
2022-08-07 0:34:54()
「独り子イエス様を贈る神の愛」 2022年8月7日(日)礼拝説教
順序:招詞 マタイ福音書5:43~44、頌栄29、「主の祈り」,交読詩編66,使徒信条、讃美歌21・492、聖書 創世記22:9~18(旧約p.31)、ヨハネ福音書3:16~30(新約p.167)、祈祷、説教、讃美歌21・288、献金、頌栄83(1節)、祝祷。
(創世記22:9~18) アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
(ヨハネ福音書3:16~30) 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
(説教) 9週間前にペンテコステを献げ、平和聖日公同礼拝です。本日の説教題は「独り子イエス様を贈る神の愛」です。聖書は、ヨハネによる福音書3章16節より30節です。先週は2章の最後まででしたので、本日は3章1~15節を飛ばした形になりました。3章1節以下は、今年5/22(日)の礼拝でじっくり読みましたので、2ヶ月半しかたっていないので、本日は割愛致しました。
3章16節は、福音の中の福音と呼ばれ、「一番好きな聖書の言葉」に挙げる方も多い御言葉です。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」世とは、中立的な世ではなく、神様(父なる神様)に逆らい、神様に背く世です。神様からご覧になれば敵ですね。父なる神様は、ご自分に逆らい敵対する世(つまり私たち)を愛して(敵を愛して)、独り子イエス・キリストをこの地上に送って下さり、この方に私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負わせて、十字架にお架けになったのです。そしてイエス様は三日目に体をもって復活され、その40日目に天に昇られ、今は天で生きておられ、天から私たちに聖霊を送って下さいます。
このイエス・キリストの誕生と十字架の死と復活こそ、世界史上最も重要な出来事と言えます。色々な重要な出来事が多くあったにしても、このイエス様の誕生と十字架の犠牲・贖いの死(私たち全ての人間の全ての罪の責任を身代わりに背負った)と復活こそ、世界の歴史で、一番重要な出来事言えます。父なる神様がたった一度、私たちの世界に決定的に介入なさった出来事だからです。世界史ではイエス様が誕生なさった年を紀元1年としました。但し、正確に計算し直してみると、イエス様の誕生は紀元前5年前後だったらしいと今は訂正されています。でも紀元1年を約5年、古い時に引き戻すことはしませんでした。そうすると歴史の年号を全部書き換えることになるので、現実的に無理だったからでしょう。しかしイエス・キリストの誕生の年をもって歴史を決定的に区切ったということは、イエス様の誕生(そして約30年後の十字架の死と復活)こそ、世界史を区切る最も重要な出来事だと確信されたからです。紀元前を英語でBCと言いますね。ご存じの通りBCは Before Christ、「キリストの前」の意味です。イエス様の誕生で世界史を区切っています。紀元後はADで、これはラテン語だそうで Anno Domini(主の年に)の意味だそうです。「主の年に」ですから「イエス様の年」の意味でしょう。イエス様の誕生を起点として「何年」という数え方です。キリスト教が嫌いな国は西暦を用いでしょうが、いわゆる西暦はイエス様の誕生年を起点としており、イエス様の誕生とその生涯、十字架と復活が、父なる神様が世界史に決定的に介入なさった最も重要な出来事と見なしていることが分かります。神の愛による介入です。
このことについて、ヨハネの手紙(一)4章9節に、こう記されています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子(イエス様)をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。」このように父なる神様が、独り子イエス様を地上に送って下さったことが、私たちの愛に先立つ神の愛にほかならないと述べています。独り子は、一人息子ですから、最もかわいい息子ですね。「かけがえがない」息子です。もちろん子供が複数いても、一人一人皆かわいいに違いないのですが、独り子と言う場合には、そのかわいさ、大切さが増幅されます。その最も大切な独り子を、父なる神様は私たちの罪を背負わせるいけにえとして、私たちに贈って下さいました。私たちにプレゼントして下さいました。「ここに愛がある」とヨハネの手紙(一)は述べます。
ヨハネ福音書に戻り、3章17~18節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」独り子イエス様は、父なる神様がこの世界を罪と死から救うために送られた、「最後の切り札」です。「次の奥の手」「次の切り札」はもうありません。独り子イエス様を救い主として地上に送ることによって、父なる神様は私たちに手の内を明らかにして、手の内を全て見せて下さったのです。父なる神様が、それだけの決心をして送って下さった「最後の切り札」がイエス様です。神様がそこまでして手の内をさらけ出して下さっているのですから、神様に造られた私たち人間、私たち罪人(つみびと)には、それに応える責任があります。神様の愛の切り札イエス様の前に、素直に頭を垂れて、イエス様を救い主と素直に信じて告白しようではありませんか。それが、神様に喜んでいただける道なのです。私たちがイエス様を救い主と信じれば、父なる神様も「独り子を十字架にかけるほどの犠牲を払った甲斐があった」と喜んで下さるのです。私たちがイエス様を信じないで、父なる神様を悲しませることがあってはいけません。
19節「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」「光が世に来た。」光はイエス・キリストです。クリスチャン作家の三浦綾子さんの夫は三浦光世さんです、数年前に天に召されましたが、光世さんのお名前は、「光が世に来た」から取られていたはずと思います。イエス様はヨハネ福音書8章12節で、「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と宣言されました。20~21節は、「暗闇の方に行かないで、真の世の光であるイエス・キリストの元に来なさい」という招きが趣旨だと思います。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」私たちも、光であるイエス・キリストの方にいつも歩いて行きましょう。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」「独り子」という言葉でどうしても思い出されるのは、創世記22章です。信仰の父アブラハムが、神様の命令により独り子イサクを、神様に献げる半歩手前まで行った出来事です。神様がアブラハムを試しておっしゃいます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」アブラハムは次の朝早く起きて、従うのです。アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、独り子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を持っていて、二人が一緒に歩きます。イサクが尋ねます。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えます。「私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる。」
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。」
アブラハムが目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けた。そこで、人々は今日でも、「主の山に備えあり」(イエラエ)と言っている。
以上は、旧約聖書の有名な箇所です。神様に従ったアブラハムの信仰がすばらしいです。同時に、この箇所は独り子イエス様の十字架の身代わりの死を、暗示する箇所であることが大切と思います。アブラハムはイサクに言いました。「私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる。」その通りになり、神様が木の茂みに一匹の雄羊を備えておられ、アブラハムはイサクを殺さずに済み、その雄羊を神様に献げたのでした。それでアブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付け、人々は「主の山に備えあり」(イエラエ)と言うようになったと記されています。神が備えて下さった雄羊は、独り子イエス様を暗に指し示します。「主の山に備えあり。」独り子イエス・キリストこそ、父なる神様が私たち皆の罪の赦しと永遠の命のために、私たちが生まれる前から用意しておられた、究極の備えです。「主の山に備えあり。」独り子イエス様が、私たちの全部の罪を身代わりに背負う小羊として、用意されていました。私たちは、自分の罪を悔い改めて、
このイエス様を救い主と信じる信仰によってのみ救われ、永遠の命をいただきます。
天使がアブラハムに言いましたね。「あなたが神を畏れる者であることが今、分かったからだ。」「あの人は神を畏れる人(畏れ敬う人)だ」という言い方は、旧約聖書では最高の褒め言葉の一つと言えます。「あなたは、自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。」ローマの信徒への手紙8章32節に、こうあります。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのもの(永遠の命、天国)を私たちに賜らないはずがありましょうか。」今日の創世記では、神様がアブラハムの信仰が、真の信仰かどうか、試されました。アブラハムはこのテストに合格しました。神様はアブラハムの信仰を試して、ご自分はのほほんとされる方ではないのです。アブラハムは独り子イサクを献げることを、すんでのところでしないで済みました。しかし父なる神様は、本当に最も愛してやまない独り子イエス様を、十字架におかけになったのです。これは父なる神様にとっても、非常に辛く痛く、悲しいことでした。父なる神様は、その強い心の痛みに耐えて、最も愛する独り子イエス様を、十字架に追いやりました。
三日目に復活が起こると分かっていても、神様にとっても独り子を失うことは想像を絶する苦難です。旧約聖書のアモス書8章9、10節にこんな御言葉があります。「その日が来ると、と主なる神は言われる。私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする(このことは、イエス様の十字架の死の時に起こりました)。私はお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きに歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ(深い悲しみのしるし)、どの頭の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする。」これは世の終わりの日を予告する御言葉ですが、ここに記されている裁きを神様はイエス様に集中的に注がれました。「独り子を亡くしたような悲しみを与え。」本来は、神様に背くイスラエルの民にこの悲しみを与えるはずでしたが、父なる神様ご自身が独り子イエス様を十字架の上で死なせる悲痛を耐え忍ぶ道を選ばれたのです。私たちの罪を赦すためです。
私たちは間もなく、イエス様の十字架の死と復活を心と体に刻む聖餐式を行います。私たちのために裂かれたイエス様の体であるパンと、私たちのために流されたイエス様の血潮であるぶどう液を食べ飲むとき、父なる神様がどんなお気持ちで独り子イエス様を十字架におかけになったのかを思いながら受けたいと思います。父なる神様が、独り子を失う心の痛みに耐えて、独り子を十字架におかけになった悲痛な思いを、少しでも心に刻みつつ、パンとぶどう液を受けたいものです。
さて、今日のヨハネ福音書の次の小見出しの部分にも、少し触れます。小見出しは、「イエスと洗礼者ヨハネ」です。イエス様の方に次第に人が集まるようになったので、ヨハネの弟子たちが嫉妬して、やや悔しそうに、「みんながあの人(イエス様)の方へ行っています」と言います。ヨハネは落ち着いて、「それでよい」という意味の答えをします。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」ヨハネには、ヨハネに与えられた神の道があり、ヨハネはそのように生きれば十分です。28節以下「私は『自分はメシア(救い主)ではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなた方自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。」花婿、主役はイエス様であり、私ヨハネは花婿の介添え人に過ぎない。私が介添え人に徹することが、神様の御心だ。私は介添え人であることを非常に光栄に思い、深く深く喜んでいる。「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない。」これは本当にヨハネの謙遜な、すばらしい言葉です。ヨハネには、もっと上に立ちたい野心はないのです。ヨハネは本当に清い人です。ヨハネは前にもこう言いました。「私はその(イエス様の)履物のひもを解く資格もない。」私たちはつい「その方の履物のひもを解くくらいの価値はある」と自己主張したくなるのではないでしょうか。ヨハネはそれをしません。
この姿勢は、使徒パウロにも通じます。パウロは、フィリピの信徒への手紙1章で言います。「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」パウロが生きる目的は、パウロの身によってイエス・キリストの御名が、公然とあがめられること。パウロが死ぬ目的も、イエス様の御名が公然とあがめられること。同じ手紙でパウロが、最も信頼する若き伝道者テモテのことを褒めて、「私と同じ思いを抱いている」と言い、「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」と、私たちにも、少しグサッと来るかもしれない言葉を述べます。他の人々は、自己実現を求めている。今を生きる人々は、自己実現を人生の目的としていることもあると思います。聖書が言う罪とは何か? それは「自己追求」です。自分のことばかり求める。自己中心と言っても同じです。「都民ファースト」「アメリカファースト」。この数年の政治家の言葉です。聖書に照らすと、明らかに罪です。自己追求の罪は、残念ながら私の中にもあります。でも聖霊によって清められ、聖餐式のパンとぶどう液によって清められ、私たちは洗礼者ヨハネのように、パウロのようになりたいのです。「全て、イエス・キリストの栄光のために!」私たちのために十字架で死なれた独り子イエス様の愛に感謝の応答をして、そのように生きたいのです。アーメン。
(創世記22:9~18) アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
(ヨハネ福音書3:16~30) 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
(説教) 9週間前にペンテコステを献げ、平和聖日公同礼拝です。本日の説教題は「独り子イエス様を贈る神の愛」です。聖書は、ヨハネによる福音書3章16節より30節です。先週は2章の最後まででしたので、本日は3章1~15節を飛ばした形になりました。3章1節以下は、今年5/22(日)の礼拝でじっくり読みましたので、2ヶ月半しかたっていないので、本日は割愛致しました。
3章16節は、福音の中の福音と呼ばれ、「一番好きな聖書の言葉」に挙げる方も多い御言葉です。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」世とは、中立的な世ではなく、神様(父なる神様)に逆らい、神様に背く世です。神様からご覧になれば敵ですね。父なる神様は、ご自分に逆らい敵対する世(つまり私たち)を愛して(敵を愛して)、独り子イエス・キリストをこの地上に送って下さり、この方に私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負わせて、十字架にお架けになったのです。そしてイエス様は三日目に体をもって復活され、その40日目に天に昇られ、今は天で生きておられ、天から私たちに聖霊を送って下さいます。
このイエス・キリストの誕生と十字架の死と復活こそ、世界史上最も重要な出来事と言えます。色々な重要な出来事が多くあったにしても、このイエス様の誕生と十字架の犠牲・贖いの死(私たち全ての人間の全ての罪の責任を身代わりに背負った)と復活こそ、世界の歴史で、一番重要な出来事言えます。父なる神様がたった一度、私たちの世界に決定的に介入なさった出来事だからです。世界史ではイエス様が誕生なさった年を紀元1年としました。但し、正確に計算し直してみると、イエス様の誕生は紀元前5年前後だったらしいと今は訂正されています。でも紀元1年を約5年、古い時に引き戻すことはしませんでした。そうすると歴史の年号を全部書き換えることになるので、現実的に無理だったからでしょう。しかしイエス・キリストの誕生の年をもって歴史を決定的に区切ったということは、イエス様の誕生(そして約30年後の十字架の死と復活)こそ、世界史を区切る最も重要な出来事だと確信されたからです。紀元前を英語でBCと言いますね。ご存じの通りBCは Before Christ、「キリストの前」の意味です。イエス様の誕生で世界史を区切っています。紀元後はADで、これはラテン語だそうで Anno Domini(主の年に)の意味だそうです。「主の年に」ですから「イエス様の年」の意味でしょう。イエス様の誕生を起点として「何年」という数え方です。キリスト教が嫌いな国は西暦を用いでしょうが、いわゆる西暦はイエス様の誕生年を起点としており、イエス様の誕生とその生涯、十字架と復活が、父なる神様が世界史に決定的に介入なさった最も重要な出来事と見なしていることが分かります。神の愛による介入です。
このことについて、ヨハネの手紙(一)4章9節に、こう記されています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子(イエス様)をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。」このように父なる神様が、独り子イエス様を地上に送って下さったことが、私たちの愛に先立つ神の愛にほかならないと述べています。独り子は、一人息子ですから、最もかわいい息子ですね。「かけがえがない」息子です。もちろん子供が複数いても、一人一人皆かわいいに違いないのですが、独り子と言う場合には、そのかわいさ、大切さが増幅されます。その最も大切な独り子を、父なる神様は私たちの罪を背負わせるいけにえとして、私たちに贈って下さいました。私たちにプレゼントして下さいました。「ここに愛がある」とヨハネの手紙(一)は述べます。
ヨハネ福音書に戻り、3章17~18節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」独り子イエス様は、父なる神様がこの世界を罪と死から救うために送られた、「最後の切り札」です。「次の奥の手」「次の切り札」はもうありません。独り子イエス様を救い主として地上に送ることによって、父なる神様は私たちに手の内を明らかにして、手の内を全て見せて下さったのです。父なる神様が、それだけの決心をして送って下さった「最後の切り札」がイエス様です。神様がそこまでして手の内をさらけ出して下さっているのですから、神様に造られた私たち人間、私たち罪人(つみびと)には、それに応える責任があります。神様の愛の切り札イエス様の前に、素直に頭を垂れて、イエス様を救い主と素直に信じて告白しようではありませんか。それが、神様に喜んでいただける道なのです。私たちがイエス様を救い主と信じれば、父なる神様も「独り子を十字架にかけるほどの犠牲を払った甲斐があった」と喜んで下さるのです。私たちがイエス様を信じないで、父なる神様を悲しませることがあってはいけません。
19節「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」「光が世に来た。」光はイエス・キリストです。クリスチャン作家の三浦綾子さんの夫は三浦光世さんです、数年前に天に召されましたが、光世さんのお名前は、「光が世に来た」から取られていたはずと思います。イエス様はヨハネ福音書8章12節で、「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と宣言されました。20~21節は、「暗闇の方に行かないで、真の世の光であるイエス・キリストの元に来なさい」という招きが趣旨だと思います。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」私たちも、光であるイエス・キリストの方にいつも歩いて行きましょう。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」「独り子」という言葉でどうしても思い出されるのは、創世記22章です。信仰の父アブラハムが、神様の命令により独り子イサクを、神様に献げる半歩手前まで行った出来事です。神様がアブラハムを試しておっしゃいます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」アブラハムは次の朝早く起きて、従うのです。アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、独り子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を持っていて、二人が一緒に歩きます。イサクが尋ねます。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えます。「私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる。」
神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。」
アブラハムが目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けた。そこで、人々は今日でも、「主の山に備えあり」(イエラエ)と言っている。
以上は、旧約聖書の有名な箇所です。神様に従ったアブラハムの信仰がすばらしいです。同時に、この箇所は独り子イエス様の十字架の身代わりの死を、暗示する箇所であることが大切と思います。アブラハムはイサクに言いました。「私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる。」その通りになり、神様が木の茂みに一匹の雄羊を備えておられ、アブラハムはイサクを殺さずに済み、その雄羊を神様に献げたのでした。それでアブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付け、人々は「主の山に備えあり」(イエラエ)と言うようになったと記されています。神が備えて下さった雄羊は、独り子イエス様を暗に指し示します。「主の山に備えあり。」独り子イエス・キリストこそ、父なる神様が私たち皆の罪の赦しと永遠の命のために、私たちが生まれる前から用意しておられた、究極の備えです。「主の山に備えあり。」独り子イエス様が、私たちの全部の罪を身代わりに背負う小羊として、用意されていました。私たちは、自分の罪を悔い改めて、
このイエス様を救い主と信じる信仰によってのみ救われ、永遠の命をいただきます。
天使がアブラハムに言いましたね。「あなたが神を畏れる者であることが今、分かったからだ。」「あの人は神を畏れる人(畏れ敬う人)だ」という言い方は、旧約聖書では最高の褒め言葉の一つと言えます。「あなたは、自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。」ローマの信徒への手紙8章32節に、こうあります。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのもの(永遠の命、天国)を私たちに賜らないはずがありましょうか。」今日の創世記では、神様がアブラハムの信仰が、真の信仰かどうか、試されました。アブラハムはこのテストに合格しました。神様はアブラハムの信仰を試して、ご自分はのほほんとされる方ではないのです。アブラハムは独り子イサクを献げることを、すんでのところでしないで済みました。しかし父なる神様は、本当に最も愛してやまない独り子イエス様を、十字架におかけになったのです。これは父なる神様にとっても、非常に辛く痛く、悲しいことでした。父なる神様は、その強い心の痛みに耐えて、最も愛する独り子イエス様を、十字架に追いやりました。
三日目に復活が起こると分かっていても、神様にとっても独り子を失うことは想像を絶する苦難です。旧約聖書のアモス書8章9、10節にこんな御言葉があります。「その日が来ると、と主なる神は言われる。私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする(このことは、イエス様の十字架の死の時に起こりました)。私はお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きに歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ(深い悲しみのしるし)、どの頭の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする。」これは世の終わりの日を予告する御言葉ですが、ここに記されている裁きを神様はイエス様に集中的に注がれました。「独り子を亡くしたような悲しみを与え。」本来は、神様に背くイスラエルの民にこの悲しみを与えるはずでしたが、父なる神様ご自身が独り子イエス様を十字架の上で死なせる悲痛を耐え忍ぶ道を選ばれたのです。私たちの罪を赦すためです。
私たちは間もなく、イエス様の十字架の死と復活を心と体に刻む聖餐式を行います。私たちのために裂かれたイエス様の体であるパンと、私たちのために流されたイエス様の血潮であるぶどう液を食べ飲むとき、父なる神様がどんなお気持ちで独り子イエス様を十字架におかけになったのかを思いながら受けたいと思います。父なる神様が、独り子を失う心の痛みに耐えて、独り子を十字架におかけになった悲痛な思いを、少しでも心に刻みつつ、パンとぶどう液を受けたいものです。
さて、今日のヨハネ福音書の次の小見出しの部分にも、少し触れます。小見出しは、「イエスと洗礼者ヨハネ」です。イエス様の方に次第に人が集まるようになったので、ヨハネの弟子たちが嫉妬して、やや悔しそうに、「みんながあの人(イエス様)の方へ行っています」と言います。ヨハネは落ち着いて、「それでよい」という意味の答えをします。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」ヨハネには、ヨハネに与えられた神の道があり、ヨハネはそのように生きれば十分です。28節以下「私は『自分はメシア(救い主)ではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなた方自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。」花婿、主役はイエス様であり、私ヨハネは花婿の介添え人に過ぎない。私が介添え人に徹することが、神様の御心だ。私は介添え人であることを非常に光栄に思い、深く深く喜んでいる。「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない。」これは本当にヨハネの謙遜な、すばらしい言葉です。ヨハネには、もっと上に立ちたい野心はないのです。ヨハネは本当に清い人です。ヨハネは前にもこう言いました。「私はその(イエス様の)履物のひもを解く資格もない。」私たちはつい「その方の履物のひもを解くくらいの価値はある」と自己主張したくなるのではないでしょうか。ヨハネはそれをしません。
この姿勢は、使徒パウロにも通じます。パウロは、フィリピの信徒への手紙1章で言います。「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」パウロが生きる目的は、パウロの身によってイエス・キリストの御名が、公然とあがめられること。パウロが死ぬ目的も、イエス様の御名が公然とあがめられること。同じ手紙でパウロが、最も信頼する若き伝道者テモテのことを褒めて、「私と同じ思いを抱いている」と言い、「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」と、私たちにも、少しグサッと来るかもしれない言葉を述べます。他の人々は、自己実現を求めている。今を生きる人々は、自己実現を人生の目的としていることもあると思います。聖書が言う罪とは何か? それは「自己追求」です。自分のことばかり求める。自己中心と言っても同じです。「都民ファースト」「アメリカファースト」。この数年の政治家の言葉です。聖書に照らすと、明らかに罪です。自己追求の罪は、残念ながら私の中にもあります。でも聖霊によって清められ、聖餐式のパンとぶどう液によって清められ、私たちは洗礼者ヨハネのように、パウロのようになりたいのです。「全て、イエス・キリストの栄光のために!」私たちのために十字架で死なれた独り子イエス様の愛に感謝の応答をして、そのように生きたいのです。アーメン。
2022-08-05 17:42:37(金)
8月の伝道メッセージ 石田真一郎(市内の保育園の「おたより」に掲載した原稿)
「主(神様)は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」(新約聖書・コリントの信徒への手紙(二)12章9節)。
水野源三さん(1937~1984)というクリスチャンがおられました。「瞬(まばた)きの詩人」と呼ばれます。長野県坂城町(軽井沢より西)の方で、そこは千曲川が流れ、夏の緑が美しい所です。9才の時に赤痢で脳性麻痺になり、立って歩くことも話すこともできなくなり、見ると聞くが残りました。幸い、仲のよい家族でした。宗教を嫌いました。おはらいやまじないを勧められたからです。体の不自由な宮尾牧師が訪問し、聖書を渡し、源三さんが少しずつ聖書を読み始めます。イエス様が、源三さんを含む全ての人の、全部の罪と過ちの責任を身代わりに背負って十字架で死なれた深い愛を知り、感動します。13才で洗礼を受け、明るくなります。
25才のとき、詩作を始めます。五十音表を使い、「もり」なら、母や義理の妹がア段を一つずつ指し、源三さんが「ま」で目をつぶります。次にマ行を下に行き、「も」で目をつぶります。こうして共同で詩、短歌、俳句を作ります。勉強もし、作品が時々、キリスト教雑誌に掲載されます。
☆「キリストの み愛に触れたその時に/ キリストの み愛に触れたその時に/ 私の心は変わりました。/ 喜びと希望の/ 朝の光がさして来ました」(『こんな美しい朝に』いのちのことば社、1990年)。
☆「新聞のにおいに朝を感じ/ 冷たい水のうまさに夏を感じ/ 風鈴の音の涼しさに夕ぐれを感じ/ かえるの声はっきりして夜を感じ/ 今日も一日終わりぬ/ 一つ一つのことに/ 神様の恵みと愛を感じて」
☆「物が言えない私は/ ありがとうのかわりにほほえむ/ 朝から何回もほほえむ/ 苦しいときも 悲しいときも/ 心から ほほえむ」
姪がある時、源三さんに、「病気をしたことをどう思っているの?」と尋ねるとすぐに、「感謝してる。キリストを信じることができたから」と答えました。誰が訪問しても、六畳の部屋で、にこにこ迎えるので、訪問した人も嬉しくなり、励ましに来たつもりが、自分が励まされたそうです。過ちを犯した人を、源三さんが叱ることもありました。家族は「源三は、うちの宝」、町の人も「源三さんは町の宝」と言いました。詩集も出ています。
イエス様の時代、障がいは本人か両親の罪の結果と考えられていました。しかしイエス様は、それを否定します。本人や両親の罪の結果でなく、「神のわざがこの人に現れるためである」(ヨハネ福音書9章3節)。源三さんは、このイエス様の御言葉にも励まされたのでしょう。アーメン(真実に)。
水野源三さん(1937~1984)というクリスチャンがおられました。「瞬(まばた)きの詩人」と呼ばれます。長野県坂城町(軽井沢より西)の方で、そこは千曲川が流れ、夏の緑が美しい所です。9才の時に赤痢で脳性麻痺になり、立って歩くことも話すこともできなくなり、見ると聞くが残りました。幸い、仲のよい家族でした。宗教を嫌いました。おはらいやまじないを勧められたからです。体の不自由な宮尾牧師が訪問し、聖書を渡し、源三さんが少しずつ聖書を読み始めます。イエス様が、源三さんを含む全ての人の、全部の罪と過ちの責任を身代わりに背負って十字架で死なれた深い愛を知り、感動します。13才で洗礼を受け、明るくなります。
25才のとき、詩作を始めます。五十音表を使い、「もり」なら、母や義理の妹がア段を一つずつ指し、源三さんが「ま」で目をつぶります。次にマ行を下に行き、「も」で目をつぶります。こうして共同で詩、短歌、俳句を作ります。勉強もし、作品が時々、キリスト教雑誌に掲載されます。
☆「キリストの み愛に触れたその時に/ キリストの み愛に触れたその時に/ 私の心は変わりました。/ 喜びと希望の/ 朝の光がさして来ました」(『こんな美しい朝に』いのちのことば社、1990年)。
☆「新聞のにおいに朝を感じ/ 冷たい水のうまさに夏を感じ/ 風鈴の音の涼しさに夕ぐれを感じ/ かえるの声はっきりして夜を感じ/ 今日も一日終わりぬ/ 一つ一つのことに/ 神様の恵みと愛を感じて」
☆「物が言えない私は/ ありがとうのかわりにほほえむ/ 朝から何回もほほえむ/ 苦しいときも 悲しいときも/ 心から ほほえむ」
姪がある時、源三さんに、「病気をしたことをどう思っているの?」と尋ねるとすぐに、「感謝してる。キリストを信じることができたから」と答えました。誰が訪問しても、六畳の部屋で、にこにこ迎えるので、訪問した人も嬉しくなり、励ましに来たつもりが、自分が励まされたそうです。過ちを犯した人を、源三さんが叱ることもありました。家族は「源三は、うちの宝」、町の人も「源三さんは町の宝」と言いました。詩集も出ています。
イエス様の時代、障がいは本人か両親の罪の結果と考えられていました。しかしイエス様は、それを否定します。本人や両親の罪の結果でなく、「神のわざがこの人に現れるためである」(ヨハネ福音書9章3節)。源三さんは、このイエス様の御言葉にも励まされたのでしょう。アーメン(真実に)。
2022-07-30 23:43:33(土)
説教「神殿から商人を追い払うキリスト」 2022年7月31日(日)
順序:招詞 コリント(二)1:3~5、頌栄28、「主の祈り」,交読詩編65,使徒信条、讃美歌21・351、聖書 詩編69:8~13(旧約p.902)、ヨハネ福音書2:13~25(新約p.166)、祈祷、説教、讃美歌21・476、献金、頌栄27、祝祷。
(詩編69:8~13)
わたしはあなたゆえに嘲られ/顔は屈辱に覆われています。兄弟はわたしを失われた者とし/同じ母の子らはわたしを異邦人とします。あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。わたしが断食して泣けば/そうするからといって嘲られ粗布を衣とすれば/それもわたしへの嘲りの歌になります。町の門に座る人々はわたしを非難し/強い酒に酔う者らはわたしのことを歌います。
(ヨハネ福音書2:13~25)
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
(説教) 8週間前にペンテコステを献げ、聖霊降臨節第9主日公同礼拝です。本日の説教題は「神殿から商人を追い払うキリスト」です。先週のヨハネ福音書は、この直前でした。ガリラヤのカナという所で、婚礼があった。皆でお祝いに飲むぶどう酒がなくなった。イエス・キリストが愛の奇跡を起こして、とてもおいしいぶどう酒を、水から作り出して下さり、人々はそれを飲んで、恵まれた婚礼の時を過ごした、という話でした。イエス様はこの奇跡(ヨハネ福音書では「しるし」という)により、ご自分が神の子であることを明らかにして下さったのです。愛に満ちたイエス様の姿が、示されていました。
その直後の本日の個所は、ヨハネ福音書2章13節以下です。ここでのイエス様は、鞭を振るっています。イエス様が、聖なる怒りを発揮しておられます。一見、まるで先週のイエス様とは、完全に正反対のイエス様のようで、戸惑う方もあるのではないかと思います。最初の13節「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。」過越祭は、ユダヤ人の最大の祭りで、首都エルサレムは熱気にあふれたと言います。エルサレムは首都ですが、イエス様にとっては安心な場所ではありません。イエス様に敵対するファリサイ派の人々の根拠地がエルサレムです。イエス様にとっての平安の地は、お育ちになったガリラヤです。そのガリラヤのカナから、ヨルダン川の向こう側ベタニアを通り、イエス様はご自分に敵対する人々の多い、イエス様にとって危険なエルサレムにやって来られたのです。
14節「そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。」イエス様はエルサレムに入ると、神殿に直行なさいました。当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王という建築が大好きな王様が一生懸命拡張した、非常に壮麗で美しい建物だったそうです。しかし大事なのはもちろん、中身です。神殿は礼拝する場所で、礼拝では牛や羊や鳩を、神様に献げる必要がありました。しかし遠くから礼拝に来る人が、いけにえの動物を連れて来ることは、物理的に困難です。そこで神殿でいけにえの動物を買って、献げてよい決まりになっていたそうです。ですから合法であった、ルール通りでありました。ですが、イエス様からご覧になると、問題があったのだと思います。15~16節「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。』」
これを素直に読むと、「この神殿は、私の父なる神様の聖なる家、祈りの家、礼拝の家である。それを商売の家としてはならない。」この聖なる家を「商売の家、売り買いの家、ビジネスの家にしてはならない」とおっしゃっていることになります。私たちには、いけにえの動物が、どれくらいの値段で売り買いされていたのか、分かりません。売る側の利益が少しであれば、問題なかったのかもしれません。しかし買う側からすれば、どうしても買わなければならないとすれば、買う側の立場は弱くなり、売る側の立場が強くなり、次第に売る側が高く売るようになったかもしれません。そうなると売る側が強欲の罪に陥った可能性はあります。両替商は、両替するだけなら、1銭の利益も得ないので問題ないと思いますが、現実には高い手数料を取って儲けていたと書く解説書もあります。そうだったのかもしれません。そうなると一日の終わりに「今日の儲けは、これくらいだった」ということが商売する人々の関心の中心になり、いつの間にか、神様よりもお金に関心が集中するようになったのではないでしょうか。それはいけない。礼拝の場の中心は、どこまでも神様でなければならない。そうでないと神様への礼拝にならない。この時、イエス様の姿勢に妥協は全くありません。純粋な神礼拝を回復する必要がある。そのためにイエス様は、激しい聖なる怒りをもって鞭を振るい、牛や羊を追い出し、両替人の金をまき散らし、鳩を売る者たちに「このような物(鳩、お金)はここから運び出せ。私の父の家(父を礼拝する神殿)を商売の家とすることを決して許さない」と事実上、宣言されました。真の礼拝を確立する必要があるということです。父なる神様に喜ばれる霊と真理の礼拝、嘘偽りのない、真心から神様の前で、自分の罪を悔い改める礼拝。真の礼拝の確立が必要なのだと思います。
マタイによる福音書のよく似た場面を読むと、イエス様は、こうおっしゃっています。「こう書いてある(旧約聖書に)。『私の家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」 「神様の聖なる神殿は、祈りの家、礼拝の家でなければいけない。ところがイスラエルの指導者たちが、強盗の巣にしている。」強盗の巣とは強烈な表現です。強盗は、泥棒よりも強烈な表現ですね。強盗は強欲です。礼拝と強欲は矛盾します。両立しません。イエス様がマタイ福音書6章24節で「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」と言われた御言葉を、肝に銘じる必要があります。それにしても、イスラエルの信仰の指導者たちが、本当のそんなに強欲で堕落していたのでしょうか。信じ難い気もしますが、ルカ福音書16章14節に「金に執着するファリサイ派の人々が(~)イエスをあざ笑った」とありますので、金に執着するファリサイ派(イスラエルの民の信仰のリーダー)の人々が、本当にいたのでしょう。そのような人々が神殿で権力をもち、神殿ビジネスをリードして、利益を得ていた可能性がありますね。私が思うに、この神殿に関わる人々の多くは男性で、政治と権力とお金が重視されたいたの現実ではないかと思います。まさにこの世の生々しい現実です。ところがそこにイエス様が来られます。イエス様は聖なる神の子で、政治にも権力にもかかわりなく、全く強欲ではありません。イエス様は、父なる神様を愛し、その神殿を愛しているので、神殿を全力で清められます。人々は、貪欲の罪に陥っていた可能性があります。コロサイの信徒への手紙3章に「貪欲は偶像礼拝にほかならない」との御言葉があります。神殿の人々は、貪欲の罪を悔い改める必要がありました。
17節「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」これは、本日の旧約聖書・詩編69編10節です。弟子たちは、この詩編の御言葉が、まさにイエス様にこそ当てはまると実感したから、思い出したのです。聖霊なる神様が思い出させたと言えます。「あなたの神殿に対する熱情が、私を食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが、私の上にふりかかっています。」これはこのヨハネ福音書の文脈では、「父なる神様の神殿に対する熱い愛で、私(イエス様)が満ち満ちているので、神を愛さない者の嘲りが、私(イエス様)の上にふりかかっています」の意味です。イエス様が、神様の神殿を純粋に愛するあまりこのような激しい行動をとったので、人々からの反感がイエス様に降りかかるということです。ヨハネ福音書ではこの場面が2章、つまりヨハネ福音書の最初の方に記されていますが、他の3つの福音書では、イエス様の十字架の死の少し前の出来事として書かれており(時間の順序を正確に追うなら)それが正しいのでしょう)、イエス様が神殿をこのように激烈に清めたことがエルサレムの指導者たちの憎しみを買い、イエス様の十字架の死の原因になったと読める展開になっています。ヨハネ福音書においても、イエス様のこの激烈な行動が、エルサレムの指導者たちの怒りを買ったことは同じです。
18節「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか。』」するとイエス様が、深い真理を語られます。この語りは、他の3つの福音書に記されていません。19、20節「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。」そんなことは物理的に不可能です。しかしイエス様がおっしゃることは、もっと深い次元のことでした。21~22節「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」
イエス様は、エルサレムの地上の神殿は、もうすぐ不要になるとおっしゃっています。動物のいけにえを献げて神様に人間の罪を赦していただく礼拝は、いらなくなる。神の子イエス・キリストが、完全ないけにえとなって十字架で、ご自分を献げて下さるからです。そして三日目に復活して、死を乗り越えた永遠の命の希望をもたらして下さる。事実、この時から約40年後に、エルサレムの神殿はローマ軍の攻撃によって破壊され、その後再建されることはありませんでした。それは神様の御心でした。イエス様の十字架の死と復活の後は、キリスト教会が礼拝共同体になりました。建物のことではありません。イエス様を救い主と信じて、父なる神様を礼拝する群れのことです。このキリストの教会という共同体が、真の神殿です。聖書によれば、教会という神殿はキリストの体です。イエス様が頭、Aさんは手、Bさんは足、Cさんはお腹、Dさんは背中という具合です。誰に対しても「あなたは要らない」ということのない共同体がキリストの体である新しい神殿です。そこにイエス様の清き霊である聖霊が生きて存在し、働いておられるのです。この共同体は、聖餐式において、パン(イエス様の御体)とぶどう液(イエス様の血潮)を皆で食べ飲みする共同体です。イエス様の御体を皆で食べるのですから、確かにこの共同体はキリストの体です。そして聖霊が宿って下さる神殿です。神殿とはまさ聖霊が住んで下さる場です。
そしてイエス様の使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)6章15節で、私たちキリストを信じる者一人一人の自覚を促すために、こう書きます。コリントはギリシアの都市です。「あなた方は、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。」私たちの体は、自分勝手にしてよいものではなく、イエス・キリストの聖なる体の一部、神殿の一部となっている。だから自分の体で、たとえば配偶者以外と体の交わりを持つような罪を犯してはいけない。「キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。」「知らないのですか。あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです。あなた方は代価を払って買い取られたのです(イエス様の十字架の尊い犠牲によって神の子とされた)。だから、自分の体で神の栄光を(神の聖なること、神のすばらしさ)を現しなさい。」自分の体を罪深いことのために用いず、神様が喜ぶことに用いなさい。あなた方一人一人が、聖霊のが住んで下さる神殿なのだから、と教えてくれます。
パウロが、なぜこんなことを書くかというと、コリントの教会に実際にこのような問題が起きていたからです。コリントの教会は、パウロが一生懸命伝道してできた教会、礼拝共同体です。しかしクリスチャンになったばかりの人々の多くが未熟で、色々なトラブルが起きていました。驚くような不道徳な行いをする教会員もいました。パウロはコリント教会を熱烈に愛しているので人々を戒め、悔い改めに導き、正しい方向に導くためにコリントの信徒への手紙(一)と(二)を書きました。パウロはコリントの信徒への手紙(一)4章21節で述べます。「あなた方が望むのはどちらですか。私があなた方の所へ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。」パウロもまた、愛してやまないコリント教会を罪から清めるためならば、鞭を振るう決心があったのだと思います。
東久留米教会では今、木曜日の聖書の学び・祈祷会で、エゼキエル書を読み進めています。神様が忠実な預言者エゼキエルを通して、イスラエルや他の諸国に、彼らの罪に対して厳しい裁きの言葉を語り続けておられます。恵みの御言葉もありますが、裁きの言葉の方がかなり多い印象です。しかしだからと言って、旧約聖書の神と新約聖書の神は、別の神ではなく、全く同じ神様です。神の子イエス様も、同じ厳しさを発揮されることがあります。それが本日の「神殿から商人を追い払う」個所だと思います。私たちは本日鞭を振るって神殿を清めるイエス様のお姿を思いながら、エゼキエル書などに出て来る裁きの言葉は、イエス様の清めの鞭と同じだと感じるのです。私たちの神様、そして神の子イエス様は、愛の方であると同時に清い聖なる方であることを、改めて心に刻みたいのです。これから歌う讃美歌21・476番の1節の歌詞に「聖なる愛よ」とありますが、まさに私たちの神様の愛、イエス様の愛は「聖なる愛」です。キリスト教の幼稚園等に時々「聖愛幼稚園」という名称があります。キリスト教主義の学校の名前であることもあります。「〇〇聖愛高校」という名も聞いた記憶があります。ローマの信徒への手紙11章22節に「神の慈しみと厳しさを考えなさい」と書かれています。口語訳聖書では「神の慈愛を峻厳を見よ」で、私にはこれが印象深いのです。「神の慈愛と峻厳を見よ。」それでも、神様が私たちを厳しく清めて下さるのは、私たちを愛しておられ、私たちが天国に入りやすくするために、私たちを時々打って清めて下さると思うのです。
ペトロの手紙(一)4章17節に、こうあります。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。私たちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるのだろうか。」神の裁きは神の家から、つまり教会から始まるというのです。私たち教会に集う者は聖書を読んでおり、神様の祝福を受けており、神様がどんな方かもよく知っているので、それだけに神様の期待も大きく、神の恵みを受けている分、責任も大きいからです。それでも神様がまず教会を裁いて下さるのは、神様が私たちを悔い改めに導き、清めに導き、天国に入り易くして下さる愛の目的から出ていると信じます。
私たちは今日の御言葉を読んで、イエス様の峻厳を知ります。同時に思います。鞭を振るって神殿を清めたイエス様自身が、十字架にかかる前にひどい鞭打ちをお受けになったことを。あの鞭打ちも十字架刑の一部と見れば、イエス様が私たちの全部の罪を身代わりに背負って、あの厳しい鞭打ちも受けて下さいました。イエス様が受けた鞭も、もしかすると本来は私たちが受けるべき裁きの鞭打ちだったのではないでしょうか。イエス様が、人間たちの全部の罪を鞭打つなら、神殿での鞭打ちだけでは全く足りないでしょう。それ以外に人間の全部の罪を裁くために必要な鞭打ちは、イエス様はご自分が引き受けられたと言えるのではないでしょうか。イエス様は神殿で鞭を振るって商人たちを追い払いましたが、もっと多くの鞭打ちをご自分が引き受けて下さったと思うのです。神殿清めの場面を読むときも、イエス様の十字架の身代わりの死の愛を、深く思いつつ読むことがふさわしい。そう思います。アーメン。
(祈り)御名讃美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナ第七波が早く収まりに転じますように。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。
(詩編69:8~13)
わたしはあなたゆえに嘲られ/顔は屈辱に覆われています。兄弟はわたしを失われた者とし/同じ母の子らはわたしを異邦人とします。あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。わたしが断食して泣けば/そうするからといって嘲られ粗布を衣とすれば/それもわたしへの嘲りの歌になります。町の門に座る人々はわたしを非難し/強い酒に酔う者らはわたしのことを歌います。
(ヨハネ福音書2:13~25)
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
(説教) 8週間前にペンテコステを献げ、聖霊降臨節第9主日公同礼拝です。本日の説教題は「神殿から商人を追い払うキリスト」です。先週のヨハネ福音書は、この直前でした。ガリラヤのカナという所で、婚礼があった。皆でお祝いに飲むぶどう酒がなくなった。イエス・キリストが愛の奇跡を起こして、とてもおいしいぶどう酒を、水から作り出して下さり、人々はそれを飲んで、恵まれた婚礼の時を過ごした、という話でした。イエス様はこの奇跡(ヨハネ福音書では「しるし」という)により、ご自分が神の子であることを明らかにして下さったのです。愛に満ちたイエス様の姿が、示されていました。
その直後の本日の個所は、ヨハネ福音書2章13節以下です。ここでのイエス様は、鞭を振るっています。イエス様が、聖なる怒りを発揮しておられます。一見、まるで先週のイエス様とは、完全に正反対のイエス様のようで、戸惑う方もあるのではないかと思います。最初の13節「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。」過越祭は、ユダヤ人の最大の祭りで、首都エルサレムは熱気にあふれたと言います。エルサレムは首都ですが、イエス様にとっては安心な場所ではありません。イエス様に敵対するファリサイ派の人々の根拠地がエルサレムです。イエス様にとっての平安の地は、お育ちになったガリラヤです。そのガリラヤのカナから、ヨルダン川の向こう側ベタニアを通り、イエス様はご自分に敵対する人々の多い、イエス様にとって危険なエルサレムにやって来られたのです。
14節「そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。」イエス様はエルサレムに入ると、神殿に直行なさいました。当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王という建築が大好きな王様が一生懸命拡張した、非常に壮麗で美しい建物だったそうです。しかし大事なのはもちろん、中身です。神殿は礼拝する場所で、礼拝では牛や羊や鳩を、神様に献げる必要がありました。しかし遠くから礼拝に来る人が、いけにえの動物を連れて来ることは、物理的に困難です。そこで神殿でいけにえの動物を買って、献げてよい決まりになっていたそうです。ですから合法であった、ルール通りでありました。ですが、イエス様からご覧になると、問題があったのだと思います。15~16節「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。』」
これを素直に読むと、「この神殿は、私の父なる神様の聖なる家、祈りの家、礼拝の家である。それを商売の家としてはならない。」この聖なる家を「商売の家、売り買いの家、ビジネスの家にしてはならない」とおっしゃっていることになります。私たちには、いけにえの動物が、どれくらいの値段で売り買いされていたのか、分かりません。売る側の利益が少しであれば、問題なかったのかもしれません。しかし買う側からすれば、どうしても買わなければならないとすれば、買う側の立場は弱くなり、売る側の立場が強くなり、次第に売る側が高く売るようになったかもしれません。そうなると売る側が強欲の罪に陥った可能性はあります。両替商は、両替するだけなら、1銭の利益も得ないので問題ないと思いますが、現実には高い手数料を取って儲けていたと書く解説書もあります。そうだったのかもしれません。そうなると一日の終わりに「今日の儲けは、これくらいだった」ということが商売する人々の関心の中心になり、いつの間にか、神様よりもお金に関心が集中するようになったのではないでしょうか。それはいけない。礼拝の場の中心は、どこまでも神様でなければならない。そうでないと神様への礼拝にならない。この時、イエス様の姿勢に妥協は全くありません。純粋な神礼拝を回復する必要がある。そのためにイエス様は、激しい聖なる怒りをもって鞭を振るい、牛や羊を追い出し、両替人の金をまき散らし、鳩を売る者たちに「このような物(鳩、お金)はここから運び出せ。私の父の家(父を礼拝する神殿)を商売の家とすることを決して許さない」と事実上、宣言されました。真の礼拝を確立する必要があるということです。父なる神様に喜ばれる霊と真理の礼拝、嘘偽りのない、真心から神様の前で、自分の罪を悔い改める礼拝。真の礼拝の確立が必要なのだと思います。
マタイによる福音書のよく似た場面を読むと、イエス様は、こうおっしゃっています。「こう書いてある(旧約聖書に)。『私の家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」 「神様の聖なる神殿は、祈りの家、礼拝の家でなければいけない。ところがイスラエルの指導者たちが、強盗の巣にしている。」強盗の巣とは強烈な表現です。強盗は、泥棒よりも強烈な表現ですね。強盗は強欲です。礼拝と強欲は矛盾します。両立しません。イエス様がマタイ福音書6章24節で「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」と言われた御言葉を、肝に銘じる必要があります。それにしても、イスラエルの信仰の指導者たちが、本当のそんなに強欲で堕落していたのでしょうか。信じ難い気もしますが、ルカ福音書16章14節に「金に執着するファリサイ派の人々が(~)イエスをあざ笑った」とありますので、金に執着するファリサイ派(イスラエルの民の信仰のリーダー)の人々が、本当にいたのでしょう。そのような人々が神殿で権力をもち、神殿ビジネスをリードして、利益を得ていた可能性がありますね。私が思うに、この神殿に関わる人々の多くは男性で、政治と権力とお金が重視されたいたの現実ではないかと思います。まさにこの世の生々しい現実です。ところがそこにイエス様が来られます。イエス様は聖なる神の子で、政治にも権力にもかかわりなく、全く強欲ではありません。イエス様は、父なる神様を愛し、その神殿を愛しているので、神殿を全力で清められます。人々は、貪欲の罪に陥っていた可能性があります。コロサイの信徒への手紙3章に「貪欲は偶像礼拝にほかならない」との御言葉があります。神殿の人々は、貪欲の罪を悔い改める必要がありました。
17節「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」これは、本日の旧約聖書・詩編69編10節です。弟子たちは、この詩編の御言葉が、まさにイエス様にこそ当てはまると実感したから、思い出したのです。聖霊なる神様が思い出させたと言えます。「あなたの神殿に対する熱情が、私を食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが、私の上にふりかかっています。」これはこのヨハネ福音書の文脈では、「父なる神様の神殿に対する熱い愛で、私(イエス様)が満ち満ちているので、神を愛さない者の嘲りが、私(イエス様)の上にふりかかっています」の意味です。イエス様が、神様の神殿を純粋に愛するあまりこのような激しい行動をとったので、人々からの反感がイエス様に降りかかるということです。ヨハネ福音書ではこの場面が2章、つまりヨハネ福音書の最初の方に記されていますが、他の3つの福音書では、イエス様の十字架の死の少し前の出来事として書かれており(時間の順序を正確に追うなら)それが正しいのでしょう)、イエス様が神殿をこのように激烈に清めたことがエルサレムの指導者たちの憎しみを買い、イエス様の十字架の死の原因になったと読める展開になっています。ヨハネ福音書においても、イエス様のこの激烈な行動が、エルサレムの指導者たちの怒りを買ったことは同じです。
18節「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか。』」するとイエス様が、深い真理を語られます。この語りは、他の3つの福音書に記されていません。19、20節「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。」そんなことは物理的に不可能です。しかしイエス様がおっしゃることは、もっと深い次元のことでした。21~22節「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」
イエス様は、エルサレムの地上の神殿は、もうすぐ不要になるとおっしゃっています。動物のいけにえを献げて神様に人間の罪を赦していただく礼拝は、いらなくなる。神の子イエス・キリストが、完全ないけにえとなって十字架で、ご自分を献げて下さるからです。そして三日目に復活して、死を乗り越えた永遠の命の希望をもたらして下さる。事実、この時から約40年後に、エルサレムの神殿はローマ軍の攻撃によって破壊され、その後再建されることはありませんでした。それは神様の御心でした。イエス様の十字架の死と復活の後は、キリスト教会が礼拝共同体になりました。建物のことではありません。イエス様を救い主と信じて、父なる神様を礼拝する群れのことです。このキリストの教会という共同体が、真の神殿です。聖書によれば、教会という神殿はキリストの体です。イエス様が頭、Aさんは手、Bさんは足、Cさんはお腹、Dさんは背中という具合です。誰に対しても「あなたは要らない」ということのない共同体がキリストの体である新しい神殿です。そこにイエス様の清き霊である聖霊が生きて存在し、働いておられるのです。この共同体は、聖餐式において、パン(イエス様の御体)とぶどう液(イエス様の血潮)を皆で食べ飲みする共同体です。イエス様の御体を皆で食べるのですから、確かにこの共同体はキリストの体です。そして聖霊が宿って下さる神殿です。神殿とはまさ聖霊が住んで下さる場です。
そしてイエス様の使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)6章15節で、私たちキリストを信じる者一人一人の自覚を促すために、こう書きます。コリントはギリシアの都市です。「あなた方は、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。」私たちの体は、自分勝手にしてよいものではなく、イエス・キリストの聖なる体の一部、神殿の一部となっている。だから自分の体で、たとえば配偶者以外と体の交わりを持つような罪を犯してはいけない。「キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。」「知らないのですか。あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです。あなた方は代価を払って買い取られたのです(イエス様の十字架の尊い犠牲によって神の子とされた)。だから、自分の体で神の栄光を(神の聖なること、神のすばらしさ)を現しなさい。」自分の体を罪深いことのために用いず、神様が喜ぶことに用いなさい。あなた方一人一人が、聖霊のが住んで下さる神殿なのだから、と教えてくれます。
パウロが、なぜこんなことを書くかというと、コリントの教会に実際にこのような問題が起きていたからです。コリントの教会は、パウロが一生懸命伝道してできた教会、礼拝共同体です。しかしクリスチャンになったばかりの人々の多くが未熟で、色々なトラブルが起きていました。驚くような不道徳な行いをする教会員もいました。パウロはコリント教会を熱烈に愛しているので人々を戒め、悔い改めに導き、正しい方向に導くためにコリントの信徒への手紙(一)と(二)を書きました。パウロはコリントの信徒への手紙(一)4章21節で述べます。「あなた方が望むのはどちらですか。私があなた方の所へ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。」パウロもまた、愛してやまないコリント教会を罪から清めるためならば、鞭を振るう決心があったのだと思います。
東久留米教会では今、木曜日の聖書の学び・祈祷会で、エゼキエル書を読み進めています。神様が忠実な預言者エゼキエルを通して、イスラエルや他の諸国に、彼らの罪に対して厳しい裁きの言葉を語り続けておられます。恵みの御言葉もありますが、裁きの言葉の方がかなり多い印象です。しかしだからと言って、旧約聖書の神と新約聖書の神は、別の神ではなく、全く同じ神様です。神の子イエス様も、同じ厳しさを発揮されることがあります。それが本日の「神殿から商人を追い払う」個所だと思います。私たちは本日鞭を振るって神殿を清めるイエス様のお姿を思いながら、エゼキエル書などに出て来る裁きの言葉は、イエス様の清めの鞭と同じだと感じるのです。私たちの神様、そして神の子イエス様は、愛の方であると同時に清い聖なる方であることを、改めて心に刻みたいのです。これから歌う讃美歌21・476番の1節の歌詞に「聖なる愛よ」とありますが、まさに私たちの神様の愛、イエス様の愛は「聖なる愛」です。キリスト教の幼稚園等に時々「聖愛幼稚園」という名称があります。キリスト教主義の学校の名前であることもあります。「〇〇聖愛高校」という名も聞いた記憶があります。ローマの信徒への手紙11章22節に「神の慈しみと厳しさを考えなさい」と書かれています。口語訳聖書では「神の慈愛を峻厳を見よ」で、私にはこれが印象深いのです。「神の慈愛と峻厳を見よ。」それでも、神様が私たちを厳しく清めて下さるのは、私たちを愛しておられ、私たちが天国に入りやすくするために、私たちを時々打って清めて下さると思うのです。
ペトロの手紙(一)4章17節に、こうあります。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。私たちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるのだろうか。」神の裁きは神の家から、つまり教会から始まるというのです。私たち教会に集う者は聖書を読んでおり、神様の祝福を受けており、神様がどんな方かもよく知っているので、それだけに神様の期待も大きく、神の恵みを受けている分、責任も大きいからです。それでも神様がまず教会を裁いて下さるのは、神様が私たちを悔い改めに導き、清めに導き、天国に入り易くして下さる愛の目的から出ていると信じます。
私たちは今日の御言葉を読んで、イエス様の峻厳を知ります。同時に思います。鞭を振るって神殿を清めたイエス様自身が、十字架にかかる前にひどい鞭打ちをお受けになったことを。あの鞭打ちも十字架刑の一部と見れば、イエス様が私たちの全部の罪を身代わりに背負って、あの厳しい鞭打ちも受けて下さいました。イエス様が受けた鞭も、もしかすると本来は私たちが受けるべき裁きの鞭打ちだったのではないでしょうか。イエス様が、人間たちの全部の罪を鞭打つなら、神殿での鞭打ちだけでは全く足りないでしょう。それ以外に人間の全部の罪を裁くために必要な鞭打ちは、イエス様はご自分が引き受けられたと言えるのではないでしょうか。イエス様は神殿で鞭を振るって商人たちを追い払いましたが、もっと多くの鞭打ちをご自分が引き受けて下さったと思うのです。神殿清めの場面を読むときも、イエス様の十字架の身代わりの死の愛を、深く思いつつ読むことがふさわしい。そう思います。アーメン。
(祈り)御名讃美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナ第七波が早く収まりに転じますように。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。
2022-07-24 1:10:02()
「天国の光をもたらすキリスト」2022年7月24日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第52回)
順序:招詞 コリント(二)1:3~5、頌栄24、「主の祈り」,交読詩編なし,使徒信条、讃美歌21・227、聖書 ヨハネ福音書2:1~12(新約p.165)、祈祷、説教、讃美歌21・431、献金、頌栄27、祝祷。
(ヨハネ福音書2:1~12) 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。
(説教) 7週間前にペンテコステを献げ、本日は「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第52回)です。本日の説教題は「天国の光をもたらすキリスト」です。本日のヨハネ福音書の個所は、教会では有名な個所です。小見出しは「カナでの婚礼」です。
1~2節「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。」婚礼は結婚式ですから、一番の祝福の時と言えます。そして聖書では、婚礼・結婚式はしばしば天国・神の国のシンボルです。冒頭の「三日目」という言葉にも、意味があると思います。新約聖書では三日目はイエス・キリストの十字架の死から三日目が、復活の日です。冒頭の三日目という言葉には、復活の喜びが暗示されていると思います。
3節「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」イエス様の母マリアも、婚礼の裏方で幹事のように働いていたのでしょう。娯楽は少ない時代、婚礼は村を挙げての喜びだったと思います。祝福のぶどう酒を皆で飲む数少ない機会です。それがないとなると、やはり困ってしまいます。困り事をイエス様に率直に申し上げることは、よいこと思います。私たちも、時に困ることがあります。打開すべく努力もしますが、同時にイエス様に率直に困り事を訴え、「助けて下さい」と祈ることは正しいことと信じます。イエス様は、必ず何らかの形で助けて下さいます。イエス様は私たちに「あなたの自己責任だけで、何とかしなさい」とは言われないと思います。困り事打開のために私たちも、一生懸命努力しますが、同時に祈ることで、イエス様(父なる神様)が必ず何らかの形で助けて下さる。私たちはきっと、それを何回も経験してきたと思うのです。マリアさんも、我が子イエス様に助けを求めました。
しかしイエス様の応答は、一見とても冷淡です。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」実のお母さんに、こんなによそよそしい言い方をしなくてもよいのに、と思ってしまいますね。「私とどんなかかわりがあるのです」とは、ちょっと驚くべき言い方です。「どんなかかわり」も何も、実のお母さんではありませんか。イエス様はここで一旦、母マリアの願いを断っているかのようです。イエス様にしてみれば、理由はあるのですね。「私はお母さんの長男であると同時に、天におられる父なる神様の独り子なのですよ。私は、父なる神様から与えられた使命を果たすことを最優先しなければならないのですよ。お母さんは私が奇跡を起こしてぶどう酒を造り出すことを願っておられるのでしょうが、私の時はまだ来ていません。私が父なる神様の栄光を表す時は、まだ先です。今奇跡を頼まれても困ります。」
マリアにもそれは伝わったと思います。イエス様が一旦断ったように聞こえた。しかし、そこは実の親子。マリアさんはそれを聞いても、「イエスはあのように言ってはいるけれども、きっと何とかしてくれる」と信頼し、期待していたに違いありません。ある神父は、想像しています。ここには「二人だけに通じる言外のコミュニケーションがあったはずです。その時、イエス様の声の調子は柔らかく、顔は当惑を表しながらも微笑みを含んでおり、また、ひょっとしたら、目にはいたずらっぽさがのぞいていたかもしれません。」イエス様のお気持ちとしては、「本当はまだ神の栄光を現す時は今ではなく、まだ先だけれども、お母さんのたっての願いだからしょうがないか」という気持ちだったのではないでしょうか。私たちが祈るときも、本当に困っているならば、「こんなことは聞いていただけないだろう」と決めつけないで、あえて父なる神様に(あるいはイエス様に)願いを祈ることがよいと思います。神様は冷たい機械ではなく心を持つ方ですから、聞き上げて下さる可能性はあると信じて、祈ることが大切と信じます。
マリアさんは、イエス様がきっと何とかして下さると信頼して、召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」と言いました。イエス様がきっと彼らに言いつけなさるだろうと信頼していたと感じます。6節「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。」マリアさんが期待した通りイエス様が、召し使いたちに言いつけます。「水かめに水をいっぱい入れなさい。」召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。一メトレテスは約39ℓですから、二ないし三メトレテスは約80~120ℓですから、各家庭のお風呂くらいの容量でしょうか。その石かめが六つありました。水場まで水を汲みに行き、水を汲んで戻って来てかめに入れる。何回か往復するでしょう。各々のかめを縁までいっぱいにしました。実に忠実な召し使いたちです。言われた通りに行う姿勢がすばらしい。人は時には、100%言われた通りにせず、95%くらいで勝手によしとすることも、ないとは言い切れません。マタイ福音書25章には、主人から「忠実な良い僕だ」と褒められる僕が登場しますが、私たちもイエス様から「忠実な良い僕だ」と呼ばれるように、心がけたいものです。私たちはイエス様に忠実にお仕えし、イエス様がそれを祝福して下さいます。
イエス様が言われます。8節「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい。」石かめを運んだのではないようです。召し使いたちが運んで行く途中で、水はぶどう酒に変わりました。変化しました。イエス様が祝福して下さったからです。9節「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていたが」とあります。このぶどう酒はどこから来たのか? 天国から来たのです。イエス・キリストから来たのです。イエス様こそ、神様の清さと愛と祝福の源なのです。
「このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。』」良いぶどう酒、最高級のぶどう酒、極上のぶどう酒でした。イエス様は、この結婚式を、大いに祝福して下さったのです。マリアさんもほっとし、大変喜んだに違いありません。ぶどう酒がなくなって青くなっていたであろう世話役の顔も立ちました。11節「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」イエス様こそ真の神の子、真の救い主と信じたのです。
この出来事が教えることは、イエス様の祝福、神様の真の愛がないと、人生が虚しいということではないでしょうか。昔の有名なクリスチャンであったアゥグスティヌスという人が、「人の心は神様に向かって作られているので、真の神様に立ち帰らないと、真の安らぎを得ることができない」という言葉を残しています。「人の心は神様に向かって作られているので、真の神様に立ち帰らないと、真の安らぎを得ることができない。」このヨハネ福音書3章16節に、「神はその独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という、神様の愛を強調する教会では有名な御言葉があります。またコリントの信徒への手紙(一)13章には、これも教会では有名な「愛の賛歌」があり、こう書かれています。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持ていようとも、愛がなければ無に等しい。 それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
誰もが神様の愛、神の子イエス・キリストの真の愛を必要としています。これがないと、人生が虚しく感じられるのではないでしょうか。旧約聖書に「コヘレトの言葉」という書があります。以前は「伝道の書」と呼びました。その1章にこうあります。「何という空しさ。何という空しさ、全ては空しい。太陽の下、人は労苦するが、全ての労苦も何になろう。」これが人生の全てとは思いませんが、そのような面もあります。心が満たされないと、人によっては麻薬、覚醒剤、不倫、犯罪に走ることもあります。神様の真の愛で心が満たされていれば、そのようなことに走る必要もなくなります。東久留米教会で今から25年ほども前に、加藤常昭先生という有名な牧師をお招きして、伝道集会を行ったことがあります。その頃、神戸で、14歳の男子中学生が小学生二人を殺害する衝撃的な事件がありました。加藤先生は伝道集会で、その事件のことに触れられました。その加害者の少年が、心に深い深い闇、自分でコントロールできない攻撃性にもし悩んでいたなら、周りにそれに気づいたクリスチャンはいなかったのだろうか。神戸には教会はたくさんあるのだから、彼が事件を起こす前に、彼に寄り添うクリスチャンや牧師がいれば、違う結果になったのではないか。おおよそそのようなお話でした。彼に、神の愛を知らせる人がいれば、違う結果もあり得たのではないか、と。
私がそれを思い出したのは、今回の安倍元首相の銃撃事件の犯人のことを思ったからです。悪い宗教によって家庭を破壊されて恨みをもつようになり、殺人事件を起こした。神様の愛、イエス・キリストの愛に触れる経験が、全くなかったのではないかと思います。彼の犯罪を正当化することは不可能ですが、家庭を破壊されて恨みを持つようになった彼に、真の愛を伝える人、イエス・キリストの真に愛を言葉や行いによって知らせる人が身近にいれば、わざわざ銃を造って人を殺すまでに至らなかった可能性もあるのではないか。愛が欠けていることが、暴力、攻撃、犯罪につながってしまう。もしかすると私たちの身の周りにも、その手前のような人がいないとは言えません。クリスチャンの役割は大きいと思います。世の中で辛いことが多いとしても、イエス・キリストはあなたを愛している。あなたの身代わりに十字架で死んで下さるほどに、あなたを愛している。この事実を伝えて、心のケアを行うことができます。
このような心のケアを教会で「牧会」と呼びます。牧会はもちろん牧師の務めですが、役員さんをはじめ、クリスチャンならどなたでも行うことができます。教会学校の先生であれば、教会学校の生徒のために祈りながら牧会を行います。牧会は、羊飼いが羊たちのためにケアすることですね。大いなる羊飼いイエス様がまず、小さき羊である私たち一人一人に愛を注ぎ、よき牧会を行って下さいました。私たちはそれに支えられて、他の方に牧会をさせていただきます。教会の務めは伝道、礼拝、そして牧会と言うことができます。このような牧会があれば、加害行動に走りそうな人の心を落ち着かせて、恨みや怒りを乗り越えて、何とか平和に過ごせるように導くこともあり得ると思います。このようなケアは、精神科医や一般のカウンセラーでもできる部分がありますが、でもイエス・キリストが私たちを十字架の愛で愛しておられることを知リスチャンにこそ、大いにできることと思います。
三浦綾子さんというクリスチャンの作家がおられました。この方の作品を読んでクリスチャンになった方は、相当多いと思います。この方は太平洋戦争中は、小学校(国民学校)の熱心な教師、軍国教師だったそうです。ところが敗戦によって、これまで教えて来た教科書を墨で塗りつぶすことになり(これまで正しいと信じて教えて来たことが否定された)、どのように生きてよいか分からなくなり、生きる目的を見失い、虚無に陥り、病気になってしまいます。聖書に出会っても、すぐに信じることはできませんでした。命を絶とうとさえしますが、助けられます。色々なよき出会いが与えられ、長い時間を経て、洗礼に導かれます。病床洗礼です。三浦綾子さんの『道ありき』(新潮文庫)という自伝によると、「その時まで、私の気持ちは極めて冷静であった。洗礼を受けるというのに、これほど何の感動も感激もなくてよいものかと不安になるほど、平静であった。ところが(いよいよ洗礼の瞬間になって)、私は思わず泣いてしまった。それは自分自身にも思いがけないことであった。だが、涙が心の奥深い所からほとばしり出てくるのだ。私のような不誠実な者が、私のように罪深い者が、キリスト者となることができるのかと思うと、どうにも泣けてしかたがなかった。」
洗礼式が終わって、小野村林蔵牧師が、静かに言われました。「必ず治ります。いましばらくの試練ですからね。」「必ず治ります」の確信に満ちた静かな言葉が「その後の長い病床生活の中で、いく度も私を慰め励ました」と三浦さんが書いています。この小野村牧師は、まさによき羊飼い、よき牧会者です。真の光はイエス様ですが、そのイエス様の聖霊に満たされて、小野村牧師もまた小さなキリストとして、三浦さんを慰め励ます光の言葉をプレゼントしたのです。私たちもイエス様に愛されて聖霊を注がれているので、一人一人が小さなキリストとなって、隣人にささやかでも光をもたらす使命を与えられています。三浦さんは、さらに書きます。「ふしぎなことが起こった。洗礼を受けたその日から、私はうれしくてうれしくてならなくなった。心の中に灯がともったのだ。その灯が私を揺り動かすのだ。『神様、〇さんと、〇さんと、〇さんを、どうかクリスチャンにさせて下さい。この三人がクリスチャンになりましたら、私はいつ天に召されてもよろしいです。』そして私は、この三人に葉書を書いた。私がこんなに喜んでいる喜びを、分けたくて仕方がなかった。それは、おいしい物を食べた時、人にも食べてもらいたいあの気持ちに似ていた。西村先生(先輩クリスチャン)の日常を見ていると、キリスト者とは伝道するものであると思わずにはいられなかった。」
三浦さんの心にキリストの愛と聖霊が注がれたのです。キリストの愛と聖霊が、空しさ、虚無を乗り越える力となりました。今日のヨハネ福音書で、イエス様が水から造り出して下さったぶどう酒は、イエス様の愛のシンボルです。私も今から34年前に、教会の礼拝で洗礼を受けた日、一人暮らしのアパートに帰ってもやや興奮していて、ついつい部屋の中で讃美歌を歌い続けておりました。やはり嬉しかったのでしょうね。聖霊が注がれたのかなと思います。大きな声で歌っていたつもりはないのですが、暫くして上の部屋の人が「ドンドン」と彼の床(私の天井)を叩いて、「うるさい」と怒っていたようです。それで歌うのをやめた記憶があります。
虚無や恨みを乗り越えさせる力は、イエス様の十字架の愛です。私たち罪人(つみびと)の全ての罪を身代わりに背負って死に、三日目に復活されたイエス様の十字架の愛です。私が洗礼を受けた教会に、統一協会の信仰をやめてクリスチャンになった方がおられたと先週申しましたが、その方もすぐにクリスチャンにはなれなかったそうです。それまで文鮮明が救い主と信じていたのに、嘘だと分かった。イエス様が救い主だと言われても、また嘘だったらまた騙される。それで簡単には信じられなかったのですが、「でもイエス様は私の身代わりに死んで下さった。そのような方なら、信じても裏切られることはない」と思って、洗礼に至ることができたそうです。このイエス様の十字架の愛を信じて、全ての人にクリスチャンになっていただき、神の子になっていただき、真の平安に入っていただきたいと切に祈ります。
(祈り)御名讃美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナが早く収まりに転じますように。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。
(ヨハネ福音書2:1~12) 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。
(説教) 7週間前にペンテコステを献げ、本日は「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第52回)です。本日の説教題は「天国の光をもたらすキリスト」です。本日のヨハネ福音書の個所は、教会では有名な個所です。小見出しは「カナでの婚礼」です。
1~2節「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。」婚礼は結婚式ですから、一番の祝福の時と言えます。そして聖書では、婚礼・結婚式はしばしば天国・神の国のシンボルです。冒頭の「三日目」という言葉にも、意味があると思います。新約聖書では三日目はイエス・キリストの十字架の死から三日目が、復活の日です。冒頭の三日目という言葉には、復活の喜びが暗示されていると思います。
3節「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」イエス様の母マリアも、婚礼の裏方で幹事のように働いていたのでしょう。娯楽は少ない時代、婚礼は村を挙げての喜びだったと思います。祝福のぶどう酒を皆で飲む数少ない機会です。それがないとなると、やはり困ってしまいます。困り事をイエス様に率直に申し上げることは、よいこと思います。私たちも、時に困ることがあります。打開すべく努力もしますが、同時にイエス様に率直に困り事を訴え、「助けて下さい」と祈ることは正しいことと信じます。イエス様は、必ず何らかの形で助けて下さいます。イエス様は私たちに「あなたの自己責任だけで、何とかしなさい」とは言われないと思います。困り事打開のために私たちも、一生懸命努力しますが、同時に祈ることで、イエス様(父なる神様)が必ず何らかの形で助けて下さる。私たちはきっと、それを何回も経験してきたと思うのです。マリアさんも、我が子イエス様に助けを求めました。
しかしイエス様の応答は、一見とても冷淡です。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」実のお母さんに、こんなによそよそしい言い方をしなくてもよいのに、と思ってしまいますね。「私とどんなかかわりがあるのです」とは、ちょっと驚くべき言い方です。「どんなかかわり」も何も、実のお母さんではありませんか。イエス様はここで一旦、母マリアの願いを断っているかのようです。イエス様にしてみれば、理由はあるのですね。「私はお母さんの長男であると同時に、天におられる父なる神様の独り子なのですよ。私は、父なる神様から与えられた使命を果たすことを最優先しなければならないのですよ。お母さんは私が奇跡を起こしてぶどう酒を造り出すことを願っておられるのでしょうが、私の時はまだ来ていません。私が父なる神様の栄光を表す時は、まだ先です。今奇跡を頼まれても困ります。」
マリアにもそれは伝わったと思います。イエス様が一旦断ったように聞こえた。しかし、そこは実の親子。マリアさんはそれを聞いても、「イエスはあのように言ってはいるけれども、きっと何とかしてくれる」と信頼し、期待していたに違いありません。ある神父は、想像しています。ここには「二人だけに通じる言外のコミュニケーションがあったはずです。その時、イエス様の声の調子は柔らかく、顔は当惑を表しながらも微笑みを含んでおり、また、ひょっとしたら、目にはいたずらっぽさがのぞいていたかもしれません。」イエス様のお気持ちとしては、「本当はまだ神の栄光を現す時は今ではなく、まだ先だけれども、お母さんのたっての願いだからしょうがないか」という気持ちだったのではないでしょうか。私たちが祈るときも、本当に困っているならば、「こんなことは聞いていただけないだろう」と決めつけないで、あえて父なる神様に(あるいはイエス様に)願いを祈ることがよいと思います。神様は冷たい機械ではなく心を持つ方ですから、聞き上げて下さる可能性はあると信じて、祈ることが大切と信じます。
マリアさんは、イエス様がきっと何とかして下さると信頼して、召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」と言いました。イエス様がきっと彼らに言いつけなさるだろうと信頼していたと感じます。6節「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。」マリアさんが期待した通りイエス様が、召し使いたちに言いつけます。「水かめに水をいっぱい入れなさい。」召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。一メトレテスは約39ℓですから、二ないし三メトレテスは約80~120ℓですから、各家庭のお風呂くらいの容量でしょうか。その石かめが六つありました。水場まで水を汲みに行き、水を汲んで戻って来てかめに入れる。何回か往復するでしょう。各々のかめを縁までいっぱいにしました。実に忠実な召し使いたちです。言われた通りに行う姿勢がすばらしい。人は時には、100%言われた通りにせず、95%くらいで勝手によしとすることも、ないとは言い切れません。マタイ福音書25章には、主人から「忠実な良い僕だ」と褒められる僕が登場しますが、私たちもイエス様から「忠実な良い僕だ」と呼ばれるように、心がけたいものです。私たちはイエス様に忠実にお仕えし、イエス様がそれを祝福して下さいます。
イエス様が言われます。8節「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい。」石かめを運んだのではないようです。召し使いたちが運んで行く途中で、水はぶどう酒に変わりました。変化しました。イエス様が祝福して下さったからです。9節「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていたが」とあります。このぶどう酒はどこから来たのか? 天国から来たのです。イエス・キリストから来たのです。イエス様こそ、神様の清さと愛と祝福の源なのです。
「このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。』」良いぶどう酒、最高級のぶどう酒、極上のぶどう酒でした。イエス様は、この結婚式を、大いに祝福して下さったのです。マリアさんもほっとし、大変喜んだに違いありません。ぶどう酒がなくなって青くなっていたであろう世話役の顔も立ちました。11節「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」イエス様こそ真の神の子、真の救い主と信じたのです。
この出来事が教えることは、イエス様の祝福、神様の真の愛がないと、人生が虚しいということではないでしょうか。昔の有名なクリスチャンであったアゥグスティヌスという人が、「人の心は神様に向かって作られているので、真の神様に立ち帰らないと、真の安らぎを得ることができない」という言葉を残しています。「人の心は神様に向かって作られているので、真の神様に立ち帰らないと、真の安らぎを得ることができない。」このヨハネ福音書3章16節に、「神はその独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という、神様の愛を強調する教会では有名な御言葉があります。またコリントの信徒への手紙(一)13章には、これも教会では有名な「愛の賛歌」があり、こう書かれています。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持ていようとも、愛がなければ無に等しい。 それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
誰もが神様の愛、神の子イエス・キリストの真の愛を必要としています。これがないと、人生が虚しく感じられるのではないでしょうか。旧約聖書に「コヘレトの言葉」という書があります。以前は「伝道の書」と呼びました。その1章にこうあります。「何という空しさ。何という空しさ、全ては空しい。太陽の下、人は労苦するが、全ての労苦も何になろう。」これが人生の全てとは思いませんが、そのような面もあります。心が満たされないと、人によっては麻薬、覚醒剤、不倫、犯罪に走ることもあります。神様の真の愛で心が満たされていれば、そのようなことに走る必要もなくなります。東久留米教会で今から25年ほども前に、加藤常昭先生という有名な牧師をお招きして、伝道集会を行ったことがあります。その頃、神戸で、14歳の男子中学生が小学生二人を殺害する衝撃的な事件がありました。加藤先生は伝道集会で、その事件のことに触れられました。その加害者の少年が、心に深い深い闇、自分でコントロールできない攻撃性にもし悩んでいたなら、周りにそれに気づいたクリスチャンはいなかったのだろうか。神戸には教会はたくさんあるのだから、彼が事件を起こす前に、彼に寄り添うクリスチャンや牧師がいれば、違う結果になったのではないか。おおよそそのようなお話でした。彼に、神の愛を知らせる人がいれば、違う結果もあり得たのではないか、と。
私がそれを思い出したのは、今回の安倍元首相の銃撃事件の犯人のことを思ったからです。悪い宗教によって家庭を破壊されて恨みをもつようになり、殺人事件を起こした。神様の愛、イエス・キリストの愛に触れる経験が、全くなかったのではないかと思います。彼の犯罪を正当化することは不可能ですが、家庭を破壊されて恨みを持つようになった彼に、真の愛を伝える人、イエス・キリストの真に愛を言葉や行いによって知らせる人が身近にいれば、わざわざ銃を造って人を殺すまでに至らなかった可能性もあるのではないか。愛が欠けていることが、暴力、攻撃、犯罪につながってしまう。もしかすると私たちの身の周りにも、その手前のような人がいないとは言えません。クリスチャンの役割は大きいと思います。世の中で辛いことが多いとしても、イエス・キリストはあなたを愛している。あなたの身代わりに十字架で死んで下さるほどに、あなたを愛している。この事実を伝えて、心のケアを行うことができます。
このような心のケアを教会で「牧会」と呼びます。牧会はもちろん牧師の務めですが、役員さんをはじめ、クリスチャンならどなたでも行うことができます。教会学校の先生であれば、教会学校の生徒のために祈りながら牧会を行います。牧会は、羊飼いが羊たちのためにケアすることですね。大いなる羊飼いイエス様がまず、小さき羊である私たち一人一人に愛を注ぎ、よき牧会を行って下さいました。私たちはそれに支えられて、他の方に牧会をさせていただきます。教会の務めは伝道、礼拝、そして牧会と言うことができます。このような牧会があれば、加害行動に走りそうな人の心を落ち着かせて、恨みや怒りを乗り越えて、何とか平和に過ごせるように導くこともあり得ると思います。このようなケアは、精神科医や一般のカウンセラーでもできる部分がありますが、でもイエス・キリストが私たちを十字架の愛で愛しておられることを知リスチャンにこそ、大いにできることと思います。
三浦綾子さんというクリスチャンの作家がおられました。この方の作品を読んでクリスチャンになった方は、相当多いと思います。この方は太平洋戦争中は、小学校(国民学校)の熱心な教師、軍国教師だったそうです。ところが敗戦によって、これまで教えて来た教科書を墨で塗りつぶすことになり(これまで正しいと信じて教えて来たことが否定された)、どのように生きてよいか分からなくなり、生きる目的を見失い、虚無に陥り、病気になってしまいます。聖書に出会っても、すぐに信じることはできませんでした。命を絶とうとさえしますが、助けられます。色々なよき出会いが与えられ、長い時間を経て、洗礼に導かれます。病床洗礼です。三浦綾子さんの『道ありき』(新潮文庫)という自伝によると、「その時まで、私の気持ちは極めて冷静であった。洗礼を受けるというのに、これほど何の感動も感激もなくてよいものかと不安になるほど、平静であった。ところが(いよいよ洗礼の瞬間になって)、私は思わず泣いてしまった。それは自分自身にも思いがけないことであった。だが、涙が心の奥深い所からほとばしり出てくるのだ。私のような不誠実な者が、私のように罪深い者が、キリスト者となることができるのかと思うと、どうにも泣けてしかたがなかった。」
洗礼式が終わって、小野村林蔵牧師が、静かに言われました。「必ず治ります。いましばらくの試練ですからね。」「必ず治ります」の確信に満ちた静かな言葉が「その後の長い病床生活の中で、いく度も私を慰め励ました」と三浦さんが書いています。この小野村牧師は、まさによき羊飼い、よき牧会者です。真の光はイエス様ですが、そのイエス様の聖霊に満たされて、小野村牧師もまた小さなキリストとして、三浦さんを慰め励ます光の言葉をプレゼントしたのです。私たちもイエス様に愛されて聖霊を注がれているので、一人一人が小さなキリストとなって、隣人にささやかでも光をもたらす使命を与えられています。三浦さんは、さらに書きます。「ふしぎなことが起こった。洗礼を受けたその日から、私はうれしくてうれしくてならなくなった。心の中に灯がともったのだ。その灯が私を揺り動かすのだ。『神様、〇さんと、〇さんと、〇さんを、どうかクリスチャンにさせて下さい。この三人がクリスチャンになりましたら、私はいつ天に召されてもよろしいです。』そして私は、この三人に葉書を書いた。私がこんなに喜んでいる喜びを、分けたくて仕方がなかった。それは、おいしい物を食べた時、人にも食べてもらいたいあの気持ちに似ていた。西村先生(先輩クリスチャン)の日常を見ていると、キリスト者とは伝道するものであると思わずにはいられなかった。」
三浦さんの心にキリストの愛と聖霊が注がれたのです。キリストの愛と聖霊が、空しさ、虚無を乗り越える力となりました。今日のヨハネ福音書で、イエス様が水から造り出して下さったぶどう酒は、イエス様の愛のシンボルです。私も今から34年前に、教会の礼拝で洗礼を受けた日、一人暮らしのアパートに帰ってもやや興奮していて、ついつい部屋の中で讃美歌を歌い続けておりました。やはり嬉しかったのでしょうね。聖霊が注がれたのかなと思います。大きな声で歌っていたつもりはないのですが、暫くして上の部屋の人が「ドンドン」と彼の床(私の天井)を叩いて、「うるさい」と怒っていたようです。それで歌うのをやめた記憶があります。
虚無や恨みを乗り越えさせる力は、イエス様の十字架の愛です。私たち罪人(つみびと)の全ての罪を身代わりに背負って死に、三日目に復活されたイエス様の十字架の愛です。私が洗礼を受けた教会に、統一協会の信仰をやめてクリスチャンになった方がおられたと先週申しましたが、その方もすぐにクリスチャンにはなれなかったそうです。それまで文鮮明が救い主と信じていたのに、嘘だと分かった。イエス様が救い主だと言われても、また嘘だったらまた騙される。それで簡単には信じられなかったのですが、「でもイエス様は私の身代わりに死んで下さった。そのような方なら、信じても裏切られることはない」と思って、洗礼に至ることができたそうです。このイエス様の十字架の愛を信じて、全ての人にクリスチャンになっていただき、神の子になっていただき、真の平安に入っていただきたいと切に祈ります。
(祈り)御名讃美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナが早く収まりに転じますように。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。
2022-07-20 17:44:29(水)
7月の伝道メッセージ 石田真一郎(保育園の「おたより」7月号 原稿)
「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない」(旧約聖書・出エジプト記22章20節)。
アメリカ合衆国でまだ完全になくならないのが、人種差別です。数年前も、アフリカ系男性が警官に体を押さえつけられ、落命する事件があり、BLM(Black Lives Matter! 黒人の命は大切だ!)の運動が起こりました。19世紀の南北戦争で北部が勝ち、奴隷制度は廃止されましたが、人種差別は今も完全に消えていません。
ハリエット・タブマン(1820頃~1913)という奴隷だった女性が、300名もの奴隷を自由の地に導いた驚くべき事実があります(小学生以上向けの絵本『ハリエットの道』日本キリスト教団出版局)。ハリエットは若い時に主人に重りをぶつけられ、後遺症の頭痛や失語の発作に一生苦しみました。1849年の夏の夜、南部のメリーランド州の主人の家から逃げます。移動は夜、神様に祈りながら。星で位置を知る方法、天気を予想する方法、植物から薬を作る方法を習った知識を総動員。見つかりかける危険の度に、神様がそよ風等によって語り、守って下さいます。神様がいつも共におられます。彼女は深く強い信仰と勇気の持ち主。逃亡奴隷をかくまい逃がす「自由への地下鉄道」(奴隷制に反対の人の家や教会)がありました。145km歩き、ついに奴隷制のないフィラデルフィア(「兄弟愛」の意)に着きます。
愛する家族や友が奴隷で苦しんでいるので、まだ喜べません。彼女はお金をため、「自由への地下鉄道」の秘密の駅(協力者の家や教会)の場所を覚え、神様に祈りつつ南部に19回も戻り、命の危険を冒し、何百キロも歩き、兄弟・両親・仲間の奴隷たちを北へ逃がす先頭に立ちます。別のルートを使い、変装し、何と300人の奴隷をカナダ等の自由の地に導きました。白人の奴隷主に憎まれ、多額の懸賞金を懸けられますが、捕まりません。旧約聖書で、エジプトでの奴隷状態に苦しむイスラエルの多くの民を、神様の助けを得てエジプトから脱出させ、イスラエルの地に導いたモーセになぞらえ、ハリエットは「女モーセ」、「黒人モーセ」と呼ばれます。彼女を支えたのは、神様への祈りと黒人霊歌(讃美歌)です。アメリカの20ドル札の新しい顔になる予定と聞きます。アメリカで2020年に『ハリエット』という映画が公開され、DVDもあります。
聖書に、「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない」とあります。国内の外国人を大切にしなさいということです。日本は在日韓国・朝鮮の方や外国籍の方に優しい社会でしょうか。ぜひそのような日本にしましょう。在日韓国・朝鮮の方の指紋押捺は1993年に廃止され、よかったです。アーメン(真実に)。
アメリカ合衆国でまだ完全になくならないのが、人種差別です。数年前も、アフリカ系男性が警官に体を押さえつけられ、落命する事件があり、BLM(Black Lives Matter! 黒人の命は大切だ!)の運動が起こりました。19世紀の南北戦争で北部が勝ち、奴隷制度は廃止されましたが、人種差別は今も完全に消えていません。
ハリエット・タブマン(1820頃~1913)という奴隷だった女性が、300名もの奴隷を自由の地に導いた驚くべき事実があります(小学生以上向けの絵本『ハリエットの道』日本キリスト教団出版局)。ハリエットは若い時に主人に重りをぶつけられ、後遺症の頭痛や失語の発作に一生苦しみました。1849年の夏の夜、南部のメリーランド州の主人の家から逃げます。移動は夜、神様に祈りながら。星で位置を知る方法、天気を予想する方法、植物から薬を作る方法を習った知識を総動員。見つかりかける危険の度に、神様がそよ風等によって語り、守って下さいます。神様がいつも共におられます。彼女は深く強い信仰と勇気の持ち主。逃亡奴隷をかくまい逃がす「自由への地下鉄道」(奴隷制に反対の人の家や教会)がありました。145km歩き、ついに奴隷制のないフィラデルフィア(「兄弟愛」の意)に着きます。
愛する家族や友が奴隷で苦しんでいるので、まだ喜べません。彼女はお金をため、「自由への地下鉄道」の秘密の駅(協力者の家や教会)の場所を覚え、神様に祈りつつ南部に19回も戻り、命の危険を冒し、何百キロも歩き、兄弟・両親・仲間の奴隷たちを北へ逃がす先頭に立ちます。別のルートを使い、変装し、何と300人の奴隷をカナダ等の自由の地に導きました。白人の奴隷主に憎まれ、多額の懸賞金を懸けられますが、捕まりません。旧約聖書で、エジプトでの奴隷状態に苦しむイスラエルの多くの民を、神様の助けを得てエジプトから脱出させ、イスラエルの地に導いたモーセになぞらえ、ハリエットは「女モーセ」、「黒人モーセ」と呼ばれます。彼女を支えたのは、神様への祈りと黒人霊歌(讃美歌)です。アメリカの20ドル札の新しい顔になる予定と聞きます。アメリカで2020年に『ハリエット』という映画が公開され、DVDもあります。
聖書に、「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない」とあります。国内の外国人を大切にしなさいということです。日本は在日韓国・朝鮮の方や外国籍の方に優しい社会でしょうか。ぜひそのような日本にしましょう。在日韓国・朝鮮の方の指紋押捺は1993年に廃止され、よかったです。アーメン(真実に)。