日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2019-07-18 19:38:03(木)
「分け隔てしない神の愛」 2019年6月16日(日) 聖霊降臨節第2主日礼拝説教 要旨
聖書:歴代誌・下16章8~9節、使徒言行録10章34~48節

 先週はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝でした。その礼拝で読んだ使徒言行録2章で、聖霊を注がれたのは皆、ユダヤ人(イスラエル人。旧約聖書以来の神の民)でした。本日の使徒言行録10章は、異邦人(ユダヤ人以外)に聖霊が注がれた画期的な場面です。「異邦人のペンテコステ」と呼ばれるそうです。異邦人にも聖霊が与えられることは、ユダヤ人クリスチャンにとって、やはり驚きだったのです。

 コルネリウスというローマ人の百人隊長が登場します。この人は実にすばらしい人で、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」私たちもぜひ、コルネリウスのような人になりたいですね。天使が彼に言います。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。」

 コルネリウスに招かれたペトロは、言います。「ご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」神には偏見が全くありません。神だけが、全ての人を誤りなく正しくジャッジする(裁く)ことができます。神は完全に公平、フェアな方で、一切差別をなさいません。神の裁きだけが、常に100%正しいのです。

 歴代誌・下16章9節に、「主(神)は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」とあります。神は、キリスト教が本に伝わるずっと以前から、日本をも(もちろんほかの国をも)見つめ、ご自分と心を一つにする者を探し、力づけて来られたと思うのです。

 ペトロの説教を聞いている異邦人たちの上に、聖霊が降りました。ペトロと共に来たユダヤ人クリスチャンたちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれ、異邦人が異言を話し、神を賛美するのを聞いて大いに驚きました。ペトロは彼らに、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるように命じました。ペトロがエルサレムのユダヤ人クリスチャンたちにこれを報告すると、彼らは「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美しました。異邦人たちは、自分の罪を悔い改めたのです。悔い改めなしに聖霊が注がれることはないでしょう。悔い改めが大切です。

 私は6月15日(土)に、日本キリスト教団西東京教区の世界宣教協力委員会の講演会「神の呼びかけに応える」に行きました。A教会の女性の講演を伺いました。この方はインド東北のナガランド州コヒマ出身のクリスチャンです。ナガランドはインドでクリスチャンが最も多い州で、人口の90%以上がクリスチャンだそうです。19世紀末にバプテスト教会の宣教師が、熱心に伝道なさったようです。コヒマの近くにインパールという所があります。太平洋戦争中の日本軍の極めて無謀な作戦として有名になってしまったインパール作戦の場所です。コヒマには戦没日本兵の慰霊碑やイギリス兵の墓地がある模様です。

 コヒマがクリスチャンの多い地になる前に、この地には悪い風習がありました。首狩りです。敵の首を多く狩った人がヒーローになったようです。コヒマの人々は首狩りの大きな罪を悔い改め、この罪を捨てました。ユダヤ人も異邦人も、神様から聖霊と永遠の命を受けるには、罪を悔い改めることが必要です。私たちも日々、自分の罪を悔い改めましょう。そしてイエス様に従い、神の国をめざして前進しましょう。アーメン(「真実に」)。

2019-07-18 16:58:56(木)
「聖なる霊に満たされて」 2019年6月9日(日) ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教 要旨
聖書:ヨエル書3章1~5節、使徒言行録2章1~21節

 ペンテコステは、イエス様の弟子たちやイエス様に従っていた婦人たちに、イエス様が約束された聖霊を注がれた日です。エルサレムから世界に向かっての伝道が開始された日とも言えます。聖霊に満たされた弟子たちを見て、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける人もいました。弟子たちは、神の愛に酔っていたのです。旧約聖書の雅歌1章2節に、「ぶどう酒ににもましてあなたの愛は快く」とあり、「あなた」は神を指すとも言えます。

 この聖霊が注がれる出来事は、旧約聖書で預言者ヨエルが預言したことの実現です。預言とは、「神の言葉を預かって語る」ことです。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」

 私はしばらく前に、JR高田馬場駅近くにある点字図書館に行きました。創設者は本間一夫氏というクリスチャンです。5才の頃、脳膜炎で失明なさる苦難を経験されました。本間氏の幻(ヴィジョン)・夢は、目の不自由な仲間たちに読書の喜びを味わってもらうために点字図書館をつくることだったのです。以下は、本間氏の著書『点字あればこそ  出会いと感謝と』善本社、1997年)からの引用です。私は非常に感銘を受けます。

 「私は(~)新約聖書ヨハネ伝9章1~3節の言葉(3節は、イエス様の言葉『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現れるためである』石田註)と、恩師・後藤静香先生の『正しい願いは実現する』のお言葉にも励まされ、救われてきました。失明は、たしかに人生の大きな不幸です。しかし、私の場合はその失明というマイナスを逆手にとってプラスとし、事業に結びつけることができました。もし私が失明していなかったならば、北海道の郷里でごく平凡な一生を送っていたに違いありません。失明したればこそ、この特殊な事業に巡り合い、いささかでもあとから来る後輩のために役立ちたいと、点字図書館というひとすじ道を歩み、事業の一つの歯車の役割を果たしてきたのです。それは大きな幸せであり、感謝すべきことなのであります」(79ページ)。

 「日本の盲人の環境はたしかに良くなりました。しかし、視覚障害そのものはなくなりません。問題は日々生きていく盲人一人ひとりの幸せ感であります。この点で、信仰を持つか否かは決定的な分岐点になります。そういう意味で、私はキリストとの出会いを感謝し、ゆるぎない信仰を持つことは、ほかに比べるもののない最高の幸せであることを固く信じておるものであります。私にとっては『失明もまた恩寵』なのであります」(167~168ページ)。深い信仰に、感服のほかありません。アーメン(「真実に」)。

2019-06-27 14:16:55(木)
「敵を愛するキリストの愛」 2019年6月23日(日) 「はじめて聞く人にわかる聖書の話」礼拝説教 要旨
聖書:ルカ福音書10章25~37節

 有名な「善いサマリア人のたとえ」です。ある律法の専門家が、イエス様を試そうとして質問します。「先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエス様が問い返されます。「律法(旧約聖書)には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」律法の専門家が、「真の神を愛し、隣人を自分のように愛する」という趣旨の答えをすると、イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」彼は自分を正当化しようとして食い下がります。「では、わたしの隣人とはだれですか。」これはずるい質問です。彼は隣人の範囲を限定したいのです。自分の隣人と隣人でない人を区別し、限られた隣人をだけを愛すれば律法を守ったことにして、自分に都合のよい理屈で自分を正当化し、楽をしたいのです。

 これに対してイエス様は、「良いサマリア人のたとえ」を語られます。あるユダヤ人が、エルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われ、半殺しにされます。同じユダヤ人の祭司とレビ人(びと)は、見て見ぬふりをして通り過ぎました。ところが、旅をしていたあるサマリア人が、そのユダヤ人を見て憐れに思い、最大の親切を実行したのです。当時、ユダヤ人とサマリア人は敵同士でした。ですからこのサマリア人は敵への愛を実行したのです。イエス様は「敵を愛しなさい」と言われましたが、このサマリア人はまさにその通りにしました。

 サマリア人は、倒れているユダヤ人を見て、「憐れに思い」ました。この原語(ギリシア語)は「内臓」の語を含む動詞です。彼は頭で抽象的・観念的に「憐れに思った」のではありません。「はらわたがキリキリと痛む」、「はらわたがよじれる、千切れる」思いで、相手の痛みを我がこととして痛感したのです。他人事にしなかったのです。あの律法の専門家の問い「わたしの隣人とはだれですか」は、自己中心的で、隣人の事柄を他人事としか見ない罪深い問いです。でも私たちは、このサマリア人のようでありたいと願いつつも、この律法の専門家のようになってしまいやすいのではないでしょうか。私は自分を顧みて、残念ながらそう言わざるを得ません。恥ずかしいことです。

 このサマリア人の愛は、イエス様の愛と同じです。人間でも多くの親は、我が子が苦しむ時、「代わってあげたい」と思うものです。イエス様も、私たちが苦しむ時、「代わってあげたい」と思って下さるでしょう。イエス様はそう思うだけでなく、本当に私たちに「代わって」私たちの罪を全て背負い、「代わって」十字架に架かられ、死んで下さったのです(そして三日目に復活されました)。

 沖縄に「ちむぐりさ(ん)」という言葉があるそうです。「ちむ」は「肝(きも)」「肝臓」だそうです。「ぐりさ(ん)」は「苦しむ」のことと聞きます。「ちむぐりさ(ん)」は「肝が苦しむ」、他の方の苦しみを見て、自分の肝臓が痛むほどに、相手の苦しみを我が苦しみとすることです。サマリア人の感じた憐み、イエス様の憐みを表すのにぴったりの言葉です。沖縄は苦難の歩みが多かったので、このような深い言葉ができたのでしょうか。「ちむぐりさ(ん)。」ぜひ覚えたい言葉です。

 イエス様は、律法の専門家に言われます。「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」これは律法の専門家の最初の問いをひっくり返しています。彼の問いは自己中心的な問いでした。イエス様は「追いはぎに襲われた人」を中心に置きます。自己中心はだめです。自己中心こそ、私に巣食う根源的な罪、最大の罪です。イエス様は、半殺しにされたユダヤ人を中心に置きます。相手を中心に置き、「あなたは彼の隣人になったのか、ならなかったのか、どちらなのか。問われているのはあなただよ」とメッセージされます。専門家は正しく答えます。「その人を助けた人です。」イエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と結論を述べられるのです。

 私は昨日、お茶の水クリスチャンセンターに行き、「燈台」という団体の報告会(最終回)に初めて出席させていただきました。「燈台」は32年間にわたってアフガニスタンの医療・教育に協力して来たクリスチャン団体です。非常に尊いお働きであることが分かり、感銘を受けました。アフガニスタンの人々にとっての「善いサマリア人」になろうとするお働きと感じました。アフガニスタンは平和な国でしたが、1979年12月のソ連軍侵攻から苦難が始まったそうです。多くの人々が難民となって隣国に脱出しました。1987年に隣国の難民キャンプで暮らすアフガニスタン難民の様子を見た中川さんという日本人のクリスチャン医師が、大変心を痛めたのが「燈台」の働きの原点です。中川さんが「心を痛めた」ことは、あのサマリア人が倒れていたユダヤ人を見て「憐れに思った」ことと深く一致します。

 クリニックが開設されて医療奉仕が始まり、ヌール(光の意味)学校が設立されます。イスラム圏では非常に珍しい男女共学の学校で、小中高校ができ、今では卒業生が社会を担う働きをしているそうです。クリニックとヌール学校は地域の希望となったそうです。医療奉仕の方々は、風土病に苦しむ人々を治癒に導き、絶望から希望へと人生が転換した方が多くおられるそうです。女性への教育と女性の就労に反対するタリバーンの男性まで治療を受けに来たそうです。地域に信頼されていることが分かります。「燈台」の重要な務めを担って来た方々が高齢となり、現地アフガニスタンの状況も依然として危険であることから、「燈台」の働きは2020年3月末に閉じられることになっています。ヌール学校はその後、現地のアフガニスタン人スタッフの方々を中心に運営されるとのことです。「燈台」の働きの歴史の映像の最後に、イエス様が「善いサマリア人のたとえ」の最後で語られた御言葉が映し出されました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 他の方の苦しみを他人事にすることは、私たちの自己中心の罪です。他人事にしないように心がけましょう。「行って、あなたも同じようにしなさい。」イエス様のこの御言葉を心に刻みましょう。アーメン(「真実に」)。

2019-06-11 1:34:06(火)
「神の定めを守る幸い」 2019年5月19日(日) 復活節第5主日礼拝説教 要旨
聖書:詩編119編1~16節、マタイ福音書22章34~40節

 東久留米教会の今年度の標語聖句は、「いかに幸いなことでしょう。主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人は」(詩編119:2)。「心を尽くして」とは、「心全体で」の意味です。詩編119編は、最も長い詩編として知られます。「アルファベットによる詩」と書かれています。原文のヘブライ語で読むと、たとえば最初のかたまりである1~8節で、各行の最初の文字はアレフ(英語のAにあたる)で統一されています。二番目のかたまりである9~16節の各行の最初の文字はベト(英語のBにあたる)で統一されています。ヘブライ語で音読すると、美しく響くことでしょう。この詩編を一言でまとめると「律法賛歌」となります。神様の律法をたたえる内容だからです。

 「いかに幸いなことでしょう、まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう、主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人は。彼らは決して不正を行わず、主の道を歩みます。あなた(神)は仰せになりました、あなたの命令を固く守るように、と。」「まったき道、主の定め、主の道、あなたの命令」はいずれも「主(神)の律法」の言い換えと思います。律法の代表は、モーセの十戒です。

 私たちは福音書を読むと、イエス・キリストがイスラエルの律法学者(律法主義者)やファサイ派の人々と衝突する場面があることに気づきます。そして、「愛が大事で、律法主義はいけない」と思うでしょう。それはその通りです。律法主義とは、自分が律法を完全に守っていると思い込み(実際は完全に守っていないのに)、律法を守り切れていない他人を裁くことです。それは自己義認(自分で自分を正しいと信じ込むこと)です。神様から見れば、私たちは皆、律法を守りきれていない罪人(つみびと)なので、確かに律法主義・自己義認は誤り・罪です。ですが律法そのものは、神の聖なる意志を示す善いものです。詩編119編は、その善いものである律法をたたえているのです。

 私は、十戒(律法)には3つの役割があると教えられました。1つ目は、旧約聖書のイスラエルの民が、神と契約を結んだ時に、神から与えられた戒めとしての役割です。神はイスラエルの民を、エジプトでの奴隷生活から解放して下さいました。イスラエルの民はその神の愛に応えて、十戒(律法)を守って生きることを求められました。2つ目は、私たち新約聖書の民が、十戒を1つ1つよく学ぶことで、自分が十戒のどの1つをも、心の底から完全に守ることができないこと悟り、自分が神の前に罪人(つみびと)であることを悟り、救い主イエス・キリストに導く役割です。イエス様こそ、私たち全員のすべての罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活された唯一の救い主です。自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じ告白する人は、必ず永遠の命を受けます。

 3つ目は、イエス様を信じて永遠の命を受けた人が、その後の人生を生きる指針の役割です。永遠の命を受けた人には、どうしてもその後の生き方の指針が必要です。それが十戒の3つ目の役割です。私たちは自力では十戒を守ることができません。私たちがイエス様を信じて洗礼を受けると、聖霊(神の清い霊)を受けます。そして神に聖霊を求めて祈ると、さらに聖霊を受けます。聖霊に助けられて私たちは一歩ずつ十戒を行う力を与えられます。それでも私たち罪人(つみびと)に十戒を完全に実行することはできませんが、聖霊に助けていただいて一歩ずつ十戒を守る清い生き方に導かれます。以上が、十戒の3つの役割です。
 
 標語聖句は、「いかに幸いなことでしょう。主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人は」(詩編119:2)です。まさにこの生き方をなさった方と、私が思うのは渡部良三さんとおっしゃる無教会派のクリスチャンの方です。『小さな抵抗』(岩波現代文庫、2012年)という書物を出しておられます。渡部さんは21、22才の頃、中国の河北省に駐屯する部隊に配属され、上官から同僚の新兵と共に中国人捕虜を銃剣で刺殺することを命じられます。これは捕虜虐待ですから、当時としても国際法違反と思います。渡部さんは動揺しましたが、十戒の「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)という神の言葉に従う決心をし、刺殺命令を独り拒んだのです。そのためひどいリンチを受け続けましたが、ひたすら耐えて、敗戦後に帰国できました。

 刺殺を命じられたとき、渡部さんは神様に懸命に祈りました。すると神の声を聞いたのです(以下、前掲書241~242ページより引用)。「汝、キリストを着よ。すべてキリストに依らざるは罪なり。虐殺を拒め、生命を賭けよ!」 渡部さんは覚悟を決めます。「そうだ、祈ろうと考えようとこの道しかない! 既に四人は殺され、もう一人は確実に殺されるであろう捕虜と共に、この素掘りの穴に朽ちることになろうとも、拒否以外に選択肢はない。殺すのものか!」 渡部さんの意志を知ると教官が大声で言います。「おい渡部、お前は信仰のためにパロ(中国共産党第八路軍の捕虜のこと)を殺さないというのか!」 「はいそうであります。」渡部さんは、ひどい目に遭うことを覚悟で、主の定めを守ったのです。幸いな人です。私たちも渡部さんの勇気ある信仰を模範としたいのです。アーメン(「真実に」)。

2019-05-30 20:35:11(木)
「聖書を読んだ田中正造」 伝道メッセージ 石田真一郎
「隣人を自分のように愛しなさい。」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書22章39節) 

 日本の最初の公害は、足尾銅山鉱毒事件だと言われます。その時、鉱毒に苦しむ渡良瀬川流域の農民を助けるために奮闘した正義の人が田中正造(1841~1913)です。国会議員になり、農民の救済を全力で訴えました。死を覚悟して、明治天皇への直訴を行いました。私は5月の連休に、田中正造記念館(群馬県館林市)と佐野市郷土博物館(生家近く。栃木県佐野市。遺品や直訴状を展示)に行きました。

 田中正造は洗礼を受けませんでしたが、ある時期から熱心に聖書を読み、最後まで持ち歩きました。最後の私物は、袋とその中の手帳、小さな新約聖書、大日本帝国憲法とマタイによる福音書(新約聖書)の合本、石ころ、鼻紙だけです。その聖書が展示されていたので、しっかり見て来ました。彼は聖書の言葉の感化をも受けて農民救済に命をかけました。財産は、ずべて農民救済に使い果たしました。立派です。「聖書は、行うもの」が田中正造の考えでした。彼は旧約聖書に由来するイエス・キリストの教え「隣人を自分のように愛しなさい」を全力で実行したと思います。

 田中正造の有名な言葉は、「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」です。原発事故の今こそ、傾聴すべきです。私は一昨年、足尾銅山(廃坑)を見学しました。鉱毒事件のことを学べると思って説明を読むと。少ししか書かれていないので驚きました。足尾銅山が、富国強兵・近代化に貢献したと強調されていたことにも驚きました。

 田中正造は、日露戦争の前に、「陸海軍を全廃して軍事費を人民の福祉にふりむけるべきである。~いく十万の人民に塗炭の苦しみをさせながら、満州を占領したとてなんになる」と演説しました(大石真『たたかいの人―田中正造』偕成社、2004年、226ページ)。これは、「隣人を自分のように愛しなさい」の心です。ぜひ東久留米教会においで下さり、田中正造も読んだ聖書から、共に学びましょう。アーメン(「真実に」)。