日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2018-12-20 20:50:40(木)
「マリアの決断」 アドヴェント(待降節)第3主日礼拝 説教要旨
聖書:サムエル記・下7章12~16節、ルカ福音書1章26~56節

 本日のルカによる福音書は「受胎告知」と呼ばれる重要な場面です。ある画家の絵では、マリアは書物(おそらく旧約聖書)を読んでいる時に天使ガブリエルから神様のメッセージを伝えられ、左手のひらを上げて開いています。こうしてマリアの驚きが表現されています。

 「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。おとめの名はマリアといった。」ガリラヤは旧約聖書に少しだけ登場する地域、ナザレは旧約聖書に一度も出て来ない町です。マリアは15才ほどの人に知られていない娘です(但し、信仰は非常に深い)。神様はいと小さき人、世間で軽視されている者を愛して下さる方です。ある本には、ナザレは「花」という意味だとありました。

 天使がマリアに言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」「アヴェ・マリア」という曲がありますが、この聖句が元になっているようです。「アヴェ・マリア」は、「おめでとう、マリア」の意味です。なお「おめでとう」は直訳では、「喜べ」です。ジョン・ウェスレーというイギリスの有名な伝道者は臨終の時に二度、「最善のことは、神が共にいて下さることだ」と言ったそうです。神様は私たち一人一人とも共におられます。ですから私たちも恵まれた者です。

 イエス・キリストの使徒パウロは書きます。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(コリントの信徒への手紙(一)15:10)。私たち にとってもそうです。今あるは神の恵みです。「ことごとくマナならざるはなし クリスマス」という俳句があります。マナは旧約聖書の出エジプト記などで神様がイスラエルの民に与えられた食物です。恵みのシンボルです。ですから、「ことごとく恵みならざるはなし クリスマス」と言い換えることができます。

 マリアはしかし、天使の言葉に戸惑い、考え込みます。「戸惑う」と訳された言葉は、強い調子の言葉らしく、「ひどくかき回された」と訳すことができるそうです。マリアは強い不安を感じ、その心は平静を失いかけたのでしょう。天使はマリアを諭すように言います。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子(神の子)と呼ばれる。」イエスは「主は救い」の意味です。当時多かった名前です。神様ご自身が、その子の名をおつけになりました。マリアが受けた恵みは単純な恵みではありません。生まれる子は、私たち全ての人間の全ての罪を身代りに背負って十字架で死なれるのです(そして三日目に復活なさいます)。パウロの言葉が思い出されます。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピの信徒への手紙1:29)。

 イエス・キリストは父なる神様の最愛の独り子ですから、イエス様を十字架につけることは、父なる神様にとっても非常に辛いことに違いないのです。マリアは、父なる神様と喜びと辛さを共にする女性として選ばれました。神様に深く愛されているのです。若いマリアに将来が全て見通せたわけではありません。しかしマリアは決心して、決断して言います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」天使はこの答えに満足したのでしょう、去って行きました。先に何が待っているか分からない。でも神様のなさることが悪いことであるはずがない。途中で試練があるかもしれないが、最後の最後には必ずよくして下さるに違いない。愛する神様を信頼して、自分の全てをゆだねよう。神様に従おう。これがマリアの深い信仰です。

 マリアと、創世記に登場する人類最初の女性エバと比べることができます。エバは神様の戒めに背き、罪を犯しました。エバは、神様に不従順に生きたのです。マリアはその正反対に、神様に従順に従いました。エバが目指した方向とマリアが目指した方向は正反対です。もちろんマリアの生き方の方がはるかによいのです。

 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」この聖句を愛した女性に北原怜子(さとこ)というカトリックの信徒の方がおられました。情熱あふれるクリスチャンだったようです。「アリの街のマリア」と呼ばれました(以下は、酒井友身著『アリの街のマリア ―北原怜子の生涯』女子パウロ会、1999年による)。戦後の東京の隅田川のほとりに非常に貧しい廃品回収業者の街「アリの街」がありました。「とても貧しくても、アリのように助け合えば自立できる」という理念による街の名だそうです。20才で洗礼を受けた北原さんの洗礼名はエリサベト、堅信名がマリア。洗礼者ヨハネの母の名とイエス様の母の名です。良家のお嬢さんでしたが、この街に飛び込み、ゼノ修道士(若い日には長崎でコルベ神父と働いた方)と活動します。貧しい子どもたちとクリスマス会を行い、勉強を教えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」の聖句を愛しました。マリアのように神様に従いたいと切望したのでしょう。

 でもあるとき、人を助けることは傲慢だと指摘されます。その人に言われて、コリントの信徒への手紙(二)8:9を読みます。これはクリスマスの本質を言い当てる御言葉です。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」その人は言ったのです。「人を助けるのではなく、なぜアリの街の人々と一緒に苦しもうとしないのです。なぜ一緒に苦労を分かち合おうとしないのですか。」その後、街の人々と共にリヤカーを引いて廃品回収を始め、汗とほこりにまみれ、小さい子を風呂に入れるなど奉仕します。本当に街の一員になったのです。しかし、なお残る名誉欲に悩み、ゼノ修道士のアドヴァイスを受けます。「イエス様は、『わたしは道である』と言われた。人は目的地に着くと道を忘れる。それでよい。自分の使命を果たしたら、もうそれにこだわってはいけない。」北原さんは「道になろう」と決心します。イエス様を愛し、アリの街の人々を愛して生き、あまり丈夫でなかったので28才で天に召されました。マリアさんのように生きたいと願った生涯だったのでしょう。

 本日のルカによる福音書の後半に、「マリアの賛歌」が記されています。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ」、と聖霊に満たされたマリアが語ります。私の人生最大の驚きの一つは、1991年のソビエト連邦の崩壊です。もちろん今もロシアという形で存在していますが、それでもあの超大国ソ連が消えるとは、大きな驚きでした。共産主義国家ソ連は、ロシア正教(キリスト教会)を弾圧し滅ぼそうとしましたが、滅びなかったのです。今は中国が似たことを行っています。神の力は偉大です。多くの権力者が滅びました。神様は「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ」られます。私たちは思い上がることなく、マリアさんのような生き方で生きてゆきたいのです。アーメン(「真実に」)。

2018-12-13 16:15:28(木)
「受けるより与える方が幸い」 伝道メッセージ 石田真一郎
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(イエス・キリスト。新約聖書・マルコによる福音書10章36節) 

 どんなに自分の欲望を満たしても、永遠の命を失って天国に入れなければ意味がありません。反対に貧しくてもイエス様に従い、神様と隣人を(さらに敵を)愛すれば天国につながり、真の意味で幸せな人生になります。

 ロシアの文豪トルストイが、『人にはどれだけの土地がいるか』という物語を書いています(中村白葉訳『イワンのばか』岩波文庫、2012年、所収)。絵本にもなっています。パホームという土地なしの農夫がいました。少しの土地を持ちました。しばらくすると、もう少し欲しくなるのです。ある村長(実は悪魔)が耳寄りな話を持ちかけます。千ルーブリで、パホームが一日に歩いて回った土地を全部くれるというのです。ただ一つの条件は、朝出発して、日没までに元の場所に戻ることです。

 パホームの心は燃え上がり、翌朝早く出発します。「1分も無駄にしない」決心です。要所に自分が歩いた証拠を残します。ずんずん進み正午になります。眠くなりますが昼寝はしません。「一時間の辛抱が一生の得になるんだ。」疲れて来ましたが、見ると太陽が落ち始めます。「欲張りすぎたかな。」彼は戻る足を速めます。太陽は落ち始めると速い。彼は焦って走ります。太陽との競争です。村長が腹を抱えて笑っています。最後の力を振り絞って元の場所に倒れ込みます。村長が叫びます。「やあ偉い。土地を自分のものにしたね!」でもパホームの心臓は止まったのです。人々が墓穴を掘って埋めました。『人にはどれだけの土地がいるか。』それだけの土地で十分だという皮肉な物語です。悪魔の誘惑、自分の欲に負けて自滅した男の話です。私たちがこうならないための愛の警告です。

 神の子イエス様は言われます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ福音書12章21節)。「神の前に豊かになる」とは、神様と他の人に奉仕する生き方です。喜んで与える生き方です。イエス様は「受けるよりは与える方が幸い」とも言われます。真の意味で幸せな生き方です。ご一緒にこの生き方をめざしましょう。アーメン(「真実に」)。

2018-12-13 0:26:30(木)
「ザカリアの讃美」 アドヴェント(待降節)第2主日礼拝 説教要旨
聖書:出エジプト記4章11~12節、ルカ福音書1章5~25節、57~66節

 本日の主な人物は、洗礼者ヨハネの父となった祭司ザカリアです。ザカリアという名は、「神は覚えている」の意味だそうです。長年子宝に恵まれなかったザカリアとエリサベト夫婦を神様は覚えておられたのです。ある牧師の方が説教に「神はあなたを忘れない」という題をつけておられました。本当によい題だと思います。ヘブライ人への手紙6:10にこうあります。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。」神様は私たちを決して忘れない方、私たちをいつも覚えていて下さる方です。「神に見放された」と思う時があるかもしれません。しかしその時でも、神様は私たちを覚えておられます。

 ザカリアとエリサベトの夫婦は年をとっていました。私の想像ですが、ザカリアは53才くらい、エリサベトは50才くらいだったのではないかと思います。「ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。」これは一生に一度の務めだそうです。当時1万8000人の祭司がいたそうです。ザカリアは光栄な時を与えられたのです。香壇は、至聖所(最も聖なる空間)に入る隔ての幕の少し手前にあったようです。至聖所には年に一度、大祭司だけが入ることができます。香をたく務めは、聖別された祭司だけが行うことができます。一般の人がこれを行えば、聖なる神に撃たれて死ぬ恐れがあります。

 ザカリアのそばに天使ガブリエルが現れたのです。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や濃い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。」ところがザカリアがそれに疑問を述べました。

 すると天使ガブリエルは、「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」信仰深いザカリアでさえ、罪を犯してしまいました。神様が私たちに口を与えて下さいました。神様は「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか」(出エジプト記4:11)と語られます。私たちの口は、神様を讃美し、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を」語る(エフェソの信徒への手紙4:29)ために与えられているはずです。もちろん時には愛をこめて苦言を語ることもあるでしょう。しかし私たちの現実は「舌で、父である主を讃美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪」う(ヤコブの手紙3:9)かもしれないのです。ザカリアの口にも罪があり、私たちの口にも残念ながら罪があります。

 でも神様はザカリアを洗礼者ヨハネの父となる栄誉を取り消さず、栄誉を与えて下さいました。赤ちゃんが生まれるまでの10ヶ月間、ザカリアは自分の不信仰の罪を、深く悔い改めたに違いありません。赤ちゃんが生まれたとき、人々は父の名をとってザカリアと名付けようとしましたが、エリサベトは天使の指示に従って、ヨハネと名付けると言い、ザカリアも板に、「この子の名はヨハネ」と書きました。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めたのです。ザカリアに聖霊が降ったと思います。ザカリアの口は、神を賛美するよき目的に用いられました。

 私は以前、韓国人テノール歌手ベー・チェチョルさん(クリスチャン)の著書『奇跡の歌 声を失った天才テノール歌手の復活』(いのちのことばフォレストブック、2009年)を読みました。この方は甲状腺のご病気になられ、手術で声を出すに必要な3つの神経を切断なさったそうです。しかし日本人医師により再建手術を受け、手術中に「何か歌って下さい」と言われ、「輝く日を仰ぐとき」という讃美歌を歌われました。最初の手術の後、声がうまく出ないとき、「もう一度歌わせてくださったら、最初にあなたのために歌います」と神様に祈られたのでした(同書、64ページ)。こう書いておられます。「なぜ神は私に、ヨーロッパの舞台でオペラを歌えるほどの声を与えてくださったのかを考えてみました。~『まず神のためにこの声を生かさなければならない。神を歌でほめたたえることが私の使命だ』と思ったのです。私は、その才能を自分の持ち物のように使っていたことを悔い改めたのでした」(同書、65ページ)。ザカリアに似ている面がある、と思うのです。

 マザー・テレサは、「私は神の鉛筆」と語られたと聞きます。マザー・テレサをお用いになって神様が御心を実行なさるということです。私たちも神様の手足としてお仕え致します。この後、『讃美歌21』の512番を讃美致します。2節「主よ、献げます、私の手足、みわざのために 用いてください。差しのべる手を、愛の手として、平和伝える 主の足として。」3節「主よ、献げます、私の声を。あなたのみ名を ほめ歌います。この唇を よいおとずれで あふれるばかり 満たしてください。」心をこめて歌いましょう。アーメン(「真実に」)。

2018-12-07 0:43:17(金)
「敵を愛しなさい」 アドヴェント(待降節)第1主日礼拝 説教要旨
聖書:サムエル記・下16章5~12節、マタイ福音書5章38~48節

 アドヴェント(待降節)第1主日の礼拝です。3週間後にイエス・キリストのご降誕を祝うクリスマス礼拝を献げます。アドヴェントはラテン語で「来る、到来する」の意味です。イエス様は約2000年前に私たちの世界に来て下さいました。そして必ずもう一度来られて、「最後の審判」を行われ、神の国が完成されます。アドヴェントは英語のアドヴェンチャーの語源です。アドヴェンチャーは冒険、危険を冒すことです。イエス様は、敵対する悪魔が力を振るうこの世界に、あえて危険を冒して誕生して下さいました。私たちを愛し、私たちを罪と悪と死の支配から救い出すためです。これがクリスマスです。暫く前にシリアで日本人ジャーナリストの方が解放されました。本当によかったと思います。今、シリアに行くことは危険を冒すことだと私たちは痛感しています。外国人がシリアに行けば人質にされる可能性があり、殺される恐れもあります。イエス様がこの世界に誕生されたことも、似た危険を冒す行為だったと思います。実際イエス様は、生まれてすぐヘロデ大王に命を狙われましたし、33才くらいのときに十字架で殺されたのです。もちろん三日目に復活なさいましたが。

 本日は、そのイエス様が教えられた山上の説教を読んでいます。山上の説教の中でも有名な箇所です。イエス様は言われます。「あなたがたも聞いているとおり、(旧約聖書で)『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」これは仕返し、復讐の禁止です。暴力で暴力に対抗するな、ということです。これは弱虫の生き方でしょうか。違います。これはゆるしの教えと思います。他人から害を受けてゆするのは、とても辛いことです。仕返しすればすかっとします。でもあえて仕返しをしないでゆるすことは、非常な忍耐を要すること、気高いこと、真の意味で強い人の道、真の勇者の道だと思うのです。箴言19章11節に、「背きを赦すことは人に輝きをそえる」という御言葉を見つけました。感銘を受ける御言葉です。

 「悪人に手向かってはならない。」イエス様がまさにそのように生きられました。ご自分を十字架につける人々に抵抗せず、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。「悪人に手向かってはならない。」イエス様の使徒パウロが、この御言葉の意図を教えてくれます。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐(正しい裁き)はわたし(神様)のすること、わたしが報復する(正しく裁く)』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』(箴言25章21~22節。敵が恥じ入る)。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマの信徒への手紙12章17~21節)。暴力で暴力に対抗せず、善をもって悪に勝て、愛をもって悪に勝て、というのです。私たちは相手に振り回されず、常に愛と善を実行すればよいのです。神様ご自身(あるいは神の子イエス様)が「最後の審判」を行われます。

 トルストイ原作の『火は早めに消さないと』(柳川茂文、いのちのことば社フォレストブックス、2007年)という作品があります。小さなことから争いを始めた2つの家の争いがエスカレートし、遂には放火にまで至る物語です。争いのただ中にあるイワン。イワンの父親が彼を諭します。「神さまはわしらに教えてくだすった。片方のほおをたたかれたら、もう片方のほおをだせってな。いくらでもたたかせるがええ。そのうち、相手の良心がとがめてくるもんじゃ。」

 イエス様はさらに言われます。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」私は先々週、この教会が属する日本キリスト教団西東京教区の伝道協議会に参加しました。講師の方、以前ご自分の教会内でである方とうまくいかなかった経験を語って下さいました。そして「自分の嫌いな人のためにお祈りすることが大切」との意味のことを語られました。クリスチャンは自分だけのために祈りません。とりなしの祈りを致します。好きな人のためだけでなく、ウマが合わない人のために祈る、ウマが合わない人のためにこそ祝福を祈ることが大切と信じます。

 私は藤井輝明さんとおっしゃる方が書かれた『運命の顔』という本を持っています(草思社、2003年)。私は1990年頃に茨城県でこの方とお話をしたことがあります。私がお誘いしたところ、私が通っていた教会にも一度来て下さいました。お顔の血管腫でご苦労なさった方です。こう書いておられます(221~223ページ)。「信じられないかもしれませんが、私の顔を見て、ツバを吐きかけてくる人もいるのです。」「かつては目いっぱいの怒りを視線に込めて、にらみ返していました。」「ときどき私はあることを試すようになりました。それは、笑顔でおじぎを返すことです。~あわてて視線をそらす人や、気まずそうにうつむく人など、反応はさまざまです。けれども、なかには私につられて笑顔になる人や、おじぎを返してくれる人もいるのです。」私は感嘆します。これこそ、「善をもって悪に勝つ」生き方だと。

 日本キリスト教団出版局が発行している『こころの友』(2018年10月号)に、心に残る文章を見つけました。神奈川県の石丸泰信牧師の文章です。「信念のない人の口癖は『だから』です。相手が親切にしてくれた。『だから』わたしも親切にしよう。~あの人が自分の陰口を言った。『だから』わたしも言う。~信念を持って生きる人は違います。周りがどうであれ、わたしはわたしなのです。信念、つまり生き方の土台を持っている人の口癖は、『しかし』です。あの人はわたしに冷たい。『しかし』わたしは助けよう、というように。」とても教えられました。

 もう一つ。私はしばらく前に東京都港区高輪の泉岳寺に行きました。赤穂浪士とその主君・浅野内匠頭の墓があります。赤穂浪士の話は今でもテレビドラマなどになります。私は歴史好きですので、以前は赤穂浪士の話(忠臣蔵)も割に好きでした。でもこれは赤穂浪士が主君のかたき討ちをした出来事です。当時(18世紀初頭)の日本では、家臣が主君のかたき討ちを行うことは忠義でよいことという価値観があったのでしょう。でもイエス様が、「悪人に手向かってはならない。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃっていることとは矛盾します。私はクリスチャンとしては、赤穂浪士の行動を義挙と肯定することはできないと、今は思うのです。アーメン(「真実に」)。

2018-11-29 2:37:10(木)
「喜んで与えるキリストの愛」  「はじめて聞く人にわかる聖書の話」礼拝(第18回) 説教要旨
聖書:ルカによる福音書12章13~21節

 イエス様は言われます。「どんな貪欲(どんよく)にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」その通りです。どんなに多くのお金を持っていても、お金で永遠の命を買うことはできません。使徒言行録8章に登場するシモンという魔術師は、お金を持って来てイエス様の弟子ペトロとヨハネに言ったのです。「わたしが手を置けば、だれでも聖書が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」神様の聖なる賜物をお金で手に入れようとした、お金で買おうとしたのです。神様への甚だしい冒瀆です。愛もお金で買うことはできません。旧約聖書の雅歌8章7節に、「愛を支配しようと財宝などを差し出す人があれば、その人は必ずさげすまれる」とあります。

 イエス様はこうも言われます。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイによる福音書16:26)。日本に最初に(16世紀半ばに)イエス・キリストを伝えたフランシスコ・ザビエルは、この御言葉にも励まされてヨーロッパから東洋伝道に出発したと聞きます。貪欲が大きいな問題です。

 モーセの十戒の第十の戒めはこうです。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」これは貪欲を戒める言葉です。旧約聖書の民数記11章に、エジプトを脱出した神の民イスラエルが不平不満を言う場面があります。すると神様は食べきれないほどのうずらを落として下さいました。「肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた。そのためその場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている。貪欲な人々をそこに葬ったからである」と書かれています。貪欲は私たちを滅ぼす罪となります。

 戦国時代のヒーローに豊臣秀吉がいます。彼は大坂城に多くの金銀を蓄えていたそうです。朝鮮半島に二度も軍隊を送り、侵略し、多くの現地の人々が殺されました。自分の住まいには大勢の側室を置いていました。非常に貪欲だったのです。そしてキリスト教徒を迫害し、殉教の死に追いやりました。これだけ罪を犯したので、すんなり天国に入ることができたかどうかは疑問です。

 『ビルマの竪琴』(ポプラ社文庫、1994年)という名作の物語があります。作者は竹山道雄です。主人公の水島上等兵が次のように語ります(228ページ)。「わが国は戦争をして、敗けて、くるしんでいます。それはむだな欲をだしたからです、思いあがったあまり、人間としてのもっともたいせつなものを忘れたからです。」これは作者の思いに違いありません。大長編『徳川家康』を執筆した山岡荘八は、「戦乱の根は各自の飽くなき『所有欲』にある」と東洋の先哲は喝破したと述べています(『徳川家康 26』講談社、2009年、498ページ)。

 イエス様は貪欲を戒めるたとえ話を語られます。「ある金持ちに畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 トルストイというロシアの文豪が『人にはどれだけの土地がいるか』という作品を書いています。悪魔の誘惑に負け、自分の貪欲に負けて自滅した男の物語です。もしかするとイエス様のこのたとえ話をヒントに書いたのかもしれません。先週は著名な経営者が逮捕されました。まだ裁判が始まったわけでもないので決めつけてはいけませんが、かなりお金持ちのようです。貪欲の罪に陥ってしまったように思えます。

 私は自分を見つめて思います。「自分のために富を積んでいないだろうか。神の前に豊かになっているだろうか?」神の前に豊かになる生き方、それは神様から預けられたお金・労力・時間を独り占めせず、ほかの方々と分かち合う生き方です。イエス様の使徒であるパウロは述べます。「わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」(使徒言行録20:34~35)。

 パウロは次のように書いています。「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです」(コリントの信徒への手紙(二)8:12)、「喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(同9:7)。

 イエス様は言われます。「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」(ルカによる福音書6:38)。旧約聖書の箴言11:25にはこうあります。「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。」イエス様の愛はまさに「喜んで与える愛」です。ヨハネによる福音書によると、神の子イエス様は私たちの罪をすべて背負うために進んで十字架におかかりになりました。積極的にご自分の尊い命を、私たちにプレゼントして下さったのです。

 つい自分のためにため込みたくなる私たちかもしれませんが、「神の前に豊かになる」真の意味で自由な生き方へと進みたいのです。アーメン(「真実に」)。