
2025-10-12 1:21:53()
「正義の実行と神への愛」 2025年10月12日(日)礼拝説教 石田真一郎
(説教) 本日は、聖霊降臨節第主日公同礼拝です。説教題は「正義の実行と神への愛」です。小見出しは「ファリサイ派の人々と律法の専門家とを非難する」です。
先週に続き、イエス様の厳しい言葉が語られています。先週の個所でイエス様は、「今の時代の者たち(イエス様の時代のイスラエルの人々)はよこしまだ」と言われました。邪悪だと言われたのです。先週の水曜日に婦人会で、エフェソの信徒への手紙5章を読みましたが、そこでもパウロが「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」と書いています。21世紀の今も、戦争も核兵器もあるので、悪い時代なのでしょう。私たち人間の罪が悪い時代を作ります。暗澹たる気持ちになります。
本日の最初の37節。「イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。」ファリサイ派は、イエス様を批判していたグループですが、イエス様はその招きを断ることはなさらず、ファリサイ派の人の家に入って食事の席に着かれました。友好的です。38節「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。」マルコ福音書7章を読むと、当時の事情が分かります。「ファリサイ派の人々をはじめ、ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど。昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」
旧約聖書そのものはもちろん、その後に旧約聖書を解釈するなどしてできた、多くの慣習や決まりごとを守っていたそうです。一説には613個ほどの決まりごとがあったそうです。私たちはこう聞くと、ファリサイ派の人々は無意味な細かい決まり事ばかり大切にする愛のないこちこちの形式主義者だったと受け止めます。その通りかもしれませんが、今の社会でも、色々な慣習や決まりごとはあります。それらを守ることで、物事がスムーズに進む、守らないとスムーズに進まないということはあると感じます。職場によっても、様々な約束事があり、それを守らないと人間関係も良好に回らないこともあると思います。当時のイスラエル社会においても、長年の間に積み重なった様々な決まりごとあり、それらが日常の中で権威・重みをもっていたと思います。しかしそれがあまり多くなって、弊害が目立つようになると、「原点に帰ろう」という原点復帰あるいは改革を求める声が上がってくると思います。本日の場面は、イエス様による宗教改革(信仰改革)と言えるでしょう。あるいは4つの福音書すべてが、イエス様による宗教改革(信仰改革)の記録とも言えます。イエス様が現代の社会、現代の教会に来られれば、やはり何らかの改革を行われるかもしれません。私たちは、イエス様による信仰改革ならば、喜んで受け入れて参りたいものです。
39節「主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。」ファリサイという言葉の意味は、「区別する」だと聞いており、つまり自分たちは他の人々と違って、神様に全力で従って清く生きている者たちと考えていたと聞いています。その意味で、平均以上に立派な人々だったが、その分、自分たちだげが絶対正しいとプライドが高すぎ、謙遜さに欠ける問題があったと聞いてきました。ですがそれだけでなく、イエス様のお言葉を聞くと、「自分の内側は強欲と悪意に満ちている」と言われています。本当にそうだったのかと驚きます。外側では信仰深く見せながらも、内心では欲が深く、悪意に満ちている二重人格の人々だったのでしょうか。イエス様の神殿清め!
ルカによる福音書16章では、ファリサイ派の人々は「金に執着する人々」と書かれています。こう書いてあるのであれば、その通りだったと思うほかはありません。信仰に一生懸命な人がお金に執着するはずがないと思うので、驚きますが。マタイ福音書7章15節でイエス様は、「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなた方のところ来るが、その内側は貪欲な狼である」とおっしゃっています。偽宗教家、偽預言者が当時いたし、今もいると思います。多くの献金を要求し、つぼを高価な値段で売りつける霊感商法を行う統一協会も、強欲で貪欲な狼といえます。私たちはよい宗教のつもりですが、それでもやはり悪魔の誘惑によく注意し、悪魔の誘惑に負けて悪い宗教にならないように、いつも注意は必要と思います。
40節「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」もちろん外側だけをきれいに取り繕っているのでは、いけません。心の内側、中身が大事ですね。そして生き方が大事と思います。外側・外見がどうでもよいとまでは言いませんが、内面・中身が清いことが重要であることは、確かです。「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」これは「喜んで、与えなさい」ということだと思います。旧約聖書の箴言11章25節には、「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。」「与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなた方は自分の量る秤で量り返されるからである。」使徒言行録20章34、35節のパウロの言葉「ご存じの通り、私はこの手で、私自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなた方もこのように働いて弱い者を助けるように、また主イエスご自身が、『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」強欲なら、自分が獲得することにばかり熱心で、貪欲になります。「強欲資本主義」という言葉を聞いたこともあります。資本主義は、一つ間違うと、非常に強欲になるという警告の言葉と思います。「器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」これは「与える喜びに生きなさい」というイエス様の勧めの御言葉と思います。
42節「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。」薄荷は、他の訳ではミントです、薄荷は確かにミントのことですね。「十分の一」の献げ物は、旧約聖書のレビ記27章30節に根拠があります。「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので、主に属す。」以前は日本にも収入の「十分の一」を献金する「十分の一献金」を奨励する教会は多かったと思います。もちろん「十分の一献金」は、神様の御心に適っていると思います。ですが自分の属する教会に「十分の一」全部を献げなくても、他の方面にも献げて十分の一にすることも、よいことと思います。最近は、十分の一献金を強調する教会は少ないのではないかと思います。教会の方からそれを求めると、教会が強欲になる恐れもあるので、慎重にする方がよいと思います。
「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。」「不幸だ」は原語のギリシア語で「ウーアイ」です。これは「うう、ああ」という呻きです。「ウーアイ」は、イエス様のどんなお気持ちを表現する言葉なのでしょうか。それは「深い悲しみと聖なる怒り」が混ざった言葉ではないかと思います。ファリサイ派の人々の、私たち罪人(つみびと)たちの、なかなか自分の罪を認めて悔い改めない頑なさ、頑固さへの、イエス様の「深い悲しみと聖なる怒り」が混ざった気持ちを表しているのが「ウーアイ」という呻きだと思うのです。今日の聖書の箇所に3回、この言葉が出て来ます。
イエス様は「もとより十分の一の献げ物もおろそかにしてはならない」とおっしゃると同時に、「正義の実行と神への愛をおろそかにしてはならない。これこそ行うべきことだ」と強調されます。ファリサイ派の人々が「薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ」と、イエス様は言われます。ファリサイ派の人々は、薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一、つまり非常に小さいものの十分の一さえも献げるほど、十分の一の献げ物を徹底的に行っていたけれども、「正義の実行と神への愛」をおろそかにしていたのでしょう。「木を見て、森を見ない」傾向に陥っていたのかもしれません。
「正義の実行と神への愛」が具体的に何を意味するのかはっきり書かれていませんが、「隣人への愛を実行し、神様に祈り、神様を讃美し、神様を礼拝する」ことを指すのではないかと思います。このことは、本日の旧約聖書であるミカ書6章6~8節にも記されています。6~7節では献げ物について語られ、献げ物は大切だけれども形だけ、形式的に子牛や羊を献げているだけではいけないと語られています。「何をもって、私は主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか、幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。」8節が有名です。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に知らされている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」すばらしい御言葉ですね。
43~44」節「あなたたちファリサイ派の人々は不幸(ウーアイ)だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸(ウーアイ)だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」会堂では上席に着くことが当たり前と思い、思い上がりの罪を罪を犯しているというのです。「これは礼拝堂で説教させていただく牧師のことだ、私のことだ」と、非常にビクッとします。十分気をつけなければいけません。「広場で挨拶されることを好むからだ。」自分から挨拶せず、相手が先に挨拶して下さるのが当たり前だと傲慢になっている姿です。私が東京神学大学を卒業した卒業式で、来賓として来られた辻哲子牧師が「卒業生への励ましの言葉」で、「自分から挨拶する牧師になって下さい」と言われたことを思い出しました。この御言葉を聞いて、思い出しました。卒業したての頃は、実践していたつもりですが、最近忘れていたかもしれません。初心忘るべからず。辻先生がおっしゃったことは、「東京神学大学出身の牧師は、自分から挨拶しないので、あなたたちは自分から挨拶する牧師になって下さい」とその日言われ、辛口の言葉に、当時の学長が苦笑していました。
鈴木ソンヒさんの証し。アーメン。
先週に続き、イエス様の厳しい言葉が語られています。先週の個所でイエス様は、「今の時代の者たち(イエス様の時代のイスラエルの人々)はよこしまだ」と言われました。邪悪だと言われたのです。先週の水曜日に婦人会で、エフェソの信徒への手紙5章を読みましたが、そこでもパウロが「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」と書いています。21世紀の今も、戦争も核兵器もあるので、悪い時代なのでしょう。私たち人間の罪が悪い時代を作ります。暗澹たる気持ちになります。
本日の最初の37節。「イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。」ファリサイ派は、イエス様を批判していたグループですが、イエス様はその招きを断ることはなさらず、ファリサイ派の人の家に入って食事の席に着かれました。友好的です。38節「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。」マルコ福音書7章を読むと、当時の事情が分かります。「ファリサイ派の人々をはじめ、ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど。昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」
旧約聖書そのものはもちろん、その後に旧約聖書を解釈するなどしてできた、多くの慣習や決まりごとを守っていたそうです。一説には613個ほどの決まりごとがあったそうです。私たちはこう聞くと、ファリサイ派の人々は無意味な細かい決まり事ばかり大切にする愛のないこちこちの形式主義者だったと受け止めます。その通りかもしれませんが、今の社会でも、色々な慣習や決まりごとはあります。それらを守ることで、物事がスムーズに進む、守らないとスムーズに進まないということはあると感じます。職場によっても、様々な約束事があり、それを守らないと人間関係も良好に回らないこともあると思います。当時のイスラエル社会においても、長年の間に積み重なった様々な決まりごとあり、それらが日常の中で権威・重みをもっていたと思います。しかしそれがあまり多くなって、弊害が目立つようになると、「原点に帰ろう」という原点復帰あるいは改革を求める声が上がってくると思います。本日の場面は、イエス様による宗教改革(信仰改革)と言えるでしょう。あるいは4つの福音書すべてが、イエス様による宗教改革(信仰改革)の記録とも言えます。イエス様が現代の社会、現代の教会に来られれば、やはり何らかの改革を行われるかもしれません。私たちは、イエス様による信仰改革ならば、喜んで受け入れて参りたいものです。
39節「主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。」ファリサイという言葉の意味は、「区別する」だと聞いており、つまり自分たちは他の人々と違って、神様に全力で従って清く生きている者たちと考えていたと聞いています。その意味で、平均以上に立派な人々だったが、その分、自分たちだげが絶対正しいとプライドが高すぎ、謙遜さに欠ける問題があったと聞いてきました。ですがそれだけでなく、イエス様のお言葉を聞くと、「自分の内側は強欲と悪意に満ちている」と言われています。本当にそうだったのかと驚きます。外側では信仰深く見せながらも、内心では欲が深く、悪意に満ちている二重人格の人々だったのでしょうか。イエス様の神殿清め!
ルカによる福音書16章では、ファリサイ派の人々は「金に執着する人々」と書かれています。こう書いてあるのであれば、その通りだったと思うほかはありません。信仰に一生懸命な人がお金に執着するはずがないと思うので、驚きますが。マタイ福音書7章15節でイエス様は、「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなた方のところ来るが、その内側は貪欲な狼である」とおっしゃっています。偽宗教家、偽預言者が当時いたし、今もいると思います。多くの献金を要求し、つぼを高価な値段で売りつける霊感商法を行う統一協会も、強欲で貪欲な狼といえます。私たちはよい宗教のつもりですが、それでもやはり悪魔の誘惑によく注意し、悪魔の誘惑に負けて悪い宗教にならないように、いつも注意は必要と思います。
40節「愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」もちろん外側だけをきれいに取り繕っているのでは、いけません。心の内側、中身が大事ですね。そして生き方が大事と思います。外側・外見がどうでもよいとまでは言いませんが、内面・中身が清いことが重要であることは、確かです。「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」これは「喜んで、与えなさい」ということだと思います。旧約聖書の箴言11章25節には、「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。」「与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなた方は自分の量る秤で量り返されるからである。」使徒言行録20章34、35節のパウロの言葉「ご存じの通り、私はこの手で、私自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなた方もこのように働いて弱い者を助けるように、また主イエスご自身が、『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」強欲なら、自分が獲得することにばかり熱心で、貪欲になります。「強欲資本主義」という言葉を聞いたこともあります。資本主義は、一つ間違うと、非常に強欲になるという警告の言葉と思います。「器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」これは「与える喜びに生きなさい」というイエス様の勧めの御言葉と思います。
42節「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。」薄荷は、他の訳ではミントです、薄荷は確かにミントのことですね。「十分の一」の献げ物は、旧約聖書のレビ記27章30節に根拠があります。「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので、主に属す。」以前は日本にも収入の「十分の一」を献金する「十分の一献金」を奨励する教会は多かったと思います。もちろん「十分の一献金」は、神様の御心に適っていると思います。ですが自分の属する教会に「十分の一」全部を献げなくても、他の方面にも献げて十分の一にすることも、よいことと思います。最近は、十分の一献金を強調する教会は少ないのではないかと思います。教会の方からそれを求めると、教会が強欲になる恐れもあるので、慎重にする方がよいと思います。
「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。」「不幸だ」は原語のギリシア語で「ウーアイ」です。これは「うう、ああ」という呻きです。「ウーアイ」は、イエス様のどんなお気持ちを表現する言葉なのでしょうか。それは「深い悲しみと聖なる怒り」が混ざった言葉ではないかと思います。ファリサイ派の人々の、私たち罪人(つみびと)たちの、なかなか自分の罪を認めて悔い改めない頑なさ、頑固さへの、イエス様の「深い悲しみと聖なる怒り」が混ざった気持ちを表しているのが「ウーアイ」という呻きだと思うのです。今日の聖書の箇所に3回、この言葉が出て来ます。
イエス様は「もとより十分の一の献げ物もおろそかにしてはならない」とおっしゃると同時に、「正義の実行と神への愛をおろそかにしてはならない。これこそ行うべきことだ」と強調されます。ファリサイ派の人々が「薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ」と、イエス様は言われます。ファリサイ派の人々は、薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一、つまり非常に小さいものの十分の一さえも献げるほど、十分の一の献げ物を徹底的に行っていたけれども、「正義の実行と神への愛」をおろそかにしていたのでしょう。「木を見て、森を見ない」傾向に陥っていたのかもしれません。
「正義の実行と神への愛」が具体的に何を意味するのかはっきり書かれていませんが、「隣人への愛を実行し、神様に祈り、神様を讃美し、神様を礼拝する」ことを指すのではないかと思います。このことは、本日の旧約聖書であるミカ書6章6~8節にも記されています。6~7節では献げ物について語られ、献げ物は大切だけれども形だけ、形式的に子牛や羊を献げているだけではいけないと語られています。「何をもって、私は主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか、幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。」8節が有名です。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に知らされている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」すばらしい御言葉ですね。
43~44」節「あなたたちファリサイ派の人々は不幸(ウーアイ)だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸(ウーアイ)だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」会堂では上席に着くことが当たり前と思い、思い上がりの罪を罪を犯しているというのです。「これは礼拝堂で説教させていただく牧師のことだ、私のことだ」と、非常にビクッとします。十分気をつけなければいけません。「広場で挨拶されることを好むからだ。」自分から挨拶せず、相手が先に挨拶して下さるのが当たり前だと傲慢になっている姿です。私が東京神学大学を卒業した卒業式で、来賓として来られた辻哲子牧師が「卒業生への励ましの言葉」で、「自分から挨拶する牧師になって下さい」と言われたことを思い出しました。この御言葉を聞いて、思い出しました。卒業したての頃は、実践していたつもりですが、最近忘れていたかもしれません。初心忘るべからず。辻先生がおっしゃったことは、「東京神学大学出身の牧師は、自分から挨拶しないので、あなたたちは自分から挨拶する牧師になって下さい」とその日言われ、辛口の言葉に、当時の学長が苦笑していました。
鈴木ソンヒさんの証し。アーメン。
2025-10-04 23:18:48(土)
「神の言葉を聞き、守る幸い」 2025年10月5日(日)礼拝
(ルカによる福音書11:27~36)
イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」
「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」
(説教) 本日は、世界聖餐日・世界宣教日の公同礼拝です。説教題は「神の言葉を聞き、守る幸い」です。小見出しは「真の幸い」、「人々はしるしを欲しがる」、「体のともし火は目」です。
先週の御言葉は、イエス様が神の指で、神様の愛の力で口の利けない方を利けるようにして下さった場面でした。イエス様に悪意を抱く人々が、「この奇跡は悪魔の力によって行われたのだ」と事実に反する悪口を言いました。イエス様はそれを否定され、言われました。「私に味方しない者は私に敵対し、私と一緒に集めない者は散らしている。」イエス様は私たちに、「さあ、私に味方してほしい。私と一緒に神の国の前進のために奉仕してほしい」と呼びかけておられます。
そして本日の個所です。27節「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』」あなたのようなすばらしいお子のお母様は、何と幸い、何と祝福されていることでしょう、と声高らかに言ったのです。確かにマリアさんは祝福されています。マリアの親類で、洗礼者ヨハネの母エリサベトが、身ごもって間もないマリアに言った通り。「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様が私の所に来て下さるとは、どういうわけでしょう。』」マリア自身も、喜んで神様を讃美したのです。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も私を幸いな者と言うでしょう。力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。」クリスマスの時期によく読むマリアの賛歌です。
しかしイエス様は言われます。28節「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」小見出しが「真の幸い」ですね。世の中には色々な幸せ、幸いがあります。健康で、家族・友人に恵まれ、仕事で成功し、お金持ちになる。このような幸せを、多くの人々が求めると思います。確かにこれらは豊かな祝福です。しかしイエス・キリストを知るという祝福、幸い、イエス様に従って生きる祝福と幸いがあるはずです。それは確実に天国に至る祝福ですから、真の祝福です。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」クリスチャンは、この幸いに生きている人です。このような人は、イエス様の母マリアと同じように、あるいはマリア以上の幸いと祝福に生きているのです。その方の中に、神様の尊い聖霊が宿っているならば、その人は神の子、永遠の命と天国を保証された人であり、神様からイザヤ書43章に書かれている通り、「私の目にあなたは値高く尊く、私はあなたを愛し」と言っていただける最も幸いな人、祝福された人です。マリアに劣らず、幸いな人です。光栄なことです。
次の小見出しは「人々はしるしをほしがる」です。29節「群衆の数がますます増えて来たので、イエスは話し始められた。『今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』」「よこしまだ」とは、邪悪だということです。きつい言葉です。イエス様の生きておられた時代のイスラエルは、邪悪だと言うのです。それは今の世界も同じなのだと思います。ペンテコステ(聖霊降臨日)に、イエス様の弟子ペトロも同じことを言っています。
「邪悪なこの時代から救われなさい。」ペトロの言葉を受け入れた人々は、洗礼を受け、その日に三千人が仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった、と書かれています。使徒パウロも、ガラテヤの信徒への手紙1章4節で、似たことを述べます。「キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救いだそうとして、ご自身を私たちの罪のために献げて下さったのです。」私たちの時代にも、立派な方も多くおられますが、多くの詐欺が横行し、悪い宗教もあり、悲惨な戦争も複数あることを思えば、邪悪な面が確かにあります。
イエス様は旧約聖書のヨナのことを語られます。「つまり、ヨナがニネべの人々に対してしるしとなったように、人の子(イエス様)も今の時代(イエス様の時代)の者たちに対してしるしとなる。」アッシリアの首都ニネべは、邪悪の町の代表でした。ヨナはニネべに行けという神様の指示に最初は抵抗しましたが、ヨナが逃げるために乗った舟が大嵐に遭い、ヨナは海に放り込まれ、しかし神様のはからいによって巨大な魚の腹の中でお祈りし、悔い改めて陸地に吐き出され、今度は直ぐにニネべに行って説教したのです。「あと四十日すれば、ニネべの都は滅びる。」邪悪な町ニネべの人々が罪を悔い改めわけがないとヨナは思っていたらしいのですが、驚いたことに、ニネべの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまといました。皆が本気でへりくだって悔い改めるという、驚くべきことが起こりました。神様はこの様子をご覧になって、ニネべに裁きを下すことを中止されました。ヨナの説教によって、素直に悔い改めたのです。「人の子(イエス様)も今の時代(イエス様の時代)の者たちに対してしるしとなる。」つまりイエス様の時代の人々も、イエス様に接して、「この方こそ神の子だ」と素直に信じ、自分たちの罪を悔い改めることが求められているのですね。
少し飛んで32節「また、ニネべの人々は裁きの時(最後の審判の時)、今の時代の者たち(イエス様の時代の人たち)と一緒に立ち上がり(聖書協会共同訳では、復活し)、彼らを罪に定めるであろう。ニネべの人々は、ヨナの説教を聴いて悔い改めたからである。ここにヨナにまさるものがある。」ある人が言うには、ヨナの話はイスラエルの人々にとって痛快だっただろうと言うのです。イスラエル人のヨナの説教によって、異邦人(外国人)ニネべの人々が悔い改めたからです。しかしイエス様は、ヨナの話をそのように解釈するのではなく、悔い改めて真の神様に立ち帰ったニネべの人々の態度がよかったという視点で語っておられる、というのです。だから最後の審判の時には、悔い改めたニネべの人々が、イエス様を受け入れない頑ななイスラエルの人々を裁くと、おっしゃいます。「ここにヨナにまさる者がある。」罪のあるヨナでさえ、神のメッセンジャーとして用いられた。イエス様はヨナよりはるかに立派な神の子です。であるなら、イスラエルの人々も私たちも、当然イエス様の御言葉を素直に受け入れる必要があります。
少し戻って31節。「南の国の女王は、裁きのとき、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聴くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさる者がある。」これは本日の旧約聖書である歴代誌・下9章のことです。シェバは、今のイエメンだと言われます。アラビア半島の南端ですね。シェバの女王(神の民イスラエルに属さない異邦人)が、ソロモン王の名声を聞き、難問をもってソロモンを試そうと、極めて大勢の随員を伴い、香料、多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来ました。彼女の浴びせる難問に、ソロモンは全て解答しました。神様が知恵を与えておられたからです(ソロモンのよき祈り531ページ)。シェバの女王はすっかり感服しました。」8節「あなたを王位につけられたあなたの神、主のための王とすることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。あなたの神はイスラエルを愛して、とこしえに続くものとし、あなたをその上に王として立て、公正と正義を行わせられるからです。」
この話も、イスラエル人にとって心地よいものだったでしょう。外国の女王がやって来て、ソロモンの偉大さを認めた話と受け取れるからです。ソロモン王のすばらしさを際立たせる話と受け取り、誇らしくなったのではないでしょうか。ですがイエス様は、むしろ女王の謙遜さを評価されます。真の神から与えられたソロモンの知恵を聞くために、わざわざ外国からやって来たシェバの女王の、真の神様に対する謙遜で、心開かれた姿勢は、まさに信仰者の模範だとおっしゃっているのではないかと思います。「南の国の女王は、裁き(最後の審判)の時、今の時代(イエス様の時代)の者たちと一緒に立ち上がり(聖書協会共同訳では、復活し)、彼ら(イエス様の時代のイスラエル人たち)を罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンまさるものがある。」ソロモンから神の知恵を聞いた女王が模範ですから、ましてソロモンよりはるかに立派なイエス様がおられるのに、イエス様に聞き従わないことはあり得ないことです。謙遜にイエス様に聞き従うことが、父なる神様に喜ばれることです。
次の小見出しは「体のともし火は目」です。33節「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」マタイ福音書5章14節以下には、こうあります。「あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである。」信仰の生き方を隠さないで、表明するようにと、おっしゃっています。
ルカに戻り34節「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」「濁っている」という言葉の元のギリシア語は、29節の「よこしま」と同じ言葉です。「濁っている」とは「よこしまで邪悪」だということです。従って「目が澄んでいる」はその反対で、「濁っていない、よこしまでない、邪悪でない」ということになります。当然、「目が澄んでいる」方がよいに決まっています。これまでの流れで言うと、イエス様と同じ時代のイスラエル人は、よこしまで邪悪だが、悔い改めたニネべの人々の目は澄んでおり、謙遜にソロモンから神の知恵を聞いたシェバの女王の目も澄んでいたことになります。もちろん、一番目が澄んでいて、心も澄んでいて清い方はイエス・キリストです。そして、私たちの両目は澄んでいるか、心は澄んでいて清いかが問われることになります。マタイ福音書5章8節には、「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」と記されていて、心に残ります。
エフェソ1章17~18節。パウロはクリスチャンを迫害していたが、彼の目は煮濁っていたと思います。パウロはイエス様に出会い、目が見えなくなった。使徒言行録9章17~18節、目からうろこのようなものが落ちた。使徒言行録26章17~18節。うろことは、わたしたちの心の中の偏見や誇り(プライド)、罪と思います(よいプライドもあるが)。曇りやうろこはわたしたちの目に知らないうちに再びつくことがあると思います。聖書を読み祈り、神様によって毎日目と心の曇りを取り除いていただきたい。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」この光は、イエス・キリストであり、私たちの心の中に住まわれる聖霊と思います。コヘレト7章29節。矢部喜好牧師。「天国が見える。イエス様が見える。ばんざーい」と召天。目と心が澄んだ人だったと思います。アーメン。
イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」
「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」
(説教) 本日は、世界聖餐日・世界宣教日の公同礼拝です。説教題は「神の言葉を聞き、守る幸い」です。小見出しは「真の幸い」、「人々はしるしを欲しがる」、「体のともし火は目」です。
先週の御言葉は、イエス様が神の指で、神様の愛の力で口の利けない方を利けるようにして下さった場面でした。イエス様に悪意を抱く人々が、「この奇跡は悪魔の力によって行われたのだ」と事実に反する悪口を言いました。イエス様はそれを否定され、言われました。「私に味方しない者は私に敵対し、私と一緒に集めない者は散らしている。」イエス様は私たちに、「さあ、私に味方してほしい。私と一緒に神の国の前進のために奉仕してほしい」と呼びかけておられます。
そして本日の個所です。27節「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』」あなたのようなすばらしいお子のお母様は、何と幸い、何と祝福されていることでしょう、と声高らかに言ったのです。確かにマリアさんは祝福されています。マリアの親類で、洗礼者ヨハネの母エリサベトが、身ごもって間もないマリアに言った通り。「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様が私の所に来て下さるとは、どういうわけでしょう。』」マリア自身も、喜んで神様を讃美したのです。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も私を幸いな者と言うでしょう。力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。」クリスマスの時期によく読むマリアの賛歌です。
しかしイエス様は言われます。28節「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」小見出しが「真の幸い」ですね。世の中には色々な幸せ、幸いがあります。健康で、家族・友人に恵まれ、仕事で成功し、お金持ちになる。このような幸せを、多くの人々が求めると思います。確かにこれらは豊かな祝福です。しかしイエス・キリストを知るという祝福、幸い、イエス様に従って生きる祝福と幸いがあるはずです。それは確実に天国に至る祝福ですから、真の祝福です。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」クリスチャンは、この幸いに生きている人です。このような人は、イエス様の母マリアと同じように、あるいはマリア以上の幸いと祝福に生きているのです。その方の中に、神様の尊い聖霊が宿っているならば、その人は神の子、永遠の命と天国を保証された人であり、神様からイザヤ書43章に書かれている通り、「私の目にあなたは値高く尊く、私はあなたを愛し」と言っていただける最も幸いな人、祝福された人です。マリアに劣らず、幸いな人です。光栄なことです。
次の小見出しは「人々はしるしをほしがる」です。29節「群衆の数がますます増えて来たので、イエスは話し始められた。『今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』」「よこしまだ」とは、邪悪だということです。きつい言葉です。イエス様の生きておられた時代のイスラエルは、邪悪だと言うのです。それは今の世界も同じなのだと思います。ペンテコステ(聖霊降臨日)に、イエス様の弟子ペトロも同じことを言っています。
「邪悪なこの時代から救われなさい。」ペトロの言葉を受け入れた人々は、洗礼を受け、その日に三千人が仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった、と書かれています。使徒パウロも、ガラテヤの信徒への手紙1章4節で、似たことを述べます。「キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救いだそうとして、ご自身を私たちの罪のために献げて下さったのです。」私たちの時代にも、立派な方も多くおられますが、多くの詐欺が横行し、悪い宗教もあり、悲惨な戦争も複数あることを思えば、邪悪な面が確かにあります。
イエス様は旧約聖書のヨナのことを語られます。「つまり、ヨナがニネべの人々に対してしるしとなったように、人の子(イエス様)も今の時代(イエス様の時代)の者たちに対してしるしとなる。」アッシリアの首都ニネべは、邪悪の町の代表でした。ヨナはニネべに行けという神様の指示に最初は抵抗しましたが、ヨナが逃げるために乗った舟が大嵐に遭い、ヨナは海に放り込まれ、しかし神様のはからいによって巨大な魚の腹の中でお祈りし、悔い改めて陸地に吐き出され、今度は直ぐにニネべに行って説教したのです。「あと四十日すれば、ニネべの都は滅びる。」邪悪な町ニネべの人々が罪を悔い改めわけがないとヨナは思っていたらしいのですが、驚いたことに、ニネべの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまといました。皆が本気でへりくだって悔い改めるという、驚くべきことが起こりました。神様はこの様子をご覧になって、ニネべに裁きを下すことを中止されました。ヨナの説教によって、素直に悔い改めたのです。「人の子(イエス様)も今の時代(イエス様の時代)の者たちに対してしるしとなる。」つまりイエス様の時代の人々も、イエス様に接して、「この方こそ神の子だ」と素直に信じ、自分たちの罪を悔い改めることが求められているのですね。
少し飛んで32節「また、ニネべの人々は裁きの時(最後の審判の時)、今の時代の者たち(イエス様の時代の人たち)と一緒に立ち上がり(聖書協会共同訳では、復活し)、彼らを罪に定めるであろう。ニネべの人々は、ヨナの説教を聴いて悔い改めたからである。ここにヨナにまさるものがある。」ある人が言うには、ヨナの話はイスラエルの人々にとって痛快だっただろうと言うのです。イスラエル人のヨナの説教によって、異邦人(外国人)ニネべの人々が悔い改めたからです。しかしイエス様は、ヨナの話をそのように解釈するのではなく、悔い改めて真の神様に立ち帰ったニネべの人々の態度がよかったという視点で語っておられる、というのです。だから最後の審判の時には、悔い改めたニネべの人々が、イエス様を受け入れない頑ななイスラエルの人々を裁くと、おっしゃいます。「ここにヨナにまさる者がある。」罪のあるヨナでさえ、神のメッセンジャーとして用いられた。イエス様はヨナよりはるかに立派な神の子です。であるなら、イスラエルの人々も私たちも、当然イエス様の御言葉を素直に受け入れる必要があります。
少し戻って31節。「南の国の女王は、裁きのとき、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聴くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさる者がある。」これは本日の旧約聖書である歴代誌・下9章のことです。シェバは、今のイエメンだと言われます。アラビア半島の南端ですね。シェバの女王(神の民イスラエルに属さない異邦人)が、ソロモン王の名声を聞き、難問をもってソロモンを試そうと、極めて大勢の随員を伴い、香料、多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来ました。彼女の浴びせる難問に、ソロモンは全て解答しました。神様が知恵を与えておられたからです(ソロモンのよき祈り531ページ)。シェバの女王はすっかり感服しました。」8節「あなたを王位につけられたあなたの神、主のための王とすることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。あなたの神はイスラエルを愛して、とこしえに続くものとし、あなたをその上に王として立て、公正と正義を行わせられるからです。」
この話も、イスラエル人にとって心地よいものだったでしょう。外国の女王がやって来て、ソロモンの偉大さを認めた話と受け取れるからです。ソロモン王のすばらしさを際立たせる話と受け取り、誇らしくなったのではないでしょうか。ですがイエス様は、むしろ女王の謙遜さを評価されます。真の神から与えられたソロモンの知恵を聞くために、わざわざ外国からやって来たシェバの女王の、真の神様に対する謙遜で、心開かれた姿勢は、まさに信仰者の模範だとおっしゃっているのではないかと思います。「南の国の女王は、裁き(最後の審判)の時、今の時代(イエス様の時代)の者たちと一緒に立ち上がり(聖書協会共同訳では、復活し)、彼ら(イエス様の時代のイスラエル人たち)を罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンまさるものがある。」ソロモンから神の知恵を聞いた女王が模範ですから、ましてソロモンよりはるかに立派なイエス様がおられるのに、イエス様に聞き従わないことはあり得ないことです。謙遜にイエス様に聞き従うことが、父なる神様に喜ばれることです。
次の小見出しは「体のともし火は目」です。33節「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」マタイ福音書5章14節以下には、こうあります。「あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなた方の光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなた方の天の父をあがめるようになるためである。」信仰の生き方を隠さないで、表明するようにと、おっしゃっています。
ルカに戻り34節「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」「濁っている」という言葉の元のギリシア語は、29節の「よこしま」と同じ言葉です。「濁っている」とは「よこしまで邪悪」だということです。従って「目が澄んでいる」はその反対で、「濁っていない、よこしまでない、邪悪でない」ということになります。当然、「目が澄んでいる」方がよいに決まっています。これまでの流れで言うと、イエス様と同じ時代のイスラエル人は、よこしまで邪悪だが、悔い改めたニネべの人々の目は澄んでおり、謙遜にソロモンから神の知恵を聞いたシェバの女王の目も澄んでいたことになります。もちろん、一番目が澄んでいて、心も澄んでいて清い方はイエス・キリストです。そして、私たちの両目は澄んでいるか、心は澄んでいて清いかが問われることになります。マタイ福音書5章8節には、「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」と記されていて、心に残ります。
エフェソ1章17~18節。パウロはクリスチャンを迫害していたが、彼の目は煮濁っていたと思います。パウロはイエス様に出会い、目が見えなくなった。使徒言行録9章17~18節、目からうろこのようなものが落ちた。使徒言行録26章17~18節。うろことは、わたしたちの心の中の偏見や誇り(プライド)、罪と思います(よいプライドもあるが)。曇りやうろこはわたしたちの目に知らないうちに再びつくことがあると思います。聖書を読み祈り、神様によって毎日目と心の曇りを取り除いていただきたい。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」この光は、イエス・キリストであり、私たちの心の中に住まわれる聖霊と思います。コヘレト7章29節。矢部喜好牧師。「天国が見える。イエス様が見える。ばんざーい」と召天。目と心が澄んだ人だったと思います。アーメン。
2025-10-01 12:44:28(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」10月号に掲載する石田真一郎の文章)
「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ」(「主(しゅ)の祈り」の第四の祈り)。
私たちに食事を与えて下さるのは、神様です。もちろん米や野菜を育てて下さる農家の方に感謝です。しおんでは先生方も農作業を担って下さり、感謝です。調理場の先生方、各家庭で食事を作るお母様、お父様に感謝です。しかし農家の方も、ゼロから米や野菜を作ることはできません。米、野菜、魚肉、全ての食べ物の大元の命を造ったのは神様です。
大人は、自分と家族を養うために働きます。ですが、あくせくし過ぎないことも必要です。イエス様は、父なる神様に信頼しなさいと言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食住)はみな、加えて与えられる」(マタイ福音書6章33節)。日曜日に教会で神様を礼拝し、平日に誠実に働けば、神様が必要な衣食住を与えて下さるので、心配しないようにと。これを聴いて、私たちは平安を得ます。
食糧の行き渡りを阻害する最たるものは、戦争です。人間が行う罪と悪が、飢餓をもたらします。私たちにはロシアがウクライナ攻撃をすぐやめ、ガザでの戦闘がすぐ終わるように、祈る責任があります。日本でも、太平洋戦争末期と戦後は、非常な食糧難でした。その原因は、①男性が兵隊になり、農業従事者が減った、②食糧輸入の海上ルートが連合国軍艦等によって遮断された、③空襲で鉄道・トラックが破壊され、農村から都市への輸送が滞った。天候不順もありますが、食糧不足の原因は人災も多いと思います。神様の恵みがあるのに、人が阻害します。
新約聖書には、パウロというイエス様の弟子が人々に、真の神様を信じるように紹介する場面があります。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は、過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」(使徒言行録14章15~17節)。私たちもこの神様を信じます。
旧約聖書に、次のすばらしい祈りがあります。「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主(神様)など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚(けが)しかねません」(箴言<しんげん>30章8~9節)。私たちもこの祈りを、毎日祈りたいのです。アーメン(「真実に」)。
私たちに食事を与えて下さるのは、神様です。もちろん米や野菜を育てて下さる農家の方に感謝です。しおんでは先生方も農作業を担って下さり、感謝です。調理場の先生方、各家庭で食事を作るお母様、お父様に感謝です。しかし農家の方も、ゼロから米や野菜を作ることはできません。米、野菜、魚肉、全ての食べ物の大元の命を造ったのは神様です。
大人は、自分と家族を養うために働きます。ですが、あくせくし過ぎないことも必要です。イエス様は、父なる神様に信頼しなさいと言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食住)はみな、加えて与えられる」(マタイ福音書6章33節)。日曜日に教会で神様を礼拝し、平日に誠実に働けば、神様が必要な衣食住を与えて下さるので、心配しないようにと。これを聴いて、私たちは平安を得ます。
食糧の行き渡りを阻害する最たるものは、戦争です。人間が行う罪と悪が、飢餓をもたらします。私たちにはロシアがウクライナ攻撃をすぐやめ、ガザでの戦闘がすぐ終わるように、祈る責任があります。日本でも、太平洋戦争末期と戦後は、非常な食糧難でした。その原因は、①男性が兵隊になり、農業従事者が減った、②食糧輸入の海上ルートが連合国軍艦等によって遮断された、③空襲で鉄道・トラックが破壊され、農村から都市への輸送が滞った。天候不順もありますが、食糧不足の原因は人災も多いと思います。神様の恵みがあるのに、人が阻害します。
新約聖書には、パウロというイエス様の弟子が人々に、真の神様を信じるように紹介する場面があります。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は、過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」(使徒言行録14章15~17節)。私たちもこの神様を信じます。
旧約聖書に、次のすばらしい祈りがあります。「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主(神様)など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き、わたしの神の御名を汚(けが)しかねません」(箴言<しんげん>30章8~9節)。私たちもこの祈りを、毎日祈りたいのです。アーメン(「真実に」)。
2025-10-01 12:42:29(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」9月号に掲載した石田真一郎の文章)
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる」(イエス・キリスト。マタイによる福音書5章9節)。
イエス・キリストが教えた「主の祈り」をテーマにして来ましたが、今回はお休みして、平和についての内容です。
戦後80年の8月なので、日本の教会青年6名、台湾の教会青年7名と大人数名で、広島市と長崎市を見学しました。猛暑でしたが、原爆を浴びた方々は、もっと熱かったはずです。原爆のため、1945年末までに広島で約14万人、長崎で約7万人亡くなったとされます。両市とも非常に復興していて、原爆資料館や平和公園を除けば、この上空で原爆がさく裂したと実感しにくいと感じます。だからこそ、風化させない努力が必要です。私の祖父の兄も広島で被爆死しています。
原爆で亡くなった人々の「声なき声」に耳を澄ます。その声はきっと、「戦争のない世界、核兵器のない世界を造ってほしい」と、私たちに訴えていると思うのです。私の母親は、広島県三原市出身で、その父(前出の私の祖父)は、そこの医院の医者でした。戦後は、片足のない方や片腕のない方が患者として来ていたそうです。兵隊だった方々でしょう。今では想像もつきませんが、戦争をするとこのようなことが現実になってしまいます。戦後80年もたち、私たち日本の国の「決して戦争をしない」と決意が、ゆるくなっていると感じます。タガを締め直し、決して戦争をしない決意を次世代、次々世代に継承する努力が必要です。
広島への投下前に、アメリカの砂漠で原爆実験が行われ、初の核爆発が起こりました。それを見た科学者の一部は「成功だ」と喜びましたが、多くの科学者は「しまった。とんでもないものを造った」と後悔しました。核兵器の恐ろしさは、放射能の悪影響が中長期に及ぶことです。私たち日本人が、核兵器の恐ろしさを一番骨身にしみて知っています(但し、在日コリアンも多く被爆している)。私たち日本人こそ、核兵器廃絶のために努力する必要があります。
長崎市の「二十六聖人殉教の丘」の記念館にも行きました。二十六聖人とは、豊臣秀吉の迫害で1597年に殺されたカトリックのクリスチャンです。そこで「下里しおん保育園の石田牧師ですね」と声をかけられて、びっくりしました。何と10年少し前の卒園生さんでした! 神様から、思いもかけない出会いのプレゼントをいただいて、嬉しくなりました。アーメン(「真実に」)。
イエス・キリストが教えた「主の祈り」をテーマにして来ましたが、今回はお休みして、平和についての内容です。
戦後80年の8月なので、日本の教会青年6名、台湾の教会青年7名と大人数名で、広島市と長崎市を見学しました。猛暑でしたが、原爆を浴びた方々は、もっと熱かったはずです。原爆のため、1945年末までに広島で約14万人、長崎で約7万人亡くなったとされます。両市とも非常に復興していて、原爆資料館や平和公園を除けば、この上空で原爆がさく裂したと実感しにくいと感じます。だからこそ、風化させない努力が必要です。私の祖父の兄も広島で被爆死しています。
原爆で亡くなった人々の「声なき声」に耳を澄ます。その声はきっと、「戦争のない世界、核兵器のない世界を造ってほしい」と、私たちに訴えていると思うのです。私の母親は、広島県三原市出身で、その父(前出の私の祖父)は、そこの医院の医者でした。戦後は、片足のない方や片腕のない方が患者として来ていたそうです。兵隊だった方々でしょう。今では想像もつきませんが、戦争をするとこのようなことが現実になってしまいます。戦後80年もたち、私たち日本の国の「決して戦争をしない」と決意が、ゆるくなっていると感じます。タガを締め直し、決して戦争をしない決意を次世代、次々世代に継承する努力が必要です。
広島への投下前に、アメリカの砂漠で原爆実験が行われ、初の核爆発が起こりました。それを見た科学者の一部は「成功だ」と喜びましたが、多くの科学者は「しまった。とんでもないものを造った」と後悔しました。核兵器の恐ろしさは、放射能の悪影響が中長期に及ぶことです。私たち日本人が、核兵器の恐ろしさを一番骨身にしみて知っています(但し、在日コリアンも多く被爆している)。私たち日本人こそ、核兵器廃絶のために努力する必要があります。
長崎市の「二十六聖人殉教の丘」の記念館にも行きました。二十六聖人とは、豊臣秀吉の迫害で1597年に殺されたカトリックのクリスチャンです。そこで「下里しおん保育園の石田牧師ですね」と声をかけられて、びっくりしました。何と10年少し前の卒園生さんでした! 神様から、思いもかけない出会いのプレゼントをいただいて、嬉しくなりました。アーメン(「真実に」)。
2025-10-01 12:39:38(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」8月号に掲載した石田真一郎の文章)
「御心(みこころ)の天に成る如く、地にもなさせたまえ」(「主(しゅ)の祈り」の第三の祈り)。
「御心(みこころ)」とは、真の神様のご意志です。それは天国では完全に行われていますが、この地上では十分に行われていません。旧約聖書には、出エジプト記20章と申命記5章に「モーセの十戒」が記されており、これが新約聖書をも貫く神の御心です。
①「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」
②「あなたは(礼拝のために)いかなる像も造ってはならない。」
③「あなたの神、主(しゅ)の名をみだりに唱えてはならない。」
④「安息日(礼拝の日)を心に留め、これを聖別せよ。」
⑤「あなたの父母を敬え。」
⑥「殺してはならない。」
⑦「姦淫してはならない(結婚以外の性的関係の禁止)。」
⑧「盗んではならない。」
⑨「隣人に関して、偽証してはならない。」
⑩「隣人の家を、欲してはならない。」
これらは「神様を愛し、隣人を愛する生き方」です。これらに違反することが罪です。イエス・キリストだけが、これらを100%実行されました。私たちは、残念ながら100%実行できません。その私たちの罪を赦すために、イエス様が十字架で、私たちの身代わりに父なる神様から裁かれて死なれ、三日目に復活され、今も天で生きておられます。
イエス様は十字架前夜に、ゲツセマネの園でこう祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯(十字架)を私から取りのけて下さい。しかし、私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように。」イエス様は父なる神様の御心に服従し、私たちの罪の責任を身代わりに背負うため、十字架にかかると決断されました。
イエス様の十字架の死こそ、父なる神様が私たち全ての人間の、真の救いのために行われた、最大の愛です。これほど私たちを愛して下さったイエス様を、私たちが自分の救い主と信じることこそ、最も神様の御心にかなうことです。「御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ。」私たちが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、十戒を行うことで、神様の御心が地上で実現され、神様が喜ばれます。私たちが神様を愛し、隣人を愛する(敵をも愛する)世の中になり、皆が住みやすくなります。「神は、その独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章16節)。これこそ、父なる神様の御心です。アーメン(「真実に」)。
「御心(みこころ)」とは、真の神様のご意志です。それは天国では完全に行われていますが、この地上では十分に行われていません。旧約聖書には、出エジプト記20章と申命記5章に「モーセの十戒」が記されており、これが新約聖書をも貫く神の御心です。
①「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」
②「あなたは(礼拝のために)いかなる像も造ってはならない。」
③「あなたの神、主(しゅ)の名をみだりに唱えてはならない。」
④「安息日(礼拝の日)を心に留め、これを聖別せよ。」
⑤「あなたの父母を敬え。」
⑥「殺してはならない。」
⑦「姦淫してはならない(結婚以外の性的関係の禁止)。」
⑧「盗んではならない。」
⑨「隣人に関して、偽証してはならない。」
⑩「隣人の家を、欲してはならない。」
これらは「神様を愛し、隣人を愛する生き方」です。これらに違反することが罪です。イエス・キリストだけが、これらを100%実行されました。私たちは、残念ながら100%実行できません。その私たちの罪を赦すために、イエス様が十字架で、私たちの身代わりに父なる神様から裁かれて死なれ、三日目に復活され、今も天で生きておられます。
イエス様は十字架前夜に、ゲツセマネの園でこう祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯(十字架)を私から取りのけて下さい。しかし、私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように。」イエス様は父なる神様の御心に服従し、私たちの罪の責任を身代わりに背負うため、十字架にかかると決断されました。
イエス様の十字架の死こそ、父なる神様が私たち全ての人間の、真の救いのために行われた、最大の愛です。これほど私たちを愛して下さったイエス様を、私たちが自分の救い主と信じることこそ、最も神様の御心にかなうことです。「御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ。」私たちが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、十戒を行うことで、神様の御心が地上で実現され、神様が喜ばれます。私たちが神様を愛し、隣人を愛する(敵をも愛する)世の中になり、皆が住みやすくなります。「神は、その独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章16節)。これこそ、父なる神様の御心です。アーメン(「真実に」)。