日本キリスト教団 東久留米教会

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2023-04-23 0:23:01()
説教「天地創造の前から神に愛されている私たち」2023年4月23日(日)復活節第3主日公同礼拝 
順序:招詞 ヨハネ福音書20:27~28,頌栄24、主の祈り,交読詩編91,使徒信条、讃美歌21・327、聖書 創世記1:1~13(旧約p.1)、エフェソの信徒への手紙1:1~7(新約p.352)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌329、献金、頌栄27、祝祷。

(創世記1:1~13) 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。

(エフェソ1:1~7) 神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

(説教) 本日は、復活節第3主日の礼拝です。説教題は「天地創造の前から神に愛されている私たち」です。新約聖書はエフェソの信徒への手紙1章1~7節です。エフェソという場所は、新共同訳聖書巻末の地図8と9に出ています。今のトルコです。地中海の北方、エーゲ海の東方にエフェソという海岸沿いの町があります。

 エフェソの信徒への手紙は、イエス様の弟子・使徒パウロがおそらくローマの獄中で書いた手紙の1つとされています。獄中書簡と呼ばれています。内容は非常に壮大です。1~2節は挨拶です。第1節「神の御心(直訳・意志)によって、キリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち(クリスチャンたち)、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。」「イエス・キリスト」でなく「キリスト・イエス」と2回出て来ます。どちらでも基本的にな同じですが、「キリスト・イエス」という言い方には「キリスト(メシア)は(ほかの人ではなく)イエス様ですよ」という意味合いが込められているように思います。

 2節「私たちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなた方にあるように。」「父」は原文のギリシア語で「パーテール」です。英語のファーザーの源かもしれません。福音書にも「父・パーテール」の言葉は数多く出てきます。私たちは「父」というと、短い日本語なので簡単に通り過ぎますが、「パーテール」という単語はやや長いので、「そうか、神様は真の父なんだな、パーテールなんだな」と心に長くとどめて、その意味を味わおうとする気持ちが出ると思うのです。私の知人に祈る時いつも「アバ、父よ」と祈り始める方がおります。アバはパパの意味のアラム語(イエス様が語られた)だそうですが、私はその方の祈りを聞くといつも「そうか、イエス様もそう祈られた。アバ父よ、は祈りの始め方として、とてもよいな」と思うのです。「アバ父よ」もお勧めですが、父はギリシア語で「パーテール」、パウロはギリシア語で語るときは「パーテール」と言っていたと思い出すこともよいと思います。「恵みと平和が、あなた方にあるように」とありますが、「恵み」はギリシア語で「カリス」です。これも短いので、覚えて損はない言葉です。カトリックでは聖餐式のぶどう酒を入れる容器を「カリス」と呼ぶそうです。イエス様の血潮であるぶどう酒という、聖なる恵みが充満している容器なので「カリス」と呼ぶのでしょう。

 本日の説教は7節までですが、新約聖書のギリシア語原文では、3節から何と14節までが、一つの長い文です。3節から14節まで止まらない一つの文です。あまりに長いので、日本語では区切って訳しているのですね。パウロが聖霊に満たされて感動して、言葉を次から次へと加えながら、一気に語り書いたと思われます。3節「私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」これは神様への讃美です。パウロは次に、神様が私たちに与えて下さった恵みを語ります。「神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たして下さいました。」「あらゆる霊的な祝福」とありますが、原文には「祝福」という言葉が二回出て来ます。それを踏まえて新改訳聖書2017年版は、「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して下さいました」と訳していて、「祝福」の語がちゃんと二回書いてあるので、よいと思います。自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じて義と認められた私たちを、父なる神様は「天のすべての霊的祝福で祝福して下さった」のです。その霊的な祝福は、この地上の見えるものではないと思います。もちろん神様は私たちに必要な地上の恵みも与えて下さいます。ですがここで言う霊的な祝福は、地上での恵み以外の恵みと思います。霊的な祝福とは、信仰、神様の清き霊である聖霊、永遠の命、福音の体、天国であると言えます。

 それがどんな祝福であるかを、次のページ上段の18節の2つ目の文が述べていると思います。「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように。」これは天国のことと思います。これこそ真の希望、「どれほど豊かな栄光に輝いているか」と言うほど、想像を超えて計り知れない栄光に輝いているすばらしい所なのですね。この天国という祝福が約束されている。イエス様を信じて亡くなった方々は、もうそこに入ったのですから、その意味では何の心配もない状態に置かれています。今の二代前のカトリックの教皇だったヨハネ・パウロ二世という方は、しばらく前にお話した通り、ご自分をピストルで撃った犯人を赦すと公言した立派な方ですが、亡くなる直前に「神の家に行きたい」と言って息を引き取ったそうですから、ご自分もすぐそこに入ると信じて、天国に召されたのだと思います。それはイエス様を信じるすべての人に約束されている霊的な祝福です。

 4節は、東久留米教会の今年度の標語聖句です。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」これはやはり、驚くべき御言葉です。本日の旧約聖書として創世記の一番最初を朗読していただきました。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」私たちはこの時、神様が空間(宇宙)と時間をお造りになったと信じています。科学では、地球は約45億年前にでき、宇宙は非常に小さかったが約138億年前のビッグ・バンという爆発によって膨張を開始し、今も膨張しているといいます。私はおそらくそれは正しいと思っています。だとすれば、「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」の御言葉は、私たちは宇宙が始まった約138億年より前から、神様に愛されていたことになります。それはたとえば約140億年から愛されていたというよりも、天地創造の前は時間も存在しないので、永遠の昔から神様に愛されていたことになります。気の遠くなる壮大な話ですが、これが私たちの自己理解です。宇宙が造られる前から、私たちは神様に愛されていて、やがて地上に人間として誕生することが、神様の御心によって決められていたということです。この4節の愛はギリシア語のアガペーです。

 『こどもさんびか』80番の歌詞は、皆様よくご存じと思います。「生まれる前から神様に、守られて来た友達の、誕生日です、おめでとう。」この歌詞の通りなのですが、生まれる前からと言っても生まれる数年前からではなく、約138億年以上前から、永遠の昔から、私たち一人一人が神様に愛されていたというのです。つまり私たちは偶然、たまたま生まれて来たのでなく、約138億年以上前から、私たちが地上に生まれて生きて、イエス様によって救われて行くことが、神様によって定められていたことになります。アダムとエバが造られる前からです。

 「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」私たちを愛して、ただ生まれさせるだけでなく、神様は人間たちが罪に落ち込むことまで想定され、罪人(つみびと)になってしまう一人一人を、イエス様の十字架によって救い、聖霊を注いで清め、聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになった、とまでこのエフェソ書が教えてくれます。「天地創造の前に」を直訳すると、「世・世界(コスモス)の基礎を据える前に」です。意味は「天地創造の前に」です。私たちは普通、創世記1章を聖書の一番最初ととらえており、それで正しいのですが、本日のエフェソ1章4節は何と、その前のことを語っています。神様はもちろん天地創造の前から生きておられ、永遠から永遠に生きておられます。その神が天地創造の前から私たちを地上に誕生させる意志をもち、私たちを愛しておられるのです。

 「私たちはキリストにおいて選ばれている」と書かれています。選ばれていることは事実ですが、だからと言って選民意識に満ちて思い上がることはもちろん間違いです。私ども夫婦に洗礼を授けて下さった牧師は、私が「神の選び」とはどのようなことですかと質問したときに、「私たちは先に選ばれた」と答えて下さいました。「私たちは先に選ばれてクリスチャンになったのだが、後から選ばれて来る方々もおられるので、思い上がってはいけない」の意味だと受け止めました。先に選ばれた人々には特権があるというよりも、むしろ責任があるのですね。神様の愛と恵みを先に知らされた者として、その神様の愛と恵みを、言葉と行いによって証しする責任が与えられているのですね。恵みに応答する喜ばしい責任が与えられています。

 旧約聖書では、イスラエルの民が、真の神様の民として選ばれています。そのことが申命記7章6節以下に、こう書かれています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」神の選びは、大きく強い者よりも、むしろ小さく弱い者をあえて選んで下さる愛なのです。これこそ福音です。私たちも小さく弱い者だからこそ、神様に先に選ばれて教会にいるのです。

 東久留米教会では先々週のイースター礼拝で洗礼式を行う恵みを与えられましたが、その洗礼をお授けした直後の祈りの言葉(式文の祈りの言葉)にも、選びのことが書かれています。「恵み深い父、聖霊によってこの兄弟(姉妹)を新しく生まれさせ、これを神の子とし、キリストの教会の生きた枝として下さったことを感謝致します。あなたはこの兄弟(姉妹)を、世の造られる前から選び分かち(エフェソ1章4節より)、世の誘惑から救い出し、信仰の道に進ませ、今ここに主イエス・キリストの死にあずかるバプテスマを受けさせて下さいました。どうか、この兄弟(姉妹)が御子(キリスト)の復活にあずかって新しい命に歩み、私たちと共に御国の世嗣となりますように。」私たちも、世の造られる前から神様によって選び分かたれているので、教会に集い、洗礼を受けました。まだ受けておられない方は、ぜひ受けてほしいと、神様が待っておられます。

 「天地創造の前に愛され、選ばれた」ということは、エフェソ1章4節にしか書かれていないかと思いましたが、マタイ福音書25章34節にも、似たことが書かれていると分かりました。それは世の終わりにこの地上にもう一度おいでになるイエス・キリスト(再臨のイエス様)が全ての国の民を裁く「最後の審判」の個所です。イエス・キリストは、羊飼いが羊と山羊を分けるように、羊(救われる人々)を右に、山羊(救われない人々)を左に置きます。そしてイエス・キリストは右側にいる人たちに言われます。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」

 ここでイエス様は救われる祝福された人々に、「天地創造の時から(前からではないですが)あなたたちのために用意されている国・天国があるから、それを受け継ぎなさい」と語っておられます。これは「あなたたちは、天地創造の時から(前から)神様に愛されている選ばれた人々だ」と述べておられるも同然です。イエス様もエフェソの信徒への手紙1章4節でパウロが書いたことと、ほぼ同じことを語っておられることになります。

 「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」こう書いてありますから、愛され選ばれた私たちは、少しずつ聖なる者、汚れのない者になってゆく必要があります。それは聖霊の働きです。聖霊の働きに間違いないのですが、同時に私たちんぼ側では礼拝や祈祷会に出席し、聖書を読み、祈る必要があります。日々自分の罪を悔い改める必要があります。イエス様の十字架の愛によって救われたのですから、イエス様の十字架の愛に応答して、少しずづ愛の業(わざ)に励むことも大切です。

 神様に選ばれた私たち。父なる神様に一番最初に選ばれた方は、イエス・キリストです。イエス・キリストは神であり、同時に人間です。選ぶ神であり、同時に選ばれる人間でもあります。一番最初に選ばれた人間はイエス・キリストです。この方は全く罪なき人間ですから、それは当然です。そのイエス様が私たち全員の全部の罪を身代わりに背負って、十字架で死んで下さいました。7節に「私たちはこの御子(イエス様)において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは神の豊かな恵みによるものです」とある通りです。イエス様の十字架の復活のお陰で、私たちも神様の子とされました。神に選ばれたと言うと、「自分は選ばれていないのではないか」と心配になる方もあるかもしれません。しかし神様は、全ての人を選びへと招いておられます。「あなたも救い主イエス様の元に来て、神の選びを受け入れてイエス様を救い主と信じ、神に選ばれた者、神の子になりなさい。」神様がそのように今も全ての人に呼びかけ、手を差し伸べておられます。素直にこの呼びかけに応えるならば神様が喜ばれ、イエス様によって永遠の命をプレゼントして下さいます。

 先週の月曜日に、東京神学大学という神学校の後援会に行きました。私が出た神学校の話で恐縮です。三人の現役の神学生もおられて、自己紹介されました。その中で一番若い19歳の女性も話されました。「私は小学生の時に東京神学大学のパンフレットを始めて見て、ここに行くことにしました」と言うのです。とてもとても素直な信仰なのだなと少々驚きました。私は2年ほど悩みましたから。小学生のときにもう決めたという証しには少々驚いて、こんなに素直な人も世の中にいるのだなと感じました。神様が彼女のそのような信仰をプレゼントなさったという感じです。色々な人から「他の大学に行って、もっと青春をエンジョイしてから神学校に行ったらいいんじゃない」と言われたが「私はここにいるのが一番嬉しい」と言っていました。生まれる前から神様に、天地創造の前から神様に愛され選ばれた人の典型のような方かと思いました。逆に、人生経験、仕事経験を十分重ねた末に神学校に入った方も来ておられました。どちらの方が優れているということは、もちろんありません。何歳でイエス様を信じる生き方に入っても、皆尊い信仰です。「天地創造の前から、神様は私たちを愛して下さり、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」この恵みをそのまま信じ。この恵みに感謝して、ひたすらイエス様と共に歩みたいのです。アーメン。

2023-04-15 20:31:33(土)
説教「私たちの同伴者キリスト」2023年4月16日(日)復活節第2主日公同礼拝  
順序:招詞 ヨハネ福音書20:27~28,頌栄28、主の祈り,交読詩編90,使徒信条、讃美歌21・328、聖書 詩編118:22~23(旧約p.958)、ルカ福音書24:13~35(新約p.160)、祈祷、説教、祈祷、讃美歌287、献金、頌栄27、祝祷。

(詩編118:22~23) 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。

(ルカ福音書24:13~35) ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

(説教) 本日は、復活節第2主日の礼拝です。説教題は「私たちの同伴者キリスト」です。新約聖書はルカによる福音書24章13~35節です。小見出しは、「エマオで現れる」です。

 イエス様の十字架の死から三日目の日曜日の早朝、イエス様の墓に駆けつけた婦人たちが見たものは、空の墓でした。復活されたイエス様は、ヨハネ福音書ではトマスという弟子に「見ないのに信じる人は幸いである」と言われましたね。私たちも、見ないでも信じる幸いな者でありたいと願います。でもイエス様は、私たちが信じることができるように聖書を与えておられます。私たちが聖書を読んで、イエス様の復活を信じることができるように、応援して下さいます。

 さて、今日登場するのは、イエス様の復活をまだ信じられないでいた二人の男の弟子たちです。イエス様が復活された日曜日のお昼頃でしょうか、その二人の弟子たちがエルサレムから60スタディオン(約11キロ)離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。墓が空だったことが何を意味するのか、非常に引っかかっている。この謎への答えが分からない限り、心が落ち着かない気持ちでいっぱいです。15節「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」復活のイエス様が同伴を始められたのですね。実はイエス様は、目に見えなくても、いつも私たちに同伴して下さっている。カトリック作家の遠藤周作さんが確か、「永遠の同伴者イエス・キリスト」ということをテーマにしておられたように思います。
 
 16節「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」イエス様の方から話しかけて下さいます。17~18節「イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。『エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。』」やはりイエス様の十字架は、エルサレムで大きな騒動だったのですね。イエス様が踏み込んで尋ねます。「どんなことですか。」もちろんイエス様ご自身は真相を、本当のことを熟知しておられるのですが、この二人の弟子たちを真理に導くために、あえて尋ねておられます。二人は心にひっかかっていることを、堰が切ったように語り出します。語り出さずにはおれない気持ちなのです。

 19~24節「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。私たちは、あの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちが私たちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言った通りで、あの方は見当たりませんでした。」「一体これらのことを、どう考えればよいのでしょう」とこの謎めいた同伴者・旅人に質問せずにはいられないほどに、答えを求めています。

 すると旅人が答えてくれるのです。25~27節「そこでイエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシア(救い主)はこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書(旧約聖書)全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」弟子たちは、イエス様こそ、イスラエル民族を解放して下さる(=ローマ帝国の支配から解放し、ユダヤ民族の独立を勝ち取って下さる)メシア(救い主)だと信じていました。しかしこの旅人(同伴者イエス様)は、「それはメシア(救い主)への誤解だ」と言うのです。その通りです。弟子たちはイエス様が十字架という苦難に遭うとは予想もしていませんでした。ところがこの同伴者イエス様は、イエス様が十字架の苦難に遭うことは、実は意外なことではなく、最初から必然だった、父なる神様のご計画だったと言うのです。

 「そして、モーセ(モーセ五書、つまり創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)とすべての預言者から始めて、聖書(旧約聖書)全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」まず苦難については、やはりイザヤ書53章に予告されていることが明らかです。長いので一部だけ読みます。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。(~)彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」

 苦難の後に栄光に入ることについては、色々な個所が挙げられると思います。たとえばクリスマスによく読まれるミカ書5章3~4節も、世界の真の王としてのイエス様の栄光を語っていると言えます。「彼(救い主)は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である。」そして本日の旧約聖書である詩編118編も、イエス様の十字架と復活を指し示す個所として使徒言行録等に引用されています。詩編118編22~23節はこうです。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと。」「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと。」神学校でこんな説教を聴いたことがあります。私たち人間が「こんなものは要らない」と言って捨てたイエス・キリストを、父なる神様は復活させ、神の家である教会の基となさった。このことを知って私たちは、恐れを覚えなければならない。その通りなのだと思います。そしてイエス様が十字架で死なれただけなら、キリスト教会が誕生することはありませんでした。イエス様が十字架で死なれて、復活されたからこそ、キリスト教会は誕生し、東久留米教会も生きて存在しているのです。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石(教会の土台石)となった。これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと。」イエス様は二人の弟子に、この詩編118編をも語られたと思うのです。

 イエス様は、旧約聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。私もこのイエス様の話を直接じっくり聴きたかったですね。しかし私たちが一生懸命旧約聖書を読めば、だいたいこんな個所を引用されたのだろうということは次第に分かります。つくづく思うのは聖書の言葉の意味の解釈は自分勝手に行わず聖書全体を読みながら行うことが必要だということ。そして神様に教えていただいて、祈りながら聖霊(イエス様の清き霊)に教えていただいて解釈することが必要だということです。イエス様による旧約聖書の解き明かしを聴きながら、二人の弟子たちは聖書の真のメッセージが分かって目を開かれ、心が燃え始めました。あとの32節で二人が語り合った通りです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と。

 28節「一行は目指す村(エマオ)に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まり下さい。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。」今日は歌いませんが讃美歌21の218番(夕べの讃美歌)の1節を連想します。「日暮れて、やみは迫り、わが行く手なお遠し、助けなき身の頼る、主よ、共に宿りませ。」主よ、共に泊まって下さいという歌詞で、まさにこの29節からとられています。

 30~31節「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」これを読むとどうしても聖餐式を連想します。「讃美の祈りを唱え」は、直訳では「祝福した」です。「パンを裂いた」行為は、イエス様の御体が十字架で裂かれたことを連想させます。私たちの罪のために、イエス様の御体が十字架で釘打たれ、槍で刺されて裂かれ、深い傷を負われました。前にもお話しましたが、私が神学校に通っていたとき、お隣の日本ルーテル神学大学(今はルーテル学院大学)との一致礼拝が毎年一回行われました。ルーテルを会場にするときは、ルター派の礼拝の形で行われます。司祭が聖餐を受ける私たち一人一人の前でパンを裂いて渡して下さいます。「これはあなたのために裂かれた主イエス・キリストの体です」とおっしゃって目の前でパンを裂いて渡して下さいました。裂く行為を目の前で行うことで、イエス様が本当に十字架で肉体を裂かれて下さったことを視覚的に実感するのですね。裂くという行為は重要です。印象に残りました。

 二人の弟子たちは、イエス様がパンを祝福し、パンを裂いて渡して下さった動作によって、この方がイエス様だと初めて分かりました。ある人は想像します。パンを裂いて渡された両手に、釘の穴が開いていたのが見えたのではないかと。そうはっきり書いてありませんが、両手に釘の穴が開いていたとしても不思議ではありません。ヨハネ福音書では、復活されたイエス様が疑う弟子トマスに、トマスの指をイエス様の手(釘で穴が開いた手)に当てなさい、トマスの手をイエス様の槍で穴が開いた脇腹に入れなさいとおっしゃっていますから。パンを裂いて下さったとき、二人の目が開け、この不思議な同伴者がイエス様だと分かりました。パンを裂く行為を見て、イエス様の十字架の死が自分たちの罪を身代わりに背負った犠牲の死だったことも、ピン来て直感的に分かったのではないかと思います。そして二人の心がまた燃えたのだと思います。私たちも聖餐式を受ける時、パンとぶどう液を食べ飲みし、私たちの罪を身代わりに背負って十字架で死なれたイエス様の愛を深く感じ、心が燃えるのですから。

 「道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と語り合った弟子たちは、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十二人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモン(ペトロ)に現れたと言っていました。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」聖餐式も洗礼式も、真の司式者はイエス・キリストご自身であることが分かります。これまで何回か説教題を「私たちの心は燃えていた」としたことがありますが、20年以上前になるでしょうか、その題にしたときに、当時説教題の看板を書いて下さっていた草刈さんという教会員が「この御言葉が好きだ」と言われたことを思い出します。ここで弟子たちが言った「私たちの心は燃えていたではないか」の御言葉がお好きだったのです。

 復活されたイエス様と二人の弟子たちは、エマオで食卓に着いたのです。エマオと言うと、日本キリスト教団では仙台にある東北教区の事務所のある建物がエマオという名前ですし、12年前に起こった東日本大震災の際に、その建物内に置かれた被災者支援センターもエマオという名前でした。東久留米教会が属する西東京教区でもボランティアが募集され、3年間くらいに渡って何回もボランティア活動が行われました。時に最初の頃は、日本中の教会からそのエマオにボランティアが来ましたし、台湾からも多く来られました。そのエマオには、目に見えなくても復活のイエス・キリストが共におられたに違いありませんね。その建物の二階には、今日の場面を描いた今風の絵も貼られていました。やや古い画家の素敵で有名な絵もありますが、その絵ではなく、今風の絵です。ややイケメンのイエス様が歩き、二人の弟子たちも一緒に歩いている絵でした。そして実際のイスラエルのエマオと思われる付近の写真も貼られていました。復活のイエス・キリストは私たちの同伴者、特に苦しみの中にある私たちの同伴者です。

 今日の場面には食卓が出てきます。次のような言葉が書かれた額を見たことがある方もおられると思います。「キリストは、わが家の主、食卓の見えざる賓客、あらゆる会話の沈黙せる傾聴者。」復活のイエス様は聖霊として、私たちの食卓、生活のあらゆる場面に同伴しておられ、私たちの会話を静かに聴き、私たちの心の中の思いも全て見ておられるのですね。嬉しいと同時に、襟を正されることでもあります。

 弟子たちと共に歩いて下さったイエス・キリスト。遠藤周作は『侍』という小説で、江戸時代の初めにローマに行った支倉常長を描きますが、常長がヨーロッパで洗礼を受けて帰国すると、日本ではキリスト教が禁止されており、死刑にされてしまいます。その時、彼の家来でしょうか、与蔵という男が常長に言うのです。「ここからは、あの方がお供なされます。」「ここからは、あの方がお仕えなされます。」イエス・キリストが死を越えて、いつも共にいて下さる、いつも同伴して下さると。このメッセージは真実です。永遠の同伴者イエス・キリストが、昨日も今日も明日も、ずっと共に歩んで下さる。この事実に心を強められて、信仰の道を天国まで進ませていただきましょう。アーメン。

2023-04-09 1:10:35()
説教「イエス・キリストは復活された」2023年4月9日(日)イースター公同礼拝 
順序:招詞 ヨハネ福音書20:27~28,頌栄85(2回)、主の祈り,交読詩編89,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・326、聖書 ホセア書6:1~6(旧約p.1409)、ルカ福音書24:1~12(新約p.159),洗礼式、讃美歌510、祈祷、説教、祈祷、讃美歌325、献金、頌栄92、祝祷。

(ホセア書6:1~6) 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを/預言者たちによって切り倒し/わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。

(ルカ福音書24:1~12)そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

(説教) イースターおめでとうございます。本日は、イエス・キリストの復活を祝うイースター礼拝です。説教題は「イエス・キリストは復活された」です。新約聖書はルカによる福音書24章1~12節です。

 ルカ福音書23章によると、イエス・キリストは「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と言って、息を引き取られたのです。ローマの百人隊長が、「本当に、この人は正しい人だった」と言って神を賛美し、群衆は皆、胸を打ちながら帰って行きました。百人隊長の言葉によって、イエス様正しく生きた方であることが証明されました。常に正しく生きたのに、不当にも十字架につけられて殺されたことがはっきりしました。その日は金曜日で、金曜日の夕方から安息日になります。人々は安息日が始まる前に十字架刑を終わらせるため、イエス様と二人の犯罪人の遺体を取り下ろします。そしてイエス様の遺体を亜麻布で包み、まだ誰も葬られたことのない岩に掘った墓の中に納めました。イエス様は仮死状態ではなく、完全に死なれました。ガリラヤから従って来た婦人たちはそれを見届け、家に帰ってイエス様の遺体を処置する香料と香油を準備し、安息日には掟に従って休みました。安息日の礼拝は献げたのだろうと思います。

 そして安息日が明けると、週の初めの日(つまり日曜日)の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行きました。安息日が明けて日が昇り始めるとすぐに墓に行った行動に、イエス様への愛情の深さを感じますね。日曜日の「日」は太陽の意味ですね。旧約聖書の創世記によると、神様は天地創造の初日の日曜日に、「光あれ」と命じられ、光を創造されました。これを太陽と考えることは可能です。そして初代教会の人々は、イエス・キリストこそ「義の太陽」と考えました。初代教会の人々は、週の第一の日である日曜日に主なる神様が光を創造し、「義の太陽」主イエス・キリストを復活させた大切な「主の日」として重んじ、神様を礼拝する日としました。私たちも同じ信仰を受け継いでいます。

 婦人たちはイエス様への愛のゆえに明け方早く墓にかけつけたのですが、神様の方が先に働いておられました。私たちは神様より先手を取ることはできないのですね。2節「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」大きな石が既に転がしてあったことは、神様の偉大な力が既に働いたことです。早朝、それは神様が働かれる時です。詩編46編6節には、「夜明けとともに、神は助けをお与えになる」と記されています。日本語には、早朝を表す感性豊かな言葉が多くあります。暁、しののめ、曙、未明などです。人が誰も見ていないそのとき、イエス様は墓の中で甦らせられ、墓を破って出て行かれました。完全に死んでおられた約一日半の間、イエス様がどうしておられたのかと言うと、ペトロの手紙(一)3章19節に書いてあります。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところ(死者の国)へ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られたいた間、神が忍耐して待っておられたのに、従わなかった者たちです。」十字架の死から復活までの約一日半の間、イエス様は死者の国で宣教しておられたことになります。そして日曜日の明け方早く、墓を破って復活されました。

 さて婦人たちは、イエス様の遺体が見当たらないという予想外の事態に、「え、どういうこと?」と驚き、困惑していました。どうしてよいか分からず、途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がぞばに現れました。天使です。私は天使を直接見た記憶はありませんが、普通の人の姿で現れることもあるようなので、気づかずに会っているのだと思います。ここでは普通の人間と違う天の栄光に輝く姿で現れたので、婦人たちは恐れて地に顔を伏せる反応をしました。天使たちは告げました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを想い出しなさい。人の子(イエス様ご自身)は必ず、罪人(つみびと)の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで婦人たちは、初めてイエス様の言葉を思い出しました。思い出すことは、必ずしも後ろ向きのことではなく、神様の恵みの1つ1つを思い起こすことは大切です。

 イエス様は確かに弟子たちおっしゃっていたのです。ルカ福音書9章22節「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」そして9章44節でイエス様は、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と言われ、さらに18章32節以下で、「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」このときは弟子たちにこの言葉の意味が隠されていて、理解できませんでした。十字架の死と復活が現実になった後、イエス様の十字架と復活の意味が、徐々に分かるようになったのです。イエス様の十字架の死、それは私たちが陥っている罪と死から私たちが救われるために、どうしても必要なことであったのです。

 イエス様の三度の予告が今、実現し、イエス様は十字架で死なれ、三日目に復活され、イエス様の予告を思い出した婦人たちが男の弟子たち(ユダを除く11人)に知らせたのですが、男の弟子たち(使徒たち)にはたわ言・あり得ない馬鹿馬鹿しい話としか思えず、婦人たちの言うことを信じませんでした。しかしペトロだけは、半信半疑ながらも立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、イエス様の遺体がなく、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰りました。この後、復活されたイエス様が弟子たちに姿を現し、復活のイエス様は弟子たちの前で魚を食べて、ご自分が体(霊の体)をもって生きていることを示されます。40日に渡って弟子たちと共に歩まれ、体をもって天に上げられます。今も天で生きておられ、今もそこから聖霊を送って、私たちに信じる心を与えて下さいます。 
 一昨日は、Oさんのご葬儀をこの礼拝堂で執り行わせていただきました。まさにイエス様が私たちの全ての罪を背負って十字架で死んで下さった金曜日です。私たちの全ての罪も、Oさんの罪も、イエス様の十字架の身代わりの死のお陰ですべてゆるされている。その十字架の恵みの中で、ご葬儀を執り行わせていただきました。そしてイエス様の復活によって、Oさんにも私たちにも既にその復活の命が与えらえている。そのイエス様の守りに包まれてご葬儀を行わせていただいたと思っています。

 そしてたった今は、恵みの洗礼式を行わせていただきました。洗礼を受けるということは、イエス様の十字架の死と復活に、自分の身を全て委ねることです。イエス様の十字架の死と復活と、わが身が一体化することです。古い罪深い自分はイエス様と共に十字架に架けられて死に、イエス様と共に新しい命に復活することが、洗礼を受けるときに私たちに起こります。ローマの信徒への手紙6章4節以下の御言葉が、私たちの上に成就・実現したのです。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」そして洗礼を受けた方には、ガラテヤの信徒への手紙2章の次の御言葉が成就・実現しているのです。「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」

 さて、イエス様の空の墓、三日目の復活。これを預言しているのは旧約聖書のホセア書6章2節と言われます。「二日の後、主は我々を生かし、三日目に立ち上がらせて下さる。」もう一ヶ所、マタイ福音書12章のイエス様の御言葉も大事なことを教えて下さいます。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子(イエス様)も三日三晩、大地の中にいることになる。」イエス様がおっしゃることは、ヨナが三日三晩、魚のお腹にいたことが、イエス様が死んで死者の国に行くことと三日目に復活することを指し示す預言的な出来事だということです。イエス様の三日目の復活は、旧約聖書に暗示されている神様の以前からのご計画だったのです。

 聖書の復活信仰を考えてみますと、旧約聖書には復活信仰は直接記されることは少なく、ようやく旧約聖書の後半のエゼキエル書37章に明確に出てきます。エゼキエル書37章は、神様に背いてバビロン捕囚になり、死んだようになった神の民イスラエルが、神様の憐れみによって再生することが「枯れた骨の復活」の描写によって強烈に描かれます。その後、旧約聖書と新約聖書の中間の時代のイスラエルの歴史を書き記した旧約聖書続編・マカバイ記(二)には「七人兄弟の殉教」という強烈な場面があります。アンティオコス・エピファネスという悪い王の時代に、信仰深い人々が迫害され、神の律法を破ることを強制されました。七人兄弟は律法を破ることを拒否し、殺されます。彼らを支えたのが復活信仰です。「世界の王(神様)は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へと甦らせて下さるのだ」と言って死ぬのです。神様に従った人は、たとえ殺されても、神様が必ず復活の命によってよき報いを与えて下さる。この復活信仰が信仰者たちに勇気を与えたのですね。その通りで、イエス様こそ父なる神様に従い通されたので、父なる神様は復活によって報いて下さったのです。

 新約聖書のヘブライ人への手紙11章を読むと、困難や迫害の中で神様に従った旧約聖書の多くの信仰者たちのことが語られています。たとえばモーセは「成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝にまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです」と書かれています。「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。」神様に従っていれば、たとえ迫害や苦難があっても、最後には神様が必ず報いて下さる。復活の命、永遠の命によって報いて下さると信頼して、迫害や苦難に耐えたのです。やはり私たちの真の国籍は、天にあるのですね。

 ヘブライ人への手紙は13章7節でこう語ります。「あなた方に神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」私も、以前にお世話になった牧師の方々が、次第に天国に住まいを移しておられます。その牧師の方々の信仰の背中を見つめて見倣おうと思っています。私ども夫婦に洗礼を授けて下さった牧師は、地上の人生の締めくくりの10年間は茨城県で開拓伝道の日々を送られました。

 印象に残る牧師方のお一人に著名な先生ですが、日本キリスト教団霊南坂教会の牧師を長く務められた飯清(いい・きよし)先生がおられます。私が洗礼を受けた茨城県の教会に求道して通い始めた1987年秋に飯先生をお招きした伝道礼拝があり、1995年の春にも飯先生が礼拝説教に来られました。実はご病気が相当厳しい状態であられたのです。今から28年前ですから、今ならもっと長く生きることがおできになったのだろうと思います。そのような状態で、よく礼拝説教に来て下さったと思います。周囲が皆賛成したかどうかは分かりません。でもこれが伝道者魂、伝道者スピリットなのだなと感じます。聖書はローマの信徒への手紙12章1節だったと記憶しています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。」私たちプロテスタント教会は「信仰義認」を強調するけれども、信仰義認だから神様に従わなくてよいのかというと、もちろんそうではない、という内容だったと記憶しています。

 結果的に、それが飯先生の最後の日曜礼拝説教となったと聞きました。遺言とも言える説教だったのですが、先生は一見したところではご病気のようにも見えず、声の調子に悲壮感もなく、ユーモアまである。真に尊い伝道者魂を会衆一同に示して下さいました。ご病気でいらっしゃるのに、神様から伝道のために呼ばれたと信じて、無理して来て下さったのだろうと思いました。どんな情況でも復活の命、永遠の命の命を信じる伝道者のお姿を見せていただいたと思っています。「あなた方に神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」イエス様を見つめてしっかり従って行かれた先輩伝道者の方々、先輩クリスチャンの方々の背中は尊いですし、後に続く私たちに勇気を与えて下さいます。

 イエス様は神の子ですが、十字架の苦難を通って、三日目に復活して立ち上がらっれました。私たちの先頭を切って、復活して下さいました。神様に従い、イエス様に従った先には必ず復活の命、永遠の命、天国が用意されていることを証明して下さいました。ですから私たちはイースターを喜びます。私たちも勇気をもって、それぞれにできる形でイエス様に従って参りましょう。アーメン。


2023-04-01 21:12:41(土)
説教「イエス・キリストの十字架上の祈り」2023年4月2日(日) 受難節(レント)第6主日(棕梠の主日)公同礼拝
順序:招詞 ヨハネ福音書20:27~28,頌栄29、主の祈り,交読詩編88,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・311、聖書 イザヤ書53:11~12(旧約p.1150)、ルカ福音書23:26~49(新約p.158),讃美歌306、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書53:11~12) 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

(ルカ福音書23:26~49) 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」

 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

(説教) 本日の礼拝は、受難節(レント)第6主日(棕梠の主日)の礼拝です。説教題は「イエス・キリストの十字架上の祈り」です。新約聖書はルカによる福音書23章26~49節です。

 1つ目の小見出しは、「十字架につけられる」です。ローマ総督ピラトが、人々の大声に負けて、イエス様を十字架につける決定を下しました。最初の26~27節「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」キレネは北アフリカの、今のリビア辺りだそうです。このシモンはキレネ生まれのユダヤ人なのでしょう。ユダヤ人最大の祭り過越祭のために、エルサレムに来ていたと思われます。シモンにしてみれば、たまたまゴルゴタの丘に向かうイエス様たちと出会ってしまったのでしょう。疲れきっていたイエス様の代わりに、十字架を担ぐよう強制されてしまいます。彼は十字架を担いで、イエス様の後から着いてゆきます。

 このシモンの姿は、私たちクリスチャン、イエス様の弟子たちのシンボルとなりました。イエス様は事前に言っておられたのです。「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」十字架を担いでイエス様に従うキレネ人シモンの姿こそ、自分の十字架を背負ってイエス様に従う私たち(イエス様の弟子たち)のシンボルです。私たちは、十字架を背負うのは嫌だなと思います。しかしある人は言います。「負うてみれば軽いのである。」いや、やはり重いと感じる場合もあるでしょう。でもそんな私たちを、イエス・キリストご自身が一番下から背負っていて下さいます。
 
 27~29節「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。『エルサレムの娘たち、私のために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け。人々が、「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」という日が来る。』」嘆き悲しむ婦人たちの中には、イエス様にガリラヤから従って来て、本当に嘆き悲しんでいる婦人たちもいたでしょうが、イエス様は「エルサレムの娘たち」と呼んでおられますから、エルサレムでイエス様に出会ったばかりで、形式的に泣いているだけのいわゆる「泣き女」が含まれていたのではないかと思います。

 イエス様はここで驚くべきことに、ご自分の十字架のことを思うよりも、神の民イスラエルの首都エルサレムの今後の運命のことを案じておられます。このことは約40年後に現実になりました。エルサレムは、ローマ軍の攻撃を受け神殿は焼け落ち、エルサレムの町自体も破壊され、多くの死者が出てしまいます。神の子イエス様を十字架に架けて殺す大きな罪を犯したエルサレムの人々に、父なる神様の審判が下るのです。「エルサレムの娘たちよ、そのことのためにこそ泣きなさい。」それは徹底的な破壊で、(30~31節)「そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」この破壊の時は第一次ユダヤ戦争と呼ばれています。その後、第二次ユダヤ戦争も起こり、イスラエルローマ軍によって破壊され、イスラエルという国は消えます。そして1948年にイスラエル国ができるまで、イスラエルの国は消滅していたのでした。イエス様は、ご自分の十字架の死と復活の時から約40年後に起こるエルサレムの滅びについて予告されたのです。

 進みます。32~34節「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に十字架につけた。こうして、イエス様の十字架の死を予告する旧約聖書のイザヤ書53章の12節が成就・実現しました。「それゆえ、私(神様)は多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らを投げうち、死んで、罪人(つみびと)の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」

 ルカの34節「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。』」この部分がカッコに入っているのが気になるでしょうが、これはルカによる福音書の写本で、この個所が入っている写本と、入っていない写本があるのだと思われます。専門家がよく検討した上で、この個所を聖書の言葉と信じるべきだという結論を得て新共同訳聖書に入っているので、私たちは安心して、神様の御言葉として読んで全く大丈夫です。この十字架のイエス様の祈りを知って、「イエスという方は、すごい方だ」と驚き感銘を受けてクリスチャンになった方は、数多くおられると聞きます。私と妻が洗礼を受けた茨城県の教会にもおられました。細井さんという当時70代くらいの男性が、私にそう言われました。イエス様のこの祈りに感銘を受けて、洗礼を受けたと。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」これは敵を赦す祈り、敵を愛する祈りです。イエス様は、マタイ福音書5章の「山上の説教」で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と説かれましたが、まさにその通りに敵を赦し、敵を愛する祈りをされました。

 私が中学3年生だった1981年5月13日、カトリックの当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が聖ピエトロ広場で狙撃され、二発の銃弾が命中しました。すぐ病院に運ばれ、重傷でしたが命をとり止め、2005年に亡くなるまでローマ教皇でした。4日後にヨハネ・パウロ二世は病院で犯人のことを「私を撃った兄弟」と呼んで、彼への赦しを約束されたそうです。さらに約2年半後の1983年12月27日に、ローマの刑務所に犯人を訪問し、直接赦しを伝えたらしいです。その面会後、人々にこう語ったそうです。「私たちは人間同士、兄弟同士として出会いました。私たちは皆兄弟だからです。私たちの人生のすべての出来事は、神が私たちの御父である事実から来る、兄弟愛を証明するものでなくてはなりません。」中学生だった私はそのことを新聞で見て、「ローマ教皇になるような人は、やはりすごいな」と素直に感嘆した記憶があります。「敵を愛しなさい」という教えの実行は不可能ではないかなと思っていたのですが、本当に実行した人がいると知って、感銘を受けたのです。

 「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか、知らないのです。」私がもう一人この祈りで思い出すのは、三木パウロという日本人修道士です。豊臣秀吉の迫害によって1597年2月5日に長崎の西坂の丘で殉教した「二十六聖人」と呼ばれる人々の一人です。私は現地に2回行きました。高校の修学旅行と、5年ほど前の家族旅行です。当時日本に来ていたルイス・フロイスという宣教師が記録を残しています(結城了悟訳『日本二十六聖人殉教記』聖母文庫)。彼らは最初は24人で、京都大阪から長崎まで約900キロ、基本的には歩きで(一部舟)で約1ヶ月かけて長崎に着きます。途中で志願者が2名加わって26名になったのですから、驚きです。さらに驚くべきことは、彼らは喜んでいたというのです。神様の特別の恵みによって聖霊による喜びが特別に注がれていたとしか思えません。三木パウロは、道中でもずっと説教して来ました。そして十字架に縛られた時も、見ている人々に説教しました。「私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に授けたもうた大いなる御恵みだと思う。~人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々をゆるすように教えているゆえ、私は国王(秀吉)とこの私の死刑にかかわったすべての人々をゆるす。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する。」この日本に、426年前に本当にイエス様に従った人々がいたのですね。尊敬の一言しかありません。

 ルカ福音書に戻り、35節から39節「民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシア(救い主)で、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシア(救い主)ではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」イエス様は、ののしられても言い返さないのです。「自分を救ってみろ」と何人にも言われました。しかしイエス様は、ご自分を救うことをなさらないのです。奇跡を起こすことはできるのですが、ご自分のために奇跡を起こすことはなさらないのです。奇跡を起こすのは、他の人を助けるときだけです。「自分を救ってみろ」は悪魔の誘惑です。イエス様は最後まで十字架の上で耐え忍んで死に至る必要があります。そうでないと私たちの罪の全責任を身代わりに背負いきって解決することができません。悪魔は、イエス様が私ども罪人(つみびと)全員の全部の罪を背負って解決することを失敗させたいので、イエス様を全力で誘惑します。でもイエス様はその誘惑に打ち勝たれます。決して十字架から生きて降りようとなさらないのです。人の本当の強さは、悪魔からの全ての誘惑に打ち勝つことによってこそ、示されると思うのです。

 イエス様の隣の十字架の犯罪人がののしると、別の十字架の犯罪人がたしなめました。41節「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」彼の言葉によって、イエス様が無罪なのに十字架に架けられたことが改めて明確にされます。彼は、真にささやかな最後の願いを口にしました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい。」本日は歌いませんが、この言葉だけを歌詞にした讃美歌が讃美歌21の112番です。「イエスよ、みくににおいでになるときに、イエスよ、私を思い出して下さい。」こうくり返し歌う讃美歌です。この犯罪人は「天国に入れて下さい」と言わないのです。相当悪いことをしたのでしょう。人を殺したかもしれません。天国に入る資格など全然ないと思っていたでしょう。ところがイエス様は、彼が罪を悔い改めたと認めて下さったのです。驚くべき恵みの約束を語られました。「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。」神様は、どんな悪いことをした人であっても、罪を悔い改めて救われることを、最後の最後まで待って下さっているのですね。今からでは自分は手遅れだということはないのです。真心から罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じ告白すれば、イエス様は救って下さいます。

 旧約聖書のエゼキエル書18章の、神様の御言葉が思い出されます。「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、私の掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。私は悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちとつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死(滅び)をも喜ばない。お前たちは立ち帰って(悔い改めて)生きよ、と主なる神は言われる。」「私は誰の死(滅び)をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ」とおっしゃる父なる神様の愛が、独り子イエス様を地上に送り、イエス様は私たち皆の全部の罪の責任を背負って十字架で死んで下さったのです。罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じれば、皆が天国に行くことができる道を用意して下さいました。この悔い改めた犯罪人は、今は天国で生きています。

 犯罪人に恵みの約束を語られたイエス様、午後3時頃、大声で叫ばれました。「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」父なる神様が最善をなして下さると信頼しきって、ゆだねきって、息を引き取られました。事実父なる神様は、イエス様に三日目の復活の勝利を与えて下さいました。

 今週は受難週です。イエス様の十字架の愛を特に強く魂に刻む一週間です。前にもお話しましたが、私ども夫婦に洗礼を授けて下さった牧師は、説教でご自分の恩師の牧師のことを語られました。その牧師は、受難節(受難週)には、首から釘を(おそらく紐で)ぶら下げて祈り、生活されたそうです。イエス様の十字架を少しでも実感するためだと思います。実際にそのようにしてけがをしてはいけないので、現実にそうすることをお勧めしませんが、要はイエス様の十字架の愛を深く魂に刻んで祈りつつ過ごすということと思います。その思いで今週一週間を生き、洗足木曜日、受苦日(聖金曜日)を過ごし、喜びのイースターを迎えたいものです。アーメン。


2023-03-25 22:24:32(土)
説教「十字架前夜のイエス様の祈り」2023年3月26日(日) 受難節(レント)第5主日公同礼拝 
順序:招詞 ルカ福音書15:7,頌栄28、主の祈り,交読詩編なし,使徒信条、讃美歌21・297、聖書 ルカ福音書22:31~46(新約p.154),讃美歌493、献金、頌栄27、祝祷。 

(ルカ福音書22:31~46) 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔22:43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

(説教) 本日の礼拝は、受難節(レント)第5主日の礼拝、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第58回)です。説教題は「十字架前夜のイエス様の祈り」です。新約聖書はルカによる福音書22章31~46節です。

 本日の場面は、イエス様が十字架に架けられる前夜です。イエス様の一番弟子シモン・ペトロは、事がそれほど切迫していることに気づいていません。イエス様が大切なことを言われます。「シモン、シモン(名前を繰り返すのは、大切なことを言うというメッセージ)、サタンはあなた方を、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモン・ペトロは自分の頑張りでイエス様に従ってゆけると信じていましたが、イエス様は彼の限界をご存じでした。イエス様は昼に夜に、シモン・ペトロのためにもとりなしの祈りをしておられたのでしょう。ある牧師は「とりなしの祈りの効果は絶大である」と書いていて、私たちを励ましています。非常にありがたいことに、復活されたイエス様は今も天で、私たちのために、とりなしの祈りをなさっておられます。ヘブライ人への手紙7章25節「この方(イエス様)は常に生きていて、人々のためにとりなしておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」

 33節「するとシモンは、『主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った。」これはペトロの本心だったと思います。しかしペトロは、自分の本当の姿をまだ知りませんでした。命の危険を感じるピンチに陥れば、本能的に自分を守る保身に入ってしまう自分であることを知りませんでした。イエス様は、ペトロもまだ知らなかったペトロの本当の姿、私たち自身もまだ知らない私たちの本当の姿をよく知っておられます。ですから言われます。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うだろう。」残念ながら、その通りになってしまいます。ペトロはイエス様を三度裏切ります。その直後に鶏が鳴きます。捕らえられていたイエス様が振り向いてペトロを見つめられます。ペトロは「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言われたイエス様の言葉を思い出し、激しく泣きました。イエス様を見殺しにする罪を犯したことに気づき、イエス様を裏切った申し訳なさに心を強く痛め、激しく涙を流しました。父なる神様がよしとして下さる悔い改めの涙だったと思います。

 ヨーロッパの教会には、しばしば屋根に十字架と共に鶏の形がついているそうですね。風見鶏ではありません。「ペトロを同じ失敗を繰り返すな」のメッセージです。
この建て直した会堂が完成したのは2011年7月だったと思いますが、建築を始める前にいくつかの教会を参考に見学しましたが、見学した教会の1つの外壁に鶏のシンボルマークが付けられていました。同じメッセージでしょう。教会に来て鶏のマークを見る度に、「自分はイエス様を裏切っていないか? ペトロと同じ失敗を繰り返していないか? ちゃんとイエス様に従って生きているか?」と自分に問いかけるために鶏のマークがついているのだと思います。

 私の手元に『嵐の中の教会 ヒトラーと戦った教会の物語』という本がありますが、これはドイツがナチスの支配下にあった1930年代~1940年代のドイツの教会の苦闘を、事実に基づき少し脚色して書かれた本です。この中で牧師が説教して、「ヒトラーよりもイエス・キリストに従わなくてはいけない」と語ります。教会の礼拝に集まる時、鶏を見よう。イエス様の十字架の時のペトロのように、自分たちがイエス様を裏切っていないか、自分の信仰を吟味しようという意味のメッセージを語ります。ナチス政権が、神様の民ユダヤ人を大勢殺し、侵略戦争を行っていた時代です。教会はナチスに従うのではなく、イエス・キリストに従わなくてはならないというメッセージが語られます。教会に来て鶏のシンボルを見る時に、そのことを意識しようと言うのです。

 当時のドイツでは、キリスト教をドイツ的キリスト教に変える必要があると主張されました。ナチスはユダヤ人を滅ぼそうとしていたので、神の民ユダヤ人が多く出て来る旧約聖書を滅ぼそうとしたようです。旧約聖書が書かれている言語であるヘブライ語を学ぶこともなくそうとされました。しかし聖書から旧約聖書を取り除けば聖書ではなくなります。ドイツ的キリスト教というものはあり得ないのですね。そのようなナチスの迫害に、ドイツの教会も負けまいと戦いました。イエス様を裏切ってはいけないからです。その頃、日本でもキリスト教を日本的キリスト教にする必要があると主張する人々もいました。それは日本の宗教とキリスト教を混ぜるようなことで、もはやキリスト教と言えないものにすることでした。そうしてはイエス様を裏切ることになります。ドイツでも日本も、そのようにキリスト教を骨抜きにしようとする悪魔の攻撃が行われました。私どもクリスチャンは、あくまでも旧約聖書と新約聖書を神の言葉を信じることで、そのような悪魔の攻撃に負けないように信仰に生き抜く必要があります。

 この『嵐の中の教会』に登場する牧師の印象深い言葉は、これです。「聖餐式によって生まれる共同体は、国民共同体よりもはるかに深いものがあります。」当時のナチスは、ドイツ民族こそ世界で一番すばらしいと主張したようです。ところがこの牧師は、「聖餐式によって生まれる共同体は、国民共同体よりもはるかに深い」と述べます。全くその通りです。イエス様の十字架の死によって、世界の全ての民族の人々が、神様によってこの教会という共同体に招かれています。ドイツ人が一番すばらしいとか、日本人が一番すばらしいというのではなく、どの国の人も、イエス様の十字架の死と復活によってできた神の教会に招かれています。

 次の小見出しは「財布と袋と剣」です。35節以下「それから、イエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなた方を遣わしたとき、何か不足したものがあったか。』彼らが『いいえ、何もありませんでした』と言うと、イエスは言われた。『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。』」危険が迫っている切迫感が感じ取れます。必ずしも剣で物理的に戦えとおっしゃっているわけではないと思います。悪魔の支配が行われようとしているので、悪魔に抵抗する心構えをするようにおっしゃったのだと思います。
 
 やはり神様の教会である私どもは、イエス様と共に悪魔と戦く心構えを失っては、「世の光、地の塩」となることができません。ここではエフェソの信徒への手紙6章10節以下(359ページ)を連想するのがよいと思います。「悪と戦え」の小見出しの個所です。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。私たちの戦いは、血肉(人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰を締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも霊(聖霊)に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たち(クリスチャンたち)のために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」イエス様は弟子たち(使徒たち)に、この心構えで生きることを求められたのだと思います。

 ルカ福音書に戻り、37節「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、私の身に必ず実現する。私にかかわることは実現するからである。」「その人は犯罪人の一人に数えられた」と予め語られた言葉は、旧約聖書のイザヤ書53章12節にあります。イザヤ書53章は、イエス・キリストが、私たちの全部の罪を身代わりに背負って十字架で死なれたことを予告する、極めて重要な御言葉です。53章12節「彼が自らを投げうち死んで、罪人(つみびと)の一人に数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」「罪人(つみびと)の一人に数えられた」と予告されている通り、イエス様は二人の犯罪人の真ん中で十字架に付けられます。「私の身に必ず実現する。」「必ず」と訳されている言葉は、ギリシア語の「デイ」という小さい言葉です。よく申し上げる通り、「デイ」は必然、神様の必然を表す言葉です。「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、私の身に必ず(デイ)実現する。」いよいよその時がやって来ました。イエス様が私どもの全ての罪の責任を身代わりに背負って十字架で死なれるとき、イエス様が最大の使命を果たす時が来ました。

 イエス様が進んで行かれます。「オリーブ山で祈る」の小見出しです。マタイとマルコ福音書ではゲツセマネという場所で祈ったとあります。オリーブ山も近くなのでしょう。39~40節「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。」イエス様はオリーブ山でいつも祈っておられたのでしょう。私たちもいつも、毎日祈ることが必要ですね。ここまではいつもの行動ですから、弟子たちはイエス様がもうすぐ捕まるとは全く思っておらず、緊迫感が足りなかったものと思います。祈り始めましたが、熱意が足りなかったか、眠り込んでしまいます。イエス様が苦しむ姿を見て心を痛めましたが、イエス様がもうすぐ自分たちの罪をも背負って十字架で死なれるとは考えもしなかったので、睡魔に負けて祈りをやめ、眠り込んでしまいました。悪魔に、してやられたのです。

 ところがイエス様は強い方で、ひざまずいて徹夜で祈り続けられます。42節「父よ、御心なら、この杯(十字架)を私から取り除けて下さい。」これはイエス様の正直な願いです。イエス様は神の子であり、同時に人間ですが、人間としてのイエス様の正直な願いはこの祈りです。しかし次の祈りには、敬服のほかありません。「しかし、私の願いではなく、御心のままに行って下さい。」父なる神様の御心に従いますと明確におっしゃっています。マタイとマルコ福音書では、イエス様は三回祈られたと書かれていますが、このルカ福音書では、イエス様は全身全霊で時間をかけて一回祈られたように読めます。43、44節がカッコに入っているのは、この節がある写本とない写本があるからだろうと思います。「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」

 「苦しみもだえ」と訳されている言葉は、「レスリングする、格闘する」の意味を持つ言葉だそうです。イエス様の激烈な祈りに私たちは圧倒され、厳粛な思いに満たされます。私たちの罪を背負うために十字架に架かる直前に、このような命がけとも言える祈りを繰り広げられたのです。この時のイエス様と同じように全力全身全霊で祈った方々も、今ここにおられると思います。祈りに関する名著とされる本にフォーサイスというイギリスの牧師が書いた『祈りの精神』があります。フォーサイス牧師はその中で、「格闘的祈りこそ聖書を支配している理想ではないだろうか」「我々はゲツセマネの園に、父と苦闘し祈るキリスト自身を知る。キリストの祈りは最大の規模の格闘であった。」「安易な福音はキリスト教を衰亡させるものである。それは信仰を犯す結核菌である。」「祈りは、神の意志と私たちの意志の真剣な抗争であり、祈りを神と語り合う散歩のようなものにしてはいけない」という意味のことを書いています。「神に格闘を挑んで、神の御手に身を投げかけるべきである。神はこの聖き戦いを愛したもう。」

 ルカに戻り、「汗が血の滴るように地面に落ちた。」ある訳では「汗が血のしたたりのようにポタポタ地上に落ちた」となっているそうです。迫力ある場面です。この時のことだと思うのですが、ヘブライ人への手紙5章7節以下に、このように書かれています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」 イエス様の祈りが聞き入れられたというのは、十字架を避けることはできなかったが、その後に復活の勝利を与えられたことを指すのでしょう。

 ルカ22章45~46節。「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。『なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。』」今こそ、十字架に架かる時だ。イエス様はそう確信され、迷いなく十字架に向かって進む決心です。イエス様がこの真に激しい祈りを経て父なる神様のご意志に従い、十字架にかかることなしに、私どもの罪が赦されることはありませんでした。確かに私たちは、イエス・キリストを自分の救い主と信じる信仰によってのみ、父なる神様の前に義と認められます。信仰義認ですね。ただ信仰義認が可能になるためには、イエス様がこのような激しい祈りを経て十字架について下さること不可欠でした。ナチスと戦ったドイツの牧師ボンヘッファーは、「福音は、安価な恵みではなく、高価な恵みだ」と言いました。信仰義認は、イエス様の十字架の死と復活と引き換えに私たちに与えられた高価な恵み、最高に高価な恵みです。このことを深く思い、イエス様の十字架の愛に感謝し、私たちの地上の人生の最後の時まで、イエス様と共に歩みたいのです。アーメン。