日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2024-05-26 2:41:16()
説教「愛によって造り上げられる教会」 2024年5月26日(日)聖霊降臨節第2主日
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23,頌栄16(1節)、主の祈り,交読詩編125、使徒信条、讃美歌21・476、詩編68:19、エフェソ4:7~16、祈祷、説教、祈祷、讃美歌390、献金、頌栄27、祝祷。 

(詩編68:19)主よ、神よ/あなたは高い天に上り、人々をとりことし/人々を貢ぎ物として取り、背く者も取られる。彼らはそこに住み着かせられる。

(エフェソの信徒への手紙4:7~16) しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第2主日の礼拝です。説教題は「愛によって造り上げられる教会」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4章7~16節です。本日の個所は1節から始まる小見出し「キリストの体は一つ」の後半です。

 エフェソの信徒への手紙の全体のテーマは「教会とは何か」だと言えます。教会の本質は、「イエス・キリストの体」だと私たちは知っています。本日の少し前の4~6節には、こう書かれています。「体(キリストの体である教会)は一つ、霊(聖霊)は一つです。それは、あなた方が、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主(イエス・キリスト)は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ、すべてのものの父である神は唯一。」そして本日最初の7節「しかし、私たち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」教会は一つだけれども、教会の一員である私たち一人一人には、それぞれ別の恵みが与えられているというのです。恵みは、元の言葉ギリシア語でカリスです。

 8節、「そこで『高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた』と言われています。」これは本日の旧約聖書である詩編68編19節です。この御言葉の直接の意味は、力強く戦って勝利した神が高い天に上り、そして戦いに負けた人々を捕虜にし、捕虜たちを貢ぎ物として捕えるの意味です。エフェソの信徒への手紙を記した人(私はパウロと思う)は、別の意味を込めて引用しています。イエス・キリストが天に昇られた昇天の出来事に当てはめて引用しています。「イエス・キリストが高い天に昇られたとき、捕らわれ人を連れてゆき(神に背く悪の諸霊を勝利の行進のさらし者にした)、人々に聖霊の賜物を分け与えられた」の意味に解釈し直して、引用しています。私たち一人一人に皆、聖霊ご自身、あるいは聖霊の何らかの賜物が分け与えられています。

 9節「『昇った』というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。」その通り、イエス様は天から降って来られてベツレヘムの家畜小屋で誕生され、貧しい人々の友して歩まれ、私たちの全部の罪を背負って十字架の低きに降られ、さらに死者の国にまで降られました。10節「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」当時、天にはいくつもの階層があると考えられていたようです。復活されたイエス様は、その諸々の天よりも更に高い、最も高い天に昇られました。そこは父なる神様がおられる所です。このことをエフェソの信徒への手紙は1章20節以下で、こう述べます。「神は(…)キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座(父なる神様に最も近い所)に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」これはヨハネの黙示録の表現を借りれば、イエス様が「王の王、主の主」になられたことです。イエス・キリストは教会の主・頭であり、全世界・全宇宙の主・頭であられます。

 4章10節を改めて見ると、「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天より更に高く昇られたのです。」「すべてのものを満たすため」とは、上から聖霊を注いで、すべてのものを聖霊で満たす、すべてのものを愛で満たすの意味だと思います。それはペンテコステの日に起こったとで、イエス様は今も継続して天から私たちに聖霊を注いで下さっています。11節「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」ここには当時の教会の5つの務めの名前、職務の名前が出ています。当時の教会内には、このような人々がいたのでしょう。今の教会の牧師、伝道師、宣教師等に当たるでしょう。今の教会の務めの名前、職務の名前と似ていますが、違いありますね。大事なことは、教会内の人々が聖霊を注がれて、これらの務めを行う者として任命されていることです。コリントの信徒への手紙(一)27節にも、似たことが記されています。「あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気を癒す賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」使徒、預言者、教師は先ほどのエフェソ書と同じで、今の教会の牧師、伝道師、宣教師に当たるでしょう。「援助する者、管理する者」は役員に当たるかもしれません。「病気を癒す賜物を持つ者、異言を語る者」は、牧師、伝道師、宣教師、役員に限りませんね。当時の教会にはそのような人々がいたのですし、今もそうである教会もあるでしょう。ここでのポイントは、神様が教会内に色々な賜物(ギフト)、務めの人々を与えておられることです。

 ですからパウロはこう述べます。「皆が使徒であろうか(そうではない)。皆が預言者であろうか(そうではない)。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気を癒す賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなた方は、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」そして愛(アガペー)こそが、最高の賜物だという結論に至るのですね。異言とは、人が聖霊に満たされて語る言葉のことで、何語か分からないので、おそらく本人にも意味が分からないことが多いようです。ここで異言も、聖霊の賜物の1つとして挙げられています。

 エフェソ4章に戻り12節「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体(教会)を造り上げてゆき」とあります。「奉仕の業」とあります。神様が教会の一人一人に聖霊を注いで、色々な務めの人をお立てになったのは、その一人一人が権力を握ったり支配するためではなく、その反対に、教会に奉仕するためだと分かります。教会の頭キリストに仕え、教会メンバー一人一人に奉仕するために、聖霊とその賜物を与えられ、務めを与えられたと分かります。そして皆で、キリストの体である教会という礼拝共同体を造り上げてゆきます。造り上げることが大切で、破壊してはいけません。ある教会では、「一人一役」をモットーにしていると聞きます。全員に一つ役目を担っていただくのです。これは一つの方法ですね。誰もが必要な存在であることがはっきりします。その方ができる役割を一人にできるだけ(必ず)一つは引き受けていただき、皆で共に教会を造り上げてゆこうという方法です。一つの知恵です。

 「キリストの体を造り上げてゆき」の、「造り上げる」は元の言葉では「家を建てる、建物を建てる」という意味の言葉です。パウロはコリントの信徒への手紙(一)8章1節で述べます。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」14章では集会の持ち方を教えて、こう述べます。「あなた方は集まったとき、それぞれ詩編の歌を歌い、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなた方を造り上げるためにすべきです。」「造り上げる」を口語訳聖書は、「徳を高める」と訳しています。ひと昔前の日本の教会では、「徳を高める」という表現がよく用いられました。徳の漢字は「あの人は徳が高い」と言う場合の「徳」です。「教会の徳を高める。」教会で何かの意志決定をするとき、「果たしてこのことが教会の徳を高めることになるのかどうか」という点が、重要な判断基準になっていたと思います。「果たしてこの決定をすることが神様の御心に適い、この教会の徳を高めることになるのか、どうなのか」の点を一人一人がよく祈って考えて、役員会や総会で意志表示、採決に臨んだと思います。そして「建徳的」という言葉もよく用いられました。「徳を建てる」と書きます。「愛をもって教会を造り上げる、教会の徳を高める」ことが非常に重要であることが分かります。

 どのような教会が徳のある教会かと言うと、皆で喜んで神様を礼拝し、神様に従い、お互いを配慮する愛のある教会ということになります。パウロはコリントの信徒への手紙(一)12章で、誰も他の人に向かって「あなたは要らない」とは言えないと述べています。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」これは特に大切なことですね。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」これまでの競争社会では、強い人が生き残り、弱い人は置いてきぼりになり、軽視されました。これでは神様の御心に適いません。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」「~神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」私たちもさらにこうなりたいと願います。

 13節「ついには、私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」「成熟した人間」は単数、つまり一人の人を指します。これは「キリストを頭とする教会」を指すようです。これは1つ1つの教会を指すとも言えるし、すべての時代のすべての地域の教会、つまり全教会を指すとも思えます。「ついには、私たちは皆、神の子(イエス様)に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。「一つのものとなり」とありますが、そもそもこの4章の4節を振り返ると、「体は一つ」だと書かれています。体はキリストの体なる教会ですから、「教会はそもそも一つ」だと宣言しているのです。神様から見れば、全世界の全時代の教会は「一つ」なのです。

 教会を考える時に、「見える教会と見えない教会」という見方があります。見える教会の1つは東久留米教会であり、同時に皆様がこれまで属して来られ、愛して来られた1つ1つの具体的な教会です。1つ1つの教派を考えることもできますね。大きく分けると東方教会と西方教会。東方教会の代表はギリシア正教会で、ロシア正教会もその中に入るでしょう。西方教会はカトリック教会とプロテスタント教会、その中間のような聖公会。プロテスタント教会は日本でも多くの教派があります。福音派と呼ばれる諸教団、ホーリネス教会、メソジスト教会、バプテスト教会、改革派教会、セブンスデーアドヴェンティスト教会、無教会、救世軍、吉祥寺キリスト集会、日本基督教団。これらが見える教会で、それぞれの組織や制度を持ちます。秩序を保つために、ある程度の組織や制度は必要です。ですが組織や制度だけでは教会になりません。そこに祈りと聖霊のお働きが必要です。そうでないとそこに命が宿りません。宗教改革者ジャン・カルヴァンは、「聖書に基づく説教が行われ、キリストの制定によって聖礼典(洗礼と聖餐)が執り行われる所、そこに教会がある」と言いました。

 以上の「見える教会」に対して「見えない教会」は「霊的教会」とも言います。人間の教派・教団、組織や制度を超えて、「神様の目に見えている全体教会」です。神様をこれを指して「体は一つ」と述べておられると思います。「見える教会」「見えない教会」の両方とも大事です。「ついに私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものになり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」これは教会の成熟、成長を述べているようです。1つ1つの教会、教派の成熟、成長を述べていると思うのです。教会はそもそも一つだが、現実には多くの教会、教派に分かれている。それを神様が一つになるように導いておられる。神様が教会を完成に向けて導いておられる。そのような壮大なことが語られていると思います。ヨハネ福音書17章のイエス様の祈りの言葉が思い出されます。「私が彼ら(弟子たち)の内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」一つになるには私たち一人一人の努力も大切ですが、それを実現へ導いて下さるのは聖霊なる神様であることも事実と思うのです。

 14~15節「こうして、私たちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ愛に根差して真理を語り、あらゆる面で頭であるキリストに向かって成長していきます。」これはキリスト者個人のことと思います。キリスト者は御言葉を学び、聖霊を受けることで、未熟を卒業して大人になり、間違った教えに振り回されることなく、愛に根差して真理を語り、あらゆる面で頭であるキリストに向かって成長し、イエス・キリストに似た人格の人に造りかえられてゆきます。今から20年ほど前でしょうか、「教会成長」が強調された時期がありました。よく「教会成長セミナー」のような集会の案内が届きました。それはどちらかと言うと教会の人数を増やすことに重きが置かれた考えだったと感じます。教会に集ってクリスチャンになる方が増えることは確かに喜ばしいことですが、人数が増えることと共に、中身の充実は大切と言いましょうか、クリスチャン一人一人の人格は成熟することも、とても大切と思います。

 16節「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」キリストの体である教会は、一人一人のクリスチャンが互いに補い合い、結び合わされて、愛によって造り上げられてゆくと書かれています。もっと大きな視点で見れば、様々な教派が互いの足りないところを補い合い、結び合わされて、愛によって全体教会として愛によって造り上げられてゆくということと思います。2章22節には、「キリストによってあなた方(教会)も共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなる」とあります。ですから教会が愛によって造り上げられるために、聖霊が働いて下さると分かります。

 また5章25節には、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」とあり、キリストが教会を愛しておられることが分かります。続く26節には、「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗い(洗礼)によって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした」とあり、キリストが教会を聖なる、汚れのない、栄光の輝く教会となるように完成へと導いて下さると約束されています。教会の本質は、キリストの花嫁なのです。29節に、「わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養いいたわるものです」とあり、キリストが教会を養い、いたわってくださると分かります。このようにキリストが教会を愛し清めて完成させて下さるのですから、私たちは安心し信頼して自分をイエス・キリストに委ね、三位一体の神様の讃美する喜びの礼拝を献げて参りましょう。アーメン。

2024-05-18 23:39:48(土)
「若者は幻を見、老人は夢を見る」2024年5月19日(日)ペンテコステ礼拝説教
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23,頌栄85、主の祈り,交読詩編124、使徒信条、讃美歌21・342、ヨエル書3:1~5、使徒言行録2:1~22、祈祷、説教、祈祷、讃美歌343、献金、頌栄92、祝祷。 

(ヨエル書3:1~5)その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

(使徒言行録2:1~22) 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。

(説教) 本日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝です。説教題は「若者は幻を見、老人は夢を見る」です。新約聖書は、使徒言行録2章1~22節です。本日の個所の小見出しは、「聖霊が降る」と「ペトロの説教」です。

 イエス・キリストは十字架で死なれた後、三日目に復活され、40日間に渡って弟子たちに現れ、神の国について話されました。そして弟子たちにこう言われました。「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたもの(聖霊)を待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方は間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」「あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。」こう言われて、復活されたイエス様は、復活の体で生きた状態で、天に昇られました。これをキリストの昇天と呼びます。「天に召された召天」とは漢字も意味も違います。イエス様の昇天はイースターから40日目、ペンテコステの10日前です。イースターとペンテコステにはさまれてあまり目立ちませんが、イエス様の昇天もとても重要な出来事です。

 毎年この時期に確認していますが、「イエス・キリストの昇天」によって、私たちは3つの恵みを与えられています。1つめの恵みは、教会がキリストの体であることと関係します。教会がキリストの体だということは、イエス様が頭(あたま、かしら)であり、私たちは体の各部だということです。私たち一人一人は、体の手や足やお腹、背中です。私たちはまだ地上にいますが、頭のイエス様は既に天国に入っておられます。私たちは頭のイエス様と明確につながっているので、はっきり天国とつながっています。頭のイエス様が一足先に天国に入ったので、私たち体の各部も天国にはっきりつながっています。ですから私たちがいずれ地上の人生を終えるときは、確実に天国に入れていただけます。これがイエス様の昇天の第一の恵みです。

 第二の恵みは、天でイエス様が私たちのために、執り成しをしていて下さることです。もちろんイエス様の十字架こそが、私たちの罪を赦すための完全な執り成しです。それ以上の執り成しは必要ない気もしますが、イエス様は今も私たちのために、天で父なる神様に執り成しをしておられます。ローマの信徒への手紙8章34節に、こうあります。「だれが私たちを罪に定めることができましょう(誰にもできない)。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです。」ヘブライ人への手紙7章25節にも、こう書かれています。「この方(イエス様)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」私たちを完全に救うために、今もイエス様が天で、私たちのために、父なる神様に執り成しして下さっています。何と感謝なことでしょう。

 そして昇天の3つ目の恵みが、イエス様が天から聖霊を注いで下さることです。それが聖霊降臨の出来事です。イエス様が天に昇られて10日間、弟子たちはイエス様の母マリアや婦人たちと一つの家に集まって、心を一つにして祈っていました。祈らないと聖霊が与えらることもないと思います。私たちは幸い、既に聖霊を与えられていますが、さらに私たちの身の周りの方々がイエス様を救い主と信じ告白して下さるために、更に祈る必要があります。そして弟子たちが行ったことは、仲間の弟子(使徒)の補充です。ユダが脱落したからです。弟子たちはその補充のために祈り、神様の示しによってマティアが弟子たち(使徒たち)に加えられました。

 本日の2章第1節「五旬祭(ペンテコステ)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」五旬祭は「五十日目の祭り」の意味で、ペンテコステはギリシア語で「第50」の意味です。五旬祭は旧約聖書のレビ記23章では「七週祭」と記されています。元々は、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出した救いを記念する過越祭から七週間を経た翌日まで50日を数えた日に祝われたのが七週祭(ペンテコステ)で、本来は収穫祭でした。そして旧約聖書以来、時代が進むにつれ、イスラエルの人々は七週祭にもう1つの意味を加え、モーセが神様から十戒をはじめとする律法を授かった記念日としても、七週祭(ペンテコステ)を祝うようになったそうです。七週祭(ペンテコステ)は、ユダヤ教の三大祭りの一つなので、この日のエルサレムは、外国から一時帰国したユダヤ人も含めて、多くの人々でごった返していたそうです。

 その日に弟子たちの上に、神様の清き霊である聖霊が降り、驚くべき現象が起こりました。3~4節「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」驚くべき奇跡です。多言語奇跡と呼ばれます。炎のひょうな舌が現れた。真っ赤な舌だったのでしょう。その赤は、神様の愛の熱情を表します。モーセが十戒を授かった場面にも火が出て来ますので、似ています。「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。」火は神の臨在(神様がまさにそこにおられること)を意味します。5~8節「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、誰もかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷(イスラエルの外の地域)の言葉を聞くのだろうか。』」ガリラヤの人々は、おそらくそれほど学問がある人々ではなく、素朴な人々だったでしょう。そのガリラヤのごく普通の人々が、聖霊に満たされて、学んだわけでもない色々な外国の言葉で、神様の業を語り始めていました。

 これは全世界にイエス・キリストの恵みの福音を宣べ伝えることこそ、神様の御心でああることを示す奇跡です。マタイ福音書の締めくくりの、イエス様の御言葉が、思い出されます。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」マルコ福音書のしめくくりに近い部分のイエス様の御言葉も思い出されます。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」

 多言語奇跡を目撃した人々は、言いました。9節以下「私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アブビアから来た者もいるのに、彼ら(ガリラヤ出身のイエス様の弟子たちや婦人たち)が私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」この多くの地名は、原則としてはイスラエルの西から東に向かっています。パルティア、メディア、エラム、メソポタミアは今のイランやイラクの方です。カパドキア、ポントス、フリギア、パンフィリアは、今のトルコの辺りです。エジプト、リビア地方は北アフリカですね。当時ユダヤ人は、このような地域に広がって住んでいたのです。

 多言語奇跡を目撃して人々は、大いに驚き、戸惑いました。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲る人もいたので、ペトロがこの出来事の正しい意味を伝えるために、他の十一人と共に立って、大声で説教をします。「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなた方が考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」そう言って、本日の私たちの旧約聖書であるヨエル書3章を引用して語ります。「神は言われる。終わりの時に、私の霊(聖霊)をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。私の僕やはしためにも、そのときには、私の霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」

 旧約聖書の時代には、神の霊は、神様の特別な働き人に注がれました。王、祭司、預言者といった人々にです。しかし今や、神様が僕(奴隷)、はしため(女奴隷)といった社会的立場の低い人々にも、差別なく聖霊という最も尊い宝を注いで下さいます。ただ罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じることで(できるだけ洗礼も受けることで)、聖霊という生きた聖なる宝をいただき、神の子となることができます。

 「若者は幻を見、老人は夢を見る。」幻(ヴィジョン)と夢は、神様が与えて下さる希望を指しますね。日本語で幻と言うと、はかなく消え去るものの意味ですが、聖書で言う幻は、神様が与えて下さるヴィジョン、神様が実現して下さる確かな希望です。私たちは今、どんな幻、夢を見ているでしょうか。かつてマーティン・ルーサー・キング牧師は、「私には夢がある」と演説しました。アメリカでの黒人差別がなくなる夢を持っていると演説しました。この夢は、少しずつ実現していますが、まだ完全にではありません。でもこの夢も、これからも一歩ずつ前進するでしょう。

 以前、多くの方が憧れたと聞くシュバイツァーという男性は、牧師の息子ですが、21才のペンテコステの日に、自分の生き方を祈りながら考えたそうです。マタイ福音書10章39節が、思い浮かびました。「自分の命を得ている者はそれを失い、私(イエス様)のために自分の命を失う者は、それを得る。」彼は思いました。「僕は幸福だ。健康で、やりたいことは何でもやらせてもらって来た。学問も身につけ、音楽も最高の先生から教えを受けている。しかし、身につけたものを自分のためだけに使ってよいのだろうか。僕らは、この世で苦しんでいるすべての人と、重荷を一緒に担わなければならない。30才までは自分のために生きることを許されていると思う。それまでは学問と音楽に生きよう。その後は、直接人に奉仕する仕事をしよう。奉仕するには自分を鍛え、たくさんのことを自分に蓄えておく必要がある。今は基礎を作る時期だ。明日からは一日たりとも無駄にしないぞ。」

 その後、教会の副牧師として奉仕し、30歳でアフリカで医療奉仕するために大学医学部に入り、38歳で当時のフランスの植民地、赤道アフリカのガボンのランバレネに医療宣教師として妻と共に赴任しました。21才のペンテコステの日に立てた志が実現へと導かれました。ペンテコステに信仰の志を立てるのはよいことです。私たちには、どんな幻、夢、希望、志が与えられるでしょうか。

 先週水曜日の聖書の学び・祈祷会で、旧約聖書のゼカリヤ書3、4章を読みました。ゼカリヤ書4章6節の御言葉が、極めて印象的です。「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。『武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって』と万軍の主は言われる。」これは、イスラエルの民がバビロン捕囚の苦難から帰って来て、エルサレムに神殿を再建しようとする場面です。神殿再建は神の業ですから、人間の武力によらず、権力によらず、ただ神様の清き霊である聖霊の導きと助けによって行われないといけない、というメッセージです。実にペンテコステ(聖霊降臨日)にふさわしい御言葉です。

 私たちが目にしている現実の世界は、この反対の面があります。「武力により、権力により」物事が無理矢理行われてしまいます。ミャンマーの軍事政権による人々への弾圧、プーチンの侵略に始まって世界の複数の場所で武力衝突が深刻化しています。香港では、民主主義やキリスト教会への弾圧も行われています。「武力と権力」が支配しています。その中で、日本の平和主義も揺らいでいます。これまで禁止していた武器の輸出も一部OKにしようとしています。「武力と権力」の現実に巻き込まれようとしています。このような現状で、私たちはどのような幻、夢、希望を見ているでしょうか。ここで私たちには、イエス・キリストへと立ち帰る生き方しかありません。イエス・キリストだけが、私たちの真の希望です。私たちが皆で、イエス・キリストに従うことにのみ、世界の真の希望があります。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって。」実にすばらしい御言葉です。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と断言されたイエス・キリストに、世界中の皆で立ち帰る必要があります。

 「武力によらず、権力によらず、ただわが霊(聖霊)によって。」これは言い換えると、聖書の御言葉と祈りのみによって、進もうということです。神の国は、愛と平和と正義の国です。私たちは、この地上もできるだけ神の愛と平和と希望(まとめるとシャローム)の世界になるように、祈り努力したいと願っています。

 旧約聖書にも、このような神様のシャロームを語る御言葉が多くあります。たとえば詩編46編「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。力を捨てよ、知れ、私は神、国々にあがめられ、この地であがめられる。」エゼキエル書39章9節には、こんな平和メッセージあり。「イスラエルの町々に住む者は出て来て、もろもろの武器、すなわち盾と大盾、弓矢、棍棒、槍を火で燃やす。彼らはそれで七年間火を燃やし続ける。彼らは、野から木を取って来ることも、森から薪を集めることもない。彼らは武器を火で燃やすからである。」これはイスラエルを苦しめる敵の武器が焼き払われることを述べますが、双方の武器が焼き払われることを祈ります。詩編33節16節以下「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。」旧約聖書も軍事力で相手を踏みにじることをよしとしていないと分かります。すべての人に必要なことは、真の神様に従い、真の神の子イエス・キリストに従うことです。「若者は幻を見、老人は夢を見る。」すべての人がイエス様に従う幻と夢こそ、神様の御心に適うと信じ、この幻と夢が実現するよう祈り、努力して参りましょう。アーメン。

2024-05-12 2:00:33()
説教「あなたは、わたしに従いなさい」   2024年5月12日(日)礼拝説教
順序:招詞 ガラテヤ5:22~23,頌栄85、主の祈り,交読詩編123、使徒信条、讃美歌21・54、ヨハネ福音書21:20~25、祈祷、説教、祈祷、讃美歌505、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ヨハネ福音書21:20~25) 
 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

(説教) 本日は、復活節第7主日公同礼拝です。説教題は「あなたは、わたしに従いなさい」です。新約聖書は、ヨハネ福音書21章20~25節です。本日の個所の小見出しは、「イエスとその愛する弟子」です。

 本日の直前の個所で、復活されたイエス様が弟子のペトロに三度、「私を愛しているか」と問われました。ペトロは三度答えます。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」するとイエス様はペトロに三度、「私の羊を飼いなさい」の意味のことを言われ、ペトロに使命を与えられたのです。さらにペトロに言われました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、生きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」ペトロが迫害下にあるクリスチャンたちを守り羊飼いの使命を果たして、殉教の死を遂げて、神の栄光を現すことを予告なさったのです。そしてペトロに改めて、「わたしに従いなさい」と言われ、イエス様に従うようにペトロを招かれたのです。

 そして本日の最初の20節です。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。」ペトロが振り向いたことは、ペトロの心の迷いを表しています。イエス様にひたすら従うことに、まだ小さな迷いがあったようです。このような振り向きを、イエス様はよいことと見なされません。ルカによる福音書9章で、ある人がイエス様に言いました。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせて下さい。」するとイエス様はその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と厳しく言われました。ペトロにもまだ甘い点があり、イエス様に従い抜く覚悟が固まりきっていないのです。

 「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸元によりかかったまま、『主よ、裏切るのは誰ですか』と言った人である。」この弟子は、このヨハネ福音書を書いたヨハネだと言われます。ペトロは、「ヨハネはイエス様の胸元によりかかるほどイエス様に愛されているな。ヨハネはどうなるのだろう」と、自分と比べて気になったのだと思います。21節「ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。ある人はこれを、ペトロの好奇心だと言います。そうだとすれば、無用の好奇心です。それでイエス様は、22節でこう言われます。「私の来るときまで(イエス様が地上にもう一度来られる再臨のときまで)、彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。」
 
 イエス様はペトロに、「私はあなたにはあなたの使命を与える。ヨハネにはヨハネの使命を与える。あなたにはあなたの道が用意されているし、ヨハネにはヨハネの道が用意されている。二人の道は別々だが、両方とも私(イエス・キリスト)に従う道だ。二人とも各々の道で私に従い、遂には天国に至る。ヨハネの歩む道のことを気にする必要はない。ヨハネのことをうらやむ必要もない。私はあなたをもヨハネをも愛している。あなたは、私に従えばよい。あなたは、ひたすら私に従いなさい。」イエス様は、ペトロにそう言われたのだと思います。イエス様と私たちとの間の縦の関係は絶対です。

 23節「それで、この弟子(ヨハネ)は死なないといううわさが兄弟たちの間で広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである。」イエス様は、イエス様の再臨のときまでヨハネが地上で生き残ると言われたのではありません。ただヨハネが長生きだったのは事実のようで、ペトロと違って迫害の中で殉教の死を遂げることもありませんでした。伝説ではヨハネは100才近くまで生きて、地上の生涯の最後の頃は、「神は愛なり」という言葉しか語らなくなったと聞きます。そしてヨハネは、ヨハネによる福音書を書いたのですね。ヨハネによる福音書を書いて、イエス様が神の子であることを人々に明確に伝えました。3章16節の有名な御言葉「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」も、聖霊なる神様がヨハネを用いて書かれた御言葉です。ヨハネはイエス様にひたすら従い、このようにイエス様に用いられました。

 ペトロもイエス様に豊かに用いられました。ペトロは紀元60年頃に、ローマで60才くらいで殉教の死を遂げたと言われます。新約聖書の中にペトロの手紙(一)と(二)はあります。ペトロは殉教する前にこれらの手紙を書きました。聖霊なる神様がペトロと用いてお書きになった御言葉です。ペトロもイエス様にひたすら従い、新約聖書の収められるペトロの手紙(一)(二)を書く恵みまで与えらえて、伝道者として生ききりました。二人は別々の道を歩み、イエス様が二人を各々にふさわしく導いて下さいました。比べる必要はないですし、どちらが上でも下でもありません。私たち人間は、すぐ人と自分を比べたくなりますが、大切なことは一人一人の信仰の道を神様が備えて下さっている、と信頼することでしょう。ペトロには妻がいました。新約聖書に書かれていませんが、ペトロの妻も殉教したと伝えられています。エウセビオスという人が書いた『教会史』(秦剛平訳、講談社)という本にこう書かれています。「神の祝福を受けたペトロは、妻が処刑のために引かれて行くのを見ると、神の召しの到来と、彼女が神の家に帰って行くことを喜び、『さあ、主を忘れるではない』と彼女の名を呼んで語りかけ、真の励ましと慰めを与えたと言われる。それこそは神の祝福を受けた者の結婚であり、最愛の者に対する完全な愛情であった。」

 イエス様はペトロに言われました。「私の来るときまで彼(ヨハネ)が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか(あなたには関係ないことだ)。あなたは私に従いなさい。」こうガツンと言われて、ペトロも覚悟が定まりました。これからは右往左往することなく、ただひたすらイエス様に従いゆくのです。今のイエス様の御言葉が、自分の愛唱聖句だと語られた牧師に会ったことがあります。私は少し驚きました。この聖句が愛唱聖句だと語る人に出会ったことがなかったからです。この牧師も、おそらくご自分をほかの牧師と比べて思い悩んだり、思い煩ったのかもしれません。しかし、「私が来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか(何の関係もない)。あなたは、私に従いなさい。あなたは、私に従えばよい。」このイエス様の御言葉が心に響き、「そうなんだ。そうしよう」と覚悟を決めたのではないかと思います。

 24節「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子(ヨハネ)である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。」ヨハネはヨハネで、殉教したペトロやパウロをうらやむ気持ちを持ったかもしれません。殉教すると人々の記憶に残りやすいし、「ペトロさんとパウロさんは立派に殉教した」と尊敬されるからです。しかしヨハネのように長く生きて伝道する道もあり、イエス様によしとされています。ヨハネには、イエス様の御言葉と行いを記録する福音書を書くという重要な務めが与えられました。ヨハネはそれを全力で果たしました。ヨハネもまた、人生を全てイエス様に献げきったのです。25節はヨハネ福音書の締めくくりです。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」

 新約聖書のヘブライ人への手紙13章7節に、こう書かれています。「あなた方に神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見習いなさい。」私も色々な牧師方を思い出します。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生は、1996年にご隠退された後も、西東京教区の成瀬が丘教会の協力牧師として月1、2回、礼拝説教を担当しておられました。そして伊東市のご自宅から比較的近かった高齢者ホーム・伊豆高原十字の園の平日礼拝でも御言葉を取り次いでおられました。

 私と妻に洗礼を授けて下さった牧師は、比較的大きな教会の牧師を務めておられましたが、牧師として行い残したこととして茨城県で開拓伝道を開始され、伝道所を設立され約10年間奉仕されて、一昨年7月に天に召されました。最後に10年間開拓伝道なさったのが、ある意味で、牧師人生の念願だったのではないかと思います。先輩方から、私ども後輩も、伝道者魂を見せていただいております。

 もうお一方、思い出に残るのは霊南坂教会で長く働かれた飯清牧師です。私と妻が洗礼を受けた筑波学園教会で、私は2回説教を伺いました。最初は私が教会に通い始めた1987年の秋だったと思います。伝道礼拝で説教して下さいました。聖書はヨハネ福音書2章の「カナの婚礼」の個所でした。2回目は1994年頃だったと記憶しています。大変なご闘病中にもかかわらず、礼拝説教に東京からご子息の車で来て下さいました。聖書はローマの信徒への手紙12章1、2節でした。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。あなた方はこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何は神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」

 これが人生最後の礼拝説教になりました。それなのに笑顔で明るい声で説教され、ユーモアも十分にある説教で、私は「本当にすごい」と感じ入りました。「こういうわけで、神の憐れみによってあなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。」この聖句によって説教なさりながら、まさにご自分の全存在を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」ておられる姿、伝道者の生き様を見せて下さいました。

 日本のキリスト教界の最近の大きな悲しみは、星野富弘さんと加藤常昭牧師が天に召されたことではないかと思います。全くタイプの違うクリスチャンですね。星野富弘さんは、ご存じの通り体育の先生でしたが、授業で鉄棒の実演をなさったときに、誤って転落し、首から下の自由を失われた方です。絶望の淵を通られたのですが、神様のお導きでクリスチャンになられます。口に筆をくわえて花などの絵を描き、それに詩を添えるスタイルで多くの作品を産み出し、多くの本になって人々の手に渡り、多くの人々に慰めと励ましを与えて下さいました。星野さんを支えた奥様がすばらしいと思います。大変ご不自由なお体で、多くの人々に慰めと励ましを与えて下さったことは、奇跡です。群馬県には星野富弘美術館もでき、私は2回行きました。健康な人が自分の美術館を建てることもほとんどないのに、身体が非常に不自由な方の美術館ができたことは、神の愛の奇跡としか言いようがありません。星野さんは大変なお体で、口を用いて花の絵と詩を書かれ、その形で使命を果たされ、イエス・キリストに従われたのですね。星野富弘さんを思うと、私は使徒パウロが書いたコリントの信徒への手紙(二)12章7節以下を思い出します。「思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えらえました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせて下さるように、私は三度主に願いました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。」この聖句は、まさに星野さんによく当てはまるように思います。心と首から上のお体を一生懸命用いて一枚一枚の作品を作られることで、神様のご栄光を現わされた人生でいらしたと感じます。

 加藤常昭牧師は、日本の説教額のリーダーで、後輩の牧師たちの説教の向上のために大いに尽力され、多くの礼拝説教集を残されました。東久留米教会でも26年ほど前に伝道集会で説教していただきました。説教題は、「あなたも神の子として生きる」。ご夫人も牧師で、東久留米教会の修養会で講師としてご奉仕下さいました。1999年だったと記憶します。加藤先生ご夫妻と星野富弘さんは、全くタイプの違うクリスチャンですが、お三方ともイエス・キリストに従い通した人生でいらしたことは、間違いないと思います。導かれ方は、各々違うのですね。そして各教会を形作るのは、各教会の教会員の皆様です。伝道者もですが、何よりも各教会の教会員の方々が、イエス様に従って、各教会の歩みを世の終わりまで担って行かれます。

 私の神学校時代の同級生の牧師(私より8才年上)が、一昨年8月にご病気で天に召されました。まだコロナが厳しい頃で、ご葬儀には出席しませんでしたが、自由に教会に来て礼拝堂で祈り、お別れをする時間が設けられ、私は行きました。そぼ牧師の愛唱聖句を書いた紙を受け取りました。フィリピの信徒への手紙3章12節以下が記されていたと記憶しています。「私が既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標(天国)を目指してひたすら走ることです。」この方も、目標を目指したひたすら走り通したのだな、と感慨深く思います。

 イエス様はペトロに、「私の来るときまで彼(ヨハネ)が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」とペトロを招かれました。そのペトロ自身が、ペトロの手紙(一)2章20節以下で、こう書いています。「善を行った苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなた方が召された(呼ばれた)のはこのためです。というのは、キリストもあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」イエス様の足跡に続く。讃美歌等ではよく「み足の跡をたどる」と歌われます。私どもは、ご一緒に父なる神様を礼拝しつつ、イエス様の、み足の跡をたどって参りましょう。同じ教会で礼拝していますから、共に励まし合って、み足の跡に従い、同時に各々の導かれ方が違う面もあるので、それぞれにイエス様の、み足の跡をたどって参りましょう。アーメン。

2024-05-08 23:35:18(水)
伝道メッセージ(5月分)石田真一郎  市内の保育園の「おたより」に掲載した文章
「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章9節)。

 私は3月後半に、韓国のクリスチャンとの交流で23年ぶりに韓国に行きました。21日(木)にグループと離れて、ソウルから地下鉄とバスを乗り継いで南に向かい約2時間、華城市の提岩里(チェアムリ)教会に行きました。素朴な農村です。非常に悲しい事件の現場です。

 日本は1910年に韓国を併合し、植民地としました(1945年の日本の敗戦まで)。1919年3月1日にソウルで「三・一独立運動」が始まり、たちまち朝鮮全土に広まり、キリスト教関係者も多く参加しました。日本の総督府は慌てて、鎮圧に動きます。同年4月15日に、提岩里教会のメンバーに教会堂に集まるようにと、日本の官憲から要請がありました。提岩里教会の人々も独立運動に関係したのです。23名が集まると、日本の憲兵隊が教会堂を封鎖して火を放ち銃撃し、全員亡くなり、駆けつけた家族も含め、29名が犠牲になりました。辛い話で、申し訳ありません。数日後、カナダ人の宣教師スコフィールド氏が現場を訪れ、記事にして、世界に報道したので、知れ渡りました。韓国では今も歴史の教科書に出ているそうです。提岩里教会は当時も今も、小さな教会です。

 1960年代以降、日本のクリスチャンや牧師も多く現場を訪れて謝罪し、会堂再建の献金等も行いました。私の妻も1993年頃、当時所属していた筑波学園教会の韓国ツアーで訪れました(私はその時行かなかったので、今回は訪問する念願を果たすことができました)。当時は、事件で23才で夫を失った語り部・田さんが存命で、話を聞けました。田さんは事件後70年以上、毎日、事件の起こった午後2時に教会に来て祈り続けました。私は現場で、亡くなった方々への謝罪の気持ちを込めて、神様に祈り、案内して下さった韓国人のクリスチャンの男性と共に、今後、韓国と日本が平和でよい関係を作ることができるように、祈りました。
日本の教会は、この事件に深く心を痛めて来ましたが、最近は忘れられかけていると、私は心配です。

 教会が改修工事中で確認できませんでしたが、会堂に十字架上のイエス様の祈りが刻まれているそうです。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)。これはイエス様が、ご自分を十字架につける人々をゆるす祈り、敵を愛する祈りです。これが提岩里教会の方々の、事件後から今日までの祈りなのでしょう。日本はアジアの一員なので、アジアと仲良くすることが大切です。特に韓国はすぐ隣りです(福岡・広島間より福岡・釜山間が短距離)。私たちが朝鮮半島との平和、中国との平和、世界平和を造ることができるように、共に努力しましょう。アーメン(「真実に」)。

2024-05-04 22:07:52(土)
説教「聖霊が結ぶ実」   2024年5月5日(日)礼拝説教
順序:招詞 ヨハネ福音書16:33,頌栄29、主の祈り,交読詩編122、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・287、聖書 イザヤ書61:1~3(旧約p.1162)、ガラテヤの信徒への手紙5:16~26(新約p.349)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌475、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書61:1~3) 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰めシオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。

(ガラテヤの信徒への手紙5:16~26) わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

(説教) 本日は、復活節第6主日公同礼拝です。説教題は「聖霊の結ぶ実」です。新約聖書は、ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節です。22~23節は、東久留米教会の今年度の標語聖句です。それで本日は、この個所を礼拝で読むことに致しました。本日の個所の小見出しは、「霊の実と肉の業」です。

 本日の御言葉が語ることは、イエス・キリストの十字架と復活によって救われた私たちは、どのように生きるのか、ということです。最初の16節「私(著者パウロ)が言いたいのは、こういうことです。霊(聖霊)の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲を満足させるようなことはありません。」「肉の欲、肉」とは、人間の罪、人間の自己中心のことです。パウロは、私たちが聖霊に導かれて生きるなら、決して自己中心の生き方になることはない、と言っており、全くその通りです。17節「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなた方は、自分のしたいと思うことができないのです。」人間の肉(自己中心)と霊(聖霊、神様の思い)は、完全に相反します。水と油です。

 パウロも、イエス様を救い主と信じる前は、自分の心の中のこの対立に気づいていたと思われます。ですからローマの信徒への手紙7章で言っています。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。~私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」と語っています。心の中で「肉と霊」が対立していた惨めなパウロ。そんなパウロを、罪と死から救って下さった方が、イエス・キリストでした。私たちの全部の罪も、イエス様が十字架で全部背負って、解決して下さいました。今私たちは、復活されたイエス様から聖霊を既に受けています。そこで、本日のガラテヤ書5章18節の通りになっています。「しかし、霊に導かれているなら、あなた方は、律法の下にはいません。」私たちは、イエス様の十字架の犠牲の死と復活のお陰で、律法と罪と死の支配から脱出し、イエス様の霊である聖霊を注がれ、今やイエス・キリストの所有になっているのです。ですから安心です。そして聖書の御言葉と聖霊に導かれ、イエス様に喜んで従って生きるのです。

 もう一度18節「しかし、霊に導かれているなら、あなた方が律法の下にはいません。」そう、私たちはもはや律法の下にはいないのです。律法の下を脱出し、イエス・キリストの愛の支配のもとにおり、聖霊に導かれています。それはイエス様に導かれていることです。パウロは19節で、聖霊の実の正反対の「肉の業」とは何かを列挙します。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」これは罪のリストです。このようなことを行わないようにとの警告です。私たちも気を緩めすぎると、このような罪に陥る可能性もあるので、十分気をつけて参りたいと願います。「怒り」も罪に挙げられています。人間の怒りには、自己中心等の罪もこびりついているので、100%清い怒りとは言えません。あるいは自分勝手な怒りもあります。それでここに「怒り」も罪として挙げられているのでしょう。これに対して、「神の怒り」があります。「神の怒り」は100%清い怒りなので、罪を全然含みません。このリストに出て来る怒りが、「神の怒り」を含まないことは明らかです。

 これらの「肉の業」と正反対であるのが、22~23節の「霊の結ぶ実」(聖霊の結ぶ実)です。「これに対して、霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」ここには聖霊が結ぶ実が9つ挙げられています。ある人は、一番最初の愛(アガペー)という大きな実の中に、後の「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」が含まれていると受けとめます。その受け止め方も間違っていないでしょう。「これらを禁じる掟はありません」とあります。掟はイスラエル社会の律法であり、モーセの十戒と言ってもよいでしょう。ここに挙げられている聖霊の結ぶ実を、罪として退ける神の戒めは存在しないということです。ここの聖霊の実、もちろんすべて神様の御心に適っているという確認ですね。

 「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。」これは皆、主イエス・キリストのご性質です。イエス・キリストは、この9つの実の塊の方です。聖霊は、父なる神様の霊であり、イエス・キリストの霊ですから当然です。私たちは、自力でこのすばらしい実を結ぶことができません。イエス様がヨハネ福音書15章で語られた「ぶどうの木」のたとえを思い出します。「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」さらにイエス様はヨハネ福音書15章15節以下で、こう言われます。「私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。」イエス様が私たちを愛して選んで、イエス・キリストを信じる信仰を与えて下さいました。そして私たちが聖霊の実を結び、イエス様に似た者になるように導いておられます。もちろん姿形ではなく、私たちの心と生き方がイエス様に似た者になるようにと、今この礼拝において導いて下さっています。

 「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。」この中のいくつかをとり上げてみますと、まず愛は先ほど申しましたように、新約聖書の元の言葉ギリシア語でアガペーです。これはコリントの信徒への手紙(一)13章の「愛の賛歌」の個所に記されている愛(アガペー)と同じと言えます。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して廃れない。」この愛ですね。

 次の平和は、イエス様がヨハネ福音書14章で約束された平和です。ヘブライ語でシャロームでしょう。「私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。」また16章ではこう言われて、私たちを励まして下さいます。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」悪魔と罪と死に勝利して復活されたイエス様が、私たちと共におられるので、私たちには真の平和があります。

 4つ目の「寛容」と5つ目の「親切」。この2つは、ローマの信徒への手紙2章4節に出て来ることを発見しました。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んずるのですか。」4つ目の実の「寛容」という言葉はローマ2章4節では「忍耐」と訳されている言葉と、元のギリシア語は同じです。5つ目の「親切」は、ローマ2章4節で「慈愛」と訳されている言葉と、元のギリシア語は同じです。つまり「寛容」は「忍耐」と訳すこともでき、「親切」は「慈愛」と訳すこともできると分かりました。9つの実をそのように唖訳すとこうなります。「霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和、忍耐、慈愛、善意、誠実、柔和、節制です。」ローマ2章4節では「慈愛と忍耐」は神様のご性質ですから、私たちが聖霊の実を徐々に結ばせていただくとき、恐れ多くも、父なる神様のご性質に感化され、似た者とされていくと分かります。洗礼を受けた聖霊を受けた私たちは、神の子とされたのですから、神ご自身のご性質に徐々に感化されることは、確かに自然ではあります。もちろん私たちが神になることはあり得ませんが、神様のご性質に感化されることは、あまりの光栄に身震いすることだと感じます。そして寛容は、忍耐強さと言う意味でもあると知らされます。

 そして柔和ですが、柔和と聞くと、私たちは柔和なイエス様を思い出し、マタイ福音書11章28節のイエス様の御言葉を思い出しますね。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(重荷)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」私たちも、聖霊を受けることで、イエス様に似た柔和で謙遜な者に変えられます。イエス様に私たちに、「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われます。厳しく聞こえる御言葉ですが、イエス様は「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」と言われます。私たちが自分の十字架を背負うときも、イエス様が共に背負って下さるので、私たちは背負うことができ、「背負ってみれば、思ったほど重くない、いや軽い」という場合もあるはずです。

 そして節制です。別の訳では自制と訳しています。どちらにしても、欲望のままに生きるのではなく、欲望と自己中心を抑える生き方です。聖霊は、私たちを節制へと導きのですね。パウロ自身も、節制に励んだと書いています。コリントの信徒への手紙(一)9章24節以下です。「あなた方は知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなた方も賞を得るように走りなさい。協議をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を得るために節制するのです。だから私としては、やみくもに走ったりしないし、空を撃つような拳闘もしません、むしろ、自分の体を打ち叩いて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」

 私が金曜日に礼拝のお話のために行く市内の保育園の園長先生はクリスチャンですが、お若い頃、アメリカからの奨学金で勉強された時期があったそうです。ご本人に伺ったことによると、その奨学金はアメリカの子どもたちが、受難節もしくは受難週に、おやつを食べるのを我慢して、その分を献金として献げた、そのような献金による奨学金だったとのことです。それを聞いて思い出したのは、東日本大震災のとき、台湾の教会から多くの支援献金が送られてきました。その中には、少年少女が一食(昼食?)を抜いて、それを献金としてまとめたお金も含まれていたということです。但し、今そういうことをすると子ども虐待と見なされそうなので、私たちが直ちに同じことはできませんし、もちろん強制もできませんが、献金ということは身銭を切る面があってもよいということだと思います。以前の教会では、今申し上げたような献金を克己(己れを克服する)献金と呼んで来たと思います。受難節、受難週などにしばしば行われ、イエス様の十字架の愛に感謝する気持ちの強い方々が行って来られました。「聖霊の実」に節制が含まれているので、今のようなことを思い出しました。

 先に進み24節「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉(自己中心の罪)を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」これは、洗礼の恵みを指していると言えます。ローマの信徒への手紙6章4節ですね。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命(神を愛し、隣人を愛する命)に生きるためなのです。」私たちの古い罪深い自分はイエス様と共に十字架につけられて死に、私たちはイエス様と共に新しい命に復活してます。8節はこうです。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」それでこのような結論になります。13節「あなた方の五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」

 これは本日のガラテヤの信徒への手紙につながります。5章25~26節「私たちは霊(聖霊)の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりする」のは、もちろん悪魔の導きに従う生き方です。肉の業、罪の生き方への逆戻りで、神の国に向かわないで、悪魔の国に向かう生き方です。そうならないようにとの警告です。

 本日の旧約聖書・イザヤ書61章は、慰め深い御言葉です。イエス様は、ルカによる福音書4章でこの御言葉を引用され、この御言葉がご自分の上に成就・実現したと述べておられます。「主は私に油(聖霊)を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。」イエス・キリストのキリストは、ギリシア語で「油(聖霊)を注がれた者」の意味です。キリストはヘブライ語ではメシアで、同じ意味です。イエス様こそ、油(聖霊)を最も豊かに注がれたキリスト、メシアです。あるクリスチャンは、「信仰とは、神の霊に捕らえられた状態だ」と言っています。なるほどと思います。私たちも神の霊である聖霊に捕らえられているのです。大変感謝なことです。油(聖霊)を注がれたキリストであるイエス様の使命が、1節の3行目から記されています。「私を遣わして貧しい人に良い知らせ(福音)を伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人(悪魔に捕らわれた人)に自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日(正義を行われる日)を告知して、嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて讃美の心をまとわせるために。」

 イエス様がまさに、私たちにそのようにして下さいました。神の愛の良い知らせを、打ち砕かれた心を包み、恵みを与え、嘆いている人々を慰め、嘆きに代えて喜びの香油(聖霊か)、暗い心に代伝ええて讃美の衣をまとわせるために。」そして私たちこそ、その次に書いてある「主が輝きを表すために植えられた正義の樫の木」と言えます。神様が私たちに聖霊を、ますます豊かに注いで下さいますように。そそして私たちが「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の聖霊の実を、ますます豊かに結ばせていただけるように、熱心に祈りましょう。今から受ける聖餐によっても、私たちがますます生けるイエス・キリストの感化を、全身全霊に受けることができるように祈って、深く感謝して受けましょう。アーメン。