日本キリスト教団 東久留米教会

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2024-07-07 1:44:41()
「わたしの魂は主をあがめます」 2024年7月7日(日)礼拝
順序:招詞 ローマ8:39~39,頌栄29、主の祈り,交読詩編130、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・401、サムエル記上2:1~11、ルカによる福音書1:39~56、祈祷、説教、祈祷、讃美歌175、聖餐式(讃美歌21・79)、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(サムエル記上2:21~11) ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び/主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き/御救いを喜び祝う。聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。岩と頼むのはわたしたちの神のみ。驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない。主は何事も知っておられる神/人の行いが正されずに済むであろうか。勇士の弓は折られるが/よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ/飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み/多くの子をもつ女は衰える。主は命を絶ち、また命を与え/陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ/低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。主の慈しみに生きる者の足を主は守り/主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。人は力によって勝つのではない。主は逆らう者を打ち砕き/天から彼らに雷鳴をとどろかされる。主は地の果てまで裁きを及ぼし/王に力を与え/油注がれた者の角を高く上げられる。」エルカナはラマの家に帰った。幼子は祭司エリのもとにとどまって、主に仕えた。

(ルカによる福音書1:39~56) そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
 そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第8主日の礼拝です。説教題は「わたしの魂は主をあがめます」です。新約聖書は、ルカによる福音書1章39~56節です。
 
 この直前で、マリアがすばらしい信仰の言葉を述べました。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そして本日の最初の39,40節です。「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。」そのユダの町とは、エルサレムからほど近いエン・カレム(ぶどう園の泉の意味)という町だと言われています。ナザレから110キロ。マリアがエリサベトの元に着いたときには、マリアは既に妊娠していました。42節のエリサベトの言葉により、それが分かります。挨拶、ユダヤ人の挨拶は、訪問先に平和を祈ることです。マリアもエリサベトに「シャローム(平和)があるように」と挨拶したと思います。マリアは天使ガブリエルに聞いたのです。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。~もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」それでマリアは親類のエリサベトに会いに行きました。奇跡的な妊娠の先輩のエリサベトに話を聞きにいったのだと思います。どうしても会って、語り合い、祈り合いたかったのです。

 旧約聖書には、神の民イスラエルの女性が、妊娠に苦労する場面が目立ちます。よく知られているのは信仰の父アブラハム(最初の名はアブラム)とその妻サラ(最初の名はサライ)の場合です。アブラハムが何歳でサラと結婚したかはっきりしませんが、アブラハムは75歳の時にハランという場所を出発し、神様の約束の地カナン(今のイスラエル)に入り、神がアブラハムに約束されます。「あなたの子孫にこの土地を与える。」ということは子孫が生まれるはずですが、いわゆる実の子が神生まれないままアブラハムは99歳になります。神様と天使が現れて、「来年の今ごろ、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」と言います。サラはひそかに笑います。それは不信仰の罪です。そして本当に1年後に100歳のアブラハムと90歳のサラの間に長男イサクが生まれたのです。神の約束は必ず実現するのです。

 そのイサクも苦労します。イサクは40歳でリベカと結婚します。ところがなかなか子供が産まれません。イサクは、妻のために神様に祈ります。その祈りは神に受け入れられます。イサクが60歳のとき、エサウとヤコブの双子が生まれます。20年間祈ったと思うのです。なぜ神の民イスラエルの偉大な先祖アブラハム・サラ夫婦、イサク・リベカ夫婦が、この同じような苦労を与えられたのでしょうか。そこには、神様の意図があったと思われます。神様だけが新しい命を産み出すことがおできになることを分からせるためです。どんなことでもスイスイ進むと、私たち人間は当たり前だと思い、あまり感謝しません。しかし思い通りにいかない、失敗が起こると、私たちは初めて自分を反省したり、なぜこうなってしまったのかと原因を深く考え、悔い改めて神様に真剣に祈るようになります。神様が、私たちを敢えて苦労させることがあると思います。アブラハム・サラ夫婦も、イサク・リベカ夫婦も苦労しました。そして、神様だけが、新しい命を産む出すことができるとの真実を、深く悟るようになりました。現代を生きる私たちも、このことを深く悟る必要があります。卵子と精子が結合して受精が起こっただけでは、命になりません。創世記2章7節に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった」と書かれています。神様が命の息を吹き込んで下さらないと、子どもは生まれないのです。人間が子どもを造ることはできないことを、よく知る必要があります。新しい命を造ることは、神様にしかおできになりません。

 100才のアブラハムと90才のサラの間に男の子イサクが生まれたことは、まさに神様の奇跡です。同じような奇跡がザカリアとエリサベトの夫婦にも起こりました。ザカリアとエリサベトは年をとっていたと言っても、アブラハムとサラほどではなく、おそらく50代か60代だったと思いますが、それでも当時の人間の常識では起こり得ない出産でした。そして神様は、もっと大きな奇跡をマリアの上に起こされます。まだいいなずけのヨセフと共に暮らしていないマリアの妊娠です。アブラハムとサラに起こった奇跡も、ザカリアとエリサベトに起こった奇跡も、マリアに起こる奇跡の準備の役割を果たしていると言えます。アブラハムとサラは、マリアより2000年近く昔の人ですが、両者は同じ神様によってつながっているのです。

 ルカに戻り、41節以下。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様が私の所に来て下さるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。』」エリサベトとマリアが会い、胎児のヨハネ(まだ名前はついていない)とイエス様(同)も会っていると言えます。麗しい場面。エリサベトとヨハネが旧約聖書の時代を代表し、マリアとイエス様が新約聖書の時代を代表し、旧約の時代から新約の時代への移行が進みます。詩編133編1節。

 この場面は、旧約聖書のサムエル記下6章で、ダビデ王が神の聖なる箱(モーセの十戒の2枚の石の板が入っている)をエルサレムに迎え入れた場面と共通性があると言われます。この直前にダビデは一度、失敗しています。ダビデの町と呼ばれたエルサレムにその聖なる箱を迎え入れようとしたとき、箱を運んでいた牛がよろめいたので、ウザという部下が箱が落ちないように押さえました。ところが神が怒りを発し、ウザは聖なる神に打たれて死んだのです。おそらく礼拝のために奉仕するレビ人でも祭司でもないウザが、身を清めもしないで、善意とはいえとっさに聖なる箱を触ったことが死を招いたのです。聖なるものに近づく、触れることは危険を伴うのです。ウザがレビ人、祭司であれば撃たれて死ぬことはなかったはずです。レビ人でも祭司でもない一般人のウザが、聖なる箱に直に触れたことが死を招きました。ダビデ王は恐れ、神の箱をエルサレムに迎え入れることを中止しました。しかし箱が一時置かれた家の者一同を、神様が祝福されました。神様には両面がおありで、罪を裁く聖なる面と、私たち人間を祝福して下さる愛の面です。神の祝福の愛の面が発揮され始めたことを確かめて、ダビデ王は前の失敗を繰り返さないように注意しながら、改めて神の聖なる箱をエルサレムに迎え入れました。神様の前で、ダビデは喜んで、力の限りおどりました。神の箱を迎え入れることは、神様ご自身をお迎えするに等しい最高に光栄なことですし、慎重に行った今回は事故や問題が起こらなかったので、ダビデ王は大いに喜んで、力の限りおどりました。この場面が、エリサベトがマリアを迎えた場面に似ています。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされれて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様(既に妊娠していた)も祝福されています。私の主(イエス・キリスト)のお母様が私のところに来て下さるとは、どういうわけでしょう(何という光栄でしょう)。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。』」マリアとその胎児イエス様が来てくれたことは、エリサベトとその胎児ヨハネにとって、躍るほどの大きな喜びです。ダビデ王が、神の箱を迎えて力の限りおどったのと同じ喜びです。

 次の小見出しが、「マリアの賛歌」です。マリアも聖霊に満たされていたに違いありません。マリアは言います。歌ったという方がよいかもしれません。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」この参加は、教会の伝統でマグニフィカート(ラテン語)で呼ばれて来ました。これは「私の魂は主をあがめ」の「あがめる」から来ています。「あがめる」を直訳すると「大きくする」です。「拡大する」とも言えます。ラテン語の聖書では「あがめ(マグニフィカート)」の言葉が冒頭にあるので、このマリアの賛歌がマグニフィカートと呼ばれるようになりました。マリアは大変素直に、神様を讃美しています。神様を讃美することは、最も謙遜な行為です。「私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。」マリアはガリラヤの無名の少女です。このマリアが時代と国と超えて、世界的に有名になるなどと、身近な誰も予想できなかったでしょう。神様がマリアを救い主イエス様の母として選ばれました。

 私は、どうしてもコリントの信徒への手紙(一)1章26節以下を、連想致します。「兄弟たち、あなた方が召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが神は、知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれひとり、神の前で誇ることがないようにするためです。」そして「誇る者は主を誇れ」とあり、まさにその通りにマリアは救い主である神様を喜びたたえたのです。

 ルカに戻り、48節後半「今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう。」まさにその通り、マリアさんは救い主イエスを産んだ母親として、世界中のクリスチャンたちに敬愛されるようになりました。マリアは続けます。「力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく(永遠に)、主を畏れる者に及びます。」旧約聖書の箴言1章7節の御言葉が思い出されます。「主を畏れることは知恵の初め。」神を畏れ敬うことの大切さが述べられます。ダビデ王が神の箱をエルサレムに迎え入れようとして最初失敗したとき、神の箱に触れたウザには、神を畏れ敬う気持ちが欠けていたのでしょう。リーダーであるダビデ王にも欠けていたので、あのようなウザの死が起こったのです。

 51節「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ。」神様は、大国エジプトを打ち破ってイスラエルの民を脱出させて下さいました。ナポレオンは滅び、ヒットラーも滅び、豊臣秀吉も滅びました。そのうちプーチンも滅びるでしょう。ダニエル書には、次のように書かれています。「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれを誰にでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできる。」マリアの賛歌は、神による革命のような逆転が起こると歌っているのですね。このマリアの賛歌は、多くの場合はクリスマス前の礼拝で読まれます。そこで「クリスマス革命」という言葉があると知りました。クリスマスに私たちは、私たちを罪から救うためにイエス様を地上に誕生させて下さる神の偉大な愛に、触れます。私たちは毎年それだけで終わってはいけないでしょう。クリスマス礼拝で神様の偉大な愛に触れて、私たちの生き方にも変化が起こるはずです。クリスマスをただの冬の風物詩、単なる年中行事にしてはいけないのです。クリスマスに、神様の深い愛に改めて触れて、私たちの心の中と生き方に愛の革命が毎年起こる必要がある。これを「クリスマス革命」と呼ぶのです。ますます神と隣人への愛に生きるようにクリスマス革命が、私たちの心の中と生き方に起こります。もちろんクリスマスを待つ必要もありません。私たちが日曜礼拝に出席するたびに、聖餐式をいただく度に、毎日聖書を読み祈るごとに、私たちの心の中と生き方に愛の革命が起こる必要があります。ますますイエス様を愛し、隣人を愛する、聖書と聖霊による革命です。そうなれば本当にすばらしい。イエス様を地上に送って下さる父なる神様の深い愛に触れて、今私たちの心と生き方に愛の革命が起こることを祈ります。

 マリアの賛歌は、ハンナの祈りにも似ています。たとえば。
そしてマリアは、エリサベトのもとに三か月ほど滞在し、語り合い、祈り合ったでしょう。マリアは家事を行ってエリサベトとザカリアを支えたでしょう。麗しい恵みの三か月間でした。

 マリアの賛歌を、私たちも自分の歌として歌うことができます。父なる神様は、私たちにも、イエス・キリストの十字架の死と復活によって永遠の命を与えるという、偉大な愛の業を成し遂げて下さったからです。マリアと共に、私たちも神の深い愛をたたえて歌いましょう。アーメン。

2024-06-30 0:53:52()
「神にかたどって造られた新しい人」 2024年6月30日(日)礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書3:16,頌栄28、主の祈り,交読詩編129、使徒信条、讃美歌21・7、創世記1:26~27、エフェソの信徒への手紙4:17~24、祈祷、説教、祈祷、讃美歌566、献金、頌栄27、祝祷。 

(創世記1:26~27) 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

(エフェソの信徒への手4:17~24) そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。


(説教) 本日は、聖霊降臨節第7主日の礼拝です。説教題は「神にかたどって造られた新しい人」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4章17~24節です。できれば月一回、エフェソの信徒への手紙を読む礼拝を献げたいと思います。
 
 最初の17節「そこで、私は主によって強く勧めます。」その前提は、たとえば昨年度の標語聖句1章4節です。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。さらに2章4節以下も、前提になります。「憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、―あなた方の救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。」現実にはまだ地上にいますが、天の王座に着くことは、もう決まっています。私たちはそのような恵みを受けています。

 「そこで、私は主によって強く勧めます」とパウロは書きます。「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。」異邦人とは、イスラエル人(ユダヤ人以外)の人々です。異邦人の問題点は、真の神様を知らないことです。私たち日本人も異邦人ですが、私たちは幸い聖書を読んで、救い主イエス・キリストを知り、真の神様を知らされています。イスラエル人の場合は、その多くが救い主イエス・キリストを信じていないという問題がありますが、しかし旧約聖書によって真の神様を知っており、真の神様の愛と清さをも知っています。モーセの十戒という神様の最も基本的な戒めをもよく知っています。これに対して異邦人は、真の神様とその愛と清さを知らないという問題をもっています。

 「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかなくなさのために、神の命から遠く離れています。」異邦人は無知だと言っていますが、それは真の神様を知らないことから来る無知です。使徒言行録17章のパウロのアテネ伝道の場面を読むと分かります。パウロはアテネのギリシア人たちに全力で説教します。「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代(真の神様を知らない時代)を大目に見て下さいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」パウロはアテネの人々に、真の神を知らない無知から抜け出て悔い改めるように、つまり真の神様に立ち帰るようにと、アテネの人々に懸命に説いたのです。多くの人が信じるようにはなりませんでしたが、何人かは信仰に入りました。

 「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。」同じようなことは、ローマの信徒への手紙1章21節以下にも記されています。「(異邦人)は、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた者を拝んで、これに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です。アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を変えて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人と侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無常、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の掟を知っていながら、自分でそれを行うだけでなく、他人の同じ行為をも是認しています。」これがパウロによる異邦人の罪のリストですが、私たちもここに書いてある罪を、少しは犯しているかもしれないので、私・私たちも悔い改める必要があるのではないでしょうか。
 
 エフェソに戻って19節。「そして無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」「無感覚」とは、罪を犯しても、良心に痛みを感じない。良心が麻痺している状態と言えます。これは本人にとって非常に危険な状態で、罪を犯しても、自分の心に痛みを感じないので、どんどん罪を犯し、天国と反対の自分の滅びに向かって突き進んでいるのに、気づかないのです。放縦とは、勝手気ままな生活です。本人は、自由に生きていると勘違いしているのですが、それは自由ではありません。好き勝手に罪を犯しながら生きていることは自由ではなく放縦です。自由という言葉ほど、私たち日本が誤解している言葉は少ないと思います。多くの人は、勝手気ままに生きることを自由と勘違いしています。聖書が真の自由を教えてくれます。自由とは、自己中心の罪から解放されることです。自由とは自ら進んで喜んで、神様を愛し、自分を正しく愛し隣人を愛することです。好き勝手に勝手気ままに生きることは、自己中心の罪に負けている不自由な生き方です。不自由な状態です。

 20~21節「しかし、あなた方は、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」イエス・キリストこそ真理そのもの、生きた真理です。そして最も自由な方です。身の周りの病気の方や貧しい方々を愛し、弟子たちの足を洗って弟子たちに仕え、遂には進んで私たち皆の全部の罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死なれ、三日目に復活されました。十字架につけられながら、祈られました。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか、知らないのです。」イエス様はマタイ福音書5章で、「敵を愛し、あなた方を迫害する者のために(祝福を)祈りなさい」という有名な言葉を語られましたが、それを実行されたのです。すなわち、ご自分を十字架につける人々の罪を赦されたのです。敵までも愛するイエス様こそ、完全に自由な方です。敵への憎しみからさえ解放されている愛の持ち主だからです。全部の罪の誘惑に打ち勝ち、神と隣人と、敵までも愛するイエス様を見る時、私たちは本当の自由とは、このイエス様のように生きることと悟ります。

 私は今年の3月に韓国に行き、提岩里(チェアムリ)教会という教会を訪問したことは、既にお話した通りです。この教会は1919年に真に残念なことに、日本の憲兵によって焼き打ちされました。驚いて駆けつけた家族を含めると29名が殺害されたと言います。今から30年ほど前までは、夫を殺された婦人が毎日、事件が起きた時刻に教会に来て祈っておられたそうで、見学に来る人々(日本人を含む)に語り部として、事件のことを語っておられたそうです。私が行った今回は、教会と記念館が改修工事中で中に入れませんでしたが、ある本によると、教会の中に、先ほどのイエス様の御言葉が記されているということです。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」この祈りが、提岩里(チェアムリ)教会の1919年以降の105年間の祈りだったのではないかと思います。夫を殺されて語り部となられた婦人の生涯の祈りだったのではないかと思います。その信仰は自分の十字架を背負ってイエス様に従う信仰だったと感じます。20節にあてはめるならば、「あなた方はキリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にある通りに学んだはずです。

 「キリストについて聞き」とありますが、口語訳聖書では「あなたがたはたしかに彼に聞き」です。原文には「について」という言葉はないことを確認しました。「ついて」は取り去り、「キリストに聞き」とする方が正確です。「キリストについて聞いた」のではなく、「キリストに聞いた」、つまり「イエス・キリストに直に聞いた」ということです。イエス様との人格的なコミュニケーションの中で聞いた。聖書を読み祈る中で聞いたと言えます。「キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」

 日本語の「学ぶ」は、「まねび」という言葉から来ていると聞きます。「まねび」は「真似する」ことですね。お手本の真似をすることが学びです。キリスト教会の古典的名著に『キリストに倣いて』という本があります。トマス・ア・ケンピスというドイツ人の修道士・司祭が1413年頃に書いたと言われます。ラテン語題『デ・イミタチオネ・クリスティ』です。『キリストに倣いて』。キリストの真似をして生きるということです。日本でも何と既に1596年に豊臣秀吉の時代にローマ字ではありますが、訳されています。私も一冊持っています(池谷敏雄訳、新教出版社、1989年)が、全部を読んでいません。久しぶりに読んでみましたが、どのページを開いても非常に霊的に深い中身です。キリストに従って謙遜に生きることが奨励されています。たとえばこうです。「三位一体について深く論じても、もし謙遜を欠き、従って三位一体の神の御心にかなわなければ、何の益があろう。」「もし毎年ひとつずつ、欠点を根絶やしにするつもりなら、われわれは間もなく完全になるであろう。」「生にも死にも堅くイエスと結び、彼を信じて自分をゆだねなさい。すべての者が助け得ないとき、ただ彼のみがあなたを助け得るのである。彼はただひとりあなたの心を求め、そこに王として王座につくことを欲しておられる。」「イエスが一言でも語られると、我々は大いに慰められる。」「イエスなしでいるということは、いたましい地獄である。イエスと共にいることは楽しい天国である。もしイエスがあなたと共におられるならば、いかなる敵もあなたを損なうことができない。イエスを見出す者はよい宝、いやあらゆるよいものにんまさるよいものを見出す。そしてイエスを失う者は実に多くを、そして全世界よりも多くを失うのである。イエスなくして生きる者は最も貧しく、イエスに愛される者は最も富んでいる。」「もしあなたが喜んで、十字架を負うならば、十字架はあなたを負い、望みの目的地にあなたを導くであろう。」

 小見出しを読むだけでも、信仰の深みに導かれます。「キリストにならい、この世のむなしいものすべてを軽んずべきこと。」「へりくだって自分を知るべきこと。」「聖書を読むべきこと。」「平安を得ること、また霊の進歩を熱望すること」、「逆境の益について」、「誘惑に抵抗すべきこと」、「すべてのものにまさってイエスを愛すべきこと」、「しばしば聖餐を受けるのは有益であること」、「キリストの聖餐にあずかる者は、大いに努めて準備をなすべきこと(悔い改めなど)」、「聖餐を軽々しく怠るべきでないこと。」実に心を清められる本です。

 22~24節「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」「古い人」とは自己中心の罪にまみれた生まれつきの自分です。古い人を脱ぎ捨てるには、自分の罪に気づき、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けることが必要です。洗礼を受けることは、イエス・キリストと一体化することです。私たちが洗礼を受ける時、私たちの古い自己中心の罪に満ちた自分は、イエス様と共に十字架に釘づけにされて死にます。そしてイエス様と共に新しい罪なき命に復活するのです。自分の罪を悔い改めて洗礼を受ける時、私たちは古い人を決定的に脱ぎ捨てたのです。洗礼を受けると、神の清き霊である聖霊を受けます。地上にいる限りは、まだ罪が残っていますので、聖霊が私たちの罪を清めて、少しずつ聖化して下さり、イエス・キリストに似た者に造りかえて下さいます。そして私たちは「神にかたどって造られた新しい人」を身に着けることになります。

 本日の創世記にこうあります。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」神はお一人なのに、なぜ「我々」と書かれているのか。いくつかの理解があるそうです。その1つは、人間を創造することは最も重要なことなので、神様がご自分自身と対話され、相談され、熟慮されたことを意味するというものです。私はなるほどと思います。だとすると父なる神様、子なる神様キリスト、聖霊なる神様が深く相談なさったと考えることもできると思うのです。そうして神にかたどった最高の被造物(造られたもの)として人間が造られたのです。神様が造られた本来の人間、罪に落ちていない人はどのような人だったのか。それはイエス・キリストのような人だったのです。私たち人間は、本来イエス・キリストと同じような人だったのです。これが神様に造られたアダムの最初の状態です。イエス・キリストのような人格の人だった。神様は私たち人間を、神様に似た最高にすばらしい者に造って下さったのです。人間は本来そのような光栄ですばらしい神様に似た被造物なのです。

 ところがエバとアダムが悪魔の誘惑に負けて罪に落ち込む悲劇が起こってしまいました。そして神に似た姿が大きく損なわれてしまいました。その私たち罪人(つみびと)を救うためにイエス・キリストが十字架にかかって下さいました。このキリストを信じてキリストに結びつく人は、イエス様に似た新しい人になります。コリントの信徒への手紙(二)5章17節に、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とある通りです。エフェソ4章24節には、「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しい清い生活を送るようにしなければなりません。」私たちは洗礼を受けるときに、キリストという衣を着るのですね。ガラテヤの信徒への手紙26~27節に、「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。」私たちは今も罪人(つみびと)なので、罪が残っています。しかし罪なきイエス・キリストという衣を着ているので、父なる神様は私たちを罪なき神の子たちと見なして下さいます。そして同時に私たちは、聖書を読み、礼拝に出席し、祈り続けることで、次第に聖霊によって清められます。そうして24節の後半にあるように、「真理に基づいた正しく清い生活を送るように」なります。

 22節に「古い人を脱ぎ捨て」とありますが、洗礼を受けたときに古い自分を脱ぎ捨てたのです。しかしまだ罪が残っています。最終的には、私たちが地上の人生を終える時、私たちの残っている罪も完全に死にます。罪を全部脱ぎ捨て、完全に清い完全に新しい自分になって、天国に新しく誕生します。それが洗礼の完成です。しかし天国に行くことを急ぐ必要はありません。神様の御心ならば、地上でも長くご一緒に礼拝生活を続けさせていただき、そして最終的にはまた天国でお目にかかって、三位一体の神様に直にお会いし、天国でもご一緒に礼拝致しましょう。アーメン。

2024-06-23 1:41:10()
説教「神様があなたと共におられる」 2024年6月23日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第71回)
順序:招詞 ヨハネ福音書3:16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・464、ルカによる福音書1:26~38、祈祷、説教、祈祷、讃美歌536、献金、頌栄92、祝祷。 

(ルカによる福音書1:26~38) 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第71回)(聖霊降臨節第5主日)の礼拝です。説教題は「神様があなたと共におられる」です。新約聖書は、ルカによる福音書1章26~38節です。

 先週読んだ本日の直前の個所は、洗礼者ヨハネの誕生が予告される場面でした。本日の御言葉の小見出しは、「イエスの誕生が予告される」です。よくクリスマス前に読む個所ですが、今は6月でクリスマスとクリスマスの中間の時です。しかしクリスマス前でないときにこの御言葉を読むことも悪いことではないと思います。神様が、いと小さき人々を用いて、ご自分の計画を進めておられます。先週登場した祭司ザカリアも妻のエリサベトも、イスラエルの中で特に有名な人ではなかったと思います。確かに祭司は、神様に奉仕する大切な存在ですが、当時祭司は1万8000人から2万人もいたそうですから、あえて言えばザカリアはほぼ無名の祭司だったのではないでしょうか。妻エリサベトも、普通の祭司の妻だったのではないかと思います。

 本日の最初の26節「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。」ガブリエルという名前は「神の人」の意味だそうです。ガブリエルはザカリアに現れたのと同じ天使です。神様がガブリエルをナザレの町に遣わされました。ナザレという名前は「花」の意味だと、ある解説に書かれています。マリアが住んでいて、イエス様がお育ちになったナザレですが、旧約聖書には1回も登場しません。それこそ無名と言える町です。27節「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。おとめの名はマリアといった。」マリアは15才前後の少女だったと思われます。今でこそマリアは大変な有名人ですが、この時のマリアはもちろん全く無名無力の少女でした。世間的な影響力など、全く持っていませんでした。このような無名のマリアが、世界の救い主イエス・キリストの母として選ばれたことは、私たち人間から見れば意外で、神様が私たち人間たちの意表を衝いたとも思えます。神様はこの世の力から遠い無名の人、いと小さき人を特に愛して、慈しみの目を注いでおられるのです。

 ナザレがあるガリラヤですが、旧約聖書の列王記15章29節を見ると、北イスラエル王国の王ぺカの時代に、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、ガリラヤなどの地方を占領し、その住民を捕囚としてアッシリアに連れ去りました。その後、アッシリアの占領政策で、その地に外国人を連れて来て住み着かせた可能性があります。それで旧約聖書のイザヤ書8章23節には、「異邦人のガリラヤ」と書かれています。イスラエル人(ユダヤ人)は異邦人(外国人)を蔑んでいましたから、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたガリラヤもまた、生粋のイスラエル人からは軽視されていたと思われます。神様は、あえてそのガリラヤの住む無名の少女マリアに慈しみの目を注ぎ、神の子イエス・キリストの母として選ばれたのです。もちろんマリアの深い信仰を見込んでのことです。その信仰も、神様がマリアにお授けになった賜物です。ヤコブの手紙2章5節の御言葉が当てはまります。「私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちを敢えて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」

 ルカ福音書1章28節「天使は、彼女の所に来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』」「おめでとう」は直訳では「喜べ、喜びなさい」です。これは地上の普通の喜びとは別かもしれません。天から来る喜び、神の国の喜び、聖霊が与えて下さる喜びで喜びなさいと言われたのではないかと思います。今年度の東久留米教会の標語聖句ガラテヤの信徒への手紙5章22節を連想してよいと思います。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」「喜びなさい。恵まれた方。主があなたと共におられる。」ジョン・ウェスレーという18世紀のイギリスの伝道者は臨終の床で、「最大の幸せが、神様が私たちと共におられることだ」と語ったそうです。他の幸せは失われることがあるが、神が共におられる幸せだけは、失われることがないからです。

 29節「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考えこんだ。」マリアは思慮深い女性なのです。天使のメッセージを聞いて、考え込みました。礼拝での説教者は聖書の御言葉を読んで、そこから何を聴き取るべきかを祈り、考え、黙想してから語るのですが、マリアが考え込んだ姿勢こそが、神のメッセージを聞いて深く黙想する人の模範の姿です。30節「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵み(カリス)をいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』イエスという名前は、当時よくあった名前だそうで、「主は救い」の意味です。洗礼者ヨハネの場合と同じく、神様が名前を決めて下さいました。

 「その子は、いと高き方(神様)の子と呼ばれる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家(神の民イスラエル)を治め、その支配は終わることがない。」その支配は永遠です。力づくで苛酷に支配するのではなく、愛と正義をもって治らめられるのです。ダビデ王の子孫からこのようなメシア(救い主)が誕生することは、確かにダビデに約束されていました。よく引用するサムエル記下7章12節以下です。預言者ナタンがダビデ王に神様のメッセージを伝えています。「主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者が私(神様)の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに固く据える。私は彼の父となり、彼は私の子となる。」これは直接にはダビデの息子で次の王ソロモンを指しますが、究極的にはメシア(救い主)を指します。この預言が、遂に実現する時が満ちたのです。

 「あなたは身ごもって男の子を産む。」しかしマリアにはすぐには理解できず、天使に言います。「どうしてそのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに。」ヨセフのいいなずけではあっても、まだ共に生活していなかったのですから、身ごもるはずもない。天使が答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方(神様)の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」力は原語のギリシア語でデュナミスで、ダイナミックとかダイナマイトという言葉の語源ですから、聖霊のいわばダイナマイトのような力(この場合は無論、破壊の力ではなく創造する力)が働いて、神の子の命がマリアの胎内に宿るのです。創世記1章1~2節に、「初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊(聖霊)が水の面を動いていた」とあります。見えない神の霊が水の面を動いていた(静止でなく)。聖霊になる神様も、天地創造に参与されたのです。天地創造に参与された同じ聖霊なる神様の愛の力が、マリアの上にもダイナミックに働かれて、マリアの胎内に神の子の命を宿しました。私たちが使徒信条で先ども、「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ」と告白した通りです。

 36節「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」ザカリアとエリサベトの場合は処女妊娠ではないが、当時の常識ではほぼ不可能な高齢での妊娠で、それも一種の奇跡です。マリアの場合は処女妊娠なので、もっと完璧な奇跡です。天使は述べます。「神にできないことは何ひとつない。」神は、無から宇宙を創造することがおできになるし、処女マリアを妊娠させることもおできになるし、死者を復活させることもおできになります。

 マリアは天使の言葉を聞いて、思いを巡らし、深く考えたことでしょう。そして天使を通して語られた神様のメッセージを受け入れる決心をします。受け入れると決断します。神様のなさることに間違いがあるはずがない、最善に違いないと信頼しきって受け入れると意を決します。マリアの献身です。神様に自分の存在のすべてを献げて委ねると決心したのです。行く手に何が待っているか分からないけれども、「主があなたと共におられる」と天使が保証してくれたのだから、神様が常に共にいて、最善に導いて下さると深く信頼して、神様に従うと決めたのです。この信仰も、神様がマリアに与えて下さった信仰と思います。そして同時に、「本当に見上げた信仰だ」と尊敬致します。覚悟を決めて、神様の懐に、恐れないで全身で飛び込んでゆくような信仰です。私の全てを、神様に信頼して神様にお委ねします。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」何の条件もつけずに言いきりました。私たちにこれが言えるでしょうか。こう言いきったマリアの信仰は、やはりすばらしいと思うのです。

 マリアが、自分を通して行われる神様の救いのご計画を受け入れたお陰で、救い主イエス・キリストが誕生され、イエス様が十字架にかかって、私どもの罪が全て赦される道を開いて下さったお陰で、私どもは救いを与えられ、永遠の命をいただきました。マリアの人生を献げたこの決断がなかったら、私たちも永遠の命を受けることはできなかったのですね。マリアの信仰の決断が、ある意味、世界史を変えたのです。そう思うと、マリアさんにも感謝したくなります。

 実際、マリアさんの人生には平穏な日々もありましたが、苦難の時もありました。
イエス様の使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙1章29節で書いています。「つまり、あなた方には、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えらえているのです。」パウロ自身も、イエス・キリストに従ったがゆえに、色々な苦労苦難を経験しました。天使はマリアに告げたのです。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」それは神の子の母として選ばれた恵み、光栄です。しかしその子は、十字架で一旦死ぬのです。これを見届けることは、大変な苦難です。マリアも、我が子を死なせるくらいなら、自分が代わりに死にたいと思ったと思うのです。それは許されず、我が子の十字架の死に耐えなければならない。よほどの信仰がないとできません。神様は、マリアの信仰なら、この苦難にもぎりぎり耐えることができると、マリアを見込まれたのだと思います。耐えられる信仰をマリアに与えると、神様も決意したのだと思います。

 神様に自分を献げると決めたマリアの信仰の決断が、ある意味、世界史を変えました。私は東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生と眞壽美夫人の信仰を思いました。浅野先生とお父様がこの土地を神様と東久留米教会に献げると信仰の決断をなさって実行なさらなかったら、東久留米教会は今日まで存続できたでしょうか。浅野先生とお父様がこの土地を神様と東久留米教会に献げる信仰の決断を実行なさらなかったら、教会員が献金をして、別の土地を買う必要に迫られたでしょう。そうなればそれで神様が道を開いて下さったと思いますが、浅野先生とお父様の信仰の決断が東久留米教会の歴史をよい方向に変え、今日まで教会を生かす土台の一つになっていつことを、改めて感謝したいと思います。そしてこれからの東久留米教会も、私たちが教会を愛してなす日々の小さな献げる決断を神様が祝福して下さって、これからも教会を神の国めざして前進させて下さると信じるのです。

 マリアの信仰と人類最初の女性エバの生き方を並べてみると、非常に対照的であることが分かります。神様の御言葉を不正確に理解していたエバは、神様の御言葉を否定する悪魔の唆しに割に簡単に負けたように見えます。悪魔は言ったのです。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」エバ(この段階ではエバという名はまだついていなくて、女とだけ書かれている)が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実をとって食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」アダムもエバに唆されて、実を食べ、人類最初の夫婦が神に背きました。これと対照的な夫婦がマリアとヨセフです。マリアとヨセフは一致協力して神様に従い、生まれた赤ちゃんイエス様を守ってゆきます。エバの失敗をマリアが取り返し、アダムの失敗をヨセフが取り返したと言えます。最初の夫婦エバとアダムが神に背いた罪をマリアとヨセフの夫婦が、神様に従うことで、取り戻したとも言えます。本当に対照的な夫婦です。

 それにしてもマリアはこの時、15才前後、本当に若いです。「神様、私はまだ若過ぎます。もう少し年上で、人生経験のある女性を選ばれた方がよいのではありませんか」と言っても不思議はないのに、ここで全く従順に「お言葉通り、この身に成りますように」と全面的に神様の求めを受け入れています。マリアが神様に召命を受けた、神様から召し出しを受けた場面です。私は先週の月曜日に東京神学大学関係の会に出席致しましたが、「学生自身による東京神学大学の紹介」というパンフレットを受け取り、教会内で配って下さいと言われたので、本日皆様の週報ボックスにお入れしています。数がやや足りず、完全に全員には入れることができていません。神学生にも色々な年齢の方がおられます。その中で、若い女性の神学生の短い証しの文が印象に残りました(もちろん他の方々もよき証を書いておられます)。「小学3年生で神様からの召命を確信し、牧師になることを決意。小学5年生で東京神学大学のパンフレットを渡されて、受洗と東京神学大学への入学を決意。高校総卒業後、まっすぐ献身した。」あまりの純粋さに驚きます。もしかするとマリアさんも同じような、いえ、もっと純粋な信仰に燃えていたのではないかと思います。

 あまりに早く神学校に進むことに対しては、「あまりに純粋培養ではないか」、「もう少し人生経験をしてからの方がよいのではないか」という意見が出ると思います。それが当たっているケースもあるでしょうが、しかし本当に神様がその人を呼ばれたのであれば、神様に呼ばれたことが第一になります。マリアさんも、考えようによっては若すぎる。しかし神様が彼女を選んだのであれば、マリアさんは身を献げて従うのみです。「お言葉どおり、この身になりますように。」私たちも、神様のご用のために自分を献げるように招かれています。自分に可能な形で、神の国の前進、伝道の前進のために祈り、奉仕するように神様に招かれています。その愛の招きにお応えして参りましょう。アーメン。

2024-06-16 2:03:31()
「その子をヨハネと名付けなさい」 2024年6月16日(日)聖霊降臨節第5主日礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書3:16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編128、使徒信条、讃美歌21・210、マラキ書3:20~24、ルカによる福音書1:5~25、祈祷、説教、祈祷、讃美歌377、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(マラキ書3:20~24) しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。
 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。

(ルカによる福音書1:5~25) ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第5主日の礼拝です。説教題は「その子をヨハネと名付けなさい」です。新約聖書は、ルカによる福音書1章5~25節です。著者ルカは、イエス・キリストの生涯を書き記すことを、まず洗礼者ヨハネの誕生のいきさつから語り始めます。3節で「順序正しく書いて」テオフィロ氏に献呈するのがよいと書いている通り、順序正しく書こうとしています。本日の小見出しは、「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」です。

 最初の5節「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。ヘロデは、ヘロデ大王と呼ばれる人です。その治世は紀元前37年から紀元4年までです。モーセの兄アロンの子孫たちがイスラエルで祭司の務めを担いました祭司たちは24の組に分かれ、その8番目がアビヤ組だったそうです。それは旧約聖書の歴代誌上24章に書かれています。祭司は当時何と、1万8000人から2万人いたそうで、ザカリアはその一人でした。ザカリアという名前の意味は「神に覚えられている人」です。「神に忘れられない人」とも言えます。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトと言いました。エリサベトという名前は、「神は誓いを立てた」、「神は完全である」の意味と解釈できるそうです。6節「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」もちろんこのご夫婦も、神様からご覧になれば罪人(つみびと)だったはずですが、旧約聖書の律法を一生懸命、万全に守ろうと心がけていたのです。7節「しかし、エリサベトは不妊の女で、彼らには子供がなく、二人とも既に年をとっていた。」似たことは旧約聖書にもありました。イスラエルの先祖アブラハムとサラの夫婦の間には、長年子どもが生まれない苦労がありました。

 8~9節「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。」祭司は2万人もいたのですから、アビヤ組だけでも800人はいたでしょう。もし800人でくじを引いたとすれば、当たる確率は800分の1です。一生当たらない人もいたと思われます。当たる確率は非常に低いのですから、もし当たれば、一生に一度、一世一代の大仕事になります。それがザカリアに当たってしまったのです。彼は大いに驚き、「これは大変なことになった。しっかり役目を果たさなければ」と緊張して、奮い立ったと思うのです。10節「香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。」香をたくことは、神様を礼拝する行為です。このことについては、出エジプト記30章6節にこうあります。「この掟の箱(モーセの十戒を記した石の板2枚が入っている)の上の贖いの座の前で私はあなたと会う。アロンはその祭壇で香草の香をたく。」民数記17章5節には、こうあります。「アロンの子孫以外の者が主の御前に近づき、香をささげてはならない。」他の人が香をささげれば、聖なる神様に撃たれて死ぬ恐れがあります。それで、民衆は外で祈っていました。くじに当たった祭司は、香の壇に新しい炭火を置き、その上に香をたき、ひれ伏して祈ったそうです。

 香をたいた祭司が出てくれば、礼拝は無事終わったとなります。しかしこの時はふだんと違う意外なことが起こりました。神様の介入があったのです。11~12節「すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。」神様は完全に聖なる方、天使は神ではないが、聖なる存在です。私たちは罪人(つみびと)です。罪人(つみびと)にとって聖なる神様や天使を見る体験は気軽なことではなく、恐ろしい体験でもあります。撃たれれて死ぬ可能性もあります。13~14節「天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。』」ヨハネという名前は、「主は慈しみ深い」の意味だそうです。

 天使は突然現れたとも言えますが、ザカリアとエリサベトの長年の祈りに応えて現れたのです。民衆も皆、外で祈っていました。祈りが積み重ねられて、神の時が満ちたときに天使が現れたと言えます。3週間前の礼拝で読んだ使徒言行録10章も似ています。同じルカが書いたから似ている面もあるでしょう。しかし大切なことは、祈りが積み重ねられていた所に、天使は出現したことです。使徒言行録10章では、カイサリアにいたコルネリウスというローマの百人隊長に天使が現れ、神様の恵みが与えらることになります。それまでコルネリウスは、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていたのです。ザカリアとエリサベトのような夫婦、家族だったに違いありません。神様に誠実に仕えたザカリア・エリサベト夫妻、そしてコルネリウス一家を、神様はご自分の世界の人々を救う尊いご計画のために用いて下さいました。ザカリア・エリサベト夫妻、コルネリウス一家にとって、大変光栄なことでした。私たちも神様に誠実にお仕えすることによって、神様のご計画が進むために、私たちのいる場所にあって用いていただけます。大変光栄なことと感謝致します。

 15節「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。」生まれて来る洗礼者ヨハネは、古い契約の時代の最大最高の人物です。ルカによる福音書は新約聖書ですから、こう新しい契約の時代に入りつつありますが、新しい契約をもたらすイエス・キリストの誕生の少しだけ前に生まれた洗礼者ヨハネは、古い契約(旧約)の時代の最大最高の信仰者です。「彼はぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母親の胎内にいるときから聖霊に満たされていて。」旧約聖書の民数記6章に、神様に一定の期間身を献げるナジル人(びと)が出てきます。ナジル人である期間は、ぶどう酒も濃い酒も飲まず、ぶどう液は一切飲まない聖なる生き方をします。洗礼者ヨハネも、ナジル人のような人です。ナジル人が一定の期間ぶどう酒も濃い酒も飲まないのに対して、生まれつきナジル人のような洗礼者ヨハネは、おそらく一生ぶどう酒も濃い酒も口にしなかったのでしょう。

 16~17節「(ヨハネは)イスラエルの多くの子ら(人々)をその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
ここは旧約聖書の一番最後、(本日の旧約)マラキ書3章23~24節の引用と言えます。「見よ、私(神様)は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」それが洗礼者ヨハネなのですね。「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。」イスラエルの中で、父と子の仲たがいが多かったようです。神様が、父親と子供が和解するように導かれる。その時、モーセの十戒にある「父母を敬え」がよく行われるようになります。本日は「父の日」ですね。こうしてイスラエルの民の中で悔い改めが行われ、人々が真の神様に立ち帰る。こうして神様がイスラエルの民を裁くことが避けられる。洗礼者ヨハネがイスラエルの民を悔い改め、真の神様への立ち帰りへと導き、真の救い主のお越しの備えがなされる、ということと思われます。マラキ書3章20節に、「しかし、わが名(神の御名)を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。」この「義の太陽」こそイエス・キリストだと、昔から教会は解釈してきました。

 天使のメッセージを聞いたザカリアは、あまりにも大きな恵みが与えられると聞いて、驚いたでしょう。そして不信仰なことを語ってしまいます。「何によって、私はそれを知ることができましょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています。」「その証拠を見せてほしい。でないと信じられない。私たち夫婦は高齢だから」と言ったと言えます。天使からは厳しい裁きの言葉が発せられます。「私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。」非の打ちどころがなく律法を日々守っていたザカリアでも、このような不信仰の罪を犯すことがあるのですね。

 神様の約束、神様の御言葉は必ず実現するのです。それを信じられなかったザカリアに、一時的に神様の裁きが与えられ、彼は口を利くことができなくなりました。
出エジプト記4章の神様のモーセへの御言葉が思い出されます。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なる私ではないか。さあ行くがよい。この私があなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」私たちの口を利けるようにし、利けないようにするのは神様です。神様が私たちの口も耳も目も造って下さったからです。私たちが罪深いこと口にするたびに、神様が私たちの口を利けなくなさったら、どうでしょう。私たちが少しでもぶつぶつ不平不満を言うたびに、神様が私たちの口を利けなくなされば、私たちはしょっちゅう、口が利けなくなるのではないでしょうか。そうならないのは、不思議です。これは私たちが口で罪を犯しても、神様が敢えて裁かないで忍耐しておられるからだと思います。

 私は昨年の2月ごろと今年の1月、風邪に伴う副鼻腔炎になり、声が出にくくなり、礼拝の説教を役員の方々に代読していただきました。耳鼻咽喉科で診ていただくと、副鼻腔炎と診断され、昨年は内視鏡に映った膿の映像も見せていただきました。薬を処方され飲んで、次第に治りました。あの2回、声が出にくい状態の中で、ザカリアの気持ちを考えたことでした。そして声が出るという、普段は当たり前と考えていることが、実は神様の恵みのプレゼントであることに、感謝すべきプレゼントであることにようやく気付きました。

 私たちの口や舌について考える時、ヤコブの手紙3章2節以下を思い出さないことはできません。「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。(~)舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を讃美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」

 ペンテコステの朝、イエス様に従う人々の上に炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。一同は聖霊に満たされ、他の国々の言葉で神の偉大な業を語り始めました。聖霊によって心が清められ、舌と唇が清められ、神に偉大な業を語りました。私たちの心と舌も、御言葉と聖霊によって清めていただきたいのです。讃美歌第二編に『シャロンの花』という讃美歌があります。「シャロンの花、イエス君よ、汝(な)がかおり放ちたまえ。わが言葉、行いみな、汝(なれ)の如くになるまで」というすばらしい歌詞があります。この歌詞が私たちの上に実現してほしいものです。 歌手ベー・チェチョルさん。  アーメン。


2024-06-12 15:49:30(水)
伝道メッセージ(6月分)石田真一郎(市内の保育園のお便りに掲載した文章)
「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。~明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなた方にはなおさらのことではないか」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書6章28~30節)。

 保育園では、今年は6月7日(金)に「花の日礼拝」を神様にお献げ致します。「花の日」は、19世紀半ばにアメリカのプロテスタント・キリスト教会で始まりました。その地域ではこの時期、花が豊富で美しかったのです。花を、真の神様の愛のシンボルとして教会に飾り、花を持って高齢の方々や交番を訪問する麗しい日になりました。東久留米市の花はツツジ、木はイチョウです。5月はツツジが美しかったですね。植木鉢の花がしおれたとき水をやると、しばらくしてみるみる生気を取り戻します。植物は生きていると分かり、嬉しくなります。花も人間も神様から命を与えられています。この神様に信頼して祈るのが信仰です。

 『サザエさん』作者の長谷川町子さんはクリスチャンでした(工藤美代子『サザエさんと長谷川町子』幻冬舎、2020年)。町子さんの父親は神様を信じない人でしたが、1933年に福岡で亡くなる直前に、神様を信じる人に変えられました。目を見開いて家族に、「こんな嬉しい日に泣いてはいけないよ。神様がいつもお前たちを守って下さる」と言い、誰にも見えない何者かに向かって手を伸ばし、『イエス様が迎えに来て下さった』と喜色満面で言い、パタリと手を落として息を引きとったそうです。現実は大変です。大黒柱を失い、一人で娘三人を育てることになった母親は、一家で東京に行くと決断します。寡婦とその子どもが餓死寸前で神様に助けられ、「壺の粉は尽きることなく、かめの油はなくならない」(旧約聖書・列王記上17章14節)状態になったと記す聖書の御言葉を、母親は信頼しきったのです。「それが真実ならば、キリスト教とは何と頼りになる宗教であろうか」と工藤さんが書きますが、正確には、真の神様と神の子イエス・キリストが頼りになるのです。

 懸命に働いてやっと食べてゆける時代でしたが、町子さんが1935年に15才でマンガ家デビューし、戦後『サザエさん』がヒットしたことは、一家への神様の助けだったのです。母親は熱心なクリスチャンで、貧しい人や困っている人に、どんどんお金をプレゼントする人で、一家は困りましたが、母親の晩年に一家でイスラエルを旅行し、イエス様が誕生され、働かれた地に立って感激する恵みを受けました。そのイエス様が伝道されたイスラエルで戦争が続き、イエス様の御心と真逆のことが行われており、私は悲しみと憤りを覚えます。戦争が早く終わり、傷ついた多くの人々が癒されるように祈るのみです。アーメン(「真実に」)。