日本キリスト教団 東久留米教会

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2023-02-25 20:38:39(土)
「汝らの中(うち)、罪なき者、まず石を投げうて」2023年2月26日(日)受難節(レント)第1主日礼拝説教
順序:招詞 ヨハネの黙示録3:19~20,頌栄29、主の祈り,交読詩編84,使徒信条、讃美歌21・294、聖書 エレミヤ書17:9~13(旧約p.1209),ヨハネ福音書8:1~12(新約p.180),讃美歌303、献金、頌栄85、祝祷。 

(エレミヤ書17:9~13)人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。しゃこが自分の産まなかった卵を集めるように/不正に富をなす者がいる。人生の半ばで、富は彼を見捨て/ついには、神を失った者となる。栄光の御座、いにしえよりの天/我らの聖所、イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。

(ヨハネ福音書8:1~12) イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

(説教) 本日の礼拝は、受難節(レント)第1主日の礼拝です。説教題は「汝らの中、罪なき者、まず石を投げうて」です。新約聖書は、ヨハネ福音書8章1~12節です。小見出しは「私もあなたを罪に定めない」です。聖書の中で非常に有名な個所です。内村鑑三という無教会派のクリスチャンは、この個所を「全福音の縮写」と呼んでいるそうです。難しい言葉ですが、全福音の中心、全福音の核心、福音のそのもの。イエス・キリストの人格そのものという意味だと思います。福音の凝縮です。この箇所がよくよく分かれば、福音全体が分かったと言える重要な箇所です。

 少し気になるのは、直前の7章53節から、この箇所の最後の11節まで、カギカッコに入っていることでしょう。聖書は、昔から手書きの写本によって書き移されて次の時代へ、次の時代へと受け継がれました。本日のカギカッコの中は、ヨハネによる福音書の古い写本に入っていないそうなのです。後の時代の写本には入っているそうです。それで元々のヨハネによる福音書には、この箇所は含まれていなかったのではないかという説が出て来ました。後から付け加えられたのだろうから、この箇所は新約聖書に入れない方がよいという意見も出ました。しかし後の時代の写本にはこの箇所があるのだから、当然新約聖書に入れるべきとの意見も多く、ですから新約聖書に入っています。カトリック教会でもこのことは論争になり、何とようやく1897年にローマ法皇が、この箇所は聖書に入れるという最終決定を下して、最終結論が出たそうです。このようなやや複雑な経緯があるにしても、私たちはこの箇所が今現に聖書に入れられていることを神様の尊いご意志と信じ、これを疑いなく神様の御言葉と呼んで、当然差し支えありません。

 第1~2節「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。」これが場面設定です。3節「そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ」とあります。彼らがイエス様に迫ります。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」「このような場合、一体どうするのがベストでしょうか」と謙遜に尋ねているのではなく、6節に書いてある通り、「イエスを試して、訴える口実を得るために」こう言ったのです。彼らの心は、イエス様に対する悪意に満ちていました。イエス様を陥れようとして、このように質問したのです。

 この女性ケースは、モーセが書いたと思われていた申命記22章22節のようなケースだったのでしょう。「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。」相手の男性がいるはずですが、逃げてしまったのしょう。あるいはこの女性を告発している律法学者たち・ファリサイ派の人々がおそらく皆男性なので、男性には甘く、彼が逃げるのを敢えて追わなかった可能性がありそうです。当時のイスラエルは、非常に男性中心の社会でした。今の日本も、まだまだそうと言えます。彼らはイエス様を憎んでおり、イエス様を陥れてやっつけようとしていました。イエス様が「女性を赦しなさい」と言えば、当時のイスラエルで絶対視されていたモーセの律法に違反することになり、イエス様を攻撃することができます。イエス様が「この女性を石で打ち殺しなさい」とおっしゃれば、イエス様が説いて来た愛に反することになり、イエス様を支持する人々が失望して、去ってゆくでしょう。どちらにしても
イエス様にとってマイナスをもたらす結果になります。このようにイエス様を追い込もうとしている彼らは、イエス様を憎み、悪魔に奉仕していることになります。正義の仮面をかぶっていますが、現実には悪魔に奉仕しています。

 イエス様の行動は、印象的です。イエス様はかがみ込んで、指で地面に何か書き始められたのです。イエス様は女性の方を見ないし、律法学者たち・ファリサイ派の人々をも見ない姿勢をとっておられます。女性の方を見ないのは、この女性への思いやりかもしれません。律法学者・ファリサイ派の人々を見ないことを、ある人はイエス様が彼らに対して、御顔を背けておられるのだと言います。御顔を背ける。目を背ける。自己義認に陥り、自分たちが絶対正義だと主張する彼らの姿に,イエス様は人間の醜い罪を感じ取り、御顔を背けておられるというのです。確かにそうなのだと思います。

 そしてイエス様は、指で地面に何か書き始められました。沈黙して、指で地面に何かを書いておられるのです。何を書いておられたか、分かりません。7節でおっしゃった名言「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」を書いておられた可能性もあると思います。エレミヤ書17章13節を書いておられたのではないかと推測する人たちも複数いるそうです。「イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は、地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。」「あなた(真の神様)を離れ去る者は、地下(死者の国)に行く者として記される。」これは厳しい御言葉です。律法学者・ファリサイ派の人々は、真の神様に従っているつもりだが、本当は真の神様の心から遠く離れていて、神様を捨てているに等しい。イエス様はそう感じられて、その場にいた律法学者・ファリサイ派の人々の名前を地下に行く者として、指で地面に書き記しておられたのではないか、というのです。このエレミヤ書17章13節を今日のヨハネ福音書8章との関連で思い起す人々がいるのは、「生ける水の源である主を捨てた」と書いてあることが理由の1つです。先週の説教題は「生ける水の川」で、ヨハネ福音書は今日の前の7章でした。真の神の子イエス様が「生きた水である聖霊」を与えて下さるという内容です。しかし律法学者・ファリサイ派の人々は、そのイエス様を憎んで陥れようとしています。遂には十字架の死に追いやってしまいます。彼らは「生ける水の源である主(真の神様、神の子イエス様)を捨てています。そういう人々は「地下に行く者として記される。」イエス様は、彼らの名前を指で地面に書いていたのではないかと推測する人々が発生するようです。イエス様は彼らから顔を背け、彼らの醜い罪から顔を背けて、地面に指で書いておられたのではないか、という推測です。この推測が正しいかどうかはっきり決められませんが、そう言われてみると、可能性はあると感じます。

 イエス様が沈黙して書いておられると、彼らがしつこく迫り続けました。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセが律法の中で命じています。あなたは、どうお考えになりますか。申命記に書いてある通り石打で死刑にしてよいか、それとも死刑はだめですか? どちらですか!」イエス様は、神の深い知恵でお答えになります。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」イエス様は決してテクニックとして意表を衝こうとしたのではないのですが、誰にも全く予想できない答えで、皆びっくりして黙ってしまいます。盲点(差別語?)を衝かれたとも言えます。イエス様のこのお答えは文語訳聖書で「汝らの中(うち)、罪なき者、まず石を投げうて」です。」歯切れがよいので、これを説教題にしました。ある人がこの答えに感嘆して「ううん、すばらしい。普通じゃ言えない言葉だ」と言っています。

 9節「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」さすがに年長者は、50~60年生きて来た中で、全然罪を犯さなかったと思っている人は、一人もいませんでした。年長者が去れば、若い人も続かざるを得ないでしょう。律法学者・ファリサイ派の人々が何人いたか分かりませんが、皆立ち去ってしまいました。かと言って、深く悔い改めたとは限りません。「イエスにやりこめられた。ぐうの音も出ない、完敗だ」と思っただけかもしれません。この8章の最後で、ユダヤ人たちがイエス様に対して怒りを発して、石を投げつけ殺そうとしています。ですから自分たちの罪を悔い改めたとは限らず、「あのイエスに論破されて負けた」と思っただけで、悔い改めなかったかもしれないのです。返って、イエス様への憎しみを強めたかもしれません。この律法学者・ファリサイ派の人々の罪は、やはり自己義認です。自分たちの方がイエス様よりも正しい。自分たちが一番正しいと確信し過ぎる自己義認と思います。知らず知らずのうちに、自分を真の審判者、神様にしてしまっているのですね。自己義認の罪を一度も犯したことがない大人は、いないのではないかと思います。

 ともあれ告発する人々は去り、イエス様と女性だけが残りました。10~12節。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女が「主よ、誰も」と言うと、イエス様は言われます。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 イエス・キリストは、最後の審判をなさる方です。私たちも死んだあと、イエス様の前に立って、最後の審判を言受けます。私たちも罪人(つみびと)の一人ですが、自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主と信じ告白して洗礼を受けました。まだの方は、ぜひイエス様を救い主と信じ告白して、洗礼を受けていただきたいと願います。自分の罪を悔い改めてイエス様を信じて洗礼を受けた私たちに、イエス様は宣告されます。「私はあなたを罪に定めない。私の十字架によって、あなたの罪は全て赦されている。」こうして私たちの最終的な救いが確定します。

 ここで分かることは、私たちの立場はこの女性と同じだということです。姦通の罪は犯していないでしょう。しかしモーセの十戒をこれまで100%実行して来たかというと、100%は実行できていないと思います。であれば、神様からご覧になって罪人(つみびと)です。そして私たちは罪や悪を行動に移すことは少ないと思いますが、心の中で人を憎む罪を犯したり、言葉でぶつぶつ不平不満をつぶやいたり、人の悪口を言うなどの罪は多く犯しているのではないかと思います。ですから本来なら、イエス様から「あなたは有罪です」と判決を下される者です。この女性もそうです。姦通の罪を犯したのですから、「あなたは有罪です」と宣告されるのが本来です。にもかかわらずイエス様は女性に「私もあなたを罪に定めない」、つまり無罪を宣告するとおっしゃっています。本来あり得ない100%の赦しの宣告です。なぜあり得ない赦しの宣告が可能になったのか。その答えはただ一つ。イエス様が、この女性の姦通の大きな罪をも身代わりに背負って、彼女のためにも身代わりに十字架に架かって、彼女の全部の罪への裁きを、ご自分が引き受ける。そう決心されているからです。ご自分が身代わりに十字架で死ぬことと引き換えに、「あなたのすべての罪を完全に赦す」と宣言しておられます。その覚悟なしに、「私もあなたを罪に定めない」と断言することは不可能です。

 先週の水曜日から、レント(受難節)に入っています。レントは申すまでもなく、この私のために主イエス・キリストが十字架の苦難を引き受けて下さったイエス様の偉大な愛を、特に心に強く刻み付け、悔い改めを心がける季節、イエス様に従う信仰をますます強くする季節です。レントの第一日曜日に、この「姦通の女」の個所が与えられたことは、大いに意義があることと信じます。イエス様に「100%の赦しの宣告」をいただいた後が、大切です。もちろん安心して行ってよいのです。100%赦されたのですから。但しイエス様は、はっきり付け加えられます。「これからは、もう罪を犯してはならない。」もう二度と姦通の罪を犯してはならない。もちろん彼女はその後の人生で、二度と姦通の罪を犯さなかったに違いありません。そのほかの罪も、できる限り犯さないように注意する必要があります。「これからは、もう罪を犯してはならない。」これはイエス様の弟子・使徒パウロが、ローマの信徒への手紙6章15節で書いていることと一致します。「では、どうなのか。私たちは、律法の下ではなく、恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。」口語訳聖書では、「断じてそうではない」です。

 そして「知らないのですか。あなた方は、誰かに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷になる。つまり、あなた方は罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。~かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを(五体を)義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」これがパウロの勧めであり、イエス様の御心と一致します。私は今回つくづく思ったことは、本日の「姦淫の女」の箇所は、パウロが書いたローマの信徒への手紙全体を凝縮した内容になっているということです。パウロがローマの信徒への手紙全体で言わんとすることを、「姦淫の女」の箇所が濃密に語っていると思うのです。「姦淫の女」の箇所は全体で11節ですが、イエス・キリストの福音の内容を十分に、そして濃密に語っているのです。

 私は昨年、クリスチャン作家・三浦綾子さん原作の『われ弱ければ』という映画を見ました。明治・大正を生きた矢嶋梶子さんというクリスチャン女性が主人公です。女子学院という有名なミッションスクールの校長、著名なキリスト教団体・婦人強風会の会頭というトップを務めた方です。当時男尊女卑の風潮が強かった熊本生まれです。二度の離婚歴のある男性と結婚しますが、酒を飲んで日本刀を持って暴れる人でした。前の二人の妻の子どもたち三人と、自分が産んだ三人の子どもたちの世話をしますが、夫が刀を持って暴れるので離婚します。当時、妻から離婚を申し出ることはほとんどあり得ないことでした。その後、東京に来て、まだクリスチャンでないとき、妻子ある男性との間に女の子を産みます。これは姦通です。彼女はキリスト教に出会います。原作には、教会の礼拝で説教を聴く場面があります。「姦通の女」の箇所の説教です。

 原作にはこうあります。「教会を出た楫子は、不思議な喜びに満たされていた。牧師の説く姦淫の女の話が、まさに自分のためになされたような気がしてならなかった。『われも汝を罰せじ。行け、再び罪を犯すな。』楫子はキリストが自分の行く道を示してくれたような気がした。それはキリストに従って行く道であった。」 妻子ある男性との間に子どもを産んだことは、晩年まで心の痛みとして残ったようです。しかしキリストの十字架によって全ての罪を赦され、神の子にされたことへの感謝と確信は揺るがず、女子学院校長(教育者、婦人矯風会会頭として大きな働きをなさり、平和のためにも働かれ、93才で天に召されました。原作と映画の題は『われ弱ければ』、これは罪の誘惑に弱いということを意味しているようです。自分に罪があるため、自己義認によっては生きられず、イエス・キリストの十字架によって神様からプレゼントされる神の義によって生きるしかできない矢嶋梶子さんの、私たちの現実を言い表しています。
 
 私たちも、ただイエス・キリストの十字架の身代わりの死のお陰で、神様の前に義と認められ、神の子とされました。イエス様が十字架の受難の道を、私たちのために進んで下さいました。イエス様の十字架の愛への感謝をますます深めて、この世の人生の最後まで、ひたすらイエス様と共に歩みたいのです。アーメン。

2023-02-19 0:16:02()
「生ける水の川」2023年2月19日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第57回)
順序:招詞 ヨハネの黙示録3:19~20,頌栄85、主の祈り,交読詩編なし,使徒信条、讃美歌21・482、聖書 ヨハネ福音書7:25~39(新約p.178),讃美歌352、献金、頌栄27、祝祷。 

(ヨハネ福音書7:25~39) さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。

 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」  祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

(説教) 本日の礼拝は、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第57回)です。説教題は「生ける水の川」です。新約聖書は、ヨハネ福音書7章25~39節です。小見出しは「この人はメシアか」です。

 時は、イスラエル(ユダヤ)の仮庵祭の季節です。仮庵祭は、イスラエル三大祭りの一つです。この新共同訳聖書の巻末の用語解説を見ると、仮庵祭について、こう書かれています。「ティシュリの月の15日から七日間(太陽暦の10月初旬ごろ)行われる。後代には八日間に延長された。イスラエルの民が荒れ野で天幕に住んだことを記念し、仮庵(仮の家、仮に住む小屋)を作って祭りの間そこに仮住まいをしたことに由来する名称。秋の果実の収穫祭でもあった。イエスの時代には、仮庵祭の期間中、毎日シロアムの池の水を黄金の器に汲んで神殿に運び、朝夕の供え物と共に祭壇に注ぐ行事が行われた。ヨハネによる福音書7章37、38節は、この『水』に関係がある。」イスラエルの民が出エジプトしてから40年間、いつも神様が守って下さった恵みを思い起こす祭りです。40年間に渡って、民にマナが与えられ続けました。水がなくてピンチだった時も、神様が水を与えて下さいました。その40年間、民は立派な家を建てて住むことはなく、いつも移動用の天幕・テントに住み質素で不便な生活を送りました。イスラエルの民の原点である荒れ野の40年間を忘れないための祭りが仮庵祭です。

 この祭りで盛り上がるエルサレムに、イエス様は自己宣伝のためではなく、父なる神様の御心に従って上って行かれ、エルサレムの中心と言える神殿で、説教し始められました。聞いた人々は、驚いて言いました。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう。」そしてイエス様は、エルサレムの群衆に言われました。「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」そして、本日の箇所に入ります。

 25節.イエス様の言動を見て、エルサレムの人々の中には、次のように言う者たちがいました。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシア(救い主)だということを、本当に認めたのではなかろうか。」イエス様はメシアかもしれないと思いながら、同時に人々は否定する気持ちも持っています。27節「しかし、私たちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、誰も知らないはずだ。」人々は、イエス様がベツレヘムの生まれで、ガリラヤのナザレでお育ちになったことを、よく知っていました。大工のヨセフの倅(せがれ)だとよく知っていました。あまりに身近過ぎて、有難味がを全然感じなかったのです。偉大なるメシア(救い主)は、自分たちがその赤ちゃん時代、子どもの頃を知っている青年であるはずがない。メシアは、どこか別の場所から来る立派な先生に決まっている。威厳に満ちた方でなければならない。ところがイエス様は、その期待とは全く異なる、普通の青年に見えたので、メシアと思えなかったのです。ルカ福音書4章24節でイエス様ご自身が、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と述べておられます。

 このように「この方はメシアではないだろう」の意味のことをぶつぶつ言っている人々の言葉を聞いて、イエス様は抗議するように、大声で言われます。「あなたたちは私のことを知っており、また、どこの出身かも知っている。私は自分勝手に来たのではない。私をお遣わしになった方(父なる神様)は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。」エルサレムの人々は、神様を知っているつもりになっているが、実際には父なる神様がどのような方か、分かっていないという意味でしょう。しかしイエス様は、天の父なる神様のもとから来られたので、父なる神様を直接、直に知っておられます。ですからイエス様は言われます。29節「私はその方を知っている。私はその方のもとから来た者であり、その方が私を遣わしになったのである。」イエス様が父なる神様のもとから直に来たと言われたので、人々は冒涜だと思たのでしょう。人々はいきり立って、イエス様を捕らえようとします。しかし神様がそれにストップをかけられたので、人々は捕えようとしたけれども、できませんでした。神様の許可がなければ、人は何もできないのですね。「イエスの時はまだ来ていなかったからである。」イエス様の時とは、イエス様の十字架に架かって、私たちの全部の罪を身代わりに背負って私たちに救いを与えて下さるその時です。父なる神様がその時を決めておられます。その時が来るまで、イエス様が捕らえられることは、あり得ないのです。群衆の中には、イエス様に好意的な人々も大勢いて、こう言いました。「メシアが来られても、この人よりも多くのしるし(奇跡)をなさるだろうか。」「いや、この方以上にしるしを行うことができる方が来られるとは思えない。やはりこの方がメシア(救い主)に違いない」と思う素直で、神様の御心に適う群衆も多くいたのです。

 これを聞いて、「これはまずい」と危機感を持ったのが、ファリサイ派の人々と祭司長たちです。イエス様を憎む人々です。彼らはイエス様を捕らえるために、下役たちを遣わしました。イエス様が言われます。33~34節。「今しばらく、私はあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方(神様)の元へ帰る。あなたたちは、私を捜しても、見つけることがない。私のいる所(天)に、あなたたちは来ることができない。」イエス様は十字架で死なれた後、死者の国に降られ、十字架の三日目に肉体をもって復活され、天に昇られます。今も天で生きておられ、そこから聖霊を注いで下さいます。
 
 ユダヤ人たちには、このことが理解できません。地上のこと(水平次元のこと)で心と頭がいっぱいだからです。イエス様は垂直次元のことを話しておられます。イエス様は天から来られ、十字架の死と復活を経て、天に戻られます。この垂直次元のことが、ユダヤ人たちに分からなかったのです。私たちもつい、水平次元のことで心と頭がいっぱいになります。もちろんこの地上のことも大切ですが、水平次元だけで生きていると、行き詰まります。詩編121編が思い出されます。「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは来る、天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守って下さるように。見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけて、あなたを見守り、あなたの魂を見守って下さるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守って下さるように。今も、そしてとこしえに。」私たちの助けは来る。天地を造られた主のもとから。垂直次元があることが、私たちの救いです。

 旧約聖書の列王記下20章に「ヒゼキヤ(王)の病気」という個所があります。南ユダ王国のヒゼキヤ王が、真に厳しい病にかかったのです。ヒゼキヤ王は顔を壁に向けて、主にこう祈りました。「ああ、主よ、私が真を尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行って来たことを思い起こして下さい。」こう言って、ヒゼキヤ王は涙を流して大いに泣きました。すると預言者イザヤに、主の言葉が臨みました。神の言葉です。「わが民の君主ヒゼキヤのもとに戻って言いなさい。『あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。私はあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、私はあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。私はあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都(エルサレム)を救い出す。』」イザヤが「干しいちじくを取って来るように」と言うので、人々がそれを取って患部に当てると、ヒゼキヤは回復したのです。神様が、涙の祈りに応えて、癒して下さいました。水平次元だけでは行き詰まりますが、ありがたいことに、真の神様という垂直次元の方がおられます。天から助けが来るのです。

 ヒゼキヤは、預言者イザヤに言いました。「主が私を癒され、私が三日目に主の神殿に上れることを示すしるしは何でしょうか。」イザヤが答えます。「ここに、主によって与えられるしるしがあります。それによって主は約束なさったことを実現されることが分かります。影が十度進むか、十度戻るかです。」ヒゼキヤは答えます。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ影を十度後戻りさせて下さい。」そこで預言者イザヤが主に祈ると、主は日時計の影、アハズの日時計に落ちた影を十度後戻りさせられた。」地球の自転を逆転させれたということでしょうか。天地を創造なさった神様の驚くべき御業が行われました。ヒゼキヤの涙の祈り、イザヤの祈りが聞かれ、ヒゼキヤは癒されました。垂直次元の天の神様から与えられた救いです。その天に、今もイエス様がおられ、私たちの祈りに耳を傾け、私たちのうめきの祈りをも父なる神様にとりなして下さり、天から愛と慰めの聖霊を注いで下さいます。
 
 ヨハネ福音書に戻り、37節以下です。「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書(旧約聖書)に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている霊(聖霊)について言われたのである。イエスがまだ栄光(十字架と復活の栄光)を受けておられなかったので、霊(聖霊)がまだ降っていなかったからである。」

 これは大声で言われたイエス様の招きです。「渇いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい。」イエス様は私たち皆を、イエス様の元へと招いておられるのです。仮庵祭が最も盛り上がる最後のクライマックスの日に、あえて大声で私たちを招かれます。最初に申した通り、仮庵祭では、毎日シロアムの池の水を黄金の器に汲んで神殿に運び、朝夕の供え物と共に祭壇に注ぐ行事が行われたそうです。最後の日はそれが最も盛大に行われたそうです。このシロアムの池からの水こそ、「命の水」だ。神様がこれを私たちに与えて下さる。人々は喜びました。しかしイエス様は、違うと言われます。「その水を飲めば、肉体は元気になるが、魂を潤すことはできない。その水は体を生かすが、永遠の命を与えることはできない。永遠の命に至る水(聖霊)を受けるために、私の元に来なさい。」これがイエス様の大声での招きです。イエス様がこのヨハネ福音書の4章13~14節で言われた御言葉を思い出すのが適切です。「この水(井戸水やシロアムの池の水)を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
 
 今日の個所でイエス様は言われます。「私を信じる者は、聖書(旧約聖書)に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエス様が、信じて洗礼を受ける人に、聖霊を注いで下さるからです。イエス様から与えられて初めて、その人の内から生きた川(聖霊)が流れ出ます。「その人の内」の「内」という言葉は、「腹・お腹」と訳すこともできます。現に口語訳聖書は、「その腹から生ける水が川となって流れ出る」と訳しています。聖書の表現は、抽象的・観念的であるより具体的なことが多いです。よく申しますように、「憐れみ」という言葉は直訳では「内臓、はらわた」です。「その腹から生ける水が川となって流れ出る。」イエス様から聖霊を注がれて、私たちは初めてそうなります。そこで「その人の内(腹)から生きた水が流れ出る」一番目の方はイエス様ということになります。

 私たちは、ヨハネ福音書19章の十字架の場面を思い起こします。イエス様が死なれた後、「兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た。」わき腹から水が流れ出たのですが、これは聖霊のシンボルとも考えられます。イエス様は、ご自分の中におられる生ける神の霊・聖霊を、私たちに注いで下さいます。「私を信じる者は、聖書(旧約聖書)に書いてある通り、その人の内(腹)から生きた水が川となって流れ出るようになる。」この旧約聖書の個所の1つは、エゼキエル書47章です。昨年末まで木曜日の聖書の学び・祈祷会で、エゼキエル書を学んでいましたから、やや懐かしいですね。47章の小見出しが「命の水」です。この水は清らかな水で、真の命を与える聖霊のシンボルと思います。1節「見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。」ヨハネ福音書(2章21節)では、イエス様の体こそ神殿です。イエス様という神殿から聖霊が流れ出るのです。

 エゼキエル書47章の「命の水」の描写は美しい。「これらの水は(…)汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、全てのものが生き返る(復活の命の水!)。(…)そこの魚は、色々な種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。(…)川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」このような命の水、永遠の命の水が、真の神殿であるイエス様から流れ出て、私たちに注がれ、私たちから流れ出て行きます。それは聖霊です。東久留米教会にお客様が来られると、私は必ず南沢湧水、落合川にご案内します。環境省の「平成の名水百選」です。

 私の個人的な体験では、私が24才で大変落ち込んでいた日に、イザヤ書43章を読んで、大変感動したことがあります。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。私は主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。私はエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。私の目にあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、私はあなたと共にいる。」この御言葉に、深い感動を覚えたのです。聖霊のお働きであったと思っています。イエス様を信じる人皆に、この恵みの聖霊が注がれます。

 私も授業を受けた東京神学大学の先生であった大木牧師という方が、数か月前に天に召されました。大木先生は、太平洋戦争敗戦当時、陸軍幼年学校の生徒でした。非常なエリート集団だったそうで、朝はまず皇居に向かって敬礼、軍人勅諭暗唱だったそうです。天皇教のようなものです。敗戦で価値観はひっくり返り、天皇は神でなくなりました。会津に帰郷していたその1945年秋、賀川豊彦という有名な牧師の伝道集会にふらりと出席しました。まだ軍服を着たままです。賀川牧師に前に出るように言われ、全てを察したかのように賀川牧師は大木少年の混乱している頭に手を乗せ、祈りの言葉を唱えました。「暗い帰り道、不思議な温かい気持ちに包まれた」と大木先生は振り返っておられます。「不思議な温かい気持ち」、聖霊が注がれたのだと思います。洗礼を受けたのはまだ後でしょうが、永遠の命の霊である聖霊が与えられたのでしょう。

 「渇いている人は、誰でも、私の所に来て飲みなさい」とイエス様が大声で私たちを招かれます。安心してイエス様の元に行き、永遠の命に至る聖なる愛の水・聖霊を飲ませていただきましょう。天国も教会の礼拝も、この聖霊が満ち満ちている所なのです。アーメン。

2023-02-05 1:10:38()
「キリストがもたらした福音によって生きる」 2023年2月5日(日)降誕節第7主日公同礼拝説教
順序:招詞 ヨハネの黙示録3:19~20,頌栄85、主の祈り,交読詩編82,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・54、聖書 申命記5:12~15(旧約p.289)、ヨハネ福音書7:10~24(新約p.178),讃美歌431、献金、頌栄92、祝祷。 

(申命記5:12~15) 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。

(ヨハネ福音書7:10~24) しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。

(説教) 本日の礼拝は、降誕節第7主日の礼拝です。説教題は「キリストがもたらした福音によって生きる」です。新約聖書は、ヨハネ福音書7章10~24節です。小見出しは「仮庵祭でのイエス」です。

 最後にヨハネ福音書による説教を行ったのは1月15日の礼拝で、ヨハネ福音書6章60~71節を読みました。今日はその続きですから、7章1節より読むのが本当でしょうが、7章も長いゆえもあり、本日は7章10~24節を読みました。時はイスラエル(ユダヤ)の仮庵祭の季節です。ユダヤ人の三大祭りの1つですから、仮庵祭の時期には大勢でエルサレムがごった返したでしょう。7章2節を見ると、イエス様の兄弟たちがイエス様に言っています。「ここガリラヤを去ってユダヤに行き、あなたのしていることを弟子たちに見せてやりなさい。」お兄さんはよいことをしているのだから、人が大勢集まるこの時期にこそ首都エルサレムに行き、大いに自分をアピールしなさい。そうすればあなたはもっと有名になる。そして皆の期待に応えるリーダーになりなさい。いわばそうけしかけたのです。この言い方には、イエス様がパン五つと魚二匹で大群衆を満腹になさった時に、群衆がイエス様を王様に祭り上げようとしたことと共通するものがあると感じます。人々のニーズを満たして、人々にもてはやされ、ちやほやされる有名人になって、楽しく生きなさい、という唆しです。これは悪魔の唆しです。悪魔は、人間を用いて私たちを誘惑するのですね。イエス様は、これが悪魔の誘惑であることをすぐに見破り、この唆しを拒否します。イエス様は兄弟たちに、「あなた方は祭りに上って行くがよい。私はこの祭りには上って行かない。まだ、私の時が来ていないからである。」こうおっしゃり、イエス様はガリラヤにとどまられました。イエス様は自己宣伝をなさらないのです。

 そして本日の10節以下に入るのですが、やや意外な展開になります。「しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエスご自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。」これは自己宣伝のためではなく、父なる神様のご意志と分かったので、上って行かれたのでしょう。イエス様の時が近づき始めています。イエス様の時とは、イエス様が私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って、十字架におかかりになる時です。これこそ、父なる神様が独り子イエス様にお与えになった使命にほかなりません。11~13節「祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、『あの男はどこにいるのか』と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』という者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。」

 そして14節「祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。」祭りの半ばは、祭りが盛り上がり始めた頃と思います。人々が大勢神殿に集まっています。そこでイエス様が、堂々と説教を始められました。ユダヤ人たちは驚いて、「この人は学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう?」と言いました。イエス様は、子どもの頃から安息日の礼拝で、聖書(ここで言う聖書は旧約聖書)をよく学ばれたに違いありませんが、高校や大学に通ったことはなく、いわゆる学歴がありません。学歴がないのに、立派な話をなさるので、人々は大いに驚いていました。イエス様は神の子なので、旧約聖書の御言葉と聖霊の助けによって、聖書の深い話をなさいました。イエス様はあくまでも、ご自分の主張を説教なさるのではなく、父なる神様の御心を説教なさるのです。ご自分のためではなく、ただ父なる神様のご栄光のために説教なさるのです。

 イエス様は、16節以下で語られます。「私の教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」私たち多くの人間は、自分を主張し、自分の栄光を求める本能を持っているのではないでしょうか。特に男性は一般的にそうです。イエス様は違うのです。イエス様はただ、父なる神様の栄光のために奉仕なさり、働かれるのです。教会の牧師は、伝統的にガウンを着ます。私は洗礼式と聖餐式のとき、そして葬儀や結婚式のときのみ、着用致します。ガウンは黒いことが多いです。黒には意味があります。自分に死ぬことです。自分の主張を殺し、ただ神様の御言葉のみを語るために、黒いガウンを着ます。黒は自分の自分勝手な言葉に死んで、ただ神様の御言葉のみ、御心に適う言葉のみを語るという意味が黒いガウンにあります。イエス様は黒いガウンを着ることはなかったと思いますが、イエス様には全く罪がないので、黒いガウンを着る必要がありません。人間の牧師には、残念ながら罪が残っているので、黒いガウンを着る時、「自分勝手な思いを殺して、ただ父なる神様の御心を語らせて下さい」と祈り、心がける必要があります。

 イエス様がユダヤ人たちに言われます。19節「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、私を殺そうとするのか。」モーセは、神に従う良い人。律法(その代表は十戒)は、神の正しく良い教えです。モーセもよい、律法もよいもの。イエス様はもちろん神の子で、最もよい方。ところがヨハネ福音書に登場するユダヤ人たちが、そのイエス様を憎み、イエス様を殺そうとしてしまう。どうしてそうなってしまうのか。ある意味、実に不思議です。20節で群衆が答えます。「あなたは悪霊に取りつかれている。誰があなたを殺そうというのか。」これは群衆がとぼけてこう言っているのであって、彼らユダヤ人たちは、本当にイエス様への殺意を抱いています。その理由は、このヨハネ福音書5章に記されています。それはイエス様が安息日(礼拝に専念して、仕事を一切行わない日)に病人を癒して、安息日の決まりを破ったと思われたこと。そして神様を父と呼んで、ご自身を事実上神の子であると宣言なさり、ご自分を神に等しい者となさったことです。ユダヤ人たちには、イエス様が異常に思い上がる罪を犯していると見えました。しかし、イエス様は本当に神の子なので、全く思い上がりではないのです。

 イエス様は言われます。21節以下「私が一つの業を行った(安息日に病人を癒した)ので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなた方に割礼を命じた。―もっとも、これはモーセからではなく、族長たち(ユダヤ人の先祖のアブラハムたち)から始まったのだが―だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。」つまりイエス様の論法は、「あなたたちは旧約聖書の十戒に基づいて安息日に仕事を一切しないようにしているが、例外も設けているではないか。それは割礼だ。ユダヤ人・イスラエル人の男の子は、生まれて8日目に割礼を受ける決まりに従い、生まれて8日目が安息日の男に子には、あなた方は安息日であっても割礼を施す仕事をしているではないか。割礼を受けることは、神様の民の一員となる大切な契約、その子が神様の愛の契約に入る救いのしるしで大切だから、安息日でも割礼を授ける仕事は行ってよいと決めているではないか。それはよいことだ。愛を行うことは、父なる神様の御心に適うよいことだ。それと同じで、私が安息日に病人を癒したことも、その人を救う愛の業だから、父なる神様の御心に適うよいことだ。かたくなにならないで、そこで分かってほしい。」イエス様は、こう訴えておられます。

 23~24節「モーセの律法(生まれて8日目に男の子に割礼を施すことは、モーセ五書と呼ばれる旧約聖書の最初の5つの書物の3冊目のレビ記12章3節に書かれている)を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、私が安息日に全身を癒したからと言って腹を立てるのか(それは筋が通らないよ)。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」ユダヤ人たちは「自分たちはモーセの弟子だ」と主張していました。イエス様は言われるでしょう。「モーセの心と、私の心は一致するのだよ。あなた方がモーセの弟子ならば、私の行うことに賛成するはずだ。賛成できないのは、あなた方がモーセの弟子だと言いながら、実はモーセの心を分かっていないからだよ。謙虚になってモーセの心を学び直してほしい。」

 ここで安息日について考えてみましょう。安息日を旧約聖書のヘブライ語で「シャッバート」と言いますね。シャッバートには、「中断する」という意味があると学びました。人間の業(仕事)を中断して神様を礼拝し、神様の御言葉に聴き入ります。すると自分が進んでいる生き方の、この部分とこの部分は、神様の御言葉に従ってこう修正する方がよいと気づくこともあるでしょう。自分の罪に気づいて悔い改めに導かれることもあるはずです。神様の御心に適う方向に軌道修正するために、自分の業・仕事を中断して神様を礼拝し、神様の御言葉に聴き入ることは、大きな失敗に至らないために、非常に大切なことと思います。

 安息日の起源は、神様の天地創造にあります。創世記は、神様が六日間で世界を創造なさったと記します。そして「第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」神様が仕事を離れて安息なさったので、私たちも仕事を中断して離れ、神様を礼拝し、神様の安息をいただく日が安息日、私たちにとっては日曜日の礼拝です。

 確かに出エジプト記20章のモーセの十戒の安息日の規定には、「いかなる仕事もしてはならない」と書かれています。ですからイエス様を憎んだユダヤ人たちの言い分も分かる気がします。出エジプト記20章10節には、「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」ここを強調すれば、安息日に病人を癒すことも、安息日の決まりに背く大きな罪という考えが出て来ます。でももう少し考えます。安息日シャッバートには「中断する」の意味がある。仕事を中断するのですが、仕事を中断するとは「人間の業」を中断すること、それは究極的には私たち人間の「罪」を中断し、罪・エゴイズムを捨てることだと思います。罪・エゴを捨てるとは、罪の反対の愛を行うことになります。神様を愛して礼拝し、隣人を(さらに敵を)愛して病人の手当てをしたり癒すこと。これこそ安息日の目的であり、安息日に最もふさわしいことになります。イエス様が、ユダヤのファリサイ派の人々と論争して下さったお陰で、私たちは安息日の真の意義を悟ることができるようになりました。

 前にも読みましたが、モーセの十戒は申命記5章にも出てきます。出エジプト記20章の十戒の安息日の規定と、少し書き方が違います。申命記5章12節以下「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられた通りに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたの息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなど全ての家畜も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」神様はあなたをエジプトでの奴隷状態から解放して、安息を与えて下さったではないか。その恵みを思い起こすのが安息日だ。だから安息日にはあなたの奴隷を仕事から解放し、牛、ろばにも休みを与えなさい。この申命記の発想からすると、病人を癒して病から解放することは、安息日の心にぴったり一致します。申命記の心とイエス様の心は、一致するのです。

 但し、旧約聖書には、人が安息日の規定を破った場合、相当厳しい処置がなされたことを記している箇所があることも事実です。民数記15章32節以下を見ると、イスラエルの人々がエジプトを脱出して荒れ野を旅していたとき、ある男が安息日に薪を拾い集めていました。仕事をしたのです。神様がモーセに言われました。「その男は必ず死刑に処せられる。共同体全体が宿営の外で彼を石で打ち殺さねばならない。」その通りに実行されました。この箇所を読むと、ユダヤ人たちが、安息日に病人を癒したイエス様を殺そうとしたのも、少し分かるような気がします。旧約聖書には、このような非常な厳しさもあります。

 旧約聖書の安息日と、私たちクリスチャンの日曜日の礼拝には、もちろん共通する部分も多いのですが、私たちクリスチャンは日曜日という礼拝の日を、もう少し福音的に捉えてよいと思います。私たちの日曜日は、真の神様を礼拝し、罪・エゴの業をできるだけ捨て、隣人愛を実行する日と積極的に捉えてよいのではないでしょうか。家族を支えることも、もちろん隣人愛です。イエス様は最後に言われます。「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」ごもっともです。これは私たちの毎日の課題であり、一生の課題です。「自分はうわべだけで裁いていないか。神様の御心に適う深い裁き・深い判断をしているだろうか。」いつもそのように自分に問いかけたいと思います。この教会に草刈眞一さんという大変熱心なクリスチャンがおられました。今は天国におられます。日曜礼拝の出席率はほぼ100%でした。まだ30才ちょっとだった私に言われました。「私が礼拝中に足を組むことを了解してほしい。本当は礼拝で足を組むことは、神様に失礼なので、したくない。しかし年をとって膝が痛くなり、足を組まないと礼拝中1時間と少々、痛くて座っていられない。申し訳ないが、礼拝中に足を組むことを了解してほしい。」とおっしゃったのです。もちろん私は「はい、分かりました」とお答え致しました。でも言われないと分からなかったと思います。「あれほど神様に誠実な草刈さんが、なぜ礼拝で足を組むのかな」と思っただろうと思います。お話を伺って、「そういう事情がある」と分かりました。人それぞれ事情があります。うわべだけで裁いてはいけないと思った次第です。

 イエス様を憎んだユダヤ人たち(ファリサイ派)の罪は、自分たちはイエス様よりも正しいと思い込んだことと思います。もちろんイエス様のお考えと行動が最善ですが、彼らは自分たちの方がイエス様より正しいとの間違った思い込みに陥っていました。私たちもいつの間にかそうなる場合があり得ます。自分が絶対正しいと思ってしまうのです。私もそうなることがあります。キリスト教の用語で自己義認の罪です。自分で自分を全面的に正しいと決めてしまう罪です。私たちは皆罪人(つみびと)であり、神様によって、ただイエス様の十字架のゆえに義と認めていただくことができるだけです。それなのに、いつの間にか自己義認に走ってしまうのですね。

 ある方の説教で「正し過ぎてはいけない」という言葉を聞いたことがあります。コヘレトの言葉7章16節から来ているのではないかと思います。新共同訳では、「善人過ぎるな」になっています。新改訳聖書で「あなたは正しすぎてはならない」、口語訳聖書で「あなたは義に過ぎてはならない」となっています。これはユダヤ人たちのファリサイ派を、私たちの自己義認の罪を戒める御言葉の可能性があります。

 カトリック作家の遠藤周作さんが「善魔」という独特の言葉を使ったそうです。聞き慣れない言葉と思います。善魔。悪魔が悪いことは誰にでも分かります。福音書に出て来るユダヤ人たちのファリサイ派、自分の方がイエス様より正しいと確信してイエス様を十字架に追いやった彼らが善魔だと思います。善魔の正体は悪魔なのです。私たちは悪を行ってはいけないのはもちろんですが、善魔にもならないように気をつける必要があります。もちろん正しいことは非常に大切なのですが、行きすぎて私が善魔にならないように気をつける必要があります。私が自己義認に陥るとき、私は善魔という悪魔に従ってしまっています。やはり基準はイエス様です。イエス様ならどう判断し、どう行動なさるか。私たちはいつも深く祈り深く考えて、イエス様の真似をしたいものです。悪魔に従わず、善魔にもならず、ただイエス様の心を見つめ、ただイエス様に従って参りたいものです。アーメン。


2023-01-28 22:15:27(土)
「新しく創造される恵み」 2023年1月29日(日)降誕節第6主日公同礼拝説教
順序:招詞 使徒言行録4:29,頌栄29、主の祈り,交読詩編81,使徒信条、讃美歌21・17、聖書 創世記1:26~28(旧約p.2)、ガラテヤの信徒への手紙6:11~18(新約p.350),讃美歌515、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(創世記1:26~28) 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。

(ガラテヤの信徒への手紙6:11~18) このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。 

(説教) 本日の礼拝は、降誕節第6主日の礼拝です。説教題は「新しく創造される恵み」です。新約聖書は、ガラテヤの信徒への手紙のしめくくりの部分です。小見出し「結びの言葉」です。

 この手紙を書いたイエス様の弟子・使徒パウロは、本日の直前の個所で私たちに、「たゆまず善を行いましょう。~今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」と勧めています。それは律法主義ではなく、イエス・キリストの十字架の愛に対する、私たちの感謝の応答なのですね。

 本日の最初の11節「この通り、私は今こんなに大きな字で、自分の手であなた方に書いています。」パウロは目が悪く、目の辺りは見栄えもよくなかったと思われます。事実この手紙の4章15節でパウロはガラテヤの教会の人々に、こう書いています。「あなた方は、できることなら、自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです。」パウロが目が悪かったからでしょう、ローマの信徒への手紙は、パウロが語る言葉をテルティオという別の人が筆記したと書かれています。ところがガラテヤ教会は、パウロが自分の手で書いている。それだけ全力でこの手紙の内容をガラテヤ教会の人々に伝えたいと切望したからではないかと思います。「私は今こんなに大きな字で、自分の手であなた方に書いています」と述べています。「こんなに大きな字で。」目が悪いのでつい大きな字になるということもありますが、それ以上にこの内容を是が非でも、ガラテヤ教会の人々に伝えたいと力が入ったあまり「こんなに大きな字で」書く結果になったと思えます。

 12節「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなた方に無理やり割礼を受けさせようとしています。」イエス・キリストの福音(キリスト者の自由)に生きていたガラテヤの教会に、逆戻りの間違った教え(律法主義、自力救済の教え)を説く人々が入り込み、教会に混乱をもたらしていました。それでパウロは、イエス・キリストの教会が依って立つ土台を改めて明確にするために、この手紙を書きました。この手紙は私たちにとっても重要です。教会が依って立つイエス・キリストの福音を確認するために、私たちは何度でもこの手紙を読み返すとよいですね。福音が明確に分かってくると信じます。

 逆戻りの間違った教えを持ち込んだ人々は、ユダヤ人(イスラエル人)と思われます。もちろん、だからと言ってヨーロッパで起こったようなユダヤ人全体への迫害を行うことは大きな間違いです。それはともかく、ガラテヤの教会にユダヤ人が持ち込もうとした律法主義は、やはり間違いです。彼らはガラテヤの教会のクリスチャンたちに、「割礼も受けなければ救われない、天国に行けない」と説いたようです。もちろんその必要はないのです。割礼は、旧約聖書の時代には真の神の民のしるし、真の神様と契約を結んだ民の一人であることを示す非常に重要なことでした。もちろん旧約聖書も神様の御言葉ですが、新約聖書の時代の今は割礼は全く必要ありません。割礼には、私たちを救う力、私たちに永遠の命を与える力は全くないのです。私たちが割礼を受ける必要は全然ありません。13節「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなた方の肉について誇りたいために、あなた方にも割礼を望んでいます。」クリスチャンになった人々にも割礼を受けさせて、自分たちの仲間うちで、ほめられたいのでしょう。

 14節が、パウロの魂を込めた全身全霊のメッセージです。「しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」パウロの確信、私たちの確信は、「イエス・キリストの十字架だけが、私たちの全ての罪をゆるす愛の力を持っている」ことです。逆に言うと、宇宙広しと言えども、イエス様の十字架の死以外に、私たちの全ての罪をゆるす力をもつものは、何一つ存在しないということです。パウロは、この手紙の3章1節で、間違った教えに引きずられかけているガラテヤの教会の人々を叱っています。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、誰があなた方を惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」これが具体的にどんな体験を指すのか分かりませんが、イエス様の十字架の大切さを明確に強調する言葉です。「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」私たちのこの礼拝堂の正面にも、十字架が掲げられています。この十字架の大切さを、私たちも目と魂に毎週焼き付けたいのです。

 14節の後半「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。」世とは、神様に逆らう悪魔と罪を指すと言えます。私たちはイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける前は悪魔の支配下、罪の支配下にあったのです。しかしイエス様が十字架で、私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って死んで下さったお陰で私たちの罪は全部赦されました。そして私たちは悪魔の支配、罪の支配から解放されたのです。今や私たちは悪魔の支配下、罪の支配下から完全に切り離され、悪魔と罪とのつながりから断ち切られ、悪魔と罪との支配下から解放されたのです。悪魔と罪から独立した私たちになりました。最高にありがたい恵みです。ただイエス様の十字架の身代わりの死のお陰です。イエス様の十字架と復活の恵みを受け入れて洗礼を受けたことで、この恵みの中に入ることができたのです。「世は私に対し、私は世に対してはりつけにされている」とは、私たちと世(悪魔と罪)とのつながりが切れたということです。最も嬉しいことです。

 15節「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」私たち異邦人(イスラエル人でない)クリスチャンは、割礼を受ける必要が全くありません。割礼には私たちの罪を赦す力が全くないからです。私たちの全部の罪を赦す偉大な力を持つものは、イエス様の十字架の死のみです。そのイエス様の十字架の死と復活による恵みを私たちが受けるためには、自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じ告白し、イエス様に自分の全てを委ねて洗礼を受けさえすればよいのです。洗礼を受けることで私たちは、イエス様という「ぶどうの木」の枝となり、イエス様という「ぶどうの木の幹」から聖霊という栄養分を受け、愛という実を結ぶ者へと新しく造り替えられる、新しく創造されます。

 「大切なのは、新しく創造されることです」の御言葉を読めば、どうしても同じパウロが書いたコリントの信徒への手紙(二)5章17節を思い出します。「だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」イエス・キリストを信じて洗礼を受ける人は皆、神様によって新しく創造される。古い罪深い自分はイエス様と共に十字架につけられて死に、イエス様と共に復活して、イエス・キリストに(人格が)似た者に新しく創造され、新しく造り変えられました。神の子でなかった人が、神の子になるという大きな変化、新しく創造される大きな変化が起こったのです。

 そもそも私たち全ての人間は、神様によって造られました。私たちは最初の人間ではないので、神様によって直接土の塵から造られたのではなく、皆、母親から生まれて来ました。その場合でも、神様によって造られた命であることに違いはありません。最初の人間の創造の場面は、旧約聖書の創世記1章26節以下に記されています。有名な場面です。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這う生き物をすべて支配せよ。』」 神様は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われました。神様はお一人なのに、そして旧約聖書では神様が三位一体の神であられることはまだ明確に出ていないのに、なぜ「我々」と複数形なのか、という疑問が生じます。私が聞いた1つの解釈は、「我々という言い方は、神様ご自身の内部の対話を指す。神様がご自分と相談しておられる」というものです。神様がご自分と対話・相談しておられる「神様の熟慮」がこの「我々」という言い方に現れているという解釈です。そうかもしれません。もしそうだとすれば神様は深く熟慮して、深く配慮して、愛をこめて私たち一人一人の人間を造って下さったことが分かると思います。

 その後、残念ながら最初の人間たちエバとアダムが、蛇(悪魔)の誘惑に負けて、神様から離れ、悪魔と罪の支配下に落ち込んだことが、創世記3章に記されています。それ以来、全ての人間は、悪魔と罪の支配下にある者として生まれて来るようになりました。キリスト教の用語を用いるなら「原罪」を持った状態で、生まれて来るようになりました。自力で努力しても、悪魔と罪(原罪)の支配から抜け出ることができないのです。そんな私たちを救って下さりたった一人のお方が、イエス・キリストです。私たちの原罪と、その後の人生で犯してしまう1つ1つの罪、全部の罪。それらの罪のために私たちは父なる神様に裁かれるべきなのですが、イエス様が十字架にかかって、私たちの全部の罪の裁きを身代わりに受けて下さいました。全ての人がイエス様を信じて、救われる必要があるのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける人は皆、罪赦された新しい人に創造される、再創造されるのです。神の愛の力、聖霊の働きによってです。新しく創造された私たちは、お祈りして日々聖霊を注がれ、(自分の努力でできませんが)聖霊の助けによって、神様を愛し、隣人を愛する生き方へと踏み出してゆきます。

 16節「このような原理に従って生きて行く人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。」私たちは民族としてのイスラエル人ではありません。しかし聖霊を注がれて、霊のイスラエル人、新しいイスラエル人になりました。真の神の民になったということです。このような霊のイスラエル人(真の神の民)つまりクリスチャンたちに、「平和と憐れみがあるように」とパウロが祈っています。17節「これからは、誰も私を煩わさないでほしい。私は、イエスの焼き印を身に受けているのです。」当時の奴隷は、主人の名前の焼き印を押されていたのかもしれません。クリスチャンはイエス様を主人とする焼き印、イエス様のお名前の焼き印と押されています。それは洗礼でしょうね。「この人はイエス・キリストに属する人」という焼き印です。「この人はもはや悪魔と罪に属していない。イエス・キリストと父なる神様に属する人だ」という焼き印、それが洗礼です。ぜひ全ての方がイエス様を救い主と告白して、イエス・キリストに属する人となる洗礼を受けてほしいと、神様が強く願っておられます。

 神様の恵みによって、東久留米教会は12月に洗礼式を行うことができました。12月の週報に記載した通りです。90代の女性のOさんです。お二人の役員にも一度面会していただき、もちろん役員会のご了解をいただいて、ホームのお部屋で執り行いました。本来は聖書の勉強会を何回も行ってから洗礼式を行います。ですがご高齢で、しかもコロナの時期で、何回も面会はできない。「どうしようか」と思いましたが、神様の恵みがありました。子どもでいらした時に教会学校に通われ、「主我を愛す」の讃美歌がお好きなのです。「主我を愛す」は子どもの讃美歌であり、同時に大人の立派な讃美歌です。神様の天地創造には触れていませんが、イエス・キリストがなさった重要なことをちゃんと歌っている内容です。この歌詞を学べば、立派な受洗準備になります。

 20世紀の代表的な神学者とされるカール・バルトというスイス人がおられました。『教会教義学』という難しい本を何十冊も書いています。ある人がバルト先生に言ったそうです。「バルト先生、あなたが書くキリスト教の神学の本は、難しくて読んでも分からない。あなたはあの本で何を言おうとしているのですか。」するとバルト先生は「主我を愛す」の讃美歌を(おそらく英語で)歌い始めたというエピソードがあります。この話の意味はきっと、「バルトの難しいキリスト教神学の本は、つまりは『主我を愛す』の讃美歌の内容を、徹底的に詳しく厳密に深めて表現した長い本」だということと思います。つまり「主我を愛す」は、イエス様の福音を十分に歌うすばらしい讃美歌、すばらしい信仰告白だということです。決して子ども向けの讃美歌と思ってはいけない。子どもたちが教会学校や保育園や幼稚園で歌って、たとえ一旦忘れても、大人になって、高齢になって懐かしく思い出す。そしてイエス・キリストを信じようという気持ちに導かれる。そのような力を持つ讃美歌なのですね。私たちがその気持ちで、50年後に実を結ぶに違いないとの信仰をもって、子どもたちと共に「主我を愛す」を歌うことは大きな意味を持つことで、神様の遠大な伝道プランに参加することだと分かります。

 今回のOさんの場合、洗礼式より前のお二人の役員の方を含めた面会の時も、お一緒に「主我を愛す」を歌いました。その歌詞の意味をお話しました。「わが罪のため、栄えを捨てて、天(あめ)より下り、十字架につけり。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す。」「みくにの門(かど)を開きて我を、招きたまへり、勇みて昇らん。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す。」
「あなたの罪のためにイエス様が十字架で死なれ、三日目に復活されたことを信じて下さいますか。」「信じます。」「洗礼を受けることを希望されますか。」「受けたいです。」はっきりおっしゃったので、次の面会が許された時に洗礼式を行い、聖餐式も行いました。全ては神様の御恵みだったというほかはありません。「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはならません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」Oさんも私たちも皆、自分の力によってではなく、ただイエス様の恵みの十字架の赦しの力によってのみ、全部の罪を赦され、神の子になりました。十字架の赦しの力と聖霊の尊いお働きによって、新しく神の子に創造される恵みを受けました。全ての方がイエス・キリストを救い主と信じ告白され、この恵みの中に入ってほしいと、今この時も神様が私たちを招いておられます。ぜひお応え致しましょう。アーメン(真実に)。

2023-01-22 0:40:13()
「真の神様を畏れ敬うことこそ、人生の基本」 2023年1月22日(日)礼拝説教
順序:招詞 使徒言行録4:29,頌栄29、主の祈り,使徒信条、讃美歌21・260、聖書 ダニエル書5:1~12、17~30(旧約p.1388)、讃美歌492、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(ダニエル書5:1~12、17~30) ベルシャツァル王は千人の貴族を招いて大宴会を開き、みんなで酒を飲んでいた。宴も進んだころ、ベルシャツァルは、その父ネブカドネツァルがエルサレムの神殿から奪って来た金銀の祭具を持って来るように命じた。王や貴族、後宮の女たちがそれで酒を飲もうというのである。
 そこで、エルサレムの神殿から奪って来た金銀の祭具が運び込まれ、王や貴族、後宮の女たちがそれで酒を飲み始めた。こうして酒を飲みながら、彼らは金や銀、青銅、鉄、木や石などで造った神々をほめたたえた。その時、人の手の指が現れて、ともし火に照らされている王宮の白い壁に文字を書き始めた。王は書き進むその手先を見た。王は恐怖にかられて顔色が変わり、腰が抜け、膝が震えた。王は大声をあげ、祈祷師、賢者、星占い師などを連れて来させ、これらバビロンの知者にこう言った。「この字を読み、解釈をしてくれる者には、紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけて、王国を治める者のうちの第三の位を与えよう。」宮廷の知者たちは皆、集まって来たが、だれもその字を読むことができず、解釈もできなかった。ベルシャツァル王はいよいよ恐怖にかられて顔色が変わり、貴族も皆途方に暮れた。王や貴族が話しているのを聞いた王妃は、宴会場に来てこう言った。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。そんなに心配したり顔色を変えたりなさらないでくださいませ。お国には、聖なる神の霊を宿している人が一人おります。父王様の代に、その人はすばらしい才能、神々のような知恵を示したものでございます。お父上のネブカドネツァル王様は、この人を占い師、祈祷師、賢者、星占い師などの長にしておられました。この人には特別な霊の力があって、知識と才能に富み、夢の解釈、謎解き、難問の説明などがよくできるのでございます。ダニエルという者で、父王様はベルテシャツァルと呼んでいらっしゃいました。このダニエルをお召しになれば、その字の解釈をしてくれることでございましょう。」~ダニエルは王に答えた。「贈り物など不要でございます。報酬はだれか他の者にお与えください。しかし、王様のためにその文字を読み、解釈をいたしましょう。 王様、いと高き神は、あなたの父ネブカドネツァル王に王国と権勢と威光をお与えになりました。その権勢を見て、諸国、諸族、諸言語の人々はすべて、恐れおののいたのです。父王様は思うままに殺し、思うままに生かし、思うままに栄誉を与え、思うままに没落させました。しかし、父王様は傲慢になり、頑に尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草を食らい、天から降る露にその身をぬらし、ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。さて、書かれた文字はこうです。メネ、メネ、テケル、そして、パルシン。意味はこうです。メネは数えるということで、すなわち、神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられたのです。テケルは量を計ることで、すなわち、あなたは秤にかけられ、不足と見られました。パルシンは分けるということで、すなわち、あなたの王国は二分されて、メディアとペルシアに与えられるのです。」これを聞いたベルシャツァルは、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖をその首にかけるように命じ、王国を治める者のうち第三の位を彼に与えるという布告を出した。その同じ夜、カルデア人の王ベルシャツァルは殺された。

(説教) 本日の礼拝は、降誕節第5主日の礼拝、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝の第56回です。説教題は「真の神様を畏れ敬うことこそ、人生の基本」です。聖書はダニエル書5章です。本日の個所は、小見出し「壁に字を書く指の幻」です。説教題を決めるに当たり、旧約聖書・箴言1章7節の有名な御言葉をも参考にしました。「主を畏れることは知恵の初め。」真の畏れ敬って礼拝することこそ、真の知恵、それこそ真の賢さだ、ということです。本日のダニエル書5章の時代はバビロン帝国最後の王ベルシャツァルの時代です。本日の箇所の主人公と言えるダニエルは、イスラエルからバビロン捕囚でバビロンに連れて来られたイスラエル人です。神様に真に忠実に仕える男性です。

 最初の第1節「ベルシャツァル王は千人の貴族を招いて大宴会を開き、みんなで酒を飲んでいた。」権力者が主催した思い上がった大宴会という印象です。2~4節「宴も進んだころ、ベルシャツァルは、その父ネブカドネツァルがエルサレムの神殿から奪って来た金銀の祭具を持って来るように命じた。王や貴族、後宮の女たちがそれで酒を飲もうというのである。そこで、エルサレムの神殿から奪って来た金銀の祭具が運び込まれ、王や貴族、後宮の女たちがそれで酒を飲み始めた。こうして酒を飲みながら、彼らは金や銀、青銅、鉄、木や石などで造った神々をほめたたえた。」エルサレムの神殿を破壊して戦利品として持ち帰った祭具で酒を飲む。イスラエル人を冒瀆する行為です。そして金銀、青銅、鉄、木や石で造った神々の像、偽物の神、偶像を礼拝する罪を犯したのでした。偶像礼拝は、旧約聖書、いえ聖書全体が最も嫌う罪の1つです。これは多神教の日本人に分かりにくいことと感じます。しかし聖書の信仰の鉄則は、モーセの十戒の第一の戒めであることを、私たちは心に刻む必要があると思います。「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」第一の戒めについては文語訳聖書が印象的です。「汝、わが顔の前に、われのほか何者をも神とすべからず。」ベルシャツァル王をはじめとする約千人のバビロンの貴族はこの鉄則を破り、偶像礼拝、偽物の神々を礼拝する罪を犯しました。

 ところがその時、誰も予想しなかった真の神様の介入が起こりました。驚くべきことです。5~7節「その時、人の手の指が現れて、ともし火に照らされている王宮の白い壁に文字を書き始めた。王は書き進むその手先を見た。王は恐怖にかられて顔色が変わり、腰が抜け、膝が震えた。王は大声をあげ、祈祷師、賢者、星占い師してくれる者には、紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけて、王国を治める者のうち第三の位を与えよう。』」祈祷師、賢者、星占い師は当時の知識人で、王のブレーンですね。でも当時最高の教育を受けたで彼らにも、その文字を読むことも理解することもできませんでした。ベルシャツァル王はいよいよ恐怖に駆られて顔色が変わり、貴族たちも途方にくれるばかりでした。酔いは覚め、宴会どころではありません。

 そこに王妃が現れ、よき知恵を出します。王妃は賢く、的確な意見を述べます。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。そんなに心配したり、顔色を変えたりなさらないで下さいませ。お国には、聖なる神の霊(聖霊)を宿している人が一人おります。父王様の代に、その人はすばらしい才能、神々のような知識を示したものでございます。お父上のネブカドネツァル王様は、この人を占い師、祈祷師、賢者、星占い師などの長にしておられました。この人には特別な霊(聖霊)の力があって、知識と才能とに富み、夢の解釈、謎解き、難問の説明などがよくできるのでございます。ダニエルという者で、父王様はベルテシャツァルと呼んでいらっしゃいました。」このダニエルを呼べばよい、と王妃は適切な意見を述べます。

 王はそれを実行します。この文字を読み、その意味を説明してくれれば、褒美を与え、王国のナンバー3の地位を与えると言います。ダニエルは無欲なので、「贈り物など不要でございます」と言います。ダニエルは、神の聖なる霊である聖霊によて文字の意味を教えられるので、それを正確に王に伝えるだけです。ダニエルはそれでお金儲けする気持ちは全然ないのです。

 ダニエルは聖霊に助けられて、本当に重要なメッセージを語ります。18節「王様、いと高き神は、あなたの父ネブカドネツァル王に王国と権勢と威光をお与えになりました。」箴言8章15節にこう書かれています。「私(真の神様)によって王は君臨し」。そうなのです。王や皇帝など、上に立つ人を決めているのは、実は真の神様です。このことについては、新約聖書のローマの信徒への手紙13章1節にもこう書いてあります。「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」国にあっても、色々な団体にあっても、上に立つ人と言いますか(あるいは責任者)は、神様がお立てになっています。しかしそれはその人たちが好き勝手にふるまうためでは、もちろんありません。神様に従い、神様から委ねられた責任を忠実に果たすために立てられていることを、忘れていけないのは、もちろんです。ネブカドネツァル王の権勢を見て、諸国、諸族、諸言語の人々は全て恐れおののきました。ダニエルは言います。「父王様(ネブカドネツァル王)は思うままに殺し、思うままに生かし、思うままに栄誉を与え、思うままに没落させました。」まさに勝手な独裁者に堕落してしまったのです。

 20~21節「しかし、父王様は傲慢になり、かたくなに尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。父王様は人間の社会から追放され、心は野の獣のようになり、野生のろばと共に住み、牛のように草を食らい、天から降る露にその身をぬらし、遂に悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。」 このことは、この前の4章に記されています。驚くべきことに、ネブカドネツァル王は傲慢の罪を神様に裁かれた後、悔い改めたようなのです。ネブカドネツァル王がこう言ったと書かれています。「私はいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた。その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて。何をするのかと言いうる者は誰もいない。」彼がこう言うと、神様が彼をバビロンの王に復帰させます。ネブカドネツァルは言いました。「私ネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、讃美する。その御業はまこと、その道は正しく、奢る者を倒される。」大帝国の王が、傲慢の罪を悔い改めたのですから、そのこと自体が一つの大きな奇跡と思います。

 ところがその息子のベルシャツァル王は、父王のようには悔い改めなかったのです。ダニエルは言います。22節以下「さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なおへりくだろうとはなさらなかった。天の主に逆らって、その神殿の祭具を持ち出させ、あなたご自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、それで飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。そのために神は、あの手を遣わして文字を書かせたのです。」「あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」これがベルシャツァル王の最大の問題です。この逆の生き方こそ、よい生き方です。真の神様が私たち一人一人の命と行動の一切を手中に握っておられるのですから、この唯一の真の神様を畏れ敬って生きる。これが人生の土台です。このことを毎日心がけ、この真の神様の独り子イエス・キリストを愛し、イエス様に従い、神を愛し、隣人を愛して生きるなら、それは最も充実したよき人生になります。私たちにはこう生きる力がないので、イエス様を救い主と信じ、いつも祈って神様の清き霊である聖霊に助けていただく必要があります。ダニエル自身も、いつも祈って聖霊に助けられたに違いないのです。

 ダニエルは続けます。25節以下「さて、書かれた文字はこうです。メネ、メネ、テケル、そして、パルシン。意味はこうです。メネは数えるということで、すなわち、神はあなたの治世を数えて、それを終わらせられたのです。テケルは量を量ることで、すなわち、あなたは秤にかけられ、不足と見られました。パルシンは分けるということで、すなわち、あなたの王国は二分されて、メディアとペルシアに与えられるのです。」神様からベルシャツァル王への裁きの言葉です。「あなたの治世は終わった。あなたは王として神からの責任を果たしておらず、不足だ。あなたの王国はメディアとペルシアに二分される。」これを聞いたベルシャツァルは、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を与え、王国の中で第三の位を与えました。しかし、神の宣告はその夜のうちにベルシャツァルに実現したのです。カルデア人の王ベルシャツァルは、その夜に命を奪われました。まさに真の神様が、彼の命を完全に手中に握っておられたのです。真の神様が、私たち一人一人の命をも握っておられます。ですから、私たちにとっても、この真の神様を畏れ敬って生きることが人生の基本・土台であることを、今改めて魂に刻みたいのです。

 今日の箇所には、「神様の指」が出て来ます。神の指は、神の御手と言っても同じと思います。神の指は私たちを裁きもし、また救いもする神の指です。今日のダニエル書では、神の指は「メネ、メネ、テケル、パルシン」の文字をお書きになりました。神様のその指で出エジプト記で十戒を石の板二枚にお書きになりました。出エジプト記31章18節にこうあります。「主はシナイ山でモーセと語り終えらえれたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった。」十戒は神の指によって書かれ、神の筆跡で石の板二枚に記されていました。

 少しさかのぼって、出エジプト記8章では、神様の僕モーセとその兄アロンが、エジプト王ファラオの魔術師と対決しています。魔術師はあるところまではモーセたちに対抗できましたが、最後は降参します。アロンが杖を持った手を差し伸べて土の塵を打つと、土の塵は全てぶよとなり、エジプト全土に広がって人と家畜を襲った。魔術師も秘術を用いて同じようにぶよを出そうとしたが、できませんでした。魔術師はファラオに「これは神の指の働きでございます」言い、真の神様に負けたことを認めています。魔術師は悪魔に仕えているのですから、真の神様が悪魔に勝ったのです。このように神の指は全能を表します。神の指は詩編8編4節にも出てきます。「あなた(神様)の天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めて下さるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子(人間)は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」神の指は天地万物を創造し、月と星を創造し、私たち人間を創造して下さいました。ミケランジェロという有名な画家がローマのシスティーナ礼拝堂に描いた天地創造の絵画では、神様の指が太陽を指さし、もう一方の手の指が月を指さし、まさに神の指が天地を創造したことを描いています。そして神の指が最初の人間アダムの指に触れて、やはり神の指が人間を創造したことを語っているようです。

 新約聖書に目を転じると、ルカによる福音書11章で神の子イエス・キリストがこう語っておられます。「私が神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちの所に来ているのだ。」そう、イエス様は神の指で悪の霊(悪魔)に打ち勝って来られたのです。イエス様の指を、神の指と呼ぶことも許されると思います。マルコによる福音書10章に、イエス様が耳が聞こえず、舌の回らない人を癒す愛の場面があります。イエス様は「両指をその両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられました。指で舌に触れたのでしょう。そして天を仰いで深く息をつき「エッファタ(開け)」と命じられました。するとたちまち両耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるように癒されたのです。そしてイエス様の両指は、そのすぐ近くに釘が刺し通された両手の平にある指であることを忘れることはできません。神の指はベルシャツァルへの裁きの言葉を書いた指であり、その神の子イエス様の指は病人を癒す愛の指、私たちの罪を全部身代わりに背負って十字架で釘付けにされた手の指であることに思いを致す必要があります。

 ダニエルがベルシャツァル王に指摘しました。「あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」プーチン大統領もすぐに悔い改めて、ウクライナに謝罪して、全軍直ちに撤退させてもらいたいものです。そうでないとベルシャツァルと同じ結果になります。ダニエル書全体は、迫害に苦しむ信仰者を励ますメッセージを語ります。悪が勝っているように見えても、悪は必ず滅びる。最後には愛と正義の神様が必ず勝利するというメッセージです。

 私が本日の箇所を読んで思い出すのは、織田信長です。信長は、天下統一が見えて来たところで、部下の裏切りで本能寺で命を落としました。彼は琵琶湖のほとりに安土城という巨大な城を建てました。当時日本に来ていた宣教師ルイス・フロイスは信長に何回も会い、記録しています。「彼の傲慢さと尊大さは非常なもので、狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の創造主(神)は存在しないと述べ、自分以外に礼拝に価する者は誰もいないと言うに至った。」自分の力が神から授けられた偉大な恩恵と賜物であると認めて謙虚になるのでなく、傲慢となり自分を過信し、乱行と尊大さのゆえに破滅の極限に。悪魔的傲慢さからネブカドネツァルの無謀さと不遜に出て、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。安土城内に寺を建て自分をその神体とし、自分の誕生日に大勢の人に礼拝に来るよう命じた。フロイスは、信長は神に裁かれて死んだと考えたようです。私もそう思います。以前私は安土城跡を歩きました。石垣が残っています。巨大な天守閣はわずか3年で焼け落ちました。天守閣の礎石は残っています。私は、ネブカドネツァルのように傲慢になったため、信長はベルシャツァル王と同じように滅びたと思いました。「あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」私たちは決してそうならず、真の神様を畏れ敬う人生を、必ず生き通しましょう。アーメン。