日は礼拝の日だということを、日本社会にも定着させたいですね。あまり便利だと、私たち人間は自分の欲望に任せて、しなくてもよい行動を行ってしまいます。
東日本大震災のとき、東京でも計画停電がありました。もちろん震災は非常に不幸な出来事で、発生しない方が良かったのですが、あの時、原子力発電所の事故がありました。しかし今はそれを忘れて原発再稼働が叫ばれ、電気をたっぷり使う生き方に疑問も持たずに進もうとしています。最近あるクリスチャンが言われたのですが、コロナ禍は非常に不幸な出来事だ。コロナで色々な活動がストップした。人々があまり移動しなかったので、飛行機等の便数も減ったのではないでしょうか。環境汚染が減り、自然界にとっては安息になった。コロナ禍が収まりつつあることは喜ばしいですが、また人間の大移動が再開され、飛行機も多く飛び、環境汚染が再開された。もちろん大震災もコロナもない方がよいのですが、人間が活動し過ぎるのも、自然界を汚染します。それを止めて、日曜日には皆で礼拝し、人間の欲望に任せた活動を中断し、売り買いをささやかにすれば、自然破壊も少しは止まり、シャローム(平安、安息が)が進むのではないでしょうか。安息日は、非常に必要だと思うのです。安息は、人間のためにも、家畜のためにも、自然界のためにも必要。アメリカかヨーロッパの話と思いますが、少し裕福な人々は、普段は馬車に乗る生活をしていた。しかし日曜日の礼には歩いて行ったそうです。馬を休ませるためですね。安息日は、動物愛護の日でもあるのですね。
ルカ福音書に戻りますが、イエス様の時代には安息日の戒めが、あまりにも厳格に行われていたと思います。イエス様の弟子たちの行為を、ファリサイ派の人々が非難します。「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか。」摘んだことは刈り取り、もんだことは脱穀の仕事をしたと、当時解釈されていたそうです。安息日の戒めを破ったと見なされました。私たちから見ると、あまりにも極端な考えに思えます。前にもお話しましたが、旧約聖書と新約聖書の中間の時代のイスラエルの歴史を記したマカバイ記という書物があります。私たちが用いる新共同訳聖書では続編という名称です。これが含まれる聖書も売られていますが、東久留米教会備え付けの聖書には、含まれていません。アンティオコス・エピファネスという悪い王が、ユダヤ教を迫害した時がありました。信仰を守り抜こうとするユダヤ人たちは、災いを避けて荒れ野に行って住みました。王の軍隊が追って、安息日に戦いを仕掛けました。ユダヤ人たちは、安息日に敵に抵抗することも、仕事をして安息日の戒めに反することになると考え、応戦せず、石を投げることも隠れ場を守ることもせず、こう言いました。「我々は全員潔く死ぬ。お前たちが我々を不当に殺したことを天地が証言してくれよう」と言って、敵の攻撃を受けて1000人が犠牲になったと書かれています。
狂気じみていますが、そこまで命がけで安息日を守ったユダヤ人たちがいたのです。さすがにその後は方針を変えて、安息日だから敵の攻撃に抵抗もしなければ、自分たちは地上から抹殺されてしまう。安息日であっても、攻撃してくる敵に対しては戦おう、と変わりました。しかし、死んでもよいから安息日を守ったユダヤ人たちがいたから、その後のイエス様の時代にも、異常なほど熱烈に安息日を守ろうとしたファリサイ派の人々が出現したのではないかと思います。但し、ファリサイ派の人々の安息日への熱心さは、イエス様からご覧になれば的外れな熱心さでした。
イエス様は、お答えになります。「ダビデ(イスラエル王になる前)が自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」このエピソードは、旧約聖書のサムエル記・上21章に出ています。これは安息日の出来事だったようです。確かにこの時、ダビデは安息日に、祭司しか食べてはいけない神に供える聖なるパン(新しいパンと取り替えた古いパン)を食べ、供の者たちも食べたと読めます。そして何の咎めも受けていません。イエス様は、「だから私たちの弟子たちが行ったことも正当なことだ」とおっしゃっています。イエス様がおっしゃりたいことは、ご自分はダビデ以上の者(神の子)、神の家(神殿)以上の者、安息日の主だということです。安息日の主だということは、イエス様は神の子・神様ご自身なので、安息日を制定した方だということです。従って当然安息日より上に位置する方、ご自分が旧約聖書を完成する方だ、ということと思います。
次の小見出しは、「手の萎えた人をいやす」です。6~7節「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。」彼らは意地悪な心で、イエス様に注目していました。イエス様はそれを完全に見抜いておられ、手の萎えた人を、あえて「立って、真ん中出なさい」と言われます。イエス様は、他の方の痛みや悲しみに敏感です。この方を憐れんで、癒そうとなさり、現実にいやして下さいました。私たちもまた、身の周りの方々の痛みや悲しみに敏感であるようにと、イエス様から招かれています。この人は身を起こして、立ちました。そしてイエス様は言われました。これこそ、イエス様の主張です。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」もちろん、安息日に行うべきことは、善を行い、命を救うことです。10~11節「そして、彼ら一同を見回して、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。言われたようにすると、手は元通りになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。」殺そうと思ったのですね。
イエス様がこの癒しによって示されたことは、本来安息日、善を行い、命を救う愛と祝福の日だということです。では十戒にある「いかなる仕事もしてはならない」とは、何を意味するのか。そこをじっくり考える必要があるのですが、それは人間の業・行いをストップすること。そして神様の願われる生き方に戻ることと思います。人間がどんどん活動すると、気づかないうちに神様の願いから外れることがあるので、人間の行いを一旦ストップして、礼拝で聖書の御言葉、イエス様の姿に立ち帰ることです。特に私たち人間の罪を、必ずストップしなければなりません。これが「いかなる仕事もしてはならない」の真の意味だと思います。律法学者、ファリサイ派は、聖書を熱心に読んでいたが、解釈を間違えたと思うのです。私たちも、聖書の御言葉を自分勝手に解釈しないで、よく祈ってよく読んで、聖霊に導かれて正しく解釈することが必要と思います。私たちはクリスチャンなので、やはりイエス・キリストを中心にして聖書を読む(理解する)ことが必要と思います。律法学者・ファリサイ派の人々が、怒り狂って、イエス様を殺そうと考えたこの罪こそ、安息日にストップしなければならない大きな罪です。「殺してはならない」というモーセの十戒の第六の戒めを破ろうとしているからです。
私たちはモーセの十戒の第四の戒めが安息日についての戒めであることを、今日も確認したのですが、もっと根源にさかのぼると、安息日の根拠は創世記2章1~4節ですね。「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」この前の日の第六の日に、神様は、神様にかたどって人間を創造なさいました。神様はお造りになったすべてのものを御覧になりました。「見よ、それは極めて良かった」と書かれています。神は、お造りになった世界を見て、「極めて良い」と深く満足され、第七の日に安息なさいました。私たちが神様と一緒に安息するのが安息日です。旧約聖書の人々にとって安息日は土曜日ですが、私たちキリスト教会にとっては、イエス・キリストが復活された日曜日が礼拝の日であり、安息の日です。
神様がお造りになった自然界も動植物も、神様の安息を楽しむ権利を持っています。しかし私たち人間は、生き物を虐待していることもあります。ニワトリをたくさん飼っている畜産業の方々もおられます。もしかするとニワトリをぎゅうぎゅう詰めにして飼育し、食べさせて卵を産ませる。私たち人間のために卵をたくさん産むためにのみ生かされているとすると、ニワトリの安息を奪っているのではないかと考えさせられます。鳥インフルエンザというニワトリの病気が発生すると、何万場も殺処分されます。ある神父が、「あれは本当に愛がない」とおっしゃいました。私たち人間が公害や放射能や、いろいろな形で自然界や動植物から安息を奪っていることも自覚し、そのような罪を減らす努力も必要と思います。神様を礼拝し、イエス様に従い、私たちが互いに安息を与え合い、動植物にも安息を提供する、安息に満ちた世界を造るように、共に祈りつつ励みたいのです。アーメン。
2025-01-26 2:23:15()
「キリストと共に悪と戦う」2025年1月26日(日)降誕節第5主日公同礼拝
(エフェソの信徒への手紙6:10~24) 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
(説教) 本日は、降誕節第5主日の礼拝です。説教題は「キリストと共に悪と戦う」、小見出しは「悪と戦え」。
できるだけ月1回、礼拝でエフェソの信徒への手紙を読むようにしてきましたが、本日が最終回です。この手紙をパウロが書いたと考えて、説教させていただいて参りました。最初の10節でパウロが述べます。「最後に言う。」これが締めくくりの大事なメッセージだと示すのです。
「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」私たちの自力には限界には限界がある、特に悪魔と戦うには力が足りません。そこでパウロは私たちに、神様の偉大な力を受けて、強くなれと求めます。神の力がどんなに偉大か、この手紙の1章19~20節に記されています。「私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせて下さるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、」とあります。神の偉大な力は、イエス様を十字架の死の三日目に復活させなさったほどの強力な力です。その神の力によって強くなれと、パウロは私たちに求めます。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」岩波書店の新約聖書翻訳委員会訳の新約聖書があるのですが、この個所をこう訳しています。「主にあって、そしてその強靭さの持つ剛力によって強くなりなさい。」強烈な訳ですね。「主にあって、そしてその強靭さの持つ剛力によって強くなりなさい。」神の力は強靭で剛力のような強さだというのです。悪魔に対抗・抵抗するためです。信仰生活はある意味では、悪魔との戦いです。高齢化の現状で申し上げにくい面もありますが、悪魔は私たちを誘惑します。「聖書は読まなくてよい、祈らなくてよい、礼拝に行く必要はない、聖書の学び・祈祷会に行く必要はない、定例婦人会・祈祷会に行く必要はない。」もちろん体調不良、非常に高齢、ご家族のケアが必要等でそもそも外出が難しい場合はあるので、それはやむをえません。ですが、信仰生活はある面においては、悪魔との戦いです。悪魔に負けないように、神様から離れないように、礼拝と教会から離れないに心がけることは、もちろん必要です。
パウロは、テモテへの手紙(二)2章3節で述べます。「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と共に苦しみを忍びなさい。兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。」これは伝道者に語られたメッセージですが、クリスチャン全員にある程度当てはまる御言葉と思います。「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と共に苦しみを忍びなさい。」つまり伝道者は、クリスチャンはキリストの兵士だというのです。自分を召集したイエス・キリストにお仕えし、イエス様に忠誠を尽くすために、生きています。パウロの自覚はそうでした。イギリスで始まったキリスト教の一派に救世軍があります。お隣の清瀬市にも救世軍清瀬病院があり、教会と高齢者ホーム等もあります。救世軍は、キリストの愛の軍隊、イエス様の愛の兵士なのですね。イエス様の兵士パウロはさらに書いて、「この福音のために私は苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」パウロが獄につながれていても、神の言葉はつながれていない。すばらしいですね。私たちもこの確信に立って、真の神の言葉・イエス・キリストを宣べ伝える兵士でありたい。
エフェソに戻り11~12節「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。私たちの戦いは、血肉(人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」私たちの敵は、人間ではなく悪魔と悪霊なのです。但し、悪魔に完全に支配された人間もいます。ヒットラーやプーチンです。このような人々には退場してもらう必要があります。ですが、基本的には私たちの敵は、人間ではなく悪魔とその手下の悪霊です。
13節以下に、キリスト者が身に着けるべき神の武具がリストアップされています。8年ほど前ですが、私は横浜開港資料館(当時のイギリス総領事館跡)に行きました。そこにイギリス人が作った金属の銘板がありました。生麦事件をきっかけにイギリスの軍艦と薩摩藩が地上から大砲を撃って戦った薩英戦争のイギリス側の戦死者を悼む銘板ですが、その周囲にこのエフェソの信徒への手紙6章13~17節が刻んでありました。私は違和感をもちました。大英帝国は、薩摩藩との戦争を、悪魔との戦いと見なしたから、銅板にエフェソの信徒への手紙13~17節を刻んだのだろうか。でもあの戦争は、地上の罪人(つみびと)同士の政治的な戦争で、クリスチャンと悪魔との霊的な戦いとは別次元のものだと思うので、戦死者を悼む銅板に、この聖句を刻むのは、筋が違うと感じました。自分の都合のよいように聖句を利用していると思え、このような聖句の用い方は間違いだと感じました。
13節「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」神の武具は、ローマの信徒への手紙13章12節では光の武具、コリントの信徒への手紙(二)6章7節では義の武器と表現されています。13節以下には、神の武具として7つの武具が挙げられています。もちろん、物理的な武器は1つもなく、すべて霊的な武器です。真理(帯)、正義(胸当て)、平和の福音(履物)、信仰(盾)、救い(兜)、神の言葉(霊の剣)、祈りの7つです。クリスチャンの霊的な7つ道具・武器ですね。この中で攻撃の武器は、霊の剣である神の言葉のみです。あとの6つは攻撃の武器ではなく、どちらかと言うと防衛(守る)ための道具・武器です。
まず「真理を帯として腰に締め。」イエス様は、「私は道であり、真理であり、命である」と宣言されましたから、真理はイエス・キリストご自身とも言えます。「正義を胸当てとして着け。」正義は義とも言います。これは人間の義ではなく、神の義を指すと思います。ローマの信徒への手紙3章21節にこうあります。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」「正義を胸当てとして着け」とあります。この正義は、私たちの努力で実現する義ではなく、イエス・キリストを救い主と「信じる者すべてに与えられる神の義」です。神が与えて下さる正義が、私たちを悪魔の攻撃から守ってくれます。
15節「平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」平和の福音を告げる準備という履物・靴を履いて、平和の主イエス・キリストの福音を足で移動して宣べ伝えるのですね。旧約聖書・イザヤ書52章7節以下に、次の美しい御言葉があります。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。」福音・良い知らせを伝える伝道者の足は、美しいというのです。この御言葉は、新約聖書のローマの信徒への手紙10章15節に引用されていて、そこには「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか」と記されています。イエス・キリストを宣べ伝えるなら、私たちの足も美しいのです。私と妻に洗礼を授けて下さった牧師は、残念ながら約2年半前に天に召されたのですが、後に教会がその先生のローマの信徒への手紙の説教集を作成なさったのですが、その題が『美しい足音』です。ローマの信徒への手紙に記されたキリストの福音を宣べ伝える者の足音は、美しいという信仰を、タイトルになさったと思います。
エフェソに戻り16節「なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。詩編3編は、ダビデ王が息子アブサロムに反逆され、逃げているときの詩です。「主よ、私を苦しめる者は、どこまで増えるのでしょうか。多くの者が私に立ち向かい、多くの者が私に言います。『彼に神の救いなどあるものか』と。主よ、それでも、あなたは私の盾、私の栄え、私の頭を高く上げて下さる方。主に向かって声をあげれば、聖なる山から答えて下さいます。」このようにダビデ王も、神様ご自身が自分を守って下さる盾だと告白しています。私たちにとっても、神様ご自身が私たちを悪の力から守って下さる盾です。それを信じる信仰もまた、私たちを守る盾です。盾こそ、守りのための武具です。攻撃のための武具ではありません。
17節「また、救いを兜としてかぶり(兜も頭を守る、防衛の武具)、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」剣は、初めて登場する攻撃の武具です。ですが霊の剣ですから、物理的な剣ではありません。物理的な剣については、イエス様がこう言っておられます。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」霊の剣は、神の言葉です。聖書の言葉と言えます。ヘブライ人への手紙4章12節が思い出されます。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」イエス様も、悪魔の誘惑を受けられた時、神様の御言葉、聖書の御言葉によって、悪魔を撃退なさったのです。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」「あなたの神である主を試してはならない。」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」聖書の言葉という霊の剣によって、悪魔の誘惑をすべて撃退されました。特に重要なのは、「あなたのあ神である主を拝み、ただ主に仕えよ」です。これが信仰の根幹です。
18節「どのような時にも、霊(聖霊)に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」これが最も大切なことと分かります。19~20節「また、私が適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、私のためにも祈って下さい。私はこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈って下さい。」大胆にと訳された言葉は、他の箇所では「公然と」と訳されています。公然と、堂々と、恐れないで語るということと思います。教会の礼拝は、週報に書いてある通り、「公同の礼拝」、つまり公の礼拝です。プライベートな礼拝ではありません。説教も公に語られます。プライベートな語りではありません。
大胆に、公然と、恐れずに語る。先日アメリカでトランプ新大統領が就任し、その行事の一環で、聖公会の教会で女性主教がトランプ氏の前で説教を語りました。細かい部分いついては賛成できない方もあるかと思いますが、私は全体としてはよい内容だと思いました。それはアメリカ大統領という世界最大の権力者に、「世の中で弱い立場にある人々に思いやりをもち、弱い立場にある人々を守ってほしい」と訴えていたからです。権力者を恐れず語っていました。勇気が必要だったでしょう。
パウロは、ローマの信徒への手紙12章21節で、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」暴力に対して暴力で対抗するな。キング牧師の非暴力。平和的抗議、抵抗。 渡邊良三氏。 イエス・キリストに助けられ、イエス様と共に悪に抵抗して参りましょう。アーメン。
2025-01-19 0:17:48()
「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れる」 2025年1月19日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第76回)
(イザヤ58:6~14) わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ/父祖ヤコブの嗣業を享受させる。主の口がこう宣言される。
(ルカ福音書5:33~39) 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第76回)です。説教題は「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れる」、小見出しは「断食についての問答」。
最初の33節「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。』」ヨハネとは、イエス様の公の活動が始まる前に働いた洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネは新約聖書の登場人物ですが、旧約聖書の預言者エリヤの再来であり、旧約(古い契約)の時代の最後の人物と言えます。イスラエルの人々は、洗礼者ヨハネを高く評価していたようです。当時のイスラエルの人々の信仰をユダヤ教と呼ぶならば、ユダヤ教の人々は「施し、祈り、断食」を、非常に重視していたそうです。ですから質素な生活をし、度々断食や祈りをする洗礼者ヨハネとその弟子たちが、高く評価されていました。ファリサイ派の人々も、洗礼者ヨハネに似て、断食や祈りを熱心に行っていました。やはりイスラエルの人々に高く評価されていました。
それに比べると、イエス様の弟子たちは、あまり断食せず、飲んだり食べたりしていたようです。断食とは、食事を一時絶って、祈りに専念することと思います。自分のわがままな欲望を抑える効果もあるのだと思います。イエス様が断食を否定されたわけではありません。イエス様は伝道を開始なさる前に、悪魔の激しい誘惑を受けられました。ルカによる福音書4章です。「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を霊(聖霊)に引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」こうして極限の空腹の中で、悪魔の誘惑と戦い、3の誘惑を完全に撃退し、悪魔に勝利なさったのです。
でも、イエス様の弟子たちは、あまり断食せず、食べたり飲んだりしていたようです。もちろん食べて飲むことは、私たちの命と健康を維持するために、大切なものです。ですから、極端な禁欲主義は、新約聖書の教えではないと思います。テモテへの手紙(一)4章3節には、このように書かれています。ある偽善者たちが、「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りによって聖なるものとされるのです。」
34~35節「そこで、イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなた方にできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。』」花婿は、もちろんイエス・キリストです。旧約聖書では、神様が夫、神の民イスラエルが花嫁・妻です。新約聖書では、イエス・キリストが花婿、教会が花嫁です。イエス様が言われます。「花婿が一緒にいるのに。」花婿が来たことで、状況が一変したのです。断食は悔い改めのしるしであり、悲しみのしるしでもあります。イエス様は、真の花婿が来た今、悲しみのしるしでもある断食は、少なくとも今はふさわしくないと言っておられます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客(弟子たち)に断食させることがあなた方にできようか。」真の花婿イエス様が共におられる時は、婚礼(結婚式)の時に等しい喜びの時だ。その時に婚礼の客(弟子たち)に断食させるのは、ふさわしくない。適度な飲食は、確かに人間の喜びです。ですが、世の中には様々なご病気等のために、飲食の喜びを受けられない方々がおられることも、心に留めたいと思います。でもその方々とも、もちろん喜びの花婿イエス様は共にいて下さり、神様の愛は注がれています。
ヨハネによる福音書3章29節で、洗礼者ヨハネがこう述べています。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花嫁の介添え人(洗礼者ヨハネ)はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方(イエス・キリスト)は栄え、私は衰えねばならない。」このように洗礼者ヨハネ自身が、イエス様を、神の民イスラエルと教会の真の花婿と認め、花婿が来られた喜びで満たされています。自分は花婿の介添え人に過ぎないと、わきまえています。洗礼者ヨハネはきっと、イエス様を非難した人々に言ったのではないかと思います。「あなた(イエス様)の弟子たちは飲んだり食べたりしています、などと非難するものではない。イエス様こそ、私たち神の民の真の花婿であられる。人を非難するよりも、真の花婿が来られたことを、一緒に喜ぼうではないか」と、洗礼者ヨハネは人々をたしなめたのではないかと、思うのです。
そしてイエス様が付け加えられます。「しかし、花婿が奪い去られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」これはもちろん十字架の時を指しています。それは、十字架が悲しみの時だからでしょう。イエス様の復活後に誕生した教会では、しばしばクリスチャンたちが断食して祈りました。使徒言行録13章2~3節に、異邦人(ユダヤ人でない人々)への伝道の拠点となったアンティオキアの教会の伝道について、こう書かれています。アンティオキアの教会にはサウロというクリスチャンもいました。後のパウロです。「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロを私(神様、イエス・キリスト)のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて(祈ったのでしょう)出発させた。」このように最初期の教会でも断食が行われたことが分かります。
私自身は、断食は苦手です。断食してお腹がすくと、仕事ができなくなるので、すればよいとは思いますが、断食して祈ることはほぼできていません。しかし過去に何回か、24時間断食を行ったことがあります。水は飲んだ場合もあり、水も飲まなかったこともあります。水を飲まない方が、より苦しいですね。24時間でも断食して、そして食べ物をいただくと、実においしいですね。神様の恵みが、五臓六腑に文字通り染み渡る体験ができます。実においしい。神様が与えて下さる食べ物の恵みを深く実感するには、断食もよいことと感じます。私の知人のシンガポール人の男性宣教師が昨年、何か消化器系の病で入院され、5日間飲食を禁じられ、幸いよくなって、5日ぶりに食事をなさったとき、「とてもおいしかった。5日間断食していましたから」とLINEを送って下さいました。
イエス様は、さらに語られます。36節以下「そして、イエスはたとえを話された。『だれも新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
旧約聖書の時代が終わって、新しい契約の時代、新約の時代に入ったと宣言しておられるのですね。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」これは当時の格言と思われます。それをイエス様が用いて、新しいぶどう酒=福音の力強さを語っておられると受け止めます。ヨブ記32章19節に、ヨブのこんな言葉があります。「見よ、私の腹は封じられたぶどう酒の皮袋、新しい酒で張り裂けんばかりの皮袋のようだ。」新しい酒は、ピチピチと元気いっぱいなのでしょう。新しいぶどう酒とは、イエス様ご自身のことだとも言えますね。イエス・キリストとその福音は、愛に燃えていて革袋を張り裂きそうな、元気な生命力にあふれていると。ヘブライ人への手紙13章8節の御言葉が、思い出されます。「イエス・キリストは昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。」イエス・キリストこそ聖書の中心、聖書の主人公ですから、私たちはいつもイエス様に従うことが、必要です。イエス・キリストが花婿、教会が花嫁です。
39節で、イエス様が言われます。「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」古いぶどう酒の方は、味がまろやかでおいしいのでしょう。お酒についてはそれでよいのでしょうが、ここでは「古いものの方がよい」は、悪い意味のことを言っています。古い契約の時代に愛着があるために、花婿イエス様を受け入れない人々がいるが、それではいけないと、イエス様が述べておられます。それでは、いけない、ぜひ早く、真の花婿イエス様を受け入れて信じなさい、という招きのメッセージです。
「新しい」という言葉が、何回も出て来ます。イエス様の生き方、そしてイエス様の十字架の死と復活によって、全てが新しくなったのです。私たちは、真の花婿イエス様を信じ、できるだけ洗礼を受ける方がよいのです。花婿イエス様と一体となる洗礼によって、私たちは花婿イエス様の新しさをいただきます。洗礼は、花婿イエス様との霊的な結婚式とも言えますね。クリスチャンは皆、男性もイエス・キリストの花嫁です。コリントの信徒への手紙(二)5章17節以下に、こうあります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。」東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生がおっしゃったそうですが、カトリックの修道女は独身だけれども、イエス様と霊的に結婚して、キリストの花嫁として、イエス様と隣人に喜んで奉仕しているのだと。それは修道女の方に限らず、クリスチャンは皆そうなのだと思います。
そして、イエス様が再臨され、地上にもう一度おいでになって、神の国は完成するとき、新約聖書ヨハネの黙示録19章の御言葉が、現実になります。「ハレルヤ、全能者であり、私たちの神である主が王となられた。私たちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊(イエス・キリスト)の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たち(信仰者たち)の正しい行いである。」この最高に喜ばしい日が、必ず来ます。その花婿イエス様が最初に地上に来られて、天国の喜びを地上にもたらし、神の国の祝福をもたらして弟子たちと共に活動された約3年間は、夢のような祝福の時だったと思うのです。天国の祝福のかたまりである花婿イエス様が共におられたその時に、悲しみのしるしである断食は、ふさわしくないと、イエス様は本日のルカ福音書で、語られたのだと思います。
イエス様の時代の断食は、時に形式化したようです。他人に自分の信仰深さを見せびらかす手段になってしまったこともあるようです。しかし、神様に喜ばれる真の断食もあります。それは本日の旧約聖書であるイザヤ書58章に書かれています。
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。」これが、神様が喜ばれる断食です。神様を愛して礼拝し、隣人を愛することです。
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」聖餐式のぶどう液は、新しいぶどう酒のシンボルとも言えます。新しいぶどう酒は、聖霊のシンボルとも言えます。聖霊は、イエス様の愛の霊であり、私たちを新しくして下さる清き霊です。聖霊が結ばせて下さる実は、今年の東久留米教会の標語聖句であるガラテヤの教会5章22~23節に記されています。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」私たちは、聖霊によって清められることで、イエス様の心に少しずつ近づくことができます。
一昨日1月17日(金)で、阪神淡路大震災から30年になりました。もちろん大変悲しい出来事でした。現地にサポートに行かれた方も、東久留米教会におられると聞いています。あの大震災の1995年が、日本の「ボランティア元年」になったと言われます。あの後も様々は災害がありましたが、あの阪神淡路大震災から、日本でもボランティアが災害地の応援に行くことが盛んになったと。日本人がそれまで以上に、互いに助け合い愛し合うことをスタートした。新しい革袋の時代に入ったとも言えると思うのです。クリスチャンの石破首相は、防災庁を作ると言っています。これはよいことだと思うので、ぜひ実現してほしいと願います。
2011年に東日本大震災が発生し、その2年後に、この地域に教会防災ネットワークNHK(新座 東久留米 清瀬)が誕生しました。他の地域にもできましたが、この地域にもできました。このお陰で、私はこの地域の色々な教派のクリスチャンの方々と知り合い、交流する恵みを受けました。本日夕方にもその会合があるので、行って参ります。これももしかすると、「新しい革袋」が生まれた出来事とも言えるのではないかと思います。震災が契機でした。このネットワークが始まるために、Aさんという方が各教会を訪問して趣旨を伝えて下さり、Aさんの呼びかけに応える形で、教会防災ネットワークNHK(新座 東久留米 清瀬)が始まり、10年少しになります。昨年10月にも、複十字病院の正面の日本聖公会・清瀬聖母教会で防災フェスタを行うことができました。そのAさんが、大変悲しいことに、昨年12月7日に天に召されたと伺い、驚いて深い悲しみを経験したのは、1月に入ってからでした。新しい革袋を作るために大いに働いて下さったことを、心より感謝しています。
新しい革袋はキリスト教会とも言えます。教会にも時に誤りや罪が入り込むので、教会も聖書の御言葉と聖霊によって毎日悔い改めに導かれ、新しくされる必要があります。日々新しくされ、日々新しくイエス様を愛し、イエス様に喜んで新しく従う私どもでありたいと祈ります。アーメン。
2025-01-12 0:28:09()
説教「イエス・キリストの招き」 2025年1月12日(日)降誕節第3主日礼拝
(詩編51:3~21) 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。
(ルカ福音書5:27~32) その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである
(説教) 本日は、降誕節第3主日の礼拝です。説教題は「イエス・キリストの招き」、小見出しは「レビを弟子にする」です。この直前の個所でイエス様は、中風という病気(脳梗塞?)であった人に「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言され、その人の病気を癒して下さいました。
最初の27節「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた。」徴税人は、福音書にしばしば登場しますね。当時のイスラエルはローマ帝国に支配されてたので、徴税人はイスラエル人(ユダヤ人)でありながら、ローマの支配に協力し、仲間のイスラエル人から税金を徴収して、しかも規定以上に徴収して、私腹を肥やしていたそうです。それはもちろん罪なので、仲間のイスラエル人からは売国奴、裏切り者と白い目に見られ、憎まれていました。ある意味当然で無理もないと思います。
レビは収税所に座っていました。自分の仕事に座っていました。収税所には、規定以上に不当に徴収した、レビの罪に汚れたお金もあったはずです。レビはそのお金を眺めては、罪深い満足感に浸っていたのではないかと思います。レビが収税所に座っていたことは、レビが自分の罪に安住していたことを意味するのではないかと思います。罪に安住し、自分はこれでよいとの罪深い自己満足に浸っていたのです。そこにイエス様が来られて、収税所に座っているレビを見られました。イエス様は一瞬で、レビの生活、心の状態を全て見抜かれました。レビが罪の世界に安住していることを見抜かれました。イエス様は、そこからレビを解放しようとなさいます。「私に従いなさい」と呼びかけられたのです。今までのレビは、金銭欲の中に埋もれていたのです。イエス様はレビを、金銭欲と罪の奴隷状態から解放しようと、力強く呼びかけ、招かれたのです。「私に従いなさい。」イエス様は、今日私たちにも、情熱的に同じ呼びかけ、招きを語りかけておられます。「私に従いなさい。」
レビのすばらしいところは、イエス様の呼びかけ、招きに、おそらくすぐに従ったことです。思い切りよく、イエス様に従う人生に飛び込んだのです。これはレビにとって洗礼を受けた等しいと思います。洗礼を受ける方が時々、「清水の舞台から飛び降りる」気持ちで洗礼を受けたとおっしゃいます。思いきった決断を実行したとの意味です。レビもある意味、そのような思いきった気持ちで、イエス様に従う決断をしたと思います。28節「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」:「何もかも捨てて」とは、まず彼の罪を思いきって捨てたと思います。不当に集めた税金も、自分の所有から捨てたと思います。ある解説文では、この「何もかも捨てて」はやはりお金を捨てたと理解し、「富が救霊妨げにのなる危険性を強調いている」と書かれています。「何もかも捨てて立ち上がり。」決然と立ち上がらないと、古い罪深い生活を捨てることができません。立ち上がるとは、復活を意味する場合もあります。古い罪深い自分に死んで、イエス様と共に新しい命に復活したことを、立ち上がったという言葉で表現しているのかもしれません。こうしてレビは、晴れてイエス様の弟子になったのです。私たちクリスチャンも皆、イエス様の弟子です。
29節「そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。」自分の欲望の罪から解放されたレビは、自分の家にイエス様を招き、仲間の徴税人たちや知人たち(30節でファリサイ派の人々や律法学者たちが罪人(つみびと)と呼んでいるので、いかがわしい仕事をしていた売春婦のような人々もいたと思われます)を呼んで、盛大な宴会を催したのです。多くの人々に救い主イエス様を紹介する伝道集会を自宅で開いたようなものです。金持ちだったので、大きな家を持っていました。大きな家庭集会を開いたと言ってもよいでしょう。あまり評判のよくない人々に、イエス様に出会ってもらうために、自分の持てる家を提供し、伝道のために献げたのです。レビの伝道行為です。レビはイエス様にも、仲間たちにも大きく心を開きました。もてるお金を、イエス様に喜ばれる伝道のために用いました。この喜びの宴会は、教会の礼拝のようとも言えますし、天国に先取りとも言えます。
30節「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人(つみびと)などと一緒に飲んだり食べたりするのか。』」なぜ徴税人や売春婦のようないかがわしい連中と、仲良く飲んだり食べたりするのか。こう言われるのが当然とも思えます。清らかなはずのイエス様とその弟子たち、なぜこのようないかがわしい連中と仲良くするのか。確かにイエス様はこのような人々と付き合われたのですが、彼らの罪を決してよしとはなさいません。イエス様は(父なる神様)は、罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪そのものを明確に憎んでおられます。イエス様は、私たち罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪を明確に憎んでおられます。イエス様は、罪を明確に憎んでおられますが、私たち罪人(つみびと)を愛して下さいます。
ですからイエス様は言われます。31~32節「イエスはお答えになった。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである。』」私たち罪人(つみびと)の友となって、私たちを悔い改めと救いに導いて下さいます。レビも罪を悔い改めて、イエス様に従ったのです。不正に得たお金を捨てて、イエス様に従ったのだと思います。そして晴れ晴れとしています。レビは、仲間たちをも同じ悔い改めに導き、罪を捨てさせ、神様に赦されて、晴れ晴れとした気持ちを味わってほしいのだと思います。
イエス様は、このルカ福音書19章で、徴税人ザアカイの家にわざわざ泊まり、ザアカイを悔い改めと救いに導きました。そのとき、イエス様は言われました。「人の子(ご自分)は、失われたものを捜して救うために来たのである。」神様から離れて罪を犯し、滅びへの道を進んでいる人々、神様を見失っている人々を見て心を痛め、その人々を捜し出して、悔い改めに導き、救いに導くために来たとおっしゃいます。15章では、こうおっしゃいます。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい」と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人(つみびと)については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
イエス様は、見失った一匹一匹を、皆捜し回って救おうとなさることが分かります。そこで次の聖句が真実であることが分かるのです。テモテへの手紙(一)1章4節「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」ペトロの手紙(二)3章9節「ある人たちは、遅い(イエス・キリストの再臨が)と考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」皆が罪の赦しと永遠の命を受けるために、私たちは主イエス・キリストを、身の周りのすべての方々に紹介して、伝道する使命を、イエス様から与えられています。
イエス様は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」と言われました。悔い改めを必要とする罪人(つみびと)は、徴税人、売春婦だけではありません。ファリサイ派の人々や律法学者たちにも罪はあります。自分は完全に正しいと信じ込んでいる罪です。それを自己義認と呼びます。自分で自分を正しいと認め過ぎて、過剰な自信をもつことです。その時、人は自己義認、プライドたっぷり、高慢、思い上がりの罪、優越感を抱いて他人に低いレッテルを貼る罪に陥っています。この自己義認、高慢の罪もまた、立派な病気です。ファリサイ派、律法学者たちにも、本当はイエス様の救いを必要としているのです。
しかし自分たちには、救いは必要ないと思っていたかもしれません。自分たちは懸命に、清く正しく生きており、自分たちには罪はないと思っていたかもしれません。でもそうではありません。エバとアダムが神様に背いて以来、すべての人が、罪に落ちてしまいました。私たちは、生まれながらに罪を持っています。この生まれながらの罪を原罪と呼びます。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分たちには原罪(生まれながらの罪)はないと思っていたのではないかと思います。そして自分たちは、あの徴税人や売春婦とは違うというエリート意識、差別意識、高慢の思いをもっていたと思います。これが罪、原罪とも言えると思います。イエス様には、エリート意識、差別意識、高慢の思いは全くありません。イエス様だけが、原罪の全くない方です。イエス様には、どんな罪もないのです。ファリサイ派の人々、律法学者たちは、自分のエリート意識、差別意識、高慢の思いを悔い改めて、そして悔い改めた徴税人や売春婦と信仰の友となることが、イエス様に喜んでいただける道ではないかと思います。
本日の旧約聖書は、「悔い改めの詩編」の1つ、有名な詩編51編です。ダビデ王が、真に忠実な部下ウリヤの妻バトシェバを奪って姦淫の罪を犯し、ウリヤを計画的に死に追いやり、預言者ナタンの厳しい叱責を受けて自分の大きな罪に気づいて書いた詩編と言われます。3節より、改めて読みます。
「神よ、わたしを憐れんで下さい。御慈しみをもって。深い御慈しみをもって、背きの罪をぬぐって下さい。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」
「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」これが原罪を指すと思います。4世紀から5世紀にかけて生きたアゥグスティヌスというクリスチャン(人生の後半で、教会の優れた指導者になった)が原罪について深く考えました。彼は人生の前半は放蕩息子であり、熱心なクリスチャンだった母親のモニカを深く悲しませていました。彼はいくつかの女性関係をもち、情欲の罪に負けていたようです。しかし時が至って回心、悔い改めをなし、クリスチャンとなり、教会の優れた指導者になります。自分の若い日の罪を思えば、人間には原罪があると考えないわけにはいきませんでした。そんな自分が回心、悔い改めと救いに導かれたのは、決して自分の努力によるのではなく、ただ神様の恩寵(恵み)のみによると信じました。自分には原罪があり、原罪から自分の道徳的努力で救われることは不可能で、ただイエス・キリストの愛の恩寵によってのみ、自分は救われたと信じました。
アゥグスティヌスと同じ時代にイギリス人のペラギウスという修道士がいて、人間にへ原罪はないと主張したようです。人間は、自分の道徳的な努力によって清く生きられると主張したようです。ペラギウスの考えは、アゥグストゥスと正反対で聖書に反します。ペラギウスは確かに道徳的に立派な生涯を送りましたが、その彼にも神様から見れば罪があるのです。人間の意志には、罪が入り込んでいるので、どんなに清く立派な行いにも、残念ながら罪が含まれています。原罪があるのです。
本日登場するファリサイ派の人々、律法学者たちも、自分には原罪がないと思っているのではないでしょうか。使徒パウロもきっと、自分には原罪などないと確信していたと思います。そこでクリスチャンたちを迫害しました。しかし復活のイエス様に出会った時に、自分にも罪がある、原罪があると気づいて、謙虚になりました。その頃はまだ原罪という言葉はありませんでしたが。ファリサイ派の人々、律法学者たちは「つぶやいた」とあります。神様、イエス様がなさることに、ぶつぶつ不平を言うのです。ぶつぶつ言う罪は、私も犯している自覚を持ちます。小さな声ではなく、心の中でぶつぶつ言うこともあります。それもまた、私に原罪という病気があることの証拠です。イエス様は言われます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく。罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである。」
自分にも原罪があるが、ただイエス様の十字架と復活の恩寵によってのみ救われた私・私どもであることを思い、感謝と悔い改めをもってイエス様に従う礼拝・信仰生活を続けさせていただきたいものです。アーメン。
(ルカ福音書5:27~32) その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである
(説教) 本日は、降誕節第3主日の礼拝です。説教題は「イエス・キリストの招き」、小見出しは「レビを弟子にする」です。この直前の個所でイエス様は、中風という病気(脳梗塞?)であった人に「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言され、その人の病気を癒して下さいました。
最初の27節「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた。」徴税人は、福音書にしばしば登場しますね。当時のイスラエルはローマ帝国に支配されてたので、徴税人はイスラエル人(ユダヤ人)でありながら、ローマの支配に協力し、仲間のイスラエル人から税金を徴収して、しかも規定以上に徴収して、私腹を肥やしていたそうです。それはもちろん罪なので、仲間のイスラエル人からは売国奴、裏切り者と白い目に見られ、憎まれていました。ある意味当然で無理もないと思います。
レビは収税所に座っていました。自分の仕事に座っていました。収税所には、規定以上に不当に徴収した、レビの罪に汚れたお金もあったはずです。レビはそのお金を眺めては、罪深い満足感に浸っていたのではないかと思います。レビが収税所に座っていたことは、レビが自分の罪に安住していたことを意味するのではないかと思います。罪に安住し、自分はこれでよいとの罪深い自己満足に浸っていたのです。そこにイエス様が来られて、収税所に座っているレビを見られました。イエス様は一瞬で、レビの生活、心の状態を全て見抜かれました。レビが罪の世界に安住していることを見抜かれました。イエス様は、そこからレビを解放しようとなさいます。「私に従いなさい」と呼びかけられたのです。今までのレビは、金銭欲の中に埋もれていたのです。イエス様はレビを、金銭欲と罪の奴隷状態から解放しようと、力強く呼びかけ、招かれたのです。「私に従いなさい。」イエス様は、今日私たちにも、情熱的に同じ呼びかけ、招きを語りかけておられます。「私に従いなさい。」
レビのすばらしいところは、イエス様の呼びかけ、招きに、おそらくすぐに従ったことです。思い切りよく、イエス様に従う人生に飛び込んだのです。これはレビにとって洗礼を受けた等しいと思います。洗礼を受ける方が時々、「清水の舞台から飛び降りる」気持ちで洗礼を受けたとおっしゃいます。思いきった決断を実行したとの意味です。レビもある意味、そのような思いきった気持ちで、イエス様に従う決断をしたと思います。28節「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」:「何もかも捨てて」とは、まず彼の罪を思いきって捨てたと思います。不当に集めた税金も、自分の所有から捨てたと思います。ある解説文では、この「何もかも捨てて」はやはりお金を捨てたと理解し、「富が救霊妨げにのなる危険性を強調いている」と書かれています。「何もかも捨てて立ち上がり。」決然と立ち上がらないと、古い罪深い生活を捨てることができません。立ち上がるとは、復活を意味する場合もあります。古い罪深い自分に死んで、イエス様と共に新しい命に復活したことを、立ち上がったという言葉で表現しているのかもしれません。こうしてレビは、晴れてイエス様の弟子になったのです。私たちクリスチャンも皆、イエス様の弟子です。
29節「そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。」自分の欲望の罪から解放されたレビは、自分の家にイエス様を招き、仲間の徴税人たちや知人たち(30節でファリサイ派の人々や律法学者たちが罪人(つみびと)と呼んでいるので、いかがわしい仕事をしていた売春婦のような人々もいたと思われます)を呼んで、盛大な宴会を催したのです。多くの人々に救い主イエス様を紹介する伝道集会を自宅で開いたようなものです。金持ちだったので、大きな家を持っていました。大きな家庭集会を開いたと言ってもよいでしょう。あまり評判のよくない人々に、イエス様に出会ってもらうために、自分の持てる家を提供し、伝道のために献げたのです。レビの伝道行為です。レビはイエス様にも、仲間たちにも大きく心を開きました。もてるお金を、イエス様に喜ばれる伝道のために用いました。この喜びの宴会は、教会の礼拝のようとも言えますし、天国に先取りとも言えます。
30節「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人(つみびと)などと一緒に飲んだり食べたりするのか。』」なぜ徴税人や売春婦のようないかがわしい連中と、仲良く飲んだり食べたりするのか。こう言われるのが当然とも思えます。清らかなはずのイエス様とその弟子たち、なぜこのようないかがわしい連中と仲良くするのか。確かにイエス様はこのような人々と付き合われたのですが、彼らの罪を決してよしとはなさいません。イエス様は(父なる神様)は、罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪そのものを明確に憎んでおられます。イエス様は、私たち罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪を明確に憎んでおられます。イエス様は、罪を明確に憎んでおられますが、私たち罪人(つみびと)を愛して下さいます。
ですからイエス様は言われます。31~32節「イエスはお答えになった。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである。』」私たち罪人(つみびと)の友となって、私たちを悔い改めと救いに導いて下さいます。レビも罪を悔い改めて、イエス様に従ったのです。不正に得たお金を捨てて、イエス様に従ったのだと思います。そして晴れ晴れとしています。レビは、仲間たちをも同じ悔い改めに導き、罪を捨てさせ、神様に赦されて、晴れ晴れとした気持ちを味わってほしいのだと思います。
イエス様は、このルカ福音書19章で、徴税人ザアカイの家にわざわざ泊まり、ザアカイを悔い改めと救いに導きました。そのとき、イエス様は言われました。「人の子(ご自分)は、失われたものを捜して救うために来たのである。」神様から離れて罪を犯し、滅びへの道を進んでいる人々、神様を見失っている人々を見て心を痛め、その人々を捜し出して、悔い改めに導き、救いに導くために来たとおっしゃいます。15章では、こうおっしゃいます。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい」と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人(つみびと)については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
イエス様は、見失った一匹一匹を、皆捜し回って救おうとなさることが分かります。そこで次の聖句が真実であることが分かるのです。テモテへの手紙(一)1章4節「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」ペトロの手紙(二)3章9節「ある人たちは、遅い(イエス・キリストの再臨が)と考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」皆が罪の赦しと永遠の命を受けるために、私たちは主イエス・キリストを、身の周りのすべての方々に紹介して、伝道する使命を、イエス様から与えられています。
イエス様は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」と言われました。悔い改めを必要とする罪人(つみびと)は、徴税人、売春婦だけではありません。ファリサイ派の人々や律法学者たちにも罪はあります。自分は完全に正しいと信じ込んでいる罪です。それを自己義認と呼びます。自分で自分を正しいと認め過ぎて、過剰な自信をもつことです。その時、人は自己義認、プライドたっぷり、高慢、思い上がりの罪、優越感を抱いて他人に低いレッテルを貼る罪に陥っています。この自己義認、高慢の罪もまた、立派な病気です。ファリサイ派、律法学者たちにも、本当はイエス様の救いを必要としているのです。
しかし自分たちには、救いは必要ないと思っていたかもしれません。自分たちは懸命に、清く正しく生きており、自分たちには罪はないと思っていたかもしれません。でもそうではありません。エバとアダムが神様に背いて以来、すべての人が、罪に落ちてしまいました。私たちは、生まれながらに罪を持っています。この生まれながらの罪を原罪と呼びます。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分たちには原罪(生まれながらの罪)はないと思っていたのではないかと思います。そして自分たちは、あの徴税人や売春婦とは違うというエリート意識、差別意識、高慢の思いをもっていたと思います。これが罪、原罪とも言えると思います。イエス様には、エリート意識、差別意識、高慢の思いは全くありません。イエス様だけが、原罪の全くない方です。イエス様には、どんな罪もないのです。ファリサイ派の人々、律法学者たちは、自分のエリート意識、差別意識、高慢の思いを悔い改めて、そして悔い改めた徴税人や売春婦と信仰の友となることが、イエス様に喜んでいただける道ではないかと思います。
本日の旧約聖書は、「悔い改めの詩編」の1つ、有名な詩編51編です。ダビデ王が、真に忠実な部下ウリヤの妻バトシェバを奪って姦淫の罪を犯し、ウリヤを計画的に死に追いやり、預言者ナタンの厳しい叱責を受けて自分の大きな罪に気づいて書いた詩編と言われます。3節より、改めて読みます。
「神よ、わたしを憐れんで下さい。御慈しみをもって。深い御慈しみをもって、背きの罪をぬぐって下さい。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」
「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」これが原罪を指すと思います。4世紀から5世紀にかけて生きたアゥグスティヌスというクリスチャン(人生の後半で、教会の優れた指導者になった)が原罪について深く考えました。彼は人生の前半は放蕩息子であり、熱心なクリスチャンだった母親のモニカを深く悲しませていました。彼はいくつかの女性関係をもち、情欲の罪に負けていたようです。しかし時が至って回心、悔い改めをなし、クリスチャンとなり、教会の優れた指導者になります。自分の若い日の罪を思えば、人間には原罪があると考えないわけにはいきませんでした。そんな自分が回心、悔い改めと救いに導かれたのは、決して自分の努力によるのではなく、ただ神様の恩寵(恵み)のみによると信じました。自分には原罪があり、原罪から自分の道徳的努力で救われることは不可能で、ただイエス・キリストの愛の恩寵によってのみ、自分は救われたと信じました。
アゥグスティヌスと同じ時代にイギリス人のペラギウスという修道士がいて、人間にへ原罪はないと主張したようです。人間は、自分の道徳的な努力によって清く生きられると主張したようです。ペラギウスの考えは、アゥグストゥスと正反対で聖書に反します。ペラギウスは確かに道徳的に立派な生涯を送りましたが、その彼にも神様から見れば罪があるのです。人間の意志には、罪が入り込んでいるので、どんなに清く立派な行いにも、残念ながら罪が含まれています。原罪があるのです。
本日登場するファリサイ派の人々、律法学者たちも、自分には原罪がないと思っているのではないでしょうか。使徒パウロもきっと、自分には原罪などないと確信していたと思います。そこでクリスチャンたちを迫害しました。しかし復活のイエス様に出会った時に、自分にも罪がある、原罪があると気づいて、謙虚になりました。その頃はまだ原罪という言葉はありませんでしたが。ファリサイ派の人々、律法学者たちは「つぶやいた」とあります。神様、イエス様がなさることに、ぶつぶつ不平を言うのです。ぶつぶつ言う罪は、私も犯している自覚を持ちます。小さな声ではなく、心の中でぶつぶつ言うこともあります。それもまた、私に原罪という病気があることの証拠です。イエス様は言われます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく。罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである。」
自分にも原罪があるが、ただイエス様の十字架と復活の恩寵によってのみ救われた私・私どもであることを思い、感謝と悔い改めをもってイエス様に従う礼拝・信仰生活を続けさせていただきたいものです。アーメン。