日本キリスト教団 東久留米教会

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2018-08-09 18:23:34(木)
「本当の幸せとは」 2018年8月5日(日) 平和聖日礼拝説教 要旨 
聖書: 詩編51編1~11節、マタイ福音書5章1~7節

 本日(8月第一聖日)は、日本キリスト教団の暦よる「平和聖日」です。毎月2回ほど、マタイによる福音書を読む礼拝を献げていますが、本日より5章、イエス・キリストが語られた有名な説教、「山上の説教」に入ります。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」「口を開き」という言葉には、「これから重要なことを話します」というメッセージが込められています。先ほど歌った「讃美歌21」の57番の第1節の歌詞は、この「山上の説教」のことを歌っています。「ガリラヤの風かおる丘で ひとびとに話された 恵みのみことばを わたしにも聞かせてください。」

 「幸い」という小見出しがあり、1~10節に、「8つの幸い(祝福)」(八福)が語られます。7節「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」ギリシア語原文では、「幸いだ」が冒頭に来ています。文語訳聖書では、「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり」です。こんな讃美歌もあります。「幸いなるかな、貧しい人、神の国はあなたのもの。」「幸いだ」はギリシア語で、「マカリオイ」です。日本キリスト教団年鑑によると、岡山県倉敷市に「マビ・マカリオイ教会」があります。マビは地名(真備)と思います。今年7月の西日本豪雨で大きな被害を受けられた地域です。そこに「マビ・マカリオイ教会」つまり、「真備・幸いなるかな教会」があるのですね。辛い被害を受けた地域にあって、地域と共に歩み、今日も礼拝を献げておられることと存じます。「マビ・マカリオイ教会」と地域の方々に、神様のたくさんの慰めと守りがありますように、切にお祈り申し上げます。

 カトリックのフランシスコ会訳の聖書では、「自分の貧しさを知る人は幸いである」です。これが分かり易いと感じます。私たちの命は、神様に全面的に依存しています。旧約聖書のダニエル書(5章23節)の御言葉を借りれば、神様が私たちの「命と行動の一切を手中に握っておられ」るのです。このことを深く悟ることが必要です。しかも私たちは、聖なる神様から見れば皆、罪人(つみびと)です。神様によって罪を赦されなければ、生きることができないのです。貧しさは、罪深さを指すとも言えます。宗教改革者マルティン・ルターが、「私たちは乞食だ。それは本当のことだ」と言ったと聞きましたが、ルターは自分の貧しさを深く悟っていたと思うのです。

 本日の旧約聖書は、「悔い改めの詩編」として有名な詩編51編です。ダビデ王が人の妻を奪い、その女性の夫を戦死させた時に、神の預言者ナタンが来て、ダビデを厳しく叱責しました。その時のダビデの真実の悔い改めを語るのが詩編51編です。ある教会は毎週の礼拝で詩編51編を皆で読んで、直前の週の罪を悔い改めるそうです。(3~4節)「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。」(7節)「わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。」 7節は「生まれつきの罪」のことを語っています。原罪のことと言えます。私たち人間は皆、残念ながら罪をもって生まれて来るのです。聖書の中に「原罪」という言葉はありません。しかし7節は明らかに私たちが生れつき罪をもっていること語っており、この罪を教会が原罪と名付けたのだと思います。

 クリスチャン作家・三浦綾子さんのデビュー作は『氷点』です。『氷点』のテーマは原罪です。氷点という言葉が、実は原罪を意味して使われています。私は今年、初めて全部を読みました。詩編51編19節には、「~神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません」とあります。心の底から罪を悔い改めることを、神様は喜んで下さいます。「心の貧しい人」とは、真底自分の罪を悔い改める謙虚な人です。神は喜んで天国を与えて下さいます。

 マタイ福音書5章に戻り、6節。「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」イエス様は十字架に架かられ、誰よりも苦しまれ、悲しまれましたから、イエス様は私たちの悲しみを全て分かって下さいます。イエス様の十字架の死を予告したイザヤ書53章にこうあります(口語訳)。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔を覆おおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い。われわれの悲しみをになった。」この御言葉を聞くと、イエス様に親しさを感じることができるのではないでしょうか。「その人たちは慰められる。」聖霊は慰め主、イエス様も慰め主、父なる神様も私たちに慰めを与えて下さる方です。コリントの信徒への手紙(二)1章3節以下に、このようなすばらしい御言葉があります。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」

 「悲しむ人々は、幸いである。」この悲しみは、自分の罪を悲しむ悲しみとも言えます。ダビデは詩編51編で、自分の罪を悲しみました。「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。」コリントの信徒への手紙(二)7章10節にこうあります。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」ると。自分の罪を悲しむ人は、罪を深く悔い改めます。神はそれを喜び、取り消されることのない救い・永遠の命を与えて下さいます。その人は、真の意味で幸いな人です。

 マタイ福音書に戻り、5節には「柔和な人々は、幸いである」とあります。イエス様こそ柔和な方です。「悲しむ人々は幸い」、「柔和な人々は幸い」と続くと、この人々は弱々しいと感じるかもしれません。しかし6節には、「義に飢え渇く人々は、幸いである」とあります。イエス様は私たち罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪そのものを憎まれ、悪を憎まれます。クリスチャンもそうである必要があります。イエス様はエルサレムの神殿を非常に激しく清められました。まさに「義に飢え渇く方」なのです。

 本日歌った讃美歌21の211番の作詞者はハリエット・E・ストウという19世紀のアメリカ婦人です。名作『アンクルトムの小屋』の作者です。黒人奴隷トムが虐待され、最後には死んでゆく悲しい物語です。私は子ども版を小学校4年生の頃に読みましたが、涙なくしては読めませんでした。ストウ夫人はは熱烈なクリスチャンだったそうです。ストウ夫人は、奴隷制度の悲惨さを訴えたくてこの書物を書いたのです。この書物の反響は大きく、奴隷制度をなくす方向で世論を動かしたそうです。まさに「ペンは剣よりも強し」(聖書の言葉ではない)です。アメリカは南北戦争という大きな試練を経て、リンカーン大統領による奴隷解放宣言にたどり着きました。ストウ夫人はまさに、「義に飢え渇く人」だと感じ入るのです。

 どうか私たちも、「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」となり、真の意味で幸いな人になることができますように。そしてイエス様に似た一人一人となることができますように、切にお祈り致します。アーメン(「真実に」)。


2018-08-01 21:51:10(水)
「平和を愛する」  伝道メッセージ  石田真一郎
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(新約聖書・マタイによる福音書5章9節)

 5月に長崎市に行きました。長崎はキリスト教のカトリックの伝統の深い町、原爆被爆地です。爆心地そばの原爆資料館、平和祈念公園を見学しました。写真を見るとまさに焼け野原です。重症の方々、亡くなった方々の写真も見ました。山と谷、アップダウン・坂の多い町です。空を見上げると今は青空です。二度と核兵器を使わせないことが、私たちの責務です。

 世界の昨年の大切な動きの1つは、国連での核兵器禁止条約の採択です(7月)。122の国・地域が賛成しました。核兵器保有国は皆不参加、真に残念ながら日本も不参加です。この採択に貢献した団体「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」にノーベル平和賞が授与され、勇気づけられました。ICANの運営委員の一人が、私のいる東久留米教会の会員の親族なので、なお嬉しかったのです。核兵器廃絶など夢のまた夢と思っていましたが、あきらめないで本気で取り組む人々が必要です。原爆資料館に、ICANのリーダー女性の「核兵器廃絶が先か、人類の滅亡が先か、です」とのメッセージが掲示されていたのが印象に残ります。

 ノーベル平和賞授賞式で、カナダ在住のサーロー節子さんは広島で被爆した13才のときの体験を語りました。キリスト教主義の学校の生徒でした。「建物の下敷きになった。『あきらめるな。隙間から光が見えるだろう? そこに向かって這って行け』の声を聞いて這い出た。核兵器は必要悪ではなく、絶対悪。」神様が光を見せて、助けて下さったと思うのです。

 アメリカのキング牧師は、「私には夢がある」と演説しました。人種差別がなくなることを祈る夢です。完全には実現していません。私たちの夢は、核兵器が完全になくなる平和な世界が来ることです(もちろん、世界中の人がイエス・キリストを信じることも、私たちの大きな夢です)。確かに難しい。しかし、あきらめずに取り組む市民の力が必要です。そして神の国が来ることを私たちは祈ります。イエス様は、「平和を実現する人々は、幸いである」と言われます。子どもたちが生きる日本と世界が平和であるように祈り、努力したいと願います。アーメン(「真実に」)。


2018-08-01 21:41:35(水)
「思い上がらない信仰」 2018年7月29日(日) 聖霊降臨節第11主日礼拝説教 要旨
聖書: 哀歌3章22~23節、ローマの信徒への手紙11章17~24節

 イエス・キリストを宣べ伝えるパウロにとって、自分の同胞であるイスラエル人(ユダヤ人)がなかなかイエス様を信じてくれないことは、非常に深い悲しみでした。しかし、このことには、全世界の人々の救いを願う、神様の深いお考えがあることに、パウロは次第に気づくのです。ローマの信徒への手紙11章11節「かえって、彼ら(ユダヤ人)の罪(イエス様を拒否した罪)によって異邦人(ユダヤ人以外の人々)に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」ユダヤ人の多くがイエス様を信じなかったためにパウロが異邦人にイエス様を宣べ伝え、多くの異邦人がイエス様を信じて救われる(永遠の命を受ける)結果になった。それを見てユダヤ人たちが、「ああ、うらやましいな。自分たちもかたくなな心を捨ててイエス・キリストを信じ、永遠の命を受けたい」と考える方向に進むこと、神様がそれをめざしておられるとパウロは悟ったのです。

 パウロは本日の箇所で、救われた異邦人たちに忠告します。私たち日本人クリスチャンも異邦人クリスチャンですから、私たちも心して耳を傾けるべき御言葉です。17~20節「しかし、ある枝(ユダヤ人)が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ、恐れなさい。」

 旧約聖書以来の神の民であるイスラエル人(ユダヤ人)が、神の民の本家本元です。私たち異邦人クリスチャンは、確かに神の民に加えられていますが、神の民としての本家本元ではありません。従って、ユダヤ人に対して誇る資格はないのです。私たちも、聖なる神様からご覧になれば罪人(つみびと)の一人でしかありません。何か神様に対して誇ることができる立派な点があったから救われた(永遠の命を受けた)のではありません。私たちは罪人(つみびと)に過ぎないのに、イエス様がその罪人(つみびと)たちの全ての罪を背負って、身代わりに十字架で死んで下さった、ひとえのそのお陰で、私たちは罪を赦されて永遠の命をいただきました。100%イエス様のお陰です。私たちの功績はゼロです。

 確かに、私たち異邦人クリスチャンは、信仰によって立っています。イエス・キリストを自分の救い主と信じる信仰によってのみ、義とされた(救われた)のです。これがプロテスタントの強調する信仰義認です。信仰義認は確かに真理です。しかしだからと言って油断し、罪を犯しても平気な生活へと堕落してはならないのです。同じパウロが、コリントの信徒への手紙(一)10章12節で、こう述べています。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」パウロは、出エジプトしたイスラエルの民を見よ、と言います。せっかくエジプトから脱出したイスラエルの民ですが、成人はヌンの子ヨシュアと、エフネのカレブ以外は約束の地に入ることができなかったのです。それは彼らが神様に対していくつかの罪を犯したからです。コリントの信徒への手紙(一)10章5~11節「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」

 パウロは私たち異邦人クリスチャンに、約束の地に入れなかったイスラエルの民の失敗を繰り返すな、と愛の警告を語ります。思い上がるのではなく、ますますへりくだって神様を畏れ敬い、ますます神様に感謝する人になるように、ということでしょう。私たち、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを自分の救い主と信じて救われた者は、どのような生活を心掛ければよいのでしょうか。神様に祈り、聖霊の御助けをいただいて神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する生活を心がけることと信じます。もう少し詳しく言うと、聖霊の御助けをいただいてモーセの十戒を行う生活を心がけることと信じます。そうすれば、少なくとも大きな罪を犯すことは避けることができます。

 パウロは、「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」と勧めます。同じパウロが、フィリピの信徒への手紙2章12節でこう語ります。「~恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」私たちの救いは、自分の罪を悔い改め、十字架と復活のイエス様を信じる信仰のみによって与えられます。救われた後は、イエス様に従う生活をするように心がけることで、確実に天国に入れていただけるようになります。

 パウロはローマの信徒への手紙11章22節で、「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」と私たちに求めます。口語訳では、「神の慈愛と峻厳とを見よ」という印象的な言葉です。神の慈しみと聞くと、私は本日の旧約聖書である哀歌3章22~23節を思い出します。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。」私たちの命は、今日もこの神様の慈しみに支えられています。神様は愛の方であると同時に聖なる方です。神様は罪人(つみびと)を愛して救おうと全力を傾けられます。同時に罪を憎んでおられます。イエス様は私たちの身代わりに十字架におつきになり、父なる神様から(本来私たちが受けるべき)峻厳な裁きをお受けになりました。私たちも明らかな罪を犯すなら、神様の峻厳な裁きを受ける可能性がないとは言えません。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。」大きな救いを与えて下さった神様に感謝し、神様を畏れ敬って罪を避けて、イエス様に従って参りましょう。アーメン(「真実に」)。

2018-07-18 21:40:12(水)
「本当の救いは、自分のエゴからの救い」 聖霊降臨節第9主日公同礼拝 説教要旨
聖書:申命記32章15~22節、ローマの信徒への手紙11章11~16節

 このローマの信徒への手紙を書いたイエス様の使徒パウロの深い悲しみは、自分の同胞である愛するイスラエル人(ユダヤ人)の多くが、なかなかイエス・キリストを救い主と信じてくれず、従ってすべての罪の赦しと永遠の命を受けないでいることです。神様からご覧になった場合の私たち人間の罪の根本は、自己中心です。エゴと言い換えることもできます。自分が常に一番大事で、神様をも隣人をもあまり愛さないことが罪です。この罪から、私たちを根本的に救って下さる方が、イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちの罪をすべて背負って十字架で死なれ、三日目に復活されました。イエス様の十字架の死だけが、私たちの罪をすべて赦す救い、根本的な救いです。このイエス・キリストを、ぜひご自分の救い主として、心から受け入れ、信じて下さるようにお願い致します。新約聖書の使徒言行録4章12節で、イエス様の弟子ペトロが説教しています。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリストの名)のほか、人間には与えられていないのです。」この言葉は、真実です。

 パウロは、自分の同胞である愛するユダヤ人たちの多くが、この救い主イエス様を信じないので、深く心を痛めたのです。11節「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまった(永久に神から見捨てられた)ということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」ユダヤ人の多くがイエス様を拒否し、パウロが異邦人(ユダヤ人以外)に伝道する方向に導かれました。その結果、異邦人で自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じる人々が多く与えられ、元来は神の民でなかった異邦人が救われる(罪の赦しと永遠の命を受ける)という現実が生じたのです。このことには、全世界の人々の何とかして救うための、神様の深いお考えがあると、パウロは神様によって気づかされたのです。

 パウロは申命記32章21節で、神様がこのことへの答えを示しておられることに気づきました(そこでパウロは、ローマの信徒への手紙10章でこの申命記を引用しています)。申命記32章21節にはこうあります。「彼ら(イスラエルの民)は神ならぬ(偶像の神、偽物の神)ものをもって/ わたしのねたみを引き起こし/ むなしいもの(同)をもって/ わたしの怒りを燃え立たせた。/ それゆえ、わたしは民ならぬ者(異邦人)をもって彼らのねたみを引き起こし/ 愚かな国(同)をもって/ 彼らの怒りを燃え立たせる。」

 キリスト教会にとっても重要なモーセの十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。神様はご自分を「熱情の神」とおっしゃいます。これは口語訳聖書では、「ねたむ神」と訳されています。これは「ねたむほどに愛する情熱的、熱情的な愛」のことです。神様は、イスラエル(神の民)が他の神々(本当は神ではない、偶像であり、偽物の神)を礼拝し、これに心を寄せるとき、激しいねたみを起こされるのです。これはイスラエルを深く愛しているからこそ、起こることです。ねたみと言うとマイナスの感情というイメージが湧くかもしれませんが、正しいねたみもあります。夫婦の愛は神聖で、別の異性が入ることはあり得ませんし、許されません。万一そのようなことが起これば、夫婦の片方が強いねたみを起こします。これは全く正常なことで、正しいねたみです。正しいねたみが起こらないのであれば異常です。聖書では、神様と神の民の間柄は夫と妻です。妻であるイスラエルが偶像を礼拝し、これに心を寄せるなら、それは霊的な姦淫(不倫)の罪で、神様の正しいねたみ(熱情、怒り)を引き起こします。

 申命記32章21節の後半で神様は、「それゆえ、わたしは民ならぬ者(異邦人)をもって/ 彼ら(イスラエルの民)のねたみを引き起こし/ 愚かな国(同)をもって/ 彼らの怒りを燃え立たせる。」パウロは、ここに神様の深いお考えが記されていると悟ったのです。そこでローマの信徒への手紙11章11節で、こう書いたのです。「かえって、彼ら(ユダヤ人)の罪(イエス・キリストを拒否した罪)によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」「彼らにねたみを起こさせるため」を口語訳聖書は、「イスラエルを奮起させるため」と訳しています。

 異邦人が、イエス様を信じて救われてゆく様子を見て、ユダヤ人たちが「神様はなぜ、神の民である私たちユダヤ人を救わないで、異邦人をお救いになるのか」とねたみを覚え、神に怒りを覚え、「待てよ、私たちユダヤ人も、神様が送られた救い主を拒否して、神様の愛を無視して神様をねたませ、悲しませているのではないか」と神様の愛に気づき、発奮し、神様への愛を燃え立たせるようになる。これが神のめざしておられることだと、パウロは悟ったのです。神様は、ユダヤ人たちを何とかして救うために、ユダヤ人にこのような形で刺激をお与えになったのです。あるいは、イエス様を信じて救われてゆく異邦人たちを見て、ユダヤ人たちが「うらやましいな、私たちもあのように救われたい。よし、かたくなな心を捨てて、救い主イエス様を信じよう」と発奮する。神様はそれをめざして、イスラエルに発破をおかけになったと思います。

 旧約聖書のコヘレトの言葉4章4節に、このような御言葉があります。「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。」人間には向上心、競争心、ライバル心があります。健全な競争心・ライバル心は、互いが刺激し合い助け合い、共に向上することを可能にします(過度の競争はよくありませんが)。神様は異邦人にイエス・キリストを信じる信仰を与え、異邦人に永遠の命を与えることで、イスラエルの競争心を刺激なさったと思います。救われる異邦人を見てユダヤ人が、「うらやましいな、私たちもあのように救われて喜びたい。よし、思いきってかたくなな心を捨てて、救い主イエス・キリストを信じよう」と発奮し、実際にイエス様を信じる。神様は、このようになることをめざして行動しておられます。そして遂には、ユダヤ人も異邦人も、全世界の人々が救われること、これが神様の悲願です。これを読んで下さる方も、ぜひご自分の罪を悔い改め、イエス・キリストをご自分の救い主として信じて下さるようにお願い致します。できるだけ教会で洗礼をお受けになることをお薦め致します。

 さて、似たことはキリスト教会の歴史にも認めることができると思います。昨年はルターの宗教改革からちょうど500年の記念の年でした。プロテスタント教会の出現は、カトリック教会に刺激を与えたに違いありません。カトリック教会は自らの改革の必要を認め、自らを改革します。そして世界伝道に乗り出しました。大航海時代の船に乗って、です。アフリカ、アジア、南北アメリカに宣教師が派遣されました。この流れのなかでフランシスコ・ザビエルも日本に1549年に来たのです。このカトリックの世界伝道が、スペインやポルトガルの植民地政策に乗った面もややあったのは事実でしょう。しかし多くの宣教師は、純粋に伝道のために海を渡ったと思います。そこからプロテスタントが刺激を受けた面もあるのではないでしょうか。今の世界には、多くのキリスト教の派がありますが、それぞれが神様からいただいた賜物を生かし、互いによい刺激を与え合って、協力して世界伝道を進めることを、神様はお望みではないでしょうか。私たちが海外宣教にも多くの関心を持ちつつ、与えられた持ち場での伝道に励みたいと願います。アーメン(「真実に」)。

2018-07-11 21:17:15(水)
「イエス様の招きに、心を開いてください」 2018年7月8日(日) 聖霊降臨節第8主日礼拝説教 要旨
聖書: イザヤ書8章23~9章6節、マタイ福音書4章12~25節

 イエス様は先週の箇所で、悪魔から激しい誘惑を受けられ、その撃退されました。最後の誘惑は、悪魔を礼拝すれば、世界の全ての繁栄を与えるという誘惑、権力を与えるという誘惑でした。イエス様は、旧約聖書の申命記6章13節を引用して、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と答えて悪魔を撃退されました。権力を得てはいけないのです。ただ神様と隣人にお仕えすることが大切と悟ります。

 先週は、1995年に起きたオウム真理教の事件の1つの大きな区切りとなりました。教祖と元幹部6名の刑が行われたのです。特に教祖は悪魔の誘惑に負け、権力への欲望に負けていました。悪魔に奉仕する集団となってしまいました。あの事件は何だったのか改めて深く考える必要があると思います。キリスト教会の歴史も完全に清い歴史ではなく、様々な過ちを犯して来た面があります。私たちはオウム真理教を反面教師とし、常に「あのようにならないように」、「あのようにならないように」と自分を戒め、チェックし続けて生きてゆきたいと強く思います。

 悪魔の誘惑に打ち勝たれたイエス様は、洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれました。そして、お育ちになったナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれたのです。ガリラヤは、首都エルサレムから見れば地方です。いと小さき者を愛されるイエス様は、中央ではなく離れた町ガリラヤで伝道を開始なさるのです。そしてそれは、旧約聖書のイザヤ書で予告されていた父なる神様の意志だったのです。「ゼブルンとナフタリの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

 秋葉原での殺傷事件から10年たったそうです。オウム真理教の事件でもそうですが、あのような事件が起こると、容疑者の「心の闇」を解明する必要があると新聞等で論ぜられます。確かにそうだと思いますが、考えてみると「心の闇」は多かれ少なかれ、私たち皆が抱えていると思うのです。それは愛情に飢えても愛情が満たされないことから来る怒りであったり、汚ない欲望、ねたみなどです。聖書はこれを罪と呼びます。聖書は、私たち人間は皆、罪人(つみびと)だと教えてくれます。私たちは、人前に出せない罪深い心、恥かしい心を持ちながら、それを人には隠して何とか社会生活を営んでいるのではないかと思います。

 ある人が、「人は、そのような人に言えない、心の最も恥ずかしい部分でのみ、神に出会うことができる」と言われたそうです。私はそれを聞いて、「そうかなあ、必ずしもそうとは限らないのではないか」と思いつつ、しかしその方の言葉に当たっている部分もあると感じます。私たちは自分の罪の心を人に隠すことはできますが、神様に隠すことはできません。そこで神様(そして神の子イエス様)には正直に申し上げるほかありません。「神様、私にはこのように罪深い心があります。悔い改めても悔い改めても、完全には消えません。このように罪深い私でも救われるでしょうか?」するとイエス様はおっしゃると思うのです。「あなたのその罪を背負って、私は十字架で死んだ。それによってあなたの罪は赦された。安心して行きなさい。」確かに、私たちの心の奥底の最も人に見せられない罪深い部分で、救い主イエス・キリストとの真の出会いが起こり、嘘偽りのない正直な対話・祈りが起こり、悔い改めが起こると思うのです。このイエス様との最も深い真実な出会いは、心の闇を抱える私たちの救いの光です。

 この真の光イエス様を、私たちは宣べ伝える責任があります。私は学生時代に一人の青年を知っていました。彼は宗教的なことを求めている雰囲気をもっていました。私はそのうち、キリスト教会に誘おうと思って、実際には誘わないでいました。すると彼は私が知らない間に統一協会というカルト宗教に入ってしまったのです。それは文鮮明という韓国人を救い主と信じる偽りの宗教です。私は「しまった」と思いました。私がキリスト教会に誘っていれば来た可能性があったのに、私がそれをしなかったために悪魔に彼の魂を奪われてしまったのです。真の神様と真の救い主イエス・キリストを知ることが、人間の真の幸福です。真の神様を知らず、偽りの教祖に従ってしまうことは不幸です。私たちは、真の神様と真の救い主イエス様を、身の周りの方々にお伝えする聖なる責任を、イエス様から与えられています。神様に助けていただいて、その責任を少しずつでも果たさせていただきたいのです。

 さて、イエス様はガリラヤ湖でシモン・ペトロと兄弟アンデレを招き、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。二人は何と、すぐに網を捨てて従ったのです。イエス様はさらに別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとヨハネをお呼びになりました。するとこの2人もすぐに舟と父親を残して、イエス様に従ったのです。すぐに職業と父親を残してイエス様に従った決断の鮮やかさに、驚きます。しかし少しずつでも、イエス様(そして神様)に従う決断は必要です。日曜日は教会の礼拝に出席する、せめて家で聖書を読む、今回の水害のような災害があれば募金に応じる、自分の幸せのためだけに生きず、他人に奉仕するなどの生きかたを選ぶことができます。それは自己中心の罪から離れ、神様と隣人を愛する生き方になります。天国に至る生き方です。新約聖書のローマの信徒への手紙6章16節に、こうあります。「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」

 日々、少しずつでもイエス様に従う生き方を選び取る決断をし、神に従順に仕える奴隷(しもべ)となって、義に至らせていただきたいのです。これを読んで下さる方が、ぜひイエス様に心を開いて下さり、イエス様をご自分の救い主として信じ、イエス様に従って生きて天国に入って下さるように、心より祈ります。アーメン(「真実に」)。