日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2023-01-22 0:40:13()
「真の神様を畏れ敬うことこそ、人生の基本」 2023年1月22日(日)礼拝説教
順序:招詞 使徒言行録4:29,頌栄29、主の祈り,使徒信条、讃美歌21・260、聖書 ダニエル書5:1~12、17~30(旧約p.1388)、讃美歌492、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(ダニエル書5:1~12、17~30) ベルシャツァル王は千人の貴族を招いて大宴会を開き、みんなで酒を飲んでいた。宴も進んだころ、ベルシャツァルは、その父ネブカドネツァルがエルサレムの神殿から奪って来た金銀の祭具を持って来るように命じた。王や貴族、後宮の女たちがそれで酒を飲もうというのである。
 そこで、エルサレムの神殿から奪って来た金銀の祭具が運び込まれ、王や貴族、後宮の女たちがそれで酒を飲み始めた。こうして酒を飲みながら、彼らは金や銀、青銅、鉄、木や石などで造った神々をほめたたえた。その時、人の手の指が現れて、ともし火に照らされている王宮の白い壁に文字を書き始めた。王は書き進むその手先を見た。王は恐怖にかられて顔色が変わり、腰が抜け、膝が震えた。王は大声をあげ、祈祷師、賢者、星占い師などを連れて来させ、これらバビロンの知者にこう言った。「この字を読み、解釈をしてくれる者には、紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけて、王国を治める者のうちの第三の位を与えよう。」宮廷の知者たちは皆、集まって来たが、だれもその字を読むことができず、解釈もできなかった。ベルシャツァル王はいよいよ恐怖にかられて顔色が変わり、貴族も皆途方に暮れた。王や貴族が話しているのを聞いた王妃は、宴会場に来てこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。そんなに心配したり顔色を変えたりなさらないでくださいませ。お国には、聖なる神の霊を宿している人が一人おります。父王様の代に、その人はすばらしい才能、神々のような知恵を示したものでございます。お父上のネブカドネツァル王様は、この人を占い師、祈祷師、賢者、星占い師などの長にしておられました。この人には特別な霊の力があって、知識と才能に富み、夢の解釈、謎解き、難問の説明などがよくできるのでございます。ダニエルという者で、父王様はベルテシャツァルと呼んでいらっしゃいました。このダニエルをお召しになれば、その字の解釈をしてくれることでございましょう。」~ダニエルは王に答えた。「贈り物など不要でございます。報酬はだれか他の者にお与えください。しかし、王様のためにその文字を読み、解釈をいたしましょう。 王様、いと高き神は、あなたの父ネブカドネツァル王に王国と権勢と威光をお与えになりました。その権勢を見て、諸国、諸族、諸言語の人々はすべて、恐れおののいたのです。父王様は思うままに殺し、思うままに生かし、思うままに栄誉を与え、思うままに没落させました。しかし、父王様は傲慢になり、頑に尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草を食らい、天から降る露にその身をぬらし、ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。さて、書かれた文字はこうです。メネ、メネ、テケル、そして、パルシン。意味はこうです。メネは数えるということで、すなわち、神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられたのです。テケルは量を計ることで、すなわち、あなたは秤にかけられ、不足と見られました。パルシンは分けるということで、すなわち、あなたの王国は二分されて、メディアとペルシアに与えられるのです。」これを聞いたベルシャツァルは、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖をその首にかけるように命じ、王国を治める者のうち第三の位を彼に与えるという布告を出した。その同じ夜、カルデア人の王ベルシャツァルは殺された。

(説教) 本日の礼拝は、降誕節第5主日の礼拝、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝の第56回です。説教題は「真の神様を畏れ敬うことこそ、人生の基本」です。聖書はダニエル書5章です。本日の個所は、小見出し「壁に字を書く指の幻」です。説教題を決めるに当たり、旧約聖書・箴言1章7節の有名な御言葉をも参考にしました。「主を畏れることは知恵の初め。」真の畏れ敬って礼拝することこそ、真の知恵、それこそ真の賢さだ、ということです。本日のダニエル書5章の時代はバビロン帝国最後の王ベルシャツァルの時代です。本日の箇所の主人公と言えるダニエルは、イスラエルからバビロン捕囚でバビロンに連れて来られたイスラエル人です。神様に真に忠実に仕える男性です。

 最初の第1節「ベルシャツァル王は千人の貴族を招いて大宴会を開き、みんなで酒を飲んでいた。」権力者が主催した思い上がった大宴会という印象です。2~4節「宴も進んだころ、ベルシャツァルは、その父ネブカドネツァルがエルサレムの神殿から奪って来た金銀の祭具を持って来るように命じた。王や貴族、後宮の女たちがそれで酒を飲もうというのである。そこで、エルサレムの神殿から奪って来た金銀の祭具が運び込まれ、王や貴族、後宮の女たちがそれで酒を飲み始めた。こうして酒を飲みながら、彼らは金や銀、青銅、鉄、木や石などで造った神々をほめたたえた。」エルサレムの神殿を破壊して戦利品として持ち帰った祭具で酒を飲む。イスラエル人を冒瀆する行為です。そして金銀、青銅、鉄、木や石で造った神々の像、偽物の神、偶像を礼拝する罪を犯したのでした。偶像礼拝は、旧約聖書、いえ聖書全体が最も嫌う罪の1つです。これは多神教の日本人に分かりにくいことと感じます。しかし聖書の信仰の鉄則は、モーセの十戒の第一の戒めであることを、私たちは心に刻む必要があると思います。「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」第一の戒めについては文語訳聖書が印象的です。「汝、わが顔の前に、われのほか何者をも神とすべからず。」ベルシャツァル王をはじめとする約千人のバビロンの貴族はこの鉄則を破り、偶像礼拝、偽物の神々を礼拝する罪を犯しました。

 ところがその時、誰も予想しなかった真の神様の介入が起こりました。驚くべきことです。5~7節「その時、人の手の指が現れて、ともし火に照らされている王宮の白い壁に文字を書き始めた。王は書き進むその手先を見た。王は恐怖にかられて顔色が変わり、腰が抜け、膝が震えた。王は大声をあげ、祈祷師、賢者、星占い師してくれる者には、紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけて、王国を治める者のうち第三の位を与えよう。』」祈祷師、賢者、星占い師は当時の知識人で、王のブレーンですね。でも当時最高の教育を受けたで彼らにも、その文字を読むことも理解することもできませんでした。ベルシャツァル王はいよいよ恐怖に駆られて顔色が変わり、貴族たちも途方にくれるばかりでした。酔いは覚め、宴会どころではありません。

 そこに王妃が現れ、よき知恵を出します。王妃は賢く、的確な意見を述べます。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。そんなに心配したり、顔色を変えたりなさらないで下さいませ。お国には、聖なる神の霊(聖霊)を宿している人が一人おります。父王様の代に、その人はすばらしい才能、神々のような知識を示したものでございます。お父上のネブカドネツァル王様は、この人を占い師、祈祷師、賢者、星占い師などの長にしておられました。この人には特別な霊(聖霊)の力があって、知識と才能とに富み、夢の解釈、謎解き、難問の説明などがよくできるのでございます。ダニエルという者で、父王様はベルテシャツァルと呼んでいらっしゃいました。」このダニエルを呼べばよい、と王妃は適切な意見を述べます。

 王はそれを実行します。この文字を読み、その意味を説明してくれれば、褒美を与え、王国のナンバー3の地位を与えると言います。ダニエルは無欲なので、「贈り物など不要でございます」と言います。ダニエルは、神の聖なる霊である聖霊によて文字の意味を教えられるので、それを正確に王に伝えるだけです。ダニエルはそれでお金儲けする気持ちは全然ないのです。

 ダニエルは聖霊に助けられて、本当に重要なメッセージを語ります。18節「王様、いと高き神は、あなたの父ネブカドネツァル王に王国と権勢と威光をお与えになりました。」箴言8章15節にこう書かれています。「私(真の神様)によって王は君臨し」。そうなのです。王や皇帝など、上に立つ人を決めているのは、実は真の神様です。このことについては、新約聖書のローマの信徒への手紙13章1節にもこう書いてあります。「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」国にあっても、色々な団体にあっても、上に立つ人と言いますか(あるいは責任者)は、神様がお立てになっています。しかしそれはその人たちが好き勝手にふるまうためでは、もちろんありません。神様に従い、神様から委ねられた責任を忠実に果たすために立てられていることを、忘れていけないのは、もちろんです。ネブカドネツァル王の権勢を見て、諸国、諸族、諸言語の人々は全て恐れおののきました。ダニエルは言います。「父王様(ネブカドネツァル王)は思うままに殺し、思うままに生かし、思うままに栄誉を与え、思うままに没落させました。」まさに勝手な独裁者に堕落してしまったのです。

 20~21節「しかし、父王様は傲慢になり、かたくなに尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草を食らい、天から降る露にその身をぬらし、遂に悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。」 このことは、この前の4章に記されています。驚くべきことに、ネブカドネツァル王は傲慢の罪を神様に裁かれた後、悔い改めたようなのです。ネブカドネツァル王がこう言ったと書かれています。「私はいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた。その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて。何をするのかと言いうる者は誰もいない。」彼がこう言うと、神様が彼をバビロンの王に復帰させます。ネブカドネツァルは言いました。「私ネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、讃美する。その御業はまこと、その道は正しく、奢る者を倒される。」大帝国の王が、傲慢の罪を悔い改めたのですから、そのこと自体が一つの大きな奇跡と思います。

 ところがその息子のベルシャツァル王は、父王のようには悔い改めなかったのです。ダニエルは言います。22節以下「さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なおへりくだろうとはなさらなかった。天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなたご自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。」「あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」これがベルシャツァル王の最大の問題です。この逆の生き方こそ、よい生き方です。真の神様が私たち一人一人の命と行動の一切を手中に握っておられるのですから、この唯一の真の神様を畏れ敬って生きる。これが人生の土台です。このことを毎日心がけ、この真の神様の独り子イエス・キリストを愛し、イエス様に従い、神を愛し、隣人を愛して生きるなら、それは最も充実したよき人生になります。私たちにはこう生きる力がないので、イエス様を救い主と信じ、いつも祈って神様の清き霊である聖霊に助けていただく必要があります。ダニエル自身も、いつも祈って聖霊に助けられたに違いないのです。

 ダニエルは続けます。25節以下「さて、書かれた文字はこうです。メネ、メネ、テケル、そして、パルシン。意味はこうです。メネは数えるということで、すなわち、神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられたのです。テケルは量を量ることで、すなわち、あなたは秤にかけられ、不足と見られました。パルシンは分けるということで、すなわち、あなたの王国は二分されて、メディアとペルシアに与えられるのです。」神様からベルシャツァル王への裁きの言葉です。「あなたの治世は終わった。あなたは王として神からの責任を果たしておらず、不足だ。あなたの王国はメディアとペルシアに二分される。」これを聞いたベルシャツァルは、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を与え、王国の中で第三の位を与えました。しかし、神の宣告はその夜のうちにベルシャツァルに実現したのです。カルデア人の王ベルシャツァルは、その夜に命を奪われました。まさに真の神様が、彼の命を完全に手中に握っておられたのです。真の神様が、私たち一人一人の命をも握っておられます。ですから、私たちにとっても、この真の神様を畏れ敬って生きることが人生の基本・土台であることを、今改めて魂に刻みたいのです。

 今日の箇所には、「神様の指」が出て来ます。神の指は、神の御手と言っても同じと思います。神の指は私たちを裁きもし、また救いもする神の指です。今日のダニエル書では、神の指は「メネ、メネ、テケル、パルシン」の文字をお書きになりました。神様のその指で出エジプト記で十戒を石の板二枚にお書きになりました。出エジプト記31章18節にこうあります。「主はシナイ山でモーセと語り終えらえれたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった。」十戒は神の指によって書かれ、神の筆跡で石の板二枚に記されていました。

 少しさかのぼって、出エジプト記8章では、神様の僕モーセとその兄アロンが、エジプト王ファラオの魔術師と対決しています。魔術師はあるところまではモーセたちに対抗できましたが、最後は降参します。アロンが杖を持った手を差し伸べて土の塵を打つと、土の塵は全てぶよとなり、エジプト全土に広がって人と家畜を襲った。魔術師も秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしたが、できませんでした。魔術師はファラオに「これは神の指の働きでございます」言い、真の神様に負けたことを認めています。魔術師は悪魔に仕えているのですから、真の神様が悪魔に勝ったのです。このように神の指は全能を表します。神の指は詩編8編4節にも出てきます。「あなた(神様)の天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めて下さるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子(人間)は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」神の指は天地万物を創造し、月と星を創造し、私たち人間を創造して下さいました。ミケランジェロという有名な画家がローマのシスティーナ礼拝堂に描いた天地創造の絵画では、神様の指が太陽を指さし、もう一方の手の指が月を指さし、まさに神の指が天地を創造したことを描いています。そして神の指が最初の人間アダムの指に触れて、やはり神の指が人間を創造したことを語っているようです。

 新約聖書に目を転じると、ルカによる福音書11章で神の子イエス・キリストがこう語っておられます。「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所に来ているのだ。」そう、イエス様は神の指で悪の霊(悪魔)に打ち勝って来られたのです。イエス様の指を、神の指と呼ぶことも許されると思います。マルコによる福音書10章に、イエス様が耳が聞こえず、舌の回らない人を癒す愛の場面があります。イエス様は「両指をその両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられました。指で舌に触れたのでしょう。そして天を仰いで深く息をつき「エッファタ(開け)」と命じられました。するとたちまち両耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるように癒されたのです。そしてイエス様の両指は、そのすぐ近くに釘が刺し通された両手の平にある指であることを忘れることはできません。神の指はベルシャツァルへの裁きの言葉を書いた指であり、その神の子イエス様の指は病人を癒す愛の指、私たちの罪を全部身代わりに背負って十字架で釘付けにされた手の指であることに思いを致す必要があります。

 ダニエルがベルシャツァル王に指摘しました。「あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」プーチン大統領もすぐに悔い改めて、ウクライナに謝罪して、全軍直ちに撤退させてもらいたいものです。そうでないとベルシャツァルと同じ結果になります。ダニエル書全体は、迫害に苦しむ信仰者を励ますメッセージを語ります。悪が勝っているように見えても、悪は必ず滅びる。最後には愛と正義の神様が必ず勝利するというメッセージです。

 私が本日の箇所を読んで思い出すのは、織田信長です。信長は、天下統一が見えて来たところで、部下の裏切りで本能寺で命を落としました。彼は琵琶湖のほとりに安土城という巨大な城を建てました。当時日本に来ていた宣教師ルイス・フロイスは信長に何回も会い、記録しています。「彼の傲慢さと尊大さは非常なもので、狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の創造主(神)は存在しないと述べ、自分以外に礼拝に価する者は誰もいないと言うに至った。」自分の力が神から授けられた偉大な恩恵と賜物であると認めて謙虚になるのでなく、傲慢となり自分を過信し、乱行と尊大さのゆえに破滅の極限に。悪魔的傲慢さからネブカドネツァルの無謀さと不遜に出て、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。安土城内に寺を建て自分をその神体とし、自分の誕生日に大勢の人に礼拝に来るよう命じた。フロイスは、信長は神に裁かれて死んだと考えたようです。私もそう思います。以前私は安土城跡を歩きました。石垣が残っています。巨大な天守閣はわずか3年で焼け落ちました。天守閣の礎石は残っています。私は、ネブカドネツァルのように傲慢になったため、信長はベルシャツァル王と同じように滅びたと思いました。「あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」私たちは決してそうならず、真の神様を畏れ敬う人生を、必ず生き通しましょう。アーメン。

2023-01-18 22:04:26(水)
クリスマス説教「いと高きところに栄光、地に平和 」石田真一郎 キリスト教共助会発行『共助』2022年第8号(12月発行)に掲載していただいた文章
<はじめに>
 クリスマスおめでとうございます。
2022年の日本と世界は、明るい話題に満ちていたとは言えません。2020年に日本にも上陸した新型コロナウイルス感染症は、第七波が収まりかけていますが、完全には消えないでしょう。With corona の覚悟が必要です。二月末には、ロシアのプーチン大統領による悲しむべきウクライナ侵攻が始まり、今も続いています。七月には、安倍晋三元首相の銃撃殺害事件が起こり、その後、旧統一教会と安倍氏、自民党議員、野党議員との癒着が次々明らかになり、私たちを驚かせています。その中で私たちは、これまで通り聖書に耳を傾けます。

「そのころ、皇帝アゥグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これはキリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った」(ルカ福音書2章1~3節)。

 プーチン大統領が戦局の劣勢化を見て、国内の予備兵力をも招集すると決め、動揺や反発が起こっているようです。それでも招集される人々も多いようで、権力者の力を見せつけられる思いです。アゥグストゥスも同じような権力を持っていたのでしょう。その指令に従わざるを得ず、ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで100キロ以上も旅したのがヨセフとマリアの若くて貧しい夫婦でした。神様は、いと小さき者に特に目を留め、愛して下さいます。アウグストゥスが世界を支配しているように見えても、実は真の神様が、アウグストゥスの命を含む、一切を手中に握っておられます。

 「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(4~7節)。イエス様一家には、居場所がありませんでした。イエス様の生涯全体が、そうでした。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(9章58節)。イエス様はこのような境遇の中にいる人々を、特に心にかけ愛して下さいます。

<池袋>
 私は知人に誘われて、数年前から時々、池袋のホームレスの方々にお弁当と聖書メッセージを届ける奉仕に参加しています。無名のグループと言えます。アメリカ人、シンガポール人の宣教師を中心に始まり、いくつかの教会のメンバーが集まって毎週木曜日の夜に行っています。毎回お弁当を作るプロが一人おられます。池袋駅周辺2~3ヶ所で聖句のプリントを渡して短いメッセージを語って、お弁当を配ります。私も時々ショートメッセージを語らせていただきます。このような働きに対しては批判もあると思います。ホームレスの方々の依存心を強めるだけだ、という批判です。それでも私は貴重な働きだと思いますし、毎週参加する方々を尊敬します。お弁当を受け取る方は少ない時で20名くらい、多い時で60名くらいです。

 私はここで、色々な方と出会いました。まず日本人のホームレスの方々に奉仕・伝道するシンガポールやアメリカの宣教師さんです。生活も質素で、損得関係なく奉仕されるので、頭が下がります。その知人の多くの外国の方々も参加されました。韓国人、アメリカ人、カナダ人、中国系オーストラリア人、ブラジル人、ロシア人、ドイツ人。この中には、日本が植民地にするなど、太平洋戦争等で多くの被害を及ぼしてしまった国々があります。敵にした国々が多いのです。その方々が今、日本に来て池袋のホームレスの方々に奉仕して下さっている。戦後77年を経て世代交代が進んでいるとは言え、イエス様が言われる「敵を愛しなさい」(マタイ福音書5章44節)実践しておられるように思えます。

 ある日本人クリスチャンの奉仕者は、東日本大震災の津波(福島県)でご家族を失った方でした。それなのに明るく奉仕されていました(今は他県在住)。奉仕者自身がホームレス(クリスチャン)の方の場合(あるいは以前そうだった場合)もあります。コロナ禍の中でも誇りをもって奉仕しておられました。社会は単純ではないと感じます。

 池袋という大都会で路上生活する方々が少なくありません。日中は駅等の建物の中におられ、夜中に駅が閉まると外に出ます。ビルの間でしのいだり、公園で段ボールの中で眠られます。春や秋はまだよいですが、梅雨の時期、猛暑の夏、台風の日夜、寒い12~2月は厳しい。毎週お弁当を受け取り、空き缶集めの仕事で、僅かな収入を得ていた方が体調を崩して入院し、今は行方が分かりません。元気で毎週奉仕していたホームレスの男性(70才くらい?)が足等を痛めて暫く入院し、今は来ておられません。この方は、長年、建築現場で働いて来られたそうです。「属した会社は、下請けの下請け。働けなくなれば、クビになるだけ。自分たちは使い捨て」と言っておられました。私たちの生活は、このような方々に支えられて来たのだ、と感じます。

 この中で私は、他の方々(多くは宣教師や牧師でない)が聖書メッセージを語るのを聞き、教えられて来ました。自分とは違う聖書の読み取りを聞き、新しい気づきを与えられ、日曜日の礼拝説教に生かすこともあります。この働きから、ホームレスの方々がクリスチャンになるかは分かりませんが、イエス様が共に働いておられると信じています。無名のグループのささやかな働きですが、5年以上続いていると思います。人は入れ替わっていますが、継続されていることに頭が下がります。

<十字架こそ神の愛のしるし>
 さて、次の場面には羊飼いたちが登場します。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(ルカ福音書2章8節)。彼らもホームレスに近い生活をしていたようです。動物を中心とする生活は厳しいと思います。現代でも、家畜を飼っておられるので、礼拝の日曜日もまず家畜の様子を見に行き、必要なら世話もするので、どうしても礼拝に遅れがちになるという方に出会ったことがあります。人々が尊重しなかった羊飼いたちを、神様が顧みて下さいました。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである』」(9~12節)。

 この赤ちゃんが「神のしるし」とは、やはり驚くべきことです。この世では、強く大きい者が幅をきかせます。神の民イスラエルの人々も、「神のしるし」と言えば、大きな奇跡を連想したでしょう。ところが、この赤ちゃんが「神のしるし。」神は、いと小さき者の味方です。次の御言葉を連想します。「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(コリントの信徒への手紙(一)1章18~25節)。

 イエス様は、栄光の天におられたのに、私たち罪人(つみびと)を愛し、罪と死の奴隷状態から救い出すために、この危険な地上に敢えて降って来て、マリアから無防備な赤ちゃんとして生まれ、成長後は人々を愛して病人を癒し、群衆をパンと魚で養い、弟子たちの汚れた足を洗い、ついには私たち皆の全部の罪の責任を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活されました。私たちもへりくだって、イエス様に従って歩むように招かれています。それは真の神様を礼拝し、この世で小さくされた方々(大変失礼な言い方ですが。無論、私もその一人)と共に歩むことだと思います。「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」(ローマの信徒への手紙12章16節)。

 最もすばらしいのは、イエス・キリストの十字架の愛です。私と妻に34年前に洗礼を授けて下った牧師が、今年七月に天に召されました。その方は、当時礼拝で、ご自分に洗礼を授けられた牧師(つまり、私の恩師の恩師)のことを語られました。その牧師は受難節には、首からひもで釘をぶら下げて生活し、祈り礼拝し、伝道されたそうです。首から十字架を下げている人は珍しくないでしょう。ですが、首から釘を下げている方に、私は会ったことがありません。その方はきっと、イエス様の十字架の愛を、少しでも深く実感したくて、そうされたのだと思います。イエス様が私たちのためにどんなに痛みに耐えて下さったかを、理屈や観念でなく、強く実感しようとされたのでしょう。迫力ある伝道者魂です。ご病気をお持ちで、比較的早く天に召されたと伺いました。限られた時間で、精一杯伝道されたとのことです。礼拝でその方のことを語られる時、私ども夫婦に洗礼を授けて下さった牧師も、目頭を熱くしておられるようでした。イエス・キリストの十字架の愛! 私たちクリスチャンの原点です。

<広島>
 ルカによる福音書のクリスマスの場面に戻ります。「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』」(2章13~14節)。

 「地に平和」が来るように、特にウクライナに平和が回復されるように、切に祈ります。ミャンマーにも、平和と正義が回復されますように! イエス様は、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5章9節)と言われ、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(26章52節)と言われたのですから。私の母親は広島県三原市の出身です。私が子どもの頃は、私と弟によく戦争の話をしました。夜、空襲警報が鳴り、その度に防空壕に逃げ込んだ話です。本人は原爆を体験していないのですが、原爆のこともよく話しました。母の伯父(私の祖父の兄)は、広島の原爆で亡くなっています。私は子ども心に、「戦争は絶対だめ。原爆も絶対だめ」の思いが植えつけられました。

 今年の八月に約五年ぶりに広島市に行き、平和資料館を見学しました(三回目。長崎を含め五回目)。平和公園の碑の文字「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」を改めて読み、近くの原爆ドームに立ちました。まさにここに原爆が投下され、想像を絶する惨状になったことに思いを致しました。母の伯父もこの辺りで被爆したのかと思いました。即死ではなく、数日間は救護活動を行ったらしいのですが、暫くして亡くなったそうです。9月に会った高校時代の友人の祖父も広島で被爆され、「桃を食べたい」と言いながら亡くなったそうです。友人は「アメリカに(国として)、いつか原爆のことを謝ってほしい」と言いました。現状では難しいでしょう。核兵器廃絶が遅々として進まない現実に、怒りを覚えます。日本人でさえ、8月以外は核兵器廃絶を本気で願う人が減っていないかと心配になります(そうでない方が多いのを知っていますが)。私も56才になった今、人任せにせず、自分にできることはするつもりです。プーチン大統領が核兵器の使用をちらつかせるのは、許せません。私は教会の礼拝や祈祷会で、彼が間違っても核兵器を使用せず、早く大統領を辞めるように祈りました。

 8月28日(日)は、妻と広島市の教会の礼拝に出席しました。原爆で破壊された会堂の焼け焦げた木材で作った、素朴な十字架を掲げた青空礼拝で、戦後の礼拝を再開したそうです。その後再建し、被爆50年の1995年から改めてその焼け焦げた十字架を礼拝堂内に掲げ、さらに建て直した現在の礼拝堂でも、黒焦げた十字架を仰いで礼拝が献げられていました。原爆の苦難を忘れないためです。イエス様の十字架の愛に感謝し、核兵器が一つもない平和な世界を築く決意を感じます。実に印象深い十字架です。近くにカトリックの世界平和記念聖堂(自らも被爆したドイツ人のフーゴ・ラッサ―ル神父の発案で、世界中の平和を願う人々の寄付で建てられた)もありますが、今回は行けませんでした。

 妻が気候気象学の研究者なので、爆心地から南約3.7kmの江波山気象館(旧広島地方気象台)にも行きました。爆風の直撃で曲がった窓枠、飛び散った窓ガラスの破片が食い込んだ壁が保存されています。気象台員が当日の様子を、「空中で突然『火の玉』が爆発し、大量のマグネシウムをたいたように、まぶしく『ピカーッ』と光った。(~)火の玉から広がった炎は広島市をおおい、やがて、入道雲のような白い雲が立ち上った。さらに、街の火災によって、積乱雲が発達し、激しい雨が降った」と調査報告書に記しています(ホームページによる)。今後、世界のどこでも核兵器が決して使われないように、強く祈り訴える必要があります。爆心地から近い広島城の敷地内に、日清戦争の時の大本営跡がありました。日本の軍国主義のしるしですから、見て複雑な気持ちになります。日本自身が、平和国家であり続けねばなりません。憲法第九条を守って!

<忍耐強く平和を>
 私の属する教会が、八月末に日本基督教団の『信徒の友』誌の「日毎の糧」欄で祈られる日になり、各地から祈りのはがきをいただきました。その中に大分県の小野一郎先生という、お名前のみ存じ上げているご高齢の牧師がおられます。九月八日(木)に、その小野先生の投書が朝日新聞の「声」欄に載りました。自民党の副総裁が「ドンパチ」「きな臭い」という言葉を使って講演した記事を受けて、「1937年7月、日中戦争の発端となった盧溝橋事件が起きたとき、私は10歳。学校の先生が『ドンパチ』と言い、子どもたちでこの言葉が流行した記憶がある。」身内が戦死なさった悲しみを味わわれ、現在の日本を取り巻く情勢に恐怖を感じるが、「副総裁には軽々しく『ドンパチ』などと言って欲しくなかった。軍備で国を守り、強大にしたい誘惑とその考えを捨てられない人間の歴史は数千年続いている。『ドンパチ』『きな臭い』を排除し、苦しくても平和を守り、平和を作り出すためにも、英知の結集が大事だ」と書いておられます。小野先生に、祈りのはがきのお礼のカードを書き、投書に励まされた旨記したところ、さらにお返事をいただき感激しました。

 十字架はイエス様の愛のシンボル、真の平和のシンボルです。タテは神様と私たち人間の間の平和、ヨコは全ての国と地域の人間同士の平和。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」一生、このように祈って参りましょう。アーメン。(日本基督教団東久留米教会牧師)

2023-01-14 23:44:31(土)
「イエス様から離れない私たち」 2023年1月15日(日)降誕節第4主日 礼拝説教
順序:招詞 使徒言行録4:29,頌栄24、主の祈り,使徒信条、讃美歌21・262、聖書 詩編41:6~10(旧約p.875)、ヨハネ福音書6:60~71(新約p.176)、讃美歌252、献金、頌栄27、祝祷。 

(詩編41:6~10) 敵はわたしを苦しめようとして言います。「早く死んでその名も消えうせるがよい。」見舞いに来れば、むなしいことを言いますが/心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。わたしを憎む者は皆、集まってささやき/わたしに災いを謀っています。 「呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい。」わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。

(ヨハネによる福音書6:60~71) ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。

(説教) 本日の礼拝は、降誕節第4主日の礼拝です。説教題は「イエス様から離れない私たち」です。新約聖書は、ヨハネによる福音書による福音書6章60~71節です。本日の個所は、小見出し「永遠の命の言葉」です。

 先週はこの直前を読みました。そこにはまさに聖餐式の日に読むにぴったりの、神の子イエス様の大胆でストレートな真理の言葉が語られていました。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。~これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 クリスチャンはこれを聴いて「すばらしい御言葉だ」と思いますが、イエス様の周りにそうでない人々も多くいたのです。本日の最初の60節。「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」弟子たちと言っても、十二弟子ではありません。他にも多くの弟子たちがいたのです。しかしその多くはイエス様の御言葉を理解できず、イエス様につまずいて、去って行ったのです。イエス様をイスラエルの地上の王として迎えたいと願った人々は、イエス様に王になる意志が全くないと知り、「私が天から降って来た生きたパンである」の言葉につまづき、イエス様のもとを去り始めたのです。

 61~62節「イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。『あなた方はこのことにつまづくのか。それでは、人の子(イエス様)がもといた所(天)に上るのを見るならば……。』」「もっとつまづくだろう」ということになります。63節「命(永遠の命)を与えるのは霊(聖霊)である。肉は何の役にも立たない。私があなた方に話した言葉は霊であり、命である。」イエス様が語られる御言葉は、ふつうの人間の言葉とは次元の違う言葉です。私たち人間のふつうの言葉は、地上の生活等のための言葉です。たとえば、「今朝起きて朝ご飯を食べ、学校に行った、会社に行った」等の言葉は、私たちの地上での生活の言葉です。もちろん人間にとってそれは大切な言葉で、決して軽視できません。しかしイエス様が語られる御言葉は「霊の言葉」「天の次元の言葉」「永遠の次元の言葉」と言えます。それで多くの人々が理解できず、つまづき、イエス様から離れて行きました。イエス様が64節で、「しかし、あなた方の中には信じない者たちもいる」と言われる通りです。

 さらに、こう書かれています。「イエスは最初から、信じない者たちが誰であるか、また、御自分を裏切る者が誰であるかを知っておられたのである。そして言われた。『こういうわけで、私はあなた方に、「父からお許しがなければ、誰も私のもとに来ることはできない」と言ったのだ。』」同じことをイエス様は、先週の44節ではこう言われました。「父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとへ来ることはできない。」そして父なる神様は私たちを、イエス様のもとに来るようにと、今この瞬間も全力で引っ張って下さっています。私たちはそれを拒否せず、素直に喜んでイエス様の元に行くのです。「あなたを神の子、真の救い主と信じます」と告白しながら。

 しかしイエス様の周りにいた多くの弟子たちから、多くの者が離れ去り、もはやイエス様と共に歩まなくなりました。もちろん私たちは、イエス様から離れないで、イエス様と共に世の終わりまで歩み続けます。離れ去った人々は、イエス様に間違った期待を抱いていたのです。この人々は、イエス様が大麦のパン五つと魚二匹で、五千人の群衆を満腹にさせなさった時、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言い、イエス様を王様に祭り上げようとしたのです。ところがイエス様には、地上の王や権力者になるつもりが全然ありませんでした。イエス様が与えて下さる最も大事な救いは、私たちの罪が赦されて、私たちに天国・神の国・永遠の命が与えられる救いです。離れ去った人々は、その救いを求めていなかったのだと思います。その人々が求めていた救いは、パンに飢えないこと、祖国イスラエルがローマ帝国の支配から解放されることだったと思われます。確かにパンに飢えないことは、人間にとって切実な願いです。だからこそ、イエス様も奇跡的な形で五千人以上の群衆に満腹の恵みを与えて下さいました。それでも、イエス様が与えて下さる最も重要な救いは、私たちの全ての罪の赦しと天国と永遠の命です。それらを求めていなかった人々は、イエス様に失望して、去って行ったのです。

 67節「そこで、イエスは十二人に、『あなた方も離れて行きたいか』と言われた。」一番弟子のペトロが、十二人の弟子たちを代表して答えます。見事な信仰告白です。68~69節「シモン・ペトロが答えた。『主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。』」私たちも、ペトロと心を一つにしてイエス様への信仰を告白します。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょうか。あなた以外のところへは行きません。あなたこそ真の神の子、真の救い主です。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」と。

 ですが、この模範的な信仰告白をしたペトロでさえ、イエス様が捕らえられると、イエス様を知らないと言ってしまったのです。保身(自分の身を守る)のためです。イエス様が捕らえられた夜、ペトロはそっと着いてゆき、おそらく同じ弟子のヨハネのお陰で大祭司の屋敷の中庭に入りました。その時、門番の女中がペトロに、「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言いました。ペトロは、「違う」と言ってしまいます。でもそこに留まり、おそらく何食わぬ顔で火にあたっていました。暫くすると人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消しました。さらにある人に「園であの男(イエス様)と一緒にいるのを、私に見られたではないか」と言われると、ペトロは三度打ち消しました。するとすぐ、鶏が鳴きました。イエス様はその数時間前にペトロに言われたのです。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう。」イエス様は、ペトロのことをペトロ以上に、よくご存じだったのです。もっと積極的に裏切るユダの心の中も、全てご存じです。イエス様は全てのことを見抜いておられます。私たちは、イエス様に自分をごまかすことは決してできません。イエス様は私たちの全てを見抜いておられます。

 ペトロは最終的に、イエス様を三度否定した罪を悔い改めて、弟子として立ち直ります。それはイエス様があらかじめペトロのために、祈って下さったお陰です。ルカ福音書22章によれば、イエス様は裏切る前のペトロにこう言って下さいました。「シモン、シモン、サタン(悪魔)はあなた方を、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペトロはイエス様のとりなしの祈りに支えられて、イエス様を否定した罪を悔い改めて立ち直ることができたのです。私たちが信仰の道を何とか歩むことができているのも、イエス様のとりなしの祈りのお陰であると信じます。

 以前ある牧師から伺ったのですが、「信仰告白を告白するだけでなく、信仰告白を生きることが必要だ」と。もちろん私たちプロテスタント教会は「信仰義認」を信じていますから、「イエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、私たちは神様の前に義と認められ、罪を赦されて救われる」と信じています。この点を大切にした上で、私たちはイエス様の愛に感謝して応答して生きることを行います。今この礼拝に出席していることも、イエス様の十字架の愛への応答の行為です。「信仰告白をするだけでなく、信仰告白を生きることが必要。」ペトロはすばらしい信仰告白をしましたが、自分の身に危険が迫ると、保身のためにイエス様を三度否定してしまいました。信仰告白を生きることに失敗しました。しかしイエス様の祈りがペトロを支えて下さり、ペトロは立ち直って、その後の人生をイエス様を宣べ伝え、クリスチャンたちを愛して働く、よき羊飼いとして生き抜き、殉教して天国に行きました。まさに信仰告白を生き切ったのです。

 ペトロの信仰告白の場面に戻りますが、よき信仰告白をお聞きになってイエス様は言われました。70~71節「『あなた方十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。』イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」

 「あなた方は私が選んだ。」私たちもイエス様に選ばれて、ここにいるのです。それは間違いありません。イエス様は、このヨハネ福音書の15章でおっしゃいます。「私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」イエス様ご自身が私たちを弟子として選んで下さいました。その目的は、私たちが実を結ぶ者となることです。クリスチャンとして聖霊の実を結び、聖霊によって愛、喜び、平和、寛容の人になることです。そして私たちが、互いにキリストにあって愛し合うようになるためです。私たちはイエス様に選び出されてここにいます。イエス様がさらに多くの方々を選んで、東久留米教会とすべての教会に送って下さるように祈ります。

 イエス様はペトロたち十二人をも選ばれました。ところが「その中の一人は悪魔だ」とおっしゃいます。どうしてそのようなことが起こるのか、謎です。「このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」「裏切る」と訳された言葉は(聞き慣れない言葉で恐縮ですが)、「パラディドーミ」というギリシア語です。これは重要な言葉の1つです。「引き渡す」「渡す」とも訳せます。このパラディドーミという言葉は、ローマの信徒への手紙4章25節、8章32節に出てきます。4章25節は、こうです。「イエスは、私たちの罪のために死に渡され」。8章32節は、こうです。「私たちすべてのために、その御子(イエス様)をさえ惜しまずに死に渡された方(父なる神様)は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」つまりイエス様は、私たちの罪を背負うために十字架の死に渡された、父なる神様は私たちの罪を担わせるために独り子イエス様を十字架の死にお引き渡しになった、と福音の最も重要な内容を述べています。

 ユダはイエス様を裏切ろうとしていた、つまりイエス様を敵の手に渡そうとしていました。それは悪魔の誘惑に負けたユダの最も悪しき行いでありながら、同時に父なる神様がもっと上手で、そのユダによる引き渡し・裏切りをさえ用いて、イエス様を十字架を死に引き渡し、私たちの全部の罪の赦しの道を切り開いて下さっていると分かります。ユダを誘惑した悪魔が勝利しているように見えて、実は悪魔の計画を上回る神様の救いのご計画が進んでいることが分かります。悪魔が自由に活動しているように見えますが、実は神様が最終的には悪魔の首根っこをしっかり抑え込んでいることが分かります。それでは「ユダは悪を行いながらも、結果的に神様のご計画を進めたことになるのだからユダの裏切りは正当化されるのか」と言うと、その論理は全然成り立ちません。ユダはあくまでも、イエス様を積極的に裏切る最悪の罪を犯したのです。イエス様はユダの裏切りを事前に見抜いておられました。ユダの裏切りは、本日の旧約聖書・詩編41編10節に予告されています。「私の信頼していた仲間、私のパンを食べる者が、威張って私を足げにします。」
 
 こうして事態は少しずつ、イエス様の十字架に向かって進みます。本日の場面は、まさにイエス様の弟子たちが、ふるいにかけられている場面です。イエス様の愛の奇跡で満腹になった人々が、イエス様に王様になってもらう期待をかけ、一応イエス様の弟子になりました。しかしイエス様がこの世の王様になる気持ちが全然ないこと、イエス様が「私は天から降って来た生きたパンである」とおっしゃると失望し、イエス様から離れ去り、イエス様と共に歩まなくなりました。私たちはもちろんそうではありません。私たちはペトロのように頼りない者ではあっても、イエス様のとりなしの祈りに支えらえ、自分の罪を悔い改めて立ち直り、イエス様に従い直して、地上の人生を終え天国に入るまで、イエス様に従い続けたいと願います。

 ペトロは、イエス様に申しました。「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」ヨハネ福音書の冒頭を思い出します。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」言はもちろん、イエス・キリストです。「永遠の命の言葉」を「十字架の言葉」と言い換えることもできるでしょう。私がクリスマスの時期によく読む、コリントの信徒への手紙(一)1章18節以下。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。(~)世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」

 イエス様の周りにいた多くの人々は、イエス様につまずいて去りました。彼らはユダヤ人で、しるしを求めていました。そしてパン五つと魚二匹でイエス様が群衆を満腹にしたしるし(奇跡)を見て喜び、イエス様に大きな期待をかけ、王様に祭り上げようとしました。しかし王様になる意志のないイエス様に失望し、つまずきました。そして最大のつまずきは十字架と思います。神の子が王様になるのではなく、逆に十字架で死ぬ。このことにつまずきやすいのですが、ぜひぜひつまずかないでいただきたいのです。十字架の死こそ、イエス様が真の神の子であることを示す最大のしるしです。私たちの全部の罪を肩代わりして背負われたイエス様の十字架こそ、イエス様の偉大な愛のしるしです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。」私たちは自分を誇りとせず、私たちのために十字架につけられ復活されたイエス様だけを誇りとします。「あなた方も離れて行きたいか」とイエス様は問われます。私たちは答えましょう。「主よ、あなたは永遠の命の言葉、十字架の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者、真の救い主であると、私たちは信じ、また知っています」と。アーメン。

2023-01-08 0:07:07()
「イエス様の愛に生かされる私たち」 2023年1月8日(日)礼拝説教
順序:招詞 使徒言行録4:29,頌栄28、主の祈り,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・278、聖書 イザヤ書54:10~13(旧約p.1151)、ヨハネ福音書6:41~59(新約p.176)、讃美歌271、聖餐式、献金、頌栄27、祝祷。 

(イザヤ書54:10~13) 山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。苦しめられ、嵐にもてあそばれ/慰める者もない都よ/見よ、わたしはアンチモンを使って/あなたの石を積む。サファイアであなたの基を固め、赤めのうであなたの塔を/エメラルドであなたの門を飾り/地境に沿って美しい石を連ねる。あなたの子らは皆、主について教えを受け/あなたの子らには平和が豊かにある。

(ヨハネによる福音書6:41~59) ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
 
(説教) 本日の礼拝は、降誕節第3主日の礼拝です。説教題は「イエス様の愛に生かされる私たち」です。新約聖書は、ヨハネによる福音書による福音書6章41~59節です。本日の個所は、小見出し「イエスは命のパン」の部分の中間部分です。

 ヨハネ福音書6章は、長いひとかたまりの個所です。26節から始まるイエス様の長い説教が本日の最後の直前の58節まで続きます。そして最後の59節にこう書かれています。「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。」会堂は礼拝の場所ですから、このイエス様の説教は会堂での礼拝で語られた説教だろうと言う人もいます。その可能性は高いと思います。

 さてイエス様は、本日の少し前の35節で、「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と断言されました。それを受けて、本日の最初の41節を見ます。「ユダヤ人たちは、イエスが『私は天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天から降って来た」などと言うのか。』」人々はイエス様の言葉につまづきました。受け入れることができませんでした。そしてぶつぶつつぶやきました。つぶやくとは、疑い(不信仰)の言葉や、不平不満をこもごもと述べることです。つぶやきは罪です。考えてみると、私も(私たちも)つぶやきの罪をよく犯しているかもしれないと思い、私は自分が恥ずかしくなります。

 旧約聖書のイスラエルの民も、エジプトを脱出して荒野を旅して約束の地を目指している間、よくつぶやきました。背後から襲い掛かるエジプト軍を、神様が打ち破って下さり、神様を讃美したイスラエルの民でしたが、荒れ野に入るとすぐリーダーのモーセとアロンに不平を述べ立てます。出エジプト記16章2~3節です。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだほうがましだった。あのときは、肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」新共同訳聖書では「不平」と訳していますが、以前の口語訳聖書では「つぶやいた」と訳しています。つぶやくことは、神様がなさったことに賛成できず、ぶつぶつ文句を言う罪です。

 イエス様の周りにいたユダヤ人たちも、イエス様が「私は天から降って来たパンである」と言われたので、つまづいてつぶやいたのです。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか。」彼らにとってイエス様は、乳幼児の頃から身近で見て来た子ども(今は青年)、ヨセフとマリアのせがれに過ぎませんでした。その青年が壮大なことを言い始めた。それで受け入れることができなかったのです。イエス様はおっしゃいます。43節「つぶやき合うのはやめなさい。」私たちはイエス様を神の子、真の救い主として受け入れていますが、それ以外のことで、色々つぶやくことがあるのではないでしょうか。人間の舌と唇は本来、真の神様を讃美し、お互いによきコミュニケーションをとるために造られたはずです。それなのに私たちは唇でつぶやく罪を犯し、唇を本来の目的に反する形で使ってしまいます。いったいどうすればよいのでしょうか。

 私が最近読んだ信仰の印刷物に、ある牧師のことが書いてあったのですが、その牧師は一日50回くらい「主の祈り」を祈るそうです。もちろんただ回数を多く祈ればよいというものではなく、回数が少なくても真心がこもっていることが一番大事と思います。同時にこのような方法もあるのではないかとも思いました。私たちがぶつぶつ言いたくなる時に、代わりに「主の祈り」を小さな声でもよいので声に出して祈るのです。ぶつぶつ言いたくなる心に「主の祈り」を祈ることで打ち勝つのです。完全に勝てないこともあるでしょう。しかしこうすれば唇によって犯す罪を少しは減らすことができるのではないでしょうか。「主の祈り」によって、ぶつぶつを撃退するのです。このようなことを毎日行うと、信仰が一歩前進するのではないでしょうか。
 
 さてイエス様のお言葉です。44節「私をお遣わしになった父が引き寄せて下さらなければ、誰も私のもとへ来ることはできない。私はその人を終わりの日に復活させる。」「引き寄せる」という言葉は、大事だそうです。これは「強く引っ張る」の意味だそうです。「非常に強力に引っ張る。」「私をお遣わしになった父が、強力に引っ張って下さらなければ、誰も私のもとへ来ることはできない。」そして父なる神様は、私たちを強力に引っ張って下さるのです。「イエス様の元へ来なさい」と強力にに引っ張って下さるのです。テモテへの手紙(一)2章4節に、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」とありますから、神様は全ての人を、イエス様の元に来るようにと、強力にに引っ張って下さっていると信じます。神様は、私たちがクリスチャンの家族や友人と出会った、キリスト主義の幼稚園や学校に通った等、色々な方法で私たちを強力に引っ張って下さっているのです。よく注意してそれに気づくことが必要だと思うのです。

 私自身も、神様から色々な形で強力に引っ張られて来たと実感しています。母親が信仰者だったこと、キリスト教の幼稚園に行ったこと、(当時はことさらキリスト教を求めていたと言えないのに)キリスト教の高校に入り、1年次の担任が牧師の資格をもった先生だったこと等です。神様のお姿を見たわけではないのですが、このようなことを通して、神様に強力に引っ張られて来たと思います。その高校から徒歩1分の所にあったのが、後に入学した東京神学大学でした。高校時代は、不思議な小さな大学がここにあるなと思っただけで、高校卒業7年後にそこに入学するとは考えもしませんでした。このような神様の強力な引っ張りに、しっかり気づいて、神様の招きに応答することが、神様に喜んでいただく道と信じます。イエス様は、ヨハネの黙示録3章20節で、私たちに強力な招きの言葉を語っておられます。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。」イエス様は、私たちの心のドアをノックしておられます。「誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。」イエス様は私たちが、心のドアを開けることを待っておられます。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生は、この御言葉が非常にお好きだっったそうですね。浅野先生がよくおっしゃったそうですが、私たちの心のドアのノブは、私たちの側にしかついていない。外のイエス様の側にはノブがついていないので、イエス様が無理やりこじ開けて入って来られることはない。私たちが自分で決断してドアを開け、イエス様を招き入れることを、イエス様は今日も待っておられるのだと、よく語られたそうです。神様は今この瞬間も、「あなたの全部の罪を身代わりに背負って十字架で死に、三日目に復活されたイエスを救い主と信じてほしい」と、私たちに全力の愛で呼びかけ、愛をもって強力に引っ張り、私たちがイエス様を信じて永遠の命を受けることを、全身全霊で願っておられます。

 ヨハネ6章に戻り、45節「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る。」この預言者の書は1ヶ所ではないようですが、その1つは本日の旧約聖書イザヤ書54章13節です。「あなたの子らは皆、主によって教えを受け」とある御言葉です。私たちは信仰のことを、神様に教えていただくことが大切だと分かります。聖書を祈りながら読むことで、多くの大事なことを教えられます。そして経験豊かな他のクリスチャンから学ぶことも多くあります。その人たちも神様から学んで来られたのですから。神様から素直に学ぶならば、私たちは真の救い主イエス様のもとに、必ず導かれます。

 46節「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者(イエス・キリスト)だけが父を見たのである。」これはこのヨハネ福音書1章18節に書かれていることと同じです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」47~51節でイエス様は、神の子でないと言えない大胆なメッセージを続けざまに語られます。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。私は命のパン(永遠の命のパン)である。あなたたちの先祖は荒れ野でマナを食べたが、死んでしまった。」 確かにモーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、約40年に渡って、神様が与えて下さったマナという食物によって養われたのです。でもマナは普通の食べ物なので、永遠の命を与える力はありません。マナで養われた人々も、いずれは死んでゆきました。しかしイエス・キリストは、天(天国)から降って来たパンで、これを食べる者は死なない。地上の人生は終わるのですが、イエス様を信じて洗礼を受けたときから永遠の命を受けているので、その永遠の命において天で生き続けます。「私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。」48節に「私は命のパンである」とありますが、元の言葉のギリシア語を見るとこの中に「エゴー・エイミー」という言葉があります。これは「私は〇〇である」の意味で、「私はある」の意味でもあります。重要な言葉です。何回も申し上げている通り、これは出エジプト記3章14節と関連する言葉です。そこは真の神様がモーセに自己紹介なさる場面です。「神はモーセに、『私はある、私はあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「私はある」という方が私(モーセ)をあなたたちに遣わされたのだと。』」神様がご自分を「私はある、という者だ」と言われ、イエス様が「私は〇〇である」「私はある」とおっしゃっているということは、イエス様が神に等しい方だ、イエス・キリストは神であるということです。イエス様が「私は命のパンである」と宣言なさったその言葉の中に、「私はある」という言葉が含まれていることは、イエス様が神であると宣言なさっているということです。

 本日の箇所には「永遠の命」や「永遠に生きる」という言葉がよく出てきますが、これは肉体の命が千年も万年も続くことではありません。天国では時間もないのですから、永遠の命とは時間を超越した命です。永遠の命とは、地上の命とは質の異なる命です。私たちの地上の命には、罪があります。自己中心の罪、エゴによって汚されているのが私たちの地上の命です。永遠の命は、イエス様の命と同じ命です。罪とエゴが全然ない清い命、神様と隣人を完全に愛しきることができる命、敵をも喜んで愛することのできる新しい命です。私たちが自分の罪を悔い改めて洗礼を受けると聖霊を注がれ、永遠の命もプレゼントされます。

 イエス様は、「私は命のパン(永遠の命のパン)」だと宣言され、「私を食べなさい」とおっしゃっているようです。これは聖餐式のことを意味していると考えるのが最も自然です。53~59節のイエス様の御言葉の一部を、私はよく聖餐で朗読致します。
読めば読むほど、大胆でストレートなメッセージで、驚きます。「はっきり言っておく。人の子(イエス様)の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命(永遠の命)はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。」私たちの罪を全部背負って十字架で死なれ、三日目に復活されたイエス・キリストの愛! その愛のかたまりである聖餐式のパンとぶどう液を食べ飲みすることで、私たちは永遠の命に生かされます。そう思い、説教題を「イエス様の愛に生かされる私たち」と致しました。誰でも少しずつ死に向かっていきます。辛いです。聖書を読む力もない時もある。その時私たちを励まし、永遠の命の希望を確かに与えてくれるのが聖餐式のパンとぶどう液です。「大丈夫、あなたの罪はイエス様の十字架によって全て赦されている。この聖餐式のパンとぶどう液が、あなたに永遠の命を約束する。」そう確信してパンとぶどう液を食べ飲みする恵みが用意されています。「私を食べる者も私によって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 このヨハネ福音書の1章で洗礼者ヨハネがイエス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言っています。使徒パウロはコリントの信徒への手紙(一)5章7節でイエス様は「私たちの過越しの小羊として屠られた方」だと述べています。つまり私たちの全部の罪を取り除くために十字架でいけにえとなって死んで下さったイエス様が、私たちの「命のパン」「永遠の命を約束するパン」なのです。

 ある女性のことを思い出します。その方は若い頃に辛い決断をなさいました。中絶です。母体か小さい命のどちらかを選ばなくてはならない、とても辛い状況だったようです。涙をのんで小さい命を犠牲にする道を選びました。その何年後か分かりませんが、それまでの人生の全ての罪を悔い改めて洗礼を受けられました。どの教会であったか知りませんが、洗礼を受けられました。それでも中絶のことに、心の中で苦しんでおられたようです。ある時、聖餐式があった礼拝の後に、経験豊富な牧師の奥様が聖餐式の後の処置(片付けというと語弊があるかもしれません)をしておられた時に、他に誰もいない時にそのことを打ち明けました。「こんな私が聖餐を受けてよいのでしょうか。」話を聴いた奥様が、「イエス様はそのあなたのために十字架に架かって下さったのだから、さあ食べなさい、飲みなさい」と言ってパンとぶどう液を渡して下さったそうです。その礼拝の聖餐式の時は、中絶を思い出してパンとぶどう液を取る気持ちになれなかったのかもしれません。礼拝後にパンと(おそらく)ぶどう液を受けたのは番外で、よくないという意見もあるかもしれません。でもその信仰経験豊富な奥様がよき牧会(相手の方への魂のケア)をなさったと思うのです。「イエス様は、そのあなたのために十字架で死んで下さったのだから、さあ食べなさい。」そう言われた女性は、涙が出るほど嬉しかったし、とても救いになったと思うのです。

 私たちは皆、神様からご覧なれば罪人(つみびと)なので、自分の正しさで天国に入ることができません。説教題に掲げたように「イエス様の愛によって生かされる私たち」です。イエス様の十字架の愛と復活によってのみ、生かされ、天国に入れていただく私たちです。その感謝の思いでこれから聖餐を受けましょう。全ての方が洗礼を受けて、ぜひ聖餐式を受ける仲間に入っていただきたいのです。イエス様はそれを願って十字架に架かられたのです。アーメン。

2022-12-31 13:28:28(土)
「わたしはこの目であなたの救いを見た」  2023年1月1日(日)元日礼拝説教
順序:招詞 フィリピ2:6~9,頌栄28、主の祈り,使徒信条、讃美歌21・268、聖書 イザヤ書40:1~5(旧約p.1123)、ルカ福音書2:22~40(新約p.103)、讃美歌256、聖餐式、献金、頌栄92、祝祷。 

(イザヤ書40:1~5) 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

(ルカによる福音書2:22~40) さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
 
(説教) 新年おめでとうございます。本年も、何卒よろしくお願い申し上げます。本日の説教題は「わたしはこの目であなたの救いを見た」です。新約聖書は、ルカによる福音書2章22~40節です。本日の個所の小見出しは、「神殿で献げられる」です。この直前の箇所に、イエス様が生まれて八日たったとき、イスラエルの民の男子の習慣である割礼を受けました。割礼は旧約聖書の時代には非常に重要なことで、神様と契約を結んだ民のしるしでした。今日の箇所では旧約聖書の時代から新約聖書の時代への移行が行われようとしています。

 最初の22~24節「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」これについては旧約聖書のレビ記12章に「産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す」とあり、「なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする」と書いてあります。マリアとヨセフは、「山鳩一つがいか、家鳩の雛二匹」を献げるために神殿に行ったのですから、貧しかったことが分かります。

 25~26節「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」当時のイスラエル人は、イスラエルの国がローマ帝国の支配から解放される慰め(救い)を待ち望んでいたはずです。シメオンも最初はそうだったかもしれませんが、次第にもっと深い慰め(救い)を待ち望むようになったのではないかと思います。

 「慰め」という言葉で連想するのは、本日の旧約聖書イザヤ書40章1節以下です。これは、イスラエルの民が神様に罪を犯し続けた結果、厳しく叱られてバビロン帝国に約半世紀に捕囚にされた期間が終わって、ついに神様の赦しと慰めの時が訪れたことを語る預言です。クリスマスによく歌われるヘンデルという作曲家の「メサイア」という作品にこの御言葉が出てきますね。「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。」「罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた」とは、「罪のすべてに倍する裁きを、主の御手から受けた」の意味であるようです。厳しいのです。しかしその厳しい裁きの半世紀少々が過ぎ、時は満ちてエルサレムに帰ることが赦される時が来た。神様の赦しと慰めの、恵みの時が訪れた。イザヤ書40章1節は、このことを語ります。「慰めよ、私の民を慰めよ」の部分を愛している方もおられると思います。この箇所の場合は、バビロン帝国からイスラエルの民が解放される慰めですが、シメオンの場合は、ローマ帝国からイスラエルの民が解放される慰めから進んで、もっと深い意味の救いと慰めを待ち望んでいたのではないかと思います。シメオンは、「主(神様)が遣わすメシア(救い主)に会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けて」いました。聖霊こそ、神様の聖なる霊であり、また慰めの霊であられます。

 27~32節「シメオンが霊(聖霊)に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕(しもべ)を安らかに(直訳・平和に)去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」シメオンは、聖霊によって心に示された、直観したのでしょう。赤ちゃんイエス様を見て、「この赤ちゃんこそ、真の救い主」だと分かったのです。彼の人生の目的は達せられました。シメオンの目は涙に潤んでいたと思うのです。何も思い残すことはない。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」
 
 この救い主に、旧約の時代の偉大な預言者たちも、何とかお目にかかりたいと切望しながらも果たせなかったのです。ペトロの手紙(一)1章10節以下に、こうあります。「この救いについては、あなた方に与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊(聖霊)が、キリストの苦難(十字架)とそれに続く栄光(復活)についてあらかじめ証しされた際(イザヤ書53章等を指す?)、それがだれを、あるいはどの時期を指すのか調べたのです。彼らはそれらのことが、自分たちのためではなく、あなた方のためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなた方に告げ知らせた人たちが、今、あなた方に告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。」預言者たちも天使たちもお会いしたいと切に願った救い主に、シメオンはお目にかかることを許されました。感激で胸がいっぱいになったに違いありません。

 シメオンは聖霊に満たされて言います。「私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」この救い主は、イスラエル人のためにも異邦人(イスラエル人以外)のためにも十字架で死んで下さり、全ての罪の赦しと永遠の命を与えて下さる、と讃美しています。ヨセフとマリアは、幼子についてこのように言われたことに驚いていました。34~35節「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせるためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。』」この赤ちゃんの人生が容易でないことが示されます。「イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせるためにと定められ、反対を受けるしるしとして定められている。」謙虚な心でイエス様を救い主と受け入れる人に永遠の命をもたらす救い主。でも自分の罪を認めず、十字架による罪の赦しを拒否する人には救いをもたらさない救い主。「反対を受けるしるし。」自分に罪があることを認めない人々からは反対を受け、十字架の苦難に追いやられる救い主。この子の母親マリアも、この苦難を耐え忍ぶことになります。それで「あなた自身も剣で心を刺し貫かれる」と語られます。ヨセフのことが語られないのは、イエス様の十字架のとき、ヨセフは既に天に召されているからでしょう。

 救い主にお目にかかる念願を果たしたシメオンは、使命を終え、間もなく天に召されたのではないでしょうか。彼は満足して召されたと思います。そして若いヨセフ、マリア、イエス様が、神様の救いのご計画に担い手となります。使命を担う世代が交代し、神様の救いのご計画が進みます。シメオンが見た神様の真の救いのしるし。それは小さな赤ちゃんイエス様です。私たちも、救いのしるしを色々目にしています。まずはこの礼拝です。大人数であっても少ない人数であっても、真心を込めた礼拝が献げられていることは、そこに神様のご計画が行われている尊いしるしです。あるいはどこまで一人でも二人でもよい、真心込めて祈っている人がいるなら、それはそこに神様の尊いご計画が行われている貴重なしるしです。一人でも洗礼を受ける人がおられるなら、それはそこに神様が生きて働いておられるしるしです。神様はその真心こもった礼拝、一人または少人数の真心のこもった祈り、心のこもった小さな洗礼式あるいは聖餐式をご覧になって上から、「これらは私の目に価高く、尊いこと」とおっしゃるでしょう。

 今日の場面は、旧約聖書で、神様の働きがモーセからヨシュアにバトンタッチされる場面と似ています。モーセは出エジプトの第一世代のリーダーでした。モーセはよく奉仕しましたが、ある罪を犯したために約束の地(カナンの地、イスラエルの地)に入ることはかないませんでした。申命記33章でモーセは、イスラエルの民に祝福の言葉を与えます。シメオンがイエス様一家を祝福したように。そして申命記34章1節以下にこうあります。「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。主はモーセに言われた。『これがあなたの子孫に与えると私がアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。私はあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。』主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。」その後、次の世代のヨシュアがリーダーとなり、神の救いの計画の担い手となり、イスラエルの民は約束の地・カナンの地に入るのです。私たちにとっての約束の地は神の国、天国にほかなりません。

 モーセはピスガの山頂に立ち約束の地を見渡したとき、「私はこの目であなた(神様)の救いを見た」と心の中で言ったのではないでしょうか。本日の旧約聖書イザヤ書40章の3~5節にも、似た言葉があるのです。「呼びかける声がある。主のために、荒れ地に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者(人間たち)は共に見る。」「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。」シメオンの目は、主の栄光の独り子イエス様(その栄光はまだ隠されていたとも言えますが)を見ました。モーセは、主の栄光の約束の地を見ました。

 今日の箇所を読むと、マルティン・ルーサー・キング牧師の演説を連想しますね。アフリカ系の人々への差別が今より多くあった(今でもある)1963年に語られた「私には夢がある I have a dream」という有名な演説です。これが語られたとき、まだまだアフリカ系の人々への差別や迫害が多く、殺人の犠牲になる人々もいました。現実が悪夢の中で「私には夢がある」と語ったところが、すごいと感じます(梶原寿著『マルティン=L.=キング』清水書院、1993年)。「私はいつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫と奴隷主の子孫とが、兄弟愛のテーブルに一緒に座る夢をもっている。そして私は、私の四人の小さな子どもたちがいつの日か、皮膚の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住むようになる夢をもっている。また私はいつの日か次の御言葉が必ず実現する夢をもっている(イザヤ書40章4~5節)。『もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘は低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。こうして主の栄光が現れ、人はみな共にこれを見る。』」人種差別がなくなるという神の栄光を将来に見つつ、キング牧師は暗殺されました。キング牧師が見た神の栄光は、行きつ戻りつしながら進んでいると信じたいです。アフリカ系のオバマ大統領の誕生は、確かに神の栄光のしるしを、私たちも見た出来事でした。でもまだまだ差別をなくす愛の闘いは続いています。

 聖書の最後の書・ヨハネの黙示録21章には、こうあります。著者のヨハネが述べます。「私はまた、新しい天と新しい地を見た。~神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」私たちが真心こめて献げるこの礼拝こそ、神の国が必ず来ることの見えるしるしです。礼拝する人々が存在することこそ目に見える奇跡です。この2023年も真心込めて礼拝することを最大限大切にし、イエス様を宣べ伝えて共に歩みましょう。アーメン。