日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2026-03-11 14:31:56(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」2025年12月号に掲載した文章)石田真一郎
「われらを試みにあわせず、悪より救い出(いだ)したまえ」(「主(しゅ)の祈り」の第六の祈り)。

 試みとは誘惑です。最初の夫婦エバとアダムが、蛇(悪魔のシンボル)の誘惑に負けて神様の戒めを破り、罪の支配下に落ちたと、旧約聖書の創世記3章が語ります。エバとアダムは私たちの代表で、全人類が生まれながら罪の下にあります。そんな私たちを、罪とその結果の死から救い出すために、イエス様が生まれました。これがクリスマスです。

 悪魔はイエス様に使命を果たさせまいと、三つの強力な誘惑を仕掛けました(荒れ野の誘惑)。①悪魔「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエス様「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きると、(旧約聖書)に書いてある。」 ②悪魔「神の子なら、(高い神殿から)飛び降りたらどうだ。」 イエス様「あなたの神である主(しゅ)を試してはならないと、(旧約聖書)に書いてある。」神様を信頼することが大事なので、無用の危険を冒して神様が守って下さるか実験することは罪です。 ③悪魔「もしひれ伏して私を拝むなら、これ(全世界の栄華と権力)をみんな与えよう。」 イエス様「退け、サタン(悪魔)。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと、(旧約聖書に)書いてある。」 イエス様は悪魔の誘惑を全て退けました。

 イエス様の最大の使命は、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って十字架で死に、三日目に復活することです。悪魔はこれを妨げようとして、人々にこう言わせます。「他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。」これは強力な誘惑です。イエス様にはできるからです。しかしイエス様はこの誘惑を退け、死に至るまで忠実に十字架にかかり続け、使命を果たされ、私たち罪人(つみびと)にとことん奉仕して下さいました。ただの一度も悪魔の誘惑に負けず、悪魔に完全に勝利されました。

 私たちも日々、色々な誘惑にさらされています。神様は100%善の方で、神様が人を誘惑なさることはあり得ません。誘惑はすべて、悪魔の働きです。「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げて行きます」(新約聖書 ヤコブの手紙4章7節)。「われらを試み(誘惑)にあわせず、悪より救い出(いだ)したまえ」と全力で祈り、イエス様に助けられて、悪魔に抵抗して生きてゆきましょう。 ☆2011年秋まで下里しおん保育園でチャプレン(牧師)としてお働き下さった有馬歳弘牧師が、9月3日に天に召されました。84歳。ご家族の皆様に、神様の深い御慰めを、心よりお祈り申し上げます。アーメン(「真実に」)。

2026-03-11 14:28:38(水)
伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」2025年11月号に掲載した文章)石田真一郎
「われらに罪を犯す者を、われらがゆるす如く、われらの罪をもゆるしたまえ」(「主(しゅ)の祈り」の第五の祈り)。

 一番大切な祈りとも言えます。私たちは毎日少しずつ罪を犯しているからです。神様に感謝しない罪、事実を確かめないで他人の悪口を言う罪、モーセの十戒(8月号のこの欄参照)を守らない罪等です。毎日小さな罪を1つ犯せば、一年間で365の罪を犯すことになります。イエス様の弟子ペトロがイエス様に、「兄弟が私に罪を犯したなら、何回ゆるすべきですか。七回までですか」と問いました(新約聖書・マタイ福音書18章21節)。イエス様は「七回どころか七の七十倍までもゆるしなさい」と言われます。無限にゆるせと言うのです。そしてたとえ話をされます。

 「1万タラントン(3000億円)借金している家来が、王(神様)の前に連れて来られた。しかし返済できなかったので、王は家来に自分も妻も子も持ち物も、全部売って返済せよと命じた。家来は『待って下さい。全部お返しします』と懇願した。王は憐れに思い、彼の借金を帳消しにした。ところがこの家来は、自分に100デナリオン(50万円)借金している仲間に会うと首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間が『待ってくれ。返すから』と懇願したがゆるさず、牢に入れた。仲間たちは心を痛め、これを王に告げた。王は家来に言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れむべきではなかったか。』そして家来を牢に入れた。」イエス様は、「あなた方の一人一人が、心から兄弟をゆるさないなら、私の天の父(父なる神様)も、あなた方に同じようになさる」(マタイ福音書20章24~35節)と言われます。

 イエス様は十字架で死なれ、三日目に復活され、目に見えなくても、今も生きて働いておられます。イエス様の十字架の死は、私たち全ての人間の全ての罪の責任を、身代わりに背負った死です。イエス様の十字架のお陰で、私たちの全ての罪が帳消しにされました。私たちはこの恵みを最大限に感謝し、イエス様を救い主と信じることが大切です。私たちの罪がイエス様のお陰で帳消しになったのですから、私たちも、私たちへの他人の罪を、七の七十倍までゆるすことが必要です。

 「主の祈り」の第五の祈りは、「われらに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく、われらの罪をも、ゆるしたまえ」です。大前提として、私たちの多くの罪がイエス様の十字架のお陰でゆるされました。それを感謝する私たちは、私たちに対して罪を犯す他の人々を(七の七十倍まで)ゆるします。その私たちが日常の中で、心ならずもまだ犯す罪を、神様ゆるして下さい、とへりくだる。「第五の祈り」は実に意味の深い祈り、安易に祈れない祈りだと分かります。自分の生き方をよくよく省みて、「第五の祈り」を祈りましょう。アーメン(「真実に」)。


2026-03-08 0:37:50()
「自分の十字架を背負ってキリストに従う」 2026年3月8日(日)受難節(レント)第3主日公同礼拝
(ルカによる福音書14:25~35)
 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」
 
(説教) 本日は、受難節(レント)第3主日礼拝。説教題は「自分の十字架を背負ってキリストに従う」です。小見出しは「弟子の条件」です。私たちは今、イエス・キリストの十字架を特に深く心に留める受難節(レント)を過ごしています。本日は、この時期にぴったりの聖句が与えられています。

 25節「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。」進み行くイエス様が、あえて後ろを振り返って群衆に語られた場面を想像すると、あえて振り返って大切なメッセージを、懇々と諭すように語られたのだと思います。26「もし、誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではあり得ない。」

 これは厳しい言葉です。多くの方が驚くのではないでしょうか。「父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹、自分の命。」普通これらは人間にとって、最も大切なものです。これらが生き甲斐という人が多い。でも、肉親の情よりも、イエス・キリストへの愛、イエス・キリストに従うことを優先しなさいという、強い招きのメッセージです。私たちに覚悟を求める言葉です。私たちはこれを聞いて、モーセの十戒の第五の戒めを連想すると思うのです。「あなたの父母を敬え」と書いてあるではないか。イエス様のメッセージは、それと矛盾するのではないか、と。ですが先週も申しましたが、宗教改革者ジャン・カルヴァンの言葉と記憶しますが、「父母を敬うことは、基本的に重要。但し、真の神様を信じることについては、もし父母が反対しても、真の神様を信じることを優先する必要がある」と。この場所にも、そのような経験をされた方は、おられると思います。

 だいぶ前に天に召された井上哲雄という牧師が、こんな文章を書いておられます。「神学校に行く」と言ったら、父親はカンカンになって怒った。その時私は、「親父が死ねばいい」と思った。その時、聖霊が私に、「お前は神を愛していると言いながら偽善者だ。大恩ある父母を恨んでいるお前は偽善者だ」と迫られ、本当に涙を流して悔い改めた。父母の前に手をついて、「間違っていました。神学校なんてとんでもない。呉服屋のあとを継ぎます」と言った。父母も喜んでくれて、一日も早く結婚して、孫の顔を見せてくれと言った。私もこれでよかったと思った。その晩は休んで、あくる朝、父母の様子がおかしい。母は変な夢を見たと言うし、父も「私も変な夢を見た。あれは哲雄が信じているイエス・キリストに違いない」と言った。イエス様は昨晩、父母の枕辺に立たれて、諄々と諭されたのだった。父は「哲雄、神学校はどこがいいのか」と聞いてきた。私が「いや、神学校には行きません」言うと、「いや、行ってもらわなくてはならなくなった」、「それじゃ、行きましょう」ということで、神学校への道は開かれた。イエス・キリストは生きておられる。敵のようなものでも。神様が包んで下さるということだ。  神様は、私たちが父母を愛することを望んでおられますが、父母を愛する以上に、イエス・キリストと父なる神様を愛しなさい、ということです。人がクリスチャンになる方は、父母にとっても幸せではないでしょうか。それまであまり親に感謝しない人であっても、クリスチャンになれば「父母を敬え」の聖書の御言葉を実行するようになるからです。

 東京神学大学の先生でいらした小友聡先生という方の、旧約聖書をこつこつ読む会に私は誘われて、時々勉強会に行っていますが、以前に小友先生の証しを読んだことがあります。小友先生は弟さんも牧師です。お母様も、教会の会計役員をなさる熱心なクリスチャンです。小友先生がこのお母様に、「自分は神学校に行きたい」と話したところ、大反対されたというのです。教会の経済の厳しさをよく知っていたお母様は、自分の愛する息子にそんな苦労をさせたくなくて、大反対したのです。小友先生は、おそらくその大反対を乗り超えて神学校に行かれ、牧師になられたのです。イエス様に従おうとするとき、このような身内の抵抗や反対にもかかわらず従うという、ある種の覚悟が求められるのでしょう。

 イエス様ご自身も、家族に理解されない経験をしておられます。イエス様が12歳の時、家族でエルサレムに来たとき、両親が故郷に向かったときも、イエス様はエルサレムの神殿におられ、父母は気づかないで帰路に着いており、イエス様の不在に気づいてエルサレムにとって返しました。神殿でイエス様を見つけた両親に、イエス様は言われました。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」イエス様は、神様を御自分の父と明言されました。ご自分は神の子だという宣言であり、肉親の両親を愛しているけれども、父なる神様に従うことを最優先すると宣言されたと同じです。

 そのイエス様に従うことが、真の祝福への道です。それには覚悟が必要で、「もし誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではあり得ない。自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、だれであれ、私の弟子ではあり得ない。」肉親はとても大切、自分もとても大切。しかし私たちは皆、罪人(つみびと)ですから肉親にも自分にも自己中心の罪があります。それをエゴと言うことも言えます。肉親や自分のマイナス面もあります。クリスチャンでなくてもそれはある程度分かります。たとえばどの団体でも会計監査は、家族同士でなくしているでしょう。身内に甘くなることを警戒してのことと思います。イエス様は家族を大切に思いながらも、真理に従うことを優先することを私たちにも求めておられます。自分を正しく愛することは大切ですが、自己中心になることはだめです。「自分の命であろうともこれを憎め」ということは、自分の自己中心の罪を憎み、自分の自己中心の罪を嫌悪しなさいということです。悔い改めに生きなさいということと思います。

 イエス・キリストはヨハネ福音書12章24節以下で、こう言われます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は、私に従え。そうすれば。私のいる所に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」私たちがイエス様に従うならば、私たちは父なる神様に大切にしていただけます。これこそ、地上の何にもまさる真の幸せです。

 28節以下。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。」イエス・キリストに従うことは、思いつきでできることではなく、一生の大事業だということです。東久留米教会の今の会堂が建って、もうすぐ15年。古い会堂を取り壊したのが2010年の秋で、それまで10年間くらい建築費用をためて、建築に踏み切りました。この教会にとって実力以上の大事業でした。私たちがイエス様に従うことは、それと同じくらいの一生の大事業だということです。

 「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。」よく計算する知恵が求められます。この王の知恵は、この世の知恵とも言えます。イエス様が私たちに求めておられることは、真の知恵に生きることと思います。真の賢さに生きることと思います。イエス・キリストに従うことが、真の知恵ある生き方ということと思います。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなた方のだれ一人として、私の弟子ではあり得ない。」一切を捨てることは難しいですが、それでも様々な執着やしがらみを断ち切ってイエス様に従うことが、真の知恵だと言っておられるのだと思います。

 前のページには、それができなかった人々が登場しています。最も大切な神様からの招きを断った人々です。執着やしがらみを断ち切れなかった人々です。「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させて下さい。」「牛を二頭ずつ五頭買ったので、それを調べに行くところです。どうか失礼させて下さい。」この人々は、イエス様の弟子になることができませんでした。イエス様の弟子になることは、真の祝福ですが、この人々は真の祝福に入ることができなかったのです。

 34節以下「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」塩は腐敗を防ぐ防腐剤の役割を果たします。イエス様の今日の御言葉こそ、塩のような御言葉と思います。私たちをはっとさせる厳しさがあります。私たちをピシッと引き締める塩味の効いた御言葉です。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」洗礼を受けてクリスチャンになることは、イエス・キリストの弟子になることです。イエス様の弟子になることは、天国が約束される、真の祝福への確かな道です。

 今は受難節(レント)真っ只中です。イエス様が、私たちの罪を全て背負って十字架で死んで下さった。この事実を繰り返し心に刻み、ますます祈りを熱くする季節です。本日はイザヤ書53章1~5節を読みました。「見るべき面影はなく。~彼の受けた傷によって、私たちは癒された。」

 神様に従う、真の賢さに生きた人は、旧約聖書にもいます。信仰の父アブラハムです。アブラハムは、神様の命令によって約束の子イサクを神様に献げました。本当に幸いなことに、アブラハムはすんでの所でイサクを屠らずにすみました。しかしアブラハムはイサクを屠ろうとしたのですから、自分の十字架を背負って神様に従ったことは明らかです。このようなことがあったので、アブラハムは自分の十字架を背負って神様に従ったと言えます。だからアブラハムは、信仰の父なのです。

 宮下さんの証し。快適を捨てて、伝道に行った。ダニエル書3章18節「たとえそうでなくとも。」 ボンへッファー「一回の服従は100回の告白にまさる。」
私たちも感謝と喜びと勇気をもって、イエス・キリストに従って参りましょう。アーメン。



2026-03-01 2:02:26()
「用意ができましたから、おいでください」 2026年3月1日(日)受難節(レント)第2主日公同礼拝
(ルカによる福音書14:15~24)

 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

(説教) 本日は、受難節(レント)第2主日礼拝です。説教題は「用意ができましたから、おいでください」です。小見出しとしては「大宴会のたとえ」です。

 これは安息日の出来事です。イエス様は、安息日の礼拝の後に、食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになりました。そして言われました。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」「宴会を催すときには、むしろ
、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 するとそこで食事を共にしていた客の一人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言いました。イエス様が「正しい人たちが復活するとき、あなたは報われる」と招待者に言われたからでしょう。「正しい人たちが復活するとき」とは、神の国が来る時のことだと、直観したのでしょう。今ここでの食事も幸せだが、天国での食事は、もっとすばらしい祝福に違いないと思ったのです。するとイエス様は、神の国(天国)のたとえを語られたのです。ある意味で、悲しいたとえ話です。

 当時の盛大な宴会では、招く人は。事前に招待の意志を知らせ、直前になったら改めて招く習慣だったそうです。二回に渡って招いて下さる主人に対して断ることは、大変な非礼とされていたそうです。「ある人(神様)が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいで下さい』と言わせた。」「もう用意ができましたから、おいで下さい」は、文語訳聖書で「来たれ、既に備はりたり」です。本日は聖餐式を行いますが、50年以上前かと思いますが、聖餐式の式文の言葉が、文語訳聖書から引用されていたそうです。その時の招きの言葉が、この聖句だったそうです。「来たれ、既に備はりたり。」新共同訳を用いれば、「もう用意ができましたから、おいで下さい」です。聖餐式で読むのなら、「来たれ、既に備はりたり」の方が引き締まりますね。「もう準備ができましたから、おいで下さい」も「来たれ、既に備はりたり」も、神様が私たち罪人(つみびと)に向かって心を込めて、「さあ、来なさい」と招いて下さる祝福の言葉なのですね。それを断ることが、神様を悲しませることであることは、言うまでもないと思います。自分一人くらい礼拝に行かなくても、神様が気になさることはない、と思わない方がよいと思います。神様は一人の礼拝出席を心から喜び、一人の欠席を(やむを得ない場合は除く)悲しまれると思うのです。

 18節「すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させて下さい』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させて下さい』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』」

 三人が断りました。三人とも、もっともな理由です。「畑を買った。」状態を見に行く必要があります。牛を10頭買った。様子を見に行く必要があります。結婚した。確かに人生の一大事です。おろそかにできません。みな日常生活で大切なことばかり。招きを断るのが当たり前のようにも見えます。現代の多くの人々も、仕事や家族のことがあって、礼拝に行けない・行かないことが多いです。実際、ご病気のご家族・ご高齢のご家族を放置して礼拝に行くことはできません。本当に行けない場合も、確かにあります。特にそのような理由がないのに、礼拝に行かないとすれば、神様が悲しみを覚えられることも確かでしょう。

 厳しく見れば、畑を買った人、牛を買った人が、それを見に行かないと生きていけないほど切羽詰まっていたのかが問われるでしょう。畑や牛を買わなくても、特に生活に支障がないのであれば、やはりこの世のことを優先して、最も大切な神様をないがしろにしたと、神様に叱られるでしょう。畑や牛に比べれば、結婚や家族はもっと大切に思えます。モーセの十戒にも「父母を敬え」とあります。父母を敬うことが、原則として神様に喜ばれます。しかし、宗教改革者カルヴァンの言葉だったと思いますが、もし私たちが真の神様を信じることについて、父母が反対する場合は、神様に従うことを優先させる必要があると教えたと聞きます。今日のルカ福音書で、あの三人が神様の招きという最も重大な招きを断ったことは、やはり神様を愛を拒否する、大変失礼なことであったのです。

 コリントの信徒への手紙(一)8章29節以下が、参考になると思うのです。新約聖書308ページ上段の最後。この御言葉の前提は、イエス・キリストの再臨が近づいているということです。今日のルカ福音書も、同じ前提かもしれません。この世のことよりも、神様のことを優先すべき時だという意識です。もしイエス様の再臨がかなり将来だったとしても、私たちの地上の時間は限られていますから、天国に行く備えは早めに行う方がよいに決まっています。

 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。

 主人の招きを断った三人は、地上の人生が割とうまくいっている人々と感じます。余裕があると感じます。余裕しゃくしゃくと言うと言い過ぎでしょうか。それだけ地上の生活に満足しており、神様や天国を求める気持ちが少ないのです。神様は必要ない、と思っている。神様なしで全然困らないと思っている。だから断るのです。これに対して「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人は、地上の人生が好調とは言えません。苦労が多いのです。切羽詰まっているとも言えます。お金もあまりないので、この世に希望をもつことが難しい。神様に助けていただく他ないので、神様を求める気持ちになりやすいのではないでしょうか。天国に希望を求めるほかない。そこで信仰に入りやすいかもしれません。前者と後者で、どちらが本当の意味で幸せか、考えてみる必要があります。神様は後者の方々を、殊の外愛して下さるのではないでしょうか。イザヤ61章。ひと昔の日本では、小児麻痺の水野源三さん(瞬きの詩人)、体が動かなくなった星野富弘さんといった、純粋な信仰をもつ、いわゆる障がいをお持ちのクリスチャンの方々がおられました。今でもそのような方方は、有名でないだけでおられるのだと思います。でも水野源三さんのような純粋な信仰は、本当にすばらしかったと感じます。 コリントの信徒への手紙(一)1章21~29節。「無理にでも連れて来て」神の招きの愛は激しい。

 先週の月曜日に、この礼拝堂でAさんのご葬儀を執り行わせていただきました。Aさんが洗礼を受けられたのは、一昨年の11月19日、74歳のお誕生日の日でした。この教会の近くのホームに伺って、短い面会時間の中で洗礼式を執り行わせていただきました。LINE通話等で、聖書の学びを積み重ねておりました。元々クリスチャンのご両親のご家庭に誕生され、少年時代に周りのお友達は次々洗礼を受けたけれども、Aさんは復活が分からなくて、その時は洗礼に踏み切れなかったそうです。大変情熱的な方で、70歳を超えてからの求道も、情熱的でした。ホームから外出することが難しいので、東久留米教会のYou Tube配信の礼拝に参加して下さっておられ、大変有り難いことでした。私たちがAさんに積極的に伝道したわけではなく、神様がAさんの救いのために、東久留米教会を用いて下さったと感じています。願わくは、これからもお一人お一人の救いのために、神様が東久留米教会を大いに用いていただきたいと祈らずにはおれません。

 Aさんは、余裕しゃくしゃくではなかったように思います。今から思うと、一途で情熱的で必死とさえ言えたと思います。今のうちに天国のご両親と同じ信仰に入っておきたい。私にキリスト教の本を貸してほしいと言われ、(もちろん聖書は通読しておられました)、この2年か2年半の間に、たぶん200冊くらいお貸ししたように思います。余裕しゃくしゃくではなく、必死さを感じました。イエス様の救いを求めてあれだけ必死になられることは、神様がとっても喜んでおられたのではないかと、今になって思うのです。 目の不自由な方が舌読で聖書を読む必死さ。

 家の主人は、体の不自由な人をここに連れて来なさい、と言いました。Aさんも、お体には不自由な面がおありでした。Aさんは、何とか聖餐式を受けられないかと、願っておられました。それは難しいことでした。コロナ流行のため、ホームが飲食に厳しかったためもあります。何とか聖餐式を受けられないかと模索されたようですが、残念ながらそれは適いませんでした。そのAさんの気持ちを思えば、私たちがクリスチャンとして、今日も当たり前のように聖餐式を受けることができることは、大きな恵みです。この恵みに慣れてしまって、当たり前になり、特に感動もしないということにならないように、注意しないといけないと感じます。
 
 「もう用意ができましたので、おいで下さい。」そうです、イエス・キリストは十字架に架かって私たちの全部の罪の責任を、身代わりに背負いきって下さいました。三日目に復活され、信じる者に永遠の命を与えると約束しておられます。私たちの救いのために必要なことは、全て成し遂げられているのです。後は、私たちが神様の招待に応じることだけが残っています。迷うことなく、神様の招待を感謝して受け入れて参りたいのです。アーメン。


2026-02-22 2:45:17()
「貧しい人、体の不自由な人を招きなさい」 2026年2月22日(日)受難節(レント)第1主日公同礼拝
(ルカによる福音書14:1~14) 
 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。

 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

(説教) 本日は、受難節(レント)第1主日礼拝です。説教題は「貧しい人、体の不自由な人を招きなさい」です。小見出しとしては「安息日に水腫の人をいやす」と「客を招待する者への教訓」です(予告を変更)。

 福音書を読んでいると、やはりイエス・キリストの人格が一番大事なのだなと思わせられます。本日の最初の出来事は、安息日の出来事です。イエス様は、私たちに真の安息を与えて下さる方で、イエス様の人格は安息そのものです。キリスト教は、教えというよりも、生きておられるイエス・キリストの人格を深く知ることとも言えると思うのです。そうです。私たちの信仰に目標があるとすれば、よく聖書を読み、よく祈って、イエス・キリストという方を、ますます深く知ることだと思うのです。本日の御言葉を読みながら、私たちがイエス・キリストの人格に、いよいよ深く触れることができるように祈ります。

 第1節「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった。人々はイエスの様子をうかがっていた。」13章にもあったイエス様と、イスラエルの信仰の指導者との、安息日を巡る対立です。イエス・キリストの存在が、安息そのものです。コロナの時、コロナ警察(自粛警察)という言葉がありました。人々がマスクを着用しているかどうかを、やや過剰にチェックし、監視し、糾弾する人々を指しました。この場面で人々は、「安息日警察」になって、イエス様が安息日の掟を守るかどうか、監視しています。イエス様は安息日の礼拝をなさった後で、食事のために議員の家に行かれたのでしょう。

 2節「そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。」水腫とは、今のどの病名に当たるのか、私にはよく分かりません。「そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。」私たちがイエス様から学ぶことは、安息日は神様を愛して礼拝し、隣人を愛する日だということです。私たちの日曜日も同じでしょう。そして安息日や日曜日から始まって、私たちが毎日神様を愛し、隣人を愛することを目指すことが、最善と思います。

 安息日を思う時、私たちはモーセの十戒の第四の戒めを学び直すことが大切ですが、暫く前にお話ししたレビ記25章を読むことも、非常によいと感じます。安息のことが、集中的に語られています。「主はシナイ山でモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない。土地に全き安息を与えねばならない。」

 「あなたは安息の年を七回、すなわち七年を七度数えなさい。七を七倍した年は四十九年である。その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。五十年目はあなたたちのヨベルの年である。種蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めることもしてはならない。この年は聖なるヨベルの年だからである。あなたたちは野に生じたものを食物とする。ヨベルの年には、おのおのその所有地の返却を受ける。あなたたちが人と土地を売買するときは、互いに損害を与えてはならない。あなたはヨベル以来の年数を数えて人から買う。すなわち、その人は残る収穫年数に従ってあなたに売る。その年数が多ければそれだけ価格は高くなり、少なければそれだけ安くなる。その人は収穫できる年数によってあなたに売るのである。相手に損害を与えてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしはあなたたちの神、主だからである。」このすばらしい解放の年であるヨベルの年のことが、イエス様の心の中にいつもあり、安息日は人間が悪魔や罪や病気から解放される日、と受けとめておられたのではないかと思うのです。安息日、ヨベルの年は、非常に福音的な日であり年です。

 次の小見出しは、「客を招待する者への教訓」です。これは私たち人間の思い上がりを戒める御言葉です。7~9節。「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 当時のイスラエルの人々は、自己主張、自我が強かったのかもしれません。「我先に、我先に」という人が多かったのでしょう。日本では、むしろ逆の現象が起きやすいのです。皆あまり前に座らず、後ろの方に座る傾向があります。それが謙譲の美徳と思われているからだと思います。しかし実際には内心では思い上がっていることもあるので、私も注意しようと思います。「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」これは、この世の生き方のテクニックを教えているのでしょうか。最終的に上座に座るには、最初に下座に着いておけば、係の人が上の席に導いてくれる。それを目指しての打算的なテクニックが語られているのでしょうか。そうではないと思います。

 これは、純粋にイエス・キリストに従いなさいというメッセージだと思うのです。イエス・キリストは、私たちの全部の罪を背負って十字架で死んで下さり、三日目に復活され、今も天で生きておられます。このキリストに従いなさいというメッセージと思うのです。今日はレント第1主日。マルコ福音書10章42節以下のイエス様のお言葉が、思い出されます。「あなた方も知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうではない。」クリスチャンが権力を求めてはいけないのです。「あなた方の間で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい人は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子(イエス様)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」私たちも、このイエス・キリストに従います。

 「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」イエス様こそ、最もへりくだった方です。だからこそ復活され、最も高い天に上げられました。フィリピ2章3~11節。「みあとに従う。」十字架への道を歩まれたイエス様の足跡に従って生きます。クリスチャンは権力を求めてはいけない。加藤常昭牧師の神学生・牧師への教え「教会の底辺に立て。」底辺に立たないと、あの水腫の人の苦しみも、分からないでしょう。私自身が教会の底辺に立っているか? いつも問われています。

 招いた側への教え。12~14節。「また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 神様、イエス様は、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」(いわゆる障がいを持つ方々)を、特に愛し心にかけておられる。ですからイエス様は貧しいが信仰深い家庭を選んで生まれ、大工仕事に励み、遂には最も貧しい、ほぼ裸で十字架についた。コリント(二)8章9節。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 私たちはイエス・キリストの十字架と復活のお陰で、全ての罪の赦しと永遠の命という恵みを受けました。私たちはこれにお返しはできません。お返し不可能の、大きな大きな恵みを受けました。どんなに感謝しても、イエス様に従っても、お返ししきれないほどの恵みを受けました。だから私たちクリスチャンも、人にお返しを求めないのだと思います。お返しできないほど大きな恵みを、神様から受けたからです。マタイ福音書6章3~4節の、イエス様の御言葉を思い出します。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いて下さる。」そうです。私たちの願いは、神様に喜んでいただくことです。ルカ福音書6章35節で、イエス様は言われます。「あなた方は、敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方(神様)の子となる。」讃美歌21の520番2節「与えて、報い求めぬ、まことの愛の人と、まことの愛の人と。」

 イザヤ書58章は、すばらしい御言葉。「私(神様)の選ぶ断食とはこれ。」「神の選ぶ安息日はこれ」と言い換えてもよいのではないか。本日のルカ福音書は、病気の方、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」へのイエス様の愛を語り、私たちもこのような方々を愛して大切にするように、とのメッセージではないでしょうか。私たちもいつ「病気の人、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」になるか分からないのですから。年齢を増すことで、私たちは皆、こうなるのですから。アーメン。