日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2021-12-26 2:09:48()
「危機の中の神様の守り」 2021年12月26日(日)降誕節第1主日礼拝説教 
礼拝順序:招詞 コリント(二)8:9、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編53,使徒信条,讃美歌21・259、聖書 エレミヤ書31:15~17(旧約1235ページ)、マタイによる福音書2:13~23(新約2ページ)、祈祷、説教「危機の中の神様の守り」、讃美歌21・265、献金、頌栄92、祝祷。 

(エレミヤ書31:15~17) 主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。

(マタイによる福音書2:13~23) 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

(説教) 先週クリスマス礼拝を献げ、本日は降誕節第1主日の礼拝です。先週のマタイ福音書2章前半は、占星術の学者たちがベツレヘムに来て、赤ちゃんイエス・キリストに黄金、乳香(フランキンセンス)、没薬(ミルラ)という3つの宝を献げた有名な場面でした。本日は続きです。最初の小見出しは「エジプトに避難する」です。占星術の学者たちは自分たちの国へ帰って行きましたが、イエス様には危機が襲います。13節「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこにとどまっていなさい。へロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』

 ヨセフは、神様に非常に忠実に従う人です。眠りの夢の中で天使のこのメッセージを聞くと、すぐに起きて夜のうちに赤ちゃんイエス様とマリアを連れて、エジプトに向けて出発しました。夜眠っていたのに、すぐ起きて神様に従って行動するところが立派です。へロデ(へロデ大王と呼ばれた)が死ぬまでエジプトで過ごしました。当時のエジプトは、いろいろなピンチに陥った人がそこに逃れて過ごす逃れ場、安全地帯、シェルターのような一面があったようです。へロデの魔の手も大国エジプトまでは及びませんでした。父なる神様がエジプトで、イエス様とヨセフ・マリアを守って下さいました。へロデは紀元前4世紀に亡くなっていますので、イエス様一家は1~3年くらいエジプトに滞在した可能性があります。

 15節に「それは、『私(神様)は、エジプトから私の子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」これは、旧約聖書ホセア書11章1節の引用です。そこにはこうあります。「まだ幼かったイスラエルを私(神様)は愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」神の民イスラエルへの、神様の愛の言葉です。直後の2節には、神様の悲しみの言葉が続きます。イスラエルが真の神様を裏切ったのです。「私が彼らを呼び出したのに、彼らは私から去って行き、バアル(偽物の神)に犠牲を献げ、偶像に香をたいた(偶像=偽物の神を礼拝した)。」3~4節は、再び神の民イスラエルへの、神様の愛の言葉です。「エフライム(イスラエル)の腕を支えて、歩くことを教えたのは私だ。しかし、私が彼らを癒したことを、彼らは知らなかった。私は人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛(くびき)を取り去り、身をかがめて食べさせた。」神様が出エジプトを脱出したイスラエルの民を、深い愛情をもって養ったことが記されています。イスラエルの民がエジプトを脱出して40年間、荒れ野をさまよって旅した間、ずっとマナなどの食物によってイスラエルの民を養って下さったのです。しかしイスラエルの民は、その神様の愛に対して感謝をもって応答するよりも、真の神様を捨てて、偽物の神々の方に行くことが多かったのです。

 さて、イエス様も一旦、エジプトに逃げられました。そしてそこから改めてイスラエルの地に戻るのです。それは第二の出エジプトではないでしょうか。旧約のイスラエルの民の第一の出エジプトに対して、イエス様がエジプトからイスラエルに戻ることは第二の出エジプトと言えます。イエス様とヨセフ、マリアは、旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗を繰り返さないのです。イエス様とマリア、ヨセフは偶像礼拝(偽物の神を礼拝する)の罪を決して犯しません。真の神様のみを礼拝し、真の神様にひたすら従い続けるのです。これをある人は「踏み直し」と呼んだそうです。旧約聖書のイスラエルに似て、イエス様も出エジプトなさるのですが、その後の歩みは旧約聖書のイスラエルの民と違うのです。旧約のイスラエルの民は、最も基本のモーセの十戒をちゃんと守らない・守れないのです。罪を犯してしまう。

 しかしイエス様とマリア、ヨセフは違います。この一家、特にイエス様は、神の民イスラエルの代表とも言えます。代表であるイエス様は、旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗を一つも繰り返しません。却って旧約のイスラエルの民の罪と失敗を取り戻し、回復させ、ある人の言い方では「踏み直す」「生き直す」「やり直す」道を歩まれます。真の神様に100%従い通す、従いきるのです。イエス様こそ、イスラエルの民の真の代表者です。真の神様に100%従い、遂には十字架の死に至るまで100%従順に、父なる神様に従いきるのです。旧約のイスラエルの民の罪と失敗の歴史は、イエス様によって歩み直され、生き直され、本来あるべき姿に回復されるのです。イエス様はへロデが死ぬまでエジプトにおられました。「それは『私(神様)は、エジプトから私の子を呼び出した』と、主が預言者(ホセア)を通して言われていたことが実現するためであった」とあります。神様はエジプトからイスラエルの民を脱出させたのですが、このことはイエス様による第二の出エジプトによって完成されたということだと思うのです。

 そしてイエス様は、イスラエルの民の全部の罪を十字架で背負いきって下さいました。そのためにクリスマスに生まれて下さったのです。イエス様は私ども一人一人の全部の罪をも十字架で背負いきって下さり、私どもを神の正しい怒りから解放して下さいました。私どもが将来、心ならずも犯してしまう罪も、イエス様は十字架で既に背負いきって下さいました。ここで特に私どもが過去において犯した様々な罪、様々な失敗を考えてみます。それをイエス様が十字架で背負って下さったことは、それはイエス様が私たちを背負って、私たちの過去を正しく生き直して下さったということだと思います。イエス様が私どもを背負って、私どもの代わりに、正しく生き直して下さったということと同じと思います。これが十字架の身代わりの死の意義と思います。そして私どもの罪を帳消しにして下さったのです。

 次の小見出しは、「へロデ、子供を皆殺しにする」です。16節「さて、へロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」へロデは悪魔の手先になっています。悪魔がイエス様を憎んでいます。イエス様が地上に来られると、イエス様は悪魔のしつこい誘惑にも一度も負けず、完全に勝利なさいます。イエス様は悪魔の働きを滅ぼすために来られたのです。ですから悪魔はイエス様を憎みます。イエス様を何としても殺そうとすぐに攻撃して来たのです。この時はイエス様はエジプトに逃げて助かりますが、悪魔はイエス様をついには十字架に追いやって殺します。しかし父なる神様は悪魔より上手で、イエス様の十字架の死は、私ども全ての罪人(つみびと)の全ての罪の責任を身代わりに背負っての死として用いられたのです。悪魔が勝利したと見えたのは束の間のことで、イエス様は三日目の復活によって人類の敵である死と悪魔に完全に勝利されたのです。

 へロデの命令によって二歳以下の男の子が何人殺されたのかは分かりません。本当に悲惨なことです。出エジプト記1章でも同じ悲劇が起こりかけました。イスラエルの民の増加に脅威を感じたエジプト王が、イスラエル人の男の赤ちゃんを皆殺すように、イスラエル人の助産婦に命じたのです。しかし助産婦たちは神を畏れ敬っていたので、男児殺害の命令に従いませんでした。それで出エジプト記では男児殺害の悲劇が現実にならなかったのですが、イエス様の誕生の時にはそれが実行されてしまいました。悪魔の働きです。私たちは祈って聖霊なる神様の助けを受けて、悪魔の働きには抵抗する必要があります。

 17節「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。」次は旧約聖書エレミヤ書31章15節の引用です。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケル(イスラエルの先祖ヤコブの妻の一人)は子どもたちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子どもたちがもういないから。」創世記35章によると、ラケルはベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られたのです。ですから福音書を書いたマタイがここで言わんとすることは、ベツレヘムでのイスラエル人の二歳以下の男の子たちの殺害を目にして、イスラエルの先祖の女性ラケルが、草葉の影(ベツレヘム近くの彼女の墓の中)で泣いている、ということです。

 20世紀のドイツの牧師ボンヘッファーという人は、この殺された男の赤ちゃんたちを「幼児殉教者」と呼んでいるそうです。悪魔に全く理不尽に殺された殉教者だと。ボンヘッファーは、ナチスのトップ・ヒトラーに抵抗して死刑にされた人です。ヒトラーに率いられたナチスは、数百万人のユダヤ人を収容所のガス室で殺害した大犯罪集団で、まさに悪魔そのものです。ユダヤ人の男の赤ちゃんたちを殺させたへロデに似ている、いえ、へロデよりもっともっと悪質な悪魔的な集団です。ボンヘッファーはそのナチスのヒトラーに抵抗して、死刑にされた牧師です。自分も殺された二歳以下の男の子たちと同じように、悪魔の力で殺されようとしている。その思いでこのマタイ福音書2章を読んだに違いありません。悪魔の暴虐な力が猛威を振るっている。イエス・キリストに従う人々が殺されてしまう。理不尽に命を落とす方は、今もおられます。先日の大阪の雑居ビル内のクリニックの放火事件。25名亡くなったと報道されています。その日にそこで死ななければならない理由のない25名が命を奪われています。多くの涙が流されています。アメリカの竜巻は自然災害で悪魔の仕業と決めるわけにはいかないでしょうが命を失った方々、寒い冬に家を失った方々の辛さを思い、胸が痛みます。コロナで亡くなった方々は(昨日の新聞では)日本で1万8000人以上、世界で538万人以上です。周りの人々や社会からのサポートが必要ですが、この世界では辛いことは完全にはなくなりません。最終的には神の国の完成を待つ必要があり、ヨハネの黙示録21章の神御言葉にすがるほかないように思います。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」
これが神の国のよき姿ですが、神の子イエス様は、地上で私たちの悲しみと嘆きと労苦と涙をも共にするために、生身の体をもつ人間となって馬小屋という貧しく不潔とも言える条件の悪い場所に生まれて下さいました。宿屋に泊まる場所もなく、難民のように排除されてやっとこさ見つけた馬小屋で生まれたとも言えます。その後、一家でエジプトに逃げたのですから、故郷を追われる難民体験を三人で味わったと言えます。イエス様は、家もなく心細い難民の気持ちが分かる方だと思います。

 3つめの小見出しは、「エジプトから帰国する」です。「へロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子どもとその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。』そこでヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に帰って来た。しかし、アルケラオが父へロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」本日のマタイ福音書が繰り返し述べることは、イエス・キリストの誕生とその後のことは、旧約聖書の預言の成就(実現)であり、父なる神様のご意志だということです。イエス様の人生は楽々の人生ではありません。命をねらわれてエジプトに逃げたり、40日40夜断食して悪魔の激しい誘惑を受けたり、遂には十字架に架けられる人生です。しかし父なる神様が「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備え」(コリント(一)10:13)て下さった人生と思います。お金もちでなく、危機や苦難に襲われながらも、父なる神様に守られた地上の歩みだったと思います。
 
 「彼はナザレの人と呼ばれる」というずばりそのものの御言葉は、旧約聖書に見当たりません。ですがいくつかの候補は挙げられています。1つはイザヤ書11章1~2節です。これは明らかにメシア(救い主)預言です。「エッサイ(ダビデ王の父)の株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」この若枝がメシア・救い主・イエス・キリストを指すことは間違いありません。救い主はダビデ王の子孫から生まれると旧約聖書で予告されているからです。この若枝が原語のヘブライ語で「ネーツェール」です。ナザレの音に近いと言えます。そこでマタイ福音書の「彼はナザレの人と呼ばれる」の御言葉は、このイザヤ書11章1節だろうと言われています。もう1つの候補は、旧約聖書の士師記13章5節です。ここにはサムソンという男について「その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられている」とあります。ナジル人とは、神様に身を献げている人です。ここでもナジル人という言葉がナザレと似ていることが根拠になっています。いずれにしてもマタイ福音書には意図があり、イエス・キリストが旧約聖書の予告通りに、父なる神様のご意志によって誕生され、救い主としての使命を果たされたということです。私どもの全ての罪と失敗のマイナスの結果を取り返し取り戻し、帳消しにするために十字架にかかる。そのためにイエス様が生まれて下さった大きな恵みへの感謝を日々深める、信仰の生涯を生ききりましょう。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。オミクロン株を静めて。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒し。病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタンに平和。

2021-12-19 1:38:23()
「世界の真の王イエス様を礼拝する喜び」 2021年12月19日(日)クリスマス礼拝説教
礼拝順序:招詞 コリント(二)8:9、頌栄85、「主の祈り」、交読詩編=23,使徒信条,讃美歌21・258、聖書 ミカ書5:1~4(旧約1454ページ)、マタイによる福音書2:1~12(新約2ページ)、祈祷、説教「世界の真の王イエス様を礼拝する喜び」、讃美歌21・261、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ミカ書5:1~4) エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。アッシリアが我々の国を襲い/我々の城郭を踏みにじろうとしても/我々は彼らに立ち向かい/七人の牧者、八人の君主を立てる。

(マタイによる福音書2:1~12) イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

(説教) クリスマスおめでとうございます。ご一緒にクリスマス礼拝を守ることを許され、心より感謝申し上げます。

 過去2週間の礼拝で読んだマタイ福音書1章は、旧約聖書の流れとイエス・キリストの誕生までの経緯を語っていました。1章の23節にこうありました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられる、という意味である。」父なる神様は、主イエス・キリストにおいて、私たちと永遠に共にいることを決意されました。そこで救い主イエス・キリストを、人間の赤ちゃんとして地上に誕生させて下さったのです。それはイスラエル(ユダヤ)をヘロデ王が支配する時代のことでした。紀元前7年頃と推定されています。本日のマタイ福音書2章は、有名な場面です。

 1~2節「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」占いや占星術は、旧約聖書では真の神様への礼拝から外れる罪として禁止されています。占星術の学者たちは、以前の訳では博士たちでしたし、最も新しい聖書協会共同訳では博士たちに、いわば戻っています。元のギリシア語では、「マゴイ」で英語のマジックという言葉の元になったと聞いています。マジックは魔術と訳せますから、マゴイを魔術師と訳すこともできます。色々な知恵や知識を持っていた人々と思われます。当時の最先端の知識を持っていたでしょうが、しかし世界の真の救い主・真の王である赤ちゃんイエス・キリストの前にへりくだり、このイエス様の前にへりくだり、イエス様を礼拝することこそ、真の知恵だということを、この占星術の学者たちは私たちに、身をもって、行動で示してくれていると思うのです。

 しかも彼らはイスラエル人ではなく、異邦人(外国人)です。異邦人でありしかも旧約聖書で禁じられている占いをしていたとなると、神様の選びから最も遠くにいる人々と言えます。しかし、神様から最も遠く見える罪人(つみびと)が、罪を悔い改めて、へりくだって真の神様に立ち帰ることを、神様は大変喜んで下さいます。私が思い出すのは、旧約聖書の列王記に登場するシェバの女王です。シェバは、今のイエメン辺りと聞いています。イエス様はこのシェバの女王を非常にほめておられます。この女王がソロモン王の知恵(神が与えた知恵)を聞くために、地の果てともいうべきシェバからイスラエルに来たからです。神様に謙遜に従おうとする姿勢がイエス様に喜ばれたのでしょう。それと同じように、イエス・キリストの御前にへりくだるために東方(イラン辺りと言われます)から遠路やって来た異邦人の占星術の学者たちも、神様に非常に喜ばれたに違いありません。

 占星術の学者たちは、当時イスラエルを支配していた(と言ってもローマ帝国の許しの下で)へロデ王のもとに行きます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」「これを聞いて、へロデ王は不安を抱いた。」心がかき乱されたのです。「ユダヤ人の王は自分なのに、取って代わろうとするライバルが現れたのか。赤ん坊でも生かしてはおけない。必ず始末しなければ。」ひそかにそう決心しています。権力者はどこでもそうです。源頼朝は、敵対しつつあった弟の義経の事実上の妻・静御前が男の赤ちゃんを産むと、すぐに鎌倉の由比ガ浜に埋めて殺しています。将来のライバルの芽をすぐに摘んだのです。自分の地位を守るためです。へロデ王は、ヘロデ大王と呼ばれ、エルサレムの神殿を大きく拡張するなど、大きな建築物を複数造らせた人で、力・権力を好んだようです。その彼が、無力な赤ちゃんイエス様の誕生に脅威を覚え、心をかき乱されたのです。「エルサレムの人々も皆、同様であった。」毎年思いますが、これはやや不思議です。権力者でもないエルサレムの普通の市民たちも不安を抱きました。エルサレムの人々は皆、救い主の誕生を心待ちにしていたはずなのに、いざ本当に生まれたと聞くと、喜ぶよりも不安を抱き、心がかき乱されたようです。救い主(メシア、イスラエルと世界の真の王)が生まれたのであれば、当然救い主を、受け入れる必要があります。イエス様に心の真ん中に入っていただく。イエス様を心の王座にお迎えする。イエス様に従って生きるようになる。ライフスタイルをも変える必要もあるでしょう。それに抵抗を覚えたのだと思います。

 それにしても、占星術の学者たちは東方で星を見て、そして最終的にも星に導かれてイエス様と母マリアにお会いしています。星が通常とは違う特殊な動き方をしたものと思われます。そんなことがあり得るのでしょうか。この問いに対しては、神様はこの宇宙、自然界全体をお造りになった方なので、星をご自分目的に合わせて動かすことは、簡単にできるとお答えするほかありません。神様は、イスラエルの民がエジプトを脱出する時、葦の海を真っ二つに割って、現れた陸地の部分をイスラエルの民が渡って脱出することができるようにして下さいました。このように神様は自然界を支配しておられ、自然界をコントロールすることが簡単におできになります。またヨシュア記10章で、モーセの後継者ヨシュアが敵と戦ったとき、ヨシュアが神様をたたえて言っています。「日よ、とどまれ、ギブオンの上に。月よとどまれ、アヤロンの谷に。日はとどまり、月は動きをやめた。民が敵を打ち破るまで。~日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった。」神様は巨大な太陽の動きも自由にコントロールなさることがおできになるので、星を自由に動かすことも簡単におできになります。神様が星を自由に動かして、東方から占星術の学者たちを導いて下さったに違いありません。

 さて、不安を抱いたへロデ王は、4節にある通り民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシア(救い主、キリスト)はどこに生まれることになっているのかと問いただしました。ユダヤの信仰の指導者たちが答えます。正しい答えです。「ユダヤのベツレヘムです。預言者(ミカ)がこう書いています。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者(羊飼い、リーダー)となるからである。」これは本日の旧約聖書ミカ書5章1節です。イエス・キリストの誕生の預言です。聖書の預言は、昔はやったノストラダムスの大予言などのような根拠なきものではなく、真の神様の真の御言葉を、神様に奉仕する人が預かって語った真理の御言葉です。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者(ここは、滅多にないことですがマタイ福音書で『決して一番小さいものではない』と変えられています)。お前の中から、私(神様)のためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」

 そう、イエス・キリストはこの世界が造られる前から生きておられます。イエス・キリストは神様によって造られた方ではなく、父・子・聖霊なる三位一体の神様なのです。東久留米教会では、信仰告白に使徒信条を用いることが多いですが、キリスト教会で古くから大事にされた信仰告白に「二ケア信条」があり、もちろん内容は正しく大切な信仰告白です。『讃美歌21』の147ページに出ていますが、「二ケア信条」では、イエス・キリストについて聖書に基づいて次のように告白しています。「主は神の御子、御ひとり子であって、世々に先立って父から生まれ、光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでなくて生まれ、父と同質であって、すべてのものは主によって造られました。」

 ミカ書の3~4節「彼(イエス・キリスト)は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。」まさにこれは平和の主イエス・キリストのことです。マタイ福音書5章で「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる」と言われたイエス様です。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたイエス様です。私たちの全ての罪の責任を身代わりに背負って十字架にかかり、父なる神様と私たちの間に和解(平和)をもたらして下さったイエス様です。

 クリスマスは、平和の主イエス・キリストの誕生を祝う時ですから、私どもは改めて日本とアジアと世界に平和(シャローム)が来ることを祈り求めることが大切と信じます。今月は、日本の国が真珠湾攻撃を行って太平洋戦争を開始してちょうど80年です。特に12月8日前後の新聞等にはその関連の記事が出ていました。戦争が敗戦に終わり、平和憲法を持つ国として再出発したのですから様々な困難にも関わらず、イエス様がもう一度来られて神の国が完成するまで、ぜひ平和憲法を守る国であり続けてほしいと切に祈ります。最近は「敵基地攻撃」について政府が研究するということが新聞等で報道されていますが、危ういことに感じます。憲法違反にならないのか、十二分に慎重に考えてほしいと願います。私は平和憲法は、神様から日本へのプレゼントと思っています。私は最近、『東久留米の戦争遺跡』という本を市役所で買いました。市内で爆弾が落とされた場所や市内の防空壕の跡のことなどが書かれています。市内の自由学園の中の慰霊碑の写真も出ています。私は自由学園の敷地に入らせていただいたことは何度かありますが、慰霊碑は拝見していませんでした。勤労動員中の空襲等で亡くなった女子学生の方々がおられて建てられた慰霊碑のようです。写真では慰霊碑に「地に平和」と刻まれています。これはルカによる福音書2章のクリスマスの場面、天使が「いと高き所には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」の御言葉がとられたのだろうと思います。
 
 平和の主イエス様に出会いに、占星術の学者たちが進みます。今は星だけでなく、聖書の御言葉という確かな道しるべを得ました。救い主は首都エルサレムではなく、ベツレヘムに生まれるのです。ミカ書にそう書いてありました。目指すはベツレヘムとはっきりしました。マタイ7節以下。「そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」あの星も再び現れて、学者たちを導きます。そして幼子のいる家の上に止まりました。ここは喜びを強調している御言葉で、「この上なく大きな喜びを喜んだ」と訳することができます。これはこの世の喜びではなく、聖霊によって与えられる聖なる喜びです。

 11節「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して、幼子を拝み。黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」黄金、乳香(非常によい香りがする香)、没薬(鎮痛薬)は皆、王様に献げる(献上する)にふさわしい価値の高い品々です。この献げ物により、イエス・キリストがユダヤ人の真の王、世界の真の王であることが明らかにされます。私どもも今、このイエス様を礼拝しています。その深い喜びと充実感を覚えています。没薬については、やはり一言申し上げるのがよいと思います。没薬は、ヨハネによる福音書19章のイエス様の埋葬の場面に出て来ます。「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を100リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を引き取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。」没薬は、遺体の防腐処置にも用いられたそうです。イエス様の十字架の死の際にもニコデモという人が没薬を持って来ました。学者たちがその没薬を赤ちゃんイエス様に献げたということは、本日のクリスマスの場面で既にイエス様の十字架の死が暗示されていると解釈されています。イエス様がこの地上に誕生された目的は、私どもと世界の全ての罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死なれ、三日目に復活することです。

 占星術の学者たちは、「へロデの所へ帰るな」と夢でお告げを受けたので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行きました。イエス様に出会って生き方を変えたということと思います。自己中心に生きて来た生き方を方向転換させて、神様を愛し、隣人を愛する生き方に変わったということと思います。

 さて最近、クリスマスには影もあることを知りました。ヨーロッパなどでは以前からクリスマスに自分で命を絶つ人が少なくないと聞きました。クリスマスにもちろん教会に行く人も少なくないのですが、クリスマスは親しい人や家族で過ごすという流れがあります。そのような親しい人や家族がいない人にとって、とりわけ孤独が深まってしまうのです。この一週間の間にアメリカでは竜巻被害、日本の大坂ではビル内のクリニック放火事件があったばかりです。教会の礼拝に出席して下さることももちろん大事ですが、注意して見れば、私どもの近くに悲しみや孤独の中にいる方もあるかもしれません。そこにささやかなキリストの愛をお届けする。それもまたクリスマスの時期の(いつでもですが)大切な奉仕と言えます。世界にキリストの愛と慰めがが行き渡るクリスマスとなるように、祈りつつ奉仕したいと願います。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。オミクロン株を静めて。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒し。病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタンに平和。

2021-12-11 23:30:23(土)
「共におられるイエス様の誕生」 2021年12月12日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 コリント(二)8:9、頌栄29、「主の祈り」、交読詩編=51,使徒信条,讃美歌21・573、聖書 イザヤ書7:10~17(旧約1070ページ)、マタイによる福音書1:18~25(新約1ページ)、祈祷、説教「神様は必ず約束を守られる」、讃美歌21・241、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書7:10~17) 主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」

(マタイによる福音書1:18~25) イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

(説教) 本日は、アドヴェント(待降節)第3主日の礼拝です。本日の説教題は「共におられるイエス様の誕生」と致しました。

 最初の18節「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」「誕生の次第」と訳された言葉は、もとのギリシア語で「ゲネシス」です。「ゲネシス」は英語の「ジェネシス」の元になった言葉と言えます。英語ではジェネシスは創世記です。先週も似たことを申し上げました。旧約聖書の創世記と、新約聖書の冒頭の今日のマタイ福音書1章は、明らかにセットになっています。創世記は世界の誕生のいきさつ、世界の起源を明らかにし、マタイ福音書は神の子イエス・キリストの誕生のいきさつ、イエス・キリストの存在の起源を明らかにしています。両者はセットです。もう少し言うと、両方において神様の清き霊・聖霊の働きが見られます。創世記1章2節には「神の霊が水の面を動いていた」とあり、マタイ福音書1章18節には、マリアが聖霊によって身ごもったと書かれています。両方において聖霊の働きがあることが分かります。

 さて、本日のマタイ福音書を改めて読みます。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」聖霊は、私たちが信じる神様・父・子・聖霊なる三位一体の神様の、第三の位格(ペルソナ=人格とも訳せますが、神様なので神格と言う方がよい)のお方です。聖霊は神様なので、単なる力やエネルギーではなく、燃える熱いハートの持ち主、喜んだり悲しんだりなさる神の霊です。昔から教会では「造り主なる聖霊」という言い方があり、「造り主なる聖霊よ、来たりませ」という祈りの言葉も存在してきました。この言い方から分かるように、聖霊は人格をお持ちの神様であられ、創造的な力を持っておられます。宇宙を創造するほどの、無限の力をお持ちの神の霊です。その聖霊の愛の力が働いて、マリアが妊娠したのです。

 イエス様の母となるマリアは、ヨセフと婚約していました。ヨセフはダビデ王の子孫の一人です。神様はダビデ王の子孫からメシア(救い主)を誕生させると旧約聖書で約束しておられます。当時婚約は、結婚したと同じ重みをもっていました。二人が一緒に住む前に身ごもることはあり得ないことでした。「身ごもっていることが明らかになった」ということは、お腹が大きくなってきたのでしょう。ヨセフはびっくり仰天したはずです。姦通(不倫)の罪を犯したと解釈するほかなく、ユダヤではその結果は死刑と決まっていました。マリアは姦通の罪を犯したのではなく、聖霊によって、神の特別の恵みによって身ごもったのです。ヨセフはどう考えたらよいのか分かりません。あの清純なマリアが姦通の罪を犯すなどということがあるはずがない。でも現にマリアのお腹が少しずつ大きくなっている。ではやはりマリアは姦通の罪を犯したのだろうか。まさかあのマリアがそんなことをするとは信じられない。しかしお腹が大きくなる現実を見れば、マリアが裏切ったと思わざるを得ない。ヨセフは混乱して悩み苦しみ、遂に決断を下します。19節「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」

「正しい人」は「義の人」と訳すこともできます。ヨセフは正しい人、義の人です。但しファリサイ派・律法学者のように偽善的だったり、思いやりがない人ではなく、正しく潔癖だけれども愛もある人でした。聖霊を受けていただろうと思うのです。新改訳聖書はこの19節を、「夫ヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」マリアとの間に会話があったかもしれませんね。マリアは「私は神様の聖霊によって妊娠したの。本当です」と言ったかもしれません。ヨセフは苦悩します。「どうしたらいいのか。」ヨセフは正しい人なので、マリアが姦通の罪を犯したのなら、マリアとは結婚できないと考えました。しかし離縁すると周りに言えば、マリアの妊娠が知れ渡り、姦通の女として死刑にされてしまう。愛するマリアを死なせたくない。そこでひそかに、目立たないようにマリアを去らせようと考えました。どこか遠くに行って、生まれてくる子どもと一緒に生きていってくれればよいと考えました。マリアは14才くらい、ヨセフは18才くらいだったと思われます。若いヨセフが、懸命に考えてこの結論にたどり着きました。夜眠ろうとしても眠れず、悩みながら考えたのです。これが彼の精一杯のところ、限界でした。

 神様が助けに行動されます。深く悩むヨセフに天使を送られたのです。クリスマスの場面には天使の働きが多く記されています。新約聖書のヘブライ人への手紙1章14節には、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」と書かれています。確かに旧約聖書にも新約聖書にも天使は重要な場面に登場します。「天使たちは、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」とある通り、神様は救いを受け継ぐことになっているヨセフに仕えるために、天使を遣わして下さいました。」天使たちは、神様に従う人々を助ける働きをする存在なのですね(羽が生えているかどうかは分かりませんが)。在日大韓基督教会の牧師に李仁夏先生という方がおられました。今は天国におられます。1996年4月から約2年半、東久留米教会で月一回説教奉仕して下さった尾崎風伍牧師・マリ子牧師ご夫妻とも親しかったそうです。李先生は朝鮮半島生まれで1941年に日本の京都に来られ、戦後日本で牧師となり、調布市の多摩川河川敷の朝鮮人集落で開拓伝道、その後、在日韓国・朝鮮人の多い川崎市の川崎教会で牧師として奉仕されました。初めの頃は経済的に貧しく、二人目のお子さんが生まれる時、お腹の赤ちゃんが大きくてお母さんに危険な出産だったが、よき医師に恵まれ無事出産できました。が、退院の時の請求金額が4万6,000円で、当時の李先生には天文学的な数字でした。月賦の交渉に行くと、何と既に支払済みだと言われます。「誰が」と聞くと、知人の牧師が支払ってくれたと分かりました。

李先生が書いておられます。「ウィリアム・バークレーというイギリスの聖書注解者は、聖書に登場する天使とは、万策尽きた場面に現れる助け手のことだ、と言う。」「天使とは、万策尽きた場面に現れる助け手のことだ。」李先生にとって、出産費用4万6000円は、何回にも分けないと支払えない額でした。それを知人が助けてくれた。知人は人間ですが、神様がその知人を送って万策尽きた状況で助けを与えて下さいました。その知人の方がまさに天使の役割を果たしたことになります。もちろん天使は人間ではなく霊なのですが、神様が人間を通して助けて下さることはありますし、私たち自身がいわば天使のように用いられて。どなたかをサポートすることもあり得ますね。創世記18章に、三人の人がアブラハム(イスラエルの民の先祖)を訪問する場面がありますが、そのうちの一人は何と神様で、あとの二人は天使だったのです。私は今年、高齢になった私の両親のことで、両親のもとによく来て下さった女性のケアマネージャーさんにアドヴァイスや率直な提案をいtだいて大変助けていただきました。クリスチャンのケアマネージャーさんなのですが、あの方は(もちろん人間ですが)神様が私と弟と両親に送って下さった天使のような助け手だと感じています。それはともかく、ヨセフにも神様が助け手として天使を派遣して下さいました。

 ヨセフがマリアを「ひそかに縁を切ろう」と考えていると、神様の天使が夢に現れて言いました。「ダビデの子(子孫)ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」「ヨセフよ、心配する必要はない。マリアは姦通したのではない。マリアはあなたを裏切ってはいない。マリアの胎の子は、聖霊によって宿った。生まれる子をイエスを名付けなさい。」イエスという名前は「主は救い」の意味だと聞いています。珍しい名ではなく、普通にある名前だったそうです。イエスと名付けることが神様の意志であることを天使がヨセフに告げました。「この子は自分の民を罪から救う。」そうです、この子の一番大切な使命は、十字架にかかることです。十字架にかかってイスラエルの民の全ての罪と、異邦人(イスラエル以外の民)の全ての罪の責任を身代わりに背負って十字架で死に、全ての人間たちを罪の支配下から解放するのです。そして三日目に復活して、死という人間の最大にして究極の敵に勝利し、人間たちに永遠の命の希望をもたらすこと。これがイエス様の使命なのです。

 22節「この全てのことが起こったのは、主が預言者を通して「言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
この預言は、本日の旧約聖書イザヤ書7章の14節に記されています。わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」これはアハズ王の時代に預言者イザヤが語った預言(神様から預けられた言葉)です。アハズ王は紀元前8世紀後半の南ユダ王国の王です。あまり高く評価されていない王です。アハズ王の時代に、インマヌエルという名前の男の子が生まれたのでしょう。ですがこの預言は、究極的にはイエス・キリストの誕生によって成就・実現したのです。その名はインマヌエルとは、その方の本質がインマヌエル(神は我々と共におられる)だということです。こんな言葉を読んだことがあります。「神様はイエス・キリストにおいて、永遠に私たちと共にいることを決意された」と。「神様はイエス・キリストにおいて、永遠に私たちと共にいることを決意された。」そして復活されたイエス様は、このマタイ福音書の締めくくりでこう述べられます。「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」
 
 進みます。24節から。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」夢が全部神様からのメッセージというわけではありません。神様からのメッセージである場合もあるということでしょう。私自身は、神様のメッセージを夢で受けた記憶はありませんが、神様からのメッセージを夢で受けた方もおられるしょう。ヨセフのこの場合は、神様が夜ヨセフの夢の中に天使を遣わして、神様のメッセージを語らせなさいました。ヨセフはそれを信仰をもって受け入れ、神の天使が命じた通りに従いました。妻マリアを迎え入れたのです。マリアが姦通の罪を犯したのではなく、聖霊によって身ごもったことを信じました。ヨセフは元気づいたでしょう。あのマリアが僕を裏切るはずがない。その信頼は間違っていなかった。マリアは本当に聖霊によって妊娠したのだ。晴れ晴れした心で、マリアと一緒になりました。そしてマリアをいたわり、男の子が生まれるまでマリアと関係をもたず、天使に言われた通り、男の子をイエスと名付けました。

 この後、ヨセフは真に忠実にマリアと赤ちゃんイエス様を守るために尽くすのです。神様の意志に忠実に従って、責任を果たします。それはヨセフの生涯を通じてずっとそうだったと思うのです。「善かつ忠なる僕」とは、ヨセフのためにあるような言葉です。ヨセフは比較的早く地上の生涯を終えたようです。イエス様の十字架の時は、もう天国に行っていたようです。読んだ本に書いてあって初めて気づいたのですが、ヨセフの言葉は聖書に一言も記されていないのです。マリアの言葉は、ルカ福音書のクリスマス前後の場面に割に多く記されています。ところがヨセフの言葉は一言も記されていない。ヨセフは、神様に忠実に従って責任を果たす決断と行動で信仰を表すタイプだったと言えます。神様に黙々と従い、黙々と責任を果たすヨセフ。神様に喜ばれていたに違いないし、十分私たちの信仰の模範になる人です。プロテスタント教会では聖人を認めませんが、カトリックではヨセフは聖人であるようです。それくらい神様に忠実に従った人だったということでしょう。

 キリスト教会に「召命」という言葉があります。英語では calling、神様に呼ばれることです。カトリックでは「召し出し」と言うようです。ヨセフもマリアも、神様に呼ばれたのですね。ヨセフはダビデ王の子孫の一人ですが、特に有名でもなく、無名の若者だったと思います。マリアも全く無名のナザレ村の少女だったと思います。神様はいと小さき貧しい者をあえて愛して選んで、神様の働きのために呼び出し、召し出して下さいます。旧約聖書に登場するアブラハムやモーセ、あるいは預言者イザヤ、エレミヤなどの人物も、神様に愛され、神様に選ばれ、神様に呼ばれ、召し出されて神様のために奉仕したのです。ヨセフとマリアも、神様の召命を受けました。それは困難を伴う人生でしたが、神様のために自分を献げる、自分のためではなく神様のために奉仕させていただく光栄な人生となりました。自己実現のためではなく、全てを神様の栄光のために献げた信仰の人生です。

 最初の夫婦アダムとエバと比べると、まさに対照的です。エバが悪魔の誘惑に負けて神様に背き、アダムもエバに引きずられて悪魔の誘惑に負けて神様に背きました。夫婦そろって神様に背いたのです。対照的に、エバとアダムの失敗を取り換えるように、ヨセフとマリアは、神様に忠実に従ったのです。神様は天使を用いてヨセフに告げました。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」ヨセフはその通りに行いました。神様はマリアにはもっと前に天使を送られ、天使はマリアにこう告げていました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。~神にできないことは何ひとつない。」マリアは受け入れて答えます。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」神様から天使を通して共通するメッセージを告げられた二人は、信頼し合い協力し合ってイエス様の誕生までを過ごし、その後もイエス様を養い育てる責任を、力を合わせて果たしてゆきます。神様に従って一致して奉仕する二人の姿は、やはりすばらしいですね。神様がイエス様の両親として選ばれたマリアとヨセフの忠実な信仰に倣って、私どもも信仰の歩みを続けたいのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。オミクロン株を静めて。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒し。病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタンに平和。

2021-12-05 2:03:19()
「神様は必ず約束を守られる」 2021年12月5日(日)礼拝説教 
礼拝順序:招詞 コリント(二)8:9、頌栄28、「主の祈り」、交読詩編=50,日本基督教団信仰告白,讃美歌21・17、聖書 マタイ福音書1:1~17(新約1ページ)、ガラテヤの信徒への手紙3:15~18(新約346ページ)、祈祷、説教「神様は必ず約束を守られる」、讃美歌21・236、献金、頌栄27、祝祷。 

(マタイ福音書1:1~17) アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
 
(ガラテヤ3:15~18) 兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。

..
(説教) 本日は、アドヴェント(待降節)第2主日の礼拝です。本日は、あえて新約聖書を2ヶ所朗読致しました。最初はアドヴェントにふさわしく、マタイ福音書1章1節以下のイエス・キリストの系図です。カタカナがとても多くて、最初はかなりとっつきにくい箇所とも言えます。もう一か所は、ガラテヤの信徒への手紙3章15節以下です。できるだけ月1回この手紙を読んで礼拝を守りたいと思っているので、前回読んだ続きの個所である3章15節以下を選びました。この個所がマタイ福音書1章1節以下とよく響き合っており、クリスマスの意味を解き明かしていると思うのです。

 マタイ1章1節から見ると、「アブラハムの子(子孫)ダビデの子(子孫)、イエス・キリストの系図」とあります。聖書全体の主人公とも言うべき救い主イエス・キリストが、アブラハムの子孫、ダビデ王の子孫として生まれたという重要なメッセージを語っているのです。これは旧約聖書で神様がなさった約束で、神様がこの約束を守って、約束を果たして下さったことを1章1節は述べています。因みに1節の系図という言葉は、元のギリシア語で「ゲネセオー」の書で、創世の書の意味です。これは明らかに旧約聖書の最初の書が創世記であることに対応しています。

 新約聖書の最初にあるイエス様の系図は、イエス様の創世の記録です。旧約聖書の創世記が、世界全体が誕生したいきさつ(起源)を語っているのに対し、マタイ福音書1章は、神の子・救い主イエス・キリストの誕生までの経緯(起源)を語っているイエス・キリストの創世の記録です。イエス・キリストはたまたま生まれたのではなく、父なる神様の約束とご計画によってアブラハム(神の民イスラエルの偉大な先祖)の子孫、ダビデ(旧約聖書に登場するイスラエルの偉大な王)の子孫として、イスラエルの国のベツレヘムに誕生されたのです。

 イスラエル人(ユダヤ人)は血統・血筋を重んじたので、系図を大切に考えたそうです。旧約聖書にはイスラエルの民の系図がしばしば出てきます。登場するのは当然イスラエルのみです。そしてほとんど男性、女性はたまに登場の印象です。マタイ福音書1章の系図には、5節にラハブの名があり、ラハブは異邦人(ユダヤ人でない外国人)の女性です。ルツも異邦人の女性です。イスラエル人中心・男性中心の考えから、次第に異邦人も女性も神の民に入れられてゆくプロセスに入っていることを読み取ることができるのではないでしょうか。16節には、「マリアからメシア(救い主)と呼ばれるイエスがお生まれになった」とあり、女性マリアが主語で登場することに気付かされます。それまでは「誰誰が誰をもうけた」と書き続けられています。常に男性が主語だったのです。マリアのところで初めて女性が主語になっています。ここに男性中心が脱却されつつあることを読み取ってもよいのではないでしょうか。

 2節から6節までに、まずアブラハムから始まってダビデ王までの系図(イエス様に至るまでの途中)が記されています。「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを。」ヤコブの12人の息子たちがイスラエルの12部族の先祖となるので、この系図にその中のユダが出て来るということは、イエス様はユダ族に属しておられることを示します。「ユダはタマル(亡くなった息子の妻)によってペレツとゼラを、ペレツはへツロンを、へツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」

神様の約束は、神の民イスラエルの偉大な先祖アブラハムに、祝福の源として神様からの祝福が与えられ、その祝福がダビデ王を通して子孫イエス・キリストに及び、イエス・キリストを信じる全ての国々の人々に祝福が及んでゆくという約束です。その祝福とは究極的な祝福で、天国と永遠の命という祝福です。神様は創世記12章でアブラハム(当時の名はアブラム)に言われました。「私はあなたを多いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」そして神様はアブラムにカナン地方(イスラエルの土地)で言われます。「あなたの子孫にこの土地を与える。」ガラテヤの信徒への手紙3章16節は、この「子孫」はイエス・キリストを指すとします。「この土地」とは祝福のシンボルで、新約聖書では天国、永遠の命を指します。その後アブラハムとサラの夫婦は、神様の恵みによってイサクという息子を与えられ、その後、イサクを献げなさいという信仰の試練を与えられ、その試練を乗り越えた時、再び神様の約束を与えられます。「あなたが自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聴き従ったからである。」アブラハムの子孫とはイエス・キリストであり、イエス様を救い主と信じる人々は世界のどこに住む人であっても、アブラハムの子孫と見なされ、アブラハムと同じ神の家族としての祝福に入るのです。その人数は天の星のように、海辺の砂のように数えきれないほど多い多いのです。私たちもアブラハムの祝福を受け継ぐ神の家族のメンバーであり、天国・永遠の命という真の祝福を与えられています。

 6節にダビデの名が出て来ます。神様の約束と祝福は、アブラハムに始まりダビデを通って、イエス様に向かうのです。神様はダビデにも約束を与えられました。旧約聖書サムエル記・下7章11節以下です。「主があなた(ダビデ)のために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠る時、あなたから出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者が私の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。私は彼の父となり、彼は私の子となる。」この子孫は直接にはダビデの息子ソロモンであり、最終的にはイエス・キリストを指します。神様はこの約束をも実現して下さり、ダビデの子孫からイエス様の父ヨセフが生まれたのです。厳密に言うとイエス様の母マリアは聖霊によって妊娠したので、ヨセフとイエス様は血がつながっていませんが、でもイエス様はマリアとヨセフ夫婦の家庭に生まれて育ったので、ヨセフの息子であり、アブラハムとダビデの子孫と言って差し支えありません。神様は確かに約束を守って、アブラハムとダビデの子孫から救い主イエス様を誕生させて下さったのです。

 さて、この系図はアブラハムから後のイスラエルの歴史を示すと言えますし、旧約聖書の歴史の流れがこのようであったことを確認するために書かれているとも言えます。ここに登場する人々の中にルツのように立派な女性もいますが、よく見るとかなり多くの罪があることに気付きます。罪人(つみびと)の歴史とも言えるのですね。たとえば3節の「ユダはタマルによってペレツとゼラを(もうけた)」とあります。このことは創世記に書いてありますが、驚くべき罪深い出来事です。ユダの息子の妻にタマルという女性がいましたが、不幸にして夫が亡くなります。当時の習慣により夫の弟と再婚しますが、弟も亡くなります。舅であるユダは、三男が成人したらタマルと結婚させると言いますが、実際にはその約束を果たしません。このままでは子孫を持つことができないと思ったタマルは、非常手段に出ます。ベールをかぶって身なりを変え、舅のユダと関係をもちます。こうして双子のペレツとゼラを出産するのです。タマルにしてみれば、他に方法がなかったのですし、生まれて来た子たちに罪はありませんが、私は読んでかなりびっくりしてしまいます。この系図は、イスラエルの罪の歴史が赤裸々に記された系図とも言えるのです。

 次はダビデに注目してみましょう。6節の「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあるのは、ダビデの有名な罪の出来事です。ダビデの人生は、全体としては神様に従った人生だったと思うのです。ダビデは神様に愛され、神様に従う少年だったので神様がダビデに味方され、ダビデはイスラエルの敵の巨人ゴリアテと対決した時、肉体の力ではゴリアテが圧倒的に強いのに、石投げ紐から飛ばしたたった一つの石をゴリアテの額に命中させ、ゴリアテを倒してしまいます。これは神様の助け、神様の力によって勝ったのです。もう少し年を重ねたダビデは、イスラエルの初代王であるサウルに妬まれてしまいます。ダビデの方が人気があったからです。サウルに命を狙われたダビデは、逃げてあちこちを転々とします。

 ある時、ダビデが身を潜める洞窟にサウルが用を足すために入って来ます。サウルはダビデがいることに全く気づかず、無防備です。ダビデの兵士が、「サウルを殺すチャンスです」と唆したようです。しかしダビデは、殺そうと思えばできるのにサウルに一切危害を与えないのです。しかも暫く後に、もう一度無防備なサウルを殺す機会が来ますが、その時もダビデはサウルに一切危害を加えないのです。これはイエス様のおっしゃる「敵を愛しなさい」を実行したとも言えると思うのです。ダビデにはこのような立派な点がありました。しかし生涯最大の罪は、忠実な部下ウリヤの妻と関係を持ち妊娠させ、それが知られることを恐れてウリヤを戦死に追い込んだことです。ダビデはウリヤを戦場の中でも危険な地帯に配置し、死に追いやりました。その後、ウリヤの妻バト・シェバを妻にしました。ダビデの生涯最大の汚点です。これが神様の御心に適わず、バト・シェバとの間の最初の子どもが生まれて七日目に死にます。次に生まれた子がソロモンです。系図には、このダビデの生涯最大の汚点、部下の妻を奪った罪が赤裸々に記されています。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と。次の王になったソロモンは、若い頃は神様に忠実に従っていましたが、多くの妻をめとり、その妻たちの言うままに真の神でない偽りの神々を拝む偶像礼拝の罪に陥ってしまいます。

 6節から11節までは、ダビデに始まりイスラエルの主に南ユダ王国の歴代の王様の系図になっています。神様に従った善い王様もいますが、愚かな王様や神様に背いた罪深い王様たちの名前も記されています。たとえばレハブアム王とウジヤ王です。ソロモンの息子レハブアム王の時代に、イスラエルは南北に分裂してしまいます。ソロモン王の時代には神殿建設が行われるなど民は多くの負担に耐えました。息子のレハブアムが王になった時、民は王に負担を軽くしてほしいというもっともな願いを表明したところ、レハブアム王は長老たちのアドヴァイスに耳を傾けず、民に厳しい回答を与えます。「父がお前たちに重い軛(くびき)を負わせたのだから、私は更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、私はさそりで懲らしめる。」この答えに腹を立てた民が彼から離れ、イスラエルは南王国と北王国に分裂してしまいます。レハブアムの罪深い回答がきっかけで分裂しました。

 もう一人、ウジヤ王のことも見ましょう。この王は、神様の目に適う正しいことをことごとく行った王として評価されています。彼はエルサレムで52年間も王であり続けました。神様の助けを得てウジヤ王の時代のイスラエルは繁栄したようです。彼は農耕を愛し、多くの塔を築き井戸を掘りました。勢力を増した彼は思い上がって、神様の神殿に入り、香の祭壇で香をたこうとします。それは祭司だけが行うことができることでした。この罪のため、ウジヤ王は神様に撃たれてしまいます。順調が続くと思い上がって、神様に背く罪を犯してします。これは人間の弱点で、大いに気をつける必要があると思います。

 11節を見ると、「ヨシヤ(王)は、バビロンへ移住させられた頃、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。」イスラエルは、神様の前に偶像礼拝などの罪を犯し続けてしまいました。神様は忍耐強くてなかなか裁かない方ですが、神様が長年忍耐し続け、イスラエルに悔い改めを求める預言者たちを送り続けたにもかかわらず、イスラエルが悔い改めなかったため、とうとう神様はバビロン軍をエルサレムに送ってエルサレムとその中に神殿も滅ぼされてしまったのです。そしてイスラエルの多くの人々がバビロンへ連れて行かれました。これがバビロン捕囚です。約半世紀後、ようやくイスラエルの民は、イスラエルの地に帰ることができるようになりました。その約530年後に、救い主イエス様がイスラエルでお生まれになったのです。

 今、火曜日の聖書の学び・祈祷会で、エレミヤ書の次の哀歌を読んでいます。哀歌は預言者エレミヤの言葉と、伝統的に言われています。哀歌は嘆きの言葉の連続です。長年悔い改めなかったために下された神様の審判の苦難が語られ、胸が痛くなります。エルサレムのほとんど神様に見捨てられた状態が書かれているので、心が痛みます。私たちはここまで、イエス様に至る系図によってイスラエルの歴史を確認して来ましたが、アブラハムからダビデを通してイエス様に至る祝福の系図であると同時に、人間の赤裸々な罪の系図でもあると言わざるを得ないのです。しかしこの系図の最後でイエス・キリストが誕生することは、神様がおぞましい多くの罪にもかかわらず、神の民イスラエル、そして人類全体を見捨てておられず、イエス・キリストという救いの手を差し伸べておられることを意味します。この系図に出て来る人々が犯した罪の責任、そして私たちが生活の中で犯してしまう罪の全責任を担うために、イエス様が生まれて下さいました。十字架でイスラエルの罪をも、私たちの罪をも背負いきるために生まれて下さったのです。ベツレヘムの馬小屋で。

 さて、ガラテヤの信徒への手紙3章も見ましょう。16節に、こうあります。「ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して『子孫たちとに』とは言われず、一人の人を指して『あなたの子孫に』(創世記12章7節)と言われています。この『子孫』とは、キリストのことです。」これは本日のマタイ福音書1章のメッセージと一致します。ここで言われていることは、アブラハムに与えられた祝福がイエス・キリストに及び、そしてイエス様を経て、イエス様を救い主と信じる全ての国・地域の人に及ぶという神様の約束は、決して変わることがないということです。 クリスマスは、救い主を誕生させるという神様の約束が実現した日です。父なる神様は約束を必ず守られるのです。父なる神様は必ずイエス様をもう一度地上の送って下さり、神の国をもたらして下さいます。この約束を固く信じて、礼拝生活を続けて参りましょう。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員に、重症の方に癒し。世界で感染が拡大している地域に助けを。オミクロン株を静めて下さい。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒しを。病と闘う方、神様の癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタンに平和。御名により、アーメン。

2021-12-01 18:46:17(水)
伝道メッセージ 12月 石田真一郎
「父よ、彼らをおゆるし下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(十字架上のイエス・キリストの言葉。新約聖書・ルカによる福音書23章34節)。

 私が小学校4年生の時に読んで、とても感動した本に『アンクル・トムの小屋』があります。著者はハリエット・B・ストウ、アメリカ北部ニューイングランドの牧師の娘に生まれました。父親と家族は、逃げて来た黒人奴隷を何度もかくまったそうです。奴隷制度を憎んでいた彼女が、1852年にこの本を書くと、アメリカで30万部、イギリスで150万部以上売れ、アメリカの奴隷制度廃止の世論を大きく強めました。「ペンは剣よりも強し」で、リンカーン大統領も彼女を称賛しました。(この原稿を書くに当たり、ストウ作、高杉一郎訳「トムじいやの小屋」『少年少女世界文学全集12』学研、1968年、を用いさせていただきました。)

 ケンタッキーにいた善良かつ働き者のクリスチャンで初老の奴隷トムは、主人の借金苦のため、家族と離されて別の土地に売られます。イライザという若い女性の奴隷の子どもも売られることになり、イライザは息子を連れて命がけで逃亡します。奴隷の夫と落ち合い追っ手をかわし、時に夫が戦い、自由の地カナダに逃げおおせます。

 トムは汽船で運ばれ、ミシシッピ川に落ちて溺れかけた女の子エヴァを助けたことがきっかけでエヴァの父親(比較的よい主人)に売られます。エヴァはイエス様を愛しており「パパ、奴隷をみんな自由にすることはできないかしら」と言います(作者の願い)。エヴァは病気で死にます。次にトムを買った主人は、血も涙もないレグリーです。レグリーに眠り薬を飲ませた上で殺そうと提案する仲間にトムは言います。「いけません。悪い行為から善いことが生まれることは決してありません。私たちも主(イエス様)にならって敵を愛さなければいけません。」仲間の奴隷が逃亡し、怒ったレグリーがトムに暴力を振るいます。「トムの勇敢な魂は、ただひとりで耐えていた。いや、もう一人の人がトムを見守って、かたわらに立っていた。それはイエス・キリストで、トムだけにしか見えなかったが。」トムはレグリーに「あんたは、かわいそうな人だ。本当にあんたをゆるしてあげます。」まるでトムは、黒人イエス様です。

 最初の主人の息子ジョージがトムの居場所を探し当て、買い戻そうと来ますが、彼に見守られてトムは息絶えます。「妻には、わしが天国に行ったことだけ伝えて下さい。」ジョージはトムの墓にひざまずいて、「神様、今日から僕は、この国の奴隷制度をなくすために全力を尽くします」と誓い、物語が終わります。読んで涙が出る名作です。今の小学校4、5年生の子どもたちにも、ぜひ読んでもらいたいのです。アーメン(真実に)。