日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2019-04-11 12:23:47(木)
「教会はキリストの体」 2019年3月31日(日) 受難節(レント)第4主日礼拝 説教要旨
聖書:箴言12章28節、ローマの信徒への手紙12章3~8節

 この手紙を書いたイエス様の使徒パウロは記します。「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」パウロはこの少し前にも書いています。「思い上がってはなりません。むしろ、恐れなさい。」「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように。」なぜ自分を過大に評価してはいけないのでしょうか? それは各人がキリストの体である教会の一部分にすぎないからです。誰も一人で教会ではありません。信仰には一人で進む面もありますが、しかし教会は共同体です。信仰の隣人がいないと、キリストの体なる教会になりません。5節でパウロは、「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」

 このことは、コリントの信徒への手紙(一)12章に、より詳しく書かれています。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。~一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」すばらしい御言葉です。

 ローマ書に戻り、6~7節。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。」私は去る3月21日(木・春分の日)に教会の4名の方とご一緒に日本キリスト教団西東京教区の全体研修会に参加し、棚村惠子先生(東京女子大学特任教授=当時)の講演「悲哀から奉仕へ―人間らしく生きる」を伺いました。レジュメには講演がめざすところについて、「神との信仰的交わりから生まれる生活がどう奉仕を生みだすのか、東京女子大学初代学長の新渡戸稲造の思想から『悲哀の使命』としての奉仕を考察する」とあります。新渡戸稲造は「太平洋の掛け橋になる」志を抱いた人で、国際連盟で事務次長を務め、著作『武士道』でも有名ですが、私生活では様々な悲哀を経験したようです。新渡戸は「キリストは聖書に悲しみの人」と書かれていると書いているそうです(「雑感」58)。確かにイエス・キリストは十字架の前のゲツセマネの祈りで「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言っておられます。イザヤ書53章3節には、「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた」とあります。

 棚村先生は「悲哀は己を捨て人を救う本当の勇気を生む」、「悲哀~は事業を企て、事業の動機を清める」と書いておられます。新渡戸は、子どもを失う悲しみを経験し、それが動機の1つとなったのでしょうか、遠友夜学校という経済に困難をもつ若者ための学校を設立しているそうです。東京女子大学初代常務理事の宣教師A.K.ライシャワーという方は、娘の耳が聞こえない悲哀を経験され、日本聾話学校の設立に夫婦で奔走されたそうです。ご自分が悲哀を味わわれたことで、他の人の悲しみが分かるようになり、その方たちへの奉仕へと、ご自分の悲しみを昇華させたと言えるでしょうか。本当に尊敬すべきことと、私は感嘆致します。私が存じ上げる牧師ご夫妻は、お子さんのお一人を心臓病で亡くされた悲しみの中で、心臓病の子どもを守る父母の会の共同保育所「パンダ園」を設立されました。深く尊敬すべきことと思っています。

 棚村先生は、ローマの信徒への手紙12章1節「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」を引用され、新渡戸の文章を紹介されます。「希くは吾等は自己の悲哀の経験を聖なる祭物(そなへもの)として神に献げ、其の聖旨を承り、以て天を怨まず人を尤(とが)めぬ生活を営むことを期したい」(「雑感」65-66)。悲哀をも、聖なる生けるいけにえとして神様に献げるのですね。深い信仰と感じ入ります。私の印象では、自分の悲しみや苦しみを神様に献げる信仰は、カトリックの方々が語られることが多いと感じます。悲しみや苦しみには、信仰と人格を清め、純化する働きがあるのではないでしょうか。この信仰の深みが今の日本のプロテスタントにやや足りないと言っては、お叱りを受けるでしょうか。お赦し下さい。悲しみ、苦しみを神様に献げる。私たちもその深い信仰に生かされたいと願うのです。受難節(レント)にふさわしい信仰と思うのです。アーメン(「真実に」)。

2019-03-29 1:06:05(金)
「神の目にあなたは大切」 2019年3月24日(日) 「はじめて聞く人にわかる聖書の話」礼拝 説教要旨
聖書:イザヤ書43章1~5節

 イザヤ書43章1~5節は、とても慰め深い御言葉です。「ヤコブよ、あなたを創造された主(神)は、イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの、わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」

 特に4節「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」は、伝道パンフレットなどによく書かれます。私の個人的な思い出もあります。私が20代の頃、あることに不合格になったことがあります。その頃、分からないながらもイザヤ書を毎日1章ずつ読んでいました。落胆したその日が、イザヤ書43章でした。読んで非常に慰められました。状況は変わりませんが、神の愛を身近に感じることができたのです。日々聖書を読み祈ることで、神様と共に歩むことができます。

 2節の、「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」は、私たちが試練を通る時も、神様が私たちと共におられるということでしょう。私どもは皆、1つ1つのピンチを神様に助けられて乗り越えながら、今日この日まで歩ませていただいたものと思います。この東久留米教会には以前、シベリア抑留から生還された男性がお二方おられました。そのお一人のNさんは、「神が『あなたにはまだ使命がある』とお考えだったので、わたしは生きて帰ることができたと思っている」とおっしゃっていました。東京大空襲を生き延びられた方も、東久留米教会におられます。本当に大変な経験であられたことと思います。

 「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。」出エジプト記を読むと、エジプトを脱出した神の民イスラエル(壮年男子だけで約60万人、総勢ではおそらく200万人以上でしょう)は、目の前に葦の海、背後には攻撃してくる最強のファラオ(エジプト王)の軍隊がいるという絶体絶命の大ピンチに追い詰められました。人々はパニックになりかけましたが、神の偉大な力が発揮され、葦の海が割れ、そこを通って正面から進むことができたのです。ファラオの軍隊がそこを進んだときには、水が流れ返り、ファラオ軍は死にました。私たちはこれほどの大奇跡を経験することは滅多にないでしょうが、日々小さな奇跡を経験し、神に助けられて生きています。その1つ1つに気づいて感謝することが大切と思います。私たちの心臓が(自分で動かしているわけではないのに!)今動いていることが、神の奇跡です。

 韓国の大統領だった金大中(キム・デジュン)さんを覚えておられる方は多いと思います。クリスチャンです。2000年にノーベル平和賞を受け、2009年に天国に行かれました。金さんは、韓国の民主化のために努力されたので、当時の韓国政府ににらまれました。金さんが来日していた1973年8月8日、金さんが東京のホテルから拉致(らち)される事件が起きました。車で海岸に運ばれ、モーターボートに乗せられ、大きな船に移され、両手首に非常に重いかたまりをつけられ、もうすぐ海に投げ込まれて殺される状況でした。

 金さんは自伝に書いています(金大中自伝Ⅰ『死刑囚から大統領へ』岩波書店、2011年、239~243ページ)。「まさにその時に、イエスが出現された。~  あぁ、イエス様! 聖堂で見た姿そのものであり、表情もそのままだった。服装も同じだった。私はイエスの長い服のすそをつかんだ。『お助け下さい。私にはまだ~国民のためにしなければならないことがあります。お救い下さい。』 ~船室にいた男たちが『飛行機だ』と叫び、甲板に飛び出して行った。爆音のようなものが聞こえ、船は全速力で走った。」

 結果的に拉致(らち)から5日後に、韓国で解放されました。金さんは家族と秘書に、「神が生きておられるのを体験した。主(しゅ。神)の恵みで助かった。みんないっしょにお祈りをしよう」と言ったのです。私は約30年前、来日した金大中さんが日本のテレビに出演して、この通りのことを堂々と話したのを見て、驚いたことをはっきり覚えています。神様、そして神の子イエス・キリストは、本当に今も生きて働いておられます。金さんは、苦難の多い人生でしたが、韓国の大統領になり、韓国と北朝鮮の和解のためにも努力し、今は天国におられます。「大河の中を通っても、あなたは押し流されない。」金さんは大海に投げ込まれる絶体絶命の危機を、この神様によって救われました。本当によかったと思います。

 今から8年前の3月11日に、東日本大震災が起きました。東北各地で大きな被害が出ました。しかし岩手県の釜石小学校では、ほとんどの児童が助かったそうです。その第一の理由は、日ごろから津波を想定した真剣な避難訓練を行っていたことだと思います。岩手県出身の作家・井上ひさしさん(カトリック信者)作詞の釜石小学校校歌も力を発揮したのではないかと言われます。井上さんの祈りが込められた歌詞だと思うのです。以下は引用です。

(第一節)「いきいき生きる いきいき生きる/ ひとりで立って まっすぐ生きる/ 困ったときは 目をあげて/ 星をめあてに まっすぐ生きる/ 息あるうちは いきいき生きる」
(第二節)略
(第三節)「しっかりつかむ しっかりつかむ/ まことの知恵を しっかりつかむ/ 困ったときは 手を出して/ ともだちの手を しっかりつかむ/ 手と手をつないでしっかり生きる」 児童たちは、日ごろから教えられていたことを「ひとりで立って」実行し、高齢の家族や小さな子と手をしっかりつないで、避難したようです。クリスチャンである井上ひさしさんの信仰が込められた歌詞を通しても神様が働かれ、子どもたちを励まし、「大河の中を通っても、あなたは押し流されない」結果になったのではないかと思うのです。もちろん、亡くなった多くの方々がおられます。そのご家族の方々に、神様の深い御慰めを、切にお祈り申し上げます。

 神様は、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え」と言って下さいます。イエス・キリストが私たち皆のすべての罪を身代わりに背負って、十字架で死んで下さいました。最も尊い神の子イエス様を十字架につけてまで私たち一人一人を救いたいと、父なる神様が思って下さる。私たち一人一人は、そのように価値ある一人一人なのです。だからこそ、決して思い上がらず、神の子イエス様を救い主と信じて、へりくだって父なる神様のもとに帰ってひれ伏そうではありませんか! ご一緒に今、ぜひそう致しましょう。アーメン(「真実に」)。

2019-03-20 14:02:37(水)
「狭い門から入りなさい」 2019年3月17日(日) 受難節(レント)第2主日礼拝説教 要旨
聖書:レビ記26章3~17節、マタイによる福音書7章13~20節

 聖書はいろいろな箇所で、神様に従う道を選び取って、真の祝福を得なさいと勧めています。「あなたたちがわたし(神)の掟に従って歩み、わたしの戒めを忠実に守るならば、わたしは時期に応じて雨を与える。それによって大地は作物をみのらせ、野の木は実をみのらせる」(レビ記26:3~4)。

 イエス様は、「狭い門から入りなさい」と私たちを招かれます。日本では「狭い門」の言葉は、入学試験などの倍率が高い時に使われることがほとんどですが、イエス様は、この言葉をそのような意味では用いておられません。「狭い門」とはイエス様に従って生きる道で、天国につながる道です。

 誰よりも狭い門から入り、最も狭い道・最も困難な道を歩み通して下さった方がイエス・キリストです。イエス様は、私たち全員の全ての罪を背負って、十字架で死んで下さったのです。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。~彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」(イザヤ書53:3~5)。

 イエス様は言われます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ福音書10:9)。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(同14:6)。本来、天国に入る資格を持つのは、全く罪なき方イエス様のみです。私たちは、この真の門、真の道イエス様につながることで、初めて天国に入れていただくことができる罪人(つみびと)です。「狭い門から入りなさい。」それはイエス様を救い主と信じ、この直前に書かれている黄金律「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」を少しずつでも実行する道と思います。イエス様の十字架の愛に応答して、黄金律を少しずつでも実行することが「狭い門から入る」生き方、永遠の命に至る生き方です。

 17世紀の終わり頃にジョン・バニヤンというイギリス人のプロテスタントの清教徒(ピューリタン)が書いた『天路歴程』という有名な本があります。主人公はクリスチャンという名の男です。伝道者という男が彼に言います。「主は言われる。『力を尽くして狭い門からはいれ。』それは私が君をさし向けた門なのだ。それは『命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者は少ない』からである」(池谷敏雄訳『天路歴程 正篇』新教出版社、1999年、62ページ)。主人公クリスチャンは、狭い門を通り、誘惑や試練、困難を1つ1つ乗り越えながら、遂に天国に入る物語です。古い本で読みにくい面もありますが、なかなか面白いストーリーです。聖句が随所にちりばめられています。著者のバニヤンは、イギリス国教会の説教者の資格を持たないで説教したことを問題にされ、12年間牢獄に入れられたそうです。不当な迫害を受けながらもイエス様に従い、「狭い門」を通って天国に入った人だと思うのです。

 進みます。イエス様は言われます。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。」私たちは偽預言者にだまされてはなりません。私たちが偽預言者を見破れず、だまされるとすれば、それは偽預言者が「耳ざわりのよい」メッセージを語るからではないでしょうか。真の預言者は私たちに耳の痛いことも語ります。でもそれを嫌って退けてはいけないのです。テモテへの手紙(二)4:3に、「だれも健全な教えを聞こうとしない時がきます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」自分がこうならないように気をつけましょう。私たちは偽預言者を偽預言者と見破らなければなりません。偽預言者について行く道は、「滅びに通じる門(道)」であり、「その道も広々として、そこから入る者が多い」道です。

 ある方が、「偽物の宗教の特徴」を3つ書いておられました。私の解釈も加えると、こうです。①性的ないかがわしさのある宗教 ②お金に悪どい宗教 ③偽物の奇跡を売り物にする宗教。真の神様による真の奇跡はありますが、世の中には偽物の奇跡もあります。それを宣伝する宗教は偽物です。オウム真理教の教祖の「空中浮揚」や、昔はやったスプーン曲げも嘘です。惑わされてはなりません。

 近代日本に与えられた神の預言者は内村鑑三だと思います。教育勅語に深々と頭を下げなかったこと(偶像礼拝の拒否)、日露戦争の時の非戦論で知られます。(以下は、重平友美著『内村鑑三』教会新報社、1982年による。)実は彼は日清戦争の時は、戦争に賛成したそうです。日本が、朝鮮の独立を守るために清国と戦う正義の戦争が日清戦争だと考え、イギリスの友人にもそのような手紙を書いたそうです。ところが日清戦争後に日本政府が行ったことは、台湾を植民地にすることなどでした。内村は深く後悔し、悔い改めたそうです。「自分は偽預言者になってしまった」と思ったのでしょう。「頭をかきむしり、髪の毛をひきぬいて、地獄の底まで落ちていく思いです」と友人に書き送ったそうです。同じ失敗を決して繰り返さないと固く決意した内村は、日露戦争の時はぶれることなく非戦論を主張しました。彼が働いていた万(よろず)朝報という新聞社が非戦論から主戦論に変わったので、彼は退社し、自分が発行する雑誌『聖書之研究』によって非戦論を主張しました。国賊、非国民と非難されたそうです。それでもぶれなかった彼は、まさに「狭い門」から入った真の預言者だったと思うのです。

 内村鑑三に愛国心がなかったと思ったら、間違いです。彼はむしろ真の愛国者でした。内村のモットーは「2つのJ」を愛することです。Jesus とJapan です。彼はイエス様と日本を深く愛したので、日本がイエス様に従うよい国になることを切望しました。日本がイエス様に従っていない時は、日本を深く愛するが故に日本を叱りつけ、罪の悔い改めに導き、イエス様に従う方向に導こうと努力したのだと思います。非国民と呼ばれた内村鑑三こそが、実は真の愛国者だったのです。

 今は、イエス様の十字架を深く思う受難節(レント)です。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(ペトロの手紙(一)2:21)。クリスチャンたちは昔から、「主(イエス様)のみあと(足跡)に従う」ことを喜んできました。これから歌う『讃美歌21』の411番にも、「兄弟姉妹よ、十字架を担い、主イエスに従い、み跡をたどれ」とあります。それは「狭い門から入る」歩みでしょう。でも必ず天国に至る真の喜びの道です。励まし合って、共にこの道を進みましょう。アーメン(「真実に」)。

2019-03-15 19:01:09(金)
「良いものを与える神」 受難節(レント)第1主日礼拝 説教要旨
聖書:列王記下20章1~11節、マタイ福音書7章7~12節

 本日のマタイ福音書は、「祈りの勧め」と言えます。イエス様が言われます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

 「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。」罪ある人間の父親でさえ、自分の子供を愛し、良い物を与える。「まして」天の父なる神様はなおさらだ、というのです。「まして」、「なおさら」という言葉が新約聖書にしばしば出てきます。「まして」と「なおさら」は、神様の深い愛を強調する重要な言葉だと思います。そしてルカ福音書11:13にはこうあります。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」神が与えて下さる最大の「良い物」は聖霊(神の清き霊、イエス様の霊)なのです。私たちがイエス様を自分の救い主と信じて自分の罪を悔い改め、洗礼を受けると聖霊を受けます。聖霊を内に宿している人は、確実に永遠の命を受けているのです。

 神様は、祈り求める人に良い物を与えて下さる。このことはヤコブの手紙にも書かれています。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」(1:5~6)。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」(1:17)。

 このように神は良い物を与えて下さる良い方です。「だから」とイエス様が言われます。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」神の愛に支えられて、あなた方も人に愛を与えなさい、ということです。この御言葉は、黄金律(ゴールデン・ルール)と呼ばれます。

 私も祈りについて、多くの方から教えられて来ました。神学生であった私たちを教会へ送り出して下さった神学校の学長・松永希久夫先生は「祈りはいつでも、どこでもできる。(しかしだからこそ)祈りの時と場所を確立せよ」と教えられました。東久留米教会員として天国に行かれたKさんは、祈りには「讃美、感謝、罪の悔い改め、願い、他の人のためのとりなし」があると証しされました。私の高校時代の友人のクリスチャンは私に、「祈りに対する神の答えには3つある。イエス、ノー、ウェイト(待て)だ」とアドヴァイスしてくれました。

 私たちは祈りによって苦難に耐える力を、神からいただきます。2010年にチリのコピアポ鉱山で事故が起こり、33名が地下700メートルに閉じ込められ、約70日後に全員救出される出来事がありました(左近豊『信仰生活の手引き 祈り』日本キリスト教団出版局、2016年、94~95ページによる)。あの時は世界中が祈りました。私も祈りました。最初の18日間は地上と連絡がとれなかったそうです。絶望しそうになる苦しみの中で、地下の人々は毎日12時と午後6時に集まって祈り、希望をもち続けたそうです。地上と連絡がとれるようになってから差し入れられたTシャツに詩編95編4節「深い地の底も御手の内にあり」と印字されていたそうです。救出された一人が、こう言ったそうです。「地下にいたのは33人ではなく、34人だった。神が我々と共にいたからだ。」全員救出のニュースを聞いた時は、私も晴れ晴れとした気持ちになり、同じく嬉しそうな表情の、教会のお隣りのご婦人と喜び合いました。33人は、共に祈って耐えたのです。

 先月、高俊明先生という台湾基督長老教会(PCT)の著名な牧師が89歳で天に召されました。台湾が民主化されていなかった時、民主化運動を行ったため、4年以上投獄されました。台湾の苦難の象徴的存在です。高俊明牧師に「サボテンと毛虫」という詩があります。

「わたしは求めた/ 美しい花束を
しかし 神さまは とげだらけのサボテンをくださった
わたしは求めた/ 愛らしい蝴蝶を
しかし 神さまは ゾッとするような毛虫をくださった
わたしは/ なげき 悲しみ 失望した
しかし 多くの日が過ぎ去ったあと/ わたしは目を見張った
サボテンが多くの花を開いて 美しく咲き乱れ
毛虫が愛らしい蝴蝶となって 春風に舞い舞うのを
すばらしい神さまの御計画 」

 「涙の祈り」を献げ続ける時期が続いたけれども、神様が次第に民主化の花を咲かせて下さったことを感謝する詩だと思うのです。私たちには確かに「涙の祈り」を献げることがあります。神様は私たちの「涙の祈り」をしっかりと受けとめていて下さると信じます。詩編56:9に次の印象深い御言葉があります。「あなた(神様)はわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に それが載っているではありませんか。あなたの皮袋にわたしの涙を蓄えてください。」東日本大震災から8年となりました。流された多くの涙を、イエス・キリストがしっかりと受けとめて下さっていると信じます。

 私たちは、感謝の祈りを献げることもあり、自分の苦しみを神様に全力でぶつけることもあります。祈りが聞き届けられることはもちろん大切です。しかし、神様に全力で訴えて祈ることができる、それ自体が幸いとも言えるのではないでしょうか。神様にいつも祈りながら、神様と共に人生を歩みたいのです。アーメン(「真実に」)。

2019-02-15 14:13:46(金)
「共に喜び、共に泣く」 伝道メッセージ(石田真一郎)
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(新約聖書・ローマの信徒への手紙12章15節。) 

 愛するとは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことでしょう。より難しいのは、「喜ぶ人と共に喜ぶ」ことと思います。イエス・キリストは、私たちと共に喜び、共に泣いて下さる方です。私たちもそのように生きるように、イエス様に招かれています。

 私は誘われて、池袋でホームレスの方たちにお弁当を配るクリスチャンのボランティアに参加したことがあります。ささやかに行われていました。毎週、お弁当を作る方には頭が下がります。このボランティアを始めたのはアメリカ人、シンガポール人の宣教師さんたちです。協力して配る人の多くは日本人です。韓国人、オーストラリア人、ブラジル人が加わります。私は思いました。アメリカもシンガポールも、韓国もオーストラリアも、太平洋戦争で日本の敵だった国々です。特に韓国は1910年から1945年まで日本の植民地でしたし、シンガポールも日本が占領しました。日本が多くの迷惑をかけたのです。74年前に敵だった国の人々が今、日本に来て池袋の日本人のホームレスの方たちに奉仕して下さっている。イエス・キリストの愛を行っておられる。小さな奇跡です。

 そのボランティアの日本人男性の一人は、2011年の津波で大切なご家族をお二方、失われたそうです。それなのに、他人のために奉仕なさる。頭が下がります。悲しみをご存じなので、他の人の悲しみがよく分かるのでしょう。「悲しむ人と共に悲しむ」、心優しく立派な方だと、心より尊敬します。

 なぜ人はホームレスになるのか。いろいろな理由があるでしょう。池袋のような都会でも路上生活は厳しそうです。雨、台風、猛暑、寒さ、雪があります。午前1時~午前5時は、駅が閉まるので、外に出なければなりません。この冬、ホームレスの方々に神様の守りが十分にありますように。アーメン(「真実に」)。