日本キリスト教団 東久留米教会

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2025-12-14 0:53:00()
「あなたは神から恵みをいただいた」  2025年12月14日(日)礼拝
(ルカによる福音書1:26~38) 

 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
               
(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第3主日礼拝。説教題は「あなたは神から恵みをいただいた」です。小見出しとしては「イエスの誕生が予告される」です。

 最初の26節「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。」カトリックの解説書によると、ナザレという名前は「花」の意味だそうです。エルサレムの北140キロの位置にあります。小さな村で無名とさえ言える(名はあるが)村で、旧約聖書には一度も出てきません。発掘によって、イエス様の時代と思われる村の遺跡が発見されているそうです。ポイントはナザレが当時、軽んじられた村だったということです。ヨハネ福音書1章45、46節のフィリポとナタナエルという人の対話「私たちはモーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言った。「まさかあんな目立たない、あるかないか分からないナザレから、そんな有力者が出るなど、あるわけがない」という反応です。それほど軽視されていたナザレの、15才くらいの無名の少女マリアに、父なる神様が目を留めて祝福された。これは私たち人間の常識をはるかに超え、人間の常識からすると完全に意外で思いがけない出来事、意表を衝く出来事です。

 28節「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアは、この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」天使が来ることは、神様による重要な場面転換、介入の時です。「おめでとう」は直訳で「喜びなさい」です。30節「すると天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父(先祖)ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家(神の民イスラエル)を治め、その支配は終わることがない。』」

 天使は「恐れることはない」と言いますが、マリアが結婚前に妊娠するというお告げです。ご存じのように当時のイスラエルでは、結婚前に妊娠すれば姦通の罪を犯したと見なされ、死刑です。恐れるのが当たり前です。しかしマリアは姦通の罪を犯すのではありません。神の清き霊である聖霊によって、妊娠するのです。神様がよき理解者・いいなずけヨセフにより、また神様ご自身の力によって、責任をもってマリアを守られます。ですのでマリアは恐れなくてよいのです。

 34節「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。』マリアは言った。『私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』」これはヘブライ的な表現で、神様の御心への全き(完全な)服従を表しています。マリアは、父なる神様を信頼しきって、その導きに全生涯を委ねる決断をしたのです。神様が全てを最善にして下さると信頼しきったのです。あえて言えば、ローマの信徒への手紙8章28節の御言葉と同じ信仰に立ったと言えるのではないでしょうか。「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」この御言葉と同じ信仰に立ったと思うのです。マリアは、神様を純粋に愛していました。だからイエス様の母として選ばれたのです。

 このルカによる福音書は、いと小さき者に対する神様の深い慈しみを強調する福音書と思います。たとえば次の2章では、天使によってイエス様の誕生の喜びが、貧しく無名の羊飼いたちに告げられています。「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」「大きな喜び」、それは無力な赤ん坊イエス様の誕生です。聖書の価値観は、普通の価値観と違いますね。普通は大きく強いことが喜びではないでしょうか。しかし聖書、特にルカによる福音書は、「無力な赤ん坊イエス様」の誕生が、「最も大きな喜び」です。イエス様が、私たちの罪を赦すために十字架にかかって下さる真の救い主だからです。「大きな喜びを告げる。」この「告げる」という言葉は「福音(よき知らせ)を告げる」の意味の言葉です。この「告げる」ひと言だけで、「福音(よき知らせ)を告げる」の意味なのです。ですから「大きな喜びを告げる」を丁寧に訳すと、「福音(よき知らせ)を告げる、大きな喜びの」となります。喜びが強調されています。これは世間の喜びと異なる、聖なる喜びですね。

 本日の個所に戻り、35節の天使の言葉「聖霊があなた(マリア)に降り、いと高き方(神様)の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」先ほどの解説書によると、出エジプト記40章34、35節を参照するとよいとのことです。「雲(聖霊のシンボル)は臨在の幕屋(礼拝するテント)を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは臨在の幕屋に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」この個所に似て、神の霊である聖霊が、新しい幕屋に等しいマリアを覆うというのです。男性の介在なく、マリアはただ聖霊によって身ごもります。命を造ることができるのは、神だけです。

 イエス・キリストの誕生は、旧約聖書のイザヤ書7章14節においても預言されています。神の御言葉を預かる預言者イザヤが、ユダの王アハズに告げます。「それゆえ、私の主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」この御言葉は、神の子の誕生の預言として、マタイ福音書1章で明確に引用されています。インマヌエルとは、皆様ご存じの通り「神は我々と共におられる」です。ルカによる福音書とマタイによる福音書が、マリアは男性との関係ないままに聖霊によって身ごもったと述べていることは明らかです。但し、イザヤ書7章14節の「身よ、おとめが身ごもって、男の子を産み」の「おとめ」という言葉はヘブライ語で「アルマー」です。純粋に言葉の意味として「アルマー」は「若い女性」(必ずしも処女でない)の意味だとする人と、「処女」の意味だとする人がいて、決着がつけにくいようです。口語訳聖書と新共同訳聖書は「おとめ」と訳しています。ヘブライ語アルマーは「若い女性」の意味との解釈したのでしょう。新改訳聖書は「処女」と踏み込んで訳しています。キリスト教会の信仰からすると、「処女」と訳してくれた方が、はっきりして嬉しいですね。私が見た範囲ではニュー・キングジェイムズ版は「virgin」処女と訳しています。今から二千年以上前の七十人訳聖書というギリシャ語新約聖書では既に「処女」と訳しています。

 少しややこしい話をしましたが、イザヤ書7章14節「身よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」の原語のヘブライ語のアラマーを「おとめ」と訳しても「処女」と訳しても間違いではありません。ですがもちろんマリアは聖霊よって妊娠したのですから、男性との交渉がなかったことは明らかです。そしてイザヤ書7章14節が、イエス様の誕生を予告する重要な聖句であることを、私も改めて強く認識致しました。使徒信条にはこうあります。「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ。」使徒信条の日本語訳は「処女」と書いて「おとめ」と読ませています。神様の清き聖霊がマリアを包み、聖霊なる神様が新しい人間の命を創造し、神の子であり人の子であるイエス様を誕生させました。

 イエス様の時代のイスラエルでは、子どもを産めないことは恥と見なされました。もちろん今は、全くそのようなことはありません。創世記18章を見ると、神様と思われる方が99歳のアブラハムに言います。「私は来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう。」このとき妻サラは89歳だったはずです。しかし神様と思われる方が言われた通り、翌年サラはイサクを産んだのです。この奇跡は、神に不可能がないことを示す奇跡です。高齢で妊娠のあり得ない年齢の出産の奇跡は、男性が一切介在しないマリアの処女妊娠の奇跡の準備とも言えるでしょう。

 サラは男の子が生まれると言われたとき、ひそかに笑いました。「そんなことがあるわけがない」と思ったからです。これは不信仰の笑いです。神様を馬鹿にする笑いです。すると神様と思しき方がすぐ言われます。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子どもが生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、私はここに戻って来る。そのころ、サラには必ず男の子が産まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消します。「私は笑いませんでした。」神様が言われます。「いや、あなたは確かに笑った。」笑ったとき、サラは不信仰でした。しかしマリアは、サラよりも信仰深い女性だったのです。マリアは天使に「あなたは身ごもって男の子を産む」と言われたとき、戸惑いはしました。「どうしてそのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」と疑問を告げました。でもサラのように笑うことはありませんでした。神様をばかにするような不信仰の心は、マリアにはありませんでした。サラよりも純粋で深い信仰の持ち主だったことが分かります。だからイエス様の母として選ばれたのです。

 フィリピの信徒への手紙1章29節。コロサイの信徒への手紙1章24節。マリアの苦しみは、わが子が十字架につけられることを見届けることになる苦しみ。神様は、マリアの信仰ならこの大きな試練に耐えらるとマリアを見込まれたのだと思います。神の国の完成のための産みの苦しみ。父なる神様も独り子イエス様を十字架につける痛みを味わった。もちろん神様は、マリアが試練に耐えることができるように、神様を支えておられたに違いありません。クリスチャンの歩みは、神様と苦労を共にし、神と共に喜ぶ生き方。神と共に歩みましょう。アーメン。


2025-12-06 23:30:38(土)
「小さな群れへの祝福」   2025年12月7日(日)アドヴェント第2主日 石田真一郎
(ルカによる福音書12:22~34) 
 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
              
(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第2主日礼拝の礼拝です。説教題は「小さな者への祝福」です。小見出しとしては「思い悩むな」です。

 最初の22節「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。』」命という言葉は、もとのギリシア語でプシュケーという言葉です。魂と訳されることもあります。もちろんポイントは、「思い悩むな」です。思い悩まないために大事なことは、神への祈りの打ち込むことと思います。神様を信頼しきれなから不安になり、思い悩むのですから、思い悩み(思い煩い)から解放されるためには、神様への祈りに打ち込むことが、最も重要と思います。思い悩むとは、いろいろなことが心配になり、心が千々に乱れることと思います。全然心配しないことがよいとも言いきれませんが、イエス様は不必要な心配をしないように教えておられると思います。

 「命のことで何を食べようかと、思い悩むな。」もちろん健康のために、何を食べて何を食べないかを見極めることは必要です。ひと頃は、健康のために一日30品目食べるのがよいと言われ、実践している方もあると思います。野菜を多く摂ることが健康によいことも確かと思います。お酒を飲み過ぎないことも大切です。このように食生活に気をつけることは大切です。衣食同源という言葉もあるくらいですから。できることを行えば、あとは神様に信頼して委ねるのがよいのでしょう。それがなかなかできないのが私たちであることも事実ですが、そこでこそ祈りに打ち込んで、神様の助けをいただいて、私たちにつきまとう思い煩いを、神様に追い払っていただきましょう。「思い悩む」の原語のギリシア語のニュアンスは、「心が分裂させられる。注意が引き裂かれる。一つのことに集中できず不安によって心が散らされる」であるそうです。このルカ福音書10章に「マルタとマリア」の小見出しの個所がありますが、ちょうどマルタがこの状態でしたので、イエス様にこうたしなめられました。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」思い悩んでいる状態は、心が乱れている状態です。「何を着ようかと思い悩むな。」服には社会性もあるので、服装に気を配ることは必要でしょう。しかし高価な着物を買って、どのように体を着飾ろうかと思い悩む必要はないと、イエス様はおっしゃっているのではないかと思います。

 前にも申しましたが、新約聖書のペトロの手紙(一)5章7節に、こうあります。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなた方のことを心にかけていて下さるからです。」任せるは委ねると訳すこともできますが、「任せる」の原語のギリシア語は「投げる」の意味だそうで、「思い煩いを全て神様に投げつけなさい」と訳すこともできると聞きました。神様に私たちの思い悩み、思い煩いを、何となく神様に委ねるのではなく、神様に投げつけなさい、思い切って神様に投げつけなさいの意味だと聞きました。遠慮しないで、私たちの思い悩みを、神様に思いきり投げつけてよいのです。野球のピッチャーになったつもりで、私たちの思い煩いを、時速160キロで投げつけましょう。すばらしいキャッチャーである神様が、しっかりと受けとめて下さいます。

 イエス様は、父なる神様に信頼しなさいと呼びかけます。24節以下「烏のことを考えて見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養って下さる。」これは、怠慢でよいという意味ではありません。人間は労働する必要があります。パウロは、テサロニケの信徒への手紙(二)3章で書いています。「聞くところによると、あなた方の中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、私は主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように。落ち着いて仕事をしなさい。」ですから働かなくてよいという意味ではありません。今日の一日も、明日の一日も、神様に信頼しなさいというのです。

 そして私たちを励まして下さいます。「あなた方は鳥よりもどれほど価値があることか。あなた方のうち誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さなことさえできないのに、なぜ、ほかのことまで思い悩むのか。」寿命という言葉を、身長と訳す聖書もあります。文語訳がそうです。「汝らのうちたれか思い煩いて、身の丈一尺を加え得んや。」寿命と訳された言葉には、身長の意味もあるようです。多くの訳が寿命と訳していますが、たとえばニューキングジェイムズ訳は身長と訳しています。寿命を延ばすことも、若くない人が身長を伸ばすことも、難しい。イエス様はそれらを「こんなごく小さなこと」と言われます。人間には「ごく小さなこと」ではないのですが、神様から見れば「ごく小さなこと」なのでしょう。

 ここに烏が登場します。マタイ6章では「空の鳥」です。旧約聖書のレビ記11章13節には鳥類のうちで汚らわしく、食べてはならないものに、「烏の類」が含まれています。だとすれば、神様は汚らわしい烏をさえ養って下さる。まして汚らわしい烏よりはるかに価値がある私たち人間の一人一人を養って下さらないはずがないというメッセージになります。詩編147編8節にも神様は「獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば、食べ物をお与えになる。」

 イエス様は、父なる神様の愛に信頼するようにと言われます。27節「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなた方にはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。」神様は、栄光に満ちたソロモン王よりも、野の小さな花に恵みを注ぎ愛を注ぎ、豊かに顧みて下さっているというのです。私たちは小さな花をよくよく見て、そのことに気づく必要があるのですね。神の恵みの一つ一つを、じっくり数えてみる必要があるのです。小さな野の花にさえ配慮を注ぎ、愛をもって装って下さる神は、鳥よりも花よりもずっと価値のある私たち人間の一人一人に、食物を与えて養って下さらないはずがない。信頼しなさい、というのです。花は思い煩うことなく、懸命に咲くことに専念しているのです。一本の花から学びなさいと言われるのです。

 あの星野富弘さんが、本日のルカ福音書とほとんど同じ内容のマタイ福音書6章を、大好きな聖句として挙げておられます。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなた方の天の父はこれを養っていて下さるのです。あなた方は鳥よりも、もっと優れたものではありませんか。」

 29節以下「あなた方も、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それらはみな、世の異邦人(真の神を知らない人々)が切に求めているものだ。あなた方の父は、これらのものがあなた方に必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」マタイ福音書6章では、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」まず神様に従うことを第一にしなさい、礼拝を第一にしなさい。そうすれば衣食は、神様が責任をもって下さる。最近、ある教会の週報を拝見しました。今年度の教会目標が、「神の国と神の義を求める教会」と書かれていました。いわゆる地方の教会です。礼拝出席人数5名と書かれていました。人数は少ない。しかし志は高いと強い感銘を受け、尊敬する気持ちになりました。「神の国と神の義を求める教会。」もちろん全ての教会がそうである必要がありますし、東久留米教会ももちろんそうでありたいのです。32節に私たちは、大いに励まされます。「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を下さる。地上で小さな教会であったとしても、父なる神様は、喜んで神の国、天国を私たちにプレゼントして下さるので、大変感謝です。

 「あなた方の父は喜んで神の国を下さる」は、口語訳では「御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」です。ここで思い出すのは、クリスマスの場面です。あの名もなき貧しい羊飼いたちが聞いた天使の讃美です。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」「あなた方の父は喜んで神の国を下さる」の「喜んで」と、天使の賛美の「御心に適う」は、元のギリシア語で非常に似た言葉です。全く同じではないのですが、よく似た近しい言葉です。つまり、神の国と神の義を求める小さな群れは、御心に適う群れで、神様は喜んでその小さな群れ、そしてあの羊飼いたちにも、神の国と平和を与えて下さるのです。

 神の国と神の義を求めるには、どうすればよいか。次に具体的に書かれています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなた方の心のあるところに、あなた方の心もあるのだ。」簡単ではない求めです。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。」貧しい人々にでしょう。売り払うとは、全部売ることでしょうから、なかなかできません。現実には、できる範囲で行うことになると思います。

 今日のポイントの1つが「思い煩うな」であるとすれば、フィリピの信徒への手紙4章5節以下にも、よく通じ合う御言葉があります。「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」私は以前、口語訳で暗唱していました。「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなた方の求めるものを、神に申し上げるがよい。そうすれば人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」

 私の父は、去る11月24日(月)に、95歳で天に召されましたが、今年のあの大変な猛暑だった夏には私は、「この夏を乗り切れるだろうか」と心配していました。特に8月下旬に、台湾ユースミッションという企画に参加して広島市と長崎市に行くことになっていましたので、「神様、この期間に父を召さないで下さい」とかなり必死な思いで祈っておりました。全然思い煩っていなかったと言ってしまうと、嘘になります。思い煩っていたのですが、一生懸命お祈りもしていました。神様が憐れんで下さったということでしょう。その期間に父が召されることはなく、その後三か月の日々を与えて下さったと思うのです。

 本日の旧約聖書は、士師記7章1節以下です。この個所を長々語るつもりはありませんが、ポイントは人数が多いことがよいとは限らないということでしょう。神様が、ミディアン人と戦おうとするイスラエルの人々のリーダー・ギデオンに、意外に思えることを言われます。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から2万2千人が去り1万人が残ります。神は言われます。「民はまだ多すぎる。」そして300人が選び出されます。私たちから見れば300人も多いですが、神が共におられれば、少人数でも恐るるに足りない。感謝と喜びをもって神と共に進みましょう。

2025-11-16 0:50:08()
「真に畏れ敬うべき方」   2025年11月16日(日)降誕前第6主日礼拝
(ルカによる福音書12:1~12) 
 とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛まで0⃣も一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
◆イエスの仲間であると言い表す
言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる; 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

(説教) 本日は、降誕前第6主日礼拝・子ども祝福日の礼拝です。説教題は「真に畏れ敬うべき方」です。小見出しとしては「偽善に気をつけさせる」と「恐るべきもの」の二つです。

 第1節「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話はじめられた。『ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。』」パン種は、パンを焼く時に用いるイースト菌です。このパン種という言葉は、新約聖書では、よい意味で用いられることもありますが、悪い意味の比喩として用いられることが目立ちます。コリントの信徒への手紙(一)5章7節で使徒パウロは、ギリシアのコリントという土地の教会の人々に、「古いパン種をきれいに取り除きなさい」と、勧めています。教会から罪を取り除きなさいというのです。「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭で祝おうではありませんか」と書き、罪をできるだけ取り除いた状態で聖餐式を行おう、礼拝を献げよう。このようにパウロは、コリントの教会の人々に呼びかけています。

 「それは偽善である。」偽善という言葉は元のギリシア語で、「見せかけ」の意味であり、「隠す」の意味もあり、興味深いことに「舞台俳優として演じる」の意味をも持つそうです。俳優は立派な仕事なので、このように言うと俳優さんに失礼かもしれませんが、俳優の仕事は演技することですね。偽善者は、自分の罪深い本心を隠して、自分を他人によく見せようと演技しているのです。イエス様は、このルカによる福音書16章15節でファリサイ派の人々に、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる」と言っておられます。ファリサイ派の人々は、「自分の正しさを他人に見せびらかすが、本心は自分の利益ばかり求めていた」のだと思います。

 しかし不思議に思うのは、ファリサイ派の人々は、当時のイスラエルの信仰熱心な人々なのです。ある意味、全力で信仰の道に励んでいた人々です。自分に対しても人一倍厳しかったはずなので、その人々が偽善的だったとは、私には理解しにくいのです。偽善とは、良い人間のふりをすることです。心の中は自己中心なのに、表向きは神と隣人への愛に満ちているふりをすることです。そう考えると、私は私にも偽善の要素があると思います。自分の中にも偽善の罪があるので、その罪をできるだけ減らすように心がけることが必要だと思っています。福音書にはパウロは登場しませんが、ファリサイ派の代表のような人がパウロを名乗るまでのサウロです。彼は全ての律法を完全に守っていると自信満々の人で、自分に罪はないと考えていたのだと思います。それだけ思い上がりの罪を犯しており、謙遜に悔い改める必要を感ぜず、また他者への愛の足りない自分であることに気づいていなかったのでしょう。

 私たちがいわゆゆる「善い行い」をするときに、それを他人に見てもらい。自分がよい人間であることを他人に印象づけようと思って行うと、偽善になりやすいですね。自分が隣人をそれほど愛していないのに、自分が隣人愛に富む人間であることを他人に見せて、自分の評判を上げる目的で行う善い行いは、偽善になる危険が大きい。それでイエス様は、マタイ福音書6章2節以下で、「施しをするときには、偽善者たちが人から褒められようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。(~)施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いて下さる」と言われました。隠れたことを見ておられる神様に喜んでいただくだけの目的で行う善い行いは、偽善になりません。この世で他人から報われることがないからです。私たちも、善い行いを「右の手のすることを左手にさえ知らせない」気持ちで行えば、それを自己宣伝の目的で行う可能性がないので、偽善を犯さないで済みます。ですがなかなか100%このような純粋な気持ちになることが難しいので、私は「自分にも偽善の罪がある」と認めざるを得ないのです。

 2節「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなた方が暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」心の中で隠していることも、神様は全てお見通し、神様の目をごまかすことは不可能。隠し事は、全て公になる。神様がそうなさるからです。陰で語ったこともすべて、世界中に公開されます。私たちの言動の全てが、最後の審判で神様に裁かれます。となると、私たちは皆、私たちの全部の罪を背負って十字架で死んで下さったイエス・キリストに頼る以外に、天国に入る道がないと分かります。

 本日の旧約聖書・列王記下6章8節以下に、少々面白いエピソードが記されています。神がアラム軍の機密情報を預言者エリシャに教えた。アラム王は怒り、大軍でエリシャと捕えようとした。「主が従者の目を開かれたので、神は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。」
 
 次の小見出しは「恐るべきもの。」4節「友人であるあなた方に言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」イエス様は、弟子たちを友人と呼んで下さいました。私たちをも友と呼んで下さいます。イエス様は、ラザロが死んだとき、「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く」と言われました。ヨハネ福音書15章では、「私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である。もはや、私はあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。」私たちを迫害する力を持つ人がいても、その人は私たちを殺すことはできても、私たちの永遠の命を奪うことができないので、恐れる必要はないとおっしゃっています。

 5節「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ、言っておくが、この方を恐れなさい。」それは真の神様です。真の神様を畏れ敬って生きなさい、というのです。旧約聖書のダニエル書で、ダニエルというユダヤ人が、バビロンの王ベルシャツァルに、こう語ります。「あなたの父王は、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を建てられると悟りました。しかしあなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なおへりくだろうとはなさらなかった。あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」こう非難しています。権力者を非難すれば、殺されるかもしれません。ダニエルはしかし、権力者を恐れず、真の神様を畏れ敬っていたので、このようなことが言えたのです。

 この真の神は、神に背く者には厳しいが、小さき者には非常に優しい神であると、イエス様が教えて下さいます。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。一アサリオンは、一日分の賃金の16分の1です。300円くらいでしょうか。五羽の雀が二アサリオンなら、一羽の雀は100円くらいでしょう。取るに足りないたった一羽の雀。「だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。」聖歌で「一羽の雀さえ、主は守りたもう」とレーナ・マリアさんが歌っていた聖歌がありますね。そして私たちに、「まして、あなた方は沢山の雀よりも、はるかにまさっている。あなた方一人一人を神様がお忘れになることは絶対にない。だから恐れるな。安心して神様を信頼するように。あなた方の神の毛までも一本残らず数えられている。」神様は、私たちの隅々まで知り尽くしておられる。私自身が知らない自分の髪の毛の本数まで、私たちを造られた神様は正確にご存じである。ご存じであるだけでなく、愛して下さっている。だから安心してこの真の神様を畏れ敬い、この神様に従いなさい、ということです。

 第三の小見出しは、「イエスの仲間であると言い表す」です。8~9節「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」信仰は、心の中で信じていればよいと考える方がおられると思いますが、聖書はそうは言いません。ローマの信徒への手紙10章10節に、「実に人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです」と明記されています。

 私は今年の8月に長崎市に行き、7年ぶりに「二十六聖人殉教の丘」に立ちました。1597年2月5日に、豊臣秀吉の迫害で殉教した人々の信仰は、やはりすばらしく純粋だと感じます。26人は信仰を捨てないで殺されました。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者(豊臣秀吉)を恐れなかったのです。

 10節「人の子(イエス様)の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。」マタイ福音書12章では、イエス様が聖霊によって悪霊を追い出していたのを見たファリサイ派の人々が、「彼は悪霊の頭ベルゼブルの力によって悪霊を追い出している」とひどい悪口を言ったことが、聖霊に言い逆らう罪として、この世でも後の世でも赦されることがない、とイエス様が言っておられます。「聖霊を冒瀆する者は赦されない。」ヘブライ人への手紙10章26節以下。故意に犯す罪。

 11~12節「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」使徒言行録4章5節以下。

 私は一昨日夜、妻と共に『ボンヘッファー』という映画を見ました。『信徒の友』にも紹介されているようです。見た結果、私はこの映画は私たちの信仰について考えさせるし、一見の価値はあると思います。ヒットラーのナチスに抵抗して39才で死刑にされたドイツの牧師です。当時のドイツの教会の一部はナチス政権の言いなりになって骨抜きにされて、ヒットラーに従う教会になっていたようです。これではいけないとスイス人の牧師カール・バルトやボンヘッファーが努力して「告白教会」というグループを立ち上げて、あくまでもイエス・キリストに従う覚悟を示しました。マタイ福音書23章33節以下でイエス様が律法学者たちとファリサイ派の人々に、「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから私は、預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。青年牧師ボンヘッファーは、ナチスのメンバーも出席している礼拝で、「蝮の子らよ」と説教し、ヒットラー総統を拝むのでなく、真の神様のみを礼拝しなければならないと説教します。勇敢です。ボンヘッファーの様々な言葉も紹介されます。イエス・キリストはクリスチャンと教会に、「あなた方は地の塩である」と言われたが、悪に抵抗しない教会は塩気を失っている。悪に抵抗しないことは、神様への罪になる。彼はヒットラー暗殺計画のメンバーに入り、暗殺は未遂に終わり、彼も逮捕され、死刑になります。相手がいかにヒットラーとは言え、暗殺を計画することはクリスチャンとして許されるのかどうか、今でも賛否両論があると思います。私が神学生だったときの先生の一人は、暗殺が未遂に終わったことは、神様がボンヘッファーが殺人を犯さないようにボンヘッファーを守ったのではないかと、考えておられたようです。イエス様は本日の4節で、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者ども恐れてはならない」と言われます。ボンヘッファーは、ヒットラー暗殺計画については賛否両論があるとしても、ナチスも出席している礼拝で「蝮の子らよ」と説教するなど、勇敢です。獄中で、聖餐式を司式する場面もあり、これも実際に彼が行ったことのようです。非常に困難な時代の中でボンヘッファーは、イエス・キリストに従おうとした人であることは事実と思います。私たちもまた、今の時代の中にあって、イエス様に従う生涯を歩んで参りましょう。アーメン。

2025-11-09 3:28:25()
「上にあるものを求めなさい」    2025年11月9日(日)聖徒の日礼拝
(コロサイ3:1~14) 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」
 
(説教) 本日は、聖徒の日(召天者記念日)礼拝です。説教題は「上にあるものを求めなさい」です。小見出しとしては「日々新たにされて」の後半です。

 これはクリスチャンになった人々への、勧めの言葉なので、クリスチャンになっておられない方々に少し分かりにくいようでしたら、申し訳ございません。第1節「さて、あなた方は、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」

 この御言葉(聖書の言葉、神の言葉)には、かなり深い意味が込められています。「あなた方は、キリストと共に復活させられた。」これは、洗礼のことを語っています。ローマの信徒への手紙6章4節以下に、こうあります。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新し命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると
信じます。」

 イエス・キリストは、私たちの全部の罪を、私たちの身代わりに背負って、十字架で死んで下さったのです。そして死者の国に降られ、三日目に復活されました。復活の体をもって復活されました。そして天に昇られ、今も天で生きておられて、私たちを守っていて下さいます。洗礼を受けることは、このイエス・キリストと一体になることです。罪深い古い自分は、イエス様と共に十字架につけられて死んだ。そしてイエス様と共に新しい命、永遠の命をもつ自分に復活したのです。洗礼は単なる儀式ではないのです。深い意義を持ちます。古い罪深い自己中心の自分が死んで、イエス様と同じ愛の命・永遠の命に生きる新しい自分に復活したのです。東久留米教会では、頭に水を垂らす方式の洗礼式を行うので、今述べたような実感にやや乏しいとは思います。でも有効な洗礼です。

 本当に水に入る方式の洗礼式もありますね。本当に水に入るので、その方式で洗礼を受けると全身の体験になり、強烈な体験で決して一生忘れられない体験になるでしょう。水を頭に垂らす式の洗礼でも、もちろん一生忘れませんが。礼拝堂内に洗礼槽という水槽があり、そこに入って洗礼式を行う教会も多いと思います。今年の6月でしたか、もう既に暑かったですが、このすぐ近くの落合川で、他の教会の洗礼式を行うと私も誘われて、近いので参りました。私は会衆として見守り、お祈り致しました。洗礼を受ける方が川に入り、サポート係の方も川に入り、韓国人の牧師の方も川に入りました。聖書が読まれ、お祈りがなされ、受ける方は2~3秒、体も頭も水に沈んで、洗礼を受けました。上に上がって体も乾かしたあとに牧師が聖書をプレゼント。「棺に入る時、この聖書も入れる。読み込んであって真っ黒でないといけない。本棚にしまって白いままでは、恥ずかしい思いをする。」

 洗礼で大切なのは、自分の罪を悔い改めることです。罪を悔い改めていないと、形だけ洗礼を受けても意味がないでしょう。本当に水に入る洗礼の場合で見れば、水の中にどぼんと入った時に古い自分は死んだ。そして水から出た時に、全く新しい、神と人への愛に満ちた自分に生まれ変わりました。私たちは水を飲まないと生きていけませんが、この場合は、水が私たちに与えられた永遠の命を象徴します。罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ告白して洗礼を受けると、永遠の命を受けます。しかし現実には、私たちの罪は死にきっておらず、まだ少しずつ罪を犯します。日々自分の罪を悔い改める、祈って聖霊を受けることで、次第に清められてゆきます。そして私たちが地上の人生を終えるとき、私たちの残った罪も完全に死に絶え、私たちは全く罪のない清らかな自分になって、新しく天国に誕生します。地上の人生の終わりは、洗礼の完成です。ですが決して、天国行きを急がないで下さい。

 1~2節「あなた方は、キリストと共に復活させられたのですから、上(天国、神の国)にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」上にあるものを求めなさいとは、神の国と神の義を第一に求めなさい、ということです。洗礼を受けて神の子になったのだから、神様に喜ばれる、愛と正義に満ちたことばかりを求め行って、生きていきなさい、ということです。罪を捨てなさいということです。具体的には5節に記されています。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い(性的な罪)、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」上にあるものを求め、下(地上的、この世的)の罪深いことを捨て去りなさい、と言っています。

 戻って3節「あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」そう、私たちは洗礼を受けた時に、古い自分はイエス様と共に十字架につけられた死んだのです。そしてイエス・キリストを信じて亡くなった方々は、今は目に見えませんが、その方々の命は「キリストと共に神の内に隠されているのです。」その方々の命は、復活されたイエス様と共にあるから、心配する必要はない。いつまでも隠されているのではありません。4節「あなた方の命であるキリストが現れるとき、あなた方も、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」キリストが現れる時とは、イエス様がもう一度地上においでになる再臨の時です。イエス様がその時、神の国を完成して下さいます。

 イエス様が再臨なさる時に何が起こるか。ヨハネの手紙(一)3章2、3節にこうあります。「愛する者たち、私たちは今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるときに、御子(イエス様)に似た者となるということを知っています(人格がイエス様に似た者となり、イエス様と同じ栄光で満たされる)。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」フィリピの信徒への手紙3章20節以下には、こうあります。「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。」私たちにも、既に亡くなって、今私たちが見ることのできないクリスチャン方にも、以上の恵みが必ず与えられると約束されています。

 コロサイに戻り、5節の「みだらな行い」は元のギリシア語で、ポルネイアです。ポルノという言葉の語源と思います。貪欲を新改訳聖書は「むさぼり」と訳しています。「地上的なものを捨て去りなさい」を、口語訳聖書と新改訳聖書は「殺してしまいなさい」と訳しています。上(天国、神の国)のものを求め、下(地上、この世)の罪深い思いと行動を殺してしまいなさい、と言っています。捨てるだけでは足りない。神に背く罪深い思いを殺してしまいなさいと言っています。非常に強い言葉です。罪を憎むべきことが、この後も強調されます。6節以下「これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなた方も、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。」キリストを信じて洗礼を受ける「以前は」、5節にある罪を犯しながら生きて来た。しかし、洗礼を受けた「今」それらの罪を捨てなさい。殺しなさい。以前と今では生き方が明確に違うのです。「今は」、そのすべてを、すなわち怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。

 9節「互いに嘘をついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、作り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」「造り主(神様)の姿に倣う新しい人を身に着け。」本日の旧約聖書・創世記1章26~27節「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男の女に創造された。」神様に似せ造られたところに私たち人間の、他の動物と違う尊厳があります。障碍があっても、神に似せて造られた尊厳があります。エバとアダム(人間の先祖)が悪魔の誘惑に負けて神様に背いて、罪の支配下に落ちたとき、この尊厳はかなり損なわれたと思いますが、完全に損なわれたのではないようです。「作り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて。」これは私たちが、聖霊(神様の清き霊)に満たされて清められ、神様に似せて造られた本来の姿を回復することを、述べていると思います。」イエス・キリストは神であり、神の子であり、同時に人間でもある方です。イエス様には全く罪がないので、イエス様だけが、神様に造られた全く罪のない人間の本来の姿を維持している方です。「作り主の姿に倣う新しい人を身に着け」るとは、このイエス様に似ていくということです。人格がです。

 12節はすばらしい。イエス様に似た者になれ。神様がそうして下さいます。14節「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させる絆です。」絆には傷が含まれてている。イエス様の十字架の傷のおかげで私たちの罪は赦され、私たちはイエス様と固いきずなで結ばれた。アーメン。


2025-11-02 0:39:19()
「神の預言者の血を流す罪」     2025年11月2日(日)礼拝
(ルカによる福音書11:45~54)
 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入らせない。

(説教) 本日は、東久留米教会創立64周年記念日礼拝です。説教題は「神の預言者の血を流す罪」です。小見出しは「ファリサイ派の人々と律法の専門家とを非難する」の後半です。この小見出しは、37節から始まっています。イエス様は、当時のイスラエルの宗教(信仰)のリーダーと言えるファリサイ派の人々を、厳しく非難されました。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」これは相当手厳しい非難です。ファリサイ派の人々は、偽善者だと言っておられるのです。
  
 本日は、イエス様による律法の専門家への非難です。最初の45、46節「そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、私たちをも侮辱することになります」と言った。イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸(ウーアイ)だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」ウーアイは、「うう、ああ」という呻きの言葉で、人間たちの罪に対するイエス様の嘆きと怒りが混ざった言葉だと、私は思います。当時のイスラエルでは、宗教上(信仰上)の律法(規則)が613あったと言われています。これを全部守らないと天国に入ることはできないと教えたのではないでしょうか。613もあると、大変な重荷です。律法の専門家は、民衆にこの613もの教えを実行するように求めましたが、背負うための手助けを、一切しなかったと思われます。愛がなかったと思われます。

 しかしイエス様は違います。イエス様は、マタイによる福音書11章28節以下で、こう言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私の元に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」重荷とは、神様の律法(私たちが守り切れない戒め)であり、私たちの罪を指すと言えます。イエス・キリストは、私たちをこれらの重荷(私たちが守りきれない律法と罪)から私たちを解放し、慰めと平安を与えて下さいました。私たちの全員の全部の罪の責任を身代わりに十字架で背負って下さり、イエス様を救い主と信じる全ての方に、永遠の命をプレゼントして下さったのです。

 イエス様ご自身が、十字架という最大の重荷を担って下さって、私たちを重荷から解放して下さいました。私たちも、このイエス様の十字架の愛に感謝して、イエス様が言われるように、自分の十字架を背負ってイエス様に従います。それを大変だと思うこともありますし、確かに本当に大変な十字架を背負われる方々もおられます。イエス様が共にその十字架を背負って下さると思いますし、周りの人々には、執り成しの祈りや具体的なサポートによって、一人一人の十字架が少しでも軽くなるようにできる応援をする務めが与えられていると思います。

 47~48節「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人になり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。」マタイ福音書23章では、この後にイエス様がこう言われます。「そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側には付かなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。」

 確かに、旧約聖書の時代にも、真の神様に従う預言者たちが迫害されました。旧約聖書の時代の預言者たちは、主にイスラエルの人々が犯した偶像礼拝の罪をやめるように語り、迫害されました。預言者たちは、モーセの十戒の第一の戒め「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」を守るように訴えました。しかし人々は、豊かさを求めてバアルなどの偶像(偽物の神)を礼拝することを、なかなかやめませんでした。これは当時の人々が、経済を拝んだこととも言えるので、他人事とは言えません。現代を生きる私たちも、お金を神としたくなる誘惑には、さらされていると思いますから。偶像崇拝をしてはならないと説く預言者たちは、イスラエルにおいて迫害されました。預言者イザヤも、預言者エレミヤも殉教したと言われます。

 そしてイエス様の時代に、人々は自分たちの先祖が殺した預言者たちの墓(記念碑)を建てたようです。こうして「昔の預言者は偉かった。自分たちは預言者を殺したりはしない」と、自分たちは信仰深いと自画自賛していました。ところがこの人々がイエス様を十字架につけて殺してしまうのです。人間の心には、本当に罪深いものが潜んでいるのではないでしょうか。それに自分でも気づいていない可能性があります。平穏な時にはそれは表面化しなくても、私たちが色々なピンチに陥ると、ふだんは隠れている自分のエゴが向き出しに出て来る恐れは、ないとは言いきれません。私たちはいつになっても、自分が本当にイエス様に従っているか、自分に問い直す必要があるのはないかと思います。

 49節「だから、神の知恵もこう言っている。『私は預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』」当時「神の知恵」という書物があったのかもしれませんが、イエス様は「神の知恵」に書いてあることに同意なさるのですね。50節「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。」これは、イエス様の時代のイスラエルの民が、それまで人間たちが神に背いて来た罪の責任を背負わされるという、実に厳しい言葉です。罪が裁かれる総決算の時が来たということです。ガラテヤの信徒への手紙5章7節の御言葉が、思い出されます。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」私たちが蒔いた罪の結果は、私たち自身にふりかかります。厳しい現実です。私たちが蒔いた罪の結果を、十字架で全て引き受けて下さったのがイエス様です。ですから私たちは、イエス様の十字架の恵みなしに、生きることは不可能です。

 51節「それはアベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。」創世記4章によるとアベルは、兄カインによって不当に殺されました。神はカインに言われます。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。」ゼカルヤのことは、本日の旧約聖書・歴代誌・下24章17節以下に記されています。イスラエルのヨアシュ王が命令して、真の預言者と言うべきゼカルヤが不当に殺されました。ゼカルヤは殉教の死を遂げたのです。ゼカルヤは死に際して言いました。「主がこれをご覧になり、責任を追及して下さいますように。」その通りと言うべきか、ヨアシュ王は、家臣たちに殺されます。そしてイエス様の時代までに流された預言者たちの死の責任を、イエス様の時代のイスラエルの人々が負うことになると言うのです。

 52節以下「『あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げて来たからだ。』イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろな問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉尻をとらえようとねらっていた。」イエス様こそ、預言者たちが(名前は示さないまでも)予告したメシア(救い主)です。預言者たちとイエス・キリストは、同じ線上に並ぶ人々です。そのイエス様をメシア(救い主)と認めないファリサイ派の人々、律法学者たちは、先祖たちと同類で、神様に逆らう者たちだということになります。イエス様に激しい敵意を抱き、ついに十字架で殺すことになります。神様への最大の反逆です。その結果、イスラエルはローマ帝国の攻撃を受けて、この約30年後に神殿は焼け落ち、エルサレムも一旦滅亡してしまいます。

 キリスト教会も神の民です。ですがキリスト教会も、100点の存在ではないので、悪魔の誘惑に負けて神様に背かないように、世の終わりまで気をつける必要があります。一昨日の10月31日は、宗教改革記念日でした。1517年の10月31日に、マルティン・ルターが、ドイツのヴィッテンブルグ城教会に95ヶ状の意見を貼り出して宗教改革(教会改革)が始まって日と言われます。本日の週報にその様子の絵を貼りました。95ヶ状の意見の中で、おそらく一番有名なのは次の言葉と思います。「イエス・キリストが悔い改めよと言われた時、イエス様はキリスト者の全生涯が悔い改めであることを求められたのである。」クリスチャン個人も、どの教会も、これを忘れないようにしないと堕落する恐れがあります。信仰の道は謙遜、謙遜、また謙遜です。

 昔のカトリック教会が堕落した時代もありました。「平和の祈り」で有名なイタリア人アッシジのフランチェス(1182年~1226年)は、聖堂で祈っていたときに、「私の教会を建て直しなさい」というイエス様の声を聞いたそうです。それで教会堂を修復する作業を行っていましたが、イエス様が本当に言わんとされたことは、教会の建物ではなく信仰の立て直し(改革)だったと思います。当時おそらくローマカトリック教会ではローマ教皇の権威や権力が絶大だったのでしょう。都会では豪華な聖堂が建築されていたのではないでしょうか。権力やお金の力が支配する世俗的な教会になったいたのではないかと思います。フランチェスコたちが修道院運動を始めたようです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである」というイエス様の精神です。教会は清貧(清く貧しい)に立ち帰る必要がある。教会は権力、お金、組織の力で成り立つのではない。そうなると悪魔の誘惑に負けて堕落する。教会は聖書の御言葉と祈りによってのみ成り立つ。ルターの500年前にも、このような改革者、教会を刷新した人々がいたのです。本日は、東久留米教会の創立64周年記念日の礼拝もあります。東久留米教会の原点も、これから歩む道も、聖書と祈りを第一にしての歩みにしなければいけません。

 ある人の文章によれば、「教会が権力や金銭(富)と結びつくと、必ず堕落する。教会の歴史を振り返ると、迫害され苦しんでいたときは純粋ですばらしい信仰共同体を作ったが、キリスト教がローマ帝国に公認され、国教になり、ローマ皇帝の権力と結びついてからは、争いや分裂に陥った。権力とお金に対する貪欲を、もっともらしい教理と神学(もちろんよい教理と神学もありますが)、で正当化し、堕落した。このような堕落にもかかわらず、教会が2000年間滅びなかったのは、アッシジのフランチェスコのような聖人が修道院運動を起こし、教会を権力とお金への執着から解放し、清貧(清らかさと貧しさ)と悔い改めに導いたからだ。それは神様がそのような清い改革者を起こして下さったのです。

 広島流川教会の週報。日本キリスト教団戦争責任告白。
権力、支配、お金、効率ではなく。イエス様に従うこと、聖書、祈り、奉仕こそ教会の生きる道。 そして教会はイエス・キリストの花嫁(女性も男性も)。ご葬儀の花で飾られた棺。 アーメン。