日本キリスト教団 東久留米教会

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2024-03-10 2:14:40()
説教「キリストこそ真理、真の王」  2024年3月10日(日)受難節第4主日公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~6,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編119:113~128、讃美歌21・300、聖書 ダニエル書5:21~24(旧約p.1389)、ヨハネ福音書18:28~40(新約p.205)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌311、献金、頌栄27、祝祷。 

(ダニエル書5:21~24) 父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草を食らい、天から降る露にその身をぬらし、ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。

(ヨハネ福音書18:28~40) 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

(説教) 本日は、受難節(レント)第4主日公同礼拝、説教題は「キリストこそ真理、真の王」です。です。新約聖書は、ヨハネ福音書18:28~40です。最初の小見出しは、「ピラトから尋問される」です。

 前回はペトロがイエス様を三度知らないと言ってしまい、イエス様の予告通り鶏が鳴いた場面まででした。本日の最初の28節「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。」ローマから派遣された総督ピラトは、普段は地中海沿岸のカイサリアに駐在していましたが、ユダヤ人の過越祭の時期にはエルサレムに来ていました。過越祭の時期は、ユダヤ人の民族意識と愛国心が高まって非常に盛り上がる時期だったので、ローマへの反乱が起きないように見張るためにエルサレムに来て、滞在していました。神殿のそばにあったアントニオ城にいたのではないかと言われます。そこが総督官邸と呼ばれたのでしょう。

 エルサレムの信仰指導者たちは、イエス様を総督官邸に連行しながらも、自分たちは官邸に入りませんでした。ピラトが外国人なので、外国人の住まいに入ると汚れると信じていたからです。それが当時のイスラエル人の考えでした。愛国心、選民意識、エリート意識が強すぎるとこうなるのかと思います。差別を生んでしまいます。日本でも、江戸時代末期には、外国人は汚れているので日本から追い払えという攘夷運動が燃え盛り、太平洋戦争中は鬼畜米英と呼んだり、朝鮮半島出身者や中国出身者を差別する意識もあったと思います。イエス様の弟子ペトロもユダヤ人なので、外国人と交際してはいけないと考えていましたが、使徒言行録10章28節を見ると、「神は私に、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」と言って、外国人を汚れていると見なす考えを変えたと言っています。

 イエス様を連行した人々は外国人ピラトを汚れていると見ていましたが、その実、自分たちではイエス様に手を下さず、ピラトを利用してイエス様を殺そうとしています。29~30節「そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、『どういう罪でこの男を訴えるのか』と言った。彼らは答えて、『この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう』と言った。」エルサレムの信仰の指導者たちがイエス様をピラトのもとに連行したのは、イエス様がユダヤ人の王を名乗るローマにとって政治的に危険な人物であると思わせ、死刑にしてもらうためです。31~32節「ピラトが、『あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け』と言うと、ユダヤ人たちは、『私たちには、人を死刑にする権限がありません』と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」使徒言行録7章のクリスチャン・ステファノの殉教の場面を見ると、ユダヤ人にも人を石打ちで殺す権限は認められていたと思えますが、ローマ人が政治犯を死刑にする十字架で人と死刑に処する権限はユダヤ人になかったのでしょう。とにかくエルサレムの信仰の指導者たちは、イエス様を何としても死刑にしたいのです。

 イエス様の死刑はどうしても十字架でなければなりませんでした。「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われたことが実現するためであった。」イエス様は12 章でおっしゃっています。「私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」その後にこう書かれています。「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」それは十字架の死なのです。十字架に上げられることで地上から上げられ、そして最終的に天に上げられる。」天に上げられることは栄光です。そのプロセスで十字架に上げられることも栄光なのです。十字架に上げられて、すべての人を御自分のもとに引き寄せる、それはすべての人に御自分のもとに来て救われるように招く、招待するということと思います。

 本日の33~34節、ピラトとイエス様の問答です。「そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、『お前がユダヤ人の王なのか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのですか。』」 「ピラトよ、あなたは私がユダヤ人の王かどうか、真剣に関心があるのか。それとも自分にとってどうでもよいことだが、ユダヤ人たちが『イエスを裁け』とうるさく言うから、仕方なく事務的に対応しているだけなのか。」これがイエス様の問いだと思います。ピラトの本心は後者です。ピラトは言い返します。「私はユダヤ人なのか。」「私はユダヤ人でないから、イエスよ、あなたがユダヤ人の王かどうか、私には全く関係ないこと、私にとってどうでもよいことだ。」「しかしイエスよ、あなたが本当にユダヤ人の王を名乗ってローマへの反乱を扇動するなら、私はローマから派遣されているユダヤ政治の責任者として、あなたを処分しなければならない。」「お前の同胞のユダヤ人や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」

 イエス様はお答えになります。36節。大切な御言葉です。この御言葉は、他の3つの福音書には記されていません。ヨハネ福音書だけに記されています。「私の国はこの世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない。」イエス様の国は神の国であって、この世の中の政治的な国とは違います。イエス様は確かに王ですが、この社会の政治的な権力者としての王ではなく、神の国の真の王です。全てのこの世の政治的な権力者もひれ伏すべき、宇宙の真の王、真理の王です。この王は、この世の王と武力で戦争はしません。この世の政治や権力を超越した究極の王です。父なる神様がその究極の王とも言えますが、その父なる神様の独り子イエス・キリストもまた、宇宙の真の王、真理の王、究極の王です。

 神が真の王だということは、旧約聖書のダニエル書にも明記されています。ユダヤ人ダニエルが、バビロン捕囚でバビロンに行き、バビロン帝国の王に仕えていたときのことです。神様が夢によってバビロン帝国のネブカドネツァル王に教えられます。「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり(つまり神が世界の真の王)、この神は御旨のままにそれを誰にでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできるということを、人間に知らせるためである。」しかしネブカドネツァル王が非常に傲慢だったため、神様の御声が響きます。「お前に告げる。王国はお前を離れた。お前は人間の社会から追放されて、野の獣と共に住み、牛のように草を食らい、七つの時を過ごすのだ。そうしてお前はついに、いと高き神こそが人間の王国を支配する者で、神は御旨のままにそれを誰にでも与えるのだということを悟るであろう。」このことは、直ちにネブカドネツァル王の身に起こります。その時が過ぎるとネブカドネツァル王は天を仰ぎ、理性が戻り、何と、いと高き神をほめたたえるようになりました。「その支配(神の支配)は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて、何をするのかと言いうる者は誰もいない。」
 
 その息子のベルシャツァル王の時代にも、ダニエルはバビロンで仕えていました。ベルシャツァル王も非常に傲慢だったので、ダニエルが告げます。「父王様は傲慢になり、頑なに尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草をくらい、天から降る露にその身を濡らし、ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なおへりくだろうとはなさらなかった。天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命を行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」それで神のメッセージがあなたに与えられたと語ります。「神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられた。あなたは秤にかけられ、不足と見られた。あなたの王国は二分され、メディアとペルシアに与えられる。」その夜、ベルシャツァルは殺されたのです。

 ヨハネ福音書に戻ります。「私の国は、この世には属していない」と言われたイエス様の言葉を聞いてピラトは、「それでは、やはり王なのか」と言います。イエス様が「私の国」と言われるので、自分の国があるならやはり王なのだな、と言ったのです。ピラトにはイエス様の言葉が理解できません。ピラトは政治的な王しか思いつかないのです。イエス様は言われます。「私が王だとは、あなたが言っていることです。分かりにくい言葉ですが、「ピラトよ、あなたはあくまでも私が政治的な王としか考えられないのだね」と意味だと思います。ピラトには、イエス様がこの世の政治的な王とは次元の異なる王だということが理解できず、イエス様とピラトの対話はかみ合いません。イエス様は言われます。「私は真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。」イエス様が真理という言葉を用いたため、ピラトは言います。「真理とは何か。」「真理とは何か」という問いは、深く考える人にとっては非常に重要な問いです。宗教や哲学に関わる領域です。でもピラトは、そこまで深い探求心で「真理とは何か」と述べたのではなさそうです。

 イエス様が、「私は真理について証しするために生まれ、そのために世に来た」と言われたので、戸惑って「真理とは何か」と言った程度と思います。しかしイエス様は、ローマ帝国を脅かすような政治的な王ではないことは分かったのだと思います。イエス様にしてみれば、ピラトにも、心を低くして真理そのものであるイエス様を受け入れてほしい、と願っておられたと思います。「真理に属する人は皆、私の声を聞く」と言われたイエス様は、ピラトにもイエス様の声を、深く受け入れてほしいと願っておられたでしょう。イエス様はこの福音書の10章で、「私は羊のために命を捨てる。私にはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われました。ほかの羊であるピラトをも、何とか永遠の命へと導きたいと願っておられたと思います。しかし、残念ながらピラトの心には、イエス様の深い御心が届きません。ここでイエス様は権力者ピラトを恐れず、ご自分のことを証しされ、所信を堂々と語られました。「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」イエス様は14章で既に語っておられました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」イエス様の証しについて、テモテへの手紙(一)6章13節は、こう述べます。「ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエス。」まさにその通りです。

 次の小見出しは、「死刑の判決を受ける」です。「ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。」ピラトはイエス様とユダヤ人たちとの間を何度も行ったり来たりしています。「私はあの男に何の罪も見出せない。」あの男にはローマへの反乱を唆す罪は全くないし、死刑になるような殺人などの犯罪を犯した事実も全くない。無実だ。「ところで、過越祭には誰か一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」ピラトはイエス様の無実を確信しているのですから、こんなことを言わず、総督の権限で直ちに釈放すべきなのですが、ここにピラトの気の弱さが現れています。ピラトば、ユダヤ人たちが「分かった。イエスを釈放してほしい」と言うのを期待したのでしょう。ユダヤ人たちに下駄を預けたのは、裏目に出ました。ピラトの弱気を見抜いた人々は、ここぞと圧力をかけます。「その男ではない。バラバを」と大声で言い返します。ピラトは大声に負けてゆきます。大声が間違っていることもあります。バラバは強盗であったと書かれています。単純な強盗ではなく、愛国心によって反ローマ活動を行った者ではないかと言われます。ユダヤ人に人気があったのでしょう。

 本日の場面は、イエス様が問いただされている場面です。問いただされればされるほど、イエス様が無実の方、真理の方であることが、ますます明らかになります。にもかかわらず、ピラトもエルサレムの信仰指導者たちも、生ける真理であるイエス様を抹殺する方向に、どんどん進みます。ユダヤ人たちとありますが、この人々は、私たち人間の罪深さを象徴する存在として登場しています。ユダヤ人たちがイエス様を死に追いやったので、ヨーロッパではユダヤ人が悪いということになり、反ユダヤ主義が力をもちました。それは大きな間違いです。ここに登場するユダヤ人たちは、私たち人間全体の自己中心の罪深さを象徴する者として登場しています。キリスト教会の歴史にも、罪と失敗があります。その1つはガリレイ裁判です。カトリック教会は、地動説に賛成する学者ガリレオ・ガリレイに、1633年に有罪を宣告しました。1992年に、今から2代前のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、17世紀のカトリック教会の過ちを認めて、謝罪しました。人間は過ちを犯しやすい者です。私たちが、何が真理で真実であるか、神様から知恵をいただいて、狂いのない眼で真理を見定めることができるように努力し、祈って参りましょう。アーメン。

2024-03-03 1:14:44()
説教「イエス・キリストと弟子ペトロ」  2024年3月3日(日)受難節第3主日公同礼拝
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編119:97~112、使徒信条、讃美歌21・299、聖書 箴言20:22(旧約p.1017)、ヨハネ福音書18:15~27(新約p.204)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌303、献金、頌栄92、祝祷。 

(箴言20:22) 悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。

(ヨハネ福音書18:15~27) シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

(説教) 本日は、受難節(レント)第3主日公同礼拝、説教題は「イエス・キリストと弟子ペトロ」です。です。新約聖書は、ヨハネ福音書18:15~27です。最初の小見出しは、「ペトロ、イエスを知らないと言う」です。

 イエス様は十字架向かう決心を固めておられるのです。一番弟子のペトロが、イエス様を捕えにきた大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落としたときです。イエス様は「剣をさやに納めなさい。父(父なる神様)がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」苦き杯を飲み干す、十字架にかかる決意が固いのです。イエス様は進んで捕えられました。一隊の兵士がおりました。一隊は少なく見ても約200名とのことです。イエス様はまず大祭司カイアファのしゅうと、アンナスの所へ連行されました。現役の大祭司よりしゅうとの方が力をもっていたのでしょう。

 そして最初の15節「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中に入ったが、」とあります。「もう一人の弟子」はよく、このヨハネ福音書を書いたヨハネ自身だろうと言われますが、明確にヨハネとは書いていないので断定はできません。この弟子は大祭司の知り合いだったのですね。それで大祭司の屋敷の中庭に入ることができました。一方、ペトロは門の外に立っていました。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中へ入れた。」周りに何人くらい人がいたのか分かりませんが、夜中のことで暗かったはずです。ペトロにしてみれば、人々の中に紛れ込んで隠れることができると思って、屋敷の中庭に入ったと思います。門番の女性は、ペトロを中に入れたとき、ペトロの顔を見て、見覚えがあると感じたのでしょう。門番の女性は、大祭司の屋敷側の人間です。やや大げさに言えば、権力側です。彼女が言いました。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは驚愕したに違いありません。思わず「違う」と答えてしまいました。最初は、イエス様を裏切ったという自覚もなかったのでしょう。

 しかしここで、数時間前のイエス様の予告が実現してしまいました。イエス様が弟子たちの足を洗った後で言われたのです。「私の行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言いました。「主よ、なぜ今ついていけないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエス様は言われました。「私のために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう。」イエス様は、天地創造をなさった神様なので、ペトロの全てをペトロよりも深くご存じ、これから起こることも全部ご存じでした。そしてイエス様はこの時、ペトロのために執り成しの祈りを祈っておられたのです。ルカによる福音書22章によると、イエス様はこのときペトロに、こうも言われたのです。「シモン、シモン、サタンはあなた方を小麦のようにふるいにかけるこを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様は、ペトロのためにこのように予め執り成しの祈りをなさいました。それでペトロは裏切りを悔い改めて立ち直ることができました。しかしイエス様が「あなたのために祈った」と言われたときは、ペトロはなぜそんなことをおっしゃるのか、理解できませんでした。あとあとになってやっと、イエス様の執り成しの愛が、自分に予め与えられていたことに思い至り、先行する(先に存在していた)イエス様の支えの愛に感謝したに違いありません。

 さてペトロは門番の女性に「あなたもあの人の弟子の一人ではありませんか」と突然急所を突かれて動転し、「違う」と言ってしまいました。保身のために知らんぷりすることしか思いつきませんでした。彼は正々堂々と「私はそうである」と言えばよかったのに、それをせず、人々の中に紛れ込んで隠れようとします。「僕や下役たちは、寒かったので炭火を起こし、そこに立って火に当たっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。」イエス様の十字架は、ユダヤ人の過越しの祭りの時期ですから、ちょうど今頃の季節です。夜中は寒く、外で過ごすには火を焚くことが必要でした。

 この正反対に、正々堂々と振る舞い、全く逃げ隠れしない方がイエス様です。次の小見出し「大祭司、イエスを尋問する」に進みます。19節「大祭司は(実際には大祭司カイアファのしゅうとアンナス)はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。」アンナスは、イエス様がユダヤ社会で反体制運動を始めるつもりではないかと疑っているようです。20節「イエスは答えられた。『私は、世に向かって公然と話した。私はいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。』」その通りで、現にヨハネ福音書7章でエルサレムのある人々が次のように言っています。「これ(イエス様)は、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシア(救い主)だということを、本当に認めたのではなかろうか。」そう言われるほど、イエス様は公然と教えられたのです。ですからだ大祭司の前で言われるのです。「ひそかに話したことは何もない。なぜ、私を尋問するのか。私が何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々が私の話したことを知っている。」イエス様は、全く悪びれずに、堂々と語られます。

 22~23節「イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、『大祭司に向かって、そんな返事の仕方があるか』と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。『何か悪いことを私が言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜ私を打つのか。』」この発言が全く正当だったので、平手で打った下役も全く言い返すことができず、黙ってしまいました。」ここで明らかになっていることは、イエス様が完全に無実であることです。アンナスは、イエス様を有罪にする理由を何一つ見つけることができず、イエス様を義理の息子、現役の大祭司カイアファの元に送りました。

 イエス様はいつも公然と話されました。ユダヤ人たちだけではなく、世界に向かって真理を語られたのです。私たち教会もそうです。説教者は公然と語り、世界に向かってオープンに語ります。週報に本日の礼拝は、「受難節(レント)第3主日公同礼拝」と書いてあります。公同の礼拝とは、公の礼拝です。プライベートな礼拝ではありません。どなたが参加しても構わない公の礼拝です。説教もプライベートにではなく、公に語る説教です。教会は秘密結社ではありません。その教えは、特定の人々の中の秘密の教えではありません。キリストの福音は、全世界の全ての人に宣べ伝えられなければなりません。完全にオープンです。説教題も教会の外に看板に書いて、世界に向かって公に告知しているのです。マタイ福音書5章でイエス様が言われました。「山の上にある町は、隠れることができない。」教会も隠れることができません。迫害の時代で隠れざるを得ないこともありますが、原則は公に堂々と礼拝を守ります。私たちの信仰告白もそうです。ローマの信徒への手紙10章9~10節に、こう書かれています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」信仰告白を口で公に言い表すことが必要です。ですから洗礼式の時に、3つの問いに口に出して公に答えていただき、そして洗礼を受けていただく流れになります。そして毎週の礼拝での使徒信条や日本基督教団信仰告白も、声に出して公に告白することが大切です。

 イエス様が大祭司に向かってあまりにも堂々と述べたので、下役の一人が「大祭司に向かって、そんな返事の仕方があるか」と言って、イエス様をヒ平手で打ちました。イエス様は少しもひるまず、堂々と抗議されました。しかし、縛られていたせいもありますが、イエス様は復讐して打ち返すことはなさいません。口で抗議なさっただけです。箴言20章22節(本日の旧約聖書)を思い出してもよいようです。「悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みを置け、主があなたを救って下さる。」イエス様も、平手打ちの悪に復讐せず、父なる神様の裁きにお委ねになりました。父なる神様は、十字架の後に、復活によってイエス様に報いて下さいました。

 さて、弟子のペトロです。、イエス様が大祭司の尋問に堂々と答え、ご自分の真理を貫いたのに対し、ペトロにはそれができませんでした。3つめの小見出しは、「ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う」です。25節以下です。「シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が『お前もあの男の弟子の一人ではないのか』と言うと、ペトロは打ち消して、『違う』と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた身内の者が言った。『園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか。』ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。」

 先々週の説教で、イエス様はよく「エゴー・エイミー」とおっしゃったと申し上げました。これは「私は〇〇である」の意味です。「私は命のパンである。」「私は世の光である。」「私は命のパンである。」「私はこうだ」という意味です。ペトロは今日の箇所で2回「違う」と言っています。元の文から直訳すると2回とも「私はそうではない」、「私はそうではない」という言い方です。つまりイエス様と正反対の言い方です。イエス様が堂々と「私はこうだ、私はそうだ」とはっきり肯定しておられるのに対してペトロは、その正反対「私はそうではない」、「私はそうではない」と、明確に否定しています。ヨハネ福音書は二人を対比していると言えます。ペトロは、「違う」「違う」と真実でないことを言いながらも、自分がイエス様を裏切っていることに気づいていませんでした。神様が気づきを与えて下さいます。「ペトロは再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。」ペトロは、わずか数時間前のイエス様の予告を思い出したに違いありません。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう。」その通りになったのです。

 他の3つの福音書は、イエス様を裏切る罪を犯したことに気づいたペトロが、泣いたことを記しています。これはペトロの純真なところです。裏切りの罪を犯したことは事実ですが、ペトロは心から罪を悔い改めたのでした。この悔い改めは、父なる神様の御心に適ったに違いありません。ここではコリントの信徒への手紙(二)7章を引用するのが適切でしょう。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ…。」イエス様も、本心から悔い改めたペトロの罪を、赦して下さったに違いありません。ヘブライ人への手紙4章15節に、こう書いてあるからです。「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。」

 それにしても、鶏が鳴いた出来事は印象的です。鶏は早朝に泣いて、人間たちを目覚めさせます。この時、鶏の鳴き声で自分の罪に気づいたペトロが後に書いたペトロの手紙(一)5章8節以下にこうあります。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなた方と信仰を同じくする兄弟も、この世で同じ苦しみに遭っているのです。」先々週、日本基督教団の教育委員会の務めで、横浜市の蒔田教会に伺い、教会学校教育について古谷正仁牧師の講演を伺って、学びました。蒔田教会の礼拝堂を外から見ると、屋根に十字架と共に、鶏のシンボルマークが設置されていました。教会に行く度に、この鶏マークが目に入ります。それは「目を覚ましていなさい」との無言のメッセージです。教会に来る人は、毎回自分に問いかけることになります。「私は今、ペトロのようにイエス様を裏切っていないだろうか? イエス様に日々従って生きているだろうか? 信仰的に目を覚ましているだろうか?」

 私の手元にブルーダーという人が書いた『嵐の中の教会』という本があります。副題は「ヒトラーと戦った教会の物語」です。ヒットラーに率いられたナチスはユダヤ人を大勢殺し、ユダヤ人が大事にする旧約聖書を嫌い、キリスト教会においても旧約聖書を捨て去ることを求めるなど、キリスト教会を骨抜きにしようとしました。それに抵抗するため、牧師緊急同盟が結成され、告白教会運動という教会運動が展開されました。今こそ目を覚ましてイエス・キリストに従わなければならない。その時代の小さな村の教会の抵抗を物語風に記したのがこの『嵐の中の教会』という本です。ドイツ人の優秀さが強調され、ユダヤ人が迫害され、障がいをもつ人々にも安楽死が強制されることもありました。ナチスが賛美され、ヒットラーこそすばらしい指導者と賛美される時代の中で、教会は惑わされないでひたすら目を覚まし、ヒットラーではなく、イエス・キリストにのみ従わなければならない。

 この本に登場する牧師が、聖餐式を司式する時に語っています。「聖餐式によって生まれる共同体は、国民共同体(ナチスが力をもつドイツ国家)よりもはるかに深いものがあります。キリストの体なる教会、つまり信ずる者の群れは、いかなる国籍、いかなる民族に属する人間をもすべて包括するからであります。」「私たちは、一人のい方(キリスト)の死を通して、このパンとぶどう汁において、お互い同士結び合わされて一つになるのです。~今や、私たちが自分の信仰告白によって確証しなければならない決定的な時が、わが村に到来したことは、疑うべくもない事実であります。」私たちは信仰告白をなんとなく朗読するのではなく、一言一言に信じる意志を込めて、告白致します。そしていつも信仰の目を覚まして、イエス・キリストこそ真の救い主と告白し、イエス・キリストに従う毎日と生涯を生き抜きたいのです。アーメン。

2024-02-24 23:50:44(土)
説教「聖霊による一致」  2024年2月25日(日)受難節第2主日公同礼拝
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編119:81~96、使徒信条、讃美歌21・514、聖書 民数記12:3(旧約p.)、エフェソの信徒への手紙4:1~6(新約p.)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌515、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(民数記12:3) モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。

(エフェソの信徒への手紙4:1~6) そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

(説教) 本日は、受難節(レント)第2主日公同礼拝、説教題は「聖霊による一致」です。です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4:1~6です。最初の小見出しは、「キリストの体は一つ」です。

 できるだけ毎月一回、エフェソの信徒への手紙を読む礼拝を、神様に献げています。この手紙の1章1節には、イエス・キリストの弟子・使徒パウロがこの手紙を書いたと書かれています。色々な理由により、この手紙が書かれたのはパウロの時代より後であり、パウロの信仰を受け継いだ後継者がこの手紙を書いたのではないかという説もあります。しかしこの礼拝では、1章1節の御言葉をそのまま受け入れ、パウロが買いた手紙と見て説教も行っています。パウロが書いた諸手紙には1つの構造があり、前半で福音を語り、後半で救いに基づくクリスチャンの生き方を述べるという構造です。エフェソの信徒への手紙も、大きく分けると1~3章が福音で、4章から先が福音に基づくクリスチャンの生き方を述べていると言えます。

 1節「そこで、主に結ばれて囚人となっている私はあなた方に勧めます。勧めは勧告です。福音に基づいて、このような生き方をするように勧めます、勧告しますというのです。目を引くのは、パウロが自分を「主(イエス・キリスト)に結ばれて囚人となっている」と言っていることです。実は3章1節でも同じことを言っていました。「あなた方、異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっている私パウロは。」パウロが「キリストの囚人」ならば、私たちも「キリストの囚人」です。「キリストの囚人」を言い換えると、「キリストの奴隷」となります。パウロは、ローマの信徒への手紙6章16節以下で、こう語っています。「あなた方は罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなた方は、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」クリスチャンは、ただイエス・キリストの十字架と復活によって、すべての罪を赦され、罪の奴隷状態から解放されました。それまでは罪と死に支配され、罪と死の奴隷でしたが、そこから解放され、自由にされました。

 では自由にされたのだから、糸の切れた凧のように自由気ままに飛んで行ってしまうのかと言うと、そうではありません。今は聖霊に満たされて、義の奴隷になった、神様の奴隷になった、イエス・キリストの奴隷になったのです。奴隷と言うと驚かれるかもしれませんが、新約聖書の元の言葉であるギリシア語では、確かにクリスチャンは「神の奴隷、キリストの奴隷」だと明記されています。奴隷は僕(しもべ)と訳すこともできるので、教会では、「私たちクリスチャンはイエス・キリストの僕」だという言い方の方が定着しています。しかし、僕ははっきり言えば「奴隷」です。

 しかし無理やり働かせられる奴隷とは違います。私たちはイエス・キリストの御姿を見上げます。イエス様が私たちの奴隷(僕)となって下さった御姿を見上げます。自ら進んで私たちの奴隷(僕)となって、弟子たちと私たちの足を洗って下さった御姿、自ら進んで私たちの奴隷となって、私たち皆の罪を背負って十字架に架かって下さった御姿を見上げます。そして私たちは、僕の生き方を学びます。イエス様を模範とし、イエス様に従って生きて行こう。イエス様に倣って、自分も父なる神様の僕、イエス様の僕、イエス様の囚人として、父なる神様を愛し、隣人を愛し、父なる神様にお仕えし、隣人にお仕えして生きて行こうと思うようになります。

 その生き方が具体的、エフェソ書4章1~3節に記されています。「そこで、主に結ばれて囚人となっている私はあなた方に勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」イエス様の僕にふさわしく歩みなさい、と勧められています。「一切たかぶることなく」を口語訳聖書は、「できる限り謙虚で」と訳しています。この「高ぶることなく」と訳された言葉は、使徒言行録20章19節に出て来ます。パウロがエフェソ教会の長老たちに別れを告げる場面です。パウロはこう述べます。「すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかって来た試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。」自分を「全く取るに足りない者と思い」が、「一切高ぶることなく」と同じ言葉です。エフェソの教会の人々に「一切高ぶることなく」歩みなさいと説いたパウロ自身が、その通りに一切高ぶることなく、自分を取るに足りない者とエフェソの教会の長老たちに告げて、伝道に励みました。イエス様ももちろん謙遜で、旧約聖書の偉大なリーダー・モーセについても聖書は、民数記12章3節(本日の箇所)で、「モーセという人はこの地上の誰にもまさって謙遜であった」と書かれています。もちろんイエス様こそ、最も謙遜な方なのです。

 2節の続きには、「柔和で、寛容の心を持ちなさい」と書かれています。2~3節に書かれていることは全部、イエス様の心です。イエス様を真似をしていればよいのです。柔和という言葉は、イエス様の「山上の説教」に出て来ますね。マタイ福音書5章5節「柔和な人々は、幸いである。その人たちは、地を受け継ぐ。」そして寛容の心。これもイエス様の心であり、同時に父なる神様の持つ心です。2節の後半から3節「愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めさい。「愛、忍耐、平和。」この
3つもやはり、父なる神様の心、イエス・キリストの心です。2~3節に登場する言葉、「一切高ぶらない(謙遜)、柔和、寛容、愛、忍耐、平和、霊(聖霊)」を見ると、ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節の「聖霊の実」と重なるとの印象を受けます。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」「愛、平和、寛容、柔和」が共通です。

 エフェソ4章に戻り3節「平和のきずなで結ばれて、霊(聖霊)による一致を保つように努めなさい。」「務める」と訳されたギリシア語は、辞書によると「熱心に努める」の意味です。英語のある訳を見ると、「平和のきずなの中で、霊による一致を維持する(保つ)ためにすべての努力しなさい」と訳されていました。神様が霊(聖霊)によって一致した教会をお造りになった。その霊によって一致した教会の一致を維持する(保つ)ために熱心に努めなさい、すべての努力をしなさい。「平和のきずなに結ばれて、霊(聖霊)による一致を維持するために」です。平和と一致を維持するためには、熱心な努力と、すべての努力が必要だというのです。平和と一致は、何となく維持できるものではなく、絶え間ない努力、惜しみない努力が必要だと言っているように聞こえます。世界レベルでもそうですし、一つの教会の中でも、多くの教会の集まりにおいてもそうだと言っているように聞こえます。ある意味、壊すこと、分裂することは難しくない。一致を維持するためにこそ、尊い努力が必要。

 やや飛躍するようですが、ナチスと戦って39才で死刑になったドイツのボンヘッファーという牧師は、「安全保障の道を通って、平和に至る道は存在しない。平和とは、なさなければならないことであり、一つの冒険」だと書いているそうです。「平和とは一つの冒険」とは、平和は簡単に実現するものではなく、「私たちの不断の祈りと努力によって初めて実現できること」ということでしょう。戦争は真の解決を遠のかせる安易な手段であり、平和を造る地道な努力の方がはるかに尊く、もっと大変ということと思います。「平和のきずなで結ばれて、霊(聖霊)による一致を保つように努めなさい。」このような御言葉が、教会総会の日に与えられていることも、意味深いと感じます。
 
 4~5節は実に印象的です。まず「体は一つ。」聖書では教会はキリストの体です。イエス様が頭で教会はキリストの体です。体は一つ、つまり教会は本来一つです。「霊(聖霊)は一つ(お一人)です。それは、あなた方が、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」ここは原文を調べると、「一つの体、一つ(一人)の霊、一つの希望、一人の主、一つの信仰、一つの洗礼(バプテスマ)、唯一の神」です。「一つの(一人)の」という言い方が7つ続くのです。「一つの体、一つ(一人)の霊、一つの希望(天国の希望)、一人の主、一つの信仰、一つの洗礼(バプテスマ)、唯一の神。」「一つ(一人)」が強調されています。神様がお一人なので、その神様が源なので、そこから一つの教会、一つ(一人)の霊、一つの希望、一人の主、一つの信仰、一つの洗礼(バプテスマ)」が出て来るのですね。お一人神様から一つの体、つまり一つの教会が出た。このように教会は本来一つの教会なのだから、私たちは、「愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊(聖霊)による一致を保つように努める」、熱心に努める、すべての努力を注ぐことが求められています。エフェソの信徒への手紙の大きなテーマは「教会」です。教会だけがテーマでないかもしれませんが、「イエス・キリストの教会とは何か」が重要なテーマの一つであることは、事実です。

 「教会は一つ」とありますが、現実の教会は多くの教派に分かれています。まず10世紀に西方教会(カトリック教会)と東方教会(ギリシア正教会)に分裂しました。16世紀に西方教会内で宗教改革が起こり、カトリック教会からプロテスタント教会が分かれ出ました。宗教改革を経たけれどもカトリック的要素も残したのが聖公会と言えそうです(カトリックとプロテスタントの中間)。プロテスタントの中でも多くの教派教団に分かれています。福音派の諸教会、救世軍、メソジスト教会、バプテスト教会、セブンスデー・アドヴェンティスト、無教会、日本基督教団。百花繚乱とも言えます。しかし、分かれることが多かったけれども、20世紀になって起こって来たのが、エキュメニカル運動(世界教会運動、教会一致運動)です。プロテスタントの1910年のエジンバラ世界宣教会議から始まったそうですが、カトリックが1962年から1965年に行った第二バチカン公会議でプロテスタント等との対話に転換したことで大きく前進したようです。私たちも用いているこの新共同訳聖書の大きな意義は、プロテスタントとカトリックが協力して翻訳した点にあります。そのことは前文に明記されています。

 「一つの(キリストの)体、一つの霊、一つの希望、一人の主、一つの信仰、一つの洗礼(バプテスマ)、唯一の神。」暫く前の礼拝で読んだ、ヨハネ福音書17章のイエス様の祈りが思い出されるのです。17章21節「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」これは狭くとれば、すべてのクリスチャンを一つにしてください、ですし、広くとれば、世界のすべての人を一つにして下さい、の意味になります。そして22、23節のイエス様の祈りは、すべてのクリスチャン・すべての教会が一つになるようにとの祈りです。「あなたが下さった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」この祈りが少しずつ実現に向かっているのではないかと思います。

 「一人の主、一つの信仰。」このように言われていますが、私たちが信仰の一致のために重視しているのが信仰告白です。聖書の信仰を短く正確に結晶させた宝石が信仰告白です。その代表は使徒信条です。多くの教派で共有されています。同じく重要な信仰告白が二ケア信条で、『讃美歌21』の147ページに記載されており、私たちも時々読んで学ぶとよいものです。そして日本基督教団では、日本基督教団信仰告白を制定しています。日本基督教団は1941年に多くの教派が合同してできたので、何が正しい信仰なのか明確にする必要があったので、制定されました。使徒信条より詳しい内容です。東久留米教会では、聖餐式を行う礼拝の時には、日本基督教団信仰告白を皆で告白しています。これも非常に普遍的な内容で、クリスチャンなら世界のどの人にも賛同していただける信仰告白と信じます。私たちはこれを共に告白することで、「一つの信仰、一つの体」であることを確認することができます。最近お会いしたある80才ほどの牧師の方は、「私たちの教会では毎週の礼拝で、皆で日本基督教団信仰告白を告白していますよ」と言われました。「暗記したらいいんだよ」とも言われました。私は牧師ですから暗記していますが、皆様もぜひトライして下さい。無理強いはできませんが、ぜひ暗唱にトライして下さい。

 6節「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」私は最近、教会防災ネットワークNHK(新座 東久留米 清瀬)の清瀬バプテスト教会の会員のドクターがYou Tubeで提供して下さったその方の講演を聴きました。希望の方には、申し出て下さればオンラインで視聴できるように手配します。清瀬の病院と教会の歴史についての講演です。清瀬にはかつて、結核療養所が多かった。今清瀬にある病院の多くはかつて、結核療養が中心だったそうです。教会と病院がセットになっている所が3箇所あります。カトリックの秋津教会とベトレヘム病院(高齢者ホーム、今は天国におられる教会員・児玉敏子さんが入居)、救世軍の教会と救世軍の清瀬病院、日本基督教団清瀬信愛教会と信愛病院。教会と関係ない病院も多い。療育園もあります。ベトレヘム病院は、中野の江古田の修道院におられた外国人の神父が尽力してできたそうです。江古田の修道院の隣りのホームには平原さんが入居しておられました。シスターやクリスチャンたちが結核療養病院でも奉仕されました。患者の方が亡くなると、シスターがご遺体をリヤカーで10キロ以上もお運びしたそうです。清瀬が神様の愛と癒しの街であることが、改めて分かりました。「すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられる神様がお隣の清瀬市においても、もちろんこの東久留米市においても、今も生きて、愛をもって働いて下さって下さることを感謝致しました。アーメン。

2024-02-18 3:02:09()
説教「イエス・キリストの勇気」  2024年2月18日(日)受難節第1主日公同礼拝・「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第67回)
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄29、主の祈り,交読詩編119:81~96、使徒信条、讃美歌21・294、聖書 出エジプト記3:14(旧約p.97)、ヨハネ福音書18:1~14(新約p.203)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌288、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(出エジプト記3:14) 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。

(ヨハネ福音書18:1~14) こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
 
(説教) 本日は、受難節(レント)第1主日公同礼拝、同時に「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第67回)です。説教題は「イエス・キリストの勇気」です。です。新約聖書は、ヨハネ福音書18:1~14です。最初の小見出しは、「裏切られ、逮捕される」です。

 17章は、イエス様の長い祈りでした。ご自分のために祈り、直弟子たちのために祈り、直弟子ではない将来のクリスチャンたちのために祈られました。17章は「大祭司キリストの祈り」とも呼ばれます。祭司、大祭司の役割は、他の人々のために、執り成しをすることだからです。イエス様は、執り成しの祈りを完了してから、行動を開始されます。18章1節。「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園あり、イエスは弟子たちとその中に入られた。」イエス様が16章の最後で「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と力強く宣言された宣言を思い出しながら読みたいと思います。イエス様は、勇敢にキドロンの谷を通り、向こうの園に入ってゆかれます。これがマタイによる福音書とマルコによる福音書が述べるゲツセマネの園でしょう。キドロンとは、「黒く、暗い」の意味だそうです。キドロンの谷は、神殿のある丘とオリーブ山を分断し、エルサレムの都の東側を南北に走る谷でした。そこは暗い場所だったと思われます。

 2節「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。」イエス様は、ユダが裏切ることも分かっておられ、ユダが園の場所をよく知っていることを承知の上で、あえて園に行かれたように見えます。全く逃げ隠れせず、堂々と「私はここにいるよ」とはっきり示しておられます。イエス様の十字架は、ユダヤ人の過越祭の時でした。過越祭の時期は満月だそうです。園の中でイエス様も満月に照らされて、周囲からはっきり見えたのではないかと思われます。

 3節「それでユダは、一隊の兵士(ローマ軍の兵士)と、祭司長やファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。」満月なので松明やともし火はいらないとも思えますが、万一イエス様を発見できないといけないと、用心深く用意したのでしょう。武器は、イエス様と弟子たちの抵抗を予想したので用意しました。一隊の兵士はある本によると、少なくみても約200人とのことです。大がかりです。イエス様たちが激しく抵抗すると、逮捕は簡単でないと考えたのでしょう。

 4~5節「イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『誰を探しているのか』と言われた。彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『私である』と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。」4つの福音書は皆、イエス・キリストの御言葉とお働きを記していますが、ヨハネ福音書は特にイエス様の神の子としてのお姿を強調しています。イエス・キリストは神の子(そして三位一体の神様)であり、同時にマリアさんから生まれた人間です。100%神の子であり、100%人間であられる方がイエス・キリストです。決して50%神の子、50%人間ではないのです。イエス様は100%神の子であり、同時に100%人間です。その現実の中で、ヨハネ福音書は神の子としてのイエス様の力強いお姿を強調しています。イエス様は、ご自分を捕える人々が来たことを承知の上で、ご自分から進んで「誰を探しているのか」と問いかけます。勇気ある態度です。

 「彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『私である』と言われた。」実に勇敢な姿勢です。何回もお話しています通り、「私である」は新約聖書の原文のギリシア語で「エゴ―・エイミー」です。英語にすると「アイアム」に当たります。「私は〇〇だ」の意味です。単純に「私だ」の意味にもなります。これは旧約聖書の出エジプト記3章14節と深く関わる御言葉であると、何度も申し上げてきました。それは真の神様がモーセに自己紹介なさる場面です。「神はモーセに、『私はある。私はあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「私はある」という方が私をあなたたちに遣わされたのだと。』」旧約聖書のギリシア語訳を見ると、「私はある」は「エゴ―・エイミー」になっています。そしてイエス様は本日の箇所で「私である(エゴ―・エイミー)」と名乗り出ておられる。つまり、「私こそ、出エジプト記でモーセに出現した神にほかならない」と宣言しておられるのと同じです。

 イエス様は、ヨハネ福音書でご自分の本質を何回も力強く宣言しておられますね。「私が命のパンである。」この御言葉の中にも「エゴー・エイミー」というギリシア語が含まれています。「アイアム 命のパン」というわけです。ほかにも「私は世の光である」、「私は良い羊飼いである」、「私は復活であり、命である」、「私はぶどうの木」。そして今日の御言葉が極め付きともいえます。「私である!」「あなた方が探しているナザレのイエスは私である。」「私こそ、モーセに出現した真の神である。」

 6節「イエスが『私である』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。」ある人はこの場面に、イエス様の気迫を感じると書いています。そうでしょうし、イエス様の神としての輝かしい栄光と威光と威厳に、彼らが圧倒されたとも思うのです。「私は既に世に勝っている」というイエス様の宣言が本当であることが証明されたとも言えます。イエス様はこの場面の主役です。7節「そこでイエスが、『誰を探しているのか』と重ねてお尋ねになると、イエスは言われた。「『私である』と言ったではないか。私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」威厳に満ち、落ち着いているイエス様は、弟子たちを保護しようとなさいます。「私のここにいる十一人」守ろうとして、捕らえに来た人々に、「この人々は去らせなさい」と指示なさいます。祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエス様の栄光と威厳に打たれて、自然と指示に従ったのだと思います。捕らえられる身でありながら、イエス様がこの場面をリードする主人公なのです。

 9節「それは、『あなた(父なる神様)が与えて下さった人を、私は一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった。」これは17章12節のイエス様の祈りの言葉と深く関わると思われます。「私は彼ら(直弟子たち)と一緒にいる間、あなたが与えて下さった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子(ユダ)のほかは、誰も滅びませんでした。」「あなたが与えて下さった人を、私は一人も失いませんでした」と「私が保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした」の意味は、ほぼ同じと思います。イエス様が逮捕される場面で、弟子たちも一緒に捕まる可能性が十二分にありました。しかしイエス様が神の子の威厳と権威をもって命じると、祭司長・ファリサイ派の人々・兵士たちは皆従ったのです。イエス様は捕らわれるのですが、それは進んで自発的に捕らわれるのであって、実はイエス様がこの場面をコントロールしておられるのです。実は十字架にかかる時も同じです。実はイエス様は、置かれた状況に負けておられません。それで弟子たちも、イエス様の見えない力によって保護されて、逮捕の場から退去することができました。

 ですが、ペトロが無用のことをしました。10節「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。11節「イエスはペトロに言われた。『剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。』」マタイ福音書のイエス様逮捕の場面では、イエス様は弟子の一人に、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言っておられ、ヨハネ福音書と後半が違います。

 そしてヨハネ福音書には、イエス様のゲツセマネでの苦闘の祈りが記されていないことに、私たち気づきます。マタイ福音書に記されたイエス様の祈りはこうです。「父よ、できることなら、この杯(神様の裁き、苦難)を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」暫くして二度目には、こう祈られました。「父よ、私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」三度目も同じ言葉で祈られました。そして眠っていた弟子たちの所に来て、決然と「時が近づいた。人の子(ご自分)は罪人(つみびと)たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」と語っておられます。十字架に向かうと決めた決然とした決心が、ゲツセマネの祈りの結論です。イエス様は今日のヨハネ福音書で、その結論のみ述べられました。「父がお与えになった杯(苦き杯、私たち罪人(つみびと)の全部の罪の責任を身代わりに背負って十字架で死ぬこと)は飲むべきではないか。私は今から自発的に十字架に向かって進む。だからペトロよ、あなたが剣を振り回して私を守ろうと戦うことは、必要ない。剣をさやに納め、ここを立ち去りなさい。」

 2つ目の小見出しは、「イエス、大祭司のもとに連行される」です。12~14節「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕えて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。」

 このことは、ヨハネ福音書11章に書かれています。イエス様が死んだラザロという男性を復活させなさいました。それを見たユダヤ人の多くが、イエス様を救い主と信じるようになったのです。イエス様を憎む祭司長たちとファリサイ派の人々は危機感を抱き、最高法院を召集して言いました。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」皆がイエス様について行って盛り上がって、支配者であるローマ帝国に反抗して立ち上がったら、ローマ軍が攻めてきてイスラエルが滅ぼされてしまう。どうすればよいか。イスラエルの支配階級は、現状を維持して自分たちの既得権を守ることにだけ、関心があったようです。

 49節「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなた方は何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなた方に好都合だとは考えないのか。』」カイアファは、神の大祭司でありながら、自分たち支配階級の利益を守るために、イエス様に殺してしまおうと、実に自分勝手な罪深いことを語ったのです。彼は悪いのみで、極めて政治的・この世的でした。彼は悪魔に従っていたと言えます。ところが神様は、悪魔よりずっと上手なのです。神様は悪魔の計画をさえ、ご自分の最も深いご計画に奉仕させなさったのです。カイアファも自分で気づかないうちに、神様のコントロール下にあったのです。それでヨハネ福音書11章51節以下は、こう記します。「これはカイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので、預言して、『イエスが国民のために死ぬ』と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ』と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」私の理解では、カイアファは自分勝手な考えを述べたのですが、自分で気づかない中で、神様に強制的にコントロールされ、神様に強制的に奉仕させられていたのです。もちろんだからと言って、私たちは次のように考えてはいけません。私たちが悪を行っても、神様がそれをよき目的のために用いて下さるなら、私たちは安心して悪を行おう。もちろんこの考えは大きな間違いです。私たちはあくまでも、真の神様を喜んで礼拝し、真に神様に喜ばれる善を行う生活を心がける必要があります。                                                                 

 カイアファは勝手な考えを述べたのですが、神様が彼をコントロールしておられました。神様はカイアファ自身が気づかない中で、最も深い神様のご意志をカイアファに語らせなさいました。それは、イエス様が国民(イスラエルの民でしょう)のために死ぬ、国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、という神様のご意志です。

 十字架で死なれ、復活なさったイエス様が、いわば磁石のように、世界中に散らされている神の子たちを一つに集めなさる場面を、私は想像してしまいます。私たちも生まれた場所も年齢等も違うのに今、不思議にも神様の導きよってこの礼拝堂に一つに集められているのです。全く不思議な神様の力と導き、奇跡です。私たちは知っています。イエス・キリストの十字架の死にの、全ての人の罪を赦す偉大な力があります。そしてイエス・キリストの復活こそ、死を乗り越えるための唯一の偉大な力です。全ての方が真の救い主イエス・キリストの元に集めらるように、神様が全ての教会・伝道所を祝福して、キリストを信じる人々を呼び集めて下さるように。この受難節(レント)に、多くの方々がイエス・キリストの元に立ち帰り、十字架と復活のイエス様を仰いで自分の罪を悔い改め、洗礼を受けて永遠の命をお受けになるように、共に祈りましょう。アーメン。


2024-02-11 3:03:17()
説教「すべての人を一つにしてください」 2024年2月11日(日)降誕節第7主日公同礼拝
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄24、主の祈り,交読詩編119:65~80、使徒信条、讃美歌21・13、聖書 ヨハネ福音書17:20~26(新約p.203)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌390、献金、頌栄27、祝祷。 

(ヨハネ福音書17:20~26) 
 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

(説教) 本日は、降誕節第7主日礼拝です。説教題は「すべての人を一つにしてください」です。新約聖書は、ヨハネ福音書17:20~26です。小見出しは、先週と同じ「イエスの祈り」です。ヨハネ福音書17章全体が、イエス様の祈りです。1節から5節がイエス様ご自身のための祈り、6節から19節がイエス様の直弟子たちのための執り成しの祈り。そして本日の20節から26節は、直弟子ではないその後のクリスチャンたちのための祈りです。私たちのための祈りと言ってよいのです。

 最初の20節「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、お願いします。」直弟子たちの伝道によって、イエス・キリストを救い主と信じるようになる人々、つまり第二世代、第三世代のクリスチャンたち、世の終わりまでに生きる全てのクリスチャンたちのための、とりなしの祈りです。21節「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」父なる神様とイエス・キリストは一つなのですね。イエス様が「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいる」とおっしゃっていますから、父なる神様とイエス様は相互に深い愛の交わりの中で、一体です。そこに聖霊なる神様を加えると、父・子・聖霊なる三位一体の神様は、完全な愛において一体でいらっしゃると分かります。

 イエス様は祈られます。「すべての人を一つにしてください。」すべての人を(特にクリスチャンたちを、諸教会を)愛において一体とならせて下さいと祈っておられます。「彼らも私たちの内にいるようにして下さい。」クリスチャンたちが、父なる神様と神の子イエス・キリストの聖なる交わりの中にいるようにして下さいということです。私たちは今既に、父なる神様と神の子イエス・キリストの聖なる交わりの中に入っています。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた方は。既に神様の清き霊である聖霊を受けておられます。ということは、父なる神様・神の子イエス・キリスト・聖霊なる神様との深い交流の中に入れられているということです。

 22~23節でもイエス様は言われます。「あなたが下さった栄光を、私は彼らに与えました。私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」クリスチャンたちは愛によって一つになるようにと、イエス・キリストが切に願って、祈っておられます。イエス様は諸教会が愛と真理において一致することを切に願っておられるのですね。実際、一番最初の時期の教会には、そのような真に麗しい一致が実現していたのです。使徒言行録2章44節以下には、イエス様が天に昇られた後、イエス様を救い主と信じる人々い聖霊が注がれ、次のような状態になったと記録されています。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」スタートしたばかりの教会は、このように真に理想的な状態にありました。神様も深く喜ばれたことと思います。

 この段階の教会のクリスチャンたちは皆、イスラエル人(ユダヤ人)でした。場所がイスラエルなので、当然です。この後、使徒言行録を読み進めると、8章でエチオピアの高官という外国人(イスラエル人以外の人)が洗礼を受けてクリスチャンになります。キリストの教会のメンバーになったのです。イスラエル人以外の人もイエス様の十字架のお陰で罪を赦され、教会という神の民のメンバーに入ることは、最初イスラエル人クリスチャンには抵抗のあることでした。しかし使徒言行録10章に至ると、イエス様の一番弟子ペトロが外国人のコルネリウスたちに伝道し、彼らがイエス・キリストを信じると、神様が彼らに聖霊を注がれ、彼らが救われたことが明らかになり、彼らが洗礼を受けてクリスチャンになり、教会のメンバーになります。こうして旧約聖書の神の民イスラエル人の枠を超えて、外国人もクリスチャンになることが可能になります。キリスト教会が国籍・民族を超えて一つのになることが明らかになります。

 これはすばらしいことです。なぜかと言うと、世界には昔も今も民族同士の紛争・戦争が多く、人々は敵対して、なかなか一致できないからです。しかし国籍・民族が違っても、一人一人が自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じてクリスチャンになれば、教会のメンバーになります。そして敵対していた民族同士であっても和解し、キリストを中心に一つになることができるのです。イエス様が皆の罪を背負って、十字架で身代わりに死んで下さったお陰です。現実の世界には戦争、クーデター、弾圧、宗教同士の争いがあり、なかなか一つになれません。一致を妨げるのは、私たち人間の罪ですね。残念なことに、キリスト教会内にも罪や不一致があります。私も日々悔い改めを必要としています。しかし皆がイエス様を救い主と信じて、本気で悔い改め、謝り合い赦し合うならば、そこに初めて人々の一致、民族・宗教を超えた一致がもたらされます。すべての人間は、イエス様の十字架と復活の福音によってのみ、一つとなることができます。この意味で、私が習ったある牧師は、「世界は教会になりたがっている」と言われました。「世界は教会になりたがっている。」イエス様の教会にのみ、和解と一致の秘訣があるからです。それは、イエス様の十字架の犠牲の死と復活です。

 23節「私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」イエス様はクリスチャンたちの中におられる、それは聖霊としてクリスチャンたちの中におられます。そして父なる神様がイエス様の中におられる。まとめるとクリスチャンたちの中にイエス様がおられ、イエス様の中に父なる神様がおられることになります。「彼らが(クリスチャンたちが、全教会が)完全に一つになるためです。」完全なものは愛です。クリスチャンたち、全教会が愛によって完全に一つになることが、イエス様の切なる願いです。完全が実現するのは、世の終わりに神の国の完成する時です。今は完全な愛と一致が完成する途上にあります。

 使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙3章には、洗礼を受けてキリストに結ばれた人は皆、神の子だと書かれています。そして3章28節にはこうあります。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなた方は皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」クリスチャンたち、全教会はキリスト・イエスにおいて一つである。そして極めて重要なことは、一つである全教会の頭(かしら)はキリストに他ならないという真理です。

 この真理については、私たちが月一回ほど礼拝で読んでいるエフェソの信徒への手紙5章23節に、「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主」だと明記されています。キリストが全教会の頭であり、教会はキリストの体であることが分かります。同じパウロが書いたコリントの信徒への手紙(一)12章には、キリストの体である教会について、次のように丁寧に書かれています。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊(聖霊)によって、私たちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊(聖霊)を飲ませてもらったのです。」だからイエス様が切望される通り教会は一つの体なのですが、その体は多くの部分から成っていることも大切に受けとめる必要があります。つまり教会は一つなのですが、多くの多様な部分が合わさって、一つの生きた体となっていることを了解することも大切です。

 現在、世界のキリスト教会は多くの教派に分かれています。大きく分けると東方教会と西方教会。東方教会の代表はギリシア正教会と思います。この下にロシア正教会があると思いますが、今のロシア正教会のトップはプーチンと仲良しで、この仲良しは神様に背くことので、ロシア正教会のトップにはプーチンを悔い改めに導いてほしいのです。西方教会にカトリック教会があり、カトリックから分かれたのがプロテスタント諸教派と聖公会と思います。プロテスタントの中にも色々な教派があります。ルター派、改革派、メソジスト、ホーリネス、福音派、バプテスト、セブンスデー・アドヴェンティストなどです。日本独自の無教会派もあります。各々に神様の賜物が与えられており、各々に短所・欠点もあるでしょう。ですがコリントの信徒への手紙(一)12章14節以下を心に留め、各教派が神様の栄光の一部を現わしていると思うのです。この箇所は、1つの教会の内部のことを語ると同時に、多くの教派があっても、キリストの体は全体として一つだ、ということをも語っていると思います。

 「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『私は手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『私は目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。~神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」

 この御言葉を、1つの教会内のことと受けとめた場合、特にすばらしいのは「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」の御言葉と思います。社会の中ではしばしば、強い者が生き残ります。強くない者は退場に追いやられます。ところがキリストの教会ではそうではない。「弱く見える部分がかえって必要」と書かれています。自分もいつそうなっても不思議でないので、弱っている部分をこそ大切にして、周りのクリスチャンたちが祈り、またその部分をいたわることこそ、必要です。こうして教会は一つとなってゆきます。そして様々な教派も、各々が神様から受けた賜物を他者のために献げて、そして協力するなら、神の栄光を現わすことになり、イエス様も喜んで下さると思うのです。イエス様は祈られました。「すべての人を一つにしてください。」「私が彼らの内にあり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」

 24節「父よ、私に与えて下さった人々を、私のいる所に、共におらせて下さい。それは、天地創造の前から私を愛して、与えて下さった私の栄光を、彼らに見せるためです。」この前半を原文から丁寧に訳すと、「父よ、私に与えて下さった人々を、私のいる所(天国)に共におらせることを、私は意志する」です。「お願いします」より強いのです。「私に与えて下さった人々を、私のいる所(天国)に共におらせることを、私は意志する。」つまり、「父なる神様、あなたが私に与えて下さった人々を、私のいる天国に共におらせることが私の意志です」というのです。これはイエス様の決心と思います。「クリスチャンたちを私のいる天国に共におらせることを私の意志として決めています。」ほとんど、「私はその意志を実行します」と言っておられる印象です。単なる「お願いします」ではありません。

 このイエス様のご意志によって、イエス様ご自身が語られたヨハネ福音書14章1節以下の御言葉が、実現するのです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家(天国)には住む所がたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと、言ったであろうか。行って、あなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私のもと(天国)に迎える。こうして、私のいる所に、あなた方も共にいることになる。」 天国に行って、あなた方のために場所を用意したら、地上に戻って来て、あなた方を私のもと(天国)に迎える。これがイエス様の意志であり、イエス様の決心です。イエス様の決心が私たちを天国に運んで下さるのです。

 「父よ、私に与えて下さった人々を、私のいる所(天国)に、共におらせて下さい。それは、天地創造の前から私を愛して、与えて下さった私の栄光を、彼らに見せるためです。」イエス・キリストは天地創造前から生きておられる神の子で、天で栄光に輝いておられ、天地創造に参与されたのです。この御言葉を聴くと、私たちは今年度の東久留米教会の標語聖句エフェソの信徒への手紙1章4節を、思い出します。「天地創造の前に、神は私たちを愛して(まだ生まれていない私たちを愛して)、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」私たちは天地創造の前に生まれていませんでしたが、キリストは生きておられ、三位一体の神の栄光に輝いておられたのですね。そのキリストの栄光を、コリントの信徒への手紙(二)4章16節が、こう表現しています。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。」

 「彼らが完全に一つになるためです。」愛と真理によって全教会とクリスチャンを完全に一つにして下さるのは神様です。神の国の完成の時に教会一致も完成します。日本基督教団は多くのプロテスタント教派が統合されてできました。創立は1941年です。少しずつ考え方の違う多くの教派が合体したので、意見が異なることもあり、まだ真理と愛で完全に一致するには至っていませんが、それをめざして今も産みの苦しみを続けていると言えます。しかし13年前の東日本大震災の時は、かなり結束した印象があります。意見が異なって多少ぎくしゃくしていた人々も、あの地震・津波・原子力発電所事故を見て、「ぎくしゃくしている場合ではない。東北の人々と東北の教会をヘルプしないといけない」との思いでまとまりましたね。全国募金、全国の教会からボランティアが行きました。

 今、能登では福音派と呼ばれる教会を中心に能登ヘルプ(能登地震キリスト災害支援会)が立ち上げられ、教派を超えて一致して奉仕を開始していますね。祈祷課題①被災地における主にある平安のために、②能登ヘルプを通して被災地にキリストの愛が届くように、③被災地で活動しているすべての人の健康が守られるように、④支援チームの祝福のために。尊敬すべき奉仕です。教会防災ネットワークNHK(新座 東久留米 清瀬)でもここに献金を送りました。神様が全教会を真理と愛で一つにして下さるように、祈って参りましょう。アーメン。