日本キリスト教団 東久留米教会

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2024-07-20 23:05:43(土)
「神に望みを置く人は、新たな力を得る」 2024年7月21日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第72回)
順序:招詞 ローマ8:39~39,頌栄85、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・351、イザヤ書40:27~31、祈祷、説教、祈祷、讃美歌149、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(イザヤ書40:27~31) ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。


(説教) 本日は、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第72回)です。説教題は「神に望みを置く人は、新たな力を得る」です。聖書は、旧約聖書のイザヤ書40章27~31節です。

 この個所は比較的有名だと思います。イザヤ書は66章もある長い書物ですが、1章から39章までで一旦区切られ、40章から新しい内容がスタートすると言えます。40章の1~2節には、このように書かれています。「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。」旧約聖書の神の民は、イスラエル民族です。彼らは、神様に愛されている民です。神様はイスラエルの民を愛し、は神様を愛して、モーセの十戒という十の戒めを守る契約に入っていました。しかしイスラエルの民が十戒を守らないようになり、特に一番大切な第一の戒めを守らないようになってゆきました。第一の戒めはこうです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」この戒めを守らず、他の神々と呼ばれるもの(偽物の神)を拝み礼拝する人々が増えてゆきました。これを偶像礼拝と呼びます。真の神様への裏切りです。

 これは真の神様への裏切りでしたので、神様も大変悲しまれ、イスラエルの民に考え直して真の神様に立ち帰るように、真の神様のみを愛して礼拝するように、くり返し訴えたのですが、多くの人々が聞き入れなかったので、神様がとうとう断を下され、イスラエルの首都エルサレムはバビロン帝国の攻撃を受けて滅び、神殿も破壊され、多くのイスラエル人が捕囚という形でバビロンに連行されたのです。それは神様からの裁きでした。これをバビロン捕囚と呼びます。バビロン捕囚のことは高校の世界史の教科書にも出ていた記憶があります。バビロン捕囚は、ほぼ半世紀続きました。そしてイスラエルの民は故郷エルサレムに帰還することが許されたのです。神様の怒りと裁きの時が終わり、イスラエルの民に神様の愛と赦しと慰めが注がれる時が来ました。「慰めよ、わたしの民(イスラエル)を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。」罪のすべてに倍する報いとは、罪のすべてに倍する神様の厳しい裁きを受けたの意味であるようです。

 そして17節には、「主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる」とあり、どんな巨大な帝国も、偉大な神の前には無に等しいことが示されます。26節には、この天地万物、宇宙とその中のすべてを創造なさった神様の偉大さが語られます。「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それえらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。」

 その神様が、バビロン捕囚で弱ったイスラエルの民を慰め、励ますのが本日のイザヤ書40章27節以下です。今は新約聖書の時代であり、イエス・キリストを救い主と信じるクリスチャンも神の民ですから、神様はこの御言葉によって私たちをも慰め、励まして下さいます。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。私の道は主に隠されている、と。私の裁きは神に忘れられた。」神様は私をお忘れになったに違いない、もう神様に助けてはいただけない。そう意気消沈している民に、預言者(神様の御言葉を預かって語る人)が、力強く語ります。「あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主はとこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」読むだけで、励ましを受ける聖句です。

 この御言葉に関連して、一人のスコットランド人宣教師の話をしようと思います。エリック・リデル(1902~1945)という宣教師です。1981年に公開された映画『炎のランナー』の主人公の一人です。実話に基づいた映画です。エリックは宣教師の息子として中国に生まれました。イギリスのケンブリッジ大学に入りますが、いずれは宣教師として中国に戻るつもりです。神様から走る才能を与えられ、走ることにも喜びを感じています。そんな兄エリックに妹ジェニーは不満を抱きます。走ることはやめにして、伝道・宣教一本に生きてほしいという、兄への期待です。しかし兄は、「僕の使命は伝道だが、神様は僕に走る才能をも与えて下さった。僕は、神様の栄光のために走る」と言います。エリックの才能は本物で、イギリス代表として1924年のパリオリンピックに出場することになります。今年もパリでオリンピックがあるのですね。エリック・リデルが出場したのは、今からちょうど100年前のパリオリンピックです。

 もう一人ハロルドというユダヤ人のケンブリッジ大学性も共にパリオリンピックに出場します。二人が出場する陸上100m走予選が、日曜日に行われることに決まりました。エリックは驚きました。クリスチャンであり宣教師であるエリックにとって、日曜日は礼拝の日です。モーセの十戒の第四の戒めです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8~11節)。旧約聖書の安息日は土曜日ですが、クリスチャンにとってはイエス様が復活された日曜日が安息日に等しい礼拝の日です。エリックにとって、神の絶対の命令です。彼は金メダルを取ることができる100m走を棄権すると言い出します。驚いたイギリス選手団のトップやイギリスの王子が、「ここは信仰よりも愛国心を示す時だ」と説得しても応じません。すると仲間の選手が助け舟を出し、(他の種目は既に開始されていた)「自分は既に別の種目で銀メダルを得たので、自分が出るはずの400m走の出場権をエリックに譲るというのです。それでよいことに収まりました(今では、この方法は無理かもしれません)。

 ユダヤ人のハロルドにとっては、安息日は土曜日なので、日曜日の100m走出場は、何の問題もありません。彼はユダヤ人への差別を打ち破るために、100mでよい成績を収めたいと意気込んでいました。ハロルドにはハロルドの闘いがありました。そして見事金メダルを獲得し、ユダヤ人への偏見と差別に一矢報いました。エリックは、100m走予選の時間帯に、教会の礼拝で聖書の言葉を朗読します。「主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる」(イザヤ書40章17節)。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(同31節)。大国も、神の前には無に等しい。エリックにとって神様への礼拝の方が、オリンピック金メダルよりも、はるかに重要でした。そしてエリックは、別の日の400m走に出ます。専門外ですから、普通は勝てるはずがありません。レース前に(私の記憶が正しければ)ライバルのアメリカ選手が、エリックに紙を渡します。旧約聖書のサムエル記上2章30節の御言葉が書かれていました。「私(神様)を重んずる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んずる。」渡した選手は、エリックが礼拝を優先して100mの金メダルをあきらめたことを知ってエリックを敬意を払い、エリックを励ましたのでしょう。

 そしてエリックは何と400m走で金メダルを獲得します。映画では確かスローモーションで描かれ、エリックが不思議な力を得て、次第にトップに立ってゆく様子を描いていたと思います。まさに「主に望みを置く人は、新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」という様子なのです。「私(神様)を重んずる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んずる」の御言葉の通り、100m走金メダルよりも日曜礼拝を重んじたエリック・リデルを神様が祝福して下さり、400m走で予想外の金メダルを与えられたのでした。私はキリスト教の名がつく高校に通っていた時に、高校でこの映画を見たのですが、当時はこの映画の意味が、全く分かりませんでした。その後随分たって、東久留米教会に着任させていただいて暫く後に、教会員の方からこの『炎のランナー』のDVDをお借りして見て、ようやくこの映画の深い信仰が分かったのです。

 エリックの人生には続きがあります。パリオリンピックのときは21才か22才と思われます。そして彼は23才で中国の天津に行き、中国の子どもたちにキリスト教の人格教育を行います。そして中国は日本との戦争に入ってしまいます。エリックは結婚して二人の娘を授かりますが、1941年12月8日に太平洋戦争が勃発、エリックは妻子を妻の故郷カナダに帰します。「すぐまた会える」と言って別れますが、エリックは他の英米人と共に日本軍が造った収容所に送られます。劣悪な環境の中で、エリックは共に囚われた人々を励まし、収容所内の子どもたちに勉強を教え、寒い中、一緒になって走って暖まり、収容所内の人々の心の支えになります。エリックの人生の後半のことは、中国で作られた映画『最後のランナー』で描かれており、私はDVDを買って見ました。映画の本来の題は『鷲の翼』ですから、イザヤ書40章31節から取っていることは明らかです。

 エリックがオリンピック金メダリストと知った日本軍の将校が、彼に走るレースを申し出ます。将校はエリックによい食事を渡して、彼の体力をよくしてからレースしようと考えていました。ところがエリックが、そのよい食事を収容所内の仲間の大人や子どもたちと分け合っていたので、彼の体力は特に上がらず、レースは将校が勝ちます。エリックがよい食事を他の人々と分け合っていたと知って将校は怒り、エリックと一人の青年を罰として穴倉(営倉)に入れます。収容所にたまりかねた青年は穴倉から出た後に、非常手段で脱出します。糞尿をためた桶に入り込んで、それが外に運び出される時に、桶に隠れて脱出することに成功します。見張りの兵隊も糞尿桶には近寄りたがらず、チェックが甘いことを衝いたのです。エリックは収容所内にとどまり、栄養失調になります。病気に苦しむ仲間もいます。仲間のために薬を渡してもらうために、エリックから日本人将校に再度、走るレースを申し入れます。エリックが勝ったら、仲間に薬を与えてもらう約束です。頭痛もひどく、走れるような体調でないのに、仲間たちの祈りと讃美歌の中、寒い中、最後の力を振り絞るように走ると、神様の助けを得て勝つのです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」そして仲間に薬が与えられた。自分のためではなく、その仲間のために必死に走ったのですね。

 エリックに収容所から出てよい許可が出ました。ところが彼はその権利を他人に譲ってしまいます。収容所の中に若い女性がいました。同じく収容所にいた夫が亡くなったばかりでした。妊娠していました。エリックはその女性に、収容所を出る権利を譲り渡し、自分は収容所にとどまります。カナダの妻に手紙を書き、「君が僕の立場でも、そうしただろう」と書き送りました。エリックは、敵である日本の軍人たちに、神様の恵みを祈りました。敵をも愛したのです。イエス様がマタイ福音書5章(山上の説教)で語られた通りを行いました。「あなた方も聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている(イスラエルの社会で)。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」まさにイエス・キリストに従う生涯を生ききりました。エリックは1945年3月に、収容所内で天に召されます。日本軍の収容所で亡くなったので、日本人としては辛く感じますが、映画は日本人への配慮もしています。上官の命令に抵抗して捕虜たちに味方する日本兵をも登場させています。映画は実話を元に作られています。映画が作られた2016年の時点で、エリック・リデルの二人の娘さんは健在であるそうです。宣教師として生き、神様から与えられた走る才能をも、神様と隣人のために用いた、イエス・キリストに従った43年間の尊い人生です。

 私の神学校の同級生増田将平牧師が、先週火曜日の早朝に天に召されました。2年間闘病していたのです。一昨日、千代田区の富士見町教会で葬儀が執り行われ、私も参列して参りました。大変多くの参列者で、驚きました。確かに多くの方々に愛されていました。私も闘病を聞いていたので、癒されるように毎日お祈りしておりました。多くの方々の祈りが聞かれて、増田牧師はもう退院できないと思われたところから、何回か退院し、医師を驚かせたそうです。その意味で祈りは聞かれてきたと思うのですが、先週月曜日に教会の牧師館から救急搬送され、家族が歌う讃美歌を聞きながら、静かに息を引き取って天国に凱旋しました。同級生ですが私より5才も若いのです。皆が問うていました。「神様なぜですか? 早すぎます。」 この22年間は東京の青山教会の牧師として仕え、青年伝道に大いに用いられました。増田牧師は、伝道者の生き方と死に方を身をもって示して下さいました。牧師の家庭に生まれ、ご両親の願いは、「平和の大将になってほしい」だったので、「将平」を名付けられました。その通りの平和の人でしたね。高校卒業と同時にまっすぐに神学校に入りました。

 この教会にも5、6年前に来て下さいました。青山教会も会堂建築を考える必要があるので、この会堂を見せてほしいと言われ、青山教会の会堂建築委員の方々と訪問して下さいました。最近の説教で詩編27編を引用したそうです。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」病の中でも、固い意志を貫いたそうです。緩和ケア病棟を勧められても、断ったそうです。最後まで希望をもって癒されるための治療を望み、またできるだけ長く教会の礼拝で、主を賛美したかったようです。私は春にお見舞いのはがきを出したところ、メールで返事が来て、「数日後のペンテコステ礼拝では、座って説教をし、座って聖餐式の司式をします」と書いてあり、それが私との最後のコミュニケーションになりました。最後の礼拝説教は6月30日(日)でした。しかし本人は7月21日(日)つまり今日の礼拝説教も行うつもりで、題まで決めて、辛い体調の中、その準備にも入っていたそうです。その題は「教会につながる」だったと記憶しています。「教会につながることが大切!」と語るつもりだったのでしょう。増田牧師は神様と神様の教会と教会員を愛していました。本当に最後まで前を向いていた。暫く前に息子さんに、「死ぬことは怖くないの」と聞かれて、「怖くないよ」と答えていたそうです。そのような彼の全く素直な信仰は、神様からのプレゼントだったと思います。「体は弱っているが、心は燃えています!」とも語っていたそうです。

 今日はあちらこちらの教会で、この葬儀のことが語られているのではないかと思います。1つの聖書の御言葉を思い出しました。ローマの信徒への手紙14章7~8節です。「私たちの中には、誰一人自分のために生きる人はなく、誰一人自分のために死ぬ人もいません。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」エリック・リデル宣教師も、増田牧師も、まさにこの御言葉の通りに生きたと感じます。私たちもまたこの方々の信仰に心を打たれつつ、主イエス・キリストに従って参りましょう。アーメン。

2024-07-14 1:30:28()
「この子の名はヨハネ」 2024年7月14日(日)礼拝(聖霊降臨節第9主日)
順序:招詞 ローマ8:39~39,頌栄16(1節)、主の祈り,交読詩編131、使徒信条、讃美歌21・287、マラキ書3:23~24、ルカによる福音書1:57~80、祈祷、説教、祈祷、讃美歌474、献金、頌栄27、祝祷。 

(マラキ書3:23~24) 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。

(ルカによる福音書1:57~80) さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第9主日の礼拝です。説教題は「この子の名はヨハネ」です。新約聖書は、ルカによる福音書1章57~80節です。

 高齢妊娠のエリサベトの元に来ていたマリアが、約3ヶ月滞在して、ナザレに帰りました。そして時が満ちて、エリサベトは男の子を産みました。天使ガブリエルが夫のザカリアに告げたとおりになりました。近所の女性たちも出産を助けに来たのではないかと思います。58節「近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。」近所は、祝福に包まれたことでしょう。59節「八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。」割礼は、神様との重要な契約です。イエス様も割礼を受けたのです。しかしイエス様の十字架の死と復活による新しい契約に生きる私たちには、割礼は必要ありません。私たちには割礼ではなく、洗礼が与えられています。しかし旧約の時代には、割礼が極めて重要でした。出エジプト記17章で、神様がこうおっしゃっています。「いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。それによって、私の契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。私の契約を破ったからである。」

 これほど重要だった割礼なので、当然ヨハネも受けました。割礼の日が名付けの日でもあったようで、周囲の人々は彼らの常識に従って、父親ザカリアと同じ名前にしようとしました。ところが母エリサベトが反対して、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言います。夫ザカリアが天使から「その子をヨハネと名付けなさい」と言われていたからです。ヨハネという名の意味は「主は恵み深い」であるそうです。ザカリアは口が利けなくなっていたので、どのようにしてそれをエリサベトに伝えたのかと疑問を持つ人もいたそうですが、おそらく筆談で伝えたのでしょう。ヨハネと名付けると聞いた人々は驚いて、「あなたの親類には、そういう名のついた人は誰もいない」と言い、父親のザカリアに、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねました。ザカリアは耳も聞こえなかったのでしょうか。父親は字を書く板を出させて、『この子の名はヨハネ』と書いたので、人々は皆驚きました。ザカリアもまた、当時の常識と異なり、親類にある名前と別の名前をつけると宣言したので、周囲の人々は意外に感じ、驚きました。

 しかし神様は、ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書いたことを喜ばれました。「その子をヨハネと名付けなさい」と天使を通して語られた神の御心に、ザカリアが従ったからです。それで神様は直ちに、ザカリアの口を利けるようにして下さいました。神様はきっと、ザカリアに聖霊を豊かに注いで下さったのだと思います。64節「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」ザカリアは口が利けなかった10ヶ月間、自分の不信仰の罪を悔い改めたと思います。最初天使に、子どもの誕生を予告されたとき、「私は老人ですし、妻も年をとっています」と言って強く疑った不信仰の罪を、深く悔い改めたはずです。今は神の御心に服従して「その子の名はヨハネ」と書いたために、不信仰の罪を赦され、聖霊に満たされて、神への賛美を語り始めました。私たちも、ザカリアのように聖霊に満たされて、神への賛美を歌いたいものです。それにはまず、私たちが沈黙して聖書の御言葉を読み、神様の語り掛けを集中して聴き取るように努める必要があります。そうして初めて賛美する言葉、語るべき言葉も上から与えられるに違いありません。

 旧約聖書のハバクク書2章20節が思い起こされます。「主は、その聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。」詩編46編10節も思い出されます。「力を捨てよ、知れ、私は神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」文語訳ではこうです。「汝ら静まりて、我の神たるを知れ。」ザカリアも10ヶ月間も沈黙の時を与えられ、聖書をよく読み、よく祈って、神様からのメッセージを心に豊かに蓄えたと思うのです。

 少し前の礼拝で、韓国人のテノール歌手の方のことをお話しましたが、日本人のゴスペルシンガー・森祐理さんという方の証しも、読んだことがあります(『クリスチャン新聞』による)。細かい点は覚えていないのですが、クリスチャンになられ、歌手を目指して努力しておられたとき(あるいは既に歌手になっておられたかもしれませんが)、ある時、喉を痛めて声が出なくなり、歌えなくなったというのです。芸大を卒業して、NHKの歌のお姉さんになり、ミュージカルの主役の座を射止めたときに、喉を痛めて歌えなくなりました。その時「私の声を返して下さい」と神様に訴えて、はっと気づいたのは「私の声じゃない。」喉も美しい声も、神様からのプレゼント、神様からの預かりもの。それを自分の幸せのためにばかり使おうとしていた罪に気づいて、悔い改めに導かれました。

 その頃、スイスに行く機会があり、そこで歌うように依頼されました。その時、神様の声が聞こえたそうです。「私が歌う。」アメイジンググレイスを歌いながら、「私を道具として、神様が歌っておられる」と感じました。神様が主役であられ、自分はその道具だ。「私を讃美の道具にならせて下さい」との祈りに導かれ、教会などの福音コンサートで讃美する福音歌手になられました。その後、1995年の阪神淡路大震災で、弟さんを亡くす悲しい経験をされました。その経験を経て、災害が起こるたびに被災地に足を運び、讃美歌等の歌を歌って、慰めと希望を届ける奉仕を続けておられます。神様が歌われるとは、森さんを含むすべてのクリスチャンの中に生きておられるイエス・キリストが歌われる、あるいは聖霊なる神様が歌われる、森さんの声を通して、ということでしょう。ザカリアも、口が利けなかったのですが、彼の罪が赦されると口が開き、舌はほどけ、神を賛美し始めたのです。ザカリアが讃美したのですが、ザカリアが聖霊に満たされ、ザカリアの口を通して、聖霊なる神様ご自身が讃美なさったとも言えると思います。ローマの信徒への手紙8章26節のパウロの言葉が思い出されます。「同様に、霊(聖霊)も弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊(聖霊)自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるからです。」私たちは、聖霊に執り成され、聖霊に導かれて祈ります。ザカリアも、聖霊に満たされ、聖霊に執り成されて、父なる神様を讃美したに違いありません。森祐理さんも祈りながら、聖霊に助けられて讃美しておられるに違いありません。 辻先生。

 ヨハネ誕生のいきさつは、地域の山里の評判になりました。常識のザカリアという名前でなくヨハネと命名されたこと、「その名はヨハネ」と書いたとたんに、父親のザカリアが口が利けるように戻り、聖なる神を賛美したこと。66節「聞いた人々は皆これを心に留め、『いったい。この子はどんな人になるのだろうか』と言った。この子には主の力が及んでいたのである。」ふつうの子どもではない。神様のために働く聖なる人ではないか。人々はこのような強い予感を抱いたのです。

 次の小見出しは、「ザカリアの預言」です。67節「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。『ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。』」ザカリアは元来祭司ですが、ある人は、ザカリアはここでは預言者になっていると言ったそうです(預言とは、真の神様の御言葉を預かって語ること)。「ほめたたえよ」がラテン語の聖書でベネディクトゥスという言葉なので、このザカリアの讃美は教会の歴史で、ベネディクトゥスと呼ばれてきました。「ほめたたえよ、イスラエルの亜神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」「訪れた」という言葉を、口語訳聖書等は「顧みた」と訳しています。同じ言葉をこのルカによる福音書は7章で「心にかけた」と訳しています。いずれにしても、神様が小さき民イスラエルを見捨てることなく、愛して救って下さることを意味しています。神様は私たち一人一人皆を見捨てることなく、顧みて心にかけていて下さいます。私には、以前ホームレスで、今は行政が提供する宿舎に住んでいる知人がいるのですが、その方が最近おっしゃったことは、役所によって携帯電話を持たされていて、毎日安否確認の電話が役所からかかってくるというのです。その方の住まいはおそらく豊島区ですが、市役所の職員も偉いなと思いました。何人にも電話しているのかもしれません。神様も同じ思いで、一人一人全員を心にかけていて下さいます。

 69節以下「我らのために救いの角(力)を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。」救いの角とは、救い主イエス・キリストを指します。その救い主が、預言者たちが預言したとおりに、ダビデ王の子孫から生まれる。マリアとヨセフ(ダビデの子孫)夫婦の長男となる。神様がついに約束を果たして下さる。71節「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていて下さる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える。」

 ダビデに続いて、もっと前のイスラエルの先祖アブラハムの名が登場します。神様がアブラハムに立てられた誓い、聖なる契約とは、創世記12章等の御言葉と思います。「私はあなた(アブラハム)を大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」「あなたの子孫にこの土地を与える。」イエス様の使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙3章によれば、この子孫とはイエス・キリストです。「あなたの子孫にこの土地を与える。」この場合の土地は、祝福のシンボルです。キリストに与えられている祝福は天国であり、永遠の命です。「地上の氏族(異邦人を含む)はすべて、あなた(アブラハム)によって祝福に入る。」そのアブラハムの真の子孫としてイエス・キリストが誕生し、イエス・キリストが私たち罪人(つみびと)に罪の赦しと復活の命をもたらし、キリストを信じる全てのイスラエル人と異邦人に、永遠の命を与えて下さいます。こうして。アブラハムに与えられた祝福が、その子孫イエス様を通して、イエス様を信じる世界のすべての民族に広がる。これが新約聖書のメッセージ、福音です。

 「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯清く正しく。」
旧約聖書のイスラエルの民は、様々な外敵に苦しめられ、神様によって外敵から救われて来ました。エジプト、バビロン帝国等に苦しめられ、最終的には神の助けによって、エジプトやバビロンから解放されてきました。しかし、神様の民(それはイスラエルと私たちキリスト者)に真の敵は、人間ではなく悪魔です。イエス様は悪魔と戦って勝利されました。私たちはイエス様の力によって悪魔から救われました。そして聖霊に満たされて、恐れなく主に仕える、真の神様を礼拝致します。

 76節以下「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」「主に先立って行き、その道を整え。」ここは本日の旧約聖書・マラキ書3章と関わるでしょう。「見よ、私(神)は、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」ヨハネは、救い主イエス様が活動を始めるに先立って働く者、旧約の偉大な預言者エリヤの再来なのですね。そして「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」これは、世の真の光イエス・キリストの誕生を預言する御言葉と思います。

 今の世界でも、やはりイエス・キリストこそが、あけぼのの光です。今も、「暗闇と死の陰に座している方々」は、世界に多くおられると思います。地震の被災地、戦場に生きる方々。戦争の場合は、侵略する側が悪いことは確かです。世界が平和になるためには、皆がイエス・キリストの精神で生きることが必要だと思うのです。「敵を愛しなさい。」「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる。」「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(これはパウロの言葉だが、イエス様の精神と思う)。世界中の人々が皆、クリスチャンになり、イエス様の御言葉を実行するなら、あらゆる戦争は終わり、世界は平和になります。と考えると、十字架と復活のイエス・キリストを宣べ伝える伝道こそ、世界平和への道でもあると言えます。このイエス・キリストをご一緒に宣べ伝えて参りたいのです。アーメン。


2024-07-09 9:30:15(火)
伝道メッセージ(7月分)石田真一郎(市内の保育園の『おたより』に掲載した文章)
 「(神は)国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(旧約聖書・イザヤ書2章4節)。

 『地雷ではなく花をください』(自由国民社)という絵本があります。私は続編を買いました。主人公のサニー(ワンちゃん)が、今回はカンボジアに行きます。「1970年からの長い紛争で、いたるところに地雷が埋められています。大きな樹、背の高い草。道の両側に白い杭が続きます。サニーちゃん、ここから先は地雷原、道の真ん中を歩いてね。おじさんたちがていねいに、地雷をさがします。作業はますます慎重に。強い陽ざしと湿度と緊張感。地雷です。『離れてくださーい。』おおきな爆発音。よかった、これで一人の人が助かった。おじさんたちは、汗をぬぐい、また作業です。大地を取り戻すため。故郷を取り戻すため。」

 ある資料によると、2021年の世界の地雷・不発弾等の被害者数は5544名、除去された対人地雷は11万7000個以上です。同年に最も多くの面積を除去したのはカンボジアとクロアチアで、合計78㎢で7500個以上を除去したそうです。危険を伴う作業をなさる方々に、頭が下がります。

 三鷹市の国際キリスト教大学(ICU)には、約600mの非常に見事な100本以上の桜並木があります。これはアメリカの諸教会が、広島・長崎への原爆投下による多数の一般市民の悲劇的死に心を痛め悔恨し、日本復興を祈ってなされた献金に加えて贈られた桜です。私は隣接する高校や大学を卒業したので、この桜並木をよく通りましたが、最近この経緯を知り感動を覚えました。私の祖父の兄も広島の原爆で亡くなったからです。ICUの本館には、上記の聖書の言葉が記されています。

 世界の戦争はすぐやめねばなりません。今の日本では憲法九条(平和憲法)を無視する政策(沖縄周辺へのミサイル多数配備等、防衛費大幅増加)が進められ、ある人は「憲法九条は死んだ」と言い、タモリさんは「今は新しい戦前」と言いました。とんでもないことです。私は昨年秋、「首相官邸前でゴスペル(讃美歌)を歌う会」に参加しました。平和を愛する他のクリスチャンたちと日本の軍拡に反対し、アジアと世界の平和を祈って歌いまし
た。「もろびとこぞりて」(クリスマスの讃美歌、平和の主イエス様をたたえる)、「We Shall Overcome」(キング牧師たちが黒人差別反対のために歌った讃美歌)です。道行く人々が不思議そうに見ていました。岸田首相に届くことを祈ります。私は東久留米の子どもたちが皆、平和と愛と正義を愛する人になることを祈るのです。アーメン(「真実に」)。

2024-07-07 1:44:41()
「わたしの魂は主をあがめます」 2024年7月7日(日)礼拝
順序:招詞 ローマ8:39~39,頌栄29、主の祈り,交読詩編130、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・401、サムエル記上2:1~11、ルカによる福音書1:39~56、祈祷、説教、祈祷、讃美歌175、聖餐式(讃美歌21・79)、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(サムエル記上2:21~11) ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」エルカナはラマの家に帰った。幼子は祭司エリのもとにとどまって、主に仕えた。

(ルカによる福音書1:39~56) そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
 そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第8主日の礼拝です。説教題は「わたしの魂は主をあがめます」です。新約聖書は、ルカによる福音書1章39~56節です。
 
 この直前で、マリアがすばらしい信仰の言葉を述べました。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そして本日の最初の39,40節です。「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」そのユダの町とは、エルサレムからほど近いエン・カレム(ぶどう園の泉の意味)という町だと言われています。ナザレから110キロ。マリアがエリサベトの元に着いたときには、マリアは既に妊娠していました。42節のエリサベトの言葉により、それが分かります。挨拶、ユダヤ人の挨拶は、訪問先に平和を祈ることです。マリアもエリサベトに「シャローム(平和)があるように」と挨拶したと思います。マリアは天使ガブリエルに聞いたのです。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。~もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」それでマリアは親類のエリサベトに会いに行きました。奇跡的な妊娠の先輩のエリサベトに話を聞きにいったのだと思います。どうしても会って、語り合い、祈り合いたかったのです。

 旧約聖書には、神の民イスラエルの女性が、妊娠に苦労する場面が目立ちます。よく知られているのは信仰の父アブラハム(最初の名はアブラム)とその妻サラ(最初の名はサライ)の場合です。アブラハムが何歳でサラと結婚したかはっきりしませんが、アブラハムは75歳の時にハランという場所を出発し、神様の約束の地カナン(今のイスラエル)に入り、神がアブラハムに約束されます。「あなたの子孫にこの土地を与える。」ということは子孫が生まれるはずですが、いわゆる実の子が神生まれないままアブラハムは99歳になります。神様と天使が現れて、「来年の今ごろ、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」と言います。サラはひそかに笑います。それは不信仰の罪です。そして本当に1年後に100歳のアブラハムと90歳のサラの間に長男イサクが生まれたのです。神の約束は必ず実現するのです。

 そのイサクも苦労します。イサクは40歳でリベカと結婚します。ところがなかなか子供が産まれません。イサクは、妻のために神様に祈ります。その祈りは神に受け入れられます。イサクが60歳のとき、エサウとヤコブの双子が生まれます。20年間祈ったと思うのです。なぜ神の民イスラエルの偉大な先祖アブラハム・サラ夫婦、イサク・リベカ夫婦が、この同じような苦労を与えられたのでしょうか。そこには、神様の意図があったと思われます。神様だけが新しい命を産み出すことがおできになることを分からせるためです。どんなことでもスイスイ進むと、私たち人間は当たり前だと思い、あまり感謝しません。しかし思い通りにいかない、失敗が起こると、私たちは初めて自分を反省したり、なぜこうなってしまったのかと原因を深く考え、悔い改めて神様に真剣に祈るようになります。神様が、私たちを敢えて苦労させることがあると思います。アブラハム・サラ夫婦も、イサク・リベカ夫婦も苦労しました。そして、神様だけが、新しい命を産む出すことができるとの真実を、深く悟るようになりました。現代を生きる私たちも、このことを深く悟る必要があります。卵子と精子が結合して受精が起こっただけでは、命になりません。創世記2章7節に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった」と書かれています。神様が命の息を吹き込んで下さらないと、子どもは生まれないのです。人間が子どもを造ることはできないことを、よく知る必要があります。新しい命を造ることは、神様にしかおできになりません。

 100才のアブラハムと90才のサラの間に男の子イサクが生まれたことは、まさに神様の奇跡です。同じような奇跡がザカリアとエリサベトの夫婦にも起こりました。ザカリアとエリサベトは年をとっていたと言っても、アブラハムとサラほどではなく、おそらく50代か60代だったと思いますが、それでも当時の人間の常識では起こり得ない出産でした。そして神様は、もっと大きな奇跡をマリアの上に起こされます。まだいいなずけのヨセフと共に暮らしていないマリアの妊娠です。アブラハムとサラに起こった奇跡も、ザカリアとエリサベトに起こった奇跡も、マリアに起こる奇跡の準備の役割を果たしていると言えます。アブラハムとサラは、マリアより2000年近く昔の人ですが、両者は同じ神様によってつながっているのです。

 ルカに戻り、41節以下。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様が私の所に来て下さるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。』」エリサベトとマリアが会い、胎児のヨハネ(まだ名前はついていない)とイエス様(同)も会っていると言えます。麗しい場面。エリサベトとヨハネが旧約聖書の時代を代表し、マリアとイエス様が新約聖書の時代を代表し、旧約の時代から新約の時代への移行が進みます。詩編133編1節。

 この場面は、旧約聖書のサムエル記下6章で、ダビデ王が神の聖なる箱(モーセの十戒の2枚の石の板が入っている)をエルサレムに迎え入れた場面と共通性があると言われます。この直前にダビデは一度、失敗しています。ダビデの町と呼ばれたエルサレムにその聖なる箱を迎え入れようとしたとき、箱を運んでいた牛がよろめいたので、ウザという部下が箱が落ちないように押さえました。ところが神が怒りを発し、ウザは聖なる神に打たれて死んだのです。おそらく礼拝のために奉仕するレビ人でも祭司でもないウザが、身を清めもしないで、善意とはいえとっさに聖なる箱を触ったことが死を招いたのです。聖なるものに近づく、触れることは危険を伴うのです。ウザがレビ人、祭司であれば撃たれて死ぬことはなかったはずです。レビ人でも祭司でもない一般人のウザが、聖なる箱に直に触れたことが死を招きました。ダビデ王は恐れ、神の箱をエルサレムに迎え入れることを中止しました。しかし箱が一時置かれた家の者一同を、神様が祝福されました。神様には両面がおありで、罪を裁く聖なる面と、私たち人間を祝福して下さる愛の面です。神の祝福の愛の面が発揮され始めたことを確かめて、ダビデ王は前の失敗を繰り返さないように注意しながら、改めて神の聖なる箱をエルサレムに迎え入れました。神様の前で、ダビデは喜んで、力の限りおどりました。神の箱を迎え入れることは、神様ご自身をお迎えするに等しい最高に光栄なことですし、慎重に行った今回は事故や問題が起こらなかったので、ダビデ王は大いに喜んで、力の限りおどりました。この場面が、エリサベトがマリアを迎えた場面に似ています。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされれて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様(既に妊娠していた)も祝福されています。私の主(イエス・キリスト)のお母様が私のところに来て下さるとは、どういうわけでしょう(何という光栄でしょう)。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。』」マリアとその胎児イエス様が来てくれたことは、エリサベトとその胎児ヨハネにとって、躍るほどの大きな喜びです。ダビデ王が、神の箱を迎えて力の限りおどったのと同じ喜びです。

 次の小見出しが、「マリアの賛歌」です。マリアも聖霊に満たされていたに違いありません。マリアは言います。歌ったという方がよいかもしれません。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」この参加は、教会の伝統でマグニフィカート(ラテン語)で呼ばれて来ました。これは「私の魂は主をあがめ」の「あがめる」から来ています。「あがめる」を直訳すると「大きくする」です。「拡大する」とも言えます。ラテン語の聖書では「あがめ(マグニフィカート)」の言葉が冒頭にあるので、このマリアの賛歌がマグニフィカートと呼ばれるようになりました。マリアは大変素直に、神様を讃美しています。神様を讃美することは、最も謙遜な行為です。「私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」マリアはガリラヤの無名の少女です。このマリアが時代と国と超えて、世界的に有名になるなどと、身近な誰も予想できなかったでしょう。神様がマリアを救い主イエス様の母として選ばれました。

 私は、どうしてもコリントの信徒への手紙(一)1章26節以下を、連想致します。「兄弟たち、あなた方が召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが神は、知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれひとり、神の前で誇ることがないようにするためです。」そして「誇る者は主を誇れ」とあり、まさにその通りにマリアは救い主である神様を喜びたたえたのです。

 ルカに戻り、48節後半「今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう。」まさにその通り、マリアさんは救い主イエスを産んだ母親として、世界中のクリスチャンたちに敬愛されるようになりました。マリアは続けます。「力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく(永遠に)、主を畏れる者に及びます。」旧約聖書の箴言1章7節の御言葉が思い出されます。「主を畏れることは知恵の初め。」神を畏れ敬うことの大切さが述べられます。ダビデ王が神の箱をエルサレムに迎え入れようとして最初失敗したとき、神の箱に触れたウザには、神を畏れ敬う気持ちが欠けていたのでしょう。リーダーであるダビデ王にも欠けていたので、あのようなウザの死が起こったのです。

 51節「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ。」神様は、大国エジプトを打ち破ってイスラエルの民を脱出させて下さいました。ナポレオンは滅び、ヒットラーも滅び、豊臣秀吉も滅びました。そのうちプーチンも滅びるでしょう。ダニエル書には、次のように書かれています。「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれを誰にでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできる。」マリアの賛歌は、神による革命のような逆転が起こると歌っているのですね。このマリアの賛歌は、多くの場合はクリスマス前の礼拝で読まれます。そこで「クリスマス革命」という言葉があると知りました。クリスマスに私たちは、私たちを罪から救うためにイエス様を地上に誕生させて下さる神の偉大な愛に、触れます。私たちは毎年それだけで終わってはいけないでしょう。クリスマス礼拝で神様の偉大な愛に触れて、私たちの生き方にも変化が起こるはずです。クリスマスをただの冬の風物詩、単なる年中行事にしてはいけないのです。クリスマスに、神様の深い愛に改めて触れて、私たちの心の中と生き方に愛の革命が毎年起こる必要がある。これを「クリスマス革命」と呼ぶのです。ますます神と隣人への愛に生きるようにクリスマス革命が、私たちの心の中と生き方に起こります。もちろんクリスマスを待つ必要もありません。私たちが日曜礼拝に出席するたびに、聖餐式をいただく度に、毎日聖書を読み祈るごとに、私たちの心の中と生き方に愛の革命が起こる必要があります。ますますイエス様を愛し、隣人を愛する、聖書と聖霊による革命です。そうなれば本当にすばらしい。イエス様を地上に送って下さる父なる神様の深い愛に触れて、今私たちの心と生き方に愛の革命が起こることを祈ります。

 マリアの賛歌は、ハンナの祈りにも似ています。たとえば。
そしてマリアは、エリサベトのもとに三か月ほど滞在し、語り合い、祈り合ったでしょう。マリアは家事を行ってエリサベトとザカリアを支えたでしょう。麗しい恵みの三か月間でした。

 マリアの賛歌を、私たちも自分の歌として歌うことができます。父なる神様は、私たちにも、イエス・キリストの十字架の死と復活によって永遠の命を与えるという、偉大な愛の業を成し遂げて下さったからです。マリアと共に、私たちも神の深い愛をたたえて歌いましょう。アーメン。

2024-06-30 0:53:52()
「神にかたどって造られた新しい人」 2024年6月30日(日)礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書3:16,頌栄28、主の祈り,交読詩編129、使徒信条、讃美歌21・7、創世記1:26~27、エフェソの信徒への手紙4:17~24、祈祷、説教、祈祷、讃美歌566、献金、頌栄27、祝祷。 

(創世記1:26~27) 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

(エフェソの信徒への手4:17~24) そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。


(説教) 本日は、聖霊降臨節第7主日の礼拝です。説教題は「神にかたどって造られた新しい人」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4章17~24節です。できれば月一回、エフェソの信徒への手紙を読む礼拝を献げたいと思います。
 
 最初の17節「そこで、私は主によって強く勧めます。」その前提は、たとえば昨年度の標語聖句1章4節です。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。さらに2章4節以下も、前提になります。「憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、―あなた方の救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。」現実にはまだ地上にいますが、天の王座に着くことは、もう決まっています。私たちはそのような恵みを受けています。

 「そこで、私は主によって強く勧めます」とパウロは書きます。「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。」異邦人とは、イスラエル人(ユダヤ人以外)の人々です。異邦人の問題点は、真の神様を知らないことです。私たち日本人も異邦人ですが、私たちは幸い聖書を読んで、救い主イエス・キリストを知り、真の神様を知らされています。イスラエル人の場合は、その多くが救い主イエス・キリストを信じていないという問題がありますが、しかし旧約聖書によって真の神様を知っており、真の神様の愛と清さをも知っています。モーセの十戒という神様の最も基本的な戒めをもよく知っています。これに対して異邦人は、真の神様とその愛と清さを知らないという問題をもっています。

 「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかなくなさのために、神の命から遠く離れています。」異邦人は無知だと言っていますが、それは真の神様を知らないことから来る無知です。使徒言行録17章のパウロのアテネ伝道の場面を読むと分かります。パウロはアテネのギリシア人たちに全力で説教します。「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代(真の神様を知らない時代)を大目に見て下さいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」パウロはアテネの人々に、真の神を知らない無知から抜け出て悔い改めるように、つまり真の神様に立ち帰るようにと、アテネの人々に懸命に説いたのです。多くの人が信じるようにはなりませんでしたが、何人かは信仰に入りました。

 「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」同じようなことは、ローマの信徒への手紙1章21節以下にも記されています。「(異邦人)は、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた者を拝んで、これに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です。アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を変えて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人と侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無常、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の掟を知っていながら、自分でそれを行うだけでなく、他人の同じ行為をも是認しています。」これがパウロによる異邦人の罪のリストですが、私たちもここに書いてある罪を、少しは犯しているかもしれないので、私・私たちも悔い改める必要があるのではないでしょうか。
 
 エフェソに戻って19節。「そして無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」「無感覚」とは、罪を犯しても、良心に痛みを感じない。良心が麻痺している状態と言えます。これは本人にとって非常に危険な状態で、罪を犯しても、自分の心に痛みを感じないので、どんどん罪を犯し、天国と反対の自分の滅びに向かって突き進んでいるのに、気づかないのです。放縦とは、勝手気ままな生活です。本人は、自由に生きていると勘違いしているのですが、それは自由ではありません。好き勝手に罪を犯しながら生きていることは自由ではなく放縦です。自由という言葉ほど、私たち日本が誤解している言葉は少ないと思います。多くの人は、勝手気ままに生きることを自由と勘違いしています。聖書が真の自由を教えてくれます。自由とは、自己中心の罪から解放されることです。自由とは自ら進んで喜んで、神様を愛し、自分を正しく愛し隣人を愛することです。好き勝手に勝手気ままに生きることは、自己中心の罪に負けている不自由な生き方です。不自由な状態です。

 20~21節「しかし、あなた方は、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」イエス・キリストこそ真理そのもの、生きた真理です。そして最も自由な方です。身の周りの病気の方や貧しい方々を愛し、弟子たちの足を洗って弟子たちに仕え、遂には進んで私たち皆の全部の罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死なれ、三日目に復活されました。十字架につけられながら、祈られました。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか、知らないのです。」イエス様はマタイ福音書5章で、「敵を愛し、あなた方を迫害する者のために(祝福を)祈りなさい」という有名な言葉を語られましたが、それを実行されたのです。すなわち、ご自分を十字架につける人々の罪を赦されたのです。敵までも愛するイエス様こそ、完全に自由な方です。敵への憎しみからさえ解放されている愛の持ち主だからです。全部の罪の誘惑に打ち勝ち、神と隣人と、敵までも愛するイエス様を見る時、私たちは本当の自由とは、このイエス様のように生きることと悟ります。

 私は今年の3月に韓国に行き、提岩里(チェアムリ)教会という教会を訪問したことは、既にお話した通りです。この教会は1919年に真に残念なことに、日本の憲兵によって焼き打ちされました。驚いて駆けつけた家族を含めると29名が殺害されたと言います。今から30年ほど前までは、夫を殺された婦人が毎日、事件が起きた時刻に教会に来て祈っておられたそうで、見学に来る人々(日本人を含む)に語り部として、事件のことを語っておられたそうです。私が行った今回は、教会と記念館が改修工事中で中に入れませんでしたが、ある本によると、教会の中に、先ほどのイエス様の御言葉が記されているということです。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」この祈りが、提岩里(チェアムリ)教会の1919年以降の105年間の祈りだったのではないかと思います。夫を殺されて語り部となられた婦人の生涯の祈りだったのではないかと思います。その信仰は自分の十字架を背負ってイエス様に従う信仰だったと感じます。20節にあてはめるならば、「あなた方はキリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にある通りに学んだはずです。

 「キリストについて聞き」とありますが、口語訳聖書では「あなたがたはたしかに彼に聞き」です。原文には「について」という言葉はないことを確認しました。「ついて」は取り去り、「キリストに聞き」とする方が正確です。「キリストについて聞いた」のではなく、「キリストに聞いた」、つまり「イエス・キリストに直に聞いた」ということです。イエス様との人格的なコミュニケーションの中で聞いた。聖書を読み祈る中で聞いたと言えます。「キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」

 日本語の「学ぶ」は、「まねび」という言葉から来ていると聞きます。「まねび」は「真似する」ことですね。お手本の真似をすることが学びです。キリスト教会の古典的名著に『キリストに倣いて』という本があります。トマス・ア・ケンピスというドイツ人の修道士・司祭が1413年頃に書いたと言われます。ラテン語題『デ・イミタチオネ・クリスティ』です。『キリストに倣いて』。キリストの真似をして生きるということです。日本でも何と既に1596年に豊臣秀吉の時代にローマ字ではありますが、訳されています。私も一冊持っています(池谷敏雄訳、新教出版社、1989年)が、全部を読んでいません。久しぶりに読んでみましたが、どのページを開いても非常に霊的に深い中身です。キリストに従って謙遜に生きることが奨励されています。たとえばこうです。「三位一体について深く論じても、もし謙遜を欠き、従って三位一体の神の御心にかなわなければ、何の益があろう。」「もし毎年ひとつずつ、欠点を根絶やしにするつもりなら、われわれは間もなく完全になるであろう。」「生にも死にも堅くイエスと結び、彼を信じて自分をゆだねなさい。すべての者が助け得ないとき、ただ彼のみがあなたを助け得るのである。彼はただひとりあなたの心を求め、そこに王として王座につくことを欲しておられる。」「イエスが一言でも語られると、我々は大いに慰められる。」「イエスなしでいるということは、いたましい地獄である。イエスと共にいることは楽しい天国である。もしイエスがあなたと共におられるならば、いかなる敵もあなたを損なうことができない。イエスを見出す者はよい宝、いやあらゆるよいものにんまさるよいものを見出す。そしてイエスを失う者は実に多くを、そして全世界よりも多くを失うのである。イエスなくして生きる者は最も貧しく、イエスに愛される者は最も富んでいる。」「もしあなたが喜んで、十字架を負うならば、十字架はあなたを負い、望みの目的地にあなたを導くであろう。」

 小見出しを読むだけでも、信仰の深みに導かれます。「キリストにならい、この世のむなしいものすべてを軽んずべきこと。」「へりくだって自分を知るべきこと。」「聖書を読むべきこと。」「平安を得ること、また霊の進歩を熱望すること」、「逆境の益について」、「誘惑に抵抗すべきこと」、「すべてのものにまさってイエスを愛すべきこと」、「しばしば聖餐を受けるのは有益であること」、「キリストの聖餐にあずかる者は、大いに努めて準備をなすべきこと(悔い改めなど)」、「聖餐を軽々しく怠るべきでないこと。」実に心を清められる本です。

 22~24節「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」「古い人」とは自己中心の罪にまみれた生まれつきの自分です。古い人を脱ぎ捨てるには、自分の罪に気づき、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けることが必要です。洗礼を受けることは、イエス・キリストと一体化することです。私たちが洗礼を受ける時、私たちの古い自己中心の罪に満ちた自分は、イエス様と共に十字架に釘づけにされて死にます。そしてイエス様と共に新しい罪なき命に復活するのです。自分の罪を悔い改めて洗礼を受ける時、私たちは古い人を決定的に脱ぎ捨てたのです。洗礼を受けると、神の清き霊である聖霊を受けます。地上にいる限りは、まだ罪が残っていますので、聖霊が私たちの罪を清めて、少しずつ聖化して下さり、イエス・キリストに似た者に造りかえて下さいます。そして私たちは「神にかたどって造られた新しい人」を身に着けることになります。

 本日の創世記にこうあります。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」神はお一人なのに、なぜ「我々」と書かれているのか。いくつかの理解があるそうです。その1つは、人間を創造することは最も重要なことなので、神様がご自分自身と対話され、相談され、熟慮されたことを意味するというものです。私はなるほどと思います。だとすると父なる神様、子なる神様キリスト、聖霊なる神様が深く相談なさったと考えることもできると思うのです。そうして神にかたどった最高の被造物(造られたもの)として人間が造られたのです。神様が造られた本来の人間、罪に落ちていない人はどのような人だったのか。それはイエス・キリストのような人だったのです。私たち人間は、本来イエス・キリストと同じような人だったのです。これが神様に造られたアダムの最初の状態です。イエス・キリストのような人格の人だった。神様は私たち人間を、神様に似た最高にすばらしい者に造って下さったのです。人間は本来そのような光栄ですばらしい神様に似た被造物なのです。

 ところがエバとアダムが悪魔の誘惑に負けて罪に落ち込む悲劇が起こってしまいました。そして神に似た姿が大きく損なわれてしまいました。その私たち罪人(つみびと)を救うためにイエス・キリストが十字架にかかって下さいました。このキリストを信じてキリストに結びつく人は、イエス様に似た新しい人になります。コリントの信徒への手紙(二)5章17節に、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とある通りです。エフェソ4章24節には、「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しい清い生活を送るようにしなければなりません。」私たちは洗礼を受けるときに、キリストという衣を着るのですね。ガラテヤの信徒への手紙26~27節に、「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。」私たちは今も罪人(つみびと)なので、罪が残っています。しかし罪なきイエス・キリストという衣を着ているので、父なる神様は私たちを罪なき神の子たちと見なして下さいます。そして同時に私たちは、聖書を読み、礼拝に出席し、祈り続けることで、次第に聖霊によって清められます。そうして24節の後半にあるように、「真理に基づいた正しく清い生活を送るように」なります。

 22節に「古い人を脱ぎ捨て」とありますが、洗礼を受けたときに古い自分を脱ぎ捨てたのです。しかしまだ罪が残っています。最終的には、私たちが地上の人生を終える時、私たちの残っている罪も完全に死にます。罪を全部脱ぎ捨て、完全に清い完全に新しい自分になって、天国に新しく誕生します。それが洗礼の完成です。しかし天国に行くことを急ぐ必要はありません。神様の御心ならば、地上でも長くご一緒に礼拝生活を続けさせていただき、そして最終的にはまた天国でお目にかかって、三位一体の神様に直にお会いし、天国でもご一緒に礼拝致しましょう。アーメン。