日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2023-08-03 18:52:27(木)
伝道メッセージ 7月分 石田真一郎(市内の保育園の『おたより』に掲載)
「隣人を自分のように愛しなさい」(新約聖書・マタイによる福音書22章39節)。

 人の命が奪われる悲しい事件が続いています。長野県の事件、岐阜県の自衛隊の事件等です。人間の命も、動植物の命も、イエス様の父なる神様がお造りになったので、命を奪うことは神様に背く罪です。私たちは、命を大切にする世界を造りたいと願います。

 辛い話で恐縮ですが、今年の9月1日(防災の日)で関東大震災からちょうど100年です。その時、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」というデマが広がり、韓国・朝鮮の人々や中国人が自警団や警官、軍隊に多く殺されたと言われます(数百人説、約6000人説あり)。目撃証言が少なくないのです。日本近代史の大きな汚点です。誤って日本人が殺されたケースもありました。事件現場は東京、千葉、埼玉にあり、その一つ墨田区の京成電鉄押上線・八広駅から徒歩3分の荒川土手(旧四ツ木橋付近)手前に小さな慰霊碑が、2009年に有志により、心をこめて建立されました。周りにつつじ、きんかん、あじさいなどが植えられ、緑豊かです。私は一昨年、見て来ました。東京スカイツリーも近くです。

 慰霊碑には「悼」の文字が彫られています。碑と解説板にこうあります。「犠牲者を追悼し、両民族(日本と朝鮮半島)の和解を願って、この碑を建立する。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う。」横に小さな資料館があり、在日韓国人女性の管理者おられました。「100年前のことを今恨むつもりはない。でも忘れないでほしいし、繰り返さないでほしい」と言われました。当時朝鮮の人々は、炭鉱や工事等での労働のため、学業のために来ていました(場合によって連れて来られた)。1910年から1945年まで、朝鮮半島は日本の植民地でした。二度と繰り返してはいけません。慰霊碑近くでは、9月1日頃に毎年慰霊コンサート等が行われ、今はライブ配信もあります。

 この話をある所でしたところ、北海道出身の80歳ほどの方が、子どものころ地元で多くの中国人が炭鉱労働しており、厳しい環境で次々亡くなったと話されました。2021年3月に名古屋の出入国在留管理局の施設内でスリランカ人女性ウィシュマさんが亡くなったことや、技能実習生の外国人の扱いを見ても、日本が外国人に優しい国になっていないと感じます。東久留米市の外国人人口は2492人(今年6月1日の資料)。外国人に優しい東久留米市、日本をご一緒に作りましょう。アーメン(真実に)。

2023-08-03 18:50:27(木)
伝道メッセージ 6月分 石田真一郎(市内の保育園の『おたより』に掲載)
「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(新約聖書ローマ書12章9~10節)。

 上智大学教授だったアルフォンス・デーケン神父(ドイツ人、1932~2022年)は、日本で死生学を広めた方です。デーケン先生著『よく生きよく笑い、よき死と出会う』(新潮社、2010年)は、よい本です。私も一度、阿佐ヶ谷教会で講演を聴きましたが、ユーモアあふれるよいお話で、会場は超満員でした。「皆さんも、新約聖書を何度も繰り返して読むことをお薦めします。今や神父として、聖書のほとんどを覚えているような私でさえも、何度読み返しても新たな発見があるからです」(64ページ)。

 デーケン先生の少年時代のドイツは、ナチス(ヒットラー)の支配下にありました。ナチスの主な犯罪は、ユダヤ人大量虐殺、障がい者の安楽死政策です。ナチスに批判的な神父や牧師は、理由なく逮捕され、約2600人がひそかに強制収容所に送られました。デーケン先生のお父さんはキリスト教信仰により、「同じ人間同士が人種差別するのは愚かなこと」と言い、ナチスを批判する神父の礼拝説教の原稿を入手し、タイプしてロシア戦線のドイツ軍兵士に送ろうと考えました。毎日何十通もタイプを打ったのは小学5年のデーケン先生でした。極秘活動です。「私たちの国の政府はこんな悪いことを行っている。ぜひ知ってほしい。」兵士の戦闘意欲をそぐ狙いです。送り主不明の多くの手紙の存在を知ったナチスは、安楽死を一時ストップします。効果があったことは喜びでしたが、自分たち一家が手紙を送っていることが知れれば、即逮捕の危険な行動です。でもナチスより、イエス・キリストに従う道を選んだのです。

 その頃、デーケン少年は何も知らない校長先生に言われました。「君は成績優秀だから、ナチスの指導者養成学校に推薦した。」最高の教育を受けてエリートコースに進む栄誉です。デーケン少年は悩んだ末に、断ります。校長先生は怒り、友達にもいじめられます。でも父の教え「自分の頭で考え、自分の良心と信仰に従って生きなさい」に従ったのです。デーケン神父は、人を慰め励ます方でした。私は最近、夫君をご病気で失った悲しみの中で、デーケン先生の死生学のクラスに通い次第に癒され、牧師を養成する学校に入られ、今は牧師として生き生き働いておられる女性にお会いしました。デーケン先生が日本で長年働かれたことは、神様から日本への大きなプレゼントだったのです。アーメン(真実に)。

2023-08-03 18:48:09(木)
伝道メッセージ 5月分 石田真一郎(市内の保育園の『おたより』に掲載)
「光は闇の中に輝いている。そして闇は光に勝たなかった」(新約聖書・ヨハネによる福音書1章5節)。

 岩橋武夫(1898~1954年)という目の不自由なクリスチャンがおられたことを知りました(手島悠介著『光はやみより』中央法規)。20歳のとき、失明の大きな試練を受け、絶望します。しかし大阪の盲学校で出会った橋本先生に励まされます。「イギリスの詩人ミルトンは失明し、人間と神について考えを深め、アダムとエバの堕落をテーマに『失楽園』というすばらしい作品を書いた。ミルトンが失明しなかったら、この名作が生まれなかったかもしれない。」岩橋さんは立ち上がろうと決心します。

 視覚障がい者の熊谷牧師の説教も心を打ちました。「目の見えない方がヤマユリの花に近づくと、まず香りを感じます。触ると、柔らかい手触り、湿り気、重み、形を体感します。ヤマユリと目の見えない方の存在がつながります。決して単なる知識、情報の1つではありません。目の見えない方が1本のヤマユリに触ることは、晴眼者が100本のヤマユリを見るよりも深い理解となります。ですからイエス・キリストは、『見えない人が見えるようになり、見える人が見えないようになる』(ヨハネ福音書9章39節)と言われました。」視覚障がい者の目は指だと聞きます。聖書も点字の聖書を指で読んで、神様の愛の言葉を味わいます。(ハンセン氏病で失明され、指の感覚も失った方は、舌で点字聖書を読むことがあるそうです(舌読(ぜつどく)。そこまでして神様の言葉である聖書を読む熱意に、圧倒されます。今は音声で聴かれるのかもしれません。)

 岩橋さんは22才で洗礼を受け、キリスト教主義の関西学院大学を卒業し、イギリスに留学。帰国後、大阪でライトハウス(灯台の意)を始めます。無料眼科診療、点字図書の製作、就職・結婚相談、裁縫訓練、音楽会等を行ない、視覚障がい者の灯台をめざしました。1937年には、日本の視覚障がい者を励まそうと、アメリカからヘレン・ケラーを招きます。東京など39都市で97回の講演会を行い、二人は深い友情で結ばれます。しかし戦争の時代になり、二人は悲しみます。ヘレン・ケラーは戦後も二回来日し、広嶋・長崎をも訪れ、原爆の惨禍に深く心を痛めました。岩崎さんは言いました。「日本は戦争で、アジアに無数の視覚障がい者や身体障がい者を生んでしまった。アジアの視覚障がい者が教育を受け、職業をもてるために働くことが、せめてもの罪滅ぼしになる。」岩橋さんの、困難に負けない不屈の生涯に、強い感銘を受けます。アーメン(真実に)。

2023-07-30 1:14:19()
「ろばの子に乗る平和の王」2023年7月30日(日)聖霊降臨節第10主日公同礼拝礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4,頌栄28、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・156、聖書 ゼカリヤ書9:9~10(旧約p.1489)、ヨハネ福音書12:12~19(新約p.192)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌476、献金、頌栄27、祝祷。 

(ゼカリヤ書9:9~10)娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。

(ヨハネ福音書12:12~19) その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第10主日公同礼拝です。説教題は「ろばの子に乗る平和の王」です。新約聖書は、ヨハネ福音書12章12~19節です。

 イエス様が、死んだラザロをよみがえらせるという驚くべき愛の奇跡を行って下さいました。それでイエス様の元にユダヤ人の大群衆がやって来るようになりました。それはイエス様だけが目当てではなく、イエス様が死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもありました。イエス様の人気が最高度に高まったのです。

 本日の最初の12節から。「その翌日(ラザロの姉妹マリアが、純粋で非常に高価なナルドの香油をイエス様の足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐった日の翌日・日曜日です)、祭り(ユダヤ人の最大の祭り・過越祭)に来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。」イエス様とほぼ同時代人のヨセフスというユダヤ人の歴史家は、紀元70年頃の過越祭の参加者は約270万人にのぼったと言います。この数字には誇張があると思いますが、それでも100万人以上参加したことは事実と思います。東久留米市の人口が約11万人ですから、その10倍近い人数が過越祭の時期にエルサレムに集中したのです。物凄い熱気に包まれたに違いありません。その群衆の多くが、なつめやしの枝を持ってイエス様を迎えに出ました。なつめやしの枝は、口語訳聖書では、しゅろの枝です。この日曜日のことを、教会歴(教会のカレンダー)では、「しゅろの主日」と呼んでいます。英語で「パーム・サンデイ」と呼ぶはずです。

 この時、イエス様がろばの子に乗られたことが印象深いですね。この場面を読むと、1977年に52歳で天国に行かれた榎本保郎牧師が書かれた『ちいろば』という小さな本を思い出します。私も洗礼を受ける前に友人に勧められて読んで、大いに感化を受けました。榎本牧師は「自分はこの小さいろばだ」とおっしゃるのです。「イエス様をお載せして、イエス様をどこへでもお運びするろばが自分だ」という姿勢です。そこには野心のかけらもありません。ただイエス様をどこへでも忠実にお運びするろばが自分だ、という信仰です。この『ちいろば』という小さな本に感銘を受けてクリスチャンになった人は、少なくないと思われます。クリスチャン作家の三浦綾子さんとも親しかったので、榎本牧師の死後、三浦さんが榎本牧師の生涯を描いた『ちいろば先生物語』をお書きになって朝日新聞社から出版されました。これも大変すばらしい本で、少し長いですが、私は今でも多くの方々にお勧めしたい本です。

 さて、群衆は叫び続けます。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福が「あるように。」これは、旧約聖書・詩編118編25、26節に基づいて、こう叫び続けています。詩編118編25節の最初の行を新共同訳で見ると、「どうか主よ、私たちに救いを」です。ヘブライ語の聖書を見ると、「私たちに救いを」の部分は「ホーシヤアーンナー」です。これが詰まって「ホサナ」になったと思われます。ですから元々は「私たちに救いを」の意味ですが、群衆が「ホサナ」と叫んでいる時は、歓迎してほめたたえる言葉、ほとんど「万歳」に近い意味になっていると思います。「主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」大群衆は、イエス様こそイスラエルの真の王だとして、イエス様に大きな期待をかけていることが分かります。

 しゅろの枝をかざすことは、イスラエルの歴史では、神様を讃美するためにしばしば行われて来ました。旧約聖書と新約聖書の中間の時代は、イスラエル人にとって苦難の時代でした。アンティオコス・エピファネスという悪いシリアの王が、ユダヤ教を滅ぼそうとしたのです。真の神様の神殿に偶像ゼウス(ギリシア人の偽物の神)の像を無理矢理導入したのです。それに対して立ち上がって軍事的リーダーとして戦ったのが、ユダ・マカバイです。ユダ・マカバイは神殿を取り戻して、汚されていた神殿を清めました。その時彼らは、実をつけた枝、更にはしゅろの葉をかざし、御座の清めにまで導いて下さったお方(神様)に賛美の歌をささげたと、マカバイ記二の10章7節に記されています。しゅろの葉をかざして神様を讃美したのですが、ユダヤ人の気持ちとしてはしゅろの葉は、次第に民族の軍事的英雄ユダ・マカバイと結びついて記憶されていった可能性があります。つまり、エルサレムに入るイエス様を、しゅろの葉を振って大歓迎した人々の気持ちには、「このイエス様こそユダ・マカバイの再来ではないか。我々は今、ローマ帝国に支配されている。イエス様にユダ・マカバイのように先頭に立って戦ってもらって、ユダヤ民族の誇りの独立を回復しようではないか」という期待があった可能性があります。

 ところがイエス様は、「私はそのような期待に応えるつもりはないよ」ということを、行動で示されました。軍事的リーダーが当然乗る馬に乗らないで、小さなろばにお乗りになったのです。ヨハネ福音書12章14節以下。「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである(ゼカリヤ書9章9節)。『シオンの娘(エルサレムの人々)よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。』弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。」

 本日の旧約聖書ゼカリヤ書9章9~10節は、次の通りです。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 イエス様は柔和で高ぶらない王なので、ろばの子に乗られたのです。しゅろの葉をかざして熱狂的に歓迎した人々も、「あれ?」と思ったのではないでしょうか。それにしても、ゼカリヤ書の続く9節はすばらしいと思います。「私(神様)はエフライム(イスラエル)から戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼(メシア、救い主)の支配は海から海へ、大河か地の果てにまで及ぶ。」神様による平和宣言です。早く世界中、このようになってほしいものです。特にウクライナでの戦争が早く終わってほしいものです。

 旧約聖書にはしばしば戦争が出て来て、私もそれがなぜか分からず、悩みました。しかし聖書の神様は、大勢の軍隊で小さい者をいじめることを良しとする神ではありません。確かに旧約聖書には戦争が出て来ます。その代表は、出エジプトしたイスラエルの民が約40年後に、先住民を追い払ってカナンの土地を征服する戦争です。しかしこれは先住民が偶像礼拝などの様々な罪を犯していたことへの、神様の正しい裁きなのでした。イスラエルが圧倒的な武力で勝ったのではないのです。神様はイスラエルのリーダー・ヨシュアに言われました。「見よ、私はエリコ(町の名)をあなたたちの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれの場所から突入しなさい。」イスラエルの民は、自分たちの軍事力ではなく、神様の力によって勝ったのです。

 士師記7章でギデオンが敵と戦うとき、神様はギデオンに言われました。「あなたの率いる民は多過ぎるので、ミディアン人(敵)をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルは私に向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ。」こうして民の中から2万2千人が帰り、1万人が残った。神はギデオンに、「民はまだ多すぎる。あなたのために彼らをえり分ける。犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。」水を手にすくってすすって飲んだ300人をもって、私はあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。」300人が角笛を吹くと、神様は敵の陣営の至る所で同士討ちを起こされました。つまりは武器で大きな戦争をして勝ったのではなく、少人数で、神の力で勝ったのです。イスラエルの民が神様に背いているときは、勝たせてもらえないのです。旧約聖書における戦争には、このような傾向があります。

 詩編33編16節以下には、こうあります。「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させて下さる。」 詩編147編10節以下には、こうあります。「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人。」ゼカリヤ書4章6節には、こう書かれています。「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。『武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。』」

 そうです、神の国は武力は権力で築くものではないのです。教会も、武力や権力で造るものではないのです。ただ神の言葉と、神の聖霊によって、祈りによってのみ、神の国と教会は建て上げられます。そのことを十二分にわきまえておられるイエス様が、武力のシンボルである馬に乗って将軍のようにエルサレムに入城することはありません。イエス様にぴったりなのは、弱く小さいろばです。イエス様はベツレヘムの貧しい家畜小屋に生まれ、ろばに乗り、弟子たちの汚い足を洗い、遂には私たちの全部の罪を身代わりに背負って、十字架で死んで下さり、その徹底的なへりくだりの結果、父なる神様から三日目に復活の勝利を与えられる真のメシア(救い主)なのです。

 ヨハネ福音書に戻り、12章17節以下、「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。『見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。』」

 ヨハネの黙示録7章にも、神様とその小羊(イエス・キリスト)が賛美される場面があります。「この後、わたし(ヨハネ)が見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。』また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。『アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。』すると、長老の一人がわたしに問いかけた。『この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。』そこで、わたしが、『わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです』と答えると、長老はまた、わたしに言った。『彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。』」この白い衣を着た人々は、殉教者なのですね。地上で迫害を受けながらも信仰を守り通し、今は天国で晴れ晴れと神様とイエス・キリストを讃美している人々です。私たちも地上で、父なる神様とイエス・キリストと聖霊なる神様(三位一体の神様)を賛美致します。なつめやしの枝を持っていませんが、なつめやしの枝を持っている気持ちになって、父なる神様、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神様をご一緒に賛美致しましょう。アーメン。




2023-07-23 9:12:30()
「いつものとおりの礼拝と讃美」2023年7月23日(日)オンライン礼拝
順序:招詞 エフェソ1:4,頌栄24、主の祈り,交読詩編なし、使徒信条、讃美歌21・7、聖書 ダニエル書6:1~29(旧約p.1390)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌467、献金、頌栄27、祝祷。 

(ダニエル書6:1~29) さて、王国を継いだのは、メディア人ダレイオスであった。彼は既に六十二歳であった。ダレイオスは、王国に百二十人の総督を置いて全国を治めさせることにし、また、王に損失がないようにするため、これらの総督から報告を受ける大臣を三人、その上に置いた。ダニエルはそのひとりであった。ダニエルには優れた霊が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた。王は彼に王国全体を治めさせようとした。大臣や総督は、政務に関してダニエルを陥れようと口実を探した。しかし、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく、彼らは訴え出る口実を見つけることができなかった。それで彼らは、「ダニエルを陥れるには、その信じている神の法に関してなんらかの言いがかりをつけるほかはあるまい」と話し合い、王のもとに集まってこう言った。「ダレイオス王様がとこしえまでも生き永らえられますように。王国の大臣、執政官、総督、地方長官、側近ら一同相談いたしまして、王様に次のような、勅令による禁止事項をお定めいただこうということになりました。すなわち、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる、と。王様、どうぞこの禁令を出し、その書面に御署名ください。そうすれば、これはメディアとペルシアの法律として変更不可能なものとなり、廃止することはできなくなります。」ダレイオス王は、その書面に署名して禁令を発布した。ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。役人たちはやって来て、ダニエルがその神に祈り求めているのを見届け、王の前に進み出、禁令を引き合いに出してこう言った。「王様、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者があれば、獅子の洞窟に投げ込まれるという勅令に署名をなさったのではございませんか。」王は答えた。「そのとおりだ。メディアとペルシアの法律は廃棄されることはない。」彼らは王に言った。「王様、ユダヤからの捕囚の一人ダニエルは、あなたさまをも、署名なさったその禁令をも無視して、日に三度祈りをささげています。」王はこれを聞いてたいそう悩み、なんとかダニエルを助ける方法はないものかと心を砕き、救おうとして日の暮れるまで努力した。役人たちは王のもとに来て言った。「王様、ご存じのとおり、メディアとペルシアの法律によれば、王による勅令や禁令は一切変更してはならないことになっております。」それで王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように。」一つの石が洞窟の入り口に置かれ、王は自分の印と貴族たちの印で封をし、ダニエルに対する処置に変更がないようにした。王は宮殿に帰ったが、その夜は食を断ち、側女も近寄らせず、眠れずに過ごし、夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ行った。洞窟に近づくと、王は不安に満ちた声をあげて、ダニエルに呼びかけた。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」ダニエルは王に答えた。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」王はたいそう喜んで、ダニエルを洞窟から引き出すように命じた。ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである。王は命令を下して、ダニエルを陥れようとした者たちを引き出させ、妻子もろとも獅子の洞窟に投げ込ませた。穴の底にも達しないうちに、獅子は彼らに飛びかかり、骨までもかみ砕いた。ダレイオス王は、全地に住む諸国、諸族、諸言語の人々に、次のように書き送った。「いっそうの繁栄を願って挨拶を送る。わたしは以下のとおりに定める。この王国全域において、すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。この神は生ける神、世々にいまし/その主権は滅びることなく、その支配は永遠。この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い/ダニエルを獅子の力から救われた。」こうしてダニエルは、ダレイオスとぺルシアのキュロスの治世を通して活躍した。

(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」です。説教題は「いつものとおりの礼拝と讃美」です。聖書は、旧約聖書のダニエル書6章1~29節です。
これまでにも何回かダニエル書で礼拝説教をさせていただきましたが、ダニエル書は迫害の下に生きる信仰者を励ます内容となっています。

 第1節「さて、王国を受け継いだのは、メディア人ダレイオスであった。彼は既に62歳であった。」バビロン帝国の時代が終わり、ペルシア(メディア)王国の時代に移ったのです。その時にも、ユダヤ人たちの真の神への信仰に対する迫害があったのですね。この6章の出来事は、紀元前5世紀前後に起こったという理解でよいと思います。ダレイオス王は、王国に120人の総督を置いて全国を治めさせることにし、王国に損失がないようにするため、これらの総督から報告を受ける大臣を三人、その上に置いた。ダニエルはその一人でした。

 4節「ダニエルには優れた霊が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた。王は彼に王国全体を治めさせようとした。」ダニエルには聖霊が宿っていたのでしょう。人の知恵を超えた神からの知恵を与えられていたのです。それでペルシア国の政治の仕事を、見事に行っていました。ダニエルは真の神の民ユダヤ人です。バビロン人でもペルシア人でもない。それがバビロン帝国でも、それに続くペルシア帝国でも異例の大出世をしたのですから、他の人々の妬みを受けたことは、よく分かることです。5節「大臣や総督は、政務に関してダニエルを陥れようと口実を探した。しかし、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなく、彼らは訴え出る口実を見つけることができなかった。」実にすばらしいですね。「ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなかった。」相手はダニエルの粗さがしを一生懸命行ったのですが、「ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠慢もなかった。」大変すばらしい。私もダニエルを理想とし、ダニエルを模範とし、ダニエルのようでありたいと願っているのです。

 ダニエルを訴え出る口実を何一つ見つけることができなかった大臣や総督は、「ダニエルを陥れるには、その信じている神の法に関して何らかの言いがかりをつけるほかはあるまい」と話し合い、王のもとに集まってこう言います。「ダレイオス王様がとこしえまでも生き永らえられますように。王国の大臣、執政官、総督、地方長官、側近ら一同相談致しまして、王様に次のような、勅令による禁止事項をお定めいただこうということになりました。すなわち、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、誰であれ獅子の洞窟に投げ込まれる、と。王様、どうぞこの禁令を出し、その書面にご署名下さい。」王様は、彼らの言葉にそのまま乗ってしまい、その書面に署名して禁令を発布してしまいます。後で王様は、「考えが足りなかった」と悔やんだことでしょう。ダニエルが陥れられるとは思わなかったからです。

 ダニエルは、大臣ですから、王が禁令にサインしたことを、すぐ知ったようです。しかし動揺しません。11節「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」ダニエルは、旧約聖書のモーセの十戒の第一の掟を忠実に守っているのです。「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」文語訳ではこうです。「汝、わが面の前に、われのほか何者をも神をすべからず。」ダニエルも私たちも、真の神様のみを礼拝するのです。ダニエルは外国の地に長年住んでも、社会的地位が上がってもこれを貫き、「いつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」

 ここで大切なのが、「いつものとおり」です。私たち人間は、何か困難なことが起こると、神様に祈り、神様に助けをいただこうとするのです。これを「困った時の神頼み」と言います。真の神様に頼るなら、それも必ずしも悪いことではありません。あるいは進学、就職、結婚など人生の重要な節目では、神様に祈り、教会で結婚式を挙げたりします。もちろんそれも大切です。しかしダニエルの場合は、自分に非常な悪意が向けられているこの時も、「いつものとおり、二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」のです。「時がよくても、悪くても、二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開いた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」彼の生きた習慣なのです。決して形式的な習慣でなく、真心のこもった習慣なのです。私たちも、日曜日や婦人会や聖書の学び・祈祷会の日に、教会に通う習慣が身についているなら。それはとてもよいことです。ただ、最近は皆さん相当高齢になっておられますので、コロナが流行っていたり、猛暑が続くような日に身の危険を感じて、やむを得ず行くことを控えることはあり得ることで、その場合は、オンラインを用いることのできるからは、ぜひオンラインで礼拝や婦人会や聖書の学び・祈祷会に出席していただきたいと思います。オンラインが苦手な方は、申し訳ございません。

 信仰が習慣として身につくことが大切です。いつものように祈り、いつものように聖書を読み、いつものように讃美歌を歌い讃美する。毎日の当たり前になることが大切と思います。時が良くても悪くても。ダニエルは二階の部屋に上がって、それらをしました。二階は上なので、少し天国に近いという意味があるのでしょう。預言者エリヤも、預言者エリシャも、階上の部屋(おそらく二階)で祈って、死んだ男の子を神様に生き返らせていただきました。イエス様が復活なさって40日目に天に昇られた直後、11人の弟子たちは泊まっていた家の上の部屋に上がりました。彼らは婦人たちやイエス様の母マリア、イエス様の兄弟たちと心を合わせて、熱心に祈っていました。それはやはり階上の部屋だったようです。階上の部屋は祈りの場所、それは天に近いからでしょう。

 私たちはダニエルが「いつものとおり」、二階でひざまずいて祈り、賛美する姿を見て、「立派だな」と思うのですが、ダニエルを憎む人々は、これを見て「しめしめ」と、ほくそ笑みました。「これで彼を陥れることができる。」そして、この時とばかり王に言います。「王様、向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者があれば、獅子の洞窟に投げ込まれるという勅令に署名をなさったのではございませんか。王様、ユダヤからの捕囚の一人ダニエルは、あなた様をも、署名なさったその禁令を無視して、日に三度祈りを献げています。」

 王はこれを聞いて非常に悩みました。「しまった。あの禁令にサインするのではなかった」と思ったかもしれませんが、跡の祭りです。どうすることもできず、遂にダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出されました。ダニエルは非常に肝が据わっており、一切取り乱しません。彼は彼の三人の友人たちが、3章で燃え盛る炉に投げ込まれる前に言った言葉と、似た言葉を心の内に持っていたのではないかと思います。「私が礼拝する神は、私をライオンから救うことができますし、必ず救って下さいます。そうでなくとも、ご承知下さい。私は、天地創造をなさった真の神様をのみ礼拝する信仰生活を。決してやめません。」そしてダニエルは、
神様を信頼して、ライオンの洞窟に入れられました。王はその時、こう言いました。「お前がいつも拝んでいる神がお前を救って下さるように。」

 王は宮殿に帰ったが、ダニエルのことが心配で眠れず、夜明けと共に急いで獅子の洞窟に向かいました。なかなか良心的な王様です。王は不安に満ちた声で、ダニエルに呼びかけます。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ。お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」するとダニエルの声が聞こえたのです。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。神様が天使を送って獅子の口を閉ざして下さいましたので、私は何の危害も受けませんでした。神様に対する私の無実が認められたのです。そして王様、あなた様に対しても、背いたことはございません。」

 王は大層喜んで、ダニエルを洞窟から引き出させましたが、ダニエルはその身に何の害をも受けていませんでした。驚くべきことです。神様をひたすら信頼していたからです。代わりにダニエルを陥れようと陰謀を企んだ者たちを、妻子もろとも獅子の洞窟に投げ込まれ、穴の底までに達しないうちに、獅子が彼らにとびかかり骨までかみ砕いてしまいました。箴言26:27「穴を掘る者は自分がそこに落ち。」ダレイオス王は、真の神様を讃美する人に変えられました。27節以下「この王国全域において、全ての民はダニエルの神を畏れかしこまなければ、ならない。この神は生ける神、世々にいまし、その主権は滅びることなく、その支配は永遠。この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い、ダニエルを獅子の力から救われた。」イエス様の十字架の時は、父なる神様がイエス様を十字架から降ろす奇跡は起こりませんでした。それは十字架で死ぬことこそが、イエス様の最も重要な使命だったからです。しかし十字架で完全に死なれたイエス様を、父なる神様は三日目に復活させて下さいました。真の神様を信頼し通す人に、真の神様は必ず愛と善をもって報いて下さいます。一時的に厳しい試練を通ったとしても、最後の最後には必ず愛と善をもって報いて下さいます。ダニエル書は、迫害化にある信仰者に「信仰を決して捨てないように」と励ます書物です。

 日本にも、真の神様に従った人々がいます。 渡部良三さんという無教会主義のクリスチャンの『歌集 小さな抵抗― 殺戮を拒んだ日本兵』(岩波現代文庫、2012年)という本があります。ぜひお読み下さい。渡部さんは21、2才の頃、中国の河北省に駐屯する部隊に配属され、上官から同僚の兵と共に中国人捕虜を銃剣で刺殺することを命じられます。捕虜虐待で国際法違反です。渡部さんは動揺しましたが、聖書の十戒の「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)という神様の言葉に従う決心をし、刺殺命令を拒んだのです。そのためひどいリンチを受け続けましたが、ひたすら耐えて、敗戦後に帰国できました。

 渡部さんの多くの歌の中から一首を、ご紹介します。
「演習に殺人あるとは知らざりき 聞きし噂はまことなるらし。」
「殺すなかれ そのみおしえをしかと踏み 御旨に寄らむ惑うことなく」
「『殺してはならない』との神の教えを固く守り、迷うことなく神の意志に従って行こう」という意味です。「鳴りとよむ 大いなる者の声きこゆ。虐殺こばめ 生命を賭けよ。」渡部さんの純真な信仰に感銘を受けます。1945年に初年兵として中国の別の場所にいたTさんは、上官の命令を受け、心ならずも中国人捕虜を銃剣で突いたそうです。「善悪も何も、考える余裕がなくなる。体験者にしか分からないが、それが軍隊」と語られます(昨年8月の新聞から)。これが戦争の実態でしょうから、何としても平和を守る必要があります。

 神の子イエス様は、次の言葉を語られました。「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(新約聖書・マタイによる福音書5章9節)、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5章44節)、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(26章52節)。防衛費を倍増すれば平和を守れるか? 知恵を尽くし、対話を尽くし、平和を造って参りましょう。アーメン。