日本キリスト教団 東久留米教会

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2022-09-11 0:38:07()
「あなたの息子は生きる」      2022年9月11日(日)礼拝説教
順序:招詞 コヘレトの言葉12:1、頌栄29、「主の祈り」,交読詩編69:1~16,使徒信条、讃美歌21・482、聖書 創世記1:1~8(旧約p.1)、ヨハネ福音書4:43~54(新約p.171)、祈祷、説教、讃美歌21・458、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(創世記1:1~8) 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

(ヨハネ福音書4:43~54) 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。


(説教) 本日は、聖霊降臨節第15主日の礼拝です。本日の説教題は「あなたの息子は生きる」です。新約聖書は、ヨハネによる福音書4章43節~54節です。小見出しは「役人の息子をいやす」です。

 この4章でイエス様は、サマリアという土地に行かれました。そこで一人のサマリア人の女性に、ご自分が真の救い主であると告げ、「私(イエス様)を信じなさい」と伝道されました。サマリアでは、多くのサマリア人が、イエス様を救い主と信じたのです。その後イエス様は、サマリアを出発して北に向かい、お育ちになったガリラヤに来られました。44節に「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」と書かれています。旧約聖書以来、神様から派遣された真の預言者は、真の神以外のものを礼拝する偶像礼拝者などに、「罪を悔い改めなさい」とはっきり語るので、人々から嫌われることが珍しくありません。耳ざわりのよいことを語るメッセンジャーは、しばしば偽預言者です。たとえば真の預言者エレミヤは、神様に忠実に語り続けて、人々にとって耳に痛いメッセージを語り続けたために人々に憎まれ、殺されかけています。

 45節「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭り(過越祭)に行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」2章を見ると、イエス様は過越祭の間エルサレムで、しるし(奇跡、複数形)をなさり、それを見て、多くの人々がイエス様を信じました。しかしイエス様は、彼らを信用されなかったとあります。「それは、全ての人のことを知っておられ、人間について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」と書かれています。奇跡を見たから信じたというのは深い信仰、真の信仰とは言えず、自分に都合のよいご利益だけを求める姿勢と言えます。ご利益さえ得ればよくて、真の神様に従っていこうという気持ちが薄いと言えます。イエス様は、そのような人々を信用されませんでした。

 ガリラヤの人たちがイエス様を歓迎したのも、エルサレムでイエス様がなさった複数のしるし(奇跡)を見たからです。それでは真の信仰とは言いきれません。イエス様は、イエス様を歓迎したガリラヤの人々をも信用なさらなかったと言えます。イエス様が彼らに、真の神様に従うように言えば、たちどころにイエス様を迫害する可能性があると思っておられたでしょう。「預言者は(正確にはイエス様は預言者以上の方、神の子ですが)は故郷では敬われない」と本心から思っておられたと思います。私はしばらく前の礼拝説教で、「エルサレムの人々はイエス様に敵対的だが、故郷ガリラヤはイエス様にとって安息の地」という意味のことを申し上げたと思いますが、訂正させて下さい。ガリラヤはイエス様にとって安息の地の面もあるが、同時にガリラヤにもイエス様に反発する人々もいたと。とすれば、イエス様がルカ福音書で「人の子(イエス様)には枕するところもない」と言われた御言葉が真実であったことが、分かります。神の子を受け入れない人間の罪が、多くの場所にあった。それでイエス様は十字架で殺されます。

 但し今日の場面は、そのガリラヤに、よい信仰の人もいたことを物語ります。しるしを見たから信じる表面的な信仰でない人もいたことが示されます。46節「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。」王とは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスかもしれません。その役人の名前は分かりません。僕がいるので、少し社会的地位がある人です。ガリラヤ人かなと思いますが、ローマ人の可能性もあるかもしれませんが、書いていないので分かりません。47節「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやして下さるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」イエス様は水をぶどう酒に変えられたと聞いていたかもしれません。「この方こそ救い主、神の子だ。この方ならいやして下さる」と信じ、必死にすがる思いでイエス様の元に来たに違いありません。

 イエス様は最初厳しいことを言われます。48節「あなた方は、しるしや不思議な業(奇跡)を見なければ、決して信じない。」イエス様は「見て信じる」信仰を信用しておられないのです。しかし役人は必死に訴えます。父親ですから当然です。「主よ、子供が死なないうちにおいで下さい。今すぐ来て息子をいやして下さい。」しかしイエス様は、行くとはおっしゃいません。50節「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」「あなたの息子は生きる。」確信に満ちた力強いイエス様の御言葉です。最新の翻訳である聖書協会共同訳は、「あなたの息子は生きている」と訳しています。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」この信仰が大事なのですね。見て信じるのではなく、見ないで信じる信仰。

 51節以下「ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、『昨日午後一時に熱が下がりました』と言った。それは、イエスが『あなたの息子は生きる』と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。」イエス様が癒して下さったと、この父親は確信しました。彼も家族も(家族と書いてある以上癒された息子も)こぞって信じた。イエス様が救い主であり、神の子であることをです。このヨハネ福音書は、この役人のように、「見ないで信じる信仰」こそ大切と強調しているのですね。

 この福音書の20章で、弟子の一人のトマスが、仲間の使徒たちが「私たちは復活されたイエス様を見た」と口々に言ったのに信じず、「私はあの方の手に釘をの跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と主張し、八日後に復活のイエス様がもう一度来られた時に、ようやく信じました。その時イエス様はトマスに、「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。「見ないのに信じる人」こそ幸いなのです。ここにいる私たちも、復活のイエス様を肉眼で見たことはありませんが、イエス様が復活して生きておられる救い主、神の子であると信じています。この信仰が幸いな信仰です。神様がこれからも、見ないでも聖書に書いてあるから信じる人々を、私たちの身の周りでまた世界中で、次々と起こして下さることを、切に祈ります。新約聖書のペトロの手紙(一)1章8節にこうあります。「あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」私たちは今既に、ある程度この状態に達していると思いますが、私たち皆が、さらに完全にこのようになれるように、神様に祈り求めます。

 信仰とは、基本的に見ないで信じることです。しかし納得いかないものを、無理やり信じ込むことではありません。最も信頼できる神様の御言葉、イエス様の御言葉、聖書の御言葉を信じることが信仰です。神様の御言葉、イエス様の御言葉には力があります。物事を創造する力、愛の力、造り出す力があります。ですからイエス様が「あなたの息子は生きる」と言われた時、息子は癒されたのです。旧約聖書のほとんど冒頭、創世記1章3節に、神様の第一声が記されています。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」神の御言葉には創造する(造り出す)力があります。神が「光あれ」と命じられると光が創造された、できたのです。旧約聖書のほとんどはヘブライ語で書かれていますが、私が教わったことによると、言葉という意味の言葉はヘブライ語で、「ダーバール」です。この「ダーバール」には「出来事」の意味もあるそうです。「言葉は出来事となる、言葉は出来事を引き起こす」ということを意味するのですね。「言葉=出来事」です。神様が「光あれ」と命じられると光が創造される。イエス様が「あなたの息子は生きる」と言われると、役人の息子に癒しの愛の力が働いたのです。

 新約聖書のヘブライ人への手紙11章1節に、おそらく聖書でただ一か所、「信仰の定義」が書かれています。「信仰とは何か」が書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」自分の(時には自分勝手な)願いが何でも必ず実現すると確信することではないと思います。そうではなくて、神様の約束の言葉は必ず実現する、神様の御心に適うことは必ず実現すると確信することと思います。その次にはこうあります。「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」そして昔の旧約聖書の時代の人々は、この信仰に立って神様を信頼し、神様に従って生きたので、神様に喜ばれたと書かれています。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、サムソン、ダビデ、サムエル、そして預言者たちがそうだったと。この名前のリストを見て思うのは、「この人たちは時に不信仰に陥って失敗もしているな。でも失敗しながらも悔い改めて、改めて神様に信頼して従い直したのだな」ということです。私たちも同じで、いつもいつも完璧な信仰には生きていないのですが、罪を犯したとしても悔い改めて、従い直す。悔い改めて従い直すことだけは、忘れないで最後まで信仰の道に生きたいと祈ります。

 神様の御言葉、イエス様の御言葉には創造的な力があると申しました。私たち人間の言葉にも、ある程度力があります。言葉で人を慰め、力づけることもできるし、逆に傷つけることもできます。その意味では恐ろしくもあります。自分の言葉で人を励ましたこともあったでしょうが、不当に傷つけたことも多いと思うと、本当に恥ずかしくなり、反省から反省、悔い改めから悔い改めに生きるほかないと痛感します。エフェソの信徒への手紙4章29節が思い出されます。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。」私たちが悪い言葉を使ったり、悪いことを行って罪を犯すと、私たちの内に住んでおられる聖霊が悲しまれるというのです。「神の聖霊を悲しませてはいけません」の御言葉は、聖霊が単なる力ではなく、人格(神格)を持つ神の霊、イエス様の霊であることを明らかに示します。
 
 私が最初にいただいた聖書は、高校に入学した時に国際ギデオン協会が配布して下さった和英対訳の小型の新約聖書です。本文より前にこんなページがありました。「あなたはその時、ここを読んで下さい。」喜んでいる時、悲しんでいる時、試練の時、「ここを読んで下さい」と聖書の個所が示されていました。その聖書を手にしたのは15才で、洗礼を受けたのは22才ですが、この欄はよく活用しました。聖書をすぐ通読するのは困難ですから、「こういう時はここを読んで下さい」というガイドは、ありがたかったです。

 私が昔、ちょっとした試練を受けた時に、非常に神様の慰めを受けた御言葉は、イザヤ書43章1節以下です。その頃、イザヤ書を毎日1章ずつ読んでいました。読んでも意味が十分には分からない。そんな日々が続いていましたが、43章だけは非常に心に染み渡りました。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今こう言われる。『恐れるな。私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水を中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。私は主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。私はエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。私の目にあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛し、あなたの身代わりに人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、私はあなたと共にいる。』」その時の私は、この御言葉に神様からの深い慰めと励ましを感じました。

 私たちの信仰は、最終的にはまだ完成していない神の国の完成と、私たちが復活の体をいただいて永遠の命に入ることを、希望をもって待ち望む信仰です。この意味で、信仰は希望です。ローマの信徒への手紙8章には、こうあります。「(私たちは)体の贖われることを(復活の体が与えられることを)、心の中でうめきながら待ち望んでいます。私たちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないもの(神の国、復活の体)を望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」忍耐して希望をもって待ち望む。信仰による神の国と永遠の命の希望を抱きながら、私たちに与えられた日々の責任を喜んで果たし、周りの方々に主イエス・キリストを指し示して、一日一日を大切に丁寧に生きて参りたいと願います。

(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、御名を讃美致します。9.11ニューヨーク同時多発テロから21年。テロで大きな傷を受けた方々に、神様の愛と慰めを注いで下さい。イエス様の十字架と復活の大きな恵みによって、私たちを真の意味で自由な者として下さり、感謝申し上げます。この自由を自分勝手に用いるのではなく、神様と隣人に喜んでお仕えする方向で用いることができますように、私どもをお導き下さい。コロナ、コロナ以外の病の中にある私たち皆を、あなたが完全に癒して下さい。ウクライナが早く平和になりますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

2022-09-04 0:35:58()
「真の自由を与えたキリスト」 2022年9月4日(日)礼拝説教
順序:招詞 マタイ福音書5:43~44、頌栄28、「主の祈り」,交読詩編68:20~36,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・120、聖書 イザヤ書54:1(旧約p.1150)、ガラテヤの信徒への手紙4:21~5:1(新約p.348)、祈祷、説教、讃美歌21・566、献金、頌栄27、祝祷。 

(イザヤ書54:1) 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え/産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは/夫ある女の子供らよりも数多くなると/主は言われる。

(ガラテヤの信徒への手紙4:21~5:1) わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、/喜びの声をあげて叫べ、/産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、/多くの子を産むから。」ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第14主日の礼拝です。本日の説教題は「真の自由を与えたキリスト」です。新約聖書は、ガラテヤの信徒への手紙4章21節~5章1節です。小見出しは「二人の女のたとえ」です。できればガラテヤの信徒への手紙での説教を月1回ほど行いたいのですが、現実には月1回は難しく、前回は7月17日(日)でした。

 今日の最初の21節で、著者パウロ(イエス・キリストの使徒、弟子)は呼びかけます。「私に答えて下さい。律法の下(もと)にいたいと思っている人たち。」ガラテヤの教会には、自分たちがイエス・キリストの恵みの福音の下にいることが、十分分かっていない人々が多かったようです。私たちも時にそうなることがあるかもしれないので、今日の個所を読むことで、私たちが旧約聖書の律法の下にいるのではなく、イエス・キリストの恵みの福音の下にいる現実を、何回でも確認したいと思います。ガラテヤの信徒への手紙3章13節に、こうあります。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。」イエス・キリストが、私たちの全部の罪の責任を全部背負って十字架で死なれ、私たちが受けるべき神様の裁きと死(呪い)を、全部引き受けて下さいました。これによって私たちは、律法の呪いから完全に解放されました。自由の身になったのです。

 解放されたとは、解き放たれて、自由の身にされたということです。神の子になったということです。イエス様を信じて洗礼を受けた人は皆、神の子にされました。すばらしい恵みですね。律法の呪いとは、モーセの十戒に代表される律法のたった1つを守ることに失敗しても、有罪の判決を受けるということです。しかし私たちは、その律法の呪いから完全に解放されています。イエス様が私たちの受けるべき裁き(呪い)を十字架で全部引き受けて下さったので、律法はもはや私たちに呪い(裁きと死)を及ぼす力を失ったのです。私たちは、もはや律法の呪いの下にはおりません。私たちはイエス様の十字架と復活による恵みの福音の下にいます。

 パウロは、このことを分かってもらおうとして、やや独自の論理でガラテヤ教会に、分かってもらおうとします。21節「私に答えて下さい。律法の下にいたいと思っている人たち、あなた方は、律法の言うことに耳を貸さないのですか。」「あなた方は律法が好きなようだから、律法の書(旧約聖書)に基づいて、あなた方がもはや律法の呪いの下にいないことを証明してあげましょう」というわけです。パウロは、創世記のエピソードを持ち出します。22節「アブラハムには二人の息子(イシュマエルとイサク)があり、一人は女奴隷(ハガル=(言葉は悪いが)側室)から生まれ、もう一人(イサク)は自由な身の女(サラ=正妻)から生まれたと聖書(旧約聖書、律法)に書いてあります。」パウロはここで、女奴隷の子(イシュマエル)と自由な身の女(奴隷でない女)の子(イサク)を対比しています。これはパウロによるたとえを用いた説明です。とても大事な内容です。女奴隷の子(イシュマエル)は「律法の下にいたいと思っている人たち」の象徴であり、自由な身の女(奴隷でない女)の子(イサク)は、イエス様の恵みの福音の下にいる人々(クリスチャンたち)の象徴だというのです。
 
 23節「ところで、女奴隷(ハガル)の子(イシュマエル)は肉によって生まれた。」
神様は、神の民イスラエルの先祖アブラハム(最初の名はアブラム)が75才のときに約束を与えられました。「あなたの子孫にこの土地(カナン、イスラエルの土地)を与える」と。「あなたの子孫」というからには、アブラムとサラ(最初の名前はサライ)夫婦に子供が生まれると約束されたことになります。なのに、アブラムとサライ夫婦になかなか子供が生まれません。アブラムは半ばあきらめたのか、後に神様にこう言います。「あなたは私に子孫を与えて下さいませんでしたから、家の僕(しもべ)が跡を継ぐことになっています。」すると神様がアブラムを励まして、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」つまりアブラムとサラ夫婦に子供が与えられると、再度約束して下さったのです。神様はさらにアブラムを外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と言われました。星のように無数に増えると約束されたのです。アブラムは神様を信じ、神様の約束を信じました。神様はそれを「彼の義」と認められました。まだ全然実現していない神様の約束を信じたアブラムの信仰を「よし」と認めて下さったのです。これを信仰義認と呼びますね。

 ところがその後もなかなか、アブラムとサライの間に子供が生まれないのです。しびれを切らした妻のサライがアブラムに言います。「主は私に子供を授けて下さいません。どうぞ、私の女奴隷の所に入って下さい。私は彼女によって、子供を与ええられるかもしれません。」アブラムは、「それはいけない。神様の約束をあくまでも信じようよ」と言えば立派なのですが、アブラムも不信仰に陥り、サライの言う通りに行動し、女奴隷ハガルと関係を持ちます。ハガルは身ごもり、アブラムは86才にして男の子イシュマエルを得るのです。しかしこれは、神様の御心にあまり適わなかったと思います。その13年後に、人の姿をした神様の使い三人がアブラムの所に来て、その一人(神様ご自身のようです)が「私は来年の今頃、必ずまたここに来ますが、その頃には、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」と言います。サラは密かに笑います。「今更無理だ」と。しかし神様は約束を100%守られます。本当に翌年、アブラハムとサラの間に男の子、約束の子イサクが、遂に誕生しました。アブラハム100才、サラ90才の時です。何と25年間、時に疑いに陥りながらも神様の約束を信じ続けたのです。夫婦は大きな喜びに包まれました。この子がイサク、人間の罪深い非常手段によってではなく、ただ神様の約束によって、神様の恵みによって生まれた子がイサクです。パウロは、クリスチャンもこのイサクと同じだというのです。神様の恵みによって、ただ神の恵みによってのみ神の子とされたのが、イエス様を信じるクリスチャン一人一人です。

 ガラテヤ書に戻り、24節の途中から。「すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方(ハガル)は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルはアラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷をなっているからです。」シナイ山は旧約聖書の出エジプト記で、イスラエルの民のリーダー・モーセが、神様から十戒を授かった山、律法のシンボルの山です。東久留米教会の中にも登った方々がおられますね。「それは今(パウロの時代)のエルサレムに当たる。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たち(多くの住民たち)と共に奴隷になっているから」、とパウロは書きます。パウロの時代のエルサレムは、クリスチャンの本拠地ではなく、いわばユダヤ教の本拠地、律法主義の本拠地だったと言えます。律法の奴隷となっている人々の本拠地であり、イエス様の十字架と復活の福音による自由な愛に生きていない人々の本拠地だとパウロは述べます。

 26節「他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これは私たちの母です。」天のエルサレムは、天国です。私たちは天のエルサレムに属する民、天国の民です。「天のエルサレムは、いわば自由な身の女(アブラハムの正妻サラ)であって、これは私たちの母です。」私たちは、イサクと同じに、神様の恵みの約束の意志によって生まれた神の子です。

 27節、これは本日の旧約聖書イザヤ書54章1節の引用です。「なぜなら、次のように書いてあるからです。『喜べ、子を産まない不妊の女(サラ)よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ(サラよ)。一人取り残された女(サラ)が夫ある女よりも、多くの子を産むから。』」神様の約束を信じて生きる者の幸せが強調されています。神様の恵みを信じて、イエス様を愛して祈り続ける人生に、祝福があるということではないかと思います。それはこの地上で大金持ちになるとか、支配者になるという祝福ではないと思います。もちろん地上でもある程度の祝福はあるのですが、思いに任せないこともあります。私たちの国籍は天にあるのですから、最終的に天国で永遠の命に入る祝福のことと思います。エフェソの信徒への手紙1章18節の御言葉が思い出されます。「(神様が)心の目を開いて下さるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。」これによると、天国は私たちが想像できないほど祝福されたすばらしい所であるようです。地上で多くの苦労があったとしても、天国はそれを補って余りある、それ以上の聖なる喜びに満ちた所のようです。もちろん急いで天国に行く必要はないので、地上でできるだけ長く生きていただきたいと思いますが、イエス様の十字架と復活を信じる人には、この希望が確実に約束されています。「一人取り残された女が、夫ある女よりも多くの子を産む」を比喩的な表現ととれば、地上でつらいことがとても多くても、最後には神様の天国の祝福で報われるの意味にとることもできます。

 ガラテヤ書に戻り、28節以下「ところで、兄弟たち、あなた方は、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者(イシュマエル)が、霊によって生まれた者(イサク)を迫害したように(創世記にその場面あり)、今も同じようなことが行われています。」律法主義者・ユダヤ主義者が、イエス様の恵みに生きるクリスチャンを迫害していたガラテヤ教会の現実を指します。30節「しかし、聖書(旧約聖書、律法)に何と書いてありますか。「女奴隷(ハガル)とその子(イシュマエル)を追い出せ(確かにそう書いてある)。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである。」パウロが言いたいことは、律法主義で生きて行ってはいけない。そうではなく、イエス様の十字架と復活の福音に全面的に頼りなさい。イエス様は、本当に私たちの全部の罪への裁きを背負って、十字架で死んで下さった。イエス様の愛の十字架だけに、私たち罪人(つみびと)を救う力がある。罪人(つみびと)に永遠の命を与える力は、世界広しと言えども、ただイエス様の十字架の身代わりの死と復活の福音だけにある。それだけに頼りなさい。律法(十戒)は確かに神様の聖なる意志を示しているが、私たちは罪人(つみびと)であり、全力で努力しても律法を100%守ることができない。自力で律法を守るならば、100%守らないと天国に行けない。それは誰にもできない。律法主義で人の十倍も努力したパウロにもできなかった。そうではなく、あなたの罪を全部背負って十字架で死なれたイエス様だけに頼りなさい。
 
 31節「要するに兄弟たち、私たちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」今既に。罪を全て赦されて、神の子とされている。律法の実行によってではなく、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、神の子とされている。5章1節「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。」

 イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けた人は、イエス様と共に十字架で死に、イエス様と共に新しい命に復活して、生きているのですね。生きているということは、聖霊に満たされて、父なる神様を愛し礼拝し、自分を正しく愛し、隣人を愛することです。さらにはイエス様と同じように、敵までも愛し始めています。これが真の意味で生きることと信じます。「キリストは私たちを自由の身にして下さった。」自由にされた、解放された。何から解放されたのか。私は以前、聖書に基づいてこう学びました。私たちは「罪と、律法と、悪魔と、死と、神の怒り」から解放された。イエス様の十字架と復活によってです。「罪と、律法と、悪魔と、死と、神の怒り」の支配から解放されたと。解放された私たちの生きる方向は、罪ではなく愛です。聖霊に満たされて、神様を愛して礼拝し、自分を正しく愛し、隣人を愛し、敵までも愛する。イエス様ほどにはできなくても、聖霊に導かれて、この方向に歩み始めています。

 宗教改革者マルティン・ルターの有名な著書は『キリスト者の自由』です。短めの本です。ルターがその冒頭に書いた2つの文が「キリスト者の自由」を見事にまとめています。「キリスト者は、全ての者の上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。」自由で解放されているのです。そして「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。」前半と逆のことを言っているようですが、理屈では矛盾するこの2つが、一体になっているのがキリスト者・クリスチャンです。全てのものから解放されているゆえに、今度は喜んで進んで、自由意志によって自発的にすべての方にお仕えするのがキリスト者だと言っています。これが本当の自由です。今日の説教題を「真の自由を与えたキリスト」としましたが、イエス様は十字架と復活によって、私たちに真の自由を与えて下さいました。一番自由な方はイエス様なのです。神の子として天国の王座にいらしたのに、私たちを愛して、私たちの足を洗い、私たちの罪を背負うために進んで十字架のどん底に降りて来て下さいました。イエス様を見つめる時、私たちはイエス様の真似をすることが、本当の意味で自由な生き方であることを悟ります。

 パウロはこの手紙の6章14節で書きます。「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」私ども夫婦は、先週の日曜日に印象的な十字架を仰ぎました。週報にも書きましたが、礼拝に出席した広島流川教会の礼拝堂の十字架は焦げていました。原爆が落ちた地の教会で、古い会堂は原爆で破壊されました。その焼けた会堂の木材2つを組み合わせて素朴な十字架を作り、それを掲げて青空礼拝で再開したそうです。やがて礼拝堂を再建し、また古くなって建て直したようですが、今もその原爆で焼け焦げた木材で造った素朴な十字架を掲げて礼拝が献げられていました。原爆を忘れないためでしょう。十字架に架けられ復活されたイエス様を思いながら、同時に原爆を忘れないで、イエス様と共に愛と平和の世界を造ってゆきたい。そのような気持ちの表れではないかと思い、焼け焦げた十字架を心に刻んで参りました。

(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、御名を讃美致します。イエス様の十字架と復活の大きな恵みによって、私たちを真の意味で自由な者として下さり、感謝申し上げます。この自由を自分勝手に用いるのではなく、神様と隣人に喜んでお仕えする方向で用いることができますように、私どもをお導き下さい。コロナ、コロナ以外の病の中にある私たち皆を、あなたが癒して下さい。ウクライナが早く平和になりますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

2022-08-21 0:07:05()
「福音の種を蒔く人、刈り入れる人」 2022年8月21日(日)礼拝説教
順序:招詞 マタイ福音書5:43~44、頌栄85(2回)、「主の祈り」,交読詩編68:1~19,使徒信条、讃美歌21・401、聖書 コヘレトの言葉11:1、6(旧約p.1047)、ヨハネ福音書4:31~42(新約p.170)、祈祷、説教、讃美歌21・386、献金、頌栄92、祝祷。 

(コヘレトの言葉11:1、6) あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。~朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。

(ヨハネ福音書4:31~42) その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第12主日の礼拝です。本日の説教題は「福音の種を蒔く人、刈り入れる人」です。聖書は、ヨハネによる福音書4章31節より42節です。「イエスとサマリアの女」の小見出しの箇所の後半です。
 
 一人のサマリア人の女性が、イエス・キリストに出会い、真の礼拝に導かれてゆきます。そして神様からの素晴らしいプレゼントである「永遠の命に至る水」、つまり聖霊を受ける方向に導かれています。そして自分が会っているこのイエスという方こそ、イスラエル人もサマリア人も待ち望んでいるメシア(救い主)かもしれないとの思いに至り、喜んで町に出て行き、「さあ、見に来て下さい。私が行ったことを全て言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言って回りました。サマリアの人々は素直で、町を出てイエス様のもとへ、やって来たのです。

 31節から。「その間に、弟子たちが『ラビ(先生)、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『私にはあなた方の知らない食べ物がある』と言われた。弟子たちが、『誰かが食べ物を持って来たのだろうか』と互いに言った。イエスは言われた。『私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。』」イエス様は、ここで深い真理を語られます。「私の食べ物、つまり私の喜びは、ご飯を食べることだけではない。私にとってご飯を食べるよりも嬉しいことは、父なる神様の御心を実行すること、神様に喜ばれることを行うことだ。父なる神様に与えられた使命を行うことが、私の最大の喜びだ」とおっしゃっています。あのサマリアの女性に伝道して、女性がイエス・キリストを救い主と信じて、永遠の命を受けようとしている。こうなっていることが、私の最大の喜びだ」と、おっしゃっています。

 「成し遂げる」の言葉で、このヨハネ福音書のイエス様の十字架の場面を思い出す方もあると思います。ヨハネ福音書19章で、イエス様は十字架の上で、「成し遂げられた」と言って、頭を垂れて息を引き取られました。父なる神様から与えられた使命を成し遂げることができた。全ての人の全ての罪の責任を身代わりに背負って死ぬ使命を果たすことができた。ここには達成感、充実感、喜びさえ感じられます。「これで、私を信じる者が皆、永遠の命を確実に受けることができるようになった。私の十字架の死によって、父なる神様と罪人(つみびと)たちとの間の和解を達成することができた。よかった。本望だ。あとは三日目に私に与えられる復活を待てばよい。」ヨハネ福音書の十字架の場面には、悲壮感があまり感じられないと私は思いますが、いかがでしょうか。「イエスは、自ら十字架を背負い」ゴルゴタへ向かったと書かれています。「自ら十字架を背負った。」いやいやながらではなく、父なる神様と私たちの間の和解を成し遂げるために、ご自分の意志で進んで十字架を背負ったという書き方です。使命を成し遂げるために、積極的に十字架を担うイエス様の姿が、ヨハネ福音書では強調されています。イエス様は、言われます。「私の食べ物(喜び)とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と。

 少し前にお話しした通り、私と妻に洗礼を授けて下さった牧師が、先月7月1日に天に召されたのです。割に大きな教会の牧師を歴任され、約10年前から茨城県守谷市で開拓伝道を開始され、伝道所を開設されました。その新しい教会のためにまだまだ働くおつもりだったと思いますが、約1年前にご病気が発見され、残念ながら1年間のご闘病で天に召されました。私がご闘病を知ったのは、今年の4月頃で、もちろん癒されるように祈り続けました。奥様から私ども夫婦に最近いただいたお手紙では、最後の数か月の闘病はだいぶきつかったようです。お手紙には「それでも、3月6日(日)~4月17日(イースター)は毎週礼拝に参席でき、イースター礼拝において、教会員御夫妻に与えられた男児に、幼児洗礼を授けることが叶い、大きな喜びでした」と書いてあります。妻が先日、奥様にお目にかかって来ましたが、「ご病気の中にあっても、その洗礼式の時は、力強く万全になさった」とのことで、それは大きな恵みだったと思いますし、「私の食べ物(喜び)は、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われたイエス様のお気持ちにも通じる、聖霊による喜びに満たされた時だったのではないかと、感じています。

 次に、イエス様の語りは、伝道のことに進みます。35節から38節「あなた方は、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言ってるではないか。私は言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も、刈り入れる人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなた方が自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、私はあなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方はその労苦の実りにあずかっている。」

 当時、種蒔きから収穫まで4ヶ月かかるという考えがあったそうです。私たちは言うかもしれません。「伝道の種を蒔いたばかりだ。収穫はまだ先だ。」ところがイエス様は、「目を上げて畑を見るがよい。私たちの身の周り、この世界を、もう一度改めて見てごらん。色づいて刈り入れを待っている。」イエス様から見れば、機は熟している。伝道の畑では、麦が色づいて刈り入れを待っている。現に多くのサマリア人が、この場面でイエス様に会いにやって来て、イエス様を救い主と信じてゆくのです。私たちは、「サマリアではそうだったにしても、今の私たちの周りは違う」と言いたくなるかもしれません。でも「目を上げて」改めて考えてみると、神様の恵みは、与えられているのです。先々週の礼拝には、学校の宿題とはいえ、多くの中高生が出席して、私は驚きました。その日の午後の小学生以下対象の子ども会には。二人と少ないけれども、子どもたちも来ました。今日の午後4時からも、何人来るかは分かりませんが、中高生の会を行います。貴重な伝道の機会であり、イエス様は「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」と、私たちに発破をかけておられるのではないでしょうか。まずは、今日4時からの中高生の会に、皆様、祝福をお祈りして下さい。「こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」伝道には、神様の御言葉の種を蒔くことと。刈り入れるという2つの要素がありますね。この2つは区別されると共に、同時進行の面もあります。私たちは種を蒔いていると同時に、洗礼を受ける方があれば刈り取りもすることになります。

 旧約聖書に「コヘレトの言葉」という書があります。以前は「伝道の書」という題でした。その11章1節に、こうあります。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見出すだろう。」私が洗礼を受けた日に、洗礼を授けて下さった牧師が、教会から私にプレゼントされた口語訳聖書の表紙の次のページに達筆な文字で書いて下さった御言葉です。口語訳では、「あなたのパンを水の上に投げよ。多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」この意味には、いくつかの解釈があるようです。1つの解釈は、「慈善の行い、愛の行いをしなさい。それはすぐに実を結ばないことも多い。しかし多くの日の後、どこかで実を結ぶ」というものです。今日は歌いませんが、前の讃美歌536番の歌詞は、この御言葉をそう解釈した歌詞だそうです。「むくいを望まで(望まないで)人に与えよ。そはかしこき、み旨ならずや。水の上(え)に落ちて、流れし種も、いずこの岸にか、生い立ちものを。」東久留米教会の長年の会員で、今は天国におられる松下静枝さんの愛唱讃美歌でした。松下さんをご存じない方も増えましたね。

 私は洗礼を受けたプレゼントでいただいた聖書になぜこの御言葉を牧師は書いて下さったか、直接尋ねたことはありません。ですがこれは伝道についての御言葉ではないかなと、思って来ました。そのような解釈もあると思います。「イエス・キリストの福音を宣べ伝えなさい。多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」「神の御言葉を宣べ伝えることは、水の上にパンを投げるような一見空しく見える営みだが、多くの日の後、実を結んだことをあなたは知るだろう。」伝道を励ます御言葉と解釈されて来たと思います。3年前にコヘレトの言葉の分かり易い解説書を出された東京神学大学の小友聡先生は、その本の中で、「あなたのパンを水の上に投げよ」は、「積極的な行動への勧め」だと書いておられます。であれば、愛の業、そして伝道の業を積極的に進めることへの促しになります。

 コヘレトの言葉11章6節には、こうあります。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」実に積極的な御言葉で、とことん種を蒔き続けよと言っています。夜も(眠らないで?)種を蒔けは、現実には無理な気がしますが、小友先生はこれについて、「すべてが徒労に終わるかもしれない。もう諦めるしかないという悲観的な結論に至る瀬戸際で、だからこそ最善を尽くし、徹底して生きよと、コヘレトは勧めます。~空しく、先が見えないからこそ、今、最善を尽くす生き方をせよ、とコヘレトは述べています」と書かれ、大変励まされます。小友先生は、マルティン・ルターが言ったとされる「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日、リンゴの木を植える」の言葉につながると言われます。なるほどと思います。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」テモテへの手紙(二)4章2節に通じると感じます。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」

 ヨハネ福音書に戻ります。「あなた方が自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、私はあなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方はその労苦の実りにあずかっている。」苦労して福音の種を蒔く人がいて、別の人が後に刈り入れる。同じようなことを、イエス様の使徒パウロが、コリントの信徒への手紙(一)3章で述べていますね。「私は植え、アポロ(別のクリスチャン)は水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなた方(教会)は神の畑、神の建物なのです。」

 パウロが植えたとは、パウロが種を蒔いたということでしょう。アポロは水を注いだ、つまりケアをしたと言えます。現実の伝道においては、御言葉の種を蒔くだけでなく、相手のための祈りや配慮、ケアが必要になります。相手の性格や考え方も様々なので、相手に合わせた具体的な工夫をする愛の労苦が必要になると思います。イザヤ書28章に「農夫の知恵」という箇所があって、これは実際の農業の際に種の種類によって蒔き方を変える知恵が必要で、神様がその知恵を与えて下さると書かれています。「種を蒔くために、耕す者は一日中耕すだけだろうか。土を起こして、畝を造るだけだろうか。畑の面を平らにしたなら、いのんどとクミンの種は、広く蒔き散らし、小麦は畝に、大麦は印をしたところに、裸麦は畑の端にと、種を蒔くではないか。神はふさわしい仕方を彼に示し、教えられる。」御言葉を宣べ伝える伝道においても、やはり相手に合わせた愛の工夫は必要になるでしょう。

 新約聖書は、御言葉・福音の種を蒔きなさいと進めると共に、愛の種を蒔きなさい、善を行い続けなさいとも、私たちに発破をかけます。ガラテヤの信徒への手紙6章7節以下に、こうあります。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く(自分勝手な悪を行う)者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く(愛の行いをする)者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」

 愛の種を蒔くにしても、福音・御言葉の種を蒔くにしても、すぐに実を結ぶわけではないので、蒔くことは忍耐強い労苦と思います。詩編126編5~6節は、種蒔きの労苦を語り、そして刈り入れ、収穫の喜びの両方を語ります。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰って来る。」このように最後には、このような喜びが約束されています。

 本日のヨハネ福音書は、サマリアの多くの人々がイエス様を救い主と信じて救われた、永遠の命を受けたと述べているようです。イエス様も父なる神様も、深く喜ばれたに違いありません。私たちは日本中が、世界中が早くこうなることを願っています。イエス様は、ルカ福音書10章で、こう言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」「収穫は多い」とおっしゃいます。その御言葉を信じて、私どもは、福音の種蒔きと伝道相手の方のための祈りとケアに、励ませていただきたく思います。アーメン。




2022-08-14 0:43:12()
「永遠の命に至る水」 2022年8月14日(日)礼拝説教
順序:招詞 マタイ福音書5:43~44、頌栄85(2回)、「主の祈り」,交読詩編67,使徒信条、讃美歌21・361、聖書 申命記7:6~8(旧約p.292)、ヨハネ福音書4:1~30(新約p.168)、祈祷、説教、讃美歌21・404、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(申命記7:6~8) あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

(ヨハネ福音書4:1~30) さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―― ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第11主日の礼拝です。本日の説教題は「永遠の命に至る水」です。聖書は、ヨハネによる福音書4章1節より30節です。小見出しは、「イエスとサマリアの女」です。イエス様が直接、伝道なさっている個所と言えます。1節から「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼あ(バプテスマ)を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、―洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。」巻末の地図6を見ると、イスラエルの中で南がユダヤ、北がガリラヤ、真ん中辺りがサマリアだと分かります。

 イスラエル国は元々一つでしたが、紀元前922年(イエス様の時代より約900年も前)に、南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂します。南ユダ王国の首都がエルサレム、北イスラエル王国の首都がサマリアです。最も古くは、この頃からエルサレムとサマリアの対立が始まりました。その後、紀元前722年に北イスラエル王国がアッシリア帝国に攻撃されて滅びます。サマリアにアッシリア人が入って来て、イスラエル人と結婚することもあったでしょう。サマリア人は、純粋なユダヤ人ではなくなったと言えます。それでも真の神様を礼拝していたようですが、サマリア人の聖書は、モーセ五書と呼ばれる旧約聖書の最初の五冊だけだったそうです。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。彼らはゲリジム山という山で、礼拝しました。こうして南ユダ王国のエルサレムの人々とは、少々違う信仰の形式になったようです。アッシリアの宗教も入り込んだ可能性があります。ユダヤ人から見れば、サマリア人は純粋なユダヤ人ではない(半分異邦人、外国人)、礼拝の仕方も独特。「サマリア人は由緒正しい、正統的なユダヤ教徒ではない」と低く見られ、差別されるようになりました。民族差別、それは今も世界中あちこちにあります。日本にもあるでしょう。アイヌや沖縄の方々m挑戦半島の方々を低く見た歴史があることを、なかったことにはできないでしょう。しかしイエス様は、ユダヤ人でありながらサマリア人を差別なさらなかったのです。当時、女性も低く見られていました。しかしイエス様はもちろん、女性を差別することも決してなさいません。多くのユダヤ人なら避けるサマリアを、イエス様は避けないで通られます。決して、いやいや通られたのではないと思います。
 
 5~6節「それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエス様は旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。」この井戸が伝道の舞台になります。イエス様は旅に疲れて井戸のそばに座っておられました。イエス様は神の子ですが、私たちと同じ肉体を持つ人間です。ですから疲れることもあります。十字架の上でも、本当に痛みに耐えて下さいました。神の子だから痛くなかったということは全くないのです。

 7~9節「サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女である私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」イエス様は、本当はご自分が最も大切な「永遠の命に至る水」をこの女性に与えようとしておられるのですが、対話のきっかけを作るために、ご自分からサマリアの女性に声をかけられました。イエス様はプライドから自由な方です。私はユダヤ人だからサマリア人に声をかけたりしないとか、私は偉いのだから、相手からまず自分に声をかけるべきだ、などとはおっしゃいません。イエス様は「水を飲ませて下さい」とへりくだる自由をお持ちです。

 イエス様は、すぐ主題に入られます。10節「イエスは答えて言われた。『もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませて下さい」と言ったのが誰であるか(救い主キリストである)を知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。』」「生きた水」が最も大切なテーマであることが分かります。女性は戸惑っています。11~12節「女は言った。『主よ、あなたは汲むものをお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか(無理でしょう、と言いたげ)。あなたは、私たちの父(先祖)ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から水を飲んだのです。』もちろん喉の渇きを癒し、生きていくために水は不可欠、特に猛暑の8月は水分補給が不可欠です。でもイエス様が与えようとしている最も重要な水は、井戸から汲む水、あるいはペットボトルで飲む水ではないのですね。

 イエス様は、一番大切なことを言われます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女性は言います。主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水を下さい。」女性はまだよく分かっていません。水汲み労働をしないで済むなら、嬉しい。その水を下さいと言います。結論を言えば、私は「永遠の命に至る水」は聖霊(神様の清き霊)だと思っています。聖霊をいただくには、「下さい」と言うだけでは、無理です。

 この暑い地方で、水汲み労働は早朝や夕方の仕事だと聞きます。暑い正午に水を汲みに来る人はいない。あえて人の来ない正午に水を汲みに来たこの女性には、理由があったと言われます。18節でイエス様が見抜かれます。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」この名前の分からない女性は、五回結婚しました。今は結婚していない男性と共に暮らしています。これでは評判はよくないでしょう。人目を避けて、暑い正午に水を汲みに来たと考えられています。

 五回結婚するほど、愛情に飢えていたのかもしれません。それでも心の中が本当には満たされなかったようです。六人目と同棲しています。五回結婚して別れたこともよいとは言えませんし、六人目とは結婚もしないで共に暮らしているのですから、これは明らかに罪です。この罪を隠したまま、神様の清き霊である聖霊を受けることはできません。罪と認め、罪と告白して、悔い改めることが必要です。

 女性は「私には夫はいません」と言っただけなのに、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と、言わなかったことまで見抜かれた女性は、驚いて言います。19節「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」この男性は只者ではない。神様に遣わされた人、預言者に違いない。いえ、実際には預言者以上の方、神の子にしてメシア(救い主)なのです。「この方が預言者なら、神様をよく礼拝する方だろう」と思ったのでしょう、女性は礼拝のことを語り出します。「私ども(サマリア人)の先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなた方(ユダヤ人)は、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」どちらが正しいのでしょうか、と問いたいのではないでしょうか。

 イエス様は、「婦人よ、私を信じなさい」と踏み込みます。イエス・キリストを救い主と信じることが、一番大切なことです。「私を信じて、罪の赦しを受けなさい。そして真の礼拝を献げる喜びに入りなさい」という招きだと思うのです。「あなた方が、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。私(イエス・キリスト)を信じる者は、どこにいても真の礼拝を献げることができるのだ」という招きです。エルサレムとか、ゲリジム山とか、もはや場所が問題ではない。

 22節「あなた方は知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」あなた方サマリア人は、真の神様をよく知らないで礼拝しているが、私たちユダヤ人は真の神様を知って礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」確かに、神様はまずユダヤ人(イスラエルの民)を神の民として選ばれました。それは間違いありません。ユダヤ人から初めて、世界の諸民族(異邦人)をも救いに導くことが、神様のご計画の順序です。イスラエルが強く多かったから選ばれたのではなく、その逆で、貧弱な民だったから選ばれたのです。神様は傲慢を嫌われるのです。

 本日の旧約聖書・申命記7章6節以下にそれが書かれています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたたちを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」このイスラエルの民、ユダヤ人から救いが始まり、異邦人、全世界に進みます。

 23、24節でイエス様は、礼拝について非常に重要なことを述べられます。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊(聖霊)と真理をもって父を礼拝する時がくる。今がその時である。」そうです、今がまさにその時です。「なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」私は説教前の祈りでよく「この礼拝が神様に受け入れていただき、喜んでいただける霊と真理の礼拝になりますように、上から導いて下さい」と祈りますが、それはイエス様のこの御言葉に基づいています。霊は、神の清き霊である聖霊でしょう。真理ですが、聖書の言う真理は、理屈であるよりも聖書の御言葉(たとえばモーセの十戒)であり、イエス・キリストご自身です。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」聖霊に導かれ、イエス・キリストを通して父なる神様に近づく礼拝でなければならない、ということではないでしょうか。

 「霊と真理をもって礼拝しなければならない。」神の真理に背くことが罪ですから、真理をもって礼拝するためには、罪を悔い改める必要があります。この女性の場合、少なくとも今、結婚していない男性と同棲していることは罪ですから、その罪を悔い改める必要があります。自分の罪を心から悔い改め、イエス様を救い主を信じ告白する人には、聖霊が豊かに注がれます。女性は、イエス様の御言葉を少しずつ理解し始めています。それで言います。「私は、キリストと呼ばれるメシア(救い主)が来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせて下さいます。」イエス様が言われます。「それは、あなたと話をしているこの私である。」イエス様こそ、この女性の罪をも全て背負って、身代わりに十字架で死んで下さり、三日目に復活なさるメシア(救い主)です。

 彼女は心を動かされ、水かめをそこに置いたまま町に行き、人々に言います。「さあ、見に来て下さい。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエス様に会いにやって来たのです。彼女は、少しずつ悔い改め始めている、イエス様を信じ始めている、聖霊を受け始めているのだと感じます。「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」私の知り合いの牧師が、数年前にこの教会のすぐ近くの南沢湧水に水を汲みに来たそうです。そこの湧水の水を持って帰って、花小金井教会の礼拝で洗礼式を行ったそうです。私は湧水の水を用いて洗礼式を行ったことがないのですが。湧水、湧き水。「永遠の命に至る水」を連想させますね。長崎に活水女子大学というプロテスタントの学校があるそうです。活水は、活きた水と書きます。ヨハネ福音書4章10節から名前をつけたそうです。「その人(イエス様)はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

 プロテスタントの一派にメソジスト教会があります。メソジスト教会を始めたのはジョン・ウェスレー(1703年~1791年)というイギリスの牧師です。既に牧師として働いていましたが、アメリカに行って失敗したり、行き詰まっていたようです。1738年にロンドンのアルダーズゲートという場所で行われた集会に参加した時に、第二の回心というべき体験をします。ローマの信徒への手紙についてマルティン・ルターが書いた解説が朗読されているのと聞きながら、不思議と心が暖かくなる、燃える体験だったようです。改めて聖霊を注がれた時だったのだと思います。それからメソジスト運動と呼ばれる働きが始まり、メソジスト教会が形造られてゆきました。私は1999年に一度だけイギリスに行った時に、ロンドンのウェスレーチャペルという礼拝堂、ウェスレーが説教した礼拝堂に行きました。ウェスレーが住んでいた牧師館も保存されていて、入って来ました。歴史に名を残す有名なウェスレーも行き詰まって悩み、そこで神様から新しく聖霊を注がれて、もう一度立ち上がった事実に、私たちも勇気づけられます。彼もイエス様からそれを飲むと、もはや決して渇かない永遠の命に至る水を受けたのです。私たちも日々よく祈り、聖書を読み、聖霊を注いでいただいた聖なる喜びと慰めに満ちた信仰生活、礼拝生活を重ねて参りたいものです。アーメン。

2022-08-07 0:34:54()
「独り子イエス様を贈る神の愛」 2022年8月7日(日)礼拝説教
順序:招詞 マタイ福音書5:43~44、頌栄29、「主の祈り」,交読詩編66,使徒信条、讃美歌21・492、聖書 創世記22:9~18(旧約p.31)、ヨハネ福音書3:16~30(新約p.167)、祈祷、説教、讃美歌21・288、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(創世記22:9~18) アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

(ヨハネ福音書3:16~30) 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

(説教) 9週間前にペンテコステを献げ、平和聖日公同礼拝です。本日の説教題は「独り子イエス様を贈る神の愛」です。聖書は、ヨハネによる福音書3章16節より30節です。先週は2章の最後まででしたので、本日は3章1~15節を飛ばした形になりました。3章1節以下は、今年5/22(日)の礼拝でじっくり読みましたので、2ヶ月半しかたっていないので、本日は割愛致しました。

 3章16節は、福音の中の福音と呼ばれ、「一番好きな聖書の言葉」に挙げる方も多い御言葉です。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」世とは、中立的な世ではなく、神様(父なる神様)に逆らい、神様に背く世です。神様からご覧になれば敵ですね。父なる神様は、ご自分に逆らい敵対する世(つまり私たち)を愛して(敵を愛して)、独り子イエス・キリストをこの地上に送って下さり、この方に私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負わせて、十字架にお架けになったのです。そしてイエス様は三日目に体をもって復活され、その40日目に天に昇られ、今は天で生きておられ、天から私たちに聖霊を送って下さいます。

 このイエス・キリストの誕生と十字架の死と復活こそ、世界史上最も重要な出来事と言えます。色々な重要な出来事が多くあったにしても、このイエス様の誕生と十字架の犠牲・贖いの死(私たち全ての人間の全ての罪の責任を身代わりに背負った)と復活こそ、世界の歴史で、一番重要な出来事言えます。父なる神様がたった一度、私たちの世界に決定的に介入なさった出来事だからです。世界史ではイエス様が誕生なさった年を紀元1年としました。但し、正確に計算し直してみると、イエス様の誕生は紀元前5年前後だったらしいと今は訂正されています。でも紀元1年を約5年、古い時に引き戻すことはしませんでした。そうすると歴史の年号を全部書き換えることになるので、現実的に無理だったからでしょう。しかしイエス・キリストの誕生の年をもって歴史を決定的に区切ったということは、イエス様の誕生(そして約30年後の十字架の死と復活)こそ、世界史を区切る最も重要な出来事だと確信されたからです。紀元前を英語でBCと言いますね。ご存じの通りBCは Before Christ、「キリストの前」の意味です。イエス様の誕生で世界史を区切っています。紀元後はADで、これはラテン語だそうで Anno Domini(主の年に)の意味だそうです。「主の年に」ですから「イエス様の年」の意味でしょう。イエス様の誕生を起点として「何年」という数え方です。キリスト教が嫌いな国は西暦を用いでしょうが、いわゆる西暦はイエス様の誕生年を起点としており、イエス様の誕生とその生涯、十字架と復活が、父なる神様が世界史に決定的に介入なさった最も重要な出来事と見なしていることが分かります。神の愛による介入です。

 このことについて、ヨハネの手紙(一)4章9節に、こう記されています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子(イエス様)をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。」このように父なる神様が、独り子イエス様を地上に送って下さったことが、私たちの愛に先立つ神の愛にほかならないと述べています。独り子は、一人息子ですから、最もかわいい息子ですね。「かけがえがない」息子です。もちろん子供が複数いても、一人一人皆かわいいに違いないのですが、独り子と言う場合には、そのかわいさ、大切さが増幅されます。その最も大切な独り子を、父なる神様は私たちの罪を背負わせるいけにえとして、私たちに贈って下さいました。私たちにプレゼントして下さいました。「ここに愛がある」とヨハネの手紙(一)は述べます。

 ヨハネ福音書に戻り、3章17~18節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」独り子イエス様は、父なる神様がこの世界を罪と死から救うために送られた、「最後の切り札」です。「次の奥の手」「次の切り札」はもうありません。独り子イエス様を救い主として地上に送ることによって、父なる神様は私たちに手の内を明らかにして、手の内を全て見せて下さったのです。父なる神様が、それだけの決心をして送って下さった「最後の切り札」がイエス様です。神様がそこまでして手の内をさらけ出して下さっているのですから、神様に造られた私たち人間、私たち罪人(つみびと)には、それに応える責任があります。神様の愛の切り札イエス様の前に、素直に頭を垂れて、イエス様を救い主と素直に信じて告白しようではありませんか。それが、神様に喜んでいただける道なのです。私たちがイエス様を救い主と信じれば、父なる神様も「独り子を十字架にかけるほどの犠牲を払った甲斐があった」と喜んで下さるのです。私たちがイエス様を信じないで、父なる神様を悲しませることがあってはいけません。

 19節「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」「光が世に来た。」光はイエス・キリストです。クリスチャン作家の三浦綾子さんの夫は三浦光世さんです、数年前に天に召されましたが、光世さんのお名前は、「光が世に来た」から取られていたはずと思います。イエス様はヨハネ福音書8章12節で、「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と宣言されました。20~21節は、「暗闇の方に行かないで、真の世の光であるイエス・キリストの元に来なさい」という招きが趣旨だと思います。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」私たちも、光であるイエス・キリストの方にいつも歩いて行きましょう。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」「独り子」という言葉でどうしても思い出されるのは、創世記22章です。信仰の父アブラハムが、神様の命令により独り子イサクを、神様に献げる半歩手前まで行った出来事です。神様がアブラハムを試しておっしゃいます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」アブラハムは次の朝早く起きて、従うのです。アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、独り子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を持っていて、二人が一緒に歩きます。イサクが尋ねます。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えます。「私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる。」

 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。」
アブラハムが目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けた。そこで、人々は今日でも、「主の山に備えあり」(イエラエ)と言っている。

 以上は、旧約聖書の有名な箇所です。神様に従ったアブラハムの信仰がすばらしいです。同時に、この箇所は独り子イエス様の十字架の身代わりの死を、暗示する箇所であることが大切と思います。アブラハムはイサクに言いました。「私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる。」その通りになり、神様が木の茂みに一匹の雄羊を備えておられ、アブラハムはイサクを殺さずに済み、その雄羊を神様に献げたのでした。それでアブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付け、人々は「主の山に備えあり」(イエラエ)と言うようになったと記されています。神が備えて下さった雄羊は、独り子イエス様を暗に指し示します。「主の山に備えあり。」独り子イエス・キリストこそ、父なる神様が私たち皆の罪の赦しと永遠の命のために、私たちが生まれる前から用意しておられた、究極の備えです。「主の山に備えあり。」独り子イエス様が、私たちの全部の罪を身代わりに背負う小羊として、用意されていました。私たちは、自分の罪を悔い改めて、
このイエス様を救い主と信じる信仰によってのみ救われ、永遠の命をいただきます。

 天使がアブラハムに言いましたね。「あなたが神を畏れる者であることが今、分かったからだ。」「あの人は神を畏れる人(畏れ敬う人)だ」という言い方は、旧約聖書では最高の褒め言葉の一つと言えます。「あなたは、自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。」ローマの信徒への手紙8章32節に、こうあります。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのもの(永遠の命、天国)を私たちに賜らないはずがありましょうか。」今日の創世記では、神様がアブラハムの信仰が、真の信仰かどうか、試されました。アブラハムはこのテストに合格しました。神様はアブラハムの信仰を試して、ご自分はのほほんとされる方ではないのです。アブラハムは独り子イサクを献げることを、すんでのところでしないで済みました。しかし父なる神様は、本当に最も愛してやまない独り子イエス様を、十字架におかけになったのです。これは父なる神様にとっても、非常に辛く痛く、悲しいことでした。父なる神様は、その強い心の痛みに耐えて、最も愛する独り子イエス様を、十字架に追いやりました。

 三日目に復活が起こると分かっていても、神様にとっても独り子を失うことは想像を絶する苦難です。旧約聖書のアモス書8章9、10節にこんな御言葉があります。「その日が来ると、と主なる神は言われる。私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする(このことは、イエス様の十字架の死の時に起こりました)。私はお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きに歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ(深い悲しみのしるし)、どの頭の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする。」これは世の終わりの日を予告する御言葉ですが、ここに記されている裁きを神様はイエス様に集中的に注がれました。「独り子を亡くしたような悲しみを与え。」本来は、神様に背くイスラエルの民にこの悲しみを与えるはずでしたが、父なる神様ご自身が独り子イエス様を十字架の上で死なせる悲痛を耐え忍ぶ道を選ばれたのです。私たちの罪を赦すためです。

 私たちは間もなく、イエス様の十字架の死と復活を心と体に刻む聖餐式を行います。私たちのために裂かれたイエス様の体であるパンと、私たちのために流されたイエス様の血潮であるぶどう液を食べ飲むとき、父なる神様がどんなお気持ちで独り子イエス様を十字架におかけになったのかを思いながら受けたいと思います。父なる神様が、独り子を失う心の痛みに耐えて、独り子を十字架におかけになった悲痛な思いを、少しでも心に刻みつつ、パンとぶどう液を受けたいものです。

 さて、今日のヨハネ福音書の次の小見出しの部分にも、少し触れます。小見出しは、「イエスと洗礼者ヨハネ」です。イエス様の方に次第に人が集まるようになったので、ヨハネの弟子たちが嫉妬して、やや悔しそうに、「みんながあの人(イエス様)の方へ行っています」と言います。ヨハネは落ち着いて、「それでよい」という意味の答えをします。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」ヨハネには、ヨハネに与えられた神の道があり、ヨハネはそのように生きれば十分です。28節以下「私は『自分はメシア(救い主)ではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなた方自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。」花婿、主役はイエス様であり、私ヨハネは花婿の介添え人に過ぎない。私が介添え人に徹することが、神様の御心だ。私は介添え人であることを非常に光栄に思い、深く深く喜んでいる。「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない。」これは本当にヨハネの謙遜な、すばらしい言葉です。ヨハネには、もっと上に立ちたい野心はないのです。ヨハネは本当に清い人です。ヨハネは前にもこう言いました。「私はその(イエス様の)履物のひもを解く資格もない。」私たちはつい「その方の履物のひもを解くくらいの価値はある」と自己主張したくなるのではないでしょうか。ヨハネはそれをしません。

 この姿勢は、使徒パウロにも通じます。パウロは、フィリピの信徒への手紙1章で言います。「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」パウロが生きる目的は、パウロの身によってイエス・キリストの御名が、公然とあがめられること。パウロが死ぬ目的も、イエス様の御名が公然とあがめられること。同じ手紙でパウロが、最も信頼する若き伝道者テモテのことを褒めて、「私と同じ思いを抱いている」と言い、「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」と、私たちにも、少しグサッと来るかもしれない言葉を述べます。他の人々は、自己実現を求めている。今を生きる人々は、自己実現を人生の目的としていることもあると思います。聖書が言う罪とは何か? それは「自己追求」です。自分のことばかり求める。自己中心と言っても同じです。「都民ファースト」「アメリカファースト」。この数年の政治家の言葉です。聖書に照らすと、明らかに罪です。自己追求の罪は、残念ながら私の中にもあります。でも聖霊によって清められ、聖餐式のパンとぶどう液によって清められ、私たちは洗礼者ヨハネのように、パウロのようになりたいのです。「全て、イエス・キリストの栄光のために!」私たちのために十字架で死なれた独り子イエス様の愛に感謝の応答をして、そのように生きたいのです。アーメン。