日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2021-07-04 2:38:43()
「神のものは神に返す」  2021年7月4日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ヨハネ福音書16:33、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編32,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・209、聖書 マタイ福音書22:15~22(新約43ページ)、祈祷、説教「神のものは神に返す」、讃美歌21・461、聖餐式、献金、頌栄92、祝祷。 

(創世記1:26~27) 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

(マタイ福音書22:1~14) それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
22:16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

(説教) 6週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第7主日の礼拝(第41回)です。本日は2021年の後半の最初の日曜礼拝です。本日のマタイ福音書には「皇帝への税金」という小見出しがつけられています。これはイエス様が十字架につけられる金曜日の三日前の火曜日の出来事です。この火曜日、イエス様はイスラエルの信仰のリーダーたちと論争を重ねられます。イエス様が二日前の日曜日に、エルサレムの神殿を激しく清められたので、イスラエルのリーダーたちはイエス様への敵意を強めていました。最大の問題は、イスラエルの信仰のリーダーたちの信仰が偽善的だったことだと思うのです。

 最初の15節「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけおうかと相談した。」イエス様を陥れる陰謀です。16節「そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。『先生、私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。』」彼らの言葉は表面的には全く正しいです。イエス様は確かに「真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方、人々を分け隔てなさらない方」です。しかし彼らはもちろんイエス様を尊敬してはいません。反対にイエス様に憎しみを抱いています。彼らは羊の皮をかぶった狼です。表面的にはイエス様を尊敬しているように見せて、イエス様を油断させ、そしてイエス様を不利な立場に陥れようと画策しています。

 17節「ところで、どうお思いでしょうか。お教え下さい。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」当時のイスラエル人(ユダヤ人)が最も重視していたのが律法です。律法の代表はモーセの十戒です。少し拡大すると旧約聖書の最初の5冊(創世記、出エジプ記、レビ記、民数記、申命記)を律法の書が呼ばれていたので、彼らが言う律法はそれをも指すでしょう。さらに彼らの時代に細かい613の規定ができていて、それを含めて律法と呼ぶこともありました。話が複雑になりましたが、要するに彼らは「皇帝に税金を納めるのは、神様のご意志に適うでしょうか、適わないでしょうか」と質問したと言えます。

 ローマ皇帝に税金を納めるべきか、納めるべきでないか。これは当時のユダヤ人の間で意見の分かれるホットな論争のテーマでした。信仰と政治が絡み合った、巻き込まれると厄介な論争、ユダヤ人を分断していた論争です。賛成派と反対派がいた。「イエス様、あなたはどちらのサイドに賛成しますか」と問われたのです。納税賛成派のサイドに立つと言えば、納税反対派を敵に回すことになるし、納税反対派のサイドに立つと答えれば、納税賛成派を敵に回すことになります。イエス様をこの論争に引きずり込むことで、イスラエルの半分の人々がイエス様を嫌うように仕向けることができる。

 イエス様はこの陰謀に気づき、彼らが全く思いもかけなかった見事な答えをなさいます。それはこの問いから逃げたのではありません。ごまかしたのではありません。神の知恵と聖霊の導きによって、正面から最も真っ当な答えをなさったのです。相手の歯が立たない見事な答えになりました。私たちもこのよき答えから学ぶことが多いのです。私たちクリスチャンの生き方を教えて下さる本質的な答えです。

 18節「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、私を試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。』彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは誰の肖像と銘か』と言われた。彼らは『皇帝のものです』と言った。するとイエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。」

 イエス様は逃げず、ごまかさず正々堂々と答えたのです。神の子として完全に正しい、権威ある答えをなさいました。「皇帝のものは皇帝に返しなさい。神のものは神に返しなさい。」私たちは2つの権威の元に生きています。多くの場合、自分の国の国民として生きています(具体的には私たちは日本国の国民として生きています)。同時に神の国の国民として生きています。原則としては、自分の国の法律に従って生き、同時に神の国の教えであるモーセの十戒に従って生きる。これがクリスチャンの生き方の原則になります。「皇帝のものは皇帝に返しなさい」ですから、ローマ帝国に税金を納めなさいと言われました。

 税金に納めるコイン(デナリオン銀貨)には、ローマ皇帝の肖像と銘が刻印されていました。1デナリオンは、当時の一日分の賃金だそうですから、今の日本の感覚では5千円か1万円でしょうか。デナリオン銀貨の表面には、月桂冠を被った皇帝の肖像と銘が刻印され、「皇帝ティべリウス・神の子アウグストゥス」の文字が刻まれていたそうです。このコインが流通していたことは、イスラエルがローマ帝国に支配されていることを示しますから、ユダヤ人にとっては屈辱です。でもイエス様はローマ帝国に税金を納めなさいと言われます。「皇帝のものを皇帝に返す。」それはこの地上の政治の次元の話です。私たちも地上の政治体制の中で生きています。この世の政治を行う責任者が悪を行うように命じるのでなければ、その政府に従うことが神の意志だとイエス様は言われます。私たちも東久留米市や各々住んでいる市に税金を納め、日本国に税金を納めます。こうして市民・国民としての責任を果たします。市や国に少々不満があったとしても、だからと言って市や国に税金を納めない道を選びません。皆様も税金を納めておられますし、私も納めています。私たちも「皇帝のものを皇帝に返して」います。日本国のものを日本国に返しています。市民・国民の義務・責任を果たしています。クリスチャンほどよい市民はいないという言葉を読んだことがあります。イエス様が「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われたので、クリスチャンは喜んで市民としての義務・責任、国民としての義務・責任を果たすからです。

 ローマの信徒への手紙13章(新約292ページ下段)に、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と一致する御言葉があります。1節「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」私たちは父母に従い、原則として学校では先生に従い、会社では上司に従います。先生や上司が悪いことを命じれば別ですが、ふつうは従います。4節「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。(~)権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。」7節「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」
 
 もちろんイエス様の御言葉には、続きがあります。「神のものは神に返しなさい。」これは地上の政治より上の次元のことです。皇帝や大統領や総理大臣は、この世の政治の責任者であり、権力者です。でも権力者は神ではありません。全宇宙を創造なさった真の神様の前に、皇帝も大統領も総理大臣もひざまずく必要があります。権力者は、神様にお仕えするために存在を許されています。権力者の支配の及ばない領域があります。真の神様に従わない権力者や国は、滅びてしまいます。

 本日の旧約聖書である創世記1章27節は、人間の本質を述べた御言葉です。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」神はお一人なのに我々と言っておられることが不思議ですが、1つの考え方はこれは「神様の自己内対話」(神様がご自分の内部で相談しておられる)というものです。私は「なるほど」と思います。それはともかく、私たち人間は皆、「神様にかたどって創造された」「神に似せて創造された」一人一人なのです。これを「神の似姿」と呼びます。人間だけが神様に似せて創造されました。ここに人間の尊厳があります。もちろん最高の尊厳を持っておられる方は神様です。人間の尊厳はもちろん神様より下ですが、他の生き物より上でしょう。もちろん他の生き物の命も大切にしなければいけません。ですが人間だけが「神に似せて」造られたことにより、他の動物より高い尊厳を与えられています(同時に責任も与えられています)。クリスチャンであってもクリスチャンでなくても、人は神に似せて創造された特別の尊厳を持っています。尊厳があるところが神様に似ていると言えますが、言葉でコミュニケーションをとることができる、愛することを知っているところ等が、神様に似ていると言えます。私たち人間一人一人には、目に見えなくても、神の姿が刻印されていると言えるのです。人間は皆、神のものです。もちろん神様が創造なさった宇宙全体が神のものですが、中でも人間は神に似せて造られた尊厳ある存在、神が愛する一人一人であり、神のものです。その人間を殺すことは、神への反逆の罪になります。

 「神のものは神に返しなさい。」これは政治の次元を超えた、もっと根源的な神様の命令です。私たち人間は神のものですから、自分を神様にお返しすることが必要です。それは礼拝ではないでしょうか。自分の命を造って下さった神様の元に帰ることは、最も平安なことです。アウグスティヌスという昔の有名なクリスチャンは、「人は神に向かって造られたので、神の元に帰らないと真の平安を受けることができない」という言葉を残しています。逆の言い方をすれば、人は神の元に帰ることで初めて、真の平安を得ることができるということになります。真の神様に祈ること、真の神様を礼拝する礼拝に出席するときに、私たちは真の神様の元に帰ることができ、平安を受けることができます。私たちは日曜日を神様の日と信じ、神様を礼拝するために集まります。どうしても教会に行けない場合は、家で礼拝し、あるいは職場で短い時間であっても祈りを献げます。そうして神様のものである自分を神様にお返し、お献げします。人間は皆、見えない神の姿を刻印された者ですが、クリスチャンになればさらにそうです。

 洗礼を行わないキリスト教の教派もありますが、洗礼を受けた人であればますます神のものになっていますから、日曜日には、神のものである自分を喜んで神にお返しするために礼拝に出席します。イエス様の使徒パウロという人は、「私はイエスの焼き印を身に受けている」(ガラテヤ書6章17節)と述べています。「イエスの焼き印」とは洗礼のことかもしれません。自分はそれほどまでも神の子イエス様のもの、神のものにされている。そのパウロが、コリントの信徒への手紙(一)6章で、クリスチャンたちにこう訴えています。「あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではない(神のものです)。あなた方は、代価を払って買い取られたのです。」あなた方は、イエス・キリストの十字架の死という尊い代価によって買い取られ、神の所有、神のものとされているというのです。「だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と求めています。自分の全存在を用いて、神様に喜ばれる生き方をしなさいということです。これはローマの信徒への手紙12章1節でパウロが言っていることと同じです。「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。」

 「皇帝のものは、皇帝に、神のものは神に返しなさい。」問題は、皇帝などの権力者が、神の御言葉に反する命令を出す場合です。太平洋戦争中の日本では政府から指示が出され、クリスチャンは教会の日曜礼拝の前に、皇居に向かって礼拝するように求められました。これは天皇を最初に礼拝し、次に真の神様を礼拝しなさいということです。モーセの十戒の第一の戒め「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」に反します。偶像礼拝禁止の戒めに反します。私はその厳しい時代を生きていないので、偉そうなことを言うことはできません。日本の教会では、一部を除いてこの指示に明確に反対できなかったようです。もちろん喜んで従ったはずはありませんが、短くお辞儀してお茶を濁して、すぐ真の神への礼拝に進んだのではないかと思います。日本でもホーリネス教会は信仰が強くて、政府に睨まれて殉教した牧師方も出ました。朝鮮半島では、強い抵抗が行われました。当時の朝鮮半島は日本の植民地で、名前を日本風に変えさせるなどの日本化政策が推進されました。教会にも、礼拝の前に東京の皇居の方向にまず礼拝するよう指示されたと思います。強い反発が起こりました。天皇を神として礼拝することができるはずがない。モーセの十戒の第一に「あなたには私をおいてほかに神があってはならない」に反する。決してできない。それで朝鮮半島では多くの殉教者が出ました。「神のものを神に返す」ことが徹底されたのですね。とても尊敬しますし、私たちが忘れずに語り継いでゆく必要があることと信じます。

 権力者が悪を行っていない時は問題ないのですが、権力者が神の意志に逆らっている場合は、クリスチャンは神に従う道を優先することになります。多くのクリスチャンは平和を愛し、戦争を望まないと思います。日本で最初に良心的兵役拒否をした人は、日露戦争の時の矢部喜好という20才すぎのクリスチャン青年と言われます。当時彼はセヴンスデイアドヴェンティスト教団のクリスチャンだったようです。イエス様は「平和を実現する人々は幸いである」とおっしゃり、モーセの十戒には「殺してはならない」と書いてあると言い、「政府に命令されても、私は兵隊にならない」と主張しました。「神のものである自分は、神の御言葉に従って生きる」という強い意志を持つ青年でした。当時だいぶ非難されたようです。2ヶ月くらい牢に入ったようです。最終的には「では、看護兵になれ」という説得を受け入れて、看護兵として戦地に行ったようです。彼が日本の良心的兵役拒否第一号と言われます。その後アメリカに留学し、帰国して琵琶湖の周りを自転車で走り回りながら伝道する生涯を生きたそうです。51歳で亡くなる直前「イエス様が見える、イエス様が見える、天国が見える、バンザーイ」と叫んで息を引き取ったそうです。「神のものを神に返した」見事な信仰の生涯でした。 

 イエス様は言われました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」市民としての義務と責任を果たしながら父なる神様を礼拝し、イエス様に従って参りたいのです。そして神に逆らう悪い権力者が立つ悪い時代が来ないように、政治の動向にも注意して参りたいのです。都議会議員選挙で、「神の御心に近いことを行う」候補者が誰か、よく研究して見抜いて、清き一票を投じることもまた、私たちの大切な信仰の行動と信じるのです。

(祈り)聖名讃美。東京の3回目の緊急事態宣言が6/20(日)に解除され、今は蔓延防止措置の時。オリンピック適切な決断を。感染している方全員に、特に重症の方に神様の癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神様に立ち帰るように。経済困難の方々に神の助けを。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられ、入院中の方々もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々にも聖霊を。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛を。チャイルドファンドジャパンを通して応援しているフィリピンの少年少女、牧師夫婦のホーム、「にじのいえ信愛荘」の方々に、神様の守りを。イエス様の御名により、アーメン。

2021-06-27 1:54:00()
「神様の招きに応えよう!」  2021年6月27日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編なし,使徒信条なし、讃美歌21・483、聖書 マタイ福音書22:1~14(新約42ページ)、祈祷、説教「神様の招きに応えよう」、讃美歌21・430、献金、頌栄83(2節)、祝祷。  

(マタイ福音書22:1~14) イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

(説教) 5週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第41回)です。本日は6月の最後の日曜ですから、今年の前半の最後の礼拝です。

 本日与えられているマタイによる福音書22章1節以下は、イエス・キリストが語られたたとえ話です。たとえ話は、神様から私たちへのメッセージを語っています。マタイによる福音書の流れを確認すると、この前の21章でイエス様は、群衆の「ホサナ、ホサナ」(万歳、万歳)の歓迎の叫びの中を、ろばに乗ってエルサレムの都に入られたのです。それは日曜日のことでした。イエス様はイスラエルの信仰の指導者たちに憎まれておりました。それは信仰の指導者たちが偽善的だったからと言えます。今日の場面は二日後の火曜日と思われます。この火曜日、イエス様はイスラエルの信仰の指導者たちと論争を重ねられます。「論争の火曜日」とさえ呼ばれる大変な火曜日となりました。信仰の指導者たちのイエス様への敵意は増して行き、この三日後の金曜日にイエス様は十字架に架けられるのです。

 本日の箇所には「婚宴のたとえ」という小見出しがつけられています。婚宴は結婚式とその後の披露宴と言えます。聖書では婚宴はしばしば、天国のたとえ、天国のシンボルとして出て来ます。1、2節「イエスはまた、たとえを用いて語られた。『天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。』」王は父なる神様、王子は神の子イエス様を指していると思います。王様は多くの人々に婚宴の客となる招待状を出してあったようです。王様は婚宴の主催者、ホストです。ところが招いてあった人々が来ないのです。非常に失礼なことであり、残念なことです。

 4~6節「そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においで下さい。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」王様による二度目の、心をこめた招待です。
牛や肥えた家畜を屠って作った料理は、心のこもったご馳走です。「すっかり用意ができています。さあ、婚宴においで下さい。」ところが人々は王様のこの招待を、何と無視したのです。実に失礼なことです。そして一人は畑に出かけました。農夫だったのでしょう。農夫が畑に仕事に行くことは仕事ですから、それを悪いとは言えません。別の一人は商売に出かけました。これも生活の糧を得るための正直な商売であれば、悪いとは言えません。正直な商売人は多くおられます。この箇所の商売はしかし生活にどうしても必要な正直な商売であるよりは、もしかすると生活にややゆとりがある人が、どうしても必要ではない金儲けに手を出しているというニュアンスではないかと思います。そして神様を後回しにしています。「他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」これは実にひどい話です。神様の僕たちは、人々に歓迎されるとは限りません。神様に忠実に従う預言者たちは、しばしば迫害されます。預言者エリヤも命を狙われました。預言者エレミヤは、ひどい迫害を受けました。洗礼者ヨハネは、時の権力者に殺されました。私たち人間は、私たちに耳の痛い正しいメッセージを語る人を、憎むことがあります。そして神の言葉を無視し、預言者を憎んでしまうかもしれません。ぜひそうならないように、私も自分の罪を悔い改めたいと思います。ここに出て来る人々は悔い改めず、王の家来たち(神のメッセンジャーたち)を捕まえて乱暴し、殺してしまったのです。あってはならない非道・悪が行われてしまいました。皆様も、胸が痛むと思います。

 7節「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。」この王の反応も強烈です。人々(特にイスラエルの民)の非道に対して、聖なる怒りを発揮されたと言えます。イエス様がこのたとえを語られたのは紀元30年ごろですが、約40年後にユダヤ人とローマ軍が戦争を行い、紀元70年にエルサレムが陥落し、火を放たれます。これはエルサレムの人々がイエス様を殺すなどの罪を犯した結果、父なる神様の裁きを受けてローマ軍によって滅ぼされたと言えます。王が罪深い町を焼き払ったという記述は、現実のエルサレム陥落とよく似ています。イエス様が語られたたとえが現実になったとも言えます。このマタイによる福音書が書かれたのは、エルサレム陥落後だと思われます。マタイは現実のエルサレム陥落を目撃し、「イエス様が語られた通りになった」という強い思いをもちながら、今日のイエス様の言葉を福音書に書いたのではないかと思うのです。

 話をたとえに戻して、8~10節「そして家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」善人も悪人も集めて来る、それは神様の驚くべき大きな恵みです。私たちもこの神様に招かれて、今ここにおります。マタイによる福音書5章でイエス様は言われます。「父(父なる神様)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる。」私たち人間は神様からご覧になれが皆罪人(つみびと)ですが、その中でも大きな悪を行ってしまう人もいますし、できるだけ善を行おうと心がける人もいます。でも雨の恵みはその両方の人に注がれますし、冬の温かい太陽の光も、全ての人に平等に注がれます。神様は、実に恵み深い方です。

 しかしたとえ話は、それで終わりません。11~14節「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」結婚式に参列する客人は、確かにそれにふさわしい服装が求められます。これはたとえ話ですから、礼服は、何かほかの大切なもののシンボルでしょう。王は真の神様を示すのですから、王様(真の神様)にお目にかかるには、それなりにふさわしい心構えが必要ということではないでしょうか。婚宴は天国のシンボルと申し上げましたが、教会の礼拝も天国を先取りする時です。礼拝も婚宴のような祝福の場、聖なる祝福の時です。礼拝で、目には見えなくても真の神様にお目にかかっているのですから、礼拝は聖なる祝福の時です。私たちが礼拝に出席する時も、世界の王なる神様にお目にかかるにふさわしい心の備えが必要ということでしょう。

 王は「友よ」と呼びかけていますから、彼の人格を尊重して話しかけていると感じます。ですがその後の言葉は手厳しいです。「どうして礼服を着ないでここに入って来たのか。」この礼服は何を指すのか、色々な意見があります。「王様にお目にかかる心構え」もその1つ。他の意見は「信仰、愛、悔い改め、洗礼」などです。王様(神様)にお目にかかる時に、王様(神様)にある程度親しみを感じるのはよいとしても、王様(神様)の尊厳に敬意を払うことも必要ということでしょう。神様の御前に出るのですから、神様を畏れ敬う気持ちを持つ必要があります。神様への礼拝では、信仰、神様への愛が必要です。神様は聖なる方ですから、私たちの罪を悔い改めることなしで神様の御前に出ることもできません。

 礼服を洗礼と考える人は、少なくないと思います。ガラテヤの信徒への手紙3章26~27節を引用することが適切です。「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。」洗礼を受けることは、キリストという衣を着ることだというのです。イエス様が私の全部の罪を身代わりに背負って十字架で死んで下さったと信じ、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けます。それはキリストという義の衣を着ることです。衣の内にいる私たちにはまだ罪が残っている。しかし父なる神様は、私たちの罪を見るのではなく、衣を見て下さる。キリストという義の衣を見て下さる。「あそこに神の子になった者がいる」と深い好意をもって見て下さいます。ですから洗礼を受けることは大きな恵みです。キリストという衣を着る洗礼こそ、あの王の言う礼服。まさにその通りと私も思います。

 東久留米教会で何度もお招きした近藤勝彦先生は、「死よりも確かなものはないのか」と題したご自分のトラクト(伝道パンフレット)でこう書いておられます。
「この数年、洗礼を受けたことは『キリストを着ている』(ガラテヤ3章27節)ことという素晴らしい事実を噛みしめています。『キリストを着ている』のはキリストの義を身にまとっていることです。もはや裸でいるのではなく、神の御前に立つことのできる『死に装束』をまとっています。キリストの義と、愛と、執り成しと、赦し、そしてキリストの力に身を包まれて神の御前に立つことをゆるされています。」洗礼は「死に装束」だと言われます。洗礼を受けているから安心して死ぬことができる、天国に入れていただける安心感の中で死ぬことができる、洗礼は「死に装束」だと言われます。もちろんだからと言って、死に急がないで下さいと、皆様にお願いしておきます。近藤先生はさらに「これ(洗礼でしょう)もまたこの上なく確かな、死よりも確かなものであって、それを私の『晴れ着』として、また『死に装束』として身にまとっていると思っています。」洗礼は、「死に装束」であり、「晴れ着」だと述べておられます。確かに洗礼は、私たちの罪深い古い自分がイエス様と一緒に十字架に架けられて死ぬこと、そして私たちがイエス様と一緒に新しい命に復活すること、それが洗礼の深い意義です。私たちの第二の誕生日が洗礼式の日です。私たちの洗礼式は水を頭にかける形での洗礼式です。古代の教会は(今でも教会によっては)、本当に水に入って洗礼式を執り行います。どちらでも意義は同じですが、水に入る場合は、ドボンと水に沈んだ時、罪深い古い自分がイエス様と共に十字架につけられて死にました。そして水から上がる時、イエス様と共にまさに新しい命に復活して水から上がったのです。洗礼は死んで復活することですから、確かに洗礼を受けることは「死に装束」を着ることで、同時に「晴れ着」を着ることです。「晴れ着」は礼服そのものです。

 礼服を着ないで婚宴に来た人は、真に厳しいことに手足を縛られ、外の暗闇にほうり出されてしまいました。神様は真に忍耐強い方ですから、なかなか裁きを行われませんが、いつまでもいつまでも悔い改めないでいると、最後にはこのようなこともあり得るという警告でしょう。イエス様は、私たちがこのようにならないことを願っておられます。私たちはぜひ、神様の招きに応えて、地上で天国に最も近い場である礼拝に参加し、神様が与えて下さる礼服、晴れ着を着たいものです。私たちがイエス様を救い主と真心から信じて洗礼を受けるなら、誰よりも神様ご自身が、そして私たちのために十字架にかかって下さった神の子イエス様が、喜ばれます。私たちがイエス様を信じるように、イエス様は今日も私たちの心のドアをノックしておられます。

 王の最後の言葉も気になります。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」バークレーという聖書解説者は、述べます。「神の恵みは無償の贈り物ではあるが、同時にそれは受ける者に責任を課す。」神の恵みは無償のプレゼントですが、それを受けた私たちは、恵みに応答する責任が生まれます。神の愛に応えて感謝を込めて礼拝する、神から預けられている各々の能力、時間、お金を、感謝を込めて神様に献げて、神の国の前進のために用いていただく、ということになります。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」そうならないために、私たちは神の招きに感謝して、恵みに感謝して、できれば洗礼を受けるとよいです。そうなれば基本的には安心ですが、あまりリラックスし過ぎると油断し、罪を多く犯しても平気となる恐れはあるので、そうならないように油断しないことが必要です。パウロは私たちに、ガラテヤの信徒への手紙6章で次のような生き方を勧めます。「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人に、善を行いましょう。」善を行い、愛を行うように心がけていれば、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」という結果に私たちが陥ることはありません。

 礼服を思うと、東久留米教会でお招きしたこともある日本基督教団議長の石橋秀雄先生が、「「にじのいえ信愛荘」(隠退牧師と配偶者のホーム)発行の「青梅のにじ」(昨年9月発行号)に、ご自分が若い時にお世話になった先輩牧師のことを書いておられました「(藤田牧師は)1995年に信愛荘に入荘されました。藤田牧師にとって死の時は『この上ない喜びの時』であることが葬儀で示され、感動しました。『イエス様にお会いするのだからモーニングを着る』と希望されていたのです。藤田牧師のモーニングを着たお姿が心に焼き付いています。」深い信仰と思います。

 ふつう死は、とても悲しいものです。信仰を持っていても、やはりとても悲しいのがふつうです。ですが究極的には藤田牧師の信仰が正しいと思います。クリスチャンにとって死の時は、罪ある古い自分が全て死んで、罪がゼロになって天国に入り、天国で新しく誕生し、イエス様に直にお目にかかる喜ばしい時。洗礼が第二の誕生日なら、死の時は第三の誕生日、罪が完全になくなるのですから洗礼が完成する時がクリスチャンの死の時です。だから礼服を着て、モーニングを着て、聖なる喜びに満ちてイエス様にお目にかかりたい。藤田牧師の信仰ですね。私はお会いしたことがありませんが、イエス様を信じる信仰がどんなに希望あるものか、教えて下さるすばらしきエピソードと感じます。私どもも、このような信仰の先達の生き方、死に方から信仰とはどういうことなのか教えられ、真の希望のあるイエス様に従う道を、歩み通したいのです。

(祈り)聖名讃美。東京の3回目の緊急事態宣言が6月20日(日)に解除され、今は蔓延防止等重点措置の時。オリンピック適切な決断を。感染している方全員に、特に重症の方に神様の癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。経済困難の方々に助けを。世界中が、神様に立ち帰るように。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられ、入院中の方々もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々にも聖霊を。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛を。チャイルドファンドジャパンを通して応援しているフィリピンの少年少女、牧師夫婦のホーム、「にじのいえ信愛荘」の方々に、神様の守りを。イエス様の御名により、アーメン。

2021-06-20 0:58:18()
「イエス様が与える真の自由」  2021年6月20日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、頌栄29、「主の祈り」、交読詩編31,使徒信条、讃美歌21・492、聖書 詩編51:12~14(旧約885ページ)、ガラテヤの信徒への手紙2:1~10(新約343ページ)、祈祷、説教「イエス様が与える真の自由」、讃美歌21・515、献金、頌栄83(1節)、祝祷。  
 
(詩編51:12~14)神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。

(ガラテヤの信徒への手紙2:1~10) その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。

(説教) 4週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第5主日の礼拝です。月に一回くらい、ガラテヤの信徒への手紙による説教を行っています。ガラテヤの信徒への手紙を書いたのは、イエス様の十字架と復活の後にイエス様の弟子(使徒)となったパウロです。プロテスタント教会にとってガラテヤの信徒への手紙は、ローマの信徒への手紙と共にかなり重要と思います。宗教改革者マルティン・ルターは、ガラテヤの信徒への手紙を詳しく解き明かす本を書いているそうです(私は読んでいませんが)。ガラテヤの信徒への手紙のテーマは、「キリストの福音」と言えます。そして「イエス様が与えて下さった真の自由」がテ―マとも言えます。

 1節「その後十四年たってから、私(パウロ)はバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。」クリスチャンたちを迫害していたサウロ(パウロ)が復活のイエス様に出会い、洗礼を受けてクリスチャンになって三年後に、パウロは第一回目のエルサレム訪問を行いました。紀元36年頃と思われます。その時パウロは、イエス様の肉親の弟ヤコブに会いました。ヤコブは、兄イエス様が十字架にかかる前は兄イエス様のことを理解できず、肉親の兄イエス様が、実は神の子だということを分かっていませんでした。ですからヤコブは十二弟子 あにしかし兄イエス様の十字架の死と復活を経て、ようやく兄イエス様が神の子であることを悟るに至りました。そしてエルサレム教会の柱の存在となっていたのです。第一回目のエルサレム訪問から14年たって、パウロが二度目のエルサレム訪問を行ったことが、1節より分かります。紀元50年ごろと思われます。

 この訪問は、使徒言行録15章に記されている「エルサレムの使徒会議」のことと思われます。バルナバは、パウロよりも先輩のクリスチャンで、パウロとバルナバは、パウロの第一回目の伝道旅行に、共に行ったほどに親しい関係にあるユダヤ人クリスチャンです。パウロはこの時、ある意図をもってテトスというクリスチャンを連れて行きました。テトスはユダヤ人ではありません。テトスはギリシア人です。つまりパウロは、ユダヤ人でないクリスチャン、異邦人クリスチャンをエルサレムに連れて行ったのです。パウロには、どんな意図があったのでしょうか。

 2節「エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。」啓示、つまり神様の導きがあり、神様のご意志によってエルサレムに行ったのです。「私は、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないかと意見を求めました。」パウロは、自分の行っている福音伝道に間違いはないと確信をもっていたと思います。しかしエルサレム教会のおもだった人々に確認を求めたのでしょう。その結果どうだったか。3節「しかし、私と同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。」割礼。ユダヤ人クリスチャンが、「人が救われるために、天国に入るためには割礼を受けることが必要だと主張していたことが分かります。

 割礼は、ユダヤ人にとっては極めて重要であったのです。神様との契約に入った神の民であることのしるしでした。神様がイスラエルの民の先祖アブラハムにこう言われたのです。創世記17章です。「あなたたち、及びあなたの後に続く子孫と、私との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、私とあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、私の契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。私の契約を破ったからである。」旧約の時代、イスラエル人(ユダヤ人)にとって割礼はこれほど重要なことでした。クリスチャンになっても、ユダヤ人が割礼が必要との考えから簡単に抜けられなかったのは分かるような気がします。ユダヤ人クリスチャンの何人かが、異邦人(イスラエル人以外の人)がクリスチャンになった場合、洗礼と共に割礼を受けさせるべきだと強く主張したと思われます。

 しかしパウロは、彼らの主張に明確に反対します。パウロ自身も割礼を受けていましたが、パウロは割礼が大事にされる時代をイエス・キリストが完全に終わらせて下さったことをよく知っていました。割礼には、人の罪を赦す力が全くありません。割礼には、人を天国に導く力が全くありません。パウロはフィリピの信徒への手紙3章2節で割礼のことを、「切り傷に過ぎない割礼」と呼んでいます。このように割礼の無力を悟り、割礼の無意味さを説くパウロのメッセージは、ユダヤ教の教えを引きずるユダヤ人クリスチャンには不愉快だったはずです。でもパウロの説くこのメッセージは、全く正しいのです。割礼を受けても、何の意味もないのです。

 私たちを救う力は、ただイエス・キリストの十字架の死のみです。イエス様は本当に、十字架で私たちの全部の罪を身代わりに背負いきって下さったのです。ユダヤ人の大いなる誇りは割礼でした。しかしパウロは、このガラテヤの信徒への手紙6章14節で、高らかに断言します。「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」パウロはそれまで、自分の並外れた努力によって誰よりも清く正しく生きようとしてきたことを、最大の誇りとして来たのです。自分の正しさについては自信満々でした。しかしイエス様が、正しい者のためではなく、罪深い者たちのために身代わりに十字架で死なれた愛を知ってパウロは、「イエス様には完全に降参!」と感じたに違いありません。イエス様の十字架の愛は、何とすばらしい。パウロは先ほどもご紹介したフィリピの信徒への手紙3章、その5節以下でこう述べます。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私たちの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。」これは「主イエス・キリストの十字架の愛を知ることのあまりのすばらしさに、他の一切を損失と見ています」ということだと思うのです。割礼よりも自分の正しさよりも、はるかにすばらしいのはイエス様の身代わりの十字架の愛。これだけがクリスチャンの誇り! この偉大な愛の前では、他の全てが輝きを失うのです。

 ガラテヤの信徒への手紙に戻り、3~6節を見ると、エルサレム教会のリーダーたち(ヤコブ、ペトロ、ヨハネたちでしょう)がパウロの主張に賛成し、外国人でクリスチャンになったテトスが割礼を受ける必要が全くないことに同意したことが記されています。「私と同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼ら(偽の兄弟たち)は、私たちを奴隷にしようとして、私たちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなた方のもとにいつもとどまっているように、私たちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。おもだった人たちからも強制されませんでした。」イエス様の十字架の死だけが、私たちの全ての罪を赦す力をもっているのです。割礼を強制される必要は全くないのです。テトスに割礼を受けさせなさいという圧力が「偽の兄弟たち」(おそらくユダヤ人クリスチャンたちの何人か)からかけられたが、パウロはそれに屈服せず、譲歩しなかった。イエス様の十字架だけで、罪の赦しの救いは100%完璧に達成されるという福音の真理を示し通すことができた、とパウロは語ります。エルサレム教会のリーダーたち(ヤコブ、ペトロ、ヨハネ)も(ユダヤ人クリスチャンではあったが)それに賛成し、「パウロの言うことが正しい」と認めてくれたのです。

 本日の説教題は「イエス様が与える真の自由」です。イエス様の十字架の死と復活前は、私たちは支配され、束縛され自由を失っていました。それまで私たちは「律法、罪、死、悪魔の支配、神の裁き」に支配され、束縛されていました。しかしイエス様の十字架の死と復活の大きな恵みは、私たちを「律法、罪、死、悪魔の支配、神の裁き」から解放し、自由にして下さいました。少しややこしいかもしれませんが、イエス様の十字架と復活の福音は、私たちを「律法、罪、死、悪魔の支配、神の裁き」から解放し、自由にして下さいました。これを言い換えたのが、ローマの信徒への手紙8章1~2節の御言葉です(新約283ページ下段)。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者(イエス様を救い主と信じる人、洗礼を受けた人)は、罪に定められることがありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」私たちは解放され、自由にされました。イエス様を信じる前は、律法に支配され(モーセの十戒を守ろうとしても完全に守れない不完全感に支配され)、毎日罪を犯すことによって罪に負け、罪に支配されていました。罪を犯した結果死ぬので、死に支配されていました。悪魔の誘惑に負けることで、悪魔に支配されていました。そしてこのままでは最後の審判の時、神様に裁かれるという恐れに支配されていました。

 それがイエス様の十字架と復活のお陰で、逆転したのです。私たちが負けて支配されていた全てに、イエス様が変わって勝利されました。イエス様は、律法(モーセの十戒)を完璧に実行することで律法に勝利し、生涯にただの一回も罪を犯さないことで罪に勝利し、復活によって死に勝利し、悪魔の誘惑に全て打ち勝つことで悪魔に勝利し、常に善のみ行われたので父なる神様の審判を受ける恐れをも、完全に乗り越えておられます。私たち人間の代表として全てに勝利されたので、私たちもイエス様につながることで、イエス様の力によって全てに勝利しています。「律法、罪、死、悪魔、神の裁き」に屈服することから解放され、自由にされています。自分の努力では勝利できませんが、強いイエス様につながることで勝利を与えられ、「律法、罪、死、悪魔、神の裁き」から解放され、自由にされています。これがイエス様を信じる者たちの現実です。この自由を受けるには、私たちの全部の罪を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活されたイエス様を救い主と信じて自分の罪を悔い改めることだけで、割礼を受ける必要は全然ないし、ほかの何を加える必要も全然ないのです。これが「キリスト者の自由」です。

 「キリストの自由」の源は、イエス様にあります。イエス様こそ、完全に自由な方です。私たちが普段思う自由とは、自分の好きなようにできることです。これは一つ間違えると自己中心、わがままに転落します。イエス様の自由は、そのような自由ではなく、自己中心・エゴイズムから解放されていることです。自己中心・エゴイズムから解放されていることこそ、本当の自由、真の自由です。イエス様は真の意味で完全に自由な方です。自己中心が全くなく、進んで喜んで父なる神様を愛し、弟子たちを愛し、敵をさえ愛する方です。好き嫌いを乗り越えて自由に愛せることが、本当の自由です。イエス様は自由意志で進んで弟子たちの汚れた足を洗い、自ら進んで自由意志で辛い十字架にかかり、私たちの罪を身代わりに全て背負って下さいました。ヨハネ福音書は「イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた」と書いて、イエス様が自由意志で進んで十字架を背負われたことを述べています。私たちも、イエス様につながっている者として、聖霊の助けを受けて、少しずつこの自由に生きる道を歩み始めます。

 本日の旧約聖書は詩編51編12~14節ですが、神の清き聖霊・イエス様の霊である聖霊を「自由の霊」と言い換えています。私たちも聖霊(自由の霊)に満たされて、イエス様のような真の自由に生き始めたいのです。「神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないで下さい。御救いの喜びを再び私に味わわせ、自由の霊によって支えて下さい。」 この東久留米市には自由学園がありますが、もちろん自由学園の自由は、イエス様のこの真の自由を指しています。ヨハネ福音書8章のイエス様の御言葉「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」から自由学園の自由という言葉は取られています。聖書で言う真理とは理屈ではなく、生きておられるイエス様ですから、「真理はあなたたちを自由にする」は、「イエス様が私たちを自由にして下さる」ということと信じます。

 イエス様の愛が私たちを感化して、真の自由=愛に生きるように私たちを徐々に変えて下さるとも言えます。イエス様が与えて下さる真の自由の実例になるかどうか分かりませんが、こんな話があります。再来年は関東大震災から百年の年です。1923年9月1日の関東大震災の時、東京の小菅刑務所に有馬四郎助というクリスチャンの刑務所長がいました。この人は鹿児島出身で、パウロに似たところがありました。はじめはキリストが大嫌いだったのですが、後に非常に熱心なクリスチャンになったのです。有馬さんは日頃から受刑者に全身全霊の愛で接していました。三吉明という方が書いた伝記によると本人がこう言っています(今の感覚ではやや上から目線の感じもしますが)。「私は各人の善に対する可能性を信じ、彼らを囚人としてではなく、人間として処遇します。できれば彼らを直してやります。私は彼らと友人になろうと努力します。私は彼らを釈放するに際し、正直な生活につくよう助力します。私はキリスト教について説教は致しません。ただその教えが生きるように試みました。」

 関東大震災の時、他の刑務所では混乱が起こったのに、小菅刑務所では(ある記録では)「一人の逃走も出なかった。日頃の有馬所長の親愛に対して、この時こそその恩義に応えねばならないと、受刑者の中に心の叫びがあったのだろう、受刑者が率先して逃走を戒め合うばかりか、夜陰に乗じていかがわしいものが近づかないよう受刑者ら自身が立ち上がったのである。」これは知る人ぞ知る有名な出来事だそうですね。これはきっと受刑者が有馬所長を通してイエス様の愛に触れ、災害の今こそ有馬さんを裏切ってはならないと思い、誰も逃走しないように自由意志で自発的に戒め合った出来事だと思います。逃げてはいけない規則があるから等ではなく、この震災の危機の時こそ有馬所長の愛と信頼に応えようではないかと進んで戒め合ったのでしょう。ルールや規則があるからではなく有馬さんの愛に応えるために身勝手を自発的に抑える。あるいは有馬さんを通して愛を注いで下さったイエス様の愛に応えるために、自発的にわがままを抑える。イエス様が与えて下さる自由に生きる、キリスト者の自由に生きるとは、このようなことではないかと思います。

(祈り)聖名讃美。東京の3回目の緊急事態宣言が6月20日(日)まで延期。オリンピック・パラリンピック適切な決断を。感染している方全員に、特に重症の方に神様の癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。コロナのために経済が困窮している方々に神様の助けを。世界中が、神様に立ち帰るように。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられ、入院中の方もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々にも聖霊を。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛を。チャイルドファンドジャパンを通して応援しているフィリピンの少年少女、牧師夫婦のホーム、「にじのいえ信愛荘」の方々に、神様の守りを。イエス様の御名により、アーメン。

2021-06-12 23:48:29(土)
「最愛の独り子イエス様を与える神」 2021年6月13日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、24、「主の祈り」、交読詩編30,使徒信条、讃美歌21・464、聖書 詩編118:22~25(旧約958ページ)、マタイ福音書21:33~46(新約42ページ)、祈祷、説教「最愛の独り子イエス様を与える神」、讃美歌21・475、献金、頌栄27、祝祷。  
 
(詩編118:22~25) 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。

(マタイ福音書21:33~46) 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

(説教) 3週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第4主日の礼拝です。今日の新約聖書のマタイ福音書21章33節以下は、イエス様が十字架に架けられたその週にイエス様が語られた御言葉です。このマタイ福音書では何曜日なのか分かりにくいのですが、マルコ福音書を見ると火曜日のことのようです。イエス様はそのわずか二日前の日曜日に群衆に「ホサナ、ホサナ」(万歳、万歳)と大歓迎されて、ろばに乗って、イスラエルの首都エルサレムに入られました。十字架前のこの火曜日は、大変な火曜日で、「論争の火曜日」とさえ言われます。この火曜日の三日後の金曜日に十字架につけられ、殺されます。もちろん三日目の日曜日に復活されます。十字架に向かって緊迫してゆくのが今日の場面です。これはイエス様が、神の民イスラエルの当時の信仰のリーダーたち(祭司長たちやファリサイ派の人々)に向かって語られた御言葉です。

 33節「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。イエス様がおっしゃる通り、これは1つのたとえは話ですが、私たちも様々な大事なメッセージを伝えてくれます。まず、主人は明らかに父なる神様です。ぶどう園は、私たちが生きているこの世界とも言えます。主人はぶどう園を作り、垣根を巡らして、外から泥棒が入らないようにしたのでしょう。搾り場を掘ったのは、搾り場でワインを作るためでしょうか。見張りのやぐらを立てたのは、敵が襲って来るのを素早く知って、大切なぶどう園を守るためでしょう。当時のイスラエルのぶどう園はこのようだったのだと思います。この精魂込めて作ったぶどう園を、農夫たちに貸しました。必ずや主人の期待に応えてよく働いてくれ、よき収穫をもたらしてくれるに違いないと信じ、深い愛情と信頼を込めて、この大切なぶどう園を農夫たちに貸して、主人は旅に出ました。すっかり信頼して、全部を任せたのですね。自分が見込んだ農夫たちが、裏切ったり、主人を騙したり、さぼったりするはずがない。貸すという行為は、相手を信頼しないとできません。主人は、いわば性善説に立ち、農夫たちを愛し、彼らに大切なぶどう園を貸して、旅に出ました。

 私たちも、神様から多くの大切なものを貸していただいています。お借りしています。お借りしている。つまりお返しする時が必ず来るということです。私たちは神様から、尊い命をお預かりしています。お借りしています。この命をお返し致します。この尊い命をどのように用いたのかを報告する時が来ます。命だけでなく、私たちは神様からある程度の才能・能力、ある程度のお金も貸していただいています。それも全てお返しして、それが最後の審判の時です。先ほど使徒信条で、イエス様が、「かしこ(天)より来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と告白しましたが、これが最後の審判の時です。今は天におられるイエス様が、必ずこの地上にもう一度おいでになり(再臨)、神の国が完成され、最後の審判が行われます。その時、イエス様を救い主と告白した全ての人は必ず無罪の判決を受けるので安心してよいのですが、ご報告はすることになります。神様からお借りした(お預かりした)命を、どのように用いたのか、ご報告することになります。神様に喜んでいただけるように用いたのか、自分勝手に浪費してしまったのか、ご報告することになります。できるだけよいご報告ができるように、今からでも十分大丈夫なので、貸していただいた命や能力、お金について、神様に喜ばれるよい用い方をして、貴重な一日一日を過ごして参りたいのです。

 34節「さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちの所へ送った。」収穫は、これまでの労働が報われる喜びの時ですね。種を蒔き、水をやり、肥料をやり、雑草を取り除いて来ました。猛暑に耐えた日もあったでしょう。でも収穫で報われる。借りた農夫たちと貸した主人が一緒に喜ぶ時です。でもこの農夫たちは、性根が非常に悪く、残念ながらそうなりません。35~36節「だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちが同じ目に遭わせた。」とんでもない悪人揃いだったのです。信頼した相手たちから、これほど手ひどい裏切りを受けると、普通はもう相手を信頼しないで、相手を警察に通報するなどの手段に出ます。ところが神様は真に忍耐強くて、まだ相手を信頼しようとなさるのです。

 37節「そこで最後に、『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。」私たちは、驚いて、こう言いたくなります。「神様、おやめになった方がよいです。あの農夫たちは、あなたの愛や信頼に応えるような責任感のある連中ではありません。息子さんを送るなんて無防備過ぎ、危険過ぎます。彼らは平気で恩を仇で返す連中です。息子さんを送ってはなりません。殺されるかもしれません。」ところが主人は、オオカミのような農夫たちのただ中に息子を送るのです。案の定、最悪の結果が待っていました。38~39節「農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」実に罪深く、耳を覆いたくなるようなひどい話です。でもこれがイエス・キリストが、イスラエルの民の中で、そして私たち人間のこの世界で実際に受けた仕打ちです。

 イエス様がイスラエルの人々に問われます。40節から。「『さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。』彼らは言った。『その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すに違いない。』」これが当時の常識的な答えだったのでしょう。今であれば主人が農夫たちを直接殺すことはできず、警察に通報することになります。イエス様は、この跡取り息子はご自分のことであると、暗におっしゃいます。42節「イエスは言われた。『聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか(詩編118編22~23節、本日の旧約聖書)。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」』 この詩編の意味は、イエス・キリストが来られるまで秘められていました。旧約の時代の人々がこの詩編を読んでも、何のことか分からなかったでしょう。イエス様が来られて初めてこの意味がはっきりしました。「家を建てる者の捨てた石」は、十字架で殺されるイエス様を指します。イエス様は父なる神様の最も尊い独り子です。その最も尊い独り子は、イスラエルで・私たちの世界で大歓迎され、ふさわしい尊敬を受けられたかと言うとその反対で、人々に拒絶され十字架につけられて殺されました。あってはならない非道です。ところが人々が「こんなものはいらない」と言って捨てたイエス様を、父なる神様は何と死から復活させ、神の尊い家すなわち教会の「隅の親石=中心の土台石」としてお立てになったのです。「これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」これは神がなさったことで、私たちの目には驚くべきこと(驚嘆すべきこと)だ、ということです。ある牧師の説教で聴いたことがあります。「私たち人間が、こんなものいらない」と言って捨てたイエス様を、父なる神様が教会の最も大切な土台石として復活させたことを知って、私たちは恐れを覚えなければならない、と。全くその通りと思います。

 この詩編118編は、使徒言行録4章11節にも引用されています。イエス様の一番弟子ペトロが聖霊に満たされて説教している場面です。「この方(イエス様)こそ、『あなた方、家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかの誰によっても救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」これは最も重要な真理です。「ほかの誰によっても救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下のこの名(イエス様の名。名は本質なので、イエス様という人格、生きておられるイエス様の存在)のほか、人間には与えられていないのです。」イエス様の十字架によって罪を赦していただき、イエス様の復活によって死を乗り越える、これ以外に人が天国に行く道は一つもない。これが聖書の伝える真理です。

 イエス様がおっしゃいます。マタイに戻り43節「だから、言っておくが、神の国はあなたたち(イスラエルの民)から取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族(イスラエル以外)に与えられる。」それでイエス・キリストがイスラエルの外で宣べ伝えるようになり、世界で宣べ伝えられ、この日本でも今も宣べ伝えられているのです。44節「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」この石はイエス・キリストです。復活されたイエス様は、偉大な神の子であり、このイエス様を打ち倒すことは誰にもできないということです。このイエス様は生きている真理そのもので、悪魔よりも強く、誰よりもよりも強いお方です。「祭司長たちやファリサイ派の人々は、このたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」

 今日の箇所を読んで私が最も心を惹かれるのは、37節です。「そこで最後に、『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。」神様が本当になさったことが書かれています。神様は、「私の息子なら敬ってくれるだろう」と思って、最も愛する独り子イエスを、この悪と罪が多くあって非常に危険な地上に送られたのです。それがクリスマスの出来事です。父なる神様は、最も愛する独り子イエス様を安全地帯に送られたのではなく、はっきり言えば悪魔は支配するこの地上に送るという危険を冒して下さったのです。これが私ども罪人(つみびと)を救おうとなさる父なる神様の激しい愛です。それで本日の説教題を、「最愛の独り子イエス様を与える神」と致しました。この神の愛を最も分かりやすく伝えるのがヨハネ福音書3章16節の御言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 主人(神様)は「最後に、『私の息子なら敬ってくれるだろう」と言った』とあります。「最後に」言ったのです。独り子を送ることは、父なる神様の最後の切り札なのです。神様はイスラエルに(この世界に)多くの預言者(神のメッセージを語る人)を送りました。旧約聖書に登場する預言者エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤたち、新約聖書でイエス様の前に働いた洗礼者ヨハネです。しかし救い主はイエス・キリストのみ、イエス様が人類を救う最後の切り札です。神様はその意味では、手の内を既に全て私たちに見せて下さいました。イエス様より後に出す「奥の手」はもう一つもありません。私たちの全ての罪を身代わりに背負って十字架で死ぬ犠牲の愛を実行され、三日目に復活されたイエス様以外に、私たちを天国に導いて下さるかたはおられません。父なる神様が、イエス様を送ることで私たちを救う並々ならぬ決意を公にされたのですから、私たち人間の側も、父なる神様の愛に全身全霊で応答する必要があるのです。

 「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」イエス様を殺すイスラエル人(ユダヤ人)から神の国は、一旦取り上げられ、神の国にふさわしい実を結ぶ他の民族に与えられる。イスラエル人からも永久に取り上げられるわけではなく、イスラエル人が頑固な心を捨てて、へり下ってイエス様を信じるようになることを、神様は期待しておられます。それにしても神の子イエス様を拒否して十字架に追いやるイスラエル人(ユダヤ人)の祭司長たちや律法学者たちの頑なさは、実に強烈です。私はユダヤ人に少し会ったことがありますが、彼らはクリスチャンではありませんでしたが、紳士的な方々でした。内村鑑三という日本のかつての有名なクリスチャンは、ユダヤ人について調べたらしいのですが、こう書いているそうです。「物事に熱心なる所謂善に強ければ悪にも強く。」これを私なりに理解すると、「非常な長所と、非常な短所」を併せ持っているということではないかと思います。もちろん誰でも長所と短所を併せ持つのですが、もしかするとユダヤ人はそれが極端なのかもしれないと思いました。イエス様を十字架で殺す時には、非常な短所が発揮されてしまったということではないでしょうか。

 それにしても、イエス様があえて危険地域に来て下さった、その愛を思います。日本からの危険な国にあえて出かけて行く方々はおられます。2004年にイラク戦争後の危険なイラクに行って人質にされ、幸い解放され、その後、自己責任と批判された3人の青年もいました。一昨年12月にアフガニスタンで残念ながら殺害された中村哲さんという方も、あえて危険なアフガニスタンで働かれました。イエス様に少し似ているのではないでしょうか。中村さんはバプテストのクリスチャンだそうです。本業は医者ですが、砂漠化した地域に河から水を引いて、緑の農地に変えたことは、すばらしいとしか言いようがありません。中村さんは天国に行かれましたが、志を受け継ぐ人々が働いているに違いありません。中村さんは特別でしょうが、イエス様が喜ばれる実を結ぶ生き方をされたと思えてなりません。

 さだまさしさんという歌手が、中村さんを偲んで、「一粒の麦」という曲を作られ、私は先日You Tubeで聴きました。「一粒の麦」という題は、ヨハネ福音書12章24節のイエス様の御言葉から来ているとしか思えません。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」イエス様のように、自己中心を捨て、神を愛し隣人を愛すれば、永遠の命に至るということです。さだまさしさんはクリスチャンではないと思いますが、さださんが尊敬する友人に、シュヴァイツァーに憧れてアフリカで医者として働く方がいらしたと聞きます。シュヴァイツァーは、宣教師また医者としてアフリカで医療伝道に励んだ有名なクリスチャンで、そのシュヴァイツァーに憧れてアフリカで医者として働く友人を尊敬するさだまさしさんは、クリスチャンでなくても、間接的にイエス様の感化を受けておられるのではないでしょうか。

 さて、私たちはこの地域で地道に生きております。私たちも、「実を結ばせていただきたいな」と思っています。私たち一人一人には個別の使命もありますが、私たちに共通の使命は、まず自分がイエス様を愛し、そしてイエス様を宣べ伝え、この東久留米教会という「キリストの体なる教会」(共同体)を建て上げることではないでしょうか。個人としても教会としても、よき信仰の実を結ばせていただきたいものです。コリントの信徒への手紙(一)3章6節で、イエス様の使徒(弟子)パウロがこう書いています。「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です。」私たちの教会での務めは様々あります。何より祈り、そして婦人会の務めや教会学校や役員会、監事の務め、受付献金当番の大切な務めがあり、今挙げることができなかった務めを含めて、全ての務めが大切です。私たちはその務め(奉仕)を忠実に行おうと致します。しかし自力で実を結ぶわけではなく、「成長させて下さったのは神です」と書いてあり、ほっとします。これは「実を結ばせて下さるのは神です」ということです。この神様に安心して祈りながら、神様によって実を結ばせていただく私たちでありたいと、心より祈ります。

(祈り)聖名讃美。東京の3回目の緊急事態宣言が6月20日(日)まで延期。オリンピック・パラリンピックについて御心を行って下さい。感染している方全員に、特に重症の方に神様の癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神様に立ち帰るように。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられ、入院中の方もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。愛する方を天に送った方々に、神様の深い御慰めを注いで下さい。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々にも聖霊を。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛を。チャイルドファンドジャパンを通して応援しているフィリピンの少年少女、牧師夫婦のホーム、「にじのいえ信愛荘」の方々に、神様の守りを。イエス様の御名により、アーメン。

2021-06-05 23:49:10(土)
「苦難を通って、希望へ」 2021年6月6日(日) 礼拝説教
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、85(2回)、「主の祈り」、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・287、聖書 創世記45:3~8(旧約81ページ)、ローマの信徒への手紙5:1~11(新約279)、祈祷、説教「苦難を通って、希望へ」、讃美歌21・530、献金、頌栄92、祝祷。  
 
(創世記45:3~8)ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。

(ローマの信徒への手紙5:1~11)このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。


(説教)先々週ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第3主日の礼拝です。本日は、4月末の教会総会で選ばれた今年度の標語聖句ローマの信徒への手紙5章3~4節による説教です。前後の文脈もありますので、5章1~11節を朗読致しました。最初の1~2節は、いきなり非常に福音的な嬉しい御言葉です。「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」この非常に福音的な御言葉の根拠は、上の段の4章24節の後半です。「私たちの主イエスを死者の中から復活させた方(父なる神様)を信じれば、私たちも義と認められます。」プロテスタント教会が大切にする信仰義認ですね。

 私たちは、神様からご覧になれば罪人(つみびと)ですが、私たちが善い行いを行うことによって神様の前に義と認められるのではなく、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、義と認められる(4章24節では、主イエスを死者の中から復活させた父なる神様を信じる信仰によって、になっていますが)ということです。これは特にプロテスタント教会が依って立つ、最も重要なポイントですね。信仰義認。深く考えもせずにただ気楽に信じればOKというわけではなく、イエス様が私たちの罪を身代わりに十字架で背負って死んで下さった愛を深く受け止め感謝して、自分の罪を悔い改めて信じることが必要です。しかし確かに、この信仰によって、私たちは神の前に義と認められます。それを言い換えると1節にある通り、「私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、つまり平和を既に得ている」ことになります。イエス様を信じる前は、父なる神様との間が(父なる神様と私たちの関係が)平和でなかったが、イエス様を救い主と信じた今は、父なる神様と私たちの間に和解が成立し、平和が確率されたのです。これは間違いない事実です。嬉しい現実です。

 3節でも、この嬉しい現実が強調されます。「このキリストのお陰で(イエス様が私たちの罪を背負って十字架で身代わりに死なれ、三日目に復活されたお陰で)、今の恵み(神の前に義と認められる恵み)に信仰によって(善い行いによってではなく、信仰のみによって)導き入れられ」と書かれています。この「恵み」は、最高の恵みです。生涯で犯すあらゆる罪、全ての罪の赦しを受ける恵み、永遠の命をいだだく恵みです。これ以上の恵みはない恵みです。そして3節の後半には、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」とあります。もちろんイエス・キリストこそ、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れである神の子ですが、私たちもイエス様を信じて洗礼を受けると神の子とされ、その後も、少しずつ人格がイエス様に似た者に造り替えられてゆきます。聖霊なる神様によってです。そしてクリスチャンたちは、マタイ福音書13章43節の御言葉を借りれば、「その父の国で太陽のように輝く」とあります。これこそ「神の栄光にあずかる」ことと思うのです。私たちが神の栄光にあずかり、神の国で太陽のように輝く時が必ず来る。それが私たちに約束されている確かな希望です。この希望を誇りとするとパウロは書きます。

 続く3節の後半と4節が、東久留米教会の今年度の標語聖句ですが、3~4節は、ここまでパウロが述べて来たことが一瞬横道に逸れるような箇所でもあります。2節で「希望を誇りとする」と言った直後に3節で、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」と進むのです。「私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」苦難は嬉しいものではありませんが、パウロは苦難にもプラス面があると言っています。これはパウロ自身の経験でしょう。聖書を読むと、このような深い大切なことを教えていただけます。パウロは言わば三段論法で語ります。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と述べるのです。ここから本日の説教題を「苦難を通って希望へ」と致しました。苦難から直接希望には進みません。苦難から忍耐へ、忍耐から練達へ、練達から希望へと進むというのです。苦難から少し遠回りをして、しかし確実に希望に至る。この希望はやはり2節にある「神の栄光にあずかる希望」でしょう。イエス・キリストに人格が似た者に次第に造り替えられてゆく希望だと思うのです。

 「忍耐は練達を生む」の練達とは何でしょう。聖書の新改訳という翻訳では「練られた品性」と訳しています。忍耐によって私たちの品性、人格が練り清められてイエス様に似た者とされてゆくことではないでしょうか。一番新しい翻訳である聖書協会共同訳では「品格」と訳しています。」パウロの三段論法をまとめると「苦難を受けると、私たちは忍耐する。忍耐によって私たちの自己中心の罪が抑えられ、私たちの人格・品性が鍛錬され、練り清められ、練達してゆく。そして人格が練達されることで、イエス様に似た者とされ、希望に満ちた天国にますますふさわしい者となる。ということではないでしょうか。そして5節「希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けた人は聖霊を受けます。聖霊は、神様の清き霊、愛の霊です。聖霊は目に見えませんが、聖霊を受けていれば、私たちは間違いなく神の子であり、天国に確実に入る希望を与えられています。

 苦難は嬉しいものではありませんが、信仰ではむしろプラスの面もあることを、聖書はあちこちで語っています。今日の旧約聖書は、創世記45章3節以下です。これはヨセフ物語と呼ばれる箇所のクライマックスです。ヨセフは、イエス様の父となったヨセフではなく、ずっと昔の人で、神の民イスラエルの先祖ヤコブの12人の息子の一人です。ヨセフは若い頃、生意気だったために兄たちに憎まれ、穴に投げ込まれ、結果的に遠くエジプトに連れて行かれます。兄たちはヨセフは死んだと思ったようです。ヨセフはエジプトで奴隷になり、主人に非常に忠実に仕えますが、主人の妻が悪い人で、ヨセフは無実の罪で監獄に長年入れられてしまいます。苦難と試練の連続です。ところが神様がヨセフと共におられました。ヨセフは監獄という希望のない所にいても、与えられた務めをよく果たし、周りの人々に信頼されてうゆきます。そしてとうとう時が満ちた時に、ヨセフはエジプトのファラオの信頼を獲得し、エジプトと周りの国々が飢饉という大ピンチに至る前に、何とエジプトの総理大臣に抜擢されるのです。これほど大きな奇跡が皆に起こるわけではありませんが、ヨセフの人生も「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」人生だったと思うのです。

 ヨセフは、自分が生意気だったからとは言え兄たちに穴に投げ込まれる苦難を味わい、その後エジプトで長年監獄に入れられる苦難を味わいました。よく腐らずに忍耐し、監獄にあっても任された仕事をよく果たしたのは立派ですね。普通は、監獄で頑張っても報われそうもなければ、やる気が起きないかもしれません。でもヨセフは、監獄でも与えられた務めを忠実に果たした。神様は監獄という過酷な環境でヨセフを鍛錬し、ヨセフは忍耐して練達の人となり、エジプトの総理大臣という責任の大きな仕事を任され、その仕事も責任感をもって行いました。時至って、ヨセフは兄たちと再会し、父ヤコブとも再会し、最も愛する末の弟(同じ母から生まれた唯一の弟)ベニヤミンとも再会することができたのです。ヨセフの人生は希望ある人生に変わりました。神様がヨセフの人生を「苦難が忍耐を生み、忍耐が練達を生み、練達が希望を生む」人生として、導いて下さったのです。私たちの人生は、ヨセフの人生ほど劇的ではないと思います。そして私たちは今、コロナという苦難と試練の中に置かれて、忍耐の日々を過ごしています。しかし私たちが、この中にあっても日々祈り、自分に与えられた責任を忠実に果たしてゆくなら、神様が私たちの道を一歩一歩、希望の方向に開いて行って下さるに違いありません。私はそう信じています。

 そして思います。イエス様の地上の人生も、苦難と試練の連続だったと。イエス様は無事誕生したのも束の間、へロデ大王に命を狙われ、父ヨセフと母マリアは、乳飲み子イエス様を連れてエジプトに逃げています。逃げなければ殺さるところでした。約30才で伝道の人生に入る時に、40日40夜に渡って悪魔のしつこい誘惑を受け、悪魔と闘って勝利しています。そして十字架こそ、最大の苦難です。イエス様は十字架の上で、ひたすら忍耐されました。どんな悪口を言われても、ひたすら忍耐されました。イエス様こそ人格が完全に練り清められた方、完全な練達の士です。イエス様は十字架の上で死なれ、何の希望もないように見えましたが、そうではありませんでした。父なる神様はイエス様を三日目に復活させ、イエス様は40日間歩まれた後、天の天(一番高い所)に上げられました。私たちも、苦難・試練と忍耐の日々を過ごすことがあります。それはイエス様も通られた道です。そのイエス様が聖霊として、いつも共にいて下さいます。私たちの人格は練り清められたイエス様に似る者とされてゆき、イエス様がおられる天に入れていただく希望が、ますますはっきりしてきます。

 このローマの信徒への手紙を書いたパウロ自身、多くの苦難を経験をしています。パウロには病気がありました。それは眼の病気だったのではないかとも言われます。パウロは肉体にひどい迫害を多く受けていますから、いろいろな傷を受けていたに違いありません。パウロはイエス様に徹底的に従い、十字架には架けられませんでしたが、多くの迫害を受け、殉教の死を遂げて天国に入られました。パウロは、コリントの信徒への手紙(二)12章7節以下で、こう書いています。新約聖書339ページ下段。「それで、思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせて下さるように、私は三度主(父なる神様、あるいは神の子イエス様)に願いました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。」これは実に驚くほど深い信仰の言葉ですね。

 神様がパウロに与えた励ましは「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」私たちの努力も大切ではあるが、全てを完成に導いて下さるのは神様の愛の力、イエス様の愛の力です。ですからパウロは自分の身に与えられたとげを、苦難を誇りにすると言っています。私たちはなかなか、こう言えないとも思います。病は辛いし、とげは痛いからです。パウロも初めはそうで、このとげがなくなるように三度(つまり何回も)神に祈ったと言っています。しかし神の答えは、「(神の)力は弱さの中でこそ十分に発揮される」でした。パウロの弱さの中でこそ、パウロの苦難の中でこそ、イエス様が大きく働いて下さる。それを知って、パウロは自分の苦難を誇りとするという信仰の深い段階に到達できたと思うのです。パウロは苦難を忍耐して祈り、忍耐の中でイエス様に似た人に変えられ、そして遂には(神の、イエス様の)力はパウロの弱さの中でこそ十分に発揮されることを悟る希望へと進むことができたのです。いつもイエス様が聖霊としてパウロと共にいて下さり、パウロを慰め励まして下さいました。私たちもそのような人生を歩んで、天国に入りたいのです。

 ローマの信徒への手紙を、もう少し読みましょう。6節「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んで下さった。」私たち罪人(つみびと)の全ての罪を身代わりに背負って、十字架で死なれたイエス様の恵みが語られています。「私たちがまだ弱かったころ」とは、私たちがイエス様を信ぜず、罪を赦されていなかった時のことです。ということは、イエス様を救い主と信じた今は、全ての罪の赦しを受け、救われているということです。イエス様が不信心な者のために死んで下さったということは、イエス様がイエス様を信じない者、イエス様に敵対する者のために死んで下さったということです。イエス様は敵であった私たちを愛して、十字架に架かって下さいました。そのイエス様の愛を、もうすぐ聖餐式で味わおうとしています。 8節には、「しかし、私たちがまだ罪人(つみびと)であった時、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」とあります。「私たちがまだ罪人(つみびと)であったとき」とありますから、イエス様を信じた今は、全ての罪を赦されているということです。厳密に言うと、まだ罪が残っているけれども、洗礼を受けてイエス様という衣を着ているので、父なる神様から神の子(イエス様が長男ですから、イエス様の妹や弟として神の子)と見なされているのです。

 9~10節は、さらに深い恵みを語ります。「それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」今既にイエス様を救い主と信じ、イエス様の十字架の血潮のお陰で、神の前に義と認められている、神との和解ができあがっている非常に安心な状態にある。だから死後の最後の審判の時に、イエス様の十字架のお陰で、父なる神様の怒りから救われるのは、なおさら確実なことだと確約しています。今既に平和と安心の状態にあるのだから、最後の審判の時に無罪の宣告を受けることはなおさら確実だというのです。「なおさら」は、実に恵み深い神の御言葉です。神の愛の御支配の下で、万事は益とされる。イエス様が、今も天で私たちのために毎日執り成しておられる。その中で、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」、万事が益とされてゆく。それを成し遂げて下さるイエス様にひたすら信頼し、それでも不安な時はイエス様に不安をぶつけ、ひたすら祈り、聖霊による平安をいただいて共に歩ませていただきましょう。聖餐によっても、キリストの愛の十分に味わいたいのです。全ての方が洗礼を受けられ、この平安に入って下さるように、切に祈ります。

(祈り)聖名讃美。東京の3回目の緊急事態宣言が6月20日まで延期。オリンピック適切な決断を。感染している方全員に、特に重症の方に神の癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。経営や経済が非常に困難になって苦しんでいる方々に、神様の大きな助けを。世界中が、神に立ち帰るように。私たちの教会に各々の病と闘う方々、入院中の方もおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々にも聖霊を。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に神の愛を。チャイルドファンドジャパンを通して応援しているフィリピンの少年少女、牧師夫婦のホーム「にじのいえ信愛荘」の方々に、神様の守りを。イエス様の御名により、アーメン。