日本キリスト教団 東久留米教会

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2023-10-14 23:02:00(土)
「天地創造の前からの愛、そして希望」2023年10月15日(日)修養会礼拝
順序:招詞 マルコ福音書16:15~16,頌栄28、主の祈り,交読詩編23、使徒信条、讃美歌21・547、聖書 エフェソの信徒への手紙1:1~2:10(新約p.352)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌573、献金、頌栄27、祝祷。 


(説教) 本日は、修養会の礼拝です。説教題は「天地創造の前からの愛、そして希望」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙1章1節より2章10節です。小見出しは、挨拶を除けば3つです。「神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる」、「パウロの祈り」、「死から命へ」です。

 エフェソの信徒への手紙の6章20節に、「私(パウロ)は福音の使者として鎖につながれています」とあるので、この手紙はパウロの獄中書簡の1つとされています。学者の中にはいくつかの理由を挙げて、この手紙はパウロが書いたものではないという説を唱える人もいるようですが、私としては、この手紙をパウロの獄中書簡の1つとして読んでゆこうと思っています。パウロのエフェソ伝道については、使徒言行録19章に詳しく記されています。本日は、そこをも読んでご出席いただくようにお願い致しました。そうお願いしておいて申し訳ないのですが、この手紙を読んでも、使徒言行録19章に出て来るエフェソ伝道の様子と直接関連したことはほとんど見つからないと感じます。これは不思議なことですが、事実です。この手紙は、パウロの晩年に書かれたと思われます。そのせいか、この手紙はあまり具体的なことを語りません。非常に壮大なスケールで、霊的な真理を語っています。

 3節の後半を見ると、「神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たして下さいました」とあります。霊的な祝福は、物質的でない祝福です。それは聖霊、永遠の命、復活の体、天国です。私たちはこの地上で必ずしも、物質的に多くのものを持っていなくても、今既に多くの霊的な祝福で祝福されています。
 
 4節が東久留米教会の今年度の標語聖句ですね。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」「天地」は原文ではコスモスというギリシア語です。宇宙あるいは世界とも訳せると思います。「創造」は原文で「基礎を据える」という言葉です。「宇宙の基礎を据える前に、神は私たちを愛して、御自分の前に聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」天地創造というと、私たちは創世記1章を思い出します。「初めに、神は天地を創造された。」創世記はヘブライ語ですが、ヘブライ語では「天」は複数形です。「地」は単数形です。ですから正確には「初めに、神は諸々の天と地を創造された」となります。当時、天には複数の層があると考えられていたために、「天」は複数形であるようです。「初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」私は、この時に神様が宇宙(空間)と時間をお造りになったと信じています。科学では、地球は約45憶年前にでき、宇宙は卵のように非常に小さかったが、約138億年前のBig Bang という爆発によって膨張を開始し、今も膨張していると言います。宇宙の観測と計算に基づいてそう唱えられているので、まずは信頼できる説ではないかと思います。そうだとすると、私たちは宇宙が始まった約138憶年より前から、神様に愛され、キリストにおいて選ばれていることになります。実に壮大なことです。先ほどの讃美歌で歌ったように、まさに「生まれる前から神様に愛されて来た友達」の一人一人が私たちであることになります。「生まれる前から」、それも天地創造の前から神様に愛されていたのです。そのような気の遠くなるような昔から神様の愛されて来たと知って、私たちは驚きます。私たちが天地創造の前から神様に愛されていることを暗示する御言葉として、マタイ福音書25章31節以下の「すべての民族を裁く」の場面が挙げられます。そこでイエス様は、右側により分けられた人々にこう言われるのです。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」イエス様の兄弟である最も小さい者の一人に愛の業を行った人々は、イエス様にこう言っていただけるのです。

 「生まれる前から神様に愛されていた」については、詩編139編もそれを語っていると思います。13節に「あなた(神様)は私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立てて下さった。16節「胎児であった私を、あなた(神様)の目は見ておられた。私の日々はあなたの書に全て記されている。まだその一日も造られないうちから。」

 創世記1章にはイエス・キリストは登場しません。しかしヨハネによる福音書1章1節には、「初めに(天地創造の初めに)言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。この言はイエス・キリストを指していますから、実はキリストは天地創造の初めから生きておられました。キリストは永遠の最初から生きておられる神なのです。私たちも、天地創造の前から、私たちが母親の胎内に宿る前から、神様は私たちを愛し、私たちが地上に生まれることを計画しておられたことが分かります。5節「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」まとめると、神様の前で聖なる者、汚れのない者にするためにキリストにおいて選ばれ、イエス・キリストによって神の子にするために前もって定められている私たちである、ということになります。その最終目的は、6節にある通り、「神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、私たちがたたえるためです」となります。私たちが愛され、造られ、十字架によって罪を赦され、永遠の命を与えられた目的は、私たちが神様の恵みを讃美し、神様をたたえるためだということが分かります。

 7節は、イエス様の十字架の血について語ります。「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは神の豊かな恵みによるものです。」
イエス様の十字架の血のお陰で、私たちは全ての罪を赦され、贖われて神の所有となった。血のお陰でというと、気持ち悪いと感じる人もおり、分かりにくいかもいしれません。ご存じの通り、聖書では血は命そのものです。新約聖書のヘブライ人への手紙には、「血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない」と記されています。旧約聖書の時代は、神様に私たち人間の罪を赦していただくために、神殿でおそらく毎日、いけにえの動物を献げていました。殺して血を流してから献げるのですから、実に強烈なことです。神様に人間の罪を赦していただくために、動物に死んでもらっていました。しかし人間の罪を赦していただくためには、本当は動物の血と命では足りません。そこで真の神の子であり真の人間であって、全く罪のないイエス・キリストが尊い血を流して下さらないと、私たち人間の罪が本当に赦されることは不可能でした。使徒言行録20章には、イエス様の使徒パウロがまさにエフェソの教会の長老たちに別れを告げる時に、長老たちにこう述べたと書かれています。「どうか、あなた方自身と群れ全体とに気を配って下さい。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなた方をこの群れの監督者に任命なさったのです。」その通り、教会は神がイエス・キリストの十字架の犠牲の血によって神の所有となった群れなのです。そのことを確認するために毎月聖餐式を行うのですね。イエス様の体を表すパン(ウエハース)とイエス様の血潮を表すぶどう汁を食べ飲みます。それによってイエス様の十字架と復活のお陰で、私たちが神の所有となっている恵みの事実を確認します。ですので、ぜひすべての方々に洗礼の恵みに入っていただきたいと、神様と私たちは願っています。先日も申したように、キリスト教のある教派では、イエス様の十字架の有難い血を「宝血、ご宝血」と呼ぶそうです。私たちはこの用語を用いませんが、「なるほど」と思います。この表現によって、私たちを救って下さったイエス様の十字架の血潮への限りなき感謝を表明しておられると思うのです。

 エフェソに戻り、8節には「秘められた計画」という言葉が出て来ます。これはパウロの手紙にしばしば出て来る重要な言葉と思います。私はこれは、イエス様の十字架と復活によって私たち異邦人(ユダヤ人以外)を救おうとなさる神様の深いご計画のことと思います。神の子の十字架の犠牲によって私たち罪人(つみびと)を救おうという計画は、私たち人間から見れば、全く思いもよらないご計画、驚くべきご計画と思います。旧約聖書の時代には人間たちに、イザヤ書53章等によって暗示はされていましたが、隠されていたご計画、秘密にされていたご計画です。しかし今や「秘められた計画」ではなく、新約聖書に公然と書かれているご計画です。全世界に公にされ、全ての人に公然と宣べ伝えられる必要のあるご計画です。ですから教会の礼拝はすべての人に開かれた公の礼拝です。内密の礼拝ではありません。説教題も会堂前に公開しています。

 少し飛んで13節「あなた方もまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人の中には、目に見えないが神の清き霊である聖霊が生きて住んでおられます。聖霊が住んでおられれば、その人は救われており、必ず天国に入ります。「聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証」だと明記されています。聖霊は神様の命であり、神様その方ですから、聖霊をいただいていることこそ、最大最高の祝福、宝です。天国という最大の希望が約束されるからです。3節に私たちが天のあらゆる霊的な祝福で満たされたとありますが、その祝福の最たるものは聖霊です。

 次の小見出しに進みます。「パウロの祈り。」17節「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなた方に知恵と啓示の霊(聖霊)を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いて下さるように、そして神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たち(イエス様を信じる者たち)の受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。」イエス様はヨハネ福音書17章で、「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」神を知る、イエス様を知るとは、頭の知識で知るだけでは足りず、全身全霊をもって知ることと思います。そうなると一生の重要な課題ですね。人間側でできることは。一生懸命聖書を読み、一生懸命祈り、一生懸命礼拝し聖餐に与かり、一生懸命に御言葉を実行することで、父なる神様とイエス様を次第に深く知ることができると信じます。このような私たちの努力の前に、既に約2000年前から、イエス様の愛の犠牲の十字架の死と復活の恵みが私たちに提供されている、神様の大きな愛を思います。

 「神の招きによってどのような希望(すばらしい希望)が与えらえているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。」パウロはその希望の天国に、短い期間入る経験をしたのですね。コリントの信徒への手紙(二)12章で書いています。「14年前に第三の天に、楽園に引き上げられた。」最も高い天でしょう。「あの啓示されたことがあまりにもすばらしい。」あまりにもすばらしかったと告白しています。地上で多くの試練があっても、いずれ必ずそこに入れていただく確かな希望をいただいているので、感謝です。

 19節では、神様の力強さが強調されています。「また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせて下さるように。」ここを原文で見ると、デュナミス、エネルゲイアという言葉が出て来ます。デュナミスは力と訳されます。デュナミスは、英語のダイナマイトの語源です。エネルゲイアは明らかにエネルギーの語源でしょう。つまり私たち信仰者に与えられる神様の力はダイナマイトのように力強く、エネルギーに満ちているということです。20節「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」とあります。死者を復活させるには、巨大な力が必要に違いありません。父なる神様はダイナマイトように絶大な愛の力をイエス様の上に注がれ、イエス様は父なる神様の偉大な愛の力によって復活させられました。ダイナマイトは破壊に使われますが、神の愛の力は命の創造(造り出すこと)に用いられます。私たちにも将来必ず復活の新しい体(今の体とは違う)が与えらるのですが、その時も神様の偉大な愛の力が働くに違いありません。 右の座。味方、とりなすため。

 そして神様は愛の力によってキリストを、「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」どんな王や皇帝よりも上、この世を支配しようとする悪魔より上に置かれたのです。これは、イエス様が「王の王、主の主」であることを示します。22節「神はまた、全てのものをキリストの足元に従わせ、キリストを全てのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」キリストは教会の頭、そして全宇宙の頭です。これも非常に壮大な真理ですね。このことは今は目に明確に見えませんが、将来必ず誰の目にも明らかな現実になります。21~23節に「全て」という言葉が5回も出て来ます。キリストは全ての存在、全宇宙のトップだという壮大な真理が強調されています。

 23節「教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です。」教会はイエス・キリストが満ちあふれている所です。神様が満ちあふれている所です。神の清き霊である聖霊が満ちあふれている所です。クリスチャン一人一人の中に聖霊が生きて住んでおられ、クリスチャン一人一人は「キリストに似た者」です。まだ罪が残っていますが、それでも皆ある程度は「キリストに似た者」です。人格がです。教会は「キリストに似た者」が満ちあふれている所です。地上にいる限り完全にキリストに似た者にはなれませんが、それでも教会は「キリストに似た者」が満ちあふれている所です。現実には「少しキリストに似ている人」と「だいぶキリストに似ている人」が混在している所と言えます。コリントの信徒への手紙(一)には、教会の礼拝について、このように書かれています。「信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心に内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに神はあなた方の内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。』」私たちの礼拝が、毎週このような礼拝であるように、皆でお祈りする必要が非常にあります。礼拝に出席した方が「本当にここには生きておられる本当の神様がおられます」と実感し、思わず告白するような、神の臨在(そこにおられること)に満ちあふれる霊的な礼拝を、毎週献げることができるように、全員で祈る必要が大です。エフェソ書の説教集を書いたある牧師は言います。「洗礼を受けることを軽んじてはなりません。聖餐を受けることをおろそかにしてはなりません。それらは、御言葉の説教と共に、それ以上に、神の力強い活動であり、キリストの恵みの充満であるからであります。」
 
 3つめの小見出しは、「死から命へ」です。父なる神様が私たちに、イエス・キリストによって与えて下さった恵みが、どんなに大きな恵みかが、真に力強く記されています。1節「さて、あなた方は、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。」これは私たちが、神様に教えられて、聖書に教えられて、初めて気づくことです。私たちはイエス・キリストを救い主と信じて、罪の赦しの恵みを受ける前も、自分が死んでいたとまでは思わないでしょう。むしろ一生懸命生きていたと思う方の方が多いのではないでしょうか。しかしはっきり言えば、ここに書いてある通り、「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」のです。人類の先祖(代表とも言える)エバとアダムが、悪魔の誘惑に負けて、神様の御言葉に背きましたが、その時以来、私たち人間は皆、罪(原罪)を背負った状態で生まれて来るのです。旧約聖書の創世期は、エバとアダムが神様に背く罪を犯したために、神様はエバとアダムをエデンの園(楽園)から追放したと書いています。これによって人類は、神様からの祝福を失い、罪と苦労と死を帯びて、生きるしかないようになりました。実際私たちは、人を殺すような罪を犯すことがなくても、日々ぶつぶつ不平不満を言い、あまり感謝せず、時に人を心の中で嫌ったり憎んだり、悪口を言って過ごしていることがあると思います。それを今日の御言葉は、私たちが「自分の過ちと罪のために死んでいた」と言い当てています。

 2節「この世を支配する者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊(悪霊、悪魔)に従い、過ちを罪を犯して歩んでいました。」「この世を支配する者、この世の支配者」は悪魔です。残念ながら悪魔も生きて働いています。真の神様が、この世界を最終的に支配しておられます。しかし悪魔も働いており、悪魔はエバを誘惑して神様に背く罪を犯させることに成功しました。それ以来、悪魔が人間を支配しています。しかし人間は悪魔の支配に反抗し、神様に従って生きるように、神様から力強く招かれているのです。私たちは、これまでの罪を悔い改めて真の神様に従い、悪魔には早く滅びてほしいと願っています。悪魔は、イエス・キリストが十字架で死なれ、復活したときに、イエス・キリストに完全に敗れました。今も活動していますが、悪魔の敗北は決定済みで、イエス・キリストがもう一度地上に来られて神の国が完成する時に、悪魔が完全に滅びることは決定済です。悪魔は今は最後のあがきをしているので私たちは油断せず、悪魔の誘惑を退けながら生きるのです。

 3~4節も、私たちの過去の生き方を述べています。「私たちは皆、こういう者たち(悪魔に従って、過ちと罪を犯している者たち)の中にいて、以前は肉(自己中心)の欲望の赴くままに生活し、肉や心(自己中心の心)の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」手厳しい御言葉ですが、この通りなのだと思います。神様は罪人(つみびと)である私たちを憐れんで愛しておられますが、罪そのものを明確に憎んでおられます。私たちも毎日少しずつ罪を犯して生きて来たので、「ほかの人々と同ように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」そのままでは、私たちは滅びるほかなかったのです。

 ところが続く4節の最初に「しかし」とあります。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生は、聖書の中のこのようなしかしを「大いなるしかし」と呼ばれたと聴きました。この「しかし」が、ここまでのマイナスの流れをひっくり返すのですから、「希望のしかし」です。4~6節「しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、―あなた方の救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。」憐れみ豊かな神は、私たち罪によって死んでいた者たちを、この上なく愛して下さり、その愛によって独り子イエス・キリストを地上に誕生させ、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負わせて、十字架の死に追いやりました。ここに真の愛があります。神に敵対していた私たちを敢えて愛した愛ですから、敵を愛する愛です。こうしてイエス様の十字架の犠牲の愛のお陰で、私たちは復活されたイエス様と共に、復活の命に生きる者とされたのです。罪を悔い改めて洗礼を受けることで、私たち罪人(つみびと)は、キリストと共に新しい復活の命に生き始めることができます。5節を文語訳聖書は、「咎によりて死にたる我等をすら、キリスト・イエスに由りてキリストと共に活し」と訳しています。「咎によりて死にたる我等をすら」となっています。「こんなに罪深い私たちをすら。」パウロの感動が伝わります。私たちは自分の罪はそれほどひどくはないと考えているかもしれませんが、神の子イエス様が身代わりに十字架で死んで下さることなしには、自分の罪は決して赦されなかったとの現実を、深く考えてみる必要があるのです。

 5節に、「あなた方の救われたのは恵みによるのです」とも書かれています。自力によって救われたのでは、全くないということです。100%神の恵み、イエス様の十字架の死と復活の恵みによってのみ救われ、永遠の命を受けました。自力は0%です。どんな立派な人でも、100%神様の恵みによってだけ救われるのであって、自力の部分は0%なのです。9節にある通り、それは「誰も誇ることがないため」なのです。6節「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。」イエス様は復活された40日目に天に昇られ、天の王座に着かれ、今もそこで生きておられ、今日もそこから聖霊を注いで下さいます。私たちも地上の人生を終えた後に、同じ天の王座に着かせていただくと約束されているのです。これは大変畏れ多く、信じがたいほど光栄なことです。

 7節「こうして、神は、キリスト・イエスにおいて私たちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現わそうとされたのです。」口語訳聖書では「それは、キリスト・イエスにあって私たちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。」「神の恵みの絶大な富」という言葉が心に刺さります。イエス様が身代わりに死んで下さった事実は、「神の恵みの絶大な富。」やはりパウロの深い感動が伝わって来ます。

 8~9節「事実、あなた方は恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」私たちは「恵みにより、信仰によって救われた(永遠の命を受けた)。神からの贈り物であり、自分の努力で獲得したものではない。」プロテスタント教会が強調する「信仰義認の真理」ですね。「恵みのみ、信仰のみ」です。私たちのどんなよい行いも、自己中心の罪に汚れているので、それによって永遠の命を獲得することはできない。ただ神から恵みとして提供された「イエス・キリストの十字架の身代わりの死」を素直に受け入れ、信じる信仰によってのみ、救われるのです。「それは誰も誇ることがないためだ」と書かれています。自分の努力で永遠の命を勝ち取ったのなら、自分を誇りたくなります。でもそれはできません。努力で永遠の命を勝ち取ることができない。私たちは自分を誇らず、私たちのために十字架につけられたイエス・キリストのみを、誇るのです。

 10節「なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです。」「私たちは神に造られたもの」とあります。口語訳「私たちは神の作品」、聖書協会共同訳でも「私たちは神の作品」。私たちは、神様が真心を込め、イエス様の十字架と復活によって新しく造って下さった貴重な一人一人です。しかも一人一人は違います。世界中見渡せば、肌の色も様々、髪の毛の色・目の色も様々、言葉も様々。でも神様が真心こめて造って下さった貴重な一人一人です。障がいがあっても、年を重ねて健康が下がっても、神の貴重な作品。

 神様はさらに清き霊である聖霊を私たちに注いで、私たちを修復し、イエス様に似た者となるように今日も、私たちを造り変えておられます。洗礼を受けた人たちは、聖霊によって徐々にイエス様に似た者へと造りかえられてゆく途上に、今あります。聖霊に満たされて、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する思いになるので、神の愛への応答として、善い業を行って歩むようになっています。善い行いを行うことによって永遠の命を獲得することはできませんが、イエス様の十字架の愛への感謝の応答としては、聖霊に助けられて、喜んで善い業、愛の業を行って生きるのです。神の作品が善い業を行わないことはありません。アーメン。

2023-10-08 0:17:01()
「あなた方は神の家族、神の住まい」2023年10月8日(日)神学校日・伝道献身者奨励日礼拝
順序:招詞 マルコ福音書16:15~16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編110、使徒信条、讃美歌21・17、聖書 イザヤ書56章6~8節(旧約p.)、エフェソの信徒への手紙2:17~22(新約p.354)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌402、献金、頌栄92、祝祷。 

(イザヤ書56:6~8) また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るならわたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。

(エフェソの信徒への手紙2:17~22) キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

(説教) 本日は、神学校日・伝道献身者奨励日の礼拝です。説教題は「あなた方は神の家族、神の住まい」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙2章17~22節です。小見出しは先週に引き続いて「キリストにおいて一つとなる」です。
 
 エフェソの信徒への手紙の先週からの続きです。先週も読んだ17節から読んでいただきました。「キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方にも、また、近くにいる人々にも、福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊(聖霊)に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」旧約聖書以来の神の民ユダヤ人(イスラエル人)も、イエス様と十字架と復活後に神の民に加えられた異邦人(ユダヤ人以外の外国人、私たち日本人をも含む)も、イエス・キリストによって一つの霊である聖霊に満たされて、御父(父なる神様)に近づくことができるようになりました。

 19節「従って、あなた方はもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」「あなた方」は、エフェソの教会の人々です。同じく異邦人である私たちのことと言ってもよいでしょう。「あなた方はもはや外国人もなく寄留者でもない」ということは、神の民から除外された者ではないということです。今や、「聖なる民に属する者、神の家族」だと言っています。実に喜ばしく、嬉しいことです。

 「聖なる民」は、まず旧約聖書でイスラエルの民に与えられた恵みです。申命記7章6節以下に、こう書かれています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」私たち異邦人も、同じ神様の愛によって神の聖なる民に加えられました。感謝です。

 「あなた方はもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」使徒はイエス様の11人の使徒でしょう。新約聖書の時代を代表します。預言者は旧約聖書の人々ですから、旧約聖書を代表します。神の家族は新約聖書と旧約聖書の土台に上に建てられています。20節の後半から。「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合されて成長し、主における聖なる神殿となります。」この「かなめ石」を「隅の親石」と訳している聖書もあります。口語訳聖書は「隅のかしら石」と訳しています。もちろんイエス・キリストを指しますが、「隅の親石(かしら石)」と聞くと、私たちはたとえば、マタイ福音書21章42節のイエス様の御言葉を思い出します。「イエスは言われた。『聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私たちの目には不思議に見える。」』」イエス様は詩編118編を引用して、こうおっしゃいました。これは、イエス様の十字架の贖いと犠牲の死を予告する御言葉です。聖なる民、神の家族のかなめ石はイエス・キリスト、しかも十字架に架けられたイエス様だというのです。ある牧師がおっしゃったのですが、「私たちが『こんなものは要らない』と言って捨てたイエス・キリストを、父なる神様は教会の土台石としてお立てになった。このことを知って、私たちは恐れを覚えるのでなければいけない。」全くその通りです。私たちは、十字架で死んで下さった神の子イエス・キリストを、最大限敬う者です。しかしクリスチャンでない方はそうでないと思いますし、私たちもクリスチャンになる前は、十字架につけられたイエス様を、最大限尊重していなかったかもしれません。そこで私は改めて襟を正して、先の言葉を思い出します。「私たちが『こんなものは要らない』と言って捨てたイエス・キリストを、父なる神様は教会の土台岩としてお立てになった。このことを知って、私たちは恐れを覚えるのでなければ、いけない。」アーメン(その通り)です。教会の「隅の親石」は、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目に復活なさったイエス・キリストです。

 本日の箇所は、日本キリスト教団の式文では教会の定礎式で読まれる御言葉になっています。この新しい会堂の献堂式を行ったのは今から12年前の2011年10月ですが、当日は東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生が午前の礼拝説教を行って下さいましたが、聖書はペトロの手紙(一)2章1節以下でした(新約429ページ下段)。本日の箇所と合わせて読むと、互いに補い合ってよく分かると感じます。4節より。「この主(イエス様)のもとに来なさい。主、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家(神の家、神の住まい)に造り上げられるようにしなさい。~聖書(旧約聖書)にこう書いてあるからです。『見よ、私(神様)は、選ばれた尊いかなめ石(イエス・キリスト)をシオン(エルサレム)に置く。これを信じる者は、決して失望することはない。』従って、この石は信じているあなた方にはかけがえのないものですが、信じない者たちにとっては、『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』のであり、また、『つまづきの石、妨げの岩』なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。しかし、あなた方は、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」そう、私たちは「神のものとなった民」なのです。神に属する民に加えられているので、その意味では何の心配も要りません。

 「それは、あなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなた方が広く伝えるためなのです。あなた方は、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」私たちは洗礼を受けていても、まだ心の中に罪が残っていますが、それでもイエス様の十字架の身代わりの死と復活のお陰で、今既に『驚くべき光の中に』入っています。イエス様を信じて洗礼を受ける前は神の民でなかったのですが、洗礼を受けた今は神のもの、神の民に間違いなく入っており、神の憐れみに確実に入っており、救われています。

 21節「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」ここを文語訳で読むと、「おのおのの建造物(たてもの)、かれに在りて建て合せられ、彌増(いやまし)に聖なる宮、主のうちに成るなり」となっています。原文のギリシア語を見ると、「アウクサノー」という言葉があり、この「アウクサノー」が「彌増に~成る」と訳されているようです。これが新共同訳では「成長し」の一言にまとめて訳されているようです。調べると、彌増とは「いよいよますます多くなる」の意味とのことです。「アウクサノー」という言葉は、調べてみると新約聖書に時々出て来る言葉です。たとえばマタイ福音書13章32節で、イエス様が天の国のたとえを語る箇所に使われています。からし種は「どんな種よりも小さいのに、成長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」この「成長する」が「アウクサノーです。ここではからし種という自然界の植物の成長に「アウクサノー」という言葉が用いられ、それは天の国(神の国)が地上で成長してゆくことのたとえで用いられています。教会は地上での神の国ですから、本日のエフェソの信徒への手紙2章21節では、教会の成長を表すために「アウクサノー」が用いられていると、分かりました。「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」

 この「アウクサノー」にもう少しだけこだわってみると、コリントの信徒への手紙(一)3章6節にも出て来ます(新約302ページ上段)。これはイエス様の使徒パウロが、伝道について、教会の成長について記している箇所です。「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です。」この「成長」は「アウクサノー」です。ですから、パウロやアポロといった伝道者やクリスチャンが伝道のために実際の労働を行うと共に、そこに神様の愛の力が働いてクリスチャンが増え、教会が成長すると言っていることになります。これは今の日本でも同じです。

 「この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなた方も共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」「聖なる神殿、神の住まい。」こことよく似たことが書かれているのは、先ほどのコリントの信徒への手紙(一)3章の9節以下です。「私たち(パウロたち伝道者やクリスチャンたち)は神のために力を合わせて働く者であり、あなた方(教会)は神の畑、神の建物なのです。私は、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることはできません(これは鉄則ですね)。この土台の上に、誰かが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日(最後の審判の日)にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。誰かがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報い(よい報い)を受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなた方は、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちのうちに住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその神殿なのです。」

 私たち教会という共同体は、神の聖なる霊である聖霊が住んでおられる聖なる神殿です。神様がここに住んでおられます。それは祝福であり、同時に畏れ多いことです。私たちは、東久留米教会という神の神殿を建てているのですが、それがどのような教会なのか、最後の審判の日に、神様が火によって吟味なさるというのです。私たちイエス様を信じる者たちが救われることは間違いないのですが、私たちの罪は焼き尽くされるでしょう。これは少々辛いですが、罪を焼き尽くされて、完全に罪なき清き人になって天国に入ります。

 エフェソに戻ります。本日の箇所は「教会とは何か」がテーマだと言えます。教会の土台のかなめ石は、言うまでもなくイエス・キリストのみです。イエス・キリストを土台として、どのように教会を建て上げるか。それが私たちの課題です。宗教改革者は、次のように私たちに教えます。「聖書に基づいて正しく説教が語られ聖礼典がキリストの制定に従って正しく執行される所」に教会は存在する。そうです。どこであっても、「聖書に基づいて正しく説教が語られ、聖礼典がキリストの制定に従って正しく執行されり所」に、教会はどこでも存在する。まさにその通りです。またある人は、教会の土台はイエス・キリストであり、そして信仰告白だと主張します。それも正しいでしょう。私たちで言えば、日本基督教団信仰告白が非常に重要です。カトリックであれば、私たちプロテスタント以上に聖礼典の重要さを強調するでしょう。ミサは聖餐式そのものなのですから。毎週日曜日のミサで聖餐式が行われます。聖餐式によって生ける聖なるキリストに触れるのですね。

 そして教会の土台は聖書(特にイエス様の御言葉)という主張も成り立ちます。イエス様がマタイ福音書5章24節以下でこう語っておられます。山上の説教の最後の部分です。「そこで、私のこれらの言葉(山上の説教の言葉)を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」イエス・キリストと聖書の御言葉を土台岩として、東久留米教会を建て上げさせていただきたいと祈ります。アーメン。 

2023-10-01 1:01:48()
説教「キリストは私たちの平和」2023年10月1日(日)世界聖餐日・世界宣教日
順序:招詞 マルコ福音書16:15~16,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編109、使徒信条、讃美歌21・361、聖書 ヨナ書4章10~11節(旧約p.1448)、エフェソの信徒への手紙2:11~18(新約p.354)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌464、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ヨナ書4:10~11) すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

(エフェソの信徒への手紙2:11~18) だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

(説教) 本日は、世界聖餐日・世界宣教の日の礼拝です。説教題は「キリストは私たちの平和」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙2章11~18節です。小見出しは「キリストにおいて一つとなる」です。

 8月13日(日)の礼拝で、この前の2章1~10節を読みました。その終わりの方で、プロテスタント教会が大切にしてきた福音の真理が語られました。8節です。「事実、あなた方は恵みにより、信仰によって救われました(信仰義認)。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」私はここを読んで、改めて驚きを覚えます。宗教改革マルティン・ルターが唱えた信仰義認(善い行いによってではなく、信仰によってのみ、私たち罪人(つみびと)が義と認められる)の真理が、ここにはっきりと記されているからです。信仰義認の真理は、ローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙に明確に書かれていると思ってきましたが、エフェソの信徒への手紙にはっきり書かれていると、あまり意識していなかったからです。ところがここに明瞭に記されているので、改めて驚いた次第です。そして10節で、私たちがどのような存在であるかが、記されています。「なぜなら、私たちは神に造られたもの(神の作品)であり、しかも、神が前もって準備された善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです。私たちは皆、神様の尊い作品であり、聖霊に助けられて、神様に喜んでいただける善い業を行いながら、歩みます。

 そして本日の個所に入ります。11節「だから、心に留めておきなさい。あなた方は以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。」エフェソの場所は、小アジアの地中海沿岸です。今のトルコです。エフェソは当時のローマ帝国の大都会で、イエス様の使徒パウロがエフェソで全力で伝道した様子が、使徒言行録19章に詳しく記されています。エフェソの人々は、旧約聖書以来の神の民イスラエル人・ユダヤ人ではありません。異邦人、外国人です。そして私たち日本人も同じ異邦人ですから、立場は同じです。「いわゆる手による割礼(神の民イスラエル人の男性のシンボル)を身に受けている人々からは、割礼のない者」つまり、「神の民でない者」と呼ばれていました。

 12節「また、その頃は、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず(神の民に属さず)約束を含む契約(真の神様との契約)と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」私たちはイエス・キリストを信じる前は、真の神様とのつながりがなく、真の希望を持たず、真の神様を知らない状態で生きていたと言っています。残念ながらその通りです。真の神様を知らないことは、天国の希望をもっていないことです。そのような実に辛い状態にあったのです。」

 13節の冒頭に「しかし」とあります。8月13日(日)の礼拝の時も申し上げたと思いますが、この「しかし」こそ、「大いなるしかし」です。大きな転換が起こったことを示す「しかし」です。「しかしあなた方は、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」「以前は神から遠く離れていて希望をもっていなかったが、今は神に近い者になり、永遠の命の希望を持つ身になった」ということです。全ては、私たちの罪のために十字架で血を流して死んで下さったイエス・キリストのお陰なのです。

 キリスト教のある教派では、イエス様のこの最も尊い十字架の血のことを「宝血(ほうけつ)」と呼んでいます。宝の血です。私たちにはあまり聞き慣れない言葉かと思いますが、「宝血」という言葉を使う教会もあります。イエス様の十字架の血を最高の尊重するためにできた言葉だと思います。後で行う聖餐式において、私たちは本日、このイエス様の尊い血をいただきます。聖書では血は命を表します。もちろん私たちが飲むのは血そのものではなく、イエス様の血を表すぶどう液です。それでも血を飲むというと、気持ち悪いと思う方もあるかもしれません。その場合は、ぜひ新約聖書を読んでいただいて、このイエス様の十字架の血がどれほど大切か、分かっていただきたいと願います。エフェソの信徒への手紙の次の次の書であるコロサイの信徒への手紙は、1章19~20節で、このように記します。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを、余すとことなく御子(イエス様)の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解させられました。」十字架の血によって、平和を和解が実現したと言っています。

 エフェソに戻り、14節「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉(肉体)において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」「二つのものを一つにし」とは、イスラエル人(ユダヤ人)と異邦人を一つにしたということですね。敵意という隔ての壁を取り壊した。それは2つの隔ての壁ではないかと思います。1つは、父なる神様と私たち罪人(つみびと)の間の隔ての壁。もう1つは、イスラエル人(ユダヤ人)と私たち異邦人の間の隔ての壁。この2つの壁が取り壊された。十字架によってです。イエス様の十字架のお陰で、父なる神様と私たち罪人(つみびと)の間に和解と平和が実現し、イスラエル人(ユダヤ人)と私たち異邦人の間に和解と平和が実現しました。壁が取り壊されたと聞くと、私は思い出します、1989年11月9日のドイツのベルリンの壁の崩壊を。ベルリンの壁が崩れるとは想像もできませんでした。まさかこんなことが現実になろうとは、信じられない気持ちでしたね。あの壁は永久にあるものだという感覚でしたから。しかし今は、残念なことにアジアでも新しい壁ができつつあるように見えるので、心配です。アジアが2つの陣営に完全に分かれて戦争にならないように、日本も注意深く行動することが必要です。アメリア・日本・韓国・台湾対、中国・北朝鮮・ロシアの2つの陣営に分裂して、間違っても戦争にならないように、対立を和らげて平和を実現するように祈り、努力する必要があります。それはともかく、ベルリンの壁が崩壊して西ドイツと東ドイツが1つになりました。それと同じようなことが起こった、もしかするともっと大きなことが起こった。イエス・キリストの十字架の贖いの力により、それまで完全に分かれていたイスラエル人(ユダヤ人)と異邦人が一つの神の民として合流したのです。

 そして「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」旧約聖書の時代が終わり、新約聖書の時代に入ったということです。15節の途中から。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」ここに「十字架、十字架」と繰り返されています。「十字架の力」を感じます。イエス様の十字架には偉大な力がある。それは愛の力、赦しと平和と和解をもたらす力です。私たちは暴力が力だと思いかねません。そうではなくイエス様の十字架こそが偉大な愛の力、罪を完全に赦す救いの力です。内村鑑三は「キリスト教は十字架教だ」と言ったそうです。十字架の偉大な赦しの力をよく知っていたからでしょう。よく言われるように十字架のタテの木は「神様と私たち人間の愛」を表し、十字架のヨコの木は「私たち人間同士の愛」あるいは「敵対している私たち人間同士の愛」を表しています。

 「キリストがイスラエル人と異邦人を一人の新しい人に造り上げた」と書かれています。「新しい人」と聞くと、コリントの信徒への手紙(二)5章17節以下を思い出さずにはおれません。「だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものが過ぎ去り、新しいものが生じた。神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」

 エフェソに戻り17節「キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方にも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」キリストは、私たちを罪から救うために天から下って来られました。クリスマスの出来事です。「遠く離れているあなた方」とは、異邦人である私たちです。「近くにいる人々」とは、イスラエル人(ユダヤ人)です。18節「それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊(聖霊)に満たされて、御父に近づくことができるのです。」罪があると、聖なる父なる神様に近づくことができません。しかしイエス様が私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、三日目に復活されたお陰で、私たちの罪が赦され、私たちキリストを信じる者は、聖なる父なる神様に近づくことができるようになりました。

 「遠く離れているあなた方」とは異邦人のことだと申しました。確かにそうなのですが、旧約聖書でも神様が異邦人を完全に無視しているわけではなく、将来の救いに含みを持たせておられることも事実です。たとえば旧約聖書に登場するルツという女性は、モアブ人(異邦人)ですがイスラエル人と結婚し、夫の死後、その母親に忠実に尽くしたことが、旧約聖書で非常に称賛されています。そして本日の旧約聖書であるヨナ書4章10~11節です。神様は、異邦人の都二ネベの人々の罪が非常に重いので、40日後に二ネベを滅ぼすおつもりでした。ところがヨナが警告のメッセージを語ったところ、驚くべきことに二ネベの人々が皆、罪を心から悔い改めたのです。神様は二ネベを滅ぼすことを中止されました。「なぜ二ネベを滅ぼさないのですか」と怒るヨナを神様が諭されたのが4章10~11節です。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都二ネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」実は異邦人をも救いたい神様の本心が出ていると思うのです。神様は、家畜の命まで大切に考えて下さっています。

 私と妻が洗礼を受けた茨城県の教会に当時、青野さんという方がおられて、韓国に留学して帰って来られた方でした。韓国の近代史を勉強しておられて、日本と韓国の橋渡しをしたいという願いを持っておられたようです。その方が青年会で信仰の証しを語られたときに、本日のエフェソの信徒への手紙2章を引用されました。日本と韓国がキリストによって和解することを願って引用されたと思います。確かに「二つのもの」を日本と韓国になぞらえて読むことも意義深いと思います。14節から。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなた方も、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」

 先月9月1日は、関東大震災からちょうど100年でした。その時起こった朝鮮人虐殺の現場の1つ、墨田区の荒川土手を一昨年見学に行きましたが、小さな慰霊碑が建てられています。「悼」の一文字が刻まれています。解説板にはこう書かれていました。「犠牲者を追悼し、両民族(日本人と朝鮮半島の人々)の和解を願ってこの碑を建立する。」殺された人からすればそう簡単に許せないでしょうが、それでも「両民族の和解を願ってこの碑を建立する」という言葉は、よいと思いました。

 今から7~8年前の修養会で、東京神学大学の棚村先生をお迎えした時に、棚村先生がこんな話をされました。棚村先生が留学なさったアメリカで、教会の長老の方と親しくお話していた時に、太平洋戦争の話になり、その長老さんと棚村先生のお父様が、同じ島にいたと分かりました。もちろんお互いを知っていたわけではありません。しかし同じ島で米軍・日本軍に分かれて敵対していたのです。それが分かって一瞬冷たい空気が流れたけれども、その長老さんが、「当時は日本とアメリカは敵同士だったが、今は私とあなたはキリストにあって友人だ」という意味のことを言われたと、棚村先生がお語りになりました。

 本日は世界宣教の日・世界聖餐日礼拝です。東久留米教会を出発して日本やアメリカで伝道のために奉仕しておられる方々とそのご家族に、主イエス・キリストの多くの恵みをお祈り申し上げます。ウクライナでの戦争はなかなか終わらず、私たちの住む日本の周辺にも国同士の対立があります。その中で、忍耐強く平和を維持する必要があります。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」私たちがイエス・キリストの十字架による和解の福音を宣べ伝え、アジアも世界も分裂を乗り越えて和解と平和に向かうよう、共に祈りましょう。アーメン。

2023-09-24 1:16:04()
説教「神の国を受け継ぎなさい」2023年9月24日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第63回) 
順序:招詞 ヨハネ福音12:36a,頌栄29、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・514、聖書 マタイ福音書25:31~46(新約p.50)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌493、献金、頌栄92、祝祷。 

(マタイ福音書25:31~46) 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第63回)です。説教題は「神の国を受け継ぎなさい」です。新約聖書は、マタイ福音書25章31~46節です。小見出しは「すべての民族を裁く」です。

 これはイエス・キリストによる「最後の審判」の場面です。ヴァチカン市国のシスティーナ礼拝堂に、巨匠ミケランジェロが描いたこの場面の有名な絵画がありますね。私は写真で見ただけですが。最初の31節。「人の子(イエス・キリストご自身)は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」右側が天国なのです。34節「そこで、王(世界の真の王イエス・キリスト)は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父(父なる神様)に祝された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』」最新の翻訳である聖書協会共同訳では、「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の前からあなた方のために用意されている国を受け継ぎなさい」、つまり「お前たち」ではなく「あなた方」になっています。イエス様が「お前たち」とおっしゃるとはやや考えにくいので、「あなた方」の方がよいと思います。

 新共同訳で35~36節「お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」聖書協会共同訳は少し違うのです。「あなた方は、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」お気づきにように「旅をしていたときに宿を貸し」が、「よそ者であったときに宿を貸し」となっています。元のギリシア語の名詞は、「外国の、よその、無縁の」の意味だそうです。新共同訳が間違っているわけではないと思います。「旅をしていたときに宿を貸し。」旅をすれば見知らぬ土地に行くことも多いはずで、行った見知らぬ土地では私たちは「よそ者」になります。イエス様は「旅をしているよそ者に宿を貸してくれてありがとう」と言っておられることになります。

 私たちは、相手がイエス様のお姿で目の前におられて、飢えたり、喉が渇いておられたり、病気で苦しんでおられれば、すぐに手をお貸しするに違いありません。でも相手が、全く知らない人だったり、汚れた格好をしていたり、路上生活者のように見えれば、通り過ぎてしまうこともあるかもしれません。」確かにイエス様であればすぐヘルプするけれども、全くイエス様には見えない相手であれば、気にしないで通り過ぎてしまうこともあると思います。実際、池袋の駅の構内にも座っておられる方々がおられますが、多くの人々は気にしないで通り過ぎてゆきます。気になっても、自分がそうすればよいか分からない人も多いと思います。池袋には、これはクリスチャングループではありませんが、「手のはし」というNPO法人があって、路上生活者のための炊き出し等を行っています。クリスチャングループでないとは言っても、これはやはり必要で重要な働きだなと、思わせられます。

 37節。「すると、正しい人たちが王に答えまる。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』」「いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し」は、聖書協会共同訳では、「いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し」となっています。旅で来た人は、受け入れた側から見れば、見知らぬ人のことが多いので、新共同訳と聖書協会共同訳が矛盾するわけではありません。

 それはともかく、親切にした側が、「覚えていない」というのです。私たちはしばしば、自分が行ったいわゆる善い業いついてはよく覚えていて、逆に受けた恩義は忘れやすいのではないでしょうか。でも「いつ親切にしたでしょうか」と言うこの人々は、イエス様に次第に人格が似て来ているので、自分が行った善い業を誇る気持ちがなく、相手に恩を着せることなく、執着がないのですね。イエス様は、このマタイ福音書6章3~4節で、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなた方の施しを人目につかせないためである」とおっしゃっています。またイエス様は弟子たちに、奉仕の姿勢について、ルカ福音書17章10節で、こう教えられました。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」気づかないでイエス様に親切にした人たちは、今のイエス様の御言葉を自然に実行できる、心がイエス様に似た人たちだったと、思うのです。

 そう聞かれて、世界の真の王イエス様がお答えになります。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれらことなのである。」イエス様は、このマタイ福音書10章42節でも、似たことをおっしゃっています。「私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてれる人は、必ずその報いを受ける。」イエス様は、子どもたちや、社会で居場所のない人を愛して下さいました。社会で強い基盤を持っていない人たちを、特に愛して下さいました。イエス様が愛するこのような人々に、ささやかな親切を行う人は、イエス様に対して親切を行ったのだと同じだというのです。

 前にもお話しましたが、セブンスデーアドヴェンティストというキリスト教会があり、東久留米市内の高齢者施設シャローム東久留米を運営する教団であり、荻窪に東京衛生病院をもっておられます。東京衛生病院では「患者さんは皆、イエス様だ」との考えで、手術の時もまずお祈りして下さるそうです。「患者さんは皆イエス様」という姿勢で診療して下さるのですから、患者にとってありがたい限りですね。私たちはヘブライ人への手紙13章1~3節をも思い出しておきたいと思います。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また自分も体をもって生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」旅人をもてなすと、それは実はイエス様かもしれないし、天使かもしれないのです。創世記18章を読むと、信仰の父アブラハムがもてなした三人のうち二人は実は天使で、もう一人は何と真の神様だったのです。一見全くイエス様に見えない最も目立たない人、最も低く見られている人、イエス様がその方々に姿を変えて、私たちに日々の目の前に来ておられると、強く知る必要があります。そして以前、東久留米教会の年度の標語になったコロサイの信徒への手紙3章23節をも、改めて心に刻みたいと願うのです。「何をするにも、人に対してではなく、主(父なる神様、イエス様)に対してするように、心から行いなさい。」
 
 さて、イエス様は「牢にいたときに訪ねてくれたからだ」とおっしゃいました。世の中にはイエス様を信じただけで牢に入れられる人もおり、無実なのに冤罪で牢に入れられる人もいます。そのような人を牢に訪問した人に対してイエス様は、「牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われたのも事実だと思います。刑務所に入って受刑者に聖書の話をする牧師・神父は教誨師と呼ばれ、これは刑務所の許可を得た人が行います。日本基督教団では、教団や教区から委嘱された方々が行っています。教誨師にならないと刑務所に入って伝道することはできません。

 しかし、「麦の会」という会があることを知りました。その会に入っている方に機関誌をいただいたのです。会の目的がこう書いてあります(被拘禁者更生支援ネットワーク=麦の会『和解 麦の会通信 第18号』2012年、19~20ページ)。文通で支援するのです。「麦の会では、更生支援の一環として文通支援活動を行っています。獄中会員(受刑者)と外部ボランティアの方が文通をし、その中で獄中会員ご本人の更生に向けた努力や模索についてボランティアが話し相手になり、共に考えて応援し、寄り添うことが主な目的です。反省は一人でできても、更生は一人ではできません。麦の会では獄中者を『私に関係のない人』というイメージで社会から疎外し、排除するのではなく、獄中会員に一人の大切な人として接し、外部のボランティアと一対一のコミュニケーションをはかることによって、人間らしい健全な精神を保ち、二度と犯罪に走らないように手助けしたいと考えています。文通の趣旨は、内面的な更生支援であり、物質的支援ではありませんので、獄中会員からボランティアへの金銭及び物品の要求はできません。」 よい活動だと思います。このような地道な活動に励んでいる方々がおられるのだなあ、と感じ入ります。

 クリスチャンがボランティアになって、刑務所の中の方々と文通しても、相手が信仰に入るとは限りませんし、深い信仰に到達するには時間がかかることもあると思います。でも、これが心の支えになる方も確かにおられるようです。ある受刑者の方の詩が、機関誌に掲載されています(『和解』第19号、11ページ)。「鉄格子のはまった窓の外を眺め、思い返す。後悔の念ばかり。あの時、ああしとけば。その時に何もかも失った。両手首に冷たい金具をはめられた時に。大好きだった彼女との甘く楽しい生活も、家族も友人も知人もとにかく全て。~生きることに喜びも希望も見出せない僕が。この先、光なんてない、灯なんてない、まして明るくない、真っ暗だ、闇だ、絶望しかない。 『ムギ・ノ・カイ』? 僕の心に生きる力が芽生えた!! 一人じゃない。同じ境遇で頑張っている人たちがいる! お互い励まし合いながら。今は『和解』が、スタッフが、会員の方の言葉が心の支えだ。踏まれてもどんなに過酷な環境でも、まっすぐに生きる麦のように力強く。」

 こんな文章もあります。「麦の会よりバースデーカードと『和解』誌、『カトリック生活』(雑誌)をご送付いただき、感謝しております。近年、誕生日を祝福していただいた記憶がありませんが、やはり自分が存在していることを誰かに確認してもらい、喜んでもらえるのは嬉しいものだなと実感しました」(『和解』19号、47ページ)。 「親愛なる麦の会の皆様、心あふれるバースデイカード、ありがとうございます。こんな私にもおめでとうと言ってくれる人たちがいるのだと、やはり泣けてしまいました。主はやはりお見捨てにならなかったということでしょうか。何度も見返していると、自分の馬鹿さかげんが、ほとほと嫌になってしまいます。が、神様が私にお与えになったのはやり直すチャンスかと思いました。」

 今年の8月に、西東京教区の社会部の主催した平和集会が対面とオンラインで行われましたが、私はオンラインで参加しました。8月13日(日)の礼拝でもお話致しましたが、日本に避難しているウクライナの人々をサポートする働きをしておられるYMCAの女性クリスチャンの情熱的な報告でした。今日本には約2100人のウクライナ人が避難して来ているそうです。三鷹市や杉並区にもおられるそうです。日本にいる家族や知人を頼って来る人が多い。支援には段階があり、①緊急支援、②生活スタート支援、③生活個別支援、④中長期定住支援。日本で長期に暮らすとなると、日本語の勉強、学校や職場を得る、持病の治療を受ける等が必要になります。3年以内の経済自立を目指すそうですが、かなり大変です。日本社会の愛が問われます。子どもたちは、日本の学校に行くと共に、世界各国に避難しているクラスメートや先生と、オンラインで授業を受けているそうです。初めての外国に来て生活するということは、誰にとっても大変なことです。それを応援する働きは大切ですし、私たち日本人がその人々の隣人になれるかどうかが、私たちの課題だと感じます。
 
 「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」人様に対して「あなたは最も小さい者、小さい人」というのは失礼で、私たちは皆、だんだん弱ってゆくのですかから、私たちは皆「最も小さい者、小さい人」です。私は先週、用事があって東久留米市の滝山にある社会福祉協議会に行きました。そこで話を伺うと、東久留米市でも色々な福祉の働きを行っておられることが分かりました。クリスチャンがかかわっている働きもあり、そうでない働きもあると思います。たとえば「東久留米ひきこもり家族会」、あるいは今の福祉制度では解決できない困りごとの相談を受ける地域福祉コーディネーターの存在もあります。色々な「生きづらさ」を持つ一人一人を支えようということです、「生きづらさ」とは、最近の言葉ですね。生きてゆくことに困難を覚えることでしょう。色々な生きづらさがあります。それに対してきめ細かく対応して、一人一人ができるだけ生きやすくなる世の中にするのがよいのですね。

 昨日と今日と明日、市役所で「いのち輝け 第41回作品展」が行われており、私は昨日行って参りました。この催しも実施主体は市の社会福祉協議会、運営は東久留米市手をつなぐ親の会です。改めて拝見すると、この東久留米市にも、障がいをお持ちの方々を応援する多くの福祉団体があるのですね。この教会のすぐご近所の堀野さんも受付におられました。堀野さんのお父様は牧師でいらしたと聞いています。私も伺っていいるしおん保育園の障がいをお持ちの方々の作品も展示されていて、嬉しく拝見しました。今日のイエス様の御言葉を思うと、あの黄金律に行き着くと感じます。マタイ福音書7章12節のイエス様の御言葉、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。これこそ律法と預言者(旧約聖書全体)である。」

 前にもご紹介しましたが、高田三郎というクリスチャンの音楽家が、本日の御言葉から「小さな人々」という歌を作っています。他の方を「小さな人々」と言うと失礼ですが、自分たちも「いと小さき人」であることを思いながら、歌いたい歌です。「小さな人々の、一人一人を見守ろう、一人一人の中にキリストはいる。貧しい人が飢えている。貧しい人が渇いている。国を出た人に家がなく、寒い冬に着物がない。病気の人が苦しみ、牢獄の人はさげすまれ、みなしごたちは寂しく、捨てられた人に友がない。小さな人々の、一人一人を見守ろう、一人一人の中にキリストはいる。」 アーメン。



2023-09-17 1:01:13()
「互いに愛し合いなさい」2023年9月17日(日)聖霊降臨節第17主日公同礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書12:36a,頌栄29、主の祈り,交読詩編108、使徒信条、讃美歌21・152、聖書 レビ記19:18(旧約p.192)、ヨハネ福音書13:21~30(新約p.195)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌403、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(レビ記19:18) 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

(ヨハネ福音書13:21~30) イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
 
(説教) 本日は、聖霊降臨節第17主日公同礼拝です。説教題は「互いに愛し合いなさい」です。新約聖書は、ヨハネ福音書13章21~30節です。小見出しは「裏切りの予告」と「新しい掟」です。

 前回の個所で、イエス様は愛する12人の弟子たちの汚い足を洗って下さったのです。そして本日の最初の21節「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく(アーメン、アーメン、私はあなたたちに言う)。あなた方の内の一人が私を裏切ろうとしている。』」イエス様が心を騒がせたと書かれています。ご自分が真心を込めて両足を洗った一人が、ご自分を裏切ろうとしている。今まさにご自分が十字架に架かる時が、いよいよ来た。それを悟ってイエス様の心は、打ち震えたと思うのです。「弟子たちは、一体誰について言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。」ユダが怪しいと、誰も思わなかったのです。

 23節「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。」通常この弟子は、ヨハネだと言われます。このヨハネによる福音書を書いた人と言われます。「イエスの愛しておられた者」と書かれているので「愛弟子(あいでし)」とも呼ばれます。愛弟子は、イエス様のすぐ隣の席に着いていました。当時のユダヤの食卓では、皆寝そべった形で食卓の横にいたそうです。それが普通で礼儀上も問題なかったようで、この時もそのような食卓の様子だったと思われます。レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な「最後の晩餐」の絵では、皆がテーブルに着いていますが、あれはヨーロッパ風に描いているので、現実は寝そべっていたと思われます。

 24節「シモン・ペトロはこの弟子に、誰について言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸元に寄りかかったまま、『主よ、それは誰のことですか』と言うと、イエスは、『私がパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。」パンを与えるのは、一家の主人の役目でした。イエス様はここでそのようにふるまっておられます。そしてイエス様はパン切れを浸して取り、イスカリオテのユダにお与えになった。これを見れば愛弟子は、裏切るのはユダだと分かったはずですが、実際には分からなかったようです。27節「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐしなさい」と彼に言われた。』サタン(悪魔)は、私たちの心に自動的に入るわけではありません。私たちが拒否することができます。ユダがなぜイエス様を裏切ったか分かりませんが、悪魔に従わない自由もありました。しかし悪魔の誘惑に負けて、悪魔に従ってしまいました。ペトロの手紙(一)5章8節以下には、「あなた方の敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」私たちも悪魔の誘惑に遭うことはあります。その時気づいて悪魔に抵抗し、「サタンよ、退け」と言って悪魔を追放したいものです。

 イエス様が言われた「しようとしていることを、今すぐしなさい」との御言葉は、ユダを裏切りへけしかけたように聞こえますが、ユダはこう言われてどうするか、立ち止まって考える最後のチャンスを与えられたとも言えます。ここで考え直して「裏切りはしません」と言う自由もあるので、ユダはそれを選べばよかったのです。しかし悪魔に従う道を選んでしまいました。28節「座に着いていた者は誰も、なぜユダにこう言われたのか、分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、『祭りに必要な物を買いなさい』とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。」金入れを預かっていたということは、ユダは非常に信用されていて、一番裏切るはずがない人と見られていたと思います。彼が裏切るとは、11人の弟子たちは想像もできなかったのでしょう。20節「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」闇が、悪魔が支配しています。夜はそれを象徴しています。ユダの心が悪魔に支配されていることも象徴しています。

 21節の「裏切る」という言葉は、新約聖書のギリシア語で「パラディドーミ」という言葉です。これは直訳では単純に「渡す」「引き渡す」の意味です。確かにユダがイエス様を裏切って、イエス様をユダヤの権力者たちに引き渡したのです。ですが、父なる神様のもっと大きな計画が進んでいることも確かです。ローマの信徒への手紙8章32節に、同じパラディドーミという言葉が出て来ます。ここでは「渡された」と訳されています。「私たちすべてのために、その御子(イエス・キリスト)をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」ここでは、御子イエス・キリストを十字架の死に渡された方は、父なる神様だと語られています。悪魔が全てをリードしているように見えて、実はもっと次元の高い、父なる神様のご計画が進んでいます。父なる神様が、イエス・キリストを十字架の死に引き渡される。それはイエス様が、私たちの全部の罪を身代わりに背負って下さり、私たちが父なる神様との和解に入り、永遠の命を受けるためです。

 ユダの非常に大きな罪と悪をさえ用いて、父なる神様がご自分の最善の計画を進めておられます。ユダよりも悪魔よりも、父なる神様がずっと上手です。それなら、ユダはイエス様を裏切ることで結果的に、父なる神様に奉仕したのだから、よいことをしたことになるのではないか、という疑問が出るかもしれません。しかし、その考えは成り立ちません。ユダが行ったことは大きな罪であって、それが結果的にイエス様の十字架による贖いを実現させたからと言って、ユダの罪が正当化されることは全くありません。ユダの裏切りは裏切りの大罪であって、同情の余地は全くありません。

 イエス様は、ユダの裏切りと悪魔の攻撃によって十字架の死に追いやられ、同時にもっと高い次元においては、父なる神様のご意志によって十字架の死を与えられました。どちらにしても、イエス様からご覧になれば受難です。ある人に言わせると「それは、活動から受難への転換です。人々に教え、説教し、いやし、行きたい所に出かけた何年かを経て、今やイエス様は」受け身の者となりました。「鞭打たれ、茨の冠をかぶらされ、唾をかけられ、嘲られ、ほとんど裸で十字架に釘付けにされました。「引き渡された瞬間から受難が始まり、受けるだけの犠牲者となり、他人のなすがままになり、その受難を通して、イエス様の使命は成し遂げられたのです。」

 20年ほど前に、イエス様の十字架への道行きをリアルの描いた『パッション』という映画がありました。パッションは受難の意味であり、同時に情熱・熱情の意味でもあります。イエス様は私たちを罪から救おうとする情熱・熱情を持って十字架という受難を忍耐されました。
 
 31節に進みます。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。』ヨハネ福音書においては、イエス様が裏切られ、十字架の上に上ることが栄光です。これは分かりにくいことですが、十字架こそイエス様の愛の勝利の王座なのです。私たち羊が永遠の命を受けるために、イエス様は十字架に架かられます。イエス様が、このヨハネ福音書10章10節以下でおっしゃった通りです。「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」羊のために命を捨てることが、イエス様の栄光ではないかと思います。

 ユダがなぜ裏切ったか。明確な理由は分かりませんが、イエス様を愛していなかったからだと思います。これは決定的です。初めはイエス様を愛していたはずですが、いつからか愛さなくなったに違いありません。ペトロもイエス様を知らないと言って三度裏切りますが、しかしペトロはイエス様を愛していました。だから悔い改めて立ち直ることができたと思うのです。

 弟子たちを愛しているイエス様は、弟子たちに語ります。34節から。「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることを、皆が知るようになる。」イエス様に愛されている者として、互いに愛し合いなさい、と命じられました。文語訳ではこうです。「われ新しき戒めを汝らに与ふ。汝ら相愛(あひあい)すべし。わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛(あひあい)すべし。互いに相愛する事をせば、これによりて人みな汝らの我が弟子たるを知らん。」三鷹市に相愛教会という教会がありますが、ここから名前をとっているに違いありません。悪魔の誘惑に負けてユダが裏切り、イエス様の共同体がばらばらに壊されかけました。しかし悪魔に打ち勝つのは愛し合う力です。互いに愛し合うことによって、教会は悪魔に勝利します。

 イエス様は十字架の犠牲愛の死から復活された後、弟子のペトロに三度問われました。「私を愛しているか。」「愛しています」と三度答えるペトロに、イエス様は言われます。「私の羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのです。このように話してから、ペトロに、「私に従いなさい」と言われました。ペトロは、イエス様に託された羊たち(仲間のクリスチャンたち)を守りながら、ローマで逆さ十字架で殉教したと伝えられます。イエス様に従い、このような死に方で、神の栄光を現わしたのです。

 ヘンリー・ナウエンという神父が書いた『イエスの御名で』(あめんどう)というあまり長くない本があります。ナウエン神父は50才代に入り、自分の人生にはもう過去と同じだけの長さは残されていないと気づき、単純な問いに直面したと書いています。「年を重ねて、私はよりイエスに近づいただろうか?」司祭になって25年たっていましたが、依然として祈りにおいて貧しく、やや人々から孤立した生活を送り、自分をせきたてる目先の問題にすっかり心奪われていることに気づきました。神様が祈りの中で、行き先を示して下さいました。知的障がいのある人々の共同体ラルシュに行く道が与えられました。「行って、心の貧しい人々の間に住みなさい。彼らはあなたを癒してくれるだろう。」こうしてナウエンさんは、ハーバード大学というアメリカの最高大学で教えることをやめて、ラルシュという知的障がいを持つ人々の共同体に移りました。最も輝かしい場所から、言葉は思考をほとんど、あるいは全く持たない人々の所に移りました。ある意味非常に辛い、苦痛に満ちた移動でした。教会も、悪魔の誘惑に気づかずに負けることがあります。権力や野心、物事をただ効率的に行おうとし過ぎること。そうではなく、私たちの心と生き方がイエス様に近づくことこそ、目指す道です。

 1840年にベルギーで生まれたダミアンという神父がいました、伝道のためにハワイに派遣されました。ハワイのハンセン病(感染力弱い、今は効果的な医薬ある)患者は、絶海の孤島モロカイ島に送られていました。そうなった女性が叫んでいました。「神が私を見捨てた。だから私も神を見捨てる。」ダミアン神父は必死で祈りました。「神様、何とかして下さい。」そして気づきました。「私がモロカイ島に行けばよいのだ。」彼は教会の許可を得て、モロカイ島に渡ります。そこでは多くのハンセン氏病患者が世間から見捨てられ、悲惨な状態で暮らしていました。彼の努力で多くのことが改善。音楽隊も造る。患者と同じ皿から食べた。ダミアン神父自身もハンセン氏病に感染。「ハンセン氏病の人の気持ちが分かるようになった。」彼はハンセン氏病を「神からの勲章」と呼んだ。イエス様に見事に従った人。私たちは彼ほど立派に生きることができないかもしれないが、自分にできる形でイエス様に従って参りましょう。アーメン。