日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2023-10-01 1:01:48()
説教「キリストは私たちの平和」2023年10月1日(日)世界聖餐日・世界宣教日
順序:招詞 マルコ福音書16:15~16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編109、使徒信条、讃美歌21・361、聖書 ヨナ書4章10~11節(旧約p.1448)、エフェソの信徒への手紙2:11~18(新約p.354)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌464、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ヨナ書4:10~11) すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

(エフェソの信徒への手紙2:11~18) だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

(説教) 本日は、世界聖餐日・世界宣教の日の礼拝です。説教題は「キリストは私たちの平和」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙2章11~18節です。小見出しは「キリストにおいて一つとなる」です。

 8月13日(日)の礼拝で、この前の2章1~10節を読みました。その終わりの方で、プロテスタント教会が大切にしてきた福音の真理が語られました。8節です。「事実、あなた方は恵みにより、信仰によって救われました(信仰義認)。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」私はここを読んで、改めて驚きを覚えます。宗教改革マルティン・ルターが唱えた信仰義認(善い行いによってではなく、信仰によってのみ、私たち罪人(つみびと)が義と認められる)の真理が、ここにはっきりと記されているからです。信仰義認の真理は、ローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙に明確に書かれていると思ってきましたが、エフェソの信徒への手紙にはっきり書かれていると、あまり意識していなかったからです。ところがここに明瞭に記されているので、改めて驚いた次第です。そして10節で、私たちがどのような存在であるかが、記されています。「なぜなら、私たちは神に造られたもの(神の作品)であり、しかも、神が前もって準備された善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです。私たちは皆、神様の尊い作品であり、聖霊に助けられて、神様に喜んでいただける善い業を行いながら、歩みます。

 そして本日の個所に入ります。11節「だから、心に留めておきなさい。あなた方は以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。」エフェソの場所は、小アジアの地中海沿岸です。今のトルコです。エフェソは当時のローマ帝国の大都会で、イエス様の使徒パウロがエフェソで全力で伝道した様子が、使徒言行録19章に詳しく記されています。エフェソの人々は、旧約聖書以来の神の民イスラエル人・ユダヤ人ではありません。異邦人、外国人です。そして私たち日本人も同じ異邦人ですから、立場は同じです。「いわゆる手による割礼(神の民イスラエル人の男性のシンボル)を身に受けている人々からは、割礼のない者」つまり、「神の民でない者」と呼ばれていました。

 12節「また、その頃は、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず(神の民に属さず)約束を含む契約(真の神様との契約)と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」私たちはイエス・キリストを信じる前は、真の神様とのつながりがなく、真の希望を持たず、真の神様を知らない状態で生きていたと言っています。残念ながらその通りです。真の神様を知らないことは、天国の希望をもっていないことです。そのような実に辛い状態にあったのです。」

 13節の冒頭に「しかし」とあります。8月13日(日)の礼拝の時も申し上げたと思いますが、この「しかし」こそ、「大いなるしかし」です。大きな転換が起こったことを示す「しかし」です。「しかしあなた方は、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」「以前は神から遠く離れていて希望をもっていなかったが、今は神に近い者になり、永遠の命の希望を持つ身になった」ということです。全ては、私たちの罪のために十字架で血を流して死んで下さったイエス・キリストのお陰なのです。

 キリスト教のある教派では、イエス様のこの最も尊い十字架の血のことを「宝血(ほうけつ)」と呼んでいます。宝の血です。私たちにはあまり聞き慣れない言葉かと思いますが、「宝血」という言葉を使う教会もあります。イエス様の十字架の血を最高の尊重するためにできた言葉だと思います。後で行う聖餐式において、私たちは本日、このイエス様の尊い血をいただきます。聖書では血は命を表します。もちろん私たちが飲むのは血そのものではなく、イエス様の血を表すぶどう液です。それでも血を飲むというと、気持ち悪いと思う方もあるかもしれません。その場合は、ぜひ新約聖書を読んでいただいて、このイエス様の十字架の血がどれほど大切か、分かっていただきたいと願います。エフェソの信徒への手紙の次の次の書であるコロサイの信徒への手紙は、1章19~20節で、このように記します。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを、余すとことなく御子(イエス様)の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解させられました。」十字架の血によって、平和を和解が実現したと言っています。

 エフェソに戻り、14節「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉(肉体)において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」「二つのものを一つにし」とは、イスラエル人(ユダヤ人)と異邦人を一つにしたということですね。敵意という隔ての壁を取り壊した。それは2つの隔ての壁ではないかと思います。1つは、父なる神様と私たち罪人(つみびと)の間の隔ての壁。もう1つは、イスラエル人(ユダヤ人)と私たち異邦人の間の隔ての壁。この2つの壁が取り壊された。十字架によってです。イエス様の十字架のお陰で、父なる神様と私たち罪人(つみびと)の間に和解と平和が実現し、イスラエル人(ユダヤ人)と私たち異邦人の間に和解と平和が実現しました。壁が取り壊されたと聞くと、私は思い出します、1989年11月9日のドイツのベルリンの壁の崩壊を。ベルリンの壁が崩れるとは想像もできませんでした。まさかこんなことが現実になろうとは、信じられない気持ちでしたね。あの壁は永久にあるものだという感覚でしたから。しかし今は、残念なことにアジアでも新しい壁ができつつあるように見えるので、心配です。アジアが2つの陣営に完全に分かれて戦争にならないように、日本も注意深く行動することが必要です。アメリア・日本・韓国・台湾対、中国・北朝鮮・ロシアの2つの陣営に分裂して、間違っても戦争にならないように、対立を和らげて平和を実現するように祈り、努力する必要があります。それはともかく、ベルリンの壁が崩壊して西ドイツと東ドイツが1つになりました。それと同じようなことが起こった、もしかするともっと大きなことが起こった。イエス・キリストの十字架の贖いの力により、それまで完全に分かれていたイスラエル人(ユダヤ人)と異邦人が一つの神の民として合流したのです。

 そして「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」旧約聖書の時代が終わり、新約聖書の時代に入ったということです。15節の途中から。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」ここに「十字架、十字架」と繰り返されています。「十字架の力」を感じます。イエス様の十字架には偉大な力がある。それは愛の力、赦しと平和と和解をもたらす力です。私たちは暴力が力だと思いかねません。そうではなくイエス様の十字架こそが偉大な愛の力、罪を完全に赦す救いの力です。内村鑑三は「キリスト教は十字架教だ」と言ったそうです。十字架の偉大な赦しの力をよく知っていたからでしょう。よく言われるように十字架のタテの木は「神様と私たち人間の愛」を表し、十字架のヨコの木は「私たち人間同士の愛」あるいは「敵対している私たち人間同士の愛」を表しています。

 「キリストがイスラエル人と異邦人を一人の新しい人に造り上げた」と書かれています。「新しい人」と聞くと、コリントの信徒への手紙(二)5章17節以下を思い出さずにはおれません。「だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものが過ぎ去り、新しいものが生じた。神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」

 エフェソに戻り17節「キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方にも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」キリストは、私たちを罪から救うために天から下って来られました。クリスマスの出来事です。「遠く離れているあなた方」とは、異邦人である私たちです。「近くにいる人々」とは、イスラエル人(ユダヤ人)です。18節「それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊(聖霊)に満たされて、御父に近づくことができるのです。」罪があると、聖なる父なる神様に近づくことができません。しかしイエス様が私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、三日目に復活されたお陰で、私たちの罪が赦され、私たちキリストを信じる者は、聖なる父なる神様に近づくことができるようになりました。

 「遠く離れているあなた方」とは異邦人のことだと申しました。確かにそうなのですが、旧約聖書でも神様が異邦人を完全に無視しているわけではなく、将来の救いに含みを持たせておられることも事実です。たとえば旧約聖書に登場するルツという女性は、モアブ人(異邦人)ですがイスラエル人と結婚し、夫の死後、その母親に忠実に尽くしたことが、旧約聖書で非常に称賛されています。そして本日の旧約聖書であるヨナ書4章10~11節です。神様は、異邦人の都二ネベの人々の罪が非常に重いので、40日後に二ネベを滅ぼすおつもりでした。ところがヨナが警告のメッセージを語ったところ、驚くべきことに二ネベの人々が皆、罪を心から悔い改めたのです。神様は二ネベを滅ぼすことを中止されました。「なぜ二ネベを滅ぼさないのですか」と怒るヨナを神様が諭されたのが4章10~11節です。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都二ネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」実は異邦人をも救いたい神様の本心が出ていると思うのです。神様は、家畜の命まで大切に考えて下さっています。

 私と妻が洗礼を受けた茨城県の教会に当時、青野さんという方がおられて、韓国に留学して帰って来られた方でした。韓国の近代史を勉強しておられて、日本と韓国の橋渡しをしたいという願いを持っておられたようです。その方が青年会で信仰の証しを語られたときに、本日のエフェソの信徒への手紙2章を引用されました。日本と韓国がキリストによって和解することを願って引用されたと思います。確かに「二つのもの」を日本と韓国になぞらえて読むことも意義深いと思います。14節から。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方も、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」

 先月9月1日は、関東大震災からちょうど100年でした。その時起こった朝鮮人虐殺の現場の1つ、墨田区の荒川土手を一昨年見学に行きましたが、小さな慰霊碑が建てられています。「悼」の一文字が刻まれています。解説板にはこう書かれていました。「犠牲者を追悼し、両民族(日本人と朝鮮半島の人々)の和解を願ってこの碑を建立する。」殺された人からすればそう簡単に許せないでしょうが、それでも「両民族の和解を願ってこの碑を建立する」という言葉は、よいと思いました。

 今から7~8年前の修養会で、東京神学大学の棚村先生をお迎えした時に、棚村先生がこんな話をされました。棚村先生が留学なさったアメリカで、教会の長老の方と親しくお話していた時に、太平洋戦争の話になり、その長老さんと棚村先生のお父様が、同じ島にいたと分かりました。もちろんお互いを知っていたわけではありません。しかし同じ島で米軍・日本軍に分かれて敵対していたのです。それが分かって一瞬冷たい空気が流れたけれども、その長老さんが、「当時は日本とアメリカは敵同士だったが、今は私とあなたはキリストにあって友人だ」という意味のことを言われたと、棚村先生がお語りになりました。

 本日は世界宣教の日・世界聖餐日礼拝です。東久留米教会を出発して日本やアメリカで伝道のために奉仕しておられる方々とそのご家族に、主イエス・キリストの多くの恵みをお祈り申し上げます。ウクライナでの戦争はなかなか終わらず、私たちの住む日本の周辺にも国同士の対立があります。その中で、忍耐強く平和を維持する必要があります。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」私たちがイエス・キリストの十字架による和解の福音を宣べ伝え、アジアも世界も分裂を乗り越えて和解と平和に向かうよう、共に祈りましょう。アーメン。

2023-09-24 1:16:04()
説教「神の国を受け継ぎなさい」2023年9月24日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第63回) 
順序:招詞 ヨハネ福音12:36a,頌栄29、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・514、聖書 マタイ福音書25:31~46(新約p.50)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌493、献金、頌栄92、祝祷。 

(マタイ福音書25:31~46) 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第63回)です。説教題は「神の国を受け継ぎなさい」です。新約聖書は、マタイ福音書25章31~46節です。小見出しは「すべての民族を裁く」です。

 これはイエス・キリストによる「最後の審判」の場面です。ヴァチカン市国のシスティーナ礼拝堂に、巨匠ミケランジェロが描いたこの場面の有名な絵画がありますね。私は写真で見ただけですが。最初の31節。「人の子(イエス・キリストご自身)は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」右側が天国なのです。34節「そこで、王(世界の真の王イエス・キリスト)は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父(父なる神様)に祝された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』」最新の翻訳である聖書協会共同訳では、「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の前からあなた方のために用意されている国を受け継ぎなさい」、つまり「お前たち」ではなく「あなた方」になっています。イエス様が「お前たち」とおっしゃるとはやや考えにくいので、「あなた方」の方がよいと思います。

 新共同訳で35~36節「お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」聖書協会共同訳は少し違うのです。「あなた方は、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」お気づきにように「旅をしていたときに宿を貸し」が、「よそ者であったときに宿を貸し」となっています。元のギリシア語の名詞は、「外国の、よその、無縁の」の意味だそうです。新共同訳が間違っているわけではないと思います。「旅をしていたときに宿を貸し。」旅をすれば見知らぬ土地に行くことも多いはずで、行った見知らぬ土地では私たちは「よそ者」になります。イエス様は「旅をしているよそ者に宿を貸してくれてありがとう」と言っておられることになります。

 私たちは、相手がイエス様のお姿で目の前におられて、飢えたり、喉が渇いておられたり、病気で苦しんでおられれば、すぐに手をお貸しするに違いありません。でも相手が、全く知らない人だったり、汚れた格好をしていたり、路上生活者のように見えれば、通り過ぎてしまうこともあるかもしれません。」確かにイエス様であればすぐヘルプするけれども、全くイエス様には見えない相手であれば、気にしないで通り過ぎてしまうこともあると思います。実際、池袋の駅の構内にも座っておられる方々がおられますが、多くの人々は気にしないで通り過ぎてゆきます。気になっても、自分がそうすればよいか分からない人も多いと思います。池袋には、これはクリスチャングループではありませんが、「手のはし」というNPO法人があって、路上生活者のための炊き出し等を行っています。クリスチャングループでないとは言っても、これはやはり必要で重要な働きだなと、思わせられます。

 37節。「すると、正しい人たちが王に答えまる。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』」「いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し」は、聖書協会共同訳では、「いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し」となっています。旅で来た人は、受け入れた側から見れば、見知らぬ人のことが多いので、新共同訳と聖書協会共同訳が矛盾するわけではありません。

 それはともかく、親切にした側が、「覚えていない」というのです。私たちはしばしば、自分が行ったいわゆる善い業いついてはよく覚えていて、逆に受けた恩義は忘れやすいのではないでしょうか。でも「いつ親切にしたでしょうか」と言うこの人々は、イエス様に次第に人格が似て来ているので、自分が行った善い業を誇る気持ちがなく、相手に恩を着せることなく、執着がないのですね。イエス様は、このマタイ福音書6章3~4節で、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなた方の施しを人目につかせないためである」とおっしゃっています。またイエス様は弟子たちに、奉仕の姿勢について、ルカ福音書17章10節で、こう教えられました。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」気づかないでイエス様に親切にした人たちは、今のイエス様の御言葉を自然に実行できる、心がイエス様に似た人たちだったと、思うのです。

 そう聞かれて、世界の真の王イエス様がお答えになります。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれらことなのである。」イエス様は、このマタイ福音書10章42節でも、似たことをおっしゃっています。「私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてれる人は、必ずその報いを受ける。」イエス様は、子どもたちや、社会で居場所のない人を愛して下さいました。社会で強い基盤を持っていない人たちを、特に愛して下さいました。イエス様が愛するこのような人々に、ささやかな親切を行う人は、イエス様に対して親切を行ったのだと同じだというのです。

 前にもお話しましたが、セブンスデーアドヴェンティストというキリスト教会があり、東久留米市内の高齢者施設シャローム東久留米を運営する教団であり、荻窪に東京衛生病院をもっておられます。東京衛生病院では「患者さんは皆、イエス様だ」との考えで、手術の時もまずお祈りして下さるそうです。「患者さんは皆イエス様」という姿勢で診療して下さるのですから、患者にとってありがたい限りですね。私たちはヘブライ人への手紙13章1~3節をも思い出しておきたいと思います。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また自分も体をもって生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」旅人をもてなすと、それは実はイエス様かもしれないし、天使かもしれないのです。創世記18章を読むと、信仰の父アブラハムがもてなした三人のうち二人は実は天使で、もう一人は何と真の神様だったのです。一見全くイエス様に見えない最も目立たない人、最も低く見られている人、イエス様がその方々に姿を変えて、私たちに日々の目の前に来ておられると、強く知る必要があります。そして以前、東久留米教会の年度の標語になったコロサイの信徒への手紙3章23節をも、改めて心に刻みたいと願うのです。「何をするにも、人に対してではなく、主(父なる神様、イエス様)に対してするように、心から行いなさい。」
 
 さて、イエス様は「牢にいたときに訪ねてくれたからだ」とおっしゃいました。世の中にはイエス様を信じただけで牢に入れられる人もおり、無実なのに冤罪で牢に入れられる人もいます。そのような人を牢に訪問した人に対してイエス様は、「牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われたのも事実だと思います。刑務所に入って受刑者に聖書の話をする牧師・神父は教誨師と呼ばれ、これは刑務所の許可を得た人が行います。日本基督教団では、教団や教区から委嘱された方々が行っています。教誨師にならないと刑務所に入って伝道することはできません。

 しかし、「麦の会」という会があることを知りました。その会に入っている方に機関誌をいただいたのです。会の目的がこう書いてあります(被拘禁者更生支援ネットワーク=麦の会『和解 麦の会通信 第18号』2012年、19~20ページ)。文通で支援するのです。「麦の会では、更生支援の一環として文通支援活動を行っています。獄中会員(受刑者)と外部ボランティアの方が文通をし、その中で獄中会員ご本人の更生に向けた努力や模索についてボランティアが話し相手になり、共に考えて応援し、寄り添うことが主な目的です。反省は一人でできても、更生は一人ではできません。麦の会では獄中者を『私に関係のない人』というイメージで社会から疎外し、排除するのではなく、獄中会員に一人の大切な人として接し、外部のボランティアと一対一のコミュニケーションをはかることによって、人間らしい健全な精神を保ち、二度と犯罪に走らないように手助けしたいと考えています。文通の趣旨は、内面的な更生支援であり、物質的支援ではありませんので、獄中会員からボランティアへの金銭及び物品の要求はできません。」 よい活動だと思います。このような地道な活動に励んでいる方々がおられるのだなあ、と感じ入ります。

 クリスチャンがボランティアになって、刑務所の中の方々と文通しても、相手が信仰に入るとは限りませんし、深い信仰に到達するには時間がかかることもあると思います。でも、これが心の支えになる方も確かにおられるようです。ある受刑者の方の詩が、機関誌に掲載されています(『和解』第19号、11ページ)。「鉄格子のはまった窓の外を眺め、思い返す。後悔の念ばかり。あの時、ああしとけば。その時に何もかも失った。両手首に冷たい金具をはめられた時に。大好きだった彼女との甘く楽しい生活も、家族も友人も知人もとにかく全て。~生きることに喜びも希望も見出せない僕が。この先、光なんてない、灯なんてない、まして明るくない、真っ暗だ、闇だ、絶望しかない。 『ムギ・ノ・カイ』? 僕の心に生きる力が芽生えた!! 一人じゃない。同じ境遇で頑張っている人たちがいる! お互い励まし合いながら。今は『和解』が、スタッフが、会員の方の言葉が心の支えだ。踏まれてもどんなに過酷な環境でも、まっすぐに生きる麦のように力強く。」

 こんな文章もあります。「麦の会よりバースデーカードと『和解』誌、『カトリック生活』(雑誌)をご送付いただき、感謝しております。近年、誕生日を祝福していただいた記憶がありませんが、やはり自分が存在していることを誰かに確認してもらい、喜んでもらえるのは嬉しいものだなと実感しました」(『和解』19号、47ページ)。 「親愛なる麦の会の皆様、心あふれるバースデイカード、ありがとうございます。こんな私にもおめでとうと言ってくれる人たちがいるのだと、やはり泣けてしまいました。主はやはりお見捨てにならなかったということでしょうか。何度も見返していると、自分の馬鹿さかげんが、ほとほと嫌になってしまいます。が、神様が私にお与えになったのはやり直すチャンスかと思いました。」

 今年の8月に、西東京教区の社会部の主催した平和集会が対面とオンラインで行われましたが、私はオンラインで参加しました。8月13日(日)の礼拝でもお話致しましたが、日本に避難しているウクライナの人々をサポートする働きをしておられるYMCAの女性クリスチャンの情熱的な報告でした。今日本には約2100人のウクライナ人が避難して来ているそうです。三鷹市や杉並区にもおられるそうです。日本にいる家族や知人を頼って来る人が多い。支援には段階があり、①緊急支援、②生活スタート支援、③生活個別支援、④中長期定住支援。日本で長期に暮らすとなると、日本語の勉強、学校や職場を得る、持病の治療を受ける等が必要になります。3年以内の経済自立を目指すそうですが、かなり大変です。日本社会の愛が問われます。子どもたちは、日本の学校に行くと共に、世界各国に避難しているクラスメートや先生と、オンラインで授業を受けているそうです。初めての外国に来て生活するということは、誰にとっても大変なことです。それを応援する働きは大切ですし、私たち日本人がその人々の隣人になれるかどうかが、私たちの課題だと感じます。
 
 「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」人様に対して「あなたは最も小さい者、小さい人」というのは失礼で、私たちは皆、だんだん弱ってゆくのですかから、私たちは皆「最も小さい者、小さい人」です。私は先週、用事があって東久留米市の滝山にある社会福祉協議会に行きました。そこで話を伺うと、東久留米市でも色々な福祉の働きを行っておられることが分かりました。クリスチャンがかかわっている働きもあり、そうでない働きもあると思います。たとえば「東久留米ひきこもり家族会」、あるいは今の福祉制度では解決できない困りごとの相談を受ける地域福祉コーディネーターの存在もあります。色々な「生きづらさ」を持つ一人一人を支えようということです、「生きづらさ」とは、最近の言葉ですね。生きてゆくことに困難を覚えることでしょう。色々な生きづらさがあります。それに対してきめ細かく対応して、一人一人ができるだけ生きやすくなる世の中にするのがよいのですね。

 昨日と今日と明日、市役所で「いのち輝け 第41回作品展」が行われており、私は昨日行って参りました。この催しも実施主体は市の社会福祉協議会、運営は東久留米市手をつなぐ親の会です。改めて拝見すると、この東久留米市にも、障がいをお持ちの方々を応援する多くの福祉団体があるのですね。この教会のすぐご近所の堀野さんも受付におられました。堀野さんのお父様は牧師でいらしたと聞いています。私も伺っていいるしおん保育園の障がいをお持ちの方々の作品も展示されていて、嬉しく拝見しました。今日のイエス様の御言葉を思うと、あの黄金律に行き着くと感じます。マタイ福音書7章12節のイエス様の御言葉、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。これこそ律法と預言者(旧約聖書全体)である。」

 前にもご紹介しましたが、高田三郎というクリスチャンの音楽家が、本日の御言葉から「小さな人々」という歌を作っています。他の方を「小さな人々」と言うと失礼ですが、自分たちも「いと小さき人」であることを思いながら、歌いたい歌です。「小さな人々の、一人一人を見守ろう、一人一人の中にキリストはいる。貧しい人が飢えている。貧しい人が渇いている。国を出た人に家がなく、寒い冬に着物がない。病気の人が苦しみ、牢獄の人はさげすまれ、みなしごたちは寂しく、捨てられた人に友がない。小さな人々の、一人一人を見守ろう、一人一人の中にキリストはいる。」 アーメン。



2023-09-17 1:01:13()
「互いに愛し合いなさい」2023年9月17日(日)聖霊降臨節第17主日公同礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書12:36a,頌栄29、主の祈り,交読詩編108、使徒信条、讃美歌21・152、聖書 レビ記19:18(旧約p.192)、ヨハネ福音書13:21~30(新約p.195)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌403、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(レビ記19:18) 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

(ヨハネ福音書13:21~30) イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
 
(説教) 本日は、聖霊降臨節第17主日公同礼拝です。説教題は「互いに愛し合いなさい」です。新約聖書は、ヨハネ福音書13章21~30節です。小見出しは「裏切りの予告」と「新しい掟」です。

 前回の個所で、イエス様は愛する12人の弟子たちの汚い足を洗って下さったのです。そして本日の最初の21節「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく(アーメン、アーメン、私はあなたたちに言う)。あなた方の内の一人が私を裏切ろうとしている。』」イエス様が心を騒がせたと書かれています。ご自分が真心を込めて両足を洗った一人が、ご自分を裏切ろうとしている。今まさにご自分が十字架に架かる時が、いよいよ来た。それを悟ってイエス様の心は、打ち震えたと思うのです。「弟子たちは、一体誰について言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。」ユダが怪しいと、誰も思わなかったのです。

 23節「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。」通常この弟子は、ヨハネだと言われます。このヨハネによる福音書を書いた人と言われます。「イエスの愛しておられた者」と書かれているので「愛弟子(あいでし)」とも呼ばれます。愛弟子は、イエス様のすぐ隣の席に着いていました。当時のユダヤの食卓では、皆寝そべった形で食卓の横にいたそうです。それが普通で礼儀上も問題なかったようで、この時もそのような食卓の様子だったと思われます。レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な「最後の晩餐」の絵では、皆がテーブルに着いていますが、あれはヨーロッパ風に描いているので、現実は寝そべっていたと思われます。

 24節「シモン・ペトロはこの弟子に、誰について言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸元に寄りかかったまま、『主よ、それは誰のことですか』と言うと、イエスは、『私がパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。」パンを与えるのは、一家の主人の役目でした。イエス様はここでそのようにふるまっておられます。そしてイエス様はパン切れを浸して取り、イスカリオテのユダにお与えになった。これを見れば愛弟子は、裏切るのはユダだと分かったはずですが、実際には分からなかったようです。27節「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐしなさい」と彼に言われた。』サタン(悪魔)は、私たちの心に自動的に入るわけではありません。私たちが拒否することができます。ユダがなぜイエス様を裏切ったか分かりませんが、悪魔に従わない自由もありました。しかし悪魔の誘惑に負けて、悪魔に従ってしまいました。ペトロの手紙(一)5章8節以下には、「あなた方の敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」私たちも悪魔の誘惑に遭うことはあります。その時気づいて悪魔に抵抗し、「サタンよ、退け」と言って悪魔を追放したいものです。

 イエス様が言われた「しようとしていることを、今すぐしなさい」との御言葉は、ユダを裏切りへけしかけたように聞こえますが、ユダはこう言われてどうするか、立ち止まって考える最後のチャンスを与えられたとも言えます。ここで考え直して「裏切りはしません」と言う自由もあるので、ユダはそれを選べばよかったのです。しかし悪魔に従う道を選んでしまいました。28節「座に着いていた者は誰も、なぜユダにこう言われたのか、分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、『祭りに必要な物を買いなさい』とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。」金入れを預かっていたということは、ユダは非常に信用されていて、一番裏切るはずがない人と見られていたと思います。彼が裏切るとは、11人の弟子たちは想像もできなかったのでしょう。20節「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」闇が、悪魔が支配しています。夜はそれを象徴しています。ユダの心が悪魔に支配されていることも象徴しています。

 21節の「裏切る」という言葉は、新約聖書のギリシア語で「パラディドーミ」という言葉です。これは直訳では単純に「渡す」「引き渡す」の意味です。確かにユダがイエス様を裏切って、イエス様をユダヤの権力者たちに引き渡したのです。ですが、父なる神様のもっと大きな計画が進んでいることも確かです。ローマの信徒への手紙8章32節に、同じパラディドーミという言葉が出て来ます。ここでは「渡された」と訳されています。「私たちすべてのために、その御子(イエス・キリスト)をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」ここでは、御子イエス・キリストを十字架の死に渡された方は、父なる神様だと語られています。悪魔が全てをリードしているように見えて、実はもっと次元の高い、父なる神様のご計画が進んでいます。父なる神様が、イエス・キリストを十字架の死に引き渡される。それはイエス様が、私たちの全部の罪を身代わりに背負って下さり、私たちが父なる神様との和解に入り、永遠の命を受けるためです。

 ユダの非常に大きな罪と悪をさえ用いて、父なる神様がご自分の最善の計画を進めておられます。ユダよりも悪魔よりも、父なる神様がずっと上手です。それなら、ユダはイエス様を裏切ることで結果的に、父なる神様に奉仕したのだから、よいことをしたことになるのではないか、という疑問が出るかもしれません。しかし、その考えは成り立ちません。ユダが行ったことは大きな罪であって、それが結果的にイエス様の十字架による贖いを実現させたからと言って、ユダの罪が正当化されることは全くありません。ユダの裏切りは裏切りの大罪であって、同情の余地は全くありません。

 イエス様は、ユダの裏切りと悪魔の攻撃によって十字架の死に追いやられ、同時にもっと高い次元においては、父なる神様のご意志によって十字架の死を与えられました。どちらにしても、イエス様からご覧になれば受難です。ある人に言わせると「それは、活動から受難への転換です。人々に教え、説教し、いやし、行きたい所に出かけた何年かを経て、今やイエス様は」受け身の者となりました。「鞭打たれ、茨の冠をかぶらされ、唾をかけられ、嘲られ、ほとんど裸で十字架に釘付けにされました。「引き渡された瞬間から受難が始まり、受けるだけの犠牲者となり、他人のなすがままになり、その受難を通して、イエス様の使命は成し遂げられたのです。」

 20年ほど前に、イエス様の十字架への道行きをリアルの描いた『パッション』という映画がありました。パッションは受難の意味であり、同時に情熱・熱情の意味でもあります。イエス様は私たちを罪から救おうとする情熱・熱情を持って十字架という受難を忍耐されました。
 
 31節に進みます。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。』ヨハネ福音書においては、イエス様が裏切られ、十字架の上に上ることが栄光です。これは分かりにくいことですが、十字架こそイエス様の愛の勝利の王座なのです。私たち羊が永遠の命を受けるために、イエス様は十字架に架かられます。イエス様が、このヨハネ福音書10章10節以下でおっしゃった通りです。「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」羊のために命を捨てることが、イエス様の栄光ではないかと思います。

 ユダがなぜ裏切ったか。明確な理由は分かりませんが、イエス様を愛していなかったからだと思います。これは決定的です。初めはイエス様を愛していたはずですが、いつからか愛さなくなったに違いありません。ペトロもイエス様を知らないと言って三度裏切りますが、しかしペトロはイエス様を愛していました。だから悔い改めて立ち直ることができたと思うのです。

 弟子たちを愛しているイエス様は、弟子たちに語ります。34節から。「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることを、皆が知るようになる。」イエス様に愛されている者として、互いに愛し合いなさい、と命じられました。文語訳ではこうです。「われ新しき戒めを汝らに与ふ。汝ら相愛(あひあい)すべし。わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛(あひあい)すべし。互いに相愛する事をせば、これによりて人みな汝らの我が弟子たるを知らん。」三鷹市に相愛教会という教会がありますが、ここから名前をとっているに違いありません。悪魔の誘惑に負けてユダが裏切り、イエス様の共同体がばらばらに壊されかけました。しかし悪魔に打ち勝つのは愛し合う力です。互いに愛し合うことによって、教会は悪魔に勝利します。

 イエス様は十字架の犠牲愛の死から復活された後、弟子のペトロに三度問われました。「私を愛しているか。」「愛しています」と三度答えるペトロに、イエス様は言われます。「私の羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのです。このように話してから、ペトロに、「私に従いなさい」と言われました。ペトロは、イエス様に託された羊たち(仲間のクリスチャンたち)を守りながら、ローマで逆さ十字架で殉教したと伝えられます。イエス様に従い、このような死に方で、神の栄光を現わしたのです。

 ヘンリー・ナウエンという神父が書いた『イエスの御名で』(あめんどう)というあまり長くない本があります。ナウエン神父は50才代に入り、自分の人生にはもう過去と同じだけの長さは残されていないと気づき、単純な問いに直面したと書いています。「年を重ねて、私はよりイエスに近づいただろうか?」司祭になって25年たっていましたが、依然として祈りにおいて貧しく、やや人々から孤立した生活を送り、自分をせきたてる目先の問題にすっかり心奪われていることに気づきました。神様が祈りの中で、行き先を示して下さいました。知的障がいのある人々の共同体ラルシュに行く道が与えられました。「行って、心の貧しい人々の間に住みなさい。彼らはあなたを癒してくれるだろう。」こうしてナウエンさんは、ハーバード大学というアメリカの最高大学で教えることをやめて、ラルシュという知的障がいを持つ人々の共同体に移りました。最も輝かしい場所から、言葉は思考をほとんど、あるいは全く持たない人々の所に移りました。ある意味非常に辛い、苦痛に満ちた移動でした。教会も、悪魔の誘惑に気づかずに負けることがあります。権力や野心、物事をただ効率的に行おうとし過ぎること。そうではなく、私たちの心と生き方がイエス様に近づくことこそ、目指す道です。

 1840年にベルギーで生まれたダミアンという神父がいました、伝道のためにハワイに派遣されました。ハワイのハンセン病(感染力弱い、今は効果的な医薬ある)患者は、絶海の孤島モロカイ島に送られていました。そうなった女性が叫んでいました。「神が私を見捨てた。だから私も神を見捨てる。」ダミアン神父は必死で祈りました。「神様、何とかして下さい。」そして気づきました。「私がモロカイ島に行けばよいのだ。」彼は教会の許可を得て、モロカイ島に渡ります。そこでは多くのハンセン氏病患者が世間から見捨てられ、悲惨な状態で暮らしていました。彼の努力で多くのことが改善。音楽隊も造る。患者と同じ皿から食べた。ダミアン神父自身もハンセン氏病に感染。「ハンセン氏病の人の気持ちが分かるようになった。」彼はハンセン氏病を「神からの勲章」と呼んだ。イエス様に見事に従った人。私たちは彼ほど立派に生きることができないかもしれないが、自分にできる形でイエス様に従って参りましょう。アーメン。

2023-09-10 2:25:12()
説教「弟子たちの足を洗うイエス・キリスト」2023年9月10日(日)聖霊降臨節第16主日礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書12:36a,頌栄24、主の祈り,交読詩編107:23~40、使徒信条、讃美歌21・209、聖書 詩編41:6~10(旧約p.875)、ヨハネ福音書13:1~20(新約p.194)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌98、献金、頌栄27、祝祷。 

(詩編41:6~10) 敵はわたしを苦しめようとして言います。「早く死んでその名も消えうせるがよい。」見舞いに来れば、むなしいことを言いますが/心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。わたしを憎む者は皆、集まってささやき/わたしに災いを謀っています。「呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい。」わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。

(ヨハネ福音書13:1~20) さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第16主日公同礼拝です。説教題は「弟子たちの足を洗うイエス・キリスト」です。新約聖書は、ヨハネ福音書13章1~20節です。小見出しは「弟子の足を洗う」です。

 これは非常に有名な場面で、東久留米教会では、毎年のイースターの3日前の洗足木曜日(イエス様の十字架の前日)の祈祷会で、必ず読みます。カトリック教会では洗足木曜日に、司祭(神父)が信徒の方々の足を、実際に洗うそうです。今のフランシスコ教皇は、南米出身者として初めてローマ教皇になった人です。それまでの教皇はほぼ全員、ヨーロッパ出身者だったのでしょう。世界的に見ると貧しい地域である南米の人がローマ教皇になることは、神様の御旨だったと思われます。フランシスコは本名ではありません。昔の聖人アッシジのフランチェスコ(フランシスコ)から名前を取っています。アッシジのフランチェスコは、イエス様に従い、経済的には貧しさに徹して生きた聖人と呼ばれる人です。この人の名前を自分の名前としたフランシスコ教皇は、自らも貧しい人々の味方でありたいと考えているようです。就任した頃、少年院で洗足式を行い、12名の受刑者(少女2名を含む)の足を洗ったそうです。教皇が洗足式で、女性の足を洗ったのは初めてだそうです。最近では、イスラム教徒の足を洗ったそうです。イスラム教の人にもクリスチャンになってほしいと思っているでしょうが、まずは全ての人に奉仕する姿勢を示したのだと思います。足を洗うということは、足が顔と近づき、臭いと思います。臭くても姿勢を低くして人の足を洗う姿は、やはりイエス様に従う姿です。もちろんこれは、ローマ教皇だけでなく、私たち皆がこのように生きるようでありたいですね。

 1節から読みます。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」イエス様は、十字架に架かって、弟子たちと全ての人たちの罪を身代わりに背負う、その決定的な時が来たことを悟られました。口語訳聖書では、「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」、文語訳聖書では、「世にあるこの者を愛して、きわみまでこれを愛したまへり」です。時間的には十字架の死に至るまで弟子たちと私たちを愛され、質においてもとことん愛されたのです。

 2節「夕食の時であった。既に悪魔は、イスカリオテのユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」ヨハネ福音書には、他の福音書のように「最後の晩餐」そこでイエス様が聖餐式を制定される場面がありません。本日の個所がヨハネ福音書における事実上の「最後の晩餐」であり、聖餐式の制定の記事の代わりに、弟子たちの足を洗う記事があると言えるのではないかと思います。3節「イエスは、父がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、またご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」「立ち上がって」という言葉に、イエス様の決然とした姿勢を感じます。

 5節「それから、たらいに水を汲んで、弟子たちの足(複数形)を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」もちろん両足を洗ったのです。これは、足を洗ってもらった弟子たちにとって、強烈な体験として記憶されたに違いありません。一生忘れられない体験です。彼らは後々まで、両足を洗って下さるイエス様の両手から受けた感触も、後々まで覚えていたのではないでしょうか。よく言われるように、当時、足を洗うことは奴隷の仕事だったそうです。異邦人の奴隷の仕事だったという人もいます。

 「最後の晩餐」の時、ルカによる福音書を見ると、弟子たちは、明日は十字架に架かるというイエス様の決意も知らず、「自分たちのうちで、だれがいちばん偉いだろうか」という議論をしていました。弟子たちの関心のレベルが低いので、イエス様はため息をついたかもしれません。そして言われました。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなた方はそれではいけない。あなた方の中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」マルコ福音書10章では、(これは「最後の晩餐」の場面ではありませんが)、イエス様が弟子たちにこうおっしゃっています。「あなた方の間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子(イエス様)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 「シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。」ペトロは、敬愛してやまないイエス様が自分の汚い足を洗って下さるので、驚き恐縮し、「私の足など決して洗わないで下さい」と言います。イエス様が足を洗って下さることは、次の日にイエス様が十字架に架かって、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って死んで下さる、その犠牲の愛を象徴する行為です。イエス様が十字架に架かって下さらなければ、ペトロの罪が赦され、ペトロと父なる神様が和解することはできないのです。ですから、イエス様に足を洗っていただく必要はないと遠慮することは、一見謙遜なようで、イエス様が差し出して下さる十字架の愛を拒否する傲慢なことです。ペトロはまだ自分の本当の罪深さを知らないのですね。ペトロはこの数時間後に、鶏が鳴く前に三度イエス様を知らないと言って、消極的にですがイエス様を裏切る罪を犯してしまいます。イエス様は、ペトロが自分を知る以上にペトロを深く知っておられます。ペトロがもうすぐ裏切りの罪を犯すことをよくご存じで、あらかじめペトロの足を洗って、あらかじめペトロの罪を清めておられるように見えます。

 ですからイエス様はペトロに言われます。「私のしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる。」「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる。」文語訳では「我もし汝を洗はすば、汝われとかかはりなし。」イエス様に足を洗っていただくことを断れば、イエス様とつながることはできません。イエス様に足を素直に洗っていただくことが、イエス様に喜ばれる道です。私たち皆に、洗礼という恵みが差し出されています。私たち皆が、へり下って、恵みの洗礼を素直に受けることが、イエス様と父なる神様に喜んでいただく道と信じます。

 イエス様は言われます。「あなた方は清いのだが、皆が清いわけではない。」イスカリオテのユダのことです。イエス様はユダの両足をも洗われました。田中忠雄さんというクリスチャンの画家の絵に、イエス様がユダの足を洗う絵があります。もうすぐイエス様を、ペトロよりも積極的に裏切るユダの足を洗うイエス様です。ここでイエス様は、敵を愛しておられると言えます。イエス様はどのような思いでユダの足を洗われ、ユダはどのような思いで、イエス様に足を洗っていただいたのでしょうか。聖書には書かれていません。イエス様は、ユダをも深く愛しておられますから、ユダが悔い改めてイエス様を売り渡す罪を実行することを思いとどまるように最後までチャンスを与えておられたと思います。

 イエス様は言われます。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。」

 これは、本日の旧約聖書・詩編41編10節の引用です。口語訳では、「しかし、私のパンを食べている者が、私に向かってその踵を上げた」です。ユダが実際に踵を上げて、イエス様を蹴とばすことはありませんでした。しかしこの「踵を上げる」という表現をそのまま使うなら、イエス様に洗っていただいたその足でイエス様を蹴り上げると受けとめることも可能で、ユダがイエス様を売り渡した罪は、イエス様を踵で蹴り上げるに等しい、際立って深い罪と分かります。イエス様の地上の人生は、貧しい飼い葉桶で生まれ、弱いろばに乗ってエルサレムに入られ、弟子たちの汚い両足を洗い、茨の冠を被らされて十字架に架けられる、まさに底辺から底辺に向かう奉仕の人生です。

 新約聖書のヘブライ人への手紙10章29節には、次のように書かれています。「神の子を足蹴にし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。」これは必ずしもユダのことを言っているのではないと思いますが、しかしユダにも当てはまるのではないかと感じます。そして私たちにも、「このようにならないように」との警告を発しています。

 東日本大震災の発生から数年間、日本基督教団の東北教区で、被災者支援センターエマオが開設されていました。そこにも、イエス様が弟子たちの足を洗う最近の作品と思える絵が貼ってありました。エマオの方針も、自分たちの考えでどんどんボランティアを行うのではなく、地震と津波で被災された方々の足を洗わせていただく、という方針でした。今年7月に秋田県で豪雨があり、教会も被害を受けました。現地の人々や、東京都中野区にあるSCF(学生キリスト教友愛会)の青年方がボランティアとして現地の教会で奉仕する写真を見ましたが、教会の床下に潜り、泥をかき出すしんどい作業を行っておられて、まさにイエス様に倣って、現地の教会の方々のために、足を洗って差し上げるに等しい奉仕だと感じた次第です。

 東久留米教会に以前、草刈さんという熱心なクリスチャンがおられました。今は天国におられます。草刈さんは東京に来られる前は北九州におられ、TOTOという会社に勤務しておられたと聞きます。TOTOという会社は水まわり全般を扱う会社らしいのですが、トイレの便器も扱っておられると思います。それだけでなく水まわり全般を扱っておられると思いますが、私はもしかすると草刈さんは、人があまり行いたくないトイレのことをも扱う会社に敢えて入られ、ご自分もイエス様に倣って人々の足を洗う姿勢で働きたいというお考えで、この会社に入られたのではないかと、推測した次第です。

 フランシスコ教皇は、数年前に日本に来られました。東京ドームでもミサが行われ、私はチケットを得る恵みを受け、出席しました。教皇の説教はスペイン語だったようで、私には分かりませんが、日本語訳がスクリーンに映されます。その時、今の教皇は、「教会は野戦病院のようであってほしい」と語られました。どのような意味なのか、私なりに考えます。現実社会の中で、傷つき弱った人々を受け入れる所であったほしいということではないかと思います。その集会は、コロナの問題が発生する前に行われました。ある意味、預言者的なメッセージだったようにも思います。「コロナや戦争や災害や、行き過ぎた競争によって心身に傷を受けた人たちを受け入れる場になってほしい。」傷ついた人々の足を洗って差し上げる教会であってほしいということではないかと思います。そのような教会を目ざしたいものです。「師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。」互いに足を洗い合う助け合う、教会外の方々の足をも洗うつもりお仕えする。そのような私たちになりたいのです。アーメン。

2023-09-03 1:43:48()
説教「神に喜ばれることを第一に」2023年9月3日(日)聖霊降臨節第15主日公同礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書12:36a,頌栄28、主の祈り,交読詩編107:1~22、使徒信条、讃美歌21・431、聖書 イザヤ書53:1~5(旧約p.1149)、ヨハネ福音書12:36b~50(新約p.193)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌78、献金、頌栄27、祝祷。 

(イザヤ書53:1~5) わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

(ヨハネ福音書12:36b~50) イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。     イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第15主日公同礼拝です。説教題は「神に喜ばれることを第一に」です。新約聖書は、ヨハネ福音書12章36b~50節です。小見出しは「イエスを信じない者たち」です。

 先週はこの直前を読みました。イエス様の締めくくりの言葉が印象深かったと思います。「光(イエス様ご自身)は、いましばらく、あなた方の間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

 そして本日の個所に入ります。36節の後半から。「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」先の42節を見ると、「議員の中にもイエスを信じる者は多かった」とあるので、イエス様を救い主と信じる人々も多かったのですが、群衆の中にはイエス様を救い主と信じない人々もいた、ということなのでしょう。不思議と言えば不思議です。この前のページを読むと、エルサレムの都に入城するイエス様を、大勢の群衆が「ホサナ、ホサナ」と叫んで大歓迎したばかりではありませんか。中には本気でイエス様を救い主として歓迎した人もいたのでしょうが、しばらくすると熱気が冷めてしまい、イエス様を真の救い主と信じなくなった人も多かったのではないかと思います。

 ヨハネ福音書は、人々がイエス様を救い主と信じなかったのは、次の理由によると記しています。「預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。『主よ、誰が私たちの知らせを信じましたか。主の御腕は、誰に示されましたか。』」これは、教会では有名な旧約聖書のイザヤ書53章の冒頭なのですね。本日の旧約聖書としてそこを選びましたので、読んでみます。ヨハネ福音書に引用されている言葉と少しだけ違いますが、もちろんほぼ同じです。「私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」これから語られるのは、「苦難の僕(しもべ)」の姿、私たちのために十字架につけられる救い主イエス・キリストのお姿です。この方が真の救い主だということを、「誰が信じられるだろうか」と53章1節は語るのです。「十字架で死んで下さる方が真の救い主だということは、あまりにも意外で、誰も思いつかない真理だというのです。

 「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」この中の一部を、口語訳聖書は、こう訳していて、私は印象的だと感じます。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔を覆って忌み嫌われる者のように、彼は侮られた。我々も彼を尊ばなかった。まことに彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った。」

 私たちは、これが、私たちのために死んで下さったイエス・キリストの十字架を指し示していると知っています。その冒頭に「主よ、誰が私たちの知らせを信じましたか」と書かれています。だれも信じない。多くの人がなかなか信じようとしないというのです。神の子が、私たちを罪と死から救うために、十字架の上で身代わりに死んで下さるということは、誰も思いつかないこと、なかなか信じていただけないこと、だというのです。私たち毎週のように教会に集う者は、これを何百回・何千回も聞いているので、やや当たり前に感じるかもしれませんが、改めて考えてみると、これは驚くべき神の自己犠牲の愛というほかありません。

 39節「彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。これはイザヤ書6章の引用です。「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。私は彼らをいやさない。」この御言葉は「かたくなの預言」と呼ばれます。とても分かりにくい印象を受けます。「神は彼ら(イスラエルの民)の目を見えなくし、その心をかたくなにされた。」神が、イスラエルの民の心をかたくなになさったと読めます。すると私たちは言いたくなるのではないでしょうか。「全能の神様がイスラエルの民の心をかたくなになさったのなら、イスラエルの民はどうしようもないではないか。人々がイエス様を救い主と信じないのは、人間の責任ではなく、神様の責任ではないのか。」しかし、このうそぶいた言い方は、私たち人間の甚だしい思い上がり、神様のせいにする私たち人間の高慢・傲慢の恐るべき罪と言うべきです。

 私たちは、自分がイエス様を救い主と信じることができないのは「神様のせいだ」などとかたくなで頑固なことを言わず、素直にへりくだって、イエス様を救い主と信じ告白する方が、ずっとよいのです。神様がそれを望んでおられます。私は、新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)1章21節以下を、思い起こすのです。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人(ユダヤ人以外の異邦人の代表)は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」

 ユダヤ人には、「自分たちこそ、神様に選ばれた民」という誇りがありました。確かにユダヤ人は、神に選ばれた民なのです。選ばれたことを大きな光栄と思い、感謝して謙虚になればよいのですが、逆に選ばれた民との意識が強く、鼻高々に思い上がってしまい、かたくなになり、神様の御言葉に聴き従わなくなってしまいました。ギリシア人をはじめとする異邦人は異邦人で、自分たちは頭がよく優秀で、知恵を持っていると誇りに思っていました。両者とも自分の力による上昇志向なのです。ところが神様は、その逆のような、真の救いの道を用意して下さいました。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるし(力、奇跡)を求め、ギリシア人は知恵(知恵による自己満足)を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリスト(しかも十字架につけられたキリスト)を宣べ伝えているのです。」

 上昇志向でなく、その正反対に十字架の死にまで、徹底的にへりくだられたイエス・キリスト。このイエス・キリストを救い主と信じ告白する謙虚な人(かたくなでない人)を救い、その人に永遠の命を与える。これが神様のご意志なのです。従って私たちは、かたくなな心を捨てて、ぜひ十字架に架かって復活された真の救い主イエス様を信じる必要があります。但し、人がイエス様を救い主と信じるためには、聖霊なる神様に働いていただく必要があります。コリントの信徒への手紙(一)12章3節に、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです」と書いてある通りです。ですから私たちが隣人に伝道する時、「神様、どうかこの方の心をかたくなにしないで、聖霊を豊かに降り注いで、この方にイエス様を救い主と信じる心、告白する信仰を与えて下さい」と祈る必要があります。神様には人の心をかたくなにすることもでき、逆に人の心を素直にすることもできます。ですから私たちは、「かたくなになった人の心も、神様が働いて素直にして下さい」と神様に祈ることができ、その祈りが大切ではないかと思うのです。

 ヨハネ福音書に戻り、41節。「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。」これはイザヤ書6章で、預言者イザヤが地上の神殿で、おそらく礼拝をしていたとき、天の真の神様を垣間見たイザヤの預言活動の原点の重要な経験を指しています。上の方にセラフィム(天使のような存在)がいて、各々6つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていました。彼らは互いに呼び交わし唱えたのです。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」イザヤは言います。「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、私の目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」聖書においては、人が神を見ると死ぬということがあります。神様は清い栄光に輝く完全に聖なる方、私たち人間は罪人(つみびと)。罪人(つみびと)が聖なる神を直接見ると、撃たれて死ぬのです。それでイザヤは、「災いだ。私は滅ぼされる」と叫んだのです。神を直接見ることは、罪人(つみびと)にとって耐えられない、圧倒的な体験です。しかし幸い、イザヤは撃たれて死にませんでした。イザヤは罪の赦しを与えられ、神のメッセージを語る預言者として、自分の民イスラエルの人々のもとに派遣されます。このイザヤが神を見た経験を、本日のヨハネ福音書は、「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」と述べます。私は以前、この御言葉を読んで、本当に驚きました。イザヤが見た神はイエス・キリストだと言っているからです。ヨハネ福音書は、冒頭から同じようなことを述べています。「初めに言(ロゴス=イエス・キリストを指す)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」イザヤが見た神は、父なる神様であり子なる神キリストであり、目に見えない聖霊なる神もそこにおられたに違いありません。新約聖書を読むことで、旧約聖書が初めて本当に分かるのですね。

 42節以下「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」議員とは、最高法院の議員です。彼らの中にもイエス様を信じる者は多かったが、村八分にされるのを恐れて、力をもつファリサイ派の人々を恐れて、公に言い表さなかった、つまり告白しなかったのです。それではいけません。ローマの信徒への手紙10章9節に、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と書いてあるからです。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだからである」とあります。「好んだ」は元のギリシア語で、「愛した」という言葉です。「彼らは神からの誉れよりも、人間からの誉れを愛した」のです。神様よりも、この世の方を愛したのです。使徒パウロが、テモテへの手紙(二)4章で、「デマスはこの世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまい」と書いているのを思い出しました。イエス・キリストを愛して、神の道を捨てないことが大切なのですね。

 昔見た大河ドラマで、小西行長というキリシタン大名が、豊臣秀吉のキリスト教迫害に一旦屈する場面がありました。彼が友人に「表向きは信仰を捨てて、心の中で信じていこうと思う。面従腹背だ」と言うと友人に、「それは卑怯だ」と叱られます。もう一人、高山右近と言う熱心なキリシタン大名がいて、彼は信仰を捨てないのです。高山右近は最後は徳川家康のキリスト教迫害の時に、「信仰をとるか、大名の地位をとるか」の選択を迫られ、大名の地位を捨てて信仰をとったために、フィリピンのマニラに追放され、そこで天に召されました。

 私は5年ほど前に、当時のキリシタンの「おたあ」という女性を主人公にした演劇を見ました。おたあは、豊臣秀吉の朝鮮侵略のときに、小西行長によって日本に連れ帰られた女性で、小西行長の養女になり、徳川家康の侍女になるなど、大変な人生を歩んだクリスチャンです。おたあも迫害を受け、しかし信仰を捨てないのです。信仰を捨てないとがんばる中で、「それならあなたの恋人を殺す」と言われ、さすがに動揺し、彼を助けるためには信仰を捨てることもやむを得ないかと一瞬思うのですが、そこでその恋人が叫ぶのです。「おたあ、信仰を捨てたらだめだ!」それに励まされて、おたあは信仰を捨てないのです。そして神津島という島に流される。そこで天に召されただろうと長年考えられていましたが、最近資料が新たに発見され、晩年は長崎で暮らしていたらしいことが分かりました。信仰を守っていたと思います。迫害の時代に信仰を守り通した勇敢な人々の話を聞くと、私たちは今でも大変励まされるのですね。彼女ら、彼らは「人間からの誉れよりも、神からの誉れを愛した」のです。本日の説教題「神に喜ばれることを第一に」は、その意味です。

 一昨日の9月1日(日)は関東大震災からちょうど100年でした。真に残念なことにデマを信じて朝鮮人、中国人殺害が起こりましたが、ほっとする話もあります。あるクリスチャンの社長の会社でも朝鮮半島出身の2人の少年が働いていました。自警団が来て、「朝鮮人を出せ。殺す」と言いました。社長は「あの若者たちはもういない。いても、何の罪もないのに渡すことはできない。まず私を殺しなさい」と言うと、相手は引き揚げました。あるお菓子会社のクリスチャン社長は、会社の菓子やミルクをどんどん被災者に配りました。幹部に反対されても、「今こそ、神様とお客様にお返しするときだ」と実行しました。神戸にいた賀川豊彦という著名な牧師・社会事業家は、数日後に東京に来て、仲間の人々と共に救援活動を始めました。大きな苦難の中で、信仰によって生きた人々の姿は、全体の苦難が大き過ぎる中で、小さくてもキリストの光を感じさせます。

 イエス様は、44節以下で懸命に叫ばれます。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」ですから、イエス様はこうもおっしゃいます。今月の礼拝の「招きの言葉」です。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」真の光であるイエス様を、心より信じましょう。アーメン。