
2026-04-11 23:57:49(土)
「再会」 2026年4月12日(日)復活節第2主日公同礼拝
(ヨハネ福音書20:1~18)
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
◆イエス、マグダラのマリアに現れる
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
(説教) 本日は、復活節第2主日公同礼拝。説教題は「再会」です。小見出しは「復活する」と、「イエス、マグダラのマリアに現れる」です。
イエス・キリストが金曜日に十字架で死なれ、墓に葬られました。土曜日は安息日で、ユダヤ人の礼拝の日、礼拝以外の諸活動が制限される日です。「土曜日のキリスト」という言葉があるのですが、土曜日のイエス・キリストは死んでおられました。新約聖書のペトロの手紙(一)3章19~20節にこうあります。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」ここを読むと、土曜日のキリストは、死者の国に降って伝道しておられたと読めます。死者の国もイエス・キリストの力が及んでいることが分かります。ただ、それ以上のことは分かりません。(この土曜日の意味は、希望の兆しが見えていないこと。)
翌日の日曜日の早朝、まだ暗いうちにマグダラのマリアは、真っ先にイエス様をお納めした墓に駆けつけたのです。マグダラは地名です。マルコ福音書16章9節には、こうあります。「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアにご自身を現された。このマリアは、以前にイエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。」七つの悪霊とは、多くの悪霊が入り込んでいたことを意味するのでしょう。
悪霊によって、精神の病に非常に苦しめられていた女性だった可能性があります。
それをイエス・キリストの愛の力によって七つの悪霊を追い出していただき、大きな救いを与えられたのが、このマグダラのマリアという女性だと思われます。ですから、誰よりもイエス様に感謝し、誰よりもイエス様を愛していたと思うのです。マルコ福音書によると、他の二人の女性とイエス様の墓に行ったと書かれていますが、ヨハネ福音書はあとの二人の女性のことを記していません。実際には三人で行ったのでしょうが、ヨハネ福音書はマグダラのマリア一人に焦点を絞っているのだと思います。
マグダラのマリアのイエス様の愛は、私たちも本当に見習いたい愛です。誰よりも先に墓に駆けつけたのです。イエス様へのこの愚直な愛、まっすぐな燃える愛こそ、私たちクリスチャンの模範となる愛です。自分がマグダラのマリアほどにイエス様を愛しているだろうかと、反省する気持ちになります。私たちは彼女のようにイエス様を愛したいのです。ある人は言います。私たちは「マグダラのマリアの心が完全に燃えており、清い愛をもって夢中になってキリストの所に行っているのを知っている。ああ、私たちもそのような心を持っていたら、もっと違った人間になっていたであろうに!」マリアにようにイエス様への愛に燃えたいというのです。マリアのイエス様へのひたむきな愛は、胸を打ちます。聖書ではイエス・キリストは花婿、教会はイエス・キリストの花嫁。まさにマグダラのマリアはイエス様の霊的な花嫁、教会の象徴とさえ言えます。
マリアが墓に行ってみると、思いがけないことが起こっていました。墓から大きな石が取り除けてあるのを見たのです。神様の偉大な力が働いてことを意味します。そして一昨日の夕方、急ぎながらも丁寧に埋葬したイエス様のご遺体がなくなっていました。驚くほかはありません。そこでマグダラのマリアは、エルサレム市内にとって返します。2節「そこでシモン・ペトロの所へ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子(このヨハネ福音書を書いたヨハネと言われます)のところへ走って行って彼らに告げた。「主(イエス様)が墓から取り去られました。どこに置かれているのか。私たちには分かりません。」誰かがイエス様のお体を移動した。どこに移動されたのか、全く分からない。困り果てました。マグダラのマリアはこの時、イエス様のお姿を見失いました。何とかして見つけ出したいと愛に燃えています。マリアは、イエス様を物理的に見失ったと思っているのですが、実際にはマリアはイエス様の真相を見失っていました。イエス様の本質、イエス様がどのような方かを見失っていたのです。イエス様がマリアのためにも、ペトロやヨハネのためにも、全ての人の罪の責任を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活するメシア(救い主)であるイエス様の本質を見失っていたのでした。
それはペトロとヨハネも同じでした。「ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」イエス様は数時間前に復活され、つい先ほどまでこの墓におられたはずです。遺体のにおいは多少残っていたと思うのです。私がここを読むと、イエス様が亜麻布を脱いで立ち上がって、少し歩いて頭の覆いを取り除いて丸めて置いて、墓を出て行かれた様子が思い浮かべます。
「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。」この墓の中の様子を見て、イエス様の復活を直感して信じたのでしょうが、でもまだあやふやな信じ方だったのだと思います。この次のページの「イエス、弟子たちに現れる」の場面で、復活されたイエス様のご訪問を受けて、初めて確信できたのだと思います。9節「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」イエス様の復活を語る旧約聖書の御言葉としては、使徒言行録13章35節で使徒パウロが、詩編16編10節を挙げています。「イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては(イザヤ書55章3節に触れた後で)、ほかの個所にも「あなた(神)は、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしてはおかれない」と言われています、と言い詩編16編10節を挙げています。私たちが手にしている新共同訳では詩編16編9節後半~10節が、イエス様の復活を予告しているように読めます。「からだは安心して憩います。あなたは私の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず。」ペトロもヨハネもこの御言葉を読んでいたでしょうが、これがイエス様の復活の預言の御言葉とは、目が開かれておらず、理解できていなかったのだと思います。そのためカラの墓の意味を確信できないままに、滞在していた家に帰って行きました。
次の小見出しは「イエス、マグダラのマリアに現れる」です。11節以下「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』」マリアがこの二人を天使と認識したのかどうか、分かりません。悲しみに満たされて泣いていたので、この二人が現れたことの不思議さもあまり感じなかったのかもしれません。
マリアはイエス様の死を、他のどの弟子たちよりも深く悲しんでいました。諦めきれませんでした。ですから墓から帰ることができませんでした。そのことが大きな意味を持ったのです。あきらめないで墓にとどまった彼女だからこそ、復活されたイエス様が姿を現して下さったと思うのです。ペトロとヨハネは帰ってしまいました。イエス様への愛が足りなかったと言っては言い過ぎでしょうか。墓にとどまっても無意味だと思われても、なお墓にとどまったマリアの愛の感動して、イエス様もお姿を現して下さったのではないでしょうか。今月の礼拝の招きの言葉(コリント(一)13章)に「愛は~すべてを信じ、すべてを望み」とありました。マリアは「信じ、望んだ」のです。それは無駄ではありませんでした。イエス様が最初にマリアに姿を現して下さったのですから。
マリアは泣いていました。しかしもう泣く必要はなかったのです。私たちは思い出す必要があります。イエス様が十字架にかかる直前の木曜の深夜に弟子たちに語った言葉を。ヨハネ福音書16章20節以下「あなた方は泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子どもを産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなた方も、悲しんでいる。しかし、私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。」そしてこうも言われました。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」十字架の直前に、こんなすばらしい御言葉を弟子たちに語っておられたのですね。マグダラのマリアは聞いていませんでしたが。弟子たちはその後のイエス様の十字架の衝撃が強すぎて、このすばらしい約束の御言葉をすっかり忘れてしまったと思うのです。でもこの約束は生きているのです。
「今はあなた方も、悲しんでいる。しかし、私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。」復活されたイエス様は、この恵みを悟らせようと、マリアと出会って下さいます。「『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは、園丁だと思って言った。『なたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』イエスが、『マリア』言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、 『ラボ二』と言った。『先生』という意味である。」
イエス様の肉声で、イエス様だと分かったのですね。「マリア」「ラボニ」ラビが先生で、ラボニは「私の先生」です。「マリア」「私の先生。」打てば響く応答です。人格の交わり、魂の交わりが復活しました。これこそ再会です。イエス様の呼びかけが、マリアの心の琴線に触れました。ヨハネ福音書10章のイエス様の御言葉が実現しています。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。羊はその声を知っているので、ついて行く。」イエス様は、羊のために命を捨てて下さる良い羊飼いです。
マリアのひたむきな愛は、旧約聖書の雅歌を思い出させます。雅歌は男女の愛を歌っていますが、教会は伝統的に花婿イエス・キリストと花嫁教会の愛の歌とも読んで来ました。雅歌3章1節以下「夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても、求めても見つかりません。起き出して町を巡り、通りや広場を巡って、恋慕う人を求めよう。求めても、あの人は見つかりません。(~)恋慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。」ですが、マリアがすがりつくことは、断られました。「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。「わたしの父であり、がたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と。』」
確かにマリアの愛は純粋ですばらしく、雅歌8章6~7節を連想するほどです。「愛は死のように強く(~)、大水も愛を消すことはできない、洪水もそれを押し流すことはできない。」でもマリアの愛は人間的な愛であったとも言えます。復活されたイエス様の自分が引き取り、自分の手の中に納めて独占する気持ちがなかったとは言えません。それはできません。イエス様は天の父なる神様のもとに昇られます。それを妨げてはなりません。イエス様は天に昇られ、そこから私たちに聖霊を注がれ、私たちを深い愛でますます力強く守って下さいます。
イエス様は「私の兄弟たちのところへ行って」伝言しなさいとマリアに言われます。ご自分を見捨てて逃げてしまった弟子たちのことを「私の兄弟たち」と呼んでおられます。弟子たちを恨んでいない、赦している、愛している証拠です。ほっとします。教会は、神様の家族ですから、父なる神様がおられ、イエス・キリストが教会の頭である神の子、私たちはイエス様の霊的な妹・弟としてイエス様の兄弟姉妹であり、神の子たちです。マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えました。
弟子たちは半信半疑だったでしょう。「主を見た」とは、復活され体をもつイエス様を目の前で見たこと、真心の葉を交わして、人格的な交流をしたことです。私たちも将来必ず、顔を顔を合わせて直(じか)にイエス様と出会います。私たちが天に召されてイエス様に直にお目にかかるか、イエス様の再臨まで地上に生き残って、再臨されるイエス様に顔と顔を合わせてお会いするか、どちらかです。「輝く日を仰ぐとき」という讃美歌の歌詞にこうあります。「間もなく主イエスは来たり、我らを迎えたまわん。いかなる喜びの日ぞ、いかなる栄えの日ぞ。」コリントの信徒への手紙(一)13章12節にこうあります。「私たちは今は、鏡におぼろに映ったものを見ている(当時の鏡はおぼろに映った)。だがその時には(天国では、あるいはイエス様の再臨の時には)顔を顔とを合わせて見ることになる。私は今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているように、はっきり知ることになる。」私たちは今も、礼拝でイエス様とお会いしているのです。ですがここはまだ天国でなく地上なので「おぼろ」であることは否定できません。天国あるいは再臨の時は全然おぼろではない。マリアと同じくイエス様と直にお会いする喜びの時です。草刈さん。
今は、おぼろでもイエス様は共にいて下さいます。イエス様に励まされて、見えない神を信じ抜く信仰に生きて参りましょう。アーメン。
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
◆イエス、マグダラのマリアに現れる
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
(説教) 本日は、復活節第2主日公同礼拝。説教題は「再会」です。小見出しは「復活する」と、「イエス、マグダラのマリアに現れる」です。
イエス・キリストが金曜日に十字架で死なれ、墓に葬られました。土曜日は安息日で、ユダヤ人の礼拝の日、礼拝以外の諸活動が制限される日です。「土曜日のキリスト」という言葉があるのですが、土曜日のイエス・キリストは死んでおられました。新約聖書のペトロの手紙(一)3章19~20節にこうあります。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」ここを読むと、土曜日のキリストは、死者の国に降って伝道しておられたと読めます。死者の国もイエス・キリストの力が及んでいることが分かります。ただ、それ以上のことは分かりません。(この土曜日の意味は、希望の兆しが見えていないこと。)
翌日の日曜日の早朝、まだ暗いうちにマグダラのマリアは、真っ先にイエス様をお納めした墓に駆けつけたのです。マグダラは地名です。マルコ福音書16章9節には、こうあります。「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアにご自身を現された。このマリアは、以前にイエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。」七つの悪霊とは、多くの悪霊が入り込んでいたことを意味するのでしょう。
悪霊によって、精神の病に非常に苦しめられていた女性だった可能性があります。
それをイエス・キリストの愛の力によって七つの悪霊を追い出していただき、大きな救いを与えられたのが、このマグダラのマリアという女性だと思われます。ですから、誰よりもイエス様に感謝し、誰よりもイエス様を愛していたと思うのです。マルコ福音書によると、他の二人の女性とイエス様の墓に行ったと書かれていますが、ヨハネ福音書はあとの二人の女性のことを記していません。実際には三人で行ったのでしょうが、ヨハネ福音書はマグダラのマリア一人に焦点を絞っているのだと思います。
マグダラのマリアのイエス様の愛は、私たちも本当に見習いたい愛です。誰よりも先に墓に駆けつけたのです。イエス様へのこの愚直な愛、まっすぐな燃える愛こそ、私たちクリスチャンの模範となる愛です。自分がマグダラのマリアほどにイエス様を愛しているだろうかと、反省する気持ちになります。私たちは彼女のようにイエス様を愛したいのです。ある人は言います。私たちは「マグダラのマリアの心が完全に燃えており、清い愛をもって夢中になってキリストの所に行っているのを知っている。ああ、私たちもそのような心を持っていたら、もっと違った人間になっていたであろうに!」マリアにようにイエス様への愛に燃えたいというのです。マリアのイエス様へのひたむきな愛は、胸を打ちます。聖書ではイエス・キリストは花婿、教会はイエス・キリストの花嫁。まさにマグダラのマリアはイエス様の霊的な花嫁、教会の象徴とさえ言えます。
マリアが墓に行ってみると、思いがけないことが起こっていました。墓から大きな石が取り除けてあるのを見たのです。神様の偉大な力が働いてことを意味します。そして一昨日の夕方、急ぎながらも丁寧に埋葬したイエス様のご遺体がなくなっていました。驚くほかはありません。そこでマグダラのマリアは、エルサレム市内にとって返します。2節「そこでシモン・ペトロの所へ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子(このヨハネ福音書を書いたヨハネと言われます)のところへ走って行って彼らに告げた。「主(イエス様)が墓から取り去られました。どこに置かれているのか。私たちには分かりません。」誰かがイエス様のお体を移動した。どこに移動されたのか、全く分からない。困り果てました。マグダラのマリアはこの時、イエス様のお姿を見失いました。何とかして見つけ出したいと愛に燃えています。マリアは、イエス様を物理的に見失ったと思っているのですが、実際にはマリアはイエス様の真相を見失っていました。イエス様の本質、イエス様がどのような方かを見失っていたのです。イエス様がマリアのためにも、ペトロやヨハネのためにも、全ての人の罪の責任を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活するメシア(救い主)であるイエス様の本質を見失っていたのでした。
それはペトロとヨハネも同じでした。「ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」イエス様は数時間前に復活され、つい先ほどまでこの墓におられたはずです。遺体のにおいは多少残っていたと思うのです。私がここを読むと、イエス様が亜麻布を脱いで立ち上がって、少し歩いて頭の覆いを取り除いて丸めて置いて、墓を出て行かれた様子が思い浮かべます。
「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。」この墓の中の様子を見て、イエス様の復活を直感して信じたのでしょうが、でもまだあやふやな信じ方だったのだと思います。この次のページの「イエス、弟子たちに現れる」の場面で、復活されたイエス様のご訪問を受けて、初めて確信できたのだと思います。9節「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」イエス様の復活を語る旧約聖書の御言葉としては、使徒言行録13章35節で使徒パウロが、詩編16編10節を挙げています。「イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては(イザヤ書55章3節に触れた後で)、ほかの個所にも「あなた(神)は、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしてはおかれない」と言われています、と言い詩編16編10節を挙げています。私たちが手にしている新共同訳では詩編16編9節後半~10節が、イエス様の復活を予告しているように読めます。「からだは安心して憩います。あなたは私の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず。」ペトロもヨハネもこの御言葉を読んでいたでしょうが、これがイエス様の復活の預言の御言葉とは、目が開かれておらず、理解できていなかったのだと思います。そのためカラの墓の意味を確信できないままに、滞在していた家に帰って行きました。
次の小見出しは「イエス、マグダラのマリアに現れる」です。11節以下「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』」マリアがこの二人を天使と認識したのかどうか、分かりません。悲しみに満たされて泣いていたので、この二人が現れたことの不思議さもあまり感じなかったのかもしれません。
マリアはイエス様の死を、他のどの弟子たちよりも深く悲しんでいました。諦めきれませんでした。ですから墓から帰ることができませんでした。そのことが大きな意味を持ったのです。あきらめないで墓にとどまった彼女だからこそ、復活されたイエス様が姿を現して下さったと思うのです。ペトロとヨハネは帰ってしまいました。イエス様への愛が足りなかったと言っては言い過ぎでしょうか。墓にとどまっても無意味だと思われても、なお墓にとどまったマリアの愛の感動して、イエス様もお姿を現して下さったのではないでしょうか。今月の礼拝の招きの言葉(コリント(一)13章)に「愛は~すべてを信じ、すべてを望み」とありました。マリアは「信じ、望んだ」のです。それは無駄ではありませんでした。イエス様が最初にマリアに姿を現して下さったのですから。
マリアは泣いていました。しかしもう泣く必要はなかったのです。私たちは思い出す必要があります。イエス様が十字架にかかる直前の木曜の深夜に弟子たちに語った言葉を。ヨハネ福音書16章20節以下「あなた方は泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子どもを産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなた方も、悲しんでいる。しかし、私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。」そしてこうも言われました。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」十字架の直前に、こんなすばらしい御言葉を弟子たちに語っておられたのですね。マグダラのマリアは聞いていませんでしたが。弟子たちはその後のイエス様の十字架の衝撃が強すぎて、このすばらしい約束の御言葉をすっかり忘れてしまったと思うのです。でもこの約束は生きているのです。
「今はあなた方も、悲しんでいる。しかし、私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。」復活されたイエス様は、この恵みを悟らせようと、マリアと出会って下さいます。「『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは、園丁だと思って言った。『なたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』イエスが、『マリア』言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、 『ラボ二』と言った。『先生』という意味である。」
イエス様の肉声で、イエス様だと分かったのですね。「マリア」「ラボニ」ラビが先生で、ラボニは「私の先生」です。「マリア」「私の先生。」打てば響く応答です。人格の交わり、魂の交わりが復活しました。これこそ再会です。イエス様の呼びかけが、マリアの心の琴線に触れました。ヨハネ福音書10章のイエス様の御言葉が実現しています。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。羊はその声を知っているので、ついて行く。」イエス様は、羊のために命を捨てて下さる良い羊飼いです。
マリアのひたむきな愛は、旧約聖書の雅歌を思い出させます。雅歌は男女の愛を歌っていますが、教会は伝統的に花婿イエス・キリストと花嫁教会の愛の歌とも読んで来ました。雅歌3章1節以下「夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても、求めても見つかりません。起き出して町を巡り、通りや広場を巡って、恋慕う人を求めよう。求めても、あの人は見つかりません。(~)恋慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。」ですが、マリアがすがりつくことは、断られました。「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。「わたしの父であり、がたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と。』」
確かにマリアの愛は純粋ですばらしく、雅歌8章6~7節を連想するほどです。「愛は死のように強く(~)、大水も愛を消すことはできない、洪水もそれを押し流すことはできない。」でもマリアの愛は人間的な愛であったとも言えます。復活されたイエス様の自分が引き取り、自分の手の中に納めて独占する気持ちがなかったとは言えません。それはできません。イエス様は天の父なる神様のもとに昇られます。それを妨げてはなりません。イエス様は天に昇られ、そこから私たちに聖霊を注がれ、私たちを深い愛でますます力強く守って下さいます。
イエス様は「私の兄弟たちのところへ行って」伝言しなさいとマリアに言われます。ご自分を見捨てて逃げてしまった弟子たちのことを「私の兄弟たち」と呼んでおられます。弟子たちを恨んでいない、赦している、愛している証拠です。ほっとします。教会は、神様の家族ですから、父なる神様がおられ、イエス・キリストが教会の頭である神の子、私たちはイエス様の霊的な妹・弟としてイエス様の兄弟姉妹であり、神の子たちです。マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えました。
弟子たちは半信半疑だったでしょう。「主を見た」とは、復活され体をもつイエス様を目の前で見たこと、真心の葉を交わして、人格的な交流をしたことです。私たちも将来必ず、顔を顔を合わせて直(じか)にイエス様と出会います。私たちが天に召されてイエス様に直にお目にかかるか、イエス様の再臨まで地上に生き残って、再臨されるイエス様に顔と顔を合わせてお会いするか、どちらかです。「輝く日を仰ぐとき」という讃美歌の歌詞にこうあります。「間もなく主イエスは来たり、我らを迎えたまわん。いかなる喜びの日ぞ、いかなる栄えの日ぞ。」コリントの信徒への手紙(一)13章12節にこうあります。「私たちは今は、鏡におぼろに映ったものを見ている(当時の鏡はおぼろに映った)。だがその時には(天国では、あるいはイエス様の再臨の時には)顔を顔とを合わせて見ることになる。私は今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているように、はっきり知ることになる。」私たちは今も、礼拝でイエス様とお会いしているのです。ですがここはまだ天国でなく地上なので「おぼろ」であることは否定できません。天国あるいは再臨の時は全然おぼろではない。マリアと同じくイエス様と直にお会いする喜びの時です。草刈さん。
今は、おぼろでもイエス様は共にいて下さいます。イエス様に励まされて、見えない神を信じ抜く信仰に生きて参りましょう。アーメン。
2026-04-07 23:09:48(火)
「十字架を経て復活へ」 2026年4月5日(日)イースター公同礼拝 石田真一郎
(ルカによる福音書24:13~35) ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
(説教) イースター、真におめでとうございます。説教題は「十字架を経て復活へ」です。小見出しは「エマオで現れる」です。
イエス・キリストは世界の歴史で初めて、死から復活した方です。死にきらない状態(仮死状態)から蘇生した人は、多くいると思います。また旧約聖書にも預言者によって生き返らせられた人々が登場し、イエス・キリストご自身も死者を生き返らせなさっています。しかしその方々は、もう一度死んだに違いありません。イエス・キリストは仮死状態から蘇生したのではなく、完全に死なれた三日目に、体の復活をもって、完全に復活されました。その体は、以前と異なる霊の体です。でも確かに体なのです。ご飯を食べることもできます。そして復活されたイエス・キリストは、もはや二度と死ぬことがありません。永遠に生きておられるのです。ですから私たち限界ある人間の、確かな希望になって下さっています。
イエス様が二日前の金曜日に、「父よ、私の霊を御手に委ねます」と言って、十字架の上で息を引き取られたのです。そして安息日後の日曜日の早朝、婦人たちがイエス様を納めた墓に行ってみると、意外にもイエス様の遺体はなく、輝く衣を着た二人の人が現れ、こう言ったのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」婦人たちは墓から帰って、使徒たち(11人の弟子たち)に話しましたが、使徒たちには、たわ事のように思われ、信じませんでした。ペトロだけは墓に確かめに行き、イエス様の遺体がなかったので、驚きながら家に帰りました。ペトロには理解できませんでした。謎が解決しないまま、場面は次に進みます。
13~14節「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン(約11キロ)離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」人は腑に落ちないことがあると、どうしても気になって仕方がなく、忘れて次に進めないものです。この二人もそうでした。15節「話し合い、論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」イエス様は、今も私たちとも、一緒に歩んでいて下さいます。「イエス・キリストは永遠の同伴者」と言った人がいますが、まさにその通りです。但し、この時は、この二人の目が遮られていて、イエス様であることに気づきませんでした。イエス様がどのような救い主なのか、彼らの目は開かれていなかったのです。イエス様に手引きしていただくことが必要です。二人は暗い顔をして立ち止まった。」イエス様の十字架の死で打ちひしがれていますから、当然顔も暗かったのです。17節「イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。イエス様は、この問いできっかけを作り、今は無理解な二人を、真の信仰に導いて下さいます。
18節以下「その一人のクレオパという人が答えた。」このクレオパという人はここにしか登場しないので、どんな人かは、ここに書いてあることしか分かりません。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」「イエスが、『どんなことですか』と言われると、二人は言った。『ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。』」イエス様のことを偉大な預言者と思っていて、神の子だということが分かっていなかったのですね。「それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
21節「私たちは、あの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていました。」彼らがイエス様にかけていた期待が、見当はずれの期待だったのです。彼らはイエス様を、ローマ帝国の支配からイスラエルの国を解放して下さる民族的愛国的リーダー、政治的・軍事的指導者として期待していたことが分かります。イエス様の十字架は、イスラエルの過越祭の時に起こりました。過越祭は、昔イスラエルの民が、モーセに率いられてエジプトの支配から解放されたことを思い出す重要な祭りです。昔モーセがリーダーとなって、神様がイスラエルの民をエジプトから解放して下さったように、今はイエス様がリーダーとなって、イスラエルの民をローマ帝国から解放して下さると、過越祭の時期だからこそ、期待を高めたと思われます。ところが十字架にかけられて死なれた。彼らの期待は吹き飛んでしまい、大いに失望しているのです。
クレオパが言います。「しかも、そのことがあってから、もう三日になります。」解説書によると、当時、「人間の魂は死後三日くらいはその人の遺体にの周りにいるが、三日過ぎると去り、生き返る可能性がなくなる。」これは迷信と思いますが、当時そのような考え方もあったそうです。「しかも、そのことがあってから、もう三日になります。」三日目なので、生き返る可能性もなくなり、一縷の望みも尽きたというわけです。但し、たった一つ、からの墓という不可思議な出来事だけが、心に引っかかって離れないのです。クレオパがそれを口にします。「ところが、仲間の婦人たちが私たちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者の何人かが墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
イエス様はじっくり耳を傾けて聞いて下さいます。カウンセリングで一番大切なことは、「傾聴(人の話をじっくり聴くこと)」と言われますが、イエス様こそ深い傾聴者、理想的なカウンセラーと言えます。じっくり聴かれた後で言われます。25~26節「ああ、物分かりが悪く(目を遮られている)、心が鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち、メシア(救い主)はこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」その頃のイスラエルの人々は、弟子たちをも含めて、メシア(救い主)は勝利と栄光の道を進む方と見ていたようです。十字架の苦難を受けるなどは、全くあり得ない想定外のことでした。それが常識だったと思われます。しかし旧約聖書は、本当にそう言っているのでしょうか。イエス様は、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。」イエス様がどんな説明をなさったのか、私もぜひ直接聞きたかったし、このルカによる福音書にそれをもっと詳しく書いてほしかったですね。でもある程度は分かる気がします。
イエス様は間違いなくイザヤ書53章を語られたに違いありません。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。~彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。」メシア(救い主)がこのような苦難を通ることは、旧約聖書で予告されていたのです。
イエス様はほかに旧約聖書のどの御言葉を引用されたのか。本日の旧約聖書であるミカ書5章1節をも引用された可能性があります。これはメシア(救い主)が、ベツレヘムに誕生すると預言する御言葉。もちろん実現しました。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたし(神)のためにイスラエルを納める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。~彼は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって。~彼こそ、まさしく平和である。」
イザヤ書7章14節をも語られた可能性があります。「それゆえ、私の主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」神は我々と共におられるの意味ですね。三日目の復活については、ヨナ書を語られたと思います。「主は巨大に魚に命じて、ヨナを飲み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。」イエス様は、マタイ福音書12章等で、ヨナ書を引用しておられます。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子(イエス様)も三日三晩、大地の中にいることになる。」十字架で死ぬが、三日目に復活する予告です。ホセア書6章2節を引用された可能性も高いです。「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせて下さる。」ヨブ記19章25節のヨブの言葉も引用されたかもしれません。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるだろう。」これはヨブを救う方イエス・キリストの復活を暗示していると読むことができます。
イエス様はイザヤ書42章1節以下をも、イエス様の働きを予告する御言葉として語られたでしょう。マタイ12章にもこの個所は引用されていますから。「見よ、私(神)の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心(ともし火の光)を消すことなく、裁き(正義)を導き出して、確かなものとする。」救い主は、弱っている人をいたわるということです。イザヤ書61章をも語られた可能性があります。イエス様ご自身がルカによる福音書4章で、ここを語っておられますから。「主は私(救い主)に油(聖霊)を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を使わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油(聖霊)を、暗い心に変えて賛美の衣をまとわせるために。」まさにクレオパは暗い顔をしていましたが、復活のイエス様との出会いで、喜びと讃美の心に変えられたでしょう。
ルカに戻ります。28節以下。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」僅か3日前の「最後の晩餐」の時、イエス様はパンを取り、感謝の祈りを唱えてパンを裂いて渡して下さったのです。クレオパはそこにいませんでしたが、もう一人はいたかもしれません。二人の心の目が開き、イエス様だと分かったのです。これは第1回目の聖餐式とも言えます。聖餐式のパンを食べ、ぶどう液を飲むごとに、私たちはイエス・キリストにお目にかかっています。私はしばしば申し上げますが、聖餐式の真の司式者はイエス・キリスト、洗礼式の真の司式者もイエス・キリストです。
「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」私たちも礼拝のたびごとに、聖書の話を聴き、お祈りし、賛美し、聖餐にあずかることで、聖霊に満たされて心燃やされる者でありたいと、切に祈ります。目が開かれるとは、どのようなことか。使徒言行録26章17節に、復活されたイエス様が使徒パウロに語った言葉にそれが語られています。「私はあなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らが私(イエス・キリスト)への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」
ルカに戻ります。「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」復活されたイエス様は、クレオパたち二人に現れた頃、ほぼ同時にシモン・ペトロにも現れたのですね。
本日のルカによる福音書は、多くの人々に愛されている個所です。何回読んでも恵み深い。イエス様の十字架と復活があって、私たちに真に救いが与えられ、永遠の命が与えられます。イエス様はヨハネ福音書16章33節で言われました。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」イエス様が死に勝利されたイースターを、心より感謝致します。アーメン。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
(説教) イースター、真におめでとうございます。説教題は「十字架を経て復活へ」です。小見出しは「エマオで現れる」です。
イエス・キリストは世界の歴史で初めて、死から復活した方です。死にきらない状態(仮死状態)から蘇生した人は、多くいると思います。また旧約聖書にも預言者によって生き返らせられた人々が登場し、イエス・キリストご自身も死者を生き返らせなさっています。しかしその方々は、もう一度死んだに違いありません。イエス・キリストは仮死状態から蘇生したのではなく、完全に死なれた三日目に、体の復活をもって、完全に復活されました。その体は、以前と異なる霊の体です。でも確かに体なのです。ご飯を食べることもできます。そして復活されたイエス・キリストは、もはや二度と死ぬことがありません。永遠に生きておられるのです。ですから私たち限界ある人間の、確かな希望になって下さっています。
イエス様が二日前の金曜日に、「父よ、私の霊を御手に委ねます」と言って、十字架の上で息を引き取られたのです。そして安息日後の日曜日の早朝、婦人たちがイエス様を納めた墓に行ってみると、意外にもイエス様の遺体はなく、輝く衣を着た二人の人が現れ、こう言ったのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」婦人たちは墓から帰って、使徒たち(11人の弟子たち)に話しましたが、使徒たちには、たわ事のように思われ、信じませんでした。ペトロだけは墓に確かめに行き、イエス様の遺体がなかったので、驚きながら家に帰りました。ペトロには理解できませんでした。謎が解決しないまま、場面は次に進みます。
13~14節「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン(約11キロ)離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」人は腑に落ちないことがあると、どうしても気になって仕方がなく、忘れて次に進めないものです。この二人もそうでした。15節「話し合い、論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」イエス様は、今も私たちとも、一緒に歩んでいて下さいます。「イエス・キリストは永遠の同伴者」と言った人がいますが、まさにその通りです。但し、この時は、この二人の目が遮られていて、イエス様であることに気づきませんでした。イエス様がどのような救い主なのか、彼らの目は開かれていなかったのです。イエス様に手引きしていただくことが必要です。二人は暗い顔をして立ち止まった。」イエス様の十字架の死で打ちひしがれていますから、当然顔も暗かったのです。17節「イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。イエス様は、この問いできっかけを作り、今は無理解な二人を、真の信仰に導いて下さいます。
18節以下「その一人のクレオパという人が答えた。」このクレオパという人はここにしか登場しないので、どんな人かは、ここに書いてあることしか分かりません。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」「イエスが、『どんなことですか』と言われると、二人は言った。『ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。』」イエス様のことを偉大な預言者と思っていて、神の子だということが分かっていなかったのですね。「それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
21節「私たちは、あの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていました。」彼らがイエス様にかけていた期待が、見当はずれの期待だったのです。彼らはイエス様を、ローマ帝国の支配からイスラエルの国を解放して下さる民族的愛国的リーダー、政治的・軍事的指導者として期待していたことが分かります。イエス様の十字架は、イスラエルの過越祭の時に起こりました。過越祭は、昔イスラエルの民が、モーセに率いられてエジプトの支配から解放されたことを思い出す重要な祭りです。昔モーセがリーダーとなって、神様がイスラエルの民をエジプトから解放して下さったように、今はイエス様がリーダーとなって、イスラエルの民をローマ帝国から解放して下さると、過越祭の時期だからこそ、期待を高めたと思われます。ところが十字架にかけられて死なれた。彼らの期待は吹き飛んでしまい、大いに失望しているのです。
クレオパが言います。「しかも、そのことがあってから、もう三日になります。」解説書によると、当時、「人間の魂は死後三日くらいはその人の遺体にの周りにいるが、三日過ぎると去り、生き返る可能性がなくなる。」これは迷信と思いますが、当時そのような考え方もあったそうです。「しかも、そのことがあってから、もう三日になります。」三日目なので、生き返る可能性もなくなり、一縷の望みも尽きたというわけです。但し、たった一つ、からの墓という不可思議な出来事だけが、心に引っかかって離れないのです。クレオパがそれを口にします。「ところが、仲間の婦人たちが私たちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者の何人かが墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
イエス様はじっくり耳を傾けて聞いて下さいます。カウンセリングで一番大切なことは、「傾聴(人の話をじっくり聴くこと)」と言われますが、イエス様こそ深い傾聴者、理想的なカウンセラーと言えます。じっくり聴かれた後で言われます。25~26節「ああ、物分かりが悪く(目を遮られている)、心が鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち、メシア(救い主)はこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」その頃のイスラエルの人々は、弟子たちをも含めて、メシア(救い主)は勝利と栄光の道を進む方と見ていたようです。十字架の苦難を受けるなどは、全くあり得ない想定外のことでした。それが常識だったと思われます。しかし旧約聖書は、本当にそう言っているのでしょうか。イエス様は、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。」イエス様がどんな説明をなさったのか、私もぜひ直接聞きたかったし、このルカによる福音書にそれをもっと詳しく書いてほしかったですね。でもある程度は分かる気がします。
イエス様は間違いなくイザヤ書53章を語られたに違いありません。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。~彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。」メシア(救い主)がこのような苦難を通ることは、旧約聖書で予告されていたのです。
イエス様はほかに旧約聖書のどの御言葉を引用されたのか。本日の旧約聖書であるミカ書5章1節をも引用された可能性があります。これはメシア(救い主)が、ベツレヘムに誕生すると預言する御言葉。もちろん実現しました。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたし(神)のためにイスラエルを納める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。~彼は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって。~彼こそ、まさしく平和である。」
イザヤ書7章14節をも語られた可能性があります。「それゆえ、私の主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」神は我々と共におられるの意味ですね。三日目の復活については、ヨナ書を語られたと思います。「主は巨大に魚に命じて、ヨナを飲み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。」イエス様は、マタイ福音書12章等で、ヨナ書を引用しておられます。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子(イエス様)も三日三晩、大地の中にいることになる。」十字架で死ぬが、三日目に復活する予告です。ホセア書6章2節を引用された可能性も高いです。「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせて下さる。」ヨブ記19章25節のヨブの言葉も引用されたかもしれません。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるだろう。」これはヨブを救う方イエス・キリストの復活を暗示していると読むことができます。
イエス様はイザヤ書42章1節以下をも、イエス様の働きを予告する御言葉として語られたでしょう。マタイ12章にもこの個所は引用されていますから。「見よ、私(神)の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心(ともし火の光)を消すことなく、裁き(正義)を導き出して、確かなものとする。」救い主は、弱っている人をいたわるということです。イザヤ書61章をも語られた可能性があります。イエス様ご自身がルカによる福音書4章で、ここを語っておられますから。「主は私(救い主)に油(聖霊)を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を使わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油(聖霊)を、暗い心に変えて賛美の衣をまとわせるために。」まさにクレオパは暗い顔をしていましたが、復活のイエス様との出会いで、喜びと讃美の心に変えられたでしょう。
ルカに戻ります。28節以下。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」僅か3日前の「最後の晩餐」の時、イエス様はパンを取り、感謝の祈りを唱えてパンを裂いて渡して下さったのです。クレオパはそこにいませんでしたが、もう一人はいたかもしれません。二人の心の目が開き、イエス様だと分かったのです。これは第1回目の聖餐式とも言えます。聖餐式のパンを食べ、ぶどう液を飲むごとに、私たちはイエス・キリストにお目にかかっています。私はしばしば申し上げますが、聖餐式の真の司式者はイエス・キリスト、洗礼式の真の司式者もイエス・キリストです。
「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」私たちも礼拝のたびごとに、聖書の話を聴き、お祈りし、賛美し、聖餐にあずかることで、聖霊に満たされて心燃やされる者でありたいと、切に祈ります。目が開かれるとは、どのようなことか。使徒言行録26章17節に、復活されたイエス様が使徒パウロに語った言葉にそれが語られています。「私はあなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らが私(イエス・キリスト)への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」
ルカに戻ります。「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」復活されたイエス様は、クレオパたち二人に現れた頃、ほぼ同時にシモン・ペトロにも現れたのですね。
本日のルカによる福音書は、多くの人々に愛されている個所です。何回読んでも恵み深い。イエス様の十字架と復活があって、私たちに真に救いが与えられ、永遠の命が与えられます。イエス様はヨハネ福音書16章33節で言われました。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」イエス様が死に勝利されたイースターを、心より感謝致します。アーメン。
2026-03-22 2:35:19()
「あなたの信仰がなくならないように祈った」 2026年3月22日(日)受難節(レント)第5主日公同礼拝・「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」第87回
(ルカによる福音書22:31~38)
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
(説教) 本日は、受難節(レント)第5主日礼拝、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」の第87回。説教題は「あなたの信仰がなくならないように祈った」です。私たちは今、イエス・キリストの十字架を特に深く心に留める受難節(レント)を過ごしています。特に一生懸命聖書を読み、礼拝し、祈る季節です。
本日の個所は、イエス・キリストがあと4~5時間もするとユダの裏切りによって逮捕される場面です。にもかかわらず、12人の使徒たち(弟子たち)は「自分たちの中で誰が一番偉いか」というレベルの低い議論に夢中になっていました。イエス様はそれに対して「あなた方の中で一番偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と言われ、同時に使徒たちへの感謝も述べられました。「あなた方は、私が種々の試練に遭ったとき、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた」と。だから「あなた方は、私の国(神の国、天国)で私の食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」これは今の世で権力を与えるということではなく、天国で豊かな報いを受けるという約束です。
この約束を前提として、イエス様は次の踏み込んだ御言葉を語られます。本日の最初の31節「シモン、シモン。」名前を二回繰り返して呼びかけることは、非常に重要なメッセージを語ることを意味します。「シモン、シモン、サタン(悪魔)はあなた方を、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」これは厳しいことです。但しサタンは、神様より弱いので、神様の許可なしには何もできません。神様が許可した範囲のことしかできません。サタンは、父なる神様の許可を得て、シモンをはじめとするイエス様の弟子たちをふるいにかけます。困難の中でも父なる神様に従うかどうか、真の信仰の持ち主かどうか、試されます。日常生活の中で、様々なものをふるいにかけると、本物と偽物がより分けられます。神様はなぜ、サタンがイエス様の弟子たちをふるいにかけることを許可なさったのでしょうか。簡単に答えは出ません。
サタンがふるいにかけると聞くと、私たちはヨブ記を思い出すと思います。神様がサタンに言われます。「お前は私の僕(しもべ)ヨブに気づいたか。地上の彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」するとサタンが挑戦します。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。(~)ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪いに違いありません。」すると一定に制限の中で、神の許可が出ます。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には手を出すな。」こうして、何か罪を犯したわけでもないヨブに苦難がふりかかります。
似たことが、シモン・ペトロをはじめとする12人の弟子たちにも起こるのです。そしてシモンたちの場合は、誰よりもイエス様ご自身に、最も理不尽で最も厳しい苦難が下ります。イエス様は、それを受け止める覚悟をしておられます。イエス様ご自身が、最も厳しくふるいにかけられます。父なる神様に、どこまで従いきるかどうかが試されます。イエス様にとっても困難なことですが、最終的にご自分が12人の弟子たちを代表して、サタンに勝利なさることを確信しておられます。ですから弟子たちに、「あなた方は、私の国で私の食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの12部族を治めることになる」と、約束されました。
ですが同時に、ふるいにかけられることは厳しいことです。イエス様は、シモン・ペトロがそれに耐えられないことを予見しておられたので、言われます。32節「しかし、私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモン・ペトロは挫折するが、イエス様の祈りに支えられて必ず立ち直ることができる。それがイエス様の確信です。イエス様は弟子の筆頭シモン・ペトロのために、前々から熱い執り成しの祈りを献げておられたに違いありません。ユダのためにも、他の10人の弟子たちのためにも、熱い執り成しの祈りを献げておられたに違いありません。「シモン・ペトロ、あなたは挫折する。しかし私は、あなたのために熱く祈った。だからあなたは必ず立ち直ることができる。あなたが立ち直ったら、同じく挫折した他の兄弟たち(弟子たち)を力づけ、励ましなさい。」これがイエス・キリストの福音なのでしょうね。誘惑や試練に負け、罪を犯してしまう。しかしイエス様の執り成しの祈りとイエス様の十字架の贖いに励まされ力づけられて、罪を悔い改めて立ち直ることができる。
33節「するとシモンは、『主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った。イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう。』」ペトロは、「まさか」と思ったのではないでしょうか。しかし現実は、その通りになってしまいます。ペトロは、サタンのふるいにかけられ、敗れてしまいます。この後、イエス様はオリーブ山で汗が血のように滴る切なる祈りの後、大祭司の手下や祭司長、神殿守衛長、長老たちによって捕らえられ、大祭司の屋敷に連行され、次に最高法院で尋問され、さらに総督ピラトの尋問を受けます。
ペトロは大祭司の屋敷で女中に、「この人も一緒にいました」と言われ、「私はあの人を知らない」と言ってしまいます。ほかの人に「お前もあの連中の仲間だ」と言われると、「いや、そうではない」と二回目の否定を行います。一時間ほど後にまた別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張ると、「あなたの言うことは分からない」と逃げ腰になります。まだ言い終わらないうちに、突然、鶏が鳴きました。イエス様は振り向いてペトロを見つめられました。実に印象深い場面です。イエス様のまなざしは、どのようなまなざしだったのでしょうか。ペトロをにらみつけたり、ペトロに怒りをぶつけるまなざしではなかったと思います。「ペトロ、やはりあなたは私を知らないと言ったのだね。私は残念に思う。私にじっと見つめられることは、たまらないだろう。しかし私は今もあなたのために祈っている。私はあなたの三度の裏切りの罪をも赦すために、あなたのためにも十字架にかかる。あなたは三度の裏切りの罪を悔い改めて、必ず立ち直ることができる。」イエス様は、心の中でこのように考えておられたのではないかと思います。ペトロは、イエス様にじっと見つめられてはっとし、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と予告されたイエス様の言葉を思い出しました。そして外に出て、激しく泣いたと記されています。自分のうかつさ、自分のいい加減さ、自分の罪を悔いて、悔い改める涙です。
ペトロは、この時はまだ気づいていなかったかもしれません。自分の大きな罪を悔い改めるこの涙が、父なる神様の御心に適う涙であることを。詩編51編19節には、こうあります。ダビデ王の悔い改めの言葉ですね。「神の求めるいけいえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」「神の求めるいけいえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」
先週の礼拝では、聖餐式についても語らせていただきました。聖餐式を受けるにふさわしいかどうかは、どのように判断すればよいのでしょうか。聖餐式を受けるのにふわしい人は、聖書の御言葉と聖霊に導かれて正しく生きていることも大切です。ですがイエス様ほど正しく生きることができない私たちであることを思うと、自分の罪を悔い、自分の罪を悔い改める本心からの涙を流していることが、聖餐式を受けるために最も重要なこととも言えます。日本人は喜怒哀楽をあまり表に出さない傾向もあるので、心の中で涙を流しているということでもよいと思います。
「聖餐式を受けるのに全くふさわしくない私のために、イエス様が十字架で死んで下さった。」このことを知るならば、私たちは自分の罪を悔い改めないわけには、いかなくなります。少し昔のある著名な牧師は、聖餐式を司式するたびに涙ぐんだと聞きます。ある意味で、当然のことと思います。私もそのような気持ちで毎回、聖餐式の司式をさせていただきたいと思いますし、司式でなく受ける時も、毎回そのような気持ちで受けたいと思うのです。イエス様の十字架の恵みに、慣れてしまって、何の感動も感謝もなく、聖餐式を受けることだけは、避けたいと思います。ペトロの三度の裏切りは私たちの模範になりませんが、しかしペトロの涙は純粋な悔い改めの涙であって、私たちも自分の罪を純粋に悔い改めて、あのような純粋な涙を本心から流せる信仰に生かされたいと、切に願います。
次の小見出しは、「財布と袋と剣」です。35節「それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」
イエス様は、ルカによる福音書10章4節以下で言われました。72名を任命して、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた時です。「財布も袋も履物も持っていくな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和は、その人にとどまる。~その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。」その時は、何を持って行かなくても、弟子たちは何にも不足しなかったのです。神様が全て、備えて下さいました。
しかし今は、状況が非常に悪化しているのです。イエス様は、本日の御言葉の少し先で、「今は闇が力を振るっている」と言われました。これから暫く、悪魔が猛威を振るうのです。その中で信仰をもって生きる強い心構えが必要です。それが「財布を持ち、袋を持ち、剣を買いなさい」の意味ではないかと思います。彼らが「剣がここに二振りあります」と答えましたが、この二本だけでは、イエス様を捕らえに来る大勢と戦って勝つこともできないでしょう。
「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、私の身に必ず実現する。」これは本日の旧約聖書イザヤ書53章12節の引用です。ご存じの通り、イザヤ書53章は、イエス様の十字架の犠牲の死の予告。「彼が自らを投げ打ち死んで、罪人(つみびと)の一人日数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」イエス様が、ご自分の口で、イザヤ書53章の御言葉を語られる箇所は、新約聖書でこの37節だけだそうです。
私は一昨日、西東京教区の全体研修会(阿佐ヶ谷教会にて)に参りました。カトリックの作家・遠藤周作と交流のあった山根道公氏(岡山のノートルダム清心女子大の先生)です。今年は遠藤周作召天30年です。遠藤周作の言葉「人間は、永遠の同伴者を、自分の悲しみや苦しみを分かち合い、共に涙を流してくれる同伴者を必要としている。」「私にだってまあ、辛い時や挫折が何回もあった。私に入院二ヵ年半、大きな手術三回やるというかなり長い病気の期間がある。病気という生活の挫折を三年近くたっぷり噛みしめたおかげで、私は人生や死や人間の苦しみと正面からぶつかることができた。これは小説家にとって苦しいが貴重な勉強と体験だった。少なくともそのお陰で、人間と人生を視る眼が少し変わって来た。今思うと『沈黙』という私にとって大事なあの作品はあの生活上の挫折がなければ、心の中で熟さなかったに違いない。」こう書く遠藤さんは、37歳のときに肺結核再発、二度の手術失敗。手術死の危険の高い三度目の手術を受け、数秒心臓が止まるが、死の淵から生還する。三年に及ぶ病体験の中で、なぜ人間に苦しみが与えられ、神に問い続け、その苦しみを共に分かち合うキリストの眼差しに出会う。
遠藤周作は、ペトロと同じ体験をしたわけではありません。それでも遠藤さんが実感したイエス・キリストの眼差しは、ペトロが「知らない」と言った時に振り向いてペトロを見つめられたイエス様の眼差しと共通するものがあったと思うのです。遠藤さんは『沈黙』という代表作の最後に主人公とイエス・キリストの対話を書きます。「主よ、あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました。」「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。」
ルカ福音書に戻ると、イエス様はペトロに言われたのです。「私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス・キリストはペトロの裏切りの罪をも背負って十字架にかかり、私たちの罪や苦しも背負っていて下さいます。このイエス様に励まされて、私どもも、人様のご苦労を少しでも共に背負わせていただき、共に神の国を目指して前進したいものです。アーメン。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
(説教) 本日は、受難節(レント)第5主日礼拝、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」の第87回。説教題は「あなたの信仰がなくならないように祈った」です。私たちは今、イエス・キリストの十字架を特に深く心に留める受難節(レント)を過ごしています。特に一生懸命聖書を読み、礼拝し、祈る季節です。
本日の個所は、イエス・キリストがあと4~5時間もするとユダの裏切りによって逮捕される場面です。にもかかわらず、12人の使徒たち(弟子たち)は「自分たちの中で誰が一番偉いか」というレベルの低い議論に夢中になっていました。イエス様はそれに対して「あなた方の中で一番偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と言われ、同時に使徒たちへの感謝も述べられました。「あなた方は、私が種々の試練に遭ったとき、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた」と。だから「あなた方は、私の国(神の国、天国)で私の食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」これは今の世で権力を与えるということではなく、天国で豊かな報いを受けるという約束です。
この約束を前提として、イエス様は次の踏み込んだ御言葉を語られます。本日の最初の31節「シモン、シモン。」名前を二回繰り返して呼びかけることは、非常に重要なメッセージを語ることを意味します。「シモン、シモン、サタン(悪魔)はあなた方を、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」これは厳しいことです。但しサタンは、神様より弱いので、神様の許可なしには何もできません。神様が許可した範囲のことしかできません。サタンは、父なる神様の許可を得て、シモンをはじめとするイエス様の弟子たちをふるいにかけます。困難の中でも父なる神様に従うかどうか、真の信仰の持ち主かどうか、試されます。日常生活の中で、様々なものをふるいにかけると、本物と偽物がより分けられます。神様はなぜ、サタンがイエス様の弟子たちをふるいにかけることを許可なさったのでしょうか。簡単に答えは出ません。
サタンがふるいにかけると聞くと、私たちはヨブ記を思い出すと思います。神様がサタンに言われます。「お前は私の僕(しもべ)ヨブに気づいたか。地上の彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」するとサタンが挑戦します。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。(~)ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪いに違いありません。」すると一定に制限の中で、神の許可が出ます。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には手を出すな。」こうして、何か罪を犯したわけでもないヨブに苦難がふりかかります。
似たことが、シモン・ペトロをはじめとする12人の弟子たちにも起こるのです。そしてシモンたちの場合は、誰よりもイエス様ご自身に、最も理不尽で最も厳しい苦難が下ります。イエス様は、それを受け止める覚悟をしておられます。イエス様ご自身が、最も厳しくふるいにかけられます。父なる神様に、どこまで従いきるかどうかが試されます。イエス様にとっても困難なことですが、最終的にご自分が12人の弟子たちを代表して、サタンに勝利なさることを確信しておられます。ですから弟子たちに、「あなた方は、私の国で私の食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの12部族を治めることになる」と、約束されました。
ですが同時に、ふるいにかけられることは厳しいことです。イエス様は、シモン・ペトロがそれに耐えられないことを予見しておられたので、言われます。32節「しかし、私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモン・ペトロは挫折するが、イエス様の祈りに支えられて必ず立ち直ることができる。それがイエス様の確信です。イエス様は弟子の筆頭シモン・ペトロのために、前々から熱い執り成しの祈りを献げておられたに違いありません。ユダのためにも、他の10人の弟子たちのためにも、熱い執り成しの祈りを献げておられたに違いありません。「シモン・ペトロ、あなたは挫折する。しかし私は、あなたのために熱く祈った。だからあなたは必ず立ち直ることができる。あなたが立ち直ったら、同じく挫折した他の兄弟たち(弟子たち)を力づけ、励ましなさい。」これがイエス・キリストの福音なのでしょうね。誘惑や試練に負け、罪を犯してしまう。しかしイエス様の執り成しの祈りとイエス様の十字架の贖いに励まされ力づけられて、罪を悔い改めて立ち直ることができる。
33節「するとシモンは、『主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った。イエスは言われた。『ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう。』」ペトロは、「まさか」と思ったのではないでしょうか。しかし現実は、その通りになってしまいます。ペトロは、サタンのふるいにかけられ、敗れてしまいます。この後、イエス様はオリーブ山で汗が血のように滴る切なる祈りの後、大祭司の手下や祭司長、神殿守衛長、長老たちによって捕らえられ、大祭司の屋敷に連行され、次に最高法院で尋問され、さらに総督ピラトの尋問を受けます。
ペトロは大祭司の屋敷で女中に、「この人も一緒にいました」と言われ、「私はあの人を知らない」と言ってしまいます。ほかの人に「お前もあの連中の仲間だ」と言われると、「いや、そうではない」と二回目の否定を行います。一時間ほど後にまた別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張ると、「あなたの言うことは分からない」と逃げ腰になります。まだ言い終わらないうちに、突然、鶏が鳴きました。イエス様は振り向いてペトロを見つめられました。実に印象深い場面です。イエス様のまなざしは、どのようなまなざしだったのでしょうか。ペトロをにらみつけたり、ペトロに怒りをぶつけるまなざしではなかったと思います。「ペトロ、やはりあなたは私を知らないと言ったのだね。私は残念に思う。私にじっと見つめられることは、たまらないだろう。しかし私は今もあなたのために祈っている。私はあなたの三度の裏切りの罪をも赦すために、あなたのためにも十字架にかかる。あなたは三度の裏切りの罪を悔い改めて、必ず立ち直ることができる。」イエス様は、心の中でこのように考えておられたのではないかと思います。ペトロは、イエス様にじっと見つめられてはっとし、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と予告されたイエス様の言葉を思い出しました。そして外に出て、激しく泣いたと記されています。自分のうかつさ、自分のいい加減さ、自分の罪を悔いて、悔い改める涙です。
ペトロは、この時はまだ気づいていなかったかもしれません。自分の大きな罪を悔い改めるこの涙が、父なる神様の御心に適う涙であることを。詩編51編19節には、こうあります。ダビデ王の悔い改めの言葉ですね。「神の求めるいけいえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」「神の求めるいけいえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」
先週の礼拝では、聖餐式についても語らせていただきました。聖餐式を受けるにふさわしいかどうかは、どのように判断すればよいのでしょうか。聖餐式を受けるのにふわしい人は、聖書の御言葉と聖霊に導かれて正しく生きていることも大切です。ですがイエス様ほど正しく生きることができない私たちであることを思うと、自分の罪を悔い、自分の罪を悔い改める本心からの涙を流していることが、聖餐式を受けるために最も重要なこととも言えます。日本人は喜怒哀楽をあまり表に出さない傾向もあるので、心の中で涙を流しているということでもよいと思います。
「聖餐式を受けるのに全くふさわしくない私のために、イエス様が十字架で死んで下さった。」このことを知るならば、私たちは自分の罪を悔い改めないわけには、いかなくなります。少し昔のある著名な牧師は、聖餐式を司式するたびに涙ぐんだと聞きます。ある意味で、当然のことと思います。私もそのような気持ちで毎回、聖餐式の司式をさせていただきたいと思いますし、司式でなく受ける時も、毎回そのような気持ちで受けたいと思うのです。イエス様の十字架の恵みに、慣れてしまって、何の感動も感謝もなく、聖餐式を受けることだけは、避けたいと思います。ペトロの三度の裏切りは私たちの模範になりませんが、しかしペトロの涙は純粋な悔い改めの涙であって、私たちも自分の罪を純粋に悔い改めて、あのような純粋な涙を本心から流せる信仰に生かされたいと、切に願います。
次の小見出しは、「財布と袋と剣」です。35節「それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」
イエス様は、ルカによる福音書10章4節以下で言われました。72名を任命して、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた時です。「財布も袋も履物も持っていくな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和は、その人にとどまる。~その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。」その時は、何を持って行かなくても、弟子たちは何にも不足しなかったのです。神様が全て、備えて下さいました。
しかし今は、状況が非常に悪化しているのです。イエス様は、本日の御言葉の少し先で、「今は闇が力を振るっている」と言われました。これから暫く、悪魔が猛威を振るうのです。その中で信仰をもって生きる強い心構えが必要です。それが「財布を持ち、袋を持ち、剣を買いなさい」の意味ではないかと思います。彼らが「剣がここに二振りあります」と答えましたが、この二本だけでは、イエス様を捕らえに来る大勢と戦って勝つこともできないでしょう。
「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、私の身に必ず実現する。」これは本日の旧約聖書イザヤ書53章12節の引用です。ご存じの通り、イザヤ書53章は、イエス様の十字架の犠牲の死の予告。「彼が自らを投げ打ち死んで、罪人(つみびと)の一人日数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」イエス様が、ご自分の口で、イザヤ書53章の御言葉を語られる箇所は、新約聖書でこの37節だけだそうです。
私は一昨日、西東京教区の全体研修会(阿佐ヶ谷教会にて)に参りました。カトリックの作家・遠藤周作と交流のあった山根道公氏(岡山のノートルダム清心女子大の先生)です。今年は遠藤周作召天30年です。遠藤周作の言葉「人間は、永遠の同伴者を、自分の悲しみや苦しみを分かち合い、共に涙を流してくれる同伴者を必要としている。」「私にだってまあ、辛い時や挫折が何回もあった。私に入院二ヵ年半、大きな手術三回やるというかなり長い病気の期間がある。病気という生活の挫折を三年近くたっぷり噛みしめたおかげで、私は人生や死や人間の苦しみと正面からぶつかることができた。これは小説家にとって苦しいが貴重な勉強と体験だった。少なくともそのお陰で、人間と人生を視る眼が少し変わって来た。今思うと『沈黙』という私にとって大事なあの作品はあの生活上の挫折がなければ、心の中で熟さなかったに違いない。」こう書く遠藤さんは、37歳のときに肺結核再発、二度の手術失敗。手術死の危険の高い三度目の手術を受け、数秒心臓が止まるが、死の淵から生還する。三年に及ぶ病体験の中で、なぜ人間に苦しみが与えられ、神に問い続け、その苦しみを共に分かち合うキリストの眼差しに出会う。
遠藤周作は、ペトロと同じ体験をしたわけではありません。それでも遠藤さんが実感したイエス・キリストの眼差しは、ペトロが「知らない」と言った時に振り向いてペトロを見つめられたイエス様の眼差しと共通するものがあったと思うのです。遠藤さんは『沈黙』という代表作の最後に主人公とイエス・キリストの対話を書きます。「主よ、あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました。」「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。」
ルカ福音書に戻ると、イエス様はペトロに言われたのです。「私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス・キリストはペトロの裏切りの罪をも背負って十字架にかかり、私たちの罪や苦しも背負っていて下さいます。このイエス様に励まされて、私どもも、人様のご苦労を少しでも共に背負わせていただき、共に神の国を目指して前進したいものです。アーメン。
2026-03-15 0:54:41()
「キリストの血による新しい契約」 2026年3月15日(日)受難節(レント)第4主日公同礼拝
(ルカによる福音書22:14~30)
時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。
また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
(説教) 本日は、受難節(レント)第4主日礼拝。説教題は「キリストの血による新しい契約」です。小見出しは「主の晩餐」と「いちばん偉い者です。私たちは今、イエス・キリストの十字架を特に深く心に留める受難節(レント)を過ごしています。特に一生懸命聖書を読み、礼拝し、祈る季節です。
最初の小見出し「主の晩餐」これはいわゆる「最後の晩餐」の場面です。14節から「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなた方と共にこの過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。』」「切に願っていた」と直訳すると「私は望みに望んだ」になります。「望む」という言葉が、2回書かれています。イエス様が弟子たちとこの食事を行うことを、心の底から強く願われたことが分かります。「私は望みに臨んだ。」「苦しみを受ける前に」の苦しみは、もちろん十字架の受難を意味します。「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事をとることはない。」
イスラエル人にとって重要な過越祭は、モーセの時代にエジプトで奴隷として酷使されていた苦難から、神様の愛によって奇跡的に救い出されたことを記念する祭であり食事です。あの時、神様の裁きがエジプト全土を覆いました。しかしイスラエル人の家庭では、神様の指示に従って傷のない一才の雄の羊を夕暮れに屠り、その血を取って小羊を食べる家の入口の二本の柱と鴨居に塗り、小羊の肉を火で焼いて食べ、酵母を入れないパンと苦菜を添えて食べました。家に塗った血がしるしとなり、神様はその血のある家には裁きを行わず、過ぎ越したので、イスラエルの家には裁きが下りませんでした。これが過越祭と過越の食事のいわれですね。これは旧約聖書(古い契約)の時代の祭りです。そしてイエス様は今や、それを乗り越える新しい契約を打ち立てようとしておられます。「神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事をとることはない。」「神の国で過越が成し遂げられる」とは、イエス様の十字架と復活によって、私たちに真の救いが与えられることを意味するのでしょう。その後にならないとイエス様は次の過越の食事をとることはないと言っておられますが、これは復活後のエマオでの食事を指すのかもしれませんし、天国で待っている完全な祝福を、過越の食事という言葉で象徴させておられるのかもしれません。
17~18節が、旧約聖書の時代の過越の食事であるそうです。「そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。『これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』」イエス様の12弟子が、過越の食事のぶどう酒を飲んでいる場面です。ここに書かれていませんが、通常、この後に小羊の肉を食べたそうです。イエス様が言われます。「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」使徒たち(弟子たち)と一緒にぶどう酒を飲むことは、永遠の喜びのシンボルで、ここではイエス様が一旦弟子たちと別れることになる悲しみもあります。しかしもっと大きな喜びが天国で待っています。ここまでが過越の食事です。
19節からが、イエス・キリストによる「新しい食事の制定」です。これは普通の食事ではなく、聖なる食事です。第1回目の聖餐式とも言えます。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなた方のために与えられる私の体である。私の記念として、このように行いなさい。』」前にも申しましたが、私が神学生だった時に、お隣の日本ルーテル神学大学との一致礼拝に出席したとき、プロテスタントのルター派の教会の聖餐式を経験しました。ルーテル教会の牧師が、一人一人の目の前でパンをちぎって渡して下さいます。一人一人に言うのです。「これは、あなた方のために与えられる私の体である」と。目の前で一人一人のためにちぎって渡して下さるので、「イエス様の御体が私の罪のために十字架で釘と槍でちぎられた、裂かれた」事実を、目の前で示して下さいます。とても印象深い聖餐式です。
「私の記念として、このように行いなさい。」記念と訳された元のギリシア語は、「想起する、思い出す」の意味でもあります。イエス・キリストの十字架と復活が、まさしく私たち一人一人のために行われたことを、パンとぶどう液を受けることで、はっきりと思い出す、想起するのです。「このように行いなさい。」イエス・キリストのこの明確なご意志、直接の命令によって、東久留米教会でもどの教会でも。聖餐式が行われます。20節「食事を終えてから、杯をも同じようにして言われた。『この杯は、あなた方のために流される、私の血による新しい契約である。』」イエス・キリストが、私たちの全ての罪の責任を身代わりに背負って、十字架で体だを裂き、血を多く流して死んで下さいます。イスラエルの民のエジプト脱出の時に成立した古い契約の時は、いけにえの小羊の血が流されました。新しい契約が確立される今回は、真の神の子イエス様が真のいけにえとなって血を流して死んで下さいます。血は命そのものです。私たち人間の罪が赦されるためには、いけにえの命によって償うほか道がありません。本当は小羊ではだめです。神の子が十字架で血を長して死ぬしか、私たちの罪が赦される道がありません。ヘブライ人への手紙9章22節に、「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」と書かれている通りです。
私たちが今読んだ御言葉とほとんど同じことを、使徒パウロも書いています。これにより、イエス様が確かにこのことを直接命じられたことが分かります。コリントの信徒への手紙(一)11章です。聖餐式の時にいつも読む御言葉です。「私があなた方に伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これはあなた方のための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなた方は、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」ここにも「記念」という言葉が二回出てきます。これはイエス様を過去の方として想起する、思い起こすだけでなく、もちろん今共にいて下さる神の子として信じることを意味します。そして私たちは、あの聖餐式のパンを食べ、ぶどう液を飲むたびに、イエス様が私の罪のために十字架で死で下さった恵みを、心と口と胃で具体的に味わいます。
その先には、こうあります。27節以下「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体(パンが聖別された聖なるパンであること)をわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」「自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」自分が十戒等に照らして明らかな罪を犯していないか等を、自分でチェックした上で、パンとぶどう液をいただきなさいということと思います。明らかな罪を悔い改めもしないで、うかつにパンとぶどう液を受けると、聖なる神様に裁かれる恐れもあると警告しています。
この御言葉を読むと、洗礼を受けていない方に聖餐式のパンとぶどう液を渡すことは、行ってはいけないこととよく分かります。洗礼を受けていない人にもパンとぶどう液を配る教会もあるらしいのですが、私は現場は見たことがありません。洗礼を受けていない人にもパンとぶどう液を配ることは、一見、差別をなくしたよいことのように見えます。ですがそれは相手を危険にさらすことと思います。洗礼を受けていないことは、自分の罪を悔い改めていないことですから、その方がうかつに聖餐式のパンとぶどう液を受けると、ここに書いてあるように「自分に対する裁きを飲み食いする」ことになってしまいます。そして私たちは、31節のパウロの言葉に、ほっとします。「私たちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。」ちゃんと自分の罪を悔い改めていれば、裁かれることはないということでしょう。
もう一か所、コリントの信徒への手紙(一)10章14節以下も見たいのです。ここでも、私たちは聖餐式に臨む心構えを教えられます。偶像崇拝を行いながら、聖餐式に参加することはできないと語られています。「私の愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。偶像礼拝は、偽物の神を拝むことですね。パウロが20節ではっきり書いているように、偶像の正体は悪霊。悪魔なのです。16節「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。」キリストの純粋な血、キリストの聖なる血をいただくのが聖餐式です。「あずかる」という言葉は、元のギリシア語で「コイノーニア」で「交わる」「交流する」の意味です。私たちが聖餐式のぶどう液を飲むとき、私たち罪人(つみびと)が生けるイエス・キリストの聖なる血と交流しているのです。これはやはりへりくだって襟を正して行うことだと感じます。「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」パンをいただく時も同じです。普通の食事ではなく、聖なる食事です。
聖なるキリストと交流する聖餐式。聖餐式にあずかりながら、同時に偶像(他の宗教)の食卓・儀式に参加することはできないとパウロが説きます。偶像は悪霊・悪魔であり、偶像の儀式に参加することは、悪霊と交流することですから、聖なる神を礼拝するクリスチャンにできないことです。それは父なる神様とイエス・キリストを裏切る行為になります。パウロは言います。「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも主にねたみを起こさせるつもりなのですか。」私たちが偶像の儀式に参加すると、神様のねたみを引き起こす。聖なる怒りを招くので、キリストの神聖な食卓にあずかってイエス様と聖なる純粋な交流をする私たちクリスチャンは、汚れた偶像の儀式に参加することはできない。私たちは聖餐式で、イエス様との聖なる純粋な交流に生きているのだからです。このことをよく心に刻んで、聖餐式にあずかることが必要です。
ルカ22章に戻り、21節。「私を裏切る者」の「裏切る」は元のギリシア語で「パラディドーミ」、「渡す」という言葉。ローマの信徒への手紙5章32節にも出て来る。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」イエス様の十字架は悪魔がユダを誘惑してイエス様を裏切らせたこと、悪魔がリードしているように見えるが、最も深い部分では父なる神様がリードし、導いておられること。「人の子を裏切るその者は不幸だ(ウーアイ)。」呻き。
小見出し「いちばん偉い者。」弟子たちの野心。特に男性のこの心がある。地上で権力を与えられるのではなく、地上でイエス様と共に奉仕に生きれば、天国で報われるということ。ペトロの手紙(一)5章5、6節参照。
首から釘を下げた牧師、すばらしい伝道をした。アーメン。
時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。
また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
(説教) 本日は、受難節(レント)第4主日礼拝。説教題は「キリストの血による新しい契約」です。小見出しは「主の晩餐」と「いちばん偉い者です。私たちは今、イエス・キリストの十字架を特に深く心に留める受難節(レント)を過ごしています。特に一生懸命聖書を読み、礼拝し、祈る季節です。
最初の小見出し「主の晩餐」これはいわゆる「最後の晩餐」の場面です。14節から「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなた方と共にこの過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。』」「切に願っていた」と直訳すると「私は望みに望んだ」になります。「望む」という言葉が、2回書かれています。イエス様が弟子たちとこの食事を行うことを、心の底から強く願われたことが分かります。「私は望みに臨んだ。」「苦しみを受ける前に」の苦しみは、もちろん十字架の受難を意味します。「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事をとることはない。」
イスラエル人にとって重要な過越祭は、モーセの時代にエジプトで奴隷として酷使されていた苦難から、神様の愛によって奇跡的に救い出されたことを記念する祭であり食事です。あの時、神様の裁きがエジプト全土を覆いました。しかしイスラエル人の家庭では、神様の指示に従って傷のない一才の雄の羊を夕暮れに屠り、その血を取って小羊を食べる家の入口の二本の柱と鴨居に塗り、小羊の肉を火で焼いて食べ、酵母を入れないパンと苦菜を添えて食べました。家に塗った血がしるしとなり、神様はその血のある家には裁きを行わず、過ぎ越したので、イスラエルの家には裁きが下りませんでした。これが過越祭と過越の食事のいわれですね。これは旧約聖書(古い契約)の時代の祭りです。そしてイエス様は今や、それを乗り越える新しい契約を打ち立てようとしておられます。「神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事をとることはない。」「神の国で過越が成し遂げられる」とは、イエス様の十字架と復活によって、私たちに真の救いが与えられることを意味するのでしょう。その後にならないとイエス様は次の過越の食事をとることはないと言っておられますが、これは復活後のエマオでの食事を指すのかもしれませんし、天国で待っている完全な祝福を、過越の食事という言葉で象徴させておられるのかもしれません。
17~18節が、旧約聖書の時代の過越の食事であるそうです。「そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。『これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』」イエス様の12弟子が、過越の食事のぶどう酒を飲んでいる場面です。ここに書かれていませんが、通常、この後に小羊の肉を食べたそうです。イエス様が言われます。「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」使徒たち(弟子たち)と一緒にぶどう酒を飲むことは、永遠の喜びのシンボルで、ここではイエス様が一旦弟子たちと別れることになる悲しみもあります。しかしもっと大きな喜びが天国で待っています。ここまでが過越の食事です。
19節からが、イエス・キリストによる「新しい食事の制定」です。これは普通の食事ではなく、聖なる食事です。第1回目の聖餐式とも言えます。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなた方のために与えられる私の体である。私の記念として、このように行いなさい。』」前にも申しましたが、私が神学生だった時に、お隣の日本ルーテル神学大学との一致礼拝に出席したとき、プロテスタントのルター派の教会の聖餐式を経験しました。ルーテル教会の牧師が、一人一人の目の前でパンをちぎって渡して下さいます。一人一人に言うのです。「これは、あなた方のために与えられる私の体である」と。目の前で一人一人のためにちぎって渡して下さるので、「イエス様の御体が私の罪のために十字架で釘と槍でちぎられた、裂かれた」事実を、目の前で示して下さいます。とても印象深い聖餐式です。
「私の記念として、このように行いなさい。」記念と訳された元のギリシア語は、「想起する、思い出す」の意味でもあります。イエス・キリストの十字架と復活が、まさしく私たち一人一人のために行われたことを、パンとぶどう液を受けることで、はっきりと思い出す、想起するのです。「このように行いなさい。」イエス・キリストのこの明確なご意志、直接の命令によって、東久留米教会でもどの教会でも。聖餐式が行われます。20節「食事を終えてから、杯をも同じようにして言われた。『この杯は、あなた方のために流される、私の血による新しい契約である。』」イエス・キリストが、私たちの全ての罪の責任を身代わりに背負って、十字架で体だを裂き、血を多く流して死んで下さいます。イスラエルの民のエジプト脱出の時に成立した古い契約の時は、いけにえの小羊の血が流されました。新しい契約が確立される今回は、真の神の子イエス様が真のいけにえとなって血を流して死んで下さいます。血は命そのものです。私たち人間の罪が赦されるためには、いけにえの命によって償うほか道がありません。本当は小羊ではだめです。神の子が十字架で血を長して死ぬしか、私たちの罪が赦される道がありません。ヘブライ人への手紙9章22節に、「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」と書かれている通りです。
私たちが今読んだ御言葉とほとんど同じことを、使徒パウロも書いています。これにより、イエス様が確かにこのことを直接命じられたことが分かります。コリントの信徒への手紙(一)11章です。聖餐式の時にいつも読む御言葉です。「私があなた方に伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これはあなた方のための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなた方は、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」ここにも「記念」という言葉が二回出てきます。これはイエス様を過去の方として想起する、思い起こすだけでなく、もちろん今共にいて下さる神の子として信じることを意味します。そして私たちは、あの聖餐式のパンを食べ、ぶどう液を飲むたびに、イエス様が私の罪のために十字架で死で下さった恵みを、心と口と胃で具体的に味わいます。
その先には、こうあります。27節以下「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体(パンが聖別された聖なるパンであること)をわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」「自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。」自分が十戒等に照らして明らかな罪を犯していないか等を、自分でチェックした上で、パンとぶどう液をいただきなさいということと思います。明らかな罪を悔い改めもしないで、うかつにパンとぶどう液を受けると、聖なる神様に裁かれる恐れもあると警告しています。
この御言葉を読むと、洗礼を受けていない方に聖餐式のパンとぶどう液を渡すことは、行ってはいけないこととよく分かります。洗礼を受けていない人にもパンとぶどう液を配る教会もあるらしいのですが、私は現場は見たことがありません。洗礼を受けていない人にもパンとぶどう液を配ることは、一見、差別をなくしたよいことのように見えます。ですがそれは相手を危険にさらすことと思います。洗礼を受けていないことは、自分の罪を悔い改めていないことですから、その方がうかつに聖餐式のパンとぶどう液を受けると、ここに書いてあるように「自分に対する裁きを飲み食いする」ことになってしまいます。そして私たちは、31節のパウロの言葉に、ほっとします。「私たちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。」ちゃんと自分の罪を悔い改めていれば、裁かれることはないということでしょう。
もう一か所、コリントの信徒への手紙(一)10章14節以下も見たいのです。ここでも、私たちは聖餐式に臨む心構えを教えられます。偶像崇拝を行いながら、聖餐式に参加することはできないと語られています。「私の愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。偶像礼拝は、偽物の神を拝むことですね。パウロが20節ではっきり書いているように、偶像の正体は悪霊。悪魔なのです。16節「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。」キリストの純粋な血、キリストの聖なる血をいただくのが聖餐式です。「あずかる」という言葉は、元のギリシア語で「コイノーニア」で「交わる」「交流する」の意味です。私たちが聖餐式のぶどう液を飲むとき、私たち罪人(つみびと)が生けるイエス・キリストの聖なる血と交流しているのです。これはやはりへりくだって襟を正して行うことだと感じます。「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」パンをいただく時も同じです。普通の食事ではなく、聖なる食事です。
聖なるキリストと交流する聖餐式。聖餐式にあずかりながら、同時に偶像(他の宗教)の食卓・儀式に参加することはできないとパウロが説きます。偶像は悪霊・悪魔であり、偶像の儀式に参加することは、悪霊と交流することですから、聖なる神を礼拝するクリスチャンにできないことです。それは父なる神様とイエス・キリストを裏切る行為になります。パウロは言います。「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも主にねたみを起こさせるつもりなのですか。」私たちが偶像の儀式に参加すると、神様のねたみを引き起こす。聖なる怒りを招くので、キリストの神聖な食卓にあずかってイエス様と聖なる純粋な交流をする私たちクリスチャンは、汚れた偶像の儀式に参加することはできない。私たちは聖餐式で、イエス様との聖なる純粋な交流に生きているのだからです。このことをよく心に刻んで、聖餐式にあずかることが必要です。
ルカ22章に戻り、21節。「私を裏切る者」の「裏切る」は元のギリシア語で「パラディドーミ」、「渡す」という言葉。ローマの信徒への手紙5章32節にも出て来る。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」イエス様の十字架は悪魔がユダを誘惑してイエス様を裏切らせたこと、悪魔がリードしているように見えるが、最も深い部分では父なる神様がリードし、導いておられること。「人の子を裏切るその者は不幸だ(ウーアイ)。」呻き。
小見出し「いちばん偉い者。」弟子たちの野心。特に男性のこの心がある。地上で権力を与えられるのではなく、地上でイエス様と共に奉仕に生きれば、天国で報われるということ。ペトロの手紙(一)5章5、6節参照。
首から釘を下げた牧師、すばらしい伝道をした。アーメン。
2026-03-11 14:51:15(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」2026年3月号に掲載した文章)石田真一郎
「寄留者(外国人)を虐待したり、圧迫したりしてはならない。」(旧約聖書・出エジプト記22章20節)。」
年長の皆さん、卒園おめでとうございます! 卒園しても、イエスさまを決して忘れないで下さいね。卒園すると礼拝がなくなるので、日曜日にぜひ、お近くの教会の「子どもの礼拝」に行って下さい。歓迎して下さいます。
私は2023年より東久留米市役所で火曜夜7:00より、外国人に日本語をお教えするボランティアをしています。ボランティアと外国人が一対一か二で50~60人、和気あいあいのよいクラスです。国際平和造りの最前線です。皆様も参加されませんか? 神様は旧約聖書の中で、イスラエル人にこう言われます。「(神は)孤児と寡婦の権利を守り、寄留者(外国人)を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」(申命記10章18~19節)。今のイスラエルにもパレスティナ人、特にその子どもたちを愛してほしいものです。
最近、日本にも外国の方が増えました。東久留米市には、3000人強の外国人が住んでおられます。人数の多い国は上位から中国、韓国、ベトナム、フィリピン、アメリカです。この方々とよき友情を築きたいですね。最近の日本では、外国人排斥の言説もあるようで心配です。少なくとも東久留米市では、そんなことがないようにしたいですね。私も中国語、韓国語をもっと勉強したいです。私は大人に日本語をお教えしていますが、別の団体が市役所で午後に、外国人の子どもたちに日本語を教えるクラスもあり、私の知人の日本人クリスチャンの方々もボランティアしておられます。私のいるクラスの外国の方には、クリスチャンもおられます。アフリカやフィリピンやアメリカのクリスチャン、インドネシア人の牧師に会いました。
キリスト教の若い宣教師ご夫妻にも会いました。妻はカナダ人、夫はカリブ海のトリニダード・トバゴ(美しいサンゴ礁の国)人です。人種の違いを超えて結婚し愛し合っておられる姿に、尊敬の念を覚えます。日本に来た理由を夫は日本語で、「イエスさまが日本にいきなさいといわれたので、きました」とゆっくり書いて下さいました。私が牧師と知ると、有名な聖書の詩編23編の日本語訳の漢字一文字ごとの読み方を教えてくれと言われ、私は丁寧にお教えしました。昨年の12月に市役所一階のホールで行われた交流会で、妻はヴァイオリン、夫はあの赤いピアノで、クリスマスの讃美歌「天(あめ)なる神には、み栄えあれ」を実に美しく合奏して下さいました。私は東久留米市にも国籍を超えるイエス・キリストの愛が注がれていることを実感し、感動に打たれて聴きました。私が、「その讃美歌は日本の教会でも歌っているよ」と言って歌詞を渡すと喜んで下さいました。卒園する皆さんに、イエス様の愛が一生注がれますように、祈ります。アーメン(真実に)。
年長の皆さん、卒園おめでとうございます! 卒園しても、イエスさまを決して忘れないで下さいね。卒園すると礼拝がなくなるので、日曜日にぜひ、お近くの教会の「子どもの礼拝」に行って下さい。歓迎して下さいます。
私は2023年より東久留米市役所で火曜夜7:00より、外国人に日本語をお教えするボランティアをしています。ボランティアと外国人が一対一か二で50~60人、和気あいあいのよいクラスです。国際平和造りの最前線です。皆様も参加されませんか? 神様は旧約聖書の中で、イスラエル人にこう言われます。「(神は)孤児と寡婦の権利を守り、寄留者(外国人)を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」(申命記10章18~19節)。今のイスラエルにもパレスティナ人、特にその子どもたちを愛してほしいものです。
最近、日本にも外国の方が増えました。東久留米市には、3000人強の外国人が住んでおられます。人数の多い国は上位から中国、韓国、ベトナム、フィリピン、アメリカです。この方々とよき友情を築きたいですね。最近の日本では、外国人排斥の言説もあるようで心配です。少なくとも東久留米市では、そんなことがないようにしたいですね。私も中国語、韓国語をもっと勉強したいです。私は大人に日本語をお教えしていますが、別の団体が市役所で午後に、外国人の子どもたちに日本語を教えるクラスもあり、私の知人の日本人クリスチャンの方々もボランティアしておられます。私のいるクラスの外国の方には、クリスチャンもおられます。アフリカやフィリピンやアメリカのクリスチャン、インドネシア人の牧師に会いました。
キリスト教の若い宣教師ご夫妻にも会いました。妻はカナダ人、夫はカリブ海のトリニダード・トバゴ(美しいサンゴ礁の国)人です。人種の違いを超えて結婚し愛し合っておられる姿に、尊敬の念を覚えます。日本に来た理由を夫は日本語で、「イエスさまが日本にいきなさいといわれたので、きました」とゆっくり書いて下さいました。私が牧師と知ると、有名な聖書の詩編23編の日本語訳の漢字一文字ごとの読み方を教えてくれと言われ、私は丁寧にお教えしました。昨年の12月に市役所一階のホールで行われた交流会で、妻はヴァイオリン、夫はあの赤いピアノで、クリスマスの讃美歌「天(あめ)なる神には、み栄えあれ」を実に美しく合奏して下さいました。私は東久留米市にも国籍を超えるイエス・キリストの愛が注がれていることを実感し、感動に打たれて聴きました。私が、「その讃美歌は日本の教会でも歌っているよ」と言って歌詞を渡すと喜んで下さいました。卒園する皆さんに、イエス様の愛が一生注がれますように、祈ります。アーメン(真実に)。