日本キリスト教団 東久留米教会

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2025-04-06 2:32:42()
「ゲツセマネでの祈り」2025年4月6日(日)受難節(レント)第5主日公同礼拝
(イザヤ書53:2~6) 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

(マルコ福音書14:32~42) 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

(説教) 本日は、受難節(レント)第5主日の礼拝です。説教題は「ゲツセマネでの祈り」、小見出しは「ゲツセマネで祈る」です。来週は受難週、再来週がイースター礼拝です。本日の場面は有名です。

 最初の32節「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『私が祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。ゲツセマネとは「油搾り」の意味だと聞いています。イエス様はここでまさに、ご自分を搾りきるような祈りをなさいました。既に去っていたであろうイスカリオテのユダを除く11人の弟子たちが従っていたと思われます。イエス様は弟子たちにも、ご自分を応援する祈り求められたのだと思います。33節「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われた~。」この三人は弟子たちの中でも特にイエス様に近しい弟子たちでした。ガリラヤ湖の漁師であったがイエス様に招かれて弟子となった4名のうちの3名です。イエス様は決して依怙贔屓なさる方ではないのですが、この3名は12人の弟子たちの代表のような立場にあったのでしょう。

 ペトロは一番弟子と言えます。ヤコブとヨハネは兄弟で、イエス様からボアネルゲス(雷の子ら)と呼ばれるほど、激しい性格の持ち主でした。ヤコブはイエス様の十字架と復活の後、使徒言行録12章で迫害を受け、殉教の死を遂げています。それは先のことで、このマルコ福音書5章を見ると、イエス様がヤイロという会堂長の娘を生き返らせたとき、このペトロ、ヤコブ、ヨハネだけが同伴を許されました。そしてイエス様が高い山に登られたときも、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三名だけが同伴を許されています。その深夜、イエス様の姿が三人の目の前で変わり、服は真っ白に輝き、イエス様は神の子本来の輝きに満ちた栄光のお姿を洗われたのです。ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人は、イエス様の栄光のお姿を目撃する光栄を受けたのです。いわばイエス様が最も信頼する三名が、ゲツセマネにおいてもイエス様の最も身近につき従うことを許されました。非常に光栄なことです。

 33節後半~34節「イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』」イエス様は少し先に進んで、一人で祈られますが、最も信頼する三名の弟子たちにも、やや後方で援護の祈りをしてほしいと願われました。しかし悪魔が働いていたのだと思います。三名は眠りこけてしまいました。悪魔はイエス様をも誘惑したと思います。イエス様も眠らせてしまい、イエス様が信仰的にも眠り込んで、父なる神様に従わないよう、悪魔はイエス様をも誘惑していたと思うのです。しかしイエス様は眠らず、ひたすら目を覚まして父なる神様に従われました。イエス様の地上の生涯最大の山場、最大の正念場です。ルカによる福音書には、イエス様が切に祈って、汗が血の滴るように地面に落ちたと書かれています。

 イエス様は「私は死ぬばかりに悲しい」と言われました。イエス様は死を恐れられました。これをみっともないと言う人もいるようです。ソクラテスという哲学者は毒の杯を堂々と飲んで、死を恐れずに死んだから立派だとか、殉教者も死を恐れないで堂々と死んでいったのに、イエス様が神の子なのに「死ぬばかりに悲しい」とひどく恐れているのはおかしい、みっともないという意見です。しかし、みっともないのではなく、イエス様だけが死の真の恐ろしさを知っておられたと言えます。死の本当の恐ろしさは、命を造って下さる神様から完全に切り離されることです。私たち人間がなぜ死ぬかというと、それは私たち人間が神様に背き、神様に罪を犯して神様から離れた結果、神様の裁きを受けて死ぬ者になりました。これが死の真相だということを、聖書を読む人だけが知っています。現象としては病気や老衰で死にますが、それは表面の現象であって、死の本質ではありません。私たちが神様に背いて罪を犯した結果、神様の正しい裁きを受けて死ぬことになりました。人間が罪を犯した結果、自然界も狂って弱肉強食の世界になり、動植物も死ぬことになりました。人間の責任です。ローマの信徒への手紙6章23節には、「罪の支払う報酬は死である」という御言葉がありますね。

 しかしイエス様には、全く罪がありません。一度も罪を犯さないので、常に父なる神様と完全に一体で、罪とも死とも縁もゆかりもない方です。それだからこそ、父なる神様から完全に切り離される死の真の恐ろしさを、イエス様だけが痛感なさることができます。私たち罪人(つみびと)は、罪を犯して神様から離れており、しかも自分の罪を完全には憎んでいないかもしれません。自分の罪の結果、神様から離れていても、それに慣れてしまっている不遜な面があるのではないでしょうか。自分の死は自分の罪の結果と突き詰めて考えず、死の真の理由を考えず、死は仕方のないものとごまかし諦めている面もあるのではないかと、自分を振り返って思います。「死はいやなものだ」とは思うものの、死の本質を見つめず、死と対決したり、死の真の恐ろしさを考えないで、イエス様ほどに死を本当に恐れることができず、鈍感になっている面があると思います。しかしイエス様は罪が全然なく、死ぬ理由が一つもない方です。そのような方が死ぬことは、生木が裂かれるように父なる神様から切り離されて滅びること。イエス様だけが死の真の恐ろしさを完全に理解している極めて敏感な方、他の人間たちのように少しも鈍感でない方です。だから「死ぬばかりに悲しい」と本心を言われたと思います。イエス様はここで、死と正面から対決しておられます。イエス・キリストは天地創造をなさった神様であると同時に、神様に造られた人間でもあります。イエス様は罪は一度も犯されませんが、私たち肉体をもつ人間と同じ悲しみ、苦しみを全て体験なさいます。

 35~36節「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯(苦き杯)を私から取り除けて下さい。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」イエス様は一人だけで目覚め、一対一で父なる神様に祈っておられます。一人だけ目覚め、祈っておられます。「アッバ、父よ。」アッバは、イエス様が話しておられたアラム語で、ほとんど「パパ」に近い言葉、父なる神様に非常に親しく呼びかける言葉です。私たちの知人のクリスチャンで、いつも祈りの最初に「アッバ、父よ」と呼びかけて祈る方がおられます。イエス様のゲツセマネの祈りを見て、真似てそう祈るようになったとのことです。祈り始めのよい方法だなと思います。こう祈り始める方は、案外少ないですね。私たちもこう祈り始めてよいのだなと思います。

 「アッバ、父よ。あなたは何でもおできになります。この杯(苦き杯)を私から取り除けて下さい。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」前半も本心、後半も本心です。「この杯(十字架)を私から取り除けて下さい。」人間としての正直な気持ちです。「しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」さすが神の子です。イエス様の心の中で、この2つの祈りが戦いを繰り広げています。しかしやはり後半の祈りが勝利します。「私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 前半の祈りには、イエス様の悲しみも感じられます。「十字架で死ぬことを思うおと、私は死ぬばかりに悲しい。」イエス様は、世界の誰よりも深い悲しみを悲しまれたと思うのです。本日のイザヤ書53章は、イエス様の十字架を預言する非常に重要な御言葉です。53章3~5節「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」「痛み」を、以前の口語訳聖書では「悲しみ」と訳しています。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。~まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを担った。」まさにイエス・キリストは十字架で、私たちの全ての罪、全ての死、全ての悲しみ、全ての病を背負いきって下さいました。それはあまりにも辛い十字架なので、イエス様でさえ「私は死ぬばかりに悲しい」と言われ、「この杯(十字架)を私から取り除けて下さい」と正直に祈られたほどでした。

 しかしさすがは神の子、「しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ることを忘れませんでした。前半の祈りから後半の祈りに達するのは、イエス様にとっても大きな戦いだったと思います。私はヘブライ人への手紙5章7節以下を思い出します。「キリストは、肉(肉体)において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました(復活を指す?)。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じように大祭司と呼ばれたのです。」前半の祈りから後半の祈りに進むことは、イエス様にとっても簡単ではありませんでしたが、ご自分の心の中の戦いに打ち勝って、後半の祈りに進まれました。

 ルカに戻り、37~38節「それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』」一時とは約2時間だと聞いたことがあります。この夜のイエス様の第一回目の祈りは、約2時間だったことになります。イエス様は徹夜で祈られました。私たちはなかなか徹夜の祈りはできにくいのではないでしょうか。しかし大切なことは、いつも信仰の目を覚まして神様に従うと心がけることだと思います。悪魔に従わず、神様に従うように、聖書を読んで祈りながら、いつも心がけることと思います。

 40節「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。」イエス様お一人が悪魔の誘惑に打ち勝って、目を覚ましてひらすら祈り、3名の弟子の代表者たちは、悪魔の誘惑に負けて、ぐっすり眠り込んでいました。イエス様は誘惑に強い方です。ですが弟子たちの弱さはよく分かっておられたと思います。ヘブライ人への手紙4章15節にこうあります。「この大祭司(イエス様)は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。」この2回目の祈りの後ではイエス様はもはや弟子たちに、「目を覚まして祈っていなさい」と言われません。イエス様が心の中の戦いに勝利されて、心が平静になっておられるからではないでしょうか。

 41節「イエスは三度目に戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。』」イエス様はすっかり決心が固まっておられます。イエス様はお一人で、勇敢に十字架に向かって立ち上がられます。イエス様がこのような、心の中の戦いに勝利して十字架に向かわれたことを告げる本日の迫力に満ちた場面を読むとき、私たちが与えられた救いは、イエス様が血を吐く思いで獲得して下った、真に尊い救いであることを痛感させられます。決して、あだやおろそかにしてよい救いではないこと、真に高価な救いであることを痛感させられます。私たちはこれから聖餐のパンとぶどう液を受けますが、イエス様がゲツセマネで心の中の戦いに打ち勝って与えて下さった、真に高価な(金額が高いという意味ではなく、イエス様の命と引き換えに与えられた意味において真に高価な)パンとぶどう液であることに気づきます。

 私たちは「主の祈り」で、「御心の天になる如く、地にもなさせたまえ」と祈りました。イエス様が十字架に架かって復活なさることこそ、御心でした。それならば、そのイエス様を救い主と信じて、その十字架の愛に感謝して、真心から洗礼を受ける方々が現れることが、非常に御心に適うことであるに違いありません。その意味では伝道こそ御心に適うことに違いないので、私たちも新たな思いで伝道に励みたいのです。アーメン。


2025-03-29 19:20:47(土)
「もう泣かなくともよい」2025年3月30日(日)受難節(レント)第4主日公同礼拝
(列王記上7:17~24)その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」


(ルカ福音書7:11~17) それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

(説教) 本日は、受難節(レント)第4主日の礼拝です。説教題は「もう泣かなくともよい」、小見出しは「やもめの息子を生き返らせる」です。宗教改革者マルティン・ルターはこの個所が非常に好きで、この御言葉で何度も説教したそうです。
 
 本日の最初の11節「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。」地図で見るとナインという町は、イエス様がお育ちになったガリラヤのナザレの町の南東9キロの辺りで、モレの丘という丘の北の麓にあるそうです。ナインという町の名前には「快い」の意味があるそうです。12節「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。」

 ところが現実は、快いとは正反対でした。死の力が全てを支配していたのです。ある母親の一人息子が死んだのです。病気の可能性が高いと思います。一人息子ですから、母親が受けたダメージは特に大きいと思います。しかもこの母親はやもめでした。夫に死に別れていました。息子は15才から25才くらいでしょうか。母親は30~40才くらいかもしれません。母親の両親が健在の可能性もあり、自分の兄弟姉妹がいた可能性もありますが、もしかすると天涯孤独になった可能性もあります。とても孤独で辛い境遇に陥った可能性があります。町の人が大勢付き添って悲しみを共に味わい、この母親を支え、慰めていました。これが私たち普通の人間にできる精一杯のことですね。ナインの人々にも、心優しい人々は多く、一生懸命この母親を支えようとしていました。

 13節「主は、この母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」「憐れに思い」の一言は重要です。元のギリシア語は、スプランク二ゾマイという動詞です。この言葉のことはこれまでも何回もお話しておりますが、このスプランク二ゾマイという動詞の中に「内臓」という意味の言葉が入っています。内臓と言えば、心臓、肺像、胃、肝臓、大腸、小腸が思い浮かびます。日本語では「はらわた」です。イエス様がこの母親をご覧になって「憐れに思われた」とは、心の中で悲しみを感じられたにとどまらず、心臓や肺像や胃、肝臓、大腸、小腸が刃物で刺されたようにキリキリと痛んだ、あるいがグサッと痛んだ、痛み続けたことを意味すると言えます。イエス様の両目からも涙があふれたと思うのです。

 日本にも沖縄に、「ちむぐりさ」という言葉があると聞きます。「ちむ」は「肝(きも)=肝臓」で、「ぐりさ」は「苦しさ」を指すようです。そこで「ちむぐりさ」という言葉は、「肝苦りさ」、「肝臓が苦しい」の意味になるようです。肝臓が苦しいほどに心が痛むの意味なのでしょう。イエス様がこの女性をご覧になって、ただ心が痛んだだけでなく、心臓が痛い、肺蔵が痛い、胃が痛い、肝臓と大腸小腸が痛かったのです。痛切に。日本風に言えば、イエス様ははらわたがよじれるように感じ、はらわたが痛んだに違いありません。日本語には断腸の思いという表現もあります。神の子イエス様がそのような方だということは、父なる神様もそのような方だということです。神様は無感動の神ではなく、私たちの苦しみや悲しみに敏感な方。ある人の言い方では、「神様は全身が目、全身が耳」のような敏感な方だと。全身が神経のような鋭敏な方と言えます。

 13節「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」イエス様は死んだ若者よりも、むしろその母親に目を留められたのです。イエス様の心をよぎったのは、ご自分の母マリアのことかもしれません。イエス様いずれ十字架で死なれます。その時、イエス様の母マリアも、息子を失う悲しみを味わうことになります。イエス様はこの若者の母親をご覧になって、母マリアを思いやらた可能性があると思います。「主(しゅ)はこの母親を見て。」主はもちろんイエス・キリストです。主という言葉は、そもそも旧約聖書では天地創造をなさった神様を指します。それがここでは、イエス様を指す言葉として用いられています。ここから分かることは、ルカによる福音書はイエス・キリストこそ主、イエス様こそ天地創造をなさった神様その方だということです。

 主イエス・キリストが母親に「もう泣かなくともよい」と語りかけられました。「もう泣かなくともよい。」これはもっと簡潔に「泣くな」と訳すこともできます。「泣くな」であれば、ほとんと命令です。ここに、全てを支配している死の力に対する、イエス様の怒りを見ることができます。どうしても思い出されるのは、ヨハネによる福音書11章で、イエス様がラザロという男性を生き返らせる場面です。因みに4つの福音書の中で、イエス様が死者を生き返らせる場面は3つあります。その1つが本日のナインの若者を生き返らせる場面。これはルカによる福音書だけに出て来る場面です。2つ目はヤイロという会堂長の娘をイエス様が生き返らせる場面で、これはマタイ・マルコ・ルカの3つの福音書に出ています。3つ目がイエス様がラザロという男性を生き返らせる場面で、ヨハネ福音書11章に出てきます。新約聖書の福音書以外では、使徒言行録9章で、イエス様の弟子ペトロがひざまずいて祈り、「タビタ、起きなさい」と言うとタビタという女性が生き返った記述があります。使徒言行録20章には、上から転落して死んだ青年を、パウロが生き返らせた場面があります。

 それはともかく福音書ではイエス様が三人を生き返らせています。ヨハネ福音書11章のラザロを生き返らせる場面では、イエス様が心に憤りを覚え、興奮して「どこに葬ったのか」と言われ、涙を流されたと印象的に記されています。イエス様の心の動きは、本日の場面でも同じだったと思うのです。「心に憤りを覚え。」これは死の力への憤りと怒り、死を司る悪魔への憤りと怒りと言えます。その怒りを込めて、イエス様は言われたと思うのです。「泣くな。」「私が死の力を打ち破るから」というメッセージです。「私が死の力を打ち破るから、もう泣く必要はない」ということです。イエス様はそのためにご自分も死を経験なさることになります。つまり十字架に向かわれます。十字架で完全に死んだ後に、完全な復活を遂げる。ご自分が十字架を背負いきる覚悟を込めて、「もう泣かなくてよい」と語られます。口先だけの慰めではないのです。「私が十字架の苦しみを通って完全に死んだ上で、復活し、死を打ち破る。だからもう泣くな。」十字架で死ぬ覚悟があって初めてこの一言を責任をもって告げることができます。「もう泣かなくてよい。」

 14節「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。」その頃のイスラエルでは、死は汚れだとされていました。遺体を棺に入れるときは遺体に触れるでしょうし、棺を担ぐ人たちも、ある意味、汚れを担いでいるのですが、それはさすがにやむを得ないと考えられたのでしょう。しかし別の町から来た人が、わざわざ棺に手を触れる、死で汚れた棺に手を触れることは、普通はなかったと思われます。しかしイエス様は、当時の死へのタブーをものともせずに、棺に手を触れられました。タブーを乗り越えるイエス・キリストの愛がほとばしっています。「イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。」ここの
「起きる」という言葉は、「立ち上がる」の意味であり、また「復活する」の意味ももちます。イエス様のひと言には、全てに勝利する愛の力があります。イエス様の言葉は、天地創造をなさった神様の言葉だからです。創世記1章「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。(…)神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。』そのようになった。」これと同じように、イエス様が「起きなさい」と命じられると、死の力さえも打ち破られ、若者は起き上がるのです。」

 15節「すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。」イエス様はただ若者を生き返らせて下さったばかりでなく、母親にお返しになりました。この若者をも愛しておられたでしょうが、それ以上にこの母親に心をかけておられたことが分かります。「イエスは息子をその母親にお返しになった。」母親は、驚きと感激のあまり、ひしと息子を抱きしめたでしょう。もちろん、イエス様にしかおできにならない驚くべき出来事です。

 16~17節「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけて下さった』と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」あまりの驚くべき出来事に、周りの人々は嬉しいを通り越して、神様の偉大さに心を打たれ、神さまへの畏れに打たれました。そして神様を讃美しました。この「讃美した」という言葉は「栄光を帰した」と直訳することができます。

 人々は、「大預言者が我々の間に現れた」と言いました。人々は明らかに、旧約聖書の時代に偉大な預言者エリヤとエリシャが、男の子を生き返らせた出来事を思い出していたのです。本日はそのエリヤの奇跡の個所を読みました。旧約聖書・列王記上17章です。真の神の預言者エリヤが活動したのは主に北イスラエル王国において、時期は紀元前8世紀です。イスラエルの枠を超えて北のシドンのサレプタという所のやもめの息子が死にました。エリヤはこのやもめに世話になったのです。エリヤは彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる会場の部屋に抱いて行って寝台に寝かせました。エリヤは、主に(神様に)向かって祈ったのです。「主よ、わが神よ、あなたは。私が身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その、息子の命をお取りになるのですか。」エリヤは子どもの上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈りました。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返して下さい。」すると神様は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになったのです。子どもは生き返り、エリヤはその子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡しました。イエス様も若者を母親にお返しになったのです。エリヤは言いました。「見なさい。あなたの息子はいきている。」母親は、信仰告白に導かれました。「今私は分かりました。あなた(エリヤ)はまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」

 イエス様の奇跡を見た人々は、この預言者エリヤの奇跡を思い出し、「大預言者が私たちの間に現れた」と言ったのです。イエス様はエリヤの再来だ、というのです。ですが実際には、預言者エリヤの再来は洗礼者ヨハネで、イエス様は大預言者以上の方、神の子であり神様ご自身です。ですからイエス様は言葉だけで、若者を生き返らせなさいました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」エリヤの場合は、神様に祈って、そして祈りに応えた神様が男の子を生き返らせなさいました。イエス様は祈ったのではなく、御自分の言葉で命令して、若者を生き返らせました。イエス様は、偉大な預言者エリヤよりも、はるかにずっと偉大な神の子なのです。「大預言者が私たちの間に現れた。」興味深いことですが「現れた」は直訳では「起きた、立ち上がった」です。「大預言者が私たちの間に起きた、立ち上がった」と言っているのです。「起きる、立ち上がる」という言葉には先にも申した通り「復活する」の意味もあります。大預言者はイエス様を指すのですから、「大預言者が立ち上がった」という言い方は、イエス様が復活する方であることを暗示するのかもしれません。
 
 17節「イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」ユダヤ・イスラエルの枠を超えて、イエス様のこのすばらしい福音・よきニュースは周りの外国にまで聞こえ、広まって行ったと述べているように聞こえます。

 そもそも、人がなぜ死ぬかというと、私たち人間の罪が原因です。私たち人間は、神様に造られた者なのに、悪魔に誘惑されて神様から離れ、神様に背いて歩んでいます。神様に罪を犯した結果、その神の裁きを受けることになり、その結果死ぬ者となったというのが真相です。私たちの罪の結果、死が入って来ました。死を根本的に解決するためには、イエス様が私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死ぬ以外に道がありません。そこでイエス様は、決然と十字架への道を進まれます。今は受難節ですから、まさにイエス様の十字架の身代わりの愛を、徹底的に胸に刻む非常に重要な季節。特に意識して礼拝や祈祷会に出席する季節です。

 新約聖書のヘブライ人への手紙2章14~15節に、こう書かれています。「ところで、子ら(人間たち)は、血と肉(肉体)を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」18節「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」イエス様は、十字架の死という究極の試練と苦難を受けて死なれ、復活なさったからこそ、ナインの若者を生き返らせ、その母親を助けることができたのです。

 コリントの信徒への手紙(一)15章54、55節には、こう書かれています。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」イエス様の復活によって、死は勝利に飲み込まれました。私たちも死にますが、キリストを信じる者は永遠の命と復活の体を約束されています。私たちの家族、友人、全ての人が永遠の命と復活の体を受けるように、今日も明日も、感謝をもってイエス・キリストの宣べ伝えて参りましょう。アーメン。


2025-03-16 2:15:53()
「これほどの信仰を見たことがない」2025年3月16日(日)受難節(レント)第2主日公同礼拝
(イザヤ書55:8~11) わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。


(ルカ福音書7:1~10) イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。

 ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

(説教) 本日は、受難節(レント)第2主日の礼拝です。説教題は「これほどの信仰を見たことがない」、小見出しは「百人隊長の僕をいやす」。
 
 本日のルカによる福音書の直前の6章20~49節は、イエス様の「平地の説教」と呼ばれる個所でした。本日の7章には、「平地の説教」を終えたイエス様の愛の働きが記されています。1節「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。」マタイ福音書4章によると、イエス様はガリラヤ湖畔の町カファルナウムに住んでおられたのですね。カファルナウムは「慰めの村」という意味のヘブライ語だそうです。ガリラヤ湖のすぐ北にあります。当時のカファルナウムは、南のエルサレムから出発してカファルナウムを通り、北のダマスコを経て、バビロンに至る道の大切な中継地点として栄えていたそうです。ローマ軍も駐屯し、交易税を徴収する税関(収税所?)もあったそうです。

 2節「ところで、ある百人隊長に重んじられていた部下が、病気で死にかかっていた。」この百人隊長は、当時イスラエルを支配していたローマ帝国の軍隊の百人隊長かと思っていたのですが、そうではないという説もあります。当時ガリラヤを支配していたヘロデ・アンティパスという領主(彼はおそらくユダヤ人)に仕えていた兵士たちの百人隊長だったという説もあります。その場合でも、この百人隊長はユダヤ人ではない異邦人でした。彼は百人の兵士の上に立つ隊長としての力をもっていました。百人の兵士を率いる隊長として、優秀な人でもあったのでしょう。同時に部下への愛と思いやりに富んだ人でもありました。彼が重んじ、頼りにしていた部下が、病気死にかかっていました。何の病気か分かりませんが、死にかかるほどの重い病気でした。医者にみせても治せなかったかもしれないので、諦めても不思議でない状況でした。しかし百人隊長は諦めず、当時評判になっていたイエス様にすがることを決心しました。

 3節「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来て下さるように頼んだ。」百人隊長の行動は、新約聖書・ヤコブの手紙5章14~15節を連想させます。「あなた方の中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブを塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせて下さいます。その人が罪を犯したのであえば、主が赦して下さいます。」百人隊長は、長老たちを招いたのではなく、長老たちに頼んで、イエス様のもとに行ってもらい、イエス様に来ていただくように頼むことを依頼しました。長老たち以上に神様に近いイエス様、神の子であり、神ご自身であるイエス様に、助けに来て下さいと頼んだのです。

 長老たちも、喜んで百人隊長の頼みを聞き入れました。百人隊長は、カファルナウムのユダヤ人たちのために、多く尽くしていたと思われます。それでカファルナウムのユダヤ人たちに、とても愛され、信頼されていました。4~5節「長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。私たちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。』」百人隊長は、ユダヤ人ではなく異邦人(外国人)でしたが、ユダヤ人たちが礼拝する真の神様を信じ、きっと礼拝も献げていたに違いありません。ユダヤ人たちと、非常によい友情関係を築いていました。ですから長老たちは、熱心にイエス様に願ったのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。私たちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」当時のユダヤ人たちの会堂は、シナゴーグと呼ばれていました。

 礼拝の会堂を建てることは、昔も今もかなりの大きな事業と思います。祈りはもちろんですが、お金も多くかかります。この会堂も祈ってお金をため始めて建築して、教会債等を全て返済するまで、計15年くらいかかったと思います。大半のお金は自分たちで献金しましたが、他の教会からも献金をいただきました。私たちも他の教会の会堂建築のためにも献金しています。この百人隊長は、「自ら会堂を建ててくれた」と言われているので、建築資金の大半を出したのではないかと思います。なかなかできることではありません。ユダヤ人たちは、百人隊長にとてもとても感謝していたでしょう。神様にも喜ばれていたと思うのです。今のカファルナウムの写真を見ると、石造りの遺跡が見えます。かなり頑丈な感じです。土台の部分は、イエス様の時代のものとの解説されています。それより上の部分は、もう少し後の時代のものとも言われます。

 6~7節「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、ご足労には及びません。私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、私の方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃって下さい。そして、私の僕(しもべ)をいやして下さい。」まず彼は、自分が異邦人であることを意識していたと思います。当時ユダヤ人は、異邦人を汚れていると見なし、異邦人の家には足を踏み入れない習慣だったそうです。ユダヤ人であるイエス様に自分の家に入っていただくわけにはいかない。自分は汚れた異邦人だから、という思いもあったのではないかと思います。最初に長老たちに行ってもらったのも、異邦人である自分はユダヤ人の聖なる方イエス様に直接お会いすることはできないと考えたからかもしれません。私はイエス様にお会いするにふさわしくない者である。そして、ユダヤ人の長老たちに頼んでイエス様に来ていただくように依頼したが、やはりイエス様に自分の家に入っていただくわけにはいかない。そこで、自分の家に来られないで、「ひと言とおっしゃって下さい」それで十二分以上です。そのひと言で、私の死にかかっている僕は、必ず癒される。ここに百人隊長の、イエス様に対する絶対の信頼が示されています。
 
 それにしても、この百人隊長は実に謙遜です。「私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、私の方からお伺いするのさえ、ふさわしくないと思いました。」自分が異邦人であることだけでなく、聖なるイエス様に比べたとき、自分が罪人(つみびと)であることは、否定しようがないと感じていました。その通りです。イエス様の比べたときの自分の罪の深さ。偉大な洗礼者ヨハネは、こう述べました。「私よりも優れた方(イエス様)が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」偉大な伝道者パウロは、こう述べます。「自分を全く取るに足りない者と思い」(使徒言行録20章19節)。「月足らずで生まれたような私」、「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(コリント(一)15章8~9節)。「私は、その罪人(つみびと)の中で最たる者です」(口語訳「私は罪人(つみびと)の頭(かしら)である」)(テモテ(一)1章15節)。パウロの本心です。

 この百人隊長は、信仰者の理想的な姿を身をもって示す存在ではないでしょうか。まず、本心から謙遜です。「私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、私の方からお伺いするのさえふわさしくないと思いました。」しかしユダヤ人の長老たちは、彼を高く評価しています。「あの方はそうしていただくのにふさわしい人です。私たちユダヤ人を愛して、自ら進んで会堂を建ててくれたのです。」本人は「自分はふわしくない」と告白し、親しい人々は、「あの方はふさわしい人」と言っています。これは理想的なことと思います。逆だと悲惨です。本人が「私こそふさわしい」と言い、周りの人々が「あの人はふわしくない」と評価していれば、みっともなくて目も当てられません。しかし幸い、この百人隊長の場合は、本人は「自分はふさわしくない」が本心で、周りの人々の本心が「あの人こそふさわしい」です。実に麗しく、理想的です。使徒パウロの言葉が思い出されます。「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」(コリント(二)10章18節)。

 百人隊長は述べました。「ひと言、おっしゃって下さい。そして、私の僕(しもべ)を癒して下さい。」彼は、イエス様こそ真の神の子と完全に信頼していました。神の子イエス様のひと言には、絶対の権威がある。ひと言で十分以上だ。イエス様のひと言さえいただければ、私の大切な部下の瀕死の病も、必ず癒される。百人隊長は、イエス様に絶対の信頼を寄せていました。それは、彼が軍人で、自分のひと言の命令が、部下に絶大な力をもっていることを熟知していたことが大きかったと思います。軍隊は今も昔も、どこの国でも、部下は上官に絶対服従の世界なのでしょう。彼は言います。「私も権威の下(ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの権威の下)に置かれている者ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」でも彼は、横暴で無茶な命令を下す隊長ではなく、思いやり深い百人隊長だったに違いありません。彼は「私のひと言でさえ、これだけの力があるのだから、ましてイエス様のひと言は、必ず私の大切な部下の瀕死の病であっても、必ず癒す力をもつ」と信頼しきっていました。この絶大な信頼・信仰が、イエス様の魂を打ちました。

 9節「イエスはこれを聞いて感心され、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことがない。』」「感心された」は、直訳では「驚かれた」です。イエス様は百人隊長の深い信仰に驚かれた、新鮮な驚きを覚えられたのです。父なる神様が、この異邦人の百人隊長に、非常に深い信仰をお与えになりました。ルカ福音書3章8節で、洗礼者ヨハネが言っています。「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たち(信仰者たち)を造り出すことがおできになる。」信仰を与えて下さる方は、神様です。神様は、人を分け隔てなさいません。神様は、どんな人にも聖霊を注いで、どんな人にも深い信仰を与えることがおできになります。ユダヤ人(イスラエル人)に、イエス様を真の救い主と信じる信仰をお与えになり、私たち日本人(異邦人)にも、同じ信仰を与えることがおできになります。父なる神様は、この真に謙遜な百人隊長を愛し、彼にイエス様が驚かれるほどの、深い信仰をお与えになりました。ペトロの手紙(一)5章5節には、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」と書かれています。百人隊長は謙遜だったので、父なる神様から深い信仰を与えられました。神様は、人を分け隔てなさいません。この現実の前に、私たちも繰り返し謙遜になり、繰り返し襟を正す必要があると思えてなりません。

 百人隊長の信仰は、「ひと言、おっしゃって下さい。そして、私の僕(しもべ)を癒して下さい」という者です。父なる神様のひと言、神の子イエス様のひと言に、その力があるというよき確信です。イエス様は深く驚かれ、深く感心されました。「言っておくが、イスラエル(信仰の民)の中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことはない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていました。イエス様の力によって、部下は完全にいやされたのです。百人隊長はイエス様に全く会いませんでした。イエス様は、その部下に会わなかったとしても、彼を完全に癒す力を持っておられます。

 神様の御言葉、イエス様の御言葉の力のすばらしさを思います。前にも申した通り、ヘブライ語のダーバールという言葉は「言葉」という意味。同時に、ダーバールには「出来事」の意味もある。言葉が出来事を造り出す力を持っている、言葉が出来事を創造する力を持っているのです。創世記1章3節「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」イザヤ書55章8~11節「私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私の元に戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす。」ヘブライ人への手紙11章3節「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」

旧約聖書の「ヨブ記」を読んでいると、神の言葉の力強さに圧倒されます。ヨブ記38章でも天地創造のことが語られています。8節以下「海は二つの扉を押し開いてほとばしり、母の胎からあふれ出た。私は密雲をその着物とし、濃霧をその産着としてまとわせた。しかし、私はそれに限界を定め、二つのかんぬきを付け、『ここまで来てもよいが超えてならない。高ぶる波をここでとどめよ』と命じた。」神の命令の言葉に、自然界が従うことが記されています。 34~3節「お前(ヨブ)が雨雲に向かって声をあげれば、洪水がお前を包むだろうか。お前が送り出そうとすれば、稲妻が『はい』と答えて出て行くだろうか。」神の言葉の力。

 イエス・キリストこそ、生きた神の御言葉です。このイエス・キリストの全幅の信頼をおき。父なる神様に祈りながら。ご一緒に祈り、礼拝、伝道に励ませていただきましょう。アーメン。


2025-03-08 21:53:27(土)
説教「イエス様の言葉を聴いて、行う私たち」2025年2月9日(日)受難節(レント)第1主日公同礼拝
(イザヤ書5:1~7) わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。

(ルカ福音書6:43~49) 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

(説教) 本日は、受難節(レント)第1主日の礼拝です。説教題は「イエス様の言葉を聴いて、行う私たち」、小見出しは「実によって木を知る」と、「家と土台」。
 
 イエス・キリストの「平地の説教」の続きです。最初の43~44節「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。」イエス様は、本当は人間のことをおっしゃっているのだと思います。私たち人間が、自分の表面を取り繕ってみても、神様の前には、私たちが自分の真の姿をごまかすことができない、ということだと思うのです。45節「善い人は良いものを入れた心の倉から善い物を出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

 私たちの口から、悪い言葉が出てしまうとすれば、それはやはり私たちの心の名中に罪が残っている体と思います。心の中の罪を減らすためには、私たちの心の中を聖霊によって清めていただくほかはありません。新約聖書のエフェソの信徒への手紙4章29節以下には、こうあります。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなた方は、聖霊により、贖いの日(神の国の完成の日)に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを。一切の悪意と一緒に捨てなさい。」
「悪い言葉を一切口にしてはなりません。」この御言葉を自分の努力で、100%達成することは、できません。聖霊によって、心を清めていただくことが必要です。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書5章1節以下です。ここには、神様の嘆きが、たとえ話の形で記されています。神の民イスラエルが、酸っぱい悪いぶどうに変わってしまったことを、嘆く御言葉です。「私(神様)は歌おう、私の愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。私の愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を建て、酒ふねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ、私と私のぶどう畑の間を裁いてみよ。私がぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。私は良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」

 私たちキリスト者は、神様に愛されていますが、私たちの罪については、神様はやはり悲しみ嘆いておられると思いますので、自分の罪については悔い改めて、神様の嘆きが増えないで減るように、心がけたいと願います。

 2つ目の小見出しは、「家と土台」です。46~48節「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。私のもとに来て、私の言葉を聴き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。」私たちプロテスタント教会は、信仰義認を真理として強調します。信仰義認とは、「私たちがイエス・キリストを救い主と信じる、信仰によってのみ、私たちが父なる神様の前に義と認められる」ということです。信仰義認は聖書の真理です。しかしイエス・キリストを救い主と信じた私たちは、イエス様の十字架の愛に対して、感謝の応答へと押し出されます。信じたけれども、感謝の応答を全くしないことは、あり得ません。感謝の応答へと押し出されます。イエス様の弟子・使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙5章6節には、このように書かれています。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」ここで言われていることは、信仰が大事であって、信仰から愛が生じるということです。

 ルカ福音書に戻り、46節「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。」イエス様の御言葉を聴いて、イエス様を救い主と信じ、イエス様の御言葉を行うことは、イエス様の弟子(私たち)の道、弟子たち(私たち)の生き方です。47節以下「私のもとに来て、私の言葉を聴き、それを行う者が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしに地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その倒れ方がひどかった。」

 東久留米教会のこの新会堂は2011年に完成し、その年の6月(7月)から礼拝に用いています。土台を堅牢に建築することを強く意識し、深さ5メートルの鉄骨(固い岩盤に達する)を確か30本地中に埋めて、建物を支えています。設計段階ではまだ東日本大震災が発生していませんでしたが、阪神淡路大震災級の揺れでは倒壊しないように設計されています。これは物理的なこの建物のことです。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。」私たちキリスト者の生き方も、そうでありたいのです。イエス・キリストを救い主と信じ、御言葉を実行する確かな生き方です。「洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」数年前に、秋田で豪雨災害があり、被災した教会のために、東久留米教会でも献金を献げました。その教会の牧師だった方のお話を先日伺う機会がありました。今は、西武線沿線の教会に転任しておられます。大雨が降り、近くの川が氾濫したようで、教会堂は床下浸水したそうです。近くの民家は床上浸水したそうです。その夜は、避難したと伺ったように思います。教会堂の土台はしっかりしていたので、会堂が揺らぐことはなかったようですが、床下浸水したので、後に各地の教会から青年ボランティアも来て下さり、床下の清掃を行って下さったようです。

 「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。」私は先週の月曜日に、西東京教区の世界宣教協力委員会主催の講演会に出席致しました。講師は、エックハルト・シャルフシュベアト先生です。ドイツ人で、医学博士です。一昨年の東久留米教会の祈祷会に来て下さった大宮前教会の山本隆久牧師の、ドイツ留学時代の中国奥地伝道で知られるハドソン・テーラーという19世紀の宣教師に憧れて、中国語を学び、ご夫人、お子さん方と共に中国の東の方に行かれました。イエス・キリストを宣べ伝える希望をもっておられるのですが、現在の中国政府は、キリスト教に対して否定的な姿勢で臨んでいるので、表立っての伝道活動はできません。そこで基本は、医者として大変誠実に、病院で働かれました。中国の都会ではなく、地方です。クリスマスの時期に、地域の子どもたちや、病院の同僚を招いてのクリスマス会は、行うことができたそうです。ストレートな伝道活動はできないが、医者として働くことで、イエス・キリストの愛を示す形での伝道です。隣人愛による伝道です。「あなたの人生が、あなたのメッセージ」という言葉を、強調されました。イエス・キリストの言葉を宣べ伝えることが大切ですが、それができない場合もある。「あなたの(私たちの)人生(生き方)が、あなたの伝道のメッセージだ」ということです。私たちの言葉だけでなく行いも、私たちの生き方そのもの(全体)が、イエス・キリストを伝えるメッセージとなる。まさにその通りです。

 エックハルト先生によると、中国の人々は、結婚すると、家を建てたり、家族のために働くためにとても忙しくなり、自分の生き方や、宗教・哲学等に関して考えるゆとりがなくなる。これは日本にも同じようなことがあります。そうなる前に、学生の時代に中国人に何とか宣教したいと考えておられるそうです。そこで旧約聖書・ヨシュア記のイスラエルの人々のように、住んでいた町の周りを七週して祈ったそうです。ヨシュア記のエピソードは、イスラエルの民がエリコという町を占領した話です。それは戦争ですが、よく読むと武器によってではなく、神様の力によって勝利しています。祈りの戦いだったのですね。エックハルトさんは、大変優しそうな方です。中国では伝道が非常に制限されるが、この霊的な壁を神様が打ち破って、イエス・キリストへの信仰を自由に宣べ伝えることができるように、神様が中国の方々の心が、イエス・キリストを受け入れる心になるように耕して下さるように、エックハルトさんは、住んでいた町を七周回って、祈ったそうです。中国の大都会には教会はあります。それは政府が公認した教会です。非公認教会には弾圧があるようです。中国の共産党は、神様が共産党より上におられる考えを許しません。神様を共産党の下に置けば、受け入れられるらしいのですが、そうすると聖書の教えに明らかに反してしまいます。

 イエス様の御言葉に戻ります。「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。私の元に来て、私の言葉を聴き、それを行う者が皆、どんな人に似ているか、示そう。」ここを読むと、イエス様が「最後の審判」のことを語られたマタイ福音25章31節以下を連想しますね。「人の子(イエス様)は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで王(イエス・キリスト)は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国(天国)を受け継ぎなさい。お前たちは、私(イエス様)が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』」この世の中で、軽く扱われている方がおらえたとして、実はその中にイエス様が住んでおられるかもしれないのですね。そうであれば、私たちがその方を軽んじた場合は、イエス様を軽んじことになり、逆にその方に親切を行ったときには、気づかないで、イエス様に親切にさせていただいたことになります。

 このようにキリスト者は愛の行いを行うのですが、それはあくまでもイエス・キリストを救い主と信じる信仰から出るのです。イエス様がヨハネ福音書15章で、こうおっしゃっています。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も私につながっていなければ、実を結ぶことができない。」実は愛と言えます。「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」イエス様というぶどうの木につながって、そこからキリストの愛をたっぷり注がれて、その愛に押し出されて、隣人愛を行わせていただきます。イエス・キリストにつながっていないと、愛の実を結ぶことができません。あるいはイエス様の霊である聖霊に満たされ、聖霊に押し出されて、愛の行いを行わせていただくと言ってもよいと思います。

 最後に、ヤコブの手紙2章14節以下を読みます。新約聖書423ページ上段からです。ヤコブの手紙は、行いを強調することで知られています。これは、今申し上げたことを前提として読むのが正しいと思います。つまりぶどうの木であるイエス様から愛を注がれてという前提で読みのが正しいと思います。信仰義認を強調したマルティン・ルターは、ヤコブの手紙を嫌ったそうですが、イエス様の愛に支えられて愛を行うと読めば、ヤコブの手紙を嫌う必要は全くありません。むしろ信仰義認と両立する書として、愛読したいと思うのです。
 
 ヤコブの手紙2章14節より。「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなた方の誰かが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 しかし、『あなたには信仰があり、私には行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、私は行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神が私たちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。『アブラハムは神を信じた。それが神の義と認められた』(信仰義認)という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなた方にも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」
 
 長く引用しました。私たちは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって神様の前に義と認められ、神の子とされ、天国に入ることを約束されます。しかし信じた人は、イエス様の愛に満たされ、イエス様の愛に押し出されて、少しずつ愛の業を行うことになります。私たちは、よく祈って聖霊に多く助けられて、私たちの信仰を、行いによって完成させていただきたいと、切に祈ります。神様の友として、天国に入るまで生きてゆきたいと祈ります。アーメン。



2025-03-02 1:58:51()
説教「与えなさい。そうすれば与えられる」 2025年3月2日(日)降誕節第10主日公同礼拝
(サムエル記下12:1~10) 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』

(ルカ福音書6:37~42) 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

(説教) 本日は、降誕節第10主日の礼拝です。説教題は「与えなさい。そうすれば与えられる」、小見出しは「人を裁くな」です。先々週、先週に続き、イエス・キリストの「平地の説教」の中の御言葉です。

 最初の37節「人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない。」これは、直前の36節の続きとして読むのがよいです。「あなた方の父(神様)が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない。人を罪人(つみびと)だと決めるな。そうすれば、あなた方も罪人(つみびと)だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される」私たちは、えてして、他人には厳しくなり、自分には甘くなりがちです。従って、他人には寛容に、自分には厳しく臨むことが必要と思います。私たちはしばしば他人を裁きます。他人を批判し、他人の悪口を言います。でも本当に誤りなく裁くことができる方は、全ての状況と事情をよくご存じの神様だけです。私たちが他人を裁いて、他人を批判するとき、私たちは自分を神様にしていることに気づく必要があります。それは傲慢なことかもしれません。自分も神に裁かれます。最後の審判。

 この御言葉の最もよい解説は、マタイ福音書18章でイエス様が語られた「仲間を許さない家来のたとえ」です。よくご存じの方が多いでしょうが、このような内容です。まずイエス様の弟子ペトロが、イエス様に尋ねます。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」これに対して、イエス様が言われたのです。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」七は完全を意味する数字と言われます。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」七が二回出てきます。これは490回赦して終わりでなく、ほとんど無限に赦しなさい、と言っておられると思います。ペトロの予想をはるかに超えるお答えです。

 そしてイエス様は、天の国のたとえとして、「仲間を赦さない家来のたとえ」をお語りになりました。ある王に1万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし返済できなかったので、王はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願いました。王は憐れに思って彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。帳消しとは、驚きます。ところがこの家来は外に出て、自分に100デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言った。仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、王の前に出て事件を残らず告げた。そこで主君はその家来を呼びつけて言った。「不届き家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そして王は怒って、借金をすっかり返済するまでと家来を牢役人に引き渡した。以上がたとえです。イエス様は最後に、「あなた方の一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなた方に対して同じようになさるであろう。」

 この家来が王に借金していた金額1万タラントンです。1タラントンは6000日分の給料ですので、1万タラントンは6000万日分の給料です。仮に1日分の給料を5000円とすると、1万タラントンは3000億円です。つまり無限大の借金です。借金は罪のことを意味します。私たち一人一人が、この家来と同じ立場にいます。王は神様です。私たちは神様に3000憶円(無限大)に匹敵する罪を赦していただいたのです。イエス様の十字架のお陰で、無限大の罪を赦していただいて、今生かされている。これが私たちの現実であることになります。

 私たちは、自分の罪はそれほど重大でないと思っているかもしれませんが、神様からご覧になると、無限大に等しい罪を赦されて生きている私たちの真の姿が、よく見えるに違いありません。この家来は、自分に100デナリオン借金している仲間を赦しませんでした。100デナリオンは、先ほどの基準で計算すると50万円です。家来の借金の60万分の1の金額です。私たち一人一人の罪の重さは、神様から見ないと分からないと思います。自分の罪の重さを知らないで、私たちが他人を裁くとき、私たちは自己義認の罪に陥っている可能性があります。自分は罪人(つみびと)なのに、自分こそ正しいと思い込み、高慢になってしまう罪です。これがファリサイ派の人々の罪ですね。ファリサイという言葉には「分離する」という意味があるそうです。「自分は、あの連中とは違う」と自分と他人を区別し、思い上がってしまう罪です。ルカ福音書の中で、イエス様は言われました。「赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。」私たちはイエス様の十字架によって、無限大の罪を赦されました。なので、自分に罪を犯す他人の罪を赦す必要があります。そうすれば、私たちがあの家来のように、「不届きな家来だ」と神様に叱られることはありません。私たちはイエス様のお言葉「七倍どころか、七の七十倍まで赦しなさい」に驚きますが、自分が無限大の罪を赦していただいていると分かれば、なるほどと思います。

 イエス様はさらに言われます。38節「与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなた方は自分の量る秤で量り返されるからである。」これは、経験的にも本当です。色々な所に献金しているときの方が、不思議と自分も助けを受ける機会が多くなるように感じます。関連する聖句を、いくつか挙げることができます。申命記15章7節以下「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。(…)彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福して下さる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、私はあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」

 箴言11章25節「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。」26節「穀物を売り惜しむ者は民の呪いを買い、供する人の頭上には祝福が与えられる。」お米の値段が上がったままで、政府が備蓄米を放出する事態になっています。お米を買い占めて、お米の値段を釣り上げている人々がいるのではないかと言われます。もしそのような人々がいれば、神様に厳しく叱られると思います。箴言22章9節「寛大な人は祝福を受ける。自分のパンを裂いて弱い人に与えるから。」詩編112編5節「憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁き(最後の審判)のとき、彼の言葉は支えられる。」コリントの信徒への手紙(二)9章6節以下も、本日のイエス様の御言葉とよく響き合います。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです。」イエス様の御言葉は、こうでした。「与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほど量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなた方は自分の量る秤で量り返されるからである。」

 39節「イエスはまた、たとえを話された。『盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。』」イエス様がここで本当におっしゃりたいことは、先ほどの王の家来のように、自分が無限大の借金(罪)を帳消しにしていただく大きな恵みを受けたことが見えていない人(心の目が見えていない人)に、正しい信仰的な判断はできないということと思います。40節「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」これは一般論でしょう。一般的にはそうですが、私たちが一心不乱に修行しても、イエス様と同じにはなれないと思います。

 41~42節「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」本日の旧約聖書・サムエル記・下12章でのダビデ王も、自分の目にある丸太に気づかなかった人です。自分の部下ウリヤの妻を奪い、更にウリヤを戦死に追い込んだのに、自分の大きな罪に気づいていませんでした。神様が預言者ナタンを送って、厳しく叱責なさった時に、初めて丸太のように大きな自分の罪に気づいたのでした。

 もう一度37節に戻ります。「赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。」
先週は、箴言19章11節の感銘深い御言葉をご紹介致しました。「背きを赦すことは人に輝きをそえる。」赦し難きを赦す人は、まさに尊敬に値します。もちろん、その筆頭はイエス様です。十字架につけられた時の、あの祈りです。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」

 旧約聖書の創世記にも、感動的な赦しの場面があります。兄たちによって憎まれて穴に投げ込まれたヨセフという男性が、ミディアン人の商人たちによって穴から引き上げられ、イシュマエル人に売られ、エジプトに連れて行かれポティファルという人に売られ、無実の罪で監獄に入れられる苦難を味わいます。ヨセフがその兄たちを最終的に赦した場面が、創世記50章にあります。ヨセフの仕返しを恐れていた兄たち(何しろヨセフはエジプトの総理大臣)は、一生懸命謝ったのです。ヨセフは涙を流して兄たちに言いました。「恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか。」ヨセフは、深い信仰の人になっています。神様お一人のみが、正しく裁くことがおできなる方と、よく分かっていたのです。それで「私が神に代わってあなた方を裁くことができるでしょうか。できません」と言ったのだと思います。「あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにして下さったのです。どうか恐れないで下さい。この私が、あなたたちとあなたたちの子どもを養いましょう。」ヨセフは兄たちを慰め、優しく語りかけたのです。ヨセフが兄たちを厳しく試した場面もありますが、こうして最終的に兄たちを完全に赦したヨセフの信仰は輝いています。「背きを赦すことは、人に輝きをそえる。」

 イエス様は言われます。「赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。」「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」その前提は、イエス様が十字架にかかって、私たちの一生分の罪の赦しを与えて下さった事実です。今から聖餐を味わいます。十字架にかかることで私たちの罪を赦して下さった、イエス様の十字架の愛を十二分に味わいたいと思います。そしてもちろん、将来必ず復活の体をいただく希望にも、改めて満たされたいと思います。アーメン。