日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2025-10-01 12:31:39(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」5月号に掲載した石田真一郎の文章)
「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてのものを支配させよう。』」(旧約聖書・創世記1章26節)。

 新緑の美しい季節です。私は、若葉のような子どもたちに会える金曜日を楽しみにしています。聖書によれば、真の神様は全ての人間を、「我々(神様)にかたどり、我々(神様)に似せて」造られました。どの生き物の命も大切ですが、人間の命は特別に大切です。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(同1章27節)からです。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった」(同2章7節)。ここに人間の尊厳の根拠があります。子どもたちも同じです。神様に似せて造られた子どもたち全員に尊厳があります。国籍がどこでも、どの性の子も、障がいのあるなしにかかわらず、神様に似せて造られた尊厳深い一人一人です。先生方お一人お一人ももちろんです。神様と人間の何が似ているのか? それは姿形ではなく、人格があること、言葉を用いること、愛することを知っていること、責任があることを知っていること、等です。しおんは、このことを大切にする保育園です。

 神様はお一人なのになぜ「我々に似せて」と複数形なのかとの疑問も出るでしょう。聖書の神様は「父なる神・子なる神イエス・キリスト・聖霊なる神」が一体の「三位一体の神」です。この神様が、ご自分の内部でよく相談し、熟慮して人間をお造りになったとお答えします。ですから殺人は、神様への大きな罪です。

 カトリック教会のフランシスコ教皇が天に召されました。イースター(イエス様の復活日)のミサ(礼拝)でメッセージを語り人々と触れ合い、翌日亡くなりました。貧しい南米出身の初の教皇という意義がありました。清貧に生きた中世の聖人アッシジのフランチェスコにあやかってフランシスコと名乗りました。世界中の貧しい人々、女性、子ども、難民、弱い立場の人々の味方でした。神様に似せて造られた一人一人の尊厳を深く魂に刻んでいました。平和のために尽力し、2019年11月に来日し、広島・長崎で明確に核兵器廃絶をアピールされたので、私は勇気づけられました。東京ドームでのミサに私も出席し、スペイン語の説教を聴きました(日本語字幕あり)。「日本の青年たちと会って、社会的に孤立している人々も少なくないと分かりました。」「教会は、競争社会で傷つき、痛みを負い、孤独になっている人々を受け入れる野戦病院になってほしい」と語られ、私も魂に刻みました。まるで1、2ヶ月後のコロナ発生や、その後の戦争発生を予見するようなメッセージだったのです。アーメン(「真実に」)。

2025-10-01 12:29:28(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」4月号に掲載した石田真一郎の文章)
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(イエス・キリスト。新約聖書・ヨハネによる福音書20章27節)。

 新入園のお子さん方と保護者の皆様、真におめでとうございます。下里しおん保育園はキリスト教主義なので、毎朝、真の神様への礼拝があります。私は毎週金曜日に礼拝のお話をするために参ります。しおんという名は、聖書に出て来るイスラエルの首都エルサレムが「シオンの丘」にあることに由来し、神の国、天国のシンボルです。

 今年のイースターは4月20日(日)です。イエス・キリストは、私たち皆の自己中心等の罪に対する、父なる神様の裁きを全て身代わりに受けて十字架で死なれ(仮死状態でない完全な死)、三日目に体をもって復活されました。これがイースターです。イエス様の弟子たちは、復活された日にイエス様に出会って喜んだのですが、トマスという弟子だけは、その場にいませんでした。それで彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。イエス様の両手と両足には十字架の釘の穴、わき腹には十字架で槍に刺された穴があります。

 八日後に、トマスと他の弟子たちがいる所に、再びイエス様が来られて、「あなた方に平和があるように」と言われ、トマスを諭して言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエス様に心服して「わたしの主(しゅ)、わたしの神よ」と告白しました。あえて釘と槍の穴に手を入れはしなかったと思うのです。イエス様はトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言われます。私も復活されたイエス様を直に見たことはありませんが、今も生きておられると信じます。今は天で生きておられ、私たちに聖霊(神様の清き霊)を送って、私たちを励まし支えて下さっています。しおん保育園は、復活されたイエス様に守られている保育園なのです。
  
 イースターのシンボルは卵です。卵から生まれるヒヨコが、復活されたイエス様を連想させます。イエス様は十字架の死からの復活で、死に勝利されました。イエス様を救い主と信じる人は、死んでも永遠の命に入るので、安心です。私は昔、アメリカにいたことがあります。クリスマスプレゼントと同じイースタープレゼントがあって驚きました。心のこもった小さな贈り物ならよいのです。ですがクリスマス同様、イースターも商業化されていると感じ、悲しくなりました。何でもお金もうけの手段にする風潮は、捨てる必要があります。もちろん、しおんにその心配はありません。桜が美しく咲き緑が甦る季節に、神様がイースターを置いて下さったことに、神様の深い愛を感じます。アーメン(「真実に」)。

2025-10-01 12:26:54(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」3月号に掲載した石田真一郎の文章)
「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(イエス・キリスト。新約聖書・ヨハネによる福音書13章14節)。

 私は2月に、キリスト教共助会という団体の一員で、栃木県那須塩原市のアジア学院(キリスト教精神で創られたアジア農村指導者養成学校)に、20年ぶりに行きました。

 アジア学院は、高見敏弘牧師が1973年に設立されました。アジア、アフリカ、太平洋の国々からの研修生が、有機農法を学び、母国の農村リーダーとなって実践しています。英語が共通語で、「神を愛し、隣人を愛し、土を愛する」がモットーです。神様が創造された自然環境を守ろうというよき信仰があります。子どもたちが食べる野菜を、農家や先生方のお働きで畑で育てる、しおんの理念と共通します。農業は、最も重要です。「何にもまして国にとって益となるのは、王が耕地を大切にすること」(旧約聖書・コヘレトの言葉5章8節)。

 私も以前、教会の中高生とアジア学院に行き、数日ですが畑仕事を行いました。鶏、豚、牛も飼育しています。中高生の数名は、初めて鶏をつぶす場面を見ました。しばらく、鶏肉を食べられなかったそうです。しかし私たちが肉、魚を食べる時に、生き物の命を奪っているのは現実です。私たちは、食べ物を与えて下さる神様に感謝し、死んでくれた動物や魚にも「ありがとう」の気持ちで食べる必要がありますね。

 職員が外国からの研修生と、国内を巡る研修ツアーもあります。広島(原爆被害の学び)や水俣(熊本県)にも行ったそうです。水俣病(公害病)の被害を学ばれたのでしょう。アジア学院は、1400名以上の卒業生を送り出し、世界の平和作りに貢献しています。アジア学院の前身は、日本キリスト教団の農村伝道神学校(町田市)の東南アジア科です。この科を始めたのは太平洋戦争で、日本が他のアジア諸国にもたらした大きな被害への償い、戦争責任告白の意味があります。初期には台湾、韓国、タイ、フィリピン、マレーシア、ミャンマー、インドネシアから牧師方が研修に来られました。まだ戦後15年で、肉親を日本軍に殺された方、背中に銃剣の刺し傷が残る方が多くおられました。アジア学院の働きは、日本と他のアジア諸国との草の根の和解の働きです。今、ミャンマーの卒業生から、国軍の圧政に苦しむ市民の現実を伝える貴重な情報が届くのです。

 2011年の東日本大震災は大きな試練でした。原発爆発により放射能が降ったのです。存続を危ぶまれましたが、募金等により多くの建物を建て直し、除染も行って復活できました。アジア学院のもう一つのモットーは「サーヴァントリーダーシップ」(仕えるリーダーシップ)。模範はイエス様です。イエス様が弟子たちの足を洗う絵が、チャペルにあります。礼拝でお話する人の席が、掘りごたつのような一番低い所にあることがシンボルです。アーメン(「真実に」)

2025-10-01 12:23:37(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」2月号に掲載した石田真一郎の文章)
「彼(キリスト)の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ」(旧約聖書・イザヤ書53章5節)。

 クリスマス礼拝が終わると、キリスト教会の次の重要な礼拝はイースター礼拝です。クリスチャンは神社・寺に初詣に行きません。真の神様お一人のみを礼拝するからです。イエス・キリストが、十字架の死から復活したことを記念する日がイースターです。今年は4月20日(日)です。その二日前の金曜日に、イエス様は十字架で死なれました。これには最も重要な意義があり、イエス様は私たちすべての人間のすべての罪(エゴイズム)の責任を背負って、私たちすべての人間の身代わりに十字架で死なれました。私たち全員の罪が、神にゆるされるためです。

 ゲオルク・フリードリッヒ・ヘンデル(1685~1759年)という作曲家がいました(『苦難の音楽家 ヘンデル』栗原ひろみ、教会新報社)。ドイツ生まれで、主にイギリスで活躍しました。彼は試練と苦悩も多い人生を歩みました。彼の自己中心も原因でした。悔い改め、反省する中で、彼は信仰を深めます。音楽は、神を賛美するための道具であるという一番大切なことに気づきます。さらに、音楽を聴く人が互いに和解し、兄弟愛に結ばれることが、作曲家としての自分の使命と悟ります。

 彼はクリスマスに演奏される不朽の名作『メサイア(救世主)』を作曲しました。メサイア(メシア)とは、世界の真の救い主イエス・キリストです。ヘンデルは全力の祈りを込め、24日間、不眠不休で作曲しました。「この世界には争いや分裂しかない。世界中の人々が希望を失っている。人間の世界はゆきづまり、解決が見出せない。しかし、私たちの罪を背負って十字架につき、三日目に復活したイエス・キリストの元に、もう一度集まろうではないか! 音楽でキリストの犠牲愛をたたえ、和解のため互いに手を差し伸べ合おう!」今こそ必要なメッセージです!

 イエス様の十字架を、その約500年前に予告したのが、旧約聖書のイザヤ書53章です。旧約聖書の最重要の言葉とも言えます。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。(…)彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎(とが)のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主(しゅ、神)は彼に負わせられた」(53章3~6節)。イエス様は「敵を愛しなさい」と言われました。すごい言葉です。世界平和のためにも、世界中の人々がイエス様に従うことが不可欠です。イエス様こそ、神から世界への最も尊い贈りものです。アーメン(「真実に」)!

2025-09-27 23:40:29(土)
「悪魔を追い出すキリスト」     2025年9月28日(日)礼拝
(ルカによる福音書11:14~25) 
 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

◆汚れた霊が戻って来る
 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」


(説教) 本日は、聖霊降臨節第17主日の公同礼拝です。説教題は「悪魔を追い出すキリスト」です。最初の小見出しは「ベルゼブル論争」です。

 最初の14節「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」これは大変な奇跡ですから、このようなことが目の前で起これば、誰でも驚嘆します。これはイエス様が、目の前にいた口の利けない人を深く憐れんで行って下さった愛の奇跡です。そしてこの奇跡は、イエス様こそ旧約聖書で予告されているメシア(救い主)であることを証明しています。

 イザヤ書35章には、神様がもたらされる救いが、次のように記されています。3節以下「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』」神が来て救われるとありますが、神が派遣なさるメシア(救い主)が救いを与えて下さると読んでも、構わないでしょう。5~7節「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野でに水が湧き出で、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。」こう書いてあるので、イエス様が父なる神様から送られたメシア(救い主)であることは明らかです。
 
 しかしそれを素直に信じないで拒否する人々がいました。15~16節「しかし、中には『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。」悪霊の頭ベルゼブルとは、悪魔です。イエス様が悪魔の力で悪霊を追い出していると言っているので、これはイエス様に対する大きな冒瀆ですね。イエス様が悪魔の仲間だと言っているに等しいからです。マルコ福音書3章の同じ場面では、「人々は、イエス様が汚れた霊(悪霊)に取りつかれていると言っていた」と書かれており、それでイエス様が「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と言われたと書かれています。「イエス様が、悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言うことが、聖霊を冒瀆する罪、永遠に赦されない罪、恐るべき大きな罪であることが分かります。また、イエス様を信用せず、天からのしるしを求める者もいました。メシア(救い主)であることを示す証拠の奇跡を求めたのです。しかしそれは必要ありません。イエス様が口の利けない人を、利けるようにして下さった愛の奇跡が、既に十分以上の証拠なのですから。

 17節~「しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。『内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、私がベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。』」サタンでさえ、内輪もめして内部から崩壊するほど愚かではない。私がベルゼブル(サタン)の力で悪霊を追い出しているなどという声は、完全に間違っている。19節「私がベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で(悪霊を)追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。」イエス様を冒瀆する人々の仲間にも、悪霊を追い出す人がいたのですね。その人たちも悪霊の力で悪霊を追い出すわけではない。そうだと言われれば、その人たちもまた、「私は悪霊の力で悪霊を追い出しているのではない」と怒るに違いない。まして私(イエス様)が、悪霊の力で悪霊を追い出すなど、するはずがない。
 
 20節「しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」イエス様は、悪霊の力によってではなく、神の指、神の御手によって、神の力で悪霊を追い出しておられます。「神の指」という言葉は、印象的です。イエス様が悪霊を追い出したことは、神様と悪魔が戦って、神様が勝利されたことを意味します。同じ神様と悪魔の戦いは、旧約聖書の出エジプト記にも記されています。神様から遣わされたモーセが、イスラエルの民をエジプトから救い出そうとして、エジプト王ファラオと交渉し、対決します。出エジプト記8章12節以下に、こうあります。

 「主はモーセに言われた。『アロンに言いなさい。杖を差し伸べて土の塵を打ち、ぶよにさせてエジプト全土に及ぼせ』と。彼らは言われた通りにし、アロンが杖を持った手を差し伸べ土の塵を打つと、土の塵はすべてぶよとなり、エジプト全土に広がって人と家畜を襲った。」これが神の力です。それまでは、神の力が示されるとエジプトの魔術師も秘術を用いて、対抗できていたのです。エジプトの魔術師は、悪魔の力で神様に対抗しました。しかし、この時はできませんでした。「魔術師も秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしたが、できなかった。ぶよが人と家畜を襲ったので、魔術師はファラオに、「これは神の指の働きでございます」と言ったが、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになった通りである。」エジプトの魔術師は、ぶよを出したのが真の神の指の働きであることを認め、自分たちの敗北を認めました。神様の勝利です。

 そして申命記9章を見ると、モーセの言葉が記されています。「主は、神の指で記された二枚の石の岩を私にお授けになった。」それは、十戒の言葉が記された二枚の石の板です。十戒の言葉は、神様の指によって記されたのです。もちろん神様は目に見えない方で、肉体を持ってはおられません。ですから「神の指」という表現は、比喩的な表現と思います。詩編8編4節にも、「神の指」の表現があります。「あなた(神様)の天を、あなたの指の業を私(ダビデ)は仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの。」神様の天地創造の業が、神様の指の業だと告白されています。そして人間の創造も語られます。「そのあなたが御心に留めて下さるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手(=指)によって造られたものをすべて治めるように、その足元に置かれました。」

 私は本で見ただけですが、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂に、ミケランジェロという有名な画家の「太陽と月の創造」という大きな絵画があるそうです。その絵画では、神様は筋肉隆々の白髪と白髭の力強い男性の姿で描かれ、右の人差し指が太陽を指さし、左の人差し指が月を指さして、指が太陽と月の創造を指揮しているように描かれています。詩編8編4節が意識されていると感じます。「あなたの天を、あなたの指の業を私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。」
 
 ルカに戻り20節「しかし、私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所に来ているのだ。」イエス・キリストがおられる所に、神の国は既に来ています。この礼拝の場にも、もちろん神の国が来ています。但し、神の国の完成は、イエス様がもう一度地上に来られる再臨の時に実現します。完成は将来です。そこで理屈っぽく言えば、「神の国は既に来ているが、未だ完成していない」ということになります。21節「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。」分かりにくいですが、この「強い者」はサタン(悪魔)です。22節「しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。」この「もっと強い者」はイエス・キリストです。最も強い方イエス・キリストが、強い悪魔を滅ぼすことを述べています。私たち人間は、悪魔に自力で打ち勝つことができないのですが、悪魔より強い方イエス・キリストが悪魔を滅ぼして、悪魔の支配から私たちを解放して下さいます。

 23節「私に味方しない者は私に敵対し、私と一緒に集めない者は散らしている。」この世界は、ある意味で神様と悪魔の戦いの部隊です。ある牧師は、伝道は悪魔との戦争だと言います。きつい表現ですが、その通りと思います。私たちの敵は、人間ではなく悪魔です。この戦いに中立はありません。神様と悪魔の間の中立に立つことは許されません。私たちはどこまでもイエス様の味方をし、どこまでもイエス様と共に悪魔と戦います。中立はイエス様に味方しないこと、つまり悪魔に味方することになります。私たちは中立してはいけません。どこまでもイエス様の味方をする必要があります。

 イエス様の使徒パウロは、テモテへの手紙(二)2章3節で、愛する弟子テモテにこう述べます。「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と共に苦しみを忍びなさい。兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。」私たちは国家の軍隊の兵士ではなく、イエス・キリストの愛の国の兵士です。「兵役に服している者は生計を立たてるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。」私たちは、私たちを呼び出して永遠の命を与えて下さったイエス・キリストの気に入るように全力でイエス様に従うキリストの兵士、神の国の兵士です。キリスト教会の一派に救世軍があります。
救世軍の方々は、イエス様の愛の兵士なのだと思います。お隣の清瀬市に救世軍があります。私たちは救世軍のメンバーではなくても、私たちもイエス・キリストの愛の兵士であることは間違いありません。イエス様に喜んでいただくことを、第一に行います。それは伝道だと思います。

 次の小見出しは「汚れた霊が戻って来る」です。24節「汚れた霊(悪霊)は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが見つからない。それで『出て来たわが家に戻ろう』と言う。」砂漠や荒れ野は、悪霊の住み家と考えられていました。25~26節「そして戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで出かけて行き、自分のより悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

 私たちが洗礼を受けると神の子になり、クリスチャンになり、イエス様の兵士としてイエス様と共に悪霊と戦う者となります。しかしそこでイエス様に従うことをやめてしまうと、心の中に隙ができます。油断して聖書も読まず、祈りもせず、礼拝に行くこともやめてしまうと、心の中に悪霊が入り込む恐れがあります。そのまま放置すると、ひどい場合は悪霊が、自分より悪いほかの七つの霊を連れて来て、住み着くと、イエス様は私たちに警告されます。ひどい場合は、クリスチャンになった前よりも、もっと悪くなるというのです。従って油断しないで、イエス・キリストにつながり続けるようにと、イエス様は私たちを励ましておられます。

 イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けた人は、「神様の所属する者」となりました。そして聖霊を注がれ、永遠の命を与えられ、その人自身が聖霊が住まわれる神殿となったのです。その状態を維持し、さらに聖化の道(御言葉と聖霊によって清められる)を進ことが大切です。しかしここで油断して、明らかな罪を犯して平気になってしまう生活に逆戻りする恐れもあり、そうならないようにと、イエス様は私たちを招いておられます。イエス様ご自身が、ヨハネによる福音書5章14節で、こう語っておられます。イエス様によって、38年間の病気が癒された男性に対してです。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」救われた人に、「これからはもう罪を犯してはいけない」と言っておられます。ペトロの手紙(二)2章20節に、似たことが書かれています。「私たちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。」

 昔の日本の教会には「卒業信者」という言葉があったそうです。もちろん信仰に卒業はありません。卒業信者という言葉は、よくない言葉です。信仰に卒業があるとすれば、生涯信仰を守り通して、天国に凱旋するときだけです。私たちも信仰を卒業しないように、信仰を生涯全うすることが、イエス・キリストから期待されており、私たちもそうありたいと切望しています。悪霊が入り込む隙がないように、祈りと礼拝の生活に、ご一緒に励み通したいのです。アーメン。