日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2019-08-09 21:14:53(金)
「神の言葉の力」 2019年7月7日(日) 聖霊降臨節第5主日礼拝説教 要旨
聖書:創世記1:1~19、マタイ福音書8:5~13

 イエス様がガリラヤ湖畔の町カファルナウム(イエス様はそこに住まわれた)に入られると、一人のローマ軍の百人隊長が懇願します。「主よ、わたしの僕(しもべ)が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。」イエス様は「わたしが行っていやしてあげよう」と言われます。すると百人隊長は言います。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません(実に謙遜です)。ただ、ひと言おっしゃって下さい。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」彼は、イエス様の言葉には全てのものを従わせる権威があると信頼しきっているのです。

 私には軍隊や軍人に対する抵抗があります。しかし私たちクリスチャンは、この世の兵士でなくても、キリストに従う愛の兵士です。テモテへの手紙(二)2:3に「キリスト・イエスの立派な兵士として、わたし(パウロ)と共に苦しみを忍びなさい。兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。」救世軍というキリスト教会があります。そのメンバーは、キリストの愛の兵士と思います。

 イエス様は百人隊長の信仰に非常に感銘を受けられました。「感心し」たと書かれていますが、直訳では「驚いた」です。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」イスラエルは神の民・信仰の民なので、イスラエルの人々に信仰が見られるのはある意味当然です。しかし現実にはイスラエルの民の信仰には、問題があることも少なくなかったのです。

 イエス様は言われます。「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子ら(イスラエルの民)は、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」イエス様はこの部分を、非常に心を痛めておっしゃったと思うのです。これはイスラエルの民への警告であると同時に、奮起を促す言葉と思います。そして百人隊長に、「あなたが信じたとおりになるように」と言われます。ちょうどそのとき、僕の病気がイエス様の力によって癒されたのです。

 本日の旧約聖書は、創世記1章です。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」旧約聖書のほとんどはヘブライ語で書かれています。ヘブライ語で「言葉」を意味する言葉は「ダーバール」です。「ダーバール」は同時に「出来事」の意味をもちます。「言葉=出来事」、「言葉は出来事となる」ということです。特に神の言葉には創造の力があり、「光あれ」の命令が光を創造するのです。神の言葉がこの世界を創造したのです。ヘブライ人への手紙11:2~3「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」

 人間の言葉にも、ある程度の力があります。私たちが発する言葉は人を励ますこともでき、人を傷つけることもできます。私自身、言葉で人様を傷つけて来た罪を、心より悔い改めるものです。私は20代の頃、ある病院でお医者さんが「君のアトピーは治るよ」と力強く言って下さった言葉で、目の前がぱっと明るくなったことを忘れることができません。お医者さんの一言の励ましが、心の中まで明るくするのです。

 イエス様の使徒パウロは、預言についてこう書きます。礼拝の説教も預言の一つと言えます。「預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます」(コリントの信徒への手紙(一)14:3)。人を造り上げる愛こそ、最も大切です。こうも述べます。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソの信徒への手紙4:29~30)。人を造り上げる言葉、教会を造り上げる言葉のみを、語ってゆきましょう。罪の悔い改めを求める言葉は、相手が永遠の命に確実に入るために必要な、造り上げるための愛の言葉です。アーメン(「真実に」)。

2019-08-09 17:23:55(金)
「平和をめざしましょう」 伝道メッセージ 2019年8月
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」
(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章9節。) 

 「さとうきび畑」(作詞・作曲 寺島尚彦)という印象深い歌があります。1945年の沖縄戦が背景です。
「ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は ざわわ ざわわ ざわわ 風が通りぬけるだけ/ あの日鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 夏の陽ざしのなかで/(~)ざわわ ざわわ ざわわ 風に涙はかわいても ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは消えない」

 テノール歌手の新垣勉さんが、心をこめて歌われます(歌中の父は、新垣さんの父ではない。以下は、新垣勉著『ひとつのいのち、ささえることば』マガジンハウス、2004年等より)。新垣さんは1952年、沖縄生まれ。生後すぐ、医療ミスで失明。父は沖縄に駐留したメキシコ系アメリカ軍人、母は日本人。父は帰国、母は家を出て再婚。新垣さんは祖母に育てられました。混血と呼ばれ劣等感のかたまりで、生きる意欲を失っていました。でもある牧師が、涙を流してすべてを聴いてくれ、生まれて初めて新垣さんのための誕生会も開いて下さいました。

 歌が上手で、イタリア人の先生につくと、「あなたのラテン系の明るい声は、父からの贈り物、神様からプレゼントされた楽器だ。しっかり磨いて用いなさい」と励まされます。父母への恨みが溶け、「神様は私から光を奪ったが、声をプレゼントして下さった」とのプラスの気持ちが生まれました。遠回りでいい。人と比べるのではなく、ナンバーワンでなく、「オンリーワンの人生を生きよう」と呼びかけます。

 「人を、減点法でなく加点法で見てあげることが必要。モチベーションが上がり、その人がやる気になる。」「太平洋戦争がなければ、父は沖縄に来なかった。私も生まれなかった。その私が生きているということは、平和のために何かしなさい、ということ」と語られます。反戦の思いを込めて、「さとうきび畑」を歌われます。新垣さんのメッセージに、私は多くのよきことを教えられます。私たちも平和を祈り求める8月、そして人生を生きましょう。アーメン(「真実に」)。

2019-07-18 19:38:03(木)
「分け隔てしない神の愛」 2019年6月16日(日) 聖霊降臨節第2主日礼拝説教 要旨
聖書:歴代誌・下16章8~9節、使徒言行録10章34~48節

 先週はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝でした。その礼拝で読んだ使徒言行録2章で、聖霊を注がれたのは皆、ユダヤ人(イスラエル人。旧約聖書以来の神の民)でした。本日の使徒言行録10章は、異邦人(ユダヤ人以外)に聖霊が注がれた画期的な場面です。「異邦人のペンテコステ」と呼ばれるそうです。異邦人にも聖霊が与えられることは、ユダヤ人クリスチャンにとって、やはり驚きだったのです。

 コルネリウスというローマ人の百人隊長が登場します。この人は実にすばらしい人で、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」私たちもぜひ、コルネリウスのような人になりたいですね。天使が彼に言います。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。」

 コルネリウスに招かれたペトロは、言います。「ご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」神には偏見が全くありません。神だけが、全ての人を誤りなく正しくジャッジする(裁く)ことができます。神は完全に公平、フェアな方で、一切差別をなさいません。神の裁きだけが、常に100%正しいのです。

 歴代誌・下16章9節に、「主(神)は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」とあります。神は、キリスト教が本に伝わるずっと以前から、日本をも(もちろんほかの国をも)見つめ、ご自分と心を一つにする者を探し、力づけて来られたと思うのです。

 ペトロの説教を聞いている異邦人たちの上に、聖霊が降りました。ペトロと共に来たユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれ、異邦人が異言を話し、神を賛美するのを聞いて大いに驚きました。ペトロは彼らに、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるように命じました。ペトロがエルサレムのユダヤ人クリスチャンたちにこれを報告すると、彼らは「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美しました。異邦人たちは、自分の罪を悔い改めたのです。悔い改めなしに聖霊が注がれることはないでしょう。悔い改めが大切です。

 私は6月15日(土)に、日本キリスト教団西東京教区の世界宣教協力委員会の講演会「神の呼びかけに応える」に行きました。A教会の女性の講演を伺いました。この方はインド東北のナガランド州コヒマ出身のクリスチャンです。ナガランドはインドでクリスチャンが最も多い州で、人口の90%以上がクリスチャンだそうです。19世紀末にバプテスト教会の宣教師が、熱心に伝道なさったようです。コヒマの近くにインパールという所があります。太平洋戦争中の日本軍の極めて無謀な作戦として有名になってしまったインパール作戦の場所です。コヒマには戦没日本兵の慰霊碑やイギリス兵の墓地がある模様です。

 コヒマがクリスチャンの多い地になる前に、この地には悪い風習がありました。首狩りです。敵の首を多く狩った人がヒーローになったようです。コヒマの人々は首狩りの大きな罪を悔い改め、この罪を捨てました。ユダヤ人も異邦人も、神様から聖霊と永遠の命を受けるには、罪を悔い改めることが必要です。私たちも日々、自分の罪を悔い改めましょう。そしてイエス様に従い、神の国をめざして前進しましょう。アーメン(「真実に」)。

2019-07-18 16:58:56(木)
「聖なる霊に満たされて」 2019年6月9日(日) ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教 要旨
聖書:ヨエル書3章1~5節、使徒言行録2章1~21節

 ペンテコステは、イエス様の弟子たちやイエス様に従っていた婦人たちに、イエス様が約束された聖霊を注がれた日です。エルサレムから世界に向かっての伝道が開始された日とも言えます。聖霊に満たされた弟子たちを見て、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける人もいました。弟子たちは、神の愛に酔っていたのです。旧約聖書の雅歌1章2節に、「ぶどう酒ににもましてあなたの愛は快く」とあり、「あなた」は神を指すとも言えます。

 この聖霊が注がれる出来事は、旧約聖書で預言者ヨエルが預言したことの実現です。預言とは、「神の言葉を預かって語る」ことです。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」

 私はしばらく前に、JR高田馬場駅近くにある点字図書館に行きました。創設者は本間一夫氏というクリスチャンです。5才の頃、脳膜炎で失明なさる苦難を経験されました。本間氏の幻(ヴィジョン)・夢は、目の不自由な仲間たちに読書の喜びを味わってもらうために点字図書館をつくることだったのです。以下は、本間氏の著書『点字あればこそ  出会いと感謝と』善本社、1997年)からの引用です。私は非常に感銘を受けます。

 「私は(~)新約聖書ヨハネ伝9章1~3節の言葉(3節は、イエス様の言葉『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現れるためである』石田註)と、恩師・後藤静香先生の『正しい願いは実現する』のお言葉にも励まされ、救われてきました。失明は、たしかに人生の大きな不幸です。しかし、私の場合はその失明というマイナスを逆手にとってプラスとし、事業に結びつけることができました。もし私が失明していなかったならば、北海道の郷里でごく平凡な一生を送っていたに違いありません。失明したればこそ、この特殊な事業に巡り合い、いささかでもあとから来る後輩のために役立ちたいと、点字図書館というひとすじ道を歩み、事業の一つの歯車の役割を果たしてきたのです。それは大きな幸せであり、感謝すべきことなのであります」(79ページ)。

 「日本の盲人の環境はたしかに良くなりました。しかし、視覚障害そのものはなくなりません。問題は日々生きていく盲人一人ひとりの幸せ感であります。この点で、信仰を持つか否かは決定的な分岐点になります。そういう意味で、私はキリストとの出会いを感謝し、ゆるぎない信仰を持つことは、ほかに比べるもののない最高の幸せであることを固く信じておるものであります。私にとっては『失明もまた恩寵』なのであります」(167~168ページ)。深い信仰に、感服のほかありません。アーメン(「真実に」)。

2019-06-27 14:16:55(木)
「敵を愛するキリストの愛」 2019年6月23日(日) 「はじめて聞く人にわかる聖書の話」礼拝説教 要旨
聖書:ルカ福音書10章25~37節

 有名な「善いサマリア人のたとえ」です。ある律法の専門家が、イエス様を試そうとして質問します。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエス様が問い返されます。「律法(旧約聖書)には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」律法の専門家が、「真の神を愛し、隣人を自分のように愛する」という趣旨の答えをすると、イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」彼は自分を正当化しようとして食い下がります。「では、わたしの隣人とはだれですか。」これはずるい質問です。彼は隣人の範囲を限定したいのです。自分の隣人と隣人でない人を区別し、限られた隣人をだけを愛すれば律法を守ったことにして、自分に都合のよい理屈で自分を正当化し、楽をしたいのです。

 これに対してイエス様は、「良いサマリア人のたとえ」を語られます。あるユダヤ人が、エルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われ、半殺しにされます。同じユダヤ人の祭司とレビ人(びと)は、見て見ぬふりをして通り過ぎました。ところが、旅をしていたあるサマリア人が、そのユダヤ人を見て憐れに思い、最大の親切を実行したのです。当時、ユダヤ人とサマリア人は敵同士でした。ですからこのサマリア人は敵への愛を実行したのです。イエス様は「敵を愛しなさい」と言われましたが、このサマリア人はまさにその通りにしました。

 サマリア人は、倒れているユダヤ人を見て、「憐れに思い」ました。この原語(ギリシア語)は「内臓」の語を含む動詞です。彼は頭で抽象的・観念的に「憐れに思った」のではありません。「はらわたがキリキリと痛む」、「はらわたがよじれる、千切れる」思いで、相手の痛みを我がこととして痛感したのです。他人事にしなかったのです。あの律法の専門家の問い「わたしの隣人とはだれですか」は、自己中心的で、隣人の事柄を他人事としか見ない罪深い問いです。でも私たちは、このサマリア人のようでありたいと願いつつも、この律法の専門家のようになってしまいやすいのではないでしょうか。私は自分を顧みて、残念ながらそう言わざるを得ません。恥ずかしいことです。

 このサマリア人の愛は、イエス様の愛と同じです。人間でも多くの親は、我が子が苦しむ時、「代わってあげたい」と思うものです。イエス様も、私たちが苦しむ時、「代わってあげたい」と思って下さるでしょう。イエス様はそう思うだけでなく、本当に私たちに「代わって」私たちの罪を全て背負い、「代わって」十字架に架かられ、死んで下さったのです(そして三日目に復活されました)。

 沖縄に「ちむぐりさ(ん)」という言葉があるそうです。「ちむ」は「肝(きも)」「肝臓」だそうです。「ぐりさ(ん)」は「苦しむ」のことと聞きます。「ちむぐりさ(ん)」は「肝が苦しむ」、他の方の苦しみを見て、自分の肝臓が痛むほどに、相手の苦しみを我が苦しみとすることです。サマリア人の感じた憐み、イエス様の憐みを表すのにぴったりの言葉です。沖縄は苦難の歩みが多かったので、このような深い言葉ができたのでしょうか。「ちむぐりさ(ん)。」ぜひ覚えたい言葉です。

 イエス様は、律法の専門家に言われます。「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」これは律法の専門家の最初の問いをひっくり返しています。彼の問いは自己中心的な問いでした。イエス様は「追いはぎに襲われた人」を中心に置きます。自己中心はだめです。自己中心こそ、私に巣食う根源的な罪、最大の罪です。イエス様は、半殺しにされたユダヤ人を中心に置きます。相手を中心に置き、「あなたは彼の隣人になったのか、ならなかったのか、どちらなのか。問われているのはあなただよ」とメッセージされます。専門家は正しく答えます。「その人を助けた人です。」イエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と結論を述べられるのです。

 私は昨日、お茶の水クリスチャンセンターに行き、「燈台」という団体の報告会(最終回)に初めて出席させていただきました。「燈台」は32年間にわたってアフガニスタンの医療・教育に協力して来たクリスチャン団体です。非常に尊いお働きであることが分かり、感銘を受けました。アフガニスタンの人々にとっての「善いサマリア人」になろうとするお働きと感じました。アフガニスタンは平和な国でしたが、1979年12月のソ連軍侵攻から苦難が始まったそうです。多くの人々が難民となって隣国に脱出しました。1987年に隣国の難民キャンプで暮らすアフガニスタン難民の様子を見た中川さんという日本人のクリスチャン医師が、大変心を痛めたのが「燈台」の働きの原点です。中川さんが「心を痛めた」ことは、あのサマリア人が倒れていたユダヤ人を見て「憐れに思った」ことと深く一致します。

 クリニックが開設されて医療奉仕が始まり、ヌール(光の意味)学校が設立されます。イスラム圏では非常に珍しい男女共学の学校で、小中高校ができ、今では卒業生が社会を担う働きをしているそうです。クリニックとヌール学校は地域の希望となったそうです。医療奉仕の方々は、風土病に苦しむ人々を治癒に導き、絶望から希望へと人生が転換した方が多くおられるそうです。女性への教育と女性の就労に反対するタリバーンの男性まで治療を受けに来たそうです。地域に信頼されていることが分かります。「燈台」の重要な務めを担って来た方々が高齢となり、現地アフガニスタンの状況も依然として危険であることから、「燈台」の働きは2020年3月末に閉じられることになっています。ヌール学校はその後、現地のアフガニスタン人スタッフの方々を中心に運営されるとのことです。「燈台」の働きの歴史の映像の最後に、イエス様が「善いサマリア人のたとえ」の最後で語られた御言葉が映し出されました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 他の方の苦しみを他人事にすることは、私たちの自己中心の罪です。他人事にしないように心がけましょう。「行って、あなたも同じようにしなさい。」イエス様のこの御言葉を心に刻みましょう。アーメン(「真実に」)。