日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2020-09-20 1:01:04()
「神に与えられた信仰の友」 2020年9月20日(日)礼拝説教
 礼拝順序: 招詞 マタイ22:37~39、頌栄29、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・17、聖書 箴言18:24(旧約1015ページ)、ローマの信徒への手紙16:1~16(新約297ページ)、祈祷、説教「神に与えられた信仰の友」、祈祷、讃美歌21・459、献金、頌栄83(1節)、祝祷。

(箴言18:24) 
友の振りをする友もあり/兄弟よりも愛し、親密になる人もある。

(ローマの信徒への手紙16:1~16) ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
 キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。

(説教) 月1回を目標に、礼拝でローマの信徒への手紙を読み続けて参りました。今日を含め、あと2回で終了すると思います。16章の後半を見ると分かりますが、この手紙は口述筆記で書かれた手紙です。パウロが晩年にローマに初めて行く数年前、紀元57年前後に書かれたと推定できます。パウロはここまで情熱的にイエス・キリストの福音を語り、そしてイエス様の十字架の愛(福音)によって救われた私たちがどのように生きればよいかを、懸命に語って来ました。そして今日の箇所では、まだ見ぬローマのクリスチャンたちに平和と愛の挨拶・メッセージを、心を込めて語っています。ここには、明確に名前が出て来る人々だけで25名、それ以外に、「アリストブロ家の人々」、「その母」、「彼らと一緒にいる兄弟たち」という言い方で明確に名前が出て来ない人々もあります。ローマの教会は、立派な専用の建て物を持っていたわけではなく、「家の教会」だったのですが、大きな家だったのかもしれません。これだけ多くの人々が集まっていたのです。まだ見ぬ教会の人々をこんなに多く知っていたのかと、不思議にも思いますが、行く前からいろいろなクリスチャンを通して、ローマの教会の人々の名前や様子を知り祈っていたのでしょう。

 1節「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、私たちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者にふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなた方の助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげて下さい。彼女は多くの人々の援助者、特に私の援助者です。」ケンクレアイは、パウロが懸命に伝道を行ったギリシャの大都会コリントのすぐ近くの港町です。『聖書の世界』という写真の多い本に、ケンクレアイの教会の跡とされる石を土台とする建て物の遺跡の写真が出ていて、「フェベの教会跡」と呼ばれているそうです。

 このフェベという女性が、パウロが口述筆記で書いたこの手紙を持ってローマに行ったと考えられます。パウロが全面的に信頼しているクリスチャン女性です。2000年前のことですから、社会は非常に男性中心だったはずです。でもキリスト教会では既に女性が奉仕者として信頼されていたことが感じられます。フェベはケンクレアイの教会の役員のような存在だったでしょう。教会の奉仕者については、新約聖書のテモテへの手紙(一)3章にこうあります。これはパウロが弟子のテモテに宛てた手紙です。フェベも、このような人だったのでしょう。「奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理をもっている人でなければなりません。(~)婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。というのも、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです。」フェベは、このような女性だったに違いありません。パウロはローマの教会の人々に、手紙を託したフェベを親切に迎え入れてくれるように頼んでいます。フェベは多くのクリスチャンたちを具体的に助けて来たのです。きっと迫害に苦しむクリスチャンを祈りと実際の必要を満たして支援したのでしょう。家に泊めてもてなしたと思うのです。パウロをはじめクリスチャンたちを助け、もてなしたフェベだから、ローマの教会のあなた方もフェベを愛をもって、もてなして下さい。そうパウロは心を込めて頼みます。

 3節「キリスト・イエスに結ばれて私の協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけで私の命を守ってくれたこの人たちに、私だけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えて下さい。」このクリスチャン夫婦は、新約聖書の中で割に有名ですね。プリスカは妻で、妻の名前が夫より先に書いてあります。夫婦とも熱心なクリスチャンですが、妻の方がよりイエス様への愛に一生懸命だったでしょう。だから名前が先に出ています。この夫婦のことは使徒言行録18章、パウロのコリント伝道の記録に書かれています。「ここ(コリント)で(ローマ帝国の)ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。」

 1年半を共に大都会コリントで過ごし、パウロは次の伝道の地、やはり大都会であるエフェソに行きますが、プリスカとアキラも同行します。パウロはエフェソで精力的にイエス・キリストを宣べ伝え、プリスカとアキラはエフェソでもパウロを大いに助けたと思われます。パウロがエフェソで書いたコリントの信徒への手紙(一)の最後の方に、「アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなた方(コリント教会の人々)にくれぐれもよろしくと言っています」とありますから、プリスカとアキラの家が、エフェソで教会(家の教会)になっていたのです。エフェソで熱心にイエス・キリストに奉仕し、その後ローマに帰ったと思われます。ですからパウロが今日のローマの信徒への手紙16章で、「私の協力者となっている、プリスカとアキラによろしく」と書いているのです。「協力者」は直訳では同労者です。同は同じという文字、労は労働の労。共に働く者の意味で、上下はないということです。同労者は、ややキリスト教会独特の用語ですね。

 「命がけで私の命を守ってくれたこの人たちに、私だけでなく、異邦人の全ての教会が感謝しています。」口語訳聖書はここを、「彼らは、私の命を救うために、自分の首をさえ差し出したのである」と訳しています。これがほぼ直訳です。実にストレートな言い方です。プリスカとアキラがパウロを守るために、命の危険を冒したのでしょう。しかし幸いそれで死ぬことはなかったので、夫婦はローマ教会にいるのです。それが具体的にどのような出来事だったのかは分かりません。使徒言行録19章に、パウロがエフェソで大騒動に巻き込まれる場面がありますが、その時の可能性もあるかもしれません。但しその場面にプリスカとアキラのことは全く書かれていないので、違う可能性もあります。いずれにしても、パウロの命を守るために夫婦で命を懸けてくれたプリスカとアキラにパウロは最高に感謝していたでしょうし、その二人に「よろしく」と伝えるパウロの言葉には、万感がこもっています。パウロはローマに行って、プリスカとアキラと再会することを深く待ち望んでいたに違いありません。本日の説教題を、「神が与えて下さった信仰の友」としましたが、パウロにとってプリスカとアキラは、神様が与えて下さった最高の信仰の友、同労者だったのです。私たちにも、教会で信仰の友が与えられていることを、心より感謝したいと思います。パウロは書きます。「また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えて下さい。」プリスカとアキラの家が、ローマの教会だったのかも知れません。そこにパウロが既に会ったクリスチャンも、まだ見ぬクリスチャンもいたでしょう。その信仰の仲間、共に向けてパウロは、イエス様の祝福と平和を祈っています。「ローマ教会の皆さんによろしく」ではなく、できるだけ多くの名前を一つ一つ書いていることが大切と思います。パウロは熱心な伝道者であると同時に、一人一人の信仰、一人一人の魂に配慮する牧師、魂の意者でもあるのです。全員まとめてではなく、できるだけ一人一人の名前を書いているのです。名前が人格を表す大切なものだからです。

 少し飛んで10節を見ましょう。「真のキリスト信者アペレによろしく。」直訳すると「キリストにあって本物の、あるいは練達のアペレによろしく」となります。口語訳では「キリストにあって練達のアペレに、よろしく」となっています。アペレという人がどんな働きをした人かは、全く分かりません。練達とは、信仰が練り清められた人ということでしょう。神様によってよく鍛錬された深い祈りの人を連想します。練達という言葉は、このローマの信徒への手紙5章4節に出てきます。少し前から読むと、「私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。」新改訳という聖書の翻訳では、練達を「練られた品性」と訳しています。アペレ練達の人、練られた品性の人だった。きっと言われなき迫害か、何らかの苦難を経験したのではないでしょうか。苦難を忍耐し、忍耐を積み重ねた結果、練達(練られた品性)の人になり、真の希望の道に進む人になったのではないかと想像致します。最高に練達した方はイエス様です。パウロも非常に練達した人です。パウロ自身、「苦難から忍耐へ、忍耐から練達へ、練達から希望へ」と進んだ人です。私たちも練達のクリスチャンになりたいと願います。本年度の標語聖句を実践してゆけば、少しずつ練達の人にならせていただけるのではないでしょうか。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」練達の人アペレも「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈る」人だったに違いありません。ある人は、「練達は、逆境においてこそ形成される」と言っています。私たちは今、コロナという苦難、逆境にあります。この苦難、逆境で忍耐していますが、このコロナという逆境、もしかすると神が与えた試練の中で忍耐し、ますます神に立ち帰って練達の人になり、その先に神の国という真の希望を見る私どもでありたいと切に願います。練達の人になりたい。そうではないでしょうか。そうだと信じます。

 この16章に多くの名前が出ていますが、1つ大いに特徴的なことは8節から14節の名前の多くが奴隷、もしくは解放された奴隷らしいということです。名前の特徴からそう考えられるそうです。私にははっきりとは分からないのですが、複数の本にそのように書いてあるので、そうなのだろうと思います。ある説教者は、次の9つの名前が奴隷、あるいは解放された奴隷だろうと言っています。アンプリアト、ウルバノ、スタキス、ペルシス、アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス。これが本当の奴隷の名前だとすると、多くの奴隷がいたという当時のローマ社会の実態まで見えることになります。でも彼ら・彼女たちが教会のメンバーとして登録されていた。教会は奴隷と奴隷でない人が神の前に平等であることを知り、差別せずに兄弟姉妹として、共に礼拝していたと思われます。これはすばらしいことです。この頃は、イエス様がもうすぐ来ると思われていたので、社会から奴隷制度をなくそうという運動を、教会が始めることはありませんでした。しかしイエス様がもう一度来られて神の国は来るのがだいぶ先となると、奴隷制度をなくして社会を改善することも必要になります。それにはだいぶ時間がかかり、アメリカでは漸く19世紀に奴隷解放が行われました。パウロの時代から1900年以上かかったので、時間がかかりすぎました。しかも人種差別は、まだ完全になくなっていません。私たち人間の罪深さを思わざるを得ません。10~11節でパウロは、「アリストブロ家の人々によろしく」、「ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく」と言います。この2つの家の人々がクリスチャンになっていたのですが、その家の人々という場合、その家で働く使用人や奴隷も含まれると見るのが自然とのことです。この2つの家の奴隷にもクリスチャンがおり、主人一家と奴隷がイエス様によって愛し合いながら、共に真の神様を礼拝する生活をしていたと思われます。

 12節にあるペルシスは、「ペルシャの女」の意味だそうです、ペルシャからローマに連れて来られた女奴隷と思われるそうです。ペルシャは今のイランですから、随分遠くに連れて来られて、心細く悲しかったでしょう。しかしイエス様を知って、イエス様を頼りにするようになり、心の支えを得たのではないでしょうか。「主のために非常に苦労したペルシス」とあります。迫害を受けたのでしょうか。それでも信仰を守って、ローマのプリスカとアキラの家の教会につながっていたのです。パウロは彼女のことを心にかけ、「ペルシスによろしく」と配慮を込めて書いています。

 少し戻って7節には「私の同胞(つまりユダヤ人)で、一緒に捕らわれの身となったことのあるアンドロニコとユニアスによろしく」とあり、11節には「私の同胞(ユダヤ人)へロディオンによろしく」とあります。プリスカとアキラもユダヤ人ですから、ローマの教会は異邦人(ユダヤ人以外)クリスチャンが多いけれどもユダヤ人クリスチャンも共に礼拝する教会だったと分かります。国際的です。ローマ自体が国際的な都市だったでしょうから当然とも言えますが。へロディオンは、イエス様が生まれた時イエス様を殺そうとした悪名高きへロデ大王の血筋の人でしょう。へロデは悪人と言わざるを得ませんが、その血筋皆が悪い人ではないのですね。へロデの血筋からクリスチャンになった人がローマの教会にいたのです。パウロは彼のことも偏見なく、イエス様の愛で愛しています。

 パウロは13節で、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女は私にとっても母なのです。」このルフォスは、マルコ福音書15章のイエス様の十字架の場面に出てくるルフォスという名前の人(十字架の時その場にいたのではないが)その人ではないかと、言われています。絶対そうとは言い切れませんが、その可能性はありますね。マルコ福音書15章21節から読みます(新約95ページ下段)。「そこへ、アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人(アフリカのリビア辺りに生まれたユダヤ人)が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」シモンという人は、外国生まれのユダヤ人で、エルサレムで行われるユダヤ人の大切な祭り・過越祭に参加したくて、遠路アフリカからエルサレムに来ていました。その時、全く想定外の出来事に巻き込まれました。イエス様が十字架につけられる道に遭遇し、疲労困憊のイエス様に代わって十字架を無理やり担がせられたのです。全くいやな仕事を押し付けられたのです。ところがこれがシモンの、イエス様との出会いになったのです。シモンはそれまでイエス様を知らなかった。でもゴルゴタの丘まで十字架を担いで、イエス様の祈りを聴いたのではないでしょうか。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分は何をしているか、知らないのです。」この祈りに感銘を受けたかもしれません。シモンはクリスチャンになったと思われます。いやな十字架を担がされたことがイエス様との出会いになり、彼がイエス様を救い主と信じて永遠の命を受け、その家族(妻、息子のルフォスら)もイエス様を救い主と信じるようになった可能性があります。そうなら正に神のドラマです。

 パウロの言葉に戻ると、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女は私にとっても母なのです。」十字架と復活から25年ほどたっているのでシモンは天に召されていたかもしれません。でもその妻と息子ルフォスはクリスチャンになり、ローマの教会で礼拝していた。そうではないかと考えられています。「彼女は私にとっても母なのです。」聖書のどこにも書いてありませんが、パウロはきっと以前にエルサレムかどこかでシモンの妻・ルフォスの母にお世話になったのでしょう。そのことを感謝して、「彼女は私にとっても母なのです」と書きました。迫害などの苦難の中で支え合い、助け合って来た初代教会のクリスチャンたちの、イエス様を中心とする麗しい交流が、今日の箇所から読み取れるのです。

 今日の旧約聖書は箴言18:24です。「友の振りをする友もあり/兄弟よりも愛し、親密になる人もある。」パウロとここに書かれた人々の関係も、「兄弟より愛し、親密になる人もある」と言える信仰の兄弟姉妹の交わりです。現実には私どもにはまだ罪がありますから、100%親密とはいかない現実がありますが、互いを「神に与えられた信仰の友」としてイエス様を真ん中に愛し合い、信仰共同体としての東久留米教会を、父なる神様へのよき献げ物としてお献げしたいのです。アーメン(真実に)。 

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。日本の新しい首相が、神様によく従って歩まれますように、力強く導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-09-12 22:33:08(土)
「イエス様に従う恵み」   2020年9月13日(日)礼拝説教
 礼拝順序: 招詞 マタイ22:37~39、頌栄28、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・120、聖書 詩編49:8~9(旧約882ページ)マタイ福音書16:21~28(新約32ページ)、祈祷、説教「イエス様に従う恵み」、祈祷、讃美歌21・510、献金、頌栄27、祝祷。

(詩編49:8~9) 神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。

(マタイ福音書16:21~28) このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

(説教) 先週のマタイ福音書は、ペトロの信仰告白の場面でした。イエス様に向かって「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です」と告白したのです。イエス様はこの告白を喜ばれて、ペトロに言われました。「あなたはペトロ(岩)。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。」それで本日の箇所に入ります。
 
 「この時からイエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」それまで語って来なかった最も重要なことを、「実はこうなんだよ」と明らかにし始められたのです。ここではまだ「十字架にかかる」とは明確におっしゃっていませんが、明らかに十字架の予告を語り始められたのです。前にも申しましたが、この「必ず」という言葉は、新約聖書の元の言葉では「デイ」という言葉で、「必然、必ず起こること」しかも「神の必然」を表します。これが父なる神様のご計画だと、語り始められたのです。イエス様は「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。」受難の予告、十字架の予告です。しかし受難の予告だけでなく、「三日目に復活する」希望をも語っておられますね。イエス様が受難を通って真の希望に至る。それが父なる神様のご計画だと語り始められました。

 しかしペトロは「イエス様が多くの苦しみを受けて殺される」と聞いて、びっくりしました。ペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」ペトロは人間的な好意でイエス様にそう言ったのです。「イエス様、あなたはメシア。イスラエルの民を率いてローマ帝国の支配からイスラエルを解放して下さると皆が期待していますよ。」それがペトロやイスラエルの人々が期待していたメシア(救い主)の姿だったらしいのです。「そのあなたが苦しみを受けて殺されるなと、決してあってはならないことです。」そうペトロはおいさめしたのです。

 しかしこれは、ペトロの非常に僭越な、分を超えた行動、ペトロがイエス様を導こうとする思い上がった行動だったのです。人間的な好意によってイエス様を愛しておいさめしたのですが、それはイエス様が真の使命・十字架に向かうことを妨げる悪魔の誘惑となってしまったのです。イエス様は振り向いてペトロに言われます。「サタン(悪魔)、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」イエス様の使命は、十字架にかかることです。十字架にかかって、私たち全ての人間の全ての罪を身代わりに背負うことが、イエス様の使命です。イエス様は決然としてその道を進まれます。それを妨げるのは悪魔の誘惑そのものです。ペトロは親切のつもりで言ったのです。「先生、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」ペトロは確かに正しい信仰告白を行いました。「あなたはメシア、生ける神の子です。」でも、イエス様がどんなメシアかは、全く分かっていなかったのです。イスラエルの民を率いてローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくれる力強い政治・軍事的リーダーを期待していたかもしれません。

 ところがイエス様が進む道は、私たち全ての罪人(つみびと)に奉仕して下さる道、人々に馬鹿にされながら十字架にかかる道だったのです。私たち全ての人間を最も根本的に救うためには、人間の罪(神様から離れて、自己中心的に生きていること)という最も根本的な問題を解決しなければなりません。なぜ罪が最も根本的な問題かと言えば、罪こそが死(人間の究極の敵)の直接の原因だからです。私たちの罪の問題を根本的に解決するために、全く罪のない方が身代わりに責任をとらないと、どの人間も罪赦されず、天国に入ることができません。それでイエス様は、どうしても十字架にかかる必要があったのです。それはただひとえに、私たち一人一人のためです。ペトロは、十字架に進むイエス様の邪魔をしてしまいました。ペトロはその瞬間、気づかずに悪魔に自分を乗っ取られていたのです。人間的な親切心で「イエス様、あなたが苦難を受けるなんて、そんなことがあってはなりません」と言いましたが、それは悪魔からイエス様への強烈な誘惑だったのです。イエス様が、「それもそうだな。十字架にかかるのはやめようか」と気を緩めて十字架にかかるのをやめれば、私たちの罪は、神様の前に赦されることなく、私たちは天国に入ることができなくなったのです。悪魔が大喜びする結果になります。しかしイエス様は、ペトロを使って攻撃して来た悪魔の誘惑をたちまち身破り、「サタン(悪魔)、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロを一喝し、十字架に進む決意が少しも緩むことがなかったのです。さすがイエス様で、楽チンな道に誘い出してイエス様に使命を失敗に終わらせようとした悪魔の計略を撃退されました。

 24節「それから、弟子たちに言われた。『私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。』」自己中心的にばかり生き続けると、最悪の場合、天国に入り損ねるかもしれません。それでは意味のない人生になります。しかし反対にイエス様に従って、自己中心を抑え、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する生き方をするならば、それは天国につながる生き方です。イエス様に従い、自己中心をやめて生きるようにしなさい。そしてイエス様に続いて天国に入れていただきなさい。これが私たちを招く聖書の招きのメッセージです。 「自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様に従う。」十字架は、責任や使命、試練を指すこともあるでしょう。私たちは一人一人に与えられた責任や使命、試練を背負いながら、イエス様に従って歩んで参ります。それは天国に至る生き方です。

 十字架を背負うというと、「大変だ」と思いますが、私たちはここでマタイによる福音書11章28節以下のイエス様の慰め深い御言葉を思い出す必要があります。「疲れた者、重荷を負う者(十字架を負う者)は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」軛とは、二頭のろばなどを背中と背中で結び付ける木製の道具で、二頭で並んで畑を耕させるのに使います。イエス様がおっしゃることは、「重荷を負う・十字架を負う」者はイエス様のもとに来なさい。私が一緒に重荷・十字架を背負うよ、ということだと思います。私たちの十字架を、目に見えなくてもイエス様が共に背負っていて下さるのです。

 先々週もお話しましたが、京都市で難病の筋委縮性側索硬化症(ALS)の女性患者(当時51才)が医師2名に頼んで薬物の投与を受け、死を選んだ悲しい事件がありました。この事件について先週9/9(水)、朝日新聞朝刊の「声」の欄に3名の投書が出ていたのですが、そのお一人に難波幸矢さんという岡山県の75才の主婦の方の投書がありました。この方は、日本基督教団の教会員です。「今回の事件に心を痛めています」という書き出しから始まり、「私の夫は筋ジストロフィーを10年間患い、33年前に亡くなりました。死去の3日前まで、口の機能だけ残る状態で教員として高校で授業をしていました。移動や板書は生徒さんが協力してくれました。(~)今回の事件では、ケアチームは心を注いで介護なさっていたと知りました。(~)しかし、彼女は死を考えていたのです。チームの方々の落胆はどれほどだったかと思います。難病によって思いがけない苦悩が始まり、衝撃や怒りが一度に押し寄せる。でも、『そこからこそ人生』だと私は思います。『人生って何?』『命って何?』。その人が人生の根源に触れられるように、支える社会でありたいです。」 これは実に大変な発言と思います。「そこからこそ人生だと、私は思う。」見上げた発言と、尊敬致します。

 この方のご主人、難波紘一さんが書かれた『この生命燃えつきるまで』(キリスト新聞社、1985年)という本があります(ここでは『喜びのいのち』新教出版社、2000年、126~139ページの、「この生命燃えつきるまで  難波紘一」より引用)。「筋ジストロフィーをわずらってからの私の毎日毎日はとってもつらいもんです。(~)時々、人はなぜこんなにまで苦しまなければならないのかと考えこむことがあります。しかし、これに解答を与えてくれるのがキリスト教信仰であるということを、私は今日みなさんにお話したいのです。(~)学校では、二階、三階、四階にも教室があるものですから、車いすですとこれをかつぎあげるのに、四人の生徒の手がかかります。教室に着くと、椅子に座らせてもらうんです。座って授業をしています(世界史)。」「パウロは、聖書の中でいくつかの告白をしておりますが、今日読んでいただいた聖書の言葉ほど私を力づけてくれる大きな告白はありません。」

 そう言って難波紘一さんは、コリントの信徒への手紙(二)12章7節以下を、読まれます。「それで、そのために思い上がることのないようにと、私の身に1つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせて下さるように、私は三度主に願いました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。」

 難波さんは言われます。「私どもの神様は、私たちを訓練するために、時には苦しみをお与えになります。しかし、私たちのために、大切な独り子イエス様を地上におくり給うほど、私たちを愛して下さる神さまですから、私たちを苦しみの真っただ中につき放し、放っておかれる方ではないのです。私どもの弱いところ、足りないところを手厚く完全にカバーして下さるのです。そう言って新約聖書のヘブライ人への手紙12章5節以下を読まれます。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」

 難波さんはさらに語られます。「私たちはこの訓練を通し、これを耐え忍ぶことによって、今まで得たこともない大きな心の平安の頂へと導かれていくわけです。(~)この時、苦しみは大きな恵みへと変わります。私たちの人生のどんなひどい苦しみの中にあっても、『よし、この恵みの中で積極的に生きていこう』と、希望へと導かれていくわけです。このようにキリスト教信仰とは、どんな絶望的状態に陥っても、なおも希望を持って、生きていく力を促される信仰であると思います。」

 「今、この時間にこうやって両手を動かしながらしゃべっているこの状態が、私にとってベストの状態なんです。これ以上のことは望めないと思って、私はこの一瞬一瞬を力の限り、生命の限り生きていく以外に、私の生き方はないわけです。私は大げさに言えば、今日この日を最後の日として生きていく、そういう決意を毎日しております。今日を、最後の日として生きる。しかし、これは考え方によっては、本当にありがたいことだと思っております。」「今日、初めておいでになった方、初めてキリスト教に接する方、そういう方がおられるかもしれません。もし重荷を負って苦労しておられる方がいらっしゃれば、どうか、イエス様のもとにその重荷をおろして、預けて下さい。そうすれば、私どものように、こんなひどい苦しみに遭ってもそれを苦しみとは思わず、これを恵みとして受けとめ、毎日毎日喜びの中で、楽しみながら生きていくことができます。ぜひ、そうなさることを、お勧めしたいと思います。」

 非常に迫力ある信仰の証しです。ヘブライ人への手紙11章4節を思い出します。「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」難波さんの、目の前の一日を文字通り全力で真剣に生きる迫力に圧倒されます。東久留米教会の初代牧師の浅野悦昭先生(今は天国)の言葉を思い出しました(説教集?)。「今日の礼拝を、自分の地上の最後の礼拝と思って献げる。」それだけ、二度と来ないこの一回の礼拝を全力で真剣に献げるということです。このような信仰の先達の方々の、懸命な信仰の姿勢に、私どもも感化されたいものです。この難波紘一さんのご夫人が、先週の投書で、「難病によって思いがけない苦悩が始まり、衝撃や否定や怒りが一度に押し寄せる。でも、『そこからこそ人生』だと私は思います。『人生って何?』『命って何?』その人が人生の根源に触れられるように、支える社会でありたいです。」このご夫人の信仰もすごいと私は思います。ご主人の熱烈な信仰の生き方を10年間支えきったから、言える信仰の言葉だと感じます。幸い、今は難波紘一さんの頃よりも医学が進みましたから、私たちはイエス様に支えられ、病気についてはお医者様は看護師さん方にも助けていただいて、生きることを許されている時代であることを感謝したいと思います。難波紘一さんも、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」イエス様に従い通した、見事な信仰者でいらっしゃいます。今は天国で、神様のもとにおられ、完全な平安の中で、天国の礼拝で、神様を讃美しておられます。

 マタイ福音書16章のイエス様の言葉に戻ります。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」 これと深く関連する御言葉が、今日の旧約聖書詩編49編8~9節です。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。」贖うは難しい言葉ですが、償うと似ています。「私たちは、自分の兄弟(家族)の罪さえ、神様の前で完全に償うことはできない」という意味でしょう。「魂を贖う値は高く、とこしえに払い終えることはない。」一人の人(魂、命)の全ての罪を完全に償うことは、お金にたとえれば何億年返済し続けても足りないほど大変なことだ、ということです。でもたった一つ、私たち人間の罪が完全に赦される道があったのです。それは、最も清らかで罪が全くない尊い神の子イエス・キリストが、犠牲になって十字架で死なれることです。神の子イエス様の命ほど尊いものはありません。その最も尊い方がご自分の命を身代わりに差し出すことで初めて、私たち罪人(つみびと)の罪が完全に赦されるのです。イエス様を救い主と信じて自分の罪を悔い改める人は、全ての罪の赦しと永遠の命を受けます。この十字架の贖いを、イエス様の使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)6章19~20節でこう書きました。「あなた方はもはや自分のものではないのです(神のものになった)。あなた方は代価を払って買い取られたのです。」最も尊い神の子イエス様の命という代価によって、あなた方は神のもの、神の子どもたちとされたのだと。

 最近私は、ある先輩牧師の説教を聴きました。こう祈りましょうと。「今のコロナという十字架の中にあっても、神様あなたが私たちを通して働いて下さい。コロナの十字架の中にあっても、あなたが私たちを用いて下さい。」こう祈りつつ、ご一緒に信仰生活を歩みたいのです。アーメン(真実に)。
 
(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。神様によく従う方が、日本の次期首相に選ばれますように、切にお願い致します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-09-06 0:51:06()
「死に勝つ教会」   2020年9月6日(日)礼拝説教 
礼拝順序: 招詞 マタイ22:37~39、頌栄24、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・155、聖書 ダニエル書2:44~45(旧約1383ページ)マタイ福音書16:13~20(新約31ページ)、祈祷、説教「死に勝つ教会」、祈祷、讃美歌21・390、献金、頌栄83(1節)、祝祷。

(ダニエル書2:44~45) この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。山から人手によらず切り出された石が、鉄、青銅、陶土、銀、金を打つのを御覧になりましたが、それによって、偉大な神は引き続き起こることを王様にお知らせになったのです。この夢は確かであり、解釈もまちがいございません。」

(マタイ福音書16:13~20) イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

(説教) 本日のマタイによる福音書16章13節以下は、「ペトロの信仰告白」の場面と言われ、マタイによる福音書の中盤のクライマックスと言えます。イエス様は12名の弟子たちを連れて、フィリポ・カイサリア地方に行かれました。聖書巻末の地図6を見ると、フィリポ・カイサリアはガリラヤ湖の北約40キロの所にあります。フィリポ・カイサリアは、ギリシア風の名前です。カイサリアはカエサル、つまりローマ皇帝を指します。紀元前20年(イエス様の誕生の10年以上前)にローマ皇帝アウグストゥスは、この地をユダヤのヘロデ大王に与えました。ヘロデ大王の息子の一人ヘロデ・フィリポが町を広げ、ローマ皇帝に敬意を表してこの町にフィリポ・カイサリアという名前をつけました。この町には皇帝を神として礼拝する神殿や、ギリシアの神々の神殿があったそうです。偶像礼拝が盛んに行われる土地だったのです。モーセの十戒の第一の戒めに「あなたには私をおいて、ほかに神があってはならない」とある通り、聖書では偶像崇拝は、偽物の神(正体は悪魔)を礼拝する大きな罪です。イエス様はあえて、弟子たちをそのような場所に連れて行かれた。その中でペトロが信仰告白を行ったことが重要と思います。

 私たちも日本という、様々な宗教が存在する風土に置かれ、その中で聖書の神様だけが真の神様、イエス様だけが真の神の子と告白するのです。オウム真理教の事件以来、日本では宗教に対する警戒感が広まりました。多くの人がはっきりした信仰には入らないものの、心の飢え渇きはあるのでスピリチュアルと呼ばれるものがはやっています。心に癒やしを与えるとされるスピリチュアルなことの指導者の本が売れたり、神社やお寺をパワースポットと呼んでマスコミも宣伝します。そこに何のパワーがあるのか誰も知らないのですが。はっきりした宗教は敬遠されるが、曖昧なパワースポットに行くことには抵抗感が薄らぐらしいのです。これは曖昧な宗教ですから、昔から日本にあるアニミズム(全てのものに神が宿るという考え)そのもの、アニミズムへの逆戻りではないかと感じます。このような曖昧な宗教心が多い日本にあって、私どもは「イエス・キリストこそ真の神の子、真の救い主」と告白致します。

 イエス様は弟子たちを、外国の神々を拝む偶像崇拝が多く行われているフィリポ・カイサリア地方にあえて連れて行かれ、そこで弟子たちに重要な質問をなさるのです。「人々は人の子(イエス様)のことを何者だと言っているか。」弟子たちは答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イスラエルの人々は、イエス様のことをそのように噂している。洗礼者ヨハネもエリヤもエレミヤも皆、偉大な預言者たち、神のために働いた立派な人々です。しかし偉大ではあるが、人間であり、少しは罪もあったでしょうから罪人(つみびと)の一人です。

 イエス様は弟子たちを見つめて、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」これは私たちに対する問いでもあります。世間の人々がどう噂しているかは分かった。世間の人々ではなく、「あなたは私を何者だと言うのですか。」この問いに対しては、私たち一人一人がイエス様に直にお答えする必要があります。一番弟子シモン・ペトロがすかさず答えます。「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です。」これは全く正しい答えです。イエス様もこの答えを喜んで下さり、「シモン・バルヨナ」とペトロに呼びかけます。これは「ヨナの子シモン」ということですが、シモンの父親はヨハネという名前だったようです。ヨハネによる福音書1章42節でイエス様がペトロに「ヨハネの子シモン」と呼びかけておられるので、分かります。ここのヨナはヨハネが縮まったものでしょう。

 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。」イエス様がメシア(救い主)、生ける神の子であると教えて下さったのは人間ではない。人間ではなく、イエス様の天の父なる神様が教えて下さったのだ。私たちが先ほどの「主の祈り」で「天にまします我らの父よ」と祈った、その父なる神様が教えて下さったのです。それを教えられたシモンは幸せです。信仰は、神様が私たちに与えて下さるものです。一人の人がイエス様を救い主と信じるようになることは、明らかに奇跡です。ですから伝道にはどうしても祈りが必要です。伝道はただの説得ではありません。神の生きた清き霊である聖霊に働いていただいて、相手の方に、イエス様が神の子であることを悟る悟りを与えていただくことが必要です。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)12章3節に記されている通りです。

 イエス様はさらに言われます。「私も言っておく。あなたはペトロ(岩の意味。彼の本名がシモンで、イエス様が与えたいわばあだ名がペトロ)。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。」イエス様がここでシモンにペトロといういわばニックネームをつけて下さいました。「あなたはペトロ、岩」だと。「私はこの岩の上に、私の教会を建てる。」カトリック教会は、イエス様がペトロを教会の最高責任者として任命したと解釈するようで、ペトロを初代のローマ教皇と考えているようです。ローマにペトロの墓があるそうで、その上に聖ピエトロ(ペトロ)大聖堂が建っているそうです。ローマ教皇は「天国の鍵」のシンボルのようなものを持っていると聞いたこともあります。

 やや大げさな感じがします。「私はこの岩(ペトロ)の上に私の教会を建てる。」プロテスタント教会はしばしば、「この岩」を「ペトロの信仰告白だ」と考えてきました。「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの信仰告白。この正しい信仰告白の上にイエス様の教会が建てられると。それも十分にあり得ることと思います。しかしペトロという人は、しばしば失敗もする人です。現にこんなにイエス様に喜ばれた直後、今日の続き(来週の箇所)でイエス様が初めて、ご自分が受難・苦しみに向かうことを打ち明けられると、イエス様に「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とおいさめします。するとイエス様に厳しく叱られてしまいます。「サタン(悪魔)、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 このようにペトロは、岩のように不動の力強い信仰者でない時もある人です。イエス様が十字架にかかる前も、イエス様を三度否定してしまい、イエス様を裏切る罪を犯してしまいました。でもその時、涙を流してその罪を悔い改めたのです。激しく泣いて、悔い改めたのです。約30年後にペトロはローマでもう一度、同じ失敗を繰り返しそうになります。(これは聖書にない話、伝説ですが)迫害されている仲間のクリスチャンたちを置いて、ローマから逃げようとしますが、復活のイエス様に出会って悔い改め、ローマに戻って仲間のクリスチャンたちを励まし、逆さ十字架で殉教の死を遂げたと言われます。ローマに戻ったということは、逃げ出した罪を悔い改めたということです。自分の罪に気付いた時に、素直に悔い改める。これはペトロの美徳です。素直に悔い改めるからペトロは教会の土台の岩。そのように言うこともできると思うのです。

 と同時に、ペトロが岩のように力強く伝道説教を行う時もあるのです。ペンテコステ、聖霊が降った朝、ペトロは聖霊に満たされて、力強く説教します。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いて下さい。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。~このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じの上で、あなた方に引き渡されたのですが、あなた方は律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」「イスラエルの全家ははっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」全くその通り、見事な信仰告白です。これを聴いて心を打たれた人々は、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか」と尋ねます。ペトロが岩のように力強く宣べ伝えます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。~邪悪なこの時代から救われなさい。」聖霊に満たされたペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。これが最初の教会ですが、まさにペトロは教会の土台岩の力強い働きを行っています。

 マタイ福音書に戻りましょう。イエス様のメッセージ「私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府(死)の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」イエス・キリストの教会は、神様の愛の力によって人間の究極の敵である死に打ち勝たせていただいている存在です。「陰府(死)の力もこれに対抗できない。」死の力も、死を司る悪魔もキリスト教会に対抗できません。それは私たちの力によってではなく、キリストの力・神の力によってです。キリストの十字架の死と復活によってです。私たち人間がなぜ死ぬのか? それは私たち人間が神様に背き、罪を犯した結果だと、聖書が教えてくれます。これが死の本質です。神の言葉である聖書だけが、この本当のことを教えてくれます。死を解決するには、死だけを見ても解決できない。死の原因である私たち人間の罪を解決することで、初めて死の解決の道が開かれます。私は先週最近出た本、カトリック信者の曽野綾子さんと石原慎太郎さん(作家、元都知事)、88才、89才くらいのお二人が対談している、死をテーマにした本を読みました。クリスチャンでない石原慎太郎さんは、法華経を信頼していると語っておられます。偉そうなことを言って恐縮ですが、石原さんの死生観では、「人は死ねば意識が完全に消滅する」つまり死ねば、全ては終わりというお考えのようで、そう繰り返し語られます。同じ考えの方は一定の割合でおられるでしょう。
 
 でも、たった一つ死に勝たせていただく道がある。それはイエス・キリストを救い主と信じることです。イエス様が十字架にかかったのは、私たち人類の全ての罪の責任を背負いきるためです。イエス様は、世界の最初の人間から始まって、世の終わりまでに生まれる一人残らず全ての人間が、生涯で犯す全ての罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死なれました。これによってイエス様は悪魔に勝利したのです。悪魔は人間を誘惑して、罪を犯させ、神様から引き離し、死なせるために暗躍しています。私たちはイエス様を信じる前は、知らず知らずのうちに悪魔の奴隷になっているのです。生まれた時からです。少しずつでも罪を犯し、命を与えて下さった神様から離れ、滅びに至る道を歩んでいました。しかしクリスチャンからイエス様のことを聞いた、あるいは聖書などを読んでイエス様のことを聞きました。それは神様の働きかけです。それで今ここにいるのです。イエス様は生まれた瞬間から、十字架の死に至るまで、悪魔のしつこい誘惑を全てはねのけて、ただの一度も罪を犯しませんでした。これによって悪魔はイエス様に完全に敗北しました。そして十字架で本当に死なれたイエス様は、驚くべきことに三日目に本当に復活され、その後天に昇られ、そこで今も、そして永遠に生きておられ、天から聖霊を注いで下さいます。イエス様を自分の救い主と信じて、自分の罪を悔い改める人は、生涯で犯してしまう全部の罪を赦されて、死を超えたイエス様と同じ永遠の命、復活の命を父なる神様から受けます。信じて、できれば洗礼を受けることがベストです。

 イエス様の十字架の身代わりの死と復活だけが、死を根本的に解決する力です。最近は、人口知能AIが、非常な発達を見せています。AIの発達によって将棋や囲碁は確実に進歩しました。では知能がどんどん発達すれば、世界のあらゆる問題が解決できるのか、人の死も解決できるのかというと、もちろん解決できません。知性が格段に進歩しても、人の罪の問題は解決できません。罪の悔い改めは必要であり続けますし、イエス様の十字架と復活だけが罪と死を根本的に解決する唯一の力であることも変わりません。

 「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」あなたとはペトロですが、同時にペトロに代表される教会を指します。つまり私たちです。教会には、恐れ多いことに天国の鍵が委ねられている。教会は、地上でイエス・キリストを代理させていただきます。解説書によると「つなぐ」とは、「あることが禁じられていることを宣言すること」です。「解く」とは、「あることが許されている(よしとされている)ことを宣言すること」です。宣言するということは権威を行使すること、一種の力を行使することです。行使する必要がある場合はよく祈って、イエス様の御心に従って、行使させていただく必要があります。もちろん決して、自分勝手に行使してはいけません。

 「つなぐ」とは、あることに「ノー」を言うことです。教会は、罪そのものに対しては常に「ノー」を言う必要があります。罪は神様に背くことですから、罪そのものに対しては常に「ノー」を言う必要があります。しかし罪を悔い改める罪人(つみびと)については、教会は「イエス」と言ってその方を喜んで受け入れます。ルカによる福音書15章の、悔い改めて家に帰ってきた放蕩息子を父親(神様)が喜んで愛して受け入れたように、罪を悔いる罪人(つみびと)を私どもは、喜んで受け入れます。私たち自身も罪人(つみびと)であり、同じように父なる神様に愛され、受け入れていただいたのですから、同じに致します。成熟した教会とは、この「ノー」と「イエス」をイエス様の御心に従って的確に言うことができる教会でしょう。「ノー」と言うべき時には「ノー」と言う必要があり、「イエス」と言ってはいけないのですね。「イエス」と言うべき時には「イエス」と言う必要があり、その時に「ノー」と言ってはいけません。プロテスタント教会は、万人祭司を主張しますから、牧師や役員だけでなく、クリスチャン一人一人がこの権威(天国の鍵の権威)を正しく行使できるように、「ノー」と「イエス」を的確に言う成熟したクリスチャンになっていくことが必要です。ペトロだけでなく、クリスチャン一人一人が、教会の岩です。もちろん教会の最大の土台岩は、イエス・キリストご自身です。

 本日の旧約聖書は、ダニエル書2章44~45節です。ここに「石」という言葉が出てきます。石と岩は似たものです。ここの石は神の国、イエス様がもたらす神の国を予告しています。「この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。山から人手によらず切り出された石が、鉄、青銅、陶土、銀、金を打つのを御覧になりました」とあります。人が造ったのではなく、神がお建てになる国、神の国。人間の大帝国は皆滅びました。バビロン帝国も、ローマ帝国も、モンゴル帝国もヒトラーの帝国もソ連もなくなりました。教会は神の国のひな形です。人間の権力者は何回も教会を滅ぼそうとしましたが、教会は生き残りました。そして必ず神の国が来ます。教会には色々欠点もありますが、でも神の国のひな形です。その意味で、教会には神の国につながる希望があります。そのことに感謝し、今週もイエス様と共に歩む私どもです。アーメン(真実に)。
 
(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者は増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。猛暑が早く終わり、熱中症で命を落とす方が、今後一人も出ないようにして下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。神様によく従う方が、日本の次期首相に選ばれますように、切にお願い致します。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

2020-08-30 1:14:08()
「時代のしるしを見分ける」 2020年8月30日(日)礼拝説教
 礼拝順序: 招詞 マタイ5:9、頌栄28、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・352、聖書 ヨナ書2:1~11(旧約1446ページ)マタイ福音書16:1~12(新約31ページ)、祈祷、説教「時代のしるしを見分ける」、祈祷、讃美歌21・515、献金、頌栄92、祝祷。

(ヨナ書2:1~11) さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると/わたしの声を聞いてくださった。あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み/波また波がわたしの上を越えて行く。わたしは思った/あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。わたしは山々の基まで、地の底まで沈み/地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ/あなたは命を/滅びの穴から引き上げてくださった。息絶えようとするとき/わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き/聖なる神殿に達した。偽りの神々に従う者たちが/忠節を捨て去ろうともわたしは感謝の声をあげ/いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。

(マタイ福音書16:1~12) ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

(説教) 「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。」「あなたが救い主だという証拠を見せてほしい。あなたが救い主であることを証明する奇跡を見せてほしい」と要求したのです。イエス様は、彼らが要求する奇跡を見せては下さいません。イエス様は、本当に病気に苦しむ人を癒す愛の奇跡を行って下さいましたし、お腹が減って弱った人々を愛の奇跡によって満腹にして下さいました。でも奇跡は見世物ではありません。イエス様は、興味本位の人々に奇跡を見せて下さいません。奇跡を売り物にする宗教は、偽物です。オウム真理教は、教祖が空中に浮かぶ(もちろん嘘)超能力を売り物にしました。超能力に魅せられてオウム真理教に入ってしまい、人生を狂わせた方々がおられるのは悲しむべきことです。よく考えれば、ちょっと空中に浮かんだところで、人助けになるわけでもなく、それほど意味があるとは思えません。
超能力に魅せられるのではなく、真の神様に祈りながら、地道に生きることこそ大切と思わされます。

 イエス様はおっしゃいます。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。」空模様を見て天気を当てることは、農夫のように自然を相手に生活している人なら、生活の知恵として、かなりできるでしょう。日本の農村の人々もずっとそうだったと思います。イエス様は、「あなた方が空模様を見分けることができても、時代のしるしを見分けることができないのか。」 狂いのない目で真実を見分けることが大切と思います。上手に盛り上げるにヒトラーの演説にあおり立てられてヒトラーについて行ってしまったドイツ。そのヒトラーのドイツと同盟を結んだことは日本の不幸を招く間違った選択でした。私は狂いのない目をもって冷静に真実を見分ける必要があります。

 「時代のしるしを見分ける」ことは、簡単ではないですと思います。私たちの目は、つい自分の欲望などによって狂い、正しい判断ができなくなるからです。私たちは地球温暖化とコロナの苦しみの中にあり、日本社会と教会は少子高齢化、日本は周りの中国、韓国、北朝鮮と必ずしも関係がよくない状況です。しかも総理大臣は辞任を表明し、神様に従うよい首相が選ばれるよう、祈らなければならない状況にあります。この現実の中、私たちがクリスチャンとしてどのように生きることがよいのか。神様は私たちに何を望んでおられるのか、私たち一人一人がよく祈って考える必要があります。一番基本的には、私たちは神様を礼拝し、周りの人々を愛し、そして真の救い主イエス・キリストを言葉と行いによって指し示す生き方をすることが大切と信じます。

 4節でイエス様は、厳しいことをおっしゃいます。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そうおっしゃって、イエス様は彼らを後に残して立ち去られた。イエス様は、イエス様の時代を「よこしまで神に背いた時代」と言われます。「神に背いた」の原語を直訳すると「姦淫・姦通」です。「姦淫・姦通・不倫がはびこる時代」の意味です。手厳しい言葉です。どの時代もそうかもしれません。「姦淫・姦通・不倫」がはびこった。「堕落の時代」とも言えます。旧約聖書の創世記で神様に滅ぼされたソドムとゴモラもそうだったのでしょう。今の時代も同じかもしれません。「よこしまで神に背いた時代。」そのような時代にあって、しかし私たちは神様に喜ばれるように生きようと志しています。

 戻りますが、4節の「時代のしるし」ですが、「時代」という言葉は、元の言葉で「カイロス」です。時の意味です。「カイロス」については、よくこう説明されます。「何となく過ぎて行く時と違って、重要な時、大切な機会・チャンスであるような時」を指すと。「時は金なり、タイム・イズ・マニー」というほど、時は大切です。時は、神様からのプレゼントです。この時を、私たちは大切に用いる必要があります。今日の一日も、非常に貴重な時です。浪費できません。与えられている今日という貴重な時・カイロスを、私たちは賢く用いる必要があります。神様に喜ばれるように精一杯、有意義に用いる必要があります。確かに「邪悪な時代」という面があるでしょう。でも私たちは、「邪悪な時代」の中にいても、神様がプレゼントして下さった今日という、二度と来ない一日を、貴重なカイロスを神様に喜ばれるように生きることで、有意義な時として活用したいのです。この礼拝の1時間という短い時間も、私たちが神の言葉に全身を満たされ、全身を聖霊で満たされイエス・キリストに似た私たちに作り変えられる、貴重ですばらしいカイロスとしたいのです。

 「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしをほしがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」「ヨナのしるし」とは、何でしょう。それを知るために、本日の旧約聖書はヨナ書2章全体を選びました。神様がヨナに使命を与えられます。それは悪の都として名高いアッシリアの首都二ネべに行って、人々に多くの罪を悔い改めるよう警告のメッセージを語れ、という使命です。ところがヨナはこれをいやがり、神様が行けという方角と別の方角に向かって逃げ始めます。しかし神様の御手から逃れることはできず、ヨナは海の中に放り込まれる結果になります。神様に背いたからです。ヨナが海に放り込まれたのは神様の裁きと言えますが、神様は同時にヨナを保護なさいます。2章1節「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを飲み込ませられました。ヨナは三日三晩、魚の中にいた。」

 この「三日三晩、魚の中にいた」が、イエス・キリストの十字架の死と復活を暗に予告する、指し示していると言えます。イエス様ご自身が、この福音書12章39節以下で、おっしゃっています。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」ヨナの三日三晩の大魚の腹の中の暗い所にいた体験が、イエス・キリストの十字架と復活を暗示するしるしだと、自らおっしゃいます。

 そしてイエス・キリストの十字架と復活こそ、聖書の救いのメッセージの中心・核心部分です。どんな奇跡よりも、イエス様が私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって下さった、それが、神様が私たちに与えて下さる最大の「しるし」です。ですからいつの時代でもどこに国でも、キリスト教会のシンボル・しるしは十字架にほかなりません。どうしても新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)1章18節以下を連想します。新約300ページ上段。イエス様の使徒(弟子)パウロが聖霊に満たされて書きました。ここには、賢いと思っている人間たちは、本当の賢さを分かっていない、人の目には愚かな生き方に見えるイエス・キリストの十字架こそ、神の偉大な救いの力であり、真の賢さだということが、書かれています。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。『私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』

 知恵のある人はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め(まさにユダヤ人のファリサイ派とサドカイ派の人がイエス様にしるし=力を求めたのです)、ギリシア人は知恵を探します(ギリシア人は哲学が好き)が、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人(代表がギリシア人)には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリスト(それも十字架につけられたキリスト!)を宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

 ユダヤ人はしるし(奇跡、力)を愛し、ギリシア人は知恵(頭のよさ)を愛する。しかし、神様が最も大事だとおっしゃることは十字架につけられたイエス・キリスト。この奉仕と愛の生き方が一番大事ということでしょう。では日本人は何を愛するのでしょうか。科学の力か、もしかすると経済・お金でしょうか。お金は必要ですが、神様・イエス様よりもお金を愛してはいけません。1980年代ころ、日本人はエコノミックアニマルというありがたくないあだ名を外国から頂戴してしまいました。1980年代後半、バブル経済が爛熟しました。日本企業は外国の資産を買いあさったそうです。実に恥ずかしい時代、バブル経済の時代でした。もちろんそれは終わりました。「時代のしるしを見分ける」なさいとイエス様はおっしゃいます。「時代のしるし」を見極めることができるクリスチャンが当時いたのであれば、「これは神様よりもお金を愛している罪深い時代だ。長続きするはずがない。悔い改めが必要だ」と見抜いたはずです。見抜いた人が何人いたか分かりません。私たちは、いつの時代でも、ムードに踊らされず、聖書を読んで地道に真実を見抜いて、足が地に着いた生き方をする者でありたいと切に願います。

 パウロはさらに書きます。「兄弟たち、あなた方が召されたとき(神様に呼ばれてクリスチャンになった時)のことを思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や身下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリスト(十字架につけられたキリスト)は、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

 「誇る者は主を誇れ」とは「十字架につけられた主イエス・キリストを誇れ」ということと確信します。人間の誇り・プライドは空しい。それらを素直に捨てて、ただ十字架につけられたイエス様だけが自分の救い・誇りだと本心から告白するのがクリスチャンです。ファリサイ派はプライドが高く、サドカイ派はこの世の知恵をたくさん持っていたために、「十字架につけられたイエス様こそ私の救い」と告白できなかったのです。彼らのプライドと知恵が邪魔になりました。私たちはそうならないように気をつけます。

 自分の罪を認める謙虚な姿勢を、神様は喜んで下さる。ファリサイ派にはそれがありませんでした。神様の御言葉を聞いて素直に受け入れ、へりくだり、自分の罪を悔い改めることこそ、最も知恵ある道、天国の祝福に至る道なのです。二ネべの人々は、初めは非常に悪い人々でしたが、ヨナの説教を聞いて真剣に悔い改めた。びっくりするほど素直に悔い改めました。あまりにも素直に、見事なまでに徹底的にへりくだったので、神様は二ネべの都を滅ぼすおつもりだったのですが、裁きを完全に撤回なさいました。この悔い改めこそ、私たちにとってしるし、私たちが真似すべきしるしです。

 イエス様は、弟子たちに注意を促されます。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい。」ファリサイ派とサドカイ派の教えに注意して、それを受け入れないようにとのメッセージです。ファリサイ派とサドカイ派は、実はかなり性格が違うグループです。サドカイ派は祭司のグループのようですが、イスラエルの中で、お金持ちで世渡り上手な集団でした。当時のイスラエルを支配していたローマ帝国の人々のご機嫌を上手にとって、自分たちの特権を守ることに主に関心をもっていました。非常に「この世的」だったと言えます。ファリサイ派は、もっと信仰熱心なグループですが、イエス様から見ればファリサイ派にも大いに問題がありました。マタイ福音書23章1節以下で、イエス様がファリサイ派の問題点を詳しく語っておられます(45ページ上段から)。

 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。」ファリサイ派の全員がこうだったかどうか分かりませんが、この通りだとすると確かに罪深いです。私たちはこうならないように、正義、慈悲、誠実を大事にして生きてゆきたいのです。私たちは、イエス様の十字架の愛こそ、私たちの罪を赦す最大の恵みだと知っています。この恵みに感謝し、自分にできる範囲で愛、正義、慈悲、誠実実行したいものです。

 最後に「時代のしるしを見分ける」ことをもう一度考えるなら、今の新型コロナウイルス問題は、人間が自分だけが地球の主人公だと考え、欲望に任せて活動範囲を広げすぎたことに対する警告とも言えます。野生動物は色々なウイルスを宿しているそうです。人間が野生動物の領域にまで開発範囲を広げすぎ、野生動物に接触しなければ、ウイルスは人間に感染して悪さをしないのに、開発しすぎて野生動物の領域に入り込み過ぎたために、未知のウイルスと接触して感染し、感染が拡大する結果を招いているそうです。やはり私たち人間が思い上がらず、欲望を抑え、資源の乱開発をやめ、エネルギー消費を減らし、世界中で助け合って慎ましく生きることが必要と、気づくことが大切ではないでしょうか。神様が造られたこのすばらしい地球を大切にすることも人類の使命です。やはり皆で神様への感謝を持ち、自己中心の罪を悔い改めながら、歩むことが大切と、改めて思います。アーメン(真実に)。
 
(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者は増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。猛暑が早く終わり、熱中症で命を落とす方が、今後一人も出ないようにして下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。神様によく従う方が、日本の次期首相に選ばれますように、切にお願い致します。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

2020-08-23 1:48:03()
「愛が冷えないように―コロナの中で」 2020年8月23日(日)礼拝説教
 礼拝順序: 招詞 マタイ5:9、頌栄85、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・351、聖書 イザヤ書42:1~3(旧約1128ページ)マタイ福音書24:3~14(新約47ページ)、祈祷、説教「愛が冷えないように―コロナの中で」、祈祷、讃美歌21・457、献金、頌栄83(2節)、祝祷。

(イザヤ書42:1~3) 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。

(マタイ福音書24:3~14) イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

(説教) 本日の新約聖書は、マタイ福音書24章3節以下を選ばせていただきました。直前の1~3節を見ると、弟子たちがエルサレムの壮大な神殿を見て、そのすばらしさをたたえたようです。それに対してイエス様が、弟子たちが予想しなかった厳しいことを言われました。「はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」壮大な神殿も壊れて、崩れ去る時が来るというのです。実際、その通りになりました。この約40年後に、ローマ軍が攻めて来て、ユダヤ人の誇りだったエルサレムの神殿を焼き討ちし、破壊してしまうのです。人間が造った物は、残念ながら永遠ではありません。いつか滅びるのです。東京の高速道路などは1964年の東京オリンピックの頃に建設したそうです。もちろん補修しているでしょうが、劣化して危険が生じてくると心配しています。東京スカイツリーは高さが634mあって世界一高い塔と聞いていますが、あの辺りに育った野球の王貞治さんは、ご自分が人々をスカイツリーに案内したときに、「この辺りは空襲で焼け野原になった所です」と言われたそうです。王さんはクリスチャンではないでしょうが、スカイツリーを世界一高いと誇りに思っている人々に、「思いあがってはいけないのです」とおっしゃりたかったのだろうと、私は思います。

 イエス様の厳しい言葉に弟子たちが驚いて、「おっしゃって下さい。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな微(しるし)があるのですか。」神殿の崩壊が約40年後に起こることをイエス様は知っておられたでしょうが、約40年後とは教えて下さいませんでした。神殿が破壊され、イスラエルの国も一旦滅びるのですが、それは世の終わりそのものではなく、世の終わりに至るプロセスの1つです。弟子たちは「あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と言っていますから、イエス様が一度去って、天からもう一度来られるときにこの世界が終わり、神の国が完成すると知っていたようです。(ですがイエス様が十字架にかかって復活することは、聞いてはいたけれどもよくは分かっていなかったでしょう。)その時がいつなのか、父なる神様だけが知っておられます。イエス様はマルコ福音書13章で言われます。「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子(イエス様)も知らない。父だけがご存じである。」いつその時が来てもよいように、気をつけて目を覚ましていなさい、と言われます。

 弟子たちが質問した段階では、まだ世の終わりではありません。イエス様は答えられます。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシア(救い主)だ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」比較的最近もこのような偽メシアは出ました。韓国の統一協会(キリスト教でない偽宗教)の教祖、オウム真理教の教祖がすぐに思い浮かびます。彼らに惑わされて人生の狂わせた人々が多くいます。そのため今の日本では宗教全体が警戒されています。偽物がはびこるときは、正しい宗教がしっかり伝道する責任があります。私は大学時代のサークル活動の後輩のM君という男性が、やや宗教的な雰囲気を持っていることを感じていながら、キリスト教会に誘わないでいました。気づいた時には彼は統一協会に誘われて共同生活をするまでに深入りしていたのです。私は「しまった」と反省しました。キリスト教会に誘っていれば来た可能性がある人でした。私が誘わないでいるうちに悪魔に先手を打たれ、彼は統一教会の信者になってしまったのです。今どこでどうしているか分かりません。統一協会を抜けてくれていることを祈るばかりです。

 「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる(ルカ福音書では「疫病」も加わり、「世の終わりはすぐには来ない」となっています)。」日本は75年前に戦争で負けて以来、幸い直接戦争を行っていません。今の日本ではあまり飢饉という言葉を聞きませんが、でも日本の食糧自給率が37%であることを考えると、輸入が止まれば即、飢饉状態になるものと恐れを覚えます。地震は阪神淡路大震災、東日本大震災が発生し、多くの方が亡くなり、被害を受けました。これらは皆、私たち人間の生存を脅かします。イエス様は、「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」と言われます。喜ばしい神の国が完成するための産みの苦しみだと言うのです。であれば無意味な苦しみではなく、神の国が完成するために必要な苦しみということになります。そう聞くと、少し耐えやすくなります。私は子どもの頃、「世の終わりがある」と聞いて、とても怖く感じました。でも「世の終わり」の「終わり」という言葉は、元の言葉では「目標」「完成」をも意味します。ですからただ終わって滅びておしまいではなく、神の国という究極の目標、神の愛と正義と平和の国が完成する。「世の終わり」は完成の希望に結びついていることが分かります。

 その産みの苦しみの中で、受難がある。「その時、私の名のために、あなた方はあらゆる民に憎まれる。その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。」神に逆らう悪魔が暴れるというのです。「多くの人がつまずく。」つまずくは、元の言葉は「スカンダリゾー」という動詞です。これはスキャンダルという言葉の語源です。スキャンダルは、不祥事、罪深いことを指します。多くの人がつまずくとは、多くの人が悪魔の誘惑に負けて罪を犯すことを意味するようです。

 「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」不法とは、神様の律法(その代表はモーセの十戒)を守らないことです。人々が、神様の聖なる意志・愛の意志を示す十戒を守らなくなる。①「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」②「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」③「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」④「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」⑤「あなたの父母を敬え。」⑥「殺してはならない。」⑦「姦淫してはならない。」⑧「盗んではならない。」⑨「隣人に関して偽証してはならない。」⑩「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない(貪欲の禁止)。」人々がこの十戒を守らない不法がはびこり、愛が冷える。

 私たちが今直面している新型コロナウィルス感染症の問題。恐らくこれが直ちに世の終わりではなく、世の終わり・神の国の完成に向かうプロセスの1つと思います。しかしなぜこんなことが起きたのか。世界がグローバル化したことの結果の面があります。世界中を飛行機が飛ぶようになり、道路や鉄道が伸びて、人・物・情報が短時間で世界各地に届くようになり便利になりました。でもウイルスも同じスピードで世界中に運ばれるようになり、中国で始まったこの感染症はあっという間に世界中に拡散しました。私たちが便利さ・快適さを求めて来た1つの結果、マイナスの結果と言うほかありません。

 それに近年のこの災害級の夏の暑さは、異常です。地球温暖化は現実だと思わないわけにいきません。私たちが二酸化炭素を多く出す生活をしている結果、地球温暖化が起こっていると言われます。便利と快適を求めた結果、温暖化による猛暑を招いている。私たちの自己中心の生き方、エゴイズム、私たちの罪が招いた結果と言わざるを得ません。

 私たちは新型コロナウィルスに苦しんでいます。この問題が収まるために、努力する必要があります。そのことを十二分に認めつつ、同時にある人は、もっと悪質なウイルスがあると指摘してくれます。それは困っている人々を忘れる無関心、そして自分さえよければよいというエゴイズム。私たちの自己中心の罪です。これがもっと悪質なウイルスだと。私たちは新型コロナウィルス問題の解決に一生懸命取り組むと共に、私(私たち)の自己中心・エゴイズムというウイルスとも闘う必要があります。私たちが自分のエゴイズムというウイルスと闘うことを、神様は喜んで下さると信じます。

 今は人間の命よりも効率、特に経済効率、利益追求を第一にする社会になっていないでしょうか。資本主義は弱肉強食、強い者が勝つ、強欲な仕組みではないでしょうか。資本主義万能の世の中にすると、弱い者は追い出される社会になってしまいます。それではいけませんね。弱い立場の人が大事にされる世の中を造る必要があります。私の少年時代は「学歴で人の価値を図ることは間違っている」とよく言われていましたが、今は聞きません。人の価値を生産性や有用性・有能性で決めることも間違っていて、全ての人は「神様に似せて造られた尊厳を持っている」と聖書は教えます。でも現実には、人の価値を生産性や有能性・有能性で決めているのは今の世の中。でもそれではいけません。人の価値を生産性や有能性・有用性で決めるのであれば、非常な高齢者や障がいを持つ人は生きる意味がないことになります。もちろんイエス・キリストはそのようにお考えではありません。イエス様は、障がいを持つ人や病気の人に、特に愛をもって接して下さいました。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書42章1~3節です。これは、イエス・キリストはどんな方かを予告した言葉です。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく」と、あります。イエス様は大声を上げてご自分を宣伝することはない。イエス様は「傷ついた葦を折らない」、つまり「傷ついた人を優しくいたわる」、「暗くなってゆく灯心を消すことなく」、つまり弱ってゆく人に暴力を加えることはなく、むしろ支えて下さる」、救い主イエス・キリストはそのような方だと、予告している、とてもよい言葉です。クリスチャンも同じで、特に弱い命を守り支える生き方をして、イエス様にお仕えしたいと願っているのです。

 最近の真に悲しい事件に、難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者(当時51才)の依頼により、医師2名が薬物を投与して殺害したとされる事件がありました。医師2名は嘱託殺人罪で起訴されています。私はその病気になっていないので、その女性の苦しみを同じように味わっていません。それでも最後まで生きる道を選んでいただきたかったと思います。同じ病気で25年間生きて来られた佐々木さんという73才の男性のインタヴューがある新聞(赤旗 日曜版 2020年8月23日号)に出ていました(クリスチャンではなさそうです)。人口呼吸器をつけ、手足は動かず声も出ない。でも透明の文字盤に視線を送ることで介護者に言葉を伝えることができます。介護は24時間体制、ヘルパーや看護師など一日に10人は自宅を出入りします。佐々木さんも「動かなくなる体に恐怖し、眠れない夜が続きました。しかし患者仲間との出会いに励まされました。人工呼吸器をつけて10年以上元気に暮らす患者仲間です。」「生きられる。生きろ」と激励された気がしたそうです。佐々木さんは介護事業を立ち上げたり、難病患者のケア環境を改善しようと看護学校で講演したり多忙な日々を送っているそうです。もちろん多くの人の協力があってのことです。「医療・看護・介護体制の確立」があれば「ALSだって何でもできる」が持論です。前向きさに驚かされます。「ALS人生、結構楽しい、忙しい。」ご夫人は、夫の病気の25年間で「人生が豊かになった」と語られます。患者仲間や介護・看護・医療に携わる人々との出会いは「病気がなかったら知らなかった世界。」佐々木さんの言葉「全ての命は存在することに価値があります。私たち(ALSの患者さん)が軽視されるとしたら、それは命が軽視されること。ただベッドに横たわるだけの体であっても母であり、父であり、妻であり、夫であり、わが子なのです。欠かすことのできない社会的存在なのです。私は全ての患者に、だから生きられるだけ生きてほしい、と心から願います。」ALS当時者の言葉なので、貴重で説得力を感じます。私たちは、やはり命を愛し守る方向に進む必要があります。

 世の終わりに向かう時、「多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。~不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」これでは悪魔が喜ぶだけです。これに全力で抵抗する必要があります。「多くの人の愛が冷える。」この言葉に私たちは、心を痛めますね。「愛が冷えてはいけない。」その思いを込めて、今日の説教題を「愛が冷えないように―コロナの中で」と致しました。マルティン・ルターは「明日世界が滅びるとしても、私は今日リンゴの木を植える」と言ったと伝えられます。本当にルターがこう言ったかどうか分かりませんが、誰が言ったとしても、とてもよい言葉だと思います。世界の終わりが近いのなら(私は今がそうだと言っているのではありません)、無気力にほおっておこう、ではなく「人々の愛が冷えている」と感じたら「これではいけない」と悪魔に抵抗し、「思いやりと愛を復活させる」積極的な方向に向かって立ち上がることが、神様に喜ばれる生き方と信じます。

 一時「何々ファースト」という言い方がはやりました。政治家が言い出した言葉です。「自分の国ファースト」、「都民ファースト」。自分と自分の周りを一番優先するということですが、これは単なるエゴイズムです。エゴイズムファーストにすれば、自己中心に生きる罪を肯定することになり、神様に逆らう生き方になることは明らかです。「自分ファースト」ばかりの罪に陥らないように注意したいのです。「自分ファースト」は「自己実現」と同じとも言えます。「自己実現」ばかり目指すのであれば、やはりエゴイズムです。

 社会はいつでも「不法がはびこり、多くの人の愛が冷える」ようになる可能性があります。それに抵抗することが、私たちの務めです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」罪と悪の力が勝ちそうになる時も、最後までそれに抵抗し、愛に生きることがクリスチャンの務めです。そのような人が存在していることが、世界の真の希望です。その意味で真の愛の方イエス・キリストこそ、世の光であり、世界の真の希望です。イエス様に従おうとするクリスチャン一人一人の存在も、世界の希望です。 

 「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」これは東久留米教会の今年度の標語聖句とも響き合います。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」必ず神の国が来る希望をもって喜び、現実の苦難を耐え忍んで少しでも愛に生きようと志し、たゆまず祈る。」まさにこれがクリスチャンの生き方だと確信させられます。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」ヨハネの黙示録には、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」とあります。私どもも、死に至るまで忠実にイエス様に従って、苦難を通って天国に入れていただいた時に、命の冠をいただき「忠実な良いしもべだ、よくやった」とイエス様に言っていただくことを最大の目標に、イエス様にお従いしたいのです。アーメン(真実に)。
 
(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者は増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。猛暑を早く終わり、熱中症で命を落とす方が、今後一人も出ないようにして下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。中国(特に香港)で信教の自由と民主主義が守られますように。核兵器が廃絶され、世界から戦争がなくなりますように。アメリカ西部の多くの山火事が早く鎮火しますように。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。