日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2018-07-11 21:17:15(水)
「イエス様の招きに、心を開いてください」 2018年7月8日(日) 聖霊降臨節第8主日礼拝説教 要旨
聖書: イザヤ書8章23~9章6節、マタイ福音書4章12~25節

 イエス様は先週の箇所で、悪魔から激しい誘惑を受けられ、その撃退されました。最後の誘惑は、悪魔を礼拝すれば、世界の全ての繁栄を与えるという誘惑、権力を与えるという誘惑でした。イエス様は、旧約聖書の申命記6章13節を引用して、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と答えて悪魔を撃退されました。権力を得てはいけないのです。ただ神様と隣人にお仕えすることが大切と悟ります。

 先週は、1995年に起きたオウム真理教の事件の1つの大きな区切りとなりました。教祖と元幹部6名の刑が行われたのです。特に教祖は悪魔の誘惑に負け、権力への欲望に負けていました。悪魔に奉仕する集団となってしまいました。あの事件は何だったのか改めて深く考える必要があると思います。キリスト教会の歴史も完全に清い歴史ではなく、様々な過ちを犯して来た面があります。私たちはオウム真理教を反面教師とし、常に「あのようにならないように」、「あのようにならないように」と自分を戒め、チェックし続けて生きてゆきたいと強く思います。

 悪魔の誘惑に打ち勝たれたイエス様は、洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれました。そして、お育ちになったナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれたのです。ガリラヤは、首都エルサレムから見れば地方です。いと小さき者を愛されるイエス様は、中央ではなく離れた町ガリラヤで伝道を開始なさるのです。そしてそれは、旧約聖書のイザヤ書で予告されていた父なる神様の意志だったのです。「ゼブルンとナフタリの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

 秋葉原での殺傷事件から10年たったそうです。オウム真理教の事件でもそうですが、あのような事件が起こると、容疑者の「心の闇」を解明する必要があると新聞等で論ぜられます。確かにそうだと思いますが、考えてみると「心の闇」は多かれ少なかれ、私たち皆が抱えていると思うのです。それは愛情に飢えても愛情が満たされないことから来る怒りであったり、汚ない欲望、ねたみなどです。聖書はこれを罪と呼びます。聖書は、私たち人間は皆、罪人(つみびと)だと教えてくれます。私たちは、人前に出せない罪深い心、恥かしい心を持ちながら、それを人には隠して何とか社会生活を営んでいるのではないかと思います。

 ある人が、「人は、そのような人に言えない、心の最も恥ずかしい部分でのみ、神に出会うことができる」と言われたそうです。私はそれを聞いて、「そうかなあ、必ずしもそうとは限らないのではないか」と思いつつ、しかしその方の言葉に当たっている部分もあると感じます。私たちは自分の罪の心を人に隠すことはできますが、神様に隠すことはできません。そこで神様(そして神の子イエス様)には正直に申し上げるほかありません。「神様、私にはこのように罪深い心があります。悔い改めても悔い改めても、完全には消えません。このように罪深い私でも救われるでしょうか?」するとイエス様はおっしゃると思うのです。「あなたのその罪を背負って、私は十字架で死んだ。それによってあなたの罪は赦された。安心して行きなさい。」確かに、私たちの心の奥底の最も人に見せられない罪深い部分で、救い主イエス・キリストとの真の出会いが起こり、嘘偽りのない正直な対話・祈りが起こり、悔い改めが起こると思うのです。このイエス様との最も深い真実な出会いは、心の闇を抱える私たちの救いの光です。

 この真の光イエス様を、私たちは宣べ伝える責任があります。私は学生時代に一人の青年を知っていました。彼は宗教的なことを求めている雰囲気をもっていました。私はそのうち、キリスト教会に誘おうと思って、実際には誘わないでいました。すると彼は私が知らない間に統一協会というカルト宗教に入ってしまったのです。それは文鮮明という韓国人を救い主と信じる偽りの宗教です。私は「しまった」と思いました。私がキリスト教会に誘っていれば来た可能性があったのに、私がそれをしなかったために悪魔に彼の魂を奪われてしまったのです。真の神様と真の救い主イエス・キリストを知ることが、人間の真の幸福です。真の神様を知らず、偽りの教祖に従ってしまうことは不幸です。私たちは、真の神様と真の救い主イエス様を、身の周りの方々にお伝えする聖なる責任を、イエス様から与えられています。神様に助けていただいて、その責任を少しずつでも果たさせていただきたいのです。

 さて、イエス様はガリラヤ湖でシモン・ペトロと兄弟アンデレを招き、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人は何と、すぐに網を捨てて従ったのです。イエス様はさらに別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとヨハネをお呼びになりました。するとこの2人もすぐに舟と父親を残して、イエス様に従ったのです。すぐに職業と父親を残してイエス様に従った決断の鮮やかさに、驚きます。しかし少しずつでも、イエス様(そして神様)に従う決断は必要です。日曜日は教会の礼拝に出席する、せめて家で聖書を読む、今回の水害のような災害があれば募金に応じる、自分の幸せのためだけに生きず、他人に奉仕するなどの生きかたを選ぶことができます。それは自己中心の罪から離れ、神様と隣人を愛する生き方になります。天国に至る生き方です。新約聖書のローマの信徒への手紙6章16節に、こうあります。「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」

 日々、少しずつでもイエス様に従う生き方を選び取る決断をし、神に従順に仕える奴隷(しもべ)となって、義に至らせていただきたいのです。これを読んで下さる方が、ぜひイエス様に心を開いて下さり、イエス様をご自分の救い主として信じ、イエス様に従って生きて天国に入って下さるように、心より祈ります。アーメン(「真実に」)。

2018-06-13 22:14:00(水)
「洗礼を受けられたイエス様」 2018年6月10日(日) 聖霊降臨節第4主日礼拝 説教要旨
聖書:イザヤ書42章1~4節、マタイ福音書3章13~17節

 神の子イエス・キリストがイスラエルで活動なさるに先立ち、まず洗礼者ヨハネが人々に、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝え始めました。ヨハネは言いました。「わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打もない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」

 その方がヨハネの前に現れたのです! イエス様です。そして何と、ヨハネに洗礼を授けてほしいと申し出られたのです。ヨハネは大変驚きました。ヨハネは、イエス様が全く罪のない、完全に清らかな神の子であられることをよく知っていました。そこで断わろうとしたのです。当然でしょう。「わたしこそ、あなたから洗礼(バプテスマ)を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」「イエス様、それでは話があべこべです」とヨハネは言おうとしました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこでヨハネは、イエス様に洗礼をお授けしたのです。ヨハネはかなり清い人ですが、  イエス様と比べれば罪人(つみびと)です。ヨハネはあまりの光栄に、心と体が震えたでしょう。

 イエス様は罪が少しもない方ですから、本来洗礼を受ける必要が全くない方です。そのイエス様があえて洗礼を受けられたことは、イエス様の謙遜な生き方を示します。時々、「洗礼は形式にすぎない。信仰があれば十分なので、わざわざ洗礼を受ける必要はない」と考える方がおられます。このような考えが完全に間違っているとはいえないかもしれませんが、しかしイエス様が洗礼をお受けになった事実をよく受けとめる必要があります。洗礼を必要としないイエス様が洗礼をお受けになったのですから、私たち罪人(つみびと)がへりくだって洗礼を受けることは、父なる神様が喜んで下さる「正しいこと、ふわしいこと」です。自分の罪を悔い改めて洗礼を受けることは、謙遜な行為であり、イエス様に従う非常によいことです。

 イエス様の謙遜、それはまず神の子なのに、人間になられた事実に現れています。キリストは天で神の子の栄光を享受しておられた。それなのに私たち罪人(つみびと)が滅びることを見過ごしにできず、天からわざわざ罪と危険のある地上に人間として生まれて下さいました。肉体をもつ人間となられたことは、様々な不便と制約の中に進んで入って下さったということです。しかも貧しい夫婦の、最も無防備な赤ちゃんとして馬小屋で生まれられました。そこは実際には洞窟だったのではないかと言われます。そしてイエス様は洗礼を受け、人々の病気を癒やすなどの愛の奉仕をなさり、弟子たちの足を洗い、遂には十字架で死なれ、三日目に復活なさったのです。

 このイエス様の謙遜を、フィリピの信徒への手紙2章6~8節は次のように歌い上げます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ=奴隷)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」イエス様はこう言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ=奴隷)になりなさい。人の子(イエス様ご自身)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 イエス様は、父なる神様のご意志に完全に従われ、私たち皆の全ての罪の責任を身代わりに背負って、しかも進んで身代わりに背負って、十字架の死を遂げられたのです。イエス様は強制されてではなく、父なる神様に自発的に従って、自由意志を発揮して十字架に架かられたのです。ここにイエス様の自由、真の自由があります。聖書は私たちに、真の自由を教えます。私たちは好き勝手に行動することを自由と呼びます。それはむしろ自分の欲望と罪(自己中心)に縛られた不自由です。真の自由は、自己中心から解放され、進んで喜んで神様と隣人を愛し、自発的に喜んで神様と隣人に奉仕することです(自分をも正当に大事にしてよいのです)。敵をさえ、愛することです。イエス・キリストは完全に自由な方です。私たちキリスト者も、ミニキリストですから、真の自由に生き始めるのです。

 宗教改革者マルティン・ルターは、名著『キリスト者の自由』の冒頭でこう書きます。「キリスト者は、全ての者の上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は、全ての者に奉仕する自由な僕であって、何人にも従属する。」

 イエス様の弟子・使徒パウロも同じ奉仕の自由に生きました。パウロの伝道の姿勢は奉仕的です。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。~弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(コリントの信徒への手紙(一)9:19~23)。

 私は先月(5月)に長崎市に行き、信仰的な刺激を受けて来ました。有名なコルベ神父(ポーランド人)が活動なさった「大浦天主堂の近く」をも歩き、コルベ神父に思いを馳せました。1894年生まれのコルベ神父は清貧に生き、36歳より6年間、長崎で情熱的に伝道されました。ポーランドの修道院の院長になる指示を受けて故国に戻り、ナチスに協力的でないとの理由で、1941年に、悪名高きアウシュヴィッツ強制収容所に入れられます。もちろん何も悪いことをしておられません。一人の脱走者が出たため、不当に10人が実に非道な餓死刑に処せられることになりました。「妻や子どもたちがいるから、死にたくない」と号泣したガイオ二チェック氏を見て、コルベ神父は身代わりを申し出ます。神父の自由意志による決断です。神父は部屋で9人の心を支え続けました。神父を中心に、小声で讃美歌を歌い、祈り続けました。9人の絶望を和らげ、天国に導く使命を果たされました。地獄のような牢獄を聖堂のような雰囲気に変えたと言われます。まさに「アウシュヴィッツのキリスト」です。神父を含む4名が2週間後も生きていたので、注射で命を奪われました。神父は、47年間の崇高な人生を終え、天国に入りました。

 私たちはこれほど立派には生きられないかもしれません。ですがキリスト者として真の自由に生き、喜んで神様と隣人にお仕えしたいのです。アーメン(「真実に」)。

2018-06-07 16:23:20(木)
「ゆるしの決断」 伝道メッセージ(石田真一郎)
聖書:「信仰と、希望と、愛。この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)13章13節)。
 
 梅雨に入りました。あじさいの美しさ、木の緑の深さに安息を感じます。上記は、キリスト教式の結婚式などでよく読まれる聖書の言葉です。少し前にこうあります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」愛は原語(ギリシア語)で「アガペー」です。神の愛、神の子イエス・キリストの愛、敵をも愛する愛です。この愛を実行することは難しいですが、めざしましょう。
 
 2年前の新聞に、「特赦願った200通 フィリピン大統領の決断」という記事が載りました。太平洋戦争の時、日本軍とアメリカ軍がフィリピンで激戦を行い、多くのフィリピン人が亡くなったそうです。戦後間もない頃、フィリピンの当時のキリノ大統領に、日本人のBC級戦犯(戦争犯罪人)の釈放を嘆願する200通以上の手紙を送り続けた加納さんという画家がおられたそうです。キリノ大統領は、マニラ市街戦で妻子4人を亡くし、日本軍に殺された2才の娘さんを自ら埋葬なさったそうです。フィリピンで行われたBC級戦犯裁判では、主に日本人151名が裁かれ、137名が有罪、半数以上が死刑判決を受け、17名が執行されたそうです。

 その後、キリノ氏は、100名以上の戦犯の特赦を決断し、実行なさったそうです。驚くべき愛(アガペー)です。これを知った私は、強い感銘を受けました。キリノ氏はカトリックのクリスチャンだったようです。キリノ氏はイエス様の「七の七十倍まで赦しなさい」という御言葉を知っていたに違いありません。ご自分の家族を日本人に殺されたキリノ氏が、主に日本人の戦犯100名以上を特赦なさるとは、驚くべき決断です。イエス様の「敵を愛しなさい」の御言葉の実行です。フィリピンと日本の将来が、和解のよい関係になるために、あえて決断なさったのでしょう。このような尊い決断の上に、今私たちも生きていることを、ぜひ知っておきたいと思うのです。アーメン(「真実に」)。 

2018-06-01 19:45:38(金)
「神の清き霊を注がれて」 2018年5月20日(日) ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝 説教要旨 
聖書:ヨエル書3章1~5節、使徒言行録2章1~22節

 ペンテコステ、おめでとうございます。ペンテコステは、キリスト教会が誕生し、エルサレムから世界伝道が開始された日と言えます。イエス様は復活後、40日に渡って弟子たちに姿を現され、復活の体をもって生きて天に昇られました(昇天)。そして父なる神様の右の座に着いておられます。このことをエフェソの信徒への手紙は、「もろもろの天よりも更に高く昇られた」(4:10)と書きます。イエス様は父なる神様と共に、最も高い天におられます。このイエス様の昇天は、私たちに3つの恵みをもたらします。(1)私たちキリスト者(教会)はキリストの体であり、頭(かしら)なるイエス様が最も高い天に昇られたことで、私たち(キリストの体)も明確に天につながった。私たちは死んだら、天に入れられる。(2)天のキリストは、私たちのためにとりなしをしておられる。イエス様の十字架によるとりなしが完璧なとりなしだが、私たちがなお日々犯す罪のために、天でとりなしておられる。(3)天から聖霊を注いで下さる。

 イエス様は昇天の10日後に、約束の聖霊を注いで下さいました。「五旬祭(ペンテコステ)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、『霊』(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」キリスト教を表現する色は何でしょうか? 「赤」が1つの有力な答えだと思います。赤はまず、イエス様が私たちのために流された血潮の色です。本日の場面では、「炎のような舌」が現れました。これも赤だと思うのです。赤は神様の燃える愛を表します。

 弟子たちの舌は聖霊によって清められたと思います。残念ながら私たちの舌は罪で汚れています。「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(ヤコブの手紙3:8~10)。私たちの舌も、聖霊にぜひ清めていただきたいのです。

 舌に関してですが、ハンセン病の方々で目が不自由になられ、指などの感覚が失われた場合、点字を舌で読むことをなさったそうです。舌読(ぜつどく)と呼ぶそうです。聖書を舌で読む方々がおられたそうです。そこまでして聖書を読む熱意に頭が下がります。読み過ぎると血がにじむこともあるそうです。このような舌の使い方を、神様は深く喜んで下さると信じます。

 今日の場面では「多言語奇跡」が起こっています。ガリラヤ出身の特に学問があるわけではないイエス様の弟子たちが、様々な外国の言葉で、神の偉大な業を語ったのです。世界中の言葉でイエス・キリストが伝えられる、あるいは世界中の言葉で礼拝が献げられることを予告する出来事でしょう。点字も立派な言葉です。日本キリスト教団が伝道のために発行している『こころの友』の点字版を発行する仕事を40年間行って下さった方がおられます。これも本当に立派な伝道の業です。私たちの教会員で今は天におられるNさんも『こころの友』点字版を読んでおられました。東久留米市内に住んでおられる聖公会の信徒の方が、以前東久留米教会で発行していた月報『たりほ』をNさんのために長年、点訳して下さいました。本当に頭の下がる愛のご奉仕です。

 私は妻と息子と3人で、2000年8月にフランスのテゼに行きました。テゼはフランスの地方にありました。周りにほとんど店もない所でした。そこに教派を超えたクリスチャンの信仰共同体があります。ヨーロッパ各地から、世界から若者が集まって、質素な生活をしながら神様を賛美しています。共通語は英語です。数人の日本人、そしてバングラデシュの青年に会いました。屋内の礼拝堂の床に座り、沈黙の祈りと単純で素朴な讃美歌を繰り返す形の礼拝です。いろいろな国の人が共に礼拝しますので、確かにペンテコステ的な場だったと思い出すのです。

 私は先日、35年ぶりに長崎市に行き、「二十六聖人殉教記念館」を見学し、1597年に長崎の西坂の丘で殉教した二十六人の(外にある)像を見ました(もちろんこの像を拝んではいけません)。記念館は西坂の丘と推定される場所にありますが、JR長崎駅近くで、本当に急な坂の上にあります。その像の下に、マルコによる福音書8章34節のイエス様の御言葉が刻まれていました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」上にはラテン語で、「たたえよ、主を すべての民よ」と刻まれていました。これは制作者の祈りだと感じます。ペンテコステ的な祈りです。そして殉教した二十六人は日本人だけでなく、外国人も含まれていたのです。殉教させた豊臣秀吉の罪深さを思います。

 さて、多言奇跡を見た人々は驚き戸惑いましたが、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と完全に誤解した人々もいました。そこで、この出来事の正しい意義を知らせるために、ペトロが立ち上がって説教します。「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」ヨエル書3章の預言の成就です。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」旧約聖書・箴言「幻がなければ民は堕落する」(29章18節)を連想させます。幻と夢は同じことを指すでしょう。神の国のヴィジョンです。

 今から約半世紀前、マーティン・ルーサー・キング牧師は、「私には夢がある」と演説しました。それは「人種差別のないアメリカになる夢」です。少しずつ前進していますが、まだ人種差別は完全にはなくなっていません。最近アメリカの高校生たちが立ち上がり、行進したそうです。たび重なる銃乱射事件に怒り、銃規制を求めて立ち上がったのです。「銃が安易に入手できないアメリカになる夢」、ぜひ実現してほしいと祈ります。核兵器廃絶の夢も、ぜひ実現してほしいと、切に祈ります。

 私たちはクリスチャンとして夢を抱きます。日本人全員、世界の全員がクリスチャンになり、救われる夢です。神様の御心に適う夢です。この夢の実現のために、一生懸命、十字架と復活のイエス・キリストを宣べ伝えて参りましょう。アーメン(「真実に」)。

2018-05-18 17:22:00(金)
「希望を与える神の愛」 2018年4月29日(日)  「はじめて聞く人にもわかる聖書の話」礼拝 説教要旨
聖書: ルカによる福音書24章13~35節

 イエス・キリストは、死から復活された唯一の方です。それは蘇生ではありません。蘇生なら、いつか本当に死にます。イエス様は復活されて、今も生きておられます。もはや死ぬことは決してありません。イエス様を今見ることができないのは、天(神の国)におられるからです。イエス様は天で復活の体をもって生きておられます。私たち人間にとって、最大の敵は死です。しかしイエス様は、その死を打ち破られました。イエス様にこそ、私たちの最大の希望があります。イエス様の復活こそ、私たちに真の希望を与える神の愛の実現です。

 イエス様の十字架の死から三日目の日曜日の早朝、イエス様に従っていた婦人たちがイエス様の墓に行きました。すると二人の天使が、イエスは生きておられると告げたのです。それを伝え聞いた男の弟子たちは、すぐには信じませんでした。その日、不可解な気持ちに満たされた二人の弟子(十二弟子以外の二人)が、エルサレムから60スタディオン(約11キロ)離れたエマオという村へ向って歩きながら、この不可解な出来事について話し合っていました。エマオの候補地は2つほどあるそうですが、1つの有力とされる候補地は、エルサレムから見て西にあります。弟子たちが西に進むにつれて、太陽が沈み始めたのではないかと思います。彼らの心も、真っ暗でした。しかし、何とイエス様自身が近づいて来て、一緒に歩き始められたのです。しかし、二人の目は遮られていて、イエス様だと分かりませんでした。二人には、不思議な旅人に見えました。復活のイエス様は、今も私たちと共にいて下さいます。天から降って来た聖霊(イエス様の清い霊)の形で、いつも共におられます。そのことに気づきたいのです。

 イエス様は、「やり取りしているその話は、何のことですか」と問われます。そして二人を、イエス様の復活が確かな事実であることを信じる信仰へ、導こうとして下さいます。二人は自分たちがイエス様に大きな期待をかけていたことを語ります。その頃、彼らの国イスラエルはローマ帝国に支配されていたので、彼らはイエス様こそ、ローマ帝国と武力で戦ってイスラエルの独立を勝ち取って下さる救い主との大きな期待をかけていたのです。ところがそのイエス様が、十字架に架けられて死なれました。彼らは本当に落胆したのです。しかし不可解なことが起こります。婦人たちが墓に行ってみると空っぽで、天使たちが「イエスは生きておられる」と言ったというのです。二人は、このことをどう理解してよいか分からず、不思議な旅人に、話さずにいられなかったのです。

 ここからイエス様の本格的な導きが始まります。イエス様が言われます。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者(よげんしゃ)たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシア(救い主)はこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」聖書では、真の神様の真実の言葉を預かって語る人を預言者と呼びます。世間で言う予言者では、「預」ではなく「予」の文字が用いられます。世間で言う予言者は、信頼に値しません。たとえば「ノストラダムスの大予言」などは、偽りであり、信用してはいけません。しかし聖書に登場する真の預言者は、真の神様の真の言葉を預かって語る真実な存在です。

 旧約聖書の著名な預言者イザヤの書(53章)には、次のようにあります。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた傷によって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」「彼」とは、イエス・キリストを指します。真の救い主(メシア)イエス様は、私たち全員の全ての罪と過ちの責任を身代わりに背負って、十字架で死なれ、三日目に復活されました。これが父なる神様の深いご計画だったのです。救い主が十字架の苦難を受けることは、弟子たちにとっては完全に想定外でしたが、父なる神様にとっては必然だったのです。イエス様の話を聞いて、二人の弟子たちも、少しずつ目を開かれてゆきます。

 二人の弟子とイエス様(不思議な旅人)は、共に泊まるためにある家に入ります。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」カラヴァッジョという画家が、この場面を絵にしています。二人の弟子の一人は、両手を左右に広げて手の平を開いており、両手の形で強い驚きを表現しています。もう一人の弟子は、座った状態で両手の平で椅子をつかんで、次の瞬間にのけぞりそうな姿勢になっており、この姿勢で大きな驚きが表現されています。復活されたイエス様が目の前におられる事実に気づくことは、大きな驚きです。イエス様の姿が見えなくなると二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、時を移さず出発して、エルサレムに戻りました。するとイエス様の十一人の弟子たち(裏切って死んだユダがいないので十一人)が集まって、本当にイエス様は復活して、シモン・ペトロに現れたと言っていました。二人も、おそらく興奮しながら、イエス様と出会ったことを報告したのです。

 エルサレムに向かって走った二人は、東に向って走ったことになります。もしかすると途中から太陽が昇り始めたかもしれません。エマオに向かった時は、太陽の落ちる西に向って、真っ暗な心で歩きました。でもエルサレムに向かう時は、日が昇る東に向って、心も喜びに輝いて走ったのではないでしょうか。想像するだけで嬉しくなります。

 オリエンテーションという言葉があります。大きめの会がある時、その会の進行の仕方を全員に説明することを指します。会の方向の説明とも言えます。この言葉の意味は、オリエント(東)に向けるということだそうです。昔ヨーロッパでは、礼拝堂の祭壇を東に向けて建てる習慣があったそうです。礼拝堂(教会堂)を、祭壇を東に向けて建てることをオリエンテーションと呼んだそうです。イエス・キリストは日の出の前に起こりました。また旧約聖書のマラキ書3章20節には「義の太陽」という言葉があり、キリスト教会はこれをイエス様のことと考えています。一説には、イエス様の復活を連想させる東の方に向かって礼拝しよう、イエス様の復活の希望を感じる東に向かって歩んでゆこうという思いが、礼拝堂の祭壇を東に向けて建設する信仰になったのではないか、とのことです。(太陽そのものを拝むことは偶像崇拝(神でないものを礼拝する)の大きな罪ですから、決して行ってはなりません。東久留米教会の礼拝堂は、この通りにはなっておらず、奥が南側を向いています。)

 オリエンテーションとは、方向付けです。私たちに必要なことは、人生のオリエンテーションです。神様に喜ばれる生き方へとオリエンテーションされる、方向付けされることです。聖書を読むと、神様が喜ばれる生き方が分かります。教会の礼拝でご一緒に聖書を読み、聖書の御言葉を聴き、神様に喜ばれる生き方へと進みたいのです。アーメン(「真実に」)。