日本キリスト教団 東久留米教会

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2021-05-09 0:29:58()
「イエス様に従い、実を結ぶ生き方」   2021年5月9日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ガラテヤ5:22~23、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・16、聖書 エレミヤ書8:8~13(旧約1191ページ)、マタイ福音書21:18~22(新約41ページ)、祈祷、説教「イエス様に従い、実を結ぶ生き方」、讃美歌21・514、献金、頌栄83(2節)、祝祷。  

(エレミヤ書8:8~13) どうしてお前たちは言えようか。「我々は賢者といわれる者で/主の律法を持っている」と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き/それを偽りとした。賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。見よ、主の言葉を侮っていながら/どんな知恵を持っているというのか。それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に渡し/彼らの畑を征服する者に渡す。身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり/預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、おとめなるわが民の破滅を/手軽に治療して/平和がないのに「平和、平和」と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず/嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ/彼らが罰せられるとき、彼らはつまずくと/主は言われる。わたしは彼らを集めようとしたがと/主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく/いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、わたしが与えたものは/彼らから失われていた。

(マタイ福音書21:18~22) 朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

(説教)5週間前にイースター礼拝を献げ、本日は復活節第6主日の礼拝です。今日の箇所は、イエス様がエルサレムに入った次の日(月曜日)の朝早くの出来事を記します。前日の日曜日に、イエス様は群衆に「ホサナ、ホサナ」と歓迎されてエルサレムに入り、エルサレムのシンボルとも言える神殿に入って、神殿を激しく清められました。このことは神殿の指導者たちの非常に強い反感を買ったと思われます。五日後の金曜日に十字架につけられるのです。その後イエス様は一旦エルサレムを出て、近くのベタニアに行き、ベタニアにお泊まりになりました。

 そして翌日(月曜日)の早朝にエルサレムに戻る途中、イエス様は空腹を覚えられました。19節「道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかには何もなかった。そこで、『今から後いつまでも、お前には実がならないように』と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。」これを読むと、多くの方はびっくりすると思います。まず小見出しが「いちじくの木を呪う」であることに抵抗を感じ、イエス様が呪うなどということがあるのだろうか、と疑問を持つと思います。そして、空腹の時にいちじくの木にたまたま葉があるだけで実がなかったという理由でイエス様が「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と、腹立ち紛れの言葉を投げつけるとは、どういうことかと分からなくなるでしょう。

 その意味で、分かりにくい箇所です。妥当と思われるのは、いちじくの木が旧約聖書以来の神の民イスラエルのシンボルだとする解釈です。イスラエルの信仰の中心といえる神殿さえも腐敗し、イエス様が激しく清める必要がありました。そのように神様の前に堕落してしまい、実を結ばないままでいるイスラエルの民のことを、実を結ばないいちじくの木が象徴しているというのです。確かにこれが正しい受け止め方だと感じます。そうでないと、全く理解できません。イエス様は、個人的な腹立ち紛れで「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と命じられたのではないでしょう。真のが深く愛して選ばれた神の民が、真の神様に背き続け、長年待っても実を結ばないことに対する神様の強い嘆き、神の子イエス様の深い悲しみがあることに、私たちが気づくことが必要と思われます。イエス様が神殿を清めたことでイスラエルの信仰のリーダーたちが悔い改めるかと思えば、その反対で、かえってイエス様を憎んで十字架で殺すことを思うと、大変残念なことに神の民イスラエルがいかに深く神に背いていたか、明らかになってしまいます。

 よく似たことが、本日の旧約聖書エレミヤ書8章8節以下にも記されています。まず、最後の13節を見ると、こうあります。「私(神様)は彼ら(イスラエルの民)を集めようとしたがと、主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、私が与えたもの(実りでしょう)は、彼らから失われていた」とあります。ぶどうの木といちじくの木がイスラエルを象徴していることは確かで、ぶどうの木といちじくの木(イスラエル)が実を結ばない(神様に喜ばれる生き方をしていない)ことに対する、神様の嘆きと聖なる怒りが記されています。イスラエルの民の実態がどうであったか、8節以下に記されています。「どうしてお前たちは言えようか。『我々は賢者と言われる者で、主の律法(その代表はモーセの十戒)を持っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした。賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。見よ、主の言葉を侮っていながら、どんな知恵を持っているというのか。それゆえ、私(神様)は彼らの妻を他人に渡し、彼らの畑を征服する者に渡す。身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、おとめなるわが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う。彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいと思わず、嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ、彼らが罰せられるとき、彼らはつまずくと主は言われる。」

 そして結論的に、「私(神様)は彼らを集めようとしたがと、主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はしおれ、私が与えたものは彼らから失われていた。」神の民イスラエルの堕落ぶりを、神様が深く嘆いておられます。本日のイエス様の心と深く通じているでしょう。マタイ福音書では、いちじくがたちまち枯れたことを見たイエス様の弟子たちが驚いて、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」問いかけ、話が祈りのことに移ってゆきます。祈りのことにゆく前に、「実を結ぶ」ということを考えてみたいと思います。旧約聖書にも新約聖書にも、「実を結ぶ」ことが大切だということが多くの箇所に書かれています。私たち信仰者を、生命力豊かな植物にたとえています。最初に神の言葉(御言葉)という種が蒔かれ、それが芽を出し成長し花を咲かせ、実を実らせる。信仰者のよき人生を、力強い植物や木にたとえています。

 マタイ福音書13章では、イエス様が種まきのことを伝道にたとえて、こうおっしゃっています。「だれでも御国(神の国)の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたもの(種)とは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたもの(種)とは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたもの(種)とは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

 私たちはこれを聞いて、神様に喜ばれる実を結ぶ人生を生きたいと願いますが、自分の努力だけでは無理ではないかという思いも、心に浮かびます。そもそも実を結ぶとは、どのようなことなのかと考えてしまいます。それはやはり、イエス様のように父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する生き方をすることだと思うのです。でも、それは自己中心の罪を持つ私たちには、ほぼ無理。そこでイエス様に頼ることになります。ヨハネ福音書15章でイエス様が語られる次の御言葉が、私たちに希望を与えてくれます。「私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」イエス・キリストにつながっていることが、決定的に重要だと述べています。イエス様は少し先では、こう言われます。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私(イエス・キリスト)の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。」この最後の部分は、私が1988年に洗礼を受けた時に書いた「洗礼の決心」の文章に引用しました。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私(イエス様)の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。」私だけでなく、皆様全員が実を結ぶ者となるようにイエス様に選ばれ、招かれています。」

 そしてイエス様の霊である聖霊が私たちに注がれる時、聖霊の御力によって私たちは実を結ぶ者とならせていただけます。聖霊が私たちにどんな実を結ばせて下さるか、今月の礼拝の「招きの言葉」ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節に書かれています。「これに対して、霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」聖霊の結ぶ実が9つ書かれているとも言えますが、1つの聖霊の実にこの9つの要素が全て含まれていると読むこともできるでしょう。この実を結ぶことの逆は、この前の19節に出ています。実を結ばないとどうなるか、です。それが「肉の業」(エゴイズムの業)と書かれています。「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」「怒り」とありますが、これは私たち人間の自己中心的な怒りです。父なる神様、イエス様も時に怒られますが、それは自己中心的な罪深い怒りではなく、聖なる怒り・100%正しい怒りですから、私たちの自己中心の怒りとは全く違います。ここに書いてある「肉の業」ばかり行っていると、私たちは「実を実らせないいちじくの木」になってしまい、悔い改めないでずっと続けていると天国に入れない恐れがあります。生まれつきの私たちの心の中には、これらの「肉の業」が多く含まれているので、イエス様というぶどうの木から、愛という栄養分を補給していただいて、これらを少しずつ消してゆきたいものです。罪を悔い改めつつ、「聖霊を注いで下さい」と祈り続けて、聖霊によってこれらの罪を日々清めていただく必要があります。この地上では100%清くなることはできないと思いますが、それでも少しずつ清めていただいて、イエス・キリストに似た一人一人(姿形ではなく、心の中が)に変えられたいものです。

 マタイ福音書に戻ります。「なぜいちじくの木がたちまち枯れてしまったのですか」と驚いて質問する弟子たちに、イエス様は、「これが信仰の力だ」という意味の答えをされます。そしてここから話は、信仰の力、祈りの力についての話に進みます。21節「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。あなた方も信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、「立ち上がって海に飛び込め」と言っても、その通りになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。』」イエス様のお言葉ですから、そのまま受け入れるべきでしょうが、ここを読むとやや困惑を覚える方もおられるのではないでしょうか。確かに神様に不可能は1つもないのですから、巨大な山を海に投げ込むことも簡単です。旧約聖書の出エジプト記で神様は、エジプト軍によってイスラエルの民が海の前に追い詰められた時、その大きな海を割って陸地を出現させ、イスラエルの民はそこを渡って救われました。ですが私たちは普通、「あの山が海に飛び込みますよう」と祈ることはありません。そうは祈りませんが、イエス様はここで祈りの力に不可能はないとおっしゃっているのでしょう。

 山は困難のシンボルです。神様に祈りながら進めば、どんな困難にも負けないで進むことができるということでしょう。時間はかかっても、1つ1つの困難や障がいを乗り越えて、神様が進ませて下さるという励ましです。イエス・キリストの使徒パウロが、コリントの信徒への手紙(二)4章で、「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と書いています。パウロはあらゆる困難と苦難と行き詰まりを経験しましたが、その度に、イエス様を死者の中から復活させた父なる神様の偉大な助けを受けて、乗り越えたのです。この礼拝堂を建て替えが完成し、この会堂で礼拝を開始したのは、ちょうど10年前の6月だったと思います。建築が始まる前に、いくつか障がい・困難がありました。教会設計の専門家のアドヴァイス「これまで様々な教会の会堂建築に協力してきたが、どの教会もいろいろな困難に遭遇するが、私の経験では完成しなかったことはない」との言葉にも励まされ、予定通り進まない中、悩みながら共に祈りながら、完成にたどり着いたことを思い起こします。

 イエス様は「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」とおっしゃいましたが、もちろん私たちが自分勝手なわがままを祈り求めても、実現してもらえないでしょう。ヨハネの手紙(一)5章14節以下には、「何事でも神の御心に適うことを私たちが願うなら、神は聞き入れて下さる。これが神に対する私たちの確信です。私たちは、願い事は何でも聞き入れて下さるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」「何事でも神の御心に適うことを私たちが願うなら、神は聞き入れて下さる。これが神に対する私たちの確信です。」この御言葉に励まされ、神に喜ばれる祈りを、確信をもって祈り続けましょう。

 では何が、神様に喜ばれる祈りでしょうか。やはり私たちの知る人々を思って、その方々に神様の祝福と慰めを祈るとりなしの祈りが喜ばれると思うのです。そして私たちが、「イエス様に従い、実を結ぶ生き方」をすることができますようにとの祈りも神様の御心に適い、喜ばれるゆえに、必ず聞き入れられると信じます。世界で一番「実を結ぶ生き方」をなさった方は、イエス様ご自身と信じます。イエス様はヨハネ福音書12章で「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われます。十字架にかかかって私たち全ての人間の全ての罪を身代わりに背負って死なれたイエス様は、無数の人間の命を救われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われてその通り十字架で死なれたイエス様は、最も多くの実を結ぶ生き方をされました。

 実を結ぶ生き方とは、神様からご覧になって実を結んでいるということと思います。目立つプロジェクトを行うということでもないでしょう。以前東久留米教会の標語聖句になったコロサイの信徒への手紙3章23節に、「何をするにも、人に対してではなく、主(イエス様)に対してするように、心から行いなさい」とありますが、日々の一つ一つの務めを、祈りと真心を込めて、イエス様にお仕えする気持ちで愛を込めて行うことではないでしょうか。謙遜と愛を込めて一つ一つの務めを行うならば、結果的に「実を結ばせていただく」生き方になるのではないかと、感じます。そのような姿勢で、謙遜にイエス様と隣人にお仕えして参りたく思います。

(祈り)聖名讃美。東京で3回目の緊急事態宣言が今月末まで延長。オリンピック適切な決断を。感染している方全員に、特に重症の方に神様の癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神様に立ち帰るように。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられ、入院中の方もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の大人と子どもたちに聖霊を。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛を。チャイルドファンドジャパンを通して応援しているフィリピンの少年少女、牧師夫婦のホーム、「にじのいえ信愛荘」の方々に、神様の守りを。イエス様の御名により、アーメン。

2021-05-02 1:27:51()
「祈りの家を清めるイエス様」   2021年5月2日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ガラテヤ5:22~23、頌栄29、「主の祈り」、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・327、聖書 イザヤ書56:6~7(旧約1154ページ)、マタイ福音書21:12~17(新約40ページ)、祈祷、説教「祈りの家を清めるイエス様」、讃美歌21・390、献金、頌栄83(1節)、祝祷。  

(イザヤ書56:6~7) また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら/わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

(マタイ福音書21:12~17) それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。

(説教)4週間前にイースター礼拝を献げ、本日は復活節第5主日の礼拝です。イースター後の箇所、復活されたイエス様と女性の弟子や男性の弟子たちの間で起こった再開の箇所を2箇所読んだので、本日はイースターに行っていたマタイ福音書を続けて読む箇所に戻します。本日の21章は、イエス様が十字架にかかる週の日曜日の出来事です。教会のカレンダーですと受難週の第一日(日曜日)の出来事です。この五日後に、イエス様は十字架の上で死なれ、三日目に復活されます。この日曜にまず起こったことは、イエス様がエルサレムの都に入られたことです。人々はイエス様に大きな期待をかけ、熱狂的に歓迎しました。イエス様をイスラエルの王として押し立てて、イスラエルを支配しているローマ帝国からの独立を勝ち取ろうと盛り上がったようです。ですがイエス様は、それがご自分の使命ではないとはっきり考えておられました。ですから勇ましく馬に乗ることなく、あえて弱いろばに乗ってエルサレムに入られました。人々はイエス様に「ホサナ、ホサナ(万歳、万歳)」と叫び、なつめやしの枝(以前の訳ではしゅろの枝)を持って歓迎しましたが、イエス様は心の中で、十字架の道に進むことを思っておられたに違いありません。エルサレムに入って真っ先に何を行うかも、心の中ではっきり考えておられました。真っ先に行うこと、それはイスラエルの民の信仰の中心である神殿を清めることだったのです。

 その頃のエルサレムの神殿は、ヘロデ大王たちが46年もかけて拡張した巨大・壮麗な建物で、外国でも有名だったそうです。その外観の立派さを、イエス様の弟子たちまでも誇りにしていたようです。巨大だということは、どこかで権力と結びついていたのでしょう。人間が(特に男性が)集まる所には、どうしても政治的な権力が発生しますから。権力が発生すると、悪魔が忍び込み易くなると思います。

 イエス様は、実に思いきった行動に出られます。12節「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒された。」ヨハネによる福音書では、イエス様が縄で鞭を作り、(売られていた)羊や牛までも全て境内から追い出したと、書かれています。解説書を読むと、神殿で神様に献げるいけにえの鳩などを買うために、鳩を売る者たちがいたそうですし、ヨハネ福音書ではイエス様が羊や牛までも追い出したと書いてあることを見ると、神様に献げる羊や牛までも売られていたようです。神殿内ではユダヤ人のお金しか使えなかったため、外国から帰国して神殿で礼拝する人のために、外国のお金をイスラエルのお金に換える両替人もいたのです。最初はそれらがないと困るという現実的な理由で、両替人や献げ物にする動物を売る商人が登場したのでしょうが、最初はささやかだった売り買いも、次第に大々的に行われるようになったと思うのです。これらの商人に、売り買いを行う許可を与えた神殿の祭司たちは、それで大きな利益を得ていたそうです。こうして神殿ビジネスが、堂々と幅をきかせるようになったと思われます。これでは、「今日の儲けは、いくらだった!」が大事になり、神様よりもお金と経済を重視する風潮になってしまいます。
 
 イエス様は「ちょっと待ちなさい。それでいいのか。礼拝とはそのようなものではない。礼拝とは、へり下って聖なる神様を畏れ敬い、神様の御声に聴き従う聖なる営みではないか。そこに世俗的なビジネスを導入してはならない。神殿での礼拝を原点に立ち帰らせ、礼拝全体を清くする必要がある」と、痛切に思っておられました。エルサレムでまずしなければならないのは、堕落した神殿とそこでの欲望にまみれて腐敗してしまった礼拝を改革すること、神殿と礼拝を清くすることだ。これこそ父なる神様が求めておられること。イエス様はそう確信して、このように大胆に神殿ビジネスを追放することを、断行されたのです。イエス様による宗教改革、礼拝改革と言えます。考えてみると、私たちも日々、自分の欲望に負けているかもしれません。礼拝改革とは信仰の改革、言い換えれば罪を悔い改めることです。宗教改革者マルティン・ルターの名言の一つは、「イエス・キリストが『悔い改めよ』と言われた時、それは私たちの全生涯が悔い改めであることを求められたのである」という言葉です。私たちは、日々自分の罪を悔い改めることで初めて。エルサレム神殿のような堕落と腐敗を防ぐことができるでしょう。

 イエス様は厳しいことを言われます。「こう書いてある(本日の旧約聖書イザヤ書56章7節に)。『わたしの家(神の家、神殿)は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」強盗の巣とは、強烈な表現です。清い祈りの場であるはずの聖なる神殿が、人間の欲望によって汚されているのです。強盗と言うのですから、ちょっとやそっとの欲望ではない、強欲が支配していたのでしょう。ルカによる福音書16章には、「金に執着するファリサイ派の人々」という表現があるので、当時の宗教家の中にも利益をむさぼる人がいたのでしょう。

 本日の旧約聖書・イザヤ書56章6~7節は、イスラエル人と共に、真の神を心から信じる異邦人(イスラエル人以外の民)も祈り礼拝することを許される場が神殿だと述べています。イエス様の時代の神殿には「異邦人の庭」という場所があり、異邦人はそこから先に入ることはできませんでしたが、でもそこまでは入って祈ることができました。「主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、私(真の神)の契約を固く守るなら、私は彼らを聖なる私の山に導き、私の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、私の祭壇で、私はそれを受け入れる。私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」

 その清い祈りの家である神殿が、人間の金銭への強い欲望によって汚された。イエス様は神殿を、聖なる怒りによって清められました。モーセの十戒の第十の戒めは、「隣人の家を欲してはならない」です。これは「むさぼりの禁止」だと言われます。「あれも欲しい、これも欲しい」というむさぼりの罪が神殿の中に入り込んでいたのです。イエス様の父なる神様、私どもの神様は愛の神であると共に聖なる神様です。この後の讃美歌で歌うように「聖なる、聖なる、聖なる主よ」と私どもが呼びかけ賛美する聖なる神様です。その神を礼拝する神殿も教会も、できるだけ清く保つ必要があることが、この場面からよく分かります。

 イエス様が神殿を清めた日は、日曜日です。この時代の礼拝の日である安息日(聖なる日)は土曜日ですから、神殿を清めた日は一番大事な、聖なる安息日ではありませんでした。でも神殿は、清い神の霊が充満する聖なる場所ですから、清く保つことが必要です。安息日ではなくても、イスラエルの最も重要な信仰の祭りである過越祭の時期でした。外国に住むイスラエル人も大勢、神殿で礼拝するために戻ってくる、信仰の上で非常に重要な季節です。安息日でなくても、安息日と同じように神殿礼拝を清く保つ必要があったとも言えます。

 安息日を考えてみると、安息日は礼拝に専念する日で、モーセの十戒の第四の戒めにこう書かれています。私どもにとっては、これは日曜日の心得と言えます。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」イスラエルでは安息日は聖なる日、礼拝に専念する日で、世の中の仕事を一切してはならない日でした。神殿の中は、聖なる安息日でなくても同じ清さが求められたのではないでしょうか。聖なる礼拝の場である神殿で、両替で儲けたり、礼拝のいけにえを売る商売であっても、それで儲けることを、イエス様は許さなかったのではないでしょうか。

 繰り返しますが、安息日にはエルサレムで商売することは罪でした。ところが人間は罪深いので、それを破る人々もいました。たとえば旧約聖書のネヘミヤ記13章を読むと、安息日破りに、信仰の真心によって立ち向かったネヘミヤという総督のことが書かれています。紀元前5世紀ころのエルサレムの出来事です。「ぶどう酒、ぶどうの実、いちじく、その他あらゆる種類の荷物を同じようにして、安息日にエルサレムに運び入れていた。そこで、彼らが食品を売っているその日に、私(ネヘミヤ)は彼らを戒めた。ティルス人もそこに住み着き、魚をはじめあらゆる種類の商品を持ち込み、安息日に、しかもエルサレムで、ユダの人々に売っていた。私はユダの貴族を責め、言った。『何という悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか。あなたたちの先祖がそのようにしたからこそ、神は私たちとこの都の上に、あれほどの不幸をもたらされたのではなかったか。あなたたちは安息日を汚すことによって、またしてもイスラエルに対する神の怒りを招こうとしている。』

 安息日の清さを守ろうするネヘミヤの信仰は、神殿の清さを守ろうとなさるイエス様の信仰によく通じると思うのです。ネヘミヤは、安息日の始まる前に、エルサレムの城門の辺りが暗くなってくると、城門の扉を閉じるように命じ、安息日が過ぎるまで、それを開けないように言いつけました。ネヘミヤは部下を、城門の前に立たせ、安息日に荷物が決して運び込まれないようにして、安息日にエルサレムでビジネス・取引が行われないように守りました。すると安息日に商売する人が外部から来なくなりました。ネヘミヤはまたレビ人(びと)(神殿で礼拝のために奉仕する人々)に、身を清めて門を守り、安息日を聖とするように命じました。ネヘミヤは安息日の清さを守るため戦い、イエス様は神殿の清さを守るために戦いました。

 私どもも、同じ精神で礼拝生活を行うことが大切と思うのです。イエス様は、清濁併せ飲むということはなさらないのです。お金は生活のためにある程度必要です。でもご存じの通り、お金を神様にしてはいけない、これが聖書の教えです。イエス様は、「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」と教えられました。ヨーロパなどの信仰の深い地域では礼拝の日曜日は、お店が開いていないことは珍しくなかったそうです。あるいは午後だけ開く。そんな地域が減っていることは残念です。

 そしてこの神殿清めが、エルサレムや祭司長たち、大祭司、律法学者たちや長老たちの強い反感を買ったと思います。彼らはイエス様を強く憎むようになります。この憎しみが、5日後の金曜日にイエス様を十字架に追いやります。神殿清めの直前にイエス様を「ホサナ、ホサナ」と熱烈に歓迎した民衆も、律法学者たちなどに煽動されて「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ぶようになります。神殿清めは、イエス様を十字架に追いやるほどに重大な出来事だったと言えます。イエス様は十字架に追いやられることをも分かっていて、それでも恐れないで勇敢に、神殿を清めたのです。父なる神様を愛しておられたからです。

 進みます。14節「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。」神殿に巣食う罪と悪に勇敢に立ち向かわれたイエス様ですが、障がいを持つ人、病気の人、子どもたちにはあくまで深い愛で接するイエス様です。15~16節「他方、祭司長たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子どもたちまで叫んで、『ダビデの子(イエス様)にホサナ』と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。『子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。』イエスは言われた。『聞こえる。あなたたちこそ、「幼子や乳飲み子の口に、あなた(神様)は賛美を歌わせた」という言葉(詩編8編)をまだ読んだことがないのか。』」子どもたちが歌う賛美の声を、父なる神様も神の子イエス様も、喜んでおられるということです。子どもの、心のこもったお祈りも、神様は喜んで聴いておられるに違いありません。

 今日の週報の裏面に、婦人会を中心にチャイルドファンドジャパンを通して支援させていただいているフィリピンの11才の男の子レイクライド・ランデス君からの手紙の日本語訳を載せています。受付に置いてあるファイルにはレイクライド君の写真や、この一年間の成長の記録もあります。フィリピンの子どもたちもコロナのために学校に行けないため、別の形で授業を受けているようです。レイクライド君は、東久留米教会からのクリスマスカードに感謝する言葉や、コロナの中での自分の日常を書いてくれた後で、「僕はいつも、僕のお祈りに皆さん(東久留米教会メンバー)を含めています」と書いてくれています。週報を作りながら、ちょっと感動しました。神様は、レイクライド君が東久留米教会のために祈ってくれるその、きっと素朴な祈りを喜んでおられると思うのです。このような交流が与えられていることは、神様の大きくて深い恵みだと、改めて感謝します。

 「ダビデの子にホサナ」と賛美した子どもたちは、小さくて言葉の意味はまだよく分からない子もいたかもしれません。でも賛美したということは、神様の聖霊に触れたからだと思うのです。東久留米教会でも、どこかの段階で教会学校の礼拝を再開できるようにお祈り致します。私は保育園の礼拝に毎週金曜日に行っていますが、0才から6才の子どもたちが幼児さんびかを歌い、聖書の言葉を暗唱し、お祈りしてお話を聴きます。私が行くのは金曜日だけですが、礼拝は月曜から金曜まで毎週5回も行われています。1、2才の子どもたちは、幼児さんびかの言葉も分からないかもしれないし、お話も十分は分からないかもしれません。でも祈りと賛美の雰囲気に浸ることも大事なのですね。そこで聖霊に触れるのですから。礼拝が終わった直後に、お話の意味が全部分かったとは思えないとても小さな女の子が、時々、「ありがと。楽しかった」と言ってくれます。そう言ってくれるとこちらも慰めを受け、嬉しいですね。子どもたちの小さな祈りと賛美を、イエス様も喜んでおられると信じます。

 大人が支配する神殿が、大人の強欲・欲望にまみれた時、イエス様は勇気をふるってこれを清められます。ペトロの手紙(一)4章17節には、「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」とあります。教会は、神の恵みを特に受けている神の家ですから、神様の期待度も高いと思います。欲望まみれにならないように気をつけ、成熟した大人でありつつ、同時に子どものように素直な心で神様をほめたたえたいのです。

(祈り)聖名讃美。東京に3回目の緊急事態宣言。オリンピック適切な決断を。感染している方全員に、特に重症の方に神様の癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神様に立ち帰るように。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられ、入院中の方もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。先週の総会をお守り下さり感謝。近所の方々にも聖霊を。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛を。チャイルドファンドジャパンを通して応援しているフィリピンの少年少女、牧師夫婦のホーム、「にじのいえ信愛荘」の方々に、神様の守りを。イエス様の御名により、アーメン。

2021-04-25 2:29:58()
「迫害者から伝道者に転換したパウロ」 2021年4月25日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 コリント(一)15:3~6前半、頌栄24、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・321、聖書 エレミヤ書31:31~33(旧約1237ページ)、ガラテヤの信徒への手紙1:11~24(新約342ページ)、祈祷、説教「迫害者から伝道者に転換したパウロ」、讃美歌21・329(予告を変更)、献金、頌栄27、祝祷。  

(エレミヤ書31:31~33) 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

(ガラテヤの信徒への手紙1:11~24) 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。
 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました。

(説教)3週間前にイースター礼拝を献げ、本日は復活節第4主日の礼拝です。昨年まで礼拝でしばしばローマの信徒への手紙への手紙を順番に読みましたが、それが終わり、今年2月28日(日)よりガラテヤの信徒への手紙を読み始めています。月1回か2月に一回程度、ガラテヤの信徒への手紙を順々に読み進めたいと思います。ガラテヤの信徒への手紙のテーマは、「キリストの福音」ということもできます。私の願いとしては、ガラテヤの信徒への手紙をよく読むことで、「キリストの福音とは何か」という非常に大切なことを、皆様と共に確かめたいということがあります。

 ガラテヤ地方は、今のトルコ国の中です。そこにイエス・キリストの教会ができていました。今のようないかにも教会という建物はなかったでしょう。しかし、そこに伝道が行われ、聖霊なる神様が働かれ、イエス・キリストを信じる共同体ができていたのです。そこへユダヤ(イスラエル)から人々がやって来て、ユダヤ人の習慣(それをユダヤ教と呼ぶこともできます)を実行しなければ救われない、天国に入ることができないと主張したらしいのです。例えばユダヤ人の習慣である割礼を受けなければ救われないと主張したらしいのです。それでガラテヤの教会が混乱しました。そこでパウロはこの手紙をガラテヤ教会宛てに書き、教会を正しく健全な福音信仰に、懸命に引き戻そうとしています。私たち後の時代の別の地域に住むクリスチャンにとっても、健全な福音信仰を確認するために、この手紙がとても有益です。

 今日の最初の11節「兄弟たち、あなた方にはっきり言います。私が告げ知らせた福音は、人によるものではありません。」この福音(よき知らせ=グッドニュース)は、人の努力によってもたらされたものではありません。それは神様が私たち人間に与えて下さったプレゼントです。父なる神様が、私たち罪人(つみびと)の罪を赦し、永遠の命を与えるために、自ら行動を起こして下さいました。最も愛する独り子イエス様を十字架に架けて、私たちの全部の罪をイエス様に背負わせなさいました。そして十字架で死なれたイエス様を、三日目に復活させられました。私たち罪人(つみびと)にも復活の命(永遠の命)を与えるためです。私たち人間でなく、父なる神様が自ら進んで大きな行動を起こされたのです。ですからパウロが告げ知らせた福音は、人によるものでは全くありません。最初から最後まで神によるものです。徹頭徹尾、神様ご自身から来る福音です。

 12節「私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」全くその通りで、若い頃のパウロ(当時の名はサウロ)は、徹底的なユダヤ教徒(ユダヤ主義者)で、クリスチャンは神を冒瀆する悪の存在と確信し、クリスチャンを激しく憎み、クリスチャンを迫害することこそ、神様から自分に与えられた正しい使命と確信して、クリスチャンの迫害に突き進んでいました。その頃の彼の様子が13~14節に書いてあります。「私は徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」旧約聖書の中で非常に大切な律法の代表はモーセの十戒でしょう。これは要なので今でも重要ですが、同じ旧約聖書の律法の中でも食物規定(これは汚れているから食べてはならない、これは汚れていないので食べてよい)は、新約聖書の時代は守る必要がなくなっています。そして旧約聖書にも書かれていない様々な細かい生活上の掟が613ほど付け加えられて、ユダヤ人はそれを熱心に守っていたのでした。パウロはそれを人一倍熱心に守っていたのです。

 パウロにとってさらに我慢ならなかったのが十字架につけられたイエス様です。ユダヤ人の常識では、十字架は呪いのシンボルです。十字架で死んだイエスという男は、神に呪われて死んだ悪人だとパウロは信じていたでしょう。そのイエスという男を崇めるクリスチャンは、神を冒瀆する許せない連中で、滅ぼすことこそ神様に喜ばれることと確信して、パウロはクリスチャンを迫害していました。このように気づかないうちに、悪魔の手先になって働いてしまっていたのです、

 そのパウロの人生に、神様ご自身が突然、介入されました。それは神様にとっては予定の行動だったと思います。15節でパウロは「しかし、私(パウロ)を母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出して下さった神が、御心のままに、御子(イエス様)を私に示して、その福音を異邦人(ユダヤ人以外)に告げ知らせるようにされた」と言っています。まず神様がパウロを、「母の胎内にあるときから選び分け」て下さったとありますが、これはパウロだけでなく私たちも同じです。同じパウロがこの次の手紙であるエフェソの信徒への手紙1章4~5節で、「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリスト・イエスにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」とあります。ですから、この礼拝に参加されている皆さんも、私も、天地創造の前から神様に愛され、神様に選ばれ、イエス・キリストによって神の子にしようと神様が心に決めて、神様に招かれている一人一人のです。無理やり信じるというより、このことに気づいて受け入れることが大切ではないかなと、思わされます。

 では神様(神の子イエス様)は、どのようにパウロの人生に介入なさったのか、それは使徒言行録9章に詳しく書かれています。新約229ページ。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司の所へ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムへ連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』言うと、答えがあった。『私はあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、誰の姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」この後、神様(あるいは主イエス・キリスト)がダマスコにいるアナニアというクリスチャンに語りかけ、アナニアをサウロのもとに派遣します。17節以下「そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れて下さった主イエスは、あなたが元通り目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで身を起こして洗礼(バプテスマ)を受け、食事をして元気を取り戻した。」余談ですが、「目からうろこが落ちる」という表現は、この聖書の箇所からできたのでしょうね。

 以上がパウロが、イエス様を憎みクリスチャンを迫害する生き方から、イエス様を信じイエス様を愛し、イエス様を宣べ伝える人生に大転換した出来事です。パウロの何が変わったのでしょうか。変わらなかった部分もあります。それは同じ神様を信じている点です。転換の前と後で、パウロが信じる神様が別の神様に変わったのではありません。同じ神様を信じ続けているのです。パウロは、ユダヤ人のファリサイ派に属していました。ファリサイ派はイエス様と衝突しましたが、ファリサイ派とクリスチャンの共通点もあり、それは(使徒言行録23章8節によると)ファリサイ派が復活と天使と霊のことを認めている点です。ユダヤ人のサドカイ派は、復活も天使も霊のことも認めないので、パウロがもしサドカイ派であったら転換してクリスチャンになりにくかったでしょう。でもパウロは復活と天使と霊を認めるファリサイ派だったので、この点ではクリスチャンになりやすかったとも言えます。以上はパウロが変わらなかった点で、これも押さえておく方がよいと思います。

 ではパウロの何が変わったのか? それはイエス様の十字架の愛が分かった、そこが決定的に変わったのです。ユダヤ人にとって十字架は神の呪い(裁き)のシンボルですから、それまでのパウロ(サウロ)は、イエスという男は十字架で神に呪われて死んだ悪人だと信じていたでしょう。確かにイエス様の十字架の死は、最も呪われた死でした。イエス様が「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と十字架の上で叫ぶほどに、呪われた死でした。しかしその神の呪い(裁き)は、私をはじめとする全人類の全ての罪を、イエス様が十字架で身代わりに背負ったために、イエス様に全面的に注がれた呪い(裁き)だったのです。イエス様は完全に清い方で、呪いや裁きを受けることと完全に無縁な方です。神の呪い・裁きは、本来私たち罪人(つみびと)が受けるべき呪い・裁きです。イエス様が十字架上で、全員分の呪いと裁きを引き受けて下さったために、イエス様は十字架で最も呪われた死を遂げられました。そこまで父なる神様に完璧に従いきったイエス様を、父なる神様は、ねぎらいの心で三日目に復活させ、その後、復活の体で生きている状態で最も高い天に挙げられました。復活のイエス様は今もそこにおられ、そこからこの礼拝の場に聖霊を注いで下さり、将来神の国を完成させるために、必ずもう一度この地上に来られます。それをイエス様の再臨と呼びます。私たちは再臨を待ち望んでいるのです。

 パウロは、この手紙の3章1節でガラテヤ教会の人々に、呼びかけます。ユダヤ人の色々な習慣を取り入れる必要はない。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、誰があなた方を惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」締めくくり部分の6章14節では、こう述べます。「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」イエス様は十字架上でに、私たち全ての人間の全ての罪を、背負いきって下さいました。イエス様の十字架によって背負われなかった罪は、1つもありません。ですから、どんな罪人(つみびと)であっても、へり下って罪を悔い改め、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けるなら、天国に入れていただけます。

 イエス様の十字架によってこそ、父なる神様の私たち人間に対する究極の愛が実行されました。イエス様の十字架こそ、私たち人間への神の愛の極致です。神の子イエス様が、十字架という究極に苦難に耐えて、私たちが天国に入れる道を開いて下さいました。イエス様、父なる神様が私たち罪人(つみびと)のために、大きな犠牲を払って、これほどのことを行って下さいました。私たちは、自力で天国に入れません。私たちがただ本心からへりくだって、イエス様の十字架の愛にすがることによってのみ、私たちは天国に入れていただけます。これぞ絶対他力による救い、これが福音です。パウロはこれが分かったのです。イエス様がパウロの罪をも背負って十字架で死なれたことも分かりました。イエス様は悪人どころか、パウロにとっても大恩人(強いて言えば大恩神ともいえます)と分かったのです。私にとっても、皆さんにとっても、イエス様が大恩人(大恩神)です。文字通り、全ての人間がイエス様を救い主と信じて、救われてほしい。これが父なる神様の本心からの願いです。私たち人間の側が、イエス様を自分の救い主と信じることが、最後に残されています。

 本日の旧約聖書は、先週の祈祷会でも読んだエレミヤ書31章の31~33節です。旧約聖書の中の新約聖書と呼ばれる大事な箇所です。イエス・キリストによる新しい契約(新約)のことが暗示されています。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」これはイエス様の十字架と復活による新しい契約を暗示しています。イエス様を信じて洗礼を受ける時、私たちは父なる神様との新しい契約に入ります。そして新しい契約の食事、聖餐式でイエス様の体であるパンと、血潮であるぶどう液を受け、イエス様とますます一体化するのです。

 少し昔、富山県に亀谷凌雲(1888年~1973年)という有名な牧師がおられました。浄土真宗の王国の北陸・富山県で、お寺の住職からクリスチャンになり、牧師になられた方です。東久留米教会でも20年ほど前にお坊様から牧師になられた先生をお招きして伝道集会を行ったことがありますが、亀谷凌雲先生はもう少し前の方です。住職からクリスチャンになろうとしたときは、母親の大反対を受けました。聖書の十戒に「父母を敬え」とあるので、母親を大事にしなければいけないが、イエス様を信じることだけはやめられない。母親のために懸命に祈りつつ、クリスチャンになり、牧師になりました。この方は、仏教こそ輝かしい教えと、誇りにしていたのです。しかし残念ながら仏教には、私のために罪を背負って十字架で死んで下さる救い主いないというのです。「私たちのなまなましい罪を身に受けて十字架についてくださった神、至愛の完全なる救い主キリストがいまさない。イエス様の十字架によってしか、亀谷先生の罪も、私たちの罪も、神様の前に完全に赦されることがないのです。亀谷先生は、住職の立場を捨てて、十字架と復活のイエス様を愛するクリスチャンとなり、伝道者・牧師となられました。ちょっとパウロに似た転換をなさった方です。大反対だったお母様も、息子のキリスト伝道を励ますようになって下さいました。亀谷先生は発行した伝道のための雑誌のタイトルは『十字架』だったそうです。イエス様の十字架こそ、キリスト教の中心との確信からです。

 ルー・ウォレスというアメリカの政治家から軍人(南北戦争で北軍)を経て、作家になった方がおられます。『ベン・ハー』という物語を書き、映画化されて有名です。主人公はユダヤのベン・ハーという若者ですが、副題は『イエス・キリストの物語』で、イエス様が登場し、十字架の場面もあります。私は小学校5年生の頃、映画で見て、奴隷にされて暑い砂漠で喉の渇きに苦しむベン・ハーに水を飲ませて下さる後姿のイエス様に、感動を覚えました。聞くところではルー・ウォレスはキリスト教が大嫌いで、『キリスト教撲滅論』という本を書こうとしたそうです。パウロに似ています。そのために聖書を一生懸命読み、イスラエルまで行って考古学的なことまで調べて『キリスト教撲滅論』を書こうとしたのですが、聖書を一生懸命に読むうちにクリスチャンになってしまいました。『キリスト撲滅論』の代わりに書いたのが『ベン・ハー』で、イエス様の十字架の愛を伝える伝道的な物語です。この転換もパウロに似ています。

 パウロも亀谷凌雲牧師も、ルー・ウォレスも、イエス様の十字架の愛に魂を揺さぶられ、深く魅せられました。私たちもますます十字架と復活のイエス様を愛して、よき人生を歩みましょう。アーメン。

(祈り)聖名讃美。東京に明日、3度目の緊急事態宣言が発令されます。感染している方全員に、特に重症の方に神様の癒しを与えて下さい。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神様に立ち帰るように力強く導いて下さい。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられ、入院中の方もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。午後の総会をお守り下さい。近所の方々にも聖霊を注いで下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを。イエス様の御名により、アーメン。


2021-04-19 14:31:53(月)
4月の伝道メッセージ
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(イエス・キリスト。新約聖書・ヨハネによる福音書11章25節)
 
 今年のイースター(イエス・キリストの復活日)は、4月4日(日)です。イエス様は私たち全ての人間の、全部の罪と過ちの責任を身代わりにとって十字架で死に、三日目に復活されました。この記念日がイースターです。復活の命のシンボルとして卵を配る習慣があります。枯れた木に梅や桜の花が再生する春にイースターがあることに、神様の摂理を感じます。

 私のいる東久留米教会に、草刈さんという男性のクリスチャンがおられました(今は天国)。兵隊として中国に行かされ、戦後のシベリア抑留を経験されました。強制労働のシベリア体験をご家族にもあまり語らず、教会でも語りませんでしたが、たった一度こう語られました。シベリアの短い春か夏のことでしょう。「小さな植物を長時間ジーッと観察していると、わずかずつ伸びるのが見える」と。短い春か夏に、植物が太陽を受けて懸命に成長するのでしょう。酷寒のシベリアでも植物が必死に生きているのを見て、草刈さんも勇気を得たのでしょう。私たちも、コロナに苦慮しながら寒い冬に耐えましたが、暖かさが嬉しく、再生する桜や緑に、心の慰めを得ています。イエス様の復活を祝うイースターも大きな喜びです。

 私は一昨年、東京都庁の正面の新宿住友ビル33階の「平和祈念展示資料館(総務省委託)」に行きました(都営大江戸線「都庁前」駅徒歩3分。ホームページあり)。行って下さい。シベリアでの強制労働等の展示があります。1945年8月8日、旧ソ連が対日宣戦布告し、中国大陸の日本軍は敗走。大陸の日本人にとって、敗戦日8月15日を過ぎても地獄が続きました。約57万5000人の旧日本兵がシベリアやモンゴルに抑留されました。乳幼児を連れ帰る食料がない日本人は、親切な中国人に預けました。中国残留日本人孤児で、私が中学生だった1980年頃に帰国し家族探しを行い、テレビで連日報道されました。私のいる教会にもう一人、西森さんというシベリア抑留体験者がおられました。「生きて帰れたことは、神が『あなたに使命がある』とおっしゃったことと理解した」と言われました。戦争をすると、多くの悲惨が生まれます。将来の日本・アジア・世界がそうならないため、私は子どもたちの礼拝で、イエス様の愛と平和の種を蒔きます。アーメン(真実に)。

2021-04-19 14:28:30(月)
3月の伝道メッセージ(遅れて掲載)
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書28章20節)。

 イエス様は、どんなときも一緒にいて下さいます。上の言葉に「世の終わり」とありますが、「神の国の完成の時」、「神様の愛と平和と正義が完成する希望の時」です。コロナ禍も、神の国の完成に向かう産みの苦しみかもしれません。世界中の感染者が早く癒され、コロナと闘う医療関係者に、神様の助けがあるよう、切に祈ります。
 
 17世紀のヨーロッパで大流行し、多くの死者を出して村々を壊滅させた感染症がペスト(黒死病)です。南ドイツのアルプス麓の町オーバーアマガウでも人々が死におびえ、神様に必死に祈りました。「ペストが収まるなら、感謝を込めてイエス様の受難劇を村人総出で、全身全霊で演じると誓います。」誓いの後、村からぺストの死者が出なくなりました。生き残った村人たちは翌年(1634年)、俳優も監督も大道具も素人ですが、全身全霊で、イエス様が私たち皆の罪を身代わりに背負って十字架にかかる受難劇を、聖書に忠実に演じました。真心こめた全力の演技に、見る者は皆、涙しました。

 10年ごとに行い、今日まで続き、世界中から観客が集まります。5月から9月まで野外劇場で100回以上、2000名出演で行われます。私が仕える東久留米教会にも、見に行った方がいます。昨年がその年でしたが、密になるため来年になりました。ショーではなく神様への感謝の祈り、礼拝です。今年のイースター(イエス様の復活日)は4月4日(日)ですが、その前の(日曜日を除く)40日間を受難節と呼び、私たちの罪を背負って十字架にかかったイエス様に感謝し、祈り・礼拝と質素な生活に心がけます。今(3月)がまさに受難節です!
 
 コロナ禍が収まったら、元の木阿弥にならず、皆で真の神様(イエス様の父なる神様)に立ち帰ることが必要と信じます。この神様こそ私たちの命の造り主、私たちの全存在の原点ですから。中国の作家・方方(ファン・ファン)さんが書きます。「ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度をとるかだ」(『武漢日誌 封鎖下60日の魂の記録』)。辻仁成さんという作家は『なぜ、生きているのかと考えてみるのが今かもしれない』という本を出しています。コロナ禍をきっかけに、思いやりある日本と世界を造りたいですね。アーメン(真実に)。