日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2023-09-17 1:01:13()
「互いに愛し合いなさい」2023年9月17日(日)聖霊降臨節第17主日公同礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書12:36a,頌栄29、主の祈り,交読詩編108、使徒信条、讃美歌21・152、聖書 レビ記19:18(旧約p.192)、ヨハネ福音書13:21~30(新約p.195)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌403、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(レビ記19:18) 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

(ヨハネ福音書13:21~30) イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
 
(説教) 本日は、聖霊降臨節第17主日公同礼拝です。説教題は「互いに愛し合いなさい」です。新約聖書は、ヨハネ福音書13章21~30節です。小見出しは「裏切りの予告」と「新しい掟」です。

 前回の個所で、イエス様は愛する12人の弟子たちの汚い足を洗って下さったのです。そして本日の最初の21節「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく(アーメン、アーメン、私はあなたたちに言う)。あなた方の内の一人が私を裏切ろうとしている。』」イエス様が心を騒がせたと書かれています。ご自分が真心を込めて両足を洗った一人が、ご自分を裏切ろうとしている。今まさにご自分が十字架に架かる時が、いよいよ来た。それを悟ってイエス様の心は、打ち震えたと思うのです。「弟子たちは、一体誰について言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。」ユダが怪しいと、誰も思わなかったのです。

 23節「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。」通常この弟子は、ヨハネだと言われます。このヨハネによる福音書を書いた人と言われます。「イエスの愛しておられた者」と書かれているので「愛弟子(あいでし)」とも呼ばれます。愛弟子は、イエス様のすぐ隣の席に着いていました。当時のユダヤの食卓では、皆寝そべった形で食卓の横にいたそうです。それが普通で礼儀上も問題なかったようで、この時もそのような食卓の様子だったと思われます。レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な「最後の晩餐」の絵では、皆がテーブルに着いていますが、あれはヨーロッパ風に描いているので、現実は寝そべっていたと思われます。

 24節「シモン・ペトロはこの弟子に、誰について言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸元に寄りかかったまま、『主よ、それは誰のことですか』と言うと、イエスは、『私がパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。」パンを与えるのは、一家の主人の役目でした。イエス様はここでそのようにふるまっておられます。そしてイエス様はパン切れを浸して取り、イスカリオテのユダにお与えになった。これを見れば愛弟子は、裏切るのはユダだと分かったはずですが、実際には分からなかったようです。27節「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐしなさい」と彼に言われた。』サタン(悪魔)は、私たちの心に自動的に入るわけではありません。私たちが拒否することができます。ユダがなぜイエス様を裏切ったか分かりませんが、悪魔に従わない自由もありました。しかし悪魔の誘惑に負けて、悪魔に従ってしまいました。ペトロの手紙(一)5章8節以下には、「あなた方の敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」私たちも悪魔の誘惑に遭うことはあります。その時気づいて悪魔に抵抗し、「サタンよ、退け」と言って悪魔を追放したいものです。

 イエス様が言われた「しようとしていることを、今すぐしなさい」との御言葉は、ユダを裏切りへけしかけたように聞こえますが、ユダはこう言われてどうするか、立ち止まって考える最後のチャンスを与えられたとも言えます。ここで考え直して「裏切りはしません」と言う自由もあるので、ユダはそれを選べばよかったのです。しかし悪魔に従う道を選んでしまいました。28節「座に着いていた者は誰も、なぜユダにこう言われたのか、分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、『祭りに必要な物を買いなさい』とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。」金入れを預かっていたということは、ユダは非常に信用されていて、一番裏切るはずがない人と見られていたと思います。彼が裏切るとは、11人の弟子たちは想像もできなかったのでしょう。20節「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」闇が、悪魔が支配しています。夜はそれを象徴しています。ユダの心が悪魔に支配されていることも象徴しています。

 21節の「裏切る」という言葉は、新約聖書のギリシア語で「パラディドーミ」という言葉です。これは直訳では単純に「渡す」「引き渡す」の意味です。確かにユダがイエス様を裏切って、イエス様をユダヤの権力者たちに引き渡したのです。ですが、父なる神様のもっと大きな計画が進んでいることも確かです。ローマの信徒への手紙8章32節に、同じパラディドーミという言葉が出て来ます。ここでは「渡された」と訳されています。「私たちすべてのために、その御子(イエス・キリスト)をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」ここでは、御子イエス・キリストを十字架の死に渡された方は、父なる神様だと語られています。悪魔が全てをリードしているように見えて、実はもっと次元の高い、父なる神様のご計画が進んでいます。父なる神様が、イエス・キリストを十字架の死に引き渡される。それはイエス様が、私たちの全部の罪を身代わりに背負って下さり、私たちが父なる神様との和解に入り、永遠の命を受けるためです。

 ユダの非常に大きな罪と悪をさえ用いて、父なる神様がご自分の最善の計画を進めておられます。ユダよりも悪魔よりも、父なる神様がずっと上手です。それなら、ユダはイエス様を裏切ることで結果的に、父なる神様に奉仕したのだから、よいことをしたことになるのではないか、という疑問が出るかもしれません。しかし、その考えは成り立ちません。ユダが行ったことは大きな罪であって、それが結果的にイエス様の十字架による贖いを実現させたからと言って、ユダの罪が正当化されることは全くありません。ユダの裏切りは裏切りの大罪であって、同情の余地は全くありません。

 イエス様は、ユダの裏切りと悪魔の攻撃によって十字架の死に追いやられ、同時にもっと高い次元においては、父なる神様のご意志によって十字架の死を与えられました。どちらにしても、イエス様からご覧になれば受難です。ある人に言わせると「それは、活動から受難への転換です。人々に教え、説教し、いやし、行きたい所に出かけた何年かを経て、今やイエス様は」受け身の者となりました。「鞭打たれ、茨の冠をかぶらされ、唾をかけられ、嘲られ、ほとんど裸で十字架に釘付けにされました。「引き渡された瞬間から受難が始まり、受けるだけの犠牲者となり、他人のなすがままになり、その受難を通して、イエス様の使命は成し遂げられたのです。」

 20年ほど前に、イエス様の十字架への道行きをリアルの描いた『パッション』という映画がありました。パッションは受難の意味であり、同時に情熱・熱情の意味でもあります。イエス様は私たちを罪から救おうとする情熱・熱情を持って十字架という受難を忍耐されました。
 
 31節に進みます。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。』ヨハネ福音書においては、イエス様が裏切られ、十字架の上に上ることが栄光です。これは分かりにくいことですが、十字架こそイエス様の愛の勝利の王座なのです。私たち羊が永遠の命を受けるために、イエス様は十字架に架かられます。イエス様が、このヨハネ福音書10章10節以下でおっしゃった通りです。「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」羊のために命を捨てることが、イエス様の栄光ではないかと思います。

 ユダがなぜ裏切ったか。明確な理由は分かりませんが、イエス様を愛していなかったからだと思います。これは決定的です。初めはイエス様を愛していたはずですが、いつからか愛さなくなったに違いありません。ペトロもイエス様を知らないと言って三度裏切りますが、しかしペトロはイエス様を愛していました。だから悔い改めて立ち直ることができたと思うのです。

 弟子たちを愛しているイエス様は、弟子たちに語ります。34節から。「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることを、皆が知るようになる。」イエス様に愛されている者として、互いに愛し合いなさい、と命じられました。文語訳ではこうです。「われ新しき戒めを汝らに与ふ。汝ら相愛(あひあい)すべし。わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛(あひあい)すべし。互いに相愛する事をせば、これによりて人みな汝らの我が弟子たるを知らん。」三鷹市に相愛教会という教会がありますが、ここから名前をとっているに違いありません。悪魔の誘惑に負けてユダが裏切り、イエス様の共同体がばらばらに壊されかけました。しかし悪魔に打ち勝つのは愛し合う力です。互いに愛し合うことによって、教会は悪魔に勝利します。

 イエス様は十字架の犠牲愛の死から復活された後、弟子のペトロに三度問われました。「私を愛しているか。」「愛しています」と三度答えるペトロに、イエス様は言われます。「私の羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのです。このように話してから、ペトロに、「私に従いなさい」と言われました。ペトロは、イエス様に託された羊たち(仲間のクリスチャンたち)を守りながら、ローマで逆さ十字架で殉教したと伝えられます。イエス様に従い、このような死に方で、神の栄光を現わしたのです。

 ヘンリー・ナウエンという神父が書いた『イエスの御名で』(あめんどう)というあまり長くない本があります。ナウエン神父は50才代に入り、自分の人生にはもう過去と同じだけの長さは残されていないと気づき、単純な問いに直面したと書いています。「年を重ねて、私はよりイエスに近づいただろうか?」司祭になって25年たっていましたが、依然として祈りにおいて貧しく、やや人々から孤立した生活を送り、自分をせきたてる目先の問題にすっかり心奪われていることに気づきました。神様が祈りの中で、行き先を示して下さいました。知的障がいのある人々の共同体ラルシュに行く道が与えられました。「行って、心の貧しい人々の間に住みなさい。彼らはあなたを癒してくれるだろう。」こうしてナウエンさんは、ハーバード大学というアメリカの最高大学で教えることをやめて、ラルシュという知的障がいを持つ人々の共同体に移りました。最も輝かしい場所から、言葉は思考をほとんど、あるいは全く持たない人々の所に移りました。ある意味非常に辛い、苦痛に満ちた移動でした。教会も、悪魔の誘惑に気づかずに負けることがあります。権力や野心、物事をただ効率的に行おうとし過ぎること。そうではなく、私たちの心と生き方がイエス様に近づくことこそ、目指す道です。

 1840年にベルギーで生まれたダミアンという神父がいました、伝道のためにハワイに派遣されました。ハワイのハンセン病(感染力弱い、今は効果的な医薬ある)患者は、絶海の孤島モロカイ島に送られていました。そうなった女性が叫んでいました。「神が私を見捨てた。だから私も神を見捨てる。」ダミアン神父は必死で祈りました。「神様、何とかして下さい。」そして気づきました。「私がモロカイ島に行けばよいのだ。」彼は教会の許可を得て、モロカイ島に渡ります。そこでは多くのハンセン氏病患者が世間から見捨てられ、悲惨な状態で暮らしていました。彼の努力で多くのことが改善。音楽隊も造る。患者と同じ皿から食べた。ダミアン神父自身もハンセン氏病に感染。「ハンセン氏病の人の気持ちが分かるようになった。」彼はハンセン氏病を「神からの勲章」と呼んだ。イエス様に見事に従った人。私たちは彼ほど立派に生きることができないかもしれないが、自分にできる形でイエス様に従って参りましょう。アーメン。

2023-09-10 2:25:12()
説教「弟子たちの足を洗うイエス・キリスト」2023年9月10日(日)聖霊降臨節第16主日礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書12:36a,頌栄24、主の祈り,交読詩編107:23~40、使徒信条、讃美歌21・209、聖書 詩編41:6~10(旧約p.875)、ヨハネ福音書13:1~20(新約p.194)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌98、献金、頌栄27、祝祷。 

(詩編41:6~10) 敵はわたしを苦しめようとして言います。「早く死んでその名も消えうせるがよい。」見舞いに来れば、むなしいことを言いますが/心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。わたしを憎む者は皆、集まってささやき/わたしに災いを謀っています。「呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい。」わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。

(ヨハネ福音書13:1~20) さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第16主日公同礼拝です。説教題は「弟子たちの足を洗うイエス・キリスト」です。新約聖書は、ヨハネ福音書13章1~20節です。小見出しは「弟子の足を洗う」です。

 これは非常に有名な場面で、東久留米教会では、毎年のイースターの3日前の洗足木曜日(イエス様の十字架の前日)の祈祷会で、必ず読みます。カトリック教会では洗足木曜日に、司祭(神父)が信徒の方々の足を、実際に洗うそうです。今のフランシスコ教皇は、南米出身者として初めてローマ教皇になった人です。それまでの教皇はほぼ全員、ヨーロッパ出身者だったのでしょう。世界的に見ると貧しい地域である南米の人がローマ教皇になることは、神様の御旨だったと思われます。フランシスコは本名ではありません。昔の聖人アッシジのフランチェスコ(フランシスコ)から名前を取っています。アッシジのフランチェスコは、イエス様に従い、経済的には貧しさに徹して生きた聖人と呼ばれる人です。この人の名前を自分の名前としたフランシスコ教皇は、自らも貧しい人々の味方でありたいと考えているようです。就任した頃、少年院で洗足式を行い、12名の受刑者(少女2名を含む)の足を洗ったそうです。教皇が洗足式で、女性の足を洗ったのは初めてだそうです。最近では、イスラム教徒の足を洗ったそうです。イスラム教の人にもクリスチャンになってほしいと思っているでしょうが、まずは全ての人に奉仕する姿勢を示したのだと思います。足を洗うということは、足が顔と近づき、臭いと思います。臭くても姿勢を低くして人の足を洗う姿は、やはりイエス様に従う姿です。もちろんこれは、ローマ教皇だけでなく、私たち皆がこのように生きるようでありたいですね。

 1節から読みます。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」イエス様は、十字架に架かって、弟子たちと全ての人たちの罪を身代わりに背負う、その決定的な時が来たことを悟られました。口語訳聖書では、「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」、文語訳聖書では、「世にあるこの者を愛して、きわみまでこれを愛したまへり」です。時間的には十字架の死に至るまで弟子たちと私たちを愛され、質においてもとことん愛されたのです。

 2節「夕食の時であった。既に悪魔は、イスカリオテのユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」ヨハネ福音書には、他の福音書のように「最後の晩餐」そこでイエス様が聖餐式を制定される場面がありません。本日の個所がヨハネ福音書における事実上の「最後の晩餐」であり、聖餐式の制定の記事の代わりに、弟子たちの足を洗う記事があると言えるのではないかと思います。3節「イエスは、父がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、またご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」「立ち上がって」という言葉に、イエス様の決然とした姿勢を感じます。

 5節「それから、たらいに水を汲んで、弟子たちの足(複数形)を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」もちろん両足を洗ったのです。これは、足を洗ってもらった弟子たちにとって、強烈な体験として記憶されたに違いありません。一生忘れられない体験です。彼らは後々まで、両足を洗って下さるイエス様の両手から受けた感触も、後々まで覚えていたのではないでしょうか。よく言われるように、当時、足を洗うことは奴隷の仕事だったそうです。異邦人の奴隷の仕事だったという人もいます。

 「最後の晩餐」の時、ルカによる福音書を見ると、弟子たちは、明日は十字架に架かるというイエス様の決意も知らず、「自分たちのうちで、だれがいちばん偉いだろうか」という議論をしていました。弟子たちの関心のレベルが低いので、イエス様はため息をついたかもしれません。そして言われました。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなた方はそれではいけない。あなた方の中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」マルコ福音書10章では、(これは「最後の晩餐」の場面ではありませんが)、イエス様が弟子たちにこうおっしゃっています。「あなた方の間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子(イエス様)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 「シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。」ペトロは、敬愛してやまないイエス様が自分の汚い足を洗って下さるので、驚き恐縮し、「私の足など決して洗わないで下さい」と言います。イエス様が足を洗って下さることは、次の日にイエス様が十字架に架かって、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って死んで下さる、その犠牲の愛を象徴する行為です。イエス様が十字架に架かって下さらなければ、ペトロの罪が赦され、ペトロと父なる神様が和解することはできないのです。ですから、イエス様に足を洗っていただく必要はないと遠慮することは、一見謙遜なようで、イエス様が差し出して下さる十字架の愛を拒否する傲慢なことです。ペトロはまだ自分の本当の罪深さを知らないのですね。ペトロはこの数時間後に、鶏が鳴く前に三度イエス様を知らないと言って、消極的にですがイエス様を裏切る罪を犯してしまいます。イエス様は、ペトロが自分を知る以上にペトロを深く知っておられます。ペトロがもうすぐ裏切りの罪を犯すことをよくご存じで、あらかじめペトロの足を洗って、あらかじめペトロの罪を清めておられるように見えます。

 ですからイエス様はペトロに言われます。「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる。」「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる。」文語訳では「我もし汝を洗はすば、汝われとかかはりなし。」イエス様に足を洗っていただくことを断れば、イエス様とつながることはできません。イエス様に足を素直に洗っていただくことが、イエス様に喜ばれる道です。私たち皆に、洗礼という恵みが差し出されています。私たち皆が、へり下って、恵みの洗礼を素直に受けることが、イエス様と父なる神様に喜んでいただく道と信じます。

 イエス様は言われます。「あなた方は清いのだが、皆が清いわけではない。」イスカリオテのユダのことです。イエス様はユダの両足をも洗われました。田中忠雄さんというクリスチャンの画家の絵に、イエス様がユダの足を洗う絵があります。もうすぐイエス様を、ペトロよりも積極的に裏切るユダの足を洗うイエス様です。ここでイエス様は、敵を愛しておられると言えます。イエス様はどのような思いでユダの足を洗われ、ユダはどのような思いで、イエス様に足を洗っていただいたのでしょうか。聖書には書かれていません。イエス様は、ユダをも深く愛しておられますから、ユダが悔い改めてイエス様を売り渡す罪を実行することを思いとどまるように最後までチャンスを与えておられたと思います。

 イエス様は言われます。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。」

 これは、本日の旧約聖書・詩編41編10節の引用です。口語訳では、「しかし、私のパンを食べている者が、私に向かってその踵を上げた」です。ユダが実際に踵を上げて、イエス様を蹴とばすことはありませんでした。しかしこの「踵を上げる」という表現をそのまま使うなら、イエス様に洗っていただいたその足でイエス様を蹴り上げると受けとめることも可能で、ユダがイエス様を売り渡した罪は、イエス様を踵で蹴り上げるに等しい、際立って深い罪と分かります。イエス様の地上の人生は、貧しい飼い葉桶で生まれ、弱いろばに乗ってエルサレムに入られ、弟子たちの汚い両足を洗い、茨の冠を被らされて十字架に架けられる、まさに底辺から底辺に向かう奉仕の人生です。

 新約聖書のヘブライ人への手紙10章29節には、次のように書かれています。「神の子を足蹴にし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。」これは必ずしもユダのことを言っているのではないと思いますが、しかしユダにも当てはまるのではないかと感じます。そして私たちにも、「このようにならないように」との警告を発しています。

 東日本大震災の発生から数年間、日本基督教団の東北教区で、被災者支援センターエマオが開設されていました。そこにも、イエス様が弟子たちの足を洗う最近の作品と思える絵が貼ってありました。エマオの方針も、自分たちの考えでどんどんボランティアを行うのではなく、地震と津波で被災された方々の足を洗わせていただく、という方針でした。今年7月に秋田県で豪雨があり、教会も被害を受けました。現地の人々や、東京都中野区にあるSCF(学生キリスト教友愛会)の青年方がボランティアとして現地の教会で奉仕する写真を見ましたが、教会の床下に潜り、泥をかき出すしんどい作業を行っておられて、まさにイエス様に倣って、現地の教会の方々のために、足を洗って差し上げるに等しい奉仕だと感じた次第です。

 東久留米教会に以前、草刈さんという熱心なクリスチャンがおられました。今は天国におられます。草刈さんは東京に来られる前は北九州におられ、TOTOという会社に勤務しておられたと聞きます。TOTOという会社は水まわり全般を扱う会社らしいのですが、トイレの便器も扱っておられると思います。それだけでなく水まわり全般を扱っておられると思いますが、私はもしかすると草刈さんは、人があまり行いたくないトイレのことをも扱う会社に敢えて入られ、ご自分もイエス様に倣って人々の足を洗う姿勢で働きたいというお考えで、この会社に入られたのではないかと、推測した次第です。

 フランシスコ教皇は、数年前に日本に来られました。東京ドームでもミサが行われ、私はチケットを得る恵みを受け、出席しました。教皇の説教はスペイン語だったようで、私には分かりませんが、日本語訳がスクリーンに映されます。その時、今の教皇は、「教会は野戦病院のようであってほしい」と語られました。どのような意味なのか、私なりに考えます。現実社会の中で、傷つき弱った人々を受け入れる所であったほしいということではないかと思います。その集会は、コロナの問題が発生する前に行われました。ある意味、預言者的なメッセージだったようにも思います。「コロナや戦争や災害や、行き過ぎた競争によって心身に傷を受けた人たちを受け入れる場になってほしい。」傷ついた人々の足を洗って差し上げる教会であってほしいということではないかと思います。そのような教会を目ざしたいものです。「師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。」互いに足を洗い合う助け合う、教会外の方々の足をも洗うつもりお仕えする。そのような私たちになりたいのです。アーメン。

2023-09-03 1:43:48()
説教「神に喜ばれることを第一に」2023年9月3日(日)聖霊降臨節第15主日公同礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書12:36a,頌栄28、主の祈り,交読詩編107:1~22、使徒信条、讃美歌21・431、聖書 イザヤ書53:1~5(旧約p.1149)、ヨハネ福音書12:36b~50(新約p.193)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌78、献金、頌栄27、祝祷。 

(イザヤ書53:1~5) わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

(ヨハネ福音書12:36b~50) イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。     イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第15主日公同礼拝です。説教題は「神に喜ばれることを第一に」です。新約聖書は、ヨハネ福音書12章36b~50節です。小見出しは「イエスを信じない者たち」です。

 先週はこの直前を読みました。イエス様の締めくくりの言葉が印象深かったと思います。「光(イエス様ご自身)は、いましばらく、あなた方の間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 そして本日の個所に入ります。36節の後半から。「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」先の42節を見ると、「議員の中にもイエスを信じる者は多かった」とあるので、イエス様を救い主と信じる人々も多かったのですが、群衆の中にはイエス様を救い主と信じない人々もいた、ということなのでしょう。不思議と言えば不思議です。この前のページを読むと、エルサレムの都に入城するイエス様を、大勢の群衆が「ホサナ、ホサナ」と叫んで大歓迎したばかりではありませんか。中には本気でイエス様を救い主として歓迎した人もいたのでしょうが、しばらくすると熱気が冷めてしまい、イエス様を真の救い主と信じなくなった人も多かったのではないかと思います。

 ヨハネ福音書は、人々がイエス様を救い主と信じなかったのは、次の理由によると記しています。「預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。『主よ、誰が私たちの知らせを信じましたか。主の御腕は、誰に示されましたか。』」これは、教会では有名な旧約聖書のイザヤ書53章の冒頭なのですね。本日の旧約聖書としてそこを選びましたので、読んでみます。ヨハネ福音書に引用されている言葉と少しだけ違いますが、もちろんほぼ同じです。「私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」これから語られるのは、「苦難の僕(しもべ)」の姿、私たちのために十字架につけられる救い主イエス・キリストのお姿です。この方が真の救い主だということを、「誰が信じられるだろうか」と53章1節は語るのです。「十字架で死んで下さる方が真の救い主だということは、あまりにも意外で、誰も思いつかない真理だというのです。

 「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」この中の一部を、口語訳聖書は、こう訳していて、私は印象的だと感じます。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔を覆って忌み嫌われる者のように、彼は侮られた。我々も彼を尊ばなかった。まことに彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った。」

 私たちは、これが、私たちのために死んで下さったイエス・キリストの十字架を指し示していると知っています。その冒頭に「主よ、誰が私たちの知らせを信じましたか」と書かれています。だれも信じない。多くの人がなかなか信じようとしないというのです。神の子が、私たちを罪と死から救うために、十字架の上で身代わりに死んで下さるということは、誰も思いつかないこと、なかなか信じていただけないこと、だというのです。私たち毎週のように教会に集う者は、これを何百回・何千回も聞いているので、やや当たり前に感じるかもしれませんが、改めて考えてみると、これは驚くべき神の自己犠牲の愛というほかありません。

 39節「彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。これはイザヤ書6章の引用です。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。私は彼らをいやさない。」この御言葉は「かたくなの預言」と呼ばれます。とても分かりにくい印象を受けます。「神は彼ら(イスラエルの民)の目を見えなくし、その心をかたくなにされた。」神が、イスラエルの民の心をかたくなになさったと読めます。すると私たちは言いたくなるのではないでしょうか。「全能の神様がイスラエルの民の心をかたくなになさったのなら、イスラエルの民はどうしようもないではないか。人々がイエス様を救い主と信じないのは、人間の責任ではなく、神様の責任ではないのか。」しかし、このうそぶいた言い方は、私たち人間の甚だしい思い上がり、神様のせいにする私たち人間の高慢・傲慢の恐るべき罪と言うべきです。

 私たちは、自分がイエス様を救い主と信じることができないのは「神様のせいだ」などとかたくなで頑固なことを言わず、素直にへりくだって、イエス様を救い主と信じ告白する方が、ずっとよいのです。神様がそれを望んでおられます。私は、新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)1章21節以下を、思い起こすのです。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人(ユダヤ人以外の異邦人の代表)は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」

 ユダヤ人には、「自分たちこそ、神様に選ばれた民」という誇りがありました。確かにユダヤ人は、神に選ばれた民なのです。選ばれたことを大きな光栄と思い、感謝して謙虚になればよいのですが、逆に選ばれた民との意識が強く、鼻高々に思い上がってしまい、かたくなになり、神様の御言葉に聴き従わなくなってしまいました。ギリシア人をはじめとする異邦人は異邦人で、自分たちは頭がよく優秀で、知恵を持っていると誇りに思っていました。両者とも自分の力による上昇志向なのです。ところが神様は、その逆のような、真の救いの道を用意して下さいました。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるし(力、奇跡)を求め、ギリシア人は知恵(知恵による自己満足)を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリスト(しかも十字架につけられたキリスト)を宣べ伝えているのです。」

 上昇志向でなく、その正反対に十字架の死にまで、徹底的にへりくだられたイエス・キリスト。このイエス・キリストを救い主と信じ告白する謙虚な人(かたくなでない人)を救い、その人に永遠の命を与える。これが神様のご意志なのです。従って私たちは、かたくなな心を捨てて、ぜひ十字架に架かって復活された真の救い主イエス様を信じる必要があります。但し、人がイエス様を救い主と信じるためには、聖霊なる神様に働いていただく必要があります。コリントの信徒への手紙(一)12章3節に、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです」と書いてある通りです。ですから私たちが隣人に伝道する時、「神様、どうかこの方の心をかたくなにしないで、聖霊を豊かに降り注いで、この方にイエス様を救い主と信じる心、告白する信仰を与えて下さい」と祈る必要があります。神様には人の心をかたくなにすることもでき、逆に人の心を素直にすることもできます。ですから私たちは、「かたくなになった人の心も、神様が働いて素直にして下さい」と神様に祈ることができ、その祈りが大切ではないかと思うのです。

 ヨハネ福音書に戻り、41節。「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」これはイザヤ書6章で、預言者イザヤが地上の神殿で、おそらく礼拝をしていたとき、天の真の神様を垣間見たイザヤの預言活動の原点の重要な経験を指しています。上の方にセラフィム(天使のような存在)がいて、各々6つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていました。彼らは互いに呼び交わし唱えたのです。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」イザヤは言います。「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、私の目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」聖書においては、人が神を見ると死ぬということがあります。神様は清い栄光に輝く完全に聖なる方、私たち人間は罪人(つみびと)。罪人(つみびと)が聖なる神を直接見ると、撃たれて死ぬのです。それでイザヤは、「災いだ。私は滅ぼされる」と叫んだのです。神を直接見ることは、罪人(つみびと)にとって耐えられない、圧倒的な体験です。しかし幸い、イザヤは撃たれて死にませんでした。イザヤは罪の赦しを与えられ、神のメッセージを語る預言者として、自分の民イスラエルの人々のもとに派遣されます。このイザヤが神を見た経験を、本日のヨハネ福音書は、「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」と述べます。私は以前、この御言葉を読んで、本当に驚きました。イザヤが見た神はイエス・キリストだと言っているからです。ヨハネ福音書は、冒頭から同じようなことを述べています。「初めに言(ロゴス=イエス・キリストを指す)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」イザヤが見た神は、父なる神様であり子なる神キリストであり、目に見えない聖霊なる神もそこにおられたに違いありません。新約聖書を読むことで、旧約聖書が初めて本当に分かるのですね。

 42節以下「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」議員とは、最高法院の議員です。彼らの中にもイエス様を信じる者は多かったが、村八分にされるのを恐れて、力をもつファリサイ派の人々を恐れて、公に言い表さなかった、つまり告白しなかったのです。それではいけません。ローマの信徒への手紙10章9節に、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と書いてあるからです。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだからである」とあります。「好んだ」は元のギリシア語で、「愛した」という言葉です。「彼らは神からの誉れよりも、人間からの誉れを愛した」のです。神様よりも、この世の方を愛したのです。使徒パウロが、テモテへの手紙(二)4章で、「デマスはこの世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまい」と書いているのを思い出しました。イエス・キリストを愛して、神の道を捨てないことが大切なのですね。

 昔見た大河ドラマで、小西行長というキリシタン大名が、豊臣秀吉のキリスト教迫害に一旦屈する場面がありました。彼が友人に「表向きは信仰を捨てて、心の中で信じていこうと思う。面従腹背だ」と言うと友人に、「それは卑怯だ」と叱られます。もう一人、高山右近と言う熱心なキリシタン大名がいて、彼は信仰を捨てないのです。高山右近は最後は徳川家康のキリスト教迫害の時に、「信仰をとるか、大名の地位をとるか」の選択を迫られ、大名の地位を捨てて信仰をとったために、フィリピンのマニラに追放され、そこで天に召されました。

 私は5年ほど前に、当時のキリシタンの「おたあ」という女性を主人公にした演劇を見ました。おたあは、豊臣秀吉の朝鮮侵略のときに、小西行長によって日本に連れ帰られた女性で、小西行長の養女になり、徳川家康の侍女になるなど、大変な人生を歩んだクリスチャンです。おたあも迫害を受け、しかし信仰を捨てないのです。信仰を捨てないとがんばる中で、「それならあなたの恋人を殺す」と言われ、さすがに動揺し、彼を助けるためには信仰を捨てることもやむを得ないかと一瞬思うのですが、そこでその恋人が叫ぶのです。「おたあ、信仰を捨てたらだめだ!」それに励まされて、おたあは信仰を捨てないのです。そして神津島という島に流される。そこで天に召されただろうと長年考えられていましたが、最近資料が新たに発見され、晩年は長崎で暮らしていたらしいことが分かりました。信仰を守っていたと思います。迫害の時代に信仰を守り通した勇敢な人々の話を聞くと、私たちは今でも大変励まされるのですね。彼女ら、彼らは「人間からの誉れよりも、神からの誉れを愛した」のです。本日の説教題「神に喜ばれることを第一に」は、その意味です。

 一昨日の9月1日(日)は関東大震災からちょうど100年でした。真に残念なことにデマを信じて朝鮮人、中国人殺害が起こりましたが、ほっとする話もあります。あるクリスチャンの社長の会社でも朝鮮半島出身の2人の少年が働いていました。自警団が来て、「朝鮮人を出せ。殺す」と言いました。社長は「あの若者たちはもういない。いても、何の罪もないのに渡すことはできない。まず私を殺しなさい」と言うと、相手は引き揚げました。あるお菓子会社のクリスチャン社長は、会社の菓子やミルクをどんどん被災者に配りました。幹部に反対されても、「今こそ、神様とお客様にお返しするときだ」と実行しました。神戸にいた賀川豊彦という著名な牧師・社会事業家は、数日後に東京に来て、仲間の人々と共に救援活動を始めました。大きな苦難の中で、信仰によって生きた人々の姿は、全体の苦難が大き過ぎる中で、小さくてもキリストの光を感じさせます。

 イエス様は、44節以下で懸命に叫ばれます。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」ですから、イエス様はこうもおっしゃいます。今月の礼拝の「招きの言葉」です。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」真の光であるイエス様を、心より信じましょう。アーメン。


2023-08-27 2:02:22()
説教「光のあるうちに、光を信じなさい」2023年8月27日(日)聖霊降臨節第12主日礼拝  
順序:招詞 エフェソ2:14~16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編106、使徒信条、讃美歌21・205、聖書 詩編89:2~5(旧約p.926)、ヨハネ福音書12:27~36(新約p.192)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌502、献金、頌栄92、祝祷。 


(詩編89:2~5) 主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に/あなたのまことを告げ知らせます。わたしは申します。「天にはとこしえに慈しみが備えられ/あなたのまことがそこに立てられますように。」「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び/わたしの僕ダビデに誓った。あなたの子孫をとこしえに立て/あなたの王座を代々に備える、と。」

(ヨハネ福音書12:27~36) 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第14主日公同礼拝です。説教題は「光のあるうちに、光を信じなさい」です。新約聖書は、ヨハネ福音書12章27~36節です。小見出しは「人の子は上げられる」です。

 この直前の個所でイエス様は、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という有名な言葉を述べられました。そして今日の最初の27節でイエス様は、「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救って下さい』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。」マタイ福音書とマルコ福音書には、十字架の前夜の、イエス様の「ゲツセマネの祈り」の場面があります。ルカ福音書では、「オリーブ山で祈る」場面ですが、内容はほぼ同じです。このヨハネ福音書には、「ゲツセマネの祈り」の場面がありません。しかしその代わりのように、この場面があります。今日の個所は「ヨハネによる福音書のゲツセマネ」と呼ばれるそうです。

 イエス様は「今、私は心が騒ぐ」と正直に言われました。イエス様でさえも、十字架を目の前にして心に葛藤を覚え、心がが動揺しているのです。イエス様は100%神の子であり、同時に100%人間です。人間としてのイエス様が、十字架にかかることを喜べないのは、当然と言えます。マタイによる福音書の「ゲツセマネの祈り」の場面を見ると、イエス様は悲しみ、もだえ始められ、「私は死ぬばかりに悲しい」と言われました。これは「私は心が騒ぐ」と言われることと重なります。

 イエス様はさらに自問自答して言われます。「『父よ、私をこの時から救って下さい』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。」マタイによる福音書ではイエス様は祈って言われました。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」この両者もよく似ていると思います。人間の正直な気持ちとしては「父よ、私のこの十字架の時から救って下さい」と祈りたいとの正直な気持ちを叩き伏して、「しかし、私はまさにこの時のために、十字架の時のために来たのだ」と、葛藤を乗り越えて、使命を果たす道を選び取られます。

 そしてイエス様は、「父よ、御名の栄光を現して下さい」と祈られます。これはゲツセマネの祈りの「父よ、私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」に対応すると思うのです。「御名の栄光を現して下さい」と「あなたの御心が行われますように」は、ほぼ同じ意味だと思います。「父なる神様、何よりもあなたの御名の栄光を現して下さい。あなたの御心が行われますように」という祈りだと思うのです。

 このイエス様の祈りが、父なる神様に喜ばれました。天から声が聞こえたのです。「私(父なる神様)は既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」これまでのイエス様の愛の奇跡、水をぶどう酒に変え、38年間歩けなかった人を歩けるようにした愛の業、男だけで約5000人の群衆を満腹にした愛の業、ラザロを復活させた愛の業、これらによって父なる神様の栄光が現されました。そして今、イエス様が十字架に架かられ、父なる神様に従い通すことで悪魔の支配を打ち破ることによって、再び神様の栄光が現されようとしています。天から神の声が聞こえた場面は、イエス様が洗礼を受けられたとき、イエス様が4人の弟子たちだけを連れて、高い山に登られた場面と、今の場面の3回だと思います。3回とも重要な場面なのですね。

 29節「そばにいた群衆は、これを聞いて、『雷が鳴った』と言い、ほかの者たちは『天使がこの人に話しかけたのだ』と言った。」雷が鳴るようなとどろき渡る声だったのです。私たちに神様の御声が聞こえる場合、「しずかなささやく声」で聞こえることも多いと思います。ですがこのときのように、雷が鳴り渡るような声であることもあると分かります。出エジプト記19章の十戒が与えらえる直前の場面では、「モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた」とあります。旧約聖書のアモス書3章8節には、「獅子がほえる 誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる 誰が預言せずにいられようか」とあり、神様の言葉が獅子・ライオンのようなとどろく声だと言っているようです。神様は雷が鳴るような、とどろく強烈な声で、「私は既に栄光を現した。再び栄光を現そう」と語られました。今こそイエス様の十字架の時であることを宣言されたと言えます。

 イエス様が言われます。30節以下「この声が聞こえたのは、私のためではなく、あなた方のためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」「今こそ、この世の支配者が裁かれる時。」この世の支配者は悪魔、サタンです。エバとアダムが神様の御言葉に背き、悪魔の誘惑に負けて、悪魔に従って罪を犯したときから、人間と世の中は、悪魔の支配下に落ちてしまいました。悪魔がこの世界支配するようになったのです。残念ながら悪魔が生きてまだ働いています。戦争があり、殺人などの犯罪も起こります。人が悪魔の誘惑に負けて、罪を犯してしまっています。しかしイエス様の十字架の死と復活の時、悪魔はイエス様に完全に敗れ去ったのです。それはイエス様が十字架という最大の苦難に遭いながらも、ただの一度も罪を犯さなかったからです。悪魔はイエス様を全力で誘惑したはずですが、イエス様は地上の生涯の約33年間、十字架の上でも、ただの一度も悪魔の誘惑に負けて罪を犯すことがありませんでした。こうして悪魔はイエス様に敗れ去り、世界を支配する力を完全に失いました。悪魔の敗北は決定済です。悪魔は、世の終わりに神の国が完成する時に、完全に滅亡することが決定済です。但し、その時まで、最後の悪あがきをするので、私たちも悪魔の誘惑に負けないように注意する必要があります。日々聖書を読み、祈り、礼拝し、イエス様に従うことで、悪魔の誘惑を退けてゆきたいのです。

 「『私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。』イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」「地上から上げられる。」それは第一に、イエス様が十字架に上げられることを意味します。そして第二に、十字架の死の三日目に復活され、天に昇られることを意味します。エフェソの信徒への手紙4章10節によると、イエス様は「もろもろの天よりも更に高く」昇られました。今もそこから私たちに聖霊を注いで、信じる心を与えて下さっています。王の王、主の主として「もろもろの天よりもさらに高い天」におられます。イエス様はヨハネ福音書3章14節でこう言われます。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(イエス様)も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」これは旧約聖書の民数記で、イスラエルの民が神様とモーセに逆らって不満をぶつけたときに、神様が炎の蛇を民に送られ、蛇が民をかみ、多くの死者が出ました。民が蛇を取り除いてほしいとモーセに頼むと、モーセは神に祈りました。神様の指示に従って、モーセが青銅で一つの蛇を造り、旗竿の上に掲げました。すると蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、助かって命を維持することができました。それと同じように、十字架に上げられ、死と復活を経て天に上げられたイエス・キリストを信じ、イエス様を仰ぐ人は、永遠の命を受ける。これがヨハネ福音書のメッセージです。
 
 34節「すると、群衆は言葉を返した。『私たちは律法によって、メシア(救い主)は永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられねばならない、とどうして言われるのですか。その「人の子」とは誰のことですか。』」これは、本日の旧約聖書である詩編89編などを指しての言葉のようです。当時、旧約聖書は「律法、預言者、諸書」から構成されると理解されていました。律法は旧約聖書のことと言えます。詩編89編4~5節にはこう書かれています。神様がダビデ王に誓った。「あなた(ダビデ)の子孫(メシア(救い主))をとこしえに(永遠に)立て、あなたの王座を代々に備える。」人々はこれを、「メシアはイスラエルの王として永遠にイスラエルにいる」と理解していました。それで、「メシア(救い主)が上げられて、イスラエルにいなくなるとは変ではないか」と思ったのです。

 群衆は、イエス様が十字架に架かられることの意味が分からなかったので、こう言いましたが、イエス様は重要なメッセージをお語りになります。35節以下「イエスは言われた。『光は、いましばらく、あなた方の間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。』」イエス様は、このヨハネ福音書9章でも、「私たちは、私をお遣わしになった方(父なる神様)の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である。」「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」光とは、イエス・キリストです。イエス様は「私は世の光である」と宣言されました。イエス様は、私たちの全部の罪を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活されました。自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける人は皆、全ての罪を赦されて、父なる神様との和解に入り、神の子になることができます。父なる神様との和解に入るということは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるまでは、父なる神様に背いていて、父なる神様と和解していなかったことになります。和解していないので、平安がなかった。しかし光であるイエス様を信じて洗礼を受ければ、父なる神様との和解の平安に入るのです。

 クリスチャン作家の三浦綾子さんの本に、『光あるうちに』というとてもよい本があります。三浦さんがクリスチャンになったプロセスを記した『道ありき』の三部作の三冊目で「信仰入門編」の副題です。トルストイというロシアの文豪がいましたが、晩年なるほどに深い信仰に進み、イエス様に従う道に進み、最後は本当に貧しくなって野垂れ死にに近かったようです。そのトルストイも、『光あるうちに、光の中を歩め』という小説を書いています。クリスチャン青年と、その逆に俗世間にどっぷり浸かって生きるユリウスという青年が出てきます。俗世間に生きるユリウスはクリスチャンになろうかなと思いながらも、そのたびに疑いや迷いに負け、欲望や野心、功名心のこの世に舞い戻るのですが、年取ってからある人がヨハネ福音書の御言葉を語ってくれます。ヨハネ福音書3章19節以下です。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光のほうに来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」長い迷いの末に、遂にクリスチャンになり、喜びに満ちて最後の20年間を生きた、というストーリーです。

 そもそもヨハネ福音書の冒頭に光が出て来ます。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光りを理解しなかった。」口語訳では「闇はこれ(光)に勝たなかった」です。これはイエス・キリストが悪魔と罪と死に勝利したことを述べています。光と聞くと、私は広島で原爆に被爆したサーロー節子さんという方の体験を思います。カナダ人と結婚されて、カナダで生活しながら「核兵器は、人類が持ってはならない、絶対の悪なのです」と核兵器廃絶運動に情熱的に取り組んでおられます。13才で被爆され、16才で洗礼を受けたそうです。原爆が投下され、「気がついたとき、あたりは音もなく真っ暗でした。私は倒れた建物の下敷きになって動けなくなっていました。どこからともなく、級友たち(広島女学院)の弱弱しい声が聞こえてきました。『お母さん、助けて。神様、助けて下さい。』突然だれかの手が私の左肩をぐいとつかみ、男の人の声がしました。『あきらめるな。動いて行け。今助けるから。光が見えるだろう? そこまで這って行くんだ。』」やっと建物の下敷きから這いでると、外には想像を絶する光景が広がっていました。それにしても「光が見えるだろう? そこまで這って行くんだ」との励ましの言葉が印象的です。それは物理的な光でしょうが、神様がその光を見せて下さったと思えてなりません。

 私が光という言葉でふと思い出すのは、今もあるのですが、長年続いているカトリックのラジオ放送に「心のともしび」という放送があります。ハヤット神父という方が始めたようです。この放送のモットーの言葉があり、「暗いと不平を言うよりも、進んで明かりをつけましょう」の言葉が、毎回最初に語られます。

 暫く前に「ちいろば先生」と呼ばれた榎本保郎牧師のことを少しお話しましたが、榎本先生はだいぶ前に天国に行かれましたが、つい最近、奥様の榎本和子さんが97才で天に召されたと伺いました。三浦綾子さんが書かれた榎本牧師の伝記小説『ちいろば先生物語』の最後に、榎本牧師のおそらく最後の日曜礼拝説教が引用されています。「私たちの生活にとって必要なものは色々あるが、最も必要なものは神の国であることを覚え、神の国の招待に応えることを第一にして行きたいと思う。」何よりもイエス様がこうおっしゃいます。「光の子となるために、光のあるうちに、光を(イエス・キリストを)信じなさい。」この御言葉に従って参りましょう。アーメン。



2023-08-13 1:20:10()
「わたしたちは神の作品」2023年8月13日(日)聖霊降臨節第12主日公同礼拝
順序:招詞 エフェソ2:14~16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編104、使徒信条、讃美歌21・17、聖書 創世記1:26~31(旧約p.2)、エフェソの信徒への手紙2:1~10(新約p.353)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌515、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 


(創世記1:26~31) 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

(エフェソの信徒への手紙2:1~10)さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。


(説教) 本日は、聖霊降臨節第12主日公同礼拝です。説教題は「わたしたちは神の作品」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙2章1~10節です。小見出しは「死から命へ」です。エフェソの信徒への手紙は、イエス様の弟子・使徒パウロが書いた獄中書簡の1つとされています。6章20節に「私はこの福音の使者として鎖につながれています」と書かれているからです。

 エフェソの信徒への手紙は、ローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙(一)(二)、ガラテヤの信徒への手紙に比べると、あまり多く取り上げられない手紙のように思います。しかし、本日の個所には、父なる神様が私たちに、イエス・キリストによって与えて下さった恵みが、どんなに大きな恵みかが、真に力強く記されています。第1節「さて、あなた方は、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」これは私たちが、神様に教えられて、聖書に教えられて、初めて気づくことです。私たちはイエス・キリストを救い主と信じて、罪の赦しの恵みを受ける前も、自分が死んでいたとまでは思わないでしょう。むしろ一生懸命生きていたと思う方の方が多いのではないでしょうか。しかしはっきり言えば、ここに書いてある通り、「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」のです。人類の先祖(代表とも言える)エバとアダムが、悪魔の誘惑に負けて、神様の御言葉に背きましたが、その時以来、私たち人間は皆、罪(原罪)を背負った状態で生まれて来るのです。旧約聖書の創世期は、エバとアダムが神様に背く罪を犯したために、神様はエバとアダムをエデンの園(楽園)から追放したと書いています。これによって人類は、神様からの祝福を失い、罪と苦労と死を帯びて、生きるしかないようになりました。実際私たちは、人を殺すような罪を犯すことがなくても、日々ぶつぶつ不平不満を言い、あまり感謝せず、時に人を心の中で嫌ったり憎んだり、悪口を言って過ごしていることが少なくないのではないでしょうか。それを今日の御言葉は、私たちが「自分の過ちと罪のために死んでいた」と言い当てています。

 2節「この世を支配する者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊(悪霊、悪魔)に従い、過ちを罪を犯して歩んでいました。」「この世を支配する者、この世の支配者」は悪魔です。残念ながら悪魔も生きて働いています。真の神様が、この世界を最終的に支配しておられます。しかし悪魔も働いており、悪魔はエバを誘惑して神様に背く罪を犯させることに成功しました。それ以来、悪魔が人間を支配しています。しかし人間は悪魔の支配に反抗し、神様に従って生きるように、神様から力強く招かれているのです。私たちは、これまでの罪を悔い改めて真の神様に従い、悪魔には早く滅びてほしいと願っています。悪魔は、イエス・キリストが十字架で死なれ、復活したときに、イエス・キリストに完全に敗れました。今も活動していますが、悪魔の敗北はもはや決定済みで、イエス・キリストがもう一度地上に来られて神の国が完成する時に、悪魔が完全に滅びることは決定済です。悪魔は今は最後のあがきをしているので、私たちは油断せず、悪魔の誘惑を退けながら生きるのです。

 3~4節も、私たちの過去の生き方を述べています。「私たちは皆、こういう者たち(悪魔に従って、過ちと罪を犯している者たち)の中にいて、以前は肉(自己中心)の欲望の赴くままに生活し、肉や心(自己中心の心)の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」かなり手厳しい御言葉ですが、この通りなのだと思います。神様は罪人(つみびと)である私たちを憐れんで愛しておられますが、罪そのものを明確に憎んでおられます。私たちも毎日少しずつ罪を犯して生きて来たので、「ほかの人々と同ように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」そのままでは、私たちは滅びるほかなかったのです。

 ところが続く4節の最初に「しかし」とあります。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生は、聖書の中のこのようなしかしを「大いなるしかし」と呼ばれたと聴きました。この「しかし」が、ここまでのマイナスの流れをひっくり返すのですから、「希望のしかし」と言ってもよいですね。4~6節「しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、―あなた方の救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。」憐れみ豊かな神は、私たち罪によって死んでいた者たちを、この上なく愛して下さり、その愛によって独り子イエス・キリストを地上に誕生させ、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負わせて、十字架の死に追いやりました。ここに真の愛があります。神に敵対していた私たちを敢えて愛した愛ですから、これは敵を愛する愛です。

 こうしてイエス様の十字架の犠牲の愛のお陰で、私たちは復活されたイエス様と共に、復活の命に生きる者とされたのです。自分の罪を悔い改めて洗礼を受けることで、私たち罪人(つみびと)は、キリストと共に新しい復活の命に生き始めることができます。5節を文語訳聖書は、「咎によりて死にたる我等をすら、キリスト・イエスに由りてキリストと共に活し」と訳しています。「咎によりて死にたる我等をすら」、「すら」という言葉を用いています。ここには「こんなに罪深い私たちをすら」、父なる神様はイエス様の十字架によって救って下さったという、パウロの感動が伝わります。私たちは自分の罪はそれほどひどくはないと考えているかもしれませんが、神の子イエス様が身代わりに十字架で死んで下さることなしには、自分の罪は決して赦されなかったとの現実を、深く考えてみる必要があるのです。

 5節に、「あなた方の救われたのは恵みによるのです」とも書かれています。自力によって救われたのでは、全くないということです。100%神の恵み、イエス様の十字架の死と復活の恵みによってのみ救われ、永遠の命を受けました。自力は0%です。どんな立派な人でも、100%神様の恵みによってだけ救われるのであって、自力の部分は0%なのです。9節にある通り、それは「誰も誇ることがないため」なのです。6節「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。」イエス様は復活された40日目に天に昇られ、天の王座に着かれ、今もそこで生きておられ、今日もそこから聖霊を注いで下さいます。私たちも地上の人生を終えた後に、同じ天の王座に着かせていただくと約束されているのです。これは大変畏れ多く、信じがたいほど光栄なことです。これはイエス様がヨハネの黙示録3章21節でおっしゃっていることと同じです。「勝利を得る者(試練の中でも最後まで信仰を捨てなかった者)を、私は自分の座に共に座らせよう。私が勝利(復活の勝利)を得て、私の父と共にその玉座に着いたのと同じように。」

 7節「こうして、神は、キリスト・イエスにおいて私たちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです。」口語訳聖書では、こうなっています。「それは、キリスト・イエスにあって私たちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。」「神の恵みの絶大な富」という言葉が、非常に心に刺さります。イエス様が私たちの罪の責任を担って身代わりに死んで下さった事実は、神様から私たち罪人(つみびと)に与えられた「神の恵みの絶大な富」だというのです。「私たちは神から絶大な富をいただいた。」この表現から、やはりパウロの深い感動が伝わって来ると思うのです。私たちは、心の鈍い者かもしれませんが、イエス様の十字架の絶大な愛に日々感謝を深める者でありたいのです。

 8~9節「事実、あなた方は恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」私たちは「恵みにより、信仰によって救われた(永遠の命を受けた)。これは神からの贈り物であり、自分の努力で獲得したものではない。」これこそ、プロテスタント教会が強調する「信仰義認の真理」ですね。信仰義認を言い換えると、「恵みのみ、信仰のみ」です。私たちのどんなよい行いも、自己中心の罪に汚れているので、それによって永遠の命を獲得することはできない。ただ神から恵みとして提供された「イエス・キリストの十字架の身代わりの死」を素直に受け入れ、信じる信仰によってのみ、救われるのです。「それは誰も誇ることがないためだ」と書かれています。自分の努力でよい行いを行い、永遠の命を勝ち取ったのなら、自分を誇りたくなります。でもそれはできません。努力で永遠の命を勝ち取ることができないからです。私たちは自分を誇るのではなく、私たちのために十字架につけられたイエス・キリストのみを、誇るのです。

 10節「なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです。」「私たちは神に造られたもの」とあります。口語訳では「私たちは神の作品」、一番新しい訳・聖書協会共同訳でも「私たちは神の作品」です。私たちは、神様が真心を込めて造って下さった貴重な一人一人です。しかも一人一人は違います。世界中見渡せば、肌の色も様々、髪の毛の色・目の色も様々、言葉も様々。でも神様が真心こめて造って下さった貴重な一人一人です。いわゆる障がいがあっても、それは個性と思えば見方が変わるかもしれません。年を重ねれば、私たちは誰でも能力が落ちてくるのが普通でしょう。

 私たち人間が神の作品と言うとき、創世記1章26節以下を読みたくなります。本日の旧約聖書です。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。」神様はお一人なのに、「我々」とおっしゃっているのが不思議です。いくつかの説がありますが、1つは「創世記の著者が人間創造の重要性を表すために、神がその創造にあたってご自身と相談されたように描いた。」私たちも重要なことを決める時に、祈ることはもちろんですが、同時に自分の中でじっくり考える、もう一人の自分とよく対話し相談することもあると思います。こう考えると神が「我々」とおっしゃっていることは、「神の熟慮」を言い表していると思うのです。古代の信仰の指導者たちは「我々」は父・子・聖霊なる三位一体の神様のことだと解釈したそうです。旧約聖書には子なる神イエス・キリストは登場しませんが、父なる神様と聖霊なる神様は登場しますから、「我々」は「父なる神様と聖霊なる神様」を意味すると考えることはできます。キリストも旧約聖書には直接登場しないけれども、天地創造の前から生きておられるのですから、この我々に含まれると考えてもよいと思います。

 そして大切なことは、人間が「神にかたどって創造された」と2回繰り返され、「神にかたどって創造された」ことの重要さが強調されていることです。そして「男と女に創造された。」これが最初の姿だったのでしょうが、今の時代は性の多様性が表立って語られる時代になり(実際はずっと前から多様だったはず)、「男と女に創造された」と現実の差をどう考えるか、私たちも祈ってじっくり考える必要があります。いずれにしても、人間をお造りになって神様は、彼らを祝福されました。そして改めてご自分が造った世界を見渡したところ、「見よ、それは極めて良かった」と記されています。それまでは創造の業が進むたびに「神は見て、良しとされた」と5回記されています。人間が創造されて初めて、「見よ、それは極めてよかった」とあり「極めて」の言葉によって、人間を造って神様が大変喜んでおられることが分かります。一人一人が皆、神様に似せて造られた神様の尊い作品です。尊厳があるのです。神にかたどって造られたことを、「神の似姿」と呼びます。ラテン語で「イマゴ・デイ」、イマゴは英語ではイメージ、デイは神ですので、「神のイメージ」に私たち人間は造られたことになります。

 神様と人間は、どこが似ているのでしょうか。似ていないところもあります。父なる神様は霊であり、肉体を持っておられません。そこは人間と違います。似ていることをいくつか挙げると、「言葉によってコミュニケーションを行う」、「愛することを知っている」「責任ということを知っている」等と思います。

 神にかたどって造られた人間の尊厳について、詩編8編が見事に語っています。「あなた(神様)の天を、あなたの指の業を私は仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子(人間)は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足元に置かれました。」

 エフェソに戻り10節。「私たちは神に造られたもの(作品)であり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです。」神様の悲しみは、神に似せて造られた私たち人間が、神様に背いて罪に転落したことです。神様はその私たちを救うために、イエス・キリストを十字架を死なせて、信じる私たちの罪を完全に赦して下さいました。そして神様の清き霊である聖霊を私たちに注いで、私たちを修復し、イエス様に似た者となるように、私たちを造り変えて下さいます。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人たちは、聖霊によって徐々にイエス様に似た者へと造りかえられてゆく途上に、今あります。私たちは神の尊い作品として、もう一度造り直されつつある途上にいます。聖霊に満たされて、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する思いになるので、神の愛への応答として、善い業を行って歩むようになっています。善い行いを行うことで永遠の命を獲得することはできないのですが、イエス様の十字架の愛への感謝の応答としては、喜んで善い業、愛の業を行って生きているのです。神の作品が善い業を行わないことはありません。

 昨日、西東京教区の社会部主催の会があり、私はオンラインで参加しました。日本に避難しているウクライナの人々をサポートする働きをしておられるYMCAの女性クリスチャンの情熱的な報告でした。今日本には約2100人のウクライナ人が避難して来ているそうです。三鷹市や杉並区にもおられるそうです。日本にいる家族や知人を頼って来る人が多い。支援には段階があり、①緊急支援、②生活スタート支援、③生活個別支援、④中長期定住支援。日本で長期に暮らすとなると、日本語の勉強、学校や職場を得る、持病の治療を受ける等が必要になります。3年以内の経済自立を目指すそうですが、かなり大変です。日本社会の愛が問われます。子どもたちは、日本の学校に行くと共に、世界各国に避難しているクラスメートや先生と、オンラインで授業を受けているそうです。避難民をサポートするYMCAの働き、これも神の作品の方々のよき働きだと尊敬の念を抱きました。アーメン。