日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2021-12-01 18:46:17(水)
伝道メッセージ 12月 石田真一郎
「父よ、彼らをおゆるし下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(十字架上のイエス・キリストの言葉。新約聖書・ルカによる福音書23章34節)。

 私が小学校4年生の時に読んで、とても感動した本に『アンクル・トムの小屋』があります。著者はハリエット・B・ストウ、アメリカ北部ニューイングランドの牧師の娘に生まれました。父親と家族は、逃げて来た黒人奴隷を何度もかくまったそうです。奴隷制度を憎んでいた彼女が、1852年にこの本を書くと、アメリカで30万部、イギリスで150万部以上売れ、アメリカの奴隷制度廃止の世論を大きく強めました。「ペンは剣よりも強し」で、リンカーン大統領も彼女を称賛しました。(この原稿を書くに当たり、ストウ作、高杉一郎訳「トムじいやの小屋」『少年少女世界文学全集12』学研、1968年、を用いさせていただきました。)

 ケンタッキーにいた善良かつ働き者のクリスチャンで初老の奴隷トムは、主人の借金苦のため、家族と離されて別の土地に売られます。イライザという若い女性の奴隷の子どもも売られることになり、イライザは息子を連れて命がけで逃亡します。奴隷の夫と落ち合い追っ手をかわし、時に夫が戦い、自由の地カナダに逃げおおせます。

 トムは汽船で運ばれ、ミシシッピ川に落ちて溺れかけた女の子エヴァを助けたことがきっかけでエヴァの父親(比較的よい主人)に売られます。エヴァはイエス様を愛しており「パパ、奴隷をみんな自由にすることはできないかしら」と言います(作者の願い)。エヴァは病気で死にます。次にトムを買った主人は、血も涙もないレグリーです。レグリーに眠り薬を飲ませた上で殺そうと提案する仲間にトムは言います。「いけません。悪い行為から善いことが生まれることは決してありません。私たちも主(イエス様)にならって敵を愛さなければいけません。」仲間の奴隷が逃亡し、怒ったレグリーがトムに暴力を振るいます。「トムの勇敢な魂は、ただひとりで耐えていた。いや、もう一人の人がトムを見守って、かたわらに立っていた。それはイエス・キリストで、トムだけにしか見えなかったが。」トムはレグリーに「あんたは、かわいそうな人だ。本当にあんたをゆるしてあげます。」まるでトムは、黒人イエス様です。

 最初の主人の息子ジョージがトムの居場所を探し当て、買い戻そうと来ますが、彼に見守られてトムは息絶えます。「妻には、わしが天国に行ったことだけ伝えて下さい。」ジョージはトムの墓にひざまずいて、「神様、今日から僕は、この国の奴隷制度をなくすために全力を尽くします」と誓い、物語が終わります。読んで涙が出る名作です。今の小学校4、5年生の子どもたちにも、ぜひ読んでもらいたいのです。アーメン(真実に)。

2021-12-01 17:57:39(水)
伝道メッセージ 10月分 石田真一郎
「主(神)に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(旧約聖書イザヤ書40章31節)。

 今夏はコロナ禍の中、東京オリンピックとパラリンピックが開催され、終わりました。『炎のランナー』(1981年)という映画があります(DVDあり)。主人公はスコットランド人エリック・リデルと、イギリスのケンブリッジ大学生ハロルド・エイブラハム。ハロルドはユダヤ人で差別と偏見に苦しむ中、得意の走りで打ち勝とうとします。

 エリックはキリスト教宣教師の息子で、中国生まれ。自分も宣教師としていずれ中国に戻るつもりですが、今は信仰をもって走ることをも喜びとしています。そんなエリックに妹ジェニーは不満を持ちます。宣教一本に生きてほしいと。でもエリックは言います。「中国に宣教のため戻ることは、神様のご意志と思う。同時に、神様は僕に走る才能を与えて下さった。走る時、僕は喜びを感じる。僕は神様の栄光のために走る。」

 ハロルドとエリックは、イギリス代表として、1924年のパリオリンピックに出場します。ところが二人が出場する100m走予選が、日曜日に行われることになります。クリスチャンであるエリックにとって日曜日は礼拝の日です。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(旧約聖書・出エジプト記20章8節)。彼にとって神の絶対の命令です。彼は金メダルを取れるはずの100m走を棄権すると言います。イギリス選手団のトップや王子が説得しても、彼は礼拝を優先します。仲間が助け舟を出し、自分は既に別の種目で銀メダルを得たので、自分が出る400mの出場権を彼に譲るというのです。これで決着し、エリックは100m走予選の時間帯に、教会の礼拝で聖書の言葉を朗読します。「主(しゅ。神)の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる」(イザヤ書40章17節)。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(同40章31節)。大国も、神の前には無に等しい。彼にとって神への礼拝の方が、五輪金メダルよりはるかに重要です。100m走はハロルドが見事優勝して、ユダヤ人への偏見に一矢報いました。

 エリックは400m走に出ます。礼拝を重んじて100mの金メダルを捨て、神を愛した彼に、神の恵みが与えられ、金メダルを得ます。『炎のランナー』は美しい主題メロディーでも有名です。神に従うエリックのその後の生き方については、近いうちに書きたいと思います。アーメン(真実に)。

2021-12-01 17:49:29(水)
伝道メッセージ 11月分 石田真一郎(10月分は、この直後に掲載)
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(イエス・キリストの言葉。新約聖書・ヨハネによる福音書15章13節)。

 先月の伝道メッセージに書いた映画『炎のランナー』の主人公の一人エリック・リデル(1902~1945)は、中国生まれのスコットランド人宣教師です。1924年のパリオリンピックで、金メダルをとる力のある100m走を棄権します。礼拝の日の日曜日に行われたからです。その日曜日も教会で神様を礼拝し、別の日の400m走に出場し、得意種目でないのに、神様の助けを得て、何と金メダルを得ます。

 彼の人生の後半を描いた映画が『最後のランナー』(2017年、DVDあり)です。彼は23才で中国の天津に行き、中国の子どもたちにキリスト教の人格教育を行います。中国は日本との戦争に入ります。結婚して2人の娘を授かりますが、1941年12月に太平洋戦争が発生、妻子を妻の故郷カナダに帰します。「すぐまた会える」と言って別れますが、エリックは他の英米人と共に日本軍が造った収容所に送られます。劣悪な環境の中で、彼は共に囚われた人々を励まし、子どもたちに勉強を教え、寒い中、一緒に走って暖まり、収容所内の人々の心の支えになります。

 彼が五輪金メダリストと知った日本の将校がレースを申し入れます。将校は彼によい食事を渡していたのに、彼が負けます。彼がよい食事を仲間の大人や子どもたちと分け合っていたからです。それを知って怒った将校によって彼と一人の青年が穴倉入りの罰を受けます。たまりかねた青年は、穴倉から出た後に、糞尿桶に入って外に運び出されることに成功します。エリックも栄養失調になりますが、病気に苦しむ仲間のために自分から日本人将校にレースを申し入れます。勝ったら仲間に薬を取り寄せてもらう約束です。頭痛もひどく走れる体調でないのに、仲間たちの祈りと賛美歌の中、寒い中裸足で最後の力を振り絞り走ると、神様の助けを得て勝つのです。彼が収容所から出る許可が出ますが、夫を亡くして失意の妊娠中の女性に、権利を譲ります。妻への手紙に「君でもそうしただろう」と書きます。彼は敵である日本軍人たちに神様の恵みを祈りました。敵をも愛したのです。映画は、上官に抵抗して捕虜たちに味方する日本兵たちをも描き、日本人観客への配慮を見せてくれます。エリックは1945年3月に収容所内で天国に行きます。イエス・キリストに従い切った、見事な生涯に胸を打たれます。彼の娘さん方は、今も健在のようです。アーメン(真実に)。


2021-11-28 1:41:00()
「忠実な良い僕(しもべ)よ!」 2021年11月28日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ヨハネ黙示録21:1~2、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編=なし,使徒信条,讃美歌21・175、聖書 マタイ福音書25:14~30(新約49ページ)、祈祷、説教「忠実な良い僕(しもべ)よ!」、讃美歌21・231、献金、頌栄92、祝祷。 

(マタイ福音書25:14~30)
 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

(説教) 本日は、アドヴェント(待降節)第1主日の礼拝です。先週も申しましたように、キリスト教会の1年はアドヴェントから始まります。教会のカレンダーでは今日が一年の最初の礼拝になります。アドヴェントはラテン語で「来る」の意味です。救い主イエス・キリストが、父なる神様のおられる天からこの地上に降って来て下さる。その来て下さるクリスマスを待ち望む季節です。同時に、ユダヤのベツレヘムに生まれた約30年後に十字架で死なれ、復活して天に昇られたイエス・キリストが、神の国をもたらすためにもう一度来られる。その信仰を新しくする季節でもあります。本日与えられている新約聖書は、マタイ福音書25章14節以下です。小見出しは「タラントンのたとえ」です。本日の個所も先週と同じで、イエス・キリストの再臨(もう一度来られること)が遅れていることが前提になっています。イエス・キリストが再臨されるまでの時間を、私たちクリスチャンがどのように生きればよいのか。それを教える御言葉です。

 イエス様が言われます。14節「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕(しもべ)たちを呼んで、自分の財産を預けた。」ある人が父なる神様あるいは、神の子イエス様です。自分の大切な財産を預けるとは、何という深い信頼かと思います。他人にはなかなか預けないものです。主人の僕たちへの絶大な信頼が表れています。

 15節「それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出た。」各々の力に応じ、各々の適性をも考慮して一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンのお金を預けました。聖書巻末の資料を見ると、タラントンはお金の単位で1タラントンは6000ドラクメに相当すると書いてあります。1ドラクメは1デナリオンと等価とあり、1デナリオンは1日分の賃金とありますから、今の日本では5000円くらいでしょうか。すると1デナリオンは3000万円、2デナリオンは6000万円、5タラントンは1憶5000万円になります。これが正確だとすれば、1タラントンでも3000万円ですから、主人の期待の大きい大切なお金になります。そしてこのタラントンという言葉ですが、ご存じの方が多いように、このタラントンという言葉から英語のタレントの言葉ができ、タレントは様々な才能、そしてそのような才能をもつ人をタレントと呼ぶこともあります。

 「早速、5タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに5タラントンをもうけた。」二倍に増やしたのですから大したものです。「同じように、2タラントン預かった者も、ほかに2タラントンもうけた。」この人に大したものです。「しかし、1タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の鐘を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て(イエス・キリストの再臨を示す)、彼らと清算を始めた。」清算は「最後の審判」ですね。先ほど使徒信条で、イエス様が「かしこ(天国)より来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白した、イエス・キリストによる「最後の審判」です。

 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」

 「忠実な良い僕」となっていますが、口語訳聖書では「善い忠実な僕」、最新の聖書協会共同訳も「良い忠実な僕」で言葉の順序が違いますが、理由はよく分かりません。古い文語訳は「善かつ忠なる僕」で、少し昔のクリスチャンはこの言い方で記憶しておられたのではないかと思います。私も30年くらい前に読んだ榎本保郎牧師の本に「善かつ忠なる僕」という題の一文があり、それで「善かつ忠なる僕」という言い方で覚えています。榎本牧師の本で書いてあったことは、目立たないところで祈りと真心こめて忠実に神様に仕える人が「善かかつ忠なる僕ですよ」というメッセージだったと記憶しています。

 さて、三人目の僕です。「ところで、1タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧下さい。これがあなたのお金です。』」当時、貴重品を守る代表的な方法が土に埋めて隠すことだったそうです。敵の軍隊が来て町で略奪を行ったり、町を焼き払ったりする現実がありました。逃げなければなりません。そんな時、貴重品を土に埋めて隠したそうです。何かを目印にして後から探し出せるようにしたのでしょう。確実に隠すには、土に埋めるのが一番よい方法だったそうです。

 しかし、この僕は主人(神様、イエス様)から厳しく叱られます。なぜ厳しく叱られたのか考えてみると、主人が彼に愛と信頼と期待を込めて預けた1タラントンの意味を、全く理解していなかったからでしょう。もっと意気に感じればよかったのです。先の二人は意気に感じたのですね。自分のような者を主人は深く信頼して、大切な大切な5タラントンなり2タラントンなり、1タラントンを預けて下さった。よし、この期待に応えよう! と意気に感じて立ち上がることが期待されていたと思います。それに全く気付かなかったことが、厳しく叱られた原因と言えましょう。プロ野球の日本シリーズに出た選手のコメントを新聞で読むと、「監督が、打率1割台しか打っていない自分を代打で使ってくれた。何とかしようと思って打席に立った」というようなことが書いてあります。野球の世界もそうなんだなと感じます。努力はしているが結果を出していない自分なのに、監督が試合で使ってくれた、何とかしきゃ、と思って集中して打ったとか投げたと言っています。意気に感じさせる監督も立派だなと感じます。意気に感じて発奮することがなかったことが、この僕が厳しく叱られた理由だと思います。

 主人は答えます。「怠け者の悪い僕だ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」実に厳しい通告です。「怠け者の悪い僕だ」は、聖書協会共同訳では「悪い臆病な僕だ」と訳しています。

 以前この箇所で説教させていただいた時、日本語に「死蔵」という言葉があることを初めて知りました。お蔵入りにしてしまい、全く生かして用いないことです。確かに大事な物は金庫にしまい込んで確実に守る必要があるのですが、しかし、しまい込み過ぎると存在まで忘れられ、全く生かされないで死んでしまいます。それでは意味がありません。死蔵ですね。この僕は、主人が愛と信頼と期待を込めて預けた1タラントンを死蔵してしまいました。主人の期待に少しも、全然、一切答えなかったので、厳しく叱られたのだと思います。

 恵みを受けたら、責任が生まれるのですね。恵みに応える、応答する責任が発生します。責任を英語でresponsibility と言います。レスポンスする、反応する、応答することが責任を担うことになります。神の恵みに応答する責任が発生します。私たちは、神様から命、ある程度の健康、ある程度のお金といった恵みを与えられています。さらにはイエス様の十字架と復活によって、罪の赦しと永遠の命という大きな恩恵をいただいています。神様の愛と恵みに、自分にできる形で応答することが期待されています。強制されてではなく、恵みに感謝して、喜んで自発的に自由意志で応答することをこそ、神様は喜んで下さいます。コリントの信徒への手紙(二)9章7節に「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです」と書かれていることが思い出されます。

 第三の僕は、悪い実例として挙げられており、私たちにこうならないようにとのメッセージが語られていると言えます。第三の僕は小心過ぎ、慎重過ぎ、臆病過ぎました。事なかれ主義とも言えます。もちろん無謀に突っ走って、主人のお金を大幅に減らしたり、失ってしまう大失敗をしてはいけません。失敗はできるだけ避ける必要がありますが、しかし失敗を恐れ過ぎて一歩踏み出す積極性や勇気をもたないこともよくないということと受け止めます。全体において失敗している。テモテへの手紙(二)1章6~7節に「私(イエス様の使徒パウロ)が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物(聖霊と思います)を、再び燃え立たせるように勧めます。神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちにくださったのです」と書かれています。

 結論的に言うと、「全て神の栄光のために生きる」になります。8日前にコンサートのためにユーオーディア・アンサンブルのリーダーのご夫妻がお越し下さいましたが、夫の方はドイツ留学中に、音楽が神様をたたえるためにあるという真理を教えられて、帰国後にユーオーディア結成を始められたという証しを語られたと受けとめています。ユーオーディアは、新約聖書のギリシア語で「香ばしい香り」の意味(あるいは「極上の香り」)の意味で、エフェソの信徒への手紙5章2節等から取られているようです。「キリストが私たちを愛して、御自分を香り(ユーオーディア)のよい供え物、つまりいけにえとして私たちのために神に献げて下さったように、あなた方も愛によって歩みなさい。」ユーオーディアの使命は、音楽によって神の栄光(すばらしさ)を証しする、宣べ伝えることです。

 神様から愛や恵みを受けたら、感謝して応答し、受けた恵みを神様の栄光のために献げるように導かれます。1981年の映画に『炎のランナー』という作品があります。実話を元にした映画です。キリスト教系の高校に在学中に学校で見たとき、私はメッセージが全く分かりませんでした。10数年前に東久留米教会の方からDVDをお借りして見て、やっとメッセージが分かりました。主人公の一人はエリック・リデルというスコットランド人の実在の宣教師です。中国生まれで、後に再び中国に行って伝道しそこで亡くなっています。彼は熱心な宣教師ですが、同時に走る才能を与えられていました。妹はそんな兄に不満を持ち、「伝道一本に生きてほしい。陸上競技はやめてほしい」と思っていましたが、エリックは「いずれは伝道のために中国に戻る。神様は僕に走る才能も与えて下さった。走る時に僕は喜びを感じる。僕は神様の栄光のために走る。」自己実現のために走るのではないのです。エリックは1924年のパリオリンピックのイギリス代表になります。

 100m走に出ることになっていて、金メダルを取る実力を持っていたようですが、その予選が日曜日に行われることが分かります。クリスチャンであり宣教師であるエリックにとって、礼拝の日です。モーセの十戒の第四の戒め「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて何であれあなたの仕事をし、七日目はあなたの神、主の安息日であるからいかなる仕事もしてはならない。」安息日の礼拝を差し置いてレースに出場することが、彼にはできませんでした。100m走を棄権すると言い出します。イギリス選手団のトップや王子が説得しても、彼はレースよりも礼拝を優先します。批判も受けたでしょう。国の代表なのに無責任だ、狂信的だと。仲間が助け舟を出し、自分は既に他の種目でメダルを得たので、自分が出る400m走の出場権をエリックに譲るというのです。これで決着し、エリックは100m走予選の時間帯に、教会の礼拝に出席し聖書を朗読します。別のイギリス代表が100mで金メダルを取りました。エリックの専門でない400m走でよい成績を得るのは難しいと思われていました。レース前にアメリカの選手が紙を渡してくれます。旧約聖書サムエル記・上2章30節の御言葉が書かれていました。「私(神様)を重んずる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んずる。」その通り、100m金メダルよりも神様を愛し重んじて礼拝を守ったエリックを神様が祝福し、何と専門外の400m走で金メダルを得たのです。走る能力を与えて下さった神様に感謝し、自分の栄光のためでなく神様のために走ったエリックに、神様が報いて、神様の栄光を現して下さったのでした。私は決して、神様を信じれば、全て思い通りになるご利益があると申しているのではありません。そうではなく、神様から預かった恵みがあるのなら、それを神様の栄光のためにお献げすることが、神様に喜ばれることだと、私は自分に言い聞かせているつもりです。

 しかし、私たちの多くは特にすばらしい能力を持っていません。どうすれば神の栄光を現すことができるのでしょうか。どうすれば神の恵みに応答することができるのでしょうか。小さなことでよいと思います。神様を真心を込めて礼拝すること、愛を込めてとりなしの祈りをすること、小さな愛の業を行うこと。讃美歌第二編26番の歌詞が思い出されます。「愛の業は小さくても、神の御手が働いて、悩みの多い世の人を、明るく清くするでしょう。」イエス様に助けていただいて、このように生きて参りたいのです。そして最後の審判の時に、イエス様から「忠実な良い僕(しもべ)よ」と呼んでいただけるなら、最高の恵みです。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員に、重症の方に癒し。世界で感染が拡大している地域に神様の大いなる助けを。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒しを。病と闘う方、神様の癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタンに平和。御名により、アーメン。



2021-11-21 0:27:28()
「キリストが来られる、さあ迎えよう」 2021年11月21日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ヨハネ黙示録21:1~2、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編49,使徒信条,讃美歌21・386、聖書 創世記7:10~16(旧約9ページ)、マタイ福音書25:1~13(新約49ページ)、祈祷、説教「キリストが来られる、さあ迎えよう」、讃美歌21・230、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(創世記7:10~16) 七日が過ぎて、洪水が地上に起こった。ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。雨が四十日四十夜地上に降り続いたが、まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。彼らと共にそれぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼のあるものすべて、命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。

(マタイ福音書24:36~51)「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」 

(説教) 本日は、降誕前第5主日の礼拝。本日与えられている新約聖書は、マタイ福音書25章1節以下です。小見出しは「十人のおとめのたとえ」です。聖書の約束は、十字架で死なれ復活して今は天に昇られたイエス・キリストが、必ず地上にもう一度おいでになって世界の歴史を完成させ、神の国をもたらして下さるということです。これをイエス・キリストの再臨と呼びます。マタイ福音書24章と25章は、その時を迎えるための心構えを私たちに語っています。

 イエス様が言われます。天国のたとえです。「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火を持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。」ある本によると、ユダヤでは婚宴(結婚式)は通常、夜行われたそうです。本日登場する10人のおとめたちは、花嫁ではなく花嫁に付き添う女性たちです。婚礼の客(これに10人のおとめたちも含まれるでしょう)は花嫁の家で、花婿が迎えに来るのを花嫁と共に待ったそうです。花婿が到着すると、一同がともし火を明るく照らして花婿を歓迎します。そして花婿と花嫁は共に歩き、客も一緒に祝いの行列を作って花婿の父の家に行き、そこで本格的な祝宴が始まったそうです。このたとえに出て来る10人のおとめたちは、行列を明るく照らすために、ともし火(松明)を持って花嫁の家で待機していたようです。

 5節「ところが、花婿が来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。」花婿が遅れるという予想外の事態が生じました。初代教会が悩んだのが、この問題です。イエス・キリストはすぐにも来られると信じられていました。ところが現実にはなかなかおいでにならないのです。一体なぜなのか。このままでは人々の信仰が動揺する恐れがあります。旧約聖書のハバクク書2章3節には、同様しかねない私たちを励ます神の言葉があります。「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない。」そして新約聖書のペトロの手紙(二)3章8節以下に、はっきりした答えが書かれています。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます(突然来る)。~私たちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」

 マタイに戻り5節から「花婿が来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫び声がした。そこで、おとめたちは皆起きて(10人とも)、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けて下さい。私たちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより店に行って、自分の分を買って来なさい』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。」皆眠り込んだのです。10人に違いが出たのは、油を用意していたかどうかです。油は信仰とも言えるし、祈りとも言えます。眠り込んだ全員に、真夜中に声が響き渡ります。「花婿だ。迎えに出なさい。」神様の声のようにも聞こえます。「花婿だ。迎えに出なさい。」

 この花婿は、最終的にはイエス・キリストを指しています。聖書ではしばしば、神様が花婿(夫)、神の民(イスラエルと教会)が花嫁(妻)にたとえられています。たとえばエレミヤ書2章2節にこうあります。「主はこう言われる。私(神)は、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。イスラエルは主に献げられたもの。」花嫁イスラエルが次第に初めの愛からそれたと言っているのですが、ともかく神様が花婿、神の民イスラエルが花嫁にたとえられていることは明らかです。ホセア書2章では、花嫁イスラエルが真の神・花嫁を裏切って、他の神々(愛人)の元に走ったけれども、「初めの夫(真の神様)のもとに帰ろう、あの時は、今よりも幸せだった」と語るという言葉があります。この御言葉も聖書で神様が花婿、神の民が花嫁にたとえられていることが分かります。

そしてクライマックスは、聖書最後の書ヨハネの黙示録19章の「神の国」の描写ではないでしょうか。それは花婿イエス・キリスト(小羊)と花婿キリスト教会との婚宴・結婚式として描写されています。「ハレルヤ、全能者であり、私たちの神である主が王となられた。私たちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」それから天使は私(黙示録の著者ヨハネ)に、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは、幸いだ。」イエス・キリストを信じるクリスチャンたちは皆、キリストの花嫁です。男性もそうです。私たちは皆、この天の上での婚宴に招かれています。それを目指して歩んでいます。カトリック教会の修道女(シスター)は独身ですが、イエス・キリストの花嫁、イエス様と結婚していると聞いたことがあります。もちろん地上で本当に結婚しているのではなく、霊的に結婚しているということでしょう。キリストの花嫁として、自分の全人生をイエス様に献げていることです。

 「花婿だ。迎えに出なさい」の声が聞こえると書いてあります。私たちはイエス様の花嫁であり、10人のお付きのおとめではありませんが、やはり信仰の目を覚ましている必要があります。いつ花婿キリストが再臨されても、お迎えできるように信仰の目を覚ましている必要があります。今日の場面は、ヨーロッパではよく歴史のある大きな聖堂の建物に浮彫(レリーフ)として刻まれているそうです。聖堂に来た人がそれを見て、愚かな5人のおとめにならないように気を引き締めるメッセージを送っているのでしょう。

 賢いおとめは思慮深いおとめです。愚かなおとめは思慮深くないおとめと言えます。「愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。」「戸が閉められた」という言葉に厳しさを感じます。まだ戸は閉められていません。時があるうちにイエス・キリストを信じて、永遠の命の希望に入ってほしいと神様は、今日も私たちに呼びかけておられます。今日の旧約聖書・創世記7章にも同じようなことが書かれています。「七日が過ぎて、洪水が地上に起こった。ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。雨が四十日四十夜地上に降り続いたが、まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。彼らと共にそれぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼のあるものすべて、命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。」脅すつもりは全くありません。神様は真に忍耐深い方なので、イエス様の再臨を約2000年も引き延ばして下さいました。それは全ての人にイエス様を信じていただいて、永遠の命に入っていただきたいからです。イエス様は、必ずもう一度来られます。ぜひ、時があるうちにイエス・キリストを救い主と信じて、全ての方々に永遠の命に入っていただきたいのです。

 イエス様は最後にも厳しいことを言われます。「その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」やはり「目を覚ましていなさい」が、中心のメッセージです。思慮深い、賢いおとめたちのようになるように。そしてもちろん花嫁も目を覚ましていたのですから、私たちにこの時の花嫁と同じように、花婿イエス・キリストへの愛を忘れないで、しっかり目を覚ましているようにとのメッセージです。

 私たちはこうして、イエス・キリストの再臨を待ち望む礼拝を、安心して守ることができます。しかし太平洋戦争中は、このような礼拝を安心して守ることができなかったことをこの礼拝の準備をしつつ思い出しました。キリスト教の多くの教派が合同して日本基督教団ができたのが1941年6月、太平洋戦争の半年弱前です。戦争中の1942年6月にホーリネス教会弾圧が起こります。ホーリネス教会も日本基督教団に属していました。6月26日早朝に、全国で一斉にホーリネス教会に特高警察などが踏み込んで、96名の牧師たちが検挙されてゆきました。起訴状の内容は、「神は近き将来においてキリストを空中に臨ませ義の審きを開始し、神の理想社会を顕現すべきものなりとし、天皇統治が廃止せらるべきものなりとなすと国体を否定すべき内容のもの」という文だったそうです(辻哲子「私たちはどう生きるのか 信教の自由を守る日に寄せて」『信徒の友』2021年2月号、日本キリスト教団出版局刊)。天皇と再臨のキリストではどちらが上なのか、キリスト教の信仰ではキリストの方が上ではないのか。当時の日本の憲法では「天皇は神聖にして侵すべからず」でしたから。再臨のキリストの方が上の教えは、天皇を神とする日本の国の形からすると危険な教えとされたのです。そして何と治安維持法違反の容疑をかけられました。治安維持法は悪法の代表と言えます。国に反抗しようとしていたわけでもなく、ただイエス・キリストを伝道し、熱心に祈り礼拝をしていた牧師たちが、その6月26日だけで96名、その後更に20名が検挙されたそうです。再臨信仰が危険とされたのです。

 私が神学生だった1993年に夏の伝道実習で参りました静岡草深教会の牧師だった辻宣道先生(辻先生は東久留米教会の修養会?にも奉仕に来られたと聞いています)のお父様の辻啓蔵牧師も、検挙された一人でした。青森県の弘前のホーリネス教会で伝道しておられたようですが、何も悪いことをしていないのに検挙され、2年の実刑判決を受けて青森刑務所に収監され、そこで亡くなりました。内務大臣からホーリネス教会には解散命令が出たそうです。今私たちは、何の心配もなくイエス様の再臨を信じる礼拝を守っていますが、その頃は再臨を礼拝で説教すれば、治安維持法違反で検挙される可能性があったのですね。戦争中の教会は、礼拝前に皆で皇居の方向にお辞儀をしてから、真の神様を礼拝するように政府から強制されていました。真の神様より先に天皇を拝むことを強制されました。モーセの十戒の第一の戒め「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」を破ることを強制されたと言えます。抵抗できた人は多くなかったと聞きます。戦争が終わり、GHQ(進駐軍)によって治安維持法は廃止されました。

 イエス様は「目を覚ましていなさい」と言われます。イエス様がいつ再臨されてもよいように、いつもイエス様を迎える準備をしていなさいということです。同時に私どもは、時代の動きにも目を覚ましている必要があります。天皇を神とする時代に逆戻りしないように、世の中の動きに目を覚ましている必要があります。今から20年くらい前までは、その意識をもつクリスチャンは多かったのですが、世代が変わり、その意識を持つクリスチャンが減りました。一つの危機だと思います。ですから天皇を神とする時代に逆戻りしないようにとの意識を、目を覚まして忘れないで持ち続ける必要があります。1966年に政府が2月11日を「建国記念の日」に決めた時、クリスチャンにもクリスチャンでない人にも反対する人が多かったと聞きます。歴史を逆戻りさせることだと。日本基督教団も反対し「建国記念の日」を認めないで、その日を「信教の自由を守る日」とすることを決め今に至っています。

 今から歌う讃美歌は、230番です。イエス様の再臨の希望を歌う讃美歌です。作詞作曲は16世紀半ばから17世紀の初めまで生きたフィリップ・ニコライというドイツ人の牧師です。少し調べて分かったのは、彼がウンナという町の牧師を務めていた1589年に、ペストという感染症がウンナの町を襲ったというのです。半年の間にウンナの町でも1500人がペストで死にました。今のコロナの苦難とよく似た状況で作られた讃美歌だというのです。ニコライの周りで毎日30人も40人も死人が出ました。同僚の牧師も死んだので、ニコライは一人で葬儀を行い、埋葬もしたようです。当時は教会の敷地内に墓地があったため、教会も牧師館も死のにおいに満ちていたそうです。「恐ろしい死臭を消す芳香剤は祈りしかなかった」とニコライが書いているそうです。ニコライはひたすら聖書を読み、死の恐怖におびえる市民たちのために、神様の慰めを祈り続けました。死の恐怖に満たされている人々に向かって、いずれ必ず栄光に輝く花婿イエス様が来られること、自分たちが天で花婿イエス・キリストと花婿である教会の聖なる結婚式の喜びを約束されている希望を伝えようとしたのです。

 来週はクリスマスの準備のアドヴェント(待降節)第一主日です。アドヴェントは「来る」の意味です。イエス様がもう一度来られる信仰を新たにする季節です。教会の暦では、アドヴェント第一主日から新しい年が始まります。ですから本日は、教会の暦では、(あまり意識しませんが)実は年の最後の日曜になります。小さな「世の終わり」です。小さな「世の終わり」に当たり、また来週からのアドヴェント礼拝を前に、花婿イエス・キリストが必ずもう一度来られる信仰を新たに強めたいものです。ペストの脅威に苦しむ人々に信仰による希望を思い出してもらおうとニコライ牧師が作詞作曲した讃美歌を、今歌います。今なおコロナの苦しみから抜け切れていない私たちも、この讃美歌によって天からの聖なる慰めをいただきたのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。収穫感謝。子ども祝福の日。謝恩日。感染している方全員に、重症の方に癒し。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒しを。病と闘う方、神様の癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。昨日コンサートのためご奉仕下さった柳瀬さん郷夫妻に神様の祝福を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタンに平和。御名により、アーメン。