日本キリスト教団 東久留米教会

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2019-01-10 17:42:04(木)
「隠れたことを見ておられる神様」 2019年1月6日(日) 降誕節第2主日(公現日)礼拝 説教要旨
聖書: 詩編112編1~10節、マタイ福音書6章1~4節

 今日の聖句は、山上の説教の一部です。当時のイスラエルの信仰生活では、「施し」、「祈り」、「断食」が重要とされていました。イエス様が言われます。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」

 イエス様は、人からの報いを求めない「無償の愛」を行いなさいと言っておられると思います。私たちには難しいですね。私たち人間は、つい人からの報いを求めてしまいます。完全に純粋な無償の愛を与えることができる方は、イエス様お一人でしょう。私たちの愛は完全に純粋な無償の愛にはなかなかなりませんが、それでも私たちが精一杯心を込めた愛を、神様は喜んで下さいます。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」(ヘブライ人への手紙6:10)。しかし私たちが、自分を宣伝する目的で、いわゆる善行を行うとき、それは偽善になってしまい、人からがほめられるかもしれませんが、神からはほめられないとイエス様は教えて下さいます。

 偽善とは、「心の中で悪いことを考えているのに、行いにおいては正しい人を演じてふるまう」ことです。ここに嘘・偽りがあります。イエス様はこの偽りを見逃されません。私の心の中に偽善が全くないとは言えません。私の心の中に(悲しいことですが)偽善は存在すると思います。自分の偽善をゼロにしようとしても、なかなかゼロになりません。偽善が全くない方は、イエス様お一人ではないでしょうか。

 私が中学3年生だった時の卒業式に、私が住んでいた地域の議員さんが祝電を送って来られました。その方の名前が読み上げられた時、期せずして笑いが起こりました。主に保護者だったと思います。私にもその笑いの意味がすぐ分かりました。その議員さんが自己宣伝をなさったと思ったのです。私も直感的にそう思いました。「偽善だ」と感じたのです。偽善は罪です。ただし残念ながら私にも偽善の罪が全くないとは言えません。でもやはり偽善は罪です。最近、社会でも教会でも偽善という言葉を聞かないと感じます。以前の日本人は偽善に敏感だったのに、今はそうでなくなったのでしょうか。もしそうであれば、よくない傾向です。偽善に敏感な心を、日本人全体が回復する必要を感じます。

 「あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」30年ほど前は、クリスチャンは「清く正しく生きる人」という通念が世間にあったと思います。そして当時、クリスチャンに対する批判で多かったのが「偽善者」というものだったように思います。私は子どもの頃、時々カトリック教会に行っていました。カトリック教会は慈善活動・チャリティー活動に力を入れていたように思います。もちろんそれには大いに良い面があります。ただ、もし仮に、昔の慈善にやや問題があったとすれば、「恵まれている人が、恵まれない人を助けてあげる」という雰囲気があったことではないかと思います。「恵まれない子どもたちに愛の手を!」というキャッチフレーズがあったように思います。今の言葉を使えば「上から目線」、助ける側が優位に立ち、助けられる側は下に見られる傾向があったかもしれません。それが「鼻につく」と感じる人もいたでしょう。やや独善的な雰囲気があったと言っては言い過ぎでしょうか。今は反省がなされ、ヘルプする人とヘルプされる人が対等に、「共に生きる」ことが大切と言われるようになりました。よい変化と思います。最近、次の言葉を見かけました。「私たちは、助けることによって、相手から助けられている。」よい言葉と感じます。

 イエス様は言われます。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」私が以前行ったことのある教会には、「右の手献金」という献金がありました。教会の中に生活に困窮する人が出ることがあります。そのような状況になった方が、そこからお金を借りる(あるいは受け取る)ことができるのです。借りた(受けた)方の名前は公表されず、ただ牧師と役員の一部が知るようでした。

 イエス様はここで、「自分が善行をしたことを、自分にも知らせるな」と言われます。私たちは自分のいわゆる善行を他人に宣伝したいだけでなく、自分にも宣伝して自己満足したい気持ちを持っています。自分に宣伝することも偽善です。神様に祈って聖霊を受けて、何とか私たちの心の中に巣くう偽善から自由にされたいものです。イエス様はルカ福音書17:10で、こう言われます。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」この姿勢で生かされたいのです。

 マタイ福音書25章に、「最後の審判」の場面があります。真の王であるイエス様が言われます。「わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いたいたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」するとほめられた正しい人たちは、「いつ、それをしたでしょうか」と答えます。彼らは当然のことをしただけと思い、本当にすっかり忘れていたのです。こうなることが理想です。イエス様に無償の愛で愛されて、自分たちも次第に無償の愛に生きる者に、聖霊によって変えられていったのでしょう。

 使徒言行録10章に、コルネリウスというすばらしい人が登場します。イスラエル人でなく、ローマ人の百人隊長です。「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」天使が来て彼に言います。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。」私たちもこう言っていただけたら、最高です。

 私が尊敬するある牧師の本に、次の意味のことが書いてあった記憶があります。「天国に行ったら、この世で重んじられていた人がそうでもなく、この世で軽視されたり無視されていた人が、神様に『よい僕(しもべ)だ、よくやった』と非常におほめにあずかっているということが起こっているのではないか。」この世の地位などが天国では逆転している可能性は十分にあります。神様は人を、一切分け隔てなさらない方です(使徒言行録10:34)。これは極めて重要なことと信じます。

 私たちの願いはただ一つ。「神様に喜ばれる生き方を日々したい」ということです。今日の自分の生き方は、神様に喜んでいただける生き方だったか。この点を日々、自分にチェックしつつ、私たちの罪を背負って十字架で死なれ復活されたイエス様と共に、歩みたいのです。アーメン(「真実に」)。

2019-01-03 18:47:21(木)
「救い主へのあこがれ」 降誕節第1主日礼拝 説教要旨
聖書:イザヤ書40章1~11節、ルカ福音書2章22~40節

 イエス様が誕生しておそらく40数日後、両親であるマリアとヨセフは、その子を神様に献げるため、エルサレムの神殿に行きました。旧約聖書に次のような決まりがあるからです。「すべての初子を聖別してわたし(神)にささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたしのものである」(出エジプト記13:2)。「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れる(もちろん今はそうではありません)。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。~(献げ物については)産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする」(レビ記12:2~8)。マリアとヨセフは、「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるため」にエルサレムに行ったとあるので、貧しかったことが分かります。

 そのとき神殿にシメオンという男性(おそらく老人)が聖霊に導かれて神殿に入って来ました。神殿には多くの人がいたでしょうが、この場面に注目した人はあまりいなかったように思います。私たちも、目立たない神の業を気づかずに素通りすることがないように、神の業に敏感でありたいのです。シメオンは信仰が厚くイスラエルが慰められるのを待ち望み、神様が約束なさったメシア(救い主)に出会うことをあこがれ、待ち焦がれていました。旧約聖書に登場するヨブも、彼と同じように救い主にあこがれ、救い主を待ち焦がれたのです。「わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る」(ヨブ記19:25~26)。

 シメオンはこの赤ちゃんこそ待ち焦がれた救い主と直感します。彼は幼子を腕に抱き、神をたたえます。その目には涙が光っていたでしょう。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕(しもべ)を安らかに(平和に)去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」ヨハネの黙示録14:13に似ています。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。霊(聖霊)も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。』」キリスト者の死は、永遠の命への入り口です。「罪が支払う報酬は死です」とローマの信徒への手紙6:23にあり、その通りですが、イエス様が私たちの全ての罪と罪の結果の死を十字架で引き受けて死なれ、三日目に復活されました。このお蔭で死が死に、死が無力化されました。従って、イエス様を信じる者にとって死は永遠の命への入り口です。

 シメオンは、この家族(聖家族)を祝福しました。高齢の方々の重要な務めの一つは、若い世代に神の祝福を祈ることではないでしょうか。ヘブライ人への手紙11:21にこうあります。「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。」
 
 「最上のわざ」という有名な詩を連想します。これは日本で長く奉仕されたホイヴェルス神父が故郷のドイツでご友人からもらった詩だそうです(ヘルマン・ホイヴェルス著『人生の秋に』春秋社、2012年、75~77ページ)。
「この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

 若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。/ 老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしてゆくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承認するのだ。

 神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

 すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。『来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ』と。」

 昨年亡くなった俳優の樹木希林さんが2012年の映画『ツナグ』で朗読なさり、反響があったそうです。クリスチャンでない日本人の心にも響いたのでしょう。私はこの詩を読んで、東久留米教会員として天に召された児玉さんとおっしゃる女性を思い出します。私が赴任した1996年には既に清瀬市のベトレヘムホームに入っておられました。独身で看護師、婦長として人のために尽くされました。ホームでいつも穏やかに迎えて下さいました。ご親族や教会のために祈っておられたと思います。「児玉さんは、とってもお世話をし易い方ですよ」と担当の男性が語って下さいました。

 シメオンのマリアへの言葉は単純な祝福ではありません。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせるためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。」イエス様の十字架を予告する言葉です。十字架はつらいことですが、父なる神様はその後に復活の勝利を与えて下さいます。シメオンの厳しい言葉は、イエス様の言葉と呼応します。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイ福音書10:34)。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(ルカ福音書12:51)。びっくりする言葉です。イエス様は基本的には平和をもたらすために来られました。ですが、イエス様を受け入れる人と、イエス様を受け入れない人が出てしまう。その現実をも見ておられます。どうか私たちが皆、へりくだってイエス様を信じることができるように、ご一緒に祈りたいのです。アーメン(「真実に」)。



2018-12-30 3:27:47()
「飼い葉桶のキリスト」 クリスマス礼拝 説教要旨
聖書:イザヤ書1章3節、ルカ福音書2章1~21節

 クリスマスおめでとうございます。本日のルカによる福音書は、イエス・キリストの誕生の場面です。著者ルカは、ローマ皇帝・この世の権力者アウグストゥスと、馬小屋に生まれた無力な赤ちゃんイエス・キリストを対比させています。アウグストゥスは有名なジュリアス・シーザー(カエサル)の養子です。自分に義理の兄弟アント二ウスとその妻クレオパトラ(その前はシーザーの妻だった)夫婦の連合軍と戦って勝利し、元老院から初代皇帝に任命されました。でもこのアウグストゥスが世界の真の救い主ではなく、イエス様こそが世界の全ての人々の真の救い主だと、聖書は教えてくれます。

 そのアウグストゥスから、全領土の住民に登録をせよとの勅令が出て、人々は皆、登録するために自分の町に旅立ちました。大変な権力です。人々は皇帝の権力によって翻弄されます。マリアとヨセフは翻弄される側でした。マリアとヨセフは、ナザレからベツレへムへ向かいますが、地図で測ると直線距離で110キロもあります。彼らがベツレへムにいるうちに、マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからです。このことは、神の子イエス様が必ずしも地上で歓迎されなかったことを示します。イエス様はこの福音書の9章で言われます。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子(ご自分)には枕するところもない。」イエス様は十字架で殺されるのです(もちろん三日目に復活され、今も天で生きて働いておられます)。イエス様は馬小屋で生まれたと言われていますが、それは実際には洞窟だったのではないかと言う人もいます。

 その地方で羊飼いたち(無名)が野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。貧しいがたくましい羊飼いだったと思います。野宿は厳しいですね。私は誘われて、池袋でホームレスの方々にお弁当を配る働きに参加したことがあります。午前1時から5時くらいまでは駅が閉まるので、ホームレスの方々も外に出なければなりません。東京でも雨の時、台風の時、雪の時があり、野外での寝泊まりは厳しいと感じます。その働きをしている方が北海道で働いて来られたとおっしゃったので、北海道にホームレスの方々はおられますかと尋ねたところ、その方は北海道にはホームレスの方はいないと返答されました(インターネットで調べると、実際には多くはなくても、おられるようです)。北海道で冬にホームレス生活をなせば、凍死する恐れがあります。それはともかく、この羊飼いたちはきつい労働に明け暮れていましたが、世間からは軽視されていたと思われます。しかし神様は、世の中で重んじられない、いと小さき人(と言っては失礼ですが)を愛して下さる方です。

 一瞬、天が開き、主の天使が近づき、主の栄光がサーチライトのように周りを照らしたので、彼らは非常に恐れました。天使が言います。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」イエス様が何時にお生まれになったのか正確には分かりません。しかしこの箇所からでしょう、イエス様は夜お生まれになったと信じられるようになり、今でもカトリック教会は深夜0時からクリスマスミサを献げます。「あなたがたのために」救い主が生まれました。「あなたがた」とは、人生が順調でない私たち、悩み苦しみ、悲しんでいる私たち、もしかするといじめを受けている私たちです。その私たちのためにこそ、イエス様は誕生されました。

 天使が続けます。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中で寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」この乳飲み子は、父母に仕える少年時代を送り、長じると人の病を癒し、弟子たちの足を洗い、遂には私たち一人一人の罪とその結果である死を全て身代わりに引き受けて下さり、ゴルゴタの丘で十字架に架かって死なれます。十字架こそ真の救い主のしるし、証拠です(三日目に復活の勝利を受けられます)。

 天使に天の大軍(天使の大軍)が加わり、神を賛美します。「いと高きところには栄光、神にあれ。父には平和、御心に適う人にあれ。」ここでは羊飼いたちこそ「御心に適う人」です。私たちイエス様を愛し、イエス様に従おうとする者も「御心に適う人」です。私たちにとって大切なことは、「小さな者であり続ける」ことだと思います。イエス様の使徒パウロが書いたコリントの信徒への手紙(一)1章にこうあります。「兄弟たち、あなたがたが召されたとき(イエス様を信じる者になったとき)のことを思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」

 今日のルカ福音書には、「飼い葉桶」という言葉が3回出て来ます。イザヤ書1章3節にも「飼い葉桶」の言葉があります。この節は、神様の嘆きの言葉です。「牛は飼い主を知り ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず わたしの民は見分けない。」ここでの飼い葉桶は、飼い主・養い主を示します。牛やろばでさえも養い主を知っているのに、肝腎の神の民イスラエルが養い主である神に立ち帰らないというのです。この箇所とルカ福音書2章の飼い葉桶を直接結び付けるには無理があると思います。ですが飼い葉桶が、私たちの真の飼い主を暗示すると考えることは、間違いではないと思うのです。

 私がチャプレンとして奉仕させていただいている保育園では、先日クリスマス会で、ぺイジェント(イエス様の聖誕劇)を行いました。子どもたちが大きくなってクリスマスを過ごすたびに、「そう言えば保育園でクリスマスの劇を行って、自分は天使になった、羊飼いになった、羊になった」と懐かしく思い出してくれることを願います。さらにそこにとどまらず、保育園の礼拝で繰り返し聞いた神様、イエス様に懐かしさを感じ、そこに立ち帰ってくれることを祈っているのです。

 私たちも飼い葉桶と聞いて、懐かしい真の養い主・神様に立ち帰りましょう。初期の教会の指導者となったアウグスティヌス(アウグストゥスではない)は、「神よ、あなたは私たちの心をあなたに向けてお造りになったので、私たちはあなたに立ち帰るまで真の平安を得ません」と祈ったそうです。これは彼の深い実感でしょう。彼は若い時は放蕩息子で、マ二教という宗教にはまり、女性関係にも大いに問題があり、熱心なクリスチャンの母親モニカを嘆かせていました。しかし母モニカの涙の祈りによって、遂に回心しクリスチャンになり、教会の立派な指導者にさえなりました。真の神様に立ち帰って、深い真の平安を得たのです。私たちも、飼い葉桶という語を見るとき、真の養い主を思い出し、真の神様とその独り子イエス・キリストに、喜んで立ち帰りましょう。神様が喜んで下さいます。アーメン(「真実に」)。


 
2018-12-20 20:50:40(木)
「マリアの決断」 アドヴェント(待降節)第3主日礼拝 説教要旨
聖書:サムエル記・下7章12~16節、ルカ福音書1章26~56節

 本日のルカによる福音書は「受胎告知」と呼ばれる重要な場面です。ある画家の絵では、マリアは書物(おそらく旧約聖書)を読んでいる時に天使ガブリエルから神様のメッセージを伝えられ、左手のひらを上げて開いています。こうしてマリアの驚きが表現されています。

 「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。おとめの名はマリアといった。」ガリラヤは旧約聖書に少しだけ登場する地域、ナザレは旧約聖書に一度も出て来ない町です。マリアは15才ほどの人に知られていない娘です(但し、信仰は非常に深い)。神様はいと小さき人、世間で軽視されている者を愛して下さる方です。ある本には、ナザレは「花」という意味だとありました。

 天使がマリアに言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」「アヴェ・マリア」という曲がありますが、この聖句が元になっているようです。「アヴェ・マリア」は、「おめでとう、マリア」の意味です。なお「おめでとう」は直訳では、「喜べ」です。ジョン・ウェスレーというイギリスの有名な伝道者は臨終の時に二度、「最善のことは、神が共にいて下さることだ」と言ったそうです。神様は私たち一人一人とも共におられます。ですから私たちも恵まれた者です。

 イエス・キリストの使徒パウロは書きます。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(コリントの信徒への手紙(一)15:10)。私たち にとってもそうです。今あるは神の恵みです。「ことごとくマナならざるはなし クリスマス」という俳句があります。マナは旧約聖書の出エジプト記などで神様がイスラエルの民に与えられた食物です。恵みのシンボルです。ですから、「ことごとく恵みならざるはなし クリスマス」と言い換えることができます。

 マリアはしかし、天使の言葉に戸惑い、考え込みます。「戸惑う」と訳された言葉は、強い調子の言葉らしく、「ひどくかき回された」と訳すことができるそうです。マリアは強い不安を感じ、その心は平静を失いかけたのでしょう。天使はマリアを諭すように言います。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子(神の子)と呼ばれる。」イエスは「主は救い」の意味です。当時多かった名前です。神様ご自身が、その子の名をおつけになりました。マリアが受けた恵みは単純な恵みではありません。生まれる子は、私たち全ての人間の全ての罪を身代りに背負って十字架で死なれるのです(そして三日目に復活なさいます)。パウロの言葉が思い出されます。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピの信徒への手紙1:29)。

 イエス・キリストは父なる神様の最愛の独り子ですから、イエス様を十字架につけることは、父なる神様にとっても非常に辛いことに違いないのです。マリアは、父なる神様と喜びと辛さを共にする女性として選ばれました。神様に深く愛されているのです。若いマリアに将来が全て見通せたわけではありません。しかしマリアは決心して、決断して言います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」天使はこの答えに満足したのでしょう、去って行きました。先に何が待っているか分からない。でも神様のなさることが悪いことであるはずがない。途中で試練があるかもしれないが、最後の最後には必ずよくして下さるに違いない。愛する神様を信頼して、自分の全てをゆだねよう。神様に従おう。これがマリアの深い信仰です。

 マリアと、創世記に登場する人類最初の女性エバと比べることができます。エバは神様の戒めに背き、罪を犯しました。エバは、神様に不従順に生きたのです。マリアはその正反対に、神様に従順に従いました。エバが目指した方向とマリアが目指した方向は正反対です。もちろんマリアの生き方の方がはるかによいのです。

 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」この聖句を愛した女性に北原怜子(さとこ)というカトリックの信徒の方がおられました。情熱あふれるクリスチャンだったようです。「アリの街のマリア」と呼ばれました(以下は、酒井友身著『アリの街のマリア ―北原怜子の生涯』女子パウロ会、1999年による)。戦後の東京の隅田川のほとりに非常に貧しい廃品回収業者の街「アリの街」がありました。「とても貧しくても、アリのように助け合えば自立できる」という理念による街の名だそうです。20才で洗礼を受けた北原さんの洗礼名はエリサベト、堅信名がマリア。洗礼者ヨハネの母の名とイエス様の母の名です。良家のお嬢さんでしたが、この街に飛び込み、ゼノ修道士(若い日には長崎でコルベ神父と働いた方)と活動します。貧しい子どもたちとクリスマス会を行い、勉強を教えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」の聖句を愛しました。マリアのように神様に従いたいと切望したのでしょう。

 でもあるとき、人を助けることは傲慢だと指摘されます。その人に言われて、コリントの信徒への手紙(二)8:9を読みます。これはクリスマスの本質を言い当てる御言葉です。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」その人は言ったのです。「人を助けるのではなく、なぜアリの街の人々と一緒に苦しもうとしないのです。なぜ一緒に苦労を分かち合おうとしないのですか。」その後、街の人々と共にリヤカーを引いて廃品回収を始め、汗とほこりにまみれ、小さい子を風呂に入れるなど奉仕します。本当に街の一員になったのです。しかし、なお残る名誉欲に悩み、ゼノ修道士のアドヴァイスを受けます。「イエス様は、『わたしは道である』と言われた。人は目的地に着くと道を忘れる。それでよい。自分の使命を果たしたら、もうそれにこだわってはいけない。」北原さんは「道になろう」と決心します。イエス様を愛し、アリの街の人々を愛して生き、あまり丈夫でなかったので28才で天に召されました。マリアさんのように生きたいと願った生涯だったのでしょう。

 本日のルカによる福音書の後半に、「マリアの賛歌」が記されています。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ」、と聖霊に満たされたマリアが語ります。私の人生最大の驚きの一つは、1991年のソビエト連邦の崩壊です。もちろん今もロシアという形で存在していますが、それでもあの超大国ソ連が消えるとは、大きな驚きでした。共産主義国家ソ連は、ロシア正教(キリスト教会)を弾圧し滅ぼそうとしましたが、滅びなかったのです。今は中国が似たことを行っています。神の力は偉大です。多くの権力者が滅びました。神様は「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ」られます。私たちは思い上がることなく、マリアさんのような生き方で生きてゆきたいのです。アーメン(「真実に」)。

2018-12-13 16:15:28(木)
「受けるより与える方が幸い」 伝道メッセージ 石田真一郎
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(イエス・キリスト。新約聖書・マルコによる福音書10章36節) 

 どんなに自分の欲望を満たしても、永遠の命を失って天国に入れなければ意味がありません。反対に貧しくてもイエス様に従い、神様と隣人を(さらに敵を)愛すれば天国につながり、真の意味で幸せな人生になります。

 ロシアの文豪トルストイが、『人にはどれだけの土地がいるか』という物語を書いています(中村白葉訳『イワンのばか』岩波文庫、2012年、所収)。絵本にもなっています。パホームという土地なしの農夫がいました。少しの土地を持ちました。しばらくすると、もう少し欲しくなるのです。ある村長(実は悪魔)が耳寄りな話を持ちかけます。千ルーブリで、パホームが一日に歩いて回った土地を全部くれるというのです。ただ一つの条件は、朝出発して、日没までに元の場所に戻ることです。

 パホームの心は燃え上がり、翌朝早く出発します。「1分も無駄にしない」決心です。要所に自分が歩いた証拠を残します。ずんずん進み正午になります。眠くなりますが昼寝はしません。「一時間の辛抱が一生の得になるんだ。」疲れて来ましたが、見ると太陽が落ち始めます。「欲張りすぎたかな。」彼は戻る足を速めます。太陽は落ち始めると速い。彼は焦って走ります。太陽との競争です。村長が腹を抱えて笑っています。最後の力を振り絞って元の場所に倒れ込みます。村長が叫びます。「やあ偉い。土地を自分のものにしたね!」でもパホームの心臓は止まったのです。人々が墓穴を掘って埋めました。『人にはどれだけの土地がいるか。』それだけの土地で十分だという皮肉な物語です。悪魔の誘惑、自分の欲に負けて自滅した男の話です。私たちがこうならないための愛の警告です。

 神の子イエス様は言われます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ福音書12章21節)。「神の前に豊かになる」とは、神様と他の人に奉仕する生き方です。喜んで与える生き方です。イエス様は「受けるよりは与える方が幸い」とも言われます。真の意味で幸せな生き方です。ご一緒にこの生き方をめざしましょう。アーメン(「真実に」)。