日本キリスト教団 東久留米教会

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2023-03-18 12:22:08(土)
説教「神の業がこの人に現れるため」2023年3月19日(日) 受難節(レント)第4主日公同礼拝  
順序:招詞 ルカ福音書15:7,頌栄24、主の祈り,交読詩編87,使徒信条、讃美歌21・299、聖書 創世記45:4~8(旧約p.81),ヨハネ福音書9:1~12(新約p.184),讃美歌530、献金、頌栄27、祝祷。 

(創世記45:4~8) ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。

(ヨハネ福音書9:1~12) さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

(説教) 本日の礼拝は、受難節(レント)第4主日の礼拝です。説教題は「神の業がこの人に現れるため」です。新約聖書は、ヨハネ福音書9章1~12節です。小見出しは「生まれつきの盲人をいやす」です。この個所に希望を与えられた方は、昔から多くおられると思います。

 1節「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」生まれつき両目が見えない。大きな試練です。生まれつき困難、十字架を背負わされています。理不尽です。生まれつきヨブ記のヨブのような試練を与えられています。イエス様の弟子たちが、イエス様に無遠慮な質問を発します。2節「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」これは当時の考え方のようです。いわゆる障がいを持つ人がおられた場合、それには原因があると考えたのです。「本人あるいは両親が、何か罪を犯したから、悪を行ったから、その結果としてこの人に神様の裁きが与えられ、この人が障がい者になったと考えられたのです。このような考えを因果応報と呼ぶそうです。いわゆる「ばちが当たった」という考えです。この考え方にはまり込んでしまうと抜け出せなくなり、行き詰まり、希望がなくなってしまいます。律法主義と言ってもよいと思います。

 イエス様のお答えは、ふつうの人間が予想もできないお答えです。物事を全く別の角度から見て、深い気づきを与えて下さるお答えです。3節「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」人間の考えと次元の違う、神様のよき目的がある。これぞ福音だと思うのです。思いがけない光が差し込んで来るお答えです。イエス様は、さらに言われます。4~5節「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である。」「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」これこそ「世の光」のような御言葉です。

 6~9節「こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアムー「遣わされた者」という意味―の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、『これは。座って物乞いをしていた人ではないか』と言った。『その人だ』と言う者もいれば、『いや、違う。似ているだけだ』と言う者もいた。本人は、『私がそうなのです』と言った。」 この男性は、イエス様の愛によって両目を開けていただきました。イエス様の愛によって癒されたのです。この後、イエス様を憎むファリサイ派の人々の怒りが語られる展開になってゆきます。

 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」作家の大江健三郎さんが亡くなりました。とても残念なことです。大江さんは「日本の方向性を指し示す羅針盤のような人だった」と言います。日本の良心のお一人だったと思います。キリスト教に非常に共感的な方だったらしいのですが、最終的に洗礼をお受けになったかどうかは分かりません。若くして芥川賞を受賞し、1994年にはノーベル賞を受けました。この方のご長男が光さんという障がいをもつ光さんとおっしゃる方であることは、よく知られています。音楽の道に進んでおられますね。大江さんは障がいをもつご長男の誕生に苦悩されました。大きな衝撃だったようです。苦悩を経て、この光さんと共に生きる決心を固めてゆかれます(工藤信夫先生著『信仰者の自己吟味』による)。

 そしてこのように語られたそうです。「(僕は)僕より若いけど尊敬している立花隆さんから『大江光さんがなかったら、あなたもなかったと思う』と言われたことがあるんです。その時は、『そうかな?』と思いましたが、次第に『そうだな』と思うようになったんです。というのは、僕は若くして小説書きになって、現実と無関係に才能だけで小説を書くようなものでした。才能というのもおかしいですが、本を読んで、そこで作り出したイメージを本に書く。つまり本から出て本に入るような小説家だった。だからあのまま書いていたら行き詰まっていたと思いますよ、明らかに。二十代で小説を書くのをやめたという気がしますね。もちろん芥川龍之介みたいに才能ありませんが、芥川のような人でせいぜい三十代、三島由紀夫だって四十五歳で死んだんですから」(読売新聞)。障がいある光さんを苦労して育てる中で、人間味が深まってゆかれたのではないかと思います。光さんの存在によって大江さんにとって「文学は、人を励ますためにあるべき」の考えが定着したそうです。光さんが障がいをもって誕生されたことは、「本人は罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に(光さんにも、大江さんにも)現れるため」だったように思われてなりません。

 私たちは自我の力によって、自分の思い通りの順調な人生を歩みたいと願うのですが、そうは問屋が卸さず、思い通りにゆかないことが色々起こって参ります。神様はきっと、私たちが自分勝手な生き方をすると滅びに至ると知っておられるので、私たちを神様の御心に適った人生、神様に従う真の祝福の人生へと導くために、時々介入して来られるのではないでしょうか。そして私たちの自己中心にストップをかけて下さることもあると思います。

 本日は旧約聖書の創世記45章をも、お読みいただきました。ここに登場するヨセフ(イスラエルの民の先祖の一人ヤコブの息子)には、苦難の人生が与えられました。兄弟たちに憎まれ、結果的にエジプト売られてしまったのです。さらに冤罪で牢に入れられてしまいます。しかし、神様はいつも共におられたのです。生意気だったために兄たちに憎まれたヨセフは、このような試練の中で鍛錬され、忍耐強く責任感ある人に成長します。何とエジプトの総理大臣になり、エジプトのために一生懸命働きます。世界中が飢饉に苦しみ、何と兄たちが食糧を求めてエジプトにやって来ます。このとき遂にヨセフは、神様がヨセフをエジプトに送ったことには、ヨセフが受けた苦難には大きな意味があったことを悟ったのです。ヨセフは兄たちに言います。「今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うため、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神が私をファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者ととして下さったのです。」

 ヨハネ福音書に戻り、生まれつき目の見えない男性について、イエス様は言われます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」イエス様自身の人生がそうです。この男性の苦しみも大きいですが、イエス様の十字架の苦しみもそれと同じくらい、いえもっと大きな苦しみではないでしょうか。イエス様が十字架の苦難を受けたのは、イエス様が罪を犯したからでしょうか? もちろん違います。あるいは母マリアとヨセフが罪を犯した結果でしょうか? もちろん違います。イエス様の十字架こそ、父なる神様の御業が現れるためにありました。十字架を通った先に、復活の栄光があるのですから。

 最大の伝道者パウロも、何らかのとげに苦しみました。このとげが何かは明確ではありません。パウロがガラテヤの信徒への手紙で書いている内容からすると、パウロは眼の病気を持っていたようです。目が見えないほどではないが、何らかの目の病気で苦しんでいたようです。パウロがコリントの信徒への手紙(二)12章7節以下で書いています。パウロは少し前にすばらしい天国に少し入る経験をしたようです。「それで、そのために思い上がることのないように、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせて下さるように、私は三度主に願いました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。」

 パウロがとげに苦労すると、彼の罪がますます死に、ますます人格がイエス様に似ていったに違いありません。パウロの中には、神様の清き霊である聖霊が住んでおられます。私たちの内にも聖霊が住んでおられます。パウロの罪が(あるいは自我が)死ねば死ぬほどパウロは清められ、パウロの中に住んでおられる聖霊が輝きと愛の働きを増すに違いありません。パウロにとげが与えられたことで、「神の業がパウロに現れる結果」となりました。私たちが病気になれば、もちろん癒されるように祈り、医学の治療を受け治るように努力致します。神様から預かっている大切な恵みである体を癒す努力は大切です。と同時に、苦難が私たちを清める効果をもつことにも、心を向けてよいのではないかと思います。

 西東京教区のある教会のAさんは、お仕事を退職された際に、キャンピングカーを買われました。これからはこの車でキャンプに行って楽しもうを考えておられました。そしてご自宅の屋根の修理か何かをしておられて誤って落ち、足を怪我され、暫く入院されました。動けない時期があり、その後治って来ました。その頃、東日本大震災が起きました。病院のベッドでAさんは祈りながら考えられました。足を怪我して、予想しない災難だった。でも東北は大変なことになっている。自分は運転が好きで、よい車を買うことができた。西東京教区では東北ボランティアを募集している。キャンピングカーを自分の楽しみのために使うつもりだったが、西東京教区の東北ボランティアの送迎に用いよう。自分が運転して。病院のベッドでそうお考えになったようです。幸い足が治り、その考えを実行に移されました。多分十何回も東京都を東北を往復して、ご自分もボランティアに行かれ、他のメンバーにも乗ってもらい、往復を繰り返しました。足の怪我は不幸な出来事でしたが、それで入院していた病院のベッドで、車の用い方を思いついたのですね。キャンピングカーは、西東京教区の東北ボランティアのために大いに用いられました。足の怪我はマイナスの出来事でしたが、しかし最終的には、「神様の業がこの人(Aさん)に現れた」のではないか、と感じます。やはり私たちの人生の最高の目的が、私たちの命がイエス様の栄光のために、少しでも用いられることではないでしょうか。

 私と妻が洗礼を受けた茨城県の教会に、アメリカ人の宣教師がおられました。ご夫人は日本人で、筋肉の難病を患っておられ、しばしば入院しておられました。幸い、今はアメリカで健在であるようです。その娘さんが書いた文章を読んだ記憶があるのですが、「神様が全能なら、どうして母の病気を治さないのかと思っていた。しかし母は入院した病室で、同室の患者さんたちの悩みを聞いたりして、力になっているようだった。」そのような内容でした。入院先の病室で、他の方々の励ましになっていた。きっと若かった娘さんは、もしかすると神様がそのような形でお母様を用いておられる、神様のみわざがお母様に現れていたと感じとられたのではないかと思います。そう受けとめることができたとすれば、辛かっただろうけれども、見上げたものだ、と思います。

 JR高田馬場駅のすぐ近くに、点字図書館があります。私は数年前に見学に行きました。創設者は本間一夫さんというクリスチャンです、今は天国におられます。本間さんの自伝『点字あればこそ』という本によると、本間さんは1915年に北海道で誕生、5歳のとき、高熱で失明されました。13歳で盲学校に入学し点字を習い、初めて自分で読み書きできる、たとえようもない喜びを経験されました。ロンドンには蔵書17万冊の大点字図書館があると聞いて、日本にも作ろうと決心されます。この辺りは、すごい人だと尊敬します。

 将来は、視覚障がい者の幸せのために働こうとの使命感に燃え、キリスト教主義の関西学院大学に学び、洗礼を受け、1940年に東京の雑司ヶ谷の借家に点字書700冊で日本点字図書館を開設。結婚後は、空襲を避けて茨城県や故郷の北海道に疎開、1948年に焼け跡の高田馬場に15坪の木造の点字図書館を建てます。戦争に負けた日本を励ましに来たヘレン・ケラーに会って握手する恵みを受けました。これは大きな感動でした。運営は苦労の連続でした。点字図書館自体は、全国の視覚障がい者から喜ばれていました。しかし経営がうまくいかず、行き詰まり。でも、神様がこの事業の意義を必ず認めて、道を開いて下さると信じて祈り、耐えます。本間さんは天国に行かれましたが、点字図書館は今も続いています。

 本間さんは書いています。「私が聖書を知ったのは、まだ盲学校に入る前11、12歳のときでした。家で針仕事をしていた親戚の老婦人がクリスチャンで、色々な本を読んでくれる中で聖書の話もしてくれたのです。」「『この人が生まれつき盲人なのは本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が罪を犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』とは、道端にいる盲人を見て問いかけてきた弟子たちに対するイエス・キリストの答えです。ヨハネ福音書9章1~3節の聖句であり、盲人クリスチャンはほとんどがこの言葉によって救われ、導かれており、私もその一人なのであります。」

 「失明は、確かに大きな不幸です。しかし私の場合は、失明したればこそ、この特殊な事業(点字図書館)に巡り合い、あとから来る後輩のために役立ちたいと、点字図書館ひとすじの道を歩みました。大きな幸せであり、感謝すべきことなのです。視覚障がいそのものはなくなりません。問題は日々生きていく視覚障がい者一人一人の幸せ感です。キリスト信仰を持つか否かは決定的な分岐点になります。私はキリストとの出会いを感謝し、ゆるぎない信仰を持つことは、最高の幸せであると固く信じておるものです。私にとっては『失明もまた恩寵』なのです。」すごい人だと尊敬します。この方ほど立派な信仰に生きることができるか分かりませんが、私たちの罪がどんどん減り、私たち一人一人の上に、神様のみざわがますます行われるように、そうして私たちが意義ある人生を生きることができますように、ご一緒に祈りつつ歩みたいのです。アーメン。

2023-03-12 0:48:19()
「宇宙創造前からおられるイエス・キリスト」2023年3月12日(日) 受難節(レント)第3主日礼拝説教 
順序:招詞 ルカ福音書15:7,頌栄85、主の祈り,交読詩編86,使徒信条、讃美歌21・224、聖書 創世記22:14~18(旧約p.32),ヨハネ福音書8:39~59(新約p.182),讃美歌300、献金、頌栄92、祝祷。 

(創世記22:14~18) アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

(ヨハネ福音書8:39~59) 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」

 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

(説教) 本日の礼拝は、受難節(レント)第3主日の礼拝です。説教題は「宇宙創造前からおられるイエス・キリスト」です。新約聖書は、ヨハネ福音書8章39~59節です。小見出しは「宇宙創造前からおられるイエス・キリスト」です。

 最初の小見出しは「反対者たちの父」です。この直前の個所でイエス様は、ご自分を信じたユダヤ人たちに、「真理はあなたたちを自由にする」と言われました。さらに「あなたたちは父から聞いたことを行っている」と言われました。この場合の父とは誰か、が焦点です。父とは存在の大元のことで、父祖(先祖)を意味することもあります。本日の最初の39節「彼らが答えて、『私たちの父(先祖)はアブラハムです』と言うと、イエスは言われた。『アブラハムの子(子孫)なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこの私を殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。』」これはユダヤ人たちの父がアブラハム以外だという意味になります。

 ユダヤ人たちにとって心外なので、ユダヤ人たちは反論します。「私たちの父がアブラハムでなくて、ほかにいるというのですか? では私たちの母親が姦淫したというのですか? そうではありません。私たちは姦淫によって生まれたのではありません。私たちにはただひとりの父がいます。それは神です。」やや分かりにくいですが、ユダヤ人たちの主張は、自分たちの先祖はアブラハムで、さらに自分たちの原点におられるのは真の神様だということです。つまり自分たちは正当な神の民だと主張しています。

 ところがイエス様は違うと言われます。42節以下「神があなたたちの父であれば、あなたたちは私を愛するはずである。なぜなら、私は神のもとから来て、ここにいるからだ。私は自分勝手に来たのではなく、神が私をお遣わしになったのである。私の言っていることが、なぜ分からないのか。それは、私の言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。」これは驚くほど手厳しい言葉です。「あなたたちユダヤ人たちの父は悪魔だ」と言っているからです。これはもちろんイエス様の近くにいたユダヤ人たちが悪魔に奉仕していると言っているので、現代のイスラエル民族が全員、悪魔への奉仕者だと述べているわけではありません。もちろんそうなのですが、それでもこれは驚くほど手厳しい言葉です。

 44節の途中から47節。「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときには、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、私が真理を語るから、あなたたちは私を信じない。あなたたちのうち、一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私は真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」神に属していないということは中立ではなく、悪魔に属していることです。

 残念ながら悪魔は今も働いています。イエス様も公の伝道の人生に入る前に、悪魔の誘惑を受けられました。日本の社会で最近問題になっているのがカルト宗教です。カルト宗教は貪欲で、信者になった人々に多くの献金を求めます。私たちがカルト宗教と考えている宗教は、統一協会やオウム真理教と思います。キリスト教会は完全に大丈夫かと言うと、よく注意しないと完全に大丈夫とは言えないと思います。私どもクリスチャンも牧師も罪人(つみびと)ですから、キリスト教会がカルト化することもあり得ると考えて、そうならないようにいつも注意している必要があります。多少有名だった牧師が、幼児虐待やセクハラで退場して行った事実はあるようです。主に外国のカトリックでも神父の子どもへの性的虐待等が明るみに出ています。悪魔は、伝道者やクリスチャンを誘惑して堕落させようとしているので、私・私たちもそれに負けないように十分に注意する必要があります。

 カルト宗教のよくないことは、指導者が権力を握っていることです。指導者が権力を握って、信者の人々はその支配下に置かれ、無理して献金する等を強制されます。指導者は野心と貪欲さをもち、支配者になってゆきます。悪魔の僕(しもべ)になってしまうのです。キリスト教会でも1つ間違えば起こり得ることです。それを避けるために必要なことの1つは、一人一人が、色々の大事なことを、自分でしっかり考えることと思います。思考停止にならないことが大切と思います。今は天に召されたヘンリ・ナウエンというカトリック司祭が約30年前に書いた『イエスの御名で』(あめんどう)という小さな本を、久しぶりに読みました。牧会心理学、クリスチャンの霊性の教師として評価されていた方です。ナウエンさんは考えたのです。五十歳代に入り、自分の人生にはもう過去と同じだけの時間は残されていないと気づいて、次の単純な問いに直面したと言います。「年を重ねて、私はよりイエス様に近づいただろうか?」司祭になって25年でしたが、依然として祈りにおいて貧しく、自分を急き立てる目先の問題に心を奪われていることに気づきました。神様はナウエンさんを、ラルシュという知的障がい者の共同体に導いて下さいました。「行って、心の貧しい人々の間に住みなさい。彼らは、あなたを癒してくれる。」

 悪魔はイエス様を誘惑して、「この世の国々の栄華をすべてあなたに与えよう」と言いました。イエス様は「退け、サタン」と言って拒否されました。ナウエンさんは言います。「キリスト教の歴史の最大の皮肉の一つは、指導者たちがそのイエス様の御名を語りながら、権力の誘惑、霊的能力という力の誘惑に、絶えず負けて来たということです。」「十字軍が結成され、宗教裁判が行われ~壮麗な聖堂や華やかな神学校が建てられたのです。」「痛みに満ちた長い教会の歴史は、神の民が、ときに愛よりは権力を、十字架よりは支配を、導かれる者よりは導く者になろうとする誘惑にさらされた歴史だと言えます。本当の聖人は、最後までこの誘惑に抵抗し、それによって私たちに希望を与える人です。」魂に刻むべきメッセージですね。私自身も罪人(つみびと)ですから、簡単に謙遜を忘れ、色々な野心に取りつかれ、悪魔の僕にならないとは言いきれません。ユダヤ人のファリサイ派だけのことではないのです。「あなたたちが聞かないのは(神の言葉を聞かないのは)、神に属していないからである」とイエス様に言われないように、毎日気をつけるほかありません。

 次の小見出しは、「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」です。ユダヤ人はイエス様の言葉に納得せず、イエス様を非難します。48節~「ユダヤ人たちが、『あなたはサマリア人(これは差別発言)で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか』と言い返すと、イエスはお答えになった。『私は悪霊に取りつかれてはいない。私は父を重んじているのに、あなたたちは私を重んじない。私は自分の栄光を求めてはいない。』」これがイエス様の基本姿勢ですね。もし栄光を野心と言い換えることが可能だとすれば、イエス様には権力への野心が全然ないのです。ご自分の栄光を求めず、ただ父なる神様のご栄光を願っておられます。51節「はっきり言っておく。私の言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」イエス様の言葉を守る人は、永遠の命を受けるとの意味でしょう(地上の死はあるが、永遠の命に入る)。

 52節「ユダヤ人たちも言った。『あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムも死んだし、預言者たちも死んだ。ところがあなたは、『私の言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。私たちの父(先祖)アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。』」「思い上がりも甚だしい」と非難しています。

 54節「イエスはお答えになった。『私が自分自身の栄光を求めようとしているのであれば、私の栄光はむなしい。私に栄光を与えて下さるのは私の父であって、あなたたちはこの方について、「我々の神だ」と言っている。』」父なる神様は神の子イエス様に、この世の権力をお与えになりませんが、神の子としての霊的な栄光、死からの復活の栄光を与えて下さいます。55~56節「あなたたちはその方を知らないが、私は知っている。私がその方を知らないと言えば、あなたたちと同じく私も偽り者になる。しかし、私はその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父(先祖)アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そしてそれを見て、喜んだのである。」

 実に驚くべき発言です。イスラエルの民の偉大な先祖アブラハムは、「イエス様の日」を見るのを楽しみにしていた。そしてそれを見て喜んだ。どんな意味でしょうか。旧約聖書の創世記21章を見ると、100歳のアブラハムと90歳のサラの夫婦に、神様が約束しておられた息子イサクが誕生しました。この夫婦は最初に神様の約束が与えられた時から25年間祈り続けて、遂に約束の子イサクが誕生したのです。サラが言いました。「神は私に笑いをお与えになった。聞く者は皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」イサク誕生の喜びが、もっと遠い将来に、神様の約束によって誕生するイエス様の誕生の喜びの先触れだと言って間違いありません。

 創世記22章を思い出してもよいと思います。アブラハムが約束の子イサクを神様に献げようとする場面です。やっと生まれた大切な独り子イサクを屠って(殺して)神様に献げることを、神様が求められます。イサクが死ねば、イサクの子孫を大いに増やすという神様の約束がだめになります。それなのにアブラハムがイサクを献げたのは、新約聖書のヘブライ人への手紙11章によると、アブラハムがイサクを死者の中から生き返らせて下さる(復活させて下さる)と信じたからです。イサクを屠ることを天使が直前に止め、イサクは死なずにすみました。でもアブラハムはイサクをほぼ殺しかけていたのですから、神様は復活したイサクをアブラハムに返して下さったも同然です。アブラハムはほっとして、喜んだに違いない。このことは、遠い将来のイエス様の復活の喜びを、予告する出来事だったと言えます。その意味で、「アブラハムはイエス様の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」と言えるのではないか、と思います。

 ユダヤ人たちはびっくりして、イエス様に言います。57節「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか。」アブラハムがハランという土地からカナンの地(イスラエルの地)に移住した創世記12章の出来事は、紀元前1850年頃だそうです。イエス様の時代より1800年以上前です。それなのにアブラハムがイエス様のことを知っていたとか、イエス様がアブラハムを見たということは、常識では考えられないことです。イエス様はズバリおっしゃいます。58節「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある。』」これにはユダヤ人たちなrずとも、仰天します。「ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」イエス様は、アブラハムが生まれる前、つまりイエス様のときより約1900年も前から生きておられたというのです。これはこのヨハネ福音書1章1~2節を読めば、合点がゆきます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」言は原語ではロゴスで、イエス・キリストを指します。天地創造の初めにキリストがおられた。キリストは神であった。宇宙万物を創造なさった(お造りになった)方がキリストである、というメッセージです。父なる神様と子なる神キリストが、全宇宙を創造なさいました。科学者によると地球は45億年前にできました。宇宙は138億年前にできたそうです。キリストは天地創造の前から、138億年以上前から生きておられることになります。

 コロサイの信徒への手紙1章15節は、キリストについてこう記します。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」キリストは神に造られた方ではなく、神から生まれた神、天地創造を行った神なのです。ですから当然、アブラハムが生まれる前から生きておられます。役員会では、2023年度の東久留米教会の標語聖句をエフェソの信徒への手紙1章4節とさせていただきましたが、キリストが天地創造の前から生きておられたことは、エフェソ1章4節とも強いつながりがあります。エフェソ1章4節はこうです。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」天地創造の前からキリストが生きておられたが、その時から神様は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいて、あるいはキリストによって、お選びになったことになります。
138億年以上前から、私たちは神様に愛され、いずれ地上に生まれることが決定されていたということです。私たちがそのような存在だということは、驚くべきことです。創世記1章3節で、神様は言われます。「光あれ。」こうして神の言葉によって天地創造が成し遂げられました。それより前から、神様は私たちを愛しておられたというのです。何とエフェソ1章4節には、創世記1章1節より前のことが書いてあるのです。ふつうは創世記1章1節が一番最初だと思って、聖書を読みます。ところがエフェソ1章4節は、それより前のことを書いています。エフェソ1章4節を最初に読んで、その後に創世記1章1節から読み始める方が順序正しいとさえ言えます。それはともかく、ヨハネ福音書は、イエス様がアブラハムが生まれる前から、そして天地創造前からキリストが生きておられたことを告げて、ユダヤ人たちと私たちをびっくりさせます。

 もう一か所ヨハネ福音書の中で、ユダヤ人と私たちを驚かせる箇所があり、ヨハネ福音書12章40節以下です。この箇所は旧約聖書のイザヤ書6章を引用します。これは有名な箇所で、預言者イザヤが、天の栄光の神を垣間見た場面です。紀元前736年ごろの出来事とされます。イエス様の時代より700年以上前です。ヨハネ福音書12章41節はこの箇所について、「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」と、驚くべき大胆なことを述べるのです。紀元前736年ころに預言者イザヤが垣間見た天の栄光の神は、実はイエス・キリストだったと述べているのです。つまりイエス・キリストは、イザヤの時代に生きておられたし、アブラハムが生まれる前から生きておられたし、天地創造前から生きておられた神だと、ヨハネ福音書は宣言しているのです。そして父なる神様とイエス・キリストが、天地創造前から私たちを愛しておられ、今も愛しておられることが分かります。このように、私たちの思いをはるかに超えて私たちを愛して下さっている神様の愛を感じ、感謝して、共に生きて参りたいと存じます。アーメン。



2023-03-04 21:28:19(土)
「キリストが与える真の自由」2023年3月5日(日) 受難節(レント)第2主日公同礼拝
順序:招詞 ヨハネの黙示録3:19~20,頌栄85、主の祈り,交読詩編85,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・197、聖書 イザヤ書61:1~4(旧約p.1162),ヨハネ福音書8:31~38(新約p.182),讃美歌287、献金、頌栄29、祝祷。 

(イザヤ書61:1~4)主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。


(ヨハネ福音書8:31~38) イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

(説教) 本日の礼拝は、受難節(レント)第2主日の礼拝です。説教題は「キリストが与える真の自由」です。新約聖書は、ヨハネ福音書8章31~38節です。小見出しは「真理はあなたたちを自由にする」です。先週に引き続き、この個所も有名な個所です。

 最初の31~32節「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にととまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』」この東久留米市にある自由学園の自由の言葉も、この32節から取られているものと思います。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」東京・永田町の国立国会図書館の本館のカウンター上に、少し変えて「真理がわれらを自由にする」と日本語とギリシア語で記されています。私も見たことがあります。32節から取ったと思われますが、少し変えられています。国会図書館には「真理がわれらを自由にする」とあり、イエス様は「真理はあなたたちを自由にする」と言われました。

 イエス様の言葉を聞いて、イエス様を信じたユダヤ人たちが言います。このユダヤ人たちは、イエス様に割と好意的なユダヤ人たちです。彼らが疑問を述べます。33節「わたしたちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」ユダヤ人(イスラエル人)は、旧約聖書の時代にはエジプトで奴隷生活を長く送り、神様の愛によって解放されました。そして紀元前6世紀にはバビロン捕囚といって、多くのイスラエル人たちがバビロンに連行され、バビロン捕囚は約半世紀も続きました。その意味では奴隷になったことがある民族ですが、イエス様に質問しているユダヤ人たちには、奴隷になった経験がないということを言っているのでしょう。

 イエス様がお答えになります。34節「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」これで分かりました。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷。」生まれつきの人間は皆、罪人(つみびと)です。私たちが生まれつき持っている罪を、キリスト教で「原罪」と呼びます。原罪という言葉そのものは聖書にありません。
しかし聖書は、私たち人間が生まれつき罪人(つみびと)であると言っています。その罪のことを、キリスト教会が「原罪」と名付けました。私たちは皆、全然罪を犯さないで生きることができないのです。私たちも皆、毎日、少しずつ罪を犯しながら生きて来たのです。罪への誘惑に少しずつ毎日負けながら、生きて来ました。この状態を罪の奴隷状態と呼びます。

 宗教改革の時代16世紀のはじめに、メランヒトンという人文主義者(ヒューマニズム・人間中心主義を主張する人)が『自由意志論』という本を書いたそうです。これはおそらく、「人間には善き自由意志があり、自分の努力で神様の御心に適う善いことを行うことができる」という主張、人間を楽観的に見る主張だろうと思います。宗教改革者マルティン・ルターはこれに反対し、『奴隷意志論』という正反対の題の本を書きました。人間の意志は常に罪に汚れていて、自由に純粋な愛や善いことを行うことができない。人間の意志は罪に負けていて、罪の奴隷状態となっているという主張です。つまり人間の意志は、いつもそこに罪が入り込んでいて、100%純粋な愛を行うことができないという主張、人間の意志には原罪が入り込んでいるという主張です。ルターの主張の方が聖書に即しています。

 私と妻に洗礼を授けて下さった牧師は、「キリスト教の最後の敵はヒューマニズムだ」と言っておられました。ヒューマニズムは一見善いものに見えるのですが、人間が皆罪人(つみびと)であるという事実を見逃しています。ヒューマニズムで生きる人は、人間を原罪なき善い者と見るので、イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しは必要ないと思ってしまいます。しかし聖書を教えを信じる人は、人間は皆罪人(つみびと)であり、イエス様の十字架による罪の赦しを受けないと救われないと信じます。私たちの身の周りには多くの親切な人々がおられます。その方々をヒューマニストとお呼びしてよいと思います。私たちはそれらの人々に大変お世話になっていますから、感謝するべきと思います。ですが、できることならヒューマニストから一歩進んで、イエス様を信じるクリスチャンになっていただきたいと、心より願います。ルターの言う通り、生まれつきのわたしたちの意志は、残念ながら罪の奴隷です。イエス様はその私たちを、罪の奴隷状態から解放し救って下さり、真の自由を与えてくださいます。十字架と復活によってです。
 
 イエス様が言われます。35~36節「奴隷は家にいつまでもいるわけには行かないが、子はいつまでもいる。」旧約聖書の時代イスラエルにおいて、奴隷は一定期間過ぎると自由の身になり、主人の家を出ることを言っているようです。しかし主人の子は原則その家に留まるようです。「子はいつまでもいる」、ここでの意味は、「神様の子は、いつまでも神様の家(天国)にいる」ということと思います。イエス様は神の子なので、いつも神の家(天国)におられます。私たちは罪の奴隷である限り、天国に入ることができませんが、イエス様は私たちを、罪の奴隷状態から解放して、真の自由を与えて神様の子どもたちにして下さいます。そして私たちが、いつまでも天国にいることができるようにして下さいます。36節「だから、もし子(イエス様ご自身)があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

 イエス様が与えて下さる真の自由。それについて語る前に、37~38節を見ておきます。ユダヤ人たちへのイエス様の言葉です。「あなたたちがアブラハムの子孫だということは分かっている(アブラハムはユダヤ人たちの偉大な先祖)。だが、あなたたちは私を殺そうとしている。私の言葉を受け入れないからである。私は父(父なる神様)のもと(天国)で見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」ユダヤ人たちの父は悪魔だと、イエス様は先の44節で語っておられます。真の神の子であるイエス様の言葉を拒否し、イエス様を憎んで殺そうとしているユダヤ人たちは、悪魔に従い、悪魔の奴隷となっていると、イエス様はおっしゃいます。悪魔の奴隷になっているから自由を失った者、真に不自由な者だと言っておられます。その通りです。しかし36節にあるように、「もし子が(神の子イエス様が)あなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」のです。私たちがイエス様の御言葉を受け入れ、イエス様の十字架と復活が「私のためであった」と信じるとき、私たちは真の意味で自由にされてゆきます。

 イエス様の十字架が、私たちをどのように自由にして下さるのか、ローマの信徒への手紙8章1~2節に記されています。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません。キリスト・イエスによって命(永遠の命)をもたらす霊の法則(聖霊の法則)が、罪と死との法則からあなたを解放した(自由にした)からです。」イエス様が私たちの、本当に全部の罪の責任を身代わりに背負って十字架で死なれました。ですからイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、本当に全部の罪が赦され、神の子にならせていただけます。罪に支配された状態、罪の奴隷だった状態から、罪の奴隷でない状態へと解放されたのです。

 私たちは神様の律法(その代表はモーセの十戒)を読むと、「ああ、自分はこれをどれ1つ完全に実行できない罪人(つみびと)だ」という暗い気持ちになるのですが、全部の罪が赦されたために、律法を読んでも暗い気持ちにならないですむようになり、律法の支配からも解放されました。罪を犯させようと誘惑をするのは悪魔ですから、罪を完全に赦された私たちは、悪魔の支配下からも解放されました。私たちは罪を犯せば、聖なる神様の裁きを受け、その結果が死です。罪の支配から解放された私たちは、神様の裁き、そして死から解放され、自由にされたのです。以上をまとめると、イエス様の十字架と復活のお陰で、私たちは次の5つの支配から解放され、自由にされたのです。「罪、律法、悪魔、神の裁き、死」の5つから解放され、自由にされたのです。イザヤ書61章1節に「捕らわれ人には自由を」とありますが、私たちは「罪、律法、悪魔、神の裁き、死」に捕らわれ支配されていた状態から、今既に解放されています。イエス様の十字架の死と復活のお陰で。

 そして自由にされた後の生き方が、大切です。神様の清き霊である聖霊によって清められ、父なる神様を愛して礼拝し、自分と隣人を愛して歩むのです。愛する以上、人に罪を犯すはずがありません。もし罪を犯せば、悔い改めます。罪の支配に逆戻りすることはしません。聖書を読み、聖霊に満たされ、感謝と喜びをもって、自由意志で神様と自分と隣人を愛しながら生きてゆきます。ひたすらイエス様の真似をする生き方です。イエス様のように、敵をも愛そうと心がけます。

 今日の説教題は、「キリストが与える真の自由」です。イエス様こそ真理そのものの方、完全に自由な方です。理屈よりも、イエス様ご自身が生きた真理であり、完全に自由な方です。自由に生きるとは、色々な恨みやわだかまりに支配されないで、愛を行って生きることです。ヨハネ福音書は、私たち皆の全部の罪を背負うために、自由意志で進んで十字架に向かう、勇敢な神の子イエス様の姿を描きます。19章17節に、こう書かれています。「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。」「自ら十字架を背負い」です。完全に自由な方ですから、父なる神様のご意志に自由意志で進んで従い、私たちを愛するために十字架に向かわれ、十字架で死なれました。そして三日目に復活の勝利を与えられたのです。イエス様こそ、完璧に自由な方です。愛のゆえに進んでご自分の命を差し出されたのです。ふつう私たちが自由というと、「好きにできる」、ひどい場合は自分勝手にすることを自由と呼びます。それは本当は自己中心の罪の奴隷になった不自由な状態です。イエス様が与える真の自由は、自己中心の罪を捨てて、神様と隣人を愛する生き方です。自分をも正しく愛します(エゴイズムはだめですが)。聖霊に助けられ、私たちはこの方向を目指して生きます。

 先週の説教でお話した矢嶋楫子さん(1833~1925)は、女子学院という著名なミッションスクールの院長をなさった方です。この方のなさったことで有名なことは、校則をなくされたことと聞きます。三浦綾子さん著の『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』にうよると、明治十年代、どこの女学校も厳しい校則で生徒を縛り付けていました。学校側とすれば、各家庭の大切なお嬢さんを預かっている以上、どうしてもそうなったのでしょう。「男女の交際もまた厳禁された。当時14、5歳ともなれば、結婚する娘も珍しくなかったから、生徒たちも自然早熟であった。どの学校も男女関係の乱れに神経を使っていた。その結果の校則であった」と三浦さんが書いています。生徒の多くが寄宿舎に住んでいたのですね。「外出は月に一度なること。門限は7時を厳守すること。髪飾りはつけぬこと。その他、履物、小遣い銭の額に至るまで」定められていました。

 矢嶋楫子先生は、真に大胆にもこのような校則を取り払ったそうです。教師や保護者には反対する人々もおり、無謀だという声も出ました。そうだろうと思います。矢嶋先生の生徒たちへの言葉は、「あなた方は聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」でした。ただ自由放任したのではないのですね。規則で自分を縛るのではなく、神様の御言葉・神様の御心に従いなさい。「聖書をよく読めば、自分でそれができるはず。自由をはき違えるのではなく、聖書をよく読んで神様のご意志を知り、神様の御心に従って、自分で判断しなさい」ということでしょう。「生徒が自由意志で進んで神様の御心に従うに違いない、問題を起こすはずがない、生徒が裏切るはずがない」と生徒を信頼し、生徒を大人扱いしたのですね。実に大胆で、勇敢な決断だと感嘆します。問題が起これば、院長の責任が問われるでしょうから。生徒たちが信頼に応えたのでしょう。もちろん矢嶋先生は、生徒一人一人のために、熱心に祈ったに違いありません。「矢嶋先生の教育方針は一世紀近くも進んでいた」というのが、教え子の方々の証言だそうです。現代でも、このような方針を打ち出すのは簡単ではないと思います。生徒たちが聖書をよく読んで、しかも理解しているという確信がないと、これはなかなかできないと感じます。「キリスト者の自由」という言葉がありますが、「キリスト者の自由」は、罪を犯す自由ではなく、自発的に神様と隣人を愛し、常に神と人の前に自分の責任を、自発的に喜んで果たして生きる自由だと、示されます。

 自由。私たちは悲しみや憎しみに支配され、そこからなかなか自由になれないこともあると思います。キム・フックさんという女性が、時々新聞で紹介されます。ベトナム戦争のときにナパーム弾で火傷を負い、燃える服を脱ぎ捨てて泣きながら逃げた、当時9才だった方です。通信社の記者が写真を撮り、記者は少女をすぐに病院に運びました。写真が世界中に配信されて有名になり、反戦運動が高まりました。フックさんは17回の手術を受けたそうです。ベトナム政府によって反米の象徴として利用されたとも感じたそうです。撮られて有名な写真も嫌でした。「戦争を起こした人たちや、自分を利用するベトナム政府の役人など全てに対して恨みや苦い気持ちに包まれ、心はどろどろのコーヒーでいっぱいのような状態でした。精神的な苦痛は、身体の痛みよりも大変で、押しつぶされそうでした。」その気持ちが変わり始めたのは、19歳の1982年に新約聖書と出会ったことだったと言います。「最初は聖書の『汝の敵を愛せよ』の言葉をちっとも理解できなかった。」1992年に留学先のキューバでベトナム人と結婚。新婚旅行先のモスクワから戻る途中、カナダに亡命。自由な空気を吸い、二人の息子を産み育て、「私の心からゆっくりと、真っ黒なものが吐き出されていった。」最近は講演で語ります。「本当にとても難しいけれど、自分自身が自由になるためにゆるすことを学んだ。皆さん、ゆるしは選べます。」 

 嫌だった自分が撮られた写真も、「今は、子どもたちが戦争で苦しむ歴史の瞬間を写真で記録してくれたことに感謝しています。この写真を平和のために用い、もう戦争はたくさんだと人々に知らしめ、子どもたちのために人生を献げようと、戦争や紛争で傷ついた子どもたちを助ける財団を立ち上げ、アジアや中東、アフリカなどを回り、経験を共有しました。」「私はゆるすことで乗り越え、精神的に救われ、癒されていきました。その境地になれてよかった、と感謝しています。」

 長い時間をかけてのゆるしのプロセス。聖書を読み、祈り、聖霊に助けられ、真の自由に導かれて来られたように思えます。イエス・キリストが十字架で死んで下さり、私たちを罪や律法や死の支配から解放し、自由して下さり、救って下さいました。イエス様を信じる者は救われています。その恵みを深く味わう聖餐をいただきます。これからはよく祈って聖霊に助けられ、イエス様の背中を追いかけて、少しずつでもイエス様のように神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛し、敵までも愛する生き方に進みたい、と願います。アーメン。

2023-03-01 13:49:08(水)
2月に記した伝道メッセージ(市内の保育園の『おたより』に掲載していただいた文章)石田真一郎
「私(イエス・キリスト)は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」(新約聖書・ヨハネの黙示録3章20節)。

 先日のクリスマスで私にとっての大きなプレゼントは、洗礼を受ける方が現れたことです。90代前半の女性で、娘さんがクリスチャンで、ご本人と娘さんの希望によって洗礼を受け、神様から全ての罪(犯罪ではない)をゆるされてクリスチャンとなり、永遠の命を受けられました。ホームにおられるので、教会ではなくホームの居室で洗礼を授けさせていただきました。洗礼を受けるには、イエス・キリストを自分の救い主と信じ告白し、聖書の重要部分を学ぶ必要があります。年齢ゆえの困難がありましたが、神様の恵みがありました。子どもの頃、教会の日曜学校に通い、讃美歌「主(しゅ)我を愛す」を歌うことができるのです。これは、保育園の礼拝でも歌っています。

「① 主(イエス様)我を愛す、主は強ければ/ 我弱くとも、恐れはあらじ/(くり返し)わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、我を愛す
②わが罪のため、栄えを捨てて/ 天(あめ)よりくだり、十字架につけり、(くり返し)③み国(=天国)の門(かど)を、開きて我を/ 招きたまえり、勇みて昇らん、(くり返④わが君イエスよ、我を清めて/ 良き働きを、なさしめたまえ、(くり返し)。」

 アメリカで作られ、日本でも明治時代から歌われているこの讃美歌は、決して子ども用の讃美歌ではありません。イエス・キリストの働きの重要部分を明確に歌っているのです(但し日本語の歌詞は短縮されているので、7番まである英語の歌詞を見るのがベスト)。私は歌詞の内容をその女性にじっくりお話ししました。うなずいて「信じます。洗礼を受けたいです」と明確に言われたので、教会の役員会の了解を得て、洗礼式を行いました。コロナの中で、特別に入室を許可して下さったホームに感謝致します。

 今も生きて働くイエス様は、私たちの心のドアをノックしておられます。「私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」(上記)。このドアのノブは内側にだけついていて、外から開けることができません。皆様もぜひ、心のドアを開いて、救い主イエス様を招き入れて下さい。ぜひ洗礼を受けてクリスチャンになって下さい。それは私よりも、イエス様の父なる神様の切なる願いなのです。アーメン(真実に)。

2023-03-01 13:42:27(水)
1月に記した伝道メッセージ(市内の保育園の「おたより」に掲載していただいた文章)石田真一郎
「地には平和、御心に適(かな)う人にあれ」(新約聖書・ルカによる福音書2章14節=クリスマスの場面)。

 クリスマスは、世界の真の救い主イエス・キリストの誕生を祝い、平和を祈るときです。 平和と聞くと、私は2才下の弟の小中学校時代の友達・平和君を思い出します。珍しいお名前と感じました。男の子の名前で多かったのは健一君、隆君などだった約40年前です。平和君は一家でキリスト教会に通っていました。名前は、新約聖書のイエス様の言葉からとられたと思います。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイによる福音書5章9節)。イエス様と音楽を愛するご一家でした。私の家によく遊びに来てくれ、私の弟もよく平和君の家に遊びに行っていました。平和君は頬がりんごのように真っ赤な、本当にかわいい男の子でした。暫くして知ったのは、心臓に病気があるために頬が赤いということです。それ以外は、全くふつうの男の子でした。悲しいことに、平和君は高校生の時に、天国に帰りました。神様に特に愛されていたので、早く天国に呼ばれたのではないかと思います。平和という言葉を聞くと、私は今でも平和君を思い出します。

 ヨーロッパを制圧しようとしたナポレオンというフランスの皇帝・軍人がいました(1769~1821年)。晩年は権力を失い、セントヘレナ島(アフリカ南部の西方)に幽閉されました。彼は最後に罪を悔い改めて、遺書にこう書いたそうです。「私はキリストを信じると大声で告白できなかった。私はキリストを信じる。私は、今セントヘレナ島につながれている。一体誰が、今日私のために戦って死んでくれるだろうか。昨日のわが友はいずこへ。ローマの皇帝カイザルもアレクサンダー大王も忘れられた。私も同じ。これが大ナポレオンとあがめられた私の最期だ。イエス・キリストは今も愛され、礼拝され、イエス・キリストへの信仰と献身は全世界を包んでいる。私は、力の上に帝国を築こうとして失敗した。イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている。」しかもイエス様の愛の国は前進しています。ナポレオンは「私はイエス・キリストに負けた」と言っていると感じます。平和君とナポレオンのどちらがイエス様に近く、真に幸福か。もちろん平和君です。アーメン(真実に)。