日本キリスト教団 東久留米教会

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2018-08-01 21:41:35(水)
「思い上がらない信仰」 2018年7月29日(日) 聖霊降臨節第11主日礼拝説教 要旨
聖書: 哀歌3章22~23節、ローマの信徒への手紙11章17~24節

 イエス・キリストを宣べ伝えるパウロにとって、自分の同胞であるイスラエル人(ユダヤ人)がなかなかイエス様を信じてくれないことは、非常に深い悲しみでした。しかし、このことには、全世界の人々の救いを願う、神様の深いお考えがあることに、パウロは次第に気づくのです。ローマの信徒への手紙11章11節「かえって、彼ら(ユダヤ人)の罪(イエス様を拒否した罪)によって異邦人(ユダヤ人以外の人々)に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」ユダヤ人の多くがイエス様を信じなかったためにパウロが異邦人にイエス様を宣べ伝え、多くの異邦人がイエス様を信じて救われる(永遠の命を受ける)結果になった。それを見てユダヤ人たちが、「ああ、うらやましいな。自分たちもかたくなな心を捨ててイエス・キリストを信じ、永遠の命を受けたい」と考える方向に進むこと、神様がそれをめざしておられるとパウロは悟ったのです。

 パウロは本日の箇所で、救われた異邦人たちに忠告します。私たち日本人クリスチャンも異邦人クリスチャンですから、私たちも心して耳を傾けるべき御言葉です。17~20節「しかし、ある枝(ユダヤ人)が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ、恐れなさい。」

 旧約聖書以来の神の民であるイスラエル人(ユダヤ人)が、神の民の本家本元です。私たち異邦人クリスチャンは、確かに神の民に加えられていますが、神の民としての本家本元ではありません。従って、ユダヤ人に対して誇る資格はないのです。私たちも、聖なる神様からご覧になれば罪人(つみびと)の一人でしかありません。何か神様に対して誇ることができる立派な点があったから救われた(永遠の命を受けた)のではありません。私たちは罪人(つみびと)に過ぎないのに、イエス様がその罪人(つみびと)たちの全ての罪を背負って、身代わりに十字架で死んで下さった、ひとえのそのお陰で、私たちは罪を赦されて永遠の命をいただきました。100%イエス様のお陰です。私たちの功績はゼロです。

 確かに、私たち異邦人クリスチャンは、信仰によって立っています。イエス・キリストを自分の救い主と信じる信仰によってのみ、義とされた(救われた)のです。これがプロテスタントの強調する信仰義認です。信仰義認は確かに真理です。しかしだからと言って油断し、罪を犯しても平気な生活へと堕落してはならないのです。同じパウロが、コリントの信徒への手紙(一)10章12節で、こう述べています。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」パウロは、出エジプトしたイスラエルの民を見よ、と言います。せっかくエジプトから脱出したイスラエルの民ですが、成人はヌンの子ヨシュアと、エフネのカレブ以外は約束の地に入ることができなかったのです。それは彼らが神様に対していくつかの罪を犯したからです。コリントの信徒への手紙(一)10章5~11節「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」

 パウロは私たち異邦人クリスチャンに、約束の地に入れなかったイスラエルの民の失敗を繰り返すな、と愛の警告を語ります。思い上がるのではなく、ますますへりくだって神様を畏れ敬い、ますます神様に感謝する人になるように、ということでしょう。私たち、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを自分の救い主と信じて救われた者は、どのような生活を心掛ければよいのでしょうか。神様に祈り、聖霊の御助けをいただいて神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する生活を心がけることと信じます。もう少し詳しく言うと、聖霊の御助けをいただいてモーセの十戒を行う生活を心がけることと信じます。そうすれば、少なくとも大きな罪を犯すことは避けることができます。

 パウロは、「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」と勧めます。同じパウロが、フィリピの信徒への手紙2章12節でこう語ります。「~恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」私たちの救いは、自分の罪を悔い改め、十字架と復活のイエス様を信じる信仰のみによって与えられます。救われた後は、イエス様に従う生活をするように心がけることで、確実に天国に入れていただけるようになります。

 パウロはローマの信徒への手紙11章22節で、「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」と私たちに求めます。口語訳では、「神の慈愛と峻厳とを見よ」という印象的な言葉です。神の慈しみと聞くと、私は本日の旧約聖書である哀歌3章22~23節を思い出します。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。」私たちの命は、今日もこの神様の慈しみに支えられています。神様は愛の方であると同時に聖なる方です。神様は罪人(つみびと)を愛して救おうと全力を傾けられます。同時に罪を憎んでおられます。イエス様は私たちの身代わりに十字架におつきになり、父なる神様から(本来私たちが受けるべき)峻厳な裁きをお受けになりました。私たちも明らかな罪を犯すなら、神様の峻厳な裁きを受ける可能性がないとは言えません。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」大きな救いを与えて下さった神様に感謝し、神様を畏れ敬って罪を避けて、イエス様に従って参りましょう。アーメン(「真実に」)。

2018-07-18 21:40:12(水)
「本当の救いは、自分のエゴからの救い」 聖霊降臨節第9主日公同礼拝 説教要旨
聖書:申命記32章15~22節、ローマの信徒への手紙11章11~16節

 このローマの信徒への手紙を書いたイエス様の使徒パウロの深い悲しみは、自分の同胞である愛するイスラエル人(ユダヤ人)の多くが、なかなかイエス・キリストを救い主と信じてくれず、従ってすべての罪の赦しと永遠の命を受けないでいることです。神様からご覧になった場合の私たち人間の罪の根本は、自己中心です。エゴと言い換えることもできます。自分が常に一番大事で、神様をも隣人をもあまり愛さないことが罪です。この罪から、私たちを根本的に救って下さる方が、イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちの罪をすべて背負って十字架で死なれ、三日目に復活されました。イエス様の十字架の死だけが、私たちの罪をすべて赦す救い、根本的な救いです。このイエス・キリストを、ぜひご自分の救い主として、心から受け入れ、信じて下さるようにお願い致します。新約聖書の使徒言行録4章12節で、イエス様の弟子ペトロが説教しています。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリストの名)のほか、人間には与えられていないのです。」この言葉は、真実です。

 パウロは、自分の同胞である愛するユダヤ人たちの多くが、この救い主イエス様を信じないので、深く心を痛めたのです。11節「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまった(永久に神から見捨てられた)ということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」ユダヤ人の多くがイエス様を拒否し、パウロが異邦人(ユダヤ人以外)に伝道する方向に導かれました。その結果、異邦人で自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じる人々が多く与えられ、元来は神の民でなかった異邦人が救われる(罪の赦しと永遠の命を受ける)という現実が生じたのです。このことには、全世界の人々の何とかして救うための、神様の深いお考えがあると、パウロは神様によって気づかされたのです。

 パウロは申命記32章21節で、神様がこのことへの答えを示しておられることに気づきました(そこでパウロは、ローマの信徒への手紙10章でこの申命記を引用しています)。申命記32章21節にはこうあります。「彼ら(イスラエルの民)は神ならぬ(偶像の神、偽物の神)ものをもって/ わたしのねたみを引き起こし/ むなしいもの(同)をもって/ わたしの怒りを燃え立たせた。/ それゆえ、わたしは民ならぬ者(異邦人)をもって彼らのねたみを引き起こし/ 愚かな国(同)をもって/ 彼らの怒りを燃え立たせる。」

 キリスト教会にとっても重要なモーセの十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。神様はご自分を「熱情の神」とおっしゃいます。これは口語訳聖書では、「ねたむ神」と訳されています。これは「ねたむほどに愛する情熱的、熱情的な愛」のことです。神様は、イスラエル(神の民)が他の神々(本当は神ではない、偶像であり、偽物の神)を礼拝し、これに心を寄せるとき、激しいねたみを起こされるのです。これはイスラエルを深く愛しているからこそ、起こることです。ねたみと言うとマイナスの感情というイメージが湧くかもしれませんが、正しいねたみもあります。夫婦の愛は神聖で、別の異性が入ることはあり得ませんし、許されません。万一そのようなことが起これば、夫婦の片方が強いねたみを起こします。これは全く正常なことで、正しいねたみです。正しいねたみが起こらないのであれば異常です。聖書では、神様と神の民の間柄は夫と妻です。妻であるイスラエルが偶像を礼拝し、これに心を寄せるなら、それは霊的な姦淫(不倫)の罪で、神様の正しいねたみ(熱情、怒り)を引き起こします。

 申命記32章21節の後半で神様は、「それゆえ、わたしは民ならぬ者(異邦人)をもって/ 彼ら(イスラエルの民)のねたみを引き起こし/ 愚かな国(同)をもって/ 彼らの怒りを燃え立たせる。」パウロは、ここに神様の深いお考えが記されていると悟ったのです。そこでローマの信徒への手紙11章11節で、こう書いたのです。「かえって、彼ら(ユダヤ人)の罪(イエス・キリストを拒否した罪)によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」「彼らにねたみを起こさせるため」を口語訳聖書は、「イスラエルを奮起させるため」と訳しています。

 異邦人が、イエス様を信じて救われてゆく様子を見て、ユダヤ人たちが「神様はなぜ、神の民である私たちユダヤ人を救わないで、異邦人をお救いになるのか」とねたみを覚え、神に怒りを覚え、「待てよ、私たちユダヤ人も、神様が送られた救い主を拒否して、神様の愛を無視して神様をねたませ、悲しませているのではないか」と神様の愛に気づき、発奮し、神様への愛を燃え立たせるようになる。これが神のめざしておられることだと、パウロは悟ったのです。神様は、ユダヤ人たちを何とかして救うために、ユダヤ人にこのような形で刺激をお与えになったのです。あるいは、イエス様を信じて救われてゆく異邦人たちを見て、ユダヤ人たちが「うらやましいな、私たちもあのように救われたい。よし、かたくなな心を捨てて、救い主イエス様を信じよう」と発奮する。神様はそれをめざして、イスラエルに発破をおかけになったと思います。

 旧約聖書のコヘレトの言葉4章4節に、このような御言葉があります。「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。」人間には向上心、競争心、ライバル心があります。健全な競争心・ライバル心は、互いが刺激し合い助け合い、共に向上することを可能にします(過度の競争はよくありませんが)。神様は異邦人にイエス・キリストを信じる信仰を与え、異邦人に永遠の命を与えることで、イスラエルの競争心を刺激なさったと思います。救われる異邦人を見てユダヤ人が、「うらやましいな、私たちもあのように救われて喜びたい。よし、思いきってかたくなな心を捨てて、救い主イエス・キリストを信じよう」と発奮し、実際にイエス様を信じる。神様は、このようになることをめざして行動しておられます。そして遂には、ユダヤ人も異邦人も、全世界の人々が救われること、これが神様の悲願です。これを読んで下さる方も、ぜひご自分の罪を悔い改め、イエス・キリストをご自分の救い主として信じて下さるようにお願い致します。できるだけ教会で洗礼をお受けになることをお薦め致します。

 さて、似たことはキリスト教会の歴史にも認めることができると思います。昨年はルターの宗教改革からちょうど500年の記念の年でした。プロテスタント教会の出現は、カトリック教会に刺激を与えたに違いありません。カトリック教会は自らの改革の必要を認め、自らを改革します。そして世界伝道に乗り出しました。大航海時代の船に乗って、です。アフリカ、アジア、南北アメリカに宣教師が派遣されました。この流れのなかでフランシスコ・ザビエルも日本に1549年に来たのです。このカトリックの世界伝道が、スペインやポルトガルの植民地政策に乗った面もややあったのは事実でしょう。しかし多くの宣教師は、純粋に伝道のために海を渡ったと思います。そこからプロテスタントが刺激を受けた面もあるのではないでしょうか。今の世界には、多くのキリスト教の派がありますが、それぞれが神様からいただいた賜物を生かし、互いによい刺激を与え合って、協力して世界伝道を進めることを、神様はお望みではないでしょうか。私たちが海外宣教にも多くの関心を持ちつつ、与えられた持ち場での伝道に励みたいと願います。アーメン(「真実に」)。

2018-07-11 21:17:15(水)
「イエス様の招きに、心を開いてください」 2018年7月8日(日) 聖霊降臨節第8主日礼拝説教 要旨
聖書: イザヤ書8章23~9章6節、マタイ福音書4章12~25節

 イエス様は先週の箇所で、悪魔から激しい誘惑を受けられ、その撃退されました。最後の誘惑は、悪魔を礼拝すれば、世界の全ての繁栄を与えるという誘惑、権力を与えるという誘惑でした。イエス様は、旧約聖書の申命記6章13節を引用して、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と答えて悪魔を撃退されました。権力を得てはいけないのです。ただ神様と隣人にお仕えすることが大切と悟ります。

 先週は、1995年に起きたオウム真理教の事件の1つの大きな区切りとなりました。教祖と元幹部6名の刑が行われたのです。特に教祖は悪魔の誘惑に負け、権力への欲望に負けていました。悪魔に奉仕する集団となってしまいました。あの事件は何だったのか改めて深く考える必要があると思います。キリスト教会の歴史も完全に清い歴史ではなく、様々な過ちを犯して来た面があります。私たちはオウム真理教を反面教師とし、常に「あのようにならないように」、「あのようにならないように」と自分を戒め、チェックし続けて生きてゆきたいと強く思います。

 悪魔の誘惑に打ち勝たれたイエス様は、洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれました。そして、お育ちになったナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれたのです。ガリラヤは、首都エルサレムから見れば地方です。いと小さき者を愛されるイエス様は、中央ではなく離れた町ガリラヤで伝道を開始なさるのです。そしてそれは、旧約聖書のイザヤ書で予告されていた父なる神様の意志だったのです。「ゼブルンとナフタリの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

 秋葉原での殺傷事件から10年たったそうです。オウム真理教の事件でもそうですが、あのような事件が起こると、容疑者の「心の闇」を解明する必要があると新聞等で論ぜられます。確かにそうだと思いますが、考えてみると「心の闇」は多かれ少なかれ、私たち皆が抱えていると思うのです。それは愛情に飢えても愛情が満たされないことから来る怒りであったり、汚ない欲望、ねたみなどです。聖書はこれを罪と呼びます。聖書は、私たち人間は皆、罪人(つみびと)だと教えてくれます。私たちは、人前に出せない罪深い心、恥かしい心を持ちながら、それを人には隠して何とか社会生活を営んでいるのではないかと思います。

 ある人が、「人は、そのような人に言えない、心の最も恥ずかしい部分でのみ、神に出会うことができる」と言われたそうです。私はそれを聞いて、「そうかなあ、必ずしもそうとは限らないのではないか」と思いつつ、しかしその方の言葉に当たっている部分もあると感じます。私たちは自分の罪の心を人に隠すことはできますが、神様に隠すことはできません。そこで神様(そして神の子イエス様)には正直に申し上げるほかありません。「神様、私にはこのように罪深い心があります。悔い改めても悔い改めても、完全には消えません。このように罪深い私でも救われるでしょうか?」するとイエス様はおっしゃると思うのです。「あなたのその罪を背負って、私は十字架で死んだ。それによってあなたの罪は赦された。安心して行きなさい。」確かに、私たちの心の奥底の最も人に見せられない罪深い部分で、救い主イエス・キリストとの真の出会いが起こり、嘘偽りのない正直な対話・祈りが起こり、悔い改めが起こると思うのです。このイエス様との最も深い真実な出会いは、心の闇を抱える私たちの救いの光です。

 この真の光イエス様を、私たちは宣べ伝える責任があります。私は学生時代に一人の青年を知っていました。彼は宗教的なことを求めている雰囲気をもっていました。私はそのうち、キリスト教会に誘おうと思って、実際には誘わないでいました。すると彼は私が知らない間に統一協会というカルト宗教に入ってしまったのです。それは文鮮明という韓国人を救い主と信じる偽りの宗教です。私は「しまった」と思いました。私がキリスト教会に誘っていれば来た可能性があったのに、私がそれをしなかったために悪魔に彼の魂を奪われてしまったのです。真の神様と真の救い主イエス・キリストを知ることが、人間の真の幸福です。真の神様を知らず、偽りの教祖に従ってしまうことは不幸です。私たちは、真の神様と真の救い主イエス様を、身の周りの方々にお伝えする聖なる責任を、イエス様から与えられています。神様に助けていただいて、その責任を少しずつでも果たさせていただきたいのです。

 さて、イエス様はガリラヤ湖でシモン・ペトロと兄弟アンデレを招き、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人は何と、すぐに網を捨てて従ったのです。イエス様はさらに別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとヨハネをお呼びになりました。するとこの2人もすぐに舟と父親を残して、イエス様に従ったのです。すぐに職業と父親を残してイエス様に従った決断の鮮やかさに、驚きます。しかし少しずつでも、イエス様(そして神様)に従う決断は必要です。日曜日は教会の礼拝に出席する、せめて家で聖書を読む、今回の水害のような災害があれば募金に応じる、自分の幸せのためだけに生きず、他人に奉仕するなどの生きかたを選ぶことができます。それは自己中心の罪から離れ、神様と隣人を愛する生き方になります。天国に至る生き方です。新約聖書のローマの信徒への手紙6章16節に、こうあります。「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」

 日々、少しずつでもイエス様に従う生き方を選び取る決断をし、神に従順に仕える奴隷(しもべ)となって、義に至らせていただきたいのです。これを読んで下さる方が、ぜひイエス様に心を開いて下さり、イエス様をご自分の救い主として信じ、イエス様に従って生きて天国に入って下さるように、心より祈ります。アーメン(「真実に」)。

2018-06-13 22:14:00(水)
「洗礼を受けられたイエス様」 2018年6月10日(日) 聖霊降臨節第4主日礼拝 説教要旨
聖書:イザヤ書42章1~4節、マタイ福音書3章13~17節

 神の子イエス・キリストがイスラエルで活動なさるに先立ち、まず洗礼者ヨハネが人々に、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝え始めました。ヨハネは言いました。「わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打もない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。」

 その方がヨハネの前に現れたのです! イエス様です。そして何と、ヨハネに洗礼を授けてほしいと申し出られたのです。ヨハネは大変驚きました。ヨハネは、イエス様が全く罪のない、完全に清らかな神の子であられることをよく知っていました。そこで断わろうとしたのです。当然でしょう。「わたしこそ、あなたから洗礼(バプテスマ)を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」「イエス様、それでは話があべこべです」とヨハネは言おうとしました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこでヨハネは、イエス様に洗礼をお授けしたのです。ヨハネはかなり清い人ですが、  イエス様と比べれば罪人(つみびと)です。ヨハネはあまりの光栄に、心と体が震えたでしょう。

 イエス様は罪が少しもない方ですから、本来洗礼を受ける必要が全くない方です。そのイエス様があえて洗礼を受けられたことは、イエス様の謙遜な生き方を示します。時々、「洗礼は形式にすぎない。信仰があれば十分なので、わざわざ洗礼を受ける必要はない」と考える方がおられます。このような考えが完全に間違っているとはいえないかもしれませんが、しかしイエス様が洗礼をお受けになった事実をよく受けとめる必要があります。洗礼を必要としないイエス様が洗礼をお受けになったのですから、私たち罪人(つみびと)がへりくだって洗礼を受けることは、父なる神様が喜んで下さる「正しいこと、ふわしいこと」です。自分の罪を悔い改めて洗礼を受けることは、謙遜な行為であり、イエス様に従う非常によいことです。

 イエス様の謙遜、それはまず神の子なのに、人間になられた事実に現れています。キリストは天で神の子の栄光を享受しておられた。それなのに私たち罪人(つみびと)が滅びることを見過ごしにできず、天からわざわざ罪と危険のある地上に人間として生まれて下さいました。肉体をもつ人間となられたことは、様々な不便と制約の中に進んで入って下さったということです。しかも貧しい夫婦の、最も無防備な赤ちゃんとして馬小屋で生まれられました。そこは実際には洞窟だったのではないかと言われます。そしてイエス様は洗礼を受け、人々の病気を癒やすなどの愛の奉仕をなさり、弟子たちの足を洗い、遂には十字架で死なれ、三日目に復活なさったのです。

 このイエス様の謙遜を、フィリピの信徒への手紙2章6~8節は次のように歌い上げます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ=奴隷)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」イエス様はこう言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ=奴隷)になりなさい。人の子(イエス様ご自身)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 イエス様は、父なる神様のご意志に完全に従われ、私たち皆の全ての罪の責任を身代わりに背負って、しかも進んで身代わりに背負って、十字架の死を遂げられたのです。イエス様は強制されてではなく、父なる神様に自発的に従って、自由意志を発揮して十字架に架かられたのです。ここにイエス様の自由、真の自由があります。聖書は私たちに、真の自由を教えます。私たちは好き勝手に行動することを自由と呼びます。それはむしろ自分の欲望と罪(自己中心)に縛られた不自由です。真の自由は、自己中心から解放され、進んで喜んで神様と隣人を愛し、自発的に喜んで神様と隣人に奉仕することです(自分をも正当に大事にしてよいのです)。敵をさえ、愛することです。イエス・キリストは完全に自由な方です。私たちキリスト者も、ミニキリストですから、真の自由に生き始めるのです。

 宗教改革者マルティン・ルターは、名著『キリスト者の自由』の冒頭でこう書きます。「キリスト者は、全ての者の上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は、全ての者に奉仕する自由な僕であって、何人にも従属する。」

 イエス様の弟子・使徒パウロも同じ奉仕の自由に生きました。パウロの伝道の姿勢は奉仕的です。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。~弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(コリントの信徒への手紙(一)9:19~23)。

 私は先月(5月)に長崎市に行き、信仰的な刺激を受けて来ました。有名なコルベ神父(ポーランド人)が活動なさった「大浦天主堂の近く」をも歩き、コルベ神父に思いを馳せました。1894年生まれのコルベ神父は清貧に生き、36歳より6年間、長崎で情熱的に伝道されました。ポーランドの修道院の院長になる指示を受けて故国に戻り、ナチスに協力的でないとの理由で、1941年に、悪名高きアウシュヴィッツ強制収容所に入れられます。もちろん何も悪いことをしておられません。一人の脱走者が出たため、不当に10人が実に非道な餓死刑に処せられることになりました。「妻や子どもたちがいるから、死にたくない」と号泣したガイオ二チェック氏を見て、コルベ神父は身代わりを申し出ます。神父の自由意志による決断です。神父は部屋で9人の心を支え続けました。神父を中心に、小声で讃美歌を歌い、祈り続けました。9人の絶望を和らげ、天国に導く使命を果たされました。地獄のような牢獄を聖堂のような雰囲気に変えたと言われます。まさに「アウシュヴィッツのキリスト」です。神父を含む4名が2週間後も生きていたので、注射で命を奪われました。神父は、47年間の崇高な人生を終え、天国に入りました。

 私たちはこれほど立派には生きられないかもしれません。ですがキリスト者として真の自由に生き、喜んで神様と隣人にお仕えしたいのです。アーメン(「真実に」)。

2018-06-07 16:23:20(木)
「ゆるしの決断」 伝道メッセージ(石田真一郎)
聖書:「信仰と、希望と、愛。この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)13章13節)。
 
 梅雨に入りました。あじさいの美しさ、木の緑の深さに安息を感じます。上記は、キリスト教式の結婚式などでよく読まれる聖書の言葉です。少し前にこうあります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」愛は原語(ギリシア語)で「アガペー」です。神の愛、神の子イエス・キリストの愛、敵をも愛する愛です。この愛を実行することは難しいですが、めざしましょう。
 
 2年前の新聞に、「特赦願った200通 フィリピン大統領の決断」という記事が載りました。太平洋戦争の時、日本軍とアメリカ軍がフィリピンで激戦を行い、多くのフィリピン人が亡くなったそうです。戦後間もない頃、フィリピンの当時のキリノ大統領に、日本人のBC級戦犯(戦争犯罪人)の釈放を嘆願する200通以上の手紙を送り続けた加納さんという画家がおられたそうです。キリノ大統領は、マニラ市街戦で妻子4人を亡くし、日本軍に殺された2才の娘さんを自ら埋葬なさったそうです。フィリピンで行われたBC級戦犯裁判では、主に日本人151名が裁かれ、137名が有罪、半数以上が死刑判決を受け、17名が執行されたそうです。

 その後、キリノ氏は、100名以上の戦犯の特赦を決断し、実行なさったそうです。驚くべき愛(アガペー)です。これを知った私は、強い感銘を受けました。キリノ氏はカトリックのクリスチャンだったようです。キリノ氏はイエス様の「七の七十倍まで赦しなさい」という御言葉を知っていたに違いありません。ご自分の家族を日本人に殺されたキリノ氏が、主に日本人の戦犯100名以上を特赦なさるとは、驚くべき決断です。イエス様の「敵を愛しなさい」の御言葉の実行です。フィリピンと日本の将来が、和解のよい関係になるために、あえて決断なさったのでしょう。このような尊い決断の上に、今私たちも生きていることを、ぜひ知っておきたいと思うのです。アーメン(「真実に」)。