日本キリスト教団 東久留米教会

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2024-04-14 0:57:07()
「信じる者になりなさい」 2024年4月14日(日)礼拝説教
順序:招詞 ヨハネ福音書16:33,頌栄16(1節)、主の祈り,交読詩編120、使徒信条、讃美歌21・321、聖書 詩編42:12(旧約p.876)、ヨハネ福音書20:24~31(新約p.210)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌328、献金、頌栄92、祝祷。 

(詩編42:12)なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

(ヨハネ福音書20:24~31) 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

(説教) 本日は、復活節第3主日公同礼拝です。説教題は「信じる者になりなさい」です。新約聖書は、ヨハネ福音書20:24~31です。本日の最初の小見出しは、「イエスとトマス」です。

 最初の24節「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった。」なぜ一緒にいなかったのかは、分かりません。トマスはあまり群れないタイプの人だったのかもしれません。トマスは、格好をつけない正直な人です。このヨハネ福音書14章でイエス様は、「私がどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている」と弟子たちに言われました。イエス様は十字架を経て、天に昇られるのです。しかしそれが分からなかったトマスは正直に、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言いました。するとイエス様が、非常に重要なことを教えて下さいました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。あなた方が私を知っているなら、私の父をも知ることになる。今から、あなた方は父を知る。いや既に父を見ている(イエス様を見たことは、父なる神様を見たと同じ)。」トマスが知ったかぶりをしないで、正直に分からないと言ってくれたお陰で、私たちはイエス様から重要な真理を聞くことができたのです。「私は(イエス様は)道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」

 トマスは正直な人なので、イエス様の復活をすぐに信じるとも言いませんでした。本日の個所に戻って25節「そこで、ほかの弟子たちが、『私たちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない。』」決して信じないと強調していますから、トマスは正直ではあるが、なかなか頑固でもあったと感じます。

 当時のイスラエルには、死者が復活するという信仰はあったのですね。但し、全員がそう信じていたのではありません。使徒言行録23章8節を見ると、ユダヤ教のサドカイ派は、「天使も復活も霊もない」と言い、ファリサイ派は「天使もいる、復活もある、霊(おそらく人間の霊か)もある」と信じていました。少なくともファリサイ派の人々は、死者は復活すると信じていたのです。根拠はおそらく旧約聖書のダニエル書12章2節等です。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り」と書かれています。またエゼキエル書37章には、「枯れた骨の復活」という非常に劇的な場面もあります。」

 このような個所はありますが、それでも旧約聖書で、死者の復活がそれほど多くの個所で語られているとは言えないでしょう。イスラエルの信仰で復活が明確に出て来るのは、以前にもお話しましたが、旧約聖書と新約聖書の中間の時代と思われます。聖書には含まれない外典という書物(新共同訳聖書では、旧約聖書の続編と名付けられており、東久留米教会備え付けの聖書には付随していません)があります。その中のマカバイ記(二)という書物の7章に「七人兄弟の殉教」という小見出しがあります。これは旧約聖書と新約聖書の中間の時代に起こった、ユダヤ人の信仰への大迫害を記録しています。アンティオコス・エピファネスという外国人の悪い王がイスラエルを支配し、神様の戒めで禁じられていることを行うよう強要しました。すると七人の兄弟がそれを拒否して次々と殺され、殉教の死を遂げました。二人目はこう言ったのです。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王(神様)は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせて下さるのだ。」復活信仰を抱いていたのです。その七人兄弟の母親も死ぬのですが、母親はこう言いました。「私はお前たちがどのようにして私の胎に宿ったのか知らない。お前たちに霊と命を恵んだのでもなく、私がお前たち一人一人の肢体を組み合わせたのでもない。人の出生をつかさどり、あらゆるものに生命を与える世界の造り主は、憐れみをもって、霊と命再びお前たちに与えて下さる。それは今ここで、お前たちが主の律法のためには、命をも惜しまないからだ。」七人の息子たちの復活を信じていたのです。きっと自分の復活をも信じていたでしょう。迫害の時代にあって、不当な迫害によって殺された信仰者が死んでおしまいのはずがない。神様に命がけで従ったので、神様が必ず復活させ、永遠の命に入れて下さるとの信仰が、はっきり出てきます。その歴史の流れの中で、イエス様の時代のファリサイ派の人々も、死者の復活を信じる信仰を抱いていたと思います。初代教会の最大の伝道者となったパウロも、熱心なファリサイ派だったので、イエス様の復活を知る前から、死者の復活はあると信じていたはずです。
 
 但し、死者の復活は、遠い将来に起こることと考えられていたようです。ですからヨハネ福音書11章のでラザロという男性が死んで、イエス様がその姉妹のマルタに「あなたの兄弟は復活する」と断言された時、マルタは「終わりの日(世の終わりの日)の復活の時に復活することは存じております」と答えました。遠い将来のこととしては信じても、現実のことと実感はしていなかったのです。私たちも似ているかもしれませんね。ところがイエス様がマルタに、目の覚めることを言われます。「私は復活であり、真理であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」私なりに訳すと「私こそ復活であり、真理である。私を信じる者は、死んでも生きる。」そう言って、ラザロを復活させて下さったのです。もちろん正確に言うと、ラザロの復活とイエス様の復活は、全く同じではありません。ラザロは霊の体に復活したのではなく、以前と同じ肉の体に復活したと思います。そして後にもう一度死んだはずです。イエス様の復活は、霊の体での復活であり、もはや死ぬことがありません。そのような違いはありますが、でもラザロも確かに復活しました。イエス様の弟子たち(ペトロ、ヨハネ、トマス)は、ラザロの復活を見たり知っているのですから、イエス様の復活を受け入れやすかったはずとも思えますが、実際には復活されたイエス様に出会って初めて、イエス様の復活を信じることができました。

 さて、トマスです。彼は頑固に言い張りました。「イエス様の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」イエス様はこれを聞いて、心を痛められたと思います。トマスを愛しておられたイエス様は、トマス一人のために八日後(おそらく次の日曜日)に来て下さったのです。一番信仰の弱いトマスを助けるために、来て下さいました。26節「さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸には皆、鍵がかけてあったのに、イエス様が来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」「シャローム(平和、平安)があるように」と福音を語って下さいました。

 そしてトマスが信じることができるように、ご自分の体を示して下さいました。やや生々しい場面です。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」イエス様はこんなにもトマスに親切に語って下さり、トマスがイエス様の復活を信じることができるように、信仰の最も弱いトマスのために、このように具体的に行動して下さったのです。聖書にこの場面があるから、イエス様の復活を信じることができるようになった人々が、きっと昔から大勢おられるのではないかと思います。トマスの不信仰自体はよいことではないと思いますが、トマスが疑ったお陰で復活のイエス様が確かにトマスの目の前に来て下さり、私たちもイエス様の復活を確実に信じることができるようにして下さったと思うのです。そう考えると、ある意味トマスに感謝したくなりますし、聖書にこの場面があることは、神様の私たちへの大きな親切だと思うのです。

 ある人は、イエス様はトマスのためにも、かねてから祈っておられたに違いないと言います。間違いないことです。イエス様は、トマスが信じることができるように、ずっと祈って来られました。トマスにご自分の復活を信じてほしかったからです。「信じる人になってほしい」と、心から切に願っておられたのです。イエス様は私たち一人一人皆についても、「信じる人になってほしい」と切に願っておられます。そして行動も起こして下さり、トマスのもとに本当に来て下さいました。イエス・キリストは、ヨハネの黙示録3章20節で、こう語られます。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。」イエス様は今日も私たちの心のドアをノックしておられます。私たちがイエス様を神の子と信じ告白するように、イエス様の復活を信じることができるようにと、イエス様は今も私たちの心のドアをノックしておられます。私たちも、素直にイエス様を心の中に迎え入れ、トマスと同じように、「私の主、私の神よ」との告白を献げたいのです。
  
 カラバッジョというイタリアの画家が、本日の場面を絵に描いています。トマスがイエス様のわき腹の傷の中に、自分の指を入れて、本当にこの方がイエス様なのか、確かめている場面です。ヨハネ福音書は、トマスが実際に指と手でイエス様の傷跡を触って確かめたとは書いていません。私はトマスはイエス様を見て、「参りました」とへりくだり、実際には指と手で傷跡に触れて確認はしなかったのだろうと思います。しかしカラバッジョは、実際トマスが触って確かめたと考えたのでしょう。触って確かめているトマスは、その絵の中では実はカラバッジョ自身の投影ではないかと感じます。イエス様の復活を信じにくいカラバッジョ自身が、トマスが触って確かめている場面を描くことで、自分の疑いを克服して、復活を信じる人になるために、カラバッジョはこの絵を描く必要があったと思うのです。2018年8月に、日本キリスト教団の青年4名と共に、台湾の教会訪問に行きました。その時、台南市の教会の壁に、このカラバッジョの大きな絵が描かれていて、強烈に印象に残っています。                                                                                                                                            

 イエス・キリストは、確かに復活され、今も霊の体をもって天で生きておられ、天から私たちに聖霊を注いで下さいます。イエス様が復活されたので、私たちも復活するのです。私たちの人生は死で終わるものではないので、地上の最後まで、イエス様に従って、神様の前に責任をもってしっかり生ききりたいのです。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)15章16節以下で、述べています。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰はむなしく、あなた方は今もなお罪の中にあることになります。」しかし、そんなことはないのです。イエス様が復活なさったので、「私たちはもはや罪の中にない」のです。イエス様が復活なさったので、私たちはもはや罪と死の支配下から脱出している。私たちは罪と死に勝利したイエス様の支配下に移されているのです。

 パウロは更に言います。「そうだとすると(キリストが復活しなかったとすると)、キリストを信じて眠りについた人々(キリストを信じて亡くなった人々)も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私たちはすべての人の中で最も惨めな者です。」しかしキリストが確かに復活したので、そのようなことは決してないのです。

 そしてパウロはさらに32節で言います。「もし、死者が復活しないのなら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります。」もし私たちが復活もなく、天国もなく、死んで全ておしまいならば、一生懸命に生きることに意味はない。せいぜいどんちゃん騒ぎをして、食べただけ食べ、欲望を満たしたいだけ満たせばよい。しかしそうではない。復活があり、天国があり、神様の直にお目にかかる時が必ず来るのだから、その時、神様に「あなたからいただいた地上の人生を、私はこのように責任をもって、あなたに従って一生懸命に生きました」と(100点は無理だけれども)少しでもよい報告ができるように、精一杯イエス様に従って生きる必要がある。私たちも復活するからこそ、私たちは地上の限られた人生を、イエス様に従って責任をもって精一杯生きる生き方に導かれる。私たちが復活しないなら、欲望充足だけで無責任に生きればよいが、復活があるからこそ、限られた人生を、イエス様に従う最も充実した生き方で生きていこうと導かれる。パウロはそう言っているように思われます。

 ヨハネ福音書に戻ると、イエス様に「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と諭されたトマスは、「私の主、私の神よ」と言ってイエス様を神として礼拝したと読めます。詩編42編12節。 イエス様はトマスに言われます。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」そして31節には、ヨハネ福音書が書かれた目的として、「これらのことが書かれたのは、あなた方、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命(永遠の命)を受けるためである」と書かれています。私たちの家族や身近な方々が、イエス様が救い主あること、十字架で死んで復活なさった方であることを確実に信じて下さるように、心を一つにして祈りましょう。

『サザエさんと長谷川町子』(工藤美代子著、幻冬舎新書、2020年)のエピソード。
アーメン。

2024-04-06 23:48:40(土)
「あなたがたに平和があるように」 2024年4月7日(日)礼拝説教
順序:招詞 ヨハネ福音書16:33,頌栄85、主の祈り,交読詩編119:161~176、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・325、聖書 エゼキエル書36:25~27(旧約p.1356)、ヨハネ福音書20:19~23(新約p.210)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌326、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(エゼキエル書36:25~27) わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。

(ヨハネ福音書20:19~23) その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。

(説教) 本日は、復活節第2主日公同礼拝です。説教題は「あなたがたに平和があるように」です。新約聖書は、ヨハネ福音書20:19~23です。本日の最初の小見出しは、「イエス、弟子たちに現れる」です。

 最初の19節「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」イエス様は、十字架の死の三日目の日曜日の早朝に復活されました。まだ暗いうちに墓に入ったマグダラ出身のマリアがまず、墓が空であることを見て取り、ペトロともう一人の弟子に知らせました。ペトロともう一人の弟子は墓に行き、墓が空であることを確かめました。しかしそのまま、家に帰りました。

マグダラのマリアは諦めきれず、墓にとどまっていました。そして復活のイエス様に出会ったのです。最初は園丁だと思いました。しかしイエス様の方から「マリア」と名前を呼ばれたのです。その声と調子で「イエス様だ」と、直観的に気づいたマリアは思わず「ラボニ」と答えます。「私の先生」の意味です。ここに心の交流が復活したのです。マリアは、すがりつこうとしますが、イエス様に止められます。イエス様はマリアに使命を与えられます。「私の兄弟たち(弟子たち)の所へ行きなさい。」その言葉に従ったマリアは、息せき切って弟子たちの所へ行って、弾む心で伝えたのです。「私は主を見ました。」「私は、復活されたイエス様にお目にかかりました!」しかし(ペトロともう一人の弟子はともかく)他の8人の弟子たちは、にわかには信じることができなかったようです。彼らはユダヤ人たちを恐れていました。自分たちもイエス様の弟子たちだと分かったら、捕らえらてしまう、そして十字架に架けられることもあり得ます。それを考え、彼らは一軒の家に集まって、なりを潜めていたのです。隠れていたとも言えます。

 19節後半「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなた方に平和があるように』と言われた。ヘブライ語(アラム語)で「シャローム」と言われたに違いありません。「シャローム」は、完全な平和、完全な愛によって完全に充足した状態を指します。20節「そう言って、手と脇腹をお見せになった。」もちろん両手には、十字架に釘付けられた時の穴がありました。脇腹には、十字架上で槍で刺された時の傷がありました。イエス様は確かに、十字架の上で死なれたのです。決して仮死状態だったのではありません。完全に死なれました。そして父なる神様の愛の御力によって三日目に復活させられたのです。それは体を伴う復活です。決して幽霊ではないのです。その体は霊の体で、鍵のかかった部屋の中にも入ることができます。ルカによる福音書によると、復活されたイエス様は、弟子たちの目の前で魚を食べられました。霊の体を持っておられるから食べることができます。そしてその両手と脇腹には十字架の傷がありました。ですから間違いなく、あのイエス様なのです。旧約聖書のイザヤ書53章5節を思い起こします。「彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。」

 弟子のヨハネは、イエス様の十字架の足元にいましたが、他の男の弟子たちは皆、逃げてしまいました。そしてイエス様の死を知って、日曜にはある家に集まって隠れていました。心は真っ暗で、平安は全くありませんでした。イエス様が復活したと聞いても、すぐには喜ぶことがで来ません。イエス様に厳しく叱られるかもしれません。「なぜ、私を見捨てて逃げたのか」と。しかしイエス様はそうは言われませんでした。そうではなく、「あなた方に平和があるように」という福音を語って下さいました。「あなた方が私を見すてて逃げた罪を赦すためにも、私は十字架に架かって死んだ。だからあなた方の罪は、もう赦されている。安心しなさい。あなたに平和があるように」と、」イエス様は福音を語って下さいました。それで弟子たちはほっとして喜ぶことができました。弟子たちは「主を見て喜んだ」と書かれています。「見た」とは、「何となく、漠然と眺めた」こととは違います。「信仰の目で、しっかりと見た」ということと思います。「喜んだ」も、普通の喜びとは別でしょう。聖霊が与えて下さる聖なる喜び、天国から来る喜びと思います。

 この喜びのことを、イエス様は十字架の前にも語っておられたのです。16章20節以下です。「あなた方は泣いて悲嘆に暮れる(イエス様の十字架の時)が、世は喜ぶ。あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。~ところで、今はあなた方も悲しんでいる。しかし、私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。」それはイエス・キリストが、いついかなる時も、共にいて下さる喜びです。

 弟子たちは聖なる喜びに満たされたのですが、イエス様の両手と脇腹、両足の甲には穴が開いていました。弟子たちの罪も、私たちの罪も、イエス様の両手の傷、脇腹の傷、そして両足に、やはり釘打たれたその傷によって赦されました。ある牧師の言葉に、「絆には傷が含まれる」という言葉があります。これは日本語の語呂合わせです。よい語呂合わせです。「絆には傷が含まれる。」イエス様の十字架の傷のお陰で、私たちと父なる神様との間の絆が回復されました。そして私たちと隣人との絆が回復されました。イエス様の十字架の傷のお陰です。ヘブライ人への手紙10章22節には「血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない。」同じように、「イエス様の十字架の傷なしには、私たちと父なる神様の間の、そして私たちと隣人の間の絆の回復はありえない」と言えるのです。「絆には、傷が含まれている」のです。

 21節でイエス様は、重ねて言われます。「あなた方に平和があるように。」ヘブライ語ではシャロームですね。この平和についても、イエス様は十字架以前にも繰り返し予告しておられたのです。14章27節です。「私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。」その平和が来たのです。イエス様が「あなた方に平和があるように」と言われた時にです。それはイエス様の十字架の死と復活によって与えられた真の平和です。

 さらにイエス様は言われます。16章21節の後半「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。」イエス様が父なる神様からこの地上に派遣されたように、弟子たち・私たちも、イエス様によって各々の家庭、職場、地域に派遣されます。イエス様ご自身をお運びするためです。私と妻に洗礼を授けて下さった牧師の礼拝の最後の祝祷を思い出します。ある時から急に変わって、このような祝祷になりました。「ここでの礼拝はこれで終わった。あなたは出て行って主イエス・キリストを証ししなさい。」会衆を各々の持ち場に派遣する言葉です。そうおっしゃってから、私も祝祷の時に読む旧約聖書・民数記6章が読まれます。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。」会衆を派遣する祝祷です。

 そして22節「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」この御言葉は、創世記2章7節を思い起こさせます。神様が人間を創造なさった重要な場面です。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」息と訳されたヘブライ語はネシャーマーという私は知らない言葉です。「息、息吹、霊」の意味を持っています。神様が人間の体を土の塵で作られ、それに命の息(命の霊)を吹き込んで、初めて人間は生きる者となりました。昨年天に召されたKさんが、しばしばおっしゃっていたことを思い出します。熱心なクリスチャンでKさんの洗礼式にも来られたおば様がKさんによく、「神様が息を吹き入れて、人間は人間になったのよ」と語られたそうです。
 
 「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」イエス様が弟子たちに聖霊を注がれる有名な場面は、使徒言行録2章に記されています。ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝でよく読まれる御言葉です。ヨハネによる福音書では、イエス様が復活なさった日曜日に、早くも弟子たちに聖霊を注いでおられます。今日の場面は、「ヨハネによる福音書のペンテコステ」と呼ばれています。ヨハネによる福音書では、復活の時と聖霊の注がれる時が一体化されています。罪が赦されないと、聖霊が注がれることはありません。弟子たちの中にまだ罪は残っていますが、イエス様の十字架によって罪が赦され、彼らが神の子たちになったので、彼らに聖霊が注がれました。その人の内に聖霊が生きて住んでおられれば、その人は神の子であり、罪を赦された人であり、永遠の命を保証されています。

 役員会で決めさせていただいた東久留米教会の2024年度の標語聖句は、ガラテヤの信徒への手紙6章22~23節です。「~霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」イエス様に「聖霊を受けなさい」と言われた弟子たちは、まさにこの霊を受けたのです。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の霊です。ここには聖霊が結ばせる9つの実が記れています。この9つの実は、まさにイエス様のご性質そのものです。弟子たちも私たちも、聖霊を受けることで、イエス・キリストに似た人格の者に造りかえられてゆきます。まだ罪が残っていますが、それでもイエス・キリストに似た人格の一人一人に、造りかえられてゆきます。大変感謝です。クリスチャンは皆、聖霊を受けているのです。昨年12月に阿佐ヶ谷教会で西東京教区の臨時総会が行われ、何名かの按手式(牧師任職式)が行われましたが、按手を受ける方に多くの牧師たちが直接、間接に手を置いて祈るのですが、司式する教区議長が「聖霊を受けよ」と力強く大きな声で言われたことが印象的でした。もちろんクリスチャンは皆、聖霊を受けて、神の子とされています。エゼキエル書36章25~27節。

 イエス様はさらに言われます。23節「誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る。」これは弟子たちの集団である教会に与えられた御言葉と言えるでしょう。イエス・キリストが教会に託された洗礼と深くかかわる御言葉だと思います。イエス様がマルコによる福音書の最後の方で弟子たちに語られた御言葉と似ていると感じます。「信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」

 教会には、イエス・キリストの御旨に従って、人々に洗礼を授ける権能が託されています。それが「誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」という御言葉の、意味するところだと思います。洗礼とは、使徒パウロが書いたローマの信徒への手紙6章4節によれば、次のようなことです。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。」洗礼を受けたとき、私たちの罪深い古い自分は、イエス様と一緒に十字架につけられて死に、私たちはイエス様と一緒に新しい命に復活したのです。私たちに聖霊が注がれてその新しい命、復活の命、罪なき命、神への愛と隣人への愛に満ちた命をプレゼントして下さいました。洗礼の水は、目に見えない聖霊のシンボルです。洗礼によって私たちの全部の罪が明確に赦され、私たちは神の子とされました。弟子たちは、自分たちもユダヤ人たちにつかまって十字架に架けられて殺されるのではないかと恐れていましたが、聖霊がその恐れに打ち勝つ喜びと平和を与えて下さいます。

 イエス様は、十字架に架けられる前に弟子たちに言われました。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」イエス様は、穂b実の箇所で2回も、「あなた方に平和があるように」と言われました。それはイエス・キリストが与えて下さる真の平和です。「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」「世に勝っている」とは、悪魔に打ち勝ち、罪の支配に打ち勝ち、死の力に打ち勝っているという、イエス様の現実を指します。私たちがこのイエス・キリストに結びついているので(特に洗礼によって)、私たちも自力ではなく、イエス・キリストの復活の力によって、悪魔に打ち勝ち、罪の支配に打ち勝ち、死の力に打ち勝っています。イエス・キリストが与えて下さるこの勝利こそ、真の平和・平安です。ただ心の安らぎだけではありません。もちろん心の平安も与えられますが、イエス様の復活の力によって悪魔と罪と死に打ち勝ち、永遠の命と天国を保証されている平和です。「あなた方に平和があるように!」

 私の神学校のクラスメートの牧師が、厳しい病気の治療を受けながら、本日礼拝説教を行っています。昨日、メールを送って下さいました。体調不十分なので、座って説教と聖餐式を行いますと書いてありました。「それでも主に感謝しています」と書いてありましたので私は、「見上げた信仰だ」と尊敬しています。「それでも主に感謝しています」と言えるのは、その牧師にも聖霊が与えられており、「私は既に世に勝っている」と宣言なさるイエス・キリストが平和を与えて下さっているからだと感じています。ある本には、「イエス様の死によって、イエス様と弟子たちとの連帯は薄くなるのではなく、イエス様の復活によって連帯がますます緊密なものになる」と書いてあり、すばらしいことだと感じました。復活のイエス様は今は目に見えませんが、聖餐式のパンとぶどう液を食べ飲みすることで、私たちとイエス様の連帯がますます緊密になります。オンラインの方は直接食べ飲みしていただけませんが、ぜひ心の中で食べ飲みして下さい。病と闘うお一人一人が癒され、私たちがイエス・キリストとますます緊密に結びついて、イエス様から来る平安に満たされるように、共に祈りましょう。アーメン。

2024-03-30 23:48:36(土)
「主イエス・キリストの復活」 2024年3月31日(日)イースター礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~6,頌栄29、主の祈り,交読詩編119:145~160、讃美歌21・327、聖書 詩編16:7~11(旧約p.846)、ヨハネ福音書20:1~18(新約p.209)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌326、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(詩編16:7~11) わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

(ヨハネ福音書20:1~18) 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


(説教) 皆様、イースターおめでとうございます。説教題は「主イエス・キリストの復活」です。新約聖書は、ヨハネ福音書20:1~18です。本日の最初の小見出しは、「復活する」です。

 1節「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓へ行った。そして墓から石が取り除けてあるのを見た。」本日の主人公は復活されたイエス様ですが、イエス様を除けば、本日の主人公はこのマグダラ出身のマリアとも言えます。シモン・ペトロともう一人の弟子も登場しますが、その男性の弟子二人よりも、このマグダラのマリアが目立っていると感じます。前の日の土曜日は安息日で礼拝に専念する日で、ほとんど出歩くことはできませんから、マリアは安息日が終わり夜に入り、そして日が明ける前に、マリア待ちきれないで、イエス様が納められた墓に駆けつけました。イエス様を愛し、全身全霊で慕っていたからです。ルカによる福音書8章を見ると、マグダラのマリアは、イエス様によって7つの悪霊を追い出していただいた女性だと記されています。肉体か心の、大きな病を癒していただいたと思われます。あるいは売春婦だったが、イエス様によって罪を赦していただいたとも言われます。マグダラのマリアは、ルカによる福音書7章に登場する「罪深い女」ではないかとも言われます。イエス様は彼女について、こう言われました。「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」マグダラのマリアは、確かにこの女性かもしれません。イエス様への感謝と愛に溢れているからです。ですから、夜が明ける前に、イエス様の墓に駆けつけました。本当にひたむきです。何の計算も当てもありません。ただイエス様を慕う熱烈な愛だけがありました。それは、あきらめらえれない愛です。愛はあきらめません。マグダラのマリア、イエス様が十字架で息を引き取るときも、十字架の下にいたのです。イエス様の母マリアとその姉妹、別のマリアさんと共に。それほど彼女の愛は深いのです。

 マリアが、息せき切って墓に着くと、何と墓を塞ぐ大きな石が既に取り除けられていました。父なる神様が取り除けて下さったのです。私は詩編46編6節を思い出します。「夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」イエス様の復活の場面を、聖書は直接描きません。そこは神秘として隠されています。「見ないで信じる者は幸い」というこなのだと思います。夜明けを表す美しい日本語は多くあります。早朝、早天、しののめ、曙、暁、未明、黎明、朝まだき、など豊富です。夜明け、早朝、早天、曙、暁、未明、黎明、朝まだきといった美しい日本語とイエス様の復活が、私の心の中では結びついています。「夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」しののめ、曙、暁にイエス様は、墓を破って復活されました。自力で頑張って甦ったのではなく、正確には父なる神様の愛の力で復活させられたのです。イエス・キリストご自身は、受け身でした。
 
 さて、墓の石が取り除かれているのを見たマリアは、中を見たようです。2節「そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません。』」「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」は、断定はできませんが、このヨハネ福音書を書いたヨハネだと考える人が多いようです。マリアは「イエス様がどこにおかれているのか、分かりません」と言います。「別のお墓に誰かが移動した」と考えているようです。しかしそうではないのです。「イエス様はどこにおらるのか」は、実は重要な問いです。それは「イエス様は一体誰で、どこにおられるのか」という本質的な問いだからです。イエス様は、「神から来て、神に帰る」方です。イエス様は神から来て、神に帰られる神の子です。どこか地上のお墓にずっとおられる方ではありません。イエス様は復活して神のもとに帰られる、最終的には天国がイエス様のおられる場所です。

 そこまでまだ分からないマリア、ペトロ、ヨハネです。3~5節「そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロよりも早く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。」年上のペトロが着くのを待ったのだろうという人もいます。6~8節「続いてシモン・ペトロ持着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」私はここを読むと、イエス様が墓の中で起き上がり、亜麻布を脱ぎ、少し歩いて頭の覆いを取り、そして墓から出て行かれたように感じます。先に墓に着いた弟子は、ペトロの後に墓に入り、見て信じたとあります。墓の中がからであることを確認し、イエス様の復活を信じたのだと思います。

 9節「イエスは必ず死者の中から復活することになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」この必ずという言葉は、原語のギリシア語で「デイ」という短いが重要な言葉です。必然、神の必然を表します。「イエスは死者の中から必然的に復活することになっているという聖書(旧約聖書)の言葉を、二人はまだ理解していなかった。」先に墓に着いた弟子は「見て信じた」とありますが、まだ信じ始めたばかりだったと言えます。旧約聖書にイエス様の復活を予告する御言葉があることを、まだよく理解できていなかったのです。復活のイエス様に教えられ、聖霊なる神様に教えられ、少しずつ目が開かれて、どの旧約聖書の御言葉がイエス様の復活を預言(予言ではなく、神の御言葉を預かって語ること)しているか、この後次第に理解を深めたことでしょう。今は理解が足りないので、二人は家に帰ってしまいます。まだ生き方に変化が起こらないのです。イエス様の復活を預言する旧約聖書の1つは、本日の詩編16編です。その9節以下「私の心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなた(神様)は私(イエス様)の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えて下さいます。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。」「からだは安心して憩います」の御言葉が、イエス様の体を伴う復活を指すようです。この詩編16編がイエス様の復活を語っていることは、使徒言行録2章25節以下に明記されているので、間違いないことです。もう一か所、ヨブ記19章25節をも挙げることができるでしょう。ヨブが言います。「私は知っている。私を贖う(救う)方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」「塵の上に立つ」とは「死の上に立つ」ということと思います。つまりこの御言葉は、イエス様の復活を預言していると言えます。二人は、この後それを理解したのではないでしょうか。しかしここでは家に帰ってしまいます。

 しかしイエス様をひたむきに慕うマリアは、諦められず、墓にとどまります。現場にとどまることは大切なのですね。次の小見出しは「イエス、マグダラのマリアに現れる」です。11~13節「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません。』」天使たちが「なぜ泣いているのか」と問うたのは、「もう泣く必要はないのですよ。イエス様は復活なさったのですから」と伝えたかったからです。

 「どこに置かれているのか、私には分かりません」と言いながら、人の気配を感じたのか、後ろを振り向きました。するとイエス様が立っておられるのが見えたのですが、それがイエス様だとは分かりませんでした。涙のために見えなかったという人もいますし、マリアの霊の目(心の目)がまだ開かれていなかったので分からなかったとも思います。なお、「立つ」、「立っている」という言葉は、復活を暗示する場合があります。復活とは、死から立ち上がることだからです。そのイエス様も言われます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか。」マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。私が、あの方を引き取ります。」彼女は、自分の人生は事実上終わったと感じています。これからはイエス様のお墓を守って生きていくことだけを考えていたでしょう。

 そこにイエス様の声が響きます。「マリア。」彼女は驚いて振り向き、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。先生という意味だと書かれています。ラビが先生で、ラボニは「私の先生」の意味です。「マリア」という呼びかけと、「ラボニ」という応答は、イエス様の十字架の前に何度も交わされた対話でしょう。ここだけ「ラボニ」とマリアが語ったとおりのヘブライ語で書かれているので、私たちもその現場の様子を生き生きと感じ取ることができます。「マリア」という心のこもった呼びかけ、「ラボニ」というハートのこもった応答、ここに人格的な生き生きとした交流が生き返っています。打てば響く交流です。この生き生きした交流を復活させて下さったのは、父なる神様です。神の愛は死よりも強いのです。旧約聖書の雅歌8章6、7節を連想します。(聖書協会共同訳)「愛は死のように強く、熱情は陰府のように激しい。愛の炎は熱く燃え盛る炎。大水も愛を消し去ることはできません。洪水もそれを押し流すことはありません。」そしてヨハネ福音書10章3~4節のイエス様の御言葉をも思い出します。「羊飼い(この場合はイエス様)は自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」

 マリアは当然、イエス様にすがりつこうとしました。ところが復活のイエス様がそれをたしなめます。「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」イエス様とマリアのつながりも、新しい段階に達しています。マリアの愛は激しいのですが、人間的な、やや自己中心の愛かもしれません。イエス様にすがりついて、イエス様を自分の影響の範囲にとどめておきたいという無意識の願いがあります。しかしイエス様は、これから天の父なる神様のもとに上らなければなりません。そこから聖霊を注ぐ使命がおありです。そうでないと世界中にクリスチャンを生み出すことができす、世界中に教会を生み出すことができません。

 イエス様はマリアに、イエス様の復活をまだ知らない弟子たち、復活を一応信じたけれども、これからのことを理解できないでいる弟子たちのもとに言って、メッセージを伝える使命を与えます。「私の兄弟たちの所へ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなた方の父である方、また私の神であり、あなた方の神である方のところへ私は上る』と。」復活されたイエス様は、その後天に昇られ、今もそこで生きておられ、天から私たちに聖霊を注いで下さいます。

 イエス様は「私の兄弟たちの所へ行きなさい」と言われました。イエス様の十字架の時に十字架の下にいた「愛する弟子」(おそらくヨハネ)以外の男の弟子たちは、皆逃げ去りました。その彼らを兄弟と呼んで、受け入れておられることが分かります。「なぜ私を置いて逃げたか」と責めておられません。「あなたたちは私の兄弟だ」と受け入れておられます。彼らは神の家族なのです。マグダラのマリアも、イエス様の霊的な妹になります。教会も神の家族です。父なる神様が父、神の独り子イエス様が長男、私たちは皆、イエス様の霊的な妹たち、弟たちになります。復活のイエス様が私たちを「私の愛する弟たち、妹たち」と呼んで、一人一人の名前を呼んで下さいます。私たちはイエス様に対して、「私のお兄さん」と呼んでもよいし、マリアに倣って「ラボニ」と呼んでもよいでしょう。マリアはイエス様の言葉に従い、弟子たちの所へ行って、「私は主を見ました」と告げ、イエス様が父なる神様のもとに上られると伝えたはずです。「私は主を見ました。復活されたイエス様を見ました。」私たちは、マリアの言葉を信じて、イエス様が復活して今も生きていることを信じるのです。

 礼拝はまさに、復活のイエス・キリスト出会い、イエス・キリストと交流する場です。オンライン参加でも同じです。私たちは聖書を通してイエス様に出会い、聖餐式によってイエス様と交流します。ペトロの手紙(一)1章の御言葉を思い出します。3~4節「神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、使者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなた方のために天に蓄えられている朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者として下さいました。」8節「あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

 それにしても、やはりマグダラのマリアの一途でひたむきな信仰、イエス様への愛はすばらしいと思います。聖書では、教会はキリストの妻、花嫁です。キリストが夫で花婿、教会がキリストの妻、花嫁です。マグダラのマリアは、まさにキリストの霊的な花嫁として、イエス様に全身全霊の清い愛を献げています。霊的な夫であるイエス様もマリアを清い愛で愛して、マリアの罪のためにも十字架で死んで下さいました。カトリック教会のシスターは独身ですが、イエス様と霊的に結婚して、イエス様に愛と全人生を献げているのだと聞きます。プロテスタントでも、基本的には同じと思います。教会は(私たちは)キリストを愛するので、日曜日ごとに喜んで集って、イエス・キリストを愛する礼拝を献げます。他のものを礼拝しないのです。エレミヤ書2章で神様が、神の民イスラエルに、「私はあなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」と言っておられます。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(二)11章で、コリントの教会の人々に書きます。「私はあなた方を純潔な処女として、一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。あなた方の思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」私たちに、キリストに献げられた花嫁です。マグダラのマリアこそ、私たちの模範となるキリストの花嫁だと感じます。私たちも彼女のように、イエス様を愛して参りましょう。アーメン。

2024-03-17 3:02:53()
説教「この人を見よ」 2024年3月17日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第68回)受難節第5主日
順序:招詞 エフェソ1:4~6,頌栄24、主の祈り,交読詩編なし、讃美歌21・297、聖書 イザヤ書53:7~19(旧約p.1150)、ヨハネ福音書19:1~16a(新約p.206)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌306、献金、頌栄27、祝祷。 

(イザヤ書53:7~10) 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

(ヨハネ福音書19:1~16a) そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」 そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

(説教) 本日は、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第68回)、受難節(レント)5主日公同礼拝、説教題は「この人を見よ」です。です。新約聖書は、ヨハネ福音書19:1~16です。小見出しは、この少し前から「死刑に判決を受ける」です。私たちは、二週間後にイースターを迎えます。

 総督ピラトは、イエス様を尋問した上でユダヤ人たち(イスラエルの信仰の指導者たち)に、「私はあの男に何の罪も見出せない」と告げました。ピラトの本心です。そして「過越祭には誰か一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。ユダヤ人たちの一部が、ピラトが誰か一人を釈放すると言うかもしれないと予測し、予め「バラバを」と答えようと決めていたのかもしれません。一人が「バラバを」叫ぶと、皆が群衆心理に巻き込まれて「そうだ、そうだ。バラバを釈放せよ」と一つになって大声で叫んだのかもしれません。皆で悪魔に従っている感じです。私たちも気をつける必要があります、集団の考えに巻き込まれるではなく、自分でよく祈り、神様に助けていただいて自分でよく考え、自分で責任をもって判断する必要があります。

 ユダヤ人たちの圧力を受けたピラトは、1節によると、イエス様を捕らえ、鞭で打たせました。2~3節「兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、平手で打った。」冠と紫の服。王様のシンボルです。しかし茨の冠ですから、イエス様を馬鹿にしていることは確かです。紫は高貴な色です。日本でもそうです。紫の服を、カトリックのフランシスコ会訳聖書では、「深紅のマント」と訳しています。ローマ軍の兵士たちがイエス様を馬鹿にして「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打ちました。イエス様は少し前に大祭司の前で下役の一人に、平手で打たれました。ふつうの人はカッとなるものですが、イエス様は忍耐強くて、一切仕返し、復讐、報復をなさいません。イエス様の十字架を予告する御言葉としてイザヤ書53章が有名ですが、その少し前の50章にも「主の僕の忍耐」という小見出しの個所があり、神様に従う僕が迫害に耐えて、復讐しない姿が示されています。イザヤ書50章5~6節「主なる神は私の耳を開かれた。私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には頬を任せた。打とうとする者には背中を任せ、ひげを抜こうとする者には頬を任せた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けて下さるから、私はそれを嘲りとは思わない。私は顔を硬い石のようにする。」平手で打たれたとは書かれていませんが、不当な暴行を忍耐する神様の僕の姿が、イエス様と重なります。

 ピラトはまだイエス様を釈放しようと努力します。4~5節「ピラトはまた出て来た言った。『見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、私彼に何の罪も見出せないわわけが分かるだろう。』イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ』と言った。」ピラトは、鞭打たれ、茨の冠を被ったイエス様の姿を見せて、「こんな無力な男にあなたたちをリードして、ローマに反乱を起こす力などない。十字架刑に処する必要も理由も全くない。だからイエスを釈放することに同意しなさい」とユダヤ人たちを説得する意図があったと思います。しかしユダヤ人たちは、ピラトに従いません。6節「祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、『十字架につけろ、十字架につけろ』と叫んだ。ピラトは言った。『あなたたちが引き取って十字架につけるがよい。私はこの男に罪を見出せない。』」

 ピラトが5節で言った「見よ、この男だ」という言い方は、有名になりました。
直訳では「見よ、この人だ」です。どうしても讃美歌21の280番を連想しますね。歌いたいと思いますが、ライブ配信してよい讃美歌のリストに含まれていないので、歌いません。1節の歌詞はこうです。「馬槽(まぶね)の中に、うぶごえあげ、木工(たくみ)の家に、人となりて、貧しき憂い、生くる悩み、つぶさになめし、この人を見よ。」4節の歌詞はこうです。「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は、あらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる活ける神なれ。アーメン。」由木康牧師という著名な牧師の作詞です。「見よ、この男だ」の言葉は、このヨハネ福音書1章29節の、洗礼者ヨハネの言葉を思い出させます。洗礼者ヨハネは、イエス様のお姿を見てこう言ったのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。ピラトが「見よ、この人を」と言って示されたイエス・キリストは、洗礼者ヨハネがまさに「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と指し示したその方なのです。

 イエス様の十字架刑を何とか回避させようとするピラトに、ユダヤ人たちがさらに圧力をかけます。7節「ユダヤ人たちは答えた。『私たちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。これはヨハネ福音書5章でのイエス様の言葉を指して言っています。イエス様は、38年間病気であった男性を癒したあとで、こう言われました。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」ここでイエス様は、神様を父と呼ばれました。神様がイエス様の父であれば、イエス様は父なる神様の子であり、神に等しい方、神様ご自身ということになります。それは事実なので、そのまま受け入れることが必要です。しかしユダヤ人たちの信仰は、神は唯一との信仰で、神の子という存在はあり得ないと信じていたのでしょう。イエス様が神の子を名乗ったことは、神様への甚だしい冒瀆と感じられ、冒瀆の罪を犯した者は死刑になるのが当然と信じていたででょう。私たちクリスチャンももちろん唯一の神を信じてやまない者ですが、唯一の神は、父・子・聖霊なる三位一体の神様なのです。一体ですから唯一です。

 8~9節「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、『お前はどこから来たのか』とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。」ピラトはいつから恐れを感じ始めたのでしょうか。はっきり分かりませんが、先週の個所でイエス様が、「私の国はこの世には属していない。~私は真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た」と言われたころから、イエス様の罪のなさ、清らかさを感じ、イエス様への恐れを感じ始めたのではないかと思います。そしてピラトは、ユダヤ人たちから、イエス様が神の子と自称したと聞いて、ますますイエス様を只者ではない清さを感じ、ますます恐れを抱いたのではないかと感じます。ピラトはイエス様に、「お前はどこから来たのか」と問いますが、イエス様は沈黙されます。この沈黙は、イザヤ書53章の成就・実現と思います。イザヤ書53章は、イエス様の十字架の犠牲の死を予告した、クリスチャンがよく知っている御言葉です。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに。」「彼は不法を働かなかった」、罪を犯さなかったと明記されています。

 ピラトは尋ねました。「お前はどこから来たのか。」イエス様は天から来られた、神の国から来られました。私たちの住む世界とは次元の異なる所、天から来られました。ピラトに言っても理解されないと思って、イエス様はピラトに答えようとされなかったのかもしれません。そこでピラトは言います。10~11節「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」するとイエス様が沈黙を破って言われます。「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」ピラトは脅しをかけたのです。「お前を釈放する権限も、十字架にかける権限も、この私にある。私を無視して従わないなら、十字架につけるぞ。」しかしイエス様は、ピラトの脅しに全く屈せず、驚くほど雄々しく堂々と「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ」とお答えになったのです。鞭打たれた人は普通、息も絶え絶えになると言います。当然です。イエス様も息絶え絶えだったでしょうが、神の子としての威厳に満ちておられます。

 ここで権限が問題になっています。確かにピラトには、ローマから派遣された総督して、イエス様を十字架にかける権限を持っていました。しかし、神様からご覧になれば、それは職権乱用です。ローマ皇帝もピラトも、今の時代の各国の大統領や首相も、私たち一人一人も皆、神様の御心に従うことが必要です。神様が最高の権威者です。神様がこの宇宙の真の王です。ですから、神様に逆らう地上の権威者・権力者は必ず滅びます。アッシリアもバビロンも、ローマ帝国も、ヒットラーも豊臣秀吉も皆、栄耀栄華を誇りましたが、滅びました。

 ピラト以外にも、世の中には色々な権限をもつ人々がおられます。私たち一人一人も、自分の人生のことは、ある程度は自分で決める権限と自由があると思っています。しかし私たちに与えられている本当の権限と自由は、神様の御心に喜んで従う権限と自由です。神様の御心に背いて罪を犯す権限と自由は与えられていません。私たちが権限と自由を、神様の御心に背く形で用いるならば、神様からご覧になれば権利の乱用の罪になるでしょう。ピラトは、イエス様を釈放する権限も、十字架につける権限も自分にあると豪語しています。そうではありません。ピラトに、父なる神様の御心に逆らってイエス様を殺す権限は与えられていません。彼がイエス様を十字架につけるように命令すれば、それは神様に背くことであり、権限の乱用の罪です。確かにイエス様が私たち皆の罪を背負って十字架で死なれることは、神様の御計画ですが、全く罪のないイエス様を十字架で殺すこと自体は、巨大な罪であることは明らかです。私たちも少しずつ罪を犯しているとき、私たちは自由を乱用していることになります。私たちに与えられている権限と自由を、神様の御心に適うように用いたい、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛するために用いたいと、心より願います。

 イエス様は言われます。「だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」それはユダヤ人の信仰の指導者たちのことでしょう。神様を一番愛しているはずの信仰の指導者たちが、神の子イエス様を拒否して死に追いやる。本来あり得ないことです。しかしそうなってしまう。イエス様は深い悲しみを込めて、こう言われました。私たちもイエス様の御言葉を拒否するとき、イエス様を悲しませています。

 イエス様の無実を確信しているピラトは、釈放しようと努めます。しかしユダヤ人たちがピラトを脅すのです。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」イエスはローマ皇帝への反逆者だ(実際には違います)。そのイエスを釈放すれば、ピラトよ、あなたが皇帝への反逆者になる。「ローマ皇帝にそう訴えるぞ」と言わんばかりです。ユダヤ人たちはピラトの弱みを握っていました。ピラトにとって、ローマ皇帝は恐ろしい存在でした。ピラトは脅しに負けてゆきます。

 13~14節「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち敷石という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ころであった。」マルコ福音書には、イエス様が十字架につけられたのは午前9時ころと書かれていて、ヨハネ福音書と一致しxcv正午ごろであった。」それなら十字架刑の開始はさらに後になります。少なくともイエス様の十字架の時刻の歴史的正確さでは、マルコ福音書の方が正確なのだと思います。ヨハネ福音書は時刻を一致させることよりも、メッセージを重視しているのです。すなわち、過越祭の準備の日の正午ごろは、エルサレムの神殿で過越しの小羊の屠って殺すことが始まった時刻であるそうです。ヨハネ福音書はここで、これから十字架の架けられるイエス・キリストこそ、真の過越祭の小羊だと、私たちに訴えているのです。洗礼者ヨハネがイエス様を見て語ったあのメッセージが、いよいよ私たちの心に響き渡ります。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 旧約聖書のイスラエルの民がエジプトを脱出した時、神様はイスラエルの民のリーダー、モーセとアロンに言われました。「今月の十日、人はそれぞれの父の家ごとに小羊を一匹用意しなければならない。~その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。~それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入口の日本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。~これが主の過越しである。その夜、私はエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。またエジプトの全ての神々に裁きを行う。私は主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、私はあなたたちを過ぎ越す。」その通りになりました。小羊の血が塗られたイスラエルの民の家の上は、神様の裁きが過越して行き、救われました。ヨハネ福音書は、十字架で私たち皆の罪を身代わりに引き受けて死んで下さるイエス・キリストこそが、真の過越の小羊だという強力なメッセージを、私たちに向かって発信しています。

 「ピラトがユダヤ人たちに、『見よ、あなたたちの王だ』と言うと、彼らは叫んだ。『殺せ。殺せ。十字架につけろ。』ピラトが、『あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか』と言うと、祭司長たちは、『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』と答えた。」「私たちには皇帝(ローマ皇帝)のほかに王はありません」とは、ユダヤ人の心にもない言葉です。ユダヤ人なら「真の神以外に王はありません」が本心です。しかし彼らはイエス様を十字架につけるためなら、このような嘘を言うことすらためらっていません。遂にピラトは圧力に負けて、イエス様を十字架にかけることに同意してしまうのです。

 しかしイエス・キリストはこの後、雄々しく十字架を背負って下さいます。そして「成し遂げられた」、すべての人の罪を身代わりに背負いきる使命が達成されたと述べて、勝利のうちに息を引き取られます。さらに三日目に復活して死に勝利して下さいます。このイエス・キリストと共に、地上の人生の最後まで共に歩み、天国に入れていただきましょう。アーメン。

2024-03-10 2:14:40()
説教「キリストこそ真理、真の王」  2024年3月10日(日)受難節第4主日公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~6,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編119:113~128、讃美歌21・300、聖書 ダニエル書5:21~24(旧約p.1389)、ヨハネ福音書18:28~40(新約p.205)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌311、献金、頌栄27、祝祷。 

(ダニエル書5:21~24) 父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草を食らい、天から降る露にその身をぬらし、ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。

(ヨハネ福音書18:28~40) 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

(説教) 本日は、受難節(レント)第4主日公同礼拝、説教題は「キリストこそ真理、真の王」です。です。新約聖書は、ヨハネ福音書18:28~40です。最初の小見出しは、「ピラトから尋問される」です。

 前回はペトロがイエス様を三度知らないと言ってしまい、イエス様の予告通り鶏が鳴いた場面まででした。本日の最初の28節「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。」ローマから派遣された総督ピラトは、普段は地中海沿岸のカイサリアに駐在していましたが、ユダヤ人の過越祭の時期にはエルサレムに来ていました。過越祭の時期は、ユダヤ人の民族意識と愛国心が高まって非常に盛り上がる時期だったので、ローマへの反乱が起きないように見張るためにエルサレムに来て、滞在していました。神殿のそばにあったアントニオ城にいたのではないかと言われます。そこが総督官邸と呼ばれたのでしょう。

 エルサレムの信仰指導者たちは、イエス様を総督官邸に連行しながらも、自分たちは官邸に入りませんでした。ピラトが外国人なので、外国人の住まいに入ると汚れると信じていたからです。それが当時のイスラエル人の考えでした。愛国心、選民意識、エリート意識が強すぎるとこうなるのかと思います。差別を生んでしまいます。日本でも、江戸時代末期には、外国人は汚れているので日本から追い払えという攘夷運動が燃え盛り、太平洋戦争中は鬼畜米英と呼んだり、朝鮮半島出身者や中国出身者を差別する意識もあったと思います。イエス様の弟子ペトロもユダヤ人なので、外国人と交際してはいけないと考えていましたが、使徒言行録10章28節を見ると、「神は私に、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」と言って、外国人を汚れていると見なす考えを変えたと言っています。

 イエス様を連行した人々は外国人ピラトを汚れていると見ていましたが、その実、自分たちではイエス様に手を下さず、ピラトを利用してイエス様を殺そうとしています。29~30節「そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、『どういう罪でこの男を訴えるのか』と言った。彼らは答えて、『この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう』と言った。」エルサレムの信仰の指導者たちがイエス様をピラトのもとに連行したのは、イエス様がユダヤ人の王を名乗るローマにとって政治的に危険な人物であると思わせ、死刑にしてもらうためです。31~32節「ピラトが、『あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け』と言うと、ユダヤ人たちは、『私たちには、人を死刑にする権限がありません』と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」使徒言行録7章のクリスチャン・ステファノの殉教の場面を見ると、ユダヤ人にも人を石打ちで殺す権限は認められていたと思えますが、ローマ人が政治犯を死刑にする十字架で人と死刑に処する権限はユダヤ人になかったのでしょう。とにかくエルサレムの信仰の指導者たちは、イエス様を何としても死刑にしたいのです。

 イエス様の死刑はどうしても十字架でなければなりませんでした。「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われたことが実現するためであった。」イエス様は12 章でおっしゃっています。「私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」その後にこう書かれています。「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」それは十字架の死なのです。十字架に上げられることで地上から上げられ、そして最終的に天に上げられる。」天に上げられることは栄光です。そのプロセスで十字架に上げられることも栄光なのです。十字架に上げられて、すべての人を御自分のもとに引き寄せる、それはすべての人に御自分のもとに来て救われるように招く、招待するということと思います。

 本日の33~34節、ピラトとイエス様の問答です。「そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、『お前がユダヤ人の王なのか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者が私について、あなたにそう言ったのですか。』」 「ピラトよ、あなたは私がユダヤ人の王かどうか、真剣に関心があるのか。それとも自分にとってどうでもよいことだが、ユダヤ人たちが『イエスを裁け』とうるさく言うから、仕方なく事務的に対応しているだけなのか。」これがイエス様の問いだと思います。ピラトの本心は後者です。ピラトは言い返します。「私はユダヤ人なのか。」「私はユダヤ人でないから、イエスよ、あなたがユダヤ人の王かどうか、私には全く関係ないこと、私にとってどうでもよいことだ。」「しかしイエスよ、あなたが本当にユダヤ人の王を名乗ってローマへの反乱を扇動するなら、私はローマから派遣されているユダヤ政治の責任者として、あなたを処分しなければならない。」「お前の同胞のユダヤ人や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」

 イエス様はお答えになります。36節。大切な御言葉です。この御言葉は、他の3つの福音書には記されていません。ヨハネ福音書だけに記されています。「私の国はこの世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、私がユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない。」イエス様の国は神の国であって、この世の中の政治的な国とは違います。イエス様は確かに王ですが、この社会の政治的な権力者としての王ではなく、神の国の真の王です。全てのこの世の政治的な権力者もひれ伏すべき、宇宙の真の王、真理の王です。この王は、この世の王と武力で戦争はしません。この世の政治や権力を超越した究極の王です。父なる神様がその究極の王とも言えますが、その父なる神様の独り子イエス・キリストもまた、宇宙の真の王、真理の王、究極の王です。

 神が真の王だということは、旧約聖書のダニエル書にも明記されています。ユダヤ人ダニエルが、バビロン捕囚でバビロンに行き、バビロン帝国の王に仕えていたときのことです。神様が夢によってバビロン帝国のネブカドネツァル王に教えられます。「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり(つまり神が世界の真の王)、この神は御旨のままにそれを誰にでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできるということを、人間に知らせるためである。」しかしネブカドネツァル王が非常に傲慢だったため、神様の御声が響きます。「お前に告げる。王国はお前を離れた。お前は人間の社会から追放されて、野の獣と共に住み、牛のように草を食らい、七つの時を過ごすのだ。そうしてお前はついに、いと高き神こそが人間の王国を支配する者で、神は御旨のままにそれを誰にでも与えるのだということを悟るであろう。」このことは、直ちにネブカドネツァル王の身に起こります。その時が過ぎるとネブカドネツァル王は天を仰ぎ、理性が戻り、何と、いと高き神をほめたたえるようになりました。「その支配(神の支配)は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて、何をするのかと言いうる者は誰もいない。」
 
 その息子のベルシャツァル王の時代にも、ダニエルはバビロンで仕えていました。ベルシャツァル王も非常に傲慢だったので、ダニエルが告げます。「父王様は傲慢になり、頑なに尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草をくらい、天から降る露にその身を濡らし、ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なおへりくだろうとはなさらなかった。天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命を行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」それで神のメッセージがあなたに与えられたと語ります。「神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられた。あなたは秤にかけられ、不足と見られた。あなたの王国は二分され、メディアとペルシアに与えられる。」その夜、ベルシャツァルは殺されたのです。

 ヨハネ福音書に戻ります。「私の国は、この世には属していない」と言われたイエス様の言葉を聞いてピラトは、「それでは、やはり王なのか」と言います。イエス様が「私の国」と言われるので、自分の国があるならやはり王なのだな、と言ったのです。ピラトにはイエス様の言葉が理解できません。ピラトは政治的な王しか思いつかないのです。イエス様は言われます。「私が王だとは、あなたが言っていることです。分かりにくい言葉ですが、「ピラトよ、あなたはあくまでも私が政治的な王としか考えられないのだね」と意味だと思います。ピラトには、イエス様がこの世の政治的な王とは次元の異なる王だということが理解できず、イエス様とピラトの対話はかみ合いません。イエス様は言われます。「私は真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く。」イエス様が真理という言葉を用いたため、ピラトは言います。「真理とは何か。」「真理とは何か」という問いは、深く考える人にとっては非常に重要な問いです。宗教や哲学に関わる領域です。でもピラトは、そこまで深い探求心で「真理とは何か」と述べたのではなさそうです。

 イエス様が、「私は真理について証しするために生まれ、そのために世に来た」と言われたので、戸惑って「真理とは何か」と言った程度と思います。しかしイエス様は、ローマ帝国を脅かすような政治的な王ではないことは分かったのだと思います。イエス様にしてみれば、ピラトにも、心を低くして真理そのものであるイエス様を受け入れてほしい、と願っておられたと思います。「真理に属する人は皆、私の声を聞く」と言われたイエス様は、ピラトにもイエス様の声を、深く受け入れてほしいと願っておられたでしょう。イエス様はこの福音書の10章で、「私は羊のために命を捨てる。私にはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と言われました。ほかの羊であるピラトをも、何とか永遠の命へと導きたいと願っておられたと思います。しかし、残念ながらピラトの心には、イエス様の深い御心が届きません。ここでイエス様は権力者ピラトを恐れず、ご自分のことを証しされ、所信を堂々と語られました。「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」イエス様は14章で既に語っておられました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」イエス様の証しについて、テモテへの手紙(一)6章13節は、こう述べます。「ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエス。」まさにその通りです。

 次の小見出しは、「死刑の判決を受ける」です。「ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。」ピラトはイエス様とユダヤ人たちとの間を何度も行ったり来たりしています。「私はあの男に何の罪も見出せない。」あの男にはローマへの反乱を唆す罪は全くないし、死刑になるような殺人などの犯罪を犯した事実も全くない。無実だ。「ところで、過越祭には誰か一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」ピラトはイエス様の無実を確信しているのですから、こんなことを言わず、総督の権限で直ちに釈放すべきなのですが、ここにピラトの気の弱さが現れています。ピラトば、ユダヤ人たちが「分かった。イエスを釈放してほしい」と言うのを期待したのでしょう。ユダヤ人たちに下駄を預けたのは、裏目に出ました。ピラトの弱気を見抜いた人々は、ここぞと圧力をかけます。「その男ではない。バラバを」と大声で言い返します。ピラトは大声に負けてゆきます。大声が間違っていることもあります。バラバは強盗であったと書かれています。単純な強盗ではなく、愛国心によって反ローマ活動を行った者ではないかと言われます。ユダヤ人に人気があったのでしょう。

 本日の場面は、イエス様が問いただされている場面です。問いただされればされるほど、イエス様が無実の方、真理の方であることが、ますます明らかになります。にもかかわらず、ピラトもエルサレムの信仰指導者たちも、生ける真理であるイエス様を抹殺する方向に、どんどん進みます。ユダヤ人たちとありますが、この人々は、私たち人間の罪深さを象徴する存在として登場しています。ユダヤ人たちがイエス様を死に追いやったので、ヨーロッパではユダヤ人が悪いということになり、反ユダヤ主義が力をもちました。それは大きな間違いです。ここに登場するユダヤ人たちは、私たち人間全体の自己中心の罪深さを象徴する者として登場しています。キリスト教会の歴史にも、罪と失敗があります。その1つはガリレイ裁判です。カトリック教会は、地動説に賛成する学者ガリレオ・ガリレイに、1633年に有罪を宣告しました。1992年に、今から2代前のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、17世紀のカトリック教会の過ちを認めて、謝罪しました。人間は過ちを犯しやすい者です。私たちが、何が真理で真実であるか、神様から知恵をいただいて、狂いのない眼で真理を見定めることができるように努力し、祈って参りましょう。アーメン。