日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2024-07-28 1:33:02()
「キリストを土台に生きる」 2024年7月28日(日)聖霊降臨節第11主日礼拝
順序:招詞 ローマ8:38~39,頌栄85、主の祈り,交読詩編132、使徒信条、讃美歌21・156、創世記4:1~8,エフェソの信徒への手紙4:25~32、祈祷、説教、祈祷、讃美歌495、献金、頌栄92、祝祷。 

(創世記4:1~8) さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。


(エフェソ4:25~32) だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第11主日の公同礼拝です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4章25~32節、説教題は「キリストを土台として生きる」です。著者パウロは勧めます。自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、クリスチャンとなり、神の子となった私たちが、古い罪の自分を脱ぎ捨てて、聖霊に導かれて新しい生き方をするようにと。

 最初の25節「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは、互いに体の一部なのです。」「偽りを捨て」をある訳では「偽りをかなぐり捨て」と訳しています。「全力で捨てる」ということと思います。「互いに体の一部」であるとは、私たちが互いに「キリストの体である教会の一部」だということです。イエス・キリストの体である教会に属しているということです。そのような私たちが、隣人に偽りを言い、真実でない嘘を言ってだます、ということがあってはいけません。当然です。クリスチャンとしての良心をもって生き、偽りで人をだますなど決してしないことは、もちろんです。残念ながら世の中には、偽りもあるのが現実です。人をだましてお金を得る詐欺を行う人々がいます。インターネットを使っていると、見知らぬ相手から嘘の内容のメール(真実でない内容のメール)が届きます。何かの「支払いがまだです」などと私たちをだまそうとするメールが届きます。それを信じないで、嘘と見抜いて無視することが必要です。

 アメリカの大統領選挙についての動きが色々ある昨今ですが、6月下旬にトランプ候補とバイデン大統領の直接討論がありました。日本でもかなり話題になったので、インターネットで全部見てみました。全部は理解できませんでしたが、互いに「あなたは嘘をついている」、「あなたは噓つきだ」と何回も言っていました。その後、バイデン氏は撤退しましたが、世界をリードするはずの超大国の次期大統領候補者が互いに「あなたは嘘つきだ」と公開の場で非難し合っている現実を見て、世界中が注目している二人の討論にしては、随分情けない言い合いだと、驚き唖然としました。もしどちらかが嘘を言っていたのであれば、神様とエフェソの信徒への手紙の著者パウロに叱られるに違いありません。バイデンはカトリック、トランプはプロテスタントです。「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」

 26~27節「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」「怒る」をある翻訳では「腹を立てる」と訳しています。パウロは「怒ってはならない」とは言いません。一切怒るなというのは無理です。神様も悪魔や人間の罪に対してお怒りになります。神様の怒りは100%正しく清い怒りです。ですが私たち人間の怒りは、神様の清く正しい怒りほど、清く正しくはありません。人間の怒りには、人間の罪が含まれています。ですから怒るに当たっては、慎重に怒る必要があるのですね。クリスチャン以外の人々も最近は、「アンガーマネージメント」が必要だと説きます。怒りをコントロールする訓練が必要だと説きます。それができない人に、大切な仕事は任せられないでしょう。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」怒りに任せて行動すると、色々なことを破壊する恐れがあります。ヤコブの手紙1章19節以下にも、こうあります。「誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」神様の怒り、イエス様の怒りは完全に正しいです。たとえばエルサレムの神殿を清めたときのイエス様の怒りは、完全に清く正しいのです。しかし私たち人間の怒りには、自己中心の罪が入り込んでいますので、完璧に正しいとは言えず、神の正義を実現しません。旧約聖書の箴言16章32節に、次の印象的な御言葉があります。「忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。」口語訳ではこうです。私はこの御言葉については、口語訳が好きです。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」イエス様こそ、私たちの模範です。ご自分を十字架にかける人々に怒りを感じておられたかもしれませんが、忍耐を貫いて、むしろ「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか、知らないのです」と敵をゆるす祈りを献げられました。

 「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」ここにある通りの失敗を犯したのが創世記のカインです。人類最初の兄弟の間で、最初の殺人が起こってしまいました。アダムとエバの間にカインが生まれ、弟アベルも生まれました。時を経て、神様は、弟アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした。もちろん神様に非はありませんし、弟アベルにも非はありません。しかしカインは怒りました。カインは「なぜ自分とその献げ物が神の、、目に留めていただけなかったのか、深く考えればよかったのだと思います。しかしカインはそうせず、感情に任せて激しく怒って顔を伏せました。自分の怒りが正しくないと分かっていたので、怒っている顔を他人に見せるのが恥ずかしくて、顔を伏せたのだと思います。神様がカインを諭します。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」しかしカインは、罪の誘惑に勝つことができませんでした。自分の怒りに支配されて行動し、弟アベルを殺す大きな罪を犯してしまいました。今でもこのように行動すると、刑務所に入るか死刑になり、せっかくの人生を棒に振ってしまいます。怒っているときは、深呼吸をしなさいという知恵もあります。パウロは、私たちが怒りのコントロール失敗して、明らかな罪を犯さないようにと、忠告してくれています。 ヨナの怒り。

 28節「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」これはパウロが使徒言行録20章で、まさにエフェソの教会の長老たちに別れを告げた、感動的な場面を思い出させます。パウロは語ったのです。「私が三年間、あなた方一人一人に夜も昼も涙を流して教えて来たことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなた方をゆだねます。この言葉は、あなた方を造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。私は他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じの通り、私はこの手で、私自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなた方もこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエスご自身が、『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」

 やはりパウロがエフェソの教会の長老たちに直接別れを告げたときのメッセージと、本日のエフェソの信徒への手紙は、似ていると感じます。「受けるよりは与える方が幸いである」というイエス様の御言葉は、4つの福音書に出て来ないのですね。福音書以外で知ることのできる珍しいイエス様の御言葉です。この御言葉は福音書にありませんが、イエス様の似た言葉は、ルカによる福音書6章38節に記されています。「与えなさい。そうすれば与えられる。」

 エフェソに戻り29節「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」イエス様も言っておられます。マタイ福音書5章22節「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』という者は最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」そして「造り上げる」が重要な言葉ですね。これは「家を建てる」という意味の言葉です。破壊するのではなく、造り上げることが大切だというのです。そもそもエフェソの信徒への手紙全体のテーマが「教会」と言えますが、「教会を造り上げる」ことと個人を励まして造り上げることが大切だと言っているようです。教会について言えば、ユダヤ人も異邦人も、多種多様な人々が集まって「キリストの体なる教会」を造り上げてゆく。たとえば2章21節には、「キリストにおいて、この建物全体は組み合されて成長し、主における聖なる神殿となります」とあり、4章16節に「キリストにより体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合され、結び合わされて、各々の部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」

 個人を励まして、個人を造り上げることも重要だと語られます。「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」ある人は「あなたの笑顔はナイスだ」と言われた言葉に励まされ、その一言を一生心の支えにしたそうです。沖縄出身で牧師の資格を持ち、歌手としても活動なさる方がおられますね(新垣勉『ひとつのいのち、ささえることば』マガジンハウス、2004年)。以前はNHKの歌番組にも出ておられましたが、最近は一時ほど活動しておられないのかもしれません。この方は1952年に沖縄の読谷村で誕生されました。お父様は沖縄に駐留したメキシコ系のアメリカ軍人、お母様は沖縄の方です。生後まもなく劇薬を誤って目に入れられる医療ミスで失明。両親は離婚んして父は祖国に帰り、お母様は再婚。祖母に育てられました。中学二年の時に祖母が亡くなると、ほとんど天涯孤独になり、生きていても仕方がないと自殺未遂したこともありました。心は恨みでいっぱいでしたが、次第によい出会いが与えられます。ある牧師が、心の内をよく聴いて下さり、生まれて初めてこの方の誕生会を開いて下さいました。

 西南学院大学の神学部で学んでいるときに、先生からこう励まされました。「(視覚障害をもつ)君はあれも読みたい、これも読みたいと自分が腹立たしくなることがあるでしょう。しかし君には一冊の本を十冊に膨らませる力がある能力がある。だから心配しないでしっかり勉強しなさい。自信をもって。」その西南学院大学を卒業するときに、バランドーニ先生という有名なヴォイストレーナーに遭いに行きました。この先生がこう言われました。「君の声は、日本人離れしたラテン的な響きを持っている。どうしてそういう声が出せるのか。」物心ついてからは会っていない父親が、メキシコ系アメリカ軍人だからですね。それを告げると、「この声は神様からのプレゼントです。磨かなければいけません。一人でも多くの人のために歌いなさい。慰め、励まし、勇気づけ、元気づけるのが君の使命です。授業料など心配しなくていい。私のレッスンにいらっしゃい。」こう聞いて、父親を恨む気持ちも徐々に減り、父親がラテン系だからこそ自分にもラテン系の明るい歌声を与えられたと思えるようになり、「神様は私から光を奪われたが、声をプレゼントして下さった」とプラスに考えることができるようになってゆきました。

 「太平洋戦争がなかったら、父は沖縄に来なかった。私も生まれなかった。その私が生きているということは、平和のために何かしなさいということなのではないでしょうか」と書いておられます。今では「人と比べないで、ナンバーワンではなく、あなただけのオンリーワンの人生を生きて下さい」と人を励ますメッセージを語っておられます。この方の人生を伺うと、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語る」ことが、いかに大切か、いかに人を生かすかを、強く教えられます。

 エフェソに戻り30節「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなた方は、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」私たちが罪を犯したり、盗んだり、悪い言葉を口にすると、聖霊なる神様が悲しまれることが分かります。人間の子どもの場合でも、自分が悪いことをしたとき、親が怒ってもあまり反省しない場合でも、親が悲しんだと分かると反省する気持ちになることがあると思います。そのように私たちは、自分たちが罪を犯したことで神様が怒ったと聞いた場合よりも、神様が悲しまれたと知った方が、心身にぐっとこたえ、悔い改めたくなる場合があるのではないでしょうか。この御言葉から、私たちが罪を犯すとき、聖霊が悲しまれることが分かります。聖霊は、三位一体の生ける神様ご自身であり、心をもっておられます。聖霊が、神様の単なる力ではない、人格(神格)をお持ちの方であることが、この御言葉から分かります。イザヤ書63章10節に、似た御言葉があります。「彼ら(神の民イスラエル)は(神様に)背き、主の聖なる霊を苦しめた。」

 「あなた方は聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」「贖いの日」とは、神の国が完成する日、私たちが復活の体を与えられて、私たちの救いが完成する日のことです。よく似たことが、この手紙の1章14節に既に記されています。「この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」クリスチャンの中には、真に尊い神の生ける霊である聖霊が住んでおられます。この聖霊が住んでおられることが、私たちが私たちが救われることの確かな保証です。救われるとは、天国に入れていただき、復活の体を受けることです。

 31節「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」憤りと訳された言葉は、激怒とも訳せます。そしりと訳された言葉は、冒瀆とも訳せます。そう訳すとこうなります。「無慈悲、激怒、怒り、わめき、冒瀆などすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」私たちが無慈悲になり、激怒、怒り、わめき、冒瀆を行う時、聖霊なる神様が悲しまれるのです。神様が悲しまれることはやめよう。私たちはもちろん、そのように考えます。32節「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合いなさい。」私たちがこの勧めを拒否するならば、やはり聖霊が悲しまれるに違いありません。「神がキリストによってあなた方を赦してくださったように」とあるので、全ての土台にあるのは、イエス・キリストの十字架の死による私たちの罪の赦しです。キリストの十字架の愛の恵みに応えて、日が暮れるまで隣人を裁かず、盗まず、困っている人々に分け与え、悪い言葉を一切口にせず、隣人を造り上げるのに役立つ言葉を必要に応じて語り、神の聖霊を悲しませないように生きてほしい。これが本日のエフェソの信徒への手紙のメッセージです。聖霊に助けていただいて、これらの御言葉を実行するように心がけて参りましょう。イエス様の十字架の愛に応えて。アーメン。
 


2024-07-27 17:14:09(土)
『共助』誌2024年第4号掲載の聖書研究「ガラテヤの信徒への手紙(第一回)」 石田真一郎
 ガラテヤの信徒への手紙のテーマは「イエス・キリストの福音とは何か、福音に生きるとはどのようなことか」だと言えます。私たちは、福音を深く悟るために、この書を何でも読み返すことが必要だと感じます。宗教改革者マルティン・ルターも、この書の講解書を記すほど、この書を重視しました。以下、新共同訳聖書の小見出しごとに区切って、私の文章を書きます。

「挨拶」(1~5節)
 著者パウロはこの手紙の宛先を、「ガラテヤ地方の諸教会へ」と書きます。このガラテヤという地名が指す場所に2つの説があります(堀田雄康「ガラテヤの信徒への手紙」『新共同訳 新約聖書註解Ⅱ』日本基督教団出版局、1992年、156ページ)。①小アジア内陸中央部のアンキラ(現トルコのアンカラ)を中心とする周辺地域一帯(北ガラテヤ説)。②従来のガラテヤ人の定住地に南部の地方を合わせた地域(南ガラテヤ説)。北ガラテヤ説を採用すれば、この手紙は、パウロの第三回伝道旅行中に2年ないし3年間滞在したエフェソで書かれたと推測されます(紀元53年ごろ)。南ガラテヤ説を採れば、パウロの第一回伝道旅行後のエルサレムでの使徒会議(使徒言行録15章、紀元48年ごろ)の直前か直後にシリアのアンティオキアで、またはエルサレムに行く途中で書かれたと推定されます。どちらの説を採用しても、この手紙の内容の重要性に変わりはありません。

 パウロは、4節で「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」と、神様の基本的な愛の事実を述べています。この世界を「悪の世」と呼んでいます。もちろん究極的には、神様がこの世界を恵みの御手で支配しておられます。しかし聖書は、最初の人間たちエバとアダムが蛇(悪魔のシンボル)の誘惑に負け、悪魔の言葉に従って以来、人間が悪魔の支配に落ちてしまい、罪人(つみびと)になったと語ります。イエス・キリストは、悪魔と罪と死と律法の支配から私たち罪人(つみびと)を救い出し、解放するために、様々な危険もあるこの地上に、私たちと同じ肉体をもつ人間として、生まれて下さいました。クリスマスの出来事です。そして私たちの全部の罪の責任を背負って、十字架で死んで下さいました。私たちの僕(しもべ)になって下さいました。そして三日目に、父なる神様の愛によって復活させられました。イエス様の十字架の死と復活による福音こそが、ガラテヤの信徒への手紙の土台です。

「ほかの福音はない」(6~10節)
 早速、最も重要なテーマに入ります。ガラテヤの教会の人々が、「ほかの福音」(6節)に惑わされていたからです。「ほかの福音」は偽物、悪魔から来るもので、福音ではありません。それは律法主義、割礼主義、自力主義、自己義認と言えます。パウロも、クリスチャンになる前はそれに生きていたのです。しかしその誤りを悟り、今はそれにはっきり対決しています。私たちも、あくまでもキリストの福音を土台に生かされることが必要です。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」(7~9節)。

「パウロが使徒として選ばれた次第」(11~24節)
 パウロは11~12節で述べます。「兄弟たち、あなた方にはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」

 福音は、ギリシア語原文でエウアンゲリオンです。「よい知らせ」の意味で、「エウ」が「よい」、「アンゲリオン」が「知らせ」です。英語ではグッドニュース、ゴスペルと呼びます。紀元前490年のマラトンの戦いで、アテネ軍がペルシア軍に勝ったとき、伝令がマラトンからアテネまで長距離を走って勝利を伝えた伝承がありますが、この時の勝利の知らせをエウアンゲリオン(福音)と呼んだと聞きます。この故事になぞらえて言えば、聖書の福音は、イエス・キリストが十字架の死と復活によって、悪魔と罪と死の支配に勝利したことを告げる「よい知らせ」です。事実イエス様は、ヨハネによる福音書16章33節で、次のように福音を宣言しておられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」これは、聖書の中の最高の御言葉かもしれないと私は思います。イエス様が十字架の死と復活によって、既に世(悪魔、罪、死)に勝利されたので、自分の罪を悔い改めてイエス様につながる私たちも、すべての罪を赦され、神の子とされ、永遠の命と天国を約束されています。

 「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」まさにその通りで、パウロほど劇的に救われた人も珍しいのです。何しろ彼は、先頭を切ってクリスチャンたちを迫害する者でした。パウロの初めの名はサウロ(またはサウル)で、反キリストに生きる筆頭でした。使徒言行録9章によると、彼が迫害のために意気込んでダマスコに向かう途中で、突然、天からの光が彼の周りを照らし、復活されたイエス・キリストが彼に語りかけました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」彼は三日間、目が見えなくなり、飲食しませんでした。イエス様から派遣されたアナニアというクリスチャンが、彼の上に手を置いて語りかけると、彼の両目からうろこのようものが落ち、再び見えるようになり、洗礼を受けてクリスチャンになりました。両目からうろこのようなものが落ちたとき、彼の心から偏見や高慢(プライド)が取り除かれ、次第に物事をイエス様の目で見て判断することができるようになったのでしょう。

 それまでのパウロは、「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうと」(13節)しており、「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとして」(14節)いました。イエス様から最も遠く離れた人、反キリスト、反福音の人だったのです。この人が神の憐れみによって救われ、最大の伝道者になるとは、驚嘆すべき奇跡です。「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか」(ローマの信徒への手紙11章33節)と神を賛美し、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るように」(エフェソの信徒への手紙3章18~19節)導かれます。ウルトラ頑固だったパウロでさえ、高慢の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じて救われたのなら、私たちの周囲のかたくなに見える方々にも、十分希望があるから祈っていこう、と勇気を与えられます。この神の愛についてパウロは、「以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」(テモテへの手紙(一)1章13節)と述べました。さらに「わたしは、(~)罪人(つみびと)の中で最たる者です」(同15節)と告白しています。

 そしてパウロは、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子(キリスト)をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ1章15~16節)と語ります。私たちも、母親の胎内にあるときから、いえ、もっと前から神様に愛されているのです。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1章4節)とある通りです。

 2年半前に天に召された私の母親は、私が生まれる前に流産を経験しました。カトリックの洗礼を受けていたので、信頼するシスターに悲しみを話したようです。そのシスターが下さった手紙を、十四、五年前に初めて私に見せてくれました。そんな手紙があったのかと、私は驚きました。英文ですが、読んでみると牧会者の手紙の模範のような内容でした。「かわいい赤ちゃんは、彼女の天の視点からは、この地上にいるより、あなたに近くなったのです。もちろん、この喪失があなたにもたらした大きな悲しみを、私たちは知っています。でも、あなた自身を、私たちの祝された主、世界全体を贖う(救う)ために十字架の道を選ばれたイエス様と一体とするようにトライして下さい。主イエス様の苦しみと死を通してのみ、人類は救いのチャンスを与えられたのです。悲しみに耐えている人より、このように書く者の方が容易だと分かっています。でも、神様ご自身が、あなたに送った十字架を担う力を与えて下さいます。最初の宝を、あなたは神様にお返ししました。しかし神様はなお、子をもつ慰めを与えて下さいます。強くあって下さい。そして神様が、あなたに求めた犠牲によって、永遠の金(きん)を鋳造するすばらしい機会を与えられたことを理解して下さい。」

 私が会ったことのないこのシスターも祈って下さって、私と弟が生まれたと思います。自分が生まれる前に、このようなシスターとの交流があったことを、40才を過ぎて初めて知りました。独身で自分では子どもをもたないシスターが、他人のために、真心を込めて、とりなしの祈りを祈って下さる信仰にも心打たれます。パウロの母親も、子どもが生まれる前から祈っていたのでしょう。

 さて、パウロは書きます。「(わたしを)恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしはすぐ血肉(人間のこと)に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」(15~17節)。

 このアラビア行きについて、使徒言行録は記しませんが、使徒言行録9章22節と23節の間の出来事と見るのが自然ではないかと思います。パウロが退いたアラビアとは、ナバタイ王国ではないかと言われます。彼はそこで神様に深く祈り、今後の自分の生き方と使命について深く思い巡らしたのではないかと思います。パウロは「すぐに血肉に相談せず」、自分より「先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退い」たと書きます。人のアドヴァイスを受けるよりも、直接祈りによってイエス・キリストと深く交流し、自分の使命を明確にしたのでしょう。私たちにも、退いて祈る時は必要です。人生の転機において、聖書をよく読み、よく祈って、神からの導きをいただくことが必要です。

 パウロの強烈な自覚は、1節にある通り、自分が「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」こと、自分が「キリストの僕(しもべ)」(10節)であることです。彼は6章17節では「わたしは、イエスの焼き印を身に受けている」と述べます。私たちクリスチャンも洗礼の時に「イエス・キリストの焼き印」を「ジューッ!」と身に受けています。

 パウロは書きます。「それから三年後、ケファ(ペトロ)と知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しました」(18節)。イエス様の一番弟子のペトロと、まだ知り合いでなかったのですね。「キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした」(22節)。パウロは迫害者の筆頭でしたから、エルサレムのクリスチャンたちは最初は彼を信用せず、恐れました。しかし信用されていたバルナバのとりなしがあり(使徒言行録9章27節)、人々はパウロをイエス様の使徒と認めるようになりました。彼らは「『かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている』と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました」(23~24節)とパウロは書きます。エルサレムのクリスチャンたちは、まさに次のように讃美したかったでしょう。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」(ローマ11章33節)。最大の迫害者を、最大の伝道者に造り変えなさった神様の御業です! (続く)

2024-07-20 23:05:43(土)
「神に望みを置く人は、新たな力を得る」 2024年7月21日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第72回)
順序:招詞 ローマ8:39~39,頌栄85、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・351、イザヤ書40:27~31、祈祷、説教、祈祷、讃美歌149、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(イザヤ書40:27~31) ヤコブよ、なぜ言うのか/イスラエルよ、なぜ断言するのか/わたしの道は主に隠されている、と/わたしの裁きは神に忘れられた、と。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。


(説教) 本日は、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第72回)です。説教題は「神に望みを置く人は、新たな力を得る」です。聖書は、旧約聖書のイザヤ書40章27~31節です。

 この個所は比較的有名だと思います。イザヤ書は66章もある長い書物ですが、1章から39章までで一旦区切られ、40章から新しい内容がスタートすると言えます。40章の1~2節には、このように書かれています。「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。」旧約聖書の神の民は、イスラエル民族です。彼らは、神様に愛されている民です。神様はイスラエルの民を愛し、は神様を愛して、モーセの十戒という十の戒めを守る契約に入っていました。しかしイスラエルの民が十戒を守らないようになり、特に一番大切な第一の戒めを守らないようになってゆきました。第一の戒めはこうです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」この戒めを守らず、他の神々と呼ばれるもの(偽物の神)を拝み礼拝する人々が増えてゆきました。これを偶像礼拝と呼びます。真の神様への裏切りです。

 これは真の神様への裏切りでしたので、神様も大変悲しまれ、イスラエルの民に考え直して真の神様に立ち帰るように、真の神様のみを愛して礼拝するように、くり返し訴えたのですが、多くの人々が聞き入れなかったので、神様がとうとう断を下され、イスラエルの首都エルサレムはバビロン帝国の攻撃を受けて滅び、神殿も破壊され、多くのイスラエル人が捕囚という形でバビロンに連行されたのです。それは神様からの裁きでした。これをバビロン捕囚と呼びます。バビロン捕囚のことは高校の世界史の教科書にも出ていた記憶があります。バビロン捕囚は、ほぼ半世紀続きました。そしてイスラエルの民は故郷エルサレムに帰還することが許されたのです。神様の怒りと裁きの時が終わり、イスラエルの民に神様の愛と赦しと慰めが注がれる時が来ました。「慰めよ、わたしの民(イスラエル)を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。」罪のすべてに倍する報いとは、罪のすべてに倍する神様の厳しい裁きを受けたの意味であるようです。

 そして17節には、「主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる」とあり、どんな巨大な帝国も、偉大な神の前には無に等しいことが示されます。26節には、この天地万物、宇宙とその中のすべてを創造なさった神様の偉大さが語られます。「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それえらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。」

 その神様が、バビロン捕囚で弱ったイスラエルの民を慰め、励ますのが本日のイザヤ書40章27節以下です。今は新約聖書の時代であり、イエス・キリストを救い主と信じるクリスチャンも神の民ですから、神様はこの御言葉によって私たちをも慰め、励まして下さいます。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。私の道は主に隠されている、と。私の裁きは神に忘れられた。」神様は私をお忘れになったに違いない、もう神様に助けてはいただけない。そう意気消沈している民に、預言者(神様の御言葉を預かって語る人)が、力強く語ります。「あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主はとこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」読むだけで、励ましを受ける聖句です。

 この御言葉に関連して、一人のスコットランド人宣教師の話をしようと思います。エリック・リデル(1902~1945)という宣教師です。1981年に公開された映画『炎のランナー』の主人公の一人です。実話に基づいた映画です。エリックは宣教師の息子として中国に生まれました。イギリスのケンブリッジ大学に入りますが、いずれは宣教師として中国に戻るつもりです。神様から走る才能を与えられ、走ることにも喜びを感じています。そんな兄エリックに妹ジェニーは不満を抱きます。走ることはやめにして、伝道・宣教一本に生きてほしいという、兄への期待です。しかし兄は、「僕の使命は伝道だが、神様は僕に走る才能をも与えて下さった。僕は、神様の栄光のために走る」と言います。エリックの才能は本物で、イギリス代表として1924年のパリオリンピックに出場することになります。今年もパリでオリンピックがあるのですね。エリック・リデルが出場したのは、今からちょうど100年前のパリオリンピックです。

 もう一人ハロルドというユダヤ人のケンブリッジ大学性も共にパリオリンピックに出場します。二人が出場する陸上100m走予選が、日曜日に行われることに決まりました。エリックは驚きました。クリスチャンであり宣教師であるエリックにとって、日曜日は礼拝の日です。モーセの十戒の第四の戒めです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8~11節)。旧約聖書の安息日は土曜日ですが、クリスチャンにとってはイエス様が復活された日曜日が安息日に等しい礼拝の日です。エリックにとって、神の絶対の命令です。彼は金メダルを取ることができる100m走を棄権すると言い出します。驚いたイギリス選手団のトップやイギリスの王子が、「ここは信仰よりも愛国心を示す時だ」と説得しても応じません。すると仲間の選手が助け舟を出し、(他の種目は既に開始されていた)「自分は既に別の種目で銀メダルを得たので、自分が出るはずの400m走の出場権をエリックに譲るというのです。それでよいことに収まりました(今では、この方法は無理かもしれません)。

 ユダヤ人のハロルドにとっては、安息日は土曜日なので、日曜日の100m走出場は、何の問題もありません。彼はユダヤ人への差別を打ち破るために、100mでよい成績を収めたいと意気込んでいました。ハロルドにはハロルドの闘いがありました。そして見事金メダルを獲得し、ユダヤ人への偏見と差別に一矢報いました。エリックは、100m走予選の時間帯に、教会の礼拝で聖書の言葉を朗読します。「主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる」(イザヤ書40章17節)。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(同31節)。大国も、神の前には無に等しい。エリックにとって神様への礼拝の方が、オリンピック金メダルよりも、はるかに重要でした。そしてエリックは、別の日の400m走に出ます。専門外ですから、普通は勝てるはずがありません。レース前に(私の記憶が正しければ)ライバルのアメリカ選手が、エリックに紙を渡します。旧約聖書のサムエル記上2章30節の御言葉が書かれていました。「私(神様)を重んずる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んずる。」渡した選手は、エリックが礼拝を優先して100mの金メダルをあきらめたことを知ってエリックを敬意を払い、エリックを励ましたのでしょう。

 そしてエリックは何と400m走で金メダルを獲得します。映画では確かスローモーションで描かれ、エリックが不思議な力を得て、次第にトップに立ってゆく様子を描いていたと思います。まさに「主に望みを置く人は、新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」という様子なのです。「私(神様)を重んずる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んずる」の御言葉の通り、100m走金メダルよりも日曜礼拝を重んじたエリック・リデルを神様が祝福して下さり、400m走で予想外の金メダルを与えられたのでした。私はキリスト教の名がつく高校に通っていた時に、高校でこの映画を見たのですが、当時はこの映画の意味が、全く分かりませんでした。その後随分たって、東久留米教会に着任させていただいて暫く後に、教会員の方からこの『炎のランナー』のDVDをお借りして見て、ようやくこの映画の深い信仰が分かったのです。

 エリックの人生には続きがあります。パリオリンピックのときは21才か22才と思われます。そして彼は23才で中国の天津に行き、中国の子どもたちにキリスト教の人格教育を行います。そして中国は日本との戦争に入ってしまいます。エリックは結婚して二人の娘を授かりますが、1941年12月8日に太平洋戦争が勃発、エリックは妻子を妻の故郷カナダに帰します。「すぐまた会える」と言って別れますが、エリックは他の英米人と共に日本軍が造った収容所に送られます。劣悪な環境の中で、エリックは共に囚われた人々を励まし、収容所内の子どもたちに勉強を教え、寒い中、一緒になって走って暖まり、収容所内の人々の心の支えになります。エリックの人生の後半のことは、中国で作られた映画『最後のランナー』で描かれており、私はDVDを買って見ました。映画の本来の題は『鷲の翼』ですから、イザヤ書40章31節から取っていることは明らかです。

 エリックがオリンピック金メダリストと知った日本軍の将校が、彼に走るレースを申し出ます。将校はエリックによい食事を渡して、彼の体力をよくしてからレースしようと考えていました。ところがエリックが、そのよい食事を収容所内の仲間の大人や子どもたちと分け合っていたので、彼の体力は特に上がらず、レースは将校が勝ちます。エリックがよい食事を他の人々と分け合っていたと知って将校は怒り、エリックと一人の青年を罰として穴倉(営倉)に入れます。収容所にたまりかねた青年は穴倉から出た後に、非常手段で脱出します。糞尿をためた桶に入り込んで、それが外に運び出される時に、桶に隠れて脱出することに成功します。見張りの兵隊も糞尿桶には近寄りたがらず、チェックが甘いことを衝いたのです。エリックは収容所内にとどまり、栄養失調になります。病気に苦しむ仲間もいます。仲間のために薬を渡してもらうために、エリックから日本人将校に再度、走るレースを申し入れます。エリックが勝ったら、仲間に薬を与えてもらう約束です。頭痛もひどく、走れるような体調でないのに、仲間たちの祈りと讃美歌の中、寒い中、最後の力を振り絞るように走ると、神様の助けを得て勝つのです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」そして仲間に薬が与えられた。自分のためではなく、その仲間のために必死に走ったのですね。

 エリックに収容所から出てよい許可が出ました。ところが彼はその権利を他人に譲ってしまいます。収容所の中に若い女性がいました。同じく収容所にいた夫が亡くなったばかりでした。妊娠していました。エリックはその女性に、収容所を出る権利を譲り渡し、自分は収容所にとどまります。カナダの妻に手紙を書き、「君が僕の立場でも、そうしただろう」と書き送りました。エリックは、敵である日本の軍人たちに、神様の恵みを祈りました。敵をも愛したのです。イエス様がマタイ福音書5章(山上の説教)で語られた通りを行いました。「あなた方も聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている(イスラエルの社会で)。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」まさにイエス・キリストに従う生涯を生ききりました。エリックは1945年3月に、収容所内で天に召されます。日本軍の収容所で亡くなったので、日本人としては辛く感じますが、映画は日本人への配慮もしています。上官の命令に抵抗して捕虜たちに味方する日本兵をも登場させています。映画は実話を元に作られています。映画が作られた2016年の時点で、エリック・リデルの二人の娘さんは健在であるそうです。宣教師として生き、神様から与えられた走る才能をも、神様と隣人のために用いた、イエス・キリストに従った43年間の尊い人生です。

 私の神学校の同級生増田将平牧師が、先週火曜日の早朝に天に召されました。2年間闘病していたのです。一昨日、千代田区の富士見町教会で葬儀が執り行われ、私も参列して参りました。大変多くの参列者で、驚きました。確かに多くの方々に愛されていました。私も闘病を聞いていたので、癒されるように毎日お祈りしておりました。多くの方々の祈りが聞かれて、増田牧師はもう退院できないと思われたところから、何回か退院し、医師を驚かせたそうです。その意味で祈りは聞かれてきたと思うのですが、先週月曜日に教会の牧師館から救急搬送され、家族が歌う讃美歌を聞きながら、静かに息を引き取って天国に凱旋しました。同級生ですが私より5才も若いのです。皆が問うていました。「神様なぜですか? 早すぎます。」 この22年間は東京の青山教会の牧師として仕え、青年伝道に大いに用いられました。増田牧師は、伝道者の生き方と死に方を身をもって示して下さいました。牧師の家庭に生まれ、ご両親の願いは、「平和の大将になってほしい」だったので、「将平」を名付けられました。その通りの平和の人でしたね。高校卒業と同時にまっすぐに神学校に入りました。

 この教会にも5、6年前に来て下さいました。青山教会も会堂建築を考える必要があるので、この会堂を見せてほしいと言われ、青山教会の会堂建築委員の方々と訪問して下さいました。最近の説教で詩編27編を引用したそうです。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」病の中でも、固い意志を貫いたそうです。緩和ケア病棟を勧められても、断ったそうです。最後まで希望をもって癒されるための治療を望み、またできるだけ長く教会の礼拝で、主を賛美したかったようです。私は春にお見舞いのはがきを出したところ、メールで返事が来て、「数日後のペンテコステ礼拝では、座って説教をし、座って聖餐式の司式をします」と書いてあり、それが私との最後のコミュニケーションになりました。最後の礼拝説教は6月30日(日)でした。しかし本人は7月21日(日)つまり今日の礼拝説教も行うつもりで、題まで決めて、辛い体調の中、その準備にも入っていたそうです。その題は「教会につながる」だったと記憶しています。「教会につながることが大切!」と語るつもりだったのでしょう。増田牧師は神様と神様の教会と教会員を愛していました。本当に最後まで前を向いていた。暫く前に息子さんに、「死ぬことは怖くないの」と聞かれて、「怖くないよ」と答えていたそうです。そのような彼の全く素直な信仰は、神様からのプレゼントだったと思います。「体は弱っているが、心は燃えています!」とも語っていたそうです。

 今日はあちらこちらの教会で、この葬儀のことが語られているのではないかと思います。1つの聖書の御言葉を思い出しました。ローマの信徒への手紙14章7~8節です。「私たちの中には、誰一人自分のために生きる人はなく、誰一人自分のために死ぬ人もいません。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」エリック・リデル宣教師も、増田牧師も、まさにこの御言葉の通りに生きたと感じます。私たちもまたこの方々の信仰に心を打たれつつ、主イエス・キリストに従って参りましょう。アーメン。

2024-07-14 1:30:28()
「この子の名はヨハネ」 2024年7月14日(日)礼拝(聖霊降臨節第9主日)
順序:招詞 ローマ8:39~39,頌栄16(1節)、主の祈り,交読詩編131、使徒信条、讃美歌21・287、マラキ書3:23~24、ルカによる福音書1:57~80、祈祷、説教、祈祷、讃美歌474、献金、頌栄27、祝祷。 

(マラキ書3:23~24) 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。

(ルカによる福音書1:57~80) さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第9主日の礼拝です。説教題は「この子の名はヨハネ」です。新約聖書は、ルカによる福音書1章57~80節です。

 高齢妊娠のエリサベトの元に来ていたマリアが、約3ヶ月滞在して、ナザレに帰りました。そして時が満ちて、エリサベトは男の子を産みました。天使ガブリエルが夫のザカリアに告げたとおりになりました。近所の女性たちも出産を助けに来たのではないかと思います。58節「近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。」近所は、祝福に包まれたことでしょう。59節「八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。」割礼は、神様との重要な契約です。イエス様も割礼を受けたのです。しかしイエス様の十字架の死と復活による新しい契約に生きる私たちには、割礼は必要ありません。私たちには割礼ではなく、洗礼が与えられています。しかし旧約の時代には、割礼が極めて重要でした。出エジプト記17章で、神様がこうおっしゃっています。「いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。それによって、私の契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。私の契約を破ったからである。」

 これほど重要だった割礼なので、当然ヨハネも受けました。割礼の日が名付けの日でもあったようで、周囲の人々は彼らの常識に従って、父親ザカリアと同じ名前にしようとしました。ところが母エリサベトが反対して、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言います。夫ザカリアが天使から「その子をヨハネと名付けなさい」と言われていたからです。ヨハネという名の意味は「主は恵み深い」であるそうです。ザカリアは口が利けなくなっていたので、どのようにしてそれをエリサベトに伝えたのかと疑問を持つ人もいたそうですが、おそらく筆談で伝えたのでしょう。ヨハネと名付けると聞いた人々は驚いて、「あなたの親類には、そういう名のついた人は誰もいない」と言い、父親のザカリアに、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねました。ザカリアは耳も聞こえなかったのでしょうか。父親は字を書く板を出させて、『この子の名はヨハネ』と書いたので、人々は皆驚きました。ザカリアもまた、当時の常識と異なり、親類にある名前と別の名前をつけると宣言したので、周囲の人々は意外に感じ、驚きました。

 しかし神様は、ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書いたことを喜ばれました。「その子をヨハネと名付けなさい」と天使を通して語られた神の御心に、ザカリアが従ったからです。それで神様は直ちに、ザカリアの口を利けるようにして下さいました。神様はきっと、ザカリアに聖霊を豊かに注いで下さったのだと思います。64節「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」ザカリアは口が利けなかった10ヶ月間、自分の不信仰の罪を悔い改めたと思います。最初天使に、子どもの誕生を予告されたとき、「私は老人ですし、妻も年をとっています」と言って強く疑った不信仰の罪を、深く悔い改めたはずです。今は神の御心に服従して「その子の名はヨハネ」と書いたために、不信仰の罪を赦され、聖霊に満たされて、神への賛美を語り始めました。私たちも、ザカリアのように聖霊に満たされて、神への賛美を歌いたいものです。それにはまず、私たちが沈黙して聖書の御言葉を読み、神様の語り掛けを集中して聴き取るように努める必要があります。そうして初めて賛美する言葉、語るべき言葉も上から与えられるに違いありません。

 旧約聖書のハバクク書2章20節が思い起こされます。「主は、その聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。」詩編46編10節も思い出されます。「力を捨てよ、知れ、私は神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」文語訳ではこうです。「汝ら静まりて、我の神たるを知れ。」ザカリアも10ヶ月間も沈黙の時を与えられ、聖書をよく読み、よく祈って、神様からのメッセージを心に豊かに蓄えたと思うのです。

 少し前の礼拝で、韓国人のテノール歌手の方のことをお話しましたが、日本人のゴスペルシンガー・森祐理さんという方の証しも、読んだことがあります(『クリスチャン新聞』による)。細かい点は覚えていないのですが、クリスチャンになられ、歌手を目指して努力しておられたとき(あるいは既に歌手になっておられたかもしれませんが)、ある時、喉を痛めて声が出なくなり、歌えなくなったというのです。芸大を卒業して、NHKの歌のお姉さんになり、ミュージカルの主役の座を射止めたときに、喉を痛めて歌えなくなりました。その時「私の声を返して下さい」と神様に訴えて、はっと気づいたのは「私の声じゃない。」喉も美しい声も、神様からのプレゼント、神様からの預かりもの。それを自分の幸せのためにばかり使おうとしていた罪に気づいて、悔い改めに導かれました。

 その頃、スイスに行く機会があり、そこで歌うように依頼されました。その時、神様の声が聞こえたそうです。「私が歌う。」アメイジンググレイスを歌いながら、「私を道具として、神様が歌っておられる」と感じました。神様が主役であられ、自分はその道具だ。「私を讃美の道具にならせて下さい」との祈りに導かれ、教会などの福音コンサートで讃美する福音歌手になられました。その後、1995年の阪神淡路大震災で、弟さんを亡くす悲しい経験をされました。その経験を経て、災害が起こるたびに被災地に足を運び、讃美歌等の歌を歌って、慰めと希望を届ける奉仕を続けておられます。神様が歌われるとは、森さんを含むすべてのクリスチャンの中に生きておられるイエス・キリストが歌われる、あるいは聖霊なる神様が歌われる、森さんの声を通して、ということでしょう。ザカリアも、口が利けなかったのですが、彼の罪が赦されると口が開き、舌はほどけ、神を賛美し始めたのです。ザカリアが讃美したのですが、ザカリアが聖霊に満たされ、ザカリアの口を通して、聖霊なる神様ご自身が讃美なさったとも言えると思います。ローマの信徒への手紙8章26節のパウロの言葉が思い出されます。「同様に、霊(聖霊)も弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊(聖霊)自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるからです。」私たちは、聖霊に執り成され、聖霊に導かれて祈ります。ザカリアも、聖霊に満たされ、聖霊に執り成されて、父なる神様を讃美したに違いありません。森祐理さんも祈りながら、聖霊に助けられて讃美しておられるに違いありません。 辻先生。

 ヨハネ誕生のいきさつは、地域の山里の評判になりました。常識のザカリアという名前でなくヨハネと命名されたこと、「その名はヨハネ」と書いたとたんに、父親のザカリアが口が利けるように戻り、聖なる神を賛美したこと。66節「聞いた人々は皆これを心に留め、『いったい。この子はどんな人になるのだろうか』と言った。この子には主の力が及んでいたのである。」ふつうの子どもではない。神様のために働く聖なる人ではないか。人々はこのような強い予感を抱いたのです。

 次の小見出しは、「ザカリアの預言」です。67節「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。『ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。』」ザカリアは元来祭司ですが、ある人は、ザカリアはここでは預言者になっていると言ったそうです(預言とは、真の神様の御言葉を預かって語ること)。「ほめたたえよ」がラテン語の聖書でベネディクトゥスという言葉なので、このザカリアの讃美は教会の歴史で、ベネディクトゥスと呼ばれてきました。「ほめたたえよ、イスラエルの亜神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」「訪れた」という言葉を、口語訳聖書等は「顧みた」と訳しています。同じ言葉をこのルカによる福音書は7章で「心にかけた」と訳しています。いずれにしても、神様が小さき民イスラエルを見捨てることなく、愛して救って下さることを意味しています。神様は私たち一人一人皆を見捨てることなく、顧みて心にかけていて下さいます。私には、以前ホームレスで、今は行政が提供する宿舎に住んでいる知人がいるのですが、その方が最近おっしゃったことは、役所によって携帯電話を持たされていて、毎日安否確認の電話が役所からかかってくるというのです。その方の住まいはおそらく豊島区ですが、市役所の職員も偉いなと思いました。何人にも電話しているのかもしれません。神様も同じ思いで、一人一人全員を心にかけていて下さいます。

 69節以下「我らのために救いの角(力)を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。」救いの角とは、救い主イエス・キリストを指します。その救い主が、預言者たちが預言したとおりに、ダビデ王の子孫から生まれる。マリアとヨセフ(ダビデの子孫)夫婦の長男となる。神様がついに約束を果たして下さる。71節「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていて下さる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える。」

 ダビデに続いて、もっと前のイスラエルの先祖アブラハムの名が登場します。神様がアブラハムに立てられた誓い、聖なる契約とは、創世記12章等の御言葉と思います。「私はあなた(アブラハム)を大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」「あなたの子孫にこの土地を与える。」イエス様の使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙3章によれば、この子孫とはイエス・キリストです。「あなたの子孫にこの土地を与える。」この場合の土地は、祝福のシンボルです。キリストに与えられている祝福は天国であり、永遠の命です。「地上の氏族(異邦人を含む)はすべて、あなた(アブラハム)によって祝福に入る。」そのアブラハムの真の子孫としてイエス・キリストが誕生し、イエス・キリストが私たち罪人(つみびと)に罪の赦しと復活の命をもたらし、キリストを信じる全てのイスラエル人と異邦人に、永遠の命を与えて下さいます。こうして。アブラハムに与えられた祝福が、その子孫イエス様を通して、イエス様を信じる世界のすべての民族に広がる。これが新約聖書のメッセージ、福音です。

 「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯清く正しく。」
旧約聖書のイスラエルの民は、様々な外敵に苦しめられ、神様によって外敵から救われて来ました。エジプト、バビロン帝国等に苦しめられ、最終的には神の助けによって、エジプトやバビロンから解放されてきました。しかし、神様の民(それはイスラエルと私たちキリスト者)に真の敵は、人間ではなく悪魔です。イエス様は悪魔と戦って勝利されました。私たちはイエス様の力によって悪魔から救われました。そして聖霊に満たされて、恐れなく主に仕える、真の神様を礼拝致します。

 76節以下「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」「主に先立って行き、その道を整え。」ここは本日の旧約聖書・マラキ書3章と関わるでしょう。「見よ、私(神)は、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」ヨハネは、救い主イエス様が活動を始めるに先立って働く者、旧約の偉大な預言者エリヤの再来なのですね。そして「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」これは、世の真の光イエス・キリストの誕生を預言する御言葉と思います。

 今の世界でも、やはりイエス・キリストこそが、あけぼのの光です。今も、「暗闇と死の陰に座している方々」は、世界に多くおられると思います。地震の被災地、戦場に生きる方々。戦争の場合は、侵略する側が悪いことは確かです。世界が平和になるためには、皆がイエス・キリストの精神で生きることが必要だと思うのです。「敵を愛しなさい。」「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる。」「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(これはパウロの言葉だが、イエス様の精神と思う)。世界中の人々が皆、クリスチャンになり、イエス様の御言葉を実行するなら、あらゆる戦争は終わり、世界は平和になります。と考えると、十字架と復活のイエス・キリストを宣べ伝える伝道こそ、世界平和への道でもあると言えます。このイエス・キリストをご一緒に宣べ伝えて参りたいのです。アーメン。


2024-07-09 9:30:15(火)
伝道メッセージ(7月分)石田真一郎(市内の保育園の『おたより』に掲載した文章)
 「(神は)国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(旧約聖書・イザヤ書2章4節)。

 『地雷ではなく花をください』(自由国民社)という絵本があります。私は続編を買いました。主人公のサニー(ワンちゃん)が、今回はカンボジアに行きます。「1970年からの長い紛争で、いたるところに地雷が埋められています。大きな樹、背の高い草。道の両側に白い杭が続きます。サニーちゃん、ここから先は地雷原、道の真ん中を歩いてね。おじさんたちがていねいに、地雷をさがします。作業はますます慎重に。強い陽ざしと湿度と緊張感。地雷です。『離れてくださーい。』おおきな爆発音。よかった、これで一人の人が助かった。おじさんたちは、汗をぬぐい、また作業です。大地を取り戻すため。故郷を取り戻すため。」

 ある資料によると、2021年の世界の地雷・不発弾等の被害者数は5544名、除去された対人地雷は11万7000個以上です。同年に最も多くの面積を除去したのはカンボジアとクロアチアで、合計78㎢で7500個以上を除去したそうです。危険を伴う作業をなさる方々に、頭が下がります。

 三鷹市の国際キリスト教大学(ICU)には、約600mの非常に見事な100本以上の桜並木があります。これはアメリカの諸教会が、広島・長崎への原爆投下による多数の一般市民の悲劇的死に心を痛め悔恨し、日本復興を祈ってなされた献金に加えて贈られた桜です。私は隣接する高校や大学を卒業したので、この桜並木をよく通りましたが、最近この経緯を知り感動を覚えました。私の祖父の兄も広島の原爆で亡くなったからです。ICUの本館には、上記の聖書の言葉が記されています。

 世界の戦争はすぐやめねばなりません。今の日本では憲法九条(平和憲法)を無視する政策(沖縄周辺へのミサイル多数配備等、防衛費大幅増加)が進められ、ある人は「憲法九条は死んだ」と言い、タモリさんは「今は新しい戦前」と言いました。とんでもないことです。私は昨年秋、「首相官邸前でゴスペル(讃美歌)を歌う会」に参加しました。平和を愛する他のクリスチャンたちと日本の軍拡に反対し、アジアと世界の平和を祈って歌いまし
た。「もろびとこぞりて」(クリスマスの讃美歌、平和の主イエス様をたたえる)、「We Shall Overcome」(キング牧師たちが黒人差別反対のために歌った讃美歌)です。道行く人々が不思議そうに見ていました。岸田首相に届くことを祈ります。私は東久留米の子どもたちが皆、平和と愛と正義を愛する人になることを祈るのです。アーメン(「真実に」)。