
2025-01-05 1:34:42()
「救い主は、ナザレの人イエス」2025年1月5日(日)降誕節第2主日礼拝
(ホセア書11:1~4) まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。
(マタイ福音書2:13~23) 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
(説教) 皆様、新年おめでとうございます。本年も、何卒よろしくお願い申し上げます。本日の最初の小見出しは「エジプトに避難する」です。最初の13節「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこにとどまっていなさい。へロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』」ヨセフは一言も言葉を発しません。しかしヨセフの信仰は、すばらしいです。ヨセフの信仰は、神様の御心に従順に従って、行動する信仰です。行動する信仰で、妻マリアと長男イエス様を守りました。マリアは処女妊娠なので、ヨセフはイエス様と血はつながっておらず、正確にはヨセフはイエス様の養父、育ての親になります。
へロデは、自分の王権を守るためなら、自分の息子をも殺す男です。ユダヤ人の真の王が生まれたと聞いて、全力で殺害にかかります。へロデは悪魔の化身と言えますから、これは悪魔がイエス様を抹殺しようとしているのです。悪魔は、エバを誘惑して罪を犯させ、神様に背かせました。それ以来、悪魔が人間たちを支配しています。その支配を打ち破るために、神の子が産まれました。それを敏感に察知した悪魔は、何としてもその赤ちゃんを殺そうと、すぐに行動を起こしました。しかし神様がヨセフ、マリア、イエス様(聖家族と呼ぶ)を守って下さいます。14~15節「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、へロデが死ぬまでそこにいた。それは、『私(神様)は、エジプトから私の子を呼び出した』と、主の預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」
当時のエジプトが、様々な人々が避難するシェルターの役割を果たしていました。イスラエル人(ユダヤ人)のコミュニティーもありました。エジプトに行けば、へロデの手も及ばない。聖家族は、エジプトという安全地帯で、神様に守られました。この悪魔の攻撃は、ヨハネの黙示録12章1節以下で別の表現で記されています。「一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。」これがマリアのようです。「女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。~そして、竜(悪魔)は子を産もうとしている女の前にたちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が1260日の間養われるように、神の用意された場所があった。」独得の表現で、マリアが神の子を産み、その子は悪魔に命を狙われるが、神の子もマリアも、悪魔の攻撃から神様によって守られることが記されています。現実には、聖家族は、着の身着のままでエジプトに避難しました。難民になったと言えます。今も世界に、多くの難民がおられます。イエス様とマリア、ヨセフは難民の苦労がよく分かるのです。聖家族は、難民の味方だと言えます。
聖家族は、へロデが死ぬまでエジプトに避難していました。数か月、もしくは数年間だったと思われます。「それは、『私はエジプトから私の子‘(神の子)を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが、実現するためであった。」これは、旧約聖書ホセア書14章1節の引用です。「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」神の民イスラエルへの、神様の愛の言葉です。エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を、神様は葦の海を割る劇的な奇跡を行ってまで、救い出されたのです。イスラエルの民もこの偉大な奇跡に、最初は感激して感謝していましたが、次第に真の神様への礼拝よりも、偶像(偽物の神)に魅かれていく罪を犯します。真の神様が悲しんで、こう言われます。「私が彼らを呼び出したのに、彼らは私から去って行き、バアル(偶像)に犠牲をささげ、偶像に香をたいた(礼拝した)。続く3~4節では、再び神の愛のメッセージが、イスラエルの民に語られます。「エフライム(イスラエル)の腕を支えて、歩くことを教えたのは、私だ。しかし、私が彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。私は人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛(重荷)を取り去り、身をかがめて食べさせた。」神様が、エジプトを脱出したイスラエルの民を、深い愛をもって養って下さったことが記されています。イスラエルの民がエジプトを脱出して40年間、荒れ野をさまよって旅した間、神様がマナや水を与えて、養って下さったのです。しかしイスラエルの民は、その神様の愛とご配慮に感謝するよりも、真の神様を捨てて、偶像礼拝(偽物の神を礼拝すること)に逸れて行ってしまうことが多かったのです。
さて、イエス様とマリア、ヨセフの家族も、ヘロデ王の魔の手を逃れて一旦、エジプトに避難されました。エジプトから、改めてイスラエルの地に戻ります。それは第二の出エジプトです。旧約聖書のイスラエルの民の出エジプトが第一の出エジプトです。それに対して、イエス様とマリア・ヨセフがエジプトからイスラエルに戻ることは、第二の出エジプトです。イエス様とマリア・ヨセフは、旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗を繰り返さないのです。旧約聖書のイスラエルの民の最大の罪は偶像礼拝と思いますが、イエス様とマリア・ヨセフは、真の神様のみを礼拝し、偶像礼拝の罪を決して犯しません。ある人はこれを「踏み直し」と呼びました。旧約聖書のイスラエルの民に似て、イエス様も出エジプトをなさいますが、その後の歩みはイスラエルの民と根本的に違うのです。旧約のイスラエルの民、最も基本のモーセの十戒を守ることができません。罪を犯してしまうのです。
しかしイエス様とマリア、ヨセフの聖家族は違います。この聖家族、特にイエス様は、旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗を、一つも繰り返しません。そうではなく、却って旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗を取り戻し、回復させ、「踏み直す」、「生き直す」、「やり直す」道を歩まれます。真の神様に100%従いきるのです。イエス様こそ、イスラエルの民の真の代表者、イエス様こそが真のイスラエル人なのです。他のイスラエル人は、真に不十分なイスラエル人です。旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗の歴史は、イエス様によって踏み直され、歩み直され、生き直され、神の民が本来生きるべき姿に回復されるのです。イエス様は、権力欲が強いへロデ王が死ぬまで、エジプトにおられました。「それは、『私はエジプトから私の子を呼び出した』と主が預言者(ホセア)を通して言われていたことが実現するためであった。」神様はエジプトからイスラエルの民を脱出させなさいましたが、このことはイエス様の第二の出エジプトによって完成されたと言えるのです。イスラエルの民も神の子たちと言えますが、彼らは不完全です。イエス様こそ全く罪のない完全な神の子です。
完全な神の子イエス様の最大の使命は、十字架にかかることです。イスラエルの民の全部の罪と、私たち一人一人の全部の罪を背負いきって十字架で死に、復活することです。そのためにクリスマスに生まれて下さいました。私たちが過去に犯した様々な罪も、私たちがこれからの人生で、心ならずも犯してしまう一つ一つの罪も、イエス様は十字架上で背負いきって下さいました。もちろん私たちは、自分の罪を毎日悔い改めます。しかし悔い改めても、悔い改めても、まだ私たちは少しずつ罪を犯してしまいます。しかしそんな私たちの過去の罪も、将来の罪も、すべてイエス様が十字架で背負いきって下さったと知る時に、私たちはほっとして平安を受けることができます。
次の小見出しは、「へロデ、子供を皆殺しにする」です。16節「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」当時のベツレヘムの人口は約1000人と推定され、この時殺された幼児は20人ほどではないかと推測する人もいます。それでも大きな悪です。イエス様とほぼ同時代を生きたユダヤ人のヨセフスという人が、この時代のイスラエルの歴史(イエス様の十字架後のローマとの戦争など)を『ユダヤ戦記』という本に書き残していますが、へロデのこの幼児虐殺は、記録していません。へロデは多くの残虐を行ったので、この事件は目立たなかったので、ヨセフスが書き残さなかったとの推測があります。しかし大きな悪であることは確かです。
悪魔は、イエス様を何としても抹殺したいのです。イエス様の一生は、悪魔との闘いと言えます。悪魔は最後に勝利したように見えました。イエス様が十字架で死なれたからです。しかし、イエス様の十字架の死は、悪魔への勝利だったのです。イエス様は十字架の苦難の中においてさえ、一度も悪魔の誘惑に負けて、罪を犯さなかったからです。イエス様は、生まれてから十字架の死に至るまで、ただの一度も罪を犯しませんでした。ぶつぶつ不平不満を言う罪さえ、一回も犯しませんでした。こうして悪魔に最終的に勝利したのです。イエス様は、十字架の死に至るまで、一度も悪魔の誘惑に負けて、罪を犯しませんでした。これによって悪魔に完全に勝利し、悪魔は敗北しました。三日目の復活によって、イエス様の勝利はさらに決定的に示されました。悪魔のイエス様への攻撃は、生まれたときから始まっていたのです。まず他の子ども達が犠牲になりました。
ヒットラーという悪魔の化身と戦ったドイツの牧師ボンヘッファーは、この子どもたちを「幼児殉教者」と呼んでいます。ボンヘッファー自身も、ユダヤ人を大勢死に追いやった悪魔的なヒットラー政権と戦い、39才で死刑にされました。ボンヘッファーが作詞した讃美歌が、讃美歌21の469番です。今日は歌いません。ボンヘッファーは、獄中にあり、ある意味悪魔に捕らえられたような状況にありましたが、なお神の守りを信じていました。死刑になりましたが、天国に入ることを確信していました。苦難の中で彼が作詞した469番の歌詞を見ると、1節はこうです。「善き力に、われ囲まれ、守りなぐさめられて、世の悩み、共に分かち、新しい日を望もう。」この歌詞は、旧約聖書・列王記下6章を連想させます。預言者エリシャの召し使いが朝早く起きてみると、軍馬や戦車をもった軍隊が町を包囲していました。召し使いが絶望的な声を上げると、神の預言者エリシャは、「恐れてはならない。私たちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、神様に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにして下さい。」神様が召し使いの目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。」ボンヘッファーも、ヒットラー政権の力によって獄中に閉じ込められていましたが、もっと強い神の力によって守られていると信じ、自分を励ましたでしょう。469番の3節はこうです。「たとい主から 差し出される杯は苦くても、恐れず、感謝を込めて、愛する手から受けよう。」5節「善き力に、守られつつ、来たるべき時を待とう。夜も朝も、いつも神はわれらと共にいます。」
いつの時代にも、似たことが起こります。今はウクライナでも子どもたちも死に、ガザでも多くの子どもたちが死んでいる現実を、思わないわけにはいきません。子どもたちを殺すことが、神様の御心に適うとはとても思えません。少しでも早く戦争をやめさせるように、私たちも努力しなければいけません。私は昨年3月に韓国に行きましたが、何度かお話した通り、提岩里(チェアムリ)教会に行きました。1919年4月15日に事件が起きました。当時の朝鮮半島は、日本の支配に抵抗する三一独立運動が広まっていました。提岩里(チェアムリ)教会のメンバーも加わったいたので、日本の官憲が教会を襲撃し、23名ないし29名を殺害しました。赤ちゃんも含まれていたそうです。私はそこに立って、日本と韓国の平和をお祈りして参りました。太平洋戦争後、多くの日本のクリスチャンが提岩里(チェアムリ)教会を訪問し、謝罪と祈りを重ねてきました。最近は忘れられかかっているので、私は忘れてはいけないと思って、初めて訪問できて、よかったと思います。あのような罪深いことは、よく悔い改めて、二度と繰り返さない決心が必要です。
18節.「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」これはエレミヤ書31章15節の引用ですが、このエレミヤ書31章が語ることは、南ユダ王国が、神様に背いたために滅亡し、紀元前586年に人々がバビロンへ連行されて行く、それをイスラエルの偉大な先祖ヤコブの妻の一人ラケル、イスラエルの母とも言うべきラケルが草葉の陰で(お墓で)泣き悲しんでいるということです。この御言葉では、ラケルの墓はラマにあったと感じられますが、実際にラケルが葬られた場所はベツレヘムへ向かう道のそばだったと、創世記35章19節にあります。それで幼児虐殺とこのエレミヤ書31章15節が結びつきます。イスラエルの母とも言うべきラケルが、殺された幼児たちのために泣き悲しんでいることになります。
19節以下。「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。』そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」
「彼はナザレの人と呼ばれる」という、そのものずばりの御言葉は、旧約聖書にありません。いくつかの候補はあり、これまでもイザヤ書11章1~2節、士師記13章5節をご紹介致しました。本日は、士師記13章5節を取り上げます。そこには、サムソンという若者について、「その子は胎内にいるときから、ナジル(ヘブライ語でナーズィール)人として神に献げられている」と書かれています。ナーズィールとナザレの音が似ています。ナーズィールの「ズィ」もナザレの「ザ」もzの音です。ナジル人については民数記6章5節にも、「主に献身している期間が満ちる日まで、その人は聖なる者であり」と書かれています。マタイ福音書は、「彼(イエス様)はナザレの人と呼ばれる」と宣言します。それは「イエス様こそ、全生涯を父なる神様に献げきった真のナジル人、真のイスラエル人、真の救い主」との強いメッセージを私たちに語っていると思います。このイエス様を主とあがめ、イエス様に従う2025年を生きて参りましょう。アーメン。
2025-01-01 1:13:04(水)
「将来と希望を与える神の計画」2025年1月1日(水)元日礼拝
(エレミヤ書29章4~14節)
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。彼らは、わたしの名を使って偽りの預言をしているからである。わたしは、彼らを遣わしてはいない、と主は言われる。主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。
(説教) 皆様、新年おめでとうございます。本年も、何卒よろしくお願い申し上げます。昨年は、お一人の教会員を天にお送り致しました。親しい方を天に送られた方もおられます。私は友人を天に送りました。そのお一人お一人に、イエス様の深い御慰めを、切にお祈り申し上げます。
本日与えられたエレミヤ書は、バビロン捕囚の苦難の中のイスラエルの民を励ます御言葉です。バビロン捕囚の開始には、数回の段階があったと思われますが、決定的なバビロン捕囚は、紀元前586年にバビロン軍の攻撃でエルサレムが陥落し、神殿が破壊された時に起こったと言えます。南ユダ王国が滅び、多くの人々が、バビロンに連れて行かれました。それはユダ王国の人々が、真の神様を捨て去る偶像礼拝の罪等を繰り返し、悔い改めなかったために、とうとう行われた神様の審判でした。その後、バビロン帝国が滅び、ペルシャの王キュロスがバビロンに入ったのが紀元539年。キュロスの勅令により、ユダの人々は、エルサレムに帰ることを許されました。この間47年間、ほぼ半世紀です。この期間は、ユダの民(イスラエル人)に与えられた悔い改めの期間であったと言えます。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」バビロン捕囚は、あっという間には終わらないというのです。でもその間にも、神様の恵みはあるのですね。「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。」バビロンの地にあっても、神の民が増えています。そして神様は言われます。「あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」こう言われているので、私たちは東久留米市、西東京市、練馬区、新座市、東村山市のために、平安を祈る必要があります。さらに、日本、韓国、アジア、世界のために平安を祈る必要があります。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。彼らは、わたしの名を使って偽りの預言をしているからである。わたしは、彼らを遣わしてはいない、と主は言われる。」偽預言者たちは、「バビロン捕囚はすぐ終わる」などと安易な預言をしていたのです。それは耳触りのよい言葉でしたが、神様の新のメッセージではありませんでした。真の預言者エレミヤは、「バビロン捕囚は長期化するので、バビロンに腰を据えて、人口を増やすように」とメッセージしました。どちらが評判よかったかと言うと、偽預言者の方が人々の評判がよかったのです。しかしそれは安易なメッセージであり、神様の真のメッセージではありませんでした。エレミヤは、捕囚はすぐには終わらないと語ったので、ユダの人々に嫌われました。非国民扱いされたと言えます。しかしエレミヤは、神様の真のメッセージを語っていたのです。私たちも、どのメッセージが神様の真のメッセージか、よく吟味する必要があります。新約聖書のテモテへの手紙(二)4章3節を、心に刻む必要があります。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」私たちも、そうならないように、十二分に気をつける必要があります。
ここから先は、慰めと希望の御言葉です。10節「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」七は完全を表します。実際のバビロン捕囚は、スタートを先ほどのように紀元前586年とすれば、約47年間だったことになり、七十年より短かったことになります。それは神様の憐れみだと受けとめることができます。11節が、希望のメッセージとして愛されている御言葉です。「私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」12~14節「そのとき、あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く。私を尋ね求めるならば見出し、心を尽くして私を求めるなら、私に出会うであろう、と主は言われる。」 「心を尽くして私を求めるなら、私に出会う」神に出会うと約束されています。神と出会うことが、真の希望だ、ということと思います。それは間違いないことです。真の神と出会うことが、真の希望であり、真の救いなのです。そうでなければ、信仰する理由もないと言えます。
半世紀近い裁きと悔い改めの期間が終わり、神様の希望の時がきます。「私は捕囚の民を帰らせる、私はあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」神がユダの人々がイスラエルの地に帰って、国を再建することを許されます。
今の世界は、希望を語りにくい状況にあります。ロシアのウクライナ侵攻から、丸3年が近づいています。一向に終わる気配が見えません。1年少し前に始まったハマスとイスラエルの戦争、ガザへの攻撃も続いています。今日で能登半島地震から丸1年です。秋には大雨もあり、私は能登へ行ったことがありませんが、能登半島の方々の大いなるご苦労は続いています。先日のお隣の韓国の飛行機の大きな事故。韓国の方々は悲しみの中で年を越されました。簡単に希望を語れない状況です。
このような中であえて、希望の種を見つけるならば、先日ニュースか何かで、能登の女子高校生の声を聞きました。看護師になる学校に行って、その後、能登に帰って来て、能登の地域に貢献したい。こういう人が出て来るなら、それが希望だと感じます。東日本大震災のときにも、このような人々はおられました。それまでは地元を出ることを考えていたが、震災を経て考えが変わり、地元で貢献したいと思うようになった。このような新しい芽はすばらしいですね。
ローマの信徒への手紙4章18節には、このような御言葉があります。「彼(旧約聖書に登場する信仰の父アブラハム)は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」20~21節にはこうあります。「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」なるほどアブラハムは、希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じた、ことが分かります。今から約1000年前のイタリアに生きたクリスチャン、アッシジのフランチェスコは、ハンセン氏病の人々を抱きしめて、「兄弟たち、希望をもちましょう。希望がなさそうなときにも希望をもつ。これが本当の希望です」と言ったそうです。確かに、希望がよく見える時に希望することは簡単です。問題は、希望が見えない時に、なお希望を抱く。これが真の信仰なのでしょう。昔から偉大な信仰者たちは、そのような信仰に生きたのだと思います。希望が見えない時にこそ、希望を抱く。イエス・キリストも、希望が見えない状態で、なおも父なる神様を信頼なさったのです。十字架という完全な暗黒の中で、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と信頼の言葉を語って、息を引き取られました。そして三日目に復活の勝利を与えられました。
「私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」ここで希望と訳された言葉には、「縄、きずな」の意味もあるそうです。それはつながりと言い換えることもできます。神様との絆、神様とのつながりこそ希望です。真の神様につながって祈ることに、真の希望があると言えるでしょう。イエス様の使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(二)1章8節以下で、こう述べています。「兄弟たち、アジア州で私たちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。私たちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。私たちとしては、死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させて下さる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救って下さったし、また救って下さることでしょう。これからも救って下さるに違いないと、私たちは神に希望をかけています。あなた方も祈りで援助して下さい。」
昨年11月半ばに、妻と共にJR常磐線の特急ひたちに乗って、福島県双葉郡双葉町に行きました。2011年3月11日の東日本大震災、大津波によって引き起こされた福島第一原子力発電所の近くです。原子力災害伝承館を見学しました。双葉町は帰還困難地区指定が、次第に解除されているようで、双葉駅も再開されていますが、人はまばらです。2年ほど前の新聞で、震災時の首相だった菅直人氏が、このような意味のことを述べていました。「あの原発事故は、もっと最悪の結果が予測されたのに、そこまでにならなかったのは、原発にとどまった現場の人々の努力と共に、神のご加護があったとしか言いようがない。」菅直人氏はクリスチャンではないと思います。クリスチャンでない菅直人氏が、「神のご加護があったとしか言いようがない」と語っていることが印象に残りました。私たちもあの原発事故のときには、放射能に恐怖を抱き、必死に祈りました。神のご加護があって、もっと最悪の展開を免れたのだと思います。ですから「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」になってはならず、原発の危険性をこれからさらに意識していく必要があります。
私の知人の牧師が、原発事故で閉鎖された日本キリスト教団の浪江伝道所と小高伝道所の礼拝を再開されました。他の牧師が行こうとしない所に赴任なさった思いきった行動に、尊敬の念を抱きます。私はその日、原子力災害伝承館を見学した後、浪江伝道所に行きました。その日、牧師が不在であることは知った上で行き、外から伝道所を拝見し、お祈り致しました。小高伝道所に行く時間はありませんでした。その牧師に先日聞いた話では、小高伝道所で、地域の人々とつながりを作る中で、クリスマス前から、地域の人を通して子どもたちが来て、ページェントの練習をし、クリスマス会でページェントを行ったと聞いて、驚きました。それまでキリスト教に全く触れたことのない子どもたちが練習して、ページェントを行ったと聞いて、驚きました。大変行動的な牧師なので実現した面もあると思いますが、「神様のみわざです」と語っておられました。完全に閉鎖されていた伝道所が、再開3年目ほどでそのようなことが起こったとは驚きであり、希望です。
明るくないニュースが多い昨今です。国内では、強盗事件が起こり、詐欺事件が多く、闇バイトで犯罪に手を染める若者もいます。悪魔が働いています。クリスチャンの出番です。神への祈りによって希望を受け、神の力に頼って悪魔に打ち勝つ信仰で、新しい2025年へと踏み出しましょう。アーメン。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。彼らは、わたしの名を使って偽りの預言をしているからである。わたしは、彼らを遣わしてはいない、と主は言われる。主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。
(説教) 皆様、新年おめでとうございます。本年も、何卒よろしくお願い申し上げます。昨年は、お一人の教会員を天にお送り致しました。親しい方を天に送られた方もおられます。私は友人を天に送りました。そのお一人お一人に、イエス様の深い御慰めを、切にお祈り申し上げます。
本日与えられたエレミヤ書は、バビロン捕囚の苦難の中のイスラエルの民を励ます御言葉です。バビロン捕囚の開始には、数回の段階があったと思われますが、決定的なバビロン捕囚は、紀元前586年にバビロン軍の攻撃でエルサレムが陥落し、神殿が破壊された時に起こったと言えます。南ユダ王国が滅び、多くの人々が、バビロンに連れて行かれました。それはユダ王国の人々が、真の神様を捨て去る偶像礼拝の罪等を繰り返し、悔い改めなかったために、とうとう行われた神様の審判でした。その後、バビロン帝国が滅び、ペルシャの王キュロスがバビロンに入ったのが紀元539年。キュロスの勅令により、ユダの人々は、エルサレムに帰ることを許されました。この間47年間、ほぼ半世紀です。この期間は、ユダの民(イスラエル人)に与えられた悔い改めの期間であったと言えます。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」バビロン捕囚は、あっという間には終わらないというのです。でもその間にも、神様の恵みはあるのですね。「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。」バビロンの地にあっても、神の民が増えています。そして神様は言われます。「あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」こう言われているので、私たちは東久留米市、西東京市、練馬区、新座市、東村山市のために、平安を祈る必要があります。さらに、日本、韓国、アジア、世界のために平安を祈る必要があります。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。彼らは、わたしの名を使って偽りの預言をしているからである。わたしは、彼らを遣わしてはいない、と主は言われる。」偽預言者たちは、「バビロン捕囚はすぐ終わる」などと安易な預言をしていたのです。それは耳触りのよい言葉でしたが、神様の新のメッセージではありませんでした。真の預言者エレミヤは、「バビロン捕囚は長期化するので、バビロンに腰を据えて、人口を増やすように」とメッセージしました。どちらが評判よかったかと言うと、偽預言者の方が人々の評判がよかったのです。しかしそれは安易なメッセージであり、神様の真のメッセージではありませんでした。エレミヤは、捕囚はすぐには終わらないと語ったので、ユダの人々に嫌われました。非国民扱いされたと言えます。しかしエレミヤは、神様の真のメッセージを語っていたのです。私たちも、どのメッセージが神様の真のメッセージか、よく吟味する必要があります。新約聖書のテモテへの手紙(二)4章3節を、心に刻む必要があります。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」私たちも、そうならないように、十二分に気をつける必要があります。
ここから先は、慰めと希望の御言葉です。10節「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」七は完全を表します。実際のバビロン捕囚は、スタートを先ほどのように紀元前586年とすれば、約47年間だったことになり、七十年より短かったことになります。それは神様の憐れみだと受けとめることができます。11節が、希望のメッセージとして愛されている御言葉です。「私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」12~14節「そのとき、あなたたちが私を呼び、来て私に祈り求めるなら、私は聞く。私を尋ね求めるならば見出し、心を尽くして私を求めるなら、私に出会うであろう、と主は言われる。」 「心を尽くして私を求めるなら、私に出会う」神に出会うと約束されています。神と出会うことが、真の希望だ、ということと思います。それは間違いないことです。真の神と出会うことが、真の希望であり、真の救いなのです。そうでなければ、信仰する理由もないと言えます。
半世紀近い裁きと悔い改めの期間が終わり、神様の希望の時がきます。「私は捕囚の民を帰らせる、私はあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」神がユダの人々がイスラエルの地に帰って、国を再建することを許されます。
今の世界は、希望を語りにくい状況にあります。ロシアのウクライナ侵攻から、丸3年が近づいています。一向に終わる気配が見えません。1年少し前に始まったハマスとイスラエルの戦争、ガザへの攻撃も続いています。今日で能登半島地震から丸1年です。秋には大雨もあり、私は能登へ行ったことがありませんが、能登半島の方々の大いなるご苦労は続いています。先日のお隣の韓国の飛行機の大きな事故。韓国の方々は悲しみの中で年を越されました。簡単に希望を語れない状況です。
このような中であえて、希望の種を見つけるならば、先日ニュースか何かで、能登の女子高校生の声を聞きました。看護師になる学校に行って、その後、能登に帰って来て、能登の地域に貢献したい。こういう人が出て来るなら、それが希望だと感じます。東日本大震災のときにも、このような人々はおられました。それまでは地元を出ることを考えていたが、震災を経て考えが変わり、地元で貢献したいと思うようになった。このような新しい芽はすばらしいですね。
ローマの信徒への手紙4章18節には、このような御言葉があります。「彼(旧約聖書に登場する信仰の父アブラハム)は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」20~21節にはこうあります。「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」なるほどアブラハムは、希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じた、ことが分かります。今から約1000年前のイタリアに生きたクリスチャン、アッシジのフランチェスコは、ハンセン氏病の人々を抱きしめて、「兄弟たち、希望をもちましょう。希望がなさそうなときにも希望をもつ。これが本当の希望です」と言ったそうです。確かに、希望がよく見える時に希望することは簡単です。問題は、希望が見えない時に、なお希望を抱く。これが真の信仰なのでしょう。昔から偉大な信仰者たちは、そのような信仰に生きたのだと思います。希望が見えない時にこそ、希望を抱く。イエス・キリストも、希望が見えない状態で、なおも父なる神様を信頼なさったのです。十字架という完全な暗黒の中で、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と信頼の言葉を語って、息を引き取られました。そして三日目に復活の勝利を与えられました。
「私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」ここで希望と訳された言葉には、「縄、きずな」の意味もあるそうです。それはつながりと言い換えることもできます。神様との絆、神様とのつながりこそ希望です。真の神様につながって祈ることに、真の希望があると言えるでしょう。イエス様の使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(二)1章8節以下で、こう述べています。「兄弟たち、アジア州で私たちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。私たちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。私たちとしては、死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させて下さる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救って下さったし、また救って下さることでしょう。これからも救って下さるに違いないと、私たちは神に希望をかけています。あなた方も祈りで援助して下さい。」
昨年11月半ばに、妻と共にJR常磐線の特急ひたちに乗って、福島県双葉郡双葉町に行きました。2011年3月11日の東日本大震災、大津波によって引き起こされた福島第一原子力発電所の近くです。原子力災害伝承館を見学しました。双葉町は帰還困難地区指定が、次第に解除されているようで、双葉駅も再開されていますが、人はまばらです。2年ほど前の新聞で、震災時の首相だった菅直人氏が、このような意味のことを述べていました。「あの原発事故は、もっと最悪の結果が予測されたのに、そこまでにならなかったのは、原発にとどまった現場の人々の努力と共に、神のご加護があったとしか言いようがない。」菅直人氏はクリスチャンではないと思います。クリスチャンでない菅直人氏が、「神のご加護があったとしか言いようがない」と語っていることが印象に残りました。私たちもあの原発事故のときには、放射能に恐怖を抱き、必死に祈りました。神のご加護があって、もっと最悪の展開を免れたのだと思います。ですから「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」になってはならず、原発の危険性をこれからさらに意識していく必要があります。
私の知人の牧師が、原発事故で閉鎖された日本キリスト教団の浪江伝道所と小高伝道所の礼拝を再開されました。他の牧師が行こうとしない所に赴任なさった思いきった行動に、尊敬の念を抱きます。私はその日、原子力災害伝承館を見学した後、浪江伝道所に行きました。その日、牧師が不在であることは知った上で行き、外から伝道所を拝見し、お祈り致しました。小高伝道所に行く時間はありませんでした。その牧師に先日聞いた話では、小高伝道所で、地域の人々とつながりを作る中で、クリスマス前から、地域の人を通して子どもたちが来て、ページェントの練習をし、クリスマス会でページェントを行ったと聞いて、驚きました。それまでキリスト教に全く触れたことのない子どもたちが練習して、ページェントを行ったと聞いて、驚きました。大変行動的な牧師なので実現した面もあると思いますが、「神様のみわざです」と語っておられました。完全に閉鎖されていた伝道所が、再開3年目ほどでそのようなことが起こったとは驚きであり、希望です。
明るくないニュースが多い昨今です。国内では、強盗事件が起こり、詐欺事件が多く、闇バイトで犯罪に手を染める若者もいます。悪魔が働いています。クリスチャンの出番です。神への祈りによって希望を受け、神の力に頼って悪魔に打ち勝つ信仰で、新しい2025年へと踏み出しましょう。アーメン。
2024-12-29 0:04:32()
説教「わたしは神の救いを見た」2024年12月29日(日)降誕節第1主日礼拝
(ヨブ記19:23~27)「どうか/わたしの言葉が書き留められるように/碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され/いつまでも残るように。わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」
(ルカ福音書2:22~40) さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
(説教) 本日の礼拝は、降誕節第1主日の礼拝です。ご存じのように、教会のカレンダーでは、アドヴェント(待降節)第1主日から、新しい年が始まります。それは今年は12月1日(日)でした。来週1月5日(日)は、降誕節第2主日です。クリスマスの続きです。世間ではクリスマスが終わるとすぐお正月、初詣となる人が多いです。クリスチャンはそうではなく、クリスマスが終わったらイエス様を忘れるのではなく、ますますイエス様を慕って生きてゆきます。降誕節の前のアドヴェントは、「来る」「到来」の意味ですね。アドヴェントは、イエス様が約2000年前に赤ちゃんとして来られたことを喜ぶ時であり、将来必ずもう一度イエス・キリストが地上に来られて、神の国を完成へ導いて下さることを確信して待ち望むときでもあります。最近は温暖化で春と秋が短いと感じますが、日本人は長年、四季の変化を深く感じながら、生きてきました。それで春夏秋冬が終われば次の春夏秋冬が来て、その回転が永久に続くという感性をもっていたと思います。しかし聖書の教えはそうではなく、歴史には神による天地創造というスタートがあり、神の国の到来というゴールがあるという教えです。春夏秋冬のサイクルが永久に続くことはないのですね。イエス・キリストがもう一度来られる再臨がある。千年先かもしれないが、今日かもしれないという、よき緊張感をもって生きてゆきたいものです。
本日の新約聖書は、ルカによる福音書2章22~40節。説教題は、「わたしは神の救いを見た」です。小見出しは「神殿で献げられる」です。同じ個所で、今年の8月18日(日)にも説教しています。
最初の22節「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである。また、主の律法で言われている通りに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」
旧約聖書のレビ記12章2節を見ると、「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。~産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」と書かれています。旧約聖書の時代は、こうでした。今から見ればあからさまな女性差別です。新約聖書の時代に入り、イエス様の十字架と復活を経て、それはなくなりました。しかしイエス様が誕生した時はまだこの規定が生きていたので、マリアとヨセフはそれに従い、清めの三十三日間が過ぎてから、神殿に行きました。長男イエス様を、神様に献げるためです。それは旧約聖書の出エジプト記13章2節に、こう書いてあるからです。「すべての初子(長子)を聖別してわたし(神)に献げよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたし(神)のものである。」13節には、「あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて贖わねばならない。」
長男は、神様に献げなければならないのです。本当にそのようにすると、旧約聖書サムエル記に登場するサムエルのように、イエス様を神殿に置いて帰り、イエス様は神殿で神様にお仕えする少年になります。するとイスラエル普通の家庭では、家業を継ぐ長男がいなくなり、困ります。それで贖うことが許されていました。具体的には、長男の代わりに、いけにえの動物やお金を献げて、長男を家に連れて帰ることが許されていました。身代わりの動物は基本は雄羊や小羊でしたが、レビ記12章8節には、「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽をを贖罪の献げ物とする」と書かれており、マリアとヨセフはこのようにしたと思われます。ですからマリアとヨセフは、貧しい夫婦だったことが分かります。しかし信仰はとても深い夫婦でした。
25~26節「そのとき(直訳は見よ)、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシア(救い主)に会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」イスラエルの信仰深い長老という印象ですね。シメオンは、エルサレムが慰められるのを、待ち望んでいました。当時イスラエルは、ローマ帝国の支配下にありましたから、シメオンもイスラエルがローマ帝国から解放されることを願っていたでしょうが、しかし真の救い主がもたらす救い主は、政治的な解放ではなくて、もっと深い意味での解放であることに気づいていたと思うのです。
慰めという言葉は、クリスマスシーズンにぴったりの言葉と思います。ヘンデルという作曲家が作曲した『メサイア(救い主)』では、旧約聖書イザヤ書40章1~2節が歌われると思います。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。」これはイエス様誕生より500年以上前の、イスラエルの民が味わった半世紀に及んだバビロン捕囚の苦難から、神様が遂に解放して下さる時が来た、神様の裁きの時が終わり、神様の慰めと癒しの時が来た、というメッセージです。
ルカに戻り27節以下。「シメオンが霊(聖霊)に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせて下さいます。わたしはこの目(両目)であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。』」シメオンが何歳か、書かれていないので全く分かりません。しかしこの後登場するアンナが84才であることと合わせると、どうしても老人のイメージです。シメオンとアンナが旧約聖書の時代を象徴し、これから新しい時代を象徴する赤ちゃんイエス様、マリアとヨセフに、神様の使命がバトンタッチされてゆく場面ですね。シメオンは何十年もの間、イスラエルの民が慰められるのを待ち望み、救い主のおいでを待ち望んいたのです。シメオンは、聖霊によって、この赤ちゃんがその救い主にほかならないことを悟りました。それで「わたしはこの目であなた(神)の救いを見たと」喜びの告白をしました。もうこれでよい。私の人生の目的は達せられた。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに(平和に)去らせて下さいます。」すっかり安心して天国に行くことができる。この目で、神の救い、神の救い主を見て、この腕に抱くことさえできたのだから。苦労しながら生きて来た甲斐があった。シメオンの両眼には嬉し涙が光っていたことでしょう。
シメオンの言葉を聞いて、ヨハネの黙示録14章13節を連想します。天からこう告げる声が聞こえたと、著者のヨハネが言うのです。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。」霊(聖霊)もこうおっしゃると。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」シメオンも、この安らぎの中で、天に召されていったことでしょう。この平安は、私たちにも与えられています。礼拝の最後の祝祷で、私は旧約聖書の民数記6章と、新約聖書のコリントの信徒への手紙(二)13章13節を読みますが、民数記6章24~26節は、こうです。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」そして私たちは聖霊による平安に満たされます。シメオンにもこの平安が与えられましたし、シメオンはこの平安の中で、イエス様とマリア、ヨセフの聖家族に、神様の祝福を祈りました。
シメオンは言いました。「わたしはこの目であなたの救いを見た。」もちろん赤ちゃんイエス様を見て、「この方こそイスラエルの真の救い、異邦人の真の救い、全世界の真の救い。」先週の礼拝で、旧約聖書のヨブ記の話を致しましたが、今週もヨブ記を選んでいます。19章23~27節です。ヨブの強い主張が記されています。「どうか、わたしの言葉が書き留められるように、碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように。わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損われようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」
先週もお話致しましたが、ヨブには、自分はどこまでも神様に従って罪を避け、誰よりも清く正しく、隣人を愛して生きて来た強い自負がありました。非常に立派な人格者だったのです。その自分に突然、予想もしなかった多くの苦難が遅いかかりました。その一方で、神様に従わずに生きている人々が、楽しく繁栄して生きている現実があると、ヨブは抗議しています。「神様、これでは筋が通らないではありませんか。神様、私は全く納得できません」というのが、ヨブの主張です。ヨブにとっては、自分の主張の正しさを認めてくれる方、ヨブのために弁護して下さる方が、どうしても必要です。そしてヨブは、将来そのような方が与えられることを切望し、その方が必ず来られるとの予感を抱いています。
イエス・キリストだけが、ヨブを納得させられる方です。イエス様はヨブ以上に徹底的に父なる神様に従い、しかも十字架の死というヨブが受けた以上の苦難を受け、その不条理・不合理を忍耐しきって、十字架の上でも父なる神様に一言も文句を言う罪をさえ犯さなかった。ヨブは、そのイエス様を知れば、イエス様の前に頭を垂れて、本心から告白するに違いありません。「イエス様、あなたは私よりはるかにすばらしい方です。あなたの信仰の深さには、私は到底かないません。あなたを前にしては、私は神様に抗議したことを真に恥ずかしく思います。今、この目であなたを仰ぎ見ます。私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」
本日のヨブ記19章では、ヨブは真の救い主イエス様を全力で待ち望んでいる段階です。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれる(復活される)であろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神(あるいはその救い主)を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ(全身全霊で救い主を待ち焦がれ)、はらわたは絶え入る。」
私には、シメオンの姿とヨブの姿が重なって見えてきます。シメオンがどのような人生を送ったか、全く分かりません。でももしかすると、シメオンもヨブのようにいろいろな苦難を味わったかもしれません。自分の苦難、仲間のイスラエル人たちの苦難。その中で、神様がイスラエルを慰めて下さることを待ち望んでいました。シメオンもヨブのように、様々な不条理(筋が通らないこと、悪が勝利しているように見えることが多いことなど)に悩んだかもしれません。しかし、ヨブよりも誰よりも厳しい不条理を忍耐し通したイエス様、ヨブの罪のためにもシメオンの罪のためにも十字架を背負って下さるイエス様の誕生を見て、シメオンは感謝と喜びの涙に暮れたと思います。もしヨブがそこにいれば、ヨブもとうとう長年、腹の底から待ち焦がれた救い主が誕生されたことを見て、救い主を抱いて、感動と喜びの涙を流したに違いないと思います。「主よ、今こそあなたは、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
33~35節「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせるためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。』」この赤ちゃんの人生が、簡単ではないことが語られます。「イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせるためにと定められ。」イエス様を救い主と信じることができないで、拒否してつまずいて倒れる人、逆にイエス様を救い主と素直に信じて、救われていく人に、分かれるというのです。「反対を受けるしるしとして、定められています。」イエス様の福音伝道に反対する人々も出るのです。たとえば、イエス様が安息日に病気を癒したことに、強く反対する人々が現れます。
「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」マリアが、イエス様の十字架を見届けることを予告しています。それは剣で心を刺し貫かれるような痛みだというのです。神様がマリアを支えて下さいます。神様の支えがあるので、マリアは辛うじて耐えることができます。神様の支えがなければ、耐えられないに違いありません。「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」多くの人の心にある、神様に背く思いがあらわにされます。
36節以下、アンナという女預言者。夫に死に別れ、84才になっていた。「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。」アンナは、神に希望を置き、夜も昼も神に仕えていました。」ある意味、私たちの理想の老後の姿です。英隆一朗というカトリックの司祭の本に、とても深いことが書いてありました。「そのようにして昼も夜も神に仕えることによって、はっきりとした使命が出て来る。アンナの最後の使命は、救いを待ち望んでいる人々皆に、幼子イエスについて話をすることである。マリアとヨセフが幼子イエスを奉献するために神殿に来たとき、この貧しいカップルと赤ん坊に注目した人はほとんどいなかった。気がついたのは、シメオンとアンナだけであった。そこに老人の知恵がある。どこに(真の)救いがあり、どこに(真の)希望があるかを知っていて、それを若い人に告げ知らせる役割である。日々の生活が神に仕えることにつながり、若い世代に何らかの貢献をすることができること、それが女預言者アンナの示す姿である。この社会でも、「救いを待ち望んでいる人々」は多い。多くの人々は悩み苦しんでいる。その人々に、祈りと断食によってもたらされる(真の)救いの言葉を語ることができれば、何とすばらしい貢献だろうか。私たち信仰者は、次の世代の信仰に責任を負っているのは事実である。」シメオンとアンナも、私たちの目指すべき姿です。アーメン。
(ルカ福音書2:22~40) さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
(説教) 本日の礼拝は、降誕節第1主日の礼拝です。ご存じのように、教会のカレンダーでは、アドヴェント(待降節)第1主日から、新しい年が始まります。それは今年は12月1日(日)でした。来週1月5日(日)は、降誕節第2主日です。クリスマスの続きです。世間ではクリスマスが終わるとすぐお正月、初詣となる人が多いです。クリスチャンはそうではなく、クリスマスが終わったらイエス様を忘れるのではなく、ますますイエス様を慕って生きてゆきます。降誕節の前のアドヴェントは、「来る」「到来」の意味ですね。アドヴェントは、イエス様が約2000年前に赤ちゃんとして来られたことを喜ぶ時であり、将来必ずもう一度イエス・キリストが地上に来られて、神の国を完成へ導いて下さることを確信して待ち望むときでもあります。最近は温暖化で春と秋が短いと感じますが、日本人は長年、四季の変化を深く感じながら、生きてきました。それで春夏秋冬が終われば次の春夏秋冬が来て、その回転が永久に続くという感性をもっていたと思います。しかし聖書の教えはそうではなく、歴史には神による天地創造というスタートがあり、神の国の到来というゴールがあるという教えです。春夏秋冬のサイクルが永久に続くことはないのですね。イエス・キリストがもう一度来られる再臨がある。千年先かもしれないが、今日かもしれないという、よき緊張感をもって生きてゆきたいものです。
本日の新約聖書は、ルカによる福音書2章22~40節。説教題は、「わたしは神の救いを見た」です。小見出しは「神殿で献げられる」です。同じ個所で、今年の8月18日(日)にも説教しています。
最初の22節「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである。また、主の律法で言われている通りに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」
旧約聖書のレビ記12章2節を見ると、「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。~産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」と書かれています。旧約聖書の時代は、こうでした。今から見ればあからさまな女性差別です。新約聖書の時代に入り、イエス様の十字架と復活を経て、それはなくなりました。しかしイエス様が誕生した時はまだこの規定が生きていたので、マリアとヨセフはそれに従い、清めの三十三日間が過ぎてから、神殿に行きました。長男イエス様を、神様に献げるためです。それは旧約聖書の出エジプト記13章2節に、こう書いてあるからです。「すべての初子(長子)を聖別してわたし(神)に献げよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、わたし(神)のものである。」13節には、「あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて贖わねばならない。」
長男は、神様に献げなければならないのです。本当にそのようにすると、旧約聖書サムエル記に登場するサムエルのように、イエス様を神殿に置いて帰り、イエス様は神殿で神様にお仕えする少年になります。するとイスラエル普通の家庭では、家業を継ぐ長男がいなくなり、困ります。それで贖うことが許されていました。具体的には、長男の代わりに、いけにえの動物やお金を献げて、長男を家に連れて帰ることが許されていました。身代わりの動物は基本は雄羊や小羊でしたが、レビ記12章8節には、「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽をを贖罪の献げ物とする」と書かれており、マリアとヨセフはこのようにしたと思われます。ですからマリアとヨセフは、貧しい夫婦だったことが分かります。しかし信仰はとても深い夫婦でした。
25~26節「そのとき(直訳は見よ)、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシア(救い主)に会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」イスラエルの信仰深い長老という印象ですね。シメオンは、エルサレムが慰められるのを、待ち望んでいました。当時イスラエルは、ローマ帝国の支配下にありましたから、シメオンもイスラエルがローマ帝国から解放されることを願っていたでしょうが、しかし真の救い主がもたらす救い主は、政治的な解放ではなくて、もっと深い意味での解放であることに気づいていたと思うのです。
慰めという言葉は、クリスマスシーズンにぴったりの言葉と思います。ヘンデルという作曲家が作曲した『メサイア(救い主)』では、旧約聖書イザヤ書40章1~2節が歌われると思います。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。」これはイエス様誕生より500年以上前の、イスラエルの民が味わった半世紀に及んだバビロン捕囚の苦難から、神様が遂に解放して下さる時が来た、神様の裁きの時が終わり、神様の慰めと癒しの時が来た、というメッセージです。
ルカに戻り27節以下。「シメオンが霊(聖霊)に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせて下さいます。わたしはこの目(両目)であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。』」シメオンが何歳か、書かれていないので全く分かりません。しかしこの後登場するアンナが84才であることと合わせると、どうしても老人のイメージです。シメオンとアンナが旧約聖書の時代を象徴し、これから新しい時代を象徴する赤ちゃんイエス様、マリアとヨセフに、神様の使命がバトンタッチされてゆく場面ですね。シメオンは何十年もの間、イスラエルの民が慰められるのを待ち望み、救い主のおいでを待ち望んいたのです。シメオンは、聖霊によって、この赤ちゃんがその救い主にほかならないことを悟りました。それで「わたしはこの目であなた(神)の救いを見たと」喜びの告白をしました。もうこれでよい。私の人生の目的は達せられた。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに(平和に)去らせて下さいます。」すっかり安心して天国に行くことができる。この目で、神の救い、神の救い主を見て、この腕に抱くことさえできたのだから。苦労しながら生きて来た甲斐があった。シメオンの両眼には嬉し涙が光っていたことでしょう。
シメオンの言葉を聞いて、ヨハネの黙示録14章13節を連想します。天からこう告げる声が聞こえたと、著者のヨハネが言うのです。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。」霊(聖霊)もこうおっしゃると。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」シメオンも、この安らぎの中で、天に召されていったことでしょう。この平安は、私たちにも与えられています。礼拝の最後の祝祷で、私は旧約聖書の民数記6章と、新約聖書のコリントの信徒への手紙(二)13章13節を読みますが、民数記6章24~26節は、こうです。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」そして私たちは聖霊による平安に満たされます。シメオンにもこの平安が与えられましたし、シメオンはこの平安の中で、イエス様とマリア、ヨセフの聖家族に、神様の祝福を祈りました。
シメオンは言いました。「わたしはこの目であなたの救いを見た。」もちろん赤ちゃんイエス様を見て、「この方こそイスラエルの真の救い、異邦人の真の救い、全世界の真の救い。」先週の礼拝で、旧約聖書のヨブ記の話を致しましたが、今週もヨブ記を選んでいます。19章23~27節です。ヨブの強い主張が記されています。「どうか、わたしの言葉が書き留められるように、碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように。わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損われようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」
先週もお話致しましたが、ヨブには、自分はどこまでも神様に従って罪を避け、誰よりも清く正しく、隣人を愛して生きて来た強い自負がありました。非常に立派な人格者だったのです。その自分に突然、予想もしなかった多くの苦難が遅いかかりました。その一方で、神様に従わずに生きている人々が、楽しく繁栄して生きている現実があると、ヨブは抗議しています。「神様、これでは筋が通らないではありませんか。神様、私は全く納得できません」というのが、ヨブの主張です。ヨブにとっては、自分の主張の正しさを認めてくれる方、ヨブのために弁護して下さる方が、どうしても必要です。そしてヨブは、将来そのような方が与えられることを切望し、その方が必ず来られるとの予感を抱いています。
イエス・キリストだけが、ヨブを納得させられる方です。イエス様はヨブ以上に徹底的に父なる神様に従い、しかも十字架の死というヨブが受けた以上の苦難を受け、その不条理・不合理を忍耐しきって、十字架の上でも父なる神様に一言も文句を言う罪をさえ犯さなかった。ヨブは、そのイエス様を知れば、イエス様の前に頭を垂れて、本心から告白するに違いありません。「イエス様、あなたは私よりはるかにすばらしい方です。あなたの信仰の深さには、私は到底かないません。あなたを前にしては、私は神様に抗議したことを真に恥ずかしく思います。今、この目であなたを仰ぎ見ます。私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」
本日のヨブ記19章では、ヨブは真の救い主イエス様を全力で待ち望んでいる段階です。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれる(復活される)であろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神(あるいはその救い主)を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ(全身全霊で救い主を待ち焦がれ)、はらわたは絶え入る。」
私には、シメオンの姿とヨブの姿が重なって見えてきます。シメオンがどのような人生を送ったか、全く分かりません。でももしかすると、シメオンもヨブのようにいろいろな苦難を味わったかもしれません。自分の苦難、仲間のイスラエル人たちの苦難。その中で、神様がイスラエルを慰めて下さることを待ち望んでいました。シメオンもヨブのように、様々な不条理(筋が通らないこと、悪が勝利しているように見えることが多いことなど)に悩んだかもしれません。しかし、ヨブよりも誰よりも厳しい不条理を忍耐し通したイエス様、ヨブの罪のためにもシメオンの罪のためにも十字架を背負って下さるイエス様の誕生を見て、シメオンは感謝と喜びの涙に暮れたと思います。もしヨブがそこにいれば、ヨブもとうとう長年、腹の底から待ち焦がれた救い主が誕生されたことを見て、救い主を抱いて、感動と喜びの涙を流したに違いないと思います。「主よ、今こそあなたは、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
33~35節「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせるためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。』」この赤ちゃんの人生が、簡単ではないことが語られます。「イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせるためにと定められ。」イエス様を救い主と信じることができないで、拒否してつまずいて倒れる人、逆にイエス様を救い主と素直に信じて、救われていく人に、分かれるというのです。「反対を受けるしるしとして、定められています。」イエス様の福音伝道に反対する人々も出るのです。たとえば、イエス様が安息日に病気を癒したことに、強く反対する人々が現れます。
「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」マリアが、イエス様の十字架を見届けることを予告しています。それは剣で心を刺し貫かれるような痛みだというのです。神様がマリアを支えて下さいます。神様の支えがあるので、マリアは辛うじて耐えることができます。神様の支えがなければ、耐えられないに違いありません。「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」多くの人の心にある、神様に背く思いがあらわにされます。
36節以下、アンナという女預言者。夫に死に別れ、84才になっていた。「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。」アンナは、神に希望を置き、夜も昼も神に仕えていました。」ある意味、私たちの理想の老後の姿です。英隆一朗というカトリックの司祭の本に、とても深いことが書いてありました。「そのようにして昼も夜も神に仕えることによって、はっきりとした使命が出て来る。アンナの最後の使命は、救いを待ち望んでいる人々皆に、幼子イエスについて話をすることである。マリアとヨセフが幼子イエスを奉献するために神殿に来たとき、この貧しいカップルと赤ん坊に注目した人はほとんどいなかった。気がついたのは、シメオンとアンナだけであった。そこに老人の知恵がある。どこに(真の)救いがあり、どこに(真の)希望があるかを知っていて、それを若い人に告げ知らせる役割である。日々の生活が神に仕えることにつながり、若い世代に何らかの貢献をすることができること、それが女預言者アンナの示す姿である。この社会でも、「救いを待ち望んでいる人々」は多い。多くの人々は悩み苦しんでいる。その人々に、祈りと断食によってもたらされる(真の)救いの言葉を語ることができれば、何とすばらしい貢献だろうか。私たち信仰者は、次の世代の信仰に責任を負っているのは事実である。」シメオンとアンナも、私たちの目指すべき姿です。アーメン。
2024-12-21 21:42:44(土)
「救い主の誕生、大きな喜び」2024年12月22日(日)クリスマス公同礼拝
(ヨブ記16:19~22) 「このような時にも、見よ/天にはわたしのために証人があり/高い天には/わたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友/神を仰いでわたしの目は涙を流す。人とその友の間を裁くように/神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように。僅かな年月がたてば/わたしは帰らぬ旅路に就くのだから。」
(ルカ福音書2:1~21) そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
(説教) 皆様、クリスマスおめでとうございます。。本日の聖書は、ルカ福音書2章1~21節。説教題は「救い主の誕生、大きな喜び」、本日の個所の小見出しは、「イエスの誕生」と「羊飼いと天使」です。
第1~3節「その頃、皇帝アゥグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」いきなりローマ皇帝アゥグストゥスという、当時の最大の政治的な力の持ち主が登場します。全領土の住民に住民登録を行わせます。彼の命令で全住民が動くとは、驚くべき力です。イスラエルはローマ帝国のシリア州に属していたのですね。シリアという名前は、最近ニュースでよく聞きます。二代にわたって独裁政権を築いたアサド政権が反政府勢力に負けて崩壊し、大統領と家族はロシアに亡命しました。恐怖政治が終わったことはよかったですが、まだ不安定なので、早く民主的なよい政府ができて、人々が安心して生活できるようになるように祈ります。
4~5節「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」救い主はベツレヘムで生まれると、旧約聖書のミカ書5章1節で預言されています。聖書でいう預言は「預かる、言」と書きます。神様がご自分の御言葉を人に預けて語らせた言葉が預言です。神様の御言葉ですから、完全に信頼できます。ノストラダムスの予言のような迷信とは全く違います。ミカ書5章1節にはこうあります。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私(神様)のために、イスラエルを治める者が出る。」救い主がベツレヘムで生まれると書かれています。最新の翻訳である聖書協会共同訳では、「お前」が「あなたに」変わっています。これはよい変更と思います。神様は私たちをやや乱暴に「お前」と呼ばれるよりは、「あなた」と呼んで下さるのではないかと思うからです。それはともかく、皇帝アゥグストゥスが全てを支配しているように見えますが、実は神様のご計画が着々と進んでいます。マリアとヨセフは、ミカ書の御言葉のとおり、ベツレヘムに向かい、マリアはベツレヘムで救い主イエス様を産むことになるからです。
6~7節「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」飼い葉桶に寝かせたことから、イエス様が産まれた場所は、馬小屋か家畜小屋と考えられてきました。洞窟のような所だったのではないかと推測する人もいます。いずれにしても宮殿などでなく、貧しく質素な誕生だったことが重要と思います。この家族を聖家族と呼びますが、聖家族は宿屋に泊まることができませんでした。世の中から排除されました。イエス様が30数年後に十字架で殺されることを暗示しているとも言えます。イエス様一家は、世の中に居場所がない人、世間から排除されている人々の味方です。シリアでは多くの人々が不当に刑務所に押し込められたり、暴力を受けたり殺されたと思われますが、イエス様はその方々の味方だと思うのです。
次の小見出しです。「羊飼いと天使。」8節「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」野宿。厳しい生活と労働です。すぐ近くの池袋にも路上生活、野宿生活している方々はおられます。あるいは夜中に道路工事や高速道路の工事で働いている方々もおられます。その方々の夜中の労働のお陰で、私たちは自動車等で道を通ることができるのですから、その方々に感謝しないといけないと感じます。羊飼いたちは、野宿して徹夜で羊たちのために働いていたけれども、誰からも特に感謝されるのでもなかったかもしれません。しかし神様は羊飼いたちを見つめておられました。特に人に感謝されるでもない労働に励む羊飼いたちを、神様は愛しておられました。神様は、天使を羊飼いたちのもとに派遣されたのです。
9節「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」直訳では、「彼らは大きな恐れで恐れた」ですので、本当にとても恐れたのです。天使は、神様に造られた存在ですが、それでも私たち罪人(つみびと)よりは、聖なる存在だからです。ここでは、天(天国)が一瞬開いたのです。旧約聖書のイザヤ書6章では、預言者イザヤが、天(天国)を一瞬見た場面が記されています。「私(イザヤ)は、高く天にある御座に主(神様)が座しておられるのを見た。(~)上の方にはセラフィム(天使のような存在)がいてそれぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う。』」天で讃美されている主の栄光。この主の栄光が、羊飼いたちを照らしました。イザヤも恐れた主の栄光が、羊飼いたちをまともに照らしたので、羊飼いたちも恐れたのです。
10節「天使は言った。『恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。』」羊飼いたちの大きな恐れを打ち破る、大きな喜びが告げられます。「告げる」と訳された元のギリシア語は、「福音を伝える」という動詞です。「大きな喜びを告げる」を私が訳すと、「大きな喜びの福音を伝える」となります。この喜びの素晴らしさを感じます。「大きな喜びの福音を伝える。」これは大金持ちになるような喜びではなく、聖なる喜びです。
11~12節「今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」メシアとはヘブライ語で救い主であり、ギリシア語ではキリストです。「あなた方は、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。」この赤ちゃんイエス・キリストこそ、神様から私たちへの最大の愛のプレゼント、最高の愛と喜びのプレゼントです。大きな喜びの福音のプレゼントは、イエス様その人です! 今年の東久留米教会の標語聖句ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節にも、「喜び」の言葉が含まれています。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」聖霊が結ばせて下さるこの9つの実は、全部イエス様のご性質です。イエス・キリストは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の塊です。聖霊のこの9つの実を全部完全に備えておられるイエス・キリストご自身こそ、父なる神様から私たちへの最大のプレゼント、父なる神様から、悩みの多いこの世界への最高の宝の贈り物です。それが与えられた日こそ、クリスマスです。この無力な赤ちゃんが、しるしです、神様の愛のしるしです。神様が無力な人々の味方であることのしるしです。
13~14節「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところ(天)には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」「地には平和」、本当にそう祈ります。完全に平和だった時はほとんどなかったのかもしれませんが、今も能登半島の方々は(そこに戦争はないが)平安とは言えないでしょう。ウクライナでの戦争、ガザでの戦争は続いており、シリアでは恐怖政治は終わったが、本当に平和が来るのかは不透明です。「地には平和、御心に適う人にあれ。」私たちは、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けていれば、御心に適う者となっています。そして子どものように無心に、神様の前にへりくだることが、神の御心に適うことではないでしょうか。
イエス様は、このルカによる福音書10章21節で、聖霊によって喜びにあふれて言われました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのこと(貧しい赤ちゃんとして生まれたイエス様が世の真の救い主であること)を知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」と。羊飼いたちも、この世の知恵者ではなかったので、神様に愛され、救い主誕生の聖なる喜びの知らせを、天使から真っ先に知らされる光栄を受けたのだと思います。この世の知恵者は、核兵器を作ったりするのです。そのような知恵は、悪魔の知恵で、神の御心に反するものです。今年は、広島の被団協(日本原水爆被害者団体協議会)にノーベル平和賞が授与されたこともまた、神様からのサプライズとして、真に喜ばしい出来事fした。「地には平和、御心に適う人にあれ」が、一層進展するように祈ります。
今のルカによる福音書10章で、イエス様がさらに言われます。「あなた方の見ているもの(イエス・キリスト)を見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなた方が見ているものを見たかったが、見ることができず、あなた方が聞いているもの(イエス様の言葉)を聞きたかったが、きけなかったのである。」ですから、羊飼いたちは非常に幸いです。私たちも非常に幸いです。イエス・キリストを見たからです。あるいはイエス・キリストが生きておられることを知っているからです。
救い主イエス・キリストの誕生は、旧約聖書以来の長い長い待望が、遂に実現した約束成就の出来事です。本日の旧約聖書は、ヨブ記16章19~21節です。ヨブ記は一面では嘆きの書と言えます。17節でヨブはこう嘆いています。「私の手には不法のもなく、私の祈りは清かったのに。」ヨブは、本当に清く正しく生きて来たのです。ヨブ記29~30章を読むと分かります。「私は身寄りのない子らを助け、助けを求める貧しい人々を守った。」「私は見えない人の目となり、歩けない人の足となった。」「食べ物を独り占めにし、みなしごを飢えさせたことは、決してない。いや、私は若いころから父となって彼らを育て、母の胎から出たときから、やもめたちを導く者であった。着る者もなく弱り果てている人や、体を覆うものもない貧しい人を、私が見過ごしにしたことは、決してない。」イエス様と同じとまでは言いませんが、ほとんどイエス様の次くらいまで清く正しく生きて来たとさえ言えるのではないかと思います。そのヨブが多くの試練を受けたのです。
旧約聖書の伝統的な教えでは、神様に従う人は祝福され、神様に背く人は。裁きを受けるという教えです。ヨブは問題提起します。あるいば抗議をします。私の現実、世の中の現実を見なさい。神様に従う良い人がむしろ苦難に遭い、神様に従わず自分勝手に生きている人が、むしろ繫栄していい思いをしているではないか。悪人が繫栄し、悪がまかり通り、神に従う人が馬鹿を見ている現実が多くある。不条理がまかり通っているではないか。ヨブが、このような訴えをしています。これに対してヨブの三人の友人が登場して、「ヨブよ、あなたがこのような試練に遭っているのは、あなたが悪を行ったからではないか」と説得しようとしますが、三人の友人の言葉にヨブは全く納得しません。
私はヨブの問題提起は、旧約聖書の中では解決していないと思います。本日の16章19節以下でヨブは述べます。「このような時にも、見よ、天には私のために証人があり、高い天には私を弁護して下さる方がある。私のために執り成す方、私の友。神を仰いで私の目は涙を流す。人とその友の間を裁くように、神が御自分とこの男の間を裁いて下さるように。」ヨブは、救い主を求めている、救い主が必ず来られると予感している思うのです。ヨブの目には、天におられる救い主の姿が、おぼろげに見えていると感じます。「天には私のために証人があり、高い天には私を弁護して下さる方がある。私のために執り成す方、私の友。」天におられる証人、弁護者、とりなす方、友。これはみな、新約聖書のイエス・キリストに当てはまる言葉です。
ヨブは、自分の問いかけに応えて下さる救い主が来られることを確かに予感して、全力で待ち望んでいます。イエス様は言われました。「多くの預言者や王たちは、あなた方が見ているものを見たかったが、見ることができなかった」と。まさにヨブもそうだったのです。ヨブを納得させられる方は、イエス・キリストだけです。ヨブ以上に清く正しく愛のみ行って生き、その結果、十字架で殺されるというヨブ以上の苦難を受け、ヨブ以上の世界最大の不条理をきった方、イエス様。それでも父なる神様を一言も非難せず、一言も抗議せず、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られた方イエス・キリスト。ヨブ記の中でヨブは、神様が自分を不当に扱っておられると神様に抗議さえしていると読めますが、ヨブ以上の不条理を経験してなお父なる神様に一言も抗議なさらなかったイエス様に出会えば、ヨブは初めて頭を垂れるでしょう。「イエス様、あなたには参りました。」
ヨブも激しく待望したに違いない救い主が、遂に誕生されました。「私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。」確かに、世の中には多くの罪・悪・不条理があります。その多くは私たち人間の罪によると思うのです。私たち人間は、もちろん自分たちの罪と悪を悔い改める必要があります。父なる神様が、私たちの罪と悪を全て裁けば、世界は滅びるほかありません。ですが、この世界に巣食っている多くの罪・悪・不条理を、イエス様が十字架で背負いきって下さり、三日目に復活の勝利を遂げられました。イエス様がこのようにして、私たち一人一人と世界を救って下さいました。自分の罪を悔い改めて、このイエス様を救い主と信じ告白すれば、どなたでも永遠の命を受けることができます、このような救い主が、父なる神様からプレゼントされた恵みを、心から喜びましょう。アーメン。
(ルカ福音書2:1~21) そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
(説教) 皆様、クリスマスおめでとうございます。。本日の聖書は、ルカ福音書2章1~21節。説教題は「救い主の誕生、大きな喜び」、本日の個所の小見出しは、「イエスの誕生」と「羊飼いと天使」です。
第1~3節「その頃、皇帝アゥグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」いきなりローマ皇帝アゥグストゥスという、当時の最大の政治的な力の持ち主が登場します。全領土の住民に住民登録を行わせます。彼の命令で全住民が動くとは、驚くべき力です。イスラエルはローマ帝国のシリア州に属していたのですね。シリアという名前は、最近ニュースでよく聞きます。二代にわたって独裁政権を築いたアサド政権が反政府勢力に負けて崩壊し、大統領と家族はロシアに亡命しました。恐怖政治が終わったことはよかったですが、まだ不安定なので、早く民主的なよい政府ができて、人々が安心して生活できるようになるように祈ります。
4~5節「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」救い主はベツレヘムで生まれると、旧約聖書のミカ書5章1節で預言されています。聖書でいう預言は「預かる、言」と書きます。神様がご自分の御言葉を人に預けて語らせた言葉が預言です。神様の御言葉ですから、完全に信頼できます。ノストラダムスの予言のような迷信とは全く違います。ミカ書5章1節にはこうあります。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、私(神様)のために、イスラエルを治める者が出る。」救い主がベツレヘムで生まれると書かれています。最新の翻訳である聖書協会共同訳では、「お前」が「あなたに」変わっています。これはよい変更と思います。神様は私たちをやや乱暴に「お前」と呼ばれるよりは、「あなた」と呼んで下さるのではないかと思うからです。それはともかく、皇帝アゥグストゥスが全てを支配しているように見えますが、実は神様のご計画が着々と進んでいます。マリアとヨセフは、ミカ書の御言葉のとおり、ベツレヘムに向かい、マリアはベツレヘムで救い主イエス様を産むことになるからです。
6~7節「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」飼い葉桶に寝かせたことから、イエス様が産まれた場所は、馬小屋か家畜小屋と考えられてきました。洞窟のような所だったのではないかと推測する人もいます。いずれにしても宮殿などでなく、貧しく質素な誕生だったことが重要と思います。この家族を聖家族と呼びますが、聖家族は宿屋に泊まることができませんでした。世の中から排除されました。イエス様が30数年後に十字架で殺されることを暗示しているとも言えます。イエス様一家は、世の中に居場所がない人、世間から排除されている人々の味方です。シリアでは多くの人々が不当に刑務所に押し込められたり、暴力を受けたり殺されたと思われますが、イエス様はその方々の味方だと思うのです。
次の小見出しです。「羊飼いと天使。」8節「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」野宿。厳しい生活と労働です。すぐ近くの池袋にも路上生活、野宿生活している方々はおられます。あるいは夜中に道路工事や高速道路の工事で働いている方々もおられます。その方々の夜中の労働のお陰で、私たちは自動車等で道を通ることができるのですから、その方々に感謝しないといけないと感じます。羊飼いたちは、野宿して徹夜で羊たちのために働いていたけれども、誰からも特に感謝されるのでもなかったかもしれません。しかし神様は羊飼いたちを見つめておられました。特に人に感謝されるでもない労働に励む羊飼いたちを、神様は愛しておられました。神様は、天使を羊飼いたちのもとに派遣されたのです。
9節「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」直訳では、「彼らは大きな恐れで恐れた」ですので、本当にとても恐れたのです。天使は、神様に造られた存在ですが、それでも私たち罪人(つみびと)よりは、聖なる存在だからです。ここでは、天(天国)が一瞬開いたのです。旧約聖書のイザヤ書6章では、預言者イザヤが、天(天国)を一瞬見た場面が記されています。「私(イザヤ)は、高く天にある御座に主(神様)が座しておられるのを見た。(~)上の方にはセラフィム(天使のような存在)がいてそれぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
彼らは互いに呼び交わし、唱えた。『聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う。』」天で讃美されている主の栄光。この主の栄光が、羊飼いたちを照らしました。イザヤも恐れた主の栄光が、羊飼いたちをまともに照らしたので、羊飼いたちも恐れたのです。
10節「天使は言った。『恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。』」羊飼いたちの大きな恐れを打ち破る、大きな喜びが告げられます。「告げる」と訳された元のギリシア語は、「福音を伝える」という動詞です。「大きな喜びを告げる」を私が訳すと、「大きな喜びの福音を伝える」となります。この喜びの素晴らしさを感じます。「大きな喜びの福音を伝える。」これは大金持ちになるような喜びではなく、聖なる喜びです。
11~12節「今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」メシアとはヘブライ語で救い主であり、ギリシア語ではキリストです。「あなた方は、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。」この赤ちゃんイエス・キリストこそ、神様から私たちへの最大の愛のプレゼント、最高の愛と喜びのプレゼントです。大きな喜びの福音のプレゼントは、イエス様その人です! 今年の東久留米教会の標語聖句ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節にも、「喜び」の言葉が含まれています。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」聖霊が結ばせて下さるこの9つの実は、全部イエス様のご性質です。イエス・キリストは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の塊です。聖霊のこの9つの実を全部完全に備えておられるイエス・キリストご自身こそ、父なる神様から私たちへの最大のプレゼント、父なる神様から、悩みの多いこの世界への最高の宝の贈り物です。それが与えられた日こそ、クリスマスです。この無力な赤ちゃんが、しるしです、神様の愛のしるしです。神様が無力な人々の味方であることのしるしです。
13~14節「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところ(天)には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」「地には平和」、本当にそう祈ります。完全に平和だった時はほとんどなかったのかもしれませんが、今も能登半島の方々は(そこに戦争はないが)平安とは言えないでしょう。ウクライナでの戦争、ガザでの戦争は続いており、シリアでは恐怖政治は終わったが、本当に平和が来るのかは不透明です。「地には平和、御心に適う人にあれ。」私たちは、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けていれば、御心に適う者となっています。そして子どものように無心に、神様の前にへりくだることが、神の御心に適うことではないでしょうか。
イエス様は、このルカによる福音書10章21節で、聖霊によって喜びにあふれて言われました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのこと(貧しい赤ちゃんとして生まれたイエス様が世の真の救い主であること)を知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」と。羊飼いたちも、この世の知恵者ではなかったので、神様に愛され、救い主誕生の聖なる喜びの知らせを、天使から真っ先に知らされる光栄を受けたのだと思います。この世の知恵者は、核兵器を作ったりするのです。そのような知恵は、悪魔の知恵で、神の御心に反するものです。今年は、広島の被団協(日本原水爆被害者団体協議会)にノーベル平和賞が授与されたこともまた、神様からのサプライズとして、真に喜ばしい出来事fした。「地には平和、御心に適う人にあれ」が、一層進展するように祈ります。
今のルカによる福音書10章で、イエス様がさらに言われます。「あなた方の見ているもの(イエス・キリスト)を見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなた方が見ているものを見たかったが、見ることができず、あなた方が聞いているもの(イエス様の言葉)を聞きたかったが、きけなかったのである。」ですから、羊飼いたちは非常に幸いです。私たちも非常に幸いです。イエス・キリストを見たからです。あるいはイエス・キリストが生きておられることを知っているからです。
救い主イエス・キリストの誕生は、旧約聖書以来の長い長い待望が、遂に実現した約束成就の出来事です。本日の旧約聖書は、ヨブ記16章19~21節です。ヨブ記は一面では嘆きの書と言えます。17節でヨブはこう嘆いています。「私の手には不法のもなく、私の祈りは清かったのに。」ヨブは、本当に清く正しく生きて来たのです。ヨブ記29~30章を読むと分かります。「私は身寄りのない子らを助け、助けを求める貧しい人々を守った。」「私は見えない人の目となり、歩けない人の足となった。」「食べ物を独り占めにし、みなしごを飢えさせたことは、決してない。いや、私は若いころから父となって彼らを育て、母の胎から出たときから、やもめたちを導く者であった。着る者もなく弱り果てている人や、体を覆うものもない貧しい人を、私が見過ごしにしたことは、決してない。」イエス様と同じとまでは言いませんが、ほとんどイエス様の次くらいまで清く正しく生きて来たとさえ言えるのではないかと思います。そのヨブが多くの試練を受けたのです。
旧約聖書の伝統的な教えでは、神様に従う人は祝福され、神様に背く人は。裁きを受けるという教えです。ヨブは問題提起します。あるいば抗議をします。私の現実、世の中の現実を見なさい。神様に従う良い人がむしろ苦難に遭い、神様に従わず自分勝手に生きている人が、むしろ繫栄していい思いをしているではないか。悪人が繫栄し、悪がまかり通り、神に従う人が馬鹿を見ている現実が多くある。不条理がまかり通っているではないか。ヨブが、このような訴えをしています。これに対してヨブの三人の友人が登場して、「ヨブよ、あなたがこのような試練に遭っているのは、あなたが悪を行ったからではないか」と説得しようとしますが、三人の友人の言葉にヨブは全く納得しません。
私はヨブの問題提起は、旧約聖書の中では解決していないと思います。本日の16章19節以下でヨブは述べます。「このような時にも、見よ、天には私のために証人があり、高い天には私を弁護して下さる方がある。私のために執り成す方、私の友。神を仰いで私の目は涙を流す。人とその友の間を裁くように、神が御自分とこの男の間を裁いて下さるように。」ヨブは、救い主を求めている、救い主が必ず来られると予感している思うのです。ヨブの目には、天におられる救い主の姿が、おぼろげに見えていると感じます。「天には私のために証人があり、高い天には私を弁護して下さる方がある。私のために執り成す方、私の友。」天におられる証人、弁護者、とりなす方、友。これはみな、新約聖書のイエス・キリストに当てはまる言葉です。
ヨブは、自分の問いかけに応えて下さる救い主が来られることを確かに予感して、全力で待ち望んでいます。イエス様は言われました。「多くの預言者や王たちは、あなた方が見ているものを見たかったが、見ることができなかった」と。まさにヨブもそうだったのです。ヨブを納得させられる方は、イエス・キリストだけです。ヨブ以上に清く正しく愛のみ行って生き、その結果、十字架で殺されるというヨブ以上の苦難を受け、ヨブ以上の世界最大の不条理をきった方、イエス様。それでも父なる神様を一言も非難せず、一言も抗議せず、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られた方イエス・キリスト。ヨブ記の中でヨブは、神様が自分を不当に扱っておられると神様に抗議さえしていると読めますが、ヨブ以上の不条理を経験してなお父なる神様に一言も抗議なさらなかったイエス様に出会えば、ヨブは初めて頭を垂れるでしょう。「イエス様、あなたには参りました。」
ヨブも激しく待望したに違いない救い主が、遂に誕生されました。「私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。」確かに、世の中には多くの罪・悪・不条理があります。その多くは私たち人間の罪によると思うのです。私たち人間は、もちろん自分たちの罪と悪を悔い改める必要があります。父なる神様が、私たちの罪と悪を全て裁けば、世界は滅びるほかありません。ですが、この世界に巣食っている多くの罪・悪・不条理を、イエス様が十字架で背負いきって下さり、三日目に復活の勝利を遂げられました。イエス様がこのようにして、私たち一人一人と世界を救って下さいました。自分の罪を悔い改めて、このイエス様を救い主と信じ告白すれば、どなたでも永遠の命を受けることができます、このような救い主が、父なる神様からプレゼントされた恵みを、心から喜びましょう。アーメン。
2024-12-15 2:15:41()
「お言葉どおり、この身に成りますように」2024年12月15日(日)待降節(アドヴェント)第3主日礼拝
(サムエル記下7:11~16) 「わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」
(ルカ福音書1:26~38) 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
(説教) 本日は待降節(アドヴェント)第3主日の礼拝です。本日の聖書は、ルカ福音書1章26~38節。説教題は「お言葉どおり、この身に成りますように」、本日の個所の小見出しは、「イエスの誕生が予告される」です。
最初の26~27節「六ヶ月目に(洗礼者ヨハネの誕生が予告されてから六ヶ月目に)、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。おとめの名はマリアといった。」神様がマリアを選んでおられました。夫ヨセフをも、選んでおられました。」28~29節「天使は、彼女の所に来て言った。『おめでとう(直訳 喜べ)、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い。いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」何の前触れもない突然のことですから、マリアが驚いたのは当然です。マリアは14~15才の無名(マリアと言う名ありますが)の少女です。しかし彼女には、「考え込む」よき思慮深さがありました。
30節「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。』」恵みは元の言葉ギリシア語で「カリス」です。「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高い方(神様)の子と呼ばれる。神である主は、彼に父(先祖)ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家(イスラエル)を治め、その支配は終わることがない。」マリアは首都エルサレムに行ったことがあったかどうか分かりません。もしかしたら行ったことがあったかもしれません。それでも都会でないガリラヤの一少女にとって、目もくらむ壮大な話です。「ダビデの王座、その支配は終わることがない。」
旧約聖書の歴代誌・下16章9節に、こうあります。「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」神様はイスラエル中を見渡され、この最も大切な使命を託することができる女性を探しておられたとも言えます。もちろん誰でもよいのではありません。ガリラヤの町ナザレに、神様は一人の少女を発見されました。その心の中の純粋な信仰を見抜かれました。まだ大人ではないが、深い信仰を持っている。責任感もとても強い。「私は主のはしため、神様に喜んでお仕えする僕(しもべ)」という純粋な信仰を持っている。神様は。この最も大切な使命を託す少女をガリラヤのナザレに見出されました。マリアです。
そこで天使ガブリエルを、マリアのもとに送ったのです。弟子たちを選ばれたイエス様の御言葉も思い出されます。ヨハネ福音書15章16節以下です。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。」同じで、父なる神様がマリアを選ばれました。マリアにとって考えてもいなかったことですが、神様からマリアに、最も尊い使命が与えられました。神の恵みです。マリアに困難は来るのです。しかい今から先、父なる神様がマリアをいつも守ります。困難の時にも。父なる神様がマリアを守り支えて下さいます。
天使ガブリエルはマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げました。戸惑ったマリアが天使に答えます。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに。」天使ガブリエルは答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアはこれを聞いたのですが、考えてみると、このメッセージを受け入れることは、大変なことです。マリアはヨセフのいいなずけになっていましたが、まだ共に暮らしていません。それなのに身ごもったことが知れると、マリアは姦通の罪を犯したと後ろ指を指され、当時の決まりに従って石打ちの死刑になる恐れがあります。そうならないように、神様が特別に守って下さるに違いない。マリアはそう神様を信頼すると決断したのだと思います。そこで自分の全人格を懸けて、「はい」の返答をしたのです。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」これは全身全霊の言葉、自分の人生の全てを父なる神様に献げる見事な決意と覚悟の告白です。マリアの献身ですね。「都合が悪くなったら、引き返します」という選択肢はないのです。退路を断っています。マリアの答えに満足して、天使ガブリエルは去りました。神様もマリアの答えを、深く喜ばれたに違いないのです。
マリアにとって神様に従うことは、心も体も挙げて従うことです。頭だけの観念んだけではありません。マリアはお腹をイエス様のために提供します。マリアが神様に全身で従うと決めたから、イエス様が誕生されました。そして30年間父なる神様に従いながら歩まれ、遂には十字架に架かられ、私たちを悪魔と全ての罪と、死の支配から解放するための、産みの苦しみをして下さり、三日目に復活されました。このイエス様のお陰で、私たちは全ての罪を赦され、永遠の命をいただきました。理論上は、マリアが神様の依頼を断れば、イエス様が生まれなかったことになり、十字架の贖いと三日目の復活もなく、私たちは誰一人天国に行けなかったことになります。私たちが救われたのは、直接にはイエス様のお陰ですが、間接的にはマリアさんがイエス様の母となることを受け入れてくれたからです。その意味で、私たちもマリアの信仰の決断に、私たちも深く深く感謝する必要があります。
マリアさんのすばらしい信仰の言葉は、「お言葉どおり、この身に成りますように」です。信仰は受肉することが大切と思います。イエス様が、私たちと同じ肉体をもつ人間となったことを、キリスト教の言葉で「受肉」と呼びます。聖書には「受肉」という言葉そのものはありません。でもそのことが事実であることは明記されています。ヨハネ福音書1章14節です。「言(イエス・キリスト)は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」クリスマスの出来事です。「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」イエス様が肉体をもって生まれて下さったことを受肉と呼びます。具体化することです。マリアの信仰も観念ではなく、受肉しています。具体化しています。マリアは、そのお腹の中にイエス様を宿し、出産し、赤ちゃん・子ども時代のイエス様を育て、体をもって働きます。父なる神様に具体的に行動で従います。マリアの信仰も受肉した信仰です。マリアの具体的に従う決断が、私たちに永遠の命をもたらし、世界の歴史を大きく変えたのです。
この個所で、今年の6月にも説教させていただいたときに、東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生と奥様の眞壽美先生と浅野先生のお父様の信仰を思い出してお話致しました。浅野先生とお父様が、この土地を神様と東久留米教会に献げるとの信仰の決断と実行(実行と具体化こそ受肉)をなさらなかったら、東久留米教会は今日まで存続できたでしょうか。浅野先生とお父様が、この土地を神様と東久留米教会に献げる信仰の決断を実行なさらなかったら、教会員が献金して別の土地を買う必要が生じたでしょう。そうなった場合は、それはそれで神様が道を開いて下さったと思いますが、浅野先生とお父様の、この土地を神様と東久留米教会に献げる信仰の決断の実行が、東久留米教会の歴史をよい方向に変え、今日まで教会を生か土台になっていrことを、改めて心より感謝致します。もちろん浅野先生ご夫妻と浅野先生のお父様だけでなく、東久留米教会の教会メンバーの方々の、神様に従う信仰の決断の一つ一つの積み重ねが、東久留米教会を支えて下さました。これからもそうです。神様に導かれて、私たちがお祈りして下す神様に従う決断の一つ一つが、これからの東久留米教会を支え、前進させることになります。マリアの、神様に従う信仰の決断と実行(受肉)に、私たちも従いたいと思います。
マリアさんは、その信仰を生涯貫きました。わが子イエスの行動が理解できないときもありました。しかし祈りながら、忍耐したと思います。わが子イエスが十字架にかかった時が、最大の試練だったに違いありません。十字架の下でそれを見届けたのです。心も張り裂けんばかりだったと思います。マリアはよく耐えたと思います。三日目のイエス様の復活によって、全てが報われました。復活のイエス様に出会ったと思います。復活のイエス様が天に昇られた後も、マリアはイエス様の弟子たちと共にいて、心を合わせて熱心に祈っていました。そして聖霊が力強く下ったペンテコステの朝をも経験しました。そしてマリアは、初代教会の精神的支柱の一人になったはずです。何と言っても、イエス様の実の母ですから。この時には、マリアは、わが子イエスの使命が何であったのか、よく分かるようになっていたと思います。イエス様を胎内に宿した自分の使命の大切さをも、改めて理解したに違いありません。
イエス様は十字架の上から、愛する弟子ヨハネを見て、マリアに言われました。「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」そして弟子に言われました。「見なさい。あなたの母です。」そのときからこの弟子は、イエスの母を自分の家に引き取った、と書かれています。マリアはヨハネに引き取られ、後にはヨハネと共にエフェソに行って住んだと、伝えられているそうです(聖書には記されていない)。
マリアが産む男の子は、どんな人になるのか。天使ガブリエルは言いました。32~33節「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、
彼に父(先祖)ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
そのような支配者、世界の王だというのです。しかしイエス様は、ヨハネ福音書18章36節で言われました。「私の国は、この世には属していない。」ですから、イエス様はこの世の政治的な王、軍事的な王、権力者ではありません。愛と平和と正義で人々を治める神の国の王です。
この王・イエス様の誕生は、本日の旧約聖書・サムエル記7章11節以下で、ダビデ王に予告されています。「わたし(神様)の民、イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」この子孫は、直接にはダビデの息子ソロモンを指し、究極的には神の国の真の王イエス様を指します。
ダビデ王は、イスラエルの現実の政治の王様であり、よい統治に努力したと思いますが、姦通の罪を犯したこともあり、戦争も行いました。神様は歴代誌・上22章8節で、ダビデに語っておられます。「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。私の前で多くの血を大地に流したからには、あなたが私のために神殿を築くことは許されない。見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人である。私は周囲のすべての敵からその子を守って、安らぎを与える。それゆえ、その子の名はソロモンと呼ばれる。私はこの子が生きている間、イスラエルに平和と静けさを与える。この子が私の名のために神殿を築く。」そのソロモンも若い時はよかったのですが、晩年になると偶像崇拝等の罪を犯します。ソロモンも完璧ではありません。しかしダビデ、ソロモンの子孫ヨセフと結婚したマリアから生まれるイエス様は完全に平和の方です。このイエス様が、世界の真の王、真の救い主としてマリアから生まれます。旧約聖書のゼカリヤ書4章6節に、このような神の御言葉があります。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって。」世界のリーダーたちは、武力と権力によって支配しますが、イエス様は違います。ただ聖霊の愛と平和と正義によってのみ、治めされます。
マリアの信仰と人類最初の女性エバの生き方を並べてみると、非常に対照的であることが分かります。神様の御言葉を不正確に理解していたエバは、神様の御言葉を否定する悪魔の唆しに割に簡単に負けたように見えます。悪魔は言ったのです。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」エバ(この段階ではエバという名はまだついていなくて、女とだけ書かれている)が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実をとって食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」アダムもエバに唆されて、実を食べ、人類最初の夫婦が神に背きました。これと対照的な夫婦がマリアとヨセフです。マリアとヨセフは一致協力して神様に従い、生まれた赤ちゃんイエス様を守ってゆきます。エバの失敗をマリアが取り返し、アダムの失敗をヨセフが取り返したと言えます。最初の夫婦エバとアダムが神に背いた罪をマリアとヨセフの夫婦が、神様に従うことで、取り戻したとも言えます。本当に対照的な夫婦です。
マリアさんの神様に従う決断が、世界の歴史を変えました。マリアは語りました。「お言葉どおり、この身に成りますように。」私たちも、洗礼を受けたときから、イエス・キリストの僕(しもべ)になりました。私たちの存在と生き方によって、神様のご意志が行われ、神の国が前進することを願っています。私たちは自己実現ではなく、神様の御心が実現することを願います。私たちも、「お言葉どおり、この身に成りますように」、私たちの日々の神様に従う決断によって、この世界でささやかでも、神の国が前進するように、神に従う日々を重ねて参りましょう。アーメン。
(ルカ福音書1:26~38) 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
(説教) 本日は待降節(アドヴェント)第3主日の礼拝です。本日の聖書は、ルカ福音書1章26~38節。説教題は「お言葉どおり、この身に成りますように」、本日の個所の小見出しは、「イエスの誕生が予告される」です。
最初の26~27節「六ヶ月目に(洗礼者ヨハネの誕生が予告されてから六ヶ月目に)、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。おとめの名はマリアといった。」神様がマリアを選んでおられました。夫ヨセフをも、選んでおられました。」28~29節「天使は、彼女の所に来て言った。『おめでとう(直訳 喜べ)、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い。いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」何の前触れもない突然のことですから、マリアが驚いたのは当然です。マリアは14~15才の無名(マリアと言う名ありますが)の少女です。しかし彼女には、「考え込む」よき思慮深さがありました。
30節「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。』」恵みは元の言葉ギリシア語で「カリス」です。「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高い方(神様)の子と呼ばれる。神である主は、彼に父(先祖)ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家(イスラエル)を治め、その支配は終わることがない。」マリアは首都エルサレムに行ったことがあったかどうか分かりません。もしかしたら行ったことがあったかもしれません。それでも都会でないガリラヤの一少女にとって、目もくらむ壮大な話です。「ダビデの王座、その支配は終わることがない。」
旧約聖書の歴代誌・下16章9節に、こうあります。「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」神様はイスラエル中を見渡され、この最も大切な使命を託することができる女性を探しておられたとも言えます。もちろん誰でもよいのではありません。ガリラヤの町ナザレに、神様は一人の少女を発見されました。その心の中の純粋な信仰を見抜かれました。まだ大人ではないが、深い信仰を持っている。責任感もとても強い。「私は主のはしため、神様に喜んでお仕えする僕(しもべ)」という純粋な信仰を持っている。神様は。この最も大切な使命を託す少女をガリラヤのナザレに見出されました。マリアです。
そこで天使ガブリエルを、マリアのもとに送ったのです。弟子たちを選ばれたイエス様の御言葉も思い出されます。ヨハネ福音書15章16節以下です。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。」同じで、父なる神様がマリアを選ばれました。マリアにとって考えてもいなかったことですが、神様からマリアに、最も尊い使命が与えられました。神の恵みです。マリアに困難は来るのです。しかい今から先、父なる神様がマリアをいつも守ります。困難の時にも。父なる神様がマリアを守り支えて下さいます。
天使ガブリエルはマリアに、「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げました。戸惑ったマリアが天使に答えます。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに。」天使ガブリエルは答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアはこれを聞いたのですが、考えてみると、このメッセージを受け入れることは、大変なことです。マリアはヨセフのいいなずけになっていましたが、まだ共に暮らしていません。それなのに身ごもったことが知れると、マリアは姦通の罪を犯したと後ろ指を指され、当時の決まりに従って石打ちの死刑になる恐れがあります。そうならないように、神様が特別に守って下さるに違いない。マリアはそう神様を信頼すると決断したのだと思います。そこで自分の全人格を懸けて、「はい」の返答をしたのです。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」これは全身全霊の言葉、自分の人生の全てを父なる神様に献げる見事な決意と覚悟の告白です。マリアの献身ですね。「都合が悪くなったら、引き返します」という選択肢はないのです。退路を断っています。マリアの答えに満足して、天使ガブリエルは去りました。神様もマリアの答えを、深く喜ばれたに違いないのです。
マリアにとって神様に従うことは、心も体も挙げて従うことです。頭だけの観念んだけではありません。マリアはお腹をイエス様のために提供します。マリアが神様に全身で従うと決めたから、イエス様が誕生されました。そして30年間父なる神様に従いながら歩まれ、遂には十字架に架かられ、私たちを悪魔と全ての罪と、死の支配から解放するための、産みの苦しみをして下さり、三日目に復活されました。このイエス様のお陰で、私たちは全ての罪を赦され、永遠の命をいただきました。理論上は、マリアが神様の依頼を断れば、イエス様が生まれなかったことになり、十字架の贖いと三日目の復活もなく、私たちは誰一人天国に行けなかったことになります。私たちが救われたのは、直接にはイエス様のお陰ですが、間接的にはマリアさんがイエス様の母となることを受け入れてくれたからです。その意味で、私たちもマリアの信仰の決断に、私たちも深く深く感謝する必要があります。
マリアさんのすばらしい信仰の言葉は、「お言葉どおり、この身に成りますように」です。信仰は受肉することが大切と思います。イエス様が、私たちと同じ肉体をもつ人間となったことを、キリスト教の言葉で「受肉」と呼びます。聖書には「受肉」という言葉そのものはありません。でもそのことが事実であることは明記されています。ヨハネ福音書1章14節です。「言(イエス・キリスト)は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」クリスマスの出来事です。「言は肉となって、私たちの間に宿られた。」イエス様が肉体をもって生まれて下さったことを受肉と呼びます。具体化することです。マリアの信仰も観念ではなく、受肉しています。具体化しています。マリアは、そのお腹の中にイエス様を宿し、出産し、赤ちゃん・子ども時代のイエス様を育て、体をもって働きます。父なる神様に具体的に行動で従います。マリアの信仰も受肉した信仰です。マリアの具体的に従う決断が、私たちに永遠の命をもたらし、世界の歴史を大きく変えたのです。
この個所で、今年の6月にも説教させていただいたときに、東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生と奥様の眞壽美先生と浅野先生のお父様の信仰を思い出してお話致しました。浅野先生とお父様が、この土地を神様と東久留米教会に献げるとの信仰の決断と実行(実行と具体化こそ受肉)をなさらなかったら、東久留米教会は今日まで存続できたでしょうか。浅野先生とお父様が、この土地を神様と東久留米教会に献げる信仰の決断を実行なさらなかったら、教会員が献金して別の土地を買う必要が生じたでしょう。そうなった場合は、それはそれで神様が道を開いて下さったと思いますが、浅野先生とお父様の、この土地を神様と東久留米教会に献げる信仰の決断の実行が、東久留米教会の歴史をよい方向に変え、今日まで教会を生か土台になっていrことを、改めて心より感謝致します。もちろん浅野先生ご夫妻と浅野先生のお父様だけでなく、東久留米教会の教会メンバーの方々の、神様に従う信仰の決断の一つ一つの積み重ねが、東久留米教会を支えて下さました。これからもそうです。神様に導かれて、私たちがお祈りして下す神様に従う決断の一つ一つが、これからの東久留米教会を支え、前進させることになります。マリアの、神様に従う信仰の決断と実行(受肉)に、私たちも従いたいと思います。
マリアさんは、その信仰を生涯貫きました。わが子イエスの行動が理解できないときもありました。しかし祈りながら、忍耐したと思います。わが子イエスが十字架にかかった時が、最大の試練だったに違いありません。十字架の下でそれを見届けたのです。心も張り裂けんばかりだったと思います。マリアはよく耐えたと思います。三日目のイエス様の復活によって、全てが報われました。復活のイエス様に出会ったと思います。復活のイエス様が天に昇られた後も、マリアはイエス様の弟子たちと共にいて、心を合わせて熱心に祈っていました。そして聖霊が力強く下ったペンテコステの朝をも経験しました。そしてマリアは、初代教会の精神的支柱の一人になったはずです。何と言っても、イエス様の実の母ですから。この時には、マリアは、わが子イエスの使命が何であったのか、よく分かるようになっていたと思います。イエス様を胎内に宿した自分の使命の大切さをも、改めて理解したに違いありません。
イエス様は十字架の上から、愛する弟子ヨハネを見て、マリアに言われました。「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」そして弟子に言われました。「見なさい。あなたの母です。」そのときからこの弟子は、イエスの母を自分の家に引き取った、と書かれています。マリアはヨハネに引き取られ、後にはヨハネと共にエフェソに行って住んだと、伝えられているそうです(聖書には記されていない)。
マリアが産む男の子は、どんな人になるのか。天使ガブリエルは言いました。32~33節「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、
彼に父(先祖)ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
そのような支配者、世界の王だというのです。しかしイエス様は、ヨハネ福音書18章36節で言われました。「私の国は、この世には属していない。」ですから、イエス様はこの世の政治的な王、軍事的な王、権力者ではありません。愛と平和と正義で人々を治める神の国の王です。
この王・イエス様の誕生は、本日の旧約聖書・サムエル記7章11節以下で、ダビデ王に予告されています。「わたし(神様)の民、イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」この子孫は、直接にはダビデの息子ソロモンを指し、究極的には神の国の真の王イエス様を指します。
ダビデ王は、イスラエルの現実の政治の王様であり、よい統治に努力したと思いますが、姦通の罪を犯したこともあり、戦争も行いました。神様は歴代誌・上22章8節で、ダビデに語っておられます。「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。私の前で多くの血を大地に流したからには、あなたが私のために神殿を築くことは許されない。見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人である。私は周囲のすべての敵からその子を守って、安らぎを与える。それゆえ、その子の名はソロモンと呼ばれる。私はこの子が生きている間、イスラエルに平和と静けさを与える。この子が私の名のために神殿を築く。」そのソロモンも若い時はよかったのですが、晩年になると偶像崇拝等の罪を犯します。ソロモンも完璧ではありません。しかしダビデ、ソロモンの子孫ヨセフと結婚したマリアから生まれるイエス様は完全に平和の方です。このイエス様が、世界の真の王、真の救い主としてマリアから生まれます。旧約聖書のゼカリヤ書4章6節に、このような神の御言葉があります。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって。」世界のリーダーたちは、武力と権力によって支配しますが、イエス様は違います。ただ聖霊の愛と平和と正義によってのみ、治めされます。
マリアの信仰と人類最初の女性エバの生き方を並べてみると、非常に対照的であることが分かります。神様の御言葉を不正確に理解していたエバは、神様の御言葉を否定する悪魔の唆しに割に簡単に負けたように見えます。悪魔は言ったのです。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」エバ(この段階ではエバという名はまだついていなくて、女とだけ書かれている)が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実をとって食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」アダムもエバに唆されて、実を食べ、人類最初の夫婦が神に背きました。これと対照的な夫婦がマリアとヨセフです。マリアとヨセフは一致協力して神様に従い、生まれた赤ちゃんイエス様を守ってゆきます。エバの失敗をマリアが取り返し、アダムの失敗をヨセフが取り返したと言えます。最初の夫婦エバとアダムが神に背いた罪をマリアとヨセフの夫婦が、神様に従うことで、取り戻したとも言えます。本当に対照的な夫婦です。
マリアさんの神様に従う決断が、世界の歴史を変えました。マリアは語りました。「お言葉どおり、この身に成りますように。」私たちも、洗礼を受けたときから、イエス・キリストの僕(しもべ)になりました。私たちの存在と生き方によって、神様のご意志が行われ、神の国が前進することを願っています。私たちは自己実現ではなく、神様の御心が実現することを願います。私たちも、「お言葉どおり、この身に成りますように」、私たちの日々の神様に従う決断によって、この世界でささやかでも、神の国が前進するように、神に従う日々を重ねて参りましょう。アーメン。