日本キリスト教団 東久留米教会

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2024-02-02 20:13:14(金)
伝道メッセージ(1月分)石田真一郎 (市内の保育園の「おたより」に掲載した文章)
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章9節)。

 元日に能登半島地震が発生し、亡くなった方も多く、寒い避難所で耐えている方が多くおられます。生活環境が早くよくなるように祈ります。ウクライナでの戦争は終わらず、昨年10月からはハマスとイスラエルの戦争が始まり、8000人以上の子どもが命を落としました。即時停戦を求めます。

 日本は過去に太平洋戦争を起こした国として、戦争の罪深さを世界にアピールする責任があります。私は11月に横浜市保土ヶ谷区の「英連邦戦死者墓地」に行きました。美しい洋式墓地で、第二次大戦で亡くなった2000名以上の主に英連邦(イギリス、オーストラリア、カナダ、インド、ニュージーランド)の軍関係者が埋葬または慰霊されています。説明板「第
二次大戦で35,000人以上の捕虜が日本に連行され、鉱山、造船、農業、軍需品製造の労働に従事した。福岡、広島、大阪、名古屋、東京、仙台、函館に主な収容所があり、過酷に扱われて数千人が捕虜のまま死亡した。その人々の墓地である。」

 墓碑を見ると、ほとんとが二十歳代と若い。日本人として、大変申し訳ない気持ちです。毎年、慰霊礼拝が行われています。戦争をすると、双方が深い傷を受け、恨みが残り、次の戦争を生みます。この連鎖を止める必要があります。一人のイギリス人男性が来ていまし
た。日本人の妻とイギリスに住んでいるようです。来日の度に来るそうです。エリザベス前女王も、今のチャールズ王も、その妻だったダイアナさんも来たそうです。その男性は“They never learn“と言いました。「このような墓地に来れば戦争の愚かさが分かるのに、今戦争している人々は決して学ばない人たちだ」というのです。私たちも国も前進する
とき「バックミラーを見ながら前進する」ことが大切と思います。過去の罪や失敗を振り返り、同じ罪や失敗を決して繰り返さない決心で、前進します。

 東日本大震災の時に首相だった、クリスチャンでない菅直人氏が、先月の新聞インタビューで語りました。「原発事故が何とか収まったのは現場の努力と共に、神のご加護があったとしか言いようがない。」印象深い言葉です。もっと悪い結果が予測できたのに、そうならなかったのは、神様の憐れみです(もちろん福島県の方々にとっては、最大以上の苦難です)。原発稼働には、油断なき慎重さが必要です。原発が多い若狭湾は地震の多い能登半島に近いのです。戦争を推進する人々が早く反省して戦争をやめ、地震のために寒い避難所で耐えている方々に神様の助けがあり、水・食料・物資が早く行き渡りますように。アーメン(「真実に」)。

2024-02-02 20:07:40(金)
伝道メッセージ(12月分)石田真一郎  市内の保育園の「おたより」に掲載した文章
「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシア(キリスト)である。」(クリスマスメッセージ。新約聖書・ルカによる福音書2章11節)。

 クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日です。ウクライナやイスラエルでの戦争を見ると、イエス様はどうしても生まれる必要があったと、痛感します。イエス様は、「平和を実現する人々は幸い」、「敵を愛しなさい」、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われたからです。イエス様が生まれたイスラエルで戦争が起こって
いることは実に残念です。イエス様の言葉に耳を傾ける必要があります。

 私は11月に台湾に行きました。国際日語教会というプロテスタント・キリスト教会の見学が主な目的です。台湾は日清戦争の結果、1895年に清国(中国)から日本に割譲され、日本の植民地になりました。1945年の日本の敗戦によってそれは終わり、中国大陸で共産党に敗れた蒋介石率いる国民党が渡って来て、民衆を弾圧する政治を行いました。国民党政府を批判した知識人は次々と逮捕・投獄され、死刑にされる人も出る暗黒時代でした。1947年から1987年まで戒厳令下にあり、言論の自由がありませんでした。その刑務所あとは2018年に人権博物館となり公開され、私も見学しました。二度と人権弾圧の時代に逆戻りしないためです。

 台湾のプロテスタント教会は、民衆と共に民主化を求めたので、政府に弾圧され、リーダーの高俊明牧師は4年数か月間、投獄されました。高俊明牧師の祈りは、胸を打ちます。
「願わくは台湾が、自衛手段のみ残し、永遠に武装を解除し平和な国になるように。/願わくは台湾が、剣を取る国は剣で滅びることを信じ、愛と正義こそが、台湾をすべての外的と内患から守る、最も強い盾であることを信じることができるように。/こうして台湾は、信じ愛し奉仕することで、絶望に希望を、闇に光を、全ての民に真理(イエス・キリスト)をとりつぐ美しい島国となる。/全能の父なる神よ、私たちの命をかけたこの祈りを、お聞き入れ下さい」(詩集『サボテンと毛虫』より)。

 国民党所属ですがクリスチャンの、李登輝氏が総統になり、改革を行って民主化を進めたので、自由で民主的な台湾になりました。1990年ごろですから、最近です。台湾、中国、日本がずっと平和であるように、世界の戦争が早く終わるように、切に祈ります。アーメン(「真実に」)。

2024-01-28 2:32:16()
説教「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」 2024年1月28日(日)礼拝
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄85、主の祈り,交読詩編119:25~48、使徒信条、讃美歌21・17、聖書 エフェソ書3:14~21(新約p.355)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌430、献金、頌栄92、祝祷。 


(エフェソ書3:14~21) こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

(説教) 本日は、降誕節第5主日礼拝です。説教題は「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙3:14~21です。小見出しは、「キリストの愛を知る」です。

 毎月できるだけ1回。エフェソの信徒への手紙を読む礼拝を献げたいと願っています。エフェソの信徒への手紙を読むと、神様の壮大な救いの計画が記されていると感じます。今年度の標語聖句1章4節がそうです。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」神様は私たちを天地創造の前から愛しておられた。実に気が遠くなる壮大なことです。この手紙を読んでいると、内容が壮大であり、特に前半はあまり具体性がなく、霊的、あるいはやや抽象的な印象をもつのではないかと思います。しかし気を取り直して何回も読んでみると、多くの深い霊的な真理を語っていることが、じわじわと分かって来ると感じます。

 この手紙をイエス様の弟子・使徒パウロが書いていると考えて読んでいますが、本日最初の14節は、こうです。「こういうわけで、私は御父の前にひざまずいて祈ります。」ただ祈るのでなく、「ひざまずいて」祈ると言っています。エフェソの教会の人々のために、そして私たちのためにです。ルカ福音書22章を見ると、イエス様は十字架の前夜にオリーブ山(マタイ福音書、マルコ福音書ではゲツセマネ)で祈られたとき、「ひざまずいてこう祈られた」とあります。ひざまずいて「父よ、御心なら、この杯を私から取り除けて下さい。しかし、私の願いではなく、御心のままに行って下さい」と祈られました。ひざまずいて祈ることは、やはり特別に熱心に祈る姿勢だと思います。私たちはひざますいて祈るでしょうか。もちろん家で日々、ひざまずいて祈っておられる方々がおられると思います。この礼拝堂の椅子は、ひざまずいて祈ることができるようにはできていませんね。私は1ヶ月前の12月25日(月)に、清瀬の聖公会の教会のクリスマス礼拝に出席させていただきましたが、会衆椅子の前の下にひざまずく台がありました。ひざまずきたい人は、そこにひざますいて祈ることができます。具体的に祈る姿勢も、実は大切だと感じます。心からへりくだって神様の前の祈ろうとすれば、自然とひざまずいたり、額を地面にこすりつけて祈りたくなるときがあると思うのです。現にパウロも、14節で「ひざまずいて祈ります」と書いていますから、本当にひざまずいて祈ったと思います。この先にパウロの3つの祈りが記されています。

 15節「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」この場合の家族は、非常に広い意味で使われています。人類皆家族、全ての生き物も皆家族、宇宙に存在する全てが家族。つまり地球と宇宙に存在する全てが家族で、皆、父なる神様に造られて存在しているという告白です。16~17節がパウロの第一の祈りです。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなた方の内なる人を強めて、信仰によってあなた方の心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように。」「内なる人」とは、必ずしも私たちの心の中・内面という意味ではないでしょう。私たちの中の、聖霊によりイエス様によって清められている部分の意味と思います。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなた方の内なる人を強めて、信仰によってあなた方の心の内にキリストを住まわせ。あなた方の心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に根ざし、愛にしっかり立つ者として下さるように。」神様が私たちの「内なる人を強めて下さるように。」神が、私たちの聖霊によりイエス様によって清められている部分を、さらに強めて下さるように。そうなれば私たちは、ますます清められ、聖化されます。

 続く17節の前半「信仰によってあなた方の内にキリストを住まわせ。」現に、イエス・キリストはクリスチャン一人一人の中に、生きて住んで、働いておられます。これを「内住のキリスト」と呼びます。パウロの中にもイエス・キリストが生きておられました。クリスチャン皆の中にイエス・キリストが生きておられます。洗礼を受けたときに、そうなったのだと思います。パウロがガラテヤの信徒への手紙2章19~20節でこう書いています。「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」私たちが洗礼を受けたとき、古い自分はイエス様と共に十字架につけられて死にました。そしてイエス・キリストご自身の霊である聖霊が私たちに注がれ、イエス・キリストが、あるいは聖霊が私たちの中で生きるようになられたのです。私たち一人一人の主人公は、私ではなく、イエス・キリストが私たち一人一人の主人公です。私たちは、イエス・キリストに自分を明け渡したのです。

 同じパウロが、フィリピの信徒への手紙1章21節では、こう書いています。「私にとって、生きるとはキリスト。」文語訳聖書ではこうです。「我生くるはキリスト。」実に歯切れがよいですね。「我生くるはキリスト。」キリストこそ、自分の人生の主人公だと告白しているのです。私たちもその方向に進んでいます。私たちの内なる人が聖霊によって強められ、私たちの中にキリストが住んで下されば、私たちはますますイエス・キリストに似た者になります。姿形がではなく、私たちの心、感性、考え方、生き方がイエス様に似て来るはずです。そうなれば、パウロの祈りが実現するはずです。「父なる神様が、『あなた方を愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下去るように。』」聖霊とイエス・キリスト御自身が私たちの中に住んで、私たちの愛を強めて下されば、これは可能です。ですから私たちも今、祈り求めましょう。「聖霊なる神様、私たちの内なる人を強めて下さい。復活のイエス様、私たちの内に住んで、私たちが愛に根ざし、愛にしっかりと立つことができ、日々そのように生き、地上の最後までそのように生き切ることができますように、導いて下さい。

 18節と19節には、パウロの2つめの祈りが記されています。「また、あなた方がすべての聖なる者たち(クリスチャンたち)と共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」私たちが「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解するように、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになるように、そして私たちが神に満ちあふれる豊かさのすべてにあずかるように」とパウロが、ひざまずいて熱心に祈って下さったのです。目もくらむような壮大な祈りと感じます。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」それは言い換えれば、上の段の8節の「キリストの計り知れない富」と同じと思うのです。

 「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」を味わうには、4つの福音書をじっくり読むことが私たちにできることだと思います。4つの福音書には、イエス様の愛が余すところなく記されているからです。コリントの信徒への手紙(一)13章は有名な「愛の賛歌」です。そこに記されている愛は神の完全な愛、神の子イエス様の完全な愛です。特に4~7節に、真の愛がどのようなものか、記されています。この4~7節こそ、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」を語っていると言えます。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

 エフェソ書に戻り、19節には「人の知識をはるかに超えるこの愛」とありますが、私はイエス様の十字架上の祈りも、人の知識をはるかに超えるこの愛、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを指し示すと思います。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているか知らないのです。」これは敵を赦す祈り、敵を愛する祈りですイエス様の十字架上のこの祈りに感銘を受けて、クリスチャンになった方は、多くいらっしゃいます。そして私たちが洗礼を受ける時、イエス様の愛の広さ、長さ、高さ、深さをの少なくとも一端を、実感すると思うのです。「イエス様が私の身代わりに十字架で死んで下さったお陰で、私の全部の罪が赦されのだ」ことが分かるからです。以前引用したローマの信徒への手紙5章16節も、イエス様の十字架の愛の広さ、長さ、高さ、深さを語って余りあります。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働く時には(イエス様の十字架の恵みが働く時には)、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」「いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される!」十字架の愛の偉大な赦しの力に、ただ感謝するほかありません。
 
 そのイエス様の十字架の愛の深さを実感する機会として、神様は私たちに聖餐式の時を用意しておられます。「これはあなた方のために裂かれた主イエス・キリストの体です。あなたのために主イエス・キリストが十字架で体を裂かれたことを覚え、感謝をもってこれを受け、心の中に主イエス・キリストを味わうべきであります。」心の中で味わうだけでなく、私たちがそれを食べて口と胃で極めて具体的に味わうのです。キリストの愛は観念的・抽象的ではないので、私たちも心だけでなく肉体をもって味わうのです。 ぶどう液の式文。

 聖餐式の恵みを受けるに際して、私たちはコリントの信徒への手紙(二)5章14、19節を思い起こすことも有益です。「なぜなら、キリストの愛が私たちを駆り立てているからです。~つまり神は、キリストによって世をを御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。」実にありがたい約束の御言葉です。「ああ、もう私の罪の責任を、神様はお問いにならないのだ。ただイエス様の十字架のお陰で。最後の審判はあるけれども、そこでも私たちの罪の責任は問われない。無罪の宣告を受けるのだ」と、最も深い安息に満たされるのです。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ。」それは十字架の偉大な愛のことです。ローマの信徒への手紙2章4節に、こんな御言葉を見つけました。「(神様の)豊かな慈愛と寛容と忍耐。」「(神様の)豊かな慈愛と寛容と忍耐。」私はこれがキリストの十字架の愛の言い換えだと思いました。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さのことです。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙6章17節で言っています。「私はイエスの焼き印を身に受けているのです。」パウロはイエス様の十字架と復活の焼き印を心と体に刻印された者です。このイエス様の焼き印は、パウロがもはや消えないのです。私たちも同じです。私たちもイエス様の焼き印を「ジュ―」と押された者です。洗礼を受けた時にイエス様の十字架と復活の焼き印を「ジュ―」と押されたのです。それはイエス様の十字架と復活の愛の焼き印を押されたのです。この焼き印はもはや消えないのです。この焼き印は、私たちが悪魔の支配から解放されて、イエス様の愛の支配下に移されたこと、神に属する者となっていることを証明する愛の焼き印です。つまり私たちは、今既にイエス様の十字架の愛の下に置かれており、戦争が起こっても、地震・津波が起こっても、私たちがイエス様の十字架と復活の愛の下にいる事実は微動だにしません。
 
 エフェソの信徒への手紙3章19~21節はこうです。「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。私たちの内に働く御力によって、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることがおできになる方に、教会(原語・エクレシア)により、また、イエス・キリストによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

 ここには「はるかに超える愛」、「満ちあふれる豊かさ」、「満たされるように」、「はるかに超えてかなえる」という言葉が次々に出てきます。神の満ちあふれる豊かさが強調されています。神の偉大さ、壮大さが強調されていて目がくらみます。壮大過ぎてピンと来ないとも思いました。ですが神の満ちあふれる豊かさとは何かと思い巡らしてみると、最終的にはイエス様の十字架の愛の偉大さに行き着くのではないかと思い至ります。最後の、「栄光が世々限りなくありますように」の「世々限りなく」は、私なりに訳すと「全世代にわたって、永遠から永遠に」です。「教会により、また、キリスト・イエスによって、(神に)栄光が全世代にわたって、永遠から永遠にあるように、アーメン。」神様への目もくらむような讃美です。教会は、新約聖書のギリシア語でエクレシアですが、これは全世界の全時代の教会を指すと思います。もちろん東久留米教会もその1つです。全教会が、イエス様の十字架という最も偉大な愛を私たちにプレゼントして下さった神を賛美していると思うのです。どんな罪人(つみびと)でも、罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じれば、救われて天国に入ることができるのです。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ。」パウロは、ローマの信徒への手紙11章32節で、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と、神の知恵の深さに感嘆と讃嘆の叫びを挙げていますね。私たちも、「イエス様の十字架の愛は何と広く、長く、高く、深いことか」と讃嘆と讃美の声を挙げたいと思います。アーメン。

2024-01-20 18:25:36(土)
「既に悪に勝利したキリスト」 2024年1月21日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第66回)
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄85、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・278、聖書 ヨハネ福音書16:25~33(新約p.201)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌471、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ヨハネ福音書16:25~33) 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第66回)です。説教題は「既に悪に勝利したキリスト」です。新約聖書は、ヨハネ福音書16:25~33です。

 場面は、イエス様が十字架に架かられる前夜、緊迫した場面です。15~16章は、弟子たちとの問答をも多少含む、イエス様の長い説教です。イエス様が間もなく去られると聞いて、弟子たちの心は悲しみに満たされました。しかしイエス様は、ご自分が去って行くことは、むしろ弟子たちのためになるとおっしゃいます。イエス様が十字架の死と復活を経て天に昇られれば、天から神の愛の霊・清き霊である聖霊を注いで下さるからです。イエス様は約束されます。「この霊はあなた方と共におり、あなた方の内にいるからである」(14章17節)。「真理の霊(聖霊)が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。」そしてイエス様は14章で、」「私はあなた方をみなしごにはしておかない。あなた方の所に戻って来る」とも言われました。別れは一時的なのです。この戻って来るということは、イエス様が十字架の死の三日目に復活して弟子たちの前に姿を現すことです。そして復活から40日目に天に昇られたイエス様が将来、この地上にもう一度おいでになって(再臨)、私たちと直接会って下さるときのことです。もちろん私たちが、イエス様の地上への再臨の前に地上の人生を終えれば、天国でイエス様に直にお目にかかるのです。私たちはみなしご、一人ぼっちにはなりません。聖霊なる神様が、いつも共にいて下さるからです。

 25節「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらずず。はっきり父について知らせる時が来る。」「たとえを用いて」とは、たとえば15章の御言葉等を指すと思います。「私(イエス様)はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」これは明らかにたとえで、イエス様をぶどうの木にたとえています。しかし、もはやたとえによらず、はっきり父なる神様について知らせる時が来る、今がその時なのだと思います。26節「その日には、あなた方は私の名によって願うことになる。私があなた方のために父に願ってあげる、とは言わない。」イエス様が、弟子たちと私たちのために父なる神様に祈って下さるのではなく、弟子たち自身、私たち自身が、自分でイエス様のお名前によって父なる神様に祈ることができるようになる。私たちは、現にそうしています。それほど、私たちと父なる神様の間の距離が短くなり、親しくなるという恵みです。

 27節「父御自身が、あなた方を愛しておられるのである。あなた方が、私を愛し、私が神のもとから出て来たことを信じたからである。」ここに出て来る愛は「アガペー」ではありません。よくキリスト教会では、「神様の愛はアガペーの愛、他人のために自分の命を犠牲にできる無償の愛」だと言います。その通りです。ですがここに出て来る「愛する」は「フィレオ―」というギリシア語です。これは友愛と訳せる言葉です。友の愛ですね。イエス様は15章で、「私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である。もはや、私はあなた方を僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」イエス様は、父なる神様から聞かれたことを、すべて弟子たち(私たち)に知らせて下さった。イエス様の名によって願うものは何でも与えられる。それほど私たちとイエス様、私たちと父なる神様の間の距離は短くて近しくて、深い信頼関係で結ばれているというのです。

 弟子たちにもやっと分かって来たようです。29節「弟子たちは言った。『今は、はっきりとお話になって、少しもたとえを用いられません。あなたが何もかもご存じで、誰もお尋ねする必要のないことが、今分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと私たちは信じます。』」これを直訳すると、「あなたが神から出て来た」です。「神のもとから来られた」というよりも「神から出て来た」が直訳です。そう、イエス・キリストは父なる神様から直接出た方なのです。
 
 16章に戻り、28節「私は父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って父のもとに行く。」「世に来た」はクリスマスの出来事です。世は、神様に背く罪と悪の世です。父なる神様は、ご自分に背くこの世に、最も愛する独り子イエス様を贈って下さったのです。ヨハネ福音書3章16節に、こう書かれているとおりです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 31節「イエスはお答えになった。今ようやく信じるようになったのか。だが、あなた方が散らされて自分の家に帰ってしまい、私をひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、私はひとりではない。父が、共にいて下さるからだ。」十字架の時に、共にいた男の弟子はヨハネだけです。そして母マリアをはじめ。4名の婦人たちがいました。しかし大祭司やピラトに尋問されているときは、イエス様の傍に弟子たちは一人もいませんでした。しかし父なる神様が共におられたので、イエス様は孤独ではありませんでした。

 33~35節は、本当に力強いすばらしい御言葉です。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」特に最後の御言葉、「私は既に世に勝っている。」聖書の中にすばらしい御言葉が多くありますが、今の私にとっては、これこそ聖書の最高の御言葉と思えます。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。」苦労、苦難、試練はあります。戦争もあり、地震、津波もあるのが現実です。「しかし、勇気を出しなさい。私(イエス・キリスト)は既に世に勝っている。」これは世界で最も力強い言葉と思います。イエス様が既に世に勝利しておられるのですから、イエス様にさえつながっていれば、私たちは究極的に恐れるものは何もないと分かります。世とは、神に背く世であり、悪魔が支配する世です。悪魔に支配され、罪と悪と誘惑と死が勝利している世です。悪魔は、最初にエバを誘惑し、エバとエバの誘いに負けたアダムに神に背く罪を犯させ、エバとアダムは死ぬ者となり、その時以来、悪魔が全ての人間たちを支配していました。その悪魔の支配を打ち破るために、イエス・キリストが誕生されました。神の子イエス様は、人間の赤ちゃんとして誕生されました。そして地上の約33年間の生涯において、ただの一度も悪魔の誘惑に負けて、罪を犯すことがありまませんでした。辛い十字架の上でも、ただの一度も不平不満を述べず、だだの一度も罪を犯さなかったのです。十字架で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、あれは父なる神への問いかけであり、不平不満の罪ではありません。ただの一度も罪を犯さないことで、イエス様は悪魔に完全に勝利されました。十字架の死の三日目に死から復活され、死にも勝利されたのです。

 昔、アウレンという神学者が、『勝利者キリスト』という本を書きました。私も持っていますが、難しいので全部は読めていません。世界の教会を2つに分けると、西方教会と東方教会に分けることができるそうです。西方教会はカトリック教会で、そこからプロテスタント教会が生まれます。でもカトリックもプロテスタントも、大きな目で見れば西方教会です。これに対して東方教会があり、それはギリシア正教です。東京の神田にあるニコライ堂がギリシア正教の教会です。西方教会の伝統は、クリスマスを大きく祝います。東方教会はイースターを最も大きく祝い、クリスマスよりもイースターを大きく祝うそうです。それはキリストの復活を最も重視することです。イエス様の十字架も復活も共に大切なのですが、西方教会はどちらかと言うと十字架を強調し、東方教会は十字架を重視しつつも、その後の復活を強調するそうです。それはキリストの復活による悪魔と死への勝利を強調することです。「勝利者キリスト」を強調するのですね。

 19世紀のスイスに、ブルームハルトという牧師がいました(井上良雄著『神の国の証人ブルームハルト父子』新教出版社、1994年)。彼が住むメットリンゲンという村にゴットリービン・ディトゥスという23歳の女性がいました。彼女の上に1840年2月ころから、異常が起こるようになります。突然発作に襲われて、床に倒れてしまう。家の中に激しい物音がするようになります。それは悪魔の働きだったのです。ゴットリービンは痙攣を起こし、泡を吹きます。ブルームハルト牧師は悪魔への憤りを覚え、ゴットリービンの手をつかみ、大声で言います。「手を合わせ、主イエスよ、助けて下さいと祈りなさい。私たちは随分長い間、悪魔の仕業を見て来た。今度は、イエスがなさることを見よう。」彼女が目を覚まし。言われたように祈ると、痙攣は全く止みました。その場にいた人々にとって、大きな驚きでした。しかし彼女の状態はなかなか完全によくならず、錯乱したりします。悪魔の力は彼女の兄や姉のカタリーナまで狂乱させたりします。ブルームハルト牧師は、祈りによって戦います。実際はブルームハルト牧師を通して、見えない復活のイエス様が戦って下さいました。遂に1843年12月27日から28日にかけての真夜中に、戦いが終わります。姉のカタリーナを通して、「サタン(悪魔)となった天使と称する者が。人間の喉から出るとは思えない声で、『イエスは勝利者だ。イエスは勝利者だ』と吼えるように叫んだ。」悪霊の威力と力は次第に静かになり、弱くなり、消滅した。2年以上の戦いが終わり、ゴットリービンも姉のカタリーナも癒されます。それ以来、精神障碍に苦しむ人々が多く、ブルームハルト牧師のもとに来るようになりました。悪魔が「イエスは勝利者だ、イエスは勝利者だ」と叫んだことは、真実です。イエス様は、「私は既に世に勝っている」と宣言されたからです。

 大江健三郎という著名な作家が、残念ながら昨年亡くなりました。洗礼を受けなかったと思われますが、考え方がクリスチャンに近い方だったと感じます。その大江さんの『新年への挨拶』という本に書かれているそうですが、大江さんがチャンピオンという言葉を英英辞典で調べたところ、私たちがすぐ思う「勝利者」の意味は三番目で、第一の意味は「誰かの代わりに闘う人、大切なことを他人の変わりに成し遂げる人」だったそうです。私たちは、これはイエス・キリストにこそ、ぴったり当てはまる言葉だと気づきますね。イエス・キリストこそ、真のチャンピオンだと思うのです。イエス様こそ、私たち皆の代表として、私たち皆の代理人として、私たちの全部の罪の責任を背負って、代わりに十字架で死に、悪魔のあらゆる誘惑と死に勝利して復活して下さったからです。真の勝利者、チャンピオンです。「私は既に世に勝っている。」洗礼を受けてこのイエス様につながるならば、私たちは自分の頑張りでは、悪魔の誘惑にも罪にも死にも打ち勝てないのですが、ただ勝利者イエス様のお陰で、悪魔と罪と悪と死の支配に勝利させていただくことができます。イエス様につながることで、真の安心をいただくことができます。

 「主我を愛す」という有名な讃美歌があります。主はイエス様です。「主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、我を愛す。」主イエス様が強いので、私たちが弱くても大丈夫。恐れる必要はありません、私たちが弱くても、主イエス様が強いので、安心してイエス様につながっていれば、確実に天国に入れます。チャンピオン・イエス様が私たちの味方ですから。

 「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」これは最高の福音の御言葉とも言えます。イエス様が11章で言われた御言葉と同じ力強さです。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」と同じ力強さです。

 この御言葉に励まされて、勇気をもってイエス様に従ったクリスチャンは、多くおられると思います。有名なマルティン・ルーサー・キング牧師もそうだと思います。黒人への差別をなくすために懸命に働いた方ですが、反対する人々からの迫害がありました。アメリカはオバマさんという黒人大統領も誕生したのですが、まだ差別は残っており、人種差別が完全になくなるために、なお前進が必要です。キング牧師の「私には夢がある」という演説がよく知られ、日本の中学生の英語の教科書にも載っていると聞いた記憶があります。「私には夢がある。私はいつの日かジョージア州の赤土の上で、かつての奴隷の子孫と奴隷の主人の子孫とが、兄弟愛のテーブルに一緒に座るようになるという夢をもっている。そして私は、私の四人の小さな子どもたちがいつの日か、皮膚の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住むようになる夢をもっている。また私は、いつの日か次の御言葉が実現する夢を持っている」そしてキング牧師は、旧約聖書のイザヤ書40章4、5節を語ります。「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者(=人間たち)は共に見る。」主の栄光が現れるとは、復活したキリストが現れ、「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と宣言することと言ってもよいと思います。

 今から歌う讃美歌471番は、黒人差別をなくすために非暴力で闘ったキング牧師と仲間の方々が歌った讃美歌として知られます。非暴力で闘ったということは、祈りながら闘った、暴力で暴力と闘ったのではなく、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝つ」(ローマの信徒への手紙12章21節)姿勢で闘ったのです。歌詞に「勝利を望み」とありますが、相手を憎んで倒すのではなく、愛と善によって悪を必ず乗り越えようと歌っているのですから。元の英語は「ウイー シャル オーバーカム」(私たちは乗り越える、克服する)ですから。クリスマスイヴにも申しましたが、私は10月下旬に一度、「首相官邸前でゴスペルを歌う会」に初めて行きました。これは沖縄の「普天間基地前でゴスペルを歌う会」に連動して行われて来ました。沖縄から米軍基地がなくなることを祈り願うクリスチャンが行っている会です。首相官邸前でもこの471番を英語で歌いました。「もろびとこぞりて」も歌いました。沖縄から米軍基地が全てなくなることは簡単ではない。玉城(たまき)デニー知事が政府に抵抗しています。私は、少なくとも沖縄の基地負担を軽減できるように、東アジアで決して戦争が起こらないことを祈り参加しました。「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」このイエス様の御言葉に励まされ、最後の勝利は既に決まっている事実に安心を与えられ、私たち一人一人に与えられた苦労や苦難があっても勇気をもって歩みたいのです。アーメン。

2024-01-14 2:41:08()
説教「悲しみは喜びに変わる」 2024年1月14日(日) 降誕節第3主日 公同礼拝
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄29、主の祈り,交読詩編119:1~24、使徒信条、讃美歌21・260、聖書 詩編30:5~6(旧約p.860)、ヨハネ福音書16:16~24(新約p.200)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌271、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(詩編30:5~6) 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。

(ヨハネ福音書16:16~24) 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

(説教) 本日の礼拝は、降誕節第3主日の公同礼拝です。説教題は「悲しみは喜びに変わる」です。新約聖書は、ヨハネ福音書16:16~24です。小見出しは、「悲しみが喜びに変わる」です。

 時はイエス様の十字架の前夜、ヨハネ福音書15~16章はイエス様の弟子たちへの説教、一旦別れることを告げる説教、一時的な別れではあるが決別説教と言えます。16節は、イエス様の言葉です。「しばらくすると、あなた方はもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる。」17~18節は、弟子たちの不安の言葉です。「そこで、弟子たちのある者は互いに言った。『しばらくすると、あなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」「また、言った。『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分らない。」

 19節からがイエス様のお答えの説教です。「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。『しばらくすると、あなた方は私を見なくなるが、またしばら
またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。」ここまでに「しばらくすると」という言葉が7回も出て来たのですが、この「しばらくすると」は原語のギリシア語で「ミクロン」という言葉です。ミクロという言葉の語源でしょう。ミクロは「非常に小さい、短い」の意味です。日本語訳は口語訳も、新改訳も、新共同訳も、最新の聖書協会共も「しばらくすると」です。2つの英語訳聖書では、「少しの時間の後」です。「ミクロン」ですから、私が受ける印象では、「しばらくすると」よりも時間がやや短い感じを受けます。「しばらくすると、あなた方はもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる。」つまりイエス様に会えない時間は短いとおっしゃっているように感じます。実際、イエス様は金曜日に十字架で死なれ、夕刻に墓に葬られ、三日目の日曜日の早朝に復活され、まず早朝に、婦人の弟子たちにそのお姿を現して下さいます。不在期間は約一日半です。しかしその一日半は、弟子たちにとって、イエス様のお姿が見えなくなることは、非常に不安なことでした。一日半とは言え、弟子たちにとっては、非常に不安な時でした。待つときは、時間はとても長く感じられますから。

 しかし、イエス様は励まして下さいます。20節「はっきり言っておく(アーメン、アーメン、私はあなた方に言う。)あなた方は泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」復活のイエス様と出会うからです。イエス様は、十字架で死なれた上で復活され、悪魔と死に勝利なさるのです。もう今既に勝利されています。来週の個所になりますが、イエス様が16章33節で、こうおっしゃっている通りです。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」これは力強い御言葉です。イエス様は、今既に悪魔に勝ち、罪の誘惑に全て打ち勝ち、死に打ち勝たれているのです。「私は既に世に勝っている。」このイエス・キリストに洗礼によってつながるならば、私たちはイエス様の御力のお陰で、私たちも悪魔、罪、死の力に勝利することができます。キリストにつながっているならば、私たちは今既に悪魔、罪、死の力に勝利しています。弟子たちがイエス様が死者の国に下りておられた一日半の期間を経て、弟子たちの悲しみは、真の喜びに変わります。それはもはや失われない天国の喜びです。

 イエス様は、たとえを語られます。21節「女は子どもを産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」私は男性ですので、このことは決して経験することができません。イエス様も男性ですからご自分では出産経験がないのですが、母マリアがこのような産みの苦しみをなさったことを、深く感謝しておられたに違いありません。イエス様の十字架の死は、イエス様が復活の勝利に至るための「産みの苦しみ」だったと言って差支えないでしょう。

 22節「ところで、今はあなた方も、悲しんでいる。しかし、私は再びあなた方と会い、あなた方は心から喜ぶことになる。その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。」復活のイエス様と再会する喜びです。それは永遠の喜びなのです。この地上の喜びではありません。聖霊が与えて下さる聖なる喜びです。「その喜びをあなた方から奪い去る者はいない。」イエス様はこの16章の最後で、「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と言われました。ですからイエス様につながっている限り、イエス様から来る喜びを奪うことは、悪魔にも誰にもできないのです。

 23節「その日には、あなた方はもはや、私に何も尋ねない。はっきり言っておく。あなた方が私の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなた方は私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる。」イエス様はこの前の14章でも、「私が父のもとへ行くからである。私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって何かを願うならば、私がかなえてあげよう」とも語っておられます。私たちはこの約束を信じているので、祈るときに、「主イエス・キリストのお名前によって、お祈り致します」と祈ります。イエス・キリストのとりなしによって、私たちの祈りを父なる神様が聞き届けて下さると信じて、イエス様のお名前を通してお祈り致します。

 イエス様は本日の最後で、「今までは、あなた方は私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる。」この喜びは、この地上の喜びではなく、やはり聖霊による聖なる喜びだと思います。礼拝は、この世のものでない聖霊による聖なる喜びと慰めに満たされる時と場です。私たちが聖書の御言葉と聖霊によって満たされ、月一回はイエス様の御体と御血潮であるパンとぶどう液を食べ飲みし、イエス・キリストの聖なる愛で心身が満たされる時と場です。ペトロの手紙(一)1章8~9節に、このように書かれています。「あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今は見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」礼拝は、目に見えない神様にお目にかかる時、今は目に見えないイエス・キリストにお目にかかる時、そして聖霊の慰めと喜びに満たされる時です。そうです、今ここに神様が共に生きておられます。

 イエス様は、「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言われました。旧約聖書の詩編にも似た言葉があります。たとえば本日の詩編30編6節です。「(神様は)泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせて下さる。」あるいは詩編126編5~6節です。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰って来る。」能登の方々にこのようになっていただきたいと祈りますが、今すぐとはいかず、時間がかかるでしょう。時間がかかっても神様がこのようにして下さるように、切に祈ります。

 1年ほど前の新聞に、詩編30編6節が好きだと男性が紹介されていました。ドイツ・ライプチヒのバッハ資料財団で働いておられる高野さんという方です。クリスチャンかどうかは、分かりません。バッハの音楽を愛する高野さんにとってすばらしい仕事ですが、25年前は、このような仕事に就けるとは考えることもできませんでした。東京の大学時代はバッハ漬けの生活を送り、30才で初めてバッハが後半生を過ごしたライプチヒを訪れ、バッハが音楽監督を務めた聖トーマス教会の牧師に、バッハを研究したいと言うと、教会の一室に宿泊させてくれました。以後、日本とライプチヒを往復する生活に入りますが、定職についていなかったので、34才で造園会社に就職するも、なじめず、会社を辞めて引きこもり生活になり、収入はなくなり、ガスと水道も止まりました。友人に精神科の受診を勧められ、うつ病と診断されます。主治医が、生活保護を受けることを勧めてくれました。真っ暗闇に一筋の光が差したと感じました。

 福祉事務所に行くと、「生活保護は当然の権利ですからね」と言ってくれました。周りは冷ややかでしたが、バッハの音楽を聴くことは続け、バッハに関わる時だけ前向きになれました。ある日、不思議なことに、ライプチヒ行きの航空券が送られて来ました。以前世話になった教会の牧師からでした。聖トーマス教会の牧師かどうかは、私にははっきりしません。すぐにライプチヒに飛び、バッハ研究の拠点・バッハ資料財団に行きました。「何でもします」と頼み込みと、バッハ音楽祭の宣伝ちらしを日本の演奏会で配る仕事を与えられました。これをきっかけに道が開け、40才で財団の正職員に採用され、生活保護をやめました。その後20年以上、バッハ管理財団で働いているそうです。

 4年間、生活保護のお陰で食べることができ、生きることができた。突然仕事を失うことは、誰にでもあり得るでしょう。生活保護でその間を乗り切れれば、次のステップに進むこともできる。「生活保護で救われた私は何度も伝えないといけない。生活保護は、恥ずかしいことでも何でもない。私の周りのドイツ人にも、生活保護にあたる制度を利用している人はいるが、みんな胸を張って生きていますよ。次の人生に進むための研修期間という感じで、それを周りも自然と受け入れている。」この高野さんが好きな聖書の御言葉が、詩編30編6節だそうです。「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせて下さる。」もちろん神様が、です。生活保護は社会の救いのしくみ、セーフティーネットですが、神様が用意して下さっている恵みだと思います。それをも用いて、神様が私たちを悲しみから慰め、希望へと一歩ずつ導いて下さると信じます。

 私は2か月前に台湾に行かせていただきましたが、その後、台湾基督長老教会の牧師・総幹事であられた高俊明牧師の詩のお話をしたように思います。台湾では長年、国民党政府が民衆を押さえつけて、民主化が行われませんでした。高俊明牧師は、台湾基督長老教会の総幹事でしたが、国民党政府に睨まれて1980年頃に4年間以上投獄される苦難を味わわれました。ようやく民主化が成ったのは1990年頃のことです。高俊明牧師は詩人もあり、「サボテンと毛虫」という詩が、もしかすると代表作かもしれません(高俊明詩集『サボテンと毛虫』1995年、教文館)。「私は求めた。美しい花束を(民主化を)。しかし、神さまは、とげだらけのサボテンをくださった。私は求めた。美しい胡蝶を。しかし、神さまは、ゾッとするような毛虫をくださった。私は嘆き、悲しみ、失望した。 しかし、多くの日が過ぎ去ったあと、私は目を見張った。サボテンが多くの花を開いて、美しく咲き乱れ、毛虫が愛らしいい胡蝶となって、春風に舞い舞うのを。すばらしい神さまのご計画。」
時間がかかったけれども、弾圧の時代から民主化の時代に進んだのです。「あなた方は悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」神様の愛の力によってです。

 今、辛い悲しみの中におられるのは能登半島の方々です。悲しみがすぐ喜びに変わるとは思えません。時間がかかります。悲しみを喜びに変えて下さるのは、イエス・キリストの父なる神様です。そして私たちの愛も問われています。私たちの小さな応援も、能登の方々の心が悲しい状態から、時間をかけて慰めに向かっていただくために、神に用いられると信じます。世界には戦争で家族を失う人々も多くある現在です。悲しみの世界から、慰めと希望の世界へ、神様が変えて下さることを信じて祈り、私たちも自分にできる協力をしたいものです。アーメン。