
2022-12-03 18:31:05(土)
「たゆまず善を行いましょう」②2022年12月4(日)待降節第2主日礼拝
(①から続く) 謙遜な心で、その人が罪を犯していることを丁寧に話し、分かってもらって悔い改めに導きなさい、と言っています。自分も罪人(つみびと)の一人なので、あまり偉そうな態度はとれないのです。これで相手が悔い改めればよいのですが、悔い改めない場合は、少しずつ厳しくなります。
イエス様ご自身がマタイによる福音書18章15節以下で、このような場合にどうすればよいか、教えておられます。「兄弟(信仰の兄弟、クリスチャン)があなたに対して罪を犯したなら、行って一人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる(もう一度共に信仰の道を歩めるようになる)。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。」最後は、教会の正式の罪の問題として取り上げ、役員会でその人を悔い改めに導き、その人が行っている罪をやめさせるようにする。最も厳しい場合は、洗礼を受けた後でも、「その罪を悔い改めて、その罪の行いをやめるまでは聖餐式に与からせない」処置をとることもあり得ます。なぜかと言うと、その人がその罪を犯し続けているなら、聖なる神様の裁きを受けて、天国に入れなくなる可能性があるからです。
それが一番不幸なことなので、一番厳しい場合は、悔い改めたことが確認できるまで聖餐式を受けることを停止し、いわば目を覚まして自分が行っていることは明らかな罪だと自覚してもらい、悔い改めて罪から離れ、天国に入れるように導きことが目的です。厳しいようですが、これが本当の愛です。その人が明らかな罪を犯し続けてやめない場合、天国に入れなくなる恐れがあり、それを放置することは単なる甘やかしで、はっきり咎めてあげることが真の愛です。その第一歩が、パウロが書くように、「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊(聖霊)に導かれて生きているあなた方は、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」です。
2節「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」これにはいくつかの意味がありそうです。「互いに重荷を担いなさい。」「互いに助け合いなさい」、あるいは「互いの短所・欠点を忍び合いなさい」ということではないでしょうか。そうでないと教会というキリストの体(共同体)は維持できませんね。この大前提は、まずイエス様ご自身が先頭に立って、私たちの罪という最大の重荷を、十字架の上で全部背負って下さったことと思います。
それを思えば、「互いの短所・欠点を忍び合う」ことができないはずがありません。三宅さんという教会員が地上におられた時、ご主人の葬儀を教会で致しました。この教会から火葬場に行く時に、三宅さんは葬儀社が用意したお花で飾った十字架を持って行かれました。後で三宅さんがおっしゃるには「あの十字架がすごく重かった。あれは私たち人間の罪の重さではないかと思う」と。印象に残りました。イエス様が背負った十字架は物理的にも重くて、途中でキレネ人シモンが変わって背負いましたが、でもイエス様が十字架で本当に背負ったのは、私たち全人類の全部の罪ですから、その重さたるや、私たちの想像を絶する重さだったに違いありません。
そのようにイエス様が最大の重荷を背負って下さった。イエス様は今も私たち自身を背負っていて下さるのですから、私たちもイエス様に支えられて、少しは人様の重荷を共に背負わせていただくことができるはずです。人様の重荷を全て背負うことはできなくても、どこか小さな一部は背負うことができるのではないでしょうか。イエス様の、マタイ福音書11章28節の御言葉を思い出しながら、そうしたいと思います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私の元に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすればあなた方は安らぎが得られる。私の軛(くびき)は負いやすく、私の荷は軽いからである。」軛とは、二頭の牛などの首を上からつなぐ木の道具で、これにより二頭を並べて力強く効率的に土を耕させることができます。二頭の力を合わさせることができ、二頭が助け合うこともありそうです。マタイ11章28節は、私たちが重荷を担う時、実はイエス様が共に担っていて下さることを約束する御言葉と思います。
重荷は、様々な責任を意味することもあります。私たちが責任を背負う時、イエス様が共に責任を背負って下さることも確かです。そして、私たちが主に人様のために、「とりなしの祈り」を献げることも、相手の方の重荷を共に背負うことになります。相手の方の重荷が減るように、とりなしの祈りに励みたいものです。
「互いに重荷を負い合いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」キリスト教会は律法主義を否定しますが、「キリストの律法」をよしとします。「キリストの律法」は愛のことですね。互いに重荷を負い合い、互いに仕え合い、イエス様が弟子たちの足を洗って下さったように、互いに足を洗い合うことと思います。マタイ福音書6章12節の、イエス様が語られたいわゆる黄金律を思い浮かべることも適切です。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。これこそ律法と預言者(旧約聖書の教え)である。」
3~4節「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」これはパウロが、ローマの信徒への手紙12章3節で述べていることと同じと思います。「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」自分の罪を直視しれば、自分を過大評価することはできません。5~6節「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」2節には「互いに重荷を担いなさい」とありましたが、5節では「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」と言っています。その意味では各自が、イエス様に助けられて自立を目指すことが大前提です。でも自立しきれないこともあります。自立できないことについては、他の方に背負ってもらってよいはずです。
自分の自立できない部分を、物理的に他の方に背負っていただくことは、あってよいことです。自分はその方のためにとりなしの祈りを献げて祝福をお祈りすることによって、相手を支えることができます。これこそよい助け合いと信じます。お互いがお互いを、必ず必要としています。他の方に祈っていただくことなしに、自分の力だけで教会の奉仕を立派に成し遂げることは、実は誰にもできないはずです。
本日の最後の10節に書かれていることを、東久留米教会においても、実現してゆきたいものです。「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」本日の説教題は、「たゆまず善を行いましょう」です。イエス様の十字架の愛の恵みによっての、全部の罪を赦され天国を保証された者として、イエス様の愛への感謝の応答として、たゆまず善を行う人生を進みましょう、ということです。もちろんお祈りして、聖霊に助けていただいてです。
戻って7節です。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」「思い違いをしてはいけません」とは、神様を甘く軽く見てはいけない、神様を舐めてはいけないということでしょう。神様は、私たち罪人(つみびと)を愛して救おうとしておられる完全な愛の方ですが、神様は同時に完全に聖なる方なので、罪そのものを絶対に受け入れないし、罪と悪そのものを明確に憎んでおられるからです。神様は罪そのものと悪そのものを明確に憎んでおられます。神様を軽く見て舐めてかかると、私たちは必ず痛手を受けます。神様は、人から侮られることはないのです。
旧約聖書に登場するダビデ王も、神様を侮って痛い目に遭いました。ダビデ王の有名な罪です。忠実な部下ウリヤが戦争に出ているときに、ウリヤの妻バト・シェバと関係を持ち、バト・シェバが妊娠しました。それを知ったダビデは、ウリヤを戦場から呼び戻し、司令官や兵士の安否を問い、「家に帰って足を洗うがよい」と言いました。ところが忠実な部下ウリヤは家に帰らないのです。「十戒を入れた神の箱も、私の直属の主人ヨアブも、多くの兵士たちも野営しているのに、私だけ家に戻ることはできない」と言って、家に帰りません。そこでダビデはイスラエルの司令官ヨアブに手紙を書き、ウリヤに託します。手紙には「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていました。この通りに実行され、ウリヤは戦死します。何と気の毒なことかと思います。ウリヤの妻バト・シェバは夫の死を聞くと、夫のために嘆きました。喪が明けると、ダビデは彼女を王宮に引き取り、妻の一人にし、彼女は男の子を産みました。人の目を欺いたダビデですが、神様を欺くことはできませんでした。神様は黙っておられません。
神様から預言者ナタンが送られます。ナタンが神様のメッセージをダビデに語ります。「あなたに油を注いでイスラエルの王としたのは私(神)である。私があなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたが私を侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。」鋭くこう言われて、ダビデは初めて自分の大きな罪に気づきました。目が覚めたのです。私たちもしばしば自分の罪に気づかない鈍感に生きている場合があるので、時々神様によって目を覚まさせていただく必要があると、私は思います。
ダビデは述べます。「私は主に罪を犯した。」もちろんウリヤに対しても罪を犯したのです。ダビデは罪を真剣に悔い改めます。この時のダビデの悔い改めは、詩編51編に明らかに記されています。ダビデが悔い改めたので、ナタンの鋭い言葉も少し和らぎます。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれて来るあなたの子は必ず死ぬ。」生まれた男の赤ちゃんは、間もなく死にました。ダビデは自分の、蒔いた罪を刈り取る、罪の報いを受ける結果になったのです。神様はこのようにダビデに裁きを与えたのですが、ダビデが真剣に悔い改めたからでしょうか、ダビデとバト・シェバの間にはソロモンが生まれ、神様はその子ソロモンを愛され、ソロモンはダビデの次の王になりました。以上が旧約聖書の有名なエピソードです。
ガラテヤの信徒への手紙に戻ります。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者(自分勝手に罪と悪を行う者)は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者(神様と隣人を愛する生き方をする人)は、霊から永遠の命を刈り取ります。」イエス様の十字架によって永遠の命を与えられた私たちがめざす方向は明らかです。時に罪を犯してしまうことがあっても、ぜひ一生懸命悔い改めましょう。そして祈って聖霊に助けていただいて「霊に蒔く生き方」(神様と隣人を愛する生き方)へ、進みたいのです。自分ことも、イエス様に愛されている者として正しく愛してよいのです。但しわがまま・エゴイズムに進むことは禁物です。
9~10節「たゆまず善を行いましょう(説教題)。飽きずに励んでいれば、時(神の国の完成の時)が来て、実(永遠の命という実)を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に(時間を無駄にせず)、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して善を行いましょう。」善は急げ。ミカ書6章8節も同趣旨。聖霊に助けられ、感謝をもって9~10節の御言葉を行って参りましょう。アーメン(真実に)。
イエス様ご自身がマタイによる福音書18章15節以下で、このような場合にどうすればよいか、教えておられます。「兄弟(信仰の兄弟、クリスチャン)があなたに対して罪を犯したなら、行って一人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる(もう一度共に信仰の道を歩めるようになる)。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。」最後は、教会の正式の罪の問題として取り上げ、役員会でその人を悔い改めに導き、その人が行っている罪をやめさせるようにする。最も厳しい場合は、洗礼を受けた後でも、「その罪を悔い改めて、その罪の行いをやめるまでは聖餐式に与からせない」処置をとることもあり得ます。なぜかと言うと、その人がその罪を犯し続けているなら、聖なる神様の裁きを受けて、天国に入れなくなる可能性があるからです。
それが一番不幸なことなので、一番厳しい場合は、悔い改めたことが確認できるまで聖餐式を受けることを停止し、いわば目を覚まして自分が行っていることは明らかな罪だと自覚してもらい、悔い改めて罪から離れ、天国に入れるように導きことが目的です。厳しいようですが、これが本当の愛です。その人が明らかな罪を犯し続けてやめない場合、天国に入れなくなる恐れがあり、それを放置することは単なる甘やかしで、はっきり咎めてあげることが真の愛です。その第一歩が、パウロが書くように、「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊(聖霊)に導かれて生きているあなた方は、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」です。
2節「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」これにはいくつかの意味がありそうです。「互いに重荷を担いなさい。」「互いに助け合いなさい」、あるいは「互いの短所・欠点を忍び合いなさい」ということではないでしょうか。そうでないと教会というキリストの体(共同体)は維持できませんね。この大前提は、まずイエス様ご自身が先頭に立って、私たちの罪という最大の重荷を、十字架の上で全部背負って下さったことと思います。
それを思えば、「互いの短所・欠点を忍び合う」ことができないはずがありません。三宅さんという教会員が地上におられた時、ご主人の葬儀を教会で致しました。この教会から火葬場に行く時に、三宅さんは葬儀社が用意したお花で飾った十字架を持って行かれました。後で三宅さんがおっしゃるには「あの十字架がすごく重かった。あれは私たち人間の罪の重さではないかと思う」と。印象に残りました。イエス様が背負った十字架は物理的にも重くて、途中でキレネ人シモンが変わって背負いましたが、でもイエス様が十字架で本当に背負ったのは、私たち全人類の全部の罪ですから、その重さたるや、私たちの想像を絶する重さだったに違いありません。
そのようにイエス様が最大の重荷を背負って下さった。イエス様は今も私たち自身を背負っていて下さるのですから、私たちもイエス様に支えられて、少しは人様の重荷を共に背負わせていただくことができるはずです。人様の重荷を全て背負うことはできなくても、どこか小さな一部は背負うことができるのではないでしょうか。イエス様の、マタイ福音書11章28節の御言葉を思い出しながら、そうしたいと思います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私の元に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすればあなた方は安らぎが得られる。私の軛(くびき)は負いやすく、私の荷は軽いからである。」軛とは、二頭の牛などの首を上からつなぐ木の道具で、これにより二頭を並べて力強く効率的に土を耕させることができます。二頭の力を合わさせることができ、二頭が助け合うこともありそうです。マタイ11章28節は、私たちが重荷を担う時、実はイエス様が共に担っていて下さることを約束する御言葉と思います。
重荷は、様々な責任を意味することもあります。私たちが責任を背負う時、イエス様が共に責任を背負って下さることも確かです。そして、私たちが主に人様のために、「とりなしの祈り」を献げることも、相手の方の重荷を共に背負うことになります。相手の方の重荷が減るように、とりなしの祈りに励みたいものです。
「互いに重荷を負い合いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」キリスト教会は律法主義を否定しますが、「キリストの律法」をよしとします。「キリストの律法」は愛のことですね。互いに重荷を負い合い、互いに仕え合い、イエス様が弟子たちの足を洗って下さったように、互いに足を洗い合うことと思います。マタイ福音書6章12節の、イエス様が語られたいわゆる黄金律を思い浮かべることも適切です。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。これこそ律法と預言者(旧約聖書の教え)である。」
3~4節「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」これはパウロが、ローマの信徒への手紙12章3節で述べていることと同じと思います。「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」自分の罪を直視しれば、自分を過大評価することはできません。5~6節「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」2節には「互いに重荷を担いなさい」とありましたが、5節では「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」と言っています。その意味では各自が、イエス様に助けられて自立を目指すことが大前提です。でも自立しきれないこともあります。自立できないことについては、他の方に背負ってもらってよいはずです。
自分の自立できない部分を、物理的に他の方に背負っていただくことは、あってよいことです。自分はその方のためにとりなしの祈りを献げて祝福をお祈りすることによって、相手を支えることができます。これこそよい助け合いと信じます。お互いがお互いを、必ず必要としています。他の方に祈っていただくことなしに、自分の力だけで教会の奉仕を立派に成し遂げることは、実は誰にもできないはずです。
本日の最後の10節に書かれていることを、東久留米教会においても、実現してゆきたいものです。「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」本日の説教題は、「たゆまず善を行いましょう」です。イエス様の十字架の愛の恵みによっての、全部の罪を赦され天国を保証された者として、イエス様の愛への感謝の応答として、たゆまず善を行う人生を進みましょう、ということです。もちろんお祈りして、聖霊に助けていただいてです。
戻って7節です。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」「思い違いをしてはいけません」とは、神様を甘く軽く見てはいけない、神様を舐めてはいけないということでしょう。神様は、私たち罪人(つみびと)を愛して救おうとしておられる完全な愛の方ですが、神様は同時に完全に聖なる方なので、罪そのものを絶対に受け入れないし、罪と悪そのものを明確に憎んでおられるからです。神様は罪そのものと悪そのものを明確に憎んでおられます。神様を軽く見て舐めてかかると、私たちは必ず痛手を受けます。神様は、人から侮られることはないのです。
旧約聖書に登場するダビデ王も、神様を侮って痛い目に遭いました。ダビデ王の有名な罪です。忠実な部下ウリヤが戦争に出ているときに、ウリヤの妻バト・シェバと関係を持ち、バト・シェバが妊娠しました。それを知ったダビデは、ウリヤを戦場から呼び戻し、司令官や兵士の安否を問い、「家に帰って足を洗うがよい」と言いました。ところが忠実な部下ウリヤは家に帰らないのです。「十戒を入れた神の箱も、私の直属の主人ヨアブも、多くの兵士たちも野営しているのに、私だけ家に戻ることはできない」と言って、家に帰りません。そこでダビデはイスラエルの司令官ヨアブに手紙を書き、ウリヤに託します。手紙には「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていました。この通りに実行され、ウリヤは戦死します。何と気の毒なことかと思います。ウリヤの妻バト・シェバは夫の死を聞くと、夫のために嘆きました。喪が明けると、ダビデは彼女を王宮に引き取り、妻の一人にし、彼女は男の子を産みました。人の目を欺いたダビデですが、神様を欺くことはできませんでした。神様は黙っておられません。
神様から預言者ナタンが送られます。ナタンが神様のメッセージをダビデに語ります。「あなたに油を注いでイスラエルの王としたのは私(神)である。私があなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたが私を侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。」鋭くこう言われて、ダビデは初めて自分の大きな罪に気づきました。目が覚めたのです。私たちもしばしば自分の罪に気づかない鈍感に生きている場合があるので、時々神様によって目を覚まさせていただく必要があると、私は思います。
ダビデは述べます。「私は主に罪を犯した。」もちろんウリヤに対しても罪を犯したのです。ダビデは罪を真剣に悔い改めます。この時のダビデの悔い改めは、詩編51編に明らかに記されています。ダビデが悔い改めたので、ナタンの鋭い言葉も少し和らぎます。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれて来るあなたの子は必ず死ぬ。」生まれた男の赤ちゃんは、間もなく死にました。ダビデは自分の、蒔いた罪を刈り取る、罪の報いを受ける結果になったのです。神様はこのようにダビデに裁きを与えたのですが、ダビデが真剣に悔い改めたからでしょうか、ダビデとバト・シェバの間にはソロモンが生まれ、神様はその子ソロモンを愛され、ソロモンはダビデの次の王になりました。以上が旧約聖書の有名なエピソードです。
ガラテヤの信徒への手紙に戻ります。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者(自分勝手に罪と悪を行う者)は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者(神様と隣人を愛する生き方をする人)は、霊から永遠の命を刈り取ります。」イエス様の十字架によって永遠の命を与えられた私たちがめざす方向は明らかです。時に罪を犯してしまうことがあっても、ぜひ一生懸命悔い改めましょう。そして祈って聖霊に助けていただいて「霊に蒔く生き方」(神様と隣人を愛する生き方)へ、進みたいのです。自分ことも、イエス様に愛されている者として正しく愛してよいのです。但しわがまま・エゴイズムに進むことは禁物です。
9~10節「たゆまず善を行いましょう(説教題)。飽きずに励んでいれば、時(神の国の完成の時)が来て、実(永遠の命という実)を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に(時間を無駄にせず)、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して善を行いましょう。」善は急げ。ミカ書6章8節も同趣旨。聖霊に助けられ、感謝をもって9~10節の御言葉を行って参りましょう。アーメン(真実に)。
2022-12-03 18:13:16(土)
「たゆまず善を行いましょう」①2022年12月4(日)待降節第2主日礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書6:27~29,頌栄28、主の祈り,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・230、聖書 ミカ書6:8(旧約p.1456)、ガラテヤの信徒への手紙6:1~10(新約p.350)、讃美歌536、献金、頌栄27、祝祷。
(ミカ書6:8)
人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。
(ガラテヤの信徒への手紙6:1~10)
兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第2主日の礼拝です。本日の説教題は「たゆまず善を行いましょう」です。聖書は、ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節です。できるだけ月一回、ガラテヤの信徒への手紙を読む礼拝を守りたいと思って来ました。本日を含め、あと2回です。本日の個所の小見出しは、「信仰に基づいた助け合い」です。
ここまでの内容を振り返ると、この手紙を書いたイエス・キリストの弟子・使徒パウロがここまで述べて来たことは、イエス・キリストの十字架の贖い(償い、犠牲)の死によってのみ、私ども罪人(つみびと)が、聖なる神様の前に「義と認められる」という真理です。イエス・キリストの十字架の死は、それほど重大で決定的な出来事で、全ての人の罪を赦す愛の力を持っています。私たち皆に必要なことは、聖書から自分の罪を知って、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ告白し、罪の赦しの洗礼(バプテスマ)を受けることです。罪を悔い改めて洗礼を受けると、神様の清き霊である聖霊を注がれ、私たちは神の子になります。神の子になるのです。私たちはその後も、よく祈り続けて、「聖霊を注いで下さい」と神様にお願いする必要があります。神様は聖書の御言葉と聖霊によって私たちを清めて下さり、イエス様に似た人格の人へと次第に造り替えて下さいます。そうなると私たちは少しずつ、本日の直前の5章22節に記されている「聖霊の実」を結ばせていただきます。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」、この9つの実が「聖霊の実」にほかなりません。この9つの実を次第に結ぶことは、少しずつイエス様に似た人格の人に変えられてゆくことです。この地上に生きている限り、私たちの罪はゼロにはなりませんし、進んだり後退したり、また前進したりの歩みになるとも言えますが、忍耐強く信仰の道を歩み続けて行けば、一歩ずつイエス様に似た者に変えられてゆくと信じます。神様の愛の力によってです。そしてパウロは、今日の直前で私たちに勧めます。「私たちは、霊(聖霊)の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」
このように聖霊の導きに従ってイエス様に従う道を進んでいればよいのですが、時に悪魔の誘惑に負けて、罪の道に逆戻りする人が出ることがあります。私たちがその人にどう対処すべきか、それが6章1節に記されています。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊(聖霊)に導かれているあなた方は、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」柔和な心とは、イエス様の心です。上から一方的に厳しく (②へ続く)
(ミカ書6:8)
人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。
(ガラテヤの信徒への手紙6:1~10)
兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第2主日の礼拝です。本日の説教題は「たゆまず善を行いましょう」です。聖書は、ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節です。できるだけ月一回、ガラテヤの信徒への手紙を読む礼拝を守りたいと思って来ました。本日を含め、あと2回です。本日の個所の小見出しは、「信仰に基づいた助け合い」です。
ここまでの内容を振り返ると、この手紙を書いたイエス・キリストの弟子・使徒パウロがここまで述べて来たことは、イエス・キリストの十字架の贖い(償い、犠牲)の死によってのみ、私ども罪人(つみびと)が、聖なる神様の前に「義と認められる」という真理です。イエス・キリストの十字架の死は、それほど重大で決定的な出来事で、全ての人の罪を赦す愛の力を持っています。私たち皆に必要なことは、聖書から自分の罪を知って、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ告白し、罪の赦しの洗礼(バプテスマ)を受けることです。罪を悔い改めて洗礼を受けると、神様の清き霊である聖霊を注がれ、私たちは神の子になります。神の子になるのです。私たちはその後も、よく祈り続けて、「聖霊を注いで下さい」と神様にお願いする必要があります。神様は聖書の御言葉と聖霊によって私たちを清めて下さり、イエス様に似た人格の人へと次第に造り替えて下さいます。そうなると私たちは少しずつ、本日の直前の5章22節に記されている「聖霊の実」を結ばせていただきます。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」、この9つの実が「聖霊の実」にほかなりません。この9つの実を次第に結ぶことは、少しずつイエス様に似た人格の人に変えられてゆくことです。この地上に生きている限り、私たちの罪はゼロにはなりませんし、進んだり後退したり、また前進したりの歩みになるとも言えますが、忍耐強く信仰の道を歩み続けて行けば、一歩ずつイエス様に似た者に変えられてゆくと信じます。神様の愛の力によってです。そしてパウロは、今日の直前で私たちに勧めます。「私たちは、霊(聖霊)の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」
このように聖霊の導きに従ってイエス様に従う道を進んでいればよいのですが、時に悪魔の誘惑に負けて、罪の道に逆戻りする人が出ることがあります。私たちがその人にどう対処すべきか、それが6章1節に記されています。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊(聖霊)に導かれているあなた方は、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」柔和な心とは、イエス様の心です。上から一方的に厳しく (②へ続く)
2022-11-26 23:36:50(土)
「イエス様こそ永遠の命のパン」 2022年11月27(日)待降節第1主日礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書6:27~29,頌栄29、主の祈り,使徒信条、讃美歌21・231、聖書 ヨハネ福音書6:22~40(新約p.175)、讃美歌471、献金、頌栄83(2節)、祝祷。
(ヨハネ福音書6:22~40) その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第1主日の礼拝です。本日の説教題は「イエス様こそ永遠の命のパン」です。聖書は、ヨハネ福音書6章22~41節です。
6章は長い章ですが、確かに1つのまとまったストーリーです。最初の1~15節は、イエス様が男だけで五千人の群衆を、大麦のパン五つと魚二匹で養った愛の奇跡を語っています。その後夕方になり、弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸のカファルナウムを目指しました。最初、イエス様は舟に乗っておられませんでした。するとイエス様が、何と湖の上を歩いて舟に近づいて来られ、漕ぎ悩んでいた弟子たちは、イエス様を舟に迎え入れようとしました。すると間もなく舟は、めざすカファルナウムに着いたのです。マタイ福音書によると、イエス様の家はカファルナウムにあったのです。
本日の最初の22節「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一艘しかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。」パンと魚の奇跡の翌日になっても、まだ群衆は舞い上がっていました。イエス様はどこに行った? イエス様を必死に捜し求めたようです。23~24節「ところが、ほかの小舟が数そう、ティべリアスから、主(イエス様)が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。」群衆は、イエス様の奇跡の後、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言い、イエス様を王様に祭り上げようとしたのです。ところがイエス様には、この地上の政治的な王、権力者になるつもりは全くなかったので、独りで山に退かれ、その後湖の上を歩いて弟子たちと合流したのでした。
25節「そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ(先生)、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。」イエス様が答えて言われます。「はっきり言っておく。」原文では「アーメン、アーメン、私はあなた方に言う」です。これはイエス様がとても大切なことをおっしゃる時の前置きです。アーメンは「真実に」の意味です。「あなた方が私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」群衆は確かに、イエス様が五つの大麦パンと二匹の魚で群衆を満腹させたしるし(奇跡)を目撃し、体験したのです。しかしイエス様が、永遠の命を与えて下さる最も深い意味での救い主、神の子であることを悟ることができなかったのでした。確かに私たち体を持つ人間にとって、パン(食べ物)は非常に必要です。食べ物がないと生きることができません。食べ物を買うお金もないと、生きることができません。もちろんイエス様は、それをよくご存じです。よくご存じなので、群衆に食べ物を与えて下さいました。パンと魚で皆を満腹させて下さったのです。真の神様、神の子イエス様は、私たちに肉体を養う食物も与えて下さいます。私たちはそれを信じて、先ほどの「主の祈り」でも「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と一生懸命に祈りました。神様が聞き届けて下さると信じてです。
イエス様がここでおっしゃりたいのは、その先です。27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子(イエス様)があなた方に与える食べ物である。父である神が、人の子を認証したからである。」「永遠の命に至る食べ物」とは何か? それはイエス・キリストの御言葉であり、神様の御言葉である聖書であり、(今日は行いませんが)教会が行う聖餐式という式でクリスチャンがいただくパン(イエス様の聖なる御体を表す)とぶどう液(イエス様の聖なる御血潮を表す)を指すと言えます。
旧約聖書の申命記8章に、既にこう書かれています。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主(神様)の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」イエス様も、この御言葉を引用して、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とおっしゃいました。私たちの生き方が神様の御言葉によって導かれないと、永遠の命の命に至る生き方にならないのです。神様の御言葉に全然従わないで、悪いことばかりしていて、ご飯はたらふく食べていたとしても、それでは永遠の命、天国に至ることができません。それでは何のために生きたのか、分かりません。神様の御言葉という永遠の命に至るパンを心の中に蓄えて、神様を愛し、隣人を愛する生き方に押し出されることが大切ですね。イエス様はマタイ福音書6章で、こうも言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」神様の御言葉を信じ、神様の御言葉に従うことを第一にしなさい。そうすれば、生活に必要な糧はみな、加えて与えられる。」イエス様はこの順序が大切だとおっしゃいます。言い換えると、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。礼拝を第一にし、永遠の命を与えて下さる神様にお仕えすることを第一にしなさい。そうすれば生活に必要な糧は、加えて与えられる」ということだと思います。
ヨハネ福音書に戻り、28節「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」神の業を行うためには、あれもこれも行う必要があると私たちはつい考えるのです。それが必要な場合もあるでしょうが、一番根本的なことは、父なる神様が私たちの世界に。救い主として誕生させて下さった「イエス・キリストを、信じる」の一点です。イエス・キリストが私たちが永遠の命に入るため(救われるため)に必要なことを、全部行って下さったからです。すなわちイエス・キリストは、私たちが神様を愛さず、隣人を愛さず、自己中心的に生きて来た罪を全て身代わりに背負って、十字架で死んで下さったのです。本当に完全に死なれました。そして三日目に、父なる神様によって復活させられました。天に昇られ、今も天で復活の体をもって生きておられます。天から今も、私たちに神様の清き霊である聖霊を送って下さっています。そして聖霊によって、私たちがイエス・キリストを救い主と信じる信仰へと導いて下さいます。このように、私たちが救われるために(永遠の命を受け、天国に入るために)必要なことは、イエス・キリストが100パーセント成し遂げて下さいました。足りないことは1つもないのです。そこで私たち全員にできること、私たち全員がなすべきことは、このイエス・キリストを自分の救い主として、心から受け入れる、これが最も大切なことです。
群衆の質問「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」に対して、イエス様はお答えになったのです。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」つまりイエス・キリストを救い主と信じること、これが最も重要な神の業だと断言されます。「神の業」だということは、イエス様を救い主と信じさせて下さることも神様の業、神様のなさること、という意味ではないでしょうか。「聖霊(神様の清い霊)によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」という新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)12章3節の御言葉が思い出されます。人間の心は頑固で、なかなかイエス・キリストを救い主と受け入れない方もおられますから、私たちがよくお祈りして、聖霊が豊かに働いて下さって、全ての人が心を開いて、イエス・キリストを信じることができるようにしていただく必要を強く感じます。伝道のためには、私たちのとりなしの祈りが極めて重要であることを痛感致します。
群衆は言います。30節「それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行って下さいますか。どのようなことをしてくださいますか。」イエス様は既に、大麦パン五つと魚二匹で、五千人の群衆を満腹にする奇跡を行って下さいました。この奇跡・しるしで十分なはずなのに、まだ「どんなしるしを行って下さいますか」と言っています。悟る力がないと、このようになってしまいます。私たちも本当のことを悟る力を神様からいただくように、いつも祈り求める必要があります。 群衆は言います。31節「私たちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてある通りです。」その通りです。旧約聖書出エジプト記に出ているイスラエルの人々の経験です。マンナ(マナ)が神様によって40年間与えられた食物です。群衆は、指導者だったモーセがマナを与えたと誤解しているようです。イエス様が訂正して言われます。「はっきり言っておく。モーセが天からのパン(マンナ)を与えたのではなく、私の父(神様)が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そのパンは、イエス様ご自身なのですね。
そこで群衆は、『主よ、そのパンをいつも私たちに下さい』と言いました。群衆はそれが永遠の命のパンとはまだ理解していません。それをいつももらえれば、食べ物を得る苦労をしないで済むと思っています。そこでイエス様が言われました。35節「私が命のパンである。私のもとに来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」これはどちらかと言うと肉体の飢えと渇きではなく、心の(魂の)のことと思います。イエス様のもとに来る者は、心と魂が飢えることなく、心と魂が渇くこともない。
イエス様が命(永遠の命)のパンであり、聖書の言葉が永遠の命のパンです。旧約聖書のアモス書8章11節以下に、こんな御言葉があります。旧約聖書1140ページ上段。「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見出すことはできない。」これは神様の裁きなのです。旧約聖書では神様の民はイスラエルの民です。そのイスラエルの民が神様に従わない日々が長く続いたとき、神様が下す最も厳しい裁きの1つがこれです。神の言葉を取り上げてしまう。聖書を取り上げると言ってもよいでしょう。聖書がないと、私たちは神様がどんな方か、知ることができません。神様のご意志は何か、知ることができません。イエス様をよく知ることもできません。イエス様を信じれば、永遠の命を受けることができる恵みすら、知ることができません。神の言葉・聖書がないということは、致命的です。どうすれば永遠の命に至ることができるか、分からなくなります。神の言葉・聖書がなくなれば、右往左往するほかなくなります。「人々は海から海へと巡り、来たから東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見出すことはできない。」
ヨハネ福音書に戻り、36、37節「しかし、前にも言ったように、あなた方は私を見ているのに、信じない。父が私にお与えになる人は皆、私の所に来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」ここでは群衆がイエス様を救い主と信じません。「父が私(イエス様)にお与えになる人は皆、私の所に来る。」私たちも皆、「父なる神様がイエス様にお与えになった者」です。その証拠は、私たちがイエス様を礼拝するこの場に来ていることです。「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」実にありがたいことです。イエス様の元に来る私たちを、イエス様は決して追い出したりなさらないのです。実に感謝です。ですから全ての方が安心して、イエス様を信じる洗礼を受けていただくことを祈ります。それはイエス様ご自身の願いです。そして父なる神様がさらに働いて下さり、私たちの家族や友人たち全員をここに呼び寄せて下さるように、切に祈ります。10月23日(日)に私たちは、修養会を行いました。テーマは「家族伝道」でした。講師の先生は、「神の選び」を割に強調なさったように思います。「神の選び」がある。今日の個所の御言葉で言うと、「神に選ばれた人」とは「父なる神様がイエス様にお与えになる人」を指すと思います。ここに私たちの祈りの出番があります。「神様、私たちの家族や友人たちをも皆、そして世界のすべての人々をイエス様にお与えになって下さい。私たちの家族、友人たち、世界の全ての人々に、イエス様を信じる素直な信仰を与えて下さい。」
38~40節「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子(イエス様)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」 父なる神様の御心(ご意志)を行うためにイエス様は、天から降って来られました。御心とは、イエス様が十字架に架かって、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って下さることにほかなりません。十字架で死に、三日目に復活することを目的に、イエス様は誕生されました。それがクリスマスです。
「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」これは、このヨハネ福音書の有名な3章16節と深く響き合う御言葉ですね。3章16節は「福音の中の福音」とも呼ばれる御言葉です。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びびないで、永遠の命を得るためである。」私たちは聖書全体を読みながらも、いつもこの3章16節に立ち帰って来ることがよいと思うのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも父なる神様の独り子イエス様を、心の底から信じる、信頼することが、最も大切であることが語られています。
昨日は、教会員のSさんの納骨式を、入間メモリアルパークの東久留米教会墓前で執り行いました。Sさんもイエス様を救い主と信じて1988年に東久留米教会で洗礼を受けられました。そのとき聖霊を受けられ、永遠の命を受けられたのです。そして約2ヶ月前の9月24日に天国に入られました。そのことを昨日、墓前で改めて確信致しました。東久留米教会のお墓には「永遠の命」の4文字が刻まれています。教会員の草刈眞一さんが、ほとんど最後の力を振り絞って書いて下さった何枚かの「永遠の命」と毛筆で書かれた紙から、一番良いものを選んで、それに沿って、石に彫っていただきました。「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆、永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日(世の終わりの日)に復活させることだからである」とイエス様がおっしゃる「永遠の命」です。私たちに永遠の命が与えれていることを感謝し、全ての人がイエス様を信じて永遠の命を受けるように祈り、感謝してますますイエス様に従って参りましょう。アーメン(真実に)。
(ヨハネ福音書6:22~40) その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第1主日の礼拝です。本日の説教題は「イエス様こそ永遠の命のパン」です。聖書は、ヨハネ福音書6章22~41節です。
6章は長い章ですが、確かに1つのまとまったストーリーです。最初の1~15節は、イエス様が男だけで五千人の群衆を、大麦のパン五つと魚二匹で養った愛の奇跡を語っています。その後夕方になり、弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸のカファルナウムを目指しました。最初、イエス様は舟に乗っておられませんでした。するとイエス様が、何と湖の上を歩いて舟に近づいて来られ、漕ぎ悩んでいた弟子たちは、イエス様を舟に迎え入れようとしました。すると間もなく舟は、めざすカファルナウムに着いたのです。マタイ福音書によると、イエス様の家はカファルナウムにあったのです。
本日の最初の22節「その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一艘しかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。」パンと魚の奇跡の翌日になっても、まだ群衆は舞い上がっていました。イエス様はどこに行った? イエス様を必死に捜し求めたようです。23~24節「ところが、ほかの小舟が数そう、ティべリアスから、主(イエス様)が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。」群衆は、イエス様の奇跡の後、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言い、イエス様を王様に祭り上げようとしたのです。ところがイエス様には、この地上の政治的な王、権力者になるつもりは全くなかったので、独りで山に退かれ、その後湖の上を歩いて弟子たちと合流したのでした。
25節「そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ(先生)、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。」イエス様が答えて言われます。「はっきり言っておく。」原文では「アーメン、アーメン、私はあなた方に言う」です。これはイエス様がとても大切なことをおっしゃる時の前置きです。アーメンは「真実に」の意味です。「あなた方が私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」群衆は確かに、イエス様が五つの大麦パンと二匹の魚で群衆を満腹させたしるし(奇跡)を目撃し、体験したのです。しかしイエス様が、永遠の命を与えて下さる最も深い意味での救い主、神の子であることを悟ることができなかったのでした。確かに私たち体を持つ人間にとって、パン(食べ物)は非常に必要です。食べ物がないと生きることができません。食べ物を買うお金もないと、生きることができません。もちろんイエス様は、それをよくご存じです。よくご存じなので、群衆に食べ物を与えて下さいました。パンと魚で皆を満腹させて下さったのです。真の神様、神の子イエス様は、私たちに肉体を養う食物も与えて下さいます。私たちはそれを信じて、先ほどの「主の祈り」でも「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と一生懸命に祈りました。神様が聞き届けて下さると信じてです。
イエス様がここでおっしゃりたいのは、その先です。27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子(イエス様)があなた方に与える食べ物である。父である神が、人の子を認証したからである。」「永遠の命に至る食べ物」とは何か? それはイエス・キリストの御言葉であり、神様の御言葉である聖書であり、(今日は行いませんが)教会が行う聖餐式という式でクリスチャンがいただくパン(イエス様の聖なる御体を表す)とぶどう液(イエス様の聖なる御血潮を表す)を指すと言えます。
旧約聖書の申命記8章に、既にこう書かれています。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主(神様)の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」イエス様も、この御言葉を引用して、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とおっしゃいました。私たちの生き方が神様の御言葉によって導かれないと、永遠の命の命に至る生き方にならないのです。神様の御言葉に全然従わないで、悪いことばかりしていて、ご飯はたらふく食べていたとしても、それでは永遠の命、天国に至ることができません。それでは何のために生きたのか、分かりません。神様の御言葉という永遠の命に至るパンを心の中に蓄えて、神様を愛し、隣人を愛する生き方に押し出されることが大切ですね。イエス様はマタイ福音書6章で、こうも言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」神様の御言葉を信じ、神様の御言葉に従うことを第一にしなさい。そうすれば、生活に必要な糧はみな、加えて与えられる。」イエス様はこの順序が大切だとおっしゃいます。言い換えると、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。礼拝を第一にし、永遠の命を与えて下さる神様にお仕えすることを第一にしなさい。そうすれば生活に必要な糧は、加えて与えられる」ということだと思います。
ヨハネ福音書に戻り、28節「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」神の業を行うためには、あれもこれも行う必要があると私たちはつい考えるのです。それが必要な場合もあるでしょうが、一番根本的なことは、父なる神様が私たちの世界に。救い主として誕生させて下さった「イエス・キリストを、信じる」の一点です。イエス・キリストが私たちが永遠の命に入るため(救われるため)に必要なことを、全部行って下さったからです。すなわちイエス・キリストは、私たちが神様を愛さず、隣人を愛さず、自己中心的に生きて来た罪を全て身代わりに背負って、十字架で死んで下さったのです。本当に完全に死なれました。そして三日目に、父なる神様によって復活させられました。天に昇られ、今も天で復活の体をもって生きておられます。天から今も、私たちに神様の清き霊である聖霊を送って下さっています。そして聖霊によって、私たちがイエス・キリストを救い主と信じる信仰へと導いて下さいます。このように、私たちが救われるために(永遠の命を受け、天国に入るために)必要なことは、イエス・キリストが100パーセント成し遂げて下さいました。足りないことは1つもないのです。そこで私たち全員にできること、私たち全員がなすべきことは、このイエス・キリストを自分の救い主として、心から受け入れる、これが最も大切なことです。
群衆の質問「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」に対して、イエス様はお答えになったのです。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」つまりイエス・キリストを救い主と信じること、これが最も重要な神の業だと断言されます。「神の業」だということは、イエス様を救い主と信じさせて下さることも神様の業、神様のなさること、という意味ではないでしょうか。「聖霊(神様の清い霊)によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」という新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)12章3節の御言葉が思い出されます。人間の心は頑固で、なかなかイエス・キリストを救い主と受け入れない方もおられますから、私たちがよくお祈りして、聖霊が豊かに働いて下さって、全ての人が心を開いて、イエス・キリストを信じることができるようにしていただく必要を強く感じます。伝道のためには、私たちのとりなしの祈りが極めて重要であることを痛感致します。
群衆は言います。30節「それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行って下さいますか。どのようなことをしてくださいますか。」イエス様は既に、大麦パン五つと魚二匹で、五千人の群衆を満腹にする奇跡を行って下さいました。この奇跡・しるしで十分なはずなのに、まだ「どんなしるしを行って下さいますか」と言っています。悟る力がないと、このようになってしまいます。私たちも本当のことを悟る力を神様からいただくように、いつも祈り求める必要があります。 群衆は言います。31節「私たちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてある通りです。」その通りです。旧約聖書出エジプト記に出ているイスラエルの人々の経験です。マンナ(マナ)が神様によって40年間与えられた食物です。群衆は、指導者だったモーセがマナを与えたと誤解しているようです。イエス様が訂正して言われます。「はっきり言っておく。モーセが天からのパン(マンナ)を与えたのではなく、私の父(神様)が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そのパンは、イエス様ご自身なのですね。
そこで群衆は、『主よ、そのパンをいつも私たちに下さい』と言いました。群衆はそれが永遠の命のパンとはまだ理解していません。それをいつももらえれば、食べ物を得る苦労をしないで済むと思っています。そこでイエス様が言われました。35節「私が命のパンである。私のもとに来るものは決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」これはどちらかと言うと肉体の飢えと渇きではなく、心の(魂の)のことと思います。イエス様のもとに来る者は、心と魂が飢えることなく、心と魂が渇くこともない。
イエス様が命(永遠の命)のパンであり、聖書の言葉が永遠の命のパンです。旧約聖書のアモス書8章11節以下に、こんな御言葉があります。旧約聖書1140ページ上段。「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見出すことはできない。」これは神様の裁きなのです。旧約聖書では神様の民はイスラエルの民です。そのイスラエルの民が神様に従わない日々が長く続いたとき、神様が下す最も厳しい裁きの1つがこれです。神の言葉を取り上げてしまう。聖書を取り上げると言ってもよいでしょう。聖書がないと、私たちは神様がどんな方か、知ることができません。神様のご意志は何か、知ることができません。イエス様をよく知ることもできません。イエス様を信じれば、永遠の命を受けることができる恵みすら、知ることができません。神の言葉・聖書がないということは、致命的です。どうすれば永遠の命に至ることができるか、分からなくなります。神の言葉・聖書がなくなれば、右往左往するほかなくなります。「人々は海から海へと巡り、来たから東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見出すことはできない。」
ヨハネ福音書に戻り、36、37節「しかし、前にも言ったように、あなた方は私を見ているのに、信じない。父が私にお与えになる人は皆、私の所に来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」ここでは群衆がイエス様を救い主と信じません。「父が私(イエス様)にお与えになる人は皆、私の所に来る。」私たちも皆、「父なる神様がイエス様にお与えになった者」です。その証拠は、私たちがイエス様を礼拝するこの場に来ていることです。「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。」実にありがたいことです。イエス様の元に来る私たちを、イエス様は決して追い出したりなさらないのです。実に感謝です。ですから全ての方が安心して、イエス様を信じる洗礼を受けていただくことを祈ります。それはイエス様ご自身の願いです。そして父なる神様がさらに働いて下さり、私たちの家族や友人たち全員をここに呼び寄せて下さるように、切に祈ります。10月23日(日)に私たちは、修養会を行いました。テーマは「家族伝道」でした。講師の先生は、「神の選び」を割に強調なさったように思います。「神の選び」がある。今日の個所の御言葉で言うと、「神に選ばれた人」とは「父なる神様がイエス様にお与えになる人」を指すと思います。ここに私たちの祈りの出番があります。「神様、私たちの家族や友人たちをも皆、そして世界のすべての人々をイエス様にお与えになって下さい。私たちの家族、友人たち、世界の全ての人々に、イエス様を信じる素直な信仰を与えて下さい。」
38~40節「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子(イエス様)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。」 父なる神様の御心(ご意志)を行うためにイエス様は、天から降って来られました。御心とは、イエス様が十字架に架かって、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って下さることにほかなりません。十字架で死に、三日目に復活することを目的に、イエス様は誕生されました。それがクリスマスです。
「私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」これは、このヨハネ福音書の有名な3章16節と深く響き合う御言葉ですね。3章16節は「福音の中の福音」とも呼ばれる御言葉です。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びびないで、永遠の命を得るためである。」私たちは聖書全体を読みながらも、いつもこの3章16節に立ち帰って来ることがよいと思うのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ここでも父なる神様の独り子イエス様を、心の底から信じる、信頼することが、最も大切であることが語られています。
昨日は、教会員のSさんの納骨式を、入間メモリアルパークの東久留米教会墓前で執り行いました。Sさんもイエス様を救い主と信じて1988年に東久留米教会で洗礼を受けられました。そのとき聖霊を受けられ、永遠の命を受けられたのです。そして約2ヶ月前の9月24日に天国に入られました。そのことを昨日、墓前で改めて確信致しました。東久留米教会のお墓には「永遠の命」の4文字が刻まれています。教会員の草刈眞一さんが、ほとんど最後の力を振り絞って書いて下さった何枚かの「永遠の命」と毛筆で書かれた紙から、一番良いものを選んで、それに沿って、石に彫っていただきました。「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆、永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日(世の終わりの日)に復活させることだからである」とイエス様がおっしゃる「永遠の命」です。私たちに永遠の命が与えれていることを感謝し、全ての人がイエス様を信じて永遠の命を受けるように祈り、感謝してますますイエス様に従って参りましょう。アーメン(真実に)。
2022-11-23 18:16:15(水)
11月の伝道メッセージ(石田真一郎。 近くの保育園の「おたより」に掲載した文章)
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」
(イエス・キリストの言葉。新約聖書・マタイ福音書5章9節)。
私の願いは、この地域の子どもたちが、真の神様と神の子イエス・キリストを信じ、平和と愛と正義と思いやりを愛する人になることです。私のこの8月に妻と広島市に行き、平和記念資料館(原爆資料館)に行きました(3回目、長崎の原爆資料館は2回見学)。私の母の伯父は、広島の原爆で亡くなりました。爆心地に近い平和記念公園、原爆ドーム前に立ち、原爆投下当日の惨状を思い、ウクライナと日本と世界の平和を祈りました。ウクライナ戦争で悪いのはプーチン大統領と取り巻きで、ロシアの一般国民が悪いとは思いませんし、まして日本在住の一般ロシア人が嫌がらせ受けることがあってはなりません。
8月28日(日)には、妻と日本キリスト教団広島流川教会の礼拝に出席しました。原爆で壊れた古い礼拝堂の、焼け焦げた木材を組み合わせ作った十字架(イエス様の愛のシンボル)を掲げ、青空礼拝から再開したそうです。礼拝堂を再建し、1995年に被爆50年を記念し、その黒焦げの十字架を改めて堂内の正面に掲げ、さらに建て直した今の礼拝堂にも掲げて、それを見上げて毎週の日曜礼拝が献げられています。戦争と原爆の罪深さを心に刻み、イエス様の御言葉「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(上記)を実行し、核兵器が1つもない世界を造る強い決意を新たにするためです。唯一の戦争被爆国・日本に生きる私たち一人一人に、その責任と使命があると信じます。プーチンが絶対に核兵器を使わないように祈る責任もあります。
この7月に年長児合宿で3年ぶりに飯能市の「大平(おおひら)ハウス」に行きました。最近知って驚いたのは、幕末から明治になった1868年の戊辰戦争で、飯能駅付近でも戦争があったことです。駅近く北西の能仁寺に幕府方が本拠を置き、新政府軍の砲撃で炎上したそうです。昨年のNHK大河ドラマの主人公・渋沢栄一の甥がそこで幕府方で戦いました。人間は何と戦争好きなのかと、悲しみと怒りを覚えます。これからはもちろん、変わる必要があります。「主(しゅ。神様)は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に。彼らが愚かなふるまい(戦争)に戻らないように」(旧約聖書 詩編85編9節)。この地域の子どもたちがイエス様を愛し、世界のすべての国と地域の人々と仲良くする人になるように祈ります。アーメン。
(イエス・キリストの言葉。新約聖書・マタイ福音書5章9節)。
私の願いは、この地域の子どもたちが、真の神様と神の子イエス・キリストを信じ、平和と愛と正義と思いやりを愛する人になることです。私のこの8月に妻と広島市に行き、平和記念資料館(原爆資料館)に行きました(3回目、長崎の原爆資料館は2回見学)。私の母の伯父は、広島の原爆で亡くなりました。爆心地に近い平和記念公園、原爆ドーム前に立ち、原爆投下当日の惨状を思い、ウクライナと日本と世界の平和を祈りました。ウクライナ戦争で悪いのはプーチン大統領と取り巻きで、ロシアの一般国民が悪いとは思いませんし、まして日本在住の一般ロシア人が嫌がらせ受けることがあってはなりません。
8月28日(日)には、妻と日本キリスト教団広島流川教会の礼拝に出席しました。原爆で壊れた古い礼拝堂の、焼け焦げた木材を組み合わせ作った十字架(イエス様の愛のシンボル)を掲げ、青空礼拝から再開したそうです。礼拝堂を再建し、1995年に被爆50年を記念し、その黒焦げの十字架を改めて堂内の正面に掲げ、さらに建て直した今の礼拝堂にも掲げて、それを見上げて毎週の日曜礼拝が献げられています。戦争と原爆の罪深さを心に刻み、イエス様の御言葉「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(上記)を実行し、核兵器が1つもない世界を造る強い決意を新たにするためです。唯一の戦争被爆国・日本に生きる私たち一人一人に、その責任と使命があると信じます。プーチンが絶対に核兵器を使わないように祈る責任もあります。
この7月に年長児合宿で3年ぶりに飯能市の「大平(おおひら)ハウス」に行きました。最近知って驚いたのは、幕末から明治になった1868年の戊辰戦争で、飯能駅付近でも戦争があったことです。駅近く北西の能仁寺に幕府方が本拠を置き、新政府軍の砲撃で炎上したそうです。昨年のNHK大河ドラマの主人公・渋沢栄一の甥がそこで幕府方で戦いました。人間は何と戦争好きなのかと、悲しみと怒りを覚えます。これからはもちろん、変わる必要があります。「主(しゅ。神様)は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に。彼らが愚かなふるまい(戦争)に戻らないように」(旧約聖書 詩編85編9節)。この地域の子どもたちがイエス様を愛し、世界のすべての国と地域の人々と仲良くする人になるように祈ります。アーメン。
2022-11-19 1:36:00(土)
「あなたたちの食物としなさい」 2022年11月20(日)収穫感謝日礼拝 説教
順序:招詞 ヨハネ福音書6:27~29,頌栄29、「主の祈り」,交読詩編104:10~30,使徒信条、讃美歌21・224、聖書 創世記9:1~15(旧約p.11)、祈祷、説教、讃美歌21・386、献金、頌栄83(1節)、祝祷。
(創世記9:1~15)
神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」
神はノアと彼の息子たちに言われた。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
(説教) 本日は、収穫感謝日礼拝、降誕前第5主日の礼拝です。本日の説教題は「あなたたちの食物としなさい」です。聖書は、旧約聖書の創世記9章1~15節です。小見出しは「祝福と契約」です。
神様が私たちに食べ物を与えて、心身を元気づけて下さることを感謝致します。創世記1章の天地創造の場面を見ると、神様は第三の日にこう命じられます。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになりました。「地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。」そして神様は、男と女を創造なさった第六の日に、人間たちに言われました。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」「そのようになった。神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」と、書かれています。エデンの園では人間も動物も、野菜や果物だけを食べていたのですね。動物たちもそうで、肉食動物が草食動物を食べることは全くありませんでした。弱肉強食は全くない、完全に平和な理想の世界でした。天国です。
この後、創世記3章で、最初の人間たちエバとアダムが蛇の誘惑(悪魔の誘惑)に負けて、神様の戒めに背く罪を犯します。そこから世界は狂ってきます。神様がアダムを叱り、これからは労働してパンを得るようになると宣告されます。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」最新の翻訳である聖書協会共同訳では、神様はここでアダムに「お前」ではなく、「あなた」と呼びかけておられます。ちょっとした変化ですが、聖書協会共同訳では「お前」という訳語が減り、「あなた」になった個所が多い印象です。
それはともかく、神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せる憐れみを示された上で、二人をエデンの園から追い出し、アダムに彼がそこから取られた土を耕させることにされました。この時から、私たちは厳しい労働をして食べ物を得る生活に入りました。その後、増え広がった人間たちが悪ばかり行うので、神様は洪水を起こして、世界を一旦滅ぼされました。ノア夫婦と三人の息子たちとその妻たちの8人と、雄雌の鳥、家畜、地を這うものたちが箱舟に入り、食べられるもの(野菜や木の実)も食料として積み込まれました。ノア一家と動物たちも、これを食べて生き延びたのです。ようやく洪水がひき、ノアたちは外に出て、ノアは祭壇を築いて、神様を礼拝しました。
すると神様が言われます。本日の9章1節途中からです。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」この時から、青草(野菜や果物)だけでなく、「動いている命あるもの」つまり動物や魚を食べることが許されるようになりました。肉食の許可です。但し、血は命なので、血を含んだまま食べてはならないと強調されています。血は命だからと。確かに血は命です。血液を失うと、人間も動物も死にます。血を多く失った場合は、輸血しなければ死にます。献血をすると、血は本当に命だと実感します。
ノアの洪水後の世界では、神様によって肉食が許可されるようになりました。その後、イスラエルの民にモーセの十戒と律法が与えられると、清くて食べてよい動物と、汚れていて食べてはいけない動物に分けられるようになりました。旧約聖書のレビ記11章に記されています。「地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反芻するものである。」この条件を満たす動物は清いので食べてよいが、満たさない動物は清くないので、食べてはならないという論法です。これは新約聖書の時代の今は気にしなくてよいのですが、旧約聖書の時代には生きていた決まりです。「ひづめが分かれ、完全に割れており、反芻する動物」は牛、羊、山羊等だそうです。そこで牛、羊、山羊が清い動物で、神様への供え物(犠牲、いけにえ)として献げられました。牛、羊、山羊等は清い動物とされたので、神様への献げ物として献げられ、また清いので食べることもできました。反対に清くない、汚れた動物の例はいのししです。いのししは豚と言ってもほぼ同じようです。そこで汚れている豚は神様への献げ物にすることができず、食べることも禁じられていました。今でもユダヤ教では豚肉を食べることを禁じていると思います。鳥に関しては、汚れた鳥は神様への献げ物にできませんが、山鳩や家鳩は清いと見なされ、神様への献げ物にできたようです。こう見ると、神様への礼拝と日常の飲食が結びついている感じがします。清い動物は神様への献げ物にでき、食べることも許され、汚れた動物についてはそのどちらもできないのですから。
新約聖書の今は、清い動物、汚れた動物の区別はありません。豚を食べてはいけないこともありません。新約聖書の使徒言行録10章で、イエス様の弟子ペトロが、ヤッファという町にいたとき、ペトロが昼食前に屋上で祈っていた時、我を忘れたような状態になり、天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされて、地上に降りて来るのを見ました。その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。レビ記の規定では汚れている動物も入っていたようです。神様の声が聞こえます。「ペトロよ、屠って食べなさい。」ペトロはユダヤ人なので驚き、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」するとまた声(神の声)が聞こえて、「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」このようなことが三度もあって、入れ物は天に引き上げられました。神様が「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われたのですから、今や清い動物と汚れた動物の区別はありません。私たちは基本的には、どの動物も食べることを許されています。
少しひっかかるとすれば、野菜や果物も生きているのですが、魚や肉を食べる場合は、はっきり殺して食べることです。このことを少し考えようと、私はしばらく前にJR品川駅すぐ近くにある食肉市場・お肉の情報館に行きました。東京中央卸売市場の中だったようです。食肉市場では毎日多くの牛や豚を解体して、肉にしています。本当は解体の現場を見学したかったのですがそれはできず、お肉の情報館で写真や資料、DVDを見ることができました。気分よくない話で申し訳ありませんが、牧場等から車両で運んで来た牛や豚を、まず道具で頭の急所を打ってアッと言う間に失神させるのですね。血管を切ると、血液を抜くことができます。続いて皮をはぎ、体を解体して肉を切り出して行く。熟練した人々による流れ作業という現実です。牛や豚が何らかの病気にかかっていないかも顕微鏡で検査しています。病気が見つかると市場には出せません。私たちは小さくされた肉をお店で買って食べるのですが、DVDとは言え見学すると、きれいごとではないことを感じます。神様の許可があるので食べてよいのですが、牛や豚の命を食べて、私たちは生きているのだなと、改めて悟ります。神様と、死んでくれた動物たちに感謝して食べないといけないと、改めて感じます。食肉市場の敷地には、死んだ動物たちの慰霊碑もあるそうです。 (解体業が差別された歴史。)
本日の創世記9章以来、聖書で肉食は許されています。ですが、ルカ福音書15章の放蕩息子のたとえで、息子の帰宅を喜んで「肥えた子牛を屠りなさい。食べて祝おう」と言っているように、肉は特別の時のごちそうとも言えそうです。必ず食べなさいと命じられているわけではないと思います。菜食が基本的には健康によいと思います。但し最近は、高齢者こそ採食ばかりでなく、時々肉を食べて体力の低下を防ぐ必要があると言われ、それもその通りと思います。でも同時に過度の肉食は、やはりあまり健康によくないと思います。お肉の情報館の資料に書いてあったのですが、今は牛を増やすために人工授精も行う。そこまでして牛を増やして肉を食べる必要はないのではないかとの疑問もあると書かれていました。動物愛護団体によると、日本の養鶏場では、狭いスペースに鶏を詰め込んでいて、いくら食べられてしまう鶏でも可哀そう。動物虐待。鳥インフルエンザが発生すれば、やむを得ないとは言え、何千何万匹の鶏を殺処分する。ある神父は「あれは本当に愛がないですよね」と説教で語っていました。聖書で肉食が許されているとは言え、人工授精で増やしてたくさん食べる、必要以上にたくさん食べるのは、貪欲の罪になると思います。人間も牛も豚も鶏も、神様に造られた仲間でもあるので、動物の命も大事にすることが必要です。肉を食べるにしても、節度を保つことが当然必要になると思います。
キリスト教会の一派に、セブンスデーアドヴェンティストという教派があり、ご存じの通り、このすぐ近くのシャローム東久留米は、セブンスデーアドヴェンティスト教団の高齢者施設です。セブンスデーアドヴェンティストは、菜食主義と聞きます。実際、健康にはよいと思います。私たちはプロテスタント教会ですが、カトリック教会では以前は(今はどうか分かりませんが)、毎週金曜日には肉を食べない習慣があったそうです。金曜日はイエス様が私たちの罪を背負って十字架に架かって下さった日なので、毎週(受難週だけでなく)金曜日は肉を食べない習慣があったそうです。魚はOKだったそうです。これは信仰上の節制、ぜいたくを避けることと思います。それが神様に喜ばれると考える人は、採り入れてもよいと思います。
野菜を食べるにしても、お米を食べるにしても、肉や魚を食べるにしても、食べ物は全て神様の恵みと信じ、感謝して食べることが大切であることは、申すまでもありません。共に食べることは、共に神様の恵みに感謝することですね。箴言の15章17節を思い出します。「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。」「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食で愛し合う方がよい。」なるほどと感じる、味わい深い御言葉です。箴言には味わい深い御言葉が多いです。
そして、使徒言行録14章15節以下には、イエス様の弟子・使徒パウロの、恵み深い伝道メッセージが記されています。ゼウスなどの偶像(偽物の神)を拝んでいたギリシア人たちへのメッセージです。「あなた方がこのような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなた方の心を喜びで満たして下さっているのです。」真の神様は恵み深い方で、私たちが真の神様を知る前から、雨を降らせて実りの季節を与え、食物を与えて、すべての人間と生き物に喜びを与えて来られたと言っています。私たちも本日、食べ物を与えて下さる神様に感謝するために、礼拝に集まっています。私たちは同時に、農家の方々に感謝し、牛や豚を飼育する方々、解体する方々にも感謝し、それを流通させて下さるトラックの運転手さん(きつい労働!)にも、神様の祝福を祈りたいと思います。
肉ではなく、創世記1章から人間と動物たちに食物として与えられている野菜や果物について言えば、皆さんの中にも家庭菜園をなさっている方々がおられます。私も少しだけ真似をして、集合住宅3階のベランダのプランターで、数年前から少しずつ挑戦しています。ほんの僅かです。今年はミニトマト、シソの葉、初めてピーマン、小ぶりのなすが採れました。わずかなので、お恥ずかしい限りです。きゅうりはだめでした。来年は肥料を入れて、もう少しがんばろうと思います。
私はお会いしたことがありませんが、かつて小林カツ代さんとおっしゃる著名な料理研究家(今は天国です)が東久留米教会の会員でいらしたそうです。その後は、ひばりが丘教会に移られたようです。『暮らしの手帖』という雑誌の2020年7月号に、小林カツ代さんの特集が組まれ、私も買って読みました。題は「キッチンから平和を伝えた人」。小林さんの料理の原点には、創世記1章29節があるようです。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」小林さんは言われます。「私は料理研究家になってよかった。スーパーでしおれていたホウレンソウが、水で洗うとみるみる生気を取り戻す。野菜だって何だって、命あるものはすべて生きたがっている。それに気づくことができた。」すべての命は、神様が造られた尊い命と言う信仰がありました。「だから私は、キッチンから戦争に反対していく。」お父様が兵隊で中国に行かれた経験を聞いて、戦争絶対反対の気持ちを生涯もたれたようです。料理研究家になられ、神様が造られた全ての命を愛されました。その命を殺す戦争に当然反対でした。「歴史の暗い部分をしっかり見つめ、若い人のためにこそ戦争を絶対起こさないために、元気でパワフルに、しっかり生きて行こうと思います」と語られました。
私たちは今日も「主の祈り」で、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈りました。少し前の礼拝でも申しましたが、500年前の宗教改革者マルティン・ルターが、「主の祈り」の解説の中だったかもしれませんが、こう書いたと聞きます。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るときは、世界平和をも祈らないといけない。せっかく収穫された食物も、戦争があると、その流通が妨げられるから、と。戦争も食物の行き渡りを妨害するし、金持ちの国が世界から多くの食料を買い過ぎることも、貧富の格差や、飢えに苦しむ人々を産み出してしまいます。世界人口が80億人を超えたそうです。私が子どもの頃は40億人でしたから、何と二倍です。もっと食糧が公平に行き渡り、飢える人がいない世界にするよう、私たちも努力する必要があります。フードバンク運動も大切と思います。自分にできることを行いながら、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈り続けて参りたく思います。アーメン(真実に)。
(創世記9:1~15)
神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」
神はノアと彼の息子たちに言われた。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
(説教) 本日は、収穫感謝日礼拝、降誕前第5主日の礼拝です。本日の説教題は「あなたたちの食物としなさい」です。聖書は、旧約聖書の創世記9章1~15節です。小見出しは「祝福と契約」です。
神様が私たちに食べ物を与えて、心身を元気づけて下さることを感謝致します。創世記1章の天地創造の場面を見ると、神様は第三の日にこう命じられます。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになりました。「地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。」そして神様は、男と女を創造なさった第六の日に、人間たちに言われました。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」「そのようになった。神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」と、書かれています。エデンの園では人間も動物も、野菜や果物だけを食べていたのですね。動物たちもそうで、肉食動物が草食動物を食べることは全くありませんでした。弱肉強食は全くない、完全に平和な理想の世界でした。天国です。
この後、創世記3章で、最初の人間たちエバとアダムが蛇の誘惑(悪魔の誘惑)に負けて、神様の戒めに背く罪を犯します。そこから世界は狂ってきます。神様がアダムを叱り、これからは労働してパンを得るようになると宣告されます。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」最新の翻訳である聖書協会共同訳では、神様はここでアダムに「お前」ではなく、「あなた」と呼びかけておられます。ちょっとした変化ですが、聖書協会共同訳では「お前」という訳語が減り、「あなた」になった個所が多い印象です。
それはともかく、神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せる憐れみを示された上で、二人をエデンの園から追い出し、アダムに彼がそこから取られた土を耕させることにされました。この時から、私たちは厳しい労働をして食べ物を得る生活に入りました。その後、増え広がった人間たちが悪ばかり行うので、神様は洪水を起こして、世界を一旦滅ぼされました。ノア夫婦と三人の息子たちとその妻たちの8人と、雄雌の鳥、家畜、地を這うものたちが箱舟に入り、食べられるもの(野菜や木の実)も食料として積み込まれました。ノア一家と動物たちも、これを食べて生き延びたのです。ようやく洪水がひき、ノアたちは外に出て、ノアは祭壇を築いて、神様を礼拝しました。
すると神様が言われます。本日の9章1節途中からです。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」この時から、青草(野菜や果物)だけでなく、「動いている命あるもの」つまり動物や魚を食べることが許されるようになりました。肉食の許可です。但し、血は命なので、血を含んだまま食べてはならないと強調されています。血は命だからと。確かに血は命です。血液を失うと、人間も動物も死にます。血を多く失った場合は、輸血しなければ死にます。献血をすると、血は本当に命だと実感します。
ノアの洪水後の世界では、神様によって肉食が許可されるようになりました。その後、イスラエルの民にモーセの十戒と律法が与えられると、清くて食べてよい動物と、汚れていて食べてはいけない動物に分けられるようになりました。旧約聖書のレビ記11章に記されています。「地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反芻するものである。」この条件を満たす動物は清いので食べてよいが、満たさない動物は清くないので、食べてはならないという論法です。これは新約聖書の時代の今は気にしなくてよいのですが、旧約聖書の時代には生きていた決まりです。「ひづめが分かれ、完全に割れており、反芻する動物」は牛、羊、山羊等だそうです。そこで牛、羊、山羊が清い動物で、神様への供え物(犠牲、いけにえ)として献げられました。牛、羊、山羊等は清い動物とされたので、神様への献げ物として献げられ、また清いので食べることもできました。反対に清くない、汚れた動物の例はいのししです。いのししは豚と言ってもほぼ同じようです。そこで汚れている豚は神様への献げ物にすることができず、食べることも禁じられていました。今でもユダヤ教では豚肉を食べることを禁じていると思います。鳥に関しては、汚れた鳥は神様への献げ物にできませんが、山鳩や家鳩は清いと見なされ、神様への献げ物にできたようです。こう見ると、神様への礼拝と日常の飲食が結びついている感じがします。清い動物は神様への献げ物にでき、食べることも許され、汚れた動物についてはそのどちらもできないのですから。
新約聖書の今は、清い動物、汚れた動物の区別はありません。豚を食べてはいけないこともありません。新約聖書の使徒言行録10章で、イエス様の弟子ペトロが、ヤッファという町にいたとき、ペトロが昼食前に屋上で祈っていた時、我を忘れたような状態になり、天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされて、地上に降りて来るのを見ました。その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。レビ記の規定では汚れている動物も入っていたようです。神様の声が聞こえます。「ペトロよ、屠って食べなさい。」ペトロはユダヤ人なので驚き、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」するとまた声(神の声)が聞こえて、「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」このようなことが三度もあって、入れ物は天に引き上げられました。神様が「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われたのですから、今や清い動物と汚れた動物の区別はありません。私たちは基本的には、どの動物も食べることを許されています。
少しひっかかるとすれば、野菜や果物も生きているのですが、魚や肉を食べる場合は、はっきり殺して食べることです。このことを少し考えようと、私はしばらく前にJR品川駅すぐ近くにある食肉市場・お肉の情報館に行きました。東京中央卸売市場の中だったようです。食肉市場では毎日多くの牛や豚を解体して、肉にしています。本当は解体の現場を見学したかったのですがそれはできず、お肉の情報館で写真や資料、DVDを見ることができました。気分よくない話で申し訳ありませんが、牧場等から車両で運んで来た牛や豚を、まず道具で頭の急所を打ってアッと言う間に失神させるのですね。血管を切ると、血液を抜くことができます。続いて皮をはぎ、体を解体して肉を切り出して行く。熟練した人々による流れ作業という現実です。牛や豚が何らかの病気にかかっていないかも顕微鏡で検査しています。病気が見つかると市場には出せません。私たちは小さくされた肉をお店で買って食べるのですが、DVDとは言え見学すると、きれいごとではないことを感じます。神様の許可があるので食べてよいのですが、牛や豚の命を食べて、私たちは生きているのだなと、改めて悟ります。神様と、死んでくれた動物たちに感謝して食べないといけないと、改めて感じます。食肉市場の敷地には、死んだ動物たちの慰霊碑もあるそうです。 (解体業が差別された歴史。)
本日の創世記9章以来、聖書で肉食は許されています。ですが、ルカ福音書15章の放蕩息子のたとえで、息子の帰宅を喜んで「肥えた子牛を屠りなさい。食べて祝おう」と言っているように、肉は特別の時のごちそうとも言えそうです。必ず食べなさいと命じられているわけではないと思います。菜食が基本的には健康によいと思います。但し最近は、高齢者こそ採食ばかりでなく、時々肉を食べて体力の低下を防ぐ必要があると言われ、それもその通りと思います。でも同時に過度の肉食は、やはりあまり健康によくないと思います。お肉の情報館の資料に書いてあったのですが、今は牛を増やすために人工授精も行う。そこまでして牛を増やして肉を食べる必要はないのではないかとの疑問もあると書かれていました。動物愛護団体によると、日本の養鶏場では、狭いスペースに鶏を詰め込んでいて、いくら食べられてしまう鶏でも可哀そう。動物虐待。鳥インフルエンザが発生すれば、やむを得ないとは言え、何千何万匹の鶏を殺処分する。ある神父は「あれは本当に愛がないですよね」と説教で語っていました。聖書で肉食が許されているとは言え、人工授精で増やしてたくさん食べる、必要以上にたくさん食べるのは、貪欲の罪になると思います。人間も牛も豚も鶏も、神様に造られた仲間でもあるので、動物の命も大事にすることが必要です。肉を食べるにしても、節度を保つことが当然必要になると思います。
キリスト教会の一派に、セブンスデーアドヴェンティストという教派があり、ご存じの通り、このすぐ近くのシャローム東久留米は、セブンスデーアドヴェンティスト教団の高齢者施設です。セブンスデーアドヴェンティストは、菜食主義と聞きます。実際、健康にはよいと思います。私たちはプロテスタント教会ですが、カトリック教会では以前は(今はどうか分かりませんが)、毎週金曜日には肉を食べない習慣があったそうです。金曜日はイエス様が私たちの罪を背負って十字架に架かって下さった日なので、毎週(受難週だけでなく)金曜日は肉を食べない習慣があったそうです。魚はOKだったそうです。これは信仰上の節制、ぜいたくを避けることと思います。それが神様に喜ばれると考える人は、採り入れてもよいと思います。
野菜を食べるにしても、お米を食べるにしても、肉や魚を食べるにしても、食べ物は全て神様の恵みと信じ、感謝して食べることが大切であることは、申すまでもありません。共に食べることは、共に神様の恵みに感謝することですね。箴言の15章17節を思い出します。「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。」「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食で愛し合う方がよい。」なるほどと感じる、味わい深い御言葉です。箴言には味わい深い御言葉が多いです。
そして、使徒言行録14章15節以下には、イエス様の弟子・使徒パウロの、恵み深い伝道メッセージが記されています。ゼウスなどの偶像(偽物の神)を拝んでいたギリシア人たちへのメッセージです。「あなた方がこのような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなた方の心を喜びで満たして下さっているのです。」真の神様は恵み深い方で、私たちが真の神様を知る前から、雨を降らせて実りの季節を与え、食物を与えて、すべての人間と生き物に喜びを与えて来られたと言っています。私たちも本日、食べ物を与えて下さる神様に感謝するために、礼拝に集まっています。私たちは同時に、農家の方々に感謝し、牛や豚を飼育する方々、解体する方々にも感謝し、それを流通させて下さるトラックの運転手さん(きつい労働!)にも、神様の祝福を祈りたいと思います。
肉ではなく、創世記1章から人間と動物たちに食物として与えられている野菜や果物について言えば、皆さんの中にも家庭菜園をなさっている方々がおられます。私も少しだけ真似をして、集合住宅3階のベランダのプランターで、数年前から少しずつ挑戦しています。ほんの僅かです。今年はミニトマト、シソの葉、初めてピーマン、小ぶりのなすが採れました。わずかなので、お恥ずかしい限りです。きゅうりはだめでした。来年は肥料を入れて、もう少しがんばろうと思います。
私はお会いしたことがありませんが、かつて小林カツ代さんとおっしゃる著名な料理研究家(今は天国です)が東久留米教会の会員でいらしたそうです。その後は、ひばりが丘教会に移られたようです。『暮らしの手帖』という雑誌の2020年7月号に、小林カツ代さんの特集が組まれ、私も買って読みました。題は「キッチンから平和を伝えた人」。小林さんの料理の原点には、創世記1章29節があるようです。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」小林さんは言われます。「私は料理研究家になってよかった。スーパーでしおれていたホウレンソウが、水で洗うとみるみる生気を取り戻す。野菜だって何だって、命あるものはすべて生きたがっている。それに気づくことができた。」すべての命は、神様が造られた尊い命と言う信仰がありました。「だから私は、キッチンから戦争に反対していく。」お父様が兵隊で中国に行かれた経験を聞いて、戦争絶対反対の気持ちを生涯もたれたようです。料理研究家になられ、神様が造られた全ての命を愛されました。その命を殺す戦争に当然反対でした。「歴史の暗い部分をしっかり見つめ、若い人のためにこそ戦争を絶対起こさないために、元気でパワフルに、しっかり生きて行こうと思います」と語られました。
私たちは今日も「主の祈り」で、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈りました。少し前の礼拝でも申しましたが、500年前の宗教改革者マルティン・ルターが、「主の祈り」の解説の中だったかもしれませんが、こう書いたと聞きます。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るときは、世界平和をも祈らないといけない。せっかく収穫された食物も、戦争があると、その流通が妨げられるから、と。戦争も食物の行き渡りを妨害するし、金持ちの国が世界から多くの食料を買い過ぎることも、貧富の格差や、飢えに苦しむ人々を産み出してしまいます。世界人口が80億人を超えたそうです。私が子どもの頃は40億人でしたから、何と二倍です。もっと食糧が公平に行き渡り、飢える人がいない世界にするよう、私たちも努力する必要があります。フードバンク運動も大切と思います。自分にできることを行いながら、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈り続けて参りたく思います。アーメン(真実に)。