日本キリスト教団 東久留米教会

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2025-01-19 0:17:48()
「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れる」 2025年1月19日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第76回)
 
(イザヤ58:6~14) わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ/父祖ヤコブの嗣業を享受させる。主の口がこう宣言される。

(ルカ福音書5:33~39) 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」


(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第76回)です。説教題は「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れる」、小見出しは「断食についての問答」。

 最初の33節「人々はイエスに言った。『ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。』」ヨハネとは、イエス様の公の活動が始まる前に働いた洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネは新約聖書の登場人物ですが、旧約聖書の預言者エリヤの再来であり、旧約(古い契約)の時代の最後の人物と言えます。イスラエルの人々は、洗礼者ヨハネを高く評価していたようです。当時のイスラエルの人々の信仰をユダヤ教と呼ぶならば、ユダヤ教の人々は「施し、祈り、断食」を、非常に重視していたそうです。ですから質素な生活をし、度々断食や祈りをする洗礼者ヨハネとその弟子たちが、高く評価されていました。ファリサイ派の人々も、洗礼者ヨハネに似て、断食や祈りを熱心に行っていました。やはりイスラエルの人々に高く評価されていました。

 それに比べると、イエス様の弟子たちは、あまり断食せず、飲んだり食べたりしていたようです。断食とは、食事を一時絶って、祈りに専念することと思います。自分のわがままな欲望を抑える効果もあるのだと思います。イエス様が断食を否定されたわけではありません。イエス様は伝道を開始なさる前に、悪魔の激しい誘惑を受けられました。ルカによる福音書4章です。「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を霊(聖霊)に引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」こうして極限の空腹の中で、悪魔の誘惑と戦い、3の誘惑を完全に撃退し、悪魔に勝利なさったのです。

 でも、イエス様の弟子たちは、あまり断食せず、食べたり飲んだりしていたようです。もちろん食べて飲むことは、私たちの命と健康を維持するために、大切なものです。ですから、極端な禁欲主義は、新約聖書の教えではないと思います。テモテへの手紙(一)4章3節には、このように書かれています。ある偽善者たちが、「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りによって聖なるものとされるのです。」

 34~35節「そこで、イエスは言われた。『花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなた方にできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。』」花婿は、もちろんイエス・キリストです。旧約聖書では、神様が夫、神の民イスラエルが花嫁・妻です。新約聖書では、イエス・キリストが花婿、教会が花嫁です。イエス様が言われます。「花婿が一緒にいるのに。」花婿が来たことで、状況が一変したのです。断食は悔い改めのしるしであり、悲しみのしるしでもあります。イエス様は、真の花婿が来た今、悲しみのしるしでもある断食は、少なくとも今はふさわしくないと言っておられます。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客(弟子たち)に断食させることがあなた方にできようか。」真の花婿イエス様が共におられる時は、婚礼(結婚式)の時に等しい喜びの時だ。その時に婚礼の客(弟子たち)に断食させるのは、ふさわしくない。適度な飲食は、確かに人間の喜びです。ですが、世の中には様々なご病気等のために、飲食の喜びを受けられない方々がおられることも、心に留めたいと思います。でもその方々とも、もちろん喜びの花婿イエス様は共にいて下さり、神様の愛は注がれています。

 ヨハネによる福音書3章29節で、洗礼者ヨハネがこう述べています。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花嫁の介添え人(洗礼者ヨハネ)はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方(イエス・キリスト)は栄え、私は衰えねばならない。」このように洗礼者ヨハネ自身が、イエス様を、神の民イスラエルと教会の真の花婿と認め、花婿が来られた喜びで満たされています。自分は花婿の介添え人に過ぎないと、わきまえています。洗礼者ヨハネはきっと、イエス様を非難した人々に言ったのではないかと思います。「あなた(イエス様)の弟子たちは飲んだり食べたりしています、などと非難するものではない。イエス様こそ、私たち神の民の真の花婿であられる。人を非難するよりも、真の花婿が来られたことを、一緒に喜ぼうではないか」と、洗礼者ヨハネは人々をたしなめたのではないかと、思うのです。

 そしてイエス様が付け加えられます。「しかし、花婿が奪い去られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」これはもちろん十字架の時を指しています。それは、十字架が悲しみの時だからでしょう。イエス様の復活後に誕生した教会では、しばしばクリスチャンたちが断食して祈りました。使徒言行録13章2~3節に、異邦人(ユダヤ人でない人々)への伝道の拠点となったアンティオキアの教会の伝道について、こう書かれています。アンティオキアの教会にはサウロというクリスチャンもいました。後のパウロです。「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロを私(神様、イエス・キリスト)のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて(祈ったのでしょう)出発させた。」このように最初期の教会でも断食が行われたことが分かります。

 私自身は、断食は苦手です。断食してお腹がすくと、仕事ができなくなるので、すればよいとは思いますが、断食して祈ることはほぼできていません。しかし過去に何回か、24時間断食を行ったことがあります。水は飲んだ場合もあり、水も飲まなかったこともあります。水を飲まない方が、より苦しいですね。24時間でも断食して、そして食べ物をいただくと、実においしいですね。神様の恵みが、五臓六腑に文字通り染み渡る体験ができます。実においしい。神様が与えて下さる食べ物の恵みを深く実感するには、断食もよいことと感じます。私の知人のシンガポール人の男性宣教師が昨年、何か消化器系の病で入院され、5日間飲食を禁じられ、幸いよくなって、5日ぶりに食事をなさったとき、「とてもおいしかった。5日間断食していましたから」とLINEを送って下さいました。

 イエス様は、さらに語られます。36節以下「そして、イエスはたとえを話された。『だれも新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

 旧約聖書の時代が終わって、新しい契約の時代、新約の時代に入ったと宣言しておられるのですね。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」これは当時の格言と思われます。それをイエス様が用いて、新しいぶどう酒=福音の力強さを語っておられると受け止めます。ヨブ記32章19節に、ヨブのこんな言葉があります。「見よ、私の腹は封じられたぶどう酒の皮袋、新しい酒で張り裂けんばかりの皮袋のようだ。」新しい酒は、ピチピチと元気いっぱいなのでしょう。新しいぶどう酒とは、イエス様ご自身のことだとも言えますね。イエス・キリストとその福音は、愛に燃えていて革袋を張り裂きそうな、元気な生命力にあふれていると。ヘブライ人への手紙13章8節の御言葉が、思い出されます。「イエス・キリストは昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。」イエス・キリストこそ聖書の中心、聖書の主人公ですから、私たちはいつもイエス様に従うことが、必要です。イエス・キリストが花婿、教会が花嫁です。

 39節で、イエス様が言われます。「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」古いぶどう酒の方は、味がまろやかでおいしいのでしょう。お酒についてはそれでよいのでしょうが、ここでは「古いものの方がよい」は、悪い意味のことを言っています。古い契約の時代に愛着があるために、花婿イエス様を受け入れない人々がいるが、それではいけないと、イエス様が述べておられます。それでは、いけない、ぜひ早く、真の花婿イエス様を受け入れて信じなさい、という招きのメッセージです。

 「新しい」という言葉が、何回も出て来ます。イエス様の生き方、そしてイエス様の十字架の死と復活によって、全てが新しくなったのです。私たちは、真の花婿イエス様を信じ、できるだけ洗礼を受ける方がよいのです。花婿イエス様と一体となる洗礼によって、私たちは花婿イエス様の新しさをいただきます。洗礼は、花婿イエス様との霊的な結婚式とも言えますね。クリスチャンは皆、男性もイエス・キリストの花嫁です。コリントの信徒への手紙(二)5章17節以下に、こうあります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。」東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生がおっしゃったそうですが、カトリックの修道女は独身だけれども、イエス様と霊的に結婚して、キリストの花嫁として、イエス様と隣人に喜んで奉仕しているのだと。それは修道女の方に限らず、クリスチャンは皆そうなのだと思います。

 そして、イエス様が再臨され、地上にもう一度おいでになって、神の国は完成するとき、新約聖書ヨハネの黙示録19章の御言葉が、現実になります。「ハレルヤ、全能者であり、私たちの神である主が王となられた。私たちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊(イエス・キリスト)の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たち(信仰者たち)の正しい行いである。」この最高に喜ばしい日が、必ず来ます。その花婿イエス様が最初に地上に来られて、天国の喜びを地上にもたらし、神の国の祝福をもたらして弟子たちと共に活動された約3年間は、夢のような祝福の時だったと思うのです。天国の祝福のかたまりである花婿イエス様が共におられたその時に、悲しみのしるしである断食は、ふさわしくないと、イエス様は本日のルカ福音書で、語られたのだと思います。

 イエス様の時代の断食は、時に形式化したようです。他人に自分の信仰深さを見せびらかす手段になってしまったこともあるようです。しかし、神様に喜ばれる真の断食もあります。それは本日の旧約聖書であるイザヤ書58章に書かれています。

 「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。」これが、神様が喜ばれる断食です。神様を愛して礼拝し、隣人を愛することです。

 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」聖餐式のぶどう液は、新しいぶどう酒のシンボルとも言えます。新しいぶどう酒は、聖霊のシンボルとも言えます。聖霊は、イエス様の愛の霊であり、私たちを新しくして下さる清き霊です。聖霊が結ばせて下さる実は、今年の東久留米教会の標語聖句であるガラテヤの教会5章22~23節に記されています。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」私たちは、聖霊によって清められることで、イエス様の心に少しずつ近づくことができます。

 一昨日1月17日(金)で、阪神淡路大震災から30年になりました。もちろん大変悲しい出来事でした。現地にサポートに行かれた方も、東久留米教会におられると聞いています。あの大震災の1995年が、日本の「ボランティア元年」になったと言われます。あの後も様々は災害がありましたが、あの阪神淡路大震災から、日本でもボランティアが災害地の応援に行くことが盛んになったと。日本人がそれまで以上に、互いに助け合い愛し合うことをスタートした。新しい革袋の時代に入ったとも言えると思うのです。クリスチャンの石破首相は、防災庁を作ると言っています。これはよいことだと思うので、ぜひ実現してほしいと願います。

 2011年に東日本大震災が発生し、その2年後に、この地域に教会防災ネットワークNHK(新座 東久留米 清瀬)が誕生しました。他の地域にもできましたが、この地域にもできました。このお陰で、私はこの地域の色々な教派のクリスチャンの方々と知り合い、交流する恵みを受けました。本日夕方にもその会合があるので、行って参ります。これももしかすると、「新しい革袋」が生まれた出来事とも言えるのではないかと思います。震災が契機でした。このネットワークが始まるために、Aさんという方が各教会を訪問して趣旨を伝えて下さり、Aさんの呼びかけに応える形で、教会防災ネットワークNHK(新座 東久留米 清瀬)が始まり、10年少しになります。昨年10月にも、複十字病院の正面の日本聖公会・清瀬聖母教会で防災フェスタを行うことができました。そのAさんが、大変悲しいことに、昨年12月7日に天に召されたと伺い、驚いて深い悲しみを経験したのは、1月に入ってからでした。新しい革袋を作るために大いに働いて下さったことを、心より感謝しています。

 新しい革袋はキリスト教会とも言えます。教会にも時に誤りや罪が入り込むので、教会も聖書の御言葉と聖霊によって毎日悔い改めに導かれ、新しくされる必要があります。日々新しくされ、日々新しくイエス様を愛し、イエス様に喜んで新しく従う私どもでありたいと祈ります。アーメン。


2025-01-12 0:28:09()
説教「イエス・キリストの招き」 2025年1月12日(日)降誕節第3主日礼拝
(詩編51:3~21) 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。

(ルカ福音書5:27~32) その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである


(説教) 本日は、降誕節第3主日の礼拝です。説教題は「イエス・キリストの招き」、小見出しは「レビを弟子にする」です。この直前の個所でイエス様は、中風という病気(脳梗塞?)であった人に「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言され、その人の病気を癒して下さいました。

 最初の27節「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた。」徴税人は、福音書にしばしば登場しますね。当時のイスラエルはローマ帝国に支配されてたので、徴税人はイスラエル人(ユダヤ人)でありながら、ローマの支配に協力し、仲間のイスラエル人から税金を徴収して、しかも規定以上に徴収して、私腹を肥やしていたそうです。それはもちろん罪なので、仲間のイスラエル人からは売国奴、裏切り者と白い目に見られ、憎まれていました。ある意味当然で無理もないと思います。

 レビは収税所に座っていました。自分の仕事に座っていました。収税所には、規定以上に不当に徴収した、レビの罪に汚れたお金もあったはずです。レビはそのお金を眺めては、罪深い満足感に浸っていたのではないかと思います。レビが収税所に座っていたことは、レビが自分の罪に安住していたことを意味するのではないかと思います。罪に安住し、自分はこれでよいとの罪深い自己満足に浸っていたのです。そこにイエス様が来られて、収税所に座っているレビを見られました。イエス様は一瞬で、レビの生活、心の状態を全て見抜かれました。レビが罪の世界に安住していることを見抜かれました。イエス様は、そこからレビを解放しようとなさいます。「私に従いなさい」と呼びかけられたのです。今までのレビは、金銭欲の中に埋もれていたのです。イエス様はレビを、金銭欲と罪の奴隷状態から解放しようと、力強く呼びかけ、招かれたのです。「私に従いなさい。」イエス様は、今日私たちにも、情熱的に同じ呼びかけ、招きを語りかけておられます。「私に従いなさい。」

 レビのすばらしいところは、イエス様の呼びかけ、招きに、おそらくすぐに従ったことです。思い切りよく、イエス様に従う人生に飛び込んだのです。これはレビにとって洗礼を受けた等しいと思います。洗礼を受ける方が時々、「清水の舞台から飛び降りる」気持ちで洗礼を受けたとおっしゃいます。思いきった決断を実行したとの意味です。レビもある意味、そのような思いきった気持ちで、イエス様に従う決断をしたと思います。28節「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」:「何もかも捨てて」とは、まず彼の罪を思いきって捨てたと思います。不当に集めた税金も、自分の所有から捨てたと思います。ある解説文では、この「何もかも捨てて」はやはりお金を捨てたと理解し、「富が救霊妨げにのなる危険性を強調いている」と書かれています。「何もかも捨てて立ち上がり。」決然と立ち上がらないと、古い罪深い生活を捨てることができません。立ち上がるとは、復活を意味する場合もあります。古い罪深い自分に死んで、イエス様と共に新しい命に復活したことを、立ち上がったという言葉で表現しているのかもしれません。こうしてレビは、晴れてイエス様の弟子になったのです。私たちクリスチャンも皆、イエス様の弟子です。

 29節「そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。」自分の欲望の罪から解放されたレビは、自分の家にイエス様を招き、仲間の徴税人たちや知人たち(30節でファリサイ派の人々や律法学者たちが罪人(つみびと)と呼んでいるので、いかがわしい仕事をしていた売春婦のような人々もいたと思われます)を呼んで、盛大な宴会を催したのです。多くの人々に救い主イエス様を紹介する伝道集会を自宅で開いたようなものです。金持ちだったので、大きな家を持っていました。大きな家庭集会を開いたと言ってもよいでしょう。あまり評判のよくない人々に、イエス様に出会ってもらうために、自分の持てる家を提供し、伝道のために献げたのです。レビの伝道行為です。レビはイエス様にも、仲間たちにも大きく心を開きました。もてるお金を、イエス様に喜ばれる伝道のために用いました。この喜びの宴会は、教会の礼拝のようとも言えますし、天国に先取りとも言えます。

 30節「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人(つみびと)などと一緒に飲んだり食べたりするのか。』」なぜ徴税人や売春婦のようないかがわしい連中と、仲良く飲んだり食べたりするのか。こう言われるのが当然とも思えます。清らかなはずのイエス様とその弟子たち、なぜこのようないかがわしい連中と仲良くするのか。確かにイエス様はこのような人々と付き合われたのですが、彼らの罪を決してよしとはなさいません。イエス様は(父なる神様)は、罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪そのものを明確に憎んでおられます。イエス様は、私たち罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪を明確に憎んでおられます。イエス様は、罪を明確に憎んでおられますが、私たち罪人(つみびと)を愛して下さいます。

 ですからイエス様は言われます。31~32節「イエスはお答えになった。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである。』」私たち罪人(つみびと)の友となって、私たちを悔い改めと救いに導いて下さいます。レビも罪を悔い改めて、イエス様に従ったのです。不正に得たお金を捨てて、イエス様に従ったのだと思います。そして晴れ晴れとしています。レビは、仲間たちをも同じ悔い改めに導き、罪を捨てさせ、神様に赦されて、晴れ晴れとした気持ちを味わってほしいのだと思います。

 イエス様は、このルカ福音書19章で、徴税人ザアカイの家にわざわざ泊まり、ザアカイを悔い改めと救いに導きました。そのとき、イエス様は言われました。「人の子(ご自分)は、失われたものを捜して救うために来たのである。」神様から離れて罪を犯し、滅びへの道を進んでいる人々、神様を見失っている人々を見て心を痛め、その人々を捜し出して、悔い改めに導き、救いに導くために来たとおっしゃいます。15章では、こうおっしゃいます。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい」と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人(つみびと)については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 イエス様は、見失った一匹一匹を、皆捜し回って救おうとなさることが分かります。そこで次の聖句が真実であることが分かるのです。テモテへの手紙(一)1章4節「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」ペトロの手紙(二)3章9節「ある人たちは、遅い(イエス・キリストの再臨が)と考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」皆が罪の赦しと永遠の命を受けるために、私たちは主イエス・キリストを、身の周りのすべての方々に紹介して、伝道する使命を、イエス様から与えられています。

 イエス様は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」と言われました。悔い改めを必要とする罪人(つみびと)は、徴税人、売春婦だけではありません。ファリサイ派の人々や律法学者たちにも罪はあります。自分は完全に正しいと信じ込んでいる罪です。それを自己義認と呼びます。自分で自分を正しいと認め過ぎて、過剰な自信をもつことです。その時、人は自己義認、プライドたっぷり、高慢、思い上がりの罪、優越感を抱いて他人に低いレッテルを貼る罪に陥っています。この自己義認、高慢の罪もまた、立派な病気です。ファリサイ派、律法学者たちにも、本当はイエス様の救いを必要としているのです。

 しかし自分たちには、救いは必要ないと思っていたかもしれません。自分たちは懸命に、清く正しく生きており、自分たちには罪はないと思っていたかもしれません。でもそうではありません。エバとアダムが神様に背いて以来、すべての人が、罪に落ちてしまいました。私たちは、生まれながらに罪を持っています。この生まれながらの罪を原罪と呼びます。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分たちには原罪(生まれながらの罪)はないと思っていたのではないかと思います。そして自分たちは、あの徴税人や売春婦とは違うというエリート意識、差別意識、高慢の思いをもっていたと思います。これが罪、原罪とも言えると思います。イエス様には、エリート意識、差別意識、高慢の思いは全くありません。イエス様だけが、原罪の全くない方です。イエス様には、どんな罪もないのです。ファリサイ派の人々、律法学者たちは、自分のエリート意識、差別意識、高慢の思いを悔い改めて、そして悔い改めた徴税人や売春婦と信仰の友となることが、イエス様に喜んでいただける道ではないかと思います。

 本日の旧約聖書は、「悔い改めの詩編」の1つ、有名な詩編51編です。ダビデ王が、真に忠実な部下ウリヤの妻バトシェバを奪って姦淫の罪を犯し、ウリヤを計画的に死に追いやり、預言者ナタンの厳しい叱責を受けて自分の大きな罪に気づいて書いた詩編と言われます。3節より、改めて読みます。

 「神よ、わたしを憐れんで下さい。御慈しみをもって。深い御慈しみをもって、背きの罪をぬぐって下さい。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」

 「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」これが原罪を指すと思います。4世紀から5世紀にかけて生きたアゥグスティヌスというクリスチャン(人生の後半で、教会の優れた指導者になった)が原罪について深く考えました。彼は人生の前半は放蕩息子であり、熱心なクリスチャンだった母親のモニカを深く悲しませていました。彼はいくつかの女性関係をもち、情欲の罪に負けていたようです。しかし時が至って回心、悔い改めをなし、クリスチャンとなり、教会の優れた指導者になります。自分の若い日の罪を思えば、人間には原罪があると考えないわけにはいきませんでした。そんな自分が回心、悔い改めと救いに導かれたのは、決して自分の努力によるのではなく、ただ神様の恩寵(恵み)のみによると信じました。自分には原罪があり、原罪から自分の道徳的努力で救われることは不可能で、ただイエス・キリストの愛の恩寵によってのみ、自分は救われたと信じました。

 アゥグスティヌスと同じ時代にイギリス人のペラギウスという修道士がいて、人間にへ原罪はないと主張したようです。人間は、自分の道徳的な努力によって清く生きられると主張したようです。ペラギウスの考えは、アゥグストゥスと正反対で聖書に反します。ペラギウスは確かに道徳的に立派な生涯を送りましたが、その彼にも神様から見れば罪があるのです。人間の意志には、罪が入り込んでいるので、どんなに清く立派な行いにも、残念ながら罪が含まれています。原罪があるのです。

 本日登場するファリサイ派の人々、律法学者たちも、自分には原罪がないと思っているのではないでしょうか。使徒パウロもきっと、自分には原罪などないと確信していたと思います。そこでクリスチャンたちを迫害しました。しかし復活のイエス様に出会った時に、自分にも罪がある、原罪があると気づいて、謙虚になりました。その頃はまだ原罪という言葉はありませんでしたが。ファリサイ派の人々、律法学者たちは「つぶやいた」とあります。神様、イエス様がなさることに、ぶつぶつ不平を言うのです。ぶつぶつ言う罪は、私も犯している自覚を持ちます。小さな声ではなく、心の中でぶつぶつ言うこともあります。それもまた、私に原罪という病気があることの証拠です。イエス様は言われます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく。罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである。」

 自分にも原罪があるが、ただイエス様の十字架と復活の恩寵によってのみ救われた私・私どもであることを思い、感謝と悔い改めをもってイエス様に従う礼拝・信仰生活を続けさせていただきたいものです。アーメン。

2025-01-07 17:30:15(火)
伝道メッセージ 石田真一郎(市内の保育園の『おたより』1月号に掲載した文章)
「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた」(旧約聖書・創世記11章9節)。

 私と妻は昨年11月16日(土)、JR常磐線の特急ひたちで福島県双葉郡双葉町に行き、「東日本大震災原子力災害伝承館」を見学しました。2011年3月11日に大事故を起こした福島第一原子力発電所の近くです。1986年の旧ソ連のチェルノブイリ原発事故を受け、日本でも科学者・高木仁三郎氏が国内の原発の危険性を訴えましたが、2000年に高木氏が亡くなると、日本中で忘れました。「天災は、忘れたころにやって来る」(地震学者・寺田寅彦)の警句どおり、大地震と大津波が起きました。福島の事故は、天災を甘く見て招いた人災と言えます。伝承館の説明はこうです。「想定を超える津波が起きる危険が高いこと、その場合すぐに炉心損傷、全電源喪失(原子炉を冷却できなくなる)に至ることが、何回も指摘されて来た。しかし、東電は危険を軽視し、十分な対策をしなかった。この事故は決して『想定外』ではなく、対策の不備の責任は免れない。何度も事前に対策するチャンスがあったことを思えば、この事故は『自然災害』ではなく、明らかに『人災』である。」地震と大津波、原発の水素爆発、冷却のための地上と空からの放水、混乱の中での町長による集団避難の決断、転々とする避難生活、除染の努力を写真等で見ました。

 この事故を決して風化させてはいけませんが、現実には忘れた政策が進んでいて、危険です。原発は、人間の欲望のシンボルに見えます。旧約聖書の「バベルの塔」の話は、神様がバベルの塔の建設をやめさせ、人間の欲望の増大にストップをかけた話です。新約聖書のヨハネの黙示録に次の箇所があります。「松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は『苦(にが)よもぎ』といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ」(8章10~11節)。チェルノブイリという語は、ウクライナ語で「苦よもぎ」の意味だそうです。チェルノブイリと福島の事故は、人類の欲望優先の罪への、神様の警告ではないでしょうか。神様の警告は、人類が滅びないために謙虚と反省に導く、神様の愛のメッセージです。福島の事故の時に首相だった、クリスチャンでない菅直人氏でさえ、次の意味のことを述べました。「あの事故はもっと最悪になりそうだったのに回避されたのは、現場の努力と共に、神のご加護があったとしか言いようがない。」あの時、多くの人々も私も必死に祈りました。神様の愛の警告を無視せず、喜んで受け入れる日本と世界を、ご一緒に造りましょう。アーメン(「真実に」)。

2025-01-07 17:27:04(火)
伝道メッセージ 石田真一郎(市内の保育園の『おたより』12 月号に掲載した文章)
「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(イエス・キリスト。新約聖書・ヨハネによる福音書3章16節)。

 クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日です。私は1988年に22才で洗礼を受けてクリスチャンになり、25才で神学校(牧師養成学校)に入学、29才で卒業して、日本キリスト教団東久留米教会伝道師になり、32才で同教会の牧師となって、今に至っています。母がカトリック教会の信者だったので、私も感化を受けました。父は、70才を過ぎてからプロテスタント教会で洗礼を受けました。

 私は、キリスト教主義の幼稚園で、お祈りを学びました。しおんの子どもたちには、毎朝の礼拝で「主の祈り」(イエス・キリストが教えられた祈り)を、お祈りしてもらっています。世界中のクリスチャンが祈っている祈りです。しおんの子どもたちからも、将来のクリスチャン、牧師が誕生すると期待しています。

 イエス様は約2000年前に、イスラエルの小さな村ベツレヘムの馬小屋で誕生されました。母マリア、父ヨセフは貧しい夫婦でした。貧しい羊飼いたちと、博士たちが、イエス様を礼拝しに来ました。イエス様は大人になっても、貧しい弟子たちと行動を共にし、貧しい人々の病気を癒し、貧しい人々の友とされました。約33才で、十字架で死なれます。これには深い意味があります。イエス様は私たち皆を愛し、私たちの全ての罪と過ちの責任を身代わりに背負って、私たちの代わりに十字架で死なれたのです。そして三日目に復活され、今も天で生きて、私たちを見守り、清き聖霊を送って下さいます。

 罪とは、私たちが、命をプレゼントして下さった真の神様に感謝せず、神様を礼拝せず、神様を無視して生きることです。私たちがこの罪を悔い改め(謝り)、イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けるなら、必ず全ての罪の赦しと、永遠の命(死んでも天国で永遠に生きる命)が与えられ、不滅の希望が与えられます。これがキリスト教の信仰です。全ての方がイエス・キリストをご自分の救い主と信じて、洗礼を受け、永遠の命を受けて下さるように、私は心より祈ります。

 11月19日(火)午後に、市内のホームに住む男性Aさんをお見舞いして、洗礼式を行いました。半年以上、東久留米教会の日曜礼拝にYou Tubeで参加して下さり、聖書の学びを続けてきました。通常は、洗礼式は教会の日曜礼拝で行いますが、当日はAさんの73才の誕生日で、誕生日の洗礼式を希望されたのです。健康上の理由で外出が困難なので、私がホームに行って洗礼式を行いました。この方は誕生日に、永遠の命を受けたのです。天国におられるAさんの両親もクリスチャンで、息子さんがクリスチャンになって永遠の命を受けることを、地上に存命中に祈っておられたのに違いなく、それが今実現したのです。アーメン(「真実に」)。

2025-01-07 17:23:22(火)
伝道メッセージ 石田真一郎(市内の保育園の『おたより』11月号に掲載した文章)
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(イエス・キリスト。ヨハネによる福音書8章7節)。

 大泉学園駅北口から北へ向かうと、小さな「ベテスダ奉仕女(じょ)・母の家」のいずみ寮があり、ドイツで始まったプロテスタント・キリスト教会の修道会の支部です。べテスダは、新約聖書に出て来るエルサレムの池ベトザタで、イエス様がここで癒しを行われました。「ベテスダ奉仕女・母の家」では、イエス様に人生を献げたプロテスタントの(主に)女性方が、祈りと奉仕の生活を送っておられるのだと思います。「経済成長の陰に隠れ、取り残されて社会の谷間で助けを求める人は多いのです。私たちは、1954年にこれらの悲惨をみるにしのびず、イエス様の愛をもって立ち上がりました。女性支援の施設2つと保育所、障がい者の方の作業所を行っています」(ホームページ)。リーダーは深津文雄牧師(1909~2000)。売春をやめて生き直そう(売春防止法の施行は1957年)とする等、様々な事情や困難を抱える女性たちが助け合って、神様に祈りながら生きる「かにた(地名)婦人の村」を、1965年に千葉県館山市に開設しました。

 1986年8月15日、村の山頂に「噫(ああ) 従軍慰安婦」と彫られた石碑の除幕式がありました。戦後クリスチャンになった入所者・城田すず子さん(1921~1993)の願いです。城田さんは、父親の借金が原因で、17才で台湾の慰安所に売られ、戦争中に南洋のパラオ等で慰安婦をし、台湾・韓国・沖縄から来た慰安婦の世話係もしたそうです。城田さんは言いました。「中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざんひどい目に遭い、足手まといになるとほっぽり出された。彼女たちが毎夜まざまざと夢に浮かび、私は耐えきれません。慰霊碑を建てて下さい。」深津牧師は「もし忘れてしまったら、同じことを繰り返すのではないか。慰霊碑というだけでなく事実の記録として、ここに碑を建てよう。」毎8月、慰霊の集いがあります。

 1993年には河野洋平官房長官談話(朝鮮半島出身の女性たちが慰安婦になることが、本人たちの意志に反して行われたことを認めた)があり、翌年には村山富市首相の「反省とお詫び」の言葉が出ました。私は2001年に韓国の独立記念館を見学した時、従軍慰安婦が英語で sexual slave(性奴隷)と表記されているのを初めて見て、この言葉が本質を衝いていると感じました。政府が防衛費倍増を唱える今、日本が再び戦争する国にならないように、食い止める必要を痛感します。アーメン(「真実に」)。