
2025-09-06 22:00:29(土)
「あなたも同じようにしなさい」 2025年9月7日(日)礼拝
(ルカによる福音書10:25~37) すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
(説教) 本日は、聖霊降臨節第14主日の公同礼拝です。説教題は「あなた同じもようにしなさい」です。小見出しは「善いサマリア人」です。どなたでもよく知っている個所であり、聖書の中で最も有名な個所の1つです。私たちは分かりきっていると思っているかもしれませんが、改めてこの御言葉に聴いてみたいと思います。
最初の25節「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」どの世界でも専門家の意見は優れていることが多いですが、専門家も神様ではないので、100点とは限らないでしょう。彼はイエス様より年上だったかもしれませんし、専門家として自信をもっていて、このイエスという若者が、どれだけ旧約聖書の律法を理解しているか、試してやろうと考えたのでしょう。イエス様のことを「先生」と呼んでいますが、内心は自分が先生で、イエス様が生徒との感覚だったと思います。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」確かにこの問い自体は、重要な問いと思います。
しかし、私たち皆の真の先生であるイエス様が逆に質問されます。26節「イエスが『律法(旧約聖書)には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』。」律法学者は模範解答を語ります。27節「彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」これは確かに、満点の解答です。イエス様もそれを認めて言われます。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」これらを実行すれば、永遠の命を得ることができるのです。
最初の「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは旧約聖書の申命記6章5節に書かれています。4節から読むと、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これは旧約聖書と新約聖書を貫く信仰の鉄則と思います。「尽くし」と訳された言葉は、「全て、全体、全部」の意味です。ですから、「あなたは、心全体で、魂全体で、力全てで、あなたの神、主を愛しなさい」の意味になります。そうすれば、他の神々(真の神でない)を拝む偶像崇拝など、私たちの心に入り込む余地がないことになります。私が「心全体で、魂全体で、力全てでイエス様と私たちの父なる神様を愛しているか」と言うと、そう心がけているつもりですが、まだ足りないと思います。
律法学者の模範解答の後半「隣人を自分のように愛しなさい」は、本日の旧約聖書・レビ記19章に出ています。17節はこうです。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。」その通りです。しかし私が心の中で一度も他人を憎んだことがないかと言えば、「ある」と答えざるを得ません。それは私の罪です。兄弟と書いてありますが、これはイスラエルの名中の男性たちを指すのかもしれません。姉妹と書いていないので、女性を含まないのかもしれません。旧約聖書は確かに男性中心の傾向があります。しかしイエス様はもちろん、そのような旧約聖書の限界を突破されるので、心の中で女性を憎んでも、罪になると思います。18節「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。私は主である。」「復讐してはならない。」これは確かに、既にイエス様の心に一致していると感じます。但し「民の人々」は、基本的にイスラエル人を指しているようです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」の隣人も、原則としてイスラエル人を指すようです。その意味では、イエス様はその限界を突破しておられ、敵も異邦人(外国人)をも愛するようにおっしゃっていると思います。
旧約聖書にこのような限界はあるのですが、例外もあります。このレビ記19章の9節以下に、こうあります。「「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。私はあなたたちの神、主である。」寄留者は、外国人の可能性が高いと思います。ですからイエス様の教えほど徹底していないと思いますが、旧約聖書にも外国人を愛する教えはあると言えます。
ルカに戻ります。律法学者は、模範解答をし、イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命(永遠の命)が得られる」と断言されました。問答はこれで終わるはずですが、律法学者が話を続けたので、イエス様が世界史に世の終わりまで残るすばらしい話を語って下さいました。29節「しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、私の隣人とは誰ですか』と言った。」「隣人の定義は何ですか」と言ったのです。「自分が愛すべき隣人と、愛する必要のない他人を、どこで線引きすればよいですか。」全く意味のない質問です。イエス様の答えは、愛に線引きはないというものです。この律法学者の質問自体が、自己中心の罪をさらけ出しています。しかし私も、もっともらしいふりをして、自分が賢いふりをして、自分を取り繕うために、このような愚かな発言をすることがあるのではないかと、自分のことが心配になります。
イエス様は彼の質問に、不滅の価値をもつ美しいたとえ話によってお答えになりました。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。」昔の度はこのように危険だらけで、命がけだったのですね。エルサレムとエリコでは、標高差1000mほどあるそうです。ある人は、ユダヤ人(イスラエル人)男性でしょう。彼は非常な重傷を負いましたが、ある祭司は見て見ぬふりをして、通り過ぎました。祭司はキリスト教会にあてはめれば、牧師や神父にあたります。しかし遠り過ぎました。聖書読みの聖書知らずなのです。レビ人も、見て見ぬふりをして、通り過ぎました。レビ人も、熱心な信仰者のはずなのに、です。祭司もレビ人も、ユダヤ人なのに、仲間のユダヤ人を見捨てました。
「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」この話は、やはり何よりも素直に読むことが一番大切と思います。「行って、あなたも同じようにしなさい。」私たちは、できるだけそのようにしたいと思っていると思います。
傷ついたユダヤ人を大いに助けたのは、サマリア人の男性です。多くの方がご存じのように、サマリアはイスラエルの土地の中にありましたが、半分異邦人(外国人)と見なされ、ユダヤ人からは嫌われ、互いに嫌い合っていたと思われます。敵同士、仇同士です。ユダヤ人を憎んでいるはずのサマリア人が、ユダヤ人男性を助けた所に、この話の大きなポイントがあります。このサマリア人は敵を愛したのですね。イエス様は、敵を愛しなさいとおっしゃいます。
この話をもっともらしく、こねくり回すことは避けたいです。ただ1つだけ敢えて申すならば、律法学者の「では、私の隣人とは誰ですか」の問いに、イエス様が話の最後でこう言われたことです。「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追剥に襲われた人の隣人になったと思うか。」律法学者は答えます。「その人を助けた人です。」その通りですね。律法学者は最初は、「私の隣人とは誰ですか」と質問し、あくまでも自分を中心に、自分を起点に考えていました。私たちは本能的にこのように発送します。しかしイエス様は、逆転したことを言われました。「あなたはこの三人の中で、誰が追剥に襲われた人の隣人になったと思うか。」追剥に襲われた人を中心に、その人を起点に考えて、誰がこの重傷を負った男性の隣人になったかと問われました。相手を中心に考え、私たち一人一人がその人の隣人になったかどうかが重要だと教えて下さいました。「私が愛すべき隣人は誰ですか」ではなく、困っているその人の隣人に「自分がなったか、ならなかったか」を考えなさい、と言われました。そう言われると、困っている人の隣人にならなかったことが何回も、何千回もある私であることを認めるほかなく、私の愛のなさを痛感するほかありません。毎回はできなくても、一歩ずつでも、他の方の「隣人になる」ように心がけたいと日々決心する人生になります。
もう一つ。これは私たちに愛の実行を求める話だと読むのがふつうと思いますが、このサマリア人こそ、イエス・キリストだという読み方もあり、それも間違っていないと思います。この場合、私たちが半殺しにされて倒れていた旅人になります。サマリア人は、倒れていたユダヤ人を「憐れに思った」とあります。これは、よく申し上げる通り、スプラング二ゾマイというギリシア語で、「内臓、はらわた」という言葉を内に含んでいます。つまり、このサマリア人は倒れている人を見て、自分のはらわたがきりきりと痛むほど全身全霊で、同情したと分かります。はらわたが痛んだのです。この愛は、神の愛であり、神の子イエス様の愛です。ですからこのサマリア人は、イエス様だという読み方が出てきます。
私たち一人一人も、世の中でいろいろと揉まれて、互いに傷つけたり、傷つけられて生きていると思います。そうして時に倒れてしまう私たちを、イエス様がいたわって下さいます。私たちは自分の罪のために、死の滅びに至る者として、永遠の命の希望なき者として生きていました。そのような私たちを憐れに思い、はらわたがきりきりと痛むほどに同情して、私たちを罪と死から救うために、イエス様が十字架について下さいました。このイエス様の愛がここで描かれているという読み方も間違いではないと思います。サマリア人は、近寄って油とぶどう酒を注いで介抱したわけですから、今から受ける聖餐式のぶどう液だと思えば、イエス様の十字架の血潮を表すぶどう液が、サマリア人が注いだぶどう酒と同じに私たちを癒すと思ってよいでしょう。
このサマリア人はイエス様だという読みで終えるわけにもいきません。イエス様の十字架と復活によって永遠の命をプレゼントされた者として、私たちの応答が求められます。「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われるので、私たちもイエス様ほどにはできなくても自分にできる範囲で、しかし精一杯、神様を愛し、隣人を愛したいと思います。イエス様のチャレンジ。ギブアンドテイクでない。「与えて報い求めぬ、真の愛の人と」(讃美歌21・520番)。礼儀作法を超える。
そう言いながらも、私は親切をいただくことの方が多い者だと、感謝致します。この一週間を振り返っても、自動車で送迎していただいたり、ある方からは教会への献金を届けていただいたり、ご親切をいただいて参りました。8月の終わりの方は、日本の教会青年と台湾の教会青年と共に広島市と長崎市を訪問する台湾ユースミッションという企画に参加していましたので、8/24(日)の礼拝は、日本キリスト教団長崎平和記念教会で守りました。牧師は神学校の先輩で、堀地正弘牧師・堀地敦子牧師ご夫妻でした。堀地先生の姿勢に大いに学びました。「礼拝の最中でも、説教の最中でも、遠慮なく水を飲んで下さい」と週報に書いてあります。猛暑の中で、これも教会の皆さんへの愛だと感じました。昔からそうなのですが、笑顔の多い先生であることを改めて思い、私は笑顔の少ない牧師だと、大変反省致しました。
最近の風潮には、疑問を持つ。アメリカファースト、日本人ファースト、都民ファースト。外国人へのヘイト。これは本日の御言葉の心に反する。昨日は、37年前に天に召された高校の友人の墓参りに計6人で八王子に行きました。彼は私にとって、善いサマリア人。「憐れみ深いサマリア人」と呼ぶ方が正確。コルベ神父。
「あなたも行って、同じようにしなさい。」これは私たちのイエス様のチャレンジですね。イエス様ほど隣人愛(敵をも愛する)に生きられません、自分にできる範囲で、しかし精一杯、このサマリア人の真似をして参りましょう。アーメン。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第14主日の公同礼拝です。説教題は「あなた同じもようにしなさい」です。小見出しは「善いサマリア人」です。どなたでもよく知っている個所であり、聖書の中で最も有名な個所の1つです。私たちは分かりきっていると思っているかもしれませんが、改めてこの御言葉に聴いてみたいと思います。
最初の25節「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」どの世界でも専門家の意見は優れていることが多いですが、専門家も神様ではないので、100点とは限らないでしょう。彼はイエス様より年上だったかもしれませんし、専門家として自信をもっていて、このイエスという若者が、どれだけ旧約聖書の律法を理解しているか、試してやろうと考えたのでしょう。イエス様のことを「先生」と呼んでいますが、内心は自分が先生で、イエス様が生徒との感覚だったと思います。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」確かにこの問い自体は、重要な問いと思います。
しかし、私たち皆の真の先生であるイエス様が逆に質問されます。26節「イエスが『律法(旧約聖書)には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』。」律法学者は模範解答を語ります。27節「彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」これは確かに、満点の解答です。イエス様もそれを認めて言われます。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」これらを実行すれば、永遠の命を得ることができるのです。
最初の「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは旧約聖書の申命記6章5節に書かれています。4節から読むと、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これは旧約聖書と新約聖書を貫く信仰の鉄則と思います。「尽くし」と訳された言葉は、「全て、全体、全部」の意味です。ですから、「あなたは、心全体で、魂全体で、力全てで、あなたの神、主を愛しなさい」の意味になります。そうすれば、他の神々(真の神でない)を拝む偶像崇拝など、私たちの心に入り込む余地がないことになります。私が「心全体で、魂全体で、力全てでイエス様と私たちの父なる神様を愛しているか」と言うと、そう心がけているつもりですが、まだ足りないと思います。
律法学者の模範解答の後半「隣人を自分のように愛しなさい」は、本日の旧約聖書・レビ記19章に出ています。17節はこうです。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。」その通りです。しかし私が心の中で一度も他人を憎んだことがないかと言えば、「ある」と答えざるを得ません。それは私の罪です。兄弟と書いてありますが、これはイスラエルの名中の男性たちを指すのかもしれません。姉妹と書いていないので、女性を含まないのかもしれません。旧約聖書は確かに男性中心の傾向があります。しかしイエス様はもちろん、そのような旧約聖書の限界を突破されるので、心の中で女性を憎んでも、罪になると思います。18節「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。私は主である。」「復讐してはならない。」これは確かに、既にイエス様の心に一致していると感じます。但し「民の人々」は、基本的にイスラエル人を指しているようです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」の隣人も、原則としてイスラエル人を指すようです。その意味では、イエス様はその限界を突破しておられ、敵も異邦人(外国人)をも愛するようにおっしゃっていると思います。
旧約聖書にこのような限界はあるのですが、例外もあります。このレビ記19章の9節以下に、こうあります。「「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。私はあなたたちの神、主である。」寄留者は、外国人の可能性が高いと思います。ですからイエス様の教えほど徹底していないと思いますが、旧約聖書にも外国人を愛する教えはあると言えます。
ルカに戻ります。律法学者は、模範解答をし、イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命(永遠の命)が得られる」と断言されました。問答はこれで終わるはずですが、律法学者が話を続けたので、イエス様が世界史に世の終わりまで残るすばらしい話を語って下さいました。29節「しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、私の隣人とは誰ですか』と言った。」「隣人の定義は何ですか」と言ったのです。「自分が愛すべき隣人と、愛する必要のない他人を、どこで線引きすればよいですか。」全く意味のない質問です。イエス様の答えは、愛に線引きはないというものです。この律法学者の質問自体が、自己中心の罪をさらけ出しています。しかし私も、もっともらしいふりをして、自分が賢いふりをして、自分を取り繕うために、このような愚かな発言をすることがあるのではないかと、自分のことが心配になります。
イエス様は彼の質問に、不滅の価値をもつ美しいたとえ話によってお答えになりました。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。」昔の度はこのように危険だらけで、命がけだったのですね。エルサレムとエリコでは、標高差1000mほどあるそうです。ある人は、ユダヤ人(イスラエル人)男性でしょう。彼は非常な重傷を負いましたが、ある祭司は見て見ぬふりをして、通り過ぎました。祭司はキリスト教会にあてはめれば、牧師や神父にあたります。しかし遠り過ぎました。聖書読みの聖書知らずなのです。レビ人も、見て見ぬふりをして、通り過ぎました。レビ人も、熱心な信仰者のはずなのに、です。祭司もレビ人も、ユダヤ人なのに、仲間のユダヤ人を見捨てました。
「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」この話は、やはり何よりも素直に読むことが一番大切と思います。「行って、あなたも同じようにしなさい。」私たちは、できるだけそのようにしたいと思っていると思います。
傷ついたユダヤ人を大いに助けたのは、サマリア人の男性です。多くの方がご存じのように、サマリアはイスラエルの土地の中にありましたが、半分異邦人(外国人)と見なされ、ユダヤ人からは嫌われ、互いに嫌い合っていたと思われます。敵同士、仇同士です。ユダヤ人を憎んでいるはずのサマリア人が、ユダヤ人男性を助けた所に、この話の大きなポイントがあります。このサマリア人は敵を愛したのですね。イエス様は、敵を愛しなさいとおっしゃいます。
この話をもっともらしく、こねくり回すことは避けたいです。ただ1つだけ敢えて申すならば、律法学者の「では、私の隣人とは誰ですか」の問いに、イエス様が話の最後でこう言われたことです。「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追剥に襲われた人の隣人になったと思うか。」律法学者は答えます。「その人を助けた人です。」その通りですね。律法学者は最初は、「私の隣人とは誰ですか」と質問し、あくまでも自分を中心に、自分を起点に考えていました。私たちは本能的にこのように発送します。しかしイエス様は、逆転したことを言われました。「あなたはこの三人の中で、誰が追剥に襲われた人の隣人になったと思うか。」追剥に襲われた人を中心に、その人を起点に考えて、誰がこの重傷を負った男性の隣人になったかと問われました。相手を中心に考え、私たち一人一人がその人の隣人になったかどうかが重要だと教えて下さいました。「私が愛すべき隣人は誰ですか」ではなく、困っているその人の隣人に「自分がなったか、ならなかったか」を考えなさい、と言われました。そう言われると、困っている人の隣人にならなかったことが何回も、何千回もある私であることを認めるほかなく、私の愛のなさを痛感するほかありません。毎回はできなくても、一歩ずつでも、他の方の「隣人になる」ように心がけたいと日々決心する人生になります。
もう一つ。これは私たちに愛の実行を求める話だと読むのがふつうと思いますが、このサマリア人こそ、イエス・キリストだという読み方もあり、それも間違っていないと思います。この場合、私たちが半殺しにされて倒れていた旅人になります。サマリア人は、倒れていたユダヤ人を「憐れに思った」とあります。これは、よく申し上げる通り、スプラング二ゾマイというギリシア語で、「内臓、はらわた」という言葉を内に含んでいます。つまり、このサマリア人は倒れている人を見て、自分のはらわたがきりきりと痛むほど全身全霊で、同情したと分かります。はらわたが痛んだのです。この愛は、神の愛であり、神の子イエス様の愛です。ですからこのサマリア人は、イエス様だという読み方が出てきます。
私たち一人一人も、世の中でいろいろと揉まれて、互いに傷つけたり、傷つけられて生きていると思います。そうして時に倒れてしまう私たちを、イエス様がいたわって下さいます。私たちは自分の罪のために、死の滅びに至る者として、永遠の命の希望なき者として生きていました。そのような私たちを憐れに思い、はらわたがきりきりと痛むほどに同情して、私たちを罪と死から救うために、イエス様が十字架について下さいました。このイエス様の愛がここで描かれているという読み方も間違いではないと思います。サマリア人は、近寄って油とぶどう酒を注いで介抱したわけですから、今から受ける聖餐式のぶどう液だと思えば、イエス様の十字架の血潮を表すぶどう液が、サマリア人が注いだぶどう酒と同じに私たちを癒すと思ってよいでしょう。
このサマリア人はイエス様だという読みで終えるわけにもいきません。イエス様の十字架と復活によって永遠の命をプレゼントされた者として、私たちの応答が求められます。「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われるので、私たちもイエス様ほどにはできなくても自分にできる範囲で、しかし精一杯、神様を愛し、隣人を愛したいと思います。イエス様のチャレンジ。ギブアンドテイクでない。「与えて報い求めぬ、真の愛の人と」(讃美歌21・520番)。礼儀作法を超える。
そう言いながらも、私は親切をいただくことの方が多い者だと、感謝致します。この一週間を振り返っても、自動車で送迎していただいたり、ある方からは教会への献金を届けていただいたり、ご親切をいただいて参りました。8月の終わりの方は、日本の教会青年と台湾の教会青年と共に広島市と長崎市を訪問する台湾ユースミッションという企画に参加していましたので、8/24(日)の礼拝は、日本キリスト教団長崎平和記念教会で守りました。牧師は神学校の先輩で、堀地正弘牧師・堀地敦子牧師ご夫妻でした。堀地先生の姿勢に大いに学びました。「礼拝の最中でも、説教の最中でも、遠慮なく水を飲んで下さい」と週報に書いてあります。猛暑の中で、これも教会の皆さんへの愛だと感じました。昔からそうなのですが、笑顔の多い先生であることを改めて思い、私は笑顔の少ない牧師だと、大変反省致しました。
最近の風潮には、疑問を持つ。アメリカファースト、日本人ファースト、都民ファースト。外国人へのヘイト。これは本日の御言葉の心に反する。昨日は、37年前に天に召された高校の友人の墓参りに計6人で八王子に行きました。彼は私にとって、善いサマリア人。「憐れみ深いサマリア人」と呼ぶ方が正確。コルベ神父。
「あなたも行って、同じようにしなさい。」これは私たちのイエス様のチャレンジですね。イエス様ほど隣人愛(敵をも愛する)に生きられません、自分にできる範囲で、しかし精一杯、このサマリア人の真似をして参りましょう。アーメン。
2025-08-31 0:17:03()
「聖霊の喜びにあふれる」 2025年8月31日(日)礼拝
(ルカによる福音書10:17~24)
七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
0⃣
(説教) 本日は、聖霊降臨節第13主日の公同礼拝です。説教題は「聖霊の喜びにあふれる」です。小見出しは「七十二人、帰って来る」です。
イエス・キリストは十二弟子以外の72名を任命し、伝道に派遣しました。その際に、こう言われました。「どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また。『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」イエス様はこうも言われたのです。「私はあなた方を遣わす。それは狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」こう言われて72名は、緊張したのではないでしょうか。狼の群れは、悪魔の群れとも言えます。これは前途多難に違いない。しかし、目に見えなくてもイエス・キリストがいつも共にいて、72名を守って下さったようです。
本日の最初の17節「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します。』」72人は興奮気味だったようです。彼らは派遣された先で「イエス様の御名によって命じる。悪霊よ、このAさんから出て行け」と命じたのではないかと思います。すると悪霊が出て行ったのだと思います。彼らは驚き、自分たちに神の奇跡的な力が与えられたと思い、興奮したと思います。しかしイエス様は言われます。18節「私は、サタン(悪魔)が稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」悪魔は、神との闘いに敗れて、天から地上に落ちたのです。神様の勝利が確定しており、悪魔の敗北は決定済みです。ですから、悪魔の手下である悪霊どもも、72人がイエス様の名前を使うと屈服したのです。
厳密に言うと、悪魔の決定的な敗北は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現します。イエス様は、十字架という最大以上の不当な苦難に遭っても、一つも罪を犯しませんでした。ぶつぶつ不平を言う罪さえ、一度も犯しませんでした。「わが主よ、わが主よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、大声で叫ばれましたが、これは父なる神様への問いかけであり、不平不満を言う罪を犯したのではありません。イエス様が一度でも罪を犯せば、イエス様が悪魔に敗北します。しかしイエス様は、ただの一度も罪を犯さず、悪魔の全ての誘惑に勝利されました。悪魔は、イエス様に完全に敗北しました。もはや悪魔には、天にはもちろん、この地上にも居場所はありません。但し、最後の審判の時に、火の池に投げ込まれる時までは、最後のあがきをして私たちを誘惑するので、誘惑に負けないように注意が必要です。
悪魔が天から落ちる場面は、ヨハネの黙示録12章7節以下にも、記されています。「天で戦いが起こった。ミカエル(天使)とその使いたちが、竜(天使)に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。私(ヨハネ)は、天で大きな声が次のように言うのを聞いた。『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちと告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまで命を惜しまなかった。』」
19節「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」敵は悪魔です。私たちには、本当は人間の敵はいません。気が合わない人がいても、真の敵ではありません。真の敵は悪魔です。そして私たちの心の中の罪も、私たちの敵です。確かに72人には、悪魔のあらゆる力に打ち勝つ権威が与えられていたと思います。しかし今の私たちに、そのような奇跡的な力はないと思います。私たちは聖霊によってさまざまな賜物を与えられているとしても、病気を癒したり、悪霊を追い出す力は弱いと思います。しかしイエス・キリストは、その力をお持ちです。「あなた方に害を加えるものは何一つない。」
本日の旧約聖書は、イザヤ書11章です。1節の「若枝」はイエス・キリストを指すので、クリスマスによく読まれます。全体として「神の国」の姿を描きます。新しい天と新しい地の姿、理想の姿を示します。6節「狼は小羊と共に宿り、豹は来山羊と共に伏す。」今の世界ではあり得ません。日本では熊が人を襲う怖いことが多発しています。でも神の国では、この完全な平和が実現します。9節「私の聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。その日(神の国の完成)が来れば、エッサイの根(救い主イエス・キリスト)は、全ての民の旗印として立てられ、国々(ユダヤ人と異邦人)はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」
20節「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」奇跡を行う力が与えられることは光栄なことです。しかしそのような特別の力が与えらえると、人間はついつい、思い上がるのではないでしょうか。イエス様は、彼らが有頂天になることを戒められたと思います。奇跡を行う力が与えられたことで、自分を過大評価するのではなく、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」あなた方に永遠の命が保証されていること、天国に入ることが確約されていることこそ、神の清き霊である聖霊という最も尊い霊が与えらていることこそ、唯一の最大の喜びであるはずだ。天国に入れていただくと、きっと多くのいわゆる無名の人々が、神様の祝福を受けて、神様を讃美しているに違いありません。イエス・キリストは、この世の権力者になる道を拒否されました。昔の日本の軍人の写真を見ると、多くの勲章を服につけて、写真におさまっています。あの数々の勲章が、彼らの誇りだったのでしょう。あのようにならないように注意しなければいけません。有名なスポーツ選手も、多くのトロフィーや表彰状を自宅に飾っているかもしれません。スポーツの勝利至上主義も、部内暴力などの問題を生み出しています。イエス様は、私たちの全部の罪を背負って十字架で死ぬ、最も謙虚で奉仕に徹する生き方をなさったのですから、私たちもそのイエス様に従いたいと切望しています。
悪霊を追い出すような奇跡的な力を与えられると、私たち人間は思い上がりやすい。イエス様は、マタイ福音書7章22節以下でこう言われます。「かの日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、私はきっぱりこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」奇跡を行う力を与えられていることが、私たちに永遠の命を保証しないのです。そうではなくて、謙遜にイエス様を信じて、イエス様と共に父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛することが、永遠の命につながると、私は改めて示されます。
次の小見出しは「喜びにあふれる」です。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」聖霊による喜び! それはこの地上での私たちの自然の喜怒哀楽とは別のようです。昨年度の標語聖句、ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節が思い浮かびます。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」この実に、敢えてもう一つ加えるが許されるならば、それは慰めです。聖霊は聖なる慰めの霊でもあられます。この聖霊が満ちあふれる場が、礼拝です。コリントの信徒への手紙(一)1章26節以下。
22節「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」これはマタイ福音書の最後で、イエス様がおっしゃっていることと同じです。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」これは、ヨハネの黙示録17章の御言葉を用いれば、「主の主、王の王」ということです。ヘンデル作曲メサイアの言葉で用いれば「キングオヴキングス、ロードオヴローズ」です。イエス・キリストが世界の全宇宙の王。全宇宙の全ての決定権を握っておられます。それなのに最も謙虚な方であるイエス・キリストを、私どもは今礼拝しています。
23節以下「それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。』」旧約聖書には名だたる預言者たちが登場します。エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルたちです。彼らも真の救い主に会いたくて会いたくて仕方がなかった。彼らは会えなかったのです。旧約聖書には有名な王たちが登場します。ダビデ、その子ソロモンたちです。彼らもきっと真の救い主の言葉を聞きたくて聞きたくて仕方がなかった。そして彼らは聞けなかったのです。ところがイエス様の弟子たちは真の救い主イエス様を目の当たりに見ているのです。旧約聖書の時代の預言者たちや王たちがうらやむに違いないのです。私たちも新約聖書によってイエス様の言葉をたくさん聞いているのです。イザヤ、エレミヤ、ダビデ、ソロモンがそれを聞いたら、うらやましがるに違いないのです。そのような本当の幸せを私たちは与えられています。これが福音です。イエス様を知ることは、いわゆるこの地上の物質的な幸せとは違うでしょう。心の幸せです。ですが大きな慰めであり恵みです。ペトロの手紙(一)1章10節以下。
「あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」「イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。」この喜びは、ほぼ同じ喜びだと思います。イエス・キリストへの信仰こそ、真の喜びです。これは聖霊によって与えらる喜びで、自分の力で勝ち取る喜びではなく、神様が聖霊によって与えて下さる天から来る喜びです。死に至るまで忠実で命を惜しまない26聖人こそ聖霊に満たされ、権力者にも打ち勝った、信仰の勝利者。アーメン。
七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
0⃣
(説教) 本日は、聖霊降臨節第13主日の公同礼拝です。説教題は「聖霊の喜びにあふれる」です。小見出しは「七十二人、帰って来る」です。
イエス・キリストは十二弟子以外の72名を任命し、伝道に派遣しました。その際に、こう言われました。「どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また。『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」イエス様はこうも言われたのです。「私はあなた方を遣わす。それは狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」こう言われて72名は、緊張したのではないでしょうか。狼の群れは、悪魔の群れとも言えます。これは前途多難に違いない。しかし、目に見えなくてもイエス・キリストがいつも共にいて、72名を守って下さったようです。
本日の最初の17節「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します。』」72人は興奮気味だったようです。彼らは派遣された先で「イエス様の御名によって命じる。悪霊よ、このAさんから出て行け」と命じたのではないかと思います。すると悪霊が出て行ったのだと思います。彼らは驚き、自分たちに神の奇跡的な力が与えられたと思い、興奮したと思います。しかしイエス様は言われます。18節「私は、サタン(悪魔)が稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」悪魔は、神との闘いに敗れて、天から地上に落ちたのです。神様の勝利が確定しており、悪魔の敗北は決定済みです。ですから、悪魔の手下である悪霊どもも、72人がイエス様の名前を使うと屈服したのです。
厳密に言うと、悪魔の決定的な敗北は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現します。イエス様は、十字架という最大以上の不当な苦難に遭っても、一つも罪を犯しませんでした。ぶつぶつ不平を言う罪さえ、一度も犯しませんでした。「わが主よ、わが主よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、大声で叫ばれましたが、これは父なる神様への問いかけであり、不平不満を言う罪を犯したのではありません。イエス様が一度でも罪を犯せば、イエス様が悪魔に敗北します。しかしイエス様は、ただの一度も罪を犯さず、悪魔の全ての誘惑に勝利されました。悪魔は、イエス様に完全に敗北しました。もはや悪魔には、天にはもちろん、この地上にも居場所はありません。但し、最後の審判の時に、火の池に投げ込まれる時までは、最後のあがきをして私たちを誘惑するので、誘惑に負けないように注意が必要です。
悪魔が天から落ちる場面は、ヨハネの黙示録12章7節以下にも、記されています。「天で戦いが起こった。ミカエル(天使)とその使いたちが、竜(天使)に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。私(ヨハネ)は、天で大きな声が次のように言うのを聞いた。『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちと告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまで命を惜しまなかった。』」
19節「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」敵は悪魔です。私たちには、本当は人間の敵はいません。気が合わない人がいても、真の敵ではありません。真の敵は悪魔です。そして私たちの心の中の罪も、私たちの敵です。確かに72人には、悪魔のあらゆる力に打ち勝つ権威が与えられていたと思います。しかし今の私たちに、そのような奇跡的な力はないと思います。私たちは聖霊によってさまざまな賜物を与えられているとしても、病気を癒したり、悪霊を追い出す力は弱いと思います。しかしイエス・キリストは、その力をお持ちです。「あなた方に害を加えるものは何一つない。」
本日の旧約聖書は、イザヤ書11章です。1節の「若枝」はイエス・キリストを指すので、クリスマスによく読まれます。全体として「神の国」の姿を描きます。新しい天と新しい地の姿、理想の姿を示します。6節「狼は小羊と共に宿り、豹は来山羊と共に伏す。」今の世界ではあり得ません。日本では熊が人を襲う怖いことが多発しています。でも神の国では、この完全な平和が実現します。9節「私の聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。その日(神の国の完成)が来れば、エッサイの根(救い主イエス・キリスト)は、全ての民の旗印として立てられ、国々(ユダヤ人と異邦人)はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」
20節「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」奇跡を行う力が与えられることは光栄なことです。しかしそのような特別の力が与えらえると、人間はついつい、思い上がるのではないでしょうか。イエス様は、彼らが有頂天になることを戒められたと思います。奇跡を行う力が与えられたことで、自分を過大評価するのではなく、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」あなた方に永遠の命が保証されていること、天国に入ることが確約されていることこそ、神の清き霊である聖霊という最も尊い霊が与えらていることこそ、唯一の最大の喜びであるはずだ。天国に入れていただくと、きっと多くのいわゆる無名の人々が、神様の祝福を受けて、神様を讃美しているに違いありません。イエス・キリストは、この世の権力者になる道を拒否されました。昔の日本の軍人の写真を見ると、多くの勲章を服につけて、写真におさまっています。あの数々の勲章が、彼らの誇りだったのでしょう。あのようにならないように注意しなければいけません。有名なスポーツ選手も、多くのトロフィーや表彰状を自宅に飾っているかもしれません。スポーツの勝利至上主義も、部内暴力などの問題を生み出しています。イエス様は、私たちの全部の罪を背負って十字架で死ぬ、最も謙虚で奉仕に徹する生き方をなさったのですから、私たちもそのイエス様に従いたいと切望しています。
悪霊を追い出すような奇跡的な力を与えられると、私たち人間は思い上がりやすい。イエス様は、マタイ福音書7章22節以下でこう言われます。「かの日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、私はきっぱりこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」奇跡を行う力を与えられていることが、私たちに永遠の命を保証しないのです。そうではなくて、謙遜にイエス様を信じて、イエス様と共に父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛することが、永遠の命につながると、私は改めて示されます。
次の小見出しは「喜びにあふれる」です。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」聖霊による喜び! それはこの地上での私たちの自然の喜怒哀楽とは別のようです。昨年度の標語聖句、ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節が思い浮かびます。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」この実に、敢えてもう一つ加えるが許されるならば、それは慰めです。聖霊は聖なる慰めの霊でもあられます。この聖霊が満ちあふれる場が、礼拝です。コリントの信徒への手紙(一)1章26節以下。
22節「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」これはマタイ福音書の最後で、イエス様がおっしゃっていることと同じです。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」これは、ヨハネの黙示録17章の御言葉を用いれば、「主の主、王の王」ということです。ヘンデル作曲メサイアの言葉で用いれば「キングオヴキングス、ロードオヴローズ」です。イエス・キリストが世界の全宇宙の王。全宇宙の全ての決定権を握っておられます。それなのに最も謙虚な方であるイエス・キリストを、私どもは今礼拝しています。
23節以下「それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。』」旧約聖書には名だたる預言者たちが登場します。エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルたちです。彼らも真の救い主に会いたくて会いたくて仕方がなかった。彼らは会えなかったのです。旧約聖書には有名な王たちが登場します。ダビデ、その子ソロモンたちです。彼らもきっと真の救い主の言葉を聞きたくて聞きたくて仕方がなかった。そして彼らは聞けなかったのです。ところがイエス様の弟子たちは真の救い主イエス様を目の当たりに見ているのです。旧約聖書の時代の預言者たちや王たちがうらやむに違いないのです。私たちも新約聖書によってイエス様の言葉をたくさん聞いているのです。イザヤ、エレミヤ、ダビデ、ソロモンがそれを聞いたら、うらやましがるに違いないのです。そのような本当の幸せを私たちは与えられています。これが福音です。イエス様を知ることは、いわゆるこの地上の物質的な幸せとは違うでしょう。心の幸せです。ですが大きな慰めであり恵みです。ペトロの手紙(一)1章10節以下。
「あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」「イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。」この喜びは、ほぼ同じ喜びだと思います。イエス・キリストへの信仰こそ、真の喜びです。これは聖霊によって与えらる喜びで、自分の力で勝ち取る喜びではなく、神様が聖霊によって与えて下さる天から来る喜びです。死に至るまで忠実で命を惜しまない26聖人こそ聖霊に満たされ、権力者にも打ち勝った、信仰の勝利者。アーメン。
2025-08-17 3:26:19()
「神の国は、あなたがたに近づいた」 2025年8月17日(日)礼拝
(ルカによる福音書10:1~16)
その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
◆悔い改めない町を叱る
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」
(説教) 本日は、聖霊降臨節第11主日の公同礼拝です。説教題は「神の国は、あなたがたに近づいた」です。小見出しは「七十二人を派遣する」と「悔い改めない町を叱る」です。
本日の直前の個所でイエス・キリストは、「私に従いなさい。神の国を言い広めなさい。鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と語られました。そして本日の個所では、72人を伝道に送り出されます。これはイエス様による伝道者派遣の第二弾です。9章で第一回目の派遣が行われました。この時は12名弟子たちの派遣でした。今回は72名を派遣されます。第1節「その後、主はほかに72人を任命し、御自分がいくつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」この72人は、十二弟子たち以外の人々なのでしょう。72人の派遣は、ルカによる福音書だけにある場面です。他の福音書には、ありません。
この72という数字は、世界の全民族を表す象徴的な数字ではないかと言われます。イエス様が72名を派遣なさった先は、イスラエル国内です。ですがここで既に、全世界への伝道のヴィジョンが語られていると言えます。現実の世界伝道は、イエス様の十字架の死と復活後に、使徒言行録において行われてゆきます。しかしその先取りが、本日の個所で語られています。イエス様は「御自分は行くつもりのすべての町や村に二人ずつ遣わされた」と書かれています。ですから36の町や村へ、二人ずつ遣わされたことになります。「二人ずつ」ということも大切です。二人の証言が非常に大切と、旧約聖書に書かれています。申命記19章15節「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯すつ罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証言によって、そのことは立証されねばならない。」使徒言行録においても、パウロ(サウロ)の第一次伝道旅行の時に、サウロとバルナバの二人が、アンティオキア教会によって派遣されています。
イエス様は72人に言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き人を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」この御言葉は、神学校の学生募集のポスター等によく使われますが、この御言葉はそのためだけにあるのではありませんね。収穫の主は、もちろん父なる神様です。収穫は、人々が真の神様を信じ、救い主イエス・キリストを信じて救われ、神の民に加えられることです。私たちは、収穫のための働き人を、神様が多く起こして下さるように祈り、自分も伝道する気持ちが必要と思います。今、日本の教会全体が縮小傾向にあります。東京神学大学でも、入学生・卒業生共に明らかに減っています。各神学校は、入学生の確保のために、必死になっています。働き手は確かに減っています。これが現状であることを私たちも強く心に留めることが必要です。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」私たちも、祈り続ける必要があります。
3節「行きなさい。私はあなた方を遣わす。それは狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。」小羊は、小さく弱い存在です。派遣れるクリスチャン・伝道者は、小羊のような者だと、イエス様はおっしゃいます。行く先には危険もあります。狼の群れが待っているとイエス様は言われます。狼とは迫害する者たち、間違った教えを説く人々でしょう。確かに、イエス様ご自身も各地で受け入れられいのです。弟子たちも同じです。小羊と言えば、ヨハネ福音書1章で、洗礼者ヨハネがイエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言っています。イエス様御自分が、小羊です。小羊イエス様は、武器を持って抵抗はなさいません。黙々と十字架に向かって行かれました。そして十字架の死の後に、復活の勝利を遂げられます。そのイエス・キリストが、いつも共にいて派遣される72人を守って下さいます。行く先には、狼の群れもいます。ですがイエス・キリストが守って下さいます。
4節「財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶するな。」今の日本で、完全にこの通りにするのは難しいです。イエス様は7,8節で「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。~どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」目には見えなくても、イエス・キリストがいつも共にいて、伝道者たちを守っていて下さいます。ですから伝道者たちは狼たちから守られ、平和の神の国を宣べ伝えることができます。イエス様は十字架にかかる前夜に弟子たちに、「財布も袋も履物も持たせずにあなた方を遣わしたとき、何か不足したものがあったか」と問われました。弟子たちは「いいえ、何もありませんでした」と答えました。イエス・キリストがいつも共にいて、必要なものを皆、備えて下さるので、思い煩わないように。心配しないように。これがイエス・キリストのメッセージです。
5節「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、あなた方の願う平和はあなた方に戻って来る。」私たちキリスト者は、皆がキリストを伝える伝道者であり、神の国の平和の福音を運ぶ者です。大変光栄な使命を与えられていることを、心より感謝したいと思います。先週の火曜日に、教会の周辺の家々に、本日午後の子ども会の案内チラシを配っていましたら、近くのシャローム東久留米(セブンスデーアドヴェンティストというキリスト教会の高齢者施設)のヴァンが、デイケアサービスの利用者をこの教会のすぐ近くに送り届けていました。その職員の方と挨拶できました。私も下里しおん保育園の子供たちと、「花の日」の時などに訪問することがあるので、私のことも覚えていて下さり、感謝でした。シャロームはもちろん平和の意味です。キリスト教会の施設が、キリストの愛によってこの地域にも、キリストの平和を運んでおられる。このシャロームの働きもまた、この地域に「神の国が来ている」ことの証し、証拠です。イザヤ52。
イエス様は、72人に言われます。「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。マタイ福音書10章では、「働く者が食べ物を受けるのは当然だからである」になっています。8節「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」マタイ福音書10章では、イエス様が12人の派遣なさる時、「異邦人の道、サマリア人の町に行くな」と言っておられますが、本日のルカによる福音書は、72人の派遣という別の個所であり、「異邦人の道、サマリア人の町に行くな」と言われていないので、72人が行った先には、イスラエルより少し外の異邦人の土地や、イスラエル内だが半分異邦人のようなサマリア人の土地もあったかもしれません。その町でどこかの家に迎え入れられたら、「出される物を食べなさい」とイエス様は言われます。旧約聖書には食物規定がありますが、それに違反する食べ物が出る可能性もあります。「出される物を食べなさい。自由に食べなさい」ということです。旧約聖書も聖書ですが、イエス様は、食物規定から解放されなさいと言っておられることになります。パウロがコリントの信徒への手紙(一)10章27節以下で、「あなた方が、信仰を持っていない人(異邦人)から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と言っていることと、一致するようです。「出される物を食べなさい」は、食物規定からの解放を語っています。
「町の病人を癒し。」私たちの多くには、他人の病気を癒す力はありません。医者であれば治療し、看護師ならケアを行います。私たちにできることは、ご病気の方々が癒されるように祈ることです。それで癒されることはあります。8月は敗戦のことを思うと同時に、1985年8月14日に起きた日航機墜落事故を思うときでもります。今年で40年で、新聞でかなり報道されています。坂本九さんという歌手も亡くなりました。インターネットで読みましたが、その夫人を一生懸命慰め続けたのが、黒柳徹子さんだそうです。黒柳さんはクリスチャンと聞いています。ご夫人からの深夜の電話も受けて話を聴き、多くの手紙を出し続け、慰めようと心を砕き続けたそうです。悲しみが完全に癒されることはないでしょうが、黒柳さんも神様に祈りながら手紙を出し続けたのでしょう。「病人を癒し」と同じではありませんが、魂の深い傷を少しでも慰めようとなさったのは、イエス様への信仰があるからでしょう。
10節「しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」「足の埃を払い落して、その町の人々に返す」、これは抗議のしるしですね。パウロがこれを使徒言行録13章で実行しています。ローマ帝国のピシディア州のアンティオキアで伝道し、異邦人たちが信仰に入りましたが、ユダヤ人から迫害されました。パウロと盟友のバルナバは、彼らに対して足の塵を払い落とし、そこを去ってイコニオンに行きました。イエス様は「しかし、神の国が近づいたことを知れ」と言うように言われます。ある人はこの「しかし」が大事だと言われます。すぐに神の裁きが下るのではなく、まだ悔い改める時間が残されていることを、この「しかし」が表しています。神の憐れみを示す「しかし」です。この期間を、有効に用いる必要があります。
次の小見出しは、「悔い改めない町を叱る」です。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、イエス様が宣教されたガリラヤ湖周辺の町です。特にカファルナウムは、イエス様が住まわれた町です。しかしこの町々が、イエス様と弟子たちのメッセージを受け入れなかったのです。それはイエス様の深い悲しみだったと思います。「コラジン、お前は不幸だ。」「不幸だ」はギリシャ語で「ウーアイ」です。うう、ああといううめきです。新改訳聖書は、その通りに訳しています。「ああコラジン、ああベツサイダ。」口語訳は「災いだ」、新共同訳は「不幸だ」、聖書協会共同訳は「災いあれ」。「ウーアイ」は、神様(イエス・キリスト)の悲しみと怒りが入り交ざった感嘆詞だと思います。悲痛な言葉です。「ああ、真の神様のメッセージを受け入れないとは、何と不幸なことか」ということと思います。
コラジンの町は、当時のガリラヤ地方の重要な町の一つだったそうで、紀元4世紀に滅んだそうです。これはイエス様の御言葉の通りになったということかもしれません。ベトサイダは「漁夫の家」の意味で、ヨハネ福音書1章によると、ペトロとその兄弟アンデレの出身地がベトサイダです。「お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。」ティルスとシドンは、イスラエルより北の異邦人の町、商業の町で、悪徳がはびこり、イザヤ書23章でも批判されている町です。イエス様は、コラジン、ベトサイダよりも、ティルスとシドンの方がましだと、厳しく言われます。カファルナウムにも実に厳しい言葉が語られます。「お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」72人は、イエス様の代理人なので、この72人(伝道者、クリスチャン)を拒むことは、イエス様を拒むこと、イエス様を派遣された父なる神様を拒否する罪になります。永遠の命と天国を拒否することになってしまいます。イエス様は、弟子たち(クリスチャンたち)を通して語られる御言葉を、私たちが受け入れることを、切にお祈り致します。 昨日の落合川での洗礼式。 アーメン。
その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
◆悔い改めない町を叱る
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」
(説教) 本日は、聖霊降臨節第11主日の公同礼拝です。説教題は「神の国は、あなたがたに近づいた」です。小見出しは「七十二人を派遣する」と「悔い改めない町を叱る」です。
本日の直前の個所でイエス・キリストは、「私に従いなさい。神の国を言い広めなさい。鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と語られました。そして本日の個所では、72人を伝道に送り出されます。これはイエス様による伝道者派遣の第二弾です。9章で第一回目の派遣が行われました。この時は12名弟子たちの派遣でした。今回は72名を派遣されます。第1節「その後、主はほかに72人を任命し、御自分がいくつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」この72人は、十二弟子たち以外の人々なのでしょう。72人の派遣は、ルカによる福音書だけにある場面です。他の福音書には、ありません。
この72という数字は、世界の全民族を表す象徴的な数字ではないかと言われます。イエス様が72名を派遣なさった先は、イスラエル国内です。ですがここで既に、全世界への伝道のヴィジョンが語られていると言えます。現実の世界伝道は、イエス様の十字架の死と復活後に、使徒言行録において行われてゆきます。しかしその先取りが、本日の個所で語られています。イエス様は「御自分は行くつもりのすべての町や村に二人ずつ遣わされた」と書かれています。ですから36の町や村へ、二人ずつ遣わされたことになります。「二人ずつ」ということも大切です。二人の証言が非常に大切と、旧約聖書に書かれています。申命記19章15節「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯すつ罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証言によって、そのことは立証されねばならない。」使徒言行録においても、パウロ(サウロ)の第一次伝道旅行の時に、サウロとバルナバの二人が、アンティオキア教会によって派遣されています。
イエス様は72人に言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き人を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」この御言葉は、神学校の学生募集のポスター等によく使われますが、この御言葉はそのためだけにあるのではありませんね。収穫の主は、もちろん父なる神様です。収穫は、人々が真の神様を信じ、救い主イエス・キリストを信じて救われ、神の民に加えられることです。私たちは、収穫のための働き人を、神様が多く起こして下さるように祈り、自分も伝道する気持ちが必要と思います。今、日本の教会全体が縮小傾向にあります。東京神学大学でも、入学生・卒業生共に明らかに減っています。各神学校は、入学生の確保のために、必死になっています。働き手は確かに減っています。これが現状であることを私たちも強く心に留めることが必要です。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」私たちも、祈り続ける必要があります。
3節「行きなさい。私はあなた方を遣わす。それは狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。」小羊は、小さく弱い存在です。派遣れるクリスチャン・伝道者は、小羊のような者だと、イエス様はおっしゃいます。行く先には危険もあります。狼の群れが待っているとイエス様は言われます。狼とは迫害する者たち、間違った教えを説く人々でしょう。確かに、イエス様ご自身も各地で受け入れられいのです。弟子たちも同じです。小羊と言えば、ヨハネ福音書1章で、洗礼者ヨハネがイエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言っています。イエス様御自分が、小羊です。小羊イエス様は、武器を持って抵抗はなさいません。黙々と十字架に向かって行かれました。そして十字架の死の後に、復活の勝利を遂げられます。そのイエス・キリストが、いつも共にいて派遣される72人を守って下さいます。行く先には、狼の群れもいます。ですがイエス・キリストが守って下さいます。
4節「財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶するな。」今の日本で、完全にこの通りにするのは難しいです。イエス様は7,8節で「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。~どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」目には見えなくても、イエス・キリストがいつも共にいて、伝道者たちを守っていて下さいます。ですから伝道者たちは狼たちから守られ、平和の神の国を宣べ伝えることができます。イエス様は十字架にかかる前夜に弟子たちに、「財布も袋も履物も持たせずにあなた方を遣わしたとき、何か不足したものがあったか」と問われました。弟子たちは「いいえ、何もありませんでした」と答えました。イエス・キリストがいつも共にいて、必要なものを皆、備えて下さるので、思い煩わないように。心配しないように。これがイエス・キリストのメッセージです。
5節「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、あなた方の願う平和はあなた方に戻って来る。」私たちキリスト者は、皆がキリストを伝える伝道者であり、神の国の平和の福音を運ぶ者です。大変光栄な使命を与えられていることを、心より感謝したいと思います。先週の火曜日に、教会の周辺の家々に、本日午後の子ども会の案内チラシを配っていましたら、近くのシャローム東久留米(セブンスデーアドヴェンティストというキリスト教会の高齢者施設)のヴァンが、デイケアサービスの利用者をこの教会のすぐ近くに送り届けていました。その職員の方と挨拶できました。私も下里しおん保育園の子供たちと、「花の日」の時などに訪問することがあるので、私のことも覚えていて下さり、感謝でした。シャロームはもちろん平和の意味です。キリスト教会の施設が、キリストの愛によってこの地域にも、キリストの平和を運んでおられる。このシャロームの働きもまた、この地域に「神の国が来ている」ことの証し、証拠です。イザヤ52。
イエス様は、72人に言われます。「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。マタイ福音書10章では、「働く者が食べ物を受けるのは当然だからである」になっています。8節「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」マタイ福音書10章では、イエス様が12人の派遣なさる時、「異邦人の道、サマリア人の町に行くな」と言っておられますが、本日のルカによる福音書は、72人の派遣という別の個所であり、「異邦人の道、サマリア人の町に行くな」と言われていないので、72人が行った先には、イスラエルより少し外の異邦人の土地や、イスラエル内だが半分異邦人のようなサマリア人の土地もあったかもしれません。その町でどこかの家に迎え入れられたら、「出される物を食べなさい」とイエス様は言われます。旧約聖書には食物規定がありますが、それに違反する食べ物が出る可能性もあります。「出される物を食べなさい。自由に食べなさい」ということです。旧約聖書も聖書ですが、イエス様は、食物規定から解放されなさいと言っておられることになります。パウロがコリントの信徒への手紙(一)10章27節以下で、「あなた方が、信仰を持っていない人(異邦人)から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と言っていることと、一致するようです。「出される物を食べなさい」は、食物規定からの解放を語っています。
「町の病人を癒し。」私たちの多くには、他人の病気を癒す力はありません。医者であれば治療し、看護師ならケアを行います。私たちにできることは、ご病気の方々が癒されるように祈ることです。それで癒されることはあります。8月は敗戦のことを思うと同時に、1985年8月14日に起きた日航機墜落事故を思うときでもります。今年で40年で、新聞でかなり報道されています。坂本九さんという歌手も亡くなりました。インターネットで読みましたが、その夫人を一生懸命慰め続けたのが、黒柳徹子さんだそうです。黒柳さんはクリスチャンと聞いています。ご夫人からの深夜の電話も受けて話を聴き、多くの手紙を出し続け、慰めようと心を砕き続けたそうです。悲しみが完全に癒されることはないでしょうが、黒柳さんも神様に祈りながら手紙を出し続けたのでしょう。「病人を癒し」と同じではありませんが、魂の深い傷を少しでも慰めようとなさったのは、イエス様への信仰があるからでしょう。
10節「しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」「足の埃を払い落して、その町の人々に返す」、これは抗議のしるしですね。パウロがこれを使徒言行録13章で実行しています。ローマ帝国のピシディア州のアンティオキアで伝道し、異邦人たちが信仰に入りましたが、ユダヤ人から迫害されました。パウロと盟友のバルナバは、彼らに対して足の塵を払い落とし、そこを去ってイコニオンに行きました。イエス様は「しかし、神の国が近づいたことを知れ」と言うように言われます。ある人はこの「しかし」が大事だと言われます。すぐに神の裁きが下るのではなく、まだ悔い改める時間が残されていることを、この「しかし」が表しています。神の憐れみを示す「しかし」です。この期間を、有効に用いる必要があります。
次の小見出しは、「悔い改めない町を叱る」です。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、イエス様が宣教されたガリラヤ湖周辺の町です。特にカファルナウムは、イエス様が住まわれた町です。しかしこの町々が、イエス様と弟子たちのメッセージを受け入れなかったのです。それはイエス様の深い悲しみだったと思います。「コラジン、お前は不幸だ。」「不幸だ」はギリシャ語で「ウーアイ」です。うう、ああといううめきです。新改訳聖書は、その通りに訳しています。「ああコラジン、ああベツサイダ。」口語訳は「災いだ」、新共同訳は「不幸だ」、聖書協会共同訳は「災いあれ」。「ウーアイ」は、神様(イエス・キリスト)の悲しみと怒りが入り交ざった感嘆詞だと思います。悲痛な言葉です。「ああ、真の神様のメッセージを受け入れないとは、何と不幸なことか」ということと思います。
コラジンの町は、当時のガリラヤ地方の重要な町の一つだったそうで、紀元4世紀に滅んだそうです。これはイエス様の御言葉の通りになったということかもしれません。ベトサイダは「漁夫の家」の意味で、ヨハネ福音書1章によると、ペトロとその兄弟アンデレの出身地がベトサイダです。「お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。」ティルスとシドンは、イスラエルより北の異邦人の町、商業の町で、悪徳がはびこり、イザヤ書23章でも批判されている町です。イエス様は、コラジン、ベトサイダよりも、ティルスとシドンの方がましだと、厳しく言われます。カファルナウムにも実に厳しい言葉が語られます。「お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」72人は、イエス様の代理人なので、この72人(伝道者、クリスチャン)を拒むことは、イエス様を拒むこと、イエス様を派遣された父なる神様を拒否する罪になります。永遠の命と天国を拒否することになってしまいます。イエス様は、弟子たち(クリスチャンたち)を通して語られる御言葉を、私たちが受け入れることを、切にお祈り致します。 昨日の落合川での洗礼式。 アーメン。
2025-08-10 2:28:31()
「エルサレムに向かう決意」 2025年8月10日(日)礼拝
(ルカによる福音書9:51~62)
◆サマリア人から歓迎されない
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。
◆弟子の覚悟
一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第10主日の公同礼拝です。説教題は「エルサレムに向かう決意」です。小見出しは「サマリア人から歓迎されない」と「弟子の覚悟」です。
最初の51節「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」イエス様は近い将来、十字架の上に上げられて死なれ、死者の国に降られ、三日目に復活され、40日間を地上で過ごされ、復活の体をもって天に昇られます。その時期が近づきました。直訳では「日々が満たされた」です。十字架に架かるための、時が満ち始めているのです。その機が熟しつつあるとも言えます。
「エルサレムに向かう決意を固められた。」直訳では「エルサレムに向かうために、顔を堅く向けた」です。顔という言葉があるのです。「顔を堅く向けた」をややまとめて「決意を固められた」と訳しているのですね。ですが「顔」という言葉は、なかなか印象的なので、ちゃんと言葉で出す方がよいと思います。イエス・キリストの顔は、神の顔と言えます。
モーセの十戒の第一の戒めは、「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」です。文語訳では「汝、わが顔の前に我のほか何者をも神とすべからず」です。ここでも原文では「顔」という言葉があります。「エルサレムに向かう決意を固められた。」今日の51節は文語訳では、「イエス天に挙げらるる時満ちんとしたれば、御顔を堅くエルサレムに向けて進まんとし」です。口語訳では、「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔を向けられ」で、両方に顔という言葉が出てきます。「顔を堅く向ける」は、「危険を前にした時の固い決意」表します。イザヤ50:6。
52節以下「そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。」イエス様と弟子たちはユダヤ人ですが、ユダヤ人とサマリア人は長年、仲が悪かったのですね。ヨハネ福音書4章9節に、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」と書かれています。サマリアという土地は、かつての北イスラエル王国の土地に当たるようです。紀元前722年頃に、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされました。そこにアッシリア人が住み始め、北イスラエルの人々と混じり合いました。アッシリアの神々、偶像も入って来ました。イエス様の時代には偶像崇拝は消えていたようですが、サマリア人はエルサレム神殿で礼拝することはなく、ゲリジム山でやや独自の礼拝を行っていたようです。ユダヤ人から見ればサマリア人は、純粋なイスラエル人ではなく、その礼拝もやや独自の礼拝なので、お互いに異質性を感じ、サマリア人もユダヤ人を嫌っていました。それでサマリア人たちは、ユダヤ人イエス様を歓迎しなかったのですね。
54節「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。」マルコ福音書3章17節を見ると、イエス様はヤコブとヨハネの兄弟に、ボアネルゲス(雷の子ら)というあだ名をつけておられます。彼らはそれだけ激しい性格だったのです。イエス様の時代の人々は、旧約聖書のマラキ書3章23節「見よ、私(神)は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」の御言葉を信じ、エリヤが来ると信じていました。エリヤは、洗礼者ヨハネとして来ました。しかしある人々は、イエス様の評判を聞いて、「エリヤが現れた」と言っていました。ヤコブとヨハネは、イエス様をメシア(救い主)と信じつつも、メシアをエリヤのような方と考えていた可能性があります。
本日の旧約聖書・列王記下1章9節以下を見ると、こうあります。「アハズヤは五十人隊の長を、その部下五十人と共にエリヤのもとに遣わした。隊長がエリヤのもとに上って行くと、エリヤは山の頂に座っていた。隊長が『神の人よ、王が「降りて来なさい」と命じておられます』と言うと、エリヤは五十人隊の長に答えて、『私が神の人であれば、天から火が降って来て、あなたと五十人の部下を焼き尽くすだろう』と言った。」すると、天からの火が降って来て、隊長と五十人の部下を焼き尽くした。ヤコブとヨハネの頭の中には、この場面があった可能性があります。しかも少し前にイエス様と一緒に山に登ったとき、栄光に包まれたモーセとエリヤに会ったばかりです。エリヤがアハズヤ王の命令で派遣された隊長と五十人の部下を天からの火で焼き尽くしたのですから、イエス様を歓迎しないサマリアの人々をも、同じように天からの火で焼き尽くそうとヤコブとヨハネは思ったのでしょう。エリヤは確かに旧約聖書の偉大な預言者であり、正義の人です。しかしイエス様はエリヤ以上の方です。エリヤを乗り超えて、旧約聖書を乗り超えて、愛によって完成なさる方です。イエス様は、敵を愛する方であって、サマリア人を火で滅ぼすことはなさいません。
エリヤとイエス様が似ている所もあります。エリヤはイスラエルのアハブ王の妻イゼベルから命を狙われる苦難を味わいました。しかしエリヤは死なないで、火の馬に引かれた火の戦車に乗って、嵐の中を天に昇って行きました。死なないで天国に入りました。これは復活されたイエス様が、復活の体をもって天に昇られたことに似ています。エリヤは、イスラエルの偶像崇拝の罪と戦った偉大な預言者であり、生きたまま天国に昇った偉大な人物なので、メシア(救い主)はエリヤのような方だろうと考えたイスラエル人もいたのだと思います。ヤコブとヨハネもそうだった可能性があります。しかしイエス様はエリヤ以上の方なので、サマリアを火で焼き尽くして殺すことはなさいません。イエス様は振り向いて二人を戒められ、サマリア人との衝突を避けて、別の村に行かれます。
次の小見出しは「弟子の覚悟」です。イエス様が三人の人々と対話されます。第一の対話「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言う人がいた。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』」イエス様は生まれた時から、歓迎されませんでした。マリアとヨセフがベツレヘムに来たとき、宿屋には彼らの泊まる場所がありませんでした。成人して故郷のナザレで説教されたとき、人々は憤慨し、人々によって山の崖から突き落とされようとしました。イエス様が安息日に、右手の萎えた人を癒すと、律法学者たちやファリサイ派の人々は怒り狂って、イエス様を何とかしようと話し合いました。サマリアの村に入ると、歓迎されませんでした。エルサレムに行って神殿を激しく清めると人々に憎まれ、十字架に追いやられて殺されます。イエス様にはこの地上に安住の地がないのです。イエス様の安住の地は、天国になります。
第二の対話。「そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』」イエス・キリストは今も「私に従いなさい」とおっしゃり、私を招いておられます。イエス様の背中を見つめて着いて来るように、と私たちを招いておられます。罪の中や自己中心の中にうずくまるのを止めて、イエス・キリストに従って、真の神様を愛し、隣人を愛する、喜ばしい生き方へと進んで行こう! そのように私たちを今も招いておられます。その招きを聞いた人が、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」と言うと、イエス様は「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われました。もちろん強調点は、「あなたは行って、神の国を言い広めることを最優先しなさい」にあります。しかし「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」は理解しにくい御言葉です。
モーセの十戒には「父母を敬え」とあります。その父母を心を込めて葬ることは、子の最も重要な務めと言えます。そのことさえも上回る、神の国を宣べ伝えることの緊急性と重要性が語られていると言えます。父母を心を込めて葬ることさえ、ここでは「この世のこと」と見られているのだと思います。「死者をして、死者を葬らしめよ。」イエス様に従わない人は、「霊的に死んだ人」、この世の人と言えます。「この世のことは、この世の人に任せなさい。」
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)7章26節以下でこう述べています。「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいと私は考えます。」イエス様の再臨が迫っていて、神の国の完成の時が近づいている。パウロはここで結婚のことを述べています。パウロは結婚もある意味で、この世のことと見ていて、結婚してもよいが、結婚しない人の方がもっとよいと。「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を使いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を使い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を使いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を使います。このように私が言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなた方を束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」イエス様から見れば、親の葬儀もこの世のこと、パウロから見れば結婚もこの世のこと。イエス様もパウロも厳しいことを言われますが、そのポイントは「私たちを束縛するためではなく、ひたすら主に仕えさせるため」です。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」です。葬儀も結婚も大事なことだが、それに、この世の葬儀には希望がない。泣き女が来る葬儀は空しい。お寺で戒名料100万円もとるのは宗教ビジネス、宗教の堕落ではないか。教会の葬儀を神の愛と慰めをもって執り行うのであれば、神様に従う葬儀であれば、神様は行うことを許して下さるのではないか。死者をして死者を葬らしめよは、真の希望のないこの世的な葬儀ではないか。教会の葬儀には慰めと希望あり。Mさん。泉教会の葬儀が非常によかった。教会の人々が心を込めて行って下さった。「泣きなさい。泣きなさい。」 葬儀をするなではなく、神の国の慰めと愛のある葬儀を行いなさい、ではないか? Nさん。
第三の対話 肉親の情よりも、イエス様に従う。フィリピ3章13~14節。キリストに従うことを第一とする。アーメン。
◆サマリア人から歓迎されない
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。
◆弟子の覚悟
一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第10主日の公同礼拝です。説教題は「エルサレムに向かう決意」です。小見出しは「サマリア人から歓迎されない」と「弟子の覚悟」です。
最初の51節「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」イエス様は近い将来、十字架の上に上げられて死なれ、死者の国に降られ、三日目に復活され、40日間を地上で過ごされ、復活の体をもって天に昇られます。その時期が近づきました。直訳では「日々が満たされた」です。十字架に架かるための、時が満ち始めているのです。その機が熟しつつあるとも言えます。
「エルサレムに向かう決意を固められた。」直訳では「エルサレムに向かうために、顔を堅く向けた」です。顔という言葉があるのです。「顔を堅く向けた」をややまとめて「決意を固められた」と訳しているのですね。ですが「顔」という言葉は、なかなか印象的なので、ちゃんと言葉で出す方がよいと思います。イエス・キリストの顔は、神の顔と言えます。
モーセの十戒の第一の戒めは、「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」です。文語訳では「汝、わが顔の前に我のほか何者をも神とすべからず」です。ここでも原文では「顔」という言葉があります。「エルサレムに向かう決意を固められた。」今日の51節は文語訳では、「イエス天に挙げらるる時満ちんとしたれば、御顔を堅くエルサレムに向けて進まんとし」です。口語訳では、「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔を向けられ」で、両方に顔という言葉が出てきます。「顔を堅く向ける」は、「危険を前にした時の固い決意」表します。イザヤ50:6。
52節以下「そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。」イエス様と弟子たちはユダヤ人ですが、ユダヤ人とサマリア人は長年、仲が悪かったのですね。ヨハネ福音書4章9節に、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」と書かれています。サマリアという土地は、かつての北イスラエル王国の土地に当たるようです。紀元前722年頃に、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされました。そこにアッシリア人が住み始め、北イスラエルの人々と混じり合いました。アッシリアの神々、偶像も入って来ました。イエス様の時代には偶像崇拝は消えていたようですが、サマリア人はエルサレム神殿で礼拝することはなく、ゲリジム山でやや独自の礼拝を行っていたようです。ユダヤ人から見ればサマリア人は、純粋なイスラエル人ではなく、その礼拝もやや独自の礼拝なので、お互いに異質性を感じ、サマリア人もユダヤ人を嫌っていました。それでサマリア人たちは、ユダヤ人イエス様を歓迎しなかったのですね。
54節「弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、『主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか』と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。」マルコ福音書3章17節を見ると、イエス様はヤコブとヨハネの兄弟に、ボアネルゲス(雷の子ら)というあだ名をつけておられます。彼らはそれだけ激しい性格だったのです。イエス様の時代の人々は、旧約聖書のマラキ書3章23節「見よ、私(神)は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」の御言葉を信じ、エリヤが来ると信じていました。エリヤは、洗礼者ヨハネとして来ました。しかしある人々は、イエス様の評判を聞いて、「エリヤが現れた」と言っていました。ヤコブとヨハネは、イエス様をメシア(救い主)と信じつつも、メシアをエリヤのような方と考えていた可能性があります。
本日の旧約聖書・列王記下1章9節以下を見ると、こうあります。「アハズヤは五十人隊の長を、その部下五十人と共にエリヤのもとに遣わした。隊長がエリヤのもとに上って行くと、エリヤは山の頂に座っていた。隊長が『神の人よ、王が「降りて来なさい」と命じておられます』と言うと、エリヤは五十人隊の長に答えて、『私が神の人であれば、天から火が降って来て、あなたと五十人の部下を焼き尽くすだろう』と言った。」すると、天からの火が降って来て、隊長と五十人の部下を焼き尽くした。ヤコブとヨハネの頭の中には、この場面があった可能性があります。しかも少し前にイエス様と一緒に山に登ったとき、栄光に包まれたモーセとエリヤに会ったばかりです。エリヤがアハズヤ王の命令で派遣された隊長と五十人の部下を天からの火で焼き尽くしたのですから、イエス様を歓迎しないサマリアの人々をも、同じように天からの火で焼き尽くそうとヤコブとヨハネは思ったのでしょう。エリヤは確かに旧約聖書の偉大な預言者であり、正義の人です。しかしイエス様はエリヤ以上の方です。エリヤを乗り超えて、旧約聖書を乗り超えて、愛によって完成なさる方です。イエス様は、敵を愛する方であって、サマリア人を火で滅ぼすことはなさいません。
エリヤとイエス様が似ている所もあります。エリヤはイスラエルのアハブ王の妻イゼベルから命を狙われる苦難を味わいました。しかしエリヤは死なないで、火の馬に引かれた火の戦車に乗って、嵐の中を天に昇って行きました。死なないで天国に入りました。これは復活されたイエス様が、復活の体をもって天に昇られたことに似ています。エリヤは、イスラエルの偶像崇拝の罪と戦った偉大な預言者であり、生きたまま天国に昇った偉大な人物なので、メシア(救い主)はエリヤのような方だろうと考えたイスラエル人もいたのだと思います。ヤコブとヨハネもそうだった可能性があります。しかしイエス様はエリヤ以上の方なので、サマリアを火で焼き尽くして殺すことはなさいません。イエス様は振り向いて二人を戒められ、サマリア人との衝突を避けて、別の村に行かれます。
次の小見出しは「弟子の覚悟」です。イエス様が三人の人々と対話されます。第一の対話「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言う人がいた。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』」イエス様は生まれた時から、歓迎されませんでした。マリアとヨセフがベツレヘムに来たとき、宿屋には彼らの泊まる場所がありませんでした。成人して故郷のナザレで説教されたとき、人々は憤慨し、人々によって山の崖から突き落とされようとしました。イエス様が安息日に、右手の萎えた人を癒すと、律法学者たちやファリサイ派の人々は怒り狂って、イエス様を何とかしようと話し合いました。サマリアの村に入ると、歓迎されませんでした。エルサレムに行って神殿を激しく清めると人々に憎まれ、十字架に追いやられて殺されます。イエス様にはこの地上に安住の地がないのです。イエス様の安住の地は、天国になります。
第二の対話。「そして別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』」イエス・キリストは今も「私に従いなさい」とおっしゃり、私を招いておられます。イエス様の背中を見つめて着いて来るように、と私たちを招いておられます。罪の中や自己中心の中にうずくまるのを止めて、イエス・キリストに従って、真の神様を愛し、隣人を愛する、喜ばしい生き方へと進んで行こう! そのように私たちを今も招いておられます。その招きを聞いた人が、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」と言うと、イエス様は「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われました。もちろん強調点は、「あなたは行って、神の国を言い広めることを最優先しなさい」にあります。しかし「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」は理解しにくい御言葉です。
モーセの十戒には「父母を敬え」とあります。その父母を心を込めて葬ることは、子の最も重要な務めと言えます。そのことさえも上回る、神の国を宣べ伝えることの緊急性と重要性が語られていると言えます。父母を心を込めて葬ることさえ、ここでは「この世のこと」と見られているのだと思います。「死者をして、死者を葬らしめよ。」イエス様に従わない人は、「霊的に死んだ人」、この世の人と言えます。「この世のことは、この世の人に任せなさい。」
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)7章26節以下でこう述べています。「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいと私は考えます。」イエス様の再臨が迫っていて、神の国の完成の時が近づいている。パウロはここで結婚のことを述べています。パウロは結婚もある意味で、この世のことと見ていて、結婚してもよいが、結婚しない人の方がもっとよいと。「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を使いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を使い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を使いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を使います。このように私が言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなた方を束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」イエス様から見れば、親の葬儀もこの世のこと、パウロから見れば結婚もこの世のこと。イエス様もパウロも厳しいことを言われますが、そのポイントは「私たちを束縛するためではなく、ひたすら主に仕えさせるため」です。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」です。葬儀も結婚も大事なことだが、それに、この世の葬儀には希望がない。泣き女が来る葬儀は空しい。お寺で戒名料100万円もとるのは宗教ビジネス、宗教の堕落ではないか。教会の葬儀を神の愛と慰めをもって執り行うのであれば、神様に従う葬儀であれば、神様は行うことを許して下さるのではないか。死者をして死者を葬らしめよは、真の希望のないこの世的な葬儀ではないか。教会の葬儀には慰めと希望あり。Mさん。泉教会の葬儀が非常によかった。教会の人々が心を込めて行って下さった。「泣きなさい。泣きなさい。」 葬儀をするなではなく、神の国の慰めと愛のある葬儀を行いなさい、ではないか? Nさん。
第三の対話 肉親の情よりも、イエス様に従う。フィリピ3章13~14節。キリストに従うことを第一とする。アーメン。
2025-08-02 22:42:29(土)
「最も小さい者こそ、最も偉い者」 2025年8月3日(日)礼拝説教
(ルカによる福音書9:43b~50)
イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。
◆いちばん偉い者
弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
◆逆らわない者は味方
そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」
(説教) 本日は、平和聖日の礼拝です。説教題は「最も小さい者こそ、最も偉い者」です。小見出しは「再び自分の死を予告する」、「いちばん偉い者」、「逆らわない者は味方」です。
本日の直前の個所でイエス様は、一人の男性の一人息子をいやされたのです。その一人息子は。当然叫び出し、痙攣を起こし、泡を吹くという激烈な症状に苦しめられていました。悪霊がこの子を引き倒し、ひきつけさせていたのです。この悪霊の強烈な力に、イエス様は勝利されました。イエス様は悪霊を
イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。
◆いちばん偉い者
弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
◆逆らわない者は味方
そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」
(説教) 本日は、平和聖日の礼拝です。説教題は「最も小さい者こそ、最も偉い者」です。小見出しは「再び自分の死を予告する」、「いちばん偉い者」、「逆らわない者は味方」です。
本日の直前の個所でイエス様は、一人の男性の一人息子をいやされたのです。その一人息子は。当然叫び出し、痙攣を起こし、泡を吹くという激烈な症状に苦しめられていました。悪霊がこの子を引き倒し、ひきつけさせていたのです。この悪霊の強烈な力に、イエス様は勝利されました。イエス様は悪霊を