日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2022-07-02 23:42:37(土)
「世の罪を取り除く神の小羊」 2022年7月3日(日)聖霊降臨節第5主日礼拝 説教 
順序:招詞 コリント(二)1:3~5、頌栄29、「主の祈り」,交読詩編62,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・358、聖書 イザヤ書53:5~10(旧約p.1149),ヨハネ福音書1:19~34(新約p.163)、祈祷、説教、讃美歌21・78、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書53:5~10) 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

(ヨハネ福音書1:19~34) さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

(説教) 4週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第5主日の礼拝です。先々週より、月2回くらいの予定でヨハネによる福音書を最初から読み始めています。先々週の第1回は、ヨハネ福音書の冒頭の有名な個所でした。そこでは、イエス・キリストの本質が語られていました。「初めに言(イエス・キリスト)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「言は肉(肉体)となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。」洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)が現れて、イエス様について、こう述べました。「『私の後から来られる方(イエス様)は、私より優れている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。」人間としての誕生の順番は、ヨハネが先に生まれて、その後イエス様が誕生されたのです。しかしヨハネは、イエス様の方が先におられたと言っています。それはイエス様が、神の子、そして父・子・聖霊なる三位一体の神様(子なる神)で、天地創造の前から生きておられたと言っているのです。

 さて、今日の最初の小見出しは、「洗礼者ヨハネの証し」です。洗礼者ヨハネが、自分がどんな存在かを述べています。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たち(祭司予備軍)をヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と質問させたからです。ヨハネが多くの人々に洗礼を授ける等の立派な働きをしていたので、もしするとヨハネこそ、神様が送って下さったメシア(救い主)ではないかと思ったからでしょう。しかしヨハネは率直に「私はメシア(救い主)ではない」と告白しました。人々がまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは「違う」と答えます。エリヤとは、旧約聖書の偉大な預言者で、神様がイスラエルにもう一度エリヤを遣わすと、旧約聖書の最後の書であるマラキ書で約束しておられます。ヨハネが「違う」と答えたのは、私にとっては意外で、他の福音書では洗礼者ヨハネこそ再来のエリヤだと書いてあるので不思議ですが、ここではヨハネ福音書の記述に従います。人々がさらにヨハネに、「あなたはあの預言者なのですか」と尋ねると、ヨハネは「そうではない」と否定します。「あの預言者」とは、旧約聖書の申命記で、リーダー・モーセが「あなたの神、主はあなたの中から、私(モーセ)のような預言者を立てられる」と言っている「モーセのような預言者」を指します。それは実はイエス・キリストです。イエス様は預言者ではなく、預言者以上の方、神の子ですが、「モーセのような預言者が立てられる」という神様の約束は、イエス様の誕生によって実現されたと、キリスト教会は信じています。ヨハネがその預言者ではないので、ヨハネは「自分はそれではない」と否定します。そこで人々は、改めて問います。「それではいったい、誰なのです。私たちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは、自分を何だと言うのですか。」

 ヨハネは、旧約聖書の預言者イザヤの言葉(イザヤ書40章)を用いて、答えます。「私は荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」洗礼者ヨハネは、謙虚です。「私は声に過ぎない。『主(神様)の道をまっすぐにせよ』と人々に悔い改めを求める一個の声に過ぎない。私は偉大な人物ではない」と言ったのです。人々はさらに問います。「ヨハネさん。あなたはメシア(救い主)でも、再来のエリヤでも、またモーセのようなあの預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるという大胆な行動をしているのですか。」ヨハネは答えます。実に謙虚な答えです。「私は水で洗礼を授けるが、あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる(イエス様です)。その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない。」洗礼者ヨハネは清く正しく生き、真の神様のために大いに奉仕し、真の神様に従って殉教の死を遂げた立派な人ですが、少しも偉ぶることなく、「私はイエス様の履物尾ひもを解く資格もない者だ」と告白しました。これは彼の本心と思います。ヨハネは、本当にへりくだった謙遜な人物でした。

 このやり取りは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアで行われました。ヨハネは知っていました。自分が授ける水の洗礼は、悔い改めの洗礼であって、まだ不完全な洗礼だ。しかし真の神の子イエス様がもたらして下さる洗礼は、聖霊による洗礼であって、イエス様がもたらして下さる洗礼こそ、完全な洗礼だと、知っていました。「私は罪人(つみびと)の一人だが、イエス様は全く罪のない清らかな神の子であられる。私はイエス様の前には、無価値な者に過ぎない。」ヨハネは、この福音書の3章30節では、「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない」と言っています。これも実に謙虚な言葉です。「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない。」なかなか言えない言葉です。この言葉も、ヨハネの本心に違いありません。

 私はイスラエルに行ったことはありませんが、ヨハネが人々やイエス様に洗礼を授けていたヨルダン川は、写真を見るとそれほど巨大な川幅ではありません。きっと季節によっても水量は変化するでしょう。ですが写真を見る限りでは、東久留米教会のすぐ近くの南沢湧水や落合川に似ていなくもない感じを受けました。日本とイスラエルは風土が違い、ヨルダン川の周囲は砂漠の部分もあるし、緑もあります。ヨハネはこんな感じの所で洗礼を授けたのかなと想像しながら、南沢湧水や落合川の周りを歩いてみるのも楽しいと思います。

 次の小見出しは、「神の小羊」です。29~31節「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。「私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさる。私よりも先におられたからである」と私が言ったのは、この方のことである。私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は水で洗礼(バプテスマ)を授けに来た。」

 ヨハネ福音書の特徴の1つは、イエス・キリストの本質をずばり言い当てる言葉が多いことです。イエス様ご自身がおっしゃいます。「私が命のパンである。」「私は世の光である。」「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」これらの御言葉は皆、イエス様の本質をずばり言い当てています。洗礼者ヨハネも、今日の個所でイエス様の本質を、見事に言い当てています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。イエス様は、まさにその通りの方です。

 これを読むと、本日の旧約聖書であるイザヤ書53章を連想せずにはおれません。イザヤ書53章は、イエス様の十字架の贖いの死(私たちのための身代わりの死)を予告する、非常に重要な個所です。もう一度じっくり読みます。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼(イエス様)に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」これが小羊の姿、世の罪を取り除く神の小羊です。

 この小羊の姿は、旧新約聖書の最後の書であるヨハネの黙示録の5章にも出て来ます。「私(著者ヨハネ、洗礼者ヨハネとは別人)はまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られた小羊が立っているのを見た。」救い主イエス・キリストです。「屠られた」とは、十字架にかかって屠られ殺されたことです。「立った」ことは、イエス様が復活なさったことを指しているかもしれません。

 ヨハネ福音書に戻ります。洗礼者ヨハネの証しが続きます。32節「私は『霊』(聖霊)が鳩のように降って、この方の上にとどまるのを見た。」それはヨハネがイエス様に洗礼を授けた時のことに違いありません。33節以下「私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるために私をお遣わしになった方(父なる神様)が、『霊(聖霊)が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』と私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」その通り、イエス・キリストこそ真の神の子、私たちのたった一人の真の救い主です。人間の真の救いは、真の神様の前にすべての罪を赦されること、そして死を乗り越えた永遠の命を受けることです。その真の救いをもたらして下さった方がイエス・キリストです。イエス様が私たち皆の罪を全て身代わりに背負って十字架で死なれた。それがなければ、私たちが罪の赦しと永遠の命を受けることはなかったのです。ヨハネは命を懸けて保証して言います。「この方こそ神の子であると証ししたのである」と。このヨハネが命がけで保証するメッセージを受け入れ、全ての方に救い主イエス様を信じていただいて、全ての罪の赦しと永遠の命を受けていただきたいのです。

 ここでイエス様は、「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人」だと言われています。ヨハネの洗礼よりも優れている完全な洗礼です。私たちが受けた洗礼が、イエス様が授けて下さった洗礼です。洗礼式で水を注いだのは人間の牧師だったでしょうが、牧師は代理人で、本当は目に見えなくてもイエス様が洗礼を授けて下さったのです。それは父・子・聖霊なる三位一体の神様のお名前による洗礼でした。この洗礼が、どんなに大きな恵みか、ローマの信徒への手紙5章16節と読むと分かります。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが(旧約聖書の律法の場合はのこと)、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」イエス様の十字架による罪の赦しという恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される。ヨハネによる洗礼にはそこまでの恵みはない。しかしイエス様が聖霊によって授ける洗礼の効力は、「いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」洗礼です。ひとえにイエス様が、十字架にかかって私たちの全部の罪への裁きを完璧に受けきって下さったからです。

 15~16世紀に生きたグリューネヴァルトというドイツ人画家が描いた十字架上のイエス様の、かなりリアルな真に痛々しい絵があります。この画家の最高傑作だそうです。現物は見たことがありませんが、かなり大きいそうです。写真で時々見ます。イエス様は茨の冠をかぶり、体には鞭打ちの傷が多くあり、死斑が出ているように思えます。左下には、悲しみにくれる母マリア、マリアを支える十二弟子の一人ヨハネ、マグダラのマリアが描かれています。右側には、洗礼者ヨハネが描かれていて、イエス様を指さしています。「あの方は栄え、私は衰えねばならない」とのヨハネの言葉が記されています。洗礼者ヨハネの足の近くに子羊(小羊)が描かれています。イエス様を指さしている洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言おうとしているのかなと、感じます。この絵は元々、フランスの修道院付属の施療院に掲げられていて、そこにはペストなどの患者が治療を受けていたそうです。その人々が、この絵を見上げていたらしいのです。ペストは黒死病と呼ばれ、今のコロナ以上に、ずっと多くの人々の命を奪った病気(疫病)として知られます。この施療院で治療を受けて癒された人も、そうでなかった人々もいたでしょう。死斑が浮かぶように見えるイエス様の遺体を、グリューネヴァルトという画家は、ペスト(黒死病)の遺体のように描いたのかもしれません。

 この絵を見上げて人々は、「イエス様も、私たちと同じような、否、私たち以上の肉体の苦しみを苦しまれた。そして私たちの罪を本当に全部背負いきって十字架で死なれた。だから、イエス様を救い主と信じる私たちの全部の罪が赦され、死の力が私たちに最終的に勝利することはない。復活されたイエス様につながっている私たちには、永遠の命が確実に与えられているのだ」との確信を新たにし、もしぺストが治らなくても、真の慰めを与えられたに違いありません。新約聖書のヘブライ人への手紙2章14、15節の御言葉を思い出してよいでしょう。「(イエス様は)死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさ」ったとの御言葉です。

 私がこの説教を準備した一昨日の晩に、私と妻に洗礼を授けて下さった若月健悟先生という牧師の方が、ご病気で天に召されたとの知らせが届きました。半年ほど前から闘病しておられると聞いており、私も癒しのために毎日お祈りしていました。しかし一昨日に天に召されてゆかれました。私と妻が洗礼を受けたのは1989年の別の日曜日の礼拝においてでしたが、その時のことを昨日のように思い出します。あの時、洗礼を受けていなければ、私どもが今東久留米教会に居させていただいていることもなかっただろうと思います。以前お世話になった牧師の方々が、一人また一人と天国に帰ってゆかれます。ということは、地上に残された者たちの伝道のための責任が一層重くなったわけで、ますます伝道のために祈り、励まなけれなならないとの思いが強くなります。洗礼者ヨハネは、全身全霊でイエス・キリストを指し示し、命がけで「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と宣べ伝えました。彼の生涯は、このことだけのために用いられました。私どももヨハネに励まされ、「イエス・キリストこそ、十字架にかかって世の罪を取り除いた神の小羊、復活して永遠の命の希望をもたらした神の子」であることを全身全霊で、言葉と行いで指し示す生涯を送りましょう。アーメン。 

(祈り)御名賛美。私たちの教会において家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。参議院選挙を導いて下さい。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。

2022-06-26 0:17:25()
「五つのパンと二匹の魚で群衆を養う」2022年6月26日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話礼拝」第51回
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23、頌栄28、「主の祈り」,交読詩編なし,使徒信条、讃美歌21・475、聖書 ルカ福音書9:10~17(新約p.121)、祈祷、説教、讃美歌21・120、献金、頌栄27、祝祷。 

(ルカ福音書9:10~17) 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

(説教) 3週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第4主日、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第51回)の日です。この礼拝の日は、朗読する聖書箇所は原則1か所にすることになっています。

 本日の聖書は、ルカによる福音書9章10節以下です。この個所の前で、聖書の主人公イエス・キリストは、十二人の弟子たちを伝道のために派遣されました。神の国を宣べ伝え、病人を癒すために派遣されたのです。十人の弟子たちは、村から村へと巡り歩きながら、至る所で福音(神様の愛)を告げ知らせ、人々の病気を癒しました。弟子たちが大いに働いて帰って来たので、イエス様は彼らに休息を与えようとされたようです。

 最初の10節「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」リトリートという言葉を思い出します。リトリートの直接の意味は「退く」だと思います。リトリートを退修会と訳したりします。修養会とも似ています。奉仕の働きから一歩退いて、暫く静かに祈りに集中し、神様の安息をいただき、聖霊の新しい力を注がれて、次の働きに出かけるためのひと時です。イエス様は弟子たちに、リトリートの時を与えようとされたようです。ところが群衆が追いかけて来たので、十分休養することはできなかったでしょう。

 11~12節「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。『群衆を解散させて下さい。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。私たちはこんな人里離れた所にいるんのです。』」夕方になりつつありました。人々はお腹がすき、疲れ始めています。夕食が必要です。「人里離れた所」を直訳すると「荒れ野」です。砂漠に近いかもしれません。イエス様が公の活動開始なさる前に、悪魔の誘惑をお受けになったのも荒れ野です。緑がほとんどなく、草木がほとんどない場所かもしれません。ここで食べ物を手に入れることは不可能の場所です。弟子たちの進言はもっともです。「イエス様、群衆を解散させて下さい。そうすれば、周りの村や里へ行って宿を取り、食べ物を見つけるでしょう。」

 ところがイエス様が言われます。「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい。」不可能な求めに聞こえます。弟子たちはありのままの現実を語ります。「私たちにはパン五つと二匹しかありません。このすべての人々のために、私たちが食べ物を買いに行かない限り。」これはもっともな言い分に聞こえます。神様でない私たちには、不可能なことです。イエス様は神の子であり、神様ですから、何でもお出来になります。男が五千人ほどいました。女性や子供も別にいたとすれば1万5000人か2万人いたでしょう。聖書協会共同訳は。「五千人ほどの人がいた」と訳しています。私たちが用いている新共同訳で「男」と訳された言葉は「人」と訳すこともできます。ですからどちらの訳も間違っていません。英語でもmanを男とも人とも訳すことができます。総勢5000人でも2万人でも、神様にとっては苦もなく養うことができる人数です。人間にとっては、大きな違いですが。イエス様は、この群衆の満腹になさることができます。

 このルカによる福音書によると、イエス様が宣教活動に入られる前に、40日間、悪魔から誘惑をお受けになりました。40日間断食されました。慣れれば断食はそれほど辛くないという人もおりますが。40日間断食すれば、強烈な空腹を覚えると思います。イエス様も空腹を覚えられました。悪魔が来て誘惑し、「この石にパンになるように命じたらどうだ」と言いました。イエス様には、簡単にできます。だから誘惑になります。イエス様には、石をパンに変えることも簡単ですから、5つのパンと2匹の魚で5000人なり2万人の群衆を満腹にさせることも簡単です。何もない状態で群衆を養うことも簡単です。ですがイエス様は、ご自分の業を行われる時に、私たちを用いて下さいます。私たちの小さな能力や、少ない持ち物を祝福して用いて、イエス様の業を行って下さいます。弟子たちが持ていたわずか5つのパンと2匹の魚を祝福して、多くの方への恵みのために用いて下さいます。これは私たちにとって、光栄なことです。

 イエス様は、基本的にはご自分のために奇跡を起こすことなさいません。「人はパンだけで生きるものではない」との旧約聖書・申命記8章3節を引用して、ご自分のために石をパンに変えることを拒否されます。申命記8章3節には、こう書いてあります。「人はパンだけで生きるものではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」確かにそうです。しかし同時にイエス様は、私がパンなしで生きられないことも、よく知っておられます。そこで群衆を深く憐れんで、少なくとも5000人の人々を満腹にして下さいました。

 そのプロセスはこうです。14節途中から。「イエスは弟子たちに、『人々を50人くらいずつ組にして座らせなさい』と言われた。」なるほどと思います。確かに大仕事は、いくつかの小さい仕事に分割すると、取り組みやすくなります。「弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために讃美の祈りを唱え(直訳すると『祝福した』)、裂いて弟子たちに渡しては、群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。」

 弟子たちは、「私たちにはパン五つと魚二匹しかありません」と言いました。「これしかない。」でもそれを神様が祝福して下さると、大きな力になるはずです。このルカ福音書21章に「やもめの献金」の出来事が書かれています。ある貧しいやもめが、神殿の賽銭箱にレプトン銅貨2枚を入れました。当時のコインで一番低い金額のコインだそうです。はっきり分かりませんが10円玉2枚くらいと言えるかもしれません。しかしそれは彼女の全財産でした。イエス様は感激して言われました。「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」弟子たちも、持っていた全てが「五つのパンと二匹の魚」だったのではないかと思います。イエス様はそれを喜んで祝福して下さいました。

 旧約聖書の箴言10章22節に「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない」との御言葉があります。「人間を豊かにするのは主の祝福である。」イエス様の祝福が最も大切です。それがないと、偉大なことを行っても虚しいのではないでしょうか。イエス様の祝福が与えられたので、わずか「五つのパンと二匹の魚」が豊かに祝され、五千人以上もの群衆を満腹にしたに違いありません。食事の中身は豪華ではなく、質素だったと思います。パンと魚だけです。でもお腹も満たされ、心も聖なる喜びに満たされたに違いありません。私たちが絶えず祈ってイエス様の祝福をいただくなら、私たちの業がいと小さく見えたとしても、永遠の価値を持つ業になるに違いありません。私たちはパン(食べ物)なしに生きられません。ですからイエス様は「主の祈り」を教えて下さり、こう祈りなさいと言われました。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」私たちはこう祈ってよいのですし、神様がこの祈りにも応えて私たちに食物を与えて下さいます。

 神様が、愛と憐れみによって人々を養って下さった記事は、旧約聖書にも多くあります。その代表は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、マナによって養われたことです。エジプトを脱出した民は、暫くの間は感謝していましたが、リーダー・モーセとアロンに不平を言い出します。「あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」神様は「あなたたちは夕暮れに肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、私があなたたちの神、主であることを知るようになる。」夕方になると、うずらが飛んで来て宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降り、それが蒸発すると、地表に薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていました。イスラエルの人々はそれを見て、「これは一体何だろう」と言い合います。「これは何」はヘブライ語で「マーン・フー」です。それでこの食物が「マナ」(これは何?)と呼ばれるようになりました。モーセが言います。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」マナは、蜜の入ったウェファースのような味がしたとあります。私たちが最近聖餐式で用いている個別包装の中身はウェファースとぶどう液ですが、ウェファースになっているのはマナに似せているのだろうと思います。

 神様は日曜日から金曜日までの毎日六日間、マナを与えて下さいました。民は毎日必要な分だけ集めます。翌朝まで残すと虫がついて臭くなり、食べられません。貯蔵できません。これは神様が必要な恵みを明日も与えて下さることを教える訓練です。六日目の金曜日には二日分のマナが与えられました。旧約の時代、七日目の土曜日が安息日、礼拝の日で、一切の仕事が禁じられます。マナを集めに行く仕事も禁じられるので、神様は金曜日に予め二日分のマナを与えて下さいました。これがイスラエルの民が約束の地カナンに着くまで、40年間続きました。神様が必要な恵みを毎日必ず与えて下さることをしっかり体験し、神様が信頼して間違いない方であることを身をもって経験した40年間となりました。神様は水も与えて下さいます。荒れ野で飲み水がなかったことがあり、イスラエルの民が不平を述べました。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。私も子どもたちも、家畜まで渇きで殺すためなのか。」モーセが困って神様に訴えると神様はモーセに、以前ナイル川を打って水を血に変えた杖を持って、ホレブの岩を打てと命じられました。モーセが人々の見ている前で、指示通りにすると水が出て、民は飲むことができました。

 他にも旧約聖書の列王記・上17章で、イスラエルに旱魃が起きたとき、神様が預言者エリヤに言われました。「ケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。私はカラスに命じて、そこであなたを養わせる。」その通りになりました。数羽のカラスがエリヤに、朝、パンと肉を、夕べにもパンと肉を運んで来て、水は川の水を飲んで、エリヤは生きることができました。エリヤがシドンのサレプタに行くと、ひとりのやもめ(寡婦)が薪を拾っていました。神様がやもめによってエリヤを養うと言っておられたので、エリヤはやもめに声をかけます。「器に少々水を持って来て、パンも一切れ下さい。」彼女は「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。私は二本の薪を拾って帰り、私と息子の食べ物を作るところです。私たちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤが言います。「恐れてはならない。帰って、あなたの言った通りにしなさい。だが、まずそれで私のために小さいパン菓子を作って、私に持って来なさい。その後あなたと息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」その通りになりました。神様は貧しい人に、特に憐れみ深く、優しいかたです。ですから今日の場面でも、五千人以上の人々に食物を与えて下さったのです。天の窓を開いて、御手を開いて祝福を注いで下さったのです。

 今日のルカ福音書を読んで思います。イエス様(父なる神様)の愛が五千人以上の人々を養ったのですが、人間側の心がけとしては「分け合う心」が大切だと。クリスチャンの言葉ではありませんが、「奪い合えば足らぬ、分け合えば余る。」確かにその通りと思います。イザヤ書58章で神様が、「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しんではいけない」と語っておられます。ボンヘッファー牧師(ヒトラーに抵抗して死刑になった)は、「誰かひとりがパンを持っているかぎり、誰も飢えることはない」と言います。独り占めせず、必ず分け合うからです。「我々がパンを共に食べている限り、極めてわずかのものでも、満ち足り得るのである。誰かが自分のパンを、自分のためだけに取っておこうとするときに、初めて飢えが始まる。」それだけが飢えの原因でないとしても、確かに食物を自分用にだけ独占する時に、他の人の飢えが始まるのは、本当と思います。個人だけでなく、国レベルでもそうです。

 宗教改革者マルティン・ルターが「主の祈り」の「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」について書いている中で、「この祈りには、パン(穀物や野菜)を育てる農家、これを家庭に運び届ける流通機関、これらに関わる全ての人たちのための祈りを含む」と書いているそうです。それらがうまく運ぶために、世界が平和でなければならないとも書いているそうです。国と国が争っていることは、直ちに食糧危機につながると。まさにウクライナが戦争に追い込まれている今、ウクライナは穀倉地帯なので、世界の食料の価格高騰、食糧危機になりつつあります。このためにも早くこのロシア軍が撤退するように祈らなければなりません。日本の食料自給率は40%あるかどうか。食糧を外国に依存しているのですから、戦争は即、私たちの食糧危機です。食糧自給率を高めねばなりません。そのことをも真剣に考えて、参議院議員選挙で投票する必要があるでしょう。投票もまた、私たちは信仰に基づいて行います。「日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈る私たちは。以上のことも考えてゆきます。

 「残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」とあります。ヨハネ福音書6章の似た場面を見ると、イエス様が弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言っておられます。神様の恵みを無駄にすることは罪と言えます。これは日本の宗教風の言い方で申し訳ありませんが、以前の日本人は「一粒のお米には七人の神様が宿っている」と言って、一粒のお米を大切に食べました。「七人の神様」は本物の神様ではありません。しかしこのように一粒のお米を大切にした心は、大切と思います。私たちにとっては、一粒のお米もイエス様、父なる神様からの大切な恵み。これを無駄にしてはいけないことを、改めて心に刻みます。もちろん食中毒になりそうな食べ物を食べる必要はありませんが、大量消費・大量廃棄の社会を改革する必要があります。

 ある牧師の説教集の題が『パン屑を集める心』でした。「パン屑を集める心」は大切なのですね。神様の恵みを一つ一つ数え、無駄にしない信仰が大切と知らされます。そう歌う聖歌を聞いたことを思い出しました。詩編103編2節が元になっています。「私の魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」私たちは神様の多くの恵みに気づかず、忘れ、感謝しないでいるのではないかと反省させられます。私はあまり歌ったことがないのですが、新聖歌172番です。You Tubeで聴くと、本当に心に響く聖歌です。「①望みも消えゆくまでに、世の嵐に悩むとき、数えてみよ、主の恵み、汝(な)が心は安きを得ん。(繰り返し)数えよ、主の恵み、数えよ、主の恵み、数えよ一つずつ、数えよ主の恵み。 ②主の賜いし十字架を、担いきれずに沈むとき、数えてみよ、主の恵み、つぶやきなど如何であらん。(繰り返し)。③世の楽しみ、富、知識、汝が心を誘うとき、数えてみよ、主の恵み。天(あま)つ国の幸に酔わん。(繰り返し)。」 

 最後に詩編145編14節以下を読みます。「主は倒れようとする人を一人一人支え、うずくまっている人を起こして下さいます。ものみなが、あなたに目を注いで待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物を下さいます。すべて命あるものに向かって御手を開き、望みを満足させて下さいます。」アーメン。

(祈り)御名賛美。私たちの教会において家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。参議院選挙を導いて下さい。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。

2022-06-18 23:42:13(土)
説教「初めに言(ことば)があった」2022年6月19日(日)聖霊降臨節第3主日礼拝
礼拝順序:招詞 ガラテヤ5:22~23、頌栄24、「主の祈り」,交読詩編61,使徒信条、讃美歌21・352、聖書 創世記1:1~8(旧約p.1)、ヨハネ福音書1:1~18(新約p.163)、祈祷、説教、讃美歌21・271、献金、頌栄27、祝祷。 

(創世記1:1~8)初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

(ヨハネ福音書1:1~18) 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

(説教) 先々週にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第3主日の礼拝です。本日より毎月できるだけ2回ほど、ヨハネによる福音書を順番に読んでいこうと思います。

 第1節は、クリスチャンにとっては有名な御言葉と思います。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「初め」は全ての初め、神様がこの世界をお造りになった天地創造の初めということですね。言は、原語のギリシア語の聖書で「ロゴス」です。ロゴスという言葉を聞いたことのある方は、多いでしょう。ロゴスは色々に訳すことができる言葉で、「言葉、真理、真実、思想、論理、教説」等、幅広い意味を持つ言葉です。このヨハネ福音書1章のロゴスは、イエス・キリストを指すというのがキリスト教会の昔からの受け止め方です。イエス・キリストは、存在そのものは神様の言葉、神様のメッセージであるからです。聖書は、文字で記された神の御言葉であり、イエス・キリストは生きておられる神の言葉です。

 「初めにロゴス(言)があった。ロゴスは神と共にあった。ロゴスは神であった。」詩のような書き出しです。ロゴス、ロゴスと繰り返されます。リズミカルです。ロゴスはイエス・キリストを指しますから、「初めにイエス・キリストがあった(おられた)。イエス・キリストは神と共にあった(おられた)。イエス・キリストは神であった。」イエス・キリストは天地創造の初めから生きておられた。イエス・キリストは神と共におられ、イエス・キリストは神であったし、今も神であられるということです。2節「この言(ロゴス、イエス・キリスト)は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」「万物は言によって成った」とは、世界の全てがイエス・キリストによって創造されたということです。私たちは神様によって造られた者ですから、キリスト教会で被造物と呼びます。しかしイエス・キリストは神によって造られた者ではありません。その反対に、私たち人間と宇宙の全てをお造りになった神様です。

 4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」イエス・キリストの内に命がある、永遠の命があるということと思います。そしてイエス・キリストこそ、永遠の命そのものだとも言えます。「命は人間を照らす光であった。」イエス・キリストこそ、人間を照らす真の光、世の光だということです。イエス様はヨハネ福音書8章で「私は世の光である」と宣言しておられます。

 この新共同訳聖書の序文の3ページの7行目以下に、面白いことが書いてあります。「プロテスタントの側としては1837年に刊行された、ギュツラフ(宣教師)の『ヨハネ福音書』の『ハジマリニ カシコイモノゴザル』がよく知られています。ロゴスを「カシコイモノ」と訳したのですね。もちろんイエス・キリストを指します。1837年は明治維新の31年前で、日本でキリスト教が禁止でなくなった1873年より36年前です。日本が鎖国をやめる前から、何とか日本人に伝道しようとして、ギュツラフはおそらくシンガポールでヨハネ福音書を日本語に訳していたのです。ギュツラフは、尾張の美浜(愛知県知多郡美浜町)の千石船宝順丸の船員だった岩吉、久吉、音吉から日本語を教わって、苦心の翻訳を行ってくれました。当時の尾張弁に訳されたヨハネ福音書です。全部カタカナです。何とかして鎖国の日本人にイエス・キリストの福音を伝えたい、凄い情熱です。ロゴス(イエス・キリスト)を「カシコイモノ」と訳した。確かにイエス・キリストは神の知恵そのもですから「カシコイモノ」はすばらしい訳だとうなって納得します。このギュツラフ訳を少し読んでみましょう。まず題の「ヨハネによる福音書」は、「ヨハンネスノ タヨリ ヨロコビ。」1節から。少し首を傾げる部分もありますが、難破した漁師たちから初めて日本語を習って訳しているのですから、やむを得ないと覆います。「ハジマリニ カシコイモノゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトモ二ゴザル。」神様を「ゴクラク」と訳したのは不正確ですが、天地万物をお造りになった神と言われても日本語を教える漁師さんが理解しきれなかったかもしれないので、「ゴクラク」の訳になったのでしょう。「コノカシコイモノワ ゴクラク。ハジマリニコノカシコイモノ ゴクラクトモ二ゴザル。」4~5節「ヒトノナカニイノチアル。コノイノチワ ニンゲンノヒカリ。コノヒカリハクラサニカガヤク。」

 「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」光はイエス様です。この世界は良いこともあるが、罪と悪と死が存在している世界です。暗闇とも
言えます。その暗闇の中に、真の希望の光イエス・キリストが来て下さいました。
「暗闇は光を理解しなかった」を、口語訳聖書は「闇はこれ(光)に勝たなかった」と訳しています。罪と悪と死の暗闇に勝利する方がイエス・キリストです。

 このヨハネ福音書の冒頭を読むと、多くの方が旧約聖書の冒頭の創世記1章を連想すると思います。本日の旧約聖書です。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」説明的になって恐縮ですが、創造されたは旧約聖書の原語のヘブライ語で「バーラー」という動詞で、この「バーラー」という言葉は、神様の場合にだけ使われる言葉だそうです。言い換えると、「バーラー」という言葉の主語は、必ず神様です。「神の霊が水の上を動いていた。」聖霊(神の聖なる霊)が動いていたのです。「動いていた」という言葉は、「鷲がひな鳥を飛ばせようとしてその巣の上を舞っている様子」を表す言葉だそうです。そこで「神の霊が水の上を飛び回っていた」と訳す人もいます。聖霊は単なる力ではなく人格(神格)をお持ちの神の霊ですが、「神の霊が水の上を飛び回っていた」という表現は、これから天地宇宙を創造なさる神様の聖なる霊の、エネルギッシュな力を感じさせると思うのです。

 聖書全巻の一番最初の言葉は「初めに、神は天地を創造された。」です。ある人は、まずこの御言葉に、たとえようもなく深く感動しました。「そうだったのか、この宇宙と地球と全ての生き物は、真の神様がお造りになったのか!」このような感動は、大切と思います。私たちも聖書の御言葉の1つ1つによく感動できるように、感性を磨きたいと思います。真の神様がこの全宇宙と地球と人間と動植物の全てをお造りになったと信じて、身の周りの全てを見回して見ると、太陽も神様が造られた、この教会のすぐ近くの南沢湧水も神様が造られた、今日会ったあの人この人も、神様が愛情込めてお造りになった一人一人。新しいフレッシュな気持ちで木や花や空の雲を見て、またお一人お一人を見させていただくことができると感じます。「初めに、神は天地を創造された。」ヨハネ福音書には「万物は言(イエス・キリスト)いよって成った」とありましたから、父・子・聖霊なる三位一体の神様の「子なる神」イエス・キリストも、天地創造をなさったのです。キリストは天地創造をなさった神様です。「天地を創造された」ということは、言い換えると空間を時間をお造りになったということと思います。初めがあれば終わり(完成)があります。世の終わりにイエス様がもう一度地上においでになり、この世の歴史は終わり神の国が到来します。

 3節「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」この光は、イエス様ご自身とは言えません。イエス様は、神に創造された存在ではなく、全てを創造なさった側の神だからです。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」神様が発せられた言葉に力があって、神の言葉によって光が創造され、この世界の1つ1つ、一人一人が創造されました。言葉のことをヘブライ語で「ダーバール」と言います。この「ダーバール」という言葉は、「出来事」の意味ももつそうです。言葉が創造的な力を発揮して、出来事を発生させるのです。新約聖書のヘブライ人への手紙11章3節に、「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」と書かれています。「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造された」ことを知ると。神様に似せて造られた私たち人間の言葉にも、ある程度力があります。私たちの言葉は「諸刃の剣」かもしれません。私たちの言葉で、人の心を慰め力づけ勇気づけることもできます。反対に、人様の心を深く傷つけ、やる気を失わせることもできます。私も言葉でそのような罪を犯して参りました。悔い改めさせられます。新約聖書のエフェソの信徒への手紙4章29節以下には、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」とあります。

 私の知人のクリスチャン夫婦に、三人のお子さんのお名前を全て、このヨハネ福音書1章1~4節からつけたご夫婦がおられます。最初に生まれた長女さんは「言さん」。その方がある宣教師さんから、「言とは、イエス・キリストの愛、イエス様の十字架の愛ですよ」とかつて教えられて感動なさったので、「言さん」と名付けられました。第二子が誕生された時には、「言の内に命があった」の御言葉から取って、「命(こころ)さん。」第三子が誕生された時に、「光は闇の中で輝いている」から取って、光を少し変えて「灯(あかり)さん。」三人ともヨハネ福音書1章1~4節から取って、名前をつけられました。名前の通りに成長されているようで、私は見上げたものだと敬服しています。

 やや思い切って進んで9節以下「その光(イエス様)は、真の光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。」世はこの世界ですが、神様に背き、神様に逆らう世なのです。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民(イスラエルの民)の所へ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」「名、名前」は聖書では本質を表します。「その名(イエス・キリストの名=イエス様が神の子であること)うぃ信じる人々には神の子となる資格を与えた。」そうです、イエス様を神の子と心より信じる人には、神の子となる資格、永遠の命の恵みが与えられます。このヨハネ福音書が書かれた目的も、まさにそこにあります。このヨハネ福音書20章31節に、こう書かれています。「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命(永遠の命)を受けるためである。」

 「この人々(イエス様を神の子、救い主と信じた人々)は、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」人は皆、両親の血を引いて生まれてきます。残念ながら両親も罪人(つみびと)なので、子どもも罪を受け継いでしまいます。これは生物学的な遺伝とは違うでしょうが、親から罪を受け継いでいます。これがここに書いてある「血によって、肉の欲によって、人の欲によって生まれた」ということと思います。しかしイエス様を神の子、救い主と信じた人は、新しく生まれます。神様によって聖霊によって、神の子として新しく誕生します。これは洗礼のことを暗示していると言えます。

 14節「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」これはクリスマスの出来事ですね。「言(イエス・キリスト)肉(肉体)となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。」イエス様は、私たちの同じ肉体を持つ人間の赤ちゃんとして、ベツレヘムの貧しい家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされました。但し母マリアは聖霊によって妊娠したので、ヨセフの血は引いていません。そして大事なことは、イエス様は全く罪のない人間であることです。神の子が、神様が人間の赤ちゃんとしてこの地上に生まれて下さった。それがイエス様です。イエス様は、神であり同時に人間です。栄光の天から、私たちが住むこの世界に降りて来て下さいました。ヨハネ福音書は、それを「栄光」と呼んでいます。普通の栄光と正反対(最近の言葉では真逆)のことを栄光と呼んでいます。普通に考える栄光は、勝利して上へ上へ昇ってゆくことです。ところがイエス様の栄光は、愛にゆえに低きに下に下に、愛のゆえの奉仕のために下に下に降って下さるイエス様の生き方こそ、「真の栄光」だと。さらに裏切るユダを含む12人の弟子たちの足を洗い、私たち罪人(つみびと)の全ての罪の責任を身代わりに背負いきるために、十字架の死に赴く生き方こそ「真の栄光」です。そのイエス様の十字架の死と三日目の復活のお陰で、私たちは全ての罪の赦しと、死を乗り越えた永遠の命の恵みを受けました。

 このことを14節は、こう表現します。「私たちはその(イエス様の)栄光を見た(貧しい飼い葉桶に寝かされた栄光、十字架にかかった栄光)。それは父(なる神)の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ここではコリントの信徒への手紙(二)8章9節を引用したくなります。「あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです。」イエス様の十字架によって、私たちが永遠の命を受けるために、イエス様は貧しい家庭に降って来られたと。

 16~18節を読んでまとめましょう。「私たちは皆、この方(イエス様)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法(代表は十戒)はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない(旧約聖書の預言者イザヤなどは、神を垣間見たようですが)。父のふところにいる独り子である神(イエス・キリスト)、この方が神を示されたのである。」父なる神様は、まばゆい聖なる栄光に輝いておられ、私たちはこの方を直視することができません。私たち罪人(つみびと)が、完全い聖なる方である父なる神様を直視すると、撃たれて死んでしまいます。罪人(つみびと)から父なる神様に近づくことは危険なので、神様の方からご自分を示すために降って来て下さいました。この方がイエス様です。私たちはイエス様を深く知ると、父なる神様を深く知ることができるのです。イエス様は「父のふところにいる独り子である神」です。ヘブライ人への手紙1章3節も、イエス様が神だと示します。「御子(イエス様)は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」だと。私たちが天国に入れていただくその日まで、イエス・キリストを宣べ伝える使命を果たしながら、イエス様と共に平安の内を、ご一緒に歩ませていただきましょう。アーメン。

(祈り)御名賛美。私たちの教会において家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。

2022-06-15 20:29:40(水)
6月の伝道メッセージ(保育園の「おたより」に掲載した文章) 牧師 石田真一郎
「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章10節)。

 キリスト教会は、神の子イエス・キリストを信じますが、世界的に西方教会と東方教会に分けられます。西方教会にカトリック教会、プロテスタント教会、聖公会が属します。東方教会はギリシア正教会に代表され、その中にロシア正教会があります。今、ロシア正教会のトップが、権力者プーチンにへつらいイエス様に背いています。プーチンはクリスチャンと称しているようですが、「殺してはならない」という神の戒めを破り、神に背いています。今のロシア正教会の役割はプーチンの戦争を止めることです。日本の正教会はロシアの正教会に、戦争終結のために努力してほしいと嘆願書を送っています(東京復活大聖堂=ニコライ堂のホームページ)。

 権力者の迫害に負けず、イエス様への信仰を貫いた人々は日本にもいます。私は洗礼を受けた22才のとき、島根県の津和野に行きました。明治元年(1868年)のクリスチャン迫害の地です。当時キリスト教は、江戸時代の続きで禁止でしたが、長崎の浦上村のクリスチャン3394人が全国に流罪となり、153名が津和野に送られ信仰を捨てるように迫害されました。三尺牢という身動きできない牢に入れられ、氷の池に投げ込まれました。死ぬ人、信仰を捨てる人も出ましたが、高木仙右衛門と守山甚三郎は信仰を捨てず、生きて帰りました。今、記念に建っている教会で私はひざまずいて祈りました。近くの乙女峠には、イエス様の十字架の道行きが再現されています。ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれ、要所にレリーフがあり、イエス様が「十字架を担ぎ、ここで倒れる」、「ここで母マリアに出会う」等と書いてあり、ここを祈りつつ歩いて、イエス様の十字架を思い信仰を深め、苦難に耐えた津和野のクリスチャンたちの勇気を偲びます。同じ十字架の道は、清瀬聖母教会(聖公会)の礼拝堂内にもあります。

 クリスチャンでない国民的作家の大佛(おさらぎ)次郎が、仙右衛門に感嘆しています。「武家支配で、日本人がゆがめられ卑屈になっていた中に、浦上の農民がひとり『人間』の権威を自覚し、迫害に対して決して妥協も譲歩も示さない、日本人として全く珍しい抵抗を貫いた」(『天皇の世紀』11)。ロシア正教会のトップにも、同じ精神でプーチンの戦争に抵抗し、ストップをかけてほしいのです。たとえ迫害されようとも。「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」アーメン(真実に)。

2022-06-12 1:01:40()
「真の神様に立ち帰ろう!」 2022年6月12日(日)聖霊降臨節第2主日礼拝説教
礼拝順序:招詞 ガラテヤ5:22~23、頌栄85、「主の祈り」,交読詩編60,使徒信条、讃美歌21・343、聖書 詩編110:1~4(旧約p.952)、使徒言行録2:30~42(新約p.216)、祈祷、説教、讃美歌21・404、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(詩編110:1~4) 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」/主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。/あなたの民は進んであなたを迎える/聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ/曙の胎から若さの露があなたに降るとき。/主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」

(使徒言行録2:30~42) ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

(説教) 先週ペンテコステ礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第2主日の礼拝です。イエス様の一番弟子ペトロの伝道説教が続きます。今日の最初の30節から。「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓って下さったことを知っていました(ダビデ王の子孫からメシア(救い主)が生まれるという誓いです)。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。」これは旧約聖書の詩編16編の引用です。詩編16編は、イエス・キリストの復活を預言する詩編であることが、ここで明らかにされたのです。

 32節と33節「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いで下さいました。あなた方は、今このことを見聞きしているのです。」使徒たちが世界の様々な言語で、神様の偉大な業を語っているのは、復活して天に昇られたイエス様が、父なる神様の右に座られ、そこから聖霊を注いで下さったから起こっていることだと、ペトロは説教して伝えています。神の子にして神であられるイエス・キリスト、父なる神様、聖霊なる神様のことが語られます。つまり父・子・聖霊なる三位一体の神様のことが語られています。

 イエス様が約束された聖霊を注いで下さった。それは神様の愛が注がれたということです。ローマの信徒への手紙5章にこう書かれています。「希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」聖霊は神の愛の霊であり、希望の霊だと分かります。イエス様を救い主と信じ告白した人々には、既に聖霊が与えられています。そしてますます聖霊に満たされたいものです。色々な辛いことがあっても、私たちが聖霊に満たされると、耐えてゆくことができるのではないでしょうか。私が洗礼を受けた教会で、30年くらい前に役員の婦人が語っていた言葉を、ふと思い出しました。何かとても苦しいことがあって、神様に懸命に必死に祈っていたら、不思議な、えも言われぬ安堵感に満たされたことがあったと。聖霊による慰めを受けたのだと思います。

 使徒言行録9章には、「教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」とあります。私たちもぜひこうなりたいものです。ここに「教会が聖霊を慰めを受け」とありますから、聖霊は真の慰めを与えて下さる霊だと分かります。コリントの信徒への手紙(二)1章3節以下に、このようなすばらしい御言葉があります。「私たちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かに下さる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」この個所は、東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生(今は天国)が、先生のご隠退の時に編集された説教集の中で、「何て素晴らしい御言葉だろう!」と感嘆したという意味のことが書かれていました。ここでは父なる神様、キリストが慰めて下さると書かれていますが、それを聖霊と読み替えても間違いではないと、私は思います。「慰めを豊かに下さる聖霊なる神がほめたたえられますように。聖霊なる神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さるので、私たちも聖霊なる神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めも聖霊によって満ちあふれているからです」と。使徒たちも、この愛と慰めの霊である聖霊を注がれて、聖なる慰めと喜びに満たされていました。

 ペトロも聖霊に満たされて、さらに説教します。本日の旧約聖書である詩編110編を引用して語ります。34、35節「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。「主(父なる神様)は、私の主(イエス・キリスト)にお告げになった。『私の右の座に着け。私があなたの敵を、あなたの足台とするまで。』」ここを読むと、イスラエルの有名な王出会ったダビデが、イエス様を主と呼んでイエス様を敬い、父なる神様の右の座におられる方、つまり「王の王、主の主」と崇めていることが分かります。ペトロが語ります。36節「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主(全宇宙の主)とし、またメシア(救い主)となさったのです。」

 37節「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうすればよいのですか』と言った。」イスラエルの人々は、はっきり気づきました。自分たちが全く罪のない真の神の子を十字架の死に追いやる、非常に大きな罪を犯してしまったことに、気づきました。自分たちの罪を悲しんだと思います。イエス様が天からもう一度降って地上に来られる(再臨)の時に、同じようなことが起こると、ヨハネの黙示録1章に記されています。「見よ、その方(イエス様)が雲に乗って来られる。全ての人の目が彼を仰ぎ見る。ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。」神の子を十字架で殺す大きな罪を犯したことに気づいた人々は、「どうすればよいのですか」とペトロとほかの使徒たちに教えを乞いました。

 ペトロが明確に答えます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなた方にも、あなた方の子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いて下さる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」聖書で言う罪は、「的外れ」の意味だと聞きます。的外れの反対のよい生き方、的を射抜く生き方は、神様と隣人を愛する生き方です。これに反する的外れの生き方(罪の生き方)は、神様を愛さず、隣人を愛さず、自分のことばかり考えて自己中心に生きることです。旧約聖書の詩編78編57節で、神様がイスラエルの民の罪をこう表現しておられます。「先祖と同じように背き、裏切り、欺く弓で射た矢のようにそれて行き」と。「欺く弓で射た矢のようにそれて行き」。これが的外れ、つまり罪ですね。

 そして聖書で言う悔い改めとは、方向転換のこと、立ち帰ることだとよく言われます。的外れの罪の生き方から方向転換して立ち帰って、的を射抜く生き方、神様と隣人を愛する生き方に至ることが悔い改めです。悔い改めを回心と言うこともあります。回心は「回す、心を」と書きます。「改心」とは書きません。心を改めるというよりも、心を回す、心の方向を転換する、心だけでなく生き方を方向転換する。真の神様に立ち帰る。これが悔い改めであり、回心です。先ほどは聖霊が慰めの霊であられることを強調しましたが、聖霊は私たちを悔い改めに導く霊でもあられます。ペトロは聖霊によって、こう説教しているのです。悔い改めて、真の神様に立ち帰り、神の子になる祝福を受けなさいと、神様が今も私たち招待しておられます。この招待に、感謝して喜んでお応えしようではありませんか。そしてイエス様が用意しておられる恵みの洗礼を受けると、私たちの罪が赦され、賜物(プレゼント)として真に尊い生きた宝である聖霊が与えられるのです。

 神様の招きに応える前の私たちは、ルカ福音書15章に登場する放蕩息子と同じでした。放蕩息子は、全く的外れの生き方をしました。彼を愛してやまない父親(父なる神様を象徴する存在)のもとから、わざわざ出て行き、誘惑と悪の多い世間に出て行き、父から相続した大切な財産を使い果たしてしまいました。このままでは破滅だとやっと気づき我に返って、悔い改め、方向転換に導かれます。「ここをったち、父のところに行って言おう。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい。』」神様は、私たちが同じ姿勢で悔い改めて、父なる神様の元に帰ることを喜んで下さいます。父親は、ぼろぼろになって帰って来た放蕩息子の帰宅を喜んだのです。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」父親は「望みどおり雇い人の一人にしたやる」とは言わず、僕たちにこう言います。「急いで一番良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足の履物を履かせなさい。食べて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして祝宴を始めた、と書いてあります。心から罪を悔い改める私たちに対して、父なる神様もこのように喜んで下さいます。

 ルカによる福音書の放蕩息子のたとえ話の直前で、イエス様がこう言っておられますね。「悔い改める一人の罪人(つみびと)については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも、大きな喜びが天にある。」これは実に驚くべき言葉ですね。神様が一人が悔い改め、方向転換して神様の元に帰って来ることを、どんなに喜んで下さるかを、よく教えられるイエス様の御言葉です。そして本当は「悔い改める必要のない人」は、一人もいないのです。ペトロも、神様のこのお気持ちをよく分かって、人々に悔い改ねへと強く招きます。ペトロ自身が、十字架にかかるイエス様を見捨てて逃げ、今はその罪を悔い改めて、神様から罪の赦しの恵みを受けたからです。

 罪を悔い改めることは、神様に喜ばれることです。ヨハネの手紙(一)1章9節に、こうあります。「自分の罪を公に言い表す(告白する)なら(これは悔い改めに等しい)、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めて下さいます。」コリントの信徒への手紙(二)7章10節には、次のすばらしい御言葉があります。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」私たちが自分の罪を悲しみ、自分の罪を嫌悪し憎むなら、私たちは悔い改めに導かれ、そして取り消されることにない救いに導かれるというのです。真実な悔い改めこそ神様に喜ばれる道、永遠の命に至る道と教えられます。

 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなた方にも、あなた方の子どもにも、遠くいる全ての人にも、つまり、私たちの神である主が招いて下さる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」この約束は私たちにも与えられています。ですからこの招きに応えて、イエス・キリストを救い主と告白して、できれば洗礼を受けて、全ての方々に神様のプレゼントである聖霊と永遠の命を受けていただきたいのです。

 ペトロはさらに色々話をして力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と人々に勧めました。「邪悪なこの時代」は言い過ぎだと思われるかもしれません。世の中をよくするために努力している人々も多いのです。奴隷制度を公然と維持する国は非常に少ないと思います。しかしまだ戦争があり、差別や格差もあり、犯罪も起こる以上、罪と悪がまだまだ存在しています。その意味では完全によい時代になったとは言えず、今はまだ邪悪が残っている時代と言わざるを得ません。私たち自身の心の中にも人を愛せない罪があり、それを自分で消すことができません。ですからイエス様の十字架による身代わりの死によって、救っていただく必要があります。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと(聖餐式)、祈ることに熱心であった。」私たちもぜひこうありたいものです。ここには最初期の教会の理想的な姿が記されています。この先にも私たちの模範となる姿が記されています。44節以下「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を讃美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

 1つ具体的な話をしますと、森永製菓の創業者・森永太一郎(1865~1937)はクリスチャンだそうです。会社のシンボルはエンゼル(天使)マークで、神様の恵みを伝えたい太一郎が最初にデザインしたそうです(以下、高田文彦著『キリスト教ものしり人物伝』健友社、2001年等より)。

 佐賀の豪商の家に生まれたが父が事業に失敗し、孤児になります。若くして結婚後、一人渡米しますが皿洗い等で苦労の生活。初めて食べたキャンディーのおいしさに感激し、洋菓子職人になろうと決心しますが、人種差別のため菓子工場で働けません。しかし親切なクリスチャン老夫婦の家に住ませてもらい、差別しない老夫婦に感動した太一郎はキリスト教に関心を持ち、洗礼を受けます。11年間菓子作り修行をし1899年に34才で帰国、東京・赤坂に「森永西洋菓子製造所」を開業、日本で初めてキャラメルを作り、販売します。多湿の風土に合わせキャラメルを改良、飛ぶように売れます。宣伝販売用に作った箱車に「キリスト・イエスは、罪人(つみびと)を救うために世に来られた」との聖書の言葉を大きく書き、伝道をしながら売ります。「ヤソ(クリスチャン)の菓子屋」と評判になり、当時多かった(今も?)底上げして中身を多く見せて売ることをせず、品質第一、正直な商売を心がけます。

 ところがお金が儲かり、ほしいものが手に入るようになると、彼の信仰は堕落します。長年、神様に祈らず、聖書を読まず、神様を礼拝しなくなります。共に苦労した妻の死という試練が来て、酒に溺れます。妻が夢に出て彼を叱ります。彼は自分の罪を認めて悔い改め、イエス様に従う道に立ち帰ります。1923年9月1日の関東大震災で、森永はほとんど損害なしでした(関東大震災の時の朝鮮人虐殺は、二度と繰り返さないため忘れていけない大事件)。彼は会社のミルクや菓子をどんどん無料で被災者に配ります。幹部が反対すると、「今こそ、神様とお客様にお返しする時だ」と実行します。晩年は、全国の教会で伝道します。題は「私は罪人(つみびと)のかしら。」神様よりお金を愛した自分の罪を深く悔い改めて語り、そんな自分の罪をも背負って十字架で死なれ、三日目に復活されたイエス様の愛を語り、罪を悔い改める大切さを語りました。聴いたある男が、「私は人殺しです」と昔の罪を告白、警察に自首しました。罪を本気で悔い改めたのです。太一郎の説教に聖霊が働き、犯罪を隠していた男を悔い改めに導いたのです。私たちも、天国に入れていただく日まで、悔い改めと感謝を忘れずに、信仰したいものです。アーメン。
 
(祈り)御名賛美。私たちの教会において、家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和を。フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。