
2024-08-17 21:49:32(土)
説教「愛によって歩みなさい」 2024年8月18日(日)聖霊降臨節第14主日礼拝
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23,頌栄28、主の祈り,交読詩編135、使徒信条、讃美歌21・7、イザヤ書53:10~12,エフェソの信徒への手紙5:1~5、祈祷、説教、祈祷、讃美歌567、献金、頌栄27、祝祷。
(イザヤ書53:10~12) 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。
(エフェソの信徒への手紙5:1~5) あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第14主日公同礼拝の公同礼拝です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙5章1~5節、説教題は「愛によって歩みなさい」です。
小見出しで言うと、4章25節から始まった「新しい生き方」の続きです。本日の直前の4章32節には、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦して下さったように、赦し合いなさい」です。
そして本日の5章1節になります。「あなた方は神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。」私たちは「神に愛されている神の子ども」だと分かります。イエス・キリストが真の神の子なので、イエス様を信じる私たちも、イエス様のように完全ではなく、まだ罪があるにも関わらず、神の子どもたちとされています。ですが続く言葉には、「え?」と思うのではないでしょうか。「神に倣う者となりなさい。」私の調べた限りでは、「神に倣う」という言い方は、旧約聖書・新約聖書全体の中で、ここ1か所のみです。創世記によると、確かに私たち人間は皆「神に似せて」造られました。よき者に造られたのです。ところがその後、悪魔の誘惑に負けて、罪に落ち込んでしまい、「神に似た」姿が損なわれました。罪人(つみびと)になりました。その罪人(つみびと)である私たちが、「聖なる愛なる神様に倣う」ことなど、できそうにないと感じます。
しかしパウロが「あなた方は、神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい」と勧めている以上、ある程度は可能なのだと思います。キリスト者一人一人の内には、神様の愛と清さに満ちた聖霊が生きて住んでおられます。ですから聖霊に助けられて、たとえばモーセの十戒の戒め1つ1つを行うならば、不完全ではあっても「神に倣う生き方」を実行することになります。これは神様がイエス様の十字架によって私たちを愛して下さった熱烈な愛への感謝の応答として、行うことです。「神に倣う者なりなさい」と全く同じ言い方は聖書の他の個所にありませんが、似た言葉ならあります。マタイ福音書5章48節です。「だから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい。」これは、イエス様の十字架の愛によってのみ神の子とされ、永遠の命を受けた私たちが、聖霊に助けられて、神の愛を一歩ずつ行いなさい、ということと思います。私たちが地上にある限り完全は無理で、天国に入った時に、全く罪のない完全な者になります。それでも、地上にあって、聖霊に助けられて神の愛を一歩ずつ行いなさい、ということと思います。「神が完全であられるように、あなた方も完全な者になれ。」これは永遠の目標、生涯の目標ですね。カトリックの曽野綾子さんの言葉だったと記憶していますが、「達成不可能と思える高い理想を掲げるのが宗教の役割」だと。そのような見方もあり得ると思います。達成不可能と思える御言葉ですが、身近な小さな愛から実行するとよいと思います。
このマタイ福音書5章では、「完全な者になる」「神に倣う者となる」ことの具体的なこととして、イエス様がこう語られるのですね。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。」神は悪人にも善人にも平等に雨を降らせ、いわば敵を愛する愛の持ち主なので、あなた方キリストの弟子も、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈り、神に倣う者となりなさい、ということです。神に倣う、キリストに倣い、キリストに従う。これは確かにキリスト者の生き方です。まるでエベレスト8868mの頂上まで登れと言われたほどの、目もくらむ高い理想ですが、「千里の道も一歩から」の思いで、身近なところから実行を心がけたいと思います。
エフェソに戻り2節「キリストが、私たちを愛して御自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとして私たちのために神に献げて下さったように、あなた方も愛によって歩みなさい。」イエス様が私たちの全部の罪を身代わりに背負って十字架で死なれたことを、イエス様が「御自分を香りのよい供え物」として、父なる神様に献げて下さったのだと、述べています。「香りのよい」を原文で見ると「かおり」を意味する2つのギリシア語が並んでおり、「香りのよさ」を強調していると読めます。口語訳聖書は「かんばしい香り」と訳し、新改訳聖書は「こうばしい香り」と訳しています。「かおり」を意味する2つのギリシア語が並んでいる2つ目は「ユーオーディア」という言葉です。クリスチャン音楽家のユーオーディアという団体があり、東久留米教会も毎年お世話になっています。クリスマス前のコンサートを、ほとんど毎年、ユーオーディアの音楽家の方に来ていただいて行っています。ユーオーディアは音楽伝道の団体、その演奏とご自分たちを「神への香りのよい献げ物」として献げたいとの信仰により、ユーオーディアと名乗られたのだと思います。
その原点は、イエス様ご自身が十字架で「香りのよい献げ物」として、ご自分の全存在を父なる神様に献げて下さった事実です。ノアの時代、洪水の後、ノアは祭壇を築いて、全ての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として神様に献げました。神様はこのよき宥めの香りをかいで、御心に言われました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。」同じように父なる神様は、十字架のイエス様という香りのよい献げ物を喜ばれ、「イエス・キリストを信じる者を呪うことは決してしない」と思っておられると思います。
旧約聖書の時代は、毎日神殿で祭司たちが、動物のいけにえを献げていました。人間たちの罪を、神様に赦していただくためです。いけにえの血が流されました。気持ち悪い光景です。でもそこには理由があります。血は命そのものです。血を流すことなしに、罪の赦しはあり得ないのが神様の掟です。ですから人間を殺して罪の償いをする代わりに、牛や羊という動物に死んでもらって、人間の罪を神様に赦していただいていたのでした。しかし人間の罪の赦しのために、動物では本当は不十分です。全ての人間の全ての罪が赦されるためには、全く罪なき神の子がいけにえになる以外に、道がありません。そこで時が満ちて、神の子イエス・キリストが、いけにえになって下さいました。イエス様が十字架で死んで、罪に対する父なる神様の正しい怒りを全て満たして下さいました。
本日の旧約聖書であるイザヤ書53章は、イエス様の十字架の贖い(私たちの救い)を予告する非常に有名な個所です。10節の2行目から「彼(イエス様)は自らを償いの献げ物とした。彼は子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。」イエス様は、ご自分の十字架のゆえに、救われ永遠の命を受けて行く人々を見て、「十字架で苦しんだ甲斐があった」と喜び、満足しておられるでしょう。そしてこれからも、イエス・キリストを救い主と信じて永遠の命を受ける方々が、さらに増えることを喜ばれるに違いありません。
「キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私たちのために神に献げて下さった。」この部分は、パウロが当時の讃美歌、または信仰告白文の一部を引用して語っているのかもしれない、という説もあります。私にはその説が正しいかどうか分かりませんが、でも今でもこの御言葉を讃美歌の歌詞にして歌っても、確かに美しい歌詞になると思えます。「キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私たちのために神に献げて下さった!」
このユーオーディア(良い香り)という言葉は、コリントの信徒への手紙(二)2章15節にも出て来ます。「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、私たちはキリストによって神に献げられた良い香りです。」イエス・キリストに身を献げているパウロとその同労者(共に奉仕する者たち)も、「神に献げられた良い香り(ユーオーディア)」だと書かれています。エフェソ5章2節には、「キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとして私たちのために神に献げて下さったしように、あなた方も愛によって歩みなさい」とあるわけですが、イエス様に従って愛に生きようとする私たち一人一人もまた、「神に献げられた良い香り(ユーオーディア)」になります。日本でキリスト者の家庭に女の子が生まれると、しばしば「かおりさん」と名付けられて来たと思いますが、「キリストの芳ばしい香り」の意味で名付けられるのだと思います。
ユーオーディアという言葉は、フィリピの信徒への手紙4章18節にもあります。これは貧しい伝道者パウロが、フィリピの教会の人々から物質的な支援を受けたときの感謝を記す御言葉です。「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けて下さるいけにえです。」この「香ばしい」がユーオーディアです。私たちが献げる献金、経済的に苦しい伝道者のために送る献金、能登半島地震のために送る献金は、神が喜んで下さるユーオーディア(香ばしい香り)であるに違いありません。
エフェソ5章2節の「香りの良い」には、かおりを意味するギリシア語が2つ並んでいると申しました。その1つがユーオーディアですが、もう1つの言葉があります。そのもう1つの言葉は、ヨハネ福音書12章3節に出てきます。兄弟ラザロを生き返らせていただいたマリア(イエス様の母ではない)が、感謝のあまり「純粋で非常に高価なナルド(インドの産地の地名)の香油を1リトラ(約326g)持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」イエス様もご自分を香りのよい供え物として十字架にかかって、ご自分の全存在を父なる神様に献げられたのですが、ここでは兄弟ラザロを生き返らせて下さったイエス様への全身全霊の感謝を込めて、マリアがイエス様に献げた非常に高価なナルド産の香油が、目の覚めるような香ばしい香りを家中に放ったのです。これは金額が高いことがよいというよりも、マリアが心の底からの純粋な愛をイエス様にお献げしたことが、イエス様に喜ばれたに違いありません。私たちもイエス様の十字架の愛に感謝して献金を献げますが、さらに大切なことは、私たちが自分自身をイエス様に、父なる神様にお献げすることでしょう。
もう一度5章2節「キリストが私たちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとして私たちのために神に献げて下さったように。あなた方も愛によって歩みなさい。」この愛は、アガペーというギリシア語です。イエス様の十字架の犠牲の愛に、深い感謝をもって応答し、聖霊なる神様に助けられて、神を愛し、隣人を愛して歩みなさい。これが本日の個所の中心です。この「新しい生き方」の小見出しの部分全体の中心が5章1~2節と言えます。4章25節から次第に盛り上がってゆき、5章1~2節でピークに達します。この先は、愛による生き方を、もう一度具体的に示します。3~4節「あなた方の間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことや色々の汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも感謝を表しなさい。」キリスト者は「聖なる者」。私たちの中にまだ罪が残っていますが、私たちの内に聖霊が住んでおられるので、そのお陰で私たちは「聖なる者」です。
「みだらなこと」は、元の言葉でポルネイアです。ポルノという言葉の語源と思います。性的不品行と言えます。姦淫、不倫とも言えます。「それよりも感謝を表しなさい。」私たちは残念ながらまだ、感謝よりも不平不満の多い者かもしれません。ヒットラーに抵抗したボンヘッファーというドイツの牧師が『共に生きる生活』という大変深い信仰の本を書いていますが、その中でこう言います。「小さなことに感謝する者だけが、大きなものをも受けるのである。~私たちは~日毎の小さな(それは本当は決して小さくはない!)賜物に感謝することを忘れている。しかし、小さなものをも感謝して神の御手から受けようとしない者に、神はどうして大きなものを委託することができるだろうか。」
5節「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり偶像礼拝者は、キリストと神の国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」ある説教者は語ります。「キリスト者は、性的不品行の罪と貪欲の罪と決別した。」3~5節に色々な罪が挙げられていますが、「みだら」「貪欲」等が二回挙げられています。この2つの罪に負けるように唆す誘惑が、悪魔からしつこく来ることを警戒しなさいということと思います。コロサイの信徒への手紙3章5節には、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」と、貪欲の悪質さが強調されています。
モーセの十戒で言うと、「みだらを避ける」ことは第七の戒めの「姦淫してはならない」に当てはまります。「貪欲なことを口にしてはなりません」は、第十の戒めの「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲してはならない」に当てはまります。イエス・キリストの十字架の愛の熱烈な愛を知り、この熱烈な愛に触れて感謝に満たされ、この愛に応答して生きようと志すならば、自然にこれらの罪と決別してゆけるはずです。最後にもう一度、5章2節をお読み致します。「キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私たちのために神に献げて下さったように、あなた方も愛によって歩みなさい。アーメン。
(イザヤ書53:10~12) 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。
(エフェソの信徒への手紙5:1~5) あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第14主日公同礼拝の公同礼拝です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙5章1~5節、説教題は「愛によって歩みなさい」です。
小見出しで言うと、4章25節から始まった「新しい生き方」の続きです。本日の直前の4章32節には、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦して下さったように、赦し合いなさい」です。
そして本日の5章1節になります。「あなた方は神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。」私たちは「神に愛されている神の子ども」だと分かります。イエス・キリストが真の神の子なので、イエス様を信じる私たちも、イエス様のように完全ではなく、まだ罪があるにも関わらず、神の子どもたちとされています。ですが続く言葉には、「え?」と思うのではないでしょうか。「神に倣う者となりなさい。」私の調べた限りでは、「神に倣う」という言い方は、旧約聖書・新約聖書全体の中で、ここ1か所のみです。創世記によると、確かに私たち人間は皆「神に似せて」造られました。よき者に造られたのです。ところがその後、悪魔の誘惑に負けて、罪に落ち込んでしまい、「神に似た」姿が損なわれました。罪人(つみびと)になりました。その罪人(つみびと)である私たちが、「聖なる愛なる神様に倣う」ことなど、できそうにないと感じます。
しかしパウロが「あなた方は、神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい」と勧めている以上、ある程度は可能なのだと思います。キリスト者一人一人の内には、神様の愛と清さに満ちた聖霊が生きて住んでおられます。ですから聖霊に助けられて、たとえばモーセの十戒の戒め1つ1つを行うならば、不完全ではあっても「神に倣う生き方」を実行することになります。これは神様がイエス様の十字架によって私たちを愛して下さった熱烈な愛への感謝の応答として、行うことです。「神に倣う者なりなさい」と全く同じ言い方は聖書の他の個所にありませんが、似た言葉ならあります。マタイ福音書5章48節です。「だから、あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい。」これは、イエス様の十字架の愛によってのみ神の子とされ、永遠の命を受けた私たちが、聖霊に助けられて、神の愛を一歩ずつ行いなさい、ということと思います。私たちが地上にある限り完全は無理で、天国に入った時に、全く罪のない完全な者になります。それでも、地上にあって、聖霊に助けられて神の愛を一歩ずつ行いなさい、ということと思います。「神が完全であられるように、あなた方も完全な者になれ。」これは永遠の目標、生涯の目標ですね。カトリックの曽野綾子さんの言葉だったと記憶していますが、「達成不可能と思える高い理想を掲げるのが宗教の役割」だと。そのような見方もあり得ると思います。達成不可能と思える御言葉ですが、身近な小さな愛から実行するとよいと思います。
このマタイ福音書5章では、「完全な者になる」「神に倣う者となる」ことの具体的なこととして、イエス様がこう語られるのですね。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。」神は悪人にも善人にも平等に雨を降らせ、いわば敵を愛する愛の持ち主なので、あなた方キリストの弟子も、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈り、神に倣う者となりなさい、ということです。神に倣う、キリストに倣い、キリストに従う。これは確かにキリスト者の生き方です。まるでエベレスト8868mの頂上まで登れと言われたほどの、目もくらむ高い理想ですが、「千里の道も一歩から」の思いで、身近なところから実行を心がけたいと思います。
エフェソに戻り2節「キリストが、私たちを愛して御自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとして私たちのために神に献げて下さったように、あなた方も愛によって歩みなさい。」イエス様が私たちの全部の罪を身代わりに背負って十字架で死なれたことを、イエス様が「御自分を香りのよい供え物」として、父なる神様に献げて下さったのだと、述べています。「香りのよい」を原文で見ると「かおり」を意味する2つのギリシア語が並んでおり、「香りのよさ」を強調していると読めます。口語訳聖書は「かんばしい香り」と訳し、新改訳聖書は「こうばしい香り」と訳しています。「かおり」を意味する2つのギリシア語が並んでいる2つ目は「ユーオーディア」という言葉です。クリスチャン音楽家のユーオーディアという団体があり、東久留米教会も毎年お世話になっています。クリスマス前のコンサートを、ほとんど毎年、ユーオーディアの音楽家の方に来ていただいて行っています。ユーオーディアは音楽伝道の団体、その演奏とご自分たちを「神への香りのよい献げ物」として献げたいとの信仰により、ユーオーディアと名乗られたのだと思います。
その原点は、イエス様ご自身が十字架で「香りのよい献げ物」として、ご自分の全存在を父なる神様に献げて下さった事実です。ノアの時代、洪水の後、ノアは祭壇を築いて、全ての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として神様に献げました。神様はこのよき宥めの香りをかいで、御心に言われました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。」同じように父なる神様は、十字架のイエス様という香りのよい献げ物を喜ばれ、「イエス・キリストを信じる者を呪うことは決してしない」と思っておられると思います。
旧約聖書の時代は、毎日神殿で祭司たちが、動物のいけにえを献げていました。人間たちの罪を、神様に赦していただくためです。いけにえの血が流されました。気持ち悪い光景です。でもそこには理由があります。血は命そのものです。血を流すことなしに、罪の赦しはあり得ないのが神様の掟です。ですから人間を殺して罪の償いをする代わりに、牛や羊という動物に死んでもらって、人間の罪を神様に赦していただいていたのでした。しかし人間の罪の赦しのために、動物では本当は不十分です。全ての人間の全ての罪が赦されるためには、全く罪なき神の子がいけにえになる以外に、道がありません。そこで時が満ちて、神の子イエス・キリストが、いけにえになって下さいました。イエス様が十字架で死んで、罪に対する父なる神様の正しい怒りを全て満たして下さいました。
本日の旧約聖書であるイザヤ書53章は、イエス様の十字架の贖い(私たちの救い)を予告する非常に有名な個所です。10節の2行目から「彼(イエス様)は自らを償いの献げ物とした。彼は子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。」イエス様は、ご自分の十字架のゆえに、救われ永遠の命を受けて行く人々を見て、「十字架で苦しんだ甲斐があった」と喜び、満足しておられるでしょう。そしてこれからも、イエス・キリストを救い主と信じて永遠の命を受ける方々が、さらに増えることを喜ばれるに違いありません。
「キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私たちのために神に献げて下さった。」この部分は、パウロが当時の讃美歌、または信仰告白文の一部を引用して語っているのかもしれない、という説もあります。私にはその説が正しいかどうか分かりませんが、でも今でもこの御言葉を讃美歌の歌詞にして歌っても、確かに美しい歌詞になると思えます。「キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私たちのために神に献げて下さった!」
このユーオーディア(良い香り)という言葉は、コリントの信徒への手紙(二)2章15節にも出て来ます。「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、私たちはキリストによって神に献げられた良い香りです。」イエス・キリストに身を献げているパウロとその同労者(共に奉仕する者たち)も、「神に献げられた良い香り(ユーオーディア)」だと書かれています。エフェソ5章2節には、「キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとして私たちのために神に献げて下さったしように、あなた方も愛によって歩みなさい」とあるわけですが、イエス様に従って愛に生きようとする私たち一人一人もまた、「神に献げられた良い香り(ユーオーディア)」になります。日本でキリスト者の家庭に女の子が生まれると、しばしば「かおりさん」と名付けられて来たと思いますが、「キリストの芳ばしい香り」の意味で名付けられるのだと思います。
ユーオーディアという言葉は、フィリピの信徒への手紙4章18節にもあります。これは貧しい伝道者パウロが、フィリピの教会の人々から物質的な支援を受けたときの感謝を記す御言葉です。「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けて下さるいけにえです。」この「香ばしい」がユーオーディアです。私たちが献げる献金、経済的に苦しい伝道者のために送る献金、能登半島地震のために送る献金は、神が喜んで下さるユーオーディア(香ばしい香り)であるに違いありません。
エフェソ5章2節の「香りの良い」には、かおりを意味するギリシア語が2つ並んでいると申しました。その1つがユーオーディアですが、もう1つの言葉があります。そのもう1つの言葉は、ヨハネ福音書12章3節に出てきます。兄弟ラザロを生き返らせていただいたマリア(イエス様の母ではない)が、感謝のあまり「純粋で非常に高価なナルド(インドの産地の地名)の香油を1リトラ(約326g)持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」イエス様もご自分を香りのよい供え物として十字架にかかって、ご自分の全存在を父なる神様に献げられたのですが、ここでは兄弟ラザロを生き返らせて下さったイエス様への全身全霊の感謝を込めて、マリアがイエス様に献げた非常に高価なナルド産の香油が、目の覚めるような香ばしい香りを家中に放ったのです。これは金額が高いことがよいというよりも、マリアが心の底からの純粋な愛をイエス様にお献げしたことが、イエス様に喜ばれたに違いありません。私たちもイエス様の十字架の愛に感謝して献金を献げますが、さらに大切なことは、私たちが自分自身をイエス様に、父なる神様にお献げすることでしょう。
もう一度5章2節「キリストが私たちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとして私たちのために神に献げて下さったように。あなた方も愛によって歩みなさい。」この愛は、アガペーというギリシア語です。イエス様の十字架の犠牲の愛に、深い感謝をもって応答し、聖霊なる神様に助けられて、神を愛し、隣人を愛して歩みなさい。これが本日の個所の中心です。この「新しい生き方」の小見出しの部分全体の中心が5章1~2節と言えます。4章25節から次第に盛り上がってゆき、5章1~2節でピークに達します。この先は、愛による生き方を、もう一度具体的に示します。3~4節「あなた方の間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことや色々の汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑猥な言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも感謝を表しなさい。」キリスト者は「聖なる者」。私たちの中にまだ罪が残っていますが、私たちの内に聖霊が住んでおられるので、そのお陰で私たちは「聖なる者」です。
「みだらなこと」は、元の言葉でポルネイアです。ポルノという言葉の語源と思います。性的不品行と言えます。姦淫、不倫とも言えます。「それよりも感謝を表しなさい。」私たちは残念ながらまだ、感謝よりも不平不満の多い者かもしれません。ヒットラーに抵抗したボンヘッファーというドイツの牧師が『共に生きる生活』という大変深い信仰の本を書いていますが、その中でこう言います。「小さなことに感謝する者だけが、大きなものをも受けるのである。~私たちは~日毎の小さな(それは本当は決して小さくはない!)賜物に感謝することを忘れている。しかし、小さなものをも感謝して神の御手から受けようとしない者に、神はどうして大きなものを委託することができるだろうか。」
5節「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり偶像礼拝者は、キリストと神の国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」ある説教者は語ります。「キリスト者は、性的不品行の罪と貪欲の罪と決別した。」3~5節に色々な罪が挙げられていますが、「みだら」「貪欲」等が二回挙げられています。この2つの罪に負けるように唆す誘惑が、悪魔からしつこく来ることを警戒しなさいということと思います。コロサイの信徒への手紙3章5節には、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」と、貪欲の悪質さが強調されています。
モーセの十戒で言うと、「みだらを避ける」ことは第七の戒めの「姦淫してはならない」に当てはまります。「貪欲なことを口にしてはなりません」は、第十の戒めの「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲してはならない」に当てはまります。イエス・キリストの十字架の愛の熱烈な愛を知り、この熱烈な愛に触れて感謝に満たされ、この愛に応答して生きようと志すならば、自然にこれらの罪と決別してゆけるはずです。最後にもう一度、5章2節をお読み致します。「キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私たちのために神に献げて下さったように、あなた方も愛によって歩みなさい。アーメン。
2024-08-10 23:33:18(土)
説教「この目であなたの救いを見た」 2024年8月11日(日)聖霊降臨節第13主日礼拝
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23,頌栄24、主の祈り,交読詩編134、使徒信条、讃美歌21・227、申命記34:1~8,ルカによる福音書2:22~40、祈祷、説教、祈祷、讃美歌532、献金、頌栄27、祝祷。
(申命記34:1~8) モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。 主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。
(ルカによる福音書2:22~40) さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第主日公同礼拝の公同礼拝です。新約聖書は、ルカによる福音書22~40節、説教題は「この目であなたの救いを見た」です。
神の子イエス様が、ベツレヘムの家畜小屋で誕生され、8日目にイエスと名付けられ、ユダヤ人男性にとって最も重要な割礼(神様との契約のしるし)をお受けになったのです。本日の小見出しは、「神殿で献げられる」です。22~24節「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである。また、主の律法で言われいる通りに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」
旧約聖書のレビ記12章2節を見ると、「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている」と書いてあります。旧約の時代は、そうだったのです。もちろん新約聖書の時代に入っている今は、そのようなことは全くありません。12章6節以下には、こうあります。「男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。祭司がそれを主の御前に献げて、産婦のために贖の儀式を行うと、彼女は出血の汚れから清められる。~なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。」ヨセフとマリアの夫婦が、貧しかったことが分かります。
ヨセフとマリアがエルサレムの神殿に行った第一の目的は、長男イエス様を、神様に献げるためでした。それは主の律法(出エジプト記13章1~2節)にこう書いてあるからです。「すべての初子を聖別して私にささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、私のものである」13節には、こうあります。「あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。」長男は神様に献げなければならないのです。ですが本当にその通りにすると、旧約聖書サムエル記に出て来るサムエルのように、イエス様を神殿に置いて帰り、イエス様は神殿で神様にお仕えする少年になります。そうするとイスラエルの普通の家族にとっては、家業を継ぐ長男が家にいなくなり、困ります。それで贖うことが許されていました。いけにえの動物やお金を献げて、長男を家に連れて帰ることが許されていました。
イエス様もこの後、ヨセフとマリアのガリラヤのナザレの家に連れて帰られました。しかし両親によってイエス様がエルサレムの神殿に、神様に献げるために連れて行かれたことは事実です。イエス様は生まれてすぐのころから、父なる神様に献げられた方です。この事実は、イエス様の地上の人生全体を象徴するものです。イエス様は、地上の30数年間の人生を、全て父なる神様に献げて生ききられました。そして最後には十字架に架かって、自らを父なる神様への献げ物となさいました。イエス様の人生全てが、父なる神様への献げ物となられた人生です。
25~26節「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」当時、小さな国イスラエルは、ローマ帝国に支配されていましたから、「イスラエルの慰められるのを待ち望み」とは、ローマ帝国の支配から解放されることを意味した可能性があります。しかし神様が与えようとしておられた真の救いは、イスラエル人と異邦人(外国人)の罪の赦しと永遠の命(復活の命)という救いでした。シメオンは真の慰めと救いが、そのような慰めと救いであることに、次第に気づかされていたと思います。
シメオンが何歳なのかは書かれていないので、全く分かりません。後で出て来るアンナが84歳なので、シメオンも老人と解釈されることが多いです。それが自然と思うので、その線で読んで参ります。27節「シメオンが霊(聖霊)に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。」神殿の中には、多くの人々がいたと思われます。しかしこの貧しい三人家族に目を向けたのは、シメオンとアンナだけでした。他の人々は、この赤ちゃんがイスラエルと世界の真に救い主であることには、全く気付きませんでした。私がそこにいても、特にこの三人家族に注意を向けることはなかっただろうと思います。しかし聖霊に満たされた人シメオンは、敏感に気づいたのです。
28節以下。「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。』」「あなたの救い、神の救い」は、イエスと名付けられた赤ん坊です。シメオンは、この赤ん坊が、イスラエルの人々の罪のためにも、私たち異邦人(日本人)の罪のためにも、十字架で死んで下さり、三日目に復活する救い主であることを、聖霊から知らされたのだろうと思います。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせて下さいます。」これは、「私はとうとう、救い主にお目にかかることができた。人生の目的を達することができた。何もおもいのこすことはない。」シメオンは、ヨハネの黙示録14章13節の御言葉の心境だったのではないでしょうか。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである、と。然り、彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
30節以下「私はこの目(両目)であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」シメオンは、聖霊に教えられた悟ったのでしょう。この赤ちゃんが、イスラエル人と異邦人(イスラエル人以外)の唯一の救い主、イスラエルの枠を超えた世界の万民の救い主だと悟ったのです。もちろん私たち日本人の救い主でもあります。この無力な赤ちゃんが救い主であると認めるには、私たちに謙虚さが必要です。
33~35節「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせるためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。』」この赤ちゃんの人生には、困難が待ち受けていることが語られます。この方を、イスラエルの皆が歓迎するのではないのです。むしろ反対を受けることが多い。自分の高慢の罪を認めず、イエス様を救い主として受け入れない人は倒され、自分の罪を認めて、へりくだり悔い改める人は、立ち上がらせられます。イエス様に反対する高慢な人々によって、イエス様は十字架につけられて殺されます。神の子を受け入れない私たち人間の高慢の罪が、救い主イエス様を十字架の死に追いやります。母マリアは、わが子が十字架にかけられる苦難を、耐え忍ぶことになります。「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」多くの人とありますが、全ての人の思いと言ってもよいでしょう。それは神様に従わないで逆らう心です。
36節以下「また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた(旧約聖書のハンナと同名)。若いときに嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84才になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいてきて神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」シメオンもアンナも、神様に忠実に仕え、神様に喜ばれていた人たちだと思います。年を重ねてアンナやシメオンのようになれると理想ではないかなと拝察致します。アンナのように物理的に神殿(教会堂)から離れないのは無理でも、ますます祈り深い人になれるとすばらしいと思います。そしてシメオンのように、若い世代を祝福し、励ますことができれば理想ではないかと感じます。
それにしてもシメオンは、幸せな人です。多くのイスラエル人が願って果たせなかった救い主に出会う悲願を果たすことができたからです。イエス様は、マタイ福音書13章16節以下で、弟子たちにこう語っておられます。「しかし、あなた方の目は見ているから(救い主イエス様を)幸いだ。あなた方の耳は聞いているから(救い主イエス様の御言葉を)幸いだ。はっきり言っておく、多くの預言者たちや正しい人たち(旧約時代の信仰者たち)は、あなた方が見ているもの(イエス様)を見たかったが、見ることができず、あなた方が聞いているもの(イエス様の御言葉)を聞きたかったが、利けなかったのである。」私たちも、イエス様を知っているので最も幸いなのです。旧約のアブラハムやモーセやヨブやイザヤも、私たちをうらやましがるに違いありません。彼らも地上に生きている間に、できれば真の救い主にお目にかかりいたかったに違いないのです。
本日の旧約聖書は申命記34章です。120才で死んだモーセは、シメオンに似ています。モーセは、エジプトを脱出したイスラエルの民を40年間率いて来ました。1~4節「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。主はモーセに言われた。『これがあなたの子孫に与えると私がアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。私はあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこで渡って行くことはできない。』」モーセはモアブで死にました。モーセが犯した1つの罪のために、モーセは約束の地を見渡す恵みを与えられましたが、そこに入ることは許されませんでした。でも神の救いの地を自分の目で見てから、亡くなった点はシメオンと共通しています。モーセも、真の救い主に会いたいと憧れていたのではないかと思います。
そしてヨブ記のヨブです。ヨブ記を読むと、苦難を多く受けて納得できないヨブが、真の救い主を待ち望んでいたことが分かります。ヨブ記16章19~20節「このような時にも、身よ、天には私のために承認があり、高い天には私を弁護して下さる方がある。私のために執り成す方、私の友。神を仰いで私の目は涙を流す。」自分のために執り成しをして下さる救い主への憧れが語られています。ヨブは救い主を切に待望していたのです。そして19章25~26節「私は知っている。私を贖う方(救う方)は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」塵の上に立つとは、死からの復活です。「私を贖う方は生きておられ、ついには復活される」と言っているので、ヨブが救い主キリストが来られることを予感し、切に願っていたと読めます。さらに言います。「この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。」神とその救いをこの目で仰ぎ見るということと思います。ヨブも救い主に会いたいと願っていたと思います。モーセもヨブも、地上ではそれを果たせなかった。シメオンが遂に悲願をかなえました。そして私たちは、旧約時代の偉大な信仰者たちが会いたいと切に願って果たせなかった、真の救い主イエス・キリストと出会っているのですから、最も幸せです。私たちはイエス様に聖書を通し、祈りによって、洗礼式と聖餐式によってお目にかかっているのです。
シメオンは聖なる喜びと平安に満たされて、言いました。「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕(しもべ)を安らかに去らせて下さいます。」シメオンの人生にも、様々な嵐があったのではないでしょうか。ある人は言ったそうです。神様が与えて下さる平安は、「台風の目」のようなものだと。台風に象徴される色々な困難がある。しかしその中でイエス様が共にいて下さるという真の平安が与えられている。詩編23編4節「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなた(神様)が私と共にいて下さる。」死の陰の谷にあっても、イエス様が共にいる平安が消えることはない。6月1日(土)に天に召されたAさんを思います。
加藤常昭牧師が書いておられますが、「病のために祈るのは当然です。神は祈りを聴いて下さるのです。しかし、病気が治らないで、病気のままで召される人もたくさんいます。ところが、病が癒されず、病床にあるままに、その人の信仰がかえって輝きを増し、その健康であった何十年かにまさってからのわずかの間に、信仰のかつてない喜びを経験しながら天に召されて行った人々を、私は何人も知っています。神に対する信仰の深さにおいても、隣人に対する優しさにおいても、どんなに深い愛を身につけるか、どんなに忍耐深くなるか。牧師もまた襟を正して神の恵みを讃美するようなことが起こります。」
まさにAさんにこのことが起こっていたと感じています。聖霊のお働きですね。召される暫く前に2名の方々とお見舞いさせていただいたときに、「今までこの入院を試練と思っていたけれども、今は祝福と思っています」と言われました。私は、心の中で感嘆しました。クリスチャンでも、なかなか言えない言葉だと思います。ご病気の苦難の中で、人格が練り清められたと拝察致します。ご本人が祈り、皆様が祈り続けて下さった中で、聖霊のお働きが与えられた。シメオンに与えられた慰めと平安に似た慰めと平安が、Aさんにも神様から与えられたと感じます。同じ慰めと平安を、イエス・キリストが私たちにも与えて下さいます。そのことを感謝して、これからもますます神様に祈りながら、与えられた務めを果たして参りたく思います。アーメン。
(申命記34:1~8) モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。 主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。
(ルカによる福音書2:22~40) さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第主日公同礼拝の公同礼拝です。新約聖書は、ルカによる福音書22~40節、説教題は「この目であなたの救いを見た」です。
神の子イエス様が、ベツレヘムの家畜小屋で誕生され、8日目にイエスと名付けられ、ユダヤ人男性にとって最も重要な割礼(神様との契約のしるし)をお受けになったのです。本日の小見出しは、「神殿で献げられる」です。22~24節「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである。また、主の律法で言われいる通りに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」
旧約聖書のレビ記12章2節を見ると、「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている」と書いてあります。旧約の時代は、そうだったのです。もちろん新約聖書の時代に入っている今は、そのようなことは全くありません。12章6節以下には、こうあります。「男児もしくは女児を出産した産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。祭司がそれを主の御前に献げて、産婦のために贖の儀式を行うと、彼女は出血の汚れから清められる。~なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。」ヨセフとマリアの夫婦が、貧しかったことが分かります。
ヨセフとマリアがエルサレムの神殿に行った第一の目的は、長男イエス様を、神様に献げるためでした。それは主の律法(出エジプト記13章1~2節)にこう書いてあるからです。「すべての初子を聖別して私にささげよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、私のものである」13節には、こうあります。「あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。」長男は神様に献げなければならないのです。ですが本当にその通りにすると、旧約聖書サムエル記に出て来るサムエルのように、イエス様を神殿に置いて帰り、イエス様は神殿で神様にお仕えする少年になります。そうするとイスラエルの普通の家族にとっては、家業を継ぐ長男が家にいなくなり、困ります。それで贖うことが許されていました。いけにえの動物やお金を献げて、長男を家に連れて帰ることが許されていました。
イエス様もこの後、ヨセフとマリアのガリラヤのナザレの家に連れて帰られました。しかし両親によってイエス様がエルサレムの神殿に、神様に献げるために連れて行かれたことは事実です。イエス様は生まれてすぐのころから、父なる神様に献げられた方です。この事実は、イエス様の地上の人生全体を象徴するものです。イエス様は、地上の30数年間の人生を、全て父なる神様に献げて生ききられました。そして最後には十字架に架かって、自らを父なる神様への献げ物となさいました。イエス様の人生全てが、父なる神様への献げ物となられた人生です。
25~26節「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」当時、小さな国イスラエルは、ローマ帝国に支配されていましたから、「イスラエルの慰められるのを待ち望み」とは、ローマ帝国の支配から解放されることを意味した可能性があります。しかし神様が与えようとしておられた真の救いは、イスラエル人と異邦人(外国人)の罪の赦しと永遠の命(復活の命)という救いでした。シメオンは真の慰めと救いが、そのような慰めと救いであることに、次第に気づかされていたと思います。
シメオンが何歳なのかは書かれていないので、全く分かりません。後で出て来るアンナが84歳なので、シメオンも老人と解釈されることが多いです。それが自然と思うので、その線で読んで参ります。27節「シメオンが霊(聖霊)に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。」神殿の中には、多くの人々がいたと思われます。しかしこの貧しい三人家族に目を向けたのは、シメオンとアンナだけでした。他の人々は、この赤ちゃんがイスラエルと世界の真に救い主であることには、全く気付きませんでした。私がそこにいても、特にこの三人家族に注意を向けることはなかっただろうと思います。しかし聖霊に満たされた人シメオンは、敏感に気づいたのです。
28節以下。「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕(しもべ)を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。』」「あなたの救い、神の救い」は、イエスと名付けられた赤ん坊です。シメオンは、この赤ん坊が、イスラエルの人々の罪のためにも、私たち異邦人(日本人)の罪のためにも、十字架で死んで下さり、三日目に復活する救い主であることを、聖霊から知らされたのだろうと思います。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせて下さいます。」これは、「私はとうとう、救い主にお目にかかることができた。人生の目的を達することができた。何もおもいのこすことはない。」シメオンは、ヨハネの黙示録14章13節の御言葉の心境だったのではないでしょうか。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである、と。然り、彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
30節以下「私はこの目(両目)であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」シメオンは、聖霊に教えられた悟ったのでしょう。この赤ちゃんが、イスラエル人と異邦人(イスラエル人以外)の唯一の救い主、イスラエルの枠を超えた世界の万民の救い主だと悟ったのです。もちろん私たち日本人の救い主でもあります。この無力な赤ちゃんが救い主であると認めるには、私たちに謙虚さが必要です。
33~35節「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせるためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。』」この赤ちゃんの人生には、困難が待ち受けていることが語られます。この方を、イスラエルの皆が歓迎するのではないのです。むしろ反対を受けることが多い。自分の高慢の罪を認めず、イエス様を救い主として受け入れない人は倒され、自分の罪を認めて、へりくだり悔い改める人は、立ち上がらせられます。イエス様に反対する高慢な人々によって、イエス様は十字架につけられて殺されます。神の子を受け入れない私たち人間の高慢の罪が、救い主イエス様を十字架の死に追いやります。母マリアは、わが子が十字架にかけられる苦難を、耐え忍ぶことになります。「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」多くの人とありますが、全ての人の思いと言ってもよいでしょう。それは神様に従わないで逆らう心です。
36節以下「また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた(旧約聖書のハンナと同名)。若いときに嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84才になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいてきて神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」シメオンもアンナも、神様に忠実に仕え、神様に喜ばれていた人たちだと思います。年を重ねてアンナやシメオンのようになれると理想ではないかなと拝察致します。アンナのように物理的に神殿(教会堂)から離れないのは無理でも、ますます祈り深い人になれるとすばらしいと思います。そしてシメオンのように、若い世代を祝福し、励ますことができれば理想ではないかと感じます。
それにしてもシメオンは、幸せな人です。多くのイスラエル人が願って果たせなかった救い主に出会う悲願を果たすことができたからです。イエス様は、マタイ福音書13章16節以下で、弟子たちにこう語っておられます。「しかし、あなた方の目は見ているから(救い主イエス様を)幸いだ。あなた方の耳は聞いているから(救い主イエス様の御言葉を)幸いだ。はっきり言っておく、多くの預言者たちや正しい人たち(旧約時代の信仰者たち)は、あなた方が見ているもの(イエス様)を見たかったが、見ることができず、あなた方が聞いているもの(イエス様の御言葉)を聞きたかったが、利けなかったのである。」私たちも、イエス様を知っているので最も幸いなのです。旧約のアブラハムやモーセやヨブやイザヤも、私たちをうらやましがるに違いありません。彼らも地上に生きている間に、できれば真の救い主にお目にかかりいたかったに違いないのです。
本日の旧約聖書は申命記34章です。120才で死んだモーセは、シメオンに似ています。モーセは、エジプトを脱出したイスラエルの民を40年間率いて来ました。1~4節「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。主はモーセに言われた。『これがあなたの子孫に与えると私がアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。私はあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこで渡って行くことはできない。』」モーセはモアブで死にました。モーセが犯した1つの罪のために、モーセは約束の地を見渡す恵みを与えられましたが、そこに入ることは許されませんでした。でも神の救いの地を自分の目で見てから、亡くなった点はシメオンと共通しています。モーセも、真の救い主に会いたいと憧れていたのではないかと思います。
そしてヨブ記のヨブです。ヨブ記を読むと、苦難を多く受けて納得できないヨブが、真の救い主を待ち望んでいたことが分かります。ヨブ記16章19~20節「このような時にも、身よ、天には私のために承認があり、高い天には私を弁護して下さる方がある。私のために執り成す方、私の友。神を仰いで私の目は涙を流す。」自分のために執り成しをして下さる救い主への憧れが語られています。ヨブは救い主を切に待望していたのです。そして19章25~26節「私は知っている。私を贖う方(救う方)は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」塵の上に立つとは、死からの復活です。「私を贖う方は生きておられ、ついには復活される」と言っているので、ヨブが救い主キリストが来られることを予感し、切に願っていたと読めます。さらに言います。「この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。」神とその救いをこの目で仰ぎ見るということと思います。ヨブも救い主に会いたいと願っていたと思います。モーセもヨブも、地上ではそれを果たせなかった。シメオンが遂に悲願をかなえました。そして私たちは、旧約時代の偉大な信仰者たちが会いたいと切に願って果たせなかった、真の救い主イエス・キリストと出会っているのですから、最も幸せです。私たちはイエス様に聖書を通し、祈りによって、洗礼式と聖餐式によってお目にかかっているのです。
シメオンは聖なる喜びと平安に満たされて、言いました。「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕(しもべ)を安らかに去らせて下さいます。」シメオンの人生にも、様々な嵐があったのではないでしょうか。ある人は言ったそうです。神様が与えて下さる平安は、「台風の目」のようなものだと。台風に象徴される色々な困難がある。しかしその中でイエス様が共にいて下さるという真の平安が与えられている。詩編23編4節「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなた(神様)が私と共にいて下さる。」死の陰の谷にあっても、イエス様が共にいる平安が消えることはない。6月1日(土)に天に召されたAさんを思います。
加藤常昭牧師が書いておられますが、「病のために祈るのは当然です。神は祈りを聴いて下さるのです。しかし、病気が治らないで、病気のままで召される人もたくさんいます。ところが、病が癒されず、病床にあるままに、その人の信仰がかえって輝きを増し、その健康であった何十年かにまさってからのわずかの間に、信仰のかつてない喜びを経験しながら天に召されて行った人々を、私は何人も知っています。神に対する信仰の深さにおいても、隣人に対する優しさにおいても、どんなに深い愛を身につけるか、どんなに忍耐深くなるか。牧師もまた襟を正して神の恵みを讃美するようなことが起こります。」
まさにAさんにこのことが起こっていたと感じています。聖霊のお働きですね。召される暫く前に2名の方々とお見舞いさせていただいたときに、「今までこの入院を試練と思っていたけれども、今は祝福と思っています」と言われました。私は、心の中で感嘆しました。クリスチャンでも、なかなか言えない言葉だと思います。ご病気の苦難の中で、人格が練り清められたと拝察致します。ご本人が祈り、皆様が祈り続けて下さった中で、聖霊のお働きが与えられた。シメオンに与えられた慰めと平安に似た慰めと平安が、Aさんにも神様から与えられたと感じます。同じ慰めと平安を、イエス・キリストが私たちにも与えて下さいます。そのことを感謝して、これからもますます神様に祈りながら、与えられた務めを果たして参りたく思います。アーメン。
2024-08-04 1:06:35()
説教「神に栄光、地に平和」 2024年8月4日(日) 平和聖日礼拝
順序:招詞 ローマ8:38~39,頌栄16(1節)、主の祈り,交読詩編133、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・288、歴代誌・上28:2~3,ルカによる福音書2:1~21、祈祷、説教、祈祷、讃美歌510、聖餐式56,献金、頌栄27、祝祷。
(歴代誌・上28:2~3) ダビデ王は立ち上がって言った。「わたしの兄弟たち、わたしの民よ、聞け。わたしは主の契約の箱、わたしたちの神の足台を安置する神殿を建てる志を抱き、その建築のために準備を進めてきた。しかし、神はわたしに言われた。『あなたは戦いに明け暮れ、人々の血を流した。それゆえ、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない』と。
(ルカによる福音書2:1~21) そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
◆羊飼いと天使
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
(説教) 本日は、平和聖日の公同礼拝です。新約聖書は、ルカによる福音書2章1~21節、説教題は「神に栄光、地に平和」です。
本日のルカによる福音書は、まさにクリスマスの個所です。それを8月の真夏に読むことはあまりありません。でもクリスマスは、冬の風物詩にとどまるものではないので、真夏に読むにも意味があるに違いありません。南半球では12月のいわゆるクリスマスシーズンは夏ですから、夏にクリスマスを祝っていると聞きます。私が洗礼を受けた頃に出会ったあるクリスチャンの男性(仙台の方)は、ご自分たちの教会(単立)では、クリスマス礼拝をあえて11月に祝うと言っておられました。12月になると、世間の商業的なクリスマスが目立つようになるからです。確かにそこにはイエス・キリストへの真摯な信仰はなさそうです。世間の商業的なクリスマスと一緒にならないために、ご自分たちはその前の11月に、真心を込めて、イエス様の誕生をお祝いするとのことでした。私は「そういう教会もあるのか」と驚き、11月にあえてクリスマスを祝うことは、その方々の純粋で主体的な信仰の決断なのだなと、ある意味、納得しました。
最初の小見出しは、「イエスの誕生」です。ルカ福音書2章1節。「そのころ、皇帝アゥグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これはキリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」ローマ皇帝アゥグストゥスの命令は、多くの人々を動かす巨大な力をもっていたのですね。最近の新聞等では、東京大学の教授とチームが、ローマ近辺のアゥグストゥスの冬の宮殿跡ではないかとされる遺跡を発掘調査していると読みました。
アゥグストゥスが冬に住んだ可能性がある宮殿跡です。そんな記事もアゥグストゥスやイエス様の時代を、私たちにぐっと見直に感じさせてくれます。
4~5節「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」ナザレからベツレヘムまで約110キロです。車で行くなら便利ですが、ヨセフとお腹の大きいマリア。マリアはおそらくろばに乗ったのでしょう。1日15キロほど進むとすれば、片道7~8日の旅になります。行く途中かベツレヘムで出産に至ることは十分予想されたので、おむつなどに用いる布などを、貧しいなりに一生懸命用意して行ったのしょう。6節「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの止まる場所がなかったからである。」ヨセフ、マリア、イエス様の三人を聖家族と言いますが、聖家族には居場所がありませんでした。イエス様は後年、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(ルカ9章58節)と言われました。そしてこの世から追い出されるように、十字架につけられて多くの人々から見捨てられました。このようにイエス様は、この世で居場所にない人、のけ者にされている人の味方なのです。この世では多数派がいい思いをします。しかしイエス様は少数派、ひとりぼっちの人、貧しい人の味方だと思うのです。
次の小見出しは「羊飼いと天使」です。8~9節「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」名も出て来ない羊飼いたちは、貧しい人々の代表とも言えます。天使は、イエス様の誕生や復活など、重要な局面に登場します。天使はもちろん神様ではなく、神様に造られた存在ですが、神様の身近にお仕えしていて、私たち罪人(つみびと)から見れば聖なる存在なので、羊飼いたちは非常に恐れました。10~12節「天使は言った。『恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト、救い主)である。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。』」
そして13~14節「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」これが神様の願いであることが分かります。神の栄光が讃美され、地には平和が、御心に適う人々にあることが、神様の願いです。「地には平和、御心に適う人にあれ」と聞くと、「御心に適わない人には平和がなくてもよい」と受け取られかねませんが、神様はすべての人が真の神様を信じて、神の平和を受けることを願っておられるに違いありません。この平和という言葉を聞くとき、私たちはマタイ福音書11章28節の、イエス様の御言葉を思い起こすことができます。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」「疲れが者、重荷を負う者に安らぎ(平安)」を与えて下さる方が、イエス・キリストです。私たちに平和と平安を与えるために、ベツレヘムの家畜小屋に生まれて下さいました。
礼拝の祝祷で読まれる旧約聖書・民数記6章を連想することもできます。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」この平安を私たちに与えるために、イエス様が生まれて下さいました。イエス様が私たちと共におられる時、私たちには真の平和と平安があります。
「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」この讃美では、神のおられる天と私たちは住む地が区別されているとも言えます。しかしクリスマスの出来事は、天と地をつないだ出来事です。天におられた神の子が(あるいは三位一体の神ご自身が)、地上に降って来られて、天と地をつないだ出来事です。フィリピの信徒への手紙2章6節以下を、引用することができます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました(これがベツレヘムでの誕生)。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの(天使たちも)、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」天におられた神の子は、私たちに平和を与えるために、この危険な地上に降り、苦しいことの多い人生を生きる私たちの友となるために、人間の赤ちゃんとして生まれて下さいました。天と地をつないで下さいました。
12節には、「あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。」「しるし」と言うと、普通は神の力強い業、奇跡を指すことが多いと思います。ところがここでは、「布にくるまて飼い葉桶に寝ている無力な赤ちゃん」がしるしだと言われています。これは、神様がいろいろなことを力づくで解決するのではなく、愛の力で解決することをよしとしておられることを意味すると言えます。神様は物事を武力で解決するのではなく、真に忍耐強い愛によって道を切り開き、平和をもたらして下さる。力強い王様ではなく、この弱い赤ちゃんが救い主であられる。そしてこの赤ちゃんは、私たち皆の罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死んで下さる救い主です。十字架の死は無力の極みです。同時に愛の極みです。ついつい力の行使や武力によって物事を進めようとする罪深い人間たちに対して、神様は真に忍耐強い「仕える生き方」と愛によって進む決心を、イエス様の十字架の死に至る生き方によって、具体的に示して下さいました。
15節以下「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」ということは、家畜小屋には他の人々も来ていたのでしょう。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかしマリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」
「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」マリアはとても若いが、考え深いのです。最初に天使がマリアの所に来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます」と言ったときも、「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考えこんだ」とあります。そしてベツレヘムの家畜小屋での出産。そこに思いがけず、羊飼いたちが来て、天使が現れ、「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」等と告げたことの、深い意味を、深く思い巡らしたに違いないのです。」
たまたまある英語の聖書でここを読んだのですが、「心に納めて」を「Mary treasured」と訳しているのを発見しました。Treasure は宝ですから、マリアはこれらの出来事を「宝のように大切に心に納め」て、思い巡らしたことになります。最初の天使の言葉、ベツレヘムの馬小屋での出産、羊飼いたちから聞いた天使のメッセージ。まだ十分に理解できないまでも、それらの出来事や言葉を「宝のように大切に心に納めて」、「神様、これはどういうことなのですか」と神様に聴きながら、思い巡らしたのです。すばらしい姿勢だと思いますね。このマリアの姿勢は、私たちが聖書を読むときの、最善の模範です。私たちも聖書を読みつつ、分かったと思うときも、分からないときも、御言葉を心の中で、あるいは口に出して何回も反芻し、神様に祈って、聖霊に働きによるひらめきによっても気づきを与えられ、教えられながら、御言葉(それは宝です)の深い意味を悟ってゆくことが、最も大切です。宝である御言葉を読みながら、祈り、黙想するのですね。私たちもこのマリアが行ったことを大いに真似して実践する必要があります。
本日は、日本基督教団の教会暦で平和聖日ですので、その点をも踏まえて、「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」を考えたいと思います。イエス様は、父なる神様と私たち罪人(つみびと)の間に、究極の平和、和解をもたらすために、地上に生まれて下さいました。それは十字架で死ぬことと復活することで達成されました。そして平和の御言葉を語って下さいました。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる。」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
旧約聖書には、しばしば戦争が出て来て、私も読みながら困ってきました。旧約聖書は戦争をよしとしているのだろうか。神の民イスラエルが約束の地・カナンの地に入って、先住民を追い出します。よく読むと、先住民が偶像礼拝(真の神でないものを拝む)の罪や、他の罪を犯しているので、神の裁きとして追放されるのですね。イスラエルが神様に従っている限り、神様が味方して相手を倒して下さいます。それは神の戦いであり、イスラエルが強力な軍事力で勝ったのではないのです。イスラエルが神様に従っていない時は、神様はイスラエルの味方をして下さらないので、イスラエルは負けます。イスラエルがエリコの町を占領したとき、神様はリーダーのヨシュアにこう指示されました。ヨシュア記6章に書いてあります。「あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。(~)七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民はそれぞれ、その場所から突入しなさい。」その通りになり、イスラエルはエリコの町を占領しました。少しは武器もあったでしょうが、あまり強力な武器はなかったと思います。武力でなく、神様の力で勝ったのです。でもイスラエルが偶像礼拝などの罪を犯して、神様に従っていないと、負けるケースもあるのです。神様はフェアだと思いました。
神様は旧約聖書において、イスラエルの民が軍事力に頼ることをよしとしておられません。詩編33編16~18節「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。」 本日の旧約聖書は、歴代誌・上28章2~3節です。ダビデ王の言葉です。「ダビデ王は立ち上がって言った。『私の兄弟たち、私の民よ、聞け。私は主の契約の箱、私たちの神の足台を安置する神殿を建てる志を抱き、その建築のために準備を進めて来た。しかし、神は私に言われた。「あなたは戦いに明け暮れ、人々の血を流した。それゆえ、あなたが私の名のために神殿を築くことは許されない」と。』」神殿を築くのは、あなたの子・ソロモンだと。私はここを読んで、とてもほっとします。神様は基本的には戦争をよしとしておられない。人々の血を流すことをよしとしておられない。
ですから旧約聖書のゼカリヤ書9章9~10節は、イスラエルの真の王・救い主の姿をこう記します。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。私はエフライム(イスラエルのこと)から戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」もちろんこれは、イスラエルの救い主、日本の救い主、世界の救い主、イエス・キリストのお姿です。
新約聖書のエフェソの信徒への手紙6章12節には、こうあります。「私たちの戦いは、血肉(人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」つまり、真の敵は人間ではなく、悪魔だと言っています。その通りです。モーセの十戒の第六の戒めで「殺してはならない」と明記されていますから、やはり戦争は大きな大きな罪です。世界中の人々が、特に指導者がイエス・キリストを救い主と信じ、イエス・キリストに従うことが必要です。そうなれば世界に平和がもたされます。感謝と喜びと確信をもって平和の主イエス・キリストをご一緒に宣べ伝えて参りましょう。アーメン。
(歴代誌・上28:2~3) ダビデ王は立ち上がって言った。「わたしの兄弟たち、わたしの民よ、聞け。わたしは主の契約の箱、わたしたちの神の足台を安置する神殿を建てる志を抱き、その建築のために準備を進めてきた。しかし、神はわたしに言われた。『あなたは戦いに明け暮れ、人々の血を流した。それゆえ、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない』と。
(ルカによる福音書2:1~21) そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
◆羊飼いと天使
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
(説教) 本日は、平和聖日の公同礼拝です。新約聖書は、ルカによる福音書2章1~21節、説教題は「神に栄光、地に平和」です。
本日のルカによる福音書は、まさにクリスマスの個所です。それを8月の真夏に読むことはあまりありません。でもクリスマスは、冬の風物詩にとどまるものではないので、真夏に読むにも意味があるに違いありません。南半球では12月のいわゆるクリスマスシーズンは夏ですから、夏にクリスマスを祝っていると聞きます。私が洗礼を受けた頃に出会ったあるクリスチャンの男性(仙台の方)は、ご自分たちの教会(単立)では、クリスマス礼拝をあえて11月に祝うと言っておられました。12月になると、世間の商業的なクリスマスが目立つようになるからです。確かにそこにはイエス・キリストへの真摯な信仰はなさそうです。世間の商業的なクリスマスと一緒にならないために、ご自分たちはその前の11月に、真心を込めて、イエス様の誕生をお祝いするとのことでした。私は「そういう教会もあるのか」と驚き、11月にあえてクリスマスを祝うことは、その方々の純粋で主体的な信仰の決断なのだなと、ある意味、納得しました。
最初の小見出しは、「イエスの誕生」です。ルカ福音書2章1節。「そのころ、皇帝アゥグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これはキリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」ローマ皇帝アゥグストゥスの命令は、多くの人々を動かす巨大な力をもっていたのですね。最近の新聞等では、東京大学の教授とチームが、ローマ近辺のアゥグストゥスの冬の宮殿跡ではないかとされる遺跡を発掘調査していると読みました。
アゥグストゥスが冬に住んだ可能性がある宮殿跡です。そんな記事もアゥグストゥスやイエス様の時代を、私たちにぐっと見直に感じさせてくれます。
4~5節「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」ナザレからベツレヘムまで約110キロです。車で行くなら便利ですが、ヨセフとお腹の大きいマリア。マリアはおそらくろばに乗ったのでしょう。1日15キロほど進むとすれば、片道7~8日の旅になります。行く途中かベツレヘムで出産に至ることは十分予想されたので、おむつなどに用いる布などを、貧しいなりに一生懸命用意して行ったのしょう。6節「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの止まる場所がなかったからである。」ヨセフ、マリア、イエス様の三人を聖家族と言いますが、聖家族には居場所がありませんでした。イエス様は後年、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(ルカ9章58節)と言われました。そしてこの世から追い出されるように、十字架につけられて多くの人々から見捨てられました。このようにイエス様は、この世で居場所にない人、のけ者にされている人の味方なのです。この世では多数派がいい思いをします。しかしイエス様は少数派、ひとりぼっちの人、貧しい人の味方だと思うのです。
次の小見出しは「羊飼いと天使」です。8~9節「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」名も出て来ない羊飼いたちは、貧しい人々の代表とも言えます。天使は、イエス様の誕生や復活など、重要な局面に登場します。天使はもちろん神様ではなく、神様に造られた存在ですが、神様の身近にお仕えしていて、私たち罪人(つみびと)から見れば聖なる存在なので、羊飼いたちは非常に恐れました。10~12節「天使は言った。『恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト、救い主)である。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。』」
そして13~14節「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」これが神様の願いであることが分かります。神の栄光が讃美され、地には平和が、御心に適う人々にあることが、神様の願いです。「地には平和、御心に適う人にあれ」と聞くと、「御心に適わない人には平和がなくてもよい」と受け取られかねませんが、神様はすべての人が真の神様を信じて、神の平和を受けることを願っておられるに違いありません。この平和という言葉を聞くとき、私たちはマタイ福音書11章28節の、イエス様の御言葉を思い起こすことができます。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」「疲れが者、重荷を負う者に安らぎ(平安)」を与えて下さる方が、イエス・キリストです。私たちに平和と平安を与えるために、ベツレヘムの家畜小屋に生まれて下さいました。
礼拝の祝祷で読まれる旧約聖書・民数記6章を連想することもできます。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」この平安を私たちに与えるために、イエス様が生まれて下さいました。イエス様が私たちと共におられる時、私たちには真の平和と平安があります。
「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」この讃美では、神のおられる天と私たちは住む地が区別されているとも言えます。しかしクリスマスの出来事は、天と地をつないだ出来事です。天におられた神の子が(あるいは三位一体の神ご自身が)、地上に降って来られて、天と地をつないだ出来事です。フィリピの信徒への手紙2章6節以下を、引用することができます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました(これがベツレヘムでの誕生)。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの(天使たちも)、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」天におられた神の子は、私たちに平和を与えるために、この危険な地上に降り、苦しいことの多い人生を生きる私たちの友となるために、人間の赤ちゃんとして生まれて下さいました。天と地をつないで下さいました。
12節には、「あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。」「しるし」と言うと、普通は神の力強い業、奇跡を指すことが多いと思います。ところがここでは、「布にくるまて飼い葉桶に寝ている無力な赤ちゃん」がしるしだと言われています。これは、神様がいろいろなことを力づくで解決するのではなく、愛の力で解決することをよしとしておられることを意味すると言えます。神様は物事を武力で解決するのではなく、真に忍耐強い愛によって道を切り開き、平和をもたらして下さる。力強い王様ではなく、この弱い赤ちゃんが救い主であられる。そしてこの赤ちゃんは、私たち皆の罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死んで下さる救い主です。十字架の死は無力の極みです。同時に愛の極みです。ついつい力の行使や武力によって物事を進めようとする罪深い人間たちに対して、神様は真に忍耐強い「仕える生き方」と愛によって進む決心を、イエス様の十字架の死に至る生き方によって、具体的に示して下さいました。
15節以下「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」ということは、家畜小屋には他の人々も来ていたのでしょう。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかしマリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」
「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」マリアはとても若いが、考え深いのです。最初に天使がマリアの所に来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられます」と言ったときも、「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考えこんだ」とあります。そしてベツレヘムの家畜小屋での出産。そこに思いがけず、羊飼いたちが来て、天使が現れ、「恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」等と告げたことの、深い意味を、深く思い巡らしたに違いないのです。」
たまたまある英語の聖書でここを読んだのですが、「心に納めて」を「Mary treasured」と訳しているのを発見しました。Treasure は宝ですから、マリアはこれらの出来事を「宝のように大切に心に納め」て、思い巡らしたことになります。最初の天使の言葉、ベツレヘムの馬小屋での出産、羊飼いたちから聞いた天使のメッセージ。まだ十分に理解できないまでも、それらの出来事や言葉を「宝のように大切に心に納めて」、「神様、これはどういうことなのですか」と神様に聴きながら、思い巡らしたのです。すばらしい姿勢だと思いますね。このマリアの姿勢は、私たちが聖書を読むときの、最善の模範です。私たちも聖書を読みつつ、分かったと思うときも、分からないときも、御言葉を心の中で、あるいは口に出して何回も反芻し、神様に祈って、聖霊に働きによるひらめきによっても気づきを与えられ、教えられながら、御言葉(それは宝です)の深い意味を悟ってゆくことが、最も大切です。宝である御言葉を読みながら、祈り、黙想するのですね。私たちもこのマリアが行ったことを大いに真似して実践する必要があります。
本日は、日本基督教団の教会暦で平和聖日ですので、その点をも踏まえて、「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」を考えたいと思います。イエス様は、父なる神様と私たち罪人(つみびと)の間に、究極の平和、和解をもたらすために、地上に生まれて下さいました。それは十字架で死ぬことと復活することで達成されました。そして平和の御言葉を語って下さいました。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる。」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
旧約聖書には、しばしば戦争が出て来て、私も読みながら困ってきました。旧約聖書は戦争をよしとしているのだろうか。神の民イスラエルが約束の地・カナンの地に入って、先住民を追い出します。よく読むと、先住民が偶像礼拝(真の神でないものを拝む)の罪や、他の罪を犯しているので、神の裁きとして追放されるのですね。イスラエルが神様に従っている限り、神様が味方して相手を倒して下さいます。それは神の戦いであり、イスラエルが強力な軍事力で勝ったのではないのです。イスラエルが神様に従っていない時は、神様はイスラエルの味方をして下さらないので、イスラエルは負けます。イスラエルがエリコの町を占領したとき、神様はリーダーのヨシュアにこう指示されました。ヨシュア記6章に書いてあります。「あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。(~)七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民はそれぞれ、その場所から突入しなさい。」その通りになり、イスラエルはエリコの町を占領しました。少しは武器もあったでしょうが、あまり強力な武器はなかったと思います。武力でなく、神様の力で勝ったのです。でもイスラエルが偶像礼拝などの罪を犯して、神様に従っていないと、負けるケースもあるのです。神様はフェアだと思いました。
神様は旧約聖書において、イスラエルの民が軍事力に頼ることをよしとしておられません。詩編33編16~18節「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。」 本日の旧約聖書は、歴代誌・上28章2~3節です。ダビデ王の言葉です。「ダビデ王は立ち上がって言った。『私の兄弟たち、私の民よ、聞け。私は主の契約の箱、私たちの神の足台を安置する神殿を建てる志を抱き、その建築のために準備を進めて来た。しかし、神は私に言われた。「あなたは戦いに明け暮れ、人々の血を流した。それゆえ、あなたが私の名のために神殿を築くことは許されない」と。』」神殿を築くのは、あなたの子・ソロモンだと。私はここを読んで、とてもほっとします。神様は基本的には戦争をよしとしておられない。人々の血を流すことをよしとしておられない。
ですから旧約聖書のゼカリヤ書9章9~10節は、イスラエルの真の王・救い主の姿をこう記します。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。私はエフライム(イスラエルのこと)から戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」もちろんこれは、イスラエルの救い主、日本の救い主、世界の救い主、イエス・キリストのお姿です。
新約聖書のエフェソの信徒への手紙6章12節には、こうあります。「私たちの戦いは、血肉(人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」つまり、真の敵は人間ではなく、悪魔だと言っています。その通りです。モーセの十戒の第六の戒めで「殺してはならない」と明記されていますから、やはり戦争は大きな大きな罪です。世界中の人々が、特に指導者がイエス・キリストを救い主と信じ、イエス・キリストに従うことが必要です。そうなれば世界に平和がもたされます。感謝と喜びと確信をもって平和の主イエス・キリストをご一緒に宣べ伝えて参りましょう。アーメン。
2024-07-28 1:33:02()
「キリストを土台に生きる」 2024年7月28日(日)聖霊降臨節第11主日礼拝
順序:招詞 ローマ8:38~39,頌栄85、主の祈り,交読詩編132、使徒信条、讃美歌21・156、創世記4:1~8,エフェソの信徒への手紙4:25~32、祈祷、説教、祈祷、讃美歌495、献金、頌栄92、祝祷。
(創世記4:1~8) さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
(エフェソ4:25~32) だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第11主日の公同礼拝です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4章25~32節、説教題は「キリストを土台として生きる」です。著者パウロは勧めます。自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、クリスチャンとなり、神の子となった私たちが、古い罪の自分を脱ぎ捨てて、聖霊に導かれて新しい生き方をするようにと。
最初の25節「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは、互いに体の一部なのです。」「偽りを捨て」をある訳では「偽りをかなぐり捨て」と訳しています。「全力で捨てる」ということと思います。「互いに体の一部」であるとは、私たちが互いに「キリストの体である教会の一部」だということです。イエス・キリストの体である教会に属しているということです。そのような私たちが、隣人に偽りを言い、真実でない嘘を言ってだます、ということがあってはいけません。当然です。クリスチャンとしての良心をもって生き、偽りで人をだますなど決してしないことは、もちろんです。残念ながら世の中には、偽りもあるのが現実です。人をだましてお金を得る詐欺を行う人々がいます。インターネットを使っていると、見知らぬ相手から嘘の内容のメール(真実でない内容のメール)が届きます。何かの「支払いがまだです」などと私たちをだまそうとするメールが届きます。それを信じないで、嘘と見抜いて無視することが必要です。
アメリカの大統領選挙についての動きが色々ある昨今ですが、6月下旬にトランプ候補とバイデン大統領の直接討論がありました。日本でもかなり話題になったので、インターネットで全部見てみました。全部は理解できませんでしたが、互いに「あなたは嘘をついている」、「あなたは噓つきだ」と何回も言っていました。その後、バイデン氏は撤退しましたが、世界をリードするはずの超大国の次期大統領候補者が互いに「あなたは嘘つきだ」と公開の場で非難し合っている現実を見て、世界中が注目している二人の討論にしては、随分情けない言い合いだと、驚き唖然としました。もしどちらかが嘘を言っていたのであれば、神様とエフェソの信徒への手紙の著者パウロに叱られるに違いありません。バイデンはカトリック、トランプはプロテスタントです。「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」
26~27節「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」「怒る」をある翻訳では「腹を立てる」と訳しています。パウロは「怒ってはならない」とは言いません。一切怒るなというのは無理です。神様も悪魔や人間の罪に対してお怒りになります。神様の怒りは100%正しく清い怒りです。ですが私たち人間の怒りは、神様の清く正しい怒りほど、清く正しくはありません。人間の怒りには、人間の罪が含まれています。ですから怒るに当たっては、慎重に怒る必要があるのですね。クリスチャン以外の人々も最近は、「アンガーマネージメント」が必要だと説きます。怒りをコントロールする訓練が必要だと説きます。それができない人に、大切な仕事は任せられないでしょう。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」怒りに任せて行動すると、色々なことを破壊する恐れがあります。ヤコブの手紙1章19節以下にも、こうあります。「誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」神様の怒り、イエス様の怒りは完全に正しいです。たとえばエルサレムの神殿を清めたときのイエス様の怒りは、完全に清く正しいのです。しかし私たち人間の怒りには、自己中心の罪が入り込んでいますので、完璧に正しいとは言えず、神の正義を実現しません。旧約聖書の箴言16章32節に、次の印象的な御言葉があります。「忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。」口語訳ではこうです。私はこの御言葉については、口語訳が好きです。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」イエス様こそ、私たちの模範です。ご自分を十字架にかける人々に怒りを感じておられたかもしれませんが、忍耐を貫いて、むしろ「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか、知らないのです」と敵をゆるす祈りを献げられました。
「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」ここにある通りの失敗を犯したのが創世記のカインです。人類最初の兄弟の間で、最初の殺人が起こってしまいました。アダムとエバの間にカインが生まれ、弟アベルも生まれました。時を経て、神様は、弟アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした。もちろん神様に非はありませんし、弟アベルにも非はありません。しかしカインは怒りました。カインは「なぜ自分とその献げ物が神の、、目に留めていただけなかったのか、深く考えればよかったのだと思います。しかしカインはそうせず、感情に任せて激しく怒って顔を伏せました。自分の怒りが正しくないと分かっていたので、怒っている顔を他人に見せるのが恥ずかしくて、顔を伏せたのだと思います。神様がカインを諭します。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」しかしカインは、罪の誘惑に勝つことができませんでした。自分の怒りに支配されて行動し、弟アベルを殺す大きな罪を犯してしまいました。今でもこのように行動すると、刑務所に入るか死刑になり、せっかくの人生を棒に振ってしまいます。怒っているときは、深呼吸をしなさいという知恵もあります。パウロは、私たちが怒りのコントロール失敗して、明らかな罪を犯さないようにと、忠告してくれています。 ヨナの怒り。
28節「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」これはパウロが使徒言行録20章で、まさにエフェソの教会の長老たちに別れを告げた、感動的な場面を思い出させます。パウロは語ったのです。「私が三年間、あなた方一人一人に夜も昼も涙を流して教えて来たことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなた方をゆだねます。この言葉は、あなた方を造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。私は他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じの通り、私はこの手で、私自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなた方もこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエスご自身が、『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」
やはりパウロがエフェソの教会の長老たちに直接別れを告げたときのメッセージと、本日のエフェソの信徒への手紙は、似ていると感じます。「受けるよりは与える方が幸いである」というイエス様の御言葉は、4つの福音書に出て来ないのですね。福音書以外で知ることのできる珍しいイエス様の御言葉です。この御言葉は福音書にありませんが、イエス様の似た言葉は、ルカによる福音書6章38節に記されています。「与えなさい。そうすれば与えられる。」
エフェソに戻り29節「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」イエス様も言っておられます。マタイ福音書5章22節「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』という者は最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」そして「造り上げる」が重要な言葉ですね。これは「家を建てる」という意味の言葉です。破壊するのではなく、造り上げることが大切だというのです。そもそもエフェソの信徒への手紙全体のテーマが「教会」と言えますが、「教会を造り上げる」ことと個人を励まして造り上げることが大切だと言っているようです。教会について言えば、ユダヤ人も異邦人も、多種多様な人々が集まって「キリストの体なる教会」を造り上げてゆく。たとえば2章21節には、「キリストにおいて、この建物全体は組み合されて成長し、主における聖なる神殿となります」とあり、4章16節に「キリストにより体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合され、結び合わされて、各々の部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」
個人を励まして、個人を造り上げることも重要だと語られます。「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」ある人は「あなたの笑顔はナイスだ」と言われた言葉に励まされ、その一言を一生心の支えにしたそうです。沖縄出身で牧師の資格を持ち、歌手としても活動なさる方がおられますね(新垣勉『ひとつのいのち、ささえることば』マガジンハウス、2004年)。以前はNHKの歌番組にも出ておられましたが、最近は一時ほど活動しておられないのかもしれません。この方は1952年に沖縄の読谷村で誕生されました。お父様は沖縄に駐留したメキシコ系のアメリカ軍人、お母様は沖縄の方です。生後まもなく劇薬を誤って目に入れられる医療ミスで失明。両親は離婚んして父は祖国に帰り、お母様は再婚。祖母に育てられました。中学二年の時に祖母が亡くなると、ほとんど天涯孤独になり、生きていても仕方がないと自殺未遂したこともありました。心は恨みでいっぱいでしたが、次第によい出会いが与えられます。ある牧師が、心の内をよく聴いて下さり、生まれて初めてこの方の誕生会を開いて下さいました。
西南学院大学の神学部で学んでいるときに、先生からこう励まされました。「(視覚障害をもつ)君はあれも読みたい、これも読みたいと自分が腹立たしくなることがあるでしょう。しかし君には一冊の本を十冊に膨らませる力がある能力がある。だから心配しないでしっかり勉強しなさい。自信をもって。」その西南学院大学を卒業するときに、バランドーニ先生という有名なヴォイストレーナーに遭いに行きました。この先生がこう言われました。「君の声は、日本人離れしたラテン的な響きを持っている。どうしてそういう声が出せるのか。」物心ついてからは会っていない父親が、メキシコ系アメリカ軍人だからですね。それを告げると、「この声は神様からのプレゼントです。磨かなければいけません。一人でも多くの人のために歌いなさい。慰め、励まし、勇気づけ、元気づけるのが君の使命です。授業料など心配しなくていい。私のレッスンにいらっしゃい。」こう聞いて、父親を恨む気持ちも徐々に減り、父親がラテン系だからこそ自分にもラテン系の明るい歌声を与えられたと思えるようになり、「神様は私から光を奪われたが、声をプレゼントして下さった」とプラスに考えることができるようになってゆきました。
「太平洋戦争がなかったら、父は沖縄に来なかった。私も生まれなかった。その私が生きているということは、平和のために何かしなさいということなのではないでしょうか」と書いておられます。今では「人と比べないで、ナンバーワンではなく、あなただけのオンリーワンの人生を生きて下さい」と人を励ますメッセージを語っておられます。この方の人生を伺うと、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語る」ことが、いかに大切か、いかに人を生かすかを、強く教えられます。
エフェソに戻り30節「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなた方は、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」私たちが罪を犯したり、盗んだり、悪い言葉を口にすると、聖霊なる神様が悲しまれることが分かります。人間の子どもの場合でも、自分が悪いことをしたとき、親が怒ってもあまり反省しない場合でも、親が悲しんだと分かると反省する気持ちになることがあると思います。そのように私たちは、自分たちが罪を犯したことで神様が怒ったと聞いた場合よりも、神様が悲しまれたと知った方が、心身にぐっとこたえ、悔い改めたくなる場合があるのではないでしょうか。この御言葉から、私たちが罪を犯すとき、聖霊が悲しまれることが分かります。聖霊は、三位一体の生ける神様ご自身であり、心をもっておられます。聖霊が、神様の単なる力ではない、人格(神格)をお持ちの方であることが、この御言葉から分かります。イザヤ書63章10節に、似た御言葉があります。「彼ら(神の民イスラエル)は(神様に)背き、主の聖なる霊を苦しめた。」
「あなた方は聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」「贖いの日」とは、神の国が完成する日、私たちが復活の体を与えられて、私たちの救いが完成する日のことです。よく似たことが、この手紙の1章14節に既に記されています。「この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」クリスチャンの中には、真に尊い神の生ける霊である聖霊が住んでおられます。この聖霊が住んでおられることが、私たちが私たちが救われることの確かな保証です。救われるとは、天国に入れていただき、復活の体を受けることです。
31節「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」憤りと訳された言葉は、激怒とも訳せます。そしりと訳された言葉は、冒瀆とも訳せます。そう訳すとこうなります。「無慈悲、激怒、怒り、わめき、冒瀆などすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」私たちが無慈悲になり、激怒、怒り、わめき、冒瀆を行う時、聖霊なる神様が悲しまれるのです。神様が悲しまれることはやめよう。私たちはもちろん、そのように考えます。32節「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合いなさい。」私たちがこの勧めを拒否するならば、やはり聖霊が悲しまれるに違いありません。「神がキリストによってあなた方を赦してくださったように」とあるので、全ての土台にあるのは、イエス・キリストの十字架の死による私たちの罪の赦しです。キリストの十字架の愛の恵みに応えて、日が暮れるまで隣人を裁かず、盗まず、困っている人々に分け与え、悪い言葉を一切口にせず、隣人を造り上げるのに役立つ言葉を必要に応じて語り、神の聖霊を悲しませないように生きてほしい。これが本日のエフェソの信徒への手紙のメッセージです。聖霊に助けていただいて、これらの御言葉を実行するように心がけて参りましょう。イエス様の十字架の愛に応えて。アーメン。
(創世記4:1~8) さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
(エフェソ4:25~32) だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第11主日の公同礼拝です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4章25~32節、説教題は「キリストを土台として生きる」です。著者パウロは勧めます。自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、クリスチャンとなり、神の子となった私たちが、古い罪の自分を脱ぎ捨てて、聖霊に導かれて新しい生き方をするようにと。
最初の25節「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは、互いに体の一部なのです。」「偽りを捨て」をある訳では「偽りをかなぐり捨て」と訳しています。「全力で捨てる」ということと思います。「互いに体の一部」であるとは、私たちが互いに「キリストの体である教会の一部」だということです。イエス・キリストの体である教会に属しているということです。そのような私たちが、隣人に偽りを言い、真実でない嘘を言ってだます、ということがあってはいけません。当然です。クリスチャンとしての良心をもって生き、偽りで人をだますなど決してしないことは、もちろんです。残念ながら世の中には、偽りもあるのが現実です。人をだましてお金を得る詐欺を行う人々がいます。インターネットを使っていると、見知らぬ相手から嘘の内容のメール(真実でない内容のメール)が届きます。何かの「支払いがまだです」などと私たちをだまそうとするメールが届きます。それを信じないで、嘘と見抜いて無視することが必要です。
アメリカの大統領選挙についての動きが色々ある昨今ですが、6月下旬にトランプ候補とバイデン大統領の直接討論がありました。日本でもかなり話題になったので、インターネットで全部見てみました。全部は理解できませんでしたが、互いに「あなたは嘘をついている」、「あなたは噓つきだ」と何回も言っていました。その後、バイデン氏は撤退しましたが、世界をリードするはずの超大国の次期大統領候補者が互いに「あなたは嘘つきだ」と公開の場で非難し合っている現実を見て、世界中が注目している二人の討論にしては、随分情けない言い合いだと、驚き唖然としました。もしどちらかが嘘を言っていたのであれば、神様とエフェソの信徒への手紙の著者パウロに叱られるに違いありません。バイデンはカトリック、トランプはプロテスタントです。「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」
26~27節「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」「怒る」をある翻訳では「腹を立てる」と訳しています。パウロは「怒ってはならない」とは言いません。一切怒るなというのは無理です。神様も悪魔や人間の罪に対してお怒りになります。神様の怒りは100%正しく清い怒りです。ですが私たち人間の怒りは、神様の清く正しい怒りほど、清く正しくはありません。人間の怒りには、人間の罪が含まれています。ですから怒るに当たっては、慎重に怒る必要があるのですね。クリスチャン以外の人々も最近は、「アンガーマネージメント」が必要だと説きます。怒りをコントロールする訓練が必要だと説きます。それができない人に、大切な仕事は任せられないでしょう。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」怒りに任せて行動すると、色々なことを破壊する恐れがあります。ヤコブの手紙1章19節以下にも、こうあります。「誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」神様の怒り、イエス様の怒りは完全に正しいです。たとえばエルサレムの神殿を清めたときのイエス様の怒りは、完全に清く正しいのです。しかし私たち人間の怒りには、自己中心の罪が入り込んでいますので、完璧に正しいとは言えず、神の正義を実現しません。旧約聖書の箴言16章32節に、次の印象的な御言葉があります。「忍耐は力の強さにまさる。自制の力は町を占領するにまさる。」口語訳ではこうです。私はこの御言葉については、口語訳が好きです。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」イエス様こそ、私たちの模範です。ご自分を十字架にかける人々に怒りを感じておられたかもしれませんが、忍耐を貫いて、むしろ「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか、知らないのです」と敵をゆるす祈りを献げられました。
「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」ここにある通りの失敗を犯したのが創世記のカインです。人類最初の兄弟の間で、最初の殺人が起こってしまいました。アダムとエバの間にカインが生まれ、弟アベルも生まれました。時を経て、神様は、弟アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした。もちろん神様に非はありませんし、弟アベルにも非はありません。しかしカインは怒りました。カインは「なぜ自分とその献げ物が神の、、目に留めていただけなかったのか、深く考えればよかったのだと思います。しかしカインはそうせず、感情に任せて激しく怒って顔を伏せました。自分の怒りが正しくないと分かっていたので、怒っている顔を他人に見せるのが恥ずかしくて、顔を伏せたのだと思います。神様がカインを諭します。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」しかしカインは、罪の誘惑に勝つことができませんでした。自分の怒りに支配されて行動し、弟アベルを殺す大きな罪を犯してしまいました。今でもこのように行動すると、刑務所に入るか死刑になり、せっかくの人生を棒に振ってしまいます。怒っているときは、深呼吸をしなさいという知恵もあります。パウロは、私たちが怒りのコントロール失敗して、明らかな罪を犯さないようにと、忠告してくれています。 ヨナの怒り。
28節「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」これはパウロが使徒言行録20章で、まさにエフェソの教会の長老たちに別れを告げた、感動的な場面を思い出させます。パウロは語ったのです。「私が三年間、あなた方一人一人に夜も昼も涙を流して教えて来たことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなた方をゆだねます。この言葉は、あなた方を造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。私は他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じの通り、私はこの手で、私自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなた方もこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエスご自身が、『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました。」
やはりパウロがエフェソの教会の長老たちに直接別れを告げたときのメッセージと、本日のエフェソの信徒への手紙は、似ていると感じます。「受けるよりは与える方が幸いである」というイエス様の御言葉は、4つの福音書に出て来ないのですね。福音書以外で知ることのできる珍しいイエス様の御言葉です。この御言葉は福音書にありませんが、イエス様の似た言葉は、ルカによる福音書6章38節に記されています。「与えなさい。そうすれば与えられる。」
エフェソに戻り29節「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」イエス様も言っておられます。マタイ福音書5章22節「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』という者は最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」そして「造り上げる」が重要な言葉ですね。これは「家を建てる」という意味の言葉です。破壊するのではなく、造り上げることが大切だというのです。そもそもエフェソの信徒への手紙全体のテーマが「教会」と言えますが、「教会を造り上げる」ことと個人を励まして造り上げることが大切だと言っているようです。教会について言えば、ユダヤ人も異邦人も、多種多様な人々が集まって「キリストの体なる教会」を造り上げてゆく。たとえば2章21節には、「キリストにおいて、この建物全体は組み合されて成長し、主における聖なる神殿となります」とあり、4章16節に「キリストにより体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合され、結び合わされて、各々の部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」
個人を励まして、個人を造り上げることも重要だと語られます。「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」ある人は「あなたの笑顔はナイスだ」と言われた言葉に励まされ、その一言を一生心の支えにしたそうです。沖縄出身で牧師の資格を持ち、歌手としても活動なさる方がおられますね(新垣勉『ひとつのいのち、ささえることば』マガジンハウス、2004年)。以前はNHKの歌番組にも出ておられましたが、最近は一時ほど活動しておられないのかもしれません。この方は1952年に沖縄の読谷村で誕生されました。お父様は沖縄に駐留したメキシコ系のアメリカ軍人、お母様は沖縄の方です。生後まもなく劇薬を誤って目に入れられる医療ミスで失明。両親は離婚んして父は祖国に帰り、お母様は再婚。祖母に育てられました。中学二年の時に祖母が亡くなると、ほとんど天涯孤独になり、生きていても仕方がないと自殺未遂したこともありました。心は恨みでいっぱいでしたが、次第によい出会いが与えられます。ある牧師が、心の内をよく聴いて下さり、生まれて初めてこの方の誕生会を開いて下さいました。
西南学院大学の神学部で学んでいるときに、先生からこう励まされました。「(視覚障害をもつ)君はあれも読みたい、これも読みたいと自分が腹立たしくなることがあるでしょう。しかし君には一冊の本を十冊に膨らませる力がある能力がある。だから心配しないでしっかり勉強しなさい。自信をもって。」その西南学院大学を卒業するときに、バランドーニ先生という有名なヴォイストレーナーに遭いに行きました。この先生がこう言われました。「君の声は、日本人離れしたラテン的な響きを持っている。どうしてそういう声が出せるのか。」物心ついてからは会っていない父親が、メキシコ系アメリカ軍人だからですね。それを告げると、「この声は神様からのプレゼントです。磨かなければいけません。一人でも多くの人のために歌いなさい。慰め、励まし、勇気づけ、元気づけるのが君の使命です。授業料など心配しなくていい。私のレッスンにいらっしゃい。」こう聞いて、父親を恨む気持ちも徐々に減り、父親がラテン系だからこそ自分にもラテン系の明るい歌声を与えられたと思えるようになり、「神様は私から光を奪われたが、声をプレゼントして下さった」とプラスに考えることができるようになってゆきました。
「太平洋戦争がなかったら、父は沖縄に来なかった。私も生まれなかった。その私が生きているということは、平和のために何かしなさいということなのではないでしょうか」と書いておられます。今では「人と比べないで、ナンバーワンではなく、あなただけのオンリーワンの人生を生きて下さい」と人を励ますメッセージを語っておられます。この方の人生を伺うと、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語る」ことが、いかに大切か、いかに人を生かすかを、強く教えられます。
エフェソに戻り30節「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなた方は、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」私たちが罪を犯したり、盗んだり、悪い言葉を口にすると、聖霊なる神様が悲しまれることが分かります。人間の子どもの場合でも、自分が悪いことをしたとき、親が怒ってもあまり反省しない場合でも、親が悲しんだと分かると反省する気持ちになることがあると思います。そのように私たちは、自分たちが罪を犯したことで神様が怒ったと聞いた場合よりも、神様が悲しまれたと知った方が、心身にぐっとこたえ、悔い改めたくなる場合があるのではないでしょうか。この御言葉から、私たちが罪を犯すとき、聖霊が悲しまれることが分かります。聖霊は、三位一体の生ける神様ご自身であり、心をもっておられます。聖霊が、神様の単なる力ではない、人格(神格)をお持ちの方であることが、この御言葉から分かります。イザヤ書63章10節に、似た御言葉があります。「彼ら(神の民イスラエル)は(神様に)背き、主の聖なる霊を苦しめた。」
「あなた方は聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」「贖いの日」とは、神の国が完成する日、私たちが復活の体を与えられて、私たちの救いが完成する日のことです。よく似たことが、この手紙の1章14節に既に記されています。「この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」クリスチャンの中には、真に尊い神の生ける霊である聖霊が住んでおられます。この聖霊が住んでおられることが、私たちが私たちが救われることの確かな保証です。救われるとは、天国に入れていただき、復活の体を受けることです。
31節「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」憤りと訳された言葉は、激怒とも訳せます。そしりと訳された言葉は、冒瀆とも訳せます。そう訳すとこうなります。「無慈悲、激怒、怒り、わめき、冒瀆などすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。」私たちが無慈悲になり、激怒、怒り、わめき、冒瀆を行う時、聖霊なる神様が悲しまれるのです。神様が悲しまれることはやめよう。私たちはもちろん、そのように考えます。32節「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合いなさい。」私たちがこの勧めを拒否するならば、やはり聖霊が悲しまれるに違いありません。「神がキリストによってあなた方を赦してくださったように」とあるので、全ての土台にあるのは、イエス・キリストの十字架の死による私たちの罪の赦しです。キリストの十字架の愛の恵みに応えて、日が暮れるまで隣人を裁かず、盗まず、困っている人々に分け与え、悪い言葉を一切口にせず、隣人を造り上げるのに役立つ言葉を必要に応じて語り、神の聖霊を悲しませないように生きてほしい。これが本日のエフェソの信徒への手紙のメッセージです。聖霊に助けていただいて、これらの御言葉を実行するように心がけて参りましょう。イエス様の十字架の愛に応えて。アーメン。
2024-07-27 17:14:09(土)
『共助』誌2024年第4号掲載の聖書研究「ガラテヤの信徒への手紙(第一回)」 石田真一郎
ガラテヤの信徒への手紙のテーマは「イエス・キリストの福音とは何か、福音に生きるとはどのようなことか」だと言えます。私たちは、福音を深く悟るために、この書を何でも読み返すことが必要だと感じます。宗教改革者マルティン・ルターも、この書の講解書を記すほど、この書を重視しました。以下、新共同訳聖書の小見出しごとに区切って、私の文章を書きます。
「挨拶」(1~5節)
著者パウロはこの手紙の宛先を、「ガラテヤ地方の諸教会へ」と書きます。このガラテヤという地名が指す場所に2つの説があります(堀田雄康「ガラテヤの信徒への手紙」『新共同訳 新約聖書註解Ⅱ』日本基督教団出版局、1992年、156ページ)。①小アジア内陸中央部のアンキラ(現トルコのアンカラ)を中心とする周辺地域一帯(北ガラテヤ説)。②従来のガラテヤ人の定住地に南部の地方を合わせた地域(南ガラテヤ説)。北ガラテヤ説を採用すれば、この手紙は、パウロの第三回伝道旅行中に2年ないし3年間滞在したエフェソで書かれたと推測されます(紀元53年ごろ)。南ガラテヤ説を採れば、パウロの第一回伝道旅行後のエルサレムでの使徒会議(使徒言行録15章、紀元48年ごろ)の直前か直後にシリアのアンティオキアで、またはエルサレムに行く途中で書かれたと推定されます。どちらの説を採用しても、この手紙の内容の重要性に変わりはありません。
パウロは、4節で「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」と、神様の基本的な愛の事実を述べています。この世界を「悪の世」と呼んでいます。もちろん究極的には、神様がこの世界を恵みの御手で支配しておられます。しかし聖書は、最初の人間たちエバとアダムが蛇(悪魔のシンボル)の誘惑に負け、悪魔の言葉に従って以来、人間が悪魔の支配に落ちてしまい、罪人(つみびと)になったと語ります。イエス・キリストは、悪魔と罪と死と律法の支配から私たち罪人(つみびと)を救い出し、解放するために、様々な危険もあるこの地上に、私たちと同じ肉体をもつ人間として、生まれて下さいました。クリスマスの出来事です。そして私たちの全部の罪の責任を背負って、十字架で死んで下さいました。私たちの僕(しもべ)になって下さいました。そして三日目に、父なる神様の愛によって復活させられました。イエス様の十字架の死と復活による福音こそが、ガラテヤの信徒への手紙の土台です。
「ほかの福音はない」(6~10節)
早速、最も重要なテーマに入ります。ガラテヤの教会の人々が、「ほかの福音」(6節)に惑わされていたからです。「ほかの福音」は偽物、悪魔から来るもので、福音ではありません。それは律法主義、割礼主義、自力主義、自己義認と言えます。パウロも、クリスチャンになる前はそれに生きていたのです。しかしその誤りを悟り、今はそれにはっきり対決しています。私たちも、あくまでもキリストの福音を土台に生かされることが必要です。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」(7~9節)。
「パウロが使徒として選ばれた次第」(11~24節)
パウロは11~12節で述べます。「兄弟たち、あなた方にはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」
福音は、ギリシア語原文でエウアンゲリオンです。「よい知らせ」の意味で、「エウ」が「よい」、「アンゲリオン」が「知らせ」です。英語ではグッドニュース、ゴスペルと呼びます。紀元前490年のマラトンの戦いで、アテネ軍がペルシア軍に勝ったとき、伝令がマラトンからアテネまで長距離を走って勝利を伝えた伝承がありますが、この時の勝利の知らせをエウアンゲリオン(福音)と呼んだと聞きます。この故事になぞらえて言えば、聖書の福音は、イエス・キリストが十字架の死と復活によって、悪魔と罪と死の支配に勝利したことを告げる「よい知らせ」です。事実イエス様は、ヨハネによる福音書16章33節で、次のように福音を宣言しておられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」これは、聖書の中の最高の御言葉かもしれないと私は思います。イエス様が十字架の死と復活によって、既に世(悪魔、罪、死)に勝利されたので、自分の罪を悔い改めてイエス様につながる私たちも、すべての罪を赦され、神の子とされ、永遠の命と天国を約束されています。
「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」まさにその通りで、パウロほど劇的に救われた人も珍しいのです。何しろ彼は、先頭を切ってクリスチャンたちを迫害する者でした。パウロの初めの名はサウロ(またはサウル)で、反キリストに生きる筆頭でした。使徒言行録9章によると、彼が迫害のために意気込んでダマスコに向かう途中で、突然、天からの光が彼の周りを照らし、復活されたイエス・キリストが彼に語りかけました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」彼は三日間、目が見えなくなり、飲食しませんでした。イエス様から派遣されたアナニアというクリスチャンが、彼の上に手を置いて語りかけると、彼の両目からうろこのようものが落ち、再び見えるようになり、洗礼を受けてクリスチャンになりました。両目からうろこのようなものが落ちたとき、彼の心から偏見や高慢(プライド)が取り除かれ、次第に物事をイエス様の目で見て判断することができるようになったのでしょう。
それまでのパウロは、「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうと」(13節)しており、「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとして」(14節)いました。イエス様から最も遠く離れた人、反キリスト、反福音の人だったのです。この人が神の憐れみによって救われ、最大の伝道者になるとは、驚嘆すべき奇跡です。「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか」(ローマの信徒への手紙11章33節)と神を賛美し、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るように」(エフェソの信徒への手紙3章18~19節)導かれます。ウルトラ頑固だったパウロでさえ、高慢の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じて救われたのなら、私たちの周囲のかたくなに見える方々にも、十分希望があるから祈っていこう、と勇気を与えられます。この神の愛についてパウロは、「以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」(テモテへの手紙(一)1章13節)と述べました。さらに「わたしは、(~)罪人(つみびと)の中で最たる者です」(同15節)と告白しています。
そしてパウロは、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子(キリスト)をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ1章15~16節)と語ります。私たちも、母親の胎内にあるときから、いえ、もっと前から神様に愛されているのです。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1章4節)とある通りです。
2年半前に天に召された私の母親は、私が生まれる前に流産を経験しました。カトリックの洗礼を受けていたので、信頼するシスターに悲しみを話したようです。そのシスターが下さった手紙を、十四、五年前に初めて私に見せてくれました。そんな手紙があったのかと、私は驚きました。英文ですが、読んでみると牧会者の手紙の模範のような内容でした。「かわいい赤ちゃんは、彼女の天の視点からは、この地上にいるより、あなたに近くなったのです。もちろん、この喪失があなたにもたらした大きな悲しみを、私たちは知っています。でも、あなた自身を、私たちの祝された主、世界全体を贖う(救う)ために十字架の道を選ばれたイエス様と一体とするようにトライして下さい。主イエス様の苦しみと死を通してのみ、人類は救いのチャンスを与えられたのです。悲しみに耐えている人より、このように書く者の方が容易だと分かっています。でも、神様ご自身が、あなたに送った十字架を担う力を与えて下さいます。最初の宝を、あなたは神様にお返ししました。しかし神様はなお、子をもつ慰めを与えて下さいます。強くあって下さい。そして神様が、あなたに求めた犠牲によって、永遠の金(きん)を鋳造するすばらしい機会を与えられたことを理解して下さい。」
私が会ったことのないこのシスターも祈って下さって、私と弟が生まれたと思います。自分が生まれる前に、このようなシスターとの交流があったことを、40才を過ぎて初めて知りました。独身で自分では子どもをもたないシスターが、他人のために、真心を込めて、とりなしの祈りを祈って下さる信仰にも心打たれます。パウロの母親も、子どもが生まれる前から祈っていたのでしょう。
さて、パウロは書きます。「(わたしを)恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしはすぐ血肉(人間のこと)に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」(15~17節)。
このアラビア行きについて、使徒言行録は記しませんが、使徒言行録9章22節と23節の間の出来事と見るのが自然ではないかと思います。パウロが退いたアラビアとは、ナバタイ王国ではないかと言われます。彼はそこで神様に深く祈り、今後の自分の生き方と使命について深く思い巡らしたのではないかと思います。パウロは「すぐに血肉に相談せず」、自分より「先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退い」たと書きます。人のアドヴァイスを受けるよりも、直接祈りによってイエス・キリストと深く交流し、自分の使命を明確にしたのでしょう。私たちにも、退いて祈る時は必要です。人生の転機において、聖書をよく読み、よく祈って、神からの導きをいただくことが必要です。
パウロの強烈な自覚は、1節にある通り、自分が「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」こと、自分が「キリストの僕(しもべ)」(10節)であることです。彼は6章17節では「わたしは、イエスの焼き印を身に受けている」と述べます。私たちクリスチャンも洗礼の時に「イエス・キリストの焼き印」を「ジューッ!」と身に受けています。
パウロは書きます。「それから三年後、ケファ(ペトロ)と知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しました」(18節)。イエス様の一番弟子のペトロと、まだ知り合いでなかったのですね。「キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした」(22節)。パウロは迫害者の筆頭でしたから、エルサレムのクリスチャンたちは最初は彼を信用せず、恐れました。しかし信用されていたバルナバのとりなしがあり(使徒言行録9章27節)、人々はパウロをイエス様の使徒と認めるようになりました。彼らは「『かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている』と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました」(23~24節)とパウロは書きます。エルサレムのクリスチャンたちは、まさに次のように讃美したかったでしょう。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」(ローマ11章33節)。最大の迫害者を、最大の伝道者に造り変えなさった神様の御業です! (続く)
「挨拶」(1~5節)
著者パウロはこの手紙の宛先を、「ガラテヤ地方の諸教会へ」と書きます。このガラテヤという地名が指す場所に2つの説があります(堀田雄康「ガラテヤの信徒への手紙」『新共同訳 新約聖書註解Ⅱ』日本基督教団出版局、1992年、156ページ)。①小アジア内陸中央部のアンキラ(現トルコのアンカラ)を中心とする周辺地域一帯(北ガラテヤ説)。②従来のガラテヤ人の定住地に南部の地方を合わせた地域(南ガラテヤ説)。北ガラテヤ説を採用すれば、この手紙は、パウロの第三回伝道旅行中に2年ないし3年間滞在したエフェソで書かれたと推測されます(紀元53年ごろ)。南ガラテヤ説を採れば、パウロの第一回伝道旅行後のエルサレムでの使徒会議(使徒言行録15章、紀元48年ごろ)の直前か直後にシリアのアンティオキアで、またはエルサレムに行く途中で書かれたと推定されます。どちらの説を採用しても、この手紙の内容の重要性に変わりはありません。
パウロは、4節で「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」と、神様の基本的な愛の事実を述べています。この世界を「悪の世」と呼んでいます。もちろん究極的には、神様がこの世界を恵みの御手で支配しておられます。しかし聖書は、最初の人間たちエバとアダムが蛇(悪魔のシンボル)の誘惑に負け、悪魔の言葉に従って以来、人間が悪魔の支配に落ちてしまい、罪人(つみびと)になったと語ります。イエス・キリストは、悪魔と罪と死と律法の支配から私たち罪人(つみびと)を救い出し、解放するために、様々な危険もあるこの地上に、私たちと同じ肉体をもつ人間として、生まれて下さいました。クリスマスの出来事です。そして私たちの全部の罪の責任を背負って、十字架で死んで下さいました。私たちの僕(しもべ)になって下さいました。そして三日目に、父なる神様の愛によって復活させられました。イエス様の十字架の死と復活による福音こそが、ガラテヤの信徒への手紙の土台です。
「ほかの福音はない」(6~10節)
早速、最も重要なテーマに入ります。ガラテヤの教会の人々が、「ほかの福音」(6節)に惑わされていたからです。「ほかの福音」は偽物、悪魔から来るもので、福音ではありません。それは律法主義、割礼主義、自力主義、自己義認と言えます。パウロも、クリスチャンになる前はそれに生きていたのです。しかしその誤りを悟り、今はそれにはっきり対決しています。私たちも、あくまでもキリストの福音を土台に生かされることが必要です。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」(7~9節)。
「パウロが使徒として選ばれた次第」(11~24節)
パウロは11~12節で述べます。「兄弟たち、あなた方にはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」
福音は、ギリシア語原文でエウアンゲリオンです。「よい知らせ」の意味で、「エウ」が「よい」、「アンゲリオン」が「知らせ」です。英語ではグッドニュース、ゴスペルと呼びます。紀元前490年のマラトンの戦いで、アテネ軍がペルシア軍に勝ったとき、伝令がマラトンからアテネまで長距離を走って勝利を伝えた伝承がありますが、この時の勝利の知らせをエウアンゲリオン(福音)と呼んだと聞きます。この故事になぞらえて言えば、聖書の福音は、イエス・キリストが十字架の死と復活によって、悪魔と罪と死の支配に勝利したことを告げる「よい知らせ」です。事実イエス様は、ヨハネによる福音書16章33節で、次のように福音を宣言しておられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」これは、聖書の中の最高の御言葉かもしれないと私は思います。イエス様が十字架の死と復活によって、既に世(悪魔、罪、死)に勝利されたので、自分の罪を悔い改めてイエス様につながる私たちも、すべての罪を赦され、神の子とされ、永遠の命と天国を約束されています。
「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」まさにその通りで、パウロほど劇的に救われた人も珍しいのです。何しろ彼は、先頭を切ってクリスチャンたちを迫害する者でした。パウロの初めの名はサウロ(またはサウル)で、反キリストに生きる筆頭でした。使徒言行録9章によると、彼が迫害のために意気込んでダマスコに向かう途中で、突然、天からの光が彼の周りを照らし、復活されたイエス・キリストが彼に語りかけました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」彼は三日間、目が見えなくなり、飲食しませんでした。イエス様から派遣されたアナニアというクリスチャンが、彼の上に手を置いて語りかけると、彼の両目からうろこのようものが落ち、再び見えるようになり、洗礼を受けてクリスチャンになりました。両目からうろこのようなものが落ちたとき、彼の心から偏見や高慢(プライド)が取り除かれ、次第に物事をイエス様の目で見て判断することができるようになったのでしょう。
それまでのパウロは、「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうと」(13節)しており、「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとして」(14節)いました。イエス様から最も遠く離れた人、反キリスト、反福音の人だったのです。この人が神の憐れみによって救われ、最大の伝道者になるとは、驚嘆すべき奇跡です。「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか」(ローマの信徒への手紙11章33節)と神を賛美し、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るように」(エフェソの信徒への手紙3章18~19節)導かれます。ウルトラ頑固だったパウロでさえ、高慢の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じて救われたのなら、私たちの周囲のかたくなに見える方々にも、十分希望があるから祈っていこう、と勇気を与えられます。この神の愛についてパウロは、「以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」(テモテへの手紙(一)1章13節)と述べました。さらに「わたしは、(~)罪人(つみびと)の中で最たる者です」(同15節)と告白しています。
そしてパウロは、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子(キリスト)をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ1章15~16節)と語ります。私たちも、母親の胎内にあるときから、いえ、もっと前から神様に愛されているのです。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1章4節)とある通りです。
2年半前に天に召された私の母親は、私が生まれる前に流産を経験しました。カトリックの洗礼を受けていたので、信頼するシスターに悲しみを話したようです。そのシスターが下さった手紙を、十四、五年前に初めて私に見せてくれました。そんな手紙があったのかと、私は驚きました。英文ですが、読んでみると牧会者の手紙の模範のような内容でした。「かわいい赤ちゃんは、彼女の天の視点からは、この地上にいるより、あなたに近くなったのです。もちろん、この喪失があなたにもたらした大きな悲しみを、私たちは知っています。でも、あなた自身を、私たちの祝された主、世界全体を贖う(救う)ために十字架の道を選ばれたイエス様と一体とするようにトライして下さい。主イエス様の苦しみと死を通してのみ、人類は救いのチャンスを与えられたのです。悲しみに耐えている人より、このように書く者の方が容易だと分かっています。でも、神様ご自身が、あなたに送った十字架を担う力を与えて下さいます。最初の宝を、あなたは神様にお返ししました。しかし神様はなお、子をもつ慰めを与えて下さいます。強くあって下さい。そして神様が、あなたに求めた犠牲によって、永遠の金(きん)を鋳造するすばらしい機会を与えられたことを理解して下さい。」
私が会ったことのないこのシスターも祈って下さって、私と弟が生まれたと思います。自分が生まれる前に、このようなシスターとの交流があったことを、40才を過ぎて初めて知りました。独身で自分では子どもをもたないシスターが、他人のために、真心を込めて、とりなしの祈りを祈って下さる信仰にも心打たれます。パウロの母親も、子どもが生まれる前から祈っていたのでしょう。
さて、パウロは書きます。「(わたしを)恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしはすぐ血肉(人間のこと)に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」(15~17節)。
このアラビア行きについて、使徒言行録は記しませんが、使徒言行録9章22節と23節の間の出来事と見るのが自然ではないかと思います。パウロが退いたアラビアとは、ナバタイ王国ではないかと言われます。彼はそこで神様に深く祈り、今後の自分の生き方と使命について深く思い巡らしたのではないかと思います。パウロは「すぐに血肉に相談せず」、自分より「先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退い」たと書きます。人のアドヴァイスを受けるよりも、直接祈りによってイエス・キリストと深く交流し、自分の使命を明確にしたのでしょう。私たちにも、退いて祈る時は必要です。人生の転機において、聖書をよく読み、よく祈って、神からの導きをいただくことが必要です。
パウロの強烈な自覚は、1節にある通り、自分が「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」こと、自分が「キリストの僕(しもべ)」(10節)であることです。彼は6章17節では「わたしは、イエスの焼き印を身に受けている」と述べます。私たちクリスチャンも洗礼の時に「イエス・キリストの焼き印」を「ジューッ!」と身に受けています。
パウロは書きます。「それから三年後、ケファ(ペトロ)と知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しました」(18節)。イエス様の一番弟子のペトロと、まだ知り合いでなかったのですね。「キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした」(22節)。パウロは迫害者の筆頭でしたから、エルサレムのクリスチャンたちは最初は彼を信用せず、恐れました。しかし信用されていたバルナバのとりなしがあり(使徒言行録9章27節)、人々はパウロをイエス様の使徒と認めるようになりました。彼らは「『かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている』と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました」(23~24節)とパウロは書きます。エルサレムのクリスチャンたちは、まさに次のように讃美したかったでしょう。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」(ローマ11章33節)。最大の迫害者を、最大の伝道者に造り変えなさった神様の御業です! (続く)