日本キリスト教団 東久留米教会

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2022-04-10 0:11:49()
説教「イエス様は本当に神の子」 2022年4月10日(日)礼拝
礼拝順序:招詞 ローマ6:3~4、頌栄85、「主の祈り」,使徒信条、讃美歌21・311(4節まで)、聖書 詩編22:1~22(旧約852ページ)、マルコによる福音書15:21~41(新約95ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・306、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(詩編22:1~22) ダビデの詩。】わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め  わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。

(マルコによる福音書15:21~41) そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。(†底本に節が欠落 異本訳)こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

(説教) 本日は、受難節(レント)第6主日の礼拝、今週は受難週です。今週の木曜日は、イエス様が弟子たちの足を洗って下さったことを記念する洗足木曜日、金曜日はイエス様が私たちの罪を全部背負って十字架で死なれたことを記念する受難日(受苦日)です。そして次週の日曜日が、イエス様の復活を祝うイースター礼拝です。昨年のイースター直前の日曜日は、マタイによる福音書で十字架の箇所を読んだので、今年はマタイではなく、マルコ福音書の十字架の箇所を選びました。

 最初の21節「そこへ、アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」突然何の説明もなく出て来るアレクサンドロとルフォスという兄弟は、マルコ福音書が書かれた頃の教会では、よく知られた二人だったと考えられています。だから突然何の説明もなく出て来るようです。その父シモンは、北アフリカのキレネ(今のリビア辺り)で生まれたユダヤ人です。ユダヤ人最大の祭り・過越祭のためにイスラエルのエルサレムに来ていたと思われます。イエス・キリストとの出会いにも、色々な形があるのですね。シモンの場合は、十字架を背負うイエス様とその周りのローマ兵に鉢合わせしたことが、イエス様との出会いになりました。シモンは、疲れておられたイエス様に変わって、無理に十字架を担がせられました。それでイエス様に出会い、一家四人でイエス様を救い主と信じるクリスチャンになり、
一家四人が永遠の命を受けたようです。新約聖書のローマの信徒への手紙16章で、伝道者パウロが、ローマのクリスチャンたちの名を多く挙げています。パウロはそこで、「主(イエス様)に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女は私にとっても母なのです。」このルフォスが、十字架を背負ったシモンの息子のルフォスの可能性があると言われます。パウロはルフォスの母について「彼女は私にとっても母なのです」言うほどルフォスを母親を信頼しており、その母親は、十字架を背負ったシモンの妻だったと思われます。この一家は、初期の教会で割に有名な一家だった可能性があります。シモンにとって、イエス様の代わりに十字架を担がされたことは嫌なことだったでしょうが、結果的には大きな恵みでした。これによって一家四人がイエス様を救い主と信じ、クリスチャンになり、永遠の命を受けたからです。

 昔のクリスチャンが言った言葉に「強いられた恩寵」という言葉があります。「強いられた恵み」と言っても同じです。教会で慣れない奉仕等を依頼されたときに、最初は気が進まなかったが、行ってみると自分の信仰の成長に役立ち、「させていただいてよかった」と思うことがあると思います。それを「強いられた恩寵」、「強いられた恵み」と呼ぶことがあります。もちろん、どうしても無理な場合は、断ることもあると思います。シモンが、イエス様の十字架を代わりに担がされたのは、まさに「強いられた恩寵」でした。このことによって自分も家族も、イエス様がもたらして下さった永遠の命をいただく結果になったのですから。

 イエス様の代わりに十字架を背負って歩くシモンの姿は、イエス・キリストの弟子の姿を象徴しています。私たちクリスチャンは、皆イエス様の弟子です。「信者であるが弟子ではない」ということはできません。現に新約聖書の使徒言行録は、クリスチャンのことを「弟子」と呼んでいます。私たちは皆、イエス様の弟子たちです。イエス様は、このマルコ福音書8章で、ペトロたち弟子たちに言われました。
「人の子(ご自分)は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話になった。」イエス様にとって、十字架は思いがけないことではありません。前前からご自分の使命として覚悟しておられました。さらに言われました。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」こうおっしゃって、私たちに「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と語り、私たちを招いて下さっています。私たちの罪の本質は、自己中心です。エゴイズムです。でもエゴイズムに生きると、永遠の命に達しません。私どもの心に巣くうエゴイズムをできるだけ捨てて、父なる神様を愛し、隣人を愛し、そして自分のことをも正しく愛して(決してエゴイズムではなく)生きる。この生き方こそイエス様に従う生き方で、永遠の命、復活の命に至ります。本当に十字架を背負って歩くシモンの姿が、私たちイエス様の弟子の生き方を象徴しています。

 進みます。22~23節「そして、イエスをゴルゴタという所―その意味は『されこうべの場所』―に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。」これを飲むと、多少の麻酔効果があるようです。でもイエス様は、それを飲まなかった。苦難を和らげようとなさいません。真向から十字架にかかる。大変な勇気です。十字架の苦難は、釘を打ち付けられる痛みもありますが、それが本質ではありません。全ての人間たちの罪の責任を全部身代わりに背負って、父なる神様の聖なる怒り、聖なる裁きを受ける。その苦しみです。その苦しみを、イエス様は十字架の上で少しのごまかしもなしに、全部まともに受けきって下さいました。

 24節「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った。だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。」これは、本日の旧約聖書である詩編22編の御言葉の実現です。兵士たちはローマ軍の兵士で、詩編22編を知らなかったでしょう。でも彼らは父なる神様の御手の中にあって、気づかないで父なる神様の御言葉を実行しているのです。詩編22編は、イエス様の時代よりずっと前に書かれて詩編であるにもかかわらず、イエス様の十字架を予告したとしか思えない内容です。本日のマルコ福音書の御言葉と非常に深く響き合っています。その18~19節にこうあります。「骨が数えられるほどになった私の体を、彼らはさらしものにして眺め、私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」詩編22編は、まさにイエス様が私たちのつ身を背負って十字架で死んで下さることが、旧約聖書の時代からの、いえもっと昔から(天地創造の時からの)父なる神様のご意志・ご計画であることをはっきり示していると信じます。

 25節以下。「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、『ユダヤ人の王』と書いてあった。」イエス様は、ユダヤ人の王で、日本人の真の王、ロシア人の真の王、ウクライナ人の真の王、世界中の人々の真の王です。十字架の死と復活を経て、今は天に生きておられる世界の真の王イエス様は、世の終わりにもう一度地上に来られて、歴史を終わらせ、神の国を完成させて下さいます。私たちはこのイエス・キリストの再臨を待ち望みつつ信仰生活を送っています。

 「また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。こうして、『その人は犯罪人の一人に数えられた』という聖書の言葉が実現した。」これは旧約聖書イザヤ書53章の実現です。イザヤ書53章は、詩編22編と並んで、イエス様の十字架を明らかに予告した御言葉として重要ですね。その最後の12節にこうあります。「彼(イエス様)が自らをなげうち死んで、罪人(つみびと)の一人に数えられたからだ。多くの人(私たち)の過ちを担い、背いた者(私たち)のために執り成しをしたのは、この人であった。」

 この後、イエス様は人々に嘲られますが、じっと忍耐して沈黙されます。イザヤ書53章7節に「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった」とある通りにです。マルコ福音書は29節以下で記します。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。』同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア(救い主)、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。』一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。」侮辱されて、イエス様も悔しく辛かったはずです。しかし忍耐して沈黙を貫いておられます。イエス様にとって「十字架から降りて自分を救ってみろ」と言われることは誘惑です。イエス様は神の子としての力を使って奇跡を起こし、すぐに十字架から降りることができるからです。しかしそうすれば、私たち皆の全部の罪を背負って死ぬ使命が果たされません。ですから奇跡の力を敢えて封印して、十字架の上にとどまられます。

 「十字架から降りて来い。」これは悪魔の誘惑・挑発です。悪魔が働いて人々にこう言わせています。これを聞いてイエス様が悔しがって十字架から降りれば、悪魔の勝ちです。イエス様の使命を失敗させることになるからです。悪魔はそれを狙っています。でもイエス様は、その手に乗りません。どんなに悔しくても、死に至るまで十字架の上で耐える覚悟です。そして遂に十字架で死なれ、私たちの罪の責任を100%背負いきる使命を成し遂げて下さいました。悪魔の誘惑に100%勝利したので悪魔はイエス様に完全に敗北し、今はまだあがいていますが、最後に神様によって滅亡させられることが決まっています。

 次の小見出しは「イエスの死」です。「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である。」真昼に全地が暗くなりました。これは天変地異です。罪なき神の子が死ぬことはある意味、異常事態です。それを示す天変地異ではないでしょうか。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」この叫びは、昔から謎と思う人々もいたようです。でもやはり私は、イエス様は本当に十字架で父なる神様から見捨てられたと思うのです。父なる神様は愛の方であると同時に聖なる方なので、私たち人間の罪と悪を憎んでおられます。父なる神様は、私たち罪人(つみびと)を愛して下さいますが、私たちの罪を憎んでおられます。罪を憎むことにおいては、父なる神様に妥協はありません。ですから十字架上のイエス様は、私たち皆の罪を身代わりに全部背負ったのですから、父なる神様からの妥協なき裁きを受けました。それは辛かったと思います。父なる神様からの憐れみは、完全に取り除かれる完全な裁きを受けられたはずです。過去に生きた全ての人、今生きている全ての人、将来生きる全ての人の罪を全部背負い、全員分の死を死んだ。地獄の地獄の地獄に経験だったでしょう。私たちに想像もできない経験です。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」は、その経験をなさった叫びです。しかしこの十字架の死によって、イエス様の使命は完全に成し遂げられました。十字架による贖いは、完全です。私たち罪人(つみびと)にとって、実にありがたいことです。このイエス様のお陰で、イエス様を救い主と信じて自分の罪を悔い改めることで、私たちは確実に天国に入れていただけます。

 37節「イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」ルカによる福音書によると、イエス様の十字架上の最後の言葉は「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」ヨハネ福音書では、イエス様の最後の言葉は「成し遂げられた」です。ですからイエス様の十字架上の最後の言葉は、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」ではありません。「父よ、私の霊を御手に委ねます」は多くの苦難を経ても、父なる神様への信頼を維持しきっている言葉、「成し遂げられた」は、人々の全部の罪を担う使命を完全に成し遂げた、ということです。イエス様は肯定的な思いを抱いて、息を引き取られました。

 すると神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。エルサレムの神殿がもはや不要になったことを意味します。神殿ではおそらく毎日、人間の罪の責任をいけにえの動物に背負わせて、動物を屠って神様に献げていました。でも動物のいけにえでは不十分でした。全く罪のない神の子が犠牲のいけにえにならないと、全ての人間の全ての罪を完全に背負い切り、完全に贖い、完全に解決することはできないのです。そこで全く罪のない清らかそのものの神の子イエス・キリストが十字架に架かり、ご自分を完全ないけにえとして父なる神様に献げられました。もはやエルサレム神殿で、人間たちの罪の赦しを得るために、動物のいけにえを神様に献げることは不必要になりました。イエス・キリストを救い主と信じ、自分の罪を悔い改めるだけで、私たちは罪人(つみびと)であっても、父なる神様に近づくことができるようになりました。そのことを明らかにするために、神様が神殿の垂れ幕を真っ二つに引き裂かれました。もはや神殿は役目を終えたのです。イエス様の十字架の死によって、全ての人間の全ての罪の贖い(償い)が完成しました。イエス様の十字架の死と復活こそ、世界史上、最も重要な出来事です。世界史は紀元前と紀元後に分けられています。イエス様の誕生前が紀元前、イエス様の誕生後を紀元(後)としています。イエス様の誕生年を基準に分けています。厳密に言うと、その後の計算でイエス様の誕生は紀元1年でないと判明したようですが、イエス様の誕生年を世界史の基準年にしたという事実に大きな意味があります。

 全てを見ていたローマ軍の百人隊長が、イエス様がこのように息を引き取られたのを見て、言います。「本当に、この人は神の子だった」と。これが彼の実感でした。新約聖書には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と書かれています。それと同じで、聖霊によらなければ、この百人隊長は『本当に、この人は神の子だった』とは言えません。聖霊なる神様がこの百人隊長を「本当にこの人は神の子だった」という信仰告白に導かれたと信じます。自分のために奇跡を起こして十字架から降りるのが神の子ではありません。息を引き取るまで十字架の苦難に耐え続け、十字架を背負い切ることで、イエス様は真の神の子であることを証明されたのです。全ての方が、このイエス様を神の子・救い主と信じ告白して、永遠の命を受けて下さるように、切に祈ります。アーメン。

(祈り)御名賛美。受難週です。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナで亡くなる方が減り、コロナで亡くなる方がこれ以上出ないようにして下さい。コロナの新しい株をも静めて世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助けを。全ての病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたち。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに早く平和がもたらされますように、切に祈ります。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の愛と助けを。アーメン。

2022-04-03 1:14:58()
説教「沈黙と受難のイエス様」  2022年4月3日(日)礼拝
礼拝順序:招詞 ローマ6:3~4、頌栄29、「主の祈り」,使徒信条、讃美歌21・299、聖書 イザヤ書53:5~7(旧約1149ページ)、マタイによる福音書26:57~68(新約54ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・288、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書53:5~7)彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。

(マタイ福音書26:57~68)人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。

(説教) 本日は、受難節(レント)第5主日の礼拝です。来週は、イエス様が十字架にかかった受難週で、再来週の日曜日がイースター、イエス様の復活をお祝いする礼拝です。本日のマタイ福音書の小見出しは、「最高法院で裁判を受ける」です。

 ユダの裏切りによって、イエス様が捕らえられました。大祭司、祭司長たちや民の長老たちが遣わした群衆によってです。真夜中のことです。57~59節「人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。」祭司長たちと最高法院の全員は、イエス様は強く憎んでいたのですね。「死刑にしようとして」とありますから、イエス様を死刑にする目的を掲げて最高法院を招集したと言えます。「結論先にありき」です。本来裁判は、双方の言い分をよく聴き、証拠等を吟味して調べた上で、有罪無罪等の結論に至ると思います。何が真実かを、謙虚に捜し求めるのが裁判の本来の姿と思います。しかしこの裁判では、まず「イエス様を死刑にする」ことが最高法院の人々の心の中で決まっていて、その目的を達成するためには、手段を選ばない裁判のようです。これではまともな裁判とは言えません。

 「全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。」裁判は正しい証言によって成り立ちます。証言の証(あかし)という漢字は分解すると「正しく言う」です。ところが、彼らは「イエスにとって不利な偽証を求めた。」何と偽証、偽りの証言を求めたのです。目を疑いたくなります。モーセの十戒の第九の戒めに、「隣人に関して偽証してはならない」と書かれています。祭司長たちや長老たちはモーセの十戒をよくよく知っているのに、ここで「隣人に関して偽証してはならない」の戒めを正面から破ろうとしています。驚きます。偽証について、旧約聖書のレビ記19章16節に、こう書かれています。「民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。私は主である。」にもかかわらず、祭司長たちや最高法院の人々は、偽証人を求めます。証拠を捏造しても、イエス様を殺したいのです。暗黒裁判です。

 60節「偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。」偽証人が何人も現れたことも驚きです。証拠が得られなかったということは、偽証人同士の証言が一致せず、イエス様を有罪にする根拠を得られなかったということと思います。申命記19章15節には、こう書かれています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様の裁判で、このことがなかなかクリヤーできなかったのです。偽証人同士の証言が、食い違ったのです。しかし最後に二人の者が来て、「この男は『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げました。ここに初めて複数の証言が一致したのです。イエス様は確かに、このような発言をされたようです。ヨハネ福音書2章で「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言っておられます。でもこの場合の神殿は,イエス様の肉体のことです。イエス様の肉体は十字架上で裂かれるが、イエス様は三日目に肉体を含めて復活することの予告を、こう語られたのです。祭司長たち、長老たちや偽証人たちはそれを理解できず、イエス様が「エルサレムの神殿を壊す」と言ったと思ったのです。神殿を壊すとの発言を祭司長たちや長老たちは、神殿への冒瀆を受け止め、神殿を壊すとは許しがたい罪だと怒ったようです。

 ここで初めて二名の証言が一致したので、裁判が進みます。大祭司が立ち上がるのです。そしてイエス様にこう述べます。「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエス様は黙り続けておられました。イエス様は確かに、エルサレムに入った直後に、神殿を清められました。神殿が真の礼拝の場になっておらず、商売が行われたりして人間の欲望が幅をきかせる場になっていたからでしょう。商人を追い出しました。祭司長たちは悔い改めればよいのに、悔い改めず、イエス様を激しく憎みました。イエス様への殺意が芽生えたのです。この裁判は、真に政治的です。自分たちの神殿運営体制、権益を守るために、邪魔者のイエス様を排除することが目的なのです。男性ばかり集まってイエス様を抹殺する政治的な裁判を行っています。男性ばかり集まるとこのように政治的になりやすいのです。最高法院には女性は一人もいなかったのかもしれません。女性も多く最高法院にいれば、違う展開になったかもしれません。

 本日の説教題を「沈黙と受難のイエス様」としています。イエス様は反論せず、沈黙しておられます。父なる神様を信頼して、父なる神様に、全てを委ねておられるのです。今日の旧約聖書は、イエス様の十字架の贖いの死を予告しているイザヤ書53章です。その6~7節にこう書かれています。「私たちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」沈黙して、黙々と十字架に向かうイエス・キリストを、このイザヤ書53章は示しています。そこに予告された通り、イエス様は反論せず、黙り続けておられます。父なる神様を信頼して、父なる神様に、全てを任せておられるのです。

 大祭司が問います。「生ける神に誓って我々の答えよ。お前は神の子、メシア(救い主)なのか。」イエス様が初めて口を開かれます。「それは、あなたが言ったことです。」これは直訳です。分かりにくい答えです。でもこれを聞いた大祭司が激怒しています。ですから曖昧な答えはなく、明確な意味をもつ答えであるに違いありません。口語訳聖書は「あなたの言う通りである」と訳し、新改訳聖書は「あなたの言う通りです」と訳しています。ここでイエス様は、「私が神の子、私がメシア(救い主)」と宣言したのです。これを聞いて大祭司は、「神への冒瀆だ」と感じ、激しく怒ったのです。しかもイエス様はさらに進んで言われます。

 「しかし、私は言っておく。あなたたちはやがて、人の子(イエス様ご自身)が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」「神の右」とは神に最も近い所でしょう。雲は神様がそこにおられるシンボル。つまりイエス様はここで、ご自分は神に等しい者、神ご自身だと宣言されました。イエス様はここで、旧約聖書のダニエル書7章を用いて語っておられます。そこにはこうあります。「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』(父なる神様)の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。」ここに出て来る「人の子」は、世の終わりに現れる神にも等しい者です。イエス様は「ご自分こそ人の子だ」と宣言されました。私は神、「王の王、主の主」だと宣言されたのです。大祭司と最高法院の人々にとって、これは神への非常な冒瀆に聞こえました。しかし、イエス様は本当に神の子であり、父・子・聖霊なる三位一体の神様ご自身(子なる神)ですので、今の発言は真実であり、神への冒瀆ではありません。ですが大祭司と最高法院の人々にとっては、許しがたい冒瀆に聞こえました。65節「そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。『神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか。』」彼は今、私たちの目の前で神を冒瀆した。現行犯だ。もはや彼の過去の言葉や行いを述べる証人は必要ない。現行犯で有罪だというのです。「人々は、『死刑にすべきだ』と答えた。そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、『メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と言った。」平手で打たれ、殴られ、イエス様の受難が本格的に始まります。

 新約聖書のペトロの手紙(一)2章19節以下を思い出します。新約聖書431ページ上段。迫害等の苦難の中にあるクリスチャンを励ます御言葉です。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなた方が召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなた方は癒されました。あなた方は羊のようにさまよっていましたが、今は魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」

 マタイ福音書に戻ります。本日は次の小見出しの部分も少し読みました。一番弟子のペトロがイエス様のことを「知らない」という有名な場面です。イエス様の裁判の場面と、ペトロが「知らない」と言う場面は、実はセットになっていると言われます。対照的な場面としてセットになっていると言われます。イエス様は嘘や偽りを言うことができない方、真実な方です。自分がどんなに不当な目に遭いそうになっても、嘘や偽りで切り抜けることを決してなさらない方です。いつも真実しか語られない方です(もちろん弱い立場の人への思いやりは忘れない方です)。ですから、ご自分についても本当のこと、真実のみを語られました。「お前は神の子、メシアなのか」と問われた時に、言葉を濁してはっきり答えなければ、死刑を免れた可能性もゼロではないかもしれません。しかしそれをなさらず、「それは、あなたの言ったことです」と返答されました。やはりこれは「その通りです」の意味だと思います。どんなに不当な目に遭うと分かっていても、真実を語られました。さらに進んで「私は言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と言われました。全宇宙の主として、世の終わりにもう一度来ると宣言されました。嘘偽りなく本当のこと、真実を語られました。その結果殺されるとしても、真実のみを語り、嘘偽りで切り抜けようとなさらないのです。

 このイエス様の姿勢を、新約聖書のテモテへの手紙(二)2章13節が、こう記します。「私たちが誠実でなくとも、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否む(否定する)ことができないからである。」イエス様は嘘をつくことができません。ご自分がどんなに不利になっても、真実のみを語らます。ご自分が神の子であり、神に等しい者であることを語ると十字架で殺される。それでも偽りを言って苦難を免れることはなさらないのです。真実な方だからです。
 
 しかしペトロには、そこまでできませんでした。69~70節「ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、『あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた』と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、『何のことを言っているのか、私には分からない』と言った。」こうしてイエス様を知らないと三度言ってしまい、イエス様を三度裏切ってしまいます。わが身の安全が第一で、イエス様を知らないと言い、裏切ってしまいました。ユダのように積極的に裏切ったのではありませんが、消極的に裏切ってしまいました。ここに罪が全くなく勇気に満ちたイエス様と、罪人(つみびと)であるペトロが対比されています。イエス様はご自分がどんなに不当に不利になることが分かっていても、偽りを言わず、真実を貫かれます。ご自分が神の子、神に等しい者だと本当のことを言えば殺されると分かっていても、本当のことを言われます。「キリストはご自分を否むことができないからである。」しかしペトロはそうなれませんでした。私たちもイエス様とペトロのどちらに近いかと問われれば、イエス様のようでありたいと願いながらも、時々ペトロのようになってしまうこともあるのではないでしょうか。ペトロのよいところは、イエス様の三度知らないと言う罪を犯した後に、「鶏が三度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう、と言われたイエス様の言葉を思い出し、外に出て激しく泣いたことです。自分の罪に気づいて心の底から自分の罪を悔いる心。これだけだ私たちも失いたくありません。イエス様は、ペトロがご自分のことを知らないと三度も言ってしまう罪もよくご存じで、そのペトロの裏切りの罪の責任をも背負うために、十字架で死んで下さいました。 

 世の中には、様々な多くの苦難があります。イエス様の十字架の受難は、世界の全ての苦難と連帯する受難、いえ、世界の全ての受難を下から支る苦難(受難)fでした。「どんなときでも」というこどもさんびかがあります。メロディーは大人が作ったのですが、歌詞は福島県の教会の教会学校に来ていた高橋順子さんという7才の女の子が、今から半世紀ほど前に作ったと知りました。難病の中で、子どものうちに天国に行った女の子です。「どんなときでも、どんなときでも、苦しみに負けず、くじけてはならない。イエスさまの、イエスさまの、愛をしんじて。」「どんなときでも、どんなときでも、しあわせをのぞみ、くじけてはならない。イエスさまの、イエスさまの、愛があるから。」この歌詞で、自分を励ましていたのでしょう。ある大人の方が、70代になっても、この讃美歌でご自分を励ましたとの証しを、最近読みました。

 世の中に、多くの苦難がありますね。日本では11年前に東日本大震災の大きな苦難が起こりました。今も続いています。コロナによる受難、今のウクライナの受難があります。これらの全ての苦難が、イエス様と無関係ではない。イエス様がこれら全ての受難をも、十字架で背負って下さっている。そう信じます。先々週の礼拝でご紹介したアメリカにいるウクライナ人の牧師のメールメッセージを思います。「今、多くの理不尽な苦難がある。しかし最後に必ず来るのが神の国だ。」そう、イエス様の十字架の受難の三日目には、復活が来ます。現実がいかに暗いとしても、最後に必ず勝利するのは、イエス・キリストの愛です。必ず神の国が完成する。このことを確信して、この受難節の日々を過ごして参りたいのです。アーメン。

(祈り)御名賛美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナで亡くなる方が減り、コロナで亡くなる方がこれ以上出ないようにして下さい。コロナの新しい株をも静めて世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助けを。全ての病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたち。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに早く平和がもたらされますように、切に祈ります。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の愛と助けを。アーメン。

2022-03-26 23:56:57(土)
説教「剣を取る者は皆、剣で滅びる」  2022年3月27日(日)礼拝
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、頌栄28、「主の祈り」,使徒信条、讃美歌21・297、聖書 マタイによる福音書26:47~56(新約54ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・300、献金、頌栄27、祝祷。 

(マタイ福音書26:47~56) イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

(説教) 本日は、受難節(レント)第4主日の礼拝、そして「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第48回)です。先週の新約聖書の個所は、イエス様の十字架前夜の必死の祈りでした。場所がゲツセマネという所だったので、ゲツセマネの祈りと呼ばれています。その祈りが終わり、イエス様の十字架に向かう決意は、完全に揺るぎないものになりました。イエス様は、弟子たちに言われます。「立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。」

 今日の最初の47節「イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。」イエス様と弟子たちが激しく抵抗するだろうと予想して、大勢が剣や棒を持って武装して、イエス様を捕らえに来たのだと思います。「十二人の一人であるユダ。」この言い方は、ユダが十二弟子の一人であることを強調しています。
しかし、まさに十二弟子の一人であるそのユダが、イエス様を裏切ったのです。48節「イエスを裏切ろうとしていたユダは、『私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ』と、前もって合図を決めていた。」辺りは真っ暗だったと思います。写真zzzもない時代ですから、祭司長や長老たちもイエス様の顔立ちをはっきり知らなかたかもしれません。イエス様の身近にいたユダが、イエス様のお顔を一番よく知っていて、間違いなくイエス様を指し示すことができます。ここでユダは、積極的に計画的に裏切りを実行しています。「『私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ』と、前もって合図を決めていた」とあるので、計画的です。

 普通、接吻は愛情のしるしです。それがここでは裏切りに利用・悪用されています。このことは人間の罪深さを表しているように見えます。旧約聖書では、接吻が相手を油断させるために用いられた場面があります。サムエル記下20章です。ダビデ王が部下のヨアブに、反逆者シェバを追跡させたとき、ヨアブはシェバの家来アマサに出会います。ヨアブはアマサに、「兄弟、無事か」と声をかけ、口づけしようと右手でアマサのひげをつかみ、ヨアブは剣でアマサの下腹を突き刺しました。こうしてアマサは死にました。ヨアブは、接吻の素振りを見せることでアマサを一瞬油断させ、即座にアマサの下腹を突き刺し殺しました。接吻の悪用とも言えます。

 49節「ユダはすぐにイエスに近寄り、『先生、こんばんは』と言って接吻した。50節「イエスは、『友よ、しようとしていることをするがよい』と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。」イエス様はここから受難に入って行かれたと言えます。イエス様はユダに「友よ」と言われました。「友よ。」イエス様の方からは、この期に及んでもなお、友情を抱いていると表明されたのかもしれません。51節「そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。」ルカによる福音書では、イエス様が「やめなさい。もうそれでよい」と言われ、その耳に触れて癒されたと書いてあります。ヨハネ福音書では、大祭司の手下の耳を切り落としたのは、弟子のペトロだったと書かれています。

 そしてマタイの52節。「そこで、イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。』」「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」この後半の御言葉を、本日の説教題に致しました。「を取る者は皆、剣で滅びる。」これは今、プーチンの前で大きな声でいってあげたい御言葉です。そして私たちも、決して忘れてはいけない御言葉と信じます。イエス様は、武器を持って戦われません。イエス様は愛の祈りと聖書の言葉で戦われます。イエス様は、物理的な武力で戦われません。イエス様は素手です。イエス様が戦う真の敵は、人間ではなく悪魔です。私たちクリスチャンの敵も、究極的には人間ではなく、悪魔です。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」似た言葉は、創世記9章6節にもあります。神様が、ノアと彼の息子たちに言われます。「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」「剣を取って剣で人の血を流す者は、剣によって自分の血が流される結果になる」のです。

 イエス様は言われます。53~54節「私が父(父なる神様)にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団の天使を今すぐ送って下さるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」イエス様は、決して孤独ではないのです。目に見えなくても、十二軍団以上の天使たちに守られているに違いありません。イエス様が、父なる神様に祈れば、父なる神様が十二軍団の天使の大軍を送って助けることが、簡単に可能です。しかしそれでは、イエス様が十字架にかかって私たち皆の罪を背負うという、最も重要な使命を果たすことができなくなってしまいます。「必ずこうなると書かれいる聖書の言葉」の「必ず」と訳された言葉は「デイ」というギリシア語です。しばしば申し上げますように、この「デイ」は必然、神様の必然を表します。「神様の必然」それは、イエス・キリストが私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って、十字架にかかって死なれることに、ほかなりません。イエス様は、十字架の道を避けることはなさらないのです。十字架に進むためにも、あえて十二軍団以上の天使の助けを封印し、お受けにならないのです。

 55~56節「またそのとき、群衆に言われた。『まるで強盗に向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。私は毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちは私を捕らえなかった。このすべてのことが起こったは、預言者たちの書いたことが実現するためである。』このとき、弟子たち皆、イエスを見捨てて逃げてまった。」それはたとえば、先週の礼拝でも読んだイザヤ書53章(イエス様の十字架の死を予告した御言葉)が実現(成就)するためです。まるで大暴れする悪人を捕らえる大捕り物が起こるかのように予想して、群衆は剣や棒で武装して、イエス様を捕らえに来ました。しかしイエス様は暴れず、手向かいせず落ち着いて、堂々と捕らえられます。一見悪魔の横暴が支配しているように見えて、実は父なる神様のご計画が着々と進んでいます。イエス様が十字架の受難に至り、さらに三日目の復活が起こることこそが、父なる神様のご意志です。

 「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」私がこの御言葉から思い出すのは、旧約聖書サムエル記・上の少年ダビデと巨人ゴリアテの対決の場面です。少年ダビデは巨人ゴリアテに言います。「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。~全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことえを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」ダビデは小石を石投げ紐を使って飛ばし、ゴリアテの額を撃ち、石が額に食い込みます。小石1つと石投げ紐で巨人ゴリアテを倒したのです。剣も槍も使っていません。ダビデは日ごろから羊飼いとして羊たちを獅子や熊から守って来たので、ダビデはこの対決に勝ったと言えますが、これは神様の戦いでした。ゴリアテは神様に背く者だったので、神様がダビデに勝利を与えて下さいました。ダビデが神様に従い、ゴリアテが神に背く者だったので、神様がダビデに力を与えて下さり、ダビデが勝利しました。

 旧約聖書を読むと、時に戦争が出てきます。これは私にとって、大いなるつまずきでした。なぜ旧約聖書に、時に戦争が出て来るのか。非常に抵抗を感じ、疑問を覚えました。たとえばヨシュア記6章に、エジプトを脱出したイスラエルの民が、約40年後に約束の地・カナンの地に入り、エリコという町を占領する場面があります。エリコの町の城壁を崩すのですが、よく読むと城壁を武器で破壊していないようです。神様がイスラエルの民にこうおっしゃっています。「見よ、私はエリコとその王と勇士たちをあなた(ヨシュアというイスラエルのリーダー)に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七週し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民はそれぞれ、その場所から突入しなさい。」武器で攻撃して、城壁を崩していません。ただ神様の指示に従い、町の周りを行進し、最後に鬨の声を上げただけなのです。神様の力によって。城壁を崩したのです。その後、民が町に突入して、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものをことごとく剣にかけて滅ぼし尽くしたと書いてあり、驚きます。ですがこの町の住民が、様々な罪を犯していたので、聖なる神様に裁かれたと受け止めて、何とか納得することができました。

 旧約聖書のイスラエルの民が戦争に勝つとき、それは武力の強大さによって勝つのではなく、神様の力によって勝っています。神様に背いているときは、神様が味方して下さらないので、イスラエルの民は負けるのです。ということが分かりました。詩編33編16節以下には、こうあります。「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させて下さる。」武力を少し持っていたとしても、武力で勝つのではなく、あくまでも神様の力によって勝つのです。神様への祈りによって勝つとも言えます。神様に背いている時には、負けるのです。ゼカリヤ書4章6節には、次の御言葉があります。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。」武力、暴力、権力ではなく、神様の聖霊によって、神の言葉によって物事が進む必要があります。

 この旧約聖書の流れの中で、イエス様の生き方もあると見てよいのではないでしょうか。イエス様は、言われます。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」そして何も武器を持たず、丸越で捕らえられ、受難をひたすら忍耐し、ほとんど裸に近い形で十字架につけれるのです。イエス様の生き方は、ほぼ無抵抗で、敵を愛する生き方です。しかし決して悪に負けることはしません。悪に一切負けず、善をもって悪に勝つ生き方、愛によって悪に打ち勝つ生き方です。イエス様は、心が(魂が)非常に強いので、この生き方がおできになります。私たちも、聖霊によって心(魂)を強めていただき、少しずつでもこの生き方ができるとよいですね。それは、祈りによって現実の困難を1つ1つ乗り越えてゆく生き方になります。

 少し前に、ドイツ人のクリスチャンに会いました。私は33年前(1989年)のベルリンの壁崩壊のことを思い出し「あの時は奇跡のように感じた」と言いましたら、「多くの祈りがあったから」との答えが返って来ました。私はドイツに行ったことがありませんが、ベルリンの壁は私が生まれる前からあり、それを越えようとした多くの人々が射殺されたと聞いています。あの壁がなくなるなんて、あり得ないと感じていました。でも崩れた。あの時、教会も動いていたと聞きます。でもあの課がなくなるように、長年多くの人々が祈っていたことは間違いないと思います。それが遂に聞かれる時が来て、ベルリンの壁が崩れました。祈りの力だと信じます。祈りの力は、武力より強いのです。あのベルリンの壁を、崩壊させたのですから。
 
 黒人への人種差別に抗議したマルティン・ルーサー・キング牧師も、暴力に対して非暴力で抵抗しましたね。悪には負けない。しかし暴力によってではなく、非暴力によって言論とデモで抗議する。それはイエス様に従う道でした。但し、命がけの勇気と覚悟が必要です。相手は暴力で来るのですから。イエス様が十字架につけられたように、キング牧師も暗殺されました。それでも愛と善によって、悪に打ち勝つ生き方を目指したいのです。私たちはイエス様の弟子ですから。

 エフェソの信徒への手紙6章10節以下を読むのがよいと思います。小見出しは「悪と戦え」です。私たちの真の敵は、人間ではなく悪魔です。悪魔と戦うのですが、暴力で戦えとは言っていません。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。私たちの戦いは、血肉(人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかり立つことができるように、神の武具を身につけなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊(聖霊)に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」真理、正義、平和の福音、信仰、救い、神の言葉、祈りによって悪と戦えと言っています。暴力によってではなく。

 マザー・テレサが紛争地に行くことになったとき、周りの人々が心配して、武器を持って行く方がよいと言ったとき、マザー・テレサは断って、「私の武器は祈りです」と言ったそうですね。真に不思議なことに、マザー・テレサが行くと、一時戦闘が止まったとも聞きました。マザー・テレサは特別かもしれませんが、イエス様は確かにおっしゃいました。「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」私はプーチン氏は、このまま武力で押し通すならば、滅びると思っています。私どもは、暴力ではなく、あくまでも神の言葉と愛と正義と祈りによって、進んで参りたいのです。アーメン。

(祈り)御名賛美。
コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナで亡くなる方が減り、コロナで亡くなる方がこれ以上出ないようにして下さい。コロナの新しい株をも静めて世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助けを。全ての病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたち。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに早く平和がもたらされますように、切に祈ります。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の愛と助けを。アーメン。

2022-03-19 23:48:37(土)
「イエス様の十字架前夜の祈り」 2022年3月20日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、頌栄24、「主の祈り」、交読詩編なし,使徒信条、讃美歌21・482、聖書 ゼカリヤ書13:7~9(旧約1493ページ),マタイによる福音書26:31~46(新約53ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・303、献金、頌栄27、祝祷。 

(ゼカリヤ書13:7~9) 剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ/銀を精錬するように精錬し/金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え/「彼こそわたしの民」と言い/彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。

(マタイ福音書26:31~46) そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

(説教) 本日は、受難節(レント)第3主日の礼拝です。弟子たちはまだ、イエス様がまもなく十字架につけられることに気づいていません。イエス様だけがそれを知っておられます。イエス様は、数時間後に起こることを予告されます。31節「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『今夜、あなた方は皆私につまずく。「私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」と書いてあるからだ。』」これは本日の旧約聖書であるゼカリヤ書13章7節の引用です。そこにはこう書いてあり、こう預言されています。「羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。」羊飼いはもちろんイエス様を指します。羊の群れは弟子たちです。弟子のヨハネだけは、十字架の時、イエス様の足元にいましたが、ユダは自害したし、ペトロとあと9人の弟子たちは、イエス様の十字架の足元まで到底着いてゆくことができませんでした。イエス様はそうなることを見通しておられます。「しかし、私は復活した後、あなた方より先にガリラヤへ行く。」イエス様は十字架の苦難の後に、復活が与えられることも、見通しておられました。

 すると一番弟子のペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」ペトロは本気でそう言ったと思います。私は命をかけてイエス様に従う覚悟をしていると。気負っている感じもあります。しかし人間の頑張りと気負いだけでは、イエス様の十字架まで付き従うことはできなかったとも言えます。イエス様は、燃えて気負い立っているペトロを見て、彼のこの純粋な情熱的な気性を愛され、少し微笑を浮かべられたのではないかと思います。イエス様はペトロの情熱的な気性を愛されると同時に、ペトロがまだ気づいていないペトロの限界をも、ペトロより先に知っておられました。それで言われます。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が泣く前に、三度私のことを知らないと言うだろう。」そう言われてペトロは驚いたに違いありません。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い張りました。これもこのときの本心でした。他の弟子たちも皆、同じように言い募りました。ユダは既に、そっと去っていたのではないかと思います。

 次の小見出しは、「ゲツセマネで祈る」です。36節「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、『私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。」ゲツセマネとは、「油搾り」の意味だと聞いています。このゲツセマネで、イエス様はまさにご自分を搾り切るような祈りをなさいました。このゲツセマネという場所に、イエス様と弟子たちとはしばしば集まっていた場所ではないかと言われます。「私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。」8人の弟子たちはそこに座って残り、ペトロとヤコブとヨハネの三人を伴って進まれました。

 37節「ペトロおよびゼベダイの子二人(ヤコブとヨハネ)を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。」イエス様が悲しみもだえることは、やはり普通ではありません。ペトロとヤコブとヨハネの三人は、特に大切な時に、イエス様に同行を許される三人の弟子です。38節「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」イエス様が死ぬばかりに悲しいと、イエス様はこの三人いは特に心を許して、本心を隠さずに述べておられます。「ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」これからイエス様がもう少し先に進んで祈るので、「ペトロとヤコブとヨハネの三人にも目を覚まして援護の祈りをしてほしい、私と共に目を覚まして祈ってほしい」と言われました。イエス様は神の子であると同時に、人間です。人間でもあるイエス様は、悲しみ苦しみを覚え、愛する弟子たちに一緒に祈っていてほしかったのです。

 「私は死ぬばかりに悲しい。」原文を丁寧に見ると、「魂、心」という言葉があります。「私の魂は(心は)死ぬほど悲しい。」ルカによる福音書のこの場面を見ると、イエス様が切に祈って、汗が血の滴るように地面に落ちたと書かれていますね。神の子イエス様の必死の祈り、人生の正念場の祈り、一世一代の祈りです。十字架に進む直前の祈りです。ここを読むと、新約聖書のヘブライ人への手紙5章7節を思い出します。「キリストは、肉において(私たちと同じ肉体をもつ人間として)生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方(父なる神様)に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子(神の子)であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」ゲツセマネで祈ったイエス様は、三人の弟子たちにもそこまで見えませんでしたが、涙を流して、激しい叫び声をあげて祈られたのだと思います。御自分を死から救ってほしいと祈られたのです。

 イエス様は死を恐れられました。死の本当の恐ろしさを知っておられたからです。死の本当の恐ろしさ、それは命を造って下さる神様から完全に切り離されることです。人がなぜ死ぬかというと、その本当の理由を教えてくれるのは聖書だけです。私たち人間が、命を造られた神様に背き、神様に従わず、神様に罪を犯して結果、神様から離されて死ぬことになったのです。これが死の本当の意味です。現象としては病気や老衰で死にますが、それは本質ではありません。神様に背く罪を犯した結果、神様から離れてしまい、死ぬことになったのです。人間が罪を犯した結果死ぬことになり、自然界も狂い、動植物も死ぬことになりました。人間の責任です。ローマの信徒への手紙6章23節には「罪の支払う報酬は死である」という有名な言葉があります。イエス様は神の子ですから、父なる神様と完全に一体です。一度も罪を犯さないので、父なる神様と完全に一体の方、死と全く縁もゆかりもない方です。それだけに父なる神様から完全に切り離される死の本当の恐ろしさを、イエス様が一番よくお分かりになると言えます。私たちは罪人(つみびと)であり、自分の罪を完全には憎んでおらず、人間は死ぬものとややあきらめている面もあるのではないでしょうか。死を嫌っていても、死の真の恐ろしさを分かっていないので、イエス様ほどに死を恐れることができない鈍感な面もあるのではないでしょうか。自分の死は、自分の罪の結果なのだと突き詰めて考えず、自分をごまかしている面もあるのではないかと、私は自分を振り返って思います。しかしイエス様は違います。罪が全くない方、従って死ぬ理由が全然ない方なので、イエス様にとって死は完全に異質であり、あり得ないことです。しかし私たちの罪の責任を身代わりに背負て、十字架の上で死ぬことになっている。私たち罪人(つみびと)と違い、死ぬ理由の全くない方が、死なねばならない。イエス様こそ、死の真の恐ろしさ、父なる神様と完全に切り離される、生木が裂かれる苦痛を、誰よりも感じる方です。それで、十字架の死を前に深く悲しみ、深く恐れおののいておられます。

 「死ぬばかりに悲しい」とのイエス様のお言葉を聞くと、私たちを罪と死から救うイエス様の十字架の死を予告した旧約聖書のイザヤ書53章を思います。2~3節にこうあります。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」私たちが用いているこの新共同訳聖書に「痛み」と訳された言葉を、前の口語訳では「悲しみ」と訳しているのが印象的です。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。~まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを担った。」「傷ついた癒し人(びと)」という言葉がありますが、自分が病気をしたり、傷ついた経験のある人でないと、他人を癒すことができないということだと思います。イエス様こそ、まさに「傷ついた癒しびと」です。十字架に架けられ、身と心に多くの深い傷を負われたので、私たちを慰め、真の癒しを与えることがおできになります。ヘブライ人への手紙2章18節にも、「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」と書かれています。

 さて、イエス様の祈りです。39節「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯(十字架という苦き杯)を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。』」イエス様は、できることなら十字架を避けたいのです。イエス様は神の子で、父・子・聖霊なる三位一体の神様の「子なる神」ですが、私たちと同じ肉体をもつ人間でもあります。十字架が嬉しくないのは当たり前です。この苦難をできることなら避けたいのです。「この杯を私から過ぎ去らせて下さい」の祈りも、全身全霊で祈られたと思います。と同時に後半の祈りも全身全霊で祈られました。「しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」真に迫力のある祈りの場面です。

 この祈りの前半は、人間としてのイエス様の正直な願い、「父よ、できることなら、この杯(十字架)を私から過ぎ去らせて下さい。」後半もイエス様の本心・本音ですが、よりレベルの高い祈りと言えるでしょうか。「しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」どちらの祈りの比重が高いのでしょうか。最終的には後半の祈りの方が比重が高いのは確かです。しかし前半の祈りも決して身勝手な祈りではないと思います。私たちも正直な祈りをすることがダメとされてはいません。もちろんあまりにも自分勝手な願いは祈りにならないでしょうが、辛いことを助けてほしいと祈る正直な祈りがダメとされてはいません。

 フォーサイスというイギリスの牧師が書いた『祈りの精神』という祈りについての名著があります(斎藤剛毅訳、ヨルダン社、1986年)が、フォーサイスは「神様と格闘するような祈りこそ、聖書を支配する理想ではないか」と書いています。「神様と格闘するような祈りがなくなり、祈りが単なる神様との散歩になってしまうならば、最後には真実の祈りを失う。」「神に祈りの格闘を挑んで、神の御手に身を投げかけるべきである。神はこの聖き戦いを愛したもう。」「『御心が成りますように』は、単なる諦めの言葉ではない。」「キリストは、自分の死に抵抗し、最後の時が来るまでしばしば死を免れておられる。最後の時にも、キリストは避けられないと思われる死に対して全力を傾けて抵抗し、祈りを献げておられる。『御心ならば苦き杯を取り去りたまえ。』キリストは死の覚悟ができておられた。しかし、死は最後の場合であり、あらゆる手段がとられて、もはや死以外に道がない時に、死を甘受されたのであった。キリストは最後まで他の方策がありはしないかという希望を捨てられなかった。そしてついに自由意志に基づいて自発的に死んでゆかれたのである。」死に抵抗しつつも、もしそれが明確な神の意志ならば、喜んで服従する覚悟はもとよりあったのである。フォーサイスが言わんとすることは、この辛い現実から助けてほしいと現実と戦ったり、全力で祈らないで、簡単に「御心が成りますように」と祈ると、安易な祈りになってしまうということだと思います。神に服従することは諦めではない。「祈りは、魂の聖なる労働である。」「安易な福音は、キリスト教を衰亡させるものである」とフォーサイスは書きます。本当にその通りと、大いに励まされ、襟を正されます。

 40節「それから、弟子たちの所へ戻ってご覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。『あなた方はこのように、わずか一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』」一時とは約2時間だと聞いたことがあります。この世のイエス様の一回目の祈りは約2時間だったことになります。イエス様は徹夜で祈られました。私たちはなかなか徹夜の祈りはできないのではないでしょうか。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」しかし24時間眠らないで祈り続けることは難しい。でもいつも神様に従おう、悪魔に従わないようにしようと意識することは、かなりできるのではないでしょうか。

 42節「更に、二度目に向こうへ行って祈られた。『父よ、私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。』」一度目の祈りに比べて、イエス様の十字架に進む決心が強められたと感じます。43節「再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。44節「そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。三度目も「父よ、私が飲まない限りこの杯が去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と祈られたことになります。十字架に進む決意がいよいよ揺るぎないものになっています。イエス様もこのように三段階踏んで十字架に向かう決意を揺るぎないものにしておられるのを見ると、励まされますね。私たちも、いきなり大きな決心はなかなかできない。でも一歩ずつ一歩ずつ登れば、高い山も登りきることができます。

 45~46節のイエス様は、十字架に向かう勇気に満ちておられます。「それから弟子たちの所に戻って来て言われた。『あなた方はまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた(遂に十字架にかかる最も大切な時が来た)。人の子(ご自分)は罪人(つみびと)の手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。』」弟子たちに「あなた方はまだ眠っている」と言われますが、弟子たちの肉体の弱さをよくご存じなので、弟子たちを責めておられるのではないと思います。ヘブライ人への手紙4章15節には、「この大祭司(イエス様)は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです」と書かれています。

 私たちは「主の祈り」で、「御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ」といつも祈ります。「父なる神様、あなたの御心が成りますように」と祈っています。父なる神様の一番の御心は、イエス・キリストが十字架にかかることだったと信じます。イエス様が私たち皆の全部の罪を背負って十字架で死なれたことで、最も重要な御心が成し遂げられたのです。私たちの罪が完全に赦される道が開かれました。今や、自分の罪を悔い改めて、イエス様を自分の救い主と信じ告白する人は、人生で心ならずも犯す全部の罪を赦されて、永遠の命を受けます。本当に感謝です。私たちは、この安心の土台に立って「主の祈り」を祈ります。「御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ」と祈るのです。最も重要な御心は、イエス様が十字架で死なれることによって既に成し遂げられました。今、父なる神様の御心は、戦争がなくなること、様々な社会正義と愛が行われることと共に、イエス・キリストを救い主と信じる人が一人また一人と増えることだと信じます。せっかくイエス様がゲツセマネで、血を吐くような祈りをなさって十字架について下さったのですから、それを無駄にしてはいけないことはもちろんです。血を吐くような思いで祈り、十字架にかかって下さったイエス様を救い主と信じる方々が一人また一人与えられるように、私どもは救い主イエス様を宣べ伝えて参りましょう。

(祈り)御名賛美。 コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナで亡くなる方が減り、コロナで亡くなる方がこれ以上出ないようにして下さい。コロナの新しい株をも静めて世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助けを。全ての病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたち。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ウクライナに早く平和がもたらされますように、切に祈ります。ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の愛と助けを。アーメン。

2022-03-16 0:29:35(水)
3月 伝道メッセージ 石田真一郎(市内の保育園の「おたより」に掲載した文章)
 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(イエス・キリストが語った黄金律=ゴールデンルール。新約聖書・マタイ福音書7章12節)。

 昔イスラエルの都エルサレムを治めていたソロモン王が、語ったとされる物語です(聖書には出ていません。出典:クリス・スミス『ひとつのみやこ ふたりのきょうだい』日本キリスト教団出版局、2010年)。ソロモン王のもとに、土地の相続で争う二人の兄弟が助言を求めて来ました。ソロモン王はエルサレムが都になる前の物語を聞かせました。

 畑を挟んで2つの村があり、兄と家族はこちら側、独り身の弟は向こう側の村に暮らしていました。その間には丘をこえてゆく真ん中の道と、畑の横を通る平らな道がありました。兄弟は、昼は畑で共に働き、ある秋に小麦が40袋も獲れました。兄弟は20袋ずつ分けました。

 兄は家で夜考えました。「僕には妻も子どもたちもいて、老後も心配ない。でも弟は独り身だ。老後のために蓄えがいる。そうだ、こうしよう!」丘の上の道を通り、こっそり弟の家の納屋に入り、袋を3つ置きました。弟の喜ぶ顔が浮かびます。兄は家に戻り、翌朝自分の納屋に行くと、何と小麦が20袋あるではありませんか!「え? なぜ? よし、今夜こそ。」畑の横の道を通り、弟に内緒で納屋に入り3袋置きます。帰宅し、翌朝納屋に入ってびっくり。やはり20袋あるのです。「なぜ? 今夜こそ必ず!」

 二日前の弟の家です。「お兄さんは家族がいるから、僕より多く小麦がいる。そうだ、こうしよう!」畑の横の道を通り、内緒で兄の納屋に入り、小麦3袋置きます。「お兄さん喜ぶぞ。」翌朝自分の納屋に入ってびっくり。20袋あるのです。実に不思議です。「今夜こそ」と、丘の上の道を通り、兄の家の納屋へ。3袋置いて「今度こそ成功。」翌朝自分の納屋に行くと、何と20袋あるのです。「こんなことって、あるかな? 今晩こそ必ず!」
丘の道を進みます。向こうから誰か来ます。お兄さんです! 二人とも3袋持っているではありませんか。兄弟にはすぐ分かりました。お互いの優しい心が嬉しくて、笑顔でいっぱいになりました。

 ソロモン王にこの物語を聞いて、争っていた兄弟は、「二人で分け合おうね」と語り合って抱き合い、家族も含めて幸せに暮らしたということです。卒園する子どもさんたち一人一人が、こんな思いやりを持つ人になってくれるように、心よりお祈りしています。アーメン(真実に)。