日本キリスト教団 東久留米教会

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2020-05-09 17:12:20(土)
「神の国で太陽のように輝く」 東久留米教会礼拝 2020年5月10日(日)
礼拝順序: 招詞 ヨハネ福音書16:33、頌栄 26(2回)、「主の祈り」、交読詩編 138、「信仰告白・使徒信条」、讃美歌21・280番、聖書 ダニエル書12:1~3(旧約聖書1401ページ)、マタイ福音書13:24~43(新約聖書25ページ)、讃美歌21・97番、祈祷、説教「神の国で太陽のように輝く」、祈祷、讃美歌21・361番、献金、頌栄 91番(2節)、終祷。

(ダニエル書12:1~3)
 その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。

(マタイ福音書13:24~43)
 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

(説教)
 先週に続いて、種についてのイエス様のたとえです。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。」

 私たちはこのたとえを読むと、毒麦は誰か他人のことだと、無意識に思うのではないでしょうか。しかし私たちは皆、神様から見れば罪人(つみびと)なので、私たち一人一人にも多かれ少なかれ毒の要素はあるのです。Aさんは良い麦、Bさんは毒麦と単純に簡単に白黒分けることはできません。もちろん世の中には殺人や姦通(不倫)、盗みなどの明確な罪・悪はあるので、それらについては明確に「ノー」という必要があります。しかし日常生活においては、一人一人に良い部分もあり、悪い部分(罪・悪)もある。完全に良い麦はイエス様一人です。私たち一人一人は、比較的良い麦だと思いますが、100%良い麦ではなく、残念ながら毒の部分(罪・悪)も少しあるのです。

 僕(しもべ)たちは言います。「では、行って抜き集めておきましょうか。」主人(神様)は言います。「いや、毒麦を集めるとき、麦(良い麦)まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れ(世の終わり)まで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう。」主人(神様)は焦らないのです。

 イエス様は次のたとえを語られます。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」イスラエルのからし種をご覧になった方々がおられると思います。私も見ましたが、本当に小さいというより、砂粒のように細かい種、よほど注意しないと一瞬でなくしてしまいそうな種です。これが成長すると、かなり大きく育つそうです。小さくても種には強い生命力があるのですね。東久留米教会が属する西東京教区には、何年か前にできた立川からしだね伝道所があります。2010年頃から始めた西東京教区の開拓伝道で始めた伝道所です。公募で名前を決めたように記憶しています。最初は小さな一歩でも、大きく育つことを願って「からし種」の言葉が入れられました。

 大賀一郎博士という方がおられました。クリスチャンだそうです。1951年に68才の時に、千葉市検見川の泥炭層を多くの人々に協力してもらって掘って、約2000年前の古いハスの実を見つけました。少し前に近くから2000年前の丸木舟が発見され、人々は丸木船にばかり注目したが、大賀博士はそこに「ハスのヘタがあった」と聞き、「それならハスの実もあるはずだ」と考えて探したのです。多くの人々に協力してもらい苦労して見つけ、それが芽を出し花を咲かせるまでに育てました。アメリカの研究機関で測定したところ約3000年前との結果が出ました。大賀ハスとして有名になり、私もそのハスの子孫のハスを見た記憶があります。全ての種がそれほど長く生きないでしょうが、中には2000年、3000年後に芽吹く種もあるほどに、神様が種に与えた生命力があるのですね。

 イエス様はほぼ同じことを別のたとえで語られます。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトン(1サトンは12.8ℓ)の粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」イースト菌を入れないで焼いた大昔のパンは固くてせんべいのようだったそうですが、イースト菌を入れるようになってからはふっくらしたおいしいパンを焼けるようになった。イエス様は日常生活をよく見て語られました。

 「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。』」これは詩編78:2の引用です。イエス様がたとえで語られることは旧約聖書で予告されているとのメッセージです。

 この後、イエス様は「毒麦のたとえ」を弟子たちだけに説明して下さいます。群衆には説明していません。どうしてか分かりませんが、弟子たちは神の国の秘密(奥義)を特に丁寧に教えて下さるのです。やはり弟子たちは幸せ者です。それによると、「良い種を蒔くのは人の子(イエス様)、畑は世界、良い種は御国の子ら(イエス様に従う人々)、毒麦は悪い者の子ら(悪魔に従う人、強いて言えばユダ)、毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わり(神の国の完成)のことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるもの(罪)すべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らはそこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人たちはその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」毒麦とは「不法を行う者ども」、神の律法を行わない者ども、愛と正義を全く行わない者どもを指します。この場面は、世の終わりに行われる最後の審判ですね。ヨハネの黙示録20章に「悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた」、「死も陰府も火の池に投げ込まれた」とありますから、最後の審判で悪魔と死が滅亡することが分かります。毒麦も火の池に投げ込まれるのでしょうが、神様は毒麦として滅びる人が一人でも少ないようにしたい、できる限り減らしたいと、切に願っておられると私は信じます。
 
 そこで改めて初めの「毒麦のたとえ」を読みます。毒麦を蒔いたのは確かに神様の敵・悪魔の仕業です。悪魔は神様の敵とは言っても、もちろん神様の方が強いのです。僕たちは「毒麦を抜き集めましょうか」と提案します。しかし主人(神様)は、「待ちなさい。焦るな、性急に刈り取って間違えてはいけない」とのお考えです。「毒麦を集めるとき、麦(良い麦)まで一緒に抜くかもしれない(外見は似ているのでしょう)。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。」育ちきれば毒麦は必ず正体を現す。邪悪な正体を隠し通すことはできない。必ずボロを出す。それまで待って抜いても遅くない。

 確かに毒麦がある。それは明らかに神様の十戒等を破って罪を犯している人々です。たとえば殺人、姦淫(不倫)、盗みなどの罪を犯している人がいれば、その罪をやめさせ、悔い改めてもらう必要が大いにあります。毒麦として急いで抜くのではなく、神様に立ち帰って罪を悔い改め、罪の行いをやめてもらうように強く伝えるのです。その人がずっと罪を悔い改めなければ、世の終わりが来て毒麦として抜かれ、(説教を聴いて下さる方々を脅すつもりはないのですが)火の池に投げ込まれる恐れはあります。世の終わりはすぐには来ない。その間に教会がなすべきことは伝道です。「イエス・キリストが、あなたの罪をも背負って十字架で死なれ、三日目に復活された。イエス様を救い主と信じて罪を悔い改める人は皆、罪の赦しと永遠の命を受ける」、この福音を宣べ伝えることです。

 新約聖書の中で、色々な人が罪を悔い改めて救われました。もしかすると毒麦だったが、悔い改めて毒麦ではなくなった人とも言えます。たとえば放蕩息子はお父さんを無視して生きる罪を犯したと言えますが、悔い改めて立ち帰りました。ヨハネ福音書8章の「姦淫の女」も、姦淫という明らかな罪を犯したのですから、毒麦と言われても仕方ありませんが、イエス様によって赦され悔い改めたに違いありません。ルカによる福音書でイエス様と共に十字架につけられた犯罪人の一人は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったときに、イエス様がそれを悔い改めと認めて下さり、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」との約束を受けました。彼は毒麦だったと言えますが、悔い改めて毒麦でなくなりました。私たち一人一人も罪をもっていますから、毒麦の要素を持っています。しかしイエス様を救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて、毒麦でないと見なしていただけるようになりました。パウロは、クリスチャンたちを迫害して神様に逆らっていたのですから毒麦だったと言えます。でも彼は復活のイエス様に出会い、自分の罪に気づいて悔い改め、洗礼を受け、神の子の一人なりました。神様は、すべての人が自分の罪を悔い改めてイエス・キリストに立ち帰ることを望んでおられます。神様は毒麦があっても、毒麦がどんどん減って、1つもなくなる(全ての人が罪を悔い改める)ことを望んでおられます。世の終わりがまだ来ていないのはそのためです。性急に裁かず、全ての人が悔い改めるのを忍耐強く待っておられます。イエス様は言われます。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)。

 この社会の裁判でも、急いで裁くと間違いが起こり、冤罪が発生することがあります。犯罪者でない人を逮捕して有罪判決を下してしまう過ちが、残念ながら起こることがあります。冤罪の疑いが濃い事件に狭山事件があります。1963年5月1日に、埼玉県狭山市で高校1年生の女子生徒が行方不明になり、5月4日に遺体が発見された事件です。狭山市は東久留米教会がある東久留米市から遠くないのです。警察が捜査令状なしに狭山市にあった2つの被差別部落の住民たちに集中的な見込み捜査を行い、無実の部落青年20数名を取り調べ、3名を別件で逮捕、その中の一人が当時24歳の石川一雄さんでした。私が持つ資料によれば、取調官から「殺したと認めれば10年で出してやる。男の約束だ」と言われ、連日の長時間の取り調べの疲れもあって、殺していないのに自白した。その結果、第一審では死刑判決が出た。その後、自白を撤回し、第二審の公判で「係官に誘導されて嘘の自白を強いられた」と全面的に主張しました。第二審は無罪判決かと思いきや、無期懲役の有罪判決でした。最高裁に上告したが棄却され、14年に及ぶ裁判は終わり、無期懲役が確定し千葉刑務所に送られたのが1977年。1994年に仮出獄。その後、支援してくれる女性と結婚。石川さんは、「自分は犯人ではない」と主張しています。しかし再審請求が裁判所に受け入れられない。

 多くのクリスチャンが、今は80才を超えた石川さんの無実・冤罪を信じ、再審が行われ無罪判決が出ることを願って支援活動をしています。私は2年前の3月に日本キリスト教団狭山教会で行われた狭山事件学習会に一部参加しました。石川さん夫妻のお話も伺うことができました。支援している教会は日本カトリック司教協議会、近畿福音ルーテル教会、在日大韓基督教会、日本聖公会、日本バプテスト同盟、日本バプテスト連盟、日本ナザレン教団、日本基督教団等です。この事件は物的証拠がほとんどなく、有罪の決め手が自白であることを知りました。この問題ある捜査・裁判の背景には部落差別の罪があることを知りました。私はこの事件は冤罪の可能性が極めて高いと思っています。急いで焦って、性急に拙速に裁くと、人間は間違えることが十分あり得ることを申し上げたいのです。「では、行って抜き集めておきましょうか」と逸る(はやる)、気が急く(せく)僕たちに、主人(神様)は焦らず待つように言います。「いや、毒麦を集めるとき、麦(良い麦)まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れ(世の終わり)まで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけよう。」期が熟すまで待つということがあってよいのですね。その意味で、死刑制度について考えさせられます。死刑制度に反対の人々もおられます。今の日本では、死刑制度を支持する人が少なくありません。しかし死刑制度の最大の問題は、もし冤罪だった場合、死刑執行後では取り返しがつかないことです。そんなことも今日の御言葉から考えさせられます。石川さんも第一審は死刑判決だったのです

 今、新型コロナウイルスに苦しむ私たちが、「毒麦のたとえ」を読むとき、何を感じるでしょうか、感染した人を毒麦のように見なして、社会から排除する恐れはないとは言えません。もちろん一時的に隔離することは必要でしょうが、しかしその人の人格を否定したり、その人を差別することのないように気をつける必要があります。アメリカでは新型コロナウイルスで亡くなった方の多くが黒人だと報道されています。黒人の方は、感染しやすい環境で生活したり働かざるを得ない現実があるのですね。まだ黒人差別が十分になくなっていない現実があぶり出されました。社会の弱い部分にしわ寄せがいく現実に、気持ちが暗くなります。

 新型コロナ問題で、人間たちが活動を自粛しているので交通渋滞が大きく減り、一時的でしょうが大気汚染が改善されたと聞きます。交通事故も大幅に減ったそうです。コロナな問題で、経済的に非常に苦しむ方が多い中で申し上げにくいですが、もしかすると、私たち人間という活動し過ぎる生き物が、自然界から見れば最大の毒麦であるかもしれません。コロナウイルスには早く無力になってほしいですが、私たち人間が自然界にとっての毒麦にならないように、コロナが収まったとしても慎ましいライフスタイルを継続することが必要と思います。

 イエス様は言われます。世が終わり、神の国が完成するとき、「正しい人々(悔い改めた人々)はその父の国で太陽のように輝く。」本日の旧約聖書ダニエル書12:3にも、こうあります。「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。」神様は全ての人が、罪を悔い改めて救われ、神の国でこのように輝くことを願って、全ての人を招いておられます。感謝をもって、皆で愛の主イエス・キリストのもとに立ち帰りましょう。

(祈り) 父なる神様、聖なる御名を讃美致します。新型コロナウイルスに悩む日々ですが、私たちが忍耐強く、辛抱強くこの時を乗り切ることができますように、忍耐力を与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与えて下さり、支えるご家族にも十二分な守りをお与え下さい。医療従事者をコロナウイルスから守って下さい。ワクチンと治療薬が早く開発され、世界全体でこの試練を克服できるように助けて下さい。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

2020-05-02 20:38:09(土)
「神の言葉の種蒔き」2020年5月3日(日) 復活節第4主日礼拝説教 
 礼拝順序: 招詞 ヨハネ福音書16:33、頌栄 24、「主の祈り」、交読詩編 137、「信仰告白・使徒信条」、讃美歌21・321番、聖書 コヘレトの言葉11:1(旧約聖書1047ページ)、マタイ福音書13:1~23(新約聖書24ページ)、讃美歌21・289番、祈祷、説教「神の言葉の種蒔き」、祈祷、讃美歌21・566番、献金、頌栄 91番(1節)、終祷。

(コヘレトの言葉11:1)
 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってからそれを見いだすだろう。

(マタイ福音書13:1~23)
 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

(説教)
 本日の箇所は、教会の伝道にとって大切なことを述べています。イエス様がガリラヤ湖の畔で舟に乗って腰を下ろし、大勢の群衆にたとえを語られます。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いので、すぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」これがたとえです。

 「耳のある者は聞きなさい」ですから、耳があっても聞き流すだけではいけないのですね。この「聞きなさい」は漢字を変えて「聴きなさい」にする方がよいでしょう。しっかり聴いて心の中にとどめて祈り深く考えて悟ることが大切と思います。「耳のある者は聴きなさい」は、イエス様のメッセージ聴く人たち(私たち)へのイエス様のチャレンジです。神の言葉をよく聴いて、祈り深く考えて悟るようにとのチャレンジです。そうでないと実を結ぶことが難しいと思うのです。

 この後、弟子たちがイエス様に近寄り、質問します。「なぜ、あの人たち(群衆)にはたとえを用いてお話しになるのですか。」弟子たちには、もっとストレートに教えられたので、こう質問したのでしょう。イエス様が答えられます。「あなたがた(弟子たち)には天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たち(群衆)には許されていなからである。」「天の国の秘密」は、口語訳聖書で「天国の奥義」です。奥義は「深い真理」と言えます。イエス様は弟子たちと群衆をある程度区別しておられるのでしょう。やはり12名の弟子たちは、いつもイエス様の傍にいて寝起きを共にし、最も身近でイエス様から直接教えを受ける特別な恵みを受けていたのです。イエス様は弟子たちに複数回、十字架の予告を語られました。それでも実際には、弟子たちもイエス様の教えをなかなか悟ることはできなかったのです。神の言葉の真の意味を悟るには、祈りと神の言葉を受け入れる謙虚な心と、聖霊の働きが必要です。そして神の言葉の教えることをへりくだってよく聴きとって悟らないと、実を結ぶことができません。実を結ぶとは、イエス様のように神と隣人を愛する人に徐々に変えられていくことと思います。それには時間がかかることも多いのです。

 イエス様はここで、群衆に対して厳しい見方をしておられます。「持っている者は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」イエス様を深く知ろうと心がける者は、イエス様をますます深く知ることができるが、イエス様を深く知ろうとしない者(群衆)は、イエス様のことがどんどん分からなくなる」ということではないでしょうか。「だから、彼らにはたとえを用いた話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」群衆は、悲しいことにイエス様を見ても、イエス様の本質(神の子であること)を分かろうとしないほどにかたくなだというのです。

 「イザヤの預言は、彼らによって実現した『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』」実に厳しい言葉です。群衆は心がかたくなで、イエス様が神の子であることを悟ろうとしない、そして自分の罪を悔い改めない。最初の3つの種のケース(実を結ぶに至らなかった種)のようだ。道端に落ちて鳥に食べられてしまった種、石だらけで土の少ない所に落ち、すぐ芽を出したが日に照らされ根がないので枯れてしまった種、茨の間に落ちて茨が伸びてふさいで実を結ばなかった種のようだ。もちろんイエス様の心の深いところの願いとしては、最初の3つの種のようにならず、イスラエルの群衆にも、「良い土地に落ちて百倍、六十倍、三十倍にも実を結ぶ種」になってほしいはずです。ところが現実には群衆がそうなっていないという嘆きが、イエス様にあったと思います。

 これに対して、弟子たちはイエス様を見て、イエス様を神の子と悟っているから幸いだ、祝福されているとイエス様はおっしゃいます。「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」昔の預言者や信仰者たちも救い主に会いたかったし、救い主の話を聞きたかったが聞けなかった。たとえば旧約の義人ヨブは言いました。「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」ヨブは救い主に憧れていたのです。でもヨブは救い主に直接会うことができなかった。それなのに弟子たちは、救い主イエス様に直接出会い、そのメッセージを直接聞けるのだから、ヨブから非常にうらやましがられる立場だ、何と祝福されていることか。私たちはイエス様に直接お会いしていませんが、イエス様の愛の霊である聖霊が私たちの内に住んでおられますし、聖書を読むことでイエス様を深く知ることができるので、やはりヨブからうらやましがられる立場にいます。私たちも祝福されているのです。

 私たちクリスチャンは、神の言葉の種蒔きを続けています。本日の旧約聖書は、コヘレトの言葉11:1です。有名な御言葉です。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってからそれを見いだすだろう。」私が1988年に洗礼を受けた時、私に洗礼を授けて下さった牧師が、教会からのプレゼントとしていただいた口語訳聖書に、この御言葉を達筆な文字で書いて贈って下さいました。「神の言葉を蒔き続けなさい」というメッセージと私は解釈しています。その後伝道者にならせていただき、御言葉の種を蒔き続ける日々を過ごさせていただいて来たのだと思います。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってからそれを見いだすだろう。」パンを「御言葉の糧」と考えることもできます。伝道、御言葉を宣べ伝えることにはこのような面があります。いつ実るのか分からない。いつかどこかで神様が実らせて下さることを信じて、神に委ねて御言葉の種を蒔き続ける。

 私は2011年の秋から私が住む市のキリスト教主義の保育園のチャプレンをもさせていただき、この8年半、毎週金曜日に保育園の礼拝に伺って、ほとんどクリスチャン家庭でない子どもたちにイエス様のお話をしています。十字架の話もしますが、「イエス様は弟子たちの足を洗った」ことを強調して、何回も話して来ました。小学生になってクリスマス会などに来た時には、一緒に「主の祈り」をすることもあります。子どもたちは忘れかかっていても、「ええと、ええと」と何とか思い出し、「主の祈り」を祈ります。この種がいつ芽を出し、花を咲かせ、実を実らせるのか、全く分かりません。私自身も幼稚園で毎朝、こどもさんびかを歌い、お祈りしたことを思い出し、神様がいつの日か蒔かれた種を成長させ、実らせて下さると信じて、こらからも保育園の礼拝でも信仰の種を蒔き続けようと、改めて思います。

 後で歌う讃美歌21の566番は、90歳をこえて天国行かれた教会員の松下姉が愛しておられた讃美歌です。「むくいを望まで、人に与えよ。こは主のとうとき、みむねならずや。水の上(え)に落ちて、流れし種も、いずこの岸にか、生いたつものを。」この歌詞がコヘレトの言葉11:1から来ていますね。報いを望まないで人に愛の業を行う。それがどのような結果になるか私たちには分からないが、神様が思いもかけない時と場所で芽を出させ、実を結ばせて下さる、という讃美歌と思います。それが松下さんの信仰だった。

 昨年出版された本に、小友聡先生の『コヘレトの言葉を読もう 「生きよ」と呼びかける書』(日本キリスト教団出版局)があります。小友先生はコヘレトの言葉11:6(「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」)を引用して、次のように述べられます。「もう諦めるしかないという悲観的な結論に至る瀬戸際で、だからこそ最善を尽くし、徹底して生きよと、コヘレトは勧めます」(111ページ)。「空しく、先が見えないからこそ、今、最善を尽くす生き方をせよ、とコヘレトは述べています」(同)。今、新型コロナウィルスに苦しむ私たちに、非常に勇気を与えて下さるメッセージと思います。そして喜びをもってこれからも御言葉の種蒔きを続けていこうと、やる気を与えられます。コリントの信徒への手紙(一)3:6でパウロという伝道者が、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」とありますから、私たちは種を蒔き(植え)、水を注いで祈っていれば、神様が芽を出させ成長させて下さると信頼して、種蒔きを続けましょう。

 今日のマタイによる福音書に、「神の国の秘密(奥義)」という言葉が出て来ました。私は「神の国の秘密(奥義)」の最たるものは、イエス様の十字架の死と復活と思います。神の子イエス・キリストが、私たち全員の罪を全て背負って十字架で死んで下さり、三日目に墓を破って復活された。これこそ「神の国の秘密(奥義)」の中心です。このことは弟子たちにも、なかなか悟れませんでした。十字架の前、ユダは裏切り、ペトロは慌てふためいてイエス様を三度知らないと言いました。そのような混乱を経て、イエス様が復活され、こんこんと教えて下さり、初めて弟子たちはイエス様が自分たちの深い罪のためにも、十字架で死なれたことを悟りました。

 「神の国の秘密(奥義)」がイエス様の十字架の死と復活であることを悟らされた人は、洗礼を受け、礼拝で聖餐(イエス様の御体と御血潮)を受ける人生に入ります。洗礼と聖餐も、信仰の深い奥義です。しかし奥義であっても、今や世の中の人々に対して隠されていません。イエス様の十字架と復活は奥義ではあるが、逆に全ての人々に対して明らかにされて、公に宣べ伝えられることをこそ、神様がお望みです。

 イエス様が私の罪のために十字架で死なれたことを受け入れるためには、謙虚な心が必要です。特に、自分がイエス様の前に罪人(つみびと)であることを認める素直で謙虚な心が必要です。そのようにへりくだる人に、神様は愛の霊である聖霊を注いで下さり、実を結ぶ信仰者にならせて下さると思うのです。

 イエス様は、ヨハネ福音書12:24で「一粒の麦」の話をされます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」種は殻を破って発芽する、芽を出すという言葉を聞いたことがあります。その通りですね。殻は自我、エゴと言えます。自己中心という殻を捨て、エゴという殻を破らないと、実を結ぶことができせん。神学校を英語でセミナリーと言います。これはもともと苗床意味だそうです。種を植える苗床です。種は苗床で殻を破る、自我に死ぬ必要があります。ある方は、神学校(苗床)は「己に死す道場」だと説教されました。イエス様を愛するために自己中心の罪に死ぬ苗床が神学校だと。いえ、神学校に限らず、洗礼を受ける(クリスチャンになる)ことが自我に死ぬことです。パウロは言います。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」これはクリスチャン全員に当てはまる現実です。洗礼を受けた時に、古い自分(罪深い自分は死んだ)。今はイエス様が聖霊としてわたしの内に生きておられる。クリスチャン一人一人は、個性を持ちつつも「キリストに似た者」です。

 今から30年ほど前に天に召された井深八重さんと(1897~1989)いう看護師がおられました。この女性のことは、遠藤周作が小説にしており、20年ほど前に『愛』という映画にもなり私も見ました。井深八重さんは台北生まれ、会津出身で牧師の井深梶之助(明治学院の2代目総理)の親戚のようです。京都の同志社で英語を学び、英語教師として長崎に赴任します。ところがそこで病気と言われ、空気のよい所で療養する必要があると診断され、病名を教えられないまま静岡県の富士山のふもとの神山福生病院に送られます。そこで初めてハンセン氏病と診断されていたことに気づき、泣きに泣いたそうです。そこはカトリックの教会が建てた病院で、医者は院長のレゼー神父のみ、病院は極貧、高齢化しつつある患者同士で看護しているような状態でした。若い八重さんは色々な手伝いをします。

 病状が悪化しないので、東京の病院で再診してもらうと、何と病気でないことが分かります。一旦病院に戻って報告し、もう退院してよいのですが、後ろ髪引かれる思いになります。レゼー神父も、親しくなった患者さんたちも高齢、「私が去ったらこの病院はどうなってしまうだろう」と考えてしまいます。既にクリスチャンになっていたのでしょう。祈ったでしょう。東京の看護学校に行く決心をします。そこで学び訓練を受け、神山福生病院に赴任することを申し出ます。看護師になって戻って行ったのです。看護はもちろん、掃除・洗濯、畑での食料作り、病院のための募金などフルに奉仕なさったそうです。太平洋戦争中の苦しい時期も、献身的に病院を支えたそうです。国際ナイチンゲール賞を受賞したそうです。1989年に天に召され、病院の敷地内にお墓があり、「一粒の麦」と刻まれているそうです。数年後に日本テレビの番組『知ってるつもり』で紹介され、大きな反響を呼んだそうです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」まさにイエス様を愛し、イエス様に従い、「実を結んで、百倍、六十倍、三十倍にもなった」見事な人生と言えると思うのです。

 新型コロナウイルスに苦しめられ、閉塞感が漂う今ですが、だからこそ自分にできる小さな愛の奉仕はないか、身の周りで探して行い、与えられた今日一日を精一杯、イエス様にお献げしたいのです。

(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、聖なるお名前を讃美致します。風薫る5月を迎えました。コロナウイルスに悩む日々ですが、美しい花や新緑を与えて私たちを慰めて下さることを感謝致します。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与えて下さり、支えるご家族にも十二分な守りをお与え下さい。今の状況の中で学校もなくストレスを感じる子どもたちにもあなたの支えを与えて下さい。日本と世界でコロナに感染した全員を、早く全快させて下さい。ワクチンと治療薬が早く開発され、世界全体でこの病を克服してうけるように助けて下さい。医療従事者をコロナウイルスから守って下さい。主イエス・キリストのお名前によって、お願い致します。アーメン。

2020-04-26 4:13:54()
「まさしくわたしだ。触ってみなさい」2020年4月26日(日) 復活節第3主日礼拝説教
 この説教は前週よりやや長く、動画をユーチューブに送信するのに~4時間かかりました(動画は情報量が多いため)。石田真一郎

 礼拝順序: 招詞 コリントの信徒への手紙(一)15:20、頌栄 85番(2回)、「主の祈り」、交読詩編 136、「信仰告白・使徒信条」、讃美歌21・333、聖書 ホセア書6:1~3(旧約聖書1409ページ)、ルカ福音書24:36~52(新約聖書161ページ)、讃美歌21・331番(3回)、祈祷、説教「まさしくわたしだ。触ってみなさい」、祈祷、讃美歌21・329番、献金、頌栄 92番、終祷。

(ホセア書6:1~3)
 さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。

(ルカ福音書24:36~52)
 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて神をほめたたえていた。

(説教)
 本日のルカによる福音書は、エマオで復活のイエス様と共に食事をした二人の弟子たちがエルサレムに戻って、他の弟子たちに報告した後の場面です。そこにまさに復活のイエス様が現れたのです。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

 弟子たちは「亡霊だ、幽霊だ」と思い、恐怖心でいっぱいになったのです。イエス様が彼らを正しく導きます。「わたしの手(両手)や足(両足)を見なさい。まさしくわたしだ。」この「まさしくわたしだ」は、原語のギリシア語で「エゴー エイミー」です。重要な言葉です。これを英語にすると「I am」になるでしょう。「私は存在する、私はいる、私はある」の意味です。これは旧約聖書の出エジプト記3:14で、神様がモーセに自己紹介なさる場面と深くかかわります。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」イエス様は弟子たちに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と宣言されたのです。「わたしは復活した人間であると同時に、モーセに出現してイスラエルの民をエジプトから脱出させた神、天地万物を創造した神だ」と宣言なさったのです。イエス・キリストは、まさに神であり人である方です。

 そして言われます。「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」私たちはここで、ヨハネ福音書に登場する疑った弟子トマスを思い出します。復活のイエス様が十人の弟子たちに現れた時、トマスはそこにいませんでした。トマスはイエス様の復活を信じない意志を鮮明に示しました。 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」そのトマスのかたくなな心を溶かすために、イエス様がもう一度来て、直接トマスに語られます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは、びっくりしたでしょう。イエス様に答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白をしたのです。

 この時トマスは、イエス様の手に指を、わき腹に手を入れて確かめたのでしょうか。私は、トマスはしなかったのではないかと思いますが、トマスがそうしたと考えてその場面を絵に描いた画家もいます。カラヴァッジオという400年ほど前のイタリアの画家の絵を見ると、目をしっかりあけたトマスが、右手の人指し指をイエス様の右のわき腹に突っ込んで、十字架の傷を確かめています。別の二人の男の弟子たちも、「一体本当なのか?」という疑いを感じさせる表情で、トマスのすぐ後ろでイエス様の右わき腹の穴を覗き込んでいます。カラヴァッジオという画家は、殺人の罪を犯すなど強烈な人生を歩んだそうですが、この絵も強烈です。彼はこの絵を描くことで、トマスと同じ不信仰を乗り越えてイエス様の復活を信じるようになったのかもしれません。復活のイエス様の体は、新しい体、栄光の体です。しかしその体に十字架の時の穴があいており、復活前の体との連続もあるのです。

 キリスト教の歴史を振り返ると、初期にキリスト仮現論(仮現説)が現れたことがあります。イエス・キリストは霊だけの存在で、肉体をもっていなかった(地上に仮に現れたに過ぎない)という誤った説です。イエス様が十字架で苦しんだのはそう見えただけで、実際は肉体の痛みはなかったという誤った説です。しかしそうではありません。イエス様はマリアから生まれ、私たちと全く同じように赤い血の流れる肉体を持っておられました。十字架でも肉体の激痛をも耐え忍ばれたのです。ヘブライ人への手紙2:14~18に、次のように書かれている通りです。「子ら(人間たち)は血と肉(肉体)を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。(~)それで、イエスは(~)民の罪を償うために、すべての点で兄弟たち(私たち)と同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

 今、私たちも世界の人々も新型コロナウィルスの大きな試練に苦しんでいます。イエス様は十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれました。私たちの苦難よりもっと深い苦難、父なる神様から一旦見捨てられるという究極の苦難を経験されました。私たちと同じ肉体をもって地上の生涯を歩み、私たちの苦しみをよく分かって下さるイエス様が、新型コロナウイルスに苦しむ今の私たちの苦しみを全て受けとめて、この苦難を共に担って下さっていると信じます。イエス様はこう語って、私たちを支えて下さいます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ福音書16:33)。新型コロナウイルスには、確かに死の力があり、人間にとって恐ろしい存在です。しかし十字架の死を打ち破って復活したイエス様は、新型コロナウイルスにも究極的に既に勝利しておられます。

 「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」弟子たちは復活のイエス様の両手両足を見て非常に喜びましたが、まだ不思議がり驚いていました。するとイエス様は、魚を所望され、それを彼の目の前で(ある人の表現では、むしゃむしゃと)食べてお見せになったのです。復活の体は栄光の体、天の体ですが、食物を食べることもできる体なのですね。復活のイエス様は案外親しみ易い方のようです。

 婦人会連合の『教会婦人』の最新号の巻頭文にも出てきますが、椎名麟三という作家がおられました。この方は洗礼を受けた後も、イエス様の復活がよく分からず、悩んでいたようです。『私の聖書物語』(中公文庫、2003年、91ページ以下)にこう書いています。「『自分の手や足を見てくれ、さわって見てくれ、霊に肉や骨はないが、わたしにはあるのだって?……よろしい、イエス君、そんなにいうのなら見てあげよう。』そうして、彼(椎名さん自身のこと)は、弟子やその仲間へ向ってさかんに毛脛(毛ずね)を出したり、懸命に両手を差しのべて見せているイエスを思い描いたのである。ひどく滑稽だった。だが、次の瞬間、そのイエスを思いうかべていた頭の禿げかかった男(椎名さん自身)は、どういうわけか何かドキンとした。それと同時に強いショックを受け、自分の足もとがグラグラと揺れるとともに、彼の信じていたこの世のあらゆる絶対性が、餌をもらったケモノのように急にやさしく見えはじめたのである。彼はその自分が信じられなかった。(~)彼は、あわてて立ち上って鏡へ自分の顔をうつして見た。だが、それはまるで酔っぱらったように真赤にかがやいていて、何かの宝くじにでもあたったような実に喜びにあふれた顔をしているのであった。彼は、その鏡のなかの顔を仔細に点検しながら友情をこめて言った。『お前は、バカだよ。』しかし不思議なことにはその鏡のなかの顔は、そういわれてもやはり嬉しそうにニコニコしていたのであった。これが私の回心の物語である。」

 椎名さんが照れ隠しのためか、わざと不真面目に書いている感じがしますが、懸命に両手を差しのべてご自分が復活したことを分からせようとするイエス様を思い浮かべていたときに、「ドキンとし」て心の中に変化が起こった、その自分の顔を鏡で見たら、喜びにあふれて、嬉しそうにニコニコしていた。神様の清き霊である聖霊が椎名さんの心の中に働いて、イエス様の復活を信じる心を与えて下さった瞬間だったと思えて仕方ありません。それは1つの奇跡です。少し大げさに言えば、椎名さんのペンテコステ(聖霊降臨)だったと思うのです。「聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』とは言えない」(コリントの信徒への手紙(一)12:3)という御言葉がありますが、同じように「聖霊によらなければ、だれもイエス・キリストの復活を信じることができない」ことも真実と思います。椎名さんにこの奇跡が起こり、信仰告白をしたクリスチャン一人一人にその奇跡が起きたのです。

 「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。』エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」 イエス様は、聖書(旧約聖書)には「メシア(救い主)が苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」と予告されていると主張なさいます。「メシアの苦しみの預言」は主にイザヤ書53章に記されています。

 「三日目の復活」はどこに予告されているでしょうか。その1つが、本日の旧約聖書であるホセア書6:1~3と言われます。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。」 確かに文言は、「二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる」とあり、イエス様の三日目の復活を予告している御言葉としてぴったりに思えます。しかし、新共同訳聖書は、6章1節以下の小見出しを、「偽りの悔い改め」としています。私はそのような箇所を三日目の復活の予告と見なすことに疑問を感じて来ました。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる」も、新共同訳は旧約聖書の神の民イスラエルの「偽りの悔い改め」と受けとめています。

 しかしそうでないと考える人もいます。カトリックのフランシスコ会という修道会は、聖書研究に精進する修道会です。フランシスコ会が訳したホセア書6章の解説文には、「さあ、我々は主のもとに帰ろう」は、預言者(神の真実の言葉を預かって忠実に語る人)ホセアが、神の民イスラエルに悔い改めを促す言葉だと書かれています。そうであるなら、「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる」を、イエス・キリストの三日目の復活を予告する御言葉と読むことに、私もすっきり賛成致します。

 東久留米教会は、自宅礼拝に切り替えて本日で5回目の日曜日です。そのような教会が増えている現実の中で、多くの牧師たちが「牧会(信仰のケアを行う)とは何か」、「牧会の大切さ」を改めて思わされているようです。教会の皆さんに週報をメール、ファックス、郵送、訪問によって届ける。説教もそうする。そして一人一人を思って祈る。この危機にあって、そのような基本的なことを、ふだんより徹底して行う。その中で、牧会の務めの大切さに改めて目覚めさせられる。私もそうです。そのような牧師が多いのです。役員の方々も、ふだん以上に教会のために奉仕して下さっています。もちろん牧師、役員に限りません。近くの教会員に週報を届けて下さる方もおられ、電話やメールで安否を問い合って下さる方々もおられます。その中で、教会への愛がさらに深められる。そのようなことも現に起こっていると思うのです。ピンチに立たされることで、却って神様への信仰と教会への愛、絆が強められていく。そのような機会にしていくことが大切と思わされます。

 自宅礼拝は、家族のよい信仰の交わりなる方々もあり、逆に少し寂しいという方もあるかもしれません。こんなエピソードを思い出しました。ナチスが勢力を誇っていた時、ナチスの官憲がカトリック教会に来て司祭をあざけった。「礼拝に出席する人はとても少なかったようですね。」すると司祭は、「そうでしたか? 私は天にいる大群衆と共に礼拝を献げていましたが」と答えました。私たちが一人で神様に祈って礼拝していたとしても、教会の友人たちも各々の自宅で礼拝しており、それだけでなく天にいる大群衆と共に礼拝している。何よりも復活のイエス様が一人一人と共にいて支えていて下さる。このことによって励まされ、共に礼拝できる日が与えられる日まで、信仰を失うことなく却って強められて礼拝し続ける私たちです。


(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、聖なるお名前を讃美致します。新型コロナウイルスのために愛する方を失ったすべての方々にあなたの深い慰めをお与え下さい。コロナウイルスによる病と闘うすべての方々に、あなたの癒しを注いで下さい。医療従事者を感染からお守り下さい。私たちの教会には、別の病と闘う方々がおられます。どうか神様の癒しと助けをお与え下さい。ご家族にも、あなたの支えがありますように。コロナのためのワクチンや治療薬が与えられ、すべての教会が早く礼拝堂での礼拝を回復できますように、力強く導いて下さい。主イエス・キリストのお名前によって、お願い致します。アーメン。


2020-04-19 3:57:43()
「わたしたちの心は燃えていた」 2020年4月19日(日) 復活節第2主日礼拝説教 
礼拝順序: 招詞 コリントの信徒への手紙(一)15:20、頌栄 85番(2回)、「主の祈り」、交読詩編 135、「信仰告白・使徒信条」、讃美歌21・328番、聖書 創世記3:13~15(旧約聖書4ページ)、ルカ福音書24:13~35(新約聖書160ページ)、讃美歌21・327番、祈祷、説教「わたしたちの心は燃えていた」、祈祷、讃美歌21・57番、献金、頌栄 83番(2節)、終祷。

(創世記3:13~15)
 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。

(ルカ福音書24:13~35)
 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」  

 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

(説教)
 本日のルカによる福音書は、復活のイエス様が登場する有名な場面です。昔から多くのクリスチャンが愛する場面と思います。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」この場面を描いた有名な絵があります。教会員の草刈さんが入居しておられた救世軍ケアハウスいずみの大きな壁にも、その絵が掲げられていました。その絵では、三人が木陰を歩いています。木陰だったので二人の弟子たちにはイエス様の顔が暗くてよく見えなかったと、その画家は考えたのでしょう。エマオが今のどの辺りなのか、2箇所ほど候補地があるそうですが、有力な方はエルサレムから見て西の方向です。ある人は、彼らが午後から夕方にかけて西日の方角に進んでので、西日がまぶしくてイエス様の顔が見えなかったと解釈しています。そうかもしれません。

 イエス様が、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われると、二人は暗い顔をして立ち止まり、クレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエス様は、『どんなことですか』と尋ねられます。二人にとって一番心にかかっている大きな問題ですから、二人は一気に心の思いを吐き出します。イエス様はそれを傾聴なさる、暫く口をはさまず、耳を傾け心を傾けて聴いて下さるのですね。

 『ナザレのイエスのことです。こ の方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、「イエスは生きておられる」と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。』」

 ここまでイエス様は傾聴なさいます。次のように書かれている木彫りを皆様もご覧になったことがあるのではないでしょうか。家庭に掲げている方もあるでしょう。私は昨年、自由学園の校舎で見ました。「キリストは、わが家の主、食卓の見えざる賓客、あらゆる会話の沈黙せる傾聴者。」イエス様は聖霊として、いつも私たちの家庭にも職場にも共におられます。私たちを守っておられると同時に、私たちのあらゆる言葉を黙って聴いておられ、私たちの心の中の思いを全てご存じです。そのイエス様が、全てをお聴きになった後で満を持して、聖書の深い真理を語り始められます。

 「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書(私たちの旧約聖書)全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」聖書の主人公はイエス・キリストだと言えます。旧約聖書にはイエス・キリストは直接登場しませんが、随所にキリスト(メシア、救い主)のことが暗示されています。イエス様はそのような箇所をいくつも取り上げて、詳しく話されたのでしょう。弟子たちにとって、救い主が十字架に架けられて死ぬなどは完全に想定外でした(実際にはイエス様は弟子たちに受難予告を何回か語られましたが、弟子たちには理解できませんでした)。弟子たちはイスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれる強い武力リーダーをイエス様に期待していたのです。ところがイエス様の救い主としての使命は、私たち全ての人の罪を身代りに背負わって十字架で死に、三日目に復活することでした。

 イエス様は言われます。「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」「はず」の原語は、先週出てきた「デイ」とほとんど同じ「エデイ」という小さいが大切な言葉です。必然、神の必然を表します。弟子たちには理解できていなかったが、救い主が十字架の苦難を受けることは、神様の最も深い愛のご計画だったのです。救い主の苦しみは、旧約聖書ではイザヤ書53章に最も集中的に書かれていますね。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。」イエス様はこの箇所をも用いて二人に語ったに違いありません。今、私たちも世界も新型コロナウイルス問題の大きな苦難の中にあります。ですがイエス様の十字架は、誰よりもどん底のどん底のどん底に下られた十字架です。コロナに苦しむ世界を、十字架のイエス様がもっとどん底から支えておられます。それを固く信じて、この世界規模の試練の時を、祈りつつ忍耐強く乗り越えさせていただきましょう。

 本日の旧約聖書は、創世記3章13節以下です。イエス様はもしかすると、この箇所を語られたかもしれません。エバとアダムが蛇(悪魔のシンボル)の誘惑に負けて神に背き、罪に転落した場面です。「主なる神は女に向かって言われた。『何ということをしたのか。』女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました。』主なる神は、蛇に向かって言われた。『このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は生涯這いまわり、塵を食らう。お前(蛇・悪魔)と女(エバ)、お前の子孫(悪魔)と女の子孫(救い主)の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。』」この箇所は、原福音と呼ばれます。救い主が悪魔と闘って勝利することが予告されています。「彼(救い主)はお前(悪魔)の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」救い主もダメージを受けるが、悪魔は頭を砕かれ完全なダメージを受けて滅びるということです。イエス様も十字架という厳しいダメージを受けられますが、悪魔はもっと致命的なダメージを受けて滅亡する予告です。イエス様が悪魔に勝利なさることを、聖書の冒頭に近い創世記3章が既に見通して預言していることに、驚かされます。イエス様ご自身による旧約聖書の説き明かしを聴くことができたとは、二人は非常な幸せ者です。イエス様自身による説教を聴きながら、気がつけば二人の心は燃やされていました。イエス様の愛によって、聖霊によって。

 「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」パンを裂いて渡すのは、家長の振る舞いです。この動作を見て二人は、イエス様がガリラヤ湖畔で五つのパンと二匹の魚で、男だけでも五千人の群衆を養われた時のことを、まざまざと思い出したと思うのです。そっくりの動作だったのですから。そしてこれは、教会の聖餐の原型とも言えます。イエス様が説教なさり、イエス様が聖餐を執り行われる。最高の礼拝です。私たちも礼拝で聖餐を行うたびに、この場面を再現しています。人間の牧師が説教と聖餐の司式を行わせていただきますが、牧師は代理人に過ぎず、私たちの礼拝の真の主催者はイエス・キリストご自身です。そこでイエス様の清き霊、愛の霊である聖霊が注がれ、私たちの冷えた心もイエス様の愛で燃やされる。そのような礼拝を本日も、毎週献げることができるように、私も皆様も、熱心に祈って参りたいのです。

 18世紀のイギリスで、メソジスト教会(プロテスタント教会の一つ)をスタートさせたジョン・ウェスレーが、アメリカで挫折して帰国し、不調だった時期がありました。彼はロンドンのアルダーズゲートという街で、信仰の集会に出て、ローマの信徒への手紙の朗読を聴いていました。すると不思議に心が温かくなる(燃える)体験をしたのです。「アルダーズゲートの回心」と呼ばれるウェスレーの生涯の転回点となった重要な出来事です。二人の弟子たちと同じく、イエス様によって心を燃やされる経験をしたのです。それを経てウェスレーの伝道が、進展していったと聞いています。産業革命で貧富の差が拡大していたイギリスで、イエス・キリストの福音が教会だけでなく、野外集会などで積極的に宣べ伝えられ、人々が受け入れたのです。

 そして弟子たちは、「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」弟子たちは、太陽が出て来る東へと、エルサレムへと走りました。太陽は神様がお造りになったもの(被造物)ですから、太陽を拝むことは偶像崇拝の罪になり厳禁です。ですが東から昇る太陽はキリストのシンボルの時もあるのではないでしょうか。旧約聖書のマラキ書3章には「わが名(神の名)を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」とあり、教会は「義の太陽」をイエス・キリストと信じてきました。暗闇が明るくなる東に向かって走る姿は、希望を感じさせます。

 私は昨年初夏に、お茶の水にあるニコライ堂(キリスト教会の一つギリシア正教の教会)の土曜日の晩の礼拝に出席致しました。私たちはクリスマスを一番祝い、イースターを二番目の祝日と考えていると思います。ギリシア正教では、クリスマスよりもイースターを盛大に祝うそうです。ですからニコライ堂の正式名称は、東京復活大聖堂です。パンフレットにこうあります。聖堂は「真上から見ると十字架の形」、聖堂は「太陽の昇る東向きに建てられ、日の出がイエスス(イエス様)の復活と結び付けられています。」復活節をなぜイースターと呼ぶのでしょうか。私にははっきり分からないのですが、東(イースト)から出る太陽を、復活のキリストのシンボルと見たからではないでしょうか。もちろん太陽は神でないので拝むことは厳禁ですが、希望の源・「義の太陽」イエス・キリスト、人の最大の敵である死に勝利したイエス・キリストを私たちは喜んで礼拝するのです。アッシジのフランチェスコという約800年前のイタリアの有名なクリスチャンの言葉が伝記に書いてありました。彼はハンセン氏病の人を抱きしめて、「兄弟たち、希望をもちましょう。希望がなさそうな時にも希望をもつ。これが本当の希望です。」死に勝利したイエス様がいつも共におられるので、私たちも希望を持つことができます。復活と希望の主イエス様と、これからずっと共に歩む私たちです。

(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、聖なるお名前を讃美致します。東久留米教会に連なる全ての皆さんとそのご家族を祝福して下さい。今、心身の病と闘う一人一人に愛による十二分な癒しを注いで下さい。支えるご家族に、あなたの御守りをお願い致します。東久留米教会より出発して日本と海外で伝道しておられる方々とご家族を豊かに祝福して下さい。新型コロナウイルスのために、日本も世界も非常に苦しんでいます。このために亡くなった方々のご家族にあなたの深い慰めをお与え下さい。感染して闘病中の全員を速やかに癒して下さい。ワクチンを早く与えて下さい。医療従事者を感染からお守り下さい。私たち人類を憐れんで、このウイルスを早く無力化して下さい。この切なる願いを、主イエス・キリストのお名前を通して、御前にお献げ致します。アーメン。

2020-04-12 3:54:11()
「死に勝利したイエス様」 2020年4月12日(日) イースター礼拝説教
礼拝順序: 招詞 コリントの信徒への手紙(一)15:20、頌栄 29番、主の祈り、交読詩編 16、信仰告白 使徒信条、讃美歌21・325番、聖書 雅歌3:1~4(旧約聖書1051ページ)、ルカ福音書24:1~12(新約聖書159ページ)、讃美歌21・326番、祈祷、説教「死に勝利したイエス様」、祈祷、讃美歌21・322番、(献金)、頌栄 83番(1節)、終祷。

(雅歌3:1~4)
 夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても/求めても、見つかりません。起き出して町をめぐり/通りや広場をめぐって/恋い慕う人を求めよう。求めても、あの人は見つかりません。わたしが町をめぐる夜警に見つかりました。「わたしの恋い慕う人を見かけましたか。」彼らに別れるとすぐに/恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。母の家に/わたしを産んだ母の部屋にお連れします。

(ルカ福音書24:1~12)
 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

(説教)
 皆様、イースターおめでとうございます。イエス様は、私たち皆の全ての罪を背負って、金曜日に十字架で死なれました。仮死状態ではなく完全に死なれました。陰府(死者の国)に行かれたのです。ペトロの手紙(一)3章19~20節に、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」とあります。死なれたイエス様は、土曜日(安息日)は陰府で宣教されたのです。この事実は、イエス・キリストの御手が死者の国にも確かに及んでいることを示します。そして日曜日の朝ごく早く、イエス・キリストは復活なさいました。正確には、父なる神様の愛の御力によって復活させられたのです。

 イエス様を慕う婦人たちは、「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」この箇所を「空の墓」の箇所と呼ぶこともあります。香料は原語でアロマです。まだ暗かったでしょう。午前4時ころでしょうか。日本語には早朝を指す「しののめ」という素敵な言葉があります。詩編57:8に「わたし(神)はしののめを呼びさまします」(口語訳)とあります。また詩編46:6に「夜明けとともに、神は助けをお与えになる」とあります。その通り、神様は夜明けと共に、いえ夜明け前にイエス様の復活という大きな恵みを与えて下さいました。

 婦人たちはイエス様を深く慕っていたので、まだ暗いうちからイエス様の墓に駆けつけたのです。愚直です。でもこれが愛ではないか。男の弟子は一人も行こうとしません。「行っても意味がない」と頭で考えたのです。婦人たちの場合は、愛情がまさりました。一途に、ひたむきにイエス様のもとに駆けつけます。婦人たちの計算のない愛の行動を、神様は喜ばれたと思うのです。この婦人たちは教会のひな形(原型)と言えます。聖書では教会はキリストの花嫁です。婦人たちはイエス・キリストをひたむきに愛し、キリストの花嫁として振る舞っていると感じます。

 本日の旧約聖書は、雅歌3:1~4です。雅歌は伝統的に神の民(花嫁)と神様(花婿)の愛の交流を描くと考えられてきました。女性が言います。「夜ごと、ふしど(寝所)に恋い慕う人を求めても、求めても見つかりません。起き出して町をめぐり、通りや広場をめぐって恋い慕う人を求めよう。求めても、あの人は見つかりません。~彼ら(夜警)に別れるとすぐに恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません。」ヨハネ福音書の復活の場面を読むと、マグダラ(地名)のマリアがイエス様を慕って墓に来たが、遺体がないので泣き続けます。園丁と思えた人が実は復活のイエス様で、「マリア」と呼びかけます。するとマリアが振り向いて「ラボニ(先生)!」と叫んですがりつこうとし、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とたしなめられます。雅歌の女性の「もう離しません」の言葉と深く通じます。マグダラのマリアは、本当にイエス様を慕うキリストの花嫁として生きています。マグダラのマリアだけがキリストの花嫁ではなく、教会全体がキリストの花嫁です。カトリックのシスター(修道女)は独身ですが、いわばキリストと結婚しているのだそうです。もちろん本当に結婚するのではなく、イエス・キリストをひたすら愛して生涯を献げるということです。マグダラのマリアも全く同じです。私たちもマグダラのマリアのように、ひたむきにイエス様を愛したいのです。説教者として知られる加藤常昭先生は、著書で次の意味のことを書いておられました。「イエス様が登場なさる映画でイエス様の姿がちょっと見えただけで胸がときめく。そのような自分にしていただいたことを深く感謝している。」イエス様も、私たちがイエス様を愛することを望んでおられます。私たちはイエス様をますます愛する花嫁でありたいのです。

 「空の墓」に戻ります。「石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」イエス様がどのように復活なさったのか、その場面はどの福音書にも記されていません。それは神秘で、神様だけがご存じです。一番大事な場面は、神様だけがご存じなのですね。私たち人間の命も、母親の胎内でどの瞬間に神様が命を吹き込まれたのか。誰にも分からないと思います。遺体がないので婦人たちは、困り果てます。

 「そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人(天使)がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子(イエス様ご自身)は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』」 天使が告げます。「イエスは生きておられる」と。「生きる」とは、父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛することです。それが生きるということです。イエス様はそのような真の命に生きておられるということです。単に生物学的に生存しているのではないのです。これは私たちにとっても大事なことで、父なる神様を愛さず、自分を正しく愛さず、隣人を愛していないなら、真の意味で生きていることになりません。もちろんイエス様は十字架の死の前も父なる神様を愛し、ご自分を正しく愛し、隣人を愛し、さらに敵をも愛されました。死から復活なさった後も、そのような真の命に生きておられます。

 イエス様の復活をまだ全く理解できない婦人たちに、天使が告げます。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子(イエス様ご自身)は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』」「必ず」は原語のギリシア語で「デイ」という小さな言葉、小さいが大切な言葉です。必然、神の必然を表します。イエス様の十字架は、父なる神様がはるか昔から計画しておられた神の必然だったのです。イエス様は確かにご自分の十字架の死と復活をガリラヤで予告なさったのです。弟子たちは聞いたのですが、何のことか理解できませんでした。最初はこの福音書の9章21節以下です。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」あと2回予告しておられます。ですが聞いた時は、弟子たちには(婦人たちにも)理解できなかったのです。婦人たちは天使に言われて、初めてイエス様の予告の言葉を思い出しました。

 「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」

 イエス様は、死に勝利して復活されました。より正確には、父なる神様の愛の御力によって復活させられた(受け身)のです。イエス様の復活は、私たちに勇気を与えます。イエス様に従えば永遠の命を受けることができる、一度は死ぬが復活の体を与えられると信じるようになるからです。そのような勇気に生きたクリスチャンは多くいます。その一人にパウル・シュナイダー(1897~1939)という牧師がいます。ドイツ人ですが、ナチスに抵抗した人です。以下『パウル・シュナイダーの殉教』(新教出版社、1974年、208~210ページ)より。「1938年5月1日、収容所入口にある門の塔に、初めてハーケンクロイツ(鉤十字)の旗が掲揚された。囚人たちは長い列を連ねて立たされていた。突然、深い沈黙を破って、司令官の『脱帽!』という声が響いた。彼(シュナイダー牧師)はどう考えても、非キリスト教的としかうつらぬこのシンボルに敬礼することが、良心的に耐えられなかった。(~)シュナイダー牧師にとって、この敬礼拒否こそ、信仰者の勇気の自覚的表現であった。彼は、収容所で、悪名高い牢獄に閉じ込められ、二度とそこから出されなかった。そして一三か月の間、残虐な仕置に苦しみ通した。(~)彼はわずかに飢えをしのぐだけの糧も、主がほうむられた金曜日には、手に取ることを拒んだのであった。(~)特別な祝日には牢獄のうっとうしい格子窓から、点呼の間の静けさを破って、突然シュナイダー牧師の力強い声が響き渡った。たとえば復活祭に、このようなみ言葉を私たちは聞いたのであった。『かく主は語りたもう。われは復活なり、生命なり!』この大胆な勇気と意志の力に、心の底まで振り動かされて、囚人の列はたたずんでいた。(~)ヘロデの牢獄から、洗礼者ヨハネの声を聞いているかのようであった。それは荒野で叫ぶ、力強い預言者の声そのものであったのである。

 多くを叫ぶ余裕はなかった。すでに牢獄番のこん棒は彼をなぐり倒し、さらにげんこつが飛び、彼の弱りきった体は、部屋の隅に叩きつけられていたのである。しかし血に飢えた暴力さえ、彼の強い意志や不屈の魂を倒すことはできなかった。人々から恐れられた収容所の司令官に向かって、非難の言葉を浴びせたのも一度だけではない。『あなたは大量虐殺者だ! 私は神の裁きの前で、あなたを訴える! 囚人たちを虐殺したかどで告発する!』そしてこれまでに数週間に渡って殺された犠牲者の名前を挙げ始めた。」シュナイダー牧師は殉教しましたが、彼に勇気を与えたのは、間違いなく復活信仰です。イエス様が復活なさったので、イエス様を信じる人、イエス様に従う人も必ず永遠の命、復活の体をいただくことができるという希望の信仰です。このような復活信仰に生きたクリスチャンがいたことを、私たちもこのイースターの朝、魂に深く刻みましょう。
 
 旧約聖書にもエゼキエル書37章などに復活信仰が出て来ますが、神の民イスラエルの中で、復活信仰が強く出て来たのは旧約聖書と新約聖書の間、「中間時代」と呼ばれる時代です。アンティオコス・エピファネスという非常に邪悪な王がユダヤ人の信仰を激しく迫害します。『旧約聖書続編』のマカバイ記(二)7章に「七人兄弟の殉教」という痛ましい場面があります。彼らは、律法を破ることを強制されますが、それを拒否して次々殺されます。しかしこう言うのです。「世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせて(復活させて)くださるという希望をこそ選ぶべきである。だがあなた(邪悪な王)は、よみがえって再び命を得ることはない。」母親は、神への希望によってこの大きな試練を忍耐し、語ります。「わたしは、お前たちがどのようにしてわたしの胎に宿ったのか知らない。お前たちに霊と命を恵んだのでもなく、わたしがお前たち一人一人の肢体を組み合わせたのでもない。人の出生をつかさどり、あらゆるものに生命を与える世界の造り主は、憐れみをもって、霊と命を再びお前たちに与えてくださる。」神様に命を懸けて従った人たちを、神様は大切にして下さる、必ず永遠の命・復活によって報いて下さるという信仰です。

 新約聖書のヨハネの黙示録20章4節以下にこうあります。「わたし(黙示録の著者ヨハネ)はまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった(偶像礼拝の罪を犯さなかった)。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。(~)これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」殉教者たちは、確かに大きな愛の報いを受けるのです。

 プロテスタント教会は、「信仰義認」を強調します。「信仰義認」は、「ただイエス様を自分の救い主と信じる信仰によってのみ、神様の前に義なる者(正しい者)と認められ、永遠の命を受ける」ということです。「信仰義認」は真理ですが、でもだからと言って信じた後は好き勝手に生きてよいわけではありません。新約聖書のガラテヤの信徒への手紙6章7節以下を、心に刻みたいのです。「神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く(自己中心に生きる)者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く(神を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する)者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」

 イースターおめでとうございます。死に打ち勝って下さったイエス様が今も、これからもずっと私たちと共に歩んで下さいます。この確かな事実によって安心と勇気を与えられ、試練の中にあってもイエス・キリストに従う一歩一歩を進みたいのです。

(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、聖なる御名を讃美致します。イエス様の復活によって、死を超えた確かな希望を与えられ、心より感謝申し上げます。今、私たちも世界も新型コロナウイルスによる大きな試練の中にあります。このために命を落とした方々のご家族に、あなたの深い御慰めを注いで下さい。今、様々な病と闘っておられる方々を強め、速やかに完全な癒しをお与え下さい。支えるご家族に、あなたの愛の支えを十二分にお与え下さい。あなたが世界を憐れんで下さり、新型コロナウイルス問題を一秒でも早く峠を越えさえ、沈静化へと導いて下さいますように、切にお願い申し上げます。主イエス・キリストのお名前によって、お祈り致します。アーメン。