日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2020-01-23 14:22:42(木)
「すべての命を守るため―フランシスコ教皇の来日」 伝道メッセージ 石田真一郎
「イエスは町や村を残らず回って会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(新約聖書・マタイ福音書9章35節)。 

 最近の良いことの1つは、ローマ教皇フランシスコの来日です。私はカトリックでなくプロテスタントですが、教皇38年ぶりの来日を喜びます。今回日本カトリック教会が掲げたテーマは「すべての命を守るため」です。

 フランシスコさんは原爆の被爆地・長崎の爆心地公園での平和メッセージで、はっきり核兵器廃絶を語ってくれたので、とても感謝です。「今の世界では、何百万人という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造に財が費やされ、武器はいっそう破壊的になっています。これらは神に歯向かうテロです。核兵器のない世界が可能で、必要との確信をもって、政治家の方々にお願いします。核兵器は国の安全保障への脅威から私たちを守らない、そう心に刻んで下さい。」

 同じく原爆の被爆地である広島では、こう語りました。「ここで大勢の人が、その夢と希望が一瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残りました。その淵から、亡き人々のすさまじい叫び声が、今なお聞こえます。戦争のために核を使用することは、犯罪です。核兵器の保有自体が倫理に反します。武器を持ったまま、愛することはできません。核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。」アメリカの核の傘の下にある日本にも厳しい指摘です。

 11月25日(月)には、東京ドームでの5万人ミサで説教しました(私も出席)。82才のフランシスコさんが登場すると、場内は日本中やアジアなどの信者さんの喜びの大歓声に包まれ、彼が笑顔で赤ちゃんを抱きあげて祝福のキスをするたびに、歓声が上がるスターぶりです。修道女さんたちもカメラを手に喜色満面です。よきメッセージをされました。「日本は経済が発展した社会ですが、青年たちと出会い社会的に孤立している人も少なくないと知りました。イエス様は、重い皮膚病の人、体の不自由な人を抱きしめました。すべての命を一層、守りましょう。」日本の教会には、競争社会で傷つき、孤独になっている人々を受け入れる野戦病院になるように語られ、私も教会の牧師として魂に刻みました。教皇来日は、神様から日本への、早めのすばらしいクリスマスプレゼントです。アーメン(「真実に」)。

2019-12-12 13:58:39(木)
「キリストに従った荻野吟子さん」 伝道メッセージ  牧師・石田真一郎
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(イエス・キリスト。新約聖書・ヨハネによる福音書15章13節。) 

 『一粒の麦―荻野吟子の生涯』という映画を見ました。荻野吟子さん(1851~1913)は、日本初の女性医師でクリスチャンです。埼玉県の三偉人の一人だそうです。今の熊谷市に生まれ17才で結婚しますが、夫に性病を移され離婚。男性医師の治療を受ける苦しみを知り、自分が医者になって同じ苦しみの中の女性たちを救おうと決意。東京女子師範学校(今のお茶の水女子大)を首席で卒業、私立医学校で学びますが、初の女性のため、様々な妨害、嫌がらせを受けます。それに耐え、闘って卒業。東京府に医師試験受験の願書を出しますが、女性が受験した前例がないと却下を繰り返されます。私はこんなにも女性差別がひどかったと驚きました。それを乗り越えて受験にたどり着き、合格。日本初の女医となり1885年(明治18年)に東京・湯島に「産婦人科・荻野医院」を開設。女性が多く訪れます。

 その頃、弓町本郷教会(プロテスタント教会)の海老名弾正という牧師の説教を聴きます。「神様から見れば、男も女も平等である。」強く心を打たれ、洗礼を受け、クリスチャンになります。キリスト教の婦人矯風会の活動に参加し、当時の大きな悪・遊郭に反対します。遊郭で働かせられ、性病に苦しむ女性たちの治療に努力します。彼女が愛した聖書の言葉が、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」です。イエス・キリストの愛の生き方です。イエス様は、私たち皆の罪と過ちの全責任を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活され、今も生きておられます。イエス様の誕生を祝う日がクリスマスです。

 1891年に濃尾大地震があり、多くの孤児が生まれました。吟子さんは、医院に女の子たちを受け入れます。そうでないと遊郭に売られるところでした。彼女は女性差別と闘い、クリスチャンとして神と人を愛して生きました。この映画の山田火砂子監督(87才!)は、合格者選定の際に女性を差別した医大があったことが発覚したことに怒りを覚えてこの映画を撮られました。差別と闘う全ての女性への応援歌だと、最後に字幕に出ます。私は差別に負けない吟子さんの生き方に、心が熱くなりました。アーメン(「真実に」)。

2019-11-28 3:23:13(木)
「イエス様のために生き、イエス様のために死ぬ」 2019年9月29日(日) 聖霊降臨節第17主日礼拝説教 要旨
聖書:イザヤ書45:23~24、ローマの信徒への手紙14:1~12

 イエス様の使徒パウロが、教会内での生き方を教えます。1~3節「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」旧約聖書の時代は、食物規定がありました。レビ記11章です。たとえばこうです。「地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。」幸い、新約の時代の今はこの規定はありません。ですから、パウロの時代でも、イスラエル人(ユダヤ人)でないクリスチャンは何でも食べたでしょうが、ユダヤ人クリスチャンは野菜しか食べなかった可能性があります。下手をすると食物のことが原因でクリスチャン同士が分裂してしまいます。パウロは、双方とも神に受け入れられているのだから、互いに批判し合ってはいけないと教えます。

 どの教会にも、色々な考えの持ち主がおられます。罪については、私たちは必ず「ノー」と言う責任があります。しかし罪でないことについては、ある程度寛容に、お互いを受け入れ合う必要があります。5~6節「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」たとえばあるクリスチャンは、クリスマスやイースターの礼拝を、特に大事な礼拝と考えます。しかし(東久留米教会で以前、実際に聞いた意見ですが)別のクリスチャンは、「どの日曜礼拝も同じように大事で、クリスマスやイースターの礼拝がほかの日曜日の礼拝より重要という考えはおかしい」とおっしゃいます。私はどちらの考えも、間違いとは言い切れないと感じます。「特定の日を重んじる人は、主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」

 パウロはさらに言います。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」わたしたちクリスチャンは、神様の(イエス・キリストの)栄光のために生き、神様の(イエス・キリストの)栄光のために死ぬのです。宗教改革者カルヴァンのモットーは、「すべて神の栄光のために」でした。大音楽家バッハは作品の最後にいつも、「ただ神にのみ栄光あれ」という意味のラテン語を記したそうです。

 それは神中心、礼拝中心の生き方になります。それは聖霊に導かれ、自由に(=自発的に)喜んで神を愛し、隣人を愛する生き方になります。礼拝を中心に生きるのですが、硬直的でもないはずです。ある教会に、日曜礼拝を決して休まないクリスチャンがおられました。その方はある時、考えました。日曜日は必ず教会の礼拝に出席するので、日曜日に行われる職場の交流会を毎回欠席して来た。すると職場の人たちとの距離が縮まらないし、交流会を一生懸命行って下さる方々にも申し訳ない。その方は、祈って決断しました。その日はあえて礼拝を休んで、交流会に出席しようと。それが神様の御心に適う、神様に喜ばれると確信して、信仰によってそう決めました。一年に一度か二度のことなのでしょう。礼拝を軽視するからでも、神様を軽視するからでもなく、反対に神様を重んじるがゆえの信仰の決断です。今回の箇所を超えますが、パウロは14章の終わりでこう述べます。「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる(疑いながら何かする)人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。」私たちは、日常の1つ1つの行動に関して、いつも神様が喜ばれる道を選び取って生きてゆくのです。それが信仰者の平安で喜ばしい生き方です。
アーメン(「真実に」)。

2019-09-19 2:44:32(木)
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れる」 2019年9月15日(日) 聖霊降臨節第15主日礼拝説教 要旨
聖書:イザヤ書58:6~14、マタイ福音書9:14~17

 「そのころ、(洗礼者)ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『私たちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った。」当時のユダヤ人は、祈り、断食、施しを重視していたのです。イエス様は、悪魔の誘惑と戦った時に、40日40夜もの断食をなさいました。でも弟子たちは断食しなかったようです。イエス様がこの質問に答えて下さいました。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」ご自分を花婿にたとえられました。

 旧約聖書では、神様が夫、神の民イスラエルが妻にたとえられます。神はモーセの十戒の第一の戒めでイスラエルに、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってならない」と言われ、「わたしは熱情の神」と言われます。口語訳聖書では「ねたむ神」でした。2018年に出た聖書協会共同訳聖書では、「妬む神である」です。ふつう「ねたみ」は人間が他人の幸福を不快に思う罪深い思いをさします。「神のねたみ」は別です。それは、夫なる神が妻イスラエルを深く愛する最も情熱的な愛をさします。イスラエルが別の神々=偽の神々を拝む偶像崇拝を行うことは、真の神への裏切りであり、霊的な姦淫(不倫)の罪であり、神は激しく傷つけられ、神の激情、聖なる怒りを引き起こします。これが「神のねたみ」、「聖なるねたみ」です。

 新約聖書では、神の子イエス・キリストは花婿、教会が花嫁です。イエス様の使徒パウロが書いています。「あなたがた(コリント教会)に対して、神が抱いておられる熱い思い(ねたみ)をわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫(キリスト)と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」コリント教会も東久留米教会も、どの教会もキリストの花嫁です。

 内村鑑三のエピソードを思い起こします(重平友美著『少年少女信仰偉人伝 内村鑑三』教会新報社より)。内村鑑三の娘ルツ子は、1912年に17才で天に召された。内村は、深い悲しみに耐え、葬儀で語りました。「『娘はキリストの花嫁として、天に召されて行きました。私も天国に親類をもつ者となりました。~どうか娘の旅立ちを、拍手をもって送っていただきたいのです。~』内村の言葉が終わったとき、会葬者の中に拍手が起こった。~祈り終えた内村は、ひとにぎりの土をとって、『ルツ子、バンザイ』と、叫んだ(162~163ページ)。」内村はその夜、ルツ子が白い星になって、空を飛ぶ夢を見た。『ルツ子はなぜ笑っているんだ。』~『イエスさまが、涙を全部ふいて下さるからよ』(164ページ)。内村は悟ります。「ルツ子は天国に行った。キリストの花嫁として行ったのだ……、そして、教えてくれた。私の理想としている教会こそ、キリストの花嫁であることを……」(169ページ)。どの教会も、クリスチャンも(男性も)、キリストの花嫁です。カトリックのシスター(修道女)の方々は、キリストと結婚している(キリストの花嫁)ということだと聞きます。もちろん男女の普通の結婚と同じではなく、キリストの十字架の愛に応えて、キリストに全身全霊で献身しているということです。私たちにとっても、日曜礼拝に出席することは、キリストへの愛の表明、キリストへの献身の表明です。

 ヨハネの黙示録19章が描く神の国の完成の場面は、花婿イエス・キリストと花嫁なる教会の結婚です。「小羊(イエス様)の婚礼の日が来て、花嫁(教会)は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」そして聖書の締めくくり近くで「霊(聖霊)」と花嫁(教会)が花婿なるキリストに呼びかけます。「来てください。」花婿キリストが答えます。「然り、わたしはすぐに来る。」これは再臨の約束です。天国、永遠の命への信仰を深めた内村は、ルツ子の召天後、しばらくしてから、ホーリネス教会の中田重治(じゅうじ)牧師と協力して、キリスト再臨運動を展開しました(再臨運動が起こったのは、第一次世界大戦で、西洋文明への深刻な反省が生じたことも原因)。

 マタイ福音書に戻ります。イエス様は言われます。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」できません。イエス様は地上でおそらく2年前後、弟子たちと共に歩まれました。弟子たちにとって至福の時、喜びの時です。イエス様の十字架は非常に悲しい出来事ですが、イエス様は復活されました。復活されたイエス様は天に昇られましたが、聖霊を送って下さいました。クリスチャンの内には聖霊が住んでいます。聖霊は聖なる喜びと慰めの霊です。クリスチャンはその聖霊に満たされ、愛に満たされて歩み、新しい生き方で歩みます。イエス様は、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言われます。これはクリスチャンの新しい生き方をさします。神を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する生き方です。敵をさえ、愛そうとする生き方です。花嫁なる私たちが、花婿キリストの愛を一身に受けるとき、この新しい生き方で一歩ずつ進む道が開かれます。ハレルヤ(主を、たたえよ)。

2019-09-11 22:43:24(水)
「罪人(つみびと)をこそ、招くキリスト」 2019年9月8日(日) 聖霊降臨節第14主日礼拝説教 要旨
聖書:エレミヤ書31:18~20、マタイ福音書9:9~13

 「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、徴税人は仲間のイスラエル人から税金を取り立ててローマに納め、規定より多く取り立てて私腹を肥やしていたそうです。それで同胞のイスラエル人から、売国奴、裏切り者と見慣られ、憎まれていたそうです。確かに罪深い生き方です。マタイが収税所に「座っていた」とは、罪に安住し「座りこんでいた」こととも言えます。しかし心のどこかで、「このままではいけない。ここから抜け出したい」とも思っていたでしょう。しかしきっかけがありませんでした。イエス様が通りかかり、これらのことを一瞬で見抜きます。

 「わたしに従いなさい」と声をかけ、彼を招き、彼の背中を押します。彼は立ち上がってイエス様に従います。罪深い生き方を捨て、誘惑する悪魔を蹴飛ばし、決然と立ち上がってイエス様に従い、神を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する喜ばしい生き方の方向に進み始めたのです。マタイは確かに罪人(つみびと)でした。そのマタイをイエス様は招き、罪を捨てる生き方(まだ罪が残っているにしても)へと押し出して下さいました。

 イエス様は、マタイの家で食事なさいます。食事は親しい交わりのシンボルです「徴税人や罪人(つみびと、おそらく売春婦など)も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派と呼ばれる潔癖な人たちには許せない光景でした。ファリサイとは「分離する」の意味と聞いたことがあります。自分は徴税人や売春婦とは違う立派な人間だとの誇り(プライド)に満ち、優越感に満ち、他人を見下していました。これを自己義認と言います。ファリサイ派は、自分には罪がないと思っていたのではないでしょうか。でも神様から見れば、税金を規定以上に取り立てるのも罪、売春も罪、自己義認も罪です。すべての人の罪を背負って十字架にかかったイエス様によらなければ、徴税人も売春婦もファリサイ派も、罪赦されて天国に行くことはできないのです。

 ファリサイ派は、イエス様の弟子たちを問い詰めます。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人(つみびと)と一緒に食事をするのか。」弟子たちは答えに窮したかもしれませんが、イエス様が答えて下さいました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。~わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。」別の箇所(ルカ5:32)では、「罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」とおっしゃいました。悔い改めが大切と思います。イエス様は徴税人ザアカイを救いに導いたときは、「ご自分は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われました。イエス様が、どんな罪人も滅びることを望まれないことが分かります。イエス様は滅びようとする罪人(つみびと)をこそ捜して、悔い改めへと招く方です。

 イエス様は、マタイ福音書18章12節以下で言われます。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(私は洗礼を受けた頃、「1と99」という題の説教を聞いたことがあります)。マタイ20章14節には、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」というぶどう園の主人(神)の愛の言葉もあります。エゼキエル書33章11節では、神様が「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と言われます。それなら神様は、どんな罪をも受け入れて下さる甘い方なのかというと、違います。神様は、私たち罪人を憐れんで、独り子イエス・キリストを私たちの身代わりに十字架にかける深い愛の方であると同時に、どんな小さな罪をもとことん憎まれる方です。

 私は最近、ある方から向井武子著『死刑囚の母となって』(新教出版社、2009年)という本をいただき、読みました。3名を殺害した拘置所の青年・伸二を養子とした女性牧師の著書です。彼が不幸な家庭に育ち、その母も不幸な少女時代を過ごしたことを知り、彼の真の救いを祈って生きた記録です。「伸二が兄のように慕っていたS死刑囚の刑が確定した。Sさんには謝罪の心がないという人がいた。しかし、Sさんの処刑後、遺品の中から見つかった謝罪文は便せん40枚に及んだという。そして、Sさんが使用した、ボロボロになった祈祷書が3冊出てきたという。ひとり、独房で祈り抜いていたSさんの姿が浮かぶ。おもてに現れない、秘められた死刑囚の心を見る思いがした」(86ページ)。

 「私は、今のうちに伸二に洗礼を授けておきたいと願った。~私は文章を交わして洗礼に替えた。『誓約  問・あなたは聖書に基づき、イエス・キリストを主と仰ぎ、罪の赦しを求める信仰告白をしますか。 答・はい、告白します。 問・ あなたは主イエス・キリストの救いのしるしであるバプテスマ(洗礼)を受けることを心から願いますか。 答・はい、心から願います。 1993年7月17日 氏名 向井伸二』 私たちは、ともに『主の祈り』を捧げた。この洗礼に異議を唱える人がいるかもしれない。しかし、私は伸二は神の子になったのだと信じた。伸二の祈りは変わった。『自分のような罪深い人間ですが、どうぞお許しください。』 ~私は『祈りの子は滅びない』と信じて、ともに生きてきた」(89~92ページ)。刑は2003年に執行されました。
 
 「『私たちは神の許しと愛によって生かされているものである』、これが旅の中で今私が得ている答えです。神様からの赦しと愛は、死刑囚にこそ注がれていると確信します。この死刑囚のこと、死刑のこと、これを福音の課題として、救いのこととして、これからも、たとえ小さな力であれ関わり続けていきたいと願っております」(139~140ページ)。死刑囚は世間から見捨てられています。向井牧師はイエス様の代理人として、失われかけていた青年の真の救いのために愛を込めて奉仕されました。尊敬致します。

 イエス様も死刑囚になられました。もちろんイエス様は1つも罪を犯していません。ですがイエス様も死刑囚になられたことは、死刑囚にとって大きな慰めでしょう。イエス様は、ご自分の横で十字架にかかっている犯罪人が悔い改めると、こう約束されました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」犯罪人は天国に入りました。今日の説教題は、「罪人(つみびと)をこそ、招くキリスト」です。私たちも罪人(つみびと)なので、イエス様が「わたしに従いなさい」と招いて下さいました。自分の罪をできるだけ捨て、イエス様の招きに従う決断の一日一日を歩みたいのです。もちろん聖霊に助けていただいて。アーメン(「真実に」)。