日本キリスト教団 東久留米教会

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2021-09-26 1:01:41()
「涙を流してイエス様を伝えるパウロ」 礼拝説教 2021年9月26日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第43回)
礼拝順序:招詞 ヨハネ福音書4:23~24、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編なし,使徒信条,讃美歌21・206、聖書 使徒言行録20:17~35(新約254ページ)、祈祷、説教「涙を流してイエス様を伝えるパウロ」、讃美歌21・98、献金、頌栄92、祝祷。 

(使徒言行録20:17~35) パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

 そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」

(説教) 本日は、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第43回)です。本日の新約聖書は、使徒言行録20章17~35節です。パウロという男性が出てきますが、パウロはイエス・キリストの使徒です。弟子と言い換えてもよいと思います。イエス様の十二人の弟子ではありませんが、でも弟子と言えます。今日の個所は、そのパウロが、真の救い主イエス・キリストを宣べ伝える深い情熱を述べている個所で、非常に深く胸に迫る個所と思うのです。パウロは、自分の地上の人生が間もなく終わることを意識しています。殉教の死を遂げて、イエス様がおられる天国に入ると信じています。ですから今日の個所でパウロが、切々と語っていることは遺言と言えます。小見出しは「エフェソの長老たちに別れを告げる」です。時期は紀元60年頃でしょう。

 エフェソの場所は、聖書巻末の地図8や9を見ると、分かりやすい。地図の真ん中辺り、地中海より北、ローマ帝国アジア州のエーゲ海岸沿いの大都会です。今のトルコです。この使徒言行録19章に書いてある通り、パウロがここで2年間、全力で救い主イエス様を宣べ伝えました。ほとんど住民全員に伝道したようです。その結果、イエス様を救い主と信じる礼拝共同体ができました。教会という共同体ができたのです。今回パウロは、トロアスからミレトスに着きました。ミレトスはエフェソの少し南の海岸沿いの町です。パウロは、ミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せました。18節から、パウロの長く切々したメッセージが始まります。長老たちも、非常に感動しながら聞いたのです。

 「アジア州(エフェソ)に来た最初の日以来、私があなた方と共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によって、この身にふりかかって来た試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。」パウロは、聖霊に満たされていてイエス様の人格に非常に近づいています。パウロは、イエス様が求められた通り、自分を捨て、自分の十字架を背負って、ひたすらイエス様に従う人なのです。「自分を全く取るに足りない者と思い」と言っています。これは彼の本心と思います。無理して謙遜になろうとしているのではありません。パウロは若い頃、サウロという名前でユダヤ人のこてこてのファリサイ派でした。クリスチャンのことが大嫌いで、クリスチャンを迫害する先頭に立ち、これこそ神様に喜ばれることと信じて、狂ったようにクリスチャンを迫害していました。でもその後、復活されたイエス様に出会い、自分が大きな罪を犯していたことに気づくことができました。その後は、正反対に、「イエス様こそ真の神の子、真の救い主である」と確信して、その伝道に命を懸けるイエス様の弟子に変わりました。パウロは昔の自分を恥じています。ですからここで、「自分を全く取るに足りない者と思い」と言い、別の個所では自分こそ「罪人(つみびと)の頭」だと告白しています。これも全くの本心です。

 そしてユダヤのファリサイ派から見れば、パウロは裏切り者です。そこでパウロに対しては迫害が行われ、この先にエルサレムで殺害計画まで練られます(未遂に終わる)。そのような命のかかわる厳しい試練に遭いながらも、パウロはイエス様を宣べ伝えることをやめず、主に(イエス様に、父なる神様に)仕えてきたのです。涙を流しながら。なぜ涙を流すかというと、イエス・キリストだけが全世界の真の救い主だからです。この使徒言行録4章で、イエス様の一番弟子ペトロが言う通りです。「ほかの誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリストの名)のほか、人間には与えられていないのです。」イエス様を救い主と信じる・信じないは、どうでもよいことではないのです。イエス・キリストだけが、私たち人間皆の、全部の罪を身代わりに背負って十字架にかかって下さり、三日目に復活されたからです。私たちが天国に入るためには、イエス・キリストを救い主と信じる以外には、ほかに道がないからです。イエス様を救い主と信じることは、天国に入る・永遠の命をいただくという大きな祝福に至ります。イエス様を信じることは、その人の人生にとって重大な選択なのです。その人の永遠の命を左右する、最も重大な選択なのです。パウロはそれを知っているので、全ての人にイエス様を信じて、永遠の命を得てほしいのです。ところが、なかなか信じてくれない人々がおられる。ですからパウロは、涙を流します。信じる信じないは、最も真剣で、最も重大なことだからです。

 20~21節「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなた方に伝え、また教えて来ました。神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人(ユダヤ人以外の外国人)にも力強く証しして来たのです。」大事なことは、神に対する悔い改めです。私たちが、神様を礼拝しなかった時、私たちは神様を無視して生きていました。私たちの命を造ってくださった神様を無視して生きてきたことは、神様に対して失礼なことです。神様は、私たちの無礼を随分忍耐して下さったと思います。神様を無視していた罪を悔い改め、神様を礼拝するようになることが必要です。悔い改めという言葉は、元のギリシア語で「メタノイア」です。メタノイアは、方向転換するの意味です。神様を無視する生き方から、神様を礼拝し、神様に聴き従う生き方に方向転換するのです。これが悔い改めです。神様は、全ての人がこの方向転換を実行することを願っておられます。私たちがこの方向転換をするとき、神様と天使たちが深く喜ばれるのです。イエス様も喜んで下さるのです。

 22節「そして今、私は霊(聖霊)に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということは、聖霊がどこの町でもはっきり告げて下さっています。」具体的に何が待っているか分からないが、投獄と苦難が待っていることだけは、神様がはっきり知らせて下さっている。パウロは、自分の十字架を背負ってイエス様にひたすら従っているのです。苦難が待っているが、でもイエス様が共におられることもはっきりしている。だからパウロの心には、平安があります。彼の心には迷いがないのです。24節「自分の決められた道を走り通し、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」

 パウロは「証しする」と言っていますが、この漢字を分解すると「正しく言う」になります。証とは真実を証言すること、正しく言う(語る)ことです。原文の「証し」という言葉(ギリシア語)は、後に「殉教」を意味する言葉になりました。イエス様への信仰を表明すると、殉教する時代が来たからです。パウロもここでイエス様を伝道するゆえに殺されることを覚悟しています。でも、パウロをも愛して、パウロのためにも十字架で死んで下さったイエス様を伝道して死ぬなら、本望だと言っています。殉教者の血は、無駄になりません。迫害に負けないで殉教する人のの勇敢な死を見て、感激した人々がクリスチャンになり、迫害した人の意図に反して、却ってクリスチャンが増えることが多いのです。イエス様が言われた「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」の御言葉のとおりです。それにしてもなぜ迫害が起こるのでしょうか。それは神様の真理が広まることを嫌う悪魔が激しく妨害するからだと思うのです。

 25~26節「そして今、あなた方が皆もう二度と私の顔を見ることがないと私には分かっています。私は、あなた方の間を巡回して御国(神の国そしてイエス様)を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、私には責任がありません。私は、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなた方に伝えたからです。」「誰の血についても、私には責任がない」とは、誰の最終的な運命についても私には責任がないということです、パウロは出会った全員に、救い主イエス様を宣べ伝えたのでしょう。そこから先は、聞いた人の責任になります。救い主イエス様を信じるかどうかは、その人の決断次第になるからです。パウロが伝えなかったのなら、相手がイエス様を信じないで天国に入れなかった場合、伝えなかったパウロの責任になります。でもパウロはおそらく出会った全員に宣べ伝えた。ですから後は、パウロから救い主イエス様のことを知らされた相手自身の責任になります。その人が救い主イエス様を信じれば、天国への道が開かれるのです。

 28節は、エフェソの教会の責任者たち(長老たちや牧師)への重要なメッセージです。今の教会の役員や牧師へのメッセージとしても、しっかり聴く必要があります。「どうか、あなた方自身と群れ全体とに気を配って下さい。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなた方のこの群れの監督者に任命なさったのです。」「神が御子イエス・キリストの血(十字架の血)によって御自分のものとなさった神の教会」とあります。教会は、この世の他の団体とは違います。会社でもない、趣味の会でもありません。信仰の共同体、礼拝の共同体です。イエス・キリストの十字架の死によって罪赦された人々の共同体です。イエス様の十字架の真に尊い血潮(血は命)によって、父なる神様から罪を赦された人々の共同体です。そして十字架の死から復活されたイエス様を賛美する共同体です。聖書は教会を「キリストの体」と呼びます。イエス様が頭で、私たちクリスチャンはイエス様の妹、弟たちです。イエス様が長男で、父なる神様が父です。イエス様の十字架の死という尊い犠牲がなければ、教会という共同体ができることはありませんでした。父なる神様が、大切なわが子を十字架にかけて尊い血潮を流させる、その尊い犠牲を土台として成り立っているのが教会です。父なる神様が命をかけて建てて下さった共同体が教会です。ですから父なる神様が愛してやまない共同体が教会です。大きな教会でも小さな教会でも同じです。「神の教会」とありますから、「教会は神のもの」です。人間のボスはいません。神様が所有者です。従って教会は、人間が自由勝手にできるものではなく、教会で皆共に父なる神様のご意志に従うのです。

 29~30節「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。」これは、神様を憎む悪魔の働きです。悪魔は教会を堕落させたいし、壊したいのです。その悪魔の妨害に負けない必要があります。惑わされて邪説に従わないために、私たち一人一人がよく聖書を読み、祈ってゆく必要があります。31節「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」パウロは、心血を注いで伝道しました。一人一人にイエス様を伝え、この信仰から生涯離れることのないように、昼も夜も涙を流して、懇々と諭し続けたのです。「目を覚ましていなさい。」イエス様も繰り返し「目を覚ましていなさい」と言われました。この世のつかの間の栄光に心を奪われないで、いつも信仰の目を覚まして、神様に喜ばれることを行うように心がけ、意識的にイエス様の心を自分の心として、地上の人生を最後まで歩み通すように、目を覚まし続けていなさい、ということでしょう。

 「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」パウロはもう彼らに会えない。直接神様のことを教えたり、直接アドヴァイスできない。そこでこれまでパウロが取り次いで来た神様の御言葉をよく記憶して、それに基づいて教会というクリスチャンの共同体を造り上げ、様々の問題に対処しなさい、というメッセージでしょう。「神とその恵みの言葉とにあなた方をゆだねます。」私たちには、神の言葉そのものを集めた聖書があります。これは大変な恵みなのですね。この神の言葉、宝の言葉の集合体であるい聖書があるのですから、私たちは聖書をよく読んで、聖書に基づいて教会としての、クリスチャンとしての意志決定を行ってゆきます。エフェソ教会の人々は聖書をもっていなかったのです。私たちは聖書を持っています。その意味ではエフェソ教会の人々より恵まれています。ぜひ一人一人が個人でも聖書をよく読んで参りたいのです。

 最後の33節以下は、すばらしい言葉です。「わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」「私はむさぼったことはない」と断言します。質素に生きたのです。自分の必要のためにも、周りの人々のためにも働いたと言います。彼はテント造りで生計を立てました。イエス様も大工として自分と母親、弟妹のために労働した日々があったはずです。イエス様のこの御言葉は、4つの福音書に書かれていません(やや似た言葉「与えなさい。そうすればあなた方にも与えられる」(ルカ6章38節)はある。)「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示して来ました。」パウロがこう述べて、使徒言行録を書いたルカが記録してくれたので、イエス様がこうおっしゃったと私たちは知ることができます。4つの福音書になくて、聖書の他の箇所で確認できるイエス様の御言葉は、おそらくこれだけだと思います。「受けるよりは与える方は幸いである。」はっとさせられる、忘れてならない御言葉と思います。その逆だと思いやすい私たちの、目を覚まさせてくれる、チャンレジングな、すばらしい御言葉です。今日の箇所は、パウロの心、イエス様の心が分かる印象深い御言葉、毎日読みたいし、毎日読んでも決して飽きない、毎日読んでもその度に感動が与えられるすばらしい箇所と思います。ぜひ毎日読んで、私どもの信仰を深めたいのです。アーメン(真実に)。

(祈り)聖名讃美。4度目の緊急事態宣言。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神に立ち帰るように。経済困難の方々に助けを。私たちの教会と身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々に聖霊と平和を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に守りを。ミャンマー、アフガニスタンに平和を。日本の首相が交代しようとしています。神様が最もふさわしい方を次期首相として選んで下さい。御名により、アーメン。

2021-09-18 22:50:37(土)
「神の国にどうぞ!」  2021年9月19日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ヨハネ福音書4:23~24、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編42,使徒信条,讃美歌21・152、聖書 歴代誌・下24:17~22(旧約ページ)、マタイ福音書23:23~39(新約ページ)、祈祷、説教「神の国にどうぞ!」、讃美歌21・441、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(歴代誌・下24:17~22) ヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した。そのとき、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた。この罪悪のゆえに、神の怒りがユダとエルサレムに下った。彼らを主に立ち帰らせるため、預言者が次々と遣わされた。しかし、彼らは戒められても耳を貸さなかった。神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。ヨアシュ王も、彼の父ヨヤダから寄せられた慈しみを顧みず、その息子を殺した。ゼカルヤは、死に際して言った。「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」

(マタイ福音書23:23~39) 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第18主日の礼拝です。本日の新約聖書は、マタイ福音書23章の後半です。先週に続いて、エルサレムの律法学者・ファリサイ派の人々に対する、イエス様の厳しい言葉が続きます。

 23節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど(香辛料、鎮痛薬)、茴香(伝統的なハーブ、香料、薬草)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。」先週申し上げました通り、不幸だという言葉は、元の言葉ではウーアイです。「うう、ああ」とイエス様が正しく怒ると同時に呻いて、悲しみ嘆いておられます。神様の御言葉を本当には受け入れず、自分の罪を認めず悔い改めない律法学者・ファリサイ派の人々のかたくなな心を悲しんでおられます。ファリサイという言葉は「分離する」という意味だと聞きます。自分は他人より正しい人だと思い、自分を他人と分離しているのです。他人を見下しているのですね。キリスト教会に自己義認という言葉があります。これは自分で自分こそ正しいと認めることです。神様に「あなたは正しい、よい人間だ」と認めていただくのではなく、自分で「自分こそ最も正しい」、「自分には罪なんてない」と過剰な自信とプライドをもつことを自己義認と言います。これこそファリサイ派の罪です。でも昔のファリサイ派だけの罪ではありません。私たちも、時々ファリサイ派になるのです。そして自分の思い上がりの罪に気付かなくなるのです。

 福音書を読んでいて驚くのは、イエス様が当時、罪人(つみびと)と呼ばれた人々(たとえば売春婦)に積極的に近づかれることです。当時イスラエルで嫌われていた徴税人(税金を集めてローマ帝国に納める人)とも一緒に食事されたのです。ファリサイ派の人々が驚いて「なぜ徴税人や罪人(つみびと)と一緒に食事をするのか」と問うと、イエス様は答えられます。これは私たちがイエス様という方の心を知るために、よく心に留める必要があるお答えだと思うのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私(父なる神様)が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。」こうおっしゃることもあります。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである。」なるほど、イエス様の心はファリサイ派とは違うのだなと、教えられます。私がファリサイ派の心に近くなっているとき、このイエス様の御言葉を読んで、イエス様の心に立ち帰ることが必要と感じるのです。

 イエス様は、律法学者たちとファリサイ派の人々に言われます。「あなたたちは薄荷、いのんど、茴香の十分の一(小さなものの十分の一)は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲(憐れみ)、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。」些細なことを厳密過ぎるほどこだわるが、律法(神の聖なる掟)の中で大事な正義、慈悲、憐れみを実行していないというのです。但し、十分の一の献げ物を行わなくてよいという意味ではないと言われます。キリスト教会ではしばしば「十分の一献金」ということが言われます。もちろん聖書に根拠があり、旧約聖書のレビ記27章30節にこう書かれています。「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のもの(神のもの)である。それは聖なるもので主に属す。」これは大切なことです、律法学者・ファリサイ派はそれを徹底的に実行するあまり、小さなものの代表である薄荷、いのんど、茴香の十分の一まで神様に献げていました。しかしもっと大事なことを行いませんでした。24節「ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」これはイエス様のユーモアと言えます。小さなぶよと大きならくだのコントラストが、極端でユーモラスです。旧約聖書レビ記の規定では、らくだは汚れた動物です。ファリサイ派は神経質にぶよ一匹さえも漉して除くが、大きならくだ(大きな悪のシンボルでしょう)は飲み込んで、受け入れてしまっている。

 次はさらに痛烈な言葉です。25節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」放縦とは「節度がなく、勝手、わがままなこと」です。ファリサイ派は、こんなに悪人だったのでしょうか。見た目や行いは立派に見えるが、心の中は強欲、欲望と野心でいっぱい。これより前の21章で、イエス様はエルサレムの神殿を清められ、売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒され、おっしゃいました。「私の家(神の家、神殿)は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」神殿は聖なる礼拝の場です。今の教会堂に等しい。でもそこが欲望まみれだったというのです。私たちの心も教会も、欲望でいっぱいになれば、やはりイエス様に厳しく叱られるでしょう。私たちの心、そして教会は100%清くなることは難しいですが、でもやはり欲望いっぱいではなく、清くあるように心がける必要があります。

 ファリサイ派の外見と内面は大きくずれ、矛盾していました。私たちは他人の欠点はすぐ分かるものです。イギリスやアメリカでは、歴史的にキリスト教は主流の宗教で、教会の礼拝も盛んに行われていました。ところが両国とも、アフリカ人奴隷の売り買いをしていました。神様に祈りながら、同時アフリカ人奴隷を売り買いして金儲けをするということは、巨大な矛盾で信じられません。奴隷は人間でないと思っていたのかもしれません。巨大な罪を犯しながら、全く罪を思っていなかったのでしょう。人間は、自分が行っている悪に気づかないようです。「ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉しての除くが、らくだは飲み込んでいる。」

 27節以下もやはり痛烈です。「律法学者たちファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死はの骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら内側は偽善と不法で満ちている。」当時のイスラエル人にとって、死や墓は汚れでした。もちろん私たちクリスチャンにとってはそうではありません。当時のイスラエルでは、過越祭等で多くの人がエルサレムに集まる場合、お墓を白く塗ったそうです。そうすれば墓は汚れていないと見なしてもらえたのでしょう。でも墓が遺体を納める場所であることは何も変わりません。外側だけ美しくしても、ごまかしに過ぎません。

 20世紀のドイツにハンス・アスペルガーという小児科の医師がいたそうです。アスペルガー症候群という症状名に名前を残したよい医者、障がいある子どもたちの治療と養育に一生懸命とりくんだよい医者と言われていました。それが比較的最近になって、実はナチスの作った障がいある子どもたちの安楽死施設に、自分が見放した多くの障がいある子どもたちを送り込んでいたことが分かったそうです。子どもたちを殺すことに手を貸していました。非常によい小児科医と思われていたのに、裏の顔があって、実は多くの子どもを死の施設に送り込んでいたことが分かったそうです。悪魔の手先になっていたらしいのです。これは恐るべき偽善と言えます。

 私たちはこれほど極端ではないと思います。でも私も偽善と全く無縁とは言えません。「本音と建て前」という言葉があります。「建て前と本音」と言い換えることもできます。本来「本音と建て前」の区別があってはいけませんね。日本人は下手をすると、「建て前と本音」が違うのは当たり前で、「建て前と本音」を上手に使い分けるのが大人だなどと考えかねないのではないでしょうか。そうでなければ幸いですし、もちろん皆様はそんなことはないに違いありません。ファリサイ派には「建て前と本音」が露骨にあったと思います。建て前では神様を礼拝し、神様に従うふりをしているが、本音では神様に従おうと思っておらず、自分の欲望実現だけを願っていた。これがファリサイ派の姿です。偽善とは「建て前と本音」の別があること、「建て前と本音」を使い分けることだと思うのです。残念ながら私も罪人(つみびと)なので、これまでの人生で「建て前と本音」を少し別にしたことが、ゼロとは言い切れません。でも神様に祈って助けていただいて「建て前と本音」の区別ができるだけない信仰生活・日常生活を送りたいのです。建て前では神様を信じているが、本音では信じていないということがないようにしたいのです。もちろんそのような方はここにおられませんが、礼拝の時は神様に祈るけれども、それ以外の日は神様に従わないとならないように。礼拝の日曜日だけ神様中心に生き、平日は自分中心に生きるという区別をしないように、生きたいのです。ファリサイ派は「建て前と本音」を区別して平気だったのではないでしょうか。

 私たちは「建て前と本音」の区別がない信仰の生き方をしたいのですが、自力で完全に行うことはできません。神様に祈り、イエス様に助けられ、聖霊によって清めされてその方向に進みたいのです。信仰が常に本音であるように、神の力で生かしていただきたいのです。
 
 少し飛ばして下の32節以下。「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、私は預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなた方が聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかって来る。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たち(イエス様の時代のイスラエル人)にふりかかって来る。」

 イエス様は、旧約聖書の歴史を振り返っておられます。最初の夫婦アダムとエバの次男アベルは正しい人だったのに、兄カインに不当に殺されました。正しい人が殺されることは、あってはならない悪です。でもその大きな悪が行われました。人間が神に背いたのです。次に出て来るゼカルヤも、正しい人なのに殺されました。歴代誌の下です。私たちが使う旧約聖書では最後の書はマラキ書ですが、ユダヤ人が読むヘブライ語の旧約聖書では順序が違い、最後の書は歴代誌なのだそうです。つまり旧約聖書の最初にアベルが殺され、旧約聖書の最後でゼカルヤが殺された。旧約聖書の歴史、イスラエルの民の歴史は、初めから終わりまで正しい人を殺す歴史、神様に背く歴史だったと、イエス様はおっしゃるのです。実に厳しい御言葉です。その集大成のように、この三日後に、神の子イエス様という最も正しい方が、イスラエルの首都エルサレムで十字架で殺されようとしています。人間の恐るべき罪です。「これらのことの結果はすべて、今の時代の者たち(イエス様の時代のイスラエル人)にふりかかって来る。」エルサレムが神様に背き続けたので、父なる神様の審判を受けるというのです。エルサレムが悔い改めなかったので、残念ながらそれは実現し、この約40年後にローマ軍の攻撃を受けて、エルサレムは滅亡し、1948年のイスラエル建国まで、復活しない結果になります。

 最後はイエス様の嘆きの言葉です。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちはおうじようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられ、荒れ果てる。」イエス様、父なる神様が何回も何回もエルサレムの人々を招き、神様の御言葉を素直に聞いて、罪を悔い改めて立ち帰るように招き続けた、祝福を与えようとして招き続けたのに、エルサレムの人々は無視し続けた。私たちはそうでなく、イエス様の愛の招きに(説教題は「神の国にどうぞ!」という招き)に素直に応じて、神の子、神の家族に入れていただき、真の祝福を受けたいのです。

 「言っておくが、お前たちは『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決して私を見ることがない。」これはイエス・キリストが、もう一度地上に来られる時、再臨の時のことです。イエス様は必ずもう一度来られて、神の国を完成されます。私たちには、その時までチャンスが与えられています。イエス様を救い主と信じ、自分の罪を悔い改め、神の子とされるチャンスがその時まで与えられています。今日もそのチャンス、大きな恵みの一日です。私たちは時を無駄にしないように気をつけたいと思います。時が与えられている間に、真の神の子イエス様に立ち帰り、永遠の命をいただくことが必要です。そしてイエス様がもう一度来られる時に、イスラエル人も日本人も、すべての民が和解して共にイエス様に向かって「主の名によって来られる方に、祝福があるように」「ホサナ、ホサナ」の歓呼の声をあげてお迎えしたいのです。そのイエス様の御名を、今日も礼拝でほめたたえる私どもです。アーメン(真実に)。

(祈り)聖名讃美。4度目の緊急事態宣言。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神に立ち帰るように。経済困難の方々に助けを。私たちの教会と身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々に聖霊と平和を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。台風の被害が少ないように。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に、神様の守りを。ミャンマー、アフガニスタンに平和を。 御名により、アーメン。

2021-09-15 20:11:39(水)
伝道メッセージ 9月 石田真一郎
「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイ福音書5章8節)。

 私が子どものとき大好きだった人形アニメに「リトル ドラマー ボーイ」があります(絵本もありますが、内容が違います)。イスラエルの砂漠に生きる少年アロンは、両親から小さな太鼓をプレゼントされ、喜んで叩き、上手になります。らくだ、ろば、子羊が太鼓に合わせて踊ります。ところが悪人に襲撃されて、両親が命を落とし、アロンの心は悲しみと憎しみでいっぱいになり、三匹の動物と旅に出ます。太鼓が上手なアロンを利用し金もうけをたくらむ男から逃げ出すと、空にひときわ輝く星が見えます。神の子・イエス様の誕生を告げる星です! アロンと三匹、三人の博士たち、多くの人も星を目当てに進みます。

 着いた馬小屋には、最も美しい光景が待っていました。マリア、ヨセフ、そして飼い葉桶に赤ちゃんイエス様が眠っています。近づこうとすると、走って来た馬車にアロンの愛する子羊が轢かれ、瀕死になります。心優しいアロンは、涙を流して子羊を抱きしめます。でも博士に助けを求めても、「私には助ける力がない」と言われ、赤ちゃんイエス様のもとに行きなさいと言われます。「でも、貧しい僕にはイエス様にささげるものが何もない。」はっと思い立って、真心を込めて太鼓を弾きます。時をかけて弾きます。心に沁みるクライマックス。アロンの精一杯のささげ物を、イエス様も父なる神様も深く喜ばれました。マリアさんも微笑みます。

 アロンが後ろを見ると、子羊が元気になっているではありませんか! イエス様が愛で癒して下さったのです。アロンは子羊をしっかりと抱きしめて、喜びの涙を流します。そしてアロンは、自分の心の中にあった人を憎む思いが消えていることに気づきます。イエス様が憎しみを取り去って下さったのです! イエス様の誕生を告げる星が輝く中、心の清いアロンは、愛する動物たちと新しい希望の歩みへと踏み出します。最後にナレーションが告げるのです。「心の清い人々は祝福されています。その人たちは神を見るのです!」(マタイ福音書5章8節)。

 心洗われる物語、全編で流れる「ランパンパンパン」の歌詞のメロディーも美しい! イエス様が、小さく貧しい者を特に愛して下さることを感じさせる名作です。しおんの子どもたち、先生方、多くの動物たちもイエス様に愛されています。そのことを感謝し、子どもたち・先生方とご一緒に、神様に礼拝をささげて参ります。アーメン(真実に)。
(下里しおん保育園の「おたより」2021年9月号に掲載した文章。)
2021-09-12 0:40:27()
「真の先生イエス様に、皆で従おう」  2021年9月12日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ヨハネ福音書4:23~24、頌栄28、「主の祈り」、交読詩編41,使徒信条,讃美歌21・7、聖書 イザヤ書57:15(旧約1156ページ)、マタイ福音書23:1~22(新約45ページ)、祈祷、説教「真の先生イエス様に、皆で従おう」、讃美歌21・520、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書57:15) 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。

(マタイ福音書23:1~22) それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。 (†底本に節が欠落 異本訳)律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第17主日の礼拝です。本日の新約聖書は、マタイ福音書23章の前半です。場所はエルサレム、時はイエス様が十字架にかけられる金曜日のわずか3日前の火曜日と思われます。この火曜日は、「問答の火曜日」と呼ばれる大変な火曜日となりました。今日の個所では、イエス様がイスラエルの律法学者たちとファリサイ派の人々を強く非難しておられます。信仰に熱心に取り組んでいるように見せて、実は誠実に生きていないという非難です。イエス様がそうおっしゃるのですから、実際その通りだったのでしょう。

 1~2節「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。『律法学者たちやファリサイ派の人々はモーセの座に着いている。』」自分たちこそ旧約聖書の偉大なリーダー・モーセの正統な後継者だと主張し、社会の中で権威を得ている。そして威張っている。イエス様は言われます。「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで実行しないからである。」痛烈な非難です。「彼らがああしなさい、こうしなさい」ということは正しいので、私たちもその通りにするべきだ。しかし、彼らの行いは、見倣ってはいけない。彼らは言うだけで実行しないからである。」彼らは立派なことを語っているが、自分で実行しようとはしない偽善者だというのです。イエス様にこう言われると、私も冷や汗が出てしまいます。「説教で人様に向かって偉そうなことを語っているだけで、実行は怠けているのではないか」と心配になり、自分の日々の生き方をチェックする必要があると襟を正したくなります。

 4節「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に乗せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」彼らはモーセの十戒の細分化して613個の掟に変えたそうですが、613もの掟を守れと説教して貧しい人々の苦労を増やしたが、彼らに手を貸す愛を実行しようとはしない。人々の苦労だけ増やして、一向に助けたりサポートしたりしない。偽善者だというのです。5節「そのすることは、すべて人に見せるためである。」自分をよく見せる自己宣伝だけを行っているというのです。イエス様がおっしゃることは全て当たっていたに違いありません。ユダヤの律法学者たち・ファリサイ派の人々がこれを聞いて、素直に頭を垂れて悔い改めればよかったのでしょう。しかし、誇り高くプライド高い彼らの多くは、悔い改めず(もしかすると一部に悔い改めた人がいたかもしれませんが)、怒ったのではないでしょうか。その怒りで、三日目の金曜日にイエス様を十字架に追い込むことになります。

 私は今回この箇所を読んで、十字架にかかるわずか三日前のエルサレムで、イエス様がこれほど厳しい非難を、律法学者たちやファリサイ派の人々に対して語っておられることに、驚きを覚えました。でもイエス様は、彼らが憎くてこの厳しい言葉を語られたのでもないと思います。イエス様から見れば、彼らは偽善の罪を犯し続けていたと思います。表向きは清く正しく生きているようで、実際には隣人を愛さず、自分の立場を利用して私腹を肥やしたり、権力を行使して、父なる神様に背いていた面もあったと思うのです。このままでは彼らは、そしてエルサレムは父なる神様の裁きを受けてしまう。イエス様は律法学者たちやファリサイ派の人々をも、実は愛しておられて彼らが父なる神様に裁かれることを望んでおられない。この人々が早く自分の罪に気づき、自分の罪を悔い改めて、父なる神様の愛と祝福を受けることを望んでおられるからこそ、イエス様はあえて真に厳しい御言葉を語っておられると思うのです。厳しい御言葉の内部に、実は深い愛が存在していることに気づくことが必要と感じます。しかし、残念ながら彼らの多くはそれに気づかず、悔い改めませんでした。あろうことか、最も聖なる神の子イエス様を、十字架で殺してしまいます。そのような大きな罪を犯した結果、約40年後にエルサレムそのものが父なる神様の厳しい裁きを受けてしまいます。ローマ帝国の軍隊に攻撃されて、神殿は炎上し、エルサレムそのものが事実上滅ぼされてしまいます。悔い改めのチャンスを与えられていたのに、それを長年無視して悔い改めなかったために、そうなってしまいました。実際三日後には、最も清い神の子イエス様を十字架にかけるという大きな大きな罪を犯してしまいます。

 御言葉に戻って5節「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」「聖句の入った小箱」とは、旧約聖書の4箇所の御言葉を書いた羊皮紙を入れた小箱を、彼らがいつも持ち歩いていたそうです。その1つは、申命記6章4~9節で、確かにこれは重要な聖句です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも、起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」この御言葉をしるしとして手に結び、覚えとして額に付けよとあるので、小箱に入れて持ち歩いたそうです。それ自体はよいことです。今のクリスチャンが小型の聖書をいつも持ち歩くようなもの、御言葉を手帳に書いたりしていつも忘れないように心がけるようなものです。基本的にはよいことです。ここで非難されている律法学者・ファリサイ派の場合はそれを自分の信仰を深めるためではなく、人に見せて、いかにも信仰深いふりをするために持ち歩いていたのでしょう。それをイエス様が偽善と非難しておられます。

 6節以降はこうです。「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」これは、私・石田真一郎への警告だと読むしかありません。宗教家こそ、堕落しやすい。「会堂では上席に座ることを好む」、今まさに会堂で上席に座り立って、説教という畏れ多いことを行わせていただいています。「先生」と呼ばれたりすることを好む。牧師という名称がまさに「牧する(羊を飼う)教師」つまり先生の意味で、牧師は先生と呼ばれてしまっています。果たして自分が「先生」と呼ばれるほど立派な生き方をしているだろうかという問いかけをやめれば、簡単に堕落して、イエス様から「偽善者よ、悔い改めよ」と非難されることを自覚しなければなりません。30年近く前に、私が神学生の頃でしたか、アシュラムというキリスト教の集会に出席したときに、どこの牧師の方だったか忘れましたが、「自分は牧師という名称の『師』の文字を『師』ではなく『仕』と書くようにしたい」と書いておられたことを思い出しました。自分が偉そうな牧師になって奉仕する気持ちを忘れたら、律法学者・ファリサイ派になってしまうという思いを持っておられたのだと思います。

 8~10節「だが、あなた方は『先生』と呼ばれてはならない。あなた方の師は一人だけ(イエス様だけ)で、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなた方の父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなた方の教師はキリスト一人だけである。」 「あなた方の師は一人だけ(イエス様だけ)で、あとは皆兄弟なのだ。」地位が上とか下ということはなく、皆平等な兄弟姉妹だと言っています。神の国では、教会では人間の支配者はいなくて、皆兄弟姉妹なのです。直訳は兄弟ですが、最近出た聖書教会共同訳ではあえてひらがなで「きょうだい」と書いています。あえてひらがなにしたのは男性だけでなく女性も含まれることを伝えようとしてのことと思います。改めて見ると、新約聖書には兄弟という言葉が多いのです。パウロは、諸教会への手紙の中で繰り返し、「兄弟たち」と呼びかけています。イエス様もたとえば「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある丸太に気づかないのか」「兄弟があなたに対して罪を犯したら、行って二人だけのところで忠告しなさい」などとおっしゃって、教会のメンバー同士が兄弟また姉妹であることを強調しておられます。教会では上下関係はないということと受け止めます。婦人会で、山谷兄弟の家伝道所に献品を送って下さいました。兄弟の家伝道所という名前は、よい名前と感じます。

 このイエス様の御言葉を正面から受け止めると、牧師という名称も師(先生)が含まれているので、なくす必要があり、カトリック教会の神父という名称も「父」を含むのでなくす必要があります。「神父」という名称は「神様の父」という意味ではなく「霊的な父」「信仰上の父」という意味であるようです。それもいけないことになりますが、これはおそらくイエス様が、人間の牧師や神父が自分勝手に権力を行使して、教会の主人のようにふるまって信者の方々にマイナスや害を及ぼすことを警告して、こうおっしゃっているのだと思います。ただ、教会には権力者がいてはなりませんが、責任者は必要です。権力者は必要ないが、責任者はいて、皆共に礼拝し、互いに仕え合う教会が望ましいのだと思います。現実の教会の2000年の歴史を見ると、人間が罪人(つみびと)であるせいで、教会の中で権力争いがあったこともあるようです。特に男性は政治好きですから、そのような男性聖職者が教会にマイナスをもたらすこともあったようです。でも神さまがそこで宗教改革を起こされます。そして教会を悔い改めに導き、教会を立ち直らせる。1つ1つの教会の歴史も、2000年間のキリスト教会全体の歴史も、生きておられる神様がそのように導いて来られたと思うのです。

 宗教改革は、神の国が完成するまで毎日必要です。私どもはクリスチャンでも、やはり毎日罪を犯していますから、毎日悔い改めが必要です。教会も悔い改めが必要です。悔い改めてこそ、クリスチャン個人も教会も日々新しくされ、聖霊を注がれて清められます。簡単に思い上がる私・私どもですから、毎日聖書を読んで、神様の御言葉に心を込めて耳を傾けることで初めて、神様の御心に適う東久留米教会を形作ることができます。人間の牧師もおりますが、真の先生はイエス・キリストお一人。本日の説教題に「真の先生イエス様に、皆で従おう」とした通りです。「あなた方の内で一番偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」弟子たちの汚い足を洗われ、十字架の死に至るまで父なる神様に従順に仕えられたイエス様が、いつも私どもの模範です。このことを痛切にわきまえて初めて、神父や牧師の存在が許されるのでしょう。教会の歴史の初期の頃、砂漠に師父と呼ばれる霊的な指導者がいて、おそらく禁欲的で祈り深い生活をしており、様々な悩みをもって訪問する人々を、父親的な慈愛と祈りで、信仰的に導いていたそうです。

 13節以下でイエス様は、「律法学者たちファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という厳しい言葉を、繰り返されます。「不幸だ」を他の聖書は「わざわいだ」と訳しています。元の言葉は「ウーアイ」です。「うう」「ああ」といううめきの言葉、悲痛な嘆きの言葉です。イエス様はただ正しく怒っておられるだけでなく、悲しみ嘆いておられる。自分の罪に気づかない律法学者・ファリサイ派のかたくなで悔い改めない心を悲しんでおられます。「あなたたちは不幸だ。人々の前天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりと、入ろうとする人をも入らせない。」あなたたちの伝道は、伝道になっていなくて、あなたたちと同じ偽善者を増やしているだけだ、という手厳しい言葉です。でも嘆きながらおっしゃっています。偽善者という言葉は、元の言葉のギリシア語で「俳優」の意味も持つそうです。演じる人です。善い人間でないのに、善い人間のふりをして演じる俳優、それが偽善者だというのです。自分ができるだけ偽善者にならないように気を付けるほかありません。

 次の十字架のようなマークは、聖書のある有力な写本にはここに御言葉があることを示します。この福音書の最後に書いてあります。「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」「見せかけの長い祈り。」私の礼拝の祈りも長めです。「見せかけの偽善的な祈り」、心にもないきれい事、本心でない上辺だけの美辞麗句でないよう気をつける必要があります。

 16節「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。」もちろん神殿の方が尊いのです。これは当時の律法学者・ファリサイ派が考え出した言い訳のための屁理屈でしょう。誓いは約束ですから、必ず守る必要があることです。それで言い逃れを正当化する屁理屈を考え出したのですね。「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である(もちろん本当は有効です)。だが神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない。」これはとんでもない屁理屈で、神の聖なる神殿を馬鹿にしたあきれた屁理屈ですので、イエス様が偽善として厳しく叱りつけています。誓いを守ることは確かにしんどい面があるでしょう。それでしんどさから逃れるために、自分たちを正当化する屁理屈を考え出したのです。神様に対する誠実を、放棄していたとも言えます。私どもは罪人(つみびと)ではありますが、神様に祈って助けていただき、できるだけそうならないようにイエス様に従いたいのです。

 このイエス様のお叱りの連続。「不幸だ。不幸だ。不幸だ。」これは「幸いである」の正反対です。幸いな人はどんな人か? イエス様がマタイ福音書5章で教えておられます。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。~憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである。その人たちは、神を見る。平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」ファリサイ派は、この正反対の生き方をしていました。悔い改めず、傲慢になっていました。私どもも罪人(つみびと)ですから、ファリサイ派に近くなる時もあるでしょう。しかしイエス様を先生とし、神の前に悔い改めつつ、「幸いな人」として歩みたいのです。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。世界中が、神に立ち帰るように。経済困難の方々に助けを。教会内と身の周りで各々の病と闘う方々、入院中の方に癒しを。ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちに守りを。近所の方々に聖霊を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に、神様の守りを。ミャンマー、アフガニスタンに平和を。 御名により、アーメン。

2021-08-28 21:11:38(土)
「私たちの内に生きておられるキリスト」  2021年8月29日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 マタイ福音書5:43~45、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編39,使徒信条,讃美歌21・11、聖書 ハバクク書2:1~4(旧約ページ)、ガラテヤの信徒への手紙2:15~21(新約ページ)、祈祷、説教「私たちの内に生きておられるキリスト」、讃美歌21・510、献金、頌栄92、祝祷。 

(ハバクク書2:1~4)わたしは歩哨の部署につき/砦の上に立って見張り/神がわたしに何を語り/わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように/板の上にはっきりと記せ。定められた時のために/もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。

(ガラテヤの信徒への手紙2:15~21) わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第14主日の礼拝です。できるだけ月に一回、ガラテヤの信徒への手紙による説教を行っています。本日与えられているガラテヤの信徒への手紙は、2章15~21節です。説教題は「私たちの内に生きておられるキリスト」と致しました。小見出しは「すべての人は信仰によって義とされる」です。

 この手紙を書いたパウロは、ご存じの通り、クリスチャンたちを迫害する先頭に立っていたユダヤ人のファリサイ派のメンバーでした。狂ったようにクリスチャンたちを迫害していたパウロに、復活したイエス・キリストが直接出会って下さいました。イエス様との直接の出会いによってパウロの信仰と生き方は、劇的に変化しました。彼は、イエス様こそユダヤ人と世界中の民の真の救い主であることを深く悟り、ひたすらイエス・キリストを宣べ伝える後半生を生きたのです。

 最初の15節でパウロはこう述べます。「私たちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人(つみびと)ではありません。」これは聖書における、あるいは神様の救いの計画における、順序を語っていると言えます。神様の救いのご計画において、確かにユダヤ人が最初に神の民として選ばれました。この事実を消すことはできないのですね。「私たちは生まれながらのユダヤ人だ」ということは、「パウロたちユダヤ人が、生まれながらの神の民として神に選ばれている」ということです。私たちはこれを読んで少しカチンとくるかもしれませんが、これはパウロの思い上がりではなく、事実を述べています。私たち日本人も異邦人ですから「異邦人のような罪人」という言葉も、嬉しくはありません。でも異邦人は、神様の清い掟であるモーセの十戒も知らず、旧約聖書も読んでいないので真の神様について無知であり、何が罪かも知らないで長年生きて来ました。日本人も、1549年にフラシスコ・ザビエルが日本に初めてイエス・キリストを伝える前は、真の神様について全く無知で過ごして来たのです。はっきり言えば、真の神様を知らないので、ただそのまま滅びていっても仕方のない民であったのです。

 パウロは、エフェソの教会の異邦人クリスチャンたちについて、「あなたたち異邦人の以前の状態はこうであった」と述べています。エフェソの信徒への手紙2章11節以下「あなた方は以前には異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々(ユダヤ人)からは、割礼のない者(神の民でない者)と呼ばれていました。また、その頃は、キリストとかかわりなく、イスラエルの民(神の民)に属さず、約束を含む契約を関係なく(神の契約の外にいて)、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」悲しいけれども、これが異邦人(日本人を含む)の現実だったのです。真の神を知らず、何が罪かも分からず、罪を犯しながら、滅びの道に向かって進んでいた。しかしその異邦人にも、イエス様によって永遠の命の希望がもたらされたのです。イエス様は、ユダヤ人だけでなく、私たち異邦人の全部の罪をも背負って、十字架で死を遂げて下さったからです。

 続いて16節「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。」「私パウロはユダヤ人なので、人は律法(その代表がモーセの十戒)の実行によって自力で神の前に義と認められると思い込んでいたが、それが間違いであることに気づいて、救い主イエス・キリストを信じた」、と言っています。ユダヤ人のファリサイ派は、自分の正しさについて自信過剰な人々だったようです。パウロこそその筆頭で、自分はモーセの十戒に代表されるあらゆる律法(神の掟)を完璧に守っているので、その律法の実行によって、自分の力で、神の前に義と認められると確信していました。自分にはほとんど罪がないと思っていたでしょう。しかし復活のイエス様に出会ったことで、パウロは自分に多くの罪があることに、初めて気づいたでしょう。罪が全くない方は、イエス様だけです。人格の立派さで、イエス様には全くかなわないとパウロは痛感します。罪が全くない方とは、イエス様のような方を指すのだ。他人と比べれば自分は立派なので罪はないと思っていたが、身の周りの他人と比べても、どんぐりの背比べなので意味はない。イエス様と比べることが必要だ。イエス様と自分を比べれば、イエス様の方が段違いに愛と清さに満ちておられる。自分の人格は、イエス様に遠く及ばないとよく分かった。これまでの自分は思い上がっていた。自分には多くの罪がある。パウロはそう強く気づいたに違いありません。

 「律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる。」これはプロテスタント教会が非常に重視している「信仰義認」です。プロテスタントが拠って立つ「信仰義認」です。細かい話で恐縮ですが、信仰という言葉は、元のギリシア語で「ピスティス」という言葉です。今から100年ほど前に、スイスのカール・バルトという牧師が、初めてこの「ピスティス」を(ローマの信徒への手紙で)「真実」と訳しました。「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」を、「イエス・キリストの真実によって義とされる」と訳したのです。当時のクリスチャンたちも驚いたようですが、これは聖書への深い理解に基づく訳と言えます。どちらの訳も正しいと言えます。「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」も正しい、「イエス・キリストの真実によって義とされる」も正しいと言えます」。

 2年ほど前に出版された聖書協会共同訳という新しい翻訳がありますが、これがまさにピスティスを「真実」と訳しているのです。これがこの新しい訳の1つの注目されている点です。「しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです」と訳しているのです。

 私たちが用いている新共同訳は、伝統的な訳です。「(人は)ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。」この場合は、私たちのために十字架で死んで下さった愛の主イエス様を、私たち人間の側が「信じる」ことの大切さを強調しています。聖書協会共同訳は「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。」「イエス・キリストの真実。」つまりイエス様の側が徹底的に真実に生きて下さって、神様に背いていた私たち罪人(つみびと)のひどい罪を全部背負って、あの辛い十字架で死んで、私たちの罪を贖って下さった、償いきって下さった。私たちの救いに必要なことは、イエス様が十字架で文字通り全て成し遂げて下さった。それは全てイエス様の功績であって、私たちがそこに加えることができるものは1つもない。1つもないのです。私たちがなすよい行いにも、少しは罪が混じっているので、私たちは「こんなに立派に生きました」と言って神の前に「私にはこんなに功績があります」と自慢することはできません。全く罪なき神の子イエス様が十字架で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫び、「成し遂げられた」「父よ、私の霊を御手にゆだねます」とおっしゃって十字架で死なれたイエス様が、私たちの罪を身代わりに100%背負いきって下さった。私たちの罪の赦し、私たちが天国に入れていただくために必要なことは、イエス様が全て成し遂げて下さった。これがイエス様の真実、十字架の真実です。私たちは頭を垂れて、イエス様を救い主と信じ、イエス様の真実による救いを、ただ受け取ることができるだけです。イエス様が十字架で成し遂げて下さった贖い・償いを正確に受け止めるときに、「キリストの真実」によって義とされる、という訳に、当然導かれるでしょう。

 もちろん私たちがそれを信じることが必要ですから、「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」という伝統的な訳も、もちろん正しいのです。整理すると「ピスティス」には2つの面があるのです。第一には、イエス様が十字架で成し遂げて下さった真実な救いです。この面を強調すると「キリストの真実」との訳になります。第二の面は、「そのキリストの真実を受け入れて信じる、人間の側の応答の信仰」です。この面を強調すると「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」という訳になります。両方とも正しい。ピスティスには両面がある。神の側、イエス様の側が成し遂げて下さった十字架による真実の救い。そして人間の側がそれに応答して信じる信仰。この両方を受け止めて初めてパウロが書く「ピスティス」(信仰、真実)の意味を十分に受け止めたことになります。プロテスタント教会が強調する「信仰義認」も、このピスティスの深い意味をよく受け止めて、「信仰義認」とは何かが、深く分かるようになる。つまり「信仰義認」とは「イエス様の十字架による真実な救い」と「へりくだってそれを信じる人間の側の応答の信仰」のセットによって、私たちが、罪人(つみびと)であっても、神の前に「義と認められる」「正しい者と認められる」「永遠の命を与えられる」ということです。

 パウロは16節の終わりで書きます。「律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです。」むしろ律法の代表モーセの十戒の1つ1つをよく学ぶなら、私たちがその1つをさえ完全には実行できないことが分かるのです。そして17節「もし私たちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人(つみびと)であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。」パウロを含め、私たちは皆罪人(つみびと)ですが、イエス様が罪人(つみびと)のために十字架に架かったのであれば、イエス様は罪を擁護したことにならないかという問いに対して、断じて違うとパウロは言います。イエス様は、私たち罪人(つみびと)に奉仕して下さったのであり、罪そのものをよしとされるわけではありません。その正反対で、イエス様は罪人(つみびと)を愛して下さるが、罪そのものを強く憎む方です。

 18節「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、私は自分で違反者であると証明することになります。」律法を守ることによって自分が万全に正しい者であることを証明しようとすれば、私はそれができない自分であることを暴露するこになると、パウロは正直に言います。19節前半「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。」「律法に対して死んだ」とは「律法の支配から解放された」ということです。律法を学べば学ぶほど、自分がいつも律法違反の罪を犯していることが分かり、ある意味絶望に向かいます。私たちは、イエス様の十字架による救いを受ける前は、律法に支配され、罪に支配され、罪の結果来る死によって支配されていたのです。

 そのパウロが、「私は律法に対しては律法によって死んだ」と言います。「律法に対して死んだ」とは、(それまで私たちが負けていた)律法の支配に勝利し、罪の支配に勝利し、死の支配に勝利したということです。全部イエス様の十字架と復活のお陰です。イエス様が、人類を代表して一人で闘って下さって得た勝利の美酒を、私たちが罪人(つみびと)が味わうことができるのです。大きな恵みです。

 「律法に対しては、律法によって死んだ。」「律法によって死んだ」とはどういうことでしょう。律法は、正しい掟ですから、律法の要求は、律法を守らない者が裁かれることです。その律法の要求は、100%満たされました。イエス様の十字架の死によってです。私たち人間が、神の尊い律法を全員で何万回も破って来ました。何億回、何兆倍、もっとでしょう。その全部の律法違反の罪を、イエス様が全部背負って十字架で、父なる神様の裁きを受けて、死なれました。律法の正しい要求は、イエス様の十字架の死によって完璧に満たされました。そのお陰で、律法は、イエス様を信じる私たちを支配する力を失ったのです。私たちはそれまで自力では、律法の支配に負け、罪の支配に負け、死の力に負けていました。自力では負け続けるだけです。しかしたった一人、神の子イエス様だけは、ただの一度も律法に違反せず、ただの一度も悪魔の誘惑に負けることがなかったのです。十字架の死に至るまで、ただの一度も律法に違反せず、ただの一度も悪魔の誘惑に負けて、最も小さい罪の1つさえ犯しませんでした。

 こうして罪と死と悪魔に完全に勝利した方がイエス様です。私たちはパウロと同じように「律法に対しては律法によって死にました。」イエス様のお陰で、律法と罪と死と悪魔の支配から解放された、救い出されたのです。「神に対して生きるために!」 救われた私たちは、感謝と喜びをもって神に対して生きて行く、喜んで進んで神様にお仕えする方向に進む、神様と隣人を喜んで愛してゆく、敵さえも愛してゆく。聖霊に大いに助けていただいて、です。これこそ、本当の意味で自由な生き方です。もはや罪と悪魔の奴隷にならない生き方です。

 19節後半と20節「私はキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉おいて生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」これは洗礼と深く関わる御言葉です。ローマの信徒への手紙6章4節以下に、こうあります。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」古い自分はイエス様と共に十字架につけられて死んだ。今はイエス・キリストの霊である聖霊が私たちの中に生きて働いておられます。

 最後の21節「私は、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」「私は、神の恵みを無にはしません。」これはパウロの決意です。この「神の恵み」は、私たちのために十字架で死んで下さったイエス様のことです。これは巨大な恵みです。この恵みを忘れて、十戒を自力で守ることで救われるという間違った考えに囚われてはいけません。それはイエス様の十字架の愛を無にすること、無駄にすることです。とんでもないことです。イエス様の十字架の贖いだけが、私たちの罪を赦す力、私たちに永遠の命を与える力です。イエス様の十字架の愛のほかに、私たちに天国をもたらす力は、この宇宙に1つもないのです。パウロはこの手紙の締めくくりの辺りで書きます。「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」このイエス様の十字架の素晴らしい愛の前には、他の全てが輝きを失います。どの国かがオリンピックで金メダルをたくさん獲得することがあっても、それはそれなりに素晴らしい物ではありますが、イエス様の十字架の愛の方が、はるかに尊く輝いています。私たちも、神の恵みを無にしたり、キリストの十字架の死を無意味にすることがあってはなりません。イエス様の十字架の犠牲の愛に、毎日感謝し、どこまでも感謝する、そのような生涯を生き切りたいものです。   

(祈り)聖名讃美。4度目の緊急事態宣言。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神に立ち帰るように。経済困難の方々に助けを。私たちの教会と身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々に聖霊を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に、神様の守りを。ミャンマー、アフガニスタンに平和を。 御名により、アーメン。