
2025-07-06 1:50:34()
「キリストのあふるる恩寵」2025年7月6日(日)聖霊降臨節第5主日礼拝
(ルカによる福音書9:1~17) イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。
◆ヘロデ、戸惑う
ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、 「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。
◆五千人に食べ物を与える
使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第5主日公同礼拝です。説教題は「キリストのあふるる恩寵」です。
第1節「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになった。」イエス様の十二人の弟子たちが、イエス様からおそらく聖霊を豊かに注がれて、イエス様と同じような力(超自然的な力)を与えられて、神の国を広めるために、イスラエルの各地に遣わされました。伝道する者は、地上の全ての物質的なものから解放されて、霊的な事柄のみ、信仰のことだけに専念せよということです。肉体をもつ私たちには、これはそう簡単ではないと感じますが、イエス様をそれを求めておられます。この時は、後に裏切るイスカリオテのユダも、まだ悪魔に支配されていなかったのでしょうか、十二人の一人として、神の国を広めるために働いています。神の国とは、神の支配です。イエス様がおられる所に神の国・神の支配は来ます。イエス様に従う人がいる所にも、神の国・神の支配は来ています。この礼拝の場でもまさに神の国が実現しています。
2節「そして、神の国を宣べ伝え、病人を癒すために遣わすにあたり、次のように言われた。『旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。』」伝道旅行には、杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。徹底した指示です。4節「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。」伝道者たちを迎え入れてくれる家がある。神様が備えて下さる。その家で、食事等は用意される。旧約聖書の偉大な預言者エリヤやエリシャもにて経験をしています。神様はエリヤに言われました。「シドンのサレプタに行き、そこに住め。私は一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。エリヤは、そのやもめ(女主人)の家の階上の部屋で寝起きしたのです。エリヤの弟子エリシャも、シュネムという土地の裕福な婦人(夫がいる)の階上の小さな部屋に寝起きしていました。
カトリックの修道女や修道士になる方は、地上の財産を全て処分する手続きを行って修道院に入ると聞きました。この世の財産を全て捨てて修道院に入る。食事・衣服・住居等はカトリック教会が用意するのでしょうね。宗教改革を行ったマルティン・ルターは若い頃、修道士になるべく修道院に入りました。そこで清らかな生活をなすべく励んだのですが、間もなく修道院の中にいる人々にも罪があると気づき、最終的には修道院を出ます。そこでルターが目指した信仰生活は、修道院の中で清らかに生きようとするのではなく、この社会(世俗)の真っただ中で、イエス・キリストに従って清く生きようと志すことだったようです。それがプロテスタント教会の生き方になりました。この社会(世俗)のまっただ中で、誘惑の多い中で、誘惑と戦ってイエス・キリストに従う。その意味では、より厳しい生き方を選んだことになるのではないでしょうか。ルターはそうなのですが、しかし修道院が悪いとは言えないでしょう。現代でも多くの修道女や修道士は、世界の貧しい地域に派遣されて、礼拝・伝道・奉仕活動に専念しているらしいです。カトリック教会は、誰がどこに行っているとは原則公表しないので、その方々は、神様だけが知ってくださっていることだけが喜びとのスタンスでしょう。それはそれで立派な生き方であって、地上の財産は全て捨てて、イエス様の御言葉「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」を、できるだけ実践しようとしているのだと思います。
この先の10章を見ると、イエス様はさらに72名を伝道に派遣しておられます。派遣に際して、イエス様はこう言われます。「どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなた方に戻って来る。その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」イエス様は、最初に12名を派遣なさったときも、同じ心構えを解かれたのだと思います。イエス様は、本日の箇所でさらに言われます。「誰もあなた方を迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落しなさい(これは抗議のしるし)。」そして12人は、出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至る所で福音を告げ知らせ、病気を癒した。」
72人が伝道から戻ってきたときに、喜んでこう言いました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します。」するとイエス様は言われたのです。「私はサタン(悪魔)が稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりをふみつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、私はあなた方に授けた。だから、あなた方に害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」12名の弟子たちも、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能を授けられました。すばらしいことですが、私たち人間はあまりすばらしい力を与えられると、簡単に思い上がります。それを警戒してイエス様は、「悪霊があなたがたに服従するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われたのだと思います。
本日の2つめの小見出しは、「ヘロデ、戸惑う」です。7~8節「ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、 「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。」ガリラヤの領主へロデ・アンティパスです。イエス様の活動が評判になっており、人々はイエス様を高く評価し、イエス様に大きな期待をかけ始めていたのです。しばらく前にイスラエルで非常に力強い働きをした洗礼者ヨハネの生き返りに違いないと主張する人々が出ました。洗礼者ヨハネはこのへロデを非難したので、ヘロデの手で殺されたのです。イエス様を「エリヤの出現だ」と説く人々もいました。旧約聖書最後の書マラキ書3章23節で、神様ご自身が「見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と約束しておられます。預言者エリヤの再来は洗礼者ヨハネです。「誰か昔の預言者が生き返ったのだ」と主張する人々も出ました。イスラエルの民は、昔の偉大な預言者エレミヤの再来も待望していたそうですから、偉大なエレミヤあるいはイザヤの再来と、イエス様を捉える人々もいました。しかしイエス様は、偉大なエリヤ、エレミヤ、イザヤの生き返りではなく、最も尊い神の子であられます。
へロデは言います。「ヨハネなら、私が首をはねた。一体何者だろう、耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。」「ヨハネなら、私が首をはねた」という言い方は、悪を行ったという反省・悔い改めを全然していないことを意味すると思います。イエス様に会ってみたいと思っていますが。単なる好奇心からで、切実に救いを求めてではありません。イエス様は、このような人にご自分から会うことはなさいません。へロデの希望は、イエス様の十字架の直前に実現します。23章6節以下(157ページ)。へロデは、イエス様が何かしるし(奇跡)を行うのを見たいと望んでいました。しかし奇跡は見世物ではありません。切実に救いを求めているのでもない人に、イエス様は尊い奇跡を見せません。イエス様はへロデの尋問を全て無視しました。へロデを軽蔑していたからでしょう。へロデはその腹いせを行ったようです。「へロデも自分の兵士たちと一緒にイエスを嘲り、侮辱した挙句、派手な衣を着せてピラトに送り返した。この日。へロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」これは真の友情ではありません。二人は悪い意味で政治家なので、イエス様を嫌うことで一致しました。あさましい一致です。彼らは利害が一致すれば、仲良くなり、利害が一致しなくなれば、すぐに仲が悪くなります。彼らは、イエス様に見限られています。
三つ目の小見出しは、「五千人に食べ物を与える」です。10節「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」12名の弟子たち(使徒たち)は。村から村へ巡り歩いて福音(神の国)を宣べ伝え、病気を癒しました。体は疲れていたに違いありません。イエス様は彼らをねぎらい、ご自分たちだけでベトサイダという町に退かれました。しばしお祈りに専念して、父なる神様の安息を受けるために違いありません。
11~12節「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。『群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。』」しかしイエス様は言われます。「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい。」弟子たちは驚いて言います。「私たちにはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、私たちが食べ物を買いに行かない限り。」しかしイエス様は、買いに行くことで解決せず、持てるものを分かち合うことで解決しようとなさいます。弟子たちは「パン五つと魚二匹しか」ないと言いますが、イエス様は「パンが五つもあり、魚が二匹もある」と言われるのではないでしょうか。そして愛は奇跡を生みます。私たちの小さな愛も、小さな奇跡を起こすことがあるのではないでしょうか。
「男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。」女性と子ども含めて1万5000人ほどいたかもしれません。一度に1万5000人に対応することは大変ですが、50人くらいずつの300グループに分ければ、少しは対応しやすくなります。12名で対応するので、一人が25グループに対応すればよいので、何とかなる感じになります。
「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」「賛美の祈りを唱えた」は、直訳では「祝福した」です。イエス様は祝福されたパンを裂いて、弟子たちに渡しました。近い将来、ご自分の体を十字架の上で裂くことを、明確に意識しておられたでしょう。私たちは今日もこの後、十字架で私たちのために体を裂かれたイエス様の体を指し示す聖餐式を行います。それによって、私たちを愛して十字架でご自分の肉体を裂かれたイエス様の愛を、実感したいと願います。
弟子たちの分かち合い(シェア)があり、イエス様の祝福が与えられて、男だけで五千人が満腹する愛の奇跡が起きました。お腹も心も、イエス様の愛で満たされたはずです。箴言10章22節に、こうあります。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」今の社会は「経済こそ全て」となっていないでしょうか。経済成長が一番大切という考え方が常識になってしまっています。この常識を否定する必要があります。お金より大切なものがある。神様、イエス様、家族、友人、愛、友情の方がお金より大切だ。すべてのものを分かち合うことこそ大切だ。世界には飢えている人々もおられますが、世界中の食物を平等に分け合えば、全員に行き渡ると聞きます。そうなっていないのは、お金持ちの国や地域の人々が、食べ物や資源を多く所有しているからだと聞きます。このような罪深い状態を早くやめて、世界中で平等に分かち合う世界に変わる必要があります。私ども夫婦が洗礼を受けた教会の青年会にUさんがおられましたが、五人兄弟の方で、ご両親が立派なクリスチャンで、いつも一つの大きなお皿に料理を盛りつけたそうです。兄弟が喧嘩しないで分け合って、互いに思いやり合って、独り占めしないで食べるように、食卓での信仰の教育をなさったのです。私は聞いて、とてもよいことだと感銘を受けました。コヘレトの言葉11章2節には、「七人と、八人とすら、分かち合っておけ」と記されています。
先週の水曜日午後から金曜日の午後まで、下里しおん保育園の年長児合宿に参加して参りました。山登りもあり、ちょっとしたサバイバルです。男だけで五千人の群衆がイエス様に養われた場面も、人里離れた食物のない場所ですから、なかなかのサバイバル状態だったと思います。私たちは大平ハウスという普通の家のような所に泊まり、保育園の調理担当者も来て下さり、朝昼晩と、野菜中心のおいしい食事を作って下さいました。食材は用意して行っているのですが、周りは山や川で、家はありますが、お店は近くにありません。ちょっとしたサバイバルなので、今日の群衆の気持ちが少し分かる感じでした。食事の前にお祈りするか、子ども讃美歌を歌います。「恵みの神様、今いただく食べ物を、主イエスの名によって感謝します。アーメン。」毎日の保育園での昼ご飯の前にも。これを歌っています。とてもよい讃美歌だと思います。
「残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」物理的にはあり得ない奇跡です。しかし日本の格言「塵も積もれば山となる」を思い出してしまいます。パン屑は、神様の恵みですから「塵」と呼んでは、神様に失礼ですが。神の恵みを、ただの一粒も無駄にしてはいけないということでしょう。ある牧師の説教集『パン屑を集める心』。この心が大切なのですね。「数えてみよ、主の恵み」という聖歌を思い出しました。「数えてみよ、主の恵み。数えてみよ、主の恵み。数えよ、一つずつ。数えてみよ、主の恵み。」イエス・キリストの恵み一つ一つに感謝して、イエス様と共に歩んで参りたいのです。アーメン。
◆ヘロデ、戸惑う
ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、 「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。
◆五千人に食べ物を与える
使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第5主日公同礼拝です。説教題は「キリストのあふるる恩寵」です。
第1節「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになった。」イエス様の十二人の弟子たちが、イエス様からおそらく聖霊を豊かに注がれて、イエス様と同じような力(超自然的な力)を与えられて、神の国を広めるために、イスラエルの各地に遣わされました。伝道する者は、地上の全ての物質的なものから解放されて、霊的な事柄のみ、信仰のことだけに専念せよということです。肉体をもつ私たちには、これはそう簡単ではないと感じますが、イエス様をそれを求めておられます。この時は、後に裏切るイスカリオテのユダも、まだ悪魔に支配されていなかったのでしょうか、十二人の一人として、神の国を広めるために働いています。神の国とは、神の支配です。イエス様がおられる所に神の国・神の支配は来ます。イエス様に従う人がいる所にも、神の国・神の支配は来ています。この礼拝の場でもまさに神の国が実現しています。
2節「そして、神の国を宣べ伝え、病人を癒すために遣わすにあたり、次のように言われた。『旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。』」伝道旅行には、杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。徹底した指示です。4節「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。」伝道者たちを迎え入れてくれる家がある。神様が備えて下さる。その家で、食事等は用意される。旧約聖書の偉大な預言者エリヤやエリシャもにて経験をしています。神様はエリヤに言われました。「シドンのサレプタに行き、そこに住め。私は一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。エリヤは、そのやもめ(女主人)の家の階上の部屋で寝起きしたのです。エリヤの弟子エリシャも、シュネムという土地の裕福な婦人(夫がいる)の階上の小さな部屋に寝起きしていました。
カトリックの修道女や修道士になる方は、地上の財産を全て処分する手続きを行って修道院に入ると聞きました。この世の財産を全て捨てて修道院に入る。食事・衣服・住居等はカトリック教会が用意するのでしょうね。宗教改革を行ったマルティン・ルターは若い頃、修道士になるべく修道院に入りました。そこで清らかな生活をなすべく励んだのですが、間もなく修道院の中にいる人々にも罪があると気づき、最終的には修道院を出ます。そこでルターが目指した信仰生活は、修道院の中で清らかに生きようとするのではなく、この社会(世俗)の真っただ中で、イエス・キリストに従って清く生きようと志すことだったようです。それがプロテスタント教会の生き方になりました。この社会(世俗)のまっただ中で、誘惑の多い中で、誘惑と戦ってイエス・キリストに従う。その意味では、より厳しい生き方を選んだことになるのではないでしょうか。ルターはそうなのですが、しかし修道院が悪いとは言えないでしょう。現代でも多くの修道女や修道士は、世界の貧しい地域に派遣されて、礼拝・伝道・奉仕活動に専念しているらしいです。カトリック教会は、誰がどこに行っているとは原則公表しないので、その方々は、神様だけが知ってくださっていることだけが喜びとのスタンスでしょう。それはそれで立派な生き方であって、地上の財産は全て捨てて、イエス様の御言葉「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」を、できるだけ実践しようとしているのだと思います。
この先の10章を見ると、イエス様はさらに72名を伝道に派遣しておられます。派遣に際して、イエス様はこう言われます。「どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなた方に戻って来る。その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」イエス様は、最初に12名を派遣なさったときも、同じ心構えを解かれたのだと思います。イエス様は、本日の箇所でさらに言われます。「誰もあなた方を迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落しなさい(これは抗議のしるし)。」そして12人は、出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至る所で福音を告げ知らせ、病気を癒した。」
72人が伝道から戻ってきたときに、喜んでこう言いました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します。」するとイエス様は言われたのです。「私はサタン(悪魔)が稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりをふみつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、私はあなた方に授けた。だから、あなた方に害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」12名の弟子たちも、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能を授けられました。すばらしいことですが、私たち人間はあまりすばらしい力を与えられると、簡単に思い上がります。それを警戒してイエス様は、「悪霊があなたがたに服従するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われたのだと思います。
本日の2つめの小見出しは、「ヘロデ、戸惑う」です。7~8節「ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、 「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。」ガリラヤの領主へロデ・アンティパスです。イエス様の活動が評判になっており、人々はイエス様を高く評価し、イエス様に大きな期待をかけ始めていたのです。しばらく前にイスラエルで非常に力強い働きをした洗礼者ヨハネの生き返りに違いないと主張する人々が出ました。洗礼者ヨハネはこのへロデを非難したので、ヘロデの手で殺されたのです。イエス様を「エリヤの出現だ」と説く人々もいました。旧約聖書最後の書マラキ書3章23節で、神様ご自身が「見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と約束しておられます。預言者エリヤの再来は洗礼者ヨハネです。「誰か昔の預言者が生き返ったのだ」と主張する人々も出ました。イスラエルの民は、昔の偉大な預言者エレミヤの再来も待望していたそうですから、偉大なエレミヤあるいはイザヤの再来と、イエス様を捉える人々もいました。しかしイエス様は、偉大なエリヤ、エレミヤ、イザヤの生き返りではなく、最も尊い神の子であられます。
へロデは言います。「ヨハネなら、私が首をはねた。一体何者だろう、耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。」「ヨハネなら、私が首をはねた」という言い方は、悪を行ったという反省・悔い改めを全然していないことを意味すると思います。イエス様に会ってみたいと思っていますが。単なる好奇心からで、切実に救いを求めてではありません。イエス様は、このような人にご自分から会うことはなさいません。へロデの希望は、イエス様の十字架の直前に実現します。23章6節以下(157ページ)。へロデは、イエス様が何かしるし(奇跡)を行うのを見たいと望んでいました。しかし奇跡は見世物ではありません。切実に救いを求めているのでもない人に、イエス様は尊い奇跡を見せません。イエス様はへロデの尋問を全て無視しました。へロデを軽蔑していたからでしょう。へロデはその腹いせを行ったようです。「へロデも自分の兵士たちと一緒にイエスを嘲り、侮辱した挙句、派手な衣を着せてピラトに送り返した。この日。へロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」これは真の友情ではありません。二人は悪い意味で政治家なので、イエス様を嫌うことで一致しました。あさましい一致です。彼らは利害が一致すれば、仲良くなり、利害が一致しなくなれば、すぐに仲が悪くなります。彼らは、イエス様に見限られています。
三つ目の小見出しは、「五千人に食べ物を与える」です。10節「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」12名の弟子たち(使徒たち)は。村から村へ巡り歩いて福音(神の国)を宣べ伝え、病気を癒しました。体は疲れていたに違いありません。イエス様は彼らをねぎらい、ご自分たちだけでベトサイダという町に退かれました。しばしお祈りに専念して、父なる神様の安息を受けるために違いありません。
11~12節「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。『群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。』」しかしイエス様は言われます。「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい。」弟子たちは驚いて言います。「私たちにはパン五つと魚二匹しかありません。このすべての人々のために、私たちが食べ物を買いに行かない限り。」しかしイエス様は、買いに行くことで解決せず、持てるものを分かち合うことで解決しようとなさいます。弟子たちは「パン五つと魚二匹しか」ないと言いますが、イエス様は「パンが五つもあり、魚が二匹もある」と言われるのではないでしょうか。そして愛は奇跡を生みます。私たちの小さな愛も、小さな奇跡を起こすことがあるのではないでしょうか。
「男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。」女性と子ども含めて1万5000人ほどいたかもしれません。一度に1万5000人に対応することは大変ですが、50人くらいずつの300グループに分ければ、少しは対応しやすくなります。12名で対応するので、一人が25グループに対応すればよいので、何とかなる感じになります。
「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」「賛美の祈りを唱えた」は、直訳では「祝福した」です。イエス様は祝福されたパンを裂いて、弟子たちに渡しました。近い将来、ご自分の体を十字架の上で裂くことを、明確に意識しておられたでしょう。私たちは今日もこの後、十字架で私たちのために体を裂かれたイエス様の体を指し示す聖餐式を行います。それによって、私たちを愛して十字架でご自分の肉体を裂かれたイエス様の愛を、実感したいと願います。
弟子たちの分かち合い(シェア)があり、イエス様の祝福が与えられて、男だけで五千人が満腹する愛の奇跡が起きました。お腹も心も、イエス様の愛で満たされたはずです。箴言10章22節に、こうあります。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」今の社会は「経済こそ全て」となっていないでしょうか。経済成長が一番大切という考え方が常識になってしまっています。この常識を否定する必要があります。お金より大切なものがある。神様、イエス様、家族、友人、愛、友情の方がお金より大切だ。すべてのものを分かち合うことこそ大切だ。世界には飢えている人々もおられますが、世界中の食物を平等に分け合えば、全員に行き渡ると聞きます。そうなっていないのは、お金持ちの国や地域の人々が、食べ物や資源を多く所有しているからだと聞きます。このような罪深い状態を早くやめて、世界中で平等に分かち合う世界に変わる必要があります。私ども夫婦が洗礼を受けた教会の青年会にUさんがおられましたが、五人兄弟の方で、ご両親が立派なクリスチャンで、いつも一つの大きなお皿に料理を盛りつけたそうです。兄弟が喧嘩しないで分け合って、互いに思いやり合って、独り占めしないで食べるように、食卓での信仰の教育をなさったのです。私は聞いて、とてもよいことだと感銘を受けました。コヘレトの言葉11章2節には、「七人と、八人とすら、分かち合っておけ」と記されています。
先週の水曜日午後から金曜日の午後まで、下里しおん保育園の年長児合宿に参加して参りました。山登りもあり、ちょっとしたサバイバルです。男だけで五千人の群衆がイエス様に養われた場面も、人里離れた食物のない場所ですから、なかなかのサバイバル状態だったと思います。私たちは大平ハウスという普通の家のような所に泊まり、保育園の調理担当者も来て下さり、朝昼晩と、野菜中心のおいしい食事を作って下さいました。食材は用意して行っているのですが、周りは山や川で、家はありますが、お店は近くにありません。ちょっとしたサバイバルなので、今日の群衆の気持ちが少し分かる感じでした。食事の前にお祈りするか、子ども讃美歌を歌います。「恵みの神様、今いただく食べ物を、主イエスの名によって感謝します。アーメン。」毎日の保育園での昼ご飯の前にも。これを歌っています。とてもよい讃美歌だと思います。
「残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」物理的にはあり得ない奇跡です。しかし日本の格言「塵も積もれば山となる」を思い出してしまいます。パン屑は、神様の恵みですから「塵」と呼んでは、神様に失礼ですが。神の恵みを、ただの一粒も無駄にしてはいけないということでしょう。ある牧師の説教集『パン屑を集める心』。この心が大切なのですね。「数えてみよ、主の恵み」という聖歌を思い出しました。「数えてみよ、主の恵み。数えてみよ、主の恵み。数えよ、一つずつ。数えてみよ、主の恵み。」イエス・キリストの恵み一つ一つに感謝して、イエス様と共に歩んで参りたいのです。アーメン。
2025-06-28 22:05:54(土)
説教「キリストの大きな愛」2025年6月29日(日)聖霊降臨節第4主日礼拝
(ルカによる福音書8:40~56)
イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第4主日公同礼拝です。説教題は「キリストの大きな愛」です。小見出し「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」です。
先週の個所には、イエス様がガリラヤ湖の南東のゲラサの地で、多くの悪霊に苦しめられていた異邦人の男性を救われた出来事が語られていました。イエス様がゲラサからイスラエルの地に戻って来られました。本日の御言葉では、イエス様による2つの大きな救いが記されています。
最初の40節から「イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来て下さるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。」ヤイロはユダヤ人の礼拝の場所・会堂の責任者で、少し社会的地位のある人ですが、ここではプライドも何も捨てて、イエス様の前にひれ伏しています。一人娘が死にかけていることでヤイロは必死になっており、ただ必死にイエス様の前にひれ伏しました。ただ「私の家に来て娘を救ってほしい」の一念です。
「イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。」満員電車のような状況でしょうか。ヤイロから見れば、「群衆よ、来ないでくれ。私の娘の所に急行して下さるイエス様の邪魔をしないでくれ」という気持ちでしょう。しかしすぐにはヤイロの願い通りになりません。43節「ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。」この十二年間はヤイロにとっては、一人娘がだんだん成長する様子を見る嬉しい日々だったと思われます。それに完全に重なる十二年間が、この女性にとっては、出血が止まらないとても辛い日々でした。当時のイスラエルでは、このような出血は汚れ(けがれ)とされていました。
旧約聖書のレビ記15章19節に、こう書かれています。「女性の生理が始まったならば、七日間は月経期間であり、この期間に彼女に触れた人はすべて夕方まで汚れている。」25節以下にはこうあります。これが本日の女性に当てはまります。「もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている。」この汚れの規定は、旧約聖書の時代で終わっており、新約聖書の時代の今はこの規定に縛られてはいません。
この規定の時代の女性たちは、本当に大変だったと思います。本日の女性は、出血が十二年間も止まらなかったのですから、十二年間汚れた人として、人々から遠ざけられていたことになります。非常に深い孤独に苦しむ日々だったと思います。20年ほど前にNHKで、現代のイスラエルのサマリア人の生活が紹介されていました。家は私たちと全く同じ家です。その家の十八歳くらいの娘さんが、生理期間中でベッドに入っていました。娘さんは隔離されて、家族と別の部屋で過ごしているのです。一階からお母さんが来て、食事の入った入れ物を娘さんにポーンと投げるのです。娘さんが汚れている期間なので、娘さんにも触れず、ベッドにさえ触れない。レビ記の規定を21世紀の今も実践していました。
さて、本日の女性は医者に全財産を使い果たしたが、誰からも治してもらえませんでした。当時の医学の水準では、治すことができなかったのです。今なら治せるかもしれません。44節「この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。」直ちに止まったとは、驚くべき奇跡です。45節「イエスは、『私に触れたのは誰か』と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、『先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです』と言った。46節「しかし、イエスは。『誰かが私に触れた。私から力が出て行ったのを感じたのだ』と言われた。イエス様から、神の子の力が出て行って、この女性の出血が
完全に癒されました。群衆がイエス様を取り巻いて押し合っていて、結果的にイエス様に触れた人はいたかもしれませんが、イエス様に癒していただきたいとう切実な願いをもって触れた人は、この女性一人だったのだと思います。女性は後ろから触れました。謙遜な触れ方です。この女性は皆から汚れていると見られていたでしょうから、正面から行けば、イエス様にも嫌がられると思ったかもしれません。女性は、癒していただけばそれでよいので、感謝して喜んで、そのままそっと立ち去るつもりだったのではないかと思います。自分の名前等は隠したまま、立ち去るつもりでした。
しかし、イエス様は相手を探されました。相手と人格的な対話をなさるためです。女性は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまち癒された次第を皆の前で話しました。女性は、イエス様に「なぜ勝手に触ったか」と厳しく叱れると思っていたのでしょう。しかし叱られませんでした。却って、心のこもった御言葉を聴きました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」癒されただけでなく、イエス様の愛の御言葉に触れて、女性は安心して帰ることができました。もう汚れていないので、家族や友人の元に安心して復帰できたと思います。
東久留米教会の会員でいらして今は天国におられる吉加江京司さんという画家の方がおられます。この方が、この場面と思われる場面を描いた絵画が、阿佐ヶ谷記教会の二階の祈祷室に掲げられています。横長さ90センチ、縦60センチくらいでしょうか。私は一昨日も阿佐ヶ谷教会に行く用事がありましたので、改めてじっくりその絵を拝見し、写真にも撮って来ました。その絵画では女性は地面にうつぶせになっており(この姿勢が、癒された後のひれ伏した姿勢をも表現しているのかもしれません)、顔を上げてすがるような眼でイエス様を見つめ、後ろから両手ででイエス様の服の房をつかんで、固く握りしめています。イエス様のお顔の表情は暗くて見えませんが、イエス様は振り向いて女性に眼差しを向けておられます。女性の目とイエス様の目が合っているようにも見えます。心と心の通じ合いが起こっっていると感じます。この二人の姿が、大きく描かれており、しかも女性が中心に描かれているように見えます。やや離れた背景に群衆の代表のように8名の姿があります。母親に手を引かれた子どもの姿もあります。
この作品がなぜ祈祷室に掲げられているのか、あえて考えてみますと、この女性が地面の上に身を横たえて、そこからイエス様の房を後ろから両手で固く握り締め、イエス様を見上げている姿が、「全身祈りの姿」と見ることもできるからではないかと、想像致します。それで祈祷室(祈祷会等に用いる部屋)にふさわしいと教会の方々が考えて下さったのではないかと思うのです。吉加江さんは多くの作品を残しておられると思いますが、このイエス様の服の房を両手で掴む女性とイエス様の姿の絵をお描きになったということは、この場面に深い感動を覚えらえたからであることは間違いないでしょう。
進みます。49節「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」」ヤイロは、イエス様が女性を癒すのもよいけれども、一刻も早く私の家に来てほしいと願っていたに違いありません。手遅れになる前に、すぐに来てほしい。当然の願いです。私たち人間の世界では、手遅れということがあるのですから。そこにヤイロの希望を打ち砕く知らせが来ました。「お嬢さんは亡くなりました」というのです。しかし、イエス様には手遅れがないことが示されます。「イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」「ただ信じれば、娘は救われる。」イエス様のこの約束の御言葉だけを握りしめて、ヤイロはイエス様と共に家に向かいます。
出エジプト記14章で、イスラエルの民がエジプト王ファラオの軍隊に追い詰められた時に似ています。イスラエルの民は恐怖に負けかかりました。モーセが民に言います。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」その通り、神様ご自身がエジプト軍と戦って下さり、エジプト軍は壊滅し、イスラエルの民は救われました。「恐れてはならない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」イエス様もヤイロに、神様に信頼するように、イエス様を信頼するようにと求められました。ヤイロは、必死にイエス様の御言葉にしがみついて信頼したに違いありません。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
東久留米教会に以前、斉藤ますさんという教会員がおられました。15年ほど前に天に召されました。私は時々、前沢のお宅を訪問していました。私には想像もできないほど、ご苦労に満ちた人生を送って来られたようです。お若い頃に(太平洋戦争前?)救世軍が太鼓を叩いて、讃美歌を歌って元気に伝道している様子を見て、「面白いなあ」と一緒に手を叩いて見物した思い出を語って下さいました。ご存じの方も多い讃美愛です。「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ。信じる者は誰も、皆救われん!」イエス様の御言葉、「ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」を聞いて、その話を思い出しました。
51節「イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。」ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人は、イエス様に特に信頼されていた弟子ですね。52節「人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。」私たちは自力で死に打ち勝つことができませんが、十字架で死なれて復活なさるイエス様は、死に勝利する力をお持ちです。イエス様にとって、父なる神様にとって、死は眠りと変わりません。しかし人々は、イエス様をあざ笑いました。使徒言行録17章を見ると、使徒パウロも、イエス様が復活なさったことを語るとアテネの人にあざ笑われたと書かれています。
54節「イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。」「起きよ」は「復活せよ」と訳すこともできます。「娘よ、復活せよ」と言われたとも言えます。55節「すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。」霊が戻って来たと書かれています。使徒言行録7章のステファノというクリスチャンの殉教の場面を読むと、ステファノが死の直前に、天のイエス様に向かって「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」と言っています。ステファノはさらに、「主よ、この罪を彼ら(ステファノを殺す人々)に負わせないで下さい」と大声で叫んで、眠りについたと書かれています。ステファノの霊は天でイエス様によって受けとめられたのでしょう。地上で動かなくなった彼は、眠っているように見えました。私たちが死ぬ時も、天のイエス様が、私たちの霊を受けとめて下さると信じます。54節「娘の両親は非常に驚いた。」両親は感激して喜んだに違いありませんが、同時に非常に驚きました。私たちがその場にいても、そうでしょう。56節「イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。」イエス様は、御自分が、ただ奇跡を起こす人として有名になることは望まれません。人々を愛して奇跡も起こされますが、十字架にかかって私たちの全部の罪の責任を背負いきることこそ、イエス様の最も重要な使命です。
「娘よ、起きなさい。」マルコ福音書5章のこの場面では、イエス様が語られらアラム語が、そのまま記されています。「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、私はあなたに言う。起きなさい」という意味である。口語訳聖書では「タリタ、クミ」です。こんな話を聞いたことがあります。ある牧師の方が、この場面がお好きで、イエス様の「タリタ、クミ」の御言葉に感動して、ご自分たちご夫婦に生まれた女の子さんに、「久美子さん」というお名前を付けたという話です。イエス様の御言葉から名付けたのですね。そういう方もおられる。本日のルカによる福音書の前半に深く感動なさった方もおられ、後半に感激した信仰者もおられます。2つの出来事は共に、イエス・キリストの大きな愛を示してやみません。私たちもこのようなイエス・キリストを、ますます愛して歩んで参りたいのです。アーメン。
イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第4主日公同礼拝です。説教題は「キリストの大きな愛」です。小見出し「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」です。
先週の個所には、イエス様がガリラヤ湖の南東のゲラサの地で、多くの悪霊に苦しめられていた異邦人の男性を救われた出来事が語られていました。イエス様がゲラサからイスラエルの地に戻って来られました。本日の御言葉では、イエス様による2つの大きな救いが記されています。
最初の40節から「イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来て下さるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。」ヤイロはユダヤ人の礼拝の場所・会堂の責任者で、少し社会的地位のある人ですが、ここではプライドも何も捨てて、イエス様の前にひれ伏しています。一人娘が死にかけていることでヤイロは必死になっており、ただ必死にイエス様の前にひれ伏しました。ただ「私の家に来て娘を救ってほしい」の一念です。
「イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。」満員電車のような状況でしょうか。ヤイロから見れば、「群衆よ、来ないでくれ。私の娘の所に急行して下さるイエス様の邪魔をしないでくれ」という気持ちでしょう。しかしすぐにはヤイロの願い通りになりません。43節「ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。」この十二年間はヤイロにとっては、一人娘がだんだん成長する様子を見る嬉しい日々だったと思われます。それに完全に重なる十二年間が、この女性にとっては、出血が止まらないとても辛い日々でした。当時のイスラエルでは、このような出血は汚れ(けがれ)とされていました。
旧約聖書のレビ記15章19節に、こう書かれています。「女性の生理が始まったならば、七日間は月経期間であり、この期間に彼女に触れた人はすべて夕方まで汚れている。」25節以下にはこうあります。これが本日の女性に当てはまります。「もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている。」この汚れの規定は、旧約聖書の時代で終わっており、新約聖書の時代の今はこの規定に縛られてはいません。
この規定の時代の女性たちは、本当に大変だったと思います。本日の女性は、出血が十二年間も止まらなかったのですから、十二年間汚れた人として、人々から遠ざけられていたことになります。非常に深い孤独に苦しむ日々だったと思います。20年ほど前にNHKで、現代のイスラエルのサマリア人の生活が紹介されていました。家は私たちと全く同じ家です。その家の十八歳くらいの娘さんが、生理期間中でベッドに入っていました。娘さんは隔離されて、家族と別の部屋で過ごしているのです。一階からお母さんが来て、食事の入った入れ物を娘さんにポーンと投げるのです。娘さんが汚れている期間なので、娘さんにも触れず、ベッドにさえ触れない。レビ記の規定を21世紀の今も実践していました。
さて、本日の女性は医者に全財産を使い果たしたが、誰からも治してもらえませんでした。当時の医学の水準では、治すことができなかったのです。今なら治せるかもしれません。44節「この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。」直ちに止まったとは、驚くべき奇跡です。45節「イエスは、『私に触れたのは誰か』と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、『先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです』と言った。46節「しかし、イエスは。『誰かが私に触れた。私から力が出て行ったのを感じたのだ』と言われた。イエス様から、神の子の力が出て行って、この女性の出血が
完全に癒されました。群衆がイエス様を取り巻いて押し合っていて、結果的にイエス様に触れた人はいたかもしれませんが、イエス様に癒していただきたいとう切実な願いをもって触れた人は、この女性一人だったのだと思います。女性は後ろから触れました。謙遜な触れ方です。この女性は皆から汚れていると見られていたでしょうから、正面から行けば、イエス様にも嫌がられると思ったかもしれません。女性は、癒していただけばそれでよいので、感謝して喜んで、そのままそっと立ち去るつもりだったのではないかと思います。自分の名前等は隠したまま、立ち去るつもりでした。
しかし、イエス様は相手を探されました。相手と人格的な対話をなさるためです。女性は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまち癒された次第を皆の前で話しました。女性は、イエス様に「なぜ勝手に触ったか」と厳しく叱れると思っていたのでしょう。しかし叱られませんでした。却って、心のこもった御言葉を聴きました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」癒されただけでなく、イエス様の愛の御言葉に触れて、女性は安心して帰ることができました。もう汚れていないので、家族や友人の元に安心して復帰できたと思います。
東久留米教会の会員でいらして今は天国におられる吉加江京司さんという画家の方がおられます。この方が、この場面と思われる場面を描いた絵画が、阿佐ヶ谷記教会の二階の祈祷室に掲げられています。横長さ90センチ、縦60センチくらいでしょうか。私は一昨日も阿佐ヶ谷教会に行く用事がありましたので、改めてじっくりその絵を拝見し、写真にも撮って来ました。その絵画では女性は地面にうつぶせになっており(この姿勢が、癒された後のひれ伏した姿勢をも表現しているのかもしれません)、顔を上げてすがるような眼でイエス様を見つめ、後ろから両手ででイエス様の服の房をつかんで、固く握りしめています。イエス様のお顔の表情は暗くて見えませんが、イエス様は振り向いて女性に眼差しを向けておられます。女性の目とイエス様の目が合っているようにも見えます。心と心の通じ合いが起こっっていると感じます。この二人の姿が、大きく描かれており、しかも女性が中心に描かれているように見えます。やや離れた背景に群衆の代表のように8名の姿があります。母親に手を引かれた子どもの姿もあります。
この作品がなぜ祈祷室に掲げられているのか、あえて考えてみますと、この女性が地面の上に身を横たえて、そこからイエス様の房を後ろから両手で固く握り締め、イエス様を見上げている姿が、「全身祈りの姿」と見ることもできるからではないかと、想像致します。それで祈祷室(祈祷会等に用いる部屋)にふさわしいと教会の方々が考えて下さったのではないかと思うのです。吉加江さんは多くの作品を残しておられると思いますが、このイエス様の服の房を両手で掴む女性とイエス様の姿の絵をお描きになったということは、この場面に深い感動を覚えらえたからであることは間違いないでしょう。
進みます。49節「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」」ヤイロは、イエス様が女性を癒すのもよいけれども、一刻も早く私の家に来てほしいと願っていたに違いありません。手遅れになる前に、すぐに来てほしい。当然の願いです。私たち人間の世界では、手遅れということがあるのですから。そこにヤイロの希望を打ち砕く知らせが来ました。「お嬢さんは亡くなりました」というのです。しかし、イエス様には手遅れがないことが示されます。「イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」「ただ信じれば、娘は救われる。」イエス様のこの約束の御言葉だけを握りしめて、ヤイロはイエス様と共に家に向かいます。
出エジプト記14章で、イスラエルの民がエジプト王ファラオの軍隊に追い詰められた時に似ています。イスラエルの民は恐怖に負けかかりました。モーセが民に言います。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」その通り、神様ご自身がエジプト軍と戦って下さり、エジプト軍は壊滅し、イスラエルの民は救われました。「恐れてはならない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」イエス様もヤイロに、神様に信頼するように、イエス様を信頼するようにと求められました。ヤイロは、必死にイエス様の御言葉にしがみついて信頼したに違いありません。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」
東久留米教会に以前、斉藤ますさんという教会員がおられました。15年ほど前に天に召されました。私は時々、前沢のお宅を訪問していました。私には想像もできないほど、ご苦労に満ちた人生を送って来られたようです。お若い頃に(太平洋戦争前?)救世軍が太鼓を叩いて、讃美歌を歌って元気に伝道している様子を見て、「面白いなあ」と一緒に手を叩いて見物した思い出を語って下さいました。ご存じの方も多い讃美愛です。「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ。信じる者は誰も、皆救われん!」イエス様の御言葉、「ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」を聞いて、その話を思い出しました。
51節「イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。」ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人は、イエス様に特に信頼されていた弟子ですね。52節「人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。」私たちは自力で死に打ち勝つことができませんが、十字架で死なれて復活なさるイエス様は、死に勝利する力をお持ちです。イエス様にとって、父なる神様にとって、死は眠りと変わりません。しかし人々は、イエス様をあざ笑いました。使徒言行録17章を見ると、使徒パウロも、イエス様が復活なさったことを語るとアテネの人にあざ笑われたと書かれています。
54節「イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。」「起きよ」は「復活せよ」と訳すこともできます。「娘よ、復活せよ」と言われたとも言えます。55節「すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。」霊が戻って来たと書かれています。使徒言行録7章のステファノというクリスチャンの殉教の場面を読むと、ステファノが死の直前に、天のイエス様に向かって「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」と言っています。ステファノはさらに、「主よ、この罪を彼ら(ステファノを殺す人々)に負わせないで下さい」と大声で叫んで、眠りについたと書かれています。ステファノの霊は天でイエス様によって受けとめられたのでしょう。地上で動かなくなった彼は、眠っているように見えました。私たちが死ぬ時も、天のイエス様が、私たちの霊を受けとめて下さると信じます。54節「娘の両親は非常に驚いた。」両親は感激して喜んだに違いありませんが、同時に非常に驚きました。私たちがその場にいても、そうでしょう。56節「イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。」イエス様は、御自分が、ただ奇跡を起こす人として有名になることは望まれません。人々を愛して奇跡も起こされますが、十字架にかかって私たちの全部の罪の責任を背負いきることこそ、イエス様の最も重要な使命です。
「娘よ、起きなさい。」マルコ福音書5章のこの場面では、イエス様が語られらアラム語が、そのまま記されています。「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、私はあなたに言う。起きなさい」という意味である。口語訳聖書では「タリタ、クミ」です。こんな話を聞いたことがあります。ある牧師の方が、この場面がお好きで、イエス様の「タリタ、クミ」の御言葉に感動して、ご自分たちご夫婦に生まれた女の子さんに、「久美子さん」というお名前を付けたという話です。イエス様の御言葉から名付けたのですね。そういう方もおられる。本日のルカによる福音書の前半に深く感動なさった方もおられ、後半に感激した信仰者もおられます。2つの出来事は共に、イエス・キリストの大きな愛を示してやみません。私たちもこのようなイエス・キリストを、ますます愛して歩んで参りたいのです。アーメン。
2025-06-22 0:58:37()
「悪霊を追い出すキリスト」2025年6月22日(日)聖霊降臨節第3主日礼拝
(ルカによる福音書8:26~39)
一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第3主日公同礼拝です。説教題は「悪霊を追い出すキリスト」です。小見出し「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」です。
最初の26節「一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」聖書巻末の6を見ると、ゲラサという場所は、ガリラヤ湖より約60キロも南にあり、随分遠い感じです。デカポリスという地域の中にあります。デカは10の意味、ポリスは町の意味ですから、デカポリスは「10の町」の意味です。実際に10ほどの町で構成されていたのでしょう。住んでいるゲラサ人が、どのような人々かよく分かりませんが、神の民イスラエル人(ユダヤ人)でない、いわゆる異邦人です。今日の場面は、正直言って不気味な場面です。
27節「イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。」神の民イスラエル人は、死を汚れ(けがれ)と考えていたはずです。この男は、死と汚れの場所、イスラエル人なら最も避けたい場所である墓場に住んでいました。長い間衣服を身に着けないことから見ても、現代の見方からすると精神を病んでいたと思われます。但し、私たちは皆誰でも心を病む可能性をもっている者だと思います。墓場とありますが、今の日本のお墓とは造りとは異なり、岩を横に掘って造った墓だったようです。
ここには多くの悪霊が登場しますが、この直前の個所は、イエス様と弟子たちが舟に乗って、ガリラヤ湖の別の岸からこちら側の岸(つまりゲラサ方面)に向かった時のことが記されています。突風と荒波で舟はもみくちゃにされ、弟子たちは「おぼれそうです」と叫んで、パニックになりました。この突風と荒波は悪魔の妨害とも考えられます。イエス様がゲラサ人の地に来ないように、悪魔が妨害したと見ることもできます。悪魔はイエス様に来てほしくないのです。しかしその強力な妨害をも打ち破って、イエス様たちが乗る舟はゲラサ人の地方に着いたのです。ゲラサは異邦人の地。イスラエル人は異邦人を汚れた人々と見ていました。普通のイスラエル人なら、まず行かない土地と思います。イエス様もイスラエル人ですが、そのようなイスラエル人の偏見を乗り越えて、あえて異邦人の土地ゲラサに来られました。一人の男性を救うためです。
28節「イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。』イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。」悪霊もイエス様が「いと高き神の子」であることを認めています。イエス様から逃げればよさそうなのに、逃げられないのですね。イエス様の前では、正体を現すしかできないのですね。ヤコブの手紙2章19節を思い出します。「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」使徒言行録19章でも、エフェソの地で悪霊がこう言っています。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。」悪霊は、イエス様の前では隠れていることができず、あぶり出されてしまいます。
29節の途中から「この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。」この男性は悪霊の被害者です。悪霊に取りつかれ、異常な力を発揮して暴れたのでしょう、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていましたが、何とそれを引きちぎる異常なパワーを発揮して、荒れ野へと駆り立てられていました。聖書で荒れ野は、試練の場、悪魔の力が支配する場と言えます。30節「イエスが、『名は何というのか』とお尋ねになると、『レギオン』と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。」イエス様が質問なさると、悪霊は拒否できません。レギオンとは、当時のローマ帝国の軍隊の部隊で、5000~6000人で編成されていました。5,6000もの悪霊が彼の中に住み着いていたことになります。全く恐ろしいことで、彼は実に気の毒な悪霊の被害者です。
31節「そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。」悪霊どもは、底なしの淵へ行くことを恐れており、そこに行けと命令しないでほしいと、イエス様に懇願しています。底なしの淵は、最後の審判のために悪霊どもが閉じ込められている場所です。ペトロの手紙(二)2章4節に、「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました」とあります。底なしの淵は、ペトロの手紙(二)4章2節の地獄と同じでしょう。ヨハネの黙示録20章1節以下には、こうあります。「私(黙示録の著者ヨハネ)はまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。」悪霊と悪魔は、夜の終わりには、火と硫黄の池に投げ込まれて、昼も夜も世々限りなく責めさいなまれることになっています。これが永遠の滅びでしょう。つまり悪霊どもが、底なしの淵に行かされると、火と硫黄の池で滅亡する直前まで落ちます。イエス様には落とす力があります。それで悪霊どもは、「底なしの淵に行け」と命じないように、イエス様に懇願しました。
イエス様はその懇願を聞き入れたようです。32節「ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れが餌をあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。」この土地は異邦人が多く住む土地だったことが、豚が多く飼育されていたことから分かります。イスラエル人(ユダヤ人)にとって、豚は汚れた動物です。レビ記11章7~8節にこうあります。「いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。」悪霊どもは、イエス様の許可を得て豚の中に入りました。マルコ福音書には豚は2000匹ほどと書かれています。悪霊は何かに入らないと気が済まないのでしょうか。悪霊どもは、豚の群れを自滅へと追いやりました。悪霊は死と滅びの力をもつことが分かります。この悪霊のどもが、一人の男に入り込んでいたのですから、あの男性がいかに不幸だったか分かります。彼はイエス様によって本当に救われました。
悪霊と悪魔は、最後には滅亡すると決まっています。しかし残念ながら、今はまだ生きていて、私たちを罪と悪へと誘惑し、滅びに導こうと働いています。今はインターネット全盛の時代ですが、悪霊はインターネットを通しても多く働いていると感じます。インターネットは善のために用いれば、よいものです。しかし悪用する人も少なくないので、注意する必要があります。You Tubeなどにも、事実でない偽ニュースが掲載されていることもあります。よく内容を確かめて、信頼してよいかどうか、チェックする必要があります。鵜呑みにしてはいけない情報があると感じます。SNSなどで「よい仕事がある」と主に若者を騙して、闇バイトに引き込む悪い人もいます。すると殺人などを実行する闇バイトに引きずり込まれ、殺人被害者を産み、自分は殺人加害者になってしまう事件も起こっています。インターネット、電話による詐欺が非常に多い最近の日本です。インターネットを悪用する悪魔を、断固拒否して、「サタンよ、退け」と撃退する必要があります。
この豚の暴走の場面を読むと、色々なことを連想します。たとえばヒットラーのナチスです。600万人のユダヤ人を殺害したと言われています。世界史上最大の悪の暴走と言えます。明日は沖縄慰霊の日ですが、日本が太平洋戦争に突き進んだことも、今から思えば暴走だったと思わざるを得ません。軍国主義で突き進んでしまいました。その反省に立って、今後は二度と戦争をしないと決めています。カルト宗教の中でも悪霊が働きます。典型的なのはオウム真理教事件ですね。山梨県の上九一色村に本拠があったわけですが、そこでオウム真理教の考え方だけに染まり、地下鉄サリン事件や坂本弁護士一家殺害事件を引き起こしました。まさに閉鎖的な集団の中で、皆で悪霊に従った結果というほかありません。1917年のロシア革命は、共産主義政権を産み、共産主義は無神論なので、ロシアのキリスト教会であるロシア正教の教会は激しい弾圧を受け、ほとんど滅亡近くに追いやられました。多くオン神父や修道女が殺されたそうです。恐るべき悪霊の暴走と感じます。1990年にようやく信教の自由が認められ、ロシア正教が復活しました。ところが今、ロシア正教のトップは、プーチンと仲良くしているらしいので、とのトップは悪魔の誘惑に負けていると思います。悪霊どもの入った豚の暴走の場面を読んで、102年前の関東大震災の時の事件を思い出します。大地震直後の人の心は不安で、悪霊につけこまれやすいのですね。朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマ(フェイウニュース)が広まり、少なくない数の朝鮮半島出身者が自警団などに殺害されたそうです。間違って殺された日本人もいたそうです。人々がデマを信じて、あの豚の大群のように突っ走ってしまったと感じます。周りの勢いに流されないで、冷静に祈り、自分の頭で考える当たり前のことを行うことが大切と思います。
今日の旧約聖書であるイザヤ書65章には、真の神様の嘆きが記されていいました。真の神様を礼拝することをやめ、偶像の神、偽りの神を礼拝する偶像崇拝の罪に陥ってしまったイスラエルの民に対する、真の神様の嘆きです。偶像の正体は実は悪魔です。偶像礼拝を続けていると、だんだんと偶像の虜になり、まともな生き方から離れてしまいます。愛と正義と平和に反する生き方に落ち込んでしまいます。罪と悪と死の世界に落ち込んでしまうのです。3節より5節。「この民は常に私を怒らせ、私に逆らう。園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき(これらが偶像を崇拝する具体的な方法です)、墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし、豚(イスラエルの民にとって豚は汚れた動物)の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れながら、『遠ざかっているがよい、私に近づくな。私はお前にとってあまりに清い』などと言う。」「お前」とは、真の神様を礼拝し、偶像崇拝をしていない人のようです。偶像崇拝の罪を犯している人々は、汚れた行為を行っておきながら、「私はお前にとってあまりに清い」などと、ひっくり返ったことを言って憚らないというのです。但し神様は、この悪い民を見棄てるとはおっしゃらず、彼らの罪に怒りながらも、2節で「反逆の民、思いのままに良くない道を歩む民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」とおっしゃっています。イスラエルの民も、今日の男性のように。悪霊に支配されることがあったのです。かたくななイスラエルの民に絶えることなく手を差し伸べられた神様は、ゲラサで悪霊に非常に苦しめられている男性に、救いの手を差し伸べるために、イエス様をゲラサに遣わして下さったのです。
「そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。」私たちも、イエス・キリストを信じる洗礼を受けたときに、悪魔の支配から解放されました。この男性と同じです。ヘブライ人2章14~15節「子ら(人間たち)は血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは死を司る者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態いにあった者たちを解放なさるためでした。」この男性と共に、私たちもイエス様が私たちにして下さったことを言い広めます。アーメン。
一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第3主日公同礼拝です。説教題は「悪霊を追い出すキリスト」です。小見出し「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」です。
最初の26節「一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」聖書巻末の6を見ると、ゲラサという場所は、ガリラヤ湖より約60キロも南にあり、随分遠い感じです。デカポリスという地域の中にあります。デカは10の意味、ポリスは町の意味ですから、デカポリスは「10の町」の意味です。実際に10ほどの町で構成されていたのでしょう。住んでいるゲラサ人が、どのような人々かよく分かりませんが、神の民イスラエル人(ユダヤ人)でない、いわゆる異邦人です。今日の場面は、正直言って不気味な場面です。
27節「イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。」神の民イスラエル人は、死を汚れ(けがれ)と考えていたはずです。この男は、死と汚れの場所、イスラエル人なら最も避けたい場所である墓場に住んでいました。長い間衣服を身に着けないことから見ても、現代の見方からすると精神を病んでいたと思われます。但し、私たちは皆誰でも心を病む可能性をもっている者だと思います。墓場とありますが、今の日本のお墓とは造りとは異なり、岩を横に掘って造った墓だったようです。
ここには多くの悪霊が登場しますが、この直前の個所は、イエス様と弟子たちが舟に乗って、ガリラヤ湖の別の岸からこちら側の岸(つまりゲラサ方面)に向かった時のことが記されています。突風と荒波で舟はもみくちゃにされ、弟子たちは「おぼれそうです」と叫んで、パニックになりました。この突風と荒波は悪魔の妨害とも考えられます。イエス様がゲラサ人の地に来ないように、悪魔が妨害したと見ることもできます。悪魔はイエス様に来てほしくないのです。しかしその強力な妨害をも打ち破って、イエス様たちが乗る舟はゲラサ人の地方に着いたのです。ゲラサは異邦人の地。イスラエル人は異邦人を汚れた人々と見ていました。普通のイスラエル人なら、まず行かない土地と思います。イエス様もイスラエル人ですが、そのようなイスラエル人の偏見を乗り越えて、あえて異邦人の土地ゲラサに来られました。一人の男性を救うためです。
28節「イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。』イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。」悪霊もイエス様が「いと高き神の子」であることを認めています。イエス様から逃げればよさそうなのに、逃げられないのですね。イエス様の前では、正体を現すしかできないのですね。ヤコブの手紙2章19節を思い出します。「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」使徒言行録19章でも、エフェソの地で悪霊がこう言っています。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。」悪霊は、イエス様の前では隠れていることができず、あぶり出されてしまいます。
29節の途中から「この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。」この男性は悪霊の被害者です。悪霊に取りつかれ、異常な力を発揮して暴れたのでしょう、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていましたが、何とそれを引きちぎる異常なパワーを発揮して、荒れ野へと駆り立てられていました。聖書で荒れ野は、試練の場、悪魔の力が支配する場と言えます。30節「イエスが、『名は何というのか』とお尋ねになると、『レギオン』と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。」イエス様が質問なさると、悪霊は拒否できません。レギオンとは、当時のローマ帝国の軍隊の部隊で、5000~6000人で編成されていました。5,6000もの悪霊が彼の中に住み着いていたことになります。全く恐ろしいことで、彼は実に気の毒な悪霊の被害者です。
31節「そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。」悪霊どもは、底なしの淵へ行くことを恐れており、そこに行けと命令しないでほしいと、イエス様に懇願しています。底なしの淵は、最後の審判のために悪霊どもが閉じ込められている場所です。ペトロの手紙(二)2章4節に、「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました」とあります。底なしの淵は、ペトロの手紙(二)4章2節の地獄と同じでしょう。ヨハネの黙示録20章1節以下には、こうあります。「私(黙示録の著者ヨハネ)はまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。」悪霊と悪魔は、夜の終わりには、火と硫黄の池に投げ込まれて、昼も夜も世々限りなく責めさいなまれることになっています。これが永遠の滅びでしょう。つまり悪霊どもが、底なしの淵に行かされると、火と硫黄の池で滅亡する直前まで落ちます。イエス様には落とす力があります。それで悪霊どもは、「底なしの淵に行け」と命じないように、イエス様に懇願しました。
イエス様はその懇願を聞き入れたようです。32節「ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れが餌をあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。」この土地は異邦人が多く住む土地だったことが、豚が多く飼育されていたことから分かります。イスラエル人(ユダヤ人)にとって、豚は汚れた動物です。レビ記11章7~8節にこうあります。「いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである。」悪霊どもは、イエス様の許可を得て豚の中に入りました。マルコ福音書には豚は2000匹ほどと書かれています。悪霊は何かに入らないと気が済まないのでしょうか。悪霊どもは、豚の群れを自滅へと追いやりました。悪霊は死と滅びの力をもつことが分かります。この悪霊のどもが、一人の男に入り込んでいたのですから、あの男性がいかに不幸だったか分かります。彼はイエス様によって本当に救われました。
悪霊と悪魔は、最後には滅亡すると決まっています。しかし残念ながら、今はまだ生きていて、私たちを罪と悪へと誘惑し、滅びに導こうと働いています。今はインターネット全盛の時代ですが、悪霊はインターネットを通しても多く働いていると感じます。インターネットは善のために用いれば、よいものです。しかし悪用する人も少なくないので、注意する必要があります。You Tubeなどにも、事実でない偽ニュースが掲載されていることもあります。よく内容を確かめて、信頼してよいかどうか、チェックする必要があります。鵜呑みにしてはいけない情報があると感じます。SNSなどで「よい仕事がある」と主に若者を騙して、闇バイトに引き込む悪い人もいます。すると殺人などを実行する闇バイトに引きずり込まれ、殺人被害者を産み、自分は殺人加害者になってしまう事件も起こっています。インターネット、電話による詐欺が非常に多い最近の日本です。インターネットを悪用する悪魔を、断固拒否して、「サタンよ、退け」と撃退する必要があります。
この豚の暴走の場面を読むと、色々なことを連想します。たとえばヒットラーのナチスです。600万人のユダヤ人を殺害したと言われています。世界史上最大の悪の暴走と言えます。明日は沖縄慰霊の日ですが、日本が太平洋戦争に突き進んだことも、今から思えば暴走だったと思わざるを得ません。軍国主義で突き進んでしまいました。その反省に立って、今後は二度と戦争をしないと決めています。カルト宗教の中でも悪霊が働きます。典型的なのはオウム真理教事件ですね。山梨県の上九一色村に本拠があったわけですが、そこでオウム真理教の考え方だけに染まり、地下鉄サリン事件や坂本弁護士一家殺害事件を引き起こしました。まさに閉鎖的な集団の中で、皆で悪霊に従った結果というほかありません。1917年のロシア革命は、共産主義政権を産み、共産主義は無神論なので、ロシアのキリスト教会であるロシア正教の教会は激しい弾圧を受け、ほとんど滅亡近くに追いやられました。多くオン神父や修道女が殺されたそうです。恐るべき悪霊の暴走と感じます。1990年にようやく信教の自由が認められ、ロシア正教が復活しました。ところが今、ロシア正教のトップは、プーチンと仲良くしているらしいので、とのトップは悪魔の誘惑に負けていると思います。悪霊どもの入った豚の暴走の場面を読んで、102年前の関東大震災の時の事件を思い出します。大地震直後の人の心は不安で、悪霊につけこまれやすいのですね。朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマ(フェイウニュース)が広まり、少なくない数の朝鮮半島出身者が自警団などに殺害されたそうです。間違って殺された日本人もいたそうです。人々がデマを信じて、あの豚の大群のように突っ走ってしまったと感じます。周りの勢いに流されないで、冷静に祈り、自分の頭で考える当たり前のことを行うことが大切と思います。
今日の旧約聖書であるイザヤ書65章には、真の神様の嘆きが記されていいました。真の神様を礼拝することをやめ、偶像の神、偽りの神を礼拝する偶像崇拝の罪に陥ってしまったイスラエルの民に対する、真の神様の嘆きです。偶像の正体は実は悪魔です。偶像礼拝を続けていると、だんだんと偶像の虜になり、まともな生き方から離れてしまいます。愛と正義と平和に反する生き方に落ち込んでしまいます。罪と悪と死の世界に落ち込んでしまうのです。3節より5節。「この民は常に私を怒らせ、私に逆らう。園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき(これらが偶像を崇拝する具体的な方法です)、墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし、豚(イスラエルの民にとって豚は汚れた動物)の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れながら、『遠ざかっているがよい、私に近づくな。私はお前にとってあまりに清い』などと言う。」「お前」とは、真の神様を礼拝し、偶像崇拝をしていない人のようです。偶像崇拝の罪を犯している人々は、汚れた行為を行っておきながら、「私はお前にとってあまりに清い」などと、ひっくり返ったことを言って憚らないというのです。但し神様は、この悪い民を見棄てるとはおっしゃらず、彼らの罪に怒りながらも、2節で「反逆の民、思いのままに良くない道を歩む民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」とおっしゃっています。イスラエルの民も、今日の男性のように。悪霊に支配されることがあったのです。かたくななイスラエルの民に絶えることなく手を差し伸べられた神様は、ゲラサで悪霊に非常に苦しめられている男性に、救いの手を差し伸べるために、イエス様をゲラサに遣わして下さったのです。
「そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。」私たちも、イエス・キリストを信じる洗礼を受けたときに、悪魔の支配から解放されました。この男性と同じです。ヘブライ人2章14~15節「子ら(人間たち)は血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは死を司る者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態いにあった者たちを解放なさるためでした。」この男性と共に、私たちもイエス様が私たちにして下さったことを言い広めます。アーメン。
2025-06-15 0:51:29()
説教「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい」2025年6月15日(日)聖霊降臨節第2主日礼拝
(使徒言行録2:29~42) 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第2主日公同礼拝です。説教題は「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい」です。小見出し「ペトロの説教」の後半です。
ペンテコステの日に聖霊を受けたペトロが、エルサレムの人々に向かって、力強く説教しています。ペトロはエルサレムの人々が、先祖のダビデ王をよく知っていると分かっていたので、ダビデがイエス・キリストの復活を予告していると語ります。29節以下。「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓はは今でも私たちの所にあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓って下さったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。」これは詩編16編9~10節です。詩編16編は「ダビデの詩」と書いてあります。9~10節に、こうあります。「からだは安心して憩います。あなたは私の魂を陰府に渡すことなく。」ペトロはこうしてダビデが、ペトロの時代の約1000年前に、イエス・キリストの復活を預言していたと、エルサレムの人々に説いています。人々は、これに説得力を感じたと思うのです。
32節「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いで下さいました。あなた方は今このことを見聞きしているのです。」ペトロは、イエス様が神の右に上げられたと語っています。これにつき、エフェソの信徒への手紙1章20節以下に、こうあります。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足元に従わせ、キリストをすべての上にある頭(かしら)として教会にお与えになりました。」つまり復活して天に昇られたイエス・キリストは、全てのものの上の座にお着きになったと述べています。エフェソの信徒への手紙4章10節にはこうあります。「この降りて来られた方(地上に降りて来られたイエス様)が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」もろもろの天よりも更に高く昇られた。これが神の右の座に着かれたということです。ヨハネの黙示録19章の表現を借りれば、「王の王、主の主」になられたことを意味します。有名な「ハレルヤコーラス」で、「キングオヴキングス、ロードオヴローズ」と歌い上げる通りです。最高の最高の座に着かれたのです。そこから聖霊を注いで下さいます。
さらに言えば、注がれる聖霊が一人一人に、色々な賜物を与えて下さいます。本日の使徒言行録をやや超えますが、せっかくの機会なので、このことをも確認しておきます。コリントの信徒への手紙(一)12章です。まず聖霊は、「イエスは主である」という信仰告白を与えて下さいます。その次にこう書かれています。「賜物には色々ありますが、それをお与えになるのは同じ霊(聖霊)です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に霊(聖霊)の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊にほよって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の霊(聖霊)の働きであって、霊(聖霊)が望むままに、それを一人一人に分け与えて下さるのです。」ペンテコステの朝に聖霊が注がれたときは、外国語で語る賜物を与えられた人が多かったのですが、聖霊が注がれることは、教会の人々に色々な賜物が与えられたことを意味するのですね。
使徒言行録2章に戻り、34節のペトロの言葉。「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています(詩編110編の引用)。「主(父なる神様)は私の主(イエス様)にこうお告げになった。『私の右の座に着け。私があなたの敵を、あなたの足台とするときまで。』」ここに、イエス様が父なる神様の右の座に着かれることが、預言されています。そしてペトロは、エルサレムの人々に大胆に説教します。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシア(救い主)となさったのです。」
人々は、これを聞いて「イエス様を殺すなんて、とんでもない悪を行ってしまった」と深く気づいたのです。人々は非常にへりくだりました。37節「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ(心を刺されたと言ってもよいでしょう)、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った。悔い改めなさい。めいめい。イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなた方にも、あなた方の子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いて下さる者ならだれにでも与えられているものなのです。」
「私たちは、どうすればよいのですか」と人々は真剣に問うています。ペトロの答えは、「悔い改めなさい」です。ダビデ王も、罪の悔い改めこそ非常に大切と気づいた人です。ダビデ王は、部下の妻バト・シェバを奪って、部下を戦死に追いやる大きな罪を犯しました。そしてバト・シェバとの間に生まれた男の子が死ぬことで、神様の裁きを受けました。ダビデは詩編51編19節で、告白しています。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」ダビデは痛い思いをして、罪を悔い改めることこそ最も大切と悟ったのです。
旧讃美歌の239番の歌詞がすばらしくて、非常に思い出されます(残念ながら讃美歌21にない)。1節「さまよう人々、たちかえりて、あめなる御国の父を見よや。罪とが悔やめる心こそは、父より与うる賜物なれ。」罪と咎を悔い改める心こそ、神様からのすばらしいプレゼントだと歌っています。その通りです。私たちは罪を悔い改めることで洗礼に導かれ、聖霊を受け、神の子とされ救われるからです。 2節「さまよう人々、立ち帰りて、父なる御神の御前に行き。まことの悔いをば言い表せ。世びとは知らねど、知りたまえり。」 3節「さまよう人々、たち帰りて、主イエスの御許に、とくひれ伏せ。わが主は憐れみ、御手を延べて、こぼるる涙を拭いたまわん。」 4節「さまよう人々、立ち帰りて、十字架の上なるイエスを見よや。血潮のしたたる御手を広げ、いのちを受けよと招きたもう。」明治時代に日本で最初に正式に女性の医師となった荻野吟子さんはクリスチャンです。私は5、6年前に荻野吟子さんを描いた映画を見ましたが、荻野さんが東京の本郷中央教会で洗礼を受ける場面で、この讃美歌が流れていたと記憶しています。私たちは、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けるのですから、この悔い改めを歌うこの讃美歌は、洗礼式にふさわしいですね。
エルサレムの人々も、私たちもさまよう人々だった。聖書で言う罪は、「的外れ」の意味だと、よく説明されます。的外れとは、弓から放たれた矢が、的めがけてまっすぐ飛んでいかないで、逸れてしまうことです。イザヤ書53章にこうあります。「私たちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」神様が願う道から逸れて、的はずれの生き方をして来た、さまよっていた。しかしイエス・キリストのもとに立ち帰れば、救われます。ペトロの手紙(一)2章25節の御言葉どおりです。「あなた方は羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方(イエス様)の所へ戻って来たのです。」
悔い改めて、真の救い主イエス様に立ち帰った私たちは、洗礼を受けました。ローマの信徒への手紙6章4節、イエスの焼き印。聖霊を受けて、神の子とされ、永遠の命を受けた。マルティン・ルターの宗教改革は、ヴィッテンブルグ城教会の門に、95ヶ状の主張を貼り出したことで始まったと言われます。この中でルターは、「イエス・キリストが悔い改めよと命じられた時、それは私たちの全生涯が悔い改めであることを求められたのである」と書いたそうです。
40節「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」今の時代にも邪悪なことは多くあります。詐欺が多発しています。警察を装う詐欺も多いそうで、何を信用すればよいのか分からない時代です。そんな中で、キリスト教会なら間違いなく信用できると、世の中の方々に信用していただける東久留米教会を、これからも形作ってゆく必要があります。
ここに教会の原型があります。「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」この日、一気に約3000人のユダヤ人たちが、クリスチャンになりました。大きな奇跡です。ですが一人洗礼を受けることも大きな奇跡です。ルカによる福音書15章7節で、イエス様が語っておられます。「悔い改める一人の罪人(つみびと)については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」一人が真の神に立ち帰って洗礼を受ければ、大きな喜びが天にある」のです。「相互の交わり」は、クリスチャン同士の交流ですね。祈りによる交流と思います。交わりは、元のギリシア語でコイノニア。東久留米市の滝山にはクリスチャンの佐原さんが行っておられるコイノニアという作業所がありますね。
「パンを裂くこと」は聖餐式の原型と思います。6月1日(日)に西東京教区倒壊で阿佐ヶ谷教会に行き、その夕方に聖餐式がありました。阿佐ヶ谷教会は、元はプロテスタントのメソジストの伝統の教会です。礼拝堂の前の方に、「恵みの座」があります。今まであまり気づきませんでした。聖餐式が行われ、配餐なさる方々は、配り終わると前の方でパンを食べ、ぶどう汁を飲みます。よく見るとひざまずいてパンを食べ、ぶどう汁を飲んでおられます。これがメソジスト教会の「恵みの座」なのだなと分かりました。礼拝堂の前の方にひざまずく場があるのです。ひざまずいて神様の恵みのパンとぶどう汁をいただくのです。ひざまずいて祈ることもあるのだと思います。よいことだと思います。
私は神田のニコライ堂(ギリシア正教の教会)の土曜日の夜の礼拝に参加したことがあります。聖餐式がありました。床にはいつくばって受けるのです。ひざまずくよりもさらに低く、床にはいつくばって受けるのです。それほどとことん謙遜にへりくだって聖餐を受ける。その姿勢が大事だと学びました。私たちの礼拝の祈りや聖餐式では体でひざまずいたり、はいつくばったりしませんが、心の姿勢としてはその姿勢で、へりくだって聖餐を受けたいのです。「祈ることに熱心であった。」毎日の祈りは、信仰生活の基本ですね。私たちも、この最初のクリスチャンたちのようにフレッシュな気持ちで、「使徒の教え(聖書には使徒パウロや使徒ペトロの手紙あり)、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心な」東久留米教会を、共に形作って参りましょう。アーメン。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第2主日公同礼拝です。説教題は「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい」です。小見出し「ペトロの説教」の後半です。
ペンテコステの日に聖霊を受けたペトロが、エルサレムの人々に向かって、力強く説教しています。ペトロはエルサレムの人々が、先祖のダビデ王をよく知っていると分かっていたので、ダビデがイエス・キリストの復活を予告していると語ります。29節以下。「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓はは今でも私たちの所にあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓って下さったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。」これは詩編16編9~10節です。詩編16編は「ダビデの詩」と書いてあります。9~10節に、こうあります。「からだは安心して憩います。あなたは私の魂を陰府に渡すことなく。」ペトロはこうしてダビデが、ペトロの時代の約1000年前に、イエス・キリストの復活を預言していたと、エルサレムの人々に説いています。人々は、これに説得力を感じたと思うのです。
32節「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いで下さいました。あなた方は今このことを見聞きしているのです。」ペトロは、イエス様が神の右に上げられたと語っています。これにつき、エフェソの信徒への手紙1章20節以下に、こうあります。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足元に従わせ、キリストをすべての上にある頭(かしら)として教会にお与えになりました。」つまり復活して天に昇られたイエス・キリストは、全てのものの上の座にお着きになったと述べています。エフェソの信徒への手紙4章10節にはこうあります。「この降りて来られた方(地上に降りて来られたイエス様)が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」もろもろの天よりも更に高く昇られた。これが神の右の座に着かれたということです。ヨハネの黙示録19章の表現を借りれば、「王の王、主の主」になられたことを意味します。有名な「ハレルヤコーラス」で、「キングオヴキングス、ロードオヴローズ」と歌い上げる通りです。最高の最高の座に着かれたのです。そこから聖霊を注いで下さいます。
さらに言えば、注がれる聖霊が一人一人に、色々な賜物を与えて下さいます。本日の使徒言行録をやや超えますが、せっかくの機会なので、このことをも確認しておきます。コリントの信徒への手紙(一)12章です。まず聖霊は、「イエスは主である」という信仰告白を与えて下さいます。その次にこう書かれています。「賜物には色々ありますが、それをお与えになるのは同じ霊(聖霊)です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に霊(聖霊)の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊にほよって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の霊(聖霊)の働きであって、霊(聖霊)が望むままに、それを一人一人に分け与えて下さるのです。」ペンテコステの朝に聖霊が注がれたときは、外国語で語る賜物を与えられた人が多かったのですが、聖霊が注がれることは、教会の人々に色々な賜物が与えられたことを意味するのですね。
使徒言行録2章に戻り、34節のペトロの言葉。「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています(詩編110編の引用)。「主(父なる神様)は私の主(イエス様)にこうお告げになった。『私の右の座に着け。私があなたの敵を、あなたの足台とするときまで。』」ここに、イエス様が父なる神様の右の座に着かれることが、預言されています。そしてペトロは、エルサレムの人々に大胆に説教します。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシア(救い主)となさったのです。」
人々は、これを聞いて「イエス様を殺すなんて、とんでもない悪を行ってしまった」と深く気づいたのです。人々は非常にへりくだりました。37節「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ(心を刺されたと言ってもよいでしょう)、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った。悔い改めなさい。めいめい。イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなた方にも、あなた方の子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いて下さる者ならだれにでも与えられているものなのです。」
「私たちは、どうすればよいのですか」と人々は真剣に問うています。ペトロの答えは、「悔い改めなさい」です。ダビデ王も、罪の悔い改めこそ非常に大切と気づいた人です。ダビデ王は、部下の妻バト・シェバを奪って、部下を戦死に追いやる大きな罪を犯しました。そしてバト・シェバとの間に生まれた男の子が死ぬことで、神様の裁きを受けました。ダビデは詩編51編19節で、告白しています。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」ダビデは痛い思いをして、罪を悔い改めることこそ最も大切と悟ったのです。
旧讃美歌の239番の歌詞がすばらしくて、非常に思い出されます(残念ながら讃美歌21にない)。1節「さまよう人々、たちかえりて、あめなる御国の父を見よや。罪とが悔やめる心こそは、父より与うる賜物なれ。」罪と咎を悔い改める心こそ、神様からのすばらしいプレゼントだと歌っています。その通りです。私たちは罪を悔い改めることで洗礼に導かれ、聖霊を受け、神の子とされ救われるからです。 2節「さまよう人々、立ち帰りて、父なる御神の御前に行き。まことの悔いをば言い表せ。世びとは知らねど、知りたまえり。」 3節「さまよう人々、たち帰りて、主イエスの御許に、とくひれ伏せ。わが主は憐れみ、御手を延べて、こぼるる涙を拭いたまわん。」 4節「さまよう人々、立ち帰りて、十字架の上なるイエスを見よや。血潮のしたたる御手を広げ、いのちを受けよと招きたもう。」明治時代に日本で最初に正式に女性の医師となった荻野吟子さんはクリスチャンです。私は5、6年前に荻野吟子さんを描いた映画を見ましたが、荻野さんが東京の本郷中央教会で洗礼を受ける場面で、この讃美歌が流れていたと記憶しています。私たちは、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けるのですから、この悔い改めを歌うこの讃美歌は、洗礼式にふさわしいですね。
エルサレムの人々も、私たちもさまよう人々だった。聖書で言う罪は、「的外れ」の意味だと、よく説明されます。的外れとは、弓から放たれた矢が、的めがけてまっすぐ飛んでいかないで、逸れてしまうことです。イザヤ書53章にこうあります。「私たちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」神様が願う道から逸れて、的はずれの生き方をして来た、さまよっていた。しかしイエス・キリストのもとに立ち帰れば、救われます。ペトロの手紙(一)2章25節の御言葉どおりです。「あなた方は羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方(イエス様)の所へ戻って来たのです。」
悔い改めて、真の救い主イエス様に立ち帰った私たちは、洗礼を受けました。ローマの信徒への手紙6章4節、イエスの焼き印。聖霊を受けて、神の子とされ、永遠の命を受けた。マルティン・ルターの宗教改革は、ヴィッテンブルグ城教会の門に、95ヶ状の主張を貼り出したことで始まったと言われます。この中でルターは、「イエス・キリストが悔い改めよと命じられた時、それは私たちの全生涯が悔い改めであることを求められたのである」と書いたそうです。
40節「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」今の時代にも邪悪なことは多くあります。詐欺が多発しています。警察を装う詐欺も多いそうで、何を信用すればよいのか分からない時代です。そんな中で、キリスト教会なら間違いなく信用できると、世の中の方々に信用していただける東久留米教会を、これからも形作ってゆく必要があります。
ここに教会の原型があります。「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」この日、一気に約3000人のユダヤ人たちが、クリスチャンになりました。大きな奇跡です。ですが一人洗礼を受けることも大きな奇跡です。ルカによる福音書15章7節で、イエス様が語っておられます。「悔い改める一人の罪人(つみびと)については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」一人が真の神に立ち帰って洗礼を受ければ、大きな喜びが天にある」のです。「相互の交わり」は、クリスチャン同士の交流ですね。祈りによる交流と思います。交わりは、元のギリシア語でコイノニア。東久留米市の滝山にはクリスチャンの佐原さんが行っておられるコイノニアという作業所がありますね。
「パンを裂くこと」は聖餐式の原型と思います。6月1日(日)に西東京教区倒壊で阿佐ヶ谷教会に行き、その夕方に聖餐式がありました。阿佐ヶ谷教会は、元はプロテスタントのメソジストの伝統の教会です。礼拝堂の前の方に、「恵みの座」があります。今まであまり気づきませんでした。聖餐式が行われ、配餐なさる方々は、配り終わると前の方でパンを食べ、ぶどう汁を飲みます。よく見るとひざまずいてパンを食べ、ぶどう汁を飲んでおられます。これがメソジスト教会の「恵みの座」なのだなと分かりました。礼拝堂の前の方にひざまずく場があるのです。ひざまずいて神様の恵みのパンとぶどう汁をいただくのです。ひざまずいて祈ることもあるのだと思います。よいことだと思います。
私は神田のニコライ堂(ギリシア正教の教会)の土曜日の夜の礼拝に参加したことがあります。聖餐式がありました。床にはいつくばって受けるのです。ひざまずくよりもさらに低く、床にはいつくばって受けるのです。それほどとことん謙遜にへりくだって聖餐を受ける。その姿勢が大事だと学びました。私たちの礼拝の祈りや聖餐式では体でひざまずいたり、はいつくばったりしませんが、心の姿勢としてはその姿勢で、へりくだって聖餐を受けたいのです。「祈ることに熱心であった。」毎日の祈りは、信仰生活の基本ですね。私たちも、この最初のクリスチャンたちのようにフレッシュな気持ちで、「使徒の教え(聖書には使徒パウロや使徒ペトロの手紙あり)、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心な」東久留米教会を、共に形作って参りましょう。アーメン。
2025-06-08 2:30:35()
「若者は幻を、老人は夢を見る」2025年6月8日(日)ペンテコステ礼拝説教
(使徒言行録2:1~21) 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
(説教) 本日は、ペンテコステ公同礼拝です。説教題は「聖霊が降る」と「ペトロの説教」です。
イエス・キリストは十字架で死なれた後、三日目に復活され、40日に渡って弟子たちに現れ、神の国について話されました。そして「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい。ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなた方が間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。」私たちは、イエス・キリストが神の子であることを周りの人々に証言する証人なのです。イエス様は、彼らが見ているうちに天に上げられました。白い服を着た二人の人(天使)がいて言いました。「あなた方を離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
天使は、聖書の重要な局面で登場します。イエス様は復活の体を持って天に昇られました。毎年確認していますが、イエス様の召天によって、私たちは3つの恵みを受けました。一つは、私たちが天国とつながったことです。教会はキリストの体であり、イエス様はその教会の頭(かしら)です。私たちはキリストの体の手や足やお腹や背中です。私たちはまだ地上にいますが、頭であるイエス様が天国におられるので、私たちは天国と明確につがりました。第二の恵みは、イエス様が天国で私たちのために日々、今日も執り成しをして下さることです。もちろん、イエス様の十字架の執り成しによって、私たちの罪が完全に赦された(洗礼を受けた後に、日々心ならずも犯す罪を含む)ことに間違いありません。ですが、私たちがますます救いに近づくために、父なる神様に執り成して下さるのだと思います。イエス様は弁護者ですから。ヘブライ人への手紙7章25節に、こうあります。「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」第三の恵みは、イエス様が天から聖霊を注いで下さったことです。神の清き霊である聖霊を注がれることで、生きておられる神の霊が私たちの中で生きて働いて下さることになり、私たちは神の子になります。ローマの信徒への手紙5章5節に、こうあります。「希望は私たちを欺むくことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」聖霊は、神の愛と希望の霊であられると分かります。
2章の1節「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」神様の燃える愛が降ったという印象です。風、炎、舌は、聖霊の力強い働きを耳に聞こえる風のような大きな音で、目に見える真っ赤な炎と舌の形で、強烈に示しています。旧約聖書・創世記1章1~2節の天地創造の場面を読むと、こう書かれています。「初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(聖書協会共同訳)。この「動いていた」という言葉は、旧約聖書のヘブライ語で「鷲がその巣の上の雛に羽ばたく」場合の「羽ばたく」と訳される言葉です。鷲の羽ばたきですから、かなり激しい動きです。天地創造の時、神の霊(聖霊)は動いていた、力強く羽ばたくほどに動いて吹いていたのです。それに似て、天から羽ばたくように聖霊が強烈に降って来たのです。今回は天地創造のためではなく、キリストの教会を創造するためと言えます。
驚くべき奇跡が起こり、イエス様の弟子たちや仲間の人々は、聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。教会によっては、その日は牧師がガウンの上に赤いストールを着たり、教会員の方々も服に何か赤いものを着けて礼拝に参加し、聖霊が降った日のことを視覚的に表す礼拝を献げるそうです。私たちはそれはしませんが、あの日のように聖霊に降っていただきたいとは、切に祈ります。
「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」当時ユダヤ人は、イスラエルを出て、地中海沿岸の各地に住んでいました。そして過越祭などの重要な季節には、イスラエルに来ていたようです。この人たちは、ヘブライ語も話せたかもしれませんが、生まれた外国の言葉を話したようです。ところが聖霊に満たされた人々が、話せないはずの外国語で「神の偉大な業」を語り始めたので、聞いた人々びっくり仰天しました。ここから神様の強いご意志が示されて、エルサレムから世界への福音伝道が始まったのです。ヘブライ語とギリシア語だけでは世界伝道ができません。そこで別の諸言語でも、神の御業が宣べ伝えられ始めたのです。
「わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。」この奇跡は、多言語奇跡と呼ばれます。多くの言語で福音が宣べ伝えられることにより、国籍を超え、民族を超えて「神の家族」教会が形作られます。世界がイエス・キリストによって一致し、完全な平和の神の国が来ることが、私たちの幻、夢だと思います。
私は最近、ほぼ毎週火曜日に東久留米市役所で、外国の方々に日本語をお教えするボランティアを行っています。そこで出会った人に教会に来ていただくことまでは、まだできていません。外国の方々の中にやはりクリスチャンがおられますね。先週始めてお話したアフリカ出身のグロリアさんという婦人は、名前から連想できる通り、話してみたらセヴンスデイアドヴェンティストのクリスチャンでした。グロリアさんというお名前は、「神に栄光」の意味でしょうね。セヴンスデイでしたら、「土曜日に礼拝に行くのですね」と言いましたら、「そうです」とのお返事。国境を超えて、すぐ話しが通じるところが、神の家族の恵みです。
『信徒の友』6月号を読んでいましたら、切り絵作家の澤田知子さんという方が、こう書いておられました。「私の息子には知的障害があり、言葉がありません。言葉で伝えられないことに、どれほどのストレスがあるかと思います。しかし言葉がないからといってコミュニケーションがとれないのではありません。ある意味正直な彼の心は、五感を通してその本心、本質を私に伝えてくれるのです。神様が望まれた『多様な言葉』には、言語でないものも含まれているのではないでしょうか。言葉を用いて何を伝えるのか。聖霊に満たされ、意味のある、そして心ある言葉が、平和を作るために使われ、再び世界中に神の言葉が伝えられることを願っています。」言葉を用いるのに困難を覚える方々もおられます。私たち自身が、そうなる可能性もありますね。その場合、できる方なら手話、身振り手振り、表情、声の調子などでコミュニケーションを行うことになると思います。非言語コミュニケーションと言ってもよいでしょう。このペンテコステ(聖霊降臨日)の朝に語られた言葉は、かなり明確な言語だったと思いますが、神様は非言語コミュニケーションによっても、神様の愛が世界に宣べ伝えられることを願っておられると思います。
この場面を見て、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者もいた、とあります。せっかくすばらしい場面に出会っていて、よく耳を澄ませて聞けば、この嘲った人たちの言語でも、神の大切な御業が語られていることに気づけたはずなのに、よく聴こうとしなかったために、宝のように大切な御言葉を聴き取ることができませんでした。自分が救われるチャンスを、みすみす逃してしまったと言えます。耳を傾けてよく聴き取ろうとする姿勢がいかに大切かを、この模範の逆の人たち(反面教師)から、学びたいと思います。
クリスチャンは皆、洗礼を受けたときに聖霊を受けています。ですから必ずしも劇的な聖霊体験がなくても、大丈夫です。小さな聖霊体験なら、多くの方々が経験しておられると思います。たとえば聖書を読んでいて、ある聖句に感銘を受ける。それは立派な聖霊体験だと思います。先日、長嶺さんのご納骨式を執り行いましたが、それに先立って長嶺さんが以前書かれた証しを読み返しました。ある時、本田弘慈先生という有名な伝道者の集会が小金井公会堂で開催され、それに出席なさったそうです。メッセージを聞きながら、不思議にも涙があふれたと書いておられました。聖霊の感化をお受けになったと思います。この東久留米教会と同じ市内にある日本基督教団東京新生教会元牧師の横山義孝先生が4月に天に召されましたが、ご葬儀で伺いましたが、伝道者になられた後のある時、聖霊の働きを深く受ける体験をなさり、その時から説教が変わったということです。その体験を、その後何度も語られたとのことです。
14節以下「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』」ご存じの通り、旧約聖書の時代には、聖霊は主に王、祭司、預言者という神様の重要な職務を行う人々に注がれたようです。しかし新約聖書の時代は違います。イエス・キリストを救い主と信じる人なら、どの国の人にも、女性にも男性にも、子どもにも人生の大ベテランにも差別なく聖霊が注がれます。聖霊を受けてあなたたちの息子、娘も預言する、つまり聖書のメッセージ、神の御言葉を語ると約束されます。
「若者は幻を見、老人は夢を見る。」若者は神から来る幻を見、老人も神から来る夢を見る。すばらしいですね。箴言29章18節「幻がなければ民は堕落する」とあります。ここの幻は、預言と訳すこともできます。預言は神の言葉、幻は人間の勝手なヴィジョンでなく神から来るヴィジョン。夢も人間の勝手な夢ではなく神から来る夢。この世では、お金の力で多くの幻・ヴィジョンを実現できます。しかし私たちは、できるだけお金の力に頼らないで、神様の助けをいただいて、祈りの力でヴィジョンを実現できるとすばらしいと思います。今年8月の台湾ユースミッション。私の幻・ヴィジョンは、東久留米と日本と世界でクリスチャンがどんどん増える。核兵器と戦争なき平和な世界。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(ゼカリヤ書4章6節)。アーメン。