日本キリスト教団 東久留米教会

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2020-08-16 0:40:20()
「皆さん、元気を出して下さい」 2020年8月16日(日)礼拝説教
礼拝順序: 招詞 マタイ5:9、頌栄29、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・494、聖書 使徒言行録27:13~44(新約268ページ)、祈祷、説教「皆さん、元気を出して下さい」、祈祷、讃美歌21・456、献金、頌栄83(1節)、祝祷。

(使徒言行録27:13~44) ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」
 
 十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、 パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言った。そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。

 夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。

 朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。

(説教) 本日は、連続的に読んでいるマタイ福音書等ではなく、あえて使徒言行録27章を選びました。これはイエス・キリストの使徒・伝道者パウロが囚人という思いがけない形で念願のローマに向かう場面です。パウロの伝道の人生は、本当にイエス・キリストと共に歩む人生となりました。イエス様と共に十字架(苦難)を背負い、同時にイエス様の復活の恵みをもいただく人生。試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えられた人生でした。「既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。」理性的に考えて、航海が危険な季節に入っていた。パウロは航海が危険になることを、見通していました。「皆さん、私の見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、私たち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」しかしパウロの意見は採用されず、船は乗り出してしまいました。しかも最初は順調にゆきそうに見えたのです。船はまさに運命共同体です。

 13~15節「ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、私たちは流されるに任せた。」 海と水は「命の源」のイメージもありますが、聖書では海と大水は、「混沌」のシンボル、「混乱」のシンボル、はっきり言えば死の恐るべき力のシンボルでもあります。9年前の東日本大震災の大津波を思えば、大水が巨大な破壊の力、恐るべき力を持っていることは私たちによく分かります。そして船は、聖書ではしばしば教会のシンボルです。ノアの箱舟も教会のシンボルと言えます。しかし今日の場面では、エウラキロンの巨大な力に翻弄される船は、人類社会全体のシンボルとも言えます。エウラキロンも巨大な死の力のシンボル、今の私たちにとっては新型コロナウイルスそのものに見えます。276人が乗っているのですから、小さな船ではありません。中型船あるいは大型船でしょう。しかし猛烈にふきすさぶエウラキロンの前に、木の葉のような頼りなさです。

 20節「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた。」太陽も星も見えなくては、どこを漂流しているのかすら、全く分かりません。船の中には絶望感が漂っていたに違いありません。パウロ以外は皆、生きた心地がしなくなっている。もはや万策尽きた。ところが囚人の老いたパウロが人々の精神的な柱になるのです。「人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロが彼らの中に立って言った。『皆さん、私の言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたに違いありません。しかし今、あなた方に勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。』」船は失う。でも皆さんのうちだれ一人として命を失う者はない。そう断言します。

 大きな病気等を乗り越えた方が時々言われます。「生きてるだけで丸もうけ」だと。私たちはもしかすると欲が深くて、生きているだけでは足りなくて、あれもこれも加えないといけない、と思っているのです。しかし当たり前のことですが、新約聖書のテモテへの手紙(一)6章には、「私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる者と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです」と書かれています。船は失っても、命さえ助かれば十分です。

 パウロは確信をもって語ります。「私が仕え、礼拝している神からの天使が昨夜私のそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せて下さったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に告げられたことは、その通りになります。私たちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」 パウロはいつも祈り、神様と共に歩んでいます。天使がパウロにはっきり語ったのです。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝(ローマ皇帝)の前に出頭することに定められている。」それまでは死ぬことがない。パウロが助かるのなら、ほかの人も皆助かるはずです。「だから皆さん、安心して下さい。元気を出して下さい」とパウロは、確信を込めて人々を励まします。困難な中にあって、確かな根拠に基づいて人々を励ます、人々に希望を与える。これこそ神の人の尊い使命です。

 天使は言いました。「神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せて下さったのだ。」神様は囚人パウロを、276名全員を支えるリーダーとしてお立てになったということです。宗教改革者マルティン・ルターの言葉だったように覚えていますが、「世界を支えているのはクリスチャンの祈りだ」という言葉を聞いたことがあります。クリスチャンの祈りがこの世界を滅びから救っていると。クリスチャンの祈りが世界の滅亡を食い止めていると。私たちはそれを聞いて、自分一人の祈りにはそれほど力がないと感じるかもしれません。でも仮に、世界中のクリスチャンが全員祈りをやめたら、どうなるでしょうか。この世界はもっとひどい悲惨な状態になるのではないでしょうか。確かに今の世界にはコロナの苦しみもありますし、愛と正義と平和が十分には行われていない嘆かわしいこと罪深いことも多くあります。でも愛と正義と平和が行われるようにクリスチャンが世界中で祈っているから、まだこれくらいの悲惨で済んでいると言っては、問題でしょうか。世界中のクリスチャンが祈ることを一斉にやめたら、世界はもっともっと悲惨になると思うのです。ですから私たちは、自分一人祈ったところで何も変わらない、世界に何の影響もないと思うべきではありません。あなた一人の祈りは大きな力であり、あなたが祈れば色々なところによい効果が現れるのです。あなた一人が祈りをやめれば、いろいろなところにマイナスの結果が現れるのです。一人の祈りの責任は大きいのです。

 一人が祈るか祈らないかは、結果に大きな違いを生みます。一人が誰かのために祈れば、必ずどこかで一人の笑顔が生まれるはずです。まして世界中のクリスチャンが一斉に祈りをやめれば、世界は本当に滅びるのではないでしょうか。クリスチャンの祈りが世界を破滅から救っているのは事実です。もちろん最終的に世界を救うのは神様です。でもその中で、一人の人の祈りであっても、大きな役割を果たしている。確かにクリスチャンの祈りが、世界の滅びを食い止めているのです。天使は言いました。「神は、一緒に航海しているすべての者を、あなた(パウロ)に任せて下さったのだ。」私たちにも、世界のために祈る責任が委ねられています。

 パウロの精神的リーダーとしての姿勢は力強いですね。どこかの陸地に近づいていると感じられた時に、船員たちが船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を降ろしました。責任を放棄して逃げ出そうとしたのです。パウロがそれを見つけ、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなた方は助からない」と言います。現実的に船員の力がないと船をコントロールできません。パウロは船員たちの身勝手な行動を阻止します。そこで、兵士たちが綱を断ち切って小舟を流れるに任せ、船員たちは逃げ出せなくなりました。船には、船長と船員たち、ローマの百人隊長と兵士たち、囚人パウロと他の囚人たち、いろいろな立場の人々が乗っていました。ルカによる福音書を書いたルカも乗っていました。社会の縮図です。この命の危機を乗り切るためには、皆の協力が必要です。パウロ一人で全体を助けることはできません。私たちがコロナの禍を乗り越えていくためにも、市民全員の協力を必要としています。

 しかしその中でパウロは、確かに神に助けられて、囚人なのに精神的リーダーになっているのです。パウロは一同に勧めます。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごして来ました。だから、どうぞ何か食べて下さい。生き延びるために必要だからです。あなた方の頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで一同も元気づいて食事をした。

 「さあ、パンを食べて元気を出しましょう。神が共にいて助けて下さいます。皆さんは必ず助かります。でも食べておかないと助かる命も助かりませんよ。」パウロは人々を落胆させる言葉は語らず、肯定する言葉、プラスに励ます言葉を語り、祖先して神様に感謝の祈りを献げて、行動をもって船の全員、運命共同体の全員を引っ張ります。パンを食べる。それは神様の恵みを十分に受けることです。その前に「感謝!」の祈りを献げることが既に、プラスの行動です。パウロの行動によって人々は希望の光を感じ、彼を真似する行動をとり始めました。276名全員が十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。穀物を捨てるとは大胆に見えますが、船が陸地にたどり着くためには、適切な行動なのでしょう。身軽になって陸地に早く確実にたどり着けるようにする。この先も神様が助けて下さると信頼して、今は進まなければなりません。「錨を切り離して海に捨て、舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進む。」これは船のプロである船員たちの仕事です。船員が逃げていたら、これができませんでしたね。その後、船が座礁し壊れ始める。兵士たちが囚人たちの逃亡を防ごうと囚人たちを殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、命令してやめさせた。百人隊長ユリウスにしてみれば、パウロをローマ皇帝の前に立たせるためにローマに確実に護送する責任があり、これまで全員がパウロに心を支えてもらった恩義もある。このままではパウロも殺されるので、パウロを含め囚人全員を殺させない命令を下しました。パウロがいたお陰で囚人全員の命が助かりました。これも神様の愛のお働きです。こうして神の恵みにより276名全員がマルタ島に上陸して助かった。皆の協力があり、そしてパウロの信仰に支えられて、皆が約2週間に及ぶ死の大きな危機を乗り切りました。

 祈りのリーダーの存在が大切であることを感じます。左近豊(とむ)著『信仰生活の手引き 祈り』(日本キリスト教団出版局、2016年)の94~95ページに次のように書かれています。「2010年に起こったチリのコピアポ鉱山落盤事故で、地下深く700メートルに閉じ込められた33人が約70日後に救出されたことを思い起こされる方もおられるかもしれません。~あの劣悪な環境と、いつ助けが来るかわからない絶望とわずかな食糧と暗闇の中で、最初の18日間は地上との音信もなく、その後も困難を極める救出活動の中で、毎日12時と午後6時に集まって祈り、秩序と希望を保ち続けたと言われています。この人たちが救出された時に着用していたTシャツには詩編95編4節の言葉『深い地の底も御手の内にあり、山々の頂も主のもの』がプリントされていたと言います。~そして救出された一人が言った言葉が報じられていました。『地下にいたのは33人ではなく、34人だった。神が我々と共にいたからだ』と。」チリでは80%がカトリック、15%がプロテスタントだとある資料にありました。

 別の本『チリ33人 生存と救出、知られざる記録』(共同通信社、2011年、168ページ)にはこう書かれています。「昼食の配送は正午に始まり、食事が全部到着するまでにたっぷり1時間半かかった。『昼食が済むと、彼らは全員でミーティングを行い、そこで祈りを始める。』」「通常、ホセ・エンリケス(牧師)が日々の祈りを主宰した。『ドン・ホセ』はイエスと日々の説教のために生きていた。当初、ささやかな祈りのグループとして始まったが、そのうち本格的な福音派の集会へと転じていった。いつも20人が彼のミサに出席した。時にはそれ以上が集まった。」エンリケスという人がリードして祈りの集会が行われていたのですね。地上でも、家族が祈りの祭壇を築いて33人の救出を祈っていたそうです。もちろんどのようにドリルで通路を開いて救出するか、多くの技術者が協力していました。そしてとうとう全員の救出が実現したのです。私も東久留米で彼らの救出を祈っていましたし、皆さんもそうでしょう。世界中で祈っていたはずです。救出が報道された日、私も晴れ晴れとした気持ちになって、教会のお隣の阿部さんの奥さんと、「よかったですね」と喜び合いました。

 クリスチャンは祈ることを知っているのですから、皆が祈りのリーダーです。神様に支えられたパウロの信仰と祈りが他の275名に希望を与えました。真の神様に支えられた祈りだけが真の希望をもたらすと感じます。私も日々祈っているつもりですが、9年前の東日本大震災の原子力発電所事故の時は、生きた心地がしない中で必死に祈りました。原子力発電所が致命的な大爆発を起こさないように必死に祈りました。大爆発すれば東日本は壊滅するとの説もありました。多くの人の祈りがあったと思います。原発は爆発しましたが、致命的な大爆発は免れたようで、東日本全体の壊滅には至りませんでした。神の憐れみと思います。コロナで傷ついている今の日本と世界にあって神様の助けを求めて祈り続けましょう。この町の方々、日本と世界が希望を回復することができるよう、コロナの鎮静化を祈り続けたいのです。アーメン(真実に)。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者は増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さるように切にお願い致します。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。中国(特に香港)で信教の自由と民主主義が守られますように。核兵器が廃絶され、世界から戦争がなくなりますように主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

2020-08-08 22:16:03(土)
「愛と食べ物は神様から来る」 2020年8月9日(日)礼拝
 礼拝順序: 招詞 マタイ5:9、頌栄28、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・223(1~4節)、聖書 ホセア書2:7~15(旧約1404ページ)、マタイ福音書15:29~39(新約30ページ)、祈祷、説教「愛と食べ物は神様から来る」、祈祷、讃美歌21・561番、献金、頌栄27、祝祷。

(ホセア書2:7~15) その母は淫行にふけり/彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。彼女は言う。「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻/オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ/石垣で遮り/道を見いだせないようにする。彼女は愛人の後を追っても追いつけず/尋ね求めても見いだせない。そのとき、彼女は言う。「初めの夫のもとに帰ろう/あのときは、今よりも幸せだった」と。彼女は知らないのだ。穀物、新しい酒、オリーブ油を与え/バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは/わたしだということを。それゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を/取り入れのときに新しい酒を取り戻す。また、彼女の裸を覆っている/わたしの羊毛と麻とを奪い取る。
こうして、彼女の恥を愛人たちの目の前にさらす。この手から彼女を救い出す者はだれもない。わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち/祭り、新月祭、安息日などの祝いを/すべてやめさせる。また、彼女のぶどうといちじくの園を荒らす。「これは愛人たちの贈り物だ」と/彼女は言っているが/わたしはそれを茂みに変え/野の獣がそれを食い荒らす。バアルを祝って過ごした日々について/わたしは彼女を罰する。彼女はバアルに香をたき/鼻輪や首飾りで身を飾り/愛人の後について行き/わたしを忘れ去った、と主は言われる。

(マタイ福音書15:29~39) イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。

(説教) 本日の最初の小見出しは、「大勢の病人をいやす」です。「イエスはそこ(ティルスとシドン地方、イスラエルの外)を去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足元に横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。」これはイエス・キリストの愛です。マルコ福音書を見るとイエス様はこの時、ティルスとシドンを出て、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られたとあります。地図を見ると分かりますが、デカポリス地方はガリラヤ湖の南東部分です。デカポリスは「10の町」の意味です。「デカ」が10、「ポリス」が町の意味です。デカポリスはギリシア語の地名です。イスラエルの言葉はなく外国語です。デカポリス地上に住んでいたのはユダヤ人ではなく主にギリシア人です。そこでここでイエス様に癒された人々の多くはギリシア人(異邦人)だった可能性が高いと解釈されています。今日の直前箇所(先週の礼拝の箇所)はカナン人の女性の娘をイエス様が癒して下さった出来事で、やはり異邦人の癒しです。そこに続く今日の箇所も異邦人の癒しを語っていると思われます。マタイによる福音書は、基本的にユダヤ人(イスラエル人)に向けて書かれた福音書と言われますが、イエス様がユダヤ人から始めて、異邦人(外国人)をも救って下さる救い主であることを語っているのです。

 「群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足のフィ自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」わざわざ「イスラエルの神」と書かれていることに意味があるかもしれません。異邦人たちが、「イスラエル人が信じる神こそ、本当の神だ」と知って、イスラエルの神(全世界の神でもある)を賛美した、というメッセージが、ここで語られているようです。

 次の小見出しは「四千人に食べ物を与える」です。「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『群衆がかわいそうだ。もう三日も私と一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくない。途中で疲れ切ってしまうかもしれない。』」この出来事は、この福音書14章の「五千人に食べ物を与える」の出来事と非常によく似ています。ほとんど同じとも言えます。ではなぜほとんど似た話が2回出てくるのでしょうか。昔から行われている解釈は、14章の「五千人に食べ物を与える」は、主にユダヤ人に食べ物を与えて下さった出来事、今日の15章の「四千人に食べ物を与える」は、主に異邦人に食べ物を与えて養った下さった出来事だとの解釈です。


 「弟子たちは言った。『この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分に食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。』イエスが『パンはいくつあるか』と言われると弟子たちは、『七つあります。それに、小さい魚が少しばかり』と答えた。」14章の出来事がなぜユダヤ人への養いと言えるかですが、残ったパンの屑が12の籠いっぱいになった」とあり、12という数字が「イスラエルの12部族」を象徴すると解釈されています。それに対し、15章の出来事ではパンが7つあり、残ったパン屑を入れた籠も7つです。7は全世界を表すと解釈されています。創世記で神様が7日間で全世界をお創りになりました。創世記10章では、全世界の諸民族の数を70としています。それでマタイ15章の食物の奇跡は、異邦人あるいは世界中の民の救いを暗示すると読まれて来たそうです。

 14章の出来事をユダヤ人の救い、15章の出来事を異邦人(全世界の民)の救いと考えるもう1つの根拠は、パン屑を入れた「籠」という言葉です。14章の「籠」は原語で「コフィノス」で、ユダヤ人が用いる籠を指すそうです。15章の「籠」は原語で「スプリス」と使い分けられており、これはユダヤ人ではなく異邦人が日常的に魚などの食べ物を入れる籠を意味するそうです。このような説明を読むと、私にも14章はユダヤ人に食物を与えた話で、15章は異邦人に食べ物を与えた話だと、私にも納得できてきました。ユダヤ人に始まり異邦人に、全世界にイエス様の愛の救いが進んで行く。そのようなありがたい希望を、今日の箇所から読み取ることができます。私たち日本人は異邦人ですから、このことは本当に感謝です。

 なお、イエス様が配ると食物が大いに増えたことについてです。1回目の時も2回目の時も、弟子たちは初めは、自分たちの持てるものを不承不承差し出したのかもしれません。ですがイエス様がそれらを祝福し、イエス様が裂いたそれらを受け取って人々に配ると、増えて全員に行き渡る、それを経験しながら弟子たちは、喜びに震え、もっと喜んで差し出せばよかったと自分を恥じたのではないかと思います。私はコリントの信徒への手紙(二)9章7節以下の御言葉を思い出すのです。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです。神は、あなた方がいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業(わざ)に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなた方に満ちあふれさせることがおできになります。」

 本日の説教題を「愛と食べ物は神様から来る」としています。イエス様が父なる神様の愛の力で、大勢の病人を癒やして下さいました。そして、男だけで四千人の異邦人(女性・子どもを合わせればきっと1万人以上)を満腹にして下さいました。この7つのパンの元になった小麦は、イスラエルの農民が育てたのでしょう。小麦の命ある種を造ったのは神様です。その種を農民が植えて水や肥料を与えて、麦が収穫されました。それも神様の働きです。新約聖書には、「私(パウロ)は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です」という御言葉があります。これは教会の成長のことを語った御言葉ですが、でも麦やお米などの農作物の生育にもよく当てはまる御言葉です。「Aさんは植え、Bさんは水を注いだ。そして神様が成長させて下さって」、農作物は収穫の時を迎えます。麦や野菜や米や果物の日々の生育は神様の恵みであり、神様の奇跡です。日本人の多くは、麦や野菜や米や果物が育つのは自然の恵み、自然の力と思っていますが、実は神様の力です。それは八百万の神々の力ではなく、聖書の神様、天地を創造なさった神様、イエス様の父なる神様の力です。農作物が日々育つのは神様の奇跡です。その意味で、奇跡は毎日毎日、一瞬一週に起こっています。私たちがそれに気づいて、感謝と讃美の祈りを献げることが大切と思います。もちろん作物の世話のために働く方々の労働は、尊いのです。そうして収穫された麦から造った7つのパンを、イエス様が特別な奇跡によって大きく増やし、男だけで四千人もの群衆の心とお腹を満たして下さいました。それは質素な食事でしたが、人々に幸せと平和を与えました。

 8月は、平和を特に祈る季節です。「平和って何かな」と考えた時に、子供を含めて多くの方が思いつくことは、「おいしくご飯を食べること、一緒にご飯を食べることだ」という答えです。戦争中、敗戦後の日本は食糧難で、多くの子どもと大人がお腹をすかせていたと聞きます。イエス様が群衆を憐れんで、愛の食事で全員を満腹にして下さった。そこに喜ばしい平和(シャローム)が生まれました。

 小林カツ代さんという料理研究家がおられましたが、クリスチャンで、この東久留米教会の教会員でいらした時期があると伺っています。私はお会いしたことがなく、2014年に天に召されておられますが、東久留米教会に長い方々はご一緒に礼拝生活をなさったと伺っています。その後、別の教会に転出されたようです。最近の新聞に『暮しの手帖』という雑誌の広告が出ていて、7月号の特集の1つが「小林カツ代 キッチンから平和を伝えたひと」と書いてあったので、初めて「暮らしの手帖」という雑誌を買いました。

 ご本人の文章が紹介されています(以下、『暮しの手帖』2020年7月号、暮しの手帖社発行、より引用)。「私は料理研究家になったよかったと思っている。切った野菜のくずから芽が出て来る。スーパーでしおれていたホウレンソウが、水で洗うとみるみる精気を取り戻す。野菜だって何だって、命あるものはすべて生きたがっている。それに気付くことができた。」野菜に命があることに気づいた。はっきり書いてありませんが、それは神様が与えた命と信じておられたでしょう。「だから私は、キッチンから戦争に反対していく。」「人を殺すなんてもってのほかであることを、私は食べものの命から学んだ。」「なぜ戦争をしてはいけないか キッチンから命を学ぶ。」

 お父様の存在が、命と平和を訴える生き方の根底にあることも書かれています。お父様は兵隊として中国に行った方で、帰国後は睡眠薬を飲まないと眠れなかったそうです。「『お父ちゃんは気が弱くて一人も殺せなかった。』上官の命令に背いてどれだけ殴られたか。(…)まるで『遊び』のように現地の人を殺す日本兵もいたそうだ。ギョーザや肉まんじゅうの作り方を教わり、仲良くしていた人たちが住む村を焼き打ちしろと命令が下りた時、父は『あそこはやめてくれ。村人を逃がしてからにしてくれ』と頼んだ。(…)同じ部隊に、ことに残酷な上官がいた。命ごいする人に銃剣を突き付け、妊婦や子どもを殺すその上官を、父は止められなかった。(…)生涯、睡眠薬を手放せなくなった父は『殺されたり拷問にかけられた人たちにどうお詫びしたらいいか』と語っていた。」

 「父は毎年、戦友会に出かけた。(…)残酷な行為をしたあの上官は、戦後、成功を収め、大金持ちになった。(…)戦友会では、その人を一番いい席に座らせ、昔のことなど誰も口にしなくなった。けれども、父は許せなかった。その人の隣に座って『忘れへんのか。夢に出えへんのか。よくあんな残酷な目にあわせたな』そう毎年言い続けるのだ、と父は言った。『中国の人に代わって、罰のつもりで言う。自分への罰でもある』と。 私は、その言葉を聞いて雷に打たれたような気持ちになった。父の意志を継いで、二度と戦争はしない、してはいけないと決心した。」「わたしは『いつも明るくてパワフル』なだけの小林カツ代ではありません。ともに歴史の暗い部分をしっかり見つめ、若い人のためにこそ戦争を絶対起こさないために、元気にパワフルに、しっかり生きていこうと思っています。」

 私はお会いしたこともありませんが、そのような体験と考えをお持ちの方だったと知りました。食べ物を大切にし、そこから命と平和を大切にする生き方。イエス様の生き方に通じるものを感じます。7つのパンと少しの魚から食べ物を増やして、男だけで四千人のお腹を満たし、弱っていたその人たちの命を強め、その場を、えも言われぬ平和(シャローム)と愛で満たして下さった。あの時の四千人(全体では1万人以上)をうらやましく思うし、いや、私たちもこの礼拝の中でイエス・キリストの愛に包まれて同じ幸せを与えられていることに気づくのです。子ども時代に戦争を経験し、平和の大切さを肌で知る世代が減っている現代ですから、次の世代、その次の世代に戦争反対と平和の大切さを伝える務めに、意識的に取り組む必要があります。

 さて、今日の旧約聖書はホセア書2章7節以下です。ここには神の民イスラエルが、農作物などの豊かな恵みを与えて下さるのは真の神様であることを強調しています。イスラエルの民がそれを忘れ、バアルという偶像(偽物の神、正体は悪魔)に走った裏切りを、真の神様が嘆いておられます。7節はそれを強烈に書いています。淫行という言葉が出てきます。ここでイスラエルの民は神様の花嫁、神様に愛される妻、神様がイスラエルの民の花婿、夫にたとえられています。因みにキリスト教会も、聖書はキリストの花嫁、イエス・キリストが花婿です。教会をひたすら愛して下さる花婿キリストに、花嫁である教会もひたすらな愛を献げるのです。これこそ毎日曜日の礼拝の本質です。イスラエルの民が淫行を行ったということは、イスラエルの民が真の神を裏切ってバアルという愛人・偶像・偽物の神への不倫に走ったということです。7節の3行目「彼女(イスラエル)は言う。『愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。』

 神様は、そうではないことを示すと言われます。8節以下。「それゆえ、私(神)は彼女の行く道を茨でふさぎ、石垣で遮り、道を見いだせないようにする。彼女は愛人(バアル)の後を追っても追いつけず、尋ね求めても見いだせない。そのとき、彼女は言う。『初めの夫(真の神)のもとに帰ろう。あのときは、今よりも幸せだった』と。彼女は知らないのだ。穀物、新しい酒、オリーブ油を与え、バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは私だということを。」イスラエルの民を、真の神への愛に立ち帰らせるために、神様は厳しいことも言われます。14節「(私は)彼女のぶどうといちじくの園を荒らす。『これは愛人たちの贈り物だ』と彼女は言っているが、私はそれを茂みに変え、野の獣がそれを食い荒らす。バアルを祝って過ごした日々について、私は彼女を罰する。彼女はバアルに香をたき(偶像礼拝行為)、花輪や首飾りで身を飾り、愛人の後について行き、私を忘れ去った、と主は言われる。」似た言葉は新約聖書のヨハネの黙示録2章にもあり、イエス様への愛から離れかけた教会にイエス様が、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ」と言われています。ホセア書ではイスラエルの民が、農作物をはじめあらゆる恵みを与えて下さる真の神様に立ち帰るよう、神様が訴えておられます。初心に帰ってほしい、と。

 イスラエルは必ず真の夫・真の神に立ち帰ると神様は希望を抱いておられます。16~17節「それゆえ、私は彼女をいざなって荒れ野に導き、その心に語りかけよう。そのところで、私はぶどう園を与え、アコル(苦悩)の谷を希望と門として与える。そこで、彼女は私にこたえる。おとめであったときエジプトの地から上ってきた日のように。」イスラエルの民は、真の神への初めの愛に帰ると神様は信じておられます。その時、イスラエルの民のいる所は、「アコル(苦悩)の谷」から「希望の門」へと変えられる。

 私たちもコロナという「アコル(苦悩)の谷」にいます。クリスチャンによっては、コロナは、神様を無視して勝手なことばかりしている人類全体への神様の警告、神様の裁きだと言う人もいます。私は、「絶対そうではない」とは言えないと考えています。神様の警告という面はあるのではないかと、考えます。コロナ問題があってもなくても、聖書を読めば、真の神様がすべての人々が、真の神様に立ち帰ることを願っておられることは完全に確かです。父なる神様が、最愛の独り子イエス様に、私たち全員の罪を背負わせて十字架に架けるほどに、私たちを愛されたことは明らかです。全ての人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受け、永遠の命への道に進むことを、父なる神様が切望しておられることは完全に確かです。イエス様を信じることこそ、私たち皆が「アコル(苦悩)の谷」から「希望の門」に転換する道として備えられているのです。コロナがあってもなくても、私たちは皆、自分の生き方はこれでよいかと自分に問い直すことは必要です。イエス様をまだ信じていない方にはぜひイエス様を信じていただき、既に信じている人はますますイエス様を愛して、イエス様に喜ばれる生き方に進んで参ろうではありませんか! アーメン(真実に)。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者は増えています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。大雨で大きな被害を受けた熊本や鹿児島の方々を守って下さい。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。中国(特に香港)で信教の自由と民主主義が守られますように。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

2020-08-01 23:55:56(土)
「熱心で謙遜な祈り」 2020年8月2日(日)礼拝 
礼拝順序: 招詞 ローマ12:12、頌栄26(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・403、聖書 列王記・上8:41~43(旧約543ページ)、マタイ福音書15:21~28(新約30ページ)、祈祷、説教「熱心で謙遜な祈り」、祈祷、旧讃美歌・531番、献金、頌栄91(2節)、祝祷。

(列王記・上8:41~43) 更に、あなたの民イスラエルに属さない異国人が、御名を慕い、遠い国から来て、――それは彼らが大いなる御名と力強い御手と伸ばされた御腕のことを耳にするからです――この神殿に来て祈るなら、あなたはお住まいである天にいましてそれに耳を傾け、その異国人があなたに叫び求めることをすべてかなえてください。こうして、地上のすべての民は御名を知り、あなたの民イスラエルと同様にあなたを畏れ敬い、わたしの建てたこの神殿が御名をもって呼ばれていることを知るでしょう。

(マタイ福音書15:21~28) イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

(説教) 最初の21節「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。」それはガリラヤ湖の北西です。イスラエルの外、外国、異邦の地です。イエス様は一旦、外国に行かれました。「すると、この地(ティルス・シドン)に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。」必死で叫んでいます。わが子を愛して心配し、何とか助けたいと願う母親の気持ちは尊いもので、昔も今も変わらず、ティルスでもシドンでもイスラエルでも、日本でも変わりません。カナンとは、旧約聖書でイスラエルの土地をカナンと呼びます。イスラエルの民が来る前、そこにはカナン人が住んでいました。カナン人は真の神でない神々(偶像=正体は悪魔)を礼拝し、倫理的にも堕落していました。神様は旧約聖書の申命記で、カナン人を含む7つの民を滅ぼせと命じておられます。それは民族差別ではなく、カナン人を含む7つの民が偶像礼拝(悪魔礼拝)の罪に陥り、倫理的に大いに堕落していたからです。

 イエス様の時代はそれからずっと後の時代ですが、カナンの女性はこのカナン人に属していたのですね。この女性は旧約聖書以来の神の民イスラエル人ではないのですが、しかしイエス様のことを尊んで「主よ」と呼び、「ダビデの子よ」とも呼びかけています。「ダビデの子」とは「ダビデ王の子孫」のことで、イスラエル人はダビデ王の子孫から真の救い主が生まれると信じていました。イエス様こそその救い主だと信じて、この女性もイエス様に「ダビデの子よ」と呼びかけました。この女性は外国人であるにもかかわらず、イエス様こそ真の神の子であり、真の救い主と確信していました。よい信仰を与えられていたのです。彼女は、イスラエルでのイエス様の評判を聞きつけたのです。大変憐れみ深いイエスという方がおられ、その方がどんな病でも癒して下さる、と。彼女の心に希望が湧き上がりました。何としてもこの方に苦しむ娘を癒やしていただこう。ティルス、シドンの人々は真の神でない神々(偶像)を信じていたはずです。彼女もそうだったはずです。でもその神々に祈っても、何の助けも来なかった。真の神でないものに祈っても意味はないと分かったのではないか。彼女は、イエス様こそ真の神の子であると知り、ぜひこの方に頼ろうと決心したのです。娘のために必死に願うのです。とりなしの祈りです。

 ですが、イエス様がすぐに助けて下さると思ったら真に意外にも、「イエスは何もお答えにならなかった」とあるので、びっくりします。「イエス様、なぜですか」と思ってしまいます。イエス様が一見冷淡に反応されるのを見て、弟子たちも言います。「この女を追い払って下さい。叫びながらついて来ますので。」イエス様も厳しいことを言われます。「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」「私はまず第一に、旧約聖書以来の神の民イスラエルの家の中で、神様から離れて滅びの道をさまよっている者たちを救うために、この世界に来た。それが私の第一の使命だ」とおっしゃっているのです。たとえばルカ福音書に登場するザアカイです。イエス様はザアカイが罪を悔い改めて神に立ち帰った時、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子孫(つまりイスラエル人)なのだから。人の子(ご自分)は、失われたものを捜して救うために来たのである。」イエス様は、まず第一にはイスラエルの民の中で、神から離れて失われたものを神に立ち帰らせて救うために来られたのだな、と私たちにようやく分かります。

 今日の箇所で、イエス様とカナンの女性の間には3回の対話が交わされます。皆、初めにカナンの女性が訴え、イエス様が答える順序です。第一の対話は終わりました。第二の対話が始まります。「しかし女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助け下さい』と言った。」女性はイエス様の前にひれ伏しました。礼拝の姿勢をとったのです。心からへり下りました。実に謙遜です。本日の説教題を「熱心で謙遜な祈り」と致しました。彼女は本当に熱心かつ謙遜です。私たちの模範となる祈りの姿勢だと思うのです。彼女は3回とも、「主よ」と呼びかけています。イエス様に向かって、「あなたこそ全世界、全宇宙の主です」という告白を献げています。これもまた、イエス様を神として礼拝する姿勢です。イエス様は確かに、父・子・聖霊なる三位一体の神様(子なる神)なのです。

 しかし、彼女のこの精一杯の敬意に接しながらも、なおイエス様のお答えは、つれないのです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」子供たちとは、イスラエルの民です。パンは神様の恵み、祝福。小犬は外国人、異邦人です。私たち日本人も異邦人ですから、この女性と同じ立場にあります。イエス様は私たちの祈りにも、このようなつれない態度をおとりになるのでしょうか。もちろん、そんなはずはありません。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」異邦人のことを小犬とおっしゃった。小犬という言葉に果たして、侮蔑の意味が含まれているのでしょうか。「犬にやってはいけない」であれば、侮蔑の意味が大いにあると感じますが、小犬にはかわいい語感があります。小犬は英語ではパピーと言います。ペット的なかわしらしい印象を受けます。イスラエルの民が神の子どもであり、異邦人は小犬かもしれない。しかし神様に愛されている小犬とも言えるのです。ある人は、イエス様は「小犬にやってはいけない」と言いながら、表情には微笑をたたえていたのではないかと言っています。そう読むと楽しくなってきます。

 女性はその「小犬」の言葉を見逃さずに、捕らえます。謙遜にですが、食い下がります。三度目の対話、最後の対話が始まります。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」「イエス様、あなたがおっしゃる通り、私たち異邦人は、神様から見てとても小さい存在、小犬にすぎない。その通りです。でも小犬にも、神様からいただいた命があります。」女性は謙遜ながら熱心に訴えます。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」小犬にはパンそのものをいただく資格はない。「でも主人の食卓からパンの屑をいただくことは許されるはずではありませんか。イスラエルの民が受ける祝福のおこぼれで十分です。ぜひおこぼれを与えて下さい。」女性は謙遜に、熱心に願いました。簡単には諦めないのです。

 そしてイエス様は、説得されて下さったのです! イエス様は「なるほど、お見事。筋が通っている。一本取られた。私は説得された」と思われたのではないでしょうか。イエス様は結論的に、こう言って婦人の信仰を認めて下さいました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」その時、イエス様の愛の力、父なる神様の愛の力が働いて、娘の病気は癒やされたのです。ハレルヤです。イエス様は婦人よ」と言って下さいました。小犬などと人格を認めていないような言い方もなさいましたが、最後にちゃんと「婦人よ」と、彼女の人格の尊厳を認め、彼女に敬意を表する呼びかけをして下さいました。私たちもほっとします。

 この女性の態度は、私たちに祈りについて大事なことを教えてくれたと思うのです。この女性の態度は、熱心であると同時に謙遜です。私たちが神様に祈りを献げる時も、「熱心に謙遜に」祈りを献げることが大切ではないでしょうか。P.T.フォーサイスという人の書いた『祈りの精神』という祈りについての名著があります。ここに祈りについて大切なヒントが多く書かれています。「最悪の罪は祈らないことである。」「我々の祈りから格闘的祈りが消えて久しい。しかし、格闘的祈りこそ聖書を支配している理想ではないだろうか。」「神に格闘を挑んで、神の御手に身を投げかけるべきである。神はこの清き戦いを愛したもう。」「キリスト自身が祈りにおいては服従よりもねばり強さに、より高い価値を置かれたのである。『門をたたけ、そうすれば開かれる。』さらに、不正な裁判官のたとえ(ルカ18章)は言うに及ばず、機知とねばり強さによってキリストの意向を実際に変え、主の慣例を破らせたシロ・フェニキアの婦人の出来事もある。」マルコによる福音書7章では、今日のカナンの女性の話が「シロ(シリア)・フェニキアの女の信仰」になっていて、ほぼ同じ内容です。フォーサイスは、女性が「機知とねばり強い祈り」によってイエス様の最初のお考えを変更させて恵みを受け取ったと、彼女の簡単に諦めない、ねばり強い祈りをほめているのです。

 フォーサイスは次のような意味深長なことも書いています。「神は『然り』の心で『否』を言われる。」「神が奥義を開示して下さるまで格闘せねばならない。」イエス様はもしかすると、初めから女性の願いを聞き入れるお気持ちだったけれども、女性をもっと深い信仰、もっと深い祈りの姿勢、もっとふさわしい礼拝の姿勢に導くために、あえてすぐには色よい返事をなさらないで、女性の信仰が十分に深まったことを確かめた上で、願いを聴き入れて下さったとも考えられます。真の祈りの目的は、ただ願いがかなって「よかった、よかった、それでおしまい」ではなく、私たちのイエス・キリスト、父なる神様への愛と信頼がますます深まることこそが祈りの真の目的ですから、そうなるまで神様が祈りを適えることを引き延ばされることはあり得ることです。

 女性は、自分を小犬と呼んで謙遜にへり下りました。聖書の登場人物は、自分の罪深さを知ってへり下ります。たとえば、イエス様の十字架と復活の後に使徒(弟子)になったパウロは、「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と謙遜に告白しています。パウロはまた、自分を「罪人(つみびと)の頭(かしら)」と呼んでいます。パウロは晩年にエフェソの教会の長老たちに別れを告げる時、「自分を全く取るに足りない者と思い~主にお仕えしてきました」とも告白しています。これらは皆、パウロの本音です。格好をつけてへり下っているのではなく、これらの言葉がパウロの大真面目な本心なのです。このパウロの謙遜な信仰を、神様は喜ばれたでしょう。   

 そして私は創世記で、アブラハムという有名な信仰者が邪悪な町ソドムのために、必死でとりなす祈りを思い出します。カナンの女性が娘のために必死に助けをとりなすのに似て、アブラハムのソドムのための祈りも、「熱心で謙遜な祈り」です。アブラハムは神に訴えます。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くあり得ないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」すると神様が答えられます。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」アブラハムは謙遜にですが、食い下がります。カナンの女性と似ています。「塵あくたにすぎない私です(自分を小犬と認めることと似ています)が、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」神様は答えられます。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」アブラハムは更に食い下がって、「四十人だったら」、「三十人だったら」、「二十人だったら」、「十人だったら」と問いかけてゆきます。神様は「十人いたら、滅ぼさない」と確約されます。神様は少なくとも、この段階まではアブラハムに説得されて下さったのです。アブラハムの必死の食い下がりは、ここまでが精一杯でした。でもまさに「熱心で謙遜な祈り」です。

 そして先週の礼拝でとりあげたイエス様ご自身の「ゲツセマネの祈り」こそ、最も熱心で謙遜な祈りとして忘れることができません。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯(十字架)を私から取りのけて下さい。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」この祈りを三度なさったようです。この「ゲツセマネの祈り」こそ、最も「熱心で謙遜な祈り」と思います。

 さて、「カナンの女の信仰」に戻って、イエス様が「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とおっしゃったことに関して、です。真の神様が全世界を罪と滅びから救うご計画には順序があるようです。神様はまず、旧約聖書の民としてイスラエルの民を選ばれました。そこから始めて、イエス・キリストを通して全世界を救いに導こうとなさいます。イエス様はヨハネによる福音書4章でおっしゃいます。「救いはユダヤ人(イスラエル人)から来るからだ。」そしてイエス様の十字架と復活を経て、外国人(異邦人)にも及んでゆくのです。私たち日本人も、今日のカナンの女性と同じく異邦人です。その意味では「小犬」でもあると言えます。

 でも旧約聖書がユダヤ人の救い一色で、異邦人は完全にシャットアウトされているのかと言うと、そうでない部分も時々あるのです。今日の旧約聖書・列王記・上8章もその1つです。イスラエルのソロモン王が真の神のために神殿を完成させた時です。神殿で祈るのは基本的にイスラエル人ですが、でもソロモンはこう祈ります。「あなたの民イスラエルに属さない異国人が、御名を慕い、遠い国から来て、――それは彼らが大いなる御名と力強い御手と伸ばされた御腕のことを耳にするからです――この神殿に来て祈るなら、あなたはお住まいである天にいましてそれに耳を傾け、その異国人があなたに叫び求めることをすべてかなえてください。こうして、地上のすべての民は御名を知り、あなたの民イスラエルと同様にあなたを畏れ敬い、わたしの建てたこの神殿が御名をもって呼ばれていることを知るでしょう。」こういう箇所を読むとほっとします。

 私たちは異邦人、でもイエス様によってユダヤ人と共に神の民となる。新約聖書のエフェソの信徒への手紙2章11節以下にこのことが書かれています(354ページ上段)。「あなた方は以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼(ユダヤ人男性が体に受ける神の民のしるし)を身に受けている人々からは、割礼のない者(神の民でない者)と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」私たち日本人もそうだったのです。イエス・キリストが日本に伝わるまでは。「しかし、あなた方は以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血(十字架の尊い血潮)によって近い者(神と近い者)となったのです。実に、キリストは私たちの平和であります。二つのもの(ユダヤ人と異邦人)を一つにし、御自分の肉において(肉体を十字架につけることで)敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体(教会という一つの体)として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

 今や、ユダヤ人も日本人もアメリカ人も韓国人も北朝鮮人も、イエス様を救い主と信じてクリスチャンになり、神の家族に入るように、イエス様の教会に招かれています。神は人種差別をなさらず、人を分け隔てなさらないのです。現実の世界には人種差別などの差別があります。神様が人種差別をなさらないことを深く知って、人類全体で人種差別を乗り越えてゆきたいものです。アメリカでは白人警察官に黒人男性が押さえつけられて死亡した事件をきっかけに Black Lives Matter と言う運動、差別に抗議する運動が盛り上がりました。どう訳すのかと思っていましたが、「黒人の命の問題は(全く当然ながら)重要な問題なのだ! 軽んじることは許されない」という叫びと思います。全くその通りです。神様は分け隔てなさらないのですから。

 私が洗礼を受けた教会は創立40数年ですが、最初の頃は韓国人の留学生が多く出席して一生懸命お祈りし、礼拝堂のベンチなども大工仕事をして作って下さったと聞いています。牧師は日本人でしたが、初期の頃は韓国人の留学生の熱心な祈りと奉仕に非常に支えられたと聞いています。イエス様の十字架の愛は敵意を乗り越え、平和を作り、国境を乗り越え、民族や肌の色を乗り越えて神の家族を作り出します。今やカナン人とユダヤ人と日本人と韓国人と北朝鮮人、アメリカ人、台湾人、中国人の壁を乗り越えます。現実は簡単ではないが、神様はそうなることを願っておられると信じて、キリストの平和を実現する生き方を、共に生きて参りたいのです。アーメン(「真実に」)。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者は増えています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。大雨で大きな被害を受けた熊本や鹿児島の方々を守って下さい。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。中国(特に香港)で信教の自由と民主主義が守られますように。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

2020-07-25 19:53:41(土)
「イエス・キリストの全力の祈り」 2020年7月26日(日)礼拝
礼拝順序: 招詞 ローマ12:12、頌栄24、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・208、聖書 マルコ福音書14:32~42(新約92ページ)、祈祷、説教「イエス・キリストの全力の祈り」、祈祷、讃美歌21・504番、献金、頌栄91(1節)、祝祷。

(マルコ福音書14:32~42)一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

(説教) 本日の場面は、イエス・キリストの全身全霊の祈りです。イエス様の徹夜の祈り、イエス様の人生の正念場、勝負どころでの祈りです。この6~7時間後に十字架に付けられるのです。最初の32節「一同(イエス様と11人の弟子たち。ユダは間もなく裏切るのでいない)はゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『私が祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われた」とあります。ゲツセマネという地名は「油搾り」の意味と聞きます。オリーブ油などを搾る場所だったのでしょう。そこでイエス様がまさにご自分を肉体と魂を搾り切るような激しい祈りをされました。8人の弟子たちには、「私が祈っている間、ここに座っていなさい」と言われ、最も信頼するペトロ、ヤコブ、ヨハネの3名を連れて進まれました。

 そしてイエス様は「ひどく恐れてもだえ始め」、ペトロ、ヤコブ、ヨハネに言われます。「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」イエス様はここで死に対する強い恐れと深い悲しみに全身で耐えておられます。イエス様の十字架を予告した旧約聖書のイザヤ書53章には「彼は悲しみの人で、病を知っていた」(口語訳)とあり、イエス様が私たちの全ての悲しみを深く分かって下さる方です。ペトロ、ヤコブ、ヨハネに「ここを離れず、目を覚ましていなさい」とお言われたということは、「少し後ろで目を覚まして共に祈ってほしい」との願いです。イエス様でさえも、最も愛する3名の弟子たちに共に祈ってほしかった。ですが残念なことに3名とも、最も肝腎なこの時に、結果的に睡魔に負けて眠りこけてしまったのです。睡魔とは「睡眠の睡」に「悪魔の魔」と書きます。この最も大事な時に3名を眠りに引き込んだのはまさに悪魔と思います。ある人は言います。ここで弟子たちは皆眠りこけて、イエス様と父なる神と悪魔がはっきり目を覚ましている。

 「私は死ぬばかりの悲しい。」イエス様は死に直面して、深い恐れを抱いておられます。キリスト教を批判する人がこういうことがあります。お釈迦様は平静な心で堂々と亡くなったのに、死を前にして平静でないキリストは見苦しいではないか。」でもそうではないのです。イエス様は、死の本当の恐ろしさをよくご存じなのです。もしかすると死の正体、死の真の恐ろしさを本当に分かるのはイエス様だけかもしれないのです。一体なぜ人は死ぬのでしょうか。多くの人の考えは、人間が老化し、あるいは病気になって衰えて死ぬというものです。確かに現象はそうです。しかし人間の死ぬ本当の原因は、人間の罪です。それが聖書が告げる真実のメッセージであることをクリスチャンは知っています。創世記のエバとアダムの話に示される通り、人間は皆、悪魔の誘惑に負けて神様のご意志に逆らって罪を犯した存在です。命をプレゼントして下さる神様に逆らい、神様から離れてしまった。神様から離れることは命から離れることですから、その結果(罪を犯した結果)、人間は皆死ぬことになりました。これが死の本質、死の正体です。私たち人間の罪が死の真の原因です。新約聖書には「罪の支払う報酬は死である」という厳粛な言葉があります。「罪の結果が死である」という意味で、これは真実です。

 お医者さんと看護師さんは私たちの体と心の病気を癒すために全力で働いて下さる方々で、本当に感謝です。但し、人間の真の深い病気は、神様に従わない罪という病気です。この罪という最も根本的な病気を解決して下さる方は、宇宙広しと言えども、イエス・キリストしかいないのです。イエス・キリストは十字架に架かって死んで下さったのですが、それは全ての人間が、神様と人に対して犯した文字通り全ての罪の責任を身代わりに背負って死んで下さったのが、イエス様の十字架の死の意味なのです。そしてイエス様は十字架の死の三日目に復活されました。イエス様を自分の救い主と信じる全ての人は、生涯の全ての罪を赦され、神の子とされます。イエス様と同じ復活の命もいただきます。イエス様を信じることが、罪とその結果の死を乗り越える唯一の道なのです。父なる神様は、全ての人を罪と死から救い出すことを願って、最も愛する独り子イエス様を、天から地上に送って下さいました。全ての人が罪とその結果に死を乗り越えるためにイエス・キリストを必要としています。イエス様の救いを必要としない人は、一人もいないのです。

 イエス様は死を恐れました。イエス様は父なる神様と常に完全に一体で生きて来られました。罪も全くない。本当に全くない。罪がないから死ぬことも本来全くあり得ない。その方が私たち皆の全ての罪の責任を身代わりに背負って、あえて死に赴かねばならない。それは父なる神様から裂かれること、生木を裂くことと同じです。死の本質をごまかさずに言えば、命の源である神様と完全に切り離されて滅びること。イエス様には死の本当の恐ろしさがはっきり見えているので、死を恐れたのです。これは正しい反応だと思うのです。イエス様は死の力と、正面から素手で相対されたのです。私たちにとっても死は恐ろしく、いやなものです。ですが十字架で死なれ復活されたイエス様が、私たちと共におられます。私たちは死と素手で相対さないで済みます。私たちイエス様なしで死と相対するならば、非常に恐ろしいですが、私たちが死ぬ時も、私たちは孤独ではなく、死んで復活されたイエス様が(目に見えなくても)共におられます。これは私たちの大きな慰めです。

 35節「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」「アッバ」はイエス様が日常話しておられたアラム語(ヘブライ語の兄弟言語)で、ほとんど「パパ」と同じ言葉とされます。父なる神様と非常に親しい関係にあることを表す呼びかけです。ちなみにクリスチャンも神様の清き霊である聖霊を注がれているので、新約聖書のローマの信徒への手紙8章15節には、「この霊(聖霊)によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と書いてあります。私たちは、「主の祈り」で「天にまします我らの父よ」と呼びかけます。「主の祈り」は言葉が決まっているので「アッバ」を言葉で付け加えにくいですが、心の中で「アッバ」を加えることはできるし、個人の祈りで神様に呼びかける時、「アッバ、父よ」と祈って全く構わないのです。

 イエス様には、愛する父なる神様のご意志に従う決心はできていました。十字架にかかることを承知でここまで歩んで来られた。ただ、イエス様は神の子であると同時に私たちと同じ肉体を持つ人間です(罪は全然ない)。しかもこれまで父なる神様と完全に一心同体に生きて来たイエス様が、死によって一旦とは言え父なる神様から完全に離される。その耐え難い苦痛を思う時、「この杯を私から取りのけて下さい」とどうしても訴えたかったに違いありません。罪はなくても人間でもあるイエス様としては自然なことです。私たちも苦しい時には、「神様助けて下さい」と祈ることと全く同じです。

 でもさすがイエス様なのは、その次です。「しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」「ぜひこの十字架という苦い杯を取りのけてほしい。しかし最終的には、私の願いではなく、父なる神様の御心に適うことが行われますように。私はそれに従います。」ルカによる福音書には、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」と記されています。イエス様は父なる神様とある意味、魂と魂の格闘・レスリングを行っておられる。ある人は「祈りとは、簡単に諦めてしまうものではなく、神様と格闘するような祈りこそ、神様に喜ばれる祈りではないか」と祈りの本で書いています。イエス様は全身から汗が血の滴るように流れ落ちるほどの激烈な祈りの時を過ごされたのです。このような時、本当に血が滲むことは生理的にあり得ると聞いたことがあります。新約聖書のヘブライ人への手紙5章7~8節には、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」「聞き入れられた」とは十字架にかからないで済んだということではなく、十字架の死の後に復活という勝利を与えられたことを指します。

 イエス様が戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時(2時間を指すそうです)も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」ペトロは漁師ですから、深夜に起きて漁をすることは度々あったはず。それがここでは眠りこけたのは、やはり悪魔の攻撃に負けたからです。イエス様は弟子たち「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と注意を呼び掛けておられますが、「心は燃えても、肉体が弱い」との言葉には、弟子たちへの思いやりが感じられます。

 同じことが3度繰り返されます。「再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。『あなた方はまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人(つみびと)たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。』」イエス様は三度に渡って父なる神様と格闘のような祈り、レスリングのような祈り、徹夜の祈りをなさり、そしてご自分の心の中の激しい闘い、葛藤に勝利されました。心の中を全て完全に注ぎ出して、魂の中を完全に注ぎ出して祈られました。祈りは魂の労働、魂の尊い労働です。父なる神様のご意志に服従する決意が固まり、苦き杯(十字架)に向かう決心が確定しました。ご自分の初めの思いを叩き伏せて父なる神様に従う心が勝利したのです。「立て、行こう」と決然と十字架に進んで行かれます。私たちの罪を全て背負うために。私たちを罪の結果である死と滅びから助け出すために。感謝なことに、私たちの罪も死も、イエス様の十字架によって背負いきられ、担いきられているのです。

 私たちも「主の祈り」で、「御心の天に成るごとく、地にもなさせたまえ」といつも祈ります。最終的には(私たちの願いよりも)神様の御心が成りますようにと祈っています。そこはイエス様のこの全身全霊の祈り、ゲツセマネの祈りと同じです。

 私は、日本キリスト教団出版局が最近出した『信仰生活ガイド 主の祈り』という本を読んでいます。少し前の礼拝でもその話をしましたが、この本の中で一番インパクトを受けたのは、田邊由紀夫牧師とおっしゃる方の証です。私は神学生だった1994年の夏に大阪の堺教会という教会に夏期伝道実習で派遣され、副牧師だった田邊先生に大変よきご指導をいただきました。その先生の証なのでなおさら印象に残ったのです。先生がお若い伝道者だった時、教会員の女性が手紙のやりとりをしている女性が病気になったので「あなたのために主なる神にお祈り致します」と書き送ったところ、返事が来て「私はあなたがうらやましいです。私も祈りたいのですが、祈りを知りません。いったいどう祈ったらよいのでしょう」とある。「先生、行って下さい」と背中を押されたので、近くの大学病院を訪ねた。初対面にも関わらず、田邊先生にいろいろお話をされ、田邊先生の祈りを真似してお祈りをなさった。2回目の訪問の時も同じ。「何とか祈りたい。祈ることを教えてほしい。そういう思いがひしひしと伝わって来た。」クリスチャンではなかったので祈りを知らない。でもどうしても祈りたいという真剣な思いがあったのです。

 田邊先生は、イエス様が教えて下さった「主の祈り」があると思い出して語り、短く説明なさいました。どれだけ通じるか、と思われたけれども、「私の言葉を熱心に聞き、最後に私の顔をまじまじと見て、『ありがたいことですね』と言われた言葉は忘れられません。」「以来その女性は、その紙片(「主の祈り」が書かれている)を手に、主の祈りを何度も何度も祈るようになりました。枕辺の紙片はまもなくボロボロになっていきました。激痛に耐えるため、それを握りしめ、祈り続けていたのでした。」「最後の最後まで、主が与えて下さった祈りを祈り続けていました。」イエス様のゲツセマネの祈りと同じではありませんが、この女性にとって初めて知った「主の祈り」を全身全霊で祈り続けた、心を・魂を注ぎ出して本当に必死に祈り続けたのです。迫力を感じます。その祈りは、神様に届いた、神様の心を打ったに違いありません。

 田邊先生は、その女性の闘病に寄り添い、死のごまかせない恐るべき悪魔的な力をまざまざと見せつけられ、死が人間の最後の敵であること、「罪の支払う報酬は死である」ことを痛感なさいました。しかし同時に、その強い死の力に対抗して、「主の祈り」が祈られていた! と書いておられます。その女性と共に最後の最後まで「主の祈り」を祈り続けた。「私はその女性との出会いを通して、死に直面する我々人間の最後の業は、否、最上の業は祈りにほかならないということを、その時確かに教えられました。私たちが、主イエス・キリストが教え導いて下さった祈りの世界に生きる限り、死を迎え撃つことが本当にできるのだと確信しました。」

 イエス様は、「あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」と言って、「主の祈り」を教えて下さいました。父なる神様を信頼してこう祈りなさい、ということだと思います。「天にまします我らの父よ(アッバ、父よと呼んでもよい)、願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来らせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。われらの日用の糧を今日も与えたまえ。われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ。われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり、アーメン。」

 イエス様ご自身も「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と子どもの頃から大人になるまで毎日、祈られたと思います。そして生涯の祈りの集大成とも言えるゲツセマネの徹夜の祈り、魂の全てを注ぎ出しての祈りで、こう祈られました。「この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私が願うことではなく、御心が行われますように。」「私が願うことではなく、御心が行われますように」の祈りも、イエス様が一生かけて祈って来られた祈りに違いありません。ゲツセマネの祈りで初めて、ではないはずです。父なる神様の御心は、イエス様が私たち皆の罪の責任を背負って十字架で死ぬことでした。イエス様はあの女性の罪も全て背負いきって下さいました。女性が洗礼を受けたかどうか分かりません。でもあれだけ全身全霊で「主の祈り」を祈り続けたのですから、その中には「われらの罪をも赦したまえ」という罪を悔い改める祈りも含まれているのですから、御自分の罪を悔い改めたその女性は、神の救いに入れられたと思うのです。

 きつい言い方で恐縮ですが、「罪の支払う報酬は死」ですから、私たちもその女性も、自分の罪のゆえに死んで滅びるはずだったのですが、イエス様が十字架で死んで、私たちの罪とその結果の死を担いきって下さったお陰で、私たちは確かに一旦死ぬけれども、それは永遠の滅びではなく、天国の入り口となったのです。私たちは死ぬ時も孤独ではありません。復活のイエス様が聖霊として、私たちの中に住んでおられ、間違いなく共にいて下さいます。イエス様は、私たちが死ぬときも、私たちを確実に支えて下さいます。

 イエス様を信じる人は、イエス様による永遠の命を受けます。その恵みを受けた私たちにイエス様は、「目を覚まして祈っていなさい」と言われます。イエス様に助けられて、すばらしい「主の祈り」を全力で祈り続け、「あなたの御心が成りますように」と祈りつつ、イエス様に従う私どもでありたいのです。アーメン(「真実に」)。

2020-07-19 0:32:09()
「キリストの祝福をあふれるほど持って」 2020年7月19日(日) 礼拝説教
 礼拝順序: 招詞 ローマ12:12、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・204、聖書 申命記15:7~11(旧約305ページ)、ローマの信徒への手紙15:22~31(新約296ページ)、祈祷、説教「キリストの祝福をあふれるほど持って」、祈祷、讃美歌21・402番、献金、頌栄83(2節)、祝祷。

(申命記15:7~11) あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。

(ローマの信徒への手紙15:22~31) こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。

(説教) 礼拝で月1回、ローマの信徒への手紙を読んで来ました。しばらくできませんでした。2/23(日)以来、約5ヶ月ぶりです。イエス様の十字架と復活の後に弟子になったパウロは初めはクリスチャン迫害の先頭を切って突き進む人でしたが、復活のイエス様に出会い、それまでの罪を悔い改めて洗礼を受け、キリストを宣べ伝える伝道に人生の全てを注ぐ人に変えられたのです。ダマスコという所で伝道を始め、おそらくイスラエルでも伝道し、アンティオキアで伝道し、伝道旅行に3度出かけて、今のトルコの各地で伝道し、ギリシアの大都市コリントでも伝道してきました。パウロはこのローマの信徒への手紙を、コリントで書いているようです。パウロの願いは、当時の世界の中心ローマで伝道することでした。それは彼のヴィジョンのゴールではありません。彼はローマを経て、イスパニア(スペイン)伝道に行く願いを持っていました。その願いを今日の箇所で書いていますね。ですが神様がパウロに与えた使命はローマでの伝道までであって、スペインに行く夢は果たせなかったようです。

 最初の22節「こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。」パウロは、ローマに行って伝道する強い願いを、この手紙の1章で既に熱く語っています。「私は祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなた方の所へ行ける機会があるように、願っています。あなた方にぜひ会いたいのは、『霊』(聖霊)の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなた方の所で、あなた方と私たちが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなた方の所でも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。私にはギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなた方にも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」このようにパウロは、まだ見ぬローマのクリスチャンたちに手紙を書いたのが、ローマの信徒への手紙です。ローマにも既にクリスチャンたちがいたのですが、パウロは彼らに改めてイエス様の十字架と復活による福音を告げ知らせ、互いに励まし合ってから、スペイン伝道に進みたいと願っていたのです。

 パウロのローマ行きの願いは、何回も妨げられて来たとパウロ自身が言っています。神様の働きが前進することを憎む悪魔の妨害によって妨げられてきたのです。あるいは神様が「まだ時ではない」とストップなさった面もあるかもしれません。先々週の聖書の箇所は、弟子たちが乗った舟が逆風に妨げられて漕ぎ悩む場面でしたが、パウロも悪魔の妨害を何回も経験しました。でも不屈のパウロは、ローマに行って伝道することを諦めず、切望しています。「今は、もうこの地方(ギリシアの大都市コリント)に働く場所がなく」と言いますから、コリントではあらゆる人にキリストを伝えたのでしょう。相手が信じたこともあれば、信じないこともあったのですが、とにかくコリントのあらゆる人にイエス様のことを話したと確信するほど、「もうこの地方には働く場がない」と言っています。パウロのエフェソでの伝道について使徒言行録に次の記述があります。「パウロはティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが二年も続いたので、アジア州(エフェソ)に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、誰もが主の言葉を聞くことになった。」コリントでもその他の場所でも、パウロはあらゆる人にイエス・キリストの話をしたに違いありません。ですから「もうこの地方には働く場がない」と言い切ることができた。そこで長年の願いであったローマに行きたい。ローマで終わりではなく、ローマのクリスチャンたちと出会って励まし合い、暫くは共にいる喜びを味わってから、イスパニア(スペイン)伝道に送り出してほしいと述べています。

 しかし、その前にどうしても行っておかなければならないことがありました。25節「しかし今は、聖なる者たち(クリスチャンたち)に仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州(フィリピ)とアカイア州(コリント)の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。」エルサレムの教会はユダヤ人クリスチャンたちの教会です。クリスチャンでないユダヤ人からの迫害がありました。経済的にも弱かったしょう(神様が、貧しい人々を大変心にかけて下さることは、本日の申命記15章から明らかです)。パウロはそれを見て、心を痛めていた。パウロの願いは、ユダヤ以外の土地に新しく誕生した教会、フィリピの教会、コリントの教会(それはユダヤ人がほとんどいない教会、ユダヤ人から見れば外国人(異邦人)クリスチャンがほとんどを占める教会)がエルサレム教会を支援することです。これによってユダヤ人教会と異邦人教会がイエス・キリストを中心に愛によって一致することがパウロの願いでした。

 パウロは、「今は聖なる者たちに仕えるためにエルサレムに生きます」と述べます。「仕える」という言葉は「奉仕する」の意味です。パウロ自身、ユダヤ人クリスチャンなので、パウロはエルサレムのユダヤ人教会のためにへり下って仕える、奉仕する決心です。イエス・キリストがへりくだって弟子たちの足を洗われましたが、パウロも同じ姿勢でエルサレム教会のためにへりくだって奉仕する決心なのです。「マケドニア州(フィリピ)とアカイア州(コリント)の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」

 異邦人クリスチャンたちは、ユダヤ人教会から大きな恩恵を受けていました。イエス様は神の子ですが、同時にマリアから生まれた人間でもあります。人間としてのイエス様はユダヤ人(イスラエル人)です。イエス様の弟子たちもユダヤ人、パウロもユダヤ人です。ユダヤ人は旧約聖書の昔から神様に導かれて来た民です。異邦人教会はユダヤ人から、そしてユダヤの教会の人々によって真の神様のことを知らされ、自分たちの罪をすべて背負って十字架で死に、三日目に復活されたイエス・キリストを知ることができたのです。イエス様を知って信じた異邦人たちは、永遠の命を受けるにあたって、ユダヤ人のクリスチャンたちから大きな恩恵を受けました。それが、「異邦人たちはその人たちの霊的なものにあずかった」という言葉の意味です。霊的なものとはキリストの福音であり、キリストが与える永遠の命という宝です。それほどの恩恵を受けたのだから、献金という形でユダヤ人教会の経済的な困窮を救う義務があるとパウロは言います。「肉のもので彼らを助ける義務がある」とはそのことです。私たち人間には皆、霊的なニーズと肉的なニーズの両方のニーズがあります。霊的なニーズは神様の御言葉ですし、肉的なニーズは食べ物やお金です。お互いが持てるもので互いに支え合うことを、神様は喜んで下さいます。
「異邦人は、肉のもので彼らを助ける義務がある」の「助ける」は、もとの言葉であるギリシア語で「礼拝する」と訳せる言葉です。ですからこの「助ける」は、ただ人間の普通の親切を表すだけでなく(普通の親切もすばらしいことですが)、この献金は神様への礼拝行為だとパウロは信じているのです。

 もう少し言うなら、26節の「援助する」、27節の「(霊的なもの福音に)あずかった(いただいた)」は、もとの言葉でコイノニアそしてほぼ同じ言葉です。コイノニアは聖書の重要な言葉の1つで「交わり」を意味することが多い。神と人との交わり、人と人との交わりです。イエス様と私たちの霊的な深い交わりである聖餐式ともつながりの深い言葉がコイノニアです。コイノニアも礼拝の用語と言えます。パウロがここで異邦人教会によるエルサレム教会への献金が大切だと述べているのですが、この献金はキリストへの礼拝行為そのものなのだ、エルサレム教会が異邦人教会にイエス・キリストの福音という宝を伝えて、それに対して異邦人教会が、経済的に貧しいエルサレム教会を献金で支えることはキリストへの信仰による交わり、礼拝行為そのものであり、父なる神様に喜ばれることだとパウロは信じているのです。全ての土台にあるのは、ユダヤ人のためにも異邦人のためにも十字架にかかって死んで下さったイエス・キリストの愛。イエス様の十字架の愛に感謝しているエルサレム教会と異邦人教会の交わり、助け合い、それはイエス様への礼拝行為そのものだ、ということです。パウロは自分がこの献金をエルサレム教会に届けることを25節で「聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます」、「仕えるため、奉仕するため」と言った。これも礼拝の姿勢です。パウロは自分のなすこと1つ1つはすべて、自分のために十字架で死なれたイエス様に感謝する礼拝行為と見ていたはずです。それはパウロだけでなく、クリスチャン全員の生き方です。私たちが今日一日を生きるのはイエス様のため、ご飯を食べるのもイエス様のため、健康を維持する心がけをするのもイエス様のため、礼拝はもちろんイエス様のため。

 この募金についてパウロは、コリントの信徒への手紙(二)9章で詳しく述べています(335ページ下段。コリント教会の人々にエルサレム教会への献金を要請する言葉が並んでいます。もちろんパウロは、自分のために献金してほしいと言っているのではなく、エルサレム教会のために献金してほしいと言っています。6節以下「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く者は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなた方がいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ち溢れるように、あらゆる恵みをあなた方に満ち溢れさせることがおできになります。『彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く』と書いてある通りです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなた方に種を与えて、それを増やし、あなた方の慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなた方はすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、私たちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなた方がキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなた方に与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなた方を慕い、あなた方のために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」異邦人教会は愛を込めてエルサレム教会に献金を行い、エルサレム教会はそれを感謝して、異邦人教会のために神様の祝福を祈るようになる。イエス様の十字架を土台としたこのような愛の交わり、愛の一致が実現する。これこそパウロにとって、神様からの最大の祝福です。

 ローマの信徒への手紙に戻ると、パウロはこう言います。「募金の成果を確実に手渡した後、あなた方の所(ローマ)を経てイスパニアに行きます。その時には、キリストの祝福を溢れるほど持って、あなた方の所に行くことになると思っています。」この祝福は、エルサレム教会と異邦人教会が愛によって一致した大きな喜びを、「キリストの祝福を溢れるほど持って」と言っている可能性があるのではないかと思うのです。

 30節以下でパウロは、ローマ教会の人々に、「祈ってほしい」と頼みます。「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストによって、また、『霊』(聖霊)が与えて下さる愛によってお願いします。どうか、私のために、私と一緒に神に熱心に祈って下さい。私がユダヤ人にいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対する私の奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらに行き、あなた方のもとで憩うことができるように。平和の源である神があなた方一同と共におられるように、アーメン。」

 パウロがエルサレム教会に運んだ異邦人教会の献金は、エルサレム教会の人々に大変喜ばれ、歓迎されたに違いありません。しかしエルサレムには、クリスチャンでないユダヤ人も多くおり、彼らはパウロを憎んでいました。彼らによってパウロは激しく迫害され、パウロはローマ人に囚われの身となります。ローマ人に捕らわれたことは、ユダヤ人に捕らわれたことと違って、ローマ人によって保護されたとも言えるのですが、ともかくパウロはエルサレムに捕らわれの身となり、イスラエルの西のカイサリアに送られ、約2年間監禁されます。そしてローマ皇帝の裁判を受けることになり、276名が乗る船に乗るのですが、この船が大嵐に流され2週間も漂流する死の危険を通ることになります。エルサレムからローマに行く道は、このように全く順調な道のりにならず、苦難と危険の連続になったのです。パウロはこの手紙を書いた後、エルサレムに向かう途中で、この先が苦難になることを明確に自覚していました。

 使徒言行録20章でこう述べています。「今、私は霊(聖霊)に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げて下さっています。しかし、自分の決められた道を走り通し、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」そう言ってパウロはエルサレムに行き、捕らわれるのです。パウロの人生は、イエス様が言われた通り「自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様に従う」人生になりました。エルサレム行き以降の道のりは特にそうです。多くの苦難を味わい、でもその度に復活のイエス様に助けられ。囚人という意外な形でローマ行きは実現したのです。でもイエス様が共にいて下さる旅です。その証拠に、使徒言行録27章に書いてありますが、船で漂流して助かる望みが全く消え失せようとしていた夜、神の天使がパウロのそばに立って語りかけたのです。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せて下さったのだ。」

 教会同士の祈りと献金等による助け合い。私どももある程度、それを行わせていただきながら歩んでいます。この会堂が完成したのは9年前の6月です。東久留米教会内の献金がもちろん一番多いのですが、他の教会にも献金のお願いを送ったところ、170以上の教会から献金をいただきました。それ以外で個人で献金して下さった方々も多くおられます。東久留米教会もいろいろな教会の会堂建築等の依頼に応えて少しずつ献金をさせていただいて参りました。特に多かったのは東日本大震災の後です。地震と津波で会堂が破損したり、使えなくなったり、原発事故の放射能で汚染地域にあったために会堂が使えなくなったり、被害を受けた教会が多くあり、日本基督教団始まって以来の大規模な目標献金額が設定されました。東久留米教会もそれに応えて、東久留米教会も5年間かけて精一杯の献金を献げました。

 私はその募金の後、日本基督教団の事務局に行かせていただいていますが、伝道委員会という所ではもう少しささやかな助け会いを行っています。各教会に毎年の創立記念日に感謝献金を献げて下さいというお願いの手紙が送られ、応じて下さる教会も応じられない教会もあるのですが、それを集めて、会堂建築をする教会から申請があった場合、委員会で審議して会堂建築献金を送ります。今年は3つの教会から申請があり、まとまった額の会堂建築献金を送りました。その1つは川崎戸手教会という教会で、東久留米教会でも10年以上前に修養会でお招きした関田寛雄牧師が開拓なさった教会です。今は孫牧師という方が責任者です。私はそこに行ったことはないのですが、多摩川沿いの条件の悪い場所にあるようです。台風が来ると水浸しになる場所です。もともとそこは在日韓国・朝鮮人の方々が多く住む地域らしく、在日の方々は日本の中でなかなか条件の良い場所に住めない現実があるようです。教会も意図的にその場所に建ててあり、在日韓国・朝鮮人の方々と一緒に苦労して行こうと言う覚悟があるのです。立派な志と尊敬します。その会堂が老朽化したので、今回はもう少し良い場所に会堂を建てる。関田先生が家を教会に寄贈し、そこに建てるらしいのですが、その川崎戸手教会に献金を送ることができました。東久留米市内に住んでおられるBさんというご夫婦が、川崎戸手教会の熱心な信者さんです。パウロは「キリストの祝福をあふれるほど持って、ローマ教会に行きますよ」と書きましたが、川崎戸手教会にもキリストの祝福が届いたと言えるのではないかなと思います。

 そして東久留米教会もそうです。教会内の献金が一番多いのですが、それ以外に170以上もの教会から献金をいただいたということは、東久留米教会にも「キリストの祝福があふれるほど注がれた」ことが明らかです。どの教会も孤立しているのではなく、互いに祈り合い、場合によっては献金で支え合う交わり(コイノニア)の中にあるのです。主イエス様の十字架の愛を土台とするそのような交わりの中にある祝福を、心より感謝して、伝道して参りましょう。アーメン(「真実に」)。