日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2023-11-17 13:23:40(金)
伝道メッセージ(10月分) 石田真一郎(市内の保育園の『おたより』に掲載)
「平和を実現する人々は、幸いである」(イエス・キリストの言葉。新約聖書・マタイによる福音書5章9節)。

 広島で13才で原爆に被爆したサーロー節子さんのメッセージを絵本にした『光にむかって ノーベル平和賞のスピーチ』(汐文社、2022年)を読みました。1945年8月6日午前8時15分、節子さんは目もくらむ青白い閃光を見ました。気がつくと、周囲は真っ暗で、倒れた建物の下敷きでした。広島女学院(キリスト教学校)の同級生の声が聞こえます。「お母さん、助けて。神様、助けて。」男性の声が聞こえました。「あきらめるな。動いて行け。今助ける。光が見えるだろう? そこまではって行くんだ。」神様が励まして下さったと思うのです。外に出ると、恐ろしい光景でした。同級生は焼け死に、歩いている人も皆、血を流し、火傷を負い真っ黒でした。保育園の「おたより」に書きにくいのですが、現実でした。私の親戚も広島の原爆で亡くなりました。

 16才で洗礼を受けてクリスチャンになった節子さんは、先頭に立って核兵器廃絶を訴え続けます。「『核兵器は悪だが、必要だ』という人に私は告げます。核兵器は人類が持ってならない絶対悪だ」と。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮が核兵器を持っています。2017年7月、国連で「核兵器禁止条約」が採択され、50国が同意して2021年1月に発効。しかし核保有国と日本や韓国が署名していない。何と日本が署名していないとは、全くあり得ないことです。

 今の「平和」は、核抑止力に依存した仮の「平和」で、真の平和ではありません。ある被爆者は、真の戦争抑止力は「ノーモア ヒロシマ」「ノーモア ナガサキ」「ノーモア 戦争」の叫びだと言われ、私もそう思います。今の日本はアメリカに協力し過ぎて防衛費倍増に走り、集団的自衛権を認めた以上、アメリカの戦争に引きずり込まれる恐れありです。黙っていてはいけないと思い、9月18日(月・休)に「戦争はイヤ 声をあげよう実行委員会」主催の市民パレードに参加しました(東久留米市役所から出発)。日本は、核抑止力に頼らない真の平和をめざし、アジア各国との平和外交に全力を挙げることこそ大切と信じます。神様が、戦争なき世界へと、私たちを導いて下さるように。アーメン(「真実に」)。

2023-11-17 13:21:39(金)
伝道メッセージ(9月分)石田真一郎(市内の保育園の『おたより』に掲載)
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(イエス・キリストの言葉。新約聖書・ヨハネによる福音書8章32節)。

 以前、早川園長先生に伺った話について、調べてみました。有馬四郎助というクリスチャンの刑務所長がいたのです(三吉明『有馬四郎助』吉川弘文館)。薩摩(鹿児島)生まれで、初めはキリスト教を邪教と思い、キリスト教が大嫌いでした。このような人は、かえって見込みがあります。誰よりも熱心なクリスチャンになったのです。34才でした。27才で、北海道の網走刑務所長になっていました。

 有馬さんは後年、刑務所長としての自分の姿勢を、次のように語りました。「私は囚人の善への可能性を信じ、彼らを囚人としてでなく、人間として処遇します。できれば彼を直します。私は彼らと友人になろうと努力します。彼らを釈放するに際し、正直な生活につくように助力します。私はキリスト教について、説教はしません。ただその教えが生きるように試みました。」

 今年9月1日で、関東大震災からちょうど100年です。その時、有馬さんは東京の小菅刑務所(現・東京拘置所=葛飾区)長でした。刑務所の建物も損壊し、受刑者が逃走可能になりました。余震の中、有馬所長は倒壊の危険のある諸建物に走って入り、職員・受刑者の無事を確かめました。日ごろの有馬所長の親愛に対し、受刑者たちは、今こそその恩義に応えるときと思い定めて立ち上がり、互いに逃走を戒め合った結果、一人の逃走者も出ず、強制されてではなく、進んで秩序を守ったのです

 彼らは、真の自由に生きたのです。イエス様は「真理はあなたたちを自由にする」と言われました。東久留米市にある自由学園の自由の名は、このイエス様の御言葉から取られています。私たちは、自由とは勝手気ままを行うことと誤解しています。真の自由とは、自分のエゴイズム(罪)に負けないこと、自分のわがままな心に進んで打ち勝つことです。受刑者たちは、このピンチにこそ、有馬所長の信頼を裏切らず、その信頼に自発的に応える真の自由に生きました。逃走の誘惑に打ち勝つ真の自由に生きたのです。見事です。

 日ごろから受刑者たちによき感化を及ぼしていた有馬さんのキリスト信仰と人格は、本物でした。有馬さんは新しい受刑者を迎えたとき、「君だけが罪人(つみびと)ではなく、私が罪人(つみびと)の頭(かしら)だ」と言いました。「完全な愛の方イエス様と比べれば、自分も非常に罪深い」の意味です。私たちもイエス様に従うとき、真に自由な者になります。アーメン(「真実に」)。

2023-11-17 13:19:52(金)
伝道メッセージ(8月分)石田真一郎 市内の保育園の「おたより」に記載した文章
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(イエス・キリストの言葉。新約聖書・マタイによる福音書26章52節)。

 8月は平和を愛する思いを新たにする月です。1945年8月までの日本は、富国強兵で生きようとし、朝鮮半島や台湾を植民地とし、敗戦で挫折しました。1946年5月より1948年11 月まで、日本の戦争指導者たちを裁く東京裁判(極東国際軍事裁判)が行われました。28名がA級戦犯として起訴され、7名が絞首刑になりました。

 東京裁判が行われた白亜の大講堂が東京・市ヶ谷の防衛省内に現存します。老朽化で取り壊しに決まりかけましたが、保存運動が起こり、一度解体した後ほぼ同じ場所に再建されました。私は6年前に見学に行きました(今も事前予約して見学できるはず)。中は教科書等に載っている写真ほぼそのままですが、思ったほど巨大ではない。裁判の時の机・椅子はありませんでしたが、自由に歩き、あの二階が傍聴席、ここが東條英機元首相たちA級戦犯の被告席、裁判長の席、弁護人の場と確認でき、ここがあの歴史的な場所かと思うと感無量でした。私の高校の同級生K君の曽祖父がA級戦犯で絞首刑になった広田弘毅元首相で、K君と仲がよかった私は高校時代から東京裁判に関心を持ちました。

 東京裁判には「勝者による裁き」という批判があり、一部その通りと思います。アメリカの原爆投下は裁かれていません。それでも日本が国際社会に復帰するためのけじめとして、避けて通れない裁判でした。私の関心は、日本はどこから道を誤ったかです。大国になろうとし過ぎました。東京裁判を学ぶことで、日本の敗戦までの歩みを検証し、同じ過ちを繰り返さないよう、今後に生かすことができます。今の国際情勢は厳しい。現実を直視しつつも、平和憲法の理想を捨ててもいけません。

 今の子どもたちの人生が幸せになるために、私たち大人が忍耐強く平和な日本、アジア、世界を造る努力をしましょう。戦争は最も安易な手段、平和への地道な努力こそ困難ですが最も尊い。憲法九条を確認しましょう。「①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」アーメン(「真実に」)。

2023-11-12 2:17:28()
説教「走り抜く信仰」 2023年11月12日(日)聖徒の日(召天者記念日)礼拝
順序:招詞 ペトロの手紙(二)3:9,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編112、使徒信条、讃美歌21・460、聖書 ヘブライ人への手紙12:1~13(新約p.416)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌327、献金、頌栄92、祝祷。 

(ヘブライ人への手紙12:1~13) こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。
 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

(説教) 本日は、聖徒の日(召天者記念日)です。説教題は「走り抜く信仰」です。新約聖書は、ヘブライ人への手紙12章1~13節です。小見出しは、「主による鍛錬」です。

 1節「こういうわけで、私たちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」口語訳聖書では、こうなっています。「こういうわけで、私たちはこのような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつ罪とをかな繰り捨てて、私たちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」「群れ」と訳されている元のギリシア語には「雲」の意味もあるそうなので、両方の訳共に正しいのです。「おびただしい証人の群れ」「多くの証人に雲のように囲まれている」とは、この前の11章にリストアップされている数多くの信仰者たちのことを指します。旧約聖書の時代の立派な信仰者たちです。アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセです。本日は礼拝後に、東久留米教会の歴史の中で天に召された方々のお写真を写し出しますが、私たちもこのような雲のような証人の群れに囲まれていることを思い、私たちも同じ信仰で最後まで走り抜こうと決心しているのです。

 証人と訳された元のギリシア語は、マルトゥスという言葉で、後には殉教者の意味にもなりました。イエス・キリストを指し示す証人として生きた人々の中には、殉教の死を遂げる人々もいたからです。実際11章の36節を見ると、大変な迫害を受けたことが分かります。「あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。」ここを読むと、あまりの迫害に私たちは驚きますが、それでも信仰の道を行きぬいた雲のような証人の存在に励まされて、「すべての重荷(罪を指す可能性あり)や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と、このヘブライ人への手紙の著者は私たちを励まします。この手紙の著者は誰なのか、この手紙のどこを読んでも書かれていないので、著者が誰かは分かりません。新約聖書の中の手紙の多くが、イエス様の弟子・使徒パウロによって書かれているので、パウロが書いたとする説もありますが。手紙の中には著者名が全く書かれていないのでパウロと断定することはできず、結局誰が著者かは分かりません。

 それは気にしないで、中身を読み進めます。著者は私たちを、信仰の競争を忍耐強く天国に入るまで走り抜こうと励ますのですが、同じような御言葉は新約聖書の他の個所にもあります。たとえばコリントの信徒への手紙(一)9章24節で、パウロがこう書いています。「競技場で走る者は皆走るけれども。賞を受けるのは一人だけです。あなた方も賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるために節制するのです。だから、私としてはやみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘(ボクシング)もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは。他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」信仰の競争・走りは多くの場合、短距離走ではなく、中距離・長距離走・マラソンです。忍耐強く完走することが重要です。

 ヘブライ人への手紙に戻り、2節「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」私たちの罪を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活され、今は天から私たちを守って下さるイエス・キリストを見つめて、目をそらさないで走り通すのです。「このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て(天国の栄光を捨ててこの地上に降ったこと、クリスマスの出来事)、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」このイエス様の地上の生涯こそ、私たちの模範です。3節「あなた方が、気力を失い疲れ果ててしまわないように。御自分に対する罪人(つみびと)たちのこのような反抗を忍耐された方(イエス様)のことを、よく考えなさい。」イエス様が私たちのために味わい、忍耐された多くの苦労・苦難を思い、心を振るい立たせて自分たちも苦難に負けないようにしなさいという励ましです。この手紙をはじめに読んだクリスチャンたちも、様々な迫害に苦労していたのです。テモテへの手紙(二) 3章12節には、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」と書かれていますね。

 4節「あなた方はまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」これは、色々な誘惑や試練の中で、信仰を捨てる罪のことです。誘惑や試練の中で血を流すまでに信仰を守る戦いを戦い抜いたことがないということです。信仰の戦いを立派に最後まで立派に戦い抜いて信仰を守り通しなさいという励ましです。これはやはり、迫害の中にいるクリスチャンたちへの励ましです。10章24節にも、「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に習って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日(神の国の完成の時)が近づいているのを、あなた方は知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」

 12章に戻り5節以下。「また、子どもたちに対するようにあなた方に話されている次の勧告を忘れています。(旧約聖書の箴言等からの引用)『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もし誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそあなた方は庶子であって、実の子ではありません。」神様が私たちの信仰を鍛えるために、鍛錬なさるというのです。ヨハネの黙示録3章15節以下には、イエス様の御言葉が、次のように書かれています。これは信仰がなまぬるかったラオディキアという都市の教会への激励のメッセージです。「私はあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので。私はあなたを口から吐き出そうとしている。」この厳しい御言葉の後に、イエス様がこう言われます。「私は愛する者を皆、叱ったり鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、私は戸口に立って、叩いている。誰か私の声を聞いて戸を開ける(心のドアを開く)者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。」私(イエス様)の熱愛を受け入れて、私を心の中に迎え入れてほしいとの、イエス様から私たちへのメッセージです。

 ヘブライ人への手紙に戻り9節以下。「更にまた。私たちには、鍛えてくれる肉の父(肉親の父)がおり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父(父なる神様)に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益となるように、御自分の神性(清さ)にあずからせる目的で私たちを鍛えられるのです。」私たちがますます清くなり、イエス様に似た人格の人になるように、清めて鍛錬して下さるのです。

 11節以下「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれによって鍛え上げられた人々に、義とい平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなった膝をまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒されるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」そして今日の個所の次の14節では、次のように励ましているのです。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めないなさい。聖なる生活を抜きにして、誰も主を(父なる神様を、イエス・キリストを)見ることはできません。」

 私は先週、台湾の首都・台北に行かせていただきましたが、台湾は日清戦争の結果、1895年に清国(中国)から日本に割譲されて日本の植民地になり、1945年の日本の敗戦まで50年間日本の植民地でした。その後、中国大陸で共産党に負けた国民党が蒋介石をリーダーとして入って来たのですが、台湾民衆を押さえつける政策をとったので民衆の反発が起こり、1947年に「二二八事件」という大事件が起こります。怒った民衆が各地で立ち上がったのですが、国民党政府がそれを激しく弾圧しました。戒厳令が敷かれ、国民党に批判的な知識人等が大勢捕まり、投獄・殺害された人は1万8000人~2万8000人とされます。戒厳令は1987年まで続き、恐怖政治が行われたそうです。1987年頃からようやく民主化が進められ、李登輝という台湾基督長老教会のクリスチャンが総統になり、民主化を推進して、民主化が達成されたそうです。李登輝は国民党に属しており、長年国民党は民主化反対派だったのですが、李登輝は国民党所属にもかかわらず、民主化を推進したそうです。

 民主化がなされるまでは、多くの苦難があったそうです。台湾基督長老教会は、民主化を求めていたので、国民党政府から睨まれていました。有名なのは高俊明という牧師、台湾基督長老教会の総幹事を務めました。総幹事任期中の1980年から1984年まで約4年3ヶ月間、投獄されていました。民主化を嫌う国民党政府に憎まれたからです。先ほどお読みした11章36節に「あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました」とあるように、投獄されたのです。この方は2019年に89歳で天に召されています。

 私が初めて台湾に行ったのは1993年、私が通っていた神学校のアジア伝道論の実習旅行でした。台湾からの留学生が案内して下さり、10日間で26の教会や神学校等を巡るというツアーでした。台湾には多くの言語があり、もともとは台湾語と、10数種の原住民(当事者にとって誇りの名称)が各々別々の言語を持っていた。日本の植民地時代は、日本語教育が行われました。その後、1945頃から中国大陸から国民党が入って来たときから、いわゆる中国語が入って来たようです。今でも原住民の各々の言語が生きています。原住民は全人口の2~3%ですが、驚くべきことにほとんどがクリスチャンだそうです。

 私は今回は山地の原住民の教会に行くことはできませんでした(30年前は多く訪問した)。それはともかく、台湾基督長老教会(その中には原住民の教会も多い)は、民衆の仲間として民主化を求めていたので、国民党政府から睨まれました。この方は詩人でもあり、『サボテンと毛虫』(教文館)という詩集が出ています。こんな詩です。「わたしは求めた 美しい花束を しかし、神さまは とげだらけのサボテンをくださった。 わたしは求めた。愛らしい胡蝶を しかし、神さまは ゾッとするような毛虫をくださった。 わたしはなげき、悲しみ、失望した。 しかし 多くの日が過ぎ去ったあと、わたしは目を見張った。 サボテンが多くの花を開いて 美しく咲き乱れ 毛虫が愛らしい胡蝶となって 春風に舞い舞うのを  すばらしい神さまの御計画。」

 意味はこうです。「私の獄中における4年3カ月と21日は苦しいものでした。妻も子たちも、また台湾基督長老教会も、このために大変苦しみました。しかしこの一番苦しかった時を、神様は一番祝福された時に変えて下さいました。日本全国や色々な国から、数えきれないほど多くの慰めの手紙が私の元に送られて来ました。カトリックの特使や世界改革派教会連盟の総幹事や、日本、韓国、カナダ、アメリカ、ドイツ、イギリス、スイス等の教会代表、国会議員、アムネスティ代表および色々な方々が、台湾に私たちを訪問したり、その他の方法で私たちに深い関心を示して下さいました。刑務所の孤独と苦しみと悲しみのさなかにあって、私は何回も何回も、神さまの愛と正義と全能とを全存在をもって体験し、それを再確認することができたのです。確かに神様は、とげだらけのサボテンに多くの花を咲かせ、ゾッとするような毛虫を、愛らしい胡蝶にしてくださって、私を豊かに祝福して下さいました。まことに『苦しみにあったことは、わたしにとって幸せでした』(詩編119編71節)。

 高俊明牧師は、日本と台湾のことも、詩の中で歌い上げておられます。
フィリピの信徒への手紙3章12節~。  アーメン。

2023-11-04 16:57:40(土)
「私たちを友と呼んで下さるキリスト」 2023年11月5日(日)東久留米教会創立62周年記念礼拝説教
順序:招詞 ペトロの手紙(二)3:9,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編112、使徒信条、讃美歌21・357、聖書 イザヤ書41:8~10(旧約p.1126),ヨハネ福音書15:1~17(新約p.198)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌493、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(イザヤ書41:8~10) わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。

(ヨハネ福音書15:1~17) 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

(説教) 本日は、東久留米教会創立62周年礼拝です。説教題は「私たちを友と呼んで下さるキリスト」です。新約聖書は、ヨハネ福音書15章1~17節です。小見出しは、「イエスはまことのぶどうの木」です。

 今日の直前でイエス様は、「さあ、立て。ここから出かけよう」と力強くおっしゃいました。ですがいきなり十字架の場面にはならず、本日の15章では少しホッとするイエス様の説教が続きます。14~16章は、ほとんど途切れないイエス様の長い説教です。そして17章にはイエス様の長い祈りが記され、そして18章でイエス様が捕られます。15章は有名な章と思います。特に15章5節は、大人でも子どもでも暗唱しやすい聖句として知られています。「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。」私が東久留米教会に赴任した1996年に、教会でこの聖句とぶどうの実が描かれた、全体は薄い緑の茶碗を多く作って、教会の集会で長年使用していましたが、まだ11個ほど残っていますね。その年の東久留米教会の標語聖句でした。

 1節から読みますと、「私(イエス様)はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」イエス様は、たとえを用いて本質的な大切なことを語っておられます。今日は聖餐式もありますので、私たちはイエス様という真のぶどうの木から、豊かな栄養分をいただきます。全ての方が早く洗礼を受けられて、共にイエス様の聖なる御血潮のしるしであるぶどう液、そしてイエス様の聖なる御体のしるしであるパン(ウェファース)をお受けになることができますように、心より祈ります。

 2節は厳しい御言葉です。「私につながっていながら、実を結ばない枝は皆、父(父なる神様)が取り除かれる。」これはよほど悪質な人のケースで、たとえばイスカリオテのユダのような人を指すのではないかと思います。「しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」ぶどうなどの木であれば剪定、私たち人間であれば訓練を与えて、信仰を鍛えて下さるということでしょう。

 3節「私の話した言葉によって、あなた方は既に清くなっている。」イエス様の御言葉を心の中に蓄えることによって、私たちの心は清められてゆくのです。ますますイエス様の御言葉、聖書の御言葉を心の中に蓄え、暗記したいものです。私はある英語の聖書を見たことがありますが、イエス様の御言葉だけは赤い文字で印刷されているのです。イエス様の御言葉が一目瞭然です。このヨハネ福音書14~17章をその聖書で見れば、真っ赤なページが続き、かなり印象的です。ある少し昔の牧師の文章に書いてあったのですが、その方は若い頃にヨハネによる福音書とローマの信徒への手紙を全部暗記しようとトライした。全部暗記はできなかったようですが、その熱意はすごいものだと感じました。全部は無理でも、かなり多くを暗記なさったのでしょう。随分心が清められたのではないかと思います。

 4節「私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ。自分では実を結ぶことができないように、あなた方も私(イエス・キリスト)につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており。私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」 「あなた方も私につながっていなければ、実を結ぶことができない。」愛という実(父なる神様を愛し、隣人を愛する実)を結ぶことができないということでしょう。私たちはエゴ(自己中心)の塊の面がありますので。「私を離れては、あなた方は何もできない。」自力だけ(自我、エゴの力だけ)で頑張れば、自己中心的な自己満足の成果を生むことができますが、本当に神様と隣人に喜んでいただける、完全によき愛の実りを産み出すことはできないということです。

 私たちはどのような実を結びたいのかと言えば、ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節に記されている「聖霊の実」です。聖霊はイエス・キリストの霊ですから、私たちはイエス様というぶどうの木からイエス様の御言葉と聖霊という栄養分を注いでいただき、次のような「聖霊の実」を結ばせていただきたいのです。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」9つの実です。愛という最大の実の中に、後の平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の8つの実が含まれているという読み方もあります。

 6節「私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」これも厳しい警告の御言葉です。こうならないように今のうちに早くイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、イエス様につながりなさいという招き、招待の御言葉です。7節「あなた方が、私につながっており、私の言葉があなた方の内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」その人は、イエス様の御言葉を心の中に十二分に蓄えているので、心が清められています。「望むものを何でも願いなさい」と言われて、自分勝手な願い事、祈りをすることはないはずです。しかし神様は寛容な方でもありますから、自分勝手な祈りでなければ。私たちの願いを聞き届けて下さることは十分あり得ます。
 
 かつて神様が即位したばかりの若いソロモン王に、「何事でも願うがよい」と言われたとき、若いソロモン王はこう祈りました。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕(しもべ)をお立てになりました。しかし、私は取るに足りない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。~どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与え下さい。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」神様は、ソロモンのこの願いをお喜びになり、言われました。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、私はあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に魅した賢明な心を与える。~私はまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。」若い謙遜なソロモンの祈りは、すばらしかったのです。残念なことは、ソロモンが次第に多くの側室を持つようになり、彼女たちが持ち込む偶像をも礼拝するようになり、晩年に堕落したことです。「初心忘るべからず」と思わせられ、私・私どもも襟を正させられます。

 ヨハネに戻り8節以下「あなた方が豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。」私たちが聖霊によって愛の実を結ぶなら、それは父なる神様にとっても嬉しいことで、父なる神様にとっても誉になるというのです。「父が私を愛されたように、私もあなた方を愛して来た。私の愛にとどまりなさい。私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなた方も私の掟を(互いに愛し合いなさい)を守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」

 11~12節「これらのことを話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである。私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。」そして有名な13節「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」イエス様はこの福音書の10章でも、ほぼ同じことを語っておられます。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」イエス様は、語った通りに実行して下さいました。私たちの全ての罪を身代わりに背負って、十字架に架かって死んで下さいました。もちろん三日目に復活され、今も天で生きておられ、天から私たちに聖霊を注いで下さいます。

 14節以下「私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である。もはや、私はあなた方を僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。」父なる神様と私たちの関係、イエス様と私たちの間柄を、聖書は色々に表現します。1つは主と僕です。あるいは花婿と花嫁(夫と妻)と表現されることもありますね。今日の個所では、イエス様が私たちを親しく友と呼んで下さいます。対等扱いして下さっており、大変光栄なことです。私が洗礼を受けた教会で、私が同じ青年の男性に「〇〇さんにとって、イエス様はどんな方ですか」と尋ねたところ、即座に「友達!」という答えが返って来たことを思い出しました。「そうなんだな」と思いました。私たちの方から「イエス様、あなたは私の友達です」と申し上げるのは、ややおこがましい、馴れ馴れしくて言いにくい気がします。しかしイエス様の方から「私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である」と親しく言って下さることは、感謝してお受けしたいと思います。イエス様は罪人(つみびと)である私たちに心の全てをオープンに語って下さり、信頼して打ち明けて下さるのです。

 旧約聖書でも、神様に友と呼ばれた人間がいます。アブラハムです。本日のイザヤ書41章8節以下に、こうあります。「「私(神)の僕イスラエルよ。私の選んだヤコブよ。私の愛する友アブラハムの末(子孫)よ。」ここで旧約聖書の重要な登場人物アブラハムが、「神様の愛する友」と呼ばれています。創世記18章を見ると、神様が非常に罪深いソドムを滅ぼすために地上に来られた時、「私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。~私がアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うように命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」と言われました。「私が行おうとしているソドムへの裁きを、アブラハムに隠す必要はない」と明言され、神様がアブラハムを心から信頼して、アブラハムを尊重して、友として接しておられることが分かります。

 イエス様も私たちの人格を認めて、私たちを信頼して、私たちを僕ではなく、友と呼んで下さいます。大変光栄なことです。「父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」私と妻が洗礼を受けた教会では、洗礼式の前に、自分で書いた信仰の証しを皆さんの前で朗読して、洗礼を受ける伝統です。私もそうしたのですが、その作文の中でこの御言葉を引用しました。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出て行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。」私たちは皆、そうです。神様に選ばれて、招かれてここに来ています。最近私はある牧師の方がこのように言われるのを聞きました。「自分で選んで教会に通うようになったと思っていたが、よく考えてみると幼い時、自分で選んだのではなくて教会付属の幼稚園に入った。やはり自分で選んだのではなく、神様が私を招いて下さったんだ。」イエス様は私たちを友として愛し、信頼しておられますから、私たちが理由もなく礼拝を休んだり、祈りをしなかったりすると、イエス様は寂しく感じ、悲しまれるのですね。私たちはしれを知っておいた方がよいです。私たちが特に理由もなく礼拝を欠席すると、私たちを友として信頼し、愛して下さるイエス様が悲しまれると。
 
 この後で私たちは「いつくしみ深き、友なるイエスは」の讃美歌を歌います。この讃美歌は、本日の御言葉と深く関わっています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなた方は私の友である。~私はあなた方を友と呼ぶ。」そして、マタイ福音書11章28節以下のイエス様の御言葉も深く関わっています。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負い易く、私の荷は軽いからである。」私たちの友であるイエス様は、このように言って下さいます。

 イエス様はどのような方か。イザヤ書53章3~4節にはこう書かれています(口語訳)。「悲しみの人で、病を知っていた。~真に彼はわれわれの病を負い、我々の悲しみを担った。」「慈しみ深き作詞した19世紀のアメリカ人・ジョセフ・スクライヴェンという男性は、二度も婚約者に先立たれる試練を経験したそうです(大塚野百合『賛美歌・聖歌ものがたり』創元社、1997年、119ページ以下)。彼の悲しみを共に悲しんだのは、彼の母でしたが、彼は母を慰めるためにこの歌詞を作ったそうです。彼自身は、祈りの中で自分の悲しみを率直に神に訴え、祈りの中でイエス・キリストの慰め、聖霊の慰めを受けて、何とか耐えることができたようです。その祈りの中で、彼は悲しみの人、私たちの悲しみを担って下さるイエス様がどんな方かを深く体験したようです。ヘブライ人への手紙2、3章によると、イエス・キリストは次のような方です。「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。」「ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」このようなイエス・キリストに、私たちも「悩み苦しみを、隠さず述べて、重荷のすべてを御手にゆだねよ」と、作詞者ジョセフ・スクライヴェンは、私たちに語ってくれています。

 ところで日本には。今から102年前の大正10年に、賀川豊彦という著名な牧師が「イエスの友会」という会を作り、今もあるそうです。当時の日本の社会は暗い状況にあったようです。「イエスの友会」は、その中に少しでも灯をともそうと、奉仕したそうです。102年前と言えば、2年後に関東大震災がのです。「イエスの友会」は、関東大震災で被災した人たちの救援にも奔走したに違いありません。「イエスの友会」の目指すことは次の5点でした。「①イエスにありて敬虔なること。 ②貧しき者の友となりて労働を愛すること。 ③世界平和のために努力すること。 ④純潔なる生活を貴ぶこと。 ⑤社会奉仕を旨とすること。」私たちを友と呼んで信頼し愛して下さるイエス様の愛に応えて、このように生きる、イエス様の友として、貧しさや病に苦しむ隣人に奉仕しようとしたのです。私たちもイエス様の愛に感謝し、試練の時は神様の祈る中で、イエス・キリストの愛と慰めをいただき、自分にできる形で隣人への奉仕も、少しずつでもさせていただけると大変感謝です。アーメン。