
2025-09-21 2:15:49()
「祈りを教えてください」 2025年9月21日(日)礼拝
(ルカによる福音書11:1~13)
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
(説教) 本日は、聖霊降臨節第16主日の公同礼拝です。説教題は「祈りを教えてください」です。小見出しは「祈るときには」です。
ルカによる福音書は、「祈るイエス様」のお姿を、たびたび伝えています。弟子たちは旧約聖書の祈りの言葉である詩編をも知っていたはずですが、祈るイエス様のお姿を見て、自分たちもイエス様のように祈りたくなったのだと思います。第1節「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネ(洗礼者ヨハネ)が弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さい』と言った。」そこで、イエス・キリストが祈りを教えて下さいました。「祈るときには、「祈るときには、こう祈りなさい。」これが「主の祈り」の原型ですね。「主の祈り」の原型はマタイ福音書6章にもあります。この2つを総合した祈りを、私たちは今もイエス様が教えて下さった「主の祈り」として、毎週の礼拝で祈っています。できれば各家庭で、毎日祈られることが、非常によいと思います。
「父よ、御名が崇められますように。」私たちは罪人(つみびと)ですので、本来は神様に親しく「父よ」と呼びかけることのできない者です。神様に「父よ」と呼びかけることができるならば、私たちはその父なる神様の子どもたちということになるからです。私たちは生まれつき神の子ではないのです。生まれつき神の子であられる方は、イエス・キリストお一人です。イエス様は、私たちの全部の罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活されました。そのイエス様を救い主と信じたお陰で、私たちは神の子とされ、聖霊を受けました。ですからイエス様のお陰で、私たちは安心して、聖霊に促されて「父よ」と親しく呼びかけることができます。ローマの信徒への手紙8章15節には、「この霊(聖霊)によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。ですから厳密に言うと、イエス様の十字架と復活によって救われたクリスチャンにして初めて「父よ」と呼びかけることができ、「主の祈り」を本当に祈ることができると思います。但し実際には、まだ洗礼を受けていない教会学校の子どもであっても「主の祈り」を祈りをますし、それでよいと思います。
「御名が崇められますように。」直訳では、「あなたの名が聖とされますように」です。これについてはイザヤ書6章3節に帰されたセラフィム(天使のような生き物)の讃美を思い出すのがよいと思います。セラフィムたちは神様を「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と讃美しています。私たちも同じ思いで、「父なる神様のお名前が聖なるものとして崇められますように」と讃美して祈るのです。「御国が来ますように。」直訳では、「あなた(神様)の国が来ますように。」です。神様の愛と正義と平和が完全に実現される国です。地上の国々もこの状態に近づくように、私たちは努力する必要があります。しかし、そのためには私たち人間の罪をゼロにする必要があります。それは簡単ではないので、神の国の実現・完成は、イエス・キリストがもう一度地上に来られる時に、神様ご自身によってなされます。ですから「御国が来ますように」は、世の終わり(終末)の神の国の完成を目指す祈りです。
3節「私たちに必要な糧を毎日与えて下さい。」マタイ福音書では、「私たちに必要な糧を今日与えて下さい。」ルカでは「毎日与えて下さい」なので、今日も明日も明後日も、私たちが地上に生きる限り、毎日与えて下さい、の意味になります。私たちは飽食の時代の日本に生きているので、この祈りをあまり切実に祈っていないのではないかと思います。特にこう祈らなくても、食物はあると思っていると感じます。しかし世界の戦争中の地域では食糧が不足して、飢餓になる恐れがあると言われています。誰一人飢餓に苦しむことのないように、切に祈ります。太平洋戦争末期と戦後に食糧不足を経験なさった方もおられると思います。
そして、今の日本の食糧事情も楽観できないことを、私たちは感じていると思うのです。現に昨年の夏ごろからお店に米がない状態を、私たちは見ています。石破首相は、米の増産に方針変更すると言ったようです。首相が交代しても、これはぜひ進めてほしいと願います。日本の食糧自給率は未だに40%以下のようです。多くの食物を輸入に頼っています。これは実に危険です。もし日本の食糧輸入ルートで戦争が起こって輸入ルートが断たれれば、食料不足、飢えが起こる恐れがあります。安全保障でミサイルを配備するよりも、食糧自給率を高める食糧安全保障の方が重要ではないかと思います。私たちは、戦争が起こらないように真剣に祈る必要があります。今の戦争が早く終わるように一生懸命祈る必要があります。そうしないと、世界に食糧が行き渡らないからです。ウクライナにもガザにも日本にも、必要な食糧が行き渡るように祈る必要があります。「私たちに必要な糧を毎日与えて下さい。」
4節「私たちの罪を赦して下さい。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」これには前提があります。私たちの多くの罪が、イエス様の十字架によって全て赦され、私たちが永遠の命をいただいたという前提です。この大きな前提を土台として、私たちは祈ります。「私たちの罪を赦して下さい。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」まとめるとこうです。「父なる神様、私たちの多くの罪を、イエス様の身代わりの十字架のゆえに赦して下さったことを感謝しているので、私たちは私たちに負い目(罪)のある人を皆赦します。ですから、私たちが日々心ならずも、未だに犯してしまう罪をお赦し下さい。」
「私たちを誘惑に遭わせないで下さい。」それは、私たち人間が誘惑に弱いからです。私たちは日々、色々な誘惑にさらされています。私たちは誘惑に負けないように気をつけている部分もありますが、別の誘惑には無自覚で、とても無防備の場合もあります。人生経験・信仰経験を重ねると、誘惑に負けた過去から学んで教訓とし、同じ誘惑に負けない自分をある程度築くことができると思いますが、それでもあらゆる誘惑に自力で勝つことはできないと思います。私たちが罪を犯すことが少なくなるために、「私たちを誘惑に遭わせないで下さい」の祈りを、切実に祈る必要があると痛感します。 主の祈りの最後は歴代誌上29章11節。
5節以降は、イエス様による私たちへの祈りの勧めですね。「また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」
ある聖書ではこの部分に小見出しがついていて「うるさい友人」です。ストレートでちょっと面白い小見出しです。真夜中に旅行中の友達が来たが何も出すのがないので、別の友達の所にパンを借りに行く話です。中近東では昼間が暑いので、よく夜間に旅したので、真夜中に着くのは珍しくないそうです。パン三つは、今でも中近東での一人一食分の分量だそうです。この人は、自分のためにパンを借りに行ったのではなく、友達(他人)のためにパンを借りに行った点も、ポイントです。自分のためではなかった。これは祈りについての教えです。「しつように頼めば、起きて来て、必要なものは何でも与えるであろう。」ある訳では「そのしつこさの故に、起きて、彼が求めるものをすべて貸すに違いない」です。「執拗に祈れ、しつこく祈れ」と教えていると読めますが、その相手を信頼しないからではなく、その相手を深く信頼しているからです。少々面倒臭くても、あの人はよい人だから、友人をもてなすパンを求める私を、必ず助けてくれるという深い信頼があります。人間の友人でもそうなのだから、まして神様はもっと信頼できる方です。その神様に祈りなさいと、私たちは招かれています。
9節「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」これは「遠慮しないで、祈ってご覧なさい」というイエス様からの強い招きです。父なる神様は、あなた方の祈りを待っておられる。あなた方が祈ることを喜んで下さる。似たことが、ヤコブの手紙1章5節以下にもあり、祈る私たちを励まします。「あなた方の中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は。風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。」「誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」
フォーサイス『祈りの精神』粘り強い祈り。「私の祈りをあなたが完成して、み旨に適う祈りにして下さい、と祈るべきである。」「祈りは、単なる手段ではなく、クリスチャン生活の大目的なのである。」「神の意志にまで影響を与えたという実感に至らない祈りは、ねばり強いとは言えない。」「格闘的祈りこそ、聖書を支配している理想ではないだろうか。」「安易な福音は、キリスト教を衰亡させるものである。」「神に格闘を挑んで、神の御手に身を投げかけるべきである。神はこの聖き戦いを愛したもう。」
11節以下。ある訳ではここに「祈りの力」の小見出し。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」人間の父親は罪人(つみびと)ではある(!)が、自分の子どもにはよいものを与える。まして愛と善と義そのものであられる父なる神様は、最も良い物を与えて下さる、最も信頼できる方だと語られています。このさそりは、パレスティナでよく見かける黒色のさそりだそうで、パン、魚、卵は中近東の人々の常食とのことです。そしてここで私たちが祈り求めるべき最も良い物は聖霊だと、自信をもって語られています。聖霊は、最も尊い神様の清き霊であられます。イエス様を信じて洗礼を受けると、私たち罪人(つみびと)に、この宇宙で最も尊い聖霊が注がれます。聖霊がその方の中におられれば、その方は救われていて、永遠の命が与えられています。」
尾山令仁牧師という有名な牧師の本にこう書いてあり、励まされました。「祈りの力を知らない人は、信仰生活のすばらしさを知らない人です。クリスチャンにとって、祈りがどんなに有力な武器であり、また天の宝庫をあける鍵であるかということは、それを使った人であれば、よく分かっていると思います。祈りは、悪魔の攻撃に対して、神の助けを求めて戦う武器にもなり、天の宝庫に埋蔵されている霊的宝を神からいただくすべでもあります。」
宗教改革者ジャン・カルヴァンが祈りについて記した『キリスト教綱要』第3編第20章を、ある人は「至宝」と高く評価しています。「祈りは、キリスト者にとってなくてはならぬ部分である。神はすべてのよきものを与えて下さる方であり、その方が、さあ求めよと招いて下さるのである。我々が必要とするもの、我々に欠けているものは何であれ、神のうちに、イエス・キリストのうちにある。祈らないことは、畑に隠された宝の所在を知らされながら、無視している人のようなものである。祈りは必要不可欠のものである。我々は、自分で自分を救うことができないものだからである。」私たちを真の祈りへと、熱烈に招く中身です。これからもご一緒に、一生懸命祈って参りましょう。アーメン。
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
(説教) 本日は、聖霊降臨節第16主日の公同礼拝です。説教題は「祈りを教えてください」です。小見出しは「祈るときには」です。
ルカによる福音書は、「祈るイエス様」のお姿を、たびたび伝えています。弟子たちは旧約聖書の祈りの言葉である詩編をも知っていたはずですが、祈るイエス様のお姿を見て、自分たちもイエス様のように祈りたくなったのだと思います。第1節「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネ(洗礼者ヨハネ)が弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さい』と言った。」そこで、イエス・キリストが祈りを教えて下さいました。「祈るときには、「祈るときには、こう祈りなさい。」これが「主の祈り」の原型ですね。「主の祈り」の原型はマタイ福音書6章にもあります。この2つを総合した祈りを、私たちは今もイエス様が教えて下さった「主の祈り」として、毎週の礼拝で祈っています。できれば各家庭で、毎日祈られることが、非常によいと思います。
「父よ、御名が崇められますように。」私たちは罪人(つみびと)ですので、本来は神様に親しく「父よ」と呼びかけることのできない者です。神様に「父よ」と呼びかけることができるならば、私たちはその父なる神様の子どもたちということになるからです。私たちは生まれつき神の子ではないのです。生まれつき神の子であられる方は、イエス・キリストお一人です。イエス様は、私たちの全部の罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活されました。そのイエス様を救い主と信じたお陰で、私たちは神の子とされ、聖霊を受けました。ですからイエス様のお陰で、私たちは安心して、聖霊に促されて「父よ」と親しく呼びかけることができます。ローマの信徒への手紙8章15節には、「この霊(聖霊)によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。ですから厳密に言うと、イエス様の十字架と復活によって救われたクリスチャンにして初めて「父よ」と呼びかけることができ、「主の祈り」を本当に祈ることができると思います。但し実際には、まだ洗礼を受けていない教会学校の子どもであっても「主の祈り」を祈りをますし、それでよいと思います。
「御名が崇められますように。」直訳では、「あなたの名が聖とされますように」です。これについてはイザヤ書6章3節に帰されたセラフィム(天使のような生き物)の讃美を思い出すのがよいと思います。セラフィムたちは神様を「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と讃美しています。私たちも同じ思いで、「父なる神様のお名前が聖なるものとして崇められますように」と讃美して祈るのです。「御国が来ますように。」直訳では、「あなた(神様)の国が来ますように。」です。神様の愛と正義と平和が完全に実現される国です。地上の国々もこの状態に近づくように、私たちは努力する必要があります。しかし、そのためには私たち人間の罪をゼロにする必要があります。それは簡単ではないので、神の国の実現・完成は、イエス・キリストがもう一度地上に来られる時に、神様ご自身によってなされます。ですから「御国が来ますように」は、世の終わり(終末)の神の国の完成を目指す祈りです。
3節「私たちに必要な糧を毎日与えて下さい。」マタイ福音書では、「私たちに必要な糧を今日与えて下さい。」ルカでは「毎日与えて下さい」なので、今日も明日も明後日も、私たちが地上に生きる限り、毎日与えて下さい、の意味になります。私たちは飽食の時代の日本に生きているので、この祈りをあまり切実に祈っていないのではないかと思います。特にこう祈らなくても、食物はあると思っていると感じます。しかし世界の戦争中の地域では食糧が不足して、飢餓になる恐れがあると言われています。誰一人飢餓に苦しむことのないように、切に祈ります。太平洋戦争末期と戦後に食糧不足を経験なさった方もおられると思います。
そして、今の日本の食糧事情も楽観できないことを、私たちは感じていると思うのです。現に昨年の夏ごろからお店に米がない状態を、私たちは見ています。石破首相は、米の増産に方針変更すると言ったようです。首相が交代しても、これはぜひ進めてほしいと願います。日本の食糧自給率は未だに40%以下のようです。多くの食物を輸入に頼っています。これは実に危険です。もし日本の食糧輸入ルートで戦争が起こって輸入ルートが断たれれば、食料不足、飢えが起こる恐れがあります。安全保障でミサイルを配備するよりも、食糧自給率を高める食糧安全保障の方が重要ではないかと思います。私たちは、戦争が起こらないように真剣に祈る必要があります。今の戦争が早く終わるように一生懸命祈る必要があります。そうしないと、世界に食糧が行き渡らないからです。ウクライナにもガザにも日本にも、必要な食糧が行き渡るように祈る必要があります。「私たちに必要な糧を毎日与えて下さい。」
4節「私たちの罪を赦して下さい。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」これには前提があります。私たちの多くの罪が、イエス様の十字架によって全て赦され、私たちが永遠の命をいただいたという前提です。この大きな前提を土台として、私たちは祈ります。「私たちの罪を赦して下さい。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」まとめるとこうです。「父なる神様、私たちの多くの罪を、イエス様の身代わりの十字架のゆえに赦して下さったことを感謝しているので、私たちは私たちに負い目(罪)のある人を皆赦します。ですから、私たちが日々心ならずも、未だに犯してしまう罪をお赦し下さい。」
「私たちを誘惑に遭わせないで下さい。」それは、私たち人間が誘惑に弱いからです。私たちは日々、色々な誘惑にさらされています。私たちは誘惑に負けないように気をつけている部分もありますが、別の誘惑には無自覚で、とても無防備の場合もあります。人生経験・信仰経験を重ねると、誘惑に負けた過去から学んで教訓とし、同じ誘惑に負けない自分をある程度築くことができると思いますが、それでもあらゆる誘惑に自力で勝つことはできないと思います。私たちが罪を犯すことが少なくなるために、「私たちを誘惑に遭わせないで下さい」の祈りを、切実に祈る必要があると痛感します。 主の祈りの最後は歴代誌上29章11節。
5節以降は、イエス様による私たちへの祈りの勧めですね。「また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」
ある聖書ではこの部分に小見出しがついていて「うるさい友人」です。ストレートでちょっと面白い小見出しです。真夜中に旅行中の友達が来たが何も出すのがないので、別の友達の所にパンを借りに行く話です。中近東では昼間が暑いので、よく夜間に旅したので、真夜中に着くのは珍しくないそうです。パン三つは、今でも中近東での一人一食分の分量だそうです。この人は、自分のためにパンを借りに行ったのではなく、友達(他人)のためにパンを借りに行った点も、ポイントです。自分のためではなかった。これは祈りについての教えです。「しつように頼めば、起きて来て、必要なものは何でも与えるであろう。」ある訳では「そのしつこさの故に、起きて、彼が求めるものをすべて貸すに違いない」です。「執拗に祈れ、しつこく祈れ」と教えていると読めますが、その相手を信頼しないからではなく、その相手を深く信頼しているからです。少々面倒臭くても、あの人はよい人だから、友人をもてなすパンを求める私を、必ず助けてくれるという深い信頼があります。人間の友人でもそうなのだから、まして神様はもっと信頼できる方です。その神様に祈りなさいと、私たちは招かれています。
9節「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」これは「遠慮しないで、祈ってご覧なさい」というイエス様からの強い招きです。父なる神様は、あなた方の祈りを待っておられる。あなた方が祈ることを喜んで下さる。似たことが、ヤコブの手紙1章5節以下にもあり、祈る私たちを励まします。「あなた方の中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は。風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。」「誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」
フォーサイス『祈りの精神』粘り強い祈り。「私の祈りをあなたが完成して、み旨に適う祈りにして下さい、と祈るべきである。」「祈りは、単なる手段ではなく、クリスチャン生活の大目的なのである。」「神の意志にまで影響を与えたという実感に至らない祈りは、ねばり強いとは言えない。」「格闘的祈りこそ、聖書を支配している理想ではないだろうか。」「安易な福音は、キリスト教を衰亡させるものである。」「神に格闘を挑んで、神の御手に身を投げかけるべきである。神はこの聖き戦いを愛したもう。」
11節以下。ある訳ではここに「祈りの力」の小見出し。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」人間の父親は罪人(つみびと)ではある(!)が、自分の子どもにはよいものを与える。まして愛と善と義そのものであられる父なる神様は、最も良い物を与えて下さる、最も信頼できる方だと語られています。このさそりは、パレスティナでよく見かける黒色のさそりだそうで、パン、魚、卵は中近東の人々の常食とのことです。そしてここで私たちが祈り求めるべき最も良い物は聖霊だと、自信をもって語られています。聖霊は、最も尊い神様の清き霊であられます。イエス様を信じて洗礼を受けると、私たち罪人(つみびと)に、この宇宙で最も尊い聖霊が注がれます。聖霊がその方の中におられれば、その方は救われていて、永遠の命が与えられています。」
尾山令仁牧師という有名な牧師の本にこう書いてあり、励まされました。「祈りの力を知らない人は、信仰生活のすばらしさを知らない人です。クリスチャンにとって、祈りがどんなに有力な武器であり、また天の宝庫をあける鍵であるかということは、それを使った人であれば、よく分かっていると思います。祈りは、悪魔の攻撃に対して、神の助けを求めて戦う武器にもなり、天の宝庫に埋蔵されている霊的宝を神からいただくすべでもあります。」
宗教改革者ジャン・カルヴァンが祈りについて記した『キリスト教綱要』第3編第20章を、ある人は「至宝」と高く評価しています。「祈りは、キリスト者にとってなくてはならぬ部分である。神はすべてのよきものを与えて下さる方であり、その方が、さあ求めよと招いて下さるのである。我々が必要とするもの、我々に欠けているものは何であれ、神のうちに、イエス・キリストのうちにある。祈らないことは、畑に隠された宝の所在を知らされながら、無視している人のようなものである。祈りは必要不可欠のものである。我々は、自分で自分を救うことができないものだからである。」私たちを真の祈りへと、熱烈に招く中身です。これからもご一緒に、一生懸命祈って参りましょう。アーメン。
2025-09-14 2:37:15()
「二人の姉妹」 2025年9月14日(日)礼拝
(ルカによる福音書10:38~42)
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
(説教) 本日は、聖霊降臨節第15主日の公同礼拝です。説教題は「二人の姉妹」です。小見出しは「マルタとマリア」です。先週の「善いサマリア人」に続いて、多くの方よく知っている個所です。私たちはこの箇所をも、分かりきっていると思っているかもしれませんが、改めてこの御言葉に聴いてみたいと思います。
最初の38~39節「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。」ヨハネ福音書11章と12章にもこの姉妹と同じ人と思われるマルタとマリアが出て来ます。その兄弟が、イエス様によって復活させられたラザロです。マルタ、マリア、ラザロの三人は、イエス様と親しく、べタニヤという村に住んでいました。ですから本日のルカによる福音書10章で、イエス様がお入りになった村もベタニヤ村だと思われます。
39節「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話に聞き入っていた。」この場面、申命記33章3節に関連すると言われます。モーセが生涯を終える時に、イスラエルの民に与えた祝福の言葉です。「あなた(神様)は民らを慈しみ、すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。彼らはあなたの足元にひれ伏し、あなたの御告げを受ける。」イスラエルの民が、神の足元にひれ伏し、神様の御言葉を聞くと述べています。ですがこれは旧約聖書の時代には、基本的に男性が行うことだったそうです。女性が神の御言葉に聴き入ることは、原則としてなかったそうです。例外はあるかもしれませんが、原則はそうだったそうです。本日の場面では、その旧約聖書の限界を乗り超えて、女性のマリアが、イエス様の話に全身全霊で聴き入っているところに、新約聖書の時代の新しさとすばらしさがあると言えます。
40節「マルタは、いろいろなもてなしのためにせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい。』主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことを思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」マルタとイエス様のこの対話の間、マリアはひと言も発していません。
マルタは、イエス様をもてなすために全力を注いでいました。そのことに偽りはありません。聖書において、旅人をもてなすことは重要なことです。現にイエス様は旅人でした。マルタはイエス様をもてなすことにとても張り切ったと思います。ヘブライ人への手紙13章2節に、こうあります。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」ルカ福音書8章1節以下にも、こうあります。「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。~多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」このようなもてなし・奉仕は、よきものと見なされています。もちろんもてなしは。女性だけが行うことではなく、もちろん男性も行います。
このように、聖書の中で旅人へのもてなしは基本的によいことです。でも本日のマルタのもてなしは、残念ながらよい結果を産んでいません。それはなぜなのか。ここがポイントですね。マルタは苛立っています。マルタとマリアのどちらが年上か、どこにも書いていないので分かりませんが、マルタの振る舞いはいかにも姉的なので、マルタが姉なのだろうと多くの人が思っているのではないかと思います。マルタの様子は、いかにも一家の模範的主婦、一家の女性リーダー、女主人です。彼女が一家のリーダーなのはよいのですが、イエス様に対してもリーダーシップを発揮しようとしています。これは行き過ぎだったのではないかと思います。マルタは、マリアに怒りを抱いていたでしょうが、イエス様に対しても苛立って、イエス様にも怒りをぶつけています。「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい。」これでは、パニックになっていて霊的・精神的によい状態とは言えません。
そこで、イエス様がマルタをたしなめられました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選らんだ。それを取り上げてはならない。」イエス様は「マルタ、マルタ」と二回声をかけておられます。二回繰り返すことで、イエス様は怒ることなく、愛をもってマルタをたしめておられることが分かります。私たちも一週間、仕事で働いていたりすると、イライラが募り、マルタ状態になることがあると思います。そのようなときこそ、礼拝に出席して、マリアのように神の御言葉を聴き、イエス様による平安を回復するようであっていただきたいと願います。
イエス様の最も適切な御言葉によって、愛をもってたしなめられて、マルタも自分の罪に気づいて悔い改め、平安を回復したに違いありません。マルタも問題は、自分のもてなしの理想を、自分の正義をマリアにもイエス様にも押しつけた点にあるように思います。これをキリスト教の言葉で言えば、自己義認になるのはないかと思います。自分で自分を正しいと主張することです。マルタとマリアは別の人間です。しかし私たち一人一人も、自分の中にマルタ的な要素とマリア的な要素の両方をもっていると思います。マルタは、「こんなに自分が頑張ってもてなしているのに、マリアは全然手伝わない。イエス様もイエス様だ。私のがんばりを評価して下さらず、無視している。」それでカッカし、不満でいっぱいになり平安を失っていました。私たちにも身に覚えがあると思うので、その時は私たちも祈ることで平安を回復したいと思います。祈る気持ちになれないときは、「主の祈り」を祈って、次第に平安を回復させていただきたいと思います。マルタは、祈れない状態だったと思います。祈れない状態の人に「祈りなさい」と言っても、「できない」と却って怒られるかもしれません。そんなときは、周囲にクリスチャンがいれば、その方のために執り成しの祈りを行うことが何よりも重要と思います。「あの方が祈れるようにして下さい」と、周囲の人がとりなしの祈りを行うことが大切と思います。
安息日という言葉は旧約聖書のヘブライ語で、シャッバトという言葉ですが、この言葉は中断という意味をも持っているようです。人間の活動を中断して、神様の前に出て神様を礼拝し、神様の御言葉を伺うのが安息日でしょう。人間の活動をひたすら続けるばかりですと、人間は自分勝手なことを行い続けてやめないかもしれません。そこで神様は、安息日という人間の活動を中断する日を与えて下さったのです。昨年は原発の事故がありましたが、あの事故は、人間が神様の所有である自然界に次々と危険な原発を作って突き進んで行くことを、神様が中断させようとなさった出来事ではないかと思えてなりません。人間が科学を発展させてどんどん欲望を実現して鼻高々になることを中断し、人間が謙虚になって真の神様を礼拝するように、と神様がお望みなっていると思えてなりません。私どもに必要なことは、神様の御言葉を聴き、神様の御言葉に聴き従うことと信じます。
旧約聖書の詩編第127編を思い出します。旧約聖書の971ページ下の段をご覧下さい。これは会堂建築に際してもしばしば読んだ御言葉です。第1節。「主御自身が建てて下さるのでなければ、家を建てる者の労苦はむなしい。主御自身が守って下さるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。」神様が喜んで下さり、応援して下さるよいことを行うことこそ、むなしくないことだということです。どんなに人間が一致団結して努力したとしても、たとえばバベルの塔を建ててしまったならば、その努力は神様に逆らう努力になってしまい、意味がなくむなしいのです。ですから私どもは何かを行うとき、自分がしようとしていることが神様が喜んで下さるよいことなのかどうか、神様が味方して下さるよいことなのかどうか、祈りつつよくチェックすることが大切だと思います。
2節。「朝早く起き、夜遅く休み、焦慮してパンを食べる人よ、それはむなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。」パンも食べないで早朝から深夜まで、睡眠を削って焦りに焦って仕事をしている人への、神様の御言葉です。朝から晩まで働くことがいけないのではないでしょう。そうしないと必要な収入を得られないということもあります。ここでは、自分の努力だけで焦って全てをやり遂げなければならないと思い込んでいる人に、もう少し神様の助けに信頼してもよいのだということを諭している御言葉です。この「朝早く起き、夜遅く休み、焦慮してパンを食べる人」は、まさにイライラして立ち働いているマルタにそっくりです。私たちもこのようになることがあるのですが、神様はそんなとき私たちに、祈ってごらんなさい、神様にもう少し信頼するようにと諭して下さいます。
修道院のモットーは、「祈り、働け」だと聴いたことがあります。マリアはまずイエス様の御言葉をじっくり聞いています。マリアはまず祈った、礼拝したと言ってもよいでしょう。それから働いたのではないでしょうか。マルタは祈らないで働いた、礼拝しないで働いたのではないかと思います。ただ働くのではなく、祈り働くことが大切なのでしょう。マルティン・ルターは、「今日は忙しいから、たくさん祈ろう」と言ったと聴きます。私どもも聖書の御言葉に聴き、神様を礼拝し、そこから神様に喜んでいただける道、神様と周りの方々をキリストの愛で愛する生き方へ押し出されたいと願います。忙しい=心を滅ぼすと書く。ゆとりも必要。サバティカル。奉仕が悪いのではない。よきサマリア人は、マルタのようにいら立たないで、もてなしをした。
エマオのスローワーク。この世は効率優先でせわしい。私たちが礼拝を理由もなく休むとイエス様は「あなたがいなくて寂しい」と言われる。本当です。祈ってイエス様の御言葉を伺うことで、正しい優先順位が分かるのではないか。イエス様でさえ、祈りに専念する時間が必要だった。「最悪の罪は、祈らないことである。」マルタさん、祈りなさい、ではないか。フィリピ4の6。世界平和記念大聖堂の別棟の額。アーメン。
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
(説教) 本日は、聖霊降臨節第15主日の公同礼拝です。説教題は「二人の姉妹」です。小見出しは「マルタとマリア」です。先週の「善いサマリア人」に続いて、多くの方よく知っている個所です。私たちはこの箇所をも、分かりきっていると思っているかもしれませんが、改めてこの御言葉に聴いてみたいと思います。
最初の38~39節「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。」ヨハネ福音書11章と12章にもこの姉妹と同じ人と思われるマルタとマリアが出て来ます。その兄弟が、イエス様によって復活させられたラザロです。マルタ、マリア、ラザロの三人は、イエス様と親しく、べタニヤという村に住んでいました。ですから本日のルカによる福音書10章で、イエス様がお入りになった村もベタニヤ村だと思われます。
39節「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話に聞き入っていた。」この場面、申命記33章3節に関連すると言われます。モーセが生涯を終える時に、イスラエルの民に与えた祝福の言葉です。「あなた(神様)は民らを慈しみ、すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。彼らはあなたの足元にひれ伏し、あなたの御告げを受ける。」イスラエルの民が、神の足元にひれ伏し、神様の御言葉を聞くと述べています。ですがこれは旧約聖書の時代には、基本的に男性が行うことだったそうです。女性が神の御言葉に聴き入ることは、原則としてなかったそうです。例外はあるかもしれませんが、原則はそうだったそうです。本日の場面では、その旧約聖書の限界を乗り超えて、女性のマリアが、イエス様の話に全身全霊で聴き入っているところに、新約聖書の時代の新しさとすばらしさがあると言えます。
40節「マルタは、いろいろなもてなしのためにせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい。』主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことを思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」マルタとイエス様のこの対話の間、マリアはひと言も発していません。
マルタは、イエス様をもてなすために全力を注いでいました。そのことに偽りはありません。聖書において、旅人をもてなすことは重要なことです。現にイエス様は旅人でした。マルタはイエス様をもてなすことにとても張り切ったと思います。ヘブライ人への手紙13章2節に、こうあります。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」ルカ福音書8章1節以下にも、こうあります。「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。~多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」このようなもてなし・奉仕は、よきものと見なされています。もちろんもてなしは。女性だけが行うことではなく、もちろん男性も行います。
このように、聖書の中で旅人へのもてなしは基本的によいことです。でも本日のマルタのもてなしは、残念ながらよい結果を産んでいません。それはなぜなのか。ここがポイントですね。マルタは苛立っています。マルタとマリアのどちらが年上か、どこにも書いていないので分かりませんが、マルタの振る舞いはいかにも姉的なので、マルタが姉なのだろうと多くの人が思っているのではないかと思います。マルタの様子は、いかにも一家の模範的主婦、一家の女性リーダー、女主人です。彼女が一家のリーダーなのはよいのですが、イエス様に対してもリーダーシップを発揮しようとしています。これは行き過ぎだったのではないかと思います。マルタは、マリアに怒りを抱いていたでしょうが、イエス様に対しても苛立って、イエス様にも怒りをぶつけています。「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって下さい。」これでは、パニックになっていて霊的・精神的によい状態とは言えません。
そこで、イエス様がマルタをたしなめられました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選らんだ。それを取り上げてはならない。」イエス様は「マルタ、マルタ」と二回声をかけておられます。二回繰り返すことで、イエス様は怒ることなく、愛をもってマルタをたしめておられることが分かります。私たちも一週間、仕事で働いていたりすると、イライラが募り、マルタ状態になることがあると思います。そのようなときこそ、礼拝に出席して、マリアのように神の御言葉を聴き、イエス様による平安を回復するようであっていただきたいと願います。
イエス様の最も適切な御言葉によって、愛をもってたしなめられて、マルタも自分の罪に気づいて悔い改め、平安を回復したに違いありません。マルタも問題は、自分のもてなしの理想を、自分の正義をマリアにもイエス様にも押しつけた点にあるように思います。これをキリスト教の言葉で言えば、自己義認になるのはないかと思います。自分で自分を正しいと主張することです。マルタとマリアは別の人間です。しかし私たち一人一人も、自分の中にマルタ的な要素とマリア的な要素の両方をもっていると思います。マルタは、「こんなに自分が頑張ってもてなしているのに、マリアは全然手伝わない。イエス様もイエス様だ。私のがんばりを評価して下さらず、無視している。」それでカッカし、不満でいっぱいになり平安を失っていました。私たちにも身に覚えがあると思うので、その時は私たちも祈ることで平安を回復したいと思います。祈る気持ちになれないときは、「主の祈り」を祈って、次第に平安を回復させていただきたいと思います。マルタは、祈れない状態だったと思います。祈れない状態の人に「祈りなさい」と言っても、「できない」と却って怒られるかもしれません。そんなときは、周囲にクリスチャンがいれば、その方のために執り成しの祈りを行うことが何よりも重要と思います。「あの方が祈れるようにして下さい」と、周囲の人がとりなしの祈りを行うことが大切と思います。
安息日という言葉は旧約聖書のヘブライ語で、シャッバトという言葉ですが、この言葉は中断という意味をも持っているようです。人間の活動を中断して、神様の前に出て神様を礼拝し、神様の御言葉を伺うのが安息日でしょう。人間の活動をひたすら続けるばかりですと、人間は自分勝手なことを行い続けてやめないかもしれません。そこで神様は、安息日という人間の活動を中断する日を与えて下さったのです。昨年は原発の事故がありましたが、あの事故は、人間が神様の所有である自然界に次々と危険な原発を作って突き進んで行くことを、神様が中断させようとなさった出来事ではないかと思えてなりません。人間が科学を発展させてどんどん欲望を実現して鼻高々になることを中断し、人間が謙虚になって真の神様を礼拝するように、と神様がお望みなっていると思えてなりません。私どもに必要なことは、神様の御言葉を聴き、神様の御言葉に聴き従うことと信じます。
旧約聖書の詩編第127編を思い出します。旧約聖書の971ページ下の段をご覧下さい。これは会堂建築に際してもしばしば読んだ御言葉です。第1節。「主御自身が建てて下さるのでなければ、家を建てる者の労苦はむなしい。主御自身が守って下さるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。」神様が喜んで下さり、応援して下さるよいことを行うことこそ、むなしくないことだということです。どんなに人間が一致団結して努力したとしても、たとえばバベルの塔を建ててしまったならば、その努力は神様に逆らう努力になってしまい、意味がなくむなしいのです。ですから私どもは何かを行うとき、自分がしようとしていることが神様が喜んで下さるよいことなのかどうか、神様が味方して下さるよいことなのかどうか、祈りつつよくチェックすることが大切だと思います。
2節。「朝早く起き、夜遅く休み、焦慮してパンを食べる人よ、それはむなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。」パンも食べないで早朝から深夜まで、睡眠を削って焦りに焦って仕事をしている人への、神様の御言葉です。朝から晩まで働くことがいけないのではないでしょう。そうしないと必要な収入を得られないということもあります。ここでは、自分の努力だけで焦って全てをやり遂げなければならないと思い込んでいる人に、もう少し神様の助けに信頼してもよいのだということを諭している御言葉です。この「朝早く起き、夜遅く休み、焦慮してパンを食べる人」は、まさにイライラして立ち働いているマルタにそっくりです。私たちもこのようになることがあるのですが、神様はそんなとき私たちに、祈ってごらんなさい、神様にもう少し信頼するようにと諭して下さいます。
修道院のモットーは、「祈り、働け」だと聴いたことがあります。マリアはまずイエス様の御言葉をじっくり聞いています。マリアはまず祈った、礼拝したと言ってもよいでしょう。それから働いたのではないでしょうか。マルタは祈らないで働いた、礼拝しないで働いたのではないかと思います。ただ働くのではなく、祈り働くことが大切なのでしょう。マルティン・ルターは、「今日は忙しいから、たくさん祈ろう」と言ったと聴きます。私どもも聖書の御言葉に聴き、神様を礼拝し、そこから神様に喜んでいただける道、神様と周りの方々をキリストの愛で愛する生き方へ押し出されたいと願います。忙しい=心を滅ぼすと書く。ゆとりも必要。サバティカル。奉仕が悪いのではない。よきサマリア人は、マルタのようにいら立たないで、もてなしをした。
エマオのスローワーク。この世は効率優先でせわしい。私たちが礼拝を理由もなく休むとイエス様は「あなたがいなくて寂しい」と言われる。本当です。祈ってイエス様の御言葉を伺うことで、正しい優先順位が分かるのではないか。イエス様でさえ、祈りに専念する時間が必要だった。「最悪の罪は、祈らないことである。」マルタさん、祈りなさい、ではないか。フィリピ4の6。世界平和記念大聖堂の別棟の額。アーメン。
2025-09-06 22:00:29(土)
「あなたも同じようにしなさい」 2025年9月7日(日)礼拝
(ルカによる福音書10:25~37) すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
(説教) 本日は、聖霊降臨節第14主日の公同礼拝です。説教題は「あなた同じもようにしなさい」です。小見出しは「善いサマリア人」です。どなたでもよく知っている個所であり、聖書の中で最も有名な個所の1つです。私たちは分かりきっていると思っているかもしれませんが、改めてこの御言葉に聴いてみたいと思います。
最初の25節「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」どの世界でも専門家の意見は優れていることが多いですが、専門家も神様ではないので、100点とは限らないでしょう。彼はイエス様より年上だったかもしれませんし、専門家として自信をもっていて、このイエスという若者が、どれだけ旧約聖書の律法を理解しているか、試してやろうと考えたのでしょう。イエス様のことを「先生」と呼んでいますが、内心は自分が先生で、イエス様が生徒との感覚だったと思います。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」確かにこの問い自体は、重要な問いと思います。
しかし、私たち皆の真の先生であるイエス様が逆に質問されます。26節「イエスが『律法(旧約聖書)には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』。」律法学者は模範解答を語ります。27節「彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」これは確かに、満点の解答です。イエス様もそれを認めて言われます。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」これらを実行すれば、永遠の命を得ることができるのです。
最初の「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは旧約聖書の申命記6章5節に書かれています。4節から読むと、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これは旧約聖書と新約聖書を貫く信仰の鉄則と思います。「尽くし」と訳された言葉は、「全て、全体、全部」の意味です。ですから、「あなたは、心全体で、魂全体で、力全てで、あなたの神、主を愛しなさい」の意味になります。そうすれば、他の神々(真の神でない)を拝む偶像崇拝など、私たちの心に入り込む余地がないことになります。私が「心全体で、魂全体で、力全てでイエス様と私たちの父なる神様を愛しているか」と言うと、そう心がけているつもりですが、まだ足りないと思います。
律法学者の模範解答の後半「隣人を自分のように愛しなさい」は、本日の旧約聖書・レビ記19章に出ています。17節はこうです。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。」その通りです。しかし私が心の中で一度も他人を憎んだことがないかと言えば、「ある」と答えざるを得ません。それは私の罪です。兄弟と書いてありますが、これはイスラエルの名中の男性たちを指すのかもしれません。姉妹と書いていないので、女性を含まないのかもしれません。旧約聖書は確かに男性中心の傾向があります。しかしイエス様はもちろん、そのような旧約聖書の限界を突破されるので、心の中で女性を憎んでも、罪になると思います。18節「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。私は主である。」「復讐してはならない。」これは確かに、既にイエス様の心に一致していると感じます。但し「民の人々」は、基本的にイスラエル人を指しているようです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」の隣人も、原則としてイスラエル人を指すようです。その意味では、イエス様はその限界を突破しておられ、敵も異邦人(外国人)をも愛するようにおっしゃっていると思います。
旧約聖書にこのような限界はあるのですが、例外もあります。このレビ記19章の9節以下に、こうあります。「「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。私はあなたたちの神、主である。」寄留者は、外国人の可能性が高いと思います。ですからイエス様の教えほど徹底していないと思いますが、旧約聖書にも外国人を愛する教えはあると言えます。
ルカに戻ります。律法学者は、模範解答をし、イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命(永遠の命)が得られる」と断言されました。問答はこれで終わるはずですが、律法学者が話を続けたので、イエス様が世界史に世の終わりまで残るすばらしい話を語って下さいました。29節「しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、私の隣人とは誰ですか』と言った。」「隣人の定義は何ですか」と言ったのです。「自分が愛すべき隣人と、愛する必要のない他人を、どこで線引きすればよいですか。」全く意味のない質問です。イエス様の答えは、愛に線引きはないというものです。この律法学者の質問自体が、自己中心の罪をさらけ出しています。しかし私も、もっともらしいふりをして、自分が賢いふりをして、自分を取り繕うために、このような愚かな発言をすることがあるのではないかと、自分のことが心配になります。
イエス様は彼の質問に、不滅の価値をもつ美しいたとえ話によってお答えになりました。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。」昔の度はこのように危険だらけで、命がけだったのですね。エルサレムとエリコでは、標高差1000mほどあるそうです。ある人は、ユダヤ人(イスラエル人)男性でしょう。彼は非常な重傷を負いましたが、ある祭司は見て見ぬふりをして、通り過ぎました。祭司はキリスト教会にあてはめれば、牧師や神父にあたります。しかし遠り過ぎました。聖書読みの聖書知らずなのです。レビ人も、見て見ぬふりをして、通り過ぎました。レビ人も、熱心な信仰者のはずなのに、です。祭司もレビ人も、ユダヤ人なのに、仲間のユダヤ人を見捨てました。
「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」この話は、やはり何よりも素直に読むことが一番大切と思います。「行って、あなたも同じようにしなさい。」私たちは、できるだけそのようにしたいと思っていると思います。
傷ついたユダヤ人を大いに助けたのは、サマリア人の男性です。多くの方がご存じのように、サマリアはイスラエルの土地の中にありましたが、半分異邦人(外国人)と見なされ、ユダヤ人からは嫌われ、互いに嫌い合っていたと思われます。敵同士、仇同士です。ユダヤ人を憎んでいるはずのサマリア人が、ユダヤ人男性を助けた所に、この話の大きなポイントがあります。このサマリア人は敵を愛したのですね。イエス様は、敵を愛しなさいとおっしゃいます。
この話をもっともらしく、こねくり回すことは避けたいです。ただ1つだけ敢えて申すならば、律法学者の「では、私の隣人とは誰ですか」の問いに、イエス様が話の最後でこう言われたことです。「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追剥に襲われた人の隣人になったと思うか。」律法学者は答えます。「その人を助けた人です。」その通りですね。律法学者は最初は、「私の隣人とは誰ですか」と質問し、あくまでも自分を中心に、自分を起点に考えていました。私たちは本能的にこのように発送します。しかしイエス様は、逆転したことを言われました。「あなたはこの三人の中で、誰が追剥に襲われた人の隣人になったと思うか。」追剥に襲われた人を中心に、その人を起点に考えて、誰がこの重傷を負った男性の隣人になったかと問われました。相手を中心に考え、私たち一人一人がその人の隣人になったかどうかが重要だと教えて下さいました。「私が愛すべき隣人は誰ですか」ではなく、困っているその人の隣人に「自分がなったか、ならなかったか」を考えなさい、と言われました。そう言われると、困っている人の隣人にならなかったことが何回も、何千回もある私であることを認めるほかなく、私の愛のなさを痛感するほかありません。毎回はできなくても、一歩ずつでも、他の方の「隣人になる」ように心がけたいと日々決心する人生になります。
もう一つ。これは私たちに愛の実行を求める話だと読むのがふつうと思いますが、このサマリア人こそ、イエス・キリストだという読み方もあり、それも間違っていないと思います。この場合、私たちが半殺しにされて倒れていた旅人になります。サマリア人は、倒れていたユダヤ人を「憐れに思った」とあります。これは、よく申し上げる通り、スプラング二ゾマイというギリシア語で、「内臓、はらわた」という言葉を内に含んでいます。つまり、このサマリア人は倒れている人を見て、自分のはらわたがきりきりと痛むほど全身全霊で、同情したと分かります。はらわたが痛んだのです。この愛は、神の愛であり、神の子イエス様の愛です。ですからこのサマリア人は、イエス様だという読み方が出てきます。
私たち一人一人も、世の中でいろいろと揉まれて、互いに傷つけたり、傷つけられて生きていると思います。そうして時に倒れてしまう私たちを、イエス様がいたわって下さいます。私たちは自分の罪のために、死の滅びに至る者として、永遠の命の希望なき者として生きていました。そのような私たちを憐れに思い、はらわたがきりきりと痛むほどに同情して、私たちを罪と死から救うために、イエス様が十字架について下さいました。このイエス様の愛がここで描かれているという読み方も間違いではないと思います。サマリア人は、近寄って油とぶどう酒を注いで介抱したわけですから、今から受ける聖餐式のぶどう液だと思えば、イエス様の十字架の血潮を表すぶどう液が、サマリア人が注いだぶどう酒と同じに私たちを癒すと思ってよいでしょう。
このサマリア人はイエス様だという読みで終えるわけにもいきません。イエス様の十字架と復活によって永遠の命をプレゼントされた者として、私たちの応答が求められます。「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われるので、私たちもイエス様ほどにはできなくても自分にできる範囲で、しかし精一杯、神様を愛し、隣人を愛したいと思います。イエス様のチャレンジ。ギブアンドテイクでない。「与えて報い求めぬ、真の愛の人と」(讃美歌21・520番)。礼儀作法を超える。
そう言いながらも、私は親切をいただくことの方が多い者だと、感謝致します。この一週間を振り返っても、自動車で送迎していただいたり、ある方からは教会への献金を届けていただいたり、ご親切をいただいて参りました。8月の終わりの方は、日本の教会青年と台湾の教会青年と共に広島市と長崎市を訪問する台湾ユースミッションという企画に参加していましたので、8/24(日)の礼拝は、日本キリスト教団長崎平和記念教会で守りました。牧師は神学校の先輩で、堀地正弘牧師・堀地敦子牧師ご夫妻でした。堀地先生の姿勢に大いに学びました。「礼拝の最中でも、説教の最中でも、遠慮なく水を飲んで下さい」と週報に書いてあります。猛暑の中で、これも教会の皆さんへの愛だと感じました。昔からそうなのですが、笑顔の多い先生であることを改めて思い、私は笑顔の少ない牧師だと、大変反省致しました。
最近の風潮には、疑問を持つ。アメリカファースト、日本人ファースト、都民ファースト。外国人へのヘイト。これは本日の御言葉の心に反する。昨日は、37年前に天に召された高校の友人の墓参りに計6人で八王子に行きました。彼は私にとって、善いサマリア人。「憐れみ深いサマリア人」と呼ぶ方が正確。コルベ神父。
「あなたも行って、同じようにしなさい。」これは私たちのイエス様のチャレンジですね。イエス様ほど隣人愛(敵をも愛する)に生きられません、自分にできる範囲で、しかし精一杯、このサマリア人の真似をして参りましょう。アーメン。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第14主日の公同礼拝です。説教題は「あなた同じもようにしなさい」です。小見出しは「善いサマリア人」です。どなたでもよく知っている個所であり、聖書の中で最も有名な個所の1つです。私たちは分かりきっていると思っているかもしれませんが、改めてこの御言葉に聴いてみたいと思います。
最初の25節「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』」どの世界でも専門家の意見は優れていることが多いですが、専門家も神様ではないので、100点とは限らないでしょう。彼はイエス様より年上だったかもしれませんし、専門家として自信をもっていて、このイエスという若者が、どれだけ旧約聖書の律法を理解しているか、試してやろうと考えたのでしょう。イエス様のことを「先生」と呼んでいますが、内心は自分が先生で、イエス様が生徒との感覚だったと思います。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」確かにこの問い自体は、重要な問いと思います。
しかし、私たち皆の真の先生であるイエス様が逆に質問されます。26節「イエスが『律法(旧約聖書)には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』。」律法学者は模範解答を語ります。27節「彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」これは確かに、満点の解答です。イエス様もそれを認めて言われます。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」これらを実行すれば、永遠の命を得ることができるのです。
最初の「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは旧約聖書の申命記6章5節に書かれています。4節から読むと、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これは旧約聖書と新約聖書を貫く信仰の鉄則と思います。「尽くし」と訳された言葉は、「全て、全体、全部」の意味です。ですから、「あなたは、心全体で、魂全体で、力全てで、あなたの神、主を愛しなさい」の意味になります。そうすれば、他の神々(真の神でない)を拝む偶像崇拝など、私たちの心に入り込む余地がないことになります。私が「心全体で、魂全体で、力全てでイエス様と私たちの父なる神様を愛しているか」と言うと、そう心がけているつもりですが、まだ足りないと思います。
律法学者の模範解答の後半「隣人を自分のように愛しなさい」は、本日の旧約聖書・レビ記19章に出ています。17節はこうです。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。」その通りです。しかし私が心の中で一度も他人を憎んだことがないかと言えば、「ある」と答えざるを得ません。それは私の罪です。兄弟と書いてありますが、これはイスラエルの名中の男性たちを指すのかもしれません。姉妹と書いていないので、女性を含まないのかもしれません。旧約聖書は確かに男性中心の傾向があります。しかしイエス様はもちろん、そのような旧約聖書の限界を突破されるので、心の中で女性を憎んでも、罪になると思います。18節「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。私は主である。」「復讐してはならない。」これは確かに、既にイエス様の心に一致していると感じます。但し「民の人々」は、基本的にイスラエル人を指しているようです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」の隣人も、原則としてイスラエル人を指すようです。その意味では、イエス様はその限界を突破しておられ、敵も異邦人(外国人)をも愛するようにおっしゃっていると思います。
旧約聖書にこのような限界はあるのですが、例外もあります。このレビ記19章の9節以下に、こうあります。「「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。私はあなたたちの神、主である。」寄留者は、外国人の可能性が高いと思います。ですからイエス様の教えほど徹底していないと思いますが、旧約聖書にも外国人を愛する教えはあると言えます。
ルカに戻ります。律法学者は、模範解答をし、イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命(永遠の命)が得られる」と断言されました。問答はこれで終わるはずですが、律法学者が話を続けたので、イエス様が世界史に世の終わりまで残るすばらしい話を語って下さいました。29節「しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、私の隣人とは誰ですか』と言った。」「隣人の定義は何ですか」と言ったのです。「自分が愛すべき隣人と、愛する必要のない他人を、どこで線引きすればよいですか。」全く意味のない質問です。イエス様の答えは、愛に線引きはないというものです。この律法学者の質問自体が、自己中心の罪をさらけ出しています。しかし私も、もっともらしいふりをして、自分が賢いふりをして、自分を取り繕うために、このような愚かな発言をすることがあるのではないかと、自分のことが心配になります。
イエス様は彼の質問に、不滅の価値をもつ美しいたとえ話によってお答えになりました。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。」昔の度はこのように危険だらけで、命がけだったのですね。エルサレムとエリコでは、標高差1000mほどあるそうです。ある人は、ユダヤ人(イスラエル人)男性でしょう。彼は非常な重傷を負いましたが、ある祭司は見て見ぬふりをして、通り過ぎました。祭司はキリスト教会にあてはめれば、牧師や神父にあたります。しかし遠り過ぎました。聖書読みの聖書知らずなのです。レビ人も、見て見ぬふりをして、通り過ぎました。レビ人も、熱心な信仰者のはずなのに、です。祭司もレビ人も、ユダヤ人なのに、仲間のユダヤ人を見捨てました。
「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」この話は、やはり何よりも素直に読むことが一番大切と思います。「行って、あなたも同じようにしなさい。」私たちは、できるだけそのようにしたいと思っていると思います。
傷ついたユダヤ人を大いに助けたのは、サマリア人の男性です。多くの方がご存じのように、サマリアはイスラエルの土地の中にありましたが、半分異邦人(外国人)と見なされ、ユダヤ人からは嫌われ、互いに嫌い合っていたと思われます。敵同士、仇同士です。ユダヤ人を憎んでいるはずのサマリア人が、ユダヤ人男性を助けた所に、この話の大きなポイントがあります。このサマリア人は敵を愛したのですね。イエス様は、敵を愛しなさいとおっしゃいます。
この話をもっともらしく、こねくり回すことは避けたいです。ただ1つだけ敢えて申すならば、律法学者の「では、私の隣人とは誰ですか」の問いに、イエス様が話の最後でこう言われたことです。「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追剥に襲われた人の隣人になったと思うか。」律法学者は答えます。「その人を助けた人です。」その通りですね。律法学者は最初は、「私の隣人とは誰ですか」と質問し、あくまでも自分を中心に、自分を起点に考えていました。私たちは本能的にこのように発送します。しかしイエス様は、逆転したことを言われました。「あなたはこの三人の中で、誰が追剥に襲われた人の隣人になったと思うか。」追剥に襲われた人を中心に、その人を起点に考えて、誰がこの重傷を負った男性の隣人になったかと問われました。相手を中心に考え、私たち一人一人がその人の隣人になったかどうかが重要だと教えて下さいました。「私が愛すべき隣人は誰ですか」ではなく、困っているその人の隣人に「自分がなったか、ならなかったか」を考えなさい、と言われました。そう言われると、困っている人の隣人にならなかったことが何回も、何千回もある私であることを認めるほかなく、私の愛のなさを痛感するほかありません。毎回はできなくても、一歩ずつでも、他の方の「隣人になる」ように心がけたいと日々決心する人生になります。
もう一つ。これは私たちに愛の実行を求める話だと読むのがふつうと思いますが、このサマリア人こそ、イエス・キリストだという読み方もあり、それも間違っていないと思います。この場合、私たちが半殺しにされて倒れていた旅人になります。サマリア人は、倒れていたユダヤ人を「憐れに思った」とあります。これは、よく申し上げる通り、スプラング二ゾマイというギリシア語で、「内臓、はらわた」という言葉を内に含んでいます。つまり、このサマリア人は倒れている人を見て、自分のはらわたがきりきりと痛むほど全身全霊で、同情したと分かります。はらわたが痛んだのです。この愛は、神の愛であり、神の子イエス様の愛です。ですからこのサマリア人は、イエス様だという読み方が出てきます。
私たち一人一人も、世の中でいろいろと揉まれて、互いに傷つけたり、傷つけられて生きていると思います。そうして時に倒れてしまう私たちを、イエス様がいたわって下さいます。私たちは自分の罪のために、死の滅びに至る者として、永遠の命の希望なき者として生きていました。そのような私たちを憐れに思い、はらわたがきりきりと痛むほどに同情して、私たちを罪と死から救うために、イエス様が十字架について下さいました。このイエス様の愛がここで描かれているという読み方も間違いではないと思います。サマリア人は、近寄って油とぶどう酒を注いで介抱したわけですから、今から受ける聖餐式のぶどう液だと思えば、イエス様の十字架の血潮を表すぶどう液が、サマリア人が注いだぶどう酒と同じに私たちを癒すと思ってよいでしょう。
このサマリア人はイエス様だという読みで終えるわけにもいきません。イエス様の十字架と復活によって永遠の命をプレゼントされた者として、私たちの応答が求められます。「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われるので、私たちもイエス様ほどにはできなくても自分にできる範囲で、しかし精一杯、神様を愛し、隣人を愛したいと思います。イエス様のチャレンジ。ギブアンドテイクでない。「与えて報い求めぬ、真の愛の人と」(讃美歌21・520番)。礼儀作法を超える。
そう言いながらも、私は親切をいただくことの方が多い者だと、感謝致します。この一週間を振り返っても、自動車で送迎していただいたり、ある方からは教会への献金を届けていただいたり、ご親切をいただいて参りました。8月の終わりの方は、日本の教会青年と台湾の教会青年と共に広島市と長崎市を訪問する台湾ユースミッションという企画に参加していましたので、8/24(日)の礼拝は、日本キリスト教団長崎平和記念教会で守りました。牧師は神学校の先輩で、堀地正弘牧師・堀地敦子牧師ご夫妻でした。堀地先生の姿勢に大いに学びました。「礼拝の最中でも、説教の最中でも、遠慮なく水を飲んで下さい」と週報に書いてあります。猛暑の中で、これも教会の皆さんへの愛だと感じました。昔からそうなのですが、笑顔の多い先生であることを改めて思い、私は笑顔の少ない牧師だと、大変反省致しました。
最近の風潮には、疑問を持つ。アメリカファースト、日本人ファースト、都民ファースト。外国人へのヘイト。これは本日の御言葉の心に反する。昨日は、37年前に天に召された高校の友人の墓参りに計6人で八王子に行きました。彼は私にとって、善いサマリア人。「憐れみ深いサマリア人」と呼ぶ方が正確。コルベ神父。
「あなたも行って、同じようにしなさい。」これは私たちのイエス様のチャレンジですね。イエス様ほど隣人愛(敵をも愛する)に生きられません、自分にできる範囲で、しかし精一杯、このサマリア人の真似をして参りましょう。アーメン。
2025-08-31 0:17:03()
「聖霊の喜びにあふれる」 2025年8月31日(日)礼拝
(ルカによる福音書10:17~24)
七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
0⃣
(説教) 本日は、聖霊降臨節第13主日の公同礼拝です。説教題は「聖霊の喜びにあふれる」です。小見出しは「七十二人、帰って来る」です。
イエス・キリストは十二弟子以外の72名を任命し、伝道に派遣しました。その際に、こう言われました。「どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また。『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」イエス様はこうも言われたのです。「私はあなた方を遣わす。それは狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」こう言われて72名は、緊張したのではないでしょうか。狼の群れは、悪魔の群れとも言えます。これは前途多難に違いない。しかし、目に見えなくてもイエス・キリストがいつも共にいて、72名を守って下さったようです。
本日の最初の17節「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します。』」72人は興奮気味だったようです。彼らは派遣された先で「イエス様の御名によって命じる。悪霊よ、このAさんから出て行け」と命じたのではないかと思います。すると悪霊が出て行ったのだと思います。彼らは驚き、自分たちに神の奇跡的な力が与えられたと思い、興奮したと思います。しかしイエス様は言われます。18節「私は、サタン(悪魔)が稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」悪魔は、神との闘いに敗れて、天から地上に落ちたのです。神様の勝利が確定しており、悪魔の敗北は決定済みです。ですから、悪魔の手下である悪霊どもも、72人がイエス様の名前を使うと屈服したのです。
厳密に言うと、悪魔の決定的な敗北は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現します。イエス様は、十字架という最大以上の不当な苦難に遭っても、一つも罪を犯しませんでした。ぶつぶつ不平を言う罪さえ、一度も犯しませんでした。「わが主よ、わが主よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、大声で叫ばれましたが、これは父なる神様への問いかけであり、不平不満を言う罪を犯したのではありません。イエス様が一度でも罪を犯せば、イエス様が悪魔に敗北します。しかしイエス様は、ただの一度も罪を犯さず、悪魔の全ての誘惑に勝利されました。悪魔は、イエス様に完全に敗北しました。もはや悪魔には、天にはもちろん、この地上にも居場所はありません。但し、最後の審判の時に、火の池に投げ込まれる時までは、最後のあがきをして私たちを誘惑するので、誘惑に負けないように注意が必要です。
悪魔が天から落ちる場面は、ヨハネの黙示録12章7節以下にも、記されています。「天で戦いが起こった。ミカエル(天使)とその使いたちが、竜(天使)に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。私(ヨハネ)は、天で大きな声が次のように言うのを聞いた。『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちと告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまで命を惜しまなかった。』」
19節「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」敵は悪魔です。私たちには、本当は人間の敵はいません。気が合わない人がいても、真の敵ではありません。真の敵は悪魔です。そして私たちの心の中の罪も、私たちの敵です。確かに72人には、悪魔のあらゆる力に打ち勝つ権威が与えられていたと思います。しかし今の私たちに、そのような奇跡的な力はないと思います。私たちは聖霊によってさまざまな賜物を与えられているとしても、病気を癒したり、悪霊を追い出す力は弱いと思います。しかしイエス・キリストは、その力をお持ちです。「あなた方に害を加えるものは何一つない。」
本日の旧約聖書は、イザヤ書11章です。1節の「若枝」はイエス・キリストを指すので、クリスマスによく読まれます。全体として「神の国」の姿を描きます。新しい天と新しい地の姿、理想の姿を示します。6節「狼は小羊と共に宿り、豹は来山羊と共に伏す。」今の世界ではあり得ません。日本では熊が人を襲う怖いことが多発しています。でも神の国では、この完全な平和が実現します。9節「私の聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。その日(神の国の完成)が来れば、エッサイの根(救い主イエス・キリスト)は、全ての民の旗印として立てられ、国々(ユダヤ人と異邦人)はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」
20節「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」奇跡を行う力が与えられることは光栄なことです。しかしそのような特別の力が与えらえると、人間はついつい、思い上がるのではないでしょうか。イエス様は、彼らが有頂天になることを戒められたと思います。奇跡を行う力が与えられたことで、自分を過大評価するのではなく、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」あなた方に永遠の命が保証されていること、天国に入ることが確約されていることこそ、神の清き霊である聖霊という最も尊い霊が与えらていることこそ、唯一の最大の喜びであるはずだ。天国に入れていただくと、きっと多くのいわゆる無名の人々が、神様の祝福を受けて、神様を讃美しているに違いありません。イエス・キリストは、この世の権力者になる道を拒否されました。昔の日本の軍人の写真を見ると、多くの勲章を服につけて、写真におさまっています。あの数々の勲章が、彼らの誇りだったのでしょう。あのようにならないように注意しなければいけません。有名なスポーツ選手も、多くのトロフィーや表彰状を自宅に飾っているかもしれません。スポーツの勝利至上主義も、部内暴力などの問題を生み出しています。イエス様は、私たちの全部の罪を背負って十字架で死ぬ、最も謙虚で奉仕に徹する生き方をなさったのですから、私たちもそのイエス様に従いたいと切望しています。
悪霊を追い出すような奇跡的な力を与えられると、私たち人間は思い上がりやすい。イエス様は、マタイ福音書7章22節以下でこう言われます。「かの日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、私はきっぱりこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」奇跡を行う力を与えられていることが、私たちに永遠の命を保証しないのです。そうではなくて、謙遜にイエス様を信じて、イエス様と共に父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛することが、永遠の命につながると、私は改めて示されます。
次の小見出しは「喜びにあふれる」です。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」聖霊による喜び! それはこの地上での私たちの自然の喜怒哀楽とは別のようです。昨年度の標語聖句、ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節が思い浮かびます。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」この実に、敢えてもう一つ加えるが許されるならば、それは慰めです。聖霊は聖なる慰めの霊でもあられます。この聖霊が満ちあふれる場が、礼拝です。コリントの信徒への手紙(一)1章26節以下。
22節「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」これはマタイ福音書の最後で、イエス様がおっしゃっていることと同じです。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」これは、ヨハネの黙示録17章の御言葉を用いれば、「主の主、王の王」ということです。ヘンデル作曲メサイアの言葉で用いれば「キングオヴキングス、ロードオヴローズ」です。イエス・キリストが世界の全宇宙の王。全宇宙の全ての決定権を握っておられます。それなのに最も謙虚な方であるイエス・キリストを、私どもは今礼拝しています。
23節以下「それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。』」旧約聖書には名だたる預言者たちが登場します。エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルたちです。彼らも真の救い主に会いたくて会いたくて仕方がなかった。彼らは会えなかったのです。旧約聖書には有名な王たちが登場します。ダビデ、その子ソロモンたちです。彼らもきっと真の救い主の言葉を聞きたくて聞きたくて仕方がなかった。そして彼らは聞けなかったのです。ところがイエス様の弟子たちは真の救い主イエス様を目の当たりに見ているのです。旧約聖書の時代の預言者たちや王たちがうらやむに違いないのです。私たちも新約聖書によってイエス様の言葉をたくさん聞いているのです。イザヤ、エレミヤ、ダビデ、ソロモンがそれを聞いたら、うらやましがるに違いないのです。そのような本当の幸せを私たちは与えられています。これが福音です。イエス様を知ることは、いわゆるこの地上の物質的な幸せとは違うでしょう。心の幸せです。ですが大きな慰めであり恵みです。ペトロの手紙(一)1章10節以下。
「あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」「イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。」この喜びは、ほぼ同じ喜びだと思います。イエス・キリストへの信仰こそ、真の喜びです。これは聖霊によって与えらる喜びで、自分の力で勝ち取る喜びではなく、神様が聖霊によって与えて下さる天から来る喜びです。死に至るまで忠実で命を惜しまない26聖人こそ聖霊に満たされ、権力者にも打ち勝った、信仰の勝利者。アーメン。
七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
0⃣
(説教) 本日は、聖霊降臨節第13主日の公同礼拝です。説教題は「聖霊の喜びにあふれる」です。小見出しは「七十二人、帰って来る」です。
イエス・キリストは十二弟子以外の72名を任命し、伝道に派遣しました。その際に、こう言われました。「どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また。『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」イエス様はこうも言われたのです。「私はあなた方を遣わす。それは狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」こう言われて72名は、緊張したのではないでしょうか。狼の群れは、悪魔の群れとも言えます。これは前途多難に違いない。しかし、目に見えなくてもイエス・キリストがいつも共にいて、72名を守って下さったようです。
本日の最初の17節「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します。』」72人は興奮気味だったようです。彼らは派遣された先で「イエス様の御名によって命じる。悪霊よ、このAさんから出て行け」と命じたのではないかと思います。すると悪霊が出て行ったのだと思います。彼らは驚き、自分たちに神の奇跡的な力が与えられたと思い、興奮したと思います。しかしイエス様は言われます。18節「私は、サタン(悪魔)が稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」悪魔は、神との闘いに敗れて、天から地上に落ちたのです。神様の勝利が確定しており、悪魔の敗北は決定済みです。ですから、悪魔の手下である悪霊どもも、72人がイエス様の名前を使うと屈服したのです。
厳密に言うと、悪魔の決定的な敗北は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現します。イエス様は、十字架という最大以上の不当な苦難に遭っても、一つも罪を犯しませんでした。ぶつぶつ不平を言う罪さえ、一度も犯しませんでした。「わが主よ、わが主よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、大声で叫ばれましたが、これは父なる神様への問いかけであり、不平不満を言う罪を犯したのではありません。イエス様が一度でも罪を犯せば、イエス様が悪魔に敗北します。しかしイエス様は、ただの一度も罪を犯さず、悪魔の全ての誘惑に勝利されました。悪魔は、イエス様に完全に敗北しました。もはや悪魔には、天にはもちろん、この地上にも居場所はありません。但し、最後の審判の時に、火の池に投げ込まれる時までは、最後のあがきをして私たちを誘惑するので、誘惑に負けないように注意が必要です。
悪魔が天から落ちる場面は、ヨハネの黙示録12章7節以下にも、記されています。「天で戦いが起こった。ミカエル(天使)とその使いたちが、竜(天使)に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、地上に投げ落とされた。その使いたちも、地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。私(ヨハネ)は、天で大きな声が次のように言うのを聞いた。『今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちと告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまで命を惜しまなかった。』」
19節「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。」敵は悪魔です。私たちには、本当は人間の敵はいません。気が合わない人がいても、真の敵ではありません。真の敵は悪魔です。そして私たちの心の中の罪も、私たちの敵です。確かに72人には、悪魔のあらゆる力に打ち勝つ権威が与えられていたと思います。しかし今の私たちに、そのような奇跡的な力はないと思います。私たちは聖霊によってさまざまな賜物を与えられているとしても、病気を癒したり、悪霊を追い出す力は弱いと思います。しかしイエス・キリストは、その力をお持ちです。「あなた方に害を加えるものは何一つない。」
本日の旧約聖書は、イザヤ書11章です。1節の「若枝」はイエス・キリストを指すので、クリスマスによく読まれます。全体として「神の国」の姿を描きます。新しい天と新しい地の姿、理想の姿を示します。6節「狼は小羊と共に宿り、豹は来山羊と共に伏す。」今の世界ではあり得ません。日本では熊が人を襲う怖いことが多発しています。でも神の国では、この完全な平和が実現します。9節「私の聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。その日(神の国の完成)が来れば、エッサイの根(救い主イエス・キリスト)は、全ての民の旗印として立てられ、国々(ユダヤ人と異邦人)はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」
20節「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」奇跡を行う力が与えられることは光栄なことです。しかしそのような特別の力が与えらえると、人間はついつい、思い上がるのではないでしょうか。イエス様は、彼らが有頂天になることを戒められたと思います。奇跡を行う力が与えられたことで、自分を過大評価するのではなく、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」あなた方に永遠の命が保証されていること、天国に入ることが確約されていることこそ、神の清き霊である聖霊という最も尊い霊が与えらていることこそ、唯一の最大の喜びであるはずだ。天国に入れていただくと、きっと多くのいわゆる無名の人々が、神様の祝福を受けて、神様を讃美しているに違いありません。イエス・キリストは、この世の権力者になる道を拒否されました。昔の日本の軍人の写真を見ると、多くの勲章を服につけて、写真におさまっています。あの数々の勲章が、彼らの誇りだったのでしょう。あのようにならないように注意しなければいけません。有名なスポーツ選手も、多くのトロフィーや表彰状を自宅に飾っているかもしれません。スポーツの勝利至上主義も、部内暴力などの問題を生み出しています。イエス様は、私たちの全部の罪を背負って十字架で死ぬ、最も謙虚で奉仕に徹する生き方をなさったのですから、私たちもそのイエス様に従いたいと切望しています。
悪霊を追い出すような奇跡的な力を与えられると、私たち人間は思い上がりやすい。イエス様は、マタイ福音書7章22節以下でこう言われます。「かの日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、私はきっぱりこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」奇跡を行う力を与えられていることが、私たちに永遠の命を保証しないのです。そうではなくて、謙遜にイエス様を信じて、イエス様と共に父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛することが、永遠の命につながると、私は改めて示されます。
次の小見出しは「喜びにあふれる」です。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」聖霊による喜び! それはこの地上での私たちの自然の喜怒哀楽とは別のようです。昨年度の標語聖句、ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節が思い浮かびます。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」この実に、敢えてもう一つ加えるが許されるならば、それは慰めです。聖霊は聖なる慰めの霊でもあられます。この聖霊が満ちあふれる場が、礼拝です。コリントの信徒への手紙(一)1章26節以下。
22節「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」これはマタイ福音書の最後で、イエス様がおっしゃっていることと同じです。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」これは、ヨハネの黙示録17章の御言葉を用いれば、「主の主、王の王」ということです。ヘンデル作曲メサイアの言葉で用いれば「キングオヴキングス、ロードオヴローズ」です。イエス・キリストが世界の全宇宙の王。全宇宙の全ての決定権を握っておられます。それなのに最も謙虚な方であるイエス・キリストを、私どもは今礼拝しています。
23節以下「それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。』」旧約聖書には名だたる預言者たちが登場します。エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルたちです。彼らも真の救い主に会いたくて会いたくて仕方がなかった。彼らは会えなかったのです。旧約聖書には有名な王たちが登場します。ダビデ、その子ソロモンたちです。彼らもきっと真の救い主の言葉を聞きたくて聞きたくて仕方がなかった。そして彼らは聞けなかったのです。ところがイエス様の弟子たちは真の救い主イエス様を目の当たりに見ているのです。旧約聖書の時代の預言者たちや王たちがうらやむに違いないのです。私たちも新約聖書によってイエス様の言葉をたくさん聞いているのです。イザヤ、エレミヤ、ダビデ、ソロモンがそれを聞いたら、うらやましがるに違いないのです。そのような本当の幸せを私たちは与えられています。これが福音です。イエス様を知ることは、いわゆるこの地上の物質的な幸せとは違うでしょう。心の幸せです。ですが大きな慰めであり恵みです。ペトロの手紙(一)1章10節以下。
「あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい。」「イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。」この喜びは、ほぼ同じ喜びだと思います。イエス・キリストへの信仰こそ、真の喜びです。これは聖霊によって与えらる喜びで、自分の力で勝ち取る喜びではなく、神様が聖霊によって与えて下さる天から来る喜びです。死に至るまで忠実で命を惜しまない26聖人こそ聖霊に満たされ、権力者にも打ち勝った、信仰の勝利者。アーメン。
2025-08-17 3:26:19()
「神の国は、あなたがたに近づいた」 2025年8月17日(日)礼拝
(ルカによる福音書10:1~16)
その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
◆悔い改めない町を叱る
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」
(説教) 本日は、聖霊降臨節第11主日の公同礼拝です。説教題は「神の国は、あなたがたに近づいた」です。小見出しは「七十二人を派遣する」と「悔い改めない町を叱る」です。
本日の直前の個所でイエス・キリストは、「私に従いなさい。神の国を言い広めなさい。鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と語られました。そして本日の個所では、72人を伝道に送り出されます。これはイエス様による伝道者派遣の第二弾です。9章で第一回目の派遣が行われました。この時は12名弟子たちの派遣でした。今回は72名を派遣されます。第1節「その後、主はほかに72人を任命し、御自分がいくつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」この72人は、十二弟子たち以外の人々なのでしょう。72人の派遣は、ルカによる福音書だけにある場面です。他の福音書には、ありません。
この72という数字は、世界の全民族を表す象徴的な数字ではないかと言われます。イエス様が72名を派遣なさった先は、イスラエル国内です。ですがここで既に、全世界への伝道のヴィジョンが語られていると言えます。現実の世界伝道は、イエス様の十字架の死と復活後に、使徒言行録において行われてゆきます。しかしその先取りが、本日の個所で語られています。イエス様は「御自分は行くつもりのすべての町や村に二人ずつ遣わされた」と書かれています。ですから36の町や村へ、二人ずつ遣わされたことになります。「二人ずつ」ということも大切です。二人の証言が非常に大切と、旧約聖書に書かれています。申命記19章15節「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯すつ罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証言によって、そのことは立証されねばならない。」使徒言行録においても、パウロ(サウロ)の第一次伝道旅行の時に、サウロとバルナバの二人が、アンティオキア教会によって派遣されています。
イエス様は72人に言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き人を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」この御言葉は、神学校の学生募集のポスター等によく使われますが、この御言葉はそのためだけにあるのではありませんね。収穫の主は、もちろん父なる神様です。収穫は、人々が真の神様を信じ、救い主イエス・キリストを信じて救われ、神の民に加えられることです。私たちは、収穫のための働き人を、神様が多く起こして下さるように祈り、自分も伝道する気持ちが必要と思います。今、日本の教会全体が縮小傾向にあります。東京神学大学でも、入学生・卒業生共に明らかに減っています。各神学校は、入学生の確保のために、必死になっています。働き手は確かに減っています。これが現状であることを私たちも強く心に留めることが必要です。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」私たちも、祈り続ける必要があります。
3節「行きなさい。私はあなた方を遣わす。それは狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。」小羊は、小さく弱い存在です。派遣れるクリスチャン・伝道者は、小羊のような者だと、イエス様はおっしゃいます。行く先には危険もあります。狼の群れが待っているとイエス様は言われます。狼とは迫害する者たち、間違った教えを説く人々でしょう。確かに、イエス様ご自身も各地で受け入れられいのです。弟子たちも同じです。小羊と言えば、ヨハネ福音書1章で、洗礼者ヨハネがイエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言っています。イエス様御自分が、小羊です。小羊イエス様は、武器を持って抵抗はなさいません。黙々と十字架に向かって行かれました。そして十字架の死の後に、復活の勝利を遂げられます。そのイエス・キリストが、いつも共にいて派遣される72人を守って下さいます。行く先には、狼の群れもいます。ですがイエス・キリストが守って下さいます。
4節「財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶するな。」今の日本で、完全にこの通りにするのは難しいです。イエス様は7,8節で「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。~どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」目には見えなくても、イエス・キリストがいつも共にいて、伝道者たちを守っていて下さいます。ですから伝道者たちは狼たちから守られ、平和の神の国を宣べ伝えることができます。イエス様は十字架にかかる前夜に弟子たちに、「財布も袋も履物も持たせずにあなた方を遣わしたとき、何か不足したものがあったか」と問われました。弟子たちは「いいえ、何もありませんでした」と答えました。イエス・キリストがいつも共にいて、必要なものを皆、備えて下さるので、思い煩わないように。心配しないように。これがイエス・キリストのメッセージです。
5節「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、あなた方の願う平和はあなた方に戻って来る。」私たちキリスト者は、皆がキリストを伝える伝道者であり、神の国の平和の福音を運ぶ者です。大変光栄な使命を与えられていることを、心より感謝したいと思います。先週の火曜日に、教会の周辺の家々に、本日午後の子ども会の案内チラシを配っていましたら、近くのシャローム東久留米(セブンスデーアドヴェンティストというキリスト教会の高齢者施設)のヴァンが、デイケアサービスの利用者をこの教会のすぐ近くに送り届けていました。その職員の方と挨拶できました。私も下里しおん保育園の子供たちと、「花の日」の時などに訪問することがあるので、私のことも覚えていて下さり、感謝でした。シャロームはもちろん平和の意味です。キリスト教会の施設が、キリストの愛によってこの地域にも、キリストの平和を運んでおられる。このシャロームの働きもまた、この地域に「神の国が来ている」ことの証し、証拠です。イザヤ52。
イエス様は、72人に言われます。「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。マタイ福音書10章では、「働く者が食べ物を受けるのは当然だからである」になっています。8節「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」マタイ福音書10章では、イエス様が12人の派遣なさる時、「異邦人の道、サマリア人の町に行くな」と言っておられますが、本日のルカによる福音書は、72人の派遣という別の個所であり、「異邦人の道、サマリア人の町に行くな」と言われていないので、72人が行った先には、イスラエルより少し外の異邦人の土地や、イスラエル内だが半分異邦人のようなサマリア人の土地もあったかもしれません。その町でどこかの家に迎え入れられたら、「出される物を食べなさい」とイエス様は言われます。旧約聖書には食物規定がありますが、それに違反する食べ物が出る可能性もあります。「出される物を食べなさい。自由に食べなさい」ということです。旧約聖書も聖書ですが、イエス様は、食物規定から解放されなさいと言っておられることになります。パウロがコリントの信徒への手紙(一)10章27節以下で、「あなた方が、信仰を持っていない人(異邦人)から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と言っていることと、一致するようです。「出される物を食べなさい」は、食物規定からの解放を語っています。
「町の病人を癒し。」私たちの多くには、他人の病気を癒す力はありません。医者であれば治療し、看護師ならケアを行います。私たちにできることは、ご病気の方々が癒されるように祈ることです。それで癒されることはあります。8月は敗戦のことを思うと同時に、1985年8月14日に起きた日航機墜落事故を思うときでもります。今年で40年で、新聞でかなり報道されています。坂本九さんという歌手も亡くなりました。インターネットで読みましたが、その夫人を一生懸命慰め続けたのが、黒柳徹子さんだそうです。黒柳さんはクリスチャンと聞いています。ご夫人からの深夜の電話も受けて話を聴き、多くの手紙を出し続け、慰めようと心を砕き続けたそうです。悲しみが完全に癒されることはないでしょうが、黒柳さんも神様に祈りながら手紙を出し続けたのでしょう。「病人を癒し」と同じではありませんが、魂の深い傷を少しでも慰めようとなさったのは、イエス様への信仰があるからでしょう。
10節「しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」「足の埃を払い落して、その町の人々に返す」、これは抗議のしるしですね。パウロがこれを使徒言行録13章で実行しています。ローマ帝国のピシディア州のアンティオキアで伝道し、異邦人たちが信仰に入りましたが、ユダヤ人から迫害されました。パウロと盟友のバルナバは、彼らに対して足の塵を払い落とし、そこを去ってイコニオンに行きました。イエス様は「しかし、神の国が近づいたことを知れ」と言うように言われます。ある人はこの「しかし」が大事だと言われます。すぐに神の裁きが下るのではなく、まだ悔い改める時間が残されていることを、この「しかし」が表しています。神の憐れみを示す「しかし」です。この期間を、有効に用いる必要があります。
次の小見出しは、「悔い改めない町を叱る」です。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、イエス様が宣教されたガリラヤ湖周辺の町です。特にカファルナウムは、イエス様が住まわれた町です。しかしこの町々が、イエス様と弟子たちのメッセージを受け入れなかったのです。それはイエス様の深い悲しみだったと思います。「コラジン、お前は不幸だ。」「不幸だ」はギリシャ語で「ウーアイ」です。うう、ああといううめきです。新改訳聖書は、その通りに訳しています。「ああコラジン、ああベツサイダ。」口語訳は「災いだ」、新共同訳は「不幸だ」、聖書協会共同訳は「災いあれ」。「ウーアイ」は、神様(イエス・キリスト)の悲しみと怒りが入り交ざった感嘆詞だと思います。悲痛な言葉です。「ああ、真の神様のメッセージを受け入れないとは、何と不幸なことか」ということと思います。
コラジンの町は、当時のガリラヤ地方の重要な町の一つだったそうで、紀元4世紀に滅んだそうです。これはイエス様の御言葉の通りになったということかもしれません。ベトサイダは「漁夫の家」の意味で、ヨハネ福音書1章によると、ペトロとその兄弟アンデレの出身地がベトサイダです。「お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。」ティルスとシドンは、イスラエルより北の異邦人の町、商業の町で、悪徳がはびこり、イザヤ書23章でも批判されている町です。イエス様は、コラジン、ベトサイダよりも、ティルスとシドンの方がましだと、厳しく言われます。カファルナウムにも実に厳しい言葉が語られます。「お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」72人は、イエス様の代理人なので、この72人(伝道者、クリスチャン)を拒むことは、イエス様を拒むこと、イエス様を派遣された父なる神様を拒否する罪になります。永遠の命と天国を拒否することになってしまいます。イエス様は、弟子たち(クリスチャンたち)を通して語られる御言葉を、私たちが受け入れることを、切にお祈り致します。 昨日の落合川での洗礼式。 アーメン。
その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」
◆悔い改めない町を叱る
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」
(説教) 本日は、聖霊降臨節第11主日の公同礼拝です。説教題は「神の国は、あなたがたに近づいた」です。小見出しは「七十二人を派遣する」と「悔い改めない町を叱る」です。
本日の直前の個所でイエス・キリストは、「私に従いなさい。神の国を言い広めなさい。鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と語られました。そして本日の個所では、72人を伝道に送り出されます。これはイエス様による伝道者派遣の第二弾です。9章で第一回目の派遣が行われました。この時は12名弟子たちの派遣でした。今回は72名を派遣されます。第1節「その後、主はほかに72人を任命し、御自分がいくつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」この72人は、十二弟子たち以外の人々なのでしょう。72人の派遣は、ルカによる福音書だけにある場面です。他の福音書には、ありません。
この72という数字は、世界の全民族を表す象徴的な数字ではないかと言われます。イエス様が72名を派遣なさった先は、イスラエル国内です。ですがここで既に、全世界への伝道のヴィジョンが語られていると言えます。現実の世界伝道は、イエス様の十字架の死と復活後に、使徒言行録において行われてゆきます。しかしその先取りが、本日の個所で語られています。イエス様は「御自分は行くつもりのすべての町や村に二人ずつ遣わされた」と書かれています。ですから36の町や村へ、二人ずつ遣わされたことになります。「二人ずつ」ということも大切です。二人の証言が非常に大切と、旧約聖書に書かれています。申命記19章15節「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯すつ罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証言によって、そのことは立証されねばならない。」使徒言行録においても、パウロ(サウロ)の第一次伝道旅行の時に、サウロとバルナバの二人が、アンティオキア教会によって派遣されています。
イエス様は72人に言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き人を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」この御言葉は、神学校の学生募集のポスター等によく使われますが、この御言葉はそのためだけにあるのではありませんね。収穫の主は、もちろん父なる神様です。収穫は、人々が真の神様を信じ、救い主イエス・キリストを信じて救われ、神の民に加えられることです。私たちは、収穫のための働き人を、神様が多く起こして下さるように祈り、自分も伝道する気持ちが必要と思います。今、日本の教会全体が縮小傾向にあります。東京神学大学でも、入学生・卒業生共に明らかに減っています。各神学校は、入学生の確保のために、必死になっています。働き手は確かに減っています。これが現状であることを私たちも強く心に留めることが必要です。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」私たちも、祈り続ける必要があります。
3節「行きなさい。私はあなた方を遣わす。それは狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。」小羊は、小さく弱い存在です。派遣れるクリスチャン・伝道者は、小羊のような者だと、イエス様はおっしゃいます。行く先には危険もあります。狼の群れが待っているとイエス様は言われます。狼とは迫害する者たち、間違った教えを説く人々でしょう。確かに、イエス様ご自身も各地で受け入れられいのです。弟子たちも同じです。小羊と言えば、ヨハネ福音書1章で、洗礼者ヨハネがイエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言っています。イエス様御自分が、小羊です。小羊イエス様は、武器を持って抵抗はなさいません。黙々と十字架に向かって行かれました。そして十字架の死の後に、復活の勝利を遂げられます。そのイエス・キリストが、いつも共にいて派遣される72人を守って下さいます。行く先には、狼の群れもいます。ですがイエス・キリストが守って下さいます。
4節「財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶するな。」今の日本で、完全にこの通りにするのは難しいです。イエス様は7,8節で「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。~どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人を癒し、また、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」目には見えなくても、イエス・キリストがいつも共にいて、伝道者たちを守っていて下さいます。ですから伝道者たちは狼たちから守られ、平和の神の国を宣べ伝えることができます。イエス様は十字架にかかる前夜に弟子たちに、「財布も袋も履物も持たせずにあなた方を遣わしたとき、何か不足したものがあったか」と問われました。弟子たちは「いいえ、何もありませんでした」と答えました。イエス・キリストがいつも共にいて、必要なものを皆、備えて下さるので、思い煩わないように。心配しないように。これがイエス・キリストのメッセージです。
5節「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、あなた方の願う平和はあなた方に戻って来る。」私たちキリスト者は、皆がキリストを伝える伝道者であり、神の国の平和の福音を運ぶ者です。大変光栄な使命を与えられていることを、心より感謝したいと思います。先週の火曜日に、教会の周辺の家々に、本日午後の子ども会の案内チラシを配っていましたら、近くのシャローム東久留米(セブンスデーアドヴェンティストというキリスト教会の高齢者施設)のヴァンが、デイケアサービスの利用者をこの教会のすぐ近くに送り届けていました。その職員の方と挨拶できました。私も下里しおん保育園の子供たちと、「花の日」の時などに訪問することがあるので、私のことも覚えていて下さり、感謝でした。シャロームはもちろん平和の意味です。キリスト教会の施設が、キリストの愛によってこの地域にも、キリストの平和を運んでおられる。このシャロームの働きもまた、この地域に「神の国が来ている」ことの証し、証拠です。イザヤ52。
イエス様は、72人に言われます。「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。マタイ福音書10章では、「働く者が食べ物を受けるのは当然だからである」になっています。8節「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなた方に近づいた』と言いなさい。」マタイ福音書10章では、イエス様が12人の派遣なさる時、「異邦人の道、サマリア人の町に行くな」と言っておられますが、本日のルカによる福音書は、72人の派遣という別の個所であり、「異邦人の道、サマリア人の町に行くな」と言われていないので、72人が行った先には、イスラエルより少し外の異邦人の土地や、イスラエル内だが半分異邦人のようなサマリア人の土地もあったかもしれません。その町でどこかの家に迎え入れられたら、「出される物を食べなさい」とイエス様は言われます。旧約聖書には食物規定がありますが、それに違反する食べ物が出る可能性もあります。「出される物を食べなさい。自由に食べなさい」ということです。旧約聖書も聖書ですが、イエス様は、食物規定から解放されなさいと言っておられることになります。パウロがコリントの信徒への手紙(一)10章27節以下で、「あなた方が、信仰を持っていない人(異邦人)から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と言っていることと、一致するようです。「出される物を食べなさい」は、食物規定からの解放を語っています。
「町の病人を癒し。」私たちの多くには、他人の病気を癒す力はありません。医者であれば治療し、看護師ならケアを行います。私たちにできることは、ご病気の方々が癒されるように祈ることです。それで癒されることはあります。8月は敗戦のことを思うと同時に、1985年8月14日に起きた日航機墜落事故を思うときでもります。今年で40年で、新聞でかなり報道されています。坂本九さんという歌手も亡くなりました。インターネットで読みましたが、その夫人を一生懸命慰め続けたのが、黒柳徹子さんだそうです。黒柳さんはクリスチャンと聞いています。ご夫人からの深夜の電話も受けて話を聴き、多くの手紙を出し続け、慰めようと心を砕き続けたそうです。悲しみが完全に癒されることはないでしょうが、黒柳さんも神様に祈りながら手紙を出し続けたのでしょう。「病人を癒し」と同じではありませんが、魂の深い傷を少しでも慰めようとなさったのは、イエス様への信仰があるからでしょう。
10節「しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」「足の埃を払い落して、その町の人々に返す」、これは抗議のしるしですね。パウロがこれを使徒言行録13章で実行しています。ローマ帝国のピシディア州のアンティオキアで伝道し、異邦人たちが信仰に入りましたが、ユダヤ人から迫害されました。パウロと盟友のバルナバは、彼らに対して足の塵を払い落とし、そこを去ってイコニオンに行きました。イエス様は「しかし、神の国が近づいたことを知れ」と言うように言われます。ある人はこの「しかし」が大事だと言われます。すぐに神の裁きが下るのではなく、まだ悔い改める時間が残されていることを、この「しかし」が表しています。神の憐れみを示す「しかし」です。この期間を、有効に用いる必要があります。
次の小見出しは、「悔い改めない町を叱る」です。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、イエス様が宣教されたガリラヤ湖周辺の町です。特にカファルナウムは、イエス様が住まわれた町です。しかしこの町々が、イエス様と弟子たちのメッセージを受け入れなかったのです。それはイエス様の深い悲しみだったと思います。「コラジン、お前は不幸だ。」「不幸だ」はギリシャ語で「ウーアイ」です。うう、ああといううめきです。新改訳聖書は、その通りに訳しています。「ああコラジン、ああベツサイダ。」口語訳は「災いだ」、新共同訳は「不幸だ」、聖書協会共同訳は「災いあれ」。「ウーアイ」は、神様(イエス・キリスト)の悲しみと怒りが入り交ざった感嘆詞だと思います。悲痛な言葉です。「ああ、真の神様のメッセージを受け入れないとは、何と不幸なことか」ということと思います。
コラジンの町は、当時のガリラヤ地方の重要な町の一つだったそうで、紀元4世紀に滅んだそうです。これはイエス様の御言葉の通りになったということかもしれません。ベトサイダは「漁夫の家」の意味で、ヨハネ福音書1章によると、ペトロとその兄弟アンデレの出身地がベトサイダです。「お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。」ティルスとシドンは、イスラエルより北の異邦人の町、商業の町で、悪徳がはびこり、イザヤ書23章でも批判されている町です。イエス様は、コラジン、ベトサイダよりも、ティルスとシドンの方がましだと、厳しく言われます。カファルナウムにも実に厳しい言葉が語られます。「お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」72人は、イエス様の代理人なので、この72人(伝道者、クリスチャン)を拒むことは、イエス様を拒むこと、イエス様を派遣された父なる神様を拒否する罪になります。永遠の命と天国を拒否することになってしまいます。イエス様は、弟子たち(クリスチャンたち)を通して語られる御言葉を、私たちが受け入れることを、切にお祈り致します。 昨日の落合川での洗礼式。 アーメン。