日本キリスト教団 東久留米教会

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2019-03-20 14:02:37(水)
「狭い門から入りなさい」 2019年3月17日(日) 受難節(レント)第2主日礼拝説教 要旨
聖書:レビ記26章3~17節、マタイによる福音書7章13~20節

 聖書はいろいろな箇所で、神様に従う道を選び取って、真の祝福を得なさいと勧めています。「あなたたちがわたし(神)の掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならば、わたしは時期に応じて雨を与える。それによって大地は作物をみのらせ、野の木は実をみのらせる」(レビ記26:3~4)。

 イエス様は、「狭い門から入りなさい」と私たちを招かれます。日本では「狭い門」の言葉は、入学試験などの倍率が高い時に使われることがほとんどですが、イエス様は、この言葉をそのような意味では用いておられません。「狭い門」とはイエス様に従って生きる道で、天国につながる道です。

 誰よりも狭い門から入り、最も狭い道・最も困難な道を歩み通して下さった方がイエス・キリストです。イエス様は、私たち全員の全ての罪を背負って、十字架で死んで下さったのです。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。~彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」(イザヤ書53:3~5)。

 イエス様は言われます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ福音書10:9)。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(同14:6)。本来、天国に入る資格を持つのは、全く罪なき方イエス様のみです。私たちは、この真の門、真の道イエス様につながることで、初めて天国に入れていただくことができる罪人(つみびと)です。「狭い門から入りなさい。」それはイエス様を救い主と信じ、この直前に書かれている黄金律「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」を少しずつでも実行する道と思います。イエス様の十字架の愛に応答して、黄金律を少しずつでも実行することが「狭い門から入る」生き方、永遠の命に至る生き方です。

 17世紀の終わり頃にジョン・バニヤンというイギリス人のプロテスタントの清教徒(ピューリタン)が書いた『天路歴程』という有名な本があります。主人公はクリスチャンという名の男です。伝道者という男が彼に言います。「主は言われる。『力を尽くして狭い門からはいれ。』それは私が君をさし向けた門なのだ。それは『命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者は少ない』からである」(池谷敏雄訳『天路歴程 正篇』新教出版社、1999年、62ページ)。主人公クリスチャンは、狭い門を通り、誘惑や試練、困難を1つ1つ乗り越えながら、遂に天国に入る物語です。古い本で読みにくい面もありますが、なかなか面白いストーリーです。聖句が随所にちりばめられています。著者のバニヤンは、イギリス国教会の説教者の資格を持たないで説教したことを問題にされ、12年間牢獄に入れられたそうです。不当な迫害を受けながらもイエス様に従い、「狭い門」を通って天国に入った人だと思うのです。

 進みます。イエス様は言われます。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。」私たちは偽預言者にだまされてはなりません。私たちが偽預言者を見破れず、だまされるとすれば、それは偽預言者が「耳ざわりのよい」メッセージを語るからではないでしょうか。真の預言者は私たちに耳の痛いことも語ります。でもそれを嫌って退けてはいけないのです。テモテへの手紙(二)4:3に、「だれも健全な教えを聞こうとしない時がきます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」自分がこうならないように気をつけましょう。私たちは偽預言者を偽預言者と見破らなければなりません。偽預言者について行く道は、「滅びに通じる門(道)」であり、「その道も広々として、そこから入る者が多い」道です。

 ある方が、「偽物の宗教の特徴」を3つ書いておられました。私の解釈も加えると、こうです。①性的ないかがわしさのある宗教 ②お金に悪どい宗教 ③偽物の奇跡を売り物にする宗教。真の神様による真の奇跡はありますが、世の中には偽物の奇跡もあります。それを宣伝する宗教は偽物です。オウム真理教の教祖の「空中浮揚」や、昔はやったスプーン曲げも嘘です。惑わされてはなりません。

 近代日本に与えられた神の預言者は内村鑑三だと思います。教育勅語に深々と頭を下げなかったこと(偶像礼拝の拒否)、日露戦争の時の非戦論で知られます。(以下は、重平友美著『内村鑑三』教会新報社、1982年による。)実は彼は日清戦争の時は、戦争に賛成したそうです。日本が、朝鮮の独立を守るために清国と戦う正義の戦争が日清戦争だと考え、イギリスの友人にもそのような手紙を書いたそうです。ところが日清戦争後に日本政府が行ったことは、台湾を植民地にすることなどでした。内村は深く後悔し、悔い改めたそうです。「自分は偽預言者になってしまった」と思ったのでしょう。「頭をかきむしり、髪の毛をひきぬいて、地獄の底まで落ちていく思いです」と友人に書き送ったそうです。同じ失敗を決して繰り返さないと固く決意した内村は、日露戦争の時はぶれることなく非戦論を主張しました。彼が働いていた万(よろず)朝報という新聞社が非戦論から主戦論に変わったので、彼は退社し、自分が発行する雑誌『聖書之研究』によって非戦論を主張しました。国賊、非国民と非難されたそうです。それでもぶれなかった彼は、まさに「狭い門」から入った真の預言者だったと思うのです。

 内村鑑三に愛国心がなかったと思ったら、間違いです。彼はむしろ真の愛国者でした。内村のモットーは「2つのJ」を愛することです。Jesus とJapan です。彼はイエス様と日本を深く愛したので、日本がイエス様に従うよい国になることを切望しました。日本がイエス様に従っていない時は、日本を深く愛するが故に日本を叱りつけ、罪の悔い改めに導き、イエス様に従う方向に導こうと努力したのだと思います。非国民と呼ばれた内村鑑三こそが、実は真の愛国者だったのです。

 今は、イエス様の十字架を深く思う受難節(レント)です。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(ペトロの手紙(一)2:21)。クリスチャンたちは昔から、「主(イエス様)のみあと(足跡)に従う」ことを喜んできました。これから歌う『讃美歌21』の411番にも、「兄弟姉妹よ、十字架を担い、主イエスに従い、み跡をたどれ」とあります。それは「狭い門から入る」歩みでしょう。でも必ず天国に至る真の喜びの道です。励まし合って、共にこの道を進みましょう。アーメン(「真実に」)。

2019-03-15 19:01:09(金)
「良いものを与える神」 受難節(レント)第1主日礼拝 説教要旨
聖書:列王記下20章1~11節、マタイ福音書7章7~12節

 本日のマタイ福音書は、「祈りの勧め」と言えます。イエス様が言われます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

 「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。」罪ある人間の父親でさえ、自分の子供を愛し、良い物を与える。「まして」天の父なる神様はなおさらだ、というのです。「まして」、「なおさら」という言葉が新約聖書にしばしば出てきます。「まして」と「なおさら」は、神様の深い愛を強調する重要な言葉だと思います。そしてルカ福音書11:13にはこうあります。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」神が与えて下さる最大の「良い物」は聖霊(神の清き霊、イエス様の霊)なのです。私たちがイエス様を自分の救い主と信じて自分の罪を悔い改め、洗礼を受けると聖霊を受けます。聖霊を内に宿している人は、確実に永遠の命を受けているのです。

 神様は、祈り求める人に良い物を与えて下さる。このことはヤコブの手紙にも書かれています。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」(1:5~6)。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」(1:17)。

 このように神は良い物を与えて下さる良い方です。「だから」とイエス様が言われます。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」神の愛に支えられて、あなた方も人に愛を与えなさい、ということです。この御言葉は、黄金律(ゴールデン・ルール)と呼ばれます。

 私も祈りについて、多くの方から教えられて来ました。神学生であった私たちを教会へ送り出して下さった神学校の学長・松永希久夫先生は「祈りはいつでも、どこでもできる。(しかしだからこそ)祈りの時と場所を確立せよ」と教えられました。東久留米教会員として天国に行かれたKさんは、祈りには「讃美、感謝、罪の悔い改め、願い、他の人のためのとりなし」があると証しされました。私の高校時代の友人のクリスチャンは私に、「祈りに対する神の答えには3つある。イエス、ノー、ウェイト(待て)だ」とアドヴァイスしてくれました。

 私たちは祈りによって苦難に耐える力を、神からいただきます。2010年にチリのコピアポ鉱山で事故が起こり、33名が地下700メートルに閉じ込められ、約70日後に全員救出される出来事がありました(左近豊『信仰生活の手引き 祈り』日本キリスト教団出版局、2016年、94~95ページによる)。あの時は世界中が祈りました。私も祈りました。最初の18日間は地上と連絡がとれなかったそうです。絶望しそうになる苦しみの中で、地下の人々は毎日12時と午後6時に集まって祈り、希望をもち続けたそうです。地上と連絡がとれるようになってから差し入れられたTシャツに詩編95編4節「深い地の底も御手の内にあり」と印字されていたそうです。救出された一人が、こう言ったそうです。「地下にいたのは33人ではなく、34人だった。神が我々と共にいたからだ。」全員救出のニュースを聞いた時は、私も晴れ晴れとした気持ちになり、同じく嬉しそうな表情の、教会のお隣りのご婦人と喜び合いました。33人は、共に祈って耐えたのです。

 先月、高俊明先生という台湾基督長老教会(PCT)の著名な牧師が89歳で天に召されました。台湾が民主化されていなかった時、民主化運動を行ったため、4年以上投獄されました。台湾の苦難の象徴的存在です。高俊明牧師に「サボテンと毛虫」という詩があります。

「わたしは求めた/ 美しい花束を
しかし 神さまは とげだらけのサボテンをくださった
わたしは求めた/ 愛らしい蝴蝶を
しかし 神さまは ゾッとするような毛虫をくださった
わたしは/ なげき 悲しみ 失望した
しかし 多くの日が過ぎ去ったあと/ わたしは目を見張った
サボテンが多くの花を開いて 美しく咲き乱れ
毛虫が愛らしい蝴蝶となって 春風に舞い舞うのを
すばらしい神さまの御計画 」

 「涙の祈り」を献げ続ける時期が続いたけれども、神様が次第に民主化の花を咲かせて下さったことを感謝する詩だと思うのです。私たちには確かに「涙の祈り」を献げることがあります。神様は私たちの「涙の祈り」をしっかりと受けとめていて下さると信じます。詩編56:9に次の印象深い御言葉があります。「あなた(神様)はわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に それが載っているではありませんか。あなたの皮袋にわたしの涙を蓄えてください。」東日本大震災から8年となりました。流された多くの涙を、イエス・キリストがしっかりと受けとめて下さっていると信じます。

 私たちは、感謝の祈りを献げることもあり、自分の苦しみを神様に全力でぶつけることもあります。祈りが聞き届けられることはもちろん大切です。しかし、神様に全力で訴えて祈ることができる、それ自体が幸いとも言えるのではないでしょうか。神様にいつも祈りながら、神様と共に人生を歩みたいのです。アーメン(「真実に」)。

2019-02-15 14:13:46(金)
「共に喜び、共に泣く」 伝道メッセージ(石田真一郎)
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(新約聖書・ローマの信徒への手紙12章15節。) 

 愛するとは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことでしょう。より難しいのは、「喜ぶ人と共に喜ぶ」ことと思います。イエス・キリストは、私たちと共に喜び、共に泣いて下さる方です。私たちもそのように生きるように、イエス様に招かれています。

 私は誘われて、池袋でホームレスの方たちにお弁当を配るクリスチャンのボランティアに参加したことがあります。ささやかに行われていました。毎週、お弁当を作る方には頭が下がります。このボランティアを始めたのはアメリカ人、シンガポール人の宣教師さんたちです。協力して配る人の多くは日本人です。韓国人、オーストラリア人、ブラジル人が加わります。私は思いました。アメリカもシンガポールも、韓国もオーストラリアも、太平洋戦争で日本の敵だった国々です。特に韓国は1910年から1945年まで日本の植民地でしたし、シンガポールも日本が占領しました。日本が多くの迷惑をかけたのです。74年前に敵だった国の人々が今、日本に来て池袋の日本人のホームレスの方たちに奉仕して下さっている。イエス・キリストの愛を行っておられる。小さな奇跡です。

 そのボランティアの日本人男性の一人は、2011年の津波で大切なご家族をお二方、失われたそうです。それなのに、他人のために奉仕なさる。頭が下がります。悲しみをご存じなので、他の人の悲しみがよく分かるのでしょう。「悲しむ人と共に悲しむ」、心優しく立派な方だと、心より尊敬します。

 なぜ人はホームレスになるのか。いろいろな理由があるでしょう。池袋のような都会でも路上生活は厳しそうです。雨、台風、猛暑、寒さ、雪があります。午前1時~午前5時は、駅が閉まるので、外に出なければなりません。この冬、ホームレスの方々に神様の守りが十分にありますように。アーメン(「真実に」)。

2019-02-08 19:27:16(金)
「私たちに必要な祈り」 2019年2月3日(日) 降誕節第6主日礼拝 説教要旨
聖書: 列王記・上17章1~16節、マタイ福音書6章11~15節

 「主の祈り」の後半の3つの祈りが出ています。3つとも私たちに必要な祈りです。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」神様は憐れみ深い方で、私たちに食事が必要なことをよく知っておられます。エジプトを脱出した壮年男子だけで60万人のイスラエルの民を、マナという食物で40年間も養われました。イエス様の時代には、男だけで五千人の群衆を五つのパンと二匹の魚で養い、満腹にして下さいました。本日の列王記を見ると、神様は預言者エリヤにからすを送り、からすがパンと肉を運びました。神様はエリヤと知り合いになったサレプタという場所の女性とその子どもに奇跡によって食物を与え、飢え死にしないように養って下さいました。

 聖書の神様だけが真の神様です。この神は、これまで地上のすべての人々に食物を与えて下さいました。私たちは食物を店で買うことが多いので、食物を与えて下さるのは神様であることを実感しにくくなっています。ですが使徒言行録14章15節以下に、こうあります。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」

 神の民イスラエルがこれを信じず、食物などはバアル(偶像=偽物の神)から来ると誤解していた悲しい時期がありました。イスラエルの民は言いました。「愛人(バアル)たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ」(ホセア書2:7)。神様が嘆いて言われます。「彼女(イスラエルの民)は知らないのだ。穀物、新しい酒、オリーブ油を与え、バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのはわたしだということを」(同2:10)。

 私は農業を営む日本のクリスチャンの集会に出席したことがあります。その方々のモットーは「三愛」、つまり「神を愛し、人を愛し、土を愛する」ことだと学びました。私もほんの少しでも作物を育てようと思い、昨年プランターにミニトマトとブロッコリーを植えました。少しのミニトマトと小さなブロッコリーができて、ちょっぴり収穫の喜びを味わいました。現代の世界では、食物の配分が公平に行われていないので、食物が余る地域と飢える地域があります。これは神様の責任ではなく、私たち人間の罪です。日本では多くの食物が廃棄されています。事態を少しでも改善するためにフードバンクが設立され、活動を開始しています。その働きが日本と世界で拡大することを願います。

 神様は人間だけでなく、鳥や動物、植物をも養っておられます。「海も大きく豊かで、その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。~あなたがお与えになるものを彼らは集め、御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる」(詩編104:25~28)。私は家で飼っている鳥にえさを与えますが、その時の私の手は、神様の御手の代理をしているのですね。鳥のえさを忘れないように気をつけます。「神に従う人は家畜の求めるものすら知っている」(箴言12:10)とあります。

 次の祈り。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分の負い目のある人を赦しましたように。」この前提は、主イエス・キリストが十字架にかかって、私たち皆の全部の罪を背負って、赦しをもたらして下さった事実です。イエス様の十字架の愛に感謝して、私たちも私たちに罪を犯した人を赦す。だから私たちがイエス様を救い主と信じた後にも、日々犯してしまう罪を赦して下さい、ということでしょう。14節には、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とあります。この御言葉の最もよい解説は、マタイ福音書18:21以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」です。

 アメリカの東部にアーミッシュと呼ばれるクリスチャンの共同体があります。近代文明をあまり取り入れない生活をしている方々と聞きます。2006年10月2日に、その共同体で学校襲撃の痛ましい事件が起こりました。一人の男が女生徒5名を銃殺し、5名に重傷を負わせたのです(以下、クレイビル、ノルト、ザーカー共著『アーミッシュの赦し』亜紀書房、2008年による)。犯人もアーミッシュで、自殺したようです。その後のこの共同体の人々の行動は世界を驚かせました。アーミッシュの人々は犯人の家族に、「あなたたちには何も悪い感情はもっていません」と伝えたのです。ある人は、犯人の父親を抱擁し、「私たちはあなたを赦します」と言ったそうです。アーミッシュの人々にとってそれは自然なことでした。彼らには「赦しの信仰」が根付いていたのです。アーミッシュの人々にとって、「主の祈り」こそ「祈りの中の祈り」で、朝夕の祈りの時間に「主の祈り」を祈り、食前と食後に黙祷で「主の祈り」を祈るそうです。「主の祈り」の中心は「赦し」と語るアーミッシュもおられます。「人を赦さないなら、自分も神から赦されない」と信じておられるのです。確かにイエス様が本日の14節で、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とおっしゃっています。

 人を赦すことは難しいですね。しかし自分がイエス様の十字架のお陰で、多くの罪を赦していただいていることを思えば、人さまを赦さないことがよいとは思えません。人を裁く資格をもつのは神様のみ、神の子イエス・キリストのみです。このことを深く思い、困難ながらも赦しの道を歩ませていただきたいのです。まず自分の罪を悔い改めながら。アーメン(「真実に」)。


2019-01-27 20:22:44()
「なんと深い神の知恵」 降誕節第4主日礼拝 説教要旨
聖書:ヨブ記35章7節、ローマの信徒への手紙11章33~36節

 4ヶ月ぶりにローマの信徒への手紙を読む礼拝です。この手紙の著者(正確には口述筆記の語り手)・イエス様の使徒パウロの深い悲しみは、愛する同胞であるイスラエル人(ユダヤ人)たちが、救い主イエス・キリストをなかなか信じてくれず、なかなか救いに入ってくれないことでした。一体イスラエル人たちの多くは救われないのか、神様は何を考えておられるのか。パウロは問い続けました。神様の深いお考えが少しずつ示されたのです。そこでパウロは「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と感嘆し、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と喜びの讃美に導かれたのです。

 イスラエル人が救い主イエス様を拒否することで、イエス様がイスラエル人以外の人々(異邦人)に宣べ伝えられ、異邦人がイエス様を救い主と信じて救われてゆく。それを見てイスラエル人たちがねたみを起こし、「うらやましいな。私もあの異邦人のように救われたい」という気持ちを起こし、不信仰・不従順を捨てて、自分の罪を悔い改めてイエス様を信じて救いに入る。神様はそれをめざしておられるのです。10:23に「彼ら(イスラエル人)も、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう」とあります。神はイスラエル人がイエス様への不信仰を捨てて救われることをめざして働いておられるのです。そのためにイスラエル人のねたみ心という実に卑近な気持ちをさえ用いて、イスラエル人を救いに導こうと働いておられるのです。

 それにしても、本日の直前の32節は非常に分かりにくい御言葉です。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」不従順は罪ですから、完全に悪しきものです。「不従順の状態に閉じ込めた」とは、神様が人々(イスラエル人も異邦人も)に自分たちの不従順の罪を自覚させ、不従順のまま突き進めば死と滅びに至るほかないことに気づかせ、イエス様を救い主と信じて救われ、神の憐みを受けるに至る。あの放蕩息子がこの道をたどって救いを得ました。旧約聖書に登場する悪の都二ネベの人々も、王から庶民まで(さらに家畜まで!)罪を捨てて悔い改め、ひたすらへりくだったため神は裁きを撤回し、彼らは神の憐みを受けました。

 この手紙の著者パウロ自身もそうです。サウロと名乗っていた頃、彼はイエス様を信じるクリスチャンたちを迫害する急先鋒でした。気づかすに、神に逆らう不従順の道、滅びへの道をばく進していました。復活のイエス様がサウロに現われ、サウロを憐れんで諭して下さいました。サウロは自分の罪に気づき、悔い改めて洗礼を受け、永遠の命を受けます。そして人生かけてイエス様を宣べ伝える伝道者に生まれ変わったのでした。神の憐れみの深さを思います。何と、クリスチャンに対する最大の迫害者だったといえるパウロでさえ救われたのです。最も救われ難い人だったといえるパウロをさえ救ったのが神の憐れみです。であれば、私たちは希望をもって伝道することができると思うのです。神様は頑固に見えるあの人もこの人も救いたいと切望しておられる、と。

 パウロは感嘆します。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」これをやや大胆に言い換えると、「ああ、神の愛と憐れみのなんと深いことか」となるのではないでしょうか。それは神に敵対していたパウロをさえ憐れんで諭し、悔い改めと永遠の命に導くほどに深い愛と憐れみです。そのあまりに深い愛と憐れみは、イエス様の十字架上の祈りによってはっきり示されます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 私たちが洗礼を受けたときのことを思い起こせば、神の愛と憐れみとご配慮が多くあったことに気づきます。いろいろなクリスチャンとの出会いを与えられ、教会との出会いを与えられ、罪の赦しの洗礼を恵みを受けました。創世記22章に「主の山に、備えあり」とある通り、神様があらかじめ私たち一人一人のために、物質的にも霊的にも多くの備えをなさっておられました。それに気づくごとに、私たちは「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか!」との感嘆に導かれます。

 神様は私たちのために毎月第一日曜日に、聖餐式という恵みを備えて下さっています。イエス様が本当に私の罪を背負って、十字架で釘打たれて下さった現実を味わう時です。洗礼の恵みを深く想起する恵みの時です。聖餐式は単なる儀式ではないのです。イエス様の十字架の犠牲愛を感じて、涙がにじむ時、それが聖餐式です。聖餐の恵みをますます深く味わう感性(霊性)を磨きたいものです。

 私は今月中旬に、鎌倉にあるイエズス会の日本殉教者修道院で一泊二日の会に参加しました。その庭にイエス様の十字架の道行きのコースがありました。その道をたどりながら、イエス様の十字架を黙想する信仰のよき修練です。要所に札が立っていて、「(イエス様が)ここで衣服をはぎとられる」、「ここで倒れる」、「ここで鞭打たれる」、「ゴルゴタの丘で十字架にかけられる」、「ここ(墓)に葬られる」などと書いてあります。最後は「よみがえる」だったと記憶しています。悲しみの道ですが、希望で終わるのです。以前、島根県の津和野(明治のキリシタンの殉教の地)に行ったときも、それがあり、深く心に残りました。エルサレムのヴィア・ドロローサ(悲しみの道)にもあるそうです。清瀬の聖公会の教会では礼拝堂の中にありました。祈りつつその道をたどることで、イエス様の十字架の愛が心にしみわたります。

 父なる神様は、全ての人が十字架と復活のイエス様の前に頭を垂れて、罪の赦しと永遠の命を受けることを切望して働いておられます。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ福音書18:12~14)。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」(同20:14)。神は、どんな一人が滅びることも望まず、その一人が悔い改めて救われることを目指して、招いておられます。パウロは、神様のこの深い心に目が開かれ、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」との讃美に導かれました。私たちも神様の深い憐れみを深く悟り、「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と、もっと心から讃美できる者へと前進させていただきたいのです。アーメン(「真実に」)。