日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2024-11-02 22:49:11(土)
「教会にご自分を与えたキリスト」2024年11月3日(日)東久留米教会創立63周年記念日礼拝
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23,頌栄28、主の祈り,交読詩編144、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・395、聖書 雅歌4:7~11、エフェソの信徒への手紙5:21~33、祈祷、説教、祈祷、讃美歌390、聖餐式、献金、頌栄351(1節)、祝祷。 
 
(雅歌4:7~11)恋人よ、あなたはなにもかも美しく/傷はひとつもない。花嫁よ、レバノンからおいで/おいで、レバノンから出ておいで。アマナの頂から、セニル、ヘルモンの頂から/獅子の隠れが、豹の住む山から下りておいで。わたしの妹、花嫁よ/あなたはわたしの心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も/それだけで、わたしの心をときめかす。わたしの妹、花嫁よ、あなたの愛は美しく/ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。あなたの香油は/どんな香り草よりもかぐわしい。花嫁よ、あなたの唇は蜜を滴らせ/舌には蜂蜜と乳がひそむ。あなたの衣はレバノンの香り。

(エフェソ5:21~33) キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい 
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。

(説教) 本日は、東久留米教会創立63周年記念日の礼拝です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙5章21~33節、説教題は「教会にご自分を与えたキリスト」です。小見出しは、「妻と夫」です。

 礼拝で月一回ほど、エフェソの信徒への手紙を読もうと心がけています。エフェソの信徒への手紙のテーマは「教会」だと言われます。そして本日の箇所は、「教会とは何か」ということを特に強調して語っています。教会の創立記念日の本日、この箇所が巡って来たことは、神様の大いなる恵みだと深く思うのです。先週の修養会のテーマは「聖霊」でしたが、本日この箇所が巡って来たことも、まさしく聖霊の導きにほかならないと深く感謝致します。

 最初の21節「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」イエス・キリストを畏れ敬うことは、クリスチャンの基本ですね。そして「互いに仕え合う」、これも教会生活、クリスチャン生活の基本と思います。著者のパウロは、ローマの信徒への手紙12章9~10節でも、似たことを語っています。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」互いに仕え合いなさいとほぼ同じ意味と思います。

 22~23節「妻たちよ、主(イエス・キリスト)に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭(かしら)であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」本日の箇所には、結婚のこととキリストの教会のこと、その両方が書かれています。「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」現代では多くの方々が、「夫は妻の頭」という言葉を差別的と感じ、抵抗を覚えると思います。ただ、ここでパウロが語ることは、「キリストと教会の関係が、夫と妻の関係の土台にある」ということです。キリストが教会の頭で、キリストがその体(教会)の救い主であるように、夫は妻の頭で、夫が妻の救い主であるように妻を愛する、と言っています。当然、夫は横暴であってはならず、キリストが教会のために十字架にかかるほどに教会を愛したように、夫も妻を愛しなさい、と語っています。この愛は原語のギリシア語でアガペーです。

 24節「また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」この御言葉にも女性の方々が抵抗を覚えられると思いますが、21節では「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と書かれているので、夫も妻も仕え合えなさいという意味だと理解してよいのではないでしょうか。そして25節「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」つまり、夫たちよ、妻のために十字架にかかる覚悟で、妻を愛しなさい、というのです。とにかく、夫と妻の関係の土台にあるのは、キリストと教会の関係だと語っていることは確かです。教会という言葉は、新約聖書の元の言葉ギリシア語で、エクレシアです。直訳では「呼び集められた者」の意味だそうです。父なる神様によって、イエス・キリストの元に呼び集められた人々の共同体がエクレシア(教会)なのですね。イエス・キリストは教会を愛し、ですから東久留米教会をも愛し、教会のために十字架で死んで、教会にご自分の命を与えて下さいました。この愛に深く感謝し、夫もまたこのキリストの愛で妻を愛しなさい、とパウロが私たちを励まします。

 26節「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗い(洗礼)によって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。」キリストが花婿、教会は洗礼によって清められたキリストの花嫁なのです。キリストは花嫁である教会のために十字架に死なれたとも言えます。キリストはそのようにして花嫁である教会を愛したのです。そして愛し続けて、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の、前に立たせようと花嫁である教会に、清き聖霊を注ぎ続けて下さいます。このように教会が、汚れのない栄光に輝く教会になるのは、世の終わり、神の国の完成の時です。ヨハネの黙示録に美しく描写されています。「小羊(イエス様)の婚礼の日が来て、花嫁(教会)は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たち(クリスチャンたち)の正しい行いである。」この場合の教会は、東久留米教会であり、それ以外の個々の教会であり、全体としての全世界の全時代の教会になると思います。多くある教派を超えた、全体としての教会、エクレシアです。

 25節をもう一度読むと、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」ある説教者は語ります。「このキリストの愛が、すべてに先立って行われているという福音を聞くことが、教会が教会であることの大前提です。そこに教会が立つ根拠があります。教会は、キリストの愛を絶えず新しく受け入れ続けるのです。それが礼拝であり、説教であり、聖礼典(洗礼と聖餐)。」教会は、くり返しキリストの愛に立ち帰ります。聖書を読み、祈り、礼拝や祈祷会に出席し、洗礼を受け、聖餐を受け続けることで、毎日、毎週、新しくキリストの愛に立ち帰るのです。そのよきくり返しが教会を清めて、少しずつ栄光の教会に近づくに違いありません。

 28~29節「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。」つまり夫は、キリストが教会を養いいたわる様子に模範を見出し、妻を養いいたわるようにと勧めています。30節「私たちは、キリストの体(教会)の一部なのです。」夫婦関係においても、全ての人間関係においても、キリストと教会の関係を模範にするようにと、述べていると思います。私たちは、キリストの体の一部だからです。

 31~32節「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです。」パウロがここで引用するのは、旧約聖書の創世記2章23節です。人類最初の結婚の場面と言えます。神様が「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」神様は人(アダム)を深い眠りに落とされ、人のあばら骨の一部を抜き取り、そのあばら骨で女を造り上げられたとあります。神様が彼女(エバ)を人のところへ連れて来られると、人は言いました。「ついに、これこそ私の骨の骨、肉の肉。これをこそ女(イシャ―)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」これはもちろん、男女の結婚のことを語っています。しかしパウロは、「これは神秘であって、キリストと教会について述べているのです」と語ります。だとすると、キリストと教会の一体の関係が、既に創世記2章で予告・暗示されていることになります。既に創世記2章が、創世記から見れば遠い将来に生まれるイエス・キリストとその教会の出現を預言しているとも言えます。驚くべきことです。

 パウロは書きます。「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです。」この神秘は、以前の口語訳聖書では、奥義と訳されていました。一番新しい聖書協会共同訳では、秘儀と訳されています。神の真理(救い)の最も深い部分のことと思います。キリストとその教会が一体であることは、神の救いの最も深い部分なのです。それはキリストの十字架の自己犠牲の愛だと思います。キリストの十字架の愛によって、キリストとその教会は一体となっており、キリストの十字架の愛によって、キリストとその教会は花婿と花嫁の愛の一体の関係になっているのです。さらには、キリストとその教会の愛の関係を土台(模範)として、人間の夫と妻が愛し合うのです。

 教会がキリストの花嫁・妻であることは、コリントの信徒への手紙(二)11章2~3節でも、パウロが真に印象的に記しています。「あなた方(コリント教会)に対して、神が抱いておられる熱い思い(熱愛)を私も抱いています。なぜなら、私はあなた方を純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇(悪魔)の悪だくみで欺むかれたように、あなた方の思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」花嫁である私たち教会がなすべきことは、一途で純情な愛で夫キリストを、ひたむきに愛し続けること、キリストへの愛を込めて礼拝し続けることです。
偶像(他の偽物の神)を礼拝することは、夫キリストへの純潔からそれて霊的な姦通の罪を犯すことで、花婿キリストの怒り、聖なるねたみを惹き起こす罪です。

 キリストを礼拝する人は、偶像礼拝を避けるべきことが、聖餐との関係で、パウロにより、このように語られます。「私の愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい(それは花婿キリストを裏切ること)。私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか(原語はコイノニア=交わり)。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかる(交わる)ことではないか。」キリストの純粋で聖なる血と、キリストの純粋で聖なる体と交わるのが聖餐だというのです。私たちが花嫁としてキリストへの純粋で一途な愛をもって、聖餐を受けることが必要なのです。パウロはさらに教えます。「私が言おうとしているのは、偶像に供える献げ物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。」コリント教会の人々が、何らかの偶像礼拝を行い、霊的姦通の罪を犯し、花婿キリストを裏切ろうとしていたのです。「主(キリスト)の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。私たちは主より強い者でしょうか。」花婿キリストに聖なるねたみを起こさせないように、私たち花嫁教会が偶像礼拝を避け、イエス様への純潔な愛を貫いて聖餐を受けることが必要と教えています。

 旧約聖書では、真の神様が花婿(夫)、神の民イスラエルが花嫁(妻)として記されています。神がイスラエルの民を愛し、イスラエルの民は真の神様のみを礼拝して、真の神への愛を貫く。そうである時に、両者は理想的な関係にあります。しかし現実には、花嫁イスラエルが、花婿である神様を裏切ることが多くなっていったのです。

 本日の旧約聖書は、雅歌4章7節以下です。雅歌を礼拝で読むことは珍しいです。これは雅歌の現代は「歌の中の歌」で、「最高の歌」を意味します。愛の歌ですが、内容がアガペーの愛というよりは、官能的とさえ言える愛のために、礼拝で読まれることも少ないのです。ここには若い男女の愛が歌われているのですが、同時にこれは神様と神の民イスラエルの間の愛を描いているとも、昔から言われています。本日の7節から11節は、若い男性から恋人への愛のメッセージ、神様からイスラエルの民への愛のメッセージ、キリストから教会への愛のメッセージと言えます。

 「恋人よ、あなたは何もかも美しく、傷はひとつもない。花嫁よ、レバノンからおいで。おいで、レバノンから出ておいで。アマナの頂から、セニル、ヘルモンの頂から、獅子の隠れが、豹の住む山から下りておいで。私の妹、花嫁よ、あなたは私の心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も、それだけで、私の心をときめかす。私の妹、花嫁よ、あなたの愛は美しく、ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。あなたの香油は、どんな香り草よりもかぐわしい。花嫁よ、あなたの唇は蜜を滴らせ、舌には蜂蜜と乳がひそむ。あなたの衣はレバノンの香り。」

 主に20世紀の後半にアメリカで生きたカトリックの神父にヘンリー・ナウエンという人がいました。この方の本は日本語に割と多く訳されています。この方が書いているそうですが、「神の測りがたい神秘は、神ご自身が、愛されたいと望んでおられる恋人であることです。」神様が私たちを愛して、私たちが神様を愛することを待ち望んでおられるということです。神様は私たちを、恋人のように愛し、私たちが神様を愛することを切に願っておられるというのです。雅歌を読んでいると若い男性が女性の恋人を愛し、相手が自分を愛してくれることを喜び待ち望んでいます。

 イエス様も同じです。これは森明という大分前に天に召されている牧師の言葉ですが、こう語られたそうです。「イエスは弟子の魂そのものを愛されたのである。それは根本的なことで、イエスは罪ある者を愛され、彼らの如き者も御側にいなくては淋しく思い給うたのである。」イエス様の十字架の前のゲツセマネの祈りを思い出します。「ペトロとゼベダイの子二人(ヨハネとヤコブ)を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。』」結局、弟子たちには実行できなかったのですが、イエス様が弟子たちの愛を求めておられたことは事実です。

 エフェソ書に戻ります。5章25節「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」キリストが、教会のために十字架で死んで、命を与えて下さったと言っています。教会は毎週毎日、このキリストの十字架の愛に立ち帰って、キリストを愛して礼拝を献げます。29節には、「キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです」とあり、キリストが教会を愛し、教会を養い、いたわると述べられています。キリストは、今日も教会を養って下さいます。聖書の御言葉により、説教により、聖餐のパンとぶどう液により、教会を養い、いたわって下さいます。

 聖書最後の書・ヨハネの黙示録の終わりの方には、こうあります。「霊(聖霊)と花嫁(教会)とが言う。『来て下さい。』これを聞く者も言うがよい。『来て下さい』と。」主イエスよ、早く来て、早く再臨して、神の国を完成させて下さい。「以上すべてを証しする方(イエス・キリスト)が言われる。『然り、私はすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来て下さい。」キリストの花嫁である私たち教会は、ひたむきにイエス様を愛し、「イエス様、早く来て、神の国を完成させて下さい」と祈り続けます。アーメン。

2024-10-27 1:28:49()
説教「聖霊の結ぶ実は愛、喜び、平和」2024年10月27日(日)修養会礼拝
順序:招詞 エフェソ5:8,頌栄29、主の祈り,交読詩編143、使徒信条、讃美歌21・342、聖書 ガラテヤの信徒への手紙5:16~26、祈祷、説教、祈祷、讃美歌377、献金、頌栄92、祝祷。 
 
(ガラテヤ5:16~26) わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

(説教) 本日は、修養会の礼拝です。新約聖書は、ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節、説教題は「聖霊の結ぶ実は愛、喜び、平和」です。小見出しは、「霊の実と肉の業」です。これは明らかに対比です。

 この手紙を書いている使徒パウロは、こう述べます。最初の16節「私が言いたいのは、こういうことです。霊(聖霊=今回の修養会のテーマ)の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」私たちは、自力によってではなく、イエス・キリストの十字架の犠牲の死と復活の恵みのお陰で、一切の罪を赦され、永遠の命をいただきました。イエス様を救い主と新じて、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けた日に、真の救いをいただきました。それで終わりではなく、その後の生き方も大切です。その後の人生は、イエス様の恵みに応える人生です。イエス様の十字架の愛に応答してゆく人生です。そのように生きるに当たり、「霊(聖霊)の導きに従って歩みなさい」とパウロは、述べます。何が霊(聖霊)の導きかを判断するには、やはりよく祈って聖書をよく読み、正しく理解することが大切と思います。聖霊は生きておられる神様の霊ですから、単なる神様の力ではありません。聖霊は人格(神格)をお持ちです。聖霊は、神様の最も尊い霊ですから、私たちは聖霊の尊厳を深く思い、聖霊を冒瀆する罪を犯さないように、十二分に注意する必要があります。

 17節「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立し合っているので、あなた方は、自分のしたいと思うことができないのです。」肉とは私たちの自己中心の罪です。霊とは、聖霊による清い思いです。肉と霊は相反します。自己中心の罪と聖霊の清い思いは相反します。18節「しかし、霊(聖霊)に導かれているなら、あなた方は、律法の下にはいません。」私たちがイエス・キリストを救い主と信じて、自分の罪を悔い改めて、洗礼を受けたときから、私たちはイエス様の愛の支配下に移されたのです。それまでは悪魔と罪と死の支配下にいました。悪魔と罪と死が私たちの主人だったのです。それが洗礼を受けた後は、悪魔と罪と死の支配から解放され、イエス様が主人になりました。主人が変わったのです。20年ほど前に「親分はイエス様」という映画がありました。親分という言葉はやや俗っぽいですが、それまでは悪魔と罪と死が私たちの親分だったのです。しかしイエス様を信じて洗礼を受けた後は、イエス様が私たちの親分になられました。つまり、今私たちはイエス様に喜んでお仕えする一人一人になったのです。

 そして大切なことは、私たちが洗礼を受けたときに、私たちに聖霊が注がれたのです。洗礼式の水が聖霊のシンボルです。ローマの信徒への手紙8章9節に、こうあります。「神の霊があなた方の内に宿っている限り、あなた方は、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」その人の内に聖霊が住んでおられるならば、その人は神の子にされており、救われています。キリストの霊(聖霊)がその人の内に住んでおられなければ、まだ神の子にされておらず、救われていません。もちろんその後に、イエス様を信じれば救われます。ガラテヤに戻ると、パウロは「霊(聖霊)に導かれて歩みなさい」と言います。それは言い換えると、「イエス・キリストに従って歩みなさい」、親分であるイエス様にお仕えして生きていきなさい、ということです。明治維新の頃、クリスチャンになった武士たちがいたそうです。彼らは、明治維新で自分たちがお仕えする殿様がいなくなって困りました。しかしクリスチャンになって、新しい主君を見出しました。これからはイエス様が主君だ。イエス様にお仕えして一生生きるのだ。彼らはクリスチャンになって、生き生きしたと思うのです。殿様という主君を失って生きがいを失いましたが、イエス様という主君にお仕えする新しい生きがいを見出したからです。私たちは武士ではありませんが、洗礼を受けた後の生き方が、よく分からない場合もあるかもしれません。ですが洗礼を受けた後は、イエス様をいわば親分として、イエス様を主君として、イエス様にお仕えしながら生きてゆくのです。それが「霊(聖霊)の導きに従って歩む」ことになります。

 18節「しかし、霊に導かれているなら、あなた方は律法の下にはいません。」聖霊と御言葉に導かれ、聖霊と御言葉にますます従うならば、私たちは本当の意味で自由にされます。ここでいう自由とは、勝手気ままの意味ではなく、自己中心の罪を卒業してゆくことです。19節には、聖霊の実の正反対、「肉の業」のリストがあります。クリスチャンが行ってはならないことのリストです。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」「姦淫、わいせつ、好色」と、まず性的な罪が上位に3つ挙げられます。姦淫は、夫婦以外の性関係ですね。次が偶像礼拝。真の神以外のものを崇め、礼拝することです。クリスチャンは、イスラム教の神や、仏や、神道の神を礼拝することはありませんが、お金や権力や名誉を神として崇めてしまう危険はあります。私たちも十分に注意したいと思います。

 22~23節が、今年度の東久留米教会の標語聖句です。「これに対して、霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」ここには、聖霊が結ばせて下さる9つの実が記されています。ある人は、冒頭の愛が一番大事で、他の8つの実は愛に含まれる実だと言います。そう読むこともできます。この9つの実は、神の霊である聖霊の実ですから、神様ご自身のご性質、神の子イエス・キリストご自身のご性質です。私たちが聖霊に満たされ、私たちの人格が聖霊に感化されてゆくとき、神様ご自身、イエス・キリストご自身のご性質を次第にいただいてゆくのですね。私たちはイエス・キリストを通して神の子とされたのですから、私たちが神様ご自身のご性質を少しずついただくことは、うなずけることです。ペトロの手紙(二)1章3~4節が思い出されます。「主イエスは、ご自分のもつ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、私たちに与えて下さいました。~この栄光と力ある業とによって、私たちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなた方がこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。」「神の本性にあずからせていただくようになるためです。」これは、畏れ多くも、私たちが聖霊に感化されることで、神の本性に少しずつ似て来るということです。聖霊に感化されて、神の本姓にあずからせていただくようになるとは、本日のガラテヤの信徒への手紙に当てはめれば、聖霊の9つの実を結ぶことです。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」

 愛は、原語ではアガペーです。多くのクリスチャンがよく知る言葉です。アガペーは、人間の自己中心的な限界のある愛ではなく、神様の愛、イエス様の十字架の愛、敵をも愛する愛、自分の命をさえ他人のために喜んで差し出せる愛、何の見返りも願わない愛です。自己中心的な私たちも、よく祈って聖霊に感化されることで、少しずつアガペーの愛を身に着けるというのです。すばらしいことです。この愛は、コリントの信徒への手紙(一)13章に記されている愛(アガペー)と同じです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して廃れない。」この愛(アガペー)です。

 次の喜びは、この世の欲望充足ではなく、まさに聖霊が与えて下さる天国の喜び、聖なる喜びです。イエス様もこの聖霊による喜びに満たされておられました。ルカによる福音書10章21節にこう書かれています。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」使徒言行録8章で、エチオピア人の高官が、使徒言行録6章で選ばれた7人の教会の執事(奉仕者)の一人フィリピから洗礼を受けた後、「喜びにあふれて旅を続けた」とあります。これが聖霊による喜びですね。テサロニケの信徒への手紙(一)5章16~17節に、こうありますね。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」私たちの努力では、難しいと思います。よく祈って、聖霊に助けていただいて初めて可能になると思います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

 次の平和は、イエス様がヨハネ福音書14章で約束された平和です。ヘブライ語で言えばシャロームでしょう。「私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。」また16章では、こうおっしゃって私たちを励まして下さいます。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」悪魔と罪と死に勝利して復活されたイエス様が、私たちと共におられるので、私たちには真の平和が与えられています。

 4つ目の寛容は、ローマの信徒への手紙2章4節では、忍耐と訳されています。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」寛容とは忍耐のことだと分かります。寛容と聞くと、何でも受け入れていただける大らかさのことと思いますが、本当の寛容は違うのではないでしょうか。神様は、私たち罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪そのものを憎んでおられます。神様が完全に清い方なので、罪そのものを受け入れることは絶対にありません。神様は、私たち罪人(つみびと)を愛して、イエス様の十字架によって救って下さいますが、罪そのものを明確に憎んでおられます。ですから神の寛容は、罪を受け入れて下さることではあり得ません。

 そうではなく、神様が私たちの罪をすぐには裁かず、長い間忍耐して、私たちの悔い改めを待って下さる、そのことが神の寛容だと思います。ある本に書いてありましたが、神様が忍耐深くなかったら、神様はとうの昔に、人の罪が多いこの世界を滅ぼしていただろうと。しかし神様が真に忍耐強い方なので、神様は多くの罪があるこの世界を今なお存続させて下さっています。クリスチャン作家の三浦綾子さんが書いておられますが、「人はしばしば旧約聖書の神様を裁きの神と言うが、私は忍耐の神だと感じる」と。神様が忍耐強い方なので、私たちも、他人の罪に対して忍耐強くあることが求められているということではないでしょうか。神様が私たちの罪をも、毎日忍耐して下さっているからです。聖霊の実の一つが忍耐だということは、聖霊は愛と喜びと平和と忍耐の霊であられることを意味しますし、私たちもまた聖霊に満たされて、忍耐深くなることがよいことだと教えられます。

 ペトロの手紙(二)3章9節以下に、こうあります。「ある人たちは、遅い(イエス様の再臨が)と考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」「一人も滅びないで皆が悔い改める(そして救われる)ようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」この神様の忍耐に早く気づいて、全ての人が罪を悔い改めて、イエス様を信じて洗礼を受ける必要があります。善は急げです。ここに出る「忍耐」が、本日のガラテヤ書の「寛容」と非常に近い言葉です。またペトロの手紙(二)3章15節に、「また、私たちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」とあり、ここの「忍耐深さ」はガラテヤ書の「寛容」と全く同じ言葉です。やはり聖霊の実の寛容は、神の忍耐のことなのです。

 神の子イエス様の忍耐力に、私たちは目を見張ります。荒野の誘惑で40日40夜断食しても、神の御言葉に従い抜く。十字架上での忍耐強さは、信じられないほどの忍耐強さです。十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか、知らないのです」と祈られ、罪深い言葉を一言も語らず、十字架の足元におられた母マリアのことを気遣われました。イエス様こそ、聖霊の実を完全に結んでおられる方ですから、十字架上のイエス様の忍耐強さこそ、聖霊の実の一つである寛容です。私たちは、イエス様ほど忍耐強く寛容になれないかもしれませんが、それでも少しずつでも忍耐と寛容の実を結ばせていただきたいのです。聖霊が、私たちに忍耐と寛容の実を一歩ずつ結ばせて下さると信じます。

 聖霊ご自身が働いて、私たちに実を結ばせて下さいます。今年6月1日に天に召されたNさんのことを、何回かお話しました。召される暫く前にお見舞いに伺ったとき、「この入院をこれまでは試練と思っていたが、今は祝福と思う」言われた言葉は、人のがんばりを超えていると思います。聖霊によって清められ、聖霊によって愛、喜び、平和、寛容(忍耐)等の実りを与えられたのだと思います。岩井牧師の証し。聖霊のお働き。

 聖霊は私たちの罪を悲しまれる。聖霊の至高の尊厳。聖霊=慰め。御言葉がひらめく。思い出させて下さる。よく聖書を読んで祈っていないと、聖霊を感じる私たちの魂は枯渇して死ぬ。聖霊を全く感じない不感症にならないように注意。

 しかし最終的には自力ではない。聖霊ご自身が働いて、私たちに聖霊の実を結ばせて下さると信じます。讃美歌21の377番を讃美します。マルティン・ルター作詞作曲。10月31日が宗教改革記念日だからです。もう1つ理由があります。今年7月に天に召された私の同級生の牧師の葬儀で歌われました。本人が選んだのかもしれせん。以前の歌詞で歌いましたが、4節の歌詞が彼の思いだったのではないかと思っています。「わが命、わがすべて、取らば取れ。神の国はなお我にあり。」悪魔よ、私の命も、私のすべても取るなら取れ。神の国はなお我にありだ。聖霊が働いて、ピンチの時に、私たちを守って下さると信頼してよいのです。 アーメン。


2024-10-24 15:08:08(木)
伝道メッセージ(10月分) 石田真一郎(市内の保育園の『おたより』に掲載)した文章
「あなた(ダビデ王)は多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。私(神)の前で多くの血を大地に流したからには、あなたが神殿を築くことは許されない」(旧約聖書・歴代誌・上22章8節)。

 私と妻は、8月26日(月)に長野県下伊那郡阿智村の「満蒙開拓平和記念館」を見学しました。1931年の満州事変後に敗戦まで、国策で約27万人が日本から中国東北部(当時の日本の呼称は満州)に開拓移民として渡りました。長野県からが一番多く(約33000人)、中でも下伊那、飯田から最多の約8400人が渡りました。世界恐慌で養蚕業が大きな打撃を受けたこと、耕地面積の少なさが背景です。1932年に満州国の建国宣言が出ますが、日本の操り人形政権なので、国際連盟が承認しません。移民は、政府が安く買い上げた土地に入植しましたが、追い出された中国人も多く、現実には中国人の土地を奪ったので、開拓団には残念ながら加害者の面があります。

 1945年8月8日午後11時(日本時間)に、ソ連が対日宣戦布告し、ソ連軍が攻めて来ます。開拓民を守るはずの関東軍(日本陸軍の現地部隊で大きな権力を持った)は、無責任にも事前に南に去り、高齢者・女性・子どもが逃げ、敗戦の8月15日以降に、多くの人々が飢え、病気、集団自決で亡くなりました。男性は敗戦前に徴兵され、ソ連軍によりシベリア等の収容所に送られました。私のいる東久留米教会にも以前、シベリア生還者が二名おられました。逃避行を続ければ、乳幼児は死ぬと思った親たちは、泣く泣く親切な中国人に子どもたちを預け、多くの中国残留日本人孤児が生まれました。戦争は、多くの人生を長く狂わせるので、決して行ってはいけません。私が中学生の1980年頃、残留孤児の方々が中年になって、肉親捜しのために代々木のオリンピックセンターに大勢宿泊して、肉親かもしれない人と会って、血液型の照合等をしていて、マスコミが連日大きく報道しました。肉親と判明した人々は、涙を流して抱き合っていました。多くの人が、戦争は終わっていないと痛感したのです。

 育てて下さった中国人の養父母に、大きな恩義を受けたことを、日本人は忘れてはなりません。その後、日本に帰国する道を選んだ孤児たちは、日本語を学び、苦労して働き、今は80才くらいです。自身も満州からの引き揚げ者で、妻が現地で亡くなり、娘が残留孤児となった山本慈昭さん(僧侶)は、残留孤児の肉親捜しに後半生を献げた尊敬すべき方です。娘さんと再会されました。山本さんが主人公の映画『望郷の鐘』があります(DVDあり)。皆さんも「満蒙開拓平和記念館」のホームページをご覧下さい。You Tubeには、当時満州で苦労した方々の証言映像、当時の歴史を学ぶ講座もあります。私たちが平和な世界を造るために、常に努力することが大切と分かります。アーメン(「真実に」)。

2024-10-20 0:13:21()
その② 2024年10月20日(日)礼拝説教
熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。」イエス様は愛をもって、すぐに癒して下さいました。安息日です。当時、安息日は一切働いてはいけない日、医者が働いて病気を治療してもいけない日でした。イエス様は安息日の掟を破っています。旧約聖書は、イエス様によって完成されるのです。この癒しの出来事を書いたルカは医者だと、コロサイの信徒への手紙4章に書かれています。医者ですから、特に感銘をもって、イエス様が行った癒しの場面を描いているに違いありません。

 イエス様にいやされたシモンの姑は、すぐに起き上がって一同をもてなしました。
「もてなした」は元のギリシア語で、「ディアコネオー」で、仕える、奉仕するの意味です。礼拝するの意味ももつようです。このディアコネオーと同じ系統の言葉が、テモテへの手紙(一)3章10節や13節では奉仕者と訳され、教会の奉仕者のことを指しています。口語訳聖書では執事と訳されていました。今の教会で言えば役員等に当たります。しかしイエス・キリストの体である教会への奉仕は。クリスチャンなら皆行うのですから、このシモンの姑も、テモテへの手紙(一)の執事も、教会員全員を指すとも言えます。このディアコネオーからできたドイツ語に、ディアコニッセ(女性名詞?)という言葉があり、日本語では奉仕女と訳されています。ですがイエス様への礼拝、イエス様の教会への奉仕は女性も男性も行います。

東久留米市の近くの大泉学園駅の北の方に、「ベテスダ奉仕女の家」があり、ドイツで始まったプロテスタントの修道会の日本支部のようです。べテスダは、ヨハネ福音書5章に出て来るエルサレムの池ベトザタのことで、イエス様がここで癒しを行われました。「ベテスダ奉仕女母の家」では、イエス様に人生を献げたプロテスタントの女性たちが、祈りと奉仕の生活を送っておられるのだと思います。シモンの、名前も知られない姑を模範にしておられるのかもしれません。そのホームページには理念がこう書かれています。「驚異的な経済成長の陰に隠れて社会の谷間で苦しんで助けを求めている人は少なくありません。むしろ、予測できない急激な社会変革のなかで取り残されてゆく者は多いのです。ベテスダ奉仕女母の家は、1954年にこれらの悲惨をみるにしのびず、イエスの愛をもって立ち上りました。以来、奉仕女を中核として必要な課題と取りくんできました。現在では、日本独特の女性の支援の施設2つと乳幼児のための保育所をし、さらに障害者の方の作業所を始めました。」実に頭が下がります。

40節「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。」創世記1章には「夕べがあり、朝があった」と書かれています。聖書、特に旧約聖書では、夕べから新しい一日が始まります。日が暮れて安息日が終わると、人々がイエス様のもとに次々に来ました。安息日が終わったので、病気の治療の仕事を行っていただいてよいと考えたからです。イエス様は安息日でも癒しを行って下さいますが、民衆は安息日に癒していただいてはいけないと考えていたので、夕暮れまで待っていました。イエス様は病人の一人一人に手(複数形ですから両手)を置いていやして下さいました。神の愛の力が働きました。イエス様は肉体をもつ人間でもあるので、お疲れになったと思います。しかし心を込めて、一人一人に両手を置いて、癒して下さいました。十人二十人まとめて癒すのではなく、一人一人にちゃんと向き合って癒して下さいました。一人一人、症状も病気も、違っていたでしょう。

手を置くことは、神様の祝福を与えることです。イエス様の両手を通して、聖霊の愛の力が働いたのでしょう。教会の牧師などになる式に按手式という式があります。多くの先輩牧師たちが手を置いて下さり、聖霊の祝福が注がれるように祈って下さいます。テモテへの手紙(二)1章6節で、パウロが愛弟子テモテに書いています。「そういうわけで、私が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように勧めます。」パウロが手を置いて祈ったことで、テモテに聖霊が注がれたのだと思います。この場合と、イエス様が癒しのために両手を置いて下さったことの意味は全く同じではないと思いますが、それでもイエス様が両手を置かれたことで、病の人々に神の祝福が注がれたことは間違いありません。

41節「悪霊もわめき立て、『お前は神の子だ』と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。」イエス様が神の愛の力を発揮されると、悪霊はたまらず追い出されました。悪霊も悪魔も、イエス様に勝つことはできないのです。聖書全体の最後の書・ヨハネの黙示録20章には、「サタンの敗北」の小見出しの個所があります。20章10節には、「彼ら(諸国の民)を惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。」このように、悪魔は最後に滅亡することが定まっています。しかし最後まで神様に抵抗して、私たちをも惑わそうとしているので、私どもが、信仰にしっかり立って礼拝や聖書の学び・祈祷会、定例婦人会・祈祷会に出席して、悪魔を退ける必要があります。

3つ目の小見出しは、「巡回して宣教する」です。42節「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。」イエス様が人里離れた所へ出て行かれたのは、祈るためです。ずっと自分たちの所にいてほしいという群衆の願いを、イエス様は拒まれました。私たちはイエス様を独り占めするわけにいきません。43~44節「しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ。』そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。」やがてご自分を十字架につけることになるユダヤの人々の場所にも行って、イエス様が神の祝福を体現する方であることを示されたのではないかと思います。いずれにしても、イエス様をカファルナウムだけにとどめておくことはできません。イエス様の最大の使命は、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って、十字架にかかることだからです。イエス様の十字架の死と復活によってこそ、私たちに一切の罪の赦しと永遠の命が与えられたことを最大の恵みと感謝して、ご一緒に礼拝と祈りと伝道を続けさせていただきたいと願います。アーメン。


2024-10-20 0:03:26()
その① 説教「神の聖者イエス・キリスト」2024年10月20日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第74回)
順序:招詞ルカ15:7,頌栄16(1節)、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・328、聖書 ルカ福音書4:31~44、祈祷、説教、祈祷、讃美歌451、献金、頌栄351(1節)、祝祷。 
 
(ルカ福音書4:31~44) イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。

イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。

朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第74回)です。新約聖書は、ルカ福音書4章31~44節、説教題は「神の聖者イエス・キリスト」です。

 本日のルカによる福音書の直前は、イエス様が故郷のナザレで奇跡を行うことを拒否なさり、ナザレの人々が激しく怒って、イエス様を山の崖から突き落とそうとした場面です。最後の30節に、「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」と書かれています。父なる神様の力がイエス様を守りました。イエス様の使命は、十字架に架かって死ぬことです。まだその時ではないのです。ですから父なる神様が御手をもってイエス様を守られ、イエス様は殺意に燃える人々の間を通り抜けて、立ち去られました。

 本日の最初の小見出しは、「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」です。イエス様はナザレに行く前にもカファルナウムで奇跡を行われましたが、ナザレに行った後、再びカファルナウムに来て、安息日の礼拝に出席されました。ナザレの安息日の直後の安息日かどうかは分かりません。マタイ福音書4章12節によると、イエス様は洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤに退かれ、ナザレを離れて、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」イエス様はカファルナウムの町に住んでおられたのですね。カファルナウムからナザレに行き、またカファルナウムに戻って来られました。カファルナウムが一番、ほっとできる場所だったかもしれません。最初の31節「イエスは、ガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。」安息日(土曜日)に、カファルナウムの会堂で礼拝に出席され、人々を教えておられたのです。カファルナウムには会堂跡の遺跡があるそうで、私も写真で見ましたが、イエス様の時代より後の時代の会堂の遺跡ではないかと聞いたことがあります。

 32節「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」マタイ福音書7章の最後、イエス様の山上の説教の最後にも、群衆がイエス様の教えに非常に驚いた、「彼らの律法学者にようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」イエス様は神の子ですから威厳があり、イエス様の御言葉にも権威が感じられたのです。山上の説教でたとえばイエス様は、旧約聖書を引用して「あなた方も聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」とおっしゃった上で、「しかし、私は言っておく(この言い方に権威が感じ取れます)。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と命じられます。旧約聖書も神の言葉ですが、それを乗り越える、新しい神の御言葉を、力強く確信をもって語られます。カファルナウムの人々も、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」、「敵を愛しなさい」というイエス様の力強い新しい御言葉を聴いて、驚いた、衝撃を受けたのだと思います。

  33、34節「ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエスよ、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」礼拝のさなかだったかもしれません。イエス様が力ある神の御言葉を語っておられたので、神の支配がそこに来ていました。すると悪霊はそれに耐えられなくなり、あぶり出されてしまったのです。悪霊は神の御言葉を聞いていて苦しくなり、自ら正体を現しました。「ああ、ナザレのイエスよ、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」我々と言っていますから、悪霊は複数いたのでしょう。大勢いる悪霊の親玉が悪魔なのでしょう。悪魔は4章でイエス様を激しく誘惑し敗れると、時が来るまでイエスを離れたのです。本日の箇所では、悪魔の子分と思われる悪霊が登場し、イエス様にぐヴアップしています。ヤコブの手紙2章19節が思い出されます。「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」今日の場面でも、悪霊がイエス様の前で恐れおののいています。

 35節「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。」イエス様が守られたので、男は何の傷も負わずにすみました。36~37節「人々は皆驚いて、互いに言った。『この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。』こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。」

 イエス様の御言葉には、権威と力がありました。私は旧約聖書・創世記1章の天地創造の場面を思い出します。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」神が言葉を発せられると、それが現実の出来事となるのです。言葉という言葉は、ヘブライ語でダーバールと言います。このダーバールという言葉には、出来事という意味もあるそうです。言葉と出来事が、両方ともダーバールという言葉です。つまり、神の言葉は出来事を引き起こす、神の言葉には創造する力がある、神の言葉には出来事を造り出す力があるのです。創世記1章には、こう書かれています。「神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。』そのようになった。」~神は言われた。『地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。』そのようになった。~神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光るものがあって、地を照らせ。』そのようになった。」このように、神様は、ご自分の力ある言葉によって、この宇宙を創造なさったのです。

新約聖書のヘブライ人への手紙11章3節にこう書いてある通りです。「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」ヘブライ人への手紙4章12節には、こんな御言葉もあります。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」「神の言葉は生きており、力を発揮する」のです。ですからイエス様が、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊は一切抵抗できず、男の中から追い出されたのです。人々は皆驚いて、互いに言いました。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」こうして、イエス様のうわさは辺りに一体に広まりました。約2000年前のことですから、当然口コミです。口から口へ、イエス様のなさったすばらしい御業のことが、どんどん伝えられました。

人間の言葉にも、ある程度の力があります。私たちは自分の言葉で人の心を傷つけることがあり、逆に自分の言葉で人を励ますこともあります。「エフェソの信徒への手紙4章29~30節の御言葉が思い出されます。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはなりません。」決して人のご機嫌をとれというのではないのですが、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさいと言われます。そして私たちが悪い言葉を口にすると、聖霊なる神様が悲しまれることが分かります。

次の小見出しは、「多くの病人をいやす」です。38節「イエスは会堂を立ち去り、シモン(ペトロ)の家にお入りになった。シモンの姑が高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。」イエス様の弟子シモン・ペトロは、既に結婚していたことが分かります。シモンの妻は、新約聖書に一度も登場しないので、名前も分かりません。イエス様の十字架と復活の後に、イエス様の使徒となったパウロが、コリントの信徒への手紙(一)9章5節で、「私たちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファ(シモン・ペトロ)のように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」と書いていますので、イエス様の復活後も、シモン・ペトロが妻を連れて歩いていたこと、おそらくそうして伝道していたことが分かります。そのシモンの妻の母親が高熱で苦しんでいました。50代の後半くらいだったのではないかと思います。何らかの感染症だった可能性もありますね。」39節「イエスが枕もとに立って熱を39節「イエスが枕もとに立って熱を