日本キリスト教団 東久留米教会

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2023-10-28 23:15:06(土)
「弁護者なる聖霊」 2023年10月29日(日)降誕前第9主日礼拝 説教
順序:招詞 マルコ福音書16:15~16,頌栄29、主の祈り,交読詩編111、使徒信条、讃美歌21・377、聖書 イザヤ書32:15~20(旧約p.1112),ヨハネ福音書14:15~31(新約p.197)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌342、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書32:15~20) ついに、我々の上に/霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり/園は森と見なされる。そのとき、荒れ野に公平が宿り/園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり/正義が生み出すものは/とこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿/憂いなき休息の場所に住まう。しかし、森には雹が降る。町は大いに辱められる。すべての水のほとりに種を蒔き/牛やろばを自由に放つあなたたちは/なんと幸いなことか。

(ヨハネ福音書14:15~31)
 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

(説教) 本日は、降誕前第9主日礼拝です。説教題は「弁護者なる聖霊」です。新約聖書は、ヨハネ福音書14章1~31節です。小見出しは、「聖霊を与える約束」。

 ヨハネ福音書14、15、16章はイエス様の長い長い説教です。イエス様の説教がこれほど長く、ほとんど途切れないで続くのは、この個所だけけではないかと思います。十字架を目の前にして弟子たちに大切なことを語っておられます。15節「あなた方は、私を愛しているならば、私の掟を守る。」そして16節以下「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなた方はこの霊を知っている。この霊があなた方と共におり、これからも、あなた方の内にいるからである。」

 聖霊のことです。「父(父なる神様)は別の弁護者を遣わされる。」聖霊は人格(神格)をお持ちの方で、父なる神様・子なる神キリストと別ですが、しかし一体の神様です。三位一体ですね。私たちが用いているこの新共同訳聖書では「弁護者」、口語訳聖書では「助け主」と訳され、新改訳聖書でも「助け主」です。マルティン・ルターは「慰め主」と訳したそうです。

 「弁護者」は、新約聖書の元のギリシア語で「パラクレートス」です。「パラクレートス」とは、「傍らに招かれた人」の意味です。傍らに招かれて何をする人かと言うと、裁判において弁護してくれる人です。だから弁護者と訳されたのですね。弁護士、弁護者は被告にとっては、大変頼り甲斐のある存在です。弁護して助けて下さるのですから「助け主」という訳も可能になります。ヨハネの手紙(一)2章1節に、次の御言葉があります。「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなた方が罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」ここではイエス・キリストが弁護者と呼ばれています。聖霊とイエス様は一体ですから、両者とも弁護者であるのは自然なことです。イエス様は、最後の審判の時の裁き主であると同時に、弁護者でもあるのです。イエス様は私たちを弁護して、私たちを無罪判決へと導いて下さいます。私たち罪人(つみびと)にとって、これは本当にほっとすることです。
この意味で真の弁護者こそ、真の慰め主にほかなりません。

 イエス様は十字架と復活を経て、天に昇られますが、弟子たちにその代わりにイエス様の霊であり、生ける最高の宝である聖霊を注いで下さるのです。ですから私たちは一人きりでないのです。「この霊があなた方と共におり、これからも、あなた方の内にいるからである。私は、あなた方をみなしごにはしておかない。あなた方の所に戻って来る。」戻って来るということは、十字架の死の後に復活して戻って来る、あるいは聖霊として戻って来る、あるいは世の終わり、神の国の完成の時に、再臨という形で復活のイエス様が地上に戻ってこられる。この3つがあり得ます。いずれにしても聖霊が与えられるので、神様がいつも私たちと共におられるのです。

 「慰め」と言う言葉を聞くと、『ハイデルベルク信仰問答』という信仰問答の問い1とその答えを連想することもできます。プロテスタントの世界では割に有名な問いと答えです。問「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」答「私が私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって私のすべての罪を完全い償い、悪魔のあらゆる力から私を解放して下さいました。^。」これが私たちの「ただ一つの真の慰め、真の喜び」である。「洗礼を受けた私たちはもはや私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものになっているこの事実が、私たちのただ一つの真の慰め、真の喜びである。」実際、コリントの信徒への手紙(一)6章15節には、こう書いてあります。「あなた方は、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。」19、20節にはこうあります。「あなた方の体(全身全霊)は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです(神の所有になっている)。あなた方は代価を払って(つまりイエス様の十字架の犠牲のお陰で)買い取られたのです(そして神の所有になっている)。」これが生きるにも死ぬにも、変わらない私たちのただ一つの真の慰め、真の喜び、真の平安。

 19節「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなた方は私を見る。」復活のイエス様に出会い、その後、イエス様が天に昇られても、再臨の時にイエス様に顔と顔とを合わせてお会いするということです。「私が生きているので、あなた方も生きることになる。」この場合の生きるとは、ただ生物学的に生存しているということではななく、イエス様に似た愛に生きているということです。宗教改革者マルティン・ルターがこの御言葉を大切にしたそうです。ルターはよき牧会者でしたから、間もなく臨終を迎える方のベッドの横で、このイエス様の御言葉を語りかけたそうです。「私(イエス様)が生きている(復活して生きている)ので、あなた方も生きることになる」と。地上の命が終わっても、あなたには聖霊が与えられており、イエス様の永遠の命が注がれているので、地上の命が終わってもあなたはイエス様と共に永遠に生きる」というメッセージです。ルターは、このように耳元で語って、臨終を迎える方々に真の慰めを与え、励ましたということです。それを知って、私も行わせていただきました。間もなく臨終を迎えると思われる方の耳元で、「私(イエス様)が生きているので、あなた方も生きることになる」と語らせていただきました。耳は最後まで聞こえていると聞くので、きっと聞こえたと思っています。

 20~21節「かの日には、私が父の内におり、あなた方が私の内におり、私もあなた方の内にいることが、あなた方に分かる。私の掟(互いに愛し合いなさい)を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す。」ここには愛(アガペー)という言葉が4回も出て来ます。父なる神様が私たちを愛され、イエス様が私たちを愛され、私たちもイエス様を愛する。神様は父・子・聖霊なる三位一体の神様で、父なる神様・子なる神キリスト・聖霊なる神様は、互いに完全な愛により完全に一体です。そして三位一体の神様と私たちの間も、愛による深い交流の中にあるのですね。23~24節でも、イエス様は同様のことを述べておられると言えます。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人の所に行き、一緒に住む。私を愛さない者は、私の言葉を守らない。あなた方が聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである。」父なる神様とイエス様が私たちと共に住んで下さる。これが天国です。ヨハネの黙示録21章3節に、次のように書かれている通りです。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 25~26節。「私は、あなた方といた時に、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方に全てのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせて下さる。」聖霊は、聖書を分からせて下さる方です。聖書を読んでいたり、祈っているときに、よきひらめきを与えて下さり、関係深い別の聖書の御言葉を思い出させて下さる霊です。頭と心にひらめいたことが全部聖霊の導きとは断言できないので吟味が必要ですが、それでもやはり、聖霊はイエス様の話されたことを思い出させて下さり、聖書の御言葉や説教の意味を分からせて下さる神の生ける霊です。そしてイエス・キリストこそ、真の神の子であり救い主だという信仰を与えて下さる霊です。コリントの信徒への手紙(一)12章3節に、「神の霊によって語る人は誰も、『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ誰も、『イエスは主である』とは言えないのです」と書かれている通りです。

 27節「私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。」これはイエス様が、私たちの罪人(つみびと)の足を洗って下さったという平和です。ですから他からは得られない平和です。言い換えると、イエス様が私たち罪人(つみびと)のために十字架に架かって、父なる神様と私たちの間に真の和解をもたらして下さった平和です。聖餐式によって確認される、全ての罪を赦されて、永遠の命をいただいている根本的な平和です。

 「心を騒がせるな。おびえるな。『私は去って行くが、また、あなた方の所へ戻って来る』と言ったのをあなた方は聞いた。私を愛しているなら、私が父の元に行くのを喜んでくれるはずだ。父は私よりも偉大な方だからである。」「父は私よりも偉大な方」という言葉を元に、昔ある人々は「イエス様は神ではない」と主張して来ました。しかしイエス・キリストが神であることは、ヨハネ福音書1章1節、「言(ロゴス)=イエス・キリスト=は神であった」等の御言葉から間違いないことです。イエス様が「父は私よりも偉大な方」と言われたのは、イエス様が謙遜な方なので、神の子として、子なる神キリストとして、父なる神様を愛し崇める意図でこう言われたのだと思います。この御言葉から「イエス・キリストは神ではない」という結論を引き出すことは間違いで、イエスキリストが神であることは明らかです。  

 29節以下「事が起こったときに、あなた方が信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなた方と多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼は私をどうすることもできない。私が父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」「世の支配者が来る。」悪魔、サタンが来るのです。イエス様の十字架の受難の時が、目の前に来ています。「だが、彼は私をどうすることもできない。」イエス様は悪魔の攻撃に敗れて十字架で死ぬのではないのです。悪魔が勝利しているように見えて、実は、イエス様の十字架によって私たち罪人(つみびと)の全ての罪の問題を解決しようとする神様の最も深いご計画が進んでいます。悪魔が主導権を握っているように見えて、実は父なる神様が主導権を握っておられるのです。イエス様は悪魔に負けてではなく、自ら進んで父なる神様に服従して十字架に向かわれるのです。ですから決然と「さあ、立て。ここから出かけよう」と語られます。

 聖霊に関する御言葉で、イザヤ書32章15節以下も朗読していただきました。聖霊が与えて下さるのは公平、正義、平和、安らかな信頼、休息だと記されています。私たちにも、ウクライナにも、イスラエルとパレスチナにも聖霊による公平、正義、平和、安らかな信頼、休息が注がれるように、切に祈ります。19世紀の中盤、明治時代の最初に、横浜で伝道が行われ始めた頃、ペンテコステ的な聖霊が降る驚くべき出来事があり、そこから横浜公会(当時は公会と呼び、教派に分かれないようにしようとした)が生まれたと聞きます。今の横浜海岸教会、日本で初めてのプロテスタント教会とされます。数年前に横浜海岸教会を見学に行ったとき、中に入れませんでしたが、外の掲示板にこの御言葉が記されていました。イザヤ書32章15節。聖霊による真の慰め、イエス様が与える真の平安に満たされる一周間であるように祈りましょう。アーメン。

2023-10-21 19:14:41(土)
説教「キリストこそ道、真理、命」2023年10月22日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第64回)
  順序:招詞 マルコ福音書16:15~16,頌栄24、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・463、聖書 ヨハネ福音書13:36~14:15(新約p.196)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌505、献金、頌栄27、祝祷。 

(聖書 ヨハネ福音書14章1~15節)
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

(説教) 本日は、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第64回)です。説教題は「キリストこそ道、真理、命」です。新約聖書は、ヨハネ福音書13章36~14章12節です。小見出しは、「ペトロの離反を予告する」と「イエスは父に至る道」です。先週の週報に記載した予告では、14章1節から14節にしていました。すると13章36~38節を飛ばすことになります。その箇所は後日、ペトロがイエス様を知らないと三度言ってしまう場面と合わせて読むつもりでしたが、説教の準備をする中で思いが変わり、本日は13章36節から読むことに致しました。

 イエス様はそれより前の13章33節で弟子たちに言われました。「いましばらく、私はあなた方と共にいる。あなた方は私を探すだろう。『私が行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなた方にも同じことを言っておく。」これを聞いたシモン・ペトロが尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエス様は答えられます。「私の行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」イエス様が進まれる十字架の道行きに、ペトロは今ついて来ることができないと言われたのです。ペトロはイエス様を愛していましたが、それでもペトロの自力の決心だけでは限界がありました。私たちはなかなか、自分の自己中心を超えて、イエス様に従うことが難しいですね。イエス様は、ペトロ自身もまだ知らなかったペトロの自己愛の深さを、見抜いておられました。それで言われました。「私のために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまで、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう。」イエス様に助けていただかないと、私たちはイエス様に従えないということではないでしょうか。

 14章の1節「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。」イエス様がどこかに行かれると聞いて、弟子たちの心に動揺が走りました。それでイエス様がこう言われたのです。イエス様はこの後、十字架の死を通って復活され、天に昇られます。その天のことを「私の父の家」と呼ばれます。何のために天に昇られるかを語られます。2節「私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる。」

 天国には住む所がたくさんあると言われます。イエス様は天に昇って、私たちのために居場所を確保して下さいます。「行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私の元に迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる。」これは世の終わりにイエス・キリストが天から地上にもう一度来られる再臨を意味すると言えます。初代教会の人々は、イエス様の再臨は、初代教会の時代に起こると考えていましたが、約2000年たった今も実現していません。それは全ての人が罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じて救われることを願って、父なる神様がイエス様の再臨を引き延ばして下さっているからです。しかしいずれ必ずイエス様の再臨は起こります。私たちが地上で生きている間に再臨が起こらない場合は、イエス様は天で私たちを迎えて下さいます。そしてイエス様がおられる天に、私たちもいることになります。」

 4節「私がどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている。」すると弟子のトマスが正直に質問します。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」この質問の質問のお陰で、私たちはイエス様の重要な真理の御言葉を聞くことができました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」「私は道であり、真理であり、命である。」イエス・キリストは神の子です。このような断言的な言葉は、神の子でないと言うことができません。私たち普通の人間がこのようなことを言っても、誰も信じてくれないでしょう。マタイ福音書7章に、イエス様が説教されると群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」とあります。「私は道であり、真理であり、命である」も、普通の人間や学者には言えない権威ある言葉です。神の子にして初めて言える言葉です。イエス様の本質をストレートに言い表す言葉です。

 イエス様は、このヨハネ福音書で、ご自分の本質をズバリ言い表す言葉を多く語られるのです。「私が命のパンである。」「私は世の光である。」「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。」これらの宣言は皆、イエス・キリストが真の神の子であることを示しています。これらの言い方は皆「私は〇〇である」という言い方です。英語だと「アイ アム〇〇」という言い方です。新約聖書はギリシア語で書かれており、これをギリシア語で言うと「エゴー エイミー〇〇」という言い方です。よく申し上げることですが、この言い方は旧約聖書の出エジプト記3章14節で、神様がモーセという指導者に自己紹介なさる場面と深く関わっています。そこにはこう書いてあります。「神はモーセに、『私はある。私はあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「私はある」という方が、私をあなたたちに遣わされたのだと。』」「私はある」とは「私は存在する」ということで、英語では「アイ アム」になりますし、ギリシア語では「エゴー エイミ―」になります。自己中心のことをエゴイズムと言いますが、ギリシア語のエゴ―にはそのような悪い意味はなく、単に「私」の意味です。聖書では「エゴー・エイミー」は、天地創造をなさった神様の「私はある。私は存在する、私は生きている」の宣言です。イエス様が何回も「エゴ―・エイミー〇〇」と言われたことは、「私が旧約聖書に登場する天地創造を行った神だ」と自己宣言しておられるということです。本日の御言葉もそうです。「私は道であり、真理であり、命である」の御言葉にも「エゴ―・エイミー」が含まれているので、イエス様はここでも「私こそ天地創造を行った神だ」とも宣言しておられるのです。

 そして大切なことは、「私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」と言われたことです。神様から見れば、私たちは皆、罪人(つみびと)です。罪人(つみびと)なので、父なる神様に直接近づくことはできないのです。父なる神様は完全に聖なる方だからです。完全に聖なる方に罪人(つみびと)が近づけば、撃たれて死んでしまいます。そこで仲介者が必要です。その仲介者として誕生して下さった方がイエス様です。仲介者とは道である方です。私たちはイエス様という道(架け橋)を通って初めて、父なる神様に近づくことができます。

 思いきって終わりの方の13節を見ると、イエス様が祈りについて教えておられます。「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。私の名によって何かを願うならば、私がかなえてあげよう」と約束して下さいました。父なる神様に直接祈れとは言われませんでした。「私の名によって願いなさい(祈りなさい)」と言われました。イエス様が道(架け橋)だからです。「道である私の名を通して祈りなさい」と言われたのですね。それで私たちは祈りの最後に、「主イエス・キリストの御名(お名前)によって(を通して)祈ります」と言います。「私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。私の名によって何かを願うならば、私がかなえてあげよう」と言われた約束を信じて、こう祈ります。イエス様は次の15章でも、「私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである」と言われます。ですから私たちは「イエス様のお名前によって祈ることは、必ず父なる神様に聴いていただける」と確信して、イエス様のお名前を通して祈ります。但し、あまりにも自分勝手な祈りは聴かれないと思っています。

 戻って7節「あなた方が私を知っているなら、私の父をも知ることになる。今から、あなた方は父を知る。いや、既に父を見ている。」今度はフィリポが、「主よ、私たちに御父を示して下さい。そうすれば満足できます」と述べます。この質問はイエス様に叱られるのですが、しかしこの質問のお陰で、私たちはイエス様の深い真理の御言葉を聞くことができるようになりました。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示し下さい』と言うのか。私が父の内におり、父が私の内におられるのを信じないのか。」イエス様は10章で、「私と父とは一つである」と言われました。そして聖霊を加えて、父なる神様と子なる神イエス・キリストと、聖霊なる神様が一体です。

 「私があなた方に言う言葉は、自分から話しているのではない。私の内におられる父が、その業を行っておられるのである。私が父の内におり、父が私の内におられると、私が言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。私が父のもとへ行くからである。私の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」私たちがイエス様が行う業よりももっと大きな業を行うようになるとは驚きですが、イエス様が父のおられる天から私たちに聖霊を注いで、私たちを助けて下さるから、御心に適う業を行わせて下さるということでしょう。

 「私は道であり、真理であり、命である。」本日のテーマは「道」だと言えますね。イエス様の道、そして私たちがイエス様に従う道。ある著名な牧師は、牧師たちに「底辺に立て」と言われました。それを思い出し、まだまだ底辺に立てていない私であることを思います。

 先週、私のもとに『青木優牧師遺稿集 共に歩む その二』という本が送られて来ました。ご夫人の青木道代さんが編集なさった本です。青木牧師は、西東京教区の調布柴崎伝道所の牧師で、随分前に東久留米教会でも説教されたと聞いた記憶があります。青木先生は5年ほど前に92歳で天に召されました。青木先生は、医者を目指して現在の岡山大学医学部を卒業され、インターン中に結核による眼底出血のため、両眼を失明され、人生が一変したそうです。それなら心のケアをするキリスト教の伝道者、牧師になりたいと、点字を覚え、杖で歩くことを覚え、聖書を学び、東京神学大学に入り、日本キリスト教団の牧師となられました。

 青木牧師ご自身の言葉は次の通りです。「『なぜ見えなくなったのだ』という問いが、日々私の胸中に溢れた。それは私の『生きていることの意味』を問うことでもあった。私自身も周囲の者たちも途方に暮れている闇の時、私は聖書に出会い、新しい光を発見した。その光とは、ヨハネ福音書9章3節以下のイエス・キリストの言葉であった。『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが彼の上に現れるためである。』この御言葉は私に非常な驚きを与え、その後の私の人生を導き照らす光となった。その光に従って、私はそれからの人生を懸命に歩き始めた。その道は今振り返ってみると確かに手応えのある道であった。生きるに足りる道であった。~私の人生は、不自由はつきまとっているが、手応えのある、生きていてよかったと確かに言い得る人生だったと思う。」このように、ご自分の生きて来られた道を振り返っておられます。

 よき伴侶として共に歩まれたご夫人は次のように書いておられます。「失明して彼は初めて未知の友達を得ました。地域の失明者の仲間と出会ったのです。クリスチャンの失明者もおられ、多くの偉大な失明者の先輩とその活躍の歴史を知ることができました。赴任した教会の二階の一間を会場に、その町の盲人の集いを開き、日本の盲人の、ひいては障がい者たちの世界がまだまだ開かれていないことを知りましたし、町の事情をいろいろ学ぶこともできました。次に赴任した教会で、幼児教育施設設立の希望があり、15、6名の幼い子どもたちとの幼児教育活動が始まりました。失明者も幼い子どもたちも、社会的には弱い立場にあります。次の年からは目の不自由な子の入園がありました。小児麻痺による手足の不自由な子も、知的ハンディーを持つ子も入園して来ました。工夫して、共に遊べる方法を生み出し、嬉々として共に生活しました。」東京に移られてからも、障がいをもつ子どもたちとの活動に力を入れて来られ、今は広島県の呉市のホームにおられるようです。こうしてご夫婦で、イエス様の背中を見つめて、イエス様と共に歩む道を生きて来られました。とてもすばらしいと思います。

 もう一人、ドイツの牧師だったボンヘッファーという人のことを短くお話したいと思います。ボンヘッファーは、第二次大戦中、アメリカの神学校に留学していました。アメリカの友人たちは、戦争が終わるまでアメリカにいた方がいいと言ってくれました。しかし彼は、祖国がヒットラーに支配されているとき、自分はドイツに帰って、ドイツの心ある人たちと苦難を共にすべきだと考え、ドイツに戻ります。そしてヒットラーを倒そうとする人々の仲間に入り、密かな活動をしますが、逮捕され39才で死刑になります。ボンヘッファーは聖書を読んで、キリストの呼びかけを感じ取ったのです。テモテへの手紙(二)4章21節です。使徒パウロが愛弟子のテモテに呼びかける言葉を読んだのです。「冬になる前にぜひ来て下さい。」「冬になる前にぜひ来て下さい。」彼はこれを、イエス様による自分への招きのメッセージと聴き取ったのです。「今のうちに早くドイツに戻ってほしい。」安全なアメリカではなく、祖国ドイツに戻ってイエス様に従う決心をしました。彼にとってイエス様に従う道は、ドイツに帰って、ドイツの心ある人々と共にヒットラーに抵抗する道だたのです。その結果、ヒットラー政権に逮捕されて死刑になりましたが、死に至るまで忠実にイエス・キリストに従った、キリストの証人となりました。

 私たちは非常に大きな働きはできませんが、しかしそれぞれの持ち場にあって、自分にできる形で、イエス様を宣べ伝え、イエス様に従って参りましょう。「私は道であり、真理であり、命である」と宣言されるイエス様を見つめながら。アーメン。

2023-10-14 23:02:00(土)
「天地創造の前からの愛、そして希望」2023年10月15日(日)修養会礼拝
順序:招詞 マルコ福音書16:15~16,頌栄28、主の祈り,交読詩編23、使徒信条、讃美歌21・547、聖書 エフェソの信徒への手紙1:1~2:10(新約p.352)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌573、献金、頌栄27、祝祷。 


(説教) 本日は、修養会の礼拝です。説教題は「天地創造の前からの愛、そして希望」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙1章1節より2章10節です。小見出しは、挨拶を除けば3つです。「神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる」、「パウロの祈り」、「死から命へ」です。

 エフェソの信徒への手紙の6章20節に、「私(パウロ)は福音の使者として鎖につながれています」とあるので、この手紙はパウロの獄中書簡の1つとされています。学者の中にはいくつかの理由を挙げて、この手紙はパウロが書いたものではないという説を唱える人もいるようですが、私としては、この手紙をパウロの獄中書簡の1つとして読んでゆこうと思っています。パウロのエフェソ伝道については、使徒言行録19章に詳しく記されています。本日は、そこをも読んでご出席いただくようにお願い致しました。そうお願いしておいて申し訳ないのですが、この手紙を読んでも、使徒言行録19章に出て来るエフェソ伝道の様子と直接関連したことはほとんど見つからないと感じます。これは不思議なことですが、事実です。この手紙は、パウロの晩年に書かれたと思われます。そのせいか、この手紙はあまり具体的なことを語りません。非常に壮大なスケールで、霊的な真理を語っています。

 3節の後半を見ると、「神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たして下さいました」とあります。霊的な祝福は、物質的でない祝福です。それは聖霊、永遠の命、復活の体、天国です。私たちはこの地上で必ずしも、物質的に多くのものを持っていなくても、今既に多くの霊的な祝福で祝福されています。
 
 4節が東久留米教会の今年度の標語聖句ですね。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」「天地」は原文ではコスモスというギリシア語です。宇宙あるいは世界とも訳せると思います。「創造」は原文で「基礎を据える」という言葉です。「宇宙の基礎を据える前に、神は私たちを愛して、御自分の前に聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」天地創造というと、私たちは創世記1章を思い出します。「初めに、神は天地を創造された。」創世記はヘブライ語ですが、ヘブライ語では「天」は複数形です。「地」は単数形です。ですから正確には「初めに、神は諸々の天と地を創造された」となります。当時、天には複数の層があると考えられていたために、「天」は複数形であるようです。「初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」私は、この時に神様が宇宙(空間)と時間をお造りになったと信じています。科学では、地球は約45憶年前にでき、宇宙は卵のように非常に小さかったが、約138億年前のBig Bang という爆発によって膨張を開始し、今も膨張していると言います。宇宙の観測と計算に基づいてそう唱えられているので、まずは信頼できる説ではないかと思います。そうだとすると、私たちは宇宙が始まった約138憶年より前から、神様に愛され、キリストにおいて選ばれていることになります。実に壮大なことです。先ほどの讃美歌で歌ったように、まさに「生まれる前から神様に愛されて来た友達」の一人一人が私たちであることになります。「生まれる前から」、それも天地創造の前から神様に愛されていたのです。そのような気の遠くなるような昔から神様の愛されて来たと知って、私たちは驚きます。私たちが天地創造の前から神様に愛されていることを暗示する御言葉として、マタイ福音書25章31節以下の「すべての民族を裁く」の場面が挙げられます。そこでイエス様は、右側により分けられた人々にこう言われるのです。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」イエス様の兄弟である最も小さい者の一人に愛の業を行った人々は、イエス様にこう言っていただけるのです。

 「生まれる前から神様に愛されていた」については、詩編139編もそれを語っていると思います。13節に「あなた(神様)は私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立てて下さった。16節「胎児であった私を、あなた(神様)の目は見ておられた。私の日々はあなたの書に全て記されている。まだその一日も造られないうちから。」

 創世記1章にはイエス・キリストは登場しません。しかしヨハネによる福音書1章1節には、「初めに(天地創造の初めに)言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。この言はイエス・キリストを指していますから、実はキリストは天地創造の初めから生きておられました。キリストは永遠の最初から生きておられる神なのです。私たちも、天地創造の前から、私たちが母親の胎内に宿る前から、神様は私たちを愛し、私たちが地上に生まれることを計画しておられたことが分かります。5節「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」まとめると、神様の前で聖なる者、汚れのない者にするためにキリストにおいて選ばれ、イエス・キリストによって神の子にするために前もって定められている私たちである、ということになります。その最終目的は、6節にある通り、「神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、私たちがたたえるためです」となります。私たちが愛され、造られ、十字架によって罪を赦され、永遠の命を与えられた目的は、私たちが神様の恵みを讃美し、神様をたたえるためだということが分かります。

 7節は、イエス様の十字架の血について語ります。「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは神の豊かな恵みによるものです。」
イエス様の十字架の血のお陰で、私たちは全ての罪を赦され、贖われて神の所有となった。血のお陰でというと、気持ち悪いと感じる人もおり、分かりにくいかもいしれません。ご存じの通り、聖書では血は命そのものです。新約聖書のヘブライ人への手紙には、「血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない」と記されています。旧約聖書の時代は、神様に私たち人間の罪を赦していただくために、神殿でおそらく毎日、いけにえの動物を献げていました。殺して血を流してから献げるのですから、実に強烈なことです。神様に人間の罪を赦していただくために、動物に死んでもらっていました。しかし人間の罪を赦していただくためには、本当は動物の血と命では足りません。そこで真の神の子であり真の人間であって、全く罪のないイエス・キリストが尊い血を流して下さらないと、私たち人間の罪が本当に赦されることは不可能でした。使徒言行録20章には、イエス様の使徒パウロがまさにエフェソの教会の長老たちに別れを告げる時に、長老たちにこう述べたと書かれています。「どうか、あなた方自身と群れ全体とに気を配って下さい。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなた方をこの群れの監督者に任命なさったのです。」その通り、教会は神がイエス・キリストの十字架の犠牲の血によって神の所有となった群れなのです。そのことを確認するために毎月聖餐式を行うのですね。イエス様の体を表すパン(ウエハース)とイエス様の血潮を表すぶどう汁を食べ飲みます。それによってイエス様の十字架と復活のお陰で、私たちが神の所有となっている恵みの事実を確認します。ですので、ぜひすべての方々に洗礼の恵みに入っていただきたいと、神様と私たちは願っています。先日も申したように、キリスト教のある教派では、イエス様の十字架の有難い血を「宝血、ご宝血」と呼ぶそうです。私たちはこの用語を用いませんが、「なるほど」と思います。この表現によって、私たちを救って下さったイエス様の十字架の血潮への限りなき感謝を表明しておられると思うのです。

 エフェソに戻り、8節には「秘められた計画」という言葉が出て来ます。これはパウロの手紙にしばしば出て来る重要な言葉と思います。私はこれは、イエス様の十字架と復活によって私たち異邦人(ユダヤ人以外)を救おうとなさる神様の深いご計画のことと思います。神の子の十字架の犠牲によって私たち罪人(つみびと)を救おうという計画は、私たち人間から見れば、全く思いもよらないご計画、驚くべきご計画と思います。旧約聖書の時代には人間たちに、イザヤ書53章等によって暗示はされていましたが、隠されていたご計画、秘密にされていたご計画です。しかし今や「秘められた計画」ではなく、新約聖書に公然と書かれているご計画です。全世界に公にされ、全ての人に公然と宣べ伝えられる必要のあるご計画です。ですから教会の礼拝はすべての人に開かれた公の礼拝です。内密の礼拝ではありません。説教題も会堂前に公開しています。

 少し飛んで13節「あなた方もまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人の中には、目に見えないが神の清き霊である聖霊が生きて住んでおられます。聖霊が住んでおられれば、その人は救われており、必ず天国に入ります。「聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証」だと明記されています。聖霊は神様の命であり、神様その方ですから、聖霊をいただいていることこそ、最大最高の祝福、宝です。天国という最大の希望が約束されるからです。3節に私たちが天のあらゆる霊的な祝福で満たされたとありますが、その祝福の最たるものは聖霊です。

 次の小見出しに進みます。「パウロの祈り。」17節「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなた方に知恵と啓示の霊(聖霊)を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いて下さるように、そして神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たち(イエス様を信じる者たち)の受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。」イエス様はヨハネ福音書17章で、「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」神を知る、イエス様を知るとは、頭の知識で知るだけでは足りず、全身全霊をもって知ることと思います。そうなると一生の重要な課題ですね。人間側でできることは。一生懸命聖書を読み、一生懸命祈り、一生懸命礼拝し聖餐に与かり、一生懸命に御言葉を実行することで、父なる神様とイエス様を次第に深く知ることができると信じます。このような私たちの努力の前に、既に約2000年前から、イエス様の愛の犠牲の十字架の死と復活の恵みが私たちに提供されている、神様の大きな愛を思います。

 「神の招きによってどのような希望(すばらしい希望)が与えらえているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。」パウロはその希望の天国に、短い期間入る経験をしたのですね。コリントの信徒への手紙(二)12章で書いています。「14年前に第三の天に、楽園に引き上げられた。」最も高い天でしょう。「あの啓示されたことがあまりにもすばらしい。」あまりにもすばらしかったと告白しています。地上で多くの試練があっても、いずれ必ずそこに入れていただく確かな希望をいただいているので、感謝です。

 19節では、神様の力強さが強調されています。「また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせて下さるように。」ここを原文で見ると、デュナミス、エネルゲイアという言葉が出て来ます。デュナミスは力と訳されます。デュナミスは、英語のダイナマイトの語源です。エネルゲイアは明らかにエネルギーの語源でしょう。つまり私たち信仰者に与えられる神様の力はダイナマイトのように力強く、エネルギーに満ちているということです。20節「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」とあります。死者を復活させるには、巨大な力が必要に違いありません。父なる神様はダイナマイトように絶大な愛の力をイエス様の上に注がれ、イエス様は父なる神様の偉大な愛の力によって復活させられました。ダイナマイトは破壊に使われますが、神の愛の力は命の創造(造り出すこと)に用いられます。私たちにも将来必ず復活の新しい体(今の体とは違う)が与えらるのですが、その時も神様の偉大な愛の力が働くに違いありません。 右の座。味方、とりなすため。

 そして神様は愛の力によってキリストを、「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」どんな王や皇帝よりも上、この世を支配しようとする悪魔より上に置かれたのです。これは、イエス様が「王の王、主の主」であることを示します。22節「神はまた、全てのものをキリストの足元に従わせ、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」キリストは教会の頭、そして全宇宙の頭です。これも非常に壮大な真理ですね。このことは今は目に明確に見えませんが、将来必ず誰の目にも明らかな現実になります。21~23節に「全て」という言葉が5回も出て来ます。キリストは全ての存在、全宇宙のトップだという壮大な真理が強調されています。

 23節「教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です。」教会はイエス・キリストが満ちあふれている所です。神様が満ちあふれている所です。神の清き霊である聖霊が満ちあふれている所です。クリスチャン一人一人の中に聖霊が生きて住んでおられ、クリスチャン一人一人は「キリストに似た者」です。まだ罪が残っていますが、それでも皆ある程度は「キリストに似た者」です。人格がです。教会は「キリストに似た者」が満ちあふれている所です。地上にいる限り完全にキリストに似た者にはなれませんが、それでも教会は「キリストに似た者」が満ちあふれている所です。現実には「少しキリストに似ている人」と「だいぶキリストに似ている人」が混在している所と言えます。コリントの信徒への手紙(一)には、教会の礼拝について、このように書かれています。「信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心に内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに神はあなた方の内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。』」私たちの礼拝が、毎週このような礼拝であるように、皆でお祈りする必要が非常にあります。礼拝に出席した方が「本当にここには生きておられる本当の神様がおられます」と実感し、思わず告白するような、神の臨在(そこにおられること)に満ちあふれる霊的な礼拝を、毎週献げることができるように、全員で祈る必要が大です。エフェソ書の説教集を書いたある牧師は言います。「洗礼を受けることを軽んじてはなりません。聖餐を受けることをおろそかにしてはなりません。それらは、御言葉の説教と共に、それ以上に、神の力強い活動であり、キリストの恵みの充満であるからであります。」
 
 3つめの小見出しは、「死から命へ」です。父なる神様が私たちに、イエス・キリストによって与えて下さった恵みが、どんなに大きな恵みかが、真に力強く記されています。1節「さて、あなた方は、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」これは私たちが、神様に教えられて、聖書に教えられて、初めて気づくことです。私たちはイエス・キリストを救い主と信じて、罪の赦しの恵みを受ける前も、自分が死んでいたとまでは思わないでしょう。むしろ一生懸命生きていたと思う方の方が多いのではないでしょうか。しかしはっきり言えば、ここに書いてある通り、「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」のです。人類の先祖(代表とも言える)エバとアダムが、悪魔の誘惑に負けて、神様の御言葉に背きましたが、その時以来、私たち人間は皆、罪(原罪)を背負った状態で生まれて来るのです。旧約聖書の創世期は、エバとアダムが神様に背く罪を犯したために、神様はエバとアダムをエデンの園(楽園)から追放したと書いています。これによって人類は、神様からの祝福を失い、罪と苦労と死を帯びて、生きるしかないようになりました。実際私たちは、人を殺すような罪を犯すことがなくても、日々ぶつぶつ不平不満を言い、あまり感謝せず、時に人を心の中で嫌ったり憎んだり、悪口を言って過ごしていることがあると思います。それを今日の御言葉は、私たちが「自分の過ちと罪のために死んでいた」と言い当てています。

 2節「この世を支配する者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊(悪霊、悪魔)に従い、過ちを罪を犯して歩んでいました。」「この世を支配する者、この世の支配者」は悪魔です。残念ながら悪魔も生きて働いています。真の神様が、この世界を最終的に支配しておられます。しかし悪魔も働いており、悪魔はエバを誘惑して神様に背く罪を犯させることに成功しました。それ以来、悪魔が人間を支配しています。しかし人間は悪魔の支配に反抗し、神様に従って生きるように、神様から力強く招かれているのです。私たちは、これまでの罪を悔い改めて真の神様に従い、悪魔には早く滅びてほしいと願っています。悪魔は、イエス・キリストが十字架で死なれ、復活したときに、イエス・キリストに完全に敗れました。今も活動していますが、悪魔の敗北は決定済みで、イエス・キリストがもう一度地上に来られて神の国が完成する時に、悪魔が完全に滅びることは決定済です。悪魔は今は最後のあがきをしているので私たちは油断せず、悪魔の誘惑を退けながら生きるのです。

 3~4節も、私たちの過去の生き方を述べています。「私たちは皆、こういう者たち(悪魔に従って、過ちと罪を犯している者たち)の中にいて、以前は肉(自己中心)の欲望の赴くままに生活し、肉や心(自己中心の心)の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」手厳しい御言葉ですが、この通りなのだと思います。神様は罪人(つみびと)である私たちを憐れんで愛しておられますが、罪そのものを明確に憎んでおられます。私たちも毎日少しずつ罪を犯して生きて来たので、「ほかの人々と同ように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」そのままでは、私たちは滅びるほかなかったのです。

 ところが続く4節の最初に「しかし」とあります。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生は、聖書の中のこのようなしかしを「大いなるしかし」と呼ばれたと聴きました。この「しかし」が、ここまでのマイナスの流れをひっくり返すのですから、「希望のしかし」です。4~6節「しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、―あなた方の救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。」憐れみ豊かな神は、私たち罪によって死んでいた者たちを、この上なく愛して下さり、その愛によって独り子イエス・キリストを地上に誕生させ、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負わせて、十字架の死に追いやりました。ここに真の愛があります。神に敵対していた私たちを敢えて愛した愛ですから、敵を愛する愛です。こうしてイエス様の十字架の犠牲の愛のお陰で、私たちは復活されたイエス様と共に、復活の命に生きる者とされたのです。罪を悔い改めて洗礼を受けることで、私たち罪人(つみびと)は、キリストと共に新しい復活の命に生き始めることができます。5節を文語訳聖書は、「咎によりて死にたる我等をすら、キリスト・イエスに由りてキリストと共に活し」と訳しています。「咎によりて死にたる我等をすら」となっています。「こんなに罪深い私たちをすら。」パウロの感動が伝わります。私たちは自分の罪はそれほどひどくはないと考えているかもしれませんが、神の子イエス様が身代わりに十字架で死んで下さることなしには、自分の罪は決して赦されなかったとの現実を、深く考えてみる必要があるのです。

 5節に、「あなた方の救われたのは恵みによるのです」とも書かれています。自力によって救われたのでは、全くないということです。100%神の恵み、イエス様の十字架の死と復活の恵みによってのみ救われ、永遠の命を受けました。自力は0%です。どんな立派な人でも、100%神様の恵みによってだけ救われるのであって、自力の部分は0%なのです。9節にある通り、それは「誰も誇ることがないため」なのです。6節「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。」イエス様は復活された40日目に天に昇られ、天の王座に着かれ、今もそこで生きておられ、今日もそこから聖霊を注いで下さいます。私たちも地上の人生を終えた後に、同じ天の王座に着かせていただくと約束されているのです。これは大変畏れ多く、信じがたいほど光栄なことです。

 7節「こうして、神は、キリスト・イエスにおいて私たちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです。」口語訳聖書では「それは、キリスト・イエスにあって私たちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。」「神の恵みの絶大な富」という言葉が心に刺さります。イエス様が身代わりに死んで下さった事実は、「神の恵みの絶大な富。」やはりパウロの深い感動が伝わって来ます。

 8~9節「事実、あなた方は恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」私たちは「恵みにより、信仰によって救われた(永遠の命を受けた)。神からの贈り物であり、自分の努力で獲得したものではない。」プロテスタント教会が強調する「信仰義認の真理」ですね。「恵みのみ、信仰のみ」です。私たちのどんなよい行いも、自己中心の罪に汚れているので、それによって永遠の命を獲得することはできない。ただ神から恵みとして提供された「イエス・キリストの十字架の身代わりの死」を素直に受け入れ、信じる信仰によってのみ、救われるのです。「それは誰も誇ることがないためだ」と書かれています。自分の努力で永遠の命を勝ち取ったのなら、自分を誇りたくなります。でもそれはできません。努力で永遠の命を勝ち取ることができない。私たちは自分を誇らず、私たちのために十字架につけられたイエス・キリストのみを、誇るのです。

 10節「なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです。」「私たちは神に造られたもの」とあります。口語訳「私たちは神の作品」、聖書協会共同訳でも「私たちは神の作品」。私たちは、神様が真心を込め、イエス様の十字架と復活によって新しく造って下さった貴重な一人一人です。しかも一人一人は違います。世界中見渡せば、肌の色も様々、髪の毛の色・目の色も様々、言葉も様々。でも神様が真心こめて造って下さった貴重な一人一人です。障がいがあっても、年を重ねて健康が下がっても、神の貴重な作品。

 神様はさらに清き霊である聖霊を私たちに注いで、私たちを修復し、イエス様に似た者となるように今日も、私たちを造り変えておられます。洗礼を受けた人たちは、聖霊によって徐々にイエス様に似た者へと造りかえられてゆく途上に、今あります。聖霊に満たされて、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する思いになるので、神の愛への応答として、善い業を行って歩むようになっています。善い行いを行うことによって永遠の命を獲得することはできませんが、イエス様の十字架の愛への感謝の応答としては、聖霊に助けられて、喜んで善い業、愛の業を行って生きるのです。神の作品が善い業を行わないことはありません。アーメン。

2023-10-08 0:17:01()
「あなた方は神の家族、神の住まい」2023年10月8日(日)神学校日・伝道献身者奨励日礼拝
順序:招詞 マルコ福音書16:15~16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編110、使徒信条、讃美歌21・17、聖書 イザヤ書56章6~8節(旧約p.)、エフェソの信徒への手紙2:17~22(新約p.354)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌402、献金、頌栄92、祝祷。 

(イザヤ書56:6~8) また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るならわたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。

(エフェソの信徒への手紙2:17~22) キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

(説教) 本日は、神学校日・伝道献身者奨励日の礼拝です。説教題は「あなた方は神の家族、神の住まい」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙2章17~22節です。小見出しは先週に引き続いて「キリストにおいて一つとなる」です。
 
 エフェソの信徒への手紙の先週からの続きです。先週も読んだ17節から読んでいただきました。「キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方にも、また、近くにいる人々にも、福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊(聖霊)に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」旧約聖書以来の神の民ユダヤ人(イスラエル人)も、イエス様と十字架と復活後に神の民に加えられた異邦人(ユダヤ人以外の外国人、私たち日本人をも含む)も、イエス・キリストによって一つの霊である聖霊に満たされて、御父(父なる神様)に近づくことができるようになりました。

 19節「従って、あなた方はもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」「あなた方」は、エフェソの教会の人々です。同じく異邦人である私たちのことと言ってもよいでしょう。「あなた方はもはや外国人もなく寄留者でもない」ということは、神の民から除外された者ではないということです。今や、「聖なる民に属する者、神の家族」だと言っています。実に喜ばしく、嬉しいことです。

 「聖なる民」は、まず旧約聖書でイスラエルの民に与えられた恵みです。申命記7章6節以下に、こう書かれています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」私たち異邦人も、同じ神様の愛によって神の聖なる民に加えられました。感謝です。

 「あなた方はもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」使徒はイエス様の11人の使徒でしょう。新約聖書の時代を代表します。預言者は旧約聖書の人々ですから、旧約聖書を代表します。神の家族は新約聖書と旧約聖書の土台に上に建てられています。20節の後半から。「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合されて成長し、主における聖なる神殿となります。」この「かなめ石」を「隅の親石」と訳している聖書もあります。口語訳聖書は「隅のかしら石」と訳しています。もちろんイエス・キリストを指しますが、「隅の親石(かしら石)」と聞くと、私たちはたとえば、マタイ福音書21章42節のイエス様の御言葉を思い出します。「イエスは言われた。『聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」』」イエス様は詩編118編を引用して、こうおっしゃいました。これは、イエス様の十字架の贖いと犠牲の死を予告する御言葉です。聖なる民、神の家族のかなめ石はイエス・キリスト、しかも十字架に架けられたイエス様だというのです。ある牧師がおっしゃったのですが、「私たちが『こんなものは要らない』と言って捨てたイエス・キリストを、父なる神様は教会の土台石としてお立てになった。このことを知って、私たちは恐れを覚えるのでなければいけない。」全くその通りです。私たちは、十字架で死んで下さった神の子イエス・キリストを、最大限敬う者です。しかしクリスチャンでない方はそうでないと思いますし、私たちもクリスチャンになる前は、十字架につけられたイエス様を、最大限尊重していなかったかもしれません。そこで私は改めて襟を正して、先の言葉を思い出します。「私たちが『こんなものは要らない』と言って捨てたイエス・キリストを、父なる神様は教会の土台岩としてお立てになった。このことを知って、私たちは恐れを覚えるのでなければ、いけない。」アーメン(その通り)です。教会の「隅の親石」は、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目に復活なさったイエス・キリストです。

 本日の箇所は、日本キリスト教団の式文では教会の定礎式で読まれる御言葉になっています。この新しい会堂の献堂式を行ったのは今から12年前の2011年10月ですが、当日は東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生が午前の礼拝説教を行って下さいましたが、聖書はペトロの手紙(一)2章1節以下でした(新約429ページ下段)。本日の箇所と合わせて読むと、互いに補い合ってよく分かると感じます。4節より。「この主(イエス様)のもとに来なさい。主、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家(神の家、神の住まい)に造り上げられるようにしなさい。~聖書(旧約聖書)にこう書いてあるからです。『見よ、私(神様)は、選ばれた尊いかなめ石(イエス・キリスト)をシオン(エルサレム)に置く。これを信じる者は、決して失望することはない。』従って、この石は信じているあなた方にはかけがえのないものですが、信じない者たちにとっては、『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』のであり、また、『つまづきの石、妨げの岩』なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。しかし、あなた方は、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」そう、私たちは「神のものとなった民」なのです。神に属する民に加えられているので、その意味では何の心配も要りません。

 「それは、あなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなた方が広く伝えるためなのです。あなた方は、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」私たちは洗礼を受けていても、まだ心の中に罪が残っていますが、それでもイエス様の十字架の身代わりの死と復活のお陰で、今既に『驚くべき光の中に』入っています。イエス様を信じて洗礼を受ける前は神の民でなかったのですが、洗礼を受けた今は神のもの、神の民に間違いなく入っており、神の憐れみに確実に入っており、救われています。

 21節「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」ここを文語訳で読むと、「おのおのの建造物(たてもの)、かれに在りて建て合せられ、彌増(いやまし)に聖なる宮、主のうちに成るなり」となっています。原文のギリシア語を見ると、「アウクサノー」という言葉があり、この「アウクサノー」が「彌増に~成る」と訳されているようです。これが新共同訳では「成長し」の一言にまとめて訳されているようです。調べると、彌増とは「いよいよますます多くなる」の意味とのことです。「アウクサノー」という言葉は、調べてみると新約聖書に時々出て来る言葉です。たとえばマタイ福音書13章32節で、イエス様が天の国のたとえを語る箇所に使われています。からし種は「どんな種よりも小さいのに、成長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」この「成長する」が「アウクサノーです。ここではからし種という自然界の植物の成長に「アウクサノー」という言葉が用いられ、それは天の国(神の国)が地上で成長してゆくことのたとえで用いられています。教会は地上での神の国ですから、本日のエフェソの信徒への手紙2章21節では、教会の成長を表すために「アウクサノー」が用いられていると、分かりました。「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」

 この「アウクサノー」にもう少しだけこだわってみると、コリントの信徒への手紙(一)3章6節にも出て来ます(新約302ページ上段)。これはイエス様の使徒パウロが、伝道について、教会の成長について記している箇所です。「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です。」この「成長」は「アウクサノー」です。ですから、パウロやアポロといった伝道者やクリスチャンが伝道のために実際の労働を行うと共に、そこに神様の愛の力が働いてクリスチャンが増え、教会が成長すると言っていることになります。これは今の日本でも同じです。

 「この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなた方も共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」「聖なる神殿、神の住まい。」こことよく似たことが書かれているのは、先ほどのコリントの信徒への手紙(一)3章の9節以下です。「私たち(パウロたち伝道者やクリスチャンたち)は神のために力を合わせて働く者であり、あなた方(教会)は神の畑、神の建物なのです。私は、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることはできません(これは鉄則ですね)。この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日(最後の審判の日)にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。誰かがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報い(よい報い)を受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなた方は、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちのうちに住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその神殿なのです。」

 私たち教会という共同体は、神の聖なる霊である聖霊が住んでおられる聖なる神殿です。神様がここに住んでおられます。それは祝福であり、同時に畏れ多いことです。私たちは、東久留米教会という神の神殿を建てているのですが、それがどのような教会なのか、最後の審判の日に、神様が火によって吟味なさるというのです。私たちイエス様を信じる者たちが救われることは間違いないのですが、私たちの罪は焼き尽くされるでしょう。これは少々辛いですが、罪を焼き尽くされて、完全に罪なき清き人になって天国に入ります。

 エフェソに戻ります。本日の箇所は「教会とは何か」がテーマだと言えます。教会の土台のかなめ石は、言うまでもなくイエス・キリストのみです。イエス・キリストを土台として、どのように教会を建て上げるか。それが私たちの課題です。宗教改革者は、次のように私たちに教えます。「聖書に基づいて正しく説教が語られ聖礼典がキリストの制定に従って正しく執行される所」に教会は存在する。そうです。どこであっても、「聖書に基づいて正しく説教が語られ、聖礼典がキリストの制定に従って正しく執行されり所」に、教会はどこでも存在する。まさにその通りです。またある人は、教会の土台はイエス・キリストであり、そして信仰告白だと主張します。それも正しいでしょう。私たちで言えば、日本基督教団信仰告白が非常に重要です。カトリックであれば、私たちプロテスタント以上に聖礼典の重要さを強調するでしょう。ミサは聖餐式そのものなのですから。毎週日曜日のミサで聖餐式が行われます。聖餐式によって生ける聖なるキリストに触れるのですね。

 そして教会の土台は聖書(特にイエス様の御言葉)という主張も成り立ちます。イエス様がマタイ福音書5章24節以下でこう語っておられます。山上の説教の最後の部分です。「そこで、私のこれらの言葉(山上の説教の言葉)を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」イエス・キリストと聖書の御言葉を土台岩として、東久留米教会を建て上げさせていただきたいと祈ります。アーメン。 

2023-10-01 1:01:48()
説教「キリストは私たちの平和」2023年10月1日(日)世界聖餐日・世界宣教日
順序:招詞 マルコ福音書16:15~16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編109、使徒信条、讃美歌21・361、聖書 ヨナ書4章10~11節(旧約p.1448)、エフェソの信徒への手紙2:11~18(新約p.354)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌464、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ヨナ書4:10~11) すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

(エフェソの信徒への手紙2:11~18) だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

(説教) 本日は、世界聖餐日・世界宣教の日の礼拝です。説教題は「キリストは私たちの平和」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙2章11~18節です。小見出しは「キリストにおいて一つとなる」です。

 8月13日(日)の礼拝で、この前の2章1~10節を読みました。その終わりの方で、プロテスタント教会が大切にしてきた福音の真理が語られました。8節です。「事実、あなた方は恵みにより、信仰によって救われました(信仰義認)。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」私はここを読んで、改めて驚きを覚えます。宗教改革マルティン・ルターが唱えた信仰義認(善い行いによってではなく、信仰によってのみ、私たち罪人(つみびと)が義と認められる)の真理が、ここにはっきりと記されているからです。信仰義認の真理は、ローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙に明確に書かれていると思ってきましたが、エフェソの信徒への手紙にはっきり書かれていると、あまり意識していなかったからです。ところがここに明瞭に記されているので、改めて驚いた次第です。そして10節で、私たちがどのような存在であるかが、記されています。「なぜなら、私たちは神に造られたもの(神の作品)であり、しかも、神が前もって準備された善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです。私たちは皆、神様の尊い作品であり、聖霊に助けられて、神様に喜んでいただける善い業を行いながら、歩みます。

 そして本日の個所に入ります。11節「だから、心に留めておきなさい。あなた方は以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。」エフェソの場所は、小アジアの地中海沿岸です。今のトルコです。エフェソは当時のローマ帝国の大都会で、イエス様の使徒パウロがエフェソで全力で伝道した様子が、使徒言行録19章に詳しく記されています。エフェソの人々は、旧約聖書以来の神の民イスラエル人・ユダヤ人ではありません。異邦人、外国人です。そして私たち日本人も同じ異邦人ですから、立場は同じです。「いわゆる手による割礼(神の民イスラエル人の男性のシンボル)を身に受けている人々からは、割礼のない者」つまり、「神の民でない者」と呼ばれていました。

 12節「また、その頃は、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず(神の民に属さず)約束を含む契約(真の神様との契約)と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」私たちはイエス・キリストを信じる前は、真の神様とのつながりがなく、真の希望を持たず、真の神様を知らない状態で生きていたと言っています。残念ながらその通りです。真の神様を知らないことは、天国の希望をもっていないことです。そのような実に辛い状態にあったのです。」

 13節の冒頭に「しかし」とあります。8月13日(日)の礼拝の時も申し上げたと思いますが、この「しかし」こそ、「大いなるしかし」です。大きな転換が起こったことを示す「しかし」です。「しかしあなた方は、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」「以前は神から遠く離れていて希望をもっていなかったが、今は神に近い者になり、永遠の命の希望を持つ身になった」ということです。全ては、私たちの罪のために十字架で血を流して死んで下さったイエス・キリストのお陰なのです。

 キリスト教のある教派では、イエス様のこの最も尊い十字架の血のことを「宝血(ほうけつ)」と呼んでいます。宝の血です。私たちにはあまり聞き慣れない言葉かと思いますが、「宝血」という言葉を使う教会もあります。イエス様の十字架の血を最高の尊重するためにできた言葉だと思います。後で行う聖餐式において、私たちは本日、このイエス様の尊い血をいただきます。聖書では血は命を表します。もちろん私たちが飲むのは血そのものではなく、イエス様の血を表すぶどう液です。それでも血を飲むというと、気持ち悪いと思う方もあるかもしれません。その場合は、ぜひ新約聖書を読んでいただいて、このイエス様の十字架の血がどれほど大切か、分かっていただきたいと願います。エフェソの信徒への手紙の次の次の書であるコロサイの信徒への手紙は、1章19~20節で、このように記します。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを、余すとことなく御子(イエス様)の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解させられました。」十字架の血によって、平和を和解が実現したと言っています。

 エフェソに戻り、14節「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉(肉体)において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」「二つのものを一つにし」とは、イスラエル人(ユダヤ人)と異邦人を一つにしたということですね。敵意という隔ての壁を取り壊した。それは2つの隔ての壁ではないかと思います。1つは、父なる神様と私たち罪人(つみびと)の間の隔ての壁。もう1つは、イスラエル人(ユダヤ人)と私たち異邦人の間の隔ての壁。この2つの壁が取り壊された。十字架によってです。イエス様の十字架のお陰で、父なる神様と私たち罪人(つみびと)の間に和解と平和が実現し、イスラエル人(ユダヤ人)と私たち異邦人の間に和解と平和が実現しました。壁が取り壊されたと聞くと、私は思い出します、1989年11月9日のドイツのベルリンの壁の崩壊を。ベルリンの壁が崩れるとは想像もできませんでした。まさかこんなことが現実になろうとは、信じられない気持ちでしたね。あの壁は永久にあるものだという感覚でしたから。しかし今は、残念なことにアジアでも新しい壁ができつつあるように見えるので、心配です。アジアが2つの陣営に完全に分かれて戦争にならないように、日本も注意深く行動することが必要です。アメリア・日本・韓国・台湾対、中国・北朝鮮・ロシアの2つの陣営に分裂して、間違っても戦争にならないように、対立を和らげて平和を実現するように祈り、努力する必要があります。それはともかく、ベルリンの壁が崩壊して西ドイツと東ドイツが1つになりました。それと同じようなことが起こった、もしかするともっと大きなことが起こった。イエス・キリストの十字架の贖いの力により、それまで完全に分かれていたイスラエル人(ユダヤ人)と異邦人が一つの神の民として合流したのです。

 そして「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」旧約聖書の時代が終わり、新約聖書の時代に入ったということです。15節の途中から。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」ここに「十字架、十字架」と繰り返されています。「十字架の力」を感じます。イエス様の十字架には偉大な力がある。それは愛の力、赦しと平和と和解をもたらす力です。私たちは暴力が力だと思いかねません。そうではなくイエス様の十字架こそが偉大な愛の力、罪を完全に赦す救いの力です。内村鑑三は「キリスト教は十字架教だ」と言ったそうです。十字架の偉大な赦しの力をよく知っていたからでしょう。よく言われるように十字架のタテの木は「神様と私たち人間の愛」を表し、十字架のヨコの木は「私たち人間同士の愛」あるいは「敵対している私たち人間同士の愛」を表しています。

 「キリストがイスラエル人と異邦人を一人の新しい人に造り上げた」と書かれています。「新しい人」と聞くと、コリントの信徒への手紙(二)5章17節以下を思い出さずにはおれません。「だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものが過ぎ去り、新しいものが生じた。神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」

 エフェソに戻り17節「キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方にも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」キリストは、私たちを罪から救うために天から下って来られました。クリスマスの出来事です。「遠く離れているあなた方」とは、異邦人である私たちです。「近くにいる人々」とは、イスラエル人(ユダヤ人)です。18節「それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊(聖霊)に満たされて、御父に近づくことができるのです。」罪があると、聖なる父なる神様に近づくことができません。しかしイエス様が私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、三日目に復活されたお陰で、私たちの罪が赦され、私たちキリストを信じる者は、聖なる父なる神様に近づくことができるようになりました。

 「遠く離れているあなた方」とは異邦人のことだと申しました。確かにそうなのですが、旧約聖書でも神様が異邦人を完全に無視しているわけではなく、将来の救いに含みを持たせておられることも事実です。たとえば旧約聖書に登場するルツという女性は、モアブ人(異邦人)ですがイスラエル人と結婚し、夫の死後、その母親に忠実に尽くしたことが、旧約聖書で非常に称賛されています。そして本日の旧約聖書であるヨナ書4章10~11節です。神様は、異邦人の都二ネベの人々の罪が非常に重いので、40日後に二ネベを滅ぼすおつもりでした。ところがヨナが警告のメッセージを語ったところ、驚くべきことに二ネベの人々が皆、罪を心から悔い改めたのです。神様は二ネベを滅ぼすことを中止されました。「なぜ二ネベを滅ぼさないのですか」と怒るヨナを神様が諭されたのが4章10~11節です。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都二ネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」実は異邦人をも救いたい神様の本心が出ていると思うのです。神様は、家畜の命まで大切に考えて下さっています。

 私と妻が洗礼を受けた茨城県の教会に当時、青野さんという方がおられて、韓国に留学して帰って来られた方でした。韓国の近代史を勉強しておられて、日本と韓国の橋渡しをしたいという願いを持っておられたようです。その方が青年会で信仰の証しを語られたときに、本日のエフェソの信徒への手紙2章を引用されました。日本と韓国がキリストによって和解することを願って引用されたと思います。確かに「二つのもの」を日本と韓国になぞらえて読むことも意義深いと思います。14節から。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方も、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」

 先月9月1日は、関東大震災からちょうど100年でした。その時起こった朝鮮人虐殺の現場の1つ、墨田区の荒川土手を一昨年見学に行きましたが、小さな慰霊碑が建てられています。「悼」の一文字が刻まれています。解説板にはこう書かれていました。「犠牲者を追悼し、両民族(日本人と朝鮮半島の人々)の和解を願ってこの碑を建立する。」殺された人からすればそう簡単に許せないでしょうが、それでも「両民族の和解を願ってこの碑を建立する」という言葉は、よいと思いました。

 今から7~8年前の修養会で、東京神学大学の棚村先生をお迎えした時に、棚村先生がこんな話をされました。棚村先生が留学なさったアメリカで、教会の長老の方と親しくお話していた時に、太平洋戦争の話になり、その長老さんと棚村先生のお父様が、同じ島にいたと分かりました。もちろんお互いを知っていたわけではありません。しかし同じ島で米軍・日本軍に分かれて敵対していたのです。それが分かって一瞬冷たい空気が流れたけれども、その長老さんが、「当時は日本とアメリカは敵同士だったが、今は私とあなたはキリストにあって友人だ」という意味のことを言われたと、棚村先生がお語りになりました。

 本日は世界宣教の日・世界聖餐日礼拝です。東久留米教会を出発して日本やアメリカで伝道のために奉仕しておられる方々とそのご家族に、主イエス・キリストの多くの恵みをお祈り申し上げます。ウクライナでの戦争はなかなか終わらず、私たちの住む日本の周辺にも国同士の対立があります。その中で、忍耐強く平和を維持する必要があります。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」私たちがイエス・キリストの十字架による和解の福音を宣べ伝え、アジアも世界も分裂を乗り越えて和解と平和に向かうよう、共に祈りましょう。アーメン。