日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2021-08-04 16:45:29(水)
伝道メッセージ(6月分)遅れて掲載
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書11章28節)
 
 緊急事態宣言が続きます。神様がしおんの子どもたちと先生方、そしてご家族をコロナから守って下さるように、切に祈ります。

 韓国に金大中(キム・デジュン、1925~2009年)というクリスチャン大統領がおられました。金氏が民主化のリーダーで日本に来ていた1973年8月8日、東京の飯田橋のホテルグランドパレス(コロナで間もなく営業終了)から拉致(らち)された事件がありました。私は7才で、知ったのは後です。犯人は韓国の当時の軍事政権の情報機関です。薬で意識朦朧にされ、地下から車に乗せられ工作船で神戸から出航、体に重りをつけられ、海に投げ込まれて殺されそうでした。私は1986年頃、筑紫哲也がキャスターのテレビ番組に金氏が出演してその話をし、「その時、イエス・キリストが現れた」と堂々と語るのを聞いて、驚きました。

 金氏は書きます。「まさにその時にイエスが出現された。ああイエス様! 聖堂で見た姿そのものであり、表情もそのままだった。私はイエスの長い服の裾をつかんだ。『お助け下さい。国民のためにしなければならないことがあります。』その瞬間、目に赤い光がピカッとよぎった。船は狂ったように揺れながら走り出した。船室にいた男たちが『飛行機だ』と叫び、甲板に飛び出した」(金大中自伝「死刑囚から大統領へ 民主化への道」岩波書店)。殺害計画を察知した日本政府が、阻止のため送った海上保安庁のヘリコプターが投下した照明弾です。この時期の日本は、韓国の民主化のため、よき関わりをしたそうです。密かに殺せなくなり、釜山まで運ばれソウルで解放されました。家に帰ると、喜ぶ家族と秘書に囲まれ金氏は言います。「神が生きておられるのを体験した。主の恵みで助かった。一緒にお祈りしよう。」皆がひざまずき、感謝の祈りを捧げました(自伝)。その後の記者会見で「暗闇の中でもなお、明日の日の出を信じ、地獄の中でもなお、神の存在を疑わない」とのメモを渡したそうです。金氏はその後も、当時の韓国の軍事政権に睨まれ、1980年に死刑判決を受けるも、国際社会からの批判で無期懲役に減刑、アメリカへ亡命します。帰国して1998年~2003年に韓国大統領を務めました。十字架で死んで復活されたイエス様と共に歩んだ苦難と使命の人生だったと思え、励まされます。アーメン(真実に)。


2021-08-01 0:36:44()
「神様と自分と隣人を愛する」  2021年8月1日(日) 礼拝説教
礼拝順序:招詞 ヨハネ福音書16:33、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編35,日本基督教団信仰告白,讃美歌21・120、聖書 申命記5:6~22(旧約289ページ)、マタイ福音書22:34~40(新約44ページ)、祈祷、説教「神様と自分と隣人を愛する」、讃美歌21・288、献金、頌栄92、祝祷。 

(マタイ福音書22:34~40) ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

(説教) 本日は8月の第一日曜日で、日本基督教団の暦による平和聖日の礼拝です。本日の個所の小見出しは、「最も重要な掟」です。最も重要な掟は愛です。真の愛が世界を覆っていれば戦争は起こらず、平和が維持されます。ですから本日の個所は、平和聖日にぴったりと言えます。本日の問答は、イエス様がエルサレムで過ごされた最後の一週間、十字架のわずか三日前の火曜に行われました。

 34~35節「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』」試そうとして尋ねたのですから、イエス様から謙遜に学ぼうという姿勢ではなく、イエスという男が神様の正しい教えをちゃんと理解しているのか、調べてやろうという思いあがった気持ちだったと思います。

 イエス様は、心を込めて答えて下さいます。37~40節「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、」この二つの掟に基づいている。」キリスト教とは何かを徹底的に要約すると、この第一の掟と第二の掟を守ることということになるとも言えます。ぜひ暗唱しておきたい御言葉と思います。

 第一に重要な「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは旧約聖書の申命記6章5節に記されています。これはイスラエルの民、ユダヤ人が最も大切にしてきた御言葉です。「聞け、イスラエルよ(ヘブライ語で『シェマー、イスラエル』)、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」「尽くす」という言葉は、元のヘブライ語では「全て、全部」という言葉です。「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心全部で、魂全部で、力全部で、あなたの神、主を愛しなさい」が直訳です。あなたの命を造って下さったこの聖書の神様を、あなたの全身全霊の100%を注いで愛しなさい、というのです。こうなると、他の神も同時に礼拝する偶像礼拝は、二股礼拝は全く不可能になります。

 第二に重要な「隣人を自分のように愛しなさい」は、旧約聖書のレビ記19章に出ています。17節から読みます。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である。」このようにイエス様は最も重要な掟として申命記6章5節とレビ記19章18節を挙げられました。イエス様の教えの根拠は、旧約聖書にあるのです。イエス様は40節でこうおっしゃって締めくくられました。「律法全体と預言者は、この二つの教えに基づいている。」当時、旧約聖書を3つに分けるのが普通でした。「律法」「預言者」「諸書」の3つにです。「律法全体と預言者は、この二つの教えに基づいている」とは、旧約聖書全体がこの二つの教えに基づいている、ということです。「愛しなさい」は、新約聖書の元の言葉ギリシア語で「アガパオ―」という動詞です。この名詞形がアガペーです。教会ではアガペーこそイエス・キリストの愛、自己中心が全くない最も純粋な愛を指します。

 イエス様がこうおっしゃったので、私どもは「神を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛して生きよう」と志します。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」なので、自分を愛することも含まれています。神様は私たちに尊い命を与えて下さったのですから、自分の命を粗末にすることはできません。栄養のバランスを考えた食事をし、無茶な生活をせず、神様が造って下さった自分の健康を維持するよう心がけることが必要です。但し、自己中心、自分勝手、わがままの罪に陥らないように十分注意することは必要です。私たちは罪人(つみびと)なので、油断するとすぐそうなります。「自分を正しく愛する」ということは、神様が愛して造って下さった自分の心身を大事にしながらも、自己中心は避けて生きることと考えます。

 さて、私どもはこのように「神を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛して生きよう」と志すのですが、その大前提は、まずイエス・キリストが私ども罪人(つみびと)をとことん愛して、私どもの全部の罪を背負って身代わりに十字架で死んで下さったことです。申すまでもなく、これが全ての大前提です。父なる神様の愛、神の子イエス様の愛が最初に与えられました。有名なヨハネ福音書3章16節にはこうあります。「神は、その独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を(罪あるこの世界を、そこに生きる私たち罪人(つみびと)を)愛された。独り子(イエス様)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネの手紙(一)も思い出されます。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子(イエス様)をお遣わしになりました。ここに愛があります。」そしてこう続きます。「愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。」イエス・キリストの十字架の偉大な愛で愛された私どもは、イエス様の十字架の愛に感謝し、応答して生きることを始めるのです。自分の努力だけではできません。私どもは生まれつき自己中心の罪に染まっているからです。神様に祈って、聖霊を注いでいただくことが必要です。神の清き霊である聖霊によって清められて初めて、少しずつ神を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する生き方を始めます。イエス様は敵をさえ愛されるですから、隣人の範囲は最終的には、私どもの敵にまで及びます。日常生活で敵と言えば、身近で性格や意見、考えが合わない人を指すと言えます。

 では、「神を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛して生きる」とは、具体的にはどのような生き方になるのでしょうか。そこで改めて登場するのがモーセの十戒です。モーセの十戒は、旧約聖書の出エジプト記20章と申命記5章に記されています。神様はエジプトを脱出したイスラエルの民に十戒を与えて神の民の生き方を示し、そしてイスラエルの民が約束の地・カナンの地に入る直前に、もう一度十戒を示して下さいました。それが本日の旧約聖書である申命記5章です。これは旧約聖書なので、イエス様の十字架の愛はまだ行われていません。それでもやはり神の民は、神様の愛に応答して十戒を守って生きるのでした。その愛は6節に記された神の言葉です。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」イスラエルの民は、エジプトで奴隷状態で苦しんでいました。神様が偉大な恵みを与えて下さり、リーダー・モーセを立て、イスラエルの民をエジプトから脱出させて下さいました。これが旧約聖書での神様の大きな愛と恵みの出来事です。これだけの愛を受けたイスラエルの民は、神様に感謝と愛で応答するために、十戒を守って生きることを求められたのです。この十の戒めの前半の4つが神様を愛する生き方を示し、後半の6つの戒めが隣人を愛する生き方を示します。私どもは旧約聖書のイスラエルの民ではなく、新約の福音の時代を生きるクリスチャンですが、十戒を繰り返し学び直すことで、神を愛し、隣人を愛する具体的な生き方を学ぶことができます。そうでないと神を愛し、隣人を愛すると言っても具体的にどうすればよいのか分かず、悪い意味で自己流の信仰の生き方になる恐れがあります。

 第一の戒めは7節です。「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」これこそ旧約聖書においても新約聖書においても、私どもの信仰の基本中の基本です。聖書の神様だけが真の神様です。他に神・神々と呼ばれるものは、真の神ではありません。ですから聖書の神と他の「神」の両方を礼拝することはできません。太平洋戦争が終わるまで、日本では天皇が神でした。戦後はその呪縛から一応解放されました。聖書では神は神であり、全宇宙と地球や人間や他の生き物をお造りになった絶対者です。人間は神様に造られた下の存在です。聖書では、神様が人間の赤ちゃんになって生まれて下さることはある(イエス様)が、人間が神に祭り上げられることは絶対にない。これが日本人の考えと決定的に違う点。渋谷区にある明治神宮は明治天皇とその夫人を神として祭っていますし、東郷神社は東郷平八郎という軍人を神として祭っています。これは偶像崇拝と言わざるを得ないことです。オウム真理教という偶像(偽物の神)が日本を混乱させた時もありました。今でも幸福の科学などの偶像が宣べ伝えられていますから、クリスチャンが惑わされることはないにしても、他の日本人が惑わされないように、よく祈る必要があります。

 第二の戒めは9~10節で、「神の像を刻むな」という戒めです。神様は目に見えない方であり、像に刻んでその中に限定できないお方だからです。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。私は主、あなたの神、私は熱情の神である。」「熱情の神」を以前の口語訳聖書では「ねたむ神」と訳しており、最近出た聖書協会共同訳でも「妬む神」になっています。私たちの神様は愛に燃えている神なのです。聖書では神様そしてイエス・キリストが花婿にたとえられ、神の民イスラエルと教会は花嫁にたとえられています。花婿である神様は、花嫁である私たちへの愛に燃えておられ、私たちが他のものを神とするなら、真の神様は深く傷つき、悲しまれるのですね。その神様の燃える愛を表現する言い方が「熱情の神」「妬む神」です。人間の妬みは低レベルの感情と言えますが、神様を「妬む神」という場合の妬みは、「聖なる妬み」、神様の純粋で熱烈な愛を意味するので、人間が別の人の成功を妬む場合の妬みとは違う、聖なる妬みです。人間の低レベルの嫉妬と同じと誤解されるといけないので、新共同訳では「熱情の神」と訳したと思いますが、直訳すると「妬む神」であることは覚えておきたいです。しかし人間の低レベルの妬みとは違う聖なる妬み、神様の私たち花嫁への熱烈な愛を意味します。

 この熱烈な愛に応えるために、他の神を拝まず、神の像を刻まず、3つめの戒めは11節「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」旧約聖書では神様のお名前はヘブライ語のアルファベットでYHWHで表記され、昔はエホバと読むのが正しいとされ、今はヤーウエと読むのが正しいとされます。信仰の熱心なユダヤ人は、「主の名をみだりに唱えるな」の戒めがあるので、旧約聖書を朗読する時、神の名前YHWHのところに来るとお名前を読まず、「主」と読み替えたそうです。それが長年続いたために正確な発音が分からなくなったと言われます。新共同訳聖書もそれに倣い、元のヘブライ語の聖書でYHWHと書いてあるところは「主」と訳しています。私たちは「主の祈り」で、「御名を崇めさせたまえ」と祈るように教えられました。人間の名前にも尊厳があります。まして神様のお名前には高い尊厳があります。「神様」と呼ぶ時も、神への畏れと愛情と尊敬を込めて「神様、イエス様」と呼びかける、聖なる神の名を崇める気持ちで呼びかける者でありたいのです。

 第4の戒めは12節以下です。安息日(礼拝の日)の戒め、旧約の時代は土曜日、新約の時代は日曜日です。「安息日を守ってこれを聖別せよ。」あなたの神、主が命じられた通りに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなど全ての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕の伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである。」主人が安息日に労働を休むことによって、家の使用人や牛、ろばなどの家畜も、安心して休むことができるというのです。使用人は家で立場の弱い人。神様が立場の弱い人や家畜のことまで配慮しておられます。安息日には主人が率先して礼拝し、も家族も使用人も倣うのでしょう。礼拝こそ、天国を前もって味わう最高の安息です。ここまでの4つの戒めを行うことが、神様を具体的に愛する道です。私たちが礼拝を軽んじることは、神様を傷つけ、神様を悲しませることです。

 後半の6つの戒めが、隣人を愛する生き方を教えます。第5の戒めは16節。「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」神様が、父母を通して私たちに命を与えて下さったからです。私も妻も、両親が非常に高齢になった今、これこそ非常に重要な御言葉です。第6の戒めは17節です。「殺してはならない。」殺人の禁止です。神に似せて造られた人間を殺すことが罪であることは明らかです。いわゆる障があるから殺してよいという考えが大きな間違いであることは明らかです。新約聖書は、相手を心の中で憎むことも、殺人の罪になると言います。

 第7の戒めは18節の「姦淫してはならない」です。結婚した夫婦以外が性的関係を持つことの禁止です。現代日本で軽視されつつあると、私は心配しています。姦淫、姦通はほぼ死語になっています。最も近いのは不倫という言葉でしょう。不倫は罪だという認識を広める必要があります。第8の戒めは19節の「盗んではならない」です。他人のものを盗むことはもちろん罪です。自然界から資源や魚を取り過ぎる乱獲も、神のものを奪う盗みになるでしょう。最近は宇宙に行って、宇宙から資源を持ってこようという考えもあるようです。人間はどこまでも貪欲です。貪欲が盗みの罪の源です。「盗むな」を本当の実行するには、ただ盗まなければよいのではなく、愛によって与えて初めて、盗むなの御言葉を実行したことになると説く人もいます。確かにそうです。

 第9の戒めは「隣人に関して偽証してはならない」です。隣人について不正確な悪口や陰口を言うなということのようです。そして偽証は、偽りの証言ですから、偽証するなは、正確に真実を語れということでしょう。証言の証という漢字は「正しく言う」と書きます。偽りや不正確なことを語らず、いつも正しく語れ、真実を語れ、特に他人を不正確な噂によっておとしめるなということでしょう。第10の戒めは、「あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない。」これは貪欲の禁止、むさぼりの禁止です。貪欲とむさぼりの罪を乗り越えるのは、与える愛です。現実の弱肉強食かもしれません。強い者は弱い者から力で奪ってゆく。これは神様に逆らう罪の道です。与える愛が、貪欲の罪に打ち勝つ道です。

 イエス・キリストがまず、十字架の偉大な愛で私たちを愛して下さいました。私たちはその愛にお応えしようと、聖霊に助けられて「神を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する」ように志します。これから聖餐にあずかります。ある人は勧めます。聖餐を受ける前の日に、改めて十戒を読むことを。そして前回聖餐を受けた時から、あるいは先週の礼拝の時からの自分の生き方をどうであったか、十戒に照らして考えます。するとやはり「ああ、十戒を十分守れなかった」と罪の悔い改めに導かれます。もちろんそれでも洗礼を受けた人は、既にイエス様の十字架によって罪赦され、永遠の命を受けています。でもなお十戒を行えない自分であることを思い、悔い改めに導かれます。そしてへりくだった心で聖餐を受ける恵みにあずかります。聖餐によってイエス様の愛を十分に味わい、感謝をもってイエス様の十字架の愛に応えようとする生き方に(完全には遠いけれども)、再び立ち上がります。アーメン。

(祈り)聖名讃美。4度目の緊急事態宣言。オリンピックで感染拡大しないように。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神に立ち帰るように。経済困難の方々に助けを。私たちの教会と身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々に聖霊を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に、神様の守りを。御名により、アーメン。

2021-07-25 1:30:31()
「思いわずらいから自由に」  2021年7月25日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ヨハネ福音書16:33、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編なし,使徒信条、讃美歌21・351、聖書 マタイ福音書6:25~34(新約10ページ)、祈祷、説教「思いわずらいから自由に」、讃美歌21・496、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(マタイ福音書6:25~34) 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

(説教) 本日は「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第42回)です。本日与えられているマタイ福音書6章25節以下は、多くの方々に慰めと励ましを与えて来た御言葉と思います。私が初めてこの御言葉を読んだのは、高校1年生の入学式で日本語と英語の対訳の新約聖書をいただいて開いて見た日だったと記憶しています。読んで「よい言葉だな」と思いましたが、十分に理解できたわけではありません。イエス様は、私たちの心がよく平和を失い、悩みや心配で翻弄されることを知っておられます。私は今回この箇所を改めて読んで、直前の24節も深く関係しているのではないかと思いました。イエス様の御言葉です。「あなた方は、神と富とに仕えることはできない。」私たちは、目に見えない神様よりも、目に見えるお金の方が頼りになると思いやすいと思います。神様の方がお金よりも頼りになると信じることは、私たちにとって心の中の戦いになることがあると思います。確かにこの世界にあってはお金はある程度必要なものです。でも、私たちの命の根本を支えているのは、目に見えない神様で、この神様に信頼するようにと、イエス様が教えて下さいました。もちろん聖書は同時に、お金に余裕のある人は、余裕のない人と分かち合うようにと求めています。

 イエス様は、私たちに父なる神様に従い、父なる神様に信頼するように説きます。25節「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」「自分の命」とは、永遠の命ではなく、この地上の命です。主にこの肉体の命を指します。もちろんそれもかなり大切です。肉体の命を維持するために、栄養のバランスがとれていれば、豪華な食事でなくて簡素な食事で大丈夫ということではないでしょうか。若い時はもりもり食べることも必要でしょうが、年齢が上がると共に栄養のバランスがとれていれば、簡素な食事で十分となってゆきます。但し、骨粗鬆症にならないように気をつける等の配慮は必要でしょう。しかし思い悩む必要はないとイエス様はおっしゃいます。

 26節「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養って下さる。あなた方は、鳥よりも価値あるものではないか。」ここに出て来る鳥や28節の野の花を、ある人は「信頼の教師」と呼んでいます。鳥や花は思い煩ったり、思い悩んだりしないで精一杯生きているので、父なる神様への信頼については私たち人間に教えてくれる教師だ、ということでしょう。口に筆をくわえて美しい花などの絵を多く描いてこられた星野富弘さんの<花の詩画集>に『種蒔きもせず』という一冊があります。星野さんが大好きな聖書の御言葉が、この26節だそうです。新改訳で読んでみます。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなた方の天の父がこれを養っていて下さるのです。あなた方は、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」もちろん私たち人間は、種蒔きをし、刈り入れをし、つまり食べていくために労働する必要があります。空の鳥のような小さな生き物をさえ、父なる神様は食べさせて下さり、飢えさせない。鳥よりもはるかに優れた人間たちのことを、神様はもっと深く心に留め、必ず飢えないように養って下さる、という励ましです。星野富弘さんご自身は、残念ながら種蒔きや刈り入れ、倉に納める等の労働はおできにならないでしょう。身体障碍をもつご自分をも、神様は飢えさせることなく養って下さっている。口に筆をくわえて花等の絵を描くという神への奉仕の道も与えられて、神様の養いを受けている。そんな星野さんの神への感謝を賛美を感じます。

 27節「あなた方のうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか。」もちろんできません。思い悩むこと、思い煩うことによってプラスは何も生まれないことに気づかされます。古い文語訳聖書ではここを「汝らの中(うち)たれか思い煩ひて身の長(たけ)一尺を加へ得んや」と訳しています。今はこの訳を採用する日本語聖書は見当たりませんが、かつてはこのような訳も可能と思われていたようです。思い煩ってみても、確かに少し身長を伸ばすことさえできません。このように思い煩っても意味はないことになりますが、今のコロナ禍にあっていたずらに思い煩うのでなく、落ち着いてコロナを正しく恐れて、これを避ける賢明な対策と行動をとることは、むしろ必ず必要なことです。

 28~29節「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモン(王)でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」神様は、私たちが注目しない野の花の1つ1つにも深い愛と配慮を注いで美しく咲かせておられる。30節「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなた方にはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。」「まして、あなた方にはなおさらのことではないか。」「まして~なおさら」という言葉で、神様が野の草花よりも私たち人間のことを、はるかに深く愛し、配慮しておられる事実が強調されています。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。」思い悩むこと、思い煩うことは、はっきり言えば不信仰の罪だと聞いたことがあります。神様を信頼しない、神様を信用しない罪です。厳しすぎるかとも思いますが、当たっている面もあるでしょう。

 思い悩んでしまい、思い煩ってしまい、神への不信頼、不信仰の罪に陥りかけたなら、その罪に打ち勝つために必要なことは、神様に祈ることです。とにかく神様に祈ることで、思い悩み、思い煩いに次第に勝利させていただけると信じます。祈れない時があるでしょう。しかし私たちには「主の祈り」が与えられています。自分でどう祈ればよいか分からない時は、「主の祈り」を祈ることで十分と思います。自分でどう祈ってよいか分からない時に、私たちはイエス様が「こう祈りなさい」と教えて下さった「主の祈り」を祈る恵みが与えられています。「主の祈り」を祈ることで、思い煩い、神への不信頼の罪を乗り越えることができると信じます。ある牧師は、三度の食事の前に毎回「主の祈り」を祈ることを勧めておられます。よい方法だなと感じます。時にできない時があっても、毎日心がけていれば、「主の祈り」を祈るごとに、父なる神様とますます親しくなることができると信じます。

 思い悩んでしまう時、次の御言葉が私たちを平安に導いてくれます。フィリピの信徒への手紙4章5節以下「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」 ペトロの手紙(一)5章7節「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなた方のことを心にかけていて下さるからです。」「お任せしなさい」の元の言葉の意味は「投げる」です。ある人は大胆に、「思い煩いは、何もかも神様に投げつけなさい」という意味だと言われます。神様に思い煩いを投げつける祈りをすることが許されています。嬉しいことです。神様は受けとめて下さいます。神様をそこまで信頼してよいのです。

 31~32節「だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。それらはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。」ここでの異邦人は、真の神様を知らない人のことでしょう。東洋では「衣食足りて礼節を知る」と言います。衣食住が足りて、初めて人は安心して礼儀を知り、品位に心を向けて生きることができるということです。私たちもついうっかり「そうかな」と思いそうになります。でもイエス様の教えは違います。イエス様は衣食が先だとおっしゃいません。「あなた方の天の父は、これらのもの(衣食等)がみなあなた方に必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」それが第一だとおっしゃいます。それは礼拝が第一ということだと思います。そして神様に聞き従うことが第一。それを第一にしていれば、「これらのもの(衣食住)はみな加えて与えられる。」前の口語訳では、「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」です。「そうすれば、これらのもの(衣食等)は、すべて添えて与えられる。」「であろう」は新共同訳になって取り去られました。「であろう」で終わると不確かな印象を受けますが、これはイエス様の確実な約束です。新共同訳では、「みな加えて与えられる」という確信に満ちた訳になっており、これは新共同訳になって改善された点です。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めれば、食べ物等はすべて添えて与えられる」ことは、旧約聖書の出エジプト記で既に証明されています。神の民イスラエルが、奴隷として酷使されていたエジプトから、神様の恵みによって脱出できた後、彼らが旅した荒れ野に食べ物がなくて人々が不平を言いました。神様はマナというパンを与えてイスラエルの民を養って下さいました。リーダーであるモーセは民に言いました。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。あなたたちはぞれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。」その日の分だけ集めることが許されたのです。モーセは「だれもそれを翌朝まで残しておいてはならない」と言いましたが、次の日のことを心配した人々が、マナを翌朝まで残しておいたところ、虫がついて臭くなってしまいました。モーセは彼らを叱りました。翌朝になれば、神様がその日の分をちゃんと与えて下さったのです。このようにしてイスラエルの民は、神様に信頼する訓練を受けたのです。モーセは、礼拝の日である安息日(土曜日)の前日に言いました。「明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」人々がその通りにしたところ、翌朝になってもマナは臭くならず、虫もつきませんでした。モーセは言いました。「今日はそれを食べなさい。今日は主の安息日である。今日は野に何も見つからないであろう。あなたたちは六日間集めた。七日目は安息日だから野には何もないであろう。」そう言われたのに、安息日にもマナを集めに野に行った人々もいましたが、何も見つかりませんでした。

 彼らはモーセに叱られました。「あなたたちは、いつまで私の戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。よくわきまえなさい。主があなたたちに安息日(礼拝の日)を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。」神様は、一日一日のマナをちゃんと与え、金曜日には二日分のマナを与えて下さいました。安息日は礼拝の日で、仕事することが禁じられていたので、前の日にあらかじめ二日分を備えて下さったのです。これはイスラエルの民が、約束の地カナンに入るまで40年間続きました。神様が必ず約束を守って、食べ物を与えて下さる方であることが証明されたのです。私たちも同じ神様を信じています。ですからイエス様の御言葉に、安心して聞き従いたいのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

 そしてイエス様のまとめはこうです。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」ある人は、こうアドヴァイスします。「明日のことは配慮すべきである。細心の注意を払って計画し、準備すべきである。だが、心配するには及ばない。」大事なことは、まず今日を精一杯生きることです。明日のことを心配する前に、まず今日という日を、神様から与えられていることを感謝し、喜び、今日を喜んで生きることです。旧約聖書の詩編118編24節にこうあります。文語訳がすばらしい。「これ主の設け給へる日なり。我らはこの日によろこび楽しまん。」「これ主の設け給へる日なり。我らはこの日によろこび楽しまん。」この詩編から作ったのでしょうか、こんな讃美歌がありますね。「この日は、この日は、主が造られた、主が造られた。我らは喜ぼう、この日をば、この日をば。この日は主が造られた。我らは喜び喜ぼう。この日は、この日は、主が造られた。」

 最近、新聞の第一面の下の本の広告でも紹介され、本屋にも置いてある『74歳、ないのはお金だけ。あとは全部そろってる』(すばる舎)という本を買って読んでいます。『牧師 ミツコ』という方が著者です。ご夫婦で牧師で、47年間、教会で奉仕して来られました。4人の娘さんを育て、何と16人の孫がいるそうですが、ご主人が天に召され、公営住宅で年金が月7万円の一人暮らしをしておられます。教会には礼拝と祈祷会に行き、時々説教もなさる生活です。私はこの方の信仰に、かないません。「牧師の家庭に生まれ育ったので、貧乏には慣れています。~夫が主任牧師として新しく教会を立ち上げたとき、3年くらい謝儀を辞退したので、無給だったこともあります。子どももいるのにどうしようと思いましたが、クリスチャンは『必要があれば神様が与えて下さる』と考えるので、お金がなくてもどうにかなってきました。とはいえ、神様が与えて下さるのは、最後の最後。ぎりぎりまでがんばって、『本当に困った』と途方に暮れていると、不思議と『亡くなった父がお世話になったから、このお金を』などと思いがけない方から献金があったりして、助けられることがあります。今はひとりでこれだけのお金を仕えるので、『私ってお金持ちね』と思っています。花は、ごくたまに一本しか買いません。でも、だからこそ、その一本の花が買えたとき、ものすごくうれしい。お金があれば、いつでもたくさん買えるけれど、逆に一回の感動が薄まってしまいます。時々しかできないからこそ、喜びが深い。だから、少ないものでも幸せになれるのです。今は、お金がないほうがむしろ幸せだと思えるようになりました。」 純粋な信仰に頭が下がります。まさにイエス様と共に生きておられる。このような本からも教えられつつ、私どもも父なる神様への信頼をもって、生きて参りたいのです。

(祈り)聖名讃美。オリンピックで感染拡大しないように。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神に立ち帰るように。経済困難の方々に助けを。私たちの教会と身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。チャイルドファンドジャパンを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に、神様の守りを。御名により、アーメン。

2021-07-18 1:30:14()
「まっすぐ歩く」  2021年7月18日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ヨハネ福音書16:33、頌栄29、「主の祈り」、交読詩編34,使徒信条、讃美歌21・205、聖書 創世記12:1~4(旧約15ページ)、ガラテヤの信徒への手紙2:11~14(新約344ページ)、祈祷、説教「まっすぐ歩く」、讃美歌21・471、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(創世記12:1~4) 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。

(ガラテヤの信徒への手紙2:11~14) さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」

(説教) 本日は聖霊降臨節第9主日の礼拝です。だいたい月に一回、ガラテヤの信徒への手紙を礼拝で読んでいますが、本日がその日で、2章の11~14節を読みます。これまでのところで示されたことは、イエス・キリストの十字架こそが私たちに救いを与える父なる神様の偉大な愛だということです。そしてこの手紙を書いているパウロは、イエス様の十字架の死と復活後にイエス様に従う者となった人ですが、そのパウロを、イエス様の十字架より前から一番弟子だったペトロ(ケファ=岩の意味)とイエス様の肉親の弟ヤコブもよく認めていたということです。

 イエス様の弟ヤコブは、お兄さんであるイエス様が行っていた伝道を、イエス様が十字架について復活するまでは、全く理解していませんでした。却ってお兄さんは気が狂ったと思って取り押さえに行ったこともあったようです。しかし兄であるイエス様が十字架で死んで復活した後は、祈りの群れに加わる中で聖霊を注がれ、お兄さんは本当に神の子、救い主キリストだということを悟りました。ペトロとこのヤコブ、そしてペトロと同じくイエス様のガリラヤでの伝道活動の初期から弟子だったヨハネの三人が、エルサレムにできていたユダヤ人クリスチャンを中心とする教会の、柱の存在でした。この手紙の今日のすぐ前の9節を見ると、「ヤコブとケファ(ペトロ)とヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、私とバルナバ(パウロの恩人で盟友)に一致のしるしとして右手を差し出しました。」つまりヤコブとペトロとヨハネ、そしてパウロとバルナバががっちりと右手で握手して、お互いが伝道する相手は違うけれども、イエス様のために一致団結して働いていこうと、力強く確認し合いました。ヤコブとペトロとヨハネは主に割礼を受けた人々(ユダヤ人、イスラエル人)に伝道し、パウロとバルナバは主に割礼を受けていない人々(ユダヤ人以外、異邦人)にイエス様を宣べ伝えることが、父なる神様から与えられた使命だ。その認識も一致し、彼らは各々の持ち場で伝道を続けたと思われます。

 ここに「割礼を受けた人々(ユダヤ人)」、「割礼を受けていない人々(異邦人)」という言い方がなされ、「割礼」という言葉が出ています。以前も申しました通り、割礼はユダヤ人にとっては極めて重要なものでした。旧約聖書の創世記に記されている通り、割礼はユダヤ人の男子が生後8日目に必ず受けること、神様との契約に入った民(神の民)であることの証拠、シンボルでした。確かに割礼には積極的な意義がありましたが、割礼は次第にユダヤ人の「自分たちこそ真の神様に選ばれ民族」という誇りのシンボル、「自分たちだけが真の神に選ばれた民族」という強いプライドのシンボルになってしまいました。思い上がりのシンボルになってしまったのです。本来の割礼はよいものだったと思いますが、こうなると鼻につく、よくないものになってしまいます。パウロは、割礼の役割は終わったと確信していました。ユダヤ人と異邦人の全部の罪を身代わりに背負って十字架で死んで下さったイエス様の十字架の愛、これだけがユダヤ人と異邦人に永遠の命を与える父なる神様からの偉大なプレゼントだと悟っていました。割礼の時代は終わった。今や父なる神様が究極の愛を教えて示して下さった。それがイエス様の十字架の犠牲の死という愛だ。イエス様の十字架の愛だけが、ユダヤ人にとっても異邦人にとっても、たった一つの誇りだ。ユダヤ人も異邦人も思い上がりを捨て、プライドを捨てて、自分は神様の前には罪人(つみびと)であることを認め、自分の罪を悔い改めて、へり下ってイエス様を自分の救い主と信じることが必要だ。イエス様を救い主と信じることで、ユダヤ人にも異邦人にも平等に永遠の命が与えられます。

 そして今日の箇所を改めて見ましょう。最初の11節です。「さて、ケファ(ペトロ)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、私は面と向かって反対しました。」アンティオキアは、パウロがクリスチャンになってから早い段階でバルナバと共に1年間懸命に伝道していた土地です。地図を見ると、アンティオキアはイスラエルよりだいぶ北にあるイスラエルの外の、地中海沿岸の町です。ここにはユダヤ人と多くの外国人が住んでいました。使徒言行録11章によると、初めにアンティオキアに行ったユダヤ人クリスチャンたちは、最初はユダヤ人だけに伝道していましたが、異邦人(外国人)が多くいたので、異邦人にもイエス様を宣べ伝えるようになった。すると神様が彼らを助けられて、多くの異邦人がイエス様を救い主と信じるようになる奇跡が起こりました。使徒言行録11章22節以下には、こうあります。「このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主(イエス様)から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロ(クリスチャンになって間もないパウロ)を捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて、多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになったのである。」このアンティオキアで、イエス様を信じる人たちが初めてキリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになったことを思っただけでも、アンティオキアの教会は教会の歴史において重要な意味をもつ教会と言えます。パウロとバルナバはこの後、このアンティオキアの教会から送り出されて、伝道旅行に出発したのです。そしてこのアンティオキア教会は、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが一緒に礼拝生活を送っている点が、大きな特徴でありました。国際的な教会だったのです。

 手紙に戻り、11~12節「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、私は面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。」これはケファ(ペトロ)の失敗です。ペトロは、神様がイエス様を救い主と信じる異邦人にも永遠の命を与え、神の子として下さることを知っていました。ですからアンティオキア教会という異邦人も多くいる教会に来たとき、異邦人とも感謝して共に食事をしたのです。以前のペトロは、ユダヤ教の律法に縛られて、ユダヤ人は異邦人と共に食事をしてはならないと信じていましたが、今はそれから解放され、アンティオキアで異邦人クリスチャンとも感謝して食事を共にしていました。なお、ここに出て来る食事は、おそらく朝食・昼食・夕食などの肉体の健康を維持するための食事ではなく、霊的な食事・聖餐のことだろうと解釈されています。

 しかしアンティオキアに、エルサレムにいるイエス様の弟ヤコブのもとからユダヤ人クリスチャンたちがやって来ました。エルサレムのユダヤ人クリスチャンたちは、もはや父なる神様はユダヤ人と異邦人を分け隔てなさらないと、頭では分かっていましたが、まだ体がついて行かない面があり、ユダヤ人クリスチャンは異邦人クリスチャンと一緒に聖餐を受けることはできないと頑なな姿勢を維持していたようです。イエス様の弟ヤコブにもその傾向があったかもしれません。何と言ってもヤコブはイエス様の実の弟ですから、エルサレム教会で権威を持っていたし、ペトロにもヤコブへの遠慮があったでしょう。そこでヤコブのもとからユダヤ人クリスチャンたちがやって来ると、ペトロは恐れてしり込みし、異邦人クリスチャンと共に聖餐を受けることをやめてしまったのです。ペトロはイエス様の一番弟子ですから、ペトロがそうするとアンティオキアの他のユダヤ人クリスチャンたちもそれに倣ってしまい、パウロの先輩株の立派なユダヤ人クリスチャン・バルナバさえも同じ行動をとってしまいました。

 パウロから見て、これはとんでもないことでした。せっかくイエス様がユダヤ人のためにも異邦人のためにも十字架で死んで下さったのに、その恵みを味わう大切な聖餐をユダヤ人クリスチャンだけで受け、異邦人クリスチャンとは一緒に受けないなどは、イエス様の十字架の愛を無にする、とんでもない行動です。福音の真理が否定されるのを見たパウロは、イエス様への愛ゆえに、先輩格のペトロを遠慮なく叱りつけます。14節「私(パウロ)は、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。『あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強制するのですか。』」この言い方からすると、ヤコブのもとから来たユダヤ人クリスチャンたちがペトロに、アンティオキアの異邦人クリスチャンにも割礼を受けさせなさいと言ったのかもしれません。そしてペトロが「そうですね」とおべっかを使ったのかもしれません。それでパウロが正しく怒りを発し、「割礼は全く必要ない。割礼には私たちの罪を赦す力が全くない。イエス様の十字架だけが、ユダヤ人の罪も異邦人の罪も赦す偉大な力だ」とペトロを叱りつけたのではないかと思われます。異邦人クリスチャンと一緒に聖餐を受ける「まっすぐな歩き方を必ずしてほしい」と。

 神様は確かに、最初にユダヤ人(イスラエルの民)を神の民として選ばれました。しかしそれはイスラエルの民が強く大きかったからではなく、逆にどの民よりも貧弱だったために、神様が彼らを特に愛して神の民として選び、祝福なさったのです。ですからイスラエルの民が、「我こそ神様に選ばれた特別の民」と誇り高ぶってはならないのでした。神様はイスラエルから始めて、全世界を祝福するご計画をもっておられます。本日の旧約聖書・創世記12章にそれが記されています。イスラエルの先祖アブラハムに、神様が祝福を語ります。1~3節「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

 イスラエルの先祖アブラハムは、祝福の源となるように、地上の氏族がすべてアブラハムによって祝福に入るために、神に選ばれたのです。地上の全ての氏族の祝福の源になるためにです。その先の7節で神様はアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と祝福の約束をなさいます。ここで土地は祝福のシンボルであり、天国のシンボルと言えます。パウロはガラテヤの信徒への手紙の先の3章16節でこの「子孫」はイエス・キリストだと教えてくれます。つまり神様はまずイスラエル人アブラハムを祝福され、アブラハムの子孫イエス様を祝福され、イエス様を信じるイスラエル人と異邦人を祝福なさるのです。これがアブラハムへの祝福に始まり、イエス様を通して全世界を祝福・天国に導こうと希望なさる神様のご計画だというのです。ガラテヤの信徒への手紙は、全ての民族を祝福に導こうとなさる神様の壮大なご計画を明らかにしてくれています。そして教会で聖餐式を行う時、イエス様を信じていれば、どの国・地域の人も共にイエス様の御体であるパンと、御血潮であるぶどう液をいただくことができます。この国の人限定ということは決してありません。国も民族も、性別も年齢も関係なく、イエス様を信じる人は共に聖餐をいただくことができます。これは鉄則です。

 同じパウロが書いたエフェソの信徒への手紙2章14節以下に、深く関連することが書かれています。新約354ページ上段。「実に、キリストは私たちの平和であります。「二つのもの(ユダヤ人と異邦人)を一つにし、御自分の肉(肉体)において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方(異邦人)にも、また、近くにいる人々(ユダヤ人)にも、平和の福音を告げ知らせられました。」イエス様の十字架の死のお陰で、神様と人間との間の和解、そしてユダヤ人と異邦人との間の和解が成し遂げられたのです。いろいろな国・民族同士の和解、個人と個人の間の和解も成し遂げられたのです。イエス様の福音は、まさに和解の福音です。これを知った私たちクリスチャンは、イエス様の願いが和解であることに気づき、身の周りのいろいろな和解、世界の和解のために祈り、奉仕するようになります。
 
 私は今、ある方に求められて、今は天国におられる李仁夏(イ・インハ)牧師という方の生涯を少し学んでいます。お会いしたことはありません。東久留米教会で以前に何回も説教奉仕して下さった尾崎風伍牧師・マリ子牧師ご夫妻はお親しかったようです。李牧師は1925年に朝鮮半島で生まれ、1941年4月に日本に来られ、1943年に日本キリスト教団京都西田町教会で洗礼を受けられました。在日大韓基督教会の牧師となられ、調布市の多摩川河川敷の朝鮮人集落で開拓伝道されました。その後、在日大韓基督教会川崎教会に赴任され、1969年に保育園を開設されます。李先生の生涯のテーマは、和解でした。神との和解、朝鮮半島の人々と日本の和解です。教会と保育園で実践されます。初めから国籍、民族、障がいのあるなしを問わない志を持ちました。著書『歴史の狭間を生きる』(日本キリスト教団出版局、2006年)に、「『共生』ということが、今でこそ当然なこととして語られるが、違いをあるがままに受け止め合うことこそが豊かな社会をつくることができる、という夢が生まれた。それを支える聖書の言葉、神を畏れるからこそ、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』(マタイ19:18)が園のモットーとなった。」「在日同胞(韓国・朝鮮人)の園児たちの本名にこだわる原則を打ち出した。民族差別を避けて通名(日本名)生きるのでなく」本名を出す。「親たちとの激論もあったが、当初の5年間でレールは敷かれた。」「日本人の親、多くは母親たちは、子どもたちを入園させてから戸惑いで顔がこわばることがある。約半数の韓国・朝鮮籍、アジアの諸国籍やラテンアメリカの諸国籍の、異質な歴史と文化を持つ親たちと、否応なしに付き合わねばならないからである。あるとき、日本人の親が『私の心に偏見がなかったと言えば、うそになります。親から受け継いだ間違った民族的偏見が、私の心にありました。でも、どんな民族とも美しい友情を結べる子どもたちの世代は、これから全く新しい時代を築くことになるでしょうね。子どもがこの保育園に来て、本当に良かったと思います』と、本音で語り始める。『本音で語ってくれてありがとう』と、それを聞く日本人でない親の間から拍手が起こる。そこで私と保母たちは涙ぐんでしまう。そんな場面を何度も経験した。」李先生の生涯はまさに、イエス様の「和解の福音に仕える」一生だったと感じます。

 さて、私たちです。クリスチャンの生き方の土台にあるのは、イエス様の十字架の愛、イエス様の十字架によって父なる神様との間に和解を与えられた恵みの経験です。それを土台にして自分の周りに和解をつくるよう祈り奉仕し、地域に、国同士に、世界に和解が広まるよう祈り奉仕する。この生き方を、身近なところから始めて参りたいのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。4度目の緊急事態宣言。オリンピックで感染拡大しないように。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神に立ち帰るように。経済困難の方々に助けを。私たちの教会と身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々に聖霊を。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。チャイルドファンドジャパンを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に、神様の守りを。御名により、アーメン。

2021-07-11 2:21:47()
「死者はよみがえります」 礼拝説教 2021年7月11日(日)
礼拝順序:招詞 ヨハネ福音書16:33、頌栄24、「主の祈り」、交読詩編33,使徒信条、讃美歌21・325、聖書 エゼキエル書37:7~10(旧約1357ページ)、マタイ福音書22:23~33(新約43ページ)、祈祷、説教「死者はよみがえります」、讃美歌21・476、献金、頌栄27、祝祷。 

(エゼキエル書37:7~10) わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。

(マタイ福音書22:23~33) その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

(説教) 7週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第8主日の礼拝です。本日のマタイ福音書の小見出しは、「復活についての問答」です。これはイエス様が十字架にかけられる三日前の火曜日に行われた問答と思われます。イエス様が神殿を激しく清められたので、イスラエルの首都エルサレムの信仰のリーダーたちがイエス様を激しく憎み、イエス様と問答、論争を重ねています。彼らはイエス様に敵意を抱いています。この火曜日は、「問答の火曜日」「論争の火曜日」と呼ばれる大変な火曜日となりました。本日登場するのはサドカイ派というグループです。

 最初の23節「その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。」サドカイという名称は、旧約聖書でソロモンが王になった時に、油の入った角を持って来てソロモンに油を注いだ(これが王を任職する式)祭司ツァドクに由来するという説があります。イエス様の時代のサドカイ派は、祭司階級、特権階級、お金持ち階級でした。祭司階級ですから神殿とも深く結びついていました。イスラエルの権力階級だったのでしょう。イスラエルを支配していたローマ人とも仲良くしていました。権力階級であれば、現状に満足しており、変化を好みません。自分たちが権力をもつ時代がいつまでも続いてほしいはずです。現世的、現実的、物質主義的、この世的でした。目に見える現実が好きなので、信仰者なのに天国、永遠の命、死後の復活などに関心がなくなっていました。「復活などということはあり得ない」と主張していたのです。使徒言行録23章8節には「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めている」と書かれています。サドカイ派は旧約聖書のモーセ五書(旧約聖書の最初の5冊である創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を非常に重視していました。確かにこのモーセ五書には、死者の復活ということは、少なくともストレートには出てきません。それで復活ということはない、と主張していたとも言えます。

 そのサドカイ派の人々が、イエス様をやり込めようとして、奇妙なストーリーを考え出しました。イエス様は死者の復活はあるとの考えに立っておられます。サドカイ派は、そのイエス様の考えを否定し、イエス様を笑いものにしようとしています。彼らはモーセ五書を重視していたので、まず申命記25章5~6節を前提として引用します。24節「先生、モーセは言っています。『ある人に子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない。』」これはレビラート婚と呼ばれる旧約聖書の時代の習慣です。この申命記の箇所の小見出しは「家名の存続」ですから、昔のイスラエルは男性中心社会で、家を残すことが非常に重視されていたと分かります。申命記25章にこうあります。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さず死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから絶えないようにしなければならない。」このように家の存続を重視する考えは以前の日本にも色濃くありました。今の男女同権の社会では、この結婚はあり得ません。これでは女性は子を産む道具になりかねません。今なら人権侵害です。

 それはともかく、サドカイ派はこの申命記を前提として引用した上で、復活がないことを証明しようとして、現実にはあり得ないような事例を考え出します。もっとも、新共同訳旧約聖書の続編という書物があり、その中のトビト記という書に、ある女性が七人の男に嫁がされたが、その都度、男たちが死んでしまったという話があり(その女性は最後は幸せな結婚をした)、それを参考にしたのだと思います。サドカイ派が考えた事例はこうです。「わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」もし復活があるならば、復活の時、この女性と七人の夫たちは非常に困るではないか。だから復活ということは、あり得ないとサドカイ派は言いたいのでしょう。

 しかしイエス様は、サドカイ派の問いに真面目に答えて下さいます。復活について、重要なことを教えて下さるのです。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」つまり「あなたたちは復活について、完全に誤解している。その原因は、あなたたちが聖書を浅く読んでいるだけで、死者を復活させることのできる父なる神様の偉大な力を知らないからだ」とおっしゃるのです。復活はあることを、自ら証明して下さった方はイエス様ご自身です。父なる神様は、十字架で死んだイエス様を復活させる、真に偉大な力をはっきり現わして下さったのです。この問答が行われた時点で、死者の中から復活した方は誰もいませんでした。復活は死から甦って、復活の体も与えられ、二度と死なない命です。旧約の時代には、預言者エリヤや預言者エリシャが、死んだ子供を生き返らせました。でもそれは復活ではないと思います。その後、もう一度死んだに違いないからです。でもイエス様の復活は違います。十字架の死の三日目に復活されたイエス様は、もう死ぬことがないのです。イエス様を信じる者たちもまた、イエス様と同じように復活するのです。復活も体も受けるのです。その後、二度と死にません。Aさんという人が復活の命に入る時、AさんはAさんの個性を維持していますが、同時に次元の違う新しい命に入っているのです。

 イエス様はさらに言われます。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」サドカイ派のは、復活の後も地上でも結婚関係が続くと考えていることです。今の地上での命思い違いと復活の命を、同じ次元の命と考えていることです。そうではないのです。復活後の命では(天国では)、もう結婚はないのです。結婚して新しい命を産み出す必要がないからでしょう。死ぬこともありません。配偶者だった人と天国で出会い、地上では夫婦だったなと思い、懐かしく感じるでしょうが、天国で改めて結婚することはありません。結婚は、この地上だけのことです。「復活の時には、天使のようになる。」天使は死なないのでしょう。天使は天国で、大きな喜びをもって父・子・聖霊なる三位一体の神様を賛美しています。私たちもそのようになります。マタイ福音書13章43節の御言葉を借りれば、「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」のです。私たちもそうなります。

 イエス様はさらに教えて言われます。31~32節「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」 ここでイエス様は、死者の復活があることを証明する御言葉が、実はサドカイ派が重視していたモーセ五書の中の出エジプト記3章にあると指摘されます。神様がモーセにご自身を示される場面です。生まれた土地エジプトから一旦逃げ出したモーセは、シナイ半島で羊飼いをしていましたが、ある時、神の山ホレブに来ます。その時、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れました。モーセが見ると、柴は火に燃えているのに、柴が燃え尽きません。不可思議な現象です。モーセは「どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」と不思議に思い、この光景を見に近づきます。すると神様が柴の間から声をかけられるのです。「モーセよ、モーセよ。」モーセが「はい」と答えると、神が言われます。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」さらに神様は言われます。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

 もちろんこの時、創世記の登場人物であるアブラハム・イサク・ヤコブはとうの昔に死んでいます。この箇所を普通に読めば、神様はモーセに「わたしはあなたの先祖アブラハム・イサク・ヤコブを守り導いた神であり、そのわたしがあなたをも守り導く」と宣言された読むことができます。しかしイエス様は、私たちに見えない神様の真理を知っておられます。イエス様は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神様の御言葉が、死者の復活を証明していると断言されます。すなわちこの御言葉は「わたしは今も生きているアブラハムの神、今も生きているイサクの神、今も生きているヤコブの神」という意味だとおっしゃるのです。これは私たちには驚きです。既に死んだアブラハム・イサク・ヤコブは、地上にはいませんが、神様のご支配の中の(私たちには見えない場で)モーセの時代にも生きていたのです。ということは今も(私たちに見えないだけで)、神様のご支配の中のどこかで生きているのです。神の子であるイエス様には、それが見えているのです。

 そしてイエス様は断言されます。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」「神は生きている者の神」、つまり今も生きているアブラハム・イサク・ヤコブの神なのです。神様は、私たちが死んでも私たちの命を支えて下さる神であり、神様と私たちの交わりは、私たちが死んでも続くのです。今生きている人も、既に亡くなった方も、すべての人は今「神によって生きている、神によって生かされている」のです。既に亡くなった方も、私たちの目に見えないだけで、神様の目にはそのお一人お一人が見えているのです。これは驚くべき真理の開示です。イエス様に聖書を解き明かしていだだいて初めて分かることです。

 ペトロの手紙(一)3章19節以下には、一旦死んだイエス様は、「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」とあり、イエス様が陰府(死者の国)に行って宣教されたと読めます。亡くなった方々は、ここで生きておられるのだろうと思います。旧約聖書のサムエル記上28章には、サウル王が口寄せの女に頼んで、亡くなったサムエルという神の人を呼び出させる場面があります。このようにして死者を呼び出すことは聖書は大きな罪で、決して行ってはいけないことですが、サウルはここでその禁止を破っています。女はサウルに「上着をまとった老人が、地から上って来るのが見えます」と言い、それがサムエルでした。サムエルもこの時、陰府から地上に来たのではないかと思います。イエス様が陰府に行って宣教されたことは、陰府もまたイエス様の憐れみの御手の中にあることを意味すると言えます。

 そして、今生きている私たちも、既に亡くなった方々も、いずれイエス・キリストによる最後の審判を受けます。イエス様を信じている人たちは、永遠の祝福に入れられます。イエス様を信じておられなかった方々については、憐れみの主であるイエス様にお委ね致しましょう。最後の審判は、ヨハネの黙示録20章の最後に記されています。新約477下段。13節から「海はその中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれの行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」ここを読むと、既に死んだ方も一旦復活して、最後の審判を受けているようです。そして救われた人々が天国に入れられるのでしょう。死後のこと、永遠の命のこと、最後の審判のこと、復活のこと、天国のこと。イエス様はその全てを知っておられますが、私たちは全てを分かってはいません。ですがはっきりしていることは、イエス様を救い主と信じ告白した人には、今既に永遠の命が与えられていること、将来必ずイエス様の復活の体と同じ復活の体が与えられることです。

 神様が私たちキリスト者に与えて下さる復活の体がどのようなものであるのか。それがコリントの信徒への手紙(一)15章35節以下に記されています。新約聖書321ページ下段の最後。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたがたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。」復活の体は、今のこの体と次元の異なる全く新しい体なのだということを言おうとしています。イエス・キリストの復活の体と同じ、体なのです。それは確かに体であって、幽霊のようなものではないのです。その証拠に復活されたイエス様は、ルカによる福音書24章で弟子たちの前で焼いた魚を食べられました。

 パウロは書きます。40~44節「また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星の間の輝きにも違いがあります。死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」私たちは一旦死んで、新しい命に復活するのです。死ぬ以上、そこに1つの断絶が起こります。その断絶を経て初めて、復活の体に復活することができるのです。神様が必ずそうして下さるのですから、私たちは信頼して委ねて、ひたすらイエス様に従って行けばよいのです。イエス様はヨハネによる福音書12章24節で言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」私たち皆に必要なことは、自分の罪を憎み、自分のエゴを滅ぼすことです。自分のエゴを叩き伏せて、イエス様に従うことです。

 旧約聖書で、復活を最も明確に語っているのは、本日の旧約聖書であるエゼキエル書37章でしょう。今日はここに深く踏み込みませんが、ここには滅びを超えた希望が記されています。私は先週、保育園の合宿に行き、小さな女の子でも既に死への恐れを抱いていることを感じ取りました。死に勝利する復活がなければ、私たちの信仰は無意味です。でも確かにイエス様は、死者の中から復活されました。仮死状態からの蘇生でなく、完全に死んでから完全に復活されたのです。イエス様にこそ、死を乗り越えた真の希望があります。希望の主イエス様と共に、地上の責任を果たしながら、天国を目指して進んで参りましょう。

(祈り)聖名讃美。明日から4度目の緊急事態宣言。オリンピックで感染拡大しないように。感染している方全員に、特に重症の方に神様の癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神様に立ち帰るように。経済困難の方々に神の助けを。私たちの教会と身の周りに各々の病と闘う方々がおられ、入院中の方々もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々にも聖霊を。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々と家族に神の愛を。チャイルドファンドジャパンを通して応援しているフィリピンの少年少女、「にじのいえ信愛荘」の方々に、神様の守りを。イエス様の御名により、アーメン。