2024-05-08 23:35:18(水)
伝道メッセージ(5月分)石田真一郎 市内の保育園の「おたより」に掲載した文章
「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章9節)。
私は3月後半に、韓国のクリスチャンとの交流で23年ぶりに韓国に行きました。21日(木)にグループと離れて、ソウルから地下鉄とバスを乗り継いで南に向かい約2時間、華城市の提岩里(チェアムリ)教会に行きました。素朴な農村です。非常に悲しい事件の現場です。
日本は1910年に韓国を併合し、植民地としました(1945年の日本の敗戦まで)。1919年3月1日にソウルで「三・一独立運動」が始まり、たちまち朝鮮全土に広まり、キリスト教関係者も多く参加しました。日本の総督府は慌てて、鎮圧に動きます。同年4月15日に、提岩里教会のメンバーに教会堂に集まるようにと、日本の官憲から要請がありました。提岩里教会の人々も独立運動に関係したのです。23名が集まると、日本の憲兵隊が教会堂を封鎖して火を放ち銃撃し、全員亡くなり、駆けつけた家族も含め、29名が犠牲になりました。辛い話で、申し訳ありません。数日後、カナダ人の宣教師スコフィールド氏が現場を訪れ、記事にして、世界に報道したので、知れ渡りました。韓国では今も歴史の教科書に出ているそうです。提岩里教会は当時も今も、小さな教会です。
1960年代以降、日本のクリスチャンや牧師も多く現場を訪れて謝罪し、会堂再建の献金等も行いました。私の妻も1993年頃、当時所属していた筑波学園教会の韓国ツアーで訪れました(私はその時行かなかったので、今回は訪問する念願を果たすことができました)。当時は、事件で23才で夫を失った語り部・田さんが存命で、話を聞けました。田さんは事件後70年以上、毎日、事件の起こった午後2時に教会に来て祈り続けました。私は現場で、亡くなった方々への謝罪の気持ちを込めて、神様に祈り、案内して下さった韓国人のクリスチャンの男性と共に、今後、韓国と日本が平和でよい関係を作ることができるように、祈りました。
日本の教会は、この事件に深く心を痛めて来ましたが、最近は忘れられかけていると、私は心配です。
教会が改修工事中で確認できませんでしたが、会堂に十字架上のイエス様の祈りが刻まれているそうです。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)。これはイエス様が、ご自分を十字架につける人々をゆるす祈り、敵を愛する祈りです。これが提岩里教会の方々の、事件後から今日までの祈りなのでしょう。日本はアジアの一員なので、アジアと仲良くすることが大切です。特に韓国はすぐ隣りです(福岡・広島間より福岡・釜山間が短距離)。私たちが朝鮮半島との平和、中国との平和、世界平和を造ることができるように、共に努力しましょう。アーメン(「真実に」)。
私は3月後半に、韓国のクリスチャンとの交流で23年ぶりに韓国に行きました。21日(木)にグループと離れて、ソウルから地下鉄とバスを乗り継いで南に向かい約2時間、華城市の提岩里(チェアムリ)教会に行きました。素朴な農村です。非常に悲しい事件の現場です。
日本は1910年に韓国を併合し、植民地としました(1945年の日本の敗戦まで)。1919年3月1日にソウルで「三・一独立運動」が始まり、たちまち朝鮮全土に広まり、キリスト教関係者も多く参加しました。日本の総督府は慌てて、鎮圧に動きます。同年4月15日に、提岩里教会のメンバーに教会堂に集まるようにと、日本の官憲から要請がありました。提岩里教会の人々も独立運動に関係したのです。23名が集まると、日本の憲兵隊が教会堂を封鎖して火を放ち銃撃し、全員亡くなり、駆けつけた家族も含め、29名が犠牲になりました。辛い話で、申し訳ありません。数日後、カナダ人の宣教師スコフィールド氏が現場を訪れ、記事にして、世界に報道したので、知れ渡りました。韓国では今も歴史の教科書に出ているそうです。提岩里教会は当時も今も、小さな教会です。
1960年代以降、日本のクリスチャンや牧師も多く現場を訪れて謝罪し、会堂再建の献金等も行いました。私の妻も1993年頃、当時所属していた筑波学園教会の韓国ツアーで訪れました(私はその時行かなかったので、今回は訪問する念願を果たすことができました)。当時は、事件で23才で夫を失った語り部・田さんが存命で、話を聞けました。田さんは事件後70年以上、毎日、事件の起こった午後2時に教会に来て祈り続けました。私は現場で、亡くなった方々への謝罪の気持ちを込めて、神様に祈り、案内して下さった韓国人のクリスチャンの男性と共に、今後、韓国と日本が平和でよい関係を作ることができるように、祈りました。
日本の教会は、この事件に深く心を痛めて来ましたが、最近は忘れられかけていると、私は心配です。
教会が改修工事中で確認できませんでしたが、会堂に十字架上のイエス様の祈りが刻まれているそうです。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)。これはイエス様が、ご自分を十字架につける人々をゆるす祈り、敵を愛する祈りです。これが提岩里教会の方々の、事件後から今日までの祈りなのでしょう。日本はアジアの一員なので、アジアと仲良くすることが大切です。特に韓国はすぐ隣りです(福岡・広島間より福岡・釜山間が短距離)。私たちが朝鮮半島との平和、中国との平和、世界平和を造ることができるように、共に努力しましょう。アーメン(「真実に」)。
2024-05-04 22:07:52(土)
説教「聖霊が結ぶ実」 2024年5月5日(日)礼拝説教
順序:招詞 ヨハネ福音書16:33,頌栄29、主の祈り,交読詩編122、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・287、聖書 イザヤ書61:1~3(旧約p.1162)、ガラテヤの信徒への手紙5:16~26(新約p.349)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌475、献金、頌栄83(1節)、祝祷。
(イザヤ書61:1~3) 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰めシオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
(ガラテヤの信徒への手紙5:16~26) わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
(説教) 本日は、復活節第6主日公同礼拝です。説教題は「聖霊の結ぶ実」です。新約聖書は、ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節です。22~23節は、東久留米教会の今年度の標語聖句です。それで本日は、この個所を礼拝で読むことに致しました。本日の個所の小見出しは、「霊の実と肉の業」です。
本日の御言葉が語ることは、イエス・キリストの十字架と復活によって救われた私たちは、どのように生きるのか、ということです。最初の16節「私(著者パウロ)が言いたいのは、こういうことです。霊(聖霊)の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲を満足させるようなことはありません。」「肉の欲、肉」とは、人間の罪、人間の自己中心のことです。パウロは、私たちが聖霊に導かれて生きるなら、決して自己中心の生き方になることはない、と言っており、全くその通りです。17節「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなた方は、自分のしたいと思うことができないのです。」人間の肉(自己中心)と霊(聖霊、神様の思い)は、完全に相反します。水と油です。
パウロも、イエス様を救い主と信じる前は、自分の心の中のこの対立に気づいていたと思われます。ですからローマの信徒への手紙7章で言っています。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。~私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」と語っています。心の中で「肉と霊」が対立していた惨めなパウロ。そんなパウロを、罪と死から救って下さった方が、イエス・キリストでした。私たちの全部の罪も、イエス様が十字架で全部背負って、解決して下さいました。今私たちは、復活されたイエス様から聖霊を既に受けています。そこで、本日のガラテヤ書5章18節の通りになっています。「しかし、霊に導かれているなら、あなた方は、律法の下にはいません。」私たちは、イエス様の十字架の犠牲の死と復活のお陰で、律法と罪と死の支配から脱出し、イエス様の霊である聖霊を注がれ、今やイエス・キリストの所有になっているのです。ですから安心です。そして聖書の御言葉と聖霊に導かれ、イエス様に喜んで従って生きるのです。
もう一度18節「しかし、霊に導かれているなら、あなた方が律法の下にはいません。」そう、私たちはもはや律法の下にはいないのです。律法の下を脱出し、イエス・キリストの愛の支配のもとにおり、聖霊に導かれています。それはイエス様に導かれていることです。パウロは19節で、聖霊の実の正反対の「肉の業」とは何かを列挙します。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」これは罪のリストです。このようなことを行わないようにとの警告です。私たちも気を緩めすぎると、このような罪に陥る可能性もあるので、十分気をつけて参りたいと願います。「怒り」も罪に挙げられています。人間の怒りには、自己中心等の罪もこびりついているので、100%清い怒りとは言えません。あるいは自分勝手な怒りもあります。それでここに「怒り」も罪として挙げられているのでしょう。これに対して、「神の怒り」があります。「神の怒り」は100%清い怒りなので、罪を全然含みません。このリストに出て来る怒りが、「神の怒り」を含まないことは明らかです。
これらの「肉の業」と正反対であるのが、22~23節の「霊の結ぶ実」(聖霊の結ぶ実)です。「これに対して、霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」ここには聖霊が結ぶ実が9つ挙げられています。ある人は、一番最初の愛(アガペー)という大きな実の中に、後の「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」が含まれていると受けとめます。その受け止め方も間違っていないでしょう。「これらを禁じる掟はありません」とあります。掟はイスラエル社会の律法であり、モーセの十戒と言ってもよいでしょう。ここに挙げられている聖霊の結ぶ実を、罪として退ける神の戒めは存在しないということです。ここの聖霊の実、もちろんすべて神様の御心に適っているという確認ですね。
「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。」これは皆、主イエス・キリストのご性質です。イエス・キリストは、この9つの実の塊の方です。聖霊は、父なる神様の霊であり、イエス・キリストの霊ですから当然です。私たちは、自力でこのすばらしい実を結ぶことができません。イエス様がヨハネ福音書15章で語られた「ぶどうの木」のたとえを思い出します。「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」さらにイエス様はヨハネ福音書15章15節以下で、こう言われます。「私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。」イエス様が私たちを愛して選んで、イエス・キリストを信じる信仰を与えて下さいました。そして私たちが聖霊の実を結び、イエス様に似た者になるように導いておられます。もちろん姿形ではなく、私たちの心と生き方がイエス様に似た者になるようにと、今この礼拝において導いて下さっています。
「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。」この中のいくつかをとり上げてみますと、まず愛は先ほど申しましたように、新約聖書の元の言葉ギリシア語でアガペーです。これはコリントの信徒への手紙(一)13章の「愛の賛歌」の個所に記されている愛(アガペー)と同じと言えます。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して廃れない。」この愛ですね。
次の平和は、イエス様がヨハネ福音書14章で約束された平和です。ヘブライ語でシャロームでしょう。「私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。」また16章ではこう言われて、私たちを励まして下さいます。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」悪魔と罪と死に勝利して復活されたイエス様が、私たちと共におられるので、私たちには真の平和があります。
4つ目の「寛容」と5つ目の「親切」。この2つは、ローマの信徒への手紙2章4節に出て来ることを発見しました。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んずるのですか。」4つ目の実の「寛容」という言葉はローマ2章4節では「忍耐」と訳されている言葉と、元のギリシア語は同じです。5つ目の「親切」は、ローマ2章4節で「慈愛」と訳されている言葉と、元のギリシア語は同じです。つまり「寛容」は「忍耐」と訳すこともでき、「親切」は「慈愛」と訳すこともできると分かりました。9つの実をそのように唖訳すとこうなります。「霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和、忍耐、慈愛、善意、誠実、柔和、節制です。」ローマ2章4節では「慈愛と忍耐」は神様のご性質ですから、私たちが聖霊の実を徐々に結ばせていただくとき、恐れ多くも、父なる神様のご性質に感化され、似た者とされていくと分かります。洗礼を受けた聖霊を受けた私たちは、神の子とされたのですから、神ご自身のご性質に徐々に感化されることは、確かに自然ではあります。もちろん私たちが神になることはあり得ませんが、神様のご性質に感化されることは、あまりの光栄に身震いすることだと感じます。そして寛容は、忍耐強さと言う意味でもあると知らされます。
そして柔和ですが、柔和と聞くと、私たちは柔和なイエス様を思い出し、マタイ福音書11章28節のイエス様の御言葉を思い出しますね。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(重荷)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」私たちも、聖霊を受けることで、イエス様に似た柔和で謙遜な者に変えられます。イエス様に私たちに、「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われます。厳しく聞こえる御言葉ですが、イエス様は「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」と言われます。私たちが自分の十字架を背負うときも、イエス様が共に背負って下さるので、私たちは背負うことができ、「背負ってみれば、思ったほど重くない、いや軽い」という場合もあるはずです。
そして節制です。別の訳では自制と訳しています。どちらにしても、欲望のままに生きるのではなく、欲望と自己中心を抑える生き方です。聖霊は、私たちを節制へと導きのですね。パウロ自身も、節制に励んだと書いています。コリントの信徒への手紙(一)9章24節以下です。「あなた方は知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなた方も賞を得るように走りなさい。協議をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を得るために節制するのです。だから私としては、やみくもに走ったりしないし、空を撃つような拳闘もしません、むしろ、自分の体を打ち叩いて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」
私が金曜日に礼拝のお話のために行く市内の保育園の園長先生はクリスチャンですが、お若い頃、アメリカからの奨学金で勉強された時期があったそうです。ご本人に伺ったことによると、その奨学金はアメリカの子どもたちが、受難節もしくは受難週に、おやつを食べるのを我慢して、その分を献金として献げた、そのような献金による奨学金だったとのことです。それを聞いて思い出したのは、東日本大震災のとき、台湾の教会から多くの支援献金が送られてきました。その中には、少年少女が一食(昼食?)を抜いて、それを献金としてまとめたお金も含まれていたということです。但し、今そういうことをすると子ども虐待と見なされそうなので、私たちが直ちに同じことはできませんし、もちろん強制もできませんが、献金ということは身銭を切る面があってもよいということだと思います。以前の教会では、今申し上げたような献金を克己(己れを克服する)献金と呼んで来たと思います。受難節、受難週などにしばしば行われ、イエス様の十字架の愛に感謝する気持ちの強い方々が行って来られました。「聖霊の実」に節制が含まれているので、今のようなことを思い出しました。
先に進み24節「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉(自己中心の罪)を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」これは、洗礼の恵みを指していると言えます。ローマの信徒への手紙6章4節ですね。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命(神を愛し、隣人を愛する命)に生きるためなのです。」私たちの古い罪深い自分はイエス様と共に十字架につけられて死に、私たちはイエス様と共に新しい命に復活してます。8節はこうです。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」それでこのような結論になります。13節「あなた方の五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」
これは本日のガラテヤの信徒への手紙につながります。5章25~26節「私たちは霊(聖霊)の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりする」のは、もちろん悪魔の導きに従う生き方です。肉の業、罪の生き方への逆戻りで、神の国に向かわないで、悪魔の国に向かう生き方です。そうならないようにとの警告です。
本日の旧約聖書・イザヤ書61章は、慰め深い御言葉です。イエス様は、ルカによる福音書4章でこの御言葉を引用され、この御言葉がご自分の上に成就・実現したと述べておられます。「主は私に油(聖霊)を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。」イエス・キリストのキリストは、ギリシア語で「油(聖霊)を注がれた者」の意味です。キリストはヘブライ語ではメシアで、同じ意味です。イエス様こそ、油(聖霊)を最も豊かに注がれたキリスト、メシアです。あるクリスチャンは、「信仰とは、神の霊に捕らえられた状態だ」と言っています。なるほどと思います。私たちも神の霊である聖霊に捕らえられているのです。大変感謝なことです。油(聖霊)を注がれたキリストであるイエス様の使命が、1節の3行目から記されています。「私を遣わして貧しい人に良い知らせ(福音)を伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人(悪魔に捕らわれた人)に自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日(正義を行われる日)を告知して、嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて讃美の心をまとわせるために。」
イエス様がまさに、私たちにそのようにして下さいました。神の愛の良い知らせを、打ち砕かれた心を包み、恵みを与え、嘆いている人々を慰め、嘆きに代えて喜びの香油(聖霊か)、暗い心に代伝ええて讃美の衣をまとわせるために。」そして私たちこそ、その次に書いてある「主が輝きを表すために植えられた正義の樫の木」と言えます。神様が私たちに聖霊を、ますます豊かに注いで下さいますように。そそして私たちが「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の聖霊の実を、ますます豊かに結ばせていただけるように、熱心に祈りましょう。今から受ける聖餐によっても、私たちがますます生けるイエス・キリストの感化を、全身全霊に受けることができるように祈って、深く感謝して受けましょう。アーメン。
(イザヤ書61:1~3) 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰めシオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
(ガラテヤの信徒への手紙5:16~26) わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
(説教) 本日は、復活節第6主日公同礼拝です。説教題は「聖霊の結ぶ実」です。新約聖書は、ガラテヤの信徒への手紙5章16~26節です。22~23節は、東久留米教会の今年度の標語聖句です。それで本日は、この個所を礼拝で読むことに致しました。本日の個所の小見出しは、「霊の実と肉の業」です。
本日の御言葉が語ることは、イエス・キリストの十字架と復活によって救われた私たちは、どのように生きるのか、ということです。最初の16節「私(著者パウロ)が言いたいのは、こういうことです。霊(聖霊)の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲を満足させるようなことはありません。」「肉の欲、肉」とは、人間の罪、人間の自己中心のことです。パウロは、私たちが聖霊に導かれて生きるなら、決して自己中心の生き方になることはない、と言っており、全くその通りです。17節「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなた方は、自分のしたいと思うことができないのです。」人間の肉(自己中心)と霊(聖霊、神様の思い)は、完全に相反します。水と油です。
パウロも、イエス様を救い主と信じる前は、自分の心の中のこの対立に気づいていたと思われます。ですからローマの信徒への手紙7章で言っています。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。~私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」と語っています。心の中で「肉と霊」が対立していた惨めなパウロ。そんなパウロを、罪と死から救って下さった方が、イエス・キリストでした。私たちの全部の罪も、イエス様が十字架で全部背負って、解決して下さいました。今私たちは、復活されたイエス様から聖霊を既に受けています。そこで、本日のガラテヤ書5章18節の通りになっています。「しかし、霊に導かれているなら、あなた方は、律法の下にはいません。」私たちは、イエス様の十字架の犠牲の死と復活のお陰で、律法と罪と死の支配から脱出し、イエス様の霊である聖霊を注がれ、今やイエス・キリストの所有になっているのです。ですから安心です。そして聖書の御言葉と聖霊に導かれ、イエス様に喜んで従って生きるのです。
もう一度18節「しかし、霊に導かれているなら、あなた方が律法の下にはいません。」そう、私たちはもはや律法の下にはいないのです。律法の下を脱出し、イエス・キリストの愛の支配のもとにおり、聖霊に導かれています。それはイエス様に導かれていることです。パウロは19節で、聖霊の実の正反対の「肉の業」とは何かを列挙します。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」これは罪のリストです。このようなことを行わないようにとの警告です。私たちも気を緩めすぎると、このような罪に陥る可能性もあるので、十分気をつけて参りたいと願います。「怒り」も罪に挙げられています。人間の怒りには、自己中心等の罪もこびりついているので、100%清い怒りとは言えません。あるいは自分勝手な怒りもあります。それでここに「怒り」も罪として挙げられているのでしょう。これに対して、「神の怒り」があります。「神の怒り」は100%清い怒りなので、罪を全然含みません。このリストに出て来る怒りが、「神の怒り」を含まないことは明らかです。
これらの「肉の業」と正反対であるのが、22~23節の「霊の結ぶ実」(聖霊の結ぶ実)です。「これに対して、霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」ここには聖霊が結ぶ実が9つ挙げられています。ある人は、一番最初の愛(アガペー)という大きな実の中に、後の「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」が含まれていると受けとめます。その受け止め方も間違っていないでしょう。「これらを禁じる掟はありません」とあります。掟はイスラエル社会の律法であり、モーセの十戒と言ってもよいでしょう。ここに挙げられている聖霊の結ぶ実を、罪として退ける神の戒めは存在しないということです。ここの聖霊の実、もちろんすべて神様の御心に適っているという確認ですね。
「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。」これは皆、主イエス・キリストのご性質です。イエス・キリストは、この9つの実の塊の方です。聖霊は、父なる神様の霊であり、イエス・キリストの霊ですから当然です。私たちは、自力でこのすばらしい実を結ぶことができません。イエス様がヨハネ福音書15章で語られた「ぶどうの木」のたとえを思い出します。「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」さらにイエス様はヨハネ福音書15章15節以下で、こう言われます。「私はあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである。」イエス様が私たちを愛して選んで、イエス・キリストを信じる信仰を与えて下さいました。そして私たちが聖霊の実を結び、イエス様に似た者になるように導いておられます。もちろん姿形ではなく、私たちの心と生き方がイエス様に似た者になるようにと、今この礼拝において導いて下さっています。
「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。」この中のいくつかをとり上げてみますと、まず愛は先ほど申しましたように、新約聖書の元の言葉ギリシア語でアガペーです。これはコリントの信徒への手紙(一)13章の「愛の賛歌」の個所に記されている愛(アガペー)と同じと言えます。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して廃れない。」この愛ですね。
次の平和は、イエス様がヨハネ福音書14章で約束された平和です。ヘブライ語でシャロームでしょう。「私は、平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。」また16章ではこう言われて、私たちを励まして下さいます。「これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」悪魔と罪と死に勝利して復活されたイエス様が、私たちと共におられるので、私たちには真の平和があります。
4つ目の「寛容」と5つ目の「親切」。この2つは、ローマの信徒への手紙2章4節に出て来ることを発見しました。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んずるのですか。」4つ目の実の「寛容」という言葉はローマ2章4節では「忍耐」と訳されている言葉と、元のギリシア語は同じです。5つ目の「親切」は、ローマ2章4節で「慈愛」と訳されている言葉と、元のギリシア語は同じです。つまり「寛容」は「忍耐」と訳すこともでき、「親切」は「慈愛」と訳すこともできると分かりました。9つの実をそのように唖訳すとこうなります。「霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和、忍耐、慈愛、善意、誠実、柔和、節制です。」ローマ2章4節では「慈愛と忍耐」は神様のご性質ですから、私たちが聖霊の実を徐々に結ばせていただくとき、恐れ多くも、父なる神様のご性質に感化され、似た者とされていくと分かります。洗礼を受けた聖霊を受けた私たちは、神の子とされたのですから、神ご自身のご性質に徐々に感化されることは、確かに自然ではあります。もちろん私たちが神になることはあり得ませんが、神様のご性質に感化されることは、あまりの光栄に身震いすることだと感じます。そして寛容は、忍耐強さと言う意味でもあると知らされます。
そして柔和ですが、柔和と聞くと、私たちは柔和なイエス様を思い出し、マタイ福音書11章28節のイエス様の御言葉を思い出しますね。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(重荷)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」私たちも、聖霊を受けることで、イエス様に似た柔和で謙遜な者に変えられます。イエス様に私たちに、「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われます。厳しく聞こえる御言葉ですが、イエス様は「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い」と言われます。私たちが自分の十字架を背負うときも、イエス様が共に背負って下さるので、私たちは背負うことができ、「背負ってみれば、思ったほど重くない、いや軽い」という場合もあるはずです。
そして節制です。別の訳では自制と訳しています。どちらにしても、欲望のままに生きるのではなく、欲望と自己中心を抑える生き方です。聖霊は、私たちを節制へと導きのですね。パウロ自身も、節制に励んだと書いています。コリントの信徒への手紙(一)9章24節以下です。「あなた方は知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなた方も賞を得るように走りなさい。協議をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を得るために節制するのです。だから私としては、やみくもに走ったりしないし、空を撃つような拳闘もしません、むしろ、自分の体を打ち叩いて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」
私が金曜日に礼拝のお話のために行く市内の保育園の園長先生はクリスチャンですが、お若い頃、アメリカからの奨学金で勉強された時期があったそうです。ご本人に伺ったことによると、その奨学金はアメリカの子どもたちが、受難節もしくは受難週に、おやつを食べるのを我慢して、その分を献金として献げた、そのような献金による奨学金だったとのことです。それを聞いて思い出したのは、東日本大震災のとき、台湾の教会から多くの支援献金が送られてきました。その中には、少年少女が一食(昼食?)を抜いて、それを献金としてまとめたお金も含まれていたということです。但し、今そういうことをすると子ども虐待と見なされそうなので、私たちが直ちに同じことはできませんし、もちろん強制もできませんが、献金ということは身銭を切る面があってもよいということだと思います。以前の教会では、今申し上げたような献金を克己(己れを克服する)献金と呼んで来たと思います。受難節、受難週などにしばしば行われ、イエス様の十字架の愛に感謝する気持ちの強い方々が行って来られました。「聖霊の実」に節制が含まれているので、今のようなことを思い出しました。
先に進み24節「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉(自己中心の罪)を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」これは、洗礼の恵みを指していると言えます。ローマの信徒への手紙6章4節ですね。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命(神を愛し、隣人を愛する命)に生きるためなのです。」私たちの古い罪深い自分はイエス様と共に十字架につけられて死に、私たちはイエス様と共に新しい命に復活してます。8節はこうです。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」それでこのような結論になります。13節「あなた方の五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」
これは本日のガラテヤの信徒への手紙につながります。5章25~26節「私たちは霊(聖霊)の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりする」のは、もちろん悪魔の導きに従う生き方です。肉の業、罪の生き方への逆戻りで、神の国に向かわないで、悪魔の国に向かう生き方です。そうならないようにとの警告です。
本日の旧約聖書・イザヤ書61章は、慰め深い御言葉です。イエス様は、ルカによる福音書4章でこの御言葉を引用され、この御言葉がご自分の上に成就・実現したと述べておられます。「主は私に油(聖霊)を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。」イエス・キリストのキリストは、ギリシア語で「油(聖霊)を注がれた者」の意味です。キリストはヘブライ語ではメシアで、同じ意味です。イエス様こそ、油(聖霊)を最も豊かに注がれたキリスト、メシアです。あるクリスチャンは、「信仰とは、神の霊に捕らえられた状態だ」と言っています。なるほどと思います。私たちも神の霊である聖霊に捕らえられているのです。大変感謝なことです。油(聖霊)を注がれたキリストであるイエス様の使命が、1節の3行目から記されています。「私を遣わして貧しい人に良い知らせ(福音)を伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれた人(悪魔に捕らわれた人)に自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、私たちの神が報復される日(正義を行われる日)を告知して、嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて讃美の心をまとわせるために。」
イエス様がまさに、私たちにそのようにして下さいました。神の愛の良い知らせを、打ち砕かれた心を包み、恵みを与え、嘆いている人々を慰め、嘆きに代えて喜びの香油(聖霊か)、暗い心に代伝ええて讃美の衣をまとわせるために。」そして私たちこそ、その次に書いてある「主が輝きを表すために植えられた正義の樫の木」と言えます。神様が私たちに聖霊を、ますます豊かに注いで下さいますように。そそして私たちが「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の聖霊の実を、ますます豊かに結ばせていただけるように、熱心に祈りましょう。今から受ける聖餐によっても、私たちがますます生けるイエス・キリストの感化を、全身全霊に受けることができるように祈って、深く感謝して受けましょう。アーメン。
2024-04-28 1:46:03()
「イエス・キリストを愛する私たち」 2024年4月28日(日)礼拝説教
順序:招詞 ヨハネ福音書16:33,頌栄28、主の祈り,交読詩編121、使徒信条、讃美歌21・120、聖書 申命記6:4~15(旧約p.291)、ヨハネ福音書21:15~19(新約p.211)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌515、献金、頌栄27、祝祷。
(申命記6:4~15)聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。
(ヨハネ福音書21:15~19) 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
(説教) 本日は、復活節第5主日公同礼拝です。説教題は「イエス・キリストを愛する私たち」です。新約聖書は、ヨハネ福音書21:15~19です。本日の最初の小見出しは、「イエスとペトロ」です。
先週の個所は本日の直前でした。復活されたイエス・キリストがガリラヤ湖(ティべリアス湖)で、奇跡の大漁をもたらして下さったことが描かれていました。魚を獲る労働を行った十一人の弟子たちを、イエス様がパンと魚の朝食によって、ねぎらって下さいました。本日の個所は、その続きです。最初の15節「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか』と言われました。」「ヨハネの子シモン」という呼び方は1章42節にも出て来ます。この御言葉から、シモン・ペトロの父親がヨハネという名前だったことが分かります。「ヨハネの子シモン」という呼び方は、改まった呼び方です。イエス様のこの御言葉を文語訳で読むと、こうです。「ヨハネの子シモンよ。汝、この者どもに勝りて我を愛するか。」
イエス様がほかの弟子たちにはこう言われないで、シモン・ペトロ一人を呼んでこう言われたことは、やはりシモン・ペトロには特に大きな期待をかけておられたことを意味するのではないかと思います。ペトロが答えます。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」するとイエス様は、「私の小羊を飼いなさい」と言われ、ペトロにクリスチャンたちの世話をする使命を与えられました。イエス様は二度目に言われます。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエス様は言われました。「私の羊の世話をしなさい。」これは最初の「私の小羊を飼いなさい」と同じ意味と思います。イエス様が愛する羊たち(クリスチャンたち)の世話をする責任、使命を与えられました。
三度目にイエス様は言われます。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ある説教者は、こう述べます。「イエス・キリストが一番弟子のペトロに愛を問い、愛を確かめておられる。しつこいような、ペトロに迫る、三回にわたってペトロに迫っているイエス様の迫力を感じる」(大村勇牧師)。ペトロは、イエス様が三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。」「ああ、イエス様は私を信用しておられない。」そして言いました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」「イエス様は、あなたは私の全てをご存じです。私が、十字架にかかるあなたのことを三度『知らない』と言って裏切ってしまったことも知っておられます。そして私が心から泣いて、その罪を悔いたことも知っておられます。あなたは復活なさって、私たちの所に来て下さり、『あなた方に平和があるように』と語って下さいました。その時、私はあなたが私たち弟子の裏切りと逃走の罪をゆるしてくださったと悟りました。私はそれで平安を与えられ、聖霊を注がれて、あなたへの愛に燃えています。聖霊に助けられて、今度こそあなたが与えて下さった責任と使命を、懸命に果たします。その私の心を、あなたはよく知っておられます。」イエス様は、ペトロの答えを喜ばれたと思います。改めて言われました。「私の羊を飼いなさい。」ペトロには伝道者の使命と共に、仲間のクリスチャンたちの世話をする牧会者の使命が与えられました。ペトロはイエス様を愛し、仲間のクリスチャンたちを愛して、その人々を支えます。
15~17節のイエス様とペトロの問答の箇所には、「愛している」という言葉が7回も出て来ます。ご存じの方々もおられますが、原文のギリシア語を見ると、愛を表す2つの動詞が用いられています。愛ではあっても、少しニュアンスが違う2つの愛という言葉が使われています。その2種類の愛という言葉が、意識的に使い分けられていると読む人と、特に意識的に使い分けられているわけではないと読む人がいます。私は今回改めて数名の人々の解説や説教を読んでみて、意識的に使い分けられていると読むのがよいと感じました。その2つの愛を、「アガペーの愛」と「フィリアの愛」に分けることができます。教会ではよく「アガペーの愛」は、神様の愛、敵をも愛する最高の愛だと語られます。それに対して「フィリアの愛」は「友としての愛」と言えます。敵をさえ愛するアガペーの愛に比べると、そこまでハイレベルではない愛、しかし人間の温かみのある友情愛と言えます。
そこを踏まえてイエス様とペトロの問答を訳すと、こうなります。「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私をアガペーの愛で愛しているか。」「はい、主よ、私があなたをフィリアの愛で愛していることは、あなたがご存じです。」「私の小羊を飼いなさい。」二度目にイエス様は、「ヨハネの子シモン、私をアガペーの愛で愛しているか。」ペトロは「はい、主よ、私があなたをフィリアの愛で愛していることは、あなたがご存じです。」「私の羊の世話をしなさい。」イエス様は三度目に言われます。「ヨハネの子シモン、私をフィリアの愛で愛しているか。」悲しくなったペトロが答えます。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたをフィリアの愛で愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
イエス様は最初の二回はペトロに、「私をアガペーの愛で愛しているか」と問われました。ペトロは二回とも、「はい、主よ、私があなたをフィリアの愛で愛していることを、あなたはご存じです」と答えています。イエス様がペトロにアガペーの愛を求めても、今のところペトロにはフィリアの愛でイエス様を愛するのが精一杯とも言えます。そこを見て取ったイエス様が、おそらく微笑みを浮かべながら、ペトロのレベルに少し降りて来て下さり、三度目にはペトロに、「私をフィリアの愛で愛しているか」と問うて下さったことになります。そしてペトロは「その通り、フィリアの愛で愛しています」と答えました。ここにイエス様の憐れみと思いやりをみることができます。
とにかくイエス様は、ペトロに責任を使命を与えられます。「私の羊を飼いなさい。」そしてイエス様は18節で言われます。「はっきり言っておく。」これは原文で「アーメン、アーメン、私はあなた方に言う」です。アーメンは、「真実に」の意味ですから、「真実に、真実に、私はあなたに言う」です。「これから真実で大切なこごを述べますよ」の意味です。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」これはペトロへの預言です。19節「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『私に従いなさい』と言われた。」これは、ペトロが将来、イエス様と同じように十字架に架けられて殉教することを予告した御言葉です。ペトロがそのようにして、神様の栄光を現して死ぬことを予告したものです。今はイエス様をフィリアの愛で愛しているとまでしか言えないペトロです。しかしイエス様がペトロを支えて下さいます。聖霊がペトロを励まして下さいます。ペトロは最後には、自分に託されたクリスチャンたち(羊たち)をアガペーの愛で愛し守って、そしてイエス様をもアガペーの愛で愛して、十字架にかかって命を神様に献げるのです。こうして神様の栄光を現して死ぬことになる。このことをイエス様が、はっきりと預言されました。
ペトロの殉教の場面は、聖書にはありませんが、ペトロは伝説では、逆さ十字架に架けられて紀元60年代頃に殉教したとされています。私はおそらく事実だと思っています。今もローマに聖ピエトロ大聖堂があるそうですが、ペトロの墓の上に建てられていると言われます。伝説に基づいてペトロの殉教を描く小説に『クォ・ヴァディス(主よ、いずこに行き給うや)』があります。映画、DVDになっています。イエス様の十字架と復活から約30年後、ローマではクリスチャンへの迫害が起こっていました。ペトロはローマを脱出します。すると向こうから歩いて来る方がおられます。何とイエス様です。ペトロは「主よ、いずこへ行かれるのですか」と尋ねます。イエス様が、「私の羊たちがローマで苦しんでいる。私はもう一度十字架にかかるために、ローマに行く。」ペトロは驚き、自分が約30年前と同じ裏切りの罪を犯しかけていることに気づきます。そしてローマに引き返し、おそらくはクリスチャンたちの世話をし、イエス様と同じ十字架ではイエス様に申し訳ないと考え、逆さ十字架を希望して、逆さ十字架で殉教したと伝えられています。こうして「私の羊の世話をしなさい」とイエス様が与えて下さった責任を果たし、神の栄光を現す殉教の死を遂げて、天国に凱旋しました。殉教の時も、目に見えなくても、最も良き羊飼いイエス様が共にいて、支えて下さったに違いありません。ペトロは十字架に向かう時、イエス様がヨハネ福音書16章で語られた御言葉で、自分を励ましたかもしれません。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」イエス様が世に勝っているということは、悪魔にも死にも既に勝っているということです。私たちも、様々な試練に遭う時、この御言葉で自分を励ますことができます。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」私たちもイエス様につながることで、既に悪魔と死に勝たせていただいています。
イエス様は、ヨハネ福音書10章で、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と言われました。ペトロにも、よき羊飼いとして生きる使命をお与えになり、ペトロはその使命を果たしたのです。この時のペトロは、もはやフィリアの愛を超えていました。イエス様に励まされて、最後はアガペーの愛に生ききることができたのです。私が1998年の12月に按手礼を受けて牧師になったとき、私の神学校のクラスメートも共に牧師になりました。彼のお母様が私に御自分が書かれた色紙をプレゼントして下さいました。「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と書かれています。今も大切に保存しています。この御言葉をプレゼントすることで、私を励まして下さったのです。
ローマの信徒への手紙14章7~8節に、イエス様の十字架の愛に感謝する私たちキリスト者の生き方が記されています。「私たちの中には、誰一人自分のために生きる人はなく、誰一人自分のために死ぬ人もいません。私たちは、生きるとすれば主のため(イエス様のため)に行き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」キリスト者は皆、イエス様を愛してこう生きるのです。
ドイツに、ベーテル(神の家の意)という福祉の町があるそうです。ナチス政権の時代のドイツでは、ナチスがユダヤ人絶滅計画と障がいをもつ方々の安楽死計画を実行しようとしていました。これはどう考えても、命をお造りになる神様に反逆する計画、悪魔の計画です。人は皆、神様に似せて造られたからです。神様に反逆したので、ナチスは滅びました。福祉の町ベーテルにも、障がいをもつ方々の安楽死を説くナチスの医者が来ました。ベーテルの責任者であるフリッツ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師が反論します。「国家に有用かどうかで、人の存在価値を決めることはできません。安楽死は、神の掟に反します。他の人々のためという大義名分で、障がいのある人々を犠牲にするのは大きな間違いです」と反論しました。それでも残念ながら何名かは殺されたそうですが、ボーデルシュヴィング牧師がベーテルの人々を守りました。ベーテルは、「ヒットラーから障がいある方々を守った町」として知られるようになりました。ボーデルシュヴィング牧師は、良い羊飼いとして生きて、イエス・キリストに従って生きて神様の栄光を現わしました。殉教の死には至らなかったうようですが、ナチスの命令に逆らうことは、命がけの覚悟を必要としたでしょう。彼もイエス様を愛し、イエス様から託された障がいある方々を愛して、守りました。
私は先月、約23年ぶりに韓国に行く機会を与えられましたが、日本統治時代の韓国にも、立派な牧師がおられました。朱基徹(チュ・キチョル)という牧師です。当時韓国の教会の最大の苦労は、日本によって強要された神社参拝です。神社を礼拝し、天皇を礼拝することが求められました。しかし旧約聖書の申命記6章4節には、このように書かれています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなしなさい。」ですから私たちも父なる神様を愛し、神の子イエス・キリストを愛します。そしてモーセの十戒の第一の戒めはこうです。「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」文語訳ではこうです。「汝、わが顔の前に、我のほか何者をも神とすべからず。」そして申命記6章12節以下には、こう書かれています。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。」
朱牧師は、厳しい苦難に遭いましたが、父なる神様への愛、イエス・キリストへの愛に燃えていました。「できません、できません。神社に礼を捧げることはできません。この身は幼い時から主イエスにあって育ち、主イエスに献身する(身を献げること)を十回、百回と誓いました。」奉仕する教会を愛していましたから、きっとすばらしい牧会をなさったことでしょう。朱牧師は、獄中で暴力を受けても耐えて、イエス様への愛を守り通して、47才で天に召されました。神様の栄光を現わす生き方、死に方をなさり、ご自分の十字架を背負って、イエス様に従い通されました。
私たちは、ここまで立派に生きられないかもしれません。しかし私たちもイエス様から「私を愛しているか」と問いかけられていると思うのです。私たちが日曜日に礼拝するのは、イエス様を愛しているからです。無理な場合は、オンラインで参加する道もあります。私たちのために十字架に架かって下さったイエス様の愛に応えて、イエス様に私たちの愛を献げて礼拝し、イエス・キリストに感謝をもって従う、真の意味で喜ばしい道を、共に生き切らせていただきたいのです。アーメン。
(申命記6:4~15)聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。
(ヨハネ福音書21:15~19) 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
(説教) 本日は、復活節第5主日公同礼拝です。説教題は「イエス・キリストを愛する私たち」です。新約聖書は、ヨハネ福音書21:15~19です。本日の最初の小見出しは、「イエスとペトロ」です。
先週の個所は本日の直前でした。復活されたイエス・キリストがガリラヤ湖(ティべリアス湖)で、奇跡の大漁をもたらして下さったことが描かれていました。魚を獲る労働を行った十一人の弟子たちを、イエス様がパンと魚の朝食によって、ねぎらって下さいました。本日の個所は、その続きです。最初の15節「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか』と言われました。」「ヨハネの子シモン」という呼び方は1章42節にも出て来ます。この御言葉から、シモン・ペトロの父親がヨハネという名前だったことが分かります。「ヨハネの子シモン」という呼び方は、改まった呼び方です。イエス様のこの御言葉を文語訳で読むと、こうです。「ヨハネの子シモンよ。汝、この者どもに勝りて我を愛するか。」
イエス様がほかの弟子たちにはこう言われないで、シモン・ペトロ一人を呼んでこう言われたことは、やはりシモン・ペトロには特に大きな期待をかけておられたことを意味するのではないかと思います。ペトロが答えます。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」するとイエス様は、「私の小羊を飼いなさい」と言われ、ペトロにクリスチャンたちの世話をする使命を与えられました。イエス様は二度目に言われます。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエス様は言われました。「私の羊の世話をしなさい。」これは最初の「私の小羊を飼いなさい」と同じ意味と思います。イエス様が愛する羊たち(クリスチャンたち)の世話をする責任、使命を与えられました。
三度目にイエス様は言われます。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ある説教者は、こう述べます。「イエス・キリストが一番弟子のペトロに愛を問い、愛を確かめておられる。しつこいような、ペトロに迫る、三回にわたってペトロに迫っているイエス様の迫力を感じる」(大村勇牧師)。ペトロは、イエス様が三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。」「ああ、イエス様は私を信用しておられない。」そして言いました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」「イエス様は、あなたは私の全てをご存じです。私が、十字架にかかるあなたのことを三度『知らない』と言って裏切ってしまったことも知っておられます。そして私が心から泣いて、その罪を悔いたことも知っておられます。あなたは復活なさって、私たちの所に来て下さり、『あなた方に平和があるように』と語って下さいました。その時、私はあなたが私たち弟子の裏切りと逃走の罪をゆるしてくださったと悟りました。私はそれで平安を与えられ、聖霊を注がれて、あなたへの愛に燃えています。聖霊に助けられて、今度こそあなたが与えて下さった責任と使命を、懸命に果たします。その私の心を、あなたはよく知っておられます。」イエス様は、ペトロの答えを喜ばれたと思います。改めて言われました。「私の羊を飼いなさい。」ペトロには伝道者の使命と共に、仲間のクリスチャンたちの世話をする牧会者の使命が与えられました。ペトロはイエス様を愛し、仲間のクリスチャンたちを愛して、その人々を支えます。
15~17節のイエス様とペトロの問答の箇所には、「愛している」という言葉が7回も出て来ます。ご存じの方々もおられますが、原文のギリシア語を見ると、愛を表す2つの動詞が用いられています。愛ではあっても、少しニュアンスが違う2つの愛という言葉が使われています。その2種類の愛という言葉が、意識的に使い分けられていると読む人と、特に意識的に使い分けられているわけではないと読む人がいます。私は今回改めて数名の人々の解説や説教を読んでみて、意識的に使い分けられていると読むのがよいと感じました。その2つの愛を、「アガペーの愛」と「フィリアの愛」に分けることができます。教会ではよく「アガペーの愛」は、神様の愛、敵をも愛する最高の愛だと語られます。それに対して「フィリアの愛」は「友としての愛」と言えます。敵をさえ愛するアガペーの愛に比べると、そこまでハイレベルではない愛、しかし人間の温かみのある友情愛と言えます。
そこを踏まえてイエス様とペトロの問答を訳すと、こうなります。「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私をアガペーの愛で愛しているか。」「はい、主よ、私があなたをフィリアの愛で愛していることは、あなたがご存じです。」「私の小羊を飼いなさい。」二度目にイエス様は、「ヨハネの子シモン、私をアガペーの愛で愛しているか。」ペトロは「はい、主よ、私があなたをフィリアの愛で愛していることは、あなたがご存じです。」「私の羊の世話をしなさい。」イエス様は三度目に言われます。「ヨハネの子シモン、私をフィリアの愛で愛しているか。」悲しくなったペトロが答えます。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたをフィリアの愛で愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
イエス様は最初の二回はペトロに、「私をアガペーの愛で愛しているか」と問われました。ペトロは二回とも、「はい、主よ、私があなたをフィリアの愛で愛していることを、あなたはご存じです」と答えています。イエス様がペトロにアガペーの愛を求めても、今のところペトロにはフィリアの愛でイエス様を愛するのが精一杯とも言えます。そこを見て取ったイエス様が、おそらく微笑みを浮かべながら、ペトロのレベルに少し降りて来て下さり、三度目にはペトロに、「私をフィリアの愛で愛しているか」と問うて下さったことになります。そしてペトロは「その通り、フィリアの愛で愛しています」と答えました。ここにイエス様の憐れみと思いやりをみることができます。
とにかくイエス様は、ペトロに責任を使命を与えられます。「私の羊を飼いなさい。」そしてイエス様は18節で言われます。「はっきり言っておく。」これは原文で「アーメン、アーメン、私はあなた方に言う」です。アーメンは、「真実に」の意味ですから、「真実に、真実に、私はあなたに言う」です。「これから真実で大切なこごを述べますよ」の意味です。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」これはペトロへの預言です。19節「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『私に従いなさい』と言われた。」これは、ペトロが将来、イエス様と同じように十字架に架けられて殉教することを予告した御言葉です。ペトロがそのようにして、神様の栄光を現して死ぬことを予告したものです。今はイエス様をフィリアの愛で愛しているとまでしか言えないペトロです。しかしイエス様がペトロを支えて下さいます。聖霊がペトロを励まして下さいます。ペトロは最後には、自分に託されたクリスチャンたち(羊たち)をアガペーの愛で愛し守って、そしてイエス様をもアガペーの愛で愛して、十字架にかかって命を神様に献げるのです。こうして神様の栄光を現して死ぬことになる。このことをイエス様が、はっきりと預言されました。
ペトロの殉教の場面は、聖書にはありませんが、ペトロは伝説では、逆さ十字架に架けられて紀元60年代頃に殉教したとされています。私はおそらく事実だと思っています。今もローマに聖ピエトロ大聖堂があるそうですが、ペトロの墓の上に建てられていると言われます。伝説に基づいてペトロの殉教を描く小説に『クォ・ヴァディス(主よ、いずこに行き給うや)』があります。映画、DVDになっています。イエス様の十字架と復活から約30年後、ローマではクリスチャンへの迫害が起こっていました。ペトロはローマを脱出します。すると向こうから歩いて来る方がおられます。何とイエス様です。ペトロは「主よ、いずこへ行かれるのですか」と尋ねます。イエス様が、「私の羊たちがローマで苦しんでいる。私はもう一度十字架にかかるために、ローマに行く。」ペトロは驚き、自分が約30年前と同じ裏切りの罪を犯しかけていることに気づきます。そしてローマに引き返し、おそらくはクリスチャンたちの世話をし、イエス様と同じ十字架ではイエス様に申し訳ないと考え、逆さ十字架を希望して、逆さ十字架で殉教したと伝えられています。こうして「私の羊の世話をしなさい」とイエス様が与えて下さった責任を果たし、神の栄光を現す殉教の死を遂げて、天国に凱旋しました。殉教の時も、目に見えなくても、最も良き羊飼いイエス様が共にいて、支えて下さったに違いありません。ペトロは十字架に向かう時、イエス様がヨハネ福音書16章で語られた御言葉で、自分を励ましたかもしれません。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」イエス様が世に勝っているということは、悪魔にも死にも既に勝っているということです。私たちも、様々な試練に遭う時、この御言葉で自分を励ますことができます。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」私たちもイエス様につながることで、既に悪魔と死に勝たせていただいています。
イエス様は、ヨハネ福音書10章で、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と言われました。ペトロにも、よき羊飼いとして生きる使命をお与えになり、ペトロはその使命を果たしたのです。この時のペトロは、もはやフィリアの愛を超えていました。イエス様に励まされて、最後はアガペーの愛に生ききることができたのです。私が1998年の12月に按手礼を受けて牧師になったとき、私の神学校のクラスメートも共に牧師になりました。彼のお母様が私に御自分が書かれた色紙をプレゼントして下さいました。「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と書かれています。今も大切に保存しています。この御言葉をプレゼントすることで、私を励まして下さったのです。
ローマの信徒への手紙14章7~8節に、イエス様の十字架の愛に感謝する私たちキリスト者の生き方が記されています。「私たちの中には、誰一人自分のために生きる人はなく、誰一人自分のために死ぬ人もいません。私たちは、生きるとすれば主のため(イエス様のため)に行き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」キリスト者は皆、イエス様を愛してこう生きるのです。
ドイツに、ベーテル(神の家の意)という福祉の町があるそうです。ナチス政権の時代のドイツでは、ナチスがユダヤ人絶滅計画と障がいをもつ方々の安楽死計画を実行しようとしていました。これはどう考えても、命をお造りになる神様に反逆する計画、悪魔の計画です。人は皆、神様に似せて造られたからです。神様に反逆したので、ナチスは滅びました。福祉の町ベーテルにも、障がいをもつ方々の安楽死を説くナチスの医者が来ました。ベーテルの責任者であるフリッツ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師が反論します。「国家に有用かどうかで、人の存在価値を決めることはできません。安楽死は、神の掟に反します。他の人々のためという大義名分で、障がいのある人々を犠牲にするのは大きな間違いです」と反論しました。それでも残念ながら何名かは殺されたそうですが、ボーデルシュヴィング牧師がベーテルの人々を守りました。ベーテルは、「ヒットラーから障がいある方々を守った町」として知られるようになりました。ボーデルシュヴィング牧師は、良い羊飼いとして生きて、イエス・キリストに従って生きて神様の栄光を現わしました。殉教の死には至らなかったうようですが、ナチスの命令に逆らうことは、命がけの覚悟を必要としたでしょう。彼もイエス様を愛し、イエス様から託された障がいある方々を愛して、守りました。
私は先月、約23年ぶりに韓国に行く機会を与えられましたが、日本統治時代の韓国にも、立派な牧師がおられました。朱基徹(チュ・キチョル)という牧師です。当時韓国の教会の最大の苦労は、日本によって強要された神社参拝です。神社を礼拝し、天皇を礼拝することが求められました。しかし旧約聖書の申命記6章4節には、このように書かれています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなしなさい。」ですから私たちも父なる神様を愛し、神の子イエス・キリストを愛します。そしてモーセの十戒の第一の戒めはこうです。「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」文語訳ではこうです。「汝、わが顔の前に、我のほか何者をも神とすべからず。」そして申命記6章12節以下には、こう書かれています。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。」
朱牧師は、厳しい苦難に遭いましたが、父なる神様への愛、イエス・キリストへの愛に燃えていました。「できません、できません。神社に礼を捧げることはできません。この身は幼い時から主イエスにあって育ち、主イエスに献身する(身を献げること)を十回、百回と誓いました。」奉仕する教会を愛していましたから、きっとすばらしい牧会をなさったことでしょう。朱牧師は、獄中で暴力を受けても耐えて、イエス様への愛を守り通して、47才で天に召されました。神様の栄光を現わす生き方、死に方をなさり、ご自分の十字架を背負って、イエス様に従い通されました。
私たちは、ここまで立派に生きられないかもしれません。しかし私たちもイエス様から「私を愛しているか」と問いかけられていると思うのです。私たちが日曜日に礼拝するのは、イエス様を愛しているからです。無理な場合は、オンラインで参加する道もあります。私たちのために十字架に架かって下さったイエス様の愛に応えて、イエス様に私たちの愛を献げて礼拝し、イエス・キリストに感謝をもって従う、真の意味で喜ばしい道を、共に生き切らせていただきたいのです。アーメン。
2024-04-25 23:59:59(木)
伝道メッセージ(4月分) 市内の保育園の「おたより」に掲載した文章
「『子どもたちを私(イエス・キリスト)の所に来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(~)子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」(新約聖書・マルコによる福音書10章14~15節)。
新入園のお子さん方とご家族の皆様、真におめでとうございます。下里しおん保育園はキリスト教主義なので、毎朝、真の神様への礼拝があります。私は毎週金曜日の礼拝のお話をするために参ります。しおんという名前は、聖書に出て来るイスラエルの首都エルサレムが「シオンの丘」にあることに由来し、神の国、天国のシンボルです。
旧約聖書の創世記3章に、最初の女性エバが、蛇に誘惑されて神様の戒めを破り、善悪の知識の木の実を取って食べてしまう場面があります。エバに誘われたアダムも、同様に食べてしまいます。二人が神様を避けて隠れると、神様の探す声が聞こえます。「どこにいるのか。」二人が言い訳して謝らないでいると、神様は二人をエデンの園(楽園)から追放
されます。この話には、深い意味があります。
ある男性は、少年時代にチャンバラごっこが好きで、隣家の庭の美しいダリヤの花の茎を切りたい衝動に駆られ、がまんできずにスパッと切ってしまいます(大貫隆『聖書の読み方』岩波新書、2010年)。それは隣家のおじさんが丹精込めて育てたダリヤでした。「しまった!」と青くなった少年は、一目散に家に帰り、押し入れに隠れます。夕方になり、母
親が心配して探し回る声が聞こえます。「隆、隆、どこにいるの?」 少年は後から気づくのです。エバとアダムは自分だ。悪いことをして隠れた自分を母親が探し回ったように、神様も、神様に背いて神様に合わせる顔がなくなり、神様から隠れる私たち人間を探し回って下さるのだと。
神様は私たちに、「悪いことをしたら、心から謝りなさい。そうすればゆるす」とおっしゃって、私たちを探して下さいます。素直に心から謝って神様の元に帰れば、神様が喜んで抱きしめて下さいます。古代のキリスト教会のリーダーの一人アウグスティヌスも、真の神様から離れた放蕩の生活を送った後、自分の罪を謝って、真の神様に立ち帰りました。そしてしみじみこう言いました。「神様は、私たちの心を神様に向けて造られたので、人は神様に立ち帰らないと、真の平安を得られない。」
私はしおんの子どもたちに、真の神様(と神の子イエス・キリスト)を紹介し、イエス様と共に歩む平安な人生の土台を提供したいと願っています。保護者の皆様も、ぜひ真の神様に立ち帰って下さい。世界が早く平和になりますように、切に祈ります。アーメン(「真実に」)。
☆ぜひ新約聖書と旧約聖書をお読み下さい。日曜はお近くのキリスト教会の礼拝にご出席下さい(念のためマスク持参)。礼拝と説教をライヴ配信する教会も多くあります。
新入園のお子さん方とご家族の皆様、真におめでとうございます。下里しおん保育園はキリスト教主義なので、毎朝、真の神様への礼拝があります。私は毎週金曜日の礼拝のお話をするために参ります。しおんという名前は、聖書に出て来るイスラエルの首都エルサレムが「シオンの丘」にあることに由来し、神の国、天国のシンボルです。
旧約聖書の創世記3章に、最初の女性エバが、蛇に誘惑されて神様の戒めを破り、善悪の知識の木の実を取って食べてしまう場面があります。エバに誘われたアダムも、同様に食べてしまいます。二人が神様を避けて隠れると、神様の探す声が聞こえます。「どこにいるのか。」二人が言い訳して謝らないでいると、神様は二人をエデンの園(楽園)から追放
されます。この話には、深い意味があります。
ある男性は、少年時代にチャンバラごっこが好きで、隣家の庭の美しいダリヤの花の茎を切りたい衝動に駆られ、がまんできずにスパッと切ってしまいます(大貫隆『聖書の読み方』岩波新書、2010年)。それは隣家のおじさんが丹精込めて育てたダリヤでした。「しまった!」と青くなった少年は、一目散に家に帰り、押し入れに隠れます。夕方になり、母
親が心配して探し回る声が聞こえます。「隆、隆、どこにいるの?」 少年は後から気づくのです。エバとアダムは自分だ。悪いことをして隠れた自分を母親が探し回ったように、神様も、神様に背いて神様に合わせる顔がなくなり、神様から隠れる私たち人間を探し回って下さるのだと。
神様は私たちに、「悪いことをしたら、心から謝りなさい。そうすればゆるす」とおっしゃって、私たちを探して下さいます。素直に心から謝って神様の元に帰れば、神様が喜んで抱きしめて下さいます。古代のキリスト教会のリーダーの一人アウグスティヌスも、真の神様から離れた放蕩の生活を送った後、自分の罪を謝って、真の神様に立ち帰りました。そしてしみじみこう言いました。「神様は、私たちの心を神様に向けて造られたので、人は神様に立ち帰らないと、真の平安を得られない。」
私はしおんの子どもたちに、真の神様(と神の子イエス・キリスト)を紹介し、イエス様と共に歩む平安な人生の土台を提供したいと願っています。保護者の皆様も、ぜひ真の神様に立ち帰って下さい。世界が早く平和になりますように、切に祈ります。アーメン(「真実に」)。
☆ぜひ新約聖書と旧約聖書をお読み下さい。日曜はお近くのキリスト教会の礼拝にご出席下さい(念のためマスク持参)。礼拝と説教をライヴ配信する教会も多くあります。
2024-04-25 23:54:39(木)
伝道メッセージ(3月分) 市内の保育園の「おたより」に掲載した文章
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章9節)。
卒園の3月、別れと新スタートの季節です。卒園しても、ぜひイエス様と礼拝を忘れないで下さいね。一年生になる皆さんに祝福を祈ります。
ところで私は、日本人が憲法九条を卒業してはいけないと考えています。太平洋戦争であまりにも多くの日本人と外国人が亡くなった反省として憲法九条ができたからです。私は日本の平和憲法を、神様から日本へのプレゼントだと思っています。平和を愛するイエス様への信仰と平和憲法の心に一致があると信じます。しかし政府が九条を軽視するとに危機感を抱いた作家等の方々が2004年に「九条の会」①を立ち上げ、2005年には「東久留米九条の会」②ができました。2007年に「東久留米キリスト者九条の会」③という小さな会ができ、私も参加しています。
この会(③)では毎年4月29日(休日)に講演会を開いて来ました。講師はキリスト教学校の先生、牧師、神父、クリスチャン弁護士等です。今年はやや角度を変えて、「子どもの権利保障とは―子どもの人権救済活動の現場から」の題で坪井節子さん(クリスチャン弁護士、カリヨン子どもセンター理事長)のお話を伺います。日本国憲法を愛する方です。4
月29日(月・休)13:30~16:00に東久留米駅近くの成美教育文化会館で行います。どなたも歓迎です。
①の呼びかけ人の一人・大江健三郎さんが残念ながら昨年亡くなりました。大江氏は1994年のノーベル文学賞受賞講演で、「この不戦の誓い(九条)を憲法から取り外せば、我々はヒロシマ、ナガサキの(原爆)犠牲者たちを裏切ることになるのです」と述べました。ヒットラーに抵抗して39才で死刑になったドイツのボンへッファー牧師は、既に1934年に語りました。「安全保障の道を通って平和に至る道は存在しない。なぜなら、平和はあえてなさねばならないこと、一つの偉大な冒険だからだ。平和は安全保障の反対だ。安全を求めることは、相手への不信感がそこにあるからだ。この不信感が再び戦争を引き起こす。武器による戦いに、勝利はない。」不信感を信頼に変える全員の努力が必要です。イエス・キリストと、このような優れた先人たちのメッセージに深く学び、平和な日本、アジア、世界を造るために共に祈り、身近なところから努力しましょう。しおんの子どもたちが生涯、平和な世界で生きるために。アーメン(「真実に」)。 ☆ぜひ新約聖書と旧約聖書をお読み下さい。日曜はお近くのキリスト教会の礼拝に、ご出席下さい(念のためマスク持参)。礼拝と説教をライヴ配信する教会も多くあります。
卒園の3月、別れと新スタートの季節です。卒園しても、ぜひイエス様と礼拝を忘れないで下さいね。一年生になる皆さんに祝福を祈ります。
ところで私は、日本人が憲法九条を卒業してはいけないと考えています。太平洋戦争であまりにも多くの日本人と外国人が亡くなった反省として憲法九条ができたからです。私は日本の平和憲法を、神様から日本へのプレゼントだと思っています。平和を愛するイエス様への信仰と平和憲法の心に一致があると信じます。しかし政府が九条を軽視するとに危機感を抱いた作家等の方々が2004年に「九条の会」①を立ち上げ、2005年には「東久留米九条の会」②ができました。2007年に「東久留米キリスト者九条の会」③という小さな会ができ、私も参加しています。
この会(③)では毎年4月29日(休日)に講演会を開いて来ました。講師はキリスト教学校の先生、牧師、神父、クリスチャン弁護士等です。今年はやや角度を変えて、「子どもの権利保障とは―子どもの人権救済活動の現場から」の題で坪井節子さん(クリスチャン弁護士、カリヨン子どもセンター理事長)のお話を伺います。日本国憲法を愛する方です。4
月29日(月・休)13:30~16:00に東久留米駅近くの成美教育文化会館で行います。どなたも歓迎です。
①の呼びかけ人の一人・大江健三郎さんが残念ながら昨年亡くなりました。大江氏は1994年のノーベル文学賞受賞講演で、「この不戦の誓い(九条)を憲法から取り外せば、我々はヒロシマ、ナガサキの(原爆)犠牲者たちを裏切ることになるのです」と述べました。ヒットラーに抵抗して39才で死刑になったドイツのボンへッファー牧師は、既に1934年に語りました。「安全保障の道を通って平和に至る道は存在しない。なぜなら、平和はあえてなさねばならないこと、一つの偉大な冒険だからだ。平和は安全保障の反対だ。安全を求めることは、相手への不信感がそこにあるからだ。この不信感が再び戦争を引き起こす。武器による戦いに、勝利はない。」不信感を信頼に変える全員の努力が必要です。イエス・キリストと、このような優れた先人たちのメッセージに深く学び、平和な日本、アジア、世界を造るために共に祈り、身近なところから努力しましょう。しおんの子どもたちが生涯、平和な世界で生きるために。アーメン(「真実に」)。 ☆ぜひ新約聖書と旧約聖書をお読み下さい。日曜はお近くのキリスト教会の礼拝に、ご出席下さい(念のためマスク持参)。礼拝と説教をライヴ配信する教会も多くあります。