日本キリスト教団 東久留米教会

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2024-01-06 23:25:31(土)
「真理を悟らせる聖霊」 2024年1月7日(日)降誕節第2主日公同礼拝
順序:招詞 ヤコブ5:15~16,頌栄24、主の祈り,交読詩編118、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・249、聖書 イザヤ書61:1~4(旧約p.1345)、ヨハネ福音書16:1~15(新約p.231)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌268、献金、頌栄27、祝祷。 

(イザヤ書61:1~4) 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰めシオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。

(ヨハネ福音書16:4b~15) 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

(説教) 皆様、本年も何卒よろしくお願い申し上げます。本日の礼拝は、降誕節第2主日の公同礼拝です。説教題は「真理を悟らせる聖霊」です。新約聖書は、ヨハネ福音書16:1~15です。

 本日の場面は、イエス様の十字架の前夜です。13章でイエス様が弟子たちの足を洗われ、ユダが出て行き、イエス様がペトロがイエス様を三度知らないと言うと予告され、「さあ、立て、ここから出かけよう」と十字架に向かう決心を述べられます。しかし弟子たちは、イエス様が十字架に向かわれることが、まだよく分かっていません。そして15章からイエス様の長い説教に入り、16章の最後まで続きます。17章はイエス様の長い祈りです。本日の箇所は、イエス様の長い説教の中盤です。

 2節「人々はあなた方を会堂から追放するだろう。しかも、あなた方を殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからである。」これはイエス様の十字架と復活の後、40年ほど後に本当にこのようになったようです。イエス様はそれを予告しておられます。紀元後70年ごろ、ユダヤ人たちはユダヤを支配していたローマ帝国に対して立ち上がり、戦争を仕掛けました。しかし敗戦に終わり、神殿が破壊されエルサレムも焼かれてしまいます。ユダヤ教の教団にとっても滅亡の危機になりましたが、ユダヤ人たちが紀元85年頃にイスラエル南西部のヤムニアという場所で会議を開き、ユダヤ教団の再建維持に乗り出します。神殿が焼け落ちたことによって、神殿を重視していたサドカイ派は没落し、ファリサイ派を中心にしてユダヤ教団は再建されたそうです。

このヤムニア会議で、彼らの聖書も初めて範囲が確定されます。その意味では、私たちキリスト教会にとっても関係のある会議です。彼らが決めた聖書を、キリスト教会がそのまま旧約聖書正典として受け入れたからです。ただし、この会議は発足したばかりのキリスト教会を迫害することを決めた会議でもありました。イエス様を救い主と信じるクリスチャンたちに対して、ユダヤ教側からそれを異端として排斥することが、事実上決められたからです。クリスチャンたちはユダヤ人の会堂からの追放が決まりました。それより前の使徒言行録の時代にもキリスト教会への迫害はありましたが、ユダヤ教のヤムニア会議で、キリスト教会を異端として排斥することが正式に決まったようです。イエス様は今日の御言葉で、約半世紀先にそうなると予告しておられると言えます。「人々は、あなた方を会堂から追放するだろう。しかし、あなた方を殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、私が語ったということをあなた方に思い出させるためである。」そのような時が来るけれども、イエス・キリストから逸れないように、ということでしょう。

4節後半から。「初めからこれらのことを言わなかったのは、私があなた方と一緒にいたからである。今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなた方は誰も、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、私がこれらのことを話したので、あなた方の心は悲しみで満たされている。」イエス様が去って行く話をされるので、弟子たちの心は不安になり、悲しみで満たされているというのです。

7節「しかし、実を言うと、私が去って行くのは、あなた方のためになる。私が去って行かなければ、弁護者はあなた方の所に来ないからである。」弁護者は、聖霊なる神様です。弁護者は、原語のギリシア語でパラクレートスです。口語訳聖書と新改訳聖書改訂第3版はこのパラクレートスを助け主と訳しています。慰め主と訳すこともあります。パラクレートスの直接の意味は「傍らに呼ばれた者」です。傍らに呼ばれて何をするのかというと、弁護してくれるのです。ですので弁護者という訳が可能になります。裁判の被告人にとって弁護士ほど頼りになる存在はありません。私たちも、最後の審判では被告になるので、イエス・キリストの霊である
聖霊が傍らで弁護して下されば、これほど心強く、安心なことはありません。

「私が行けば(十字架の死と復活を経て、天に昇れば)、弁護者をあなた方のところに送る。」14章でイエス様は、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。この方は、真理の霊である」と言われました。そうです、聖霊なる神様が、弟子たちと私たちと、永遠に共にいて下さるのです。それは、イエス様が共にいて下さることと同じ、また父なる神様が共にいて下さることと同じです。主に18世紀にイギリスで長年伝道のために働いたジョン・ウェスレーという有名な牧師の最後の言葉が、「最善のことは、神が共にいて下さることだ」だったそうです。「神が共におられる、イエス様が共におられる、聖霊なる神様が共におられる」、これこそが実は最高の幸せだということです。それ以外の幸せは、永遠には続かないからです。

さて、16章8節以下「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、:彼らが私を信じないこと、義についてとは、私が父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなること、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」旧約聖書にも罪の基準はあります。モーセの十戒です。それは大切です。ですが十戒に違反する以外の罪もあります。イエス・キリストが、父なる神様から救い主としてイスラエルに、そしてこの世界に派遣されたのに、このイエス様を素直に受け入れず、拒否する罪です。さらにはイエス様を十字架につけて殺す罪です。

なぜヨハネ福音書に登場するユダヤ人の主にファリサイ派の人々は、イエス様につまずいたのか。なぜイエス様を拒否したのか。それは彼らの目には、イエス様が父なる神様に背いたと見えたからです。実際はイエス様は、父なる神様に背いていないのですが、ユダヤ人たちには背いたと見えたのです。それはたとえばイエス様が安息日(土曜日、礼拝の日)に38年病気であった人を癒し、生まれつき目が見なかった人の目を開いたことです。彼らには、それが安息日違反に見えました。モーセの十戒は出エジプト記20章と申命記5章に出ていますが、確かにこう書かれています。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も、同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。」

 「安息日には、いかなる仕事もしてはならない。」その目的は、家の主人が仕事を休んで神様を礼拝する、その結果、家の使用人も休むことができるため。そして神様がかつて与えて下さった出エジプトの恵み、解放の恵みを主人も使用人も味わう。そのような時だと。そう考えれば、イエス様が礼拝をなさった上で、38年間病気であった男性を病気から解放なさり、生まれつき目が見えない男性の目を開いて盲目の苦しみから解放なさったことは、安息日にふさわしい行いだったことになります。

 そしてユダヤ人たちがイエス様につまづいて、イエス様を救い主と信じない決定的な理由は、今日の場面より後のことになりますが、イエス様が十字架で死なれたことです。ユダヤ人にとって十字架の死は、神様の呪いそのものでした。旧約聖書の申命記21章22節に、こうあるからです。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」十字架という木にかけられて処刑されたイエス様は、彼らにとって神に呪われた汚らわしい男でした。そのイエス様を神の子、救い主と信じるクリスチャンも、彼らから見れば神に呪われた者です。ですからユダヤ人たちは、神に喜ばれると確信してクリスチャンたちを迫害しました。確かにイエス様は、父なる神様の呪いを受けられたのです。この場合、呪いを裁きを言い換えることもできます。その呪い、裁きは、私たちが自分の罪のゆえに受けるべき呪い・裁きでした。しかし、イエス様が私たちを罪から救うために、私たちの身代わりとなって十字架にかかり、父なる神様の呪い・裁きを一身に引き受けて下さいました。ですからイエス様が十字架で呪いを受けたことは事実です。

 昔も今も、人がクリスチャンになりにくい理由があるとすれば、それは自分が神様の前に罪人(つみびと)であることを認める必要があるからです。自分の力で正しく生きることができると思っている人は、自分が神の前に罪人(つみびと)であることを認めたくありません。それは誇り・プライドを大きく傷つけることだからです。このプライド・誇りが問題です。はっきり言えば罪です。しかしこのことを乗り越え、自分が罪人(つみびと)であることを認め、その自分の罪を赦すためにイエス様が十字架で死んで下さったことを謙虚に信じ告白する人が、罪の赦しと永遠の命の受け、救われます。

 さてイエス様は、「その方(聖霊)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」「義についてとは、私が父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなること。」イエス様が私たちの罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活され、天に昇られる。このイエス様を救い主と信じる信仰によって(行いによってでなく)、私たちは「神の義」を与えられます。自力による「自分の義」ではなく、「神の義」をプレゼントされます。そのことを述べています。

 「また裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」この世の支配者とは悪魔です。悪魔はエバとアダムを誘惑することに成功して以来、人間たちを支配して来ました。しかしここに神の子であり同時に人間であるイエス様が現れます。悪魔から見れば強敵です。悪魔は全力でイエス様を誘惑し、罪を犯させようとします。イエス様が1つでも罪を犯せば、悪魔がイエス様を支配します。ところが悪魔がどんなに誘惑しても、十字架の苦難が与えられても、イエス様はただの一度も罪を犯されませんでした。十字架でも不平不満の一言も漏らされなかったのです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、それは問いかけであり、不平不満を言う罪を犯したのではありません。こうして悪魔はイエス様に完敗しました。今はまだ無駄な最後の抵抗をしていますが、世の終わりには滅ぼされることが決まっています。イエス様の時代にイエス様を迫害したユダヤ人たちも悪魔に支配されて、イエス様を十字架で殺す大きな罪を犯しました。そのために、イスラエルは紀元70年頃に、ローマ軍に攻撃されて、一旦国が滅びたのです。これも神による断罪と言わざるを得ません。

 12節以下「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなた方に告げるからである。」イエス様の言葉は、弟子たちに分かりにくかったでしょう。それを聖霊が分からせて下さいます。今でも私たちが聖書を読む時、分かりにくい御言葉もあります。解説書で調べることも必要です。同時に、聖書の正しい意味は、私たちが祈る時に、聖霊が次第に教えて下さいます。「あ、そうか!」とひらめいて、次第に聖書を正しく理解させて下さいます。
14節「その方は、私に栄光を与える。私のものを受けて、あなた方に告げるからである。」聖霊は三位一体の神様です。聖霊は、イエス・キリストに栄光を帰します。

 本日は、イザヤ書61章1節以下をも、与えられています。素晴らしい御言葉です。1節「主は私に油(聖霊)を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。」ルカ福音書4章を見ると、この「私」をイエス様は、ご自分のことと考えておられます。「私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」これがイエス様のお働きです。「主なる神の霊が私をとらえた」とありますが、ある人は、「信仰とは、聖霊にとらえられた状態」と言ったそうです。その意味で、私たちも聖霊にとらえられていることを喜びましょう。神様が全ての人に聖霊を注いで、すべての方を聖霊によってとらえて下さることを、心より祈ります。

 2節以下、「主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼ら(イスラエルの民、神の民)は主が輝きを表すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興す。廃墟の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。」

 一昨日夕刻、私は能登地震に関して、キリスト教の災害救援団体が主催したオンライン会議に参加致しました。各地から100名ほどの参加でした。能登にも色々な教派の教会がありますが、支援の拠点となっている教会の牧師の現地報告等がありました。割れたり隆起した道路の写真も見ました。早速九州からトラックで支援物資を能登半島に運んだキリスト教支援団体の話も聞きました。迅速な行動に目を見張りました。同時に、今は道路が渋滞しているので現地に行くことは控えるべきという意見も正しいと思います。しかし多くのクリスチャンが能登のために祈り、協力していることは、すばらしいと思いました。まさに能登に住む全ての方々に、イザヤ書61章に書かれている神様の恵みが必要です。「嘆いている人々を慰め、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣を」、今この言葉をお示しすることは無神経ですが、時間をかけて次第に聖霊による慰めが浸透するように、神様の愛の癒しが与えられるように、祈ります。日本基督教団は、息の長い支援をする方針を打ち出していると聞きます。時間をかけて、能登の方々の心身が癒されてゆくように、ご一緒に祈りたいのです。アーメン。

2023-12-31 1:31:48()
説教「試練の中での神様の守り」2023年12月31日(日)降誕節第1主日公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~5,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編117、使徒信条、讃美歌21・259、聖書 エレミヤ書31:15~17(旧約p.1235)、マタイ福音書2:13~23(新約p.2)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌247、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(エレミヤ書31:15~17) 主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。 

(マタイによる福音書2:13~23) 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」

 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。


(説教) 本日の礼拝は、降誕節第1主日の公同礼拝です。説教題は「試練の中での神様の守り」です。新約聖書は、マタイ福音書2:13~25です。

 最初の13節以下「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子どもとの母親を連れて、エジプトへ逃げ、私が告げるまで、そこにとどまっていなさい。へロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母親を連れてエジプトへ去り、へロデが死ぬまでそこにいた。」イエス様の父ヨセフは、神様に真に忠実に従う人です。新約聖書に、ヨセフの言葉は一言も記されていませんが、ヨセフの行動は記されています。ヨセフはいつも、神様の指示に真に忠実に行動して、長男イエス様と妻マリアを守る責任を果たしています。ヨセフは言葉巧みな人ではなく、行動によって信仰を表すタイプの人だったようです。プロテスタント教会は「信仰義認」を強調します。それは正しいのですが、さらに一歩進んで、イエス・キリストへの信仰のみによって義と認められた上で、神様の愛への応答として行動する信仰をも、私たちはヨセフから学びたいと思います。ヤコブの手紙2章21~22節には、こう書かれています。「神が私たちの父(先祖)アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」

 当時のエジプトは、いろいろなピンチに陥った人がそこへ逃れて過ごす逃れ場、安全地帯、シェルターのような場所だったようです。ユダヤ人(イスラエルの民)の共同体もできあがっていたと聞いています。神様がエジプトで、イエス様とヨセフ、マリアを保護して下さいました。へロデ(ヘロデ大王)が亡くなったのは、紀元前4年です。イエス様一家は長くて3年ほど、短く見積もれば数か月の間、エジプトに滞在したと思われます。

 15節には、「それは、『私(神様)は、エジプトから私の子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたが実現するためであった。」これは、旧約聖書のホセア書11章1節の引用です。そこには、こう書かれています。「まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」神の民イスラエルへの、神様の愛の言葉です。エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルの民を、神様は葦の海を割る劇的な奇跡を行ってまで、救い出されたのです。イスラエルの民もこの偉大な奇跡に、最初は感激して感謝していましたが、次第に真の神様への礼拝よりも、偶像(偽物の神)に魅かれていく罪を犯します。真の神様が悲しんで、こう言われます。「私が彼らを呼び出したのに、彼らは私から去って行き、バアル(偶像)に犠牲をささげ、偶像に香をたいた(礼拝した)。続く3~4節では、再び神の愛のメッセージが、イスラエルの民に語られます。「エフライム(イスラエル)の腕を支えて、歩くことを教えたのは、私だ。しかし、私が彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。私は人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛(重荷)を取り去り、身をかがめて食べさせた。」神様が、エジプトを脱出したイスラエルの民を、深い愛をもって養って下さったことが記されています。イスラエルの民がエジプトを脱出して40年間、荒れ野をさまよって旅した間、神様がマナや水を与えて、養って下さったのです。しかしイスラエルの民は、その神様の愛とご配慮に感謝するよりも、真の神様を捨てて、偶像礼拝(偽物の神を礼拝すること)に逸れて行ってしまうことが多かったのです。

 さて、イエス様とマリア、ヨセフの家族(聖家族と呼びます)も、ヘロデ王の魔の手を逃れて一旦、エジプトに避難されました。エジプトから、改めてイスラエルの地に戻ります。それは第二の出エジプトです。旧約聖書のイスラエルの民の出エジプトが第一の出エジプトです。それに対して、イエス様とマリア・ヨセフがエジプトからイスラエルに戻ることは、第二の出エジプトです。イエス様とマリア・ヨセフは、旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗を繰り返さないのです。旧約聖書のイスラエルの民の最大の罪は偶像礼拝と思いますが、イエス様とマリア・ヨセフは、真の神様のみを礼拝し、偶像礼拝の罪を決して犯しません。ある人はこれを「踏み直し」と呼びました。旧約聖書のイスラエルの民に似て、イエス様も出エジプトをなさいますが、その後の歩みはイスラエルの民と根本的に違うのです。旧約のイスラエルの民、最も基本のモーセの十戒を守ることができません。罪を犯してしまうのです。

 しかしイエス様とマリア、ヨセフの聖家族は違います。この聖家族、特にイエス様は、旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗を、一つも繰り返しません。そうではなく、却って旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗を取り戻し、回復させ、ある方の言い方を借りれば、「踏み直す」、「生き直す」、「やり直す」道を歩まれます。真の神様に100%従い通す、従いきるのです。イエス様こそ、イスラエルの民の真の代表者、イエス様こそが真のイスラエル人なのです。他のイスラエル人は、真に不十分なイスラエル人です。旧約聖書のイスラエルの民の罪と失敗の歴史は、イエス様によって踏み直され、歩み直され、生き直され、神の民が本来生きるべき姿に回復されるのです。イエス様は、権力欲が強いへロデ王が死ぬまで、エジプトにおられました。「それは、『私はエジプトから私の子を呼び出した』と主が預言者(ホセア)を通して言われていたことが実現するためであった」と書かれています。神様はエジプトからイスラエルの民を脱出させなさいましたが、このことはイエス様の第二の出エジプトによって完成されたと言えるのです。イスラエルの民も神の子たちと言えますが、彼らは不完全です。イエス様こそ全く罪のない完全な神の子です。

 完全な神の子イエス様の最大の使命は、十字架にかかることです。イスラエルの民の全部の罪と、私たち一人一人の全部の罪を背負いきって十字架で死に、復活することです。そのためにクリスマスに生まれて下さいました。私たちが過去に犯した様々な罪も、私たちがこれからの人生で、心ならずも犯してしまう一つ一つの罪も、イエス様は十字架上で背負いきって下さいました。もちろん私たちは、自分の罪を毎日悔い改めます。しかし悔い改めても、悔い改めても、まだ私たちは少しずつ罪を犯してしまいます。しかしそんな私たちの過去の罪も、将来の罪も、すべてイエス様が十字架で背負いきって下さったと知る時に、私たちはほっとして平安を受けることができます。

 16節。「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」ヘロデは、人の命を何とも思わない王でした。自分の王位を狙っているのではないかと疑って、自分の息子をさえ殺したと聞きます。ローマ皇帝アウグストゥスは、「ヘロデの息子であるより、ヘロデの豚である方が安全だ」と言ったそうです。ベツレヘムの人口はそれほど多くなかったと言われ、ある人はこの時殺された二歳以下の男の子は20名くらいではないかと推定します。しかしその家族にとっては、大変辛い出来事です。悪魔がヘロデを通して働いて、イエス様を抹殺しようとしています。私たち人間は、ヘロデのように悪魔に奉仕することもできるし、イエス様・マリア・ヨセフのように真の神様に奉仕することもできるのです。もちろんイエス様・マリア・ヨセフに倣いたいのです。

 それにしても今年は、ベツレヘム市ではクリスマスを祝わないと聞いています。現在のベツレヘムは、ヨルダン川西岸パレスチナ自治区にあるそうです。遠くないガザ地区で、10月以降に多くの子どもたちが戦争で命を落としました。それを思うと、とてもクリスマスを祝う状況ではないというのです。今年10月以降、ガザ地区で8000人の子どもたちが死亡したと報道されています。極めて異常な事態というほかありません。先に攻撃したハマスが悪いと思いますが、イスラエル側もやり過ぎの感をもちます。国連も国際社会も有効な手段を取ることができておらず、その間に犠牲が増え続けています。悪魔が猛威を振るっているように見えます。早く戦争が終わるように祈り続けるほかありません。

 17節「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。』」これはエレミヤ書31章の引用ですが、エレミヤ書31章が語ることは、神様に背いたために、紀元前586年に南ユダ王国が滅亡し、人々がバビロンへ連行されてゆく。それをイスラエルの先祖、イスラエルの母とも言うべきラケルが草葉の陰で(墓の中から)泣いて悲しんでいるということです。そのラケルの墓は、ベツレヘムへ向かう道の途中にありました。悪しきへロデの命令でベツレヘムの二歳以下の男の子が皆殺しにされたことで、ベツレヘムの近くに葬られているラケルが、墓の中から泣いているということです。当時のベツレヘムの二歳以下の男の子たちも、今のガザの子どもたちも、本人たちには殺される責任がないのに、殺されています。理不尽、不合理極まりないのです。もちろん、一番理不尽な死は、イエス様の十字架の死です。罪が全然ないのに、十字架で死刑にされておられるからです。イエス様の十字架の死こそ、史上最大の理不尽、大矛盾です。そうなのですが、だからと言って、ガザで多くの子どもが死へと追いやられている現実を見過ごすことはできません。各国の大人たちが力を合わせて、この状況をすぐに改善する必要があります。

 死んだ子どもの親たちの悲痛な心を思うとき、私は詩編56編9節の祈りを思い出さざるを得ません。「あなた(神様)は私の嘆きを数えらえたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋に私の涙を蓄えて下さい。」神様は必ず、子どもの命を奪われた親御さんたちの嘆きを受けとめ、その尽きぬ涙を神様の革袋に蓄え、その涙を受けとめていて下さるに違いありません。父なる神様ご自身も、最も愛する独り子イエス様を十字架で死なせる悲しみと辛さを耐えて下さいました。この神様だけが、子の命を奪われた親御さんたち一人一人・全員を慰めることがおできになります。

 悪魔そのもののナチスと戦って死刑になったドイツの牧師ボンヘッファーは、ナザレで殺された二歳以下の男の子たちを、幼児殉教者と呼んでいます。彼らと親たちの悲痛な気持ちを思うとき、ヨハネの黙示録6章9節以下に記された殉教者たちの叫びを連想してよいと思うのです。神様が、この男の子たちと親たちの辛さを受けとめておられ、必ずよき報いを与えて下さると信じるからです。「小羊(イエス・キリスト)が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちが立てた証しのために殺された人々の魂を、私(著者ヨハネ)は祭壇の下で見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、その一人一人に白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。」

 19節以下。「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」

 「彼はナザレの人と呼ばれる」というずばりそのものの御言葉は、旧約聖書に見当たりません。ですがいくつかの候補は挙げられています。1つはイザヤ書11章1~2節です。これは明らかにメシア(救い主)預言です。「エッサイ(ダビデ王の父)の株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」この若枝がメシア・救い主・イエス・キリストを指すことは間違いありません。救い主はダビデ王の子孫から生まれると旧約聖書で予告されているからです。この若枝が原語のヘブライ語で「ネーツェール」です。ナザレの音に近いと言えます。そこでマタイ福音書の「彼はナザレの人と呼ばれる」の御言葉は、このイザヤ書11章1節だろうと言われています。もう1つの候補は、旧約聖書の士師記13章5節です。ここにはサムソンという若者について「その子は胎内にいるときから、ナジル(ヘブライ語でナーズィール)人として神にささげられている」とあります。ナジル人とは、神様に特別に身を献げている人(献身している人)です。私たちも、神様に献身するのです。ここでもナジル(ナーズィール)人(びと)という言葉がナザレと似ていることが根拠になっています。いずれにしてもマタイ福音書には意図があり、イエス・キリストが旧約聖書の予告通りに、父なる神様のご意志によって誕生され、救い主としての使命を果たされたということです。私どもの全ての罪と失敗のマイナスの結果を取り返し取り戻し、帳消しにするために十字架にかかる。そのためにイエス様が生まれて下さった大きな恵みへの感謝を日々深める、信仰と献身の生涯を生ききりましょう。アーメン。



2023-12-23 19:42:37(土)
「幼子イエス様を拝む真の知恵」2023年12月24日(日)クリスマス公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~5,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編23、使徒信条、讃美歌21・258、聖書 ミカ書5:1~5(旧約p.1454)、マタイ福音書2:1~12(新約p.2)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌261、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ミカ書5:1~5)  エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。アッシリアが我々の国を襲い/我々の城郭を踏みにじろうとしても/我々は彼らに立ち向かい/七人の牧者、八人の君主を立てる。

(マタイによる福音書2:1~12) イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

(説教) 皆様、クリスマスおめでとうございます。本日は、クリスマス礼拝です。説教題は「幼子イエス様を拝む真の知恵」です。新約聖書は、マタイ福音書2:1~12です。

 イエス様がお生まれになったのは、紀元前7年から4年の間くらいだろうと聞いています。父なる神様のご計画により、ヨセフと婚約していた15~16才の少女マリアを母として、ベツレヘムの町でお生まれになりました。第1~2節「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」中近東は、星がすばらしくよく見える地域だったと聞いています。占星術の学者たちが何人だったかは分かりません。複数形なので二人以上であることだけが分かることです。占星術の学者は、原語でマギです。英語のマジック(魔術)の語源と思われます。星占いか魔術の知識によって、将来を予測したり、人生相談してくる人々にアドヴァイスをする職業だったのでしょう。聖書では占いは悪魔が行う罪です。彼らは、当時の知識人です。しかし自分たちの知識を絶対のものとは考えませんでした。そこが立派です。当時、ユダヤ人でなくてもユダヤ教に帰依する外国人たちがいました。ユダヤ人・イスラエル人の神、聖書に登場する神こそ、宇宙万物を造った真の神様と信じた外国人です。この占星術の学者たちも、そうだったのではないかと思います。

 彼らは東方から来ました。ペルシャ・今のイラン辺りから来たのではないかと言われます。ゾロアスター教の祭司だったという説もあります。しかしひときわ輝く星を見たとき、これぞユダヤに真の王、真の神か来る真の救い主が誕生されたことを知りました。彼らは謙虚です。真の王・救い主を礼拝するために、遠くイスラエルを目指して旅立ちます。自分たちの知識と知恵は真に不十分である。真の王・真の神の子を深く知る必要がある。こう信じた彼らは、献げ物(贈り物)を持って、真の王を礼拝するために出発致しました。彼らは真の知恵を持つ、真の意味での賢者だったのです。

 この謙虚な占星術の学者たちを見る時、私は新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)21節以下を思い出します。私はクリスマスには、この御言葉をよく思い出します。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるし(奇跡)を求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者(神様に呼ばれた者)には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」神の知恵は、救い主イエス様を最も無力な赤ちゃんとして地上に誕生させ、イエス様をさらに無力な十字架におつけになったことです。この赤ちゃんこそ私たちの救い主、この十字架にかかって復活された方こそ、私たちの救い主。私たちが、この救い主の前にへりくだって、膝を屈して礼拝することこそ、私たちにとって最も賢い、真の知恵ある行いです。

 さらにこう続きます。「兄弟たち、あなた方が召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてある通りになるためです。」

 占星術の学者たちは無学ではないのですが、ユダヤ人から見れば、神の救いに入れられていない異邦人、外国人です。しかし神様は彼らを招いて、信仰と永遠の命を与えられたと思います。彼らは赤ちゃんイエス様を拝む、真の知恵を持っています。ヘロデは、ユダヤの権力者です。神様は、自分の力を誇っていたヘロデに、恥をかかせられました。占星術の学者たちがヘロデの指示に従わず、別の道を通って自分たちの国へ帰って行ったことで、ヘロデは恥をかきました。

 さて、マタイ2章3節「これを聞いて(占星術の学者たちが、新しく生まれたユダヤ人の王を拝みに来たと聞いて)、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシア(救い主)はどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者(ミカ)がこう書いています。『ユダの地ベツレヘムよ、』お前はユダの指導者たちの中で、決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、私の民イスラエルの牧者(羊飼い)となるからである。』」

 これは基本的に、本日の旧約聖書ミカ書5章1節以下の引用です。そこにはこうあります。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。」マタイ福音書は、ここを少し変えています。「ベツレヘムは、決して一番小さいものではない。」ふつうは聖句を変えてはいけないのですが、イエス様の誕生の地ベツレヘムの存在感を少し増そうとしたのでしょう。「お前の中から、私(神)のためにイスラエルを治める者(指導者)が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。まことに、主は彼らを捨て置かれる。産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は、イスラエルの子らのもとに帰って来る。彼(メシア(救い主))は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。」これは明らかに「平和の主メシア(イエス・キリスト)」のことです。そのイエス・キリストが、ベツレヘムに生まれると予告しています。

 マタイに戻り7節。「そこでヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。その頃にベツレヘム周辺で生まれた男の子の一人がメシアなのだから、それを皆殺そうと考えたのです。まさにヘロデは。悪魔に魂を売り渡した男です。8節「そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう』と言って、ベツレヘムへ送り出した。」9~10節「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」「喜びにあふれた」を丁寧に訳すと、「大きく、この上もない喜びを、喜んだ。」喜びを強調する形容詞と副詞で二重に強調され、しかも「喜びを喜んだ」と「喜び」という言葉も2つ重ねられています。ですから私に言わせると「喜び」が四重に強調されています。「大きく、この上もない喜びを喜んだ。」新共同訳は「喜びにあふれた」ですが、私の理解では、「喜びにあふれた」×二倍、ということになります。表現しようもないほどの深い喜びだったと言えます。この地上の喜びの次元を超える、聖霊によるあふれる深い喜びだったに違いないのです。フィリピの信徒への手紙4章4節を思い出します。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」テサロニケの信徒への手紙(一)5章16節以下も、思い出されます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。」実行は、なかなか難しいと感じてしまいます。私たちがよく祈って、私たちに聖霊が豊かに注がれる時、私たちも聖霊のお働きによってこのように生き始めることができます。

 11節「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」これらは皆、王に献げるにふさわしい価値あるものでした。この御言葉は、イザヤ書60章の預言の実現だという人もいます。その可能性はありますね。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかも、あなた(イスラエル)の上には主が輝き出て、主の栄光があなたの上に現れる。~息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも心は晴れやかになる。~らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして主の栄誉が宣べ伝えられる。」学者たちは、黄金、乳香、没薬を真心を込めて献げました。それはイエス様への純粋な愛の表明です。
 そして没薬について私たちは知っています。ヨハネ福音書19章を読むと、私たちの罪を全部背負って十字架で死なれたイエス様のご遺体が採り降ろされた時、イエス様の隠れた弟子だったニコデモが、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来たことを。1リトラは約326gなので、百リトラは32kg以上です。それをイエス様のご遺体の処置に用いました。この用途にも用いる没薬が、イエス様の誕生後に占星術の学者によって献げられました。それは既にこの時から、イエス様が私たちのために十字架で死んで下さる(もちろん三日目に復活されます)ことが暗示されていると読まれています。

 12節「ところが、『へロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」彼らは神に従い、悪魔に魂を売り渡したヘロデには従わなかったのです。そして自分たちの国へ帰ったのですが、決して「元の木阿弥」になったのではありません。占星術も捨てたのではないかと思います。占星術も捨てて、イエス様を礼拝し、イエス様に従う人生に方向転換したに違いありません。方向転換を、罪の悔い改めと呼んでも同じです。彼らはきっと、自分の罪を悔い改め、生き方を報告転換し、イエス様に従う新しい生き方に進んだのです。ですから、クリスマスは私たちの罪を悔い改めるとき、生き方の方向転換をし、イエス様に従う方向に進み始める時です。

 占星術の学者たちは黄金、乳香、没薬という貴重品を、イエス様に献げました。
しかし献げ物は、金額が多ければイエス様が喜んで下さるとは限りません。ルカによる福音書21章の「やもめの献金」の箇所を読めば、分かります。イエス様は言われました。「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

 私が子どもの頃、好きだった人形劇(アニメーション)に「リトル・ドラマー・ボーイ」があります。イスラエルの砂漠に生きる少年アロン(モーセの兄とは別人)は、両親から小さな太鼓をプレゼントされ、喜んで叩いて上手になります。らくだ、ろば、子羊が太鼓に合わせて踊るようになります。ところが悪人に襲撃されて両親が命を落とし、少年アロンの心は悲しみと憎しみで満たされ、三匹の動物と旅に出ます。悪い男につかまり、その男は太鼓が上手なアロンを利用して金もうけを企むのですが、アロンはその男から逃げます。すると空に、ひと際輝く星が見えます。神の子イエス様の誕生を告げる星です。アロンと三匹の動物たちは、星を目当てに進みます。占星術の学者たちも、この星を目当てに進んで来ます。

 着いた馬小屋には、最も美しい光景が待っていました。マリア、ヨセフ、そして飼い葉桶に赤ちゃんイエス様が眠っています。アロンが近づこうとすると、暴走気味の馬車に、アロンの愛する子羊が轢かれ、瀕死になります。心優しいアロンは、涙を流して子羊を抱きしめます。占星術の学者に助けを求めますが、「私には助ける力はない」と言われ、赤ちゃんイエス様のもとに行きなさいと言われます。アロンは、「でも貧しい僕には、イエス様に献げる物が何もない」とためらいます。しかしアロンはそこで、はっと思い立って、真心を込めて太鼓をたたき、演奏します。これがアロンの精一杯の献げ物です。イエス様も父なる神様も、深く喜んで下さいました。マリアさんも微笑んで下さいます。後ろを振り向くと、何と子羊が元気になっています。神様が癒して下さったのです。アロンは、子羊をしっかりと抱きしめて、喜びの涙を流します。そしてアロンは、自分の心の中にあった人を憎む気持ちが、消えていることに気づきます。イエス様が、彼の心の中から憎しみを取り除いて下さったのです。イエス様の誕生を告げる星が燦然と輝く中、心の清いアロンは、愛する動物たちと、新しい希望の道へと踏み出します。そこにナレーションが響きます。「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」(マタイ福音書5章8節)。私たちも占星術の学者たちのように、少年アロンのように、イエス様の誕生を感謝して、真心を込めて自分の献げ物を献げる者でありたいと、願わずにはいられません。アーメン。




2023-12-17 2:53:55()
説教「神は我々と共におられる」 2023年12月17日(日)待降節(アドヴェント)第3主日公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~5,頌栄29、主の祈り,交読詩編116、使徒信条、讃美歌21・236、聖書 イザヤ書7:13~17(旧約p.1070)、マタイ福音書1:18~25(新約p.1)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌573、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書7:13~17) イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。

(マタイ福音書1:18~25) イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第3主日礼拝です。説教題は「神は我々と共におられる」です。新約聖書は、マタイ福音書1:18~25です。

 本日のマタイ福音書の小見出しは、「イエス・キリストの誕生」で、イエス・キリストが生まれるまでの経緯(いきさつ)が記されています。先週の系図から分かる通り、イエス・キリストはイスラエルの先祖アブラハム、ダビデ王の子孫ヨセフの妻マリアからお生まれになったのです。本日の最初の18節「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」先週、系図と訳された言葉にゲネシスというギリシア語が含まれていると申し上げましたが、今日の「イエス・キリストの誕生の次第」の「誕生の次第」も実はゲネシスという言葉です。旧約聖書でゲネシス(英語でジェネシス)は創世記を意味しますね。先週申しました通り、創世記は世界のゲネシス(起源、由来)を明らかにし、新約聖書の冒頭のこのマタイ福音書1章はイエス・キリストのゲネシス(起源、由来)を明らかにしています。そこに聖霊(神様の清き霊)が直接深く働いておられることも両者に共通しています。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」当時のユダヤ・イスラエルでは、婚約はほとんど結婚と同等の法的重みをもっていたそうです。ですからマリアとヨセフも周囲からほとんど結婚した夫婦のように見なされていましたが、まだ同居に至っていなかったのでしょう。まだ同居していないのに、マリアが身ごもっていることが明らかになった。常識で判断すれば、それはマリアが暴力を受けて妊娠したのでないとすると、ヨセフ以外の他の男性と関係をもって妊娠したと判断されてしまいます。しかしそうではなく、マリアは通常の男女関係によらず、聖霊の尊いお働きを受けて身ごもったのでした。

 イエス様と違って私たちは皆、通常の夫婦の交わりによって受精が起こり、母親の胎内に宿ったのですが、しかしその場合でも、命を本当に生み出して下さった方は、真の神様であり、聖霊なる神様だと言って間違いありません。創世記2章を読むと、神様は土の塵で人間を造り、その鼻に命の息(霊)を吹き入れられた、こうして人は生きる者となった」と書かれていて、神様が人の鼻に命の息(霊)を吹き入れて、人の命が完成したと分かります。人間の受精卵に、神様が命の息を吹き込まれるのだと思います。そうして母親の胎内で成長するのですね。神様が命の息を吹き込まれる瞬間があると思うのですが、それがいつなのか、私たちには分かりませんね。これは神秘だと思います。

 詩編139編13節以下には、こう書かれています。母親の胎内で起こっている神様の命(人間)を創造なさる業についてです。ひ「あなた(神様)は、私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立てて下さった。私はあなたに感謝をささげる。私は恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、私の魂はよく知っている。秘められたところで私は造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない。胎児であった私をあなたの目は見ておられた。」通常の妊娠でも、神様がこのように一瞬一瞬働いておられます。私たち人間の存在一人一人が、神様の尊い奇跡です。ましてイエス様が処女マリアから誕生されるにあたっては、人間の行動は何もなく、ただ聖霊なる神様が静かに力強く、愛をもって働かれたのです。 また、コヘレトの言葉11章5節には、こうあります。「妊婦の胎内で霊や骨組がどのようになるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。」妊婦の胎内の新しい命にいつ神が息を吹き込むのか、骨組みの細胞がどのように成長するのか、科学の力を駆使しても全部は解明できないでしょう。神の偉大な御業、神秘です。特にマリアの妊娠は、人間の関与が全然中で、聖霊なる神様のみがひたすら働かれて、妊娠・胎内での成長・出産まで守られたことになります。

 最初に、創世記の天地創造とマタイ福音書のイエス様の誕生の場面には、聖霊が直接深く働いておられる共通性があると申しました。創世記1章1、3節はこうです。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊(聖霊)が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」「神の霊が水の面を動いていた」の「動く」は原語のヘブライ語で、「鳥が羽ばたく、宙に舞う」という意味の動詞で、鳥がパタパタと力強く激しく羽ばたき空に舞う様子を表す動詞です。ですから聖霊が激しく吹いてエネルギッシュに働いて、「光あれ」等の神の言葉による天地創造の業に参与されている様子が表現されています。聖霊は、生ける神様の霊ですから人格(神格)をお持ちの神様で、単なる力やエネルギーではないのですが、しかし人格(神格)と共に力をも持っておられます。その聖霊がマリアさんにも激しく働きかけて、胎内にイエス様という命を宿らせて下さったのです。

 さて、「マリアが聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。マリアは、自分が聖霊によって身ごもったことを知っていました。ルカによる福音書1章を見ると、マリアは事前に天使のお告げを受けていたからです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザべトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアはこれを受け入れて、「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と言ったのです。マリアはヨセフにこの出来事を話したのではないでしょうか。もし聞いたとしても、ヨセフは自分が天使からお告げを受けたのではなかったので、すぐには信じられなかったのではないでしょうか。

 マタイに戻り、19節。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」この一文がどのような意味なのか、案外多くの解釈があるようです。しかし素直に読めば、こうではないかと思います。「夫ヨセフは十戒などの神様の戒めを忠実に守って生きる誠実な人だった。マリアが性的暴力を受けたとは見えないので、マリアの妊娠は、普通に考えれば、マリアが他の男性と交わって姦通の罪を犯したからとしか考えられない。自分を裏切ったマリアと一緒になることはできないので、離縁するしかない。しかし、ご存じの通り、当時のイスラエルで姦通の罪に対する刑罰は石打による死刑です。マリアがヨセフによらないで妊娠したことが多くの人に知れれば、マリアは石打ちで死刑になります。ヨセフは正しい人ではあったけれども、愛もある人だったので、愛するマリアが死刑になるに忍びず、目立たないようにそっと離縁して、どこか遠くへでも行ってもらって、死刑にならずに子どもと共に生活してもらおうと思ったのだろうと思います。しかしこの方法も完全ではありません。15才くらいのマリアが別の土地に行ってシングルマザーと息子で生きていくのは、無理かもしれません。そこでも姦通を疑われれば、やはり死刑になる可能性があります。ヨセフとしては精一杯の対応ですが、不十分であり、ヨセフとしては万策尽きた思いだったでしょう。

 そこに神の助けが与えられます。神様がヨセフに天使を送って下さったのです。天使とは、新約聖書のヘブライ人への手紙1章14節によると、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」と書かれています。バークレーというイギリスの聖書註解者は、「聖書において登場する天使とは、万策尽きた場面に現れる助け手のことだ」と書いているそうです。神様が天使を用いて、万策尽きているヨセフを守り、ヨセフを導いておられます。神様は、私たちが万策尽きたときも、必ず天使を送るなどして、助けて下さいます。本物の天使を派遣して下さるときもあれば、人間を天使のように用いて私たちを助けて下さることもあります。

 一昨日の朝日新聞に、元首相・菅直人氏のインタビューが出ていました。東日本大震災、福島第一原子力発電所事故の時に首相だった方です。クリスチャンではないと思います。あの原発事故は恐怖でした。当時の新聞も一面に「最悪の事態に備えを」との見出しを掲げました。日本の東半分が放射能に汚染されるかもしれないという雰囲気でした。幸いそこまでになりませんでした。菅氏によると、「第一原発の吉田所長が(現場に)踏みとどまってくれたことが、事故があのレベルで収束した一つの要因。そして偶然が重なった。(私は)あまり神という言葉は使わないが、あれは神のご加護としか言いようがない。」クリスチャンでない菅氏がこう語っている。もっと最悪の事態になっても不思議でない事故なのに、そこまでにならなかった。私もそれは本当に神様の憐れみと助けがあったからだと思います。神様が天使を送って助けて下さったか、神様が直接御手を伸ばして助けて下さったか、どちらかです。私もあの時は最悪の事態にならないように必死に祈ったし、祈って下さった方が日本にも外国にも多くおられたに違いありません。神様がその祈りに応えて、もっと最悪の事態に拡大しないように防いで下さったと強く感じます。

 話をマタイ福音書に戻しますが、神様が天使によって、ヨセフにはっきりととるべき道を教え、助けて下さいます。天使がヨセフの夢に現れて、言ったのです。「ダビデの子(子孫)ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 「マリアは姦通によって身ごもったのではない。ひとえに聖霊によるのである。だから恐れず、心配せず、安心しなさい。その子をイエスと名付けなさい。」ある解説書には、「神様の計画は。ヨセフがマリアを正式に妻として迎え入れて、マリアを世間の中傷(非難)から守ることである」と書かれていました。なるほど、そうだと思います。それが神様からヨセフに与えられた責任です。マリアと生まれ来る子を守ることが、ヨセフに与えられた責任です。そして天使がヨセフに、「その子をイエスと名付けなさい」と告げたことは、「あなたをこの子と血がつながっていなくても、あなたをこの子の父親と定めるので、あなたがこの子に名前をつける父親としての権利を行使しなさい」ということです。神様がヨセフに、血がつながっていない赤ん坊イエス様の父親としての責任と謙利を与えて下さいました。イエスという名前は、ご存じの方も多いように「主は救い」、「主は救って下さる」の意味だと聞いています。十字架にかかって下さり、復活することで、私たち罪人(つみびと)を、罪と死の支配から救って下さいます。

 22節「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」父なる神様は、最も愛する独り子イエス・キリストを、人間の赤ちゃんとして、この地上に誕生させて下さいました。父なる神様、イエス様において。永遠に私たちと共にいようと決心されたのです。父なる神様は、私たち罪人(つみびと)の友として歩むことを決意されました。特に、貧しい方、病気やいわゆる障がいを持つ方々、小さな子どもたちの友となろうと決心されました。だからイエス様は、弱く無力な赤ちゃんとして誕生されたのです。

 この「インマヌエル預言」は、元は旧約聖書のイザヤ書7章12節に出て参ります。イエス様の誕生より700年以上も前のイザヤ書の預言です。南ユダ王国の王がアハズという王だった時のことです。このアハズ王の名前は、マタイ福音書1章9節(イエス様の系図の中)に出ています。このアハズ王は、旧約聖書の中であまり高くは評価されていない王です。彼の時代に、アラム王国と北イスラエル王国が同盟してアハズ王の南ユダ王国に災いを計りました。それに対して神様は言われます。「落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない。アラムと北イスラエルの同盟による謀は実現せず、成就しない。信じなければ、あなた方は確かにされない。」
そして神様がアハズに「そのしるし(証拠)を求めなさい」とおっしゃるのに、アハズは「私は求めない。主を試すようなことはしない」と答えます。確かに、主を試すことは罪ですが、このケースでは、しるしを求めることが神様の御心に適うことでした。神様がイスラエルの民にしるしを与えると宣言されます。「見よ、おとめがみごもって、男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ぶ。」このインマヌエルももちろん、「神は我々と共におられる」という意味です。その男の子インマヌエル君が大きくなるまで、インマヌエル君は凝乳と蜂蜜を食べ物とし、彼が大きくなるまでにアラムの王と北イスラエルの王の領土は、必ず捨てられる。そして信じないアハズ王とその民にも、神様のお叱りが降る、このように厳しい預言ですが、このインマヌエルは、最終的にもっと深い意味をもち、それは、本日のマタイ福音書に記されている通りです。イエス様の誕生によってこそ、イザヤ書7章のインマヌエル預言が、最終的に完全に成就したのです。イエス様を人間の赤ちゃんとして、地上に誕生させたことによって、父なる神様は私たち罪ある人間たちと、永遠に共に生きようと決意されたのです。

 マタイ福音書の本日の終わりの24~25節。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアを関係することはなかった。そしてその子をイエスと名付けた。」ヨセフは、マリアが聖霊によって身ごもったことを信じ、天使の言う通りにマリアを迎え入れ、生まれた男の子をイエスを命名しました。神様に忠実に従ったのです。マリアとヨセフは、神様に忠実に従う夫婦でした。この夫婦を、最初の夫婦エバとアダムに対比することができます。最初の夫婦エバとアダムは、共に神様に背いてしまいました。人間たちの罪の歴史の始まりです。これに対して、マリアとヨセフは共に神様に従う夫婦となったと思うのです。エバとアダムの失敗を繰り返さない、新しい人間のたちの歩みをスタートしたと言えると思うのです。イエス様はさらに父なる神様に従う歩みを進まれました。私たちの現実は、時に神様に従い、時に少し罪を犯してしまう。その繰り返しに思えます。しかし聖霊なる神様に満たされ、聖霊なる神様に励まされ、神様に従う時間を少しずつでも増やしてゆけるよう、マリアとヨセフの信仰に倣い、イエス様の背中をしっかり見つめて、従って参りたいと思います。アーメン。

2023-12-09 22:46:54(土)
「イエス・キリストの誕生までの歴史」 2023年12月3日(日)待降節(アドヴェント)第2主日公同礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4~5,頌栄24、主の祈り,交読詩編115、使徒信条、讃美歌21・235、聖書 創世記22:14~19(旧約p.32)、マタイ福音書1:1~17(新約p.1)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌241、献金、頌栄27、祝祷。 

(創世記22:14~19) アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

(マタイ福音書1:1~17) アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。


(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第2主日礼拝です。説教題は「イエス・キリストの誕生の歴史」です。新約聖書は、マタイ福音書1:1~17です。

 新約聖書を初めて読む方がまずここを読むと、なじみのないカタカナの系図がいきなり長々と出て来て、大いに戸惑い、読む気を失いかねない個所です。しかし旧約聖書を一通り読んでおくと、これらのカタカナの名前にも次第に親しむことができ、だんだんと血の通った系図として読むことができるようになると思います。旧約聖書の民ユダヤ人・イスラエル人は系図を重んじる民族、血統を重んじる民族だと聞いています。だからでしょう、旧約聖書にもしばしば系図が出てきます。このマタイによる福音書は、ユダヤ人・イスラエル人を最初の読者として想定し、ナザレの人イエス様こそ、ユダヤ人の偉大な先祖アブラハム、ダビデ王の子孫として生まれたイスラエルも正統なメシア(救い主キリスト)であることを論証するために書かれたと言われます。従ってマタイ福音書冒頭のこの系図にも意図があり、それはイエス様がイスラエルの正統な血統・血筋の中から誕生したメシア(救い主)であることを論証する意図で、まずこの系図を冒頭に書いたに違いありません。但し、厳密に言うと、来週読む18節以下を見ると、イエス様の母マリアは処女妊娠なので、イエス様は父ヨセフと血はつながっていません。それでも父(正確には養父)ヨセフが責任をもって自分の長男として受け入れ、マリアと共に養育したので、イエス様はヨセフの息子。ヨセフがアブラハム、ダビデ王の子孫なので、イエス様もアブラハム、ダビデの子孫と見なしてよいというのがマタイ福音書の主張でしょう。

 最初の第1節。「アブラハムの子(直訳・息子。子孫のこと)、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」系図と訳された原語を直訳すると「起源の書、創世の書」です。「起源、創世」の原語はゲネシスというギリシア語です。旧約聖書の最初の書である創世記を英語でジェネシスと言い、その語源がギリシア語のゲネシスと思われます。つまりマタイ福音書1章1節には。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの創世(ゲネシス)の書と書かれています。これは明らかに旧約聖書の創世記を意識しています。旧約聖書最初の書・創世記(ジェネシス)と新約聖書最初の書・マタイ福音書、特に冒頭の系図(ゲネシス)は、その意味でセットです。創世記の最初は世界の起源を明らかにし、マタイ福音書はイエス・キリストの起源を明らかにしているのです。

 1節に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあることから分かるように、アブラハムとダビデがイエス様の先祖の中で最も重要な二人です。アブラハムとは、「諸国民の父」の意味です。本日の旧約聖書は創世記22章ですが、ご存じの方が多い通り、創世記22章には、神様の指示によりアブラハムが最愛の独り子イサクを神様に献げるために、屠る(殺す)一瞬手前まで行く章です。結局ぎりぎりそれを実行せずに済んだのですが、これは父なる神様が将来本当に、最愛の独り子イエス様を十字架の死に追いやること暗示する重要な出来事です。イサクの代わりに、木の茂みにいた一匹の雄羊を神様に献げたアブラハムは、その場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けました。そして天使がアブラハムに語りかけます。16節の途中から。「あなたがこの事を行い。自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからである。」この子孫こそイエス・キリストであり、イエス様につながることで私たち日本人も、どの国の人もアブラハムの真の子孫となり、真の祝福を受けることができます。クリスチャンこそアブラハム、ダビデの真の子孫であり、その人数は天の星、海辺の砂のように増えることになり、事実今、世界中にクリスチャンがおります。

 この系図に登場するイエス様の先祖たちは、各々、美点もあれば罪もある人々です。一人の人でも、よい行動をすることもあれば、明らかな罪を犯すこともあります。基本的には非常に男性中心の系図です。女性はマリアを含めて5人登場するのみです。非常に男性中心の社会だったことが分かります。2~3節には、「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマル(女性)によってペレツとゼラ(双子)を」と続きます。これはかなりおぞましい出来事です。タマルはユダの息子の妻ですが、不幸にして夫(ユダの息子)が亡くなります。当時の習慣により弟と再婚しますが、弟も亡くなります。舅であるユダは、三男が成人したらタマルと結婚させると言いますが、実際にはその約束を果たしません。このままでは子どもを持つことができないと悟ったタマルが、非常手段を決行します。ベールを被って身なりを変え、ユダと関係を持つのです。こうして双子のペレツとゼラを産むのです。ペレツがイエス様の先祖となります。タマルの立場に立てば、こうする以外に方法がなかったのですが、とんでもなく罪深い方法です。生まれたペレツとゼラには罪はありませんが、聖書にこんな場面があって、私はびっくり仰天しました。この系図は、イスラエルの人々のおぞましい罪を全く隠し立てせずに、赤裸々に記している系図です。タマルもその後は罪を悔い改めて、神様に従う生涯を送ったのだろうと想像します。

 5~6節には、「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」ラハブは、異邦人(外国人)の遊女です。遊女であることは罪と言えますが、ヨシュアの時代にイスラエルの民がエジプトを出て荒れ野を旅し、神の約束の地カナンに入ろうとした重要な局面で、イスラエルの斥候をかくまったので、それが真の神様に従う行動だったと認められたようで、新約聖書でほめられています。ボアズと結婚したルツは、異邦人ですが、イスラエル人の姑ナオミと同じ神様を信じ、ナオミによく尽くした女性として、賞賛されます。

 そしてダビデ王が登場しますが、彼は基本的にはよい王様だったようです。神様が預言者ナタンを通して約束を与えて下さいます。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠る時、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者が私の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに(永遠に!)堅く据える。私は彼の父となり、彼は私の子となる。」この子孫が直接にはダビデの息子ソロモンを指し、究極的にはダビデの子孫のヨセフの息子イエス・キリストを指します。

 そしてマタイ1章6節後半に、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。これは多くの皆さんがご存じの、ダビデとバトシェバの有名な罪です。ダビデ王は、忠実な部下ウリヤがイスラエルのために戦争に行っていた時、ウリヤの妻バトシェバと関係をもち、バトシェバが妊娠します。姦淫の罪、不倫の罪です。慌てたダビデは、ウリヤをごまかそうと策を弄しますが、成功しません。事が露見することを恐れたダビデは、忠実な部下ウリヤを戦死に追いやります。ダビデ王の生涯最大の汚点と言えます。姦通(不倫)と殺人のおぞましい罪、特に殺人は今の日本でももちろん犯罪です。刑務所行きですね。ですがダビデが意図的にウリヤを死に追いやったことは、家臣たちにはばれなかったのかもしれません。しかし、人の目はごまかせても、神様をごまかすことはできません。神様は預言者ナタンを送って、ダビデを厳しく叱ります。ダビデの真実な悔い改めの祈りとして有名なのが、詩編51編です。バトシェバが産んだ男の子は、生まれて七日目に死にます。その子に罪はないのですが、ダビデとバトシェバの身代わりにように、神の裁きによりその赤ちゃんが死にます。これで神様の裁きは終わったようで、神様はダビデとバトシェバに離縁を求めず、バトシェバは次の男の子を産み、その子はソロモンと命名されます。この一連の出来事、ダビデとバトシェバの罪の行いを、旧約聖書のサムエル記下は、一切包み隠さず、赤裸々に記しています。マタイ福音書のイエス様の系図においても、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と書き、ダビデの名だけでなくウリヤの妻(名前のバトシェバこそ記されていませんが)もはっきり出していますから、読む私たちはどうしてもあのスキャンダルを連想します。

 ダビデと次のソロモン王の時代は、イスラエルが最も栄えた時代と言えます。ソロモン王も最初はよかったのです。神様が若きソロモン王に言われます。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」すると若きソロモン王が答えます。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕(しもべ)をお立てになりました。しかし、私は取るに足りない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与え下さい。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」すばらしい祈りです。

 神様はソロモンのこの祈りを喜ばれ、こう言われます。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、私はあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。私はまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。~もしあなたが父ダビデの歩んだように、私の掟と戒めを守って、私の道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」そのソロモンも年を取るとおかしくなります。ファラオの娘のほかにモアブ人、アンモン人、エドム人など多くの外国人の女性を愛し、700人の王妃と300人の側室を持ち、彼女たちが拝む外国の神々、偶像礼拝の罪に向かいます。モーセの十戒の第一の戒めを破る人になったので、神様のお叱りの言葉が下ります。「あなたがこのようにふるまい、私があなたに授けた契約と掟とを守らなかったゆえに、私はあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す。あなたが生きている間は父ダビデのゆえにそうしないでおくが、あなたの息子の時代にはその手から王国を裂いて取り上げる。ただし、王国全部を引き裂いて取り上げることはしない。わが僕ダビデのゆえに、私が選んだ都エルサレムのゆえに、あなたの息子に一つの部族を与える。」こうして、ソロモンの罪のために、イスラエルは南北の王国に分裂し、その後、ヨシャファト、ヨシヤという良い王様も出ますが、よくない王様もおり、国全体として真の神様に従わなくなっていったために、北イスラエル王国ははアッシリア帝国に、南ユダ王国はバビロン帝国に滅ぼされ、南ユダ王国の多くの人々が、遠くバビロン捕囚に連行されます。バビロン捕囚です。マタイ福音書1章11節に、「ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた」とあるのは、このことです。

 系図の最後の方を見ましょう。16節「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシア(救い主)と呼ばれるイエスがお生まれになった。」ヨセフの父ヤコブについては、私は全く分かりません。この系図は、神様がアブラハムとダビデに与えた約束を守って下さった系図です。人間たちの多くの罪にもかかわらず、神様が約束を守り抜いて、アブラハムとダビデの子孫を絶やさず、二人の子孫からメシア・イエス様を誕生させて下さった祝福の系図です。神様は、約束を100%守り抜いて下さる真実な方です。アブラハムからイエス様まで、大体1800年ほどの長さのようです。神様はこの間、アブラハムの子孫たち、そして全ての人間の多くの罪を、忍耐して来られたに違いありません。罪をなかなか裁かない私たちの神様は、まさに忍耐の神様です。

 遂にヨセフとマリアの名前が登場します。イエス様はアブラハムとダビデの子孫とは言え、ヨセフの血を引いていないので、アブラハムの罪、ユダの罪、タマルの罪、ダビデの罪、バトシェバの罪、ソロモンの罪を受け継いでいません。イエス様は、母マリアに聖霊によって宿られたからです。嬉しいことにヨセフとマリアは、罪を可能な限り避けて生きていた若人です。厳密に言うと少しは罪があったでしょうが、タマル、ダビデ、バトシェバ、ソロモンと比べれば、ずっと清く生きようとしていたと思うのです。ダビデの姦通のようなおぞましい罪をヨセフやマリアが犯すことは生涯なかったに違いありません。罪の多い系図を読んで、ここにヨセフ、マリア、そして罪が全くないイエス様が登場し、私たちもほっとするのではないかと思います。神様はやはり、イエス様の両親としては、かなり清い二人(律法主義者でもファリサイ派的でないけれども)、愛と清さと信仰深さにおいて神様が推薦できる二人を選ばれたのだと思います。

 もちろん神様はイエス様の十字架によって私たちの罪を完全に赦して下さいます。私たちが真心から罪を悔い改めるならば、私たちの罪を赦し、神様の伝道のために用いてさえ下さいます。イエス様の誕生までの長い期間、神様が私たち人間の罪を忍耐しながら過ごして下さり、ようやく時が満ちてイエス様が生まれて下さった恵みの深さを思いつつ、今年のクリスマスを感謝して迎えたいと願います。アーメン。