日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2023-07-02 1:58:45()
「神の子たちを集めるために」2023年7月2日(日)聖霊降臨節第6主日礼拝
    順序:招詞 エフェソ1:4,頌栄29、主の祈り,交読詩編99、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・358、聖書 イザヤ書56:6~8(旧約p.1154)、ヨハネ福音書11:45~57(新約p.190)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌390、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書56:6~8) また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るならわたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。

(ヨハネ福音書11:45~57) マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第6主日礼拝です。説教題は「神の子たちを集めるために」です。新約聖書は、ヨハネ福音書11章45~57節です。

先週のヨハネ福音書で、イエス・キリストは死んでいたラザロを甦らせて下さいました。これは純粋にイエス様の愛による奇跡です。本日の最初の45節「マリアの所に来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人多くは、イエスを信じた。」但しこれが、本当に深い信仰だったかどうかは、まだ分かりません。なぜなら、このヨハネ福音書2章23節以下に、こう書かれているからです。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」イエス様は、この福音書の最後で、弟子のトマスに言われるのです。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ラザロを復活させたイエス様の評判は、いやが上にも高まりましたが、すべての人がイエス様に好意的な目を向けていたのでもありませんでした。46節「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。」イエス様を憎むスパイのような人もいたのです。ラザロが復活したことを、素直に喜ぶのがベストなのに、そうでない人々がいたのです。罪深いことだと思います。47節「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』」

この人々は、イエス様を危険人物を見なしていました。イエス様が生まれつき目の見えない盲人の目を見えるようにしたり、死んでいたラザロを復活させなさったり、いくつものすばらしいしるし、愛の業を行っておられる。すると民衆の中でイエス様の人気が高まる。この時代のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、民衆の中には熱心党と言って、ローマ帝国から独立するために武力闘争をめざしているグループもありました。彼らが人気のあるイエス様をリーダーに祭り上げる可能性があると、最高法院の人々は心配していました。民衆がイエス様を祭り上げて、ローマと戦う武力闘争に立ち上がってしまえば、ローマが怒って攻めて来る。そうなれば立ち上がった民衆は打ち破られる。ローマ軍がイスラエルの全てをとことん破壊する最悪の結果になるだろう。そうさせないためには、あのイエスを始末することがベストだ。最高法院は、信仰的な会議のはずですが、現実には人間たちの世俗的な利害調節を行う政治的な機関になっていたのでしょう。人間が集まると政治が始まるのは致し方ない面もありますが、信仰の集団がどっぷり政治にはまってしまうと、堕落してしまいます。ロシア正教というキリスト教会のトップが最近もプーチン大統領支持を表明したらしいのですが、キリスト教会の名前がついていても、権力と結びついてしまうと、御用宗教に堕落してしまうので、十分注意する必要があります。

 最高法院のトップは大祭司です。49節「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなた方は何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなた方に好都合だとは考えないのか。』」「イエスに死んでもらおう。そうすればローマに私たちが滅ぼされる恐れはなくなる。そうすれば私たちは最高法院のメンバーとして既得権を楽しむことができて、都合がよい。イエスには犠牲になってもらおう。」実に自己中心的、自分の利益中心の世俗的な思考です。本当は国民のためを思ってはおらず、自分たちの利益dけを考えています。信仰者でも、油断するとこのような悪い意味での政治家になってしまうのです。これがこの世の知恵というものです。罪深いのです。

 ある人は、未熟な人と成熟した人について、このように言います。未熟な人は、他人の犠牲の上に自分の幸せを築いて恥じない。自分の幸せのために、他人を利用して恥じない。成熟した人は、他人の苦しみを進んで担う。カイアファは未熟な人で、自己中心的な人です。反対に、イエス様は最も成熟した方です。自ら進んで、弟子たちの足を洗って下さいました。自ら進んで私たちの全部の罪を身代わりに背負うために、十字架にかかって下さいました。教会も私たちクリスチャン個人もカイアファのようになってはならず、イエス様に従って、少しずつでも人様の苦難を背負わせていただく者となりたいのです。そう言いながらも、私たちも沖縄に多くの基地を引き受けてもらっているその犠牲の上に、日々の暮らしを営んでいるのではないかと考えると、人様の苦難を背負えていない自分の自分勝手さを思うのです。

 51~53節「これはカイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためんばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」カイアファは、自分の利益だけを考えて、自己中心的な発言をしただけです。しかしカイアファが気づかないうちに、神様が彼をコントロールしていました。カイアファは、結果的に、神様の最も深い真理を語ったのです。「イエス様が国民・ユダヤ人のために死ぬ。国民のためばかりでなく、散らされている(世界中の)神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」と言ったのです。イエス様に対する人間たちの悪意と殺意が進む中で、しかし実は、神様の最も深いご計画が着々と進んでいたのです。驚くべきことです。神様の方が上手です。これを神様の摂理と呼ぶことができるかもしれません。

 もちろんだからと言って私たちは。こう考えてはなりません。「私たちが悪を行っても、神様がそれを善に変えて下さるのだから、遠慮なく悪を行う。」神様に背いて悪を行えば、必ずその報いを受けます。カイアファたちは、自分たちの利益のためにイエス様を殺す決心をしました。しかし、神の子を殺す重大な罪を犯したので、イスラエルの国はこの約40年後に、ローマ軍の攻撃を受けて滅んでしまいます。イエス様を殺した大きな罪の報いを受けて、神殿は破壊され、イスラエルは一旦滅びる報いを受けたのです。

 カイアファは、「あなた方は、何も分かっていない」と言い、自分は知恵者だと思っていました。しかしこの世の知恵は、神の前では愚かなものです。コリントの信徒への手紙(一)1章19節以下が思い出されます。「『私(神)は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる(カイアファはどこにいる)。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段で、信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人(異邦人の代表)は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまづかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には神の力、神の知恵であるキリスト(十字架につけられたキリスト)を宣べ伝えています。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」十字架で死んだイエス様は愚かなようですが、実はカイアファより何倍以上も賢いのです。

 ヨハネ福音書に戻ると、イエス様がラザロを復活させるなどのしるし・奇跡を行われたために、多くのユダヤ人がイエス様を信じました。しかし最大のしるしは、イエス様の十字架の死です。それだけが、すべての人を罪と死と悪魔の支配から救う神の真の力だからです。私たちに罪の赦しと永遠の命を与える力は、ただイエス様の十字架の死と復活だけにあるのです。十字架につけられたイエス様を救い主と信じることこそ、最も深い知恵なのです。

 カイアファはこのことを全く理解していませんでしたが、気づかないうちに神様に導かれて、真理を語りました。神様は、人を通して私たちに語りかけることがあるのですね。カイアファは、神様の強い御手によって、次の真理を語ったのです。「イエス様が国民(ユダヤの国民)のために死ぬ、国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」という真理をです。神の子たちはユダヤにも外国にもいる。世界中に散らされている神の子たちを一つに集めるために、イエス様は十字架で死ぬというのです。イエス様の十字架の死が、言わば磁石のように、世界中に散らばっている神の子たちを力強く引き寄せるのです。

 私ども夫婦に洗礼を授けて下さった牧師が、一年前に天に召されました。その先生の記念会が先週の日曜日の午後に茨城県守谷市の教会で行われました。Zoomでのオンライン配信もなされました。私ども夫婦は、東久留米からZoomで参加致しました。約30年前にその先生にお世話になった色々な年代の方々、30年前の青年会のメンバーも参加していました。現地参加、Zoom参加の両方です。それを見て、今は各地の教会に散らばって信仰生活を送っている方々の姿を見ました。イエス様の十字架の死が、世界中に散らばっている神の子たちを一つに集めるのに、少し似た光景だと感じました。お一人の伝道者が天に召されて、今は各地に散らばっている神の子たちが共に祈り、交流する時だったからです。中には、今は教会を離れている方もおられたようです。この会が教会に戻るきっかけになる可能性がありますし、そうなるように心より祈ります。

 世の終わりにイエス様が天からもう一度おいでになる時に、世界中に散らされている神の子たちが続々集まって来るのではないかと思います。その人々は世界中の様々な教派の教会のクリスチャンたちでしょう。見える教会と見えない教会という言い方があります。見える教会は、具体的なそれぞれの制度的な教会です。カトリック、プロテスタント諸教派、ギリシア正教、聖公会等です。プロテスタントの諸教派には、色々な教団、メソジスト教会、長老教会、バプテスト教会、ホーリネス教会、ルーテル教会等があります。日本には無教会もあります。見えない教会は、霊的な教会と言えます。神様の目に見えている教会です。それは色々な教派にまたがって存在している、神様の目に見えている教会の姿です。具体的に存在するどの教会にも神の子たちがいます。イエス様が再臨なさる(もう一度おいでになる)時に、各教派に散らされている神の子たちが、イエス様の元に続々と集まるのでありましょう。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書56章6~8節です。暫く前の礼拝でも取り上げました。(読む。)神様は、追い散らされたイスラエルだけでなく、真の神様を敬う異邦人も、神様に招かれると書かれています。「追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる。既に集められた者に、更に加えて集めよう。」

 ヨハネ福音書に戻り、55~57節を読む。こうして一気にイエス様を殺す方向へ進みます。12章の1節を見ると、もう一周間以内にイエス様は十字架にかけられます。
11章から12章に入るまでに、どのくらいの時間が経過したか分かりません。もし仮に1ヶ月とすれば、ラザロが復活して1ヶ月後にイエス様は十字架で死なれるのです。過越祭はユダヤ人の重要な祭りで、出エジプト記の昔、小羊を屠ってその血を鴨居に塗ったイスラエルの人々の家を神の裁きが通り過ぎた。イエス様の十字架の血による救いをもたらす第二の過越が行われようとしている。これは第一の過越祭を凌ぐ恵みとなる。新共同訳のヨハネ福音書の担当の松永先生のエピソード。終。 

2023-06-25 2:03:55()
「ラザロ、出て来なさい」2023年6月25日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝 
順序:招詞 ヨハネ福音書14:6,頌栄24、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・326、聖書 ヨハネ福音書11:28~44(新約p.189)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌460、献金、頌栄27、祝祷。 

(ヨハネ福音書11:28~44) マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。









(説教) 本日は、聖霊降臨節第4主日礼拝です。説教題は「ラザロ、出て来なさい」です。新約聖書は、ヨハネ福音書11章28~44節です。

先週に続き、ラザロの復活の個所です。先週の11章25節でイエス様が断言されます。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか。」ラザロの姉妹マルタが答えます。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシア(救い主)であると私は信じております。」マルタは、このような正しくて真心のこもった信仰告白に導かれたのです。

28節「マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、『先生がいらして、あなたをお呼びです』と耳打ちした。」29~32節。「マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足元にひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。」マリアも同じことを言いました。「イエス様、どうしてもっと早く来て下さらなかったのですか」との問いかけにも聞こえます。

33~35節「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧下さい』と言った。イエスは涙を流された。」イエス様の激しい感情に、私たちは心を打たれます。「心に憤りを覚え、興奮して、言われた。」口語訳聖書では「激しく感動し、また心を騒がせ」です。新改訳2017では「霊に憤りを覚え、心を騒がせて」です。聖書協会共同訳では「憤りを覚え、心を騒がせて」です。カトリックのフランシスコ会訳では「きっとなり、心が張り裂ける思いで」です。「憤りを覚え」と訳された元のギリシア語は、「エムブリマオマイ」という動詞で、直接の意味は「馬が怒って鼻を鳴らす」です。馬が「怒って興奮して、荒く呼吸をして鼻を鳴らす」という、激しい意味です。「立腹する、怒る、憤激する」という意味です。

イエス様は何に対して憤激されたのか。ある神父は、イエス様が「神の御子でありながら、人間の条件に制約されて、本来持っておられる権能を十分に発揮することもできない『もどかしさ』をお感じになったということではないか」、つまり「ご自分に対して激しく苛立たれた」のだろうと言われます。そのような読み方もできるのですね。ですが本日は、私がこれまで聞いてきた読み方で話を進めたいと思います。それはイエス様が、人間たちを支配している死の力、そして死をもたらす悪魔に対して憤られ、憤激されていると読みたいと思います。親しい者が亡くなった時に、私たちはもしかすると神様に「どうして?」怒りをぶつけたくなることもあるのではないかと思います。そのようなこともあるのですが、イエス様のここでの憤激は父なる神様への怒りでなく、死と死の頭(かしら)である悪魔への憤激と受けとめておきたいと思います。

35節に「イエスは涙を流された」とあります。イエス様は、愛する友ラザロの死を深く悲しんで、そしてラザロの家族の深い心の痛みに思いを致して、悲しみに熱い涙を流して下さいました。使徒パウロがローマの信徒への手紙12章15節に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と書きましたが、まさにイエス様こそ「喜ぶ人と共に喜び、泣く人共に泣く」方です。イエス様は、他の人の悲しみと痛みを、ご自分の内臓・はらわたがきりきりと痛むほどに鋭敏に感じ取って下さる、真に深い感性の持ち主です。周りのユダヤ人たちは言いました。「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか。」その通りです。そしてイエス様はラザロだけでなく、私たち一人一人を、ラザロへの愛と同じ愛で愛して下さっています。

詩編84編6~7節に、こう書かれています。「いかに幸いなことでしょう。あなた(神様、イエス・キリスト)によって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」人生には「嘆きの谷」もあるというのです。文語訳聖書では「涙の谷」となっています。マルタとマリアの姉妹は今、「嘆きの谷」、「涙の谷」を通っています。自力では耐えがたい。しかしそこに共に泣いて下さるイエス様がおられることが救いです。ラザロの場合にようにすぐに復活させて下さらなくても、イエス様を信じる者に間違いなく永遠の命を与え、いずれ必ず復活の体を与えて下さいます。

「どんなにラザロを愛しておられたことか。」ある人はここを読んで、「愛は本当は過去形で語られてはいけない」と言いました。ここで現に「どんなにラザロを死しておられたことか」と愛が過去形で語られています。愛が死に負けたのです。イエス様はこの現実に対して、激しく憤られたとに違いありません。愛が死に屈服することは、本来あってはならないことです。愛は常に現在進行形で生きており、常に悪魔と死に勝利してゆく必要があります。

次の小見出し「イエス、ラザロを生き返らせる」に進みます。38~39節「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。」これは現実です。マルタは、腐敗が始まっている弟の遺体を見たくなかったに違いありません。しかしこの死の力が、愛の力をも上回って全てを支配している現実に対して、イエス様
園では、死の力が全てを支配するなどあり得なかったからです。マルタは、「四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。イエス様から見れば、これは現実からの挑戦です。この死の現実の前に、誰も勝つことはできない。最後に勝利するのは、死とその頭(かしら)である悪魔である。イエス様が死と悪魔から挑戦を受けておられます。私たち普通の人間には、死と悪魔に勝つことができません。しかしイエス様は違うことを、イエス様はこの後、明らかに示して下さいます。イエス様はマルタを激励し、マルタの信仰を鼓舞し、
2023-06-25 1:47:42()
説教「ラザロ、出て来なさい」2023年6月25日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書14:6,頌栄24、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・326、聖書 ヨハネ福音書11:28~44(新約p.189)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌460、献金、頌栄27、祝祷。 

(ヨハネ福音書11:28~44) マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第4主日礼拝です。説教題は「ラザロ、出て来なさい」です。新約聖書は、ヨハネ福音書11章28~44節です。

 先週に続き、ラザロの復活の個所です。先週の11章25節でイエス様が断言されます。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか。」ラザロの姉妹マルタが答えます。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシア(救い主)であると私は信じております。」マルタは、このような正しくて真心のこもった信仰告白に導かれたのです。

 28節「マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、『先生がいらして、あなたをお呼びです』と耳打ちした。」29~32節。「マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足元にひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。」マリアも同じことを言いました。「イエス様、どうしてもっと早く来て下さらなかったのですか」との問いかけにも聞こえます。

 33~35節「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧下さい』と言った。イエスは涙を流された。」イエス様の激しい感情に、私たちは心を打たれます。「心に憤りを覚え、興奮して、言われた。」口語訳聖書では「激しく感動し、また心を騒がせ」です。新改訳2017では「霊に憤りを覚え、心を騒がせて」です。聖書協会共同訳では「憤りを覚え、心を騒がせて」です。カトリックのフランシスコ会訳では「きっとなり、心が張り裂ける思いで」です。「憤りを覚え」と訳された元のギリシア語は、「エムブリマオマイ」という動詞で、直接の意味は「馬が怒って鼻を鳴らす」です。馬が「怒って興奮して、荒く呼吸をして鼻を鳴らす」という、激しい意味です。「立腹する、怒る、憤激する」という意味です。

 イエス様は何に対して憤激されたのか。ある神父は、イエス様が「神の御子でありながら、人間の条件に制約されて、本来持っておられる権能を十分に発揮することもできない『もどかしさ』をお感じになったということではないか」、つまり「ご自分に対して激しく苛立たれた」のだろうと言われます。そのような読み方もできるのですね。ですが本日は、私がこれまで聞いてきた読み方で話を進めたいと思います。それはイエス様が、人間たちを支配している死の力、そして死をもたらす悪魔に対して憤られ、憤激されていると読みたいと思います。親しい者が亡くなった時に、私たちはもしかすると神様に「どうして?」怒りをぶつけたくなることもあるのではないかと思います。そのようなこともあるのですが、イエス様のここでの憤激は父なる神様への怒りでなく、死と死の頭(かしら)である悪魔への憤激と受けとめておきたいと思います。

 35節に「イエスは涙を流された」とあります。イエス様は、愛する友ラザロの死を深く悲しんで、そしてラザロの家族の深い心の痛みに思いを致して、悲しみに熱い涙を流して下さいました。使徒パウロがローマの信徒への手紙12章15節に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と書きましたが、まさにイエス様こそ「喜ぶ人と共に喜び、泣く人共に泣く」方です。イエス様は、他の人の悲しみと痛みを、ご自分の内臓・はらわたがきりきりと痛むほどに鋭敏に感じ取って下さる、真に深い感性の持ち主です。周りのユダヤ人たちは言いました。「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか。」その通りです。そしてイエス様はラザロだけでなく、私たち一人一人を、ラザロへの愛と同じ愛で愛して下さっています。

 詩編84編6~7節に、こう書かれています。「いかに幸いなことでしょう。あなた(神様、イエス・キリスト)によって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」人生には「嘆きの谷」もあるというのです。文語訳聖書では「涙の谷」となっています。マルタとマリアの姉妹は今、「嘆きの谷」、「涙の谷」を通っています。自力では耐えがたい。しかしそこに共に泣いて下さるイエス様がおられることが救いです。ラザロの場合にようにすぐに復活させて下さらなくても、イエス様を信じる者に間違いなく永遠の命を与え、いずれ必ず復活の体を与えて下さいます。

 「どんなにラザロを愛しておられたことか。」ある人はここを読んで、「愛は本当は過去形で語られてはいけない」と言いました。ここで現に「どんなにラザロを死しておられたことか」と愛が過去形で語られています。愛が死に負けたのです。イエス様はこの現実に対して、激しく憤られたとに違いありません。愛が死に屈服することは、本来あってはならないことです。愛は常に現在進行形で生きており、常に悪魔と死に勝利してゆく必要があります。

 次の小見出し「イエス、ラザロを生き返らせる」に進みます。38~39節「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。」これは現実です。マルタは、腐敗が始まっている弟の遺体を見たくなかったに違いありません。しかしこの死の力が、愛の力をも上回って全てを支配している現実に対して、イエス様としては、死の力が全てを支配するなどあり得なかったからです。マルタは、「四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。イエス様から見れば、これは現実からの挑戦です。この死の現実の前に、誰も勝つことはできない。最後に勝利するのは、死とその頭(かしら)である悪魔である。イエス様が死と悪魔から挑戦を受けておられます。私たち普通の人間には、死と悪魔に勝つことができません。しかしイエス様は違うことを、イエス様はこの後、明らかに示して下さいます。イエス様はマルタを激励し、マルタの信仰を鼓舞し、マルタの信仰を鼓舞し、
2023-06-18 0:45:07()
説教「キリストは復活であり、命」2023年6月18日(日)聖霊降臨節第4主日公同礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書14:6,頌栄28、主の祈り,交読詩編98、使徒信条、讃美歌21・54、聖書 ダニエル書12:1~3(旧約p.1401)、ヨハネ福音書11:1~27(新約p.188)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌474、献金、頌栄27、祝祷。 

(ダニエル書12:1~3) その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。

(ヨハネ福音書11:1~27) ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第4主日礼拝です。説教題は「キリストは復活であり、命」です。新約聖書は、ヨハネ福音書11章1~27節です。この11章は大変有名な箇所です。本日の最初の小見出しは、「ラザロの死」です。ラザロという名前は、「神が助けて下さる者」という意味だそうです。その意味で、私たちも皆ラザロです。神様の愛と助けと支えなしには、一秒も生きられない私たち一人一人だからです。1節「ある病人がいた。」私たちも皆、何らかの病気を持っている場合が多いです。その意味でも私たちは皆ラザロです。「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。」ベタニアという村の名前は「神に依り頼む貧しい者の家」の意味だそうです。昨年天に召された平原さんが入っておられた中野区のホームの隣りに、ベタニア女子修道会(修道院)があり、その隣にはカトリック教会がありました。そのベタニアには、もちろんイエス様の親しい友このマルタとマリアとラザロの兄弟姉妹が住んでいたベタニア村から取られています。すぐ近くには日本基督教団の浄風教会もあります。平原さんがそのような信仰に関わりの深い地域におられたこともまた、神様のご配慮だったと感じます。

 2節には「このマリアは主(イエス様)に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と記されていて、これは次の12章に記されています。その兄弟ラザロが病気でした。私たちも病気になります。ですから、ラザロは私たちの代表です。3節「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。」「イエス様、急いで来て癒して下さり、死から救って下さい」ということです。

 4節「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子(イエス様ご自身)がそれによって栄光を受けるのである。』」ラザロは死んだのです。しかし死が最後の到達点ではありません。その先があるのです。イエス様が彼を復活させて下さいます。ですから「この病気は死で終わるものではない」のです。私たちの死も同じです。ある著名な説教者は、本日の個所での説教に「死に終わらない私たちの死」という題をつけておられます。私たちも死にますが、それは死に終わりません。イエス様がラザロを復活させて下さったように、私たちもイエス様によって復活を与えられます。そしてラザロを復活させることは、イエス様にとって栄光になります。

 5節「イエスは、マルタとその姉妹(マリア)とラザロを愛しておられた。」恋愛ではありません。イエス様は、マルタとマリアとラザロを清い愛で愛しておられました。イエス様は私たちをも、同じ愛で愛しておられます。6節「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」決してゆうゆうされているわけではないと思いますが、すぐに駆け付けることはなさいませんでした。イエス様はどんな絶望的に見える状況でも、ラザロを復活させることがおできになることを示すためかもしれません。

 7節「それから弟子たちに言われた。『もう一度ユダヤに行こう。』弟子たちは言った。『ラビ(先生)、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。』」その通りです。ついこの間ユダヤ人たちがイエス様を憎んで殺そうとした方面に向かうのです。死の覚悟が必要です。事実弟子の一人ディディモ(双子)と呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに16節で言います。「私たちも行って、一緒に死のうではないか。」ユダヤに向かうには、この覚悟が必要でした。事実イエス様は、ラザロを復活させたことでユダヤ人たちに更に憎まれ、十字架の死に追いやられることになります。イエス様はラザロへの愛のゆえにエルサレム方面にあるベタニア村に向かいます。その後エルサレムで十字架につけられるのですから、十字架で死ぬ覚悟を胸に抱いて、ベタニア村へ向かわれたのです。但しすぐ殺されるのではなく、ラザロを復活させるには十分な時間が与えられていました。その間は、父なる神様がイエス様を守っておられました。ですからイエス様は10節で弟子たちに、「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ」と言われました。まだ悪魔の支配する夜ではなかったのです。

 イエス様は、11節で言われます。「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言いました。13~14節「イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものを思ったのである。」イエス様がラザロを友と呼ばれたことに注目したいと思います。私たちは、神様が主であり、私たちは僕(しもべ)だと思っています。それは正しい考えです。そして同時にクリスチャンは、神の子であり、イエス様の霊的な妹たちや弟たちです。そしてイエス様の友とも呼んでいただいています。真に光栄で、ありがたい限りです。

 この福音書15章の、イエス様の御言葉を思い出すことがふさわしいことです。「友のために自分の命を捨てること。これ以上に大きな愛はない。」その通り、イエス様は、ラザロを復活させれば、ご自分がユダヤ人たちから政治的に危険人物とさらに警戒され、十字架の死に追いやられると分かった上で、なおラザロを復活させるためにベタニアに向かわれるのです。まさに、友ラザロのために、イエス様が命を捨てる、非常に大きな愛を実行なさったのです。そして言われます。「私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である。もはや、私はあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか、知らないからである。私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことを全てあなた方に知らせたからである。あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、
私があなた方を任命したのである。」

 ここではイエス様が、私たちを「私の友」と呼んで下さっています。僕と友では違いますね。僕には打ち明けないことでも、友には信頼して打ち明けて下さいます。「父から聞いたことを全てあなた方に知らせた」と言っておられます。旧約聖書のイザヤ書41章では、父なる神様がイスラエルの民の先祖アブラハムのことを、「私の愛する友」と呼んでおられます。創世記18章では、神様はソドムを裁く前にアブラハムを友として信頼して「私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」と言われ、ソドムが非常に重い罪を犯しているか降って確かめようとしていることを打ち明けられます。神様は私たちをも愛して信頼して下さっています。私たちは聖書を読めば、父なる神様のこと、イエス様のことがかなり分かります。旧約聖書と新約聖書両方だとかなり分厚いです。神様は私たちに聖書を与え、神様ご自身のこと、イエス様ご自身のことを、こんなに沢山打ち明けて下さっています。イエス様が、私たちを親しく友と呼んで下さることは、大変嬉しいことです。
 
 次の小見出しに進みます。「イエスは復活と命」です。17節以下「さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、15スタディオン(2775m)ほどの所にあった。マルタとマリアの所には、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中で座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいて下さいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」「なぜもっと早く来て下さらなかったのですか」という恨み言にも聞こえますが、それだけでもない。マルタは言います。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でもかなえてくださると、私は今でも承知しています。」イエス様は「あなたの兄弟は復活する」と断言されます。これはイエス様でないと言えない言葉です。

 マルタも応じます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」ユダヤでは、サドカイ派以外は死者の復活を信じていたようです。但しそれは、世の終わりまでは起こらないと思われていたのでしょう。終わりの日の復活のことは、本日の旧約聖書ダニエル書12章に約束されています。1節の途中から「しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書(命の書)に記された人々は。多くの者が地の塵の中から目覚める(復活)。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々(復活した人々)は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。」

 しかしイエス様は、何千年か先の世の終わりの時ではなく、今ここにいる私を見なさいと迫ります。「私は(が)復活であり、命(永遠の命)である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」「何千か先の世の終わりではなく、今ここに生きている私こそが真の神の子、復活、永遠の命なのだ。私を信じる者は、死んでも生きる。このことを信じるか。いや、ぜひ信じてほしい。」これは力強い御言葉です。イエス様でなくては決して言えない御言葉です。若くして天に召された私の高校時代のクリスチャンの友人の家のお墓が八王子にあり、ほぼ毎年行くのですが、その墓石にこの御言葉が文語訳で刻まれています。「我は復活(よみがえり)なり、生命(いのち)なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。」そうか彼もイエス様を信じていたので、信仰によってのみ救われ、「我を信ずる者は死ぬとも生きん」、彼も死んだが天国で生きており、やがて復活の体をいだだくのだな、と改めて思います。

 イエス様に「このことを信じるか」と問われて、マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております」と、よき信仰の告白を致しました。私たちに同じ告白を致しましょう。このヨハネ福音書の20章31節に、このヨハネ福音書が書かれた目的が記されています。「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命(永遠の命)を受けるためである。」こう書いてあるので、イエス様を救い主と信じたマルタも、永遠の命を受けました。

 私は『死は終わりではない』(文藝春秋、1989年)という本を持っていることを思い出しました。本日の4節「この病気は死で終わるものではない」からとられたのかは分かりませんが、よく似ています。信仰の証しの本と言えます。1980年代にフジテレビのキャスターとして活躍された山川千秋さんという男性と夫人の共著の形ですが、ご本人は天国に行かれたので、夫人を中心に協力者が書いたのだと思います。私も高校生、大学生の頃によくテレビの報道番組で見ました。ご記憶の方も多いと思います。ばりばり働いておられたのですが、ある時、ご病気になります。1988年に55歳で天に召されておられますが、今から35年も前ですから、今なら治療で治る可能性が高いのではないかと思います。夫人はクリスチャンだったので、吉祥寺キリスト集会という集会のベックさんという宣教師に病院に来ていただきました。山川千秋さんはそれまで全く信仰に関心をもたなかったのですが、ベック宣教師は、イエス・キリストが私たち全員の罪を身代わりに背負って十字架で死なれたこと、三日目に復活なさったこと、キリストを信じる人にとって「死は終わりではない」とお話して下さいました。

 「死は決して最後ではない。死はキリストと一緒にいられる最高の幸せの始まりです。」ベックさんに導かれて、山川さんも生まれて初めて、声に出して祈られました。「私は今まで神から遠いところに存在していたので、数々の罪を犯して来たけれども、その罪を贖うために主イエス・キリストが十字架にかかって血を流された、そのことに感謝をささげます。そして主イエス・キリストの御言葉を信じます。私を支えて下さい」という祈りでした。山川さんの心は、信仰的になってゆきます。御自分が勤務したテレビ局も冷めた目で見るようになっていました。こう書いておられます。「フジテレビが突っ走った『軽チャーイズム』は、日本人の心の荒廃を早めた。私を含め、全ての記者、キャスター、歌手、俳優、タレントの回転を早め、交替圧力を強め、寿命を短くした。私もそのような力学の直接の被害者であった。私は自分の勤務先の製品について、誇りをもつことがついになかった。」このような真摯な感想を書いておられます。「マタイ11:28、『すべて疲れた人、重荷を負った人は私(キリスト)のもとに来なさい。私があなた方を休めませてあげよう』という言葉が魂にしみる。主よ、私を力で満たして下さい。」あの有名だったキャスターが、このような信仰、「死は終わりではない」を得て、天国に行かれたことに少し驚きを覚えます。

 私も吉祥寺キリスト集会に行き、ベックさんのメッセージを伺ったこともあります。ベックさんも今は天国と聞いています。吉祥寺キリスト集会はもちろん今も礼拝と伝道を行っておられるようです。1990年代の前半は、『光よあれ』という証し集を多く出すなど、かなり勢いのある伝道を行っておられました。軽井沢の隣りの御代田という駅が最寄りの福音センターという大きな集会所を浅間山の中腹辺りに建設され、私も数回訪れました。今後も祝されるように祈ります。

 私たちの人生が死で終わらなくなったのは、ひとえにイエス様の十字架の死と復活のお陰です。私たちは自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主と告白し、洗礼を受けると永遠の命を受けます。そして聖餐式のパンとぶどう液を受けるたび、私たちはイエス様の十字架のお陰で、永遠の命を受けている恵みを、感謝をもって確認します。最後に、ヨハネ福音書の御言葉を2か所味わいましょう。「「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」アーメン。 

2023-06-11 1:18:02()
説教「神の国を相続する私たち」2023年6月11日(日)聖霊降臨節第3主日公同礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書14:6,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編97、使徒信条、讃美歌21・352、聖書 創世記12:1~8(旧約p.15)、エフェソの信徒への手紙1:8~14(新約p.352)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌471、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(創世記12:1~8) 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。

(エフェソの信徒への手紙1:8~14) 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第3主日礼拝です。説教題は「神の国を相続する私たち」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙1章8~14節です。

 エフェソの信徒への手紙は、イエス・キリストの使徒パウロが書いた手紙だと、1章1節に記されています。最初の8~9節「神は、この恵みを私たちの上にあふれさせ、全ての知恵と理解とを与えて、秘められた計画を私たちに知らせて下さいました。」この「恵み」は、地直前の7節に記されています。「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」恵みは、新約聖書のギリシア語でカリスです。初代の浅野悦昭牧師の時代、東久留米教会にはカリスという名前の猫がいたそうです。「恵み」という名前の猫だったのですね。私たちが何の功績もないままに、ただイエス・キリストの十字架の血潮のお陰で、全ての罪の赦しと永遠の命を受けた恵みです。

 このイエス・キリストの十字架の血による救いについては、使徒言行録20章28節に印象的な御言葉があります。パウロが、それこそエフェソの教会の長老たちに語った言葉です。「どうか、あなた方自身と群れ全体とに気を配って下さい。聖霊は、神が御子(イエス様)の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなた方をこの群れの監督者に任命なさったのです。」これは心に刺さる御言葉と私は思います。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会。」私たちはイエス様の十字架の尊い血潮によって神に所属する者となる恵みを受けたことが分かります。そしてこの東久留米教会も、神が御子の十字架の血潮によって神に所属する群れとなさったということです。血は命です。私たちは御子イエス様の全く罪なき命という最も尊い犠牲と引き換えに、神の子となる恵みを受けたのです。それがここで言う「恵み」です。

 この恵みは、同じパウロが書いたローマの信徒への手紙5章16節によると、「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」恵みです。「アメイジング・グレイス」(驚くべき恵み)という有名な讃美歌がありますが、まさに「アメイジング・グレイス」です。クリスチャンを憎んで、クリスチャンを狂ったように迫害していたパウロの罪さえ、赦されたのです。これが十字架の贖いの恵みです。この恵みを受けた人は、イエス様の十字架の偉大な愛に感謝して、自分の罪を悔い改め、これからはできる限り罪を犯すことの少ない人生へ進むことを、意識して心がけるのです。

 9節には「秘められた計画を私たちに知らせて下さいました」とあります。「秘められた計画」は、元のギリシア語で「ミュステーリオン」です。英語のミステリーの語源でしょうね。しかしそれが今や知らされた、開示されたのですから、もはやミステリー・謎ではありません。「秘められた計画」(ミュステーリオン)は、口語訳聖書では「奥義」と訳されています。一番新しい訳である聖書協会共同訳では「秘義」と訳されています。神様の秘められた計画とは、どのような計画なのか。9節の途中から「これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが頭(かしら)であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」最終的に時が満ちて、イエス・キリストがこの地上にもう一度来られて、救いの業が完成され、神の国が完成されます。その時、天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる。そのような喜ばしい時が来る。どんなプロセスでそうなるのか。神様だけがご存じです。私たちには完全には分かりません。伝道も少しずつ進んでいるにしても、世界の現実はコロナやウクライナでの戦争で混沌としています。しかし神様が1つ1つ乗り越える力を与えて下さり、時には行きつ戻りつしているように見えても、神の国の完成に向けて、私たちを導いておられるのだと信じます。

 秘められた計画。それはイエス様の十字架による救いの計画のことでもあると、私は思っています。イエス様の十字架の贖いの死。私たちの全部の罪を身代わりに背負いきって下さった十字架の贖いの死。そして三日目の復活。これらは旧約聖書で暗示されていますが、明確に示されてはいませんでした。秘められていました。しかし今や、イエス・キリストの十字架の死と復活は現実のこととなり、秘められた計画が開示されたのです。私たちの使命は、このイエス様の十字架と復活による真の救いを、世の中に向かって公然と宣べ伝えることです。

 11節「キリストにおいて私たちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」私たちは、神様が約束されたもの(天国、神の国、永遠の命、復活の体)の相続者とされています。真の祝福の相続者とされています。この祝福の約束は、まず本日の旧約聖書・創世記12章で、神の民イスラエルの先祖アブラハム(意味は「諸国民の父」)に示されました。彼がまだアブラムと呼ばれていた時に、神様がアブラムに言われたのです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」そしてカナン地方(イスラエルの地)に入ったアブラムに、神様が約束されます。「あなたの子孫にこの土地を与える。」

 新約聖書のガラテヤの信徒への手紙は、この子孫はイエス・キリストだと述べています。確かにイエス様はアブラハムの子孫です。マタイ福音書の冒頭の系図に記されている通りです。「この土地」は、もはや中近東のイスラエルの土地ではありません。神の国、天国を指します。「地上の氏族はすべて、あなた(アブラム)によって祝福に入る。」イスラエル人も異邦人(外国人)も、アブラムによって、その子孫イエス・キリストを通して、真の祝福(天国、神の国)に入る。これが神様の約束です。私たちイエス様を信じる者は、この約束によって天国、神の国を相続させていただくのです。それで、本日の説教題を「神の国を相続する私たち」としました。

 12節「それは、以前からキリストに希望を置いていた私たちが、神の栄光をたたえるためです。」信仰の最終的な目的は、私たちが神の栄光をたたえ、讃美することです。私たちが真の祝福をいただくことも確かですが、最終的な真の目的は、私たちが神様の栄光をたたえ、神様を讃美することです。そして私たちは、イエス・キリストに希望を置いています。キリストだけが私たちに永遠の命をもたらして下さるからです。イエス様だけが、私たちの真の希望の星なのです。ダビデ王は、神殿建築の準備をしながら、こう言っています(歴代誌・上29章10節~)。まず賛美です。「私たちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あまたは万物を支配しておられる。」イエス様が教えられた「主の祈り」は、マタイ福音書とルカ福音書に記されていますが、「主の祈り」の「国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり」の言葉は、マタイ・ルカ福音書の「主の祈り」に書かれていません。「国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり」は、今読んだダビデの讃美から取られて、「主の祈り」に入ったと言われています。そしてダビデは述べます。「私たちは~あなた(神様)の御前では、寄留民にすぎず、移住者にすぎません。この地上における私たちの人生は影のようなもので、希望はありません。」このように言うと極端なようですが、事実と思います。どうしても最後には死が行く手をふさいでいるからです。イエス様がおられなければ、私たちに永遠の命の希望はありません。しかし実にありがたいことに、真の希望の主イエス・キリストが、私たちを愛していて下さるのです。

 この希望に生きた、ある極端な方々のお話をしたいと思いますが、私の手元に田島という方が書かれた『天国への凱旋門 死刑囚からの手紙』という本があります。1997年に出版された本です。ご記憶の方々もおられるはずです。私が東京神学大学でお世話になった松永希久夫牧師が序文を書いておられます。松永先生は東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生の東京神学大学での同級生であり、東久留米教会でも何回も礼拝説教して下さり、今は天国におられます。松永先生が国際基督教大学の学生だった若き日に、友人のクリスチャン新保さんから、新保さんの満州の小学校の同級生Sさんのことを聞かれました。Sさんは敗戦後、孤児として日本に引き揚げて、殺人の罪を犯してしまい、死刑囚として服役していました。新保さんは松永青年とクリスチャンの友人に、「何とかしてS君がキリストへの信仰によって救われて、死の日を迎えてほしいのだが、手伝ってほしい」と頼まれました。それでSさんに数人で手紙を書き出したのですが、Sさんから見れば知らない人々も含まれている手紙で、うまくいきません。それで、各自が通っている教会の日曜日の説教を筆記してSさんに送ることにしました。ある人は吉祥寺教会の竹森牧師の説教を、松永先生は三鷹教会の石島牧師の説教を、新保さんは東中野教会の由木牧師の説教を筆記して郵送し始めました。私としては、松永先生が若き日にそのようなことをなさったのかと目を見張りました。

 Sさんは最初はほとんど関心を払わなかったのですが、紆余曲折を経て、真剣に読むようになり、遂には罪を悔い改めて獄中で洗礼を受けます。そして落ち着いて死刑を受け、天国に行ったということです。新保さんはSに殺された身寄りのないバタ屋の老人の心に語りかけ、神に祈りました。「Sは、死をもってあなたへの罪を償いました。自分の犯した犯罪と、神への罪に対して、心から悔い改めていました。どうかSを赦してやって下さい。」

 Sさん以上に特筆されるべき方はSさんと知り合いのU死刑囚でした。Uさんも獄中で聖書に出会い、人が変わったように全面的に罪を悔い改め、獄中で熱心に信仰に励んだ方でした。20代の松永先生と新保さんが九州の刑務所でUさんたち(獄中の聖書研究会「カルバリ会」を作っていた)に面会した時、Uさんたちは言いました。聖書の言葉が確かであり、どんなにか救いとなり、慰めと力になっているかを、ほとばしり出る言葉で語りました。その内の一人は窓から外を指さして言いました。死刑囚と思います。「あそこにあるのが、死刑台のある建物です。入所した頃は、怖くてあの建物をちゃんと見られませんでした。しかしキリストに救われてからは、どこからでも直視することができるようになりました。あれは天国への凱旋門ですから。」

 死刑囚の方は、本当にイエス様の十字架と復活以外には希望がない極限状態を生きているのですから、信仰に入ると、信仰が日々純粋化されていくのではないかと感じます。Uさんから新保さんへの手紙には、こう書かれています。「勉強にアルバイトに寸暇ない中で、私たちのためにお説教の筆記を続けていただくことは、本当にお気の毒に存じますが、私たちの魂の救いに、どれだけ役立っているか、言葉では言い尽くせない感謝でいっぱいでございます。最大の不幸も最大の幸福へと変えて下さる、神様のなせる素晴らしい御業に、ただ賛美と感謝の祈りあるのみです。これからの日を清く備えのために生きよ、という言葉を思い出して、緊迫した生死の対決の場に身を置き、今日の信仰にとどまることなく、信仰より信仰へと一歩一歩、『主よ、みもとに近づかん』と、過ぎ行く一瞬一瞬を尊び、いとしんで祈っています。お陰で、聖書に親しむ人が増えて来ました。」刑務所内で、ということです。

 このUさんは、自由時間の多くを使って自分がいかにキリストに救われて恵みの日の中にあるかという証しを、便せんやはがきに書き写し、全国の刑務所や結核療養所に送っていました。松永先生たちが「何か差し入れましょうか」と申し出ると、「便箋と封筒、はがきと切手以外は要りません」と返事し、それを全部伝道用に使っていました。「決して助命運動などはしないで下さいね。キリストに赦されているのですから、喜んで自分の犯した罪については責任を負ってゆきますので」とも言いました。「私は、この塀の外に出られない。もっと手紙やはがきを書きたくても、時間の制約があって書けない。しかし、あなたたちはどこへ行くのも自由、どれだけ時間を使っても制限されることはないのですから、どうか伝道して下さい。」とも言われました。松永先生の文によると、先生がその後、伝道者になるために献身(身を献げた)したのは、一つにはこのUさんの一言が胸に響いていたことは確かであった」と書いておられます。

 私たちは死刑囚ではないので、このSさんやUさんを身近には感じないでしょう。ですが究極的には私たちはいずれは死ぬのであり、イエス・キリストによって救われる必要があることは、死刑囚と変わりません。私たちにとってもイエス様だけが、真の希望の星です。11~12節を、改めてかみしめます。「キリストにおいて私たちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていた私たちが、神の栄光をたたえるためです。」


 今から歌う讃美歌471。 勝利とは、人間を憎んでやっつける勝利ではない。歌詞に「勝利を望み」とありますが、これは悪の力を乗り越えるということです。善をもって悪に勝つということです。イエス様が十字架の上で、愛をもって悪に勝利して下さいました。そのイエス様が王の王、主の主として崇められる神の国が必ず来ることを確信して、希望に生きようという讃美歌です。私たちに信仰を与え、キリストによる救いを与え、神の国を完成させて下さる神の御名を、限りなくほめたたえましょう。アーメン。