
2024-10-24 15:08:08(木)
伝道メッセージ(10月分) 石田真一郎(市内の保育園の『おたより』に掲載)した文章
「あなた(ダビデ王)は多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。私(神)の前で多くの血を大地に流したからには、あなたが神殿を築くことは許されない」(旧約聖書・歴代誌・上22章8節)。
私と妻は、8月26日(月)に長野県下伊那郡阿智村の「満蒙開拓平和記念館」を見学しました。1931年の満州事変後に敗戦まで、国策で約27万人が日本から中国東北部(当時の日本の呼称は満州)に開拓移民として渡りました。長野県からが一番多く(約33000人)、中でも下伊那、飯田から最多の約8400人が渡りました。世界恐慌で養蚕業が大きな打撃を受けたこと、耕地面積の少なさが背景です。1932年に満州国の建国宣言が出ますが、日本の操り人形政権なので、国際連盟が承認しません。移民は、政府が安く買い上げた土地に入植しましたが、追い出された中国人も多く、現実には中国人の土地を奪ったので、開拓団には残念ながら加害者の面があります。
1945年8月8日午後11時(日本時間)に、ソ連が対日宣戦布告し、ソ連軍が攻めて来ます。開拓民を守るはずの関東軍(日本陸軍の現地部隊で大きな権力を持った)は、無責任にも事前に南に去り、高齢者・女性・子どもが逃げ、敗戦の8月15日以降に、多くの人々が飢え、病気、集団自決で亡くなりました。男性は敗戦前に徴兵され、ソ連軍によりシベリア等の収容所に送られました。私のいる東久留米教会にも以前、シベリア生還者が二名おられました。逃避行を続ければ、乳幼児は死ぬと思った親たちは、泣く泣く親切な中国人に子どもたちを預け、多くの中国残留日本人孤児が生まれました。戦争は、多くの人生を長く狂わせるので、決して行ってはいけません。私が中学生の1980年頃、残留孤児の方々が中年になって、肉親捜しのために代々木のオリンピックセンターに大勢宿泊して、肉親かもしれない人と会って、血液型の照合等をしていて、マスコミが連日大きく報道しました。肉親と判明した人々は、涙を流して抱き合っていました。多くの人が、戦争は終わっていないと痛感したのです。
育てて下さった中国人の養父母に、大きな恩義を受けたことを、日本人は忘れてはなりません。その後、日本に帰国する道を選んだ孤児たちは、日本語を学び、苦労して働き、今は80才くらいです。自身も満州からの引き揚げ者で、妻が現地で亡くなり、娘が残留孤児となった山本慈昭さん(僧侶)は、残留孤児の肉親捜しに後半生を献げた尊敬すべき方です。娘さんと再会されました。山本さんが主人公の映画『望郷の鐘』があります(DVDあり)。皆さんも「満蒙開拓平和記念館」のホームページをご覧下さい。You Tubeには、当時満州で苦労した方々の証言映像、当時の歴史を学ぶ講座もあります。私たちが平和な世界を造るために、常に努力することが大切と分かります。アーメン(「真実に」)。
私と妻は、8月26日(月)に長野県下伊那郡阿智村の「満蒙開拓平和記念館」を見学しました。1931年の満州事変後に敗戦まで、国策で約27万人が日本から中国東北部(当時の日本の呼称は満州)に開拓移民として渡りました。長野県からが一番多く(約33000人)、中でも下伊那、飯田から最多の約8400人が渡りました。世界恐慌で養蚕業が大きな打撃を受けたこと、耕地面積の少なさが背景です。1932年に満州国の建国宣言が出ますが、日本の操り人形政権なので、国際連盟が承認しません。移民は、政府が安く買い上げた土地に入植しましたが、追い出された中国人も多く、現実には中国人の土地を奪ったので、開拓団には残念ながら加害者の面があります。
1945年8月8日午後11時(日本時間)に、ソ連が対日宣戦布告し、ソ連軍が攻めて来ます。開拓民を守るはずの関東軍(日本陸軍の現地部隊で大きな権力を持った)は、無責任にも事前に南に去り、高齢者・女性・子どもが逃げ、敗戦の8月15日以降に、多くの人々が飢え、病気、集団自決で亡くなりました。男性は敗戦前に徴兵され、ソ連軍によりシベリア等の収容所に送られました。私のいる東久留米教会にも以前、シベリア生還者が二名おられました。逃避行を続ければ、乳幼児は死ぬと思った親たちは、泣く泣く親切な中国人に子どもたちを預け、多くの中国残留日本人孤児が生まれました。戦争は、多くの人生を長く狂わせるので、決して行ってはいけません。私が中学生の1980年頃、残留孤児の方々が中年になって、肉親捜しのために代々木のオリンピックセンターに大勢宿泊して、肉親かもしれない人と会って、血液型の照合等をしていて、マスコミが連日大きく報道しました。肉親と判明した人々は、涙を流して抱き合っていました。多くの人が、戦争は終わっていないと痛感したのです。
育てて下さった中国人の養父母に、大きな恩義を受けたことを、日本人は忘れてはなりません。その後、日本に帰国する道を選んだ孤児たちは、日本語を学び、苦労して働き、今は80才くらいです。自身も満州からの引き揚げ者で、妻が現地で亡くなり、娘が残留孤児となった山本慈昭さん(僧侶)は、残留孤児の肉親捜しに後半生を献げた尊敬すべき方です。娘さんと再会されました。山本さんが主人公の映画『望郷の鐘』があります(DVDあり)。皆さんも「満蒙開拓平和記念館」のホームページをご覧下さい。You Tubeには、当時満州で苦労した方々の証言映像、当時の歴史を学ぶ講座もあります。私たちが平和な世界を造るために、常に努力することが大切と分かります。アーメン(「真実に」)。
2024-10-20 0:13:21()
その② 2024年10月20日(日)礼拝説教
熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。」イエス様は愛をもって、すぐに癒して下さいました。安息日です。当時、安息日は一切働いてはいけない日、医者が働いて病気を治療してもいけない日でした。イエス様は安息日の掟を破っています。旧約聖書は、イエス様によって完成されるのです。この癒しの出来事を書いたルカは医者だと、コロサイの信徒への手紙4章に書かれています。医者ですから、特に感銘をもって、イエス様が行った癒しの場面を描いているに違いありません。
イエス様にいやされたシモンの姑は、すぐに起き上がって一同をもてなしました。
「もてなした」は元のギリシア語で、「ディアコネオー」で、仕える、奉仕するの意味です。礼拝するの意味ももつようです。このディアコネオーと同じ系統の言葉が、テモテへの手紙(一)3章10節や13節では奉仕者と訳され、教会の奉仕者のことを指しています。口語訳聖書では執事と訳されていました。今の教会で言えば役員等に当たります。しかしイエス・キリストの体である教会への奉仕は。クリスチャンなら皆行うのですから、このシモンの姑も、テモテへの手紙(一)の執事も、教会員全員を指すとも言えます。このディアコネオーからできたドイツ語に、ディアコニッセ(女性名詞?)という言葉があり、日本語では奉仕女と訳されています。ですがイエス様への礼拝、イエス様の教会への奉仕は女性も男性も行います。
東久留米市の近くの大泉学園駅の北の方に、「ベテスダ奉仕女の家」があり、ドイツで始まったプロテスタントの修道会の日本支部のようです。べテスダは、ヨハネ福音書5章に出て来るエルサレムの池ベトザタのことで、イエス様がここで癒しを行われました。「ベテスダ奉仕女母の家」では、イエス様に人生を献げたプロテスタントの女性たちが、祈りと奉仕の生活を送っておられるのだと思います。シモンの、名前も知られない姑を模範にしておられるのかもしれません。そのホームページには理念がこう書かれています。「驚異的な経済成長の陰に隠れて社会の谷間で苦しんで助けを求めている人は少なくありません。むしろ、予測できない急激な社会変革のなかで取り残されてゆく者は多いのです。ベテスダ奉仕女母の家は、1954年にこれらの悲惨をみるにしのびず、イエスの愛をもって立ち上りました。以来、奉仕女を中核として必要な課題と取りくんできました。現在では、日本独特の女性の支援の施設2つと乳幼児のための保育所をし、さらに障害者の方の作業所を始めました。」実に頭が下がります。
40節「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。」創世記1章には「夕べがあり、朝があった」と書かれています。聖書、特に旧約聖書では、夕べから新しい一日が始まります。日が暮れて安息日が終わると、人々がイエス様のもとに次々に来ました。安息日が終わったので、病気の治療の仕事を行っていただいてよいと考えたからです。イエス様は安息日でも癒しを行って下さいますが、民衆は安息日に癒していただいてはいけないと考えていたので、夕暮れまで待っていました。イエス様は病人の一人一人に手(複数形ですから両手)を置いていやして下さいました。神の愛の力が働きました。イエス様は肉体をもつ人間でもあるので、お疲れになったと思います。しかし心を込めて、一人一人に両手を置いて、癒して下さいました。十人二十人まとめて癒すのではなく、一人一人にちゃんと向き合って癒して下さいました。一人一人、症状も病気も、違っていたでしょう。
手を置くことは、神様の祝福を与えることです。イエス様の両手を通して、聖霊の愛の力が働いたのでしょう。教会の牧師などになる式に按手式という式があります。多くの先輩牧師たちが手を置いて下さり、聖霊の祝福が注がれるように祈って下さいます。テモテへの手紙(二)1章6節で、パウロが愛弟子テモテに書いています。「そういうわけで、私が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように勧めます。」パウロが手を置いて祈ったことで、テモテに聖霊が注がれたのだと思います。この場合と、イエス様が癒しのために両手を置いて下さったことの意味は全く同じではないと思いますが、それでもイエス様が両手を置かれたことで、病の人々に神の祝福が注がれたことは間違いありません。
41節「悪霊もわめき立て、『お前は神の子だ』と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。」イエス様が神の愛の力を発揮されると、悪霊はたまらず追い出されました。悪霊も悪魔も、イエス様に勝つことはできないのです。聖書全体の最後の書・ヨハネの黙示録20章には、「サタンの敗北」の小見出しの個所があります。20章10節には、「彼ら(諸国の民)を惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。」このように、悪魔は最後に滅亡することが定まっています。しかし最後まで神様に抵抗して、私たちをも惑わそうとしているので、私どもが、信仰にしっかり立って礼拝や聖書の学び・祈祷会、定例婦人会・祈祷会に出席して、悪魔を退ける必要があります。
3つ目の小見出しは、「巡回して宣教する」です。42節「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。」イエス様が人里離れた所へ出て行かれたのは、祈るためです。ずっと自分たちの所にいてほしいという群衆の願いを、イエス様は拒まれました。私たちはイエス様を独り占めするわけにいきません。43~44節「しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ。』そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。」やがてご自分を十字架につけることになるユダヤの人々の場所にも行って、イエス様が神の祝福を体現する方であることを示されたのではないかと思います。いずれにしても、イエス様をカファルナウムだけにとどめておくことはできません。イエス様の最大の使命は、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って、十字架にかかることだからです。イエス様の十字架の死と復活によってこそ、私たちに一切の罪の赦しと永遠の命が与えられたことを最大の恵みと感謝して、ご一緒に礼拝と祈りと伝道を続けさせていただきたいと願います。アーメン。
イエス様にいやされたシモンの姑は、すぐに起き上がって一同をもてなしました。
「もてなした」は元のギリシア語で、「ディアコネオー」で、仕える、奉仕するの意味です。礼拝するの意味ももつようです。このディアコネオーと同じ系統の言葉が、テモテへの手紙(一)3章10節や13節では奉仕者と訳され、教会の奉仕者のことを指しています。口語訳聖書では執事と訳されていました。今の教会で言えば役員等に当たります。しかしイエス・キリストの体である教会への奉仕は。クリスチャンなら皆行うのですから、このシモンの姑も、テモテへの手紙(一)の執事も、教会員全員を指すとも言えます。このディアコネオーからできたドイツ語に、ディアコニッセ(女性名詞?)という言葉があり、日本語では奉仕女と訳されています。ですがイエス様への礼拝、イエス様の教会への奉仕は女性も男性も行います。
東久留米市の近くの大泉学園駅の北の方に、「ベテスダ奉仕女の家」があり、ドイツで始まったプロテスタントの修道会の日本支部のようです。べテスダは、ヨハネ福音書5章に出て来るエルサレムの池ベトザタのことで、イエス様がここで癒しを行われました。「ベテスダ奉仕女母の家」では、イエス様に人生を献げたプロテスタントの女性たちが、祈りと奉仕の生活を送っておられるのだと思います。シモンの、名前も知られない姑を模範にしておられるのかもしれません。そのホームページには理念がこう書かれています。「驚異的な経済成長の陰に隠れて社会の谷間で苦しんで助けを求めている人は少なくありません。むしろ、予測できない急激な社会変革のなかで取り残されてゆく者は多いのです。ベテスダ奉仕女母の家は、1954年にこれらの悲惨をみるにしのびず、イエスの愛をもって立ち上りました。以来、奉仕女を中核として必要な課題と取りくんできました。現在では、日本独特の女性の支援の施設2つと乳幼児のための保育所をし、さらに障害者の方の作業所を始めました。」実に頭が下がります。
40節「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。」創世記1章には「夕べがあり、朝があった」と書かれています。聖書、特に旧約聖書では、夕べから新しい一日が始まります。日が暮れて安息日が終わると、人々がイエス様のもとに次々に来ました。安息日が終わったので、病気の治療の仕事を行っていただいてよいと考えたからです。イエス様は安息日でも癒しを行って下さいますが、民衆は安息日に癒していただいてはいけないと考えていたので、夕暮れまで待っていました。イエス様は病人の一人一人に手(複数形ですから両手)を置いていやして下さいました。神の愛の力が働きました。イエス様は肉体をもつ人間でもあるので、お疲れになったと思います。しかし心を込めて、一人一人に両手を置いて、癒して下さいました。十人二十人まとめて癒すのではなく、一人一人にちゃんと向き合って癒して下さいました。一人一人、症状も病気も、違っていたでしょう。
手を置くことは、神様の祝福を与えることです。イエス様の両手を通して、聖霊の愛の力が働いたのでしょう。教会の牧師などになる式に按手式という式があります。多くの先輩牧師たちが手を置いて下さり、聖霊の祝福が注がれるように祈って下さいます。テモテへの手紙(二)1章6節で、パウロが愛弟子テモテに書いています。「そういうわけで、私が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃え立たせるように勧めます。」パウロが手を置いて祈ったことで、テモテに聖霊が注がれたのだと思います。この場合と、イエス様が癒しのために両手を置いて下さったことの意味は全く同じではないと思いますが、それでもイエス様が両手を置かれたことで、病の人々に神の祝福が注がれたことは間違いありません。
41節「悪霊もわめき立て、『お前は神の子だ』と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。」イエス様が神の愛の力を発揮されると、悪霊はたまらず追い出されました。悪霊も悪魔も、イエス様に勝つことはできないのです。聖書全体の最後の書・ヨハネの黙示録20章には、「サタンの敗北」の小見出しの個所があります。20章10節には、「彼ら(諸国の民)を惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。」このように、悪魔は最後に滅亡することが定まっています。しかし最後まで神様に抵抗して、私たちをも惑わそうとしているので、私どもが、信仰にしっかり立って礼拝や聖書の学び・祈祷会、定例婦人会・祈祷会に出席して、悪魔を退ける必要があります。
3つ目の小見出しは、「巡回して宣教する」です。42節「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。」イエス様が人里離れた所へ出て行かれたのは、祈るためです。ずっと自分たちの所にいてほしいという群衆の願いを、イエス様は拒まれました。私たちはイエス様を独り占めするわけにいきません。43~44節「しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ。』そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。」やがてご自分を十字架につけることになるユダヤの人々の場所にも行って、イエス様が神の祝福を体現する方であることを示されたのではないかと思います。いずれにしても、イエス様をカファルナウムだけにとどめておくことはできません。イエス様の最大の使命は、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って、十字架にかかることだからです。イエス様の十字架の死と復活によってこそ、私たちに一切の罪の赦しと永遠の命が与えられたことを最大の恵みと感謝して、ご一緒に礼拝と祈りと伝道を続けさせていただきたいと願います。アーメン。
2024-10-20 0:03:26()
その① 説教「神の聖者イエス・キリスト」2024年10月20日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第74回)
順序:招詞ルカ15:7,頌栄16(1節)、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・328、聖書 ルカ福音書4:31~44、祈祷、説教、祈祷、讃美歌451、献金、頌栄351(1節)、祝祷。
(ルカ福音書4:31~44) イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。
(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第74回)です。新約聖書は、ルカ福音書4章31~44節、説教題は「神の聖者イエス・キリスト」です。
本日のルカによる福音書の直前は、イエス様が故郷のナザレで奇跡を行うことを拒否なさり、ナザレの人々が激しく怒って、イエス様を山の崖から突き落とそうとした場面です。最後の30節に、「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」と書かれています。父なる神様の力がイエス様を守りました。イエス様の使命は、十字架に架かって死ぬことです。まだその時ではないのです。ですから父なる神様が御手をもってイエス様を守られ、イエス様は殺意に燃える人々の間を通り抜けて、立ち去られました。
本日の最初の小見出しは、「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」です。イエス様はナザレに行く前にもカファルナウムで奇跡を行われましたが、ナザレに行った後、再びカファルナウムに来て、安息日の礼拝に出席されました。ナザレの安息日の直後の安息日かどうかは分かりません。マタイ福音書4章12節によると、イエス様は洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤに退かれ、ナザレを離れて、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」イエス様はカファルナウムの町に住んでおられたのですね。カファルナウムからナザレに行き、またカファルナウムに戻って来られました。カファルナウムが一番、ほっとできる場所だったかもしれません。最初の31節「イエスは、ガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。」安息日(土曜日)に、カファルナウムの会堂で礼拝に出席され、人々を教えておられたのです。カファルナウムには会堂跡の遺跡があるそうで、私も写真で見ましたが、イエス様の時代より後の時代の会堂の遺跡ではないかと聞いたことがあります。
32節「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」マタイ福音書7章の最後、イエス様の山上の説教の最後にも、群衆がイエス様の教えに非常に驚いた、「彼らの律法学者にようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」イエス様は神の子ですから威厳があり、イエス様の御言葉にも権威が感じられたのです。山上の説教でたとえばイエス様は、旧約聖書を引用して「あなた方も聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」とおっしゃった上で、「しかし、私は言っておく(この言い方に権威が感じ取れます)。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と命じられます。旧約聖書も神の言葉ですが、それを乗り越える、新しい神の御言葉を、力強く確信をもって語られます。カファルナウムの人々も、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」、「敵を愛しなさい」というイエス様の力強い新しい御言葉を聴いて、驚いた、衝撃を受けたのだと思います。
33、34節「ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエスよ、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」礼拝のさなかだったかもしれません。イエス様が力ある神の御言葉を語っておられたので、神の支配がそこに来ていました。すると悪霊はそれに耐えられなくなり、あぶり出されてしまったのです。悪霊は神の御言葉を聞いていて苦しくなり、自ら正体を現しました。「ああ、ナザレのイエスよ、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」我々と言っていますから、悪霊は複数いたのでしょう。大勢いる悪霊の親玉が悪魔なのでしょう。悪魔は4章でイエス様を激しく誘惑し敗れると、時が来るまでイエスを離れたのです。本日の箇所では、悪魔の子分と思われる悪霊が登場し、イエス様にぐヴアップしています。ヤコブの手紙2章19節が思い出されます。「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」今日の場面でも、悪霊がイエス様の前で恐れおののいています。
35節「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。」イエス様が守られたので、男は何の傷も負わずにすみました。36~37節「人々は皆驚いて、互いに言った。『この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。』こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。」
イエス様の御言葉には、権威と力がありました。私は旧約聖書・創世記1章の天地創造の場面を思い出します。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」神が言葉を発せられると、それが現実の出来事となるのです。言葉という言葉は、ヘブライ語でダーバールと言います。このダーバールという言葉には、出来事という意味もあるそうです。言葉と出来事が、両方ともダーバールという言葉です。つまり、神の言葉は出来事を引き起こす、神の言葉には創造する力がある、神の言葉には出来事を造り出す力があるのです。創世記1章には、こう書かれています。「神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。』そのようになった。」~神は言われた。『地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。』そのようになった。~神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光るものがあって、地を照らせ。』そのようになった。」このように、神様は、ご自分の力ある言葉によって、この宇宙を創造なさったのです。
新約聖書のヘブライ人への手紙11章3節にこう書いてある通りです。「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」ヘブライ人への手紙4章12節には、こんな御言葉もあります。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」「神の言葉は生きており、力を発揮する」のです。ですからイエス様が、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊は一切抵抗できず、男の中から追い出されたのです。人々は皆驚いて、互いに言いました。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」こうして、イエス様のうわさは辺りに一体に広まりました。約2000年前のことですから、当然口コミです。口から口へ、イエス様のなさったすばらしい御業のことが、どんどん伝えられました。
人間の言葉にも、ある程度の力があります。私たちは自分の言葉で人の心を傷つけることがあり、逆に自分の言葉で人を励ますこともあります。「エフェソの信徒への手紙4章29~30節の御言葉が思い出されます。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはなりません。」決して人のご機嫌をとれというのではないのですが、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさいと言われます。そして私たちが悪い言葉を口にすると、聖霊なる神様が悲しまれることが分かります。
次の小見出しは、「多くの病人をいやす」です。38節「イエスは会堂を立ち去り、シモン(ペトロ)の家にお入りになった。シモンの姑が高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。」イエス様の弟子シモン・ペトロは、既に結婚していたことが分かります。シモンの妻は、新約聖書に一度も登場しないので、名前も分かりません。イエス様の十字架と復活の後に、イエス様の使徒となったパウロが、コリントの信徒への手紙(一)9章5節で、「私たちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファ(シモン・ペトロ)のように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」と書いていますので、イエス様の復活後も、シモン・ペトロが妻を連れて歩いていたこと、おそらくそうして伝道していたことが分かります。そのシモンの妻の母親が高熱で苦しんでいました。50代の後半くらいだったのではないかと思います。何らかの感染症だった可能性もありますね。」39節「イエスが枕もとに立って熱を39節「イエスが枕もとに立って熱を
(ルカ福音書4:31~44) イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。
朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。
(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第74回)です。新約聖書は、ルカ福音書4章31~44節、説教題は「神の聖者イエス・キリスト」です。
本日のルカによる福音書の直前は、イエス様が故郷のナザレで奇跡を行うことを拒否なさり、ナザレの人々が激しく怒って、イエス様を山の崖から突き落とそうとした場面です。最後の30節に、「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」と書かれています。父なる神様の力がイエス様を守りました。イエス様の使命は、十字架に架かって死ぬことです。まだその時ではないのです。ですから父なる神様が御手をもってイエス様を守られ、イエス様は殺意に燃える人々の間を通り抜けて、立ち去られました。
本日の最初の小見出しは、「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」です。イエス様はナザレに行く前にもカファルナウムで奇跡を行われましたが、ナザレに行った後、再びカファルナウムに来て、安息日の礼拝に出席されました。ナザレの安息日の直後の安息日かどうかは分かりません。マタイ福音書4章12節によると、イエス様は洗礼者ヨハネが捕らえられた後、ガリラヤに退かれ、ナザレを離れて、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」イエス様はカファルナウムの町に住んでおられたのですね。カファルナウムからナザレに行き、またカファルナウムに戻って来られました。カファルナウムが一番、ほっとできる場所だったかもしれません。最初の31節「イエスは、ガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。」安息日(土曜日)に、カファルナウムの会堂で礼拝に出席され、人々を教えておられたのです。カファルナウムには会堂跡の遺跡があるそうで、私も写真で見ましたが、イエス様の時代より後の時代の会堂の遺跡ではないかと聞いたことがあります。
32節「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」マタイ福音書7章の最後、イエス様の山上の説教の最後にも、群衆がイエス様の教えに非常に驚いた、「彼らの律法学者にようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」イエス様は神の子ですから威厳があり、イエス様の御言葉にも権威が感じられたのです。山上の説教でたとえばイエス様は、旧約聖書を引用して「あなた方も聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」とおっしゃった上で、「しかし、私は言っておく(この言い方に権威が感じ取れます)。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と命じられます。旧約聖書も神の言葉ですが、それを乗り越える、新しい神の御言葉を、力強く確信をもって語られます。カファルナウムの人々も、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」、「敵を愛しなさい」というイエス様の力強い新しい御言葉を聴いて、驚いた、衝撃を受けたのだと思います。
33、34節「ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエスよ、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」礼拝のさなかだったかもしれません。イエス様が力ある神の御言葉を語っておられたので、神の支配がそこに来ていました。すると悪霊はそれに耐えられなくなり、あぶり出されてしまったのです。悪霊は神の御言葉を聞いていて苦しくなり、自ら正体を現しました。「ああ、ナザレのイエスよ、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」我々と言っていますから、悪霊は複数いたのでしょう。大勢いる悪霊の親玉が悪魔なのでしょう。悪魔は4章でイエス様を激しく誘惑し敗れると、時が来るまでイエスを離れたのです。本日の箇所では、悪魔の子分と思われる悪霊が登場し、イエス様にぐヴアップしています。ヤコブの手紙2章19節が思い出されます。「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」今日の場面でも、悪霊がイエス様の前で恐れおののいています。
35節「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。」イエス様が守られたので、男は何の傷も負わずにすみました。36~37節「人々は皆驚いて、互いに言った。『この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。』こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。」
イエス様の御言葉には、権威と力がありました。私は旧約聖書・創世記1章の天地創造の場面を思い出します。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」神が言葉を発せられると、それが現実の出来事となるのです。言葉という言葉は、ヘブライ語でダーバールと言います。このダーバールという言葉には、出来事という意味もあるそうです。言葉と出来事が、両方ともダーバールという言葉です。つまり、神の言葉は出来事を引き起こす、神の言葉には創造する力がある、神の言葉には出来事を造り出す力があるのです。創世記1章には、こう書かれています。「神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。』そのようになった。」~神は言われた。『地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。』そのようになった。~神は言われた。『天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光るものがあって、地を照らせ。』そのようになった。」このように、神様は、ご自分の力ある言葉によって、この宇宙を創造なさったのです。
新約聖書のヘブライ人への手紙11章3節にこう書いてある通りです。「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」ヘブライ人への手紙4章12節には、こんな御言葉もあります。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」「神の言葉は生きており、力を発揮する」のです。ですからイエス様が、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊は一切抵抗できず、男の中から追い出されたのです。人々は皆驚いて、互いに言いました。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」こうして、イエス様のうわさは辺りに一体に広まりました。約2000年前のことですから、当然口コミです。口から口へ、イエス様のなさったすばらしい御業のことが、どんどん伝えられました。
人間の言葉にも、ある程度の力があります。私たちは自分の言葉で人の心を傷つけることがあり、逆に自分の言葉で人を励ますこともあります。「エフェソの信徒への手紙4章29~30節の御言葉が思い出されます。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはなりません。」決して人のご機嫌をとれというのではないのですが、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさいと言われます。そして私たちが悪い言葉を口にすると、聖霊なる神様が悲しまれることが分かります。
次の小見出しは、「多くの病人をいやす」です。38節「イエスは会堂を立ち去り、シモン(ペトロ)の家にお入りになった。シモンの姑が高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。」イエス様の弟子シモン・ペトロは、既に結婚していたことが分かります。シモンの妻は、新約聖書に一度も登場しないので、名前も分かりません。イエス様の十字架と復活の後に、イエス様の使徒となったパウロが、コリントの信徒への手紙(一)9章5節で、「私たちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファ(シモン・ペトロ)のように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」と書いていますので、イエス様の復活後も、シモン・ペトロが妻を連れて歩いていたこと、おそらくそうして伝道していたことが分かります。そのシモンの妻の母親が高熱で苦しんでいました。50代の後半くらいだったのではないかと思います。何らかの感染症だった可能性もありますね。」39節「イエスが枕もとに立って熱を39節「イエスが枕もとに立って熱を
2024-10-06 2:34:45()
説教「貧しい人に福音を告げ知らせるために」2024年10月6日(日)聖霊降臨節第21主日公同礼拝
順序:招詞ルカ15:7,頌栄29、主の祈り,交読詩編141、使徒信条、讃美歌21・401、聖書 イザヤ書61:1~4、ルカ福音書4:16~30、祈祷、説教、祈祷、讃美歌433、聖餐式(讃美歌56)、献金、頌栄83(1節)、祝祷。
(イザヤ書61:1~4) 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
(ルカ福音書4:16~30) イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第21主日公同礼拝です。新約聖書は、ルカ福音書4章16~30節、説教題は「貧しい人に福音を告げ知らせるために」、小見出しは「ナザレで受け入れられない」、です。
本日の前のルカ福音書は、イエス様が荒れ野で悪魔からの3つの強力な誘惑を受け、それを全て撃退なさった場面です。イエス様は、悪魔との激しい闘いに全て勝利されました。それは甘い誘惑にさらされるご自分の心の中の闘いでもあったと思います。こうして悪魔とのつばぜり合いに勝利され、父なる神様から与えられた試験に合格されたイエス様について、本日の直前の14~15節が、こう記します。「イエスは霊(聖霊)の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。」
そして本日の16節です。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。」イスラエルの安息日は土曜日です。イエス様もイスラエル人の一人ですから、安息日には父なる神様を毎週礼拝しておられました。「いつものとおり」とあります。私たちの信仰も「いつものとおり」であることが大切です。いつものとおり礼拝に行き、いつものとおり婦人会や聖書の学び・祈祷会に出席することが望ましいですね。今は、神様の恵みによって、体調不良・ご高齢等で教会に行くことができない時には、二次的な方法として、オンラインで礼拝は集会に参加する道も用意されています。但し、パソコン等の機器の不調等によってうまく配信できないこともあり、その場合は。ご容赦いただくほかはございません。
イエス様の時代、イスラエルの各地に会堂(シナゴーグ)があり、人々の礼拝の場であり、また公民館(コミュニティーセンター)の役割を果たしていました。イエス様も他の人々も、モーセの十戒の第四の戒めを守るように心がけていました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」安息日は、神様に感謝と讃美の礼拝を献げ、神様の恵みと祝福を受ける、最も喜ばしい日です。
イエス様は、この安息日も礼拝のために会堂に入られました。会堂の礼拝は、おそらく私たちプロテスタント教会の礼拝とある意味似ていて。祈り、聖書(旧約)朗読、説教、賛美等が内容だったようです。会堂には会堂長という責任者がいて、会堂長が聖書を朗読することもあれば、会堂長が指名する人が聖書朗読を行うこともあったようです。この日はイエス様が、聖書朗読と説教を依頼されていたのでしょう。17節「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。」今のような印刷術がない当時の聖書は、羊皮紙などに手紙で御言葉が書かれており、イザヤ書だけでも相当の分量の巻物だったと思われます。
イエス様が朗読されたのは、私たちの本日の旧約聖書であるイザヤ書61章です。すばらしい御言葉です(他の御言葉もすばらしいですが)。18~19節「主の霊(聖霊)が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために。主が私に油(聖霊)を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」20節「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。」席に座って説教する習慣だったようです。21節「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」
この旧約聖書イザヤ書61章は、イエス様の存在と行いによって成就した、実現した、現実のものとなったというのです。ヨハネ福音書1章1節には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。言はイエス・キリストを指します。イエス様は神の言葉だというのです。神の言葉、メッセージ、意志、愛が具体的な肉体をもつ人間となったのがイエス・キリストなのです。これをキリスト教用語で「受肉」と呼びます。「肉を受ける」と書きます。肉体を受けて具体的な人間となったことを意味します。イエス様は、「イザヤ書61章は、私の存在によって受肉し、現実のものとなった」と宣言しておられます。「私こそ、生きている聖書だ」と宣言されたのです。その通りで、旧約聖書も新約聖書も、生きておられるイエス・キリストによって完成されると言えます。
もう一度18節「主の霊(聖霊)が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために。主が私に油を注がれたからである。」キリストという言葉はヘブライ語ではメシアで、共に「救い主」の意味に用いられますが、キリストもメシアも直接の意味は「油を注がれた者」です。油は神の清き油で、つまりは聖霊を指します。「主が私に油を注がれた。」イエス様は「父なる神様が私に聖霊を注がれた」とおっしゃり、つまり「私こそ油注がれた者、キリスト・メシア・救い主である」と宣言しておられるのです。イエス様はこのナザレでお育ちになったのですが、その地元で今日、「キリスト・メシア・救い主」としてデビューなさったも言えます。
「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」「主の恵みの年」は、旧約聖書・レビ記25章にある「ヨベルの年」がさらに理想化された年と言えます。ヨベルの年のことは、こう書かれています。「あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は49年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。~ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。」
これは貧しくて自分の土地を売った場合も、ヨベルの年には返却されて、新規巻き直しが可能になる恵みの年です。社会の貧富の格差を拡大させない神の恵みの年です。イザヤ書61章はこのことをさらに理想化して、メシア(救い主)が来て全ての圧迫を解放すると述べており、イエス様が「私こそそれを真の意味で実現するメシア(救い主)である」と宣言しておられるのです。その真の解放は、イエス様の十字架の贖いの死による私たちの罪からの解放、イエス様の復活による私たちの死からの解放です。
22節「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」ナザレはイエス様が育たれた土地ですから、人々は赤ん坊の時からイエス様を知っていました。マリアもヨセフも知っていました。人々はそのヨセフのせがれ、ヨセフの長男坊が約30才になったとはいえ、礼拝で驚くべき恵み深い説教を語ったので、驚嘆したのです。
そしてイエス様は言われます。23節「きっと、あなた方は『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、故郷のここでもしてくれ』と言うに違いない。」カファルナウムで、病人を癒すなどの奇跡を行われたのでしょう。「故郷のここでもしてくれ」の言い方には、助けを求める切実さが感じられず、興味本位の印象を受けます。へりくだって切実に、真剣に助けを求められれば、イエス様は助けて下さったでしょう。でもそうではありませんでした。「お前は本当にメシア(救い主)なのか? ちょっと信じられない。メシアなら故郷のここでも奇跡を行ってくれ。故郷なのだから、それくらいのサービスはしてくれてもよいだろう。奇跡を見たらメシア(救い主)だと信じてやってもよいよ。」マタイ福音書4章によると、イエス様のガリラヤでの伝道の第一声は、「悔い改めよ、天の国は近づいた」です。イエス様は故郷であるガリラヤのナザレの人々にも、「悔い改めよ、天の国は近づいた」とおっしゃりたいのではないでしょうか。またヨハネ福音書2章には、しるし(奇跡)を見てイエス様のことを信じる人々を、イエス様は信用されなかったと書かれています。「故郷のここでも奇跡を行ってくれ」という気持ちのナザレの人々に、イエス様は失望され、故郷の人々を信用されなかったと思うのです。イエス様は、イエス様がメシア(救い主)であることを疑い、興味本位で奇跡を見ようとするナザレの人々に向かって、「あなた方のためには奇跡を行わない」と宣言するのです。リップサービスなし。
24節以下「はっきり言っておく。預言者(神の人)は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に3年6ヶ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめ(神の民イスラエル人でない、異邦人)のもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマン(神の民イスラエル人でない、異邦人)のほかはだれも清くされなかった。」つまり神様は預言者エリヤとエリシャの時代にも、神様はイスラエル人よりも異邦人を救われた。「私もそれに似て、地元のあなた方のために奇跡は行わない」と宣言されたのです。地元で随分厳しいことを言われたものです。
聞いた地元の人々は、激しく怒りました。「ヨセフのせがれに過ぎない癖に、何と生意気なことを言うのか。」28~30節「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落そうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」殺されかかったのです。伝道開始早々、何ということかと、私たちも読んで、ナザレの人々の反応に驚くと思うのです。ガリラヤの春どころではありません。
イエス様もバプテスマのヨハネも、真実を語るので、人々から憎まれることがあります。私たち人間の中に、神の真実の御言葉を嫌う罪があるのですね。その罪がイエス様を十字架に追い込みます。今日の場面で既に、人間たちがイエス様を嫌い、イエス様を憎んでいます。ルカ福音書が始まって間もない4章で、イエス様が救い主としてデビューしたその時に、故郷のナザレで既に、イエス様の道が十字架の道であることが明らかになっています。イエス様はこのルカ福音書9章で、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自分)には枕するところもない」と言われました。育ったナザレにおいてさえ、居場所がないイエス様です。
イエス様は、ナザレの人々のごきげんをとろうとは、全くなさいませんでした。ナザレの人々の問題は、本当の救いを切実に求めていなかったことではないでしょうか。本当の救いとは、私たちの罪が、神様の御前に赦されることです。現代の私たちも、自分の罪が赦されることを最大の願いとは、あまりしていないかもしれません。イエス様が与えようとしておられる真の救いは、神様の前の私たちの罪が、赦されることです。イエス様は十字架にかかってまで、私たちに真の罪を赦そうとして下さいました。しかしナザレの人々は、真の救いを求めていなかったと思われます。私たち現代の日本人にも通じる問題です。イエス様の十字架による私たちの罪の赦しが最も大事ですが、その罪の赦しを切に求める人が、あまり多くない。十字架による罪の赦しに、あまり魅力を感じない。あまり人気が出ない。それでイエス・キリストを求めてクリスチャンになる人が少ないのではないかと感じます。
イザヤ書61章には、こうありました。「主の霊が私(イエス様)の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。」貧しい人とは、経済的に貧しい人のことでもあると思います。神様はエリヤを養った異邦人の貧しいやもめに、食べ物を与えて養って下さいました。同時に貧しい人は、自分の霊的な貧しさを知る人、自分の罪深さに気づいている人をも指すでしょう。「貧しい人に福音を告げ知らせるために。」心へりくだり、自分の罪を悔い改める人にこそ、イエス様は「あなたの罪は赦された」という福音を宣言して下さいます。そのようなへりくだりと悔い改めの姿勢が、ナザレの人々にはなかったと思われます。
そのことをイエス様は悲しまれて、「あなた方の前で奇跡は行わない」とおっしゃったと思います。
キリスト教はご利益宗教でないという言い方があります。自己中心的なご利益は与えられないと思います。しかし神様は、私たちの祈りに応えて、私たちに真に必要な恵みを与えておられます。さらに罪の赦しと永遠の命を与えて下さいます。あぞれをあえてご利益と呼ぶなら、その意味ではご利益はあります。しかしイエス・キリストを信じれば、自動的に大金持ちになるというようなご利益はありません。その意味では確かにキリスト教はご利益宗教ではありません。「故郷のここでも奇跡を起こしてくれ」という言い方は、「あなたを信じれば、どんなご利益があるか、故郷のここでも明らかにしてくれ」という自分勝手な言葉に聞こえます。この言葉は、イエス様を悲しませたでしょう。
イエス様ば私たちに日毎の糧を与え、時に病を癒して下さいます。しかしイエス様が与えて下さる最も大事な恵みは、罪の赦しと永遠の命です。今から受ける聖餐式のパンとぶどう汁に、罪の赦しと永遠の命という最大の恵みがつまっています。イエス様はこの恵みを下さるために地上に来て下さったことを感謝して、尊いパンとぶどう液をいただきたいと思います。アーメン。
(イザヤ書61:1~4) 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
(ルカ福音書4:16~30) イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第21主日公同礼拝です。新約聖書は、ルカ福音書4章16~30節、説教題は「貧しい人に福音を告げ知らせるために」、小見出しは「ナザレで受け入れられない」、です。
本日の前のルカ福音書は、イエス様が荒れ野で悪魔からの3つの強力な誘惑を受け、それを全て撃退なさった場面です。イエス様は、悪魔との激しい闘いに全て勝利されました。それは甘い誘惑にさらされるご自分の心の中の闘いでもあったと思います。こうして悪魔とのつばぜり合いに勝利され、父なる神様から与えられた試験に合格されたイエス様について、本日の直前の14~15節が、こう記します。「イエスは霊(聖霊)の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。」
そして本日の16節です。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。」イスラエルの安息日は土曜日です。イエス様もイスラエル人の一人ですから、安息日には父なる神様を毎週礼拝しておられました。「いつものとおり」とあります。私たちの信仰も「いつものとおり」であることが大切です。いつものとおり礼拝に行き、いつものとおり婦人会や聖書の学び・祈祷会に出席することが望ましいですね。今は、神様の恵みによって、体調不良・ご高齢等で教会に行くことができない時には、二次的な方法として、オンラインで礼拝は集会に参加する道も用意されています。但し、パソコン等の機器の不調等によってうまく配信できないこともあり、その場合は。ご容赦いただくほかはございません。
イエス様の時代、イスラエルの各地に会堂(シナゴーグ)があり、人々の礼拝の場であり、また公民館(コミュニティーセンター)の役割を果たしていました。イエス様も他の人々も、モーセの十戒の第四の戒めを守るように心がけていました。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」安息日は、神様に感謝と讃美の礼拝を献げ、神様の恵みと祝福を受ける、最も喜ばしい日です。
イエス様は、この安息日も礼拝のために会堂に入られました。会堂の礼拝は、おそらく私たちプロテスタント教会の礼拝とある意味似ていて。祈り、聖書(旧約)朗読、説教、賛美等が内容だったようです。会堂には会堂長という責任者がいて、会堂長が聖書を朗読することもあれば、会堂長が指名する人が聖書朗読を行うこともあったようです。この日はイエス様が、聖書朗読と説教を依頼されていたのでしょう。17節「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。」今のような印刷術がない当時の聖書は、羊皮紙などに手紙で御言葉が書かれており、イザヤ書だけでも相当の分量の巻物だったと思われます。
イエス様が朗読されたのは、私たちの本日の旧約聖書であるイザヤ書61章です。すばらしい御言葉です(他の御言葉もすばらしいですが)。18~19節「主の霊(聖霊)が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために。主が私に油(聖霊)を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」20節「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。」席に座って説教する習慣だったようです。21節「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」
この旧約聖書イザヤ書61章は、イエス様の存在と行いによって成就した、実現した、現実のものとなったというのです。ヨハネ福音書1章1節には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。言はイエス・キリストを指します。イエス様は神の言葉だというのです。神の言葉、メッセージ、意志、愛が具体的な肉体をもつ人間となったのがイエス・キリストなのです。これをキリスト教用語で「受肉」と呼びます。「肉を受ける」と書きます。肉体を受けて具体的な人間となったことを意味します。イエス様は、「イザヤ書61章は、私の存在によって受肉し、現実のものとなった」と宣言しておられます。「私こそ、生きている聖書だ」と宣言されたのです。その通りで、旧約聖書も新約聖書も、生きておられるイエス・キリストによって完成されると言えます。
もう一度18節「主の霊(聖霊)が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために。主が私に油を注がれたからである。」キリストという言葉はヘブライ語ではメシアで、共に「救い主」の意味に用いられますが、キリストもメシアも直接の意味は「油を注がれた者」です。油は神の清き油で、つまりは聖霊を指します。「主が私に油を注がれた。」イエス様は「父なる神様が私に聖霊を注がれた」とおっしゃり、つまり「私こそ油注がれた者、キリスト・メシア・救い主である」と宣言しておられるのです。イエス様はこのナザレでお育ちになったのですが、その地元で今日、「キリスト・メシア・救い主」としてデビューなさったも言えます。
「主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」「主の恵みの年」は、旧約聖書・レビ記25章にある「ヨベルの年」がさらに理想化された年と言えます。ヨベルの年のことは、こう書かれています。「あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は49年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。~ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。」
これは貧しくて自分の土地を売った場合も、ヨベルの年には返却されて、新規巻き直しが可能になる恵みの年です。社会の貧富の格差を拡大させない神の恵みの年です。イザヤ書61章はこのことをさらに理想化して、メシア(救い主)が来て全ての圧迫を解放すると述べており、イエス様が「私こそそれを真の意味で実現するメシア(救い主)である」と宣言しておられるのです。その真の解放は、イエス様の十字架の贖いの死による私たちの罪からの解放、イエス様の復活による私たちの死からの解放です。
22節「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」ナザレはイエス様が育たれた土地ですから、人々は赤ん坊の時からイエス様を知っていました。マリアもヨセフも知っていました。人々はそのヨセフのせがれ、ヨセフの長男坊が約30才になったとはいえ、礼拝で驚くべき恵み深い説教を語ったので、驚嘆したのです。
そしてイエス様は言われます。23節「きっと、あなた方は『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、故郷のここでもしてくれ』と言うに違いない。」カファルナウムで、病人を癒すなどの奇跡を行われたのでしょう。「故郷のここでもしてくれ」の言い方には、助けを求める切実さが感じられず、興味本位の印象を受けます。へりくだって切実に、真剣に助けを求められれば、イエス様は助けて下さったでしょう。でもそうではありませんでした。「お前は本当にメシア(救い主)なのか? ちょっと信じられない。メシアなら故郷のここでも奇跡を行ってくれ。故郷なのだから、それくらいのサービスはしてくれてもよいだろう。奇跡を見たらメシア(救い主)だと信じてやってもよいよ。」マタイ福音書4章によると、イエス様のガリラヤでの伝道の第一声は、「悔い改めよ、天の国は近づいた」です。イエス様は故郷であるガリラヤのナザレの人々にも、「悔い改めよ、天の国は近づいた」とおっしゃりたいのではないでしょうか。またヨハネ福音書2章には、しるし(奇跡)を見てイエス様のことを信じる人々を、イエス様は信用されなかったと書かれています。「故郷のここでも奇跡を行ってくれ」という気持ちのナザレの人々に、イエス様は失望され、故郷の人々を信用されなかったと思うのです。イエス様は、イエス様がメシア(救い主)であることを疑い、興味本位で奇跡を見ようとするナザレの人々に向かって、「あなた方のためには奇跡を行わない」と宣言するのです。リップサービスなし。
24節以下「はっきり言っておく。預言者(神の人)は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に3年6ヶ月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめ(神の民イスラエル人でない、異邦人)のもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマン(神の民イスラエル人でない、異邦人)のほかはだれも清くされなかった。」つまり神様は預言者エリヤとエリシャの時代にも、神様はイスラエル人よりも異邦人を救われた。「私もそれに似て、地元のあなた方のために奇跡は行わない」と宣言されたのです。地元で随分厳しいことを言われたものです。
聞いた地元の人々は、激しく怒りました。「ヨセフのせがれに過ぎない癖に、何と生意気なことを言うのか。」28~30節「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落そうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」殺されかかったのです。伝道開始早々、何ということかと、私たちも読んで、ナザレの人々の反応に驚くと思うのです。ガリラヤの春どころではありません。
イエス様もバプテスマのヨハネも、真実を語るので、人々から憎まれることがあります。私たち人間の中に、神の真実の御言葉を嫌う罪があるのですね。その罪がイエス様を十字架に追い込みます。今日の場面で既に、人間たちがイエス様を嫌い、イエス様を憎んでいます。ルカ福音書が始まって間もない4章で、イエス様が救い主としてデビューしたその時に、故郷のナザレで既に、イエス様の道が十字架の道であることが明らかになっています。イエス様はこのルカ福音書9章で、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自分)には枕するところもない」と言われました。育ったナザレにおいてさえ、居場所がないイエス様です。
イエス様は、ナザレの人々のごきげんをとろうとは、全くなさいませんでした。ナザレの人々の問題は、本当の救いを切実に求めていなかったことではないでしょうか。本当の救いとは、私たちの罪が、神様の御前に赦されることです。現代の私たちも、自分の罪が赦されることを最大の願いとは、あまりしていないかもしれません。イエス様が与えようとしておられる真の救いは、神様の前の私たちの罪が、赦されることです。イエス様は十字架にかかってまで、私たちに真の罪を赦そうとして下さいました。しかしナザレの人々は、真の救いを求めていなかったと思われます。私たち現代の日本人にも通じる問題です。イエス様の十字架による私たちの罪の赦しが最も大事ですが、その罪の赦しを切に求める人が、あまり多くない。十字架による罪の赦しに、あまり魅力を感じない。あまり人気が出ない。それでイエス・キリストを求めてクリスチャンになる人が少ないのではないかと感じます。
イザヤ書61章には、こうありました。「主の霊が私(イエス様)の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。」貧しい人とは、経済的に貧しい人のことでもあると思います。神様はエリヤを養った異邦人の貧しいやもめに、食べ物を与えて養って下さいました。同時に貧しい人は、自分の霊的な貧しさを知る人、自分の罪深さに気づいている人をも指すでしょう。「貧しい人に福音を告げ知らせるために。」心へりくだり、自分の罪を悔い改める人にこそ、イエス様は「あなたの罪は赦された」という福音を宣言して下さいます。そのようなへりくだりと悔い改めの姿勢が、ナザレの人々にはなかったと思われます。
そのことをイエス様は悲しまれて、「あなた方の前で奇跡は行わない」とおっしゃったと思います。
キリスト教はご利益宗教でないという言い方があります。自己中心的なご利益は与えられないと思います。しかし神様は、私たちの祈りに応えて、私たちに真に必要な恵みを与えておられます。さらに罪の赦しと永遠の命を与えて下さいます。あぞれをあえてご利益と呼ぶなら、その意味ではご利益はあります。しかしイエス・キリストを信じれば、自動的に大金持ちになるというようなご利益はありません。その意味では確かにキリスト教はご利益宗教ではありません。「故郷のここでも奇跡を起こしてくれ」という言い方は、「あなたを信じれば、どんなご利益があるか、故郷のここでも明らかにしてくれ」という自分勝手な言葉に聞こえます。この言葉は、イエス様を悲しませたでしょう。
イエス様ば私たちに日毎の糧を与え、時に病を癒して下さいます。しかしイエス様が与えて下さる最も大事な恵みは、罪の赦しと永遠の命です。今から受ける聖餐式のパンとぶどう汁に、罪の赦しと永遠の命という最大の恵みがつまっています。イエス様はこの恵みを下さるために地上に来て下さったことを感謝して、尊いパンとぶどう液をいただきたいと思います。アーメン。
2024-09-29 3:02:10()
説教「光の子として歩みなさい」2024年9月29日(日)聖霊降臨節第20主日公同礼拝
順序:招詞ルカ15:7,頌栄28、主の祈り,交読詩編140、使徒信条、讃美歌21・482、聖書 イザヤ書60:1~3、エフェソ5:6~20、祈祷、説教、祈祷、讃美歌403、献金、頌栄27、祝祷。
(イザヤ書60:1~3) 主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
(エフェソの信徒への手紙5:6~20) むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第20主日公同礼拝です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙5章6~20節、小見出し「光の子として生きる」、説教題は「光の子として歩みなさい」です。
本日の御言葉の大前提は、5章1~2節です。「あなた方は、神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとして私たちのために神に献げてくださったように、あなた方も愛によって歩みなさい。」私たちが、父なる神様に愛され、イエス・キリストに愛され、イエス様の十字架の死と復活のお陰で、神の子にされている事実が前提です。
そして本日の最初の6節です。「むなしい言葉に惑わされてはなりません。」あいまいに聞こえます。口語訳聖書では、「あなた方は、誰にも不誠実な言葉でだまされてはいけない」です。新改訳聖書2017では、「だれにも空しい言葉でだまされてはいけません。」一番新しい聖書協会共同訳でも、「空しい言葉にだまされてはなりません。」先週の礼拝は、イエス様が悪魔の誘惑に打ち勝たれた個所でした。悪魔は色々な手口でイエス様を騙そうとしたのです。イエス様は、いかにも悪魔の姿で現れたわけではないと思います。いかにも親切心を発揮しているふりをして現れたのではないかと思います。それは、いかにも親切なふりをして、イエス様を騙して罪に陥れようとしたのではないかと思います。それを見破ることは、簡単ではありません。しかしイエス様は見事に見破って、悪魔の誘惑を全て撃退し、悪魔に一度も騙されませんでした。さすがイエス様です。創世記3章を見ると、イエス様と正反対だったのがエバとアダムです。悪魔のずる賢い言葉に騙されて、まずエバが神様の戒めに背き、罪を犯し、悪魔の支配下に落ちてしまいました。続いてアダムも、エバの誘いに乗って同じ罪を犯してしまいました。このエバとアダムの悪魔に負けた罪・失敗を、イエス様が生涯をかけて、特に十字架の死によって、取り戻して下さり、奪回して下さったのです。従って私たちは、もはやエバとアダムのように、悪魔の騙しに騙されて、神の愛の支配から外れないように、十分注意して歩みます。そのためには、礼拝を献げ、聖書を読み祈り、具体的には神様に助けていただきながら、十戒を行うように心がけていれば、悪魔の騙しに騙されない歩みがかなりできると思うのです。
8月下旬に、長野県下伊那郡阿智村にある満蒙開拓平和記念館を見学したので、そこで見学したこと等が頭の中にあるのですが、批判的なことを申して恐縮ですが、日本から約27万人も満州に開拓民として渡ったのですが、政府が安く買い上げた土地を開拓・耕作したとは言え、現実には多くの中国人を追い出し、中国人の土地を奪ったに等しかったそうです。その後大きなご苦労をなさった開拓民の方々には申し上げにくいことですが、このようなことがあるため記念館でも、「満蒙開拓の歴史を美化することはできない」と書かれていました。その後発生した中国残留日本人孤児の肉親捜しに後半生を献げた山本慈昭というお坊さんを主人公にした『望郷の鐘』という映画がありますが(この山本さんは、自身も満州開拓民で、シベリア抑留を経ての生還者で、夫人を満州で失い、娘さんが残留孤児になり、その後再会できた方)、山本さんが生還後に阿智村の少年に言い聞かせる場面があります。「だがな、騙す者と騙される者が揃わなかったら、戦争は起きなかった」と言い聞かせるのです。山本さんの痛切な反省があるのでしょう。自分も開拓民のリーダーとして満州に行った。そして中国人を苦しめる一端を担った。長野県の村長の中には、国に促されても自分が責任を持つ村が開拓団に加わることを拒否した気骨のある村長もいたそうです。ここから先は私の推測ですが、そのような村長は、満州開拓がどのようなことか分かっていたのではないかと思います。結局は中国人の土地を奪うことで、よいことではない。ソ連との国境に近い所に配置されれば、もし日本とソ連が戦争になった場合、開拓民は戦争に巻き込まれ、大きな犠牲が出るかもしれない。そこまで考えた村長もいて、自分が責任をもつ村が開拓団に加わることを、国の要請であっても拒否したのではないかと思います。もしこの推測が当たっていれば、その村長は、国のむなしい言葉に惑わされず、騙されず、正しい決断をしたことになると思います。
6~7節「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。」「彼ら」が具体的に誰を指すのか分かりませんが、神様に背く悪と罪の道に引きずり込もうとする人々であることは確かです。せっかく自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じて、神様に属する者となったのですから、そこにしっかりとどまって、再び神様に背く道に逆戻りしないように注意しなさい、ということだと思います。
8節「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光の子として歩みなさい。」「以前と今」の対比が記されています。それはイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受ける以前と、受けた今の対比です。以前と今とでは、状況が一変したのです。洗礼を受ける以前は、暗闇の中を歩んでいた。罪と悪魔と死の支配下の暗闇にいたのです。しかし洗礼を受けた今は全く違います。「今は主イエス・キリストに結ばれて、光」となっているのです。今既にそうなっているのです。主イエス・キリストに結ばれるとは、「父・子・聖霊なる三位一体の神様」の御名による洗礼を受けることです。洗礼を受けた今は、復活の主イエス・キリストに結ばれて、世の光であるイエス・キリストに所属する者となっているのです。罪と悪魔と死の支配から解放されて、今既に永遠の命を受けているのです。今既に光の子になっているのです。ですから、「光の子として歩みなさい」と著者のパウロが、この手紙を読む私たちを、励ましてくれます。聖霊に満たされて、復活のイエス様と共に歩みなさいということです。
洗礼とは何であったか? ローマの信徒への手紙6章4節以下に記されています。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」
エフェソ5章9節「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」光とは、「私は世の光である」と宣言されるイエス・キリストです。イエス・キリストから、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。洗礼を受けた私たちは、イエス・キリストと一体となっています。私たち自身は本来光ではないのですが、イエス・キリストというまばゆい光が輝いておられるので、私たちもそれを反射する仕方で光輝きます。10節「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろそれを明るみに出しなさい。」私たちが何かを行うときに、「これはイエス様に喜んでいただけることだろうか」と自問自答し、「これはイエス様に喜んでいただけることだ」と確信できることばかり行うのがよいのです。まだ罪が残る私たちが、100%そのように行うことは難しいですが、しかし日々このように心がけることが大切と信じます。暗闇の業とは、悪魔に従う罪深い行いです。
11~13節「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろそれを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」彼らとは、先ほどと同じで、神様に背く悪と罪の道に引きずり込もうとする人々であることは確かです。彼らの誘惑に負けてはいけない。神様の目には、何もごまかすことができません。私たちの隠れた行いも、私たちの人には見えない心の中も、神様にはすべてさらけだされています。政治家の裏金も白日の下にさらされました。この神様が、私たち全ての人間を、最後の審判で裁かれます。人間の裁判にはしばしば間違いがありますが、神様の裁きは100%正確です。この神様に対して私たちは、最後の審判で申し開きを行わなければならないのです。しかしイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けていれば、安心です。私たちはイエス様の十字架の犠牲の死のお陰で、必ず無罪の宣告を受けることができます。
14節「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」この「起きよ」は、本日の旧約聖書イザヤ書60章1節の引用かもしれません。そこにはこうあります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」2節もよいです。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」そしてエフェソ5章14節は、当時の洗礼式の時に歌われた讃美歌だろうとも言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 「眠りについている者」とは、罪と死の中に埋没して、イエス・キリストに対して眠りこけている状態、私たちがキリストを信じる前の状態です。「起きよ」は「起き上がれ」の意味、古い自分に死に、新しい命に起き上がれの意味です。「死者の中から立ち上がれ」は、神の前に死んだ状態から、復活の命に立ち上がれ、の意味です。洗礼を受ける時に起こる出来事です。洗礼を受けることは、これほどすばらしいこと、キリストの光によって照らされ、キリストの復活の命をプレゼントされる恵みです。コリントの信徒への手紙(二)4章6節に、次のすばらしい御言葉がございます。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。」この神の光が、全ての人の心の中に輝いて、私たちの家族や友人も皆、洗礼に導かれるように、切に祈ります。
エフェソ5章15~17節「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」「時をよく用いなさい。」時は有限なので、私たちは時を無駄にすることはできず、当然有意義に用いる必要があります。やはり伝道のために、私たち一人一人に何ができるのか、自分にできることを祈りながら、1つ1つ着実に行うことがよいと思っています。「今は悪い時代なのです」とあります。この手紙が書かれた約2000年前もそうだった。今は交通や情報の伝達などは当時よりはるかに便利になっていますが、未だに戦争はあり、殺人事件等の罪もなくなりません。悪い宗教もあります。その意味で、残念ながら今も悪い時代と言わざるを得ません。その中で悪に抵抗し、悪と戦い、神様の愛と平和と正義を実行することが求められます。
18~19節「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊(聖霊)に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」酒に酔うのではなく、聖霊に酔い、聖霊に満たされなさいとあります。聖霊に満たされるためには、祈るほかありません。礼拝に参加し、日曜日が無理なら、水曜日の定例婦人会・祈祷会や、聖書の学び・祈祷会に参加することも重要です。「主にむかって心からほめ歌いなさい。」讃美です。讃美で印象深い場面は、使徒言行録16章で、パウロと同労者(共に働く者)シラスが、フィリピの牢獄の中で讃美している場面です。パウロとシラスが伝道旅行の中で、フィリピで捕えられ、衣服をはぎ取られ、何度も鞭打たれ、一番奥の牢に投げ込まれ、足には木の足かせをはめられ、厳重に監視されていました。鞭打たれた傷がさぞ痛かったと思います。こんな苦難の中でも「真夜中頃、パウロとシラスが讃美の歌を歌って、神に祈っていた」と書かれています。本当にどんな境遇にあっても、神を賛美する歌を歌い、神に祈っていたパウロとシラスの信仰は、すばらしいなと感じ入ります。この後、神様が介入され、地震が起こり、牢の戸が皆開き、全ての囚人の鎖も外れ、パウロとシラスは逃げなかったのですが、結局解放されます。
「主に向かって心からほめ歌いなさい。」14節が当時の洗礼式の時の讃美歌なら、14節にメロディーをつけて歌ってもよいのです。「眠りについている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」これはイエス様の復活を連想させます。ある説教者は、教会はイースターの讃美歌を、イースター以外の時にもっと歌ってよいし、いやむしろ歌うべきだと言っています。イエス様の十字架はもちろんですが、復活こそ、死に勝利した大きな喜び、洗礼を受けた人が永遠の命、復活の体を受ける確かな保証だからです。
本日の御言葉には、光という言葉がよく出ます。ヨハネ福音書12章35節以下に、イエス様の次の御言葉があります。「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」今年6月1日に天に召されたAさんが、洗礼を受ける決心をなさった御言葉です。「光の子となるために、光のあるうちに、光(キリスト)を信じなさい。」ここを読まれて、「早く洗礼を受けなきゃ」と思って、洗礼を受けられたそうです。光の子になられたのです。
「主に向かって、心からほめ歌をうたいなさい。」思うに、ほめ歌を歌う平安な心も、神様が与えて下さると思うのです。私の同級生のM牧師が7月に天に召されました。彼は息子さんに「死ぬことは怖くないの」と聞かれて「怖くないよ」と答えたそうです。もちろん時には「なぜ、自分がこの病気に」と思い、叫んだこともありました。」それでも最後まで礼拝に出席して賛美する信仰を、神が与えて下さったと思います。東久留米教会の近所の清瀬福音自由教会の岩井先生のメッセージ。
苦難の中でも神を賛美する信仰は、神が与えて下さる。そう信じて、共にイエス様を讃美する生き方を生涯続け、その後は天で讃美する者とされたいと思います。アーメン。
(イザヤ書60:1~3) 主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
(エフェソの信徒への手紙5:6~20) むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
(説教) 本日は、聖霊降臨節第20主日公同礼拝です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙5章6~20節、小見出し「光の子として生きる」、説教題は「光の子として歩みなさい」です。
本日の御言葉の大前提は、5章1~2節です。「あなた方は、神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまりいけにえとして私たちのために神に献げてくださったように、あなた方も愛によって歩みなさい。」私たちが、父なる神様に愛され、イエス・キリストに愛され、イエス様の十字架の死と復活のお陰で、神の子にされている事実が前提です。
そして本日の最初の6節です。「むなしい言葉に惑わされてはなりません。」あいまいに聞こえます。口語訳聖書では、「あなた方は、誰にも不誠実な言葉でだまされてはいけない」です。新改訳聖書2017では、「だれにも空しい言葉でだまされてはいけません。」一番新しい聖書協会共同訳でも、「空しい言葉にだまされてはなりません。」先週の礼拝は、イエス様が悪魔の誘惑に打ち勝たれた個所でした。悪魔は色々な手口でイエス様を騙そうとしたのです。イエス様は、いかにも悪魔の姿で現れたわけではないと思います。いかにも親切心を発揮しているふりをして現れたのではないかと思います。それは、いかにも親切なふりをして、イエス様を騙して罪に陥れようとしたのではないかと思います。それを見破ることは、簡単ではありません。しかしイエス様は見事に見破って、悪魔の誘惑を全て撃退し、悪魔に一度も騙されませんでした。さすがイエス様です。創世記3章を見ると、イエス様と正反対だったのがエバとアダムです。悪魔のずる賢い言葉に騙されて、まずエバが神様の戒めに背き、罪を犯し、悪魔の支配下に落ちてしまいました。続いてアダムも、エバの誘いに乗って同じ罪を犯してしまいました。このエバとアダムの悪魔に負けた罪・失敗を、イエス様が生涯をかけて、特に十字架の死によって、取り戻して下さり、奪回して下さったのです。従って私たちは、もはやエバとアダムのように、悪魔の騙しに騙されて、神の愛の支配から外れないように、十分注意して歩みます。そのためには、礼拝を献げ、聖書を読み祈り、具体的には神様に助けていただきながら、十戒を行うように心がけていれば、悪魔の騙しに騙されない歩みがかなりできると思うのです。
8月下旬に、長野県下伊那郡阿智村にある満蒙開拓平和記念館を見学したので、そこで見学したこと等が頭の中にあるのですが、批判的なことを申して恐縮ですが、日本から約27万人も満州に開拓民として渡ったのですが、政府が安く買い上げた土地を開拓・耕作したとは言え、現実には多くの中国人を追い出し、中国人の土地を奪ったに等しかったそうです。その後大きなご苦労をなさった開拓民の方々には申し上げにくいことですが、このようなことがあるため記念館でも、「満蒙開拓の歴史を美化することはできない」と書かれていました。その後発生した中国残留日本人孤児の肉親捜しに後半生を献げた山本慈昭というお坊さんを主人公にした『望郷の鐘』という映画がありますが(この山本さんは、自身も満州開拓民で、シベリア抑留を経ての生還者で、夫人を満州で失い、娘さんが残留孤児になり、その後再会できた方)、山本さんが生還後に阿智村の少年に言い聞かせる場面があります。「だがな、騙す者と騙される者が揃わなかったら、戦争は起きなかった」と言い聞かせるのです。山本さんの痛切な反省があるのでしょう。自分も開拓民のリーダーとして満州に行った。そして中国人を苦しめる一端を担った。長野県の村長の中には、国に促されても自分が責任を持つ村が開拓団に加わることを拒否した気骨のある村長もいたそうです。ここから先は私の推測ですが、そのような村長は、満州開拓がどのようなことか分かっていたのではないかと思います。結局は中国人の土地を奪うことで、よいことではない。ソ連との国境に近い所に配置されれば、もし日本とソ連が戦争になった場合、開拓民は戦争に巻き込まれ、大きな犠牲が出るかもしれない。そこまで考えた村長もいて、自分が責任をもつ村が開拓団に加わることを、国の要請であっても拒否したのではないかと思います。もしこの推測が当たっていれば、その村長は、国のむなしい言葉に惑わされず、騙されず、正しい決断をしたことになると思います。
6~7節「むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。」「彼ら」が具体的に誰を指すのか分かりませんが、神様に背く悪と罪の道に引きずり込もうとする人々であることは確かです。せっかく自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じて、神様に属する者となったのですから、そこにしっかりとどまって、再び神様に背く道に逆戻りしないように注意しなさい、ということだと思います。
8節「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光の子として歩みなさい。」「以前と今」の対比が記されています。それはイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受ける以前と、受けた今の対比です。以前と今とでは、状況が一変したのです。洗礼を受ける以前は、暗闇の中を歩んでいた。罪と悪魔と死の支配下の暗闇にいたのです。しかし洗礼を受けた今は全く違います。「今は主イエス・キリストに結ばれて、光」となっているのです。今既にそうなっているのです。主イエス・キリストに結ばれるとは、「父・子・聖霊なる三位一体の神様」の御名による洗礼を受けることです。洗礼を受けた今は、復活の主イエス・キリストに結ばれて、世の光であるイエス・キリストに所属する者となっているのです。罪と悪魔と死の支配から解放されて、今既に永遠の命を受けているのです。今既に光の子になっているのです。ですから、「光の子として歩みなさい」と著者のパウロが、この手紙を読む私たちを、励ましてくれます。聖霊に満たされて、復活のイエス様と共に歩みなさいということです。
洗礼とは何であったか? ローマの信徒への手紙6章4節以下に記されています。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」
エフェソ5章9節「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」光とは、「私は世の光である」と宣言されるイエス・キリストです。イエス・キリストから、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。洗礼を受けた私たちは、イエス・キリストと一体となっています。私たち自身は本来光ではないのですが、イエス・キリストというまばゆい光が輝いておられるので、私たちもそれを反射する仕方で光輝きます。10節「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろそれを明るみに出しなさい。」私たちが何かを行うときに、「これはイエス様に喜んでいただけることだろうか」と自問自答し、「これはイエス様に喜んでいただけることだ」と確信できることばかり行うのがよいのです。まだ罪が残る私たちが、100%そのように行うことは難しいですが、しかし日々このように心がけることが大切と信じます。暗闇の業とは、悪魔に従う罪深い行いです。
11~13節「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろそれを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」彼らとは、先ほどと同じで、神様に背く悪と罪の道に引きずり込もうとする人々であることは確かです。彼らの誘惑に負けてはいけない。神様の目には、何もごまかすことができません。私たちの隠れた行いも、私たちの人には見えない心の中も、神様にはすべてさらけだされています。政治家の裏金も白日の下にさらされました。この神様が、私たち全ての人間を、最後の審判で裁かれます。人間の裁判にはしばしば間違いがありますが、神様の裁きは100%正確です。この神様に対して私たちは、最後の審判で申し開きを行わなければならないのです。しかしイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けていれば、安心です。私たちはイエス様の十字架の犠牲の死のお陰で、必ず無罪の宣告を受けることができます。
14節「明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」この「起きよ」は、本日の旧約聖書イザヤ書60章1節の引用かもしれません。そこにはこうあります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」2節もよいです。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」そしてエフェソ5章14節は、当時の洗礼式の時に歌われた讃美歌だろうとも言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」 「眠りについている者」とは、罪と死の中に埋没して、イエス・キリストに対して眠りこけている状態、私たちがキリストを信じる前の状態です。「起きよ」は「起き上がれ」の意味、古い自分に死に、新しい命に起き上がれの意味です。「死者の中から立ち上がれ」は、神の前に死んだ状態から、復活の命に立ち上がれ、の意味です。洗礼を受ける時に起こる出来事です。洗礼を受けることは、これほどすばらしいこと、キリストの光によって照らされ、キリストの復活の命をプレゼントされる恵みです。コリントの信徒への手紙(二)4章6節に、次のすばらしい御言葉がございます。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。」この神の光が、全ての人の心の中に輝いて、私たちの家族や友人も皆、洗礼に導かれるように、切に祈ります。
エフェソ5章15~17節「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」「時をよく用いなさい。」時は有限なので、私たちは時を無駄にすることはできず、当然有意義に用いる必要があります。やはり伝道のために、私たち一人一人に何ができるのか、自分にできることを祈りながら、1つ1つ着実に行うことがよいと思っています。「今は悪い時代なのです」とあります。この手紙が書かれた約2000年前もそうだった。今は交通や情報の伝達などは当時よりはるかに便利になっていますが、未だに戦争はあり、殺人事件等の罪もなくなりません。悪い宗教もあります。その意味で、残念ながら今も悪い時代と言わざるを得ません。その中で悪に抵抗し、悪と戦い、神様の愛と平和と正義を実行することが求められます。
18~19節「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊(聖霊)に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」酒に酔うのではなく、聖霊に酔い、聖霊に満たされなさいとあります。聖霊に満たされるためには、祈るほかありません。礼拝に参加し、日曜日が無理なら、水曜日の定例婦人会・祈祷会や、聖書の学び・祈祷会に参加することも重要です。「主にむかって心からほめ歌いなさい。」讃美です。讃美で印象深い場面は、使徒言行録16章で、パウロと同労者(共に働く者)シラスが、フィリピの牢獄の中で讃美している場面です。パウロとシラスが伝道旅行の中で、フィリピで捕えられ、衣服をはぎ取られ、何度も鞭打たれ、一番奥の牢に投げ込まれ、足には木の足かせをはめられ、厳重に監視されていました。鞭打たれた傷がさぞ痛かったと思います。こんな苦難の中でも「真夜中頃、パウロとシラスが讃美の歌を歌って、神に祈っていた」と書かれています。本当にどんな境遇にあっても、神を賛美する歌を歌い、神に祈っていたパウロとシラスの信仰は、すばらしいなと感じ入ります。この後、神様が介入され、地震が起こり、牢の戸が皆開き、全ての囚人の鎖も外れ、パウロとシラスは逃げなかったのですが、結局解放されます。
「主に向かって心からほめ歌いなさい。」14節が当時の洗礼式の時の讃美歌なら、14節にメロディーをつけて歌ってもよいのです。「眠りについている者よ、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」これはイエス様の復活を連想させます。ある説教者は、教会はイースターの讃美歌を、イースター以外の時にもっと歌ってよいし、いやむしろ歌うべきだと言っています。イエス様の十字架はもちろんですが、復活こそ、死に勝利した大きな喜び、洗礼を受けた人が永遠の命、復活の体を受ける確かな保証だからです。
本日の御言葉には、光という言葉がよく出ます。ヨハネ福音書12章35節以下に、イエス様の次の御言葉があります。「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」今年6月1日に天に召されたAさんが、洗礼を受ける決心をなさった御言葉です。「光の子となるために、光のあるうちに、光(キリスト)を信じなさい。」ここを読まれて、「早く洗礼を受けなきゃ」と思って、洗礼を受けられたそうです。光の子になられたのです。
「主に向かって、心からほめ歌をうたいなさい。」思うに、ほめ歌を歌う平安な心も、神様が与えて下さると思うのです。私の同級生のM牧師が7月に天に召されました。彼は息子さんに「死ぬことは怖くないの」と聞かれて「怖くないよ」と答えたそうです。もちろん時には「なぜ、自分がこの病気に」と思い、叫んだこともありました。」それでも最後まで礼拝に出席して賛美する信仰を、神が与えて下さったと思います。東久留米教会の近所の清瀬福音自由教会の岩井先生のメッセージ。
苦難の中でも神を賛美する信仰は、神が与えて下さる。そう信じて、共にイエス様を讃美する生き方を生涯続け、その後は天で讃美する者とされたいと思います。アーメン。