
2026-10-10 22:29:50(土)
「王の王、主の主イエス・キリスト」 2026年10月11日(日)神学校日説教
(ルカによる福音書20章41~47節)
イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
◆律法学者を非難する
民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
(説教) 本日は、神学校日の礼拝です。説教題は、「王の王、主の主イエス・キリスト」、小見出しは「ダビデの子についての問答」と「律法学者を非難する」です。イエス様がエルサレムの都に入り、十字架にかかる日が、すぐ数日先に迫っています。本日の個所も、十字架の前のいわゆる受難週の出来事です。
「皇帝への税金についての問答」、「復活についての問答」に続く3つめの問答です。ですが今回は、イエス様の方から周りの人々に問いかけておられます。ということは、イエス様の方が、」「このことをぜひあなた方に理解してほしい」と願っておられることになります。
最初の41節「イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」当時、イスラエルの人々がそう言っていたのですね。メシアは救い主のことです。当時のイスラエルは、外国人であるローマ帝国に支配されていたので、多くの人々がそれを屈辱と思い、ローマ帝国から解放してくれる強い政治的・軍事的リーダーとしてのメシア(救い主)が来ることを待ち望んでいたそうです。今の私たち日本人には、その感覚は分かりにくいと思います。私たち日本人は、様々な問題や課題を一挙に解決してくれる英雄を待望しているとは、私には感じられません。誰が首相になっても、様々な課題を一挙に解決できるなどということはないと思っているのではないでしょうか。昭和初期の日本は、様々な難題を、戦争を行い、戦争に勝つことで一挙に解決しようと思ったのかもしれませんが、敗戦に終わり、戦争では何も解決できないことを悟ったのだと思います。様々な課題には、一歩一歩地道に取り組む以外に解決する道はないと悟った私たち日本人は、一人の英雄が彗星のように現れて、色々な難題を鮮やかに解決してくれるとは、思っていないと感じます。しかしイエス様の時代のイスラエル人は、そのようなメシア(救い主)が来ると信じて、待ち望んでいたように思われます。
そして「メシアはダビデの子だ」と言い合っていました。「ダビデの子だ」とは、「ダビデ王の子孫だ」ということです。根拠は、旧約聖書のサムエル記下7章12節以下です。490ページ下段です。預言者ナタンが、ダビデ王に神様のメッセージを伝えます。「あなたが生涯を終え、先祖の共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものにする。」この子孫は、直接にはダビデの子ソロモンですが、最終的にはイエス・キリストです。「この者が私(神様)の名のために家を建て、私は彼の王国をとこしえ(永遠)に堅く据える。」永遠の国ですから、この地上の国ではなく、神の国・天国です。「私は彼の父となり、彼は私の子となる。」イエス様はまさに神の子ですから、今の御言葉が当てはまります。「彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。」これはソロモンには当てはまりますが、1つの罪も過ちもないイエス様には当てはまりません。この御言葉により、イエス様の時代のイスラエル人たちは、「メシアはダビデ王の子孫から出る」と信じていました。それは正しいことです。実際、イエス様の育ての父ヨセフは、ダビデ王の子孫です。イエス様は、ヨセフの妻マリアから生まれたので、イエス様はヨセフの子であると言え、従ってダビデ王の子孫です。イスラエルが最も繫栄したのは、ダビデ王・ソロモン王の時代でしょう。イスラエルの人々は、「夢よ、もう一度」と、ダビデ王の子孫のメシア(救い主)が、ローマ帝国を倒して、かつての栄光を取り戻してくれることを待望していたと思われます。
しかし真のメシア(救い主)イエス様は、ダビデの子孫ではあるが、そのようなメシアではないのです。イエス様はダビデと違って真の神の子であり、ダビデ王よりはるかに偉大な、真のメシアです。このメシアは、まず誰よりもへりくだって、私たちの全部の罪を身代わりに背負って十字架で死んで下さり、三日目に復活して、40日目に天に上げられるメシアなのです。
イエス様がおっしゃりたいのは、こういうことでしょう。人々はメシアをダビデ王の子孫だと言っている。それは正しい。しかしメシアは、ダビデ王よりもっと偉大な存在だ。ダビデ王自身が詩編の中でこう言っているではないか。これが先ほど読んでいただいた詩編110編ですね。「主(神様)は、わたし(ダビデ)の主(メシア)にお告げになった。『わたしの右の座(神様に最も近い、最も高い天)に着きなさい。わたしがあなたの敵(悪魔や死)を/あなたの足台とするときまで』と。」「このようにダビデがメシアを主(ダビデ自身の上に立つご主人)と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」メシアはダビデの子孫ではあるが、ダビデより遥かに偉大な存在だと。
「右の座」については、エフェソの信徒への手紙1章20節以下に、こうあります。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、全ての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」2章10節には、こうあります。「この降りて来られた方(十字架の低きに降られた方)が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」右の座とは「もろもろの天よりも更に高い所」だと分かります。最高に高い場所です。今そこにおられるイエス・キリストは、全ての支配や権威の頭です。教会の頭であり、全宇宙の頭です。イエス様は、「王の王、主の主」です。
ペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝で、よくこう申し上げます。キリストが復活後に天の最も高い所に昇られたことは、私たちに3つの恵みを与える。①教会の頭が天におられることは、教会はキリストの体であり、私たちはその一部(手や足、お腹、背中)なので、私たちが天と直接つながったという恵み。②イエス様がそこで、私たちのために執り成しの祈りをして下さっている、という大きな恵み。③天から聖霊を注いで下さる恵み。
「わたしの右の座(神様に最も近い、最も高い天)に着きなさい。わたしがあなたの敵(悪魔や死)を/あなたの足台とするときまで。」後半の部分は、イエス・キリストがこの世界にもう一度来られる再臨の時と世の終わり、神の国の完成と、関わっています。コリントの信徒への手紙(一)15章23節の途中から読みます。「最初にキリスト(が復活し)、次いで、キリストが来られる時に、キリストに属している人たち(が復活し)、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストは全ての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストは全ての敵をご自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。」
今日の詩編110編を、イエス様の筆頭弟子ペトロが、ペンテコステの朝に引用して、イスラエルの人々に力強く説教しています。使徒言行録2章イエス様の十字架の死と復活を経たとき、ペトロも詩編110編の意味が、ようやくはっきり分かったのです。「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」
次の小見出しは、「律法学者を非難する」です。45節「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。』」
ある聖書の翻訳では「律法学者に警戒せよ」という小見出しをつけています。
律法学者たちは信仰のリーダーですが、イエス様の生き方と逆の生き方をしていたのです。長い衣、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座。これらはみな、自分を偉く見せよう、自分の権威を見せようとすることです。私も同じことをしていると思います。聖餐式や洗礼式やご葬儀の際は、黒いガウンを着ます。本来、黒いガウンは、自分を消すために着ると聞いて来ました。説教の際に黒いガウンを着るならば、自分勝手な主張を語るのではなく、そのような自分の自我を消して、殺して、ただ神の御言葉を語るため、自分を消して殺すために黒いガウンを着ると、聞いてきました。ですから黒いガウンには意味があるのですが、これを自分を偉く見せる道具にしてしまうと、明らかに罪を犯すことになります。
「広場で挨拶されること」は、ある解説書では、当時人々の集まる広場で、身をかがめた礼を受けることだったそうです。自分を偉く見せたい、有名になろうとする、虚勢を張ることだと思います。「やもめの家を食い物にし。」非常に献金を強調する教会になると、こうなる恐れがあるので、気をつけなければなりませんね。やもめとは、夫を先に見送った婦人です。寡婦も同じ意味ですね。今もそうでしょうが、2000年も昔は本当に経済的に苦しかったに違いありません。妻を先に見送った男性も大変でしょうが、当時経済力は、女性よりある人が多かったかもしれません。
寡婦を大切にすることは、明らかに神様の御心に適います。出エジプト記22章20節以下「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」イザヤ書10章2節でも「貧しい者から権利を奪い、やもめを餌食とし、みなしごを略奪する」人に、神様の厳しい御言葉が記されています。
ルカに戻り、「見せかけの長い祈りをする。」長い祈りでも真心からの祈りならよいと思います。この「見せかけの長い祈り」は、美しい言葉を用いて表面的に立派に聞こえるが、本心からでない祈り、「立派な信仰者だ」と評価されたいために、心にもないきれいごとを祈っている場合でしょう。このような偽善の行動や祈りを行う宗教家を、イエス様は喜ばれないことは明らかです。それは偽宗教家です。私も偽牧師に転落しないように、十二分に気をつけなければなりません。ヤコブの手紙3章1~2節を忘れてはならないのです。「私の兄弟たち、あなた方のうちの多くの人が教師(教会の教師)になってはなりません。私たち教師がほかの人たちよりも厳しい裁きを受けることになると、あなた方は知っています。私たちは皆、たびたび過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」ある解説には「神を利用して、自分を大きくする。これが宗教の誘惑です。」神の名を自分のために利用して、教会の権力者になってしまう牧師。いないとは言いきれません。その誘惑は、常にあるのです。それを撃退しなければなりません。
最後に、今月の招きの言葉・コロサイの信徒への手紙3章12節をもう一度読みます。この御言葉によって今週も生きていきたいのです。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」アーメン。
イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
◆律法学者を非難する
民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
(説教) 本日は、神学校日の礼拝です。説教題は、「王の王、主の主イエス・キリスト」、小見出しは「ダビデの子についての問答」と「律法学者を非難する」です。イエス様がエルサレムの都に入り、十字架にかかる日が、すぐ数日先に迫っています。本日の個所も、十字架の前のいわゆる受難週の出来事です。
「皇帝への税金についての問答」、「復活についての問答」に続く3つめの問答です。ですが今回は、イエス様の方から周りの人々に問いかけておられます。ということは、イエス様の方が、」「このことをぜひあなた方に理解してほしい」と願っておられることになります。
最初の41節「イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」当時、イスラエルの人々がそう言っていたのですね。メシアは救い主のことです。当時のイスラエルは、外国人であるローマ帝国に支配されていたので、多くの人々がそれを屈辱と思い、ローマ帝国から解放してくれる強い政治的・軍事的リーダーとしてのメシア(救い主)が来ることを待ち望んでいたそうです。今の私たち日本人には、その感覚は分かりにくいと思います。私たち日本人は、様々な問題や課題を一挙に解決してくれる英雄を待望しているとは、私には感じられません。誰が首相になっても、様々な課題を一挙に解決できるなどということはないと思っているのではないでしょうか。昭和初期の日本は、様々な難題を、戦争を行い、戦争に勝つことで一挙に解決しようと思ったのかもしれませんが、敗戦に終わり、戦争では何も解決できないことを悟ったのだと思います。様々な課題には、一歩一歩地道に取り組む以外に解決する道はないと悟った私たち日本人は、一人の英雄が彗星のように現れて、色々な難題を鮮やかに解決してくれるとは、思っていないと感じます。しかしイエス様の時代のイスラエル人は、そのようなメシア(救い主)が来ると信じて、待ち望んでいたように思われます。
そして「メシアはダビデの子だ」と言い合っていました。「ダビデの子だ」とは、「ダビデ王の子孫だ」ということです。根拠は、旧約聖書のサムエル記下7章12節以下です。490ページ下段です。預言者ナタンが、ダビデ王に神様のメッセージを伝えます。「あなたが生涯を終え、先祖の共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものにする。」この子孫は、直接にはダビデの子ソロモンですが、最終的にはイエス・キリストです。「この者が私(神様)の名のために家を建て、私は彼の王国をとこしえ(永遠)に堅く据える。」永遠の国ですから、この地上の国ではなく、神の国・天国です。「私は彼の父となり、彼は私の子となる。」イエス様はまさに神の子ですから、今の御言葉が当てはまります。「彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。」これはソロモンには当てはまりますが、1つの罪も過ちもないイエス様には当てはまりません。この御言葉により、イエス様の時代のイスラエル人たちは、「メシアはダビデ王の子孫から出る」と信じていました。それは正しいことです。実際、イエス様の育ての父ヨセフは、ダビデ王の子孫です。イエス様は、ヨセフの妻マリアから生まれたので、イエス様はヨセフの子であると言え、従ってダビデ王の子孫です。イスラエルが最も繫栄したのは、ダビデ王・ソロモン王の時代でしょう。イスラエルの人々は、「夢よ、もう一度」と、ダビデ王の子孫のメシア(救い主)が、ローマ帝国を倒して、かつての栄光を取り戻してくれることを待望していたと思われます。
しかし真のメシア(救い主)イエス様は、ダビデの子孫ではあるが、そのようなメシアではないのです。イエス様はダビデと違って真の神の子であり、ダビデ王よりはるかに偉大な、真のメシアです。このメシアは、まず誰よりもへりくだって、私たちの全部の罪を身代わりに背負って十字架で死んで下さり、三日目に復活して、40日目に天に上げられるメシアなのです。
イエス様がおっしゃりたいのは、こういうことでしょう。人々はメシアをダビデ王の子孫だと言っている。それは正しい。しかしメシアは、ダビデ王よりもっと偉大な存在だ。ダビデ王自身が詩編の中でこう言っているではないか。これが先ほど読んでいただいた詩編110編ですね。「主(神様)は、わたし(ダビデ)の主(メシア)にお告げになった。『わたしの右の座(神様に最も近い、最も高い天)に着きなさい。わたしがあなたの敵(悪魔や死)を/あなたの足台とするときまで』と。」「このようにダビデがメシアを主(ダビデ自身の上に立つご主人)と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」メシアはダビデの子孫ではあるが、ダビデより遥かに偉大な存在だと。
「右の座」については、エフェソの信徒への手紙1章20節以下に、こうあります。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、全ての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」2章10節には、こうあります。「この降りて来られた方(十字架の低きに降られた方)が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」右の座とは「もろもろの天よりも更に高い所」だと分かります。最高に高い場所です。今そこにおられるイエス・キリストは、全ての支配や権威の頭です。教会の頭であり、全宇宙の頭です。イエス様は、「王の王、主の主」です。
ペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝で、よくこう申し上げます。キリストが復活後に天の最も高い所に昇られたことは、私たちに3つの恵みを与える。①教会の頭が天におられることは、教会はキリストの体であり、私たちはその一部(手や足、お腹、背中)なので、私たちが天と直接つながったという恵み。②イエス様がそこで、私たちのために執り成しの祈りをして下さっている、という大きな恵み。③天から聖霊を注いで下さる恵み。
「わたしの右の座(神様に最も近い、最も高い天)に着きなさい。わたしがあなたの敵(悪魔や死)を/あなたの足台とするときまで。」後半の部分は、イエス・キリストがこの世界にもう一度来られる再臨の時と世の終わり、神の国の完成と、関わっています。コリントの信徒への手紙(一)15章23節の途中から読みます。「最初にキリスト(が復活し)、次いで、キリストが来られる時に、キリストに属している人たち(が復活し)、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストは全ての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストは全ての敵をご自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。」
今日の詩編110編を、イエス様の筆頭弟子ペトロが、ペンテコステの朝に引用して、イスラエルの人々に力強く説教しています。使徒言行録2章イエス様の十字架の死と復活を経たとき、ペトロも詩編110編の意味が、ようやくはっきり分かったのです。「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」
次の小見出しは、「律法学者を非難する」です。45節「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。』」
ある聖書の翻訳では「律法学者に警戒せよ」という小見出しをつけています。
律法学者たちは信仰のリーダーですが、イエス様の生き方と逆の生き方をしていたのです。長い衣、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座。これらはみな、自分を偉く見せよう、自分の権威を見せようとすることです。私も同じことをしていると思います。聖餐式や洗礼式やご葬儀の際は、黒いガウンを着ます。本来、黒いガウンは、自分を消すために着ると聞いて来ました。説教の際に黒いガウンを着るならば、自分勝手な主張を語るのではなく、そのような自分の自我を消して、殺して、ただ神の御言葉を語るため、自分を消して殺すために黒いガウンを着ると、聞いてきました。ですから黒いガウンには意味があるのですが、これを自分を偉く見せる道具にしてしまうと、明らかに罪を犯すことになります。
「広場で挨拶されること」は、ある解説書では、当時人々の集まる広場で、身をかがめた礼を受けることだったそうです。自分を偉く見せたい、有名になろうとする、虚勢を張ることだと思います。「やもめの家を食い物にし。」非常に献金を強調する教会になると、こうなる恐れがあるので、気をつけなければなりませんね。やもめとは、夫を先に見送った婦人です。寡婦も同じ意味ですね。今もそうでしょうが、2000年も昔は本当に経済的に苦しかったに違いありません。妻を先に見送った男性も大変でしょうが、当時経済力は、女性よりある人が多かったかもしれません。
寡婦を大切にすることは、明らかに神様の御心に適います。出エジプト記22章20節以下「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」イザヤ書10章2節でも「貧しい者から権利を奪い、やもめを餌食とし、みなしごを略奪する」人に、神様の厳しい御言葉が記されています。
ルカに戻り、「見せかけの長い祈りをする。」長い祈りでも真心からの祈りならよいと思います。この「見せかけの長い祈り」は、美しい言葉を用いて表面的に立派に聞こえるが、本心からでない祈り、「立派な信仰者だ」と評価されたいために、心にもないきれいごとを祈っている場合でしょう。このような偽善の行動や祈りを行う宗教家を、イエス様は喜ばれないことは明らかです。それは偽宗教家です。私も偽牧師に転落しないように、十二分に気をつけなければなりません。ヤコブの手紙3章1~2節を忘れてはならないのです。「私の兄弟たち、あなた方のうちの多くの人が教師(教会の教師)になってはなりません。私たち教師がほかの人たちよりも厳しい裁きを受けることになると、あなた方は知っています。私たちは皆、たびたび過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」ある解説には「神を利用して、自分を大きくする。これが宗教の誘惑です。」神の名を自分のために利用して、教会の権力者になってしまう牧師。いないとは言いきれません。その誘惑は、常にあるのです。それを撃退しなければなりません。
最後に、今月の招きの言葉・コロサイの信徒への手紙3章12節をもう一度読みます。この御言葉によって今週も生きていきたいのです。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」アーメン。
2026-10-03 21:16:30(土)
「すべての人は、神によって生きている」 2026年10月4日(日)説教
(ルカによる福音書20章27~40節)
さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
(説教) 本日は、世界聖餐日・世界宣教の日の礼拝です。説教題は、「すべての人は、神によって生きている」、小見出しは「復活についての問答」です。イエス様がエルサレムの都に入り、十字架にかかる日が、すぐ数日先に迫っています。本日の個所も、十字架の前のいわゆる受難週の出来事です。
また問答です。イエス様を憎む人々が、イエス様を困らせようとして論争を仕掛けています。ですがイエス様は神の知恵・聖霊の知恵によって答えるので、人間の悪しき計略を遥かに超える、神の真理によって答えておられます。イエス様が語る神の真理の前では、人間が一生懸命考えた悪しき計略も、人間の浅知恵でしかないことが明らかになります。神の深い真理の前に全く歯が立たないのです。イエス様は彼らの愚かな質問を用いて、私たちに深い神の真理を明らかにして下さいます。
最初の27節「さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。」死者の復活ということがあるかないか、当時のイスラエルの信仰者たちの間でも意見が割れていました。使徒言行録23章8節には、こう書かれています。「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めている」と。ファリサイ派は、死者の復活はあるし、天使も存在するし、霊(これが人間の霊か聖霊か、はっきりしませんが)も存在すると信じていたのですね。このサドカイ派が、イエス様に論争を仕掛けました。死者の復活はないとの主張を、イエス様にぶつけたのです。イエス様は「死者の復活はある」と知っておられます。サドカイ派は「死者の復活はないし、天使もいないし、霊も存在しない」と主張するので、ユダヤ教を信じる人々であるのに、発想が物質的、この世的、現世的です。基本的に、この世が全てと思っているらしいので、この世が全てと考えており、ですから当然、死者の復活などあるはずがないと考えています。現代の無宗教の人々(今の日本人にもこのような人々は多い気がします)とよく似ている感じなのです。
彼らは、死者の復活はないとの主張を論証しようとして、奇妙で無理な話を持ち出します。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。」旧約聖書の最初の5冊は「モーセ五書」と呼ばれ、旧約聖書の中でイスラエルの民の出エジプトを導いた指導者モーセが書いたと考えられていました。権威ある書物です。この中の申命記25章5~6節に、確かにこう書いてあります。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子どもを残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡父の兄弟が彼女の所に入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」このような結婚のあり方を「レビラート婚」と呼ぶそうです。これは家の存続を最優先する、当時のイスラエルの習慣と言えます。家中心、父親中心社会の習慣です。今の日本で、これを女性に求めることは、完全に不可能です。
Levir というラテン語(夫の兄弟の意)が語源とのことです。旧約聖書続編という書物があり、それは聖書そのものではないので、教会備え付けの聖書には含まれていません。ですが続編付きの聖書も売られており、その中のトビト記だったと思いますが、レビラート婚に似たことが行われたことが書かれていました。
サドカイ派は、申命記5章の記述等を根拠に、無理な事例を考え出し、復活はないと論証しようとします。29節から「七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 これは彼らが無理やり考え出した事例ですが、こんなひどい目に遭わされる女性の立場など、全然考えていません。彼らが言いたいのは、このようなことがあった場合、復活の時、この女性も困るし、男性たちも困る。だから死者の復活などあっては困るし、復活などあるはずがない。
イエス様は、心の中でため息をつかれたと思いますが、彼らに答えられます。マタイ福音書の同じ場面では、イエス様は答えるに当たり、まずこう言われます。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」34節「イエス様は言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。』」
「次の世」とは、この世とは違う「新しい世」天国のことではないかと思います。エフェソの信徒への手紙1章21節では、「来るべき世」と表現されています。そこでは「めとることも嫁ぐこともない。」今の世界とは違う、新しい世界です。ですから、たとえ今の世で7人の夫と結婚したとしても、新しい世界では「誰の妻」かと問題になることはあり得ない。復活はないというサドカイ派の根拠は、完全に崩れます。36節「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」元の言葉を見ると「死ぬことができない」と読めます。もはや決して死なないということですね。イエス様を信じて亡くなった方々は、今はそのような新しい世界に入っている。「天使に等しい者」とは、天使のように喜んで、父なる神様にお仕えしている、父なる神様を礼拝しているということです。「復活にあずかる者として、神の子だからである。」「復活にあずかる者」は直訳では「復活の子たち」です。復活ということは、復活されたイエス様と同じ復活の体を与えられることですね。復活の体が与えられて、救いが完成します。イエス様を信じて亡くなり、天国に入った方々は、復活の体が与えられることを待っている状態におられると思います。
37節「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。」イエス様は、死者が復活することは間違いないと言っておられます。それは実は、旧約聖書にも書いてあるのだと。「柴の個所」とは、出エジプト記3章です。モーセが神に出会う場面です。2節以下(モーセが羊の群れを追って神の山ホレブに来ると)「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」モーセは不思議に思って言います。「どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」モーセが道を逸れて見に行くと、神様が柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われます。これがモーセと神様の初めての出会いです。モーセは、聖なる神様と出会ったのです。神は言われます。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」その時、神が宣言されたのです。「私はあなたの父(先祖)神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。脅かすつもりはありませんが、聖書には、私たち罪人(つみびと)が神様を直接見ると死ぬという考えがあります。神様は完全に聖なる方、私たちは罪人(つみびと)だからです。モーセが顔を覆ったのは、そのためです。私たちはイエス・キリストを通してなら、父なる神様に安心して近づくことができます。
神様はご自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だと自己紹介されました。イエス様は「父なる神様がこうおっしゃっていることから、死者が復活すすことが分かるではないか」と言われます。私たちはこれを聞いて驚くと思います。神様のあの自己紹介がなぜ、人間が復活することの証拠だと言えるのか。ふつうはそのような読み方はしないでしょう。イエス様は、神様の真理を全てご存じです。真理を全てご存じの神の子イエス様にして初めて、旧約聖書を完全に正しく説き明かすことがおできになります。モーセが神に出会ったとき、アブラハムもイサクもヤコブも、とおの昔に死んでいました。しかし神様は実はこうおっしゃたのです。「私は今も生きているアブラハムの神、今も生きているイサクの神、今も生きているヤコブの神」だと。アブラハム、イサク、ヤコブはとおの昔に地上の人生を終えたが、命の源である神様とは完全につながっている。神様の記憶の中で生きているのではなく、彼らの命は今も神に支えられて生きている。彼らは地上とは別の世界で、神に支えられて生きているということです。「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神の自己紹介の言葉が、こんな真理を明らかにしているとは、私たちは普通は気づきません。神の子イエス様だけが、この御言葉の深い真の意味を明らかにして下さるのです。
そしてイエス様は宣言されます。38節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」既に亡くなった方々も、神様の御手の中にあります。そして最後の審判を待っているということと思うのです。特に、旧約聖書の時代の神に従った人々(アブラハム、イサク、ヤコブ、ほかにもいます)は死んでも、神の御手の中で生きています。
「すべての人は、神によって生きている。」私たちも、神によって生きています。神様に命をいただき、今も神に支えられて生かされています。「そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。」生と死についての真理を、神様だけが、神の子イエス様だけが完全に把握しておられます。
そしてイエス様は真理を明らかにする説教をなさるだけではありません。私たちの罪を全て背負って、十字架で自らも死なれます。本当の死を経験されたのです。その上で復活されました。私たち人間は、神様に背く罪を犯した結果、死ぬ者になりました。死を解決するためには、罪を解決しないと、死は解決しません。それを根本的に解決されたのが、イエス・キリストの十字架です。イエス様は、文字通り私たち全人類の罪を全部、十字架で担いきって下さいました。父なる神様の罪への裁きを全部、引き受けました。ですからイエス様につながる洗礼を受けることで、私たちは罪の赦しを受け、真の平安を受けます。十字架で完全に死なれたイエス様は、三日目に完全に復活されました。復活の体をもって。ですからイエス様につながることで、私たちも永遠の命、復活の命を確実に受けます。聖餐式は、イエス様の十字架と復活のお陰で、私たちが全ての罪の赦しと永遠の命を受けていることの保証です。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ告白し、洗礼を受けるとき、私たちも神の子とされます。まだ罪あり不完全ながら、神の子とされます。大きな光栄です。私たちが死んで天国に入るとき、今日のイエス様の御言葉が、私たちにも実現します。「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活に与かる者として神の子だからである。」イエス様を信じて亡くなった方々も、もちろん同じです。今日の御言葉は、分かりやすいとは言えませんが、深い慰めに満ちています。
私たちはイエス・キリストを信じる前には、罪と死いう主人の支配下にいました。しかし今はそこから解放され、神様という主人の愛の支配下に移されています。神の所有の元にあり、神のものになっています。洗礼を受けて、聖霊を受けた人は皆、神のものになっているので、安心です。ローマの信徒への手紙14章8~9節にはこうあります。「私たちは、生きるとすれば主(イエス様)のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たち(キリストを信じる者)は主のものです。」主のものだとは、罪や死のものでなくなったということです。
コリントの信徒への手紙(一)3章23節にはこうあります。「あなた方はキリストのもの、キリストは神のものなのです。」その直前の21~22節にはこうあります。「すべては、あなた方のものです。(…)世界も生も死も、今起こっていることも、将来起こることも、一切はあなた方のもの。」つまり、イエス・キリストのお陰で、死の力さえも「私たちのもの」、つまり私たちが、イエス・キリストのお陰で、死の支配を乗り越えていると言っています。パウロの、ガラテヤの信徒への手紙6章17節の言葉を借りれば、洗礼を受けた人々は、「イエス様の焼き印」を身に受けています。当時、焼き印は奴隷の所有者を表すしるしだったと思います。私たちはイエス・キリストのものとされ、神のものとされています。このことに改めて感謝し、喜んで「神のものを神に返して」、愛する様に自分を献げて生きていきます。アーメン。
「我らここで復活を待つ。」
さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
(説教) 本日は、世界聖餐日・世界宣教の日の礼拝です。説教題は、「すべての人は、神によって生きている」、小見出しは「復活についての問答」です。イエス様がエルサレムの都に入り、十字架にかかる日が、すぐ数日先に迫っています。本日の個所も、十字架の前のいわゆる受難週の出来事です。
また問答です。イエス様を憎む人々が、イエス様を困らせようとして論争を仕掛けています。ですがイエス様は神の知恵・聖霊の知恵によって答えるので、人間の悪しき計略を遥かに超える、神の真理によって答えておられます。イエス様が語る神の真理の前では、人間が一生懸命考えた悪しき計略も、人間の浅知恵でしかないことが明らかになります。神の深い真理の前に全く歯が立たないのです。イエス様は彼らの愚かな質問を用いて、私たちに深い神の真理を明らかにして下さいます。
最初の27節「さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。」死者の復活ということがあるかないか、当時のイスラエルの信仰者たちの間でも意見が割れていました。使徒言行録23章8節には、こう書かれています。「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めている」と。ファリサイ派は、死者の復活はあるし、天使も存在するし、霊(これが人間の霊か聖霊か、はっきりしませんが)も存在すると信じていたのですね。このサドカイ派が、イエス様に論争を仕掛けました。死者の復活はないとの主張を、イエス様にぶつけたのです。イエス様は「死者の復活はある」と知っておられます。サドカイ派は「死者の復活はないし、天使もいないし、霊も存在しない」と主張するので、ユダヤ教を信じる人々であるのに、発想が物質的、この世的、現世的です。基本的に、この世が全てと思っているらしいので、この世が全てと考えており、ですから当然、死者の復活などあるはずがないと考えています。現代の無宗教の人々(今の日本人にもこのような人々は多い気がします)とよく似ている感じなのです。
彼らは、死者の復活はないとの主張を論証しようとして、奇妙で無理な話を持ち出します。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。」旧約聖書の最初の5冊は「モーセ五書」と呼ばれ、旧約聖書の中でイスラエルの民の出エジプトを導いた指導者モーセが書いたと考えられていました。権威ある書物です。この中の申命記25章5~6節に、確かにこう書いてあります。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子どもを残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡父の兄弟が彼女の所に入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。」このような結婚のあり方を「レビラート婚」と呼ぶそうです。これは家の存続を最優先する、当時のイスラエルの習慣と言えます。家中心、父親中心社会の習慣です。今の日本で、これを女性に求めることは、完全に不可能です。
Levir というラテン語(夫の兄弟の意)が語源とのことです。旧約聖書続編という書物があり、それは聖書そのものではないので、教会備え付けの聖書には含まれていません。ですが続編付きの聖書も売られており、その中のトビト記だったと思いますが、レビラート婚に似たことが行われたことが書かれていました。
サドカイ派は、申命記5章の記述等を根拠に、無理な事例を考え出し、復活はないと論証しようとします。29節から「七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 これは彼らが無理やり考え出した事例ですが、こんなひどい目に遭わされる女性の立場など、全然考えていません。彼らが言いたいのは、このようなことがあった場合、復活の時、この女性も困るし、男性たちも困る。だから死者の復活などあっては困るし、復活などあるはずがない。
イエス様は、心の中でため息をつかれたと思いますが、彼らに答えられます。マタイ福音書の同じ場面では、イエス様は答えるに当たり、まずこう言われます。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」34節「イエス様は言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。』」
「次の世」とは、この世とは違う「新しい世」天国のことではないかと思います。エフェソの信徒への手紙1章21節では、「来るべき世」と表現されています。そこでは「めとることも嫁ぐこともない。」今の世界とは違う、新しい世界です。ですから、たとえ今の世で7人の夫と結婚したとしても、新しい世界では「誰の妻」かと問題になることはあり得ない。復活はないというサドカイ派の根拠は、完全に崩れます。36節「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」元の言葉を見ると「死ぬことができない」と読めます。もはや決して死なないということですね。イエス様を信じて亡くなった方々は、今はそのような新しい世界に入っている。「天使に等しい者」とは、天使のように喜んで、父なる神様にお仕えしている、父なる神様を礼拝しているということです。「復活にあずかる者として、神の子だからである。」「復活にあずかる者」は直訳では「復活の子たち」です。復活ということは、復活されたイエス様と同じ復活の体を与えられることですね。復活の体が与えられて、救いが完成します。イエス様を信じて亡くなり、天国に入った方々は、復活の体が与えられることを待っている状態におられると思います。
37節「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。」イエス様は、死者が復活することは間違いないと言っておられます。それは実は、旧約聖書にも書いてあるのだと。「柴の個所」とは、出エジプト記3章です。モーセが神に出会う場面です。2節以下(モーセが羊の群れを追って神の山ホレブに来ると)「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」モーセは不思議に思って言います。「どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」モーセが道を逸れて見に行くと、神様が柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われます。これがモーセと神様の初めての出会いです。モーセは、聖なる神様と出会ったのです。神は言われます。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」その時、神が宣言されたのです。「私はあなたの父(先祖)神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。脅かすつもりはありませんが、聖書には、私たち罪人(つみびと)が神様を直接見ると死ぬという考えがあります。神様は完全に聖なる方、私たちは罪人(つみびと)だからです。モーセが顔を覆ったのは、そのためです。私たちはイエス・キリストを通してなら、父なる神様に安心して近づくことができます。
神様はご自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だと自己紹介されました。イエス様は「父なる神様がこうおっしゃっていることから、死者が復活すすことが分かるではないか」と言われます。私たちはこれを聞いて驚くと思います。神様のあの自己紹介がなぜ、人間が復活することの証拠だと言えるのか。ふつうはそのような読み方はしないでしょう。イエス様は、神様の真理を全てご存じです。真理を全てご存じの神の子イエス様にして初めて、旧約聖書を完全に正しく説き明かすことがおできになります。モーセが神に出会ったとき、アブラハムもイサクもヤコブも、とおの昔に死んでいました。しかし神様は実はこうおっしゃたのです。「私は今も生きているアブラハムの神、今も生きているイサクの神、今も生きているヤコブの神」だと。アブラハム、イサク、ヤコブはとおの昔に地上の人生を終えたが、命の源である神様とは完全につながっている。神様の記憶の中で生きているのではなく、彼らの命は今も神に支えられて生きている。彼らは地上とは別の世界で、神に支えられて生きているということです。「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神の自己紹介の言葉が、こんな真理を明らかにしているとは、私たちは普通は気づきません。神の子イエス様だけが、この御言葉の深い真の意味を明らかにして下さるのです。
そしてイエス様は宣言されます。38節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」既に亡くなった方々も、神様の御手の中にあります。そして最後の審判を待っているということと思うのです。特に、旧約聖書の時代の神に従った人々(アブラハム、イサク、ヤコブ、ほかにもいます)は死んでも、神の御手の中で生きています。
「すべての人は、神によって生きている。」私たちも、神によって生きています。神様に命をいただき、今も神に支えられて生かされています。「そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。」生と死についての真理を、神様だけが、神の子イエス様だけが完全に把握しておられます。
そしてイエス様は真理を明らかにする説教をなさるだけではありません。私たちの罪を全て背負って、十字架で自らも死なれます。本当の死を経験されたのです。その上で復活されました。私たち人間は、神様に背く罪を犯した結果、死ぬ者になりました。死を解決するためには、罪を解決しないと、死は解決しません。それを根本的に解決されたのが、イエス・キリストの十字架です。イエス様は、文字通り私たち全人類の罪を全部、十字架で担いきって下さいました。父なる神様の罪への裁きを全部、引き受けました。ですからイエス様につながる洗礼を受けることで、私たちは罪の赦しを受け、真の平安を受けます。十字架で完全に死なれたイエス様は、三日目に完全に復活されました。復活の体をもって。ですからイエス様につながることで、私たちも永遠の命、復活の命を確実に受けます。聖餐式は、イエス様の十字架と復活のお陰で、私たちが全ての罪の赦しと永遠の命を受けていることの保証です。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ告白し、洗礼を受けるとき、私たちも神の子とされます。まだ罪あり不完全ながら、神の子とされます。大きな光栄です。私たちが死んで天国に入るとき、今日のイエス様の御言葉が、私たちにも実現します。「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活に与かる者として神の子だからである。」イエス様を信じて亡くなった方々も、もちろん同じです。今日の御言葉は、分かりやすいとは言えませんが、深い慰めに満ちています。
私たちはイエス・キリストを信じる前には、罪と死いう主人の支配下にいました。しかし今はそこから解放され、神様という主人の愛の支配下に移されています。神の所有の元にあり、神のものになっています。洗礼を受けて、聖霊を受けた人は皆、神のものになっているので、安心です。ローマの信徒への手紙14章8~9節にはこうあります。「私たちは、生きるとすれば主(イエス様)のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たち(キリストを信じる者)は主のものです。」主のものだとは、罪や死のものでなくなったということです。
コリントの信徒への手紙(一)3章23節にはこうあります。「あなた方はキリストのもの、キリストは神のものなのです。」その直前の21~22節にはこうあります。「すべては、あなた方のものです。(…)世界も生も死も、今起こっていることも、将来起こることも、一切はあなた方のもの。」つまり、イエス・キリストのお陰で、死の力さえも「私たちのもの」、つまり私たちが、イエス・キリストのお陰で、死の支配を乗り越えていると言っています。パウロの、ガラテヤの信徒への手紙6章17節の言葉を借りれば、洗礼を受けた人々は、「イエス様の焼き印」を身に受けています。当時、焼き印は奴隷の所有者を表すしるしだったと思います。私たちはイエス・キリストのものとされ、神のものとされています。このことに改めて感謝し、喜んで「神のものを神に返して」、愛する様に自分を献げて生きていきます。アーメン。
「我らここで復活を待つ。」
2026-09-20 1:16:06()
「愛する息子を送ってみよう」 2026年9月20日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第90回)説教
(ルカによる福音書20章9~19節)
イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」第90回です。説教題は、「愛する息子を送ってみよう」、小見出しは「ぶどう園と農夫のたとえ」です。イエス様がエルサレムの都に入り、十字架にかかる日が、すぐ数日先に迫っています。本日の個所も、十字架の前のいわゆる受難週の出来事です。
最初の9節から「イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。」ある人は、もちろん神様です。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。」ぶどう園は、宇宙や地球等この世界と言えます。農夫は、直接には旧約聖書以来の神の民イスラエル人と言えますが、もう少し広く考えると、私たち全ての人間とも言えます。私たちは、神様から見れば残念ながら全員、罪人(つみびと)ですから。
神様は農夫たちにぶどう園を貸して、長い旅に出ました。私たちの命も、私たちの僅かなお金も、ささやかな能力、家族、友人、教会等の恵みも皆、神様から貸していただいているのですね。必ずお返しする時がきます。所有者は神様なのですね。神様が主人、私たちは主人でないことを心に刻む必要があります。この命をも含めて、必ず神様にお返しする時がきます。その時に、神様から愛と信頼を込めて貸していただいた命、健康、時間、お金、能力をどのように用いたか、神様に包み隠さず報告する時がきます。最後の審判ですね。自分勝手に用いてしまったか、それとも神様と隣人に喜んでいただける使い方をしたか。その報告をするときが来るので、その時、できるだけよい報告ができるように、一日一日を責任をもって生きる必要があります。
聖書で言う罪とは、ご存じの通り自己中心に生きることです。自分さえよければよくて、神様を愛さず、隣人を愛さないで生きることですね。ある人は、罪とは「人生を私物化することだ」と言ったそうです。自分の命も、自分の人生も、自分のものだと思ってしまうところに罪があるのですね。ところがそれは、実は神のものだと聖書が教えてくれます。私たちも最初にそれを知った時は、驚いたのではないでしょうか。自分の命、自分の人生だと思い込んでいた。それは違うというのです。私たちの真の主人は神様である。神様から借りている命と人生を、自分の所有物と思っている。ここに罪の根本があることになります。自分の命、自分の人生と思い込んで生きる。これが「人生の私物化」で、これが私たち皆の犯している罪だというのです。こう聞くと私たちはびっくりすると思いますが、でもその通りなのです。今日登場する悪い農夫たちも、主人(神様)が深い信頼と愛を込めて預けて下さった(貸して下さった)ぶどう園を私物化し、事実上、主人から盗み取ったのです。
収穫の時が来ました。主人はまだ帰って来ないので、世の終わりそのものではないようです。主人は、ぶどう園の所有者の当然の権利として、僕(しもべ)を送って、収穫物を受け取ろうとします。ところが農夫たちは、何と僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返したのです。実に悪質な農夫たちです。主人は次の僕を派遣します。ところが農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、さらに侮辱を加えて、何も持たせないで追い返しました。主人は三人目の僕を送りましたが、これにも傷を負わせてほうり出しました。実に悪辣、極悪非道な農夫たちです。主人の恩に全く感謝せず、主人のぶどう園を奪い取っています。
主人は忍耐強いですね。自分の大切な三人の僕たちがひどい目に遭って怪我もしているので、ここで怒って彼らを懲らしめてもよいはずです。でも主人は、この悪辣な農夫たちを、なお信頼しようとするのです。ひどい目に遭って追い返された三人の僕たちは、神様がイスラエルに送った数々の預言者と言えます。真の神様から派遣された預言者たちを、旧約聖書の時代のイスラエルの民は拒否しました。イザヤ、エレミヤといった偉大な預言者たちは、イスラエルの民に迫害されたようです。
13節「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。」悪辣な農夫たちの悔い改めを期待して、主人は愛する独り息子を送るのです。私たちがそこにいたら、「やめた方がいいです。彼らは極悪非道です。最愛の独り息子さんを送るなんて、危険すぎます。」それでも主人は、最愛の独り息子を送るのです。言うまでもなくイエス様です。農夫たちは、主人の愛を裏切ります。イエス様を全然敬わないどころか、ぶどう園の外に放り出して殺してしまうのです。神の子イエス様を十字架で殺すことによって、私たち人間たちの罪が頂点に達します。神の子を殺す罪に対する報いは厳しくなります。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」神様が永遠の命を与える恵みは、イエス・キリストを信じる外国人(異邦人、イスラエル人以外)に与えられる、とイエス様は言われます。
民衆はこれを聞いて「そんなことがあってはなりません」と言った。」心を痛めたのでしょう。こんなひどい話は聞いたことがない。ぶどう園の主人の愛する子が殺されるなんて、そして神の民イスラエルが裁かれるなんて、あまりにひどい話だと。
しかしイエス様は民衆をじっと見つめられます。「確かにひどすぎる話だ。あってはならないことだ。それでも、このことが必ず起こってしまうのだよ」と。「あなたたち民衆からも、私を十字架で殺すことに賛成する人々も出て来る。」そのとき詩編118編22節の言葉が現実になる。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になる。」旧約聖書の詩編118編を読むと、次の言葉が続いています。「これは主の御業。私たちの目には驚くべきこと。」本当にそうです。人々は、神の子イエス・キリストについて、「こんな人は要らない」と言って殺し、捨ててしまう。しかし事はそれで終わらない。「人々が捨てたこの石を、父なる神様は大切に用い、神の国の不動の土台石になさる。」神は、全く正しい方イエス・キリストを死なせたままにはなさない。神は、神に従い通したイエス・キリストを必ず復活させる。この復活のキリストこそ、神の国・永遠の命の不動の土台石となる。父なる神様は、人間たちの最悪の罪を用いて、罪人(つみびと)が永遠の命に入る道を開いて下さる。というのです。これは良い知らせ、福音です。
「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」この石は復活されたイエス・キリストです。イエス・キリストはもちろん愛の方ですが、同時に聖なる方、真実な方であって、私たちの罪は、イエス・キリストによって打ち砕かれてしまい、誰一人イエス・キリストを倒せる者はいないのです。「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。」
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になる。」この聖句は、新約聖書の使徒言行録4章11節でも引用されています。イエス様の弟子ペトロが、エルサレムの人々に次のように説教しているのです。「この方(イエス・キリスト)こそ、『あなた方家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となって石』です。ほかの誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下のこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
ペトロの手紙(一)2章3節以下にも、こう語られています。「あなた方は、主(イエス様)が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた尊い生きた石なのです。あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書(旧約聖書)にこう書いてあるからです。『見よ、私は選ばれた尊いかなめ石を、シオン(エルサレム)に置く。これを信じる者は、決して失望することがない。』」イエス・キリストに信頼を置き、イエス・キリストを救い主と信じる者は、決して失望に終わることがないのです。感謝です。私たちも決して裏切らない方イエス・キリストにしっかりと信頼し、イエス・キリストを宣べ伝えて、イエス・キリストと共に地上の歩みを、天国に入れていただくまで、歩み抜いて参りたいのです。アーメン。
イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」第90回です。説教題は、「愛する息子を送ってみよう」、小見出しは「ぶどう園と農夫のたとえ」です。イエス様がエルサレムの都に入り、十字架にかかる日が、すぐ数日先に迫っています。本日の個所も、十字架の前のいわゆる受難週の出来事です。
最初の9節から「イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。」ある人は、もちろん神様です。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。」ぶどう園は、宇宙や地球等この世界と言えます。農夫は、直接には旧約聖書以来の神の民イスラエル人と言えますが、もう少し広く考えると、私たち全ての人間とも言えます。私たちは、神様から見れば残念ながら全員、罪人(つみびと)ですから。
神様は農夫たちにぶどう園を貸して、長い旅に出ました。私たちの命も、私たちの僅かなお金も、ささやかな能力、家族、友人、教会等の恵みも皆、神様から貸していただいているのですね。必ずお返しする時がきます。所有者は神様なのですね。神様が主人、私たちは主人でないことを心に刻む必要があります。この命をも含めて、必ず神様にお返しする時がきます。その時に、神様から愛と信頼を込めて貸していただいた命、健康、時間、お金、能力をどのように用いたか、神様に包み隠さず報告する時がきます。最後の審判ですね。自分勝手に用いてしまったか、それとも神様と隣人に喜んでいただける使い方をしたか。その報告をするときが来るので、その時、できるだけよい報告ができるように、一日一日を責任をもって生きる必要があります。
聖書で言う罪とは、ご存じの通り自己中心に生きることです。自分さえよければよくて、神様を愛さず、隣人を愛さないで生きることですね。ある人は、罪とは「人生を私物化することだ」と言ったそうです。自分の命も、自分の人生も、自分のものだと思ってしまうところに罪があるのですね。ところがそれは、実は神のものだと聖書が教えてくれます。私たちも最初にそれを知った時は、驚いたのではないでしょうか。自分の命、自分の人生だと思い込んでいた。それは違うというのです。私たちの真の主人は神様である。神様から借りている命と人生を、自分の所有物と思っている。ここに罪の根本があることになります。自分の命、自分の人生と思い込んで生きる。これが「人生の私物化」で、これが私たち皆の犯している罪だというのです。こう聞くと私たちはびっくりすると思いますが、でもその通りなのです。今日登場する悪い農夫たちも、主人(神様)が深い信頼と愛を込めて預けて下さった(貸して下さった)ぶどう園を私物化し、事実上、主人から盗み取ったのです。
収穫の時が来ました。主人はまだ帰って来ないので、世の終わりそのものではないようです。主人は、ぶどう園の所有者の当然の権利として、僕(しもべ)を送って、収穫物を受け取ろうとします。ところが農夫たちは、何と僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返したのです。実に悪質な農夫たちです。主人は次の僕を派遣します。ところが農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、さらに侮辱を加えて、何も持たせないで追い返しました。主人は三人目の僕を送りましたが、これにも傷を負わせてほうり出しました。実に悪辣、極悪非道な農夫たちです。主人の恩に全く感謝せず、主人のぶどう園を奪い取っています。
主人は忍耐強いですね。自分の大切な三人の僕たちがひどい目に遭って怪我もしているので、ここで怒って彼らを懲らしめてもよいはずです。でも主人は、この悪辣な農夫たちを、なお信頼しようとするのです。ひどい目に遭って追い返された三人の僕たちは、神様がイスラエルに送った数々の預言者と言えます。真の神様から派遣された預言者たちを、旧約聖書の時代のイスラエルの民は拒否しました。イザヤ、エレミヤといった偉大な預言者たちは、イスラエルの民に迫害されたようです。
13節「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。」悪辣な農夫たちの悔い改めを期待して、主人は愛する独り息子を送るのです。私たちがそこにいたら、「やめた方がいいです。彼らは極悪非道です。最愛の独り息子さんを送るなんて、危険すぎます。」それでも主人は、最愛の独り息子を送るのです。言うまでもなくイエス様です。農夫たちは、主人の愛を裏切ります。イエス様を全然敬わないどころか、ぶどう園の外に放り出して殺してしまうのです。神の子イエス様を十字架で殺すことによって、私たち人間たちの罪が頂点に達します。神の子を殺す罪に対する報いは厳しくなります。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」神様が永遠の命を与える恵みは、イエス・キリストを信じる外国人(異邦人、イスラエル人以外)に与えられる、とイエス様は言われます。
民衆はこれを聞いて「そんなことがあってはなりません」と言った。」心を痛めたのでしょう。こんなひどい話は聞いたことがない。ぶどう園の主人の愛する子が殺されるなんて、そして神の民イスラエルが裁かれるなんて、あまりにひどい話だと。
しかしイエス様は民衆をじっと見つめられます。「確かにひどすぎる話だ。あってはならないことだ。それでも、このことが必ず起こってしまうのだよ」と。「あなたたち民衆からも、私を十字架で殺すことに賛成する人々も出て来る。」そのとき詩編118編22節の言葉が現実になる。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になる。」旧約聖書の詩編118編を読むと、次の言葉が続いています。「これは主の御業。私たちの目には驚くべきこと。」本当にそうです。人々は、神の子イエス・キリストについて、「こんな人は要らない」と言って殺し、捨ててしまう。しかし事はそれで終わらない。「人々が捨てたこの石を、父なる神様は大切に用い、神の国の不動の土台石になさる。」神は、全く正しい方イエス・キリストを死なせたままにはなさない。神は、神に従い通したイエス・キリストを必ず復活させる。この復活のキリストこそ、神の国・永遠の命の不動の土台石となる。父なる神様は、人間たちの最悪の罪を用いて、罪人(つみびと)が永遠の命に入る道を開いて下さる。というのです。これは良い知らせ、福音です。
「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」この石は復活されたイエス・キリストです。イエス・キリストはもちろん愛の方ですが、同時に聖なる方、真実な方であって、私たちの罪は、イエス・キリストによって打ち砕かれてしまい、誰一人イエス・キリストを倒せる者はいないのです。「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。」
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になる。」この聖句は、新約聖書の使徒言行録4章11節でも引用されています。イエス様の弟子ペトロが、エルサレムの人々に次のように説教しているのです。「この方(イエス・キリスト)こそ、『あなた方家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となって石』です。ほかの誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下のこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
ペトロの手紙(一)2章3節以下にも、こう語られています。「あなた方は、主(イエス様)が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた尊い生きた石なのです。あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書(旧約聖書)にこう書いてあるからです。『見よ、私は選ばれた尊いかなめ石を、シオン(エルサレム)に置く。これを信じる者は、決して失望することがない。』」イエス・キリストに信頼を置き、イエス・キリストを救い主と信じる者は、決して失望に終わることがないのです。感謝です。私たちも決して裏切らない方イエス・キリストにしっかりと信頼し、イエス・キリストを宣べ伝えて、イエス・キリストと共に地上の歩みを、天国に入れていただくまで、歩み抜いて参りたいのです。アーメン。
2026-09-13 0:36:36()
「真の権威」 2026年9月13日(日)聖霊降臨節節第17主日礼拝説教
説教は励ましと希望であれ。(ルカによる福音書20章1~8節)
ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
(説教) 本日は、聖霊降臨節第17主日公同礼拝の礼拝です。説教題は、「真の権威」、小見出しは「権威についての問答」です。この少し前にイエス様は、ろばに乗ってエルサレムの都にお入りになったのです。そして神の民の都エルサレムを愛して、その罪のために泣かれました。神の子イエス様が来たのに、受け入れないエルサレムのために泣かれました。エルサレムの人々が神の子イエス様を拒否して十字架につけることが分かっていました。神の子を殺すことは、非常に大きな罪ですから、そんなことをすれば、父なる神様の聖なる怒りがエルサレムに下ることを、イエス様はご存じでした。ですからエルサレムに下る審判を思って、イエス様は涙されました。その後、イエス様は、愛する父なる神様の家である神殿に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し、神殿を激しく清められました。神殿から人間の欲望を追放し、聖なる神殿、父なる神様の御心に適う神殿を、取り戻されたのです。
最初の1節「ある日、ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」彼らがそう言うのは、ある意味で当然です。イエス様は祭司長でも律法学者でも長老でもありません。33歳くらいの若者に過ぎません。1つの肩書さえもないのです。有名大学を出たわけでもなく、有名企業の社員でもなく、有力者の息子でもなく、有名な資格を取得しているわけでもありません。お金も少ししか持っていません。何一つ肩書がない若者が、実力一本で勝負していると言えるかもしれません。
イエス様が神殿を激しく清めたとき、祭司長、律法学者、民の指導者たちは、激しく怒り、イエス様を殺そうと謀ったと書かれています。神殿は、彼らの本拠地だったと言えます。もちろんイエス様にとっても、愛する父なる神様の家です。イエス様にとっては、大切な神殿を清めることは当然のことなのですが、神殿を本拠地とする当時のイスラエルの信仰のリーダーたちは、メンツを完全につぶされ、イエス様に激しい殺意を抱きました。この神殿清めが、イエス様を十字架に追い込む、直接の原因となったのではないかとさえ思います。
彼らは、イエス様に詰め寄ります。「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」それは父なる神様です。イエス様は、父なる神様の御心に沿って神殿を清めたのです。それが神殿の権威者である祭司長、律法学者、指導者たちと衝突したのですね。そのような衝突は、先週もお話しした通り、預言者エレミヤの時代などにも起こったのだと思います。
イエス様は彼らの質問に直接答えず、逆に一つの質問をなさいます。「では、私も一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼(バプテスマ)は、天からのものだったか、それとも人からのものだったか。」ヨハネの洗礼は、もちろん天から(神から)の洗礼です。それを拒否することは、父なる神様の御心に反することです。
イエス様は、このルカ福音書7章26節以下で次のように語り、洗礼者ヨハネの偉大さを認めておられます。「(あなた方は)何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。『見よ、私(神)はあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』(出エジプト記23章20節とマラキ書3章1節を合わせた引用)と書いてあるのは、この人(ヨハネ)のことだ。言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネよりも偉大な者はいない。」このようにイエス様は、ヨハネの偉大さを認めておられます。ヨハネは、母親のお腹にいたときから、聖霊に満たされていたのです。民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもヨハネから洗礼を受け、神の正しさを認めたのでした。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、せっかく神様が送って下さったヨハネから洗礼を受けず、自分たちに対する神様の御心を拒んだ、と書かれています。そして洗礼者ヨハネとイエス様の悪口を言う人々もいたと、イエス様はルカ福音書7章で語られます。「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなた方は『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子(イエス様ご自身)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人(つみびと)の仲間だ』と言う。」偏見を捨てて素直に見れば、洗礼者ヨハネもイエス様も、神様から派遣された聖なる方であることが分かるはずですが、人々の目は偏見に大いに満ちていたので、洗礼者ヨハネとイエス様に対して、このようなとんでもない暴言を述べたのです。
イエス様に逆に質問されて、彼らは相談します。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」そこで彼らは、『どこからか、分からない』と答えた。」彼らはヨハネの洗礼が天(神様)から来るもので、人が考案したに過ぎないものではないと、分かっていたのだと思います。しかし気に入らないので、ヨハネから洗礼を受けませんでした。イエス様に「ヨハネの洗礼は天(神)から来るものだ」と答えれば、「ではなぜヨハネを信じなかったのか」とイエス様にやり込められてしまうので、素直に「ヨハネの洗礼は天からのものだった」と答えたくないのです。ヨハネの洗礼を天からのものと認めれば、ヨハネの後に来たイエス様の働きも、「天から(神から)もの」と認めざるを得なくなるので、それが嫌だったのだと思います。
しかし「人からのものだ」と言えば、ヨハネを天からの偉大な預言者と信じる民衆の怒りを買い、民衆に石で打ち殺されるだろう。どちらに答えても、祭司長・律法学者たち・長老たちが不利になるので、逃げて「どこからか、分からない」と答えない道、ごまかす道を選びました。しかし、ヨハネの洗礼も、イエス様の働きも天からのものであり、父なる神様の権威に支えられた働きです。ヨハネとイエス様に反対することは、真の神様に背くことになります。彼らが正面から答えないのを見て、イエス様も、「この人たちと本気で話し合う必要はない」と思われたのでしょう。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい」と言われました。彼らは、神様に従いたくないのが本音でした。
当時のイスラエルには、賢明な信仰の指導者もいました。イエス様の十字架と復活の少し後のこと、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々が、ペトロをはじめとするイエス様の使徒たち(弟子たち)を迫害していました。その時、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエル(使徒パウロの先生)が、最高法院の議員たちにこう忠告したのです。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。(~)あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名(イエスの名は権威です)によって話してはならないと命じた上、釈放したのです。使徒たちを迫害することは、神様に逆らうことです。ガブリエルの忠告を受け入れて、神様に逆らう罪を犯す過ちを避けることができました。
権威という言葉は、難しいですね。あまり権威を強調すると、権威主義などと言われて、嫌がられるでしょう。しかし権威が全くないと、人は何にも従わず、世の中が無秩序になってしまいます。イエス様は、権力をお持ちになりませんが、権威を持っておられます。イエス様の言葉にも権威があります。ルカ福音書4章を見ると、イエス様が悪霊に「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊が男を投げ倒し、出て行きました。人々は皆驚いて、「この言葉はいったい何だろう。権威と力をもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」と言ったのです。宗教改革の三大原理「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司。」プロテスタント教会にはローマ教皇のような大権威者がいない。神の言葉である聖書にのみ権威がある。
マタイ福音書の最後で、イエス様はこう宣言されます。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」イエス様がまさに、全宇宙の「王の王、主の主」であることが分かります。ここに出て来た権能という言葉は、権威と訳すこともできます。「私は天と地の一切の権威を授かっている。」この権威は父なる神様から来ます。そしてイエス様の真の権威は、イエス様が十字架にかかって下さったことから来る権威だと思うのです。
「この私の罪を身代わりに背負って十字架で死んで下さった」と思えば、私たちは皆、深く感謝して無条件にイエス様の前にひざまずきます。私のために十字架で死んで下さった方の前に、私たちは進んでひざまずきます。十字架で死んで下さったことによって、へりくだって、どこまでも愛の奉仕に生きられたことによって、イエス様の真の権威が生じると思うのです。フィリピの信徒への手紙2章6節以下に、こうある通りです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名(権威)をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエス様の御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
イエス様は、ルカ福音書5章で中風という病気に苦しんでいた人の病気を癒し、同時に罪の赦しを実行しておられます。印象的な場面で、友情厚い男たちが、中風の人を床に乗せて運んで来て、イエス様がおられた家の屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中に病気の方を床ごと釣り降ろしたのです。イエス様は「人の子(ご自分)が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」当時は、罪の結果が病気だと思われていた。病気を癒すことで、その人の罪が赦されたことを目に見える形で示して下さった。イエス様は、人間の罪を赦す権威をお持ちです。
イエス様はなぜ、私たち人間の罪を赦す権威をもっておられるのでしょうか。それはやはりイエス様が、私たちの全部の罪を身代わりに背負って十字架で死んで下さる・死んだ下さったからに、ほかなりません。そう、イエス様は全人類の全部の罪を身代わりに背負って十字架で、罪に対する父なる神様の全部の裁きを受けたのです。そのお陰で、私たちの罪は完全に解決されたのです。ですからイエス様は、自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じ告白する人に、自信をもって、「あなたの罪は赦された」と権威をもって断言・宣言することができます。全人類の全部の罪を十字架で背負いきった完璧な実績があるので、イエス様は、イエス様を信じる人に、そう権威をもって断言・宣言できるのです。「あなたの罪は、完全に赦された。私の十字架の犠牲の死によって。安心して行きなさい。」イエス様の権威の源、特にイエス様が罪を赦す権威の源は、イエス様の十字架にあると分かるのです。アーメン。
ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
(説教) 本日は、聖霊降臨節第17主日公同礼拝の礼拝です。説教題は、「真の権威」、小見出しは「権威についての問答」です。この少し前にイエス様は、ろばに乗ってエルサレムの都にお入りになったのです。そして神の民の都エルサレムを愛して、その罪のために泣かれました。神の子イエス様が来たのに、受け入れないエルサレムのために泣かれました。エルサレムの人々が神の子イエス様を拒否して十字架につけることが分かっていました。神の子を殺すことは、非常に大きな罪ですから、そんなことをすれば、父なる神様の聖なる怒りがエルサレムに下ることを、イエス様はご存じでした。ですからエルサレムに下る審判を思って、イエス様は涙されました。その後、イエス様は、愛する父なる神様の家である神殿に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し、神殿を激しく清められました。神殿から人間の欲望を追放し、聖なる神殿、父なる神様の御心に適う神殿を、取り戻されたのです。
最初の1節「ある日、ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」彼らがそう言うのは、ある意味で当然です。イエス様は祭司長でも律法学者でも長老でもありません。33歳くらいの若者に過ぎません。1つの肩書さえもないのです。有名大学を出たわけでもなく、有名企業の社員でもなく、有力者の息子でもなく、有名な資格を取得しているわけでもありません。お金も少ししか持っていません。何一つ肩書がない若者が、実力一本で勝負していると言えるかもしれません。
イエス様が神殿を激しく清めたとき、祭司長、律法学者、民の指導者たちは、激しく怒り、イエス様を殺そうと謀ったと書かれています。神殿は、彼らの本拠地だったと言えます。もちろんイエス様にとっても、愛する父なる神様の家です。イエス様にとっては、大切な神殿を清めることは当然のことなのですが、神殿を本拠地とする当時のイスラエルの信仰のリーダーたちは、メンツを完全につぶされ、イエス様に激しい殺意を抱きました。この神殿清めが、イエス様を十字架に追い込む、直接の原因となったのではないかとさえ思います。
彼らは、イエス様に詰め寄ります。「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」それは父なる神様です。イエス様は、父なる神様の御心に沿って神殿を清めたのです。それが神殿の権威者である祭司長、律法学者、指導者たちと衝突したのですね。そのような衝突は、先週もお話しした通り、預言者エレミヤの時代などにも起こったのだと思います。
イエス様は彼らの質問に直接答えず、逆に一つの質問をなさいます。「では、私も一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼(バプテスマ)は、天からのものだったか、それとも人からのものだったか。」ヨハネの洗礼は、もちろん天から(神から)の洗礼です。それを拒否することは、父なる神様の御心に反することです。
イエス様は、このルカ福音書7章26節以下で次のように語り、洗礼者ヨハネの偉大さを認めておられます。「(あなた方は)何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。『見よ、私(神)はあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』(出エジプト記23章20節とマラキ書3章1節を合わせた引用)と書いてあるのは、この人(ヨハネ)のことだ。言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネよりも偉大な者はいない。」このようにイエス様は、ヨハネの偉大さを認めておられます。ヨハネは、母親のお腹にいたときから、聖霊に満たされていたのです。民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもヨハネから洗礼を受け、神の正しさを認めたのでした。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、せっかく神様が送って下さったヨハネから洗礼を受けず、自分たちに対する神様の御心を拒んだ、と書かれています。そして洗礼者ヨハネとイエス様の悪口を言う人々もいたと、イエス様はルカ福音書7章で語られます。「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなた方は『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子(イエス様ご自身)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人(つみびと)の仲間だ』と言う。」偏見を捨てて素直に見れば、洗礼者ヨハネもイエス様も、神様から派遣された聖なる方であることが分かるはずですが、人々の目は偏見に大いに満ちていたので、洗礼者ヨハネとイエス様に対して、このようなとんでもない暴言を述べたのです。
イエス様に逆に質問されて、彼らは相談します。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」そこで彼らは、『どこからか、分からない』と答えた。」彼らはヨハネの洗礼が天(神様)から来るもので、人が考案したに過ぎないものではないと、分かっていたのだと思います。しかし気に入らないので、ヨハネから洗礼を受けませんでした。イエス様に「ヨハネの洗礼は天(神)から来るものだ」と答えれば、「ではなぜヨハネを信じなかったのか」とイエス様にやり込められてしまうので、素直に「ヨハネの洗礼は天からのものだった」と答えたくないのです。ヨハネの洗礼を天からのものと認めれば、ヨハネの後に来たイエス様の働きも、「天から(神から)もの」と認めざるを得なくなるので、それが嫌だったのだと思います。
しかし「人からのものだ」と言えば、ヨハネを天からの偉大な預言者と信じる民衆の怒りを買い、民衆に石で打ち殺されるだろう。どちらに答えても、祭司長・律法学者たち・長老たちが不利になるので、逃げて「どこからか、分からない」と答えない道、ごまかす道を選びました。しかし、ヨハネの洗礼も、イエス様の働きも天からのものであり、父なる神様の権威に支えられた働きです。ヨハネとイエス様に反対することは、真の神様に背くことになります。彼らが正面から答えないのを見て、イエス様も、「この人たちと本気で話し合う必要はない」と思われたのでしょう。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい」と言われました。彼らは、神様に従いたくないのが本音でした。
当時のイスラエルには、賢明な信仰の指導者もいました。イエス様の十字架と復活の少し後のこと、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々が、ペトロをはじめとするイエス様の使徒たち(弟子たち)を迫害していました。その時、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエル(使徒パウロの先生)が、最高法院の議員たちにこう忠告したのです。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。(~)あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名(イエスの名は権威です)によって話してはならないと命じた上、釈放したのです。使徒たちを迫害することは、神様に逆らうことです。ガブリエルの忠告を受け入れて、神様に逆らう罪を犯す過ちを避けることができました。
権威という言葉は、難しいですね。あまり権威を強調すると、権威主義などと言われて、嫌がられるでしょう。しかし権威が全くないと、人は何にも従わず、世の中が無秩序になってしまいます。イエス様は、権力をお持ちになりませんが、権威を持っておられます。イエス様の言葉にも権威があります。ルカ福音書4章を見ると、イエス様が悪霊に「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊が男を投げ倒し、出て行きました。人々は皆驚いて、「この言葉はいったい何だろう。権威と力をもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」と言ったのです。宗教改革の三大原理「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司。」プロテスタント教会にはローマ教皇のような大権威者がいない。神の言葉である聖書にのみ権威がある。
マタイ福音書の最後で、イエス様はこう宣言されます。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」イエス様がまさに、全宇宙の「王の王、主の主」であることが分かります。ここに出て来た権能という言葉は、権威と訳すこともできます。「私は天と地の一切の権威を授かっている。」この権威は父なる神様から来ます。そしてイエス様の真の権威は、イエス様が十字架にかかって下さったことから来る権威だと思うのです。
「この私の罪を身代わりに背負って十字架で死んで下さった」と思えば、私たちは皆、深く感謝して無条件にイエス様の前にひざまずきます。私のために十字架で死んで下さった方の前に、私たちは進んでひざまずきます。十字架で死んで下さったことによって、へりくだって、どこまでも愛の奉仕に生きられたことによって、イエス様の真の権威が生じると思うのです。フィリピの信徒への手紙2章6節以下に、こうある通りです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名(権威)をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエス様の御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」
イエス様は、ルカ福音書5章で中風という病気に苦しんでいた人の病気を癒し、同時に罪の赦しを実行しておられます。印象的な場面で、友情厚い男たちが、中風の人を床に乗せて運んで来て、イエス様がおられた家の屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中に病気の方を床ごと釣り降ろしたのです。イエス様は「人の子(ご自分)が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」当時は、罪の結果が病気だと思われていた。病気を癒すことで、その人の罪が赦されたことを目に見える形で示して下さった。イエス様は、人間の罪を赦す権威をお持ちです。
イエス様はなぜ、私たち人間の罪を赦す権威をもっておられるのでしょうか。それはやはりイエス様が、私たちの全部の罪を身代わりに背負って十字架で死んで下さる・死んだ下さったからに、ほかなりません。そう、イエス様は全人類の全部の罪を身代わりに背負って十字架で、罪に対する父なる神様の全部の裁きを受けたのです。そのお陰で、私たちの罪は完全に解決されたのです。ですからイエス様は、自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じ告白する人に、自信をもって、「あなたの罪は赦された」と権威をもって断言・宣言することができます。全人類の全部の罪を十字架で背負いきった完璧な実績があるので、イエス様は、イエス様を信じる人に、そう権威をもって断言・宣言できるのです。「あなたの罪は、完全に赦された。私の十字架の犠牲の死によって。安心して行きなさい。」イエス様の権威の源、特にイエス様が罪を赦す権威の源は、イエス様の十字架にあると分かるのです。アーメン。
2026-09-05 22:28:39(土)
「エルサレムのために泣くキリスト」 2026年9月6日(日)説教
(ルカ福音書19章41~48節)
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
◆神殿から商人を追い出す
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
(説教)本日は、聖霊降臨節第16主日公同礼拝の礼拝です。説教題は、「エルサレムのために泣くキリスト」、小見出しは「エルサレムに迎えられる」の後半と、「神殿から商人を追い出す」です。
イエス様がエルサレムの神殿に近づかれた時、弟子の群れはこぞって、声高らかに神様を賛美しました。「主の名によって来られる王に、祝福があるように。天には平和、いと高き所には栄光。」するとファリサイ派のある人々が、イエス様にやめさせるように言いましたが、イエス様は弟子たちの賛美をよしとされ、もし今賛美している人々が強制的に讃美をやめさせられば、神様の力が働いて、道端の石ころが、イエス様への賛美を歌うと言われました。このように、イエス様への賛美は父なる神様のご意志であり、誰もこれを妨げることはできないと語られました。
本日の最初の41~42節「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前(エルサレム)も平和への道をわきまえていたなら…。』」そうであれば、どんなによかったか。「平和への道」とは。「真の平和への道」と思います。神様との和解の道ですね。神様の御心にひたすら従う時、神様と和解し、真の平和の道を歩むことができます。しかし神の都であるはずのエルサレムが、神様に背く都になってしまっていました。不思議なことですが、そうだったのです。イエス様は神の子ですから、イエス様の涙は神の子の涙、神様の涙とも言えます。イエス様は、エルサレムの都を深く愛していらしたので、エルサレムの深い堕落を悲しんで、涙を流されたのです。その堕落のゆえにもたらされる滅亡を思って、涙されたのです。そのエルサレムに入られたイエス様は、まず信仰と礼拝の中心に行かれ、神殿を激しく清められたのです。
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」「今は、それ(平和への道)が見えない。」直訳では、「今は、それ(平和の道)が隠されている」です。神によって隠されている、ということになると思います。エルサレム(イスラエル)の人々の心がかたくなで、イエス・キリストを受け入れないために、彼らの目が神によって真理が見えないように隠され、霊的に盲目になり、真の平和への道であるイエス・キリストをさらに拒否する方向に行ってしまう。神に背いているので、遂には神様の裁きを受けざるを得ません。エルサレムの将来の滅亡が見えるので、イエス様はエルサレムのために深く悲しんで、涙を流しておられます。今、エルサレム付近には「主の涙の教会」があるそうです。この辺りでイエス様が涙を流されたと考えて、後のクリスチャンが建てた教会なのでしょう。このエルサレムの滅亡は、約40年後に実現しました。イスラエルの人々は、ローマ帝国に対して独立戦争を行ったのですが敗北し、エルサレムの神殿も破壊されてしまったのです。それを行ったローマの将軍はティトゥスという人でした。
イエス様の涙とよく似ているのは、預言者エレミヤの涙です。エレミヤは「涙の預言者」と言われます。エレミヤが生きた時代は、イエス様より500年以上前です。エレミヤの時代も、イスラエルの民が神様に背いていました。偽物の神を礼拝する偶像礼拝等の罪を犯していました。エレミヤは、人々に悔い改めを求める説教を行いました。このように神様に背き続ける状態が続けば、神様の裁きを受けると、愛の警告を語りました。彼はイスラエルを愛する真の愛国者だったのです。祖国への愛の故に、罪の悔い改めを求める説教を行いました。しかし厳しい説教だったので、人々は受け入れませんでした。「国が亡びるような説教を語るとは売国奴だ、裏切り者だ」という評価を受けたようです。ところがエレミヤは真の愛国者だったので、国が滅びないために、悔い改めを求める一見、厳しいメッセージを語ったのです。しかし反発され、憎まれ、迫害を受けました。エレミヤは、ここままでは祖国が神の裁きを受けると分かっていたので、涙を流します。
エレミヤ書8章23節「私の目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜も私は泣こう。娘なるわが民の倒れた者のために。」13章16~17節「あなたたちの神、主に栄光を帰せよ。闇が襲わぬうちに、足が夕闇の山でつまずかぬうちに。光を望んでも、主はそれを死の陰とし、暗黒に変えられる。あなたたちが聞かなければ、私の魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙があふれ、私の目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ。」14章17節。これは神の言葉を思います。「あなた(エレミヤ)は彼ら(偽預言者)にこの言葉を語りなさい。『私の目は夜も昼も涙を流し、とどまることがない。娘なるわが民は破滅し、その傷はあまりにも重い。』」
イエス様の涙も、エレミヤの涙も、イスラエルを深く愛しているからこその涙です。
ルカに戻ります。「神殿から商人を追い出す」の小見出しの所です。45節より「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」ヨハネ福音書2章には、こう書いてあります。イエス様は「神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。』」
ここで商売していた人々は、神殿に来た人々が神様に献げる羊や牛や鳩を売り、また人々の便利のために両替していました。巨大な利益を得ていたわけではないと思います。特別に悪徳の商人ではなかったと思われます。それでも、イエス様は深い悲しみ、聖なる怒りを発揮され、羊や牛や鳩を売り、両替していた人々を、力づくで追い払われました。彼らの売り買いが、真の礼拝を邪魔していると分かったからです。神殿は、聖霊に満ちた聖なる場。礼拝の場、祈りの場。そこで金儲けをしてはいけないということではないかと思います。そのまま放置すれば、真の神様を礼拝するより、お金・人間の欲望を礼する場になってしまう。イエス様はそれを危惧されたのだと思います。
イエス様は言われました。「こう書いてある。『私(神)の家は祈りの家でなければならない。』」旧約聖書のイザヤ書56章7節です。そこにはこうあります。「私(神)の家は、すべての民(イスラエル人だけでなく、外国人をも含む)の祈りの家と呼ばれる。」神は聖なる方なので、その神様に祈る祈りの家(神殿)も聖なる空間でなければならないということでしょう。教会も同じと言えます。そこでは、どのような祈り・礼拝が献げられる必要があるのでしょうか。このルカによる福音書18章に、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」があり、神殿での徴税人の祈りが、神様に喜ばれたと書かれています。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人(つみびと)の私を憐れんで下さい。』」この人が、神様に義と認められて家に帰ったと記されています。
「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」そうイエス様は言われます。「強盗の巣」とは、強烈な表現です。エレミヤ書7章からの引用です。そこにはこうあります。預言者エレミヤの言葉です。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ。皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、私はお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿というむなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、私はお前たちを先祖に与えたこの所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たちはこの空しい力に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によってよばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。その通り、私にもそう見える、と主は言われる。」
エレミヤの時代にも立派な神殿がありましたが、人々は礼拝に来ていたのでしょうが、生活では様々な罪と悪を行っていたようです。盗み、殺し、姦淫、偽って誓うこと、偽物の神を拝むこと、外国人・孤児・寡婦を虐げること、無実の人の血を流す等です。そのような悪を行いながら、神殿に来て、「主よ、御名を讃美します」と言っても、当然ながら、神様に喜ばれることはありません。
本日の聖句を読んで私が思い出したのは、マルティン・ルターの宗教改革です。宗教改革を非常に単純に理解すると、16世紀当時のヨーロッパの教会では、免罪符というものが売られていたと、中学校の世界史で習った記憶があります。もしその通りだったとすれば、当時の教会では、人が罪を犯しても、免罪符を買えば、罪を赦してもらえた。教会は免罪符を売って儲けていたということになります。さすがに実際は、そこまで単純ではなかったかもしれません。免罪符は正式には贖宥状と呼ぶそうです。マルティン・ルター「私たちの全生涯が悔い改め。」改革派教会=神の言葉によって絶えず改革される教会。
パウロもイエス様と同じ姿勢。問題の多かったコリント教会への手紙。明らかな罪を犯している教会員もいた。コリント(一)4章21節。5章13節。コリント(二)2章4節。
神殿で鞭を振るったイエス様は、聖なる怒りを発しつつも、心の中でイスラエルや私たちの罪を悲しんで、涙しておられたのではないか。カルヴァン「真心から発する真摯な祈り以外は鳴り響いてはならぬ教会」。
今日はまさに全国の教会が東久留米教会のために祈って下さる恵みの日。とりなしの祈りの霊的価値は絶大。教会は「祈りの家」さらに祈る教会へ!
ペトロの手紙(一)4章17節。ゼカリヤ書14章。商売の家、利益の家はいけない。モーセの十戒を1つ1つ守っているか、前の日に自己チェックした上で聖餐式を受ける。礼拝は、真心を込めて。アーメン。
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
◆神殿から商人を追い出す
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
(説教)本日は、聖霊降臨節第16主日公同礼拝の礼拝です。説教題は、「エルサレムのために泣くキリスト」、小見出しは「エルサレムに迎えられる」の後半と、「神殿から商人を追い出す」です。
イエス様がエルサレムの神殿に近づかれた時、弟子の群れはこぞって、声高らかに神様を賛美しました。「主の名によって来られる王に、祝福があるように。天には平和、いと高き所には栄光。」するとファリサイ派のある人々が、イエス様にやめさせるように言いましたが、イエス様は弟子たちの賛美をよしとされ、もし今賛美している人々が強制的に讃美をやめさせられば、神様の力が働いて、道端の石ころが、イエス様への賛美を歌うと言われました。このように、イエス様への賛美は父なる神様のご意志であり、誰もこれを妨げることはできないと語られました。
本日の最初の41~42節「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前(エルサレム)も平和への道をわきまえていたなら…。』」そうであれば、どんなによかったか。「平和への道」とは。「真の平和への道」と思います。神様との和解の道ですね。神様の御心にひたすら従う時、神様と和解し、真の平和の道を歩むことができます。しかし神の都であるはずのエルサレムが、神様に背く都になってしまっていました。不思議なことですが、そうだったのです。イエス様は神の子ですから、イエス様の涙は神の子の涙、神様の涙とも言えます。イエス様は、エルサレムの都を深く愛していらしたので、エルサレムの深い堕落を悲しんで、涙を流されたのです。その堕落のゆえにもたらされる滅亡を思って、涙されたのです。そのエルサレムに入られたイエス様は、まず信仰と礼拝の中心に行かれ、神殿を激しく清められたのです。
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」「今は、それ(平和への道)が見えない。」直訳では、「今は、それ(平和の道)が隠されている」です。神によって隠されている、ということになると思います。エルサレム(イスラエル)の人々の心がかたくなで、イエス・キリストを受け入れないために、彼らの目が神によって真理が見えないように隠され、霊的に盲目になり、真の平和への道であるイエス・キリストをさらに拒否する方向に行ってしまう。神に背いているので、遂には神様の裁きを受けざるを得ません。エルサレムの将来の滅亡が見えるので、イエス様はエルサレムのために深く悲しんで、涙を流しておられます。今、エルサレム付近には「主の涙の教会」があるそうです。この辺りでイエス様が涙を流されたと考えて、後のクリスチャンが建てた教会なのでしょう。このエルサレムの滅亡は、約40年後に実現しました。イスラエルの人々は、ローマ帝国に対して独立戦争を行ったのですが敗北し、エルサレムの神殿も破壊されてしまったのです。それを行ったローマの将軍はティトゥスという人でした。
イエス様の涙とよく似ているのは、預言者エレミヤの涙です。エレミヤは「涙の預言者」と言われます。エレミヤが生きた時代は、イエス様より500年以上前です。エレミヤの時代も、イスラエルの民が神様に背いていました。偽物の神を礼拝する偶像礼拝等の罪を犯していました。エレミヤは、人々に悔い改めを求める説教を行いました。このように神様に背き続ける状態が続けば、神様の裁きを受けると、愛の警告を語りました。彼はイスラエルを愛する真の愛国者だったのです。祖国への愛の故に、罪の悔い改めを求める説教を行いました。しかし厳しい説教だったので、人々は受け入れませんでした。「国が亡びるような説教を語るとは売国奴だ、裏切り者だ」という評価を受けたようです。ところがエレミヤは真の愛国者だったので、国が滅びないために、悔い改めを求める一見、厳しいメッセージを語ったのです。しかし反発され、憎まれ、迫害を受けました。エレミヤは、ここままでは祖国が神の裁きを受けると分かっていたので、涙を流します。
エレミヤ書8章23節「私の目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜も私は泣こう。娘なるわが民の倒れた者のために。」13章16~17節「あなたたちの神、主に栄光を帰せよ。闇が襲わぬうちに、足が夕闇の山でつまずかぬうちに。光を望んでも、主はそれを死の陰とし、暗黒に変えられる。あなたたちが聞かなければ、私の魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙があふれ、私の目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ。」14章17節。これは神の言葉を思います。「あなた(エレミヤ)は彼ら(偽預言者)にこの言葉を語りなさい。『私の目は夜も昼も涙を流し、とどまることがない。娘なるわが民は破滅し、その傷はあまりにも重い。』」
イエス様の涙も、エレミヤの涙も、イスラエルを深く愛しているからこその涙です。
ルカに戻ります。「神殿から商人を追い出す」の小見出しの所です。45節より「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」ヨハネ福音書2章には、こう書いてあります。イエス様は「神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。』」
ここで商売していた人々は、神殿に来た人々が神様に献げる羊や牛や鳩を売り、また人々の便利のために両替していました。巨大な利益を得ていたわけではないと思います。特別に悪徳の商人ではなかったと思われます。それでも、イエス様は深い悲しみ、聖なる怒りを発揮され、羊や牛や鳩を売り、両替していた人々を、力づくで追い払われました。彼らの売り買いが、真の礼拝を邪魔していると分かったからです。神殿は、聖霊に満ちた聖なる場。礼拝の場、祈りの場。そこで金儲けをしてはいけないということではないかと思います。そのまま放置すれば、真の神様を礼拝するより、お金・人間の欲望を礼する場になってしまう。イエス様はそれを危惧されたのだと思います。
イエス様は言われました。「こう書いてある。『私(神)の家は祈りの家でなければならない。』」旧約聖書のイザヤ書56章7節です。そこにはこうあります。「私(神)の家は、すべての民(イスラエル人だけでなく、外国人をも含む)の祈りの家と呼ばれる。」神は聖なる方なので、その神様に祈る祈りの家(神殿)も聖なる空間でなければならないということでしょう。教会も同じと言えます。そこでは、どのような祈り・礼拝が献げられる必要があるのでしょうか。このルカによる福音書18章に、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」があり、神殿での徴税人の祈りが、神様に喜ばれたと書かれています。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人(つみびと)の私を憐れんで下さい。』」この人が、神様に義と認められて家に帰ったと記されています。
「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」そうイエス様は言われます。「強盗の巣」とは、強烈な表現です。エレミヤ書7章からの引用です。そこにはこうあります。預言者エレミヤの言葉です。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ。皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、私はお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿というむなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、私はお前たちを先祖に与えたこの所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。しかし見よ、お前たちはこの空しい力に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によってよばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。その通り、私にもそう見える、と主は言われる。」
エレミヤの時代にも立派な神殿がありましたが、人々は礼拝に来ていたのでしょうが、生活では様々な罪と悪を行っていたようです。盗み、殺し、姦淫、偽って誓うこと、偽物の神を拝むこと、外国人・孤児・寡婦を虐げること、無実の人の血を流す等です。そのような悪を行いながら、神殿に来て、「主よ、御名を讃美します」と言っても、当然ながら、神様に喜ばれることはありません。
本日の聖句を読んで私が思い出したのは、マルティン・ルターの宗教改革です。宗教改革を非常に単純に理解すると、16世紀当時のヨーロッパの教会では、免罪符というものが売られていたと、中学校の世界史で習った記憶があります。もしその通りだったとすれば、当時の教会では、人が罪を犯しても、免罪符を買えば、罪を赦してもらえた。教会は免罪符を売って儲けていたということになります。さすがに実際は、そこまで単純ではなかったかもしれません。免罪符は正式には贖宥状と呼ぶそうです。マルティン・ルター「私たちの全生涯が悔い改め。」改革派教会=神の言葉によって絶えず改革される教会。
パウロもイエス様と同じ姿勢。問題の多かったコリント教会への手紙。明らかな罪を犯している教会員もいた。コリント(一)4章21節。5章13節。コリント(二)2章4節。
神殿で鞭を振るったイエス様は、聖なる怒りを発しつつも、心の中でイスラエルや私たちの罪を悲しんで、涙しておられたのではないか。カルヴァン「真心から発する真摯な祈り以外は鳴り響いてはならぬ教会」。
今日はまさに全国の教会が東久留米教会のために祈って下さる恵みの日。とりなしの祈りの霊的価値は絶大。教会は「祈りの家」さらに祈る教会へ!
ペトロの手紙(一)4章17節。ゼカリヤ書14章。商売の家、利益の家はいけない。モーセの十戒を1つ1つ守っているか、前の日に自己チェックした上で聖餐式を受ける。礼拝は、真心を込めて。アーメン。