日本キリスト教団 東久留米教会

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2021-06-05 23:41:00(土)
「苦難を通って、希望へ」 2021年6月6日(日) 礼拝説教
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、85(2回)、「主の祈り」、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・287、聖書 創世記45:3~8(旧約81ページ)、ローマの信徒への手紙5:1~11(新約279)、祈祷、説教「苦難を通って、希望へ」、讃美歌21・530、献金、頌栄92、祝祷。  
 
(創世記45:3~8)ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。

(ローマの信徒への手紙5:1~11)このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

(説教)先々週ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第3主日の礼拝です。本日は、4月末の教会総会で選ばれた今年度の標語聖句ローマの信徒への手紙5章3~4節による説教です。前後の文脈もありますので、5¥章1~11節を朗読致しました。最初の1~2節は、いきなり非常に福音的な嬉しい御言葉です。「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」この非常に福音的な御言葉の根拠は、上の段の4章24節の後半です。「私たちの主イエスを死者の中から復活させた方(父なる神様)を信じれば、私たちも義と認められます。」プロテスタント教会が大切にする信仰義認ですね。

 私たちは、神様からご覧になれば罪人(つみびと)ですが、私たちが善い行いを行うことによって神様の前に義と認められるのではなく、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、義と認められる(4章24節では、主イエスを死者の中から復活させた父なる神様を信じる信仰によって、になっていますが)ということです。これは特にプロテスタント教会が依って立つ、最も重要なポイントですね。信仰義認。深く考えもせずにただ気楽に信じればOKというわけではなく、イエス様が私たちの罪を身代わりに十字架で背負って死んで下さった愛を深く受け止め感謝して、自分の罪を悔い改めて信じることが必要です。しかし確かに、この信仰によって、私たちは神の前に義と認められます。それを言い換えると1節にある通り、「私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、つまり平和を既に得ている」ことになります。イエス様を信じる前は、父なる神様との間が(父なる神様と私たちの関係が)平和でなかったが、イエス様を救い主と信じた今は、父なる神様と私たちの間に和解が成立し、平和が確率されたのです。これは間違いない事実です。嬉しい現実です。

 3節でも、この嬉しい現実が強調されます。「このキリストのお陰で(イエス様が私たちの罪を背負って十字架で身代わりに死なれ、三日目に復活されたお陰で)、今の恵み(神の前に義と認められる恵み)に信仰によって(善い行いによってではなく、信仰のみによって)導き入れられ」と書かれています。この「恵み」は、最高の恵みです。生涯で犯すあらゆる罪、全ての罪の赦しを受ける恵み、永遠の命をいだだく恵みです。これ以上の恵みはない恵みです。そして3節の後半には、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」とあります。もちろんイエス・キリストこそ、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れである神の子ですが、私たちもイエス様を信じて洗礼を受けると神の子とされ、その後も、少しずつ人格がイエス様に似た者に造り替えられてゆきます。聖霊なる神様によってです。そしてクリスチャンたちは、マタイ福音書13章43節の御言葉を借りれば、「その父の国で太陽のように輝く」とあります。これこそ「神の栄光にあずかる」ことと思うのです。私たちが神の栄光にあずかり、神の国で太陽のように輝く時が必ず来る。それが私たちに約束されている確かな希望です。この希望を誇りとするとパウロは書きます。

 続く3節の後半と4節が、東久留米教会の今年度の標語聖句ですが、3~4節は、ここまでパウロが述べて来たことが一瞬横道に逸れるような箇所でもあります。2節で「希望を誇りとする」と言った直後に3節で、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」と進むのです。「私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」苦難は嬉しいものではありませんが、パウロは苦難にもプラス面があると言っています。これはパウロ自身の経験でしょう。聖書を読むと、このような深い大切なことを教えていただけます。パウロは言わば三段論法で語ります。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と述べるのです。ここから本日の説教題を「苦難を通って希望へ」と致しました。苦難から直接希望には進みません。苦難から忍耐へ、忍耐から練達へ、練達から希望へと進むというのです。苦難から少し遠回りをして、しかし確実に希望に至る。この希望はやはり2節にある「神の栄光にあずかる希望」でしょう。イエス・キリストに人格が似た者に次第に造り替えられてゆく希望だと思うのです。

 「忍耐は練達を生む」の練達とは何でしょう。聖書の新改訳という翻訳では「練られた品性」と訳しています。忍耐によって私たちの品性、人格が練り清められてイエス様に似た者とされてゆくことではないでしょうか。一番新しい翻訳である聖書協会共同訳では「品格」と訳しています。」パウロの三段論法をまとめると「苦難を受けると、私たちは忍耐する。忍耐によって私たちの自己中心の罪が抑えられ、私たちの人格・品性が鍛錬され、練り清められ、練達してゆく。そして人格が練達されることで、イエス様に似た者とされ、希望に満ちた天国にますますふさわしい者となる。ということではないでしょうか。そして5節「希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けた人は聖霊を受けます。聖霊は、神様の清き霊、愛の霊です。聖霊は目に見えませんが、聖霊を受けていれば、私たちは間違いなく神の子であり、天国に確実に入る希望を与えられています。

 苦難は嬉しいものではありませんが、信仰ではむしろプラスの面もあることを、聖書はあちこちで語っています。今日の旧約聖書は、創世記45章3節以下です。これはヨセフ物語と呼ばれる箇所のクライマックスです。ヨセフは、イエス様の父となったヨセフではなく、ずっと昔の人で、神の民イスラエルの先祖ヤコブの12人の息子の一人です。ヨセフは若い頃、生意気だったために兄たちに憎まれ、穴に投げ込まれ、結果的に遠くエジプトに連れて行かれます。兄たちはヨセフは死んだと思ったようです。ヨセフはエジプトで奴隷になり、主人に非常に忠実に仕えますが、主人の妻が悪い人で、ヨセフは無実の罪で監獄に長年入れられてしまいます。苦難と試練の連続です。ところが神様がヨセフと共におられました。ヨセフは監獄という希望のない所にいても、与えられた務めをよく果たし、周りの人々に信頼されてうゆきます。そしてとうとう時が満ちた時に、ヨセフはエジプトのファラオの信頼を獲得し、エジプトと周りの国々が飢饉という大ピンチに至る前に、何とエジプトの総理大臣に抜擢されるのです。これほど大きな奇跡が皆に起こるわけではありませんが、ヨセフの人生も「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」人生だったと思うのです。

 ヨセフは、自分が生意気だったからとは言え兄たちに穴に投げ込まれる苦難を味わい、その後エジプトで長年監獄に入れられる苦難を味わいました。よく腐らずに忍耐し、監獄にあっても任された仕事をよく果たしたのは立派ですね。普通は、監獄で頑張っても報われそうもなければ、やる気が起きないかもしれません。でもヨセフは、監獄でも与えられた務めを忠実に果たした。神様は監獄という過酷な環境でヨセフを鍛錬し、ヨセフは忍耐して練達の人となり、エジプトの総理大臣という責任の大きな仕事を任され、その仕事も責任感をもって行いました。時至って、ヨセフは兄たちと再会し、父ヤコブとも再会し、最も愛する末の弟(同じ母から生まれた唯一の弟)ベニヤミンとも再会することができたのです。ヨセフの人生は希望ある人生に変わりました。神様がヨセフの人生を「苦難が忍耐を生み、忍耐が練達を生み、練達が希望を生む」人生として、導いて下さったのです。私たちの人生は、ヨセフの人生ほど劇的ではないと思います。そして私たちは今、コロナという苦難と試練の中に置かれて、忍耐の日々を過ごしています。しかし私たちが、この中にあっても日々祈り、自分に与えられた責任を忠実に果たしてゆくなら、神様が私たちの道を一歩一歩、希望の方向に開いて行って下さるに違いありません。私はそう信じています。

 そして思います。イエス様の地上の人生も、苦難と試練の連続だったと。イエス様は無事誕生したのも束の間、へロデ大王に命を狙われ、父ヨセフと母マリアは、乳飲み子イエス様を連れてエジプトに逃げています。逃げなければ殺さるところでした。約30才で伝道の人生に入る時に、40日40夜に渡って悪魔のしつこい誘惑を受け、悪魔と闘って勝利しています。そして十字架こそ、最大の苦難です。イエス様は十字架の上で、ひたすら忍耐されました。どんな悪口を言われても、ひたすら忍耐されました。イエス様こそ人格が完全に練り清められた方、完全な練達の士です。イエス様は十字架の上で死なれ、何の希望もないように見えましたが、そうではありませんでした。父なる神様はイエス様を三日目に復活させ、イエス様は40日間歩まれた後、天の天(一番高い所)に上げられました。私たちも、苦難・試練と忍耐の日々を過ごすことがあります。それはイエス様も通られた道です。そのイエス様が聖霊として、いつも共にいて下さいます。私たちの人格は練り清められたイエス様に似る者とされてゆき、イエス様がおられる天に入れていただく希望が、ますますはっきりしてきます。

 このローマの信徒への手紙を書いたパウロ自身、多くの苦難を経験をしています。パウロには病気がありました。それは眼の病気だったのではないかとも言われます。パウロは肉体にひどい迫害を多く受けていますから、いろいろな傷を受けていたに違いありません。パウロはイエス様に徹底的に従い、十字架には架けられませんでしたが、多くの迫害を受け、殉教の死を遂げて天国に入られました。パウロは、コリントの信徒への手紙(二)12章7節以下で、こう書いています。新約聖書339ページ下段。「それで、思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせて下さるように、私は三度主(父なる神様、あるいは神の子イエス様)に願いました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。」これは実に驚くほど深い信仰の言葉ですね。

 神様がパウロに与えた励ましは「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」私たちの努力も大切ではあるが、全てを完成に導いて下さるのは神様の愛の力、イエス様の愛の力です。ですからパウロは自分の身に与えられたとげを、苦難を誇りにすると言っています。私たちはなかなか、こう言えないとも思います。病は辛いし、とげは痛いからです。パウロも初めはそうで、このとげがなくなるように三度(つまり何回も)神に祈ったと言っています。しかし神の答えは、「(神の)力は弱さの中でこそ十分に発揮される」でした。パウロの弱さの中でこそ、パウロの苦難の中でこそ、イエス様が大きく働いて下さる。それを知って、パウロは自分の苦難を誇りとするという信仰の深い段階に到達できたと思うのです。パウロは苦難を忍耐して祈り、忍耐の中でイエス様に似た人に変えられ、そして遂には(神の、イエス様の)力はパウロの弱さの中でこそ十分に発揮されることを悟る希望へと進むことができたのです。いつもイエス様が聖霊としてパウロと共にいて下さり、パウロを慰め励まして下さいました。私たちもそのような人生を歩んで、天国に入りたいのです。

 ローマの信徒への手紙を、もう少し読みましょう。6節「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んで下さった。」私たち罪人(つみびと)の全ての罪を身代わりに背負って、十字架で死なれたイエス様の恵みが語られています。「私たちがまだ弱かったころ」とは、私たちがイエス様を信ぜず、罪を赦されていなかった時のことです。ということは、イエス様を救い主と信じた今は、全ての罪の赦しを受け、救われているということです。イエス様が不信心な者のために死んで下さったということは、イエス様がイエス様を信じない者、イエス様に敵対する者のために死んで下さったということです。イエス様は敵であった私たちを愛して、十字架に架かって下さいました。そのイエス様の愛を、もうすぐ聖餐式で味わおうとしています。 8節には、「しかし、私たちがまだ罪人(つみびと)であった時、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」とあります。「私たちがまだ罪人(つみびと)であったとき」とありますから、イエス様を信じた今は、全ての罪を赦されているということです。厳密に言うと、まだ罪が残っているけれども、洗礼を受けてイエス様という衣を着ているので、父なる神様から神の子(イエス様が長男ですから、イエス様の妹や弟として神の子)と見なされているのです。

 9~10節は、さらに深い恵みを語ります。「それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」今既にイエス様を救い主と信じ、イエス様の十字架の血潮のお陰で、神の前に義と認められている、神との和解ができあがっている非常に安心な状態にある。だから死後の最後の審判の時に、イエス様の十字架のお陰で、父なる神様の怒りから救われるのは、なおさら確実なことだと確約しています。今既に平和と安心の状態にあるのだから、最後の審判の時に無罪の宣告を受けることはなおさら確実だというのです。「なおさら」は、実に恵み深い神の御言葉です。神の愛の御支配の下で、万事は益とされる。イエス様が、今も天で私たちのために毎日執り成しておられる。その中で、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」、万事が益とされてゆく。それを成し遂げて下さるイエス様にひたすら信頼し、それでも不安な時はイエス様に不安をぶつけ、ひたすら祈り、聖霊による平安をいただいて共に歩ませていただきましょう。聖餐によっても、キリストの愛の十分に味わいたいのです。全ての方が洗礼を受けられ、この平安に入って下さるように、切に祈ります。

(祈り)聖名讃美。東京の3回目の緊急事態宣言が6月20日まで延期。オリンピック適切な決断を。感染している方全員に、特に重症の方に神の癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。経営や経済が非常に困難になって苦しんでいる方々に、神様の大きな助けを。世界中が、神に立ち帰るように。私たちの教会に各々の病と闘う方々、入院中の方もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々にも聖霊を。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に神の愛を。チャイルドファンドジャパンを通して応援しているフィリピンの少年少女、牧師夫婦のホーム「にじのいえ信愛荘」の方々に、神様の守りを。イエス様の御名により、アーメン。

2021-05-30 1:29:00()
「神様に信頼し、善を行う」 2021年5月23日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ガラテヤ5:22~23、29、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・352、聖書 詩編37:1~27(旧約868ページ)、祈祷、説教「神様に信頼し、し、善を行う」、讃美歌21・532、献金、頌栄83(1節)、祝祷。  
 
(詩編37:1~27)【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。
沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。主に従う人に向かって/主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが主は彼を笑われる。彼に定めの日が来るのを見ておられるから。主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り/貧しい人、乏しい人を倒そうとし/まっすぐに歩む人を屠ろうとするが、その剣はかえって自分の胸を貫き/弓は折れるであろう。主に従う人が持っている物は僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。主は御自分に逆らう者の腕を折り/従う人を支えてくださる。無垢な人の生涯を/主は知っていてくださる。彼らはとこしえに嗣業を持つであろう。災いがふりかかっても、うろたえることなく/飢饉が起こっても飽き足りていられる。しかし、主に逆らい敵対する者は必ず滅びる/献げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。主に逆らう者は、借りたものも返さない。主に従う人は憐れんで施す。神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる。
主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。若いときにも老いた今も、わたしは見ていない/主に従う人が捨てられ/子孫がパンを乞うのを。生涯、憐れんで貸し与えた人には/祝福がその子孫に及ぶ。悪を避け、善を行えば/とこしえに、住み続けることができる。

(説教)先週ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第40回)です。本日の聖書は、旧約聖書の詩編第37編から、神様のメッセージを伺いたいと願います。第1節に、これはダビデ王の詩だと書かれています。ダビデは旧約聖書に登場する小さな国イスラエルの有名な王です。この詩編第37編は、そのダビデ王が聖霊(神の聖なる霊)に満たされ、聖霊に導かれた語った詩です。ダビデが自分に言い聞かせるように語った詩ともいえるでしょう。

 1節と2節「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。」ダビデは王になってから気が緩んだのか、大きな過ちを犯したこともありますが、若い頃は純真で、しかも先輩のイスラエル王サウルの嫉妬心を受け、権力者サウルに憎まれ、命を狙われて逃げ回る苦難の日々を過ごしました。そんな中でダビデは、サウル王を憎んで殺そうとすることもなく、苦難に耐えたのです。忍耐したのです。

 3節「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。」この御言葉から、本日の説教題を決めました。自分の置かれた境遇が良くても、悪くても、迷うことなく神様に従い、神様に喜ばれる善を行うこと。これが神を信じる者の生き方です。神様がいずれ必ず最善の御心を行って下さる。それははっきりしているのですから、その神様に信頼して、神様に喜ばれる善をのみ行ってゆく。神様に信頼して、神様に従ってゆく。その人を、神様が見捨てるはずはないのです。確かに中には、この地上で報われず殉教する人々もおります。しかし必ず、天国に入って永遠の祝福のよき報いを受けます。イエス様も、地上の人生の最後は十字架の死でした。ところがそこに父なる神様の愛の力が強く働いて、イエス様は死から三日目に、復活させられたのです。自力によってではなく、父なる神様の愛の力によって、復活させられたのです。ここに、神様に従う人の希望があります。

 4~6節「主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえて下さる。あなたの道を主に任せよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを、真昼の光のように輝かせて下さる。」神様が全てを支配していて下さることを信じ、思い煩わないで神様に信頼し、神様にゆだね、任せなさい、と強調しています。私はこれを読んで、新約聖書のマタイ福音書6章の、イエス・キリストの「山上の説教」の美しい御言葉を連想します。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモン(ダビデ王の息子)でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さる。まして(大事な言葉!)あなた方にはなおさら(大事!)のことではないか、信仰の薄い者たちよ。」今はアジサイがあちこちで美しく咲きつつあります。アジサイをあれほど愛情込めて、美しく咲かせて下さる神様は、アジサイよりも私たち人間を愛しておられるのですから、アジサイに対してよりももっと深い配慮を私たちに注いで下さる、というのです。「信仰の薄い者たちよ」とは、「神への信頼の薄い者たちよ」ということです。

 イエス様は続けて言われます。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い悩むな(思い煩うな、心配しすぎるな)。それはみな、異邦人(真の神様を知らない人)が切に求めているものだ。あなた方の天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じである。」神様は、私たちの状態を100%ご存じである、私たち以上によくご存じである。だから思い煩わないで、神様に信頼し、神様に祈りなさいというのです。神様に祈って、心の思いを神様に訴えるとき、私たちの心の重荷はだいぶ減るのではないでしょうか。イエス様は結論として、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食等の生活必需品)は加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日は、神様の御手の中にあり、神様は明日も私たちに守りと配慮を与えて下さる。なすべきことはなす必要があるが、それをなしたら後は、神様に信頼して委ねなさい、と勧めています。私は高校1年生の時に初めてこの御言葉に出会い、最初は意味がよく分かりませんでしたが、次第に分かるようになり、今日までこの御言葉によって、思い煩いを捨て、平安をいただいて参りました。

 先ほど申しましたように、若い時のダビデの苦難は、先輩王サウルに憎まれ、執拗に命を狙われた苦難です。ダビデには、サウルを殺すチャンスが2回訪れました。旧約聖書のサムエル記・上24章と26章に詳しく書かれています。26章の方はこうです。サウルがダビデを追跡するために造った陣地で夜、幕営(テント)眠り込んでいるところに、ダビデと部下のアビシャイがそっと近づきます。サウルの槍は、サウルの枕元の地面に突き刺してありました。サウルの兵士も周りで眠っていました。ダビデの部下のアビシャイがダビデに進言します。絶好のチャンスだと。「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。さあ、私に槍の一突きで彼を刺し殺させて下さい。一度でしとめます。」部下がサウルを突き殺せば、ダビデはサウルの攻撃から解放され、安全になり救われます。ところがダビデはアビシャイに言うのです。「殺してはならない。主(神様)が油を注がれた方(神様が聖なる油を注いでイスラエルの王としてお立てになったサウル)に手をかければ、罰を受けずには済まない。」自分や部下の手でサウルを殺すことはしない。自分の手で復讐することはしない。父なる神様を信頼し、父なる神様が御心を行って下さると信じて、父なる神様に委ねるのです。ダビデは言います。「主は生きておられる。主がサウルを討たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油を注がれた方に、私が手をかけることを、主は決してお許しにならない。今は枕もとの槍と水差しを取って立ち去ろう。」こうしてダビデは、詩編37編1節にあるように「悪事を謀る者のこでいらだたず」、「主に信頼し、善を行」い、悪を行わないのです。
 
 暫くしてサウル王は、自分をダビデが殺すことが容易であったのに、ダビデが敢えて自分を見逃してくれたことを知り、遠くからダビデに言います。「私が誤っていた。この日私の命を尊んでくれたお前に、私は二度と危害を加えようとはしない。私は愚かであった。大きな過ちを犯した。」ダビデは答えます。「王の槍はここにあります。従者を一人よこし、これを運ばせて下さい。主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いて下さいます。今日、主は私の手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることを私は望みませんでした。今日、私があなたの命を大切にしたように、主も私の命を大切にされ、あらゆる苦難から私を救って下さいますように。」サウルは、「ダビデよ、お前に祝福があるように。お前は活躍し、また、必ず成功する」と良い言葉を返します。しかしこれがサウルの本心だったかは分かりません。ダビデはこの後も、「このままではサウルの手にかかって殺される」と感じ、別の地に逃れるのです。サウルはイスラエルの敵ペリシテ人と戦って来ましたが、この後もペリシテ人との戦いが続き、負けて戦死します。サウルは神様にあまり忠実に従わない王であり、ダビデを殺そうとしたことも神様に背くことだったので、このような結末に至ったと言えます。反対に、サウルに妬まれ、執拗に命を狙われる苦難の日々に耐え、サウルを殺すチャンスがあってもサウルの命を大切に守ったダビデは、苦難の日々を通った末に、イスラエル王となります。まさに今日の詩編37編の御言葉通りに人生になりました。但し、ダビデも思い上がって罪を犯した時は、神様に真に厳しく叱られています。

 この詩編37編は一貫して、困難や辛いことがあっても悪を行ったりせず、忍耐強く神様に従う道を歩みなさいと、私たちを励ましています。7節より11節「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や、悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ(神の祝福を受ける、最終的には天国という祝福)。しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。貧しい人は地を継ぎ、豊かな平和に自らをゆだねるであろう。」

 私は、1998年~2003年に韓国の大統領を務めた金大中(キム・デジュン)氏を思い出します。韓国の民主化は割と遅く1980年代くらいにようやく進み、1988年のオウルオリンピックの頃に一応成し遂げられたようです。1980年には、政府が民主化を弾圧した光州事件という事件があって、何と167人もの市民が亡くなっています。民主化のリーダーだった金大中氏が逮捕され、政府に睨まれて死刑判決を受けましたね。日本のニュースでも報道され、悪い人に見えない金氏が真っ白の服を着て死刑判決を受ける様子を、中学1年生だった私も見ました。その後、外国から死刑判決への批判があって無期懲役に減刑され、金氏はアメリカに亡命しました。それより前の1973年に、東京に来ていた金大中が東京都の飯田橋駅近くのグランドパレスホテルというホテルから、韓国の情報機関によって拉致される事件がありました。私は小学校1年生でもちろん知らず、ずっと後で知りました。8月8日に金氏は薬を嗅がされて意識朦朧となり地下駐車場で車に乗せられ、関西の港から最初はモーターボートで海に出て、大きな船に移されました。そして体に重りを巻き付けられ、もうすぐ海に投げ込まれて殺されることが本人に分かりました。この時のことを、1990年前後だった思いますが、日本のテレビ局の夜遅い報道番組に金氏が出演して(司会は筑紫哲也というキャスターだったと記憶しています)、話したのを、私は視聴しました。金氏が「その時、イエス・キリストが現れた」と淡々と、しかし堂々と語るのを聞いて、私は驚きました。テレビでそう堂々と語る政治家は、見たことがありません。

 私は以前、金氏の自伝を買いました、『死刑囚から大統領へ』という自伝で、日本語版は岩波書店から2011年に出ています。拉致の場面を読みました(238~243ページ)。「私はクリスチャンだ。毎日お祈りし、拉致されてここまで連れて来られる間も、神を探し求めていた。両腕を縛っているロープはびくともしなかった。すべては無駄だった。目の前が真っ暗になった。その時、まさにその時に、イエスが出現された。私はお祈りなど考えも及ばず、死を前に震えていたのにイエスはすぐ前に立っておられた。ああイエス様! 聖堂で見た姿そのものであり、表情もそのままだった。服装も同じだった。私はイエスの長いすそをつかんだ。『お助け下さい。私にはまだ、やることが残っています。国民のためにしなければならないことがあります。お救い下さい。』私は洗礼を受けて以来、初めてイエスに助けてほしい、救ってほしいとすがった。すると、その瞬間、目に赤い光がピカッとよぎった。突然、エンジン音が爆音のようにけたたましくなったかと思うと、船は狂ったように揺れながら走り出した。船室にいた男たちが『飛行機だ』と叫び、甲板に飛び出して行った。船は全速力で走った。30分か40分ほど走ると、船はまた速度を落とした。何事もなかったかのように周りは静かになった。」

 他の資料によると、金氏の拉致をアメリカから知らされた日本政府が送った海上保安庁のヘリコプターが照明弾を投下したとのことです。上から見られているので、海に投げ込むことができなくなったようです。この後の紆余曲折を経て、拉致六日目の8月13日にソウルで解放されたそうです。自宅に戻ると秘書と家族に囲まれて、金氏は言いました。「神が生きておられるのを体験した。主の恵みで助かった。みんな一緒にお祈りしよう。」皆がひざまずいて、感謝の祈りを献げました。祈りを終えてよく見ると、体のあちこちに傷を負っているのに、初めて気づいたそうです。解放を知って、国内外の報道記者が家に押しかけて来たそうです。これが1973年のことで、その後1980年に光州事件が起きました。政府が民主化運動を弾圧した事件です。私は1996年に韓国に初めて行った時、光州も少し通りましたが、じっくり立ち寄る時間はありませんでした。三日前の朝日新聞の夕刊に、光州事件の写真が大きく出ていて、驚きました。軍隊が出て市民に暴力を加えたひどい事件です。

 金氏は民主化のリーダーとして睨まれていたので逮捕され、死刑判決を受けました。ここでも死に直面しています。外国からの批判を受けて無期懲役に減刑されて、アメリカに亡命。1985年に帰国、1987年と1992年の大統領選挙に敗北。1998年に大統領になり、2003年に退任、2009年に83歳で天国に行かれました。大統領になりましたが、苦難の多い人生だったようです。ダビデに少し似ているかもしれませんし、詩編37編の御言葉にも重なる人生だったのではないでしょうか。

 23節「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えて下さる。」とても励まされる御言葉です。神様が、神の子イエス様が、私たちと一歩一歩を共に歩んで下さいます。一歩一歩という言葉は、旧約聖書の箴言にもあります。16章9節「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えて下さる。」20章24節「人の一歩一歩を定めるのは主である。」私たちの一歩一歩の歩みは、イエス様に従い、イエス様と共に歩む一歩一歩です。貧しくとも、それこそが最も幸いな歩みです。

 神に逆らう者の歩みについても詩編37編は語ります。17節「主は御自分に逆らう者の腕を折り、従う人を支えて下さる。20節「主に逆らい敵対する者は必ず滅びる。」35~36節「主に逆らう者が横暴を極め、野生の木のように勢いよくはびこるのを私は見た。しかし、時がたてば彼は消えうせ、探しても見出すことはできないであろう。」1940年にドイツのヒトラーは、もの凄い勢いでヨーロッパ各地を占領してゆきました。これを見た日本は、日独伊三国の同盟を結びました。ヒトラーの勢いに惑わされたのです。「バスに乗り遅れるな」が当時の合言葉だったそうで、連戦連勝のドイツを同盟しました。神に逆らうヒトラーと同盟したのですから、これは大きな失敗でした。「主に逆らう者が横暴を極め、野生の木のように勢いよくはびこるのを私は見た。しかし、時がたてば彼は消えうせ、探しても見出すことはできないであろう。」ヒトラーは滅びました。私たちは派手さはなくても、イエス様と共に平和のうちに一歩一歩を歩む、真の意味で幸いな道を、ご一緒に歩みたいのです。

(祈り)聖名讃美。東京の3回目の緊急事態宣言が6月20日まで延期。オリンピック適切な決断を。感染している方全員に、特に重症の方に神様の癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神様に立ち帰るように。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられ、入院中の方もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々にも聖霊を。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛を。チャイルドファンドジャパンを通して応援しているフィリピンの少年少女、牧師夫婦のホーム、「にじのいえ信愛荘」の方々に、神様の守りを。イエス様の御名により、アーメン。

2021-05-23 1:15:15()
「聖霊がくだる―イエス様を信じる世界になるために」 2021年5月16日(日)ペンテコステ礼拝
礼拝順序:招詞 ガラテヤ5:22~23、28、「主の祈り」、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・342、聖書 ヨエル書3:1~5(旧約1425ページ)、使徒言行録2:1~24(新約214ページ)、祈祷、説教「聖霊がくだる―イエス様を信じる世界になるために」、讃美歌21・343、献金、頌栄24、祝祷。  
 
(ヨエル書3:1~5) その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

(使徒言行録2:1~24) 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

(説教)7週間前にイースター礼拝を献げ、本日はペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝です。ペンテコステ、おめでとうございます。イエス様は、十字架で死なれた三日目の日曜日に復活され、40日間に渡って弟子たちの前に現れ、神の国のことを話され、共に食事もなさいました。そして復活から40日目に天に上げられました。これをイエス・キリストの昇天と呼びます。イエス様の昇天によって、私たちは3つの恵みを受けました。

 1つ目の恵みは、教会の頭(かしら)であるイエス・キリストが、既に天国に入られたことです。教会はキリストの体、教会のメンバーである私たちはキリストの手や足や胸やお腹です。頭はイエス様です。頭のイエス様が既に天国に入られたのですから、キリストの体の構成メンバーである私たちも、天国と明確につながりました。地上の人生が終わったら、頭のイエス様がおられる天国に確実に入れていただけます。2つ目の恵みは、天でイエス様が私たちのために、父なる神様にとりなしをして下さるようになったことです。もちろんイエス様による最大のとしなしの業はイエス様の十字架の死です。イエス様は十字架の死によって、私たちの全ての罪を身代わりに背負いきって下さいました。それが不十分だったのではありませんが、今も天で私たちが日毎に犯す罪のために、父なる神様にとりなして下さっています。もちろんだからと言って、私たちが全然悔い改めなくてよいのではありませんが、何とありがたいことかと思います。ローマの信徒への手紙8章34節には、こうあります。「誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのためにとりなして下さるのです。」そしてヘブライ人への手紙7章25節には、こうあります。「この方(イエス様)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」このように、イエス様は私たちを完全に救って下さるのです。そしてイエス様が天に昇られたことによる3つめの恵みが、ペンテコステに直接かかわることで、天から神の清き霊である聖霊を注いで下さったことです。

 イエス様が天に昇られた後、イエス様を売って死んだユダを除くイエス様の11人の弟子たち(使徒たちと呼ばれるようになっていました)は、イエス様の母マリア、婦人たち、イエス様の兄弟たちと、心を合わせて熱心に祈っていました。120名ほどの人々が、一つになって祈っていました。かなりの熱気があったでしょう。その中でユダの代わりを補充することも行われ、マティアが使徒に加えられました。

 ようやく今日の2章の1節を読みます。「五旬祭(ギリシア語でペンテコステ)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」五旬祭(五十日祭、七週祭)は、ユダヤ人の3つの重要な祭りの一つで、2つの意味があると聞いています。一つは収穫感謝祭の意味です。もう一つは、旧約聖書の時代に神様がモーセを代表とするイスラエルの民に十戒(律法)を与えたことを記念する祭の意味です。なぜ五旬祭(ペンテコステ)がユダヤ教で、十戒が与えられたことを記念する祭になったのか私にはよく分かりませんが、私が見たいくつかの資料にそう書かれています。神様がシナイ山で十戒を与えた場面を読むと、神様が火の中を山の上に降られ、山全体が激しく震えたとあり、今日の使徒言行録2章と似ています。火や炎は、生きておられる神様がそこにおられて働いておられるしるしです。2~4節には、こうあります。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

 多言語奇跡と呼ばれます。習ったこともない外国語で語り始めたのですから、実に驚くべきことです。これは、救い主イエス様を信じる信仰が、様々な言葉が用いられる世界の全ての地域に宣べ伝えられることが、神様のご計画であり、切なる願いだということを示しています。イエス様を宣べ伝える伝道がエルサレムから始まって、この地の果ての果て日本にも届いているのですから、本当に感謝なことです。日本で伝道が行われたのは、最初は戦国時代、次の大きな伝道は江戸時代末に始まりましたが、江戸時代末の日本では、西洋人が日本に入ることを嫌う攘夷の考えが強く、白人を刀で切り殺すテロも多く起こりました。横浜等で医療伝道に励んだヘボンさんも、一つ間違えば刀で切り殺される危険な日本に来て伝道して下さったのですから、頭が下がります。

 5~13節「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た(一時帰国)信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、誰も彼も、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。』人々は皆驚き、とまどい、『一体、これはどういうことなのか』と互いに言った。しかし、『あの人たちは、新しい酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた。」

 彼らは新しい酒に酔っていたのではありません。聖霊に満たされ、聖霊に酔っていたのです。聖霊による聖なる愛、聖なる喜び、聖なる慰めに満たされていたので、信仰が分からない人に、「新しい酒に酔っている」と誤解されたのです。聖霊を受けるということは、劇的な体験とは限りません。私たちは今この礼拝の中で現に聖霊に触れています。個人で祈り、聖書を読むときも聖霊に触れています。清書を読んでいて、一瞬その意味が「こういうことかな?」と小さくひらめくことがあると思います。そのひらめきは聖霊の働きのことが多いと思います。少し大きな経験をした方のことを話しますと、私も神学校で教わった大木英夫という先生のことが7年前の新聞に紹介されています。大木先生は、軍国少年だったそうで、1943年に14才で百倍の難関を突破して、新宿区戸山にあった陸軍幼年学校に進みました。朝は宮城遥拝(皇居の方向に拝礼)と軍人勅諭暗唱で始まったそうです。それは天皇教とでも呼ぶべき宗教と言えます。1943年の段階では、まさか日本が負けるとは思わなかったそうです。16才で敗戦を迎えましたが、受け入れることができず、なかなか軍服を脱げなかったそうです。1945年の秋に、故郷の福島県で著名な賀川豊彦牧師の伝道集会をふらりとのぞいたそうです。幼年学校の軍服を着ている姿が賀川牧師の目にとまり、前に出るように言われ、全てを察したように大木少年の混乱している頭に手を乗せ、祈りをされました。「暗い帰り道、不思議な温かい気持ちに包まれた」と大木先生は振り返っています。賀川牧師を通してイエス・キリストの愛に触れた、聖霊の聖なる愛と慰めに触れた出来事だったのではないかと思えます。別の国の言葉を語らなかったにしても、ペンテコステの朝に、聖霊に満たされた人々と同じような経験と思います。私たちも礼拝に出席している今、聖霊なる神様に触れていますし、一人で聖書を読み祈る時も、確かに聖霊なる神様に触れています。ですから聖霊に触れることを、いつも劇的な体験と思う必要はありません。

 大木先生はその後、教会に出入りするようになり、次第に古い自分に死に、新しい自分に生きる回心に導かれます。キリスト教会では回心を「心を回す」と書きます。「心を改める」とは書きません。回心は、自分の心と生き方をイエス・キリストの方向に回す、方向転換させることを意味します。それまでは自分中心の生き方、あるいは真の神様を中心としない生き方をしてきた。それを罪と呼びますが、罪とは「的はずれ」のことだと、教会ではよく説明します。自分さえよければよい、自分の国さえよければよいという的はずれの生き方をして来た。めざす方向が間違っていた。これからは正しい的に向かって生きるように方向転換する必要があります。真の神様を愛し、神様に造られた自分を正しく愛し、同じ神様に造られた隣人を愛し、また敵をさえ愛する生き方に方向転換するのです。言い換えるとイエス様に従う生き方に方向転換するのです。それを回心と呼びますが、使徒言行録2章の終わりの方でペトロが説教している言葉を用いれば、「悔い改め」と同じです。回心と悔い改めは同じことです。悔い改めとは方向転換のことです。悔い改めと言うと、悪いことをしてきたことを反省するイメージが強いでしょう。もちろん自分が行った罪と悪を反省する意味も確かにあります。しかしそれだけでなく生き方を方向転換することです。イエス様の方向に生き方を向け直すことです。イエス様に倣って(イエス様ほどにはできなくも)父なる神様を愛して礼拝し、隣人を愛する方向に生き方の向きを変えます。

 さて、聖霊を受けた人々は、いろいろな言語で「神の偉大な業」を語ったのですが、具体的に何を語ったかは書かれていません。でもペトロが代表して説教したこととほぼ同じことを語った可能性もあると思うのです。ペトロの説教は長く、14節から、今日は読まなかった39節まで続きます。ペトロはイエス様を宣べ伝えています。左下の22節から24節まで読みます。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなた方の間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなた方に証明なさいました。あなた方自身が既に知っている通りです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じの上で、あなた方に引き渡されたのですが、あなた方は律法を知らない者たち(ローマ人)の手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、あり得なかったからです。」イエス様の復活は、まさに父なる神様の偉大な業です。

 そしてペトロは、説教の締めくくりでこう述べます。ペンテコステの場面は長く、42節まで読まないと完結しません。ペトロは述べます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名により洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい(この場合の罪は、イスラエルの人々がイエス様を十字架に追いやって殺した罪)。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなた方にも、あなた方の子どもにも、遠くにいるすべての人(地の果ての日本人を含む)にも、つまり、私たちの神である主が招いて下さる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」

 ペトロは「悔い改めなさい」と説きます。イエス様を殺すという大きな罪を犯したことを神様に深く謝り、そしてイエス様に従う生き方に方向転換しなさいということと思います。そのためには洗礼を受けて、古い自分に死ぬことが必要です。そうすると神様からのプレゼントとして聖霊が与えられる。その聖霊に助けられて、方向転換した生き方に進みます。ペトロは言います。「邪悪なこの時代から救われなさい。」今の時代もやはり、人間のエゴイズムという悪によって汚染されているのではないでしょうか。ペンテコステの日、何と3000人が洗礼を受けたと記されています。大変な奇跡ですが、一人の方が決心して洗礼を受けることも、大きな奇跡です。私たち人間は基本的に頑固で、自分の罪に気づかず、自分の罪を認めず、イエス様の前にへりくだろうとしないからです。そして私たちの頭と心は、自分の思いや自分の考えで満ち満ちているからです。でも時に私たちは深呼吸して、心と頭から自分の考えを少し減らし、隙間を造ることが必要だと思います。その隙間に聖書の御言葉を入れ、聖霊なる神様に入っていただきます。その隙間を少しずつ増やし、神様の御言葉、イエス様の御言葉、聖霊が住んで下さるスペースを増やすのです。すると祈りやすくなり、神様との交わりが増え、イエス様ともっと親しくなることができます。これが悔い改め、方向転換とも言えます。

 今朝は聖霊が下った日を記念する礼拝です。体と心の深呼吸をしましょう。自分の考えで満ち満ちた心と頭にスペースを作り、イエス様の言葉、聖書の言葉、聖霊に入っていただきましょう。私たちと、世界中の方がそうすると、敵意も減り、世界が和解に進みます。助け合いに進みます。この礼拝から平和を運びましょう。家族に、近所に、会社に、世界に。世界中の争いがやみ、平和な世界になるようにこのペンテコステの朝、世界中で祈りを合わせたいのです。

(祈り)聖名讃美。東京の3回目の緊急事態宣言が5月末まで延期。オリンピック適切な決断を。感染している方全員に、特に重症の方に神様の癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神様に立ち帰るように。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられ、入院中の方もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々にも聖霊を。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛を。チャイルドファンドジャパンを通して応援しているフィリピンの少年少女、牧師夫婦のホーム、「にじのいえ信愛荘」の方々に、神様の守りを。イスラエルとパレスチナが停戦。御名により、アーメン。

2021-05-16 1:07:57()
「義の道を示した洗礼者ヨハネ」 2021年5月16日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ガラテヤ5:22~23、28、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・210、聖書 マラキ書3:23~24(旧約1501ページ)、マタイ福音書21:23~32(新約41ページ)、祈祷、説教「義の道を示した洗礼者ヨハネ」、讃美歌21・441、献金、頌栄92、祝祷。  
 
(マラキ書3:23~24) 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。 

(マタイ福音書21:23~32) イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

(説教)6週間前にイースター礼拝を献げ、本日は復活節第7主日の礼拝です。来週は、ペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝です。今日の場面は、イエス様がエルサレムの都に入られ、非常に思い切った形で激しく神殿を清められた翌日の月曜日の出来事と思われます。イエス様はこの週の金曜日に十字架につけられます。その直接の原因の1つは、イエス様が、ユダヤ人の誇りそのものだった神殿の内部の堕落と腐敗を強く清められたことと思われます。この神殿清めが、非常に強い反発を招いたのです。ですがイエス様は神の子ですから、イエス様が神殿を清めたことは、父なる神様の御心に完全に適う非常によいことです。しかし、腹を立てた神殿の指導者たちがイエス様に論争を仕掛けます。

 23節「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えたのか。』」一体誰の許可を得て、あのように神殿で売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒し、今は神殿で人々に教えたりしているのか。一体あなたは何様のつもりなのか、と怒りをぶつけたのです。イエス様はこの世の権威や肩書を何も持っておられません。この世の肩書や名刺を一つも持っておられません。ですがイエス様は、現実に父なる神様の独り子、神の子でいらっしゃいます。ただ神の子の権威によって神殿を正しく清め、神殿で説教されます。

 24節「イエスはお答えになった。『では、私も一つ尋ねる。それに答えるなら、私も、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼(バプテスマ)はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。』」洗礼者ヨハネは、天から(つまり真の神様から)から送られて来た者だったか、それとも真の神様から派遣されたのではない(いわば)偽預言者だったのか、イエス様はそう質問なさったと言えます。もちろん正しい答えは前者で、洗礼者ヨハネは真の神様から送られて来た真の預言者だったのです。本日の旧約聖書であるマラキ書3章23~24節に、神様が預言者エリヤをイスラエルに送ることが予告されていますが、洗礼者ヨハネこそここで予告されているエリヤです。「見よ、私(神様)は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。私が来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。」「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」とは、イスラエルで父親と子どもが和解することを述べているようです。「私(神)が来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。」

 そのためにそのためにエリヤ(洗礼者ヨハネ)が人々に罪を悔い改めて、洗礼を受けるように説いたのです。ヨハネが真の神から送られた預言者であることを、祭司長たちや民の長老たちも分かっていたでしょう。しかし彼らはヨハネを拒否し、イスラエルの権力者の一人が殺してしまったのです。それは神に逆らう大きな罪です。祭司長や民の長老たちは、ここで論じ合います。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。」その通りです。「『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」これが彼らの本音の内部相談ですが、見苦しいですね。彼らには真の神様に従う気持ちがないのです。そして自分たちの保身だけに関心がある、ユダヤの社会での自分たちの特権や利益(既得権)の維持にしか関心がないのです。そこで彼らは「分からない」と答えました。情けない答えです。

 イエス様は「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい。」神の真理にこそ、真の権威があります。祭司長や民の長老たちは、真の権威に従っていないので、イエス様の前でしどろもどろになってしまいます。逆にイエス様は、真の神様という真の権威に従っておられるので、説得力を持っておられます。旧約聖書の箴言28章1節の「神に従う人は若獅子のように自信がある」という御言葉を思い出します。

 イエス様はさらに踏み込んで言われます。「『ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子がふたりいたが、彼は兄のところへ行き、「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った。兄は「いやです」と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。』」彼らは「兄の方です」と答えます。 聖書は、写本の形で昔から書き伝えられましたが、この箇所には2種類の有力な写本があるそうです。この箇所からの最終的なメッセージは変わらないと思いますが、口語訳聖書と新改訳聖書は、この新共同訳とは別の写本の本文を採用して翻訳しています。口語訳はこうなっています(新改訳もほぼ同じ)。「ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『お父さん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか。彼らは言った、『あとの者(弟)です』。」新共同訳では、兄が最初にいやといったが、後から考え直してぶどう園に出かけ、口語訳と新改訳では、弟が最初にいやと言ったが、あとから考え直してぶどう園に出かけています。どちらにしても結論は、後から考え直して父親の言いつけに従った方が父親の喜ぶことをした、ということです。父親は父なる神様を指しますから、最初は父なる神様に従わなかったとしても、後から反省し、悔い改めて、父なる神様に従った者こそが神様に喜ばれる、これがこの箇所のメッセージです。

 イエス様は、ここぞと重要なメッセージを語られます。31節の途中から。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなた方より先に神の国に入るだろう。ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」これは、大変驚くべきメッセージ、私たちもびっくりするメッセージだと思います。「徴税人や娼婦たちの方が、イスラエルの神殿のリーダーたち、信仰のリーダーたちより先に、神の国に入る(天国に入る)」というのです。徴税人や娼婦たちは当時のイスラエル社会で、一般市民に嫌われ、軽蔑されていた人々と言えます。今の日本に当てはめると、犯罪を犯した刑務所に入っているような人々に近いと思うのです。当時のイスラエルはローマ帝国に支配され、人々はローマ帝国に税金を納めていました。そのことに屈辱を感じる人々も多かったでしょう。徴税人はイスラエル人の中から、そのローマに雇われ、仲間のイスラエル人から税金を取り立てて、ローマに納める仕事を請け負っていました。イスラエル人から見れば裏切り者に見える。しかも多く取り立てて私腹を肥やしていたそうです。どう考えても悪人です。天国に入るなんてあり得ないというのが、当時の常識的な感覚でしょう。

 娼婦も似ています。売春で生計を立てていました。当時も今も、非難の目で見られると思うのです。徴税人や娼婦たちに、もし何かよい点が一つでもあるとすれば、それは自分たちは悪い人間、罪深い人間で、到底天国になど入れるはずがないと強く自覚していたことです。イエス様は救い主なので、そんな徴税人・娼婦たちを何とか救いたいと強く願っておられるのではないでしょうか。イエス様は、マタイ福音書9章で言われます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。~私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。」

 私は最近、ある牧師の説教題を見て「ほう!」と思ったのですが、その説教題は、「神は、罪人(つみびと)しかお招きになりません」、「神は、罪人(つみびと)しかお招きになりません。」確かにそうだなと思えてきました。私たちが礼拝に招かれているのは、イエス様が罪人(つみびと)である私たちを憐れんで下さったからです。イエス様が神殿を清められたことから分かるように、教会は確かにある程度の清さを求められます。確かにそうですが、同時に私たちはクリスチャンであっても、この地上にある限りは、まだ罪を持っています。罪を悔い改め、聖霊によって清めていただくことが大事ですが、しかしこの地上で完全に清くなることはできません。地上の人生を終えて天国に入る時に初めて、完全に清くなります。徴税人も娼婦たちだけでなく、私たちもまた罪人(つみびと)だからこそ、イエス様によって招かれました。イエス様を救い主と信じて、罪を悔い改めて洗礼を受け、全ての罪の赦しと永遠の命を受けるようにイエス様に招かれ、その招きに応えて今ここにいます。

 徴税人や娼婦たちは、他人から見ても自分から見ても、イエス様から見ても、明らかな罪人(つみびと)です。しかし彼ら・彼女らには自分の罪を認め、罪を悔いる純真な心もありました。ルカ福音書3章を見ると、徴税人が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるために来ています。徴税人はヨハネに、「先生、私たちはどうすればよいのですか」と尋ね、ヨハネが「規定以上のものは取り立てるな」と愚弟的に教えています。彼はヨハネから洗礼を受け、それまで規定以上の税を取り立てて、私腹を肥やしていた罪を悔い改め、そのような悪事を二度としなくなったでしょう。彼の悔い改めは、神様に喜ばれたに違いありません。ヨハネの前で罪を告白し、悔い改めて洗礼を受けた娼婦たちもいたのでしょう。

 ヨハネ福音書8章を見ると、娼婦ではありませんが、姦通という明らかな罪の現場で捕らえられた女性が、イエス様の前に連れて来られた有名な場面があります。神様の正義の教え律法に基づいて、石投げの刑で死刑にするように強く求める律法学者たちやファリサイ派の人々に対してイエス様は、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われます。これを聞いた人々は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、誰一人石を投げつける者がありませんでした。イエス様は、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われました。これは安易に赦したのではなく、彼女の姦通の罪に対する父なる神様の裁きを、イエス様が十字架で身代わりに背負って下さったのです。「私があなたの身代わりに十字架で死んであなたの罪を赦すから、あなたは悔い改め、もう罪を犯さないように気をつけて生きて行きなさい」ということです。こうしてイエス様は、姦通の罪を現実に犯した女性を、救いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである」と言われた通りです。彼女は悔い改め、その後二度と姦通の罪を犯さなかったでしょう。

 今日私たちは、マタイによる「福音書」を読んでいます。そして教会はイエス・キリストの十字架と復活による福音を宣べ伝えると、いつも言います。福音とは、何か理屈であるよりもイエス様の人格と存在そのものです。イエス様の存在そのもの、そしてイエス様の言葉と生き方が福音です。福音とは生きているイエス様です。身を低くして、へりくだり自分の罪を認めて、(義の道を示した)洗礼者ヨハネと救い主イエス・キリストを心から受け入れることこそ、父なる神に喜ばれることです。ローマの信徒への手紙5章16節には、「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」という御言葉があります。過去にひどい罪を犯していた人でも、イエス様を救い主と信じて、心から悔い改めるなら、ただイエス様の十字架のお陰で、無罪の判決が下されるのです。これが福音です。

 私たちの国では1954年に売春防止法が成立しています。戦後の日本は混乱し、生きていくのが精一杯だった時期、売春や性暴力は少なくなかったでしょう。東久留米駅の近くの大泉学園駅からまっすぐ北に進むと、「いずみ寮」というクリスチャンたちが作った婦人保護施設があります。1958年開設とのことです。その創設者の一人・深津文雄牧師という方が中心になって千葉県館山市に「かにた婦人の村」という婦人保護長期入所施設が造られました。1965年です。「かにた」とは、そこを流れる小さな川の名前だそうです。ある方の文章によると、「売春の背景には、当時、貧困、障がい、家族問題、暴力等の複合的な問題を抱え、行き場のない女性たちの姿がありました。まさに福祉的支援が必要な女性たちです。」支援を必要とする女性たちが、「かにた婦人の村」に住まわれたのだと思います。イエス様のまなざしで支えようとする深津牧師たちがおられたようです。その女性たちを簡単に罪人(つみびと)と切り捨てることは困難で、むしろ被害者の方が多いのではないかと思えますが、それでも社会では、白い目で見られたのではないかと思います。

 従軍慰安婦だったという日本人女性もおられて、その方の願いによって「鎮魂の碑」が建てられたそうです。その方が深津牧師に書いた手紙。「深津先生、戦後40年、日本のどこからも、ただの一言も声があがらない。軍隊が行った所、どこにも慰安所があった。死ぬ苦しみ。何度兵隊の首をしめようと思ったことか。半狂乱でした。死ねばジャングルの穴に捨てられ。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を。40年たっても健康回復できないでいる私ですが、まだ幸せです。1年ほど前から、祈っていると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。私は耐えきれません。どうか慰霊塔を建てて下さい。」それは1985年に建てられました。

 売春のことを思うと、そこに個人の罪もありますが、同時にかかわった人間と社会の様々な罪に行き着きます。私たち一人一人も、そして日本国も、イエス様の前にへりくだり、赦しを請い、悔い改めを忘れない歩みを続ける必要があると思われてならないのです。

(祈り)聖名讃美。東京の3回目の緊急事態宣言が5月末まで延期。オリンピック適切な決断を。感染している方全員に、特に重症の方に神様の癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神様に立ち帰るように。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられ、入院中の方もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々にも聖霊を。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛を。チャイルドファンドジャパンを通して応援しているフィリピンの少年少女、牧師夫婦のホーム、「にじのいえ信愛荘」の方々に、神様の守りを。イエス様の御名により、アーメン。

2021-05-13 16:54:10(木)
5月の伝道メッセージ  牧師・石田真一郎
「わたし(イエス様)の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその(よい)報いを受ける」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書10章42節)。
 
 コロナ禍が続きますが、緑が勢いよく伸びる季節です。神様が創造なさった自然界の美しさをますます深く感じる感性を養いたいと願います。

 私が小学5年の頃(1977年頃)、友達の家族に弟と誘われて映画に行きました。何の映画かも知らずに行ったのですが、『ベン・ハー』という長編でした。副題は『キリストの語』。冒頭は、イエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれる、美しい場面です。ユダヤ人の貴族の青年ジュダ・ベン・ハー(架空の人物)が、ユダヤを支配するローマ総督の行列に間違って屋根瓦を落とします。親友だったがローマ側のメッサラに、母妹と共に過酷な処分を受け、奴隷にされ炎熱の砂漠を歩かされます。見張りの兵に嫌われ、他の奴隷は水を飲むことができるのに、彼だけ禁じられて倒れ、「神様、助けて下さい」とうめいた時、若い男性が現れ、器の水を十分に飲ませてくれます。まさに「命の水」。イエス様です。感動しました。イエス様の後姿しか映さないところが印象的です。イエス様は重要場面にのみ登場します。

 ベン・ハーは過酷な奴隷船漕ぎをさせられ、海戦に巻き込まれるが、リーダーの命を救ったことで、彼の養子となりローマに行き、故郷ユダヤに戻ります。四頭の馬が引く古代の戦車レースに出場し、憎むメッサラと対決し、メッサラは反則して勝とうとしますが、激しいつば競り合いでメッサラの戦車は崩壊し、投げ出されて重傷を負い、死にます。ベン・ハーの妻は、イエス様の山上の説教(「平和を実現する人々は幸いである」、「敵を愛しなさい」等の説教)を聴いて心を打たれ、感化されます。

 十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かうイエス様を見たベン・ハーは、「あの時、水をくれた人だ」と気づき、水を汲んで、倒れたイエス様の口元に差し出し一瞬見つめ合います。ローマ兵が水の器を蹴り、飲ませません。ベン・ハーは間近くでイエス様の十字架を見届け、「父よ、彼らをおゆるし下さい。自分が何をしているのか知らないのです」との祈りも聞いたでしょう。イエス様の愛に触れることで、憎しみに支配された彼の心が溶け、ゆるしと愛と平安に導かれます。希望ある終わりです。アカデミー賞11部門獲得の1959年超大作。私はこの映画によっても、イエス様に出会いました。皆様もぜひ、救い主イエス様を信じて下さい。アーメン(真実に)。