日本キリスト教団 東久留米教会

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2023-07-16 2:08:21()
「心の目を開かれる」2023年7月16日(日)聖霊降臨節第8主日礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編101、使徒信条、讃美歌21・149、聖書 エフェソの信徒への手紙1:15~23(新約p.352)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌451、献金、頌栄92、祝祷。 

(エフェソの信徒への手紙1:15~23) 
 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。


(説教) 本日は、聖霊降臨節第8主日礼拝です。説教題は「心の目を開かれる」です。新約聖書は、エフェソの信徒への手紙1章15~23節です。

 エフェソは、小アジア(今のトルコ)の都会で、イエス様の弟子・使徒パウロがエフェソで懸命に伝道したことが、使徒言行録19章に記されています。それはパウロの第三次伝道旅行の時です。第二次伝道旅行の時にもエフェソで短い期間伝道しましたが、その後、第三伝道旅行の時に、エフェソで本格的な伝道を行いました。使徒言行録19章によると、まずパウロはユダヤ人の会堂(礼拝所)に入って三か月間、神の国のことを大胆に論じましたが、それを非難する人々もおりました。パウロはティラノという人の講堂に移り、そこで毎日論じ、このようなことが二年間通いたので、エフェソに住む人はユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、誰もが主の言葉、神の言葉、イエス・キリストが与えて下さる救いのメッセージを聞くことになりました。パウロは、エフェソの全住民に伝道したことになります。

 神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われ、パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気は癒され、悪霊どもも出て行くほどでした。主イエスの名は大いに崇められるようになりました。大勢の人々が信仰に入り、自分たちの悪行をはっきり告白しました。魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てました。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなりました。このようにエフェソでは、主の言葉がますます勢いよく広まり、力を増して行きました。

 その後エフェソでは、パウロへの反発が起こり、女神(偶像、偽物の神)アルテミスこそ偉大と人々が主張する騒動が起こりますが、パウロが伝道してできたエフェソの教会の人々と、パウロとの関係は、ずっと良好だったようです。パウロはその後トロアス等に行って、エフェソ近くのミレトスに立ち寄ってからエルサレムに行き、エルサレムで囚われの身になります。ミレトスに立ち寄った際、パウロはミレトスにエフェソの教会の長老たちを呼び寄せます。そしてパウロは、真の羊飼いとして、エフェソの教会の長老たちに、愛と心を込めたメッセージを語るのです。パウロは、同じ愛を込めた思いでエフェソの信徒への手紙を書いたと思うのです。

 使徒言行録20章25節以下のメッセージ(エフェソの教会の長老たち宛て)は、こうです。「あなた方が皆、もう二度と私の顔を見ることがないと私には分かっています。私は、あなた方の間で巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。誰の血についても、私には責任がありません。私は、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなた方に伝えたからです。どうか、あなた方自身と群れ(エフェソの教会)全体とに気を配って下さい。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなた方をこの群れの監督者に任命なさったのです。」

 「私が三年間、あなた方一人一人に夜も昼も涙を流して教えて来たことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とに、あなた方を委ねます。この言葉は 、あなた方を造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。私は、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、私はこの手で、私自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなた方もこのように働いて、弱い者を助けるように。また、主イエス御自身が、『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示して来ました。」このパウロのメッセージには、真心がこもっています。彼はこの後、エルサレムで捕らえられ、カイサリアでも囚われの生活を送ります。ローマでも囚われの生活ですが、自由をかなり与えられていました。パウロはエフェソの信徒への手紙6章20節で、自分が鎖につながれていると書いています。彼は恐らくカイサリア辺りから、エフェソの信徒への手紙を書いたのではないかと思います。ミレトスで別れを告げたエフェソの教会の長老達を思い浮かべながら、やはり真心こめて書いたに違いないのです。

 以上を前提として、本日の個所を読みます。本日の小見出しは、「パウロの祈り」です。15~16節「こういうわけで、私も、あなた方が主イエスを信じ、全ての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなた方のことを思い起こし、絶えず感謝しています。」コリントの教会には問題が多く、パウロを悩ませていましたが、この頃のエフェソの教会にはあまり問題がなかったようで、パウロとエフェソの教会の関係は良好だったように感じられます。祈りの度にエフェソ教会の人々を思い起し、感謝に満たされているようです。

 17節は、パウロの祈りです。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなた方に知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし。」「知恵と啓示の霊」はもちろん聖霊と思います。私たちもよく祈って、聖霊を豊かに注がれて、神様を深く知ることができるようにと祈ります。イエス様は、ヨハネ福音書17章3節で、父なる神様にこう祈られます。「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」祈って、父なる神様とイエス様を深く知ることは、非常に必要です。私たちは「父なる神様は、もう十分分かった。イエス・キリストも完全に分かった」とは言えないでしょう。父なる神様を深く知る、イエス・キリストを深く知るとは、頭で分かるだけは足りず、全身全霊をもって知る、父なる神様とイエス様を全身全霊で愛して知ることです。毎日心がけ、一生かけて目指す行く道だと思っています。

 18節「心の目を開いて下さるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。」パウロ自身も、かつては心の目が完全に閉じていたのです。そんな彼を憐れんで、復活されたイエス様がパウロに現れて下さいました。復活のイエス様のまばゆい光に照らされたパウロ(当時の名はサウロ)、一旦目が見えなくなります。彼は三日間、目が見えず、飲食しませんでした。そこにイエス様が遣わしたアナニアというクリスチャンが来て、パウロに両手を置くと(祈った)、サウロの目からうろこのようなものが落ち、サウロは元通り見えるようになり、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻しました。目からうろこのようなものが落ち、彼の心の目が開き、イエス様が救い主であることが分かるようになりました。うろこのようなものは、彼が持っていた偏見、強烈な自我・プライドと思います。エフェソの教会の人々は既にクリスチャンになっていたのですから、心の目は既に開いていたと思いますが、さらに開かれて、神様が用意しておられる希望(永遠の命の希望、神の国)が、どんなにすばらしい希望か、どれほど豊かな栄光に輝く希望かを悟ることができるようにと、パウロは祈ったのです。

 使徒言行録26章を見ると、復活されたイエス様がパウロを伝道者として派遣する目的として語られた御言葉が記されています。「それは彼ら(ユダヤ人と異邦人)の目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らが私(イエス様)への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。」自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じたことは、「闇から光に入ったこと」、「サタン(悪魔)の支配から、神の恵みの支配の下に移し替えられた」大転換なのです。このような恵みと希望に入れられた事実に、エフェソの教会の人々が(そして私たちも!)、心の目を大きく開かれて、明確に悟ることができるようにと、パウロが祈ったことになります。

 そして「聖なる者たち」(クリスチャンたち)が受け継ぐもの(天国、神の国)がどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。」パウロは一度、天国に入る経験を与えられたのです。コリントの信徒への手紙(二)12章でそれを語っています。「彼(実はパウロ自身)は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表し得ない言葉を耳にしたのです。」「あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。」特別な恵みでひととき入れていただいた楽園(天国)は、あまりにもすばらしかったと言っています。イエス様を信じて亡くなった方々は、今そこにおられます。地上は寂しくなりますが、その方々自身は「あまりにもすばらしい楽園」におられるので、その方々は一番幸せな所におられ、私たちは何も心配する必要がありません。但し、私たちは急いでそこに行く必要はありません。

 19節「また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせて下さるように。」この節では、神の力が強調されています。「絶大な働き」「神の力」「どれほど大きなもの」という表現が繰り返されていて、神の力強さが感じられます。元のギリシア語で読むと、デュナミス、エネルゲイアという言葉が使われていることが分かりました。デュナミスは力の意味で、英語のダイナマイトの語源と言えます。ダイナマイトのような強力な力です。エネルゲイアはもちろんエネルギーの語源です。ダイナマイトもエネルギーも強い力を連想させます。つまり神の力はダイナマイトのようなエネルギッシュな力だというのです。神様は、私たち信仰者のために、このような力で働いて下さるというのです。

 20節「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」イエス様の十字架の完全な死からの復活! それを実現させたのは、父なる神様のダイナマイトのようなエネルギッシュな力だったのです。復活の後四十日間をイスラエルで弟子たちと共に過ごされたイエス様は、その後天に昇られ、父なる神様の右の座に着かれました。そのことをこの手紙の4章は、イエス様が「もろもろの天よりも更に高く昇られた」と記します。ヨハネの黙示録はこのことを、イエス様が「王の王、主の主」となられたと表現します。あらゆる王たちの中で最高の王、あらゆる主たちの中で最高の主」だということです。ヘンデル氏が作曲したメサイアの中で「キングオヴキングス、ロードオヴローズ」と力強く歌われている通りです。この曲が最初に演奏された時、聴いていたイギリスの王様が、感動のあまり立ち上がったというエピソードが語り伝えられています。イギリスの王様も、自分よりはるかに上の王イエス様に、思わず敬意を表したということではないかと思います。

 22節「神はまた、すべてのものをキリストの足元に従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭(かしら)として教会にお与えになりました。」イエス様は、世界の全ての頭であり、教会の頭です。フィリピの信徒への手紙2章6~11節にも、共通することが書かれています。

 エフェソに戻り23節。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」「すべてにおいてすべてを満たしている方」とは、イエス・キリストです。教会はキリストの体であり、イエス・キリストが満ちておられる場なのです。キリストが充満しておられる場が教会であり、礼拝です。クリスチャン一人一人の中には、聖霊が住んでおられます。聖霊は、イエス様の霊です。クリスチャン一人一人は、「キリストに似た者」です。まだ罪を持っていますが、同時にその人に中に聖霊が住んで清めておられるので、その人は「キリストに似た者」です。礼拝に30名出席しておられれば、そこに30名のキリスト、正確には30名の「キリストに似た者」がおられます。つまり教会、特に礼拝は、「キリストに似た者が満ちている場、キリストが満ちている場」なのです。教会(礼拝)に出席すれば。キリストに似た一人一人に出会うことができる、その一人一人を通してイエス・キリストに出会うことをできる、そのような場が教会だというのです。「なるほどそうか!」と教えられます。私たち一人一人が、ますます御言葉に従って生き、聖霊によって清められ、ますますキリストに似た者とされるように、そして東久留米教会がますますキリストが満ちておられる教会、キリストが充満しておられる礼拝を毎回献げる教会とさせていただけるように、常に祈りたいのです。

 キリストが充満しておられ、私たちがキリストの光に照らされると、自分の罪が見えるようになる。コリントの信徒への手紙(一)14章24~25節に記されているような礼拝がなされる教会も、キリスト(聖霊)が充満した教会。そうありたいのです。アーメン。




2023-07-09 2:33:14()
「香油の香りでいっぱいに」2023年7月9日(日)聖霊降臨節第7主日礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編100、使徒信条、讃美歌21・205、聖書 イザヤ書61:1~4(旧約p.1162)、ヨハネ福音書12:1~11(新約p.191)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌567、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(イザヤ書61:1~4) 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。

(ヨハネ福音書12:1~11) 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第7主日礼拝です。説教題は「香油の香りでいっぱいに」です。新約聖書は、ヨハネ福音書12章1~11節です。

 イエス様は、愛する友ラザロを復活させる偉大な奇跡を行われました。場所はベタニヤです。ベタニアは、「神により頼む貧しい人の家」の意味だそうです。ラザロは、「神は助ける」の意味だそうです。イエス様は、過越祭の6日前の土曜日に再びベタニアに行かれました。イエス様は、翌週の金曜日に十字架にお架かりになります。ベタニアはもちろんラザロとその二人の姉妹マルタとマリアがいます。(2節)イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。」

 その時、マリアが非常に思い切った行動に出ます。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(326g)持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその(両)足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」ナルドとは植物名で、和名は甘松(かんしょう)です。良い強い香りを放つのでしょう。雅歌1章12節に、こうあります。「王様を宴の座にいざなうほど、わたしのナルドは香りました。」『聖書の植物事典』(八坂書房、2014年、115~116ページ)に、次のようにあります。「インドでは、今でも髪の毛の香料として用いられ、あらゆる点から考えて、聖書の中でナルドと呼ばれている貴重な香油は、もともと、遠くはなれたインドからもたらされた、と信じるに足る十分な理由があります。~最上質のナルドの香油は、雪花石膏製の箱に入れて封印して輸入され、この状態のまま保存しておいて、ごく特別な場合以外には、封を切りませんでした。一家の主人が高名な客を迎える時は、客に花の冠をかぶせ、その上、雪花石膏の箱の封を切り、ナルドの香油を塗ったものでした。~ヘブライ人やローマ人は、この植物からとれる香油を、死者の埋葬に用いました。」

 本日の場面によく似た出来事がマタイ福音書26章とマルコ福音書14章にありますが、そこではイエス様の頭に香油が注がれたと書いてあります。ヨハネ福音書12章ではマリアは、ナルドの香油をイエス様の両足に塗りました。家中に香油の良い香りが満ち、人々はうっとりした気持ちになったと思うのです。そして女性にとって最も大切な髪の毛で、イエス様の両足を拭いました。これは愛する兄弟ラザロを復活させて下さったイエス様に対する、マリアの精一杯・全身全霊の愛の表現です。マリアの感謝と献身の愛です。大変異例の思いきった行いでしたが、イエス様は喜んで受けて下さいました。6日後に十字架に架かる決心をしておられるイエス様の心を、マリアの愛が慰めたに違いないのです。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書61章1節以下です。(1節)「主はわたしに油を注ぎ、主な る神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。」香油は聖霊のシンボルです。香油は聖なる喜びの油であり、聖霊は聖なる喜びの霊です。イエス様はメシアです。メシアはヘブライ語で「油を注がれた者」の意です。メシアのギリシア語がキリストで、同じく「油を注がれた者」の意です。マリアがイエス様の両足に香油を塗ったことで、マリアが気づかぬうちに神様に奉仕して、イエス様がメシアであることを証明する行為を行ったのです。旧約聖書の時代に、神様にお仕えする重要な職務は祭司・王・預言者で、彼らは聖なる油(聖霊のシンボル)を注がれて職務に就きました。たとえばダビデ王も油を注がれています。彼らは小メシアであったと言えます。しかし真のメシア・イエス様は、ひとりで祭司・王・預言者の全ての務めを完全に行われます。イエス様は十字架にかかって私たち罪人(つみびと)を父なる神様の前にとりなして下さった真の祭司であり、全世界の真の王であり、神様の御言葉を完全に語る真の預言者です。そして香油は、当時の人々によって埋葬に用いられたそうです。「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」(ヨハネ福音書19章40節)。イエス様もマリアについて言われます。「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」香油は十字架の死を暗示したのです。メシア・イエス様は、わたしの罪を背負って十字架で死んで下さるメシアであることが暗示されたのです。

 東久留米教会ではこの数年、クリスチャンの音楽家が結成している音楽伝道団体「ユーオーディアアンサンブル」の方々をお招きして、クリスマスコンサートを行っています。「ユーオーディア」は、ギリシア語で「良い香り」、「極上の香り」の意味と聞きます。本日のヨハネ福音書12章には出て来ませんが、エフェソの信徒への手紙5章2節に出て来ます。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」「香りのよい」が「ユーオーディア」という言葉です。ユーオーディアアンサンブルの方々は、祈りをこめた演奏が神様への「香りの良い供え物」となることを祈って、演奏活動をなさっているに違いありません。日本のクリスチャンの家庭に女の子が生まれると、「かおり」さんと名付けることは、よくあると思います。私どもの教会員にも、このよきお名前の方がおられます。コリント人への第二の手紙(口語訳、2章15節)には、「キリストのかおり」という麗しい御言葉もあります。私どもも、自分の罪を悔い改め、神様に清めていただいて、少しでもキリストのかおりを放つ者とさせていただきたいものです。

 そして、十字架に架かられたイエス様こそ、「最も香りのよい供え物」でいらっしゃいます。私たちは毎月、日本キリスト教団の信仰告白で次のように申します。「主は、わたしたち罪人(つみびと)のために人となり、十字架に架かり、ひとたび己を全き供え物として神に献げ、我らの贖いとなりたまえり。」十字架に架かられたイエス様こそ、父なる神様にとって「最も香りのよい供え物」です。

 私たちの全ての罪を背負って十字架で死なれたイエス様の愛に感謝して、私どももイエス様に自分自身を献げます。マリアがその模範を行ってくれました。それはイエス様への無償の愛、見返りを全く求めない愛、献身の愛、献げ尽くす愛です。キリストの(精神的な)花嫁という印象です。マリアは、花嫁としての愛をイエス様に献げ尽くしています。聖書では、教会はキリストの花嫁にたとえられています。このマリアの生き方は、教会の模範です。私たち教会は、父なる神様を礼拝し、イエス・キリストを礼拝します。それは父なる神様を愛し、イエス様を愛するからです。今献げている礼拝こそ、私たちの最大の献げ物です。真心のこもった「香りのよい供え物」の礼拝になるように謙遜な心で精一杯、今の礼拝を献げたいものです。

 このマリアの無私の愛に、けちがつきました。イスカリオテのユダが言います。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
ヨハネ福音書は、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」と記しています。イエス様は、マリアを弁護して下さいました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 1デナリオンは一日分の賃金ですから、300デナリオンは最大で300万円と思います。ユダはその後、イエス様を銀貨30枚で売ったのです。あえて言えば30万円かもしれません。マリアとユダは、完全に対照的です。マリアの愛は計算を度外視した無償の愛です。ユダは、損得計算づくです。自分が損したくないのです。イエス様を愛していないので、結果として貧しい人をも愛していません。ユダにはマリアがまぶしいに違いありません。私たちの心にも、ユダの要素があるかもしれません。それと戦う必要があります。

 旧約聖書では、神様が夫、神の民イスラエルが妻です。新約聖書では、父なる神様・神の子イエス・キリストが花婿、教会が花嫁です。マリアこそキリストの花嫁である教会のシンボル存在です。カトリックのシスター(修道女)方は独身で、キリストと結婚している(精神的に)と聞いたことがあります。そしてキリストを愛し、祈りと人々への奉仕に励んでおられます。マザー・テレサは、毎朝のミサでキリストの体のパン(キリストの愛)を受けて、貧しい方々への奉仕に赴いたと聞きます。私たちのキリストの花嫁です(クリスチャンは、女性も男性も)。申命記6章4~5節に、この有名な御言葉があります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」直訳では、こうです。「あなたは心全体で、魂全体で、力全体で、あなたの神、主を愛しなさい。」心の一部でではなく、心の半分ででもなく、「心全体で、魂全体で、力全体で、あなたの神を愛しなさい」、これが神様の私たちへのお求めなのです。

 日本に最初にイエス・キリストを宣べ伝えたフランシスコ・ザビエルの有名な肖像画を見ると、胸に真っ赤なハートマークがついています。それはイエス様への熱烈な愛を表現していると聞きました。私たちも、イエス様の十字架の愛に感謝してイエス様を一途に愛し、隣人を愛させていただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
 
6月25日(日)週報。
◇ 私たちが礼拝に出席するのは、神様(神の子イエス・キリスト)を愛するか
らです。クリスチャンは「キリストの花嫁」です(男性も)。神様(イエス様)は、私たちが礼拝することを、非常に喜んで下さいます。私たちが、特に理由もなく礼拝を欠席することは、神様(イエス様)を悲しませることを、よく知る必要があります。イエス様はエフェソの教会に、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」(ヨハネの黙示録1章4節)と言われました。私たちは、神様への「花嫁のときの愛」(エレミヤ書2章2節)、キリストへの「真心と純潔」(コリント(二)11章3節)を生涯貫いて参りましょう。アーメン。



2023-07-02 1:58:45()
「神の子たちを集めるために」2023年7月2日(日)聖霊降臨節第6主日礼拝
    順序:招詞 エフェソ1:4,頌栄29、主の祈り,交読詩編99、日本基督教団信仰告白、讃美歌21・358、聖書 イザヤ書56:6~8(旧約p.1154)、ヨハネ福音書11:45~57(新約p.190)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌390、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書56:6~8) また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るならわたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。

(ヨハネ福音書11:45~57) マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第6主日礼拝です。説教題は「神の子たちを集めるために」です。新約聖書は、ヨハネ福音書11章45~57節です。

先週のヨハネ福音書で、イエス・キリストは死んでいたラザロを甦らせて下さいました。これは純粋にイエス様の愛による奇跡です。本日の最初の45節「マリアの所に来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人多くは、イエスを信じた。」但しこれが、本当に深い信仰だったかどうかは、まだ分かりません。なぜなら、このヨハネ福音書2章23節以下に、こう書かれているからです。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間について誰からも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」イエス様は、この福音書の最後で、弟子のトマスに言われるのです。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ラザロを復活させたイエス様の評判は、いやが上にも高まりましたが、すべての人がイエス様に好意的な目を向けていたのでもありませんでした。46節「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。」イエス様を憎むスパイのような人もいたのです。ラザロが復活したことを、素直に喜ぶのがベストなのに、そうでない人々がいたのです。罪深いことだと思います。47節「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』」

この人々は、イエス様を危険人物を見なしていました。イエス様が生まれつき目の見えない盲人の目を見えるようにしたり、死んでいたラザロを復活させなさったり、いくつものすばらしいしるし、愛の業を行っておられる。すると民衆の中でイエス様の人気が高まる。この時代のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、民衆の中には熱心党と言って、ローマ帝国から独立するために武力闘争をめざしているグループもありました。彼らが人気のあるイエス様をリーダーに祭り上げる可能性があると、最高法院の人々は心配していました。民衆がイエス様を祭り上げて、ローマと戦う武力闘争に立ち上がってしまえば、ローマが怒って攻めて来る。そうなれば立ち上がった民衆は打ち破られる。ローマ軍がイスラエルの全てをとことん破壊する最悪の結果になるだろう。そうさせないためには、あのイエスを始末することがベストだ。最高法院は、信仰的な会議のはずですが、現実には人間たちの世俗的な利害調節を行う政治的な機関になっていたのでしょう。人間が集まると政治が始まるのは致し方ない面もありますが、信仰の集団がどっぷり政治にはまってしまうと、堕落してしまいます。ロシア正教というキリスト教会のトップが最近もプーチン大統領支持を表明したらしいのですが、キリスト教会の名前がついていても、権力と結びついてしまうと、御用宗教に堕落してしまうので、十分注意する必要があります。

 最高法院のトップは大祭司です。49節「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなた方は何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなた方に好都合だとは考えないのか。』」「イエスに死んでもらおう。そうすればローマに私たちが滅ぼされる恐れはなくなる。そうすれば私たちは最高法院のメンバーとして既得権を楽しむことができて、都合がよい。イエスには犠牲になってもらおう。」実に自己中心的、自分の利益中心の世俗的な思考です。本当は国民のためを思ってはおらず、自分たちの利益dけを考えています。信仰者でも、油断するとこのような悪い意味での政治家になってしまうのです。これがこの世の知恵というものです。罪深いのです。

 ある人は、未熟な人と成熟した人について、このように言います。未熟な人は、他人の犠牲の上に自分の幸せを築いて恥じない。自分の幸せのために、他人を利用して恥じない。成熟した人は、他人の苦しみを進んで担う。カイアファは未熟な人で、自己中心的な人です。反対に、イエス様は最も成熟した方です。自ら進んで、弟子たちの足を洗って下さいました。自ら進んで私たちの全部の罪を身代わりに背負うために、十字架にかかって下さいました。教会も私たちクリスチャン個人もカイアファのようになってはならず、イエス様に従って、少しずつでも人様の苦難を背負わせていただく者となりたいのです。そう言いながらも、私たちも沖縄に多くの基地を引き受けてもらっているその犠牲の上に、日々の暮らしを営んでいるのではないかと考えると、人様の苦難を背負えていない自分の自分勝手さを思うのです。

 51~53節「これはカイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためんばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」カイアファは、自分の利益だけを考えて、自己中心的な発言をしただけです。しかしカイアファが気づかないうちに、神様が彼をコントロールしていました。カイアファは、結果的に、神様の最も深い真理を語ったのです。「イエス様が国民・ユダヤ人のために死ぬ。国民のためばかりでなく、散らされている(世界中の)神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」と言ったのです。イエス様に対する人間たちの悪意と殺意が進む中で、しかし実は、神様の最も深いご計画が着々と進んでいたのです。驚くべきことです。神様の方が上手です。これを神様の摂理と呼ぶことができるかもしれません。

 もちろんだからと言って私たちは。こう考えてはなりません。「私たちが悪を行っても、神様がそれを善に変えて下さるのだから、遠慮なく悪を行う。」神様に背いて悪を行えば、必ずその報いを受けます。カイアファたちは、自分たちの利益のためにイエス様を殺す決心をしました。しかし、神の子を殺す重大な罪を犯したので、イスラエルの国はこの約40年後に、ローマ軍の攻撃を受けて滅んでしまいます。イエス様を殺した大きな罪の報いを受けて、神殿は破壊され、イスラエルは一旦滅びる報いを受けたのです。

 カイアファは、「あなた方は、何も分かっていない」と言い、自分は知恵者だと思っていました。しかしこの世の知恵は、神の前では愚かなものです。コリントの信徒への手紙(一)1章19節以下が思い出されます。「『私(神)は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる(カイアファはどこにいる)。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段で、信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人(異邦人の代表)は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまづかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には神の力、神の知恵であるキリスト(十字架につけられたキリスト)を宣べ伝えています。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」十字架で死んだイエス様は愚かなようですが、実はカイアファより何倍以上も賢いのです。

 ヨハネ福音書に戻ると、イエス様がラザロを復活させるなどのしるし・奇跡を行われたために、多くのユダヤ人がイエス様を信じました。しかし最大のしるしは、イエス様の十字架の死です。それだけが、すべての人を罪と死と悪魔の支配から救う神の真の力だからです。私たちに罪の赦しと永遠の命を与える力は、ただイエス様の十字架の死と復活だけにあるのです。十字架につけられたイエス様を救い主と信じることこそ、最も深い知恵なのです。

 カイアファはこのことを全く理解していませんでしたが、気づかないうちに神様に導かれて、真理を語りました。神様は、人を通して私たちに語りかけることがあるのですね。カイアファは、神様の強い御手によって、次の真理を語ったのです。「イエス様が国民(ユダヤの国民)のために死ぬ、国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」という真理をです。神の子たちはユダヤにも外国にもいる。世界中に散らされている神の子たちを一つに集めるために、イエス様は十字架で死ぬというのです。イエス様の十字架の死が、言わば磁石のように、世界中に散らばっている神の子たちを力強く引き寄せるのです。

 私ども夫婦に洗礼を授けて下さった牧師が、一年前に天に召されました。その先生の記念会が先週の日曜日の午後に茨城県守谷市の教会で行われました。Zoomでのオンライン配信もなされました。私ども夫婦は、東久留米からZoomで参加致しました。約30年前にその先生にお世話になった色々な年代の方々、30年前の青年会のメンバーも参加していました。現地参加、Zoom参加の両方です。それを見て、今は各地の教会に散らばって信仰生活を送っている方々の姿を見ました。イエス様の十字架の死が、世界中に散らばっている神の子たちを一つに集めるのに、少し似た光景だと感じました。お一人の伝道者が天に召されて、今は各地に散らばっている神の子たちが共に祈り、交流する時だったからです。中には、今は教会を離れている方もおられたようです。この会が教会に戻るきっかけになる可能性がありますし、そうなるように心より祈ります。

 世の終わりにイエス様が天からもう一度おいでになる時に、世界中に散らされている神の子たちが続々集まって来るのではないかと思います。その人々は世界中の様々な教派の教会のクリスチャンたちでしょう。見える教会と見えない教会という言い方があります。見える教会は、具体的なそれぞれの制度的な教会です。カトリック、プロテスタント諸教派、ギリシア正教、聖公会等です。プロテスタントの諸教派には、色々な教団、メソジスト教会、長老教会、バプテスト教会、ホーリネス教会、ルーテル教会等があります。日本には無教会もあります。見えない教会は、霊的な教会と言えます。神様の目に見えている教会です。それは色々な教派にまたがって存在している、神様の目に見えている教会の姿です。具体的に存在するどの教会にも神の子たちがいます。イエス様が再臨なさる(もう一度おいでになる)時に、各教派に散らされている神の子たちが、イエス様の元に続々と集まるのでありましょう。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書56章6~8節です。暫く前の礼拝でも取り上げました。(読む。)神様は、追い散らされたイスラエルだけでなく、真の神様を敬う異邦人も、神様に招かれると書かれています。「追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる。既に集められた者に、更に加えて集めよう。」

 ヨハネ福音書に戻り、55~57節を読む。こうして一気にイエス様を殺す方向へ進みます。12章の1節を見ると、もう一周間以内にイエス様は十字架にかけられます。
11章から12章に入るまでに、どのくらいの時間が経過したか分かりません。もし仮に1ヶ月とすれば、ラザロが復活して1ヶ月後にイエス様は十字架で死なれるのです。過越祭はユダヤ人の重要な祭りで、出エジプト記の昔、小羊を屠ってその血を鴨居に塗ったイスラエルの人々の家を神の裁きが通り過ぎた。イエス様の十字架の血による救いをもたらす第二の過越が行われようとしている。これは第一の過越祭を凌ぐ恵みとなる。新共同訳のヨハネ福音書の担当の松永先生のエピソード。終。 

2023-06-25 2:03:55()
「ラザロ、出て来なさい」2023年6月25日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝 
順序:招詞 ヨハネ福音書14:6,頌栄24、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・326、聖書 ヨハネ福音書11:28~44(新約p.189)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌460、献金、頌栄27、祝祷。 

(ヨハネ福音書11:28~44) マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。









(説教) 本日は、聖霊降臨節第4主日礼拝です。説教題は「ラザロ、出て来なさい」です。新約聖書は、ヨハネ福音書11章28~44節です。

先週に続き、ラザロの復活の個所です。先週の11章25節でイエス様が断言されます。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか。」ラザロの姉妹マルタが答えます。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシア(救い主)であると私は信じております。」マルタは、このような正しくて真心のこもった信仰告白に導かれたのです。

28節「マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、『先生がいらして、あなたをお呼びです』と耳打ちした。」29~32節。「マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足元にひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。」マリアも同じことを言いました。「イエス様、どうしてもっと早く来て下さらなかったのですか」との問いかけにも聞こえます。

33~35節「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧下さい』と言った。イエスは涙を流された。」イエス様の激しい感情に、私たちは心を打たれます。「心に憤りを覚え、興奮して、言われた。」口語訳聖書では「激しく感動し、また心を騒がせ」です。新改訳2017では「霊に憤りを覚え、心を騒がせて」です。聖書協会共同訳では「憤りを覚え、心を騒がせて」です。カトリックのフランシスコ会訳では「きっとなり、心が張り裂ける思いで」です。「憤りを覚え」と訳された元のギリシア語は、「エムブリマオマイ」という動詞で、直接の意味は「馬が怒って鼻を鳴らす」です。馬が「怒って興奮して、荒く呼吸をして鼻を鳴らす」という、激しい意味です。「立腹する、怒る、憤激する」という意味です。

イエス様は何に対して憤激されたのか。ある神父は、イエス様が「神の御子でありながら、人間の条件に制約されて、本来持っておられる権能を十分に発揮することもできない『もどかしさ』をお感じになったということではないか」、つまり「ご自分に対して激しく苛立たれた」のだろうと言われます。そのような読み方もできるのですね。ですが本日は、私がこれまで聞いてきた読み方で話を進めたいと思います。それはイエス様が、人間たちを支配している死の力、そして死をもたらす悪魔に対して憤られ、憤激されていると読みたいと思います。親しい者が亡くなった時に、私たちはもしかすると神様に「どうして?」怒りをぶつけたくなることもあるのではないかと思います。そのようなこともあるのですが、イエス様のここでの憤激は父なる神様への怒りでなく、死と死の頭(かしら)である悪魔への憤激と受けとめておきたいと思います。

35節に「イエスは涙を流された」とあります。イエス様は、愛する友ラザロの死を深く悲しんで、そしてラザロの家族の深い心の痛みに思いを致して、悲しみに熱い涙を流して下さいました。使徒パウロがローマの信徒への手紙12章15節に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と書きましたが、まさにイエス様こそ「喜ぶ人と共に喜び、泣く人共に泣く」方です。イエス様は、他の人の悲しみと痛みを、ご自分の内臓・はらわたがきりきりと痛むほどに鋭敏に感じ取って下さる、真に深い感性の持ち主です。周りのユダヤ人たちは言いました。「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか。」その通りです。そしてイエス様はラザロだけでなく、私たち一人一人を、ラザロへの愛と同じ愛で愛して下さっています。

詩編84編6~7節に、こう書かれています。「いかに幸いなことでしょう。あなた(神様、イエス・キリスト)によって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」人生には「嘆きの谷」もあるというのです。文語訳聖書では「涙の谷」となっています。マルタとマリアの姉妹は今、「嘆きの谷」、「涙の谷」を通っています。自力では耐えがたい。しかしそこに共に泣いて下さるイエス様がおられることが救いです。ラザロの場合にようにすぐに復活させて下さらなくても、イエス様を信じる者に間違いなく永遠の命を与え、いずれ必ず復活の体を与えて下さいます。

「どんなにラザロを愛しておられたことか。」ある人はここを読んで、「愛は本当は過去形で語られてはいけない」と言いました。ここで現に「どんなにラザロを死しておられたことか」と愛が過去形で語られています。愛が死に負けたのです。イエス様はこの現実に対して、激しく憤られたとに違いありません。愛が死に屈服することは、本来あってはならないことです。愛は常に現在進行形で生きており、常に悪魔と死に勝利してゆく必要があります。

次の小見出し「イエス、ラザロを生き返らせる」に進みます。38~39節「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。」これは現実です。マルタは、腐敗が始まっている弟の遺体を見たくなかったに違いありません。しかしこの死の力が、愛の力をも上回って全てを支配している現実に対して、イエス様
園では、死の力が全てを支配するなどあり得なかったからです。マルタは、「四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。イエス様から見れば、これは現実からの挑戦です。この死の現実の前に、誰も勝つことはできない。最後に勝利するのは、死とその頭(かしら)である悪魔である。イエス様が死と悪魔から挑戦を受けておられます。私たち普通の人間には、死と悪魔に勝つことができません。しかしイエス様は違うことを、イエス様はこの後、明らかに示して下さいます。イエス様はマルタを激励し、マルタの信仰を鼓舞し、
2023-06-25 1:47:42()
説教「ラザロ、出て来なさい」2023年6月25日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書14:6,頌栄24、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・326、聖書 ヨハネ福音書11:28~44(新約p.189)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌460、献金、頌栄27、祝祷。 

(ヨハネ福音書11:28~44) マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第4主日礼拝です。説教題は「ラザロ、出て来なさい」です。新約聖書は、ヨハネ福音書11章28~44節です。

 先週に続き、ラザロの復活の個所です。先週の11章25節でイエス様が断言されます。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか。」ラザロの姉妹マルタが答えます。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシア(救い主)であると私は信じております。」マルタは、このような正しくて真心のこもった信仰告白に導かれたのです。

 28節「マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、『先生がいらして、あなたをお呼びです』と耳打ちした。」29~32節。「マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足元にひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。」マリアも同じことを言いました。「イエス様、どうしてもっと早く来て下さらなかったのですか」との問いかけにも聞こえます。

 33~35節「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧下さい』と言った。イエスは涙を流された。」イエス様の激しい感情に、私たちは心を打たれます。「心に憤りを覚え、興奮して、言われた。」口語訳聖書では「激しく感動し、また心を騒がせ」です。新改訳2017では「霊に憤りを覚え、心を騒がせて」です。聖書協会共同訳では「憤りを覚え、心を騒がせて」です。カトリックのフランシスコ会訳では「きっとなり、心が張り裂ける思いで」です。「憤りを覚え」と訳された元のギリシア語は、「エムブリマオマイ」という動詞で、直接の意味は「馬が怒って鼻を鳴らす」です。馬が「怒って興奮して、荒く呼吸をして鼻を鳴らす」という、激しい意味です。「立腹する、怒る、憤激する」という意味です。

 イエス様は何に対して憤激されたのか。ある神父は、イエス様が「神の御子でありながら、人間の条件に制約されて、本来持っておられる権能を十分に発揮することもできない『もどかしさ』をお感じになったということではないか」、つまり「ご自分に対して激しく苛立たれた」のだろうと言われます。そのような読み方もできるのですね。ですが本日は、私がこれまで聞いてきた読み方で話を進めたいと思います。それはイエス様が、人間たちを支配している死の力、そして死をもたらす悪魔に対して憤られ、憤激されていると読みたいと思います。親しい者が亡くなった時に、私たちはもしかすると神様に「どうして?」怒りをぶつけたくなることもあるのではないかと思います。そのようなこともあるのですが、イエス様のここでの憤激は父なる神様への怒りでなく、死と死の頭(かしら)である悪魔への憤激と受けとめておきたいと思います。

 35節に「イエスは涙を流された」とあります。イエス様は、愛する友ラザロの死を深く悲しんで、そしてラザロの家族の深い心の痛みに思いを致して、悲しみに熱い涙を流して下さいました。使徒パウロがローマの信徒への手紙12章15節に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と書きましたが、まさにイエス様こそ「喜ぶ人と共に喜び、泣く人共に泣く」方です。イエス様は、他の人の悲しみと痛みを、ご自分の内臓・はらわたがきりきりと痛むほどに鋭敏に感じ取って下さる、真に深い感性の持ち主です。周りのユダヤ人たちは言いました。「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか。」その通りです。そしてイエス様はラザロだけでなく、私たち一人一人を、ラザロへの愛と同じ愛で愛して下さっています。

 詩編84編6~7節に、こう書かれています。「いかに幸いなことでしょう。あなた(神様、イエス・キリスト)によって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」人生には「嘆きの谷」もあるというのです。文語訳聖書では「涙の谷」となっています。マルタとマリアの姉妹は今、「嘆きの谷」、「涙の谷」を通っています。自力では耐えがたい。しかしそこに共に泣いて下さるイエス様がおられることが救いです。ラザロの場合にようにすぐに復活させて下さらなくても、イエス様を信じる者に間違いなく永遠の命を与え、いずれ必ず復活の体を与えて下さいます。

 「どんなにラザロを愛しておられたことか。」ある人はここを読んで、「愛は本当は過去形で語られてはいけない」と言いました。ここで現に「どんなにラザロを死しておられたことか」と愛が過去形で語られています。愛が死に負けたのです。イエス様はこの現実に対して、激しく憤られたとに違いありません。愛が死に屈服することは、本来あってはならないことです。愛は常に現在進行形で生きており、常に悪魔と死に勝利してゆく必要があります。

 次の小見出し「イエス、ラザロを生き返らせる」に進みます。38~39節「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。」これは現実です。マルタは、腐敗が始まっている弟の遺体を見たくなかったに違いありません。しかしこの死の力が、愛の力をも上回って全てを支配している現実に対して、イエス様としては、死の力が全てを支配するなどあり得なかったからです。マルタは、「四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。イエス様から見れば、これは現実からの挑戦です。この死の現実の前に、誰も勝つことはできない。最後に勝利するのは、死とその頭(かしら)である悪魔である。イエス様が死と悪魔から挑戦を受けておられます。私たち普通の人間には、死と悪魔に勝つことができません。しかしイエス様は違うことを、イエス様はこの後、明らかに示して下さいます。イエス様はマルタを激励し、マルタの信仰を鼓舞し、マルタの信仰を鼓舞し、