
2022-07-10 1:12:04()
「イエス様の弟子になろう!」 2022年7月10日(日) 聖霊降臨節第6主日礼拝
順序:招詞 コリント(二)1:3~5、頌栄85(2回)、「主の祈り」,交読詩編63,使徒信条、讃美歌21・208、聖書 イザヤ書35:3~10(旧約p.1116),ヨハネ福音書1:35~51(新約p.164)、祈祷、説教、讃美歌21・458、献金、頌栄83(2節)、祝祷。
(イザヤ書35:3~10) 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。
(ヨハネ福音書1:35~51) その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
(説教) 5週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第6主日の礼拝です。3週間前より、月2回くらいの予定でヨハネによる福音書を最初から読み始めています。本日は1章の35~51節です。
「その翌日、また、ヨハネ(洗礼者ヨハネ)は二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。」前の日に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったこととほぼ同じです。「世の罪を取り除く神の小羊」と聞いて、先週の礼拝ではイザヤ書53章を読みましたが、旧約聖書の出エジプト記12章を思い出すこともよいと思います。神様がイスラエルの民におっしゃいました。「家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。~それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血をとって、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。~その夜、私はエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。私は主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、私はあなたたちを過ぎ越す。」小羊の血が塗られたイスラエルの民の家の上を、神様の裁きが通り過ぎます。この小羊の血は、イエス・キリストの十字架の血潮を予告しています。イエス・キリストが十字架の上で、私たちの全部の罪の責任を背負いきって死んで下さったので、小羊イエス様が流して下さった清らかな血のお陰で、私たちの上を父なる神様の裁きが通り過ぎて行きます。イエス様が「神の小羊だ」と呼ばれているとき、私たちは出エジプト記の際の、この出来事を思い出すことがふさわしいです。
ヨハネは「神の小羊だ」と言いましたが、これは「イエス様こそ、真の救い主だ」と言ったに等しいです。37節「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。」イエス様は、従って来るヨハネの二人の弟子たちに対して「あなたたちは、私に何を求めているのか」と質問なさったのだと思います。ヨハネの弟子たちが、「ラビ(先生という意味)、どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエス様ももとに泊まりました。この会話は午後四時ごろの夕方に行われたと書かれています。ヨハネの言葉を聞いて、イエス様に従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレでした。
弟子たちはイエス様の元に泊まりました。ここに「泊まる」という言葉が三回出て来ますが、これはヨハネ福音書の重要なキーワードの一つです。元の言葉であるギリシア語で「メノー」という言葉で、「留まる」と訳すことができます。イエス様の元に留まる、イエス様につながることが最も大切だというメッセージが込められています。この「メノー」「留まる」という言葉は、ヨハネ福音書15章にも繰り返し出て来ます。「イエス様がまことのぶどうの木」だと述べられる、教会学校でもよく用いられる御言葉です。「私(イエス様)につながっていなさい。私もあなた方につながっている。」この「つながる」が元のギリシア語で「メノー」で、「留まる」の意味です。「私(イエス様)にとどまっていなさい。私もあなた方に留まっている」ということです。「ぶどうの枝が、木につながって(留まって)いなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も、私につながって(留まって)いなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながって(留まって)おり、私もその人につながって(留まって)いれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」このように、ヨハネ福音書の私たちへのメッセージは、「イエス・キリストに留まりなさい。イエス様につながり続けなさい。そうすればイエス様の愛によって私たちは実を結ぶことができる。神様と隣人を愛するという実を結ぶことができる」です。
ヨハネの二人の弟子たちがイエス様の元に泊まったということは、イエス様につながった、イエス様に留まったということです。イエス様とじっくり語り合い、イエス様の人格に触れて、イエス様をある程度深く知ることができました。だからシモン・ペトロの兄弟アンデレは、自分の兄弟シモンに会って、「私たちはメシアー『油を注がれた者』という意味―に出会った」と自信をもって言うことができたのです。イエス様こそ、イスラエルの民が待ち望んでいるメシア(油を注がれた者、救い主)と告げることができたのです。旧約聖書の時代、神様にお仕えする三つの重要な職務は、祭司・王様・預言者でした。彼らは祭司・王様・預言者に就任するに当たり、聖なる油を注がれて聖別されました。聖別とはキリスト教会の用語で、「聖なるものとして、選び分ける」ことを意味します。私たちは日曜日を、聖なる神様を礼拝する日として聖別して、神様にお献げしています。献金のお金を、神様に献げるお金としてあらかじめ用意して、選び分けて献金します。神様のものとして献げることは聖別することで、私たちの信仰にとって極めて重要なことと信じます。
イエス・キリストは、祭司・王様・預言者の3つの職務をお一方で完全に行う「油を注がれた者」メシアなのです。本当の聖なる油は聖霊です。イエス様は聖霊に完璧に満たされた愛の方です。ヘブライ人への手紙1章9節に、「あなたの神は、喜びの油(聖霊)を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ」と書いてあることと一致します。
イエス様こそ真のメシアと確信したアンデレは、自分の兄弟シモンを、イエス様の所に連れて行きました。イエス様に何としても会わせたかったのです。イエス様はシモンを見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩という意味)と呼ぶことにする」と言われました。ケファはヘブライ語かアラム語でしょう。イエス様や弟子たちが日常的に使っていた言葉です。ケファをギリシア語にするとペトロになります。ケファもペトロも、「岩」の意味です。ケファはあだ名ですが、あだ名でも名前をつけることには意味があります。プロテスタントではあまり行いませんが、カトリックでは洗礼を受ける時に、洗礼名をつけます。たとえばヨセフ、マリア、フランシスコなどという洗礼名をつけます。たいてい昔の立派なクリスチャンの名前をつけるようです。その名前の昔の立派なクリスチャンにあやかる信仰に生きなさい、という意図があるでしょう。
しかしペトロもすぐに岩のような力強いクリスチャンになることはできませんでした。イエス様は先の先まで見通しておられたと思います。シモン・ペトロが挫折を乗り越えて、教会の力強いリーダーになることを。そしてイエス様は、もちろんご自分が祈りによってペトロを支えていくことを決心しておられます。私たちは知っています。イエス様が十字架にかかる直前に、ペトロがイエス様を知らないと三度言ってしまうことを。ペトロは、涙を流してその罪を悔い改めます。復活されたイエス様は、ペトロのこの罪を赦して下さり、再びイエス様の弟子・使徒として立てて下さいます。「私の羊を飼いなさい」と。そして確かにペトロは、使徒言行録では弟子として力強い働きをしています。但しガラテヤの信徒への手紙を読むと、使徒パウロに叱られる失敗もしたようです。それでも最後は、迫害のローマでクリスチャンたちの世話をしながら、逆さ十字架に架かって殉教したと言われます。挫折を乗り越え、教会の本当の岩になりました。
私たちも、信者であるにとどまらず、イエス様の弟子であることを心に留めたいと思います。使徒言行録では、しばしばクリスチャンのことを弟子と呼んでいます。私たちは、イエス様の足跡に続いて歩む弟子です。今日は歌いませんが、讃美歌21の289番の3節の歌詞に「み足のあとを、我はたどらん」とあります。私たちは皆、イエス様の御足のあとに続いて歩む、イエス様の弟子です。ペトロのように挫折することもありますが、イエス様の祈りに支えられ、悔い改めて立ち直り、改めて従ってゆきます。(Hさんの証し。)
次の小見出しは、「フィリポとナタナエル、弟子となる」です。アンデレと名前が書かれていない一人、そしてシモンに次いでフィリポとナタナエルが、イエス様の弟子になります。弟子が五人になります。43節「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『私に従いなさい』と言われた。」フィリポはイエス様と深い出会いを経験したに違いありません。そしてフィリポは、イエス様に従、弟子になったのです。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身でした。フィリポは、ナタナエルという友人(?)に出会って告げます。興奮気味に言ったかもしれません。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
モーセが記した律法、そして預言者たちの書、これで旧約聖書の大半をカバーします。フィリポはナタナエルに、「私は聖書で予告されているメシア(救い主)に出会った。」旧約聖書には、色々な箇所にメシア(救い主)のことが暗示されています。たとえば本日のイザヤ書35章もその1つです。本日は5節以下を朗読しましたが、1~2節には神様がもたらす祝福が描かれています。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで声をあげよ。」5節には、神様の恵みの業が記されています。これは福音書の中で、イエス様がなさったことです。イエス様こそメシア(救い主)なのです。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」
ナタナエルは、すぐには信じません。「そのイエスという方はナザレの人だって? ナザレから何か良いものが出るだろうか。」イエス様は生まれはベツレヘムですが、育ちはガリラヤのナザレです。ナザレの地名は、旧約聖書には一回も出て来ません。差別的な言い方で恐縮ですが、ナザレはほとんど取るに足りない町と見られていたのでしょう。「メシアが出るなら首都エルサレムか、有名な町のはずでしょう。」これがナタナエルの思いです。私たちもつい、同じように思うのではないでしょうか。大きくて有名なことがよいことだと。しかし洗礼者ヨハネは、マタイ福音書3章でこう述べます。「神はこんな石からでも、アブラハムの子たち(神の民)を造り出すことがおできになる。」神様は、人間が顧みない、いと小さき者、弱い者を大切に愛して、深い信仰を与えて下さるのです。
コリントの信徒への手紙(一)1章26節以下が、思い出されます。「兄弟たち、あなた方が召された(クリスチャンになった)ときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下されている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」
イエス様こそメシアだとなかなか納得しないナタナエルに、フィリポは「来て、見なさい」と促します。直に会えば、分かるからです。イエス様は、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われました。これは最高の褒め言葉です。「まことの」イスラエル人、嘘偽りのない人だ。私たちも、イエス様にこう言われたいものです。イエス様はナタナエルの全てを初めから見抜いておられます。ナタナエルが驚いて「どうして私を知っておられるのですか」と問うと、イエス様は、「私は、あなたがフィリポに話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました。当時、イスラエルの熱心な人々は、いちじくの木の下で、律法(神様の教え)を学んだそうです。ナタナエルはとりわけ熱心に、神様の教え(律法)を学んでいたに違いありません。イエス様は、ナタナエルに会う前からそれをよくよく知っておられました。神の子だからです。それでナタナエルも脱帽し、イエス様こそイスラエルの民が待ち望むメシア(救い主)と心から信じました。「ラビ(先生)、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」権力を行使する王ではありません。全ての人に仕えて下さる王です。イスラエルの真の王、日本の真の王、世界の真の王、私たち皆のために十字架にかかって下さる王です。
イエス様が言われます。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子(イエス様)の上に昇り降りするのを、あなた方は見ることになる。」これを聞くと私たちは、創世記28章のヤコブが見た天と地を結ぶ階段の夢を連想します。天使たちがそれを上ったり下ったりしていました。そこは天の門でした。イエス様は、ご自分こそ「真の天の門」と言われたのではないかと思います。イエス様を救い主と信じ告白する者は、イエス様という門を通って天国に入ることができます。
今日登場する、イエス様の最初の五人の弟子たちは、イエス様との深い出会い、深い人格的な交わりを体験し、「この方に従えば、間違いはない」と深く信頼して、イエス様に従う弟子となりました。私たちも、各々の家庭、職場、地域においてイエス様の弟子となって、イエス様に従って参りましょう。アーメン。
(祈り)御名讃美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。参議院選挙を導いて下さい。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。
(イザヤ書35:3~10) 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。
(ヨハネ福音書1:35~51) その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
(説教) 5週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第6主日の礼拝です。3週間前より、月2回くらいの予定でヨハネによる福音書を最初から読み始めています。本日は1章の35~51節です。
「その翌日、また、ヨハネ(洗礼者ヨハネ)は二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。」前の日に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったこととほぼ同じです。「世の罪を取り除く神の小羊」と聞いて、先週の礼拝ではイザヤ書53章を読みましたが、旧約聖書の出エジプト記12章を思い出すこともよいと思います。神様がイスラエルの民におっしゃいました。「家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。~それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血をとって、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。~その夜、私はエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。私は主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、私はあなたたちを過ぎ越す。」小羊の血が塗られたイスラエルの民の家の上を、神様の裁きが通り過ぎます。この小羊の血は、イエス・キリストの十字架の血潮を予告しています。イエス・キリストが十字架の上で、私たちの全部の罪の責任を背負いきって死んで下さったので、小羊イエス様が流して下さった清らかな血のお陰で、私たちの上を父なる神様の裁きが通り過ぎて行きます。イエス様が「神の小羊だ」と呼ばれているとき、私たちは出エジプト記の際の、この出来事を思い出すことがふさわしいです。
ヨハネは「神の小羊だ」と言いましたが、これは「イエス様こそ、真の救い主だ」と言ったに等しいです。37節「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。」イエス様は、従って来るヨハネの二人の弟子たちに対して「あなたたちは、私に何を求めているのか」と質問なさったのだと思います。ヨハネの弟子たちが、「ラビ(先生という意味)、どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエス様ももとに泊まりました。この会話は午後四時ごろの夕方に行われたと書かれています。ヨハネの言葉を聞いて、イエス様に従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレでした。
弟子たちはイエス様の元に泊まりました。ここに「泊まる」という言葉が三回出て来ますが、これはヨハネ福音書の重要なキーワードの一つです。元の言葉であるギリシア語で「メノー」という言葉で、「留まる」と訳すことができます。イエス様の元に留まる、イエス様につながることが最も大切だというメッセージが込められています。この「メノー」「留まる」という言葉は、ヨハネ福音書15章にも繰り返し出て来ます。「イエス様がまことのぶどうの木」だと述べられる、教会学校でもよく用いられる御言葉です。「私(イエス様)につながっていなさい。私もあなた方につながっている。」この「つながる」が元のギリシア語で「メノー」で、「留まる」の意味です。「私(イエス様)にとどまっていなさい。私もあなた方に留まっている」ということです。「ぶどうの枝が、木につながって(留まって)いなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も、私につながって(留まって)いなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながって(留まって)おり、私もその人につながって(留まって)いれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」このように、ヨハネ福音書の私たちへのメッセージは、「イエス・キリストに留まりなさい。イエス様につながり続けなさい。そうすればイエス様の愛によって私たちは実を結ぶことができる。神様と隣人を愛するという実を結ぶことができる」です。
ヨハネの二人の弟子たちがイエス様の元に泊まったということは、イエス様につながった、イエス様に留まったということです。イエス様とじっくり語り合い、イエス様の人格に触れて、イエス様をある程度深く知ることができました。だからシモン・ペトロの兄弟アンデレは、自分の兄弟シモンに会って、「私たちはメシアー『油を注がれた者』という意味―に出会った」と自信をもって言うことができたのです。イエス様こそ、イスラエルの民が待ち望んでいるメシア(油を注がれた者、救い主)と告げることができたのです。旧約聖書の時代、神様にお仕えする三つの重要な職務は、祭司・王様・預言者でした。彼らは祭司・王様・預言者に就任するに当たり、聖なる油を注がれて聖別されました。聖別とはキリスト教会の用語で、「聖なるものとして、選び分ける」ことを意味します。私たちは日曜日を、聖なる神様を礼拝する日として聖別して、神様にお献げしています。献金のお金を、神様に献げるお金としてあらかじめ用意して、選び分けて献金します。神様のものとして献げることは聖別することで、私たちの信仰にとって極めて重要なことと信じます。
イエス・キリストは、祭司・王様・預言者の3つの職務をお一方で完全に行う「油を注がれた者」メシアなのです。本当の聖なる油は聖霊です。イエス様は聖霊に完璧に満たされた愛の方です。ヘブライ人への手紙1章9節に、「あなたの神は、喜びの油(聖霊)を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ」と書いてあることと一致します。
イエス様こそ真のメシアと確信したアンデレは、自分の兄弟シモンを、イエス様の所に連れて行きました。イエス様に何としても会わせたかったのです。イエス様はシモンを見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩という意味)と呼ぶことにする」と言われました。ケファはヘブライ語かアラム語でしょう。イエス様や弟子たちが日常的に使っていた言葉です。ケファをギリシア語にするとペトロになります。ケファもペトロも、「岩」の意味です。ケファはあだ名ですが、あだ名でも名前をつけることには意味があります。プロテスタントではあまり行いませんが、カトリックでは洗礼を受ける時に、洗礼名をつけます。たとえばヨセフ、マリア、フランシスコなどという洗礼名をつけます。たいてい昔の立派なクリスチャンの名前をつけるようです。その名前の昔の立派なクリスチャンにあやかる信仰に生きなさい、という意図があるでしょう。
しかしペトロもすぐに岩のような力強いクリスチャンになることはできませんでした。イエス様は先の先まで見通しておられたと思います。シモン・ペトロが挫折を乗り越えて、教会の力強いリーダーになることを。そしてイエス様は、もちろんご自分が祈りによってペトロを支えていくことを決心しておられます。私たちは知っています。イエス様が十字架にかかる直前に、ペトロがイエス様を知らないと三度言ってしまうことを。ペトロは、涙を流してその罪を悔い改めます。復活されたイエス様は、ペトロのこの罪を赦して下さり、再びイエス様の弟子・使徒として立てて下さいます。「私の羊を飼いなさい」と。そして確かにペトロは、使徒言行録では弟子として力強い働きをしています。但しガラテヤの信徒への手紙を読むと、使徒パウロに叱られる失敗もしたようです。それでも最後は、迫害のローマでクリスチャンたちの世話をしながら、逆さ十字架に架かって殉教したと言われます。挫折を乗り越え、教会の本当の岩になりました。
私たちも、信者であるにとどまらず、イエス様の弟子であることを心に留めたいと思います。使徒言行録では、しばしばクリスチャンのことを弟子と呼んでいます。私たちは、イエス様の足跡に続いて歩む弟子です。今日は歌いませんが、讃美歌21の289番の3節の歌詞に「み足のあとを、我はたどらん」とあります。私たちは皆、イエス様の御足のあとに続いて歩む、イエス様の弟子です。ペトロのように挫折することもありますが、イエス様の祈りに支えられ、悔い改めて立ち直り、改めて従ってゆきます。(Hさんの証し。)
次の小見出しは、「フィリポとナタナエル、弟子となる」です。アンデレと名前が書かれていない一人、そしてシモンに次いでフィリポとナタナエルが、イエス様の弟子になります。弟子が五人になります。43節「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『私に従いなさい』と言われた。」フィリポはイエス様と深い出会いを経験したに違いありません。そしてフィリポは、イエス様に従、弟子になったのです。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身でした。フィリポは、ナタナエルという友人(?)に出会って告げます。興奮気味に言ったかもしれません。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
モーセが記した律法、そして預言者たちの書、これで旧約聖書の大半をカバーします。フィリポはナタナエルに、「私は聖書で予告されているメシア(救い主)に出会った。」旧約聖書には、色々な箇所にメシア(救い主)のことが暗示されています。たとえば本日のイザヤ書35章もその1つです。本日は5節以下を朗読しましたが、1~2節には神様がもたらす祝福が描かれています。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで声をあげよ。」5節には、神様の恵みの業が記されています。これは福音書の中で、イエス様がなさったことです。イエス様こそメシア(救い主)なのです。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」
ナタナエルは、すぐには信じません。「そのイエスという方はナザレの人だって? ナザレから何か良いものが出るだろうか。」イエス様は生まれはベツレヘムですが、育ちはガリラヤのナザレです。ナザレの地名は、旧約聖書には一回も出て来ません。差別的な言い方で恐縮ですが、ナザレはほとんど取るに足りない町と見られていたのでしょう。「メシアが出るなら首都エルサレムか、有名な町のはずでしょう。」これがナタナエルの思いです。私たちもつい、同じように思うのではないでしょうか。大きくて有名なことがよいことだと。しかし洗礼者ヨハネは、マタイ福音書3章でこう述べます。「神はこんな石からでも、アブラハムの子たち(神の民)を造り出すことがおできになる。」神様は、人間が顧みない、いと小さき者、弱い者を大切に愛して、深い信仰を与えて下さるのです。
コリントの信徒への手紙(一)1章26節以下が、思い出されます。「兄弟たち、あなた方が召された(クリスチャンになった)ときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下されている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」
イエス様こそメシアだとなかなか納得しないナタナエルに、フィリポは「来て、見なさい」と促します。直に会えば、分かるからです。イエス様は、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われました。これは最高の褒め言葉です。「まことの」イスラエル人、嘘偽りのない人だ。私たちも、イエス様にこう言われたいものです。イエス様はナタナエルの全てを初めから見抜いておられます。ナタナエルが驚いて「どうして私を知っておられるのですか」と問うと、イエス様は、「私は、あなたがフィリポに話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました。当時、イスラエルの熱心な人々は、いちじくの木の下で、律法(神様の教え)を学んだそうです。ナタナエルはとりわけ熱心に、神様の教え(律法)を学んでいたに違いありません。イエス様は、ナタナエルに会う前からそれをよくよく知っておられました。神の子だからです。それでナタナエルも脱帽し、イエス様こそイスラエルの民が待ち望むメシア(救い主)と心から信じました。「ラビ(先生)、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」権力を行使する王ではありません。全ての人に仕えて下さる王です。イスラエルの真の王、日本の真の王、世界の真の王、私たち皆のために十字架にかかって下さる王です。
イエス様が言われます。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子(イエス様)の上に昇り降りするのを、あなた方は見ることになる。」これを聞くと私たちは、創世記28章のヤコブが見た天と地を結ぶ階段の夢を連想します。天使たちがそれを上ったり下ったりしていました。そこは天の門でした。イエス様は、ご自分こそ「真の天の門」と言われたのではないかと思います。イエス様を救い主と信じ告白する者は、イエス様という門を通って天国に入ることができます。
今日登場する、イエス様の最初の五人の弟子たちは、イエス様との深い出会い、深い人格的な交わりを体験し、「この方に従えば、間違いはない」と深く信頼して、イエス様に従う弟子となりました。私たちも、各々の家庭、職場、地域においてイエス様の弟子となって、イエス様に従って参りましょう。アーメン。
(祈り)御名讃美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。参議院選挙を導いて下さい。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。
2022-07-02 23:42:37(土)
「世の罪を取り除く神の小羊」 2022年7月3日(日)聖霊降臨節第5主日礼拝 説教
順序:招詞 コリント(二)1:3~5、頌栄29、「主の祈り」,交読詩編62,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・358、聖書 イザヤ書53:5~10(旧約p.1149),ヨハネ福音書1:19~34(新約p.163)、祈祷、説教、讃美歌21・78、献金、頌栄83(1節)、祝祷。
(イザヤ書53:5~10) 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。
(ヨハネ福音書1:19~34) さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
(説教) 4週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第5主日の礼拝です。先々週より、月2回くらいの予定でヨハネによる福音書を最初から読み始めています。先々週の第1回は、ヨハネ福音書の冒頭の有名な個所でした。そこでは、イエス・キリストの本質が語られていました。「初めに言(イエス・キリスト)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「言は肉(肉体)となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。」洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)が現れて、イエス様について、こう述べました。「『私の後から来られる方(イエス様)は、私より優れている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。」人間としての誕生の順番は、ヨハネが先に生まれて、その後イエス様が誕生されたのです。しかしヨハネは、イエス様の方が先におられたと言っています。それはイエス様が、神の子、そして父・子・聖霊なる三位一体の神様(子なる神)で、天地創造の前から生きておられたと言っているのです。
さて、今日の最初の小見出しは、「洗礼者ヨハネの証し」です。洗礼者ヨハネが、自分がどんな存在かを述べています。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たち(祭司予備軍)をヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と質問させたからです。ヨハネが多くの人々に洗礼を授ける等の立派な働きをしていたので、もしするとヨハネこそ、神様が送って下さったメシア(救い主)ではないかと思ったからでしょう。しかしヨハネは率直に「私はメシア(救い主)ではない」と告白しました。人々がまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは「違う」と答えます。エリヤとは、旧約聖書の偉大な預言者で、神様がイスラエルにもう一度エリヤを遣わすと、旧約聖書の最後の書であるマラキ書で約束しておられます。ヨハネが「違う」と答えたのは、私にとっては意外で、他の福音書では洗礼者ヨハネこそ再来のエリヤだと書いてあるので不思議ですが、ここではヨハネ福音書の記述に従います。人々がさらにヨハネに、「あなたはあの預言者なのですか」と尋ねると、ヨハネは「そうではない」と否定します。「あの預言者」とは、旧約聖書の申命記で、リーダー・モーセが「あなたの神、主はあなたの中から、私(モーセ)のような預言者を立てられる」と言っている「モーセのような預言者」を指します。それは実はイエス・キリストです。イエス様は預言者ではなく、預言者以上の方、神の子ですが、「モーセのような預言者が立てられる」という神様の約束は、イエス様の誕生によって実現されたと、キリスト教会は信じています。ヨハネがその預言者ではないので、ヨハネは「自分はそれではない」と否定します。そこで人々は、改めて問います。「それではいったい、誰なのです。私たちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは、自分を何だと言うのですか。」
ヨハネは、旧約聖書の預言者イザヤの言葉(イザヤ書40章)を用いて、答えます。「私は荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」洗礼者ヨハネは、謙虚です。「私は声に過ぎない。『主(神様)の道をまっすぐにせよ』と人々に悔い改めを求める一個の声に過ぎない。私は偉大な人物ではない」と言ったのです。人々はさらに問います。「ヨハネさん。あなたはメシア(救い主)でも、再来のエリヤでも、またモーセのようなあの預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるという大胆な行動をしているのですか。」ヨハネは答えます。実に謙虚な答えです。「私は水で洗礼を授けるが、あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる(イエス様です)。その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない。」洗礼者ヨハネは清く正しく生き、真の神様のために大いに奉仕し、真の神様に従って殉教の死を遂げた立派な人ですが、少しも偉ぶることなく、「私はイエス様の履物尾ひもを解く資格もない者だ」と告白しました。これは彼の本心と思います。ヨハネは、本当にへりくだった謙遜な人物でした。
このやり取りは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアで行われました。ヨハネは知っていました。自分が授ける水の洗礼は、悔い改めの洗礼であって、まだ不完全な洗礼だ。しかし真の神の子イエス様がもたらして下さる洗礼は、聖霊による洗礼であって、イエス様がもたらして下さる洗礼こそ、完全な洗礼だと、知っていました。「私は罪人(つみびと)の一人だが、イエス様は全く罪のない清らかな神の子であられる。私はイエス様の前には、無価値な者に過ぎない。」ヨハネは、この福音書の3章30節では、「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない」と言っています。これも実に謙虚な言葉です。「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない。」なかなか言えない言葉です。この言葉も、ヨハネの本心に違いありません。
私はイスラエルに行ったことはありませんが、ヨハネが人々やイエス様に洗礼を授けていたヨルダン川は、写真を見るとそれほど巨大な川幅ではありません。きっと季節によっても水量は変化するでしょう。ですが写真を見る限りでは、東久留米教会のすぐ近くの南沢湧水や落合川に似ていなくもない感じを受けました。日本とイスラエルは風土が違い、ヨルダン川の周囲は砂漠の部分もあるし、緑もあります。ヨハネはこんな感じの所で洗礼を授けたのかなと想像しながら、南沢湧水や落合川の周りを歩いてみるのも楽しいと思います。
次の小見出しは、「神の小羊」です。29~31節「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。「私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさる。私よりも先におられたからである」と私が言ったのは、この方のことである。私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は水で洗礼(バプテスマ)を授けに来た。」
ヨハネ福音書の特徴の1つは、イエス・キリストの本質をずばり言い当てる言葉が多いことです。イエス様ご自身がおっしゃいます。「私が命のパンである。」「私は世の光である。」「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」これらの御言葉は皆、イエス様の本質をずばり言い当てています。洗礼者ヨハネも、今日の個所でイエス様の本質を、見事に言い当てています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。イエス様は、まさにその通りの方です。
これを読むと、本日の旧約聖書であるイザヤ書53章を連想せずにはおれません。イザヤ書53章は、イエス様の十字架の贖いの死(私たちのための身代わりの死)を予告する、非常に重要な個所です。もう一度じっくり読みます。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼(イエス様)に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」これが小羊の姿、世の罪を取り除く神の小羊です。
この小羊の姿は、旧新約聖書の最後の書であるヨハネの黙示録の5章にも出て来ます。「私(著者ヨハネ、洗礼者ヨハネとは別人)はまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られた小羊が立っているのを見た。」救い主イエス・キリストです。「屠られた」とは、十字架にかかって屠られ殺されたことです。「立った」ことは、イエス様が復活なさったことを指しているかもしれません。
ヨハネ福音書に戻ります。洗礼者ヨハネの証しが続きます。32節「私は『霊』(聖霊)が鳩のように降って、この方の上にとどまるのを見た。」それはヨハネがイエス様に洗礼を授けた時のことに違いありません。33節以下「私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるために私をお遣わしになった方(父なる神様)が、『霊(聖霊)が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』と私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」その通り、イエス・キリストこそ真の神の子、私たちのたった一人の真の救い主です。人間の真の救いは、真の神様の前にすべての罪を赦されること、そして死を乗り越えた永遠の命を受けることです。その真の救いをもたらして下さった方がイエス・キリストです。イエス様が私たち皆の罪を全て身代わりに背負って十字架で死なれた。それがなければ、私たちが罪の赦しと永遠の命を受けることはなかったのです。ヨハネは命を懸けて保証して言います。「この方こそ神の子であると証ししたのである」と。このヨハネが命がけで保証するメッセージを受け入れ、全ての方に救い主イエス様を信じていただいて、全ての罪の赦しと永遠の命を受けていただきたいのです。
ここでイエス様は、「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人」だと言われています。ヨハネの洗礼よりも優れている完全な洗礼です。私たちが受けた洗礼が、イエス様が授けて下さった洗礼です。洗礼式で水を注いだのは人間の牧師だったでしょうが、牧師は代理人で、本当は目に見えなくてもイエス様が洗礼を授けて下さったのです。それは父・子・聖霊なる三位一体の神様のお名前による洗礼でした。この洗礼が、どんなに大きな恵みか、ローマの信徒への手紙5章16節と読むと分かります。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが(旧約聖書の律法の場合はのこと)、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」イエス様の十字架による罪の赦しという恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される。ヨハネによる洗礼にはそこまでの恵みはない。しかしイエス様が聖霊によって授ける洗礼の効力は、「いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」洗礼です。ひとえにイエス様が、十字架にかかって私たちの全部の罪への裁きを完璧に受けきって下さったからです。
15~16世紀に生きたグリューネヴァルトというドイツ人画家が描いた十字架上のイエス様の、かなりリアルな真に痛々しい絵があります。この画家の最高傑作だそうです。現物は見たことがありませんが、かなり大きいそうです。写真で時々見ます。イエス様は茨の冠をかぶり、体には鞭打ちの傷が多くあり、死斑が出ているように思えます。左下には、悲しみにくれる母マリア、マリアを支える十二弟子の一人ヨハネ、マグダラのマリアが描かれています。右側には、洗礼者ヨハネが描かれていて、イエス様を指さしています。「あの方は栄え、私は衰えねばならない」とのヨハネの言葉が記されています。洗礼者ヨハネの足の近くに子羊(小羊)が描かれています。イエス様を指さしている洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言おうとしているのかなと、感じます。この絵は元々、フランスの修道院付属の施療院に掲げられていて、そこにはペストなどの患者が治療を受けていたそうです。その人々が、この絵を見上げていたらしいのです。ペストは黒死病と呼ばれ、今のコロナ以上に、ずっと多くの人々の命を奪った病気(疫病)として知られます。この施療院で治療を受けて癒された人も、そうでなかった人々もいたでしょう。死斑が浮かぶように見えるイエス様の遺体を、グリューネヴァルトという画家は、ペスト(黒死病)の遺体のように描いたのかもしれません。
この絵を見上げて人々は、「イエス様も、私たちと同じような、否、私たち以上の肉体の苦しみを苦しまれた。そして私たちの罪を本当に全部背負いきって十字架で死なれた。だから、イエス様を救い主と信じる私たちの全部の罪が赦され、死の力が私たちに最終的に勝利することはない。復活されたイエス様につながっている私たちには、永遠の命が確実に与えられているのだ」との確信を新たにし、もしぺストが治らなくても、真の慰めを与えられたに違いありません。新約聖書のヘブライ人への手紙2章14、15節の御言葉を思い出してよいでしょう。「(イエス様は)死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさ」ったとの御言葉です。
私がこの説教を準備した一昨日の晩に、私と妻に洗礼を授けて下さった若月健悟先生という牧師の方が、ご病気で天に召されたとの知らせが届きました。半年ほど前から闘病しておられると聞いており、私も癒しのために毎日お祈りしていました。しかし一昨日に天に召されてゆかれました。私と妻が洗礼を受けたのは1989年の別の日曜日の礼拝においてでしたが、その時のことを昨日のように思い出します。あの時、洗礼を受けていなければ、私どもが今東久留米教会に居させていただいていることもなかっただろうと思います。以前お世話になった牧師の方々が、一人また一人と天国に帰ってゆかれます。ということは、地上に残された者たちの伝道のための責任が一層重くなったわけで、ますます伝道のために祈り、励まなけれなならないとの思いが強くなります。洗礼者ヨハネは、全身全霊でイエス・キリストを指し示し、命がけで「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と宣べ伝えました。彼の生涯は、このことだけのために用いられました。私どももヨハネに励まされ、「イエス・キリストこそ、十字架にかかって世の罪を取り除いた神の小羊、復活して永遠の命の希望をもたらした神の子」であることを全身全霊で、言葉と行いで指し示す生涯を送りましょう。アーメン。
(祈り)御名賛美。私たちの教会において家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。参議院選挙を導いて下さい。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。
(イザヤ書53:5~10) 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。
(ヨハネ福音書1:19~34) さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
(説教) 4週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第5主日の礼拝です。先々週より、月2回くらいの予定でヨハネによる福音書を最初から読み始めています。先々週の第1回は、ヨハネ福音書の冒頭の有名な個所でした。そこでは、イエス・キリストの本質が語られていました。「初めに言(イエス・キリスト)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「言は肉(肉体)となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。」洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)が現れて、イエス様について、こう述べました。「『私の後から来られる方(イエス様)は、私より優れている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。」人間としての誕生の順番は、ヨハネが先に生まれて、その後イエス様が誕生されたのです。しかしヨハネは、イエス様の方が先におられたと言っています。それはイエス様が、神の子、そして父・子・聖霊なる三位一体の神様(子なる神)で、天地創造の前から生きておられたと言っているのです。
さて、今日の最初の小見出しは、「洗礼者ヨハネの証し」です。洗礼者ヨハネが、自分がどんな存在かを述べています。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たち(祭司予備軍)をヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と質問させたからです。ヨハネが多くの人々に洗礼を授ける等の立派な働きをしていたので、もしするとヨハネこそ、神様が送って下さったメシア(救い主)ではないかと思ったからでしょう。しかしヨハネは率直に「私はメシア(救い主)ではない」と告白しました。人々がまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは「違う」と答えます。エリヤとは、旧約聖書の偉大な預言者で、神様がイスラエルにもう一度エリヤを遣わすと、旧約聖書の最後の書であるマラキ書で約束しておられます。ヨハネが「違う」と答えたのは、私にとっては意外で、他の福音書では洗礼者ヨハネこそ再来のエリヤだと書いてあるので不思議ですが、ここではヨハネ福音書の記述に従います。人々がさらにヨハネに、「あなたはあの預言者なのですか」と尋ねると、ヨハネは「そうではない」と否定します。「あの預言者」とは、旧約聖書の申命記で、リーダー・モーセが「あなたの神、主はあなたの中から、私(モーセ)のような預言者を立てられる」と言っている「モーセのような預言者」を指します。それは実はイエス・キリストです。イエス様は預言者ではなく、預言者以上の方、神の子ですが、「モーセのような預言者が立てられる」という神様の約束は、イエス様の誕生によって実現されたと、キリスト教会は信じています。ヨハネがその預言者ではないので、ヨハネは「自分はそれではない」と否定します。そこで人々は、改めて問います。「それではいったい、誰なのです。私たちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは、自分を何だと言うのですか。」
ヨハネは、旧約聖書の預言者イザヤの言葉(イザヤ書40章)を用いて、答えます。「私は荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」洗礼者ヨハネは、謙虚です。「私は声に過ぎない。『主(神様)の道をまっすぐにせよ』と人々に悔い改めを求める一個の声に過ぎない。私は偉大な人物ではない」と言ったのです。人々はさらに問います。「ヨハネさん。あなたはメシア(救い主)でも、再来のエリヤでも、またモーセのようなあの預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるという大胆な行動をしているのですか。」ヨハネは答えます。実に謙虚な答えです。「私は水で洗礼を授けるが、あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる(イエス様です)。その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない。」洗礼者ヨハネは清く正しく生き、真の神様のために大いに奉仕し、真の神様に従って殉教の死を遂げた立派な人ですが、少しも偉ぶることなく、「私はイエス様の履物尾ひもを解く資格もない者だ」と告白しました。これは彼の本心と思います。ヨハネは、本当にへりくだった謙遜な人物でした。
このやり取りは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアで行われました。ヨハネは知っていました。自分が授ける水の洗礼は、悔い改めの洗礼であって、まだ不完全な洗礼だ。しかし真の神の子イエス様がもたらして下さる洗礼は、聖霊による洗礼であって、イエス様がもたらして下さる洗礼こそ、完全な洗礼だと、知っていました。「私は罪人(つみびと)の一人だが、イエス様は全く罪のない清らかな神の子であられる。私はイエス様の前には、無価値な者に過ぎない。」ヨハネは、この福音書の3章30節では、「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない」と言っています。これも実に謙虚な言葉です。「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない。」なかなか言えない言葉です。この言葉も、ヨハネの本心に違いありません。
私はイスラエルに行ったことはありませんが、ヨハネが人々やイエス様に洗礼を授けていたヨルダン川は、写真を見るとそれほど巨大な川幅ではありません。きっと季節によっても水量は変化するでしょう。ですが写真を見る限りでは、東久留米教会のすぐ近くの南沢湧水や落合川に似ていなくもない感じを受けました。日本とイスラエルは風土が違い、ヨルダン川の周囲は砂漠の部分もあるし、緑もあります。ヨハネはこんな感じの所で洗礼を授けたのかなと想像しながら、南沢湧水や落合川の周りを歩いてみるのも楽しいと思います。
次の小見出しは、「神の小羊」です。29~31節「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。「私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさる。私よりも先におられたからである」と私が言ったのは、この方のことである。私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は水で洗礼(バプテスマ)を授けに来た。」
ヨハネ福音書の特徴の1つは、イエス・キリストの本質をずばり言い当てる言葉が多いことです。イエス様ご自身がおっしゃいます。「私が命のパンである。」「私は世の光である。」「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」これらの御言葉は皆、イエス様の本質をずばり言い当てています。洗礼者ヨハネも、今日の個所でイエス様の本質を、見事に言い当てています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。イエス様は、まさにその通りの方です。
これを読むと、本日の旧約聖書であるイザヤ書53章を連想せずにはおれません。イザヤ書53章は、イエス様の十字架の贖いの死(私たちのための身代わりの死)を予告する、非常に重要な個所です。もう一度じっくり読みます。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼(イエス様)に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」これが小羊の姿、世の罪を取り除く神の小羊です。
この小羊の姿は、旧新約聖書の最後の書であるヨハネの黙示録の5章にも出て来ます。「私(著者ヨハネ、洗礼者ヨハネとは別人)はまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られた小羊が立っているのを見た。」救い主イエス・キリストです。「屠られた」とは、十字架にかかって屠られ殺されたことです。「立った」ことは、イエス様が復活なさったことを指しているかもしれません。
ヨハネ福音書に戻ります。洗礼者ヨハネの証しが続きます。32節「私は『霊』(聖霊)が鳩のように降って、この方の上にとどまるのを見た。」それはヨハネがイエス様に洗礼を授けた時のことに違いありません。33節以下「私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるために私をお遣わしになった方(父なる神様)が、『霊(聖霊)が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』と私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」その通り、イエス・キリストこそ真の神の子、私たちのたった一人の真の救い主です。人間の真の救いは、真の神様の前にすべての罪を赦されること、そして死を乗り越えた永遠の命を受けることです。その真の救いをもたらして下さった方がイエス・キリストです。イエス様が私たち皆の罪を全て身代わりに背負って十字架で死なれた。それがなければ、私たちが罪の赦しと永遠の命を受けることはなかったのです。ヨハネは命を懸けて保証して言います。「この方こそ神の子であると証ししたのである」と。このヨハネが命がけで保証するメッセージを受け入れ、全ての方に救い主イエス様を信じていただいて、全ての罪の赦しと永遠の命を受けていただきたいのです。
ここでイエス様は、「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人」だと言われています。ヨハネの洗礼よりも優れている完全な洗礼です。私たちが受けた洗礼が、イエス様が授けて下さった洗礼です。洗礼式で水を注いだのは人間の牧師だったでしょうが、牧師は代理人で、本当は目に見えなくてもイエス様が洗礼を授けて下さったのです。それは父・子・聖霊なる三位一体の神様のお名前による洗礼でした。この洗礼が、どんなに大きな恵みか、ローマの信徒への手紙5章16節と読むと分かります。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが(旧約聖書の律法の場合はのこと)、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」イエス様の十字架による罪の赦しという恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される。ヨハネによる洗礼にはそこまでの恵みはない。しかしイエス様が聖霊によって授ける洗礼の効力は、「いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」洗礼です。ひとえにイエス様が、十字架にかかって私たちの全部の罪への裁きを完璧に受けきって下さったからです。
15~16世紀に生きたグリューネヴァルトというドイツ人画家が描いた十字架上のイエス様の、かなりリアルな真に痛々しい絵があります。この画家の最高傑作だそうです。現物は見たことがありませんが、かなり大きいそうです。写真で時々見ます。イエス様は茨の冠をかぶり、体には鞭打ちの傷が多くあり、死斑が出ているように思えます。左下には、悲しみにくれる母マリア、マリアを支える十二弟子の一人ヨハネ、マグダラのマリアが描かれています。右側には、洗礼者ヨハネが描かれていて、イエス様を指さしています。「あの方は栄え、私は衰えねばならない」とのヨハネの言葉が記されています。洗礼者ヨハネの足の近くに子羊(小羊)が描かれています。イエス様を指さしている洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言おうとしているのかなと、感じます。この絵は元々、フランスの修道院付属の施療院に掲げられていて、そこにはペストなどの患者が治療を受けていたそうです。その人々が、この絵を見上げていたらしいのです。ペストは黒死病と呼ばれ、今のコロナ以上に、ずっと多くの人々の命を奪った病気(疫病)として知られます。この施療院で治療を受けて癒された人も、そうでなかった人々もいたでしょう。死斑が浮かぶように見えるイエス様の遺体を、グリューネヴァルトという画家は、ペスト(黒死病)の遺体のように描いたのかもしれません。
この絵を見上げて人々は、「イエス様も、私たちと同じような、否、私たち以上の肉体の苦しみを苦しまれた。そして私たちの罪を本当に全部背負いきって十字架で死なれた。だから、イエス様を救い主と信じる私たちの全部の罪が赦され、死の力が私たちに最終的に勝利することはない。復活されたイエス様につながっている私たちには、永遠の命が確実に与えられているのだ」との確信を新たにし、もしぺストが治らなくても、真の慰めを与えられたに違いありません。新約聖書のヘブライ人への手紙2章14、15節の御言葉を思い出してよいでしょう。「(イエス様は)死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさ」ったとの御言葉です。
私がこの説教を準備した一昨日の晩に、私と妻に洗礼を授けて下さった若月健悟先生という牧師の方が、ご病気で天に召されたとの知らせが届きました。半年ほど前から闘病しておられると聞いており、私も癒しのために毎日お祈りしていました。しかし一昨日に天に召されてゆかれました。私と妻が洗礼を受けたのは1989年の別の日曜日の礼拝においてでしたが、その時のことを昨日のように思い出します。あの時、洗礼を受けていなければ、私どもが今東久留米教会に居させていただいていることもなかっただろうと思います。以前お世話になった牧師の方々が、一人また一人と天国に帰ってゆかれます。ということは、地上に残された者たちの伝道のための責任が一層重くなったわけで、ますます伝道のために祈り、励まなけれなならないとの思いが強くなります。洗礼者ヨハネは、全身全霊でイエス・キリストを指し示し、命がけで「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と宣べ伝えました。彼の生涯は、このことだけのために用いられました。私どももヨハネに励まされ、「イエス・キリストこそ、十字架にかかって世の罪を取り除いた神の小羊、復活して永遠の命の希望をもたらした神の子」であることを全身全霊で、言葉と行いで指し示す生涯を送りましょう。アーメン。
(祈り)御名賛美。私たちの教会において家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。参議院選挙を導いて下さい。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。
2022-06-26 0:17:25()
「五つのパンと二匹の魚で群衆を養う」2022年6月26日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話礼拝」第51回
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23、頌栄28、「主の祈り」,交読詩編なし,使徒信条、讃美歌21・475、聖書 ルカ福音書9:10~17(新約p.121)、祈祷、説教、讃美歌21・120、献金、頌栄27、祝祷。
(ルカ福音書9:10~17) 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
(説教) 3週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第4主日、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第51回)の日です。この礼拝の日は、朗読する聖書箇所は原則1か所にすることになっています。
本日の聖書は、ルカによる福音書9章10節以下です。この個所の前で、聖書の主人公イエス・キリストは、十二人の弟子たちを伝道のために派遣されました。神の国を宣べ伝え、病人を癒すために派遣されたのです。十人の弟子たちは、村から村へと巡り歩きながら、至る所で福音(神様の愛)を告げ知らせ、人々の病気を癒しました。弟子たちが大いに働いて帰って来たので、イエス様は彼らに休息を与えようとされたようです。
最初の10節「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」リトリートという言葉を思い出します。リトリートの直接の意味は「退く」だと思います。リトリートを退修会と訳したりします。修養会とも似ています。奉仕の働きから一歩退いて、暫く静かに祈りに集中し、神様の安息をいただき、聖霊の新しい力を注がれて、次の働きに出かけるためのひと時です。イエス様は弟子たちに、リトリートの時を与えようとされたようです。ところが群衆が追いかけて来たので、十分休養することはできなかったでしょう。
11~12節「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。『群衆を解散させて下さい。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。私たちはこんな人里離れた所にいるんのです。』」夕方になりつつありました。人々はお腹がすき、疲れ始めています。夕食が必要です。「人里離れた所」を直訳すると「荒れ野」です。砂漠に近いかもしれません。イエス様が公の活動開始なさる前に、悪魔の誘惑をお受けになったのも荒れ野です。緑がほとんどなく、草木がほとんどない場所かもしれません。ここで食べ物を手に入れることは不可能の場所です。弟子たちの進言はもっともです。「イエス様、群衆を解散させて下さい。そうすれば、周りの村や里へ行って宿を取り、食べ物を見つけるでしょう。」
ところがイエス様が言われます。「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい。」不可能な求めに聞こえます。弟子たちはありのままの現実を語ります。「私たちにはパン五つと二匹しかありません。このすべての人々のために、私たちが食べ物を買いに行かない限り。」これはもっともな言い分に聞こえます。神様でない私たちには、不可能なことです。イエス様は神の子であり、神様ですから、何でもお出来になります。男が五千人ほどいました。女性や子供も別にいたとすれば1万5000人か2万人いたでしょう。聖書協会共同訳は。「五千人ほどの人がいた」と訳しています。私たちが用いている新共同訳で「男」と訳された言葉は「人」と訳すこともできます。ですからどちらの訳も間違っていません。英語でもmanを男とも人とも訳すことができます。総勢5000人でも2万人でも、神様にとっては苦もなく養うことができる人数です。人間にとっては、大きな違いですが。イエス様は、この群衆の満腹になさることができます。
このルカによる福音書によると、イエス様が宣教活動に入られる前に、40日間、悪魔から誘惑をお受けになりました。40日間断食されました。慣れれば断食はそれほど辛くないという人もおりますが。40日間断食すれば、強烈な空腹を覚えると思います。イエス様も空腹を覚えられました。悪魔が来て誘惑し、「この石にパンになるように命じたらどうだ」と言いました。イエス様には、簡単にできます。だから誘惑になります。イエス様には、石をパンに変えることも簡単ですから、5つのパンと2匹の魚で5000人なり2万人の群衆を満腹にさせることも簡単です。何もない状態で群衆を養うことも簡単です。ですがイエス様は、ご自分の業を行われる時に、私たちを用いて下さいます。私たちの小さな能力や、少ない持ち物を祝福して用いて、イエス様の業を行って下さいます。弟子たちが持ていたわずか5つのパンと2匹の魚を祝福して、多くの方への恵みのために用いて下さいます。これは私たちにとって、光栄なことです。
イエス様は、基本的にはご自分のために奇跡を起こすことなさいません。「人はパンだけで生きるものではない」との旧約聖書・申命記8章3節を引用して、ご自分のために石をパンに変えることを拒否されます。申命記8章3節には、こう書いてあります。「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」確かにそうです。しかし同時にイエス様は、私がパンなしで生きられないことも、よく知っておられます。そこで群衆を深く憐れんで、少なくとも5000人の人々を満腹にして下さいました。
そのプロセスはこうです。14節途中から。「イエスは弟子たちに、『人々を50人くらいずつ組にして座らせなさい』と言われた。」なるほどと思います。確かに大仕事は、いくつかの小さい仕事に分割すると、取り組みやすくなります。「弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために讃美の祈りを唱え(直訳すると『祝福した』)、裂いて弟子たちに渡しては、群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」
弟子たちは、「私たちにはパン五つと魚二匹しかありません」と言いました。「これしかない。」でもそれを神様が祝福して下さると、大きな力になるはずです。このルカ福音書21章に「やもめの献金」の出来事が書かれています。ある貧しいやもめが、神殿の賽銭箱にレプトン銅貨2枚を入れました。当時のコインで一番低い金額のコインだそうです。はっきり分かりませんが10円玉2枚くらいと言えるかもしれません。しかしそれは彼女の全財産でした。イエス様は感激して言われました。「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」弟子たちも、持っていた全てが「五つのパンと二匹の魚」だったのではないかと思います。イエス様はそれを喜んで祝福して下さいました。
旧約聖書の箴言10章22節に「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない」との御言葉があります。「人間を豊かにするのは主の祝福である。」イエス様の祝福が最も大切です。それがないと、偉大なことを行っても虚しいのではないでしょうか。イエス様の祝福が与えられたので、わずか「五つのパンと二匹の魚」が豊かに祝され、五千人以上もの群衆を満腹にしたに違いありません。食事の中身は豪華ではなく、質素だったと思います。パンと魚だけです。でもお腹も満たされ、心も聖なる喜びに満たされたに違いありません。私たちが絶えず祈ってイエス様の祝福をいただくなら、私たちの業がいと小さく見えたとしても、永遠の価値を持つ業になるに違いありません。私たちはパン(食べ物)なしに生きられません。ですからイエス様は「主の祈り」を教えて下さり、こう祈りなさいと言われました。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」私たちはこう祈ってよいのですし、神様がこの祈りにも応えて私たちに食物を与えて下さいます。
神様が、愛と憐れみによって人々を養って下さった記事は、旧約聖書にも多くあります。その代表は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、マナによって養われたことです。エジプトを脱出した民は、暫くの間は感謝していましたが、リーダー・モーセとアロンに不平を言い出します。「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」神様は「あなたたちは夕暮れに肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、私があなたたちの神、主であることを知るようになる。」夕方になると、うずらが飛んで来て宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降り、それが蒸発すると、地表に薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていました。イスラエルの人々はそれを見て、「これは一体何だろう」と言い合います。「これは何」はヘブライ語で「マーン・フー」です。それでこの食物が「マナ」(これは何?)と呼ばれるようになりました。モーセが言います。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」マナは、蜜の入ったウェファースのような味がしたとあります。私たちが最近聖餐式で用いている個別包装の中身はウェファースとぶどう液ですが、ウェファースになっているのはマナに似せているのだろうと思います。
神様は日曜日から金曜日までの毎日六日間、マナを与えて下さいました。民は毎日必要な分だけ集めます。翌朝まで残すと虫がついて臭くなり、食べられません。貯蔵できません。これは神様が必要な恵みを明日も与えて下さることを教える訓練です。六日目の金曜日には二日分のマナが与えられました。旧約の時代、七日目の土曜日が安息日、礼拝の日で、一切の仕事が禁じられます。マナを集めに行く仕事も禁じられるので、神様は金曜日に予め二日分のマナを与えて下さいました。これがイスラエルの民が約束の地カナンに着くまで、40年間続きました。神様が必要な恵みを毎日必ず与えて下さることをしっかり体験し、神様が信頼して間違いない方であることを身をもって経験した40年間となりました。神様は水も与えて下さいます。荒れ野で飲み水がなかったことがあり、イスラエルの民が不平を述べました。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。私も子どもたちも、家畜まで渇きで殺すためなのか。」モーセが困って神様に訴えると神様はモーセに、以前ナイル川を打って水を血に変えた杖を持って、ホレブの岩を打てと命じられました。モーセが人々の見ている前で、指示通りにすると水が出て、民は飲むことができました。
他にも旧約聖書の列王記・上17章で、イスラエルに旱魃が起きたとき、神様が預言者エリヤに言われました。「ケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。私はカラスに命じて、そこであなたを養わせる。」その通りになりました。数羽のカラスがエリヤに、朝、パンと肉を、夕べにもパンと肉を運んで来て、水は川の水を飲んで、エリヤは生きることができました。エリヤがシドンのサレプタに行くと、ひとりのやもめ(寡婦)が薪を拾っていました。神様がやもめによってエリヤを養うと言っておられたので、エリヤはやもめに声をかけます。「器に少々水を持って来て、パンも一切れ下さい。」彼女は「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。私は二本の薪を拾って帰り、私と息子の食べ物を作るところです。私たちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤが言います。「恐れてはならない。帰って、あなたの言った通りにしなさい。だが、まずそれで私のために小さいパン菓子を作って、私に持って来なさい。その後あなたと息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」その通りになりました。神様は貧しい人に、特に憐れみ深く、優しいかたです。ですから今日の場面でも、五千人以上の人々に食物を与えて下さったのです。天の窓を開いて、御手を開いて祝福を注いで下さったのです。
今日のルカ福音書を読んで思います。イエス様(父なる神様)の愛が五千人以上の人々を養ったのですが、人間側の心がけとしては「分け合う心」が大切だと。クリスチャンの言葉ではありませんが、「奪い合えば足らぬ、分け合えば余る。」確かにその通りと思います。イザヤ書58章で神様が、「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しんではいけない」と語っておられます。ボンヘッファー牧師(ヒトラーに抵抗して死刑になった)は、「誰かひとりがパンを持っているかぎり、誰も飢えることはない」と言います。独り占めせず、必ず分け合うからです。「我々がパンを共に食べている限り、極めてわずかのものでも、満ち足り得るのである。誰かが自分のパンを、自分のためだけに取っておこうとするときに、初めて飢えが始まる。」それだけが飢えの原因でないとしても、確かに食物を自分用にだけ独占する時に、他の人の飢えが始まるのは、本当と思います。個人だけでなく、国レベルでもそうです。
宗教改革者マルティン・ルターが「主の祈り」の「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」について書いている中で、「この祈りには、パン(穀物や野菜)を育てる農家、これを家庭に運び届ける流通機関、これらに関わる全ての人たちのための祈りを含む」と書いているそうです。それらがうまく運ぶために、世界が平和でなければならないとも書いているそうです。国と国が争っていることは、直ちに食糧危機につながると。まさにウクライナが戦争に追い込まれている今、ウクライナは穀倉地帯なので、世界の食料の価格高騰、食糧危機になりつつあります。このためにも早くこのロシア軍が撤退するように祈らなければなりません。日本の食料自給率は40%あるかどうか。食糧を外国に依存しているのですから、戦争は即、私たちの食糧危機です。食糧自給率を高めねばなりません。そのことをも真剣に考えて、参議院議員選挙で投票する必要があるでしょう。投票もまた、私たちは信仰に基づいて行います。「日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈る私たちは。以上のことも考えてゆきます。
「残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」とあります。ヨハネ福音書6章の似た場面を見ると、イエス様が弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言っておられます。神様の恵みを無駄にすることは罪と言えます。これは日本の宗教風の言い方で申し訳ありませんが、以前の日本人は「一粒のお米には七人の神様が宿っている」と言って、一粒のお米を大切に食べました。「七人の神様」は本物の神様ではありません。しかしこのように一粒のお米を大切にした心は、大切と思います。私たちにとっては、一粒のお米もイエス様、父なる神様からの大切な恵み。これを無駄にしてはいけないことを、改めて心に刻みます。もちろん食中毒になりそうな食べ物を食べる必要はありませんが、大量消費・大量廃棄の社会を改革する必要があります。
ある牧師の説教集の題が『パン屑を集める心』でした。「パン屑を集める心」は大切なのですね。神様の恵みを一つ一つ数え、無駄にしない信仰が大切と知らされます。そう歌う聖歌を聞いたことを思い出しました。詩編103編2節が元になっています。「私の魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」私たちは神様の多くの恵みに気づかず、忘れ、感謝しないでいるのではないかと反省させられます。私はあまり歌ったことがないのですが、新聖歌172番です。You Tubeで聴くと、本当に心に響く聖歌です。「①望みも消えゆくまでに、世の嵐に悩むとき、数えてみよ、主の恵み、汝(な)が心は安きを得ん。(繰り返し)数えよ、主の恵み、数えよ、主の恵み、数えよ一つずつ、数えよ主の恵み。 ②主の賜いし十字架を、担いきれずに沈むとき、数えてみよ、主の恵み、つぶやきなど如何であらん。(繰り返し)。③世の楽しみ、富、知識、汝が心を誘うとき、数えてみよ、主の恵み。天(あま)つ国の幸に酔わん。(繰り返し)。」
最後に詩編145編14節以下を読みます。「主は倒れようとする人を一人一人支え、うずくまっている人を起こして下さいます。ものみなが、あなたに目を注いで待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物を下さいます。すべて命あるものに向かって御手を開き、望みを満足させて下さいます。」アーメン。
(祈り)御名賛美。私たちの教会において家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。参議院選挙を導いて下さい。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。
(ルカ福音書9:10~17) 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
(説教) 3週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第4主日、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第51回)の日です。この礼拝の日は、朗読する聖書箇所は原則1か所にすることになっています。
本日の聖書は、ルカによる福音書9章10節以下です。この個所の前で、聖書の主人公イエス・キリストは、十二人の弟子たちを伝道のために派遣されました。神の国を宣べ伝え、病人を癒すために派遣されたのです。十人の弟子たちは、村から村へと巡り歩きながら、至る所で福音(神様の愛)を告げ知らせ、人々の病気を癒しました。弟子たちが大いに働いて帰って来たので、イエス様は彼らに休息を与えようとされたようです。
最初の10節「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」リトリートという言葉を思い出します。リトリートの直接の意味は「退く」だと思います。リトリートを退修会と訳したりします。修養会とも似ています。奉仕の働きから一歩退いて、暫く静かに祈りに集中し、神様の安息をいただき、聖霊の新しい力を注がれて、次の働きに出かけるためのひと時です。イエス様は弟子たちに、リトリートの時を与えようとされたようです。ところが群衆が追いかけて来たので、十分休養することはできなかったでしょう。
11~12節「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。『群衆を解散させて下さい。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。私たちはこんな人里離れた所にいるんのです。』」夕方になりつつありました。人々はお腹がすき、疲れ始めています。夕食が必要です。「人里離れた所」を直訳すると「荒れ野」です。砂漠に近いかもしれません。イエス様が公の活動開始なさる前に、悪魔の誘惑をお受けになったのも荒れ野です。緑がほとんどなく、草木がほとんどない場所かもしれません。ここで食べ物を手に入れることは不可能の場所です。弟子たちの進言はもっともです。「イエス様、群衆を解散させて下さい。そうすれば、周りの村や里へ行って宿を取り、食べ物を見つけるでしょう。」
ところがイエス様が言われます。「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい。」不可能な求めに聞こえます。弟子たちはありのままの現実を語ります。「私たちにはパン五つと二匹しかありません。このすべての人々のために、私たちが食べ物を買いに行かない限り。」これはもっともな言い分に聞こえます。神様でない私たちには、不可能なことです。イエス様は神の子であり、神様ですから、何でもお出来になります。男が五千人ほどいました。女性や子供も別にいたとすれば1万5000人か2万人いたでしょう。聖書協会共同訳は。「五千人ほどの人がいた」と訳しています。私たちが用いている新共同訳で「男」と訳された言葉は「人」と訳すこともできます。ですからどちらの訳も間違っていません。英語でもmanを男とも人とも訳すことができます。総勢5000人でも2万人でも、神様にとっては苦もなく養うことができる人数です。人間にとっては、大きな違いですが。イエス様は、この群衆の満腹になさることができます。
このルカによる福音書によると、イエス様が宣教活動に入られる前に、40日間、悪魔から誘惑をお受けになりました。40日間断食されました。慣れれば断食はそれほど辛くないという人もおりますが。40日間断食すれば、強烈な空腹を覚えると思います。イエス様も空腹を覚えられました。悪魔が来て誘惑し、「この石にパンになるように命じたらどうだ」と言いました。イエス様には、簡単にできます。だから誘惑になります。イエス様には、石をパンに変えることも簡単ですから、5つのパンと2匹の魚で5000人なり2万人の群衆を満腹にさせることも簡単です。何もない状態で群衆を養うことも簡単です。ですがイエス様は、ご自分の業を行われる時に、私たちを用いて下さいます。私たちの小さな能力や、少ない持ち物を祝福して用いて、イエス様の業を行って下さいます。弟子たちが持ていたわずか5つのパンと2匹の魚を祝福して、多くの方への恵みのために用いて下さいます。これは私たちにとって、光栄なことです。
イエス様は、基本的にはご自分のために奇跡を起こすことなさいません。「人はパンだけで生きるものではない」との旧約聖書・申命記8章3節を引用して、ご自分のために石をパンに変えることを拒否されます。申命記8章3節には、こう書いてあります。「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」確かにそうです。しかし同時にイエス様は、私がパンなしで生きられないことも、よく知っておられます。そこで群衆を深く憐れんで、少なくとも5000人の人々を満腹にして下さいました。
そのプロセスはこうです。14節途中から。「イエスは弟子たちに、『人々を50人くらいずつ組にして座らせなさい』と言われた。」なるほどと思います。確かに大仕事は、いくつかの小さい仕事に分割すると、取り組みやすくなります。「弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために讃美の祈りを唱え(直訳すると『祝福した』)、裂いて弟子たちに渡しては、群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」
弟子たちは、「私たちにはパン五つと魚二匹しかありません」と言いました。「これしかない。」でもそれを神様が祝福して下さると、大きな力になるはずです。このルカ福音書21章に「やもめの献金」の出来事が書かれています。ある貧しいやもめが、神殿の賽銭箱にレプトン銅貨2枚を入れました。当時のコインで一番低い金額のコインだそうです。はっきり分かりませんが10円玉2枚くらいと言えるかもしれません。しかしそれは彼女の全財産でした。イエス様は感激して言われました。「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」弟子たちも、持っていた全てが「五つのパンと二匹の魚」だったのではないかと思います。イエス様はそれを喜んで祝福して下さいました。
旧約聖書の箴言10章22節に「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない」との御言葉があります。「人間を豊かにするのは主の祝福である。」イエス様の祝福が最も大切です。それがないと、偉大なことを行っても虚しいのではないでしょうか。イエス様の祝福が与えられたので、わずか「五つのパンと二匹の魚」が豊かに祝され、五千人以上もの群衆を満腹にしたに違いありません。食事の中身は豪華ではなく、質素だったと思います。パンと魚だけです。でもお腹も満たされ、心も聖なる喜びに満たされたに違いありません。私たちが絶えず祈ってイエス様の祝福をいただくなら、私たちの業がいと小さく見えたとしても、永遠の価値を持つ業になるに違いありません。私たちはパン(食べ物)なしに生きられません。ですからイエス様は「主の祈り」を教えて下さり、こう祈りなさいと言われました。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」私たちはこう祈ってよいのですし、神様がこの祈りにも応えて私たちに食物を与えて下さいます。
神様が、愛と憐れみによって人々を養って下さった記事は、旧約聖書にも多くあります。その代表は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、マナによって養われたことです。エジプトを脱出した民は、暫くの間は感謝していましたが、リーダー・モーセとアロンに不平を言い出します。「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」神様は「あなたたちは夕暮れに肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、私があなたたちの神、主であることを知るようになる。」夕方になると、うずらが飛んで来て宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降り、それが蒸発すると、地表に薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていました。イスラエルの人々はそれを見て、「これは一体何だろう」と言い合います。「これは何」はヘブライ語で「マーン・フー」です。それでこの食物が「マナ」(これは何?)と呼ばれるようになりました。モーセが言います。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」マナは、蜜の入ったウェファースのような味がしたとあります。私たちが最近聖餐式で用いている個別包装の中身はウェファースとぶどう液ですが、ウェファースになっているのはマナに似せているのだろうと思います。
神様は日曜日から金曜日までの毎日六日間、マナを与えて下さいました。民は毎日必要な分だけ集めます。翌朝まで残すと虫がついて臭くなり、食べられません。貯蔵できません。これは神様が必要な恵みを明日も与えて下さることを教える訓練です。六日目の金曜日には二日分のマナが与えられました。旧約の時代、七日目の土曜日が安息日、礼拝の日で、一切の仕事が禁じられます。マナを集めに行く仕事も禁じられるので、神様は金曜日に予め二日分のマナを与えて下さいました。これがイスラエルの民が約束の地カナンに着くまで、40年間続きました。神様が必要な恵みを毎日必ず与えて下さることをしっかり体験し、神様が信頼して間違いない方であることを身をもって経験した40年間となりました。神様は水も与えて下さいます。荒れ野で飲み水がなかったことがあり、イスラエルの民が不平を述べました。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。私も子どもたちも、家畜まで渇きで殺すためなのか。」モーセが困って神様に訴えると神様はモーセに、以前ナイル川を打って水を血に変えた杖を持って、ホレブの岩を打てと命じられました。モーセが人々の見ている前で、指示通りにすると水が出て、民は飲むことができました。
他にも旧約聖書の列王記・上17章で、イスラエルに旱魃が起きたとき、神様が預言者エリヤに言われました。「ケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。私はカラスに命じて、そこであなたを養わせる。」その通りになりました。数羽のカラスがエリヤに、朝、パンと肉を、夕べにもパンと肉を運んで来て、水は川の水を飲んで、エリヤは生きることができました。エリヤがシドンのサレプタに行くと、ひとりのやもめ(寡婦)が薪を拾っていました。神様がやもめによってエリヤを養うと言っておられたので、エリヤはやもめに声をかけます。「器に少々水を持って来て、パンも一切れ下さい。」彼女は「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。私は二本の薪を拾って帰り、私と息子の食べ物を作るところです。私たちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤが言います。「恐れてはならない。帰って、あなたの言った通りにしなさい。だが、まずそれで私のために小さいパン菓子を作って、私に持って来なさい。その後あなたと息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」その通りになりました。神様は貧しい人に、特に憐れみ深く、優しいかたです。ですから今日の場面でも、五千人以上の人々に食物を与えて下さったのです。天の窓を開いて、御手を開いて祝福を注いで下さったのです。
今日のルカ福音書を読んで思います。イエス様(父なる神様)の愛が五千人以上の人々を養ったのですが、人間側の心がけとしては「分け合う心」が大切だと。クリスチャンの言葉ではありませんが、「奪い合えば足らぬ、分け合えば余る。」確かにその通りと思います。イザヤ書58章で神様が、「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しんではいけない」と語っておられます。ボンヘッファー牧師(ヒトラーに抵抗して死刑になった)は、「誰かひとりがパンを持っているかぎり、誰も飢えることはない」と言います。独り占めせず、必ず分け合うからです。「我々がパンを共に食べている限り、極めてわずかのものでも、満ち足り得るのである。誰かが自分のパンを、自分のためだけに取っておこうとするときに、初めて飢えが始まる。」それだけが飢えの原因でないとしても、確かに食物を自分用にだけ独占する時に、他の人の飢えが始まるのは、本当と思います。個人だけでなく、国レベルでもそうです。
宗教改革者マルティン・ルターが「主の祈り」の「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」について書いている中で、「この祈りには、パン(穀物や野菜)を育てる農家、これを家庭に運び届ける流通機関、これらに関わる全ての人たちのための祈りを含む」と書いているそうです。それらがうまく運ぶために、世界が平和でなければならないとも書いているそうです。国と国が争っていることは、直ちに食糧危機につながると。まさにウクライナが戦争に追い込まれている今、ウクライナは穀倉地帯なので、世界の食料の価格高騰、食糧危機になりつつあります。このためにも早くこのロシア軍が撤退するように祈らなければなりません。日本の食料自給率は40%あるかどうか。食糧を外国に依存しているのですから、戦争は即、私たちの食糧危機です。食糧自給率を高めねばなりません。そのことをも真剣に考えて、参議院議員選挙で投票する必要があるでしょう。投票もまた、私たちは信仰に基づいて行います。「日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈る私たちは。以上のことも考えてゆきます。
「残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」とあります。ヨハネ福音書6章の似た場面を見ると、イエス様が弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言っておられます。神様の恵みを無駄にすることは罪と言えます。これは日本の宗教風の言い方で申し訳ありませんが、以前の日本人は「一粒のお米には七人の神様が宿っている」と言って、一粒のお米を大切に食べました。「七人の神様」は本物の神様ではありません。しかしこのように一粒のお米を大切にした心は、大切と思います。私たちにとっては、一粒のお米もイエス様、父なる神様からの大切な恵み。これを無駄にしてはいけないことを、改めて心に刻みます。もちろん食中毒になりそうな食べ物を食べる必要はありませんが、大量消費・大量廃棄の社会を改革する必要があります。
ある牧師の説教集の題が『パン屑を集める心』でした。「パン屑を集める心」は大切なのですね。神様の恵みを一つ一つ数え、無駄にしない信仰が大切と知らされます。そう歌う聖歌を聞いたことを思い出しました。詩編103編2節が元になっています。「私の魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」私たちは神様の多くの恵みに気づかず、忘れ、感謝しないでいるのではないかと反省させられます。私はあまり歌ったことがないのですが、新聖歌172番です。You Tubeで聴くと、本当に心に響く聖歌です。「①望みも消えゆくまでに、世の嵐に悩むとき、数えてみよ、主の恵み、汝(な)が心は安きを得ん。(繰り返し)数えよ、主の恵み、数えよ、主の恵み、数えよ一つずつ、数えよ主の恵み。 ②主の賜いし十字架を、担いきれずに沈むとき、数えてみよ、主の恵み、つぶやきなど如何であらん。(繰り返し)。③世の楽しみ、富、知識、汝が心を誘うとき、数えてみよ、主の恵み。天(あま)つ国の幸に酔わん。(繰り返し)。」
最後に詩編145編14節以下を読みます。「主は倒れようとする人を一人一人支え、うずくまっている人を起こして下さいます。ものみなが、あなたに目を注いで待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物を下さいます。すべて命あるものに向かって御手を開き、望みを満足させて下さいます。」アーメン。
(祈り)御名賛美。私たちの教会において家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。参議院選挙を導いて下さい。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。
2022-06-18 23:42:13(土)
説教「初めに言(ことば)があった」2022年6月19日(日)聖霊降臨節第3主日礼拝
礼拝順序:招詞 ガラテヤ5:22~23、頌栄24、「主の祈り」,交読詩編61,使徒信条、讃美歌21・352、聖書 創世記1:1~8(旧約p.1)、ヨハネ福音書1:1~18(新約p.163)、祈祷、説教、讃美歌21・271、献金、頌栄27、祝祷。
(創世記1:1~8)初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
(ヨハネ福音書1:1~18) 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
(説教) 先々週にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第3主日の礼拝です。本日より毎月できるだけ2回ほど、ヨハネによる福音書を順番に読んでいこうと思います。
第1節は、クリスチャンにとっては有名な御言葉と思います。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「初め」は全ての初め、神様がこの世界をお造りになった天地創造の初めということですね。言は、原語のギリシア語の聖書で「ロゴス」です。ロゴスという言葉を聞いたことのある方は、多いでしょう。ロゴスは色々に訳すことができる言葉で、「言葉、真理、真実、思想、論理、教説」等、幅広い意味を持つ言葉です。このヨハネ福音書1章のロゴスは、イエス・キリストを指すというのがキリスト教会の昔からの受け止め方です。イエス・キリストは、存在そのものは神様の言葉、神様のメッセージであるからです。聖書は、文字で記された神の御言葉であり、イエス・キリストは生きておられる神の言葉です。
「初めにロゴス(言)があった。ロゴスは神と共にあった。ロゴスは神であった。」詩のような書き出しです。ロゴス、ロゴスと繰り返されます。リズミカルです。ロゴスはイエス・キリストを指しますから、「初めにイエス・キリストがあった(おられた)。イエス・キリストは神と共にあった(おられた)。イエス・キリストは神であった。」イエス・キリストは天地創造の初めから生きておられた。イエス・キリストは神と共におられ、イエス・キリストは神であったし、今も神であられるということです。2節「この言(ロゴス、イエス・キリスト)は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」「万物は言によって成った」とは、世界の全てがイエス・キリストによって創造されたということです。私たちは神様によって造られた者ですから、キリスト教会で被造物と呼びます。しかしイエス・キリストは神によって造られた者ではありません。その反対に、私たち人間と宇宙の全てをお造りになった神様です。
4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」イエス・キリストの内に命がある、永遠の命があるということと思います。そしてイエス・キリストこそ、永遠の命そのものだとも言えます。「命は人間を照らす光であった。」イエス・キリストこそ、人間を照らす真の光、世の光だということです。イエス様はヨハネ福音書8章で「私は世の光である」と宣言しておられます。
この新共同訳聖書の序文の3ページの7行目以下に、面白いことが書いてあります。「プロテスタントの側としては1837年に刊行された、ギュツラフ(宣教師)の『ヨハネ福音書』の『ハジマリニ カシコイモノゴザル』がよく知られています。ロゴスを「カシコイモノ」と訳したのですね。もちろんイエス・キリストを指します。1837年は明治維新の31年前で、日本でキリスト教が禁止でなくなった1873年より36年前です。日本が鎖国をやめる前から、何とか日本人に伝道しようとして、ギュツラフはおそらくシンガポールでヨハネ福音書を日本語に訳していたのです。ギュツラフは、尾張の美浜(愛知県知多郡美浜町)の千石船宝順丸の船員だった岩吉、久吉、音吉から日本語を教わって、苦心の翻訳を行ってくれました。当時の尾張弁に訳されたヨハネ福音書です。全部カタカナです。何とかして鎖国の日本人にイエス・キリストの福音を伝えたい、凄い情熱です。ロゴス(イエス・キリスト)を「カシコイモノ」と訳した。確かにイエス・キリストは神の知恵そのもですから「カシコイモノ」はすばらしい訳だとうなって納得します。このギュツラフ訳を少し読んでみましょう。まず題の「ヨハネによる福音書」は、「ヨハンネスノ タヨリ ヨロコビ。」1節から。少し首を傾げる部分もありますが、難破した漁師たちから初めて日本語を習って訳しているのですから、やむを得ないと覆います。「ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモ二ゴザル。」神様を「ゴクラク」と訳したのは不正確ですが、天地万物をお造りになった神と言われても日本語を教える漁師さんが理解しきれなかったかもしれないので、「ゴクラク」の訳になったのでしょう。「コノカシコイモノワ ゴクラク。ハジマリニコノカシコイモノ ゴクラクトモ二ゴザル。」4~5節「ヒトノナカニイノチアル。コノイノチワ ニンゲンノヒカリ。コノヒカリハクラサニカガヤク。」
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」光はイエス様です。この世界は良いこともあるが、罪と悪と死が存在している世界です。暗闇とも
言えます。その暗闇の中に、真の希望の光イエス・キリストが来て下さいました。
「暗闇は光を理解しなかった」を、口語訳聖書は「闇はこれ(光)に勝たなかった」と訳しています。罪と悪と死の暗闇に勝利する方がイエス・キリストです。
このヨハネ福音書の冒頭を読むと、多くの方が旧約聖書の冒頭の創世記1章を連想すると思います。本日の旧約聖書です。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」説明的になって恐縮ですが、創造されたは旧約聖書の原語のヘブライ語で「バーラー」という動詞で、この「バーラー」という言葉は、神様の場合にだけ使われる言葉だそうです。言い換えると、「バーラー」という言葉の主語は、必ず神様です。「神の霊が水の上を動いていた。」聖霊(神の聖なる霊)が動いていたのです。「動いていた」という言葉は、「鷲がひな鳥を飛ばせようとしてその巣の上を舞っている様子」を表す言葉だそうです。そこで「神の霊が水の上を飛び回っていた」と訳す人もいます。聖霊は単なる力ではなく人格(神格)をお持ちの神の霊ですが、「神の霊が水の上を飛び回っていた」という表現は、これから天地宇宙を創造なさる神様の聖なる霊の、エネルギッシュな力を感じさせると思うのです。
聖書全巻の一番最初の言葉は「初めに、神は天地を創造された。」です。ある人は、まずこの御言葉に、たとえようもなく深く感動しました。「そうだったのか、この宇宙と地球と全ての生き物は、真の神様がお造りになったのか!」このような感動は、大切と思います。私たちも聖書の御言葉の1つ1つによく感動できるように、感性を磨きたいと思います。真の神様がこの全宇宙と地球と人間と動植物の全てをお造りになったと信じて、身の周りの全てを見回して見ると、太陽も神様が造られた、この教会のすぐ近くの南沢湧水も神様が造られた、今日会ったあの人この人も、神様が愛情込めてお造りになった一人一人。新しいフレッシュな気持ちで木や花や空の雲を見て、またお一人お一人を見させていただくことができると感じます。「初めに、神は天地を創造された。」ヨハネ福音書には「万物は言(イエス・キリスト)いよって成った」とありましたから、父・子・聖霊なる三位一体の神様の「子なる神」イエス・キリストも、天地創造をなさったのです。キリストは天地創造をなさった神様です。「天地を創造された」ということは、言い換えると空間を時間をお造りになったということと思います。初めがあれば終わり(完成)があります。世の終わりにイエス様がもう一度地上においでになり、この世の歴史は終わり神の国が到来します。
3節「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」この光は、イエス様ご自身とは言えません。イエス様は、神に創造された存在ではなく、全てを創造なさった側の神だからです。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」神様が発せられた言葉に力があって、神の言葉によって光が創造され、この世界の1つ1つ、一人一人が創造されました。言葉のことをヘブライ語で「ダーバール」と言います。この「ダーバール」という言葉は、「出来事」の意味ももつそうです。言葉が創造的な力を発揮して、出来事を発生させるのです。新約聖書のヘブライ人への手紙11章3節に、「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」と書かれています。「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造された」ことを知ると。神様に似せて造られた私たち人間の言葉にも、ある程度力があります。私たちの言葉は「諸刃の剣」かもしれません。私たちの言葉で、人の心を慰め力づけ勇気づけることもできます。反対に、人様の心を深く傷つけ、やる気を失わせることもできます。私も言葉でそのような罪を犯して参りました。悔い改めさせられます。新約聖書のエフェソの信徒への手紙4章29節以下には、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」とあります。
私の知人のクリスチャン夫婦に、三人のお子さんのお名前を全て、このヨハネ福音書1章1~4節からつけたご夫婦がおられます。最初に生まれた長女さんは「言さん」。その方がある宣教師さんから、「言とは、イエス・キリストの愛、イエス様の十字架の愛ですよ」とかつて教えられて感動なさったので、「言さん」と名付けられました。第二子が誕生された時には、「言の内に命があった」の御言葉から取って、「命(こころ)さん。」第三子が誕生された時に、「光は闇の中で輝いている」から取って、光を少し変えて「灯(あかり)さん。」三人ともヨハネ福音書1章1~4節から取って、名前をつけられました。名前の通りに成長されているようで、私は見上げたものだと敬服しています。
やや思い切って進んで9節以下「その光(イエス様)は、真の光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。」世はこの世界ですが、神様に背き、神様に逆らう世なのです。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民(イスラエルの民)の所へ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」「名、名前」は聖書では本質を表します。「その名(イエス・キリストの名=イエス様が神の子であること)うぃ信じる人々には神の子となる資格を与えた。」そうです、イエス様を神の子と心より信じる人には、神の子となる資格、永遠の命の恵みが与えられます。このヨハネ福音書が書かれた目的も、まさにそこにあります。このヨハネ福音書20章31節に、こう書かれています。「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命(永遠の命)を受けるためである。」
「この人々(イエス様を神の子、救い主と信じた人々)は、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」人は皆、両親の血を引いて生まれてきます。残念ながら両親も罪人(つみびと)なので、子どもも罪を受け継いでしまいます。これは生物学的な遺伝とは違うでしょうが、親から罪を受け継いでいます。これがここに書いてある「血によって、肉の欲によって、人の欲によって生まれた」ということと思います。しかしイエス様を神の子、救い主と信じた人は、新しく生まれます。神様によって聖霊によって、神の子として新しく誕生します。これは洗礼のことを暗示していると言えます。
14節「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」これはクリスマスの出来事ですね。「言(イエス・キリスト)肉(肉体)となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。」イエス様は、私たちの同じ肉体を持つ人間の赤ちゃんとして、ベツレヘムの貧しい家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされました。但し母マリアは聖霊によって妊娠したので、ヨセフの血は引いていません。そして大事なことは、イエス様は全く罪のない人間であることです。神の子が、神様が人間の赤ちゃんとしてこの地上に生まれて下さった。それがイエス様です。イエス様は、神であり同時に人間です。栄光の天から、私たちが住むこの世界に降りて来て下さいました。ヨハネ福音書は、それを「栄光」と呼んでいます。普通の栄光と正反対(最近の言葉では真逆)のことを栄光と呼んでいます。普通に考える栄光は、勝利して上へ上へ昇ってゆくことです。ところがイエス様の栄光は、愛にゆえに低きに下に下に、愛のゆえの奉仕のために下に下に降って下さるイエス様の生き方こそ、「真の栄光」だと。さらに裏切るユダを含む12人の弟子たちの足を洗い、私たち罪人(つみびと)の全ての罪の責任を身代わりに背負いきるために、十字架の死に赴く生き方こそ「真の栄光」です。そのイエス様の十字架の死と三日目の復活のお陰で、私たちは全ての罪の赦しと、死を乗り越えた永遠の命の恵みを受けました。
このことを14節は、こう表現します。「私たちはその(イエス様の)栄光を見た(貧しい飼い葉桶に寝かされた栄光、十字架にかかった栄光)。それは父(なる神)の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ここではコリントの信徒への手紙(二)8章9節を引用したくなります。「あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです。」イエス様の十字架によって、私たちが永遠の命を受けるために、イエス様は貧しい家庭に降って来られたと。
16~18節を読んでまとめましょう。「私たちは皆、この方(イエス様)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法(代表は十戒)はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない(旧約聖書の預言者イザヤなどは、神を垣間見たようですが)。父のふところにいる独り子である神(イエス・キリスト)、この方が神を示されたのである。」父なる神様は、まばゆい聖なる栄光に輝いておられ、私たちはこの方を直視することができません。私たち罪人(つみびと)が、完全い聖なる方である父なる神様を直視すると、撃たれて死んでしまいます。罪人(つみびと)から父なる神様に近づくことは危険なので、神様の方からご自分を示すために降って来て下さいました。この方がイエス様です。私たちはイエス様を深く知ると、父なる神様を深く知ることができるのです。イエス様は「父のふところにいる独り子である神」です。ヘブライ人への手紙1章3節も、イエス様が神だと示します。「御子(イエス様)は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」だと。私たちが天国に入れていただくその日まで、イエス・キリストを宣べ伝える使命を果たしながら、イエス様と共に平安の内を、ご一緒に歩ませていただきましょう。アーメン。
(祈り)御名賛美。私たちの教会において家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。
(創世記1:1~8)初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
(ヨハネ福音書1:1~18) 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
(説教) 先々週にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第3主日の礼拝です。本日より毎月できるだけ2回ほど、ヨハネによる福音書を順番に読んでいこうと思います。
第1節は、クリスチャンにとっては有名な御言葉と思います。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「初め」は全ての初め、神様がこの世界をお造りになった天地創造の初めということですね。言は、原語のギリシア語の聖書で「ロゴス」です。ロゴスという言葉を聞いたことのある方は、多いでしょう。ロゴスは色々に訳すことができる言葉で、「言葉、真理、真実、思想、論理、教説」等、幅広い意味を持つ言葉です。このヨハネ福音書1章のロゴスは、イエス・キリストを指すというのがキリスト教会の昔からの受け止め方です。イエス・キリストは、存在そのものは神様の言葉、神様のメッセージであるからです。聖書は、文字で記された神の御言葉であり、イエス・キリストは生きておられる神の言葉です。
「初めにロゴス(言)があった。ロゴスは神と共にあった。ロゴスは神であった。」詩のような書き出しです。ロゴス、ロゴスと繰り返されます。リズミカルです。ロゴスはイエス・キリストを指しますから、「初めにイエス・キリストがあった(おられた)。イエス・キリストは神と共にあった(おられた)。イエス・キリストは神であった。」イエス・キリストは天地創造の初めから生きておられた。イエス・キリストは神と共におられ、イエス・キリストは神であったし、今も神であられるということです。2節「この言(ロゴス、イエス・キリスト)は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」「万物は言によって成った」とは、世界の全てがイエス・キリストによって創造されたということです。私たちは神様によって造られた者ですから、キリスト教会で被造物と呼びます。しかしイエス・キリストは神によって造られた者ではありません。その反対に、私たち人間と宇宙の全てをお造りになった神様です。
4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」イエス・キリストの内に命がある、永遠の命があるということと思います。そしてイエス・キリストこそ、永遠の命そのものだとも言えます。「命は人間を照らす光であった。」イエス・キリストこそ、人間を照らす真の光、世の光だということです。イエス様はヨハネ福音書8章で「私は世の光である」と宣言しておられます。
この新共同訳聖書の序文の3ページの7行目以下に、面白いことが書いてあります。「プロテスタントの側としては1837年に刊行された、ギュツラフ(宣教師)の『ヨハネ福音書』の『ハジマリニ カシコイモノゴザル』がよく知られています。ロゴスを「カシコイモノ」と訳したのですね。もちろんイエス・キリストを指します。1837年は明治維新の31年前で、日本でキリスト教が禁止でなくなった1873年より36年前です。日本が鎖国をやめる前から、何とか日本人に伝道しようとして、ギュツラフはおそらくシンガポールでヨハネ福音書を日本語に訳していたのです。ギュツラフは、尾張の美浜(愛知県知多郡美浜町)の千石船宝順丸の船員だった岩吉、久吉、音吉から日本語を教わって、苦心の翻訳を行ってくれました。当時の尾張弁に訳されたヨハネ福音書です。全部カタカナです。何とかして鎖国の日本人にイエス・キリストの福音を伝えたい、凄い情熱です。ロゴス(イエス・キリスト)を「カシコイモノ」と訳した。確かにイエス・キリストは神の知恵そのもですから「カシコイモノ」はすばらしい訳だとうなって納得します。このギュツラフ訳を少し読んでみましょう。まず題の「ヨハネによる福音書」は、「ヨハンネスノ タヨリ ヨロコビ。」1節から。少し首を傾げる部分もありますが、難破した漁師たちから初めて日本語を習って訳しているのですから、やむを得ないと覆います。「ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモ二ゴザル。」神様を「ゴクラク」と訳したのは不正確ですが、天地万物をお造りになった神と言われても日本語を教える漁師さんが理解しきれなかったかもしれないので、「ゴクラク」の訳になったのでしょう。「コノカシコイモノワ ゴクラク。ハジマリニコノカシコイモノ ゴクラクトモ二ゴザル。」4~5節「ヒトノナカニイノチアル。コノイノチワ ニンゲンノヒカリ。コノヒカリハクラサニカガヤク。」
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」光はイエス様です。この世界は良いこともあるが、罪と悪と死が存在している世界です。暗闇とも
言えます。その暗闇の中に、真の希望の光イエス・キリストが来て下さいました。
「暗闇は光を理解しなかった」を、口語訳聖書は「闇はこれ(光)に勝たなかった」と訳しています。罪と悪と死の暗闇に勝利する方がイエス・キリストです。
このヨハネ福音書の冒頭を読むと、多くの方が旧約聖書の冒頭の創世記1章を連想すると思います。本日の旧約聖書です。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」説明的になって恐縮ですが、創造されたは旧約聖書の原語のヘブライ語で「バーラー」という動詞で、この「バーラー」という言葉は、神様の場合にだけ使われる言葉だそうです。言い換えると、「バーラー」という言葉の主語は、必ず神様です。「神の霊が水の上を動いていた。」聖霊(神の聖なる霊)が動いていたのです。「動いていた」という言葉は、「鷲がひな鳥を飛ばせようとしてその巣の上を舞っている様子」を表す言葉だそうです。そこで「神の霊が水の上を飛び回っていた」と訳す人もいます。聖霊は単なる力ではなく人格(神格)をお持ちの神の霊ですが、「神の霊が水の上を飛び回っていた」という表現は、これから天地宇宙を創造なさる神様の聖なる霊の、エネルギッシュな力を感じさせると思うのです。
聖書全巻の一番最初の言葉は「初めに、神は天地を創造された。」です。ある人は、まずこの御言葉に、たとえようもなく深く感動しました。「そうだったのか、この宇宙と地球と全ての生き物は、真の神様がお造りになったのか!」このような感動は、大切と思います。私たちも聖書の御言葉の1つ1つによく感動できるように、感性を磨きたいと思います。真の神様がこの全宇宙と地球と人間と動植物の全てをお造りになったと信じて、身の周りの全てを見回して見ると、太陽も神様が造られた、この教会のすぐ近くの南沢湧水も神様が造られた、今日会ったあの人この人も、神様が愛情込めてお造りになった一人一人。新しいフレッシュな気持ちで木や花や空の雲を見て、またお一人お一人を見させていただくことができると感じます。「初めに、神は天地を創造された。」ヨハネ福音書には「万物は言(イエス・キリスト)いよって成った」とありましたから、父・子・聖霊なる三位一体の神様の「子なる神」イエス・キリストも、天地創造をなさったのです。キリストは天地創造をなさった神様です。「天地を創造された」ということは、言い換えると空間を時間をお造りになったということと思います。初めがあれば終わり(完成)があります。世の終わりにイエス様がもう一度地上においでになり、この世の歴史は終わり神の国が到来します。
3節「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」この光は、イエス様ご自身とは言えません。イエス様は、神に創造された存在ではなく、全てを創造なさった側の神だからです。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」神様が発せられた言葉に力があって、神の言葉によって光が創造され、この世界の1つ1つ、一人一人が創造されました。言葉のことをヘブライ語で「ダーバール」と言います。この「ダーバール」という言葉は、「出来事」の意味ももつそうです。言葉が創造的な力を発揮して、出来事を発生させるのです。新約聖書のヘブライ人への手紙11章3節に、「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」と書かれています。「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造された」ことを知ると。神様に似せて造られた私たち人間の言葉にも、ある程度力があります。私たちの言葉は「諸刃の剣」かもしれません。私たちの言葉で、人の心を慰め力づけ勇気づけることもできます。反対に、人様の心を深く傷つけ、やる気を失わせることもできます。私も言葉でそのような罪を犯して参りました。悔い改めさせられます。新約聖書のエフェソの信徒への手紙4章29節以下には、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」とあります。
私の知人のクリスチャン夫婦に、三人のお子さんのお名前を全て、このヨハネ福音書1章1~4節からつけたご夫婦がおられます。最初に生まれた長女さんは「言さん」。その方がある宣教師さんから、「言とは、イエス・キリストの愛、イエス様の十字架の愛ですよ」とかつて教えられて感動なさったので、「言さん」と名付けられました。第二子が誕生された時には、「言の内に命があった」の御言葉から取って、「命(こころ)さん。」第三子が誕生された時に、「光は闇の中で輝いている」から取って、光を少し変えて「灯(あかり)さん。」三人ともヨハネ福音書1章1~4節から取って、名前をつけられました。名前の通りに成長されているようで、私は見上げたものだと敬服しています。
やや思い切って進んで9節以下「その光(イエス様)は、真の光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。」世はこの世界ですが、神様に背き、神様に逆らう世なのです。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民(イスラエルの民)の所へ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」「名、名前」は聖書では本質を表します。「その名(イエス・キリストの名=イエス様が神の子であること)うぃ信じる人々には神の子となる資格を与えた。」そうです、イエス様を神の子と心より信じる人には、神の子となる資格、永遠の命の恵みが与えられます。このヨハネ福音書が書かれた目的も、まさにそこにあります。このヨハネ福音書20章31節に、こう書かれています。「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命(永遠の命)を受けるためである。」
「この人々(イエス様を神の子、救い主と信じた人々)は、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」人は皆、両親の血を引いて生まれてきます。残念ながら両親も罪人(つみびと)なので、子どもも罪を受け継いでしまいます。これは生物学的な遺伝とは違うでしょうが、親から罪を受け継いでいます。これがここに書いてある「血によって、肉の欲によって、人の欲によって生まれた」ということと思います。しかしイエス様を神の子、救い主と信じた人は、新しく生まれます。神様によって聖霊によって、神の子として新しく誕生します。これは洗礼のことを暗示していると言えます。
14節「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」これはクリスマスの出来事ですね。「言(イエス・キリスト)肉(肉体)となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。」イエス様は、私たちの同じ肉体を持つ人間の赤ちゃんとして、ベツレヘムの貧しい家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされました。但し母マリアは聖霊によって妊娠したので、ヨセフの血は引いていません。そして大事なことは、イエス様は全く罪のない人間であることです。神の子が、神様が人間の赤ちゃんとしてこの地上に生まれて下さった。それがイエス様です。イエス様は、神であり同時に人間です。栄光の天から、私たちが住むこの世界に降りて来て下さいました。ヨハネ福音書は、それを「栄光」と呼んでいます。普通の栄光と正反対(最近の言葉では真逆)のことを栄光と呼んでいます。普通に考える栄光は、勝利して上へ上へ昇ってゆくことです。ところがイエス様の栄光は、愛にゆえに低きに下に下に、愛のゆえの奉仕のために下に下に降って下さるイエス様の生き方こそ、「真の栄光」だと。さらに裏切るユダを含む12人の弟子たちの足を洗い、私たち罪人(つみびと)の全ての罪の責任を身代わりに背負いきるために、十字架の死に赴く生き方こそ「真の栄光」です。そのイエス様の十字架の死と三日目の復活のお陰で、私たちは全ての罪の赦しと、死を乗り越えた永遠の命の恵みを受けました。
このことを14節は、こう表現します。「私たちはその(イエス様の)栄光を見た(貧しい飼い葉桶に寝かされた栄光、十字架にかかった栄光)。それは父(なる神)の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ここではコリントの信徒への手紙(二)8章9節を引用したくなります。「あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです。」イエス様の十字架によって、私たちが永遠の命を受けるために、イエス様は貧しい家庭に降って来られたと。
16~18節を読んでまとめましょう。「私たちは皆、この方(イエス様)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法(代表は十戒)はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない(旧約聖書の預言者イザヤなどは、神を垣間見たようですが)。父のふところにいる独り子である神(イエス・キリスト)、この方が神を示されたのである。」父なる神様は、まばゆい聖なる栄光に輝いておられ、私たちはこの方を直視することができません。私たち罪人(つみびと)が、完全い聖なる方である父なる神様を直視すると、撃たれて死んでしまいます。罪人(つみびと)から父なる神様に近づくことは危険なので、神様の方からご自分を示すために降って来て下さいました。この方がイエス様です。私たちはイエス様を深く知ると、父なる神様を深く知ることができるのです。イエス様は「父のふところにいる独り子である神」です。ヘブライ人への手紙1章3節も、イエス様が神だと示します。「御子(イエス様)は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」だと。私たちが天国に入れていただくその日まで、イエス・キリストを宣べ伝える使命を果たしながら、イエス様と共に平安の内を、ご一緒に歩ませていただきましょう。アーメン。
(祈り)御名賛美。私たちの教会において家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。
2022-06-15 20:29:40(水)
6月の伝道メッセージ(保育園の「おたより」に掲載した文章) 牧師 石田真一郎
「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章10節)。
キリスト教会は、神の子イエス・キリストを信じますが、世界的に西方教会と東方教会に分けられます。西方教会にカトリック教会、プロテスタント教会、聖公会が属します。東方教会はギリシア正教会に代表され、その中にロシア正教会があります。今、ロシア正教会のトップが、権力者プーチンにへつらいイエス様に背いています。プーチンはクリスチャンと称しているようですが、「殺してはならない」という神の戒めを破り、神に背いています。今のロシア正教会の役割はプーチンの戦争を止めることです。日本の正教会はロシアの正教会に、戦争終結のために努力してほしいと嘆願書を送っています(東京復活大聖堂=ニコライ堂のホームページ)。
権力者の迫害に負けず、イエス様への信仰を貫いた人々は日本にもいます。私は洗礼を受けた22才のとき、島根県の津和野に行きました。明治元年(1868年)のクリスチャン迫害の地です。当時キリスト教は、江戸時代の続きで禁止でしたが、長崎の浦上村のクリスチャン3394人が全国に流罪となり、153名が津和野に送られ信仰を捨てるように迫害されました。三尺牢という身動きできない牢に入れられ、氷の池に投げ込まれました。死ぬ人、信仰を捨てる人も出ましたが、高木仙右衛門と守山甚三郎は信仰を捨てず、生きて帰りました。今、記念に建っている教会で私はひざまずいて祈りました。近くの乙女峠には、イエス様の十字架の道行きが再現されています。ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれ、要所にレリーフがあり、イエス様が「十字架を担ぎ、ここで倒れる」、「ここで母マリアに出会う」等と書いてあり、ここを祈りつつ歩いて、イエス様の十字架を思い信仰を深め、苦難に耐えた津和野のクリスチャンたちの勇気を偲びます。同じ十字架の道は、清瀬聖母教会(聖公会)の礼拝堂内にもあります。
クリスチャンでない国民的作家の大佛(おさらぎ)次郎が、仙右衛門に感嘆しています。「武家支配で、日本人がゆがめられ卑屈になっていた中に、浦上の農民がひとり『人間』の権威を自覚し、迫害に対して決して妥協も譲歩も示さない、日本人として全く珍しい抵抗を貫いた」(『天皇の世紀』11)。ロシア正教会のトップにも、同じ精神でプーチンの戦争に抵抗し、ストップをかけてほしいのです。たとえ迫害されようとも。「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」アーメン(真実に)。
キリスト教会は、神の子イエス・キリストを信じますが、世界的に西方教会と東方教会に分けられます。西方教会にカトリック教会、プロテスタント教会、聖公会が属します。東方教会はギリシア正教会に代表され、その中にロシア正教会があります。今、ロシア正教会のトップが、権力者プーチンにへつらいイエス様に背いています。プーチンはクリスチャンと称しているようですが、「殺してはならない」という神の戒めを破り、神に背いています。今のロシア正教会の役割はプーチンの戦争を止めることです。日本の正教会はロシアの正教会に、戦争終結のために努力してほしいと嘆願書を送っています(東京復活大聖堂=ニコライ堂のホームページ)。
権力者の迫害に負けず、イエス様への信仰を貫いた人々は日本にもいます。私は洗礼を受けた22才のとき、島根県の津和野に行きました。明治元年(1868年)のクリスチャン迫害の地です。当時キリスト教は、江戸時代の続きで禁止でしたが、長崎の浦上村のクリスチャン3394人が全国に流罪となり、153名が津和野に送られ信仰を捨てるように迫害されました。三尺牢という身動きできない牢に入れられ、氷の池に投げ込まれました。死ぬ人、信仰を捨てる人も出ましたが、高木仙右衛門と守山甚三郎は信仰を捨てず、生きて帰りました。今、記念に建っている教会で私はひざまずいて祈りました。近くの乙女峠には、イエス様の十字架の道行きが再現されています。ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれ、要所にレリーフがあり、イエス様が「十字架を担ぎ、ここで倒れる」、「ここで母マリアに出会う」等と書いてあり、ここを祈りつつ歩いて、イエス様の十字架を思い信仰を深め、苦難に耐えた津和野のクリスチャンたちの勇気を偲びます。同じ十字架の道は、清瀬聖母教会(聖公会)の礼拝堂内にもあります。
クリスチャンでない国民的作家の大佛(おさらぎ)次郎が、仙右衛門に感嘆しています。「武家支配で、日本人がゆがめられ卑屈になっていた中に、浦上の農民がひとり『人間』の権威を自覚し、迫害に対して決して妥協も譲歩も示さない、日本人として全く珍しい抵抗を貫いた」(『天皇の世紀』11)。ロシア正教会のトップにも、同じ精神でプーチンの戦争に抵抗し、ストップをかけてほしいのです。たとえ迫害されようとも。「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」アーメン(真実に)。