日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2021-11-07 0:06:35()
「目を覚ましてキリストを待つ」 2021年11月7日(日)東久留米教会創立60周年記念日・聖徒の日(召天者記念日)礼拝説教 
礼拝順序:招詞 ヨハネの黙示録21:1~2、頌栄29、「主の祈り」、交読詩編47,日本基督教団信仰告白,讃美歌21・403、聖書 創世記6:5~14(旧約8ページ)、マタイ福音書24:36~51(新約48ページ)、祈祷、説教「目を覚ましてキリストを待つ」、讃美歌21・532、献金、頌栄27、祝祷。 

(創世記6:5~14) 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。

(マタイ福音書24:36~51)「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、一体だれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

(説教) 本日は、幾つかのことが重なっている日です。まず東久留米教会創立60周年記念日礼拝です。同時に聖徒の日(召天者記念日)礼拝です。本日与えられている新約聖書は、マタイ福音書24章36節以下です。最初の小見出しは「目を覚ましていなさい」です。信仰の目が眠りこんでしまわないように、信仰において目を覚まし、覚醒しているようにということでしょう。

 最初の36節「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」イエス・キリストがもう一度来られて、世界の歴史が完成し、神の国が来るのはいつなのか。父なる神様だけがご存じだとイエス様は言われます。「天使たちも子も知らない。」天使たちも、神の子イエス様でさえご存じないというのです。父なる神様だけが、明確に決めて知っておられます。父・子・聖霊なる三位一体の神の、子なる神イエス・キリストでさえご存じないとは、驚くべきことです。

 37~39節「人の子(イエス様)が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気づかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」ノアの箱舟と洪水の話は、多くの方が知っています。神様が悪に満ちたこの世界を、一旦滅ぼした出来事です。ノア一家だけが信仰的に目覚めていました。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。」人々は、日常生活に没頭していたのです。この世の生活に没頭していました。「洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気づかなかった。人の子(イエス様ご自身)が来る場合も、このようである。」日常生活は、ある意味では非常に大切です。テサロニケの信徒への手紙(二)3章を見ると、クリスチャンの中にも「怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている人」がおり、使徒パウロは、「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」と指示し、ちゃんと働いて収入を得て生計を立てなさい、勤勉に働きなさい」と戒めています。もちろん心身の病気だとそれができませんが、特に病気でもないのに怠惰な生活をしていたクリスチャンに、パウロは「落ち着いてちゃんと働きなさい」と戒めています。日常生活を勤勉に送りなさいと命じています。ですから日常生活は重要です。食事も大事、結婚も大事です。しかし神様にお仕えすることをすっかり忘れて、この世の生活が全てだと思い込み、この世の生活やビジネス、欲望充足に没頭しすぎて、どうすれば永遠の命に入ることができるかという最も大切なことを忘れてしまうことがないようにと、イエス様は警告されたと思います。(「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり
飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります。『悪いつきあいは、良い習慣を台無しにする』のです。正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです」コリントの信徒への手紙(一)15章32~34節)。

 本日の創世記6章5~7節にこうあります。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』」 さらに11~14節にはこうあります。「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた。『すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。』」ノアは、神に従う無垢な人で、ノアは神様の好意を得ました。ノア夫婦には三人の息子がいて、その妻たちを含めた八名が箱舟に乗って助かることになります。ノアは、全て神が命じられた通りに果たし、箱舟を造ったのです。ノアが600歳のとき、洪水が地上に起こり、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれました。「地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとく息絶えた、と創世記は記します。

 「ノアの時代に滅びた人々と同じにならないように注意しなさい。」これがイエス様のメッセージと思います。日常生活は大切だけれども、神の国に入ることがもっと大切であることを決して忘れないように、ということです。イエス様の使徒パウロが、フィリピの信徒への手紙3章で、有名な言葉を書いています。「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを(再臨を)、私たちは待っています。」口語訳聖書では「私たちの国籍は天にある」でした。パウロはここで言うのです。「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着く所は滅びです。彼らは腹を神とし(非常に自己中心)、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られる(再臨)を、私たちは待っています。」

 日常生活を責任をもって生きることは大切ですが、神様の招きを無視して、この世界ことにしか関心を持たないのでは、神様に対して大いに失礼になるとは、イエス様も言っておられることです。イエス様は、ルカによる福音書14章で「大宴会のたとえ」を語られ、ある人(神様)が盛大な宴会を催そうとして大勢の人を招いたが、人々が次々と断ったと語られます。皆、日常生活に没頭して、神様の招きを断ったのです。最初の人は「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させて下さい。」ほかの人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させて下さい。」また別の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません。」三人とも日常生活にとっては大切な理由を挙げて、神様の招きを断ったのですが、結果的には最も重要な天国への招きを無視しています。これでは神様が悲しむことは明らかです。

 来年1月15日から上野の東京国立博物館でポンペイ展があるそうです。20年ほど前にもありました。ポンペイはローマ時代のイタリアの都市で、紀元79年の火山噴火の時に火砕流により街全体が埋まった悲劇の都市として知られます。噴火開始から火砕流発生まで半日あったそうで、それまでに多くの人が脱出したそうですが、なぜかとどまっていた約2000人が埋まってしまったそうです。このような災害が現実にあります。ポンペイの場合が、神様の裁きかどうかは分かりません。

 マタイに戻り40~41節「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」一人は犠牲になり、もう一人は生き残るということでしょうか。このようなことは災害や戦争のとき起こるのですね。それはともかく、イエス様のメッセージは、「目を覚ましていなさい」です。42~44節「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなた方には分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 この御言葉は、私たちに緊張感を与えてくれます。「しっかり信仰に生きよう」との自覚を与えてくれます。イエス様が思いがけない時に来られて、慌てることのないよう、いつ来られてもよいように準備して生きていくようにと、襟を正されます。1ヶ月ほど前に関東で震度5の地震がありました。突然来たという印象を持ちました。東久留米市は震度3だったと市のホームページにありましたが、東京はだいたい震度5だったようです。東京の震度5は、10年前の東日本大震災以来です。コロナ対策に一生懸命でしたが、地震への備えがやや弱くなっていたと私個人は反省しました。突然来た。イエス様は当分来ないと思っていると、やはりよくないのかなと思った次第です。19世紀のドイツにブルームハルトという有名な牧師がいました。これは伝説かもしれませんが、ブルームハルトはイエス様を愛していて、イエス様の再臨を待ち望んでいました。馬車を用意していたと言います。イエス様がいつ再臨してもその場所に駆けつけることができるように、日ごろから馬車を用意していたそうです。これは心構えですね。私たちは馬車を用意することはできませんが、いつイエス様が来られてもよいように、信仰の心の備えをしておくシンボルとして、私はブルームハルト牧師が馬車を用意していたというエピソードを思い出します。

 次の小見出しは、「忠実な僕と悪い僕」です。これも信仰がすっかり緩んで油断して、緊張感を失うことへの戒めです。これは私たちクリスチャンと、特に教会の責任者である役員の方々や牧師や神父、教会学校の先生方へのメッセージではないでしょうか。「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおりに彼らに食事を与えることにした忠実で賢い僕は、いったい誰であろうか。主人が帰って来たとき、言われた通りにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるに違いない。」もちろんこのような良い僕になりなさいとおっしゃっています。48節以下は悪い僕のことで、もちろんこうならないようにとの警告です。「しかし、それは悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだり(職務怠慢)しているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」無責任に過ごした僕たちは、非常に厳しく裁かれるというメッセージです。

 「時間どおりに食事を与える」ということは、定期的に行われる礼拝で、神の言葉という魂の食事を提供することを指すかもしれません。定期的な聖餐式で、イエス様の御体のパンと、イエス様の御血潮のぶどう液という、霊の食事、魂の食事が提供されることかもしれません。東久留米教会は、イエス様の再臨までこれらをひたすら忠実に行う教会として歩みたいのです。「主人が帰って来た時、言われた通りにしているのを見られる僕は幸いである。」ヘブライ人への手紙10章には「集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日(再臨の日)が近づいているのをあなた方は知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」と書かれています。

 本日の箇所は、イエス様の再臨への備えを強調しています。約90年前に天に召された内村鑑三というクリスチャンがいました。従来の教会を批判し、無教会主義を主張した人ですが、教育勅語に敬礼すること拒んで(モーセの十戒の第一の戒め「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」を守った)非国民とのバッシングを受けたり、日露戦争で非戦論を唱えたり、当時のクリスチャンと日本社会にかなりインパクトを与えた人です。熱心な信仰者で、どちらかと言うとこの世、社会の悪と戦うタイプの人だったのかなと思います。イエス・キリストの再臨には、あまり関心がなかったようです。その内村鑑三が人生の後半で、再臨運動という運動に積極的に参加した時期がありました。ホーリネス教会の中田重治牧師や、他の教派の木村清松牧師と協力して再臨運動を展開したそうです。1918年から約2年間続きました。再臨運動の発生には幾つかの原因があるようです。まず、ルツ子さんという自分の娘さんが1912年に17歳で病気で亡くなる辛い悲しみを経験したことです。そして1918年に第一次世界大戦が勃発し、人間の罪深さを改めて痛感したこと。それまでの内村さんは、再臨や天国にそれほど関心が深くなかったようです。しかし娘ルツ子さんの召天や第一次世界大戦の勃発などが、彼の心境を変え、内村さんは天国の存在や、イエス・キリストの再臨を深く信じるようになったようです。

 ルツ子さんを葬る時に内村さんは会葬者に挨拶して言ったそうです(重平友美『内村鑑三』教会新報、1982年)。「娘はキリストの花嫁として、天に召されていきました。この正月、娘が病院で小康状態を得ましたとき、『お父さんと一緒に旅行するか?』と言いますと、娘は『天国へ行きたい』と申しました。どうか娘の旅立ちを、拍手をもって送ってやっていただきたいのです。」それで会葬者の間に拍手が起こったそうです。讃美歌が流れ棺が葬られてゆくときに、内村さんは「ルツ子、ばんざい」と叫んだそうです。その後、内村さんはルツ子さんの夢を見ます。ルツ子さんが笑っていたので「ルツ子はなぜ笑っているんだ。」「だって天国ですもの。」「天国では泣かないのか?」「だって天国には涙がないんですもの。」「なぜ?」「イエス様が、涙を全部ふいて下さるからよ。」天国を身近に感じるようになった内村さんは、天国を描くヨハネの黙示録を新しい感動をもって読むようになります。ヨハネの黙示録21章9節。天使がヨハネという人に言います。「小羊(イエス様)の妻である花嫁を見せてあげよう。」この天使がヨハネに見せたのは、聖なる都エルサレム(新しいエルサレム、天国)が神のもとを離れて、天から下って来る様子です。「都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。」そしてイエス様の再臨をも深く信じるようになったようです。

 新約聖書は、随所でイエス様の再臨を語ります。そして神の国が来ることを約束します。たとえばコリントの信徒への手紙(一)7章には、こうあります。「定められた時は迫っています。世の事にかかわっている人は、かかわりのないようにすべきです(この世で責任をもって生きることは大事ですが。この世が全てでないので、この世に深入りし過ぎるな、の意味)。この世の有様は過ぎ去るからです。」最終的な確実な希望である天国を目指すように、と言っています。旧新約聖書の最後の書・ヨハネの黙示録の締めくくりはこうです。「以上すべてを証しする方(復活のイエス様)が言われる。「『然り、私はすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来て下さい。」それなのにまだ来ておられないのは、一人も滅びないで、全ての人が罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じて永遠の命を受けるように、父なる神様とイエス・キリストが忍耐しておられるからです。しかし必ず再臨されるので、「信仰の目をしっかり覚まして、いつイエス様が来られてもよいように待っているように」、それが神様からのメッセージと信じます。ご一緒にこの生き方に徹したいのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。世界中が、神に立ち帰るように。経済困難の方々に助けを。私たちの身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々に平和を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に守りを。ミャンマー、アフガニスタンに平和を。御名により、アーメン。

2021-10-31 0:32:49()
「キリストの愛を聞いて信じて、救われる」  2021年10月31日(日)宗教改革記念日説教
礼拝順序:招詞 テモテ(一)2:4、頌栄24、「主の祈り」、交読詩編46,使徒信条,讃美歌21・210、聖書 創世記15:5~6(旧約19ページ)、ガラテヤの信徒への手紙3:1~14(新約345ページ)、祈祷、説教「キリストの愛を聞いて信じて、救われる」、讃美歌21・377、献金、頌栄27、祝祷。 

(ガラテヤの信徒への手紙3:1~14) ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。

(説教) 本日は、宗教改革記念日の礼拝です。宗教改革記念日礼拝は、毎年10月の最後の日曜日です。マルティン・ルターの宗教改革が始まったのは1517年10月31日とされます。ルターがドイツのヴィッテンブルク市の城に「95ヶ条の論題」を打ち付けて宗教改革の火の手が上がったのが1517年10月31日です。ちょうど404年前の今日です。今年の宗教改革記念日礼拝は、ちょうどその10月31日となりました。東久留米教会の礼拝では、できるだけ月一回ガラテヤの信徒への手紙から神様のメッセージを伺おうとしています。今日はガラテヤの信徒への手紙3章1節以下ですが、宗教改革に合う個所と感じています。この手紙を書いたのは、イエス様の十字架と復活の後に弟子になったパウロという男です。

 小見出しは「律法によるか、福音によるか」です。これはまさにルターの宗教改革のテーマです。律法(その代表はモーセの十戒)を行うことによってではなく、イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によってのみ、私ども罪人(つみびと)は、聖なる神様の前に義と認められ、救われる。これがルターが再発見した信仰義認の真理です。本日の3章1節以下もこのことを語っています。

 1節「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなた方を惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」これは具体的に、どんな経験を指すのか分かりません。ガラテヤの教会の人々に、イエス様の十字架をくっきりと示す何らかの強烈な出来事があったように思われます。2節「あなた方に一つだけ確かめたい。あなた方が霊(聖霊)を受けたのは、律法を守ったからですか、それとも福音を聞いて信じたからですか。」もちろん福音を聞いて信じたからです。イエス・キリストが私どもの罪を、全部身代わりに背負って十字架で死んで下さり、三日目に復活されたことを、悔い改めて信じる信仰によってのみ、私たちは最も尊い聖霊(神の霊)を受け、永遠の命という真に尊い宝をいただきます。律法を行ったからではありません。

 3節「あなた方は、それほど物分かりが悪く、霊(聖霊)によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。」「霊によって始めた=信仰によって始めた=神の力によって始めた」のに、その正しい道から逸れて、「肉によって=罪(プライドや自己主張)を含む自分のガンバリによって」仕上げようとするのですか。」それではいけない。それではイエス様の十字架の贖いが無駄になってしまうので、信仰による道に戻りなさい、とパウロは懸命に説くのです。

 5節「あなた方に霊(聖霊)を授け、また、あなた方の間で奇跡を行われる方(父なる神様)は、あなた方が律法を行ったからそうなさるのでしょうか、それともあなた方が聞いて信じたからですか。」それは、ガラテヤのクリスチャンたちや私たちが律法を守ったからそうなさるのではなく、イエス様が私たちの罪を全て背負って十字架で死なれ復活された福音(よいニュース)を聞いて信じたからです。ルターが再発見し、プロテスタント教会が強調してきた信仰義認ですね。「イエス様を救い主と信じる信仰によってのみ、聖なる神様の前に義(正しい者)と認められる」ということです。ルターが再発見したとは、この手紙を書いたパウロが既に発見した福音を、ルターが約1500年後に再発見したということです。もちろんその間ずっと忘れられていたわけではないでしょうが、ルターの時代には見失われていたのでしょう。それをルターが聖書を一生懸命読むことでもう一度発見したのです。

 ルター(ドイツ人)より前の時代、聖書は一部の聖職者しか読むチャンスがなかったようです。印刷術がなかったので、皆が読むことはできませんでした。ルターの時代の頃にグーテンベルグの印刷術が登場し、聖書が印刷されて次第に多くの人が読めるようになりました。これも神様の摂理、神様のご計画ですね。旧約聖書のほとんどはヘブライ語、新約聖書はギリシア語で書かれていますが、ルターの時代に教会で用いられていた聖書はラテン語訳だったと思います。当時は聖書を読むことができるのは、ほとんど聖職者だけだったようです。ところがルターは聖書をドイツ語訳に翻訳しました。これによってドイツの普通の市民が聖書を直接読むことができるようになりました。聖書をドイツ語に訳したことも、ルターの大きな貢献です。

 5節に戻ると、ガラテヤのクリスチャンたちが福音を聞いて信じた(神様を信頼した)から父なる神様は、彼らに聖霊を授けて下さいました。聖霊は、生きておられる神様の清らかな霊ですから、それをいただくことは世界で最大の宝をいただいたことです。聖霊をいただくことはイエス・キリストの愛の命、永遠の命をいただき、神の子にされることです。へりくだって自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じるとき、私たちは誰でも、父なる神様の前に義と認められ、聖霊という最大の宝をいただきます。6節「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。」これは本日の旧約聖書・創世記15章6節の引用です。イスラエルの民の偉大な先祖アブラハムも、神様の約束を信じた信仰によって、神様の前に義と認められました。アブラハムも、ガラテヤのクリスチャンも私たちも、神様の恵みの御言葉を聞いて信じる信仰によって、神様の前に義と認められ、聖霊を受け、永遠の命を受けるのです。

 7節「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」偉大な信仰の父アブラハムと同じ信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの真の子孫だというのです。アブラハムと血がつながっているイスラエル人だけがアブラハムの子孫という祝福を受けるのではなくて、外国人であってもアブラハムと同じに信仰によって生きる人は皆、アブラハムの真の子孫という祝福を受けるという恵みの言葉です。8~9節「聖書は、神が異邦人(イスラエル人以外)を信仰によって義となさることを見越して、『あなた(アブラハム)のゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」
 
 逆に10節「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。」これは旧約聖書の申命記27章26節「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる」を指すようです。呪われると聞くと私たちはびっくりするかもしれません。ここで言う呪いは、神様の正しい裁きのことです。律法の代表は、モーセの十戒です。モーセの十戒は、神様の聖なる意志ですから、よいものです。しかし私たちは残念ながら罪人(つみびと)です。十戒の一つ一つの戒めを、私たちが努力して実行しようとするのですが、残念ながらどの一つの戒めも、完全に実行することができないのです。たとえば第六の戒めは「殺してはならない」です。「人を殺してはならない」ということです。私たちが殺人を実行することはないでしょう。でも聖書は人を憎むことも、殺人と同じです。心の中で殺すことになるからです。何十年か生きている大人で、心の中で人を一度も憎んだことがない人は、イエス様だけではないでしょうか。厳密に考えると私たちは、モーセの十戒の1つさえも100%完璧に実行することができない自分に気づきます。私たちが律法の実行によって天国に入ろうとするなら、全ての戒めを、心の底から100%完璧に実行する必要があります。でもできないので挫折します。実行できず、神様のお叱りと裁きを受けるしかない自分に気づき、絶望するのです。「律法の実行に頼る者はだれでも呪われている」とは、このことです。

 復活されたイエス様に出会う前のパウロ、これとは正反対の考え方と生き方をしていました。自分は全ての律法を完璧に実行しているとの自信に満ちあふれていました。自分ほど正しい者はいない、自分はあまりにも律法を完璧に実行しているので、自力で天国に入れると確信していました。復活のイエス様に出会ってパウロの考え方・生き方は変わります。律法を完璧に行うことは、神様隣人をとことん愛することだと分かったのです。律法を完璧に守っていると自慢することが大事ではないのです。神と隣人を、そして敵をさえ愛して初めて律法を行ったことになると教えられました。自分の努力では、律法を実行できないことに気づきました。真の愛を実行できないほど、自分は自己中心の罪に汚れていると悟りました。

 律法を100%実行した方はイエス様だけだと悟りました。イエス様はいつも父なる神様を愛し、隣人を愛し、敵をさえ愛されました。そしてパウロを含む私たち全員の生涯の全ての罪の責任を身代わりに背負って十字架で死なれたことを知りました。イエス様を殺す人々の罪をさえ赦して、その人々の罪の責任をさえ、十字架で身代わりに背負いました。このイエス様をこそ自分の主と崇める謙遜な人に、パウロは変えられました。聖霊によってです。

 11~12節は、人が律法の行いによってではなく、信仰によって義とされることを強調しています。「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。『律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる』のです。」13節「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」呪いは、神の聖なる裁きです。イエス様は十字架の上で、私たちを呪い・神の正しい裁きから解き放って下さいました。律法は神様の正しい掟なので、律法は私たちの罪が正しく裁かれることを要求します。これが律法の呪いです。イエス様が、その裁きを全部十字架で引き受けて下さいました。私たちが律法に違反して来た罪の全部の責任を、イエス様が十字架で全て引き受けて裁かれたのです。これによって律法の要求が100%満たされたので、律法はもはや私たちを裁くことを要求しません。私たちは律法の呪いから解放されたのです。

 「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてある。これは旧約聖書の申命記21章23節の引用です。「木に架けられた死体は、神に呪われたものだからである。」イエス様の十字架は、神の呪い(裁き)を引き受けた十字架だったと言いたいのです。旧約聖書の原則は、神様に従う人は祝福され、神に背いて罪を犯す人は祝福の反対に呪い(裁き)を受けるという原則です。イエス様は十字架で、本来私たちが受けるべき呪いを一身に引き受けられました。私たちが呪いを受けず、祝福を受けるためです。イエス様は十字架の上で大声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」の意味です。確かにイエス様はこの時、十字架の上で父なる神様に見捨てられていました。全ての時代の全ての人間の全部の罪に対する父なる神様の裁きを、一身に引き受けられたからです。罪と死と呪いを全部引き受けられたのです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ぶほどに呪いを受けました。私たちが呪いから解放するためです。

 旧約聖書の創世記は、最初の夫婦アダムとエバが悪魔の誘惑に負け、神に背いて罪を犯し、神様によって祝福に満ちたエデンの園か追放されたと書きます。それ以来、私たち人間は呪いの世界に生きるようになりました。聖書を読まないと気づきませんが、それが私たち人間の現実です。私たちは、神様から離れて悪魔に支配下に落ち、罪とその結果の死に支配され、神の正しい掟である律法を恐れ、神の裁きを恐れて生きざるを得ないのです。イエス様の十字架の死と復活は、そこから私たちを救い出す力を持っているのです。イエス様の十字架と復活は、私たちを「悪魔の支配、罪の支配、死の支配、律法の支配、神の怒りの支配」から贖い出して下さいました。私たちを「悪魔の支配、罪の支配、死の支配、律法の支配、神の怒りの支配」から解放して下さったのです。呪いの支配下から真の祝福のもとへ、助け出して下さったのです。イスラエル人も異邦人も、どの民族の人も(もちろん日本人も)、自分の罪を神様に謝ってイエス様を救い主と信じる時、永遠の命の祝福を受けることができます。14節にそれが書いてあります。「それはアブラハム(イスラエルの民の偉大な信仰の先祖)に与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちが、約束された霊(聖霊)を信仰によって受けるためでした。」聖霊こそ、神の聖なる霊、イエス様の聖なる祝福の霊です。この聖霊を受けることで私たちは、確実に永遠の命を受け、確実に神の子とされます。聖霊を受けることは、洗礼と深く関わっています。本来の神の子はイエス様お一人ですが、神の家族の中でイエス様を長男として私どもは、イエス様の妹・弟にあたる神の子とされます。このようにされることこそ、真の救い、祝福です。

 宗教改革者マルティン・ルターは、有名な『キリスト者の自由』という著書で書いています。私たちがイエス様を救い主と信じるとき、イエス様と私たちとの間に交換が起こるのだと。私たちが当然受けるべき裁きと呪いをイエス様が全部引き受け、イエス様が持っておられる全ての聖なる祝福が私たち罪人(つみびと)に与えられると。この恵みの交換が起こる。イエス様が持っておられる神の子としての尊い祝福が私たち罪人(つみびと)に与えられ、私たち罪人(つみびと)が受けて当然の裁きと呪いがイエス様に行く。なんだかイエス様に申し訳ないことですが、イエス様はその裁きと呪いを十字架で味わい尽くした後、死者の世界に下り、三日目に死を完全に乗り越える復活の完全勝利を与えられます。このイエス様の十字架の愛をよく味わっていただける説教をさせていただきたいと願いますし、説教と
共に聖餐式で、イエス様の十字架の愛をひしひしと味わうことができます。その前に洗礼を受ける必要がありますが、洗礼も神の子とされる大きな聖なる祝福です。イエス様を救い主と信じ、洗礼を受け、聖餐式を受け続けることで、この世の限りある楽しみ以上の、真の聖なる祝福の命へ、全ての方に入っていただきたいのです、それを願って父なる神様は、愛する独り子イエス様を、あえて十字架におかけになったのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。世界中が、神に立ち帰るように。十日前の地震で負傷された方々に癒しを。経済困難の方々に助けを。私たちの身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々に平和を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。衆議院議員選挙を導いて下さい。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に守りを。ミャンマー、アフガニスタンに平和を。御名により、アーメン。

2021-10-23 22:40:54(土)
「ラザロを復活させるイエス様の愛」 2021年10月24日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」説教
礼拝順序:招詞 テモテ(一)2:4、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編なし,使徒信条,讃美歌21・155、聖書 ヨハネ福音書11:1~44(新約188ページ)、祈祷、説教「ラザロを復活させるイエス様の愛」、讃美歌21・327、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ヨハネ福音書11:17~44) ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第44回)です。本日の新約聖書は、ヨハネ福音書11章17節以下。説教題は、「ラザロを復活させるイエス様の愛」です。これは聖書の中でも有名なエピソードです。1節「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。」ラザロという名前は「神は助ける」の意味だそうです。村の名「ベタニア」にも意味があり、「神に依り頼む貧しい人の家」の意味だそうです。ここに書かれているすばらしい出来事があったので、ベタニアはクリスチャンたちの巡礼の場所の1つになったそうです。ラザロが病気になりました。イエス様は、ラザロとその二人の姉妹マルタとマリアを愛しておられました。ラザロの病気は重い病気でした。そこでマルタとマリアは、最も信頼する神の子イエス様をお呼びしたのです。「主よ、あなたの愛しておられる者ラザロが病気なのです。」重い病気です。死にかけています。今すぐ来て下さい。それを聞いたイエス様は、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子(イエス様)がそれによって栄光を受けるのである」とおっしゃいました。イエス・キリストが死を乗り越える力を持っておられることを示すために用いられるということでしょう。

 でもイエス様はすぐにはラザロのもとに行かず、なお二日間同じ所に滞在されました。その後弟子たちに「もう一度ユダヤに行こう」と言われました。ユダヤの中にベタニアがあるので、これはベタニアに行こうということです。それは勇気のいることでした。イエス様はユダヤの人々に憎まれていて、殺される危険があったからです。イエス様はその後、言われました。「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言います。しかしラザロは死んでいたのです。ここに至ってイエス様ははっきり言われます。「ラザロは死んだのだ。私がその場に居合わせなかったのは、あなた方にとってよかった。あなた方が信じるようになるためである(イエス様が神の子であることを信じるようになるためである)。さあ、彼の所へ行こう。」

 次は「イエスは復活と命」の小見出しのところです。「さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、15スタディオンほどの所にあった。」1スタディオンは約185mなので、15スタディオンは2.8km弱です。「マルタとマリアの所には多くのユダヤ人が兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。」人間のできる精一杯のことです。「マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。」どちらが姉かは書いてないので分かりませんが、何となくマルタが姉の印象を受けます。マルタは行動的、マリアはどちらかというと内面的、内省的という印象を、私は持っています。

 マルタは、イエス様を迎えに行きました。「主よ、もしここにいて下さいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」イエス様は言われました。「あなたの兄弟は復活する。」これは力強い言葉です。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」これは当時のユダヤ人一般の信仰と思います。旧約聖書による信仰です。たとえばダニエル書の一番最後で天使がダニエルという人にこう言っています。「時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」「時の終わり(終わりの日)に復活する」ということです。マルタはこのことを言ったと思われます。ところがイエス様は、ある意味、時間を超越した力強いことを言われます。「私は(私が)復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬことはない。」 「私こそ(イエス・キリストこそ)復活であり、命である」の意味と言ってもよいのです。

 イエス様はこのヨハネ福音書で、「私は~である」という言い方をよくなさいます。
ここでは「私は復活であり、命である。」他の個所では「私は世の光である。」「私は命のパンである。」「私は良い羊飼いである。」「私はまことのぶどうの木である。」これらは皆、重要な言葉(教会ではイエス様の言葉や聖書の言葉を御言葉と言います)です。新約聖書はもともとギリシア語で書かれていますが、「私は~である」という言い方は大切で、もとのギリシア語で「エゴー エイミー」です。これは英語にすると「アイ アム」という単純な言葉です。ですが聖書ではこの「エゴ― エイミ―」は重要な意味をもっていて、旧約聖書の出エジプト記3章14節という個所で神様が自己紹介なさっていますが、そこで「私はある、私はあるという者だ」とおっしゃっています。これはまさに英語では「アイ アム」であり、ギリシア語にすると「エゴー エイミ―」になります。イエス様がよく「エゴー エイミー」とおっしゃっているということは、イエス様が旧約聖書で「私はある、私はあるという者だ」と自己紹介なさっている神様に等しい方、神ご自身であることを意味します。イエス様は神の子であると同時に、神ご自身なのです。「私は復活であり、命である」の御言葉にも「エゴー エイミ―」の言葉が含まれるので、イエス様は「私イエス・キリストは神であり、復活また命なのですよ」と自己宣言しておられるのです。復活とは何か理屈ではなくて、生きているイエス様ご自身が復活であり命なのですよ、ということです。この場合の命は永遠の命と言えます。命とか生きるなどの言葉が出てきていますが、命とか生きるとは、ヨハネ福音書では「愛する」と同じ意味と思います。生きるとは愛すること、命も愛すること。愛してこそ、真の意味で生きていることになります。

 「私を信じる者は、死んでも生きる」とも言われました。イエス・キリストは、私たちの全ての罪を背負って十字架で死んで下さったので、イエス様を救い主と信じて自分の罪を悔い改める人は、必ず永遠の命という宝を与えられます。確かに一度は死にますが、天国に入って永遠に生きるという大きな恵みを与えられます。「生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬことはない。」そうは言っても、クリスチャンも死にます。これはイエス様を信じる人は、地上の命では死ぬが、永遠の命を失うことはないということだと思います。「このことを信じるか」と言われてマルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると信じております」と答えていますが、これはもちろん正しい答えです。

 次にマリアです。マルタが家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはすぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。マリアはイエス様を見るなり、足元にひれ伏し、「主よ、もしここにいて下さいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えました。マルタがイエス様を慕う思いはすぐに迎えに行ったことに現れ、マリアがイエス様を慕う思いはイエス様の足元にひれ伏したことに現れていると感じます。マリアはずっと泣き続けていました。33節「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われた。『どこに葬ったのか。』」イエス様は何に対して憤りを覚えられたのでしょうか。きっと人間を支配する死の力に対してではないでしょうか。死を司るのは悪魔なので、人間を支配する悪魔の暴虐な支配に対しても憤りを覚えられたのではないでしょうか。但し、人間が死ぬようになったのは、人間が、命を造って下さった神様に背く罪を犯したからです。命を造って下さった神様に背き、神様から離れると、必然的に死ぬことになります。神様が命の与え主だからです。人間が罪を犯した結果死ぬことになったのですから、死の責任ははっきり言えば、私たち人間にあります。ですが人間に神様から離れる罪を犯すように誘惑し、そそのかした悪魔の罪と責任も巨大です。悪魔が人間を誘惑し、神に背く罪を犯させ、人間を死ぬ者にさせた。その悪魔と悪魔がもたらした死に対して、イエス様は憤っておられるのではないでしょうか。イエス様と父なる神様は、悪魔と悪と罪そのものに対しては、激しい怒りを抱いておられます。今、木曜日の聖書の学び・祈祷会では、エレミヤ書を読んでいますが、悪に対する神様の怒りは非常に激しいのです。悪の源である悪魔、死をもたらす悪魔の邪悪な支配に、イエス様は憤りを抱いておられるのではないでしょうか。
 
 人々は「来て、御覧下さい」と言いました。イエス様は涙を流されました。愛するラザロの死を悲しみ、泣いているマリアやマルタの深い悲しみと嘆きに共感して、イエス様は涙を流されました。イエス様は、神御自身であり神の子であられると同時に、私たちと同じハートと肉体をもつ人間です。新約聖書のローマの信徒への手紙12章15節には、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と書かれています。イエス様はまさにその通りに生きる方です。どなたが亡くなるときも、イエス様は心からの涙を流していて下さると思うのです。イエス様の心の底からの涙を見たユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いました。しかしクールに「盲人の目を開けたこの人も(確かにそうなさった)、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もおりました。でもそうではありません。次を読むと分かります。

 39節から「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、『その石をとりのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。」厳しい現実はその通りです。私たちには死の現実に打ち勝つ力がありません。しかしイエス様には、その力があるのです。「イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。」イエス様に信頼しなさい、そうすれば神の愛の強さを見ることができるというのです。人々はイエス様の指示に従って墓をふさぐ石をとりのけました。イエス様は、天を仰ぎ、父なる神様に祈られます。「父よ、私の願いを聞き入れて下さって感謝します。私の願いをいつも聞いて下さることを、私は知っています。しかし、私がこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

 「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。」ラザロが甦って墓から出て来たのです。驚嘆すべきことです。マルタとマリアも喜んだに違いありませんが、非常な驚きに打たれたでしょう。イエス様が、死に打ち勝つ力を持っておられることが明らかになったのです。イエス様は「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。イエス様の言葉には力があることが明らかになりました。創造的な力があるのです。父なる神様が旧約聖書の創世記の冒頭で、「光あれ」と言われると「こうして光があった」とあります。神の言葉には、無から有を創造する(造り出す)偉大な力があります。神の子イエス様お言葉にも創造する力があります。「ラザロ、出て来なさい」とおっしゃるとそれが現実になったのです。新約聖書のヘブライ人への手紙11章3節には、「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」とあります。

 ラザロを復活させたのは、ただイエス様の愛です。しかしこのことは、イエス様に命の危険をもたらしました。復活したラザロを見るために、ユダヤ人の大群衆がやって来たと次の12章にあります。そして多くのユダヤ人がイエス様を信じるようになり、イエス様の人気がいやが上にも高まったのです。ユダヤの政治のリーダーたちは、これに危険を感じました。民衆が熱狂的にイエス様を王として押し立て、ユダヤを支配するローマ帝国への反乱を起こす恐れがあると感じたのです。そうなるとローマ軍が攻めて来てエルサレムを滅ぼすに違いない。イエスの人気は危険だ。イエスを殺す必要がある。それでユダヤの政治のリーダーたちは、イエス様を逮捕して十字架で殺す計画を練るのです。イエス様は、ラザロを復活させればそうなると分かっておられましたが、マルタとマリアの深い嘆きに心を打たれ、自分にふりかかる危険をも顧みず、ラザロを復活させて下さったのです。

 ラザロの復活には目的があります。それは当時の人々も21世紀の私たちも、それを見て(読んで)イエス・キリストこそ真の神の子救い主と信じることです。ラザロは復活しましたが、数十年後にもう一度死んだはずです。ラザロの復活はすばらしい出来事ですが、死を完全に乗り越える出来事ではありませんでした。死を完全に乗り越える復活を果たされた方は、ほかならぬイエス様です。イエス様はユダヤの政治リーダーたちから危険人物と見られ、逮捕され十字架で死刑にされます。十字架は政治犯を死刑にする方法だったのです。イエス様は何も悪いことをしていないのに、十字架で殺されました。イエス様の十字架の死は、悪い人間たちの陰謀、悪魔の陰謀ですが、もっと深い所では父なる神様のご計画だったのです。父なる神様は、イエス様の十字架の死を、私たち全ての人間の罪の責任を身代わりに背負わせるための死、私たち全ての人間の罪を赦すための犠牲の死として、尊くお用いになったのです。これは驚くべきことです。私たちがこのイエス・キリストを自分の救い主として信じ、自分の罪を父なる神様の前に悔い改める(謝る)ならば、父なる神様は、私たちの全部の罪を赦し、しかも永遠の命をプレゼントして下さいます。

 イエス様は、十字架の死の三日目に復活されました。十字架前の体とは違うのかもしれませんが、それでも体をもって復活されました。決して幽霊のような存在でなく体・天の体をもって復活されました。その後40日間地上で弟子たちと共に過ごされ、その後天に昇られました。天で復活の体をもって生きておられます。そう、今も天で体をもって生きておられます。そこから今も、私たちに清き聖霊(神の霊)を注いで下さっています。聖霊を注がれて、私たちは初めて、聖書が次第に分かるようになります。イエス様を信じる心、信仰も、聖霊によって与えられるのです。

 まだイエス・キリストをご自分の救い主と信じておられない方がおられましたら、聖霊を注がれて聖書のお話を聴いて下さり、イエス様が救い主であることを一日も早く悟られ、イエス様を信じて真の平安を受けていただきたいと、私どもは切に願っております。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。世界中が、神に立ち帰るように。経済困難の方々に助けを。私たちの身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々に平和を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。衆議院議員選挙を導いて下さい。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に守りを。ミャンマー、アフガニスタンに平和を。御名により、アーメン。

2021-10-17 0:33:58()
「試練の期間を縮める神の愛」  2021年10月17日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 テモテ(一)2:4、頌栄29、「主の祈り」、交読詩編45,使徒信条,讃美歌21・402、聖書 ダニエル書7:9~14(旧約1392ページ)、マタイ福音書24:15~35(新約47ページ)、祈祷、説教「試練の期間を縮める神の愛」、讃美歌21・573、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ダニエル書7:9~14) なお見ていると、/王座が据えられ/「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く/その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎/その車輪は燃える火その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え/幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き/巻物が繰り広げられた。さて、その間にもこの角は尊大なことを語り続けていたが、ついにその獣は殺され、死体は破壊されて燃え盛る火に投げ込まれた。他の獣は権力を奪われたが、それぞれの定めの時まで生かしておかれた。夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。

(マタイ福音書24:15~35) 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」
 「その苦難の日々の後、たちまち/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第17主日公同礼拝です。本日の新約聖書は、マタイ福音書24章15節以下。説教題は、「試練の期間を縮める神の愛」。この直前の箇所もそうでしたが、まずイエス様の時代の少し後のエルサレムの滅亡が予告されます。そしてその後に、この世界の終わり・イエス・キリストの再臨(もう一度来られること)・神の国の完成の時を語っています。最初の小見出しは「大きな苦難」です。

 最初の15節のイエス様の言葉「『預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。』」これは旧約聖書のダニエル書9章などのことを述べたもので、エルサレム神殿に、「憎むべき破壊者」(偶像=偽物の神を礼拝する者)が偶像の祭壇を置いた事件を指します。紀元前165年にシリアのアンティオコス4世・エピファネスという王がこの暴挙を行いました。イエス様は、同じようなことがまた起きると予告なさったのです。それは約40年後の紀元70年に起きました。エルサレムを破壊したローマ軍のティトスという総司令官が、ユダヤ人がもう一度信仰心と愛国心に燃え上がってローマに反乱を起こさないよう手を打つ必要があると考えました。そして破壊した神殿の跡に、何とローマの神を祭るユリア・カピトリヌス神殿という偶像の神殿を建てたそうです。暴挙としか言いようがありません。でもエルサレムの滅亡そのものは、エルサレムの人々が長年真の神様に背き続けて来たことに対する、父なる神様の審判でした。

 憎むべき破壊者は、ローマ軍でしょう。「その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」エルサレムを枕に戦って玉砕せよとは言われず、脱出して山に逃げなさいと言っています。旧約聖書の創世記でソドムが神様に滅ぼされるとき、神様がアブラハムの甥ロトを憐れんで、ソドムに降る裁きの巻き添えにならないように言われたのと似ています。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地にどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」イエス様も弟子たちに、ローマ軍によってエルサレムが滅ぼされると分かったら、山へ逃げなさいと脱出して生き延びるように教えられました。『イエス時代の日常生活』(ヴァモシュ著、中川健一訳、ハーベストタイムミニストリーズ、という本によると、この時エルサレムにいたクリスチャンたちは、町の外にある家に集まり、この暗黒の時から家族や国が救われるように祈っていたそうです。そして山に向かって逃げたと思います。山は聖書では「神がおられる所」です。高いので希望の天国のシンボルでもあります。山という目標、神に向かって走ったのではないでしょうか。先ほどの本によると「彼らは、信仰によって未来に立ち向かって行った。破壊された町をあとにしたが、別の場所で新しい共同体の建設を開始した。その中心となったのが、ヨルダン川の東、デカポリスの町の一つベラである。その町の人口は、年と共に増加していった。」イエス様の言われた通りに逃げたので、エルサレムにいたクリスチャンたちは滅びを免れたようです。しかしイエス様の教え通りにしないでエルサレムにとどまったユダヤ人たちは、ほぼ全滅し110万人が死んだと記録にあるそうです。
 
 17節「屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。」身軽でないので逃げにくいからでしょう。逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。」冬は気象条件等が厳しく逃げにくくなるのでしょうか。安息日は、ユダヤ人にとって礼拝の日なので、何キロ以上先に行ってはいけない決まりがあったらしく、逃げられないからでしょう。イエス様は祈れと言われます。父なる神様に祈れば、神様の憐れみが与えられ、逃げる時が逃げやすい条件の時になるように助けて下さるというのです。

 逃げるとき大切なことは、財産等への執着を捨てることです。先ほどのロトは振り返りませんでしたが、ロトの妻は振り返ったために塩の柱になったと創世記に書かれています。これは警告ですね。ロトの妻がなぜ振り返ったのかは分かりません。財産が惜しくなったのか、神がソドムになさる裁きを見たいと思ったか。せっかく神様が命を助けようとして「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」と言われたのに、従わなかったために、神様のお叱りを受けて塩の柱になり、人間に戻ることはかなわなかったのです。

 私は10年前の東日本大震災の暫く後に、西東京教区が行ったボランティア活動に参加して仙台に行きました。海岸近くで津波被害を受けたお宅に伺って清掃等を行わせていただきました。ある家の男性が、こんな話をされたのを覚えています。3月11日午後2:46に大きな地震が起き、皆、家の外に出た。そうしていると防災無線かラジオかで「津波が来る」との放送があった。皆、一斉に高台を目指して車や足で走り始めた。その男性は無事高台に到着できた。しかしまだ津波は来ないと思った何人かの人々、「ちょっと家に戻って来る」と戻って行った。その後津波が来て、一回戻った人々は帰って来なかった。財布を取りに帰ったとは限りません。高齢の家族が心配になったかもしれませんし、高齢でなくても家族を呼びに戻ったのかもしれないので、一概にその方々を責めることもできないと思います。ただ、このような災害の時は、お金がなくても身一つ助かれば十分と考えないといけないのだと思います。その後の生活のことなど心配になりますが、そこは思い切って神様にゆだねて、着の身着のまま助かったことだけを感謝することが大切なのだと思います。津波が来る前に高台にたどり着いて助かった男性から、この貴重な教えをいただきました。「その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。」

 「逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。その時には、世界の初めから今までなく、今後もけっしてないほどの大きな苦難が来るからである。」「祈れ」と言われたからには、「祈れば、父なる神様が助けて下さる可能性がある。だから祈りなさい」ということだと思います。祈ってもだめなら、イエス様はこう言われないでしょう。「逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。祈れば、父なる神様が応えて下さり、逃げるのが冬や安息日にならないように助けて下さる」という約束、励ましと思います。でもエルサレム滅亡の苦難そのものは大きく、「世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難」と言われています。「今度も決してないほどの苦難」と言うからには、この苦難の後にも歴史が続くとも言えます。今後、エルサレム滅亡ほどの苦難は来ないと言っておらえるとも受け取ることも可能だからです。

 22節「神がその期間を縮めて下さらなければ、誰一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めて下さるであろう。」ここに神様の愛と憐れみが現れていると感じます。そこで本日の説教題を「試練の期間を縮める神の愛」と致しました。神様は憐れみ深い方なので、私たちの祈りに応えて、苦難の期間を縮めて下さるということではないでしょうか。今回のコロナも、ここに来て新規感染者が減って来ました。ワクチンの効果が大きいと思いますし、まだ第六波の恐れが十分にあると思うので油断することはできません。ワクチンを急いで開発して下さった方々、普及のために努力しておられる方々のお陰と思いますが、ワクチンを開発する能力も神様が与えて下さった能力ですから、ワクチンを与えてコロナの拡大の勢いを一旦弱めて下さった神様の憐れみが働いていると思うのです。世界中のクリスチャンたちの切なる祈りに、神様が応えて下さっていると思うのです。

 23節以下「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いやここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、信じてはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子(イエス様ご自身)も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」恐れで満たされるとき、人々は慌てふためいて、肥後流言・デマに惑わされそうになります。そんな時こそ落ち着いて、正しい情報を得るようにしなさいとよく言われます。「メシア(救い主)はここだ。いやあそこだ」というデマに惑わされて右往左往しないようにと、イエス様は言われます。イエス様がもう一度来られる時(再臨の時)、イエス様は「稲妻が東から西へひらめき渡るように来られる」、つまりどこか秘密の場所に現れるのではなく、世界中の誰の目にもはっきり分かる形、誤解の余地のない形で来られるというのです。「死体のある所には、はげ鷹が集まる」とは、必然性を述べているようです。動物の死体のある所には、必然的にはげ鷹が集まるように、機が熟せば、必然的にイエス様がもう一度来られる。世界中の全ての人にはっきり分かる形で来られる。その時こそ、この世界の歴史が完成し、神の国が来る、愛と正義のみ行われる新しい天・新しい地が来る。そしてヨハネの黙示録21章にあるように、神様が私たちの目の涙をことごとくぬぐい取って下さり、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない、すばらしい神の国が来る。そう約束されています。この希望の約束に向かって私どもは歩んでいます。

 ここに書かれているのと似たことが、テサロニケの信徒への手紙(二)2章にも書かれています。新約聖書381ページ上。3節の途中から。「~まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。まだ私(パウロ)があなた方のもとにいた時、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。今、彼を抑えているものがあることは、あなた方の知っている通りです。それは、定められた時に彼が現れるためです。不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られる時(再臨の時)の御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。不法の者は、サタン(悪魔)の働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そしてあらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。」ここを読むと、世の終わりは、神様が悪魔(サタン)を滅ぼされる時であることが分かります。私どもは、真の神様、神の子イエス様にしっかり結びついて、悪魔の偽奇跡に惑わされず、悪魔と縁を切っていく必要があります。

 不法の者、滅びの子、反キリストは、これまでも出現しました。アウシュヴィッツなどでユダヤ人を大量に殺害し、ドイツを戦争と敗戦に引きずり込んだヒトラーがすぐ思い浮かびます。1917年のロシア革命は、共産主義政府(無神論の政府)を生みました。レーニンが独裁し、ロシアのキリスト教であるロシア正教の解体に乗り出し、史上屈指の反キリスト教政策を実行したそうです。1000人以上の司祭が処刑され、何百もの修道院が破壊されました。スターリンの時代には、何千人もの聖職者が投獄され殺害され、ロシア正教以外にもカトリック、プロテスタントのルター派やバプテスト派もほぼ壊滅状態に追い込まれたそうです。私はこんな恐ろしいことがあったのかと身震いしました。悪魔の働きです。1930年代にはローマ教皇がソ連の共産主義を非難して、ロシアのクリスチャンのために祈るように世界中に呼びかけたそうです。1991年にソ連が崩壊すると、ロシア正教会は力強く復活したそうです。どんなに弾圧しても神様を滅ぼすことはできないことが証明されました。神に逆らう国家は、ソ連のような強大な国家でも滅びることが証明されました。悪魔も最後には、イエス様によって滅ぼされます。今の中国でも教会が迫害され、ミャンマーでも聖職者が迫害されているようです。祈らなければなりません。

 マタイ福音書に戻ります。29節以下、小見出しは「人の子が来る」です。イエス様の再臨の時の描写です。「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」天変地異です。イエス様の十字架の死の時、全地が暗くなったと書いてあることを思い出します。「そのとき、人の子の徴(しるし)が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲の乗って来るのを見る。」「人の子の徴」が何かは書いてないので、分かりません。ですが昔からそれは十字架ではないかと考える人々が多いそうです。神の子イエス様を十字架に架けて殺してしまった人類の大きな罪を、人類皆で嘆き悲しむことになるというのです。人々が罪を悔い改めるとよいのですが、ここでは悔い改めると書いてありません。ただ自分たちの大きな罪を嘆き悲しむにとどまる人も少なくないのかもしれません。

 人の子という者は、本日の旧約聖書・ダニエル書7章13節に既に出て来ます。イエス様は、ご自分こそこの「人の子」だと教えて下さるのです。旧約聖書1393ページ上段。「『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』(父なる神様)の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた」とあります。これは世の終わり、最後の審判、神の国の完成の時を予告する御言葉です。聖書では「世の終わり」「神の国の完成」の時のことは、独特の表現で書いてあるので分かりやすいとは言えません。前のページの9節から見ると、まず父なる神様が登場なさいます。「なお(ダニエルが)見ていると、王座が据えられ、『日の老いたる者』がそこに座した。その衣は雪のように白く、その白髪は清らかな羊の毛のようであった。」父なる神様は、純白に清らかに輝いておられます。10節「その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え、幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き、巻物が繰り広げられた。」そこに「人の子」のような者(イエス様)が天の雲に乗り、父なる神様の前に来て、権威、威光、王権を受けたというのです。

 今日のマタイ福音書24章の31節には、こうあります。「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」イエス様が、世界中から救われる人々を呼び集めると書かれています。32~33節には、「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなた方は、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」最初の15節にも「読者は、悟れ」とありました。私は世の中の出来事を見ながら思います。たとえば東日本大震災には、日本全体・世界全体への神様の警告があるかもしれないし、互いにもっと助け合いなさいというメッセージもあるのではないか。原子力発電の危険を悟りなさいというメッセージもあるのではないか。コロナにも、神様から私どもへの広い意味での警告の意味もあるのではないか。それが小康状態にある今は、神様の憐れみをいただいていることに気づいて、皆で真の神様に立ち帰ることを神様は望んでおられるのではないか、そして災害や病気が発生する時、もっと愛をもって互いに助け合う世界になるように神様がメッセージを発しておられるのではないか。

 イエス様の再臨は今日かもしれないし、500年先かもしれませんが、必ず起こります。神様にしっかり結びついて、礼拝と伝道をさせていただき、できる限り善のみ行いながら与えられた人生を全うしたいのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。世界中が、神に立ち帰るように。十日前の地震で負傷された方々に癒しを。経済困難の方々に助けを。私たちの身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々に平和を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に守りを。ミャンマー、アフガニスタンに平和を。日本の新首相が神様に従って下さるように。御名により、アーメン。

2021-10-10 1:05:48()
「独り子イエス様を与える神の愛」 2021年10月10日(日)神学校日説教
礼拝順序:招詞 テモテ(一)2:4、頌栄28、「主の祈り」、交読詩編44,使徒信条,讃美歌21・175、聖書 ヨハネ福音書3:16(新約167ページ)、創世記22:1~19(旧約31ページ)、祈祷、説教「独り子イエス様を与える神の愛」、讃美歌21・303、献金、頌栄27、祝祷。 

(ヨハネ福音書3:16) 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

(創世記22:1~19) これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

(説教) 本日は、日本キリスト教団の暦で、神学校日礼拝です。本日の新約聖書は、有名と言えるヨハネ福音書3章16節、旧約聖書は、極めて印象的と言える創世記22章1節以下。説教題は、「独り子イエス様を与える神の愛」です。神学校は、私たち人間を罪から救おうとなさる新の神様の愛を宣べ伝える伝道者を養成する学校です。その神の愛がいかなる愛か、私たちも今日の聖書から示されたいのです。

 ヨハネ福音書3章16節は、多くのクリスチャンが暗唱している御言葉です。福音の中の福音と言えます。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子(イエス様)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」父なる神様は、最も愛する独り子イエス・キリストを十字架に架けられました。それはイエス様に、私たち全ての人間の罪の責任を身代わりに背負わせるためです。それは神の尊い独り子イエス様にとっても、非常に厳しい試練です。父なる神様にとっても、最も愛する独り子を十字架で死なせることですから、大変辛いことでした。でも私たち人間たちを罪から救うためには、ほかに方法がありません。そこで父なる神様は、最も愛する独り子イエス様を犠牲に出し出す、ご自分にとって最も辛い決断を実行なさったのです。「神はその独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 本日の創世記22章は、父なる神様の私たちへの愛をストレートにヨハネ福音書3章16節の、伏線と言える個所です。1節「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。」アブラハムは、旧約聖書で信仰の父と呼ばれる人物、神の民イスラエルの偉大な先祖です。イエス様の父ヨセフの先祖です。父なる神様がここでアブラハムの信仰を試されます。アブラハムの信仰が純粋な本物の信仰かどうか、テストされるのです。神から与えられる試練です。福音書の中では、イエス様も伝道の開始に先立って試練を与えられています。それは悪魔からの誘惑としてきましたが、別の角度から見れば、悪の誘惑に負けないで打ち勝てるかどうかを試す、父なる神様からの試練です。十字架も父なる神様からの試練です。死に至るまで忠実に父なる神様に従いきるかどうかを試す、厳しい試練でした。イエス様は辛さに耐えながら全ての試練に打ち勝ち、神の子にふさわしい方であることを見事証明なさいました。

 私たちは、試練はできれば避けたいと考えます。しかし新約聖書のヘブライ人への手紙12章5節以下には、鍛錬(試練)についてこう書かれています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるのです。あなた方はこれを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなた方を子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もし誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそあなた方は庶子であって、実の子ではありません。」「肉の父はしばらくの間、自分の思いのままに鍛えてくれましたが、霊の父(神様)は私たちの益なるように、御自分の神聖にあずからせる目的で私たちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものを思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」今、アブラハムに試練が与えられます。このような試練を経て、アブラハムは本当に信仰の父となってゆくと思うのです。

 創世記22章1~2節「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、『アブラハムよ』と呼びかけ、彼が『はい』と答えると、神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つの登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」このモリヤは、エルサレムだという説もあります。耳を疑いたくなる神様の命令です。「あなたの息子、あなたの愛する独り子(!)イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

 イサクは、アブラハムとその妻サラの間に生まれた、たった一人の息子・独り子です。女の子はいません。もっともアブラハムとサラの女奴隷ハガルの間に生まれたイシュマエルという息子がいますが、イシュマエルはアブラハムの跡継ぎにはなれない子です。イサクが誕生するまでアブラハムとサラは非常に苦労したのです。神様は、子供がないアブラハムが75歳の時に、「あなたの子孫にこの土地(カナンの土地、イスラエルの土地)を与える」と約束されました。その後、アブラハムは神様に「私には子どもがないので、家の僕が跡を継ぐことになっています」というと神様は、「その者ではなく、あなたから生まれる者は後を継ぐ」と言われ、彼に外の多くの数えきれない多くの美しい星を見せて「あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。アブラハムは主を信じ、主はそれを彼の義、彼のよき信仰と認めて下さいました。神は不可能を可能にして下さると信頼したのです。

 でもその後、アブラハムの信仰も揺らぎます。アブラハムが99歳のとき、神がアブラハムに言われます。「私は彼女(アブラハムの妻サラ)を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。」アブラハムはひれ伏しながらも、笑ってひそかに言いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。90歳のサラに子供が産めるだろうか。」人間の常識では不可能、でも神様はあくまでも言われます。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名づけなさい。」そして約束通り、アブラハム百歳、サラ99歳の時にこの夫婦の間に約束の男の子イサクが生まれたのです。サラは喜んで言います。「神は私に笑いをお与えになった。聞く者は皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」75歳のときに神様の約束をいただいて、25年間待って約束が実現したのです。これも試練です。25年間祈って待って、ようやく授かった独り子なのです。「神様、ありがとうございます。もう試練は十分です。後は平和な人生を歩ませて下さい」と言いたくなります。しかし何年後かはっきりしませんが、そのイサクをささげよという次の試練が来たのです。

 待ちに待って与えられた事実上の一人息子。よりによってその子をささげなさい。屠って、殺して献げ物にするのですから、イサクは死にます。そうなれば、神に多くの星を見せられて「あなたの子孫はこのようになる」と言われた約束も、実現しませんよ、と言いたくなります。アブラハムの心の中はどうなのか。書いていないので分かりません。アブラハムは、愛する神に従います。服従します。イエス様は、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と私たちを招かれましたが、まさに同じようにアブラハムは神に服従するのです。迫力ある場面です。緊迫の場面です。アブラハムは意を決して、翌朝早く出発するのです。3節「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって(三日目はイエス様の復活を暗示?)、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。『お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。私と息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻って来る。』」戻って来ると本気で思っていたか、分かりません。イサクを献げれば、イサクは戻れません。

 読むのがいたたまれない場面が続きます。6節以下「アブラハムは。焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、『私のお父さん』と呼びかけた。彼が『ここにいる。私の子よ』と答えると、イサクは言った。『火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。』アブラハムは答えた。『私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる。』二人は一緒に歩いて行った。」火をつける薪を背負って歩くイサクの姿は、私たち罪のために十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かうイエス様のお姿と重なって来ます。

 そして話は一気に進みます。9節から「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」もうイサクにも分かっていました。父親は自分を焼き尽くす献げ物にするつもりであることを。イサクは抵抗せず、協力します。狂気の出来事にも見えます。しかしイサクも、神様に服従する信仰を持っていたと思うのです。父なる神様に服従して十字架にかかるイエス様に似ています。アブラハムは神様に服従し、本気でイサクに刃物を振り下ろそうとしています。しかし、文字通りぎりぎりすんでのところで、神様の介入が起こります。11節から「そのとき、天から主の御使い(天使)が、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が、『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。』」「あなたが神を畏れる者であることが分かった。」これは信仰者への褒め言葉です。最高の褒め言葉とも言えます。真の神様の畏れ敬うことこそ、大切なことだからです。「あなたは自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。」アブラハムの信仰が、本気で神様を礼拝し、本気で神様を畏れ敬う純粋で純真な信仰であることが証明されたのです。

 それにしても、と私たちは思うのではないでしょうか。「神様、ちょっとひどいのではありませんか。アブラハムにこれほど辛い思いをさせて、その信仰が純粋化どうか試す試練を与えるとは、厳しすぎるのではありませんか。」でも、神様はアブラハムにだけ辛い思いをさせて、ご自分は楽ちんに生きる方ではないのです。新約聖書・ローマの信徒への手紙8章32節に、こうあります。「私たち全てのために、その御子(独り子イエス様)をさえ惜しまず死に渡された方(父なる神様)は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」アブラハムに「あなたは、自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった」と言われた父なる神様は、ご自分も最も愛する独り子イエス様を、私たちの全部の罪を身代わりに背負わせるために、惜しまずに十字架におかけになりました。ご自分の最も大切な独り子イエス様を十字架で死なせる、最も尊い犠牲を、父なる神様が払われました。父なる神様こそ、最も辛い思いに耐えて、いわば断腸の思いで独り子イエス様を犠牲に差し出されたのです。アブラハム以上に、辛い思いに耐えて下さいました。今、各神学校で学んでいる方々は、この神の愛を宣べ伝える伝道者となるために、日々学びと訓練を受けておられます。

 創世記に戻り13~14節「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けた。」ヤーウェは、聖書の神様のお名前です。神様にはお名前があって、旧約聖書のヘブライ文字でYHWHですが、これはヤーウェ(ヤハヴェ)と読むのが正しいとされています。イルエは「見る」「分かる」「理解する」の意味です。「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けた。ヤーウェ・イルエは直訳では「主は見ている」となりますが、それは「主は見通している」ということです。神様はあらかじめ全てを見通しておられて、あらかじめ備えておられるということです。それで「ヤーウェ・イルエ」が「主は備えて下さる」の意味になるようです。「そこで、人々は今日でも『主の山に備えあり(イエラエ)』と言っている。」神様がイサクの代わりに、献げ物として雄羊を備えて下さっていたからです。でも神様は、私たちのためにもっと大切な献げ物をあらかじめ備えて下さっていたのです。それはもちろんイエス・キリストという献げ物です。私たちのために最も必要なものは何なのか。私たちの罪が赦されるために私たちに最も必要な存在は、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って献げ物となって下さる方です。私たちは自分ではそれに気づかない。別の物のほうが大事だと思ってしまうのです。私たちは、自分に何が必要か、自分で分かりません。父なる神様は完璧に分かっておられます。私たちにとって最も必要なことは罪の赦しであって、そのために十字架で献げ物となる罪なきイエス・キリストが最も必要だということを。それを父なる神様は、私どもは生まれる2000年前から備えておられたのです。

 キリスト教会の信仰の言葉に「摂理」という言葉があります。日本語訳聖書には摂理という言葉はありません。摂理は英語ではプロヴィデンスというそうです。「プロ」は「あらかじめ」、ヴィデンスは「ヴィデオ」「ヴィジュアル」つまり「見る」と関係深い言葉ですね。摂理は「あらかじめ見る」つまり「主は備えて下さる」「主の山に備えあり」の信仰が摂理の信仰です。私たちと違って、神様は全てを見通しておられ、困難や試練があっても、必要なものをあらかじめ備えておられるという信頼の信仰が、摂理の信仰だと思うのです。新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)10章13節に「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」と書かれていることと一致します。アブラハムもこの信仰に生きたのです。イサクとモリヤに向かいながら、「私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる」と言ったのです。神様がそう言わせて下さったとも言えます。

 ここに至って、信仰とは神様に信頼することだと、悟らされます。アブラハムの信仰は、やはり深い。「信仰の父」と呼ばれるだけのことはあります。最も大切な独り子イサクを献げよとの理不尽で、不条理な命令を受けて真っ暗な気持ちになったかもしれませんが、なお一点かもしれませんが、神への信頼と神への希望を保っていたのです。新約聖書はアブラハムの信仰を称賛しています。ヘブライ人への手紙11章17~19節にこうあります。415ページ下段。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」アブラハムは本気でイサクの命を取るつもりだったのでした。イサクが死んでもイサクを通してアブラハムの子孫が増える約束を信じたことになり、それは神がイサクを復活させて下さると信じたからだ、というのです。確かにそういうことになりますね。アブラハムは復活信仰の先駆者なのです。最新の翻訳と言える聖書協会共同訳は、19節をこう訳します。「アブラハムは、神が人を死者の中から復活させることもできると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいました。これは復活を象徴しています。」新改訳聖書(2004年版)は「象徴」を「型」と訳しています。

 この段階では象徴、型としてやや暗示的な復活信仰が語られているのですが、私たちはもっとはっきりした希望を与えられています。イエス様が十字架の死の三日目に本当に復活され、40日間、復活の体をもって地上で弟子たちと過ごされた後、天に昇られ、今も天で生きておられるからです。死こそ私たちに絶望を与える敵です。しかしイエス様は死に打ち勝って復活されました。イエス様につながることで私たちも死に打ち勝たせていただきます。これは私たちの最大の希望です。キリスト教は、究極の希望の信仰です。ぜひすべての方に、この真の希望の信仰に入っていただきたいとお勧め致します。アーメン。

(祈り)聖名讃美。4度目の緊急事態宣言解除。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。世界中が、神に立ち帰るように。木曜夜の地震で負傷された方々に癒しを。経済困難の方々に助けを。私たちの身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々に平和を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に守りを。ミャンマー、アフガニスタンに平和を。日本の新首相が神様に従って下さるように。御名により、アーメン。