日本キリスト教団 東久留米教会

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2024-06-23 1:41:10()
説教「神様があなたと共におられる」 2024年6月23日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第71回)
順序:招詞 ヨハネ福音書3:16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・464、ルカによる福音書1:26~38、祈祷、説教、祈祷、讃美歌536、献金、頌栄92、祝祷。 

(ルカによる福音書1:26~38) 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第71回)(聖霊降臨節第5主日)の礼拝です。説教題は「神様があなたと共におられる」です。新約聖書は、ルカによる福音書1章26~38節です。

 先週読んだ本日の直前の個所は、洗礼者ヨハネの誕生が予告される場面でした。本日の御言葉の小見出しは、「イエスの誕生が予告される」です。よくクリスマス前に読む個所ですが、今は6月でクリスマスとクリスマスの中間の時です。しかしクリスマス前でないときにこの御言葉を読むことも悪いことではないと思います。神様が、いと小さき人々を用いて、ご自分の計画を進めておられます。先週登場した祭司ザカリアも妻のエリサベトも、イスラエルの中で特に有名な人ではなかったと思います。確かに祭司は、神様に奉仕する大切な存在ですが、当時祭司は1万8000人から2万人もいたそうですから、あえて言えばザカリアはほぼ無名の祭司だったのではないでしょうか。妻エリサベトも、普通の祭司の妻だったのではないかと思います。

 本日の最初の26節「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。」ガブリエルという名前は「神の人」の意味だそうです。ガブリエルはザカリアに現れたのと同じ天使です。神様がガブリエルをナザレの町に遣わされました。ナザレという名前は「花」の意味だと、ある解説に書かれています。マリアが住んでいて、イエス様がお育ちになったナザレですが、旧約聖書には1回も登場しません。それこそ無名と言える町です。27節「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。おとめの名はマリアといった。」マリアは15才前後の少女だったと思われます。今でこそマリアは大変な有名人ですが、この時のマリアはもちろん全く無名無力の少女でした。世間的な影響力など、全く持っていませんでした。このような無名のマリアが、世界の救い主イエス・キリストの母として選ばれたことは、私たち人間から見れば意外で、神様が私たち人間たちの意表を衝いたとも思えます。神様はこの世の力から遠い無名の人、いと小さき人を特に愛して、慈しみの目を注いでおられるのです。

 ナザレがあるガリラヤですが、旧約聖書の列王記15章29節を見ると、北イスラエル王国の王ぺカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、ガリラヤなどの地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去りました。その後、アッシリアの占領政策で、その地に外国人を連れて来て住み着かせた可能性があります。それで旧約聖書のイザヤ書8章23節には、「異邦人のガリラヤ」と書かれています。イスラエル人(ユダヤ人)は異邦人(外国人)を蔑んでいましたから、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたガリラヤもまた、生粋のイスラエル人からは軽視されていたと思われます。神様は、あえてそのガリラヤの住む無名の少女マリアに慈しみの目を注ぎ、神の子イエス・キリストの母として選ばれたのです。もちろんマリアの深い信仰を見込んでのことです。その信仰も、神様がマリアにお授けになった賜物です。ヤコブの手紙2章5節の御言葉が当てはまります。「私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちを敢えて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」

 ルカ福音書1章28節「天使は、彼女の所に来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』」「おめでとう」は直訳では「喜べ、喜びなさい」です。これは地上の普通の喜びとは別かもしれません。天から来る喜び、神の国の喜び、聖霊が与えて下さる喜びで喜びなさいと言われたのではないかと思います。今年度の東久留米教会の標語聖句ガラテヤの信徒への手紙5章22節を連想してよいと思います。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」「喜びなさい。恵まれた方。主があなたと共におられる。」ジョン・ウェスレーという18世紀のイギリスの伝道者は臨終の床で、「最大の幸せが、神様が私たちと共におられることだ」と語ったそうです。他の幸せは失われることがあるが、神が共におられる幸せだけは、失われることがないからです。

 29節「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考えこんだ。」マリアは思慮深い女性なのです。天使のメッセージを聞いて、考え込みました。礼拝での説教者は聖書の御言葉を読んで、そこから何を聴き取るべきかを祈り、考え、黙想してから語るのですが、マリアが考え込んだ姿勢こそが、神のメッセージを聞いて深く黙想する人の模範の姿です。30節「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵み(カリス)をいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』イエスという名前は、当時よくあった名前だそうで、「主は救い」の意味です。洗礼者ヨハネの場合と同じく、神様が名前を決めて下さいました。

 「その子は、いと高き方(神様)の子と呼ばれる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家(神の民イスラエル)を治め、その支配は終わることがない。」その支配は永遠です。力づくで苛酷に支配するのではなく、愛と正義をもって治らめられるのです。ダビデ王の子孫からこのようなメシア(救い主)が誕生することは、確かにダビデに約束されていました。よく引用するサムエル記下7章12節以下です。預言者ナタンがダビデ王に神様のメッセージを伝えています。「主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者が私(神様)の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに固く据える。私は彼の父となり、彼は私の子となる。」これは直接にはダビデの息子で次の王ソロモンを指しますが、究極的にはメシア(救い主)を指します。この預言が、遂に実現する時が満ちたのです。

 「あなたは身ごもって男の子を産む。」しかしマリアにはすぐには理解できず、天使に言います。「どうしてそのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに。」ヨセフのいいなずけではあっても、まだ共に生活していなかったのですから、身ごもるはずもない。天使が答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方(神様)の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」力は原語のギリシア語でデュナミスで、ダイナミックとかダイナマイトという言葉の語源ですから、聖霊のいわばダイナマイトのような力(この場合は無論、破壊の力ではなく創造する力)が働いて、神の子の命がマリアの胎内に宿るのです。創世記1章1~2節に、「初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊(聖霊)が水の面を動いていた」とあります。見えない神の霊が水の面を動いていた(静止でなく)。聖霊になる神様も、天地創造に参与されたのです。天地創造に参与された同じ聖霊なる神様の愛の力が、マリアの上にもダイナミックに働かれて、マリアの胎内に神の子の命を宿しました。私たちが使徒信条で先ども、「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ」と告白した通りです。

 36節「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」ザカリアとエリサベトの場合は処女妊娠ではないが、当時の常識ではほぼ不可能な高齢での妊娠で、それも一種の奇跡です。マリアの場合は処女妊娠なので、もっと完璧な奇跡です。天使は述べます。「神にできないことは何ひとつない。」神は、無から宇宙を創造することがおできになるし、処女マリアを妊娠させることもおできになるし、死者を復活させることもおできになります。

 マリアは天使の言葉を聞いて、思いを巡らし、深く考えたことでしょう。そして天使を通して語られた神様のメッセージを受け入れる決心をします。受け入れると決断します。神様のなさることに間違いがあるはずがない、最善に違いないと信頼しきって受け入れると意を決します。マリアの献身です。神様に自分の存在のすべてを献げて委ねると決心したのです。行く手に何が待っているか分からないけれども、「主があなたと共におられる」と天使が保証してくれたのだから、神様が常に共にいて、最善に導いて下さると深く信頼して、神様に従うと決めたのです。この信仰も、神様がマリアに与えて下さった信仰と思います。そして同時に、「本当に見上げた信仰だ」と尊敬致します。覚悟を決めて、神様の懐に、恐れないで全身で飛び込んでゆくような信仰です。私の全てを、神様に信頼して神様にお委ねします。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」何の条件もつけずに言いきりました。私たちにこれが言えるでしょうか。こう言いきったマリアの信仰は、やはりすばらしいと思うのです。

 マリアが、自分を通して行われる神様の救いのご計画を受け入れたお陰で、救い主イエス・キリストが誕生され、イエス様が十字架にかかって、私どもの罪が全て赦される道を開いて下さったお陰で、私どもは救いを与えられ、永遠の命をいただきました。マリアの人生を献げたこの決断がなかったら、私たちも永遠の命を受けることはできなかったのですね。マリアの信仰の決断が、ある意味、世界史を変えたのです。そう思うと、マリアさんにも感謝したくなります。

 実際、マリアさんの人生には平穏な日々もありましたが、苦難の時もありました。
イエス様の使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙1章29節で書いています。「つまり、あなた方には、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えらえているのです。」パウロ自身も、イエス・キリストに従ったがゆえに、色々な苦労苦難を経験しました。天使はマリアに告げたのです。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」それは神の子の母として選ばれた恵み、光栄です。しかしその子は、十字架で一旦死ぬのです。これを見届けることは、大変な苦難です。マリアも、我が子を死なせるくらいなら、自分が代わりに死にたいと思ったと思うのです。それは許されず、我が子の十字架の死に耐えなければならない。よほどの信仰がないとできません。神様は、マリアの信仰なら、この苦難にもぎりぎり耐えることができると、マリアを見込まれたのだと思います。耐えられる信仰をマリアに与えると、神様も決意したのだと思います。

 神様に自分を献げると決めたマリアの信仰の決断が、ある意味、世界史を変えました。私は東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生と眞壽美夫人の信仰を思いました。浅野先生とお父様がこの土地を神様と東久留米教会に献げると信仰の決断をなさって実行なさらなかったら、東久留米教会は今日まで存続できたでしょうか。浅野先生とお父様がこの土地を神様と東久留米教会に献げる信仰の決断を実行なさらなかったら、教会員が献金をして、別の土地を買う必要に迫られたでしょう。そうなればそれで神様が道を開いて下さったと思いますが、浅野先生とお父様の信仰の決断が東久留米教会の歴史をよい方向に変え、今日まで教会を生かす土台の一つになっていつことを、改めて感謝したいと思います。そしてこれからの東久留米教会も、私たちが教会を愛してなす日々の小さな献げる決断を神様が祝福して下さって、これからも教会を神の国めざして前進させて下さると信じるのです。

 マリアの信仰と人類最初の女性エバの生き方を並べてみると、非常に対照的であることが分かります。神様の御言葉を不正確に理解していたエバは、神様の御言葉を否定する悪魔の唆しに割に簡単に負けたように見えます。悪魔は言ったのです。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」エバ(この段階ではエバという名はまだついていなくて、女とだけ書かれている)が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実をとって食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」アダムもエバに唆されて、実を食べ、人類最初の夫婦が神に背きました。これと対照的な夫婦がマリアとヨセフです。マリアとヨセフは一致協力して神様に従い、生まれた赤ちゃんイエス様を守ってゆきます。エバの失敗をマリアが取り返し、アダムの失敗をヨセフが取り返したと言えます。最初の夫婦エバとアダムが神に背いた罪をマリアとヨセフの夫婦が、神様に従うことで、取り戻したとも言えます。本当に対照的な夫婦です。

 それにしてもマリアはこの時、15才前後、本当に若いです。「神様、私はまだ若過ぎます。もう少し年上で、人生経験のある女性を選ばれた方がよいのではありませんか」と言っても不思議はないのに、ここで全く従順に「お言葉通り、この身に成りますように」と全面的に神様の求めを受け入れています。マリアが神様に召命を受けた、神様から召し出しを受けた場面です。私は先週の月曜日に東京神学大学関係の会に出席致しましたが、「学生自身による東京神学大学の紹介」というパンフレットを受け取り、教会内で配って下さいと言われたので、本日皆様の週報ボックスにお入れしています。数がやや足りず、完全に全員には入れることができていません。神学生にも色々な年齢の方がおられます。その中で、若い女性の神学生の短い証しの文が印象に残りました(もちろん他の方々もよき証を書いておられます)。「小学3年生で神様からの召命を確信し、牧師になることを決意。小学5年生で東京神学大学のパンフレットを渡されて、受洗と東京神学大学への入学を決意。高校総卒業後、まっすぐ献身した。」あまりの純粋さに驚きます。もしかするとマリアさんも同じような、いえ、もっと純粋な信仰に燃えていたのではないかと思います。

 あまりに早く神学校に進むことに対しては、「あまりに純粋培養ではないか」、「もう少し人生経験をしてからの方がよいのではないか」という意見が出ると思います。それが当たっているケースもあるでしょうが、しかし本当に神様がその人を呼ばれたのであれば、神様に呼ばれたことが第一になります。マリアさんも、考えようによっては若すぎる。しかし神様が彼女を選んだのであれば、マリアさんは身を献げて従うのみです。「お言葉どおり、この身になりますように。」私たちも、神様のご用のために自分を献げるように招かれています。自分に可能な形で、神の国の前進、伝道の前進のために祈り、奉仕するように神様に招かれています。その愛の招きにお応えして参りましょう。アーメン。

2024-06-16 2:03:31()
「その子をヨハネと名付けなさい」 2024年6月16日(日)聖霊降臨節第5主日礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書3:16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編128、使徒信条、讃美歌21・210、マラキ書3:20~24、ルカによる福音書1:5~25、祈祷、説教、祈祷、讃美歌377、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(マラキ書3:20~24) しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。
 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。

(ルカによる福音書1:5~25) ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第5主日の礼拝です。説教題は「その子をヨハネと名付けなさい」です。新約聖書は、ルカによる福音書1章5~25節です。著者ルカは、イエス・キリストの生涯を書き記すことを、まず洗礼者ヨハネの誕生のいきさつから語り始めます。3節で「順序正しく書いて」テオフィロ氏に献呈するのがよいと書いている通り、順序正しく書こうとしています。本日の小見出しは、「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」です。

 最初の5節「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。ヘロデは、ヘロデ大王と呼ばれる人です。その治世は紀元前37年から紀元4年までです。モーセの兄アロンの子孫たちがイスラエルで祭司の務めを担いました祭司たちは24の組に分かれ、その8番目がアビヤ組だったそうです。それは旧約聖書の歴代誌上24章に書かれています。祭司は当時何と、1万8000人から2万人いたそうで、ザカリアはその一人でした。ザカリアという名前の意味は「神に覚えられている人」です。「神に忘れられない人」とも言えます。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトと言いました。エリサベトという名前は、「神は誓いを立てた」、「神は完全である」の意味と解釈できるそうです。6節「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」もちろんこのご夫婦も、神様からご覧になれば罪人(つみびと)だったはずですが、旧約聖書の律法を一生懸命、万全に守ろうと心がけていたのです。7節「しかし、エリサベトは不妊の女で、彼らには子供がなく、二人とも既に年をとっていた。」似たことは旧約聖書にもありました。イスラエルの先祖アブラハムとサラの夫婦の間には、長年子どもが生まれない苦労がありました。

 8~9節「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。」祭司は2万人もいたのですから、アビヤ組だけでも800人はいたでしょう。もし800人でくじを引いたとすれば、当たる確率は800分の1です。一生当たらない人もいたと思われます。当たる確率は非常に低いのですから、もし当たれば、一生に一度、一世一代の大仕事になります。それがザカリアに当たってしまったのです。彼は大いに驚き、「これは大変なことになった。しっかり役目を果たさなければ」と緊張して、奮い立ったと思うのです。10節「香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。」香をたくことは、神様を礼拝する行為です。このことについては、出エジプト記30章6節にこうあります。「この掟の箱(モーセの十戒を記した石の板2枚が入っている)の上の贖いの座の前で私はあなたと会う。アロンはその祭壇で香草の香をたく。」民数記17章5節には、こうあります。「アロンの子孫以外の者が主の御前に近づき、香をささげてはならない。」他の人が香をささげれば、聖なる神様に撃たれて死ぬ恐れがあります。それで、民衆は外で祈っていました。くじに当たった祭司は、香の壇に新しい炭火を置き、その上に香をたき、ひれ伏して祈ったそうです。

 香をたいた祭司が出てくれば、礼拝は無事終わったとなります。しかしこの時はふだんと違う意外なことが起こりました。神様の介入があったのです。11~12節「すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。」神様は完全に聖なる方、天使は神ではないが、聖なる存在です。私たちは罪人(つみびと)です。罪人(つみびと)にとって聖なる神様や天使を見る体験は気軽なことではなく、恐ろしい体験でもあります。撃たれれて死ぬ可能性もあります。13~14節「天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。』」ヨハネという名前は、「主は慈しみ深い」の意味だそうです。

 天使は突然現れたとも言えますが、ザカリアとエリサベトの長年の祈りに応えて現れたのです。民衆も皆、外で祈っていました。祈りが積み重ねられて、神の時が満ちたときに天使が現れたと言えます。3週間前の礼拝で読んだ使徒言行録10章も似ています。同じルカが書いたから似ている面もあるでしょう。しかし大切なことは、祈りが積み重ねられていた所に、天使は出現したことです。使徒言行録10章では、カイサリアにいたコルネリウスというローマの百人隊長に天使が現れ、神様の恵みが与えらることになります。それまでコルネリウスは、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていたのです。ザカリアとエリサベトのような夫婦、家族だったに違いありません。神様に誠実に仕えたザカリア・エリサベト夫妻、そしてコルネリウス一家を、神様はご自分の世界の人々を救う尊いご計画のために用いて下さいました。ザカリア・エリサベト夫妻、コルネリウス一家にとって、大変光栄なことでした。私たちも神様に誠実にお仕えすることによって、神様のご計画が進むために、私たちのいる場所にあって用いていただけます。大変光栄なことと感謝致します。

 15節「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。」生まれて来る洗礼者ヨハネは、古い契約の時代の最大最高の人物です。ルカによる福音書は新約聖書ですから、こう新しい契約の時代に入りつつありますが、新しい契約をもたらすイエス・キリストの誕生の少しだけ前に生まれた洗礼者ヨハネは、古い契約(旧約)の時代の最大最高の信仰者です。「彼はぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母親の胎内にいるときから聖霊に満たされていて。」旧約聖書の民数記6章に、神様に一定の期間身を献げるナジル人(びと)が出てきます。ナジル人である期間は、ぶどう酒も濃い酒も飲まず、ぶどう液は一切飲まない聖なる生き方をします。洗礼者ヨハネも、ナジル人のような人です。ナジル人が一定の期間ぶどう酒も濃い酒も飲まないのに対して、生まれつきナジル人のような洗礼者ヨハネは、おそらく一生ぶどう酒も濃い酒も口にしなかったのでしょう。

 16~17節「(ヨハネは)イスラエルの多くの子ら(人々)をその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
ここは旧約聖書の一番最後、(本日の旧約)マラキ書3章23~24節の引用と言えます。「見よ、私(神様)は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」それが洗礼者ヨハネなのですね。「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。」イスラエルの中で、父と子の仲たがいが多かったようです。神様が、父親と子供が和解するように導かれる。その時、モーセの十戒にある「父母を敬え」がよく行われるようになります。本日は「父の日」ですね。こうしてイスラエルの民の中で悔い改めが行われ、人々が真の神様に立ち帰る。こうして神様がイスラエルの民を裁くことが避けられる。洗礼者ヨハネがイスラエルの民を悔い改め、真の神様への立ち帰りへと導き、真の救い主のお越しの備えがなされる、ということと思われます。マラキ書3章20節に、「しかし、わが名(神の御名)を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。」この「義の太陽」こそイエス・キリストだと、昔から教会は解釈してきました。

 天使のメッセージを聞いたザカリアは、あまりにも大きな恵みが与えられると聞いて、驚いたでしょう。そして不信仰なことを語ってしまいます。「何によって、私はそれを知ることができましょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています。」「その証拠を見せてほしい。でないと信じられない。私たち夫婦は高齢だから」と言ったと言えます。天使からは厳しい裁きの言葉が発せられます。「私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。」非の打ちどころがなく律法を日々守っていたザカリアでも、このような不信仰の罪を犯すことがあるのですね。

 神様の約束、神様の御言葉は必ず実現するのです。それを信じられなかったザカリアに、一時的に神様の裁きが与えられ、彼は口を利くことができなくなりました。
出エジプト記4章の神様のモーセへの御言葉が思い出されます。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なる私ではないか。さあ行くがよい。この私があなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」私たちの口を利けるようにし、利けないようにするのは神様です。神様が私たちの口も耳も目も造って下さったからです。私たちが罪深いこと口にするたびに、神様が私たちの口を利けなくなさったら、どうでしょう。私たちが少しでもぶつぶつ不平不満を言うたびに、神様が私たちの口を利けなくなされば、私たちはしょっちゅう、口が利けなくなるのではないでしょうか。そうならないのは、不思議です。これは私たちが口で罪を犯しても、神様が敢えて裁かないで忍耐しておられるからだと思います。

 私は昨年の2月ごろと今年の1月、風邪に伴う副鼻腔炎になり、声が出にくくなり、礼拝の説教を役員の方々に代読していただきました。耳鼻咽喉科で診ていただくと、副鼻腔炎と診断され、昨年は内視鏡に映った膿の映像も見せていただきました。薬を処方され飲んで、次第に治りました。あの2回、声が出にくい状態の中で、ザカリアの気持ちを考えたことでした。そして声が出るという、普段は当たり前と考えていることが、実は神様の恵みのプレゼントであることに、感謝すべきプレゼントであることにようやく気付きました。

 私たちの口や舌について考える時、ヤコブの手紙3章2節以下を思い出さないことはできません。「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。(~)舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を讃美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」

 ペンテコステの朝、イエス様に従う人々の上に炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。一同は聖霊に満たされ、他の国々の言葉で神の偉大な業を語り始めました。聖霊によって心が清められ、舌と唇が清められ、神に偉大な業を語りました。私たちの心と舌も、御言葉と聖霊によって清めていただきたいのです。讃美歌第二編に『シャロンの花』という讃美歌があります。「シャロンの花、イエス君よ、汝(な)がかおり放ちたまえ。わが言葉、行いみな、汝(なれ)の如くになるまで」というすばらしい歌詞があります。この歌詞が私たちの上に実現してほしいものです。 歌手ベー・チェチョルさん。  アーメン。


2024-06-12 15:49:30(水)
伝道メッセージ(6月分)石田真一郎(市内の保育園のお便りに掲載した文章)
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。~明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなた方にはなおさらのことではないか」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書6章28~30節)。

 保育園では、今年は6月7日(金)に「花の日礼拝」を神様にお献げ致します。「花の日」は、19世紀半ばにアメリカのプロテスタント・キリスト教会で始まりました。その地域ではこの時期、花が豊富で美しかったのです。花を、真の神様の愛のシンボルとして教会に飾り、花を持って高齢の方々や交番を訪問する麗しい日になりました。東久留米市の花はツツジ、木はイチョウです。5月はツツジが美しかったですね。植木鉢の花がしおれたとき水をやると、しばらくしてみるみる生気を取り戻します。植物は生きていると分かり、嬉しくなります。花も人間も神様から命を与えられています。この神様に信頼して祈るのが信仰です。

 『サザエさん』作者の長谷川町子さんはクリスチャンでした(工藤美代子『サザエさんと長谷川町子』幻冬舎、2020年)。町子さんの父親は神様を信じない人でしたが、1933年に福岡で亡くなる直前に、神様を信じる人に変えられました。目を見開いて家族に、「こんな嬉しい日に泣いてはいけないよ。神様がいつもお前たちを守って下さる」と言い、誰にも見えない何者かに向かって手を伸ばし、『イエス様が迎えに来て下さった』と喜色満面で言い、パタリと手を落として息を引きとったそうです。現実は大変です。大黒柱を失い、一人で娘三人を育てることになった母親は、一家で東京に行くと決断します。寡婦とその子どもが餓死寸前で神様に助けられ、「壺の粉は尽きることなく、かめの油はなくならない」(旧約聖書・列王記上17章14節)状態になったと記す聖書の御言葉を、母親は信頼しきったのです。「それが真実ならば、キリスト教とは何と頼りになる宗教であろうか」と工藤さんが書きますが、正確には、真の神様と神の子イエス・キリストが頼りになるのです。

 懸命に働いてやっと食べてゆける時代でしたが、町子さんが1935年に15才でマンガ家デビューし、戦後『サザエさん』がヒットしたことは、一家への神様の助けだったのです。母親は熱心なクリスチャンで、貧しい人や困っている人に、どんどんお金をプレゼントする人で、一家は困りましたが、母親の晩年に一家でイスラエルを旅行し、イエス様が誕生され、働かれた地に立って感激する恵みを受けました。そのイエス様が伝道されたイスラエルで戦争が続き、イエス様の御心と真逆のことが行われており、私は悲しみと憤りを覚えます。戦争が早く終わり、傷ついた多くの人々が癒されるように祈るのみです。アーメン(「真実に」)。

2024-06-09 2:17:34()
「確実な教え ルカによる福音書」 2024年6月9日(日)聖霊降臨節第4主日
順序:招詞 ヨハネ福音書3:16,頌栄29、主の祈り,交読詩編127、使徒信条、讃美歌21・209、ルカによる福音書1:1~4、祈祷、説教、祈祷、讃美歌461、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(ルカによる福音書1:~4) わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第4主日の礼拝です。説教題は「確実な教え ルカによる福音書」です。新約聖書は、ルカによる福音書1章1~4節です。ヨハネ福音書の連続講解説教が終わりましたので、考えた結果、ルカによる福音書の連続講解説教を始めようと思います。毎月3回ほど、ルカによる福音書を読むことになります。私にとりまして、ルカによる福音書の連続講解説教に取り組むのは、私が1996年に東久留米教会に着任させていただいたとき以来、2回目になります。

 本日の小見出しは「献呈の言葉」です。1~2節「私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々が、私たちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。」著者のルカという人は、イスラエル人(ユダヤ人)ではなく、ギリシア人だと言われています。マタイによる福音書を書いたマタイはイスラエル人(ユダヤ人)で、旧約聖書以来の神の民イスラエル人に、真の救い主イエス・キリストを伝えるためにマタイによる福音書を書いたと考えられます。これに対してルカはギリシア人、異邦人なので、異邦人(イスラエル人以外)にイエス・キリストを宣べ伝える目的で、ルカによる福音書を書いたとされています。

 「私たちの間で実現した事柄とは、洗礼者ヨハネの誕生、その親類マリアからのイエス様の誕生に始まり、イエス様の十字架の死、復活、昇天までを指すでしょう。ルカ自身は、十字架に架かる前のイエス様に直接会った証拠はありません。おそらく十字架前のイエス様に直接会った経験はないものと思います。最初の頃からイエス様に出会って目撃して、御言葉のために働いた人々と言えば、十二弟子がそうです。マタイも十二弟子の一人です。その人々がルカたち十字架前のイエス様に直接会ったことのない人々に、イエス様のことを伝えた。その人々が口で伝えたり、書いて伝えたものもあったのでしょう。それらをも資料として用いて、物語に書き連ねうようと、多くの人々が既に手をつけているとルカは書いています。ルカもその人々と同じように、書き連ねようと決心したのです。多くの人々がイエス様の地上の生涯を物語・書物に書き記した。多くの文書が書かれたと思われますが、その中で、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の4冊が聖書の中に取り入れられて、今日に至っています。ペトロによる福音書という書物もあるようですが、実際にペトロが書いたかはっきり分かりませんし、内容も信頼性に乏しいと見られ、聖書には入れられていません。

 3~4節「そこで、敬愛するテオフィロ様、私もすべてのことを事の初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」ルカは「すべてのことを事の初めから詳しく調べている」と書いています。イエス様に会った人々の話を聴いたり、既に書かれていた文書等を読んで事の順序を確かめ、そして祈りながら聖霊に導かれて、この福音書を書いたことでしょう。テオフィロという人がどんな人かはっきり分かりませんんが、ローマ帝国の高官と思われます。「テオ」はギリシア語で「神」、フィロは「愛」の意味なので、「神に愛された者」、「神の友」の意味だと言われ、出来過ぎた名前とも見えるので、実際には存在しない人ではないかという説もあります。もしそうなら、実際には存在しない立派な人をルカが造り上げて、ルカがその人に献呈する形をとったことになります。しかし、多くの人は、テオフィロがどんな人かは分からないが、やはり実際に存在した高官だと考えているようです。そうであれば、テオフィロはイエス・キリストへの信仰について実際に教えを受けた人です。

 「お受けになった教え」とあるので、イエス・キリストへの信仰について教えを受けたことが分かります。ルカが教えたのかもしれません。でもまだ洗礼に進んでいないのかもしれません。それでルカがこう書いているのかもしれません。「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」この福音書を読んで下されば、お受けになった教えに誤りがないことがよく分かる。これを読んで、イエス・キリストがどんなにすばらしい方かよく分かって、ぜひ確信をもって洗礼を受けていただきたい。それがルカの願いと思います。この確実な教えにあなたの全人生を委ねて、決して間違いは起こらない。テオフィロだけではないのです。この福音書を読む全ての人が、イエス・キリストがどんなにすばらしい方かをよく悟って、安心して喜んで洗礼を受けて救われ、クリスチャンになってほしい。このルカの願いが伝わってきます。

 そしてルカは、まずこのルカによる福音書を書きました。その第二巻として、ルカは使徒言行録を書きました。使徒言行録1章1~2節にも、似た献呈の言葉が記されています。「テオフィロさま、私は先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」因みに新共同訳聖書でルカによる福音書は64ページあり、使徒言行録は60ページあり、計124ページです。新約聖書全体が480ページですから、ルカ一人で新約聖書の約4分の1を書いたことになります。私たちはルカの執筆努力から多くの恩恵を受けていると分かります。パウロも約130ページ書いているとも解釈できるので、ルカとパウロが新約聖書の半分以上を書いていると分かります。

 では、そのルカはどのような人だったのでしょうか。パウロが書いたとされるコロサイの信徒への手紙4章14節には、「愛する医者ルカとデマスも、あなた方によろしくと言っています」とあり、ルカが医者だったことが分かります。パウロが愛する医者、パウロに非常に敬愛された医者、それがルカでした。ルカによる福音書を読むと、イエス様の慈しみが深く強調されていると感じます。それはルカが医者であることとも関係しているのだと思います。医者は心優しく、病気の人や苦労している人々にいたわりと愛を注ぐ人です。その医者であるルカが書いた福音書で、イエス様の慈しみ深さや憐れみ深さが強調されていることは、やはりルカが医者としての感性を発揮して、イエス様の慈しみ深さに敏感に気づいたからこそ、彼の福音書の中で、イエス様の弱い立場の人への愛が、強調されて描かれていると読むことができます。

 パウロは、テモテへの手紙(二)4章9節以下でも、こう書いています。「ぜひ、急いで私の所へ来て下さい。デマスはこの世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまい、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行っているからです。ルカだけが私の所にいます。」仲間のはずのデマスは、信仰に生きるよりも世間の楽しみの方にそれて、パウロを見捨ててテサロニケに行ってしまった。クレスケンスはおそらく伝道のためにガラテヤに行き、テトスも伝道のためにダルマティアに行っている。「ルカだけが私の所にいます。」ルカはパウロの伝道を支え、パウロが一人の時もパウロの傍らにいて、パウロを支え続けていたのです。ルカの名は、パウロが書いた「フィレモンへの手紙」にも登場します。「キリスト・イエスのゆえに私と共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。私の協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。」

 ここではパウロがイエス・キリストへの信仰のゆえに捕らわれていることが分かります。コロサイの信徒への手紙もテモテへの手紙(二)も、パウロの獄中書簡とされます。パウロがカイサリア、あるいはローマの獄中で書いたとされます。であれば、ルカは獄中のパウロを見捨てないで支えたことになります。他の協力者がいたこともあれば、ルカ一人がパウロを支えた時もあったことになります。ルカも一緒に捕らわれたこともあったのか、あるいはルカはいつも牢獄のパウロを訪問して外から支え続けたのか分かりませんが、ルカは自分一人になってもパウロを見捨てず、パウロを支え続けた真に忠実な人、誠実な信仰の友だったことが分かります。「まさかの時の友こそ、真の友」という言葉がありますが、パウロにとってルカは、それに近い存在だったのではないでしょうか。

 使徒言行録を丁寧に読むと分かるように、ルカはパウロとよく伝道活動を共にしています。ルカは使徒言行録を書いたのですが、ずっと客観的に書いて来て、突然16章で「私たちは」と自分を登場させ、一人称で語り始めます。パウロがトロアスで幻を見ます。一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けて下さい」とパウロに願ったのです。その直後にこう書かれています。「パウロがこの幻を見たとき、私たちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」そしてルカも同行してパウロたちはトロアスから海を渡ってネアポリス、フィリピに着き、リディアという婦人の家に泊まり、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に会います。彼女から占いの霊を追い出したことで、彼女の占いで金もうけしていた人々の怒りを買い、パウロとシラスという人が投獄されます。真夜中に大地震が起こってパウロとシラスは劇的に解放されるのですが、この時ルカは投獄されなかったものの、同行していたと思われます。この後は、「私たち」という言い方が暫く途絶えるので、ルカがパウロに同行していたかどうかは、不明になります。

 次に「私たち」という言い方が復活してルカの同行が明らかになるのは、パウロの第三伝道旅行の終わりの頃です。使徒言行録20章6節に、「私たちは、除酵祭の後フィリピから船出し」とあるので、ルカがパウロろ同行していることが分かります。この後はずっと同行していると思われます。ここからのパウロは苦難の連続になります。20章にはパウロがエフェソの長老たちに別れを告げる感動的な場面があり、ルカはそこにも立ち会っています。そしてパウロはエルサレムに行きます。ルカも同行しています。パウロと一行はイエス様の弟ヤコブに会います。ルカはこの時ヤコブに会い、イエス様の十字架までの地上の歩みを、イエス様の弟ヤコブから直接多くのことを聞いた可能性があります。そして後のルカによる福音書執筆に大いに用いた可能性は高いと思います。

 パウロはエルサレムで捕らえられます。これは神様のご計画です。パウロはエルサレムからカイサリアに護送されて、監禁されます。ルカの何らかの形でついて行った可能性があります。その後パウロは、皇帝の下で裁判を受けるために船でローマに向かいます。ルカも同じ船に乗りました。この船は暴風雨に襲われ、人々は生きる望みを失いかけますが神様の守りがあり、難破の後、マルタ島に上陸して助かります。ルカも一緒なのです。そして遂にパウロたちはローマに着くのです。パウロは番兵を一人つけられたが、自費で借りた家に二年間住んでイエス・キリストを宣べ伝えました。ルカも身近にいたと思われます。ここまでパウロと共に歩んだ上で、使徒言行録を書いたはずです。

 私が申したいことは、ルカという人は、パウロの晩年の苦難の日々を、パウロと共に耐え忍んで生きたということです。パウロの苦難の日々に寄り添い、パウロの心を支えたと思うのです。先ほどのテモテへの手紙(二)を、パウロはローマで書いたと思われます。「ルカだけが私のところにいます。」ルカはパウロの殉教まで、パウロに寄り添っていた可能性があります。私が申したいのは、ルカはそのようなイエス様の忠実なしもべだということです。もちろんイエス・キリストが共にいてくださるのですから、ルカがいなくてもパウロは耐えることができたと思います。でも、人間の友がいてくれることもまた、パウロの心に安心を与えたと思うのです。ルカの生き方を見て、やはり人様に寄り添うことは大切だと教えられると思うのです。ルカはテオフィロにも寄り添う姿勢で福音書を書き、これがあなたの人生を懸けて間違いない確実な教えだから、ぜひイエス・キリストを信じて、救われてほしいとテオフィロの救いを祈って福音書を書いたと思います。そしてルカは、将来の読者である私たちにも寄り添う気持ちでルカによる福音書を書き、私たちが救われることをも祈りながら書いたに違いありません。

 寄り添いと言うと、先日天に召された長嶺トヨ子さんには、いつも神様、イエス・キリスト、聖霊が寄り添っておられたと同時に、娘さん方が交代で寄り添っておられたことも、長嶺さんの大きな喜びだったに違いありません。そしてもちろん神様が私たちにも寄り添い、私たちが天国にたどり着くまで寄り添っていて下さいます。ある人は、イエス様は「永遠の同伴者だ」と言いましたね。日本におられたホイヴェルス神父様が、故郷のドイツでご友人から紹介されたという「最上のわざ」という有名な詩を思い出しました。
 
 「この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、動きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、己の十字架を担う。/若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり(私はまだこの境地に達していません)、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。/老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。おのれをこの世につなぐ鎖を少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承認するのだ。/神は最後にいちばんよい仕事を残して下さる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。/すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。『来よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ』と。」

 父なる神様がいつも寄り添って下さることを感謝して、これより毎月数回、ルカによる福音書を読んで礼拝を献げて参りましょう。アーメン。


2024-06-02 3:05:21()
説教「外国人にも聖霊が注がれる」 2024年6月2日(日)聖霊降臨節第3主日
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23,頌栄24、主の祈り,交読詩編126、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・351、エレミヤ書31:31~34、使徒言行録10:34~48、祈祷、説教、祈祷、讃美歌352、聖餐式78,献金、頌栄27、祝祷。 

(エレミヤ書31:31~34) 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

(使徒言行録10:34~48) そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
 ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言った。そして、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第3主日の礼拝です。説教題は「外国人にも聖霊が注がれる」です。新約聖書は、使徒言行録10章34~48節です。私たちは2週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げました。使徒言行録2章を読みましたが、そこで聖霊を注がれた人は皆、イスラエル人・ユダヤ人です。使徒言行録2章ではペトロが説教し、旧約聖書のヨエル書を引用しました。そこには「私(神様)の僕(しもべ)、はしためにも、そのときには、私の霊を注ぐ」と書かれていました。僕は男奴隷、はしためは女奴隷と訳すこともできます。男奴隷にも女奴隷にも聖霊が注がれ、奴隷も差別されないと言われていると思います。ですがこれはイスラエルの中の奴隷のことと思われます。まだ異邦人、外国人は含まれていないようです。

 その限界は、本日の使徒言行録10章で突破されます。10章は長い章で、本当はこれを全部読むべきですが、本日は、イスラエル人以外(異邦人)にも聖霊が注がれたクライマックスの少し前から読んでいただきました。10章の最初から手短にまとめると、イスラエルの地中海沿いのカイサリアに、コルネリウスというローマ軍の百人隊長がおり、大変信仰深くて、神様に信頼されていました。彼の前に天使が現れ、「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。」そこでコルネリウスは、二人の召し使いと側近の部下で信仰深い兵士を呼び、すべてを話してヤッファへ送りました。

 この三人がヤッファに近づいた頃、ペトロは不思議な体験をしていました。ペトロが祈るために屋上に上がったところ、天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされて地上に降りて来るのが見え、その中にあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして「ペトロよ、身を起こし屠って食べなさい」という声が聞こえました。しかしそれらが旧約聖書の律法で「汚れたもの」とされるものだったので、ペトロは「とんでもないことです」と断ります。するとまた声が聞こえます。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、入れ物は急に天に引き上げられました。そこへ三人が到着したのです。イスラエル人は異邦人を汚れた者と見ていたのですから、普通なら会うのを拒否しても不思議はありません。しかし霊(聖霊が)、「ためらわないで、一緒に出発しなさい。私があの者たちをよこしたのだ」と語ったので、ペトロはカイサリアまで同行しました。そしてこう述べたのです。「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問することは、律法で禁じられています。けれども神は、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。なぜ招いて下さったのですか。」コルネリウスが経緯を説明して言います。「よくおいで下さいました。今私たちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」

 異邦人コルネリウスの誠実な態度に、ペトロも心打たれたのでしょう。今日の最初の34節。「そこで、ペトロは口を開きこう言った。」「口を開き」という言葉は、何気ないようですが、「これから重要なことを語りますよ」というしるしです。イエス様が「山上の説教」を語るときも、「イエスは口を開き、教えられた」と書かれていますから。ペトロはまず述べます。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」これは非常に大切なポイントと思います。「神様は一切の分け隔てをなさらない。」私たちはクリスチャンで救われており、永遠の命を受けているのですが、しかしだからと言ってクリスチャンでない方に対して、何か妙な優越感を持ってはいけないと思います。「神は分け隔てをなさらない。」この事実は、聖書の色々な個所に記されています。たとえば旧約聖書の申命記10章17節以下には、こうあります。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物を衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」こうおっしゃる神様ですから、外国人を差別したり、偏り見ることもないのです。

 聖書は確かにイスラエルの民を、神様に選ばれた民と明記していますが、例えば旧約聖書のルツ記を読むと、イスラエル人の男性と結婚したモアブ人の女性ルツのことを非常に称賛していますね。ルツが真の神様を敬い、姑によく仕えたことで外国人ルツを一切偏り見ないで、ルツを称賛しています。ルツの先祖からダビデ王が生まれたのですから、ダビデ王にも外国人の血が入っていることになります。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受入れられるのです。」

 この大前提を述べた上で、ペトロはイエス・キリストの恵みの福音を語ります。10章36節以下「神がイエス・キリストによって―この方こそ、すべての人の主ですー平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送って下さった御言葉を、あなた方はご存じでしょう。ヨハネ(洗礼者ヨハネ)が洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力とによってこの方を油(聖霊)注がれた者(メシア、キリスト、救い主)となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは神が御一緒だったからです。私たちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木(十字架)にかけて殺してしまいましたが、それは神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現して下さいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、ご一緒に食事をした私たちに対してです。」

 ペトロはさらに語ります。「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました。」ここに、イエス・キリストが「生きている者と死んだ者との審判者」であると書かれています。これは私たちが毎週、使徒信条で告白している信仰と一致しますね。「主は、(~)十字架につけられ、死にて葬られ、三日目に死人のうちより甦り、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり。かしこより来りて、生ける者と死ねる者を裁きたまはん。」イエス・キリストが最後の審判を行って下さいます。しかしイエス様は憐れみ深い方ですから、御自分の十字架の贖いのゆえに、イエス・キリストを救い主と信じ告白する者に、無罪の宣告を与えて下さいます。ペトロは述べます。43節「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」イエス様を信じる者は「誰でも」です。そこには何の差別もありません。

 しかしペトロは「誰でも」と言いながらも、ユダヤ人でない異邦人も救われることについて、まだ半信半疑だったようです。ペトロもこの後の展開に、大いに驚いたのです。次の小見出し「異邦人も聖霊を受ける」に進みます。44~46節「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。割礼を受けている(ユダヤ人)信者(クリスチャン)で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを聞いたからである。」異言とは、聖霊が与えて下さる言葉で、何語なのか、話している本人にも分からないことが多いようです。私も人々が異言を語っていると思われる会に出席したことがありますが、私自身は異言を語った経験はありません。異言も尊い聖霊の恵みの賜物ですが、パウロはコリントの信徒への手紙(一)で、教会を造り上げるためには異言よりも預言の方が優れていると書いています。預言は分かる言葉だからです。礼拝の説教も、一種の預言(神の言葉を預かって語る)と言えますね。

 異邦人にも聖霊の賜物が与えられた現実を見て、ペトロは、本当に神様が人を一切分け隔てなさらにことを、本当に悟りました。そこでペトロは「私たち(ユダヤ人クリスチャン)と同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができますか」と言いました。この異邦人たちが聖霊を受けたことは、彼ら(彼女ら)がイエス様を自分の救い主と信じて、自分の罪を悔い改め、それが神様によしとされた証拠です。ペトロも自分が差別意識を持っていたことを悔い改め、彼ら(彼女ら)と信仰の兄弟姉妹となることを受け入れました。そして水の洗礼をも受けるようにと求めました。48節「イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと、その人たちに命じた。」これは教会が誕生した最初期のことで、水の洗礼の授け方も完全に確立していなかったと言えるでしょう。今であれば、「父・子・聖霊なる三位一体の神様」のお名前によって洗礼を受けるのです。「それから、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在するようにと願った。」さらに深く教えを乞うためでしょう。コルネリウスは、本当に誠実な新クリスチャンです。

 私は「東久留米キリスト者九条の会」という会に入っていますが、そこに市内の氷川台にある日本長老教会・東久留米泉教会のBさんという女性の宣教師さんが出席しておられます。以下の内容は、Bさんがお書きになった文章に書かれていることです。Kさんは、1994年に南太平洋の赤道直下、パプアニューギニアの西ブリテン州のワシラオ村付近に宣教師として派遣された方です。日本ウイクリフ聖書翻訳協会という団体に所属しておられるようです。その村との距離はよく分かりませんが、先日パプアニューギニアで地滑りがあり、約2000人も埋まってしまったそうで、大きな災害となり、私もインターネットのニュースで見ました。この地域は、太平洋戦争の激戦地で、日本軍と米軍が激戦を繰り広げ、現地の住民も多く亡くなり、日本軍も米軍も多くの死傷者を出したそうです。

 Bさんが派遣されたワシラオ村付近では、アタ語という言語が話されているそうです。アタ語には文字がなかったそうです。もっと前の1983年に派遣された橋本さんという聖書翻訳宣教師が、アタ語の音韻、文法を研究され、聖書をアタ語に翻訳することに生涯を献げられたそうです。その後、1988年にアタ語の創世記の翻訳が完成したそうです。その時、地域の方々が歌を作って、「神様がアタ語で語り始められた。私たちは、この日を喜ぼう。」そして橋本宣教師は1997年に、天に召されたそうです。その後、現地のクリスチャンたちや、おそらくBさんも加わってと思われますが、2009年にさらに新約聖書と、旧約聖書のヨナ書の翻訳が完了したそうです。聖書を少数民族の言語に翻訳するときに、村人に聞いていただいて、分かるか、自然なアタ語になっているか、を審査するそうです。その日初めて、ワシラオ村で、ヨハネによる福音書が朗読されたそうです。聴き入っていた人々の中から「トアグ」という感想の言葉が聞こえたそうです。「トアグ」はアタ語で、「甘い」の意味であるそうです。こう申しますと、既に何名かの方々は、詩編を連想しておられると思います。詩編19編11節「(主の律法、定め、命令、戒め、つまり御言葉は)金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」詩編119編103節「あなた(神様)の仰せを味わえば、私の口に蜜よりも甘いことでしょう。」自分たちの言葉であるアタ語で聞いた聖書は、本当に甘かったのです。外国語でなく、自分たちの言葉で聖書が読まれると、心にストレートにしみ込んで来ますし、その本来の甘さがよく感じられるのですね。もちろん中には苦い、厳しい御言葉もありますが、全体としては福音ですから甘いのでしょう。この地域はマラリア原虫がいる地域で、宣教活動もマラリアとの戦いの面もあるそうです。この地域の方々は、今でも日本で言う古代のような生活環境で暮らしておられるそうですが、もちろん神様は一切分け隔てなさいませんし、イエス様を信じるならこの方々にも神様は聖霊を注いで下さり、神の子として下さり、祝福して下さいます。

 昨日は大変悲しいことに、私どもが敬愛してやまないAさんが、清瀬市の複十字病院にて、天に召されました。眠ったまま、早朝に息を引き取られたようです。長嶺さんは病院に入られてからも、『ゆうべの祈り』という本を用いて、毎日お祈りしていると、お見舞いに伺ったときに、私にも語って下さいました。ブルームハルトという牧師の祈りを、加藤常昭先生が訳された本です。Aさんは、東久留米教会の会員でいらした吉加江治与さんに紹介されたこの本をずっと大切にし、この本を用いて祈って来られたようです。1年間366日(うるう年も含めて)の祈りが記されているのですね。ある牧師が書いていますが、「病のために祈るのは当然です。神は祈りを聴いて下さるのです。しかし、病気が治らないで、病気のままで召される人もたくさんいます。ところが、病が癒されず、病床にあるままに、その人の信仰がかえって輝きを増し、その健康であった何十年かにまさってからのわずかの間に信仰のかつてない喜びを経験しながら天に召されて行った人々を、私は何人も知っています。神に対する信仰の深さにおいても、隣人に対する優しさにおいても、どんなに深い愛を身につけるか、どんなに忍耐深くなるか。牧師もまた襟を正して神の恵みを讃美するようなことが起こります。」

 まさにAさんにこのことが起こっていたと感じています。聖霊のお働きと思います。先週の礼拝後のご報告にもありましたように、私も8日前の土曜日に2名の方々と共にお見舞いさせていただいたときに、「今までこの入院を試練と思っていたけれども、今は祝福と思っています」という意味のことを言われました。私は、心の中で感嘆しました。クリスチャンでも、なかなか言えない言葉だと思います。ご病気の中で、人格が練り清められたと拝察致します。ご本人が祈り、皆様が祈り続けて下さった中で、聖霊のお働きが与えられた。異言もすばらしいでしょうが、先ほどの言葉も、聖霊によって与えらえた信仰の高みの言葉だと信じ、そのような清き信仰を与えて下さった、神様の聖なるお名前を讃美致します。ご家族・ご親族の上に、イエス・キリストのたくさんの御慰めを、お祈り申し上げます。アーメン。