日本キリスト教団 東久留米教会

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2022-05-07 23:30:54(土)
説教「『アッバ、父よ』と祈るイエス様の心」 2022年5月8日(日)復活節第4主日礼拝
礼拝順序:招詞 使徒言行録4:29、頌栄85(2回)、「主の祈り」,使徒信条、讃美歌21・514、聖書 レビ記16:11~16(旧約187ページ)、ガラテヤの信徒への手紙4:1~7(新約347ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・321、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(レビ記16:11~16) アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく。次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく。こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。彼は、人々のただ中にとどまり、さまざまの汚れにさらされている臨在の幕屋のためにも同じようにする。

(ガラテヤの信徒への手紙4:1~7) つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

(説教) 3週間前にイースター礼拝を礼拝を献げ、本日は復活節第4主日の礼拝です。できれば月に一回ほど、ガラテヤの信徒への手紙を読む礼拝を献げたいと思っていますが、今日は2月6日(日)以来約3ヶ月ぶりになります。この手紙を書いたのは、イエス・キリストの十字架の死と復活後に弟子(使徒)となったパウロです。少しおさらいしますと、パウロはすぐ前の3章26節で、こう書きます。「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。」イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることは、イエス・キリストを着ることだと教えられます。私どもの中身は、残念ながら依然として罪人(つみびと)であるけれども、イエス・キリストという衣を着るので、父なる神様の目には、私どもが全く罪なき神の子と映る。従って、最後の審判の時、私たちは必ず無罪を宣告されます。そしてそのような私たちが、今やイエス・キリストに属する者たちであり、信仰の父アブラハムの真の子孫であり、神様がアブラハムとその子孫に約束された祝福(天国という真の祝福)の相続人であると、私たちキリスト者に与えられた恵みを語ります。

 そして4章の1節。「つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕(しもべ、原語は奴隷の意味)と何ら変わることなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の管理人の監督の下にいます。」旧約聖書以来の神の民であるイスラエル人たち(パウロたちイスラエル人、ユダヤ人)も、旧約聖書の時代にまだいわば未成年の状態だった。2節「同様に私たちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。」しかもそれに気づいていませんでした。パウロについて言えば、パウロは律法主義者だったのです。自分の頑張りと努力でモーセの十戒を初めとする神様の律法を守り、自力で天国に入ることができる最高に立派な人間だと、自信満々でした。プライド、誇り、自負で心の中が満ちていました。プライド、誇り、自負には高慢という罪がこびりついています。パウロは高慢という罪に支配されていたのです。悪魔(悪霊)がパウロを、高慢の罪の虜にしていた、高慢の罪の奴隷にしていたのです。パウロはそれに気づいていませんでした。パウロはきっとイエス様を知って初めて、自分が高慢の罪の奴隷になっていた、悪魔(悪霊)の奴隷になっていたことに気づいたのだと思います。

 4~5節「しかし、時が満ちると、神は、その御子(イエス様)を女(マリアさん)から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした。」これはクリスマスの出来事です。「時が満ちると、父なる神様はこうなさった」とあります。マルコ福音書1章15節を見ると、イエス様がガリラヤで次のように語って、福音伝道を開始されました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」その約30年前、やはり神の時が満ちて、父なる神様は、真の神の子イエス様を、この地上のイスラエルの国のベツレヘムに誕生させて下さいました。イエス様はマリアさんの息子ですから、神の子でありながら、私たちと同じ肉体を持つ人間でもあります。人間、それもイスラエル人としてお生まれになりました。イスラエル人として生まれたということは、モーセの十戒をはじめとする律法の支配下にある者としてお生まれになったということです。

 イエス様は、真の意味で律法を完璧に守って生きられました。律法をまとめると、父なる神様を愛し、隣人を自分のように愛する生き方をするということです。イエス様は100%そう生きられました。安息日には必ず父なる神様を礼拝し、病気の人々を癒して生きられました。イエス様の生き方のクライマックスは十字架です。私たち全ての人間の罪(モーセの十戒を、律法を完全に守ることができない罪)に対する父なる神様の正しい審判を、身代わりに全部引き受ける十字架の死が、イエス様の生き方のクライマックス、愛の生き方のクライマックスです。もちろん三日目の復活もクライマックスです。

 イエス様が私たち人間の罪を贖う(身代わりに背負う)ためには、イエス様は私たちと同じ人間でなければなりませんでした。イエス様が、律法の制約下にある人間として生まれて下さったことには、目的があり、「律法の支配下にある者(私たち)を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした。」「贖い」は、聖書独特の言葉と言ってもよいと思います。新共同訳聖書の巻末の用語解説を見ると、「旧約聖書の中で神が特に『贖い主』(イザヤ書41:14)と呼ばれているのは、イスラエルの民を奴隷状態から解放する神の働きを述べたものである。新約では、キリストの死によって、人間の罪が赦され、神との正しい関係に入ることを指す」と書いてあります。「贖い」は罪の赦し、罪からの解放、救いですね。神との正しい関係に入ると聞くと難しく感じますが、今読んでいる5節にある通り、「神の子とされる」「神の子になる」ということです。

 生まれつきの私たちは原罪を持ち、神から離れており、神の子ではありませんでした。神様の正しい掟であるモーセの十戒や律法を、完璧に実行する力をもっていませんでした。モーセの十戒を実行することは大事ですが、私たちには罪があるので、モーセの十戒を純粋に完璧に行うことができません。十戒を行っているようでも、いつも私たちにエゴ、自己中心の罪がこびりついているので、完璧な実行ができないのです。十戒、律法は聖なるもの、よいものです。しかし私たち罪人(つみびと)に、それを実行する力がないために、私たちは十戒や律法を読むと、気分が重くなると思うのです。律法を実行できないので、神様に裁かれると感じるからです。これを「律法の呪い」と呼ぶことがもできます。しかしこのガラテヤの信徒への手紙の(少し前の)3章13節は、こう言います。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。『木(十字架)にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」

 この場合「呪い」とは神の正しい裁きです。本来、聖なる十戒・律法を守ることができない私たちが神の裁き・呪いを受けるのが当然です。ところがその裁きと呪いの全部を、イエス・キリストが十字架で引き受けて下さったのです。ここに聖なる交換(取り換え)が起こりました。驚くべき恵みの交換(取り換え)です。私たちが受けるべき呪いの全部をイエス様が代わりに引き受けて下さり、常に100%父なる神様に従って来られたイエス様が当然受けるべき祝福を、私たち罪人(つみびと)が代わりに全部いただくという交換です。全くあり得ないほどに大きな恵みです。イギリスの作家の作品でしたか、『王子と乞食』という物語があると思います。乞食は、今では差別言葉ですので、申し訳ございません。私はちゃんと読んでいないのですが、確か、「王子が乞食になり、乞食が王子になるという交換を行う」話だと思います。まさにそれと似たことが私たちの身に起こりました。イエス様が呪いの十字架にかかって、私たちが受けるはずの厳しい裁きと呪いの全部を引き受けて死なれ、私たち罪人(つみびと)がイエス様が受けるはずの100%の祝福を代わりにいただく。聖なる交換、驚くべき恵みの交換です。自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じ告白する人は皆、この恵みの交換によって大きな祝福、永遠の命・復活の命という祝福を受けることができます。驚くべき恵みです。この恵みによって、私たち罪人(つみびと)が神の子とされたのです。

 6節「あなた方が子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子(イエス・キリスト)の霊(聖霊)を、私たちの心に送って下さった事実から分かります。」イエス・キリストを救い主と信じ告白した人には、聖霊(生きておられる神様の清き霊、イエス様の霊)が住んでおられます。聖霊が私たちの内に住んでおられるなら、私たちは間違いなく神の子であり、神に属する者であり、天国に入ることを約束された者です。この聖霊に導かれ、聖霊に促されて私たちは「父なる神様」と呼びかけて祈っています。「天にまします我らの父よ」と祈っています。私たちの知り合いのクリスチャンにいつも「アッバ、父よ」と呼びかけて祈り始める男性がおられます。「なるほど、よい祈りの呼びかけだ」と感じています。いつも「アッバ、父よ」と祈り始められるのです。

 「アッバ」は、イエス様が日常的に使っておられたアラム語だと聞きます。「アッバ」は「パパ」のような非常に親しい呼びかけだと聞いています。「アッバ、父よ。」まずイエス様が、こう呼びかけて祈られました。十字架前夜のゲツセマネの祈りにおいてです。その前にもイエス様は、いつも「アッバ、父よ」と親しく呼びかけて、父なる神様に祈られたと思うのです。「アッバ、父よ」と祈るイエス様の心は、父なる神様をとても親しく、近しく感じる心、父なる神様を無条件に信頼している心だと思うのです。マルコ福音書にゲツセマネでのイエス様の祈りが、こう書かれています。「アッバ、父よ。あなたは何でもおできになります。この杯を私から取り除けて下さい。しかし、私が願うことではなく。御心に適うことが行われますように。」このイエス様の霊である聖霊が私たちクリスチャンにも注がれているので、私たちも「アッバ、父よ」と祈ります。ローマの信徒への手紙8章15節には、このように書かれています。「あなた方は、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊(悪霊)ではなく、神の子とする霊(聖霊)を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそ、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒になって証しして下さいます。」

 生まれつきの神の子は、イエス様ただお一人です。私たちは生まれつき神の子ではなく、むしろ罪の奴隷、罪の子でした。それをもっとはっきり言うと悪魔の子だったということになります。悪魔の子だったとは言い過ぎではないかと言われそうですが、罪の奴隷だったということは罪の子、悪魔の子だったことになります。しかしイエス様が十字架の上で、私たちの全部の罪を担いきって下さったお陰で、全部の罪を赦していただき、イエス様の霊である聖霊を注がれ、イエス様と共に「アッバ、父よ」と祈る神の子になることを許されたのです。「アッバ、父よ」と祈ることができることが、深い恵みです。

 7節「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」イエス様を救い主と信じ告白し、洗礼を受けた人は皆、もはや罪の奴隷ではなく、悪魔の奴隷ではなく、神の子です。イエス様に似た者です。復活して天におられるイエス様と共に天国、永遠の命の受け継ぐ相続人とされています。大きな恵みです。イエス様の十字架の贖いの死のお陰です。東久留米教会で約25年前に、加藤常昭先生という高名な牧師をお招きして伝道集会を行いましたが、その時に加藤先生がおつけになった説教題が「あなたも神の子として生きる」でした。よい題ですね。「あなたも神の子として生きることができますよ」という福音(よいニュース)をクリスチャンでない方々にお伝えしたのです。

 本日の旧約聖書は、レビ記16章です。ここを読むと、聖書で「贖い」「罪の贖い」がどんなに重視されているかが分かります。ここに旧約聖書の時代のイスラエルの民の「贖罪日」に行われた贖いの内容が記されています。一年に一回の「贖罪日」にモーセの兄・大祭司アロンが神殿の至聖所(最も聖なる空間)に入ります。聖なる衣服を着て肌を隠し、聖なる神様に撃たれて死なないように自分を守っています。アロンはまず自分と一族のために贖いの式を行い、次にイスラエルの民のために贖いを式を行います。自分と一族の罪のために雄牛を屠り(殺し)、イスラエルの民のために雄山羊を屠り(殺し)ます。これらのいけには、血を流します。気持ち悪く感じますが、聖書では血は命そのものです。聖書には「血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない」という厳粛な言葉があります。アロンと一族の罪の赦し、イスラエルの民の罪の赦しのために、雄牛と雄山羊が、どうしても死ぬ必要がありました。これが旧約聖書の時代の「贖罪日」に行われた贖いです。

 「アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく。次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく。こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。」しかし人間の罪を本当に完全に贖うには、動物を屠って動物の血を流すのでは不十分で、人間でなければなりません。それも全く罪のない方でなければ、真の贖いになりません。そこで時が満ちて、神の子で人間であるイエス様が十字架で尊い血を流して死なれ、真の贖罪の献げ物となって下さいました。私たちはそのお陰で、全部の罪を赦され神の子とされ、永遠の命の約束を受けています。

 本日のガラテヤの信徒への手紙4章3節を、改めて読むと、こう書いてあります。「私たちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。」世を支配する諸霊は、悪霊です。私たちはイエス様の十字架と復活によって、これらの悪霊に勝利しています。悪霊は最後に必ず全滅しますが、しかし今はあがいて働いており、できれば人を誘惑して破滅に落とし込もうと働いています。もちろんイエス様の方が強いのです。でも残念ながら悪の諸霊は今も働いていますから、私たちはそれを見抜いて、それに抵抗する必要があります。戦争中の日本では、軍国主義という悪霊が人々を支配していました。オウム真理教という悪霊も、かなりの悪を行いました。国が無限に経済成長を続けなければいけないという考えも、悪霊ではないでしょうか。野心という悪霊もあります。今、多くの国がウクライナを支援しており、それはよいのですが、問題もあるようです。ウクライナに武器を供与するので、兵器産業が活気づいていると聞きます。兵器産業にとってはロシアとウクライナの戦いが長期化する方が武器を売ることができてありがたいというのです。武器を売って儲けるとは、とんでもない罪、死の商人です。武器を売って儲けなさいと誘惑する悪霊が働いています。

 それにしてもプーチンとロシア正教が結託しているようです。日本の正教会は、ロシアの正教会に書簡を送り、ロシアとウクライナの和解のために尽力してほしいと訴えています。権力と宗教が結びつくと、よい結果を生まないようです。権力に奉仕する御用宗教・御用教会になってしまい、堕落します。キリスト教会も歴史の中でそのような過ちを犯して来たのは事実と思います。日本基督教団もいばることができません。太平洋戦争中は戦争に反対せず、協力してしまいました。悪の諸霊に従ってしまったのです。ようやく1967年になって、戦争に協力した罪を悔い改める声明を総会議長名で出しています(以下抜粋)。

 「世の光、地の塩である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対して正しい判断をなすべきでありました。しかるに私どもは、教団の名においてあの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外に向かって声明いたしました。まことに私どもの祖国が罪を犯したとき、私どもの教会もまたその罪に陥りました。私どもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞に心からのゆるしを請う次第であります。」

 残念ながらキリスト教会も時に過ちを犯し、悪の諸霊に従ってしまうことがあります。私どもが悪の諸霊に従わないように、よく目を覚まして注意している必要があります。教会とクリスチャンが誘惑に負ければ、悪魔が大喜びします。今はロシア正教が悪魔の誘惑に負けて、権力者にすり寄っています。

 私たちは、どうすれば悪霊から自由になるのでしょうか。聖書を読み、祈ることです。聖書を読む時に、聖書を曲げて自分に都合の良い解釈をしないことです。イエス様に従って生きることです。イエス様に従って、悪しき欲望を捨てて、神様を隣人を愛して、清く質素に生きることが必要と信じます。私たちが、聖霊に導かれて、イエス様のように悪魔の誘惑を撃退しながら生きることができるように、祈って生きて参りましょう。アーメン。

(祈り)御名賛美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和を。フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。

2022-05-01 0:40:29()
説教「エマオ途上でのイエス様との出会い」2022年5月1日(日)復活節第3主日礼拝
礼拝順序:招詞 使徒言行録4:29、頌栄29、「主の祈り」,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・322、聖書 イザヤ書53:3~8(旧約1149ページ)、ルカによる福音書24:13~35(新約160ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・287(5節まで)、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書53:3~8) 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。

(ルカによる福音書24:13~35) ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活してシモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

(説教) 先々週イースター礼拝を礼拝を献げ、本日は復活節第3主日の礼拝です。本日はルカによる福音書の有名な場面、イエス・キリストの二人の弟子たちが、エマオという土地に行く途中で、復活のイエス様が共に歩いて下さった場面です。この場面の有名な絵がありますね。イエス様が共に歩いておられるのですが、木陰になっている様子で、それでイエス様の顔が弟子たちに見えなかったと解釈できる絵になっています。先日、以前の教会員・水口さんが札幌から東久留米教会に送って下さったイースターカードに、その絵が印刷してありました。

 最初の13節「ちょうどこの日(イエス様が復活された日曜日)、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この出来事について話し合っていた。」この朝、イエス様の婦人の弟子たちが、イエス様を二日前に葬った墓に行ってみると、イエス様の遺体がありませんでした。そこへ輝く衣を着た二人の人(天使たち)が現れ、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子(ご自分)は必ず、罪人(つみびと)の手に渡され、十字架につけられ、復活することになっている、と言われたではないか。」婦人たちは墓から帰って、この一部始終を男の十一人の弟子たち(使徒たち)に話しましたが、彼らはたわ言のように思い、信じませんでした。イエス様の一番弟子ペトロだけが、墓へ走って行き、イエス様の遺体がないことを確認し、この出来事に驚きながら家に帰りました。この不可解な出来事は、一体何なのか。弟子たちの心に大いにひっかかりました。

 そんな中で、二人の弟子(名前は分かりません)がエマオという村へ出発したのです。この一切の出来事について話し合いながら。15~16節「話し合い、論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」神様が二人の目を遮っていたので、二人には本当のことが分かりませんでした。この男性が復活されたイエス様だと分からなかった。真相が分からなかったのです。私たちも人間の生と死とは何か、その真相が、本当に見えているでしょうか。たとえば私はプーチン氏は、何が正義で何が罪と悪か、見えなくなっていると思います。私たちも、人間とは何なのか、人生とは何なのか、生と死とは何なのか、人生の根本的なことをよくよく考えないと、見えなくなります。しかし聖書を読んでゆくことで、確かな指針を与えられ、人生の大切なことが見えてくると信じます。それまでは、私たちも自分のエゴや罪や欲望で、人生の大切なことが見えなくなっていることがあると思います。

 17節。イエス様が話しかけて下さいます。そして真理を知らせる方向へと、会話をリードして下さいます。「イエスは『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。『エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。』」イエス様の十字架は大事件だったのでしょう。イエス様が、「どんなことですか」と言われると、二人は堰を切ったようには話し始めました。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。」この弟子たちは、イエス様をまだ神の子と信じていないのですね。預言者との思いにとどまっています。「それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。私たちは、あの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」

 この弟子たちは、イエス様がどんな方か、まだ見えていませんでした。イエス様こそ、イスラエル人たちの先頭に立って、武器も持ってローマ帝国と戦い、ローマ軍を打ち破ってイスラエルの栄光の独立を回復して下さる民族の政治的軍事的リーダーとしての救い主と信じていたのです。十字架によってその希望が消え、彼らは深く落胆しました。「しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」当時のイスラエル人は、「三日」ということに何か意味を感じていたようです。よく分からないことが起こっても「三日」すれば、意味や意義が見えてくる、という考えを持っていたらしいです。それでこのような言い方になったようです。「三日」に意味がある、「三日」すれば分かる。なのに三日目だが、イエス様の十字架の死が納得できる何事も起こらない。

 いや、たった1つ変なことがあった。「ところが、仲間の婦人たちが私たちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言った通りで、あの方は見当たりませんでした。」「一体このことを、どう考えたらよいのでしょうか」と言いたげです。ここまで聞いたイエス様が、一気に真相を開示、真相を開いて語り始められます。25~26節「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシア(救い主)はこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、御自分について書いてあることを説明された。」

 モーセとは、モーセ五書、つまり旧約聖書の最初の5つの書物「創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記」でしょう。イエス様がそのどの御言葉を取り上げられたのか分かりませんが、たとえば創世記22章の「信仰の父アブラハムが独り子イサクを父なる神様に献げようとした出来事」等を指すのではないかと思います。アブラハムが独り子イサクを献げようとしたことが、父なる神様が独り子イエス様を、私たちが救われるために十字架におかけになるという尊い犠牲を払われたことを暗示する出来事だったとの意味で、創世記22章のことを話された可能性はあります。でも「メシアはこういう苦しみを受けて」とあり、メシアの「苦しみ」を語る代表の旧約聖書は、イザヤ書53章です。イースター前の受難節から何回か読みましたが、やはり今日も読みます。復活のイエス様がイザヤ書53章のことを
語られたことは、間違いないと思います。

 「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。」

 「メシアは、こういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった」の「はず」は、原語で「デイ」という小さな言葉です。「必然、神様の必然」を表します。「メシアが苦しみを受けて、栄光に入る」ことは必然だった、神の必然で、創世記の時代から父なる神様が既に決定しておられた、それで旧約聖書のいくつかの箇所に既に記されているのです。その代表がイザヤ書53章です。弟子たちは、復活のイエス様に教えられて、おぼろげに分かって来ました。

 28節「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まり下さい。そろそろ夕方になりますし、もう日も方むいていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。」31節「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」弟子の一人クレオパは十二弟子ではないので、イエス様の最後の晩餐の時に弟子たちにパンと杯を渡す様子は見ていません。もしもう一人が十二弟子の一人だったら、この不思議な旅人がパンと裂いて渡す様子を見て、三日前の最後の晩餐のイエス様そっくりだと感じたでしょう。いずれにしても、イエス様からパンを受けた二人の目が開け、イエス様だと分かりましたが、イエス様の姿は見えなくなりました。

 これは聖餐式の原型の1つですね。イエス様の御体であるパンと、イエス様の音血潮であるぶどう液を食べ飲みすれば、イエス様の姿は見えなくてもよいのです。「見ないのに信じるのが信仰」だからです。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え」とありますが、「賛美の祈りを唱え」は直訳すると「祝福した」です。最新の訳である聖書協会共同訳はそう訳しています。「イエスはパンを取り、祝福して裂き」となっています。聖餐式のパンとぶどう液は、聖なるものとされたパンとぶどう液であり、同時に祝福されたパンとぶどう液です。今日はまだ残念ながら正式の聖餐式を行うことはできませんが、聖餐式でパンを食べ、ぶどう液を飲むとき、それは十字架で死なれ、復活して今も生きておられる聖なる主イエス・キリストとの生きた交流、直接の交流です。イエス様が復活して今も生きておられる現実を体(舌)で感じ、心で感じる祝福された聖なるときです。

 新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)10章で、イエス様の使徒パウロが書いています。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンにあずかるからです。」聖餐式でパンとぶどう液を食べ飲みすることは、真の神の子イエス・キリストとの純粋な交流です。だから偶像礼拝を避けなさいともパウロは言います。イエス様との純粋な交流である聖餐を受けながら、他の神々と交流する偶像礼拝を同時に行ってはいけない。偶像の正体は悪霊なので、偶像礼拝は実は悪霊礼拝です。イエス様を礼拝するか、悪霊、悪魔を礼拝するか。ここに妥協は一切ないので、イエス様を礼拝することに徹しなさいとパウロは言います。もちろん私たちはそれに従います。

 
 ルカに戻りますが、パンを受けると二人の目が開け、イエス様だと分かりましたが、イエス様の姿は見えなくなりました。32~35節「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さったとき、私たちの心は燃えていたではないか』と語り合った(十数年前に天国に行かれた教会員・草刈眞一さんが、この御言葉が大変お好きだったと記憶しています)。そして時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモン(ペトロ)に現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いて下さったときに、イエスだと分かった次第を話した。」

 「道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」聖書が分かる体験をして、イエス・キリストの愛に触れて、二人の心は燃やされました。イエス様は、ユダヤ民族の先頭に立ってローマ帝国と戦って勝利して下さるメシアだと信じていたが、そうではなかった。イエス様は十字架に架かるメシアだと、初めから決まっていた。イエス様は十字架で死なれて、私たち皆の全部の罪の責任を身代わりに背負って下さり、三日目に復活して、私たちを罪と死の支配から解放して下さる救い主だ、そう分かったのです。イエス様の十字架の犠牲の愛を知って感銘を受け、心を燃やされました。姿は見えなくても、イエス様は今も最も高い天で生きておられ、聖霊として共にいて下さいます。

 最初にお話しした、エマオ途上の道を二人の弟子たちと旅人(イエス様)が共に歩いている絵画。お隣の清瀬市にある救世軍恵泉ホーム(東久留米教会の関係者も数名お住まいになりました)の1階のホールに、その絵がかけてあったと覚えています。大きなサイズにしてかけてあったと思います。このホームには、復活されたイエス様が共にいて下さるというメッセージが込められているのかもしれません。

 エマオというと、私がどうしても思い出すのは、日本キリスト教団の東北教区被災者支援センターエマオです。今はもう閉じているようです。2011年3月11日の東日本大震災後に開設されました。全国からのボランティア受け入れ拠点となり、私も西東京教区の皆さんとご一緒に、何回か行きました。初めて行ったのがその年の5月の連休頃ですから、2ヶ月近くたっていたので、いわゆる瓦礫はほとんど片づけられた後でした。荒浜という海岸沿いは多くの家が建っていたそうなのですが、家々は津波で流され、土台だけ残っている状態でした。畑からごみを取り除いたり、小屋の中を掃除したりという作業が主でした。ボランティアは日本中から、そして台湾や外国の方々も来ていました。西東京教区のグループは同じ教会に泊まり、夕方には礼拝を行います。東北教区事務所の二階に開設されたエマオには、目に目得なくとも確かにイエス・キリストが聖霊として、共におられたのだと思います。そこには、今日の場面の絵も貼ってありました。先ほどご紹介した有名な絵ではなく。エマオに向かって旅するイエス様と二人の弟子たちを描いた今風の絵です。イエス様も今風のイケメンに描かれていました。そしてイスラエルの写真も貼ってあって、ここがエマオかもしれないと言われている場所の写真でした。神様の助けと、農家の人々の努力と、ボランティアの働きによって、塩水が浸透してしまった畑も、徐々に回復して小松菜などの作物が獲れるようになりました。田んぼの復活には10年かかると最初は言われましたが、それも何と3年目くらいから次第に復活したようです。新聞に上空から撮影した写真が載りました。1枚目は震災直後の写真で、田畑は土色です。数年後に上空から撮った写真では、田畑が青々としています。田畑の復活です。現実には高齢化した農家には、いつまで農業を続けるかという大きな悩みがあるそうです。ですから今その田畑がどうなっているかは分かりませんが、震災後に一旦復活したことは確かです。農家の努力と共に、神様の愛の助けがあったと思います。これは東北教区被災者支援センター・エマオの思い出です。

 復活されたイエス様が、今も聖霊として、私たちといつも共にいて下さる恵みを感謝致します。アーメン。

(祈り)御名賛美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。午後の役員会に神様の恵みを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和を。フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。

2022-04-24 0:24:05()
説教「全ての造られたものに福音を」2022年4月24日(日)復活節第2主日礼拝
礼拝順序:招詞 ローマ6:3~4、頌栄24、「主の祈り」,使徒信条、讃美歌21・328、聖書 イザヤ書65:17~25(旧約1168ページ)、マルコによる福音書16:9~20(新約97ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・327、献金、頌栄27、祝祷。 

(イザヤ書65:17~25) 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。彼らは家を建てて住み/ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり/わたしに選ばれた者らは/彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく/生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に/主に祝福された者の一族となる。彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え/まだ語りかけている間に、聞き届ける。狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。

(マルコによる福音書16:9~20) 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
◆二人の弟子に現れる  その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
◆弟子たちを派遣する   その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
◆天に上げられる 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕◇結び二〔婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。〕

(説教) 先週イースター礼拝を礼拝を献げ、本日は復活節第2主日の礼拝です。先々週、先週とマルコ福音書でイエス様の十字架の個所と復活の個所を読んで来ましたので、本日もマルコ福音書です。その締めくくりの部分、9節から20節です。この個所全体が〔〕の中に入っています。新共同訳聖書の序文の次の「凡例」一の(6)によるとこの〔〕の意味は、こうです。「新約聖書において、後代の加筆と見るのが一般的とされている個所。」ある解説書によると、マルコ福音書は元々、16章8節で終わっていたと見られる。初期の写本に9節以下は書かれていない。9節以下が載っているのは後期の写本に限られる。そうであっても、9節以下も聖書正典として確定しているようですので、私たちは安心して神様の言葉として読みたいと思います。9節から12節には、復活されたイエス様が「マグダラのマリアに現れた」、「二人の弟子に現れた」という2つのエピソードが書かれています。しかし、それを聞いた人々が信じなかったと書かれています。人々が不信仰だったのです。

 9節「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御地自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。」不信仰の罪です。 12節「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。」これはルカによる福音書24章の出来事、二人の弟子たちがエルサレムからエマオという所に向かっているとき、途中からある旅人が一緒に歩き始め、あとからそれがイエス様だと分かったという出来事に似ています。似ていますが、別の出来事かもしれません。ルカ福音書の方では、聞いた人々がイエス様の復活を信じたように見えるからです。マルコ福音書には、聞いた人々が信じなかったと書かれています。

 14節「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」復活されたイエス様が十一人の弟子たちの前に現れられたのですから、イエス様を見て十一人も文句なくイエス様の復活を信じたに違いありません。15~16節「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。』」

 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」マタイ福音書の最後でもイエス様はほぼ同じことを語っておられます。「あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」このマタイ福音書の最後のメッセージは「大宣教命令」と言われますが、先ほどのマルコ福音書でのイエス様の命令も、「大宣教命令」と言っても差し支えないと思います。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

 「すべての造られたもの」は、基本的には「すべての人間」を指すと思います。初めて日本にキリストの福音を宣べ伝えた人は、もちろんフランシスコ・ザビエルです。1549年8月15日に鹿児島に上陸したのです。ザビエルを東洋伝道、日本伝道へと駆り立てた御言葉が、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と、マタイ福音書16章26節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」の2つだったそうです。それにしてもヨーロッパから船で出発し、アフリカ南端の喜望峰を通ってインド、東南アジアを経由して、日本まで来る。やはりすごいことだと思います。途中で熱病等にかかって死ぬ可能性もあったでしょう。命がけです。日本で伝道した後、日本に大きな影響を与えたのは中国だと知り、中国に伝道に行き、そこで1552年に天に召されています。46才でした。故郷に帰ることはなかったのです。伝道地で天に召されることは本望だったと思いますが。神戸市の博物館にある、教科書に出ているザビエルの有名な肖像画がありますね。25年ほど前に池袋でザビエル展があった時に、私は実物を見ました。その絵を見ると、ザビエルの胸に真っ赤なハートが描かれています。その先には十字架につけられたイエス様も描かれています。真っ赤なハートは、イエス様への熱烈な愛を現していると、書かれていた記憶があります。ザビエルは日本伝道と中国伝道に、命を献げてくれたのでした。

 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」多くのクリスチャンたちが、この御言葉を実行しました。本多勝一というジャーナリストが書いていたと記憶していますが、この方はいわゆる未開の地(差別的な言葉で申し訳ございません)と呼ばれる地に行って、ルポルタージュを書く仕事をして来られました。本多氏が「このような果てには来ていないだろうと思うような所にも、キリスト教の宣教師は来ていたのだ。」クリスチャンでない本多氏は驚いたのでしょう。

 「すべての造られたもの」は基本的に「すべての人間」のことだろうと申し上げました。違う考えの方もおられます。「すべての造られたもの」は、神様がお造りになったすべてを指すという考えです。でもさすがに石や土に福音を宣べ伝えても意味がないように思いますから、「すべての生き物」を指すという考えなら、受け入れてもよいかもしれません。ここで思い出すのは、12世紀頃にイタリアに生きたアッシジのフランチェスコという人です。フランチェスコは、神様を愛し、隣人を愛し、神様がお造りになった自然を愛しました。これは伝説かもしれませんが、フランチェスコは、小鳥たちに説教したそうです。「私の兄弟であるつばめたち、こんにちは。つばめたち、神様の愛を歌って下さい。どんなに神様が親切か、知っているでしょう。神様は君たちに、空を自由に飛べる羽を下さいました。そして種まきをしなくても、食べるものを与えて下さいます。」小鳥たちに、このように説教したそうです。神の愛の福音を宣べ伝えたのです。すると鳥たちは、美しい声で鳴いたそうです。私たちの身の周りでも、鳥たちが鳴いています。特に早朝によく美しく元気に鳴いています。あれはお互いにコミュニケーションをとっているのも確かですが、鳥たちは神様を讃美していると思います。神様を讃美するのは、私たち人間だけではありません。鳥は美しく鳴くことで、花は美しく咲くことで、神様を讃美しているのではないでしょうか。今は緑がとても美しいよい季節です。神様に造られた自然界も、神様をほめたたえていると感じます。

 「福音を宣べ伝えなさい。」福音は、新約聖書の原語のギリシア語で「エウアンゲリオン」です。良い知らせ、良いニュースの意味です。紀元前490年にアテネともう1つの軍隊が、ペルシアの大軍を迎え撃ったマラトンの戦いがあり、勝ったアテネ軍の兵士がアテネまで約40キロ走って「我らは勝った」と良い知らせ(エウアンゲリオン)を伝えて、息絶えたという話がありますね。このようにエウアンゲリオン(福音)は、負けるかもしれない戦いに勝った、あるいは子供が生まれたという良い知らせを指します。聖書が言う福音は、イエス・キリストの十字架の死と復活のお陰で、私たち罪人(つみびと)に、全ての罪の赦しと、死で終わらない永遠の命・復活の命がプレゼントされるという最大の良いニュースを指しています。この良きニュースを、私たちも宣べ伝えることがまさに父なる神様に喜ばれることです。

 16節「信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」洗礼については、ガラテヤの信徒への手紙3章26~27節を読むのがよいと思います。「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。」自分の罪を悔い改め、イエス様が私たちの罪を全部背負って十字架で死なれ、三日目に復活されたことを信じて洗礼を受けると、キリストという衣を着たことになります。父なる神様は、キリストという衣を着た状態の私たちを見て下さいます。私たち自身にはまだ罪がありますが、父なる神様は、清いキリストという衣を着ている私たちを見て下さり、私たちを無罪と見なして下さいます。ですから洗礼は、大きな恵みです。

 17節「信じる者には、次のようなしるしが伴う。彼らは私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。」神の子イエス様が福音書の中でなさったのと同じことを行うというのです。イエス様ほどにはできなくても、ある程度できる可能性はあります。イエス様は確かに悪霊を追い出して、人々を救って下さいました。私たちも悪魔の誘惑を受けます。まず自分が悪魔の誘惑に負けないように注意する必要があります。それには聖書を読み、祈り、礼拝に出席する必要があります。聖書ではモーセの十戒を暗記しておくとよいと思います。十戒には何が神様の御心に適うよいことで、何が神様の御心に反する罪であるかが示されています。十戒を暗記して、聖霊に助けていただいて実践すれば、かなり悪魔に負けない生き方ができると思います。そして悪霊が私たちと他の方々から出て行くように祈ることが大事と信じます。今は特にプーチンという人が魂を悪魔に占領されて、悪魔の意志を実行しているので、プーチンを支配する悪魔が滅びるように祈ることが必要と信じます。
「彼らは新しい言葉を語る。」神様の御言葉、イエス様の御言葉を取り次いで語る。それまでは罪深い言葉をしばしば語っていましたが、聖霊に心と唇を清められて、少しずつ神様の御心に適う清い言葉を語るように変えられるということでしょう。

 18節「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」確かに、神様の愛の力が私たちに完璧に注がれれば、手で蛇をつかんでも、毒を飲んでも害を受けないということが起こるでしょう。イエス様の使徒パウロには、このようなことが起こっています。パウロが最後の旅、ローマへの旅の終わりの方で船が難破してマルタ島に打ち上げられたとき、蝮が出て来てパウロの手にぶら下がりました。そして噛まれたと思います。島の住民が見ていて、体が腫れ上がるか、急に倒れて死ぬだろうと思っていましたが、パウロは蝮を振り落とし、何の害も受けませんでした。この島の長官のプブリウスという人の父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその父の家に行って祈り、手を置いて癒したと書いたあります。イエス様が言われた通りになったのです。神様の愛の力が十分に与えられる時、このような奇跡は起こります。そのように神様を深く信頼することが大切と信じます。しかし必要もないのに、わざわざ蛇をつかんだり、毒を飲んでみて、わざわざ自分が大丈夫であることを証明しようとするべきではありません。それは「神様を試す罪」だと信じます。イエス様は「あなたの神である主を試してはならない」ともはっきり言われます。「手で蛇をつかみ、毒を飲んでも害を受けない」と書いてあるので、わざわざ実行してみて、命を落とした人もいると読んだことがあります。神様は私たちがピンチの時に、必要な助けを与えて下さると信頼して、しかし神様が本当に助けて下さるか試してはならないと信じます。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書65章です。ここには「新しい点と新しい地」、つまり神の国は完成した時の様子が記されています。これはエデンの園の回復です。神様が天地万物を創造され、人間を創造なさった最初、全ての状態が「極めてよかった」と記されています。ところが人間が誘惑に負けて罪を犯した時から、全てが狂って来ました。罪が入り込み、その結果、死が入り込んで来ました。自然界も弱肉強食でなかったのに、弱肉強食の生存競争の場となってしまいました。罪と死の呪いが入り込んできたのです。人間が罪を犯したことが原因なので、人間の責任があるのではないでしょうか。しかしイザヤ書65章は、その世界が終わり、神の国が完成された完全な祝福状態、天国を描いています。最後の25節にこうあります。「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私(神様)の聖なる山のどこにおいても、害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。」イエス様が、人々から悪霊を追い出し、多くの人々の病を癒して下さったことは、神の国の先取りです。神の国には悪霊もおらず、罪も病も死もないからです。

 マルコに戻り、19~20節「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」復活されたイエス様が、復活の体をもって天に昇られたことが語られています。イエス様が天に昇ったのは、復活から40日目です。エフェソの信徒への手紙は、イエス様が「もろもろの天よりも更に高く昇られた」と記します。そこが「神の右の座」です。最も高い天です。最も高い天におられるイエス様は、「王の王、主の主」。ヘンデル作曲のメサイアの歌詞では「King of Kings, Lord of Lords」。イエス・キリストは神に等しい方、父・子・聖霊なる三位一体の神様ご自身だということです。イエス様は、最も高い天で何をなさるのか。イエス様がヨハネ福音書14章でおっしゃいます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる。」イエス様が、私たちのために天に場所を既に用意して下さっています。私たちもそこに行くのです。信仰者は、地上の人生の後にイエス様の所に行くとはっきりしているので、安心です。全ての方に、この真の安心に入っていただくために、私どもも家庭や地域の至る所で宣教致しましょう。アーメン。(祈り)御名賛美。平原さんのご家族に、慰めを。先週の教会学校イースター会感謝。本日の教会総会に神様のご支配を。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和を。フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。

2022-04-20 20:59:07(水)
4月の伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」に掲載した文章)石田真一郎
「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章9節)。

 新入園児の保護者の皆様、おめでとうございます。下里しおん保育園は、キリスト教主義なので、毎朝、神様への礼拝があります。私は毎週金曜日に礼拝のお話をするために参ります。残念ながら世界で戦争が起こっている今、世界と日本に平和があるように、切に祈ります。

 私は2000年8月に、妻と8ヶ月だった息子(しおんのめだか組)と共に、フランス中東部のテゼ共同体に行きました。テゼ村は空気のきれいな田舎です。キリスト教の教派を超えた共同体として有名です(男子修道会)。わざと不便な所に造ったのかなと思います。ヨーロッパ中、世界からリュックと寝袋の若者が集まり短期滞在し、祈ります。食事は質素、チャペルでは毎日何回か礼拝が行われ、床に座ってテゼの讃美歌を歌い、沈黙の祈りの時を過ごします。個人や小グループに分かれて、外で聖書を読む時もあります。暑い中にも風が吹き抜け、心洗われました。バングラデシュや日本の青年に会いました。キリスト教がカトリック、プロテスタント、ギリシア(ロシア)正教、聖公会等に分かれたことを悲しみ、イエス・キリストに立ち帰り、祈りと労働の単純で質素な共同生活で一つになろうとしています。ローマ教皇はテゼを「教会の小さな春」と呼びました。色々な国の若者が来て、世界の平和と和解を祈ります。今こそ必要なことです。

 創始者のブラザー・ロジェに会うこともできました。この方が、乳児だった息子のために祝福を祈って下さいました。ブラザー・ロジェは、第二次世界大戦が起こると、難民をテゼの家に迎え入れ、戦後は敵だった捕虜のドイツ兵も迎えました。残念ながら、2005年8月に精神の病を負った女性に刺されて天国に行かれました。90歳でした。でも「敵を愛しなさい」と言われたイエス様を愛し、世界の和解のために祈り続けた方なので、加害者を恨んではいないと思います。テゼの祈りの集会は、日本でも行われ、私も参加しました。

 ブラザー・ロジェの最期は、私たち皆の罪を身代わりに背負って十字架のかかったイエス様の受難のようです。今の季節がイエス様の十字架の時です。十字架の三日目がイエス様の復活日イースターです。今年のイースターは4/17(日)です。世界が一刻も早く、平和になりますように! アーメン(真実に)。

2022-04-16 23:17:58(土)
「復活のイエス・キリストの愛」2022年4月17日(日)イースター礼拝説教
礼拝順序:招詞 ローマ6:3~4、頌栄85、「主の祈り」,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・325、聖書 詩編51:3~14(旧約884ページ)、マルコによる福音書16:1~8(新約97ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・326、献金、頌栄92、祝祷。 

(詩編51:3~14) 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。

(マルコによる福音書16:1~8) 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

(説教)イースター礼拝をお献げできます恵みを、心より感謝致します。先週の受難週の日曜日は、平原さんが天に召されるという大変悲しい出来事がございました。水曜日に告別式を行わせていただきました。そのような受難週を通って、本日イエス様の復活を記念するイースターを迎えることができました。悲しい現実の中にありますが、しかしその方にもイエス様の復活の命、永遠の命が与えられていることを信じます。これがイエス様から来る慰めです。

 イエス様は、金曜日に十字架につけられて死なれました。翌日の土曜日は安息日で、イエス様の死を悲しんだ女性たちも、礼拝をしたのだと思います。土曜日は静かに過ぎました。金曜日に十字架で死なれたイエス様は、陰府(死者の国)に降られました。使徒信条で、イエス様が「十字架に架かり、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちより甦り」と唱えている通りです。陰府でイエス様が何をしておられたかというと、宣教しておられたとペトロの手紙(一)3章19節以下に書かれています。「霊においてキリストは、捕らわれた霊たちの所へ行って宣教されました。この霊たちは、ノア時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」それが金曜日の夕方から土曜日を経て、日曜日の早朝までのイエス様だったと言えます。そしてイエス様は、十字架の三日目の日曜日の早朝に甦られ、復活されました。新約聖書では、イエス様の復活は受身形の動詞で表現されています。イエス様は復活させられた、甦らされた、イエス様は受身です。父なる神様がイエス様を復活させなさった、甦らせなさったのです。

 本日の1節「安息日が終わると、マグダラ(地名)のマリア、ヤコブの母マリア(おそらくイエス様の母マリア)、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。」この三名の女性たちは、イエス様の十字架の時も遠くから(と書いてあります)から見守っていました。男性の弟子のほとんどは十字架まで着いて来ることができませんでしたが、この女性たちは遠くからではありますが、十字架のイエス様を見守っていたと書いてあります。イエス様が十字架で死なれると、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、イエス様の遺体の下げ渡しを受け、ヨセフは亜麻布を買い、イエス様をその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておきました。墓を完全に封印したのです。マグダラのマリアとヤコブとヨセの母マリア(イエス様の母)は、イエス様の遺体を納めた場所を見つめていましたが、夕方には安息日が始まるので、帰宅しました。安息日には、深い悲しみの中で、礼拝を献げたのだと思います。

 安息日が終わるのは、土曜日の夕方。三名の女性たちは、イエス様の遺体に油を塗って真心を込めて処置するために、香料(アロマ)を買いました。よい香りで死臭を抑えようとしたのでしょう。イエス様への尊敬と愛から来る行為です。2節「そして、週の初めの日(日曜日)の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」朝4時ごろでしょうか。詩編46編6節には、「夜明けと共に、神は助けをお与えになる」と書かれています。3節「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」大きな重い石です。女性三人が力を合わせても動かない大きな石です。それを移動させないと墓に入れない。この石が大きな障害物でした。途方に暮れます。

 4節「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」意外なことが起こっていたのです。「目を上げて見ると」と書いてあります。私たちもいつの間にか下と自分の身の周りだけ見ていることがあります。そんなとき、気づかずに視野が狭くなっています。目を上に上げて見れば、大きな空が見えます。すると神様の大きな恵みに包まれていることが見えるのではないでしょうか。詩編の121編を愛する人も多いでしょう。そこには、こうあります。1節「都に上る歌。目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは来る、天地を造られた主のもとから。」都に上る旅。昔の旅は危険だらけだったでしょう。追いはぎに襲われる恐れもあります。そんな危険な旅に出る人が歌ったのでしょう。「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは来る、天地を造られた主のもとから。」この御言葉が歌詞になっている讃美歌21の155番が平原千鶴さんの愛唱讃美歌だったので、納棺式と告別式と火葬前式で讃美しました(無声の場合が多かったですが)。三名の女性たちも、「目を上げて」見ました。確かに助けが来ていたのです。天地万物、全宇宙と私たちの命を造られた主なる神様からの助けが、既に来ていたのです。「主の山に備えあり」という創世記22章の御言葉も思い出しました。

 5節「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。」若者は天使でしょう。父なる神様に派遣されて来たのです。父なる神様の介入という超自然的なことが起こっています。ヘブライ人への手紙1章に、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」と書かれています。その天使が天から来ています。婦人たちは、ひどく驚きました。当然です。天使という天からの使いが目の前にいたからです。超自然的な出来事です。6節「若者は言った。『驚くことはない。あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。』」

 7節「『さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。「あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる」』と。」「弟子たちとペトロに告げなさい。」これは父なる神様と復活されたイエス様が、天使に言わせなさった言葉と思います。ここに父なる神様とイエス様の深い愛と配慮がにじみ出ています。「弟子たちに告げなさい」ではなく、「弟子たちとペトロに告げなさい」と言われたからです。積極的にイエス様を裏切ったユダは別として、十人の弟子たちも、十字架にかけられるイエス様に背を向けて、逃げ出しました。ペトロの裏切りも深刻です。ペトロは木曜日の夜、最後の晩餐の時に、弟子たち代表のように言い張ったのです。「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません。」するとイエス様が、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と主張しました。ペトロは熱血漢ですから本気で言ったに違いありませんが、実際にはそれができませんでした。皆様ご存じの通りですが、イエス様が捕らえられると、ペトロはイエス様が最高法院による裁判を受けていた大祭司の屋敷の中庭で、下役たちと一緒に座って、火に当たっていました。ちょうど今頃の季節です。

 大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロをじっと見つめて「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言いました。ペトロは慌てて打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、私には分からないし、見当もつかない。」そして出口の方に出て行くと、鶏が鳴きました。女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言い出しました。ペトロは再び打ち消します。しばらくすると、居合わせた人々がペトロに、「確かにお前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」するとペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなた方の言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。私たち人間は、自分を守るために嘘をついたり、知っている人を見捨てたり裏切ったりすることがあります。ペトロもパニックになって、懸命にイエス様とのつながりを否定したのです。私たち罪人(つみびと)の罪深い本能です。ペトロが誓い始めると、すぐ鶏が鳴きました。ペトロははっとします。「しまった」と思い、頭を抱えたに違いありません。ペトロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」とのイエス様の言葉を思い出し、いきなり泣き出した、と書かれています。ペトロは激しい自己嫌悪に陥り、激しく泣いたのです。「何ということを言ってしまったのか。取り返しがつかない」と思ったに違いありません。

 本日の旧約聖書は、詩編51編です。これはダビデ王が自分の罪を悔い改めた有名な詩編ですが、ペトロの気持ちもこの詩編がよく語っていると思います。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。」そして下の段の19節には、こうあります。「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」

 さて、天使からイエス様の復活の知らせを聞いた女性たちは、驚いて喜んだかと思いきや、「震え上がり、正気を失って」墓を出て逃げ去った。恐ろしかたので誰にも何も言わなかった、と書かれています。天使は神様ではありませんが、聖なる存在です。人間が聖なるものに接した時、非常に恐れを覚えると聖書は色々な箇所で告げます。この時の女性たちの反応も、聖なる天使に接したからで、不自然でないと言えます。マルコ福音書は、4つの福音書の中で一番最初に書かれたとされます。それだけに記述が簡潔で率直と感じます。これが最初に復活を聞いた女性たちの、ありのままの正直な姿だったのでしょう。イエス様の復活の喜びは、この後、徐々に湧いて来たのだと思います。女性たちはペトロに言ったでしょう。「天使はこう言いましたよ。『さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」

 ペトロはそれを聞いて、じわっと涙が出たのではないでしょうか。「私はだめな奴だ。イエス様を3回も裏切ってしまった。許されないことだ。この大きな失敗、挫折の十字架を一生背負って、どう生きたらよいのだろう。」ところが復活されたイエス様は言って下さった。「弟子たちとペトロに告げなさい。」「私の名前だけ、特に出して下さった。ペトロよ、君の罪も赦しているから心配しなくていい。安心しなさいと言われたのだ」と思ったはずです。ペトロの目頭が熱くなったはずです。「こんな自分でも、イエス様に愛されている。見捨てられていない。」それなら、今度こそイエス様に本当に従って行こう。そう決心したはずです。

 ある人は言います。ペトロの名前の所に、私たちも自分の名前を入れてみるとよいと。私たちが一度もイエス様を裏切ったことがないかどうか。小さな裏切りなら、しているかもしれません。私たちはもしかすると、「こんな私が、本当に天国に入れていただけるのだろうか」と不安を感じることもあるかもしれません。もちろん大きな罪を犯していれば悔い改める必要はあります。でも、そんなに大きな罪を犯していない場合でも、「本当に自分は天国に入れるだろうか」と、人知れず不安な気持ちになることもないとは言えません。そんなとき、ペトロの名前の箇所に、ご自分の名前を入れて読んでみるのです。私であれば、こうです。「さあ、行って、弟子たちと真一郎に告げなさい。あの方は、あなた方より先にガリラヤへ(東久留米へ、つまり私たち一人一人の生活の場)行かれる。そこでお目にかかれる。」
 
 ペトロだけではないのです。大伝道者になったパウロは、先頭に立ってイエス様の弟子たち、クリスチャンたちを迫害する男でした。自分では正しいと確信してそうしていたのですが、神様に反逆していました。そのパウロに、復活のイエス様が声をかけられたのです。神様に背き続けていたパウロ(当時はサウロ)を見捨てることなく憐れんで、罪の悔い改めと救いへ導いて下さいました。イエス様はサウロに話しかけられたのです。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか。とげの付いた棒を蹴ると、ひどい目に遭う。」サウルは一時的に目が見えなくなり、悔い改め、洗礼へと導かれます。彼はコリントの信徒への手紙(一)15章5節以下で書いています。復活されたイエス様が「ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れた~。」ケファ(ペトロ)に現れる前に女性たちに現れているのですが、その後、まず復活のイエス様はペトロに現れて下さったようです。やはり落ち込んで立ち直れない気持ちでいるペトロへの愛の配慮でしょう。「次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうち何人かは既に眠りについた(亡くなった)にしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブ(イエス様の肉親の弟)に現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました。私は神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日の私があるのです。」

 ペトロもイエス様を三度裏切り、自信をもって弟子合格とは言えません。でもイエス様は見捨てず、再び弟子・使徒として用いて下さる。恵みとしか言えません。パウロもクリスチャンを猛烈に迫害してイエス様に逆らい、滅びへの道をばく進していたのに、憐れみを受け、悔い改めと救いに導かれた。パウロは万感の思いで書きます。「神の恵みによって今日の私があるのです。」自分には資格はない。ただイエス様の恵みのみによって、自分は救われたと。私たちも同じです。自分には天国に入る資格はない。しかしイエス様に完璧に従いきれていない私たちにも、イエス様は天使を通して声をかけて下さる。「さあ、行って弟子たちとペトロに告げなさい。」ペトロの名の代わりに私たちの名前を入れることが許されています。復活のイエス様のこの愛と恵みと思いやりに感謝して、平安な心で礼拝生活を続けて参りたいのです。アーメン。

(祈り)御名賛美。イースターです。平原さんのご家族に、神様の限りなき慰めを注いで下さい。午後の教会学校イースター会に祝福を注いで下さい。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナで亡くなる方がこれ以上出ないようにして下さい。コロナの新しい株をも静めて下さり、世界中が神に立ち帰るように導いて下さい。経済困難の方に助けを。全ての病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたち。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに早く平和がもたらされますように、切に祈ります。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の愛と助けを。アーメン。