日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2022-08-05 17:42:37(金)
8月の伝道メッセージ 石田真一郎(市内の保育園の「おたより」に掲載した原稿)
「主(神様)は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」(新約聖書・コリントの信徒への手紙(二)12章9節)。

 水野源三さん(1937~1984)というクリスチャンがおられました。「瞬(まばた)きの詩人」と呼ばれます。長野県坂城町(軽井沢より西)の方で、そこは千曲川が流れ、夏の緑が美しい所です。9才の時に赤痢で脳性麻痺になり、立って歩くことも話すこともできなくなり、見ると聞くが残りました。幸い、仲のよい家族でした。宗教を嫌いました。おはらいやまじないを勧められたからです。体の不自由な宮尾牧師が訪問し、聖書を渡し、源三さんが少しずつ聖書を読み始めます。イエス様が、源三さんを含む全ての人の、全部の罪と過ちの責任を身代わりに背負って十字架で死なれた深い愛を知り、感動します。13才で洗礼を受け、明るくなります。

 25才のとき、詩作を始めます。五十音表を使い、「もり」なら、母や義理の妹がア段を一つずつ指し、源三さんが「ま」で目をつぶります。次にマ行を下に行き、「も」で目をつぶります。こうして共同で詩、短歌、俳句を作ります。勉強もし、作品が時々、キリスト教雑誌に掲載されます。
☆「キリストの み愛に触れたその時に/ キリストの み愛に触れたその時に/ 私の心は変わりました。/ 喜びと希望の/ 朝の光がさして来ました」(『こんな美しい朝に』いのちのことば社、1990年)。
☆「新聞のにおいに朝を感じ/ 冷たい水のうまさに夏を感じ/ 風鈴の音の涼しさに夕ぐれを感じ/ かえるの声はっきりして夜を感じ/ 今日も一日終わりぬ/ 一つ一つのことに/ 神様の恵みと愛を感じて」 
☆「物が言えない私は/ ありがとうのかわりにほほえむ/ 朝から何回もほほえむ/ 苦しいときも 悲しいときも/ 心から ほほえむ」

 姪がある時、源三さんに、「病気をしたことをどう思っているの?」と尋ねるとすぐに、「感謝してる。キリストを信じることができたから」と答えました。誰が訪問しても、六畳の部屋で、にこにこ迎えるので、訪問した人も嬉しくなり、励ましに来たつもりが、自分が励まされたそうです。過ちを犯した人を、源三さんが叱ることもありました。家族は「源三は、うちの宝」、町の人も「源三さんは町の宝」と言いました。詩集も出ています。

 イエス様の時代、障がいは本人か両親の罪の結果と考えられていました。しかしイエス様は、それを否定します。本人や両親の罪の結果でなく、「神のわざがこの人に現れるためである」(ヨハネ福音書9章3節)。源三さんは、このイエス様の御言葉にも励まされたのでしょう。アーメン(真実に)。 


2022-07-30 23:43:33(土)
説教「神殿から商人を追い払うキリスト」 2022年7月31日(日)
順序:招詞 コリント(二)1:3~5、頌栄28、「主の祈り」,交読詩編65,使徒信条、讃美歌21・351、聖書 詩編69:8~13(旧約p.902)、ヨハネ福音書2:13~25(新約p.166)、祈祷、説教、讃美歌21・476、献金、頌栄27、祝祷。 

(詩編69:8~13)
 わたしはあなたゆえに嘲られ/顔は屈辱に覆われています。兄弟はわたしを失われた者とし/同じ母の子らはわたしを異邦人とします。あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。わたしが断食して泣けば/そうするからといって嘲られ粗布を衣とすれば/それもわたしへの嘲りの歌になります。町の門に座る人々はわたしを非難し/強い酒に酔う者らはわたしのことを歌います。

(ヨハネ福音書2:13~25) 
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

(説教) 8週間前にペンテコステを献げ、聖霊降臨節第9主日公同礼拝です。本日の説教題は「神殿から商人を追い払うキリスト」です。先週のヨハネ福音書は、この直前でした。ガリラヤのカナという所で、婚礼があった。皆でお祝いに飲むぶどう酒がなくなった。イエス・キリストが愛の奇跡を起こして、とてもおいしいぶどう酒を、水から作り出して下さり、人々はそれを飲んで、恵まれた婚礼の時を過ごした、という話でした。イエス様はこの奇跡(ヨハネ福音書では「しるし」という)により、ご自分が神の子であることを明らかにして下さったのです。愛に満ちたイエス様の姿が、示されていました。

 その直後の本日の個所は、ヨハネ福音書2章13節以下です。ここでのイエス様は、鞭を振るっています。イエス様が、聖なる怒りを発揮しておられます。一見、まるで先週のイエス様とは、完全に正反対のイエス様のようで、戸惑う方もあるのではないかと思います。最初の13節「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。」過越祭は、ユダヤ人の最大の祭りで、首都エルサレムは熱気にあふれたと言います。エルサレムは首都ですが、イエス様にとっては安心な場所ではありません。イエス様に敵対するファリサイ派の人々の根拠地がエルサレムです。イエス様にとっての平安の地は、お育ちになったガリラヤです。そのガリラヤのカナから、ヨルダン川の向こう側ベタニアを通り、イエス様はご自分に敵対する人々の多い、イエス様にとって危険なエルサレムにやって来られたのです。

 14節「そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。」イエス様はエルサレムに入ると、神殿に直行なさいました。当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王という建築が大好きな王様が一生懸命拡張した、非常に壮麗で美しい建物だったそうです。しかし大事なのはもちろん、中身です。神殿は礼拝する場所で、礼拝では牛や羊や鳩を、神様に献げる必要がありました。しかし遠くから礼拝に来る人が、いけにえの動物を連れて来ることは、物理的に困難です。そこで神殿でいけにえの動物を買って、献げてよい決まりになっていたそうです。ですから合法であった、ルール通りでありました。ですが、イエス様からご覧になると、問題があったのだと思います。15~16節「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。』」

 これを素直に読むと、「この神殿は、私の父なる神様の聖なる家、祈りの家、礼拝の家である。それを商売の家としてはならない。」この聖なる家を「商売の家、売り買いの家、ビジネスの家にしてはならない」とおっしゃっていることになります。私たちには、いけにえの動物が、どれくらいの値段で売り買いされていたのか、分かりません。売る側の利益が少しであれば、問題なかったのかもしれません。しかし買う側からすれば、どうしても買わなければならないとすれば、買う側の立場は弱くなり、売る側の立場が強くなり、次第に売る側が高く売るようになったかもしれません。そうなると売る側が強欲の罪に陥った可能性はあります。両替商は、両替するだけなら、1銭の利益も得ないので問題ないと思いますが、現実には高い手数料を取って儲けていたと書く解説書もあります。そうだったのかもしれません。そうなると一日の終わりに「今日の儲けは、これくらいだった」ということが商売する人々の関心の中心になり、いつの間にか、神様よりもお金に関心が集中するようになったのではないでしょうか。それはいけない。礼拝の場の中心は、どこまでも神様でなければならない。そうでないと神様への礼拝にならない。この時、イエス様の姿勢に妥協は全くありません。純粋な神礼拝を回復する必要がある。そのためにイエス様は、激しい聖なる怒りをもって鞭を振るい、牛や羊を追い出し、両替人の金をまき散らし、鳩を売る者たちに「このような物(鳩、お金)はここから運び出せ。私の父の家(父を礼拝する神殿)を商売の家とすることを決して許さない」と事実上、宣言されました。真の礼拝を確立する必要があるということです。父なる神様に喜ばれる霊と真理の礼拝、嘘偽りのない、真心から神様の前で、自分の罪を悔い改める礼拝。真の礼拝の確立が必要なのだと思います。

 マタイによる福音書のよく似た場面を読むと、イエス様は、こうおっしゃっています。「こう書いてある(旧約聖書に)。『私の家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」 「神様の聖なる神殿は、祈りの家、礼拝の家でなければいけない。ところがイスラエルの指導者たちが、強盗の巣にしている。」強盗の巣とは強烈な表現です。強盗は、泥棒よりも強烈な表現ですね。強盗は強欲です。礼拝と強欲は矛盾します。両立しません。イエス様がマタイ福音書6章24節で「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」と言われた御言葉を、肝に銘じる必要があります。それにしても、イスラエルの信仰の指導者たちが、本当のそんなに強欲で堕落していたのでしょうか。信じ難い気もしますが、ルカ福音書16章14節に「金に執着するファリサイ派の人々が(~)イエスをあざ笑った」とありますので、金に執着するファリサイ派(イスラエルの民の信仰のリーダー)の人々が、本当にいたのでしょう。そのような人々が神殿で権力をもち、神殿ビジネスをリードして、利益を得ていた可能性がありますね。私が思うに、この神殿に関わる人々の多くは男性で、政治と権力とお金が重視されたいたの現実ではないかと思います。まさにこの世の生々しい現実です。ところがそこにイエス様が来られます。イエス様は聖なる神の子で、政治にも権力にもかかわりなく、全く強欲ではありません。イエス様は、父なる神様を愛し、その神殿を愛しているので、神殿を全力で清められます。人々は、貪欲の罪に陥っていた可能性があります。コロサイの信徒への手紙3章に「貪欲は偶像礼拝にほかならない」との御言葉があります。神殿の人々は、貪欲の罪を悔い改める必要がありました。

 17節「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」これは、本日の旧約聖書・詩編69編10節です。弟子たちは、この詩編の御言葉が、まさにイエス様にこそ当てはまると実感したから、思い出したのです。聖霊なる神様が思い出させたと言えます。「あなたの神殿に対する熱情が、私を食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが、私の上にふりかかっています。」これはこのヨハネ福音書の文脈では、「父なる神様の神殿に対する熱い愛で、私(イエス様)が満ち満ちているので、神を愛さない者の嘲りが、私(イエス様)の上にふりかかっています」の意味です。イエス様が、神様の神殿を純粋に愛するあまりこのような激しい行動をとったので、人々からの反感がイエス様に降りかかるということです。ヨハネ福音書ではこの場面が2章、つまりヨハネ福音書の最初の方に記されていますが、他の3つの福音書では、イエス様の十字架の死の少し前の出来事として書かれており(時間の順序を正確に追うなら)それが正しいのでしょう)、イエス様が神殿をこのように激烈に清めたことがエルサレムの指導者たちの憎しみを買い、イエス様の十字架の死の原因になったと読める展開になっています。ヨハネ福音書においても、イエス様のこの激烈な行動が、エルサレムの指導者たちの怒りを買ったことは同じです。

 18節「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか。』」するとイエス様が、深い真理を語られます。この語りは、他の3つの福音書に記されていません。19、20節「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。」そんなことは物理的に不可能です。しかしイエス様がおっしゃることは、もっと深い次元のことでした。21~22節「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」

 イエス様は、エルサレムの地上の神殿は、もうすぐ不要になるとおっしゃっています。動物のいけにえを献げて神様に人間の罪を赦していただく礼拝は、いらなくなる。神の子イエス・キリストが、完全ないけにえとなって十字架で、ご自分を献げて下さるからです。そして三日目に復活して、死を乗り越えた永遠の命の希望をもたらして下さる。事実、この時から約40年後に、エルサレムの神殿はローマ軍の攻撃によって破壊され、その後再建されることはありませんでした。それは神様の御心でした。イエス様の十字架の死と復活の後は、キリスト教会が礼拝共同体になりました。建物のことではありません。イエス様を救い主と信じて、父なる神様を礼拝する群れのことです。このキリストの教会という共同体が、真の神殿です。聖書によれば、教会という神殿はキリストの体です。イエス様が頭、Aさんは手、Bさんは足、Cさんはお腹、Dさんは背中という具合です。誰に対しても「あなたは要らない」ということのない共同体がキリストの体である新しい神殿です。そこにイエス様の清き霊である聖霊が生きて存在し、働いておられるのです。この共同体は、聖餐式において、パン(イエス様の御体)とぶどう液(イエス様の血潮)を皆で食べ飲みする共同体です。イエス様の御体を皆で食べるのですから、確かにこの共同体はキリストの体です。そして聖霊が宿って下さる神殿です。神殿とはまさ聖霊が住んで下さる場です。

 そしてイエス様の使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)6章15節で、私たちキリストを信じる者一人一人の自覚を促すために、こう書きます。コリントはギリシアの都市です。「あなた方は、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。」私たちの体は、自分勝手にしてよいものではなく、イエス・キリストの聖なる体の一部、神殿の一部となっている。だから自分の体で、たとえば配偶者以外と体の交わりを持つような罪を犯してはいけない。「キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。」「知らないのですか。あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです。あなた方は代価を払って買い取られたのです(イエス様の十字架の尊い犠牲によって神の子とされた)。だから、自分の体で神の栄光を(神の聖なること、神のすばらしさ)を現しなさい。」自分の体を罪深いことのために用いず、神様が喜ぶことに用いなさい。あなた方一人一人が、聖霊のが住んで下さる神殿なのだから、と教えてくれます。

 パウロが、なぜこんなことを書くかというと、コリントの教会に実際にこのような問題が起きていたからです。コリントの教会は、パウロが一生懸命伝道してできた教会、礼拝共同体です。しかしクリスチャンになったばかりの人々の多くが未熟で、色々なトラブルが起きていました。驚くような不道徳な行いをする教会員もいました。パウロはコリント教会を熱烈に愛しているので人々を戒め、悔い改めに導き、正しい方向に導くためにコリントの信徒への手紙(一)と(二)を書きました。パウロはコリントの信徒への手紙(一)4章21節で述べます。「あなた方が望むのはどちらですか。私があなた方の所へ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。」パウロもまた、愛してやまないコリント教会を罪から清めるためならば、鞭を振るう決心があったのだと思います。
 
 東久留米教会では今、木曜日の聖書の学び・祈祷会で、エゼキエル書を読み進めています。神様が忠実な預言者エゼキエルを通して、イスラエルや他の諸国に、彼らの罪に対して厳しい裁きの言葉を語り続けておられます。恵みの御言葉もありますが、裁きの言葉の方がかなり多い印象です。しかしだからと言って、旧約聖書の神と新約聖書の神は、別の神ではなく、全く同じ神様です。神の子イエス様も、同じ厳しさを発揮されることがあります。それが本日の「神殿から商人を追い払う」個所だと思います。私たちは本日鞭を振るって神殿を清めるイエス様のお姿を思いながら、エゼキエル書などに出て来る裁きの言葉は、イエス様の清めの鞭と同じだと感じるのです。私たちの神様、そして神の子イエス様は、愛の方であると同時に清い聖なる方であることを、改めて心に刻みたいのです。これから歌う讃美歌21・476番の1節の歌詞に「聖なる愛よ」とありますが、まさに私たちの神様の愛、イエス様の愛は「聖なる愛」です。キリスト教の幼稚園等に時々「聖愛幼稚園」という名称があります。キリスト教主義の学校の名前であることもあります。「〇〇聖愛高校」という名も聞いた記憶があります。ローマの信徒への手紙11章22節に「神の慈しみと厳しさを考えなさい」と書かれています。口語訳聖書では「神の慈愛を峻厳を見よ」で、私にはこれが印象深いのです。「神の慈愛と峻厳を見よ。」それでも、神様が私たちを厳しく清めて下さるのは、私たちを愛しておられ、私たちが天国に入りやすくするために、私たちを時々打って清めて下さると思うのです。

 ペトロの手紙(一)4章17節に、こうあります。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。私たちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるのだろうか。」神の裁きは神の家から、つまり教会から始まるというのです。私たち教会に集う者は聖書を読んでおり、神様の祝福を受けており、神様がどんな方かもよく知っているので、それだけに神様の期待も大きく、神の恵みを受けている分、責任も大きいからです。それでも神様がまず教会を裁いて下さるのは、神様が私たちを悔い改めに導き、清めに導き、天国に入り易くして下さる愛の目的から出ていると信じます。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         
 私たちは今日の御言葉を読んで、イエス様の峻厳を知ります。同時に思います。鞭を振るって神殿を清めたイエス様自身が、十字架にかかる前にひどい鞭打ちをお受けになったことを。あの鞭打ちも十字架刑の一部と見れば、イエス様が私たちの全部の罪を身代わりに背負って、あの厳しい鞭打ちも受けて下さいました。イエス様が受けた鞭も、もしかすると本来は私たちが受けるべき裁きの鞭打ちだったのではないでしょうか。イエス様が、人間たちの全部の罪を鞭打つなら、神殿での鞭打ちだけでは全く足りないでしょう。それ以外に人間の全部の罪を裁くために必要な鞭打ちは、イエス様はご自分が引き受けられたと言えるのではないでしょうか。イエス様は神殿で鞭を振るって商人たちを追い払いましたが、もっと多くの鞭打ちをご自分が引き受けて下さったと思うのです。神殿清めの場面を読むときも、イエス様の十字架の身代わりの死の愛を、深く思いつつ読むことがふさわしい。そう思います。アーメン。

(祈り)御名讃美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナ第七波が早く収まりに転じますように。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。

2022-07-24 1:10:02()
「天国の光をもたらすキリスト」2022年7月24日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第52回)
順序:招詞 コリント(二)1:3~5、頌栄24、「主の祈り」,交読詩編なし,使徒信条、讃美歌21・227、聖書 ヨハネ福音書2:1~12(新約p.165)、祈祷、説教、讃美歌21・431、献金、頌栄27、祝祷。 

(ヨハネ福音書2:1~12) 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

(説教) 7週間前にペンテコステを献げ、本日は「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第52回)です。本日の説教題は「天国の光をもたらすキリスト」です。本日のヨハネ福音書の個所は、教会では有名な個所です。小見出しは「カナでの婚礼」です。

1~2節「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。」婚礼は結婚式ですから、一番の祝福の時と言えます。そして聖書では、婚礼・結婚式はしばしば天国・神の国のシンボルです。冒頭の「三日目」という言葉にも、意味があると思います。新約聖書では三日目はイエス・キリストの十字架の死から三日目が、復活の日です。冒頭の三日目という言葉には、復活の喜びが暗示されていると思います。

 3節「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」イエス様の母マリアも、婚礼の裏方で幹事のように働いていたのでしょう。娯楽は少ない時代、婚礼は村を挙げての喜びだったと思います。祝福のぶどう酒を皆で飲む数少ない機会です。それがないとなると、やはり困ってしまいます。困り事をイエス様に率直に申し上げることは、よいこと思います。私たちも、時に困ることがあります。打開すべく努力もしますが、同時にイエス様に率直に困り事を訴え、「助けて下さい」と祈ることは正しいことと信じます。イエス様は、必ず何らかの形で助けて下さいます。イエス様は私たちに「あなたの自己責任だけで、何とかしなさい」とは言われないと思います。困り事打開のために私たちも、一生懸命努力しますが、同時に祈ることで、イエス様(父なる神様)が必ず何らかの形で助けて下さる。私たちはきっと、それを何回も経験してきたと思うのです。マリアさんも、我が子イエス様に助けを求めました。

 しかしイエス様の応答は、一見とても冷淡です。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」実のお母さんに、こんなによそよそしい言い方をしなくてもよいのに、と思ってしまいますね。「私とどんなかかわりがあるのです」とは、ちょっと驚くべき言い方です。「どんなかかわり」も何も、実のお母さんではありませんか。イエス様はここで一旦、母マリアの願いを断っているかのようです。イエス様にしてみれば、理由はあるのですね。「私はお母さんの長男であると同時に、天におられる父なる神様の独り子なのですよ。私は、父なる神様から与えられた使命を果たすことを最優先しなければならないのですよ。お母さんは私が奇跡を起こしてぶどう酒を造り出すことを願っておられるのでしょうが、私の時はまだ来ていません。私が父なる神様の栄光を表す時は、まだ先です。今奇跡を頼まれても困ります。」

 マリアにもそれは伝わったと思います。イエス様が一旦断ったように聞こえた。しかし、そこは実の親子。マリアさんはそれを聞いても、「イエスはあのように言ってはいるけれども、きっと何とかしてくれる」と信頼し、期待していたに違いありません。ある神父は、想像しています。ここには「二人だけに通じる言外のコミュニケーションがあったはずです。その時、イエス様の声の調子は柔らかく、顔は当惑を表しながらも微笑みを含んでおり、また、ひょっとしたら、目にはいたずらっぽさがのぞいていたかもしれません。」イエス様のお気持ちとしては、「本当はまだ神の栄光を現す時は今ではなく、まだ先だけれども、お母さんのたっての願いだからしょうがないか」という気持ちだったのではないでしょうか。私たちが祈るときも、本当に困っているならば、「こんなことは聞いていただけないだろう」と決めつけないで、あえて父なる神様に(あるいはイエス様に)願いを祈ることがよいと思います。神様は冷たい機械ではなく心を持つ方ですから、聞き上げて下さる可能性はあると信じて、祈ることが大切と信じます。

 マリアさんは、イエス様がきっと何とかして下さると信頼して、召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」と言いました。イエス様がきっと彼らに言いつけなさるだろうと信頼していたと感じます。6節「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。」マリアさんが期待した通りイエス様が、召し使いたちに言いつけます。「水かめに水をいっぱい入れなさい。」召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。一メトレテスは約39ℓですから、二ないし三メトレテスは約80~120ℓですから、各家庭のお風呂くらいの容量でしょうか。その石かめが六つありました。水場まで水を汲みに行き、水を汲んで戻って来てかめに入れる。何回か往復するでしょう。各々のかめを縁までいっぱいにしました。実に忠実な召し使いたちです。言われた通りに行う姿勢がすばらしい。人は時には、100%言われた通りにせず、95%くらいで勝手によしとすることも、ないとは言い切れません。マタイ福音書25章には、主人から「忠実な良い僕だ」と褒められる僕が登場しますが、私たちもイエス様から「忠実な良い僕だ」と呼ばれるように、心がけたいものです。私たちはイエス様に忠実にお仕えし、イエス様がそれを祝福して下さいます。

 イエス様が言われます。8節「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい。」石かめを運んだのではないようです。召し使いたちが運んで行く途中で、水はぶどう酒に変わりました。変化しました。イエス様が祝福して下さったからです。9節「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていたが」とあります。このぶどう酒はどこから来たのか? 天国から来たのです。イエス・キリストから来たのです。イエス様こそ、神様の清さと愛と祝福の源なのです。

 「このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。』」良いぶどう酒、最高級のぶどう酒、極上のぶどう酒でした。イエス様は、この結婚式を、大いに祝福して下さったのです。マリアさんもほっとし、大変喜んだに違いありません。ぶどう酒がなくなって青くなっていたであろう世話役の顔も立ちました。11節「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」イエス様こそ真の神の子、真の救い主と信じたのです。

 この出来事が教えることは、イエス様の祝福、神様の真の愛がないと、人生が虚しいということではないでしょうか。昔の有名なクリスチャンであったアゥグスティヌスという人が、「人の心は神様に向かって作られているので、真の神様に立ち帰らないと、真の安らぎを得ることができない」という言葉を残しています。「人の心は神様に向かって作られているので、真の神様に立ち帰らないと、真の安らぎを得ることができない。」このヨハネ福音書3章16節に、「神はその独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という、神様の愛を強調する教会では有名な御言葉があります。またコリントの信徒への手紙(一)13章には、これも教会では有名な「愛の賛歌」があり、こう書かれています。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持ていようとも、愛がなければ無に等しい。 それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

 誰もが神様の愛、神の子イエス・キリストの真の愛を必要としています。これがないと、人生が虚しく感じられるのではないでしょうか。旧約聖書に「コヘレトの言葉」という書があります。以前は「伝道の書」と呼びました。その1章にこうあります。「何という空しさ。何という空しさ、全ては空しい。太陽の下、人は労苦するが、全ての労苦も何になろう。」これが人生の全てとは思いませんが、そのような面もあります。心が満たされないと、人によっては麻薬、覚醒剤、不倫、犯罪に走ることもあります。神様の真の愛で心が満たされていれば、そのようなことに走る必要もなくなります。東久留米教会で今から25年ほども前に、加藤常昭先生という有名な牧師をお招きして、伝道集会を行ったことがあります。その頃、神戸で、14歳の男子中学生が小学生二人を殺害する衝撃的な事件がありました。加藤先生は伝道集会で、その事件のことに触れられました。その加害者の少年が、心に深い深い闇、自分でコントロールできない攻撃性にもし悩んでいたなら、周りにそれに気づいたクリスチャンはいなかったのだろうか。神戸には教会はたくさんあるのだから、彼が事件を起こす前に、彼に寄り添うクリスチャンや牧師がいれば、違う結果になったのではないか。おおよそそのようなお話でした。彼に、神の愛を知らせる人がいれば、違う結果もあり得たのではないか、と。

 私がそれを思い出したのは、今回の安倍元首相の銃撃事件の犯人のことを思ったからです。悪い宗教によって家庭を破壊されて恨みをもつようになり、殺人事件を起こした。神様の愛、イエス・キリストの愛に触れる経験が、全くなかったのではないかと思います。彼の犯罪を正当化することは不可能ですが、家庭を破壊されて恨みを持つようになった彼に、真の愛を伝える人、イエス・キリストの真に愛を言葉や行いによって知らせる人が身近にいれば、わざわざ銃を造って人を殺すまでに至らなかった可能性もあるのではないか。愛が欠けていることが、暴力、攻撃、犯罪につながってしまう。もしかすると私たちの身の周りにも、その手前のような人がいないとは言えません。クリスチャンの役割は大きいと思います。世の中で辛いことが多いとしても、イエス・キリストはあなたを愛している。あなたの身代わりに十字架で死んで下さるほどに、あなたを愛している。この事実を伝えて、心のケアを行うことができます。

 このような心のケアを教会で「牧会」と呼びます。牧会はもちろん牧師の務めですが、役員さんをはじめ、クリスチャンならどなたでも行うことができます。教会学校の先生であれば、教会学校の生徒のために祈りながら牧会を行います。牧会は、羊飼いが羊たちのためにケアすることですね。大いなる羊飼いイエス様がまず、小さき羊である私たち一人一人に愛を注ぎ、よき牧会を行って下さいました。私たちはそれに支えられて、他の方に牧会をさせていただきます。教会の務めは伝道、礼拝、そして牧会と言うことができます。このような牧会があれば、加害行動に走りそうな人の心を落ち着かせて、恨みや怒りを乗り越えて、何とか平和に過ごせるように導くこともあり得ると思います。このようなケアは、精神科医や一般のカウンセラーでもできる部分がありますが、でもイエス・キリストが私たちを十字架の愛で愛しておられることを知リスチャンにこそ、大いにできることと思います。

 三浦綾子さんというクリスチャンの作家がおられました。この方の作品を読んでクリスチャンになった方は、相当多いと思います。この方は太平洋戦争中は、小学校(国民学校)の熱心な教師、軍国教師だったそうです。ところが敗戦によって、これまで教えて来た教科書を墨で塗りつぶすことになり(これまで正しいと信じて教えて来たことが否定された)、どのように生きてよいか分からなくなり、生きる目的を見失い、虚無に陥り、病気になってしまいます。聖書に出会っても、すぐに信じることはできませんでした。命を絶とうとさえしますが、助けられます。色々なよき出会いが与えられ、長い時間を経て、洗礼に導かれます。病床洗礼です。三浦綾子さんの『道ありき』(新潮文庫)という自伝によると、「その時まで、私の気持ちは極めて冷静であった。洗礼を受けるというのに、これほど何の感動も感激もなくてよいものかと不安になるほど、平静であった。ところが(いよいよ洗礼の瞬間になって)、私は思わず泣いてしまった。それは自分自身にも思いがけないことであった。だが、涙が心の奥深い所からほとばしり出てくるのだ。私のような不誠実な者が、私のように罪深い者が、キリスト者となることができるのかと思うと、どうにも泣けてしかたがなかった。」

 洗礼式が終わって、小野村林蔵牧師が、静かに言われました。「必ず治ります。いましばらくの試練ですからね。」「必ず治ります」の確信に満ちた静かな言葉が「その後の長い病床生活の中で、いく度も私を慰め励ました」と三浦さんが書いています。この小野村牧師は、まさによき羊飼い、よき牧会者です。真の光はイエス様ですが、そのイエス様の聖霊に満たされて、小野村牧師もまた小さなキリストとして、三浦さんを慰め励ます光の言葉をプレゼントしたのです。私たちもイエス様に愛されて聖霊を注がれているので、一人一人が小さなキリストとなって、隣人にささやかでも光をもたらす使命を与えられています。三浦さんは、さらに書きます。「ふしぎなことが起こった。洗礼を受けたその日から、私はうれしくてうれしくてならなくなった。心の中に灯がともったのだ。その灯が私を揺り動かすのだ。『神様、〇さんと、〇さんと、〇さんを、どうかクリスチャンにさせて下さい。この三人がクリスチャンになりましたら、私はいつ天に召されてもよろしいです。』そして私は、この三人に葉書を書いた。私がこんなに喜んでいる喜びを、分けたくて仕方がなかった。それは、おいしい物を食べた時、人にも食べてもらいたいあの気持ちに似ていた。西村先生(先輩クリスチャン)の日常を見ていると、キリスト者とは伝道するものであると思わずにはいられなかった。」

 三浦さんの心にキリストの愛と聖霊が注がれたのです。キリストの愛と聖霊が、空しさ、虚無を乗り越える力となりました。今日のヨハネ福音書で、イエス様が水から造り出して下さったぶどう酒は、イエス様の愛のシンボルです。私も今から34年前に、教会の礼拝で洗礼を受けた日、一人暮らしのアパートに帰ってもやや興奮していて、ついつい部屋の中で讃美歌を歌い続けておりました。やはり嬉しかったのでしょうね。聖霊が注がれたのかなと思います。大きな声で歌っていたつもりはないのですが、暫くして上の部屋の人が「ドンドン」と彼の床(私の天井)を叩いて、「うるさい」と怒っていたようです。それで歌うのをやめた記憶があります。

 虚無や恨みを乗り越えさせる力は、イエス様の十字架の愛です。私たち罪人(つみびと)の全ての罪を身代わりに背負って死に、三日目に復活されたイエス様の十字架の愛です。私が洗礼を受けた教会に、統一協会の信仰をやめてクリスチャンになった方がおられたと先週申しましたが、その方もすぐにクリスチャンにはなれなかったそうです。それまで文鮮明が救い主と信じていたのに、嘘だと分かった。イエス様が救い主だと言われても、また嘘だったらまた騙される。それで簡単には信じられなかったのですが、「でもイエス様は私の身代わりに死んで下さった。そのような方なら、信じても裏切られることはない」と思って、洗礼に至ることができたそうです。このイエス様の十字架の愛を信じて、全ての人にクリスチャンになっていただき、神の子になっていただき、真の平安に入っていただきたいと切に祈ります。

(祈り)御名讃美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナが早く収まりに転じますように。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。

2022-07-20 17:44:29(水)
7月の伝道メッセージ  石田真一郎(保育園の「おたより」7月号 原稿)
「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない」(旧約聖書・出エジプト記22章20節)。

 アメリカ合衆国でまだ完全になくならないのが、人種差別です。数年前も、アフリカ系男性が警官に体を押さえつけられ、落命する事件があり、BLM(Black Lives Matter! 黒人の命は大切だ!)の運動が起こりました。19世紀の南北戦争で北部が勝ち、奴隷制度は廃止されましたが、人種差別は今も完全に消えていません。

 ハリエット・タブマン(1820頃~1913)という奴隷だった女性が、300名もの奴隷を自由の地に導いた驚くべき事実があります(小学生以上向けの絵本『ハリエットの道』日本キリスト教団出版局)。ハリエットは若い時に主人に重りをぶつけられ、後遺症の頭痛や失語の発作に一生苦しみました。1849年の夏の夜、南部のメリーランド州の主人の家から逃げます。移動は夜、神様に祈りながら。星で位置を知る方法、天気を予想する方法、植物から薬を作る方法を習った知識を総動員。見つかりかける危険の度に、神様がそよ風等によって語り、守って下さいます。神様がいつも共におられます。彼女は深く強い信仰と勇気の持ち主。逃亡奴隷をかくまい逃がす「自由への地下鉄道」(奴隷制に反対の人の家や教会)がありました。145km歩き、ついに奴隷制のないフィラデルフィア(「兄弟愛」の意)に着きます。
 
 愛する家族や友が奴隷で苦しんでいるので、まだ喜べません。彼女はお金をため、「自由への地下鉄道」の秘密の駅(協力者の家や教会)の場所を覚え、神様に祈りつつ南部に19回も戻り、命の危険を冒し、何百キロも歩き、兄弟・両親・仲間の奴隷たちを北へ逃がす先頭に立ちます。別のルートを使い、変装し、何と300人の奴隷をカナダ等の自由の地に導きました。白人の奴隷主に憎まれ、多額の懸賞金を懸けられますが、捕まりません。旧約聖書で、エジプトでの奴隷状態に苦しむイスラエルの多くの民を、神様の助けを得てエジプトから脱出させ、イスラエルの地に導いたモーセになぞらえ、ハリエットは「女モーセ」、「黒人モーセ」と呼ばれます。彼女を支えたのは、神様への祈りと黒人霊歌(讃美歌)です。アメリカの20ドル札の新しい顔になる予定と聞きます。アメリカで2020年に『ハリエット』という映画が公開され、DVDもあります。

 聖書に、「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない」とあります。国内の外国人を大切にしなさいということです。日本は在日韓国・朝鮮の方や外国籍の方に優しい社会でしょうか。ぜひそのような日本にしましょう。在日韓国・朝鮮の方の指紋押捺は1993年に廃止され、よかったです。アーメン(真実に)。 

2022-07-17 0:07:51()
「キリストが形づくられるまで」 2022年7月17日(日) 聖霊降臨節第7主日礼拝 
順序:招詞 コリント(二)1:3~5、頌栄85(2回)、「主の祈り」,交読詩編64,使徒信条、讃美歌21・205、聖書 出エジプト記20:1~3(旧約p.126),ガラテヤの信徒への手紙4:8~20(新約p.347)、祈祷、説教、讃美歌21・459、献金、頌栄92、祝祷。 

(出エジプト記20:1~3) 神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

(ガラテヤの信徒への手紙4:8~20) ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。

 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

(説教) 6週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第7主日の礼拝です。できるだけ、月一回ガラテヤの信徒への手紙を読みたいと思っています。前回ガラテヤの信徒への手紙を読んだのは5/8(日)です。本日の説教題は「キリストが形づくられるまで」と致しました。この手紙を書いたパウロの願いは、ガラテヤの教会がイエス・キリストの福音に根差した共同体になってほしいということです。新約聖書によると、教会はイエス・キリストの体です。いつの時代のどの地域の教会も、イエス・キリストの福音に根差した共同体である必要があります。それはどのような共同体なのか。私たちも本日のガラテヤの信徒への手紙を読んで、祈り考えてゆく必要があります。この課題との取り組みは、イエス様がもう一度地上に来られる再臨の時まで続くでしょう。宗教改革者のマルティン・ルターも、ガラテヤの信徒への手紙を非常に重要と見ていたようです。

 本日は、4章の8節から20節までです。小見出しは、「キリストがあなた方の内に形づくられるまで」です。パウロがガラテヤの教会の人々に、イエス・キリストの福音に根差した生き方をするようにと、教え諭しています。人々がイエス様の福音に根差した生き方から、逸れていたからです。イエス様の福音とは、イエス様の十字架の犠牲の死のお陰で私たちに与えられたすべての罪の赦しと、イエス様の復活のお陰で私たちに与えられた永遠の命です。私たちは、これらを土台に生きます。

 パウロは8節で書きます。「ところで、あなた方はかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。」ガラテヤという土地は、今の小アジア、トルコの辺りです。そこに住む人々は、真の神様を知らずに生きていたでしょう。旧約聖書と新約聖書に登場する真の神様を知らずに、その地域の「神々と言われるもの」を礼拝していたでしょう。それは私たち日本人も同じです。1549年に初めてキリスト教が伝わるまでは、日本人も真の神様を知りませんでした。天照大神や八百万の神々、戦いの神とされる八幡台菩薩等に祈りを献げながら生きていたはずです。これらは今でも礼拝されています。しかしもちろん、真の神様ではありません。聖書に登場する神様だけが、全宇宙と全ての生き物をお造りになった真の神様であられ、その方がイエス・キリストの父なる神様でいらっしゃいます。旧約聖書においてイスラエルの民が奴隷状態になっていたエジプトの国では、太陽が神として礼拝され、犬も神として礼拝されていたようです。イスラエルの民の出エジプトは、偽りの神々からの解放でもありました。

 本日の旧約聖書は、出エジプト記20章1~3節です。「モーセの十戒」の前文と十戒の第一の戒めです。「神はこれらすべての言葉を告げられた。『私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。』」これは旧約聖書と新約聖書を貫く最も大切な教えとも言えます。この十戒の第一の戒めは、(最新の訳)聖書協会共同訳で、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」と、神が複数形になっているのを発見しました。当時も今も、いろいろな神々が礼拝されています。しかし私たちは、聖書の神様のみ、イエス・キリストの父なる神様のみを礼拝します。八百万の神々を礼拝しないので、私は初詣でに行ったことはありません。「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」私たちは、十戒の第一のこの戒めを、これからも守り通してゆきます。第一の戒めを文語訳聖書で読むと、こうです。「汝、わが面の前に我のほか何物をも神とすべからず。」「わが面」とは「わが顔」のこと、神様の御顔のことです。ヘブライ語の旧約聖書を確認すると、確かに「面前」「顔」という言葉があります。それを明確に出して訳している日本語聖書は、私の持っている限りでは文語訳だけです。聖書協会共同訳も「面前」「顔」の言葉を出していません。それには何か理由があるのでしょうが、「面前」「顔」という言葉には、なかなかインパクトがあるので、訳に入れるとよいなと思います。そこで十戒の第一の戒めは、ぜひ文語訳で暗記するととてもよいと思うのです。「汝、わが面の前に我のほか何物をも神とすべからず。」

 私たちの礼拝、日々の生活は、いつも神様の視線を意識しながらの生活になるのですね。それはいつもイエス様が共にいて、私たちの全生活を慈愛の目で、時に厳しい目で、見て下さっていることを意識する生活であることを、胸に刻みたいのです。キリスト者の生き方は、この最も強い(全宇宙を創造した偉大な神)を畏れ敬うことで、他の支配者から自由になり、解放される生き方です。真の神、そして神の子イエス・キリストに従うことによって、他の支配者から解放される生き方です。

 ところがパウロが心配していることは、ガラテヤ教会の人々が逆戻りしていることです。8節以下「ところで、あなた方はかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている。いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなた方は、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなた方のために苦労したのは、無駄になったのではないかと、あなた方のことが心配です。」

 ガラテヤ教会には、ユダヤ教に近い考えの人々が入って来て、割礼を受けなければ天国に入れないと、間違った教えを説いたようです。これに対してパウロは、割礼は旧約聖書の時代な大事だったが、今は必要ないものになった。私たちに救いをもたらすのはイエス様の十字架と復活だけであると確信をもって説いています。その通りです。割礼に私たちを救う力はありません。イエス様の十字架の身代わりの死と復活だけが、私たちに天国と永遠の命を保証します。割礼のことはこれで片付きましたが、ガラテヤ教会の人々の問題は、「いろいろな日、月、時節、年」などを後生大事に守り始めたことです。それを守らないと天国に行けないとさえ、考えたのかもしれません。しかしそれは迷信であり、迷信に惑わされ、迷信に支配されてはいけないのです。現代にも、迷信があります。イエス様を信じる私たちは、それらをはっきり偶像崇拝として拒否する必要があります。雑誌等に星占いや占いが載っています。聖書では占いは罪として禁じられています。占いを捨てて、真の神様にのみ信頼して、祈ることが大切です。人間の心は弱く、占いの言葉に励まされたり、占いの言葉で落ち込んだりします。自動車の運転席などにお守りを下げている人も多いです。でもそれで事故を防ぐことはできません。占いにも、何の根拠もありません。それどころか、占いの霊で私たちを虜(奴隷)にしようとしているのは悪魔です。悪魔の手に乗ってはならず、クリスチャンは占いを意識的に拒否する必要があります。

 パウロが言う「無力で頼りにならない支配する諸霊」は、今の日本では、星占い等占いのほかにも、おみくじ、風水(方向にこだわって運気アップ?)等があると思います。大安、仏滅というものもあります。名前の漢字の画数などで運命が決まると思う人もいます。それらには何の力も根拠もありません。迷信です。それらに心が支配されないように、はっきり関わりを拒否して(「サタンよ、退け」)、真の神様にのみ祈り、真の神の御言葉である聖書を読むことが必要です。私どもの息子が生まれた時に、暫くして保育園を探そうとしたとき、近くに家庭保育所というのがあって、見学に行きました。責任者の女性の人柄もよかったので、そこに預けようとかと思いかかった時に、その責任者の女性が、子どもたちのために「手かざしの祈り」をすると言われました。これはキリスト教でない日本の宗教だと思いました。その方は善意でそれを行い、人柄はよいので、「近くて便利だしここに預けようか」と少し思ったのですが、やはり「手かざしの祈り」は困ると思い、やめました。最終的には、下里しおん保育園というキリスト教の保育園に入園できたので、近くて便利とは言え、「手かざし」にしなくてよかったということがありました。「手かざし」を熱心に行っている方は善意とは言え、悪の諸霊の奴隷になっているのです。

 パウロは、せっかく真の神様のみに従って真の自由を得たガラテヤ教会の人々が、無意味で有害な諸霊の支配に逆戻りすることを、何としても食い止める決意で、この手紙を書いています。パウロは訴えます。12節以下「私もあなた方のようになったのですから、あなた方も私のようになって下さい。」「パウロがガラテヤ教会の人々のようになった」とは、具体的にどのようなことか分かりませんが、罪でないことについてはパウロも彼らに自分を合わせたということでしょう。そしてパウロは「あなた方も私のようになって下さい」と訴えます。「支配する諸霊に逆戻りするな。イエス・キリストに従っている私を見なさい。そして私と同じに、イエス・キリストにひたすら従いなさい」と訴えます。私たちも、パウロと同じようにイエス様に従う者になりましょう。

 パウロは少し前まで、ガラテヤの教会の人々が、イエス様に喜んで従っていた理想的なときのことを思い出させようとします。「兄弟たち、お願いします。あなた方は、私に何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前私は、体が弱くなったことがきっかけで、あなた方に福音を告げ知らせました。そして、私の身には、あなた方にとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、私を神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなた方が味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなた方のために証言しますが、あなた方は、できることなら、自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです。」

 パウロが何か病気になって弱くなったことがきっかけで、パウロはガラテヤの人たちにイエス様を宣べ伝えたのでした。私たちにマイナスに見えることでも、神様は伝道のためにプラスに用いて下さることもあるのですね。パウロは眼の病気になったのではないかと言われます。眼が見苦しい状態になったのでしょう。普通なら忌み嫌われても仕方がないほど、見苦しかったのでしょう。ところがガラテヤの教会の人々が聖霊に満たされていて、イエス様の愛にあふれていたので、彼らはパウロをまるでイエス様であるかのように受け入れ、自分たちの目をえぐり出しても、パウロさんに与えたいとさえ、本気で言ったのです。「目」が複数なので、複数の人々が「パウロに自分の目を与えたい」と本気で言ったのでしょう。それほど彼らがパウロを、イエス様の愛で愛してくれました。

 ところがそこへ、ユダヤ教に近い考えを持つ人々、イエス様を救い主と信じるだけでは足りず、割礼を受けなければ天国に入ることはできないなどと説く人々が入り込み、ガラテヤの教会の人々を間違った方向に導いたのでした。パウロは逆戻りしてはいけないと訴えます。イエス・キリストにひたすら立ち帰るように訴えます。16節から。「すると、私は真理(イエス・キリスト)を語ったために、あなた方の敵となったのですか。あの者たちがあなた方に対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなた方を引き離したいのです。私があなた方のもとにいる場合だけに限らず、いつでも善意から熱心に慕われれるのは、よいことです。」

 パウロにとってガラテヤの教会の人々は、自分の信仰上の子どもたち、霊的な子どもたちです。それでこう語りかけます。19~20節「私の子どもたち、キリストがあなた方の内に形づくられるまで、私は、もう一度あなた方を産もうと苦しんでいます。できることなら、私は今あなた方のもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなた方のことで途方に暮れているからです。」二度と諸霊の奴隷になってはいけない、イエス様に喜んで従うことで、他の偽の神々の支配から解放されたのでだから、その自由を守りなさいと訴えています。

 私たちを奴隷にしようとする諸霊(悪の諸霊)は、本当に存在します。最近の報道でよく出て来るのは統一協会です。今は名前が変わったようですが、文鮮明という人(故人)を教祖とする団体で、日本にも以前は多くの信者がいました。壺を高額で買わせる霊感商法で社会問題になりました。統一協会に入ったことで、青春や人生を台無しにされた人が少なくないようです。私が洗礼を受けた教会にも当時、統一協会を抜けてクリスチャンになった方がおられました。文鮮明をメシア(救い主)と信じ、一時、統一協会という悪霊の虜にされていたと言わざるを得ないと思います。そこから解放されてクリスチャンになったのですから、よかったのです。オウム真理教という悪霊・悪魔もいました。その宗教に入ってしまった人々はサリン事件で多くの人を傷つけ、幹部は死刑という形で代償を支払いました。悪の諸霊が働いていますから、私たちがそれを断固退ける必要があります。

 パウロは言います。「私の子供たち、キリストがあなた方の内に形づくられるまで、私は、もう一度あなた方を産もうと苦しんでいます。」キリストの教会が、キリストの教会になるためにパウロは懸命に祈り、産みの苦しみをしています。「キリストがあなた方の内に形づくられるために。」キリストが主役なのです。キリストが主人公、キリストが中心です。東久留米教会の中心も、人間ではなくイエス・キリストです。「イエス様なら、どうなさるか。」役員会でも、教会総会でも、各部会や教会学校の話し合いでも、「イエス様なら、どうお考えになり、イエス様ならどう決めて行動なさるか」を中心にするのが教会ですね。私たち一人一人が聖書を読み、祈り、礼拝して聖霊を注がれて、イエス・キリストに似た一人一人に造り替えられることが大切と思います。イエス様が星占いやお守りに頼るなど考えられませんから、私たちもそれらに頼ることはしません。パウロはこの手紙で言います。2章19~20節「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」3章26~27節「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。」私たちの古い自分はイエス様と共に十字架につけられて死にました。私たち一人一人の主役は、イエス・キリストです。

 本日の9節に「支配する諸霊」とあります。それは各国のその時代の空気であることもよくあります。その時代を覆う精神、空気は、私たちを飲み込もうとします。その精神・空気の中にいると、それが当たり前になってしまい、その問題に気づきにくくなります。気づいても、その時代を支配する空気に反対することは難しい。戦争中の日本で、戦争に反対することは難しかったでしょう。反対すれば非国民と言われ、クリスチャンも戦争に反対しにくかったと聞きます。もっと前の日露戦争(1904~1905年)の時、日本で初めて良心的兵役拒否を行った矢部喜好という青会津若松出身の青年クリスチャンがいました。セブンスデイアドヴェンティストという教会に属していました。今、東久留米市でホーム・シャローム東久留米を運営している教団です。彼は、戦争は神様の意志に反するので、自分は国に命令されても兵士にならないと主張しました。彼が引用した聖書は、①出エジプト記20章13節「殺してはならない」(モーセの十戒の第六の戒め)。②マタイ福音書5章9節のイエス様の御言葉「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる」。③同じくマタイ福音書5章44節のイエス様の御言葉「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。④やはりマタイ福音書26章52節のイエス様の御言葉「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。矢部さんはしばらく牢獄に入ります。その後、説得され、衛生兵として従軍しました。妥協にも見えますが、若者が一人で聖書に基づき、政府を恐れず、戦争に反対した信仰は勇敢です。ロシアとの戦争に向かう時代の精神、時代の空気、ムードに流されなかったのです。

 日露戦争後にアメリカに10年近く留学した矢部さんは、帰国後は牧師として、琵琶湖畔を自転車で走り回って伝道に励みました。ガリラヤ湖畔で伝道されたイエス様を思いながら、琵琶湖畔でイエス様を宣べ伝え、膳所教会、大津教会で奉仕したようです。当時低く見られていた女性や子どもたちをよく教会に招きました。琵琶湖畔は、戦国時代に戦争だらけだった地域ですから、そこでイエス様の平和の福音を宣べ伝えることは、大いに意義があったと思います。矢部牧師は51才で病院で亡くなる直前に目を開き、「見える見える、天国が」「イエス様が見える」と言い、「ばんざーい」と叫んで息を引き取ったそうです。使徒言行録で殉教したステファノのように、本当に天国とイエス様が見えたのでしょう。「時代を支配する諸霊」を見抜き、それに流されず、諸霊に従うことを拒否し、イエス様に従う真の自由に生きた方です。私たちも、イエス様を愛しイエス様に従う、真に自由に生かされた参りたいのです。アーメン。
 
(祈り)御名讃美。東久留米教会が、「キリストの体」にますますなってゆくことができますように、力強く導いて下さい。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナが早く収まるように世界と日本をお助け下さい。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。