日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2018-12-13 0:26:30(木)
「ザカリアの讃美」 アドヴェント(待降節)第2主日礼拝 説教要旨
聖書:出エジプト記4章11~12節、ルカ福音書1章5~25節、57~66節

 本日の主な人物は、洗礼者ヨハネの父となった祭司ザカリアです。ザカリアという名は、「神は覚えている」の意味だそうです。長年子宝に恵まれなかったザカリアとエリサベト夫婦を神様は覚えておられたのです。ある牧師の方が説教に「神はあなたを忘れない」という題をつけておられました。本当によい題だと思います。ヘブライ人への手紙6:10にこうあります。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。」神様は私たちを決して忘れない方、私たちをいつも覚えていて下さる方です。「神に見放された」と思う時があるかもしれません。しかしその時でも、神様は私たちを覚えておられます。

 ザカリアとエリサベトの夫婦は年をとっていました。私の想像ですが、ザカリアは53才くらい、エリサベトは50才くらいだったのではないかと思います。「ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。」これは一生に一度の務めだそうです。当時1万8000人の祭司がいたそうです。ザカリアは光栄な時を与えられたのです。香壇は、至聖所(最も聖なる空間)に入る隔ての幕の少し手前にあったようです。至聖所には年に一度、大祭司だけが入ることができます。香をたく務めは、聖別された祭司だけが行うことができます。一般の人がこれを行えば、聖なる神に撃たれて死ぬ恐れがあります。

 ザカリアのそばに天使ガブリエルが現れたのです。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や濃い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。」ところがザカリアがそれに疑問を述べました。

 すると天使ガブリエルは、「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」信仰深いザカリアでさえ、罪を犯してしまいました。神様が私たちに口を与えて下さいました。神様は「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか」(出エジプト記4:11)と語られます。私たちの口は、神様を讃美し、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を」語る(エフェソの信徒への手紙4:29)ために与えられているはずです。もちろん時には愛をこめて苦言を語ることもあるでしょう。しかし私たちの現実は「舌で、父である主を讃美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪」う(ヤコブの手紙3:9)かもしれないのです。ザカリアの口にも罪があり、私たちの口にも残念ながら罪があります。

 でも神様はザカリアを洗礼者ヨハネの父となる栄誉を取り消さず、栄誉を与えて下さいました。赤ちゃんが生まれるまでの10ヶ月間、ザカリアは自分の不信仰の罪を、深く悔い改めたに違いありません。赤ちゃんが生まれたとき、人々は父の名をとってザカリアと名付けようとしましたが、エリサベトは天使の指示に従って、ヨハネと名付けると言い、ザカリアも板に、「この子の名はヨハネ」と書きました。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めたのです。ザカリアに聖霊が降ったと思います。ザカリアの口は、神を賛美するよき目的に用いられました。

 私は以前、韓国人テノール歌手ベー・チェチョルさん(クリスチャン)の著書『奇跡の歌 声を失った天才テノール歌手の復活』(いのちのことばフォレストブック、2009年)を読みました。この方は甲状腺のご病気になられ、手術で声を出すに必要な3つの神経を切断なさったそうです。しかし日本人医師により再建手術を受け、手術中に「何か歌って下さい」と言われ、「輝く日を仰ぐとき」という讃美歌を歌われました。最初の手術の後、声がうまく出ないとき、「もう一度歌わせてくださったら、最初にあなたのために歌います」と神様に祈られたのでした(同書、64ページ)。こう書いておられます。「なぜ神は私に、ヨーロッパの舞台でオペラを歌えるほどの声を与えてくださったのかを考えてみました。~『まず神のためにこの声を生かさなければならない。神を歌でほめたたえることが私の使命だ』と思ったのです。私は、その才能を自分の持ち物のように使っていたことを悔い改めたのでした」(同書、65ページ)。ザカリアに似ている面がある、と思うのです。

 マザー・テレサは、「私は神の鉛筆」と語られたと聞きます。マザー・テレサをお用いになって神様が御心を実行なさるということです。私たちも神様の手足としてお仕え致します。この後、『讃美歌21』の512番を讃美致します。2節「主よ、献げます、私の手足、みわざのために 用いてください。差しのべる手を、愛の手として、平和伝える 主の足として。」3節「主よ、献げます、私の声を。あなたのみ名を ほめ歌います。この唇を よいおとずれで あふれるばかり 満たしてください。」心をこめて歌いましょう。アーメン(「真実に」)。

2018-12-07 0:43:17(金)
「敵を愛しなさい」 アドヴェント(待降節)第1主日礼拝 説教要旨
聖書:サムエル記・下16章5~12節、マタイ福音書5章38~48節

 アドヴェント(待降節)第1主日の礼拝です。3週間後にイエス・キリストのご降誕を祝うクリスマス礼拝を献げます。アドヴェントはラテン語で「来る、到来する」の意味です。イエス様は約2000年前に私たちの世界に来て下さいました。そして必ずもう一度来られて、「最後の審判」を行われ、神の国が完成されます。アドヴェントは英語のアドヴェンチャーの語源です。アドヴェンチャーは冒険、危険を冒すことです。イエス様は、敵対する悪魔が力を振るうこの世界に、あえて危険を冒して誕生して下さいました。私たちを愛し、私たちを罪と悪と死の支配から救い出すためです。これがクリスマスです。暫く前にシリアで日本人ジャーナリストの方が解放されました。本当によかったと思います。今、シリアに行くことは危険を冒すことだと私たちは痛感しています。外国人がシリアに行けば人質にされる可能性があり、殺される恐れもあります。イエス様がこの世界に誕生されたことも、似た危険を冒す行為だったと思います。実際イエス様は、生まれてすぐヘロデ大王に命を狙われましたし、33才くらいのときに十字架で殺されたのです。もちろん三日目に復活なさいましたが。

 本日は、そのイエス様が教えられた山上の説教を読んでいます。山上の説教の中でも有名な箇所です。イエス様は言われます。「あなたがたも聞いているとおり、(旧約聖書で)『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」これは仕返し、復讐の禁止です。暴力で暴力に対抗するな、ということです。これは弱虫の生き方でしょうか。違います。これはゆるしの教えと思います。他人から害を受けてゆするのは、とても辛いことです。仕返しすればすかっとします。でもあえて仕返しをしないでゆるすことは、非常な忍耐を要すること、気高いこと、真の意味で強い人の道、真の勇者の道だと思うのです。箴言19章11節に、「背きを赦すことは人に輝きをそえる」という御言葉を見つけました。感銘を受ける御言葉です。

 「悪人に手向かってはならない。」イエス様がまさにそのように生きられました。ご自分を十字架につける人々に抵抗せず、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。「悪人に手向かってはならない。」イエス様の使徒パウロが、この御言葉の意図を教えてくれます。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐(正しい裁き)はわたし(神様)のすること、わたしが報復する(正しく裁く)』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』(箴言25章21~22節。敵が恥じ入る)。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマの信徒への手紙12章17~21節)。暴力で暴力に対抗せず、善をもって悪に勝て、愛をもって悪に勝て、というのです。私たちは相手に振り回されず、常に愛と善を実行すればよいのです。神様ご自身(あるいは神の子イエス様)が「最後の審判」を行われます。

 トルストイ原作の『火は早めに消さないと』(柳川茂文、いのちのことば社フォレストブックス、2007年)という作品があります。小さなことから争いを始めた2つの家の争いがエスカレートし、遂には放火にまで至る物語です。争いのただ中にあるイワン。イワンの父親が彼を諭します。「神さまはわしらに教えてくだすった。片方のほおをたたかれたら、もう片方のほおをだせってな。いくらでもたたかせるがええ。そのうち、相手の良心がとがめてくるもんじゃ。」

 イエス様はさらに言われます。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」私は先々週、この教会が属する日本キリスト教団西東京教区の伝道協議会に参加しました。講師の方、以前ご自分の教会内でである方とうまくいかなかった経験を語って下さいました。そして「自分の嫌いな人のためにお祈りすることが大切」との意味のことを語られました。クリスチャンは自分だけのために祈りません。とりなしの祈りを致します。好きな人のためだけでなく、ウマが合わない人のために祈る、ウマが合わない人のためにこそ祝福を祈ることが大切と信じます。

 私は藤井輝明さんとおっしゃる方が書かれた『運命の顔』という本を持っています(草思社、2003年)。私は1990年頃に茨城県でこの方とお話をしたことがあります。私がお誘いしたところ、私が通っていた教会にも一度来て下さいました。お顔の血管腫でご苦労なさった方です。こう書いておられます(221~223ページ)。「信じられないかもしれませんが、私の顔を見て、ツバを吐きかけてくる人もいるのです。」「かつては目いっぱいの怒りを視線に込めて、にらみ返していました。」「ときどき私はあることを試すようになりました。それは、笑顔でおじぎを返すことです。~あわてて視線をそらす人や、気まずそうにうつむく人など、反応はさまざまです。けれども、なかには私につられて笑顔になる人や、おじぎを返してくれる人もいるのです。」私は感嘆します。これこそ、「善をもって悪に勝つ」生き方だと。

 日本キリスト教団出版局が発行している『こころの友』(2018年10月号)に、心に残る文章を見つけました。神奈川県の石丸泰信牧師の文章です。「信念のない人の口癖は『だから』です。相手が親切にしてくれた。『だから』わたしも親切にしよう。~あの人が自分の陰口を言った。『だから』わたしも言う。~信念を持って生きる人は違います。周りがどうであれ、わたしはわたしなのです。信念、つまり生き方の土台を持っている人の口癖は、『しかし』です。あの人はわたしに冷たい。『しかし』わたしは助けよう、というように。」とても教えられました。

 もう一つ。私はしばらく前に東京都港区高輪の泉岳寺に行きました。赤穂浪士とその主君・浅野内匠頭の墓があります。赤穂浪士の話は今でもテレビドラマなどになります。私は歴史好きですので、以前は赤穂浪士の話(忠臣蔵)も割に好きでした。でもこれは赤穂浪士が主君のかたき討ちをした出来事です。当時(18世紀初頭)の日本では、家臣が主君のかたき討ちを行うことは忠義でよいことという価値観があったのでしょう。でもイエス様が、「悪人に手向かってはならない。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃっていることとは矛盾します。私はクリスチャンとしては、赤穂浪士の行動を義挙と肯定することはできないと、今は思うのです。アーメン(「真実に」)。

2018-11-29 2:37:10(木)
「喜んで与えるキリストの愛」  「はじめて聞く人にわかる聖書の話」礼拝(第18回) 説教要旨
聖書:ルカによる福音書12章13~21節

 イエス様は言われます。「どんな貪欲(どんよく)にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」その通りです。どんなに多くのお金を持っていても、お金で永遠の命を買うことはできません。使徒言行録8章に登場するシモンという魔術師は、お金を持って来てイエス様の弟子ペトロとヨハネに言ったのです。「わたしが手を置けば、だれでも聖書が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」神様の聖なる賜物をお金で手に入れようとした、お金で買おうとしたのです。神様への甚だしい冒瀆です。愛もお金で買うことはできません。旧約聖書の雅歌8章7節に、「愛を支配しようと財宝などを差し出す人があれば、その人は必ずさげすまれる」とあります。

 イエス様はこうも言われます。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイによる福音書16:26)。日本に最初に(16世紀半ばに)イエス・キリストを伝えたフランシスコ・ザビエルは、この御言葉にも励まされてヨーロッパから東洋伝道に出発したと聞きます。貪欲が大きいな問題です。

 モーセの十戒の第十の戒めはこうです。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」これは貪欲を戒める言葉です。旧約聖書の民数記11章に、エジプトを脱出した神の民イスラエルが不平不満を言う場面があります。すると神様は食べきれないほどのうずらを落として下さいました。「肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた。そのためその場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている。貪欲な人々をそこに葬ったからである」と書かれています。貪欲は私たちを滅ぼす罪となります。

 戦国時代のヒーローに豊臣秀吉がいます。彼は大坂城に多くの金銀を蓄えていたそうです。朝鮮半島に二度も軍隊を送り、侵略し、多くの現地の人々が殺されました。自分の住まいには大勢の側室を置いていました。非常に貪欲だったのです。そしてキリスト教徒を迫害し、殉教の死に追いやりました。これだけ罪を犯したので、すんなり天国に入ることができたかどうかは疑問です。

 『ビルマの竪琴』(ポプラ社文庫、1994年)という名作の物語があります。作者は竹山道雄です。主人公の水島上等兵が次のように語ります(228ページ)。「わが国は戦争をして、敗けて、くるしんでいます。それはむだな欲をだしたからです、思いあがったあまり、人間としてのもっともたいせつなものを忘れたからです。」これは作者の思いに違いありません。大長編『徳川家康』を執筆した山岡荘八は、「戦乱の根は各自の飽くなき『所有欲』にある」と東洋の先哲は喝破したと述べています(『徳川家康 26』講談社、2009年、498ページ)。

 イエス様は貪欲を戒めるたとえ話を語られます。「ある金持ちに畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 トルストイというロシアの文豪が『人にはどれだけの土地がいるか』という作品を書いています。悪魔の誘惑に負け、自分の貪欲に負けて自滅した男の物語です。もしかするとイエス様のこのたとえ話をヒントに書いたのかもしれません。先週は著名な経営者が逮捕されました。まだ裁判が始まったわけでもないので決めつけてはいけませんが、かなりお金持ちのようです。貪欲の罪に陥ってしまったように思えます。

 私は自分を見つめて思います。「自分のために富を積んでいないだろうか。神の前に豊かになっているだろうか?」神の前に豊かになる生き方、それは神様から預けられたお金・労力・時間を独り占めせず、ほかの方々と分かち合う生き方です。イエス様の使徒であるパウロは述べます。「わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」(使徒言行録20:34~35)。

 パウロは次のように書いています。「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです」(コリントの信徒への手紙(二)8:12)、「喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(同9:7)。

 イエス様は言われます。「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」(ルカによる福音書6:38)。旧約聖書の箴言11:25にはこうあります。「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う。」イエス様の愛はまさに「喜んで与える愛」です。ヨハネによる福音書によると、神の子イエス様は私たちの罪をすべて背負うために進んで十字架におかかりになりました。積極的にご自分の尊い命を、私たちにプレゼントして下さったのです。

 つい自分のためにため込みたくなる私たちかもしれませんが、「神の前に豊かになる」真の意味で自由な生き方へと進みたいのです。アーメン(「真実に」)。

2018-11-21 12:25:24(水)
「めぐみのかみさまに、かんしゃ」 収穫感謝日・教会学校との合同礼拝 説教要旨
聖書:申命記8章3~10節

 今夏は、西日本豪雨、台風被害、地震被害が日本各地で起こりました。そのために今も困難を強いられている方々に、神様の御守りを心よりお祈り致します。その中にあって、実りの秋を迎えることを許され、感謝です。今日は説教台の前にりんご、柿、梨、みかん、バナナなどが置かれています。みな、神様の恵みです。

 神様は恵みに満ちた自然界を創造されましたが、自然界はときに私たち人間に牙をむきます。自然界がそうなったのは人間の罪の結果と言えます。神様は、神様の戒めに背いたアダムに言われました。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。」現状の自然界は、美しさは厳しさが一体です。

 今日の聖書で、神様の民イスラエルのリーダー・モーセが神様のメッセージを伝えます。「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」それはカナンの地、聖書の言葉で言うと「乳と蜜の流れる地」です。東久留米教会のある場所も似ています。すぐ近くに落合川が流れ、南沢湧水があります。地下水も豊富です。市内にコカコーラの工場がありますし、以前はヤクルトもあったそうです。地下水で製品を作るのでしょう。ここは神の恵みを受けた土地です。この南沢の地域は、水があるので縄文時代から人が住んでいました。今、皆さんが座っている場所をも、縄文人が歩き回っていたと思います。近くの向山遺跡は、今は埋め戻されているようですが、以前発掘が行われ、有名な考古学者も来たそうです。竪穴式住居跡が見つかりました。多聞前では、獣面土器という珍しい土器が発掘され、割に知られた土器だそうです。この地域は、神様の恵みを受けて、縄文人が住んでいたのです。残念ながら、彼らはまだ真の神様を知らされていませんでしたが。

 私が、神様が与えて下さる実りで連想するのは、東日本大震災の津波被害を受けた仙台市の海岸沿いの地域です。最初は田畑は塩水をかぶって何もない状態でした。パワーのある人は、数か月後に小松菜の栽培を再開しました。まず畑が少しずつ再生しました。塩が入っているので、畑の土の上下を入れ替えるという声も聞きました。そのようなことも行ったのかもしれませんが、雨水が塩を次第に洗い流すことも起こったようです。田んぼの復活は10年かかると当初は言われたようです。でも3年目くらいから田んぼが少し再生しました。定期的に行くと、少しずつ再生して行く様子が見え、嬉しい気持ちになりました。もう少したつと田んぼもかなり再生しました。写真で比較すると、何もなかった田んぼに、青々と苗が育つようになった変化が分かります。私は「復活」とはこういうことかな、と感じているのです。神様の恵みと農家の方々の努力によるものです。但し、後継者不足の課題はあるようです。神様の助けを、心より祈ります。

 神様は晴れの日、雨の日、風の日を用意して、作物を育てて下さいます。宗教改革者マルティン・ルターが語ったこんな話があるそうです(山北宣久著『天笑人語』日本キリスト教団出版局、2015年、87ページ)。神様の天候支配に不満を持つ農夫がいました。「神様は下手だ。自分の方が上手に天候をコントロールして、多くの収穫をもたらしてみせる。」そこで神様が彼に天候をコントロールすることを許しました。彼は張り切って種を蒔き、晴れの日、雨の日を丁度よく与えました。非常に順調に生育し、実りの時を迎えます。大成功のつもりです。ところが穂の中に実が一粒もなかったのです。「え? どうして。」彼は頭を抱えます。風を吹かせることを忘れたのです。花粉が飛ばず、受粉が起こらず、実が実りませんでした。

 神様には決して見落としはありませんが、人間には見落としがあります。大きな津波が来ることを十分に想定しなかったので、原発事故が起こりました。あの時、「想定外」という言葉が流行しました。頭脳が最高に優秀な人々が集まっていたのに、想定外の事態に敗北しました。神様に想定外は全くありませんが、人間には想定外があります。人間の知恵を過大評価する傲慢の罪を、悔い改める必要があります。

 神様が造られた自然界には、多くの宝があります。2015年にノーベル賞を受けられた大村智先生は、各地で土や木の葉を集め、微生物がつくり出す化合物の中から480種あまりの新規物質を見つけたそうです(2015年元日の朝日新聞より)。1974年に静岡県伊東市のゴルフ場近くの土壌から見つけた放線菌がつくる抗生物質を改良し、牛や馬などの家畜に非常に有効な抗寄生虫薬「イベルメクチン」ができたそうです。東久留米教会初代牧師の浅野先生ご夫妻が伊東市に住んでおられたので、私は年一回ほど訪問致しましたが、あの近くの土地の、おそらく一見何の変哲もない土に、このような宝が隠されていたのです。この薬が人間の感染症「河川盲目症」に有効であることが分かり、アフリカなどの流行地で治療と予防に年1億6000万人が飲む薬となったそうです。神様が造られた自然界には、このようなすばらしい宝が隠されているのです。研究者は、失敗を繰り返しながら、それを探しているのです。

 さて、モーセは、カナンの土地の豊かさについてこうも語ります。「不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。」「山から銅が採れる」ことは土地の豊かさを示すのでしょう。しかし、銅などの資源を採り過ぎることが公害を起こすこともあります。その場合は、私たち人間の欲望が、神様が造られた自然環境を破壊する罪を犯すことになります。神様が造られた恵みの自然界を破壊しないで守ることも、私たち人間の責任です。戦争は最大の環境破壊です。

 私は昨年8月に、栃木県の足尾銅山跡に行きました。江戸時代からの銅が採掘されていたそうです。昔の採掘の様子が、人形などによって再現されていました。説明には、足尾銅山が明治の日本の富国強兵に貢献したことが強調気味に書かれていたと記憶しています。私の感覚では、足尾銅山=鉱毒事件なので、「おや?」と思いました。説明には「光と影がある」のような意味のことは書かれていたと記憶しています。足尾銅山鉱毒事件は、日本最初の公害と言われ、渡良瀬川流域の田畑がだめになり、魚が多く死にました。人間の欲望を優先させる罪の結果です。私たちには、神様が造られたすばらしい自然界を、人間の欲望によって破壊する罪を犯さないように気をつける責任があります。鉱毒で苦しむ農民を救済するために闘った田中正造は洗礼を受けず、クリスチャンにはならなかったようですが、新約聖書を愛読する人だったと聞きます。特にイエス・キリストが語られた「山上の説教」をよく読んだと聞きます。

 神様が与えて下さる自然界の恵みを感謝して受け、自然界を壊さないために努力してゆきましょう。アーメン(「真実に」)。

2018-11-15 0:30:51(木)
「目標をめざして、ひたすら走る」 聖徒の日(召天者記念日)礼拝 説教要旨
聖書:フィリピの信徒への手紙3章12~21節

 本日は、天国に行かれた方々を記念する礼拝です。私たちも、先に天国に行かれた方々の信仰に倣って、天国をめざして信仰の歩みを続けます。人生の最後まで、信仰の歩みを貫きましょう。

 イエス様の弟子(12弟子の一人ではない)・使徒パウロも、救い主イエス・キリストを宣べ伝えながら、天国・永遠の命をめざして歩みました。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と述べます。そして語ります。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」

 クリスチャンの信仰を「ネコ型」と「サル型」に例えた方がおられます。「ネコ型」は、子ネコが母猫に首をくわえられて完全に母猫にゆだねて信頼しきって移動するように、神様にすべてをゆだねて安心しているクリスチャンです。「サル型」は、子ザルが母ザルに必死にしがみついて移動するように、神様に必死にしがみつくクリスチャンです。でも完全に2つのタイプのクリスチャンに分けることはできず、一人のクリスチャンがときに「ネコ型」、ときに「サル型」になるということだと思います。

 パウロは、「何とかして(天国・永遠の命を)捕らえようと努めているのです(サル型)。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです(ネコ型)」と言います。「ネコ型」を土台として「サル型」の信仰に生きているのです。これが福音信仰だと思うのです。イエス様に支えられて安心した上で、自分の使命を果たすために奮闘するのです。パウロは言います。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神はキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標をめざしてひたすら走ることです。」

 パウロはコリントの信徒への手紙(一)9章24節以下で、似たことを語ります。「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」

 パウロが殉教して天国に入る少し前に書いた言葉が、テモテへの手紙(二)4章6節以下にあります。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主(イエス様)が、かの日(神の国が完成する日)にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれでにも授けてくださいます。」

 フィリピの信徒への手紙に戻ります。パウロは述べます。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。」

 パウロ自身も、かつてはキリストの十字架に敵対して歩んでいました。イエス様を救い主と信じるクリスチャンたちを迫害する先頭に立っていたのです。クリスチャンを迫害することを誇りとし、滅びの道をまっしぐらに突き進んでいました。そんなパウロを復活のイエス様が憐れみ、ストップをかけ、イエス様こそ救い主という真理を悟らせて下さったのです。「腹を神とする」とは、自分の欲望充足ばかりを行って生きることです。

 私は、真珠湾攻撃の現場リーダーを務め、戦後クリスチャンになられた淵田という方を紹介する本を読み、DVDを見ました。真珠湾攻撃は、多くのアメリカ人の命を奪いました。真珠湾攻撃が日本から見て勝利に終わり、その方は帰国後に昭和天皇に謁見して、ねぎらわれたようです。それを最高の誇りと感じました。しかしそれは、「恥ずべきものを誇りとし」たことだと思うのです。かつて日本兵だった別の方の言葉を新聞で読んだことがあります。その方は、「戦争では人殺しが手柄になる。だから戦争を行っていけない」と語っておられました。人殺しが手柄。まさに「恥ずべきものを誇りと」することです。

 では私たちは何を誇りとすべきか。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙6章14節で、確信をもって語ります。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」イエス様の十字架の死は、私たち全人類の全部の罪を身代りに背負って下さった死、私たちの救いのための死です。まさにイエス様の十字架にこそ、父なる神様の愛が結晶しているのです。十字架こそ私たちの真の誇りです。ですから教会は、十字架を高く掲げます。

 パウロはフィリピの信徒への手紙3章21節で述べます。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」私たちの今の体は病気にもなり、いずれは死ぬ体です。しかしイエス様が、イエス様の復活の体と同じ復活の体を与えて下さいます。私たちにこの希望があります。ハンセン病に苦しまれた玉木愛子さんとおっしゃる方が、次の信仰の俳句を作られました。「毛虫はえり 蝶となる日を 夢見つつ。」

 本日の箇所でパウロは、「目標を目指して、ひたすら走る」と述べます。私は『炎のランナー』という映画を35年ほど前の高校時代に初めて見、数年前にDVDでもう一度見ました。二人の実在のランナーが主人公のモデルですが、一人は宣教師のエリック・リデルです。彼は神のために走る男です。二人とも1924年のパリオリンピックのイギリス代表に選ばれます。ところがエリックが出る100メートル走の予選が日曜日に行われることが伝えられます。日曜日は、神様を礼拝する聖なる日。エリックは100メートル走を棄権することに決めます。走ればメダルを取る力があるはずです。金メダルを獲得することもできるかもしれません。金メダルと礼拝のどちらが大切か? エリックの答えは決まっています。礼拝の方がはるかに重要です。イギリス選手団の上層部に翻意を求められても彼の信仰は揺らぎません。既に他の競技でメダルを獲得した仲間が、本来自分が出るはずの400メートル走の枠をエリックに譲ると言ってくれ、決着します。エリックは100メートル走を棄権し、その日曜日は教会の礼拝で説教します。その中でイザヤ書40章の終わりの方をも読んでいました。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

 エリックは数日後の400メートル走に出場します。ライバルのアメリカの選手だと思うのですが、競技前にエリックに紙片を渡します。「神に栄誉を帰する者には、神が誉れを与える」という意味のことが書いてあったように私には見えました。きっと100メートル走を信仰上の理由で棄権した彼への、アメリカのクリスチャン選手からの励ましと思いました。そして400メートル走に出場したエリックは、金メダルの獲得するのです。神様の力が与えられたのでしょう。エリックは宣教師の息子として中国で生まれ、このオリンピック後に中国に戻って伝道したようです。エリックは1945年に中国の山東省で日本が管理する敵国人収容所で天に召されたそうです。熱心に伝道し、イエス様に従った43年の地上の生涯でした。

 エリックもパウロと同じように、「目標を目指してひたすら走り」、天国に入りました。東久留米教会の信仰の先達の方々も私たちより先に天国に入られました。私たちも毎週礼拝し、イエス・キリストを宣べ伝え、地上の責任を果たしながら、ご一緒に天国を目指してひたすら走りましょう。「わたしたちの本国は天にあります。」アーメン(「真実に」)。