日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2018-10-31 20:15:03(水)
「まず仲直りし、和解しなさい」 2018年9月30日(日) 聖霊降臨節第20主日 礼拝説教 要旨
聖書: 出エジプト記20章1~21節、マタイ福音書5章21~26節

 イエス様は、言われます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」これはモーセの十戒の第六の戒め「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)等のことです。「しかし、わたし(イエス様)は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」兄弟は信仰の兄弟姉妹に始まり、全ての人を指すと思うのです。

 神様の怒りは聖なる怒り、完全に正しい怒りです。しかし私たちは罪人(つみびと)ですから、私たちの怒りには、自己中心の罪が含まれており、私たちの怒りは聖なる怒りでなく、完全に正しい怒りではないのです。ヤコブの手紙にこうあります。「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです」(1章19~20節)。ヨハネの手紙(一)には、次のようにあります。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(3章15~18節)。人を憎むことが、殺人の第一歩です。人を憎むとき、「殺してはならない」の戒めを破ったことになります。私たちは残念なことに、「殺してはならない」の戒めをさえ、完璧には守ることができない罪人(つみびと)です。その私たちの全ての罪を背負って十字架で死なれたイエス・キリストに、ただ感謝を献げます。

 イエス様は、さらに言われます。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。」互いに怒り合って、憎み合った状態で神様を礼拝しても、真の礼拝にならない、神様が喜ぶ礼拝にならないのです。まず仲直りし、それから神様を礼拝するのです。東久留米教会では以前、礼拝前に少人数のグループに分かれて祈祷会を行っていました。だいぶ前のことですが、ある日曜日の午後に行われた話し合いで、私はある方と意見が合わず、気まずい思いで別れたことがあります。次の日曜日の礼拝前に、その方が、私より年上なのにご自分から私の前に来て下さり、ご一緒にお祈りすることができました。その方は「まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」のイエス様の御言葉を実行して下さったのです。本当に感謝です。この御言葉を読むと、この経験を思い出すのです。

 私の手元に阿佐ヶ谷教会の牧師であられた大村勇先生が、1965年10月3日の世界聖餐日礼拝でなさった説教「まず行って兄弟と和解せよ」のCDがあります(日本キリスト教団阿佐ヶ谷教会発行)。聖書箇所はマタイ福音書5章23~24節です。大村勇先生は日本キリスト教団の議長として韓国基督長老教会の総会への訪問から戻られた直後に、この説教をなさいました。朝鮮半島は1910年から1945年まで日本の植民地でした。日本が朝鮮半島に神社を建て、人々に神社参拝を求めました。これはモーセの十戒の第一の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」を破る罪、偶像崇拝の罪です。朝鮮半島の多くのクリスチャンが参拝を拒否し、捕らえられ殉教の死を遂げました。それに対して日本の教会から正式な謝罪がなされていなかったようです。

 韓国基督長老教会の総会は、大村先生の挨拶を受けるかどうかで紛糾したそうです。激論の末に投票により、1票差で挨拶を受けることが決まったそうです。通訳された李仁夏(イ・インハ)牧師のご著書『歴史の狭間を生きる』(日本キリスト教団出版局、2006年、161~164ページ)にも、この時の出来事が記録されています。以下、引用させていただきます。「大村牧師の口を突いて出た言葉が、ハングルの丁寧な問安の挨拶であることは、会衆が予想もしないことだったようだ。特訓のおかげで、それがすらすらと出てきてから、日本語によるおわびの言葉に移った。(~)何人かの顔に驚きと、ほおがかすかに緩む笑みが読み取れた。大村牧師は誠実な人柄で、いつも非常に謙遜な人であった。そういう人格から自然と出てくる『日本の植民地支配が、皆様にいかに大きな困難を強いてきたか』という短い言葉とともに、大村牧師は低く頭を下げて謝罪した。その結びの言葉が終わるや、私の通訳が終わらないうちに拍手が鳴り始め、満堂を揺るがす拍手に変わり、そして一人立ち、二人立ち、やがて全参加者が立ち上がった。(~)これはキリストの約束した聖霊の現存の証しであり、私は現場でそれを目撃できたことを幸いに思った。」貴重な記録です。悔い改めと謝罪、赦し、和解。天でも大きな喜びがあったでしょう。

 「まず行って兄弟を仲直りをし」、「途中で早く和解しなさい。」和解こそ、イエス・キリストの願いです。イエス様は父なる神様と私たち罪人(つみびと)、そして私たちと隣人との和解のために、さらに私たちと敵との和解のために十字架で死なれ、三日目に甦られたのですから。アーメン(「真実に」)。

2018-10-17 20:39:14(水)
「真の神様を知ってください」 2018年10月14日(日) 聖霊降臨節第22主日(神学校日)礼拝説教 要旨
聖書: 列王記・上18章15~24節、使徒言行録17章16~34節

 東久留米教会では2週間後に修養会を行います。講師の先生は午後に「信仰によって異郷に生きる」と題して講演を行って下さいます。本日の礼拝は、修養会の準備の礼拝です。

 私たちは、真の神様を信じる人口が国民の1%を切る国で信仰生活を送っています。このような状況にあるので、日曜礼拝に出席することそのものが非常に重要な信仰告白の行為になります。本日の使徒言行録17章16節以下は、イエス・キリストの弟子・使徒パウロのアテネ伝道を記します。16節「パウロはアテネで二人(シラスとテモテ)を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。」パウロはもちろんモーセの十戒の第一の戒めと第二の戒めを非常に重要に思っていました。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」「あなたはいかなる像も造ってはならない。~あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない。」偶像礼拝(偶像崇拝)の禁止です。アテネには、ギリシア神話の神々の像があふれていたのでしょう。パウロは、真の神様を伝える思いに燃えたのです。

 私は先日、大分県の教会の牧師の方にお目にかかりました。その地域には宇佐神宮があり、その方によるとその地域は昔、神仏習合が始まった所なのだそうです。偶像だらけの町とおっしゃいました。日本にも世界にも、そのような町は多くあります。アテネはまた、ソクラテスたちが活動した哲学の町でもありました。「エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、『このおしゃべりは、何を言いたのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい』と言う者もいた」とあります。

 アテネの人々は好奇心に満ちていて、新しいことが大好きでした。市民たちは家事や労働を奴隷に任せ、広場で政治を論じるなどしていたのかもしれません。暇だったようです。彼らはパウロに尋ねます。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。」彼らは「何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた」のです。パスカルという人が、「気晴らしは罪深い」という意味のことを言ったと読んだことがあります。私なりに解釈すると、「人生に気晴らしをする暇があるほど長くない。真の神様を知る、真の救い主イエス・キリストを信じるという最も大切なことを行わないと、人生はすぐ終わってしまう」ということと思います。

 アテネの人たちは新しい情報を知ることが大好きでした。もしかすると私たちもそうかもしれません。インターネットやスマホ(私も使いますが)で新しい情報を得て興奮し、しばらくして飽きると、また次の刺激的な情報を探す。でも最も重要なことは、真の神様を知ることです。真の神様を知るためには、ぜひ聖書を読むことが必要です。あるいは教会に来て聖書の話を聴いていただくことが必要です。聖書は真の神様の御言葉です。聖書は古くて、同時いつも新しい言葉です。私たちは、永遠に新しい聖書を毎日読むことで、心と生き方を養うのです。

 パウロは、アレオパゴス(「軍神アーレスの丘」)の真ん中に立って伝道します。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれた祭壇さえ見つけたからです。」今のところ考古学者は、アテネではその祭壇を発見していないようですが、別の場所では発見されているようです。パウロはアテネの人々に真の神を伝えようとします。「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。」そしてパウロは、意外にもギリシア詩人の詩を引用して、そこから人々を真の神に導こうとします。「我らは神の中に生き、動き、存在する。我らもその子孫である」(ギリシアの詩)。これは大胆です。聖書の神とギリシアの神が完全に別の神、いえギリシアの神は偶像ですから。パウロが妥協し過ぎたように見えます。

 パウロはもしかすると、自身がコリントの信徒への手紙(一)9章19節で述べているように、「アテネ人(ギリシア人)に対しては、一旦アテネ人(ギリシア人)のように」なる姿勢をとったのかもしれません。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。~弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」

 アテネでパウロは、ギリシア人の詩を引用して、そこからアテネ人を真の神に導こうとしました。戦国時代の日本に来たカトリックの宣教師たちが、神をどのように訳すかを考えて、「大日」と訳したそうです。もちろんこれは失敗でした。聖書の神と大日は全く違います。日本人に信頼してもらうために日本人にある程度合わせる必要がありますが、聖書の真理を曲げてはならないのです。当時のカトリックの宣教師たちは、結局、聖書の神を表す適切な日本語はないと考え、彼らが用いたいたラテン語のデウスを日本人に教えたようです。20世紀の日本に来たあるプロテスタントの宣教師は、日本人と親しくなるために神輿を担いだそうです。神輿は偶像ですからやり過ぎのようにも感じますが、そのようにして日本人と仲良くなって、そこから神輿ではない真の神を伝えようとしたのです。真の神を伝えるために、聖書の真理を曲げないように気をつけつつ、どこまで相手に合わせるか、宣教師の苦心するところです。

 パウロももちろん、ギリシア神話の神々を卒業して、真の神に立ち帰るように強く勧めます。「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代(真の神を信じない時代)を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるように(真の神を礼拝するように)と、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方(イエス・キリスト)によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」人間の歴史は永遠に続くのではありません。イエス・キリストが必ずもう一度おいでになり、神の国が完成します。イエス・キリストによって最後の審判が行われ、白は白、黒は黒として正しく決着します。その日が必ず来るのですから、世界のすべての人が真の神様とその神の子イエス・キリストを信じて、礼拝することが最も大切です。

 何年か前に、副総理だったカトリック信者の方が伊勢神宮を参拝しました。さすがにカトリックの新聞が苦言を載せたようです。「信者なのに(政治家としての立場があるとは言え)なぜ伊勢神宮を参拝するのですか」と。朝鮮半島では、日本の植民地時代に各地に神社が建てられました。多くのクリスチャンが神社参拝(偶像崇拝)を拒否して殉教したのです。私が台湾に初めて行った1993年に、東の花蓮の辺りだったと記憶するのですが、現地の牧師が、「ここは以前、日本の神社が建てられていた所です。今は偶像の宮(神社)に代わって真の神の宮(キリスト教会)が建っています」と嬉しそうに語られました。

 私は以前、伊勢神宮の近くの教会の牧師だった方の説教を伺ったことがあります。太平洋戦争中、礼拝に出席する人は非常に少なくなったそうです。クリスチャンは敵の宗教を信じる者、非国民と見られたのです(当時日本と同盟していたドイツにもクリスチャンは多いのですから、敵の宗教とは言えないのですが)。当時、日本の教会には政府から圧力がかかり、日曜礼拝前に皇居に拝礼し、それから礼拝を行うようにと求められました。それに従ってしまった教会が少なくないと聞きます。その厳しい時代を生きていない私に批判する資格はありません。でも私たちが同じ失敗=罪を犯さない強い意志を持つことは、ぜひ必要です。それは偶像崇拝の罪ですから。ヒトラーと闘って死刑になったドイツの牧師ボンへッファーが、日本のこの情報をキャッチして、こう書いたそうです。「日本の教会は最近、偶像崇拝を始めた。」天皇を神とする時代はおそらくもう来ないとは思いますし、決して来させてはなりません。天皇は神ではありません。これからも天皇を礼拝してはいけないのです。

 本日の旧約聖書は、列王記上18章です。真の神の預言者エリヤが、バアル(偶像、偽物の神、はっきり言えば悪魔)450人とたった一人で対決した有名な場面です。イスラエルの民はモーセの十戒を知っていたのに、偶像崇拝の誘惑に負けていました。偶像の方が魅力的に見えたのです。エリヤがイスラエルの民に鋭く問います。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民は一言も答えなかったのですが、真の神の大いなる力が示されると、民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と信仰の告白に導かれたのです。

 私たちは日曜日ごとに礼拝堂に集まって真の神様を礼拝します。礼拝に出席することは非常に重要な信仰告白の行為です。礼拝に体をもって出席することで、私たちの信仰を内外に公に表明することが、真の神を信じる方の少ない日本において、クリスチャンの重要な使命と信じます。アーメン(「真実に」)。

2018-10-08 21:37:12(月)
「心の中を見られる神様」 2018年10月7日(日) 世界聖餐日・世界宣教の日公同礼拝 説教要旨
聖書:ヨブ記31章1~12節、マタイ福音書5章27~32節

 先週に続き、イエス・キリストの山上の説教を読みます。先週の箇所でイエス様は、モーセの十戒の第6の戒め「殺してはならない」をお取り上げになり、心の中で人を憎むことが殺人の第一歩の罪であることを教えて下さいました。相手を一生懸命に愛したとき、初めて「殺してはならない」を真に実行することになるのです。

 イエス様は本日の箇所で、モーセの十戒の第7の戒め「姦淫してはならない」をお取り上げになります。姦淫、姦通は、結婚している夫婦以外の性関係です。性関係は、結婚している夫婦の間でのみ許されます。それ以外の性関係は明らかな罪です。日本語では姦淫、姦通は死語になりつつあります。姦淫、姦通が罪だという意識まで薄れているのではないでしょうか。これは大きな問題です。今の日本語で姦淫、姦通に最も近い言葉は不倫でしょう。当然ながら不倫を行ってはいけません。不倫は神聖な結婚を破壊する罪です。新約聖書のヘブライ人への手紙13章4節に、「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです」とあります。

 イエス様は言われます。姦淫の罪は、心の中から既に始まっていると。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」これは有名な言葉です。20年~30年前の日本の教会では、青年会などでこの御言葉を巡って話し合うなどのことがあったのではないでしょうか。以前は、クリスチャンでなくてもこの言葉を知っている人が多かったように思います。最近は知る人が減っているように感じます。多くの人々にぜひ知ってほしい御言葉です。

 この御言葉は、口語訳では「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」です。文語訳では「すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」です。私たちが今、用いている新共同訳で「他人の妻」となっている部分が、口語訳・文語訳では「女」と訳されています。原語は、どちらにも訳せる言葉とのことです。どの訳も正しいのですが、私の感想では、「他人の妻」と訳すと「他人の妻でなければよい」と解釈される恐れがあり、イエス様の真意を薄めることにならないかと懸念します(但し、新共同訳があえて「他人の妻」と訳したことには、他者の結婚を破壊する姦淫の罪深さを強調する意図があるのではないかとは思います)。本日の説教題を、「心の中を見られる神様」としました。私たちは他人の行動を見て他人を評価するでしょうが、神様は私たちの心の中の全てをご存じです。私たちは他人をある程度ごまかすことができるかもしれませんが、神様をごまかすことは全く不可能です。

 「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」それでは性欲そのものが罪なのでしょうか。そうではないはずです。もし性欲が全くなくなれば、結婚する人も減り、子孫がぐんと減ってしまうのではないでしょうか。しかしある線を超えると性欲は罪なると思います。食欲についても同じです。食欲は生きるために必要です。しかしある線を超えると、食欲も罪になると思います。昔からキリスト教会は7つの大罪(あるいは8つの大罪)ということを教えたそうです。7つの大罪は、「暴食(大食い)、色欲(肉欲)、強欲、憤怒、怠惰、傲慢、嫉妬」とのことです。

 「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」私たちは目から多くの情報を得ますが、目から誘惑に満ちた刺激をも受けるのです。新約聖書のヨハネの手紙(一)2章16節に、「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父(神様)から出ないで、世(罪深い世)から出るからです。」私たちは目から誘惑が入っても、早めに誘惑を絶てばよいのです。それができないと罪に落ち込む恐れがあります。目から刺激を受けて、大きな罪を犯したのがダビデ王です。「ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。~それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。」ダビデは姦淫の罪を犯しました。そして彼女の夫ウリヤを、戦場で死に追いやる殺人の罪の責任者にもなったのです。神様が預言者ナタンを送ってダビデを厳しく叱責されます。ダビデは罪を悔い改めますが、大きな代償を払う結果にもなりました。ダビデがバト・シェバに目を留めたときに、早く目を離して誘惑を断ち切ればよかったのです。

 創世記39章に、イスラエル人の先祖ヤコブの息子の一人ヨセフが登場します。彼は、故郷を離れて一人エジプトに連れて来られる苦難を味わいました。「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。『わたしの床に入りなさい。』」ヨセフは、「わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」と言って、はっきり拒否したのです。これが正しい態度です。

 本日の旧約聖書は、ヨブ記31章1~12節です。ここを読むと、ヨブという人は本当に清く正しく、神様に従って生きた人だと分かります。イエス様よりかなり前の時代の人ですから、イエス様の山上の説教を聞いていないのに、山上の説教に従うような生き方をしたと感じます。「わたしは自分の目と契約を結んでいるのに、どうしておとめに目を注いだりしようか。」「わたしの歩みが道を外れ、目の向くままに心が動いたことは、決してない。」「わたしが隣人の妻に心奪われたり、門で待ち伏せたりしたことは、決してない。」ヨブは非常に清く立派ですが、完全に清くはなく、罪が少しはありました。私たちはヨブ以上に清く正しく愛に満ちて生き、生涯にただの一度も罪を犯さなかった方を知っています。もちろんイエス・キリストです。

 私たちは、残念ながら山上の説教を100%実行して生きることができません。精一杯努力しても完全に実行することができません。しかし絶望する必要はありません。希望があります。山上の説教を完全には実行できない私たちの全ての罪を、イエス様が身代りに背負って、十字架で父なる神様の裁きを受けて下さいました。そして三日目に復活されました。私たちがイエス様を自分の救い主と信じて受け入れ、自分の罪を悔い改めるならば、私たちは、父なる神様の前にすべての罪を赦され、永遠の命を受け、神の子の一人とされるのです。これを読んで下さるあなた様も、ぜひイエス・キリストをご自分の救い主と信じ、罪を悔い改めて永遠の命にお入り下さい。神様がそれを切に願っておられます! アーメン(「真実に」)。


2018-10-04 17:58:08(木)
「剣をさやに納めなさい」 伝道メッセージ  石田真一郎
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書26章52節。) 

 私は、日本は平和を愛する国だと信じています。私は親から、空襲警報が鳴って防空壕に逃げ込む夜々を過ごした話、原爆のこと(母が広島県育ちなので)を聞いて育ちました。イエス様は、「敵を愛しなさい」と言われます。イエス様の最高の言葉と思います。難しいことですが、これを全員で実行すれば、世界はたちまち平和になります。

 私は昨年8月に、長野市の松代大本営を見学しました。新潟県に近い山々の厚い岩盤の地下に、碁盤の目のようにトンネルが四方に掘り抜かれています。太平洋戦争の本土決戦のため、1944年11月から1945年8月までに突貫工事で掘られました。日本人や朝鮮半島出身者が動員されたそうです。ここに政府・軍部、天皇、NHKを移し、戦争を指揮しようとしたのです。沖縄では地上戦が行われ、多くの住民が犠牲になりましたが、それは本土決戦の準備の時間稼ぎだったようです。ひどい話です。松代大本営は使用されることなく、日本は敗戦を受け入れました。今は、「朝鮮人犠牲者追悼平和記念碑」、「不戦の誓い」の碑が建てられています。私はこの長い地下トンネルを歩いて、このようなものを作ってまで戦争を続けようとした人々がいたことに唖然としました。国民の命を大切に考えなかったのですね。ヘルメットをかぶってこのトンネルを歩くと、戦争が狂気であり、二度と行ってはならないことを痛感します。

 私は、長崎で被爆されたクリスチャン医師・永井隆さんを主人公にした映画『この子を残して』(木下惠介監督、1983年作)のDVDを見ました。今年亡くなった俳優・加藤剛が演じる永井先生が、子どもたちへの遺言を語ります。「卑怯者と蔑まれても、裏切り者とののしられても、戦争絶対反対の叫びは守ってくれ。武器がなければ、敵が攻めて来たときにみすみす殺されてしまうではないかと言われるだろう。しかし『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる』(とイエス様は言われた)。敵を愛し、愛し愛し抜いて、こちらを憎む隙がないほどに愛しなさい。」キリストの平和の道を迷わず進みたいと、切に祈ります。(アーメン(「真実に」)。

2018-09-17 23:47:26(月)
「あなたがたは地の塩、世の光」 2018年9月2日(日) 聖霊降臨節第16主日礼拝 説教
聖書:列王記下2章19~22節、マタイによる福音書5章13~16節

 今日の新約聖書は、マタイによる福音書の5章13節から16節までを与えられております。イエス・キリストの山上の説教、山の上での説教と呼ばれる有名な箇所の一部でございます。今日のところの小見出しは、「地の塩、世の光」となっております。イエス・キリストがこういうふうに語られました。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である」と語られました。

 地の塩。世の中には白くない塩もあるでしょうが、基本的に塩は白さ、清さ、純白、純潔を表しているそうですね。塩は昔から、腐ることを防ぐ、腐敗を防ぐ、貴重なものとして用いられてきたと聞いております。防腐剤として用いられて来たと聞いております。「あなたがたは地の塩である」とイエス・キリストが言われましたけれども、私どもがこの罪ある世を少しでも清め、罪への堕落を防ぎ、そして罪による腐敗を防いでゆく、そういう防腐剤としての務めがあると、キリストがここで語って下さったと信じます。もちろん、本当にそれができる方はイエス・キリスト一人でありますけれども、しかし私たちもキリストによって救われ、そしまたて聖霊を注がれた者として、自分のできる範囲で精一杯この世の罪を清めてゆく、そのような務めを与えられているものと受けとめます。

 今日の旧約聖書は、列王記・下の2章19節以下を読んでいただきましたが、これは預言者エリシャの時代に起こったことです。人々が来て、「この町は住むには良いのですが、水が悪く、土地は不毛です」と訴えると、エリシャは塩を水の源に投げ込みました。そしてこう言いました。「主はこう言われる。『わたしはこの水を清めた。(塩で清めた。)もはやここから死も不毛も起こらない』と言った。エリシャの告げた言葉のとおり、水は清くなって今日に至っている」とありますから、塩は清めのためのものであることが、ここでもよく分かると思います。
 
 私たちキリスト者には、神様の清き霊である聖霊が注がれておりますから、塩は聖霊を暗示するとも言えるのではないでしょうか。聖書の言葉と聖霊によって清められているキリスト者が、世の汚れ、世の罪への堕落を防止する地の塩として働く使命が与えられていることを、今日の御言葉から悟ることができます。そしてまた塩は、それがないと人が生きられないものでもありますね。この猛暑の夏、「水分を補給しましょう」ということと共に、「塩分を補給しましょう」ということも盛んに言われていました。塩分によって私たちが生かされてゆくということがあると思います。

 また塩は不思議なことに、それをスイカにかけると甘くなるという不思議な作用もございます。塩はおいしさを与えてくれる、神様の愛を象徴する、喜びを与えてくれるとも言えるのではないでしょうか。辛い人生に神様が与えて下さる慰め、また喜び、それを塩が表していると言うこともできると思います。新約聖書のコロサイの信徒への手紙4章を見ますと、このように記されております。372ページ下段。4章6節。イエス様の使徒パウロが、このように書いております。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」と、パウロが勧めております。だいぶ前に、この教会に説教に来て下さった先生が、この箇所を引用して語られまして、「塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」、「快い言葉」をある英語の聖書で調べてみたら、「スウィート ワーズ」と書いてあった、と語られたことを思い出しました。「スウィート ワーズで語りなさい」、「甘い言葉で語りなさい」とおっしゃたことを思い出します。塩はですから、清めと同時に、甘くもあり喜びをもたらすものでもある、人を生かすものでもあるということを、この箇所から示されるように、私は思います。

 「あなたがたは地の塩である」、こう言われたイエス様は、非常に大胆に神の神殿をお清めになりました。イエス・キリストは勇敢に、大胆に、神の神殿を清められました。今日と同じマタイ福音書で見ますと、マタイ福音書21章12節以下で、イエス・キリストはそのような行動をしております。新約聖書40ページ下段。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。『こう書いてある。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている』」とおっしゃって、びっくりするほど大胆に勇敢に、神殿をお清めになりました。ヨハネ福音書を読むと、鞭を振るったとさえ書かれております。神殿がそのように腐敗していたのでありましょうか。「強盗の巣にしている」とありますから、神様を礼拝するよりも、人々の欲望を満たすために用いられてしまっていたのでありましょうか。「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。」「ここをあなたたちの勝手な金儲けの欲望の場にしてはならない、とおっしゃって神殿を清められたと受けとめることができます。イエス・キリストはまさに地の塩として、そのようなこともなさいました。

 そして、新約聖書のペトロの手紙(一)4章17節。新約聖書433ページ下段。そこには、このような言葉が記されています。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。『正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか』と言われているとおりです」という、ギクッとする言葉があり、「今こそ神の家から(教会ですね)」、「神の家から裁きが始まる時です」という言葉が記されております。神殿を清められたイエス・キリストは、現代の教会をも清めようとお働きになることでありましょう。このことに気をつけて歩みをさせていただきたいと願うものです。

 ここ数年報道されている大変残念なことは、アメリカやヨーロッパのカトリック教会において聖職者(男性でしょうが)による少年への性的虐待が、これまで少なくなく行われて来た、ということが報道されていて、私は「まさか」と思って参りましたが、どうやら本当なのかなと思わざるを得ない状態です。今の法王がそのことをめぐって抗議を受けたということがアイルランドで行われた、ということも報道されています。私が、それが本当かどうか確認できたわけではありませんが、もしその通りだとすれば、大変、真に残念なことだと言わざるを得ません。しかしそれが明らかにされてきたこともまた、神様が世の終わりに向けて、教会を清めておられることの表れではないか、ということをも、この箇所を読んで思わされた次第です。人間の罪が教会を汚してしまう。そのようなことが自分たちの教会や、自分たちの属する教団などで起こらないように心してゆくことが私たちにも求められていると、報道を読みながら思わざるを得ません。今もイエス・キリストは地の塩として働いて下さっていると思います。

 私は半年ほど前に、『地の塩 山室軍平』という映画を見ました。この話は何回かしていますから、本日は少しに致しますが、ご存じのように山室軍平という方はキリスト教会の一つである日本の救世軍の初期のリーダーです。明治の日本には公娼制度、娼婦制度を公認するという悪い制度があって、それによって金儲けをする業者もいたと聞いております。そのような悪い制度をやめさせようとして立ち上がったのが救世軍ということを、映画を見て知りました。女性たちをいわば捕らえて金儲けをしている人たちの所へ行って、「その仕事をやめたい人はすぐにやめてよいのだ」というちらしを配って、「やめたい人はここに来れば支援するから、ぜひ来てほしい」、というちらしを配ってゆく。すると相手側は暴力団を雇って、暴力でそれを潰そうとしてくるのですけれども、それに対して暴力で抵抗しないで、殴られても蹴られても、ちらしを配り続ける。その場面を見まして、「まさにこれは地の塩としての働きだな」、映画のタイトルは『地の塩 山室軍平』でしたが、本当にこれは地の塩としての働きだ、また世の光だということを、見て感じたのです。今日のところでイエス・キリストは、「あなたがたは地の塩である」と言われ同時に「あなたがたは世の光である」とも言われました。その映画を見て、クリスチャンたちの戦い、まさに世の光だなと思わされた次第です。

 もちろん私たちの信仰の中心はイエス・キリストの十字架の死と復活、これが私たちの信仰の中心ですね。イエス・キリストが私たちの罪を背負って十字架で死んで下さって、三日目に復活して下さった。罪を悔い改めて、キリストを信じる人は、全ての罪の赦しと永遠の命を受ける。これが聖書の信仰の中心でありますけれども、それと同時に、キリストによって救われた者として私たちもまた、イエス様ほどにはできなくても、地の塩・世の光として生かされていることもまた大切なことであると、今日のところを読んで思わされます。

 私は先日、台湾に行かせていただきましたけれども、25年前に初めて行って、今回が2回目でありました。25年前のことを少し思い出したのですが、私たちは台湾基督長老教会の教会を前回も巡ったのですが、その時に、首都にあります原住民少女救出センターという所にも連れて行かれました。原住民と呼ばれる方々が東(西は間違い)の方に多く住んでおられますが、25年前はその方たちはあまり教育もたくさんは受けておられなかったからでしょうか、そこの娘さんたちを悪い人が騙して、都会に連れて来る、親には、「いい仕事があるから、お嬢さんたちを預けてほしい」と言って都会に連れて行く。そして行うことは、閉じ込めて売春をさせて、その利益は大半を自分たちがもらってしまう、そのような闇社会が台湾にもあるということを前回聞かされたのです。台湾基督長老教会の原住民少女救出センターは、その人たちを救い出す働きをしていることを聞かされました。その場所は公表していない。私たちは連れて行ってもらいましたけれども、普通のビルの一角で気がづかないような所だったと記憶していますが、公表すると暴力団が攻めて来るかもしれないので、公表せずに行っていると聞かされましたが、「立派な働きだな、本当に地の塩だ」と思わされた、それが25年前のことでありました。そんなことも、地の塩ということを読みながら思わされた次第です。

 今回の台湾旅行では、日本と台湾の青年の人たちと10日間ほど一緒に行動したわけですが、朝と夕はディボーションというミニ礼拝を行っていました。それぞれ一人一人が担当して、聖書の箇所を選んで感想を述べる、また話し合ってお祈りする。そんなことを朝夕に続けてきたのですが、ある時の礼拝の箇所が、旧約聖書の箴言3章30節でした。旧約聖書994ページ上段。「理由もなく他人と争うな。あなたに悪事を働いていないなら」という箇所が、その日の聖書の言葉の一部に入っておりました。27節から読んで30節までだったのですが、ある朝のディボーションというミニ礼拝で、台湾の女性の青年がその箇所で、お話をしたのです。「質問がある」と私に言われて、「30節がよく分からない」というのです。「『理由もなく他人を争うな。あなたに悪事を働いていないなら』と書いてあるけれども、クリスチャンは、平和に過ごし赦していく、それがクリスチャンであるはずだけれども、『理由もなく他人と争うな』と書いてある。では、理由があれば他人と争ってよいか。どういうことか、質問したい」と言われて、私なりに一生懸命答えました。

 「キリスト者はもちろん平和を一番大事にするけれども、時として世の罪や悪と闘わなければいけない時がある」、そのような話をしました。「世の罪と悪と闘わなくてはいけない時もある。有名なマーティン・ルーサー・キング・ジュニアという牧師は、黒人差別の悪と闘った。しかし、暴力は使わないで悪と闘った。その人のことを皆知っていると思います」、と話しました。「『争い』という言葉は、少し、もしかすると違うかもしれないけれども、闘わなければならない時もあるということだと思う」、とその時、答えました。ローマの信徒への手紙(12章21節)で使徒パウロが言っています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と使徒パウロが言っております。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」 「悪に負けてはいけない。しかし暴力で悪に対抗してもいけない。そうではなくて善をもって、または愛をもって悪を乗り越えなさい、とパウロは教えている。そういうことではないか」と、その時、答えました。「理由もなく他人を争うな。あなたに悪事を働いていないなら。」このことに対する質問だったわけですが、暴力に対して暴力で対抗はしないけれども、善と愛によって悪を乗り越えて行く、そのような地の塩としての働きが私たちにも求められる時があるということであろうと、私はこの箇所を受けとめたのです。

 さて、今日のところでイエス・キリストは、「あなたがたは地の塩である」とおっしゃり、また、「あなたがたは世の光である」とも言われました。「山の上にある町は隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」 世の中で隠れたクリスチャンとなるのではなくて、キリスト者であることを公表し、そして信仰をもって生きて行くことをお求めになったものと思います。私たちは自分の力で輝くことはできず、しかしイエス・キリストが真の世の光でいらっしゃいますから、そのイエス・キリストの光を受けとめて、反射させていただくことで、少しは世の光とならせていただくことができると思います。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」100%立派な行いはできないかもしれませんが、しかしイエス・キリストの光を受けて、それを反射して、少しでも神様のことをお知らせするような生き方ができれば、本当にすばらしいと思います。どうか私たちが、キリストの十字架によって赦された、また救われた者として、聖霊に満たされて、少しずつでも地の塩、世の光として日々励んでいくことができますように、ご一緒に祈りながら信仰生活を続けてゆきたいと、切に願っております。

(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、聖なる御名を讃美致します。真の地の塩、世の光はイエス・キリストでいらっしゃいます。私たちは罪人(つみびと)でありますが、しかしキリストの愛を受け、キリストの聖霊を受けた者として、どうか私たちも少しでも地の塩、世の光として奉仕することができますように、私たちを清めて、あなたの御業のために用いて下さるように、心からお願い致します。あなたの全ての守りを感謝して、この祈りをイエス・キリストのお名前を通して、御前にお献げ致します。アーメン。