日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2021-10-02 23:34:46(土)
「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」    2021年10月3日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 テモテ(一)2:4、頌栄24、「主の祈り」、交読詩編43,日本基督教団信仰告白,讃美歌21・224、聖書 (旧約1401ページ)、(新約47ページ)、祈祷、説教「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」、讃美歌21・474、献金、頌栄27、祝祷。 

(ダニエル書12:1~4) その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」

(マタイ福音書24:1~14) イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

(説教) 本日は、日本キリスト教団の暦で「世界聖餐日・世界宣教の日」礼拝です。本日の新約聖書は、マタイ福音書24章1~14節です。説教題は、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」です。

 最初の小見出しは「神殿の崩壊を予告する」です。これもおそらく、イエス様が十字架に架けられる金曜日の、わずか三日前の火曜日のことと思われます。「イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。これは46年もかけて建設した壮麗な美しい建物だったのです。イエス様が生まれた時にエルサレムを支配していたヘロデ大王は、建築が大好きな人で、神殿も壮麗に建てたそうです。マルコ福音書では弟子たちが、「先生、御覧下さい。何とすばらしい石、何とすばらしい建物でしょう。」しかし残念ながら、この世のものが永遠に残ることはないのです。イエス様は言われました。「これらすべてのものを見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」回りくどい言い方ですが、つまり石で造られた見事な建築物であるこの神殿も、完全に破壊されて無に帰する時が来るという予告です。

 バベルの塔と同じでしょうか。バベルの塔は人間たちの思い上がりのシンボルでしたが、神様がその町の建設にストップをかけました。巨大な豪華客船タイタニックは絶対に沈まないと言われましたが、痛ましいことに氷山と衝突して沈没しました。東京スカイツリーは、高さ634mで電波塔としては世界一高いそうです。その地域出身の王貞治さんがスカイツリーに人々を案内した時、「ここは戦争で焼け野原になった所です」と言われたそうで、私はそれを「思い上がってはいけない」という王さんのメッセージと受け止めました。壮麗だったエルサレムの神殿は、この約40年後に、ローマ軍に攻撃されて炎上し、破壊されてしまうのです(第一次ユダヤ戦争)。それはイスラエルの民が、父なる神様に長年背き続けたことに対する、父なる神様の審判だったのです。イエス様は、そうなることを見通しておられました。

 次の小見出しは「終末の徴(しるし)」です。3節「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。『おっしゃって下さい。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたがた来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。』」ここで弟子たちは、2つの質問をしています。1つ目の質問「そのことはいつ起こるのですか」は、「エルサレム神殿の崩壊はいつ起こるのですか」という問いです。イエス様ははっきりお答えになりませんでしたが、それは約40年後に起こりました。でもそれは世界全体の終わりではありませんでした。2つめの質問は、「あなたが来られて(イエス様がもう一度地上に来られて)世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」ここで前提になっているのは、十字架で死なれ復活するイエス様が天に昇られ、そこからもう一度地上に来られることです。

 その時は必ず来ます。イエス様が復活して天に上って間もない頃の教会は、その時は割とすぐ来ると信じていました。しかし意外に時間がかかっています。イエス様の復活・昇天から2000年たった今もまだ実現していません。クリスチャンでない人はその様子を見て、「イエス様がもう一度来るなんてことは、嘘だ」と嘲りました。そのような嘲りを聞いても、信仰が動揺しないようにしなさいと、新約聖書のペトロの手紙(二)3章に書かれています。「ある人たちは遅いと考えているようですが、主(イエス様)は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。主の日(イエス様がもう一度来る日)は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消え失せ、自然界の要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、全てのものは滅び去るのですから、あなた方は聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去ることでしょう。しかし私たちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」

 弟子たちの問いは、「あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。イエス様は「慌てないように」とおっしゃっているように私には聞こえます。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシア(救い主)だ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」実際、暫く前にも申しました通り、紀元70年ごろの第一次ユダヤ戦争でエルサレムが破壊された約60年後、ユダヤ人はもう一度ローマに対して独立戦争を起こします(第二次ユダヤ戦争)。確かにローマ帝国がユダヤ人の民族的な誇りを否定する政策をとったのが悪いと思います。この時、「我こそはメシアだ」と名乗ったのがバル・コクバ(星の子)という男です。カリスマ性を持っていたのかもしれません。多くのユダヤ人がバル・コクバに期待をかけ、彼と一緒に立ち上がってローマ帝国に戦争を仕掛けます。しかしまたしてもローマの大軍の前に敗れ去ってしまい、再び滅びの悲惨を味わいます。バル・コクバはメシアではなく、あくまでも十字架と復活のイエス様がメシアです。

 日本にも偽メシアは現れます。文鮮明をメシアとして韓国で始まった統一協会は、キリスト教ではありません。でも日本でも有名人など多くの信者を獲得しました。文鮮明は亡くなっていますが、もちろん偽メシアです。オウム真理教の教祖が偽メシアだったのはもちろんです。今の日本では、幸福の科学の大川隆法という人が偽メシアだと私は見ています。おかしな本を色々出版しています。聖書を読んでいれば、そのような本に惑わされるはずがないのですが、聖書という本物を知らないと、惑わされるかもしれません。

 6節「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」「戦争は起こるに決まっている。だが慌ててはいけない。まだ世の終わりではない。落ち着きなさい」とイエス様が言われます。20世紀は戦争だらけだったと感じます。せめてその戦争が終わる度に、人間が少し賢くなったのであってほしい、と願うほかありません。7~8節「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり(これも戦争でしょう)、方々に飢饉や地震が起こる。」でもまだ世の終わりではないということでしょう。8節「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」神の国が完成するための、産みの苦しみの始まり(スタート)だというのです。「戦争があり、基金や地震が起こる。」日本人は地震をよく経験しています。再来年は関東大震災から100年、あの時起こった朝鮮人虐殺のような罪深いことは、もう日本人はしないと思います。阪神淡路大震災、新潟の地震、そして10年前の東日本大震災と福島第一原発の事故、1986年のチェルノブイリ原発事故、最近の熊本大分地震。その度に、私たちは揺さぶられて来ました。ルカ福音書21章では、飢饉や地震に加えて疫病と書かれています。疫病は、今はコロナです。疫病も起こる、つまりコロナが起こることは不思議ではないことになります。昔は疫病で多くの方が亡くなり、その後多くの疫病が医学の進歩で次第に克服されてきましたが、完全に克服されたのではないことがコロナによって明らかになりました。コロナの中で目立ちませんが、昨年はアフリカでいなごの大発生があったと聞きます。いなごが多くの穀物を食い尽くしたのなら、飢饉もあったでしょう。「飢饉、地震、疫病がある。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」神の国の完成のための産みの苦しみ、神の国の完成に向かうプロセスの1つでしょう。

 世が終わり、神の国の完成が近い徴。9~12節「そのとき、あなた方は苦しみ受け、殺される。また、私の名のために、あなた方はあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。」実に嘆かわしい状態です。神に従うクリスチャンは迫害され、苦難を受け、殺される。神の国が来ることを妨害するために、悪魔が全力で抵抗する感じです。そこでクリスチャンも苦難を受ける。そこで悪魔の誘惑に負けないように、目を覚まして祈り続け、礼拝を守り、悪魔に抵抗し、神様に従い続けることがクリスチャンの使命です。「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷める。」不法がはびこるとは、正義が行われず、悪が行われるということでしょう。滅茶苦茶な状態です。「多くの人の愛が冷める。」本当は私たちが神への愛と隣人への愛に燃えているはずなのに、反対に多くの人の愛が冷める。人が皆、自分勝手、自己中心になり、自分さえよければよいエゴイズムに走って恥じない。クリスチャンはその傾向に全力で反対する必要があります。これは戦国時代のような時代です。戦国時代は、大河ドラマで見ていると面白いですが、その中に生まれたらとんでもなく不幸です。英雄と呼ばれる男たちは兄弟を殺し、親を追放し、敵を殺し、そして裏切られる人生です。悪魔が支配していた時代です。日本の戦国時代に、キリスト教がもたらされたことは、悪魔の支配を滅ぼす神様の愛の業と思わずにはいられません。
 
 「不法、悪がはびこり、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国(神の国)のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る。」「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」最後まで信仰を守る者は救われるというのです。ヨハネの黙示録2章で、イエス様が迫害下にある教会を励ましておられる御言葉を思い出します。「あなた方は、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。耳ある者は、霊(聖霊)が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」

 イエス様は、「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」とはっきり言われます。全世界にイエス・キリストの十字架と復活の福音が宣べ伝えれてから、イエス様がもう一度来られてこの世界が終わり、希望に満ちた神の国が完成するというのです。本日は日本基督教団のカレンダーで、「世界聖餐日・世界宣教の日」なのです。東久留米教会から宣教師になって働いておられる方もおられ、大変感謝です。本多勝一という朝日新聞の記者で、世界のいわゆる文明化していない地域に住み込み取材に行って本を書く方がおられますが、「このような文明から遠いと思われる所には来ていないだろうと思った所にも、キリスト教の宣教師は来ていた」との驚きをどこかで書いておられました。世界中に福音が宣べ伝えられてから、イエス様の再臨(もう一度来られる)は起こる。とすれば、今は世界中キリストが宣べ伝えられていない場所はほとんどないでしょうから、再臨の条件は整ったと言えるのではないでしょうか。いつイエス様が来られても恥ずかしくないように、備えておきたいのです。但し慌てふためいて日常の責任を放り出すことはせずに、落ち着いた生活をしながら待つことになります。

 私たちはできれば苦しみは避けたいものです。ですがペトロの手紙(一)4章12節にはこうあります。新約433ページ下段。「愛する人たち、あなた方を試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」迫害が起こっても驚くなというのです。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それはキリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」キリストの再臨の時に、喜びに満ちあふれるためだというのです。「あなた方はキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊(聖霊)が、あなた方の上にとどまってくださるからです。」「あなた方のうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。」これは当たり前ですね。悪いことを行って裁きを受けても、それは自業自得で何のプラスもありません。

 「しかし、キリスト者として(正しく生きているのに)苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」「今こそ、神の家(教会)から裁きが始まる時です。」神の裁きは、神の民・教会から始まる。それは教会を清めるためと思います。神様の、教会への愛は深く、教会への期待は大きい。神様は、愛する教会を時として鞭打って清めるのです。そこに試練や苦難の意味があるのではないでしょうか。あるクリスチャンは、「神の裁きは救いをめざして行われる」と言っています。「神の裁きは救いをめざして行われる。」その人が罪を裁かれて悔い改めに至り、救われるために。私たちクリスチャンが清められて、ますますイエス様に似た者とされるために、そして天国に入りやすくされるために、神様は時に私たちに試練を与えられるのではないでしょうか。

 本日の旧約聖書・ダニエル書12章1節以下も、世の終わりを語ります。苦難が続くと書いてあり、また最終的な永遠の命の希望が書いてあります。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命にはいり。」「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。」とこしえに星と輝くために、今試練の中で練り清められます。最後に純白になるためです。

 それにしても、福音書が語る戦争、地震、飢饉、疫病の苦難と危機はなぜ起こるのでしょうか。約30年前に湾岸戦争が起きたとき、新聞で読みました。ヨーロッパでは教会に行く人が減っていたが、湾岸戦争の勃発に心を痛めて、教会に行って祈る人が増えた。阪神淡路大震災が起こった1995年は、日本におけるボランティア元年と言われます。あの苦難を見て、ボランティアに行く人が増え、ボランティアが日本に定着したと。危機と苦難は、世界がエデンの園でなく、罪と死に落ちている事実に気づかせます。神の助けがないと生きていけないことを教えるのではないでしょうか。戦争、地震、飢饉、疫病のようなマイナスが起こる時、それは神に立ち帰る大きなきっかけとなり得ます。そして自分たちの罪を悔い改め、神様に祈って助けていただき、前よりよい世界、愛ある世界に変えてゆくきっかけとして生かさないと、犠牲になった方々に申し訳ないと思います。神様が造って下さった自然環境を壊さないために、生活を見直し、原発事故からも学んで、神様によく祈って今後どうするのがよいか、導いていただく必要があります。毎日すべてのことにおいて神様と共に歩み、イエス様を宣べ伝えさせていただきつつイエス様の再臨を待つ。ご一緒にそのように生きて参りたいのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。4度目の緊急事態宣言解除。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。世界中が、神に立ち帰るように。経済困難の方々に助けを。私たちの身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々に平和を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に守りを。ミャンマー、アフガニスタンに平和を。日本の新首相が神様に従って下さるように。御名により、アーメン。

2021-09-26 1:01:41()
「涙を流してイエス様を伝えるパウロ」 礼拝説教 2021年9月26日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第43回)
礼拝順序:招詞 ヨハネ福音書4:23~24、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編なし,使徒信条,讃美歌21・206、聖書 使徒言行録20:17~35(新約254ページ)、祈祷、説教「涙を流してイエス様を伝えるパウロ」、讃美歌21・98、献金、頌栄92、祝祷。 

(使徒言行録20:17~35) パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

 そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」

(説教) 本日は、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第43回)です。本日の新約聖書は、使徒言行録20章17~35節です。パウロという男性が出てきますが、パウロはイエス・キリストの使徒です。弟子と言い換えてもよいと思います。イエス様の十二人の弟子ではありませんが、でも弟子と言えます。今日の個所は、そのパウロが、真の救い主イエス・キリストを宣べ伝える深い情熱を述べている個所で、非常に深く胸に迫る個所と思うのです。パウロは、自分の地上の人生が間もなく終わることを意識しています。殉教の死を遂げて、イエス様がおられる天国に入ると信じています。ですから今日の個所でパウロが、切々と語っていることは遺言と言えます。小見出しは「エフェソの長老たちに別れを告げる」です。時期は紀元60年頃でしょう。

 エフェソの場所は、聖書巻末の地図8や9を見ると、分かりやすい。地図の真ん中辺り、地中海より北、ローマ帝国アジア州のエーゲ海岸沿いの大都会です。今のトルコです。この使徒言行録19章に書いてある通り、パウロがここで2年間、全力で救い主イエス様を宣べ伝えました。ほとんど住民全員に伝道したようです。その結果、イエス様を救い主と信じる礼拝共同体ができました。教会という共同体ができたのです。今回パウロは、トロアスからミレトスに着きました。ミレトスはエフェソの少し南の海岸沿いの町です。パウロは、ミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せました。18節から、パウロの長く切々したメッセージが始まります。長老たちも、非常に感動しながら聞いたのです。

 「アジア州(エフェソ)に来た最初の日以来、私があなた方と共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によって、この身にふりかかって来た試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。」パウロは、聖霊に満たされていてイエス様の人格に非常に近づいています。パウロは、イエス様が求められた通り、自分を捨て、自分の十字架を背負って、ひたすらイエス様に従う人なのです。「自分を全く取るに足りない者と思い」と言っています。これは彼の本心と思います。無理して謙遜になろうとしているのではありません。パウロは若い頃、サウロという名前でユダヤ人のこてこてのファリサイ派でした。クリスチャンのことが大嫌いで、クリスチャンを迫害する先頭に立ち、これこそ神様に喜ばれることと信じて、狂ったようにクリスチャンを迫害していました。でもその後、復活されたイエス様に出会い、自分が大きな罪を犯していたことに気づくことができました。その後は、正反対に、「イエス様こそ真の神の子、真の救い主である」と確信して、その伝道に命を懸けるイエス様の弟子に変わりました。パウロは昔の自分を恥じています。ですからここで、「自分を全く取るに足りない者と思い」と言い、別の個所では自分こそ「罪人(つみびと)の頭」だと告白しています。これも全くの本心です。

 そしてユダヤのファリサイ派から見れば、パウロは裏切り者です。そこでパウロに対しては迫害が行われ、この先にエルサレムで殺害計画まで練られます(未遂に終わる)。そのような命のかかわる厳しい試練に遭いながらも、パウロはイエス様を宣べ伝えることをやめず、主に(イエス様に、父なる神様に)仕えてきたのです。涙を流しながら。なぜ涙を流すかというと、イエス・キリストだけが全世界の真の救い主だからです。この使徒言行録4章で、イエス様の一番弟子ペトロが言う通りです。「ほかの誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリストの名)のほか、人間には与えられていないのです。」イエス様を救い主と信じる・信じないは、どうでもよいことではないのです。イエス・キリストだけが、私たち人間皆の、全部の罪を身代わりに背負って十字架にかかって下さり、三日目に復活されたからです。私たちが天国に入るためには、イエス・キリストを救い主と信じる以外には、ほかに道がないからです。イエス様を救い主と信じることは、天国に入る・永遠の命をいただくという大きな祝福に至ります。イエス様を信じることは、その人の人生にとって重大な選択なのです。その人の永遠の命を左右する、最も重大な選択なのです。パウロはそれを知っているので、全ての人にイエス様を信じて、永遠の命を得てほしいのです。ところが、なかなか信じてくれない人々がおられる。ですからパウロは、涙を流します。信じる信じないは、最も真剣で、最も重大なことだからです。

 20~21節「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなた方に伝え、また教えて来ました。神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人(ユダヤ人以外の外国人)にも力強く証しして来たのです。」大事なことは、神に対する悔い改めです。私たちが、神様を礼拝しなかった時、私たちは神様を無視して生きていました。私たちの命を造ってくださった神様を無視して生きてきたことは、神様に対して失礼なことです。神様は、私たちの無礼を随分忍耐して下さったと思います。神様を無視していた罪を悔い改め、神様を礼拝するようになることが必要です。悔い改めという言葉は、元のギリシア語で「メタノイア」です。メタノイアは、方向転換するの意味です。神様を無視する生き方から、神様を礼拝し、神様に聴き従う生き方に方向転換するのです。これが悔い改めです。神様は、全ての人がこの方向転換を実行することを願っておられます。私たちがこの方向転換をするとき、神様と天使たちが深く喜ばれるのです。イエス様も喜んで下さるのです。

 22節「そして今、私は霊(聖霊)に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということは、聖霊がどこの町でもはっきり告げて下さっています。」具体的に何が待っているか分からないが、投獄と苦難が待っていることだけは、神様がはっきり知らせて下さっている。パウロは、自分の十字架を背負ってイエス様にひたすら従っているのです。苦難が待っているが、でもイエス様が共におられることもはっきりしている。だからパウロの心には、平安があります。彼の心には迷いがないのです。24節「自分の決められた道を走り通し、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」

 パウロは「証しする」と言っていますが、この漢字を分解すると「正しく言う」になります。証とは真実を証言すること、正しく言う(語る)ことです。原文の「証し」という言葉(ギリシア語)は、後に「殉教」を意味する言葉になりました。イエス様への信仰を表明すると、殉教する時代が来たからです。パウロもここでイエス様を伝道するゆえに殺されることを覚悟しています。でも、パウロをも愛して、パウロのためにも十字架で死んで下さったイエス様を伝道して死ぬなら、本望だと言っています。殉教者の血は、無駄になりません。迫害に負けないで殉教する人のの勇敢な死を見て、感激した人々がクリスチャンになり、迫害した人の意図に反して、却ってクリスチャンが増えることが多いのです。イエス様が言われた「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」の御言葉のとおりです。それにしてもなぜ迫害が起こるのでしょうか。それは神様の真理が広まることを嫌う悪魔が激しく妨害するからだと思うのです。

 25~26節「そして今、あなた方が皆もう二度と私の顔を見ることがないと私には分かっています。私は、あなた方の間を巡回して御国(神の国そしてイエス様)を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、私には責任がありません。私は、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなた方に伝えたからです。」「誰の血についても、私には責任がない」とは、誰の最終的な運命についても私には責任がないということです、パウロは出会った全員に、救い主イエス様を宣べ伝えたのでしょう。そこから先は、聞いた人の責任になります。救い主イエス様を信じるかどうかは、その人の決断次第になるからです。パウロが伝えなかったのなら、相手がイエス様を信じないで天国に入れなかった場合、伝えなかったパウロの責任になります。でもパウロはおそらく出会った全員に宣べ伝えた。ですから後は、パウロから救い主イエス様のことを知らされた相手自身の責任になります。その人が救い主イエス様を信じれば、天国への道が開かれるのです。

 28節は、エフェソの教会の責任者たち(長老たちや牧師)への重要なメッセージです。今の教会の役員や牧師へのメッセージとしても、しっかり聴く必要があります。「どうか、あなた方自身と群れ全体とに気を配って下さい。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなた方のこの群れの監督者に任命なさったのです。」「神が御子イエス・キリストの血(十字架の血)によって御自分のものとなさった神の教会」とあります。教会は、この世の他の団体とは違います。会社でもない、趣味の会でもありません。信仰の共同体、礼拝の共同体です。イエス・キリストの十字架の死によって罪赦された人々の共同体です。イエス様の十字架の真に尊い血潮(血は命)によって、父なる神様から罪を赦された人々の共同体です。そして十字架の死から復活されたイエス様を賛美する共同体です。聖書は教会を「キリストの体」と呼びます。イエス様が頭で、私たちクリスチャンはイエス様の妹、弟たちです。イエス様が長男で、父なる神様が父です。イエス様の十字架の死という尊い犠牲がなければ、教会という共同体ができることはありませんでした。父なる神様が、大切なわが子を十字架にかけて尊い血潮を流させる、その尊い犠牲を土台として成り立っているのが教会です。父なる神様が命をかけて建てて下さった共同体が教会です。ですから父なる神様が愛してやまない共同体が教会です。大きな教会でも小さな教会でも同じです。「神の教会」とありますから、「教会は神のもの」です。人間のボスはいません。神様が所有者です。従って教会は、人間が自由勝手にできるものではなく、教会で皆共に父なる神様のご意志に従うのです。

 29~30節「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。」これは、神様を憎む悪魔の働きです。悪魔は教会を堕落させたいし、壊したいのです。その悪魔の妨害に負けない必要があります。惑わされて邪説に従わないために、私たち一人一人がよく聖書を読み、祈ってゆく必要があります。31節「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」パウロは、心血を注いで伝道しました。一人一人にイエス様を伝え、この信仰から生涯離れることのないように、昼も夜も涙を流して、懇々と諭し続けたのです。「目を覚ましていなさい。」イエス様も繰り返し「目を覚ましていなさい」と言われました。この世のつかの間の栄光に心を奪われないで、いつも信仰の目を覚まして、神様に喜ばれることを行うように心がけ、意識的にイエス様の心を自分の心として、地上の人生を最後まで歩み通すように、目を覚まし続けていなさい、ということでしょう。

 「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」パウロはもう彼らに会えない。直接神様のことを教えたり、直接アドヴァイスできない。そこでこれまでパウロが取り次いで来た神様の御言葉をよく記憶して、それに基づいて教会というクリスチャンの共同体を造り上げ、様々の問題に対処しなさい、というメッセージでしょう。「神とその恵みの言葉とにあなた方をゆだねます。」私たちには、神の言葉そのものを集めた聖書があります。これは大変な恵みなのですね。この神の言葉、宝の言葉の集合体であるい聖書があるのですから、私たちは聖書をよく読んで、聖書に基づいて教会としての、クリスチャンとしての意志決定を行ってゆきます。エフェソ教会の人々は聖書をもっていなかったのです。私たちは聖書を持っています。その意味ではエフェソ教会の人々より恵まれています。ぜひ一人一人が個人でも聖書をよく読んで参りたいのです。

 最後の33節以下は、すばらしい言葉です。「わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」「私はむさぼったことはない」と断言します。質素に生きたのです。自分の必要のためにも、周りの人々のためにも働いたと言います。彼はテント造りで生計を立てました。イエス様も大工として自分と母親、弟妹のために労働した日々があったはずです。イエス様のこの御言葉は、4つの福音書に書かれていません(やや似た言葉「与えなさい。そうすればあなた方にも与えられる」(ルカ6章38節)はある。)「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示して来ました。」パウロがこう述べて、使徒言行録を書いたルカが記録してくれたので、イエス様がこうおっしゃったと私たちは知ることができます。4つの福音書になくて、聖書の他の箇所で確認できるイエス様の御言葉は、おそらくこれだけだと思います。「受けるよりは与える方は幸いである。」はっとさせられる、忘れてならない御言葉と思います。その逆だと思いやすい私たちの、目を覚まさせてくれる、チャンレジングな、すばらしい御言葉です。今日の箇所は、パウロの心、イエス様の心が分かる印象深い御言葉、毎日読みたいし、毎日読んでも決して飽きない、毎日読んでもその度に感動が与えられるすばらしい箇所と思います。ぜひ毎日読んで、私どもの信仰を深めたいのです。アーメン(真実に)。

(祈り)聖名讃美。4度目の緊急事態宣言。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神に立ち帰るように。経済困難の方々に助けを。私たちの教会と身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々に聖霊と平和を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に守りを。ミャンマー、アフガニスタンに平和を。日本の首相が交代しようとしています。神様が最もふさわしい方を次期首相として選んで下さい。御名により、アーメン。

2021-09-18 22:50:37(土)
「神の国にどうぞ!」  2021年9月19日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ヨハネ福音書4:23~24、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編42,使徒信条,讃美歌21・152、聖書 歴代誌・下24:17~22(旧約ページ)、マタイ福音書23:23~39(新約ページ)、祈祷、説教「神の国にどうぞ!」、讃美歌21・441、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(歴代誌・下24:17~22) ヨヤダの死後、ユダの高官たちが王のもとに来て、ひれ伏した。そのとき、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた。この罪悪のゆえに、神の怒りがユダとエルサレムに下った。彼らを主に立ち帰らせるため、預言者が次々と遣わされた。しかし、彼らは戒められても耳を貸さなかった。神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。ヨアシュ王も、彼の父ヨヤダから寄せられた慈しみを顧みず、その息子を殺した。ゼカルヤは、死に際して言った。「主がこれを御覧になり、責任を追及してくださいますように。」

(マタイ福音書23:23~39) 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第18主日の礼拝です。本日の新約聖書は、マタイ福音書23章の後半です。先週に続いて、エルサレムの律法学者・ファリサイ派の人々に対する、イエス様の厳しい言葉が続きます。

 23節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど(香辛料、鎮痛薬)、茴香(伝統的なハーブ、香料、薬草)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。」先週申し上げました通り、不幸だという言葉は、元の言葉ではウーアイです。「うう、ああ」とイエス様が正しく怒ると同時に呻いて、悲しみ嘆いておられます。神様の御言葉を本当には受け入れず、自分の罪を認めず悔い改めない律法学者・ファリサイ派の人々のかたくなな心を悲しんでおられます。ファリサイという言葉は「分離する」という意味だと聞きます。自分は他人より正しい人だと思い、自分を他人と分離しているのです。他人を見下しているのですね。キリスト教会に自己義認という言葉があります。これは自分で自分こそ正しいと認めることです。神様に「あなたは正しい、よい人間だ」と認めていただくのではなく、自分で「自分こそ最も正しい」、「自分には罪なんてない」と過剰な自信とプライドをもつことを自己義認と言います。これこそファリサイ派の罪です。でも昔のファリサイ派だけの罪ではありません。私たちも、時々ファリサイ派になるのです。そして自分の思い上がりの罪に気付かなくなるのです。

 福音書を読んでいて驚くのは、イエス様が当時、罪人(つみびと)と呼ばれた人々(たとえば売春婦)に積極的に近づかれることです。当時イスラエルで嫌われていた徴税人(税金を集めてローマ帝国に納める人)とも一緒に食事されたのです。ファリサイ派の人々が驚いて「なぜ徴税人や罪人(つみびと)と一緒に食事をするのか」と問うと、イエス様は答えられます。これは私たちがイエス様という方の心を知るために、よく心に留める必要があるお答えだと思うのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『私(父なる神様)が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くためである。」こうおっしゃることもあります。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである。」なるほど、イエス様の心はファリサイ派とは違うのだなと、教えられます。私がファリサイ派の心に近くなっているとき、このイエス様の御言葉を読んで、イエス様の心に立ち帰ることが必要と感じるのです。

 イエス様は、律法学者たちとファリサイ派の人々に言われます。「あなたたちは薄荷、いのんど、茴香の十分の一(小さなものの十分の一)は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲(憐れみ)、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。」些細なことを厳密過ぎるほどこだわるが、律法(神の聖なる掟)の中で大事な正義、慈悲、憐れみを実行していないというのです。但し、十分の一の献げ物を行わなくてよいという意味ではないと言われます。キリスト教会ではしばしば「十分の一献金」ということが言われます。もちろん聖書に根拠があり、旧約聖書のレビ記27章30節にこう書かれています。「土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のもの(神のもの)である。それは聖なるもので主に属す。」これは大切なことです、律法学者・ファリサイ派はそれを徹底的に実行するあまり、小さなものの代表である薄荷、いのんど、茴香の十分の一まで神様に献げていました。しかしもっと大事なことを行いませんでした。24節「ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」これはイエス様のユーモアと言えます。小さなぶよと大きならくだのコントラストが、極端でユーモラスです。旧約聖書レビ記の規定では、らくだは汚れた動物です。ファリサイ派は神経質にぶよ一匹さえも漉して除くが、大きならくだ(大きな悪のシンボルでしょう)は飲み込んで、受け入れてしまっている。

 次はさらに痛烈な言葉です。25節「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」放縦とは「節度がなく、勝手、わがままなこと」です。ファリサイ派は、こんなに悪人だったのでしょうか。見た目や行いは立派に見えるが、心の中は強欲、欲望と野心でいっぱい。これより前の21章で、イエス様はエルサレムの神殿を清められ、売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒され、おっしゃいました。「私の家(神の家、神殿)は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」神殿は聖なる礼拝の場です。今の教会堂に等しい。でもそこが欲望まみれだったというのです。私たちの心も教会も、欲望でいっぱいになれば、やはりイエス様に厳しく叱られるでしょう。私たちの心、そして教会は100%清くなることは難しいですが、でもやはり欲望いっぱいではなく、清くあるように心がける必要があります。

 ファリサイ派の外見と内面は大きくずれ、矛盾していました。私たちは他人の欠点はすぐ分かるものです。イギリスやアメリカでは、歴史的にキリスト教は主流の宗教で、教会の礼拝も盛んに行われていました。ところが両国とも、アフリカ人奴隷の売り買いをしていました。神様に祈りながら、同時アフリカ人奴隷を売り買いして金儲けをするということは、巨大な矛盾で信じられません。奴隷は人間でないと思っていたのかもしれません。巨大な罪を犯しながら、全く罪を思っていなかったのでしょう。人間は、自分が行っている悪に気づかないようです。「ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉しての除くが、らくだは飲み込んでいる。」

 27節以下もやはり痛烈です。「律法学者たちファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死はの骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら内側は偽善と不法で満ちている。」当時のイスラエル人にとって、死や墓は汚れでした。もちろん私たちクリスチャンにとってはそうではありません。当時のイスラエルでは、過越祭等で多くの人がエルサレムに集まる場合、お墓を白く塗ったそうです。そうすれば墓は汚れていないと見なしてもらえたのでしょう。でも墓が遺体を納める場所であることは何も変わりません。外側だけ美しくしても、ごまかしに過ぎません。

 20世紀のドイツにハンス・アスペルガーという小児科の医師がいたそうです。アスペルガー症候群という症状名に名前を残したよい医者、障がいある子どもたちの治療と養育に一生懸命とりくんだよい医者と言われていました。それが比較的最近になって、実はナチスの作った障がいある子どもたちの安楽死施設に、自分が見放した多くの障がいある子どもたちを送り込んでいたことが分かったそうです。子どもたちを殺すことに手を貸していました。非常によい小児科医と思われていたのに、裏の顔があって、実は多くの子どもを死の施設に送り込んでいたことが分かったそうです。悪魔の手先になっていたらしいのです。これは恐るべき偽善と言えます。

 私たちはこれほど極端ではないと思います。でも私も偽善と全く無縁とは言えません。「本音と建て前」という言葉があります。「建て前と本音」と言い換えることもできます。本来「本音と建て前」の区別があってはいけませんね。日本人は下手をすると、「建て前と本音」が違うのは当たり前で、「建て前と本音」を上手に使い分けるのが大人だなどと考えかねないのではないでしょうか。そうでなければ幸いですし、もちろん皆様はそんなことはないに違いありません。ファリサイ派には「建て前と本音」が露骨にあったと思います。建て前では神様を礼拝し、神様に従うふりをしているが、本音では神様に従おうと思っておらず、自分の欲望実現だけを願っていた。これがファリサイ派の姿です。偽善とは「建て前と本音」の別があること、「建て前と本音」を使い分けることだと思うのです。残念ながら私も罪人(つみびと)なので、これまでの人生で「建て前と本音」を少し別にしたことが、ゼロとは言い切れません。でも神様に祈って助けていただいて「建て前と本音」の区別ができるだけない信仰生活・日常生活を送りたいのです。建て前では神様を信じているが、本音では信じていないということがないようにしたいのです。もちろんそのような方はここにおられませんが、礼拝の時は神様に祈るけれども、それ以外の日は神様に従わないとならないように。礼拝の日曜日だけ神様中心に生き、平日は自分中心に生きるという区別をしないように、生きたいのです。ファリサイ派は「建て前と本音」を区別して平気だったのではないでしょうか。

 私たちは「建て前と本音」の区別がない信仰の生き方をしたいのですが、自力で完全に行うことはできません。神様に祈り、イエス様に助けられ、聖霊によって清めされてその方向に進みたいのです。信仰が常に本音であるように、神の力で生かしていただきたいのです。
 
 少し飛ばして下の32節以下。「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、私は預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなた方が聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかって来る。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たち(イエス様の時代のイスラエル人)にふりかかって来る。」

 イエス様は、旧約聖書の歴史を振り返っておられます。最初の夫婦アダムとエバの次男アベルは正しい人だったのに、兄カインに不当に殺されました。正しい人が殺されることは、あってはならない悪です。でもその大きな悪が行われました。人間が神に背いたのです。次に出て来るゼカルヤも、正しい人なのに殺されました。歴代誌の下です。私たちが使う旧約聖書では最後の書はマラキ書ですが、ユダヤ人が読むヘブライ語の旧約聖書では順序が違い、最後の書は歴代誌なのだそうです。つまり旧約聖書の最初にアベルが殺され、旧約聖書の最後でゼカルヤが殺された。旧約聖書の歴史、イスラエルの民の歴史は、初めから終わりまで正しい人を殺す歴史、神様に背く歴史だったと、イエス様はおっしゃるのです。実に厳しい御言葉です。その集大成のように、この三日後に、神の子イエス様という最も正しい方が、イスラエルの首都エルサレムで十字架で殺されようとしています。人間の恐るべき罪です。「これらのことの結果はすべて、今の時代の者たち(イエス様の時代のイスラエル人)にふりかかって来る。」エルサレムが神様に背き続けたので、父なる神様の審判を受けるというのです。エルサレムが悔い改めなかったので、残念ながらそれは実現し、この約40年後にローマ軍の攻撃を受けて、エルサレムは滅亡し、1948年のイスラエル建国まで、復活しない結果になります。

 最後はイエス様の嘆きの言葉です。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちはおうじようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられ、荒れ果てる。」イエス様、父なる神様が何回も何回もエルサレムの人々を招き、神様の御言葉を素直に聞いて、罪を悔い改めて立ち帰るように招き続けた、祝福を与えようとして招き続けたのに、エルサレムの人々は無視し続けた。私たちはそうでなく、イエス様の愛の招きに(説教題は「神の国にどうぞ!」という招き)に素直に応じて、神の子、神の家族に入れていただき、真の祝福を受けたいのです。

 「言っておくが、お前たちは『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決して私を見ることがない。」これはイエス・キリストが、もう一度地上に来られる時、再臨の時のことです。イエス様は必ずもう一度来られて、神の国を完成されます。私たちには、その時までチャンスが与えられています。イエス様を救い主と信じ、自分の罪を悔い改め、神の子とされるチャンスがその時まで与えられています。今日もそのチャンス、大きな恵みの一日です。私たちは時を無駄にしないように気をつけたいと思います。時が与えられている間に、真の神の子イエス様に立ち帰り、永遠の命をいただくことが必要です。そしてイエス様がもう一度来られる時に、イスラエル人も日本人も、すべての民が和解して共にイエス様に向かって「主の名によって来られる方に、祝福があるように」「ホサナ、ホサナ」の歓呼の声をあげてお迎えしたいのです。そのイエス様の御名を、今日も礼拝でほめたたえる私どもです。アーメン(真実に)。

(祈り)聖名讃美。4度目の緊急事態宣言。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。全ての方と私どもを感染から守って下さい。世界中が、神に立ち帰るように。経済困難の方々に助けを。私たちの教会と身の周りに各々の病と闘う方々、入院中の方々もおられます。神様の完全な癒しを速やかに与え、ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちの信仰を守って下さい。近所の方々に聖霊と平和を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。台風の被害が少ないように。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に、神様の守りを。ミャンマー、アフガニスタンに平和を。 御名により、アーメン。

2021-09-15 20:11:39(水)
伝道メッセージ 9月 石田真一郎
「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイ福音書5章8節)。

 私が子どものとき大好きだった人形アニメに「リトル ドラマー ボーイ」があります(絵本もありますが、内容が違います)。イスラエルの砂漠に生きる少年アロンは、両親から小さな太鼓をプレゼントされ、喜んで叩き、上手になります。らくだ、ろば、子羊が太鼓に合わせて踊ります。ところが悪人に襲撃されて、両親が命を落とし、アロンの心は悲しみと憎しみでいっぱいになり、三匹の動物と旅に出ます。太鼓が上手なアロンを利用し金もうけをたくらむ男から逃げ出すと、空にひときわ輝く星が見えます。神の子・イエス様の誕生を告げる星です! アロンと三匹、三人の博士たち、多くの人も星を目当てに進みます。

 着いた馬小屋には、最も美しい光景が待っていました。マリア、ヨセフ、そして飼い葉桶に赤ちゃんイエス様が眠っています。近づこうとすると、走って来た馬車にアロンの愛する子羊が轢かれ、瀕死になります。心優しいアロンは、涙を流して子羊を抱きしめます。でも博士に助けを求めても、「私には助ける力がない」と言われ、赤ちゃんイエス様のもとに行きなさいと言われます。「でも、貧しい僕にはイエス様にささげるものが何もない。」はっと思い立って、真心を込めて太鼓を弾きます。時をかけて弾きます。心に沁みるクライマックス。アロンの精一杯のささげ物を、イエス様も父なる神様も深く喜ばれました。マリアさんも微笑みます。

 アロンが後ろを見ると、子羊が元気になっているではありませんか! イエス様が愛で癒して下さったのです。アロンは子羊をしっかりと抱きしめて、喜びの涙を流します。そしてアロンは、自分の心の中にあった人を憎む思いが消えていることに気づきます。イエス様が憎しみを取り去って下さったのです! イエス様の誕生を告げる星が輝く中、心の清いアロンは、愛する動物たちと新しい希望の歩みへと踏み出します。最後にナレーションが告げるのです。「心の清い人々は祝福されています。その人たちは神を見るのです!」(マタイ福音書5章8節)。

 心洗われる物語、全編で流れる「ランパンパンパン」の歌詞のメロディーも美しい! イエス様が、小さく貧しい者を特に愛して下さることを感じさせる名作です。しおんの子どもたち、先生方、多くの動物たちもイエス様に愛されています。そのことを感謝し、子どもたち・先生方とご一緒に、神様に礼拝をささげて参ります。アーメン(真実に)。
(下里しおん保育園の「おたより」2021年9月号に掲載した文章。)
2021-09-12 0:40:27()
「真の先生イエス様に、皆で従おう」  2021年9月12日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ヨハネ福音書4:23~24、頌栄28、「主の祈り」、交読詩編41,使徒信条,讃美歌21・7、聖書 イザヤ書57:15(旧約1156ページ)、マタイ福音書23:1~22(新約45ページ)、祈祷、説教「真の先生イエス様に、皆で従おう」、讃美歌21・520、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書57:15) 高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。

(マタイ福音書23:1~22) それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。 (†底本に節が欠落 異本訳)律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第17主日の礼拝です。本日の新約聖書は、マタイ福音書23章の前半です。場所はエルサレム、時はイエス様が十字架にかけられる金曜日のわずか3日前の火曜日と思われます。この火曜日は、「問答の火曜日」と呼ばれる大変な火曜日となりました。今日の個所では、イエス様がイスラエルの律法学者たちとファリサイ派の人々を強く非難しておられます。信仰に熱心に取り組んでいるように見せて、実は誠実に生きていないという非難です。イエス様がそうおっしゃるのですから、実際その通りだったのでしょう。

 1~2節「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。『律法学者たちやファリサイ派の人々はモーセの座に着いている。』」自分たちこそ旧約聖書の偉大なリーダー・モーセの正統な後継者だと主張し、社会の中で権威を得ている。そして威張っている。イエス様は言われます。「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで実行しないからである。」痛烈な非難です。「彼らがああしなさい、こうしなさい」ということは正しいので、私たちもその通りにするべきだ。しかし、彼らの行いは、見倣ってはいけない。彼らは言うだけで実行しないからである。」彼らは立派なことを語っているが、自分で実行しようとはしない偽善者だというのです。イエス様にこう言われると、私も冷や汗が出てしまいます。「説教で人様に向かって偉そうなことを語っているだけで、実行は怠けているのではないか」と心配になり、自分の日々の生き方をチェックする必要があると襟を正したくなります。

 4節「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に乗せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」彼らはモーセの十戒の細分化して613個の掟に変えたそうですが、613もの掟を守れと説教して貧しい人々の苦労を増やしたが、彼らに手を貸す愛を実行しようとはしない。人々の苦労だけ増やして、一向に助けたりサポートしたりしない。偽善者だというのです。5節「そのすることは、すべて人に見せるためである。」自分をよく見せる自己宣伝だけを行っているというのです。イエス様がおっしゃることは全て当たっていたに違いありません。ユダヤの律法学者たち・ファリサイ派の人々がこれを聞いて、素直に頭を垂れて悔い改めればよかったのでしょう。しかし、誇り高くプライド高い彼らの多くは、悔い改めず(もしかすると一部に悔い改めた人がいたかもしれませんが)、怒ったのではないでしょうか。その怒りで、三日目の金曜日にイエス様を十字架に追い込むことになります。

 私は今回この箇所を読んで、十字架にかかるわずか三日前のエルサレムで、イエス様がこれほど厳しい非難を、律法学者たちやファリサイ派の人々に対して語っておられることに、驚きを覚えました。でもイエス様は、彼らが憎くてこの厳しい言葉を語られたのでもないと思います。イエス様から見れば、彼らは偽善の罪を犯し続けていたと思います。表向きは清く正しく生きているようで、実際には隣人を愛さず、自分の立場を利用して私腹を肥やしたり、権力を行使して、父なる神様に背いていた面もあったと思うのです。このままでは彼らは、そしてエルサレムは父なる神様の裁きを受けてしまう。イエス様は律法学者たちやファリサイ派の人々をも、実は愛しておられて彼らが父なる神様に裁かれることを望んでおられない。この人々が早く自分の罪に気づき、自分の罪を悔い改めて、父なる神様の愛と祝福を受けることを望んでおられるからこそ、イエス様はあえて真に厳しい御言葉を語っておられると思うのです。厳しい御言葉の内部に、実は深い愛が存在していることに気づくことが必要と感じます。しかし、残念ながら彼らの多くはそれに気づかず、悔い改めませんでした。あろうことか、最も聖なる神の子イエス様を、十字架で殺してしまいます。そのような大きな罪を犯した結果、約40年後にエルサレムそのものが父なる神様の厳しい裁きを受けてしまいます。ローマ帝国の軍隊に攻撃されて、神殿は炎上し、エルサレムそのものが事実上滅ぼされてしまいます。悔い改めのチャンスを与えられていたのに、それを長年無視して悔い改めなかったために、そうなってしまいました。実際三日後には、最も清い神の子イエス様を十字架にかけるという大きな大きな罪を犯してしまいます。

 御言葉に戻って5節「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」「聖句の入った小箱」とは、旧約聖書の4箇所の御言葉を書いた羊皮紙を入れた小箱を、彼らがいつも持ち歩いていたそうです。その1つは、申命記6章4~9節で、確かにこれは重要な聖句です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日私が命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも、起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」この御言葉をしるしとして手に結び、覚えとして額に付けよとあるので、小箱に入れて持ち歩いたそうです。それ自体はよいことです。今のクリスチャンが小型の聖書をいつも持ち歩くようなもの、御言葉を手帳に書いたりしていつも忘れないように心がけるようなものです。基本的にはよいことです。ここで非難されている律法学者・ファリサイ派の場合はそれを自分の信仰を深めるためではなく、人に見せて、いかにも信仰深いふりをするために持ち歩いていたのでしょう。それをイエス様が偽善と非難しておられます。

 6節以降はこうです。「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」これは、私・石田真一郎への警告だと読むしかありません。宗教家こそ、堕落しやすい。「会堂では上席に座ることを好む」、今まさに会堂で上席に座り立って、説教という畏れ多いことを行わせていただいています。「先生」と呼ばれたりすることを好む。牧師という名称がまさに「牧する(羊を飼う)教師」つまり先生の意味で、牧師は先生と呼ばれてしまっています。果たして自分が「先生」と呼ばれるほど立派な生き方をしているだろうかという問いかけをやめれば、簡単に堕落して、イエス様から「偽善者よ、悔い改めよ」と非難されることを自覚しなければなりません。30年近く前に、私が神学生の頃でしたか、アシュラムというキリスト教の集会に出席したときに、どこの牧師の方だったか忘れましたが、「自分は牧師という名称の『師』の文字を『師』ではなく『仕』と書くようにしたい」と書いておられたことを思い出しました。自分が偉そうな牧師になって奉仕する気持ちを忘れたら、律法学者・ファリサイ派になってしまうという思いを持っておられたのだと思います。

 8~10節「だが、あなた方は『先生』と呼ばれてはならない。あなた方の師は一人だけ(イエス様だけ)で、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなた方の父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなた方の教師はキリスト一人だけである。」 「あなた方の師は一人だけ(イエス様だけ)で、あとは皆兄弟なのだ。」地位が上とか下ということはなく、皆平等な兄弟姉妹だと言っています。神の国では、教会では人間の支配者はいなくて、皆兄弟姉妹なのです。直訳は兄弟ですが、最近出た聖書教会共同訳ではあえてひらがなで「きょうだい」と書いています。あえてひらがなにしたのは男性だけでなく女性も含まれることを伝えようとしてのことと思います。改めて見ると、新約聖書には兄弟という言葉が多いのです。パウロは、諸教会への手紙の中で繰り返し、「兄弟たち」と呼びかけています。イエス様もたとえば「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある丸太に気づかないのか」「兄弟があなたに対して罪を犯したら、行って二人だけのところで忠告しなさい」などとおっしゃって、教会のメンバー同士が兄弟また姉妹であることを強調しておられます。教会では上下関係はないということと受け止めます。婦人会で、山谷兄弟の家伝道所に献品を送って下さいました。兄弟の家伝道所という名前は、よい名前と感じます。

 このイエス様の御言葉を正面から受け止めると、牧師という名称も師(先生)が含まれているので、なくす必要があり、カトリック教会の神父という名称も「父」を含むのでなくす必要があります。「神父」という名称は「神様の父」という意味ではなく「霊的な父」「信仰上の父」という意味であるようです。それもいけないことになりますが、これはおそらくイエス様が、人間の牧師や神父が自分勝手に権力を行使して、教会の主人のようにふるまって信者の方々にマイナスや害を及ぼすことを警告して、こうおっしゃっているのだと思います。ただ、教会には権力者がいてはなりませんが、責任者は必要です。権力者は必要ないが、責任者はいて、皆共に礼拝し、互いに仕え合う教会が望ましいのだと思います。現実の教会の2000年の歴史を見ると、人間が罪人(つみびと)であるせいで、教会の中で権力争いがあったこともあるようです。特に男性は政治好きですから、そのような男性聖職者が教会にマイナスをもたらすこともあったようです。でも神さまがそこで宗教改革を起こされます。そして教会を悔い改めに導き、教会を立ち直らせる。1つ1つの教会の歴史も、2000年間のキリスト教会全体の歴史も、生きておられる神様がそのように導いて来られたと思うのです。

 宗教改革は、神の国が完成するまで毎日必要です。私どもはクリスチャンでも、やはり毎日罪を犯していますから、毎日悔い改めが必要です。教会も悔い改めが必要です。悔い改めてこそ、クリスチャン個人も教会も日々新しくされ、聖霊を注がれて清められます。簡単に思い上がる私・私どもですから、毎日聖書を読んで、神様の御言葉に心を込めて耳を傾けることで初めて、神様の御心に適う東久留米教会を形作ることができます。人間の牧師もおりますが、真の先生はイエス・キリストお一人。本日の説教題に「真の先生イエス様に、皆で従おう」とした通りです。「あなた方の内で一番偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」弟子たちの汚い足を洗われ、十字架の死に至るまで父なる神様に従順に仕えられたイエス様が、いつも私どもの模範です。このことを痛切にわきまえて初めて、神父や牧師の存在が許されるのでしょう。教会の歴史の初期の頃、砂漠に師父と呼ばれる霊的な指導者がいて、おそらく禁欲的で祈り深い生活をしており、様々な悩みをもって訪問する人々を、父親的な慈愛と祈りで、信仰的に導いていたそうです。

 13節以下でイエス様は、「律法学者たちファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という厳しい言葉を、繰り返されます。「不幸だ」を他の聖書は「わざわいだ」と訳しています。元の言葉は「ウーアイ」です。「うう」「ああ」といううめきの言葉、悲痛な嘆きの言葉です。イエス様はただ正しく怒っておられるだけでなく、悲しみ嘆いておられる。自分の罪に気づかない律法学者・ファリサイ派のかたくなで悔い改めない心を悲しんでおられます。「あなたたちは不幸だ。人々の前天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりと、入ろうとする人をも入らせない。」あなたたちの伝道は、伝道になっていなくて、あなたたちと同じ偽善者を増やしているだけだ、という手厳しい言葉です。でも嘆きながらおっしゃっています。偽善者という言葉は、元の言葉のギリシア語で「俳優」の意味も持つそうです。演じる人です。善い人間でないのに、善い人間のふりをして演じる俳優、それが偽善者だというのです。自分ができるだけ偽善者にならないように気を付けるほかありません。

 次の十字架のようなマークは、聖書のある有力な写本にはここに御言葉があることを示します。この福音書の最後に書いてあります。「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」「見せかけの長い祈り。」私の礼拝の祈りも長めです。「見せかけの偽善的な祈り」、心にもないきれい事、本心でない上辺だけの美辞麗句でないよう気をつける必要があります。

 16節「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。」もちろん神殿の方が尊いのです。これは当時の律法学者・ファリサイ派が考え出した言い訳のための屁理屈でしょう。誓いは約束ですから、必ず守る必要があることです。それで言い逃れを正当化する屁理屈を考え出したのですね。「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である(もちろん本当は有効です)。だが神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない。」これはとんでもない屁理屈で、神の聖なる神殿を馬鹿にしたあきれた屁理屈ですので、イエス様が偽善として厳しく叱りつけています。誓いを守ることは確かにしんどい面があるでしょう。それでしんどさから逃れるために、自分たちを正当化する屁理屈を考え出したのです。神様に対する誠実を、放棄していたとも言えます。私どもは罪人(つみびと)ではありますが、神様に祈って助けていただき、できるだけそうならないようにイエス様に従いたいのです。

 このイエス様のお叱りの連続。「不幸だ。不幸だ。不幸だ。」これは「幸いである」の正反対です。幸いな人はどんな人か? イエス様がマタイ福音書5章で教えておられます。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。~憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである。その人たちは、神を見る。平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」ファリサイ派は、この正反対の生き方をしていました。悔い改めず、傲慢になっていました。私どもも罪人(つみびと)ですから、ファリサイ派に近くなる時もあるでしょう。しかしイエス様を先生とし、神の前に悔い改めつつ、「幸いな人」として歩みたいのです。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員に、特に重症の方に癒しを。世界中が、神に立ち帰るように。経済困難の方々に助けを。教会内と身の周りで各々の病と闘う方々、入院中の方に癒しを。ご家族にも守りを。教会学校の子どもたちに守りを。近所の方々に聖霊を。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を伝える方々と家族に愛を。フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘の方々に、神様の守りを。ミャンマー、アフガニスタンに平和を。 御名により、アーメン。