日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2021-04-18 1:15:14()
「イエス様を信じる者になろう」  2021年4月18日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 コリント(一)15:3~6前半、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・322、聖書 創世記2:7(旧約2ページ)、ヨハネ福音書20:19~31(新約210ページ)、祈祷、説教「イエス様を信じる者になろう」、讃美歌21・197(予告を変更)、献金、頌栄92、祝祷。 

(創世記2:7) 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

(ヨハネ福音書20:19~31)その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

(説教) 先々週はイースター礼拝を献げ、本日は復活節第3主日の礼拝です。十字架の死から三日目の日曜日の早朝、復活されたイエス様はまず最初に、マグダラのマリア(マグダラ出身のマリア、イエス様の母マリアとは別人)に復活の姿を現して下さいました。マリアはイエス様の11名の弟子たちの所へ勇んで行き、「私は主(イエス様)を見ました」と告げ、またイエス様から言われたことを伝えたのです。

 そして本日の最初の19節「その日、すなわち週の初めの日(日曜日)の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」イエス様を十字架に架けて殺すことを求めたユダヤ人たちが、イエス様の弟子である自分たちにも危害を加え殺そうとするのではないかと恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて、閉じこもり隠れていたのです。そこへ何と、復活されたイエス様が来て、「あなた方に平和があるように」と言って下さったのです。11人の弟子たちの集団は、このままほおっておくと分解し、ばらばらになって消滅してしまうでしょう。そうならないために復活のイエス様が来られました。この共同体は、復活のイエス様を中心として、教会というキリストの体になってゆくことが必要です。イエス・キリストを中心として、女性も男性も、子供も青年も大人も、日本人のユダヤ人も北朝鮮人も韓国人も中国人もエジプト人もアメリカ人もメンバーに入るキリストの教会になってゆく必要があります。この集団がばらばらになって消滅せず、キリストの教会という生きた共同体として生きてゆくために、イエス様がその真ん中に来て立たれました。今でも、全ての教会の真ん中におられるのは主イエス・キリストにほかなりません。

 復活されたイエス様は、確かに復活の体を持っておられます。今日の後半で弟子のトマスに、「あなたの手を私の脇腹に入れなさい」と言っておられることからも、明らかに体を持っておられます。イエス様は決して幽霊ではないのです。確かに体を持っておられる。ですがその復活の体は、私たちが今持っている体と違うようです。ドアに鍵がかけてあっても、入って来ることのできる体です。でも確かに体であって、ルカによる福音書では復活のイエス様は魚を食べておられます。復活されたイエス様は、ユダヤ人を恐れて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に立たれて、「あなた方に平和があるように」と言われました。これは、十字架のイエス様を見捨てて逃げた10名の弟子たちの罪(ヨハネだけは十字架のイエス様の足元にとどまった)を赦していて、少しも恨んでいないと述べたのです。

 そしてイエス様は、両手と脇腹をお見せになりました。両手には十字架で釘打たれて開いた穴があり、脇腹には十字架の上で槍で刺された刺し傷がありました。新しい体ですからもう出血していなかったでしょうが、両足を含めると4つの釘の穴と1つの槍の刺し傷がある、生々しく痛々しい体です。このようにして十字架にかかり、弟子たちの全ての罪を身代わりに確かに背負い、私たち皆の全ての罪を身代わりに間違いなく背負って、一旦死なれたのです。十字架で全ての人の罪を確かに背負った証拠としての両足を含め4つの釘の穴と、槍の刺し傷を残すイエス様の復活の体を、弟子たちにお見せになりました。「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。もちろん弟子たちは、イエス様の復活を喜んだのです。同時にそれは単純な喜びだけでもなかったと思うのです。「ああイエス様、あなたは本当に私たちの罪を背負って、十字架の上で肉体を深く深く傷つけられたのですね。私たちを極みまで愛して下さったのですね。本当にありがとうございます。」涙ぐんだ弟子もいたのではないかと想像致します。

 私たちが、この弟子たちと似た体験をする時があるかと考えると、聖餐式がそれにあたると言えます。聖餐式で私たちは、ある意味でイエス様の体と血潮を見て、食べさえする、飲みさえするのです。「これは、私たちのために裂かれた主イエス・キリストの体です。あなたのために主がいのちを捨てられたことを憶え、感謝をもってこれを受け、信仰をもって心の中にキリストを味わうべきであります。」「これは、私たちのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを憶え、感謝をもってこれを受け、信仰をもって心のうちにキリストを味わうべきであります。」これは聖餐式の式文ですが、心の中に味わうだけでなく、現にパンを食べることで、口の中でイエス様の十字架の愛を味わい、ぶどう液を飲むことで、同じく口でイエス様の十字架の愛を味わうのが聖餐です。イエス様の十字架の愛は、私たちの心だけでなく五臓六腑(内臓)に現実に染み渡ります。

 21節「イエスは重ねて言われた。『あなた方に平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。』」こうして弟子たちと私たちは、イエス様の十字架によるあらゆる罪の赦しと、復活による永遠の命の希望の福音を宣べ伝えるために、社会の中へと派遣されてゆきます。22~23節「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る。』」本日の旧約聖書である創世記2章7節には、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」イエス様の十字架の死によってすっかり希望を失い、恐怖に支配され、生きる意欲も失い、死んでいたような弟子たちです。しかし今、復活のイエス様に再会し、神様の清き霊である聖霊を吹き込まれ、希望と勇気を与えられ、伝道の使命に生きる意欲を与えられ、立ち上がります。聖霊によって新しい命を与えられ、伝道の使命に立ち上がります。聖霊はまさに希望の霊であることが分かります。

 イエス様はさらに言われます。「誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦さないまま残る。」あなた方は弟子たちですから、教会のこととも言えます。教会の使命はイエス・キリストを宣べ伝えること。「イエス様を救い主と信じ、自分の罪を悔い改めれば、あなたの全ての罪が赦され、永遠の命が与えられます」という福音を宣べ伝えることです。ですから今日の説教題を「イエス様を信じる者になろう」としました。そして教会の使命は、イエス様を信じる人々に、イエス様の名による罪の赦しの洗礼を施すことです。罪とは私たち人間が、神様を愛さす、隣人を愛さず、自己中心に生きることです。この罪があるために人間は死ぬのです。死という大問題を解決するためには、罪を解決しなければならないのです。罪の問題こそ、全ての人が解決しなければならない最大の問題です。多くの人はそう思っていないかもしれませんが、本当はそうなのです。罪を解決すれば、死も解決できます。イエス様を救い主と信じて、自分の罪を悔い改め、洗礼を受けることで罪が完全に赦され、死の問題が根本的に解決されます。森有正というクリスチャンがおられましたが、こんな話をされたそうです。「終わりが死だという時に、一番大きな問題は、どうも私どもはなかなか死ぬことはできないということなのです。死ねれば、大いに結構ですよ。ところが、死ぬことができないものが残ってしまったらどうするかという問題です。それは言うまでもなく人間が持っている、神の前における罪の問題ですね。罪があったら、人間は死ぬことができないですよ。罪が解決しないでどうして死ぬことができるかという問題、つまり死は経験の終わりですから、経験が終わってしまった時に罪が解決できないでいたら、その罪は永遠に残るわけでしょう」(『古いものと新しいもの』日本基督教団出版局)。罪という最大の問題から私どもを救うために、イエス様が私どもの全ての罪を背負って、十字架で死んで下さいました。この救い主イエス様を宣べ伝えることこそ教会の最大の使命にして、喜ばしい使命です。「誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る。」そうなっては非常に困ります。そうならないために、教会は懸命にイエス様を宣べ伝えます。

 次は、「疑うトマス」の有名なエピソードです。「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。」ディディモとは双子の意味だそうですが、実際に双子の兄弟がいた可能性もありますし、「信じない心」と「信じる心」の両方を持っていることでディディモ(双子)と呼ばれたのかもしれません。「そこでほかの弟子たちが、『私たちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない。』」 「死者が復活するなど、あり得ない。私は決して信じない。」拒否の強い意志が感じられます。しかしある意味で、トマスが頑固に信じないと主張したお陰で、イエス様がもう一度来て下さったとも言えます。この次の場面を読むことで、信じない気持ちを変えて、イエス様の復活を信じるようになった人が、キリスト教会2000年の歴史で、世界中に多くいらっしゃると思うのです。信じられない方がおられましたら、信じないと強く主張したトマスでさえ、信じるようになったことを思い、ぜひイエス様の復活を信じていただきたいと思います。イエス様は今は天で生きておられ、そこから神の清き霊である聖霊を今日も私たちに注いで下さり、神の国を完成させるために、必ずこの世界にもう一度来て下さいます。それが聖書の約束です。

 トマスが信じることができるために、イエス様はもう一度来て下さいました。26~27節「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなた方に平和があるように』と言われた。それからトマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」 納得するまで、自分の指と手で触って確かめなさいというのです。トマスは触ったとは書かれていません。目の前に両手に釘の穴が開いていて、わき腹に槍の傷の穴がある体をもつイエス様がおられるのを見て、もはや信じないことは不可能になり、信じて、「私の主、私の神よ」と叫んだのです。この叫びの信仰告白は全く正しいのです。イエス・キリストは、私たちの主であると共に、私たちの神、全宇宙をお造りになった神様です。神が人間になられた方、神にして同時に人間であられる方がイエス・キリストなのです。イエス様はトマスに言われます。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」信仰とは、今は目に見えないが、将来必ず全ての人に見える形で、もう一度この地上に来られるイエス様を信じることです。何の根拠もないことを闇雲に信じるのではなく、聖書という確かな神の言葉を根拠にして信じるのです。トマスは見たから信じました。でもイエス様は言われます。「見ないのに、信じる人は幸いである。」地上にいるクリスチャンのほとんどは、「見ないのにイエス様が生きておられることを信じる人」です。まだ信じておられない方は、ぜひイエス様を信じる仲間に入って下さるようにお願い致します。誰よりもイエス様が、喜んで下さいます。

 次の小見出しに「本書の目的」、つまりヨハネ福音書が書かれた目的が書かれています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなた方、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命(永遠の命)を受けるためである。」聖書を読むだけでは十分でなく、読んで、イエス様を信じる信仰に入ることこそ、必要です。

 トマスは触ったと書いてないので、私は触らなかったのではないかと思いますが、カラバッジョという画家は、トマスが驚きと疑いが混ざったような表情で、右の人差し指をイエス様のわき腹の槍の傷の穴に入れて確かめている強烈な絵を描いています。もう二人の男の弟子も同じく驚きと疑いが混ざったような表情を浮かべて、すぐ近くでそれをじっと見つめている絵です。もしかするとカラバッジョという画家自身が、イエス様の復活を信じることができない気持ちを、この絵を描くことで乗り越えて信じるようになったのではないかと、私は想像します。

 それにしても、復活の体に十字架の穴の傷が5つもあることの強烈さを思います。ヘンリ・ナウエンという信仰の指導者(カトリック司祭)が、「傷ついた癒し人」という本を書いています。「傷ついた癒し人」、英語ではウンデッド・ヒーラーですが意味は同じです。傷ついた人こそ、他の人に癒しを与えることができるということでしょう。イエス様こそ、まさに「傷ついた癒し人」です。イエス様の十字架の受難を予告するイザヤ書53章の3~5節を思い出します。あえて口語訳で読みます。

 「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」「その打たれた傷によって、私たちはいやされたのだ。」十字架の痛みを味わい尽くしたイエス様だからこそ、私たちの真の救い主として最もふさわしい方だと思うのです。天に召されて数年になるクリスチャンドクターの日野原重明先生の講演を、私は1996年に一度伺いましたが、著書に書かれていた言葉と記憶していますが、「私は医学生に、死なないくらいの病気をしなさいと言っている」とのことでした。日野原先生ご自身も、若い頃に確か結核で療養なさったことがおありだったと思います。病気の辛さが少しも分からないと、患者さんの気持ちが分かるよい医者になれないということでしょう。

 バプテスト教会の牧師で、長年、北九州のホームレスの方々をサポートして来られた奥田知志先生が書いておられます。「長年支援の場で確認し続けたことは、絆には傷が含まれているという事実だ」(『もうひとりにさせない』いのちのことば社、2011年、209ページ)。これは日本語の語呂合わせですが、真理を述べていると思います。「絆には傷が含まれている。」イエス様が十字架で深く傷ついて下さったお陰で、イエス様と私たちの間に切れない絆ができました。奥田先生はこうも書きます。「愛するとは、その人のために傷つくことも含まれているのだ。十字架は弟子たちのため、いや私のために主(イエス様)が傷つかれた事実を示す。イエスの傷は、私への愛だった。」私たちのために、生身の体に5つの穴を開けられて深く傷つき、体が裂かれる苦難を耐えて下さったイエス様こそ、「私の主、私の神。」トマスと共に、心の底からこの信仰告白に生かされて参りたいのです。

(祈り)聖名讃美。東京と近隣に、蔓延防止重点措置が取られています。感染している方全員に、特に重症の方に神様の癒しを与えて下さい。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神様に立ち帰るように力強く導いて下さい。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられ、入院中の方もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。今日明日、ご葬儀に出席される方もあります。葬儀に神様の深い慰めがありますように。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。来週の総会をお守り下さい。近所の方々にも聖霊を注いで下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを。イエス様の御名により、アーメン。

2021-04-11 2:50:26()
「イエス様の優しい呼びかけ」  2021年4月11日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 コリント(一)15:3~6前半、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・325、聖書 雅歌3:1~5(旧約1051ページ)、ヨハネ福音書20:11~18(新約209ページ)、祈祷、説教「イエス様の優しい呼びかけ」、讃美歌21・327、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 


(雅歌3:1~5) 夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても/求めても、見つかりません。起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。求めても、あの人は見つかりません。わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」彼らに別れるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。母の家に/わたしを産んだ母の部屋にお連れします。エルサレムのおとめたちよ/野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください/愛がそれを望むまでは/愛を呼びさまさないと。

(ヨハネ福音書20:11~18)マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

(説教) 先週はイースター礼拝を献げ、本日は復活節第2主日の礼拝です。本日は、ヨハネ福音書でイエス様の復活の場面を読んでいます。イエス様が十字架で死なれた金曜日の三日目の日曜日の早朝、マグダラ出身のマリアという女性が、まだ暗いうちにイエス様の墓に行きました(このマリアは、イエス様の母マリアではありません)。誰もいません。マグダラのマリアは、イエス様によって7つの悪霊を追い出していただいて救われた女性です。おそらく、今で言う精神障がいのような状態から癒された女性と思います。自分を苦しみから救って下さったイエス様を、心の底から慕っていたので、墓に行ってイエス様の遺体をもう少し丁寧に処置したいとの思いに満たされ、どうしても墓に行かずにはいられなかったのです。

行ってみると予想外のことが起きていました。墓を塞いでいた大きな石が、取り除けてあったのです。イエス様の遺体もなくなっています。マリアはどうしてよいか分からず、二人の男性の弟子に走って知らせに行きました。シモン・ペトロとイエス様が愛しておられた弟子・つまりヨハネにです。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません。」マリアさんのどうしてよいか分からない気持ちは、分かる気がするのですが、ここではっとさせられるのは「どこに置かれているのか、分かりません」の「どこに」という言葉です。イエス・キリストはどこにおられる方なのか。イエス様は、父なる神様のもとから地上に来られて、父なる神様のもとに戻られる方です。父なる神様から与えられた使命を果たすために生きておられる方ですから、マリアさんや私たちの願いや考えに従って、マリアや私たちの希望通りの場所に縛り付けてお納めしておくわけにはいきません。イエス様は、神の子としての使命を果たすために、父なる神様の意志に適う所におられることになります。

 ヨハネは墓が空っぽなのを見て、イエス様の復活を信じたようですが、ヨハネとペトロの二人の男の弟子たちは、家に帰りました。これ以上墓にいても、何もできないと思ったからでしょう。ですがマリアは墓にとどまります。ここにいても何もできないと頭で分かっていても、イエス様を慕う思いが強く、なおそこにとどまり続けることしか考えられませんでした。でもこの愚直な愛こそ、最も大切ではないでしょうか。彼女の愚直ない愛は、報いられます。墓に居続けても仕方がないと頭で考えて帰ってしまった男の弟子たちが経験できなかった出会い、再会をマリアは与えられます。父なる神様は熱いハートをお持ちの方ですから、墓の外に立って泣き続けるマリアの姿に、心を動かされたのではないかと思うのです。泣いてそこに居続けたことは無駄ではありませんでした。彼女は二人の天使に出会い、さらによき再会の奇跡を与えられます。ある人は言います。「泣き続けた者のみが、復活のイエス様に出会った。」ヨハネ福音書が描くこの朝については、その通りです。

 マリアが泣きながら、身をかがめてもう一度墓の中を見ると、イエス様の遺体の置いてあった所に、白い衣を来た二人の天使が見えました。マリアが天使と気づいたかどうか、分かりません。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアが言います。「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエス様が立っておられるのが見えました。しかしマリアには、それがイエス様だとは分かりませんでした。マリアの目が涙でかすんでいて見えなかったという人もいます。この場面を描いたレンブラントという画家の絵では、イエス様がつばの広い帽子をかぶっていて、それで顔が陰になっていています。イエス様と分からなかったと言いたいようです。レンブラントは「光と陰の画家」と呼ばれるほど、光と陰の使い方が上手だそうですから、この場面もそのように描くのでしょう。あるいはイエス様が、少し別の姿で現れたために、マリアにすぐイエス様と分からなかった可能性もあると思います。私たちも日常生活の中で、別の姿で現れるイエス様に出会っている可能性があります。イエス様と思わないで、冷たい態度をとってしまったら実はイエス様だったという可能性があるので、注意する必要があると思います。イエス様のマタイ福音書25章での言葉を、思い出します。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。」

 イエス様が言われます。15節「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」「誰を捜しているのか。」もちろんイエス様を捜しているのですが、「あなたはそのイエスを、誰だと思っているのか?」という本質的な問いが含まれていると言えます。「イエスとは、誰なのか。」それはマリアを7つの悪霊から救って下さった恩人ですが、マリアの個人の恩人であるだけではありません。父なる神様のご計画によって、私たち皆の全ての罪を身代わりに背負って十字架で死に。三日目に復活して下さる救い主、それがイエス・キリストの本質です。
 
 マリアはそこまで気づかず、園丁だと思い込んで答えます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。私があの方を引き取ります。」
マリアは単純に「イエス様の遺体の場所を教えて下さい」と問うたのですが、この福音書を読む私たちは、イエス様は墓にずっとおられる方ではない、復活して天に昇られ(天が居場所)、天から聖霊を注いで下さる方、聖霊として世界中のイエス様を信じる人々といつも共にいて下さる方だということを、心に刻む必要があります。

 ここで遂にイエス様が「マリア」と呼びかけます。マリアははっと気づいて、ヘブライ語で「ラボニ」と答えます。マリアのハートに電気ショックのようなものが走ったに違いありません。人格と人格が通じ合った瞬間です。すぐ前にはイエス様が「婦人よ」と呼んだのですが、これではマリアの心に響きません。十字架にかかる前のイエス様もよく「マリア」と呼びかけたのでしょう。その度にマリアが「ラボニ」と答えたのでしょう。「ラボニ」は先生という意味だと書いてありますが、より正確には「私の先生」の意味です。打てば響くように、心が通じ合った一瞬です。魂が死んだようになっていたマリアの顔が、みるみる生気を取り戻したに違いありません。この福音書の10章のイエス様の御言葉を思い出します。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。(~)羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。(~)私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」

 今にもすがりつこうとするマリアを、イエス様が制します。「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなた方の父である方、また、私の神であり、あなた方の神である方のところへ私は上る』と。」ギュツラフという宣教師が訳した日本語訳では、「ワレヲオサエルナ」となっているそうです。マリアが「私の先生」と叫んで、イエス様を自分の望み通りにコントロールすることは、父なる神様の御心に適いません。イエス様が十字架で死なれたことで、人間の罪は全て裁かれました。人間の罪は全て背負いきられました。イエス様の復活によって、人間の上に力を振るう死は完全に乗り越えられました。今や、人間の罪とその結果の死は、イエス様の十字架と復活によって完全に乗り越えられたのです。イエス様の十字架の死と復活によって、世界は完全に新しい時代に入ったのです。コリントの信徒への手紙(二)5章17節(口語訳)の言葉を借りれば、「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった」のです。マリアがイエス様にすがりついてしまうと、古い時代に逆戻りになる感じです。

 マリアはイエス様への愛は熱烈であるけれど、「私の先生」と言っていることからも分かるように、やや自己中心に思えます。マリアの熱烈な愛は、本日の旧約聖書・雅歌3章の乙女の熱烈な愛情に似ています。「夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても/求めても、見つかりません。起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。求めても、あの人は見つかりません。わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。『わたしの恋い慕う人を見かけましたか。』彼らに別れるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。」マリアの愛には、「私だけのイエス様」に執着している部分があるように思えます。この執着をやめる必要があります。マリアだけのイエス様ではない、すべての人の主イエス・キリストだからです。

 「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。私の兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなた方の父である方、また、私の神であり、あなた方の神である方のところへ私は上る』と。」弟子たちのことを、「私の兄弟たち」と呼ばれます。ペトロたち11人の弟子たちを「私の兄弟たち」と呼んで、親愛の思いを示して下さいました。ヨハネだけがイエス様の十字架の下にとどまりましたが、あとの10人はペトロも含めて逃げました。イエス様を見捨てて逃げた弟子たちを恨んでおらえれず、見捨てた罪を赦しておられるいことを示されました。私たちもイエス様の兄弟姉妹となることができます。イエス様を自分の救い主と信じ、自分の罪に気づいて罪を悔い改め、洗礼を受ける時、私たちは神の子たちとされます。イエス様の父なる神様が私たちの父なる神様となられ、私たちはイエス様を長男とする兄弟姉妹たちとなります。教会は神の家族です。イエス様の十字架の死と復活によって、世界は新しい時代に入りました。私たちは新しい時代を生きていることを、深く感謝したいと思います。この新しい時代は、イエス様を救い主と信じるどの国の人も、神の家族に入ることができる時代です。マリアも、イエス様を「私の先生」にとどめてはならないことを、悟りました。だから弟子たちの所へ行って、「私は主を見ました」と言ったのではないでしょうか。「私の先生」にとどまらず、イエス様はすべての人の主だと悟ったからです。マリアが出会ったイエス様に、私たちも会うことができます。聖書を読むことで、祈りをすることで、礼拝に出席することで、見えなくてもイエス様と人格的に出会うことができます。東久留米教会の礼拝が、毎回イエス様とよく出会う時となるように、これからも私も祈りますし、皆様にもぜひ祈っていただきたいとお願いします。

 イエス様は、この後、天に上られます。何のために天に行かれるのか。この福音書の14章に書いてあります。「私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私のもとに迎える。こうして、私のいる所(天国)に、あなた方もいることになる。」イエス様は、マリアのためにも、ヨハネとペトロのためにも、私たち一人一人のためにも天国に居場所を用意するために天に上られます。

 イエス様は、マリアが墓に行くより先に復活されたように、私たちに先立って私たちを導いて下さいます。私たちがイエス様より先手を打つことは不可能です。イエス様がいつも先におられます。これは私たちにとって、深い慰めです。ある牧師は、「イエス様がいつも先に進んでおられる」ことを思いながら、働いているそうです。病院にお見舞いに行くときも、「イエス様は先にそこにおられる」と信じているので、どのようなお見舞いの言葉を語ろうかと思い煩わないでお見舞いに行くとのことです。いろいろな会議や委員会に出席する時も、「イエス様がその会議や委員会にも先におられる」ので、(祈って考えてはおくのでしょうが)何をどう言おうかと思い煩ったり心配しないで出席するとのことです。イエス様がいつも共にいて下さる、私たちに先立って進み、そこで待っていて下さる信仰は、私たちに思い煩わない心を与えてくれます。私たちも神の家族の一員となり、神の子たちとならせていただいている現実を深く感謝して、今週もイエス様と共に平和の中を歩きましょう。
 
(祈り)聖名讃美。今、コロナに感染している方々全員に、特に重症の方々に神様の癒しを与えて下さい。世界中が、神様に立ち帰るように力強く導いて下さい。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東日本大震災で大きな苦しみを受けた東北の方々に、神様の深い慰めと癒しをお送り下さい。教会学校の子どもたちの信仰を、守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを注いで下さい。この教会の周りにいつも平和を、近所の方々の心にも聖霊を注いで下さい。ミャンマーが国軍の横暴から早く解放されますように。イエス様の御名により祈ります。アーメン。

2021-04-04 2:02:38()
「死に勝利したイエス様」 説教 2021年4月4日(日)イースター礼拝
礼拝順序:招詞 コリントの信徒への手紙(一)15:3~6前半、頌栄29、「主の祈り」、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・328、聖書 マタイ福音書28:1~20(新約59ページ)、祈祷、説教「死に勝利したイエス様」、讃美歌21・326、聖餐式、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 
 
(マタイ福音書28:1~20) さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。
 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

(説教) 皆様、イースターおめでとうございます。私たちプロテスタント教会は、多くの場合クリスマスを最も大切に祝い、イースターは二番目です。しかしギリシア正教会は、クリスマスは二番目で、イースターこそ第一の祝いの日です。それくらいイースターがキリスト教会にとって大切だということを、申し上げたいのです。イエス・キリストは、十字架の死の三日目の日曜日の早朝、墓を破ってまさに復活されました。そして復活の体をもって天に昇られ、もちろん今も生きておられ、天から聖霊を注いで、私たちを守っておられます。神様が、春の時期にイースターを備えて下さったことは、自然界の動きともよく合っていて、よいなと思います。教会の周辺の木々の枝も、寒い冬の間枯れていましたが、3月に入ると次第に梅が咲き、最近は近くの落合川や黒目川でも桜が美しく咲いて、自然界もまさに命が復活する季節です。コロナ禍の中にあっても自然界の復活の息吹を感じることができ、クリスチャンもクリスチャンでない人も嬉しくなって、暖かさにニコッとしたくなる季節です。しかも今日は、1年ぶりに聖餐式を復活させることができます。皆様と共に、嬉しいイースターを迎えさせて下さった神様に、心より感謝致します。

 1~2節「さて、安息日(礼拝に専念する日、土曜日)が終わって、週の初めの日(日曜日)の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリア(イエス様の母)が、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」二人の女性が、ただイエス様への愛に突き動かされて、墓を見に行きます。行ったからと言って、どうすることもできないと分かっていても、なお行かずにはいられなかったのです。マグダラのマリアは、イエス様に7つの悪霊を追い出していただいて救われた女性です。おそらく精神障がいに非常に苦しんでいた状態を、癒していただいたのでしょう。イエス様に心から感謝していました。もう一人のマリアは、イエス様の母マリアと思います。少なくともこのマタイ福音書では、男の弟子は墓に行かなかったようです。行っても何も起こるはずがないという理性が、男性の場合は優先してしまいます。しかし二人のマリアは、イエス様への愛に突き動かされて、墓に行きました。それを見て、父なる神様も心を打たれたのではないでしょうか。愛、打算のない純粋な愛は、何かを起こす力を持っているのではないでしょうか。理性も計算も人の心を打ちませんが、打算のない愛は、予想外の何かを引き起こす力を持つことがあると感じます。

 二人のマリアが行った墓は、いわば死が勝利している所です。イエス様も十字架で確かに死なれ、陰府(よみ=死者の国)に降られたのです。イエス様は決して仮死状態から蘇生したのではありません。完全に死なれたのです。しかし三日目に復活させられました。自力で復活したのではありません。父なる神様の偉大な愛の力によって復活させられたのです。それはまだ誰も墓に行かない、人間は誰も目撃していない明け方、早朝に起こりました。日本語には明け方を表現する色々な言い方があります。暁、しののめ、曙などです。瞬きの詩人と呼ばれる水野源三さんに「こんな美しい朝に」という詩があります。子どもの頃に脳性麻痺になり体が動かなくなった方で、お母さん(や別の方)が表を使って「あいうえお」を1つ1つ指差し、源三さんが瞬きで「その文字!」のメッセージを送ることで、詩を作りました。これもその1つです。「空には夜明けと共に、雲雀(ひばり)が鳴き出し、野辺にはつゆに濡れて、すみれが咲き匂う。こんな美しい朝に、こんな美しい朝に、主イエス様は墓の中から出て来られたのだろう。」

 今日のマタイ福音書で、イエス様の復活の証人となったのは、二人の女性です。その頃のイスラエルで、女性の地位は低く、女性が大事な事柄の証人として採用されることは、原則なかったそうです。子どもの立場も低く、男性でも羊飼いなどの社会的地位は低く、やはり大事な事柄の証人として信用してもらえなかったそうです。ところがイエス様は女性や子供を、一人の尊厳ある人間として接して下さいました。そして新約聖書の福音書は、イエス様の復活の証人として、女性たちを登場させています。女性の信仰の深さを、積極的に認めているのです。ルカによる福音書は、無名の羊飼いたちを、救い主イエス様誕生の証人たちとして登場させています。そしてイエス様は、軽く見られていた子供たちを抱き上げて、祝福されました。イエス様と福音書は、男性上位の考え方を否定していると言えます。このイエス様と福音書の姿勢に、21世紀の日本に生きる私たちも、大いに学ぶ必要があります。
最近のニュースによると、男女平等について、日本は156ヶ国の中で120位だそうで、女性の国会議員の人数も、主要国(という言い方も差別的ですが)の中で、確か最も少ないとのことです。日本には、まだまだ課題があるのですね。

 さて、イエス様が墓の中で、どのように復活されたのか、聖書はそれを一切記していません。私どもはその様子を知ることは許されていません。それは完全に神様の業です。神様だけが知っておられる、神の秘儀と言えると思います。二人のマリアさんは墓に行きました。父なる神様も、この2人のマリアさんのイエス様を慕い愛する気持ちを、深く分かっておられたと思います。そこでそこに介入して下さったのです。二人が墓に行くと、大きな地震が起こり、主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座るという予想外のことが起こりました。

 マタイ福音書を読むと、イエス様が十字架で息を引き取られた直後にも地震が起こりました。阪神淡路大震災や東日本大震災のような大きな地震が起こらないことを切に願います。最近も小さいとは言えない地震が起こっていて、そのたびに驚きます。突然起こるからです。地震は私どもの日常を揺り動かします。大きな地震が起こってほしくないのですが、地震は神様の介入や警告の意味もあるのかなと感じます。いろいろな意味で目を覚まさせられる気が致します。私たちが日常に安住していた時に、私たちの生活が揺さぶられ、目を覚まさせられ、自分の生き方はこれでよかったかと考え直させられる。地震だけでなく、コロナもそうです。コロナを神様の裁きと言うつもりはありませんが、自分の生き方を見つめ直すきっかけにはなり得る。自分の罪を悔い改め、神様を畏れ敬って神様に立ち帰り、世界中の人々が助け合い愛し合う生き方に変えられてゆく。地震等の災害やコロナは、そのきっかけになり得るとの印象を受けます。地震もコロナもいやなことですが、でもこのような災害が全然ないと、私たちは自分の生き方には少しも問題はないと信じ込み、全く反省しない思い上がりに至り、滅びに至るのではないでしょうか。そうならないために、神様に要所要所で介入していただき、気が付かなかった点を指摘していただき、罪や問題点に気付いて悔い改めることは、私たちにとって非常に必要なことではないかと、思わされます。

 二人のマリアがイエス様の墓に行った朝起こった大きな地震は、神様の介入ですが、警告というより、イエス様復活のよき知らせを知らせるために起こったことでした。神様から送られた天使が、天を切り裂くように降って来て、墓をふさぐ大きな石をわきへ転がし、石の上に座ったのです。超自然的な出来事です。石は大きな障害物ですから、石の上に座る天使の姿は、死の力に打ち勝つ神の偉大な力を明らかに示します。天使の姿は、稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。聖なる神様のすぐ近くから降って来た天使は、あまりにも神々しく純白に清らかに輝き、普通の人には正視することができなかったのです。私たちは雷の稲妻を見ると、かなりびくっとすると思います。旧約聖書の預言者イザヤが、聖なる神様のお姿を垣間見たときに、「災いだ、私は滅ぼされる」と恐れの叫びをあげましたが、聖なる神様のお傍に仕える天使たちも、神様の清き光に照らされて、清き光を放っている(反射している?)のでしょう。天使を見ることは、稲妻を見る以上に衝撃的な体験なのだと感じます。

 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった、とあります。聖なる神様を垣間見たり、聖なる天使を見る体験は、ただ事でない圧倒的な体験であるようです。旧約聖書のダニエル書10章に、預言者ダニエルが天使を見る体験をしている場面がありますが、その天使の様子は「麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていて、体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆のようであった」と書かれています。ダニエルと共にいた人々は、それを直接見なかったらしいのですが雰囲気を十分に感じたようで、強い恐怖に襲われて逃げ出し、隠れてしまいました。ダニエルはその様子を見て話す声を聞きながら力が抜け、姿は変わり果てて打ちのめされ、気力を失い、意識を失い、地に倒れてしまいます。「息も止まらんばかりです」と自分で言っています。息もできないほどに圧倒されたのです。マルコ福音書のイエス様の復活の場面を読むと、イエス様の復活を告げる天使の話を聞いた婦人たちは、「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と書かれています。

 マタイ福音書に戻り、5節「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」確かに、あなた方に伝えました。』」そう言われて確かめてみると、本当にそうです。最初はマタイ福音書16章21節です。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」二回目は17章22節です。「イエスは言われた。『人の子(イエス様ご自身)は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。』三度目は20章18~19節です。「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」このように苦難を受けることと復活を弟子たちに3回ずつ予告しておられたのですが、弟子たちの方は受難のことも復活のことも、聞いてもよく分からなかったのでしょう。男の弟子たちも、婦人たちも、イエス様の使命が私たちの罪を身代わりに背負って十字架で死に、三日に復活することだと、よく理解していなかったのです。でもイエス様は実際に3回もご自分の復活を予告しておられたのです。そして復活は、予告通りに実現されました。父なる神様の力によってです。

 父なる神様が、全てのことを先立ってリードしておられます。私たちは、神様より先手を打つことはできません。創世記22章14節に、「主の山に備えあり」の御言葉を思い出します。イエス様は、婦人たちが墓に行くより先に復活され、墓を出られました。そして誰よりも先にガリラヤに行かれたというのです。それを聞いた婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行きます。すると、何とイエス様が既に行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエス様の足を抱いて、その前にひれ伏したのです。喜びにあふれ、しかしまだ半信半疑の気持ちもあったと思います。

 「おはよう」は、新約聖書の元の言葉であるギリシア語を直訳すると「喜びなさい」です。実際にはイエス様は、ヘブライ語(またはアラム語)で「シャローム」(平和)と言われたのではないでしょうか。それで口語訳聖書では、「イエスは彼らに出会って、『平安あれ』と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した」と訳しています。シャロームはもちろん「平和、平安」の意味ですが、イスラエル人(ユダヤ人)にとってシャロームは、日常の挨拶言葉でもあります。そう考えると「おはよう」という訳も、あり得るのだと思います。新改訳聖書も「おはよう」と訳しています。「おはよう」は非常に日常的な言葉ですから、イエス様は日常生活を送っている私たちと、いつも共にいて下さることが分かります。

 10節でイエス様は言われます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」「私の兄弟たち」と言って下さいました。愛する信仰の兄弟だと。イエス様を見捨てて逃げた10名の弟子たち(ヨハネだけは十字架のイエス様の足元にいた)を恨まず、赦して「私の兄弟たち」と呼んで下さいました。

 16節以下。「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」

 洗礼は、イエス様の復活と深く関わります。洗礼の本質はローマの信徒への手紙6章4~5節「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」洗礼を受けた人は、イエス様と共に十字架につけられ、罪深い自分に死んで、清き聖霊を注がれて、イエス様の復活の命と同じ命に生き始めること。イエス様の復活の命が私たち(洗礼を受けた人)にも注がれていて、イエス様と共に父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人(敵をさえ)愛する歩みを始めているのです。感謝です。アーメン。

(祈り)聖名讃美。今、コロナに感染している方々全員に、特に重症の方々に神様の癒しを与えて下さい。世界中が、神様に立ち帰るように力強く導いて下さい。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東日本大震災で大きな苦しみを受けた東北の方々に、神様の深い慰めと癒しをお送り下さい。教会学校の子どもたちの信仰を、守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを注いで下さい。この教会の周りにいつも平和を、近所の方々の心にも聖霊を注いで下さい。イエス様の御名により祈ります。アーメン。

2021-03-28 1:53:08()
「本当に、この人は神の子」  礼拝説教 2021年3月28日(日)
礼拝順序:招詞 マルコ10:43~45、頌栄28、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・288、聖書、イザヤ書53:1~12(旧約1149ページ)、マタイ福音書27:32~56(新約57ページ)、祈祷、説教「本当に、この人は神の子」、讃美歌21・306、頌栄24、祝祷。
 
(イザヤ書53:1~12) わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかった。
 この人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

(マタイ福音書27:32~56) 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

(説教) 今週は、イエス様の十字架を特に深く心に留める受難週です。教会の暦では、本日は「棕梠の主日」、ろばに乗って首都エルサレムに入るイエス様を、大勢の群衆が「ホサナ、ホサナ」と叫んで大歓迎した日です。その5日後の金曜日に、イエス様は十字架にかけられます。群衆は、祭司長たちや長老たちに扇動されたとはいえ、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んで、イエス様を死刑にするよう要求し、その通りになったのです。群衆が無責任であることもあり、世論が必ずしも神様に従っていないこともあると考えさせられます。イエス様は、茨を編んだ冠を被らされ、ローマ兵がイエス様の前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言ってイエス様を侮辱しました。唾を吐きかけられもしました。

 最初の32節「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」イエス様は、徹夜の祈りをされ、真夜中から早朝にかけて裁判を受けられました。疲れきっておられたはずです。それで、通りかかったキレネ(北アフリカ)生まれのユダヤ人シモンが呼び止められ、イエス様の十字架を代わりに担がされたのです。エルサレムは、ユダヤ人最大の祭り・過越祭のシーズンだったので、外国に住むユダヤ人(イスラエル人)も大勢一時帰国して、エルサレムに来ていたようです。このようなイエス様との出会い方もあるのですね。シモンにしてみれば、代わりに十字架を担がされるなど、大迷惑です。しかしシモンの意に反するこの出会いによって、シモンと家族は、真の救い主イエス様と出会ったのです。このシモンについて、マルコ福音書には、「アレクサンドロとルフォスの父」だと記しています。そしてイエス様の十字架と復活後に弟子となったパウロが書いたローマの信徒への手紙16章でパウロは、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女は私にとっても母なのです」と書いています。このルフォスが同一人物だとすると、シモンの妻と息子ルフォスは、ローマの教会で、パウロと親しいクリスチャンになったことになります。この一家がクリスチャンになったのは、きっとシモンがイエス様の十字架を無理に担がされる不思議な形で、イエス様に出会ったことがきっかけだったと思われます。イエス様と出会うには、いろいろな形があります。私たちがその出会いを大切にすることで、イエス様と共に歩む次の道が次第に開けてくると思うのです。皆様も様々な形でイエス様を知って、ここにおられます。神様は、この東久留米教会を通しても働いて、イエス様と出会う恵みのチャンスを与えて下さっているので、私たちはここでイエス様を知る、イエス様と出会うために与えられえている恵みの1つ1つのチャンスを見過ごさないで、大切に考えて生かせば、宝になってゆくと思うのです。

 十字架を担いだシモンの姿は、イエス様の弟子の姿の象徴と受け止めることができます。イエス様は「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る」と言われます。こう聞くと、決死の覚悟で従えと言われている感じですが、その十字架を実は復活されたイエス様が、共に背負って下さるのですね。ですから何とか背負うことができます。イエス様は、「重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私の軛(くびき)は負いやすく、私の荷は軽いからである」とおっしゃっています。ある昔のクリスチャンは、「あなたが十字架を担うなら、十字架があなたを担う」と言っています。「十字架があなたを担う」とは、「十字架にかかって復活されたイエス様が、共に担って下さる」ということと思います。各々に自分が担うべき十字架(課題)があると思いますが、イエス様が共に担って下さることを信じて、祈りつつ平静に、落ち着いて担ってゆきたいと思います。

 33~34節「そして、ゴルゴタという所、すなわち『されこうべの場所』に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。」十字架につけられる人への憐れみとして、多少麻酔効果のあるぶどう酒を飲ませる習慣だったようですが、イエス様はなめただけで飲まれなかったのです。これはイエス様の強い決意の現れです。進んで十字架にかかり、父なる神様から与えられた使命を完全に果たす決意です。私たち全ての人間の罪を身代わりに背負い、父なる神様からの審判を完全に受けきる。その全ての苦難を、少しもごまかすことなく全て受けとめきる。麻酔で和らげようとしない。イエス様の強いご決意です。35~37節彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。』これは皮肉で書いたのかもしれませんが、真実でもあります。イエス様は確かにユダヤ人の真の王であり、日本人の真の王であり、世界の全ての人々の真の王です。十字架こそ、イエス様の王座なのです。

 人々は、これでもかと、イエス様をののしります。自分たちのためにもイエス様が十字架にかかっておられることに気づかないので、皆で一致してイエス様を侮辱し、罵倒します。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。』これだけ言われて、イエス様も悔しかったに違いありません。しかしイエス様は、一言も言い返さず、ひたすら忍耐・忍耐を繰り返し、沈黙しておられます。

 この場面は、本日の旧約聖書イザヤ書53章と、よく重なると思います。イザヤ書53章は、教会で昔から非常に重視されてきた箇所で、まさにイエス様の十字架の受難を予告する箇所です。2節の3行目から「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた凝らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられてかがみ込み、彼は口を開かなかった(そう、沈黙なさったのです)。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。」ここに記されているのは、苦難の僕の姿ですが、それはイエス様です。イエス様はこの53章に書いてある通り、十字架の上で長時間、沈黙して口を開かなかったのです。イエス様は、苦難をひたすら忍耐する神の子、救い主です。

 しかし、十字架の死の直前になって、イエス様は口を開かれます。45~46節「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。」イエス様は、神の子あると同時に、私たちと同じ肉体を持つ人間です。イエス様の十字架上でのお気持ちを、私が完全に分かることはできませんが、やはりこれはイエス様の正直な気持ちの表明だと思うのです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」実際、イエス様は十字架の上で、確かに一度、父なる神様に見捨てられたのです。罪を犯しているために、父なる神様に見捨てられても仕方がない私たちが、父なる神様に見捨てられないで済むために、イエス様がここで父なる神様に一旦、確かに見捨てられて下さったのです。私たちが、父なる神様に見捨てられないためにです。

 ところが、そんなことに思いが及ばない、居合わせた人々は、「エリ、エリ(わが神、わが神)」というイエス様の呼びかけの声を聞いて、「預言者エリヤを呼んでいる」と誤解しました。音が似ているからです。旧約聖書に登場する預言者は、死なないままで火の戦車に乗って天に登って行ったからだと思いますが、イスラエルでは、ピンチの時にはエリヤが一種の救い主のように来るという信仰があったようです。そこである人々は、「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言いました。しかしエリヤは来ません。イエス様は、再び大声で叫び、息を引き取られました。最後に何と叫ばれたのか、書いてありませんが、ルカによる福音書では「『父よ、私の霊を御手にゆだねます』と言って息を引き取られたとあります。ヨハネ福音書では、「成し遂げられた」と言って頭を垂れて息を引き取られたとあります。どちらにしても、「なぜ私をお見捨てになったのですか」が最後の叫びではなく、その絶望からは抜け出て、「父よ、私の霊を御手に委ねます」「成し遂げられた」と叫んで、父なる神様への信頼を回復して息を引き取られたと感じます。

 51~53節「その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、『聖なる都』に入り、多くの人々に現れた。」神殿の垂れ幕は、神殿の一番聖なる空間(至聖所)を他から隔てるための垂れ幕です。至聖所には、自分をよく清めた大祭司だけが年に一回入ることを許されているだけでした。そこに聖なる神様の聖なる霊がおられます。私たちは罪人(つみびと)ですから、うかつに聖なる神様に近づくと、撃たれて死ぬこともあります。ですから至聖所は、垂れ幕によって他の場所と明確に隔てられていました。しかし、イエス様が十字架に死なれたことで、私たちの罪が解決されました。私たちは、イエス様を通して、安心して、聖なる父なる神様に近づくことができるようになったのです。

 神殿が役割を終えたのです。神殿では、イスラエルの祭司たちがおそらく毎日、罪を犯した人間たちの身代わりに、動物のいけにえを神様に献げて、人間たちの罪の赦しをお願いする礼拝が献げられていたようです。しかしいけにえの動物(その血)を神様に献げる礼拝は、もはや必要なくなりました。神の子イエス様ご自身が、ご自分のすべてをいけにえとして父なる神様に献げて下さり、私たち全人類の全ての罪を赦すために、イエス様が尊い血潮を流して下さったからです。聖書は、血は命そのものです。血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ないというのが聖書の教えです。私たち全ての人間の罪の赦しのために、どうしてもイエス様が十字架にかかって血を流さなければならなかったのです。私は思います。イエス様が十字架にかかったことが、最大の礼拝であり、完全な礼拝であったと。ゴルゴタの丘こそが、神殿よりも完全な最大の礼拝の場となったと。イエス様の十字架という最も完全な礼拝のお陰で罪を赦された私たちは、イエス様の十字架という礼拝に支えられて、今日のこの礼拝を安心して献げることができているのです。この礼拝で次週からまた、月一回は、イエス様の十字架に感謝する聖餐式も行うのです。

 神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことは、明らかに神の直接の力の介入です。地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて眠りについていた多くの聖なる者たち(神を信じる人々、クリスチャン)の体が生き返ったことも、神の直接の力が発揮されたことを意味します。実に驚くべきことです。このようなことは、世の終わり、神の国の完成の時に、もっと力強く起こります。54節「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」イエス様が十字架で死なれると、ふつう起こらない驚くべき出来事が次々起こった。ローマの百人隊長でさえ、また見張りの人たち驚き畏れ、「本当にこの人は、神の子だった」と信仰告白したのです。コリントの信徒への手紙(一)に、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです」とありますが、聖霊によらなければ誰も「本当にこの人は、神の子だった」と言えないでしょう。聖霊がローマの百人隊長や見張りの人々に、「本当にイエス様は神の子だった」という信仰告白を与えて下さったと信じます。聖霊がますます働いて下さって、イエス様を救い主と信じる方々を東久留米教会にも起こして下さり、私たちもますます「イエス様こそ神の子」との信仰を深めて生きることを願います。

(祈り)聖名讃美。緊急事態宣言解除後一週間。感染している方皆に、重症の方々に神様の癒しを。世界中が神様に立ち帰るように力強く導いて。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々と家族に、神様の愛の守りを。教会の周りにいつも平和を、近所の方々の心にも聖霊を。聖名により、アーメン。

2021-03-21 1:45:23()
「軍馬に乗らない柔和な王」 礼拝説教 2021年3月21日(日)
礼拝順序:招詞 マルコ10:43~45、頌栄28、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・299、聖書、ゼカリヤ書9:9~10(旧約1489ページ)、マタイ福音書21:1~11(新約39ページ)、祈祷、説教「軍馬に乗らない柔和な王」、讃美歌21・311、頌栄27、祝祷。
 
(ゼカリヤ書9:9~10) 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。

(マタイ福音書21:1~11) 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

(説教) 礼拝で月2回ほどマタイによる福音書を読んで参りまして、本日は21章に入りま¥す。受難節に非常にふさわしい箇所です。今日の個所では、人々が木の枝を切って道に敷いたとあります。同じ出来事を描くヨハネによる福音書12章では、人々がなつめやしの枝を持って迎えに出たとあり、古い文語訳聖書では「棕梠の枝」となっています。今年のイースター(イエス様の復活の日)は4月4日(日)なので、その一週間前、来週の日曜日3月28日(日)が教会の暦では「棕梠の主日」ですから、今日の個所は来週読むと一番ぴったりなのです。ですが来週はイースターの直前の日曜日なので、やはりイエス様の十字架の場面を読むのがベストと思い、今日の個所をあえて「棕梠の主日」の前の日曜日の今日読むことに致しました。

 1~3節「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、私のところに引いて来なさい。もし誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。』」イエス様は、全てをお見通しなのです。向こうの村に行っていないのに、そこにろばがつないであり、一緒に子ろばがいることが見えておられるのです。イエス様は、そのろばに乗るおつもりです。親ろばと子ろばが引いて来られ、イエス様は子ろばにお乗りになったのでしょうか。

 4節「それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」イエス様は、旧約聖書の預言者の書・ゼカリヤ書9章9節を自ら実現させるために、あえてろばを引いて来させたのです。ある人はイエス様が演出をなさったと言います。イエス様は意図的にろばに乗り、見る人々にメッセージを発信なさったのです。5節はゼカリヤ書9章9節を引用して宣べています(細かい表現が違う部分もありますが)。「シオンの娘(エルサレムの住民)に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」このことが実行に移されます。6~8節「弟子たちは行って、イエ¥スが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。」

 イエス様は、イスラエルの真の王、メシア(救い主)として首都エルサレムにお入りになったのです。普通の王様なら、威風堂々と馬・軍馬に乗るところです。ローマ皇帝も軍馬に乗って勇ましく走りそうです。馬は戦争のシンボルです。日本でも戦国時代に最強軍団と言われたのは甲府の武田信玄の騎馬隊です。王様は強くて速い馬を欲しがります。ところがイスラエルの真の王、世界の真の王イエス様は、違います。あえて強くも速くもない動物ろばに、お乗りになります。大勢の群衆が見守る中を首都エルサレムに入る、最も注目される大事な時に、あえてです。ろばは平和(シャローム)のシンボルです。

 「柔和な方で、ろばに乗り」とあります。柔和という言葉は、このマタイ福音書に2回出てきます。まずご紹介すべきは、マタイ福音書11章28節以下のイエス様の有名な御言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負い易く、私の荷は軽いからである。」イエス様が語られる「山上の説教」にも、柔和という言葉が出て参ります。マタイ福音書5章3節です。「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」地は神様の恵みと祝福のシンボルです。このように語られたイエス様は、戦争を象徴する馬ではなく、平和を象徴するろばに乗られ、ご自分が柔和な者、平和の王であることを、誰の目にも明らかに示して下さいました。

 ここで今日の旧約聖書でもあるゼカリヤ書9章9節以下を、見ましょう。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」「彼は勝利を与えられた者」とありますが、これはイエス様の場合、戦争を行って敵の国を倒した勝利ではありません。イエス様の敵、そして私たちの敵は人間ではありません。イエス様と私たちの敵は、悪魔です。悪魔はイエス様が生まれた時から、イエス様を殺そうと攻撃してきました。その後も、イエス様に日々誘惑を送って、イエス様を悩ませました。イエス様が1回でも誘惑に負けて罪を犯せば悪魔に負けてしまい、悪魔が勝利します。しかしイエス様は、悪魔の無数の誘惑に全て勝利し、ただの一度も罪を犯して悪魔に負けることがありませんでした。イエス様は全ての誘惑に打ち勝ち、悪魔に完全に勝利したのです。

 十字架という最大の試練の時もそうです。何の罪も犯さないのに十字架に架けられたのですから、普通なら父なる神様に文句をぶつけ、神と人をたくさん呪っても全く不思議ではありません。ところがイエス様は、十字架という最大の苦難のときも、一言も呪いの言葉を語らず、かえって「父よ、彼ら(イエス様を十字架につける人々)をお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と、赦しの祈りを献げられました。イエス様はマタイ福音書5章で「敵を愛しなさい」と語られましたが、それを実行され、十字架の上で「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と敵を赦し、敵を愛する祈りをされました。イエス様のこの祈りに感銘を受けて、クリスチャンになった人が昔から多いのです。

 10節を見ます。「わたし(神様)はエフライム(イスラエル)から戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼(王・救い主)の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」このゼカリヤ書の預言(神様に預けられた言葉)は、ゼカリヤという人が紀元前4世紀ころに、神様に導かれて語ったものだそうです。ギリシャのアレクサンダー大王の軍隊によって、イスラエルの土地が踏みにじられた時に、苦しみあえぐイスラエルの民に対して、「真の王が来て軍馬と戦争を断ち、平和をもたらして下さる」という慰めと平和のメッセージを語ったものだとのことです。「戦いの弓は絶たれ、諸国の民(世界)に平和が告げられる。その真の王の支配は、海から海へ、地の果てにまで、世界中に及ぶ。」これほどの規模の平和を実現することは、人間の政治的な王では無理ですから、これはやはり世界の真の王・真の救い主イエス・キリストのことを述べているに違いありません。

 現実の世界がいかに戦争と争いと悲惨に満ちていても、神様が将来必ず、真の平和をもたらして下さる。この希望は旧約聖書にも詩編等に約束されています。たとえば詩編46編にはこうあります。「主はこの地を圧倒される。地の果てまで戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」神様が弓・槍・盾という武器を、ことごとく焼き払うという平和のメッセージです。人間の世界の常識は、力の強い者が勝つということです。強い者は勝って支配し、弱い者は負けて踏みにじられる。残念ながらこのような現実があります。武力や経済力の強い者が、いい思いをする。日本でも暫く前に、「勝ち組」「負け組」という言葉がはやった時期がありました。「やはり勝ち組にならないとだめだ」という人々の本音がおおっぴらに語られた時期が、今から15年ほど前でしょうか、ありました。でも本当のそれでよいのでしょうか。もしそうなら、健康で元気な人だけが勝利者で、病気の人や障がいをもつ人には希望はありません。神様が、そんな世界をお望みとは到底思えません。

 私は、イエス様が平和の主であることをとても喜んでいるのですが、旧約聖書を読んで大変疑問に思ったことは、旧約聖書でイスラエルがしばしば戦争することです。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、先祖が昔住んでいたイスラエルの土地に戻りますが、そこには別の民族が住んでいます。旧約聖書のヨシュア記を読むと、イスラエルの民はその別の民族と戦争します。それに抵抗を感じます。この新共同訳聖書の解説を読むと、その戦争について「勝利の喜びが各ページに感じられる」とあり、この解説にも大いに抵抗を感じます。戦争をよしとしているように読めます。そのような疑問をももちながら旧約聖書を読んできましたが、ある程度の解決は得ています。イスラエルの民が戦った民族は、偶像崇拝の罪など多くの罪を犯して来た民だったようです。そしてイスラエルが例えばエリコという町を占領したときは、イスラエルのリーダー・ヨシュアと民が、神様の指示によって町を一周することを六日間続け、七日目には町を七周し、祭司たちが角笛を吹き鳴らし、皆で鬨の声をあげたところ、城壁が崩れ落ち、町に突入して勝利したのです。つまり武力によらずに勝利して占領したのです。武力ではなく神様の力で勝ったのです。祈りの力で勝利したとも言えます。イスラエルの勝利は軍事力によらなかったのです。それである程度納得しました。詩編の20編にはこうあります。「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える。」また詩編33編には、こうあります。「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。」神様に忠実に従う謙遜な人に、神様が助けを与えて下さるのです。

 今日の箇所を読むと、私は1987年に教会に行き始めた頃に、クリスチャンの友人に薦められて読んだ『ちいろば』という小さな本を思い出します。今も持っています。『ちいろば』とは「小さいろば」の意味です。1976年に天に召された榎本保郎という牧師の信仰の歩みをありのままに正直に記した本です。青年だった榎本先生が中国での兵隊生活から生きて帰り、しかしそれまでお国のために生きて来た生き方が戦後否定され、生きる目的を失っていた時に、榎本先生の罪のためにも十字架に架かって死なれたイエス・キリストの愛を知って感激し、クリスチャンになってイエス様に従う道に、まっしぐらに進んで行かれた歩みが記されています。私も読んで大変感銘を受けた本です。榎本先生の信仰は、自分はイエス様に乗っていただくろばだ、という信仰です。自分が主人ではなく、真のご主人様であるイエス様に乗っていただいて、イエス様をお運びしてどこにでも行く小さなろばでありたい。そう願って伝道に明け暮れたご生涯でした。今日の場面に登場するろばのようでありたい、という願いを込めて本の題名を『ちいろば』とされました。私は『ちいろば』と続編も読み、同じ榎本先生が早天祈祷会での説教をまとめた『旧約聖書一日一章』、『新約聖書一日一章』も買って、愛読しました。今も持っています。今日の箇所を読むと、洗礼を受けた1988年頃のことを思い出さずにはおれません。

 そのマタイ福音書に戻ります。9節「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子(救い主)にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」ホサナは、元々は「救って下さい」という救いを求める言葉のようですが、ここでは万歳に近い、賛美の言葉になっていると思います。これはルカによる福音書2章のイエス様の誕生の場面で羊飼いたちが登場し、天使たちが歌った賛美に似ています。「いと高き所には栄光神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」に似ていると感じます。イエス様がベツレヘムの馬小屋で、大工ヨセフと妻マリアの貧しい家庭に誕生した人生は、最もへりくだる十字架にかかることによって完成すると言えるのです。馬小屋での誕生から十字架に至る道には、一貫性が確かにあります。イエス様が「ホサナ、ホサナ」と大歓迎された日曜日の5日後の金曜日に、一転してイエス様は十字架に架けられるのです。10~11節「イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、『いったい、これはどういう人だ』と言って騒いだ。そこで群衆は、『この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ』と言った。」これは認識不足です。イエス様は預言者にとどまらない、真の救い主です。私たちの罪を全て背負って十字架にかかる救い主です。

 「ホサナ、ホサナ」は、元は旧約聖書の詩編118編25節にあります。旧約958ページ下段。「どうか主よ、私たちに救いを」とあり、「救いを」をヘブライ語聖書で見ると「ホーシーアー」と読めるようで、これが訛って「ホサナ」になったようです。少し前の22~23節を見ると、「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと」とあります。これは新約聖書で何回か引用される重要な言葉です。「家を建てる者が、こんなものいらないと言って捨てた石」つまり人々に捨てられたイエス・キリストが、家にとって非常に大切な隅を支える親石(土台石)となった、というのです。驚くべきことです。十字架につけられたイエス様こそ、世界の平和の源、真の平和のための親石・土台石となられたのです。隅石を英語でコーナーストーンと言うことがあります。5年近く前に沖縄に行ったとき、沖縄本島の南の糸満市にある「平和の礎(いしじ)」に参りました。1945年の沖縄戦で亡くなったおびただしい人数の市民や軍人、アメリカ兵の名前も刻まれている多くの石碑と記憶しています。英語では「コーナーストーン オヴ ピース」と書いてあります。「平和の隅石」ということですね。平和への祈りが込められた「平和の隅石」が「平和の礎」です。少し先に目をやると、海岸があり高い崖が見えます。沖縄戦末期に、追い詰められた多くの市民がそこから身を投げたという崖です。平和の主イエス様を世界中で崇めて、そのような悲劇が二度と起こらないように努力する必要があります。

 最後に、今日の箇所は、クリスマスに備えるアドヴェント(待降節)第一聖日の礼拝で読まれる伝統があるそうです。アドヴェントはイエス様の誕生を待ち望む時です。今日のように真の王としてエルサレムに来られたイエス様が、世の終わりに神の国を完成するために、必ずもう一度来られる。もう一度来る再臨のイエス様を待ち望む信仰を新たにするために、アドヴェント(待降節)第一日曜日の礼拝で、今日の箇所、エルサレムにイエス様が来られた箇所を味わう。同じイエス様がもう一度必ず来られる信仰を、新たに確認するためです。日本中の人と、世界中の人々がイエス様を信じて永遠の命を受け、世界がもっと平和になるよう祈りましょう。

(祈り)聖名讃美。二度目の緊急事態宣言が再延長され、本日で解除。今、感染している全員に、特に重症の方々に神様の癒しを。世界中が、神様に立ち帰るように導いて下さい。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。東日本大震災で大きな苦しみを受けた東北の方に、神様の深い慰めと癒しを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを。この教会の周りにいつも平和を、近所の方々の心にも聖霊を。イエス様の御名により祈ります。アーメン。