日本キリスト教団 東久留米教会

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2022-12-24 14:41:52(土)
「天からの喜び」 2022年12月24(日)クリスマスイヴペンライト礼拝 説教
聖書 ミカ書5:1~5、マタイによる福音書1:18~25、マタイによる福音書2:1~12。 

(ミカ書5:1~5) エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。アッシリアが我々の国を襲い/我々の城郭を踏みにじろうとしても/我々は彼らに立ち向かい/七人の牧者、八人の君主を立てる。彼らは剣をもってアッシリアの国を/抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す。アッシリアが我々の国土を襲い/我々の領土を踏みにじろうとしても/彼らが我々を救ってくれる。

(マタイによる福音書) イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

(説教) クリスマスおめでとうございます。本日の新約聖書は、マタイによる福音1章18節~2章12節です。2章1節から読んでみます。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』これを聞いて、へロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」

 イエス様がお生まれになった時にユダヤ(イスラエル)を支配していたへロデ王(へロデ大王)は、猜疑心(人を疑う心)の強い人でした。自分の王の位を奪われるのではないかと疑って、自分の息子まで殺したそうです。ユダヤ人(神の民イスラエル)の真の王がお生まれになったと聞いて、へロデ王は動揺し、彼の心は不安と恐れでいっぱいになりました。へロデの心には、その王への殺意が明らかに芽生えています。

 日本にも同じような権力者がいました。たとえば豊臣秀吉です。確か彼が九州に行った時、あるキリシタンの女性を側室の一人にしようとしました。ところが彼女がそれを拒否します。当たり前です。秀吉は激怒したようです。秀吉に従わず、真の神様に従うキリシタンを、秀吉は許せないと思い始めます。キリスト教を警戒するようになりました。秀吉よりも神に従うキリシタン。秀吉から見れば危険な教えでした。このようなことがあり、秀吉はバテレン(宣教師)追放令を出します。この追放令はあまり徹底できなかったようですが、赤ちゃんイエス様を殺そうとしたヘロデ王と、キリスト教を禁じようとした豊臣秀吉の心に、共通のものを感じます。

 4~6節「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

 メシア(救い主)がどこに誕生するかは、旧約聖書のミカ書に書かれています。誕生の場所はベツレヘムだと預言されています。ミカ書5章1節に、次のように書かれています。「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者(マタイによる福音書は「いちばん小さいものではない」と変えています)。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」3節には、こう書かれています。「彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。」「彼(メシア・救い主)は立って、群れを養う。」メシアは羊飼いなのですね。良い羊飼いです。イエス様はヨハネ福音書10章で、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃいました。イエス様は、群れを養う良い羊飼いです。「今や、彼(メシア・救い主)は大いなるものとなり、その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。」平和は、旧約聖書の元の言葉ヘブライ語でシャロームです。「彼(イエス・キリスト)こそ、まさしく平和(シャローム)である。」彼はベツレヘムに誕生する。シャロームは、ただ戦争や争いがないということにとどまりません。もっと積極的で、本当の愛と本当の平和と本当の正義に満ち溢れ、完全に充実しきった状態がシャロームです。 「H君。神に特に愛され、早く天に召された。」

 マタイによる福音書に戻り、7~10節そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。これは天からの喜び、天国の聖なる喜びです。聖霊が与える喜びと思います。学者たちは聖霊に満たされたと思うのです。新約聖書のガラテヤの信徒への手紙5章には、聖霊の結ぶ実として「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」と書かれています。学者たちも聖霊による愛、喜び、平和、寛容等に満たされていたと思います。私に洗礼を授けて下さった牧師の息子さんのお名前の一文字に「喜」の漢字が入っています。私はその頃(約30年前)、「喜」という漢字の入ったお名前をあまり見たことがなかったので、少し不思議な思いをもちました。次第に思ったのは、「ああそうか、キリスト信仰は喜びなんだ」ということです。イエス様を信じる信仰は、聖なる喜びの信仰。「なるほど、そうなのだな」と思い至りました。

 ルカ福音書10章21節以下にこうあります。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』~それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなた方の見ているもの(イエス様)を見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなた方が見ているもの(イエス様)を見たかったが、見ることができず、あなた方が聞いているもの(イエス様の御言葉)を聞きたかったが、聞けなかったのである。』」ですから占星術の学者たちは、遂に赤ちゃんイエス様にお目にかかることができたので、非常に幸せなのです。救い主に会いたいと切望しながらも、できなかったのは旧約聖書の偉大な預言者たち(イザヤ、エレミヤ)です。この無名の学者たちは幸せなのです。私たちもイエス様を信じる心を与えられているので幸いなのです。イエス様の御言葉を聞くことができなかった旧約聖書の偉大な預言者たちから見て、私たちは非常にうらやましがられる一人一人なのです。

 11節「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」学者たちはひれ伏して、イエス様を拝み礼拝しました。私たちも赤ちゃんイエス様の前にひれ伏し、喜んで礼拝致します。学者たちは、自分たちの宝を喜んでイエス様に献げました。私たちもこのように、イエス様に身を献げて生きたいのです。

 没薬は、イエス様の十字架後の場面に出てきます。ヨハネ福音書19章38~39節です。アリマタヤ出身のヨセフ(イエス様の育ての父ヨセフと別人)が十字架からイエス様の遺体を取り降ろします。そこへイエス様の知人ニコデモが、「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。」没薬は遺体の処置にも用いる一種の薬剤でもあるようです。その意味で、学者たちの献げ物に没薬があったことは、イエス様が私たちの罪のために十字架に架かって下さることを、既にクリスマスの場面が示しています。イエス様の誕生を祝う劇をページェントと呼びますが、あるページェントでは、マリアさんが献げ物に没薬があるのを見て、イエス様の将来の受難を直感し、ひそかに涙する場面があるそうです。

 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」私たちもヘロデ王ではなく、真の王イエス様にお仕え致します。ナポレオンというフランスの権力者がいましたが、晩年は権力を失い、セントヘレナ島という島に流罪になりました。ナポレオンは最後に罪を悔い改めた形跡があります。彼は遺書にこう告白しているそうです。「私は大胆に、キリストを信じますと大声で告白できなかった。そうだ、私は自分がクリスチャンだと告白すべきだった。私はキリストを信じる。私は、今セントヘレナの島につながれている。一体誰が、今日私のために戦って死んでくれるだろうか。昨日のわが友はいずこへ。ローマの皇帝カイザルもアレクサンダー大王も忘れられてしまった。私も同じ。これが、大ナポレオンとあがめられた私の最後だ。イエス・キリストは愛され、礼拝され、イエス・キリストへの信仰と献身は、全世界を包んでいる。これを死んでしまったキリストと呼ぶことができようか(できない)。私ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている。」これがナポレオンの遺書だそうです。「私は力の上に帝国を築こうとして失敗した。イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている。」プーチンの野望も挫折しますが、イエス・キリストの愛の国は、今も世界と日本で拡大しています。私たちも生涯、このイエス様を喜んで礼拝し、イエス様にお仕えして参りましょう。クリスマスおめでとうございます。アーメン。

2022-12-20 17:28:24(火)
12月の伝道メッセージ 石田真一郎(市内の保育園の「おたより」に記した文章)
「隣人を自分のように愛しなさい」(新約聖書・マタイ福音書22章39節)。

 沢田美喜さん(1901~1980)というクリスチャンがおられました(栗栖ひろみ著『沢田美喜』より)。財閥の岩崎家のお嬢さんだったため批判も受けましたが、よい働きをなさった方と思います。子どもの頃、聖書のイエス・キリストの言葉を聴いて、感銘を受けました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」戦前に外交官と結婚しブエノスア
イレス、北京、ロンドン、ニューヨークで生活しました。ロンドンでは孤児院(今は差別語かもしれません)を見て、その明るさに驚きます。当時の日本では暗い印象の場所だったからです。子どもたちは讃美歌を歌っていました。「うれしい朝よ、空は青く/光あかるく、照りわたるよ/この清い日に、この良い日に/みんなで神様、たたえましょう。」自分も日本でこのようなホームを造りたい。神様にそう祈り始めました。

 日本が敗戦し、進駐軍(主体は米軍)が入って来ました。責任感のない軍人もいました。日本人女性との間に子どもが生まれても、責任をとらない人々です。とんでもないことに、捨てられる赤ちゃんも多くいました。神奈川県大磯にあった実家の岩崎家の別荘が進駐軍に接収されたので、美喜さんは買い戻すことからホーム造りを始めます。資金集めに奔走し、友人やアメリカの教会に昼夜手紙を書き、援助を依頼します。彼女の働きを、世間はなかなか認めません。受け入れる子どもたちが、日本人と米兵の血を引いていたので、差別されました。今なら2つの国の血を引く子どもたちは「ダブル」と呼ばれ、2つの文化を受け継ぐ恵まれた人と思われるのですが。子どもたちはどんどん増え、保育者も雇う必要があります。最初の寄付がエリザベス・サンダースさんというイギリス女性から届き、ホームを「エリザベス・サンダース・ホーム」と命名。進駐軍はホームに冷淡でした。米軍人の無責任が知れ渡るからです。

 戦後の貧しい時代、不十分な部分もありました。百日咳の大流行で、7人の子どもたちが亡くなる不幸もありました。誰も遺骨を引き取りに来ませんでした。美喜さんは進駐軍を批判しましたが、アメリカに行って、子どもたちがアメリカの家庭でも養子になれるようにも奔走しました。多くの困難を、神様に祈って1つ1つ越えました。30年間で、このホームで約2000人の子どもたちが養育され、教育され、社会に送り出されました。私たちも、地域の子どもたちが日本とアジアと世界に平和と友情をもたらす人に成長するように祈りたいと思います。アーメン(真実に)。

2022-12-17 21:16:21(土)
「神があなたと共におられる」 2022年12月18(日)待降節第4主日礼拝 説教
順序:招詞 フィリピ2:6~9,頌栄29、主の祈り,使徒信条、讃美歌21・156、聖書 サムエル記・下7:12~19(旧約p.490)、ルカによる福音書1:26~38(新約p.100)、讃美歌175、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(サムエル記・下7:12~19) あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」ナタンはこれらの言葉をすべてそのまま、この幻のとおりにダビデに告げた。
ダビデ王は主の御前に出て座し、次のように言った。「主なる神よ、何故わたしを、わたしの家などを、ここまでお導きくださったのですか。主なる神よ、御目には、それもまた小さな事にすぎません。また、あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。主なる神よ、このようなことが人間の定めとしてありえましょうか。

(ルカによる福音書1:26~38) 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。


(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第4主日の礼拝です。本日の説教題は「神があなたと共におられる」です。新約聖書は、ルカによる福音書1章26~38節です。本日の個所の小見出しは、「イエスの誕生が予告される」です。

 最初の26~27節「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。おとめの名はマリアと言った。」救い主イエス・キリストはベツレヘムでお生まれになりましたが、お育ちになったのはマリアとヨセフが住んでいたナザレです。それで「ナザレのイエス」と呼ばれたようです。神様から遣わされた天使ガブリエルは、ナザレにいた少女マリアのもとに来ました。ナザレという町の名は、旧約聖書には一回も登場しません。イエス様の時代には、それなりに人口も多かったらしいですが、旧約聖書にはナザレの地名は一回も出てきません。その意味では、無名に等しい町だったのではないかと思います。その無名の町ナザレに住む無名の少女(マリアという名はありますが)、15才くらいの無名の少女を、神様が世界の救い主の母として選ばれたということは、私たち人間の側からすると意外で、神様が人間たちの意表を衝いたとも言えるのではないかと思います。なぜなら、とかく私たち人間の世界では有名であることが価値をもつとされるからです。

 もっと言うと、そのナザレがあるガリラヤも、旧約聖書では軽く見られています。イスラエルの有名な王ソロモンが、20年を費やして神殿と王の宮殿を建て終わったとき、協力してくれた近くのティルスの王ヒラムにお礼としてガリラヤ地方の20の町をプレゼントしたとき、この町々はヒラムの気に入らなかったので、ヒラムはソロモンに、「あなたが下さったこの町々は一体何ですか」と文句を言ったと書かれています。それでこの町々は「カブルの町」(値打ちのない地)と呼ばれたとも書かれていて、ガリラヤが軽んじられていたことが分かります。クリスマスの時期によく読まれるイザヤ書8章23節にも「異邦人のガリラヤ」と書かれています。神に選ばれた民イスラエルではなく、異邦人(外国人、旧約聖書では救いから遠い外国人)の地、汚れた地がガリラヤだというのです。しかしここにはこう書いてあります。「異邦人のガリラヤは栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」つまり、異邦人のガリラヤは闇の中の地、死の陰の地だったが、そこにこそ神様の光が輝くというメッセージが語られています。このメッセージが実現する時が来ました。そのガリラヤのナザレに住む、無名の貧しい少女マリアを神様が敢えて選んで、神の子の母となる恵みをお与えになったのです。神様は、いと小さき者、貧しい者、弱い者を敢えて選んで愛して下さいます。

 ルカ1章に戻り、28~29節。「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」 「おめでとう」は、直訳では「喜べ、喜びなさい」です。「マリア、あなたは神様の恵みを受けた人です。主(神様)が共におられます」と天使ガブリエルは言ったのです。「喜びなさい」と聞くと、私たちはフィリピの信徒への手紙4章4節を思い出すのではないでしょうか。イエス様の弟子・使徒パウロの言葉です。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。~主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

 少女マリアは、天使からの突然のメッセージに驚き、一体この挨拶は何のことかと考え込みました。ここにマリアの優れた資質、物事を深く考えようとする資質が出ていると思います。すると天使ガブリエルは言います。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」「恐れることはない」とは、「神様を信頼しなさい。神様は決してあなたを裏切らない」ということです。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方(神様)の子と呼ばれる。神である主は、彼に父(先祖)ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家(イスラエルの民)を治め、その支配は終わることがない。」あなたは神の子の母親になると言うのです。マリアが考えたこともないことで、受けとめきれないのが当たり前です。

 34節「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方(神)の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは、何一つない。』38節に、マリアの有名な返事が書かれています。「『私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』そこで天使去って行った。」マリアの返事は、口語訳聖書でも全く同じです。「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」一番新しい翻訳である聖書協会共同訳では、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」です。「はしため」は原語で「女奴隷」という言葉です。それをこれまでは「私は主のはしため」と訳してきたのですね。「はしため」でも差別的な言葉だという意見が出たのでしょうか、一番新しい訳では「仕え女」となりました。女奴隷、奴隷を「僕(しもべ)」と訳すことも可能です。神様に喜んでお仕えする僕です。

 マリアだけでなく、私たちは神様の僕です。マリアさんも自らを女奴隷、僕と呼び、マリアから生まれたイエス様も僕として生きて下さいました。クリスマスはそれを改めて思い出す時ですし、クリスマスだけでなく一年中私たちは、イエス様が僕として生きて下さったことを思い続けます。今月の礼拝の招詞が、そのことを語ります。フィリピの信徒への手紙2章6節以下です。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい方であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」これは当時の讃美歌の一節ではないかとも言われます。これを書いたパウロは、「互いにこのことを心がけなさい」とも書いています。お互いに僕として仕え合いなさいということです。

 私に洗礼を授けて下さった牧師が祈祷会などでしばしばご自分のことを「この僕は」、「この僕を」と祈っておられたのを思い出すことがあります。私にとっては「このように祈るものなのか」という勉強になりました。「私は神様の僕だ」といつも意識して自分に言い聞かせないと、時々忘れる恐れがあります。ある大きな教会の方に聞いたのですが、その教会のテーマは「僕(しもべ)」であるそうです。教会員が多くて、建物も大きいと、ついつい誇る気持ちになるでしょうから、戒めを込めてではないでしょうか、教会のテーマは「僕(しもべ)」、自分たちはイエス様の僕だということを意識しようとしておられるのだと思います。東久留米教会では、前の会堂の時、礼拝前に祈祷会を行っていました。2~3人ずつに分かれて、礼拝前の祈りをするのです。最初の頃、浅野先生と何回かご一緒に祈ったことがあります。浅野先生は、いつもベンチの上に上がって正座してお祈りなさるのです。いかにも「主の僕(しもべ)」の姿です。以上のことを思うにつけ、私ども一人一人も神様の僕、イエス様の僕であることを、心に刻みたいのです。

 マリアは、「私は主のはしためだから、その導きに身をゆだねよう」と決心しました。神様は私を愛して下さるのだから、悪いことをなさるはずがない、と信頼して自分の全てを神様に委ねることにしました。ここにあるいのは深くて全面的な信頼、神様への信頼です。楽しいことばかりでなく、辛いこともあるかもしれないが、神様が悪いことを行われることは、100%ない。そう信頼しきったマリアは、聖霊に満たされたのだと思います。マリアは神様を讃美する歌を歌います。それが次のページに記されている有名な「マリアの賛歌」です。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしため(女奴隷)にも目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう。力ある方が、私に偉大なことをなさいましたから。」神の子の母となるために選ばれたことは、無名の少女マリアにとって、たとえようもなく光栄なことです。

 天使ガブリエルは最初の方で言いました。「マリア、恐れることはない、あなたは神から恵みをいただいた。」恵みは、原語で「カリス」です。カトリック教会では、聖餐式のぶどう酒を入れる杯をカリス(恵み)と呼びます。その杯に、神様の恵みは充満しているからでしょう。マリアは、神の子の母となる恵みをいただいたのです。この恵みは、厳粛な恵みとも言えます。フィリピの信徒への手紙1章29節に、このような御言葉があります。「あなた方には、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」マリアの子イエス様は、私たち皆の全部の罪を背負って、十字架にかかられるのです。マリアは、それを見届けることになります。これは誰でも耐えられることではありません。マリアの信仰なら、何とか耐えられる。神様にそう見込まれて、マリアがイエス様の母として選ばれたと思うのです。イエス・キリストは、父なる神様にとっても愛する独り子なのですから、イエス様の十字架の死は、父なる神様にとっても辛いことだったに違いありません。マリアの信仰の人生は、父なる神様と苦楽を共にする信仰の人生になります。マリアは、神様を全面的に信頼して、わが身を神様に委ねる決心をしました。それで「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言い切ったのです。見上げた信仰というほか、ありません。

 東久留米教会は、神様の恵みをいただき先週の水曜日に、ホームにお住いの婦人の洗礼式を執り行いました。洗礼式は、神様の恵みの永遠の命と神様の恵みの聖霊が、洗礼を受ける方に注がれる時です。私たちも洗礼を受けた時、マリアと同じ決心をして、神様を信頼して私たちの人生をお委ねしたと思うのです。「私は主の僕(しもべ)です。お言葉どおり、この身に成りますように。」その時、私たちにも恵みの永遠の命が注がれ、恵みの尊い聖霊が注がれました。ですから、私たちもマリアと共に讃美するのです。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。罪深い、この主の僕にも目を留めて下さったからです。」賛美は、私たち罪人(つみびと)にとって最も謙遜で、ふさわしい行為と言えます。

 本日の旧約聖書は、サムエル記・下7章12節以下。天使がマリアに語ったメッセージと深く関連する箇所。天使は言いました。「神である主は、彼(イエス様)に父(先祖)ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」これはサムエル記・下7章の引用と言えます。そこで預言者ナタンがダビデ王にこう述べています。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠る時、あなたの身から出る子孫(直接にはソロモンを、最終的にはイエス様を指す)に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものにする。この者が私の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。私は彼の父となり、彼は私の子となる。」

 この尊い約束は、約1000年後のイエス様の誕生によって実現したのです。この尊い約束をいただいたダビデ王は、厳粛な思いで神様に祈りました。この謙虚な祈りの姿勢には、マリアの賛歌に通じるものがあると私は思います。「主なる神よ、何故私を、私の家などを、ここまでお導き下さったのですか。主なる神よ、御目には、それもまた小さなことに過ぎません。また、あなたはこの僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。主なる神よ、このようなことが人間の定めとしてあり得ましょうか。」マリアは本当に無名の少女ですが、ダビデもまたいと小さき者であったがゆえに、神様によってイスラエルの王に選ばれたのです。ダビデが将来のイスラエルの王として神様に選ばれたのは、少年時代です。実際に王になったのは30才の時です。サムエルというリーダーが、王を選ぶためにエッサイという人の息子たち八人に会いに行ったのです。最初にエリアブという息子が来るとサムエルは、「この人こそ主が選ばれた者だ」と思いました。しかし神様は、「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」七人の兄弟たちを見ましたが、誰も神に選ばれませんでした。もう一人末息子が残っていました。羊の番をして留守だったのです。この末息子ダビデこそ、神が選んだ人でした。神様は、人間の世界で軽く見られかねないダビデや、15才くらいの無名の少女マリアを、神様のご計画のために大いにお用いになったのです。神様は小さき者、貧しい者とあえて選んで、信仰に富ませて下さいます。それは私たちが誰も、誇らないためです。

 戦後の荒廃した東京の下町で、貧しい子どもたちに尽くした北原怜子(さとこ)
さんという若い女性がいます。忘れられつつあるので、私もこの方の生き方を学びたいのです。(酒井友身著『アリの街のマリア―北原怜子の生涯』女子パウロ会、1999年による。)墨田川のほとりに非常に貧しい廃品回収業者の街、「アリ(蟻)の街」がありました。この名には「とても貧しくても、アリのように仲良く助け合えば、自立できる」という理念が込められていました。20才でカトリックの洗礼を受けた北原さんは求道心に燃え、良家のお嬢さんでしたがこの街に飛び込み、ゼノ修道士と活動します。子どもたちのクリスマス会を行い、勉強を教えました。彼女が愛した聖書の言葉がマリアの言葉「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ福音書1章38節)です。

 しかしある時、人を助けることは傲慢だと指摘されます。「なぜ一緒に苦労を分かち合おうとしないのか」と。その後、街の人々と共にリヤカーを引いて廃品回収を始め、汗とほこりにまみれ、小さい子を風呂に入れます。本当に街の一員になりました。なお残る名誉欲に悩み、ゼノ修道士のアドヴァイスを受けます。「イエス様は『私は道である』と言われた。人は目的地に着くと道を忘れる。それでよい。自分の使命を果たしたら、もうそれにこだわってはいけない。」北原さんは「道になろう」と決心します。「アリの街」の人々を愛して生き、丈夫でなかったため28才で天国に行かれました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15章13節)というイエス様の言葉をも愛しました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」私たちは北原さんほど立派に生きられないかもしれませんが、私たちのために十字架で死なれ、三日目に復活されたイエス様に感謝し、神様の僕として、喜んでイエス様と隣人にお仕えしたいものです。アーメン(真実に)。

2022-12-14 20:48:33(水)
「洗礼者ヨハネ誕生のメッセージ」 2022年12月11(日)待降節第3主日礼拝説教
順序:招詞 フィリピ2:6~9,頌栄24、主の祈り,使徒信条、讃美歌21・236、聖書 民数記6:1~4(旧約p.220)、ルカによる福音書1:5~25(新約p.99)、讃美歌573、献金、頌栄27、祝祷。 

(民数記6:1~4) 主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。男であれ、女であれ、特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、ぶどう酒も濃い酒も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ、干したものであれ食べてはならない。ナジル人である期間中は、ぶどうの木からできるものはすべて、熟さない房も皮も食べてはならない。

(ルカによる福音書1:5~25) ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

(説教) 本日は、待降節(アドヴェント)第3主日の礼拝です。本日の説教題は「洗礼者ヨハネ誕生のメッセージ」です。新約聖書は、ルカによる福音書1章5~25節です。本日の個所の小見出しは、「洗礼者ヨハネの誕生、予告される」です。

 最初の5節「ユダヤの王へロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。」ヘロデはヘロデ大王と言われます。大きな建築物を造るのが好きで、エルサレムの神殿も大きく拡張しました。ザカリアは、その神殿で真の神様にお仕えする祭司です。ザカリアという名前は、「神は思い出して下さった、神は覚えておられた」の意味だそうです。エリサベトは、「神は我らを守るために誓いを立てられた」の意味だそうです。6節「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」二人とも厳密に言えば罪人(つみびと)ですが、日々真面目に一生懸命に、真の神様にお仕えして生きていたのです。7節「しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子供がなく、二人とも既に年をとっていた。」人生50年の時代だったとすると、年をとっていたと言っても二人は50才くらいだったのではないでしょうか。当時としては年をとっていたのでしょう。高齢の夫婦が神様の栄光のために用いられる例は、旧約聖書にもあります。アブラハムとサラの夫婦です。アブラハムとサラよりは若いとは言え、今日の箇所ではザカリアとエリサベトの夫婦が、神の栄光のために用いられます。

 8~9節「さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。」当時、祭司の部族が24あり、祭司は18000人もいたそうです。祭司の24の各部族は、半年ごとに一週間ずつ神殿で、神様に仕えたそうです。仕える祭司はくじで選びました。祭司が非常に多くいたので、一度選ばれると、次からはくじの対象から外されたそうです。つまり一回選ばれると、生涯に一回の大変光栄な奉仕の時だったのです。神様の聖所で香をたく重要な礼拝行為を行います。ザカリアは緊張したでしょう。神様の聖所は、神様がおられる、聖霊がおられる聖なる空間です、ここに入ることができるのは、おそらく自分を聖別した祭司だけです。聖別とは、自分を清く保つことです。聖所に入る前に自分を聖別していないと、聖なる神様に打たれて死ぬ恐れがあります。

 香をたく礼拝については、出エジプト記30章に書かれています。「掟の箱(十戒の二枚の板を納めた箱)の上の贖いの座の前で、私(神様)はあなた(モーセやその兄弟アロンや祭司たちでしょう)と会う。アロンはその祭壇で香草の香をたく。すなわち、毎朝ともし火を整えるとき、また夕暮れに、ともし火をともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香りの献げ物を絶やさぬようにする。あなたたちはその上で規定に反した香や焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、ぶどう酒の献げ物などをささげてはならない。」よい香りの献げ物です。規定に反した間違った献げ物を献げてはいけないので、ザカリアも間違えないように緊張して、懸命に奉仕したと思います。

 10節「香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。」大勢が神に祈っていたので、ザカリアがいた聖所(聖なる部屋)には、清き聖霊が満ちたと思うのです。ザカリアは香をたく礼拝奉仕が終われば、聖所を出る手筈でした。ところがここに、想定外の神様の介入が起こったのです。11~12節「すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。」天使は実在するのですね。聖書で、天使は要所に登場して、神様のご意志を実行します。天使には羽は生えていないかもしれません。天使は神様ではありませんが、聖なる存在です。天使については、ヘブライ人への手紙1章14節に、こう書かれています。「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」と。私たち罪人(つみびと)が、聖なる存在と出会うことは気楽な体験ではありません。聖なる存在との出会いは、私たち罪人(つみびと)の恐れを引き起こします。

 13~14節「天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。』」ヨハネとは、「主は慈しみ深い」の意味だそうです。ザカリアとエリサベトは30年ほど祈って来たのではないでしょうか。神様が30年間に及ぶ祈りに遂に応えて、二人に子どもを授けて下さるのです。これはきっと、天国の喜びの前触れなのです。神の民は何百年も何千年も、神の国が来ることを祈り続けています。「御国を来らせたまえ」と祈り続けています。その祈りもいずれ必ずかなえられます。ですからザカリアとエリサベトの喜びだけでなく、多くの人々の喜びになります。

 15節「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。」救い主イエス・キリストの誕生の前に、神の民イスラエルの多くの人々を、真の神様へ立ち帰らせる重要な使命を、これから誕生する男の子ヨハネは与えられています。ヨハネは新約聖書の登場人物ですが、旧約聖書の時代の最後の預言者と言えます。偉大な人物、聖人と言えます。彼は「ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされてい」ます。「強い酒」を聖書協会共同訳(最新の翻訳)は「麦の酒」と訳しています。原語の研究が進み、「麦の酒」と訳すことが一番正確と分かったそうです。ビールですね。ヨハネはワインもビールも飲まない潔癖な預言者でした。これは旧約聖書に出て来るナジル人に似ています。本日の旧約聖書である民数記6章にナジル人のことが出ています。「主はモーセに仰せになった。『イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。男であれ、女であれ、特別の請願を立てて、主に献身してナジル人となるならば、ぶどう酒も濃い酒(聖書協会共同訳では「麦の酒」)も断ち、ぶどう酒の酢も濃い酒の酢も飲まず、ぶどう液は一切飲んではならない。またぶどうの実は、生であれ、干したものであれ食べてはならない。ナジル人である期間中は、ぶどうの木からできるものはすべて、熟さない房も皮も食べてはならない。』」ナジル人の場合は、自分を特に神様に献げる一定期間、このようにすればよいのですが、洗礼者ヨハネの場合は、一生このように生きたのだと思います。真にヨハネは聖霊に満たされた聖なる人でした。神様に一生懸命奉仕して、非のうちどころがないザカリアとエリサベト夫婦だったからこそ、洗礼者ヨハネの父母として、神様に選ばれたに違いありません。

 17節「彼(ヨハネ)はエリヤ(旧約の預言者)の霊と力で主(救い主イエス様でしょう)に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」ここには、旧約聖書最後の書マラキ書の最後の部分の引用があります。「見よ、私(神)は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」とあります。神の預言者エリヤの再来が洗礼者ヨハネです。マラキ書の預言の通りです。聖書の預言は「言葉を預かる」と書きます。神様の御言葉を忠実に預かって語るのが預言だからです。世間では予言という言葉が使われます。これは単純に「将来のことをあらかじめ語る」の意味です。世間で言う予言は、信用できないものがほとんどと思います。天使は言います。「彼(ヨハネ)はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ。」この父は、父なる神様ではなく、ふつうの人間の父親です。「父の心を子に向けさせ」とは、家庭のと子が和解することを言っています。仲たがいしていた父親と子供も和解し、それが救い主イエス様誕生への準備になると言っています。

 このように天使から喜ばしいメッセージが伝えられましたが、ザカリアはすぐには信じられません。天使に答えます。18節「何によって、私はそれを知ることができるのでしょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています。」ザカリアには信じられなかったのです。これはザカリアの不信仰の罪を見なされました。天使は答えます。「私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。」この天使ガブリエルは、旧約聖書ではダニエル書で、預言者ダニエルの前に登場しています。ダニエルは紀元前6世紀の人ですから、天使ガブリエルは500年以上生きていることになります。ガブリエルはザカリアに厳しい言葉を告げます。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。」

 民衆は、ザカリアが聖所で手間取るのを不思議に思っていました。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができませんでした。そこで人々は、彼が聖所で幻を見たのだと悟りました。神様によって聖霊によって、何か特別な体験を与えられたに違いない。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままでした。やがてザカリアは務めの期間が終わって、自宅に帰りました。その後、妻エリサベトは身ごもり、五ヶ月の間身を隠していました。エリサベトは万感の思いで言いました。「主は今こそ、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去って下さいました。」旧約の時代は、子どもがいないことは恥でした。もちろん新約聖書の時代の今は違います。

 ザカリアは、口で不信仰なことを語る罪を犯したので、神様はザカリアが口を利けないようにされました。ヨハネが生まれるまで約10ヶ月間口が利けませんでした。耳も聞こえなかったようです。1章の後半を見ると、ザカリアは人々の前で字を書く板に「この子の名はヨハネ」と書きました。ガブリエルの言葉「その子をヨハネと名付けなさい」に従ったのです。その時、神様の恵みが彼を満たしました。1章64~66節「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、『いったい、この子はどんな人になるのだろうか』と言った。この子には主の力が及んでいたのである。」

 ザカリアは口の利けない10ヶ月間、神様に一生懸命祈ったに違いありません。まずは悔い改めの祈りです。男の子が生まれるとの神様のメッセージを疑い、信じなかった不信仰の罪を悔い改めて、祈ったに違いありません。そして感謝の祈りです。エリサベトが身ごもったからです。ザカリアは神様の約束、メッセージを信じる人に変わりました。神様は、ザカリアの悔い改めと感謝の祈り、彼の回復した信仰を認めて下さり、再び口が利けるようにして下さいました。ザカリアは聖霊に満たされ、1章68節以下の「ザカリアの預言」を語ったのです。神様を信頼して賛美しています。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角(イエス・キリスト)を、僕ダビデの家から起こされた。」不信仰の罪を悔い改めたザカリアの唇と舌は聖霊によって清められ、ザカリアの唇と舌は、神様を讃美するよき目的のために、用いられるようになりました。

 私たち人間の舌は、本来神様を讃美するため、そして神様に祈り、周りの人々とよきコミュニケーションを行うために、神によって造られました。しかしエバとアダム以来、罪に陥った私・私たちの舌は、罪深い言葉をも発してしまいます。ヤコブの手紙3章の御言葉が思い出されます。「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。~舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。~舌は火です。舌は不義の世界です。~舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を讃美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」

 ベー・チェチョルさんという韓国人のすばらしいテノール歌手がおられるそうです(『奇跡の歌 声を失った天才テノール歌手の復活』いのちのことば社、2009年より)。韓国はキリスト教が盛んで、べーさんも子どもの頃から教会に通いました。べーさんはオペラ歌手としてヨーロッパで活躍したそうです。その絶頂の36才で、声の不調を覚えました。甲状腺がんと診断され、手術で右の声帯の神経を3㎝切除しました。歌手として致命的です。それまでべーさんは神様から離れかけていましたが、神様に立ち帰りひたすら祈りました。「もう一度歌える声を神様が下さるなら、まず最初に神様に賛美を献げます」と約束しました。日本人の友人に相談すると、京都大学に声帯機能回復手術の権威の医者がおられることが分かり、その一色教授の手術を受けました。のどを切開したまま声を出し、声帯を固定する位置をミリ単位で調整する、楽器の調律のような見事な手術だったそうです。手術中、一色教授から「何か歌って下さい」と言われ、思わず「輝く日を仰ぐとき」という讃美歌を歌います。祈りとリハビリに励み、3年後の2008年に舞台に復帰。動かなかった右の横隔膜が、不思議にも少しずつ動くようになったそうです。神様の助けです。

 ベーさんの信仰は深まりました。それまでは歌の才能を、自分の名誉のために使っていた。それは神様の前に間違っていた。歌・音楽の目的は神様を讃美し、人に慰めと喜びを与えること。このことに深き気づき、生き方を根本的に悔い改めました。自分の栄達のためではなく、神様の愛をたたえ、人々に神様の愛を伝えるために歌う歌手になると決心しました。べーさんは、聴く人(特に試練の中にある人)の胸に深く響く歌を歌う、前よりすばらしい歌手に生まれ変わりました。
 
 ザカリアも悔い改め、ザカリアは自分の口を神様を讃美するために、用いるようになりました。ザカリアとエリサベトのその後の人生は、聖書に書かれていません。二人で洗礼者ヨハネを、一生懸命に育てたと思います。そしてきっと、ヨハネが大人になる前に、天に召されたのではないかと思います。二人の人生は、神様の栄光のために奉仕する人生になりました。ザカリアの口も、神様を讃美するために用いられました。私たち一人一人にも、ある程度の健康、能力、お金、時間が与えられています。それは、私たちの所有物ではなく、神様が私たちに預けておられるものです。いずれ神様にお返しします。それら神様からの預かり物を、自分のためだけに用いず、神様の栄光と人様のために用いてこそ、神様が喜んで下さると信じます。私・私どもが日々罪を悔い改めて、神様から預けられている自分の声、手足、時間等を神様のために用いることで、意義ある人生を共に送りたいと願います。アーメン(真実に)。

2022-12-03 18:31:05(土)
「たゆまず善を行いましょう」②2022年12月4(日)待降節第2主日礼拝 
(①から続く) 謙遜な心で、その人が罪を犯していることを丁寧に話し、分かってもらって悔い改めに導きなさい、と言っています。自分も罪人(つみびと)の一人なので、あまり偉そうな態度はとれないのです。これで相手が悔い改めればよいのですが、悔い改めない場合は、少しずつ厳しくなります。

イエス様ご自身がマタイによる福音書18章15節以下で、このような場合にどうすればよいか、教えておられます。「兄弟(信仰の兄弟、クリスチャン)があなたに対して罪を犯したなら、行って一人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる(もう一度共に信仰の道を歩めるようになる)。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。」最後は、教会の正式の罪の問題として取り上げ、役員会でその人を悔い改めに導き、その人が行っている罪をやめさせるようにする。最も厳しい場合は、洗礼を受けた後でも、「その罪を悔い改めて、その罪の行いをやめるまでは聖餐式に与からせない」処置をとることもあり得ます。なぜかと言うと、その人がその罪を犯し続けているなら、聖なる神様の裁きを受けて、天国に入れなくなる可能性があるからです。

それが一番不幸なことなので、一番厳しい場合は、悔い改めたことが確認できるまで聖餐式を受けることを停止し、いわば目を覚まして自分が行っていることは明らかな罪だと自覚してもらい、悔い改めて罪から離れ、天国に入れるように導きことが目的です。厳しいようですが、これが本当の愛です。その人が明らかな罪を犯し続けてやめない場合、天国に入れなくなる恐れがあり、それを放置することは単なる甘やかしで、はっきり咎めてあげることが真の愛です。その第一歩が、パウロが書くように、「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊(聖霊)に導かれて生きているあなた方は、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」です。

 2節「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」これにはいくつかの意味がありそうです。「互いに重荷を担いなさい。」「互いに助け合いなさい」、あるいは「互いの短所・欠点を忍び合いなさい」ということではないでしょうか。そうでないと教会というキリストの体(共同体)は維持できませんね。この大前提は、まずイエス様ご自身が先頭に立って、私たちの罪という最大の重荷を、十字架の上で全部背負って下さったことと思います。
それを思えば、「互いの短所・欠点を忍び合う」ことができないはずがありません。三宅さんという教会員が地上におられた時、ご主人の葬儀を教会で致しました。この教会から火葬場に行く時に、三宅さんは葬儀社が用意したお花で飾った十字架を持って行かれました。後で三宅さんがおっしゃるには「あの十字架がすごく重かった。あれは私たち人間の罪の重さではないかと思う」と。印象に残りました。イエス様が背負った十字架は物理的にも重くて、途中でキレネ人シモンが変わって背負いましたが、でもイエス様が十字架で本当に背負ったのは、私たち全人類の全部の罪ですから、その重さたるや、私たちの想像を絶する重さだったに違いありません。

そのようにイエス様が最大の重荷を背負って下さった。イエス様は今も私たち自身を背負っていて下さるのですから、私たちもイエス様に支えられて、少しは人様の重荷を共に背負わせていただくことができるはずです。人様の重荷を全て背負うことはできなくても、どこか小さな一部は背負うことができるのではないでしょうか。イエス様の、マタイ福音書11章28節の御言葉を思い出しながら、そうしたいと思います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私の元に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすればあなた方は安らぎが得られる。私の軛(くびき)は負いやすく、私の荷は軽いからである。」軛とは、二頭の牛などの首を上からつなぐ木の道具で、これにより二頭を並べて力強く効率的に土を耕させることができます。二頭の力を合わさせることができ、二頭が助け合うこともありそうです。マタイ11章28節は、私たちが重荷を担う時、実はイエス様が共に担っていて下さることを約束する御言葉と思います。

重荷は、様々な責任を意味することもあります。私たちが責任を背負う時、イエス様が共に責任を背負って下さることも確かです。そして、私たちが主に人様のために、「とりなしの祈り」を献げることも、相手の方の重荷を共に背負うことになります。相手の方の重荷が減るように、とりなしの祈りに励みたいものです。 
「互いに重荷を負い合いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」キリスト教会は律法主義を否定しますが、「キリストの律法」をよしとします。「キリストの律法」は愛のことですね。互いに重荷を負い合い、互いに仕え合い、イエス様が弟子たちの足を洗って下さったように、互いに足を洗い合うことと思います。マタイ福音書6章12節の、イエス様が語られたいわゆる黄金律を思い浮かべることも適切です。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。これこそ律法と預言者(旧約聖書の教え)である。」
 
 3~4節「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」これはパウロが、ローマの信徒への手紙12章3節で述べていることと同じと思います。「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」自分の罪を直視しれば、自分を過大評価することはできません。5~6節「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」2節には「互いに重荷を担いなさい」とありましたが、5節では「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」と言っています。その意味では各自が、イエス様に助けられて自立を目指すことが大前提です。でも自立しきれないこともあります。自立できないことについては、他の方に背負ってもらってよいはずです。
自分の自立できない部分を、物理的に他の方に背負っていただくことは、あってよいことです。自分はその方のためにとりなしの祈りを献げて祝福をお祈りすることによって、相手を支えることができます。これこそよい助け合いと信じます。お互いがお互いを、必ず必要としています。他の方に祈っていただくことなしに、自分の力だけで教会の奉仕を立派に成し遂げることは、実は誰にもできないはずです。

本日の最後の10節に書かれていることを、東久留米教会においても、実現してゆきたいものです。「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」本日の説教題は、「たゆまず善を行いましょう」です。イエス様の十字架の愛の恵みによっての、全部の罪を赦され天国を保証された者として、イエス様の愛への感謝の応答として、たゆまず善を行う人生を進みましょう、ということです。もちろんお祈りして、聖霊に助けていただいてです。

戻って7節です。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」「思い違いをしてはいけません」とは、神様を甘く軽く見てはいけない、神様を舐めてはいけないということでしょう。神様は、私たち罪人(つみびと)を愛して救おうとしておられる完全な愛の方ですが、神様は同時に完全に聖なる方なので、罪そのものを絶対に受け入れないし、罪と悪そのものを明確に憎んでおられるからです。神様は罪そのものと悪そのものを明確に憎んでおられます。神様を軽く見て舐めてかかると、私たちは必ず痛手を受けます。神様は、人から侮られることはないのです。

旧約聖書に登場するダビデ王も、神様を侮って痛い目に遭いました。ダビデ王の有名な罪です。忠実な部下ウリヤが戦争に出ているときに、ウリヤの妻バト・シェバと関係を持ち、バト・シェバが妊娠しました。それを知ったダビデは、ウリヤを戦場から呼び戻し、司令官や兵士の安否を問い、「家に帰って足を洗うがよい」と言いました。ところが忠実な部下ウリヤは家に帰らないのです。「十戒を入れた神の箱も、私の直属の主人ヨアブも、多くの兵士たちも野営しているのに、私だけ家に戻ることはできない」と言って、家に帰りません。そこでダビデはイスラエルの司令官ヨアブに手紙を書き、ウリヤに託します。手紙には「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていました。この通りに実行され、ウリヤは戦死します。何と気の毒なことかと思います。ウリヤの妻バト・シェバは夫の死を聞くと、夫のために嘆きました。喪が明けると、ダビデは彼女を王宮に引き取り、妻の一人にし、彼女は男の子を産みました。人の目を欺いたダビデですが、神様を欺くことはできませんでした。神様は黙っておられません。

神様から預言者ナタンが送られます。ナタンが神様のメッセージをダビデに語ります。「あなたに油を注いでイスラエルの王としたのは私(神)である。私があなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたが私を侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。」鋭くこう言われて、ダビデは初めて自分の大きな罪に気づきました。目が覚めたのです。私たちもしばしば自分の罪に気づかない鈍感に生きている場合があるので、時々神様によって目を覚まさせていただく必要があると、私は思います。

ダビデは述べます。「私は主に罪を犯した。」もちろんウリヤに対しても罪を犯したのです。ダビデは罪を真剣に悔い改めます。この時のダビデの悔い改めは、詩編51編に明らかに記されています。ダビデが悔い改めたので、ナタンの鋭い言葉も少し和らぎます。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれて来るあなたの子は必ず死ぬ。」生まれた男の赤ちゃんは、間もなく死にました。ダビデは自分の、蒔いた罪を刈り取る、罪の報いを受ける結果になったのです。神様はこのようにダビデに裁きを与えたのですが、ダビデが真剣に悔い改めたからでしょうか、ダビデとバト・シェバの間にはソロモンが生まれ、神様はその子ソロモンを愛され、ソロモンはダビデの次の王になりました。以上が旧約聖書の有名なエピソードです。

 ガラテヤの信徒への手紙に戻ります。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者(自分勝手に罪と悪を行う者)は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者(神様と隣人を愛する生き方をする人)は、霊から永遠の命を刈り取ります。」イエス様の十字架によって永遠の命を与えられた私たちがめざす方向は明らかです。時に罪を犯してしまうことがあっても、ぜひ一生懸命悔い改めましょう。そして祈って聖霊に助けていただいて「霊に蒔く生き方」(神様と隣人を愛する生き方)へ、進みたいのです。自分ことも、イエス様に愛されている者として正しく愛してよいのです。但しわがまま・エゴイズムに進むことは禁物です。

 9~10節「たゆまず善を行いましょう(説教題)。飽きずに励んでいれば、時(神の国の完成の時)が来て、実(永遠の命という実)を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に(時間を無駄にせず)、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して善を行いましょう。」善は急げ。ミカ書6章8節も同趣旨。聖霊に助けられ、感謝をもって9~10節の御言葉を行って参りましょう。アーメン(真実に)。