
2024-11-23 20:37:02(土)
説教「重い皮膚病の人を癒すキリスト」2024年11月18日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第75回)
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23,頌栄16(1節)、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・386、聖書 ルカ福音書5:12~16、祈祷、説教、祈祷、讃美歌404、献金、頌栄83(1節)、祝祷。
(ルカ福音書5:12~16)
イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
(説教) ルカによる福音書の先週の箇所では、イエス様が少なくとも3名を弟子にして、神の子としての働きを次第に活発化させられました。本日の箇所では、重い皮膚病の人を癒す愛を行われました。最初の12節「イエスがある町におられたとき、そこに、全身、重い皮膚病にかかった人がいた。
重い皮膚病は、以前は新共同訳聖書でも「らい病」と表記されていました。らい病は今ではハンセン氏病と呼ばれています。その後の研究により、イエス様に出会ったこの人の病気が、医学的に厳密にハンセン氏病だったかは分からないこと、らい病という名称が今は差別言葉となっていること等を踏まえ、重い皮膚病と訳すことに変わったようです。私が東久留米教会に着任させていただいた1996年には、当時あった礼拝部の方々の尊いお働きで、新共同訳の新約聖書で「らい病」と記載された箇所全ての上に、「重い皮膚病」と書いた小さな紙が貼って下さいました。教会備付の数十冊の聖書全部にこの紙を貼って下さったとすると、かなり大変な仕事量だったと思い、頭が下がります。その後に新共同訳聖書を買われた方の聖書には、はじめから重い皮膚病と印刷されています。但し、19世紀そして20世紀の中盤頃までの長い間、イエス様が出会ったこの人がハンセン氏病だと解釈されて来たことは事実と思います。
当時のイスラエルでは、重い皮膚病の人は汚れていると見なされ、神様に呪われていると見なされていました。もちろん、今はあそのようなことは全くありません。旧約聖書のレビ記13章1~3節に、このように書かれています。「主はモーセとアロンに仰せになった。『もし、皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じて、皮膚病の疑いがある場合、その人を祭司アロンの所か、彼の家系の祭司の一人の所に連れて行く。祭司はその人の皮膚の患部を調べる。患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病である。祭司は、調べた後その人に、「あなたは汚れている」と言い渡す。』」祭司が判定する権限を持っていたのですね。
レビ記13章45節以下には、こうあります。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『私は汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状がある限り、その人は汚れている。その人は独り宿営の外に住まねばならない。」
イエス様に出会った重い皮膚病の方も、汚れた者として社会から隔離されて、孤独に生きていたに違いないのです。旧約聖書ももちろん聖書(神の言葉)として尊重しますが、イエス・キリストが愛によって旧約聖書を完成して下さいます。ルカに戻り12節の後半と13節「この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります。』」実に謙虚な人で「御心ならば」と言っています。「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われるとたちまち重い皮膚病は去った。」イエス様は片手で、その人に触れました。触れたことが大きな愛です。おそらく当時は汚れがうつる、重い皮膚病がうつると信じられれていて、誰もこの人に触れる人はいなかったと思います。触れるだけで、大きな勇気だったのです。今はハンセン病の菌は感染力が弱いと分かっていますし、よい薬もあり治るので、恐れる必要がないと学びました。しかし2000前のイエス様の時代の人々は。感染を恐れたでしょうし、日本でも太平洋戦争が終わったころまで、そうでした。しかしイエス様は恐れることなく、愛を込めて手を差し伸べて触れ、重い皮膚病を完全に癒して下さいました。神の手や腕は、神様の力のシンボルです。イエス様の手も、神の子(あるいは神)の力のシンボルとも言えます。
コロナ感染が拡大し出したころ、カトリック国のイタリアで、多くの司祭方が、コロナ重症者を見舞って、終油の秘跡を授けたそうです。臨終が近いと思われる信者の方に油(オリーブ油?)を塗って祈る式です。それで重症の患者さんに接触して、ご自分が感染して命を落とした司祭が多くおられたと聞きました。まだワクチンもなかった頃と思います。感染の危険を冒しても、司祭の務めとしてコロナ重症の信者さんにも終油の秘跡を授け、感染して天に召されたのですから、すばらしい神父魂と思います。ハンセン病の方に手を差し伸べて触れた、イエス様の愛を思いながら、終油の秘跡を授けに行かれたのかもしれません。
イエス様は、「よろしい。清くなれ」と言って下さいました。よろしいを直訳すると「私は意志する」です。イエス様の御心、愛の意志によって、この方は完全に癒されました。汚れていると見なされ、差別を受け、孤独な日々を送っていましたが、イエス様の愛によって癒され、清い状態に戻り、共同体に復帰して、孤独から解放されました。よかったですね。最近新聞を読んでいると、「孤独は毒だ」と書いてあり、確かにそのような面があると感じます。多くの方々に教会の礼拝や集会に出席していただき、少子高齢化の現実の中で、神様の民に加わっていただいて、孤独でない人生を送っていただきたいものです。
14節「イエスは厳しくお命じになった。『誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。』」祭司に見てもらい、治って清くなったとの宣言をもらい、人々に納得してもらい、共同体に復帰しなさい、ということと思います。「誰にも話してはいけない」のはなぜでしょうか。イエス様はおそらく、この地上の王様に祭り上げられることを避けようとなさったのでしょう。地上の政治的な王様になるように、人々から祭り上げらることを避けたのだと思います。イエス様の一番大事な使命は、十字架にかかることですから、十字架に向かうことを避けさせられるような結果を招かないように、
地上の人気者、派手なヒーローにならないようにと、切望しておられたのだと思います。イエス様は、このような方なので、全面的に信頼できます。イエス様の十字架の死と復活後に弟子になったパウロという人が、新約聖書のコリントの信徒への手紙(二)10章18節で、「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」と書いていますが、イエス様ご自身がまさにそのような方です。自己推薦は全くなさらず、父なる神様から全幅の信頼をもって推薦される方です。
イエス様は一切自己宣伝なさらないのですが、なさった愛の業がすばらしかったので、評判が広まってゆきます。15~16節「しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」イエス様は評判と勢いに乗って、浮わついて有名人になろうとは一切、なさいません。人のいない所に退いてひたすら祈って、悪魔の甘い誘惑を退け、ただご自分の使命の道を間違えることなく生ききることができるように、父なる神様にひたすら従うことができるように、ひたむきに祈っておられます。
イエス様が、重い皮膚病の人を癒されたことは、イエス様ご自身が重い皮膚病を身代わりに背負って下さったと、私は思います。イエス様の十字架を預言している旧約聖書のイザヤ書53章を読むと、こう書かれています。あえて新共同訳ではなく、口語訳で読んでみます。2節後半から。「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔を覆って、忌み嫌われる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」「顔を覆って、忌み嫌われる者のように」とあります。これが重い皮膚病の人を指す表現に思われます。先ほどのレビ記にありました。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『私は汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。」重い皮膚病の人は、汚れた者として忌み嫌われ、差別されたのです。十字架につけられたイエス様も、まさに汚れて呪われた者として忌み嫌われました。イエス様は十字架で、重い皮膚病の人々の悲しい境遇を、すべて身代わりに背負ったのだと思います。そして重い皮膚病の人々を癒されたのだと思います。「忌み嫌われ」という表現が、新共同訳のイザヤ書53章にないので、重い皮膚病との関連を示すためには、口語訳の方がよいと思い、あえて口語訳で読みました。
口語訳でさらにイザヤ書53章を読むと、こうなっています。4~5節「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを担った。しかるに、われわれは思った。彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上に置かれた。」
この方の病がハンセン病だったかは分かりませんが、キリスト教会の歴史の中でハンセン病だと解釈された時代は長いと思います。そのため、昔から教会は、ハンセン病の方々に尽くそうとしてきました。ご存じのとおり、東久留米市のお隣の東村山氏には多摩全生園があります。中にはハンセン病資料館もあり、日本におけるハンセン病の歴史を学ぶことができます。私は東久留米教会の婦人会の企画で資料館を見学したこともあり、個人で行ったこともあります。敷地内にキリスト教の礼拝堂が3つあるように思います。プロテスタント、カトリック、聖公会です。日本キリスト教団の隠退された牧師方も、プロテスタントの礼拝堂で説教奉仕されています。清瀬にある聖公会の清瀬聖母教会の大森司祭も、毎週、全生園内の聖公会の礼拝堂でご奉仕されているそうですが、全生園に住む方々も高齢化し、聖公会の礼拝に出席する方も非常に少なくなり、コロナで暫く休会の時期もあり、という現状のようです。
私と妻が洗礼を受けた茨城県の筑波学園教会の初代牧師の稲垣先生という方から伺った話を思い出します。稲垣先生のお若い頃、おそらく1940年代頃と思います。太平洋戦争中か、その前後かもしれません。岡山の教会で牧師をしておられた時、近くの瀬戸内海の島にハンセン病の方々の療養所がありました。今もあると思います。そこに教会があり、定期的に礼拝説教奉仕に通われたそうです。療養所に入ると、まず防護服のようなものを着て、感染しないようにすることが行われていました。ハンセン病の感染力は非常に弱いことが理解されていない時代ですね。今のコロナ以上に恐れられていたのでしょう。防護服を着て、患者のクリスチャンの方々と一緒に讃美歌を歌い、聖書を読んで説教なさるのですが、患者さんのとの間に距離ができて、喜びがない。ある時、思い切って防護服を脱いだそうです。「こんなものを着ていては、だめだ。」防護服を脱いで共に讃美歌を歌い、説教奉仕をすると、患者のクリスチャンの方々も喜んで、大変生き生きとした礼拝になったそうです。礼拝が終わると、握手したり、「ご体調はいかがですか」と声をかけたり、喜ばしい交流の時を過ごすことができた。稲垣先生が隠退後の80才くらいの時に、この思い出を語って下さいました。
若かった稲垣先生も、内心は正直怖かったらしいのですが、「防護服など着ていては、お互いの心も通わないし、礼拝にならない」と感じて、思い切っ脱いでよかった、というお話です。稲垣先生は、イエス様を思われたのでしょう。イエス様は重い皮膚病の人に手を差し伸べて触ったのですから、防護服を着ていてはイエス様を伝える礼拝にならない、と思われたのでしょう。患者さん側からすると、説教者が防護服を着ていると、「自分たちは教会の人々からも遠ざけられ、差別され、孤独の中で礼拝するしかないのだな」と諦めの気持ちだったのが、牧師が防護服を脱いだので、距離が縮まってよかったのだと思います。
カトリックの司祭に晴佐久神父という現役の方がおられますが、この方の説教集には、こんなことが出ていました。今から20~30年くらい前のことでしょうが、エイズ病棟に知人をお見舞いに行ったそうです。エイズ、後天性免疫不全症候群が日本でも表に出始めたのは、1990年頃だったと思います。普通の接触で感染しませんし、今はよい薬もあるようです。ただ、輸血で感染した方々もありますね。1990年頃は、エイズが非常に恐れられました。エイズ病棟を訪問する人も少なく、患者さんは非常に孤独だったようです。家族・友人も近づいてくれない。誰からも愛されない。そのエイズの方を晴佐久神父がお見舞いに行ったところ、涙を流して喜んで下さったそうです。その方がクリスチャンかどうかは分かりません。エイズが死の病と恐れられていたときに患者さんを訪問することは、やはり勇気のある行動だったのだと思います。
本日の御言葉は、イエス様の勇気ある愛を伝えています。イエス様に続いて、勇気をもって人々を愛したクリスチャンも多くおられると思います。無謀になる必要はありませんが、私たちも、少しでも勇気ある愛に生きたいのです。アーメン。
(ルカ福音書5:12~16)
イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
(説教) ルカによる福音書の先週の箇所では、イエス様が少なくとも3名を弟子にして、神の子としての働きを次第に活発化させられました。本日の箇所では、重い皮膚病の人を癒す愛を行われました。最初の12節「イエスがある町におられたとき、そこに、全身、重い皮膚病にかかった人がいた。
重い皮膚病は、以前は新共同訳聖書でも「らい病」と表記されていました。らい病は今ではハンセン氏病と呼ばれています。その後の研究により、イエス様に出会ったこの人の病気が、医学的に厳密にハンセン氏病だったかは分からないこと、らい病という名称が今は差別言葉となっていること等を踏まえ、重い皮膚病と訳すことに変わったようです。私が東久留米教会に着任させていただいた1996年には、当時あった礼拝部の方々の尊いお働きで、新共同訳の新約聖書で「らい病」と記載された箇所全ての上に、「重い皮膚病」と書いた小さな紙が貼って下さいました。教会備付の数十冊の聖書全部にこの紙を貼って下さったとすると、かなり大変な仕事量だったと思い、頭が下がります。その後に新共同訳聖書を買われた方の聖書には、はじめから重い皮膚病と印刷されています。但し、19世紀そして20世紀の中盤頃までの長い間、イエス様が出会ったこの人がハンセン氏病だと解釈されて来たことは事実と思います。
当時のイスラエルでは、重い皮膚病の人は汚れていると見なされ、神様に呪われていると見なされていました。もちろん、今はあそのようなことは全くありません。旧約聖書のレビ記13章1~3節に、このように書かれています。「主はモーセとアロンに仰せになった。『もし、皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じて、皮膚病の疑いがある場合、その人を祭司アロンの所か、彼の家系の祭司の一人の所に連れて行く。祭司はその人の皮膚の患部を調べる。患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病である。祭司は、調べた後その人に、「あなたは汚れている」と言い渡す。』」祭司が判定する権限を持っていたのですね。
レビ記13章45節以下には、こうあります。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『私は汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状がある限り、その人は汚れている。その人は独り宿営の外に住まねばならない。」
イエス様に出会った重い皮膚病の方も、汚れた者として社会から隔離されて、孤独に生きていたに違いないのです。旧約聖書ももちろん聖書(神の言葉)として尊重しますが、イエス・キリストが愛によって旧約聖書を完成して下さいます。ルカに戻り12節の後半と13節「この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります。』」実に謙虚な人で「御心ならば」と言っています。「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われるとたちまち重い皮膚病は去った。」イエス様は片手で、その人に触れました。触れたことが大きな愛です。おそらく当時は汚れがうつる、重い皮膚病がうつると信じられれていて、誰もこの人に触れる人はいなかったと思います。触れるだけで、大きな勇気だったのです。今はハンセン病の菌は感染力が弱いと分かっていますし、よい薬もあり治るので、恐れる必要がないと学びました。しかし2000前のイエス様の時代の人々は。感染を恐れたでしょうし、日本でも太平洋戦争が終わったころまで、そうでした。しかしイエス様は恐れることなく、愛を込めて手を差し伸べて触れ、重い皮膚病を完全に癒して下さいました。神の手や腕は、神様の力のシンボルです。イエス様の手も、神の子(あるいは神)の力のシンボルとも言えます。
コロナ感染が拡大し出したころ、カトリック国のイタリアで、多くの司祭方が、コロナ重症者を見舞って、終油の秘跡を授けたそうです。臨終が近いと思われる信者の方に油(オリーブ油?)を塗って祈る式です。それで重症の患者さんに接触して、ご自分が感染して命を落とした司祭が多くおられたと聞きました。まだワクチンもなかった頃と思います。感染の危険を冒しても、司祭の務めとしてコロナ重症の信者さんにも終油の秘跡を授け、感染して天に召されたのですから、すばらしい神父魂と思います。ハンセン病の方に手を差し伸べて触れた、イエス様の愛を思いながら、終油の秘跡を授けに行かれたのかもしれません。
イエス様は、「よろしい。清くなれ」と言って下さいました。よろしいを直訳すると「私は意志する」です。イエス様の御心、愛の意志によって、この方は完全に癒されました。汚れていると見なされ、差別を受け、孤独な日々を送っていましたが、イエス様の愛によって癒され、清い状態に戻り、共同体に復帰して、孤独から解放されました。よかったですね。最近新聞を読んでいると、「孤独は毒だ」と書いてあり、確かにそのような面があると感じます。多くの方々に教会の礼拝や集会に出席していただき、少子高齢化の現実の中で、神様の民に加わっていただいて、孤独でない人生を送っていただきたいものです。
14節「イエスは厳しくお命じになった。『誰にも話してはいけない。ただ、行って祭司に見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。』」祭司に見てもらい、治って清くなったとの宣言をもらい、人々に納得してもらい、共同体に復帰しなさい、ということと思います。「誰にも話してはいけない」のはなぜでしょうか。イエス様はおそらく、この地上の王様に祭り上げられることを避けようとなさったのでしょう。地上の政治的な王様になるように、人々から祭り上げらることを避けたのだと思います。イエス様の一番大事な使命は、十字架にかかることですから、十字架に向かうことを避けさせられるような結果を招かないように、
地上の人気者、派手なヒーローにならないようにと、切望しておられたのだと思います。イエス様は、このような方なので、全面的に信頼できます。イエス様の十字架の死と復活後に弟子になったパウロという人が、新約聖書のコリントの信徒への手紙(二)10章18節で、「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです」と書いていますが、イエス様ご自身がまさにそのような方です。自己推薦は全くなさらず、父なる神様から全幅の信頼をもって推薦される方です。
イエス様は一切自己宣伝なさらないのですが、なさった愛の業がすばらしかったので、評判が広まってゆきます。15~16節「しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。」イエス様は評判と勢いに乗って、浮わついて有名人になろうとは一切、なさいません。人のいない所に退いてひたすら祈って、悪魔の甘い誘惑を退け、ただご自分の使命の道を間違えることなく生ききることができるように、父なる神様にひたすら従うことができるように、ひたむきに祈っておられます。
イエス様が、重い皮膚病の人を癒されたことは、イエス様ご自身が重い皮膚病を身代わりに背負って下さったと、私は思います。イエス様の十字架を預言している旧約聖書のイザヤ書53章を読むと、こう書かれています。あえて新共同訳ではなく、口語訳で読んでみます。2節後半から。「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔を覆って、忌み嫌われる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」「顔を覆って、忌み嫌われる者のように」とあります。これが重い皮膚病の人を指す表現に思われます。先ほどのレビ記にありました。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『私は汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。」重い皮膚病の人は、汚れた者として忌み嫌われ、差別されたのです。十字架につけられたイエス様も、まさに汚れて呪われた者として忌み嫌われました。イエス様は十字架で、重い皮膚病の人々の悲しい境遇を、すべて身代わりに背負ったのだと思います。そして重い皮膚病の人々を癒されたのだと思います。「忌み嫌われ」という表現が、新共同訳のイザヤ書53章にないので、重い皮膚病との関連を示すためには、口語訳の方がよいと思い、あえて口語訳で読みました。
口語訳でさらにイザヤ書53章を読むと、こうなっています。4~5節「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを担った。しかるに、われわれは思った。彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上に置かれた。」
この方の病がハンセン病だったかは分かりませんが、キリスト教会の歴史の中でハンセン病だと解釈された時代は長いと思います。そのため、昔から教会は、ハンセン病の方々に尽くそうとしてきました。ご存じのとおり、東久留米市のお隣の東村山氏には多摩全生園があります。中にはハンセン病資料館もあり、日本におけるハンセン病の歴史を学ぶことができます。私は東久留米教会の婦人会の企画で資料館を見学したこともあり、個人で行ったこともあります。敷地内にキリスト教の礼拝堂が3つあるように思います。プロテスタント、カトリック、聖公会です。日本キリスト教団の隠退された牧師方も、プロテスタントの礼拝堂で説教奉仕されています。清瀬にある聖公会の清瀬聖母教会の大森司祭も、毎週、全生園内の聖公会の礼拝堂でご奉仕されているそうですが、全生園に住む方々も高齢化し、聖公会の礼拝に出席する方も非常に少なくなり、コロナで暫く休会の時期もあり、という現状のようです。
私と妻が洗礼を受けた茨城県の筑波学園教会の初代牧師の稲垣先生という方から伺った話を思い出します。稲垣先生のお若い頃、おそらく1940年代頃と思います。太平洋戦争中か、その前後かもしれません。岡山の教会で牧師をしておられた時、近くの瀬戸内海の島にハンセン病の方々の療養所がありました。今もあると思います。そこに教会があり、定期的に礼拝説教奉仕に通われたそうです。療養所に入ると、まず防護服のようなものを着て、感染しないようにすることが行われていました。ハンセン病の感染力は非常に弱いことが理解されていない時代ですね。今のコロナ以上に恐れられていたのでしょう。防護服を着て、患者のクリスチャンの方々と一緒に讃美歌を歌い、聖書を読んで説教なさるのですが、患者さんのとの間に距離ができて、喜びがない。ある時、思い切って防護服を脱いだそうです。「こんなものを着ていては、だめだ。」防護服を脱いで共に讃美歌を歌い、説教奉仕をすると、患者のクリスチャンの方々も喜んで、大変生き生きとした礼拝になったそうです。礼拝が終わると、握手したり、「ご体調はいかがですか」と声をかけたり、喜ばしい交流の時を過ごすことができた。稲垣先生が隠退後の80才くらいの時に、この思い出を語って下さいました。
若かった稲垣先生も、内心は正直怖かったらしいのですが、「防護服など着ていては、お互いの心も通わないし、礼拝にならない」と感じて、思い切っ脱いでよかった、というお話です。稲垣先生は、イエス様を思われたのでしょう。イエス様は重い皮膚病の人に手を差し伸べて触ったのですから、防護服を着ていてはイエス様を伝える礼拝にならない、と思われたのでしょう。患者さん側からすると、説教者が防護服を着ていると、「自分たちは教会の人々からも遠ざけられ、差別され、孤独の中で礼拝するしかないのだな」と諦めの気持ちだったのが、牧師が防護服を脱いだので、距離が縮まってよかったのだと思います。
カトリックの司祭に晴佐久神父という現役の方がおられますが、この方の説教集には、こんなことが出ていました。今から20~30年くらい前のことでしょうが、エイズ病棟に知人をお見舞いに行ったそうです。エイズ、後天性免疫不全症候群が日本でも表に出始めたのは、1990年頃だったと思います。普通の接触で感染しませんし、今はよい薬もあるようです。ただ、輸血で感染した方々もありますね。1990年頃は、エイズが非常に恐れられました。エイズ病棟を訪問する人も少なく、患者さんは非常に孤独だったようです。家族・友人も近づいてくれない。誰からも愛されない。そのエイズの方を晴佐久神父がお見舞いに行ったところ、涙を流して喜んで下さったそうです。その方がクリスチャンかどうかは分かりません。エイズが死の病と恐れられていたときに患者さんを訪問することは、やはり勇気のある行動だったのだと思います。
本日の御言葉は、イエス様の勇気ある愛を伝えています。イエス様に続いて、勇気をもって人々を愛したクリスチャンも多くおられると思います。無謀になる必要はありませんが、私たちも、少しでも勇気ある愛に生きたいのです。アーメン。
2024-11-17 0:20:30()
説教「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」2024年11月17日(日)降誕前第6主日礼拝
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23,頌栄29、主の祈り,交読詩編145、使徒信条、讃美歌21・156、聖書 イザヤ書6:1~5、ルカ福音書5:1~11、祈祷、説教、祈祷、讃美歌402、献金、頌栄351(4節)、祝祷。
(イザヤ書6:1~5) ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
(ルカ福音書5:1~11) イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
(説教) 本日は、降誕前第6主日の礼拝です。新約聖書は、ルカ福音書5章1~11節、説教題は「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」です。小見出しは、「漁師を弟子にする」です。
「イエスがゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖畔)に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」イエス様がここで群衆にどんな説教をなさったのか、関心をそそられますが、残念ながらここでの群衆への説教の内容は書かれていませんので、分かりません。人々がイエス様から、神様の御言葉を聞こうとして、大勢集まり、押し合いへし合いになったと思います。2節「イエスは、二そうの舟が岸にあるのをご覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。」漁は夜行うのがよいようで、この直前の夜も一生懸命漁に励んだけれども、魚は全くとれなかったのです。漁師たちは疲れて、徒労感と空しさを覚えながら、網洗いの作業に没頭していたでしょう。イエス様は説教なさりながら、その漁師たちの心の中をも、よく感じ取っていたに違いありません。3節「そこでイエスは、そのうちの一艘であるシモン(ペトロ)の持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。」岸辺から少し離れて、舟の中から話さないと、群衆が押し寄せて、全体に話もできない状態だったのでしょう。
4節「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。」これは文語訳聖書では「深みに乗りいだし、網を降ろしてすなどれ」となっています。5節「シモンは、『先生、私たちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」前半はシモンの実感のこもった言葉です。「先生、私たちは夜通し苦労しました。」夜中は漁に適した時間帯のようで、その夜中に一生懸命漁に励んだけれども、一匹の魚もとれなかったのです。懸命に働いて成果が出ればよいけれども、何の成果もなかった。このような経験を、どなたもお持ちだと思います。能登半島の方々は、どんなお気持ちでしょうか。営々と積み上げて来た人生の日々が、大きな地震によって崩れ去ってしまう。消えてしまう。自分の人生は何だったのか。何の意味があったのか。そのような気持ちになられると思うのです。
「私たちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」シモンは、半信半疑だったと思いますが、イエス様の御言葉に従います。やはりここにはイエス様への信頼が感じられます。この直前の4章でシモンの姑が高熱に苦しんでおり、イエス様が熱を
(イザヤ書6:1~5) ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
(ルカ福音書5:1~11) イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
(説教) 本日は、降誕前第6主日の礼拝です。新約聖書は、ルカ福音書5章1~11節、説教題は「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」です。小見出しは、「漁師を弟子にする」です。
「イエスがゲネサレト湖畔(ガリラヤ湖畔)に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」イエス様がここで群衆にどんな説教をなさったのか、関心をそそられますが、残念ながらここでの群衆への説教の内容は書かれていませんので、分かりません。人々がイエス様から、神様の御言葉を聞こうとして、大勢集まり、押し合いへし合いになったと思います。2節「イエスは、二そうの舟が岸にあるのをご覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。」漁は夜行うのがよいようで、この直前の夜も一生懸命漁に励んだけれども、魚は全くとれなかったのです。漁師たちは疲れて、徒労感と空しさを覚えながら、網洗いの作業に没頭していたでしょう。イエス様は説教なさりながら、その漁師たちの心の中をも、よく感じ取っていたに違いありません。3節「そこでイエスは、そのうちの一艘であるシモン(ペトロ)の持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。」岸辺から少し離れて、舟の中から話さないと、群衆が押し寄せて、全体に話もできない状態だったのでしょう。
4節「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた。」これは文語訳聖書では「深みに乗りいだし、網を降ろしてすなどれ」となっています。5節「シモンは、『先生、私たちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」前半はシモンの実感のこもった言葉です。「先生、私たちは夜通し苦労しました。」夜中は漁に適した時間帯のようで、その夜中に一生懸命漁に励んだけれども、一匹の魚もとれなかったのです。懸命に働いて成果が出ればよいけれども、何の成果もなかった。このような経験を、どなたもお持ちだと思います。能登半島の方々は、どんなお気持ちでしょうか。営々と積み上げて来た人生の日々が、大きな地震によって崩れ去ってしまう。消えてしまう。自分の人生は何だったのか。何の意味があったのか。そのような気持ちになられると思うのです。
「私たちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」シモンは、半信半疑だったと思いますが、イエス様の御言葉に従います。やはりここにはイエス様への信頼が感じられます。この直前の4章でシモンの姑が高熱に苦しんでおり、イエス様が熱を
2024-11-10 0:48:21()
「わたしたちの国籍は天にあり」2024年11月10日(日)聖徒の日(召天者記念日)礼拝
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23,頌栄24、主の祈り,交読詩編23、使徒信条、讃美歌21・493、聖書 フィリピの信徒への手紙3:12~4:1、祈祷、説教、祈祷、讃美歌385、献金、頌栄27、祝祷。
(フィリピ3:12~4:1)
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
(説教) 本日は、聖徒の日(召天者記念日)の礼拝です。新約聖書は、フィリピの信徒への手紙3章12~4章1節、説教題は「わたしたちの国籍は天にあり」です。小見出しは、「目標を目指して」です。
本日の聖書の個所には、天国(神の国)を目指して生きるクリスチャンの生き方が記されています。書いているのは、イエス・キリストの十字架の死と復活の後にイエス様の弟子(クリスチャン)になったパウロという人です。
最初の12節でパウロは語ります。「私は、既にそれ(永遠の命)を得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。」偉大な使徒パウロだと私たちは思うかもしれませんが、パウロは謙遜です。「私は、既にそれ(永遠の命)を得たというわけではなく、既に完全な者(イエス様のように完全な愛の方)となっているわけでもありません。」そうではなく、「何とかして捕えようと努めているのです。」永遠の命を受けよう、天国に入れていただこうと努めていると言っています。しかし確かな土台はあります。「自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。」ある人は、「信仰とは、聖霊(神の清き霊)に捕らえられている状態のことだ」と言いました。「自分がキリスト・イエスに捕えられえいる。」私たちは皆、イエス・キリストからラブコールを受けています。イエス・キリストの愛を信じて、イエス・キリストを救い主として受け入れ、信じてほしい、とイエス・キリストから私たち全員が、ラブコールを受けています。このラブコールに喜んで応えることが必要です。
13節「兄弟たち、私自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはだだ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」他の人を無視して、自分だけ天国に入ろうと走っているのではありません。自分が出会う全ての人々と共に、天国に入ることができるように、出会う全ての人々にイエス・キリストを宣べ伝え、出会う全ての人を励ましながら、天国を目指して入っているのだと思います。
パウロはコリントの信徒への手紙(一)という、彼が書いた別の手紙の11章24節以下でも、似たことを述べています。「あなた方は知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなた方も賞を得るように走りなさい。」信仰の道を、一生懸命走ることを勧めています。「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を得るために節制するのです。」オリンピックでメダルを目指す選手たちは、大変な努力をするのですが、金メダルを取ってもそれはこの地上の栄誉で終わり、天国に入ることを保証するものではありません。私たちは、オリンピックのアスリートのような体力はないのですが、一人一人が持てる力の範囲でよいので、天国をめざして一生懸命努力します。それは他人を蹴落とすレースであってはならず、互いに助け合い、励まし合いながら、手を取り合って天国を目指すのです。
「だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘(空を打つような空しいボクシング)もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」自分の体で悪を行わないように、自分を制してゆく。自分を甘やかしてばかりいると、自分が罪を犯して、他の人々に伝道しておきながら、自分が万一天国に入り損なうことにならないために、自分に十分注意すると、大伝道者パウロが言っているのですから、私たちはなおさらではないかと思います。
私の神学校の8歳年上の同級生のK牧師が、一昨年8月に天に召されました。まだコロナが流行していた時期で、大勢集まることはできず、ご葬儀はご家族と教会の皆さんのみでなさり、友人知人のためには、葬儀前日の午後に、教会に来て各人が自由に祈って地上でのお別れをする時を用意して下さいました。その時に配られた挨拶文に、本人の愛唱聖句が記されており、フィリピの信徒への手紙3章12~14節でした。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召してお与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」この御言葉が、K牧師の愛唱聖句だったのか。その時初めて知りました。K牧師は5年ほど前の8月だったと思いますが、この東久留米教会の日曜礼拝に出席して下さいました。
パウロは15~16節で、こう述べます。「だから、私たちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。(~)いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進むべきです。」パウロは、天国・神の国を目指して前進する構えです。パウロは、ローマで殉教の死を遂げて天国に行ったと言われますが、テモテへの手紙(二)4章で、こう書いています。これは殉教の少し前に書いた言葉と思います。「私自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時は近づきました。私は戦い(信仰の戦い)を立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が(イエス・キリストが)、かの日(イエス様がもう一度地上に来られる再臨の日、あるいは神の国の完成の日)にそれを私に授けて下さるのです。しかし、私だけでなく、主(イエス・キリスト)が来られる(再臨)のをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けて下さいます。」パウロだけでなく、イエス様を救い主と信じ、イエス様に従おうと努めている人々には、必ずイエス・キリストが義の冠を授けて下さると明確に述べています。その義の冠は、この世の中の様々な栄誉がかすんでしまうほどの、すばらしい栄誉です。神様から「良い僕だ、よくやった」と褒めていただく最高の栄誉です。先週はアメリカ大統領選挙があり、この世で大統領や首相になることも栄誉ですが、それはこの世限りのものです。イエス様から授けられる義の冠は、永遠に輝く最高の栄誉です。本日は礼拝後に、イエス・キリストを信じて天国に行かれた方々のお写真をご紹介しますが、この方々も必ず、イエス様から義の冠をお受けになります。
パウロは、自分が失格者にならないように注意すると言っていましたが、同時に彼は自分が天国に入れていただくことを確信していました。このフィリピの信徒への手紙1章21節で、次のような驚くべきことを述べています。「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」生きるとはイエス・キリストのために生きることであり、死ぬこともまた利益だと言うのです。「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなた方のためにもっと必要です。こう確信していますから、あなた方の信仰を深めて喜びをもたらすように。いつもあなた方と共にいることになるでしょう。」「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」驚くべき言葉。天国に行くと、イエス様と永遠に共にいることになる。この方がはるかに望ましいほど、それはすばらしいことだ」と言うのです。
なぜこんなことを言うことができたかというと、彼がコリントの信徒への手紙(二)12章で書いていることが鍵になると思います。「彼(パウロのこと)は楽園にまで引き上げられ」とあり、「あの啓示されたことがあまりにもすばらしいからです」と言っています。パウロは一時的に楽園(天国)に行く体験を与えられたのです。楽園(天国)はあまりにもすばらしい所だった。その体験があるので、「一方ではこの世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と言えたと思うのです。イエス様を信じて亡くなった方々は、今その楽園(天国)におられるのです。ですから、地上に残された私たちは、もちろん非常に悲しく寂しいのですが、イエス様を信じて亡くなった方々は、イエス様が共にいるあまりにもすばらし楽園(天国)におられることを、確信してよいのです。ですから、私たちは大変悲しく寂しいですが。イエス様を信じて亡くなった方々が楽園におられることを確信して、慰めを受けることができます。そして全ての方々に、イエス・キリストを救い主と信じていただいて、できればぜひ洗礼を受けて、この楽園に必ず行くことができる、真の希望に入っていただきたいのです。
フィリピに戻り17節。パウロは述べます。「兄弟たち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなた方と同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」18~20節「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。」
「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」それは、どのような人々なのか。いくつかの可能性があります。まずパウロを批判するユダヤ人の律法主義者たち。彼らは自力でモーセの十戒等の神様の戒めを全て守って、自分は万全に清く正しく生きているとの誇り・プライドに満ちていた人々。パウロもクリスチャンになる前はそうだったのです。この人々は、高慢の罪に陥っていたのですが、自分では気づいていなかったでしょう。あるいは、この地上の権力や武力やお金の力に満ちていた人々を指すとも考えられます。この人々は、この世の繫栄の中にいたのでこの世のことだけで満足しており、永遠の命のことには関心がなかったと思われます。日産のトップだったゴーンさんなども心に浮かびます。この人々は、十字架にかかられたイエス様のように低い謙遜と奉仕の道を歩んでいません。「彼らは腹を神とし」とあります。腹とは自分の欲望です。自分の欲望の実現だけを目的に生きているのです。そのような偽の宗教家もいます。大金を集めた統一協会の教祖もそうだと思います。イエス様に従って永遠の命に至るか、自分の欲望充足だけに生きて永遠の命をあきらめるか。私も私どももいつも生き方を、イエス様から問われています。
「しかし、私たちの本国は天にあります。」もしかするとクリスチャンや牧師・神父でさえ、この御言葉を忘れ、この世のことに埋没していることもあるのではないかと、私は反省させられます。もちろんこの地上での責任を果たすことも大切であることは間違いありません。でもこの世の中で報われないこともあります。しかし、神様は全てを見ていて下さいます。神様が喜んで下さることが、一番大事です。イエス様に従って生き、父なる神様が喜んで下さる生き方をしたい。これが私たちの願いです。パウロはこの手紙の2章で書いています。「だから、私の愛する人たち、いつも従順であったように、私が共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中(当時も今も、よこしまな曲がった時代と言えます)で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうして私は、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」
私たちの罪が赦されるのはただイエス様の十字架のお陰ですが、やはり信じた後の生き方も大事で(決して自力で天国に入るのではないのですが)、感謝をもってイエス様に従い、父なる神様に喜んでいただける一時間一時間を過ごしたいのです。神様は、「もういいよ。お疲れ様」とおっしゃる時に、天国に呼んで下さいます。ヨハネの黙示録14章13節が思い出されます。「今から後、主(イエス様)に結ばれて死ぬ人は幸いである。霊(聖霊)も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」
フィリピに戻り、20~21節。「しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。」イエス様を信じる人々には、天国に入ることだけでなく、イエス様の復活の体と同じ復活の体をいただくことが約束されています。私たちの今の体は、健康な時もありますが。病気になり、年をとり、次第に弱ります。そしてやがて死を迎えます。日本では火葬になります。しかし、神様が、イエス様と同じ復活の体、栄光の体を与えると約束しておられますから、楽しみです。それはもはや病気にならず、老化もしない栄光の体です。そこでパウロは私たちを励まします。この希望によって、心を強くするようにと。4章1節「だから、私が愛し、慕っている兄弟たち、私の喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」
人が亡くなると、残された家族の悲しみや苦しみや寂しさが大きく残りますね。そのような悲しみ、寂しさ、喪失感をケアする悲嘆ケア・グリーフケアが、現代では重視されています。悲嘆ケア・グリーフケアは本当に大事と思います。そして私たちは、亡くなった方々から多くの愛をいただいたことを感謝して、自分もその愛を周りの方々に分けさせていただきながら、生きてゆきたいと思います。
クリスチャン作家の三浦綾子さんが亡くなったときのことを、身近で三浦さんご夫妻を取材していた方が、こう書いておられました。綾子さんの夫の光世さんが、「綾子、終わりだね」と言いながら、綾子さんをさすっていたと。その方が書くには。「死も引き裂くことのできない二人の愛の強さを感じた」と。旧約聖書の雅歌8章6~7節を思い出します。「愛は死のように強く。(~)大水も愛を消すことはできない。」三浦綾子さん多くのご病気の中で執筆活動をされたそうですが、晩年には「私には死ぬという大切な仕事がある」とよく語られたそうです。自分の地上の人生の終え方にはコントロールできない部分もあるでしょう。しかし願わくは、周りの人々に感謝し、周りの人々によき愛を渡しつつ、天国に行けるとよいですね。
今年7月に天に召された私の友人の牧師は、臨終が近いときに、家族に片手を上げて挨拶したらしいです。「今から天国に行くよ」というメッセージを込めたのではないかと思います。二人の共通の友人の牧師は、葬儀には行けなかったので、その前日に遺体と対面した時、「また会おう」と言って帰宅したそうです。「天国でまた会おう」の意味ですね。三浦さんの、「私には死ぬという大切な仕事がある。」私たちも心に刻みたいと思います。人生の後半になるほどに、一日一日の生き方がますます重要になる。その気構えでご一緒にイエス様に従って参りたく思います。アーメン。
(フィリピ3:12~4:1)
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
(説教) 本日は、聖徒の日(召天者記念日)の礼拝です。新約聖書は、フィリピの信徒への手紙3章12~4章1節、説教題は「わたしたちの国籍は天にあり」です。小見出しは、「目標を目指して」です。
本日の聖書の個所には、天国(神の国)を目指して生きるクリスチャンの生き方が記されています。書いているのは、イエス・キリストの十字架の死と復活の後にイエス様の弟子(クリスチャン)になったパウロという人です。
最初の12節でパウロは語ります。「私は、既にそれ(永遠の命)を得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。」偉大な使徒パウロだと私たちは思うかもしれませんが、パウロは謙遜です。「私は、既にそれ(永遠の命)を得たというわけではなく、既に完全な者(イエス様のように完全な愛の方)となっているわけでもありません。」そうではなく、「何とかして捕えようと努めているのです。」永遠の命を受けよう、天国に入れていただこうと努めていると言っています。しかし確かな土台はあります。「自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。」ある人は、「信仰とは、聖霊(神の清き霊)に捕らえられている状態のことだ」と言いました。「自分がキリスト・イエスに捕えられえいる。」私たちは皆、イエス・キリストからラブコールを受けています。イエス・キリストの愛を信じて、イエス・キリストを救い主として受け入れ、信じてほしい、とイエス・キリストから私たち全員が、ラブコールを受けています。このラブコールに喜んで応えることが必要です。
13節「兄弟たち、私自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはだだ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」他の人を無視して、自分だけ天国に入ろうと走っているのではありません。自分が出会う全ての人々と共に、天国に入ることができるように、出会う全ての人々にイエス・キリストを宣べ伝え、出会う全ての人を励ましながら、天国を目指して入っているのだと思います。
パウロはコリントの信徒への手紙(一)という、彼が書いた別の手紙の11章24節以下でも、似たことを述べています。「あなた方は知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなた方も賞を得るように走りなさい。」信仰の道を、一生懸命走ることを勧めています。「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を得るために節制するのです。」オリンピックでメダルを目指す選手たちは、大変な努力をするのですが、金メダルを取ってもそれはこの地上の栄誉で終わり、天国に入ることを保証するものではありません。私たちは、オリンピックのアスリートのような体力はないのですが、一人一人が持てる力の範囲でよいので、天国をめざして一生懸命努力します。それは他人を蹴落とすレースであってはならず、互いに助け合い、励まし合いながら、手を取り合って天国を目指すのです。
「だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘(空を打つような空しいボクシング)もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」自分の体で悪を行わないように、自分を制してゆく。自分を甘やかしてばかりいると、自分が罪を犯して、他の人々に伝道しておきながら、自分が万一天国に入り損なうことにならないために、自分に十分注意すると、大伝道者パウロが言っているのですから、私たちはなおさらではないかと思います。
私の神学校の8歳年上の同級生のK牧師が、一昨年8月に天に召されました。まだコロナが流行していた時期で、大勢集まることはできず、ご葬儀はご家族と教会の皆さんのみでなさり、友人知人のためには、葬儀前日の午後に、教会に来て各人が自由に祈って地上でのお別れをする時を用意して下さいました。その時に配られた挨拶文に、本人の愛唱聖句が記されており、フィリピの信徒への手紙3章12~14節でした。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召してお与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」この御言葉が、K牧師の愛唱聖句だったのか。その時初めて知りました。K牧師は5年ほど前の8月だったと思いますが、この東久留米教会の日曜礼拝に出席して下さいました。
パウロは15~16節で、こう述べます。「だから、私たちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。(~)いずれにせよ、私たちは到達したところに基づいて進むべきです。」パウロは、天国・神の国を目指して前進する構えです。パウロは、ローマで殉教の死を遂げて天国に行ったと言われますが、テモテへの手紙(二)4章で、こう書いています。これは殉教の少し前に書いた言葉と思います。「私自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時は近づきました。私は戦い(信仰の戦い)を立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が(イエス・キリストが)、かの日(イエス様がもう一度地上に来られる再臨の日、あるいは神の国の完成の日)にそれを私に授けて下さるのです。しかし、私だけでなく、主(イエス・キリスト)が来られる(再臨)のをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けて下さいます。」パウロだけでなく、イエス様を救い主と信じ、イエス様に従おうと努めている人々には、必ずイエス・キリストが義の冠を授けて下さると明確に述べています。その義の冠は、この世の中の様々な栄誉がかすんでしまうほどの、すばらしい栄誉です。神様から「良い僕だ、よくやった」と褒めていただく最高の栄誉です。先週はアメリカ大統領選挙があり、この世で大統領や首相になることも栄誉ですが、それはこの世限りのものです。イエス様から授けられる義の冠は、永遠に輝く最高の栄誉です。本日は礼拝後に、イエス・キリストを信じて天国に行かれた方々のお写真をご紹介しますが、この方々も必ず、イエス様から義の冠をお受けになります。
パウロは、自分が失格者にならないように注意すると言っていましたが、同時に彼は自分が天国に入れていただくことを確信していました。このフィリピの信徒への手紙1章21節で、次のような驚くべきことを述べています。「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」生きるとはイエス・キリストのために生きることであり、死ぬこともまた利益だと言うのです。「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなた方のためにもっと必要です。こう確信していますから、あなた方の信仰を深めて喜びをもたらすように。いつもあなた方と共にいることになるでしょう。」「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」驚くべき言葉。天国に行くと、イエス様と永遠に共にいることになる。この方がはるかに望ましいほど、それはすばらしいことだ」と言うのです。
なぜこんなことを言うことができたかというと、彼がコリントの信徒への手紙(二)12章で書いていることが鍵になると思います。「彼(パウロのこと)は楽園にまで引き上げられ」とあり、「あの啓示されたことがあまりにもすばらしいからです」と言っています。パウロは一時的に楽園(天国)に行く体験を与えられたのです。楽園(天国)はあまりにもすばらしい所だった。その体験があるので、「一方ではこの世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と言えたと思うのです。イエス様を信じて亡くなった方々は、今その楽園(天国)におられるのです。ですから、地上に残された私たちは、もちろん非常に悲しく寂しいのですが、イエス様を信じて亡くなった方々は、イエス様が共にいるあまりにもすばらし楽園(天国)におられることを、確信してよいのです。ですから、私たちは大変悲しく寂しいですが。イエス様を信じて亡くなった方々が楽園におられることを確信して、慰めを受けることができます。そして全ての方々に、イエス・キリストを救い主と信じていただいて、できればぜひ洗礼を受けて、この楽園に必ず行くことができる、真の希望に入っていただきたいのです。
フィリピに戻り17節。パウロは述べます。「兄弟たち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなた方と同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」18~20節「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。」
「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」それは、どのような人々なのか。いくつかの可能性があります。まずパウロを批判するユダヤ人の律法主義者たち。彼らは自力でモーセの十戒等の神様の戒めを全て守って、自分は万全に清く正しく生きているとの誇り・プライドに満ちていた人々。パウロもクリスチャンになる前はそうだったのです。この人々は、高慢の罪に陥っていたのですが、自分では気づいていなかったでしょう。あるいは、この地上の権力や武力やお金の力に満ちていた人々を指すとも考えられます。この人々は、この世の繫栄の中にいたのでこの世のことだけで満足しており、永遠の命のことには関心がなかったと思われます。日産のトップだったゴーンさんなども心に浮かびます。この人々は、十字架にかかられたイエス様のように低い謙遜と奉仕の道を歩んでいません。「彼らは腹を神とし」とあります。腹とは自分の欲望です。自分の欲望の実現だけを目的に生きているのです。そのような偽の宗教家もいます。大金を集めた統一協会の教祖もそうだと思います。イエス様に従って永遠の命に至るか、自分の欲望充足だけに生きて永遠の命をあきらめるか。私も私どももいつも生き方を、イエス様から問われています。
「しかし、私たちの本国は天にあります。」もしかするとクリスチャンや牧師・神父でさえ、この御言葉を忘れ、この世のことに埋没していることもあるのではないかと、私は反省させられます。もちろんこの地上での責任を果たすことも大切であることは間違いありません。でもこの世の中で報われないこともあります。しかし、神様は全てを見ていて下さいます。神様が喜んで下さることが、一番大事です。イエス様に従って生き、父なる神様が喜んで下さる生き方をしたい。これが私たちの願いです。パウロはこの手紙の2章で書いています。「だから、私の愛する人たち、いつも従順であったように、私が共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなた方の内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中(当時も今も、よこしまな曲がった時代と言えます)で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうして私は、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」
私たちの罪が赦されるのはただイエス様の十字架のお陰ですが、やはり信じた後の生き方も大事で(決して自力で天国に入るのではないのですが)、感謝をもってイエス様に従い、父なる神様に喜んでいただける一時間一時間を過ごしたいのです。神様は、「もういいよ。お疲れ様」とおっしゃる時に、天国に呼んで下さいます。ヨハネの黙示録14章13節が思い出されます。「今から後、主(イエス様)に結ばれて死ぬ人は幸いである。霊(聖霊)も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」
フィリピに戻り、20~21節。「しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さるのです。」イエス様を信じる人々には、天国に入ることだけでなく、イエス様の復活の体と同じ復活の体をいただくことが約束されています。私たちの今の体は、健康な時もありますが。病気になり、年をとり、次第に弱ります。そしてやがて死を迎えます。日本では火葬になります。しかし、神様が、イエス様と同じ復活の体、栄光の体を与えると約束しておられますから、楽しみです。それはもはや病気にならず、老化もしない栄光の体です。そこでパウロは私たちを励まします。この希望によって、心を強くするようにと。4章1節「だから、私が愛し、慕っている兄弟たち、私の喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」
人が亡くなると、残された家族の悲しみや苦しみや寂しさが大きく残りますね。そのような悲しみ、寂しさ、喪失感をケアする悲嘆ケア・グリーフケアが、現代では重視されています。悲嘆ケア・グリーフケアは本当に大事と思います。そして私たちは、亡くなった方々から多くの愛をいただいたことを感謝して、自分もその愛を周りの方々に分けさせていただきながら、生きてゆきたいと思います。
クリスチャン作家の三浦綾子さんが亡くなったときのことを、身近で三浦さんご夫妻を取材していた方が、こう書いておられました。綾子さんの夫の光世さんが、「綾子、終わりだね」と言いながら、綾子さんをさすっていたと。その方が書くには。「死も引き裂くことのできない二人の愛の強さを感じた」と。旧約聖書の雅歌8章6~7節を思い出します。「愛は死のように強く。(~)大水も愛を消すことはできない。」三浦綾子さん多くのご病気の中で執筆活動をされたそうですが、晩年には「私には死ぬという大切な仕事がある」とよく語られたそうです。自分の地上の人生の終え方にはコントロールできない部分もあるでしょう。しかし願わくは、周りの人々に感謝し、周りの人々によき愛を渡しつつ、天国に行けるとよいですね。
今年7月に天に召された私の友人の牧師は、臨終が近いときに、家族に片手を上げて挨拶したらしいです。「今から天国に行くよ」というメッセージを込めたのではないかと思います。二人の共通の友人の牧師は、葬儀には行けなかったので、その前日に遺体と対面した時、「また会おう」と言って帰宅したそうです。「天国でまた会おう」の意味ですね。三浦さんの、「私には死ぬという大切な仕事がある。」私たちも心に刻みたいと思います。人生の後半になるほどに、一日一日の生き方がますます重要になる。その気構えでご一緒にイエス様に従って参りたく思います。アーメン。
2024-11-02 22:49:11(土)
「教会にご自分を与えたキリスト」2024年11月3日(日)東久留米教会創立63周年記念日礼拝
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23,頌栄28、主の祈り,交読詩編144、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・395、聖書 雅歌4:7~11、エフェソの信徒への手紙5:21~33、祈祷、説教、祈祷、讃美歌390、聖餐式、献金、頌栄351(1節)、祝祷。
(雅歌4:7~11)恋人よ、あなたはなにもかも美しく/傷はひとつもない。花嫁よ、レバノンからおいで/おいで、レバノンから出ておいで。アマナの頂から、セニル、ヘルモンの頂から/獅子の隠れが、豹の住む山から下りておいで。わたしの妹、花嫁よ/あなたはわたしの心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も/それだけで、わたしの心をときめかす。わたしの妹、花嫁よ、あなたの愛は美しく/ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。あなたの香油は/どんな香り草よりもかぐわしい。花嫁よ、あなたの唇は蜜を滴らせ/舌には蜂蜜と乳がひそむ。あなたの衣はレバノンの香り。
(エフェソ5:21~33) キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
(説教) 本日は、東久留米教会創立63周年記念日の礼拝です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙5章21~33節、説教題は「教会にご自分を与えたキリスト」です。小見出しは、「妻と夫」です。
礼拝で月一回ほど、エフェソの信徒への手紙を読もうと心がけています。エフェソの信徒への手紙のテーマは「教会」だと言われます。そして本日の箇所は、「教会とは何か」ということを特に強調して語っています。教会の創立記念日の本日、この箇所が巡って来たことは、神様の大いなる恵みだと深く思うのです。先週の修養会のテーマは「聖霊」でしたが、本日この箇所が巡って来たことも、まさしく聖霊の導きにほかならないと深く感謝致します。
最初の21節「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」イエス・キリストを畏れ敬うことは、クリスチャンの基本ですね。そして「互いに仕え合う」、これも教会生活、クリスチャン生活の基本と思います。著者のパウロは、ローマの信徒への手紙12章9~10節でも、似たことを語っています。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」互いに仕え合いなさいとほぼ同じ意味と思います。
22~23節「妻たちよ、主(イエス・キリスト)に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭(かしら)であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」本日の箇所には、結婚のこととキリストの教会のこと、その両方が書かれています。「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」現代では多くの方々が、「夫は妻の頭」という言葉を差別的と感じ、抵抗を覚えると思います。ただ、ここでパウロが語ることは、「キリストと教会の関係が、夫と妻の関係の土台にある」ということです。キリストが教会の頭で、キリストがその体(教会)の救い主であるように、夫は妻の頭で、夫が妻の救い主であるように妻を愛する、と言っています。当然、夫は横暴であってはならず、キリストが教会のために十字架にかかるほどに教会を愛したように、夫も妻を愛しなさい、と語っています。この愛は原語のギリシア語でアガペーです。
24節「また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」この御言葉にも女性の方々が抵抗を覚えられると思いますが、21節では「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と書かれているので、夫も妻も仕え合えなさいという意味だと理解してよいのではないでしょうか。そして25節「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」つまり、夫たちよ、妻のために十字架にかかる覚悟で、妻を愛しなさい、というのです。とにかく、夫と妻の関係の土台にあるのは、キリストと教会の関係だと語っていることは確かです。教会という言葉は、新約聖書の元の言葉ギリシア語で、エクレシアです。直訳では「呼び集められた者」の意味だそうです。父なる神様によって、イエス・キリストの元に呼び集められた人々の共同体がエクレシア(教会)なのですね。イエス・キリストは教会を愛し、ですから東久留米教会をも愛し、教会のために十字架で死んで、教会にご自分の命を与えて下さいました。この愛に深く感謝し、夫もまたこのキリストの愛で妻を愛しなさい、とパウロが私たちを励まします。
26節「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗い(洗礼)によって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。」キリストが花婿、教会は洗礼によって清められたキリストの花嫁なのです。キリストは花嫁である教会のために十字架に死なれたとも言えます。キリストはそのようにして花嫁である教会を愛したのです。そして愛し続けて、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の、前に立たせようと花嫁である教会に、清き聖霊を注ぎ続けて下さいます。このように教会が、汚れのない栄光に輝く教会になるのは、世の終わり、神の国の完成の時です。ヨハネの黙示録に美しく描写されています。「小羊(イエス様)の婚礼の日が来て、花嫁(教会)は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たち(クリスチャンたち)の正しい行いである。」この場合の教会は、東久留米教会であり、それ以外の個々の教会であり、全体としての全世界の全時代の教会になると思います。多くある教派を超えた、全体としての教会、エクレシアです。
25節をもう一度読むと、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」ある説教者は語ります。「このキリストの愛が、すべてに先立って行われているという福音を聞くことが、教会が教会であることの大前提です。そこに教会が立つ根拠があります。教会は、キリストの愛を絶えず新しく受け入れ続けるのです。それが礼拝であり、説教であり、聖礼典(洗礼と聖餐)。」教会は、くり返しキリストの愛に立ち帰ります。聖書を読み、祈り、礼拝や祈祷会に出席し、洗礼を受け、聖餐を受け続けることで、毎日、毎週、新しくキリストの愛に立ち帰るのです。そのよきくり返しが教会を清めて、少しずつ栄光の教会に近づくに違いありません。
28~29節「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。」つまり夫は、キリストが教会を養いいたわる様子に模範を見出し、妻を養いいたわるようにと勧めています。30節「私たちは、キリストの体(教会)の一部なのです。」夫婦関係においても、全ての人間関係においても、キリストと教会の関係を模範にするようにと、述べていると思います。私たちは、キリストの体の一部だからです。
31~32節「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです。」パウロがここで引用するのは、旧約聖書の創世記2章23節です。人類最初の結婚の場面と言えます。神様が「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」神様は人(アダム)を深い眠りに落とされ、人のあばら骨の一部を抜き取り、そのあばら骨で女を造り上げられたとあります。神様が彼女(エバ)を人のところへ連れて来られると、人は言いました。「ついに、これこそ私の骨の骨、肉の肉。これをこそ女(イシャ―)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」これはもちろん、男女の結婚のことを語っています。しかしパウロは、「これは神秘であって、キリストと教会について述べているのです」と語ります。だとすると、キリストと教会の一体の関係が、既に創世記2章で予告・暗示されていることになります。既に創世記2章が、創世記から見れば遠い将来に生まれるイエス・キリストとその教会の出現を預言しているとも言えます。驚くべきことです。
パウロは書きます。「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです。」この神秘は、以前の口語訳聖書では、奥義と訳されていました。一番新しい聖書協会共同訳では、秘儀と訳されています。神の真理(救い)の最も深い部分のことと思います。キリストとその教会が一体であることは、神の救いの最も深い部分なのです。それはキリストの十字架の自己犠牲の愛だと思います。キリストの十字架の愛によって、キリストとその教会は一体となっており、キリストの十字架の愛によって、キリストとその教会は花婿と花嫁の愛の一体の関係になっているのです。さらには、キリストとその教会の愛の関係を土台(模範)として、人間の夫と妻が愛し合うのです。
教会がキリストの花嫁・妻であることは、コリントの信徒への手紙(二)11章2~3節でも、パウロが真に印象的に記しています。「あなた方(コリント教会)に対して、神が抱いておられる熱い思い(熱愛)を私も抱いています。なぜなら、私はあなた方を純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇(悪魔)の悪だくみで欺むかれたように、あなた方の思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」花嫁である私たち教会がなすべきことは、一途で純情な愛で夫キリストを、ひたむきに愛し続けること、キリストへの愛を込めて礼拝し続けることです。
偶像(他の偽物の神)を礼拝することは、夫キリストへの純潔からそれて霊的な姦通の罪を犯すことで、花婿キリストの怒り、聖なるねたみを惹き起こす罪です。
キリストを礼拝する人は、偶像礼拝を避けるべきことが、聖餐との関係で、パウロにより、このように語られます。「私の愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい(それは花婿キリストを裏切ること)。私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか(原語はコイノニア=交わり)。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかる(交わる)ことではないか。」キリストの純粋で聖なる血と、キリストの純粋で聖なる体と交わるのが聖餐だというのです。私たちが花嫁としてキリストへの純粋で一途な愛をもって、聖餐を受けることが必要なのです。パウロはさらに教えます。「私が言おうとしているのは、偶像に供える献げ物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。」コリント教会の人々が、何らかの偶像礼拝を行い、霊的姦通の罪を犯し、花婿キリストを裏切ろうとしていたのです。「主(キリスト)の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。私たちは主より強い者でしょうか。」花婿キリストに聖なるねたみを起こさせないように、私たち花嫁教会が偶像礼拝を避け、イエス様への純潔な愛を貫いて聖餐を受けることが必要と教えています。
旧約聖書では、真の神様が花婿(夫)、神の民イスラエルが花嫁(妻)として記されています。神がイスラエルの民を愛し、イスラエルの民は真の神様のみを礼拝して、真の神への愛を貫く。そうである時に、両者は理想的な関係にあります。しかし現実には、花嫁イスラエルが、花婿である神様を裏切ることが多くなっていったのです。
本日の旧約聖書は、雅歌4章7節以下です。雅歌を礼拝で読むことは珍しいです。これは雅歌の現代は「歌の中の歌」で、「最高の歌」を意味します。愛の歌ですが、内容がアガペーの愛というよりは、官能的とさえ言える愛のために、礼拝で読まれることも少ないのです。ここには若い男女の愛が歌われているのですが、同時にこれは神様と神の民イスラエルの間の愛を描いているとも、昔から言われています。本日の7節から11節は、若い男性から恋人への愛のメッセージ、神様からイスラエルの民への愛のメッセージ、キリストから教会への愛のメッセージと言えます。
「恋人よ、あなたは何もかも美しく、傷はひとつもない。花嫁よ、レバノンからおいで。おいで、レバノンから出ておいで。アマナの頂から、セニル、ヘルモンの頂から、獅子の隠れが、豹の住む山から下りておいで。私の妹、花嫁よ、あなたは私の心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も、それだけで、私の心をときめかす。私の妹、花嫁よ、あなたの愛は美しく、ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。あなたの香油は、どんな香り草よりもかぐわしい。花嫁よ、あなたの唇は蜜を滴らせ、舌には蜂蜜と乳がひそむ。あなたの衣はレバノンの香り。」
主に20世紀の後半にアメリカで生きたカトリックの神父にヘンリー・ナウエンという人がいました。この方の本は日本語に割と多く訳されています。この方が書いているそうですが、「神の測りがたい神秘は、神ご自身が、愛されたいと望んでおられる恋人であることです。」神様が私たちを愛して、私たちが神様を愛することを待ち望んでおられるということです。神様は私たちを、恋人のように愛し、私たちが神様を愛することを切に願っておられるというのです。雅歌を読んでいると若い男性が女性の恋人を愛し、相手が自分を愛してくれることを喜び待ち望んでいます。
イエス様も同じです。これは森明という大分前に天に召されている牧師の言葉ですが、こう語られたそうです。「イエスは弟子の魂そのものを愛されたのである。それは根本的なことで、イエスは罪ある者を愛され、彼らの如き者も御側にいなくては淋しく思い給うたのである。」イエス様の十字架の前のゲツセマネの祈りを思い出します。「ペトロとゼベダイの子二人(ヨハネとヤコブ)を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。』」結局、弟子たちには実行できなかったのですが、イエス様が弟子たちの愛を求めておられたことは事実です。
エフェソ書に戻ります。5章25節「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」キリストが、教会のために十字架で死んで、命を与えて下さったと言っています。教会は毎週毎日、このキリストの十字架の愛に立ち帰って、キリストを愛して礼拝を献げます。29節には、「キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです」とあり、キリストが教会を愛し、教会を養い、いたわると述べられています。キリストは、今日も教会を養って下さいます。聖書の御言葉により、説教により、聖餐のパンとぶどう液により、教会を養い、いたわって下さいます。
聖書最後の書・ヨハネの黙示録の終わりの方には、こうあります。「霊(聖霊)と花嫁(教会)とが言う。『来て下さい。』これを聞く者も言うがよい。『来て下さい』と。」主イエスよ、早く来て、早く再臨して、神の国を完成させて下さい。「以上すべてを証しする方(イエス・キリスト)が言われる。『然り、私はすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来て下さい。」キリストの花嫁である私たち教会は、ひたむきにイエス様を愛し、「イエス様、早く来て、神の国を完成させて下さい」と祈り続けます。アーメン。
(雅歌4:7~11)恋人よ、あなたはなにもかも美しく/傷はひとつもない。花嫁よ、レバノンからおいで/おいで、レバノンから出ておいで。アマナの頂から、セニル、ヘルモンの頂から/獅子の隠れが、豹の住む山から下りておいで。わたしの妹、花嫁よ/あなたはわたしの心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も/それだけで、わたしの心をときめかす。わたしの妹、花嫁よ、あなたの愛は美しく/ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。あなたの香油は/どんな香り草よりもかぐわしい。花嫁よ、あなたの唇は蜜を滴らせ/舌には蜂蜜と乳がひそむ。あなたの衣はレバノンの香り。
(エフェソ5:21~33) キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
(説教) 本日は、東久留米教会創立63周年記念日の礼拝です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙5章21~33節、説教題は「教会にご自分を与えたキリスト」です。小見出しは、「妻と夫」です。
礼拝で月一回ほど、エフェソの信徒への手紙を読もうと心がけています。エフェソの信徒への手紙のテーマは「教会」だと言われます。そして本日の箇所は、「教会とは何か」ということを特に強調して語っています。教会の創立記念日の本日、この箇所が巡って来たことは、神様の大いなる恵みだと深く思うのです。先週の修養会のテーマは「聖霊」でしたが、本日この箇所が巡って来たことも、まさしく聖霊の導きにほかならないと深く感謝致します。
最初の21節「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」イエス・キリストを畏れ敬うことは、クリスチャンの基本ですね。そして「互いに仕え合う」、これも教会生活、クリスチャン生活の基本と思います。著者のパウロは、ローマの信徒への手紙12章9~10節でも、似たことを語っています。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」互いに仕え合いなさいとほぼ同じ意味と思います。
22~23節「妻たちよ、主(イエス・キリスト)に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭(かしら)であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」本日の箇所には、結婚のこととキリストの教会のこと、その両方が書かれています。「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」現代では多くの方々が、「夫は妻の頭」という言葉を差別的と感じ、抵抗を覚えると思います。ただ、ここでパウロが語ることは、「キリストと教会の関係が、夫と妻の関係の土台にある」ということです。キリストが教会の頭で、キリストがその体(教会)の救い主であるように、夫は妻の頭で、夫が妻の救い主であるように妻を愛する、と言っています。当然、夫は横暴であってはならず、キリストが教会のために十字架にかかるほどに教会を愛したように、夫も妻を愛しなさい、と語っています。この愛は原語のギリシア語でアガペーです。
24節「また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」この御言葉にも女性の方々が抵抗を覚えられると思いますが、21節では「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と書かれているので、夫も妻も仕え合えなさいという意味だと理解してよいのではないでしょうか。そして25節「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」つまり、夫たちよ、妻のために十字架にかかる覚悟で、妻を愛しなさい、というのです。とにかく、夫と妻の関係の土台にあるのは、キリストと教会の関係だと語っていることは確かです。教会という言葉は、新約聖書の元の言葉ギリシア語で、エクレシアです。直訳では「呼び集められた者」の意味だそうです。父なる神様によって、イエス・キリストの元に呼び集められた人々の共同体がエクレシア(教会)なのですね。イエス・キリストは教会を愛し、ですから東久留米教会をも愛し、教会のために十字架で死んで、教会にご自分の命を与えて下さいました。この愛に深く感謝し、夫もまたこのキリストの愛で妻を愛しなさい、とパウロが私たちを励まします。
26節「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗い(洗礼)によって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。」キリストが花婿、教会は洗礼によって清められたキリストの花嫁なのです。キリストは花嫁である教会のために十字架に死なれたとも言えます。キリストはそのようにして花嫁である教会を愛したのです。そして愛し続けて、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の、前に立たせようと花嫁である教会に、清き聖霊を注ぎ続けて下さいます。このように教会が、汚れのない栄光に輝く教会になるのは、世の終わり、神の国の完成の時です。ヨハネの黙示録に美しく描写されています。「小羊(イエス様)の婚礼の日が来て、花嫁(教会)は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たち(クリスチャンたち)の正しい行いである。」この場合の教会は、東久留米教会であり、それ以外の個々の教会であり、全体としての全世界の全時代の教会になると思います。多くある教派を超えた、全体としての教会、エクレシアです。
25節をもう一度読むと、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」ある説教者は語ります。「このキリストの愛が、すべてに先立って行われているという福音を聞くことが、教会が教会であることの大前提です。そこに教会が立つ根拠があります。教会は、キリストの愛を絶えず新しく受け入れ続けるのです。それが礼拝であり、説教であり、聖礼典(洗礼と聖餐)。」教会は、くり返しキリストの愛に立ち帰ります。聖書を読み、祈り、礼拝や祈祷会に出席し、洗礼を受け、聖餐を受け続けることで、毎日、毎週、新しくキリストの愛に立ち帰るのです。そのよきくり返しが教会を清めて、少しずつ栄光の教会に近づくに違いありません。
28~29節「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。」つまり夫は、キリストが教会を養いいたわる様子に模範を見出し、妻を養いいたわるようにと勧めています。30節「私たちは、キリストの体(教会)の一部なのです。」夫婦関係においても、全ての人間関係においても、キリストと教会の関係を模範にするようにと、述べていると思います。私たちは、キリストの体の一部だからです。
31~32節「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです。」パウロがここで引用するのは、旧約聖書の創世記2章23節です。人類最初の結婚の場面と言えます。神様が「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」神様は人(アダム)を深い眠りに落とされ、人のあばら骨の一部を抜き取り、そのあばら骨で女を造り上げられたとあります。神様が彼女(エバ)を人のところへ連れて来られると、人は言いました。「ついに、これこそ私の骨の骨、肉の肉。これをこそ女(イシャ―)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」これはもちろん、男女の結婚のことを語っています。しかしパウロは、「これは神秘であって、キリストと教会について述べているのです」と語ります。だとすると、キリストと教会の一体の関係が、既に創世記2章で予告・暗示されていることになります。既に創世記2章が、創世記から見れば遠い将来に生まれるイエス・キリストとその教会の出現を預言しているとも言えます。驚くべきことです。
パウロは書きます。「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです。」この神秘は、以前の口語訳聖書では、奥義と訳されていました。一番新しい聖書協会共同訳では、秘儀と訳されています。神の真理(救い)の最も深い部分のことと思います。キリストとその教会が一体であることは、神の救いの最も深い部分なのです。それはキリストの十字架の自己犠牲の愛だと思います。キリストの十字架の愛によって、キリストとその教会は一体となっており、キリストの十字架の愛によって、キリストとその教会は花婿と花嫁の愛の一体の関係になっているのです。さらには、キリストとその教会の愛の関係を土台(模範)として、人間の夫と妻が愛し合うのです。
教会がキリストの花嫁・妻であることは、コリントの信徒への手紙(二)11章2~3節でも、パウロが真に印象的に記しています。「あなた方(コリント教会)に対して、神が抱いておられる熱い思い(熱愛)を私も抱いています。なぜなら、私はあなた方を純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇(悪魔)の悪だくみで欺むかれたように、あなた方の思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」花嫁である私たち教会がなすべきことは、一途で純情な愛で夫キリストを、ひたむきに愛し続けること、キリストへの愛を込めて礼拝し続けることです。
偶像(他の偽物の神)を礼拝することは、夫キリストへの純潔からそれて霊的な姦通の罪を犯すことで、花婿キリストの怒り、聖なるねたみを惹き起こす罪です。
キリストを礼拝する人は、偶像礼拝を避けるべきことが、聖餐との関係で、パウロにより、このように語られます。「私の愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい(それは花婿キリストを裏切ること)。私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか(原語はコイノニア=交わり)。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかる(交わる)ことではないか。」キリストの純粋で聖なる血と、キリストの純粋で聖なる体と交わるのが聖餐だというのです。私たちが花嫁としてキリストへの純粋で一途な愛をもって、聖餐を受けることが必要なのです。パウロはさらに教えます。「私が言おうとしているのは、偶像に供える献げ物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。」コリント教会の人々が、何らかの偶像礼拝を行い、霊的姦通の罪を犯し、花婿キリストを裏切ろうとしていたのです。「主(キリスト)の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。私たちは主より強い者でしょうか。」花婿キリストに聖なるねたみを起こさせないように、私たち花嫁教会が偶像礼拝を避け、イエス様への純潔な愛を貫いて聖餐を受けることが必要と教えています。
旧約聖書では、真の神様が花婿(夫)、神の民イスラエルが花嫁(妻)として記されています。神がイスラエルの民を愛し、イスラエルの民は真の神様のみを礼拝して、真の神への愛を貫く。そうである時に、両者は理想的な関係にあります。しかし現実には、花嫁イスラエルが、花婿である神様を裏切ることが多くなっていったのです。
本日の旧約聖書は、雅歌4章7節以下です。雅歌を礼拝で読むことは珍しいです。これは雅歌の現代は「歌の中の歌」で、「最高の歌」を意味します。愛の歌ですが、内容がアガペーの愛というよりは、官能的とさえ言える愛のために、礼拝で読まれることも少ないのです。ここには若い男女の愛が歌われているのですが、同時にこれは神様と神の民イスラエルの間の愛を描いているとも、昔から言われています。本日の7節から11節は、若い男性から恋人への愛のメッセージ、神様からイスラエルの民への愛のメッセージ、キリストから教会への愛のメッセージと言えます。
「恋人よ、あなたは何もかも美しく、傷はひとつもない。花嫁よ、レバノンからおいで。おいで、レバノンから出ておいで。アマナの頂から、セニル、ヘルモンの頂から、獅子の隠れが、豹の住む山から下りておいで。私の妹、花嫁よ、あなたは私の心をときめかす。あなたのひと目も、首飾りのひとつの玉も、それだけで、私の心をときめかす。私の妹、花嫁よ、あなたの愛は美しく、ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。あなたの香油は、どんな香り草よりもかぐわしい。花嫁よ、あなたの唇は蜜を滴らせ、舌には蜂蜜と乳がひそむ。あなたの衣はレバノンの香り。」
主に20世紀の後半にアメリカで生きたカトリックの神父にヘンリー・ナウエンという人がいました。この方の本は日本語に割と多く訳されています。この方が書いているそうですが、「神の測りがたい神秘は、神ご自身が、愛されたいと望んでおられる恋人であることです。」神様が私たちを愛して、私たちが神様を愛することを待ち望んでおられるということです。神様は私たちを、恋人のように愛し、私たちが神様を愛することを切に願っておられるというのです。雅歌を読んでいると若い男性が女性の恋人を愛し、相手が自分を愛してくれることを喜び待ち望んでいます。
イエス様も同じです。これは森明という大分前に天に召されている牧師の言葉ですが、こう語られたそうです。「イエスは弟子の魂そのものを愛されたのである。それは根本的なことで、イエスは罪ある者を愛され、彼らの如き者も御側にいなくては淋しく思い給うたのである。」イエス様の十字架の前のゲツセマネの祈りを思い出します。「ペトロとゼベダイの子二人(ヨハネとヤコブ)を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。』」結局、弟子たちには実行できなかったのですが、イエス様が弟子たちの愛を求めておられたことは事実です。
エフェソ書に戻ります。5章25節「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」キリストが、教会のために十字架で死んで、命を与えて下さったと言っています。教会は毎週毎日、このキリストの十字架の愛に立ち帰って、キリストを愛して礼拝を献げます。29節には、「キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです」とあり、キリストが教会を愛し、教会を養い、いたわると述べられています。キリストは、今日も教会を養って下さいます。聖書の御言葉により、説教により、聖餐のパンとぶどう液により、教会を養い、いたわって下さいます。
聖書最後の書・ヨハネの黙示録の終わりの方には、こうあります。「霊(聖霊)と花嫁(教会)とが言う。『来て下さい。』これを聞く者も言うがよい。『来て下さい』と。」主イエスよ、早く来て、早く再臨して、神の国を完成させて下さい。「以上すべてを証しする方(イエス・キリスト)が言われる。『然り、私はすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来て下さい。」キリストの花嫁である私たち教会は、ひたむきにイエス様を愛し、「イエス様、早く来て、神の国を完成させて下さい」と祈り続けます。アーメン。
2024-10-27 1:28:49()
説教「聖霊の結ぶ実は愛、喜び、平和」2024年10月27日(日)修養会礼拝
順序:招詞 エフェソ5:8,頌栄29、主の祈り,交読詩編143、使徒信条、讃美歌21・342、聖書 ガラテヤの信徒への手紙5:16~26、祈祷、説教、祈祷、讃美歌377、献金、頌栄92、祝祷。
(ガラテヤ5:16~26) わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
(説教) 本日は、修養会の礼拝です。新約聖書は、ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節、説教題は「聖霊の結ぶ実は愛、喜び、平和」です。小見出しは、「霊の実と肉の業」です。これは明らかに対比です。
この手紙を書いている使徒パウロは、こう述べます。最初の16節「私が言いたいのは、こういうことです。霊(聖霊=今回の修養会のテーマ)の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」私たちは、自力によってではなく、イエス・キリストの十字架の犠牲の死と復活の恵みのお陰で、一切の罪を赦され、永遠の命をいただきました。イエス様を救い主と新じて、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けた日に、真の救いをいただきました。それで終わりではなく、その後の生き方も大切です。その後の人生は、イエス様の恵みに応える人生です。イエス様の十字架の愛に応答してゆく人生です。そのように生きるに当たり、「霊(聖霊)の導きに従って歩みなさい」とパウロは、述べます。何が霊(聖霊)の導きかを判断するには、やはりよく祈って聖書をよく読み、正しく理解することが大切と思います。聖霊は生きておられる神様の霊ですから、単なる神様の力ではありません。聖霊は人格(神格)をお持ちです。聖霊は、神様の最も尊い霊ですから、私たちは聖霊の尊厳を深く思い、聖霊を冒瀆する罪を犯さないように、十二分に注意する必要があります。
17節「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立し合っているので、あなた方は、自分のしたいと思うことができないのです。」肉とは私たちの自己中心の罪です。霊とは、聖霊による清い思いです。肉と霊は相反します。自己中心の罪と聖霊の清い思いは相反します。18節「しかし、霊(聖霊)に導かれているなら、あなた方は、律法の下にはいません。」私たちがイエス・キリストを救い主と信じて、自分の罪を悔い改めて、洗礼を受けたときから、私たちはイエス様の愛の支配下に移されたのです。それまでは悪魔と罪と死の支配下にいました。悪魔と罪と死が私たちの主人だったのです。それが洗礼を受けた後は、悪魔と罪と死の支配から解放され、イエス様が主人になりました。主人が変わったのです。20年ほど前に「親分はイエス様」という映画がありました。親分という言葉はやや俗っぽいですが、それまでは悪魔と罪と死が私たちの親分だったのです。しかしイエス様を信じて洗礼を受けた後は、イエス様が私たちの親分になられました。つまり、今私たちはイエス様に喜んでお仕えする一人一人になったのです。
そして大切なことは、私たちが洗礼を受けたときに、私たちに聖霊が注がれたのです。洗礼式の水が聖霊のシンボルです。ローマの信徒への手紙8章9節に、こうあります。「神の霊があなた方の内に宿っている限り、あなた方は、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」その人の内に聖霊が住んでおられるならば、その人は神の子にされており、救われています。キリストの霊(聖霊)がその人の内に住んでおられなければ、まだ神の子にされておらず、救われていません。もちろんその後に、イエス様を信じれば救われます。ガラテヤに戻ると、パウロは「霊(聖霊)に導かれて歩みなさい」と言います。それは言い換えると、「イエス・キリストに従って歩みなさい」、親分であるイエス様にお仕えして生きていきなさい、ということです。明治維新の頃、クリスチャンになった武士たちがいたそうです。彼らは、明治維新で自分たちがお仕えする殿様がいなくなって困りました。しかしクリスチャンになって、新しい主君を見出しました。これからはイエス様が主君だ。イエス様にお仕えして一生生きるのだ。彼らはクリスチャンになって、生き生きしたと思うのです。殿様という主君を失って生きがいを失いましたが、イエス様という主君にお仕えする新しい生きがいを見出したからです。私たちは武士ではありませんが、洗礼を受けた後の生き方が、よく分からない場合もあるかもしれません。ですが洗礼を受けた後は、イエス様をいわば親分として、イエス様を主君として、イエス様にお仕えしながら生きてゆくのです。それが「霊(聖霊)の導きに従って歩む」ことになります。
18節「しかし、霊に導かれているなら、あなた方は律法の下にはいません。」聖霊と御言葉に導かれ、聖霊と御言葉にますます従うならば、私たちは本当の意味で自由にされます。ここでいう自由とは、勝手気ままの意味ではなく、自己中心の罪を卒業してゆくことです。19節には、聖霊の実の正反対、「肉の業」のリストがあります。クリスチャンが行ってはならないことのリストです。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」「姦淫、わいせつ、好色」と、まず性的な罪が上位に3つ挙げられます。姦淫は、夫婦以外の性関係ですね。次が偶像礼拝。真の神以外のものを崇め、礼拝することです。クリスチャンは、イスラム教の神や、仏や、神道の神を礼拝することはありませんが、お金や権力や名誉を神として崇めてしまう危険はあります。私たちも十分に注意したいと思います。
22~23節が、今年度の東久留米教会の標語聖句です。「これに対して、霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」ここには、聖霊が結ばせて下さる9つの実が記されています。ある人は、冒頭の愛が一番大事で、他の8つの実は愛に含まれる実だと言います。そう読むこともできます。この9つの実は、神の霊である聖霊の実ですから、神様ご自身のご性質、神の子イエス・キリストご自身のご性質です。私たちが聖霊に満たされ、私たちの人格が聖霊に感化されてゆくとき、神様ご自身、イエス・キリストご自身のご性質を次第にいただいてゆくのですね。私たちはイエス・キリストを通して神の子とされたのですから、私たちが神様ご自身のご性質を少しずついただくことは、うなずけることです。ペトロの手紙(二)1章3~4節が思い出されます。「主イエスは、ご自分のもつ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、私たちに与えて下さいました。~この栄光と力ある業とによって、私たちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなた方がこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。」「神の本性にあずからせていただくようになるためです。」これは、畏れ多くも、私たちが聖霊に感化されることで、神の本性に少しずつ似て来るということです。聖霊に感化されて、神の本姓にあずからせていただくようになるとは、本日のガラテヤの信徒への手紙に当てはめれば、聖霊の9つの実を結ぶことです。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」
愛は、原語ではアガペーです。多くのクリスチャンがよく知る言葉です。アガペーは、人間の自己中心的な限界のある愛ではなく、神様の愛、イエス様の十字架の愛、敵をも愛する愛、自分の命をさえ他人のために喜んで差し出せる愛、何の見返りも願わない愛です。自己中心的な私たちも、よく祈って聖霊に感化されることで、少しずつアガペーの愛を身に着けるというのです。すばらしいことです。この愛は、コリントの信徒への手紙(一)13章に記されている愛(アガペー)と同じです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して廃れない。」この愛(アガペー)です。
次の喜びは、この世の欲望充足ではなく、まさに聖霊が与えて下さる天国の喜び、聖なる喜びです。イエス様もこの聖霊による喜びに満たされておられました。ルカによる福音書10章21節にこう書かれています。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」使徒言行録8章で、エチオピア人の高官が、使徒言行録6章で選ばれた7人の教会の執事(奉仕者)の一人フィリピから洗礼を受けた後、「喜びにあふれて旅を続けた」とあります。これが聖霊による喜びですね。テサロニケの信徒への手紙(一)5章16~17節に、こうありますね。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」私たちの努力では、難しいと思います。よく祈って、聖霊に助けていただいて初めて可能になると思います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
次の平和は、イエス様がヨハネ福音書14章で約束された平和です。ヘブライ語で言えばシャロームでしょう。「私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。」また16章では、こうおっしゃって私たちを励まして下さいます。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」悪魔と罪と死に勝利して復活されたイエス様が、私たちと共におられるので、私たちには真の平和が与えられています。
4つ目の寛容は、ローマの信徒への手紙2章4節では、忍耐と訳されています。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」寛容とは忍耐のことだと分かります。寛容と聞くと、何でも受け入れていただける大らかさのことと思いますが、本当の寛容は違うのではないでしょうか。神様は、私たち罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪そのものを憎んでおられます。神様が完全に清い方なので、罪そのものを受け入れることは絶対にありません。神様は、私たち罪人(つみびと)を愛して、イエス様の十字架によって救って下さいますが、罪そのものを明確に憎んでおられます。ですから神の寛容は、罪を受け入れて下さることではあり得ません。
そうではなく、神様が私たちの罪をすぐには裁かず、長い間忍耐して、私たちの悔い改めを待って下さる、そのことが神の寛容だと思います。ある本に書いてありましたが、神様が忍耐深くなかったら、神様はとうの昔に、人の罪が多いこの世界を滅ぼしていただろうと。しかし神様が真に忍耐強い方なので、神様は多くの罪があるこの世界を今なお存続させて下さっています。クリスチャン作家の三浦綾子さんが書いておられますが、「人はしばしば旧約聖書の神様を裁きの神と言うが、私は忍耐の神だと感じる」と。神様が忍耐強い方なので、私たちも、他人の罪に対して忍耐強くあることが求められているということではないでしょうか。神様が私たちの罪をも、毎日忍耐して下さっているからです。聖霊の実の一つが忍耐だということは、聖霊は愛と喜びと平和と忍耐の霊であられることを意味しますし、私たちもまた聖霊に満たされて、忍耐深くなることがよいことだと教えられます。
ペトロの手紙(二)3章9節以下に、こうあります。「ある人たちは、遅い(イエス様の再臨が)と考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」「一人も滅びないで皆が悔い改める(そして救われる)ようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」この神様の忍耐に早く気づいて、全ての人が罪を悔い改めて、イエス様を信じて洗礼を受ける必要があります。善は急げです。ここに出る「忍耐」が、本日のガラテヤ書の「寛容」と非常に近い言葉です。またペトロの手紙(二)3章15節に、「また、私たちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」とあり、ここの「忍耐深さ」はガラテヤ書の「寛容」と全く同じ言葉です。やはり聖霊の実の寛容は、神の忍耐のことなのです。
神の子イエス様の忍耐力に、私たちは目を見張ります。荒野の誘惑で40日40夜断食しても、神の御言葉に従い抜く。十字架上での忍耐強さは、信じられないほどの忍耐強さです。十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか、知らないのです」と祈られ、罪深い言葉を一言も語らず、十字架の足元におられた母マリアのことを気遣われました。イエス様こそ、聖霊の実を完全に結んでおられる方ですから、十字架上のイエス様の忍耐強さこそ、聖霊の実の一つである寛容です。私たちは、イエス様ほど忍耐強く寛容になれないかもしれませんが、それでも少しずつでも忍耐と寛容の実を結ばせていただきたいのです。聖霊が、私たちに忍耐と寛容の実を一歩ずつ結ばせて下さると信じます。
聖霊ご自身が働いて、私たちに実を結ばせて下さいます。今年6月1日に天に召されたNさんのことを、何回かお話しました。召される暫く前にお見舞いに伺ったとき、「この入院をこれまでは試練と思っていたが、今は祝福と思う」言われた言葉は、人のがんばりを超えていると思います。聖霊によって清められ、聖霊によって愛、喜び、平和、寛容(忍耐)等の実りを与えられたのだと思います。岩井牧師の証し。聖霊のお働き。
聖霊は私たちの罪を悲しまれる。聖霊の至高の尊厳。聖霊=慰め。御言葉がひらめく。思い出させて下さる。よく聖書を読んで祈っていないと、聖霊を感じる私たちの魂は枯渇して死ぬ。聖霊を全く感じない不感症にならないように注意。
しかし最終的には自力ではない。聖霊ご自身が働いて、私たちに聖霊の実を結ばせて下さると信じます。讃美歌21の377番を讃美します。マルティン・ルター作詞作曲。10月31日が宗教改革記念日だからです。もう1つ理由があります。今年7月に天に召された私の同級生の牧師の葬儀で歌われました。本人が選んだのかもしれせん。以前の歌詞で歌いましたが、4節の歌詞が彼の思いだったのではないかと思っています。「わが命、わがすべて、取らば取れ。神の国はなお我にあり。」悪魔よ、私の命も、私のすべても取るなら取れ。神の国はなお我にありだ。聖霊が働いて、ピンチの時に、私たちを守って下さると信頼してよいのです。 アーメン。
(ガラテヤ5:16~26) わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
(説教) 本日は、修養会の礼拝です。新約聖書は、ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節、説教題は「聖霊の結ぶ実は愛、喜び、平和」です。小見出しは、「霊の実と肉の業」です。これは明らかに対比です。
この手紙を書いている使徒パウロは、こう述べます。最初の16節「私が言いたいのは、こういうことです。霊(聖霊=今回の修養会のテーマ)の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」私たちは、自力によってではなく、イエス・キリストの十字架の犠牲の死と復活の恵みのお陰で、一切の罪を赦され、永遠の命をいただきました。イエス様を救い主と新じて、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けた日に、真の救いをいただきました。それで終わりではなく、その後の生き方も大切です。その後の人生は、イエス様の恵みに応える人生です。イエス様の十字架の愛に応答してゆく人生です。そのように生きるに当たり、「霊(聖霊)の導きに従って歩みなさい」とパウロは、述べます。何が霊(聖霊)の導きかを判断するには、やはりよく祈って聖書をよく読み、正しく理解することが大切と思います。聖霊は生きておられる神様の霊ですから、単なる神様の力ではありません。聖霊は人格(神格)をお持ちです。聖霊は、神様の最も尊い霊ですから、私たちは聖霊の尊厳を深く思い、聖霊を冒瀆する罪を犯さないように、十二分に注意する必要があります。
17節「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊が対立し合っているので、あなた方は、自分のしたいと思うことができないのです。」肉とは私たちの自己中心の罪です。霊とは、聖霊による清い思いです。肉と霊は相反します。自己中心の罪と聖霊の清い思いは相反します。18節「しかし、霊(聖霊)に導かれているなら、あなた方は、律法の下にはいません。」私たちがイエス・キリストを救い主と信じて、自分の罪を悔い改めて、洗礼を受けたときから、私たちはイエス様の愛の支配下に移されたのです。それまでは悪魔と罪と死の支配下にいました。悪魔と罪と死が私たちの主人だったのです。それが洗礼を受けた後は、悪魔と罪と死の支配から解放され、イエス様が主人になりました。主人が変わったのです。20年ほど前に「親分はイエス様」という映画がありました。親分という言葉はやや俗っぽいですが、それまでは悪魔と罪と死が私たちの親分だったのです。しかしイエス様を信じて洗礼を受けた後は、イエス様が私たちの親分になられました。つまり、今私たちはイエス様に喜んでお仕えする一人一人になったのです。
そして大切なことは、私たちが洗礼を受けたときに、私たちに聖霊が注がれたのです。洗礼式の水が聖霊のシンボルです。ローマの信徒への手紙8章9節に、こうあります。「神の霊があなた方の内に宿っている限り、あなた方は、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」その人の内に聖霊が住んでおられるならば、その人は神の子にされており、救われています。キリストの霊(聖霊)がその人の内に住んでおられなければ、まだ神の子にされておらず、救われていません。もちろんその後に、イエス様を信じれば救われます。ガラテヤに戻ると、パウロは「霊(聖霊)に導かれて歩みなさい」と言います。それは言い換えると、「イエス・キリストに従って歩みなさい」、親分であるイエス様にお仕えして生きていきなさい、ということです。明治維新の頃、クリスチャンになった武士たちがいたそうです。彼らは、明治維新で自分たちがお仕えする殿様がいなくなって困りました。しかしクリスチャンになって、新しい主君を見出しました。これからはイエス様が主君だ。イエス様にお仕えして一生生きるのだ。彼らはクリスチャンになって、生き生きしたと思うのです。殿様という主君を失って生きがいを失いましたが、イエス様という主君にお仕えする新しい生きがいを見出したからです。私たちは武士ではありませんが、洗礼を受けた後の生き方が、よく分からない場合もあるかもしれません。ですが洗礼を受けた後は、イエス様をいわば親分として、イエス様を主君として、イエス様にお仕えしながら生きてゆくのです。それが「霊(聖霊)の導きに従って歩む」ことになります。
18節「しかし、霊に導かれているなら、あなた方は律法の下にはいません。」聖霊と御言葉に導かれ、聖霊と御言葉にますます従うならば、私たちは本当の意味で自由にされます。ここでいう自由とは、勝手気ままの意味ではなく、自己中心の罪を卒業してゆくことです。19節には、聖霊の実の正反対、「肉の業」のリストがあります。クリスチャンが行ってはならないことのリストです。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」「姦淫、わいせつ、好色」と、まず性的な罪が上位に3つ挙げられます。姦淫は、夫婦以外の性関係ですね。次が偶像礼拝。真の神以外のものを崇め、礼拝することです。クリスチャンは、イスラム教の神や、仏や、神道の神を礼拝することはありませんが、お金や権力や名誉を神として崇めてしまう危険はあります。私たちも十分に注意したいと思います。
22~23節が、今年度の東久留米教会の標語聖句です。「これに対して、霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」ここには、聖霊が結ばせて下さる9つの実が記されています。ある人は、冒頭の愛が一番大事で、他の8つの実は愛に含まれる実だと言います。そう読むこともできます。この9つの実は、神の霊である聖霊の実ですから、神様ご自身のご性質、神の子イエス・キリストご自身のご性質です。私たちが聖霊に満たされ、私たちの人格が聖霊に感化されてゆくとき、神様ご自身、イエス・キリストご自身のご性質を次第にいただいてゆくのですね。私たちはイエス・キリストを通して神の子とされたのですから、私たちが神様ご自身のご性質を少しずついただくことは、うなずけることです。ペトロの手紙(二)1章3~4節が思い出されます。「主イエスは、ご自分のもつ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、私たちに与えて下さいました。~この栄光と力ある業とによって、私たちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなた方がこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。」「神の本性にあずからせていただくようになるためです。」これは、畏れ多くも、私たちが聖霊に感化されることで、神の本性に少しずつ似て来るということです。聖霊に感化されて、神の本姓にあずからせていただくようになるとは、本日のガラテヤの信徒への手紙に当てはめれば、聖霊の9つの実を結ぶことです。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」
愛は、原語ではアガペーです。多くのクリスチャンがよく知る言葉です。アガペーは、人間の自己中心的な限界のある愛ではなく、神様の愛、イエス様の十字架の愛、敵をも愛する愛、自分の命をさえ他人のために喜んで差し出せる愛、何の見返りも願わない愛です。自己中心的な私たちも、よく祈って聖霊に感化されることで、少しずつアガペーの愛を身に着けるというのです。すばらしいことです。この愛は、コリントの信徒への手紙(一)13章に記されている愛(アガペー)と同じです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して廃れない。」この愛(アガペー)です。
次の喜びは、この世の欲望充足ではなく、まさに聖霊が与えて下さる天国の喜び、聖なる喜びです。イエス様もこの聖霊による喜びに満たされておられました。ルカによる福音書10章21節にこう書かれています。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」使徒言行録8章で、エチオピア人の高官が、使徒言行録6章で選ばれた7人の教会の執事(奉仕者)の一人フィリピから洗礼を受けた後、「喜びにあふれて旅を続けた」とあります。これが聖霊による喜びですね。テサロニケの信徒への手紙(一)5章16~17節に、こうありますね。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」私たちの努力では、難しいと思います。よく祈って、聖霊に助けていただいて初めて可能になると思います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
次の平和は、イエス様がヨハネ福音書14章で約束された平和です。ヘブライ語で言えばシャロームでしょう。「私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。」また16章では、こうおっしゃって私たちを励まして下さいます。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」悪魔と罪と死に勝利して復活されたイエス様が、私たちと共におられるので、私たちには真の平和が与えられています。
4つ目の寛容は、ローマの信徒への手紙2章4節では、忍耐と訳されています。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」寛容とは忍耐のことだと分かります。寛容と聞くと、何でも受け入れていただける大らかさのことと思いますが、本当の寛容は違うのではないでしょうか。神様は、私たち罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪そのものを憎んでおられます。神様が完全に清い方なので、罪そのものを受け入れることは絶対にありません。神様は、私たち罪人(つみびと)を愛して、イエス様の十字架によって救って下さいますが、罪そのものを明確に憎んでおられます。ですから神の寛容は、罪を受け入れて下さることではあり得ません。
そうではなく、神様が私たちの罪をすぐには裁かず、長い間忍耐して、私たちの悔い改めを待って下さる、そのことが神の寛容だと思います。ある本に書いてありましたが、神様が忍耐深くなかったら、神様はとうの昔に、人の罪が多いこの世界を滅ぼしていただろうと。しかし神様が真に忍耐強い方なので、神様は多くの罪があるこの世界を今なお存続させて下さっています。クリスチャン作家の三浦綾子さんが書いておられますが、「人はしばしば旧約聖書の神様を裁きの神と言うが、私は忍耐の神だと感じる」と。神様が忍耐強い方なので、私たちも、他人の罪に対して忍耐強くあることが求められているということではないでしょうか。神様が私たちの罪をも、毎日忍耐して下さっているからです。聖霊の実の一つが忍耐だということは、聖霊は愛と喜びと平和と忍耐の霊であられることを意味しますし、私たちもまた聖霊に満たされて、忍耐深くなることがよいことだと教えられます。
ペトロの手紙(二)3章9節以下に、こうあります。「ある人たちは、遅い(イエス様の再臨が)と考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」「一人も滅びないで皆が悔い改める(そして救われる)ようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」この神様の忍耐に早く気づいて、全ての人が罪を悔い改めて、イエス様を信じて洗礼を受ける必要があります。善は急げです。ここに出る「忍耐」が、本日のガラテヤ書の「寛容」と非常に近い言葉です。またペトロの手紙(二)3章15節に、「また、私たちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい」とあり、ここの「忍耐深さ」はガラテヤ書の「寛容」と全く同じ言葉です。やはり聖霊の実の寛容は、神の忍耐のことなのです。
神の子イエス様の忍耐力に、私たちは目を見張ります。荒野の誘惑で40日40夜断食しても、神の御言葉に従い抜く。十字架上での忍耐強さは、信じられないほどの忍耐強さです。十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか、知らないのです」と祈られ、罪深い言葉を一言も語らず、十字架の足元におられた母マリアのことを気遣われました。イエス様こそ、聖霊の実を完全に結んでおられる方ですから、十字架上のイエス様の忍耐強さこそ、聖霊の実の一つである寛容です。私たちは、イエス様ほど忍耐強く寛容になれないかもしれませんが、それでも少しずつでも忍耐と寛容の実を結ばせていただきたいのです。聖霊が、私たちに忍耐と寛容の実を一歩ずつ結ばせて下さると信じます。
聖霊ご自身が働いて、私たちに実を結ばせて下さいます。今年6月1日に天に召されたNさんのことを、何回かお話しました。召される暫く前にお見舞いに伺ったとき、「この入院をこれまでは試練と思っていたが、今は祝福と思う」言われた言葉は、人のがんばりを超えていると思います。聖霊によって清められ、聖霊によって愛、喜び、平和、寛容(忍耐)等の実りを与えられたのだと思います。岩井牧師の証し。聖霊のお働き。
聖霊は私たちの罪を悲しまれる。聖霊の至高の尊厳。聖霊=慰め。御言葉がひらめく。思い出させて下さる。よく聖書を読んで祈っていないと、聖霊を感じる私たちの魂は枯渇して死ぬ。聖霊を全く感じない不感症にならないように注意。
しかし最終的には自力ではない。聖霊ご自身が働いて、私たちに聖霊の実を結ばせて下さると信じます。讃美歌21の377番を讃美します。マルティン・ルター作詞作曲。10月31日が宗教改革記念日だからです。もう1つ理由があります。今年7月に天に召された私の同級生の牧師の葬儀で歌われました。本人が選んだのかもしれせん。以前の歌詞で歌いましたが、4節の歌詞が彼の思いだったのではないかと思っています。「わが命、わがすべて、取らば取れ。神の国はなお我にあり。」悪魔よ、私の命も、私のすべても取るなら取れ。神の国はなお我にありだ。聖霊が働いて、ピンチの時に、私たちを守って下さると信頼してよいのです。 アーメン。